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法然上人第仰会 - 法然上人鑽仰会
サ 浄土第81 巻 8 号 ( 毎月 1 回 1 日発行 ) 平成27 年 10 月 1 日発行昭和 10 年5 月 20 日第 3 種邸便物認可 法然上 人 第 仰 会 2015 年 浄土「表紙」 初枝 南: の作品 干し柿にする柿はそのままでは食べられな い。つまり渋柿である。渋柿を乾燥させると 渋味がすっかり消えて、逆に甘味が出る。可 溶性のタンニンが不溶性に変わる、これを渋 抜きという。大昔からある一種のドライフル ーツである 。あたりまえのことだが甘柿は渋 抜きをしなくても食べられる。じゅうぶん甘 いからである。ところが、杷度そのものは砂 糖の 1. 5 倍ともいわれる渋柿のほうがはるか に高いため、甘柿を干しても渋柿ほどには甘 くならない。なかなか不思議なことである。 ころもあるが、それは糖分を結晶した白い粉 が表面に出てくるからである。 作者は、その干し柿に顔を付けた。表情盟 かな干し柿たちは、かつて渋柿であった過去 を照れているようだ。 撮影•芝崎慶三 干し柿 o 地方によっては、ころ柿と呼ぶ o 枯露柿、転柿の文字を当てるo 白柿と呼ぶと 浄土 2015/10 月号目次 連載法然 J: 人のお 言菓⑯ …••••••….. 梶村昇英訳 河西良治 現代に生きる法然 J: 人① •••••……………… 梶村 昇+阿満利麿 連載会 いたい人藤間勘十郎さん ① ••…………… …… … · 関 容子 連載響流十方.. . ...... . ....... . .......................... . .......... . .......... 袖山榮輝 2 4 16 24 連載東 H 本大康災 の被災地を訪れて ⑥ ……•し……… 成田淳教 28 連載友好の絆 2 ③ ••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••·••••••••••••森清鑑 32 連載小説 連載 渡辺海旭⑬ •••••••.••••••••.••••••••.•••••••••••••••••••••••••••• 前田和男 誌J: 句会. . ・ ・・・ ・ ・・ ・・ ・・・ ・ ・・・ ・ ・・・・ ・ ・・・ ・ ・・ ・・・ .. .. .. ... .. . ... ... .. 選者= 増田河郎子 連載マンガ さっちゃんはネッ·………·…………·かまちよしろう 編集後記· ・ ・・・ ・ ・・・ ・ ・・ ・・ ・・ ・・・ ・・ ・・ ・ ・・・ ・・ ・ ・・・ ・・ ・・・ ・ ・・・ ・・ ・・ ・・ ・・・ · ··· ·· ··· · ··· ·· ······················· · ······ 表紙 ・ 閾芸家南初枝の作品 表紙裏=及紙の 3艇 裏表紙裏=仏教淑時品 表紙題字=中村康隆元浄上門主 アートディレクション= 近藤十四郎 協力=迦陵頻伽舎 38 44 47 48 こ法語 しん 。 先師法然上人あさゆうおしえられし事なり 念仏中すに はまたく様もなし ただ中せば極楽へうまるとしりて‘心 をいたして申せばまいる事なり ものをしらぬうえに、道 さいは 心もなく、いたずらにそ所えなき物のいう事なり 。 上人 。 。 。 =ロ どう ん口にて‘阿弥陀仏を一念十念にても中せかしと候いし事 (信空上人伝説の詞) なり 現代語訳ーわが師法然上人が、朝に夕に教えられたことである。念仏を申すに は、まったく理屈などない。ただ申せば極楽へ生まれると知って、心をこめて 何の論拠を持たない者が、いたずらにとやかくと言っているので 、 申せば往生することである。(それを)物の道理も知らない上に、仏道を修め 。 る志もなく ある それを言う口があるなら、南無阿弥陀仏を_遍でも十遍でも申しなさい、 HonenShonin'sSayings Myl a t emasterHonenShonint a u g h tmee v e r y morning 叩 d e v e n i n ga sf o l l o w s : Youhaveo n l yt ou t te rt h enembutsu 皿d you e a s o n sf o ri t .Knowingt h a t don o tneed 皿y r 0 1 1 l yt h eu t t e r r u 1 c eo ft h enembutsuguar邸tees t h eb i t t hi nt h eP a r a d i s e ,j u s ts a yi し whol eheartedly 皿dyou w山 be b ornt h e r e .N e v e r t h e l e s s ,t h o s e u n r e a s o n a b l ep e o p l ewhodon o thave 皿y c l e a r a i m st op u r s u et h ewayo fBuddhanorh ave 皿y groundso ft h e i rargumentsa r es a y i n gthis 邸 d t h a tu n n e c e s s a r i l y .R a t h e rth皿 say suchu s e l e s s t h i n g s ,t h e ys h o u l ds a yNamAmidaButsueven onceort e nt i m e s . (ShinkuShoninDensetsunoKotoba) • ということであった。 解説 街の古店に行きますと、お念仏に関係 法然上人に身近で言われているような気のする話です。「阿弥陀 。 さまが、お念仏を申せと言われているのであるから申せばよい。そ ないことだ]というのです れを意義はどうの、形式はどうのなどと言うのは、まったく必要の する本が何冊も並んでおります 。著 者はみんな物の逆理も分り、仏 。 「そ 追を修める志もある方々なのでしょうが、上人に 言わせると「理屈 が多い」ということになりそうです 。 「さいはん口にて」というのは「さ、 言 わん口にて」ということで 「そのようにとやかく言う口があるなら」ということでしょう れなら南無阿弥陀仏を一遍でも十遍でも申しなさい j というのです が、本当に上人に傍で言われているような気がいたします 。真実 の 信仰とは、こういうものなのでしょうが、なかなかそう成り切れま 。 せん。そこで理屈を言うのでしょうが、自分を含め、つくづく頑強 な凡夫と思わずにはおられません 人間というものは、救われ難い ものです。 梶村 昇 亜細亜大 誉教 学授 名 Commentary T h i ss t o r ymakesmef e e la si fHonenS h o n . i nweret e a c h i n gc l o s eb y .Hes a i dt h a t wes h o u l ds a yt h enembutsubecauseBuddhat o l du st odos oandt h a ti twasn o t rformst h i swayandt h a t .Whenyou a ta l ln e c e s s a r yt oargueabouti t smea血gs o got oab o o k s t o r ei nat o w n ,youw i l l1 1 n danumbero fbooksaboutt h enembutsu rangedont h es h e l v e s .T h e i ra u t h o r sw山 be r e a s o n a b l eenought oknoww h a t ' s whatandhave 紅ms t opw-suet h ewayo fBuddha,butHonenwouldp r o b a b l ys a y t h a tt h e r ea r e"manyr e a s o n s "i nthem. i l lb ea n a l y z e da s Thep h r a s e" s a i w a n k u c h i n i t e "i J 1t h eo r i gi J 1 a lt e x tquotedabovew , ' s a -iw皿kuchi-nite"(glossed a s" s os a y m o u t h b y "i nE n g l i s h ) ,whichi st r a n s l a t e d i n t ot h emodemJapanese" s o n oyo1 1 iL o y akakui uk u c h igaa r un a r a " .I nE n g l i s hi t l i t e r a l l ymeans" i fyouh aveamouthbywhichyous a yt h i sandt h a ti ns uchaway" Honensaid,'、If s o ,yous h o u l ds a yN a 1 1 1AmidaBu しsu evenonceo rten 血es i n s t e a d " T h i ssoundsl i k eher e a l l yt e l l su ss or i g h tb e s i d eu s .l fwehadt r u er e l i g i o u sb e l i e f s , wec o u l du t t e ri tj u s ta sHoneni n s t r u c t e du s ,b u twecannotf o l l o wh i st e a c h i n gs o f a i t h f u l l y .Thatmightbewhywea r ea , キ g u i n gt h i sa 1 1 dt h a taboutt h enembutsu.We r e a l l ycannoth e l pf e e l i n gfrom しhe bottomso fourh e a r t st h a thumans,i n c l u d i n g m y s e l f ,a r et r u em e d i o c r i t i e s .Thati s ,humansa r ed i f f i c u l tt os a v e 英訳 河西良治 中央大学文学部教授 生きる 現代に 法然上人鑽仰会講演会平成二十七年六月十九日胎大本山増上寺 犬ヽ 夕ハ ' 現代に生きる法然上人 阿満 仏せ 。 ひたすら念仏せよ 。 法然上人の教えは、ただ念仏せよ、という極めて。簡 なことでございます た単 だ念 そのほか、何もおっしゃらなかった。の しで かす しその「た よ はありません 。 だ念仏せよ」ということが自分の身に付いて、生きる上での力になる 「ただ念仏せよ」「ただ念仏せよ」、なぜただ念仏すればいいのかと と、お念仏は上っ面になってしまうというか、お念仏 。 をしても力にならな そういうことを法然上人は初めからおわかりになっていて、念仏の意味が 。 は、まず我が身の程を知りなさい 自分がどういう人間であるかということを知れば、自 います 。 、 問題は 、 。です その我が身の程を知るということ ところが我々、特に現代人 分のあり方に納得すれば、お念仏は自然にわかってくるようになる ですから は、我が身のことを追求するの一 は 番苦手な仕事です。法然上人が私どもに我が身の程を 知れとおっしゃつてくださった中身 。 一 体が ど、 ういうことなのか それをしばらく梶村先 阿満先生との対談の機会を得まして非常にあり。がたく思っております 。 でございましょうか 生にお伺いしながら、私たちの考えを深めていきたいと思っております 梶村 。 言 最初から私事を申し上げて誠に恐縮でございます が五、 は大正十四年( 九二 )私 生ま れで、今年九十歳です 残りももうわずかでございますので、今ごろ、救いとは何かと 。 5 っていても間に合いません 今日はお耳の痛い方もいらっしゃるかもしれませんが、率 梶村昇(かじむらのほる ) 主な著書 「 法然上人とお弟子たち乱世を生きる同信の世界 J 「 法然の言葉だった「善人なをもて往生をとぐいは (浄土宗浄土選書 1998) ( 大東出版社 1999) んや悪人をや」 J 津戸三郎為守J 。 「法然上人をめぐる関東武者 3 (東方出版 2000) 「聖光と良忠浄土宗三代の物語」 「 法然上人伝 』 (浄土宗浄土選書 2008) (大東出版社 2013) 英夫先生が「宗教学j という教科世を瞥かれました 。 その中で宗教の領域を四つに分けていらっしゃいます 。 。 。 岸本 大きく分けて‘ ―つは主観的立 例えば法然上人はどういう人だったのか、親鸞聖人はどういう人で、私は もう 。 。 。 つは客観です それはお釈迦様がいつ生まれたとか、イエス・キリストはいつ生 ことが主観的立場です どうあるべきかという、難しく 言え ば宗教哲学的な考え方、これも主観です この 二 つの 。 こういうことを信じているというようなことで、これは主観が混じります また宗教とは ついてのこと 場、一っは客観的立場です 主観的な立場とは何かと言うと、今日私が申し上げる信仰に 。 宗教というのは、結局、私事に始まって、私事に終わるのではないかと思います に申し上げてみたいと思っております 亜細亜大学名 誉教授 6 現代に生きる法然上人 。 。 この 二 つは客観的です 。 。 浄土は西の方十万億土の彼方にある 。 実在していると説 。 浄土があるとい また、仏教とかキリスト教、イスラム教を比較研究していこうという宗教学が まれたとか、仏教の歴史はどうだとかということは、主観を混じえようとしても混じえら あります れません 。 例えば、この増上寺は浄土宗です 浄土宗では浄土があると説きます 。 。 あるいは皆さん方の中にはイメージとしてあるとか、色々な浄土の 言 い方がある うのはどういうことでしょうか きます と思います 。 イメ ジとしてもちょっと考えられない ー 。 自分が信じていないこと 。 しかし、浄土が西の方、十万低土にあるということは、信じられますか 私は今、そう 思っていないのです 。 。 日本人は死んだら、土に帰るとよく 言 います 。 私は土に帰 を、法然上人がおっしゃられたからと 言 って、人々に説くのはおかしいのではないかと思 います 。 。 。 。 そもそも善祁さんは五世紀から六世紀の方、 自然は即ち是弥陀の国なり」という有名な 言葉があります 法然上人が帰依された中国の善尊大師という方には、「仏に従い、従容と そうしますと、どうなるか ると思います して自然に帰す 。 仏の教えに従って生き、最後は自然に帰る 。 阿 墓碑をつくり、 それに石屋さんが何も古かないのはお 。 その方が自然と 言 っても、今私たちの考えている天地万物 の自然ではなくて、計らいをこえたものを自然と思っていたと思います 型徳太子より少し古い方です 。 。 その善導さんの 言葉によれば、人の計らいを越えたもの、それが即ち弥陀の国なり 弥陀様の国とおっしゃっている 私は先日、お墓をつくりました 7 かしいというので、「自然に帰る」と書きました 。 。 。 私は、最後は土に帰ると思った 。 。 。 今も 。 ですから浄土とい あれを読みますと、あの頃は明 法然上人のお言葉によって今日まで生きてきたような気さ そう思っていますが、その自然こそ阿弥陀様の国だと思っています 私は法然上人が大好きです 。 。 法然上人も多分そう思っていらっしゃった えいたします 。「 方丈記 j は法然さんと全く同時代です 日をも知れない日々です うことを言われたのだと思います 。 。 。 おそらく法然上人は笑われると思います 。 。 。 。 そ 何 。 これを読んで、ああ、安岡正篤ともある人が、やはり人生の寂しさに 。 寂霙とし それから昭和五十八年に八十六歳で安岡先生も 。 あの頃の時代の影評と今日の時代の影評と同じように だから時代に対する感覚、時代から受ける感覚は、だいぶ違うと思います しかし今私たちは、明日をも知れない日々とは思わないでしょう 明日も生きていると 思っています 。 宗教は必ず時代の影響を受けます 思っているのはどうでしょうか 。 皆さんよくご存じの安岡正篤さんが、昭和五十年 二月に喜寿のお祝いをやっている 。 の 二週間後に奥さんが亡くなられている 亡くなります 。 奥さんが亡くなったときにこういう詩を詠んでおられます 「朝起きて、厨房に声あらず」台所に行っても誰もいない、声がしない 。 。 。 「夜帰りて寂莫としてまた迎えるなし」夜帰ってくると、誰もいないんです て迎える人もいないと 「梅花すでに散り柳条乱る」 柳が乱れている 。 。一 人でスタンドの下で本を読んでいるのでしょう 「孤り座し、短槃対し書を看る」 とも寂しい詩です 8 ' 現代に生きる法然上人 。 文藝春秋 jを読んでいましたら、「私 この前、 「 。 耐えられなかったのかなということを考えました 瀬戸内寂聴さんは九十 三歳だそうです 。 。 。 。 。 「私はあの世を信じています だから死は怖くない 。 どうせ生きるなら、 。 は切に生きるということを伝えたい生かされている私たちは何をするべきか私はドー v 言 っています 。 j 私も 一生懸命に生きる」と言 っています ベルのこの 言 葉が好きです 。「世の中ははかない、虚しいものです またこういうこと も 一瞬 一瞬を切実に生きてい 。う 一体誰に最初に会うのだろうとも考え やっと来たかとあの世の人は迎えてくれると思 ます」 。 。 , これは 「 文牲春秋 」 の 二 0 ―二年、私は入院しておりましたが、そのときに読みました 阿満利麿 ( あまとしまろ ) ( 人文 ● 院 日本仏教のラデイカル」 主な著 編 「 法然の衝撃 1996) ( ちくま新 儡 2007.5) ( ちくま新 書 2011.8) ( ちくま新 1989) 『 仏教と日本人』 「選択本願念仏集一法然の教え 』 『 日本人はなぜ無宗教なのかJ ( 角川ソフィア文庫 1999) (角 JII 学芸出版 2011.8) ( ちくま学芸文庫 2007.5) 『 人はなぜ宗教を必要とするのかJ ( ちくま新 書 1999) 「法然を読む 「選択本願念仏集」講義J 「 行動する仏教ー法然・親鸞の教えを受けつぐ J 「法然入門 J 寂聴さん、そのときも九十歳ぐらいだったのでしょ元 う総理大臣の中凶根康弘さんが 明治学院大学名 誉 教授 。 。 。 。 。 。 私は母が病気ということを聞いて飛ん 。 だから、今、私は天上の星を見ると、あの星の 。 。 同じに統 一しようとしても無理です 。 ただ人間 いずれも批判ができることではない 私はそれでい 絶対にそう信じている」と杏いています しかしすでに母はいなかった 。 「東大で学んでいるときに、私の母が亡くなった 母が亡くなるときに息子は東大で試験 書いた本を、このあいだ読みました 。 の真最中だから、知らせるなと 言 って亡くなった で帰った 中の ―つが母だと思っている 。 。 それだけは間違いないことです 宗教は皆、千差万別 今、 三人の方のご紹介をしました いと思っています を超えた大きな力がある 。 人間を超えた大きな力があります 。 。 。 五年先にどうなっているか、お互いわ それを何でも人間ができると思っている そういう政党もあるようですが、それは間違 いです 。 。 。 。 法然上人もそのとお それだけは間違いないと思います 思わざることがあって、お互い、こうなっているのでしょう 。 。 科学的 今日の今ある姿を、予定どおりと思える人はいますか 誰もいないと思いま その証拠にお互い、明日のことはわかりません 。 かりません す 。 そう思うと、人間を超えた大きな力の存在 に言っても 今 。 法然上人の時代は、天変地異があって、明日をも知 ―一 ―人の例を出しましたが、そのほか誰であろうとかまいません りだとおっしゃられると思うのです 。 。 れぬ命だったけれども、今はそうでもない それを法然さんと同じことを説くというのは、 少しおかしいのではないかと思います 。 そういうことを申し上げて、次に、先生のお話を伺いたいと思っています JO 現代に生きる法然上人 阿満 。 浄土は大事ではないかという端的なお話を伺いました 。 あるいは法然上人の時代に あるいは自然に帰れということが 一っの心 の定めであるのではないかとも伺いました 法然上人が説かれたことと、同じようなことを拘っていていいのかというお話を伺いまし た 。 。 「往生は一定と思えば 一定 いちじょう 、 不定と思っ 。 それは法然上人の教えに祁かれてこういう結論に達せられたのだと思い 私は少し意見が違いますが、梶村先生がこういうご心境になっておられることをとても 。 椋いと思います ます 「 徒然草 j の中に法然上人の 言業がございます 。 。 それ たら不定だ」 自分が 一定だと思い切ったらそれは決まるし、自分で悩みがあって、不定、 。 往生するかどうかわからないと思っている間は、往生は定まらないという言葉です は宗教は、主観的事実だということを物語っていると思います 。 主観的に自分がどういうふうに納得していくのかが 一番大事な 。 それは、先ほど梶村先生が、宗教は主観的事実 だから客観的に証明しようということ 。 は、それは無茶な話です ことだと思います 法然上人が念仏という教えを我々に残されたのは、我々の主観がいかにも頼りないこと 。 。 自分がどういう人間であるかということを私ど 念仏の教えと同時に、それ以上に我が身を振り返ることが大事だということを強調し 。 をご承知であったからです 冒頭に法然上人が「我が身を振り返れ」ということを残され た 。 ておられたことの意味を申し上げました 先日、東京新聞を読んでおりましたら、 霊長類学者の河合隼雄さん、 お猿やチンパンジ もはどういうふうに納得するかです 11 。 ーの研究をなさっている方が、なぜ、あなたは霊長類の研究に乗り出したのかと聞かれて、 こういうふうにおっしやっています 。 自分の知人に中国でたくさん人を殺してきた人がいるたくさん人を殺してきたけれど も、戦争が終わって田舎に帰ってきたらたくさんの人を殺してきたことをころっと忘れて、 。 善悪が変わる人間がいる 。 。 人間は 一体何なのか、と 。 実にいいおじいさんになっていたそうです つまり善悪のスイッチがきれいに切り替わる 人がいる 河合さんはそれが動機になって、人間とは何かということを知りたいと思って、霊長類 。 の研究に入っていった 最初は、お猿さんやチンパンジーの世界は縄張りがあって、そし 。 て順位による秩序を守るということが絶対の事実、否定のしようのないような事実とずっ と観察の上でそう思っていた 。 一切しない霊長類がいると、いうのです 。 そして、出会ったもの同士が仲良くなって、また牲 あるとき、ボノボとかゲラダヒヒという類人猿に会うと、彼らは違ったグループと出会 。 争いということを っても、絶対戦争しないと言います らしていく 、 片方では、お互いに縄張りを争い合って、しかも順位を決めて支配の体制を決めてい 。 る猿もいるけれども、全く違う類人猿がいることに気が付いたと言います ということは、人間は争いをしなくても生きていける遺伝子と、争いがあって初めて生 。 きていける追伝子の両方を受け継いだのではないか だから自分にとって、猿や類人猿を 。 研究するのは、人間とは何かということを研究したいがためでした、と述べておられます 僕は、河合さんのこの話を聞きましたときに、夏目漱石「 の こころ 」 の中の先生の話を 思い出しました 。「こころ 」 の中の先生は、世の中には悪人という人はいませんよ、悪人 12 . 現代に生きる法然上人 。 ったような人間はどこにもいない、 らそれが恐ろしい、と 言 っています といういかにも鋳型にはま 善人が突如、 悪人になるか 。 つまり、 善 河合さんは、たくさんの人を殺してきた、いわば悪人中の悪人が突如、いいおじいちゃ んになるということを、漱石は、 善人が悪人になるということを問題にした 悪ともに自由に使い分けられるというよりも、どういう条件が加われば、人は何をするか 。 わからない、そういうあり方について、漱石は鋭い考察を進めていくわけです 。 平行して 一番の問題なのだ その不可解な白己 って 。 三角形は平行している 。 それは人間にと って生きている っているんだ っているのに、自分の中の 二辺平行せる 三角形があると言っ ていま 漱石は、自分の心の中をよくのぞいてみたら、 。 。 言っ て、人は皆、不可解な自己を持 いるけれども、自分ではそれが三角形だと思 す 。三 角はちゃんと 三 角にな こういうことを ています は、しかもどういうふうに活動するかわからない と 言っ っていたに違いないと思います 。 それで私は、そういう煩 それが僕は、法然上人が問題にされた凡夫のあり方、つまり煩悩具足の凡夫はそういう、 人間のあり方のことをおっしゃ 。 ったのに合わせて、少し私の てきたときに、初めて念仏ということの意味がわかってくるように思います 悩具足の人間、他人ではなく、自分がそういう煩悩具足の凡夫であるというこっとがわか 先ほどの梶村先生が「浄土 はよくわからない」とおっしゃ 。 私が南無阿弥陀仏と 言 うときにだけ私の中に存在する、そうい 。 了解を申し上げて皆様のご批評を仰ぎたいと思います 土方浄 私は、阿弥陀仏という仏様は、仏像の形で存在しておられるわけではないし、西 におられるわけでもない 1 3 う仏様だとあるときから了解しました 。 。 つまり阿弥陀は念仏になっている 。 。 。 名前になっている 自分は、名前に 。 私はお浄土は、人間の悲願、浄土は浄められた これはどうしようもないぐらい、色々な願いがありま 。 。 阿弥陀仏を自分の外に立てて、その外に立てた阿弥陀仏に手を合わせている限りは法然 。 の仏教、あるいは仏教の本質は我々とは無縁だと思います 自分が念仏をするときに、阿 弥陀仏が私の中で働いてくれる それ以外、どこにも阿弥陀様はいらっしゃいません 。 ということは、我々がその名前を唱えたときに、私の中に阿弥陀が働く 阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏になっているとおっしゃっているわけです なっているんだ 。 。 私が念仏をしなかったら、阿弥陀仏はどこにもいらっしゃいません それが私にとっては 人間の願い 。 大きな念仏を信ずるということの内容になったわけです 。 その悲願が最も消められた形を取っているものとして浄土を受け止めてもいいとも思 。 そうなると、お浄土は 一体、何なのか 。 土と由いてあります す っております 。 自分が念仏ができるかどうかです 。 。 自分が念仏をしたら、 。 そういうこ つまり念仏は私と真実の世界とつないでくれ 。 でも、私にとっては、浄土があるかないかは、梶村先生とは違った意味でしょうが、余 り大したことではありません 。 念仏が私に力を与えてくれます それをずっと実感してきました 。 そういう点で、私にとっては、死ねば土に帰るかどうか 念仏がなかったら、私は生きていけない る唯 一の方法です 。 。 とは別にして、私は念仏とともに、念仏の中に死んでいく だから、私は念仏をして死ん でいくのでしょう 1 4 現代に生きる法然上人 。 念仏によって帰っていくところは、そういうことは心配しなくていいのです念仏をす 。 。 ただお念仏ができるようになったということが全てです 。 ることが仏道であって、それをするために肉体が消滅があるだけで、そこから先のことは 考える必要はない 人の世を超えた大きな世界があるというこ 。 そういうことを先生のお話を伺いながら、感じました 先生は、瀬戸内さんのお話をなさいました 。 とは、先生は確かなことだとおっしゃっています 私もそう思いますが、私の言 葉で 言 わ 。 。 せていただくと、人間には大きな物語が必要です 大きな物語がないと、我々は生きてい けない 。 大きな物語は、科学的に証明できるかどうかということは関係ないのです つまり僕た 。 。 ちの日常は、小さな物語をやり取りして生きています 色々な物語をつくって、自分が納 得できるようにして人生をやり取りして生きています 。 そういう人生に破綻が生じる その破綻が生じたときに、その破綻をもう一度蘇らせて 。 。 自然に帰るということも、そういうものでしょう 。 大きな物語な 。 くれるような大きな物語が必要です ですから、自然に帰るというのも大きな物語の切れ っ端みたいなものです そういう大きな物語の中で阿弥陀仏の物語は、本当によくできています 。 どういう大きな物語を選択するかによって生き方が変わってきます 。 しには生きていけないのが人間ですが、どういう大きな物語を選択するかということは大 事なことです 。 (つづく) ですから僕は、阿弥陀仏の物語という大きな物語と今、どういうふうに自分が出会うこ とができるかということが大事な問題ではないかと思います 1 5 撮影/タカオカ邦彦 会い たい人 日本舞踊宗家藤問流八世宗家。舞踊家とし 生前の歌右衛門が 「 三曲を勉強してちゃんと弾けるようにして きたら、(門閥以外の)どんな人にでもあた て、振付師として、十代の終りごろから既に 名が高かったが、最近もその振付で踊る市川 いっ しは阿古屋を教えちゃうけどね」 。 海老蔵 一門の九園次さんから と語るのをじかに聞いたことがある たい今の若手は何をしているのか、あんな華 「勘十郎さんはいとも簡単に安々と踊ってみ せてくれるんですが、いざこちらがそれで踊 麗な女方の演し物は滅多にないのに、と、も だ ろうとすると、手も足も出ない有様で、天才 どかしい思いがした それを 三十代半ばの舞踊家が、三曲を立派 。 としか 言 いようがありませんね」 と聞いている。 。 にこなし、しかも清元、長唄をアレンジして 。 私がつくづく勘十郎さんの天賦のオを実感 。 には驚嘆させられた 自らの創作舞踊として素敵な成果を見せたの 踊公演で観た『阿古屋』だった 歌舞伎では往年の六代目中村歌右衛門、現 それというのも、傾城阿古屋が情人平景消の たんで、中学 のころから 三味線を習い始めて、 見てすごい感銘を受けて、ずっとやりたかっ 「子 供のころ大成駒(歌右衛門)の阿古 屋 を 勘十郎さんが 言 う したのは、平成 二十六年十 一月、明治座の舞 。 行方を追究され、琴責め(琴• 三味線・胡弓 同時に 学校の箪曲部に入ってお琴も始めたん 今では坂東 玉三 郎以外に演じる者がいない の三曲)の拷問を受けるが、その演 奏 に少し ですが、これがなかなかできなくてね 役でなさって、将来いつかきっと僕も阿古 屋 僕が十代のころ、 玉三 郎さんが阿古 屋 を初 。 の乱れもないことから無実が証明される…… 。 つまりその演 奏 は生 半可な出来では決して通 用するものではないからだ 17 「 阿古屋 J では琴 、 三味線 、 胡弓の琴賣めに遭うが 、 それ を見事にこなす勘十郎さん 。 平成26 年 11 月明治座 。 写 頁 提供 : 明治座 18 ' 会 いたい人 だのうらかぷ乞ぐんき でも、義太夫でやると歌舞 「 もともと人形浄瑠璃の『壇浦兜軍記』から 。 を演じたい、と楽屋で話して盛り上がったこ 素があるんです 歌舞伎に来た演目ですけど、すごく舞踊的要 川瀬白 伎と同じことになるんで‘泊元で語りと踊り 。 とがありました。胡弓は勘十郎製名のときで 秋先生のお世話になりましたが、兵剣に通っ の部分を、長唄で 三曲の部分を、というふう すから‘ 二十 二歳のときからですね たほうじゃないですけど、胡弓をいつも身近 に作り変えました。 た 。 舞踊会ではこれ 一番だけ踊るわけじゃな の明治座の会の話があったときに即決しまし したけど、すぐに再演したくなって、十 一月 最初は昨年六月に大阪の主催公演で踊りま に骰いて、寝ころんだり、本読んだりしなが 。 。 らずっと触ってました ちょうど手品師がい つでもトランプを弄んでるみたいにして 琴は、大阪の稽古場にあって‘行けば触る ようにしてますが、これが 一番大変ですね いんで、やめときゃよかったと思うくらい大 」 歌舞伎の遊君阿古屋は、 一番重い塁や衣裳 変なんですけど、終るとまたやりたくなる‘ おび -"u " をつけた上に、大きな俎帯が前に来て演奏の 不思議な魅力のある演目なんですね」 年 三 月生まれ 。 父は観世流能楽師梅若玄祥 勘十郎さん(本名•藤間良)は昭和五十五 りょう 邪腐になる。そこをものともせずにみごとな 三曲を披露するのが大きな見せ場になってい る。 衣裳をつけない素踊りを本領とする勘十郎 こうこ 。 (五十六世梅若六郎)、母三 は世藤問勘祖(七 っ 2" 。 「 七世宗家継承の会 」 で、藤 世藤問勘祖)と藤問紫 (二 母方の祖父母は さんの阿古屋はどんなだろう、と思って観た 昭和五卜八年 六世藤間勘十郎 世藤間勘十郎、藤問高子) し が、金襴の福を手にしたり、ちょっと肩 に掛 けたりするだけの簡素で象徴的な舞台が 美 かった。 1 9 りょう 間凌を名乗って『雨の五郎』を踊ったのが初 舞台だった。 昭和六十 一年 一月からの NHK 大河ドラマ がついたらお前が出てた、というんですけど、 僕はオーディションを受けた党えがなくて‘ その経緯は今でもよくわかりません。 渡辺謙さんはあれが大きく当って売り出し たような方ですからね、少年時代をつとめた 『独眼竜政宗』で、政宗(渡辺謙)の幼少期、 梵天丸を演じた名子役「藤問遼太」の名は、 ティーでお会いしたとき‘梵天丸の藤間です‘ 僕のことを憶えていてくださって、あるパー と 言 ったら、あーっ""大きくなったねぇ、 当時五十%近い照異的な高視聴率を記録し 私の記協に鮮烈に残っている。 ただけあって‘配役を調べてみるとすごい顔 って(笑)。嬉しかったです」 梵天丸は小さいころ疱桁(天然痘)を患い、 ほうそう ぶれが並ぶ。政宗の両親、輝宗が北大路欣也、 お東の方が岩下志麻。羽柴秀吉が勝新太郎、 る。 ある日、守役の片倉小十郎の妻喜多(竹下 その毒が右眼に入って酷い痕跡をとどめてい 「自分の中でも忘れられない記憶となって残 景子)と不動明王の像の前に立って、その憤 ねねが八千草煎、石田 三成が奥田瑛 二、徳川 っています。でも病みつきになって、俳優に 怒の形相を見て驚き、自分の顔と重ね合せて、 家康が津川雅彦と、みんな主役級だ。 なりたいなんてことは考えませんでした。高 これは「化け物か?」と喜多に訊ねる。 「いえ、恐ろしいお顔は悪をこらしめるため。 校に入って、席順で僕の後ろに座った子がそ のオーディションに落ちた子で(笑)、のち 「……梵天丸もかくありたい」 外観と異り、お心はお慈悲深いのです」 すごく不機嫌になったからどうしたのかと思 このせりふは当時 一世を風靡した。この場 に親友になるんですけど、その話になったら ったら、いいとこまで行ったのに落ちて、気 20 ' 会 い た い人 面を単行本『独眼竜政宗』の写真で見てみた の期待以上にパーツと盛り上がってお客様が 振付師の楽しみは、自分で考えた振りを、 。 考えがドンピシ これは作り手 にしかわ そういう名俊たちが演じてくださると、自分 。 これが振付師の醍醐味でしょう 」 「 偉そうに見えましたか?小娘が 。 (笑)。 るのを見て‘ちょっと照いたことがあった えて歌右衛門や富十郎にあれこれ指示 してい さんの母上がまだお若いのに 扇子 を小脇に構 ったとき、最前列中央の席に陣取った勘十郎 ずっと以前、歌舞伎座の舞台稽古を見に行 う優越感 ャと当るとね、それみたことか(笑)ってい からない充足感でしょうか 。 ら、不動明王をヒタと見詰める利発そうな片 短い出番の割には 大喜びしてくださる 方の眼と、半開きの口許が、半世紀以前、天 。 才子役と謳われた勘九郎坊や(+八代目勘 三 郎)にちょっと似ていた 。 「その後、自分で自分の右眼を刀で刺すとこ ろまでが僕の出番でした 強烈な印象だったらしくて、今でもたまにお っしゃる方に出会います 」 。 勘十郎さんは振付師という仕事に誇りを持 ち‘ 「 楽しい職業だと思う 」 と言 う 「母も僕も自分で踊ることより振付のほうが ではなくて、われわれ踊りの家に伝えられて 型、いわゆる振付は役者の家に残っているの 皆さん誤解なさってますが、歌舞伎舞踊の 代目勘 三郎)、歌右衛門‘梅幸さんという卸々 いるものなんです 母の時代は先代の中村屋(+七 たる名似がいらしたころで、僕が振付師にな 伎座で『隅田川』を勘 十 郎家 の振付で踊ると 。 ったときのトップは、京屋(雀右衛門)、天 好きですね 王寺屋(富十郎)、山城屋(坂田藤十郎)、神 いうことが決まると、偉い方もうちにお稽古 それでたとえば今度歌舞 谷町(芝翫)とか‘みんな年齢的にも大先輩 にみえて、おさらいをしたり、またそのとき 。 ばかりでした。 21 。 の情況で振りを考えて申し合わせをするわけ です 新作とか、古いものを復活するときは振付 。 師の腕の見せどころで、まず役者さんの前で 「 振り見せ」というのを行います 祖父は、最初は昔の六代目梅幸さんのお弟 子 で、尾上梅雄という役者でしたが、名優六 代目菊五郎にオ能を見込まれて藤間宗家に接 。 子に入った人で、この六代目さんが祖父を立 派に育ててくれたんだと思います 振り見せのときになると、六代目菊五郎は 22 会 いたい人 門とかそのころの偉い役者さんがみんな見に どんな作品を作るんだ、って十五代目羽左衛 ね」 えるような振りを考えるのが‘仕事なんです その役者が最もよく見えるように、舞台が映 振付師の 立場となれば‘どんなに若輩であ 来る。六代目さんの代わりに祖父が真剣に踊 って汗かくと、お前が踊るんじゃないから汗 。 かくな、って。涼しい顔で踊ると、そんなく 。 天王寺屋 ( 富十郎)と なのに、母親から今回はあんた 一人で振付師 はどんなに年が離れてるかわからないくらい 「 僕が中 学 生のとき、 っても‘役者からは立 てられる そのかわり、 。 ぼやぼやしてはいられない ‘ たびれない踊りは俺は踊りた<ねぇ‘って六 代目さんが(笑) まさかどたきやしゃ 光図がかの 美男で有名な十五代目羽左衛門と としてついて行きなさい、と言 われて‘えっ‘ それで『将門』で、滝夜叉が六代目梅 幸 いう、人気役者の競演なのに、さっばり客に みんな、なんでこんな 子供が っていう感じ 。 受けない おめえの振りが悪いからだ‘って 祖父が叱られて‘受ける振りを今すぐここで のことを良ちゃんと呼んでる 天王寺屋 さんが いるんだ?みたいになったとき、普段は僕 。 考えろ‘できないんなら死んじまえ、って 『ねぇ、藤間さん‘ここどうやんの?』って 。 。 有難か (この項つづく) 。 でもそれで っとした その時‘たまたま振りを ったと思 っています」 周りの方の僕への対応が変りました 事 を今でも党えています(笑) 党えていたから 事なきを得られ、ほ 。 (笑)それで十五代目さんには両手を胸のあ それ 訊いてくださった 。 たりで振る癖があったらしくて、それを踊り に取り入れたら翌日から大受けだった から祖父は十五代目さんの信頼を獲ち得たそ 。 つまり振付師というのは、役者それぞれの うです 体型とか年齢とか体調とか、癖もふくめて‘ 2 3 こうるじ っぼう 響流+方 。 自分のしたこ 他人が〔自分と〕逆なことを見つめるものではないし、他人のし 。 釈打【ダンマパダ第五〇偽】試訳 たこと‘しなかったことを見つめるものでもない と‘しなかっかたことを見つめるべきである 自分のしたこと、しなかったこと 唇流十方 「身についた癖だから、つい出るんでしょうね 。 お帰りになるとき、ドアが開 かずにお困りになっているお客さんがいらっしゃるんですよ」 目 立 たぬ小路に 。 久しぶりにお向かいのバーであれこれしゃべっていたら、どんな会話からだ 。 ったか、マスターが店の入り口に視線を向けながらそう言 った その店は私が管理する地蔵堂と小路を挟んで斜め前にある っ ている 。 ありながらもオーセンティックなその店は、外観も内装もシックで、一枚板で あろう木目のきれいな長い長いカウンターが店の風格を物語 八月の地蔵盆の折、地蔵堂からその店の外壁に取り付けてある雨水用の排水 。 管に長い竹竿を渡して結びつけ、いくつも提灯を吊り下げてみた 例年、提灯 。 って提灯を吊してみた マスターにお断りもできぬま を吊り下げていた小路の入り口が諸般の事情で吊せなくなり、致し方なくバー の排水管に竹竿をくくりつけてみることにした 。 できれば米年以降もそうや 。 店はお休み 。 今年の地蔵盆は日曜日であった 。 。 まずはマスターのご了解をと「じつは、この間の日曜日が地蔵盆でして、 ま提灯を吊すことになった い これこれこうで」と事情説明かたがたカウンターに座ったというわけだ 一通りの会話の後、マスターは開かないことがあるという店のドアのことを 25 語り出した 。 。 どこか渋いわけでもない 。 。 。 。 私に 何が問題 ハンドルを下に 見たところレバーハンドルで開け閉めをするタイプのドア 。 なのにドアが開かずに困る人がいるという は普通のドアにしか思えなかった 回せば開くはずである なのか、意味が分からないでいると、 マスターが種明かしをしてくれた 。 。 自分の家から出掛ける時と同 「レバーの上に回し鍵がありますでしょう その取っ手を無意識に回してから、 。 でも、 鍵を開ける癖が、逆に開いている 。 きっと、いつも玄関の鍵を閉めていらしてら、 ドアを開けようとするお客さんがいるんですよ じ感覚になるのでしょうかねぇ 。 もっとも、それで帰るの思い直していただい ドアを開けようにも先に鍵を閉めてしまうんです 。 回し鍵を開けてからドアを開ける癖が身についていらしゃるんですね 。 店のドアはそもそも鍵が開いてますでしょ 鍵を閉めてしまうんですね から、開くわけがないんですよ て、もう 一杯飲んでいって下さればありがたいのですが……」 。 なるほど「なくて七癖」というわけだ 。 自分には気が付かない癖か、言 われてみると自分にも思い当たる節があって、 妙に納得した 。 。 難点がないような人にでも癖は意外とあるものだ、ということだろう ところで、この「なくて七癖」、はじめは「難なくて七癖」と使われていた そうだ 26 響流十方 それにしても、自分では気付かない自分の癖が、自分を守っていたり、逆に自 山状」 のなかに、「分にしたがいて悪業をとどめよ、 『登 分の行く手を阻む障害になっていることもあるのだと思うと、いささか怖くな った。 法然上人のご法語 。 縁にふれて念仏を行じ往生を期すべし」という教えがある 「分にしたがいて」 SNS が発達した 。 で「各々出来る得るかぎり」というものの、自分では「善」と思って行ってい 。 たことでも、それが気が付かぬうちに「悪」に変わっていたら身も蓋もない 未読だが 「一 億総ツッコミ時代」 という本が出たという 。 。 でも、そう 言う時代だからこそ「自分のしたこと、しなかったこ せいか、今は誰もが評論家になったつもりで、ひとこと言 いたいの時代なのか も知れない 言業を高く掲げておきたい とを見つめるべきである」という釈蒋の 。 そうそう、地蔵盆の提灯の件はマスターの快諾を頂いたばかりか、明かりを 。今 から来年が楽しみだ ともす屋外コンセントまで拝借できることになった (袖山榮輝) 27 東京世田谷感応寺住職 関東プロック浄土宗青年会理事長 成田淳教 浄土宗東京教区災害対策委員会が企画した被災地でのイベント風景 。 束日本大復災の被災地を訪れて 八月 二十 三日に仙台市若林区荒井7号公園 応急仮設住宅において、仮設住宅の方と、荒 ー ベキューをしてきまし 浜地区出身の被災者の方々の集まりである若 。 。 これは私も委貝を勤めている浄土宗東京 松会の方々と共にバ た 。 んのセッティングをし、テントやタープを張 り、机と椅子を並べて行いました 自前で持っているものは、東京から運び、 。 不足すると思われるものは仙台でレンタルし あいにく、当日朝は雨が降っており予想さ ました が、それでも 三 0名以上の方にご参加いただ れた人数より 三 割ほど減ってしまいました を対象としたイベントを何度か行っており、 き、こちらのスタッフと併せて五 0名以上で 浄土宗東京教区青年会では、若松会の方々 教区災害対策委員会で企画したものでした 手作りキャンドルや、写佛会、香袋の作成な 共に楽しい時間を過ごせたと思います 。 ど、楽しんでいただけるような企画をしてま つられたりと生活再建に向け進まれていると にご自宅を建てられたり、災害復興住宅にう 近況をおうかがいすると、それぞれ、新た 「次は何しましょうか?」と参加された方と のことでしたが、それはそれで以前の戸建て いりましたが、昨年最後のイベントの時に なイベントがいいということで、その時に の住環境とは異なる生活であったり、元々の お話をしていて、何かみんなで食事するよう 「次はバーベキューにしましょう」と約束を コミュニティーの方々がばらばらになってい 。 。 たりで、前進はしているものその段階ごとに してきたもので、かなり時間がたってしまい ましたが、やっと実現できたものでした 今回のようなイベントがあると、皆が集ま 新たな苦労があるとのことでした 房えにし」の方々にもお手伝いいただき、仮 って話したり、情報交換ができたり、なによ 当日は浄土宗宮城教区青年会の方々、「茶 設住宅の駐車場にバーベキューと流しそうめ 29 。 りも、元々のお仲間の方々と楽しく過ごせる ことが良いと仰っていただきました いろいろな団体や個人が震災後に被災地の 。 方々とご縁を結ばれたことと思います 地元 の方々が集まるきっかけになるための今回の ような企画や、あるいは、お手紙などでも、 区切りを付けずに、結ばれたご縁を大切にし 。 ていくことが、全体の復興と良い未来のため になるのではないかと感じました 一 畠冷 バーベキューは、楽しみながら、情報交換できる場となった。 30 束日本大複災 の被 災 地を訪れ て 月、世田谷大吉寺に生れる 。 。 3より感応寺住職 平成 1年 なりたじゅんきょう 東 京 教 区 玉 川 組 感 応 寺 住 職 昭和 5年 0 1 ( 現職 ) 平成 2年 4東京浄青 災害対策委員 ク浄土宗青年会理事長 ッ U 3 1 2浄土宗東京教区青年会会長 平成 2年 平成 2年 6関東ブロ 東京からと地元宮城の青年会員が活躍した 。 トルコと日本 一 森清鑑 友 好の絆 帰国 。 遭難から五日目の明治 二十 三年九月 二 十 一 。 東京から赤十字の医師団を派遣する 特に赤 十字などから派遣された数名の看護婦の、献 身的な看設には、トルコ生存者の涙を誘うも のがあった 。三 浦艦長は用ャばしてきた衣服と 国に丁重に帰すよう、天皇は軍艦「比叡」と て順調に回復した生存者六十九名をトルコ本 。 日、日本の軍艦八韮山が紀伊大島に到滸した しかし、八重山の 三浦艦長は立 絹のハンカチ六ダースを生存者に支給 かく 。 前日に ド イ ツ の 軍 艦 が 生 存 者 を 神 戸 に 運 ん だ 後であった 派な人で、途中、海に浮かぶ 一辿体を収容し、 。 」を神戸に派述する 両艦は十月七日、 「金剛 明 。 。 到着すると、雨の中、埋葬式に参加した 横須賀を出港し、十 一日に生存者を乗せて神 。 。 治天皇からは 三浦艦長宛に生存者を東京の慈 戸からトルコに向けて航行することになる そ 恵医院に連れてくるよう軍報を受け取る 。 スエズ経由でトルコに向かった 。 そして、興 軍艦である 香港、シンガポール、コロンボ、 比叡と金剛は、当時としては日本の最新鋭 秋 山真之 無論、明治天皇からの親肉、贈り物を携えて 1 号乗組貝を乗せ、神戸に こで、 二 十 二日身元確認のため残っていた ニ 。 人のエルトゥルル 向かった 三十名の迫体を収容するこ その日も漂着追体十四名が発見され、それ i 神戸に芍いた 三浦艦長は、神戸にい 。 から連日、 二 十 とになる 。 味深いことに、この船には、練習航海を兼ね 。 後に日本海海戦でロシア、バル 。 る六 十 九 名 を 東 京 に 連 れ 戻 そ う と す る が 、 重 秋山真之 秋山真之もその 一人であった て、海軍少尉候補生も乗船していたのである 。 明治天 皇 もその知らせ 傷者 二 十 三名の今すぐの移動は危険だという 医師団の意向を導重 を受けて、神戸で手原くもてなすよう指示し、 3 3 チック艦隊を撃滅したときの、作戦参謀 。 彼 弾戦の必須条件、波が高いということは、洛 弾猛訓練を梢んだ我が方に有利という慈味を 。 暗に込めている) そして司令長官束郷平八 。 丁度、トルコ軍艦遭難事件の明治 二 に入学 は、大学予備門( -高)途中から海軍兵学校 。 郎の連合艦隊解散の辞 終わりに 「…古人曰 く、勝って兜の緒を締めよ」(猛訓練は和む 十 三年( -八九 0) に兵学校を首席卒業 学校では卒業後、長期の遠洋実習航海がある が、むやみに戦ってはならない)など、彼の 。 兵 。 この時の 一七期生は、「比叡」、「金剛」に乗 秋山は、ただの秀オでは 。 郷元帥は、「その知謀湧くがごとし」と彼の 。 なんとい その秋山の海軍奉職の、初仕事がトルコ遭難 能力を信頼し、海戦で、彼に賭けたのである 。 者を本国に送り返すことであった う縁か 後年、この日露戦争の勝利に、オスマン帝 クリミア戦争( -八五 三 ー 一八 。 徹頭徹尾、東 草稿は秋山文学として名高い 。 秋山真之もその 一人 り込み、遭難者をトルコに帰還させる任務も 。 兼務していたのである 。 後年、ロシア、バルチック艦隊撃 。 彼は、司馬遼太郎の 「 坂の上の雲j の主人 であった 公の 一人 滅の立役者となる なく、作戦目的の達成をしっかり捉えた、希 我がことのよう このことは、遭難事 。 国(トルコ)中が沸き立つ 大学予備門では、郷里、松 。 有の人であった に歓喜し、快哉を叫ぶ 。 直面、ロシアと激しい戦閥を繰り広げてきた 。 山時代からの親友、正岡子規の紹介で夏目漱 じようにオスマン帝国もロシアの南下政策に 件がもたらした友好の絆に加えて、日本と同 。 明治 三十八年)で打電した彼の軍文、「敵艦 石とも親交を結ぶ 日本海海戦( -九 0 五年 見ゆとの野報に接し、連合艦隊はただちに出 。 。 からである 天気晴朗なれ H 動、これを繋滅せんとす 五六) それまでも広大なオスマン帝国領土 本 ども波高し」(見通しが良いことは、当時砲 34 友好の絆 は、ロシアも含めた欧州各国に浸食され、あ 大いなる歓待 六十九名の串本トルコ軍艦エルトゥルルー 国王と面会 の南下政策であり、かつてオスマン帝国の国 るいは独立し、失ってきたが、最後がロシア 号遭難者を乗せた、秋山の乗る軍艦、「比叡」 。 士であったウクライナは、侵略され、黒海に 。 。 目指すは首都イスタンプル ところが地 と「金剛」は、無事地中海に出てトルコに着 く 突き出たクリミア半島での激戦 この時には、 帝国の領土をロシアに横取りされてなるもの 中海とマルマラ海を結ぶダーダネルス海峡で 時は 一八九 一年十 二 月 二十七 かと、イギリス、フランスも援軍を派遣し、 。 足止めされる 。 ロシアに対抗した ナイチンゲールがイギリ H 。 オスマン クリミア戦争終了の 一八五六年からトル コ内のこの海峡は、 全ての外国船の通行を禁 止するという処置が取られていた 。 スから看設士を連れて、イスタンプルに隣接 ナイチンゲールの似大さは、ロ する黒海側の後方支援地点で活躍したのもこ 。 帝国(トルコ)は、クリミア戦争以降、地中 の時である ンドンに帰ってから、戦場医療の在り方を体 海側からの敵国侵入を防ぐべく、ぴりぴりし 比叡と金剛は、やむなくベシカ湾(トロイ 。 系化、理論化し、頑迷な官僚を説き伏せて、 ていたのである 。 いってみれば、医療制度を確立したところに このため、イギリスでは、彼女を統計 。 。 彼等は、皆、日本 。 前夜、艦でトルコと日本の士官同士 。 の祝賀会が行われ、友好の祝杯を挙げている ていた の水兵に抱きつき、頬を擦りつけ、涙を流し 。 辿跡近く)に停泊 ある 九名との涙の別れとなる ニ世の頃には、見る影もなく、エルトゥル ここでトルコ遭難者六十 巻したオスマン帝国海軍は、アプデュルハミ 学の祖とする声もある かつて、地中海を席 ト 。 ルー号の日本での遭難も、そうした背景を背 負っている 3 5 特例処置 。 国 王は、送り返されて った 士官達から、遭難 日本の船籍に限り、ダ 知らせを受 。 士官宿 舎 と ◆トルコ地勢、比叡 • 金剛の経路 36 』- そこで日本側の田中艦 長 は、これまで幾度も 通達してきたことだが、明治天皇 の国書 と贈 り物をオスマン帝国(トルコ) 国 王 アプデュ 。 ルハミト ニ世に直接届けるまではこの任務は きた生存者や交流のあ 終わらないと述べる っ の模様や、いかに日本の人々が身をなげう 。 て助 け て く れ た か を 初 め て 知 り 、 鷲 き と 感 謝 に涙する ーダネルス海峡通過を認可する 。 けた 、 「 比 叡 」 と 「 金 剛 」 は 、 た だ ち に 海 峡 を 通 イスタンプルに 着 くと、その日からトルコ 、 そして 皇 帝から明治 天皇 からの贈り を り抜け、イスタンプルに寄港することになる 。 金剛 」 を初め各国の海軍士官が 「 比叡」 「 訪れる 。 物を 早 く 見 た い と の 要 望 が あ り 、 田 中 艦 長 は 金製の太刀や大花瓶などを渡す 。 して宮殿があてがわれ、至れり尽くせりの歓 待を受けることになる 年明けとともに、 皇帝アプデュルハミト ニ ウクライナ オスマン帝国 地勢 (トルコ) 友好の絆 官達は、提供された専用の馬車に分乗し、宮 世との会見が行われる 充 当 された 。義 捐金は、これにとどまらず、 らは負傷者の手当、記念塔、打李地敷設などに れた 。全国から膨大な義捐金が集まり、それ することとなり、義捐金の経集広告が掲載さ その日、艦長以下士 内庁正殿に案内される 。首 相以下全ての嵩官 民間団体や個人が独自に集め、提供 例えば、 。 列席 。大 歓迎である 。皇帝 は、心底からの感 芝増上寺の大殿では五百八十余名に及ぶ犠牲 。 こうして、行く先々で歓迎の嵐を受け、 。 謝を述べ、田中艦長は明治天 皇 の親害を手渡 捐金を募った 。 そして個人の活動家として際 者の霊を慰める大法会が催され、その場で義 。 す 。 アプデュルハミト ニ世は刀、拳銃、サラ 滞在は四十日間に及ぶ 。二 月に日本に向け出 港 立つ人物が登場する。それが若干二十四歳の 参考文献】 【 坂本俊夫著現代霞館 「明治の快男児トルコヘ跳ぶ」山田邦紀 . 「エルトゥルル 1号の遭難」寮芙千子著小学館 「トルコ世界一の親和国」森永尭著明成社 その他、ウィキペディアなど 。 プレッド馬などの明治天 皇 への贈り物を贈呈 。 号 った 山田寅次郎であ 。 こうして再び遠洋航海 「比叡」、 特に 皇帝の意向を伝えるために、トルコの特 使も乗せる 「金剛 」の 両艦は 一八九 二年(明治 二十五) 五月十日に帰国した。田中艦長は早速明治天 皇 に拝謁 。皇帝 との謁見の様子、膨大な贈り 。 エルトゥルル 1 物の子細、大歓迎の状況などを報告。 そして 。 トルコの特使は 皇帝 の意向を伝えた 義捐金 さて、話を元に戻そう 遭難の次第は、事件後すぐ、新聞各社の報道 37 ®快僧渡辺悔旭 壷中に 前田和男 を求めて 壷 中 に月を求めて 。 家業が傾き寺に出された渡辺芳蔵は小 *前号までのあらすじ 時は明治の中葉 を名乗る 。 オ気燦発ゆ え 将 来 の 宗 門 幹 部 と し て 浄 士 宗 学 石川源覚寺住職端山海定の下、十五歳で得度し「海旭」 東京支校、同本校へ進 学 を 許 さ れ 、 さ ら に 明 治 三 十 三 年 (一九0 0)、浄土宗海外留学生として、廃仏毀釈で打撃 ° 碩学ロイマ を蒙った仏教再生の輿 望 を 担 っ て 、 当 時 印 度 学 の 拠 点 で あったドイツはストラスブルク大学へ留学 ン教授の薫陶を受ける 傍 ら キ リ ス ト 教 改 革 派 、 社 会 主 義 恐るぺし、ヴァレザーの 仏教理解力 ァ レザー ァ 語 によ ッ ト 。 レザーと出 会っ た渡辺海旭は、 師のロイマン教授の仲介で若 き仏教 学者 マ クス・ヴ ッ たちまち肝胆相照らす仲となり、ヴ しかし、 当初海旭に 中論」 のドイツ 語訳 が企図していた龍樹の 「 。 の手伝いを引き受 けた 留学四年目、スイ ス は バ ー ゼ ル の 万 国 宗 教 歴 史 学 会 中論] のよう 学者 に 「 。 る 。 者らと交わり、社会福 祉 事 業 な ど 仏 教 以 外 の 知 見 を 深 め った 語 のよ ジッ ク) が理解で さ ら にはそれをドイツ ト、チベ ッ ” 翻 中論j解釈本をほぽ読破、同書 の本義 に 「 。 った。「 中論」 を 読 み解くには 鳩摩羅什の 漢訳注釈本が最も 訳 力 “ においても 尋 常ではなか ついては十分に理解をしていた そして る すでに彼はサンスクリ ところが海旭が 話 してみて 煎 いたことに、 うな論理的 言 語 で翻訳 できるのだろうか、と 。 は内心不安があ ッ ンガリー帝国元駐日代 理 公 使 の ク ー デ ン ホ ー フ 伯 と 出 会 また同じ宗門海外留学生の荻原雲来から、ヨーロ で研究発表、そこで仏教に造詣が深いオーストリア 11ハ 。 _人異郷に残さ 一方、留 学 期 限 が 切 れ 何 と か 延 長 を 許 さ れ る 。 ッ クス・ヴァレ 彼の依頼を受け大乗仏教の原典 きるだろうか な深遠なる超論理 (メタロ う 。 パ初の比丘ニャーナテ ィ ロ カ の 存 在 を 知 ら さ れ 強 い 興 味 を覚える なか盟友•雲来が博士 号 取 得 し て 帰 国 。 ってきた気鋭の仏教学者マ ったところへ母トナ逝去の悲報で気持ちが萎えかける れた海旭はロイマンから博士号取得を促され準備にかか が、当地へや ザーと出会い意気投合 である籠樹の 「 中論 」 の独語訳を手伝うことになるー—ー 39 。 には雛菊美人草が業に夜蕗を留め、どこから な初夏の日曜日の朝、海旭とヴァレザーは、 か軍楽隊の演奏が聞こえてくる、そんな長閑 有力とされるため、まず 三年をかけて漢語を 習得 その上で、不備と瑕疵が多いとされる ウィリアム華英辞典をたよりにとりあえず英 中論j の最後の悩を訳し終え、限り ついに 「 海旭にとってはなんとも濃密な半月間で、 。 語に翻訳、それをさらにドイツ語に骰き換え ない法悦の瞬間を共に味わったのである 。 るという作業をしてきたのだという 複雑か つ誤訳が生じやすい作業をしながらも、よく いっぼうの 一年にも思えた充実の時だった 。 ぞここまできたものだと感心するほどの出来 のホテルを引き払うと、挨拶もそこそこに余 ヴァレザーはそそくさと寄宿していたケール 。 栄えで、十のうち九はほぼそのまま使える訳 だった 韻も残さずにベルギー第 三の都市ヘントヘと 旅立っていった。いかにもこの男らしい振る そうはいっても、原書が原書だけに「補足」 にひっさげ、同地の仏教哲学者トゥ・ラ・ヴ は必要で、たとえば「非有非空」は「いっさ それす 中論 j のドイツ語訳を手土産 舞いだった。 「 。 いのものは有るのでもなく、無いのでもない、 いずれにも偏らないものであること アレ・プサンと共に、仏教哲学体系の第二篇 中論j と龍樹のことを想った に格闘した 「 。 したロイマン教授の研究室に 一人座って、共 海旭は蓬髪顎骰の碧眼仏教学者と切磋琢磨 。 なわち を上梓するためであった 「中道 」 のことである」などと補うこ ととし、それが海旭の主たる作業となった。 おかげで、早くても半年と思っていた比定 折しも淡い黄色の小さな 釈迦没後仏教が俗流化の危機にあった時、 。 花をつけたリンデンパウムの芳しい香りが夏 もし龍樹が現われなかったら、バラモンの教 嬉しい誤符だった 作業は、わずか半月で終えることができた。 のそよ風に乗って源い来たり、窓辺の鉢植え 40 壷中に月を求めて 。 義を継承したヒンドゥー教の攻勢をうけ、釈 ある しかし龍樹の「空と縁起」の理論が行 。 。 き着いた先のわが日本は廃仏毀釈によって消 それ 迦の仏教はそこで息絶えていただろう 滅の危機を脱することできないでいる 今こ 。 を蘇生どころか大乗仏教という形で 一層隆盛 そ日本の龍樹が出なければならない 龍樹に 。 中論」で「空と縁起」 をさせたのは、龍樹が 「 。 。 海旭はヴァレザーが去った遠く北の方を望 論文だ じて飲んで 一陪励まねばならぬ まずは栂士 アレザーの頑張りを見習い彼の爪の垢でも煎 この 三 か月のヴ は遠く及ばないが、そのために自分はこの異 たとえ 。 榜へ来ているのではないか すなわち龍樹以 たとえば「生」があるから「死」 これに対して龍樹は、あらゆるも 。 の理論を打ち立てたからだ 。 前は、「縁起」は単純な 一方向の因果で説明 されてきた があると 。 のが相依•相関的な関係の中で成り立つこと こそ「縁起」であると捉えなおした んで合掌すると、仏教改革運動の同志である 。 的是、惰眠を貪りて、死せ 。 仰大な人物も此方面には随分あ 。 然し仏教哲学特に大乗哲学者として、光 しか は少くない を起し来るべきもの」 「 今独逸で仏教語学者 るが如き独逸の哲学界に、必ずや多少の活気 ァ 「 氏(ヴ レザー)の稿は、恐<此クリスマ 。 ば、「生」と対にあるとされる「若さ」も、 嵩島米蜂への追伸にこう書き記した スを以て了らむ 。 より若いものと比べれば、「死」と対にある は固有の性質をもたず「空」であると主 張し 。 とされる「老」になる 従ってあらゆる物事 たのである 思えば龍樹が「空と縁起」の理論を打ち立 日 てなければ、大乗仏教も生まれずそれが中国 。 中論」 その予 言 どおり、ヴァレザーによる 「 まず る った を経て日本へや 輝ある未来を有するのは、先此人だらう」 ってくることはなか 本で龍樹が「八宗の祖」と呼ばれ、わが浄土 宗を含む多くの宗派で敬われている所以でも 4 1 。 の独訳はドイツ哲学界に新風を巻き起こし、 彼自身も後にハイデルベルク大学で教鞭をと り、学者として大きな足跡を残すことになる 博士論文‘ 宗門の先輩で京都知恩院浄土宗第五教校長の 土 川普激と遥かインド洋を超えて音信を交わ すなかで、日本に「普賢行願讃」のサンスク リット原本の写本があるとの情報が伝えら ロイマン教授の紹介で、ケンプリ れ、土川師からそれが送られてきたことが発 。 本を突合・比較するなかで、もっともオリジ ついに脱稿 ッジ大学をはじめヨーロッパ各地の大学・研 端だった かくして海旭はようやく博士論文に本腰を ナルに近いと認められたのは日本のサンスク 究者のもとにあった原典を取り寄せ、各種原 博士論文 。 入れることができるようになった リット本だった 海旭はそれをもとに日本語で論文を書き日 。 のテーマは初期大乗仏教の代表的経典である 華厳経の掠尾を飾る「普賢行願讃」の同定研 のをロイマン教授の勧めで、今度はドイツ語 。 反響はなかったので、そのままにしておいた 本の仏教界へ問題提起をした だがさしたる 。 めの予備作業が相当にかかる 残された時間 究だが、原典史料が幾種類もあって突合のた 中論」 「 は 一年もなかったが、自分でも煎くほどには おそらくヴァレザーの で 一大論文にプラッシュアップすることにな 。 かがいった サンスクリット学の泰斗マ ったのであった 笠原研寿 • に冒されて果たせなかったことを知ったの が 三十年も前に試みようとしたものの、結核 。 の独訳を手伝ったことで、根気のいるこの ックス・ミュラーの日本人門下生 。 。 「突合作業」が身体と脳にしみついてしまっ たからだった 思えば、ドイツ留学以来のテーマであった 42 母 ト ナの急逝とヴァレ サ も、海旭を博士号にいっそう邁進させる気に 。 、 の 「 中論」 ドイツ語訳の手伝いで 一時中断 こうして海 旭 は させ た ー リ ッ ト 、ネパ ー ル語 、 チベッ ト など し ていた博士論文へ向け、「普野行願諮」の サ ンスク 隕社 有会 。 そして提出 D に半月以上も残すという余 の写本原本を照合する根気のいる作業を再 開 。 裕をもって、ついに論文は完成したのだった 4 の 2 の 1 (この項つづく) 〒 1東 1京 1都台東区元浅草 浄土宗法衣専門 古き伝統技 古島法衣店 一そ石代にわたる信頼 oo180,2 , 45231 電話 (03)3842,1289 振讐 4 3 会 句 上 誌 土 浄 。 鳥羽 石原 高島恭子 浜口佳春 44 ●品 。 き 。 つまでもそこに置かれているのか 〈 佳作〉染み少しあるどぜう 屋 のお品書 き 品数をひどっ増やして 夏料理 刃物市品定めして背 の寒 斉田 品と書かれている 早く売れて行くのか、い 。 その ―つは特に高いのだろうか わざわざ逸 れている。一 っ ―つに値札が貼られていて、 幾種類もの熱帯魚の容器が、所狭しと岡か 逸品ど値札に書かれ熱帯魚 〈 特選 ●格 体格も気性も父似卒業子 〈特選〉 。 小学校の卒業生だろうか 大きくなるにつ れて、父の体格にだんだん似てきたのだが、 そういえば気性もまるで父に似ている子供 仁 梓 新 が親に似るというのは当然だが、この子は特 。 に父にそっくりなのだろう 河野道弘 茂田佐知子 格好のよくてかぼらゃ←絵手紙に増田信子 格好の良い胡瓜から売れてゆく 〈 佳作〉別格木山闇のどこかに墓蛙 ●自由題 搾乳の牛に首振る扇風機 搾乳器を使っているのか、手で搾っている 。 。 。 のか 牛舎には扇風機が回ってい音 る楽が 流れているかも知れない 牛にストレスを与 。 小林苑を 内藤隼人 えないような手だてが、あれこれ講じられて いるのだ すべては搾乳のために。 〈 佳作〉少し汗して親子丼などど言う 日盛リタ采てほの暗き人形館 吹くがままうねりどなりぬ大花野 東保 浜口佳春 45 〈塁 選者=増田河郎子 浄土誌上句会の お知らせ 兼題 闊 日陸銀 、 。 っとはじまりぬ 村田俊 ハンカチの手品がふ 安居猫どこか気品のあるごとく 友坂玲子 ●品 誌上句会〈編集部選〉 [格 f Pを開ければ真昼夏木立 i格 言 のように鋒芸立ちにけり ~格子戸のちらちら撒水車が通る 結城 一策 阿部談 狛犬の口が藪蚊を吐きにけり 中野 幸雄 上野亮太 ■自由題 凹む日や枇杷を食べれば枇杷の種笠井亜子 炎昼のカバンの底に嗚る軍話 柴田千代 時田実 人形に五臓六腑が無くて夏 六月の迷路が地下の駅にある 森島瞳 格子 戸 の商麦屋に回る扇風機 本格も変格も梢み 三尺哀 浜口佳春 はつなつの仏具 屋にある招き猫 硲未へ品川宿の大西日 身の芯に落ちて絶品なる冷酒 内藤隼人 路地裂に 野中脱 近藤アッ子 お品柑き達平を見て栗の飯 ちびたちも品良く坐り藍浴衣 終戦日祖父の追品を陰干しす 高崎大 ●格 格調をもって動かぬ柾蛙 小林苑を 名 明照会館内 井口吾郎 H 小林信雄 中島敏広 甚平のどこからどこへ隙問風 青柳智彦 夏の夜のチェスそれぞれの駒の影 武田暢久 裏山の古刹を包む著我の雨 三球目捕手の股問に熱砂舞ふ 傘傾げてすれ迩う 骨格をすこし歪ませ胡瓜揉み 片影に格子戸のある静けさよ 3 。 締切· 二O 一五年十月二十日 発表 ・ 「 浄土j 二O 一五年十二月号 選者・増田河郎子 (南 「風 」主宰 ) 応募方法 1 名・佳作各 ● いずれの題とも数の制限はありません ● 特選各 さし 4 ー 7|4 葉書 に 俳 句 ( 何句でも可 )と、住所・氏名を必ずお書き下 浄土 j誌上句会係 月刊 「 1京 1都港区芝公園 〒 105,00東 宛先 山 宮 山田谷 光波亜留 彦留希美萌 子子 遠松上横入 46 かまちよしろう先生作新聞四コマ漫画 「ゴンち ゃ ん」が各地方新聞に掲載されています。( 静岡新聞・山梨日日新聞•北日本新聞· 福島民報•宮崎日日新聞•新日本海新聞・神戸新聞・岐阜新聞・中国新聞•四国新聞) 号l' 虞適恰警ぅ ”’ =匂 編集後記 長雨に火山地震とかがむ秋 。 岱澗 「 邑り 空 ならいい 」 と苫いているのは‘ 。 ゼロで終われば い い と い う 考 え ・ 精神科医の和田秀樹氏だ 人生プラスマ イナス 特別、維持、賛助会員の方々 。 編集チーフ 編集スタ ッ フ 浄土 。 。 ) (長 心り 空 がち 長谷 川岱潤 斎藤晃道 佐山哲郎 青木照恣 村田洋一 一巻 卜月 号領 価 六百 111 年会代六 千円 ; 株 式会社シーティーイ ー ニ ト H 笙 二種郵 便物認 nI 昭和卜 年 lin F u 月 平成 t1トヒ年 JL 平成―-+ヒ 年卜 月 n 印刷 発行 。 うな土砂降りの悲しみなら、通り過ぎる 自殺願望の方と話をしながら考えていた 先日お彼岸で六波羅 ( 敬称略 •五十 畜順) ょうどいい 絶望的な雨も必ずやむ時が来る やめば 。 解 まで待つしかない 。 それは土砂降り級のどうしようも 水科善隆 (長野 ・究 炭寺) ト 多少の昭れ問もあるだろう 。 『 忍耐』では 「 耐えて待て 」 としか内いて 忍辱行 』 がやけに引 っかかった の 『 。 を訳すときなぜ辱めの字を使ったのだろ うか ない悲しみの時、それが通り過ぎるのを 待つ間、人はどんなにカッコ悪くても、 飯田実雄 (駒ヶ根 • 安楽寺) 巌谷勝正 (目黒 ・祐 天寺) 魚尾孝久 ( 三 島・願成寺) 大江田博導 (仙台•西方寺) 加藤昌康 (下北沢•森巖寺) 熊谷靖彦(佐賀• 本應寺) 粂原恒久 ( 川越・ 蓮啓寺) 粂原勇慈 (甲府・瑞泉寺) 佐藤孝雄 (鎌倉 • 高徳院) 佐藤成順 (品 川・ 願行寺) 佐藤良純 (小石川・光闘寺) 東海林良雲 (塩釜 . 槃上寺) 須藤隆仙 (函館・称名寺) 高口恭行(大阪・ 一 心寺) 中島真成 O'f 山・梅窓院) 中村康雅 (?i'f 水•実相寺) 中村瑞貴 (仙台・愚鈍院) 野上智徳 (静岡 ・ 宝台院) 藤田得三(鴻巣.勝願寺) 堀田卓文 (静岡・華腸院) 本多義敬 (両国・回向院) 松 濤泰 彦 (芝・窃松院) 真野龍海(大本山梢浄華院) 拙博之(網代・ 教安寺) 八 三 番目 蜜のことを話そうとしていたら、 釈本はみな いないが、ならばどうして 梵語クシャンティ なかったのだろうか 晴れ う 方をしましょうと氏は 言 っている 。 必ず 雨にたとえる 。 ら、まあ位り空でイイじゃないかと言 昭れした気持ちで締めくくるのはムリな ことだ 。 人生いいことばかりは 続 か な い 悲しみや辛いことがある 。 。 ーー 発行人佐藤良純 編集人大室了皓 一 五‘0 一八 ’• 八'八ニ一八 し 四 ヒ ヒ一 i 八― )4ハJL 一—-l( 五ヒ八)ヒ 主六 三(三 t FAX 司枯 板替 発行所法然上人鑽仰会 照会館 四階 東京祁港区芝公園四'ヒ'明四 〒 印刷所 — I 。 メールアドレス h t t p :/ / jodo. ne. J p hounen@jodo. ne. J p ホームページ なら‘霧雨のような悲しみなら詞でも古 みっともなくても生きていることが大事 だから、生きていなくてはいけないから いて感似に没っていればいい でも笠が 必要なくらいの悲しみなら‘寄り添って 『忍耐』ではなく『忍辱』にしたのでは ないだろうか そんなことを祖話相談で くれる人がほしい それがスコールのよ 雑誌 「 浄土 」 48 仏教歳 時 記 お十夜法要 正式には十日十夜法要の略で、十昼夜を 一 期として修する念仏会です 。 無屋寿経に「 此 に於いて善を修すること十 日十夜ならば、 他 方諸仏国土に於いて善をな 、と ー“ すこと千歳ならんに勝る」云々の文によって 行う 別 時会の行事ですが、現在は 一 日で行う 寺院が多いです 。 元々は農耕文 化 の名残で、 旧 暦の十月に民 間習俗として行われていた亥の子 ・ 『甘表と ’ 呼ばれた稲の収穫感謝祭です 。 亥の子は主に 関西から西、十 H 夜は関東以 北 で呼ばれた名 称です 。 両方とも 刈 り上げ祭で、各家庭で餅 をつくことと、地面を打って回ることなどが I . 共通しています 。 十夜法要に 仏 前にお供えす I ( る「十夜餅」は、その名残と 言 えそうです 。 月が最もきれいに見えるこの時期、よく月 を阿弥陀仏にが浮えたことから、月光の元で、 自然の収穫をご先祖と、 阿 弥陀仏に感謝して 念仏会を営んだのです 。 十夜寺空より雀降り来たり 岸田稚魚 、 I I monthly ]ODO 201 ほとけの 玄~~ 10 vl • ~ 否目巨’ rg I~ 石丸晶子 発行人/佐藤良純編集人/大室了皓編纂チーフ/長谷 J 心は いつの世にも 誰のもとにも J~'\ 川 岱潤 p _ 法然 。 その光に出逢い、闇をこえ、 “ あたらしいいのち ” に生きた 貴 族、武士、庶民たちの物語 が 月 影の 使者 0 8 ●浄土宗出版 上下巻とも本体 730 円+税 [問合せ•お求め]浄土宗出版 〒 105-0011 東京都港区芝公園 4-7-4 TEL:03-3436-3700 FAX:03-5472-4878 h t t p :/ / p r e s s . j o d o . o r . j p/