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人災派遣のフレイムアップ
人災派遣のフレイムアップ 紫電改 タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト http://pdfnovels.net/ 注意事項 このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。 この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範 囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。 ︻小説タイトル︼ 人災派遣のフレイムアップ ︻Nコード︼ N3444Q ︻作者名︼ 紫電改 ︻あらすじ︼ 貧乏大学生、亘理陽司は生活のため派遣会社で日々労働中。 ﹃人材派遣﹄、それは必要なところに必要な人材を派遣するシス テム。 ある時はフィギュアの金型の奪還のためサイボーグと戦い、ある 時は人気漫画の生原稿を巡って高速道路でバトル、ある時は保険金 の支払いのため山中で幽霊と会話。 ﹃派遣社員﹄、それは異能力者に社会が用意した受け皿。 1 生活のため、己の力を駆使して任務に挑む! 2 ◆01:ある大学生の日常︵前書き︶ <i168335|16099> 3 ◆01:ある大学生の日常 七月中旬。 退屈極まりない期末テストを過去問とレポートのコピーでしのい でしまうと、再び長い、人によっては長すぎる夏休みが待っている。 四月が新入生の歓迎会で潰れてしまうことを考えると、大学二年生 の春学期の勉強期間は二ヶ月ちょい、といったところだ。 とはいっても、 ﹁学校があっても休日みたいなものじゃない﹂ と、バイト先の暴力娘に言われても反論できないのが現状である からして、その二ヶ月も気合を入れて勉強をした記憶などカケラも ない。気がついてみると終わっていた、というのが正直なところで ある。授業に出て教授の話を聞く。つまらなかったら代返でも頼ん でゲーセンだの雀荘だのに繰り出す。昼は喫茶店で悪友どもとだべ り、夜は気が向いたらテニスサークルにでも顔を出す。週末にはこ れまた気が向いたら合コン、飲み会、エトセトラ。日曜日は二日酔 いでダウン、元気だったらドライブでも、というところだろうか。 桜が散りおわって既に三ヶ月。今では葉桜が青々と伸び盛り、校 門に豊かな影を落としている。学校の敷地と無骨な新宿区の道路と わたりようじ を分け隔てている並木の上から無料で流れる、蝉達の構想七年の交 響曲。その大音声に紛らせるようにして、いつしかおれ、亘理陽司 は呟いていた。 ﹁平和だねぇ⋮⋮﹂ こんなことを言うから日頃まじめに社会人している高校時代の友 人連中に悪態を突かれるのだが、実際今の俺の心境は平和きわまり ない。 一応ここ、都内のそれなりに有名な大学に入るには高校時代の青 き春の幾年かを無機質な受験勉強に捧げたのだし、その甲斐あって 4 狭き門を通ったからには、可能な限りその特権を行使するのは当然。 いや寧ろ義務であろう。若さ・イズ・イリバーシボー。何しろせっ かく、あの極悪非道のバイトから解放されたことでもあるし。 日々平穏、怠惰こそ人生の美酒と信じて疑わないこのおれの目下 唯一の不満であり、かつ唯一の収入源でもあるのがこのアルバイト である。これがまたひどいんだ。紆余曲折を経て引き受けることに なったものの、仕事がキツイわりには給料が少ないし。こちらの都 合に構わずどんどんオーダーを押し付けてくるし、上司はエゲツね ーし同僚はビンボー人かいじめっ子しかいねーし。その上ここ最近 は人手不足もあってか、経理やら営業やらの真似事までやらされて いたりする。そのせいで友人たちには﹁お前の貧乏は知っているけ ど、行動も貧乏臭くなったよなあ﹂とありがたくもない感想を述べ られる始末。 いつしか足は学校から駅へと向かっていた。テストとともに講義 もほとんど終了しており、もうわざわざ出席するような授業もない。 大学と高田馬場駅を結ぶ坂道をゆっくりと登っていく。世間ではそ こそこに有名な某大学の、まだ郊外に転出せず伝統を繋いでいる旧 校舎に日々通う文学部生、というのがおれの現在の身分である。 気がつけば明治通りとの交差点までたどり着いていた。ここから 五分も歩けば駅に着く。私鉄で俺の部屋まで電車で十五分。帰って 本屋に行って夕食の買い物でもして⋮⋮あとは何しようかな。幸い にして、少な目とはいえバイト代も入ったばかりで、懐具合にもそ こそこ余裕もある。ドアポストに突っ込まれている家賃やら新聞や ら諸々の支払い請求書は自己暗示をかけて意識野から締め出してし まうことにするとして︱︱ いいや、寝よう。 おれは決心した。誰にも文句は言わせない。ぬるま湯生活万歳。 ︱︱そんなおれの甘い夢想は、胸ポケットの携帯から鳴り響く不 吉な﹃銭形警部のテーマ﹄に破られた。あ、いや、別に﹃銭形警部 のテーマ﹄が不吉と言うわけではなく。このテーマが鳴ってしまう 5 と言うことは⋮⋮おれは顔をしかめて携帯を引き抜き、そして液晶 画面に表示された発信元を見た。 ﹃人材派遣会社フレイムアップ﹄ ﹁⋮⋮⋮⋮ふむ﹂ 手早く自己暗示を掛ける。︱︱今日は大切な期末試験の日であり、 模範的な生徒たるおれは万一にもアラームが鳴ることを恐れ自宅に 携帯を置いた。従ってここに携帯端末などあるはずもなく、おれは 何も見てないキイテナイ。 ⋮⋮着信音は、一向に鳴り止む気配が無い。だんだん交差点にた たずむ人々の視線が重くなってくる。⋮⋮わかってはいるんだ。こ のままではたとえ一時間であろうが銭形警部のテーマが鳴り続ける だろう事は。保留にしてもいずれは同じ。周囲の冷たい視線に耐え かね、おれはついにフックボタンをタップした。 ﹃亘理くーん﹄ ためらわず﹃切﹄をタップ。 あの人が出る以上、まちがいない。﹃仕事﹄の話だ。早い。早す ぎる。もう試験が終わったことを嗅ぎ付けられたのだろうか!? 一拍おいてまたもや、不吉なメロディーが鳴り響く。脳みその中 でめまぐるしく行われる仮想演算。おれは大きく深呼吸をすると、 意を決してもう一度フックボタンをタップした。 ﹁はい、もしもし﹂ こう見えても花の東京一人暮らしを生き延びている身、キャッチ セールスや押し売りのあしらいかたは百通りも心得ている。大丈夫 さ、もっと自信を持て。向こうがどんな仕事を押し付けてきたって、 きっと断れるさ。⋮⋮はかない期待。 ﹃お久しぶり。用件はわかってるわよね?こっちはただでさえ人手 が足りないんだから﹄ 電話の声は女性だった。別段媚びや甘ったるさを含んでいるわけ 6 ではないのに、妙に艶がある。天性の色気というやつだ。時々お世 話になるシティホテルのバーあたりで耳に入ったなら、喉をごろご ろさせて喜びたい声色であるが、残念ながらそうするにはあまりに も辛い記憶が脳味噌深くに刻み込まれている。 ﹁しょ、所長。お久しぶりですね。あぁ、人手が足りないって⋮⋮ 夏休みだからみんなで軽井沢にキャンプに行くとかですか?ザンネ ンだなあ、ボク体が弱くてアウトドアはちょっと﹂ さりげなく、さりげなく。 ﹃夏休み?夏休みですって?ほほう、学生っていい御身分なのねぇ。 世間では盆と彼岸を返上して働いている人がいるっていうのに﹄ ﹁ええ、そうなんですよ。現行の社会制度は勉強してきた学生がつ ら∼い社会人になる前にしばらくあま∼い夢を見させてくれるそう でしてね、おれとしてはその権利を行使したい欲求に駆られている わけです﹂ ﹃他人のノートのコピーの持ち込みなんていうあま∼い目論見で文 化人類学のテストを受けられるのも、権利なわけね﹄ ⋮⋮おい。一体いつのまにおれのテストの情報を把握しているん だ? ﹃今日からどうせ何もやる事のない夏休みに入るんでしょ。オーダ ーが一件。あなた向きのが入ったの。事務所に来て。詳細は後で話 すわ﹄ ちょちょちょ、ちょっと待て。 ﹁所長。あのですね、いいですか。おれ、こないだ一ヤマ踏んだば かりなんですけど﹂ そのために春季の単位をあやうく落としかけたのだ。遊ぶだけ遊 んでも留年はしない、というおれの主義からすれば、かなり危うい ヤマだったのである。 ﹃あら、そうだったっけ﹄ ﹁そうなんです!だから、おれとしては当分遠慮したいんですって ば。だいたい、直樹だって仁先輩だっているでしょうに﹂ 7 ﹃彼等はねー。ちょっと別件で出てるのよ。ニュースでやってるで しょ?豚のジョナサン君の大脱走事件﹄ ﹁ああ⋮⋮ワイドショーで大騒ぎの﹂ またウチの連中が関わってるのか。 ﹃任務は緊急。ウチのメンバーで今動けるのは君だけなのよ﹄ ﹁いやー、そう言われてももうテスト終わっちゃったし、いま実家 なんですよね∼﹂ 逃げ切れるか。 ﹁ふーん。実家って高田馬場にあったんだ。それもこんな明治通り の真ん前にねぇ﹂ 受話器を当てている右耳、ではなく、無防備な左耳から心臓へ送 へいげい り込まれた音声はおれを飛び上がらせるに十分な威力だった。あわ てて振り返ると、そこには、明治通りを睥睨するかのように路肩に うずくまっている真っ赤な⋮⋮毒々しいまでの紅い外車。車に大し て興味のないおれでも、このジャガーの値段が七桁ではすまないと いうことくらいはわかる。そしてそのジャガーすらも圧倒するかの ような存在感で、運転席のウィンドウに形の良いヒップを預けて、 長い髪を夏の風になぶらせながら笑みを浮かべている優美な女性の あさぎ 姿が、そこにはあった。 ﹁あ、浅葱さん⋮⋮﹂ おれは乾いた愛想笑いを唇に張り付けようとして失敗し、破滅的 な色気を湛えた女性を見やった。テストの日程を把握されてた所で 気づくべきだった。逃げ切れるどころではない。⋮⋮最初から捕獲 済みだったのだ。 ﹁ハイ!亘理君。オーダーよろしく﹂ こぼれおちる極上の笑み。がっくりと肩が落ちるのが、自分でも わかった。 ﹃平和だねぇ⋮⋮﹄ 数分前の台詞は、遥か遠くの時空へと呑みこまれていった。 8 ◆02:﹃人材派遣会社フレイムアップ﹄ 日本という陸地を敢えて女性に例えるとするならば、ほっそりと した極東の花、とでも評価すべきだろうか。東京という首都を中心 に、北と西に伸びた地形が絶妙につりあっている。 その顔たる東京都の中心部を、まるで首飾りのように取り巻く路 線︱︱山の手線。首飾りの宝石を為す二十九の駅には、この経済大 国が世界に誇る都市群が鈴なりに連なっている。不景気不景気と声 高に叫ばれて久しいはずの二十一世紀にも、この街は旺盛な生命力 を誇示するかのように道路を車で満たし、窓から自然のものではな い光を放っていた。 もっとも表現のしようはいくらでもあるわけで、世界中の街をめ ぐった経験のある悪友のように、﹃旧来の味のある街をぶち壊して 物欲しげにごたごたと高いビルをぶちこんだだけ﹄と酷評する向き もある。 それでも、新宿副都心からわずかに逸れたここ、高田馬場の一角 は、都市部の猥雑さと人間的な泥臭さが混ざり合って、無期質なオ フィス街や空虚な歓楽街とは一線を画していた。そして高田馬場駅 と交差する早稲田通りを西に真っ直ぐに歩き、明治通りを越えてし ばらく行くと、向かって右側の角に素朴な子育て地蔵がある。 高田馬場は神田お茶の水と並ぶ日本屈指の古本屋街でもある。子 育て地蔵の角を曲がり、そこからさらに一本脇道へ逸れると、そん な古本屋の一つ、﹃玄星堂﹄を見つける事が出来るだろう。早稲田 通りからは離れて目立たず、わずかな常連さんと物好きな学生しか 来ないような、小さな書店だ。ましてや、玄星堂の裏口に二階へと 昇る外付け階段の存在を知る者など殆どおらず、仮に知っていたと ころで興味を持つ者はいないだろう。 玄星堂の二階はテナントになっており、外付け階段を昇り追える 9 とアパートの一室を思わせるスチール製の扉が一つ、立ち塞がって いる。ここまで昇って来た人間ならば、扉に掲げられたプレートに 刻まれた文句を読み、そして、扉を開かずにはいられない。︱︱他 に手段が無いからこそ、こんな所までやって来るのだから。 **各種代行、調査解決承リマス** **迅速対応** **料金応相談** **あらゆる分野のエキスパートが、あなたのお悩みをよろず解決 いたします。** **人材派遣会社フレイムアップ** そして今、毒々しいほどの真っ赤なジャガーが、裏の駐車場に停 められ、哀れな犠牲者︱︱つまりおれ︱︱は、こうしてまたもこの 扉をくぐる事になったのである。 ﹁やっぱり実家に帰ってるとか言ってごまかそうとしたでしょ?浅 葱さん﹂ スチールの扉を開けたおれを迎撃した初弾は、この一声だった。 ﹁当たりだったわ。たいした読みねぇ、そろそろアシスタントから 調査員に昇格しても大丈夫かしら?﹂ そう言いつつ、ジャガーのキーリングを指に引っ掛けながら奥に さがの あさぎ 進んでいくこの女性こそが、おれが所属する人材派遣会社﹃フレイ ムアップ﹄の若き所長、嵯峨野浅葱さんである。おれ達バイトにい つも﹁おれ達がろくでもないと思う仕事の最低三割増ろくでもない 仕事﹂を押し付けてくれるありがたい女性である。履歴は詳しく調 べたことはないが、おそらく二十五、六才ではなかろうか。一つ間 違えば就職活動中の女子大生でもおかしくない年齢だが、黒と赤を 基調とした、なんちゃら言うブランドもののビジネススーツ︵詳細 10 は聞かないでくれ。おれが日頃買い物に行くところでは売ってすら トウモク いないんだ︶を難なく着こなし、颯爽とモデル歩きで前へ進んでゆ くその貫禄は、まさしく一企業の頭目に相応しい。 さらにその容貌は類まれ。妖艶な笑み、肉感的なプロポーション、 そして猫科の猛獣を連想させる瞳は同業者から﹃女豹﹄の異名を戴 くほど。まったくもって非の打ち所のない美人社長なのである、外 見上は。おれもかつては、バイト先の美人上司と役得オフィスラブ、 などと安っぽい妄想に胸を膨らませたこともあったのだが⋮⋮。 まあとにかく、浅葱さん︱︱オフィスでは﹃所長﹄で通している ︱︱の遠ざかるしなやかな後ろ姿を拝みながら、逃げ出したい衝動 を押さえておれも前に進んだ。どのみちこの時点で詰んでいるのだ から、無駄な抵抗はしないに限る。 部屋の中にはグレーの絨毯が敷かれ、事務用のカウンターと観葉 植物が玄関と垂直に設置されており、典型的な雑居ビルのオフィス 島 が二つ のつくりとなっている。左に曲がって奥に進めば、寄せられた長い デスクに、OA機器と書類とおぼしきものが積まれた ばかり見えるだろう。部屋の隅には印刷や読取をマルチにこなす複 合機、サーバー。給湯器やら洗面所やらがあるのは当然としても、 シャワー室と仮眠室があるあたりに業の深さを嗅ぎ取れるかも知れ ない。そして事務室の反対側、窓に面した場所の一角が仕切りで区 切られ、来客用の応接室となっている。先程の声の主⋮⋮短い黒髪 の少女は、その応接室のソファのひとつを占拠してアイスココアの グラスを抱え込み、ストローをくわえていた。 ﹁ええ、そんなあ。ボクなんかまだみんなに及びませんよ。約一名 を除いて﹂ 言いつつ、視線はしっかりとおれを捉えている。 ﹁やっぱりおまえか、余計な入れ知恵したのは﹂ おれは少女の向かいのソファに腰を下ろすと、ワンショルダーバ ックを隣に投げ出した。グラスごしに勝ち誇った笑みを浮かべてみ せる少女。 11 ﹁入れ知恵も何も。陽司の考えることくらい誰でも読めるよ。にゅ ーろん、だっけ?あれの分岐が三通りくらいしかないんだよね?﹂ どうやら昨日のNHKスペシャル﹃脳の世界﹄を観た模様。 ﹁悪かったな。おれにだってバイトをしたくない日はあるんだよ﹂ ﹁一週間に七日くらい?﹂ つやのある黒い髪をまるで中学生のようにばっさりと切り落とし ているその下からは、季節に見合ったほどよく日焼けした肌と、勝 気そうな︱︱というか事実勝気すぎるのだが︱︱黒い大きな瞳がく るくると動いている。 活力をもてあますように体が動くたびに、某名門女子校の制服で あるブレザーのスカートが揺れる。都内に通う女子中学生たちなら 誰もがあこがれる︵⋮⋮らしい。女子高生研究家を自称する悪友の 言を借りれば、だが。おれには高校の制服などどれも同じに見える︶ 、お嬢様の証なんだそうだ。確かにこいつの実家は士族の家柄とや らで、でっかいお屋敷住まいだったりもするのだ、困った事に。⋮ ⋮お嬢様、ってコレがねぇ。 ﹁ってえか。何でおまえがおれのテストのスケジュールなんか知っ てるんだよ﹂ ﹁こないだ事務所の机に日程表を広げてたじゃない﹂ おれ、迂闊。 ﹁まあいいや。おまえまで駆り出されてるってことは、こりゃ本当 に人手が足りてないってわけだ﹂ ﹁どーゆー意味?それ﹂ まりん ﹁真凛ちゃん、そこの唐変木の言うことは気にしなくていいわよ。 ただ拗ねてるだけだから﹂ いつのまにか後背に敵軍帰還。 ﹁唐変木、って。だいたい所長、真凛も呼んでるってことは、最初 からおれ達の参加が前提条件のオーダーだったんでしょう?﹂ おれはソファーに背をうずめた。 12 ななせ まりん このショートカット娘の名は七瀬真凛。前述の暴力娘とは、むろ んこ奴のことであり、実は、このアルバイトでおれのアシスタント なぞを勤めていたりする。おれ達のアルバイトが何なのか、という 説明はこれから嫌でもわかることだから後にまわすとして、実はこ の娘とおれはこの仕事を通して知り合った。その特はおれは調査員 として独立したばかりで、真凛はその案件の関係者だった。案件自 体は紆余曲折あったものの無事解決し、めでたし目出度しというと ころだったのだが⋮⋮どういうわけかこの娘はおれ達の仕事に興味 を持ったらしく、次の日にこの事務所に押しかけて雇ってくれと頼 み込んだ。そんな経緯がある。 おれの言葉を受けた所長はあっさりと言ってのけた。 ﹁ばれた?ま、そうなのよ、例によってちょっと君にはボディーガ ードの必要がありそうなことやってもらうし﹂ おいおい。 ﹁あの∼、緊急って言ってましたけど。犬猫探しとか浮気調査のた ぐいじゃあないんですか?﹂ ﹁うちにそんなまっとうな仕事まわってくると思う?﹂ 水差しからグラスに二つ、水を注ぎながらやはりあっさりと言っ てのける。 ﹁⋮⋮いえ﹂ 下請けにまわされるのは一番きつい仕事、というのはギョーカイ のジョーシキである。 ﹁ほかのメンバーは?﹂ いくら忙しくても、この時間なら事務所には一人くらいはいそう なものだが。 ﹁みんな、豚のジョナサン君を追跡するんで機材一式抱えて出かけ てるよ。浅葱さんが帰ってくるまでボクが電話番してたんだ﹂ ﹁もうじきすれば帰ってくるはずよ﹂ ﹁これだから零細企業ってやつは﹂ 13 おれの嘆息をなぐさめるかのごとく、所長は優しく言った。 ﹁うちは少数精鋭主義なのよ。優秀なメンバーに自由に仕事をして もらう。それが設立以来一貫した我が社の方針ってワケ﹂ にっこり笑って所長はグラスを押しやる。夏の日差しに炙られて いたおれはそれを一気にあおった。 百パーセント﹄。﹃解決される以前に問題が ﹁ンなことばっかり言ってるからあんな悪評が立つんじゃないっす か?﹂ だけは ﹁悪評って?﹂ ﹁﹃成功率 破壊される﹄。﹃業界の異端﹄。﹃人材派遣ならぬ人災派遣﹄。﹃ トランプでいえばババ﹄。それから︱︱﹂ ﹁なんだ誉め言葉じゃない﹂ そういうことが言えるあたりが悪評が立つ所以かと。 ﹁オモテ向きは成功率百パーセントなわけだし。そのジンクスに従 えば、亘理君も引き受けた仕事だけは必ず達成できるってことよ﹂ ﹁それ言外に、﹃仕事は解決するけど生きては帰れない﹄って言っ てませんか?﹂ ﹁だいじょーぶ。安心しなさい。真凛ちゃんがいればグリーンベレ ーの一個大隊が潜伏しているジャングルだって裸で通れるわよ﹂ ンなこと請け負われてもうれしくも何ともない。おれは湿度たっ ぷりの横目で、飲み干したグラスの中の氷をストローでつついてい る娘を見やり、口の中でつぶやいた。 じんちゅう ﹁まったく頼もしい殿方ですこと。惚れてしまいそうですわ﹂ ﹁人中に当て身ぶちこむよ﹂ ⋮⋮聞こえていたらしい。 ﹁エンリョしときます﹂ 腕力勝負ではおれが百回生まれ変わっても勝てません。 ﹁いい加減そろそろ本題に入らせてくれないかしら?亘理君﹂ ﹁あ、ええ。はいはい﹂ ﹁もう少しキリっとしてれば映える顔なのにねぇ。ぼーっとしてる 14 と表情まで間抜けに見えるわよ﹂ ﹁ぼーっとしてなければ、ちょっと鈍感な人くらいには見えるのに ね﹂ どうせ自分の顔の程度なんてわかりませんよ。 ﹁はいはい、仕事の話でしょ。とりあえず、概要を教えてくれない と一向に進みませんよ﹂ 15 ◆03:大人気ゲーム、その業界裏事情 減速したライトバンが駐車スペースにすっぽりと収まる。サイド ブレーキを引き上げハンドルから手を離し、おれは一息ついた。隣 では助手席に座った真凛が静かに調息をはかっている。 ﹁着いたぞ﹂ キーをオフにしてシートベルトを外す。 ﹁⋮⋮ああ、怖かった﹂ ﹁何が?﹂ 後部座席のバックを引きずり出し、車を降りる。 ﹁アンタの運転だよ!?何アレ!?本当に免許取れたの!?﹂ ﹁失礼な。ちゃんと路上で六回も念入りに試験受けたんだぞ。しか も取れ立て新鮮だ﹂ ﹁うっはあ、そんなので﹃おれが運転するよ﹄なんて言うなぁー! !﹂ ﹁しゃーないだろ。ここまで来るにゃあ電車じゃちときついし、お まえは免許ないんだから﹂ 言いつつ、おれ達はエレベーターを使って立体駐車場を抜けた。 そこは空中歩道につながっており、周囲の景色を一望することが出 来た。おれは手すりに組んだ腕を乗せ、街並みを一望する。 どうにも非現実的な街である。つい先ほどまでごみごみした都内 に居たから余計にそう感じるのかもしれないが、車幅の広い道路が 三車線敷設されていると本当にここは日本なのか、などと思ってし まう。そしてその上に張り巡らされた空中歩道と鉄道、モノレール。 海を四角く切り取ったその地形はただただ平たい。そしてその大地 を早い者勝ちで奪いあったように存在するだだっぴろい駐車場と、 何かの冗談のように広くてでかいビル、何に使われるのかもわから ない奇妙なデザインの建造物。住む街ではなく、訪れる街。それが 16 ここ、東京の東部に広がる臨海副都心に対するおれの印象だった。 ﹁うーん。ボクここってあんまり来たことないんだよね。涼子が時 々イベントで行くとか言ってたけど﹂ 夏の日差しとかすかに潮を含んだ風を浴びながら、おれ達は歩道 を進み始めた。 ﹁涼子ちゃんが?歌の方で?﹂ ﹁うーん。違うと思う。何かマンガを買いにいくとか言ってた﹂ ﹁そりゃ多分直樹と同類かな。おれも去年の末はなにやら手伝わさ れたっけ﹂ ちなみに涼子ちゃんというのは事務所に時々顔を出す真凛の同級 生である。お嬢様なのだが裏の顔はバリバリのメロディック・メタ ルのボーカルで、アマチュアながら最近はちょっと有名なんだとか。 普段は凄く大人しくていい子なんだがなー。 ﹁ま、お前が行くとこっつったら新宿の裏通りだしな﹂ ﹁失礼だなあ。ちゃんと渋谷に買い物とかも行ってるよ?﹂ ﹁東急ハンズのプロテインとかか?﹂ 真凛の貫手が脇腹を抉り、おれはそのまま悶絶した。口で詰まる と手を出すのは何とかならんかこの娘っ子は。そんな会話を続けな がら五分も歩くと、おれ達はやがて目的のビルにたどり着くことが 出来た。 広大な駐車場の真ん中に、ニョッキリと聳え立つ四十三階建て総 ガラス張りの高層ビル。ガラスに反射した西日がおれ達を容赦なく 炙っている。その敷地面積は郊外に出展されるスーパーマーケット のそれを恐らく上回っていると思われた。おれ達が今いる空中歩道 がそのまま二階のエントランスへ直結しており、一階にはメインエ ントランスの他、裏にはビル内のショップの品物用だろう、大型ト ラック用の資材搬入口がある。ビルの前には庭園が広がっており、 遠隔制御された噴水が流体力学のアートを描きあげていた。その側 には名のある芸術家が作ったのだろうか、怪しげな形状のオブジェ クトが複数。オフィス機能は無論のこと、商業スペース、外食、憩 17 の場、ホテル、アミューズメント等の機能をすべて取り込んだその 姿は、もはや一企業の本社ビルというより、ひとつの庭園都市であ る。 ︱︱外資系アミューズメント総合企業﹃ザラス﹄日本法人本社ビ ル。 ﹁ここに、目的のものが眠っているってことだよね﹂ ﹁情報戦でヘタ打ってなきゃ、な。さてどうしたものか﹂ 芸術性に富んだ高層ビルを見て、堅牢な城砦の攻略法を考えなき ゃいけない大学生は、今日びおれくらいのものだろう。行動開始に あたっておれは携帯端末に収めたドキュメントをチェックし、先日 の任務の内容を再度思い起こした。 ︱︱所長から大雑把な概要を教わった後、すぐに一人の男性が事 務所にやってきた。年齢は三十前半というところか。生真面目そう な表情で、普段は私服で仕事をしているのだろうか、いささかぎこ クライアント ちなさそうにスーツを着込んでいる。彼こそ誰あろう、今回のオー ダーの依頼人、韮山公彦氏であった。 ﹁依頼内容を再度確認させていただきます。フィギュアの、金型の 奪還⋮⋮ですか﹂ おれは応接室で営業用の表情を作り、先ほど所長から手渡された ﹃任務概要﹄をみやった。所長はすでに別の仕事があるとかで席を 外しており、今おれの隣には、アシスタントとして真凛が神妙そう な顔をして座っていた。一度引き受けてしまった以上、依頼人には アルバイトではなく、一人の派遣社員として対面し、交渉し、決断 せねばならない。⋮⋮まったく。学生バイトだろうがプロのエージ ェントだろうが一括りにしてしまう﹃派遣社員﹄という言葉の曖昧 さに、時々おれは舌打ちしたくなったりもする。 おれの確認に、ええ、と深刻な表情で頷く韮山氏。手元の概要に よれば、彼は新進気鋭のソフトウェア会社﹃アーズテック﹄の開発 部長であり、なんと今をときめくあの﹃ルーンストライカー﹄の開 18 発主任でもあるのだそうな。 ﹁ルーンはおれもやったクチですよ。ファーストエディションはそ れこそ徹夜で﹂ おれの言葉はリップサービスではなかった。最近では趣味が多様 化したのか、﹃全国民が熱狂したRPG﹄とか、﹃発売前夜の行列 が社会問題に﹄なんてレベルのゲームは生まれにくくなってきてい る。悪友の直樹が、時々何たら言うゲームの初回限定版を買う時に 良く店頭に並ぶと言っていたが、それはむしろ供給する数量を抑制 することで需要を煽る、という商法の一種に過ぎない。 ところが、半年ほど前に発表されたこの﹃ルーンストライカー﹄、 通称ルーンは、下は小学生から上はいい歳をした大人までが﹃ハマ ッた﹄傑作ゲームだった。その内容は、ボードゲームとカードゲー ムが一体化した、いわゆる対戦ゲームである。プレイヤーはルール に従ってボード上の互いの駒を動かし戦い、様々な効果が記された カードを繰り出して勝敗を取り決めると言うのがその骨子だ。シン プルでありながら奥深いルールはコアなファンを数多く生み出し、 徹夜で対戦に興じ戦略を練るプレイヤーが続出した。ネットで﹃ル ーンストライカー 戦略﹄とでも検索すれば、おそらく千以上のペ ージがヒットするだろう。近頃のゲーム業界では珍しい﹃空前の大 ヒット﹄なのだ。 そして奥深いルールと並んでもう一つ、ルーンの要をなすのが、 カードに描かれた﹃イラスト﹄と、ボード上で駒として使用する﹃ フィギュア﹄である。通常のボードゲームは基本的に一人が一セッ ト買ってしまえばそれまでだが、ルーンでは別売りのカードとフィ ギュアを買い足していくことで、どんどん戦力を高めていくことが 出来るのだ。丁寧かつ美麗なイラストが掲載されたカードと、精巧 なデザインのキャラクターフィギュア。コレクター魂を大きく揺さ ぶるには十分だろう。ファンにとってはフィギュアとカードを数セ ット揃えるのは基本事項。そしてそこから派生したポスターやCD など、様々なキャラクターグッズを集めていくのが常道だったらし 19 い。おれはルールや戦略にしか興味がない人間なので、グッズ集め にはとんと縁がなかったのだが⋮⋮。当然、ファン一人当たりが支 払う金額は大きく、ルーンストライカーはいちボードゲームに留ま らない経済効果を巻き起こし、現在に到る。半年ほど経過しブーム は若干沈静化していたものの、先日続編である﹃ルーンストライカ ー セカンドエディション﹄が開発されているとの情報により、再 び大きな盛り上がりを見せはじめていた。 ﹁たしか、今週末に幕張で開催される東京ゲームフェスでプレス発 表されるんですよね﹂ 大学の授業中に読んでいた今週のゲーム雑誌が役に立つとは思わ なんだ。 ﹁はい。﹃セカンドエディション﹄の最大の特徴は、追加ルールに 併せて登場する、新たなカードとフィギュアです﹂ となると、またも新たな戦略が生み出されると言うわけだ。近い うちに再び繰り返されるだろう徹夜の日々を、おれは脳裏に思い描 いた。 ﹁そのプレス発表に出展されるフィギュアの金型が⋮⋮盗難にあっ た、と。そういうことですか﹂ ﹁そうなんです⋮⋮﹂ 韮山氏は卓に肘を突き、組んだ手の甲に額を乗せた。どうやら相 当参っているらしい。 韮山氏の会社﹃アーズテック﹄は、若手の有志プログラマーたち が大手ゲーム会社からスピンアウトして設立した新進気鋭の会社な のだそうだ。結果として、彼らの処女作ルーンは爆発的な売れ行き を見せ、彼らは充分に初期投資を回収し、回転資金を確保すること が出来た。となると、次に彼らが求められるのは﹃次回作﹄である。 過去、一発屋として消えていったゲーム会社やゲームデザイナーは 数知れない。ゲームメーカーを﹃利益を生み出す会社﹄として評価 した場合、﹃安定した良質な作品を、定期的に供給するメーカー﹄ 20 こそがもっとも優れているのである。そういった意味では、初回の ルーン以上にこの﹃セカンドエディション﹄は外すわけにはいかな い作品なのだ。 すでに新ルールは作成済。開発スケジュールによると、残るは追 加カードとフィギュアの製作で、今週末の東京ゲームフェスにて量 産試作をお目見えさせる予定だったのだそうだ。 ﹁ただプレス発表するというだけではありません。これは我々が﹃ スケジュールどおりにきちんと作品を供給できる会社である﹄こと の証明でもあります。スケジュールを守れるという事は、今後銀行 からの融資を受けるための信用や流通への販路にも関わる、非常に 重要なものなのです﹂ 業界を席巻するメガヒットを送り出したと言っても、あくまでも 創業間もないベンチャー企業。その経営状況は、まだまだ決して楽 観出来る物ではないのだという。 ﹁カードの方は問題なく完成しました。フィギュアはすでにデザイ ンが上がっていたのですが、金型の作成に手間取りまして﹂ フィギュアというものを量産するには、溶けた樹脂を固めて成形 するための金属の﹃型﹄が必要となる。この金型の出来不出来が、 それによって作られるフィギュアの質を決定し、その製作には、今 なお職人の技術とカンが欠かせないのだそうだ。しかも、金型一つ を造るのに数十万円から、ものによっては数百万円の費用がかかる。 品質面でも金銭面でも、絶対に失敗が許されない工程なのだ。 ﹁最近は中国や韓国で直接金型を製作するメーカーも多いのですが、 我々は原型師の精密な造詣をなるべく再現するため、すべて日本で 型を製作しております。懇意にしている金型メーカーと何度もテス トショットを繰り返して、ようやく満足の行くものを仕上げること が出来ました。あとはその型で正式に試作品を打ち出せば、フェス には充分間に合うはずだったのです。しかし⋮⋮﹂ 夜までかかった金型の調整を終え、やれやれと胸をなでおろして 帰宅した韮山さん達アーズの面々は⋮⋮翌朝、夜のうちに何者かに 21 よって金型が盗み出されたという、金型メーカーからの悲鳴混じり の電話で叩き起こされることとなったのだ。 韮山さん達は大慌てで警察に届け、また自分たちでも捜索を行っ た。しかしその行方は杳として知れず、ただただ時間ばかりが過ぎ ていった。そんな時。 ﹁このままではいよいよフェスに間に合わなくなるという瀬戸際で、 知り合いの社長から﹃本当にどうしようもないならダメもとでここ に頼んでみろ﹄と紹介されたのが御社︱︱フレイムアップさんだっ たのです﹂ 韮山さんはそう言って、おさらいを締めくくり、深いため息をつ いた。 ︱︱そして、その依頼からさらに二日が経過した今日。まさに﹃ ・・ 金型を取り戻さないと本当にもう間に合わないデッドライン﹄にな って、ろくな前情報も与えられずいきなり当事者として派遣される 事となったのが、この哀れなアルバイト、つまりおれなのであった。 ﹁調査結果から報告しますと﹂ オーダーシート おれは手元の任務概要をみやる。この任務概要︱︱おれ達は冗談 半分に注文書と呼んでいる︱︱には、昨日までに他のスタッフ達が 調べ上げた情報が精緻にまとめられ記載されている。ちょっとした もので、これを読めばおれ達現場担当者は、何をすべきか即座に状 況を把握できると言うシロモノだ。警察でも手が回らない事件を、 依頼を受けてわずか二日でここまで調べ上げる手法も含めて、実際 所長を含め事務スタッフの実力は本物だと思う。ここらへんのノウ ハウは企業秘密なんだそうだ。まぁ、蛇の道はなんとやら、って事 なのかも知れないが。 ﹁金型を盗み出したのは、高度に組織化された窃盗団です﹂ おれはワイドショーでも有名な、ある大陸系の窃盗団の名前を上 げる。 ﹁しかし、今回彼らは金型を盗んで売りさばく、というつもりでは 22 なかったようです﹂ ﹁⋮⋮と、いいますと?﹂ ﹁彼らは報酬で雇われた。つまり計画犯は別にいる、ということで す﹂ 韮山氏は目を細めた。意外な回答ではなかったのだろう。では一 体誰が、と力なく問う。 ﹁我々の調査では、計画犯は大手総合アミューズメント企業﹃ザラ ス﹄。そして問題のフィギュアは﹃ザラス﹄日本法人本社の地下金 庫に保管されている可能性が極めて高いのです﹂ おれは続ける。 ﹁今回改めて事務所にお越しいただいた理由は一つです。韮山さん。 現時点で取り得る手段は幾つもありません。我々がザラス本社地下 金庫から金型を強制的に奪還することを、クライアントとして承認 していただきたいのです﹂ それを聞いた韮山氏はしばし沈黙し、やがてまた深々とため息を ついた。 ﹁ザラス、ですか。彼らはまだ僕たちを許してくれないのか⋮⋮﹂ おれは真凛にコーヒーのお代わりを持ってくるよう頼んだ。少し 長い話になりそうだった。 株式会社ザラス。子供向け玩具の販売からTVゲーム開発、映画 館、ゲームセンターやテーマパーク経営まで手がける、誰でも知っ ている外資系のアミューズメント最大手である。だが、夢にあふれ ているはずの業務内容とは裏腹に、ことビジネス面から見るとその 評価はあまりよろしくない。主だったものを上げると、 ﹁独占禁止法スレスレ﹂ ﹁特許を悪用した同業者への威圧行為﹂ ﹁有望な中小ゲームメーカーからの強引なヘッドハンディング、あ るいは会社ごとの買収﹂ などがあり、裁判沙汰もいくつか抱えている。未だ明確に﹁クロ﹂ 23 と裁定された案件はないが、グレーゾーンを突き進むその手法は業 界各所で問題を発生させているようである。 ﹁僕たちはもともと、ザラスのゲーム部門からスピンアウトしたん です。ザラスの手法は確かに合理的です。しかし合理的過ぎた。僕 らは綿密なマーケティングに裏打ちされたゲームを、無数の制約の 元で作らされ、そこに個人のアイディアを盛り込む余地は殆どなか った。酷いときは、他社のヒット商品を牽制するために、そのコピ ー紛いを作らされたこともあります。⋮⋮それでも、仕事だから、 と割り切っている人たちもいましたし、それはそれでプロとして一 つの正しい答えなのですが﹂ ﹁あなた達はそうではなかったんですね﹂ ﹁ええ。有志を集めてザラスを辞め、アーズを立ち上げました。し かし、その頃からザラスの有形無形の妨害が始まったのです。⋮⋮ ザラスから見れば、僕らは顔に泥をひっかけて出て行った恩知らず、 なのでしょうね﹂ そしてコケにされたと解釈した覇王ザラスは、報復を開始する。 創業時にアーズに融資をしてくれた銀行が、経営に文句をつけるよ うになった。親しかった音響製作会社やデザイナーのスケジュール が、ドタキャンされたり後回しにされるようになった。当初は、若 造が後ろ盾なく独立したのだから仕方ない、と思っていたのだが、 あまりに不自然な対応に関係者を問い詰めてみると、ザラスから圧 力がかかっていたことを告白したのである。 ﹁それでも、なんとかルーンを世に送り出すことが出来たのです。 だが、それがまずかった﹂ ﹁というと?﹂ ﹁当時、ザラスもカードゲームに力を入れていたのです。僕も開発 初期に関わったゲームで﹃ゾディアック・デュエル﹄と言います﹂ それはおれも知っていた。ルーン程ではないが、佳作と賞された 対戦カードゲームだった。たしか数々のボードゲームやTVゲーム を手がけた有名クリエイターが製作指揮を取っていて、ええと名前 24 は⋮⋮。 ﹁山野。山野修一です。僕の入社時代からの上司にして先輩、同僚 でした。彼には一からゲーム作りのノウハウをたたき込んで貰って、 何本ものゲームを一緒に作ったんです﹂ ﹁なるほど。韮山さんのお師匠様なんですね﹂ 真凛の問いに、韮山さんは微妙な笑みを浮かべた。強いて言うな ら、ほろ苦い笑い、だろうか。 ﹁そうですね。でも結局、僕は師匠の顔にも泥を塗ることになって しまいました。ルーンは、皆様の応援もあって、ありがたいことに 大ヒットとなりました。しかしそれは、ゾディアックが少しずつ開 拓してきた対戦カードゲームのシェアを、後発のルーンが思い切り 食ってしまう事でもあったのです﹂ ザラスにしてみれば、家出したはずの息子が突如帰ってきて、自 分の田畑を分捕ってしまったようなものだろうか。 ﹁これで我々と彼らの関係は完全に決裂しました。僕としても残念 でしたが、それも仕方がない、何とか干渉せずにお互いの仕事をし ていければ、と思っていたのですが⋮⋮﹂ ﹁向こうはあなた方より、はるかにやる気に溢れていたようですね﹂ ﹁なるほどね。第二弾を何とか妨害しようって、ミもフタも無い手 段を仕掛けて来たんだ﹂ 聞き役に徹していた真凛が呟く。それを制して言う。 ﹁我々の調査がどのようになされたか、という事は残念ながら申し 上げられません﹂ おれはオーダーシートを静かに卓に置き、彼に押しやる。 ﹁そして、この調査結果は残念ながら裁判で証拠資料として提出出 来るようなものでもありません。しかし、我々はこの調査結果の確 度に自信を持っております﹂ 一つ息を吸う。ここから先は決めセリフだ。 ﹁我々は依頼者の意思を尊重させていただきます。我々がこの調査 結果に基づきザラスに潜入し⋮⋮もしも失敗して捕まったり、金型 25 を見つけることが出来なければ、御社の名前に傷がつくことは避け られないでしょう。反面、成功し取り返した場合、もともと﹃ない はずのもの﹄である以上、ザラスは御社に対して公式に反撃するこ とはできない﹂ 韮山さんの目を見つめる。 ﹁御社が苦しい状況にあり、他に選択肢が無いと知って言う失礼を お許しください。我が社に、私と、このアシスタントに仕事を任せ て頂けますでしょうか﹂ 傍から見ればけったいな状況だ。大学生のアルバイトと高校生の アルバイトが、怪しげな資料を突きつけて、企業の実力者に﹁あん たらのために危ない橋を渡るから責任取れ﹂と言ってのけているの だ。こんな話、通常は噴飯ものだが。 ﹁⋮⋮貴方たちのお話は聞いています。例え過程がどうあれ、目的 は間違いなく達成されるのだと。正直、今日直接お会いするまでは 依頼すべきだったのか悩んでいました。ですが⋮⋮。よろしくお願 いします。我が社を⋮⋮僕たちのアーズと、ルーンを助けてくださ い﹂ おれは息を吐き出した。契約は成立、というわけだ。 ﹁お任せください。﹃フレイムアップ﹄の名にかけて、結果はきっ ちり出しますとも﹂ ⋮⋮思えばこんな言い方をするから、﹃人災派遣会社﹄とか呼ば れるのかもなあ。 おれ達はそれから〆切時刻の詳細、経費の取り扱いの再確認など、 事務的な打ち合わせを行った。やがて韮山氏は、ゲームフェスの準 備をしなければならないと、足早に事務所を去っていった。去り際 に、こう一言を残して。 ﹁ザラスも昔はそこまで酷くは無かった。僕と山野さん達がゾデ ィアックを開発した時も、毎日毎日徹夜続きで、会社に寝袋を持ち 込んで、気が狂いそうになったりもすした生活でしたけど⋮⋮。今 26 振り返れば、それはそれで、きっと楽しかったんだと思います﹂ 27 ◆04:21世紀の空中庭園 で、それから二時間後、こうしておれ達は事務所のバンに乗って 丸の内をばっさり横断し、ようやくここ臨海副都心までやってきた というわけだ。既に日は傾き始めている。 ﹁デッドラインは今日の深夜三時。それまでに金型を取り返し、埼 玉県の川口にある金型メーカーに返し、試作の製作に取り掛からな きゃいけない﹂ 金型を盗まれたそのメーカーは、自らの失態を償うためにも、と 今日は徹夜で起きていてくれているのだそうだ。戦っているのはお れ達だけではない、ということ。 ﹁川口まで首都高をかっ飛ばすにしても、逆算すればそんなに猶予 は無いな﹂ 携帯端末に表示させていた地図をクローズする。 ﹁アーズの興廃この一戦にあり、か。期待を裏切るわけにはいかな いよね﹂ 組んだ掌を天に向け、真凛が大きく伸びをする。 ﹁気ィつけろよ。さすが外資、やることに遠慮が無いみたいだから な﹂ ここから先は、韮山氏には報告する必要はなかった個所である。 うちの事前調査によれば、ザラス社はつい数日前から、資本を提携 ってことなんでしょ?﹂ している外資系某大手警備会社から人員を招聘しているらしい。そ 獲れるもんなら獲ってみやがれ の数は不明。 ﹁結局、 ﹁だろうな。覇王ザラスが、目の上のたんこぶであるアーズに仕掛 けた公然の妨害ってやつさ﹂ ﹁そううまくいくのかな?﹂ ﹁行くだろうさ。言っただろ、証拠は見つからないんだ。仮に調べ 28 て見つかったとしても、その時にはフェスは終わってる。アーズの 信頼は回復のしようがない﹂ ﹁この時点で王手詰み、ってこと?﹂ ﹁ああ﹂ おれはバッグをかつぎ、今回の現場であるザラス本社ビルへと足 を進める。 ﹁おれ達さえ出てこなけりゃ、な﹂ エントランスをくぐると、過剰な照明と、広大な室内に反響する 無数の電子音声がおれ達を出迎えた。ザラスビルは地上十階までが 一般にも公開されている。そこにはデパートを初めとするショッピ ング施設やレストラン街が納まっており、その気になれば丸一日か かっても周りきれるものじゃあないだろう。そして特筆すべきはお れ達が今いるこの一階から三階までのフロア。ここは三層ぶち抜き になっており、それ自体が、ザラスの運営する巨大なアミューズメ ントパークとなっているのだ。流石に娯楽の最大手、どこを向いて もザラス製のゲームで埋め尽くされていた。ビデオゲームやUFO キャッチャー、ドライビングゲームや射撃ゲームと、もはや遊具の 博覧会をである。中央には通常のゲームセンターには設置できない ような超大型のバーチャルリアリティー系の筐体も置かれており、 ここでしかプレイできないゲームというのも多々あるのだそうだ。 ﹁株主総会なんかやる時には、お連れのお子様方のハートを鷲掴み、 ってわけだね﹂ とりあえず真凛と別れ三十分後に集合としたので、おれは会場の 隅にある、レトロなビデオゲームを集めたコーナーに向かう。見つ けた麻雀ゲームにワンコインを投入し⋮⋮高田馬場なら五十円一ゲ ームなのだが⋮⋮プレイに興じる事とした。雀ゲーの感覚が大分鈍 ったなあ、とぼやきながら︱︱何気なく視線を周囲に巡らせていく。 グブツ 真凛は真凛で、UFOキャッチャーに御執心のようだった。ふ、 愚物め、己の不器用さを棚に上げて無謀な戦いに挑みおったワ。大 29 人しくパンチングマシーンにでも挑戦していればいいものを。と、 ﹃ツモ﹄ サンプリングされた女性のヴォイスと共にダブルリーチ・一発・ ツモ・タンヤオ・平和・イーペーコー・三色同順・ドラ5を喰らっ て、おれのワンコインはあっさりと撃沈した。 ﹁くっ、サマ全開仕様かよ!﹂ おれはスタンドで飲み物を買うと、今度は対戦格闘ゲームの台に コインを投入した。どうもこういう時古めのゲームからプレイして しまう自分が情けない。 ﹁コンボの腕は健在、と。にしてもま、コワモテの警備員が多いで すこと﹂ 店員の格好をしてるくせに、﹃監視﹄と﹃巡回﹄に徹しすぎてる のが五名。客の振りしてうろついている割には周囲に眼を配りすぎ てるのが四名。プロの仕事にしちゃあお粗末だ。⋮⋮いや、という より、やはりこれは侵入を企てようとする不埒者への牽制と見るべ きだろう。このパターンで行くと、彼らを指揮する系統中枢は、管 理モニターが集められた警備員室というのがお約束である。⋮⋮も しくは、責任者がもう少し現場主義だった場合は。おれはCPUが 操るミイラ男を沈めたあと、息抜きとばかりに首を上に向け肩をま わす。 ︱︱いた。 吹き抜けになっている三階の一番上、フロア全体を見下ろせる位 置に、そいつは突っ立っていた。まったく不釣り合いなゲームセン ター店員の服を着込んだ、アングロサクソン系の大男。体格は百九 十センチってえところでしょうか。サングラスなんかかけちゃって まあ、胡散臭いことこの上ない。おいおい、目線がこっちとかち合 ってるよ。おれは何気なく肩をぐるぐると回すと、再びモニターに 視線を落とした。 やれやれ、提携会社から警備員を招聘したってのは確定らしい。 おれはミイラ男の次の相手、狼男を見やりつつ善後策を考えようと 30 した。と、 ﹃グゥ・レイトォー!﹄ 一際大音量の電子音声が隣のフロアから響いた。思わず視線をそ らした瞬間に、おれの操る魔界貴族は狼男に大ジャンプからのコン ボの挙句超必殺技を叩き込まれて沈黙した。舌打ちを一つ。おれの 視線の先には⋮⋮パンチングマシーンの前で拳をかざす真凛。あの おバカ。仕方なく席を立つ。 ﹃今週の記録更新者ダ!!アメイジングなユー!名前を入力してく れたマエー!﹄ マシンの筐体に設置されたディスプレイから、3Dで描かれたダ ニエルさんとかそんな名前がついていそうな雰囲気なマッチョな兄 ちゃんが﹃AMAZING!﹄という吹き出しと共にこっちを指差 している。 ﹁うお、すげー﹂ ﹃名前を入力してくれたマエー!!﹄ ﹁え、なになに、新記録?﹂ ﹃名前を入力してくれたマエー!!﹄ ﹁もしかして、あのちっちゃい子が?﹂ ﹃名前を入力してくれたマエー!!﹄ どうやらマッチョなダニエルさん︵仮︶は名前を入力するまで逃 がしてくれないらしい。どよどよと集まってくるギャラリーにうろ たえまくっていた真凛はおれの顔を見つけるとぶんぶんと手招きし た。 ﹁どどど、どうしよう陽司﹂ ﹁キミは潜入任務で目立ってどうするのかね﹂ おれは頭を抱えた。おおかたUFOキャッチャーで何度トライし ても景品が取れなくて苛立ったあげく、ろくに操作方法も知らない くせに手近のパンチングマシーンを八つ当たり気味にどついた結果 こうなったんだろう。 ﹁なんでわかるの?﹂ 31 ﹁⋮⋮まだまだ正調査員への昇格は程遠いですのウ、七瀬クン﹂ 言いつつ、手早く名前を入力してこのダニエルさん︵仮︶を黙ら せた。真凛の手を取ってとっとと連れ出す。どうもこの機械故障し てるみたいっすねえ、などと白々しくおれが呟いたせいもあってか、 野次馬たちもそれほど足を止めることなく散っていってくれた。ス タンドに戻ってきたおれは真凛にコインを放り、手持ちのコーラを 飲み干す。 ﹁︱︱さて。わかったことは?﹂ ﹁明らかに普通の人とは違う気配の人が十二人。殺気とまではいか ない。警戒ってとこ﹂ ﹁ふむ﹂ こと気配の見立てに関してはおれよりこやつの方がよほど正確だ。 通常の警備員と合わせると、なかなか気合の入った警戒態勢と言わ ざるを得ない。 ﹁さすがに真正面からカミカゼ、ってのは避けたいところだよな﹂ ﹁ボクはそれでもOKだけど?﹂ ﹁死人が出るから却下﹂ 言いつつ、おれはワンショルダーバッグを背負いなおした。オー ダーシートに拠れば問題のブツは地下二階の専用金庫。この一般公 開されているフロアから侵入するのは並大抵の技ではない。よくし たもので、いったん泥棒さんの視点に立ってみれば、あちこちに設 置されている﹃館内見取り図﹄なんてものが、如何に限定された情 報しか掲載されていないかよーくわかる。 ﹁しかしま、イヤな造りだよな﹂ 脳裏に刻み込んだもう一つの見取り図⋮⋮これもうちの伝手で手 に入ったちょっとグレーなシロモノだ⋮⋮と建物の施設を照合させ ていくと、イヤでもこのビルを注文した人間の思想が浮かび上がっ てくる。 ﹁ひひゃにゃつふり?﹂ ﹁フロートくらい食べ終わってからしゃべれ﹂ 32 おれの言葉に﹃了解﹄のサインを送ると、ストローを忙しく動か し、大きく喉を鳴らして緑色の氷を嚥下した。と、しばし額に手を 当てて沈黙する。前々から思っていたんだが、こいつ相当おめでた いんじゃないだろうか。 ﹁⋮⋮嫌な造り?﹂ ﹁このビルな、地下施設と、上層にあるザラスの中枢フロアが直接 エレベータと非常階段で結ばれてるんだ。配電や上下水施設しかり。 このアミューズメントフロアや、上のショッピングフロアとは完全 に独立している。そして中枢と地下フロアのセキュリティレベルが、 周囲とは明らかに異なっているんだ﹂ 見かけは一つの巨大ビルだが、実状はねじれた二つのビルが絡み 合っているような形状なのである。特に地上階のフロアは、地下施 設と中枢エリアをつなぐエレベータを、まるで背骨を取り囲む肉の ように覆っており、そこに通常のお客様向け階段やらエスカレータ ーが設置されている。つまりは、 ﹁肉を切らせて骨を断つ。何かあっても地下施設と中枢区画は無事、 ってこと?﹂ ﹁そーいうこと。仮に、だ。このビルに突如どっかのテロリストが 潜入してきて立てこもったとして⋮⋮ここやショッピングセンター にいるお客が恐怖のどん底に陥れられてるのを尻目に、上階のザラ スのお偉いさんは悠々と地下の駐車場あたりから脱出出来るってコ ト﹂ ﹁最低だね、それって﹂ ﹁まー、彼らは軍人でもないワケだし。そこまで責めるのは酷って もんかも知れんが﹂ 気に入らないね、と真凛の声とハモり苦笑する。と、 ﹁今週のパンチングマシーンの記録更新、おめでとうございます﹂ カウンターの向こうから声がかけられた。 33 ◆05:美女のお誘い︵コーヒー︶ ﹁お探ししましたよ。景品をご用意したのにすぐ立ち去ってしまわ れたのですもの﹂ カウンターに佇んでいたのは、このアミューズメントパークの係 員の制服をまとった女性である。ありていに言えば、素晴らしい美 女であった。黒髪をいわゆるポニーテールにまとめているのだが、 むしろ、結っているという表現がどこかしっくり来る。スタイルは すが 西洋八頭身なのだが、和服が意外と似合うんで無いかなーと脳裏で つい想像してしまう程に、清しい雰囲気を漂わせていた。歳の頃は 二十五にわずかに届かないところだろうか。世間知らずの大学の先 輩方とは違う、大人の色気に当方メロメロでございます。いてっ。 脇腹をどつくな。 ﹁あのパンチングマシーンは、時々プロの格闘技選手の方も遊んで いかれるのですよ﹂ ﹁いやー、久しぶりにちょっとこう昔マスターしたカラテの突きで も出してみちゃったらいい数字が出てしまいましてねえ﹂ まさか隣に座ってるこのお子様がどつきました、とは言い難いの で無難にまとめる。お姉さんはまあ、格闘技をやってらっしゃるん ですか、と問う。生憎そんなもん真面目に習ったことは無い。 ﹁ま、機械が故障でもしてたんじゃないっすかね﹂ ﹁そ、そうそうそうですよ﹂ お姉さんは、そうかもしれませんね、でも記録は記録ですし、と 言うと数枚のチケットをくれた。どうやらこれを使えばアミューズ メントパークのゲーム、ドリンクが無料になるというものらしい。 おれはさっそくその場でチケットを切って、今度はアイスコーヒー を三人分頼むことにした。 ﹁三人分、ですか?﹂ 34 ﹁ええ、おれとこいつと、貴方の分﹂ 本当はこいつと、のくだりを外して二人分にしたかったのだが後 がコワイ。営業スマイルで丁重にごまかされるかと思ったが、お姉 さんは驚いたものの、すぐにくすくすと笑うと、カウンターの奥か らアイスコーヒーを三人分用意してくれた。仕事と割り切ればシャ イなおれでも割とこういうセリフを吐けるというものである。なお、 横から﹁普段はもっとしょうもないこと言ってるじゃない﹂という 声があがったが無視することにした。 ﹁いやあ、今日は退屈してる弟の引率でやってきたんですよ。会社 のビルの中にある、っていうから小さいゲームセンターみたいなも のを想像してたんですが﹂ ﹁誰が弟だ!﹂ お姉さんは声を上げた真凛ににっこりと微笑む。 ﹁高校生ですか。可愛い妹さんですね﹂ ああ。そういえば今日は制服着ていたっけな。 ﹁今日は楽しんでいただけてますか?﹂ ﹁ええ、まあ最新のゲームになるとちょっとついていけないところ もありますが﹂ ﹁もういい歳だもんねえ﹂ ﹁⋮⋮おまえ、そんなセリフ路上で吐くと世の二十三十四十代から 呪われるよ?﹂ ちなみにおれはまだ花の十代である。 ﹁あんたの精神的な年齢ってことだよ。こないだもみんなが出かけ ているときに一人残ってスーパー銭湯でマッサージしてもらってた じゃない﹂ ﹁あ、あれはいいだろ。風呂上りのマッサージは神が定めたもうた 人生の娯楽ですよ?﹂ おねえさんは口に拳を当てて笑うのを堪えて、仲のよいご兄妹な んですね、と言った。ええまあ、仲がいいかはともかくどうにかや っとりますよと返すと、真凛も不承不承頷く。視線がアトデオボエ 35 テロヨと語っていたが、放置することにした。 ﹁こんなでっかいビルを建てる辺りはさすがザラス、ということで すかね﹂ ﹁それはもう、ちょっとここは他のビルとは違いますからね﹂ 言うとお姉さんはアイスコーヒーにお代わりを注いでくれた。サ ービスと言うことらしい。 ﹁って言いますと?﹂ 真凛が問う。 ﹁このザラス日本法人本社ビルは、いわばアメリカから日本へ進出 するための前線基地ですからね。中世においては城には威容と堅牢 さが求められる。それを現代建築に再現すると、こうなるのかもし れませんね﹂ ﹁⋮⋮へえ﹂ かどみや おれは唸った。彼女の名札を思わずみやる。 ﹁門宮といいます。このフロアのマネージャーを務めております﹂ ほう、とおれは呆ける。 ﹁あ、どうも。おれは亘理といいます。こいつは弟の﹂ ﹁だから弟じゃない!なな⋮⋮ごほん、真凛といいます﹂ 殺気が首のあたりをよぎったが、とりあえず黙殺。 ﹁失礼ですがその若さでマネージャーというのは﹂ おれも歳の割にはずいぶん如才ないと言われるほうだが、所詮は 学生。ビジネスの前線で活躍するホンモノの前では頭を下げるしか ない。 ﹁外資のいいところですよ。チャンスは平等、つかめる者が先に行 ヒト ける。日本の企業ではなかなかこうはいきませんものね﹂ ⋮⋮なるほど、仕事が出来る女性、と思って間違いないようだ。 ﹁このビルが完成したのはつい最近だったと聞いていましたが﹂ ﹁ええ。実を言うと私もここに配属になったのはつい最近のことな んですよ﹂ ふふふふ、と意味ありげな微笑を返す門宮さん。その笑顔におれ 36 も思わずふふふふー、と気持ち悪く顔を緩めそうになったが、足の 甲を踏み抜かれた痛みで我に返った。 ﹁私も学生の頃、この辺りを通ったことがあるのですけど、当時は 何もない更地だったんですよ﹂ 門宮さんは言う。 ﹁土地はあったんですけど、不景気でなかなか買い手がつかなくて。 当時は閉鎖された下水の処理施設と雑草くらいしかありませんでし た。それがザラスによる開発がはじまって一年と少しで、気が付い たらこんなビルになってしまいまして。それにも驚きましたが、ま さかそこで自分が働くとは思いもよりませんでした﹂ ⋮⋮ほー。下水処理施設ね。 ﹁おれももうじき就職活動しなきゃいけない季節なんですよ。もし ザラスを受けることになったらぜひ、推薦状を書いてくださいね﹂ ﹁あら、推薦文はどんな内容にすればよろしいですか?﹂ ﹁そうですね、パンチングマシーンの記録を更新したカラテマスタ ーとして﹂ 門宮さんは好意的なニュアンスで、考えておきます、と言ってく れた。⋮⋮好意的なニュアンスだった、と信じたい。その後、真凛 も交えていくつかとりとめもない会話を行ったが、やがて胸元の携 帯端末が一つ、小さな電子音を刻んだ。 ﹁陽司﹂ ﹁おっと。残念ですがそろそろこいつの門限みたいです。今日は楽 しかったですよ。それでは﹂ 何か言いかける真凛をとっとと引き起こし、おれはコーヒーのグ ラスをカウンターへ押しやった。門宮さんは去り際のおれににっこ りと微笑んだものだ。 ﹁それは残念ですね。今度はもっとお時間のある時にいらしてくだ さい。お待ちしております﹂ ﹁ええ、近いうちにお伺いすることにしますよ﹂ おれもとっときの笑顔を返し、アミューズメントフロアを後にす 37 る。視界の隅で、さっきのアングロサクソンの大男がこちらを見て いるような気がしたが、とりあえず気にしないことにしよう。うん、 そうしよう。 38 ◆06:侵入と荒事 水が流れる音がどろどろと暗闇の奥から鳴り響き、おれの足元を 人工の川が流れてゆく。下水道という言葉から予想していたよりは、 悪臭や汚水も遥かに少なかった。かつては生活排水が注がれていた のだが、再開発に伴い新規に下水網が整備された結果、今ではその ほとんどは遠くから流れ流れてきた雨水なのだという。 ︱︱ここは臨海副都心の地下に広がる下水道の一つ。地中を貫く 分厚いコンクリートの円柱の中、横合いに穿たれた穴から注がれた 下水が合流し一本の川となり、下り坂になっている円の底をゆるや かに滑り落ちてゆく。直径五メートル以上もある管に対して水位は 三十センチ程度のため、おれ達は下水を避けて歩いてゆくことが出 来た。靴音が響き渡り、ここが地下であることを否応無しに思い知 らされる。 おれはバンから持ち出してきた七ツ道具、強力ペンライトのアマ 照ラス君︵そういうネーミングなんだ、おれがつけたんじゃない︶ を掲げて奥へ奥へと慎重に進んでゆく。 ﹁うう、こんなことなら一回事務所で着替えてくればよかった﹂ その後ろから同じくアマ照ラス君を掲げてついて来るのが真凛。 おれの行動選択肢が気に入らなかったのか、ひたすらさっきから愚 痴っている。トンネル内に反響して愚痴が倍増しになる。 ﹁なんだよ、ちゃんとインナーは着込んであるんだろ?﹂ ﹁そういう問題じゃないよ!ボク制服着てるんだよ!?﹂ じゃあ機関銃でも持たせておけばよかったかねえ。いや、ブレザ ーではアカンか。おれはこいつの愚痴を無視することにした。だい たいおれより先に呼び出されていたくせにロクに着替えてないとい うのは如何なものか。ちなみにおれはといえば暑さに耐えつつ長袖 を着込んできた。おれ達スタッフは任務中は、最低限調査に支障な 39 く活動しやすい服装を心がけるものである。幸か不幸か分厚い地面 は夏の日光を遮断し、むしろ地下は涼しいくらいなのだが。 ﹁だって、ジャケット着て戦うものだと思ってたし﹂ ﹁あのねえ真凛。おまえうちの仕事を押込強盗か対テロ鎮圧部隊か なんかだと思ってるだろ﹂ 図星だったらしく真凛は沈黙した。おれはやれやれと頭を振る。 ﹁今回は金型を取り返せばいいんだからドンパチは無用。こっそり 潜って、こっそり取ってくりゃそれでいいの﹂ だからこそこうして、地上の喧騒に背を向けて明かりも差さない 下水道に侵入などしているのだ。 うみ あれから事務所に連絡を入れてみたら、うちの電子部門担当であ る羽美さんにつながった。どうやら豚のジョナサン君の件は科学よ りも腕力がモノを言う段階に移行したため、ヒマになったから帰っ てきたということらしい。これ幸いと、﹃下水処理施設﹄をキーワ ードに調査してもらったところ、驚くほどあっさり情報が手に入っ た。 建てては壊し、壊しては建て。大都会のコンクリートジャングル は変化が早く、最新の地図の作成は容易ではない。まして地上と異 なり、数メートル先に通路があっても見ることが出来ない地下世界 となれば尚更のことだ。地下鉄のトンネル、ビルの地階フロア、各 種公共施設の埋設ケーブル、下水道、緊急避難通路⋮⋮。都会の地 下にはまさしく迷宮じみた世界が広がっているのだ。中には、官公 庁でさえ存在を把握していない戦前の古い地下施設もあると聞く。 立体的に無数の構造物が組み合わさった地下世界の完全な地図を把 握している人間は、おそらくこの世にいないだろう。羽美さんがネ ットで集めた、無数の公式非公式のデータを丁寧に重ね合わせてい った結果、下水処理施設へとつながる下水道の一本が、ザラスビル の地下施設の極めて近くを通っていた、ということがわかったので ある。 40 ﹁まだ埋められてなければ、だけどな﹂ 近所の公園に埋設された貯水施設のマンホールから潜入し、問題 の下水道まで進む。バイトを始めた時に不幸にも仕込まれた基礎研 修が、解錠やら警報をごまかすのに役に立った。羽美さんが即席で 作ってくれたCADデータを、事務所から支給された違法改造多機 能携帯﹃アル話ルド君﹄にダウンロードしてあるので、まず道に迷 うことは無いはずだ。ここからザラスビルの地下施設に接近し、メ ンテ用の共同溝を経由して潜入するというのが、おれ達の即席のプ ランだった。とりあえずは今のところ、順調に歩を進めている。 ﹁ううう、明日学校なのに。臭いついたらどうしよう⋮⋮﹂ ここまで来てまだ諦めの悪いヤツ。 ﹁なんならここで脱いでいってもいいぞ﹂ ﹁絶対やだ﹂ わがままなヤツめ。だがどうやらそれで吹っ切ったのか、真凛も 愚痴るのは止めておれについて進み始めた。しばらくは、緩やかな 下り坂となっている下水管を奥へ奥へと進む無機質な時間が過ぎる。 下水管は終点でより大きな下水管に連結しており、水を避けてそち らに飛び降り、さらに下ってゆく。そんなことを幾つか繰り返して ゆくうちに、水を避けて端を歩いていたはずの下水管は、いつしか 二人がしっかり並んで歩けるほどに広くなっていた。と、﹃アル話 ルド君﹄がアラームを鳴らす。おれはなおも歩き続けようとする真 凛の肩をつかんで引き止めた。 ﹁どうしたの?﹂ そこでおれの表情を見て、真凛も言葉を仕舞う。ここからはお仕 事モードだ。 ﹁壁の脇、脛の高さと胸の高さに、乾電池で動くタイプの簡易セン サーがある。鼠や虫には反応せず、かつ人間は歩いていても伏せて いても引っかかる、実用的な仕掛け方だな﹂ バッグに放り込んである七つ道具の一つ、羽美さん作成の携帯連 携型万能センサー﹃ル見エール夫人﹄の威力は覿面だ。 41 ﹁解除できるの?﹂ ﹁やってみましょ﹂ バッグから百円ショップで買ったドライバーセットを取り出し、 おれは脳裏に仕舞いこんだマニュアルをもとにちょっとした日曜工 作をするハメになった。常に発しつづける信号を殺さず、なんとか センサーのみを無力化する事に成功した。 ﹁ねえ、こんなものが仕掛けてあるって事は﹂ ﹁ま、ただの下水道な訳はないわな﹂ おれ達は角を無事に曲がってさらに進む。だが三十メートルほど 歩き、いよいよ下水道とザラス地下施設がニアミスするポイントに 出る、というところで、またしてもアラームが鳴り響く。携帯に表 示されたコメントいわく、 ﹁他に同様のセンサーが十数個﹂ ﹁ほんと!?﹂ 残念ながら本当。警告メッセージは続く。 ﹁ついでにもうひとつ言うと、人間大の熱源反応がいくつかある、 ってさ﹂ ﹁ということは、ひょっとして⋮⋮﹂ 頷いて、おれは一つ深々とため息をつく。ドライバーセット出す のヤメ。 ﹁バレバレ、ってことなんだろう?﹂ 下水道の奥に投げかけた声は、幸か不幸か無視されることなく回 答を得ることが出来た。 ﹁やアやア、ヨく来て下さいマシタ﹂ ペンライトの向こうで佇んでいたのは、間違いなくさっきゲーム センターで見かけた、あのアングロサクソン系大男だった。そして その口から滑り出たのは、深夜の通販番組で、健康器具をセールス する外国人の台詞にアテレコされる類の、野太く軽薄な日本語だっ た。翻訳不要で便利なことである。服装は、昼の店員服とは打って 42 変わって、バリバリの戦闘用迷彩服。 ﹁こんナ遠いトコロまで良く来テクダサイましタ、ジャパンノ災害 会社﹂ 男はサングラスをかけたまま、ニヤニヤと挑発的な笑みを浮かべ て腕組みをしている。 ﹁へぇ。いつのまにかウチの評判も海を越えたってコトかな?﹂ おれはのんびりとバッグに小道具類を仕舞いこむ。 ﹁外資系って割には意外とサービス熱心なんだな。こんな敷地外ま で警備の出張サービスかよ?﹂ ﹁ノーノー。アナタはミステイク。ココはザラスのエリアでース﹂ ﹁って⋮⋮どういうこと?﹂ 大男の胡散臭さに飲まれていた真凛が、ようやく我に返る。 ﹁オウ、ステキなジャパニーズレディ。ジェイ・エイチ・エスの生 ジュニアハイスクール 徒がコンナ下水に制服を着てくる、コレはとても良クナイことデス﹂ ﹁あ、いえその。お気遣いどうも﹂ 真凛がバカ丁寧にお辞儀をする。ジェイ・エイチ・エスが中学校 の略だと教えてやるべきかかなり迷ったが、とりあえずおれは話を 進めることにした。 ﹁嫌な造りだとは思っていたけどね。秘密の通路なんてむしろスパ イごっこの世界じゃないか?﹂ おれは男の奥の壁へ﹃アマ照ラス君﹄の焦点を合わせる。LED の強力な光は、バッチリとそこに穿たれた本来あるはずのない扉を 照らし出した。 ﹁GREAT。ボーイは飲み込みが早くて助かリマス﹂ このビルは上階のザラス中枢部、下層のショッピングエリアに分 かれており、上階から中枢エレベーターを通って地下駐車場に抜け られる構造となっている。だが、駐車場だけではなく、設計図にも 載らないさらなる脱出路があったということだ。そりゃ警備が厳重 で当然である。おれ達は裏をかいて潜入するつもりで、大本命を引 いてしまったことになる。 43 ﹁後ろ暗いとは思ってたけどな。大方普段は脱出口じゃなく、地下 金庫へろくでもないモンの搬入にも使ってます、ってトコロかね?﹂ ﹁OH!ウチのクライあントハ健全な企業体ネ。ザラスの取引に後 ろ暗イモノガ在るトデーモ?﹂ ﹁新作フィギュアの金型とか、どうだろね?﹂ 男の雰囲気がわずかに変わった。組んでいた腕を解く。 ﹁地上フロアは通常のセキュリティに任せておいて、裏はアンタが 警備する、って手筈かい﹂ 少し 違い ます おれは半歩足を引き、やや半身になる。 ﹁ノーノーノー。ジャスタリトゥディッフェレン﹂ 男は大げさに肩をすくめる。 ﹁表から侵入したらドロボーさん。ドロボーさん現行犯で捕まえた らポリスに引き渡すのがセキュリティのオシゴトです。でも、存在 しテはいけない裏口から侵入するドロボーさんは、やっぱり存在し テはイケマセン。よって、存在をナクシテシマウベキ。それがワタ クシのオシゴト﹂ ﹁はあ。ちなみに存在しちゃいけない泥棒ってのは﹂ ﹁ヤングジャップとヤングヤマトナデシコ。実にオ痛まシイ﹂ ジャップとヤマトナデシコという使い分けは正しいのだろうか。 ﹁あいにくと、荒事は得意ではありませんので﹂ ﹁そレは奇遇、ワタシモソウデース﹂ 男は肩をすくめたまま、一つ指を打ち鳴らした。 ﹁ダカラ、忠実ナ部下に任せるとしまース﹂ 音とともにどこかでブレーカーが上がり、通路を光が満たす。合 わせてずどどどどどど、と足音も控えめに進んで参りますは、通路 バトン の奥に控えていらしたコワモテの警備員さん約十名。手にはいずれ も、ものごっつい警棒。こりゃやっぱり、おれ達を捕まえてキリキ リ背後関係を吐かせようとかそんなとこかね。 ﹁曲者ダ!ヤッヂマイナァーー!!﹂ そんなとこだけ変な風に日本語を覚えなくていいって。まるで時 44 代劇のヤクザさんのように迫りくる警備員達を見て、おれはゲンナ リした。 45 ◆07:乱戦︵その1︶ ﹁のわっとと﹂ おれはしまらない声を上げて、コンパクトな軌道で打ち込まれて くるバトンをどうにかかわした。格闘技の心得など更々無いが、そ れが却って幸いしたのだろう。なまじ受け止めようとでもすれば、 そのまま電撃でお陀仏だった。皮膚をかすめる、電圧が空気を軋ま せる独特の違和感。コレが護身グッズとかで流行りのスタンバトン というヤツだろうか。飛び退ったおれの視界の隅で、もう一人が通 路に並んでいた真凛に襲い掛かっていた。体格差にものを言わせて 組み伏せるつもりだろう。バトンではなく逆手で真凛の肩に手をか ける。惨劇の予感に、おれは目を覆った。ぐしゃり、と潰れる音が して︱︱警備員が片膝を着いていた。真凛は直立のまま全くの自然 体。ただひとつ、肩を掴んだ警備員の手に、重ねるように己の掌を 重ねている以外は。まるでそれは、倒れた警備員が真凛の肩に手を かけて起き上がろうとしている、そんな姿勢とも見えた。 ふぅっ。 そんなかすかな息吹が空気を揺らしたとき、めぢっ、と嫌な音を 立てて警備員の肘がヤバイ方向に折れ曲がっていた。たまらず響く 絶叫。両者の姿勢は全く変わらぬまま。おれにバトンを向けていた 警備員が思わずそちらを振り向く。プロにしちゃ致命的なスキだ。 真凛が、く、と腰をわずかに入れると、腕を折られた警備員はその 肩を支点にくるり、とまるで自分から回転するように華麗に宙を舞 い、反射的に大きく腕を振り回し⋮⋮おれの目の前のヤツに思い切 りバトンをつきこみながら衝突する結果になった。二人分の悲鳴と 水しぶき。激痛と電撃で気絶した警備員が下水に浮かぶ。 ﹁重心の制御がゆるいなあ。歩き方から矯正したほうがいいよ?﹂ ずい、と一歩前に進み出る真凛。おれはと言えば半歩下がって、 46 ﹁よ、先生!よろしくお願いします!!﹂ やんややんやと喝采を送る。 ﹁あのねぇ⋮⋮﹂ 真凛のうんざりした眼差しは、目の前に突き込まれたバトンによ って遮断された。確かにスタンバトンの攻撃なら相手を殴る必要は ない。接触さえすればよいのだ。ここですかさず最速攻撃を選択で きる辺りはさすがプロとは思うが、今回は相手が悪すぎた。ジャブ の要領で突き込まれたバトンは、だが寧ろ迎え撃つように踏み込ん だ真凛の両手にまるで奇術のように手首を取られ捌かれている。彼 我双方の踏込の勢いを殺すことなく、真凛の諸手が小さな円軌道を 描く。四方投げ、という奴だろうか。警備員は吸い込まれるように 宙を一回転し⋮⋮それは同時にスタンバトンを突き込もうとしてい たもう一人の警備員から真凛を身を呈して護る格好となった。上が る悲鳴、これで三人。いや、既にその時には四人目に肉薄し、顎と 鳩尾に掌を打ち込んでいる。ついさっきパンチングマシーンで容易 く今週のベスト記録を更新した当身を食らっては、いかに荒事のプ ロと言えどもひとたまりも無い。 後続の六人が気圧され、わずかに後ずさる。その趨勢を敏感に感 じ取り、真凛は咆哮し、突進する。 真凛の踏み込みの音が響くたびに大の男どもが宙に舞う。おれは すっかり観戦モードに周って、腕を組んで見物する側に回った。こ う見えても、いや期待通りというべきか、我がアシスタント七瀬真 凛は、実家に伝わる古武術の正統継承者なのである。 その戦闘力はバケモノ揃いのうちの事務所でも折り紙付き。中学 生の時分には夜の新宿でストリートファイトに明け暮れていたとい うとんでもない過去を持ち、しかもそこで常に負け知らずのチャン ピオンだったという。なんたって今でも新宿をとおれば﹃その筋﹄ の人が腰をかがめて通り過ぎるというシロモノだ。ガッコウの体育 で柔道やりました、程度のおれでは百人どころか千人束になっても 47 瞬殺されるのがオチだろう。このブッソウ極まりないアシスタント に、年の差以前に戦闘能力で人間関係を位置付けられてしまってる せいで、おれの事務所内での発言権は近頃急速に低下中である。ふ ん、どーせおれはこのバイトでも味噌っかすですよと、心の中で自 嘲していると、 ﹁どぅあっ、あぶねえっ!﹂ 真凛の暴風から逃れるように回り込んでいた警備員の攻撃。くそ っ、ならやってやるよ。つかみかかってくる腕をかわして、向こう 脛を蹴っ飛ばしてやる。悲鳴を上げながら警備員は後退した。ざま あみろ。と、 ﹁このガキィ!﹂ 警備員さんの職業的忍耐も沸点を超えたらしい。 ﹁やれやれ!﹂ おれはこの狂暴娘のような格闘技のプロではないが、一応標準レ ベルの反射神経は持ち合わせている。怒りに度を失ったテレフォン パンチもかわせないほど鈍くはない、つもりだ。一般人でも振りか ざされる暴力に竦みさえしなければ、けっこう互角に戦うことも出 来るものである。要は慣れなのだ。⋮⋮言ってて自分で哀しいが。 おれは怒り任せの大振りを沈みこんでかわし、伸び上がりざまに 相手のごつい顎に頭突きを叩き込んだ。一撃必殺とは行かないが、 相手はのけぞって崩れる。そこに追い打ち、両の手のひらで胴を突 き飛ばすと、男は尻から下水の中に突っ込んだ。どうでい、なかな かおれも捨てたもんじゃないだろう? そうこうする間に真凛は警備員を軒並み打ち倒していた。最後の 一人は己の技に自信があるのだろう、バトンに頼らなかった。突如 その足を大きく振り上げ、真凛に踵を斧のように振り下ろす。真凛 は両腕を十字交差して防御。石同士をぶつけたような鈍い音がして ︱︱それで決着がついた。真凛が使ったのは痛み受け。踵落としを 止めながら、受けの一点に自らの体幹の力をたたきつけ、相手のア キレス腱をそのまま断つ技だ、というコトをおれは知っていた。 48 かしゅうっ、と肺の中の空気を排出し、真凛が戦闘モードを解除 するのを確認してからおれは近づいた。うかつに戦闘中に肩でも触 れようものなら、無意識レベルまで自動化された迎撃によってとっ ても酷い目にあう事は請け合いだ。 ﹁いやいや、さすがは先生でございますナ!これからもどうかヨシ ナに⋮⋮﹂ 揉み手ですり寄りつつ、気絶してる警備員のおっちゃんからスタ ンバトンを拾い上げる。おれが振って当たるとも思えないが、ま、 ないよかマシだろう。 ﹁気に入らない﹂ 我らが用心棒先生は頬を膨らましご機嫌斜めのご様子である。ち なみに全員、息はしている。この業界での戦闘行為がコロシまで発 展することはそうそうない。つつましく市場を形成するための、さ さやかな同業者同士の不文律という奴だ。 ﹁そんだけ暴れておいてまだ足りませんかこのオジョウサマは﹂ そもそも人間ブン殴りたくてこの仕事始めたんだろうに。 ﹁なんか言った!?﹂ いえいえ。 ﹁そりゃま、たしかに殴り合うのは好きだけど﹂ 好きなのか。 ﹁ああまで露骨に様子見に徹されると面白くないなあ﹂ ﹁様子見?﹂ ﹁本番前にこっちの手の内を出来るだけ覗いとこう、ってやり方。 これじゃこの人たちもいい当て馬だよ﹂ ﹁ああ、なるほどね。お前の技をバッチリ見てったわけだ﹂ おれは通路の奥の扉を見やる。本来厳重なオートロックが施され ているであろうソレは、石ころが一つ挟まれており開きっぱなしに なっていた。倒れ伏す警備員達の中には、あのサングラスの大男は いない。最初から見物を決め込み、本番はあちらでどうぞ、ってわ 49 けだ。おれは手元の﹃アル話ルド君﹄を起動してCADデータを検 証する。ここから先はブラックボックスと化している地下施設エリ アだ。何が出るかは開けてみてのお楽しみ、と。 ﹁行くか?﹂ ﹁もちろん﹂ おれは扉を押し開けた。 50 ◆08:乱戦︵その2︶ 扉を潜るとそこは一転して、リノリウムの臭いが支配する密閉さ れた地下フロアとなっていた。照明が落とされた中でコンプレッサ ーが低い唸り声を上げ、配電盤の制御パネルに灯る赤と緑の光が暗 闇を僅かに緩和している。おれは﹃アマ照ラス君﹄を取り出そうと して、やめた。部屋の向こう側から明かりが漏れているのがわかっ たからである。無造作に突き進み、明りが漏れている扉を引く。そ こはすでに照明が点灯しており、傾斜のついた細長い廊下が上へ上 へと延びていた。周囲の壁と床に衝撃吸収材が張られているところ を考えると、ここが﹁ろくでもないもの﹂の搬入路になっているの は間違いないようだ。途中幾つかの防火扉があったが、いずれもこ れみよがしに開かれている。まったく、いつもこうだとおれが怪し げな小道具を振り回したり、あのイカレヘッドの羽美さんが嬉々と して電子ロックを解除したりする必要はないのだが。搬入路を進ん でいくのだから、ゴールは決まっている。最後の坂を登りきった先、 そこは搬入物が行き着く先である巨大な空間が広がっていた。 広大なザラスビルの敷地面積のおよそ半分、高さは5メートルに も及ぶ、ザラス地下金庫室。おれ達は今、分厚い壁で仕切られた金 庫の外壁を見上げている。地下空間は巨大な金庫を埋め込んでもま だ敷地が余りあり、こちら側の空間もちょっとした広場と言って通 るほどだった。そこかしこに何かの機材や空箱が積み上げられてお り、だだっ広い防壁の真中に、四角い大扉が空間を切り取るように 存在している。あの向こうに今回のターゲットがあるわけだ。だが。 ﹁ハーイ!ヨウコソまた会いマシタネヤングジャップ﹂ おれ達と反対側の壁際、つい十分前に別れた男が一人、そこに佇 んでいた。 ﹁さっきはずいぶんやってくれたよね﹂ 51 コブドー 再度戦闘モードに移行した真凛に前方を譲る。 ﹁ハハー。ジャパニーズ古武道とはクラシック・スタイルね。ウチ にもイマスヨ﹂ やはり先ほどの戦闘は様子見だったようだ。確かにこの業界、﹃ 最初の一撃﹄で勝負が決する事が極めて多い。事前に可能な限り相 手の手の内を調べるのは、基本戦略とも言えた。 ﹁しかしまあご苦労さん。わざわざセキュリティを全開にしてまで お招き頂けるとはね﹂ 男はふふん、と鼻を鳴らす。 ﹁アナタ達トハコウイウ処でユックリお会いしたカッタノデス﹂ ﹃こっちはぜんぜん会いたくなかったわけだがね。とりあえず上司 として気の毒な部下達の労災でも申請してやったら?﹄ これ以上野郎のへたくそな日本語を聞くに耐えなかったので、英 語で返答してみた。男はそれを聞くとひとつ首をひねり、 ﹃使えん連中だよ。最初から殺すつもりでかかれと言っておいたの に﹄ ごく滑らかなアメリカン・イングリッシュを返して来た。 ﹃そりゃちと酷いな。こちとら未来ある十代だぜ?未成年へのお仕 置きにしちゃあやり過ぎじゃないか﹄ 男はしばし沈黙した後、突然腹を抱えて笑い始めた。真凛が左腕 左足を前に出し、いつでも事態に対処出来るように備える。 ﹃いや失礼、正直最初フロアで見たときはとても信じられなかった よ。君達が﹃あの﹄フレイムアップのスタッフだとは到底ね。そこ のお嬢さんの暴れっぷりを見てようやく得心が行った﹄ コミットメント 男はゆっくりとこちらへ歩を詰めてくる。 ﹃最近はウチの必達目標もちと行き過ぎていてね。ただ﹃守ってい たら何も起こりませんでした﹄だけでは評価してくれんのだよ。﹃ 戦って対象を守り通しました﹄ってのでないとね﹄ ﹃はん。ついでに﹃手強い相手を激戦の末に倒しました﹄ならなお 良しってとこだろ﹄ 52 ﹃その通り。ましてそれが⋮⋮業界で知らぬもの無き﹃人災派遣﹄ のメンバーなら尚更だ﹄ ﹁ねえ、あのヒトなんて言ってるの?﹂ ﹁ようするにガチンコで殴りあいたいってさ﹂ フー・ アー・ ユー おれは投げやりに返答する。あわせて男が一歩前に出る。 ゲートキーパー ウェストウィンド ﹃さてさて。君たちは一体誰なのかな?凶悪無比の﹃殺捉者﹄か。 因果を支配する﹃ラプラス﹄かな?あるいは﹃守護聖者﹄?﹃西風﹄ ?⋮⋮まさか﹃深紅の魔人﹄や﹃召喚師﹄だとすれば素晴らしいこ とこの上ない﹄ 男の体内から小さな音が無数に鳴っている。デジカメのズームボ タンを押したときのようなアレ。アクチュエーター音とかいう奴。 ﹃ここまで来てもらったのはね。ここが一番俺達に都合が良いから さ。防音、防熱、防弾。障害物も足手まといの部下もいない﹄ おれはうんざりした。こんなんなら最初っから真凛の言うとおり カミカゼアタックでもやっといた方が話が早かったぜ。 ﹃ティーン相手に銃弾使用かい。随分厳しい業務方針だな﹄ ・・・・・・・ 男が両腕をすい、と持ち上げる。その手袋に覆われた掌は開かれ ていた。 ﹃なあに、同種の異能力者相手なら重火器でも足らんくらいだろ?﹄ ちっ、とおれは舌打ちする。やっぱりこいつもおれ達と﹃同業﹄ かよ! ﹃自己紹介がまだだったな。警備会社シグマ、特殊警備第三班主任 ⋮⋮﹃スケアクロウ﹄﹄ 男の迷彩服が弾け飛ぶ。狙いはおれ︱︱じゃない! ﹁真凛!伏せろ!!﹂ 横っ飛びがてらのおれの叫びは届いたかどうか。男の両腕から奔 った轟音と閃光が、地下空間を焼き尽くした。 尻を爆風で煽られる形になり、おれは無様に頭から床にダイブし た。顔面を床でおろし金のようにすられそうになるのを、どうにか 53 横回転に逃がし免れる。 ﹃達人級の武術家といえども、重火器の先制遠距離攻撃ではなすす べもなかろう﹄ バッグを背負ったまま跳ね起きると、おれ達が先刻まで立ってい た場所に炎の海が出現していた。スプリンクラーが作動し、水蒸気 が朦々と立ちこめる。だが警報は鳴る気配が無い。こいつが細工し て機能を停止しているのだろうか。 ﹃ちぇっ、﹃シグマ﹄にゃあそんなのがいるとは聞いてたが、実物 拝むことになるたあね!﹄ 炎の海の中に立つ男、﹃スケアクロウ﹄が、おれの声に反応しこ ちらを向く。迷彩服に包まれたアングロサクソンの巨体はそのまま。 だがその両腕は、オレンジ色を照り返す禍々しいクロームの輝きに 包まれていた。今しがたものごっついナパーム弾を打ち込んできや がった長大な銃身が二本、男の両の腕から生えている。炎に浮かぶ、 かかし サイボーグ まるで腕の代わりに二本の棒が突き出ているかのごときそのシルエ ットは、まさしく﹃スケアクロウ﹄だった。機械化人間。あまりと 言えばあまりに安っぽい言葉だが、他に適当な言葉も思いつかない。 炎が酸素を貪り、呼吸が苦しくなる。陽炎の中、換気システムが作 動する音が妙に間抜けに響いた。 シグマ・コーポレーション。 ここ十年足らずで日本に大々的な進出を果たした、外資系の大手 警備会社である。欧米系の軍隊経験者や元警察関係者を中心に組織 された営利団体で、こと瞬発的な機動力に関しては日本の警察では 到底歯が立たないとされている。その職務内容は要人護衛、各種警 護、人質奪還等。あらゆるセキュリティを総合的に手がけるプロ集 団である。そして世間一般には知られていないことだが、精鋭揃い の連中からさらに選抜された数十名のメンバーで構成された、ごく 特殊な任務を担当するチームが存在する。通称、﹃特殊警備班﹄。 一般的とは言いがたい能力の持ち主も多数所属し、中には漫画紛い 54 のSF野郎も紛れ込んでいる、という噂は確かにおれも聞いたこと がある。半分以上信じちゃいなかったが、流石に実物を見せられて は納得せざるを得まい。 ﹃戦争で生身の部分が殆どダメになってしまってな。だが感謝もし ている。コイツの精度はたいしたものだし、AIが戦況と俺のフィ ーリングを応じて自動的に最適な弾薬をリロードしてくれるという 優れものさ﹄ がじゃり、と突きつけられる左腕。 ﹃散弾だ。こいつは避けられないぞ?﹄ こりゃやばい。ここから回避する方法はちっと思いつかないぞ。 ﹁バイ﹂ スケアクロウの銃身の奥から鉛弾が吐き出されるその瞬間。 スプリンクラーと炎の鬩ぎ合いで生み出された水蒸気の緞帳が一 つの人間の形に盛り上がり︱︱そこから突き出された掌がスケアク ロウの脇腹に深々とめり込む!跳ね上がった銃身から散弾が撒き散 らされ、天井を穿った。 ﹁制服が、焦げた!﹂ 掌を放った体勢のまま、怒りの炎を背負い真凛が吼える。纏わり 付く火の粉まではかわしきれなかったか、身に纏ったお嬢様学校の ブレザーは所々煤と焦げ目でボロボロだった。 メイス ﹁あれヲかわすとは!ファンタスティックなレディでスネ!﹂ スケアクロウが己の右の銃身をまるで戦槌のように薙ぎ払う。多 分両腕だけではなく、全身にも駆動パーツが埋め込んであるのだろ う。その膂力と速度は到底人に為し得るものではなかった。だが、 真凛は銃身が己に迫るその一瞬、銃身そのものをステップとして跳 躍、コンパクトなモーションで回転。 ﹁ずぇあっ!﹂ がら空きになった顎に、間欠泉のような勢いで踵を撃ち上げた。 縦軌道の変則後ろ回し蹴り、常人なら首の骨が折れるほどの打撃だ。 だがスケアクロウはたたらを二、三歩踏むにとどまった。着地した 55 真凛に出来た隙を逃さず、左腕から今度は9mmパラベラムを、妙 に軽快すぎる音を立ててばら撒く。真凛は着地の瞬間からスケアク ロウを振り向くことさえなく横転し回避、さらに跳躍して左銃身の 死角となる右側に着地する。 おれには到底信じられないが、あいつは銃弾の類いをすべて見切 ることが出来るのだそうだ。だが真凛の打撃にはスケアクロウにそ れほど通じているとは思えなかった。このままでは勝負はどちらに 転ぶかわからない︱︱ と、真凛が背中を向けたまま怒鳴る。 ﹁なにやってんだよ!﹂ 何ってその、観戦を。 ﹁こいつはボクが潰すから!アンタは邪魔だからさっさと取るもの 取りに行く!!﹂ ふと見れば、おれが背にした壁から少し離れたところに、金庫の 大扉が存在していた。 ﹁⋮⋮了解。んなデクに負けんじゃねえぞ!﹂ お言葉に甘えて、おれは走り出した。すぐさま後方で爆発音と金 属音が交錯する。 56 ◆09:企業の傭兵、﹃派遣社員﹄ 結論から言ってしまえば、だ。 世の中は生真面目な方々が考えるよりは遥かにいい加減に出来て いるし、夢見がちな方々が想像するよりは遥かに味も素っ気もあり ゃしない、ということになる。 機械化人間。超人的な戦闘力を持つ武術家。魔法使い。陰陽師。 超能力者。吸血鬼。狼男。一人で一部隊を壊滅させるような凄腕の 傭兵。特A級ハッカー。天才ドライバー。マッド・サイエンティス ト。およそアクション系、ファンタジー系、伝奇系のコミックやら 小説やらを見れば、まずこの中のどれか一つくらいは混じっている だろう。で、こういう連中が現実に存在するか、と問われれば、実 は割とホイホイ実在してたりする。それも結構な割合で。 では、そういった連中、一般人とは質、あるいはレベルが異なる ひとびと、すなわち﹃異能力者﹄達にはすべて、愛憎交差する復讐 劇の主人公や、あるいは冷酷無比の悪役、世界を支配する野望に燃 否 である。 えた黒幕、あるいは滅び行く世界の救世主といった役割が与えられ るのか?と問われれば、答えは明確に 文明が未熟だった頃はいざ知らず、科学と情報が発達した現代に おいては、個人に備わる異能力が周囲にもたらす影響は恐ろしく小 さい。例えば物理的な戦闘では、人狼や吸血鬼が如何に戦闘に秀で ており、ヤクザや不良を容易に叩きのめす事は出来るといっても、 武装した軍隊を正面きって相手に出来るほど強くは無い。空を飛べ ることは出来ても飛行機にはかなわない。力が強くても重機には及 ばない。 スーパーハッカーやドライバー、武道家はあくまでも人間の限界 であり、それ以上ではないのだ。機械化人間やマッドサイエンティ 57 ストも同義。彼らは現代文明の先端、もしくは異質なベクトルでは あっても、決してそのカテゴリーを逸脱することは無い。 そして呪術や魔術、陰陽術。これらはもともと人類の歴史と裏表 の関係にあり、﹃一般に理解されてはいないが、知っているべき人 はちゃんと知っている﹄ものに過ぎない。術法で出来ることは、大 概が現代科学でもっと効率よく実現することが可能なのだ。実在し ないとされるからこそ、世間様は魔術や呪術に憧れと畏れを抱くの である。実在を知り、その効能と限界を弁えている人間にとっては ︱︱実際のところ、長い時間をかけて修得するほど魅力のあるトピ ックスではないのだ。たとえば﹃時速百キロで移動する魔法﹄があ るとしても、それを身につけるための修行期間や、儀式を行うため の手間暇コストを考えれば、普通車の免許を取って中古車でも買っ た方が遥かに効率良く確実なのである。 これらを総合すれば、こうなる。 ﹃異能力者は珍しくはあっても、さして貴重ではない﹄ 彼らの存在は一般人にはあまり知られてない。出会えば珍しいし、 個別には憧れや嫉妬を抱かれる存在ではある。だが、彼らの能力の ほとんどは、設備、資金、時間さえあれば充分に代替可能であり、 社会的に大して影響を持ってはいないのだ。まれに世界征服の野望 に燃える吸血鬼や選民主義を掲げる超能力者など、ベンチャー魂に 燃えるカリスマが現れることもあるが、大概が一般世界の権力者達 に潰されて終わってしまっている。特殊な人間が内包する百の力は、 一の力を持つ凡人一万人が百年かけて積み上げた文明には決して打 ち勝つことは出来ない、ということ。 こうなってしまうと異能力者達の立場というのは非常に微妙なも のとなってしまう。彼らは一般社会から逸脱した存在でありながら、 そこから独立して己の世界を築けるほど強力ではないのだ。かつて 彼らが小さな社会で絶大な影響力を持つことが出来た神話と迷信の 時代が終わり、中世あたりになるとこの流れは顕著になり、多くの 58 異能力者は己の居場所を追い出され、あるいは見つける事に苦慮す ることとなった。 だが、それが近代を経て現代に到ると、彼らにも、そして一般社 会にも変化が訪れる。両者をつなぐ受け皿の登場である。 居場所の無い異能力者に仕事と生活基盤を与える。そして社会に 対しては、﹃設備や資金、時間が充分ではない﹄状況で発生する難 問を解決するための切り札を提供する。それはかつては魔術師達の 秘密結社、あるいは邪悪な同朋を討つ吸血鬼達の連盟、正義の超能 力戦士グループだったそうだが、二十一世紀に入っての現在は、よ り包括的に様々な異能力者を取りまとめる組織へと統合されつつあ る。それがおれ達﹃フレイムアップ﹄や、あのスケアクロウが所属 する﹃シグマ﹄のような﹃人材派遣会社﹄なのだ。 企業間に起こる表立たないいさかいや、突発的に発生する災害、 本人の強い希望により隠密に処理すべき案件。そういった依頼を、 おおむね高額な料金で各所から派遣会社が請け負い、所属する異能 力者を﹃派遣社員﹄として差し向ける。そして異能力者は己の能力 を存分に振るって案件を解決し、報酬を得る事が出来るのである。 すでにこのスタイルは現代の経済の暗部にしっかと組み込まれてお り、各種トラブルにおける﹃切り札﹄として定着してさえいるのだ。 そして、対立する両者が同時にこの切り札を用いた場合に発生す るのが、今おれ達が繰り広げているような異能力者達による前近代 的な戦闘なのである。 おれ達﹃人材派遣会社フレイムアップ﹄はこの派遣業界の中でも もっとも零細の部類に類別される。構成員は多少流動しているが十 人程度、しかもその大半がおれみたいなアルバイト員だったりする。 大手派遣会社が数十∼数百の異能力者を抱えていることを考えれば、 その規模が伺い知れるというものである。ところが、どういうわけ か﹃業界﹄内ではうちらは有名なのだ。任務達成率100%という のは嘘ではないし、ちょっとアレなメンバーが多いことも相まって、 今ではすっかり﹃人災派遣会社﹄という異名のほうが通りが良くな 59 ってしまっている。 いやはや、ロクでもない同僚がたくさんいると、おれみたいな常 識人は苦労するんですよ、ホント。 おれは振り返らずに壁沿いを走りぬく。もう少しで大扉にたどり 着く、そう思った刹那。おれは思いっきり横っ面を張られ、無様に 壁に叩きつけられていた。 ﹁な、何だよ?﹂ よろめきながら立ち上がる。見るとそこには、愛らしい瞳でこち らを見上げる熊のぬいぐるみが一匹、ちょこなんと地面に座ってお られた。まさか、と思ったのもつかの間、視界が急速に沈む。後ろ から足を払われたのだ、と気付いた時には地面に大の字になってい た。振り向くと、そこには何たらいうアニメに出てくる愛らしい小 動物のぬいぐるみがこちらを無邪気そうに見つめている。本能的な 危険を感じて咄嗟に横転すると、ずどん、と鈍い音が一つ。今まで ・・ おれの頭があった空間に、ボーリングの14オンス玉が直撃してい た。一瞬反応が遅れれば、今頃潰れた饅頭のようにあんをぶちまけ ているところである。見上げれば空箱の上に陣取る黒猫の人形が二 匹。おれは跳ね起き、壁を背にして構えた。くすくす、とどこかか ら笑い声が聞こえたような気がした。 ⋮⋮いや、それは錯覚だ。なぜなら、金庫室の各所、積み上げら れた機材や空箱の向こう側から無数に姿を表した小さなモノたちの 正体は、先ほどの熊のぬいぐるみ、UFOキャッチャーの景品、ゲ ームのマスコット人形など、命ないモノたちだったからである。そ れがまるで意志のあるようにおれを一斉に見つめ、こちらを取り囲 んでいた。 ﹁一階のアミューズメントフロアの景品、だよな⋮⋮﹂ おれは恐る恐る一歩を踏み出す。と、ぬいぐるみの群れがまるで 堰を切ったかのように襲い掛かってきた。先ほどの熊が高々と二メ ートル近く跳躍し︵!︶愛らしい脚でおれの顔面に回し蹴りを叩き 60 込む。その途端、質量を無視した凄まじい打撃がブロックしたおれ の腕に弾けた。とっさに顔面はかばったものの、今度は足首に鈍い 痛み。見ればデフォルメされたワニのぬいぐるみが、がっちりとお れの踝をくわえ込んでいる。 ﹁このっ⋮⋮﹂ 手と足を無闇にぶん回し、熊とワニを振り払う。質量で言えばし ょせんはぬいぐるみなのか、あっさりと吹っ飛んでいった。だが、 地面に転がりすぐさま起き上がったその様を見るととてもダメージ を受けたようには思えない。続けて休む間もなく飛び掛ってくる他 のぬいぐるみを手で足で叩き落すが、これでは所詮気休めにしかな らない。あっという間に背中に一撃痛打をもらい、そのままガード が崩れたところを一気に無数のぬいぐるみに押し切られて転倒した。 ﹁痛て!痛て!痛ててぇ!﹂ 降り注いでくる打撃の雨を亀になって耐える。昔、新宿の飲み屋 で美人のお姉さんといい雰囲気になったあと、裏道で彼氏だという アレな人にボコボコにされた記憶を思い出した。 ちっ。 おれは亀の体勢から大扉を見やる。距離としてはあと五メートル もないというのに、とてつもなく遠く感じる。おれを円を描くよう に取り囲んでいるぬいぐるみども。⋮⋮こういう時、セオリーから 行けば。 ﹁そこだっ!﹂ おれは二、三発貰うことを覚悟で跳ね起き、バッグを人形の群れ の向こう、丁度こちらを見下ろせる位置にある高さのダンボールに 向けて思いっきり放り投げた。各種の機材を詰めたバッグはそれな りの重量を有し、壁際に積まれていたダンボールの山を突き崩した。 ダンボールの奥に潜んでいた人影は、おれの攻撃に怯んだ様子もな く、こちらを見て、ふふふ、とステキな微笑を浮かべてみせた。 61 ◆10:﹃折り紙使い﹄ ぬいぐるみの群れが攻撃を止めたおかげで、おれはどうにか立ち 上がり、彼女と話をすることが出来た。 ﹁やあどうも、またやって来てしまいました﹂ このぬいぐるみを操っていた女性︱︱門宮さんがポニーテールを 揺らし、極上の営業スマイルでこちらを見つめてくださっていた。 ﹁あまりお待ちする必要はなかったみたいですね﹂ ダンボールの箱から軽々と床に降り立つ。その手に持っているの は、純白の鶴。といっても生きている鳥ではなく、紙で作った折り 鶴という奴だ。その細い指に挟まれた鶴は、この殺伐とした部屋に はやたらとそぐわない。 ﹁もっとお時間のある時に、と聞いたんで﹂ ﹁残念ながら貴方の今夜はそんなに悠長ではないみたいですけど?﹂ ﹁ええまあ。そういうわけでそこはこう、密度で補いたいというワ ケなんですが﹂ ﹁あらそうですか﹂ 回答はそっけない。今門宮さんが着ているのは、夕方のときの店 員のユニフォームではない。今後ろで苛烈な戦闘を繰り広げている ﹃スケアクロウ﹄と同様の迷彩服だ。そしてその胸に輝くのは﹃シ グマ﹄のエンブレム。とほほ。 ﹁改めまして。警備会社シグマ、特殊警備第三班副主任、﹃折り紙 使い﹄です﹂ まあ、下水道で敵が待ち伏せていた時点で三割くらいは予想して いたんだけどね。おれ達の潜入ごっこは最初っから誘導されてたっ てわけだ。 ﹁はあ。そういやシグマって、戦闘型と支援型のエージェントがコ ンビを組んで活動するんでしたっけね。聞いたことありますよ、﹃ 62 折り紙使い﹄の名は﹂ ﹁光栄です、フレイムアップのエージェントの耳にまで届いている とは﹂ この業界は広いようで狭い。有能な人間の存在はその﹃二つ名﹄ と共にあっという間に業界に広まるものだ。おれは﹃折り紙使い﹄ の名を知っていた。陰陽師の系譜に連なり、手にした紙を﹃折り紙﹄ とすることで様々な術を行使する、術法系のエージェント。てえこ とは、この無数のぬいぐるみたちも⋮⋮。おれは手にひっ掴んだ熊 の背中を見る。そこには小さな菱形の紙片が張り付いていた。 ﹁﹃かえる﹄です。一階のアミューズメントパークから連れて来た のですが。お気に召しました?﹂ ﹃かえる﹄の折り紙。なるほどね、これを媒介にして操っている わけだ。 ﹁そこの扉を通してほしい、と言ってもムダなんでしょうねぇ﹂ おれはぼりぼりと頭を掻いた。 ﹁密度の濃いコミュニケーションをお望みなのでしょう?﹂ ﹃折り紙使い﹄はすい、とその右手を持ち上げる。それに合わせ てか、ぬいぐるみたちが一斉に引き下がる。 ﹁身を削りあうような激しいのでお相手しますわ﹂ どっちかというと削るより暖める方が。夏でも無問題で。ダメで すか? ﹁啄め。﹃鶴﹄﹂ ダメらしい。彼女の手から放たれた一片の鶴は、いかなる幻覚か、 瞬く間にその姿を百に千に増やし、吹雪のようにおれに襲い掛かっ てきた。 ﹁⋮⋮ッ!!﹂ 今度ばかりは悠長に叫び声を上げているヒマはなかった。襲い掛 かってくる鶴の羽と嘴、その一つ一つに鋭利極まりない刃が仕込ま れており、さながらおれは剃刀の嵐の中に飛び込んだ格好になった からだ。袖を、胴を、そして咄嗟に顔をかばったものの耳や頬を、 63 刃がかすめて赤い線を刻み込んでゆく。実際には十秒も無かったの かも知れないが、身を削ぎ落とされるようなおぞましい感覚が過ぎ た後、おれはボロボロの格好で膝をついていた。 ﹁いちおう、インナーは身につけているみたいですね﹂ 頭上から降り注ぐ﹃折り紙使い﹄の冷静な声。 ﹁⋮⋮ま、職業柄こういうの多いんでね﹂ おれは、切り裂かれた袖から露出している黒い生地を見やった。 こういう荒事に備えて、仕事中は防弾防刃性をそなえた﹃インナー﹄ と総称される極薄のボディスーツを普段着の下に纏うことを義務付 けられている。これはこの業界では常識と化しており、うちの事務 所で支給されているのは羽美さん謹製の一級品で、ボディスーツの 薄さでありながら9mmパラベラムの近距離射撃を防ぎきってのけ るというトンデモアイテムだ。今もこれを身につけていなかったら、 ナイフで滅多刺しにされたくらいの手傷を負っていただろう。ちな みに、強襲任務の際には特殊部隊も真っ青の防弾防刃防毒耐ショッ ク装備である、ごっつい﹃ジャケット﹄を着込むこともあるが、こ れは極めて希である。 おれはさっき警備員から没収してきたバトンを取り出し、スイッ チを入れた。かすかな振動音を発し、バトンの電圧が高まっていく。 とりあえずそれっぽく構えてみた。 ﹁あんまり接近戦は得意じゃないんだけどなー⋮⋮﹂ ﹁捕らえよ。﹃かえる﹄﹂ 彼女の命令に答え、ぬいぐるみ達が再び一斉におれに襲い掛かる。 おれはたまらず飛びのき、壁沿いに今来た道を逃げ走る。 ﹁ちっとは手加減してもらえんものですかね﹂ ﹁まさか。あの﹃人災派遣﹄相手に手加減など出来るはずはないで しょう?我々エージェント業界の鬼子。任務成功率﹃だけは﹄10 0%の凶悪な異能力者集団が良くいいます﹂ ひでー言われようだなオイ。飛び掛ってくるぬいぐるみを払い落 とし、物陰に逃げ込む。やっぱり業界内のうちの事務所の評判はこ 64 んなもんなんだろうかねぇ。 休む間もなくぬいぐるみ達の攻撃を転げまわってかわしつつ、お れはひたすら走る、走る。積まれた台車を跳び箱の要領でまたぐ。 壁沿いを疾走、足元に食いついてくるワニにはサッカーボールキッ クを叩き込む。すかさず横合いから襲い掛かってくる愛らしいネズ ミをどうにかバトンで叩き落す。逃げ回る間に、向こうが何を狙っ ているか想像はついていた。だが事ここに到ってはどうしようもな チェックメイト い。まるで予定通りのコースを走らされていたかのようにおれは、 ﹁王手詰み、ですね﹂ 部屋の隅に追い込まれていた。微笑を浮かべて佇む彼女の手には 折り紙。おれの頬を汗が伝う。走った汗だと思いたいが、それはど うしようもなく冷たかった。手詰まりの中、ふと耳に響く金属音。 視界の端によぎるのは、水蒸気の向こう、人間離れした軌道でスケ アクロウと切り結ぶ真凛の姿だった。 65 ◆11:鉄騎兵と戦闘少女 ふくらはぎ 飛び交う銃弾をかいくぐり、滑り込むように地面すれすれに放た れた真凛の回し蹴りがスケアクロウの腓腹を捕らえる。 ﹁くっ!﹂ だが、その声は真凛のものだった。足払いとしての威力は充分だ ったのだろうが、鋼の体の防御力とその足自体の重量が相まって、 姿勢を崩すには到らない。攻守一転、振り下ろされる銃身を、まる でストリート系のダンサーのように回転、跳躍してかわす。しかし それで終わりではない。右腕が振り下ろされると同時に、左腕の銃 身がすでに真凛に向けられている。浮かび上がる﹃線﹄を咄嗟に身 を捻って避ける。と、その一瞬後に空間をフルオートの掃射が走り 抜けてゆく。間合いを離して再度仕切りなおし。真凛は大きく一つ、 呼気を吐き出す。一撃離脱を繰り返すこと十数度。未だ目の前の鋼 の塊には有効打を与えきれてない。 ﹁まいったなあ。いくら弾道が見えるって言っても、これじゃ手詰 まりだよ⋮⋮﹂ 真凛の視界に銃口が移ったその時、彼女の脳裏に浮かぶ映像には、 敵の銃器が形作る射線が、まさしく﹃光の線﹄となって描きこまれ る。そして銃弾が放たれる前にこの﹃線﹄から身を外していれば、 決して弾丸に当たることはない。五体を武器として戦う彼女が銃器 に対抗できるのは、この銃弾を見切る能力があればこそである。そ れは決して超能力の類ではない。銃相手の戦闘で重要な要素は、銃 口の角度と距離、銃と込められた弾丸によって決まる初速と弾道の バラツキ、敵の挙動から推定される狙撃ポイント、そして発射のタ イミングである。真凛はそれを五感で捕らえつつ、そこから弾道を 予測しているに過ぎない。だが、その過程を極限まで高速化した結 果、予測は無意識の世界で行われ、その結果のみが﹃線﹄という情 66 報の形で意識野に出力されているのだ。かつて一握りの武道の達人 がたどり着いたという境地。だが彼女、七瀬真凛の流派では、最初 からこれを目標として鍛錬する。それでこそ現代における武術であ る、とは七瀬の当主の弁だとか。 ﹁全くタフなレイディデス⋮⋮!ワタシの銃弾をコウモカイクぐっ てくれるトワ﹂ スケアクロウは余裕ぶった発言をしようとしたが、端々に登る苛 立ちがそれを裏切っている。接近戦型と見て、初弾でカタをつけよ うと放った最大火力の一撃をかわされ、あまつさえこうまでいいよ うに一方的に打撃を叩き込まれているのだからそれも当然か。相手 は生身、そして機動力が命だ。一発銃弾なり銃身の打撃が当たって しまえば自分の勝ちだと言うのに、その一発をどうしても当てるこ とが出来ない。すでに初回のナパームによる炎は、スプリンクラー の散布もあり収まりつつある。まとわりつく水蒸気の中、恐らくス ケアクロウの心中を占めるのは焦燥感だったろう。おれ達﹃フレイ ムアップ﹄が乗り出してくるからこそ、セキュリティをオフにして この正面からの戦いに持ち込んだのだ。このまま失敗でもすれば減 俸どころか懲戒モノのはずだ。何としてもココでコイツを仕留める ︱︱そう決意したのか、義手のギミックが駆動し、新たな弾丸が装 填される。その目に宿る光の色が、﹃当たり所が悪かったら死ぬか も﹄から、﹃当たり所がよければ生き残るかも﹄へと、わずかに、 だが決定的な変化を見せ︱︱ ﹁ゲームセットでスヨ!!﹂ スケアクロウの両腕が突き出される。弾種は⋮⋮ナパーム!真凛 の脳裏で、予測された﹃帯﹄が空間を切り裂く。その線に己の身を 添わせるようにギリギリまで引き付けながら突進。己のわずか数セ ンチ先の空間を炎の塊が抉り取り、大気が容赦なく振動となって皮 膚に叩き付けられる。ここまでは先ほどまでの展開の焼き直しだ。 後方の爆発をよそに疾走。みるみる距離が詰まり、一足一刀の間合 いを突破。突き出された銃身を潜り、その肘を掌で捌いた。近接戦 67 の間合い。敵は両腕の武器を使い切った。︱︱ここで、真凛は仕留 めにかかった。必勝を期し、さらに一歩踏み込み、その脇を抜け跳 躍。狙いは頭部。よもやここまで機械化されてはいまい。延髄に向 けて研ぎ澄まされた手刀を振りぬこうとした、その時。スケアクロ ウと目が合う。そこに宿るは⋮⋮改心の笑み!真凛の視界が突如危 険な色で染まる。奴が想定するのは⋮⋮﹃線﹄ではなく、巨大な﹃ 球﹄の攻撃。まさか。 ﹁あぐっ⋮⋮!!﹂ 人間離れした反射神経で咄嗟に急所を庇ったものの、スケアクロ ウから迸った﹃何か﹄は容赦なく真凛の体を貫いた。たまらず着地、 後退する。 ﹁ヤレヤレ⋮⋮。コンナ裏技マデ使ワセテクレルトハ﹂ じゃきん、と9mmを装填する金属音。銃口が真凛をまっすぐ見 つめていた。対衝撃システム。精密機械を体内に埋め込む彼らにと って、時として、堅牢な装甲に受ける着弾や爆発のダメージよりも、 その衝撃による内部の精密部品の損傷が深刻となる時がある。この システムはそのような損傷を回避するため、衝撃を受ける際に自分 からも小さな衝撃波を発生させて相殺させるという、一種の防御装 置である。先ほどの一瞬、奴はこれを限界を超えた出力で稼動させ、 真凛を叩き落としたのだ。こんなことをすれば奴自身もただでは済 まないが、生身の真凛の被害はそれを遥かに上回る。 ﹁か、はっ⋮⋮﹂ 敢えて言うなら、巨大なスピーカーから至近距離で重低音を浴び た衝撃。あるいは車に乗っていて急停車したときに感じる圧迫感。 それらの数倍のものを体内に叩き込まれたようなものだろうか。そ れでも転倒しないあたりはこの娘の積み上げてきた研鑚の賜物だっ た。だが、結局は立っているだけということだ。これでは先ほどの 華麗な回避など望むべくもない。 ﹁ちぇ⋮⋮。この業界に強い人は多いって聞いてたけど。これから はこういう武器のことも考えておかなきゃならないのかな﹂ 68 必死に呼吸を整えてはいるが、その両足は思うように動かないと いうことがありありとわかる。 ﹁貴方に次ハアリマセン⋮⋮﹂ 視線が交錯する。銃身から無数の弾丸が撃ち出された。 銃弾が無数の弾痕を穿つ︱︱天井に。 ﹁なっ⋮⋮﹂ スケアクロウが驚愕の叫びを上げる。真凛を捕らえたのは最初の 一発のみ。後はまるで素人がオートマチックを撃ったかのように、 反動で上に跳ね上がってしまったのだ。 ﹁いったあ∼∼。覚悟したとはいえ、やっぱりそう何発も食らうも のじゃないなあ﹂ 肩を押さえて真凛がうめく。気をめぐらして防御し、インナー越 しに受け止めたものの、拳銃弾を叩き込まれれば無傷のはずがない。 だがそんな声もスケアクロウには届いていなかった。己の右腕が、 その強さの拠り所となるはずの右腕が、無様にもげて地面に転がっ ていたのだから。 ﹁右でツイてた。左だったらまだ﹃壊して﹄なかったもんね﹂ 真凛が掌を開くと、硬い音がして、幾つかの金属部品と樹脂で出 来た肉片が地面にこぼれ落ちた。それはまさしく、スケアクロウの 肘を構成していたパーツだった。 さっそくしゃ ﹁まだこっちは名乗ってなかったよね。人材派遣フレイムアップア シスタント。﹃殺捉者﹄七瀬真凛﹂ ﹃七瀬式殺捉術﹄。それが真凛の実家に伝わる武術の名称である。 戦国時代に端を発して江戸、明治の時代を経て醸成された日本の古 武術の一派。その特徴は徹底した実戦主義にある。戦国時代での戦 闘においての格闘技とは、あくまでも武器を失った時のものであり、 そこに展開されるのは相手を傷つけて戦闘不能にする殴り合いや蹴 りあいよりも、早々と地面に引き倒した方が勝ち、という戦い、い 69 わゆる取っ組み合いである。確かにこの思想から、投げ技や関節技、 急所への当て身を根幹とする古流の柔術が日本各地で発生した。だ が、七瀬流の開祖はどうやら思い切った考えの転換を行ったようだ。 おおよその投げの開始となり、乱戦でもっとも多い﹁取っ組み合 い﹂そのものを攻撃とする。一度相手の体をつかめばそこがどこで あろうと握り潰し、砕き、引き千切ってしまえばいい。﹁捉えれば 即ち殺す﹂、殺捉術の思想である。その要諦は強力な握力と、触れ た構造の脆いポイントを一瞬のうちに探り出す繊細な指先の感覚に あるというが、そこらへんは門外不出の秘伝なのだそうだ。 たしかに原始的だが、それだけに応用範囲は広い。押え込まれて も指一本相手に触れる事が出来ればそこから身体を抉る事が出来る し、先ほどのように敵の攻撃を捌きつつ関節を破砕する、などとい う荒業も可能だ。以上はすべて、当人からの受け売りだから、どこ まで本当かはわからないが、実力の方はごらんの通り。 真凛が正統後継者として伝承した古武術とは、この凶悪極まりな い戦闘技術である。聞くところによれば、家系の中でも特に秀でた 才能だとかで、中学生時分において既に免許皆伝。後のストリート ファイトはより実戦向けの調整を兼ねていたそうである。ちなみに、 世の中には愚かというか無謀というか、とにかく哀れな人間がいる もので、かつて彼女の同級生が電車で痴漢被害に遭ったそうな。そ の娘に相談された真凛はその痴漢の⋮⋮つまり、あれを⋮⋮引きち ぎったとかちぎらないとか。あくまで噂だけど。少なくとも、真凛 が女子高の同級生にやたらとモテることは事実である。こんな物騒 な娘がアシスタントについている、ってだけでも、おれって同情し てもらう価値が十分にあると思うんだけどなぁ。 既に破壊されていた腕は銃弾の反動に耐え切れず、ちぎれて落ち た。 ﹁⋮⋮っ﹂ 間髪いれず左腕で攻撃態勢を取ったのは賞賛に値する。だが今度 70 は真凛の方が早かった。ふらつく足に活を入れ懐に飛び込み、すく いあげるようにその左腕を押さえている。けたたましい金属音が鳴 り響き、火花と共に今度は左腕が千切れ飛んだ。 ﹁本当に強かった。スケアクロウ。あなた達みたいな強い人と、も っともっと戦いたい﹂ 降り注ぐ金属部品の雨を抜け、そのまま後背に回り込む。衝撃波 は、⋮⋮もう間に合わない。スケアクロウが、観念の呟きを漏らし た。 ﹁⋮⋮オミゴト。ヤングヤマトナデシコ﹂ 真凛の指が、スケアクロウの背骨に伸び触れる。まるで繊細な場 所を愛撫するかのようにつ、とその掌が僅かにその表面をなぞり、 くるみわり 瞬く間に構造を看破する。 ﹁﹃胡桃割﹄﹂ ごぎん、とイヤな音がして、スケアクロウの人造の脊髄は握りつ ぶされた。下半身への情報伝達機能を失った鋼の体が、重い音と共 に倒れこんだ。 71 ◆12:とある大学生の戦闘 もっとも、そんな状況をおれは全て眺めていられたわけではない。 何しろ、その時まさにぬいぐるみの群れが、逃げ場のないおれの四 肢をがっちりと押さえつけていたので。 ﹁残念です。亘理さん。貴方が日本でも有数のトップエージェント が所属するあの﹃人災派遣会社﹄フレイムアップの社員だと聞いて 期待していたのですが﹂ 向こうから投げつけられる冷たい声。 ﹁あのお嬢さんならまだしも。あなたは全くの期待はずれですね﹂ その二指に摘まれた折り紙が、魔法のように姿を変えてゆく。 ﹁⋮⋮あいにくと荒事は苦手なクチでしてね﹂ ﹁フレイムアップのメンバーは全員が最低でも並のエージェント以 上の戦闘能力を持っている、と聞いていたのですが﹂ ﹁そりゃ都市伝説の類ですね。悪いけどおれは正真正銘弱いですよ﹂ えへん、と胸を張る。彼女の瞳がす、と細められる。その指には 折りあげられたシンプル極まりない造詣の構造物。紙飛行機、とい う奴だ。 ﹁殺しはしません。しかしその肺に穴が開くくらいは覚悟してくだ さいね﹂ 紙飛行機ってのは普通防弾ウェアに包まれた胸板をぶち抜けるよ うなモンじゃないと思うんだがね。 ﹁最後に一つ、聞いておいて良いですかね?﹂ おれは問う。 ﹁⋮⋮何を?﹂ ﹁いやあ。門宮さんってのは、本名なのかな、と思って﹂ 若干の沈黙があった。警戒しているのだろう、﹃折り紙使い﹄は 手にした紙飛行機をいつでも放てるよう構えている。 72 ﹁貴方の亘理という名字は本名なのですか?﹂ ﹁⋮⋮ええ。亘理陽司。みんなにはそう呼ばれてるし、おれもそう 名乗ってますよ﹂ 彼女は一つ、息を吐いた。 ﹁私も本名ですよ。門宮ジェイン。次の仕事で会うときは味方だと いいですね﹂ これ以上会話を続ける必要はないと判断したのだろう、なにやら 呪を唱え、紙飛行機の切っ先をおれに向ける。 ﹁いやあ、聞いておいて良かった﹂ おれはぬいぐるみどもに押さえ込まれた右手を、どうにか持ち上 げる事が出来た。 ﹁これで勝てる﹂ ほんの一瞬。脳内を火花が走り、神経網を電流が駆け抜ける。や りすぎるなよ、とおれは呟いた。 ﹃折り紙使い﹄にその言葉は耳に入っていなかっただろう。奴は 最後の呪の詠唱に入っていたのだから。 ﹁穿て!﹃紙飛行機﹄﹂ その手から離れた紙飛行機は強弓から穿たれた鉄矢のごとく、俺 の胸を狙い迸る。時間にすれば僅か。だが、俺が護りを完成させる には充分過ぎるほどの時間だ。 ﹁﹃門宮ジェインの﹄﹃紙飛行機は﹄﹃亘理陽司に﹄﹃当たらない﹄ ﹂ ﹁な⋮⋮﹂ 奴の目が驚愕に見開かれた。それもそのはず。紙飛行機が俺の胸 板に突き立つまさにその直前、後方の﹃殺捉者﹄と機巧人間の戦闘 73 で炸裂した爆発の破片が、俺の体と紙飛行機の間に飛び込み、結果 として紙飛行機をあらぬ方向に吹き飛ばしてしまったのだ。 ﹁ばかな、そんな幸運が⋮⋮﹂ 俺は爆風を、立ち位置をほんの少しずらすことでやり過ごした。 この目障りな形代を一瞬で全て蒸発させて、﹃折り紙使い﹄に懇切 丁寧に説明でもしてやろうかと思ったが、どうも興が乗らなかった。 早々に仕事を遂行することとしよう。 ﹁いささか不出来だが、この状況で結果に向けて帳尻を合わせよう とするなら、このような過程でも致し方なしか﹂ 俺はひとりごちた。限定できる言語は残りわずか。上手く単語を 並べねば。最後の最後で力尽きたなどとなれば、他の連中のいい笑 いものだ。 ﹁﹃亘理陽司の﹄、﹃警棒は﹄、﹃門宮ジェインの﹄﹃肌を﹄、﹃ 外さない﹄﹂ 俺は右手首を動かし、無造作に警棒を放り投げた。くるりくるり と緩やかな円軌道で奴をめがけて飛ぶ。だが当然、こんなものにむ ざむざと当たりに行く愚か者はいない。奴は一歩横に移動する。 ビリヤード と。上空から不意に落下した欠片、先ほどの爆発で天井から剥が れ堕ちた建築材の一部が、撞球の妙技のように空中で衝突し、警棒 の軌道を変えた。その先には、避けたはずの攻撃を前に、目を見開 く奴がいた。 ﹁ば⋮⋮﹂ バカな、と声にはならなかった。軌道を変えた警棒が、奴の唯一 素肌の露出した首筋に、まるで割れた壺の欠片が納まるかのように ぴたりと命中したのだ。 ﹁ぁっ!!﹂ 声にならない悲鳴を上げて、﹃折り紙使い﹄は電撃の衝撃で後方 に弾け飛ぶ。攻撃方法がこんな玩具とは少し不満だが、仕方がある 74 まい。 全身を押さえつけていた形代どもが一斉に力を失い地面に落ちた。 あの女は一人でこれだけの形代を操りつつ、俺と戦っていたわけだ。 大したものだ。その点は俺は素直に称賛する。 俺は地面に落ちた警棒を拾い上げようとして屈み︱︱やってきた 脳の裏側を引き毟られるような激痛に耐えた。目の裏で火花が散り、 視界が白く染まる。 ﹁⋮⋮⋮⋮∼∼ってぇ⋮⋮﹂ やれやれ情けない。大分限定した単語だというのに、十個も並べ ずにこのザマとは。 ﹁ま、まさか、貴方は、あ、あの︱︱﹂ 電撃の影響だろう、彼女はなんとか舌と手足を動かそうとしてい るが、上手く全身を制御できないでいた。おれはどうにかバトンを 拾い上げると、ゆっくりと歩を進める。 ﹁因果の、歪曲⋮⋮ま、さか⋮⋮。それこ、そ都市伝説、と思って ました、よ﹂ 彼女がおれの﹃二つ名﹄を呟く。 ﹁ご存知とは光栄です。名乗らないのは隠してるからじゃなく⋮⋮ あんまり好きじゃないんですよね、その名前。それから、おれも次 に会うときは味方でいたいですよ。門宮さん﹂ バトンをそっと首筋に押し当てる。門宮さんは沈黙した。おれは 二、三度大きく深呼吸をすると、大扉へと向かった。 75 ◆13:大人気ゲーム、その制作者達 ﹁さて、どうしようかねえ﹂ 金庫の大扉の前で腕組みをして佇むおれの側に、スケアクロウを 倒した真凛が駆け寄ってくる。 ﹁何してるの?﹂ ﹁いや。どうやってこいつを開けようか、とね﹂ 真凛の顔が青ざめる。 ﹁ひょっとして、使っちゃった?﹂ ﹁うむ﹂ ﹁ど、どーするの!?アンタの能力がないとこんな金庫開けられる わけないでしょ!?﹂ ﹁ンなこと言ったって仕方がないだろう!!さっき門宮さんとの戦 いで全部使っちまったんだから!!﹂ ﹁出会い頭に決着つけておけばよかったのに。女の人相手だとすぐ 様子見に走るんだから﹂ ﹁し、失敬ダナ君は。相手の能力もわからんのに迂闊に攻撃をしか けるわけにも行くまい。戦術だよ戦術﹂ ﹁どうだかねー﹂ ま、何はともあれ二人して銃弾やら剃刀の嵐やらをかいくぐった のでボロボロのありさまだ。金庫の側にはカードキーを差し込むと おぼしきスロットがあるのだが、ろくに解除コードもわからないの に迂闊に手を触れたりしたら、今度こそセキュリティが起動するだ ろう。 ﹁⋮⋮しかたない。ちょいとヤバイが、三発目トライしてみようか﹂ ハッキング用のダミーカードを取り出すと、おれは一つ、深呼吸 をする。と、真凛の表情が締まる。 ﹁どうした﹂ 76 ﹁上の階に人の気配。降りてくるよ!﹂ ﹁それってやばくね?﹂ おれは身を隠す場所を探そうとして、周囲のあまりの惨状に改め て気がついた。ナパームで焼け焦げた床、散らばるぬいぐるみと倒 れている女性、いまだ止まらぬスプリンクラー。無数の弾痕に、両 腕をもがれた大男が倒れちゃったりもしてる。火事と台風がまとめ て通り抜けたがごときその有様はまさしく﹃人災派遣﹄の名に相応 しいものだった。 ﹁この現状見られたら、おれ達殺人犯もいいところだよなあ﹂ ﹁なに呑気に第三者っぽく論評してるんだよ!﹂ ﹁いやー、おれ腕千切ったりはさすがにしてないからなあー﹂ ﹁女の人をスタンバトンで殴った鬼畜が何をっ⋮⋮﹂ ﹁まあ、身分証明書の類も持ってないし、いざとなれば逃げれば何 とか﹂ ﹁ボクは制服着てるってわかってて言ってるでしょソレ!?﹂ おれ達があーだのこーだの言い合いをしているうちに、上り階段 に靴音が響き、男がひょっこり顔を出した。 ﹁よう。お前さんたちが﹃人災派遣﹄のメンバーかい﹂ Tシャツにジーンズというラフな格好をした、中年の男だった。 ﹁そう構えんでくれ。俺は山野ってえんだ。ザラスのソフト部門の 専務だよ﹂ その男は、そう言っておれに一束のカギを投げて寄越した。キー ホルダーにはカードキーと思しきものも括りつけられている。 ﹁こいつを使ってくれ。金型が入ってる引出しまでなら開けられる はずだ﹂ おれは空を泳いでいる猿を見たかのようなまぬけっぷりで口を開 けていたんだと思う。おれと似たり寄ったりの表情でぽかんとして いた真凛が一瞬先に我に返り、おれをどついた。 ﹁と。失礼。こりゃまた一体どういう風の吹き回しですかね?﹂ 77 ﹁ああ。その節はうちの営業連中が馬鹿やってすまなかったな﹂ 山野さんは懐からタバコを取り出すと、百円ライターで火をつけ る。 ﹁このケッタクソ悪いビルの中でヤニ食えるってのはいいもんだね﹂ ﹁いやまあ、たしかにいまさら煙草の煙ぐらいどうってこたないと 思いますが﹂ ひとつ、美味そうに吸い込んで煙を吐き出す。 ﹁俺さ、韮山とは昔チーム組んでたのさ﹂ あ、と真凛が声を上げる。 ﹁山野さんって。そういえば韮山さんが言ってた。昔ゾディアック を一緒に作った人﹂ ﹁韮山さんのお師匠さん、ですね﹂ ﹁そーゆーコト。ま、韮山のウチに砂かけるようなやり方も俺はど うかとは思うがね。それよりもまあ、今回のウチの連中のやるこた あその万倍気に入らねぇのよ。役員がぽろっとこぼしたから問い詰 めてみりゃあ、何よ金型強奪したって。思わずしばき倒してカギを 借りてきちまったぜ﹂ にやり、とワイルドな笑みを浮かべて口の端から白煙をどろどろ と吐き出す。 ﹁⋮⋮そういうことなら。遠慮なく開けさせてもらいますよ﹂ ﹁おっと。それはいいんだが。礼代わりと言っちゃ何だが、一つ頼 まれてくれないか?﹂ カギを弄んでいた指が止まる。 ﹁何でしょう?﹂ その時の山野さんの、なんとも楽しそうな笑顔は、それからしば らく忘れがたいものだった。 ﹁韮山に伝えてやってくれ。お前等のルーンの続編なんて、俺たち が今作ってる﹃ゾディアック2﹄ですぐにランキングから叩き落し てやるからよ、ってな﹂ おれもにやりと笑みを浮かべる。まったくもって、異能力者、な 78 んてものが天下を取れないのは当たり前の事だろう。世の中を少し ずつ周していくんのはおれ達じゃない。こういう人たちなんだろう な。ま、そのぶんドンパチはおれ達が担当するわけなんだが、それ はそれできっと世の中上手く出来ているんだろう。 ﹁たしかに伝えますとも。その言葉﹂ 金庫は無事に開き、おれ達はお目当ての金型を確かにゲットする ことが出来た。 ﹁窃盗団も気が利いてるな。きちんと梱包してあるぜ﹂ 精密な造詣を得るためには金型のキズ、欠けは致命傷なのだそう だ。正直、ザラスはなぜ強奪した直後に金型を壊してしまわないの だろうか、とも思っていたのだが、この梱包を見て若干ザラスへの 認識を改めることにした。山野さんのコメントを聞いて何となくわ かった気がする。彼らとて素晴らしいゲームに成りうるものを、無 為に壊すことは出来なかったのかも知れない。 ﹁動かしても大丈夫だろうな。これとこれとこれ、と。やっぱり追 加キャラが多い分、結構量があるな。ほい真凛﹂ ﹁ちょっと待てぇ!!本気で言ってるの!?﹂ ﹁何のためにキミが派遣されたと思ってるのカネ?﹂ まあ何だ。金型は金っていうくらいだから金属で出来てるわけで すよ。で、プラスチックを流し込むわけだから、型はそれを覆うだ けの巨大な鉄のブロックになるわけで。結論から言うととっても重 いと、そういうわけだったりする。 ﹁ってアンタねえ!いくらなんでも状況的に思うところはないわけ !?﹂ しょいこ おれはバッグからロープや縄梯子に変形する便利キット﹃ハン荷 バル君﹄を取り出して手際よく背負子に組み上げ、真凛に背負わせ る。 ﹁何を言ってるのか。おれじゃ一個も運べないってばよ﹂ ﹁だからってボクだってこれは⋮⋮﹂ 79 ﹁鍛錬だ鍛錬。もっと強くなりたいんだろう﹂ 適当に真凛を丸め込んでおいて、山野さんに貰ったカギを返した。 営業の連中を殴り倒したという彼の今後が気になるところだが、多 分、本人はあまり気にしないんだろう。 ﹁じゃあな。坊主。おれはこれからまた一仕事せにゃならん﹂ 山野さんはタバコを床に押し付けると腰を上げた。 ﹁ひと仕事って。もう零時回ってますよ?﹂ 言うな真凛。ソフト会社の人間に時刻は関係ないんだよ。 ﹁っておい!リミットまでもう三時間ないじゃないか!!﹂ おれと真凛はすっかり忘れていた事実に愕然とする。ここまでや っておいて時間切れ等となったら、殺される程度ではすまない。あ のあくまの様な所長に比べれば、おれらの能力などなんの意味もあ りゃしない。 ﹁やっべえ!!急ぐぞ。これから川口まで全力で飛ばすぜ!!﹂ ﹁えっ、もしかしてまた?﹂ ﹁ああ。ちょいとばっかし荒っぽくなるけど気にすんな﹂ 山野さんをその場に置き去りにして、おれは一目散に入ってきた 地下通路へと向かう。後方から金型を背負って追いすがる真凛の顔 が再び青ざめていたような気がしたが、階段を駆け下りるおれはさ して気にも止めなかった。 80 ◆14:仕事は終わって ﹁﹃ゲームショウ、大盛況のうちに終了。今後の注目株はなんと言 ってもルーンストライカーセカンドエディション!﹄か﹂ 学校の講義が終わった週末。おれは今回の案件の給料を受け取る べく事務所を訪れていた。今週の土日は突発の事件もなかったよう で、仕事の片付いた事務所の中、おれは学校の生協で買った週刊の ゲーム雑誌を広げて、真凛と、先日豚のジョナサン君をどうにかと っつかまえた立役者である直樹らとのんびりだべっている、という 次第。 ﹁﹃同時発表のゾディアック・デュエル2にも大期待﹄だって?﹂ ﹁こら、覗き込むなって﹂ おれと真凛があーだこうだと騒いでいると、書き上げた書類を処 理済のトレーに放り込み、所長が自分の机から大きな伸びを一つし つつ立ち上がった。 ﹁ま、それにしてもまたまた派手にやったもんねえ。ウチもたまに は﹃人災﹄って呼ばれないようなスマートな仕事をしたいものだけ ど﹂ ﹁そう思うならもうちっとまともな仕事回してくださいよ﹂ 時間に余裕があればこんな強行突破はせずに済んだはずだし、だ いたい今回は相手から喧嘩を売られたわけで、暴れたくて暴れたわ けではない、はずだ。 ﹁いやーでも今回は、事件を表沙汰に出来るはずもないザラスの渉 外の連中を散々つつき回してやったから大分スッキリしたわよ。あ そこのお抱え弁護士、法律を盾にとっていちいち煩いのよねえ﹂ たっぷりミルクを落とし込んだ珈琲を飲み干し、邪悪な笑みを所 長は浮かべた。まさか最初っからこれが目当てだったんではあるま いな。 81 ﹁そうそう、亘理君。貴方宛にメールが届いているわよ﹂ ﹁おれ宛に?﹂ 事務所に届くというのもヘンなものだが。 ﹁今転送したわよ﹂ 携帯端末を確認し、納得した。差出人は門宮さんだった。名刺交 換したわけでもないのだから、事務所に送るしかなかったのだろう。 そこには簡単な挨拶と、今後は味方だと良いですね、との旨が添え てあった。 ﹁スケアクロウの奴も、幸か不幸かすぐに業務復帰できるとさ﹂ ﹁便利だなあ。ボクなんかまだ撃たれた肩が痛いのに﹂ ま、いつ敵と味方が入れ替わるかわからないこの業界だ。個人レ ベルで交流を深めておくのも、そう悪いことではないだろう。 ﹁おっと。これから食事でもどうですか、だってさ∼。ひょっとし て意外と脈アリ??﹂ ﹁⋮⋮どうせウチの情報を色々教えてほしいってことじゃないの?﹂ なにやら冷たい気配が背後でするが、務めて無視。と、所長の携 帯がメールの着信音を奏でた。あら、と液晶画面をみやる所長が、 しばし沈黙する。 ﹁⋮⋮あ。じゃあおれ、これから金曜日の夜を満喫しますんでそれ じゃ﹂ ほとんど草食動物の本能で腰を浮かす。 ﹁亘理君。実は貴方向けの依頼が一件、たった今入ったんだけど﹂ ﹁いやだってほらおれ以外にも今は直樹がいるわけだしってアレい ねぇー!?﹂ ﹁ん、直樹さんはついさっき帰ったよ﹂ あの薄情者。 ﹁しょうがないね陽司。今日は諦めたほうが良いよ。ボクが付き合 ってあげるからさ﹂ ﹁そういうセリフはあと三年経ってから言おうな﹂ ﹁いや別に一人で行ってきてもらってもかまわないんだけど?今度 82 の依頼は、満月の夜に新宿の歓楽街で狼男が暴れまわってるから取 り押さえて欲しいんだって。どうにも凶暴らしいわね﹂ ﹁あのう見捨てないでください真凛サマ﹂ ﹁いやボクこれから帰って宿題やらないと﹂ ﹁ってえかマジでやるんですか?﹂ ﹁今OKの返事を送っといたわ。担当名はあなたで。安心しなさい。 これで滞納してた貴方のアパートの家賃もちゃんと払えるでしょ?﹂ 何故におれの口座内容も把握しているのか。 ﹁カンベンしてくださいよぉ﹂ おれの呟きは、誰の耳にも届かなかった。 83 ◆14:仕事は終わって︵後書き︶ ︻第一話 了︼ 84 ◆01:幾千の酷暑を越えて 暑い。 視界の中を街路樹が急速に接近しては後方へと流れてゆく。じり じりと天に昇っていく太陽の下、遠近法のお手本のような風景を次 々と突っ切りながら、おれは必死に自転車のペダルをこぎ続けた。 暑い。 八月に突入すると、東京に居を構えている己の迂闊さというモノ を時々深刻に呪いたくもなってくる。毎日毎日丹念に、アスファル トとコンクリに塗りこめられていく赤外線の波動。それは毎夜の放 熱量を徐々に上回り、次第にこの世界をもんわりとした湿気と、縦 横に交叉する熱線で築かれた狂気の檻じみたものへと変えていくの である。特に今年は例年にない異常気象⋮⋮なんか毎年そんな事を 言っているような気もするが⋮⋮とのことらしく、もはや沸き立つ 熱気が視覚に捉えられるほどである。そうここはまさに牢獄。地獄 巡りナンバー4、焦熱地獄。リングのロープも蛇の皮で出来ていよ うってもんである。 暑い。 ⋮⋮いかん。少し気を抜くと思考がどんどん横道に逸れていく。 おれは自転車の籠に放り込んであるペットボトルを取り出し、少量 口に含んだ。一応防熱カバーをかぶせてあるはずなのにすっかり温 くなってしまっている。ただいまおれに携帯が許された水分はこの ペットボトル250ml一本のみ。それももはや過半を使いきり残 りはごくわずか。必死に自転車を漕ぐおれの背中に、近頃の環境汚 染で色々とヤバイ種類の波長を含んでいそうな太陽光線がざすざす と突き刺さってゆく。Tシャツに覆われた胴にはひたすらに熱が篭 り、覆われていない二の腕から先はむしろ塩を擦りこまれているが ごとき痛みだった。 85 暑い。 街道沿いにいくつも見かけるコンビニが、涼んでいけよ、冷たい 飲み物もここにあるぞ?と脳内のエセ天使どものごとき誘惑を投げ かけてくるのを必死に振り払いペダルを踏み込んでゆく。一度コン ビニに入ってしまったら再び気力を奮って自転車に跨れる自信はま ったくなかった。それにどのみち、コンビニで飲み物を買えるほど 財政に余裕があるなら、最初から私鉄に乗って悠々と冷房の効いた 車内を満喫している。目下のおれの所持金は六十五円。あと十五円 あれば小ぶりの紙パックのジュースが買えると言うのに、そんな思 考すらも振り捨てて、必死に新宿は高田馬場を目指して自転車を進 めてゆく。 暑い⋮⋮。 体内物質の残量を把握することは、おれにとっては容易い。しか し忌々しいことに、把握できているからこそ、今体内に残された水 分が深刻な状況に陥りつつある、という事態が極めてリアルに理解 できてしまう。忌々しくも猶予は無い。そして何よりも、あの忌々 しい事務所にたどり着けなければ生き延びることが出来ないという 状況こそが最も忌々しい。そんな思考を神経に巡らせる脳内放電す ら惜しみ、おれは疾走した。 ︱︱そもそもの事の起こりは八月の頭。ちょっとした個人的な事 件に遭遇し、その際に︵おれにとっては︶大量の経費を支払ったの が発端である。そのうえ後遺症のひどい頭痛で寝込むはめになり、 アパートの自室で食事もままならない状態に陥ったりしていた。横 になっていれば体調も良くなるだろうとタカをくくっていたが、じ りじりと上昇しつづける真夏の室温はおれの体力をむしろ奪ってい った︵ちなみにエアコン付きの部屋などというものは、おれの入居 時の選択肢にそもそも存在していなかった︶。 そうして三日後。事ここに至ってようやく、これは援軍が来ない 篭城戦に過ぎないという事態を認識した。そして死力を振り絞って どうにか起き上がってみれば、元々乏しかった財布の中身はエンプ 86 ティ、冷蔵庫の中身はスティンキィ、おれの腹はハングリィ、と綺 麗に韻を踏んだ状態だったのである。とにもかくにも、生命活動を 維持しなければならない。これでも死んでしまうと色々と彼方此方 から文句を言われる身である︵文句を言う奴ほどおれの生活を援助 してくれないのだが︶。そうしてふらつきながらようようアパート の扉を開き︱︱周囲に広がっているこの焦熱地獄を改めて認識した、 とまあこういうワケである。このまま資金もなく外に出ては半日も 立たずに物理的に死亡が確定するだろう。熱波という兵力にぐるり と包囲されての兵糧攻め。ついでにいうなら保険証は学友に借金の カタに貸し出し中のため病院も不可。進退窮まったおれに、まだ止 められていなかった携帯電話からメールの受信音が鳴り響いたのだ った。 ﹃仕事。即日。前金。﹄ 差出人は言うまでもないがウチの所長である。たった六文字三単 語は、まるでこちらのシチュエーションを全て把握しているかのよ うな三点バーストで的確におれを貫いた。おれは時計を見やる。電 車に乗るカネもない。しかし残された僅かな余力をかき集めればな んとかここから高田馬場までの自転車通勤は可能だった。 そんなワケで、おれに選択権は無かったのである。⋮⋮いや、ま あ。いっつも無いんだけどね。 ﹁で、丸一時間かけてこの炎天下を走ってきた、と﹂ 今日もサマースーツを颯爽と着込んだ所長が、呆れ顔で見下ろし ている。 ﹁君って間抜けなようで計算高いようで、時々とんでもなく間抜け よねぇ﹂ 電話くれれば迎えに行くぐらいはしたわよ?と所長は述べる。 ﹁⋮⋮﹂ 事務所の床に大の字にひっくり返っているおれにはもはやコメン 87 トを返す気力も無い。そもそもこんな行動を選択する時点で充分に 脳がやられていたと思われる。 ﹁ホント、熱中症を甘く見ると痛い目にあうわよ?脳細胞が物理的 に煮えちゃうんだからね。君の唯一の資本なんでしょ﹂ ﹁面目ないっす⋮⋮﹂ ﹁っていうか、よくこんなになるまで部屋で寝てられたよね﹂ 炊事場から戻ってきた真凛が、水で濡らしたタオルをおれの顔に 乗せる。ここにいるという事は、今回もこ奴とコンビを組むはめに なったようだ。 ﹁⋮⋮鼻と口を⋮⋮塞ぐな⋮⋮それから⋮⋮タオルはちゃんと絞れ ⋮⋮﹂ などと言いつつ、タオルごしに吸い込む水蒸気でも今のおれには ありがたい。 ﹁スポーツドリンクも買ってきたんだけど、文句言えるくらいなら 要らないかな﹂ ﹁⋮⋮嘘ですゴメンナサイ⋮⋮申し訳アリマセンでした真凛サマ⋮ ⋮﹂ はいはい、と手渡された缶飲料を少しずつ口に含み︵すでに一気 に摂取すると逆に危険な状態だった︶、おれは全身の調節機能を徐 々に回復させ、水分を体内に染み渡らせていく。真凛がしょうがな いなあと言いつつ、机にあった下敷きでおれを扇ぐ。首もとを撫で る風が心地よかった。 ﹁でもさ。いくら何でももうちょっと早く誰かに連絡するなりしな かったの?﹂ ﹁そう言わないであげなさい真凛ちゃん。男の一人暮らしなんて一 歩間違えれば、それはもう都会の孤島、コンクリートジャングルの 哀れな被捕食動物に過ぎないんだから﹂ 亘理君は友達もいないしねえ、とつけ加える所長。 ﹁⋮⋮ひどい言われようですが、概ね正しいですよ﹂ 半身を起こし、真凛から再度缶を受け取って今度は一気にあおる。 88 脳内の化学物質をちょいちょいといじって血流を増加。血管に急速 に水分を補充してゆく。一瞬視界がブラックアウトしかけたが、そ れを乗り切ると見違えるように気分が良くなってきた。 ﹁頭痛はどう?亘理君﹂ ﹁おかげさんで吹っ飛びましたよ﹂ 三日も経てばそろそろ収まってくれないと困る。 ﹁ついでにその、カロリーの類も補給させていただけると誠にあり がたいのですが﹂ ﹁じゃあ頑張って仕事しようね!﹂ 鬼。 ﹁一人暮らしって大変なんだねえ﹂ ﹁ウム。自宅通学のお前にはこの苦労はわかるまい﹂ ﹁今度なんか作りにいってあげよっか?﹂ ﹁⋮⋮おれお前に殺されなきゃならないほど恨まれてたっけ?﹂ 致死劇物を食わされてたまるか。ぐあっ、下敷きで縦に殴るな、 っていうかお前が振り下ろすとむしろ斬撃だ。 ﹁して。そのまあなんというか﹂ おれは携帯を弄び、言葉を濁す。 ﹁安心しなさい。寛大な依頼人に感謝することね﹂ 用意していたのだろう、所長は内ポケットから封筒を抜き出すと、 おれにぽん、と手渡した。 ﹁おっおおうっおおおぅっ﹂ 何だかあんまり他人には聞かせられないような喘ぎ声を漏らして しまったが勘弁して欲しい。久しぶりの諭吉先生はおれのココロを 絶頂に導くに充分であったのだ。 ﹁今日のお昼はちゃんと食べなさいよ?まずは体力をつけないとね﹂ ﹁あっありがとうございます所長ぅっ﹂ 力士宜しく手刀を切って封筒を押し頂くおれ。ああ何とでも言う がいい、貧乏の前には誇りなど二束三文で売ってみせるともさ。 ﹁じゃ、亘理君。オーダーよろしく!夜から直樹君も合流するから 89 頑張って!﹂ 所長はおれが前金を受け取るや否や、さっさとジャガーのキーを 引っ掛けて上機嫌で外に出て行こうとする。そのあまりの上機嫌っ ぷりに、おれの心にふと疑念の黒雲が沸いた。 ﹁あのう、所長。またなんか企んでたり、しませんよね?﹂ 弊方の質問事項に対する我らが嵯峨野浅葱所長の回答は以下の通 り。 ﹁なんか企んでたら前金返す?﹂ ﹁まさか﹂ じゃあどっちでもいいでしょう、と言い残して、所長はとっとと 去っていった。おれに残されたのは前金と、そしてその封筒から出 てきたオーダーシートと、何かのカギのみ。 時に思う。超能力やら格闘技やら人間外の遺伝子やらがあるだけ で白飯が食っていけるのなら、世の中苦労はしないよなあ、と。 90 ◆02:ハウスシッターというお仕事 涼しい。 ﹃涼﹄、なんていい言葉だろう。だいたい字面からして良い。水 と京という清爽なイメージがまた素敵だ。清涼、涼風、涼雨。女性 の名前でも涼子ってのがあるし。おれは前金を崩して買い込んだハ ーゲンダッツのアイスクリームの裏ぶたを舐めまわしつつそんなこ とを思考した。ただいまエアコンの設定温度は18℃。節電重視の このご時世、電力会社のマスコットキャラクターに怒られそうな最 大出力である。 ﹁なんかビンボーくさいなあ﹂ そんなおれの様子を眺めやって呟く真凛。いやまて、みんなやる だろう?ショートケーキの周囲を覆っているフィルムに付いてるク リームを舐めたりとかさ。 ﹁やんないと思うなあ﹂ 馬鹿な。人としてのごく自然な所作のはずなのに。 ﹁じゃあせめてフタをスプーンで掬ったりとかは﹂ ﹁五十歩百歩だと思うなあ﹂ そんな会話を応酬しながらフローリングの床に座り込み、ハーゲ ンダッツのバニラをひょいひょいと口の中に放り込む。胡座をかく おれとは対照的に、対面の真凛はフローリングに直に正座している。 さすがに夏休みにまで制服は着ていないようで、本日の服装はサイ ズの一回り大きいワンポイント入りTシャツとショートパンツ。ス トリートバスケに向かう中学生のような出で立ちはますます性別の 判定を困難に⋮⋮うん、視線がなんか冷たいので省略。ともあれ、 体内に残留している熱気をアイスクリームが次々と討伐してゆく様 を味わいながら、おれは至極幸せな気分に浸っていた。近場の学生 向けの食堂でがっちり巨大メンチカツセットを平らげてきた今、エ 91 ネルギー充填も完璧である。 ﹁で。とりあえずはこの快適な部屋の中で居座っていればいいって わけだな﹂ おれは周囲、つまりは千代田区内のとあるマンションの一室を見 回した。 ﹁快適な部屋、って言っていいのかなあ﹂ こちらはハーゲンダッツのチョコレートを口に運びつつ、真凛が 呟く。 ﹁まあいいんじゃないか。少なくともこいつらのおかげで冷房つけ っぱなしが許されてるわけだし﹂ おれは手元にあった丸いものをぽむぽむ、と叩く。 それは、バスケットボールほどの緑の玉に黒いスジが入った果物 だった。言わずと知れた夏の名物、スイカである。夏の部屋にスイ カ。珍しくも何とも無い光景である。本来は。 問題が二つ。 一つは、それが冷蔵庫に入っているのでもテーブルに乗っている のでもなく︱︱床に無数に置かれたプランターから﹃生えて﹄いる ということ。 二つ目は、その数であった。 ﹁七十はあると思うけど。ちょっと数えられないよ﹂ 空になったアイスクリームのカップを、持参したコンビニの袋に しまいこんで一つ息を継ぐ真凛。そう言うのもムリは無い。煌々と 照らされるライトの下、おれの手前にはスイカ。右にもスイカ。左 にもスイカ。真凛の周りにもスイカスイカスイカ。視界上下左右、 全てスイカ。床一面を埋め尽くし、さらに層をなして山となってい る無数の大玉のスイカたち。おれ達は今、マンションの一室の中で はなく、スイカの海の中に居るのだった。 ﹁なんていうか。こう現実離れしてると好き嫌い以前の話って気が する﹂ 確かに。おれは空カップをコンビニ袋に放りつつ頷く。至近距離 92 からのシュートだったのだがあっさり外れて、隣のスイカにぺこん、 とぶつかった。シュール極まりない光景を見るにつれ、改めて何で こんなことになったのやら、と思い返さざるを得ない。 ﹃東京都千代田区のマンションの一室にて、依頼人﹃笹村周造﹄氏 が帰宅するまで留守を預かるべし﹄ オーダーシートにはその一文と、依頼人の名前とマンションの詳 細な住所、そして合鍵が同封されていた。おれ達は昼を高田馬場で 済ませたあと、高田馬場から地下鉄を使って指定の住所にやってき たのだ。そこは秋葉原に程近い、千代田区外神田にあるオートロッ ク式の新築高級マンションだった。外壁はぴかぴか。塗料の匂いが 漂ってくるほど真新しい。 今回おれ達が受けた仕事は﹃留守番﹄である。その仕事は文字通 りの﹃留守番﹄。つまりは人が家や部屋を空ける時に代わりに居座 って番をする、というものだ。何をしょうもないことを、と仰る向 きもおられるかと思うが、おれ達の業界ではこれがなかなかどうし て需要が多い。一番良くあるのは、ペットを室内で飼っているのに 長期に部屋を空けなければならない一人暮らしの方の代理。この場 合はペットの散歩や餌やりなどの仕事も必要となる︵そう言えば、 クロコダイルに毎日生肉をあげるハメになった奴もいた︶。そして 次に多いのが防犯。長期不在の間に空き巣が入らないよう、適度に 明かりをつけたり部屋の雨戸を開けたりして、﹃人が住んでいる感﹄ を演出するというもの︵当然、こちらが信頼されていることが絶対 条件となるが︶。時には空き巣と遭遇し、犯人をとっちめる、とい う展開もありえる。そして、その次に多いのが、アリバイ作り。 ﹁アリバイ、ってもしかして、犯罪に使われたりとかするわけ?﹂ ﹁いやあ。単身赴任の旦那さんが浮気で外に出ている間、ご近所に 部屋にいるように見せかけたりとか。ウソの住所を彼氏に教えてる 女の子の兄貴の役を演じたりとか﹂ ﹁⋮⋮殺人事件でウソの証言するのとどっちがいいか迷うよね、そ 93 ういうの⋮⋮﹂ 道中、真凛が心底情けなさそうな表情で感想を述べたものだ。い い加減おれ達の仕事がそうそう格好良いモノではないという事がわ かってきた模様。ザマを見さらせ。 ﹁まっ。数ある仕事の中でもダントツに楽な部類に入るのは確かな ことだぜ﹂ 何せ部屋の中でごろごろしてれば金がもらえるわけだからな。健 康体であろうが熱中症でぶっ倒れていようが、部屋の中でやること と言えばごろごろするだけ、というおれのような人間としては願っ たりかなったりの仕事である。間取り図によれば室内は1DK、ダ イニングと部屋が引き戸で区切られており、おれと真凛が手足を伸 ばしても充分過ぎるスペースがあるはずだった。その上新築で冷暖 房完備とあれば言う事は無い。所長もたまにはいい仕事を回してく れるものである。そんなことを考えつつ、おれは鼻歌交じりで渡さ れた合鍵でドアを開け︱︱そして、絶句したのだった。おれ達を出 迎える、ダイニングと部屋にあふれる生い茂ったスイカの山、山、 山。ごろごろするどころか、ごろごろしている。 ﹁⋮⋮何これ?﹂ 真凛の率直極まりない疑問にもおれは返す言葉がない。最初は本 気でここは八百屋かと思ったほどだ。もしくは野菜冷蔵室か。とこ ろがここは都内の高級マンションの一室に相違なく、部屋にあるの はただ無数のスイカと、それを冷やすためだろうか、全開で稼動し ているエアコンのみ、だった。 それでも、こんな異様な光景も三十分ほど過ぎるとそれなりに慣 れてしまったりするあたり、自分が怖い。文字通りのハウス栽培の せいか、スイカの蔓には虫などもついていないようだ。で、今おれ 達は周囲のスイカどもをかき分けてスペースを作り、どうにか居場 所を確保しているというわけである。アイスクリームを片付けてし まったおれはザックを枕にして横になった。 ﹁良くこんな所で寝れるよね﹂ 94 ﹁タフだと言ってくれタマエ﹂ ﹁いつもごちゃごちゃした部屋に住んでるからじゃないの?﹂ ﹁失礼な。おれの部屋は結構キレイだぞ?﹂ これはそれなりに自信がある。意外に思われるが、おれは割と部 屋は片付いているほうだったりする。もっとも、ごちゃごちゃモノ があるのは好きな方ではないので、散らかっていないというよりは 不要なものはさっさと捨ててしまう、という方が正しいのだが。 ﹁むしろお前の部屋の方が散らかったりしてるんじゃないか?﹂ 日ごろのガサツっぷりを拝見するに。 ﹁えっと。お手伝いさんが時々掃除に来てくれるから﹂ このお子様に世間の荒波を今すぐ叩き込んでやりてぇ。 ﹁で。この部屋の持ち主、ええっと。笹村さんってどんな人なの?﹂ ﹁どっかの会社の研究員らしいけど﹂ ﹁ってことは。このスイカと関係が?﹂ ﹁さあ。知らね﹂ 率直過ぎるおれの返答を受けた真凛がのけぞる。 ﹁し、知らないって、いくらアンタでも無責任すぎない?﹂ ﹁無責任も何も。﹃依頼人の素性には関与しないこと﹄ってのがこ の依頼の条件だからな。むしろおれは立派に責務を果たしているぜ ?﹂ 事実である。この手の留守番の仕事にはとかく後ろめたい依頼人 が多かったりするので、素性や依頼の理由については知らされない 事の方がむしろ多いのだ。もちろん情報ゼロで契約を結ぶほどこの 業界は阿呆ではない。﹃危険はない﹄事を示す高額の保証金を預か るかわりに、一切素性や理由に干渉しない、とか、依頼人と派遣会 社の間でのみ守秘契約が結ばれており、おれ達のような下っ端実働 部隊には詳細が知らされていない、なんてのが良くあるパターンだ。 ﹁それって、実はすごく危険な任務だったりするんじゃない?﹂ だからどうしてお前はそういう台詞を凄く嬉しそうに言うのか。 ﹁スイカの番をするのが?﹂ 95 ﹁うぐ﹂ とはいえ、確かに異常な状況ではあるのだが。 ﹁高級マンションの室内で野菜を栽培。室内菜園は今日び珍しくな い趣味だしな﹂ ﹁趣味、なのかなあ﹂ ﹁数が桁違いに多いことを除けば、な﹂ とはいえおれ自身も本当にそれで納得したわけでは無いが。 ﹁まあ、本当にリスクがあるんだったら、留守をどこの馬の骨とも 知れない派遣社員なんかにゃ任せんよ。警備なら警備で、こないだ 会った門宮さん達の仕事になるさ﹂ 例え何か途方も無い陰謀があったとしても、﹃何かをしなければ いけない﹄のではなく、﹃何もなければそれでいい﹄のだ。そうい う意味でも﹃楽な仕事﹄ということ。おれは寝そべったまま、ザッ クから雑誌や文庫を取り出す。これもハーゲンダッツと一緒にコン ビニで買った物だ。何冊かと事務所から持ち出してきたクッション を真凛に放りやると、おれはこの間門宮さんから教えてもらったフ ァンタジー小説を読み始めた。ジュースやスナック菓子も引っ張り 出して完全にカウチポテトを決め込む。ちなみに水や電気は常識的 な範囲内では自由に使ってよいとのお触れも頂いており、周囲から 無言のプレッシャーを加えてくるスイカ君たちとその甘い香りにさ え慣れてしまえば、まったく天国のような仕事だった。 ﹁うーうーうぅ。でもなあ、それだとあんまり意味がないって言う か﹂ ところが真凛はお悩みのご様子。そんなにこないだみたいなバケ モノとガチやりたいのかねこのお子様は。 ﹁それはそうだよ。フレイムアップと関わって、自分が今までいた 世界よりはるかに強い人たちがいる領域を知ったからこそ、このお 仕事を始めたんだから﹂ それまでは新宿ストリートでも実家の交流試合でもほとんど負け なしだったのだから、真凛にとってはそれは人生を一変するほどの 96 一大事だったのだろう。かくて﹃ボクより強い奴に会いに行く﹄理 論のもと、七瀬真凛はウェイトレスもレジ打ちもやらず、はたまた ショッピングや部活動に明け暮れることもなく、女子高生としての 夏休みをこんな所でスイカに埋もれて過ごしている。金に困ってい るわけではないのに。そういう屈託のなさが、少しばかりおれには 好ましく、そして羨ましい。 ﹁そう言えばさ﹂ 難儀な顔をして文庫版﹃ガラスの仮面﹄を読んでいた真凛が顔を 上げる。 ﹁あんたは何でこんな仕事始めたの?﹂ あれ?言ってなかったっけか。 ﹁よくあるだろ?社会勉強を通じた自分探しの旅だよ﹂ は?と真凛が呆け面をする。 ﹁﹃おれがこの世に生まれてきた理由﹄を見定める、って奴さ﹂ ﹁⋮⋮冗談だよね?﹂ ﹁冗談だよ﹂ カッコつけすぎ、と真凛は文庫本に視線を落とす。実際、仕送り 無しの学生は何かにつけて金がいる。花の東京一人暮らし、全く金 銭的には楽ではないのだ。と、真凛が文庫を読み進めながら、でも それならわざわざこの仕事でなくてもよかったんじゃない?などと 問いかけてきた。 ﹁まあ、出来ることから逆算してったらこうなったんだよ﹂ おれは素っ気無く答えてチョコレートに手を伸ばそうとして、そ の手は空中に止まることになった。 部屋の電話が、鳴り出したからだ。 97 ◆03:電話番も立派なお仕事 ﹁ふむ﹂ 規則正しく鳴りひびく電子音は、携帯電話の着信音に囲まれて暮 らしている学生からすると随分と新鮮に感じる。電話はおれ達が今 いるベランダ側とは反対、入口側にあった。直線距離で大股三歩だ が、このスイカの海を掻い潜ってたどり着くのは容易なことではな い。 ﹁こういう場合はどうすればいいの?﹂ ﹁依頼人の希望に従うとするさ﹂ おれは焦らずオーダーシートを取り出す。留守番任務なのだから 当然、来客や電話があった時の対応の仕方は依頼人に確認している。 ﹁電話があった場合は出て、必要なら伝言を受けておくこと、だと さ﹂ よっこらせ、とおれはスイカの海を踏まないよう慎重に歩を進め、 受話器をとりあげる。ふと、今この部屋で地震が起きたらおれ達は 間違いなくスイカで圧死できる事に気が付いて愕然とした。 ﹁もしもーし﹂ いかんいかん、ついつい自宅の調子になっちまう。 ﹃⋮⋮⋮⋮﹄ 受話器の向こうから返ってきたのはステキな沈黙。 ﹁もしもし。ちょっとお電話遠いようですが?﹂ ﹃⋮⋮⋮⋮﹄ どうやら電話機のトラブルではないらしい。しかたない。こちら から話しかけてみるとするか。 ﹁やあハニー。シャイなハートが君のチャームなポイントだが、エ ニイタイムシークレットもミーにはノットソーグドですヨ?サムタ イムにはアグレッシブなパッションでメルティナイトをエンジョイ 98 ハッスルで如何ですカ?トゥデイのアンダーウェアはレッドオアブ ラック?ハァハァ﹂ ﹃⋮⋮⋮⋮﹄ ぶつ、と回線が切られ、あとは無機質なトーン音へと切り替わっ た。 ﹁⋮⋮﹂ 発信は当然非通知だった。 ﹁誰からだったの?﹂ ﹁三つ編みお下げが似合う純朴女子中学三年生。好きな人の前では 上がっちゃって声が出せない性格なんだろうなあ﹂ 投げやりに答えて受話器を置く。モジュラージャックに高速逆探 知システム﹃追ッギーくん﹄でもかましてやろうかとも考えたが止 めた。そこまでの金はもらっていないはずだ。この手の任務で脅迫 電話や無言電話にいちいち取り合っていたらキリがない。社長がヤ ミ金融に金を借りて遁走した会社の留守番を勤めたときなんぞ、脅 迫電話の度に受話器を取っていたらやっていられないので、車載用 のハンズフリー器具をセットしたものだ。おれは再び元の位置に戻 り、何事もなく再び文庫本を広げた。 ﹁ちょっと冷房強すぎないかな﹂ おれは顔を上げた。物語は佳境に入っており、クトルゥフ神話張 りのバッドエンドに向けて主人公達が次々と非業の死を迎えている ところだった。ふと時計を見れば、もう夕方に差し掛かっている。 さすがにいつまでも18℃でエアコンを回していると肌寒さを感じ る。おれは温度設定を25℃まで引き揚げてやった。 ﹁むう。困ったな﹂ ﹁どうしたの?﹂ ﹁いや。実はな。オーダーシートに明記してあるんだ。﹃エアコン は決して切らない事﹄、ってな。温度は25℃以下に保たなければ いかんそうだ﹂ 99 つまり、エアコンをつけっぱなしで数日過ごさねばならないわけ だ。涼しいのは大好きだが、寒いとなるとまたちょっと話は別であ る。 ﹁結局、依頼人が帰ってくるのは明後日なんだよね?﹂ ﹁ああ﹂ オーダーシートにはきっちりその旨が明文化されている。おれ達 の仕事はそこまで。仮にその時刻まで依頼人が戻ってこなくても知 ったことではない。あるいは別料金で延長分を引き受けるか、だ。 ﹁ん∼。じゃあしょうがないか﹂ 真凛はすい、と立ち上がる。と呼吸を整え、 ﹁へえ⋮⋮﹂ 七瀬の流派だろう、武術の型を演じ始めた。別に真凛が急におれ に踊りを見せたくなったわけではない。古武術ではウェイトトレー ニングで局所的に筋肉を鍛えるより、己の理想とする動きをイメー ジしつつ地道に型を繰り返すほうが、その動きに必要な筋肉を効率 よく鍛錬出来る、とかどこかで聞いたことがある。ヒマを持て余し た真凛が鍛錬を始めたということだろう。その証拠に、冷涼な室内 にも関わらず五分もするとたちまちその額に汗が浮き始めた。その 型は極めて緩やかだったのだが、迂闊に間合いに踏み込んだらどん な体勢からでも反撃を繰り出してきそうな雰囲気を醸し出している。 その様を何となく眺めていると、ひとつ大きなくしゃみが飛び出 て身震いした。いかん。さすがにこのまま夜を過ごすとなると、今 度は風邪を引くハメになりかねん。一度自宅に着替えを取りに戻る か。そんな事を考えたとき、 ぴんぽん、と間抜けな音共に今度はインターホンが鳴った。 ﹁はい﹂ ちなみにこういう場合はあまり不必要なことを喋る必要はない。 相手が依頼人の知人だった場合に、変に誤解されて警察でも呼ばれ ると何かと対応がやっかいだ。さすが高級マンション、新聞勧誘や 訪問販売の類はホールでシャットアウトしてくれる。先ほど同様に 100 スイカの海を泳ぎインターホンにたどり着く。ホールの監視カメラ が捕らえた映像がそこに映し出される。カメラの向こうに居るのは 荷物を小脇に抱えた宅配便のおっちゃんであった。カメラの向こう 側でごくメジャーな宅配便会社の名前を名乗る。 ﹃お荷物をお届けに伺いましたっ!﹄ ﹁ありがとうございます﹂ それにしても宅配便の人というのはどうしてこうヤケっぱち気味 にテンションが高いのか。やっぱりテンションを上げていかないと 務まらないほど辛い業務⋮⋮いや、それはいい。ともあれ、おれは 手元のオーダーシートをめくった。しがない派遣社員はマニュアル に従いますともさ。 ﹃玄関を開けていただけますか?﹄ ﹁すみませんが本日特に荷物が届く予定はありませんが?﹂ おっちゃんはちょっと面食らったようだった。 ﹃特急便ですので。まだ御宅に連絡が行っていないのかもしれませ ん﹄ ﹁申し訳ありませんが後日改めて連絡させていただきますので、本 日はお引取りお願いできますか﹂ ﹃は。しかし特急便ですのでお早い方が⋮⋮﹄ ﹁いえ。特急便を遅く受け取ったことによる損害はこちらの責任で す。そちらにはご迷惑はおかけしませんので﹂ 一瞬の沈黙があった。 ﹃わかりました。それではまた後日お伺いいたします。お騒がせし ました!﹄ 映像の向こう、宅配便のおっちゃんは去っていった。おれはポケ ット手帳にオーダーシートを仕舞いこむ。 ﹁まあ、ナマモノでもなかろうし気にすることもないだろ﹂ おれは特に気にも留めなかった。損害は依頼人のせいなわけだし。 101 ◆04:絶世のダメ人間 時刻も午後七時を回ると、真夏とはいえ辺りは暗い。散々日本全 土に熱線をばら撒いた太陽が退場しても、熱気どもは相変わらず傍 若無人の限りを尽くしている模様だ。 ﹁さて。そろそろ交代だな。直樹の野郎が来るはずだ﹂ おれは呟く。もともとこんな留守番の任務を一人二人で延々とこ なしていては気が詰まってしまう。昼夜交代しつつ張り込むという のが典型的なパターンだ。もっとも、おれのように自室より居心地 が良かったりする場合はまた別なのだが。 ﹁もうそんな時間かぁ﹂ ようやく﹃ガラスの仮面﹄を読み終えた真凛が肩をまわす。この 部屋に入ったのは午後三時ごろだから、おれ達は他愛ない話と文庫 本で四時間をつぶしたことになる。 ﹁おなかすいたなあ﹂ ﹁夕飯は実家だったか?﹂ ﹁そうだよ。陽司の麻婆豆腐が食べられないのはザンネンだけど﹂ ﹁抜かせ。お前の家なら豪華和食がてんこ盛りじゃないか﹂ 一度事務所の冷蔵庫の残りもんを処分するために麻婆豆腐を作っ たことがあるのだが、どうもウチの連中には好評だった模様。中華 は一人暮らしの強い味方です。炒めれば多少食材が古くたってわか らないしね。それはさておき、未成年を泊り込みで働かせるのは何 かと不味いので、真凛はここで交代。明日の朝に再合流ということ になる。 ﹁最近は変なのが多いからな。気をつけて帰れよ﹂ ﹁心配しなくても大丈夫だよ。ここからなら地下鉄で一本だし﹂ ﹁そうか。もし変なのにからまれても、病院送りまでに留めとけよ﹂ ﹁ボクは今リアルタイムでからまれてるわけだけど、病院送りでい 102 いのかな?﹂ おれ達がそんなくだらないやり取りをしていると、玄関のインタ ーホンが再度鳴った。どうやら交代要員が到着したらしい。 ﹁で、だ。当然予想は出来たことだが。いい加減に何とかならんの か、それ﹂ おれは部屋に入ってきた男を一瞥するなり、初弾を放って迎撃し た。 ﹁ふむ。雅を解さぬ貴様には到底理解は出来ぬであろうな﹂ 腹の立つ男だ。歳の頃は二十歳前後。一応戸籍上は十九歳だった はずだ。すらりとした長身、一見華奢に見えるがバレエダンサーの ように絞られた体格。そしてモデルのような小さな顔にシャープな 輪郭と白い肌。なにより印象を決定付けるのが、星が流れるかのよ うな長い銀髪と、インペリアルトパーズを思わせるやや吊り気味の 茶色の瞳。ついでに鼻に乗せてるメガネが理知的なイメージをより 強化している。要するに非の打ち所のない色男というわけだ。って いうかムカツク。服装はというと、薄手とはいえこのクソ暑いのに かさきり リッチモンド なおき 長袖のタートルネックなんぞを着込んでいる。 笠桐・R・直樹。自称日英ハーフのこの男が、おれ達﹃フレイム アップ﹄のメンバーの一員にして、今回のミッションの三人目のメ ンバーなのであった。十人近く居る事務所のメンバーの中でも、こ いつとおれは特に昔から因縁が深い。とにかく一緒に並んで街を歩 きたくない男なのである。老若の女性をひきつけてやまない顔立ち もそうだが、主だった原因は、 ﹁それにしても何なんだその馬鹿でかい箱は。というかてめえ、そ んなものをどこから持ち込んできやがったんだ﹂ 玄関口からスイカの海を乗り越えてきた直樹が右手にぶら下げて いるのは、長期海外旅行用のスーツケースに匹敵するほどの馬鹿で かい箱である。大手電気店兼サブカルチャー品取扱店の包装紙で厳 重に梱包されており、﹃そういった類﹄のものであることを雄弁に 103 物語っている。 ﹁同時に二つの質問をするとは、相変わらず性急な男だな貴様は。 順番に答えよう。まず一つ目、この箱の中身だが︱︱﹂ ﹁あ、いいやっぱ聞きたくねえ﹂ ﹁︱︱明日発売、﹃サイバー堕天使えるみかスクランブル﹄ブルー レイBOXと、初回特典のコンプリートフィギュア十三体コレクシ ョンだ。ブルーレイの方は放送時にカットされた映像の完全版と監 督および声優陣によるオーディオコメンタリーを収録。フィギュア は長いこと立体化が望まれていたサリっちこと第十一堕天使サリエ ルとナス美こと第十二堕天使サルガタナスがついに出揃っている。 当然ながら凄まじい人気でな。予約を逃したために本日開店前から 並ぶ羽目になった﹂ ワケの解らない単語を並べるな。っていうかサリっちだのナス美 というのは誰がつけた愛称なんだ。そもそもどこが当然なんだ。 ﹁で、てめえはそれを買うために夏の朝っぱらから秋葉原の店頭に 並んでいた、と﹂ ﹁朝ではない。昨夜からだ。さすがに日差しがきつくなってくると 堪えたが、何、苦労に見合うだけの成果はあった﹂ 阿呆だ。阿呆がここにいる。 ﹁そして二つ目の質問だが︱︱。包装紙から判るように秋葉原の某 大手電気店ということになる。そしてここは同じ千代田区。購入後 ここまで歩いてくることなど造作も無い﹂ ﹁物理的には造作も無いだろうよ。で、お前はそんなもんぶら下げ て天下の公道を歩いてきたというわけだ﹂ ﹁正確には日没まで一日中秋葉原を散策していたわけだがな。戦利 品も中々のものだぞ﹂ 良く見れば左肩に下げた鞄はみっちりと膨れている。おれには良 くわからんが本やらポスターやらをまたぞろ大量に買い込んだのだ ろう。そう、これがコイツと並んで街を歩きたく無い理由。ほとん どの女性が嘆息する外見とは裏腹に、コイツはアニメや漫画、ゲー 104 ムの美少女にしか興味がないのであった。 おれ以上に稼いでいるくせに、こいつの生活レベルはおれより低 い。稼いだ給料をこいつは惜しげもなくこの手のグッズに投入して いるせいだ。 ﹁お前の戦果報告なんぞどうでもいい。そんなもん職場に持ち込む なよてめえ﹂ ﹁留守番任務に関しては、私物の持ち込みは認められているだろう。 始終小物を事務所に置きっぱなしにしている貴様には言われたくな いな﹂ ﹁おれが持ち込んでいるのはせいぜいが健康グッズの類だ。ちゃん と職場にだって貢献しているだろうが﹂ しがない貧乏人たるおれのささやかな趣味は健康グッズの収集で ある。足のツボを刺激するサンダルとか、目元を冷やすジェル型の シートとか、そういったものをときどき買い込んでは事務所に並べ ている。人間健康第一ですよ?小うるさいコイツや、もともと健康 馬鹿の真凛あたりには事務所が散らかると不評なのだが、他の連中 には概ね好評なのだった。ちなみに﹁腕の引き締め﹂﹁肌をキレイ に﹂などとサブタイトルがついているグッズはだいたい一週間を過 ぎた辺りで行方不明になる。現場をつかんではいないが、所長あた りが持ち帰っているだろう事は想像に難くない。 ﹁とにかく。次の交代の時には自分の部屋に持って帰れよ﹂ このスイカの海にそんなクソでかい箱と何かがみっちり詰まった バッグを置かれては、ますます足の踏み場も無い。ていうかそんな 密室状態でこいつと同じ部屋に居たくねえ。 ﹁了解した。俺としても大切な姫君たちをこのようなスイカの海に 眠らせておくのは忍びない﹂ うげ。姫君ってまさかその人形の事か。 ﹁直樹さん、お久しぶりです﹂ 帰り支度をしていた真凛がおれ達のほうにやってくる。 ﹁やあ真凛君。先日貸した﹃決戦竜虎﹄は読み終わったかい?﹂ 105 ﹁うん。凄く面白かったですよ∼。ボクはやっぱり竜の英俊さんで すね。虎の涯もかっこいいけど﹂ スイマセン、君らの使う単語が理解デキマセン。 ﹁あ、﹃サイバー堕天使﹄のブルーレイ買ったんですね。これって ひょっとしてラファエルの最終奥義発動のシーンも入ってます?﹂ ﹁無論。この話だけちゃんと延長されているそうだ﹂ ﹁わかってるなあスタッフ﹂ ﹁⋮⋮あの。それってそんなにメジャーなアニメのか?﹂ おれは恐る恐る尋ねる。 ﹁﹁常識だ︵だよ︶﹂﹂ ソウナンデスカ。何時の間におれは世間の常識人から外れてしま ったのだろう。ちなみにそれから四十分ほど、真凛と直樹の二人が かりで﹃サイバー堕天使﹄のシナリオとキャラクターの魅力につい て懇々と諭されてしまった。結果、そのアニメに登場する十三体の ロボットの形をした堕天使と、それぞれを守護天使に持つ女の子の 名前を覚えた事が、本日唯一のおれの成果であった。 106 ◆05:お宅訪問︵深夜︶ あれやこれやで真凛が帰ってしまうと、あたりはすっかり夜にな ってしまった。この部屋にはテレビがないので、おれは違法改造携 帯﹃アル話ルド君﹄にぶちこんだ音楽を鑑賞しつつ、相変わらずエ アコンの稼動する部屋の中で小説を読みふけっている。直樹はとい えば買い込んだ本を読み漁るのに忙しいらしく、こちらの方を見向 きもしない。典型的な学生が友人宅でまったりする時のモードだっ た。直樹はすでに夕飯を済ませていたので、おれだけがコンビニで 買い込んであった弁当を、部屋にあった電子レンジで加熱して食べ た。侘しい食事だが、一人暮らしなんて所詮はこんなものである。 ああ、どこかにおれに夕ご飯を作ってくれる優しいお姉さんは落ち てないかしら。出来れば黒髪ロングのストレートで細面だとなお良 し。 らいね ﹁お前のところはいいよなあ。美人のお姉さんと二人暮しでよぉ﹂ こいつにはお姉さんが一人いて、名を笠桐・R・来音さんという。 こちらは弟以上の超美人、しかも頭も良くて気立ても良し、さりげ なく男を立てるという、おれ的に嫁にしたい度数ぶっちぎりトップ のステキな女性なのだ。ちなみにここ最近は別件で席を外している が、普段は浅葱所長の秘書として事務所で辣腕を振るっておられる。 ﹁貴様はアレの本性を知らないからそういうことが言える﹂ ﹁身内だからといって不当に評価するのは良くないぜ?﹂ ﹁そういう事ではなくてだな﹂ そんな会話を続けながら、さらに時間は過ぎてゆく。部屋に帰る まで待ちきれなくなったのか、直樹が大ぶりなノートPCを引っ張 り出してきて、﹃サイバー堕天使﹄を再生し始めた。おれは最初は 横目に見つつ小説を読んでいたのだが、だんだんそっちの方に興味 が移ってきて、結局二人して各所にツッコミを入れつつ鑑賞してし 107 まった。気がついてみれば、すでに時計の針は午前1時を周ってい た。 ﹁さあて﹂ 事ここに到るまで先送りにしていた問題を解決せねばならない。 つまるところどうやって寝るか、という事である。交代制とは言え 三日間も続く任務となれば、仮眠を取ることを考えざるを得ない。 一応アウトドア用の防寒シートを持参しており、床で寝るくらいは 大した労ではないのだが、このスイカの海の中ではろくにそれを広 げる場所も無い。 ﹁というか、貴様と添い寝なぞ死んでも嫌だぞ﹂ ﹁そういう思考が湧き出てくるてめえと一緒の部屋に居ること自体 おれは嫌だ。だいたいてめえはもともと夜型だろうが。なんで夜寝 るんだよ﹂ ﹁つい昼ぶかしをしてしまうのでな。学生生活の悲しいサガという ものよ﹂ こいつは某PC関係の専門学校生でもある。卒業の暁には晴れて 姉と共にフレイムアップの正社員に就職するのだとか。 ﹁知ったことか。だいたいおれは朝から調子が良くないんだ。さっ さと寝させてもらうぞ﹂ ﹁たわけめ。どうせ今日一日部屋の中で呆けていたのだろう。たま には働け﹂ おれ達があーだのこーだの騒いでいると。 とんとん、と。 間抜けなノック音が、深夜のマンションに響き渡った。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ おれ達は顔を見合わせると、声を消した。おれは抜き足差し足で インターホンまで移動し、画面を確認する。エントランスに人影は ⋮⋮なし。直樹に合図を送る。直樹は一つ頷くと、玄関に向かって 歩を進めた。 108 オートロックマンションとはいえ、本気で忍び込もうとすればエ ントランスを潜り抜ける方法はいくらでもある。今も昔も防犯装置 の真の役目は﹃その気にさせない﹄事にあるのだ。という事は、こ の玄関までたどり着くこと自体、明確な意図を以ってなされたこと になる。直樹、気をつけ︱︱ 鈍い音がひとつ。ドアに接近するまで、直樹とて充分に警戒して いたはずだ。いきなりドア越しに消音銃を叩き込んでくるような輩 もいないわけではない。その直樹にして、完全に不意をつかれた。 ﹁⋮⋮ちぃっ!!﹂ 直樹が飛び退る。いや、あれは飛び退ったのではない。半ば吹き 飛ばされたのだ。細身とはいえ、長身の直樹を吹き飛ばすなど並大 抵の衝撃では不可能のはず。それに妙だ。扉そのものには何の衝撃 も音も無かったというのに!たたらを踏んで留まる直樹。スイカの 海にダイブすることだけは辛うじて避けたようだ。硬質の音を立て てドアが開く。これも、扉の向こう側からカギをこじ開けたのでは ない。例えて言うなら自然に開いたかのような。しかしその時はそ れを気にとめる余裕も無かった。何しろドアが開き、侵入者が姿を 露わにしたので。 明かりの元に踏み込んできたその姿は、このクソ暑い熱帯夜にも 関わらず、黒いハーフコートを羽織っていやがった。ズボンも黒。 ついでに目深に被ったハンチング帽、両手にはめた皮手袋も黒。顔 は陰になって確認できないが、恐らくは何がしかの覆面を被ってい るだろう、とおれは当たりをつけた。体格は間違いなく男。長身の 直樹にも勝るとも劣らない上背も相まって、異様な迫力を醸し出し ていた。 男が歩を詰める。突進先は言うまでもなく直樹だ。恐らくは、先 ほどのドア越しの先制攻撃で手ごたえに不足を感じたのだろう。ト ドメを刺す気だ。男が手袋に包まれた右手を振り上げる。 ﹁注意一秒怪我一生﹂ おれの声に男は一瞬気を取られた。事前にあれだけ騒いでいたの 109 だ、二人目が居る事は奴も当然予想していただろう。問題はおれの 声の方向にあった。すでにその時、おれはとっくにインターホンの 前から移動し、ドアの脇に回りこんでいたのである。金と力が無い のは抜け目の無さでカバー。玄関口に掃除用具が収納されていたの は確認済みですよ? おれの得意コース、内角低目から三遊間をぶち抜くライナーの要 領でフローリング用のモップをフルスイング。ステキな音を立てて 男の胴に打撃が叩き込まれた。が、 ﹁⋮⋮頑丈なお体ですこと﹂ おれの手に返ってきたのは、プラスチックの柄がへし折れる音と、 電信柱をぶったたいたような硬質の手ごたえだった。ダメージが通 ったとは到底思えない。男はおれに振り向き、今度は左手を掲げる。 ︱︱ちっとこれは、ヤバイかな?自分でも顔が引きつるのが判る。 帽子の奥から男の視線がこちらの眉間の辺りを捉えているのが感じ られた。男が左の指先をこちらに向ける。その時、素人のおれでも はっきりと感じとれた。男の掌から、何か異様な殺気が放射される のを。男は素手ではない。なにか、この体勢から﹃放つ﹄武器を持 っている⋮⋮? が。 ﹁全身が鋼鉄などという人間はな。この世に俺が知る限り一人しか 居ない﹂ 強弓から放たれた矢のような一撃が、横合いから男の喉に突き込 まれ、そのまま部屋の隅へと弾き飛ばした。男の横合いから攻撃を しかけたのはもちろん直樹。ベランダ掃除用のブラシを構え、一歩 前に進み出る。こちらもプラスチックの柄だが、人体の急所を狙っ た突きであればその破壊力はあなどれないという事だ。 ﹁さっさとしやがれ、ビビッたじゃないか﹂ おれは憎まれ口をたたき、折れたモップを放り捨てて直樹の後ろ に周る。 ﹁精神年齢を若く保つコツは、刺激のある毎日を送ることだそうだ 110 ぞ﹂ 言いつつも、倒れた男から目を離さない。 ﹁⋮⋮大丈夫かよ﹂ ﹁かすり傷、というには少々きついがな。致命傷ではない﹂ シャツの一部が破れ、赤いものがにじんでいるのが認められた。 だが今はそんなことにかまっている暇は無かった。男が恐ろしい勢 いで腹筋を収縮させ跳ね起きると、直樹に向かって右手を振りぬい たのだ。先ほど扉越しに直樹を打ち抜いたあの技か。だが一撃目と 異なり、今度は直樹の方にも準備が十分出来ている。何かはわから ないが、右手から一直線に放たれた攻撃をかわし、すでに懐に入り 込んでいた。両手に短く握ったブラシの柄が、男の鳩尾に深々と食 い込む。そして開いた間合いにねじ込むように逆手を振りぬくと、 ブラシがさながら槍の石突のごとく撥ね上げられ、男の顎に叩き込 まれた。さらに開く間合い。すでにその時、直樹は魔法のようにモ ップを旋回させ、サーベルのごとく持ち替えている。長く構えられ たブラシが一閃。再び刺突が男の喉を抉る。ど派手な音がして、男 がキッチンになだれ込んだ。深夜のマンションで騒ぐと近隣からの 苦情が怖いんだがなあ。 ﹁お前いつのまにそんな技マスターしてたんだよ﹂ ﹁杖術など紳士の嗜みの一つに過ぎん﹂ 男が再び起き上がった。強烈な突きを二発喉に喰らってなお、呻 き声一つ上げない。こいつ本当に人間か。そう思う間もなく、男の 左手が空を切った。その狙いはおれ達ではなく⋮⋮天井の照明!け たたましい音と共にガラスが砕け、あっという間に周囲に闇が満ち る。 ﹁気をつけろ、来るぞ﹂ 直樹の押し殺した声とほぼ同時に、じゃ、と風が闇を裂く。かろ うじて間に合ったのか、直樹のブラシと何かが衝突する音が響く。 攻撃が来た方向に直樹がブラシを振るうが、すでに相手はそこには 居ない。またしても攻撃。男は暗闇の中の戦闘に慣れているのか、 111 音も立てず移動しこちらの死角から攻撃をしかけてくる。流石の直 樹も、相手が攻撃をしかけてくる方向が読めない以上、一拍以上の 遅れが出ることになる。カウンターを取るどころの話ではない。四 度、五度と攻撃が繰り返されるうち、次第に直樹が劣勢になってき た。六度目の攻撃を捌ききれず、直樹の右手がブラシから弾き飛ば される。がら空きになった直樹の胴に迫る七撃目! ずるん、べったん。 擬音で表現するとこんなところか。男が派手な音を立ててスッ転 んだ。 ﹁もう少し早く出来んのか。流石に焦ったぞ﹂ ブラシをたぐりよせつつ直樹がぼやく。 ﹁精神年齢を若く保つコツなんだろ?﹂ おれは空になったフローリング用のワックスの缶を放り投げた。 男は慌てて起き上がろうとして手をつくが、すでにそこもワックス 塗れ。無様にもう一度地面に這った。闇の中とはいえ、その隙はあ まりに致命的だった。インペリアルトパーズの瞳孔が開き、微かな 明かりを増幅し金色に煌めく。 ﹁⋮⋮!!﹂ 鈍い音が一つ。闇の中、共用廊下の僅かな明かりでも直樹の刺突 は正確無比だった。男は今度は玄関まで吹き飛ぶ。 ﹁裏事情をきりきり吐いてもらわんとな﹂ ﹁この床もきっちり後始末してもらわねえとな﹂ ここが勝機。逃すわけにはいかない。おれ達は間合いを詰める。 男はすでに起き上がっていた。にらみ合いが三秒ほど続く。だが、 三度目の突きを喰らい、流石に体力も限界に達していたのか。男は くるりと踵を返すと、共用廊下の向こうに姿を消した。 ﹁待てっ!﹂ 直樹が追う。しかしそこで奴が見たのは、廊下の手すりを軽々と 飛び越え、五階の高さから真っ逆さまに落ちてゆく男の姿だった。 その時にはおれも直樹に追いつき、二人そろって下を覗き込む。男 112 はまるで、何事も無かったかのようにマンション前の道路を走り、 闇夜の中に消えていった。 十秒ほど間抜けな顔をしておれ達は階下を見詰めた後、どちらと もなく口を開いた。 ﹁﹁知ってたか?﹂﹂ そして互いの顔を見やり、深々とため息をつく。 ﹁ああ、結局こうなるのかよ!今回こそは冷房の効いた部屋で寝て 金が貰えると思ったのに!﹂ ﹁﹃あの所長が持ってくる仕事はまともだったためしがない﹄か。 一体何時までこの言葉は継続されるのやら﹂ ﹁おれ達の任務達成率が百パーセントを割るときじゃないのか?﹂ ﹁何はともあれ、だ﹂ ﹁ああ﹂ おれ達は後ろを振り返った。そこに広がるは、照明を砕かれて闇 に満ちた室内と、ぶちまけられた大量のワックスであった。 ﹁一体どうしたものやら﹂ 113 ◆06:スイカとともに一夜を過ごし ﹁ああ∼。ボクもその場に居合せればなあ!﹂ 昨夜の襲撃から明けて午前8時。一晩休んで鋭気を養いしきりに テンション高く口惜しがる真凛とは対照的に、おれと直樹は目の下 にどんよりとした雰囲気をたっぷりと湛えて沈み込んでいた。結局 あの後、暗闇の中二人がかりでモップがけしたのである。どうにか 元通りになった頃にはすっかり夜が明けており、オマケに朝一番で 管理人さんから電話で懇々と注意されたりして殆ど寝られなかった。 ちなみに今朝も爽やかな夏空ががっつり広がっており、すでに辺り はセミの大合唱で満たされている。 ﹁はいこれ。頼まれた朝ご飯と、電球。型番これでいい?﹂ ﹁サンキュー。じゃあさっそく取り付け手伝ってくれ﹂ ﹁あいあい、さー﹂ おれと真凛が昨夜砕かれた電灯を応急処置している間に、直樹は スイカに水をくれている。ゆうべのドタバタ騒ぎも我関せずとばか りに、今日もスイカ君たちはひたすらすくすくと育っているようだ った。 ﹁何はともあれ、だ﹂ おれはよどんだ頭を二、三度振ってどうにか正気を保つと、昨日 の出来事を改めて真凛に説明する。 ﹁物騒になってきたね﹂ そういうセリフはもっと深刻そうに喋れ。 ﹁原因はやはりこのスイカ、か?﹂ 直樹が大玉のスイカを一つ、撫でて一人ごちる。 ﹁今のところそれ以外に心当たりはないわけだが﹂ おれは一つ首を捻る。 ﹁取り得る選択肢は二つだ。何はともあれこのまま留守番を続ける 114 か﹂ ﹁襲ってきた敵の正体を調べるか、でしょ?﹂ ﹁やっぱりそうなるよなあ﹂ おれは肩をすくめる。やる気満々の真凛はもとより、昨夜不意打 ちを受けた直樹もこのまま黙って済ますつもりは毛頭無いようだ。 昨日まで儚く抱いていた、ごろごろ寝ていてオカネがもらえるとい う甘い夢想はこれで完璧に潰えることとなったわけだ。まあいくら ごろごろ出来ても、夜のうちにあの黒い男に寝首を掻かれてしまっ たりするとさすがに楽しすぎるので、ここはおれとしても腹を括る しかない。ちなみに直樹の傷の方は朝がくるまでにはほとんど良く なっていた。服には何かを穿ったような小さな穴が開いていて、野 郎は散々文句を言っていたが、結局このまま着続けることにしたよ うだ。 ﹁とにかく。もう一度所長にかけあって今回の依頼の詳しい情報を 聞かせてもらおう。そこから少しずつ、こちらの背景を探っていく としようや﹂ おれは一つ手を打ち鳴らした。それならそれで、まずは朝飯だ。 真凛が持ってきてくれたコンビニのパンを並べてゆく。ささやかな 朝食を始めようとしたその時、おれの携帯が鳴った。相手は所長だ った。丁度いい、改めて今回の依頼の経緯を問いただしてくれよう。 そう思いつつ交わされる二言三言の他愛の無いやり取り。だが、先 制攻撃は向こうから来た。 ﹁依頼人が消えたぁ!?﹂ 朝飯がわりのパンを危なく噴出しそうになりながら、おれは携帯 に向かって怒鳴った。 ﹃うーん。ちょっと困っちゃったわねえ﹄ 電話向こうの所長の声は呑気極まりない。おれ達が事の顛末を報 告し、調査を行いたいと提案した事に対する回答がこれである。 ﹁どういうことっすか、それ﹂ ﹃任務の都合上、依頼人とは定期的に連絡を取らせてもらってるん 115 だけどね。今日の朝から連絡がつかないのよ﹄ 職場の方に問い合わせても今日は不在だという。おれは深々とた め息をついた。 ﹁改めて話してもらえませんかね、所長。今回の依頼について﹂ ﹃わかったわ。こうなった以上、守秘契約の特記事項に該当するし ね﹄ そもそも今回の依頼人は﹃笹村周造﹄氏である。これは間違いな い。所長の話によれば、彼は三十後半のいかにも技術者と言った雰 囲気の男性であったそうだ。彼は唐突に事務所を訪れてこう告げた のだという。﹃これから四日間、自宅を不在にするので、留守番を お願いしたい。誰が来ても、何が届いても、決して部屋には入れな いでくれ﹄と。 彼が指定したのは保証金コース。つまり﹃事前に充分な依頼料を 払うかわりに、一切素性や理由に干渉しない﹄というモノである。 彼はここ数日全く自宅に戻っておらず、かつ今後もしばらくは戻ら ない予定だとの事だった。所長は前金と保証金を受け取ること、定 期的に携帯電話で連絡を取り合うことを条件として契約を締結した のだそうだが︱︱ ﹁結局ほとんど何も調べないまま引き受けちまったワケですか﹂ ﹃充分ワケアリだとは思ってたけどね。まあ亘理君と直樹君なら大 丈夫だろうし﹄ からからと笑う所長に殺意を覚えたおれは許されると思う。 ﹃それでももちろんウラは取ったわよ。笹村氏の個人的なデータも 調べさせてもらったけど、特に財政上⋮⋮借金や投資の点では全く 問題は無かったわね﹄ 家族関係や職場での人間関係もまず良好で、トラブルに巻き込ま れる理由はなかったという。 ﹁となると。残る理由としては﹂ おれは部屋に鎮座ましましているスイカ殿の群れを見やる。 116 ﹃そういうことになるわね。笹村さんの職場はご存知、クランビー ル株式会社。スイカの栽培とくれば、清涼飲料かデザートがらみ、 と考えるべきかしら﹄ クランビール。こりゃまたメジャーな名前が出てきたものだ。 クランビール株式会社。世界的にも著名な企業である。日本人に もっとも愛飲されるブランドの一つ﹃クランビール﹄を主軸とし、 ワイン、ウィスキー各種も販売する大手飲料メーカー。取り扱うの はアルコール類だけにとどまらず、炭酸飲料やジュース、はたまた その原料でもあるフルーツの輸入や栽培も行っている。一部ではそ れらの食材を使ってレストランのチェーン店の経営まで手がけてい る。ちなみになぜおれがこんなに詳しいかといえば、クランビール は大学生︵とくに女性︶にとっては人気の高い企業であり、一年生 の頃、就職活動中の先輩に頼まれて昼飯と引き換えに色々と調べて 周ったことがあったからだったりする。 ﹃クランビールは日本と世界の各地に工場を持っているんだけどね。 農場や果樹園も企業として所有して、お酒やジュースの原料となる 麦や果物そのものの品種改良にも力を入れているの。都内にも研究 所を建てていて、彼はそこで技術者として採用されているわ﹄ ふうむ。おれは独りごちた。 ﹁所長。うちって知財の方に伝手ありますよね﹂ もちろん見えるわけも無いが、電話口の向こうで所長がにやりと 笑った気がする。 ﹃当然。今、来音ちゃんに当たってもらってるわ。何か判ったらす ぐ知らせてくれるはずよ﹄ ﹁了解です。となると、やはり研究所が怪しいかな?﹂ とは言いつつもおれは首を捻る。新種のスイカを巡って争いがあ る。それはわからんでもないが、殺し屋までやって来るというのは いくら何でもしっくりこない。それで殺されてやらねばならんほど おれの命は安くない、と思う⋮⋮のだが。最近おれのブランド相場 117 が下がっているからなあ。 ﹃研究所に関してのデータもそれなりに集めてあるわ。だけど、正 直な話これと言って面白い話は無かったわねえ﹄ ﹁なんか変な研究をしてたとか。他人には言えない秘密があったと かは?﹂ ﹃さっきも言ったけど、職場での彼の評価はごく上々よ。仕事もい くつかのプロジェクトを兼任していたみたいだけど、いずれも内容 はともかく、主旨はハッキリしたものだったわ﹄ 内容が明かせないのは企業秘密なのだから当然だろう。その反面、 主旨がハッキリしているのはまっとうな仕事なのだからこれも当然 だ。特に不審な点は無い、か。おれが電話越しにしばし考えている と、所長が言う。 ﹃どうせそこに居たって落ち着かないんでしょ?こっちでも可能な 限りデータを集めてるから、まずは事務所に戻ってきなさい﹄ それもそうか。おれは珈琲をすすり、直樹と真凛にその旨を告げ る。二人とも頷いた。 ﹁部屋の留守番はどうしましょうかね﹂ ﹃話を聞く限りでは、おおっぴらに昼間から暴れられる手合いでも ないみたいだし。直樹君一人でも大丈夫でしょう﹄ ﹁直樹さん、いいですか?﹂ ﹁俺は一向に構わんよ﹂ おれも流石に少し外に出たかったので異存はなかった。何しろエ アコン効かせ過ぎ、かつ野郎と同室ではゆっくりごろ寝も出来ない というもの。おれと真凛は荷物をまとめて部屋を出ることにした。 と、直樹が声をかけてきた。 ﹁亘理﹂ ﹁何だよ﹂ 琥珀の瞳が異様な真剣味を帯びている。どうもコイツのこういう 顔は苦手だ。 ﹁貴様に一つ、頼みがある﹂ 118 ﹁⋮⋮わかったよ。聞いてやる﹂ こう言わざるを得ないあたり、腐れ縁も極まれりというものだ。 と、直樹はおもむろに自分のカバンと、あの大箱をスイカの海から 掘り出してきやがった。 ﹁いつ乱戦になるとも知れぬ場所だ。我が姫君達の護衛を頼むぞ﹂ ﹁⋮⋮今度昼飯オゴれよ﹂ ﹁ああ。先日オープンしたばかりのいい店を知っている。貴様も連 れて行ってやろう﹂ 結局異存ありまくりのまま、部屋を引き揚げるハメになった。ち なみに後日、奴の紹介で秋葉原の某ビルにオープンした某メイド喫 茶を訪問し、そこでまた神経が磨り減るような思いをすることにな るのだが。それはまた機会があれば語ることもあるだろう。 119 ◆07:あるマッドサイエンティストのテンプレ ﹁それで、そんなものを引きずってここまで戻ってきたわけ?﹂ 何か昨日も所長のこんな呆れ顔を見た気がする。 ﹁⋮⋮あまり深く突っ込まないでおいてくださると助かります﹂ こめかみの辺りを押さえつつ、おれは事務所の冷蔵庫から引っ張 り出してきた麦茶を三人分注ぐ。ここまでやってくる間の地下鉄で、 美少女フィギュア十三体を背負った男に注がれる視線は痛いという のも生易しいものであった。おれはとっとと直樹のグッズをロッカ ーに放り込み厳重に扉を閉めた。ところが共に電車に乗ってきた真 凛はといえば、意外にもけろりとした表情。 ﹁そんなに恥ずかしいかなあ?﹂ などと抜かしている。 ﹁だって。可愛いじゃない?こういうの﹂ いや、まあ確かに可愛いといえば可愛いのだろうが。こういうモ ノをいい年をした男が持ち歩くというのはその、おれの感覚からす ると極めて容認しがたい気がする。 ﹁いいんじゃないのかな。自分が好きでお金を払って買ったものな んだから。堂々と持って帰ればいいのに﹂ ﹁おれが買ったんじゃない!﹂ そうだったね、などと真凛はからからと笑った。 余談だが、いわゆるキャラクターグッズを集めたりしたがる感覚 は、おれには全く理解が出来ない。物語を読むのは好きだ。そして 物語にキャラクターが存在するのは当然だし、マンガやアニメのよ うなダイレクトに映像が把握できるという利点はすばらしいと思う。 だがそれは、あくまでキャラクターと言う物語上の記号を修飾する ための存在であるに過ぎないはずだ。個々の物語上に生きる存在が、 120 その物語から分離されてフィギュアやイラストになったとして一体 何の価値があるのか。そう思ってしまうのだ。そんな話を直樹にす ると、だから貴様は病気なのだ、と言われる。おれから見れば奴の ほうがよっぽど病気なのだが。決まって最後には、奴はおれの事を、 事象を記号としてしか類別出来ぬつまらぬ奴、と抜かし、おれは奴 のことを無意味な抽象物に財を投じる愚か者、と罵り大喧嘩になる。 ちなみにこんなワケで、おれは絵画や彫刻にもまったく興味が無 い。そこにあっても何の役にもたたないものに無理やり意味付けを するというあの感覚が理解できないのだ。機械やソフトウェアの方 がよほど製作者の意図、改心の点や力及ばなかった点などを汲み取 れるというものだ。⋮⋮そんな話をするおれが文系で、直樹が理系 というのも、世の中奇妙なものではあるが。 ﹁とにかく今回の依頼の件なんですがね﹂ おれは麦茶を飲み干した。 ﹁まずは依頼人を見つけださないことには始まらないと思うんです が﹂ なにしろ最終的に報酬を払ってくれる人がいないのだ。最悪の場 合は事前に支払ってもらっている保証金で補填することになる。そ れはそれで確かに魅力的なプランではある⋮⋮が、一応任務達成率 百パーセントなんてカンバンを掲げている以上、あんまりあっさり 退く訳にはいかない。そんなことをついつい思ってしまう辺りが、 経理の桜庭さんに﹁お若い﹂と呼ばれる所以だろう。 しかし、いくら蛇の道は同じ穴の狢で皮算用なウチとは言え、都 内で失踪した人間をそうそう簡単に見つけ出す事は出来ないだろう。 どうしたものやら。おれは腕を組む。と、 ﹁それに関しては心配ないわ﹂ 何だかやたら自信たっぷりに所長が言う。あ、なんかイヤーナ予 感。 ﹁今日は、羽美ちゃんが来てくれているから﹂ その時のおれの表情を音声で表現するなら、げぇっ、だろうか。 121 声は出ずともまさしく声帯はそれを形作っていた。もしかしたら思 わず声も出ていたのかも知れないが、それは誰の耳にも届くことは わたりうじ 無かった。なぜなら。 ﹁いやぁ亘理氏!!息災であったかねッ!﹂ 事務所の奥の扉が開くとともに、事務所内を圧倒する大音量の怒 声が響き渡ったからである。 振り返れば、そこにマッドサイエンティストが居た。 うむ。文章で表現すれば一行で過不足無くまとまる。以上解説終 わり。 ﹁亘理氏ッ!!あまり最適化されていない脳での思考を周囲に垂れ 流すのはよくないッ!﹂﹂ せっかく一行で解説を終了したというのに、そのマッドサイエン ティストはつかつかとこちらに歩み寄ってきた。 ﹁亘理氏。嘆かわしきは書き込み不全な貴公の脳。小生はマッドサ イエンティストではなく純朴な一学徒に過ぎぬと常日頃指摘してい るだろう。二十三度目の指摘なのだから、いかに分裂頻度が下り坂 にある貴公の脳神経でもそろそろシナプスをつないでは貰えんかね ッ﹂ ﹁何としたことか、歩み寄りつつそのマッドサイエンティストは、 こちらの思考を読んだかのごとく奇態な台詞を吐き散らしながらな おも近づいてくる﹂ ﹁さっきから台詞がもれてるよ、陽司﹂ ﹁ぬはぁしまった﹂ 冗談はさておいて。 ﹁いやあ羽美さん。相変わらずトばしてますねえ﹂ いするぎ うみ ﹁うむッ。夏は良い。成層圏からの電波を受信しやすいからなッ﹂ さいですか。 この御人の名前は、石動羽美さんという。ここまで来れば想像は ついていると思うが、彼女もおれ達﹃人材派遣会社フレイムアップ﹄ のメンバーの一人だ。以前どこかで話したことがあるかも知れない 122 が、おれ達が仕事で使うしょーもない小道具の発明と、主に電子面 での情報収集、技術的なバックアップを主な役割としている。おれ がいつも胡乱なアプリや音楽を詰めて持ち歩いている違法改造携帯 ﹃アル話ルド君﹄も彼女の手によるものだ。現在はうちの事務所に 事実上就職しているが、それ以前は︵よくは知らないが︶アメリカ の某工科大学でもちょっとは名の知れた俊英だったのだとか。 年のころは所長と同年か若干上ではないだろうか。伸ばし放題の ぼさぼさの髪。どこのメーカーのものかわからない怪しげな瓶底眼 鏡を、まるで戦場に向かうハイテク兵士のゴーグルのようにがっつ り装備しているその風貌だけでも十二分に怪しげだ。いかにも学者、 と全身で主張するかのごとき白衣を着込んではいる。だが、地面に まで届く長い裾をずるずると引きずっているせいで、すでに下半分 は白衣なのか茶衣なのか判別不能になっている。ちなみにうちの女 性陣の中ではもっとも長身だったりする。ひょっとしたら直樹に匹 敵するような脚長外人体型なのではないだろうか。いつも白衣に包 まれている上、PCの前に座っているときは常に妖しい笑みを浮か べつつ猫背、反面、歩くときは無意味に笑いながらそっくりかえっ ているので今ひとつ判断がつけがたいのだが⋮⋮。 ﹁時に亘理氏ッ。困っているそうだなッ﹂ ﹁イヤ別ニ困ッテイマセンヨ﹂ ﹁遠慮せずとも良いッ。安心せよ。科学が無知蒙昧な徒を差別した のは十九世紀までだッ﹂ あんまり根拠の無い発言をしないで欲しいなあ。とはいえ、この ままではあまりにも話が進まないので、おれは今までの状況を羽美 さんに話してのけた。 ﹁そういうわけでね。ここは羽美ちゃん頼みってわけなのよ﹂ ﹁石動さん。お願いします﹂ さりげなくテーブルの下で真凛がおれを小突く。ヘイヘイ。ワカ リマシタヨ。 ﹁ああ、神様仏様石動大明神様っ。この卑小な知識しか持たぬ哀れ 123 な凡俗をその偉大な叡智でお救いください∼﹂ あまりにも見え透いたおだてにいくら何でも怒るかと思ったもの だが。 ﹁ふむぅ。ふむぅ!ふむぅ!!人探しとな!容易いッ!!小生に任 せておきタマエッ!﹂ この辺り、いかに知能指数が高かろうが、うちの事務所の構成メ ンバーたる資格は充分だと、おれは思う。 124 ◆08:ブラウジング ﹁⋮⋮と言っても、実際にやることはネット上の検索なわけですか﹂ おれは事務所の奥にある石動研究所︵和室六畳間。ちなみに隣に は洋室六畳の仮眠室がある︶に通された。和室と言いつつ無数の配 線と機材のジャングルに埋もれ、畳なんか一平方センチメートルだ って見えやしない。羽美さんが巨大バイスの上にノートPCを乗っ けてソフトを起動させる。おれはと言えば座るところも無いので、 立ってPCを覗き込むしかない。 ﹁まあな。来音のように紙媒体の資料を地道に漁ると言う手もある が、今回はそこまで悠長に調べている時間は無いのだろう?﹂ おれは頷く。うちの事務所の情報は、ほとんどが羽美さんがネッ ト上で集めてくるデータと、来音さんが官公庁や図書館、各種年鑑 から調べ上げてくる書類、所長の人脈に拠っている。今回は来音さ んにも動いてもらっているが、今夜にもあの黒いコートの怪人が再 度襲ってくるかもしれないとなれば、情報は出来るだけ早いうちに 揃えておきたいものだ。 ﹁そこで、コイツの出番となる。石動研究所謹製、機能拡張型検索 ソフト﹃カー趣夫人﹄であるぞ﹂ ﹁⋮⋮ただの検索エンジンじゃないっすか﹂ 起動されたのはごく一般的なブラウザソフト。そこには検索エン ジンと思しき、キーワードを入力するだテキストボックスが一つあ るだけのシンプルなページが表示されている。どうやら羽美さんの オリジナルのようだが。 ﹁如何にも検索エンジンよ。だが、﹃ただの﹄ではないぞ﹂ 羽美さんは﹃笹村周造﹄と打ち込むと検索ボタンを押した。たち まち表示される﹃笹村周造﹄の文字を含むページ。そこには同姓同 名かと思われる﹃笹村周造﹄氏の情報がいくつかと、無数の﹃笹村﹄ 125 さんと﹃周造﹄さんの情報が含まれている。 ﹁つうか。ここまでならおれでもすぐ出来るんですが﹂ というか、中学生でも思いつくぞ。初恋の人の名前を何となく入 れてみたりとかな。 ﹁そんなことをやっていたのかね?﹂ いやまて、みんなやるだろう?少なくとも自分の名前を入れてみ たりとか。 ﹁まあ待つがよい。亘理氏。貴公の調べたい﹃笹村周造﹄はこの中 に居るか?﹂ 無数に表示された検索結果を眺める。クランビールの研究所のペ ージの社員名簿一覧の中に﹃笹村周造﹄と確かにあった。 ﹁この人で間違いないでしょうね﹂ ﹁そうか。ではこの人物についての情報を集めるとしよう﹂ 羽美さんは手際よく、そのページの﹃笹村周造﹄のテキストをダ ブルクリックした。 瞬間。 ブラウザソフトが猛烈な勢いで情報を吐き出し始めた。並行して 無数のファイルがノートPCのデスクトップ上に積み上げられては フォルダに格納されてゆく。 ﹁な、何をやってるんですか?こいつ﹂ ﹁いやあ。実際の所片手間に作ったものであまりたいした事はして おらんのだ。クラウド上に放牧している人工知能と連動させた検索 システムでな。文面からこの﹃笹村周造﹄氏の周辺情報、例えば三 十台男性であるとか、クランビール社員であるとか、大学はどこか、 などを読み取り、それ自身をキーワードとして再検索。結果を元に ﹃笹村周造﹄の情報を再強化。今度はそれによって得られた学生時 代の研究所名や入社年度をキーにさらに再検索⋮⋮と繰り返してい く。人間がネット上で個人の情報を追跡する時と基本的には同じだ が、これを人工知能の速度で、徹底的にやりつくす。SNS上に泳 がせている人間に擬態させたbotも使用して、対象が使用してい 126 ると思わしきアカウントを絞り込む。キーワードを選択するセンス と、紛らわしい情報や嘘を見分けるカンにはまだまだ改良の余地が あるが⋮⋮ま。五分も検索すればそれなりに成果が出るはずである よ﹂ それは結構凄いことなのではないだろうか? ﹁たいしたものではない。大手検索会社はすでに着手しているしな。 小生がこれを作ったのはひとえに我が終生の目標の為よ﹂ ﹁ああ、美少年アンドロイドを作るのが夢なんでしたっけね﹂ ここらへんは深く突っ込まないでおいてやって欲しい。 ﹁ハッキングとウィルスを連動させて、よりプライベートなデータ ベースからも情報を奪ってくるように強化してみるのも一興かも知 れんな﹂ ﹁そ、それはいくらなんでも犯罪ゾーンぶっちぎりかと﹂ ﹁おう、そんなことを言っているうちに出来上がったぞ﹂ チーン、と一昔前の電子レンジのような間抜けた音がして、検索 ソフト﹃カー趣夫人﹄は終了した。あとに残されたのは一つのフォ ルダのみ。おれはそれを開く。 ﹁⋮⋮凄い﹂ 中に入っていたのは一つのHTMLファイルだった。そこには、 ﹃笹村 周造﹄氏の生誕地、学歴、就職先、転居の履歴、健康状態、 現時点の身長体重。予想される趣味や好き嫌い。ネット上のハンド ルネームや、頻繁にアクセスしているサイトまでがずらりと列挙さ れていた。しかもどこから手に入れたのか、学生時代の写真や子供 の頃の写真まで添付されている。 ﹁ふぅむ。やはり一流企業の優秀な研究者ともなれば、それなりに ネット上に経歴や足跡を残している。ウェブ上の情報でも、力技の ストーキングでそれなりには見られるようになると言うことだな﹂ のほほんとのたまう羽美さんとは対照的に、おれは冷や汗を禁じ えない。これでは個人のプライバシーなど丸裸も同然ではないか。 ﹁なあに。ここに上げられているのは全て推測だ。鵜呑みにすれば 127 痛い目にあうのは貴公の方だぞ?﹂ 言ってにやりと羽美さんは笑う。 ﹁それを確かめるのが貴公らの仕事だろうが﹂ それもそうか。おれは頷くと、羽美さんが助けてくれたこのファ イルを丹念に見てゆく。クランビール勤務。それ以前は某大学の農 学部の大学院に在籍していたのだそうだ。ここらへんは所長が事前 に調べた情報とも合致する。その前は、と。おや。 ﹁結婚してますね、この人﹂ ﹁ふふん。それも婿養子に入っているようだな﹂ ああ、なるほど。姓が変わっているわけだ。普通に検索しただけ では旧姓の情報は取りこぼしているかもしれない。おれは結婚前後 の情報を集中的に調べてゆく。 ﹁旧姓﹃吉村 周造﹄。大学農学部在席時に同大学国際学部の﹃笹 村 瑞恵﹄氏と結婚。以後、笹村姓を名乗る。へぇー。学生結婚か﹂ おれにとってはまるで異星の出来事である。 ﹁大学院生ならそう珍しいことでも無いとは思うがな﹂ ﹁そういうものですかねえ、っと。ちょっと待った。奥さんが居る 人が東京で一人暮らしってことは、単身赴任か?﹂ ﹁いや。ここに書いてあるが、笹村瑞恵氏の実家は埼玉県の草加市 だ。入り婿なら充分に通えるはずの距離だぞ﹂ ﹁羽美さん、この瑞恵さんについて同様に調べることは可能ですか ?﹂ ﹁無論の事﹂ 言うや、羽美さんは再びPCを走らせ、猛烈な勢いで情報が吐き 出される。ファイルが完成されるのを待っている間に、部屋に所長 が入ってきた。 ﹁三日見ないと新しい機材が増えてるってのはどういうわけかしら ねぇ﹂ ﹁何。必要経費だよ社長ッ。経営者は細かいことを気に病んではい 128 かんッ!﹂ ちなみに羽美さんはなぜか所長のことを﹃社長﹄と呼ぶ。 ﹁こないだ回してくれた領収書。ソフトって書いてあったけどアレ、 ファミコンのゲームでしょ?﹂ ﹁イ、インスピレーションを養うのに必要なのだよッ﹂ そういや地底大陸オルドーラなんて買ってたな、この人。 ﹁さ、さあ亘理氏。待望のデータが完成したぞ。見てみタマエ﹂ 露骨な話題のすり替えだったが、このままでは何時までも話が進 まないので乗ることにした。おれは眉を顰める。 ﹁死別してますねえ﹂ 笹村瑞恵氏は大学時代に国際学部に所属していたとの事だが、ど うにも日本の枠には収まらない人物だったようだ。結婚後は商社に 就職し、学生時代に培った語学の知識を生かして各国で働くかたわ ら、ボランティア活動にも力を入れていたようである。まさしく国 際派キャリアウーマンを地で行っていた、というあたりだろうか。 ﹁死因は⋮⋮飛行機事故、か。旦那さんもやりきれないわねえ﹂ 東欧の某国を移動中に飛行機が墜落して、奥さんは帰らぬ人とな ったのだそうだ。その後も笹村周造氏は﹃笹村﹄の名を変えず、現 在も己の仕事を継続しているのだと言う。資料をしばらく見ていた 所長がおもむろに口を開いた。 ﹁亘理君。笹村氏って他に家族はいるの?特に都内に﹂ ﹁えーと。実家は福島の方みたいですね。ご両親は学生時代にすで に他界されてるし、親しい親戚はここらへんにはいないみたいです﹂ ふむ、と所長は形の良い顎に指を当てて考えた。 ﹁じゃあ十中八九、笹村さんがいるのは奥さんの実家でしょうね﹂ ﹁そんなことわかるんですか?﹂ ﹁まあねえ。そういう人ってね。割と結婚するとき﹃家族﹄を求め るものだから。ただ好きな人と結婚するだけじゃなくて、その人の 家族の一員になろうとすることが多いのよ。笹村さん、子供もいな かったんでしょう?何かトラブルに遭遇したのなら、戻るのは自分 129 の﹃家﹄じゃないかしら﹂ そんなものなのだろうか。 ﹁さすが所長!感服しました。さすが不倫慣れしていらっしゃる。 三十男の心理は手にとるようにわかるというわけですね!﹂ ﹁殴るわよ?﹂ 130 ◆09:動画チェック ﹁はぁ∼、お腹一杯だと幸せだよねえ﹂ ﹁⋮⋮奢りならなおさらな﹂ 途中の蕎麦屋で昼飯としてざる蕎麦六枚とカツ丼セットを平らげ、 おれ達は千代田区のマンションに戻ってきた。ちなみにおれが食っ たのはざる二枚な。なんていうかおれのバイト代の経費はほとんど コイツのメシ代に消えているんじゃないだろうか。別に年上の貫禄 で奢ってやる、というわけでもなく、ただたんに毎回連続でジャン ケンに負けているということなのだが。何故だか知らんがこいつ、 ジャンケンが反則的なまでに強い。いちおうその凄まじい動体視力 を使った反則はしていないらしいが、だとすればなおさらとてつも ない強運ということにもなる。入った店が高田馬場の学生向けの店 で助かったぜ。 ﹁くそう。前金がほとんどパァだぜ。何としても成功報酬を貰わな いといかんな﹂ おれ達の任務には経費という概念が極めて希薄だ。おれ達には任 務に従事する際、かなり自由な行動権が与えられる。かと言って、 事務所としてもあまりに好き放題やられて費用が依頼料を上回るよ うなことになれば本末転倒である。特にウチの連中は派手な事をし たがる、せざるを得ない奴らが多いので尚更だ。結局、このような 事情が相まって、現在のところは自己採算性ということに落ち着い ている。つまり、報酬額は充分に支払われる代わりに、任務中に発 生する諸々の費用は全て自分持ち、というわけ。高めの報酬を手に 入れたければ、﹃なるべく安上がりに﹄解決せねばならない。反面、 経費をケチって任務を失敗しては目も当てられないので、おれ達と しては常に己の財布と相談しながらの任務遂行となる。中には己の 能力を行使するのに特殊な媒介、例えば宝石や呪符など、を用いる 131 奴もいて、そういう連中は媒介を通じて一段強力な力を行使できる 反面、毎回収支を合わせるのが大変らしい。 ともあれ、マンションの玄関を空けると、相も変わらない緑のス イカの海の中、これまた不景気な面でコンビニ弁当と向かい合って いる直樹がいた。 ﹁早かったな﹂ ﹁羽美さんがいたからな﹂ ﹁そうか⋮⋮﹂ その一言で大体の事情を察したらしい。直樹は黙々とチキンカツ 弁当を平らげていく。 ﹁なんだ、ジャンクフードは嫌いじゃなかったのかよ﹂ ﹁嫌いだ﹂ ﹁だからってそんなに仏頂面で食べるなよ。弁当に罪はないぞ?﹂ こいつは貧乏人のくせにやたらと衣食住にこだわる。昔の羽振り が良かった頃の癖が抜けないのだろう。出来合いのコンビニ弁当や ら二束三文の投売り衣料はこいつの嫌いな最たるものだ。とはいえ、 いくら嫌ってみたところで財布が無ければ何も文句は言えないのが この東京砂漠。結論としてこいつは現実と折り合いをつけつつ理想 を追求していくことになる。その成果か、ここ数年でこいつはブラ ンド品の特売やらスーパーの食材の相場やらにやたらと精通した。 主婦もびっくり一家に一台、お買い物の達人に成長したのである。 そうやって身を削りつつ見栄を張って、得た報酬は先ほどのような 趣味の領域につぎ込んでいるのだから、やはりこやつの考えること はおれには理解できない。 ﹁衣食住を満たして趣味にまで金を使えるのだ。これほど幸せな人 生はないぞ﹂ ああそうですか。お前に将来の夢って言葉は、ってまあ将来って 言葉自体あんまり意味がなかったっけかな。食うか、と直樹が残り の弁当を押しやってきたのを断り、おれは今までの事情を説明した。 直樹は眼鏡を押し上げ、 132 ﹁では、これから埼玉のその死別した奥方の実家とやらを訪問する というわけだ﹂ ﹁そういう事になるな。お前はどうする?﹂ ﹁ふん。午前中はゆっくり居眠り出来たことだし、流石にそろそろ 留守番も飽きてきたな。真凛君さえよければ、今度は俺が出よう﹂ 午前中から読みふけっていたらしいライトノベルを鞄に仕舞いこ むと、一つ首を鳴らして立ち上がる。 ﹁貴様はどうするのだ?﹂ ﹁どうしようかね﹂ 正直なところ昨夜もゆっくり眠れていないので、真凛と直樹が出 て行くというのならおれはここで今度こそごろ寝を決め込みたいと ころなのだが。 ﹁ボクは直樹さんと一緒のほうがいいなあ。陽司と一緒だとこっち の品位も疑われるしね﹂ などと抜かすお子様。犬ですらメシを奢ってやった恩を忘れぬと いうのにッ。だいたい街を特大フィギュアをぶら下げて歩く人間と 共に歩いて品位が疑われないと言うのか。おれなんてせいぜい街を 歩く美人のお姉さんを見つけると気になって一日後を追跡してみた りする程度だぞ。何がいかんのだ。顔か。顔なのか!? ﹁まあいい。とにかく。そっちは特に変わったことはなかったか?﹂ おれは投げやり気味にザックをスイカの海の向こうのテーブルに 放り投げた。狙いは外れたがどうにか片隅にひっかかった。 ﹁ふむ、そうだな。しいて言えば宅配便の男が来たくらいか﹂ ﹁宅配便?﹂ 真凛と思わず顔を見合わせてしまう。 ﹁一応俺も貴様の話は聞いていたからな。ほれ﹂ 直樹がひょいと投げて寄越したのはうちの事務所の小道具の一つ。 全体から突き出た無数のコネクタでありとあらゆる回線から貪欲に 情報を吸い上げるマルチ録音録画システム﹃シャー録君﹄である。 ﹁インターホンのジャックにかましておいたから、映像は撮れてい 133 るはずだ。見るか?﹂ そういうことなら異論は無い。おれはさっそくシャー録君内臓の USBケーブルを引っ張り出すと、断り無しで直樹のノートPCに 接続した。 ﹁ああ。こりゃ昨日も来た宅配便のおじさんだな﹂ 録画されたインターホンの画像はまさしく昨日来た、やたらと元 気のいいあのおっさんであった。これならば取り立てて騒ぐことで もない。 ﹁昨日、また後日伺います、って言ってたからなあ。また今日来て みたんじゃないのか﹂ ﹁それもそうだな。では我々も奥方の実家に赴くとしようか﹂ ﹁ちょっと待ってくれませんか?﹂ 異議を申し立てたのは真凛だった。 ﹁なんか気になるところでもあったか?﹂ ﹁もう一回巻き戻してみてよ﹂ おれが見た限りでは特に不審な動きはなかったが。ともあれおれ は画像再生ソフトをクリックして映像を巻き戻した。それを食い入 るように見やる真凛。そういや昨日はおれが応対に出たから、こい つは直接宅配便のおっさんを見てはいなかったな。 ﹁この人、本当に宅配便の人かな﹂ ﹁どういう意味だよ﹂ 真凛の頬が緩んでるということは、結果はだいたい想像できるが。 ﹁軍人の歩き方をする宅配便の人って、日本にはそうは居ないと思 うな﹂ ﹁兵隊の歩き方って。お前そんなもんわかるのか﹂ ﹁昔良く大会に飛び入りで参加してくる元軍人の外人さんたちがい て。そういう人に共通する歩方だった。歩幅がかっちりしてるから すぐわかるよ﹂ ドコノ大会デスカ。 ﹁ははあ。じゃあマシンガンでも持って攻め込んでくるとか?宅配 134 便のおっちゃんが﹂ 冗談のつもりだったのだが。 ﹁陸軍の人とはちょっと違うと思う。どっちかって言うと、もっと 身軽な武装を前提にしてるかも﹂ ﹁軽装と言うと、ナイフ、拳銃といった所かな﹂ 横から口を出す直樹。 ﹁ええ。それとあんまり表に出てくる人じゃないみたいですね﹂ ﹁と言うと?おい亘理、拡大して見ろ﹂ ﹁へいへい﹂ どうでもいいが三人いると狭くてしょうがない。 ﹁⋮⋮やっぱり。歩行に癖があります。意図的に隠しているんだろ うけど、歩くたびに足の裏に重心が移動してる。これ、忍び足の要 領ですよ﹂ ﹁忍び足が日常化しているような生活を送っている、という事か﹂ ﹁んで歩調は軍隊調、だろ。と言うと⋮⋮﹂ どっかの特殊部隊、というところだろうか。 ﹁あるいはどこかの秘密警察とか、な﹂ 直樹が苦々しげに呟いた。どうもこいつはこの種の手合いと反り が合わないらしい。 ﹁どこかの軍人が足を洗って宅配便会社に勤めてる、って線を期待 したいところだがなあ。まあ無いだろうな。要注意人物、以後は来 ても応対しない方が良いな﹂ ﹁真凛君。一つ聞くが。その男の歩き方から、得意そうな間合いと かはわかるかい?﹂ 間合い、とくればこいつの得意領分だ。何と言っても相手の体勢 から弾道すら見切る娘である。と、真凛の顔がふと曇る。 ﹁どーした?﹂ ﹁うん。この人の腰の入れ方だと明らかに一足一刀以上の遠間を想 定した攻撃を繰り出してくるはずなのに。歩き方はほとんど武器を 携行しないものに近いんだよ。癖をここまで消せるものなのかな、 135 だとしたら相当な強者だけど﹂ んー。よくわからん。ちょっと整理。 ﹁つまりこういうことか。槍みたいな長い間合いで攻撃するのが得 意のはずなのに、普段は槍なんて持ち歩いていない、ってわけか﹂ ﹁うん。そんな長いものをぶら下げてれば必然的にどこかバランス が歪むはずなんだけど﹂ ﹁そりゃ、誰だって昼日中から槍なんぞぶらさげて歩いている奴は いないよ﹂ ﹁そう。忍び歩きが習性になっているような人だし。だからこそ、 長い槍を扱うことが信じられないんだ﹂ ふぅむ。 ﹁何、そう悩むこともあるまい。事態はもう少し簡単なのではない かな﹂ ﹁え、どういうことですか?﹂ ﹁ンだよ、言いたいことがあるならさっさと言えよ﹂ ﹁そうだな。例えば、そいつの攻撃方法が﹃手から何かを槍のよう に伸ばす﹄だとかな﹂ あ、とおれと真凛の声が重なった。 136 ◆10:その研究者 埼玉県草加市。埼玉でも特に南部に位置するこの街には、おれ達 が居た千代田区のマンションからドアツードアで四十分とかからず に到着することが出来た。時刻は夕方。東武伊勢崎線の駅を出て、 おれ達は羽美さんが打ち出してくれた地図を頼りに駅前の商店街を 進んでゆく。草加といえば煎餅が有名なのだそうだ。帰りに余裕が あれば事務所の面々にお茶受けでも買って行ってやるとしようか。 ﹁んで、またお前とかよ。鬱陶しいからおれの側を歩くんじゃねえ よ﹂ ﹁他人の台詞を横取りするな。今日は真凛君と仕事がてらのんびり 街を散策しようと考えていたのだぞ?何故貴様のようなリアルキュ ビズムと歩かなければいかん﹂ 何気にすげえこと言われてる気がするぞ。ちなみに真凛はと言え ば、宅配便のおっさんがどうやら昨日攻め込んできた黒いコートの 男だとわかった途端に﹃ボクが留守番します!﹄と猛烈に主張し出 した。⋮⋮まあ、動機はわかりすぎるほどわかるのだが。このため、 おれとコイツとが外に出ることになったのである。 ﹁はん、どーせ平面の女の子しか興味が無いんだろ?﹂ それを耳にした直樹、やれやれ、なんて哀れみを込めた目でこち らを見やる。 ﹁亘理。女性に好意を向けられた事の無い貴様には到底理解し得な い心情だろうがな。俺は世の少女達は全て愛しいと思うぞ。二次元 三次元問わず。これは真実だ﹂ だから﹃少女﹄って限定するなよ。そんなおれの言葉も届かない のか、奴は嘆かわしげに額に手をやる。 ﹁しかし万物は移ろい往くもの。愛した少女も時が過ぎ行くほどに 成長し、いつかは大人になり巣立ってゆくものよ。その度に俺が味 137 わう身を斬られるかの如き辛さ、貴様ごときにはわかるまい﹂ 素直に○学生以下しか愛せませんって言えよこの××野郎。 ﹁その点!ゲームやアニメの中の少女達は素晴らしい。彼女達は何 と年を取らぬのだ!!常に永遠の無垢を持ってそこに在る。人類は 二十世紀に到って性的衝動と浪漫を類別することについに成功した のだ!﹂ ﹁おっ。あれが笹村さんの実家だな﹂ おれは歩を進める。コイツと一緒に補導されるのは真っ平ゴメン だ。通路を曲がってすぐ、角の所にその家はあった。うぉっほん、 ここからは営業モード。インターホンを押す。 ﹁失礼します。当方笹村氏にご依頼頂きました﹃フレイムアップ﹄ という会社のスタッフのものなのですが﹂ 生垣に囲まれたその家はちょっとしたものだった。門越しに見え る庭園は純和風。坪数も大したものだ。石灯籠の側に掘られた池に は間違いなく鯉が飼われていると見て良いだろう。インターホン越 しのおれの問いかけは沈黙を持って報われた。仕方が無い、予想さ れたことだ。では次の行動に移ろうか、と考えていると、 ﹃ああ、フレイムアップの方ですか。どうもご苦労様です。お入り ください﹄ そんな声がして、門のオートロックが外れた。思わず直樹と顔を 見合わせてしまう。 ﹁失礼ですが、笹村周造様はご在宅でしょうか?﹂ やや警戒交じりのおれの声に対する回答は、 ﹃ええ、私が笹村周造です﹄ いともあっさりしたものだった。 ﹁お暑い中よく来てくださいました。お茶菓子は煎餅で良かったで すか?﹂ ﹁いえ、お構いなく⋮⋮﹂ 純和風の邸宅の居間の中、おれと直樹は座布団の上で正座して神 138 妙にお茶など啜っている。縁側越しに先ほどの見事な庭が一望出来 るのだが、どうもこう広いと落ち着かない。﹁しかし、正直に言っ て驚きましたよ。僕の部屋に強盗が入り込むなんて。取るものなん て何にも無いのに。いくら最近ついてないって言ってもなあ⋮⋮﹂ おれの目の前にいるのが笹村周造氏。昨夜突如失踪した依頼人に して、あのスイカが大量に溢れるマンションの主である。所長から 聞いていたとおり、確かに三十代後半の実直な技術者、といった雰 囲気だ。やや薄くなった髪を後ろに流し、厚めの眼鏡をかけている。 今はポロシャツを着ているが、仕事場で白衣を纏っている姿が容易 に想像できた。つい先ほどまでおれは手短に、今回任務中に起こっ た事件の概要を説明していた。その上で相手の正体を確かめるため に情報が欲しい、と。それに対する回答が、先ほどの台詞である。 ﹁驚いたなあと申されましてもね。当然予想されていたからこそ我 々を雇われたのでしょう?﹂ 意識して感情を押さえてはいるが、おれの語調は若干きつかった だろう。そもそもこの人が極秘案件でろくに情報も流さずに留守番 任務を依頼してくれたおかげで、おれ達は深夜のドタバタ劇を演じ る羽目になったのだから。すると笹村氏はやや細めの目を大きく見 開いて、 ﹁極秘案件?とんでもない。スイカの番をお願いしただけですよ?﹂ ﹁は?﹂ ちょっと待ってくれ。 ﹁失礼ですが、貴方は何か身の危険を感じておられたのではないの ですか?だからこそ我々に部屋の護衛役を任命し、あなた自身は奥 さんのご実家に身を隠された﹂ 笹村さんはぽかんとおれを見詰めて、目を三度しばたかせた。 ﹁⋮⋮何のことです?﹂ 傍から見るとかなりアヤしげな光景だ。男が三人、和室の居間で 阿呆面を並べて向かい合っているというのは。五秒ほど経過した時 点でまずは直樹が正気に戻った。 139 ﹁どうやら、お互いに誤解があるようですな。差し支えなければ、 今回弊社にご依頼いただくに到った状況を教えていただけますかな﹂ ﹁ええ。お安い御用ですよ﹂ おれは眩暈がしてきた。どこが詮索無用の極秘任務だよ。 大手飲料メーカー﹃クランビール﹄での笹村周造氏の仕事は原料 の品種改良だった。つまりは、ビールに使用する麦やホップ、ワイ ン用の葡萄、デザートに使用する果物類といったものについて、交 配や栽培条件を変更することにより、より良い味、より高い生産力 を引き出す仕事だ。もともと笹村さんは農学部出身であり、その知 識を買われてクランビールに就職したのだそうだ。 事の起こりは二週間ほど前に遡る。笹村さんが手がけていた品種 の一つに、あるスイカがあった。以前から地道に研究、品種改良を 続けていたのだが、それがこの度、ついに完成にこぎつけたのだと いう。笹村さんは喜び勇んで完成の結果まとめに入るとともに、今 まで協力してくれた友人たちにもメールでお礼を送った。 ﹁協力してくれた友人?﹂ ﹁ああ。学生時代の研究室仲間やフォーラムで知り合った研究機関 の人たちと、定期的にメールをやりとりしてるんです。ほとんどは 茶飲み話と大差ありませんが、時々かなり突っ込んだ質問やアドバ イスを貰うこともありまして。彼らがいなければ今回の完成はなか ったでしょうね﹂ なんとも嬉しそうにのたまう笹村さん。ところがそこから急に運 が悪くなったのだ、と言う。 ﹁運が悪くなった?﹂ おれと直樹と二人して鸚鵡返しに聞いてしまった。 ﹁会社からの帰り道、駅を歩いていたらひったくりに合ってしまっ て。愛用していたカバン一式を取られちゃいました。まあ、仕事の 資料はほとんど会社に置きっぱなしなので文房具くらいしか実害が なかったんですけどね。それからしばらくして、今度は会社のロッ 140 カーに置いてあった出張用カバンがどっかいっちゃったんですよ。 緊急時に備えて着替えと歯磨きセットが入っていたんですけど﹂ ﹁はあ⋮⋮﹂ ﹁それで、ついこの間起こったのが会社のシステムチェックですね。 なんでも私たちの会社のLANにハッキング攻撃があったらしくて。 幸い事前に突き止められたので実害は無かったんですが、結局その 日は総点検だの追跡だののてんやわんやで仕事になりませんでした よ。おかげで次の日徹夜をする羽目になりました﹂ 困ったものですよねえ、などとため息をつく笹村さん。おれと直 樹はさっきから口を開けっ放しの阿呆面を継続中である。っていう か、いくらなんでも気付くだろうよ。 ﹁そんなこんなで縁起の悪いことが立て続けに起こりました。だか らちょっと気分を変えたくなりまして。会社も夏季休業に入ったこ とだし、妻の実家に厄介になって、スイカに関する論文を一気に終 わらせてしまおうと思ったのです﹂ ﹁⋮⋮あのう、つかぬことを伺いますが﹂ ﹁何ですか?﹂ ﹁今回ついに完成され、その論文にまとめられているスイカって⋮ ⋮あの部屋に大量に植わっていたアレですよね?﹂ 笹村さんは子供のように表情を輝かせた。 ﹁そうなんですよ!だから実家にしばらく厄介になるにしても、ア レを放っておくことは出来なかったんです。私の研究の集大成、誰 かに面倒を見ていてもらわなければいけないですからね﹂ ﹁ということは。そのために我々を雇われた、とそういうことです か?﹂ ﹁ええ!こういう事をやってくれる便利屋さんをタウンページで探 したら、フレイムアップさんが載ってたんですよ。一覧の中から適 当に選んで直接訪問したんですけど、受付の女性の人かなあ、感じ のいい人だったんで一発で決めちゃいましたよ﹂ ず、頭痛が。 141 ﹁それで所ちょ⋮⋮いや、受付の女性とはどういった対応をされた のですか?﹂ ﹁ええと。どういったお仕事ですかと聞かれたので、留守番をお願 いって言ったんですね。その後、多少料金は張りますが事情を一切 聞かずに対応するか、事情を聞いた上で通常料金で対応するプラン があるとか言ってましたね。細かい事情を説明するのがわずらわし かったから一切聞かない奴にしてくれ、って言いましたよ﹂ ⋮⋮さいですか。 ﹁料金等の提示はなかったのですかな?﹂ 直樹が言う。たしかに、何と言うかその、うちは派手なことをや る分料金もちょっとお高いはずなのだが。 ﹁ええ、料金表を渡されましたよ。忙しかったんで見ないでとりあ えずOKで返事をしておきました。まあ、便利屋さんの相場ってそ う劇的に変わるものでもないでしょうし﹂ 変わるんですよ。頼むから見てくださいよ。っていうか、この人 絶対に近い将来クレジットカードとか通信販売とかでトラブル起こ すぞ。金を支払いする前には必ず情報は確認しような!おれからの お願いだぜっ。 142 ◆11:水をたたえし西の瓜 ﹁先ほどもご説明したとおり、侵入者騒ぎがあったわけですが﹂ おれはお茶を飲み干し、口の中を潤した。 ﹁我々としても依頼を受けた以上、スイカの番は責任を持って果さ せていただきます。そのためにもこのご依頼についての確認をして おく必要があると思うのです。改めて二つ質問があります。一つ。 笹村さんが開発されたスイカの研究データは、今どちらにあるので すか?﹂ ﹁研究データはここ、私の個人用のノートPCですね。いつもあの 部屋に置きっぱなしだったんですが、作業に備えて持ってきました﹂ ﹁了解しました。で、二つ目。これが肝心な質問なのですが﹂ おれは一つ間を置いた。 ﹁そもそもあのスイカには、いったいどんな秘密が隠されているの ですか?差支えが無ければ教えていただけませんか﹂ ついに核心に切り込んだ。しばしの沈黙が、辺りを満たす。おれ が笹村氏の表情をみやると彼は︱︱きょとんとしていた。ついで、 堰を切ったように笑い出す。 ﹁な、なんかヘンなこと聞いたっすかねおれ?﹂ 思わず口調が素に戻ってしまう。 ﹁い、いえ別に。ただ、秘密なんて。そんな大真面目な顔をしてお っしゃらなくても﹂ ちょっと傷つくなあ。直樹が引き継ぐ。 ﹁しかし、長い間の研究の成果でしょう?例えば凄く味が良いとか、 色が赤くて通常の三倍収穫出来る等といったものではないのですか な﹂ そんな便利なものじゃありませんよ、とのたまう笹村氏。笑いが 落ち着いたのだろう、彼はお茶のお代わりと、煎餅が尽きたのか草 143 餅をおれに勧めてくれた。とりあえず頂く。 ﹁だいたい、そもそもがこのスイカは職務で作ったものではないん ですよ。あくまで個人的な研究だったんです﹂ 草餅をほお張りながら笹村さんは述べた。だから、職場の方にも データとかは持っていっていないんですよ、とも。 ﹁⋮⋮例えば、クランビールの時期主力商品の素材になるとか、で はないのですか?﹂ そうなればちょっとした価値モノだ。産業スパイが然るべきルー トで捌けばそこらの美術品並みの値になる。しかし、 ﹁そんな大層なものではありませんよ﹂ にこやかに笹村さんは笑う。 ﹁これはね、まあ妻に頼まれたものですから﹂ ﹁奥さんとの約束?しかし、奥さんはすでに⋮⋮﹂ っとと。我ながらつまらん事を言ったな。 ﹁ご存知ですか。ええ、三年前に死別しましてね。ちょうど今ごろ、 お盆の時期でしたよ。仕事先の西アジアから久しぶりに帰省して、 みんなでお墓参りに行こうということになっていました﹂ しかし、帰国時の飛行機は不幸な事故に遭い、笹村氏の奥方は生 きて日本の土を踏むことは無かった。羽美さんと調べた情報はほぼ 正鵠を得ていたことになる。当たっても大して嬉しくも無いが。 ﹁妻はね。どうもあそこら辺の国が好きだったみたいです。商社の 仕事も、どちらかと言えばあっちの国で働きたいために就職したよ うなところもありましてね﹂ ﹁そういうものですか⋮⋮﹂ おれは一つ首を捻った。実はおれや直樹もそこらへんの国を訪れ たことがあったりもするが、政情不安定な場所もあったりして、出 来得るならば通らずに済ませたいところ、などといった印象しかな い。 ﹁実を言うと私たちが初めて出会ったのもそこだったんですよ﹂ 笹村さんが挙げた地名は、日本ではあまり有名ではない国の名だ 144 った。 ﹁ああ、そこでしたか﹂ 直樹が言う。 ﹁かなり北に位置しながら内陸の気候の都合上砂漠が多い土地柄で すな。ついでに言うならお世辞にも国土は豊かとはいえない﹂ もうちっと言葉を選べよ、と思いつつもおれも同感だ。 ﹁私は学生時代に農学部に所属していた、というお話はしましたよ ね。実は一年ほどそこの研究生達で、ボランティアとして各国へ技 術協力をしにいったことがあるんです。そこは見渡す限りの砂漠で してね。その過酷な条件でも作物を栽培出来るようにするのが私た ちの仕事だったんです。そこで同じくボランティアの通訳として来 ていたのが瑞恵⋮⋮妻だったのですよ﹂ 同じ目的を持つ二人はたちまち意気投合したのだという。 ﹁砂漠にもっとも適しているのはスイカ、メロンなどの瓜類なんで す。そもそもがアフリカの砂漠のオアシスが原産地ですし。中国の 内陸部なんかでは、売り物にもなるし、持ち運びが出来る手軽な水 分としても非常に重要な役割を果している。経済と食糧事情の双方 に改善効果があるわけです。どちらで行くか試行錯誤したのですが、 我々はスイカを選ぶことにしました。過去、実績もありましたしね﹂ 笹村氏には自信も熱意もあった。そして後に奥方となる女性の支 えもあったのだが、結果として、一年をかけたこの試みは失敗に終 わったのだという。 ﹁気温が低かったんです﹂ とは、笹村氏の弁だ。 ﹁砂漠ですから当然、日夜の温度差が激しいことは覚悟していまし た。しかし、肝心の日中の気温が、アフリカや中東の砂漠とは大き く異なっていたのです。結果として私たちの持ち込んだ品種は、ろ くな実をつけることはありませんでした﹂ 口惜しかったですね、と笹村氏は言った。きっと本当に口惜しか ったのだろう。今その言葉を口にした時も、その表情は苦かった。 145 ﹁日本に引き揚げて妻と結ばれてからは私は外国に出ることはあり ませんでした。妻はあちこち飛び回っていましたがね。でも、あの 時の悔しさは妻も同じだったのだと思います﹂ いつかあの国に、もう一回スイカを作りに行こう。それが奥さん の口癖だったのだと言う。だからもっと低い気温でも実る強いスイ カを生み出してくれ、私も手伝う。そんな事を言っていたのだそう だ。 ﹁私もその思いは一緒でしたよ。でもやはり就職してからは忙しく て、正直それどころではなかった。気がつけば十年も経ってしまっ ていましたよ。あいつが死んで、ようやく本気で作る気になったな んて、馬鹿な話です﹂ 視線はおれに向けられてはいない。その先にあるものはまた、別 の風景か、人物なのか。 ﹁だから、このスイカは、味も収穫量も、現行の品種と大差はあり ません。しいて言えば、冷夏でも実る。それがこのスイカに隠され た秘密です﹂ ﹁冷夏でも実るスイカ、ねえ﹂ おれは首を傾げた。んなもんあんなブッソウな奴を雇ってまで奪 いに来るものかねえ? と、そんな思考は背後からの声に遮られた。 ﹁おい、亘理、携帯が鳴っているぞ﹂ ﹁おっとと﹂ 慌てて携帯を取り出す。相手は⋮⋮真凛か。 ﹁真凛か。どうした?﹂ ﹃陽司?あのねえ。たしかあの宅配便のおじさんの会社ってあそこ だったよね?﹄ 真凛が大手の名前を挙げる。たしかにそのとおりだ。 ﹃今、ここから外を見てるんだけど。荷物を配っているにしては不 審な動きの人が、それぞれ三人。なんかここを取り囲んでるみたい だよ﹄ 146 ふむ。どうやらあちらさんもだんだん手段を選ばなくなってきた ってことかな。どうやらあまりここに長居をしているわけにもいか ないようだった。 ﹁了解。おれ達もすぐにそっちに行く﹂ 147 ◆12:﹃蛭﹄ 地下鉄が駅に到着すると、おれは一人改札を抜けマンションへと 急いだ。駅前でぐるりと敵に取り囲まれるかとも思ったが、幸か不 幸かそういったものはなく、おれは至極あっさりと地上に出ること が出来た。すでに日は落ちており、蒸し暑い夜の空気の中、おれは ひたすら走ってゆく。と。 ﹁!!﹂ 全く反応は出来なかった。それでもその攻撃が当たらなかったの は、向こうがあえて外していたからに他ならない。おれの目の前を 槍のように何かが通り過ぎかすめていったのだ。攻撃のあった方を 振り向くと、そこには脇道が口を開けている。しかし、その﹃何か﹄ を飛ばしてきた相手の影は無い。 ﹁ご招待、ってわけか⋮⋮﹂ ヘタに断ったら背中からぶっすりやられかねない。おれはしぶし ぶ、そちらの道に向かった。道なりに二回も角を曲がれば、まだ建 設中なのだろうか、絶望的なまでに静かな工事現場が広がっている。 お盆休みだからかどうかは知らないが、駅前に程近いと言うのに通 行人は絶無だった。さながら絶壁のごとく両側に聳えるビルの隙間 から、騒音を撒き散らしながら走り往く総武線が視界の端によぎる。 上空には満月から下弦に傾きつつある月。蒸し暑い夏の夜だと言う のに、その男は黒いハーフコートを着込んでいた。 ﹁どうもこんばんわ。あんたと会うのは二度目、いいや三度目だっ たかな﹂ おれは男の顔を見やる。初老とも言えるその顔は、確かにあの時 おれ達の部屋を訪れた宅配便のオジサンであった。 ﹁変装も潜入も偽装も一人でこなす、と。まったく人手不足だと大 変ですねえ﹂ 148 ﹁ご心配痛み入ります。されどそういう事が生業ですのでお構いな く﹂ ほほ、と男が丁寧に一礼する。その姿からは、威勢のよい宅配便 業者のイメージを思い出すのは難しかった。 ﹁んで、何の用かな?悪いけどおっさんとお茶を飲む趣味は無いん だけどね﹂ ﹁いえいえ。そろそろお互い膠着状態にも飽きが来たのではないか と思いましてな。決着をつけようかと思い立ちまして、ハイ。ああ、 ワタクシこういう者です﹂ ハイガンマーコンス 男の手から放たれた紙をおれは受け取る。そこに記載されていた 社名は、 リーチャー ﹁国際人材派遣会社海鋼馬公司⋮⋮別名﹃傭兵ギルド﹄だったかね﹂ ﹁ご存知のようで光栄です。皆からは﹃蛭﹄と呼ばれております。 前職では主に政府筋で人事関係の仕事をしておりました﹂ ﹁やだやだ。公務員が民間に再就職すると、ろくなことがないね﹂ ﹁そういう物言いは物議を醸すのではないですかな?﹂ ﹁なあに、お役所のやり方を持ち込むと、って意味さ﹂ ﹁人事はなるべく公平を心がけておるつもりなのですがねえ﹂ はん。おれは嘲笑する。 ﹁テロリストへの内通者が潜伏している村の人間を、﹁疑わしい﹂ という理由だけで全員殲滅して回るのも平等主義ってワケだね﹂ ﹃蛭﹄の雰囲気がわずかに変わる。 ﹁ほほ、お若いのに博識でいらっしゃる﹂ ﹁幸か不幸か、この業界長いもんでねぇ﹂ おれは投げやりにコメントすると、わずかに足を引いた。 国際人材派遣会社海鋼馬公司。中国を拠点とする企業で、社名だ けならまっとうな会社に見えなくも無いが、その実態は冷戦終了後 の政治崩壊で職を失った各国のエージェントを雇い、世界各国へ派 遣する、いわばおれ達の同業者だ。だが問題が一つある。この雇わ れる連中というのは、大概が政治崩壊後、まともな職に就けなかっ 149 た政府、軍隊関係の連中なのだ。敗走した政府軍、旧特殊部隊くず れ、元秘密警察。そんな連中が得意とする仕事と来れば、どうして も拉致、拷問、脅迫、爆破と言った後ろ暗いジャンルに偏らざるを 得ない。結果として、海鋼馬のエージェントと言えば各国の犯罪組 織を幇助する用心棒を指すようになる。﹃傭兵ギルド﹄の異名を取 るのはそのためだ。おれも関わり合いになったことが何度かあるが、 ﹃なるべく犯罪行為にひっかからないように﹄仕事をするおれ達と、 ﹃なるべく犯罪行為がバレないように﹄の連中とはハッキリ言って 反りが合わなかった。 ﹁さて。あらためて交渉をお願いしたいところですが﹂ ﹁スイカの新種登録申請のデータだったら完成したぜ﹂ ﹃蛭﹄の目が細まる。 ﹁あんたらの狙いはあのスイカだってことは誰だって判ることなん だが。理由がどうしても見つからなくて困ってたんだよ。知的財産 権や特許に詳しい人に情報を集めてもらって、ようやく判った﹂ ﹁⋮⋮﹂ ギリギリ間に合った。来音さんに知り合いの弁理士に問い合わせ てもらった成果である。 ﹁つい最近成立した、﹃新種作物の創作権の保護﹄って奴だろ。あ れに登録申請をされることだけは、あんたらは阻止しなければなら なかった﹂ 本やソフトウェアに著作権が存在するように、農産物も品種改良 によって創り出されたものには、創作者に一定の権利が存在すべき である、という考え方だ。とはいえ、これまではあまり徹底されて おらず、日本の農家が苦労して開発した新種の苗が海外に持ち込ま れ、数年後には大量に安価に逆輸入されて却って首を絞める事にな った、などという事もあったとか。バイオ技術が進んでいる日本が、 いわば海賊版の横行への対策として打ち出したのが﹃新種作物の創 作権﹄である。これにより、先ほどのような状況に対しても特許使 用料のようなものを発生させることで、創作者に利益を還元させる 150 ことが出来るのだ。 ﹁想像力のたくましい方ですね。それではまさか我々の雇い主まで 見当が付いているとでも?﹂ ﹃蛭﹄の値踏みするような視線を、真っ向から受けて立つ。帰り の電車で大急ぎで組み立てた推理だが、それなりに自信はあった。 ﹁憶測しかないけどね。どっかのお国直営の外資企業。それも実際 はお国の命令で、大使館のバックアップまでついてます、って所じ ゃないか?﹂ ﹁⋮⋮どうしてそう思われるのですかな?﹂ ﹁最初は新種登録の妨害なんてのは企業同士の諍いだと思ってたん だがね。どうにもしっくりこなかった。そろったデータを見る限り、 味としては従来種とそう大きく変わりは無い。ただでさえ不確定な 要素が多い農作物の特許にそこまでリスクを払うものか、ってな﹂ しかし、笹村さんの話を聞いて納得がいったのだ。営利目的では なくボランティア、それも国際貢献となればまた別の利害が色々と 話が変わってくる。 ﹁砂漠の緑化と言えば良いことづくめのように思えるが、現実問題 としてはそれで損害を被る連中も存在する。例えば、その砂漠地帯 の食糧事情が大幅に改善されると、そこに今まで食料を支援するこ とで実質的に支配していた大国の立場はどうなるのか、とか。ひい てはそれが独立運動の機運に結びついたりしたらどうなるのか、と かね。それは大げさではあっても決して笑い話じゃない﹂ 馬鹿馬鹿しいようで、まったく笑えない話だ。食物のため。人類 にとって恐らく最も原始的で切実な闘争理由だろう。 ﹁そして、日本で公式に登録されてしまえば安易にコピー商品を作 り出すわけにもいかない。ならば、登録をさせなければいい。いや。 苗さえ手に入れることが出来れば、むしろ自分達が大きなアドバン テージを握ることにもなる。そう判断したからこそ、その国のお偉 方は︱︱﹂ ﹁⋮⋮それから先はあまり口にされない方がよろしいかと﹂ 151 ﹁ああ。おれもこれ以上くだらない内部事情に足突っ込むつもりは ないよ﹂ ﹁賢明ですね﹂ ﹁飛行機を落とされちゃかなわないからな﹂ ﹃蛭﹄の目が若干の驚きに見開かれる。おれはと言えば、当たり たくも無い推理がまた当たって反吐でも吐きたい気分になった。 ﹁彼女の場合は特別だったのですよ。それ以外にも色々と公式な影 響を持つようになっていて⋮⋮﹂ ﹁ンな話はどうでもいい﹂ 要するに、だ。 ﹁テメェをこの場できっちりノして帰ればそれでOK、ってことだ ろ?﹂ おれは二人称と共に、脳内のモードを切り替える。 ﹁そういう事になります。そしてそれは我々にも当て嵌まる。そこ まで妄想を逞しくされては、隠密に物事が済む段階ではなくなって しまった。貴方を消してしまえば無力な依頼人などどうとでもなる﹂ ﹁街中でドンパチやらかすつもりかい?﹂ ﹁いやいや。二十一世紀は怖いですなあ。平和な日本で無差別テロ 発生とは﹂ ﹃蛭﹄の気配が、ハッキリと変わる。それは一昨日の夜、おれ達 を襲撃したあの怪人とまさしく同じものだった。その両腕がすい、 と持ち上げられる。 ﹁そういえば、まだあなたの二つ名を伺っておりませんでしたな﹂ ﹁ああ。聞かないほうがいいと思うよ。多分後悔するだろうし﹂ ﹁⋮⋮おやおや。名乗りを上げる度胸も無いとは残念。では、参り ますよ﹂ ﹃蛭﹄の姿が一瞬にして視界から消える。瞬間移動、の類じゃな い。 ︱︱下! その姿は蛭というより砂漠を波打つ蛇の如く。 152 地面を這うかのように﹃蛭﹄が疾走する。その両手から漲る殺気。 空気を切り裂く二つの音。攻撃個所を予測した上で、事前に十二 分に回避の用意をしていてなお、おれの皮膚に赤い筋が二本走った。 更に後退。しかし学生の後退と戦闘のプロの突進の速度を比べよう という考え自体がそもそも無謀だ。たちまちのうちに間合いを詰め られる。必殺を期してか、目前に掌がかざされる。今度こそ見た。 その五指がぐにゃり、と捻じ曲がったのを。そして、五本の指が五 つの点となり、おれの視界に閃く。咄嗟に膝の力を抜いて仰向けに 倒れこむおれの視界に移ったのは、鼻先をかすめて空を貫く、一メ ートルの長さにも延びた奴の五指だった。 ﹃蛭﹄の名は、おそらくその指にある。武術ではありえない、自 在に伸縮、屈折する指。何某かの肉体改造でもしているのか。一見 無手の状態から、関節構造を無視し、指一本分の隙間を潜りぬけて 長剣並みの間合いで刺突を仕掛けられるとなれば、暗殺には打って つけの能力だ。一昨日に直樹の胸板を貫いたのも、郵便受けに潜ま せた五指による刺突だったのだろう。 ︱︱そんな思考は、背中に突き抜けた地面からの衝撃に遮断され た。ピンチが迫るほど思考が加速するのはありがたい体質だが、加 減を誤ると本当に機を逸しかねない。見上げるおれの視線と、見下 ろす﹃蛭﹄の視線。交錯は一瞬だが永遠にも感じられた。その掌か ら五本の毒矢が打ち出される。それは等間隔におれの頭を貫こうと して︱︱横合いから突き込まれたはためく布に弾かれ、逸らされて いた。そこには。 ﹁貴様の相手は俺だろう﹂ このクソ暑いのにコートを着込んだ直樹が立っていた。 ﹁⋮⋮いいタイミングで出てくるじゃないか﹂ ﹁何。この台詞は一度言ってみたかったのだ﹂ まさか狙ってたんじゃないだろうな? 153 ◆13:鍵をかける。 身を起こしたおれの事などもはや眼中に無く、直樹と﹃蛭﹄は静 かに視線を交えていた。片や黒いハーフコートを着込んだ初老の男。 片や、このクソ暑いと言うのにインバネスなぞ着込んだ直樹。カメ ラ越しに見れば十二月のシーンに見えなくも無いが、おれの周囲に まとわりつく熱気が、これは紛れも無く八月猛暑の夜なのだと訴え てくる。 ﹁先ほど事務所に真凛君から再度電話があってな。突入してきた連 中と戦闘を開始したそうだ。どうやら海鋼馬の連中らしい。第一波 は問題なく撃退できたが、そろそろ第二波が来る頃だろう﹂ ﹁お前なあ。毎度毎度の事ながら準備に時間かけすぎなんだよ﹂ おれはぶつぶつと呟きながらズボンを払う。 こいつは草加の笹村さんの家を出た後、一回準備をするとか言っ て、高田馬場の事務所まで戻っていたのだ。 ﹁仕方があるまい。準備が必要なのは本来貴様も同様だろう﹂ その出で立ちを見て、おれは一つ息をつく。 ﹁本気ってことだな?﹂ ﹁ああ。そういう事だから、貴様は早々に真凛君の所に駆けつけて やれ﹂ ﹁あいつに援護が必要とは思えんがねえ﹂ ﹁愛しい人を助けにゆくのは男の使命だぞ﹂ ﹁そういうのを悪趣味な発言って言うんだぜ﹂ おれは駆け出す。背を向けると同時に、待ちかねていたように直 樹と﹃蛭﹄の戦闘が始まった。 路地裏を抜けてダッシュすること三十秒。ここで息が上がって、 そこから呼吸を整えつつさらに三十秒も歩き、ようやくマンション 154 に戻ってきた。畜生、大学入ってからどんどん体がなまってきてや がるな。これで就職したらどうなることやら。 エレベーターなんて怖くて使えない。オートロックを突破したら そのまま階段をかけあがる。ようやくお目当ての階にたどり着いた。 ﹁真凛、大丈︱︱﹂ おれの声なんぞ遮って響き渡るけたたましい音。ドアを突破って 吹っ飛んできた宅配便の制服の巨体がおれにぶつかってくる。受け 止めてやる義理はないので身をかわすと、哀れ、その体は廊下の柵 を越えて下へ落ちていった。ま、身体は頑丈そうだし、一階は植え 込みだし。死にはしないだろう。 ﹁戻ってくるまでもなかったかね﹂ 部屋の中を覗き込む。見事なものだった。スイカの生い茂る部屋 の中、キレイにプランターを避けて八人ほどの男がノびている。本 来三人居れば狭いはずの部屋に、パズルをはめ込むように倒れ方を していた様は芸術的ですらあった。その中央に仁王立ちするのはう ちのアシスタント。それにしても管理人さんには何と言えばいいの やら。 ﹁とりあえず全員片付けたよ。でも、話に聞いていたコートの人は いないみたいだね﹂ ﹁ああ。あいつは直樹と交戦中だ﹂ ﹁えええっ!?何でこっちに回してくれないんだよお!﹂ ﹁こっちに来る途中を襲われたんだ。おれに文句を言うな﹂ 真凛ががっくりと肩を落す。 ﹁ううう。ボクは何をやっていたんだろう﹂ ﹁なあに。きちんと任務を果したのだから全く問題は無い﹂ おれはザックの中からガムテープを取り出した。ノされた連中を 見やってため息をつく。男を縛り上げるのはあまり興が乗らないな あ。 ﹁しかしま、連中時間が無いと踏んでなりふり構わなくなりやがっ たな﹂ 155 ﹁結局、相手の狙いはわかったの?﹂ ﹁まあな﹂ 後でコイツにも話してやるとしよう。直樹が﹃蛭﹄に負けるとは 思えんし、おれの仕事もとりあえずこれで終わりだ。思わぬ大事に なったが、まあ大した仕事もせずにすんだし、結果としては良かっ たと言うコトにしておこう。真凛にもガムテープを放り、二人して 縛り上げては玄関に放り出していく。 と。視界の端に、小さな光がまたたいた。 ︱︱おれがそのマズルフラッシュに気付けたのは、完全に偶然だ った。外が月夜でなければ、注視しても夜闇以外の何も見つけるこ とは出来なかっただろう。向かいのビルのさらに奥、一際高いビル、 こちらから見て丁度二階分ほど高い位置に潜んでいた海鋼馬のメン バーが、仲間を巻き添えにする覚悟で攻撃を仕掛けてきたのだ。わ ずかに弧を描きつつ降り注ぐ、かつて見たことのあるモノ。再び思 考が加速する。それはつまり。 ﹁HK69⋮⋮グレネードランチャー!!﹂ 正気かよ。マンションごと吹き飛ばすつもりか!? すでに真凛も反応している。気付けばその反応はすぐにおれを追 い抜く。今すぐ全力で脱出すれば自分は間に合うかもしれない。 だが。 ここは部屋、今から逃げても恐らく間に合わない。自分とおれだ けなら何とかなるかもしれないが、ここにはノびた連中と、スイカ がある。ましてや何も知らない隣の住民はどうなるというのか。そ う考えたのだろう。そしてその迷いが、致命的な初動の遅れを招い た。 もう、この部屋の人間は誰一人マトモにはすまない。 156 ちっ。 あーあ。結局こうなるのかよ。加速する思考。無限に引き延ばさ れてゆく時間の中、おれはしぶしぶ脳裏の引出しを開けて、﹃鍵﹄ を引っ張り出す。刻まれたバイパスに思考の電流が弾け、灼けつく。 おれは﹃鍵﹄を放る。意識はトーンダウン。俺は鍵を受け取り施錠。 閉じた扉ごとその存在をバックヤードに押しやる。 さて。 闇夜の中、すでにその形状すら把握できるほどの距離に迫った榴 弾を俺は一瞥する。 始めるとするか。 ﹃亘理陽司の﹄ 鍵を掛ける。 イメージするのはそれである。 誰でも考えることだ。 あの時、ああしていれば。 あの時、ああしなければ。 あの時、あれさえなければ。 あの時、あれがあったら。 今はもっと違っていたのに。 人は生まれたときより無数の判断を経て現在に到る。それらが全 て正しい判断だったと断定できる人間はいない。何故ならば、選ば れることの無かった選択肢は永遠のブラックボックスと化して、二 度とその結果を確かめることは出来ないからだ。 157 雨の日に、駅へ行くときに右の道を行ったら車に水を引っ掛けら れた。これは不幸かもしれない。しかし左の道を行っていたらどう だったのか。何事もなく駅にたどり着けたのか。あるいは車にはね られて重症を負っていたのか?同じ日を二度経験することの無い人 間には確認のしようが無い事象だ。 それを運命、と言う人もいる。個々人の選択、外的な要因によっ て一瞬から無限に分岐し、無限からさらにまた無限の選択肢が広が る果てしの無いツリー構造。その中から選び取られるたった一つの 選択肢こそが、運命なのだと。 しかし、その中で与えられる選択肢にはすべて﹃因果﹄が存在す る。 世界には﹃原因﹄によって﹃行動﹄がなされ﹃結果﹄が生まれる。 ﹃結果﹄は新たな﹃原因﹄となり、次の﹃行動﹄を産む。雨の日に 右の道を選んだのは、アスファルト舗装の右の方が砂利道の左より 歩きやすいと判断したから。歩きやすい方を選択した理由は、前日 に足に小さなケガをしていたから。人間の﹃判断﹄などその瞬間の 外的な要因と己の現在の状態を引数として、答えを出力する一つの 関数に過ぎず、それは選択ではなくて必然なのだ。 ﹃視界において﹄ 鍵を掛ける。 イメージするのはそれである。 ならば。 この世全ての﹃原因﹄を把握することが出来れば、次の﹃結果﹄ を完璧に導き出すことが出来る。ならばそれは次の﹃原因﹄となり ⋮⋮。これを繰り返すことで未来を導き出す事が可能なのではない 158 か。かつてそんな思想が流行したことがあった。 これが﹃ラプラスの悪魔﹄だ。人間の脳にめぐらされたニューロ ンとその中を流れる電流すら計算し尽くし、感情や精神すらも式に 置換し結果を予測せん。 それは、果てしの無い無駄な作業なのだと思う。仮にもし。その 行為が実ったとして。計算者に与えられるのは変化など起こり様の 無い未来なのだ。それでは意味は無い。研究とは実益をもたらすも のでなければならない。結局、後の世では混沌と揺らぎが生み出す 事実上予測不能の世界がラプラスの悪魔を追い払った。だが、そん なものは人々は最初からあり得ないと判っていたし、彼らとてとっ くに気付いてはいたのだ。 彼らは思った。ラプラスの悪魔が存在しない以上、﹃結果﹄とは 無数の選択肢から無数に派生する予測不可能なものである。選択肢 が二つあれば、二つの未来が存在する。無限の選択肢があれば、無 限の未来が存在する。当然のことだ。だからこそ人は欲望や目標に 向かい足掻くのだ。 しかし。それでは望むものにたどり着けないかもしれない。それ もまた当然のことだ。 ならば。 無限の未来の中から、己の望むものへ突き進むのではなく。 無限の未来の中から、己の気に入らないものを切り捨ててしまえ ばどうだろう? ﹃あらゆる類の﹄ 鍵を掛ける。 イメージするのはそれである。 159 望み得る事象を実現するために、無限の分岐へ鍵をかけてまわる。 ハズレの道がすべてふさがれてしまったのなら、あとはどんなに複 雑な分岐でも、開いている扉だけを選んでゆけば必ず正解にたどり 着くのだ。手持ちの鍵の数はそんなに多くは無い。あまりに広すぎ る事象、長すぎる時間を留めるのは亘理陽司に過度の負担がかかる。 乗せられる単語の数は、限定性の高いものを十がやっと、というと ころか。我が師より受け継ぎしはただ一つの鍵。これによりて亘理 陽司は世界すべての干渉を無価値とし、己の意に適う回答が出るま で物理法則を切り捨て続ける。 ﹃爆発を禁ずる﹄ 割れた窓から飛び込んできた榴弾は、重い音を一つ立てて床に転 がった。 ﹁愚か者め。近代兵器など不発を前提として戦闘するものだ﹂ 俺は悪意を込めて、そびえる塔の向こう、兵士に声をかけてやっ た。当然聞こえるはずも無いが、明らかに兵士はうろたえていた。 それはそうだ。戦争ならまだしも、入念に準備を行った初弾が不発 等という確率は、 ﹁∼∼ああ痛え。﹃あらゆる﹄、なんて景気のいい単語を乗せるな よなっとに﹂ ぼやくおれの横を、疾風と化した真凛が走り抜ける。突進の速度 をまったく殺さず掬い上げた榴弾を、ホレボレするほど力感溢れる オーバースローで振りぬく。報復の弾丸は五十メート以上の距離を 先ほどとは逆の軌道を描いて見事、射手に命中した。たまらず崩れ 落ちる射手。 ﹁よっし、当たり!﹂ ﹁当てるのは得意なんだよな、お前﹂ ってかさっきは、﹃爆発しない﹄と定義しただけで、完全に不発 になったかどうかはわからなかったのだが。まあ、言わぬが花と言 160 うものだろう。 おれはガラスの割れたベランダに歩み寄り、千代田区の町を見下 ろす。そう遠く離れてはいないところで、もう一組の戦いは続いて いるはずだった。 161 ◆14:﹃深紅の魔人﹄ 月が翳り、辺りを闇が満たしてゆく。 鉄骨の林の中、限られた空間を無数の線が貫き埋め尽くす。今や そこは、﹃蛭﹄の五指両手が織り成す蜘蛛の巣と化していた。その 指はどれほど長く、迅く伸びるというのか。変幻自在に放たれ捻じ 曲がる無数の槍衾の渦を、直樹はコートをなびかせながらひたすら に避ける。 ﹁なかなか素早い。しかし、所詮人間の動きでは避け切れませんよ﹂ ﹃蛭﹄が言うや、さらにその攻撃の速度は上昇。もはや刺突では なく銃弾に匹敵する速度で打ち出される攻撃を、それでも直樹はか わし続ける。 真凛と異なり、奴には弾道を見切るなどと行った超人的な芸当は 不可能だ。それでも奴が避けきれているのは奴自身の戦闘能力と、 それなりに培った戦闘経験によるところが大きい。だが、それにも 限度がある。 ﹁⋮⋮ちぃっ!﹂ 肩口を貫かんと閃いた薬指の一撃は、かわしきれるものではなか った。咄嗟にコートの裾をはねあげ、捌くようにその軌道を逸らす。 胸板をすれすれにかすめていく薬指。危機が一転して好機となる。 逃すものかとそのままコートの布地を巻きつけ、自由を奪い引き抜 いた。力が拮抗したのは一瞬。 ﹁何と!?﹂ ﹃蛭﹄が驚愕するのも無理は無い。直樹は奴の指を掴んだ左腕一 本だけで、成人男性としても大柄の部類に入るはずの﹃蛭﹄の体を 引っこ抜き宙に舞わせたのだ。体勢を崩したのを見逃すはずも無い。 間髪居れず、こちらに飛んでくる﹃蛭﹄に向けてパンチを繰り出す 直樹。だが。 162 ﹁ぐうっ⋮⋮﹂ 交差の後、吹き飛んだのは直樹の方だった。路地のゴミを舞い上 げ、剥き出しの鉄骨にたたき付けられる。 ﹁⋮⋮ふん、そんなところからも出せるとはな。大した大道芸だ﹂ ﹁困りますねえ。物価高のこの国では靴を調達するのも大変だと言 うのに﹂ それは、あまり正視したくない光景だった。﹃蛭﹄の右の革靴が 破れ、さらに中から一メートル余りも延びた五本の足指が、獲物を 狙う海洋生物のようにゆらゆらと直立して蠢いている。片や直樹は といえば、その新たな五指に貫かれたのであろう、腹部に幾つかの 穴が穿たれ、そこから血を流していた。 ﹁ふふ。貴方の能力は﹃怪力﹄でしょうかね。いずれにしてもその 貫通創ではまともに戦えますまい﹂ 直樹は興味なさげに己の腹に開いた穴をみやる。それほどの負傷 を追い、かつ今まであれほどの激闘を演じていたと言うのに、その 額には汗一つ浮いていない。一つ小鼻を鳴らすと、インバネスのコ ートのボタンを外し、懐に左手を突っ込む。 ﹁そろそろ本気で行くぞ﹂ そんなコメントともに、ぞろり、とコートから何かを抜き出した。 ﹁!?﹂ ﹃蛭﹄の表情が変わる。直樹がコートの中から抜き出したのは、 サーベル。 月明かりをその白刃に反射して冴え冴えと輝く、抜き身の一本の 騎兵刀だった。その長さ、その大きさ。明らかにコートの中に隠し おおせるものではない。鞘も無く、剥き出しの刀身から柄まで銀一 色の片手剣を、奇術師よろしく抜いた左手に構える。右手はコート の袖の中に隠したまま。先ほどの怪力に斬撃の威力が加わればどう なるか。直樹が間合いを詰める。﹃蛭﹄は咄嗟に後退。そのまま右 の五指で直樹の心臓を貫きに掛かる。 ︱︱ずんばらりん。 163 安易に擬音で表現すればそんなところか。高速で振るわれた騎兵 刀の一閃は、肉をも貫く鋼の指を、五本まとめて両断していた。怯 む﹃蛭﹄。追う直樹。﹃蛭﹄の左の革靴が爆ぜ、新たな五指が走る。 しかし二度目の奇手は直樹には通じない。余裕を持って回避、なお かつロングコートの裾をその一指に絡める暇さえあった。捕らえら れ、刀で断たれる指。しかし、それは囮に過ぎなかった。﹃蛭﹄は その一指を犠牲にして跳躍。仮組の鉄骨にその指を巻きつけ、あっ という間に上へ上へと登ってゆく。たちまちその姿は月の隠れた夜 の闇に隠れて見えなくなった。 ﹁ふん。卑劣な振る舞いが身上の秘密警察崩れか。逃げの一手は常 套手段よな﹂ 直樹の痛罵が届いたか、闇の向こうから﹃蛭﹄の声がする。 ﹁おや。貴方のようなお若い方とは前職の時にはそれほど関わり合 いになったことはございませんが﹂ 余裕を装っているが、自慢の両手両足の二十指のうち、六指を使 い物にならなくされているのだ。指に痛覚が通っているのかどうか はわからないが、ダメージが無いとは思えない。とはいえそれも、 腹に大穴が開いている直樹に比べればさしたる事は無いはずなのだ が。 ﹁ごく一般的な心情だ。人の庭先で詰まらぬ真似をされれば懲らし めてやりたくもなる﹂ ﹁はて。東欧にお住まいでしたかな?﹂ 言葉はそこで途切れた。続けて上がる、無数の鈍い音。 ﹁⋮⋮!!﹂ 前後左右、そして上方から延びた十四本の﹃指﹄に、直樹が貫か れていた。 鉄骨の塔から﹃蛭﹄が降りてくる。 ﹁私の指は特別製でしてね。一度血の味を覚えれば、あとは臭いで 追尾出来ます。視線の通らぬ暗闇であろうと問題はございません﹂ 164 切断された右の五指が蠢く。指先を切り落とされて怒っているの か。その掌を慈しむように見やり、 ﹁ああ。安心しろ。お前達もすぐに元通りになるぞ。今度は男だが、 若い人間の血だ。さあ、たっぷり飲んで育つがいい﹂ あまり考えたくは無いが⋮⋮この指は生きている。それも、まさ しく﹃蛭﹄のようなものだ。直樹の全身に突き立てられた蛭どもが、 その血を啜ろうというのか、一斉に身を歓喜を表現するかのごとく 身をよじらせる。だが。 ﹁⋮⋮?﹂ ﹃蛭﹄の表情が曇る。 ﹁ああ、つくづく嘆かわしい。かの偉大な詩人が吸血を愛の交歓に まで高めてくれたと言うのに。貴様のような奴が居るから我が品格 まで疑われるのだ﹂ 唐突に、﹃蛭﹄の指どもが身をよじり始めた。だがそれは先ほど のような歓喜によるものではない。明らかに苦悶によるためだ。慌 てて指を引き戻そうとする﹃蛭﹄。しかしその指たちは、まるで張 り付いてしまったかのように直樹から離れることが出来ない。 ﹁時間の流れと言うものは残酷なものだ。我が愛でし者、愛でし人、 愛でし土地を次々と色褪せた﹃古き良き時代﹄とやら言うものに飲 み込んでいってしまう。干渉をすれば互いに不幸を呼ぶだけ。止め れば止めたで、貴様らのような下衆共が我が領民の末裔を害して回 る始末﹂ いまや﹃蛭﹄にもはっきりと判るほど、その異変は現れていた。 ﹃蛭﹄が黒いハーフコートを来ていたのは、ただ隠密性を高めるた めだけの理由だ。夏の暑さなど、訓練を積んだ者には不快感を催す 程度のものでしかない。ところが、それが今。﹃蛭﹄は快適さを感 じていた。まるで、今がこのコートを着て外出するに相応しい季節 の如く。いや。むしろ、肌寒さを感じるほど。 一際、指の蠕動が激しくなり⋮⋮そして、止まった。愕然として 見やるその視線の先で、直樹を貫いたはずの無数の蛭たちが、すべ 165 て、凍っていた。夜闇の向こう、十四の刺突に貫かれた男がいるは ずの場所に浮かぶのは、瞳。紅玉を溶かし込んだような真紅にして、 まるで溶鉱炉で燃える炎の如く、燦然と輝く黄金だった。その時、 雲が去り、月明かりが再び周囲を鮮やかに蒼に染め上げる。 そこに、それは存た。 己の体内から吹き昇る膨大な冷気に、纏ったコートをまるで戦に 望む王侯の外套のごとく靡かせ、逆巻く銀髪の元、眼鏡に覆われて いないその瞳は紅き竜眼。手にし騎兵刀の正体は、その魔力で誂た 氷の一片。その身に触れしものはたちまち凍てつき、無垢なる白へ と存在を昇華させられ破滅する。 ﹁吸血鬼⋮⋮ですと!?﹂ ﹃蛭﹄が絶句する。それは彼の故郷でも、そしてこの業界でも御 伽噺として一笑に付されるべき存在のはずだった。少なくとも、こ の業界で吸血鬼と言えば、数次感染を繰り返し、人間を多少上回る 運動能力といくつかの異能、無数の弱点を引き継いだ存在に過ぎな いはずだ。たしかに脅威だが、この業界では突出した存在ではない。 だが、 ﹁馬鹿な⋮⋮!!﹃原種﹄が、この現代に生き残っているはずが無 い!!﹂ ましてや、大都会とは言えこんな東洋の一角に。そんな﹃蛭﹄の 混乱など知ったことかと、直樹がどこか物憂げに、﹃蛭﹄を一瞥す る。今まで袖の中に隠していたその右腕が振るわれる。全ての水分 を凍結させられたおぞましい指どもは、直樹の体に傷一つつけるこ とが出来ずに霧散した。いつのまにか、先ほど貫かれたはずの傷も 拭ったように消えている。 ﹁ぬぅっ⋮⋮﹂ ﹁ふん。種としての分を弁え、静かに眠りについていた我らを追い 出しておいて言い草はそれか。確かに千年一日の管理者としての暮 166 らしなど元から誰かにくれてやるつもりだった。それは許そう。し かし﹂ 直樹が左腕を掲げる。その腕に掲げられた騎兵刀が、恐ろしいほ どの白に輝く。東京の真夏の空気が反発して嵐を引き起こす様は、 異界から突如出現した絶対零度の暴君を押し返さんとする自然の抵 抗にも思えた。 ﹁仮にもこの﹃深紅の魔人﹄の領民を故なく害したとなれば、相応 の罰を与えねばならん﹂ ﹁ふ⋮⋮ふふ﹂ ﹃蛭﹄が不敵に笑みを浮かべる。 ﹁大言はほどほどにしなさい、旧種。もはや貴方達の時代は終わり。 所詮は狩られる側の立場に過ぎないのですよ﹂ 一歩足を進める。微動だにしない直樹。 ﹁吸血鬼の血。面白いですな。原種の血を飲めば不老不死も夢では ありません!!﹂ ハーフコートが裂ける。その腹の中から飛び出してきたのは︱︱ 人間の脚ほどの太さもある巨大な蛭だった。最後の一匹。これであ れば凍結する前に奴の皮膚を食い破ることが出来る、と。だが。 ﹁何度も言わせるな。吸血とは愛の交歓。貴様のような下衆な陵辱 は見るに耐えぬ﹂ 時間にして一秒も無い。いや、触れたその瞬間には、長大な蛭は その全身を凍結されていた。愕然とする﹃蛭﹄。ありえない。いか なる理由かはわからないが、この男が冷気を操れるとしても、ここ まで一方的に対象を凍らせることなど出来るものなのか。時間を止 めでもしない限り︱︱時間? ﹁貴様から奪って楽しいものなど一つも無い。その不快な時計を削 るだけだ﹂ 直樹の右腕が一閃した。⋮⋮そうか。局所的に時間を停止する能 力⋮⋮分子運動を完全に停止させられれば、全ての熱は存在し得な い。奴は冷気を操るのではなく、時間を操るのだ。思考がそこまで 167 弾けた時点で﹃蛭﹄の下半身は吹き飛んだ。 再び月は翳り、辺りは闇に沈む。無数の氷の欠片が大地に溶けて ゆき、先ほどの光景はまさしく夢に過ぎなかったのではないかとさ え思える。 ﹁逃げたか﹂ ﹁逃がしたんだろ?﹂ ようやく現場に到着したおれは、皮肉たっぷりにコメントした。 直樹といえばそ知らぬ面をして、 ﹁最近近眼でな。狙いを誤ったようだ﹂ などとのたまった。ちなみにその眼は、いつものとおり黄玉のそ れに戻っている。 ﹁いいのか?能力ばらしちまってもよ。今後大変だぜ﹂ ﹁何を今更。貴様と違って、俺の方はバラされる分には一向に構わ んよ﹂ ﹁名前が売れてると便利でいいねえ﹂ ﹁貴様ほどではない﹂ へいへい。しかしまあ、先ほどの寒気がウソのように、今では再 び、夏の蒸し暑い空気がこの周囲を支配していた。っと。そうか、 それもそのはずだ。 ﹁夜明けだぜ。任務終了、だな!﹂ おれは奴の背中を叩いた。直樹はと言えば、 ﹁そういえば一昨日もここで日の出を見たような気がする⋮⋮﹂ などとこれまたのんきにのたまった。 168 ◆15:冷えたビールとスイカと猛暑 ﹁それで、結局特許は承認されたんすか?﹂ 受け取った封筒の感触に頬をほころばせつつ、おれは問うた。一 任務終わるごとに即時現金で報酬が支給されることは、うちの事務 所の数少ない長所の一つだ。迂闊に月末払いにでもされると、報酬 を受け取らないうちに餓死しかねない連中も何人か所属しているの で、自然とこうなったようだ。 明日からいよいよ世間様はお盆である。ニュースでは帰省ラッシ ュによる新幹線乗車率がどうの、成田空港の利用者は何万人だのと いった情報が垂れ流されている。二十四時間体制でろくでもない仕 事を引き受けるうちの事務所も、大きな仕事もないため明日からは しばらく事務所を閉めて日本の風習に倣うこととなるのだ。メンバ ー達はほとんどが休みを取っており、所長とおれと直樹と真凛だけ がただいま事務所に残っている。直樹は盆になにやら大きなイベン トがあるとかで、おれは純粋に生活資金が枯渇しているので、両者 とも今日までに任務の報酬を受け取っておく必要があった。真凛は この後すぐに家に帰って盆の準備をするのだとか。渦巻く外気温は 引き続き絶賛上昇中、直樹なんぞはさすがにこのままでは日光で消 滅しかねんと判断したのか、逆にサマーコートを羽織っての出勤だ。 ﹁はいこれ。一昨日の日経産業新聞﹂ 応接室の雑誌ラックから所長が取り出した新聞を受け取り、ぱら ぱらと広げてみる。紙面の後ろの方、衣食住あたりの企業まわりの 情報を紹介する欄の片隅に、おれは小さな記事を見つけることがで きた。 ﹁﹃クランビール、新種のスイカを登録。低温、少量の水での栽培 が可能、国際協力活動への展開も﹄⋮⋮なるほどね﹂ その後には、この苗が今後数件の提携農家によって試験的に栽培 169 される旨の記事が続いていた。 ﹁ふむ。どうやらうまくいったようだな﹂ おれが置いていったあの荷物の梱包を終え、戻ってきた直樹が言 う。 公式に登録された事により、もはやうちの業界が暗躍する余地は なくなった。ムリにでも苗に危害を加えようとすれば、確実に痕跡 は残る。そうなれば当然調査はされるだろうし、関与が判明すれば 外交上の交渉カードにすらなりえる。証拠を隠滅して力技で口を拭 うという方法を取るにはあまりにもリスクが高い。ステージはすで に、次の段階へと移ったということだ。 ﹁そ・れ・で・ね﹂ 所長が満面の笑みを浮かべる。あ、珍しく邪悪じゃない普通の笑 みだ。 ﹁⋮⋮なんかヘンなこと考えなかった?﹂ ﹁イエイエメッソウモゴザイマセン﹂ 所長はじろりとおれを一瞥したあと、気を取り直して流し台に向 かう。そこには冷水が貯められており、そこに浮かぶは、 ﹁じゃーん!笹村氏からの差し入れよ∼!﹂ おれたちが守り通した、緑に黒の縞も鮮やかなあのスイカだった。 ﹁うわ、大っきいなあ∼﹂ 真凛が感嘆の声を上げる。 ﹁日本に滞在して長いつもりだが⋮⋮。これほどのものは始めて見 るな﹂ ﹁今回の報酬のおまけで、ぜひ食べてくれってね。君たちが来るの に朝から冷やしておいてやったのよ。感謝しなさい﹂ 湧き上がる喜びの声。さっそく食べよう、そうしよう、なんて言 葉が飛び交う。 何となく、おれの脳裏に一つの風景が浮かぶ。果てしなく続く荒 涼とした砂漠。そこにぽつぽつと植えられていくスイカたち。しか し、そこには二人居るべきはずなのにもう一人しか居ない。それは 170 少し、悲しい風景なのかもしれない。 ﹁そうでもないんじゃない?﹂ おれの思考を読んだかのごとく、所長が意味ありげにコメントす る。おれはその意図を読み取り、新聞の記事を再度読み進めていっ た。記事の末尾に、それは載っていた。 ﹁何と書いてあるのだ?﹂ ﹁﹃⋮⋮本件の登録商標は﹃瑞恵﹄。開発者である笹村氏の命名で ある﹄だとさ﹂ 瑞々しき恵み。不毛の地へ実りをもたらす種、か。 ﹁ははあ。名前はもう決めてあったってわけだね﹂ 笹村氏がどんな顔をしてこの名前を登録したのか。想像するうち に、次第におれは爽快な気分になってきた。気合を一つ、気だるさ を振りきり立ち上がる。 ﹁おれが切りますよ、丸々一個、いいですよね?﹂ いいよー、盆前に全部食べちゃうつもりだから、との所長のお言 葉。となれば一人四分の一切れ。横で真凛が目をきらきらと輝かせ ているのがわかる。そういやガキの頃からおれもやってみたかった んだよな。でかいスイカに思いっきりかぶりつくって奴。 ﹁じゃあ、ボクお盆とお皿出してくるね!﹂ ﹁タオルと包丁と塩も頼むぞ﹂ ﹁あいあいさー!﹂ ﹁ふむ。では俺はテーブルを出すとするか﹂ ﹁いいのかよ、日焼けすんぞ﹂ ﹁なに。雅を味わうためなら些細な事よ﹂ それにな、と奴は不敵に笑って見せた。 ﹁明日より炎天下のもとに三日間曝されるのだ。今のうちに体を慣 らしておかねばな﹂ おれには良く意味がわからなかったが、まあ理解しても幸福にな るわけでもなさそうなので突っ込まなかった。 171 スイカは叩くとキレイに音波が通りそうなぎっちり実の詰まった 大玉。まっかっかの果肉と黒い種がもうこれでもかっ、とばかりに 己の存在をアピールしている。それをワイルドに皿に乗せ、事務所 のベランダに出されたテーブルへ並べる。ちなみにテーブルの上に は、スイカと一緒に送られてきたクランビールの缶が。笹村さん、 やるな。 ﹁所長、さすがに昼間からビールはいかがなものかと﹂ 言いつつ、しっかり缶をキープしているお前の方がいかがなもの か。 ﹁いいのよ。たった今夏季休業の報せを発信したから。今から晴れ てお盆休みってワケ﹂ 所長は言い、プルタップを押し込んだ。おれも習い、ビールを一 気にあおる。なんだか水分の取りすぎで腹を壊しそうだが、気にし ない気にしない。 ﹁こういう報酬もたまには悪くないでしょう?真凛ちゃん﹂ ﹁はい、美味しいです!﹂ ドラえもんの登場人物の如くうまそ感を振りまきながらスイカを 食べる真凛であった。なんだかこいつもなんだかんだで上手く騙さ れているような。 ﹁まあいいか。これはこれでアリだしな﹂ おれはスイカにかぶりついた。それはとても冷たく汁気たっぷり で、極上の甘味だった。 吹き込んだ風が、蒸し暑い空気を払ってゆく。風鈴の音が、ちり ん、と響いた。 今日もまた、暑くなりそうだった。 172 ◆01:諏訪の夜に麺をすすり ﹁ぅえっくしっ!!﹂ おれは唐突に盛大なくしゃみを上げ、周囲の人々︱︱長旅の疲れ を癒す善良なドライバー諸氏から冷たい目を向けられた。左右に首 を振りながら愛想笑いと目礼で謝る途中、もう一回大きなくしゃみ をする。おれはたまらず、ささやかな夜食、たった今トレイに載せ て運んできたみそラーメンに箸を伸ばした。世にラーメン数在れど、 体を中から温めるという点に於いてみそラーメンに勝るものはある まい。シャキシャキのもやしと甘いコーンが入っていれば及第点。 その点、このレストランのラーメンは充分以上の出来だった。いや もうホント、どうせインスタントだと覚悟していたのだが。今日は 結構ツイているらしい。立ちのぼる湯気にあごを湿らせ、幸せいっ ぱいに麺をすすりこむ。一気に三分の一を平らげてスープを飲み込 み、熱交換を終えた肺の空気を一気に吐き出す。五臓六腑に染み渡 るとはこのことだ。寒い夜のラーメンは格別である。つい先程まで はアイスクリームも買おうか等と迷っていたのだが、戯けた考えを 自粛して本当に良かった。 ︱︱正直に告白しよう。八月だからと言って、Tシャツ一枚にシ ョートパンツとサンダルという格好は、あまりにもこの時この場所 をナメておりました。この窓際の席からよぉく見える、街の灯火に 縁取られた夜の諏訪湖を見下ろし、おれは素直に反省した。 そう。ここは長野県。 八ヶ岳に抱かれたいにしえの湖を眼下に望む、中央高速自動車道 諏訪湖サービスエリアが、只今このおれ亘理陽司の存在している場 173 所なのだった。 とはいえ、時刻は日付も変わろうかと言う深夜。せっかくの絶景 も既に闇に沈んでおり、おれの感覚を占めているのは、本当にかす かにざわめく水の音ときらめく灯り、そして店内の喧騒と、響き渡 る有線の音楽だった。世間様は夏休み真っ最中だが、さすがにこの 時間帯になれば、店内も観光客より地元の若者やトラックの運転手 の占める割合が多くなってくる。セルフサービスの無料のお茶︵ホ ット︶の紙コップを三つほど積み上げラーメンを堪能しながら、T Vで流されているニュースと画面の右上に浮かんだ時刻を見やった。 ザックに仕舞い込んだ週刊誌も粗方読みつくしている。 おれがこのサービスエリア内のレストランに陣取ってから、すで に六時間以上が経過しようとしていた。もう一つ、盛大なくしゃみ。 まったく、夜の高地がここまで急激に冷え込むものだとは。⋮⋮ま あ、半分以上は不可抗力だと思っている。何しろ夕方三時に、まる で税務署の酷吏のように住民をぎゅうぎゅうと締め上げる東京の焦 熱地獄を脱出した時には、とてもこんな肌寒さを予想するどころで はなかったのだから。 ﹁ちゃらら∼ちゃちゃっちゃらちゃ∼ら∼ちゃ∼っちゃちゃ∼♪﹂ 麺を半分ほどすすり終え、お楽しみに取っておいた大きめのナル トをいただこうとしたところで、﹃銭形警部のテーマ﹄がポケット から響き渡る。 ﹁はいはい、亘理ッス﹂ それに対する返答は、受話器ではなくレストランの入り口から響 いてきた。 ﹁いたいた、おーう陽チン、待たせたな!﹂ ﹁陽チンはやめてくださいって、仁サン﹂ おれは苦笑しつつ手を振る。玄関のドアが開き、レストランの入 り口に一人の男が入ってきた。とりたてて美形と言うわけではない 174 が、不思議と人目を引く男だ。二十代前半、長身に纏った薄手のシ ャツの下には、分厚い、実用的な筋肉がうねっているのがわかる。 野生を感じさせるその面構えも相まって、ハードレザーでも着せて 夜の街に立たせておけばさぞかし同性にモテるだろう。本人はさぞ かし嫌がるだろうが。そんなおれの勝手な想像を知る余地もなく、 青年はおれの視線を捕らえるとにやりと笑い、真っ直ぐ歩を進めて きた。 ﹁都内出発から占めて九時間。随分待たせてくれるじゃないですか﹂ ﹁何だお前、せっかく給料つきで自由時間くれてやったってのに、 まさかただここで座ってました、なんてほざくんじゃないだろうな ?﹂ おれの苦言などどこ吹く風。人ごみを飄々とすり抜けてこちらに 近づいて来る。いつの間にかその右手にはトレイが握られ、気がつ けば大盛のカツ丼とサイドメニューのうどんがそこに載り、テーブ ルに辿り着くまでにはデザート代わりのたこ焼きまでが載っていた。 そのまま無造作にトレイを置くと、どっかりとおれの対面の椅子に 腰を下ろす。いったいいつの間に食券を買って注文して、あまつさ え出来上がるまで待っていたというのか︱︱そんな愚問はこの人に はぶつけるだけ無駄である。付き合いはそれなりに長いが、教えて もらった事は一度も無いのだ。いわく、タネをばらしたら法でなく 術になってしまうのだとか。 ﹁アルコールも無しで夕方以降の六時間をどう潰せと?﹂ 実際、諏訪湖に降りたならまだしも、このサービスエリアの中で 周れる場所などたかが知れている。最初の一時間で一通り探索を終 えた後、雑誌と違法改造携帯電話兼サウンドプレイヤー﹃アル話ル ド君﹄とTVのお世話になっていた次第。エリア内には温泉があっ たのだが、どうせこれから散々汚れる事を考えると入る気にはなれ なかった。 ﹁出会いに二時間、食事に一時間。その後もうちっとお互いの理解 を深めるのに二時間ってとこだろ﹂ 175 心底出来の悪い弟子を嘆くような表情でこちらを見るのはやめて 欲しい。 ﹁生憎とおれの売りはアンタと違って、手の早さよりもじっくりつ きあってこそわかる篤実な人格って奴なんですよ、仁サン。だいた い車をアンタが運転していっちゃったんだから、理解を深める場所 も無いじゃないですか﹂ ﹁木陰があれば充分だろ﹂ つぐみのひとし ﹁アンタが言うと冗談に聞こえませんね﹂ ﹁たこ焼き食うか?﹂ ﹁いただきましょう﹂ このハードゲイ、もとい好青年は鶫野仁さん。おれ達同様、人材 派遣会社﹃フレイムアップ﹄でアルバイトに励むメンバーあり、そ の中でも古株に属する一人だ。今では自然とアルバイト達の取りま とめ役になっており、多数のメンバーが派遣される任務の際には、 社員達のバックアップを受けて前線を指揮する小隊長になる事が多 い。おれや直樹あたりもこの仕事を始めた当時から何くれとなく世 話になっている、頼れる先輩といったところ。今回の仕事を引き受 けたおれを、都内からこの諏訪湖まで愛用の四駆で引っ張って来た のも仁さんなのである。 ﹁と言っても、今回はただの運搬役兼準備役だ。うちからの正式な 選手は、お前と真凛ちゃんの二名、という事になる﹂ ﹁⋮⋮こういう混成部隊で失敗しても、﹃任務成功率百パーセント﹄ は維持出来ないんですかねぇ?﹂ ﹁何言ってやがる、もともと失敗するつもりなんぞないくせに﹂ それもそうだ。そろそろ本題に入るべく、おれは話題を転換する。 ﹁で、例のブツは?﹂ ﹁あー安心しろ。お前がさみしい六時間を過ごしている間にバッチ リ出来上がってんぜ﹂ これまた手品めいた仕草で仁サンがするり、と取り出したのは、 176 ノートパソコンを収納するような耐衝撃性を高めたキャリーケース だった。ずいぶんと身が厚く、金槌でぶったたいても内容物に傷を 負わせる事は出来そうに無い。なんでも引越し業者が精密機器の梱 包に使うモノの親分筋なのだとか。 ﹁お待ちかねの後半部分がこの中に入っている。作者から受け取っ たその足でここまで運んできた。前半部分はすでに敵さんが持ち去 って、ルールどおり待機してんぜ。諏訪のインターから上がってく る予定だ﹂ ﹁あちらは契約どおり四人?﹂ ﹁四人だそうだ。そしてこちらもお前さん以外の三人は準備OKだ とよ﹂ マヨネーズのたっぷりのったたこ焼きと、勿論忘れずにナルトを 口に放り込むと、おれはケースを手にとって眺める。ケースの口の 部分には、これが﹃誰も開封していない﹄事を示す、封印の紙が貼 り付けてあった。無駄だと解ってはいても、何とかしてその中身を 閲覧できないか、と上下左右をこねくり回すおれに仁サンが苦笑す る。 ﹁何だ?お前その手のマンガに興味あったか?お前が好きなのは無 意味に小難しいヤツか、実用一辺倒に劇画調年上陵辱系のエロスな ヤツだと思ってたけどな﹂ ご家族連れも利用するレストランでそんな台詞を吐くのはやめて 頂きたい。 ﹁水木しげる御大も一通りは揃えていますよ。⋮⋮ま、こーいうの は確かにストライクゾーンじゃないんですが。こないだDVDを全 巻一気に見せられて以来、まんざらでも無くなりましてね﹂ おれはケースの天頂部をみやる。そこには無愛想な事務的なラベ ルとは対照的な、何と言うかハートフルな愛らしいフォントで、以 下のような文言が刻まれていた。 ﹃サイバー堕天使えるみかスクランブル 第42話原稿 18∼3 177 6ページ﹄ ふぅ、と一つ息をつく。ちょっとだけこの状況に緊張した。 そう、まさに今おれの手にあるのは、あの超人気連載マンガ﹃え るみかスクランブル﹄の原稿。それも雑誌に未だ掲載されていない、 出来たてほやほやの生原稿なのだ。しかも、あの長らく待ち望まれ た第42話と来ては、 ﹁責任は重大、だよなあ⋮⋮﹂ 任務達成率百パーセント、なんて看板には未練どころか最初から 執着もないが、さすがに失敗して世の熱狂的な﹃えるみか﹄ファン に八つ裂きにされるのは避けたいところだった。 178 ◆02:出版業界お家騒動 ﹃月刊少年あかつき﹄。 それが﹃えるみかスクランブル﹄の掲載雑誌の名前である。 決してメジャーどころではないが、タイトルは若い世代なら大抵 知っているマンガ雑誌だ。ただし読んでいる人はそれ程多くなく、 コンビニでもなかなか見かけない。そのくせ掲載されているマンガ の中でトップの人気を誇る作品︱︱﹃えるみか﹄はまさにその一つ だ︱︱は、誰もが一度はアニメくらいは見た事がある。そんな微妙 なバランスを保ったこの月刊誌の存在が、今回のお仕事のそもそも の発端である。 ﹃少年あかつき﹄を刊行しているのは、大手出版社ホーリック。 実用書や文芸小説、ビジネス雑誌を中心としてシェアを確保してい る、いわゆる﹃お堅い﹄会社である。そんなホーリックが突如月刊 の、しかも少年マンガ雑誌などと言う畑違いのジャンルに進出した のが十数年前。 噂によれば、何でも叩き上げの当代の社長が﹃現代の少年達が、 世間に蔓延る有害な漫画に触れて育てば、必ず二十年後の国家に深 刻な悪影響を及ぼす﹄と息巻いたのがきっかけなのだとか。おれか らしてみれば、ならそんな有害なマンガなんぞに関わらなければい いじゃないか、と思うのだが、一代で出版社を立ち上げた傑物の考 えることは違った。彼の出した結論とは、﹃然らば、我々が率先し て良質な漫画を供給し、以って少年達を啓蒙し健全な精神を育ませ るべし﹄だったのだそうだ。︱︱世間ではこういうのを﹃大きなお 179 世話﹄と言う。君、テストに出るから覚えておくようにね。 ⋮⋮当然と言えば当然なのだが、そんな社長が提起した﹃良質な 漫画﹄︱︱お堅くて品行方正で説教臭い︱︱ばかりが集められた創 刊号は、そりゃあもう致命的なまでに売れなかったらしい。当時の 業界では﹁殿、ご乱心﹂なんて陰口が無数に飛び交ったのだそうだ。 だが、当の社長はそんな逆風にめげることなく、他部門の利益を注 ぎ込んで販促を行い、各誌から一昔前のいわゆる﹃旧き良き﹄時代 の人気作家を招聘し、この﹃あかつき﹄を保護し続けた。土が悪く ても肥料と水を与え続ければなんとか苗木が育つように、﹃あかつ き﹄はそれなりには雑誌として成長を遂げていったのだ。⋮⋮とこ ろが。おれは依頼を受けるに至った経緯を思い返した。 ﹁十年前、その当時の社長が病気で引退されてから、﹃あかつき﹄ の方向性は大きく変わりました﹂ 今回の依頼人、弓削かをるさんはそう言ってアイスティーに口を つけた。東京都は高田馬場、﹃フレイムアップ﹄の簡易応接室であ る。節電の精神に基づいて稼動するエアコンでは降り注ぐ赤外線の スコールに抗し切れないようで、部屋の中は良く言っても﹃どうに か暑くない﹄程度だった。応接に陣取る三者のうち、おれと浅葱所 長は時折扇子や書類で風を起こして涼を補っていたが、当のクライ アントは汗一つ浮かべず端然としたものである。ビジネススーツに 身を包んだ一分の隙も無いその姿は、ホーリックの女編集者という よりは、どこかの検事と言った雰囲気だ。それもヤリ手の。こんな 人が編集についた漫画家は、そりゃもう〆切という契約の重みを身 をもって味わう事になるのだろう。 ﹁もともと社長の道楽で創めたような雑誌でしたから、編集者達も どちらかと言えば事務的に仕事を捌いていました。しかし、社長が 180 引退したからといって即廃刊と言うわけにはいかない。当時の編集 者達は四苦八苦しながら慣れないマンガ編集に携わってゆき︱︱﹂ ﹁やがて本気になった、と﹂ 弓削さんの冷たい視線がおれの顔を一撫でする。どうやら自分の 言葉に割り込まれるのはお好きではないタイプの模様。そのまま言 葉を続けて頂く。 ﹁特に若手の編集者達は、これを好機と捉えた者も多く、それぞれ が独自の基準で新人や他雑誌の作家を発掘し、登用して行きました。 それからさらに試行錯誤の十年を経て、今につながる﹃あかつきマ ンガ﹄の作風が確立されるに到ったのです﹂ ﹁あかつきマンガ、ねぇ⋮⋮﹂ おれは口の中で呟く。こりゃどう考えても、おれより直樹の野郎 の領分だよなあ。確かあいつの部屋は、﹃あかつきコミック﹄が壁 の一面を飾っていたはずだし。 ヤツの受け売りになるが、まあ何だ、弓削さんの言う﹃今につな がるあかつきコミック﹄ってのは、若い男性向けの、繊細な絵柄の 美少女、もしくは美女美少年の魅力をウリとしたマンガを指す、の だそうだ。奴等の世間ではそういうのを﹃萌えマンガ﹄と言う⋮⋮ らしい︵正しく言葉を引用出来ている自信はおれには無い︶。率直 に言えば、おれにとって興味の無いジャンル、というわけ。 ﹃えるみかスクランブル﹄はまさにその典型で、十数人の美少女 と、彼女達を守護する天使の名前がつけられたロボット達が、魔界 の侵略者から地球を守る、と言った内容である。主人公と美少女達 の恋愛模様、ロボット同士のド派手な戦闘が若い世代に受けている、 らしい︵って言うとおれがいかにも若い世代ではないみたいだが︶。 それにしても、そのあかつきコミックの起源が﹃世間に蔓延る有 害な漫画を駆逐する﹄事にあったとすれば、とかく周囲から偏見の 目で見られがちの今の﹃あかつきマンガ﹄の姿は皮肉としか言いよ 181 うが無い。先代社長もさぞかし草葉の陰で嘆いておられる事であろ う。 ﹁そう。嘆いていたのです。だから十年の闘病生活を経て、奇跡的 に病気を克服した今、現在の事態を許すはずがない﹂ ⋮⋮おっと。病気で引退したっつっても死んだわけでもなかった か。しかし結構いい歳だろうに。 ﹁御歳七十五。あと十五年は現役を張るつもりだそうです﹂ さいでっか。 ﹁社長が奇跡的に退院し、再び現職に返り咲いたのが一年前。そこ から﹃あかつき﹄の編集部内には、粛清の逆風が吹き荒れる事とな りました﹂ 掲載されているマンガには興味が無いおれも、その話は業界四方 山話として知っていた。強引な上層部の方針転換に対する、作家と 若手編集者達の造反。業界内で、﹃あかつき御家騒動﹄、もしくは ﹃ルシフェル事変﹄と呼ばれる一連の騒動が巻き起こったのである。 182 ◆03:出版業界騒動顛末記 社長が死神に愛想を尽かされて現職にカムバックしてからと言う もの、﹃あかつき﹄の編集部内は宗教弾圧真っ盛りの中世さながら だったそうだ。 まず最初に行われたのが、主要連載マンガ陣の打ち切りである。 人気の無くなったマンガがいきなりストーリーを急速に進め、それ から三、四話後に打ち切り、というパターンはどこでも良くある話 だ。だが、これを﹃あかつき﹄では人気連載が唐突に行ったのであ る。 そして困惑する読者を尻目に次に行われたのが、同じく人気マン ガの他誌への移籍。ホーリック社は﹃あかつき﹄の他に、四ヶ月に 一回刊行する季刊﹃あかつきSEASON﹄を持っている。本来は 新人の読み切りや﹃あかつき﹄本誌連載の外伝を掲載したりする、 いわば二軍的役割の雑誌だったのだが、この﹃SEASON﹄にい きなり主力連載が移管されたのである。当然これらの処置に連載の ファンと、そして当の作家達は怒り狂った⋮⋮のだが、自らの信念 を以って進む社長にとってはそんなものは打破すべき有害図書の怨 嗟に過ぎず。ますます﹃あかつき﹄から﹃あかつきマンガ﹄は排除 されていったのだった。 そしてその穴を埋めるべく大量に投入されたのが、円熟したベテ ラン作家による一昔、いや、三昔前の﹃清く正しい﹄王道少年漫画 の群れだった。そりゃもう、スポ根、青春、熱血、努力、勝利、下 手すりゃ愛国なんて言葉も大真面目に飛び出すような連載陣。それ はまさに、創刊当時の﹃あかつき﹄の復刻だった。 183 ﹁当然、私達編集や作家も大いに困惑したのですが、一番の被害者 は読者でした﹂ まあ、可愛いオンナノコやカッコいいオトコノコの活躍を楽しみ にページをめくった読者が、劇画調のオッサンがぎっしり詰まった コマを見せられたらそりゃ詐欺だと思うだろう。結果として、﹃あ かつき﹄は十年に渡って開拓して来た読者を多く失う事になった。 社長がいない間にこの十年を築き上げてきたマンガ家達、そして かつての若手にして今の中堅どころの編集者達の気持ちは到底収ま るものではなかった。彼等はやがて一つの決断を行う。︱︱我々が 育ててきたこの﹃あかつきマンガ﹄の芽を、あの社長の独善で潰さ せるわけにはいかない、と。 そして叛乱が始まった。 当時の編集長が資金を調達し、出版社﹃ミッドテラス﹄を設立。 そして現﹃あかつき﹄の主要スタッフと、﹃SEASON﹄に追い やられていた作家陣を引きつれ集団でホーリック社を離脱したので ある。そしてミッドテラス社は月刊誌﹃ルシフェル﹄を設立。﹃あ かつき﹄で辛酸を舐めた連載陣を、一部タイトル名を変えた程度で ほとんどそのまま復活させたのだ。 もともとホーリックが﹃あかつき﹄を創刊し、今また強引な方針 転換を推し進めたのは、社長の独善的とも言える思い込みによるも のである。だが、いや、だからこそ、か。社員とマンガ家の大量離 脱という裏切り行為は事態は社長にとって許せるものではなかった ようだ。例えそれが﹃あかつき﹄から彼の嫌う異分子が出て行く事 を意味していたとしても。 そしてホーリック社はミッドテラス社を提訴。﹃ルシフェル﹄に おける連載陣はすべて﹃あかつき﹄の連載の続編であり、明確な著 作権違反だと指摘。対するミッドテラス社はホーリック社の横暴な 184 振る舞いを訴え、また、自社の連載陣はあくまで同一作者の別の連 載である、と主張し⋮⋮作品の著作権や作家の所属、はたまた著作 権の解釈そのものを巡って、両社は激しく争う事になった。半年以 上経過した今もこの騒動は法廷で継続しており、時々テレビや新聞 を賑わせている。 そして、半年以上継続しているこの﹃ルシフェル事変﹄において、 当初から一貫して一番の台風の目だったのが、﹃あかつき﹄のトッ プ人気マンガ、﹃えるみかスクランブル﹄である。 主要の連載の多くが打ち切られ、また﹃SEASON﹄に移され る間も、その後も、一番人気の﹃えるみか﹄だけはそういった目に 遭う事が無かった。理由は簡潔。稼ぐ金が大きすぎて、ワンマン社 長と言えども迂闊に手が出せなかったのである。アニメ化、CDド ラマ化もなされ、フィギュア等のグッズ類が上げる利益は莫大。﹃ あかつき﹄は知らなくても﹃えるみか﹄は知っている、という人々 が多数居るこの御時世だ。﹃えるみか﹄の連載中止はそのまま﹃あ かつき﹄の致命傷に、いや、もはや母体であるホーリック社の屋台 ミズナミ 骨にまで大きな損害を与えかねないものとなっていたのである。 キヨト 反面、﹃ルシフェル﹄としては、﹃えるみか﹄とその作者﹃瑞浪 紀代人﹄は何としてでも自社側に引き抜いておきたいカードだった。 人気連載をまとめて引き抜いたミッドテラス社も、お家騒動のゴタ ゴタで多くの読者の離反を招いており、決して安穏と出来る状況で はなかったのである。︱︱もっと辛辣に言ってしまえば、﹃えるみ か﹄という人気作品なしに、単品で勝負出来るだけの連載が無かっ たと解釈する事も出来る。ミッドテラス社は設立当時から瑞浪氏に 対して強い勧誘を続けていたが、先の理由によりホーリック社もこ れだけは例外と断固として勧誘を跳ねつける。やがて、ミッドテラ スの勧誘とそれに対するホーリックの妨害は次第に強引、強硬なも のとなり、両社に挟まれた形になった瑞浪氏は執筆以外のストレス 185 に体調を崩すようになっていった。 そして数ヶ月が経過したころには、﹃ルシフェル事変﹄は、著作 権の正当性や各作家の意志という諸問題から、次第に﹃瑞浪紀代人 はどちらで連載をすべきか﹄という、きわめて生臭い一点に集約し ていったのである。片や、専制君主の意向で切り捨てたいのに切り 捨てる事が出来ない﹃あかつき﹄側と、喉から手が出るほど切実に 欲しいのに、﹃あかつき﹄で連載されている限り手出しが出来ない ﹃ルシフェル﹄。決め手を欠く両社が表と裏の双方の世界で暗闘を 繰り広げて行くうちに、事態は深刻さを増す一方だった。 世に少年漫画雑誌は﹃あかつき﹄と﹃ルシフェル﹄だけに在らず。 アニメ化される人気マンガは﹃えるみか﹄だけに在らず。両社が終 わらぬいさかいを繰り返す内に、奪い合いをしているはずの読者達 作者都合により 休載 はどんどん他誌へと流れていった。当然と言えば当然のことではあ る。 ゴタゴタが続く内に当の﹃えるみか﹄も がちになっており、殊に現在は、41話が掲載されてから既に三ヶ 月連載がストップしていた。出版社間の裏事情は当の昔にあまさず ネット経由で一般にもぶちまけられており、読者の怒りは頂点に達 していた。 このままでは共倒れ。 その認識を持つに到った双方は、極めて合理的な問題解決方法を 選択した。すなわち︱︱ケーキの取り合いになったらジャンケンで 勝負を決める。これと同様に、企業間の揉め事になったら、﹃異能 力者達の競争﹄で勝負を決める。︱︱ここ最近、企業間の裏社会で 急速に広まりつつある方法を。 186 ◆04:21世紀の剣闘士︵アマチュア︶ ﹁ゲームの開始は深夜二十五時ジャストに決定された。ゴールは東 京都千代田区神田の喫茶店﹃古時計﹄。場所は頭に叩き込んできた か?﹂ 仁サンのコメントにおれは頷いた。東京一人暮らしもそれなりに 長い。都内の地理は脳に焼きついている。 ﹁勝利条件は二つ。その一。﹃ミッドテラス﹄社の雇ったエージェ ント四人を排除し、彼等の持つ﹃えるみか﹄第42話原稿の前半部 分を奪い返すこと。その二、その原稿と今お前が手にしている後半 部分をセットにして、ゴールまで持ち込むこと。お前達のチームが 勝利すれば、﹃えるみか﹄は今までどおり﹃あかつき﹄とホーリッ ク社で連載継続。ミッドテラスは以後一切の勧誘行為を諦めること となる﹂ ﹁⋮⋮当然、敵さんの勝利条件は正反対。おれ達の原稿を奪ってゴ ールすること、なわけですね﹂ ﹁そういう事だ。﹃古時計﹄には今回の依頼人であるホーリック編 集の弓削かをる女史、ミッドテラス編集の伊嶋勝行氏、立会人とし てうちの所長。それからつい数時間前、諏訪の自宅で原稿を書き上 げたばかりの﹃えるみか﹄作者、瑞浪紀代人氏も合流するために出 発した。お前等がゲームに突入する頃に、丁度向こうに着く勘定か な﹂ 任務前に諸条件をお浚いしつつ、おれは何とも皮肉な表情になら ざるを得ない。長引くゴタゴタを解決する方法とは、要するに、く だらないルールに基づいたゲームを行い、勝った方が権利を得ると いうものだった。おれ達はそのために呼び集められた態の良い代理 187 人というわけ。派遣業界の主要なお仕事が各種代行だとは言っても、 流石に古代の剣闘士の真似事までさせられるんじゃあたまらないよ なあ。 ﹁とは言え、それなりにメリットはあるのよ﹂ おれの不満面を読み取ったかのように、浅葱所長はのたまったも のだ。 ﹁何より、訴訟に比べてお金と時間の短縮になるのが第一ね。裁判 の意味の大半は、中立の立場から主張を判定して貰うことで双方が ともかく﹃納得すること﹄なわけだから。﹃納得すること﹄さえ出 来るならそれこそコイントスでもジャンケンでもいいわけよ﹂ 法治国家の根幹を揺るがしかねないコメントをさらりと述べなさ る。 ﹁すでにミッドテラス担当者と弁護士立会いの下で契約書を取り交 わしました﹂ こちらは何時の間にやらアイスティーを飲み干した弓削さん。 ﹁以後は、両社担当がそれぞれのコネクション、情報網を駆使して 各派遣会社よりエージェントを召集することになります。今回、ル ールで定められた参加人数は四人ずつ。うち、二人については私個 人の伝手がありますので確保出来ました。そして残り二人を、業界 屈指の名声を誇る御社より派遣していただきたいのです﹂ ﹁背景はとりあえずわかりましたよ。しかし、真凛はともかく、何 でおれなんですかね?﹂ 自慢じゃないが、アクションはかなり苦手なクチなんですが。 ﹁他のメンバーとの相性を考えた上でのベストオーダーよ。運動能 力の高いメンバーを揃えてみても、相手側に妙な能力を持ったエー ジェントが一人居ると、簡単に戦局をひっくり返されてしまう。そ の点、亘理君ならどんな場面でもそれなりに動けるジョーカーだか 188 ら﹂ ﹁その呼び方やめてください﹂ ﹁あ⋮⋮、ごめん。とにかく、アクションは他の人達が補うから。 亘理君はイザという時の切り札として同行して欲しいワケ﹂ そこまで言われれば否やはない。己の能力をかわれたなら、それ に応えてみせるのが、忠誠を尽くすべき企業を持たない派遣社員の ココロイキというものである、バイトとは言え。決して夏休みの無 駄遣いのせいで金欠だからとか、そういう事ではゴザイマセンヨ? ⋮⋮きっと。多分。 ﹁任務としては了解いたしましたよ。んで。折角ですし、お時間が あれば雑談でも楽しませていただけませんかね?﹂ おれは弓削さんに営業用の表情で微笑みかける。 ﹁何でしょうか﹂ 対する彼女の表情は、冷たい鉄仮面を思わせた。 ﹁いえ。本日はホーリックの代理人としてお越しいただいたわけで すが。作者の瑞浪氏と二人三脚で﹃えるみか﹄を作り上げた、﹃か つての若手にして今の中堅どころの編集者﹄であるところの弓削か をる氏の意見はどうなのかな、なんて﹂ 鉄仮面の奥から凍てつく眼光が放たれた、ような気がした。 ﹁当然、作家にとってベストの環境を確保するのが編集者の仕事で す﹂ ⋮⋮他社の勧誘など、雑音以外の何物でもないわけですか。 ﹁他に何かございますか?﹂ イイエ、アリマセン。 ﹁どーにも気に入らないですねぇ﹂ サービスエリアの駐車場に出て軽くストレッチをする。仁サンが 車に積んできたライダー用のツナギの感覚は、所々に分厚いプロテ 189 クターが仕込んであることもあって、どうにも慣れない。フルフェ イスのメットもしばらくかぶる気になれず、おれは手持ち無沙汰に 他のエージェントとの合流を待っていた。今回はおれ達以外の派遣 会社のメンバーが﹃運び屋﹄を務めることになっている。 ﹁あン?何がだよ﹂ ﹁何ていうか、弓削サンのコメントが。正論なだけになお腹が立つ っていうか﹂ 恥ずかしながら当方、最近﹃えるみか﹄の単行本を直樹に借りて 読んだ次第。そこであとがきや巻末のおまけマンガに時折登場する ﹃編集Y女史﹄は、ああいう人ではなかったと思ったのだが。 ﹁はっはっは、陽チンはまだまだ甘い。佳い女の言う事に間違いは 無いのだ﹂ ろくに情報を持って無いくせに首から下で返答しないで頂きたい。 ﹁あ、お前、俺の佳い女センサーを甘く見ているな?﹂ ﹁表情だけでこちらのコメントを読み取るのもやめてい頂きたいで すね﹂ くだらない掛け合いをだらだらと続けている内に、もはや時刻は 深夜二十五時にさしかかろうとしていた。 ﹁んじゃ、俺は行くぜ。後は頑張んな﹂ バンに乗り込み、愛車に火を入れる仁サンが運転席から挨拶を述 べる。 ﹁名古屋でしたっけ?﹂ ﹁ああ。一旦諏訪で降りてな。ここまでの交通費も出てることだし、 気晴らしには丁度いい﹂ どうせ夜の気晴らしだろうが。 ﹁あんまり関西方面に近づくと、実家に捕捉されるんじゃないッス か?﹂ 実は仁サンは御実家との仲がよろしくない。追い出された、と言 うか追われていると言うか⋮⋮まあ色々と複雑な事情があるのだ。 ﹁居残りの三下どもじゃ俺の影も踏めんよ﹂ 190 ﹁そッスか。じゃあおれは警告したと言う事で。後で茜さんに絞ら れてもおれのせいにしないでくださいよ?﹂ ﹁おい、お前まさか﹂ 隣の車のクラクションを受けて、おれは離れる。仁サンは舌打ち を一つすると、車を走らせていった。やれやれ。当人が実家ともめ る分には一向に構わないが、縁談だのなんだののとばっちりを飛ば されてはたまった物ではない。去りゆくバックライトを見やって肩 をすくめた。と、 ﹁亘理陽司さん、ですか?﹂ 背後から声をかけられ、思わず背筋が伸びた。任務用に至急され たダイバーズウォッチを見やると、時刻はぴったり二十五時。振り 返ると、猛々しい双眸が、こちらを睨んでいた。 191 ◆05:﹃剃刀﹄ ﹁⋮⋮っと﹂ 射竦められる、という表現がまさしく正しい。戦うために純化し てきた生命体が、獲物に向ける無慈悲な視線。大型トラックやらス ポーツカーが何台も集まっているこの駐車場でも一際存在感を放っ ている、蒼い猛禽類の姿がそこに在った。 GSX1300R﹃隼﹄。 車とバイクについては乗れればいいや、というレベルの知識しか ないおれでも存在を知っている、特徴的なフォルムを持った自動二 輪である。おれが先程双眸と見間違えたウィンカー、誰が見ても嘴 を連想するであろうフロントカウル。爆発的な加速を期待させてく れるエンジン。一度火を入れれば、容易く時速百キロ以上の世界ま で加速してのけるだろう。そして官能的なフレームを挟みこむ、細 い脚。 脚?ってそりゃそうだ。バイクがあるなら乗り手が居るわな。脚 を辿って視線を上に移動させたおれは︱︱二秒前にこれほど衝撃を 受けたはずの隼のフォルムを、綺麗に脳裏から吹き飛ばされていた。 ﹁⋮⋮やっぱ実地で成果を出せないセンサーなんて何の意味も無い よなあ﹂ ﹁あの、何か?﹂ まあ落ち着けおれ。一つ深呼吸。はあ、すぅ。大丈夫。もういい ぞ遠慮するな。 ⋮⋮オウ、イェ、AHHHHHHHHH!! 192 極上の美女が、﹃隼﹄に跨っていた。 いやもうなんてぇか!﹃隼﹄を従えるそのスラリとした長身とか !プロテクター入りの無骨な皮のジャケットの下から脳内補完で浮 かび上がるメリハリの効いたボディラインとか!腰まで届く長い黒 髪とか!モデルか女優で通りますって顔とか!それでいて隣のお姉 さん的な気さくな雰囲気とか!!⋮⋮ああ、なんつうかもうこれは 凶器ですよ先生!?おれ・的・直・球!!そりゃカウント2−0で も迷わず振りに行きますわ!!呼吸の度に叫んでやるさ、オウ、イ ェ、AHHHHHHHHH!! ﹁⋮⋮楽しそう、ですね﹂ 深夜のサービスエリアで奇声を絶叫するおれに、おねいさんは呆 気に取られた態。そんな表情もまた悩ましい。ちなみに、そんなお れの奇行も人目を引く事は無かった。おねいさんが周囲の視線を充 分以上に引き付けまくっていたので。 ﹁あ、あの⋮⋮亘理さん、ですよね?﹂ ﹁Yes!Iam!!﹂ どこぞのエジプト人張りに力強く応えて前進、おねいさんの両手 をとる。おねいさんが怯えたように身を竦ませる、その大人びた表 情と初々しい反応とのギャップががが、もう、ぐふっ。 ﹁派遣会社フレイムアップのエージェント、亘理陽司です。今回は ご一緒できて光栄です﹂ 破綻した人格を強制シャットダウンして非常用のバックアップで どうにか対応する。バックアップのバックアップとは笑い話にもな かげ れいさ らんが、この際そんな事はどうでもいい。 ﹁⋮⋮は、はい。鹿毛玲沙と申します﹂ ﹁OH!玲沙サン。イイ名前デス!﹂ ガイジン口調でトークするおれ。ん?レイサ?どっかで聞いたよ うな⋮⋮? ﹁オーストリッチ・メッセンジャーサービス︽OMS︾から派遣さ れてまいりました。今日は⋮⋮﹂ 193 ﹁おおう!あの国内どこでも最速確実にメッセージを届けるバイク 便の!いやいやこちらこそよろしくお願いします﹂ 馴れ馴れしさMAXで手をぶんぶんと振る。ていうか、これはア レだ。先生、アレを期待してイインデスヨネ?ヨネ? ﹁その⋮⋮じゃ、じゃあ、行きましょうか。時間も無い事ですし﹂ 言うや、﹃隼﹄のタンデムシートに視線を注ぐ。おれはメットを かぶり、躊躇せず跨る。もともとこのキャリングケースはOMSの ものらしく、﹃隼﹄の後部に取り付けてあった金具に容易く取り付 けることが出来た。そして期待通りふふふふふあはははははははは ははは!! ﹁あの。じゃあ、出発しますから。つかまっていてくださいね﹂ ﹁はい!それは!もう!!非才なる身の全力を持って!つかまらせ て頂きます!!﹂ 垂れ落ちそうになる顔面筋を必死に維持しつつ、その信じられな いくらい細い腰に手を回し、メット越しに髪から香るコロンを過呼 吸になりそうな勢いで嗅ぎ集める。そんなおれの様子に戸惑いなが らも手馴れた様子で髪をまとめてメットをかぶった玲沙さんはキー を捻り、その獰猛なしもべに火を入れる。 ﹁⋮⋮⋮⋮っ﹂ 流石に浮かれた気分が一瞬吹き飛ぶほど、重い唸りが鼓膜と腹か ら伝わってくる。あれ、ちょっと、 ﹁行きますよ﹂ ギアが跳ね上げられ、クラッチがつながれる。心臓で生み出され た膨大なエネルギーを丸い翼に叩きこまれ、猛禽は狩りに向けて羽 撃たく。 ﹁こ、れっ!﹂ 芸術的な加速に、準備していたにも関わらず首が後ろに持ってい かれそうになる。反射的に強く腰にしがみつく、その感覚を堪能す る間もなく、視界が転回する。素晴らしく小さな内径でターンを一 つ、おい、遠心力で一瞬腰が浮、そのまま出口に向けて、弾丸は放 194 たれた。 ﹁は、や、す、g﹂ ぎ、の文字は凄まじい勢いで後方に流れる側壁に千切れて消えた。 ヌルさを急速に空冷されていった脳が、業界に伝わる一つの﹃二つ レイザーエッジ 名﹄を今更ながらに思い出していた。 レイサ。﹃剃刀﹄。 林檎の皮を剥くが如く、死線の直前にある最短のラインを削いで ゆく、最速のバイク使い。東名高速を二時間で走破したという噂も ある。ホーリックの編集者もとんでもない伝手を持っていたもので ある。暗闇の中に飛び込んでゆく片道切符の弾丸に乗ってしまった、 という現実から逃避するためか。そんな情報を、おれの脳の一部が いやに遠くの視点から冷静に思考していた。 195 ◆06:オープン・コンバット 慣性の法則とはありがたいものだ。どれだけ速く移動しようと、 一定の速度で移動している限りはとりあえず体に負担はかからない。 前方の玲沙さんの体の傍から吹き抜ける嵐のような風の壁がなけれ ば、だが。殺人的な急加速が収まった後、おれはどうにか自分の状 況を落ち着いて確認することが出来た。 おれの今見ている光景を何と説明したものか。 理性ではわかっている。おれは今、中央高速道の上り車線を、ス テキな美女とタンデムで疾走している。それは間違いない。だとい うのに。 何で次々と﹃対向車﹄が向かってくるのか。それも﹃後ろ向き﹄ に。それをごく僅かに重心をシフトするだけで次々とかわしてゆく 玲沙さん。なるべく考えないようにしていた質問を、おれはついに 口にした。 ﹁あの⋮⋮!これ何キロ出てるんですか⋮⋮!!﹂ ヘルメット内には﹃アル話ルド君﹄と直結した、ノイズフィルタ リングをリアルタイムで施すヘッドホンが内蔵されており、滝の中 にいるようなこの轟音の下でも驚くほどクリアな通話が可能だ。 ﹃私、その。子供の頃ヒーローに憧れていたんです﹄ メット越しに帰ってきたコメントは、おれのHowManyの質 問への回答ではなかった。その質問に何か言い知れぬ不吉な影をひ しひしと感じつつ、おれは耳を澄ます。 ﹃女の子がヒーロー好きって、ヘンですよね﹄ ﹁いえいえゼンゼンそんなことナイッス﹂ メットから聞こえて来たのは苦笑、だろうか。 196 ﹃特にバイクに乗ったあのヒーローが大好きでした。いっつもお兄 ちゃんの持っていたマンガ雑誌を何度も繰り返して読んでいたんで す﹄ すっ飛んでくるタンクローリーを軽やかに回避。 ﹃そこに出てくるバイクが本当に大好きでした。ずっと思っていた んです。百キロとか百五十キロとかじゃなくて、マンガに書いてあ るくらいの速度で疾走ってみたらどんなに胸が熱くなるだろう、と﹄ 待ってください。それってまさか、 ﹃結局、夢を叶えるためにこの仕事を選びました﹄ 現在進行形で叶えているってわけデスカー!? 答えは前方に迫ってくる業務用の大型トラック。相対速度で考え れば、並走する車と百キロ以上の速度差があればこういう現象も出 現しうるのかもしれないが、いやしかし、 ﹃﹃追跡者﹄より﹃剃刀﹄へ。どうだ、調子は?﹄ ﹃こちら﹃剃刀﹄。諏訪SAを出発して今、諏訪ICを通過しまし た﹄ ﹁⋮⋮お久しです、見上さん﹂ ﹃やあ、亘理君か。元気でやってるみたいだな﹄ ハウ ヘルメットから響いて来たのは、今回の作戦に参加しているうち ンド・オン テ・ ーブル みかみ はくすい のチームの四人目の声だった。出版業界専属のエージェント、﹃机 上の猟犬﹄見上柏錘さんだ。この人とはおれはかつて、ある遅筆で 有名なベストセラー小説家の失踪事件が発生した時、一緒に仕事を したことがあった。この度はその能力を買われ、おれ達のチームの 指揮役を務めている。 ﹁どうも。そっちも相変わらず、小説家と漫画家の恐怖の対象のよ うで﹂ ここで減らず口を叩くのは最早おれ自身の意地である。 ﹃ウム。俺の﹃遠隔視﹄ある限り、何人たりとも〆切から逃れる事 は出来ん﹄ 過去数多の作家の一縷の望みを断ち切ってきた重々しい断言を電 197 波に乗せる。 見上さんの能力は﹃遠隔視﹄。テレビの特番なんかでよくあるあ れだ。世界最高の超能力者とか肩書きのついた外国人のオジサンオ バサンが、自宅に居ながらにして過去の殺人事件の現場や行方不明 者の居場所を霊視︵番組によっては透視とも言うかな︶して、スケ ッチしたりするって奴。ああいう番組に出演する能力者もイカサマ 師から本物まで玉石混合だが、見上さんのは正真正銘の本物。特定 した対象の現在位置を、まるでGPSのように正確に把握すること が出来る。どうやって把握しているのかはおれも知らない。見上さ ん曰く、訓練や怪しげな魔術ではなく、先天的に生まれ持った能力、 とのことだ。そして、それを他人に説明するのは非常に難しいらし 色 という概念を説明するようなものなのだそうだ。 い。こういう言い方はちと良くないが、生まれつき目が見えない人 に、 彼がエージェントとしての経験も長く、修羅場でも冷静な判断が 出来る事をおれは知っていた。今回のような彼我の位置関係が重要 な任務に、見上さんが司令塔として控えてくれているのはとても心 強い。 ﹁先方に動きはありましたか?﹂ ﹃ああ。敵サンはルールどおり、君達より大分前に諏訪ICから上 がっている﹄ ﹃車種はわかりますか?﹄ 玲沙さんが会話に加わる。 ﹃そこまでは俺にも視えん。だが四輪なのは間違いない﹄ ﹃加速と小回りより堅実性を重視してきましたか。いずれにしても、 じきに接触することに、﹄ そこまでで玲沙さんは一旦コメントを切った。 ﹃亘理さん﹄ おれには首を上げる余裕などなかったが、それでも何が起こりつ つあるかは容易に推測できた。ついに戦端が開かれたのだ。 198 追い越し車線を維持していた玲沙さんの﹃隼﹄が、突如車体を倒 し、右も右、中央分離帯に接触するギリギリのところまで一気に寄 せた。近づいたせいで先程より尚凄まじい体感速度で後方に放たれ ていく灯りと、最早閃光としか認識できない対抗車線のヘッドライ トが、おれの脳をかき乱す。前方以外はなるべく見ないようにして いるはずなのに、大きく体が斜めに傾いだことで、超高速で疾走す るアスファルトが視界に嫌でも飛び込んでくる。 もみじおろし。 そんな言葉が脈絡もなく脳裏に浮かんで途端に泣きたくなった。 だが勿論涙腺から体液を分泌するような悠長な時間は与えられなか った。﹃隼﹄が空けた空間を、けたたましいブレーキ音を響かせて 鋼鉄の分厚い箱がえぐってゆく。先行していた敵さんの車が、おれ 達をバックミラーに捕らえると同時にブレーキを踏んで衝突を狙っ てきたわけだ。向こうはムチ打ち、こちらはもみじおろし。それで 全ては決着ってとこか。ったく、随分と思い切りのいい野郎だな! 怒りが一瞬恐怖を退け、おれは敵を見やった。 トヨタ・クラウンアスリート。 それだけでおれは、まだ顔も見ない敵を嫌いになる事に決めた。 玲沙さんが回避に入った時点ですでに再加速に移行していたのだろ う、たちまち加速は負から正へと転換。丁度おれ達と何秒間か並走 する形になった。クラウンの運転席の窓は⋮⋮開いている! 烈風吹き込むはずの車内。その助手席には、﹃隼﹄の後部に取り 付けているものと同じケースが確かにあった。そして、窓からおれ 達を見やる運転手︱︱壮年の男︱︱の顔は⋮⋮笑っていた。猛烈に イヤな予感。そしてそんな予感はバッチリハズレるわけがない。運 転席から男の右手が伸び、その手にあるものをこちらに見せ付ける。 ﹁ベアリング!﹂ もちろんそれは精密工業用品としての意味合いではない。その技 199 術を応用して地雷に混ぜ込み、人を殺傷するためだけにばらまかれ るロクデナシの鉄球のことだ。こういう時に途端にピンと来てしま う自分の人生にちょっと落ち込む。おれの叫びを耳にしたのだろう、 マッド・コンパス かずら ごうじ 玲沙さんが﹃隼﹄を立て直すと再び一気に加速する。 ⋮⋮お初にお目にかかる。﹃包囲磁針﹄葛 剛爾。 男の唇が確かにそう動いた。途端、男の手から無数のベアリング が掻き消える。その行く手は。 ﹁追ってくる!﹂ 悪夢のような光景だった。失禁寸前の速度でぶっ飛ばしているは ずのこのバイクに、まるで砲丸のような速度で宙を飛び喰らいつい てくる、黒焼きの入ったベアリング。相対速度を考えれば、こいつ らはとんでもない早さですっ飛んでいる勘定になる。夜の闇の中、 視認する事さえ至難の刺客の襲撃だった。 だがおれの絶叫など聞く前に玲沙さんは行動に移っている。その 細い右腕から叩きこまれたアクセルに﹃隼﹄が雄叫びを上げ、一段 と羽撃きが力強さを増した。おれはもはや色欲を彼岸の彼方に投げ 出した態で玲沙さんの腰にしがみつく。玲沙さんのテクニックは極 上だった。吸い寄せられるように飛来してくるベアリングを、ぎり ぎりまで引き付けてスラロームの要領で回避。慣性を殺しきれなか ったベアリングは、あるものはアスファルトに、あるものは側壁に 叩き漬けられて四散する。闇に沈んだ中央道に一瞬青白い火花が散 ったはずだが、それすらも認識する余裕などおれ達には許されない。 視界いっぱいに広がる前方のダンプカーを﹃薄皮を剥くように﹄回 避する。たちまち開く相対距離。おれは振り返り、トヨタクラウン が後方に小さな姿となった様を確認し安堵した。 とりあえずは距離は取れた、はずだが。 200 ﹃原稿の前半部分はその車の中にあるはずだ。何としてもそこから 奪取するんだ﹄ 無情に響く指揮者殿の声。確かにこのまま逃げ切ったところで勝 利はない。では、どうすればいい? ﹃亘理さん、お願いします﹄ ⋮⋮ま、そうなるんだろうな。指揮者と運び屋がそれぞれの役割 を果たしている以上、﹃万能札﹄としても期待に応えねばなるまい。 例えそれが回数制限付きだとしても。 意識を内面に飛ばし、抽斗から古ぼけた鍵を引っ張りだす。悪い が今回ばっかりは先行逃げ切り。出し惜しみなし! ﹃亘理陽司の﹄ ふん。俺は嘲弄する。跨った鉄馬から上半身を捻り、猛追してく る鉄の箱を視界に収める。鉄馬の騎手は俺の意志を汲み取ったのだ ろう、速度を落として奴の接近を促した。 ﹃視界において﹄ 瞬くうちに距離が縮まり、鉄箱に収まった男の顔と視線が合う。 不遜な男だ。俺は唇を吊り上げた。そのままその横、鉄箱の中の箱 に目を移す。 ﹃四角き双子の﹄ 捻った左の掌を、鉄馬の後部の箱に添える。速度、状況。ここま で状況が困難を極めていると、枝葉を禁じて都合の良い因果を導く のは容易ではない。だが、 ﹃離別を禁ずる﹄ 201 単語の方が強力に限定出来たため、俺は十二分に強固な鍵をかけ る事が出来た。男が驚愕した。突如路面に現れたのは、朽ち果てた 角材。恐らくは前を走る鉄の箱が落としていったものだろう。俺に 気を取られていた男はそれを回避する事が出来なかった。たまらず 乗り上げ、箱が大きく右へと傾ぐ。それでも即座に体勢を立て直し た所は褒めてやろう。だが、慣性に従って飛び出した箱にまでは気 が周らなかったようだな。 それはまるで、意志をもった小動物のように鉄の箱の中から飛び 出し、主人の懐に飛び込むかのように俺の右の掌に収まった。無論 それは小動物でもないし、ここは愛玩動物と戯れる平穏なる庭先で はない。百万回やったところで成功するはずのない曲芸。だが、例 えば一千万回挑戦すれば一回成功しうる可能性があるのならば︱︱ その為しえる﹃一回﹄以外の世界を全て封殺してのけるのが、この 力。﹃鍵﹄のまずは小さな使い途だ。そして大きな ﹁⋮⋮∼∼痛ぅ。出し惜しみなしったって、お前が好き勝手しゃべ っていいってわけじゃなんだがな﹂ おれは仏頂面で、襲ってくる極大の歯痛にも似た苦痛に耐えた。 途端に崩れそうになる姿勢、だがまるで後ろに目がついているかの ような玲沙さんのバイク捌きがおれを補佐した。背骨を限界までね じり、後部に取り付けられたケースの上に、もう一個のケースを固 定する。金具が音を立ててはまり、おれは一つ、車上で大きく息を ついた。みるみるうちに男の乗ったクラウンはおれ達から離れてゆ く。 ﹁勝利条件その一ゲット。このまま一気に逃げ切りましょう﹂ 202 ◆07:オーナーズトーク おれ達が夜の中央道で、本人達は至って真剣な、そして傍から見 れば迷惑かつ滑稽極まりない戦いを繰り広げていた頃。 その目標地である東京千代田区神田の喫茶店、﹃古時計﹄では、 一見西洋人と見まがうばかりの見事な銀髪と彫りの深い顔立ちのマ スターが、熟練の手さばきでコーヒーを淹れていた。神田と言えば 書店街が有名である。ここも普段は、近くの書店で買った本をじっ くりとコーヒー片手に読み耽るお客のために開かれている店だが、 いまこの時は若干様相が異なっていた。本来は閉店している時間だ が、今夜だけは特別に早朝まで営業を続ける事になっている。落ち 着いた雰囲気の店内で、それぞれ一杯目のコーヒーを飲み干そうと しているのは、二人の男と一人の女性だった。 ﹁⋮⋮で、今のところどちらが優勢なのかね﹂ ゆるやかな時間を楽しむための店内で、こつこつと忙しなくテー ブルを叩き野暮な雰囲気を作り出しているのは、五十過ぎの中年の 男だった。深夜を過ぎてもスーツ姿なのは、職場ではともかく今こ の場では随分と浮いて見えた。 ﹁連絡によれば、そちらのエージェントが原稿を両方とも所持され ているとか﹂ 淡々とコーヒーを味わいながら、﹃フレイムアップ﹄の嵯峨野浅 葱所長は答える。本来片方のチームにメンバーを派遣している身と して中立の立場ではないのだが、この度、両サイドの当事者から請 われたため、立会人としてここに居るのだ。 ﹁そうか、それはでかした!﹃ミッドテラス﹄め、役立たずがが雇 203 ったのはやはり役立たずだな!﹂ 下品な笑い声に、マスターがわずかに顔をしかめた。わかりやす いと言えばわかりやすい反応を示すこの中年男は、ホーリックの現 編集長である。造反して﹃ミッドテラス﹄を立ち上げた先代の編集 長に替わって就任した男で、もとはビジネス誌を担当していた。も っとも、経済に対するセンスなど皆無で、その昇進の理由はひたす ら社長に対して言ったイエスの回数と下げた頭の回数に拠る。そん な情報を脳裏に納めつつも、浅葱所長はあくまでも業務用の表情を 崩さない。 ﹁なあに、安心しろ伊嶋ァ。俺が勝ったら、ちゃんと﹃えるみか﹄ はお前達のところに渡してやるさ。ロイヤリティつきで、な﹂ 俺達、ならまだしも俺、という一人称に、この男の器が良く現れ ている。 ﹁いつまでも上司面はやめてください。かつてはともかく、今は同 じ編集長ですからね﹂ 対するもう一人は、いかにも普段私服で仕事をしているといった 雰囲気の三十代の男だった。伊嶋勝行。かつて、何人もの有望な新 人を発掘し、﹃あかつきマンガ﹄の立役者となった男だ。﹃えるみ か﹄の作者、瑞浪紀代人も彼が発掘したのである。 ﹁裏切り者がでかい面をしおって。あの気持ち悪いマンガを売り払 ったら、お前達なぞ⋮⋮﹂ それ以降の罵倒はさっさと耳から遮断し、浅葱所長はコーヒーの お代わりを頼んだ。 今回の勝負で、彼女達﹃フレイムアップ﹄が協力しているホーリ ックが勝利した場合。﹃えるみかスクランブル﹄の著作権はこれま で通り、すべてホーリックに帰順する。だが、誰にも未だ知られて いないことだが、それから数ヶ月後には﹃えるみか﹄は﹃あかつき﹄ ではなく﹃ルシフェル﹄に掲載されることになるのだ。ただし、あ くまでも﹃ホーリックの作品を、ミッドテラスが掲載する﹄という 形で。そこには膨大なロイヤリティが発生するはずで、結果、邪魔 204 者を追い出しつつ利益を確保できるホーリックは万々歳、というこ とになる。 ﹁まだ勝負はこれからだ。瑞浪のためにも、あんた達のやり方の下 でいつまでも﹃えるみか﹄を描かせ続けるるわけにはいかない﹂ ﹁ふん、どうせ勝てたところで、﹃えるみか﹄から名前を変えるん だろうが﹂ 編集長の指摘に、伊嶋が歯をきしらせる。 ﹃ミッドテラス﹄が勝利した場合、瑞浪紀代人氏は晴れて自由の 身となり、﹃ルシフェル﹄で描くことも出来るようになるだろう。 だが、すでにアニメ化され、単行本も無数に出ている﹃えるみかス クランブル﹄という商標は動かすことが出来ない。﹃あかつき﹄で 露骨に打ち切られた他の連載も、﹃ルシフェル﹄で再開させるに当 たっては、タイトル名を変えたり、一部設定を変えたりするような 苦しい措置を取らされているのだ。人気作品である﹃えるみか﹄に 取って、その手の﹃世界観が壊れる﹄ような真似は読者離れを招き かねない。出来ればやらせたくないと言うのが、伊嶋の本音ではあ った。だが。 ﹁そろそろ来たようですね﹂ 浅葱所長のコメントに、男二人の視線がドアに向く。ドアベルが 済んだ音を立てて、そこに二人の女性が入ってきた。 ﹁遅いぞ、弓削!﹂ ﹁失礼しました﹂ 先日と変わらない鉄仮面で上司の罵倒すら跳ね返し、続く女性に 声をかける。緊張した面持ちで入ってきたのは、まだ二十代前半の、 世間慣れしていなさそうな女性だった。 ﹁瑞浪くん⋮⋮ひさしぶりだね﹂ ﹁は、はい。お久しぶりです、伊嶋編集﹂ 彼女、人気漫画﹃えるみかスクランブル﹄の作者瑞浪紀代人⋮⋮ 本名水野紀子が、眼鏡の奥から上目遣いにかつての編集者を見やる。 ﹁瑞浪先生、会社を辞めた奴を編集と呼ぶ必要はない!﹂ 205 一応﹃先生﹄と敬称をつけているが、小娘を怒鳴りつける中年の 横暴さそのままだ。すくみ上がる瑞浪さん。 ﹁こちらへ﹂ そんな情景をまるきり無かったかのように、弓削かをる女史は瑞 浪さんをテーブルに着かせた。浅葱所長が二人にお絞りを手渡しな がら聞いた。オーダーを聞いたマスターが手際よく珈琲を淹れる。 新たな豆の香りが店内に加わった。 ﹁松本からどうやってここまで?﹂ ﹁タクシーと長野新幹線の終電を使いました。それにもともと、原 稿を仕上げてから競争の開始まで、鶫野さんに二時間ほど待っても らいましたから﹂ ﹁今、彼らは小渕沢を過ぎたあたりで、原稿は、ホーリック側に両 方あるようです﹂ ﹁そう⋮⋮ですか﹂ 答えたのは瑞浪さんだった。明らかに気落ちしており、彼女がど ちらの出版社で働きたいのか、という本音を雄弁に物語っている。 ﹁改めて確認します。このレースに勝利した側の編集者が、﹃える みか﹄と瑞浪の身を預かる。それでよろしいですね?﹂ 浅葱所長がうなずく。ホーリック編集長がニンマリと笑い、最後 の一人の伊嶋編集長が、不承不承、という態でうなずく。そして、 ﹁弓削君﹂ たまらず声をかける。 ﹁君は本当にそれでいいのか。君の希望は﹂ ﹁作家にとってベストの環境を確保する。それが編集者の仕事と教 えてくれたのはあなたです﹂ ぴしりと言い放つ。背後の瑞浪さんが、本当に泣き出しそうな顔 で担当編集の背中を見つめた。 マスターが次のコーヒーをじっくりと淹れる音だけが、店内に響 いていた。 206 207 ◆08:マッド・コンパス ﹃よくやった亘理君!玲沙くんはゴールまで一気に向かってくれ。 私も車で合流する﹄ ﹃了解しました﹄ 例え依頼人や依頼内容が気に食わないとしても、一度現場に出れ 糸 は、しがらみの意 ばあとは任務達成に向けてやるべき事をやるのが派遣社員と言うも の。まったく、給料の給の字に入っている 味ではなかろうか。 ともあれ。一旦こうなってしまえば、加速に勝るバイクの有利が 効いてくる。もはや奴はおれ達に追いつけないし、残り三人のエー ジェントも、数百キロで移動するバイクにはおいそれと手が出せる ものではないはずだ。このまま一気に勝負を決めてしまう事は充分 に可能なはず。再びかかるG。いささか余裕を取り戻したおれは、 玲沙さんの腰にがっちり腕を廻して密着姿勢の維持につとめた。 ﹃噂には聞いていましたけど、凄いんですね﹄ 玲沙さんの声が、背中とメット越しに伝わってくる。 ﹁なははははは!この程度、ビフォアブレックファストってヤツッ スよ!ちなみに本気になればこの三倍くらいは容易く﹂ ﹃でも。⋮⋮なんだか凄く辛そうでした﹄ おれはいつものコメントで取り繕おうとして失敗し、間の抜けた 沈黙を晒す事になった。 ﹁⋮⋮いやまあ。ケチってるわけじゃないんすけどね。乱発すると いつか手痛いしっぺ返しが来るっていうか、なんていうか﹂ ﹃すいません、私、変な事言ってしまいました﹄ ﹁いやいやいや、別にぜんぜん構わないですよ。おれが自分でやっ 208 てることですし﹂ それきり妙に言葉が続かなくなってしまった。気がつけば小渕沢 ICを通り過ぎていた。おれ達はいつの間にか長野から山梨県へと 入り、先程諏訪湖から眺めた八ヶ岳の麓にさしかかりつつあった。 ふと、違和感を感じた。 具体的な兆候に気付いたのは、玲沙さんだった。唐突に二度、ア クセルを叩きこむ。 ﹁どうしました!?﹂ 背中越しのおれの声に、緊張をはらんだ声が応える。 ﹃スピードが落ちています!!﹄ 確かに、それはおれも感じていた。心なしか風景の流れる速度が 緩やかになった気がしていたのだ。もちろんそれでも十二分に殺人 的だったのだが。 ﹁もしかして、故障とか⋮⋮?﹂ 先程までの人外の領域の速度にあれほど恐怖を感じていたと言う のに、減速した途端に不安を覚えると言うのも我ながら理不尽だ。 唐突に違和感の正体に思いあたる。右手首への妙な感覚。まるで誰 かに手を触れられているような。⋮⋮そこまで来て、ようやくおれ の緩んだ脳ミソが覚醒した。 ﹁⋮⋮ちぇ、おれも迂闊になったもんだ!﹂ ﹃きゃ、な、なんですか!?﹄ 突如自分の腹の辺りでおれが両手をもぞもぞと動かしたため、玲 沙さんが驚く。 ﹁相互理解を深めるための前哨戦︱︱と言いたいところなんですが ね!﹂ ええいもどかしい。四苦八苦の末、右腕から半ばむしりとるよう 209 に、支給されたダイバーズウォッチを引き剥がす。その頃にははっ きりと解る程スピードが落ちており、おれは盤面を見やることが出 来た。案の定、それは十分ほど前の時刻で停まっていた。 ﹁どうせならチタン製を支給してくれればよかったのに﹂ ぼやくと同時に、後方に向かって時計を放り投げる。それが猛烈 な勢いで後方にすっ飛んで行ったのは、もちろんおれにプロ捕手ば りの強肩があったから、ではない。 ﹁追ってきてます!!﹂ 時計が吸い込まれて行った遥か後方、巧みに車線変更しながらこ ⋮⋮磁力使いね。ったく、電磁波で脳に悪影響でも ちらに迫ってくるその姿はまぎれもなく、先程のクラウンアスリー 包囲磁針 トだった。 ﹁ 出たらどうするよ﹂ 今やこちらは時速百キロも出ない状態だった。豆粒ほどだったク ラウンはあっという間にその大きさを増し、今や運転手の顔も識別 出来る。﹃包囲磁針﹄とか言うエージェントは、右腕を窓から突き 出し、こちらに向けたまま距離を詰めてきているのだ。 ﹃⋮⋮⋮⋮まさか、車体を磁力で引き寄せているんですか?﹄ ﹁みたいっすね﹂ 返答に芸がかけたのは勘弁して欲しい。キロメートル単位で離れ た場所をかっ飛ばす、時速百キロオーバーのバイクに干渉し運動量 を抑止する、なんて、並レベルの能力者に可能な芸当ではない。対 策を考える間もなかった。みたび並んだ両者。まずい、まずすぎる。 今の状態で先程のようなベアリング攻撃をされたら⋮⋮! そう、考える辺りが若さか。 運転席の﹃包囲磁針﹄が嘲笑を浮かべた。そのまま、突き出した 210 右手をひねる。 ﹁しまった!﹂ 意図に気付いたときには遅きに失した。べきぃん、という金属の へし折れる硬質な音。﹃えるみか﹄の原稿、前編と後編を修めた二 つのケースは、男の手から放たれる見えない磁力の帯に絡め取られ、 固定した金具ごと男の掌の中に納まっていた。 ﹁戦闘中に優先順位を見失うようでは、まだまだ修行が足らぬ﹂ 男は自分の車内にケースを放り出すと、再び右手を掲げる。 ﹃!﹄ 玲沙さんの判断は的確だった。一瞬にして動から静へのフルブレ ーキング。おれは玲沙さんの背中に強く胸を打ちつける形になった。 事前に支給されたスーツが、さる事情から耐衝撃性を極限まで高め た特注品で無ければ、冗談抜きにおれの胸骨と彼女の背骨はやられ ていたほどだ。だがこれがなければ、﹃隼﹄はたまらず奴の磁力に 引き倒されてアスファルトの染みに化けていただろう。 ⋮⋮危機を脱する代償は手痛かった。加速する奴と、フルブレー キのおれ達。当然ながら、そこには距離という、深い深い溝が刻ま れる事になった。 ﹃まだです、まだ間に合います!最高速度ならこちらが上なんです から!﹂ ﹁ええ!追いましょう!﹂ ﹃アル話ルド君﹄の音声にわすかにノイズが混ざる。オーディオ 機器の数十倍の防磁シールドを内蔵しているこの機械にダメージを 与えるとは、どれほどの磁力か。本当に電磁波で脳とかやられてな いだろうな?幸い、﹃隼﹄は玲沙さんの趣向だろう、電装系にはさ ほど重きを置らず、性能的には問題ないようだった。さっきの急減 速の衝撃が内臓にズンと堪えているが、流石にここで泣き言を言う ほど修羅場知らずの坊やではいられない。第一、慣性の関係上おれ 211 に背中から追突される形になった玲沙さんの方が、体内へのダメー ジは大きいはずなのだ。再び隼が咆哮し、悪夢のような急加速。だ が。 ﹃トレーラー?﹄ クラウンとの間に開いた空間に、コンテナを背負ったトレーラー が走っていた。威圧感すら感じさせる大型のトレーラー。それは、 今まで似たような車を何台も追い抜いてきたおれ達にとって、ただ の障害物のはずだった。だが。先行車両に過ぎなかいはずのトレー ラーは、まさにおれ達の進路を塞ぐように割り込んでくる。⋮⋮お い、ってことは、まさか。 ﹃気をつけろ!そのトレーラーは須玉ICから上がってきている。 敵の増援の可能性が高い!﹄ 見上さんの声に、おれは気のない返事。 ﹁⋮⋮高いも何も。たった今ゼロサムで証明されましたよ﹂ さもありなん。何せ、おれ達の目の前で、ばかんと音を立ててコ ンテナの扉が開いたのだから。﹃隼﹄のヘッドライトが照らしたそ の中には。 がらんとしたコンテナの中、不敵な表情を浮かべているに違いな い、バイクに跨った二人組の姿があった。 212 ◆09:ハヤブサとカミキリムシ トレーラーの速度に強制的に合わせられる形で、﹃隼﹄は時速八 十キロ程度まで減速させられていた。そのはるか向こうにいるはず のクラウンとの相対距離が離れれば離れるほど、おれと玲沙さんの 胸中には焦りが降り積もってゆく。八ヶ岳の麓、昼ならさぞかし美 しい夏の緑を堪能出来たであろう中央道の上で、金で雇われた四人 のエージェント達は対峙していた。 玲沙さんにしてみればトレーラーを追い抜くのは容易い。だが、 当然相手がそれを見過ごしてくれるとは思えない。しかし時間が経 てば立つほどこちらは不利になる。進むべきか、待つべきか。 と、そんなおれの逡巡を切り裂いて轟く、鋼鉄の唸り声。おれは 咄嗟に視線を上空へ向ける。人間が幾ら速く地を走ろうと、ただ空 に動かず在る月を横切って︱︱バイクが宙に舞った。異様な光景に 音が消えたような錯覚を覚えた後。後方にどず、と鈍い音。そして、 急速に迫り来る硬質のエンジン音。 敵の跨ったバイクが、トレーラーのコンテナに停止した状態から 急加速してジャンプ、なおかつ空中でターンを決めながらシフトア ップして着地したときには既にこちらを追跡する加速体勢に入って いる︱︱おれが今見た光景を第三者的に分析するならそういう事だ。 だがしかし、敵は二人乗り。しかもアレはジャンプに適したモトク ロス用なんかじゃ断じて無い。水銀灯を反射して艶めかしく輝く、 紅と緑の斑に塗装された車体。小さな頭部状のフロントカウルから 突き出す大きな一つ目のヘッドライト。剥き出しの骨格を思わせる フレーム。おれはなぜか南に棲む獰猛なカミキリムシを連想させら 213 れた。 YAMAHA XJR1300。 その型番を知る由もなく、考える暇はさらになく。おれ達はたち まち迫り来る新手、フルフェイスヘルメットとライダースーツに身 を包んだ二人組との死闘を演じる事となった。 ﹁⋮⋮っと!﹂ ﹃カミキリムシ﹄が突如その釜首をもたげた。前輪を引き上げる、 いわゆるウィリー走行という奴だが、おれの目にはまさしく、腹を 空かせた虫が獲物を捕食せんとする様に見えた。その前輪で押しつ ぶすつもりかよっ!? 咄嗟に﹃隼﹄は身をかわす。ギロチンさながらの勢いでおれの傍 らを落下してゆく前輪。だが、奴らの狙いは最初から直接の攻撃で はなかった。 ﹁くそっ!﹂ おれは悪態をつく。回避のために体勢を崩した﹃隼﹄の隙に漬け こみ、あっという間に﹃カミキリムシ﹄が前方に割り込んだのだ。 ラインを塞いだ途端にスピードを落とす﹃カミキリムシ﹄。それ に衝突されるのを嫌って﹃隼﹄もスピードを落とさざるを得ない。 物騒極まりない積荷を路上に放り出したトレーラーがゆっくりと、 だが確実に加速してゆく。時速百キロオーバーとはいえ、先程まで のおれ達のスピードに比べれば他愛も無いものだ。だが、今の﹃隼﹄ は、前方を塞いだ﹃カミキリムシ﹄に完全にその翼を殺されていた。 たちまち、前方へと流れてゆくトレーラー。 ﹃隼﹄の走行を遮る位置をキープし、時速百キロ未満の速度で車 体を小刻みに揺らす﹃カミキリムシ﹄。連中の意図がおれ達の足止 めに在る事は明確だったが、だからと言って容易に突破させてくれ 214 るものでもない。 ﹁このっ⋮⋮﹂ ﹃しゃべらないで﹄ 簡潔極まりない玲沙さんの指示の後、怒涛の如くに視界が傾いた。 ﹁⋮⋮っ﹂ たちまち彼女の指示の理由を明確に理解する。迂闊に口を開けば 舌を噛み千切りかねない。まるで難破船から嵐の海に投げ出された ようなとんでもない左右の揺れ。玲沙さんがアスファルトすれすれ どころか皮一枚まで身を乗り出す無謀なまでの体重移動で、右から 左からラインを伺う。だが敵もさるもの、巧みにこちらもラインを 塞いで、決して前を譲ろうとはしない。さながら剣豪の鍔迫り合い の如く。甲虫と猛禽は見えない一本の線を巡り火花を散らした。互 いの爪を、牙を掻い潜る。ひとたび動作を誤ればたちまち路面に呑 まれて消える物騒な狩場で、捕食者達は互いの存在意義をかけて戦 い続けた。 相手のドライバーも相当な腕だ。⋮⋮いや、違うか。不幸にも多 くの規格外の人間を見てきたおれにはなんとなくわかる。あれは操 縦が上手いのではない。操縦者本人の反射神経と腕力とで無理矢理 車体を振りまわしていると言った方が正しい。﹃隼﹄を手足のよう に使いこなす玲沙さんとはそこが決定的に異なっていた。腕だけな ら間違いなく玲沙さんが上だろう。だが悲しいかな、今は体重移動 の手伝いも出来ない余計な荷物が彼女の腰にぶら下がっている。 切り返し、加速、急減速。ウィリー。 韮崎ICの看板が過ぎ去る。車線を変え、速度を変えながら続け られた現代の早駆けは、既に距離にして二十キロに達しようとして いた。無言のまま極限まで集中を高め、アスファルト上にある蜘蛛 の糸のような理想のラインを辿る玲沙さんにおれがしてやれる事は、 余計な計算要素を増やさないよう、せいぜいしっかりしがみついて 荷重に徹する事だけだった。 前と左右への激烈かつ連続した移動に、三半規管は先程から絶叫 215 しっぱなしだ。だが悠長に乗り物酔いを発症させてやるほどおれの 神経系に余裕は無かった。面倒な生理作用は全て副交感神経に一手 に押し込め︱︱全部終わったら盛大にゲロ吐いてすっきりしよう︱ ︱おれはもう一人の敵、タンデムシートに座ったもう一人から目を 離さないように務めていた。馬と騎手の性能がほぼ互角であれば、 乗せられている人間の性能に全てがかかってくる。ここからは華麗 なドライビングテクニックではなく、珍走団よろしい車上の殴り合 いがものをいう世界になる。だが。頭にちりちりと走る不快な疼き。 くそっ、さっき車の中から原稿を奪い取るためにおれは景気良くカ ードを切りすぎていたようだった。霞む目でどうにか敵を見据える。 と、 後部座席の敵が、立ち上がった。 文法的に何ら間違っていない。立ったのだ。取り付けられたタン デムステップに両足を乗せたまま、両足で車体を締め付けるように して。もちろん﹃カミキリムシ﹄は停まってなんかいない。トレー ラーがはるか前方に過ぎ去った後、徐々に加速し、今や時速百キロ 以上で激しくおれ達とラインを鬩ぎあっている、その中で、である。 激しく左右に傾ぐ車体に、まるでスノーボードを楽しむかのように ぴたりと脚を吸いつけている。⋮⋮おいおい。いくらなんでも船頭 さんが揺れる船の上で立っていられるのとは次元が違うんだがなあ。 出来損ないの特撮じみた光景。そんな中、おれは今更ながら、男 が何か細長い筒を背負っている事に気がついた。建築デザイナーが 図面を納めて持ち歩くような筒。と、おれの視界の中で奴は悠々と その蓋を開け、手を突っ込み⋮⋮三本の棒を取り出した。そして、 それぞれをねじ込んでつなげてゆく。おれは玲沙さんの激しいライ ン取りに視界を激しく揺らされながらも、その光景からは目が離せ なかった。 やがて。 216 男の両手には、長さ二メートルを越える﹃槍﹄が握られていた。 比喩表現ではない。本当に、大河ドラマで大鎧を着た武将が振り回 すかのような、一本の槍。 ﹃気をつけてくれ亘理君!!そいつは多分﹃貫影﹄という槍使いだ !馬上槍を専門として扱う流派で、馬上、船上、殿中何処でも必殺 の一撃を繰り出してくるぞ!﹄ ﹁玲沙さん!﹂ その言葉を情報として脳で咀嚼すると同時におれは叫ぶ。そして 無理な姿勢からありったけの力をかけて首を沈めていた。メットか ら響く乾いた音。狙われたのはおれの方。槍の穂先がかすめたのだ。 続く第二撃を予想し全身を強張らせる。だが衝撃は来ず、事態に 気付いた玲沙さんが咄嗟に減速し、左車線をキープする。今まで玲 沙さんが芸術的なラインで少しずつ詰めてきた距離を、一気に放棄 して、だ。おれは歯噛みして槍使い︱︱﹃貫影﹄に目を向ける。奴 はあろう事か、やはり立ったまま、槍を担いだ状態で、肩を竦めて みせた。 ンの野郎。っと、いい加減ぶつんと行きそうになるのを必死に押 さえ込む。一人ならともかく、今のおれは安い挑発に乗るわけには いかないのだ。おれの態度が気に食わなかったのか、一撃で仕留め られなかったのが気に入らなかったのか。﹃貫影﹄は一つ息をつく と、今度はおれ一人を狙って槍を突き出してきた。 ﹁このっ⋮⋮﹂ 唯一自由になる右手でなんとか槍を払おうとするが、そんなもの バイクの上で直立するなんて離れ業をやってのける達人に通じるは ずもない。防御を掻い潜って面白いようにおれのわき腹やメット、 肩に穂先が当たる。ライダースーツがなければ血だるまになってい るところだ。おれはバランスを崩しそうになるのを必死にこらえる。 だがおれは串刺しにされているわけではなかった。例え石突で突く 217 だけでも、本気でおれを弾き飛ばせば﹃隼﹄も玲沙さんもまとめて 転ばせることが出来ると言うのに、奴はそれをしなかった。⋮⋮野 郎はおれを﹃小突きまわして﹄いるのだ。ライダーが女性と見破っ ておれ一人を道路につき落とそうという魂胆か。まったくいい性格 してやがる。だがまあ、女性よりおれを優先したという事実だけは 褒めてやらんでもない。 ⋮⋮そして、そのせいで決定的な勝機を逸した事実は、大いに嘲 笑ってやるとしよう。 おれを小突くのに飽きたか、あるいはおれの粘りに痺れを切らし たか。奴が槍を構えなおし本格的な刺突の体勢に移行したのは、ま さしく双葉サービスエリアの標識の真下を通過したその時だった。 だが。 ﹁⋮⋮!!﹂ メットをかぶった﹃貫影﹄の余裕に初めてほころびが生じた。突 如標識の上から飛来した革紐が、奴の手首に巻きついたのである。 咄嗟に奴は引きずられまいとして両脚でしっかと車体を締め付け、 ﹃カミキリムシ﹄の加速を利用して革紐を逆に強く引く。だがそれ こそが狙いだった。引っ張られる力を逆利用して、標識の上から人 影が高々と跳躍する。月を背負い、空から今度降って来たのは⋮⋮。 ﹁退屈をガマンして看板の上でずいぶん待ったんだから!ちゃんと 強い人とやらせてくれるんだよね!?﹂ うちの押さえの切り札だった。その両足が軽やかにアスファルト に接地する。 とたんに、履いたローラーブレードが鮮やかに夜の中央道に火花 を撒き散らした。 218 ◆10:﹃貫影﹄ 状況は混戦の態を示しつつあった。 勝利条件である前後編の原稿を揃え、現在進行形でゴールに向か って走行しつつある、﹃包囲磁針﹄なるエージェントの乗ったクラ ウン。大きく引き離されながらも、追跡する玲沙さんとおれの﹃隼﹄ 。そして足止めに徹している﹃貫影﹄と、バイクの運転手。おれ達 に指揮しつつ現場に向かってくれている見上さん。現在両チームと も三人ずつのエージェントが舞台にあがっている。そしておれ達は、 最後のカードをここで切った。 ﹁予定が変更になった!とにかくその槍使いを何とかしてくれ!﹂ メット越しのおれの台詞は、ただいまローラーブレードで中央道 を疾走する女子高生⋮⋮我がアシスタント七瀬真凛の耳につけた小 型インカムに伝わっている。 ﹃いいよ、ボクとしてはこっちの方が大歓迎だからね!﹄ 言うや、自らの手に巻きつけた革紐をぐい、と引く。そのもう一 方の先端を巻きつけられた﹃貫影﹄は、真凛がどういうモノなのか を即座に認識したらしく、革紐をこちらも強く引き、油断なくバイ ク上で槍を構えなおす。ピンと張り詰める、紐と緊張。時速百キロ 超で後方に流れるアスファルトの上、槍使いと殺捉者は、危険とい うのも馬鹿らしい程物騒なチェーン・デスマッチを開催しようとし ていた。 本来真凛がここに待ち伏せしていたのは、おれ達が原稿を奪取し た後、しんがりとして追っ手を確実に封じ込めるためである。そう いう意味では、原稿を奪って先行逃げ切りという作戦は敵味方共通 219 していたわけだ。だが、初戦で先方に軍配が上がってしまった以上、 何とかしてここで挽回しなければならない。手持ちのカードを出し 惜しみしている余裕はおれ達にはなかった。 あいつが免許さえ持っていれば、直接クラウンを襲わせるという 手があった。だが、機械オンチの暴力娘が停めようにもブレーキが どこかわからない、などと抜かしたため、結局それは断念せざるを 得なかったのである。 戦いの舞台の加速はもはや留まらず、猛禽と甲虫と女子高生は睨 みあいながら無数の車両を振りちぎってゆく。抜かれる車の中から 注がれる脅威の眼差しなどどこ吹く風といった態で、白兵戦の練達 者同士の戦いの火蓋は切って落とされた。 ローラーブレードが保つ慣性と己の鋭い踏み込みを利して、文字 通り滑るように真凛が間合いを詰める。迎え撃つは槍使い。二輪車 の上とは到底信じられぬどっしりとした構えから、最短最速の軌道 で穂先を突き込む。それを払おうとする真凛、だが穂先は敵の強靭 な手首にたぐられ、軌道を変じて腕を弾く。たまらず姿勢を崩す真 凛。追い撃つように返しの払い。咄嗟、身を沈めて交わす。一転し て好機。まだ死んでいない踏み込みの勢いを利し、さらに一足を滑 り込ませ間合いを詰める。と、翻って頭上より落ちかかるは石突。 額を撃ち割らんとするそれを身を開いてかわし、結果、詰めた間合 いを渋々放棄することになる。車上の﹃貫影﹄、悠々。穂先を突き つけ、不動の構え。 それは現代の騎兵と歩兵の戦いだった。しかもこちらは無手、あ ちらは槍である。まあ何だ、純粋などつきあいに限定すれば、あの お子様の白兵戦の戦闘力は業界でも特一線級のシロモノだ。道場で 一対一の試合であれば、おそらく真凛は﹃貫影﹄に遅れをとること はあるまい。だが、この位置の高さと得物の有利は、多少の腕の差 など容易く覆す。凶悪無比の真凛も、冷静に槍を捌く﹃貫影﹄の猛 攻に攻めあぐねているように思えた。 ﹁あのバカ⋮⋮﹂ 220 おれは舌打ちする。真凛はここで大きなミスを犯している。そも そもこのゲームで戦闘に勝利する必要はない。相手を無力化すれば いいのだ。極端な話、革紐を巻きつけた時点で相手をバイクから引 きずり下ろせばそれで良かったのに。どうやら相手が騎兵と聞いて、 正面から打ち破る気になったらしい。 ﹃亘理さん、あれを!﹄ 玲沙さんのコメントが耳に飛び込み、おれは我に帰った。慌てて おれは前方を見やり、前方の路肩︱︱あっという間に視界の前方か ら後方へ過ぎ去ってしまったが︱︱に、見覚えのあるシルエットを 発見した。 ﹁乗り捨てか⋮⋮?﹂ おれは呟く。そこに停めてあったのは確かに、この﹃カミキリム シ﹄を載せて走っていたはずのトレーラーだった。このゲームに参 加できるのは四人。となれば当然、このトレーラーの運転手が敵の 四人目のエージェントでなければならない。おれはそう踏んでいた のだが。 ﹁無人⋮⋮か﹂ すれ違い様に眺めた程度なので確かな事は言えないが、車内はか らっぽのようだった。すでに運転手は降りたのか。咄嗟に、待ち伏 せしたエージェントの襲撃を予測したが、それは外れた。そのまま 何もなく﹃隼﹄と﹃カミキリムシ﹄、そして真凛は高速道路を疾走 してゆく。おれはとりあえず胸を撫で下ろした。どれほど高い攻撃 力を持つエージェントでも、十キロと離れればそうそう手の打ち様 はないはずだ。さっきの﹃包囲磁針﹄のような化け物はさておいて。 ﹃亘理君、聞こえるか﹄ 友軍の声におれは応える。 ﹁見上さん、こっちはまだ何とか。今、真凛の奴がバイクを引き剥 がしにかかっています﹂ ﹃そうか。すまない、こちらは境川で敵のクラウンを張っていたの だが、強行突破されてしまった﹄ 221 くそ、二枚目の伏兵は通用しなかったか。だが仕方がない。もと もと見上さんは﹃遠隔視﹄を除けばあくまで身体能力的には普通の 人の範疇なのだから。 ﹃奴め、運転技術も相当なものだ。今からでも追いつけるのは君達 しかいない。私も速度を落として君達を待つ﹄ ﹃やってみます。合流方法については⋮⋮ええ。そんなものでいい でしょう﹄ 玲沙さんの返答。だが、敵のライダーもさるもの。真凛に張り付 かれてなお、まだラインを明け渡そうとはしない。くそ、これ以上 離されたら取り返しがつかないっていうのに!そんなおれの煩悶を 見て取ったか。間合いを離した﹃貫影﹄が、右手に握った槍を肩に 担ぐ。咄嗟、よぎるイヤな予感。︱︱そこから導かれる次の攻撃は。 ﹁やば⋮⋮っ!﹂ 真凛にではなく、自分自身と玲沙さんに向けておれは叫んだ。戦 場にて、騎兵は群がる歩兵を一々突き刺したりはしない。彼等に必 要なのは敵陣を貫く﹃突進﹄と、雑魚を一掃する︱︱﹃払い﹄! 二メートル以上はあるはずの槍。その根元、ほとんど石突の辺り を両の手で握り、己の膂力に任せて﹃貫影﹄が振りぬいた。その腕 の長さと合わせて半径三メートル以上に達する暴風圏は、真凛のみ ならず、おれ達の﹃隼﹄をも容易く捕らえる。真凛を牽制しつつお れ達を跳ね飛ばせる、一石二鳥の手だ。慌てて真凛がローラーブレ ードを駆って間合いを離す。そうすれば必定、その穂先はおれ達の 方に飛んでくる事になる。当たればバッサリ。だが、無理にかわそ うとして転倒でもしてしまえば、もはや﹃カミキリムシ﹄を追い抜 くのは不可能に近い。 ﹃離さないで﹄ 玲沙さんの台詞は、字面だけなら涙を流して喜びたいところだが、 ﹁と、とととととぉぉっ﹂ 当然そんな余裕はない。飛んでくる穂先を、ラインを維持したま ま極限まで車体を傾けてやり過ごす。いわば二輪で行うスウェーだ。 222 必死に玲沙さんにしがみつくおれの耳元をメット越しに穂先がかす める。どうにか、かわしきれたか!? その時。車体から突如伝わる、がくん、という嫌な感触。車体の 角度が限界を超え⋮⋮タイヤが横滑りを起こしたのだ!十分の一秒 ほどの一瞬、時間の歩みが止まり、脳裏で走馬灯がくるくると周る。 ⋮⋮もはや抗いようもない。次の瞬間には、おれ達は高速で流れ去 るアスファルトに飲み込まれて消え去るのみだった。 そう、﹃貫影﹄が思っていたのであれば、さぞかし当てが外れた ことだろう。 必殺の﹃払い﹄で目的を果たした安堵か、振りぬいた槍を本来の 構えに戻すのが遅れたその一瞬。 ﹃しゃあッ!﹄ 真凛の快哉を含んだ雄叫びが響く。殆ど地面と並行に傾いたおれ を飛び越えて、ローラーブレードを履いた真凛が﹃カミキリムシ﹄ に襲い掛かった。真凛は先程の﹃払い﹄を回避しつつ、﹃隼﹄の車 体を利用して﹃貫影﹄の死角に周り込んでいたのだ。その意図に気 付いた玲沙さんが咄嗟に仕掛けてのけたのが、この命がけのフェイ ントということ⋮⋮らしい。そんな事にも気付けなかったおれは、 臨死体験に心臓が飛び出そうだったが。 陸上選手のハードル走のような低く無駄のない軌道で、傾いた﹃ 隼﹄を飛び越えざまに右腕を繰り出す。虚を衝かれた格好の﹃貫影﹄ が慌ててもう一度﹃払い﹄を放つ。それでも充分に威力のある一撃 だったが、さすがに真凛に繰り出すにはお粗末に過ぎた。 エンジン音と風鳴りに紛れて、乾いた音が確かに鳴った。真凛が ﹃貫影﹄の突き出した長柄をつかみ、その握力にモノを言わせてへ し折ったのだ。 ﹁よっしゃ!﹂ 芸術的なカウンターを当てて再び体勢を立て直した﹃隼﹄の上で 223 おれはガッツポーズ。こうなれば形勢は一気にこちらへ傾く。三分 の一ほど間合いを穂先ごと失った槍では、続く真凛の猛攻を防ぐに はいささか荷が重すぎたようだ。それから数合を経て、たちまち﹃ 貫影﹄はたじたじとなった。ここで真凛が仕留めにかかる。一気に 踏み込み加速。懐に滑り込んだ状態から、剣の如く上段回し蹴りを 振るった。剣の如く、とは誇張ではない。それはローラーブレード による斬撃。摩擦で十二分に加熱された強化セラミックのホイール が刃と化して、﹃貫影﹄のライダースーツを切り裂いた。たまらず 傾ぐ敵の体。確実に獲った!とおれは再び心の中でガッツポーズ。 ⋮⋮唐突に、自分の格好が先程の﹃貫影﹄と良く似ている事に気が つき、ぎょっとする。 ︱︱真凛に油断があったとは言わない。だが、強者との戦闘を目 的とするあいつ自身の趣向が、判断を誤らせたのは事実だろう。敵 はあいつよりはプロ意識があるようだ。すなわち、勝てない相手な ら、相打ち覚悟でも排除しておくことが、全体の勝利につながる。 ﹃貫影﹄の体が傾いたのは、態勢を崩したからではなかった。む しろその逆。態勢を整えたのだ、跳躍するために。︱︱おりしもそ こには、我々がラインをせめぎあいながら今まさに追い抜こうとし ている大型タンクローリーがあった。﹃カミキリムシ﹄が大きく沈 みこみ、﹃貫影﹄の跳躍の反動を受け止める。高々と空を舞った奴 は、そのまま危険な液体が満載されたタンクの上に危なげなく着地 した。チェーン・デスマッチを挑んだ以上、真凛に可能な行動はひ とつしかなかった。張り詰める革紐の方向に合わせて跳躍。だが、 あいつの履いた十分に加熱されたローラーブレードは、タンクの上 に着地するのは危険すぎる。空中で一回、タイヤの泥除けを蹴って 距離をとり、こちらは運転席上の屋根に着地した。 ﹃⋮⋮ごめん陽司。のせられたみたい﹄ デスマッチはまだまだ終わらない。だが、たかだか時速百キロ程 度で走るタンクローリーは、加速し続ける﹃隼﹄と﹃カミキリムシ﹄ 224 に抜き去られ、すでにはるか後方にあった。あのまま戦い続けても ﹃貫影﹄は真凛に勝てないかもしれない。だがゲームの上ではまさ しく相討ち。二人とも今夜中にこの舞台に戻ってくる事は出来ない だろう。﹃貫影﹄はいともあっさりと、うちの切り札を見事に無効 化したのだ。 ﹁まだまだまだ正調査員への昇格は遠い。戦闘中に優先順位を見失 うようじゃ、な﹂ おれは独創性あふれるコメントを返す。 ﹃ごめんなさい⋮⋮﹄ ﹁でもま、良くやったさ。まだカードはお互い三枚ずつ。後はおれ 達に任せとけ﹂ ヤセ我慢ヤセ我慢。実際のところ、戦闘能力に乏しいおれと見上 さんで玲沙さんのフォローをやりきれるか、と問われれば返答に詰 まる。だが一度オカネをもらってしまった以上、その程度の悪条件 で降りるわけにもいくまいて。それに、もうちょいキツイ条件で仕 事をこなしたことも無いわけではないのだ。﹃人災派遣﹄は伊達じ ゃない、ってところか。まったく困ったものである。 ﹃⋮⋮わかったよ。じゃあまた後で﹄ ﹁おう、お前もきっちり勝負つけてこい。おれ達が勝った後、お前 だけひとり負けなんて認めねーかんな﹂ ﹃りょーかい!﹃人災派遣﹄のアシスタントが伊達じゃないってと ころを見せてあげるよ!﹄ それで通信が切れる。おれはメットの中で苦笑した。 ﹃いいコンビですね﹄ 通信を聞いていた玲沙さんが苦笑混じりにコメントする。 ﹁お恥ずかしい。どうにも詰めが甘いアシスタントなモノで。ご迷 惑をおかけしますよ﹂ それを聞いた玲沙さんが堪えきれないと言った態で笑い出す。 ﹁な、なんかヘンな事言ったっすかね、おれ?﹂ ﹁い、いえ⋮⋮。ただ、任務の開始前に七瀬さんを配置場所に送っ 225 たとき、﹃どうにも詰めが甘いウチの担当がご迷惑をかけると思い ます﹄って言ってたものですから﹂ 憮然とした表情で頬をかく、のはメットをかぶっていたので出来 ず、おれは微妙な沈黙を保つより他なかった。咳払いを一つ、気持 ちを切り替える。 ﹁⋮⋮えー、おほん、さて﹂ ﹃ええ﹄ ﹁﹃このまま一気に勝負をかけましょう!﹄﹂ ここで急加速。保っていたラインを一気に詰める。再び先程同様 の激しいラインの鬩ぎ合いが繰り広げられる。だがもはや妨害をし かけてくる﹃貫影﹄はいない。必定、おれと玲沙さんの注意は残り 一人、﹃カミキリムシ﹄を駆るライダーへと向く。おれは﹃隼﹄か ら振りおとされないように務めつつ、隙あらばパンチの一発でも叩 き込んでやろうと身構えた。 と、敵のライダーが唐突に間合いを取った。敵意のなさを表すか のように、左手を上げてこちらに顔を向ける。⋮⋮何か仕掛けてく るのか?緊張するおれの視界の中、やつは大胆にもバイクから身を 乗り出してこちらを覗き込んでくる。暗闇と水銀灯に照り返された フルフェイスヘルメットでは中の表情など見分けがつくはずもない が、やがてその仕草、体型から、おれの脳が一人の気に食わない人 物の名前を思い浮かべた。 ﹁おまえ⋮⋮!?﹂ ﹃真凛くんが居たからまさかとは思ったが。貴様とはな﹄ 突如メットの中に響き渡る、ノイズキャンセリングされたクリア な音声。もう一つの﹃アル話ルド君﹄から繋がれた敵の声は、まさ しくウチの同僚、笠桐・R・直樹のキザったらしいそれだった。 226 ◆11:ダメ学生VSダメ人間 絶句、という言葉を久しぶりにまざまざと味わっていたおれがふ と我に返った時には、やつはまたもラインを阻止する軌道に戻って いる。先ほど奴から繋げられた通話がまだ生きている事を確かめる と、おれは唸った。 ﹁⋮⋮は。いいバイクじゃないか。お前にしちゃ趣味がいい投資だ な﹂ たっぷり皮肉をまぶしたコメントは、同じ類のコメントで迎撃さ れた。 ﹃たわけ。借り物に決まっているだろう。こんなものを買う金があ れば、アメージングフェスティバルでアラサキの新作をその場で買 い占められるわ﹄ ﹁なんだそのアラサキって﹂ ﹃隼﹄の軌道に被せるように車線を変更する﹃カミキリムシ﹄。 ﹃フィギュア造型の第一人者に決まっているだろう﹄ さいですか。ンな向こう側の常識はどうでもいい︵っていうか買 い占めるのに新型リッターバイクと同じくらいの金が必要なのか?︶ 。 ﹁で。⋮⋮何故こんな所にいる?﹂ おれは冷たいものを潜ませて声を放った。仮にこいつと本気で殺 し合いが出来る可能性があるのなら︱︱機会を逃すつもりは毛頭な い。 ﹁あ。もしかしてあの所長、ついに依頼の二重取りに手を染めやが ったか?﹂ ひとつの派遣会社が敵対する双方の組織にエージェントを派遣す 227 るのは﹃二重取り﹄と呼ばれる。派遣会社は一件で二人を派遣出来 る代わりに、依頼人は常に、エージェント同士で情報が漏れている のではないか、という疑いに苛まれることになるため、業界全体の 信用を落とすとして忌み嫌われるやり口である。 ﹃そうではない。これは俺が個人的に、今回限りで引き受けた仕事 だ﹄ ﹁へぇ?友達の居ないお前に頼みごとをするような伝手があったっ け?﹂ ﹃﹃あかつき﹄の伊嶋編集とは、イベントでな﹄ 何のイベントだ。威嚇するかのようにウィリーする﹃隼﹄、振り 下ろされる前輪を、冷静に最小限の動きでかわす﹃カミキリムシ﹄。 ﹃今回は彼のたっての頼みということで引き受けた。うちは他の派 遣会社への二重登録は禁止だが、別のバイトの掛け持ちは禁止され ていないはずだ﹄ ﹁そりゃまあそうだが⋮⋮﹂ そこまで言って、唐突にひらめいた。 ﹁待て、お前、報酬は何を持ちかけられた?﹂ 奴は誇らしげに答えたものだ。 ﹃第十二堕天使サルガタナスたん役の声優、七尾朝美さんの目覚ま しCDを⋮⋮な﹄ 語尾の﹁⋮⋮な﹂に、万感の思いが乗せられている模様。 ﹁良くわからんが、それって店で売ってるんじゃねえのか?﹂ ﹃阿呆!俺の為に特別に収録してくれるのだぞ?サルガタナスたん が﹃さっさと起きなさいよ、このバカ直樹!﹄と毎朝叫んでくれる のだぞ?ならば命を懸けるしかないではないか!﹄ 仕える女王の賜う杯のために命を懸けた騎士は知っていたが、ア ニメキャラが罵倒するCDのために命を懸ける吸血鬼を、幸運にし ておれはまだ知らなかった。というか生涯知りたくもなかったのだ が。いずれにしても、確かなことはひとつ。奴はこの任務で退くつ もりは毛頭ないということだ。 228 ﹁︱︱いずれはと思っていたが。意外と早かったな﹂ もはや何度目か、 おれは意識を飛ばし、鍵を取り出す。それを察して向こうの声に も霜が降りた。 ﹃修理中の骨董品に負けてやるほど落ちぶれてはいないつもりだが な﹄ 直樹と﹃カミキリムシ﹄の姿が白く曇ってゆく。己の能力と本性 を開放した吸血鬼が作り出す冷気の渦が、高速で流れる周囲の空気 と混じり白い霧を作り出している。 ははん。いきなり本気ってワケね。じょーとー上等。ならこちら も出し惜しみはやめようか。おれは取り出した鍵を持ちかえた。周 囲の世界ではなく、古ぼけた抽斗の鍵穴に︱︱ ﹃すまん、遅くなった!﹄ 意識が途端に引き戻される。前方から響く急ブレーキの音につい で、質量を備えた鋼鉄の箱が空間をえぐってゆく。強烈な既視感を 覚える光景だが、今度登場したのは頼もしい味方だった。 ﹁見上さん!﹂ 境川PAを出発してから、機をはかっていたのであろう。見上さ んの駆る業務用のカローラが、直樹の﹃カミキリムシ﹄とおれ達の ﹃隼﹄に向けて突っ込んできた。先程玲沙さんと見上さんが連絡し た際に作り上げていた仕掛けだろう。この機を待ち構えていた玲沙 さんに対して、おれとの駄弁りに興じていた直樹は反応が一瞬遅れ た。バランスがくずれ、大きすぎる回避運動をとってしまう。ライ ンが⋮⋮開いた。 ﹃行きます﹄ もはや言われずともわかっている。玲沙さんの掌が翻り、アクセ ルが開放される。待ち望んでいたかのように周囲を圧して轟く﹃隼﹄ のエンジンの咆哮。開いたラインに強引な割り込みをかけ、そして 一気に︱︱抜いた。﹃カミキリムシ﹄の周到な妨害を突破したのだ。 229 一度枷を解かれてしまえば、猛禽の王に追随する者があろうはずも ない。例え直樹の人外の反射神経と﹃カミキリムシ﹄の性能があっ たとしても。 ﹃最速で、獲ります﹄ この、﹃薄皮を剥くように﹄最適最短の道を疾走する最高のライ ダーに、つけいる隙はもはやない。カーブを曲がるたび、前方の車 両を抜き去るたびに、少しずつ、だが確実に開いていく両者の差。 役目を終えた見上さんの車が路肩に緊急停止する頃には、﹃隼﹄は ﹃カミキリムシ﹄に十メートルの︱︱わずかだが決して埋めること の出来ない十メートルの差をつけていた。さぁて、そろそろかな。 意識を再び内面へ。おれはぶら下げたままの鍵を、またも持ちかえ なおした。 ﹃亘理陽司の﹄﹃指差すものは﹄ 俺は上半身を捻り、﹃真紅の魔人﹄を指差す。奴の名前を直接文 言に織り込むのは今の俺には危険に過ぎた。追いつけないと判断し た奴が最後の一撃を仕掛けてくるのは、まさにこの時機を置いて他 にない。 ﹃亘理陽司に﹄﹃触れる事はない﹄ 果たして、大気を裂いてこちらに飛来するのは⋮⋮奴が己の冷気 で作り出した氷の投槍。飛び道具に絞った俺の判断は正鵠を得た。 奴の投じた必殺の一撃は、だが強烈な向かい風に狙いを外され、地 面に飲み込まれて砕けた。 ﹁⋮⋮って、あいつがこの距離で槍を外す確率なんて、考えるだけ でも悲しくなるほど低いんだがな﹂ おれは頭痛に泣きそうになる。起こりやすい事象であればあるほ 230 ど、因果を捻じ曲げるには強力な﹃鍵﹄が必要になる。素人が三十 メートル先から撃った銃弾が自分に﹃当たらない﹄ようにするのは おれにとっては容易だ。というか、そもそも当たる確率の方が低い だろう。十回中一回しか当たらないとすれば、おれは﹃当たってし まう一回﹄に鍵をかければ良い。 だが、例えば一メートルと離れていない距離から凄腕の殺し屋が 放った弾を﹃当たらない﹄ようにするのはとんでもなく大変だ。弘 法も筆の誤り、千回に一回くらいはミスしてくれるかもしれない。 だが、おれが﹃それをモノにする﹄ためには、当たってしまう﹃九 百九十九回﹄全てに鍵をかけてまわらなければならないのだ。強力 で正確無比な吸血鬼の攻撃を﹃外す﹄のは並大抵の仕事ではない。 表面には何の兆候も現れないものの、おれの中に蓄えられた見えな いコインがごっそりと持っていかれたのを感覚する。だが、それだ けの成果はあった。槍を作り出し投げるという行動は、一秒の奪い 合いとなるこのスピードの世界では致命的だった。一気に二十メー トル以上離される直樹。やがて、直線を抜け、勝沼を過ぎ、トンネ ルを抜けて初狩に至る頃には、直樹の姿はバックミラーから完全に 消え去っていた。 ﹃むぅ⋮⋮。さすが﹃剃刀﹄。力任せの運転ではこれが限界か﹄ ﹁はっはっは、ざまぁ見さらせ。せいぜいアニメ内の台詞を脳内で 自分の名前に置き換えて楽しむ人生を送るんだな﹂ 追跡の間中ずっと罵詈雑言を言い合っていた直樹に一方的に勝利 宣言をすると、おれは﹃アル話ルド君﹄を切断した。決着をつける 事は出来なかったが、まあ焦る事は無い。いずれは否応なしに通る 道だ。と、新たな回線が開いて、今回のMVP⋮⋮勝てればだが⋮ ⋮に繋がった。 ﹃指示役以外にも活躍出来たみたいでよかったよ﹄ ﹁ホンッッットありがとうございました見上さん!﹂ 率直な賞賛の念を込めておれは礼を述べた。本来は戦力外と考え ていた見上さんのおかげで、直樹を実質無力化できたのである。こ 231 れで大きく天秤をこちら側に傾けることができた。 ﹃私は近くのPAに移動して、そこでまたクラウンの位置を確定す る。都内に入られると何かと行動が制限されるから、それまでにな んとしても奴に追いついてくれ﹄ ﹃わかりました。時間としては、まだ何とか可能なはずです﹄ 闇を切り裂いて疾走する﹃隼﹄のタンデムシートに跨りつつ、お れは自分の中の残ったコインをかき集めてみる。だが、やはり随分 無理をしたのが祟ったのか、当分は﹃鍵﹄を引っ張り出すのは無理 のようだ。先程の直樹の追撃を防いだ時点で、おれの札は打ち止め だった。ここから先はスピード勝負になる以上、もう無用な荷重で しかないおれを降ろしていくべきだろうとも思ったのだが、 ﹃いや、亘理君は引き続き乗っていくべきだ。ただのレースならと もかく、原稿を奪還するには二輪の運転手が一人では何かと不利だ からな﹄ という見上さんの判断により、おれも引き続き追跡にあたってい る。残るは、二対二。いよいよ大詰めだ。だが緊張とは裏腹に、タ ンデムシートに跨る身では出来る事など大してない。おれは気分転 換のため、ちょいと話しかけることにした。 ﹁⋮⋮玲沙さんって、お住まいはどちらで?﹂ ﹃え、と。調布です﹄ やはり玲沙さんも幾分緊張していたようだ。 ﹁じゃあ、自宅の前を通ることになるんですね﹂ ﹃自宅って言っても、会社が借り上げたアパートですよ﹄ ﹁てことは、仕事三昧の日々?メシなんてどうしてるんですか?﹂ ﹃えっと、朝は自炊、昼はお弁当で。夜は⋮⋮近所のコンビニのお 弁当になりますね。今日みたいな深夜の仕事があると、どうしても 生活が不規則になりがちですし。知らないお店に入るのは怖くって 232 ⋮⋮。毎日都内を走り回ってるのに、交差点と抜け道しか知らない んですよ﹄ ちょっと寂しそうな玲沙さんの声であった。 ﹁神田の﹃古時計﹄の近くに、﹃椋鳥﹄って喫茶店があるんですよ。 良く神田に本を買いに行くときはそこのお世話になるんですが。あ そこね、コーヒーもたいしたものですが、何故か喫茶店のくせに和 食のメニューを出してくれるんすよ。そしてそれがまたやたらうま い。焼き鮭と卵で三杯はいけますね﹂ ﹃はあ⋮⋮﹄ ﹁えっと、だから、まあ。今日の朝飯は、そこできちんと食べまし ょうって事です。勝利をおかずにして﹂ 我ながら胡乱な物言いだな。 ﹁あと、まあこう見えても暇な大学生ですから。池袋、新宿、神田 あたりの食い物なら多少知ってます。昼に弁当以外を食べたくなっ た時は電話ででも聞いてください﹂ 玲沙さんからコメントが返ってくるまでにはちょっと間があった。 ﹃そうですね、さすがに休憩なしでずっと走っているとお腹が空い てしまいますしね﹄ ﹁そういうこと。それじゃあ、﹂ ﹃﹁もうひと踏ん張りがんばりましょう!!﹂﹄ 気合をひとつ入れると、おれは彼女の腰にしがみつき、荷重に徹 して彼女の妨げにならないよう努めた。見上さんから送られてくる 敵の位置と道路状況を参照しつつ、はるか上空から見つけた獲物め がけて落下する隼のように、前方の車両を抜き去り、談合坂を越え、 闇に浮かぶ灯火に縁取られた相模湖に目もくれることなくただただ ひた疾走る︱︱。 ⋮⋮ついに前方にトヨタ・クラウンアスリートを捉えた時。 おれ達は神奈川県を抜け、八王子の市内に到達していた。 233 ◆12:漫画家と編集者 ﹁エージェント1号より連絡あり。原稿を確保したまま、東京都内 に到達した模様です﹂ 手を打ち鳴らし快哉を叫ぶ伊嶋氏とは対照的に、テーブルを叩き つけて立ち上がるのは現編集長。 ﹁馬鹿野郎!高い金を払って雇っているというのに、何をやってい るのだ!﹂ 先ほど相手を役立たず呼ばわりしたことは綺麗に頭の中から消え ているらしい。視界の隅に、ささやかに喜色をにじませる瑞浪氏を 捕らえ、見境なしに噛み付く。 ﹁何を笑っているんですか!﹂ 身を竦ませる瑞浪氏、冷然と二人の間でコーヒーを堪能する弓削 氏。その様子も気に入らなかったのか、編集長はまた何やら聞き取 りがたい言葉で喚いた。 深夜の京浜東北線でもああいうオヤジって居るわよねー、などと いう率直な感想をおくびにも出さず、浅葱所長は淡々と四杯目のコ ーヒーと、レアチーズケーキを注文した。夜間の食事は体、主に体 重の天敵だが、夜通し起きて脳を活性化させているととにかく腹が 減るものだから。 ﹁気にすることはないよ瑞浪君。もうすぐ君はあの﹃あかつき﹄か ら解放される。また前みたいな雰囲気で、僕らと一緒に描けるんだ よ﹂ ﹁ありがとうございます、でも⋮⋮﹂ 瑞浪さんはちらりと現編集者を見やる。何を思うのか、弓削さん は端然とコーヒーを手にしたまま無言だった。 234 ﹁新連載については心配しないでくれ。可能な限り﹃えるみか﹄に 近づけられるように努力するから﹂ ﹁⋮⋮あの。やっぱり、﹃えるみか﹄じゃなければいけないんです か﹂ 瑞浪さんは、確かにそう言った。 ﹁当たり前じゃないか。あれほどの良作、ここで打ち切りになんか させるものか。商標こそ、アニメ会社、グッズの会社⋮⋮いろいろ あって、﹃えるみか﹄の名前を使うのは無理だったけど、でも、基 本的には中身は変えさせないから﹂ 伊嶋氏はコーヒーを飲み干し、瑞浪さんの両肩に手を置く。手の 掛かる子供を宥めるように。 ﹁わかってます、わかってますけど!﹃ミッドテラス﹄に行ったら、 ﹃えるみか﹄は﹃えるみか﹄でなくなってしまうんです!﹂ ﹁瑞浪君⋮⋮﹂ ﹁﹃えるみか﹄は私だけの力で出来たものではないんです。だから ⋮⋮本当は、怖いんです。﹃ミッドテラス﹄で、ちゃんと続編が書 けるかどうか。ううん、描ける筈が無いです!だって、私の思い付 きを弓削さんがきちんとしたストーリーに仕立ててくれたからこそ、 四十話もやってこれたんですから!﹂ 漫画家、とくに若手に対する編集者の存在は非常に重要である。 親密になって漫画家のネタ出しにつきあい、編集部の意向を作品に 反映させ、時にはストーリーを主導する。編集者が異動になった途 端につまらなくなったマンガ、などというものは星の数ほど世の中 に存在するのだ。 そして、知る人ぞ知る、人気作品﹃えるみかスクランブル﹄の影 の立役者であり、実質的なシナリオライターだったのが彼女、連載 235 開始時から編集者としてコンビを組んできた弓削かをる女史であっ た。そしてこれも、﹃えるみか﹄を﹃ミッドテラス﹄が引き抜けな い大きな要因のひとつとなっていた。 ﹁⋮⋮たしかに、君達は二人でよくやってきたと思う。だが、瑞浪 君。君ももう五年目だ。そろそろ弓削君以外の編集者ともやってい けるようにならなくては。そうだろう?﹂ ﹁でも、それなら﹃えるみか﹄はもう描けません。弓削さんのシナ リオがなかったら、私の絵はただの止め絵になってしまうんです。 そんな﹃えるみか﹄の続きを書かなきゃいけないなら、いっそ﹂ ﹁瑞浪君⋮⋮!﹂ 伊嶋編集長が何とか椅子に彼女を座らせる。 ﹁どうぞ﹂ おりしもそこにマスターが、英国の執事めいた物腰で二杯目のコ ーヒーを運んできた。えも言われぬ芳香がテーブルに現れ、座が少 しだけ落ち着いた。 ﹁弓削さん﹂ それまで事務的な報告に徹していた浅葱所長が声をあげた。 ﹁貴方個人としての意見はどうなんでしょう?﹂ 一同が驚愕する。 ﹁何を言っているのかね!?弓削はうちの社員だぞ、だいたい⋮⋮﹂ ﹁お静かに﹂ ぴしゃりと編集長の言葉を封じるその様は、弓削さんですら恐ら くは及ばないだろう。彼女、嵯峨野浅葱は年こそ若いが、今までの 人生において無数のハードネゴシエイトを行ってきた。秤にかけて きたものの重さ、対峙する相手の力量、ともにこの男のそれを百倍 かき集めても及ぶものではない。状況に応じた語調の使い分けなど は初歩の初歩だ。 ﹁たいしたお話ではありません。私個人が、いち個人としての弓削 かをるさんの意見に興味を持っているというだけのことです﹂ 対する弓削さんは、冷めてしまったコーヒーに口をつける。鉄仮 236 面ぶりは相変わらずのようだった。 ﹁繰り返しになりますが。作家にとってベストの環境を確保する。 それが編集者の仕事だと私は信じています。だから今回もベストの 選択をしたつもりです﹂ ﹁弓削さん⋮⋮!!﹂ 瑞浪さんが悲鳴寸前の声をあげる。 その様を見やって、浅葱所長はぽつりと述べた。 ﹁ホーリック側が勝つといいですね﹂ ﹁な、何を!?﹂ ﹁嵯峨野さん!﹂ 伊嶋氏と瑞浪さんが驚愕の声を上げる。 ﹁⋮⋮貴方は中立の立場だと思っていたんですがね﹂ 伊嶋氏の声には明らかな失望と怒りがあった。 ﹁いえ、これはあくまで私個人の意見ですから。公人としてはあく まで中立の姿勢は変わりありません。ご心配なく﹂ ﹁本当ですかね﹂ 剣呑な雰囲気は、だが、そんなものはおかまいなしとレアチーズ ケーキの最後の一欠片を腹に収めた浅葱所長の声によって破られた。 ﹁ホーリック側が、ミッドテラス側を再び捉えたようです﹂ 237 ◆13:スーパーソニック・デリバリー 後ろから眺めやっても、クラウンの暴走っぷりは凄まじいものだ った。﹃隼﹄と違って小回りが効かない分、強引な割り込みでそれ を補っている。いくら今回の件が依頼人の要請に基づくものであり、 オービスについてもお目こぼしをもらっていると言っても、さすが にこれでは苦情を覚悟せねばならないだろう。こちらから仕掛ける としても、厄介なことになるのは明白だ。時刻はまだ深夜の域を出 てはいないが、休憩もなしにひたすらバイクを飛ばしているこちら は体力的にもかなりキツイ。さっきからこれだけは口にしないよう にしていたが、おれの尻と尾てい骨はガタガタでとっくに泣き喚い ている。痔になりたくないということもあり、八王子を越えて都心 に入り込まれる前にカタをつけたかった。 おれ達が後ろにつけたとき、前方のクラウンの挙動はむしろ静か なものになっていた。こちらが追跡しているだろうことは、直樹な り﹃貫影﹄なりの連絡で予想がついているはずだ。猛追してくる二 輪があれば迎撃の準備を取っていてしかるべきはずなのだが︱︱と 思っているところにそれは来た。 ﹁おふっ!﹂ 急な横方向への揺れに肺の中の空気がかきだされる。傾く車体は、 だが、玲沙さんが絶妙のタイミングで当てたカウンターに相殺され る。先ほどと同様、奴が磁力を使ってこちらの車体を揺さぶりにか かっているのだ。運転席の窓から覗くのは、奴の右腕。 ﹃やはり亘理さんの読みどおりのようです!﹄ ﹁ですね。よし、何時までも一発芸が通じると思うなよっ!﹂ 238 ﹁これは予測なんですが﹂ ここに至るまでに玲沙さんと交わした会話をおれは振り返る。 ﹁﹃二つ名﹄からして、あいつが磁力を操る能力者だってのは間違 いないと思うんです。そうなると、﹃どういった磁力使いなのか﹄ が問題になってきます﹂ 超能力か魔術か精霊の力か知らないが、炎使い、雷使い、水使い、 といったエージェントは比較的数多い。そしてひとえに炎使いとい っても、掌から炎を放つ者、敵を見るだけで発火させる者、まるで 生き物のように炎を操る者、さまざまだ。そして奴も、様々な種類 が存在する磁力使いの中でもどのタイプかに該当する、という事に なる。 ﹁多分、腕から磁力を放射する、って感じでしょう。となれば、当 然﹃引き寄せる﹄事があいつの得意技となる﹂ 磁石が﹃反発﹄するのはあくまで磁石同士だ。奴は恐らく、﹃鉄 を引き寄せる﹄事のみに一点特化したエージェントと見るべきだろ う。能力を一点に絞って鍛え上げた者は、状況しだいでは恐るべき 力を発揮するのだ。 ﹃でも、さっきのベアリングは⋮⋮﹄ ﹁おそらく、あいつが瞬間的に磁化したんでしょう。﹃隼﹄に吸い 寄せられる形で飛んできましたからね﹂ ﹃なるほど⋮⋮。わかりました。それなら、手はあると思います﹄ 距離を詰めるたびに、磁力の干渉は厳しくなってくる。右に、左 に。磁力の攻撃は、いうなれば透明なロープで引っ張られるという 妨害の中で走行を維持する事だった。引き倒されない玲沙さんのド ライビングテクニックに、改めておれは舌を巻く。 奴は作戦を誤った。おれ達を仕留めたければ、先ほどのように至 239 近距離から最大威力の磁力で一撃で引き倒すべきだったのである。 クラウンが先方を走るトラックを抜いたとき、おれ達は仕掛けた。 トラックがクラウンとおれ達の間に挟まれ、磁力の途絶えたその わずかな時間の間に、玲沙さんは完璧なライン取りで、奴の左後方 に回り込んだのだ。奴の右腕の届かない死角。ここでおれ達は一気 に距離を詰めた。たちまち視界に広がるクラウンのナンバープレー ト。リアウィンドウを通して、バックミラーを見る奴と目が合った、 ような気がした。奴の表情には、焦燥。慌てて左車線へとシフトす る。それこそが、玲沙さんの狙いであった。 ﹃︱︱︱︱﹄ 玲沙さんは身を極端に伏せる。事前に指示を聞いていたおれもそ れに倣い、両手をその腰ではなく、タンクの両側に取り付けられた フックをしっかりと握る。段差のあるタンデムシートに玲沙さんの 双丘が突き出される形になり、おれは危うく悶死しかけたが、錯乱 する思考を小脳から吸い上げて一時保管し脳内の奥底に放り込む。 後でゆっくり解凍しよう。 玲沙さんが﹃隼﹄のパネルに指を這わせる。イグニッションの下 にある、改造で後付されたと思わしきスイッチをはね上げた。そし て、﹃隼﹄にアクセルを叩き込む。 その瞬間、世界が停止した。 爆発的な加速。 供給されたありえない量の亜酸化窒素をたらふく喰らいこんだ猛 禽がその翼を広げ猛加速。そして押し寄せる膨大な空気の塊をその 肺腑に貪欲に取り込み、圧縮。噴射されたケロシンと化合させ燃焼。 その凄まじい心臓の鼓動をシャフトを介して推進力へと転化。風を 切裂くというよりは撃ち抜くこの感覚。この時、猛禽は天空から降 り注ぐ一粒の弾丸となり、音を追い抜いたのだ。 周囲に居た者は隼のいななきにも似た甲高い音を耳にし︱︱そし 240 てそんな認識を、続いてやってきた衝撃波に吹き飛ばされた。あた かも見えない巨人が、直径一メートル以上ある太い鞭を振るったか のごとく、爆音が帯状に路面に弾けた。 前方にあったはずのトヨタ・クラウンアスリートは、またたきす る間もなく視界の後方へと吹っ飛んでいった。意識が数秒トんだの か。ワープでもしたのか、というくらい不自然な景色の切り替わり。 魂だけが抜き出て肉体を置き去りにしてしまったのではないかと不 安になるほどの超加速。 これが﹃剃刀﹄鹿毛玲沙の裏十八番だった。おれ達にも、飛び込 みに失敗し無様に着水したときのような衝撃が全身に弾ける。生身 だったらそのまま身体が消し飛んでいただろう。おれにやたらと高 性能のライダースーツが事前に支給された理由は、まさにここにあ った。過剰なまでに耐ショック構造を組み込んであるはずなのに、 それでも内臓を落っことしたんじゃないかと思うほどの衝撃が突き 抜ける。フックを掴んだ腕と肩が引っこ抜けそうになった。事前に 玲沙さんに厳重に注意されていなければ、容易く後ろに吹っ飛んで いただろう。 公式には記録されていない二輪車での音速突破を、実に一秒に満 たない加速時間で為してのける車体など存在するはずがない。まし て通常走行用のエンジンと並行してもう一つの加速装置を改造して 取り付けるなど技術的に可能なはずはない。ついでに言うなら、そ んな加速をして搭乗者が無事で済むはずはない︱︱はずはない、等 という言葉は、この業界では口に出すだけ虚しいものではあるが。 風の噂では、真の拳法使いには軽功によって音速を超える者もいる らしいし。 時間では二秒足らず。だが、距離にして六百メートルを疾走し、 ﹃隼﹄は通常走行に戻った。スピードを落とし、追い抜いたクラウ ンに併走する。巨大な鞭に打たれたようにへこんだ車体。そして開 け放たれた運転席の窓の向こうには、ハンドルに突っ伏した男が居 た。天空から襲いかかる隼に蹴落とされた受けた獲物は、抵抗すら 241 許されず即死、あるいは気絶する。 それを彷彿とさせる、居合いの一閃。音速から放たれた衝撃波は、 ﹃包囲磁針﹄に本来の恐るべき力を振るう間も無く失神させていた のだ。まともに戦えばただではすまなかっただろう。 ﹁すごい威力ですね⋮⋮﹂ ﹃本当は、どうしても荷物が間に合わないときの業務用の装備なん ですけど﹄ ⋮⋮さいでっか。きっとメカニックにB級映画の信奉者でもいた に違いない。くれぐれも世のビジネスマンは、あまりにも無謀な催 促をメール便にするべきではないなとおれは思った。 ﹁っとと、よよっと⋮⋮のわぁっ﹂ ひときわ無様な声を上げて、おれはクラウンの運転席にもぐりこ んだ。巧みにスピードと位置を合わせてくれた玲沙さんのおかげで、 作業自体は中学でやった器械運動よりもたやすかったが。気絶して いる﹃包囲磁針﹄の太ももに顔を埋めそうになって慌てて態勢を立 て直す。ハンドルをとり、徐々に路肩に寄りつつあった車体を中央 に復帰させた。 ﹁ふう﹂ 四苦八苦して﹃包囲磁針﹄の体を助手席に押しやる。メットを脱 ぎ捨て、ツナギのファスナーを開く。内ポケットに入っていた小型 の七つ道具を取り出すと、そのうちのひとつ、即効性の催眠スプレ ー﹃春シオン君﹄を助手席の﹃包囲磁針﹄に吹き付けた。これで半 日はどうやっても目を覚まさないだろう。あとはこのクラウンを適 当な場所で停めて、玲沙さんが原稿を持ってゴールに駆け込めば万 事OKである。路肩に停めてもいいんだが、さてどうするか。 ポーン。 ﹃石川PA、まで、あと五キロ、です﹄ 242 と、カーナビが事務的な口調で告げる。ふむ。路肩に停めるとあ とあと面倒だし、PAで車ごと放り出すのが妥当なところかな。お れは並走する玲沙さんにその旨を伝えた。 ﹁念のためっすから、先行してガス入れておいてください﹂ ﹃わかりました。軽く点検もしておきたいですし﹄ あの大技は多分車体に凄まじい負担をかけるのだろう。ここまで 来てエンストなんて事にはなって欲しくはない。原稿を再度車体に 括りつけなおすのも、金具が壊れた今となっては容易ではないのだ。 おれが玲沙さんにひとつうなずくと、たちまち彼女はおれの視界を 前方へと突っ切っていった。⋮⋮さて。 ﹁ふっふーん♪﹂ おれはいささか上機嫌の態でハンドルを握った。何しろクラウン・ アスリートとくれば親がカネモチでもない限り学生が運転できる代 物ではない。入り込んできた運転席の窓を閉めてしまえば、先ほど までの滝の中のような騒音は掻き消え、驚くほど静かな空間が広が ってきた。敵が磁力を放出するために全開にしていたのが幸いして、 窓も割れていなかった。﹃アル話ルド君﹄からコネクタを引き出し てカーナビに接続すると、たちまち車内は豪勢なステレオサウンド で満たされる。 ポーン。 ﹃石川PA、まで、あと三キロ、です。シートベルトの着用を、お 願いします﹄ とっとと。いかんいかん。おれは慌ててシートベルトを着用する と、夜の闇の中、カーナビの表示と高速の標識を頼りにクラウンを 走らせてゆく。 ポーン。 ﹃左、石川PA、です﹄ おれは高速を一旦降りるべく、ウィンカーを出してハンドルを左 に切った。だが、車は直進を継続している。高級車のくせにハンド ルの反応が鈍いとは。おれは舌打ちすると、ハンドルをやや大きく 243 切る。 直進のまま。 おれの胃の辺りに冷たい塊が落ちてくる。慌ててハンドルを左右 に振るが、反応なし。おいおいおい、まさかさっきの衝撃で壊れた とか言うんじゃないだろうな!? そうこうするうちに、PAの入り口は後方に過ぎ去ってしまった。 半ばパニックになりかけてブレーキを踏むが、⋮⋮これも反応なし! ポーン。 ﹃石川PAを、通過しました﹄ やたらと事務調なカーナビの音声が気に障る。しばらくハンドル、 ブレーキ、アクセルを弄繰り回してみたが、効果は無し。なんとか 玲沙さんに連絡をとらないと。そう思って﹃アル話ルド君﹄に手を 伸ばした。 ポーン。 ﹃石川PAまで、マイナス一キロ、です﹄ ︱︱伸ばしたおれの左手が凍りつく。石川PAを目的地にでもし ていればいざ知らず、カーナビは通常こんなアナウンスは、しない。 そして、おれはもうひとつ事態に気がついていた。ハンドルも、ブ レーキも、アクセルもきかないのに⋮⋮なぜこの車は、正確なまで に車線の中央を維持しているんだ!? ポーン。 ﹃石川PAまで、マイナス三キロ、です。お、仲間との、合流は、 諦める、べきですね﹄ 台詞を組み合わせた無機質な電子音声にぞっとする。遠隔操作、 いや、こいつは! ポーン。 ﹃高井戸ICまで、あと二十キロ、です。しばらくは、お付き合い ください﹄ 244 咄嗟、シートベルトに手をかける。だが、いくらボタンを押して も、外れることは無かった。 ポーン。 ﹃その操作は、受け付けておりません﹄ 日ごろは何気なく聞き逃せるエラー音声だが。こうして聞くと感 情がこもっていない分空恐ろしい。おれはようやく事を理解してい た。 ﹁⋮⋮なるほど。アンタがそっちの最後のカード、ってわけだ﹂ とたん、車載スピーカーから滑らかな音声が流れ出す。 ﹃はじめまして。多機能型カーナビゲーションシステム試作機、型 式番号﹃KI2K﹄。まだ二つ名は頂いておりませんので、実名で 人 って言ったじゃないかよ⋮⋮﹂ 失礼いたします﹄ ﹁⋮⋮四 おれは苦虫をすり潰したジュースを飲み込んだようなツラで、こ のカーナビの奥に収まっている高度な人工知性体を睨みつけた。 245 ◆14:ゴールへと カーナビが爆発的に普及し始めた二十一世紀の始め。各電機メー カーの技術者達の間では、夢の﹃喋る車﹄を実現すべく、様々なプ ロジェクトが立ち上げられた。車に好きなキャラクターの声で喋ら せてみたり、状況に応じて気の利いた台詞を言わせてみたり。だが 結局のところ、それらはおまけ機能的なものの領域を出ることは無 かった。少なくとも、そういう事になっている。 しかし。業界にはひとつ、噂があったのである。とある大手の車 用電装品メーカーの技術者が、ある科学者と共同でプロジェクトを 立ち上げ、心血を注いで試作を完成させた、二つの﹃知性をもった カーナビ﹄がある、と。 当の技術者が直後に過労死したため︵労災は下りなかった︶、真 相は闇に葬られた。というより、この噂自体、報われなかった技術 者への判官びいきから生まれたのだろうと思われていたのだが。 ﹁まさかそのうちの一台がこんな車に搭載されていたとはね﹂ ﹃今回はたまたまです。個人的にはトランザムのフロントパネルが 一番居心地がいい﹄ ﹁⋮⋮おれをどうするつもりだい?﹂ ﹃このまま東京神田の﹃古時計﹄に向かってもらいます。私の自動 運転は完璧ですが、無人では都内は走れませんから﹄ おれは態の良い人形役か。 ﹁はん、だがまさしくこれなら獅子身中の虫。拳一発でアンタをぶ っこわすことだって︱︱ぐくっ!?﹂ 尻のあたりに何かがはじけ、おれはシートの上で飛び上がった。 ﹃私には盗難防止システムが備え付けられておりまして﹄ 246 にしちゃぁ過激だね。シートにスタンガン装備ってのは。ふと、 おれは思いついた。 ﹁そういえば。トレーラーを遠隔操作していたのもあんただったっ てわけだな﹂ ﹃ええ。自身を含めて四台程度までなら通常走行を並行して維持出 来ます﹄ と、そこで﹃アル話ルド君﹄が着信音を鳴らす。先ほどバイク上 で使っていたため、自動的に通話状態になる。 ﹃亘理さん、どうされました!?﹄ 玲沙さんだ。 ﹃亘理君、玲沙君とは離れてしまったのかね?﹄ ﹃こちら真凛。﹃貫影﹄はどうにか倒せたけど、そっちは?﹄ おれに繋がったのを知って、三者が三様にまくしたてる。 ﹁おい⋮⋮喋ってもいいのかい﹂ ﹃どうぞ﹄ 先方が寛大に許可してくれたので、おれはカーナビ越しに手短に 状況を説明した。想像もしなかった四人目の正体にさすがにみんな 絶句していたが、 ﹃とにかく、そっちへ向かいます﹄ 言うや否や玲沙さんの通信が途絶える。恐らく石川PAを再出発 したのだろう。 ﹁見上さん、すいませんが位置のフォロー頼みます。真凛、所長に 連絡してくれ。最寄のSAで時間を潰してれば桜庭さんか須江貞さ んが回収してくれるはずだ﹂ ﹃うん、わかった。⋮⋮でも今回は本当に役立たずだったね、ボク﹄ ﹁暴れられたからいいじゃないか。次回はきちんと活躍できるだろ うから心配すんな﹂ そこまで言って、通信を切る。ふぅ、と一息をつき。そのままフ ックをフロントパネルに向けて繰り出した。 ﹁ぐかかっ!!﹂ 247 拳が届く前に先ほどより強烈な電撃が走り、意識が遠のきかけた。 たまらず崩れ落ちるおれの耳に、無機質なカーナビの音声が響く。 ﹃あまり無謀な振る舞いはお勧めできません。あなたの反射神経よ りは私の反応のほうが、失礼ながら数百倍は早いし、私の本体はそ こではない﹄ しばし、フロントパネルをにらみつける。⋮⋮十秒ほど、勝てる はずの無いにらめっこを続けた挙句、おれは肩をひとつすくめた。 ﹁⋮⋮んじゃ、神田まで。安全運転でね。深夜料金つかないよね?﹂ 観念した態で両手をあげる。 ﹃素敵な、ドライブになると、いいですね﹄ 起動時の業務用の台詞を吐いて、クラウンは自動操縦に移行する。 どうせ手を離しても勝手に進んでいくんだ。おれはシートにくくり つけられた体制のまま、次々と暇つぶしをはじめた。まず、起きら れては元も子もないので、﹃包囲磁針﹄の親指を手にしたプラスチ ックのバンドで縛り上げる。奴のネクタイとハンカチで目隠しと猿 轡をかます。上着を脱がせてかぶせ、深夜ドライブで眠ってしまっ たように装い︱︱こういう手口ばかり巧妙になるのはいかがなもの か︱︱ヤケクソ気味にプラグが繋がったままの﹃アル話ルド君﹄を 操作し、サウンドを車内にたっぷりと響かせる。その上で放り出さ れていた原稿のボックスを拾い上げ、しっかりと懐に抱え込む。 ﹃神田についたら、すいませんがあなたには気絶してもらいます。 そこで私がゴールインすれば、ゲームは終了となる﹄ ⋮⋮ゲームの解釈としてはそうなるんだろうな。 ﹁だけど、そうそううまくいくかな?﹂ バックミラーから急速に迫りくる﹃隼﹄の姿のなんと頼もしいこ とか。 ﹃うまくいきますとも﹄ 言うや、猛加速するクラウン。先ほどまでも十分に味わっていた 感覚だが、今度はおれの体は柔らかなシートにしっかりと受け止め られていた。 248 ﹁この⋮⋮﹂ まさしく機械仕掛けの正確無比なライン。だが、それでも、おれ は技量においては玲沙さんが勝っていると断言することが出来た。 両方に乗った人間の言うことだから間違いは無い。それに四輪と二 輪では小回りの性能が違いすぎる。徐々に近づいてくる玲沙さん。 おりしも前方には走行車線、追い越し車線ともに車両でふさがって いた。ゲームセット、と思ったそのとき。 ﹁⋮⋮っ﹂ 今日何度も体験している、内臓にダイレクトに伝わる加速の感覚。 だが、それは今までのような前から後ろにではなく、上から下。そ れはすなわち。 ﹁飛んだ⋮⋮!?﹂ そう。 嘘偽り無く。 この車は空を飛んだのだ。 正確には大ジャンプか。両車線を遮る車を追い越した。それも、 上から。おれは運転席の窓からありえない光景を見やりつつ︱︱続 く落下の恐怖を存分に味わった。どずん、という鈍い衝撃。しかし 高級なサスペンダーは驚くほどその威力を吸収し、おれにはほとん ど被害がなかった。そう、おれには。 たった今おれ達が飛び越した車にしてみれば、天からいきなりク ラウンが降ってきたようなものだ。たまらず二台とも急停止し、制 御を失い⋮⋮結果、玲沙さんとおれ達の間に壁となって立ちはだか ることとなった。たちまち後方で響き渡る甲高いブレーキ音。 ﹃ああ、もう!⋮⋮すいません、亘理さん!塞がれました!﹄ ﹁玲沙さんと、飛び越された車の人たちに怪我は!?﹂ ﹃どちらも大丈夫です。でも、今のでギアに異音が入りました。多 分⋮⋮これ以上の追跡は無理です﹄ そうか。やっぱりさっきの超加速とかでかなり無理させたものな。 言葉の間に、かなりの葛藤があったということは、目的意識と現状 249 分析の間で下された、冷静なプロとしての判断というべきだろう。 ﹁わかりました。無理しないでいいんで、そのままゴールまで向か ってください﹂ おれはひとつ息をついた。 ﹃そうですか⋮⋮。﹃椋鳥﹄での朝ご飯、ご一緒出来そうにないで すね﹄ 玲沙さんの声は気落ちしていたようだ。 ﹁そうでもないですよ。もともと勝ち負けに関係なくお誘いするつ もりでしたし、それに﹂ おれは運転席でのんびりと頭の後ろで手を組み、足も組んで伸ば した。高速道路では通常ありえない態勢だ。 ﹁ちゃんとおれ達が勝ちますしね﹂ 国立府中、調布、高井戸。 順調にインターを通過する。隣で相変わらずつぶれたままの﹃包 囲磁針﹄の財布からチケットとついでに現金も取り出し︵乗った奴 が払うのは当然だろう?︶、おれはクラウンに乗って悠々と中央道 を降りた。そのまま甲州街道をひたすら西へ。途中何度か裏道を出 入りをするあたりはさすがカーナビの面目躍如といったところか。 おれ達はろくに渋滞にも遭遇せず、神田の古書店街の一角へとたど り着いていた。不夜城東京といえどもこの辺りはさすがに終夜営業 の店も少なく、落ち着いたものである。それでも、ずっと闇の中を 疾走していたおれの目にはずいぶん眩しく映ったものだが。 ポーン。 ﹃目的地まで、あと、10分です﹄ こんなときにわざとらしくカーナビ口調で話してくるあたり、こ いつも相当いい性格をしていると見るべきだろう。おれは仏頂面で 250 ハンドルを握っていた。 ﹃この期に及んでまだ何か仕掛けられるとでも?不審な合図、不審 な行動があれば即座に行動を抑制させていただきますが﹄ やれやれ。確かにおれの﹃鍵﹄も、序盤でハッスルした分二発で 打ち止めだが。 ﹁いや、まあとっくに勝負はついてたんだけどね﹂ おれは言う。 ﹁今まで散々寒くて尻が痛い思いをしてきたわけだから、最後くら いクラウンのシートの、しかも自動操縦で送ってもらえたらうれし いなー、なんて思ってたもんでさ﹂ ﹃何を⋮⋮﹄ おれの態度に、初めて奴が機械らしくない声を上げた。 ﹁最近の携帯電話って奴は多機能でね﹂ コードで繋がれ、サイドブレーキの側に転がっている﹃アル話ル ド君﹄を見やる。 ﹁カメラ、GPSなんて機能もついてて⋮⋮ついでにこいつはさら に特別製なんだ。音楽もアホみたいな量が入るし⋮⋮データの持ち 運びなんかも出来るんだよな。文書ファイル、画像ファイル、それ から、プログラムとか﹂ 沈黙。機械でも判断するのに時間が掛かることがあるのかね。 ﹃まさか﹄ ﹁石動研究所特製、自律システム解析型ウィルスベクター﹃輸ネち ゃん﹄。たいがいのシステムの奥底まで解析し、ウィルスを送り込 むっつうシロモンだよ。準備は周到に、ってわけだな﹂ 実際は前の任務で使った後消し忘れていただけだが。 ﹃そん⋮⋮な⋮⋮!⋮⋮!?﹄ ﹁あーそう。変なことしない方がいいぜ。ウィルス発動のキーは、 そのウィルスを検索しようとすることだから⋮⋮って、やっちまっ たか﹂ ほんの一瞬、ぐちゃぐちゃの地図が表示され︱︱ブラックアウト 251 した液晶画面を見ておれはつぶやく。 ﹁安心しなよ。ちょっとシステムがダウンするだけだ。あんたはそ れほどヤワじゃないはずだし、壊しちまったら色々なところから悲 しまれちまうからね﹂ このウィルスの作成者にして、かつて技術者とともにこのカーナ ビの開発に関わったといううちのマッドサイエンティストの顔を思 い出し、おれはもう一度、今夜最後のため息をついた。 252 ◆15:ゲーム・オーバー おれが﹃古時計﹄の重厚なドアを押し開けると、澄んだドアベル の音が店内に鳴り響いた。 おれの顔を見て、露骨に落胆した人が一名。この人が伊嶋さんだ ろう。そして満面の笑みを浮かべる脂ぎった中年のオッサンが一名 ⋮⋮オッサンの笑顔など見たくも無いのでその場で脳裏に保存せず 消去⋮⋮そして相変わらず鉄仮面顔の弓削さん。同じテーブルに着 いて本当に泣きそうな顔をしている眼鏡の女の子は、はて誰だろう。 何気に結構可愛いと思うのだが。今日は本当に美人に縁のある日だ。 玲沙さんもすでに甲州街道に下りたらしいし、あと何時間後かの朝 飯におれは思いを馳せつつ店内に足を踏み入れる。 ﹁勝負の結果は?﹂ 冷たいとも言える言葉がおれを現実に引き戻した。見れば、浅葱 所長がおれを見据えている。ここでの彼女の役割はおれ達の所長で はなく、このふざけたゲームの立会人なので、それは至極まっとう な反応だった。おれは報告する。 ﹁ホーリック代理人の亘理陽司です。﹃ミッドテラス﹄のエージェ ントを三人と一台を排除し、ここに辿り着きました。こちらも三名 が途中でリタイヤしましたがね﹂ ﹁原稿は?﹂ ﹁こちらに﹂ 言っておれは、血と汗と涙の結晶である二つのキャリーケースを、 衆人環視の元で弓削さんに手渡した。 ﹁確かに、中身に間違いはありません﹂ 封を開けて中を確かめた弓削さんが言い、中を見た瑞浪さんも首 253 を縦に振った。 ﹁では、立会人として⋮⋮今回のゲーム、ホーリック社の勝利を宣 言いたします﹂ 狂喜乱舞するのは中年オヤジのみで、他はいずれも沈みきった、 もしくは冷めた反応だった。かくいうおれ自身も、目標を達成した 以上の感慨は無く、黙って手近な席に腰を下ろす。マスターにコー ヒーを一杯注文した。 ﹁お疲れさま、亘理クン﹂ ここでようやく浅葱﹃所長﹄がおれにねぎらいの声をかけてくれ た。だがおれはそれに軽く手を振ったのみ。 ﹁あの眼鏡の子、誰ですか?﹂ それに対する答えにおれはさすがに驚いた。まさか﹃えるみか﹄ の作者が女の子だったとは。⋮⋮だが、それもおれに取ってあまり 嬉しいニュースにはなり得なかった。 ﹁用件はこれで終わりっスよね?コーヒー飲んだら帰らせていただ きますよ﹂ 店内の雰囲気だけでも、だいたいどのようなやり取りが成された かわかってしまうという物だ。これ以上ここで繰り広げられる出来 の悪いコメディに付き合う気分ではなかった。直樹の野郎へのイヤ がらせのため瑞浪さんにサインでもねだろうか、と思ったが、敵側 の選手で、しかも勝たせてしまった人間がでしゃばったらどうなる か、という事がわからぬ程阿呆ではないつもりだ。 ﹁そう言わないで。自分の仕事を確かめるためにも、もう少し見て いったら?﹂ 浅葱さんにそう言われ、おれはつまらなさげな表情を作って、運 ばれてきたコーヒーを呷った。確かにまあ、玲沙さんとの朝飯の約 束にはまだ十分時間が合ったのだが。 ﹁それでは、契約書のとおりに﹂ 254 ﹁はい、契約書のとおりに﹂ 弓削さんはそう答えると、原稿をテーブルの上に積んだ。そして 立会人である浅葱所長の目の前で、複写式になっている契約書にお れ達が勝利した旨の文章を書き込んでゆく。何気なく契約書の文書 の内容を追っていったとき、おれの頭の中にピンとひらめくものが 合った。⋮⋮ああ。なるほど、そういう事ね。 ﹁よくやったぞ、弓削!!﹂ 中年ががなり立てる。⋮⋮このオッサンが今回一番の迂闊者だな、 間違いなく。 者 ⋮⋮弓削かをる氏が、﹃えるみか﹄と瑞浪の身を預かる ﹁それではすべて、契約書のとおりに。このレースに勝利した側の 編集 こととなりました﹂ 浅葱さんの宣言に、中年オヤジの動きがぴたりと静止した。動作 の途中で静止画にされると、人間ってホント変てこなポーズになる よなあ。 ﹁浅葱さん。よろしいでしょうか﹂ ﹁どうぞ﹂ ﹁では。私、弓削かをるは、所有する﹃サイバー堕天使えるみかス クランブル﹄の連載権と、委託されている﹃瑞浪紀代人﹄の所属を、 株式会社﹃ミッドテラス﹄に移管することをここに宣言します。契 約書の作成をお願いできますか?﹂ ﹁弓削君!﹂ ﹁弓削さん!﹂ ﹁ば︱︱馬鹿なことを言うな!!そんな口約束、通るわけが無いだ ろう!﹂ ﹁生憎と、この契約書は﹃ミッドテラス﹄社長と、﹃ホーリック﹄ 社長代理のあなたの印で作成されています。当然、印鑑を押された ということは文面は理解されておられましたよね﹂ ことさら語尾を下げ、疑問形にしないところが意地が悪い。 ﹁⋮⋮な、しかし、そんな⋮⋮﹂ 255 ﹁である以上、この契約書に従えば公式に権利は弓削さんのものに なる。そしてその弓削さんがその場で譲渡を宣言した以上、﹃える みかスクランブル﹄と﹃瑞浪紀代人﹄は公式に﹃ミッドテラス﹄の ものとなる。もちろん題名の変更等の不自然な修正も無しに。おわ かりですか?﹂ ﹁こ︱︱これは、詐欺行為だ!第一、そんな口約束で物事を決めら れてたまるか!そ、そうだ、それこそもう一度契約書を書け。弁護 士の立会いの下で。いや、弓削、その前にお前はもう一度社に戻っ て﹂ ﹁その必要はありませんな﹂ 突如割り込んだ第三の男の声に、ぎょっとして振り向く中年。見 れば喫茶店のマスターがトレイを持って立っていた。 ﹁なんだあんたは!これはウチの問題だからでしゃばっ﹂ ﹁それならば今契約書を作成すれば良い。そうですね、みなさん﹂ ﹁﹁はい﹂﹂ 浅葱さんと弓削さんが唱和する。 ﹁言うのを忘れていましたが、こちらのマスター、本業は弁護士で す。こう言った民事関係のトラブルの草分け的な存在なんですよ﹂ 所長の満面の笑みに、ようやく哀れな中年は、これが最初から最 後まで筋書きの仕組まれた陰謀だったということに気がついた。 ﹁ゆ、弓削⋮⋮この、貴様、恩を仇で返すとは⋮⋮!クビだ、クビ !もう二度とウチに顔を出すな!﹂ ﹁確かにその言葉、伺いました﹂ ﹁⋮⋮ん?﹂ 己が口走った言葉の重大さに、中年が青ざめたその時。 ﹁弓削さああん!!﹂ 感極まった態の瑞浪さんが抱きついた。 ﹁弓削さん、ありがとうございました、やっぱり弓削さんは最高で す!﹂ ﹁⋮⋮俺たちみんな、手玉に取られたか。たいしたもんだよ、お前 256 は。⋮⋮これで、いつでもうちに来てくれるな﹂ ﹁作家にとってベストの環境を確保する。それが編集者の仕事です から﹂ 半ばあきれ顔を浮かべる伊嶋編集と対照的に、中年の顔は蒼白を 通り越して土気色になっていた。 ﹁弓削さん、弓削さん⋮⋮﹂ ﹁紀ちゃん、ごめんね、一連のごたごたで随分つらい目に合わせち ゃったね。でも、もう大丈夫だから﹂ 涙でぐしゃぐしゃの瑞浪さんの顔をハンカチでぬぐってやる弓削 さんの顔を見ながら、おれは我知らず呟いていた。 ﹁⋮⋮おれも、佳い女センサー装備しようかねえ﹂ 初めて、鉄仮面の下の素顔を、見た。 ﹁ごちそうさんでした﹂ もう勝負のついた騒動を尻目に、おれは席を立った。今度こそ、 これ以上先を見る必要は無い。と、今夜は大活躍だったおれの携帯 が、再び銭形警部のテーマを奏でた。 ﹃亘理さん、こちら玲沙です。今、神田のJR駅前につきました﹄ ﹁はいはい、今迎えに行きますよー﹂ おれは、徹夜明けの空腹を満たすべく、﹃古時計﹄のドアを押し 開けた。 ビルの谷間から昇るすがすがしい朝の陽光が、騒がしい夜の終了 を告げていた。 257 Sir *****16ポンド さんが入室しました* ◆※※:議題﹃次のイベントについての詳細検討﹄ 15:26:25 15:27:08 BadJoker@幹事 ******* 15:27:10 16ポンド >どーも >きたきた 15:27:30 Sir >遅いよあんた Oct 15:27:42 Mitsu−ME >小者は蟻のよ >現場人間の辛 >仕事帰り。俺はお前 >遅くなったっス >全員そろったかな 15:27:45 16ポンド Oct 15:28:41 Oct Mitsu−ME Sir のようなヒマ人とは違うっスよ 15:29:13 いところだな 15:30:01 >やめれー。のんび >何だとー >何か言ったッスかー Mitsu−ME 16ポンド うに働いていればいいさ 15:30:32 15:30:57 BadJoker@幹事 不良在庫 15:32:08 Sir Oct >ということで用件 >なんとでも言 >金の亡者︵笑 >私はあと一時 り同窓会をやってる時間はないんだって。時差もあるしな 15:33:16 16ポンド 間で仕事だよ 15:34:02 Sir BadJoker@幹事 Oct 15:34:43 ってくれ︵泣 15:36:52 258 Sir >やっと起きたか >おおー のみ。14番が起きたよ 15:40:05 Mitsu−ME Oct 15:42:29 >了解 >仕込んでおいたネ >お前もたまに >ネタはあるの >では、さっそく試し 16ポンド Oct Oct >管理人が出張 >ガンバレ仕事 >受信完了、て、アジ BadJoker@幹事 Sir Mitsu−ME 15:45:10 てみないとっスね 15:46:32 か? 15:47:10 は自分で考えろ 15:47:15 Sir タがあるんで展開します。メール見てね 15:47:50 16ポンド Oct 15:52:14 Sir アってことはまた俺の仕切りっスか 15:54:27 Mitsu−ME 16ポンド >間に合いそうなら >Sってもピンキリっ >スタッフつけるよ。 >また清掃係の人に邪 人ー。支払いのツケはもってやるから安心しろ 15:55:18 ってくるだろ 15:57:00 16ポンド BadJoker@幹事 魔されるとかなわんっスねえ 15:59:41 Sひとり 16:02:03 BadJoker@幹事 スからねえ。使えるの寄越してくださいよ 16:03:39 Oct >いや、全員揃ってか >ようやくゴー もう一人つけるよ。試運転だから、使い捨てでもいいでしょ。実際 Sir 14番は現地入りさせないわけだし 16:03:40 16ポンド ルが見えて来たところか 16:05:11 259 BadJoker@幹事 らゲーム開始っスから 16:07:35 >先着の人は好きに >レポートは何 >んじゃ、そのあた >二ヵ月後ってとこっ BadJoker@幹事 16ポンド Mitsu−ME やってていいけどね 16:10:43 時出せるんだ? 16:13:20 スかねぇ 16:17:19 Oct >うへぇ出勤時 >また株情報寄越して >それはインサ Oct Sir >いってらっしゃい。 Oct さんが退室しまし >じゃあ落ちま >どっちも金に Oct Mitsu−ME 16ポンド Sir りでまたここで集まりましょ。またメール投げるから 16:20:22 間だ 16:21:53 よー 16:23:30 イダー︵笑 16:26:25 Sir 困ってないだろアンタら 16:26:27 *****Sir す。いってきまーす 16:26:28 16ポンド た******** 16:27:18 >うーす。じゃあお >⋮⋮俺にも早 *****BadJoker@幹事 さんが退 BadJoker@幹事 *****16ポンド さんが退室しました* じゃあ俺も落ちます。ネムイー 16:27:23 ******* 16:30:33 開き∼ 16:31:00 Mitsu−ME 室しました******** 16:37:43 260 >⋮⋮ひとりあ く出番がほしい Mitsu−ME >ダレモイナイ 21:43:10 Mitsu−ME >⋮⋮つまんな そび 21:49:15 Mitsu−ME *****Mitsu−ME さんが退室しま 16:52:23 いから戻す 16:52:59 した******** 261 ◆01:戦いすんで日は暮れて ﹁アンタがもう少し早く気づけば、こんな事にはならなかったんだ よ!﹂ ﹁⋮⋮あのねえ。崩れかけた足場を真っ向から無視して震脚を踏み 込みまくったのはおまえだろうがよ﹂ 湿った文句に湿った反論を返し、おれは黙々と歩を進めた。新宿 から高田馬場方面へと向かう明治通りの途上である。金は無いが食 い物にはうるさい学生が集うこの通りには、安くて美味い飲食店が ひしめきあっており、普段なら歩いているだけでそれなりに楽しめ る場所だ。だが今、衣服の裾からアスファルトへぱらぱらと茶色い 粉を撒き散らしながら、肩を落として進むおれ達二人組にはそんな 感性は残されていなかった。全身は泥まみれの状態のまま乾燥して しまい、さながら自分の田んぼから間違って這い出てしまった瀕死 の泥田坊と言ったところか。 二人の泥田坊を容赦なく炙る陽射し。午後に入っても気温は下が らなかった。夏の間猛威を振るいに振るいまくった太陽は、九月に 入っても一向に衰える気配を見せず、まだまだ都内は不快指数過剰 の牢獄である。すれ違う人々の視線がとってもイタイ。いっそ本当 に泥田坊よろしく腕を差し出して、田を返せえぇぇえ、とでも叫ん だ方が気が楽になるかも知れない。 ﹁あげくの果てに地下鉄では駅員さんに乗車拒否されるし。知り合 いが乗ってたらどうするんだよ、ボク、毎日通学にも使ってるのに﹂ 我がアシスタント、七瀬真凛がぎゃあぎゃあと抗議の声を上げ、 泥に汚れたシャツと、全身から噴き出す汗がもたらす不快感に拍車 をかけた。そろそろ政府は残暑だの立春だのという言葉の定義を変 262 えたほうが良いのではないか。一歩踏みしめるたびに足元から這い 上がってくる、靴中の泥の生ぬるい感覚と相まって、不覚ながらこ のおれ亘理陽司も、いささか苛立っていた模様。 ﹁はん。そんなら運転手に送り迎えしてもらえばいいだろうが。旧 士族のオジョウサマはおれ達ショミンとは同じ土を踏みませぬわオ ホホ、みたいな感じでさ。もっともその様じゃー誰がどう見てもタ ニシ摂りの子供だけどな﹂ ﹁ふんだ、ボクが居なければアンタは今そんな事も言ってられなか ったくせに﹂ ﹁はっ、もともとおれがあそこまで追い込まれたのも元はと言えば お前が︱︱﹂ 先ほどからこんな益体もない会話を延々と繰り返している。もう 何巡目か考える気力も無い。 事の発端は今日、九月下旬の土曜の朝に遡る。中学や高校ではす でに二学期が始まって久しいが、おれの大学ではまだギリギリ夏休 み。この休み中に引き受けてきたフレイムアップの仕事も、先日長 野から都内までを一夜で駆け抜けたことでどうにか一段落がついた。 おれは他の連中のアシストに入ったりしながら比較的穏やかな︵あ くまでも比較的、だ︶日々を送っていたものだ。そんな中に舞い込 んで来たのが、東京都西部の某町に頻繁に出没して店先や田んぼを 荒すという猿の駆除依頼だったのである。 突拍子もないと思われるかも知れないが、こういった動物関係の 依頼はおれ達にとってオーソドックスの部類に入る。浜辺に打ち上 げられたイルカを助けたり、高度に統率された野犬の群れと死闘を 演じたり。二十一世紀であろうと、都会を一歩離れれば、今なお動 物や自然達と真っ向から向き合い戦い、あるいは共生している人が いる。これは別におれ達エージェント業界に限ったことではない。 あるものは自然のバランスの変動の影響︵それを自然破壊と呼ん 263 でいいのかはおれにはわからない︶で住処を追われ、あるものは無 責任な人間の餌付けに味を占め、猿やカラスが人里に降りてくる。 彼らのもたらす被害は全国で年々深刻化している。今回の依頼は町 を荒らす猿を捕らえ、これ以上被害が広がらないよう処置を施すと いうものだった。 威嚇も罠も通じず、動物保護の観点から射殺も出来ない猿達。ほ とほと困っていた町の人々と、彼等に協力する猟友会の皆さんと、 東京にいながら連携を取り、どうにか猿の群れを追いたて一箇所に 集めたのが昨日の夕方。そんで、仕上を施すべく朝一番で新宿から 中央線に乗ろうとしたおれに、学校が休みだからとついてきたのが こいつ、七瀬真凛だった。そこまではまあ、いつもの事なのだが。 結果は︱︱散々なものだった。 おれの能力で猿達を檻の中に誘い入れ、今回チームを組んだ獣医 出身のエージェントに、人里に二度と近づかないように処置を施し てもらう。万事うまく行っていたはずの作戦は、おれと真凛のささ いな連絡の行き違いから破綻した。檻から脱出し街中を逃げ散る猿 を、おれ達や猟師さん、最後には町民総出で追い掛け回すハメにな ったのである。そして、乱戦状態になった猿を捕まえようと真凛が その馬鹿力を解放した結果、足元のあぜ道が崩壊し、おれ達は二人 揃って、まだなお水の残る晩生が植えられた田んぼに転落するハメ に陥ったのだった。 ﹁帰りの中央線の視線も痛かったな⋮⋮﹂ どうにか仕事そのものは成功させたものの、着替えも持ってきて おらず、おれ達は中央線最後尾に新聞紙を敷いて、泥だらけの身体 でひたすら無言で立ち尽くしていた。心の中では﹃おれはオブジェ です、おれは置物です、気にしないでください﹄と必死に訴えてい たものである。おれ達の哀れっぷりに同情してくれたのか、乗客が 多くなかった事も幸いしたのか。車掌さんに放り出される事も無く 264 何とか新宿までは戻ってこれた。だが、結局都内で乗車拒否され、 こうして明治通りをとぼとぼと歩き、徒歩で高田馬場の事務所まで 戻っているという次第。三十分以上歩き続けているが、電車内で無 言だった分、互いの罵詈雑言は尽きる事は無かった。 明治通りを右に折れしばらく歩くと、飲食店の並びはより賑やか になってくる。賑やかであればあるほどおれ達は一層身を縮め、こ そこそと道の端っこを歩いた。 そしてようやく古書店﹃現世﹄の看板が眼に入る。ここから裏手 に周り、スチール製の階段を昇りきれば、二階のテナントとして入 居している﹃人材派遣会社フレイムアップ﹄の扉の前に辿り着くの だ。どうにかゴールしたものの、こんな格好では中にも入れない。 おれはインターホンを荒っぽく押して、泥まみれの体をベランダの 手すりに預けて舌打ちした。 ﹁⋮⋮だいたいなあ、お前、なんで言われもしないのについてきた んだよ﹂ ずるずるとおれの前に立っていた泥田坊の子供がこちらを振り返 った。 ﹁別にアンタについてきたわけじゃない。昨日の夜に浅葱さんから 電話で頼まれたんだよ。アンタ一人じゃ頼りないから護衛してくれ って﹂ おれは鼻でせせら笑った。 ﹁護衛!護衛ね。その割には率先して猿の群れに突っ込んでったけ どな﹂ 真凛の眉が跳ね上がる。 ﹁⋮⋮ちょっと。そもそも攻撃の指示を出したのはアンタでしょ?﹂ ﹁おれは足止めしてくれと言っただけなんだがな。まったくお前と 来たら猪突猛進しかないっつーかケンカ馬鹿っつーか。ホント何で お前みたいにガサツな男女がおれのアシスタントなんだろね﹂ 265 すると真凛は泥まみれの格好のまま腕を組み、こちらを見据えた。 先ほどまでのような怒りはなりを潜め、逆にいやに冷淡な視線を向 けている。 ﹁本当、なんでボクがアンタのアシスタントなんだろう。直樹さん とか仁さんとか、須江貞さんとか、みんなきちんとした人なのに。 毎回毎回ボクの仕事ってひ弱なアンタの護衛ばっかり。これじゃど っちがアシスタントかわからないよ﹂ いつもならコイツのこの手のコメントには冗談めかして侘びを入 れるおれだが、どうしてかこの時は口が勝手に動いていた。堂々巡 りの愚痴は、いつのまにかあらぬ方向へと逸脱しはじめていたよう だ。 ﹁そりゃお前の取柄なんて戦闘力だけだからな。護衛と攻撃以外に 使い道が無い。だいたいそう思うなら外れりゃいいだろ。こっちだ ってもともとおれ一人の方が身軽なんだ。やる気の無いアシストな ら要らねえよ﹂ ﹁ボクだってそうしたいよ。でも残念でした、他の人はアンタと違 って一人で自分の身も守れるんだって!﹂ ﹁⋮⋮ンだと!?﹂ ﹁何だよ!?﹂ 腰に両手を当ててキバを剥く真凛に応戦して、おれも泥まみれの 袖をまくりあげる。事務所の扉の前で、三軒先まで聞こえるほどに 響き渡っていた見苦しい口喧嘩は、ついに見苦しい物理戦闘へと︱︱ ﹁お帰りなさい。ご苦労様でした、陽司さん、真凛さん﹂ ︱︱突入する寸前に、開いた事務所の扉によって遮られていた。 出鼻をくじかれ、扉の反対側の真凛も気勢を削がれ立ち尽くしてい る。まるで計ったようなタイミングで扉を開いた人物︱︱艶のある 黒髪と知性の匂いを漂わす眼鏡が印象的なその女性に、おれは些か 恥じ入って答えた。 266 ﹁は、どうも。只今戻りました、来音さん﹂ 267 ◆02:シャワーとコーヒー︵色気無し︶ 事務所内に備え付けられたシャワー室に飛び込み、熱いお湯で頭 の天辺から全身を洗い流す。事務所に買い置きしてある予備の下着 と無地のTシャツ︵三組で千円の奴︶に換え、ロッカーに吊るして あったカーゴパンツ︵ファッションアイテムではなく純然たる米軍 流出品︶を履いて、ようやくおれは人心地を取り戻す事が出来た。 バスタオルを右肩にかけ、サンダルをつっかけてごく小さな脱衣所 を出る。と、 ﹁⋮⋮﹂ ﹁何だよ﹂ ﹁そっちこそ何だよ﹂ なんのかんのと着替えを用意するのに手間取り、おれより後の順 番になった真凛が立っていた。さっぱり洗い流したはずの不快感が またぶり返す。 ﹁⋮⋮フン!﹂ 二人同時にそっぽを向き、真凛は脱衣所へと入っていった。おれ は振り返り様に、親指を立てて下に向けてやったが、扉を閉めたあ いつの目には入らなかったようだ。くそっ。 と、そんな荒んだおれの心に染み渡るような馥郁たるコーヒーの 香りが漂ってきた。見れば、事務所内に割り当てられたおれ用の事 務机の上にコーヒーカップが一つ置かれている。喉の奥がぐびりと 鳴った。そういえば泥まみれの不快感ばかり気になっていたが、昼 飯を食べて以降何も飲み食いしていない。おれはとるものもとりあ えず卓上のコーヒーを流し込んだ。ホットコーヒーだが適度に冷め 268 ており、シャワーで火照った身体にはこのくらいがちょうど良かっ たらしい。一気にカップを空にして、そこで初めて己の無作法に気 づいた。カップを片手に、傍らの、このコーヒーを淹れてくれた女 性に照れ隠しのコメントを述べる。 ﹁うぅーん、やっぱり来音さんの珈琲を頂くと心がなごむなぁ。香 ばしい味わいと深いコクがささくれだった精神を癒してくれるとい うか。この仕事をやってて唯一幸せな気分になれますよ﹂ ⋮⋮まあ、実の所インスタントではあるのだが。ついでに言うと ビールならエクセレントだった。 ﹁まぁ、お上手ですねー、陽司さん﹂ かさきり リッチモンド らいね そういって昼下がりの秋の木漏れ日のような値千金の微笑をおれ なおき に注いでくれる女性は、笠桐・R・来音さん。腐れ縁のおれの悪友、 笠桐・R・直樹の姉上ではあるが、おれに言わせれば月とスッポン。 レアメタルと産業廃棄物。東証一部上場優良企業と粉飾決算発覚株 価大暴落企業。到底同じ血を引いているとは思えない素敵な女性な のである。 ぬけるような⋮⋮としか乏しいおれの言語力では表現できないが ⋮⋮肌。なんでも母方に東欧の貴族の血を引いているとかで、東洋 人のそれではないなんとも艶っぽい白さ。そして髪は陽に透かした ときだけわずかに紅く見える黒。たっぷりとしたボリュームのある 黒髪が、艶を波打たせながら背中まで美しいラインを描いている。 日本人ばなれしているのはそれだけではなく、すらりと伸びた長い 脚と、俺だって名前くらいは知っている高級ブランドのスーツをま ったくさりげなく着こなしている、細いながらもメリハリの効いた プロポーション。ファッション誌のモデルだって簡単につとまりそ うだ。 そして容貌の方はと言えば、これがまたそこらの女優が裸足で逃 げ出したくなるレベル。今日は事務仕事に没頭していたのだろうか、 269 ベタな黒ぶち眼鏡をかけている。その奥で瞬く、夜の海のように深 く吸い込まれそうなダークブルーの瞳。オックスフォードの法学に 特化したカレッジを卒業した実績を持つ知性と、貴族としての気品 を明確に湛えた桜色の唇。才色兼備とはまさにこのことである。 修めた法学の知識と実務の腕を買われ、ウチの浅葱所長に法務担 当として雇用された。現在ではこのフレイムアップの経営に関する つぐみのひとし 法律手続き一式をほとんど一人で遂行している。おれ達アルバイト や、実働部隊の隊長である鶫野仁サンのように現場で実務に携わる 事は殆ど無いが、おれ達の現場からの要請があれば、すぐに必要な 法律や社会の情勢、企業データなど様々な情報を調べ上げてくれる。 バックアップスタッフとして理系担当の羽美さんと対を為す、文系 の要である。 そしてもう一つ特筆すべき長所は、殊にアクの強いウチのメンバ ーの中で、数少ない真っ当な性格の持ち主というところだろう。彼 女と、おれと、そしてもう一人、経理担当の桜庭さんという老紳士。 この三人が、業界内で蛇蝎の如く忌まれる、あるいは悪魔の如く恐 れられるトンデモ会社、﹃人災派遣のフレイムアップ﹄の常識の砦 なのだ。 ﹁とんでもない目にあったもんですよ﹂ おれが一息で飲み干してしまったコーヒーカップに、すぐに来音 さんがお代わりを注いでくれたため、今度はじっくりと味わうこと が出来た。どうやら他のメンバーは例によって出払っているらしい。 ﹁所長は?﹂ ﹁下の﹃ケテル﹄で商談中ですね﹂ この事務所が入っているのは、古書店﹃現世﹄のビルの二階であ る。一階には﹃現世﹄と、もう一つ、﹃ケテル﹄という喫茶店が入 っている。小さな店だが、渋めの調度類が落ち着いた雰囲気を醸し 出してくれるので、所長が気合を入れて商談する場合はよくここを 270 使うのである。となると、事務所の中に居るのはおれと来音さん。 そしてまだシャワーを使っている真凛だけのようだった。おれはそ ちらに視線を向けると一つ舌打ちをした。 ﹁随分災難だったみたいですね﹂ ﹁ええ、あのバカのおかげで。⋮⋮っと、これ、レシートです﹂ 仕事中に背負っていなかったため泥まみれをまぬがれた愛用のザ ックから、一枚の紙を取り出して渡す。おれ達に与えられる仕事の 概要は、通常﹃オーダーシート﹄と呼ばれる紙に一枚にまとめられ て送られてくる。そして、今回のように依頼者とともに現場に赴く 場合は、この﹃レシート﹄と呼ばれる複写式の紙を持って行く。仕 事を達成した後、依頼人からここにサインを貰うことで、初めて仕 事終了となるのだ。そしておれ達は、このレシートを事務所に納め る事と引き換えに報酬を貰うのである。それを受け取った来音さん が、口元を押さえて必死に笑いをこらえている事に気がついた。 ﹁な、何っすか?﹂ ﹁いえ、陽司さんのさっきの台詞、シャワー待ちしている時の真凛 さんの台詞と一言一句同じでしたから﹂ ﹁やめてくださいよ、あんな単細胞と一緒にするのは﹂ おれは吐き捨てるように言った。来音さんはおれのそんな顔を三 拍ほど見つめた後、彼女自身の席︱︱おれの隣︱︱に腰掛けた。 ﹁そうですね、じゃあ所長も商談中ですし、私が任務報告を承りま しょうか﹂ 極上のスマイルであった。 おれの任務報告の骨子を手早くレポート用紙に書き写し、お疲れ 様、と来音さんは一言述べた。おれは恐縮しつつ、心の中でガッツ ポーズ。来音さんに報告すれば、それは自動的にメンドクサイ任務 報告書を作成してくれる事を意味するので、おれ達現場スタッフと 271 しては二倍三倍にオイシイのだ。 ﹁でも正直言いますと、真凛さんへの対応は賛同しがたいものがあ りますわ﹂ ﹁うぐ﹂ これはおれには堪えた。滅多に文句を言わない来音さんだからこ そ、こういう指摘はズンと来るのだ。感情ではなく冷静な分析に基 づいたものであり、つまりはだいたいにおいて正しい。 ﹁い、いや確かに指示に曖昧な点があったところは認めますがね。 それを突撃命令と解釈するあいつの思考回路の方に問題があるっつ ーかなんつーか﹂ ﹁仕事上の指示の行き違いについては、よくあるトラブルですから 特に問題ではありませんよ。問題は、その後の喧嘩ですね∼﹂ ﹁う⋮⋮。そっちですか﹂ 仕事上では常にきびきびしている来音さんだが、プライベートで はちょっとのんびりした話し方をする。つまりは、これはプライベ ートな話。仕事上では問題はないが、おれ個人の真凛への対応がよ ろしくない、と指摘されているわけだ。 ﹁ケンカはともかくー、男女云々の発言は大変よろしくありません ねぇ。女の子はそういう言葉にとっても傷つきやすいんですよ﹂ オノナタノコ ﹁オンナノコぉ?あれのどこが?﹂ オンナノコというよりは斧鉈鋸って感じですが。 ﹁どこからどう見ても可愛い女の子じゃないですかあ﹂ ﹁どっからどー見てもゴツイ男の子じゃないですか﹂ まったく、お嬢様高校のブレザーなんぞより詰襟の学ランでも着 せた方が万倍似合うというものである。 ﹁仕事上の点は、陽司さんも譲れないものがあるでしょうからとも かく。その一点についてはきちんと謝っておいた方が良いですよお﹂ ﹁ええー!?なんでおれが、﹂ ﹁陽司さん﹂ 来音さんはおれの方に身を乗り出して一言。 272 ﹁良いですねー?﹂ あ。表情は笑顔だけど目が笑ってない。 ﹁わかりました、わかりましたよ﹂ おれは降参のポーズで手を振った。どのみち来音さんにお願いさ れて断れる霊長類ヒト科のオスなどまず居ないのだ。 ⋮⋮はー。 しゃーねえ。ここは年長者として、分別のあるところをガキんち ょに見せてやるとするか。とおれが決意した途端、間髪要れず事務 所のドアが開いた。 ﹁やっほー、亘理君帰ってたんだ、おっかれー﹂ 所長が帰ってきた。っていうか折角あるんだからチャイムくらい 鳴らそうぜ。上機嫌なその声から推察するに、 ﹁新規の依頼ですね、嵯峨野所長﹂ 敏腕秘書モードに戻った来音さんがふわりと席を立つ。そこまで 言われてようやくおれは、所長の後ろにもう一人、スーツ姿の男性 が佇んでいる事に気づいた。何やら巨大なボストンバッグを背負っ ている。所長はその男性をパーテーションで区切られた応接室に通 すと、来音さんを手招きする。 ﹁来音ちゃんもお疲れ。で、スエさんと仁君のチームは今どうして る?﹂ 問われた来音さんの顔が曇った。 ﹁仕事自体は順調に進捗しています。ですが、ヤヅミが抱え込んで いた利権に集まってくる勢力は想像以上に多数だった模様です。彼 等を排除しつつ、依頼者の債権を回収するにはあと一週間欲しいと 須江貞チーフからの連絡です﹂ ヤヅミ、とは日本の大手都銀の一角であるヤヅミ銀行の事である。 先日、とある事件の影響により社内の致命的な不祥事が暴露され、 一気に社会的信用を失った。ヤヅミと提携している取引先は軒並み 浮き足だち、早くも水面下では船から逃げ出すネズミや、おこぼれ に預かろうとするハイエナ達の暗闘が始まっているのだ。 273 ﹁そかー⋮⋮。調査任務だしあの二人が最適だと思ってたんだけど。 んん﹂ 言うや、所長の視線がおれに向く。あー、これひょっとしていつ ものパターン? ﹁亘理君、唐突だけど一件、﹂ ﹁おれはイヤですよ﹂ ここで即答出来るあたり、おれもここに来てから随分鍛えられた よなあとか思う。しかし我らが浅葱所長はそんなおれを見据えて一 言。 ﹁今月のアパート代、未払いだったよね?﹂ ﹁な、何の事やら﹂ ﹁あれー違った?亘理君の生活パターンからすれば、今回の猿退治 の報酬でようやく今月の食費が確保。次でようやく固定費に充当出 来るってあたりじゃない?﹂ 違った?等と言いながら自身の分析を微塵も疑っていやがらない。 ええ、まさしくその通りですよ。だが、今日だって散々な目に会っ たのだ。しばらくは休みを、 ﹁同日複数の依頼にはボーナスがつくわよ﹂ ⋮⋮⋮⋮ の間に、おれなりの葛藤があった事にしておいて頂 ﹁⋮⋮⋮⋮仕方ありませんね﹂ きたい。 ﹁じゃ、さっそく応接室に来て頂戴。依頼人がお待ちよ﹂ ﹁うーっす、了解﹂ 応接室に消えていった所長を見送ったあと、おれは何か着替えが ないかと探した。だが、しょせん夏場にロクな服が残っているはず もない。結局おれは、Tシャツとカーゴパンツのまま応接室に向か う事にした。と、 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮おう﹂ 脱衣所から出てきた真凛と出くわした。出会い頭で一度面食らっ 274 た表情になったものの、すぐにそのツラはシャワーを浴びる前同様、 不機嫌極まりないものになる。と、後ろの来音さんから何か異様な プレッシャーが発せられている。 ﹁あのさあ、﹂ ﹁⋮⋮なんか用?﹂ 無言の圧力。うう、年上の余裕を見せるんでしょ。わかってます って。 ﹁さっきは、﹂ ﹁亘理君?早く来て頂戴﹂ パーテーションの向こうからちょっと苛立った所長の声が響く。 ビジネスには妥協のない人だ。怒らせると何かとマズイ。 ﹁わかりましたわかりました﹂ おれは慌てて応接室へと向かった。 ﹁真凛さん、ちょっといいかしら?﹂ その後ろで来音さんが真凛を呼んでいるのが目に入った。 275 ◆03:イミテーションの憂鬱 ﹁プルトン専属鑑定士の小栗弘一です﹂ きちんとスーツを着込んだ品の良さそうなその男性はそう名乗っ た。 ﹁プルトンの名刺ですか。割とこの業界長いですけど、仕事でこの マークを見たのは初めてですね﹂ おれは特徴的なロゴマークの入った名刺をなんとなく弄んだ。ビ ジネス業界ではともかく、一般の、というより女性の世界では、こ のマークを知らない者はいないだろう。 プルトン。高級バッグやトランクを中心とした数々の魅力的なブ ランド品を製作している超有名企業である。十九世紀フランスに誕 生して後に世界中で高評価を得、その後二十一世紀の現在に到るま で、その秀逸なデザインは世界中の︵主に︶女性を魅了してやまな い。 ⋮⋮と言ってはみても、所詮は男の視点で語れるのはこんなとこ ろまでだ。より詳細な情報が知りたければ、そこらの女性にこのブ ランドについて尋ねてくだされ。嬉々としてこの十数倍の情報を語 り尽くしてくれるだろう。問題は何故かその後、プルトンのバッグ をプレゼントせざるを得なくなることなのだが。ちなみに高級ブラ ンドなので当然一個あたりウン万円からウン十万円は平気でシマス。 ﹁彼女に貢ぐ時に買うバッグ、っていうイメージしかありませんね ぇ﹂ おれはひがみっぽく呟いた。いかんな。どうも今日は口調がマイ ナス方向に偏りがちだ。すると傍らの浅葱所長が、やれやれと肩を 276 竦める。 ﹁亘理君、プルトンのバッグやトランクはもともとビジネスマン向 けに生み出されたものなのよ。一流の仕事をする男性にプルトンを 愛用している人は本当に多いの﹂ 小栗さんも頷く。 ﹁特に女性の方には、季節ごとに新しいものを買い足される方も多 いのですが、使い込むという点については男性のお客様の方が多い ですね。補修や打ちなおしといった要望をよく頂きます﹂ ﹁安物は三年もてばいい。だけどプルトンのバッグなら三十年もつ から、実は安物の十倍の値段を出しても買う価値があるってワケ﹂ その話は聞いた事がある。おれの知り合いのとある銀行員も、私 生活ではTシャツ一枚買うのにも値切るというケチンボだったが、 仕事で使う背広やバッグには迷わず高級品を選んでいた。安物を買 ってもすぐダメになって買いかえなければならない。それならば長 持ちする高級品を買い、きっちり使い込んだほうが味も出る、とい う思考なわけだ。世間では見た目より中身、という言葉もある。だ が、ことビジネスにおいては、まず見た目で相手を引き付けない限 生きた 投資なの り、中身を見せる機会そのものが巡ってこないという事がよくある。 背広やカバンで見た目が演出できるなら、充分 である。戦場で自分の命を預ける装備に安物を選ぶような人間は、 死んでも文句は言えないのだ。 ﹁ま、そもそも無理をしてもブランド品が買えないおれのような人 間には、まだあまり意味が無いわけですが﹂ ちなみにおれが愛用しているザックは某アウトドアメーカーの蔵 出品である。これはこれで耐久性と防水性がケタハズレなのでおれ は重宝している。 ﹁ともあれ。高級ブランドの代名詞とも言える御社の御依頼となる と、案件はやっぱり﹂ ﹁︱︱はい。近頃出回っている偽ブランドについてのお願いです﹂ やっぱりそう来たか。 277 ﹁我々プルトン社の歴史は、そのままコピー品との戦いの歴史でし た﹂ 既に所長には説明し終えているだろうに、小栗さんはおれに丁寧 に再説明してくれた。 ﹁十八世紀に初代プルトンが、トランクの上に布地を貼るという画 期的な製法を開発してから五年後、すでに各地でそれを模倣した安 いコピー商品が発生していました。初代はそれを嫌って新しい布地 の組み合わせを発明しましたが、それもすぐに模倣されることにな りました。以後百五十年、我々は新製品の開発と、それに追随する コピー品の誕生というサイクルを繰り返してきました﹂ 度重なるコピー品の発生もあったが、結果としてプルトンは勝利 を収めた。例え優れたデザインがすぐにコピーされてしまったとし ても、確かな技術力と良質の素材までは埋め合わせる事が出来なか ったからだ。 ﹁︱︱現在まで、我々の造るものの品質は、決してコピー品の類に 追いつかれるようなものではありませんでした﹂ ﹁おれもアジアの裏通りでその手のパチモノは随分見かけましたが。 一目で偽物とわかるものばかりでしたねえ﹂ 中学生の頃からそんな所に入り浸っていた我が人生を振り返り、 ちょっと自己嫌悪。 ﹁しかしここ十数年、その品質そのものが追いつかれつつあるので す﹂ 俗に言うスーパーコピーである。本物に近い素材を使い、本物に 近い製法で仕上げる。それらの多くは人件費の安い中国などの工場 で作られており、またもちろんデザイン料も不要のため、本物と同 程度の材料費を投入しても充分に安いものが供給出来るのだ。美術 品の贋作同様、最近の偽造技術は極めて高い水準まで引き上げられ てきており、クローンと呼ばれるものも出回るようになって来た。 278 すでに税関の職員や、プロの仲買人にも見破る事が難しくなってい る。大きな声では言えないが、誰にも気づかれないまま、精巧なス ーパーコピーが某大手デパートの店頭で売られていたなんてことも あったらしい。 ﹁この手のモノは一度当たればぼろ儲けなのよね﹂ ﹁まあ、銃器、麻薬、偽ブランドは密輸品の御三家ですしね⋮⋮﹂ もちろんこんな手の込んだ大規模な偽造を、そう簡単に出来るわ けが無い。そういった偽ブランドメーカーの後ろには、だいたい国 際的な犯罪組織やマフィアがついており、彼等の資金源となってい る。世間には偽物と知らずに買わされる人はともかく、中には偽物 と知りつつ買ってしまう人もいる。だがそれは明らかな犯罪行為で あり、またその金が暴力組織の利益になっているという事は、よく わきまえておくべきだろう。 ﹁専属の鑑定士さん、という事はこの手の偽ブランドの判別がお仕 事という事ですね﹂ 小栗さんは頷いた。この人はプルトン社に属し、各地に出回るプ ルトンのブランド品が本物か偽物かを鑑定する事が仕事なのだ。 ﹁特に問屋さんから、自分の仕入れたものを判定して欲しいと言わ れる事が多いのですが⋮⋮。今回は少し違います﹂ そう言うと小栗さんは巨大なボストンバッグを開き、中から三つ のバッグを取り出した。大小種類はあるが、いずれもプルトンのバ ッグ。この名刺と同じロゴマークが入っている。 ﹁これ、もしかして偽物⋮⋮には到底思えませんねぇ。まさしくク ローンだなこれ﹂ おれは以前にアパレル企業に関する任務についたときに、見分け 方の初歩の初歩を教わった事がある。ロゴの印刷のズレ、皮の質︵ 安物は手触りが悪い︶、そして裏面の縫製︵手間がかかるため、粗 雑なコピーではここに手抜きが現れる︶。素人なりにチェックして みたが、まったくお手上げ状態である。すると小栗さんも一つ大き なため息をついた。 279 ﹁ええ。鑑定士の私から見ても、本物に間違いありません﹂ おれはがくりと肩を落とした。 ﹁な、なんだ本物ですか。思わせぶりに出さないでくださいよ﹂ 話の流れからすれば偽物だろ普通。 ﹁それがねえ亘理君。問題はそこなのよ﹂ ﹁は?﹂ ﹁これは、ネットオークションで六万円で競り落としたものです。 こちらは五万八千円、これは七万四千円﹂ ﹁んな馬鹿な!?﹂ 一時期とある女性に貢がされていたおれの経験から言えば、いず れも並行輸入の格安店で購入したとしても十五万円以上は固い代物 である。⋮⋮すまん、今の発言はスルーして貰えるとありがたい。 ﹁どう考えてもパチモン価格じゃないですか﹂ ﹁ええ。実はこのようなブランド品が最近、ネットオークションで 大量に出回り始めているのです。格安で出展され、この程度の値段 で落とせてしまう﹂ ﹁⋮⋮でも、本物なんですよね?中古品とか?﹂ ﹁いえ。新品です。そしてこれは今年のモデルです。我々製造側が 言うのもどうかとは思いますが、これを六万円で売りに出して利益 が出るはずが無い﹂ ⋮⋮つまり、話を整理すると。 ﹁ネット上のオークションで、本物が、大量に、赤字確定のはずの 値段で出回っているということですか?﹂ ﹁そういうことよ亘理君。これが誰かものすごく気前のいい大金持 ちの気まぐれで無いとしたら﹂ ﹁⋮⋮誰かが非合法な手段で本物を手に入れ、安値で売り捌いてい る。あるいは﹂ 小栗さんがおれの言葉を引き取った。 ﹁⋮⋮私ですら本物と鑑定せざるをえないこれが、偽物かも知れな いと言うことです。もしこれが偽物であれば、我々にとっては非常 280 な脅威となります。御社にお願いしたいのは、一連のこの品物の出 所を調査し、真贋を突きとめて頂きたいのです﹂ ﹁どうしたものかなぁ﹂ 小栗さんは忙しい人らしく、すぐにまた会社へと戻ってしまった。 おれはと言えば、とりあえず引き受けたものの、まず打つべき第一 手が思いつかず、自分の席であてどもなくペンを回している次第。 今、来音さんがネット上で該当するオークションのログを集めてく れているので、それを見て方針を決定したいところ。 ﹁⋮⋮また仕事?﹂ 気がつくと七瀬真凛がおれの後ろに立っていた。先ほどのような 怒りのオーラはとりあえず也を潜めたようだ。⋮⋮ていうか、その。 餌をくれるのかいじめるのか判らないながらもこっちににじり寄っ てくる犬のような表情はいかがなものか。まあ、おれとて分別のな い大人ではない。泥を洗い落としてまっとうな思考を取り戻せば、 譲歩する大人の余裕も無きにしもアラズ。 ﹁あ、ああ。まーな。土日で二本っつーのも久しぶりなわけだが﹂ ﹁ボクは⋮⋮どーすればいいのかな﹂ ⋮⋮むぅ。こいつも来音さんに何か言われたクチか。怒りのオー ラは抜けたらしいが、なんだかしゅんとしている。普段が普段なだ けに、あんまり元気がないとこちらも調子が狂う。 ﹁ああ。今回は地道な調査任務だし。お前は帰ってゆっくり休んで くれ﹂ それはおれなりの謝意だったのだが。 ﹁どうして⋮⋮?﹂ 何故か真凛は視線を床に落としていた。 ﹁そんなにボクは役立たずかな?喧嘩にならないから居ても意味が 無いってこと!?﹂ 281 ﹁べ、別にそんな事は言ってねえよ﹂ ﹁言ってるじゃないか!﹂ ⋮⋮あ、ムカ。 ﹁ンだよ。さっきまで散々おれと組むのはイヤだとか言ってたくせ に。希望どおり帰れって言ってやってるんだから帰れよ!﹂ 真凛がこっちに一歩詰め拠る。おれは飛び退って構えた。 ﹁や、やる気かよ﹂ だが、予想されていた打撃は飛んで来なかった。 ﹁言われなくても帰るよ﹂ とだけ呟くと、おれに背を向けた。 ﹁何だよ、せっかく⋮⋮﹂ 語尾はよく聞き取れなかった。机の上に置いてあった自分の荷物 を掴むと、真凛はとっとと事務所を出ていった。 ﹁何怒ってんだよ、あのバカ﹂ ⋮⋮んなつもりじゃあ、なかったんだがなあ。 ﹁亘理さーん?﹂ のんびりした声だが、おれはまるで雷に撃たれたように飛び跳ね る。プリントアウトした書類の束を手にした来音さんがそこにいた。 ﹁な、なんでしょう、来音さん﹂ ﹁今回の仕事に必要な情報はプリントアウトしてここにファイルし てあります。電子情報も順次社内のサーバーに集めておきますので、 必要に応じて﹃アル話ルド君﹄でダウンロードしてください﹂ ﹁りょ、了解です﹂ ﹁まず捜査すべきポイントも目星をつけましたので、明朝九時にそ ちらに向かってください。あとは亘理さんのやり方でどうそ﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ ﹁それでですね∼﹂ ⋮⋮なんでこの人の声は間延びしている時の方が迫力があるのだ 282 ろうか。 ﹁真凛さんにはあ、ちゃんと謝れたんですかね∼?﹂ ﹁い、いえまあその善処はしたのですが﹂ ﹁うふふふふ﹂ え、笑顔だけでおれの言葉を否定しないでくださいっ。 ﹁真凛さんがね、さっき亘理さんが商談中の時、私に相談しに来た んですよお﹂ ﹁⋮⋮何をです?﹂ おれの疑問に直接は答えず、来音さんは何故か、はあ、とため息 をついた。 ﹁所長からは通常どおり二人一組で仕事にあたるように指示が来て います。あの子には私から連絡しておきますから。今日は亘理さん も帰ってゆっくり休んでください∼﹂ ﹁⋮⋮わかりました﹂ どのみちこれ以上ここにいても出来る事はなさそうだ。処置なし、 とおれは口の中で呟いて、事務所を後にした。 283 ◆04:スニーキング・ミッション︵やっつけ︶ 明けて翌日、東京都豊島区池袋。 日曜日の午前中、ごったがえすサンシャイン60通りを抜けてし ばらく進み、道なりにサンシャインシティへ。イベント会場として も有名なワールドインポートマートと豊島郵便局の間を抜ける。 ﹁ここはその昔、直樹の野郎につれて来られた事があってなあ。昼 飯の借りの代わりに何か色々本を買出しさせられた事があるんだ﹂ ﹁そうなんだ﹂ ﹁他にも建築事務所にバイトの振りをして潜入したりな。色々と馴 染み深いところだよ﹂ ﹁ふうん﹂ ⋮⋮あーやりにくいなくそっ。せっかくこちらが話を振ってやっ てるってのに。 来音さんにもらった情報によれば、出展者は全て同一の企業なの だそうだ。オークションと言っても出展者が個人とは限らない。む しろ中小規模の法人が、あらたなマーケットとして積極的にオーク ションを活用していることもあり、これは驚く事には当たらない。 そこら辺を踏まえて、まずはその企業の事務所があるというここ池 袋に、真凛とともにやってきたのであるが。 昨日あんな感じで決裂した次の日である。これが高校や大学なら、 休むとか顔を合わせないようにするとかのしようもある。しかし例 え犬猿の仲になっても仕事であれば同道し、会話もしなければなら ないところが社会人︵見習い︶の辛いところだ。おれなんかはそこ ら辺には慣れきっており、一日経てばもう過去の事、というように 284 割り切っているつもりなのだが。それなりに会話を投げていると言 うのに、奴は先ほどからずっとこんな調子で、おれの後ろをついて 来ながら生返事である。これではこちらのテンションも続かない。 トレーディング 油の切れた機械のような雰囲気のまま、おれ達は大塚方面へと歩を 進め、目標のビルに辿り着いていた。 ﹁株式会社ミサギ・トレーディング。⋮⋮貿易会社ねえ﹂ おれは目の前の雑居ビルを見上げて呟いた。大通りから一本外れ た、ちょっとうらぶれた雰囲気の路地である。天気の良い日曜の午 前中にあまりお邪魔したい場所ではない。手入れのされていない、 昭和五十年代に建てられたと思しき古ぼけたビルディングは、正直 申し上げまして、まっとうな会社が入っているとは思えマセン。こ この三階がミサギ・トレーディングなのだそうだ。ビル玄関の壁に 取り付けられた看板を見ると、他の階には消費者金融やヤクザ屋さ んの事務所が入っている模様。 おれはざっくりとビルの面積にあたりをつける。一フロアあたり 十畳一部屋のオフィス。エレベーター無し、トイレや炊事場は共同。 事務員が三人もいたら狭くてしょうがない、というところだ。ネッ トオークションに出品しているのであれば、当然、現物のバッグが どこかに保管されていなければならない。しかし、このフロアにそ れだけの在庫を積んでおくのは到底不可能だ。 ﹁となると、ここではオークションの注文管理と発送指示だけして る、という事だろうな﹂ 現物はどこに保管されているやら。貸し倉庫か、どこかの工場か。 とにかくここを取っ掛かりに、芋づる式に辿って行きたいところだ。 ﹁⋮⋮何かいい手はないかな?﹂ 口に出してしまってから、ここには真凛しかいない事に気づいた。 直樹や仁サンなら多少は意見を返してくれるだろうが、こいつでは なあ。ましてやさっきからロクに口をきいてないときたもんだ。 285 ところが、 ﹁メール便の人の振りをするってどうかな﹂ そんな答えが返ってきた。 ﹁ボクの学校の友達が、都内でメール便のアルバイトをしてるんだ。 私服だけど結構いろんなところに入っていけるって言ってたよ﹂ そりゃまた勤労な高校生だ。ってか、たしかコイツ女子高だった はずだが。 ﹁ふーむ⋮⋮﹂ おれは二、三度首を捻ると、一つ頷いた。 ﹁そりゃあ、使えるな﹂ ﹁そ、そうかな?﹂ だからなんでそこで妙に自信なさげなツラをするかなあ。 ﹁おう。結構いいアイデアだと思うぜ。さっそくやろう﹂ ﹁うん!﹂ さっきまでの不機嫌ヅラはどこへやら。なんかやたら上機嫌なん ですがこのお子様。 ﹁じゃあ、早くやろう!﹂ ノリノリなんですが。まったく、若いものの考える事はよくわか らん。⋮⋮まあいいや。とにかく仕事がやりやすくなったのは歓迎 すべき事である。 ﹁となれば、それなりの準備が必要だな﹂ おれは先ほどこの路地へ入ってきた大通りに視線を向けた。お誂 え向けに、コンビニと百円ショップが確かあったはずだ。 ﹁ちわーす、メール便のOMSでぇーっす!﹂ 色とりどりのA4の封筒を大量に抱え、ウェストポーチを身につ け白い帽子を目深に被った好青年、つまりはおれは、勢いよくミサ ギ・トレーディングのオフィスの扉を潜った。 286 ﹁鈴木様、鈴木則之様にお届け者です!﹂ 宅配便の兄ちゃんがやるように、腹に力を入れて声を出す。変装 のコツは﹃似せる事でなく、なりきること﹄である、と昔業界の先 輩に教わった事がある。向こうが多少変だと思っても、こちらが堂 々としていればバレにくいのだ、と。ウェストポーチと帽子、伝票 とバインダー、ついでに着替えたストライプのシャツも、すべて百 円ショップで調達したものである。もひとつ付け加えると、OMS と言うのは先日仕事をしたとあるエージェントの所属会社である。 社名の無断借用ゴメンナサイ、と心の奥でこっそり謝る。 ほとんど予想を裏切らない造りのオフィスだった。採光の事をあ まり考えていない窓にはブラインドが引き下ろされ、パソコンやプ リンターは煙草のヤニで黄ばんでいた。型の古い事務机で構成され た島で、パートと思しきおばさんが二人と、五十代くらいの額の後 退したおじさんが仕事をしている。ちなみに観葉植物の類はない。 ﹁あらー、郵便のひと?﹂ 席を立っていぶかしげにおばちゃんの一人が駆け寄ってくる。 ﹁いえ、メール便です!﹂ つとめて明るく返事をしつつ、辺りに目を配る。ぱっと見た限り、 おばちゃん二人とおじさんの間に会話を頻繁に交わしている様子は ない。そしてイヤでも感じる、一様にやる気の無い仕事っぷり︵タ イピングのリズムだけでもやる気のある無しは結構看て取れるので ある。ついでに言えば、トイレの掃除がされていないオフィスは大 概、経営か社内の人間関係が上手く行っていない︶。 幸か不幸か、十九のみそらで無数のオフィスを見てきたおれには 一発でわかった。ここはただのダミーだ。おそらくは注文を受けて、 顧客に金の振込みを指示し、製品の発送を依頼するためだけに作ら れた会社だろう。ネットオークションで品物を捌いているのであれ ば、そもそもオフィスすらいらない。PCが一台あればすむ。では、 わざわざオフィスを作っている理由は、と⋮⋮。おれは持っている 封筒を大事そうに差し出す。 287 ﹁鈴木様、鈴木取締役への緊急の書面をお預かりしているのです。 公的な証明書だとのことで﹂ しれっと口から出る嘘八百。この手のハッタリなら、大脳を使わ ずとも五分くらいしゃべっていられる自信がある。もちろんこの封 筒、そこのコンビニで買って来たものに切手を貼って適当に宛名や 住所を偽造したものである。 ﹁すずき?うちに鈴木なんて人はいないけど﹂ 訝しげなおばちゃん。 ﹁そんなはずは。確かに鈴木取締役宛なのですが﹂ くらえ必殺、所長直伝営業スマイル。 ﹁いないものはいないわよお﹂ おばちゃんにはそれなりに効果があった模様。 みさぎ ・ ﹁おかしいですねえ。すみません、御社の社長は何と言うお名前で すか?﹂ ﹁うちの社長?実佐木康夫っていうの。ほら、ミサギ・トレーデン グだから。ほとんどここには顔出さないけどねー﹂ うん、それは知ってる。 ﹁社長さんが顔を出さないんですか?﹂ ﹁そうなのよー。ここの会社ったら、私達に仕事をやらせるだけで、 偉い人が二人、ときたま顔を出すだけなのよ﹂ ﹁へええ。偉い二人というのは、その実佐木社長と、鈴木取締役で すか?﹂ ﹁そんな名前じゃないわよ。特別顧問の⋮⋮えーと、なんだっけ。 小島さーん﹂ 小島さん、というのはもう一人のおばちゃんのようだ。ここでお じさんが呼ばれないあたり、おばちゃんズとおじさんの日ごろの仲 が良くないことが看て取れる⋮⋮っておれ、こんなことばっかり熟 達してどうするんだろう。 ﹁えーと。はい。そうそう。たしか糸川。特別顧問の糸川克利だっ たわ﹂ 288 ﹁糸川、克利ですね⋮⋮。おっかしいなあ。こちら、フタバ商事さ んからのお手紙だから間違いないと思うんですが⋮⋮﹂ ﹁フタバ商事?うち、そんな立派なとこと取引ないわよお﹂ 入れ食い状態である。 ﹁もしかしたらこちらで間違えたかも。御社とお取引があるのはど ちらでしょう?﹂ ﹁うちに来る手紙っていったら普通のお客さんと、仕入先のナガツ マ倉庫だけだし﹂ ﹁田中さん、いつまでしゃべってるのー﹂ ﹁あら小島さんごめんなさいね﹂ ⋮⋮ここらが潮時だな。 ﹁ああっ!!﹂ ﹁な、何よいきなり﹂ ﹁こちら、もしかして﹃みどりローン﹄様のオフィスではないんで すか?﹂ おばちゃんが、ああ、と納得の表情を浮かべる。 ﹁﹃みどりローン﹄なら四階。この一つ上よ。ここはミサギ・トレ ーディングって言ったでしょ﹂ ﹁し、失礼しました。焦って一フロア間違えてしまったみたいです﹂ ﹁あらー。せっかちさんねえ﹂ ﹁すいません、勘弁してください﹂ おれは誠心誠意アタマを下げる。 ﹁んふふふ、赤くなっちゃってカワイイ。あなた新人さん?今度こ こらへんに来た時は遊びにいらっしゃい。お茶とお菓子出してア・ ゲ・ル﹂ はっはっは、それは本当にカンベンだ。おれは適当に言葉を濁す と、さも恥ずかしそうにミサギ・トレーディングを出た。 289 ﹁あ、来音さんですか?あ、所長は留守ですか。いえいえいえ。ぜ ーんぜんOKです、っていうかむしろそっちの方がいいです﹂ おれは手短に状況を説明する。 ﹁⋮⋮というわけで。ええ。その実佐木社長と言うのは実権の無い ダミー社長。それを定期的に監視しにくるのが、特別顧問の糸川克 利じゃないかと思うんですよ、ええ、はい。糸川の名前で情報を探 してみて欲しいんです。ヤクザ関係者かも知れませんので、警察情 報から重点的にお願いします。それから⋮⋮ええ。はい。主要の仕 入先であるナガツマ倉庫の資本関係も洗ってください。あ。そうで すね。倉庫の住所をまずメールで送ってください。おれ達は昼食を 食べて、そのまま倉庫の方に行ってみます﹂ 事務的な連絡を一通り終えると、おれは違法改造携帯﹃アル話ル ド君﹄を閉じた。先ほど変装道具を調達した百円ショップの隣にあ るコーヒーショップ、ドトールに入る。 ﹁こっちこっち﹂ アイスコーヒーの巨大なグラスを抱え込んだ真凛が手を振ってい る。 ﹁どうだった?﹂ ﹁大当たりだったな。とりあえず次に行くべき所が見えたよ。飯を 食ってる間に来音さんに調べものをして貰ってる﹂ おれはザックを受け取ると、変装道具を仕舞い込んだ。 ﹁じゃあさあ。ここでゴハン食べてっちゃおうよ。なんか安心した らお腹すいちゃった﹂ ﹁ああ。ごく個人的な意見としては、コーヒーだけ飲むならスタバ だが、パンも食べるならドトールだしな。⋮⋮って、なんだ安心て﹂ ﹁え!?いや。何でもない何でもない。えーと、この﹃べーこんす ぱいしーどっぐ﹄っておいしいのかな?﹂ ﹁そりゃ美味いが。今食べるにはちょっと重いかもな。おれはベー シックにイタリアンサンドの生ハムにしよう﹂ ﹁じゃあボクもそれにする!﹂ 290 さっきからやたらと元気な真凛であった。とても朝と同一人物と は思えん。不機嫌だった理由はよくわかるのだが。上機嫌になった 理由がわからん。⋮⋮変な奴。なんか悪いモンでも食ったんじゃな きゃいいが。 291 ◆05:隠された在庫 一旦池袋から高田馬場の事務所まで戻り、ライトバンを引っ張り 出して早稲田通りを東へ。渋滞に悩まされつつ皇居をかすめ山手線 を潜り、隅田川へと辿り着いたら浅草方面へ川沿いに北上。すると、 昔ながらの住宅街と古めかしい工場が混在する街並みが姿を現す。 ちなみに運転中真凛がまた何か言っていたが無視。 ﹁こんな天気のいい日曜の午後だったら、浅草で人形焼でも食い歩 きしながらのんびりしたいところなんだがなあ﹂ おれはぶつぶつと文句を言いながらバンをコインパークに停車す る。来音さんに調べて貰った﹃ナガツマ倉庫﹄の住所をカーナビに 打ち込みここまでやってきたのだ。バンの中でとりあえず作戦会議。 ﹁そこの角から見えるのがナガツマ倉庫、だが⋮⋮﹂ ﹁何だかとっても雰囲気が⋮⋮﹂ ﹁貧乏臭いなあ﹂ 隣でまだ青い顔をしたままの真凛が頷く。高いブロック塀で囲ま れた、小学校とグランドを併せた程度の敷地の中に、巨大な倉庫が 三つ建っている。だが、いずれも窓ガラスにヒビが入っていたり壁 が煤けていたりで、あまり使われているようには思えない。 ﹁来音さん情報によれば、ナガツマ倉庫の経営は決して良くないら しい﹂ もっともこれはナガツマ倉庫に限った事ではない。近頃のビジネ スの基本は、﹁なるべく在庫を作らない﹂だ。欲しいときに欲しい だけ手に入れるのが当たり前。使わないものを大量に保管しておく のは無駄なコストがかさむだけ、という考えである。こうなると、 倉庫業の役目は薄くなってしまう。冷凍設備に特化したり、物流セ 292 ンターとして生まれ変われなかった倉庫会社はみな次々と規模を縮 小したり、あるいはお台場や臨海副都心のように、埋立地の再開発 計画に合わせ土地を売却したりしているのだ。 ﹁ナガツマはこのいずれの道も選べないまま、景気悪化の一途を辿 っていたらしい。んで、昨年とうとうスジのよろしくない金融会社 から資本を借り入れるまでになっちまったと﹂ おれは来音さんが送ってくれたエクセルシートを﹃アル話ルド君﹄ で表示しつつ解説する。 ﹁まだまだ来音さんに調べて貰っているけどな。おれ達はおれ達で 情報を集めていかないと﹂ ﹁どうやって?﹂ おれはザックを叩いた。 ﹁名案ってのはな、使いまわせるからこそ名案なのさ﹂ 先ほどまでの変装に加えて、野暮ったいジャンパーを着込むと、 とりあえずは業者っぽく見えなくもない。門を通ったのだが、守衛 さんは席を外しているのか、そもそも配置されてないのか、不在だ った。こちらが不安になるほど易々と敷地内に侵入すると、おれは 傍らの、同様に帽子をかぶったちっちゃいのに声をかけた。 ﹁倉庫は三つ。とりあえず西側から順番に探っていくぞ﹂ ﹁う、うん。わかった﹂ もちろん、真凛である。 ﹁⋮⋮もしかして緊張してるのか?﹂ ﹁ま、まさか!そんな事あるわけないよ﹂ ﹁そーいや、お前は侵入作戦ならともかく、変装ははじめてだった っけかな﹂ おれはとりあえず何食わぬ顔で一番西側の倉庫に近づいた。現場 のおっちゃんが何人かと、そしてフォークリフトが二台ほど走り回 っているのだが、今ひとつ活気が無い。倉庫の中に躊躇わず入って 293 ゆくと、真凛も遅れてついてきた。ふむ。いわゆるコンピューター 操作の自動倉庫ではない。ごく一般的な、フォークリフトで荷物を 上げ下ろしするタイプの倉庫だ。荷物のほとんどがダンボール箱。 箱にプリントされているのは、ちょっとマイナーなお菓子のロゴだ った。 ﹁うわ、こんなのおれが子供の頃に駄菓子屋で売ってたやつだぜ⋮ ⋮﹂ ﹁ダガシって何?﹂ ﹁⋮⋮お前それ、ギャグで言ってるんだよな?﹂ 他にも玩具、台所用スポンジやタワシ等のロゴがプリントされて いるダンボールが幾つか積み上げられていた。ちゃんと在庫捌けて るのかなあ、こういうの。おれ達は手持ちのバインダーを開き、適 当に確認して書き込みする振りをしながらダンボールの中身をチェ ックして周った。と、唐突に背後から声をかけられる。 ﹁おい、兄ちゃん達ここで何やっとんだ﹂ ナガツマ倉庫 と刺繍の入った作業服を来た、 反射的に飛び上がる真凛。だからビビるなっつーの。おれは落ち 着いて振り返る。 年季のいったおじさんが一人、おれを見据えていた。 ﹁え、えーと、ボク達は⋮⋮﹂ ﹁ワタクシども、空調システムの﹃ダイカネ﹄の者です﹂ 真凛を遮っておれは前に出る。 ﹁空調システムの会社の人間がここに何の用だ﹂ ﹁ええ、ワタクシども、かねがねこちらの倉庫にぜひ我が社の空調 設備を導入して頂きたいと思っておりまして、はい。この度一度現 場を見せて貰おうと思った次第です、はい﹂ 営業スマイル第二弾。 ﹁俺はそんな連絡は受けとらんぞ﹂ 効果は期待できない模様。 ﹁はい。不躾とは思いましたが、この度御社の営業様に飛び込みで 訪問させて頂きまして、はい。二時間ほどお話しさせて頂いたとこ 294 ろ、じゃあ現場でも見てくれば、との言葉を頂いたのものですから、 はい﹂ 反射的に嘘がつける自分が時々怖い。これなら、飛び込んできた 押し売り紛いの販売員を、営業部が体よく都合をつけて倉庫に追い 払ったように見えなくも無い。果たしてこのハッタリ、通用するか どうか。 ﹁⋮⋮押し売りの類か。あまり仕事の邪魔をするなよ﹂ ﹁押し売りなど、とんでもないですう、はい﹂ 実はもっとロクでもないんです、ハイ。⋮⋮もうちょっと踏み込 んでみるか。 ﹁こちらではどのような品物をお預かりされているんでしょう。温 度や湿気の管理が必要なものなら、ぜひともワタクシどもの⋮⋮﹂ おじさんは鬱陶しそうに手を振った。 ﹁ここと、隣の倉庫で扱ってるのは菓子と玩具、台所用品。どれも 古くからのお得意さんの品物だ。空調が必要なものはない﹂ ここと、隣の、ねぇ。 ﹁では、一番東の倉庫は?﹂ ﹁お前さん、何者だ?﹂ ﹁ですから﹃ダイカネ﹄の営業の⋮⋮﹂ ﹁そんな胡散臭い営業がいるか﹂ 手厳しいお言葉。⋮⋮まずったかな。 ﹁⋮⋮まあいい。東倉庫はな、貸し出し中なんだよ﹂ ﹁貸し出し中?﹂ ﹁ウチもいよいよ首が周らなくなってきた。融資と引き換えによく わからん連中に貸し出ししているらしい。余計な詮索はするな、と な﹂ ﹁よくわからん連中に、って。そんなのが隣に居たら仕事にならな いじゃないですか﹂ おじさんは皮肉っぽく笑った。 ﹁仕事なんて最近あって無きが如しだ。フォークも錆びついちまっ 295 てるよ。連中は裏門から二十四時間出入りしている。役員連中が自 由に使わせる許可を出したんだ﹂ ﹁それはどうも⋮⋮。貴重なお話をありがとうございました﹂ ﹁もう一つ﹂ ﹁はい?﹂ ﹁連中、相当タチが悪い。くれぐれも気をつけてな﹂ ⋮⋮バレてますなあ、これ。 ﹁御忠告感謝いたします。いくぞ、真凛﹂ ﹁あ、うん。じゃあ、ありがとうございましたっ﹂ ﹁怪しいところ、無し⋮⋮と﹂ 念のため、真ん中の倉庫も調べて見たが、これも特に不審な点は なし。となると、怪しいのは東倉庫という事になるわけだが。 ﹁こっからはなるべく気配を消せ。お前、そーいうのそれなりに得 意だろ﹂ ﹁仁サンと一緒にしないで欲しいなあ。一挙手一投足の動きは消せ ても、気配を消すのはまた別の話なのに﹂ ぶつぶつ言いながらも真凛は忍び足に切りかえる。何のかんの言 ってもそこは武道家、重心を制御してほとんど足音を立てない。お れは頷くと、何気なさそうな挙動で東倉庫に近づいていった。ざっ と見回したところ、見張りの類は無し。おれは腹を決めた。 ﹁行くぞ﹂ ﹁うん﹂ トラックが出入りする巨大なシャッターの隣の通用扉を開けて中 へ。他の二つの倉庫と比べると、照明の類は一応点いているものの、 視界が悪いことこの上ない。 ﹁⋮⋮嫌な臭いだな﹂ 視界が悪い理由はすぐに判明した。体育館ほどの大きさの倉庫の 中に、プレハブ小屋の壁のような仕切りがいくつも立てられ、小さ 296 な部屋に分割されていたせいだった。 ﹁ビンゴだぜ、どうやら﹂ おれは目の前に作りつけられたスチール棚を見上げる。そこには、 ビニール袋でぞんざいに包まれたプルトンのバッグが、壁一面にず らりと並べられている。 ﹁ミサギ・トレーディングから注文を受けて、ここから発送してる ってワケだ﹂ だが、それと同時に漂ってくるこの臭い。壁にドアが取り付けら れており、その向こうから臭ってくる。こいつは、 ﹁動物園みたいな臭い⋮⋮?﹂ 鼻を押さえた真凛が小声で呟く。確かに似ているが少し違う。お れの脳裏に一つの予想がよぎった。⋮⋮ミスったな。真凛をここに 来させるべきじゃなかったか。すると、通路の奥から足音が響いた。 ﹁誰か来るよ!﹂ 真凛の押し殺した声におれは舌打ちする。ええい仕方がない。お れは扉を開けて飛び込み、真凛を引き入れて扉を閉める。途端、悪 臭は耐え難いほど強烈になった。 ﹁な、何この人達⋮⋮!﹂ おれの背後で真凛が声を上げる。あーあ。ため息を一つついてお れは振り返った。そこには十畳ほどの部屋︱︱午前中に訪れたオフ ィスと同じ大きさだ︱︱に、二十五、六人ほどの男女が座り込んで いた。畳一枚あたり三人ほど座っているため、当然ながら足の踏み 場も無い。彼等はTシャツにズボン、あるいはぼろぼろのスカート を履いている程度の格好であり、みな裸足である。そしてその眼に は一様に精気が無かった。この夏の暑さの中どれほどの時間、ここ に居るだろうか。すえた臭いは、風呂に入る事も出来ない彼等二十 数人の体臭だった。彼等はうつろな眼でおれ達を見て、かすかに動 揺する。 ﹁どうしたんですか、何かあった⋮⋮むぐ!?﹂ ﹃ああ、騒がないで騒がないで﹄ 297 真凛の口を手で押さえ、おれは福建語で話しかけてみた。彼等の 間に反応があった。おれはジェスチャーを交えて﹃落ち着いて、落 ち着いて﹄と繰り返す。適当なところで真凛を解放してやる。 ﹁⋮⋮えっと、この人達は?﹂ ﹁⋮⋮多分、密入国者の方々だろうねえ﹂ おれは乾いた声で回答した。﹃銃器、麻薬、偽ブランドは密輸品 の御三家﹄と先日おれは述べたが、ここ最近四番目の密輸品として 台頭して来ているのが、人間、つまりは密入国である。背後に構え ているのは主に中国系の暴力組織。彼等は地元、中国大陸の労働者 達に、日本に行けばここより遥かに高い賃金で働ける、借金をして でも日本に渡ればすぐに取り返せる、と言葉巧みに持ちかけ、密入 国の費用を取り立てる。そして彼等を日本に密入国させる。また、 必要に応じて彼等を労働力︱︱主に麻薬の売人や売春だ︱︱として 日本の暴力組織に斡旋する。密入国の手口として一番ベーシックな ものは、貨物船の倉庫に彼等を隠して入港させてしまうことだ。ビ ジネスとしては当然ながら、スペースに限りある貨物船に出来るだ け人数を詰め込んだ方が利益率が良い。彼等は巡視船の目を逃れる ため、陽も差さない船底にすし詰めにされたまま、中国から日本ま でを船で旅するのだ。 ⋮⋮真夏にクーラー無しの満員電車に乗り込み、しかもそのまま 丸一ヵ月、トイレは垂れ流しで風呂にも入らず過ごさなければなら ない、と考えて頂ければ少しは理解出来るだろうか。 ﹁とはいえ船の中や港にいつまでも置いておくわけにはいかない。 行き先が決まるまでどこかにこの人達を留めて置かなきゃいけない が、ホテルに泊める金なんて当然ない。ここは態のいい﹃一時保管 場所﹄って事さ。この倉庫が裏でその手の暴力組織と手を組んでる のは、まず間違いないだろうな﹂ おれは淡々と事実だけを小声で述べる。 ﹁酷いよ⋮⋮こんなの、許せないよ!﹂ ﹁その前に声を落とせ。そしてしゃがめ﹂ 298 おれの指示の意味に、真凛はすぐ気がついた。扉の向こうで、さ っきおれ達が聞きとった足音が近づいてくるのがわかったからだ。 おれは息を殺して、ドアの隙間からこっそりと相手の姿をうかがい つつ、通り過ぎるのを待つ。 ﹃どうだ、何か変わった事でもないか?﹄ ドア越しに太い声が聞こえる。おれ達の事を指しているのかと思 ったが、どうやらその声は通路の奥へ向けて投げかけられたものら しい。警備員か、はたまたヤクザ屋さんか。おれは何気なくその姿 を見つめ︱︱そして、凍りついた。 299 ◆06:﹃毒竜﹄ 威圧的な男がそこに居た。 歳の頃は三十四、五。禿頭に鷲鼻。大きく尖ったアゴとそれを覆 う髭。白人であることは間違いないが、混血だろうか、系統はちょ っとわからない。まず美男子とは言えないその風貌は、だが、異様 な迫力を持っていた。そして窪んだ眼窩の中にぎらぎらと光る褐色 の、いや、燃える石炭のような眼。百九十センチ近くある身体を包 ファフニール んでいるのは作業着⋮⋮いや、軍隊用のフライトジャケットか。お れは、その顔に見覚えがあった。 ︱︱あいつ。 ハイガンマー コンス おれの背筋に戦慄が走りぬける。 海鋼馬公司S級エージェント。 モルデカイ・ハイルブロン⋮⋮通称﹃毒竜﹄。 なんであいつが、こんなところに。 気がつけば、おれの拳は固く握り締められていた。奴は、おれ、 というよりおれ達が隠れている密入国者の部屋には最初から用が無 かったらしく、すぐに通り過ぎて行く。それを見送り、五秒ほど立 ってからおれは息を吐き出した。 ﹃そうそう変わった事が起こっては困ります﹄ 奴の呼びかけに答えがあった。⋮⋮あれ、この声もどこかで⋮⋮? ﹃起こってくれねば退屈でたまらん。この平和ボケした国での生活 300 も悪くはないが、二ヵ月もするともう戦場が懐かしくなる﹄ へえ、退屈か。なら、すぐにでも楽しい思いをさせてやる︱︱そ こまで考えて、おれの理性が感情を引き戻した。ここで派手な事を 起こせば、いつぞやの二の舞だ。 ﹁あの人、もの凄い殺気だ⋮⋮。って、なんか陽司⋮⋮顔が怖いよ ?﹂ 床に伏せたままドアの向こうを伺っていた真凛がうめく。生憎と 自分の顔のことなんて良くわからないね。 ﹃貴方は平地に乱を起こす癖があります。どのみち貴方の行くとこ ろ、嫌でも騒動が起こるのですから、今は英気を養っていてくださ い﹄ ﹃フン。こと無かれ主義の腑抜けが入社った、とは聞いていたが噂 どおりだな﹄ ﹃ええ。海鋼馬は血の気の塊のようなメンバーばかりですからね。 私は冷や水をぶっかける役として引き抜かれたわけです﹄ ﹃ぬかしおるわ﹄ そんな会話を続けながら、﹃毒竜﹄ともう一人の男は遠ざかって いった。 おれは後ろの人々を振り返る。彼等は﹃毒竜﹄の声が聞こえたそ の時からすっかり怯え、竦み上がっているようだ。この倉庫の中で、 奴がどのような位置づけにあるか。それがよくわかった。 ﹃あの人に言わないでください、あの人に言わないでください﹄ 一堂を代表してか、一人の男が、おれにすがりつくように話す。 おれの事を、あいつに言われて様子を見に来た看守とでも思ったの だろうか。 ﹃大丈夫、大丈夫。だから、おれ達の事もあいつらに言わないでく ださい﹄ 流暢な福建語で何度か説得すると、彼等もどうにか納得してくれ たようである。おれは真凛を促して立ち上がらせ、外を確認する。 ⋮⋮よし、誰もいない。 301 ﹁出るぞ﹂ 真凛がおれを愕然として振り返る。 ﹁この人達は?﹂ ﹁もともと彼等はここに居たんだ。おれ達がどうこう言う権利は無 い﹂ ﹁でも!﹂ ﹁いいから!﹂ ⋮⋮バンまで戻ってくるまで誰にも見咎められなかったのは、日 ごろの行い、いや虐待のされっぷりに幸運の女神が同情してくれた からだろうか。車内に飛び込むと、おれは変装道具を脱ぎ去って後 部座席に放り込み、腕を組んでしばしむっつりと押し黙った。 ﹃毒竜﹄が出てくるとすれば、話は全く違った方向になる⋮⋮。 ﹁なんで放って来ちゃったんだよ!あの人達ひどく衰弱してた。多 分あと二日と持たないよ﹂ 女子高生と言えど、人体に精通した武術家である。その見立ては 恐らく正しいだろう。だが。 ﹁それまでに行き先が決まるだろうさ﹂ ﹁嘘だよそれ。あの人達少なくとも一週間はあそこにいた。それが あと二日で全員行き先が決まるとは思えないよ﹂ ﹁じゃあどうしろと﹂ ﹁当然助けに行くんだよ!﹂ ﹁あのな真凛﹂ まったく。そう言うと思ったよ。 おれは組んでいた腕を解いて、助手席の真凛に向き直った。 ﹁お前をこの仕事から外す﹂ 302 ﹁⋮⋮え?﹂ ﹁駅まで送る。今日はそのまま自分の家に帰るんだ。所長にはおれ から連絡を入れておく﹂ ﹁な、なに言ってるんだよ、ボクがいなかったらどうやってあの人 と戦うのさ。凄い強いよ、あの人﹂ ﹁直樹なり仁サンなり呼び出すさ。シートベルト締めろ、出るぞ﹂ おれは言い放つとシートベルトを締め、キーを取り出した。 ﹁なんでだよ!納得できないよ!!ボクじゃ力不足ってこと?﹂ なんだか昔撮った出来の悪いホームビデオを見ているような気分 だ。 ﹁お前、この仕事の内容なんだか覚えてるか?﹂ ﹁⋮⋮それは。オークションで出回っているバッグが本物か確かめ る⋮⋮こと﹂ ﹁そう。で、その仕事の達成にあたり、あの密入国の皆さんを助け る意義は全く無い。むしろ余計な工程が増え、失敗の危険を大きく するだけってこと﹂ ﹁でも!人としてほっとけないよ!﹂ ﹁ああ。だからだ。仕事にそんな勝手な考えをする奴を加えるわけ にはいかない。だから外すんだよ﹂ キーを差し込もうとした右手は、延びてきた真凛の手につかまれ た。奴が身を乗り出す姿勢になったせいで、おれと真凛の視線が至 近距離でぶつかる。 ﹁⋮⋮離せよ﹂ ﹁⋮⋮離さないよ。そんな理由じゃ納得できないもの。なんかおか しいよ陽司。いつものアンタなら、じゃあついでに助けとこうか、 くらい言うじゃない。あいつと何かあったの?ねえ﹂ おれが無言でいると、真凛は肯定ととったのか、質問をさらに連 ねてきた。 ﹁だいたい陽司はいつも自分だけで作戦を決めるじゃないか。毎回 毎回ボクの意見なんて聞いてくれないし!﹂ 303 ﹁そりゃそうだ、お前はアシスタントだからな﹂ ダッシュボードに叩きつけられる真凛の掌。コーヒーの空き缶が 軽く宙を舞った。 ﹁アシスタントアシスタントっていうけど、三つ歳が違うだけじゃ ないか。アンタがどれだけ偉いんだよ?アンタが高校生や中学生の 時、そんなにすごい事をやってたっての?どうせ今みたいにグータ ラな︱︱﹂ ﹁うるせえよ﹂ おれの声からは日ごろの諧謔成分が枯渇していた。それは陽気な 牽制ではなく、本当に、ただの罵倒の言葉だった。 ﹁陽司⋮⋮?﹂ ﹁うるせえって言ってるんだよ。お前に対する行動の決定権はおれ にある。そのおれがこの任務にお前は必要ないと判断しているんだ。 これ以上議論の余地は、いやそもそも議論の必要性がない﹂ 真凛はおれを焼き殺しそうな視線でにらみつけた。殴り殺される かな、とおれは思ったが、その顔はくしゃくしゃになり、 ﹁もういいよ!ボクはボクで勝手にやるから!!アンタはそうやっ て任務任務って言ってればいい!!﹂ バンの扉を閉め、真凛は飛び出ていった。おれが見たときには、 すでにその姿は駐車場のフェンスの向こうに消えた後だった。⋮⋮ まったく、ガキの考える事はわかんねえ。 304 ◆07:かつての友人 午後四時を知らせるチャイムの音が、暑い空気の中をゆっくりと 泳いでゆく。近くに小学校でもあるらしい。日曜日でもチャイムは なるんだなあ、とおれは益体もない事を考えた。バンの窓から見え るナガツマ倉庫に、未だ動きは無い。 真凛は結局あのあとどこかへ行ったきり戻って来なかった。当然、 この後は事務所に連絡して状況が変わった事を告げ、直樹なり仁サ ンなりの応援を要請しなければならない。だがおれはなんとなく﹃ アル話ルド君﹄を手に取る気になれず、入手した情報をメールにし て来音さんに送るだけにとどめ、そのまま一時間ばかりこのバンの 中で見張りを続けていた。 コンビニで買い込んできたアンパンを口に放り込んでコーヒー牛 乳で押し流す。海鋼馬の連中が絡んでいるとなれば途端に事態はキ ナ臭くなってくる。カバンがあの倉庫に保管されているとなれば、 次はそれがどこから流されてくるのかを確かめねばならない。密輸 品か、どこか国内の工場で製造しているのか。連中は裏門を使って いると言っていた。となれば、ここに搬入にやってくるトラックを 張っていれば、何か情報がつかめるかも知れない。しっかし、マッ ズいパンだなこれ。 ﹁不味そうなものを食べてますね、陽司君。らしくもない﹂ 唐突に運転席の窓の向こうからかけられた声に、おれはアンパン を吹き出しそうになった。慌てて口元を押さえ、何とか飲み込む。 それで初めて窓の外を見る事が出来た。 ﹁あなたは⋮⋮﹂ 305 おれは危うく残りのアンパンを取り落としそうになった。 そこに居たのは、﹃毒竜﹄同様、軍隊用のフライトジャケットに 身を包んだ男だった。だがこちらは標準的な日本人の体型と顔立ち で、些かくせの強い髪を整髪料で固めている。その顔を見直したと き、おれの頭の中で線が繋がった。 ﹁なるほど、ね。どうりで聞いた声だと思った。さっき﹃毒竜﹄が 話し込んでいたのはあなただったんですね﹂ くじらい かずま ﹁盗み聞きしていたのですか?そんな趣味を持った子に育てたつも りはありませんが﹂ ヴァサーゴ ﹁あなたがそれを言いますか、鯨井さん﹂ おれは窓を開けて、そこにいる男、﹃定点観測者﹄鯨井和磨をに ヴァサーゴ らみつけた。 ﹃定点観測者﹄。 その名前、魔術書に登場する現在過去未来を見通す力を持つとさ れる精霊の名は、鯨井さんの持つ特殊なサイコメトリー能力に由来 する。サイコメトリーとは、てのひらなどで接触した対象から、そ の対象にまつわる過去の出来事や以前の持ち主の情報を読み取る能 力である。いわゆる世間一般で言うところの超能力であり、強弱の 別こそあれ、この業界にも使い手は多い。しかし鯨井さんのそれに レセプター は、さらにもう一つ、隠された能力がある。 ﹁この周りにいくつ﹃受信器﹄をセットしてあるんですか?﹂ ﹁八つですよ。今の私の仕事はここの警備ですからね﹂ ﹁⋮⋮それじゃあおれ達が来た事は最初からバレてたわけだ﹂ 鯨井さんは、三次元空間の任意のポイントに自分の思念を焼付け、 離れていてもその周囲の景色、音、臭いをきわめて正確に把握出来 るのだ。彼はこれを﹃受信器のセット﹄と呼んでいる。彼がこの能 力を広範囲に展開すれば、極めて意志の統率の取れた、不可視の見 張りが幾人も配置された事と同義となる。﹃定点観測者﹄の名はこ 306 こに由来する。先日一緒に仕事をした﹃机上の猟犬﹄見上さんとは また違った、強力な遠隔視系の能力者だ。 おれがロックを解除すると、助手席のドアをあけ、鯨井さんが乗 り込んできた。 鯨井さんは紙袋を差し出した。中にはスターバックスのアイスコ ーヒーが二本納まっていた。おれは礼を述べ、一本取り出した。も う一本を、鯨井さんが取る。 ﹁本当にあなたかどうか確信はありませんでした。随分雰囲気が変 わっていましたから﹂ ﹁⋮⋮変わりましたかね﹂ ﹁変わりましたよ。本当に。随分いい出会いに恵まれたようですね﹂ ﹁どうでしょうかね﹂ アイスコーヒーを口につけて、おれはぼやいた。少なくとも往事 に比べて貧乏になった事は疑いようが無い。鯨井さんは二秒ほど考 えいじ え込んだ後、本題を切りだした。 ﹁⋮⋮それで、影治君の行方は?﹂ おれは肩をすくめ、投げやりに答えた。 ﹁見つかってれば、おれはこんなところに居ませんよ﹂ つーか、生きてないね。 ﹁そうですか⋮⋮。どこにいるのやら﹂ ﹁そんなことより鯨井さん。あなたがなんで海鋼馬の﹃毒竜﹄なん ぞとつるんでいるんですか?﹂ むなかた 鯨井さんはほろ苦い笑みを見せた。 ﹁宗像研究室が潰れてからこの方、私も流れ流れましてね。今は海 鋼馬のメンバーですよ﹂ ﹁まさか!?あなた程の情報収集能力であれば、よほどまともな派 遣会社をよりどりみどりでしょう。何も好んでロクデナシ揃いのあ の海鋼馬に所属する事は無い﹂ 鯨井さんは肩を一つ竦めた。 307 ﹁⋮⋮仁義をね。守れなかったんですよ﹂ そう言うことか。おれは納得した。バレなきゃなんでもあり、と 思われがちのこの﹃派遣業界﹄だが、それでは血みどろの抗争にな ってしまう。いつしか異能力者達の間では﹃仁義﹄と呼ばれる暗黙 の掟が成立していった。任務で他社のエージェントと敵対したので あれば、それがたとえ年来の友人が相手であろうと全力で倒しにか かること。任務中に手酷い怪我を負わされたとしても、互いの任務 が終了した時点で決着とし、以後私怨を残さないこと。可能な限り 一般人に危害を及ぼさないこと。任務中に知りえた他のエージェン トの能力は、たとえ友人にもバラすべきではないこと、など。これ は異能力者がきちんと業務を遂行するよう強制すると同時に、異能 力者を保護する事も意味していた。任務で倒したエージェントに逆 恨みされて、自宅を焼き打ちされる、なんて事があってはたまらな いからだ。この﹃仁義﹄を破った者の噂はたちどころに広まり、同 じ異能力者からは軽蔑され、派遣会社は彼を雇おうとはしなくなる。 そんな外道なエージェントを雇い入れるのは、業界でも黒い噂が絶 えない海鋼馬くらい、とこういうわけだ。 ﹁しかし、よりにもよってあなたが仁義を破るなんて﹂ 一体何を、と聞こうとして踏みとどまった。だが、鯨井さんはそ れを察したらしい。 ﹁とある任務中に出会った敵エージェントを、どうしても許せなか ったんですよ。そのエージェントも一般人に平気で無法を働くよう な輩でしたがね。任務が終了した後、私は全て仕事上の事として忘 れようと思った。しかし気がつけば、奴の自宅を調べ上げ、待ち伏 せしてズドン、とやっていたわけです﹂ 言葉遣いは淡々としていたが、その言葉には後悔の様子はなかっ た。⋮⋮全て覚悟の上での行動だったのだろう。その代償として彼 は業界の爪弾きとなり、海鋼馬に流れ着いたという事だ。 ﹁⋮⋮すいません。本当ならあなたは今頃、学会の﹂ ﹁そういう事は言いっこなしですよ亘理君。あの事故は我々の不注 308 意であり、あなたには何の責任もありません。影治君もそう思って くれているはずです﹂ ﹁でも、手を下したのはおれと、おれのこの体です﹂ 精確には、以前のおれ、か。 ﹁陽司君。この話はやめにしましょう。私自身は自分の選択に満足 していますし。あなたが何度後悔したところで過去が改竄出来るわ けでもない。⋮⋮たとえ、あなたが完全にその力を発揮出来るよう になったとしても。そうでしょう?﹂ 多少やつれてはいたが、その表情は間違いなく、かつて宗像研究 室でおれを世話してくれた鯨井研究員の顔だった。 ﹁昔は良く看て貰いましたね﹂ 手を掲げる。おれは懐しい気分になった。厳密に言うと、懐かし いと感じるべき気分になった。鯨井さんはやはり寂しそうな表情を 浮かべた。 ﹁残念ですが、今の君にはとても触れる事は出来そうにありません。 引きこまれたら、私の精神もあなたの一部になってしまうでしょう からね﹂ おれも笑って手を振った。こんな体質になってしまってから、様 々なサイコメトラーやテレパスの世話になったものだが⋮⋮結果は 散々なものだった。今となってみれば当たり前だ。そもそも病根の 位置が、精神や超能力といったカテゴリーのさらに外にあったのだ から。 ﹁おれ達の事は﹃毒竜﹄には伝えているんですか?﹂ 鯨井さんは首を横に振った。 ﹁私が把握している情報は、倉庫に迷い込んできた二人の若者がい るというだけの事です。さして気に止めるべき事項ではありません。 その二人が、我々の警備するナガツマ倉庫に襲撃をかけるつもりで もなければ、ね﹂ 言外の意味をおれは察した。今この時点では、お互いたまたま出 会っただけの旧知の人というわけだ。だが、おれ達に襲撃の意図が 309 あるとすれば、鯨井さんは自らの義務を果たす。そういう人だと言 う事はおれはよく知っていた。 ﹁コーヒー、ごちそうさまでした﹂ おれは礼を言うと、鯨井さんと自分の紙コップを紙袋に放り込み、 丸めて後部座席のゴミ箱に放り込んだ。 ﹁それでは。私も仕事に戻りますよ﹂ ﹁はい。また機会があったら、よろしくお願いします﹂ 機会とやらが極めて近い時期に訪れる事をお互いに予感しつつ、 おれ達は別れた。再びナガツマ倉庫へと戻って行く鯨井さんを見送 って、おれはこの日何度目かのため息をついた。 ︱︱やれやれ、厄介な戦いになりそうだ。 310 ◆08:作戦会議︵その1︶ ﹁最近の漫画喫茶は随分快適になったもんだなあ﹂ 六時を過ぎても残暑の陽射しはしぶとく大地を照らし続けている。 おれはと言えば、ナガツマ倉庫の最寄駅前まで移動し、そこにある 漫画喫茶で飲み放題のソフトドリンクを飲み干しているという次第。 なんか今日は昼からコーヒーとかソフトドリンクとか、そんなのば かり飲んでいる気がするな。最近の漫画喫茶の多くは仕切りで個室 が作られており、インターネットに接続したりマンガを読んだり、 自分の部屋に居るような感覚で過ごせるのが売りなのだそうだ。も っとも今おれがいるのはカウンター席。そしてただいまおれは注目 の的。なぜならおれの隣にいる、 ﹁最近はインターネットカフェと言うんですよ?﹂ 笠桐・R・来音さんがホットコーヒーを味わっているその姿が、 あまりにも漫画喫茶の︵インターネットカフェだっけ︶独特のよど んだ空気にそぐわないからである。 カウンターに座ってマンガを読んでいたお客さん達の半ばはその 横顔に見とれ、半ばはものすごい勢いで退散していった。気持ちは わかる。なんというかこう、一人暮らしの男のトテモ汚い部屋にい きなり美人の訪問販売員がやってきた時のようなアレだ。 ﹁しかし、来音さんには、こういう原価一杯一円以下のコーヒーは 飲んで欲しくないですねえ﹂ ﹁そうですか?私はこっちの方が気軽に飲めて好きですけど﹂ どうでもいい会話をしつつ、おれはカウンターに置いてあるネッ トに接続出来るパソコンと﹃アル話ルド君﹄の画面を交互に見やる。 今ここには、おれの手がかりを元に来音さんが調べ上げてきてくれ 311 た最新のデータが詰まっていた。 ﹁昨年経営難に陥ったナガツマ倉庫を資金援助したのは⋮⋮あちゃ あ、﹃イエローチェーン﹄か。こりゃ首輪をつけられたも同然です ね﹂ ﹃イエローチェーン﹄とは社名で、商工ローンを中心に展開する 金融業者である、表向きは。おれ達の業界では、奴等は金融業者で はなく、﹃乗っ取り屋﹄と呼ばれている。言葉巧みに資金を貸し付 け、グレーゾーンギリギリの利息と商売方法で借金の額を増やし、 最終的には借金のカタとして、その企業の設備や特許諸々を全て捨 て値で買い叩くのだ。ここに金を貸し付けられた企業は、﹃黄色い 首輪をつけられた﹄とよく呼ばれる。 ﹁そうですね。案の定、この一年でナガツマの債務は雪ダルマ式に 膨れ上がっています。亘理さんが調べてくれた糸川克利。彼がイエ ホンシオ ローチェーンから派遣されて経営に食い込んでいました﹂ ﹁ああ、なるほどね。首輪の監視役か﹂ ﹁警察の資料を借りて彼の背後を洗ってみたら、後に﹃狂蛇﹄が控 えていることがわかりました。上海と日本に縄張りを持ち、最近急 速に勢力を拡大している中国系のシンジケートです﹂ ホットコーヒーを飲み終えた来音さんが、カウンターのすぐ傍に あるドリンクバーで今度はレモンスカッシュを注ぐ。 ﹁﹃狂蛇﹄と言ったら人身売買の老舗じゃないですか。となると、 連中の狙いは最初からナガツマの倉庫だったと見ていいわけですか ね﹂ メロン果汁が一滴も入っていないメロンソーダを飲み干し、おれ は資料をたぐる。 ﹁そう考えてよいでしょう。陽司さんの報告を総合すれば、やはり 偽ブランド品や密入国者の一時保管場所として使っていることは間 違いないと思います﹂ ﹁ふむ⋮⋮。﹃狂蛇﹄の最近の動向なんてわかりますかね?﹂ 来音さんは我が意を得たりとカバンからスクラップブックを取り 312 出す。これをおれに渡す為に、わざわざ高田馬場からここまで来て くれたのだ。レモンスカッシュを飲み終え、ファンタオレンジのグ ラスに口をつけながら言葉を続ける。 ﹁陽司さんは話の展開が早くて助かります。仁さんは何だか私の話 を聞いてくださるのですけど、上の空と言うかー﹂ あの男の事だ、顔ばっかり見て話を聞いてないんだろう。 ﹁直くん⋮⋮こほん、直樹は私の言うことを全然聞いてくれないし。 逆に顔を会わせる度に私に小言を言うんですよおあの子﹂ ﹁奴はあとできっちりシメときますからハイ。⋮⋮じゃあ須江貞さ んは?﹂ おれは意地の悪い質問をした。案の定、来音さんが慌てふためく。 ﹁あ、ええー。須江貞さんは、ちゃんと話を聞いてくれます。いつ も。でも、私の説明が下手でいつも御迷惑をおかけして、そのう﹂ いつでも落ち着いた雰囲気の来音さんが取り乱すのは須江貞さん 関係の会話の時である。ちなみに須江貞さんとは、うちの正規スタ ッフで、仁サンのさらに上に位置する、いわば実働部隊の元締めで ある。普段はおれ達同様、一、二人で仕事に当たっているが、うち の総力を結集するときは、須江貞さんの指揮の下に仁サンやおれ、 直樹が入る事になる。ま、よほどの事がない限りそんな事態はあり えないんだけど。おれの表情を見て、からかわれたと気づいた来音 さんは顔を赤くする。 ﹁もう!陽司さんからかわないでください。ほら、続けますよっ。 ⋮⋮十年ほど前まで﹃狂蛇﹄の主な資金源は偽ブランド品の輸出が 主でした﹂ 照れ隠しにアイスティーのグラスをくるくると回転させる来音さ ん。ってあれ?注いであったのはファンタオレンジじゃなかったか ?⋮⋮まあ、多分おれの勘違いだろう。スクラップブックに貼り付 けられた記事を見ると、確かに﹃偽ブランド品またも店舗で発見さ れる﹄、﹃貨物船倉庫から偽ブランド﹄などの文面が踊っている。 ちなみにこのスクラップブックと言うのは以外とバカに出来ない。 313 一つの対象に絞って記事を集めてみると、その対象についての全体 的な流れが、まるで物語のように浮かび上がってくることがよくあ るのだ。 ﹁しかし⋮⋮ああ、ここ数年は、摘発された記事の方が多いですね。 警察と税関が頑張ったんだろうなあ﹂ 一時期、日本に紛れ込んだとんでもない輸入品を追跡する為に、 税関の皆さんと一緒に仕事をしたことがあるのだが、現場で働く人 は、皆使命感に燃えた真面目な人だった。 ﹁はい。その分、彼等は密入国、いえ、人身売買の方に基盤を移し ていくようになりました。以後この流れは変わらず、現在まで到り ます﹂ そういうことか。おれはパソコンでエクセルを立ちあげると、簡 単な計算表をつくった。 ﹁ところが、最近異様に安くて、どう考えても本物としか思えない プルトンのブランド品が大量に出回っている。ミサギ・トレーティ ングを経由して、ナガツマ倉庫にストックしたバッグを捌いている その黒幕がもし﹃狂蛇﹄だとすると﹂ ﹁今までミサギ・トレーディングが出品したブランド品の数は、わ かっているだけで三千点です﹂ ﹁三千ですか!そりゃまた短期間の間にずいぶん手広く捌いたもん ですね。いろいろバッグの種類があるけど平均して八万円として。 一個当たり六万円の粗利が出るとすれば⋮⋮﹂ PCに数字を埋めていく。 ﹁一億八千万円の利益。さらに取引が拡大していけば、利益は倍々 で増えていくでしょう﹂ ﹁﹃狂蛇﹄にとっては、今後密入国の手引きよりもオイシイ話、に なるかも知れないわけですね﹂ ﹁ダミーとは言え、現にミサギ・トレーディングという実体がある 会社を作っているということは、彼等も本腰を入れていると考えて 良いと思います﹂ 314 それだけの金の卵であれば、何としても守りぬこうとするだろう。 ﹃狂蛇﹄なら海鋼馬とはツーカーの仲だ。かくして﹃毒竜﹄と、﹃ 定点観測者﹄鯨井さんがあそこにやってきた、という事か。 ﹁しかし。こうなると、例のバッグが本物である可能性は限りなく 低いと言わざるを得ませんね。本物であればどう足掻いてもあの価 格で利益が出せるはずがない。盗難品だとしても、三千点も盗まれ て何も情報があがってこないなんて事も考えられない﹂ ﹁では、導き出される疑問点は、どこでどうやって偽物を製造して いるか、ですねえ﹂ 来音さんが形のよい眉をひそめて腕を組む。 おれはドリンクバーにグラスを持っていってオレンジジュースを 注ぐ。その後ろでいつのまにか烏龍茶のグラスを空にしている来音 サンナンテ見エルワケナイヨ。 315 ◆09:作戦会議︵その2︶ ﹁見張りをしていましたが、日中にあの倉庫に搬入、搬出している 気配はありませんでした﹂ おれがグラスを持って帰ってくると、来音さんは店員さんに何や ら注文をしていたようだ。⋮⋮もう何を飲んでいても気にしないぞ。 ﹁せめてどこの会社のトラックかでもわかればまだ取っ掛かりがあ ったんですがね。ナガツマの主要取引先のデータから何かわかりま せんかね?﹂ 来音さんは首を横に振った。 ﹁陽司さんが確認された通り、ナガツマの取引先は、長年のお得意 であるお菓子や玩具メーカーが殆どです。例の東倉庫の物流は、完 全に本業とは切り離されているようです﹂ ﹁やっぱり夜間に搬出入していると考えるべきかな﹂ ﹁偽物の製造場所を確かめることも重要ですが、製造方法も確認し ないといけませんね。あの品質の偽物を作れる技術があるとしたら 凄いことですよお﹂ 確かにそうだ。本社専属の鑑定士が見破れない偽物、となれば、 それはすなわち本物と同義である。ソフトウェアの違法コピーと異 なり、製品そのものの完全コピーというものは通常ありえないのだ。 ついでに言えば、例えば同じ会社が作った同じ電化製品でも、作っ た時期によって使っているパーツが微妙に異なっていたりする。こ れはクレームに対する改善や、コストダウンによる形状変更などの 影響である。完全なコピーを作るとすれば、同じ材料を買いつけ、 同じ機械で加工、縫製しなければならないわけだが、そんな事はま ず不可能だし、そうすれば当然、偽物と言えども高価なものになっ 316 てしまう。と、 ﹁お待たせしましたー、焼きおにぎりとたこ焼き、たらこスパゲテ ィとカキフライとたぬきうどんとギョーザと枝豆とピザでーす﹂ 店員のお兄ちゃんが、両手のトレイに山と積んだ料理を置いてい った。 ﹁⋮⋮って、なんですかこの冷凍食品の群れは﹂ ﹁お夕食です∼。陽司さんもコンビニのパンを食べたきりなんでし ょう?大丈夫です、ここは私が払いますし﹂ いや、そのとってもありがたいんですが。おれですら一歩引くく らい露骨な居酒屋メニューなんですが。 ﹁どんどん食べてくださいねー﹂ ﹁やはり製造工場を押さえないことには判断のしようがない、か。 おれは一晩張り込んでみますよ﹂ とりあえず枝豆をつつきつつ仕事の話をしてみる。 ﹁学校の方はよろしいんですか?﹂ ﹁うちの学部は九月末に秋期が開始するもんで。まだ数日、猶予が あるんですよ﹂ ﹁今年は大変な夏休みでしたねえ﹂ おれは乾いた笑いを返した。 ﹁ここ数年はいつも大変ですよ。大変具合で言えば、去年の方が大 変でしたかね﹂ ﹁そうでした、陽司さんがうちに来たのが一年前の四月でしたもの ねえ﹂ 時間が流れるのは早いですねー、と、不老不死、ついでにカロリ ーを吸収しない体質の美人吸血鬼はのたまった。 ﹁入学とほとんど同時でしたしね。それからすぐに直樹が入って。 仕事が本格化したのが一年前の夏休みからでしたよ﹂ ﹁あの頃の陽司さんは大変でしたよねえ﹂ 痛いところをついてくるなあ。 ﹁そんなに大変そうでしたかねえ。確かにイッパイイッパイだった 317 事は認めますけど﹂ ﹁ハイそれはもう。四六時中ピリピリしてて、﹃話しかけづらいオ ーラ﹄を事務所中に振りまいてましたしー﹂ 正直な人である。 ﹁⋮⋮色々と信じられなかったんですよ。周囲も、自分も。焦って もいましたしね﹂ 思い返せば、大学に入学した頃は随分と無様だった気がする。自 分の能力に振り回され、背負ったペナルティにあえぎ、果たさなけ ればいけない使命の大きさに絶望しながら無駄に手足を振り回し、 周囲を傷つけていた︱︱要は、ガキだったのである。と、おれは嫌 な事を思いだして顔をしかめた。 ﹁どうされました?﹂ ﹁いや。﹃毒竜﹄の野郎とやり合ったのも去年の夏休みだったなあ、 と思い出しまして﹂ ﹁あー。あの仕事はよく覚えてますよ﹂ ﹁おれとしては思い出したくもない汚点って感じですが﹂ 納得出来ません。依頼人の救出には、おれでは力不足ということ ですか? 亘理、お前今回の仕事の内容忘れたか? 当時おれの面倒を見て貰っていたのは、仁サンだったっけか。 忘れるわけもありません。日本の米を絶滅しうる害虫の蛹を、孵 化前に回収することです 仁サンは、おれを冷たい目で見据えて言ったものだ。 そうだ。そして、仕事を完遂するにあたり、無理に海鋼馬の連中 と事をかまえる事はない。依頼人本人が、自分の命より回収を最優 先しろと言っているんだ しかし、人として見過ごす事など出来ません! 318 んじゃあ仕方ないな。そんな勝手な奴に背中を任すわけにはいか ん。外れろ、亘理 わかりました。おれはおれで勝手にやります おれはそのまま事務所を飛び出し︱︱ ﹁でも、あれからですよ、陽司さんの﹃話しかけづらいオーラ﹄が 収まっていったのは﹂ つくづく、痛いところをついてくるなあ。 ﹁あん時初めて、自分のガキっぷりをハッキリ気づかされたような もんですし﹂ ﹁じゃあ、今はどうなんですか?﹂ おれはなんとなく指を打ち鳴らした。喫煙の習慣でもあれば、こ こで一服して間を置きたいところなのであるが、生憎おれはニコチ ンではなくカフェイン依存症である。 ﹁⋮⋮まあ。まだまだガキなのは変わらずですが。出来る事から一 つずつ、確実に進めていく事にしましたよ。鯨を食べ尽くそうと思 ったら、少しずつ切り取って食べていくしかないんですから﹂ ﹁そういうのを大人になったって言うんですよー﹂ ﹁おだてても何にも出ませんよ?﹂ ﹁次は陽司さんが真凛さんを大人にしてあげる番ですねー﹂ ﹁ぶホッ!﹂ 何食わぬ顔をしてイキナリ何を言い出しやがりますかこのレディ ーさんは。って、オレンジジュースが気管に入った、ヤバイヤバイ ヘルプ。 ﹁あの子がうちに来たのも、今年の五月ですし。あ。もしかして誤 解しました?﹂ ﹁してませんよ!﹂ ﹁じゃあそういう事にしますー。あの子もやっぱり、一年前の陽司 319 さんみたいにオーラを出してましたしねえ﹂ ﹁﹃話しかけづらいオーラ﹄ですか?﹂ ﹁んー。強いて言えば﹃教えてほしいオーラ﹄、かなあ﹂ ﹁⋮⋮あいつから何か聞いてるんすか﹂ おれはまだ、真凛を外して仁サンか直樹を要請する連絡をしてい なかった。その問いに来音さんはナイショです、とコメントするだ けに留めた。 ﹁︱︱まだ、あの子を信用できないんですか?﹂ ﹁信用してますよ。実際腕は立つし。だからこの四ヵ月やって来れ た﹂ ﹁能力はそうですね。じゃあ、仲間としてはどうでしょう?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 言葉に詰まったときはグラスに口をつける振りをして顔を隠す。 自覚しつつも直らない、おれの悪癖だ。 ﹁⋮⋮陽司さんは頭の良い方ですから﹂ ﹁だからおだてても、﹂ ﹁そういう意味じゃないですよー。頭が良いから、基本的に全て自 分で場の流れをコントロールしようとするんです。その場に揃った 敵も、味方も、自分自身もカードの一枚と見なして、最適な解法を 計算して弾き出すんです。自身すら過信せずに﹂ 反論しようとして、口をつぐんだ。正直、思いあたる節が、ない でもない。 ﹁毎回メンバーが入れ替わるこういう仕事でしたら、それで大概は 上手くいくでしょうけど。あと、うちの直樹みたいに、陽司さんと 対等に張り合える子なら気にもしないでしょうし。でも、毎回指示 を受ける人間には、いつもあなたに一枚のカードとして扱われる境 遇に不満を感じる人もいるかも知れません﹂ ﹁あいつが、不満を感じていると?﹂ 来音さんは柔らかくおれの言葉を受け止めた。 ﹁今の陽司さんは、真凛さんの分まで色々と背負い込もうとしては 320 いないでしょうか。たまには、陽司さんが真凛さんに助けてもらう ことがあってもいいんじゃないでしょうか?﹂ おれが、真凛に助けて貰う、ねえ? ﹁あの子はいい子です。だんだんこの仕事にも慣れてきて、自分に 何が出来るか、出来ないかもわかってきたんですよ﹂ ﹁確かに、暴力だけなら超一級品ですが﹂ 冗談めかしたが、来音さんはむしろ真摯な表情だった。 ﹁陽司さんは冗談でそう言ってても、あの子は冗談以上に受け取っ ているんです。それで悩んでいるんですよ。﹃自分には戦うことし か出来ない。今まではそれだけで良かったけど、それだけではいけ ないような気がする。でも何をしていいかわからない﹄。そういう 事です。さらに言ってしまえば、あの子はもっと貴方の役に立ちた いんですよ﹂ 来音さんの言葉に、おれは返事のしようもなかった。氷だけにな ったグラスに突っ込んだストローが、ずずずずと間抜けな音を立て た。 ︱︱喧嘩にならないから居ても意味が無いってこと!?︱︱ ︱︱だいたい陽司はいつも自分だけで︱︱ 氷をじゃらじゃらと鳴らす。グラスに両手を置き、テーブルに突 っ伏した。 ﹁でもねえ。あいつはまだ十六歳なんですよ﹂ カッコ悪ぃ。これじゃ飲み屋で管巻いてるサラリーマンだ。 ﹁この業界、いかに仁義があるっつっても、一歩氷を踏み割れば、 下に広がってるのは私欲と悪意のヘドロです。底に行けば行くほど、 殺人、脅迫、誘拐。知りすぎたエージェントの抹消、同胞の密告、 裏切り。なんでもあるじゃないですか﹂ 格好いい仕事やお気楽な仕事ばかりでもない。この一年間と半で、 時々そういった裏事情が透けて見える事があった。 ﹁今回の密入国の件だってそうですよ。ナマで見るには刺激が強す ぎる。あんなのはニュースで見て義憤に燃えてるくらいで丁度いい 321 んです﹂ ﹁だから真凛さんを仕事から外したと?﹂ ﹁あの場で彼等を助け出したとして、その後どうするか。不法入国 者として警察に突き出すか。一度助けた以上は最後まで生活の面倒 を見てやるのか。子供どころか。大人だって簡単に判断を下せるも んじゃありませんよ﹂ くそ、何かぺらぺら下らんこと喋ってるなおれ。このドリンクバ ー、アルコールでも混ぜてあるんじゃなかろうな。 ﹁あいつのいいところはね。この御時世には珍しいくらい偏見がな い事です。世間的には色眼鏡で見られがちな、例えばホームレス、 オタク、不良学生、外国人。あるいは有名人、お金持ち、権威ある 学者︱︱どちらにも気負うことなくごく普通に接する事が出来る。 おれみたいな、二重三重に深読みして対策を立てながらでなければ 人と話せないような人間には、到底真似が出来ない。だから。あい つにはまだ、あんまり人間の一番汚い部分を見せたくないんですよ﹂ ﹁でも、陽司さんが十六歳の時は﹂ ﹁あー。この業界でもさすがにおれは例外でしょう。中学生日記の 時間にノンフィクション戦争映画をやってたよーなもんですからし て。って、なに笑ってるんですか来音さん﹂ ﹁いえいえ。陽司さんは本当に真凛さんを大事にしてるんだなー、 と﹂ ﹁⋮⋮スタッフのアシスタントに対する義務感って奴ですよ。義理 堅いんですよ?おれは﹂ 来音さんはそこで笑いを収め、おれの肩に手を置いた。 ﹁でもね、思い過ごしかも知れませんよ?﹂ ﹁と、言いますと?﹂ ﹁あなたが思っているよりずっと、真凛さんは芯が強いんじゃない かって事です。どうです?一度、彼女の能力ではなく。彼女自身を 信じてみたら﹂ ﹁信じる、ねえ⋮⋮﹂ 322 ﹁それでは私はまた事務所に戻ります。一日がかりですけど、どう か頑張って下さい﹂ 席を立つ来音さん。おれはそれに頭を下げて応える。と、その去 り際。 ﹁ところで、おれが真凛を外した事、いつ知ったんですかね?﹂ おれの質問に、来音さんはぺろっと舌を出して、 ﹁そうでした。陽司さんと話すときは展開が早すぎるのが難点でし たね﹂ そう応え、彼女がここに来るまで打ってくれた手を明かしてくれ た。 って。あれだけあった冷凍食品の群れは、どこへ消えたのだろう ⋮⋮? 323 ◆10:一人では 深夜一時。 都内とはいえ、住宅街、それも駅から離れているとなれば、あた りはすっかり闇に包まれる。二十四時間点灯しているマンションの 廊下の蛍光灯、電柱の照明の光、そして月の光がそれに必死に抗い、 ナガツマ倉庫の中はかろうじて人影を判別出来る程度の視界が確保 されていた。今、その裏門が開け放たれ、一台のトラックが倉庫の 中に入り、そのコンテナを開いている。開いたコンテナに、ビニー ル袋に詰められたプルトンのバックが次々と詰め込まれてゆく。作 ファフニール 業を行っているのは、数人の﹃狂蛇﹄の構成員と、ここに﹃一時保 管﹄されている不法入国者達だ。 ﹁臭いが移りはせんかな﹂ その様子を壁に背を預けながら見やり、﹃毒竜﹄モルデカイ・ハ イルブロンは興味なさげに言った。実際、興味が無い。モルデカイ にしてみれば、このバッグが売れようが売れまいが彼の人生に一ミ リグラムの影響も無い。彼の人生は極めてシンプルだ。自分がもっ とも楽しい事をする。だからこそ、一度自分の欲望に火が点けば、 たとえば娘一人を手に入れるために村一つを滅ぼす程度は平気でし てのけるし、己の興味が無い事であれば、例え目の前で子供が皮を 剥がれ焼き殺されていようと、昼食時に流れているラジオ放送より 印象に残りはしない。彼自身がもっとも長く人生を過ごした戦場で のトラウマか、と言えばそうでもない。彼は、もともとそういう人 間だったのだ。派遣業界に移籍する以前から敵に恐れられた彼の二 つ名、﹃毒竜﹄のうち、﹃竜﹄の字は、彼のその性格に起因する。 傲慢で、貪欲で、それが当然の、竜。雇い主の海鋼馬でさえ、彼を 324 制御する事など出来はしない。彼に枷をつけられるのはただ一人だ けである。 ﹁そう思うのであれば多少は彼等の衛生環境を考慮してあげたらい ヴァサーゴ かがですか?﹂ ﹃定点観測者﹄鯨井和磨の言葉にも、鼻を一つ鳴らしただけだ。 彼にことさらに密入国者を虐待する意図があるわけではない。心底 どうでもいいのだ。密入国者の境遇を作り出しているのは﹃狂蛇﹄ である以上、連中が好きなようにすればいいだけだ。 ﹁言ってみただけだ。くだらん。依頼とはいえ、毎日毎日こうも退 屈な光景を見せつけられれば、気まぐれに感想の一つも述べるわ﹂ 紆余曲折を経て戦場を去り、海鋼馬のエージェントとなった今、 彼は飢えていた。全存在をかけた死闘、あふれんばかりの金。極上 の女。一方的な虐殺。何でもいい。彼の求めるものの基準は、彼自 身にもよくわからない。美醜、金銭価値の有無に関わらず、その場 の気まぐれで決まる。そして今は、何も興味のある対象が無かった。 ﹁ならば吉報です。退屈せずには済みそうですよ﹂ ﹁それは、この連中の中に混じっている小娘の匂いのことかな?﹂ ﹃毒竜﹄の太い顎がひかれ、獰猛な笑みがあらわになる。 ﹁気づいていましたか﹂ ﹁貴様、俺を馬鹿にしているのか﹂ 引かれた顎の奥、喉の中でごろごろと何かが唸る音が響く。 ﹁⋮⋮いえ。確かに素人の侵入でしたが﹂ だが、そう悪いものでもなかった。とくに足音の遮蔽ぶりは完璧 に近かった。並のエージェントでは気づかない可能性の方が高かっ ただろう。﹃定点観測者﹄鯨井のような探知系の能力者ならともか く、戦闘に特化した﹃毒竜﹄が気づくと言う事は、なかなかありえ ない。S級エージェント︱︱文字通りのエースクラスを意味するA 級の、さらにその上に位置する者の称号は、決して伊達ではないと いうことか。 ﹁業界随一の﹃フレイムアップ﹄の﹃殺捉者﹄です。警戒を﹂ 325 ﹁日本の零細組織か。それなりに粒が揃っているんだったか?﹂ ふん、と鼻を鳴らす﹃毒竜﹄。 ﹁ええ。他に伝え聞いているところでは、嘘か誠か、真の吸血鬼と ウェストウィンド ゲートキーパー いう﹃真紅の魔人﹄。破壊の女帝﹃暁の魔女﹄。誰も阻むことの出 来ぬ﹃西風﹄。聖十字を背負った退魔師﹃守護聖者﹄。時間と因果 の支配者﹃ラプラス﹄。そして幾柱もの最強最悪の魔神を従える﹃ 召喚師﹄﹂ ﹁﹃西風﹄には覚えがあるな。ちょろちょろと逃げ回っている鬱陶 しい奴だった﹂ 果たして言葉どおりの意味か。﹃毒竜﹄の表情は剣呑極まりなか った。 ﹁退路は断ちました。これから追い込みますので、仕留めてくださ い﹂ ﹁おい﹂ 立ち去ろうとした鯨井を呼び止める。反射的に振り替えったその 首を、﹃毒竜﹄の右手が掴んだ。 ﹁俺に、命令を、するな﹂ 万力のような力で締め上げられ、鯨井の表情が苦悶に歪む。うめ き声すら上げる事も出来ず、たちまち顔が紫色に変色していく。 ﹁⋮⋮フン﹂ 右腕一本で鯨井の身体を振りとばす。二メートル離れた壁に叩き つけられて床に崩れる鯨井に、怯えた視線を向ける作業者達。 ﹁何を突っ立っている?﹂ ﹃毒竜﹄の言葉に、皆が鞭で打たれたように作業を開始した。暇 つぶしと称して腕や足の一本を折るくらいは平気でやる男だと言う 事を、誰もが良く知っていた。腕や足だけで済めば幸いという事も。 ﹁立て。狩りの時間だ﹂ 咳込んでいる鯨井に声をかけ、彼は大きく口を開く。そして、周 囲の大気を吸い込みだした。 326 かあああぁぁぁぁぁぁぁぁ⋮⋮。 奇妙な事が起きた。呼吸によって肺腑が膨らむ。それはいい。だ が、その度合いが尋常ではない。胸骨がべきべきと音を立て、まる で巨大な風船を飲み込んだかのように、鍛え上げられた﹃毒竜﹄の 上半身が丸く膨らんだ。長く長く、吸気は続く。人体の構造上ギリ ギリまで上半身が膨らんだところで、ようやく吸気は止まった。 ﹁ぐむっ﹂ 唸り声ともとれる気合を入れると、膨らみきった上半身の筋肉を 一気に引き締めた。球体に近かった体型が、たちまちもとの筋肉質 の逆三角形に戻ってゆく。だが、あれほど大量に吸い込んだはずの 空気は、一ミリグラムたりとも吐き出されてはいない。体内に蓄え られた空気はどこへ消えたというのか。何事も無かったかのように ﹃毒竜﹄は首をごきりと鳴らす。 ﹁始めろ﹂ まだ酸欠で黒ずんだ顔をしたままの鯨井だったが、その指示には 従った。手元のリモコンのスイッチを入れる。倉庫の配電盤に割り 込みさせた回路が作動し、作業用のライトが二つ、壁の隅を照らし だした。ダンボールの隅に潜む、小柄な人影を。 自分に向けられた眩いライトを認識した瞬間、七瀬真凛は自分の 失敗を悟った。撮影モードにしていた﹃アル話ルド君ライトエディ ション﹄をナップザックに放り込みつつ、猛然とダンボールと壁の 隙間を疾走する。ここまでで一挙動。呼吸を整え、自身を戦闘態勢 へと切り変えてゆく。その行く手に立ち塞がる二人の﹃狂蛇﹄構成 員。作業着の内ポケットから銃を引き抜こうとしている。 ﹁遅いっ!﹂ 二人の中間を一気に駆け抜けた。すれ違い様に左右の手刀をそれ 327 ぞれの右手首に叩きこみ、銃を叩き落している。片方は既にセーフ ティーが外れていたらしく、地面に落ちた拍子に弾丸が撃ち出され た。倉庫の鉄骨に当たり、火花と金属音の残響を撒き散らす。作業 に当たっていた密入国者達が悲鳴を上げて一斉に浮き足立ち、乏し い明かりの中、たちまち倉庫内はパニックの坩堝と化した。その隙 に真凛は一気に倉庫出口、正門側の通用口まで駆けよる。だが、ま ざに真凛が手を触れようとしたそのタイミングで、がしゃんと音を 立ててドアの防犯用オートロックがかかった。 ﹁う、嘘?﹂ ﹁一人でここまで入り込んでくる度胸は見上げたものですが﹂ その背後からかけられる、穏やかな声。遠隔サイコメトリーの使 い手﹃定点観測者﹄鯨井和磨。だが真凛はその名も、己が触れてい たドアに彼の﹃受信器﹄が焼き付けてあった事も、知る由は無い。 ﹁所詮それだけです。最初から監視されていた事にも気づけないよ うな半熟者には﹂ 鯨井の指がリモコンを押す直前、真凛の脳裏に突如、危険な﹃円 錐﹄が浮かぶ。銃弾の弾道を予測しうる彼女の能力は、前方の鯨井 の挙動から、彼が仕掛けようとしている攻撃の範囲を瞬時に読み取 った。 ﹁警告を無視した報いを与えねばなりません﹂ ﹁⋮⋮!!﹂ 全力で横に飛ぶ。途端、ドアの上方に仕掛けられた指向性の地雷 が起動し、真凛に向けて超高速のゴム弾のシャワーを撒き散らした。 銃弾なら避けきれる娘も、広範囲をカバーする攻撃の不意打ちは完 全には避け切れない。右足にゴム弾が数発被弾する。 ﹁ぅくっ!﹂ ゴム弾が周囲にはじけ、ダンボールを引き裂き鉄骨にぶち当たる。 民間の建造物の屋内で地雷を作動させるなど正気の沙汰ではないが、 物質の情報を読み取る﹃定点観測者﹄の能力を使用すれば、最大の 効果範囲を引き出しつつ、建物への被害を最小に留める事は造作も 328 無い。間髪いれずリモコンのボタンを次々と押していく。壁際にし かけられた幾つもの地雷。真凛の視界に、次々にレッドゾーンが形 勢されていく。 ﹁でやああああああっ!!﹂ 右足のダメージを無視して一気に疾走。炸裂するゴム弾のシャワ ーを紙一重で追い抜いてゆく。だが、走り続けている以上、前方に しか進む事は許されない。そして、その行きつく先は。 ﹁はっはははは。いいぞ﹃定点観測者﹄。前座の余興としてはなか なか面白い﹂ 裏門、トラックの搬出口に待ち構える﹃毒竜﹄の巣だった。 329 ◆11:﹃西風﹄のごとく ね ﹁貴様は手を出すなよ。せっかく興に乗ってきたところだからな﹂ ポケットに両手を突っ込んだままこちらを睨めつける、そのちろ ちろと燃える石炭のような眼を見て真凛は直感した。︱︱強い。 ﹁なら、やるまでだよ﹂ その事で逆に真凛の腹が据わった。こいつを倒し、あの地雷使い も倒す。その上であの人達を助け出し、偽物のバッグの出所を突き とめる。それで万事がうまく行く。腰抜けのあいつが明日の朝やっ てきたら、﹁もう解決したよ﹂と言ってやるのだ。あいつはきっと 驚いて、いかにボクの実力を見誤っていたかを思い知るだろう。呼 吸を一つ。姿勢を低くし、一気に突進した。 ﹁ほう⋮⋮﹂ 呼応する﹃毒竜﹄がポケットから取り出したのは、銃。小型のリ ボルバーを抜き放ち、凄まじい速度で連射する。だがそれは真凛に とっては脅威ではない。浮かび上がる﹃線﹄をかわし、一気に間合 いを詰める。と、﹃毒竜﹄の左膝が浮いていた。 ﹁くっ!﹂ 踏みおろされる靴底を、ギリギリで足を捻ってかわす。銃撃は囮。 奴の狙いは最初から、負傷した真凛の脚を踏み折る事だった。かわ したものの、無理な挙動は痛んだ右足に過剰な負担をかけた。苦痛 が駆け上がってきて脳裏に弾ける。だがそれを確認する余裕も無く、 飛んできた左のフックをかわす。開手で大きく振るわれたフック、 いや、爪撃は、近くにあった鉄の支柱に被弾し、まるで紙細工のよ うに易々と引き裂いた。甲高い金属音と火花が盛大に撒き散らされ る。 330 ﹁︱︱薬物!?﹂ 真凛の表情に警戒の色が濃くなる。敵の使うスキルは、典型的な 軍隊格闘技だ。熟達の域に達しているが、それだけなら真凛の敵で はない。だが、あの膂力は明らかに常人に出しうるそれではない。 二ヶ月前に全身に機械を埋め込んだ男と戦ったが、目の前の男の膂 力は、ドーピングでもしているのだろうか、それを凌駕している。 加えて、動作の精度という点でも上回っている。真凛のような無手 の格闘術を修め、先読みに長けている者にとっては、攻撃が飛んで くる速度よりも、むしろ土壇場で攻撃の軌道を変化しうる精度の方 が、脅威になりうるのだ。 ﹁薬物?違うな﹂ 鉄骨を斬り裂いたはずなのに怪我一つ無い掌を握りなおし、﹃毒 竜﹄は笑った。 ﹁俺のこれは生まれつきだよ﹂ そう言うと、﹃毒竜﹄は、百九十センチの長身を沈み込ませ、一 気に天を貫くアッパーカットを打ち出した。早く正確だが、動作が 大きい。真凛が見切って退く。だが、かわされた事を気にも止めず、 そのまま撃ち下ろしへと軌道を変化させる。続けて再び左のフック。 怒涛のラッシュが始まった。 撃ちだされる猛攻に、真凛は防戦一方になっていた。根本的な膂 力が違うため、安易な受け技ではそのまま斬り破られる可能性があ った。かと言って、柔法⋮⋮関節技や投げ、捌き技を仕掛けるには、 ﹃毒竜﹄の技は剣呑過ぎた。溢れるパワーに隠されているが、奴の 動きは恐ろしく合理的で、無駄がない。シンプルな軍隊格闘技は、 相手を効率的に壊すという一点において恐ろしく有用なのだ。なま じの小技を仕掛ければ、手痛いしっぺ返しが待っている。そう予感 させるだけの力量が奴にはあった。真凛が今相対しているのは、言 わば、猛獣の膂力を持った達人だった。 確かにとんでもなく強い。⋮⋮だけど! ラッシュのパターンを脳裏に記憶し、そのリズムを抽出する。フ 331 ェイントを排除し、その奥に隠れているベーシックのパターンを探 り出す。 居合いのような回し蹴り。そしてそれをフェイントにした後ろ回 し蹴り。次に来るのは⋮⋮裏拳回し撃ち︱︱読めた! 唸りをあげてすっ飛んでくる裏拳に合わせるように腕をさし伸ば しつつ、勢いよく全身を反転させる。掴んでから投げるのでは間に 合わない。伸ばした腕が奴の裏拳の腕を掴むと同時に腰を跳ね上げ、 ﹁っせえええやあああっ!﹂ 一気に背負って投げた。投げつつ肘の関節を極め、掴んだ手首を 握り潰せ⋮⋮ない! ずん、と音を立てて巨体が叩きつけられる。だが、瞬時に足が跳 ね上がり、真凛の追撃を阻止する。振り上げた足を振り下ろす反動 で、間合いを取りながら一気に立ち上がる﹃毒竜﹄。 ﹁ほおう。大した握力だ﹂ 己の手首を見つめ感嘆の声を上げる。そこには真凛の指の跡がく っきりとついていた。 ﹁だが、俺の筋繊維は人間のそれとそもそもモノが違う。⋮⋮見誤 ったな?﹂ 事実だ。真凛の握力は、その細い指からは信じられないほど強力 だが、七瀬式殺捉術の要諦は本来それではない。触れた相手の箇所 の構造を瞬時に把握し、もっとも脆い所を握りつぶすための触覚と、 指の動きである。こんなミスをするなんて。 ﹁騒ぎすぎました。いくらここが防音構造でも所詮は旧式。これ以 上やると周りが気づきます﹂ 後ろには、﹃定点観測者﹄と、そして集まってきたらしい﹃狂蛇﹄ の構成員達がいた。 手に手に銃器を構え、狙いを定めはじめている。密入国者達は一連 の騒ぎにパニックを起こしていたが、閉鎖されたこの部屋から出る 事も出来ない。やがてかけつけた﹃狂蛇﹄の構成員達が銃で脅しつ けて、一箇所に固められている。刻一刻と、状況は不利になりつつ 332 あった。焦るな、焦るな。真凛は自分の中に芽生え始めた感情を必 死に否定する。 ﹁俺に命令するな、と言っただろう﹂ ﹃毒竜﹄はそう言ったものの、一理ある事は認めたようだ。真凛 の方を見やると、突然、その顎を開いた。途端、真凛の脳裏に、前 方の膨大な範囲を囲む﹃円﹄が浮かび上がった。反射的に大きくバ ックステップして間合いをとる。次の瞬間、 ﹁かあああっ!﹂ ﹃毒竜﹄の喉の奥から青黒いガスが吐き出された。 ﹃毒竜﹄モルデカイ・ハイルブロンは、真っ当な両親から生まれ た人間のはずだった。 ミュータント だがしかし、生命の神秘か、あるいは見えざる誰かの悪意か。彼 は純粋な意味での人間ではなかった。突然変異体。遺伝子異常で本 来人間に必要な器官が欠けていたり、あるいは通常の人間が持ち得 ない能力を保有していたりする。 彼に生まれつき与えられたのは、﹃暴力﹄だった。常人を遥かに 凌駕する戦闘用の肉体。生まれつきそんなものを与えられて育った 子供は、やはり真っ当な人生を歩めなかった。やがて彼は戦いに生 き、やがて血の味を覚え。戦場で生業を営む事になる。 ﹃毒竜﹄の名のもう一つ﹃毒﹄の字の由来は、まさにここにある。 突然変異体として誕生した彼の体内には、一部の昆虫や動物が持つ ような毒腺が備わっているのだ。大量に吸気した空気に、この毒腺 から分泌される有機毒物を吹きつけ、混合。そして全身の筋肉で肺 腑を締め上げ圧縮し毒ガスとする。戦闘時に喉奥から高圧で吐きか けるこの毒ガスの名こそが﹃ドラゴンブレス﹄。戦闘系異能力者の ファフニール 中でももっとも凶暴で、もっとも効率的な戦いをする一人として、 ﹃毒竜﹄の名を確たるものとした由来なのだ。 真凛は濛々と立ち昇る死の煙を回避する。恐ろしい技だがタネは 333 見切った。これならいける! そう、思った瞬間、第二波が来た。 脳裏に描かれる、﹃円﹄の範囲。幸い右方向にまだスペースが開 いている。そちらに身を逃せば⋮⋮そう思い、意識をそちらに向け た瞬間凍りついた。円のギリギリ外の範囲に固まっている、密入国 者達。自分がそちらに逃げ出せば、それを追い撃つブレスが彼等を 捉えるだろう。 このままだと、あの人達を巻き込む。 その躊躇が、一瞬の、だが致命的な隙になった。まともに吹きつ けられる毒ガス。咄嗟に呼吸を止めたものの、その程度で無効化出 来るほど﹃毒竜﹄の切り札は甘くなかった。 ﹁⋮⋮ぐ⋮⋮﹂ 真凛の視界が歪み、頭の中に鈍痛が響く。大気に触れたブレスは 数秒程度でその効能を失うが、その数秒の間に例え僅かにでも呼吸 器や皮膚から吸い込んでしまえば、容易く致死量に達する。内功を 練り上げ、多少は内臓や循環系を制御出来る真凛だからこそこの程 度の被害で留められたものの、戦闘力の減殺は目を覆うばかりだ。 世界が傾いた、と思ったときには、地面に崩れ落ちていた。 ﹁ひきょう、だぞ⋮⋮﹂ 気を抜くと遠くなる意識を必死に引きとめ、声を絞り出す。先ほ どの攻撃を、﹃毒竜﹄は明らかに狙ってやった。真凛が攻撃範囲を 正確に読む事を見抜いた上で、しかも彼等を見捨てられないと判断 した上で罠を張ったのだ。 ﹁一般人を、巻き込むのは、仁義に、反するって聞いたぞ⋮⋮﹂ ﹃毒竜﹄が哄笑する。 ﹁貴様は阿呆か?ここのどこに一般人がいる?﹂ ﹁何、を⋮⋮﹂ ﹁どこをどう見回してもここにあるのは﹃商品﹄だけだ。なあ、﹃ 334 定点観測者︶﹄﹂ 声をかけられた後ろの男の表情は、暗がりに紛れてわからなかっ た。 ﹁こいつ⋮⋮っ﹂ この倉庫の中にあるのは、袋詰めされたプルトンのバッグと、そ して密入国者達。﹃毒竜﹄は、それを一まとめにして﹃商品﹄と言 ってのけたのだ。真凛の黒曜石を思わせる瞳が、滅多にない真の怒 りの色に燃え上がる。その腹を﹃毒竜﹄は容赦なく蹴上げた。咄嗟 に臓腑を引き上げアバラに収め、丹田に気を集める。しかし、人間 の規格外の威力で撃ち出された鉄板入りブーツの威力は到底殺しき れるものではない。軽量の真凛はサッカーボールのように吹き飛び、 放物線を描いて段ボール箱の山の中へ落下した。 ﹁あぐ⋮⋮うぅっ!﹂ ﹁ふふん、﹃フレイムアップ﹄のガキどもは揃いも揃ってお目出度 いな。一年前、あの忌々しい﹃西風﹄につき従っていたアシスタン トも、お前とそっくりの行動をしていたぞ﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ ﹁あっちは男の方だったか。﹃因果歪曲﹄なんぞを使ううっとおし いガキでな。なかなかてこずらせてくれたが、何、今と全く同じ方 法で仕留めたわ。お前の同僚だろう?﹂ 振り上げた腕に大量の血液が送り込まれ、一回り太くなる。広げ られた指に異様な圧力がかかり軋みをあげる。異常な膂力を誇る筋 肉と、同様に、桁外れの硬度を誇る爪による一撃。﹃ドラゴンクロ ウ﹄と呼ばれる彼のもう一つの得意技である。 ﹁殺すつもりはない。だが、出血死しても恨むなよ﹂ 詭弁だった。業界の﹃仁義﹄では、敵対エージェントの殺害は認 められていない。だが、過失による死亡事故はやはり発生する。﹃ 毒竜﹄の言葉は、後で故意ではなく過失だったと弁明するためのも のだった。どのみち、現場検証など出来ないし、されないのだ。 真凛はそれでも目を反らさず、自分に迫る敗北と死を見据える。 335 振り下ろされる腕。分厚い石柱すら破断する必殺のカギヅメが、 容赦なく叩きつけられた。 ﹁︱︱ぬ!?﹂ ﹃毒竜﹄の表情に異変が生じた。振り下ろされた必殺の一撃は、 間違いなく小娘の胴体を爪の数だけ断ち切った。だが。その手ごた えはあまりにも軽すぎた。無残に斬り裂かれた小娘の身体を確かめ る。だがそこにあったのは。﹃へのへのもへじ﹄と書かれた半紙が 一枚貼り付けられた、あまりにも人を小馬鹿にしたつくりの藁人形 だった。 ﹁ぐっ﹂ ﹁がっ﹂ 同時に、舞い飛ぶ銀光。倉庫の各所に散らばっていた﹃狂蛇﹄の ウツセミ ?︱︱まさか!!﹂ 構成員達が、次々と飛来したナイフに貫かれて倒れる。 ﹁ 四方八方を見渡した﹃毒竜﹄の視線が、やがて一箇所、偽ブラン ド品が積み込まれたトラックのコンテナの上に釘付けになる。そこ には。 ﹁どーもー。忌々しい﹃西風﹄です﹂ ウェストウィンド ﹁どーもー。﹃因果歪曲﹄なんぞをつかううっとおしいガキです﹂ 真凛を抱えあげた﹃西風﹄鶫野仁サンと、このおれ、亘理陽司が いた。 336 ◆12:スタッフとアシスタント ﹁やーれやれ。どうにかギリギリ間に合ったって感じだなあオイ﹂ 仁サンは野太い笑みを浮かべて、懐から古めかしい巾着袋を取り 出した。 ﹁今回は本当に、来音さんには感謝してもしたりないですよ﹂ 本来であれば明日まで別件にかかりっきりのはずの須江貞さんと 仁サンのスケジュールを芸術的な手法でやりくりし、今夜のわずか な時間だけ、仁サンの行動を自由にしてのけたのは来音さんの功績 である。巾着袋を放る仁サン。 ﹁陽チン、これ、ウチの秘伝の即効性の毒掃丸。真凛ちゃんに飲ま せてやんな﹂ ﹁材料は何使ってるんですか?﹂ 仁サンはにやりと笑った。 ﹁水神から授かった秘伝の錬丹だよ。切り傷、打ち身、何でもござ れ﹂ ﹁なんすかソレ。だいたい飲み薬のくせに切り傷に効くんすか?﹂ 回答は得られなかった。どうやら原料は聞いてもシアワセにはな れないようだ。おれは黙って巾着袋を開くと、鉛色をした丸薬を二 粒取り出す。青ざめた顔のまま昏倒している真凛を見て、ようやく おれは自分の采配の間抜けさ加減を実感した。 ︱︱ごめんな。 ﹁すんません仁サン⋮⋮いえ、先輩。迷惑をおかけします﹂ このわずかな時間だけ復活した、一年前のスタッフとアシスタン トのコンビ。おれ達の口調は自然に、かつてのそれに戻っていた。 ﹁亘理﹂ 337 ﹁ウス﹂ ﹁五分だけ稼いでやる。尻拭いはここまでだ。それで体勢を立て直 せ﹂ ﹁了解しました、先輩﹂ ﹁貸しにしておくぞ﹂ 言うや、鶫野先輩は羽毛の軽さでコンテナから舞い降りた。おれ は手早く真凛の口に丸薬を押し込む。ところが苦悶の表情を浮かべ て歯を食いしばる真凛の口腔は、丸薬の侵入を頑なに拒んでいる。 ⋮⋮おーい、飲めよ真凛。くおら、口を開けこのお子様、ってぎゃ あ、指を噛むな!ええい仕方ねえ。 ﹁あの小僧はともかく。貴様までが出張ってくるとは嬉しい誤算だ ぞ、﹃西風﹄!﹂ 竜の顎を思わせる口を吊り上げ、﹃毒竜﹄は歓喜の声を上げる。 かたや鶫野先輩の表情は、困惑に満ちていた。たっぷり二秒、﹃毒 竜﹄の顔を見つめ出てきた言葉は。 ﹁あーっと。お前、誰だっけ?﹂ と、いとも無残なものだった。絶句する、﹃毒竜﹄。 ﹁貴様⋮⋮。俺の顔に泥を塗った一年前の戦い、忘れたとは言わさ んぞ!﹂ ﹁わりー。忘れちまったみたいだわ。プライベートも含めて、俺、 忙しいんでさあ﹂ ﹃毒竜﹄の奥歯がぎりぎりと唸りをあげる。挑発だと言う事は理 性ではわかりきっている。だが、異常なまでに強固な自尊心にヒビ を入れられ、そこを逆撫でされたとあっては、﹃毒竜﹄の沽券に関 わる。 ﹁﹃定点観測者﹄!貴様、こいつらの侵入に気づかなかったとでも 言うつもりか!?﹂ 真凛をトラップで追い込んで以来、後方でずっと待機していた鯨 338 井さんに怒鳴る。声をかけられた方の反応は到って涼しいものだっ た。 ﹁手を出すな、と言ったのは貴方でしょう。それに私の﹃受信器﹄ で感知出来るのは、物質情報を除けばあくまで常人レベルの視覚、 聴覚、嗅覚の情報です。伝説の﹃西風﹄が本気を出したのなら、例 えいくつ受信器を展開しても、どれにも捕らえる事など出来はしま せんよ﹂ ﹁貴様、それで気の効いた事を言っているつもりか!?﹂ ﹁お取り込み中のところ悪いんだけどよお。俺、忙しいんだって。 さっさと片付けさせてもらうわ﹂ 、何度も通用すると思うなよ﹂ ﹃毒竜﹄の怒りは頂点に達した。この時点で奴は、鶫野先輩の術 ウツセミ 中に嵌っている。 ﹁貴様の かああああ、と喉から吐き出される大量の﹃ドラゴンブレス﹄。 青黒い致死の気体が半径三メートルの空間を埋め尽くし、暗闇の中 なお視界が不透明になる。 ﹁⋮⋮!?﹂ 異変に気づいたのは﹃毒竜﹄本人だった。長くとも数秒で晴れる はずの自分の毒霧。だが、なぜか十秒近く立っても一向に青黒い煙 は晴れる気配がない。やがて煙は彼自身をも包みこみ、その視界を 閉ざした。 ﹃ギリギリまで俺は手助けを見合わせていたんだがな﹄ ﹁どこだ!﹃西風﹄!?﹂ 煙の中、どこからともなく響く先輩の声。声のある方向に﹃毒竜﹄ は腕を振るうが、手応えはない。 ﹃まあ、やるとは思っていたがね。これはお前さんの露骨な仁義違 反へのペナルティーってとこだ。しばらく遊んでもらうぞ﹄ 煙の合間にかすかに浮かび上がる先輩の姿。 ﹁そこか!﹂ 迷わず振り下ろされる必殺の﹃ドラゴンクロー﹄。その爪を、手 339 甲から引き出した短刀のような形の手裏剣、 苦無 で受け止める 先輩。先輩も体格が良いとは言え、﹃毒竜﹄の膂力を苦無で受け止 めるのは尋常の業ではない。と、 ﹃おおい、どこ見てんだよ﹄ ﹃毒竜﹄の背中に、無遠慮とも言えるほどのヤクザ・キックが炸 裂した。たたらを踏んで振り返った﹃毒竜﹄は有り得ないものを見 た。それは、たった今、現在進行形で自分がカギヅメを押し付けて いるはずの、鶫野先輩だった。 ﹁﹃西風﹄が二人⋮⋮!?﹂ ﹃いやいや、俺の事も忘れないでくれよ﹄ 横合いから声をかけてきたのは、やはり﹃西風﹄。 ﹃俺の出番も忘れないでくれよお﹄ その横にも、やはりもう一人。その横にも。気がつけば、﹃毒竜﹄ は視界の通らない煙幕の中、無数の﹃西風﹄に囲まれていた。 ﹁おのれ、幻術か!?﹂ その言葉に、無数の﹃西風﹄が一斉に応える。 ﹁﹁﹁あーもうこれだから軍人は。そう芸の無い言い方をされっと つまんねえだろ。ここはやっぱり、ジャパニーズ・オヤクソクに従 ってこう言って欲しいわけよ﹂﹂﹂ 全員が一斉に直立し、左拳から人差し指だけを立て、それを右拳 で握りこみ、やはり人差し指を立てる。声にはならなかったが、﹁ 口に巻物を加えていないのは御愛嬌﹂、と先輩は確かに呟いた。 ﹁﹁﹁忍法、影分身!﹂﹂﹂ ウェストウィンド 四方八方に乱れ飛ぶ、無数の影。 ﹃西風﹄︱︱体術、常なる忍術のみならず、数々の忍法を体得し、 天地生死すら意のままに操ると称された異能のシノビは、その力を 解放した。 ﹁うん⋮⋮陽、司?﹂ 340 ﹁よー、起きたか寝坊すけ﹂ おれは真凛を起こしてやりながら声をかけた。先輩の薬の効果は 覿面だった。真凛自身の鍛錬もあるのだろう。体内の毒素は猛烈な 新陳代謝によって、汗として流れ出していたようだ。汗で張り付い たシャツが、貧相な身体を浮き上がらせているのが哀れではある。 目を二三度瞬かせて、完全に覚醒した。 ﹁ボクは、あいつと⋮⋮!?﹂ ﹁涎たれてんぞ﹂ 慌てて口元を拭う真凛に、おれは事実を告げた。 ﹁昏倒して1セットロスト。ヘルプが入らなかったら永遠に起きな かった可能性大だ﹂ おれの指摘に、真凛はがっくりと肩を落とした。 ﹁負け⋮⋮ちゃった⋮⋮﹂ ﹁そーだな﹂ ﹁やっぱり⋮⋮拳だけじゃ何も出来なかった﹂ ﹁まーな。特にアイツはタチ悪いしなあ﹂ おれは淡々と答え、コンテナの下の戦闘を見やる。 ﹁陽司も⋮⋮アイツと戦ったんだよ、ね?﹂ ﹁戦ったとも言えねえな。ま、自分ひとりで何とかしようと足掻い たあげくの、無様な敗北だったよ﹂ ﹁陽司も?﹂ ﹁そーだな﹂ その事実をどう受け止めたのか、黙り込む真凛。 ﹁ねえ﹂ ﹁なんだよ﹂ ﹁だから。ボクとアイツを戦わせたくなかった?﹂ ﹁⋮⋮そーだな﹂ おれは虚勢を張る気になれず、率直に認めた。 ﹁今までも、ボクの知らないところでそういうことしてた?﹂ ﹁⋮⋮ああ﹂ 341 ﹁⋮⋮ボクは、結局、陽司に守られてただけなのかな﹂ ﹁なあ真凛﹂ おれはこいつに向き直った。 ﹁アイツは⋮⋮ああいうエージェントや、こんな事件は、極端では あっても例外じゃない。おれ達の仕事では、結構こんな事にも出く わすんだ。自分ひとりではどうにも出来ないこともある。誇りをか けて戦い、勝っても負けても爽やか恨みっこ無し、なんて仕事はむ しろ出会うほうが大変なくらいだ。お前にとっては、楽しくないこ ともたくさんある﹂ その両肩に掌を置いた。 ﹁おれ達と肩を並べて戦うってことは、そういう汚い所に足を突っ 込む覚悟を持つってことなんだ。それは別に偉い事でも何でもない。 知らなきゃそれで済むってだけのことなんだよ。お前は、おれやお れ達と違って、ここに居なきゃいけないわけじゃない。今なら、ま だ、﹂ その言葉を遮って、真凛が、おれの右手に自分の両の掌を重ねた。 ﹁道場と裏通りでの試合だけで出来ていたボクの世界が、どれだけ 狭いものだったのか。気づかせてくれたのは陽司だよ。人を井戸の 底から引っ張り出しておいて、また戻れ、なんてずるいと思うよ﹂ ﹁しかし、﹂ ﹁それにね。今はボクが、陽司と一緒に戦いたいんだ﹂ おれの目を見て、しっかりと笑った。 ﹁だから、置いてきぼりはもうやだよ﹂ いつまでも、子供だと思ってたんだがなあ。 ﹁真凛⋮⋮﹂ ﹁陽司⋮⋮﹂ ﹁おおい、そろそろ会話に混ざってもいいかあ﹂ ﹁﹁ぎゃああああ!﹂﹂ 背後からかけられた声に、飛び上がるおれ達。 ﹁なななな、なんで背後にいるんすかアンタ﹂ 342 ﹁いやまあ。何と言うか流れ的に発言権なさそうだったもんでな。 おー真凛ちゃん、復活したようで何より。寝ている間に陽チンに変 な事されなかったかあ﹂ ﹁有難うございました、仁さん﹂ ﹁するわけないでしょ仁サン。だいたいあいつはどーしたんですか﹂ ﹁おー。まだ煙幕の中で俺のコピーどもと遊んでるぜー﹂ ﹁相変わらず、理屈不明の怪しいワザですねえ﹂ ﹁タネ明かししちまうと、法がただの術になっちまいやがるからな。 ここらへんは企業秘密だぜ﹂ 投げやりに言うと、仁サンはよっこらせ、とオッサン臭い挙動で 立ち上がった。 ﹁んじゃ俺は戻るぜ。あんまりサボると須江貞のオヤジがうるせー からな。ほんじゃ真凛、陽チン﹂ 仁サンはひらひらと手を振った。 ﹁スタッフとアシスタント。力を合わせてがんばれよー?﹂ ﹁ちぇっ、他人事だと思って﹂ ﹁他人事さ。お前達の仕事だろ﹂ にやりと笑った、次の瞬間には、﹃西風﹄はその名のように、姿 を忽然と消していた。⋮⋮ありがとうございました、鶫野先輩。 さあて。おれはぐるりと肩をまわす。 ﹁行くとすっか﹂ ﹁うん。さっきは負けちゃったけど、取り返しにいこう﹂ ﹁負けてねーだろ﹂ ・・・ ﹁え?﹂ ﹁おれ達は、負けてない。そうだろ?﹂ おれはにやりと笑い、つとめてとぼけた。 ﹁忘れてたけど、お前、おれのアシスタントだったんだよなあ﹂ おれの台詞に、真凛も不敵な笑みで応じた。 ﹁そう言えば、ボクはあんたのアシスタントだった﹂ おれは真凛の頭に手を置いて、癖の無い黒髪をかき回してやった。 343 ﹁さあ。勝ちに行くぜ﹂ 344 ◆13:二人なら ﹁おのれ、どれが本物だ!?﹂ 霧の中、無数に現れる﹃西風﹄の分身を、次々と斬り裂く﹃毒竜﹄ 。彼とて無数の修羅場を潜りぬけ、S級とまで称されたエージェン トである。これが幻術だという事は最初から看破している。問題は。 ﹁︱︱くっ!﹂ 霧の中から、首筋を狙って飛来した苦無を弾き落とす。そう、問 題は無数の偽物の中に本物が紛れており、それが攻撃を仕掛けてく るということである。幻術使いや霧使いは業界にも数多いが、熟練 のエージェントにとっては、映像の不自然さや気配の有無を見破る のは容易いことだ。だが、この﹃西風﹄は、﹃毒竜﹄に対してすら 完全に殺気を遮断し、攻撃を仕掛けてくる。底無しの技量と言えた。 ﹃そこから右へ三メートル、前へ二メートルの床に攻撃を﹄ 霧の奥から、﹃定点観測者﹄の声が響く。直観的に指示に従った。 金属塊を斬り裂く音が響く。すると、たちまち青黒い霧が晴れてい った。見れば、彼が今壊したのは、映画で使うようなスモーク発生 装置だった。 ﹁⋮⋮何だこれは﹂ 見れば、苦無が投擲されてきた方向の柱には、バネで苦無を打ち 出す、簡単な仕掛けが取り付けてあった。 ﹁最初に霧の中で分身によりあなたを翻弄し、徐々に幻術と、苦無 の自動投擲にすりかわっていったようですね﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮ッ﹂ 自分が子供だましのトリックに引っ掛けられた事を悟り、﹃毒竜﹄ から一切の表情が消えて失せた。やがて、沈黙の底から、ごりごり 345 と異様な音がする。それは、ごつい顎の奥で、﹃毒竜﹄の奥歯と犬 歯が擦り合わされる音だった。 ﹁コケにしてくれるな、﹃西風﹄よ!﹂ 視線を向けるトラックのコンテナの上。だがそこには。 ﹁生憎と、﹃西風﹄は多忙らしくってな﹂ 先ほど真凛に向けられた二本のライトを背負って。 ﹁もう一度ボク達がお相手するよ﹂ おれ達が居た。 仁サンに勝ち逃げされた事が、﹃毒竜﹄にして見れば余程プライ ドに応えたのだろう。マグマのような怒りの前に、既にその理性は、 沸騰して気化する寸前だった。 ﹁ガキどもが。いいだろう、毒にのたうちまわらせて悶死したお前 達を切り刻み、奴への見せしめとしてやる⋮⋮!!﹂ ﹁あーおっかねえ。肉食獣でもカルシウムはきちんと摂ったほうが 良いって言うぜ﹂ おれはこの一年ですっかり仁サンから受け継いでしまった口調で、 野郎を見やる。︱︱大した敵では、ない。おれが昼に奴を見た時に 感じた焦燥感は、奴に対しての物ではない。奴に敗れた一年前の自 分に対してのものだった。今のおれは、あの時より遥かに冷静で。 ﹁頼りにしているぜ、我がアシスタント﹂ ﹁りょーかい!!﹂ それに、こんな奴もいるわけだし。 空気が弾けた。コンテナを蹴るかすかな一音。カモシカのように 躍動感溢れた跳躍で、真凛がライトの光の中から踊りかかった。毒 が抜けたせいか、あるいは他に迷いを吹っ切ったからか。おれが知 るどれよりもキレのある動きだった。そのまま、﹃毒竜﹄の真上の 空間を獲る。空中で背筋と腹筋を爆発させて、縦に二回転。それに よって得られた加速と全体重を踵に乗せて、 346 ﹁っはぁぁぁあああっ!!﹂ 大木を撃ち割る稲妻を思わせる勢いで叩き下ろした。 ﹁ぬうっ!!﹂ たまらず両手を交差させガードする﹃毒竜﹄。だが、想像以上の 衝撃に膝、腰が沈む。受け止めた両腕の筋肉が、ブチブチと嫌な音 を立てるのをはっきりと聞いた。 ﹁かっ!!﹂ それでも迷わず反撃を選択出来るところはさすがにS級だった。 クロスした両腕の奥から、致死性のブレスが吐き出される。しかし その攻撃は予測の範囲内。真凛はその時点で既に身を翻し、右足を ﹃毒竜﹄に預けたまま、地面に両手をついていた。そのまま独楽の ように身体を回転させ、軽やかに左足で﹃毒竜﹄の両足を刈る。完 璧なタイミング。柔道教室に初めてやってきた子供のように、一本 の棒となって﹃毒竜﹄は地面に這いつくばった。 ﹁とどめっ!﹂ ﹁そうは問屋が卸しません!﹂ 横合いからかけられた声と、柱に仕掛けられた残りの指向性地雷 が真凛に向けて炸裂したのは同時だった。しかし今度は真凛は冷静 だった。敵意を感知した瞬間に深追いせずに飛びのき、降り注ぐゴ ム弾のシャワーをやり過ごす。失敗したと悟って、次のボタンに手 をかける﹃定点観測者﹄。 そうは問屋も卸せないってね。 脳裏の古ぼけた机から﹃鍵﹄を引きずり出す。微力ではあるが、 この世界に定められたあらゆる法則を根源からクラックする﹃鍵﹄ を手にし、おれはおれをバックヤードに放り込み、空いた容量を⋮ ⋮俺が占有する。 ﹁﹃この倉庫内で﹄﹃七瀬真凛に﹄﹃爆発は﹄﹃当たらない﹄﹂ 事象が捻じ曲げられる。それは、大河の流れを堰きとめ、無理矢 理小川に引き込む行為にも似ていた。俺の定義した事象を実現する ために、運命と言う名の大河は何とか現実と折り合いをつけようと 347 し︱︱結果、通常では有り得ない確率の﹃都合のいい幸運﹄が発生 する。 まさに爆薬が起動するその瞬間。﹃毒竜﹄が振るったカギヅメに 切り裂かれ、荷重に耐え切れなかった鉄骨が、音を立てて大きくひ しゃげた。それに巻き込まれた地雷は、みなあらぬ方向を向いて暴 発した。真凛にはカスリ傷もない。 ﹃定点観測者﹄鯨井さんが目を細める。 ﹁⋮⋮亘理君ですか﹂ どうもー、と、コンテナから降りたおれは手を挙げて応える。ち なみに真凛や仁サンのようにカッコよく飛び降りられなかったので こっそり降りて来たのはナイショだ。ここでようやく起き上がった ﹃毒竜﹄がおれに気づいた。 ﹁ふん。いつぞやの小僧か。確か、因果を操る﹃ラプラス﹄とか名 乗っているそうだな?﹂ 何時の間にそんな話が広まってるのやら。おれは無言で親指を突 き出すと、下に向けて振りおろす。露骨な安い挑発。だが、かつて ない屈辱に理性が煮えたぎっている奴には、火薬庫に花火を投げ込 んだようなものだった。奴の顎がますます軋みを上げる。自分の歯 を噛み折りそうな勢いだった。 ﹁挑発に乗ってはいけませんよ、﹃毒竜﹄。彼の能力は︱︱﹂ 振り返りもせず返答する。 ﹁何をしに来た、﹃定点観測者﹄?﹂ ﹁敵は二人。しかも先ほどとは明らかに違います。こちらも二人で かからねば危ういですよ﹂ 相棒に送った忠告は、だが逆効果のようだった。 ﹁俺に命令するな、と言っただろう﹂ ﹁しかし﹂ ﹁仁義破りの闇討ちしか出来ぬような腰抜けは、居るだけ足手まと いだ﹂ 鯨井さんの顔色がはっきりと変わった。 348 ﹁⋮⋮わかりました。では私は退くとしましょう﹂ 言うや、踵を返す鯨井さん。本当に手を出すつもりはなさそうだ。 ﹁決着がつくまで、密入国の皆さんの面倒を見ていますよ﹂ ﹁そうするがよいさ。どの道ここからは﹂ 頬骨が張り出す。頑丈なはずのフライトジャケットがぶちぶちと 音を立てて弾けとび、胸骨がべきべきと音を立てる。首が延び、背 中が隆起し、筋肉が膨れ上がる。爪が延び、瞳孔が絞られる。顎が 突き出し、ぎらつく牙が剥き出しになる。 ﹁周囲なゾ気にカケテいてはやっテイらレヌからナ!﹂ 言葉を喋るに適さなくなった口から、おぞましい声を紡ぎだした。 これが、﹃毒竜﹄の中に宿る真の力か。突然変異の異常な筋力を全 ドラゴニュート 開にし、そしてそれに適応すべく骨格が変形した結果、人間とは呼 び難い、爬虫類を思わせるフォルムになっている。竜人、という言 葉がおれの脳裏をよぎった。 ﹁⋮⋮えーっと、陽司﹂ ﹁ナンダネ七瀬クン﹂ ﹁怪物退治も、ボクらの仕事なのかな?﹂ ﹁ま、比較的オーソドックスな部類に入るかな﹂ おれはしれっと嘘八百を述べ、人間辞めました、と全身で主張し ている﹃毒竜﹄をねめつけた。その身長も大きく変化し、恐らく二 百三十センチに達していると思われた。翼と尻尾が生えていないの が、最後の良心という所だろうか。 ﹁挽肉ニナルガイイ!!﹂ 突進。その自重を物ともせず、膨れ上がった筋肉がおれ達に遅い かかる。 ﹁右!﹂ 真凛の声に従い、おれは右に横っ飛ぶ。当の真凛は、自身に﹃毒 竜﹄の突進をひきつけつつ、左にかわした。すれ違い様に肋間に貫 き手を放つが、装甲じみた筋肉に阻まれる。肉と肉との衝突とは思 えぬ、硬質な音が響き渡る。そのまま勢い余った﹃毒竜﹄は鉄骨に 349 突っ込み、倉庫がまたも大きく軋んだ。おれは崩れ落ちた残骸の山 に突っ込みそうになり、どうにか立ち止まった。 ﹁強そうだなあ、おい﹂ ﹁そうでもないんじゃない﹂ うちのアシスタントの頼もしい返答である。 ﹁そりゃまたどうして﹂ ﹁だってアイツ、さっきまでのボクとそっくりだ﹂ なーるほど、それなら。 ﹁いい手はあるか?﹂ おれの声に、真凛が床に落ちてたモノを拾い上げる。 ﹁これならどうだろう﹂ いつから目端が効くようになったんでしょ、このお子様。 ﹁ナイスアイディアじゃないの﹂ おれ達はにやりと笑った。 ﹁来るよ!﹂ ﹁おうよ﹂ 今度はおれに向けて突進してくる﹃毒竜﹄に、真凛が割って入る。 ﹁ギジャァァァアアアアッ!!﹂ 咆哮とともに、今や竜そのものとなった顎から、大量のブレスが 一直線に吹き出される。 ﹁さすがにそう何度も見せられると︱︱﹂ くるり、とワルツを思わせる軽やかなステップで、毒息を避けつ つ斜め右に踏み込み入り身。﹃毒竜﹄に一瞬背を向けつつ脇を抜け 跳躍。そのまま勢いを殺さず高々と放たれた旋風脚が、スパーン、 と擬音を発したくなるくらい綺麗に二メートル三十の位置にある﹃ 毒竜﹄の後頭部に入った。 ﹁小娘ガァッ!!﹂ 反射的に振るわれたカギヅメが地面に衝突し、敷かれた分厚いコ ンクリートの床を瞬時にズタズタにする。だが。 ﹁︱︱いい加減、飽きてくるなあ﹂ 350 真凛のその声を聞いた﹃毒竜﹄は明らかにうろたえた。なぜなら その声は、彼の後頭部から聞こえたからだ。回し蹴りに放った足を ガイドにし、一瞬で﹃毒竜﹄の背を駆け上がり、肩車の姿勢で﹃毒 竜﹄の首に跨っていたのである。 ﹁アンタは最低のひとだけど。聞こえるうちに一応謝っておくね﹂ 咄嗟に攻撃方法の選択に戸惑ったその時、﹃毒竜﹄は、確かにそ う声を聞いた。 ﹁ここからは、解体だから﹂ 真凛は両拳の中指のみを立て。 ﹁﹃耳掻き﹄﹂ ﹃毒竜﹄の両耳穴に、根元まで突っ込んだ。 狂った獣の絶叫が、倉庫内に轟いた。 軍人として充分以上のキャリアを積んできたはずの﹃毒竜﹄が、 頭の中を抉られるという想像もしえない激痛に身をよじる。頭を振 って暴れる﹃毒竜﹄、だが真凛はロデオのように巧みにバランスを 取って肩車の体勢を維持する。ここでようやく、頭上の敵を叩き落 とすべく、カギヅメが振るわれる。だがいかに筋力があれ、この体 勢ではまともな威力など発揮できない。指を引き抜き、真凛は容易 くその一撃を捌くと、そのまま左手で手首を捕る。右手で﹃毒竜﹄ の長く延びたカギヅメに、甲の側から手をかけ。 ﹁﹃爪切り﹄﹂ 四指のそれ、すべてを引き剥がした。今度は絶叫させる間も与え ない。そのまま手首に添えた手を、つ、と動かす。繊細な場所を愛 撫するかの如き動きで、たちまち﹃毒竜﹄の皮膚、筋繊維、骨、す べての構造を読み取り、その隙間に指を潜り込ませ。 ﹃胡桃割﹄ 一気に握り潰した。まだ停まらない。そのまま耳の前、顎関節に 351 指を挿しこみ。 ﹃髭剃り﹄ 引き下ろした。がごんと音がして下顎が外れ、筋肉と皮膚だけで ぶら下がる。 それは戦闘と呼べるものではない。正に解体だった。七瀬式殺捉 術の真骨頂にして、どうしようもない程合理的で凄惨な一面が、こ こにある。強敵と相対した時、この流派は一撃必殺の打撃や華麗な 投げ技など狙わない。拳技が得意な敵であればまず指を、次に手首 を、肘を。蹴技が得意な敵であればその足指を、次に足首を、膝を。 外側から内側へと、丁寧に丁寧に一箇所ずつ破壊していくのだ。城 攻めでいえば、兵士武将を軒並み殺してまわり、最後に丸裸になっ た本丸を存分に焼き打ちするようなものだ。真凛自身、己の技がど れほど凄惨なものかは承知している。彼女にこの技法の使用が許可 されるのは、私闘ニ非ズ、殺メル不可ズ、倒スニ難シ、の三条件が 揃った時のみである。そしてこれでも真凛は加減している。本気で あればまず眼を狙っていた。 聴覚、カギヅメ、そしてブレスを吐き出す顎を破壊された﹃毒竜﹄ は、己の脳の許容量を越える激痛に、もはや絶叫も出ない。並の人 間ならここで痛覚が焼き切れていてもおかしくはない。だがそれで も、奴は最強の一角を占めるだけの相手だった。 ﹁⋮⋮ッ!!﹂ もはや閉じる事も出来ない喉の奥から、ごぼり、と音がする。 それは、奴の体内にありったけ蓄えられたブレスだった。顎が外 れそれを吹き出す事は出来ずとも、周囲に吐き散らすことで真凛だ けは確実に仕留めるつもりなのだ。頚椎を握りつぶして息の根でも 止めない限り、こればかりは、真凛には防ぎようがない。 ﹁おれがいなけりゃ、な﹂ おれの得意ポジション、ライトからファーストへの送球の要領で、 おれはその手に持った凶器︱︱指向性地雷の残り一発を、思いっき り投げ込んだ。本来シャッターの役割をすべき下顎は、真凛に破壊 352 されその機能をなさない。ベストシュート!奴の口の中にすっぽり と入り込む指向性地雷。奴が吐き出そうとするその前に、おれは光 の速度で﹃鍵﹄を起動させる。 ﹁﹃亘理陽司の﹄﹃投じた地雷の﹄﹂ 一瞬の時間は無限に引き伸ばされ、俺は世界に楔を打ちこむ。 ﹁﹃その姿の﹄﹃維持を禁ずる﹄!﹂ 俺の能力は﹃禁ずる﹄事のみ。外に向けての鍵は、閉める事しか 出来ないのだ。だから、地雷が爆発しない、という未来を全て、俺 は禁ずる。 どむ、と鈍い音が響いた。 口の中で無数のゴム弾が炸裂し。 ついに、﹃毒竜﹄は倒れ伏した。 ﹁お疲れ﹂ 着地し、膝をついて大きく肩で息をする真凛に声をかける。 ﹁ボクも、力に⋮⋮なれたかな?﹂ おれは右の掌を真凛に向けて差し出した。質問を質問で返す。 ﹁これからもよろしく頼むぜ?アシスタント殿﹂ きょとんとする真凛に、やがて理解の表情が浮かんだ。おれの掌 に真凛の掌が打ち下ろされ、小気味の良い音を立てた。 ﹁よろしく。⋮⋮先輩!﹂ おれはにやりと笑って、親指を上に突き出した。 ⋮⋮実は掌がじんじん腫れてたりするのだが、それは口にしなか った。仕事としては何よりまず、力加減を覚えてほしいところであ る。 353 ﹁まだやりますか?﹂ おれは入り口付近で一部始終を見守っていた鯨井さんに声をかけ た。その背後では、密入国者の方々が不安そうに身を寄せ合ってい る。鯨井さんはゆっくりと首を横に振る。 ﹁﹃定点観測者﹄に出来る事は観測だけ。観測したデータを用いる 者がいなければ、私に出来る仕事はありませんよ。力づくでその帳 簿を取り返したりする事も不可能です﹂ ﹁ありゃ、気づいてましたか﹂ おれはザックに仕舞い込んである、この倉庫の搬出入の記録や取 引を記入してある帳簿を叩いた。真凛の救出に向かう前、どさくさ に紛れて倉庫の管理室から引っ張り出してきたものである。今の倉 庫内の惨状を思えば、その判断は誠に正しかったと言わざるをえな い。 ﹁﹃観測者﹄は見る事にだけは卓越しているんですよ﹂ ﹁⋮⋮これからどうするつもりですか?﹂ ﹁さて。まずは帰って報告ですね。海鋼馬は初任で失敗する人間を 使ってくれるほど温厚な組織でもなさそうですし。まあ、そのうち に考えるとします﹂ ﹁そうですか⋮⋮﹂ ﹁私のことより、ね﹂ 鯨井さんは言葉を切った。 ﹁これは海鋼馬のエージェント、﹃定点観測者﹄としてではなく。 宗像研究室のOB鯨井としての言葉なのですがね﹂ 鯨井さんは、倉庫に積んであったバッグから、崩落に巻きこまれ なかったものを二つ、取り出した。 ・・・・・・・・・ ﹁私の﹃観測﹄の結果、この二つ⋮⋮いいえ、ここに置いてあった バッグ全てが、完全な同一品でした﹂ おれは、その言葉の意味を理解するのに時間がかかった。 ﹁そんな事は⋮⋮﹂ ﹁そう、絶対にあり得ないのです。しかし、現実はこの通りです。 354 ・・・・・・ つまり。あなたの仕事と言うことですよ亘理君﹂ ﹁⋮⋮わかりました。情報、ありがとうございます﹂ 鯨井さんがふ、と顔を緩める。 ﹁いい顔になりましたね、亘理君。これでは我々が不覚を取るのも 仕方がないでしょう﹂ さてさて、と鯨井さんは手を叩いた。 ﹁﹃毒竜﹄や﹃狂蛇﹄の面々は私が面倒を見ます。あなた達は早く 行きなさい﹂ ﹁密入国の人達についてはそのまま警察に引き渡してください﹂ ﹁ちょっと、陽司!?﹂ ﹁大丈夫、というわけでもないが。須江貞サンのコネで、きちんと 保護してもらえることになった。強制送還になるだろうけど、あと は所長のコネで真っ当に来れるルートを探す、てとこかな﹂ 漫画喫茶に篭って、今日の午後をほとんど費やしてこんなことを やっていたわけだ。地道に手続きを踏む、というのも一つの方法な のだ。彼等の窮状を放ってはおけない、さりとて密入国を見逃すわ けにはいかない、となれば、おれの打てる手はこれくらいだった。 ﹁なんかコネばっかりだね﹂ でもありがとう、と真凛は言った。 ﹁つーか、所長と須江貞さんの存在価値なんてコネだけみたいなも んだし。さて、行くか﹂ おれは鯨井さんに目礼をすると、真凛に撤収の合図をした。 ﹁それから、そこのお嬢さん﹂ ﹁ボクですか?﹂ ええ、と鯨井さんは真凛に向けて、 ﹁今あなたが見ているこの亘理君を、よろしく頼みます﹂ そんな事を言った。 ﹁えっと、それはどういう⋮⋮?﹂ ﹁おーい、行くぞ﹂ ﹁あー、うん!﹂ 355 おれは真凛に声をかけると、裏口の門を押し開けた。 遠くから、ようやくパトカーのサイレンの音が近づいてくる。 色々と長かった夜が、明けようとしていた。 356 ◆14:次の季節へ ﹁電話代。家賃。ネット代⋮⋮光熱費。おおーっし!!どうにか九 月を乗り切ったぜっ!﹂ 事務所のパソコンを借りて起動した家計簿に数字をすべて打ちこ み、おれはガッツポーズを取った。今月は特に金の出入りが激しく、 非常に微妙な綱渡りではあったのだが。計算の結果、どうにか無事 に来月を迎えられそうである。 日曜深夜の死闘から、すでに二日が経過している。結局、ドタバ タ騒ぎを駆けつけてやってきた警察に、ナガツマ東倉庫にあったモ ノ、居た人間は軒並み差し押さえられてしまった。もちろんおれ達 は手遅れになる前にとっとと脱出し、警察がやってくる様を離れた ところにあった終日営業のファミレスから見守っていたという次第。 ﹁亘理さんが持ってきてくださった帳簿を判読した結果、倉庫内に 収められていたプルトンのバッグは全て、東南アジア某国の工場で 生産して﹃狂蛇﹄が密輸していたものと判明しました﹂ ブラインドに遮られた西日が適度に差し込む事務所の中で、来音 さんがいつものようにコーヒーを淹れてくれた。 ﹁逮捕された﹃狂蛇﹄の構成員も同様の証言をしたわ﹂ 月末決済の様々な書類にハンコを乱れ打ちし終えた所長もこちら にやって来る。 ﹁警察はこの証言をもとに﹃ミサギ・トレーティング﹄に製品の販 売差し止めと回収を要請。ミサギは一応回収に動いているみたいだ けど、回収率は目も当てられない低さだそうよ﹂ ﹁ミサギは露骨にダミーカンパニーでしたからねえ。意欲だってあ がらないでしょうよ。雲隠れされなかっただけでもマシな方なんじ 357 ゃないですか?﹂ ﹁それもあるんだけどね。買った人が回収に応じないケースがほと んどだそうよ。格安の値段で、どう見ても本物としか思えないもの を買ったんだから、わざわざ返品する必要はない、って考えね﹂ ﹁気持ちはわかりますがねぇ。結局、警察が踏み込んできてくれた おかげで公的に偽物と証明出来たわけですか。技術的に偽物と証明 するのには恐らく不可能だろうし⋮⋮。来音さんにはますます頭が 上がりませんよ﹂ 異能力者同士の決着がつき、﹃狂蛇﹄の面々が気絶しているベス トのタイミングで警察がかけつけて来たのは、来音さんの力による ところが大きい。 ﹁でも、海外の工場で作っているところまでは突きとめられたとは いえ、実質的にどのように製法しているかは結局わからずじまいで したね﹂ おれは頷いた。さすがに海外までは足を伸ばせない。ここから先 は警察と、⋮⋮それからもう少し別の連中の領分になるだろう。 ﹁依頼人の小栗さんもその点は気にしていたけどね。﹃狂蛇﹄の自 白も取れたし、ルートはこれで潰れたわけで。納得してくれたわ。 もっともこの先、海外まで乗り込んでいって根っこをつきとめる、 なんて話も出てくるかも知れないけど﹂ ﹁良かったですね陽司さん。会社のお金で海外に行けますよお﹂ ﹁はっはっは、来音さん、海外という言葉がいつもリゾートホテル やビーチやカジノを指すと思ったら大間違いですよ、ねえ所長﹂ うちの﹃海外出張﹄と言ったら、砂漠にテントを張りながらピラ ミッドの中枢潜入とか、針葉樹林の中を行軍しながら原子炉護衛と かそういった類のものだ。 ﹁ま、それはそれとして。この夏はお疲れだったわね、亘理くん。 ハイこれは同日複数依頼の特別ボーナス﹂ 所長がおれに何やらチケットを押し付けた。 ﹁⋮⋮映画っすか。﹃ムエタイVS地底人2 血闘!オリンポス﹄。 358 恋愛映画ですか?﹂ ﹁んなわけないでしょ﹂ ﹁この秋公開のアクション映画ですよ。前作で死闘を演じたムエタ イ使いと地底人がコンビを組んで、ギリシャの神様十六人とバーリ トゥードで戦うお話です﹂ ﹁どうやって入手したんですか?うち、新聞替えましたっけ?﹂ てっきりおれは新聞勧誘員のおっちゃんから巻き上げたのではな いかと思ったが。 ﹁失礼な。ちゃんと取引先の株主優待券をブン獲って来たのよ﹂ 似たようなものだったらしい。っつーか、ボーナスってこれだけ かよ。 ﹁冗談よ。報酬の上積みの方は楽しみにしてなさい。驚くから﹂ そりゃ驚くだろうさ、反対の意味で。いずれにせよ、滅多にない 所長からの給料以外のプレゼントとあれば否やはない。 ﹁おお我が殿、ソレガシに来音さんを映画に誘えと仰られる?善哉 善哉。一命に替えても確かに果たしてごらんに入れまする﹂ ﹁誰が殿よ﹂ 来音さんはいつものとおりの極上の笑み。 ﹁残念です陽司さん、もっと相応しい方がいらっしゃるみたいなの で、私は次回に﹂ ﹁先約?﹂ ﹁チームの固めの杯がわりってとこかしらね﹂ 階段を三段飛ばしでかけ上がる音が響いた、と思ったら。 ﹁おそくなりましたー!﹂ 事務所の扉を開けて飛び込んでくるお子様一名。 ﹁おせーよ、おい﹂ ﹁ごめんごめん。英語の課外授業があってさ﹂ 通学用のカバンを下ろしながらおれの席にやってくる真凛。そう いえばこいつにはまだ正式な席はなかったっけな。 ﹁そんなもんやったって時間の無駄だって。チョイチョイと切り上 359 げてだなあ、﹂ ﹁でもさ、今後この仕事でも外国の人と会うことも多いでしょ?や っぱり英語話せた方が便利じゃないかなあ、って思って﹂ おれは手持ちの書類を丸めると、真凛の肩を叩いた。 ﹁それなら一番の近道は、学校での勉強を当てにしないことですゾ 七瀬クン。高校受験をクリア出来る程度の単語力があれば、まずは 実地の会話でベーシックな単語の組合せ方のコツを掴んだほうがず っと早く覚える﹂ ﹁そーなんだ⋮⋮。じゃあ、今度教えてよ。アンタ語学だけは得意 だったよね﹂ ﹁あーはいはい。早く覚えて楽サセテネ、我ガアシスタントドノ﹂ 振り返ると、所長と来音さんが口に手を当て、笑いをこらえてい た。 ﹁なんですか?所長?﹂ ﹁んー。あなたたち少し雰囲気変わったかなあ、なんて﹂ そりゃ気のせいですよバッチリ。ってちょっと待った。 ﹁相応しいって、まさかコイツですか?﹂ ﹁来音ちゃん、今日は早く退けたからラーメン食べに行こうかー﹂ きらりと光る来音さんのメガネ。 ﹁所長、早大前に新しい豚骨ラーメンの店がオープンしたと言う情 報が﹂ ﹁大盛ある?﹂ ﹁無料です﹂ 即答であった。 ﹁じゃそーいうことだから亘理くん。戸締りまかせたわよー﹂ ドタドタガッチャン、と飛び出して行く疾風二名。⋮⋮逃げられ た。 ﹁なに?先約って﹂ そして事態を知らぬお子様一名。 あー。はいはい。わーったわーったわーかりましたよ。 360 ﹁⋮⋮ホレ、これ。映画のチケットだよ。行くか?﹂ ま、親睦会みたいなものがあってもいいだろう。 ﹁陽司が?映画?うそ!?お金あるの?﹂ って、第一疑問がそれかい。 ﹁イヤならしょうがないけどよ﹂ ﹁そんな事ないよ!えーと。﹃ムエタイVS地底人2 血闘!オリ ンポス﹄。恋愛映画かな?﹂ ﹁んなわけねーだろ﹂ 十五分前の自分を遠い棚に放り投げて、おれはツッコんだ。いく つかの仕事に随分振り回された大学二年の夏休みだったが、最終日 だけは、随分穏やかに過ぎていったようだ。 ふと窓の外を見れば、澄み渡った秋空が夕陽に映えていた。 九月も過ぎ行こうとするこの時期。ようやく世間は、秋らしさを 見せ始めていた。 361 ◆15:﹃***﹄ ねずみ色の雲が厚い緞帳となって、空を覆っている。 ゆうべ深夜から天気が崩れ、そのまま今日まで降りしきる雨。 屋外にうち捨てられたトタンに弾ける雨音のリズムに包みこまれ、 おれはじっと待っていた。北区、荒川沿いのとある廃工場。かつて は工作機械が何台も賑やかに金属音を奏でていたであろう工場は、 債権者によってか、あらゆる設備が剥ぎ取られ、床下の土塊すら露 出していた。だだっぴろい空間の中、柱に背を預けて座りこむ事、 既に一時間。 まだ午後だと言うのに、日光は垂れ込める分厚い雨雲と、灯りの 途絶えた窓の少ない建物に遮られ、部屋の端の壁すら満足に見えや しない。そのくせ、むき出しのコンクリートは、湿気と冷気を直に 送り込んでくる。つい先日の長野の夜とは異なった、深々と染み込 んでくる類の寒さだった。 携帯兼音楽端末﹃アル話ルド君﹄の演奏が一周して止まる。ふと その液晶画面を見やり、映し出された日付を確認する。泥まみれで 真凛と炎天下を歩き回ったあれから、百時間と経過していない事実 362 に気づき愕然とする。ここ数日の気候の激変は、まるで、誰かが可 能な限り引き伸ばしてきた夏が終わり、その代償を急速に取り立て られているかのようだった。気がつけば、九月も終わり。来週から はまた、大学の講義が始まる。 ︱︱ああ。そう言えばそうだった。 今更ながらにそんな事に思いが到った。 夏休みが終わるのか︱︱ ⋮⋮ざりざりと小石を踏みしめる音が、おれのまどろみを断ち切 る。イヤホンを引き抜くと、おれはよっこらせ、と無意識に呟いて 身を起こした。 ﹁⋮⋮どーも、その節は﹂ ファフニール 今ひとつかける言葉が思い浮かばなかったので、なんとも間の抜 けた挨拶になった。廃工場にまさにやってきた男、﹃毒竜﹄モルデ カイ・ハイルブロンは、居合わせたおれの顔を見て明らかに面食ら ったようだった。 ﹁⋮⋮﹃ラプラス﹄の小僧か﹂ そう呟くモルデカイの腕には、分厚いギブスが巻かれている。そ して外れかかった顎を吊る為に、顔に対して縦に包帯を巻きつけて 363 おり、それは頬かむりをしているようにも見えた。何とも無惨な話 である。それは、先日まで業界に畏怖を持って知られた﹃毒竜﹄の 二つ名が、完全に地に堕ちた様を示していた。おれは表情こそ変え なかったが、その気配は伝わってしまったのだろう。モルデカイの 雰囲気が一層険悪になる。 ﹁仕事は決着したはずだ。こんなところで何をしている?﹂ エージェント業界の仁義︱︱通常、どれほど熾烈な戦いを繰り広 げたとて、その仕事が終了すれば、互いに遺恨を残さないのが暗黙 の掟。奴自身がそれを守るかどうかは別として、言う事はもっとも だ。が、 ﹁そういうあんたは何でこんなところにいるんだ?﹂ おれの質問に、モルデカイが不快げな表情を消し、こちらに視線 を向ける。おれがどれ程の情報を握っているのか推し量っているの だろう。喧嘩の動力は怒り。戦闘の動力は義務感。そして、殺人の 動力は必要性。モルデカイがおれを見る目は、急速に﹃派遣社員﹄ のものではなくなっていった。時間を浪費するつもりは毛頭ないの で、さっさと答える事とする。 ﹁あんたの探してるのはコイツだろ﹂ おれはこの倉庫に保管されていたバッグを放りやる。紛れもなく、 プルトンのバッグだ。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁あんたの本当の依頼人について教えて欲しくってね﹂ もつれたイヤホンのコードを胸ポケットに仕舞いつつ続ける。 ﹁あんたが所属する海鋼馬と﹃狂蛇﹄の間にどういう契約が取り交 わされたかは知らないけどさ。いくら重要な資金源の芽とは言え、 通常は企業間の最後の切り札として、あるいは国家レベルの案件に 投入される﹃S級﹄エージェントがこんな任務に就くとは到底思え ないんだよね。ましてや、特に凶暴なアンタが﹂ 剣呑さを増して行く、前方の殺気。 ﹁だけど、一つだけ、ここに仮説がある。プロの鑑定士が見破ろう 364 としても見破れない、完璧なコピー。これを作ろうとしたらどうす ればいい?まっとうなバッグメーカーが精確な情報を得て全力を尽 くせば出来るのかもしれないが、少なくとも某国で作業をして闇ル ートに流すような後ろ暗い工場にはまずムリだろうな﹂ おれはポケットに手を突っ込み、ゆっくりと歩きはじめる。 ﹁では、エージェントによる異能力でのコピーはどうか。これも現 実味が薄い。複製の魔術や錬金術も、実際の所万能じゃない。絵画 を描くのと同じでね。形だけ似せるなら初心者でも出来るし、上級 者ならまずバレないくらい良く似たものを、達人なら本物以上のも のだって作り出せる。だけどね、完全に同じものは作り出せないん だ。よってこれもムリ。何でもアリのおれ達エージェントの業界で すら、理論上不可能って事さ﹂ モルデカイを中心に円を描くように。奴は正面を見据えたまま動 かない。 ﹁ところが。この世界にはただ一つ、これを可能にする法則がある。 いや、違うな。この世界を崩壊に導く、あってはならない法則があ る。⋮⋮この世の根幹を揺るがす、禁忌の力﹂ モルデカイは動かない。 ﹁⋮⋮とある組織が、その禁断の力を手に入れたとする。その力と は、ありとあらゆるものを正確無比に、完璧に﹃複製﹄する。しか も時間が立つと消えてしまったりするわけじゃない。本当に、単純 に一個が二個になるだけ。材料も必要ない。とんでもない能力だ﹂ 質量保存の法則など意味を成さない。悪用などそれこそ星の数だ ろう。例えば、金塊を倍々に増やすだけで、単純に一生遊んでいら れるほどの財産を築く事が出来る。 ﹁ところがその組織はそう金には困っていない。彼等はもっと別の 事にその力を使いたかった。だから、実験をしてみた。多くの人に ﹃複製﹄したものをばら撒き、誰か偽物と気付く人がいないか、確 かめてみたかった。⋮⋮つまり、連中にとっては偽物の売り上げに よる利益なんかはどうでもよくて﹂ 365 半円を描ききる。おれは奴の背後に立った。 ﹁ちゃんと﹃複製﹄出来るかどうかが問題だった。そしてそれを見 届ける為に、お目付け役が必要だった。海鋼馬のエージェント、﹃ 毒竜﹄ではなく。戦場で多くの兵士を毒殺し、その後一時期消息を 断っていた元傭兵⋮⋮モルデカイ・ハイルブロン﹂ 返答はなし。 ﹁ここまで言ってもわからない?そうか。じゃあ率直に言うよ﹂ おれはポケットから手を抜いた。 バッドジョーカー ﹁この下らない悪戯の仕掛人。あんたの本当の飼い主。最低最悪の エージェント︱︱﹃誰かの悪夢﹄。今、どこに居る?﹂ 背を向けたまま、モルデカイは声を上げる。 ﹁︱︱何故、今聞く?聞きたければ俺を倒したあの時に聞けば良か ろう﹂ ﹁あれは仕事の上での戦闘だ。プライベートを持ち込む事は出来な い﹂ その肩が震えた。笑っているのだろう。 ﹁つくづくお目出度いな、﹃ラプラス﹄!!それともまさか、負傷 している俺を御する事など容易いと思ったか?﹂ 次の瞬間。振り向き様に振るわれたカギ爪が、おれの胴を薙ぎ払 った。両腕をハネ上げて身を浮かす。ガードした腕に衝撃が弾け、 おれは工場の壁まで容易く吹き飛ばされた。服の下に着込んでいる 防弾防刃ギア﹃インナー﹄すらざっくりと切り裂かれ、おれの腕に 浅くない切り傷を刻み込んでいる。皮膚もダメ。筋繊維までイった な、こりゃ。 ﹁俺の生命力を甘く見たな。三日もあれば、この程度の傷は全て塞 がる﹂ 膨れ上がった腕の筋肉に負け、奴のギブスが吹き飛ぶ。同様に、 顎を覆っている包帯も千切れて落ちた。その下には、先日真凛にズ タズタにされたはずの傷痕は毛ほども残っていなかった。おれの顔 を見やって、モルデカイが嘲笑を浮かべる。 366 ﹁﹃ラプラス﹄。因果使い。確かに厄介極まりない能力だが、その 分制限も多い。望む事象を明確に言葉で発音しなければならないこ と。捻じ曲げられるのは一瞬の出来事のみ。回数にも恐らく限りが あるだろう。そして長期または恒久的に現実を都合よく捻じ曲げる 事は出来ない﹂ ﹁ついでに言うと、言葉は必ず否定形で定義しなきゃいけないって のもあったりするんだけどね﹂ おれは皮肉っぽく呟いた。奴はおれの様を見やって、あの野太い 嘲笑を復活させる。 ﹁結論からすれば。俺とお前の地力の差は、一度や二度の命中や回 避を捻じ曲げたくらいでは埋め合わせが出来るものではないという 事だ!﹂ 突進からの刺突。致命傷になりうる一撃だった。高速で精神をシ フト。 ﹁﹃モルデカイの﹄﹃攻撃は﹄﹃亘理陽司に﹄﹃当たらない﹄!﹂ だがそれだけでは、とてもではないが確率が低く負荷がきつい。 同時に横方向に飛ぶ。モルデカイの突き出したカギヅメは、俺の代 わりに俺が背にした壁を大きく斬り裂いて止まった。 おれは安堵のため息、だがそこに、続けざまに膝が飛んできた。 ﹁痛ぅ⋮⋮﹂ 因果の鍵は一瞬しか機能しない。おれはその一撃をまともにくら い、地面に吹き飛ばされた。ダメージをチェック。あっちゃ、肝臓 が破れたらしい。少し遅れて吐き気と脂汗が押し寄せてくる。 こちら ﹁見誤ったな小僧。俺の本領は甘っちょろいエージェントではなく て実戦側だ。生ぬるい手加減の必要がない分、気兼ねなく戦えると 言うものよ﹂ ﹁奇遇だね。おれもさ﹂ おれの減らず口を鼻で笑い、見下ろすモルデカイ。その肺腑が膨 367 らみ、大量に取り込んだ空気を圧縮していく。 ﹁死ね﹂ 子供の喧嘩ならいざ知らず。この業界で﹃死ね﹄という言葉は、 明確な殺傷の意志を意味する。奴は本気で、おれを殺すつもりだっ た。 ︱︱意識の裏。古ぼけた抽斗から鍵をもう一度取り出す。 おれは鍵を俺に渡して、俺を自由にさせた。 ﹃我は﹄﹃亘理陽司に﹄﹃非ず﹄︱︱﹃無数の名を持ち、だが全て は無意味﹄ ﹁⋮⋮仕事の上の戦闘だったからってのは確かに理由なんだが﹂ ﹁ぬ!?﹂ 奴はおれの様子に気づいた。 ﹁わりとほれ、自分で言うのもなんだけど、おれ小心者でさあ﹂ 俺は鍵を、外ではなく内側に向ける。 そこには、ずらりと並んだ36の抽斗があった。 そのうちのおよそ半分には、厳重に封を施されている。 残りの半分は、未だ空白のまま。 さて。 陳列されたエセ天使どもを前にひとりごちる。 どれを出すか。 368 ﹃我は﹄﹃人に﹄﹃非ず﹄︱︱﹃万能の工具、而して意志を許され ず﹄ おれの周囲の空気が歪んで行く。 その異様さに圧されて、モルデカイは振り上げた腕を下せない。 ・・・ ﹁仮にもオンナノコの前で、こいつを見られたくはないっつう純情 チックな個人的な事情もあるんだよね﹂ これだけは、いくらアシスタントでもな。 ﹁貴様⋮⋮何者だ?﹂ おれはその問いに答えなかった。 ・・・・ ・・・・・ ﹁それから、言いそびれてて悪かったが、一つ訂正がある。おれは ﹃ラプラス﹄じゃないよ﹂ そう名乗った事は一度も無いんだがな。噂とは一人歩きするもの らしい。まあ、おかげで面倒事に巻き込まれるのが少しは減らせる わけだ。 ﹁おれが﹃ラプラス﹄だったら、アンタは戦闘開始一秒後に死んで たぜ﹂ 大見得を切ったわけでもなく、掛け値抜きに一秒なのである。 おれは﹃外の世界に鍵をかけ﹄、自分に都合の悪い未来を封じて まわる事で、もっとも都合のいい因果を確実に手に入れる。すごろ くで6が出るまでサイコロを振りなおすようなものだ。だが、﹃ラ プラス﹄の能力は全く別物である。﹃外の世界の情報を計算しつく し﹄、サイコロを振るときの手の動きや力の入れ方、周囲の空気の 流れ、サイコロが落ちるテーブルの固さ、全てを計算しつくして、 4だろうが5だろうが6だろうが好きな目を出せる。おれなど到底 足元にも及ばない。うちの事務所の良識派ではあるが、敵に回すと 多分あの人が一番おっかない。 ﹁どっちかっていうと、おれの能力はラプラスとは対になるんだよ な。おれが持っているのは、あくまでただひとつの﹃鍵﹄。それ以 369 上でも以下でもない﹂ ・・・・・ そう。我が師より受け継ぎしはただ一つの鍵。 その﹃鍵﹄で、外側を封ずるのではなく。内側を開くことにより。 ⋮⋮やはりこれか。 俺は、7番目の抽斗に鍵を差し込んだ。 ﹃我は﹄﹃つなぐものに﹄﹃非ず﹄︱︱﹃斬界の主。創世の鉈とな りし切断者﹄ 歪んだ空気が軋み、凍る。 ﹁︱︱この世界はね。突拍子もない事象があるように見えて、海も 山も宇宙も。ついでにこの世もあの世も魔術も呪術も天使も悪魔も 精霊も時間も。きちんとバランスが取られて作られている、綺麗な 箱庭さ。魔術だの悪魔だのは、必要ない人間の前には存在しないし、 必要な人間の前にはちゃんと存在する。それはそれで、この世界を 管理している奴の想定範囲内って事﹂ 俺は鍵穴を廻す。 封が解かれる。 抽斗に眠っていたソレは、音もなく這い出し。 ﹃我は﹄﹃真実を告げるものに﹄﹃非ず﹄︱︱﹃而して我、亘理陽 370 司也﹄ 俺から取り外された﹁おれ﹂のピースの代わりに。 ガチリと俺に接続された。 おれはゆっくりと立ち上がる。 ﹁ところがね。⋮⋮つい数年前なんだけど。とある馬鹿な奴が、こ の世界にある綻びから、とんでもないバケモノを36体程呼び込ん じまったんだ。散らばったそいつらは、いずれもこの世界の法則に 縛られることなく、ブッチギリで反則な事をやりだしたんだ﹂ 顔の前に両手を交差し、額に意識を集中する。 ﹁んで。紆余曲折あって、エライ人達は、そのバケモノを狩り、封 印させる事にしたのさ。⋮⋮因果の﹃鍵﹄を矛盾させることで己の 意識に綻びを生じさせ、そこから同じバケモノを呼び出す事が出来 る人間によって﹂ 天地裁断の鋼独楽 グローディス !!﹄ ﹃亘理陽司の﹄﹃名に於いて来たれ汝﹄ ﹃︱︱空の七位。 最後に。おれは乾いた笑みを、奴に投げかける。 名乗りは好きではない。だがそれが、せめてもの仁義であった。 ﹁人材派遣会社フレイムアップスタッフ。魔神使い。﹃召喚師﹄︱ ︱亘理陽司﹂ おれは舞台の袖に引っ込む。 371 前座に代わり、化粧を終えた主役が、舞台に上がる。 ︱︱そして。 俺は目を開いた。 周囲の空間が軋む。 俺に触れた空気が弾き飛ばされ渦を巻き、廃工場の屋根を、柱を 圧迫する。 それはいわば、波だった。 水の満たされた器に石を投げ込めば波紋が生じるように。 この世界に、在ってはならぬものが投げ込まれた為に生まれた震 動だった。 俺と対峙するモルデカイの顔に明確な焦りが浮かぶ。奴とてそれ なりに手練。目の前の存在が如何なるものか、多少は推測できたら しい。俺は奴に向けて、無造作に三歩、歩み寄る。 ﹁どうした。射程圏内だぞ﹂ 俺の挑発に、我を取り戻したか︱︱あるいは、他に選択肢がなか ったのか。奴はそのカギヅメを振りおろす。 ・・・・・ 鋼鉄をも斬り裂く爪は、だが掲げた俺の生身の腕に⋮⋮いや、腕 の前方に作り出された空間の隙間に阻まれていた。ありえない光景 に、奴の顔が恐怖に歪む。 俺は、亘理陽司の意識をいじる。技術的な事はどうでもいい。無 意識、本能の抑制を解除。生物学的な限界も無視。ただ単に、この 細胞の集合体の構造から繰り出せる理論上の最高値の出力で。 そのまま拳を奴の腹に撃ち込んだ。 372 ﹁⋮⋮!!﹂ 長身の大男が塵芥のように宙を舞う様は、見ていて中々興味深い。 想定外、いや規格外の酷使に、打撃に使用した腕の骨、筋肉、神 経が一瞬で破損し、痛覚信号を送り込んでくる。膝や背中も同様だ。 ﹁この程度の準備運動で音を上げるとは﹂ 日を追ってやわになっていくこの体が鬱陶しい。俺は痛覚信号を 遮断し、次の一合に備えた。今一度を期してか、奴は己の力を全開 にし、竜の力を以って迫り来る。 だが遅い。 ﹂ 俺は指を打ちならした。 グローディス ダウンロード ︱︱﹃承知﹄ ﹁斬れ。 俺の意識野に召喚されている魔神が応じる。俺にのみ幻視出来る その姿︱︱禍々しい銀色に輝く、無骨な刃を纏った独楽︱︱が、そ の歯車を回す。歯車はその鋭利な剣で周囲の空間を巻き込み。 奴の腕が、宙空で切断された。 ﹁︱︱え?﹂ 奴が阿呆のような声を上げる。それも当然か。俺と奴の間の距離 は六メートル。相手の攻撃を見落とす距離ではない。風斬や雷撃を 操る遠距離攻撃の能力者でさえ、能力を発動するための予備動作が 必要になるだろう。これを覆せるのは射撃の達人の抜き打ちくらい のものだが、それとて、斬撃を仕掛ける事は出来ない。 ﹁⋮⋮貴様、一体何をした?﹂ ここでようやく、腕の切断面から大量の血液が吹き出した。俺は 373 退屈そうな表情を崩さず、打ち鳴らしたままの人指し指を奴に突き つけた。 ﹁ああ。﹃斬った﹄のだ﹂ モルデカイの顔は失血とショックによって蒼白になっている。だ が、奴の体内の竜の血とやらはよほど大した物なのか、急速に止血 が進んでいるようだった。 ﹁ありえん⋮⋮!銃弾すら通さぬ俺の腕を⋮⋮!!﹂ おれ ﹁それはそうだ。俺はお前の腕ではない。お前の腕の空間を斬った のだから﹂ ﹁なん⋮⋮だと?﹂ 俺はやれやれと後頭部を掻いた。このあたりの仕草は、 だった時の影響が如実に残っているところであろう。 ﹁俺が召喚した魔神は、それぞれ一つの﹃特性﹄を持つ。﹃おれ﹄ が居る時のように、状況に応じて因果を捻じ曲げたりと言った繊細 な事は出来ないが。代わりに、それぞれが﹃特性﹄においては絶対 的な力を持つ﹂ 謳うように俺は言葉を紡いだ。 ﹁7番目に位置するもの︱︱天地を裁断する鋼の独楽、﹃グローデ ィス﹄。その特性は﹃切断﹄。通常の刃物や風圧による斬撃とは全 く違う。その物体が存在している空間そのものを斬り裂いてしまう ため、物質の硬度は関係ない。射程距離および効果範囲無制限、使 用回数および同時発動回数無制限、防御力無視、着弾所要時間ゼロ。 ⋮⋮もっと端的に、﹃何でもあり﹄と言えば多少は理解して貰える だろうか?﹂ 俺の述べた仕様。それがどれほど出鱈目なモノなのか、モルデカ イにはようやく理解出来たようだ。常人では想像もつかない力を操 るエージェント達であるが、どんな力も発動させるためには﹃燃料﹄ が必要だ。武術の達人の拳とて、突き詰めれば食物から摂り出され るエネルギーで動いている。サイボーグの銃弾とて、火薬や電力で 撃ちだされる。魔術師の紡ぐ複雑な術式や超能力者の一撃とて、魔 374 力や精神力、自然の力を代償としている。エネルギーが必要とされ る以上、その力には限りがある。自分の力か周囲の力か、変換効率 が良いか悪いかは別として、基本的に投入したエネルギー以上の力 を使う事は出来ない。 それは、これらの力がいずれもこの世界の根本的な法則に従って いるからだ。例えて言うなら、一つの盤の上でやり取りされるルー ルが凄まじく複雑になった将棋のようなもの。効率的な技、ルール の隙間をついた技、特別ルールを利用した技。普通の人が知らない ルール。色々あるが、所詮は盤の中の出来事だ。だが。 俺の能力は、違うのだ。 何人もが将棋を指して遊んでいる盤に、いきなり鉈を振り降ろし て敵の王将を叩き割るようなものだ。精妙なルールも何もあったも のではない。少し力加減を誤れば、盤が壊れて二度と誰も将棋を指 せなくなってしまう。だからこそ最強。だからこそ最悪の能力だっ た。 ﹁生憎と濫用出来るものでもない。俺がこの力を使う事を許される のは、この世界に紛れ込んだ他の連中を狩り出す時︱︱すなわち、 今だ﹂ 混じってしま ⋮⋮そしてペナルティも確実に存在する。自らの意識野に別のモ ダウンロード おれ 事を意味する。使い続けるうちに、どこまでが本当に自分の意 ノを召喚するという事は、多かれ少なかれ、意識が う 識だったかわからなくなってしまうのだ。⋮⋮かつて俺が、 だった事を思い出せないように。 だが、今となってはもはや些細なことだ。ひとつヒビの入った器 にはもう美術的な価値はない。あとは機能的な価値。割れるか割れ ないかだけが問題なのだ。 奴は瓦礫を押しのけ起き上がる。本能的に、これが自分に許され た最後の反撃の機会だと理解していたのだろう。 がぁぁぁあああっ︱︱!! 375 吐き出される猛毒の煙。この工場のみならず周囲にすら壊滅的な ﹂ 被害をもたらしたであろうそれは。 グローディス ︱︱﹃承知﹄ ﹁囲め。 振るわれる、六回の斬撃。致死の毒ガスは、拡散する以前に、俺 が遮断した立方体の空間の中に囚われていた。 ﹁切断、という概念も使い様だ。こうやって空間そのものを遮断す る事も出来る﹂ ﹁⋮⋮馬鹿、な﹂ 最後の一撃をこともなげに封じられ、今や完全に進退極まった態 のモルデカイに俺は掌を向ける。 ﹁だから言っただろう。何でもあり、だと﹂ 俺は立方体を解除する。拡散することなく空気と混じりあってし バッドジョーカー まった毒ガスが無力化し、拡散していく。 ﹁もう一度聞こう。︱︱﹃誰かの悪夢﹄。奴は今何処にいる?﹂ 三秒。葛藤があった。奴は迷い、絶望し︱︱そして、諦めた。 ﹁は、ははは。なあ、﹃召喚師﹄。お前はまさしくバケモノだよ﹂ 奴は、ゆっくりと後へ下がる。 ﹁だが比較の問題だ。お前より、俺は奴の方が怖い。だから喋らな い﹂ 振り上げられる左腕。だが、俺がそれに照準を合わせるより早く、 ファフニール その左腕は、奴自身の胸板を貫いた。 ﹁⋮⋮残念だったな。﹃毒竜﹄の死因は心臓を一突き。そして呪い の言葉を吐きながら逝くと、神話の時代より決まっているのだ﹂ 肋骨の隙間に開いた穴から血を撒き散らしつつげらげらと笑う。 奴は、避けられない死を目前にしたもの特有の、恐れるもののない 表情で呪詛を吐いた。 ﹁くたばれ、﹃召喚師﹄。貴様は無意味に死ね。そして誰からも、 376 ﹂ 忘れられるがいい。お前がいた事など、誰も気には止めず、墓碑に グローディス 名を刻むものはない︱︱﹂ す ﹁擂り潰せ。 ︱︱﹃承知﹄ 指を打ち鳴らす。 空間が断裂する。奴の首が飛んだ。その首が落ちる前に、さらに 首と身体が縦に割れる。縦に、横に。斜めに。上に、下に。制限無 し、物理特性を意に介さない空間切断。一秒で千回。二秒で一万回。 三秒で十万回。子供が白紙を鉛筆で塗りつぶすように、丹念に丹念 に塗り重ねられてゆく斬撃。千切り。微塵切り。それはやがてミキ サーと化し。 モルデカイ・ハイルブロンと呼ばれた人間を、ミクロン単位で分 解した。 空気の流れに押し出され、かつて人間だったものの粒子が大量に 飛散してゆく。血煙すら上がらない。それは何かの冗談のような光 景だった。 ﹁︱︱大当たりだよ、﹃毒竜﹄﹂ おれは薄れて行く靄にそう呼びかけた。 ﹁どうせ崩壊間近のポンコツだ。だったらせめて消え逝くまでには、 全部回収して片をつけないとな﹂ 破損した天井から、雨が吹き込んでくる。 その雨に身を晒し、おれはしばらくの間、立ち尽くしていた。 377 378 *****16ポンド さんが入室しました* ◆※※:報告﹃イベント収支&反省会﹄ 23:10:08 Sir ******* 23:10:17 BadJoker@幹事 >きたきた 23:10:23 16ポンド >どーもー Oct 23:11:02 Sir >遅いよあんた >遅くなったっス >全員そろったかな 23:11:12 Mitsu−ME Oct 23:12:45 Oct >ういうい。じゃー >しかしこれじ >8人。東京湾に沈め >蛇さんの頭に >面目次第もないっス。 BadJoker@幹事 ⋮⋮って、二ヵ月前をトレースするのはこのへんで 23:13:19 16ポンド さっそく。だっめじゃーん 23:14:05 Mitsu−ME 蛇さんはシバいときました 23:14:32 16ポンド 哀悼。何人切ったんだー 23:15:51 Sir たっス∼。妥当なトコでしょ 23:16:14 >まあ、利益回収は >途上国の工場 >ごめんス。来月大陸 BadJoker@幹事 ゃ投資が回収できないぞ 23:17:00 Mitsu−ME 二の次だったっしょ 23:17:12 16ポンド 一個くらいでガタガタ言うない 23:17:56 でお祭りやるんでそれで取り返して 379 23:18:30 16ポンド Sir Oct 23:18:59 Oct Oct >香港? >上海。相場動かすん >了解。張っと >︵⋮⋮海鋼馬の人 >競争相手が少 >﹃複製﹄使いとはい >ああ。じゃあ >何の変わりもなく手 BadJoker@幹事 Sir で銀行一個潰すっスヨー 23:19:45 くわ 23:21:01 16ポンド 達カワイソ︶で、14番の人は? 23:22:20 Sir 芸にいそしんでおりまっス︵笑 23:23:09 16ポンド 宿主は割と普通の人だった? 23:23:45 Mitsu−ME えまだ十代っスよお 23:24:18 >いつまでもカバン >いいのか?あ >じゃあ、次はみっ >本人も大分使いこな BadJoker@幹事 ないのは良いことだ 23:24:31 16ポンド 複製させとくわけにもいかんでしょ 23:24:53 BadJoker@幹事 せるようになってきたっスね 23:26:10 Mitsu−ME ちゃんとこに廻して増やしてみますか 23:27:01 >だいじょぶ、みん >︵苦笑︶ >そーゆう事な >なんのことでせう? BadJoker@幹事 んまり開始前に俺ばかり手札を増やしちゃ 23:27:56 な反則技使う気満々だし︵笑 Sir Oct 23:28:10 16ポンド Mitsu−ME 23:28:21 ︵笑 23:29:16 ら遠慮なく 380 23:30:46 Sir Oct 16ポンド Mitsu−ME トを増やしたら私にくれ︵笑 23:31:18 った 23:34:50 >自家用ジェッ >わかったわか >あれでS級っ >モルちん使えなか >いたねそんなの >それでねえ、失敗し Mitsu−ME たスタッフさんなんスけど 23:35:20 Oct BadJoker@幹事 Sir >いやあ。どうやらや 23:35:45 ったなあ 23:36:03 16ポンド てのはなあ。誇大広告じゃないか 23:36:58 >あー⋮⋮ ったのが清掃係の人らしいんスよ Sir >出てきたか、 Oct 23:38:12 Mitsu−ME ゲームに茶々を >で、どうするかって > >方針に変わり >雑魚をまとめ >まあ。いずれ >まだ実害があ >はいはい。それを確 BadJoker@幹事 16ポンド 23:40:43 7番持ち 23:41:09 相談なんスけどね 23:42:33 Oct 16ポンド Sir 入れる奴は、参加者全員で潰す 23:43:01 無しだな 23:44:05 Oct Mitsu−ME 認しておきたかったわけで 23:44:32 Sir るレベルじゃないだろう? 23:45:28 Mitsu−ME 全員出揃ったら、必然的に排除するだろう 23:46:39 ておいてくれる分には有用かな 381 23:47:52 Oct >仕留めた人が、清 >早いもの勝ち >ちょっとみっ >じゃあ、定例会議 >俺も興味があ >面白そうだ BadJoker@幹事 Sir 掃係が溜込んだ番号をゲットすりゃいいよ 23:50:00 16ポンド ということか 23:51:35 Mitsu−ME Oct Oct >もうこうなる >さすがワーカホリッ BadJoker@幹事 23:51:45 るな 23:53:42 Sir はこんなとこで。あと何かある? 23:55:20 16ポンド ちゃんと石油の情報交換しておきたいな 23:56:16 Sir ク。てかもう金要らんでしょ 23:56:50 >長引きそうな >ういうい。ここは Oct さんが退室しまし *****Mitsu−ME さんが退室しま BadJoker@幹事 Mitsu−ME と、どこまで稼げるかってゲームだな︵笑 23:57:15 んで別の部屋で 23:58:58 落とします∼ 23:59:01 *****Sir した******** 23:59:30 BadJoker@幹事 >ま、せいぜい頑張 *****16ポンド さんが退室しました* た******** 23:59:45 ******* 00:00:00 *****BadJoker@幹事 さんが退 ることだね、﹃召喚師﹄ 00:00:12 室しました******** 382 ●[了] 383 ◆※※:報告﹃イベント収支&反省会﹄︵後書き︶ いったんここで、一区切りという形になります。 次回、第五話﹃六本木ストックホルダー﹄。 384 ◆01:﹃蛇﹄、来たる ひそ ニョカ 成田空港の到着ロビーを抜けて外に出ると、冷涼な空気が﹃蛇﹄ の肌を刺した。その感覚に、微かに眉を顰める。湿度も随分低いよ うだ。空港の売店で買い求めたミネラルウォーターの栓を開け、微 量を口に含む。 少しだけ期待していた。ニューヨークを離れる仕事は久しぶりだ ったのだ。拠点としている無機質で寒々しいコンクリートの森は、 ビジネスには実に都合が良いが、﹃蛇﹄の生まれ育った地に比べれ ば余りに寒く、乾いている。今年の東京は大層暑く、蒸していると 聞いていた。﹃蛇﹄がこの仕事を引き受けた一因に、久しぶりに寒 くて無機質な住処から這い出したいと思う気持ちがあったことは否 めない。だが。 手配してあったレンタカーに乗り込んだ﹃蛇﹄は、そのまま新空 港自動車道に進み、成田ICから隣接する東関東自動車道に乗った。 東京へと向かって延びるアスファルトの両脇には、なだらかな日本 の山々が広がっている。そのいくつかには既に、ぽつぽつと赤や黄 の点が混じり始めていた。 十月の日本は、長かった夏を卒業しようやく秋に入り、九月まで の熱気が嘘のように涼しい日々が続いていた。﹃蛇﹄の愛する季節 は、既に過ぎ去った後のようだった。 仕方があるまい。 385 メイプル ゼルコバ チェッカーツリー ﹃蛇﹄は首を一つ振り、ささやかな楽しみを諦めた。そうであれ ギンゴ ば、やるべき事は決まっている。 ﹁﹃銀杏﹄、﹃楓﹄、﹃欅﹄、﹃七竈﹄⋮⋮﹂ 唄うようにリズムに乗せて、唇の間から言葉を押し出す。今、﹃ 蛇﹄は自分自身でレンタカーのハンドルを操っている。当然ながら、 他に車内には誰もいなかった。 だから。 今呟いた名前が、﹃蛇﹄の駆るこのレンタカーの遥か先、高速道 路の向こうに広がる山の、点にしか見えないはずの僅かに紅葉を始 めた樹木を差したものだと気づいた者など、いるわけがなかった。 東京か。 うごめ ﹃蛇﹄は運転席のカップホルダーに置いたミネラルウォーターの ボトルに、掌を添えた。ボトルの中に収まった水が、蠢いた。それ は決して、運転の揺れによるものではない。だが、やはりそれを目 にした者は、誰も居なかった。 だから。 ナナカマド その車が東京方面に向けて姿を消したそのしばらく後、成田空港 周辺の山奥に点在する、銀杏の木と楓の木と七竈の木がそれぞれ一 本づつねじ折られた事など、当然誰にも気づかれるはずもなかった。 386 ついば かどみや しゅ ◆02:鉄騎兵と戦闘少女︵再︶ ﹁啄め。﹃鶴﹄﹂ ﹃折り紙使い﹄門宮さんの呪とともに放たれた折鶴は、百に千に その数を増す。刃のように鋭い翼を持った純白の鶴の群れはたちま ちのうちに剣呑極まりない剃刀の嵐と化し、蹴りを放つため跳躍し ようとしていた七瀬真凛を包みこんだ。 ﹁なんのっ!﹂ 直前にその攻撃を察知し、咄嗟に真横に飛び退く真凛。こう言葉 で表現すれば単純だが、思い切り助走をつけた幅跳びを、踏み切り した瞬間に横跳びに変えたようなものである。人間離れした反応の 良さと、それを吸収する体や腱の柔らかさがなければ出来ない芸当 だ。一瞬前に真凛が存在していた空間をずたずたに切り刻む折鶴の 紙吹雪。 敵の攻撃モーションや殺気から、想定される攻撃範囲を描き出し、 これを事前に避ける事で身をかわすのが真凛の得意技である。だが、 ﹃事前に攻撃を読む﹄と﹃読んだ攻撃をかわす﹄という行為は必ず しもイコールではない。﹁わかっていても避けきれない攻撃﹂とい うものもあるのだ。特に、この門宮さんの折り鶴のような、﹃線﹄ ではなく﹃円﹄の範囲攻撃は尚更だ。跳躍で間合いを広げてもなお、 逃れきれない白い嵐。咄嗟、両腕両脚で顔と腹をかばう。残り時間 はわずか。今を逃せばもうチャンスは無い。おれは舌打ちするのも もどかしく、我がアシスタントをフォローすべく精神をシフトする。 ﹁﹃門宮ジェインの﹄﹃攻撃は﹄﹃七瀬真凛に﹄︱︱っと危ねっ!﹂ アップに叩きこんだ精神のギアが急速に元に戻される。咄嗟に地 面に転げまわったおれの背後の壁で、壁に叩きつけられたゴム弾が 387 鋭い音を立てて弾けた。 ﹁ハッハー。Saintに二度同じ技は通じマセンネ!﹂ 右腕のサイレンサーつき銃身からゴム弾を吐き出しおれを牽制し つつ、すばやく真凛と門宮さんの間に割って入る、﹃スケアクロウ﹄ 。二人の背後では今まさに、今回のターゲットを乗せたBMWがエ ンジンを始動させ、この駐車場から発進しようとしていた。 ﹁待ってください、水池さん!!話を⋮⋮﹂ おれは唸りを上げるエンジンの音に負けないように声を張り上げ るが、運転席まで声が届いたかどうかは怪しいものだった。いや、 どの道意味がない。声をかけた程度で話を聞いてくれる相手ではな いからこそ、こうやってスマートでない実力行使に訴えているのだ から。 ﹁ええい!真凛、そのでかぶつを何とかしてくれ!﹂ ﹁合点承知!﹂ いつぞや戦いでもそうだったように、真凛にとっては門宮さんよ りも、銃弾という﹃線﹄の攻撃を扱うスケアクロウの方が相性がい い。サイレンサーから撃ち出されるゴム弾をかいくぐり接近する真 凛。だが、今回﹃スケアクロウ﹄は、それに応じようとはしなかっ た。かわされる事を前提としつつ、真凛の進路を塞ぐように銃弾を 浴びせ、回避のために足が止まった隙をついて巧みに距離を取り直 す。 ﹁ヤラセワセン!ヤラセワセンゾー!﹂ ﹁このっ⋮⋮!﹂ そうして時間が過ぎるにつれ、確実に勝利の天秤はあちらに傾い てゆく。そう、これが警備会社﹃シグマ・コーポレーション﹄本来 の姿である。彼らの仕事はあくまで﹃守る﹄ことなのだ。前回とは 異なり、向こうにこちらの手の内がバレており、しかも守りに徹し ている。今の状態の彼らを制することは、おれ達にとっても容易な ことではなかった。ラストチャンス、おれは交戦している真凛とス ケアクロウを横目に突っ切り、BMWに向かう。だが、残念ながら 388 これも読まれていたようだ。 ﹁塞げ。﹃紙風船﹄!﹂ 門宮さんの手には、四角い箱状に折り上げられた紙。いかなる原 理によるものか、それは彼女の手から離れると空気を吸い込み、瞬 く間に直径二メートル以上の巨大な﹃紙風船﹄と化し、おれに襲い 掛かってきた。 ﹁へぶっ﹂ 擬音で表現するならまさに、﹃ボヨヨン﹄であろう。重く、巨大 で、柔らかな紙風船に横から吹っ飛ばされて、おれはほとんど反応 すら出来ず無様に地を這った。鼻を打って泣きそうになるところに、 真凛の鋭い声が飛ぶ。 ﹁陽司!車が!﹂ 遠ざかるエンジン音。慌てて顔を上げると、駐車場の出口をBM Wが悠々と通過してゆくところだった。今のおれ達に自動車を追う 手段はない。⋮⋮タイム・アップ。戦闘は終結した。 つまりは、おれ達の負けだった。 おれはたっぷり五秒間突っ伏した後、起き上がろうとして面倒臭 くなり、そのままごろんと仰向けになった。 ﹁⋮⋮ちっくしょー、バリエーション多いっすね、攻撃パターン!﹂ 地下駐車場を照らす蛍光灯の鈍い明かりが目に飛び込んでくる。 おれ達が今いるのは港区某所の超高級マンションの地下、住人達の 所有する車︵当然ながらほとんどが高級車、それも外車である︶が 停められている駐車場だった。どうにかセキュリティを騙くらかし て忍び込むところまでは上手くいったのだが。まさかこの二人がタ ーゲットの護衛についているとまでは予想していなかった。 ﹁大した事はしていません。一枚の紙片を手折る事で無数の形を作 り出せるように、基本の術法をいくつか組み合わせているだけです よ﹂ 389 門宮さんがこちらに歩み寄り、手を差し伸べてくれた。無骨な﹃ シグマ﹄の制服に身を包んでいるのはイタダケナイが、すらりとし た長身と、欧米系の血を引く主立ちに浮かぶ日本美人特有の表情が 変わらず美しい。そして長く垂れる艶のあるポニーテールがよい。 すごくよい。ものすごくよい。イタリア人的表現ならベネではなく てディ・モールトだ。おれは差し伸べられた白い手をしっかと握っ て上半身を起こした。 ﹁立てますか?﹂ ﹁ええっと、ちょっと腰が抜けたみたいで⋮⋮﹂ おれは右手で門宮さんの手を握ったまま、努めて痛そうな表情を 装う。過剰労働に従事するこの身、せめて鼻を打った分くらいは役 得が欲しいところである。 ﹁門宮さん、コイツを起こすときはこうやるんですよ﹂ ﹁ひぎぃ!?﹂ いつの間にかやって来た真凛がおれの左手首をヤバイ角度に極め ていた。激痛から逃れようと、おれは反射的に肘と肩を上方向に逃 がそうとし、結果として弾かれるように立ち上がる。 ﹁真凛、お前何するんだよ!?﹂ ﹁腰は抜けてないみたいだね﹂ いやに冷たい目でこちらを見据える真凛。くっ、猪口才な。お子 様が余計な知恵を身につけおって。かくなる上は、 ﹁いやその。スイマセン﹂ 謝るしかあるまい。そんなおれ達を見やって門宮さんがあのアル カイックスマイルを浮かべる。 ﹁相変わらず中がよろしいんですね﹂ ﹁⋮⋮まあ、こんなんでもアシスタントですしね﹂ ﹁こんなんって誰のことだよ!﹂ 残念ながらすでにその手は離れている。憮然とするおれの視界の 端で、﹃スケアクロウ﹄が大げさに肩をすくめて見せた。 ﹃ンだよ。なんか言いたいことでもあるのかよ﹄ 390 ﹁Oh!ワタシは今アウト・オブ・カヤでスネー。コチラにファイ ア・パウダーを飛ばさナイデクダサーイ﹂ おれの英語に野郎は日本語で返答してのけた。ったくどいつもこ いつも。と、門宮さんが表情を改める。 ﹁今回は私達の勝利。これ以上潰しあっても無駄でしょう。ここは 一旦退いていただけますか?﹂ ﹁仕方ありませんね﹂ すでにターゲットは去ってしまった。今頃は自分のオフィスに向 けてBMWを走らせている真っ最中だろう。ここでこの二人と戦っ ても勝てる気がしないし、勝ったとしても、次にまた新たな護衛が 立ちふさがるだけだ。 ﹁そーいうわけだ。ここは退くぞ、真凛。⋮⋮そんな不満そうな面 をするな﹂ ﹁わかってるけど。やられっぱなしは性に合わないなあ﹂ おれは眉間に指を当てて首を振った。これだから戦闘フェチは手 に負えん。 ﹁腐るなって。次にきっちり勝てばそれでいいわけだから。⋮⋮で すよね?﹂ 最後の台詞は真凛に向けたものではなかった。 ﹁そのとおりです。しかしお忘れなく。時の天秤は常に私達﹃シグ マ﹄に味方するものですよ﹂ 門宮さんは悠然と微笑を返した。 おれ達の見ている前で、二人はシグマ社の所有するクソごついス テーションワゴンに乗り込み、去っていった。おそらくは、ターゲ ットのBMWと合流するのだろう。取り残されたおれ達は、なんと なく次の行動を決定する気になれず、ボケっとその場に突っ立って いた。 ﹁行っちゃった﹂ 391 真凛の間の抜けたコメントに、おれも鼻息だけで気のない返事を した。 ﹁⋮⋮じゃあ、帰るか﹂ 盛り上がらなかった飲み会の後のような台詞を吐くと、おれ達は 撤収にかかった。毎度毎度の事ながら、この虚しさを味わうにつれ、 どうしてこんな事をやっているのか、と自省したくもなってくる。 392 ◆03:嫌煙職場と元刑事 ﹁まだ恥ずかしくもなく生き永らえておるかね亘理氏?﹂ ﹁のっけから名誉毀損で訴えたくなるような失礼な質問ですね羽美 さん﹂ いやまあ、恥ずかしくも生き永らえてる、ってあたりは事実では あるけどさ。上からこちらを覗き込んでいる声の主、人災派遣会社 いするぎ うみ として名高い我らが﹃フレイムアップ﹄の理系全般を担当するマッ ドサイエンティスト石動羽美女史に返事をすると、おれはペンを走 らせる手を休め、事務所の自分のオフィスチェアから身を起こした。 三日前の午後のことである。 十月に入って大学の授業も再開したと言うのに、哀れなおれは今 日もこうして授業が引けた後は事務所に顔を出している。貧乏だ、 みんな貧乏が悪いんだ。 すえさだ ﹁チーフ殿が貴公を召集しておるぞ﹂ ﹁須江貞チーフが?﹂ 珍しい人から声がかかったものだ。うちの事務所のシステムは、 多くの案件を、割り振られた各自がバラバラにこなしていく形式で いぶか ある。そのため、現場の取りまとめ役であるチーフといえども共に 行動する機会はあまりないのだ。訝しがるおれがペンを置くと、そ の机に羽美さんが目を留める。 ﹁ほほう。書類仕事かね。貴公の脳のような貧弱な演算回路に出力 を求めるとはまた、無駄な行為を要求する輩もいたものよ﹂ 分厚いメガネを揺らして羽美さんはくけけけけけ、と笑った。 393 ﹁レポートですよレポート。こっちは忙しいんですから向こう行っ てください﹂ しっしっと野良猫を追っ払う手つきで、相変わらずの蓬髪に擦り 切れた白衣という態のマッドサイエンティストをあしらう。冷たい ようだが、この人は自分が没頭しているときは人の話など聞こえも しないくせに、自分がヒマな時は他人の迷惑など顧みず、あちこち にちょっかいをかけずにはおられない。扱いとしてはこのくらいで 丁度いいのである。 ﹁あら、陽司さんの任務報告書はもう頂いていたはずですが?﹂ かさきり リッチモンド らいね 事務所の奥から声をかけてきた黒髪の美女。こちらは文系全般を 担当する笠桐・R・来音さんである。この事務所に文理の双璧が揃 うのは、実は結構珍しい。 ﹁ええ、来音さん。任務報告の方はさっき提出した通りで。今やっ ているのは大学の課題ですよ。うちの学部は休み明けには確認テス トとレポートが山と出ましてね﹂ とは言っても、一応ブンガクに魂を捧げている︵はずの︶文学部 生たるおれは、数学や物理の小問題からはすでに解放されている。 只今おれに課せられているのは、もっぱら受講している第一、第二 外国語の読解および翻訳。そして文化人類学や哲学、心理学につい てのレポートである。なお、文学なんて受講してないじゃないか、 というツッコミは認めません。と、来音さんがこちらにわずかに顔 を寄せてささやく。 ﹁そうですか⋮⋮。ところでその後、腕とお腹の傷はいかがです?﹂ ﹁おかげさまで。あの真凛に見抜けないくらいまで治りましたよ﹂ いつも助かります、と来音さんに頭を下げる。任務中の戦闘はい ざ知らず、プライベートの方のそれは激烈だ。というより、そもそ も命の価値や概念が極端に薄くなる。戦闘終結後に腕や足が片方ず つ残ってれば儲けもの、ということもざらである。その度におれは この美しい吸血鬼の姫のお世話になっていたりする。 ﹁そういえば亘理氏は文学部生であったか。小生としたことがすっ 394 かり失念しておったわ。そのスレた態度、まさに在学中に遊び尽く した挙句就職浪人した法学部生の如しッ!﹂ ⋮⋮まだ居たのかこのヒト。 ﹁純朴な少年がそんなスレた態度になったのは誰の責任でしょうね 一体?﹂ 某工科大学をドロップアウトした人に言われたくはないわい。だ いたい法学部生に失礼だっつうの。何か身近な元法学部生に怨みで もあるんだろうか。 ﹁羽美、いつまでも与太話をしていないで、本題に入ってください﹂ 不毛なやりとりを見かねた来音さんが割って入る。 ﹁何だね、在学中に遊び尽くした挙句就職浪人した元法学部生ッ!﹂ ﹁あ、あれは休学です!実験でキャンバスごと研究棟を吹き飛ばし て放校された貴方と一緒にしないでください!!﹂ ﹁くはははははは!奨学金を食費に使い果たして休学とは片腹どこ ろか両腹痛いわ!!﹂ ﹁んなっ!?貴方がそれを言いますか!?私は貴方の放校処分に巻 き込まれて奨学金を減らされたのですよ!?﹂ ⋮⋮なるほど。意外なところで判明した我が事務所の双璧の因縁 であった。それにしても方やイギリス、方やアメリカに在住してい たはずなのに、どこで交流があったのやら。 ﹁で、その﹂ 火花を散らす二人に向かっておれはおずおずと尋ねた。 ﹁須江貞チーフの元に向かえばよろしかったんでしょうか⋮⋮?﹂ いつもの応接間に入ると、そこには二人の先客が居た。一人は我 がアシスタント七瀬真凛。そしてもう一人、真凛の隣に座っている、 よれよれの背広の男におれは声をかける。 ﹁お呼びですか、須江貞チーフ﹂ 395 レンチャン すえさだ としぞう ﹁ああ。また連荘させてしまってスマンな。新たな任務だ﹂ そう言って、彼、我らがチーフたる須江貞俊造がおれに席を勧め てくれた。 一言で言って、くたびれた印象の男である。 おれのような一般市民はさておいて、この事務所に所属する連中 が良くも悪くも際立った印象を与えるのに比べると、基本的に平均 的な日本人の男性の範疇を出ない。 歳はまだ三十半ば。二十代の頃徹底的に鍛え上げたのであろう体 躯は、今もなお贅肉を寄せ付けていない。短めに刈りこんだ頭髪と、 薄く無精髭の浮いた顎。その顔はまあ、どちらかと言えば整ってい る部類に入るだろう。いずれのパーツも素材はそう悪く無いはずな のだが、年季の入った背広、しみついた煙草の臭い、やつれた頬あ たりが、なんとなくうらぶれたオーラを醸成しているような気がす る。有態に言えば、徹夜続きの刑事そのものである。それもそのは ず、もともと須江貞チーフは本庁でも腕利きで知られた刑事だった のだ。紆余曲折を経て警察を去り、経理の桜庭さんの伝手でウチに 就職したのが数年前。創立メンバーである所長と桜庭さんに次ぐ最 古参である︵と言ってもそもそも十人程しかいないわけだが︶。チ ーフとは言っても先の理由により、あまり現場でおれや直樹とコン ビを組む事は無い。普段はもっぱら外交︱︱すなわち、他の派遣会 社や依頼主、あるいはターゲットである企業との揉め事を、オモテ、 ウラに関わらず処理している。実はいつぞやおれ達がザラスの地下 金庫から金型を奪還したときも、ザラス上層部からの有形無形の圧 力があったものだ。それをきちっと排除してくれたのが、他ならぬ チーフである。 そんなチーフが現場に出張ってくる場合は二つ。一つは、前に言 ったかも知れないが、ウチの総力を結集するとき。実働部隊の文字 通りチーフとして指揮をとる。そしてもう一つは、前職の経験を生 かした任務。例えば、捜査、追跡、立証を中心とする仕事はチーフ 396 の独壇場である。また、おれ達ガキんちょ部隊には手の余る、ダー クな要素が介在する案件。あるいはちょいと心霊風味の案件なども 主に担当している。 ﹁珍しいですね、羽美さん来音さんに加えてチーフまでが事務所に いるなんて﹂ おれは真凛に軽く手を挙げて挨拶すると、ソファに腰を沈める。 ﹁ようやくヤヅミの債権回収の件が片付いてな。今度は自分の机の 上を片付けるために事務所に顔を出したというわけだ﹂ 管理職であるチーフの机には、おれ達の作製した任務報告書も含 めて様々な書類が流れ込んでくる。事務処理のエキスパートたる来 音さんがいるのでそれでも随分軽減されているが、チーフとしての 決済を下さなければならないものも多いのだ。本来はそれらを捌き つつ自分の報告書も作らなければならない要職であるわけなのだが、 そこは元叩き上げの刑事、現場と書類のどちらを優先させるかは言 わずもがな。かくして主が不在のチーフの机の上にはマリンスノー のように紙の束が降り積もってゆく。羽美さんの研究室とチーフの 机の上が、目下の所、我が事務所の二大カオス製造装置なのである。 ﹁そろそろ処理しないと笠桐さんに怒られてしまうからなあ﹂ この増税路線一辺倒のご時世でも手放さないマルボロを灰皿に押 しつけ、チーフはぼやいた。一番事務所にいなければいけない人間 の癖に、おれより事務所に顔を出したがらないというのはいかがな ものだろう。 ﹁ま、来音さんが怒るかどうかは別として、書類を何とかして欲し いのはおれとしても同感ではありますね﹂ 来音さんが怒るとしたら、多分それは書類が片付かないからでは なくアナタが顔を出さないせいです。 ﹁こないだの地震の時は大変だったよね﹂ 真凛がさりげなく灰皿から立ち昇る煙から身をかわす。 397 ﹁ああ。あれは大変だったな。あのアイガーの北壁のような書類が 大崩壊を起こした時はこの世の終わりかと思ったぜ、マジで﹂ ﹁応接室以外を禁煙にしておいて良かった。灰皿から引火してたら 大変だったよ﹂ ﹁まさしく英断だったな。これはもう、事務所内完全禁煙にしろと いう天のお告げに違いないだろ﹂ ﹁⋮⋮お前達なあ、そうやって遠まわしに社会的マイノリティの喫 煙者を追い詰めて楽しいか?﹂ チーフが泣きそうな顔になる。ウチのメンバーで喫煙組はチーフ と羽美さんだけである。仁サンも超人的な体力を維持する為に喫煙 は避けているし、所長は﹃二十歳で卒業した﹄との事である。おれ は吸えない事もないが、全く美味いと思えないので、カッコをつけ るときだけ専門。直樹、来音さんにいたってはそもそも体がニコチ ンを弾いてしまうので効かないのだそうだ。世界的な禁煙の流れを 受けて、とうとうウチも依頼人が訪れる応接以外は全面禁煙になっ た。 ﹁﹁タバコは百害あって一利無し﹂﹂ おれと真凛の声がハモる。チーフはその声に追いやられるように ソファの隅っこに座りなおし、寂しく天井の換気扇に向かって煙を 吐いた。 ﹁いいじゃないかよぅ、独り身三十代の日々で楽しい事って言った らこれくらいなんだからよぅ﹂ じゃあ結婚でもすりゃいいのに。テンパイしてるくせにリーチを しないとは何事か。と、おれは今さらながら、普段いない人がいる 代わりに、よくいる人がいないことに気づいた。 ﹁そう言えば所長はどうしたんですか?﹂ ﹁CCCのマハタ社長って人と会食だって﹂ ﹁⋮⋮おいおい。そりゃ業界としてはちょっとしたニュースだな﹂ 派遣業界最大手と、派遣業界最問題児の会談となれば、何か色々 勘ぐりたくなってしまう。 398 ﹁ああ。そうだな、お前達には今のうちに言っておくか﹂ 吸殻を灰皿に押し付けたチーフが解説してくれた。 ﹁ひょっとしたらもうすぐ大掛かりな仕事が来るかも知れんのだ。 ウチだけでなく、CCCや、他の数社と共同戦線を張るような、な。 今日の会食はその調整だ。いずれお前達にも色々頼む事があるかも 知れん﹂ ﹁へぇ⋮⋮﹂ もしそれが実現するとしたら、おれも経験したことのないビッグ プロジェクトになるだろう。もっとも、それまで何人生き残ってい るかは知らないが。 ﹁まあ、そう言うわけで、今日は俺が代わりにお前達に依頼を回す と言うわけだ。イズモ・エージェントサービスは知っているな?﹂ ﹁そういや、依頼の話でしたっけね﹂ いつまでもヨタ話をしていても仕方がない。おれは応接テーブル の上に置いてあった任務依頼書を手に取った。 ﹁当たり前でしょ。この業界でイズモを知らなかったらモグリです よ﹂ ﹁ボク、今日初めて知ったんだけど⋮⋮﹂ ああ、そりゃそうか。本格的に真凛が調査系の仕事に入るのは、 いつぞやの偽ブランド事件以来、二回目だったっけか。 ﹁イズモの仕事っつったら、やっぱり人探しですかね?﹂ 399 ◆04:人捜し︵丸投げ︶ イズモ・エージェントサービス。おれ達同様の﹃派遣会社﹄であ る。 その仕事は﹃調査﹄専門。人探し、失せ物探し、浮気調査、企業 の信用調査などなど。世間で言うところの探偵事務所と思っていた だければ間違いない。その社員数、実に五百人以上を誇る業界大手 だ。ピンからキリ、有名どころから胡散臭いのまで幅広い﹃派遣業 界﹄において、おそらく一般人にも最も有名な派遣会社であろう。 資本や規模だけで言えば、千人以上の異能力者を有し、カリスマ などもある。だが、こと知名度と言う点であれ 、日本企業御用達の老舗警備会社ブルーリボンガー BRG CCC 社長が率いる新進気鋭の派遣会社クロスクロノスコーポレーション、 通称 ズ、通称 人探し 番組を ば一位はダントツでこのイズモだ。何しろ彼らは堂々とテレビに出 演しているのだから。 誰でも一度くらいはゴールデンタイムの特番で 観たことがあるだろう。芸能人や一般人の﹃幼い頃生き別れた母親 に会いたい﹄、﹃初恋の人ともう一度話がしたい﹄というリクエス トに応じてテレビ局が捜索し、その調査過程で話を盛り上げ、スタ ジオで再開するシーンでクライマックスに持っていくというあの手 の番組。テレビ局から依頼を受け、実際に番組中で活躍する調査員 達、実はあれこそが﹃イズモ・エージェントサービス﹄のスタッフ なのである。 よって、その構成員はほとんどが元刑事や警官、探偵である。特 に探偵の技術については、メンバーのノウハウを社内に蓄積して新 人に伝授するシステムが整っており、日本一の探偵養成所でもある。 400 事実、ここから独立してフリーで活躍する私立探偵も多い。 そういう意味では、少々社会的に特殊ではあるが、メンバーはあ 通常の方法以外で 調査が必要な案件も紛れ込んでくる。そういった案件に対応す くまで一般人であると言える。しかし、時には の クレボヤンス るために、異能力の持ち主も多数所属しているのだ。 遠隔視能力者。遺失物や、時には遺体を見つけ出すダウザー。サ トレーサー イコメトラーやテレパシスト。嗅覚や野外活動、行動心理学に秀で た追跡者達。夏の心霊番組に備えて占い師や退魔師まで取り揃えて ・ いたりする。﹃エージェントが所属する探偵事務所﹄というよりは、 ﹃エージェントも所属している探偵事務所﹄の方がイメージに近い ハウンド・オン・テーブル だろう。遠隔視と言えば、かつて長野からのデスレースで共に戦っ た﹃机上の猟犬﹄見上さんもここの所属である。 また、異能力者で無くとも、調査や逮捕のプロであり豊富な人脈 を持つ警察関係者はとにかく心強い。社会的にカオが利く、という 長所は、この業界においては超能力や魔法の一つや二つを補って余 りあるのだ。 そんな失せもの探しのプロ集団イズモがおれ達に丸投げしたい案 件となると、やはり人探しくらいしか思いつかないが⋮⋮。 おれの質問にチーフが頷き、配った資料をめくる。 ﹁そう。俺の元上司が今はイズモで働いていてな。イズモに依頼の あった人探しの件を、うちに委託したいと言うオファーがあった﹂ それって、つまるところ丸投げって言わないか。とりあえず資料 つゆき じんいちろう をめくる。そこにあった名前を見て、おれは思わず小さく叫びを上 げてしまった。 ﹁依頼人は⋮⋮露木甚一郎!?まさか。トミタ商事事件の伝説の弁 護士?﹂ チーフは頷く。おれは短く口笛を吹いた。 ﹁こりゃまた大物ですね。あと十年経てば間違いなく歴史の教科書 401 に載りますよ﹂ ﹁あの、全然話についていけないんだけど。何ですかそのトミタ商 事事件って?﹂ ﹁戦後最悪と評される金融詐欺事件だよ﹂ チーフが面白くもなさそうに呟いた。 トミタ商事事件。 二十世紀後半、バブル経済の末期に発生した悪質な相場詐欺であ る。 おりしも世間では土地や株への投資が過熱し、様々な投資会社、 商品が乱立していた時代である。その中のひとつ、新興の投資会社 トミタ商事が、このような広告を打ち出したのだ。﹃今はダイヤモ ンドが買い時です、今買っておけば必ず値上がりして、倍以上の値 段で売れます。私達にお金を預ければ、きちんとダイヤモンドを購 入して運用します﹄、と。 そして顧客から投資と称して巻き上げた金を、社長や数人の幹部 が自分の給料として着服した。そして、ダイヤの値上がりを新聞で 知った投資家達が、殖えたはずの自分の資産を引き上げようとする と、﹁もう少し待っていればもっと殖えますから﹂と言葉巧みに返 金を拒むというものだった。最初からダイヤモンドに投資する気な ダイヤ とこれ見よがしにダイヤが積み上げら ど更々無かったようである。当時のトミタの事務所内には モンドはちゃんとあります れていたが、これも後の調査で全てガラス製のフェイクだったこと が判明している。 詐欺の手法としてはそう手の込んだものではない。むしろ疑って かかればいくらでも怪しい点が浮かんでくる類のものだっただろう。 そんな詐欺がまかり通ったのには理由がある。そして、それこそが この事件が戦後最悪と評される所以だった。トミタ商事が狙い撃ち にした標的は、ビジネスマンでも学生でも主婦でもなく、一人、も 402 しくは夫婦暮らしの高齢者⋮⋮つまりはお年寄りと、彼らが蓄えた 老後の貯蓄だったのである。トミタ商事は社員に接客マニュアルを 渡し、その実行を徹底させた。その手法をいくつか上げると、この ようなものだ。 最初は絶対に投資の話はするな。 会社の命令で仕方なくやらされていると言え。 相手の部屋に仏壇があったら線香を上げて手を合わせろ。 自分にも田舎に祖父母が居ると言え。 ﹁おばあちゃん、俺を息子と思ってくれ﹂ ﹁すき焼きの材料を買ってきたので一緒に食べましょう﹂ ︱︱こうして、息子や孫のように思われるようになった時点で、 ﹁実は俺、会社でこんな商品を売れって言われてるんだけど⋮⋮﹂ と切り出すのである。お年寄りはかわいい息子同様の若者のためな らば、とお金を出すわけだ。 赤字操業が発覚してトミタが破綻するまでの五年間で、全国の高 齢者から巻き上げたその金額は、およそ一千億円とも推測されてい る。缶コーヒーが百円だった時代の一千億円だから、現在の物価に 直せばさらに数割増える。とんでもない額だった。そしてそのほと んどが、トミタの社長と幹部連中の給料に消えた。後に詐欺罪で押 収されたトミタ社内の裏帳簿を見て、検察関係者は愕然としたと言 われている。⋮⋮幹部の給料は、冗談抜きで毎月一千万円だったの である。 詐欺罪によってトミタ商事は破綻したが、散々甘い汁を吸った幹 部の多くは、検察の手が伸びる前に金を持って海外へ逃亡した。社 長もその例に漏れず逃亡しようとしたようだが⋮⋮うちらの業界関 係者も随分裏で暗躍したらしい。結局、検察の手入れの数日後、惨 殺死体として都内某所の排水溝に挟まっているところを発見された。 刑事事件としては解決を見たトミタ商事事件だったが、金の多く 403 は持ち逃げされ、あるいは幹部連中の冒険半分の無謀な投資で雲散 霧消していた。結局の所、集めた一千億のうち検察が差し押さえた のは、ビルや家具などを押さえても二十億円程度だったため、投資 者に返せる金など、どこにも存在していなかったのである。 投資者達はここで、二重の苦しみを負う事になった。一つは当然 ながら、老後のために蓄えてきた資金をごっそりと奪われた事。そ してもう一つは、﹃投資なぞに手を出すとは何事か﹄という家族や 周囲からの冷遇である。 二十一世紀になって、ようやくネット株やデイトレードと言った 単語も随分身近になったが、それでもまだ日本では投資をするとい う事は賭博の同類と考える風潮は根強い。いわんや当時においてお や。﹁おじいちゃんはそんな歳になってまだお金が欲しかったんで すか、浅ましい﹂というわけだ。実際のお年寄りには、﹁孫みたい なあの人が薦めてくれるから、会社で成績を上げさせてやりたくて﹂ という心情の者も多かったらしいが。その上、投資の基本は自己責 任、という大原則がある。つまり投資が失敗しても、それはその商 品を選んだ自分の責任、同情することは出来ない、と考える者も多 かった。実際、資産と世間体両面で追い詰められて自殺したお年寄 りも多かったと聞く。 金が返ってくるあてもない、世間からも冷たい目で見られる。何 より、人を信じるという気持ちを踏みにじられた⋮⋮そういった人 々の救済に立ち上がったのが、弁護士露木甚一郎である。 トミタ商事の破産管財人に就任した露木は、トミタの膨大な帳簿 を一つ一つ調べ上げ、その金の流れを追い続けた。トミタの無謀な 投資先、買い付けた後暴落した不動産やゴルフ場。トミタが破産寸 前とわかっていて不良物件を売りつけた企業もあり、そこにも彼は 責任を認めさせ、一部の返金に応じさせた。さらにはアクロバティ ックな論法で、トミタ幹部が納めた所得税すら国から取り返したの 404 である。 数年に及ぶ死闘の末回収出来たのは、それでも実際のところ二百 億円、一割程度だったが、彼が確実に一つ取り戻したものがあった。 国や関係企業、そして世間にトミタの被害者達の正当性を認めさせ ることで救った、被害者の尊厳である。 後に、事件に関わった裁判官は、非公式ではあるがこうコメント を残している。﹃露木弁護士が取り戻したのは、お金だけではない。 罪のない人々を守るためにこそ法があるのだという、法治国家の信 頼もだ﹄と。 チーフが語り終えると、応接間の雰囲気はお通夜みたいになって しまっていた。 ﹁⋮⋮それにしてもひどい話だね﹂ ﹁ギリギリおれが生まれる前の頃だったかな。でもまあ、露木弁護 士のおかげで、多くの人が救われた事は間違いない。大学の法学部 にも弁護士目指してる奴は結構いるけど、この人に憧れて志したっ て奴は多いもんなあ﹂ ﹁聞いた事もなかったよ﹂ 真凛が口を尖らす。おれは丸めた書類でやつの頭を軽く叩いた。 ﹁いたっ﹂ ﹁だからちゃんと新聞を読んでおけと言ってるだろう﹂ 最近のおれの第一課題は、こやつに一般常識を叩きこむことであ る。 ﹁そう言うな。真凛君がわからないのも無理もない。法曹界の英雄 とは言え、引退してもう十年以上経つからな。社会人だって知らな い奴の方が多いよ﹂ ﹁コイツを甘やかしちゃいかんですよチーフ。本気で仕事をやらす つもりなら、まずはキチンと業界の基礎知識を固めさせておかない と﹂ 405 ﹁わかったわかった﹂ チーフは苦笑した。 ﹁それで、な。この伝説の弁護士露木甚一郎がイズモに依頼したの はこうだ。十五年前に家を出てアメリカに渡った一人息子を探して くれ、とね﹂ ﹁家出息子が居たってのは初耳ですねえ。まあ、でもそれならそれ で、調査員と探知能力者が掃いて捨てるほど居るイズモの独壇場で しょう。何もウチが出張る必要はない﹂ おれは任務依頼を丸めたままソファーに背を預けた。 ﹁ああ。さすがにイズモの連中も優秀でな。その息子の存在自体は すぐに見つけ出したんだよ。アメリカの大学を卒業し、数年前に日 本に戻ってきている﹂ ﹁はあ。じゃあ依頼は無事解決ってワケですか?﹂ ﹁いいや。問題は、見つけたその後に発生したんだ。そしてソレが、 イズモがウチに依頼を投げてきた原因でもある﹂ そう言うとチーフは、任務依頼書を数項めくった。 ﹁これが、露木弁護士の息子⋮⋮露木恭一郎の現在の姿だ﹂ みずちきょうすけ そこに添付されていた写真を見て、おれと、真凛までが声を上げ ていた。 ドラゴン水池 だよ、ね?﹂ ﹁これ、水池恭介じゃないですか!﹂ ﹁⋮⋮あの いささか自信なさげに真凛が問う。おれは頷いた。 ﹁なんだか今日は随分大物に縁がありますねぇ﹂ おれはここ一年ほど散々テレビを賑わせている男の写真をつまみ あげた。 406 ◆05:魔人達、惨敗す ﹁⋮⋮完全に読み誤った。まさかこれほどのものとは、な⋮⋮﹂ ﹃真紅の魔人﹄笠桐・R・直樹が絶望のうめき声を上げる。時を 支配し絶対零度を自在に生み出すその圧倒的な力をもってしても、 この脅威に打ち勝つことは出来ない。 ﹁⋮⋮わかってはいたつもりだった。おれ達の常識がここでは通じ るはずもないと覚悟はしていたんだ。なのに、ケタが予想の最大値 をさらに超えているなんてな⋮⋮!!﹂ 応じるおれ、﹃召喚師﹄亘理陽司の声も乾き、ひび割れていた。 これ程の失策、もはや悔しさを通り越して笑うしかない。やるせな さを拳に込めてテーブルに叩きつけようとして、やめた。この現実 を前に、おれ達二人はひたすらに無力だった。 ﹁ミックスサンド三つで千二百円。一体どういうコスト内訳になっ ているのか、市民代表として切に情報開示を希望するぜ﹂ ﹁せめてドリンクくらいはつくと思っていたのだがな。千二百円。 千二百円だぞ?ワンコインフィギュアを二個買って釣り銭が来るん だぞ?﹂ 深々とため息をつく直樹。その辛気臭いツラに文句を言ってやろ うとしてやめた。どうせおれも似たり寄ったりの顔をしているに違 いないのだ。 ﹁世界一物価と消費税の高い北欧とてこんな無茶な値段ではなかっ たが﹂ ﹁手が込んでるのは認めるけどよ。あまりにも費用対効果が悪過ぎ 407 るぜ﹂ テーブルの上にふてぶてしく鎮座する三切れのミックスサンドを 前に、原種吸血鬼と、世界を崩壊に導きうる召喚師は圧倒され、遠 巻きに文句をつけることしか出来ない。不機嫌なおれ達とは対象的 な周囲の席では、柔らかな秋の陽射しがさんさんと降り注ぐもと、 カップルや友人、お年寄り、ビジネスマンがオープンテラスでの談 笑に華を咲かせている。 おれ達がただいま居るのは東京都港区六本木、十字ヶ丘。古くか ら歓楽街、高級住宅地として定評のあった区画だったが、つい数年 前に再開発計画を完了し、最新の商業施設と超高層ビルとが並び立 つ東京都随一の観光スポットに生まれ変わった。通称﹃ゴルゴダ・ ヒルズ﹄と呼ばれる一角である。平日とは言えさすが日本最先端の 商業地、溢れんばかりの人通りだ。現地集合したおれ達は作戦会議 がてら昼食でも取ろうと思ったのだが、敷地内の飲食店のランチサ ービスは、千八百円が最低ラインというステキなインフレっぷりで ございました。さすが日本最先端の商業地、物価指数も最先端⋮⋮ って納得出来るかっ! やむなくオープンテラスになっている喫茶店に入り、二人で六百 円ずつ出しあってミックスサンドを注文した。いくらなんでもサン ドイッチで千二百円なら量は二人で分けるくらいはあるだろうし飲 エ リ、 エリ、 レマ、 サバクタニ み物もつくだろうと読んだのだが、現実はかくの如く非情であった。 嗚呼、神よ何故私をお見捨てになったのですか。 ﹁不謹慎な冗談を飛ばしても腹は膨れん。それで結局、昨夜の直談 判は失敗という事か?﹂ トパーズ テーブルに頬杖をつく姿が、悔しいがサマになっている。秋の風 にかすかにそよぐ後ろでまとめた銀髪、眼鏡の奥から覗く黄玉の瞳 は、この﹃ゴルゴダ・ヒルズ﹄の中でも群を抜いて目立っていた。 通り過ぎていく女の子連れが、何度もこちらを振り返っていたりす る。おれがかわりに手を振ってあげたが、見事にスルーされた。 ﹁ああそうだよチクショウ。おれと真凛で水池恭介の自宅の駐車場 408 で待ち伏せしたんだけどな。まさかシグマの二人が護衛についてい るとは思ってなかったぜ。んで、水池氏はそのままヨルムンガンド のオフィスに御出勤あそばして、そのまま一泊して本日に至る、と いうわけだ﹂ おれはテラスのひさしの隙間から、天に向かって一際高く伸びる ビルを見上げた。この高層ビル街の中でもシンボルとされる一本の 塔、﹃バベル・タワー﹄。﹃ゴルゴダ・ヒルズ﹄と揃えた名前らし いが、本来の意味を考えるとかなりちぐはぐなあたりが宗教に無頓 着な日本らしいと言えばらしい。全六十階の敷地の中には、急成長 したIT企業、会計事務所、証券会社などのオフィスが多数入って おり、もちろんレストランや駐車場、それに美術館まで備えている。 いつぞやおれはザラスの本社を空中庭園と称したが、こちらはまさ しく空中都市だった。目下ビジネス界では、ここに本社をかまえる 事が成功者としてのステータスと見なされている。ここの四十六、 七階に収まっている新興のIT企業﹃ヨルムンガンド﹄の代表取締 役こそが、今回の依頼人露木甚一郎の生き別れの息子、水池恭介そ の人なのだ。 株式会社ヨルムンガンド。 北欧神話に登場する、世界樹を取り囲む大蛇の名でもある。これ を社名にを冠したのは、﹃世界をあまねくインターネットで囲う﹄ 事に由来するのだとか。二十一世紀初頭のネットワークの飛躍的な 進歩、いわゆるIT革命の時流に乗って急成長を成し遂げたベンチ ャー企業である。つい先日、東証一部に株式を上場し、その時価総 額︵⋮⋮まあ、会社のパワーをお金に換算したものだと思ってくれ︶ はなんと千六百億円にも及ぶ。そんな怪物会社の頂点に立つ社長、 水池恭介は若干三十一歳。中学校を卒業と同時に渡米。アメリカで 伝説の起業家、サイモン・ブラックストンについて経営を学び、そ の後日本に戻り数人の仲間と会社を立ち上げ、十年かからずに現在 409 の規模まで押し上げた、まさに立志伝の人物である。 ﹁サイモン・ブラックストン?﹂ ﹁世紀の不動産王だよ。アメリカを中心に、世界中のオイシイ土地 を買い占めてる。そこに建てたカジノやホテルの経営なんかもやっ てるな﹂ マネーメイカー 雑誌﹃フォーブス﹄に掲載される長者番付の常連でもある。同じ くアメリカの大富豪、金融王にして海運王である﹃錬金術師﹄ゲオ ルグ・クレインと並んで、﹃海のゲオルグ、陸のサイモン﹄なんて 呼び方もされているようだ。 ﹁このゴルゴダ・ヒルズの土地の再開発にも二、三枚噛んでいるん だとよ﹂ ﹁ほう。とにかくそんな成層圏の彼方の金持ちどもの話は気にして も仕方がないか﹂ ﹁ま、そりゃそうだ。続けるぞ﹂ 彼にいたく気に入られた水池氏は、サイモン氏を名義上の役員に 据え、彼の援助をもとに仕事を始めたのだそうである。ただ優秀な 経営者というだけでなく、積極的にマスコミの前に現れるのも大き な特徴だ。経済番組はおろか、最近はバラエティにまで顔を出し、 ﹃ITが全てを変える﹄﹃既存の企業では遅すぎる﹄﹃古いものを 壊して何が悪い﹄﹃金でたいていの事は出来る﹄等など強気の発言 を繰り返している。 三十一歳の若さ、エネルギッシュな性格、まあそこそこ見れる顔、 そして何より巨額の個人資産と揃っては女にモテないはずもない。 また、旧来のシステムを傲然と不要と切って捨てるその姿勢は、賛 否両論を常に巻き起こしている。テレビに何度も登場するうち、つ いた異名は﹃ドラゴン水池﹄。ミズチが﹃蛟﹄を連想させる事から、 昇り竜に例えた、んだそうで。また、ネット上に自身のブログを設 置し、そこからマスコミを通さずダイレクトに意見を発しており、 そちらも様々な意味で大盛況。敵も味方も多い、アクの強い御仁。 おれがマスメディアその他から得られるイメージはこんなところだ 410 った。 ﹁アメリカに渡ってからは父親とは音信不通。露木恭一郎が水池恭 介と名乗ったのは⋮⋮ふむ、わざわざ改名手続きまでしているのか。 ﹃姓名判断でこのままでは不幸が訪れると告げられ、精神的安定を 得る為に改名﹄︱︱おいおい本当かこれは?﹂ おれが持ってきたイズモの資料をめくり、直樹が呟く。お互い何 か飲み物でも欲しいところだが、生憎このエリアには缶コーヒーの 自販機さえ無かった。 ﹁テレビであんだけ強気の発言をしてるわけだし、まあウソだろう な。でもそういう理由なら、家庭裁判所も改名を認めてくれやすい らしいぜ。そうまでして父親に会いたくなかったってことかねぇ﹂ だからこそ露木甚一郎も、世間をさんざんに騒がせている水池恭 介が自分の息子だと判らなかったのである。資料には水池、露木両 氏の写真があったが、これも到底親子だとは思えないほど似ていな かった。水池氏自身は渡米以後の経歴は大々的に宣伝しているが、 それ以前の事については東京都出身、としか開示しておらず、出生 は謎に包まれていた。かつては探ろうとした週刊誌やマスコミもあ ったようだが、何時の間にか騒がれなくなった。あるいは黙らされ たのか。 ﹁﹃この男を父親の前に連れてくる﹄か。イズモさんも随分無茶な ミッションを投げてくれるよなあ﹂ おれはぼやいた。水池氏の出生を調べ上げる手腕はさすがイズモ というところだが、彼らはあくまで﹃調査﹄会社なのである。もち ろんイズモは、水池社長に父親である露木氏と会ってくれないかと 打診しようとした。だが、今水池氏は重要な企業買収の真っ最中だ とかで、向こう一週間は誰ともアポイントを取るつもりはないとコ メントを返した。イズモが何度か粘り強く交渉したのだが、水池氏 の考えは変わらず、それどころかボディーガードを雇ってイズモの メンバーを追い散らすという事までやりだしたらしい。しかし依頼 人は依頼人で何としても会いたいと言って聞かない。⋮⋮板挟みで 411 右往左往した後、彼らは次のような結論を出した。すなわち。﹃ど うしようもない問題は、どうしようもない問題を扱う連中にやらせ れば良い﹄。ナントカと人災派遣は使いよう、とは誰の言葉だった やら。 ﹁しかしこれはまた随分と急激な株価の上昇だな。ほとんど一年ご とに倍々になっている勘定だ﹂ ついでに添付されていたヨルムンガンドの株価レポートを見なが ら、直樹が一切れミックスサンドを口に運ぶ。確かにヨルムンガン ドの株価は驚異だった。恩師たるサイモン氏から出資を受けた、カ タパルト加速の会社設立とは言え、それ以後の時価総額の拡大ぶり は異常とも言える。 ﹁まあな。そこがこの会社の強みってわけさ。有名だからみんな株 を買う。みんなが買うから株価が上がる。株価が上がるからみんな 買う⋮⋮って循環なわけだ﹂ 経済雑誌で誰かが言っていた。﹁株式市場とは、一位になった子 に投票した人は、その子からキスがもらえる美人コンテストのよう 自分の好 ごほうび なものだ﹂と。確実に美人からキスをもらいたければ、 という評判 に投票す ではなく、 あの子美人だよな みんなが綺麗だと思う女の子 みの女の子 べきなのだと。だから、ひとたび が立つと、いきなり票がその子に流れ込むということが良く発生す るのだ。 こうして上がった自身の株価を、ヨルムンガンドは他企業の買収 に使ってきた。 企業を丸ごと一つ買い取ると言う事は、その会社の株を全て買い 取らなければならず、多額の資金と膨大な手間が必要となる。しか し、現金の代わりに、﹃値上がりしているヨルムンガンドの株﹄を その会社の株と交換する事にすれば、手元に資金が無くとも容易、 迅速に他の企業を買収する事が可能となる。有能な企業を支配化に 412 置いた事によってヨルムンガンドの評判は高まり、結果としてさら に株価が上がる事になるのだ。 それはさながら獲物を捕らえ、まずは一気に飲み込み、腹に放り 込んでからじっくり栄養にしていく光景に似ていた。よって、ヨル ムンガンドの企業買収はその社名にちなんで﹃ヘビの丸呑み﹄と称 されることもしばしばだった。 ﹁丸呑みをして大きくなり、その大きくなった身体でさらに大きな 獲物を丸呑みする蛇、か。神話のヨルムンガンドは世界を一周する ほどになったが、このヘビはどこまで大きくなるものかな﹂ レポートを閉じた直樹が妙に達観した口調で述べた。 ﹁さすがに最近は値上がりも頭打ちになって来ているみたいだけど な。でも今、ヨルムンガンドが買収にとりかかってるってもっぱら の噂が、IP電話ソフトで絶賛ブレイク中のソフト会社﹃ミストル テイン﹄だ。ここを傘下に収めれば、今までヨルムンガンドが吸収 した数々のウェブサービスとの相乗効果が期待出来るって話だから な。これでまた株があがるぜ﹂ 熱く語るおれを奴は冷ややかに一瞥した。 ﹁で、貴様はそれを当て込んで株を買ったと﹂ ﹁な、ななな何を言うかね笠桐クン﹂ ミックスサンドを一切れ口に放り込む。 ﹁なけなしの生活費を切り詰めて作った虎の子の貯蓄で、素人にも 買いやすくなっていて値上がり絶好調のヨルムンガンド株で一儲け ︱︱と言った所かな?﹂ ﹁は、はははは。まるで見てきたように滑らかな仮説をぶちあげる じゃないかお前﹂ ﹁なに、この間事務所の応接間に、大学生協で買ったと思われる﹃ 三時間でわかるデイトレード﹄等という本が広げっぱなしにしてあ ったからな。誰のかは無論知らぬが﹂ ⋮⋮おれ、迂闊。 ﹁ま、悪い事は言わん。今手持ちの株があったなら早々に売り払っ 413 ておくことだな﹂ ﹁とっとと売り払うさ、ミストルテインを吸収合併して株価が上が ったら、な﹂ 奴がおれを見る目に哀れみの色が混じる。 ﹁そうやって売り時を逃がした者が、最後には紙くずと後悔を抱え て海に飛び込むのだ﹂ ﹁こんだけ上り調子の株が下がるとでも?﹂ ﹁バブルの頃も皆、土地は上がり続けるという神話に随分と踊った ものだ。いずれ暴落すると言う当たり前の言に、耳を貸すものは誰 も居なかった。いつの時代も欲に目がくらんだ人々は愚かだ。⋮⋮ 俺も含めてな﹂ 枯れた口調で述べる。お前ホントに設定年齢十九歳か。そーいえ ばコイツ、実家というか居城を売り払ったら二束三文で、しかも当 時の政治体制がクーデターで崩壊したせいで通貨が暴落。よりにも よって東京なんぞに来てしまってまた投資に失敗して、結局購入出 来たのはおれと大差ない安アパートだったりする。 ﹁経験則からいうとな、貴様のような中途半端に知識があって、自 分は頭がまわると思い込んでいる奴が一番危ない。浅い読みで動く から、海千山千の相場師から見れば格好のカモだ﹂ ﹁わかったわかった、考えとくって﹂ いつになく食い下がる奴の言葉を手を振って終わらせ、おれは直 樹の手からレポートを取り上げた。 414 ◆06:美女のお誘い︵再︶ ﹁で、今日は真凛がいない分、久しぶりにお前と組んで、ってわけ なんだが⋮⋮﹂ ﹁真凛君は学校か。そう言えば平日だったな。学生は大変だ﹂ ﹁テメェだって一応専門学校生だろうが﹂ ﹁そう言えばそうだったな。しかし真凛君の事だ。ここに来たがっ たのではないか?﹂ ﹁あーもーうるせーのなんの。学校があるから参加しないなんてア シスタントじゃない、とかゴネてな。説得するのが大変だったぜ﹂ アシスタントとしてのココロイキは認めてやらんでもないが、ア ヤツ自身の将来のためにもあくまで優先すべきは学業。サボりの口 実になってはいかんのである。ぶーたれてるおれを見て、直樹はメ ガネの位置を直した。 ﹁お前がそこまで他人に気を使うとはな﹂ ﹁⋮⋮あのなおい。そういう言い方をされるとおれがまるで空気が 読めないヒトみたいじゃないか。このご時世、おれ程仕事中に周り に気を配るワカモノはそういないと自負してんだけどな?﹂ ﹁お前のは気遣いではない。単に現場ごと現場ごとのその場しのぎ だろう﹂ ﹁⋮⋮悪いかよ﹂ なんかいつぞやも誰かに同じような事言われた気がするぞ。 ﹁いや、むしろ逆だ。そのお前にしては、近頃随分と真凛君の面倒 を見ていると思って珍しく感心しているだけだ﹂ 今日はやけに絡むなコイツ。よかろう。おれも真剣な表情で応じ る。 415 ﹁なあお前、考えてもみろよ。真凛がもし留年でもしてみろ。本人 は自業自得としても、奴のお母上に何と申し開く﹂ 直樹の表情が心なしか青ざめた。無意識のうちに胃の辺りを手で 押さえている。 ﹁あのご母堂か⋮⋮。目に浮かぶようだ、さながら築地のマグロの 如く解体されたお前の成れの果てが﹂ ﹁お前も同罪だよ!おれはまだいいぞ、お前はなまじ楽に死ねん分 長く苦痛を味わう事になるんだ﹂ 真凛のご母堂にして七瀬式殺捉術の現当主にかかれば、我ら如き 若輩者は冷凍マグロと大して変わらぬ運命を迎える事になるであろ う。つくづくこの世界の闇は深い。 ﹁⋮⋮そんな恐ろしい仮定を想像しても始まらぬ。で、真凛君で突 破出来なかったとなれば、俺達二人での力押しは難しいな。これか らどうするのだ?﹂ ﹁安心しろ、すでに昨日のうちに一手を打ってある﹂ ﹁ほう?では具体的に何からはじめる?﹂ ﹁とりあえずは、これをやる﹂ おれは自分のザックの中から大量の紙束と幾つかの書籍を取り出 し、テーブルの上に並べた。 ﹁何の資料だ﹂ ﹁大学の課題レポートだ﹂ ﹁⋮⋮おい﹂ ﹁うるせぇ黙れヒマ人め。半期で単位が取れるものはいざ知らず、 通年の講義はこのレポートで大抵単位が決まるんだよ。落としたら シャレにならねえんだぞ﹂ ﹁ならば休み中に少しずつ進めておけば良かったではないか﹂ 正論である。だがそんな正論がまかり通るのであれば、八月末日 に宿題をやる子供も、〆切間際にエディターに向かう小説家も、印 刷所に怒られる同人作家もこの世から消えて無くなるはずなのだ。 ﹁ご苦労なことだ。だが実際、お前の記憶術と速読術ならテストの 416 類は楽勝だろう?﹂ ﹁それが通用したのは高校までだったな。文系なら楽出来ると思っ たが、これなら理系の方が楽だったかも知れん﹂ こんな体質になってしまったささやかな副作用として、おれは自 分の脳味噌をある程度自由にいじくり回せるという特技を身につけ た。記憶術の類はお手の物。なにしろ目を通して流れ込んできた映 像を、直接脳の記憶領域にぶちこんでやればいいわけだ。アタマの 中に小型のノートパソコンが入っているようなもの、と思って頂け れば間違いない。おかげで高校の試験は苦戦した事があまりない。 何しろテストの時は、脳裏に保存した教科書や国語辞典の映像を見 ながら問題を解けばよいので、ある程度の点数は確保出来たのであ る︵英単語の暗記テストなんていうこの世で一番無駄な事に人生を 費やさずにすんだ事には、素直に感謝すべきだろう︶。ところが大 学に入ってからはそうもいかない。何しろこの手のレポートは資料 を読み込んで自分で考えて作成しなければならないので、カンニン グが出来たところであまり意味は無いのだ。 ﹁だいたいこのご時世に手書きってのがイカれてるよな。履歴書だ ってエクセルでプリントアウトする時代だってのに、これだから石 頭の教授は⋮⋮﹂ ﹁む、そうだ。プリントアウトと言えば肝心な用件を忘れるところ だった﹂ 今度は直樹がカバンの中に手を突っ込む。 ﹁なんだ、えるみかの等身大ポスターでも買ったのか?﹂ ちなみにこの男、店頭広告に用いられるアニメ美少女の等身大ポ ップをもらって自宅まで担いで帰ったという逸話がある。 ﹁それは帰りに三つ買っていく﹂ ﹁なぜ三つも?﹂ ﹁実用、保存用、観賞用に決まっているだろう。そんな基本的なこ とを聞くな﹂ ﹁⋮⋮そうか﹂ 417 実用とは何だ という疑問がおれの脳に浮かんだが、返答結果 をシミュレートした結果、スルーすべきという結論が出た。 直樹が取り出したのは写真屋で現像するとくれるフォトアルバム だった。そういえば、旅行の後にそれぞれが撮った写真をアルバム にして焼き増しのために回覧する、という事をしなくなったのはい つごろからだったか。 ﹁この夏に皆で海に行っただろう。その時の写真を渡すのを忘れて いてな﹂ ﹁ああ。あん時は大変だったなあ﹂ 海に行ったくせになぜか一番盛り上がったのはエアホッケー大会 だった。最後には各自が己の異能力を全開にして大人気なく勝負に のめり込んでいたような気がする。 ﹁メールで送ってくれれば良かったのに﹂ ﹁俺の分はとっくに送っている。これは姉貴の分だ﹂ ﹁なるほどね。来音さんのフィルムカメラは随分気合入ってたもん な﹂ ﹁ロクに保管も出来んくせに骨董カメラばかり買うのがあの女の悪 癖だ。それで、焼き増しをするのでお前の写ってる分を選べ、との 伝言だ﹂ おれはフォトアルバムを開く。みんなが写っていた。直樹、真凛 に涼子ちゃん、所長羽美さん来音さん、桜庭さんにチーフに仁さん。 それと、可愛げのないツラをした見覚えの無い男。 ﹁⋮⋮サンキュー。でも、やっぱり焼き増しは遠慮しとく﹂ フォトアルバムを返す。おれの台詞を半ば予期していたのだろう、 そうぼうしつにん 直樹は素直に受け取った。奴はしばし考え込んでいたが、やがて口 を開いた。 ﹁⋮⋮結局。まだ治ってないのか、その相貌失認﹂ ﹁治ってない。⋮⋮と言うより治らないだろうな。壊れたんじゃな い、欠けてしまったんだから﹂ 418 まあ、取り立てていちいち説明するような大した事でも無いのだ が。 こんな体質になってしまった影響としてもう一つ、おれは極めて 限定的な相貌失認を患ってしまった。人間は他人と接した時、目鼻 や輪郭などの情報を統合して﹃顔﹄という非常におおまかな情報に まとめ、記憶する。この﹃おおまかな﹄という所がミソで、これに よって、次に会った時、その人の髪型や服装が変わっていたり、前 回笑っていた人が今回は怒っている、という時にも﹁ああ、あの人 だ﹂と判断することが出来るのだ。﹁人と人を見分ける﹂という事 は誰もが当たり前のようにやっているが、実はかなり高度な脳の機 能を使用しているのである。 この脳の機能が何らかの理由により働かなくなってしまうと、﹃ 他人の顔の見分けがつかない﹄という事態が発生する。これが相貌 失認だ。他人と会えば髪型も輪郭もわかるし、目鼻立ちもちゃんと 見えている。なのにそれを﹃顔﹄として情報化出来ないのだ。次に 会った時にはもうその人が誰なのか判らなくなってしまう︵もちろ ん、服装や周囲の状況から推測は出来るが︶。そして、力を得た反 動として、おれの脳の機能はここが欠けててしまったようなのだ。 もちろん、今までこの仕事をやって来た事からもわかるように、 おれはちゃんと真凛や直樹、あるいは戦ったエージェントの顔はち ゃんと覚えている。おれが覚えられず、かつ、思い出せないのはた だ一人の顔⋮⋮亘理陽司、自分自身の顔だけである。禁断の存在を 己の人格の上にロードし使役しする﹃召喚師﹄の技。次第に己の人 格と呼び出したモノが混じっていき、最後には自我を失うこの術に はお似合いのペナルティと言えた。 ﹁しゃーないさ。こんだけの力の反動が、自分の顔がわからなくな るくらいで収まるのならむしろ安いくらいだ﹂ おかげで、おれの部屋には鏡が一枚もなかったりする。経費がか からなくて結構なことだ。おれはへらへらと笑った。他人の顔なら 419 ともかく、自分の顔ならそうそう社会生活に困る事は無いしな。ど うせこんな記憶も、そのうちどの人格のものだったかわからなくな ってしまうのだろうし。 ﹁ま、でも同情してくれるなら好意はありがたく受け取っておくぜ﹂ 会話の隙をついて、最後のミックスサンドに手を伸ばす。と、皿 に届く寸前、奴の手にひっ攫われていた。 ﹁⋮⋮おい、てめぇ﹂ ﹁一切れ四百円ともなるとなかなか他人にくれてやる気にはなれな くてな﹂ ﹁金は半額ずつ出しただろうが!﹂ ﹁では半分こにでもするか﹂ ﹁それはそれでイヤだ﹂ 日本最先端のショッピング施設のカフェテラスで至極低レベルな 争いをおれ達が繰り広げていると、 ﹁よろしければ、こちらでご一緒しませんか?﹂ 横合いからかけられる声。﹃折り紙使い﹄門宮ジェインさんが立 っていた。 ﹁水池恭介が、貴方達とぜひ昼食をご一緒したいと申しております﹂ 420 ◆07:オフィスビルで昼食を 外のガーデンプレイス同様に様々な店や施設で賑わう﹃バベル・ タワー﹄も、一度エレベーターに乗って十階まで上昇すれば、そこ はもうビジネスオフィスそのものだった。うちの事務所とは比べ物 にならないくらい高級な内装。高級とはすなわち、遮音性に優れて いるということである。エレベーターを中心に、ちょうど漢字の﹃ 井﹄の字状に広がった壁向こうのフロアでは何十人もの人が働き、 電話し、コンピューターが唸りを上げているだろうに、まるで高級 ホテルの廊下のような静けさだった。十階で一旦降り、今度は四十 階より上、限られたごく一部の者だけしか立ちいることの出来ない フロアへとつながるエレベーターへと乗り換える。 ﹁さっきまでのエレベーターからするとちょっと無骨みたいですけ ど﹂ ガーデンプレイスに直通していた方は、最先端のビルに相応しく ガラス張りになっており吹き抜けのど真ん中を貫いていた。こちら はと言えば、広さは大したものだが、到って普通のエレベーターだ った。ボタンを押すと扉が閉まり、上昇を始める。 ﹁防犯上の理由ですね﹂ シンプルに門宮さんが答える。なるほど、ビジネスで毎日使う人 にとっては景観よりも安全の方が重要だ。四十七階まで二十秒とか からない。そのくせ騒音はほとんど無い。普段はあまり意識しない が、これは中々凄い技術だと思う。 ﹁ちょっとした電子要塞といったところか﹂ 物珍しげにメガネを直しながら微妙に懐かしいフレーズを呟く直 樹。悔しいがこいつがここにいると切れ者の若きエンジニアに見え 421 ない事も無い。 ﹁いったいどんな魔法を使ったんですか?水池氏は昨日まであれ程 貴方達に会うのを避けていたというのに﹂ 門宮さんが興味津々の態で尋ねてくる。水池氏からおれ達の案内 役を仰せつかったのであろう。あるいはこれが聞きたいがために志 願したのかも知れない。 ﹁大したタネじゃありませんよ﹂ おれははぐらかした。こういうのはせいぜいもったいぶる事に意 味がある。門宮さんは未練ありげだったが、やがて話題を変えた。 ﹁それにしても、﹃真紅の魔人﹄と﹃召喚師﹄の揃い踏みを拝見出 来るとは思っていませんでしたよ﹂ ﹁別に貴女達に見せたくてやっているわけではない﹂ フロアを示すパネルを見上げたまま直樹が呟く。 ステイツ ﹁それは失礼しました。でもこの目で確かめるまでは到底信じられ なかったものですから。本国では欧州支社経由でお二人については 随分耳にしました。あの死闘が日本ではほとんど知られていないの は不思議な限りです。それがまさか、日本に渡ってきた時には二人 とも同じ事務所に所属しているとは﹂ ﹁⋮⋮まあ。腐れ縁という奴でしてね﹂ まぶしい笑顔を向けてくる門宮さんに対しおれは言葉を濁した。 正直、往事の事はあまり思い出したくない。 ﹁そこらへんの経緯も、少し興味ありますね﹂ ﹁くだらないおしゃべりも情報収集のうち、というわけかな﹂ ﹁おい直樹﹂ 奴の愛想の無い口調をおれが咎めると、直樹は口を尖らせてそっ ぽを向いた。基本的に礼儀正しい奴なのだが、この男は何故か︵精 神的︶年上の女性に対しては敬意を払わぬこと甚だしい。それが例 え門宮さんのような美女であってもだ。反面、年下に対しての相好 の崩しっぷりときたら、知人でさえ無ければ一市民の義務として迅 速に警察に通報するところだ。ここらへんは恐らく超美人の姉、来 422 音さんの影響がなにがしかあるのだろうが⋮⋮まったく理解に苦し む。やはり女性はっ!純情な少年の浅知恵や妄想の及びもつかない ミステリアス・ワンを備えた大人の女性に限るのである。断定上等、 おれは自分の発言に後悔などしない!門宮さんはと言えば、直樹の 失礼にも関わらずあの微笑を浮かべたのみ。 ﹁失礼しました。お二人のプライベートまで立ちいるのは、野暮と 言うものでしたね﹂ なんか微妙に物凄く嫌な言い回しだなぁそれ。 停止したエレベーターが扉を開くと、おれ達の目の前には正面に は無機質で豪奢な︵IT関係者ならこのニュアンスをわかってくれ ると思う︶ガラス扉があり、扉の前には野暮な制服に身を包んだご っついアングロサクソンの大男が立ち塞がっていた。言わずと知れ た門宮さんの相棒、機械化人間﹃スケアクロウ﹄である。 ﹃昨日も会っているが、久しぶりだな、と言っておこう﹄ CNNかBBCのキャスターでも務まりそうな極めて流麗な英語 である。それがなぜ日本語を話すとあんな通信販売口調になるのだ ろうか。 ﹃実質二ヵ月と半か。腕も背骨も修理が済んだようで何よりだ﹄ おれが返答する。ちなみに彼の機械の両腕を引きちぎり背骨を握 りつぶしたのは、我が女子高生アシスタントだったりする。 ﹃おかげさんでな。もっともあの時の処分で俺は責任を取らされて 降格。今は同じコンビと言えども、主任がジェインで俺が副主任だ﹄ ﹃それはそれは⋮⋮﹄ おれが微妙に言葉に詰まっていると、スケアクロウはその鋼鉄の 手でおれの肩を叩いた。 ﹃変に気を回すな。俺としてはむしろ気楽なものだ。もともと前線 上がりだからな。ジェインの指示は的確だ。それに従って俺が攻撃 をするほうが、理に適っている﹄ ﹃いや、そりゃわかってるんだけどさ﹄ ちょっとだけ、あと数年もしたら門宮さんがどこまで出世してい 423 るかを考えると空恐ろしくなった。どうにもこうにも、おれの周り にはデキる女性が多すぎるような気がする。 ヨルムンガンド社の実際の仕事場は四十六階に集中しており、四 十七階は応接室、食堂、そして社長室など、お客向けの施設が収ま っていた。スケアクロウと門宮さんに先導されるまま自動のガラス 扉をくぐる。途中二回もIDカードを要求する扉があり、その都度 ゲストコードを入力しなければならないため、えらく時間がかかっ た。そうして辿り着いた社長室は、実に二十畳の広さを持ち︵おれ の部屋が風呂トイレ台所を含めてすっぽり収まって余りある︶、毛 足の長いカーペット、どっしりとしたマホガニーのデスク、多分デ ンマークあたりの産であろうキャビネットが壁に並んでおり、﹃い かにも﹄と言った雰囲気だった。ついでに言うと、キャビネットの 裏には小さいながらもホームバーまで備え付けられている。真中に は来客用の応接セット。突き当たりの東南の壁は一面ガラス張りと なっており、高くそびえる東京タワーや浜離宮、その向こうに広が る東京湾が一望できる。これがホテルの一室ならば、このロケーシ ョンだけで料金二割増しは確定と言ったところだ。 そして、その奥にある社長室に、水池恭介はいた。 写真で見る通りのそれなりに整った顔立ちだが、実際に対面して みると立ち昇る精気のようなものが段違いだ。これだけのパワーが 無ければ、生存競争の激しいベンチャー業界ではたちまち喰われて しまうのかもしれない。 ﹁用件があるならさっさと言え﹂ んで、第一声がこれである。ドラゴン水池と称される、不敵な面 立ち。テレビで散々お馴染になった強気の発言はパフォーマンスで はなく、素でこういう性格らしい。声こそこちらにかけているもの の、視線は卓上のノートPCから外さず、一心不乱に未読メールを 捌いている。シグマの二人は扉の側で控える。部屋の主はイスを勧 424 めてくれなかったので、おれと直樹は勝手にソファーに腰を下ろし て脚を組んだ。本来は銀行だの投資ファンドだののお偉方のための ソファーは、分け隔てなく貧乏学生も迎えてくれた。交渉の基本は リラックス。今日本でもっともお金持ちにして有名人を前にしての この図々しさは、もちろんこのバイトで培われたものである。 ﹁就職活動に備えて、会社訪問でもしておこうと思いましてね﹂ ﹁それなら正規にアポを取ることだな。生憎とそんな利益を産まな い行為に裂くスケジュールはないが﹂ 水池氏は変わらずディスプレイを見つめたまま。代わって直樹が 口を開く。 ﹁それはまた。優秀な人材の確保こそがIT業界の急務でしょう﹂ ﹁講演会ならやっているさ。東大京大一橋。国立と私立の大手は大 体やったな。優秀株はよりどりみどりだ﹂ 図太い笑みを浮かべる水池氏。 ﹁昼食をご一緒したいとのお誘いだと伺ったんですけどね?﹂ ﹁そうだな、そろそろメシにするか﹂ 言うと、ノートPCを畳んでこちらにやって来た。机の下から何 やら袋を取り出し、応接テーブルの上に置く。それは何と言うか、 おれにとってはとても馴染みのある袋だった。 ﹁日本最新のショッピングモールなどと言ってはみても、その実コ ンビニひとつロクにない。使えん話だ。ようやく地下のテナントに 入ったが、そうでなければ本気で引っ越そうかと考えていたぞ﹂ 袋を広げる。中から出て来たのは、フィルムで包装された、いわ ゆるコンビニのミックスサンドと缶コーヒーだった。数はご丁寧に 五人分。 ﹁門宮君と﹃スケアクロウ﹄君も一緒にどうだ﹂ 気さくに声をおかけくださるIT長者様。 ﹁あのー⋮⋮?﹂ ﹃金でたいていの事は出来る﹄と豪語する男が食べるには、ちょ いと味気ないと思うのだが。 425 ﹁別に高いモノを食いたくて金を稼いでいるわけじゃない。会食以 外で高いメシを食う気にはなれんし、何より時間が無駄だ﹂ 言うや水池氏はとっとと包装を解くと、サンドイッチを美味そう に口に放り込みはじめた。ことさらに貧乏学生に嫌がらせをしてい るわけではなく、普通にこれが彼の昼食のようだった。 ﹁さっさと食わんか﹂ ﹁はあ﹂ 地上四十七階、豪華な調度類に囲まれて食べるミックスサンド。 さっき食べた千二百円のそれと、味の違いはおれにはわからなかっ た。結局シグマの二人も加わって、五人の奇妙な昼食会が始まった。 とは言え会話の切り口も見つからず、一同無言のままサンドイッチ を腹に送り込む。って、隣でスケアクロウも平然と食べているが、 ニョカ そう言えばこいつの腹はどうなっているのだろうか。 ︱︱五人、か。 テーブルを囲む人間を、﹃蛇﹄はその目に克明に捕らえていた。 キョウスケ・ミズチ。事前に入手した資料によれば、ミズチもま た日本語で﹃蛇﹄を意味し、ドラゴンを名乗っているとか。 ﹃蛇﹄の唇が切れのよい半月を描く。 よろしい。 まずは極東の草蛇に格の違いを思い知らせてやるとしよう。 ﹁俺のブログにコメントをつけたのはどっちだ?﹂ 水池氏がじろり、とおれと直樹を見据える。隠してもしょうがな いので挙手するおれ。 ﹁一応これでも御社の株主でしてね﹂ 426 ﹁せいぜい投資額は五万円というところだろうが﹂ ﹁お前は余計な事言わなくていいの﹂ 通常、企業の株を一定数買うと、株主優待としてその企業からい くつかの恩恵を受ける事が出来る。食品会社なら年に一回お中元が 送られてきたり、映画会社なら試写会の招待券がもらえたり、など だ。ヨルムンガンドの株主優待は少々変わっていて、一株でも持っ ていれば、社長である水池氏のブログにコメントをつける権利がも らえる、というもの︵逆に言うと、何株持っていてもお中元がもら えるわけではない︶だ。襲撃に失敗した昨夜、おれは﹃あなたが昔 お世話になった人がお会いしたいと思っている。コンタクトについ てはあなたの警備のK氏に確認あれ﹄てな主旨のコメントを打って おいたわけである。メールも電話も直接交渉もダメ。しかしながら 考え方を変えてみれば、ブログ経由なら社長様に簡単にコンタクト が取れるわけで、まさしくこれがITの恩恵というわけだ。しかし まあ、株主優待がまさかこんなところで役に立つ日がこようとは。 ﹁読んでいただけたようで幸いです﹂ ﹁通常ならこんな話は耳も貸さんさ。門宮君に感謝するんだな﹂ ﹁我々の仕事は警備です。一つの話し合いですむものを無為に衝突 させることはないと思いまして。亘理さんでしたら安全と判断しま した﹂ どうやらこの場をセッティングしてくれたのは門宮さんらしい。 いやまあ、実のところそこに賭けていたわけなんだが。 ﹁ずいぶんと思わせぶりな発言をかましてくれたな。ブログでは株 ネズミ 主の憶測が飛び交っているし、今見たら週刊誌からも問い合わせの メールが入っていたな。どうせ階下には記者がうろついていただろ うが⋮⋮﹂ ﹁はい。丁重にお帰り頂きました﹂ 門宮さんのお言葉。さっすが。 ﹁そういうわけだ。これ以上余計な真似をされても困るからな。わ ざわざこの俺が時間を割いて会ってやった﹂ 427 ﹁寛大な対応に感謝します﹂ 皮肉ではなくおれは謝辞を述べた。もしおれが彼の立場なら黙殺 するか、それこそ﹃スケアクロウ﹄あたりに排除させるだけだった だろう。対話の場を作ってくれた事自体、彼としては最大限の譲歩 なのだ。 ﹁ミストルテインの買収工作でお忙しいようですしね﹂ おれはあえてもう一歩踏み込んでみた。水池氏は、にやりと太い 笑みを浮かべる。 ﹁まあな、あそこの役員連中、すぐに折れるかと思ったが中々にし ぶとい。あと二人、こちらに尻尾を振らせてやらんとな﹂ 社内の機密に該当するだろうことを、平然とさらけ出す。 ﹁それとな、お前﹂ ﹁亘理です﹂ おれの発言など聞こえてない風を装い、 ﹁跳ねっ返りは嫌いじゃあない。ただし︱︱﹂ 水池氏はずい、と身を乗り出してきた。 ﹁俺に脅迫は通じない。この一回だけだ。次は無いぞ﹂ ﹁⋮⋮了解しました﹂ さすがに若くして一大帝国を築いた男、ここぞと言うときの迫力 は段違いだった。ともあれ、これでおれ達はようやく話し合いのテ ーブルに辿り着いた事になる。 ﹁もう一度言う。用件があるならさっさと言え﹂ おれは手短に、イズモ・エージェントサービスからの依頼の内容 を語り始めた。 ﹃蛇﹄は攻撃準備に入った。直線距離にしておおよそ千五百メー トル。高度はこちらがわずかに上だが、今日の東京の上空には強い 風が吹いていた。仮に、もしも今﹃蛇﹄がいる地点から狙撃を試み 428 るとしたら、オリンピックの金メダリストだろうと、軍や警察所属 の狙撃兵だろうと匙を投げるだろう。しかし、﹃蛇﹄にとってそれ は問題ではない。 犬歯で人差し指を強く噛む。ぷつりと皮膚が裂け、赤い血の珠が みるみる盛り上がる。指を下に向けると、血の珠は平たい欄干の上 に置かれたミネラルウォーターのボトルの中へ吸い込まれるように 落ちた。 ﹁⋮⋮、⋮⋮ぃ、⋮⋮、ガ⋮⋮。 ⋮⋮、⋮⋮、ィリ⋮⋮﹂ ボトルの上に掌をかざし、かすかにどこの言葉とも思えぬ何事か を呟く。小気味の良い律動に満ちた、低声だが弦楽器のように響く 声。幸か不幸か、自分たちの世界に没頭している周囲の人間は、誰 一人それに気づくことはなかった。ボトルの中に垂らされた紅い雫 が拡散し、そして何事もなかったかのように溶けて消える。 ﹁⋮⋮ぁ、⋮⋮。⋮⋮ゎン、⋮⋮。 ⋮⋮リビ﹂ ボトルを逆さにする。当然、中の水はこぼれて床に飛び散︱︱ら なかった。音もなく、まるで一つのゼリーのように形を保ったまま、 キガンジャ・ニョカ 静かに床に着地する。 ﹁ゆけ。﹃絞める蛇﹄﹂ その透明のゼリー状の水が、ぶるり、と震えた。部屋の中には何 十人と人がいる。その誰もに気づかれず、﹃名﹄を与えられた透明 の水の固まりは﹃親﹄の命に従い、実に驚くべき速度で壁の隅を這 い進み、給水器の蛇口へぬるりとすべり込んでいった。 429 ◆08:凶蛇猛襲 ﹁⋮⋮と、言うわけで、息子恭一郎氏を、お父上である露木甚一郎 氏に引き合わせるためおれ達がやってきたというわけです﹂ おれは手短に話を終える。実際のところ、水池氏のランチタイム はあと十分。次はまた別のアポイントが控えているのだそうだ。貴 重なチャンス、なんとしてもこの十分でイエスの返事をもらわねば ならない。 ﹁露木恭一郎、か。そんな奴はとっくに死んだよ﹂ 缶コーヒーを胃に流し込み、無感動に水池氏は述べた。とはいえ、 であると?﹂ これ程までに﹃本人である﹄と明示されているイズモの調査結果に 水池恭介 ケチをつけたわけではない。 ﹁今の自分はあくまで 直樹が問う。たしかに、日本で裁判所を介して改名するのはそう 簡単な手続きではないはずだ。 ﹁ああ。あまり知られたくはないが、否定するつもりはない。アメ リカに渡ったときにその名前は捨てた﹂ サンドイッチをあらかた食い終えると懐からタバコを取り出した。 げげっ、ダビドフ・マグナムなんて吸ってるよこの人︵ダビドフを 知らないという人は、一箱千円のタバコと申し上げればわかっても らえるだろうか︶。食べ物と違い、こっちには金をかけているらし い。おれ達がまだ食っているのにおかまいなく火をつけると、煙を 吐き出した。きつい匂いがあたりに広がる。 ﹁お前も吸うか?﹂ ﹁遠慮しておきます﹂ せっかくの高級タバコだが、メシを食いながら吸う気にはなれな 430 い。 ﹁⋮⋮そう。だから、恭一郎に会いたいという、その露木なにがし の要請には応じようもない﹂ 先ほどまでの強気の口調よりもややソフトな物言いだが、それが いっそう明確な拒絶を感じさせた。十数年ぶりの父親との再会のチ ャンス。ゴールデンタイムの人捜し番組なら、ここで浮気をして子 供を捨てた親、駆け落ちした娘あたりが拒みつつも迷い、それをス タッフが説得してスタジオで再会、というシナリオになるのだろう が、水池氏の場合は即答だった。となると、 ﹁名前を捨てたのはお父さんとの縁を切るため、ということですか﹂ 沈黙。それは肯定の意思表示だった。正直なところ、おれは困っ てしまった。うすうす予想はしていたものの、最初っから全く会う 気がない人間を引き合わせるとなれば、それこそ無理矢理拉致でも しないことには話が進まない。さてさてどうしたものか。手詰まり の中、口を開いたのは直樹だった。 ﹁しかし解せませんな。露木弁護士と言えば有名人、わけても悪評 など聞かれない人物ではありませんか。誇ることはあれ、忌避する 必要があるのですか﹂ うわ、いきなり地雷踏みに行ったよこの阿呆。⋮⋮まあ個体とし て生きる吸血鬼に家族間の機微を読めってのは難しいのかも知れん が。 ﹁︱︱露木というのはな。偽善者の名だ﹂ 案の定、不機嫌そうに水池氏は言葉を吐き捨てた。おれは触れる べきか迷っていたが、この会話の流れでは切り出さないわけにはい かなかった。 ﹁やはり、お母様の事を?﹂ 水池氏が向けてきた視線に、おれはたじろいだ。半分以上は、お れ自身の後ろめたさによるものだったが。もう一つのイズモのレポ ートには、露木恭一郎少年が父と縁を切りアメリカへ渡る原因にな ったと思われる事件が記されていた。 431 ︱︱カネのあるところには暴力がついてまわる。トミタ商事、お よび、トミタ商事が被害者から集めた金を投資した先には、暴力団 の息がかかっているところが多かった。そういうところに単身乗り 込んでいってカネを返せ、と申し立てたわけだから、露木弁護士に かかる圧力は相当なものだった事は想像に難くない。取り立ての際 には随分と脅迫や妨害も受けたそうである。 だが、暴力団にしてみれば仮にも相手は弁護士。下手な脅しや直 接の暴力は、そのまま逆手に取られて警察の介入を招くおそれがあ る。結果、彼らが取った手段は、姑息と称しうるものだった。無言 電話や差出人不明の脅迫状、明らかに悪意を持って流される風聞、 過去のスキャンダル。人間、誰だって叩けば多少は埃が出る。結婚 前につき合っていた異性や、親の仕事上の汚点などを探し出してき ては、かなりあざとく近所に吹聴してまわるというような事もやっ てのけたらしい。 それでも、正義と信念の人である露木弁護士は怯むことはなかっ た。⋮⋮だが。家族はそうではなかった。夫を支えて露木夫人は随 分と健闘したらしいが、連日の嫌がらせに疲れ果て、やがて睡眠障 害を発症した。そして寝不足の状態で車を運転し⋮⋮交通事故に遭 い亡くなった。一人息子の恭一郎を、安全を期して学校まで迎えに 行こうとしていた途中だったのだという。 そして皮肉にも、この露木夫人の死こそが、世間の注目を集める こととなった。詐欺事件として終わったと思われていたトミタ事件 の被害者達が今なお苦しんでいることを知らせるきっかけとなり、 世論が味方につき、事件は決着へ向けて進み出したのだ。 ﹁あの男は自身の名誉のために何もかもを切り捨てた。ならば名誉 だけ背負って生きればいい﹂ 432 水池氏はまだ十分残っているタビドフを灰皿に押しつけ、それ以 上おれ達に口を差し挟む余地を与えなかった。 ﹁用件は他にはないな?露木甚一郎とやらが俺に会いたがっている。 お前達はそれを俺に持ち込んだ。そして俺はそれを聞いて、無理だ と断った。以上でこの件は終わりだ﹂ 時間は十分を経過していた。 ﹁そういうわけにはいきません、露木氏は︱︱﹂ ﹁しつこいな。二度目はないと言っただろう﹂ 水池恭介氏は席を立ち、パンくずを払った。 ﹁会食は終了だ。実りはなし。これ以上俺を拘束しようとするなら、 業務妨害とみなす﹂ その視線に応じて、シグマの二人がさりげなく居住まいを正す。 それに応じて直樹もわずかにソファから腰を浮かし、たちまちのど かな昼食気分は社長室から吹き飛んでしまった。ここからは門宮さ んも容赦なく警備としての務めを果たすだろう。水池氏の態度がこ うまで強硬とは、正直誤算だった。おれは心の中で舌打ちする。﹃ 時の天秤は常に私達﹃シグマ﹄に味方する﹄。門宮さんの言葉が耳 に痛い。おれ達を尻目に当の水池氏は社長室を出ようとしていた。 強硬手段は下の下策だが⋮⋮やむなしか。それとも。 ・・ おれ達が行動を決めようとして顔をあげると。 本当に偶然に、水池氏の足下にあるそれが目に入った。 直樹も、門宮さんも、そして水池氏も気づいていない。 ・ 社長室には小さいながらもホームバーがあった。その流しの小さ ・ な蛇口から、何か透明なゼリーのようなものが流れだしている。そ れは、高級な絨毯を横切り、その先端は水池氏の足下近くにまで届 いていた。 433 蛇口から実に数メートルにも渡り伸びる細長い透明なゼリー状の 物体。あまりに透明だったので、光の加減が違っていたら気づかな かっただろう。高級ホームバーともなると、蛇口から水の代わりに ジェルでも流すのだろうか?だが、どこかで見たような⋮⋮。 あまりにシュールな光景にしばし呆然と見守る。と、その先端が ︱︱蠢いた。 ﹁水池さん、それ、﹂ ﹁あん?﹂ そこまで口に出した時、おれの脳裏でアラームとともに検索結果 キガンジャ・ニョカ が表示され、唐突に全てを理解した。 ﹁﹃絞める蛇﹄!!呪術師の使い魔だ!!﹂ おれの絶叫と、絨毯に横たわっていた﹃絞める蛇﹄の鎌首が跳ね 上がったのはまったくの同時だった。その勢い、まさに密林から躍 り出る毒蛇のごとく。床から水池氏の首筋を目指し、﹃絞める蛇﹄ の頭が一直線に空を奔る。一気に思考が加速する。︱︱直樹、門宮 さんは完全に反応が遅れた。おれの能力では︱︱悠長に一言紡いで いる間に手遅れだ。どうする!? その時、横合いから走り込んだ﹃スケアクロウ﹄が水池氏をその 巨体で突き飛ばした。おれと同じ方向を向いていたこいつも気づい ていたようだ。ちょうど水池氏の首筋の位置に入れ替わった﹃スケ アクロウ﹄の胸元に、﹃絞める蛇﹄がその毒牙を剥いた! ﹁Hh⋮⋮ッ!!﹂ くぐもった声が一つ。突き飛ばしたのではない。弾き飛ばしたの でもない。﹃絞める蛇﹄の突進は、﹃スケアクロウ﹄の鋼鉄の、い やそれ以上の強度を誇る装甲を埋め込んだ胸板を、杭のように貫い ていた。 ﹁おい!﹃スケアクロウ﹄!?﹂ 細長い体躯で胸板を貫いた﹃絞める蛇﹄はそのままの状態で、背 中に抜けた上半分をスケアクロウの右腕に、胸板に埋まっている下 半分をその腰に巻き付けた。次の瞬間、胸が悪くなるような光景が 434 展開された。 けたたましい金属音が鳴り響く。﹃絞める蛇﹄が巻き付いた﹃ス ケアクロウ﹄の右腕を締め上げ、右腕と、支点となった胸の穴と腰 とをいっぺんにねじ切ったのだ。 ﹁⋮⋮⋮⋮!!﹂ 悲鳴を上げることすら出来ず、右腕と胴を切断された﹃スケアク ロウ﹄は絨毯の上に転がった。ここでようやく、おれが突き飛ばさ れた水池氏と﹃絞める蛇﹄との間に割り込むことに成功する。 ﹁なんだ!なんなんだこれは一体!?﹂ その疑問を発したくなる気持ちはよくわかるがとりあえず放置。 ﹁蛇口を閉めろ!こいつは水があればあるほど強くなる!!﹂ おれの指示は、だが遅きに失した。すでに潜む必要がなくなった と判断したのか、﹃絞める蛇﹄はその身をぶるりと震わせる。蛇口、 とはよく言ったもので、はじけ飛んだそこから勢いよく水が噴出⋮ ⋮せずに、そのまま蛇の尻尾へと変じてゆく。みるみる巨大になっ てゆく﹃絞める蛇﹄。最初はロープ程度の太さしかなかった胴体が、 あっという間に人間の腕くらいの太さに成長し、体長はすでに十メ ートルを優に超える。 ﹃絞める蛇﹄の頭がこちらを向く。そこに目や鼻などないのだが、 おれはまさしく蛇に睨まれた蛙だった。とたん、﹃絞める蛇﹄はそ の胴体をくねらせ、おれと水池氏双方にしゅるしゅると巻き付いて くる。透明な水の、ぞっとする冷たさ。その胴体は水のくせに異様 な弾力と、そして圧力に富んでいた。消防用の放水ホースを使った ソーセージ 事がある人なら、この感覚は理解できるかも知れない。あいにくと こちとら生身の体である。こんなもので締め上げられて腸詰め肉な らぬ肉詰め腸になるのはごめんこうむる。 ﹁水池さん!﹂ 門宮さんの声が飛ぶ。見れば、長い胴体で締め上げたまま、音も なく﹃絞める蛇﹄の頭が水池氏の肩に噛みつこうとしていた。 ﹁直樹!﹂ 435 おれが叫ぶ前に、奴は動いていた。 ﹁世話の焼ける!﹂ 無愛想な呟きとともに、直樹が吸血鬼の膂力を解放し、蛇の胴体 に遠慮ない蹴りをたたき込む。人外の力で蹴り飛ばされさすがに応 えたか、おれと水池氏の拘束を解放する。 ﹁大丈夫ですか!?﹂ ﹁肩が、肩が!﹂ 見ると、肩のあたりにうっすらと血がにじんでいる。傷は浅いよ うだが⋮⋮噛まれたのか!?確認するまもなく、今度は蛇の頭がお うが れを狙って来た。 ﹁︱︱穿て。﹃紙飛行機﹄!﹂ そのタイミングを見計らって、門宮さんの呪が飛ぶ。鋭く折り上 げられた紙片は一つの剛弓と化し、﹃絞める蛇﹄の頭部に深々と突 きたった。だが。 ﹁効いていない!?﹂ 門宮さんの声にわずかに動揺が走る。突き刺さった紙飛行機は、 だがそのまま水を吸って形を失い、奴の内部に取り込まれつつあっ た。 ﹁こいつに内蔵や器官はありません!形状そのものを崩す攻撃を!﹂ おれは叫びつつ、腰を抜かした水池氏を壁際にひっぱる。くそ、 重いなこのオッサン。引き続き直樹がその胴体を殴りつけ、蛇を退 ける。﹃スケアクロウ﹄が倒れた今、唯一この蛇に力負けしていな いのが直樹だ。だが、奴の冷気を発動するにはここは狭すぎる。ど うする? 一瞬こちらを振り返った直樹と眼が合う。⋮⋮了解。おれは壁沿 いを走る。 今や二十畳の部屋全体を取り巻くほどの大きさに成長した水の蛇。 それは海竜とも思える偉容だった。壁際の水池氏と、それを庇う直 樹達の前で、奴はうねうねと不気味に体をくねらせた。胴体は動か ぬまま、頭部だけが右に回転し、結果その細長い蛇身はねじれ上が 436 っていく。凄まじい圧力を、その内に蓄えながら。そしてそのいび つな身体のよじれが、限界まで達した時。 ﹁伏せろっ!!﹂ 直樹が叫ぶ。ねじり上げたゴム紐を解放する要領で、﹃絞める蛇﹄ の身体が長さ十五メートルの巨大な鞭と化し、部屋中を縦横無尽に 乱打した。圧倒的な水の質量と、解放された圧力による凄まじい速 度が、純粋な凶器と化して室内を荒れ狂う。巨大な爆竹に点火した ような連続破裂音。デンマーク製のキャビネットが、冷蔵庫が、マ ホガニーのデスクが、ノートPCが。塵芥のように軽々と吹き飛び、 空中で粉砕される光景はもはや悪夢としか思えなかった。 ﹁︱︱啄め。﹃鶴﹄!﹂ 吹き荒れる水の嵐の隙を突いて門宮さんが攻撃。おそらくは﹃紙 飛行機﹄に並ぶ彼女の必殺の攻撃だったであろう折り鶴の吹雪は、 だがいずれも﹃絞める蛇﹄の身体に弾かれ傷をつけることが出来な い。広範囲を補足する攻撃の代償として、一撃一撃の威力が低いの が裏目に出たのだ。わずかに舌打ちし、英語で呟く門宮さん。 ﹃固けりゃいいってもんじゃないんですよこのポ○モン野郎﹄ monsterをポケ○ンと訳し ⋮⋮なんかちょっとスラングが混じったような気がするけど、気 のせいだよね?︵pocket たおれは間違ってないよな?︶ああきっと気のせいだ。 ﹁下がっていろ﹂ その背後から躍り出たのが直樹。人外の膂力にものを言わせて、 真っ二つに割れている応接テーブルの破片を持ち上げ蛇の頭部に叩 きつける。臓器はないくせに頭部の概念はあるのか、奴は怯み動き を止めた。 ﹁ハイそこまで﹂ おれは手に持ったコードを、﹃絞める蛇﹄の尻尾がつながってい るホームバーの蛇口に巻き付けた。このコード、先ほど奴に吹っ飛 ばされた冷凍庫のケーブルを手持ちのツールナイフで切断したもの。 しかもこのコード三相じゃないか。いいのかコレ。 437 ﹁くくらららええ必殺業務用二百ボボルトト﹂ 台詞が変なのは巻き付けた時におれも感電したからなのでカンベ ンしてもらいたい。一応上着で手を被っており、またすぐに手を離 したから出来たものの、両腕が痺れるし脳裏に衝撃がバチバチくる ︵良い子は絶対マネすんな︶。おれの方はギャグですんだが、尻尾 に即席のスタンガンを取り付けられた蛇の方はたまったものではな かった。何しろ全身伝導体、その上電圧は低くとも電流の量はスタ ンガンなど比べものにならない。漫画のように火花が弾けたりはし ないが、体内を走るすさまじいショックに﹃絞める蛇﹄は明らかに 苦悶していた。元来た蛇口に逃げ込もうにも、そここそが電気を送 り込まれているポイントである。すると奴の取り得る選択は、 ﹁ふげっ!﹂ この無様な悲鳴は、﹃絞める蛇﹄が蛇口から切り離した尻尾に顔 面を引っぱたかれたおれの台詞だ。奴は自由になると、一直線に部 屋の外に向かって逃げ出した。ここでようやく、ターゲットの安否 を確認する余裕が戻った。 ﹁水池さん、大丈夫ですか!?﹂ 初めておれ達エージェントのトンデモぶりを目にした水池氏は、 若干放心状態にあるようだった。まあムリもない。何しろ命まで狙 われてたんだから。 ﹁ウソだろ⋮⋮いくらなんでも、これはやり過ぎだ⋮⋮﹂ ⋮⋮そんなようなことを呟いている。一方、逃げた蛇を追う直樹。 ﹁逃がすか!﹂ ﹁待ってください!﹂ 外へ走り出そうとする直樹を制する門宮さん。 ﹁何だ﹂ ﹁水に仮初めの知能を与えただけの使い魔をこれほど操るには、術 者がこちらの情報を逐一把握していなければならないはずです﹂ さすがに同系統の能力者らしく、彼女は敵の正体を見破っていた ようだ。 438 ﹁操り主がこの近くに?﹂ だが、あれほどのセキュリティをかいくぐってこのフロアに潜入 するのは不可能に近い。また、そこまで近づけるならわざわざ使い 魔を仕掛けてくる必要はない。となると。 ﹁外か!?﹂ 壊滅状態の部屋を突っ切り、まだ痺れている脚を動かして東京湾 まで見通せるガラス窓に走り寄る。この四十七階の様子を奥まで把 握するならば、同程度の高さをもった建物が必要だ。だがぱっと見 た限り、そんなものは見あたらなかった。残る二人も駆け寄ってく る。 ﹁直樹、見えるか?﹂ 腐っても吸血鬼、奴の眼は色々と特別仕様なのだ。 ﹁昼では今ひとつだが⋮⋮。この方向周囲五百メートルにはまずそ れらしいものはないぞ﹂ ・・ となると盗撮カメラでも事前に仕掛けたか。そう思って目を転じ ようとした時、ようやくそれに気づいた。 ﹁五百メートルよりもっと遠くなら?﹂ ﹁何だと?﹂ およそ直線距離にして千五百メートル。一つだけ、このフロアを 見渡せる場所があった。 ﹁あそこか!!﹂ そこにはこの﹃バベル・タワー﹄よりも遙かに高く、また歴史あ る高層建築が、その紅い雄姿をたたえていた。全長三百三十三メー トル、日本の象徴たる電波塔、東京タワー。その大展望台はちょう ど、この四十七階と水平の位置にあった。 ニョカ 存外にいい勘をしている。 ﹃蛇﹄が覗き込んだ手持ちの望遠鏡の向こうでは、銀髪の青年と 439 日本人の若者、そして警備員と思われる女性がそろってこちらに視 線を向けていた。もっとも、こちらの顔まではわからないだろうが。 東京タワー大展望台。地上百五十メートルに位置する欄干に身体 を預けて、窓のはるか向こうを見つめている。ここでは﹃蛇﹄がそ のような仕草をしていても、観光気分の外国人としか思われないだ ろう。 悠々と伸縮式の望遠鏡をポケットにしまい、エレベーターへと向 かう。彼らがどう足掻いても、今立ち去ろうとする﹃蛇﹄の足取り をつかむことは不可能だ。右手でボタンを押そうとして、自分が指 に傷⋮⋮噛み傷と、そして、火傷を負っていたことに気づき苦笑す る。左手でボタンを押して待つ。やがてやってきたエレベーターに 乗り込み、下降する。 さて、準備は完了した。 後は愚かな草蛇が、己の身の程を弁えることを願うばかりだ。 440 ◆09:﹁どちらが強いの?﹂ ニョカ ﹃あまり良くない知らせだ。それほど強力な使い魔、それも水の蛇 を操るとくればおそらくそのエージェントは﹃蛇﹄。アメリカで腕 っこきとして知られる脅迫のプロだろう﹄ 明けて翌日。おれ達の報告を元に昨日一日で須恵貞チーフが敵の 正体を調べてくれたが、それはおれの気分を一向に上向きにしなか った。 ﹁腕っこきって。どのくらいですか?﹂ ﹃ランカーエージェント、北米七位だ﹄ ﹁ぶっ!?﹂ おれはしゃべりながら口に詰め込んでいたミックスサンド︵昨日 とは違うコンビニのやつ︶を危うく吐き出すところだった。 ﹁腕っこきどころか!超危険人物じゃないですか!﹂ いわゆるおれ達﹃派遣業界﹄に所属するエージェントの評価の基 準は、表の世界の派遣社員同様、﹃派遣先の評価﹄によって決定さ れる。優秀な成績を上げて認められ、名が通るようになればそれだ け一件あたりの報酬額も上がっていくことになるのだ。このため、 エージェント達には格付けが為されることがままある。各派遣会社 でエースを務める事が出来る器、と認められるA級エージェントの 称号、そしてさらにその上に君臨する、卓越した能力を持つS級エ ージェントの称号などがそれだ。もっともその評価基準はかなり主 ファフニール 観的で曖昧だ。A級でも意外と大したことはない奴もいるし、先日 の﹃毒竜﹄のように、S級が無名の新人に不覚を取る、なんて事も ある。まあアレだ。係長だの課長だのの肩書きは必ずしも能力を意 味しないし、会社や個人によってもずいぶん違うよね、という奴。 こういった曖昧な評価を避けて、少しでも客観的な採点方法を、 と考え出されたのがランカー制度である。この制度に登録したエー 441 ジェントは、仕事を果たす度に派遣元と派遣先から一定の採点方式 に基づいて評価点をもらい、それを積み重ねることでポイントとし ていくのだ。このポイントが多い者は裏の世界のランキングに名前 が載り、﹃ランカーエージェント﹄の称号を得、高額な報酬を得ら れるようになる。 無論リスクは大きい。自身の情報が業界に漏れ出ていくのは避け られないし、そうなれば任務遂行も不利になる。とくに﹃相手にネ タがバレたら終わり﹄の一発芸人系の能力者︱︱おれとか︱︱や、 多くの組織に恨みを買っているエージェント、売名に興味がない者 などはこれを嫌い、ランキングに参加しようとはしない。だから決 だけでは意味がない︶。だがしかし、上位ランカーになる して﹃ランキング一位だから最強﹄というわけではない︵そもそも 強い ほど手強い相手というのは、紛れもない事実だった。 ﹃もともとはアフリカの呪術師の家系の出らしい。今はニューヨー クを拠点にして活動しているそうだ。ランカーになってからは派遣 会社を離れて独立。フリーでずいぶん儲けているようだな﹄ ﹁とんだアメリカンドリームですねぇ﹂ 日本の薄給能力者にももう少し哀れみを。 ﹃得意分野は法人や個人への脅迫。何しろ呪術だ。手を引かなけれ ば病気がどんどん悪くなるぞ、なんてのはお手の物だそうだ﹄ ﹁⋮⋮やはり、水池氏が脅迫されている、と?﹂ そこはきちんと確認しておきたいところだ。何しろこっちはいき なり襲われたわけで、相手の意図は仮定を交えて推測するしかない。 足場となる確実な情報が欲しかった。 ﹃可能性は高い。ニューヨークの溜まり場に姿を見せなくなったの は一週間ほど前からだそうだし、この仕事のために訪日したと考え るべきだろうな﹄ ﹁脅される分にはまだしも、万一死なれると親子再会も何もあった もんじゃありませんからね。向こうがどこまでやる気なのかを確か めないと﹂ 442 ﹃こちらでも出来るだけ調べてみよう。こういう時ランカーは有名 でやりやすいな﹄ ﹁よろしくお願いしますチーフ。それから、昨夜頼んだ件は?﹂ ﹃ああ。昨夜は千葉までご苦労だったな。今、お前の持ってきたシ ナリオを元に、笠桐君と羽美にヨルムンガンドのデータ集めに動い てもらっている。ただな。オモテのデータだけでは限界があるぞ﹄ ﹁ああ、じゃあウラもお願いします﹂ おれは即答する。 ﹁どうせ公表されてるデータでの予測なんて、日本中の経済アナリ クラックし ストやら投資家やらがやりつくしているはずですし。すいませんが、 羽美さんに覗いてもらうのが一番早いと思います﹂ それはつまり、犯罪ゾーンに足を踏み込めと言う事と同義である。 、って 事前に打てるだけの手を打て。状況を何度もシミュ ﹃⋮⋮お前さん、やる時は結構やるな﹄ ﹁新人の時、 レートすれば、予想外の事態にもかえってアドリブが効く おれに教えたのはチーフじゃないですか﹂ この仕事で初めて教わったのがそれで、実は結構感銘を受けたの であるが。 ﹃⋮⋮そんなことあったっけか?﹄ 忘れていやがる。まったく、おれはいい上司を持っているよ。 ﹃とにかくその件はわかった、羽美に伝えて⋮⋮うわ、おいこら、 ちょ﹄ 電話口の向こうでなにやらあった模様。その原因はすぐに判明し た。 ﹃くけけけけけ亘理氏!!慢性脳酸欠症の貴公も時には面白いネタ を提供するではないか!宜しい宜しい、確かバベル・タワーのセキ ュリティを受注したのは|あの︷・・︸ヤヅミ系列のソフト屋であ ったな!カネさえかければセキュリティが強化出来ると思っておる 愚か者どもに、この不肖石動、一身を持って忠告を叩きつけてくれ るわッ!﹄ 443 ﹁いやあの。潜り込むのはビル内のヨルムンガンド社のサーバーだ けでいいんですからね?﹄ ﹃任せておきタマエ!小生にかかればソフトのみならず、電源、シ ャッター、ヘリポート制御まで思いのままよ!﹄ 聞いちゃいねぇ。すでに羽美さんは﹃電磁戦隊メガレンジャー﹄ のOPテーマを鼻歌で歌い始めた。こうなると何を言っても無駄で ある。 ﹁とにかくチーフに、こっちも引き続き交渉にあたってみるって伝 えてください。⋮⋮ではまた﹂ 不毛な通話を一方的に切り、一息つく。おれ達が只今いるのは、 先日真凛と直談判に赴いて失敗した水池氏の自宅がある超高級マン ションそばの公園である。ベンチに座って彼の部屋があるはずの十 階のあたりを見上げながら、自宅に戻った水池氏の外出を待ちわび ているのだった。 キガンジャ・ニョカ あの水で作り出した蛇⋮⋮アフリカの呪術師が、己の血と、大量 の水を混ぜ合わせることで生み出す﹃絞める蛇﹄と呼ばれる使い魔 ⋮⋮の襲撃を退けたおれ達。東京タワーの術者は追うことは出来な かった。さりとて﹃絞める蛇﹄の方はどうやら排水溝から逃げ込ん だらしく、こちらも追跡不可能だった。後に残されたのは腰の抜け た水池氏と、﹃スケアクロウ﹄の残骸と、細腕の門宮さんだけだっ たので、おれ達はその場の流れで、飛び散った家具やら壊れた蛇口 やらの後始末をする羽目になった︵流水が嫌いな直樹がさんざん文 句を垂れやがったので一発どついて黙らせた︶。水池氏はほとんど 怪我らしいものはなかったものの、このままでは仕事にならないと 自宅まで戻ってきてしまい、そのままここに籠もってしまった。そ の時おれは門宮さんと協力してスケアクロウの頭部を﹃シグマ﹄日 本支社まで送り届けたり、その後ちょこちょこ小ネタを仕込んでい たりしたので、止める事も出来なかった。ちなみにスケアクロウの 奴は今回は名誉の負傷ということで、破損したパーツを優先的に修 繕してもらえ、一週間程度でまた前線復帰できる予定だそうだ。つ 444 くづく便利な身体である。その日はなんのかんので夜になってしま い、明けて翌日も動きは無し。時刻はようやく夕方になりつつあっ た。 ﹁脅迫専門の呪術師か⋮⋮﹂ ﹁ボクはこういう、遠回しな攻撃の人は苦手だよ⋮⋮﹂ おれが情報を伝えると、真凛も直樹もむっつりと押し黙ってしま った。ちなみにこの小娘は授業帰りでそのまま合流しているため制 服である。 ﹁なんかややこしい話になっちまったけど、おれ達の仕事は、水池 氏を露木氏に引き合わせること、これに変更はない。ところが、肝 心の水池氏はどうしても会いたくないと言っている﹂ 頷く二人。 男なのだろう。そ ﹁となると、だ。脅迫者から助けてやることで恩を売り、その代価 脅迫に屈しない として面会をさせるという方法はどうだろう﹂ ﹁そう上手くいくか?何しろ の手の取引が通じるとは思えんが﹂ ニョカ 確かに。おれ自身もそう思っていたので、奴の言葉には反論せず 黙り込んだ。 ﹁しかし、﹃蛇﹄とやらをわざわざアメリカから呼び寄せたとあれ ば、雇い主は相当に水池氏に恨みを持っていると考えるべきだろう か﹂ ﹁候補としてまず一番に考えられるのは﹃ミストルテイン﹄だが﹂ ﹁えぇっと、水池さんのヨルムンガンド社が、今度合併しようとし ている会社⋮⋮だよね?﹂ ここ数日それなりに勉強してきたのだろう、自信なげに問う真凛。 ﹁八十点てところだな。正確には買収だ。事業の内容については⋮ ⋮ホレ語れ、ITオタク﹂ ﹁別にパソコンは得意ではあってもさほど好きというわけではない のだが﹂ ぶつぶつ文句を垂れながらも直樹が語る。ミストルテインとは近 445 頃主流になりつつあるIP電話のソフトを開発している会社である。 IP電話とは大雑把に言えば、既存の電話回線ではなく、インター ネットを経由して音声情報をやりとりする電話である。なによりの メリットは、ネットに常時接続しているのであればそれ以上の料金 が発生しないということだ︵たとえ相手が海の向こうに居ようとも、 だ︶。つまりは電話代ほとんどタダ。現在、多くの企業では社内や 会社間の連絡はほとんどこれに置き換わっているし、一般ユーザー にも確実に普及しつつある。通信業界では、あと数年で従来の固定 電話はその役目を終え、﹁どこでもつながる携帯電話﹂と﹁無料で 話せるIP電話﹂へと吸収されていくとの予想が大勢を占めている。 そのIP電話をパソコン上で起動するために必要なソフトを作っ ているのが﹃ミストルテイン﹄社であり、世界的に大きなシェアを 誇っている。ヨルムンガンド社はネット上でのブログ、株、保険や オークション等のサービスを展開しており、これにIP電話のサー ビスが加わることで、たとえばネットオークションで入札しながら 相手と電話で交渉したり、保険の見積もりを直接オペレーターと話 しながら申し込める事も可能になり、とても便利になる。⋮⋮とい うのが、ヨルムンガンド側の描く理想の未来である。 ﹁う︱︱ん。とにかく。ミストルテインをお金で買い占めて自分の ものにすると、水池さんのヨルムンガンドにすごくいい事があるっ てこと?﹂ ﹁まぁ、そうだな﹂ 今はくどくど裏事情を説明してもしかたがない。事態を簡略化し て本質を把握しておくことは、仕事の重要テクニックである。そう することで、 ﹁でもそれは、ミストルテインにとってはいい事なの?﹂ シンプルにして重要な問題を見つけることが出来るわけだ。おれ は首を横に振る。 ﹁ミストルテインは、買収どころか業務提携も嫌がっていたみたい だな。今回のは株式の敵対的な買収⋮⋮ぶっちゃけて言えば、﹃お 446 前を買ってやるから俺のモノになれ﹄ってとこだ。TOBこそ発動 してないものの、ミストルテインの役員連中を随分と抱き込むこと に成功してるみたいだし、過半数を突破するのは時間の問題だろう な﹂ そう、会社とは﹃買う﹄ことが出来るのだ。それが株を買うとい うことであり、一株を所有すると言うことは、その会社の何万分の 一かを所有することに他ならない。 ﹁相手は今昇り調子真っ最中のヨルムンガンド。カネの勝負では勝 ち目があるまい。となれば残された手段は⋮⋮﹂ ﹁ヨルムンガンドの頭である水池氏を後ろからズドン、ってとこか ?﹂ 巨大企業ヨルムンガンドとて、実質はほとんど水池氏のワンマン チームだ。トップが倒れれば、針でつついた風船のようにしぼんで しまうだろう。 ﹁考えられないでもないが。ミストルテインの社長は生粋のエンジ ニア畑の出身者と聞いている。そのような生臭い方法を考えつくも のだろうか?﹂ 腕を組んで考え込んでしまうおれ達。 ﹁⋮⋮いずれにせよ、今度奴が襲ってきたらどうするかだな。電気 ショックなんて手が二度通じるとは思えんし﹂ ﹁ボクも、関節も目も無いのが相手だとちょっと分が悪いかなぁ﹂ 珍しく考え込む真凛。まあもともと武術というのは対人スキルな ので、大蛇や水の精霊との戦闘を想定してはいないのだろう。この 娘の興味対象は強い相手との戦闘であって、意志のない使い魔との 戦いではないのだ。 ﹁となると、俺の力で凍結させる必要があるが⋮⋮﹂ 周囲を見回す直樹。屋内で絶対零度を展開するのは色々と被害が 大きすぎるのだ。ここらあたりが、必ずしも強力な能力者=有能な エージェントを意味しない要因である。 ﹁肝心な時に役に立たない野郎だな﹂ 447 ﹁黙れ、お前が奴と戦えば、悠長に言葉を並べているうちに十回は 殴殺されているだろうが。だいたいこの中で一番弱いお前が偉そう にするな﹂ あ。今の一言はいくら紳士なおれでもちょっとムカっときました よ? ﹁ふふん、てめぇごときにゃ負けねえよ。なんなら試してみるか?﹂ ﹁望むところだ。身の程知らずの大言壮語は高くつくぞ﹂ まるで不良高校生のように至近距離でガンを飛ばし合うおれ達と、 それを見守る女子高生。だがこの女子高生は、おれ達なぞより余程 ガン飛ばしも喧嘩も慣れっこなのであった。のほほんと問う。 ﹁そう言えば、二人はフレイムアップに来る前に戦った事があった って聞いたけど﹂ ﹁⋮⋮誰からそんなこと聞いたんだ?﹂ ﹁ん、浅葱所長。前に直樹さんとアンタがどこで知り合ったのか、 って話になったときに。それくらい知っておいた方がいいって﹂ まったく、余計なお世話を。この時ばかりは直樹と二人して苦い 顔になる。 ﹁で、どっちが勝ったの?﹂ ﹁そりゃあおれに決まってるだろ。コイツ弱ぇくせにやたらとしぶ といから、全身コマギレにして夜の河からばら撒いて海に流してや ったのさ。それでも再生しやがるんだから便利なモンだよ﹂ 前髪をかきあげ、あさっての方向を向いてフッと嘲笑してみせる おれ。その姿をまるで汚いモノでも見下すような視線を向けてほざ く直樹。 ﹁ほほう。お前の脳味噌の記憶部分がゆるいとは常々思っていたが、 とうとう事実を都合良く捏造するまでに衰退していたとはな。橋の 上で全身氷漬けにされた挙げ句、どうしても死ぬわけにはいかない と俺に泣いてすがったのはどこのどいつだっただろうな?これなら マピロ・マハマ・ディロマト 当初の予定通り氷詰めにして冥王星まで放逐しておけばよかったか﹂ ﹁ははっ、そんときゃてめえを対転移で太陽核に放り込んでやって 448 たぜ﹂ ﹁なんか小学生の口喧嘩みたいだね﹂ おれ達の低レベルな争いを眺めて真凛がぼやいた。 ﹁あ、お前おれの言うこと信じてないな?﹂ ﹁だって。アンタがどうやって直樹さんを細切れに出来るんだよ﹂ ﹁ハイ、すいません、おれには無理です﹂ 昔は出来たんですけどね。直樹も冷静さを取り戻したのか、眼鏡 をかけなおす。 ﹁子細はともあれ、我々は今同一陣営にいる事は事実だからな。こ のような男と組むのは腹立たしいが、仕事とあれば必要な働きはす る﹂ ﹁今月も生活苦しいしなあ﹂ ﹁互いにな﹂ ため息をつくおれ達。まったく、漫画や小説の中の魔法使いや吸 血鬼が羨ましい。連中の住む古城だの大迷宮だのの光熱費や人件費 はいったいどこから出ているのであろうか︵そう言えばルーマニア の城に住んでいる別の吸血鬼は、いつまで経っても自宅がブロード バンドにならないとぼやいていた︶。現実世界のおれ達はとりあえ ず自室の家賃と水道代となんとか通信費まで払うのが精一杯。食い つなぐためには因縁の宿敵とも手を組まなければいけない昨今であ った。貧乏だ、みんな貧乏が悪いんだ。 ﹁話が大脱線してるようだが、そもそもの議題はこれからどうする かということだろう﹂ ﹁ああ、それならたぶん、今頃水池氏のところはそろそろ大変なこ とに⋮⋮﹂ その時、視線を離さずにいた十階の窓、水池氏の部屋のあたりか ら妙な音がした。地上のおれ達に聞こえるとなれば、相当大きかっ た音に違いない。続いて夕日を反射して舞い落ちる輝きの破片。そ れはつまり、水池氏の部屋のガラスが割られたのだ。それも内側か ら。慌てて振り返ると、おれより感覚の鋭い二人はすでに表情を引 449 き締めている。おれの携帯が鳴った。着信は門宮さんからだった。 内容を確認するまでもない。 ﹁やれやれ、読み通りなのはありがたいが、ちょっと早すぎるぜ!﹂ 舌打ちする時間も惜しんで、おれ達はマンションの玄関に向かっ て駆け出した。 450 ◆10:呪殺というシステム 水池氏の部屋に飛び込もうとしたおれ達は、だが超高級マンショ ンのオートロックの壁に阻まれることになった。玄関からロビーへ 入る扉で苦戦するはめになり、これは真凛の握力で扉をこじ開ける しかないか、と考え始めたところで、ロックが外れた。そこで思い 至って、まだ銭形警部のテーマを奏でている携帯の通話ボタンを押 す。 ﹃今ロックを外しました。そのまま部屋まで上がってきてください。 敵がいるので注意して﹄ 落ち着いた調子の門宮さんの声。とりあえずその指示に従い、管 理人さんに不審の目で睨まれつつエレベーターで十階の水池氏の部 屋へ向かう。しかしどうしてこうカネモチはみんな高いところに住 みたがるのかねえ。ちなみにこのマンションは十二階建てで、港区 にあってはそう高層建築というわけではない。問題は高さより広さ だった。都内でもっとも地価が高いのに、いや、だからこそ、過剰 なまでの敷地面積。五つの部屋と風呂、トイレ、ベランダ、ウォー クインクローゼットもろもろを備えた一階が、まるまる一部屋とな っている。つまりはこのマンションに居住できるのは十二世帯のみ というばかばかしさだった。 そんな豪奢なマンションの中は、ずいぶんと無惨に荒れていた。 つい昨日のヨルムンガンド社のオフィスとまったく同じ有様である。 何があったのかは容易に想像がついた。寝室のドアを開ける。とそ こには、ベッドの上に座り込んでいる水池氏と、その側に立ち周囲 を見据えている門宮さんだった。彼女の指に挟まれた折り紙の形は、 ﹃かぶと﹄。同様のものがベッドを囲むように六つ、配されている。 451 破邪を意味する﹃かぶと﹄により、見えざる防壁を張る結界陣であ ふつうの 蛇の大きさでしかない。おれ る。その結界の向こう側に、昨日と同じ透明な水の蛇が居た。その 数六匹。ただし大きさは 達を認識すると同時に、奴らは一斉に躍りかかってきた。だが、同 じ芸は二度も通じない。 ﹁やっ!﹂ 真凛が手刀を振り下ろし、宙で蛇をまさしく一刀両断にした。返 す刀でもう一匹を。その横では直樹が蛇を捕まえ、そのまま踏みつ ぶしている。六匹全てを倒すのに三秒とかからなかった。破壊され た蛇はたちまちもとの水に還り、職人手製のペルシャ絨毯を水浸し にする。ひとしきり事が済んだ後で、ようやくおれは部屋の中に入 子供 ですね﹂ ることが出来た。その時にはおれの乏しい頭でも、だいたい状況は 理解出来ている。 ﹁こりゃ、あの﹃絞める蛇﹄の まっと 魔術師ではないので、魔力を探知したりは出来ないが、状況 カーペットに染みこんだ水に手を触れる。生憎とおれは うな から予測は出来た。 ﹁今日、何回襲われました?﹂ ﹁⋮⋮三回だ。顔を洗う時、水を飲もうと思ったとき、シャワーを 浴びようと思った今、だ。蛇口をひねるたび、水が蛇になって襲っ てくるんだ⋮⋮﹂ ﹁昨夜から泊まり込みで護衛をしていました。襲ってくるのは先ほ どのような小蛇なので、私一人でも退けることが出来たのですが﹂ いささか憔悴した表情で門宮さんが言う。昨夜このオッサンが門 宮さんと一つ屋根の下だったという事実に愕然とするおれだったが、 当の水池氏にはそんなことを考える余裕はなさそうだった。 ﹁とりあえず、お部屋の掃除をしませんか?﹂ ﹁水を使うなっ!!﹂ 部屋の惨状を見かねバスルームへと向かおうとする真凛に水池氏 が叫ぶ。﹃脅迫に屈しない﹄はずの男の声は、悲鳴に転落する寸前 452 だった。おれは無言で頭を振る。初日の襲撃でこの点に思い至らな かったのは迂闊だった。門宮さんに問う。 ﹁噛まれてましたか?﹂ ﹁ええ、肩を。血を採られてしまったのは間違いないようです﹂ キガンジャ・ニョカ ﹁そうですか⋮⋮となると、このままだと半永久的に水池氏は狙わ れることになりますね﹂ ﹁おい、どういう意味だそれは!?﹂ おれは、四捨五入して敵の使う呪術と﹃絞める蛇﹄についての説 明を行った。 ﹁術者の血を混ぜることによって生み出された﹃絞める蛇﹄は、水 のあるところに自在に潜み、移動することが出来ます。その体躯の 大きさは術者の呪力で決まるのですが、あれほど大きなモノは、お れも聞いたことがありません﹂ 一人前の術者でも、己の身長程度の蛇を操れる程度である。あれ ほどの大蛇を操るとなれば、その力はケタ外れていると言っていい だろう。 血 をすすることが出来れば、恐怖 そして、まず術者は﹃絞める蛇﹄に、呪う対象となる相手を襲わ せる。そして、ターゲットの 子供 であるターゲットに襲いかか を生み出す。その子供は、記 の呪殺のシステムが起動するのだ。﹃絞める蛇﹄は、飲み込んだタ ーゲットの血を元に、新たな 親 録されている血の情報に従い、 るのである。 ﹁つまり、一度目の襲撃の時に、貴方の血の味はあの﹃絞める蛇﹄ に覚えられてしまったと言うことです。あとの話は簡単です。奴は ニョカ 水がある限り大きくなり、また殖え続ける。どこかの水道に潜んで、 子供を次々と生み続ければ、術者である﹃蛇﹄は何もせずとも、貴 方を脅する事が出来る﹂ ﹁つまりこういう事か。もう相手は何もせずとも、勝手に使い魔が ⋮⋮﹂ ﹁何度でも水池さんを攻撃し続けるってこと?﹂ 453 真凛達のコメントにおれと門宮さんがうなずく。呪術の本領、こ こに極まれり。そもそも呪いというものは、相手と己が顔を合わせ ないままに害を加えることに利点がある。この業界でも攻撃呪文を 得意とする派手好きな魔術師崩れは多いが、わざわざ相手に接近し て電撃やら火の玉をぶつけるのであれば、現在なら銃や爆弾、ある いはナイフを使った方が余程安上がりなのだ。相手から姿を隠して、 を介してますま だが確実にじわじわと追い詰める。防ぎにくいのも事実だが、何よ 血 り着実に相手の精神を摩耗させる点が恐ろしい。 ﹁そして、貴方がそれに恐怖すると、それが す﹃絞める蛇﹄に力を与えることになるわけです﹂ 呪術というのは、その気になれば誰でも出来るのだ。 もっとも初歩では、誰かに向かって﹁今日は良くないことが起こ 何となくイヤな気分に るよ﹂と言えばいい。不幸の手紙でもかまわない。それ自体になん ら効果はないが、それを相手が気にして 気にする 事で最大限に効 なれば、精神は集中を欠き、ほんの少しだけ良くないことが起こる 確率が上がる。それが呪術なのだ。 実際、呪術とは、かけられた相手が 果を発揮する。相手が恐怖すればするほど、精神は揺らぎ、より強 力な呪いを仕掛けることが出来るようになるのである。特にランカ ーエージェント﹃蛇﹄の能力の恐るべき点は。 ﹁失礼ですが、今日は水分を摂られましたか?﹂ 力なく首を横に振る水池氏。 ﹁朝、ペットボトルの水にも⋮⋮いつの間にか穴を開けて入り込ん でいたんだ。開けるとそこから蛇が出てくるんだ!﹂ そう、敵も小蛇ごときで門宮さんの守りを突破できるとは考えて いないのだ。﹁怖くて水が飲めない﹂⋮⋮水分を摂らずして活動で きる人間は居ない。ましてそれが何時終わるとも知れないとなれば 尚更だ。脅迫の手段としては誠に有効なのだった。 ﹁犯人、というか、﹃蛇﹄の雇い主に心当たりはあるんですか?﹂ ﹁あるわけないだろう!⋮⋮だが、そうだな、ミストルテインの奴 454 らならやりかねないか﹂ ﹁では、犯人を捜す方が早いのでは﹂ ﹁⋮⋮それは問題ない。買収話が決着すれば、奴らの脅迫など意味 が無くなる﹂ ふむ。そういう回答か。 ﹁なるほどね。それで、門宮さん経由でおれ達を呼んだわけですか﹂ 倒れていたソファを起こしてどかりと腰を下ろす。交渉は﹁まず は強気で攻めてみる﹂のが鉄則である。ふてぶてしさを装っておれ は続けた。 ﹁門宮さんに周囲を守らせているだけでは埒があかない。さりとて、 彼女を護衛から外して敵を探させるわけにもいかない。いったいど うするおつもりで?﹂ いったん言葉を切って、相手の発言を促す。 ﹁⋮⋮お前達にも俺の護衛について欲しい。門宮君に聞いたが、お 前達﹃フレイムアップ﹄は業界では有名な問題児なんだろう?﹂ むっとする真凛と、力強くうなずくおれと直樹。 ﹁ならば話は簡単だ。俺がお前達を雇ってやる。報酬は直接に払っ てやるから、この蛇どもから俺を守るんだ﹂ ⋮⋮へぇ。護衛、ね。 ﹁それはそれは﹂ おれは誠実さに欠ける返答をした。 ﹁涎を垂らして喜びたいご提案なのですがね。しかしながら、只今 の我々はあくまでも露木氏に依頼された者でして。そちらの門宮さ んの御同僚に依頼された方がよろしいのではないかと﹂ ﹁シグマのスタッフは、本土から高官が式典で訪問するのに合わせ、 主要メンバーはほとんど出払っているのですよ﹂ 門宮さんが教えてくれる。 ﹁わかった、わかった﹂ 水池氏は肩をすくめた。にわか仕込みのおれの動作とは違い、仕 草がサマになっている。その時だけは、呪術に脅える被害者から、 455 不敵なIT起業家の表情に戻っていた。 ﹁報酬はこれでどうだ﹂ 指を三本突き出す水池氏。 ﹁三万?﹂ ﹁三百万だ﹂ わーお。予期していなければ口に出して呟いた感嘆詞をおれは飲 み込んだ。まったくカネってのはあるところにはあるもんである。 ﹁異存はないな?では早速︱︱﹂ ﹁お断りします﹂ 即答するおれ。 ﹁⋮⋮ほう、それは何故だ?﹂ ﹁今少なくとも、おれ達はあなたを露木氏に引き合わせるという任 務の最中です。依頼の二重取りは規定に反していましてね。魅力的 な金額ではありますが、お受けすることは出来ませんね﹂ おうおう、我ながら良く言うよ。 ﹁それがお前のプライド、とでも言うつもりか?⋮⋮くだらん﹂ 水池氏の表情は、怒り以上の何かを含んでいた。おれと水池氏の 視線が真っ向で切り結ぶ。 ﹁俺はな、お前のような奴が一番嫌いだ。自分にある力をくだらん ルールで縛り付け、手に入れるべきものを手に入れようとしない偽 善者だ﹂ それは果たしておれ達に向けられた台詞だったのか。だが少なく とも、次の台詞はそうだった。 ﹁お前達の業界のこともそれなりに調べたよ。派遣社員だと?ふん。 気味の悪いジョークだ。普通の人間が喉から手が出るほど欲しい能 力を持っていながら、あえて一般人の振りをして規律なんぞに縛ら れるなよ﹂ ・・・ その台詞には、反論しないわけにはいかなかった。 ﹁︱︱だから、ですよ。この規律からはみ出した時、本当におれ達 は人間以外のものになってしまう﹂ 456 それは、プライドではなかった。恐怖、だろう。 に が影のようについてまわる。子供は一度くらいは魔法使 特別 一般人。ともすれば陳腐極まりない言葉だが、そのカテゴリーに 孤独 所属できることがどれほど安定をもたらすことだろう。 は いになりたいと夢想する。しかし万に一人、その夢を叶えたものに は、現代科学文明に背を向けて、己の抱えた命題と戦い続ける日々 が待っている。英雄とは、時に誰かの代わりにその手を血に染め続 ける者を指すのだ。それでもその道を突き進む者はおり、それは賞 賛されるべきだ。だが、彼らが疲れたとき、元いた場所にたまには 戻れる道を残しておくくらいは許されるのではないだろうか。 ﹁いずれにせよ、おれ達の仕事はあなたを露木氏に引き合わせるこ とです。である以上、貴方の身柄に危害が加えられるのを看過する わけにはいきません﹂ その言葉の意味するところは、すぐにあちらにも伝わったようだ。 ﹁⋮⋮つまり、結果として俺を護衛することになるということか?﹂ ﹁そう解釈していただいて結構です﹂ 自分でも馬鹿馬鹿しいロジックだとは思うんデスガネ。 ﹁三百万をドブに捨てるか。大した高値のプライドだな﹂ ﹁まあ、株価と同じで。割と乱高下しますがね﹂ 時々二束三文で売り渡すこともありますし。短く深刻な睨み合い は、だがすぐに終わった。もとより、あちらにこの条件を断る理由 はない。 ﹁物好きなことだ。ならばロハでこき使わせてもらうとするぞ﹂ ﹁それは、露木氏にお会いいただく事を承諾してくださったと捉え て良いのですか?﹂ ﹁いいや。それは保留だ。お前達がその仕事についているなら、せ いぜい俺に大きな恩を売って、心変わりさせてみせろ﹂ 交渉の場に臨んだせいか、水池氏は脅迫される者から、戦う社長 へと戻ることが出来たようである。ペットボトルの水を意を決した ように一気に飲み干す。門宮さんに一声かけると、自分のオフィス 457 へ向かうべく、地下駐車場へと向かっていった。 ﹁かっこいいじゃん﹂ 真凛が珍しく感心したようにおれを見上げた。隣の吸血鬼も無愛 想ながら頷く。 ﹁ふん、貴様にしては中々、骨のある事を言うな﹂ ﹁あ、でも。直樹さんは来音さんと二人暮らしだから色々物入りな んじゃないですか?﹂ 眼鏡の奥で柔和な笑みを浮かべる直樹。本当にコイツ、年上と年 下で態度が豹変するな。 ﹁確かに。盆休みに散財が続いた事もあるし、あの浪費魔がまた通 販でろくでもないものを買い込んだしな。金があることに越したこ とはないのだが⋮⋮﹂ いたって生真面目に、奴は言ったものだ。 ﹁まっとうならざる金で購入したものに萌えることは出来ん。フィ ギュアに失礼だ﹂ ﹁そうですね。じゃあ、ボク達もさっそく水池さんの護りにつきま しょう⋮⋮って陽司?﹂ 真凛の声が妙に遠くで聞こえる。気がつけば、おれ自身の唇から なにやら呟きが漏れているようだった。 ﹁⋮⋮家賃三年分⋮⋮いや引っ越し⋮⋮新車フルオプション⋮⋮卒 業までの学費⋮⋮﹂ 三百万、かぁ。 あればどんな楽しいことが出来たんだろう。毎日帰り道に、スー パーでタイムサービスを血走った目で待ちわびたり、通り過ぎる自 販機の釣り銭コーナーに思わず指をつっこんだりしなくても良くな っていたんだろうか?ファミレスで食後にパフェなんかつけてみた りしても許されたりして。もしかしたら、鍋一杯につくったカレー で、夏場傷まないように一週間やりくりしなくても良くなっていた 458 のかな?あれ、なんか頬が熱い。へへっ、なんだかあたりがにじん でよく見えないや。 ﹁⋮⋮あんたの生き様、確かにこの目に刻みつけたよ、陽司﹂ ﹁お前はよく頑張った。後で俺のとっておきのコバルト文庫を貸し てやる。だから今は泣くな﹂ ﹁⋮⋮ぅぅ⋮⋮ぇぐっ⋮⋮ありがとう。みんなありがとうっ⋮⋮﹂ 涙がこぼれないよう、上を向いて歯を食いしばるおれを、二人が 肩を叩いて慰めてくれた。 ﹃蛇﹄が、自身が宿泊している港区の超高級ホテルの一室に戻っ てきたのは夜も八時を回ってからの事だった。涼しい気候を除けば、 それなりに楽しい一日だった。キョウスケ・ミズチにプレッシャー を与えるのは、﹃絞める蛇﹄に任せておけば問題はない。今日は日 本を訪れた観光客として、悠々と名所巡りや日本料理を堪能してい たのだった。ニホンバシでカブキを鑑賞して、ツキジのスシを平ら げた﹃蛇﹄は上機嫌で部屋に戻り、大型ノートPCをライティング テーブルで開き、メールチェックを始める。このPCはそのままね ぐらに戻った時、メインPCになるのだ。 フリーで仕事をするエージェントは、依頼の選定、報酬の交渉も 自分で行う。幾つかのメールをチェックし、断りや条件提示等を返 信していく。やがて﹃蛇﹄の目が、一つのメールに止まった。それ は、今取りかかっているヨルムンガンド社の件の依頼主だった。先 日、﹃シグマ﹄、そして﹃フレイムアップ﹄なる組織に所属するエ ージェントを撃退し、トウキョウ・タワーから愚かな標的にきつい 警告を与えた夜、途中経過をレポートにまとめて送ってあったのだ。 これからの仕事はそれほど難しいものではない。キョウスケ・ミ ズチが屈服するまで呪いを展開し続ければ良いだけだ。恐怖に屈し ない男も、乾きには容易に屈する。三日も持てば上出来というとこ 459 ろだろう。それだけに、その依頼人から折り返しのメールが来てい たことは﹃蛇﹄にとって意外だった。メールを開き、内容を追って いく。 ⋮⋮やがて﹃蛇﹄の口から、驚きを意味する口笛がこぼれた。 460 ◆11:﹃ヨルムンガンド﹄ それから二日が過ぎた。 ﹁いや、そろそろマジに疲れてきたぜ﹂ 急ごしらえの片付けを終えた水池氏の部屋は、なんとか人間が落 ち着いて過ごせるくらいまで持ち直していた。学校など、それぞれ のスケジュールに合わせつつ、交代で六本木のオフィスで門宮さん と一緒に泊まり込みで水池氏を護衛すること二日。その間の水の蛇 の襲撃は実に八回に及んだ。排水溝から、水道から、はたまたスプ リンクラーから。撃退してここは安全と思えば、また次のところか ら襲ってくる。現代文明において、いかに水というものが生活に浸 透し、また不可欠であるかを思い知らされることになった。 ﹁と言っても貴様自身はろくに戦闘に参加していないではないか﹂ ﹁うっせー、おれは体力は人並みなの。てめぇと一緒にすんな﹂ ﹁そうだな。そのうえ魅力は人並み以下だしな。可哀想な事を言っ て悪かった﹂ ﹁⋮⋮てめぇ﹂ ソファーに座って交わす会話にも今ひとつキレがない。真凛は先 に離脱している。お疲れ気味のおれ達に、門宮さんがトレイに乗っ けて差し入れを持ってきてくれた。キンキンに冷えた缶コーラ。普 通の水やお茶では﹃水の蛇﹄が混入するかも知れない、というおれ 達なりの用心だったのだが。 ﹁またコーラですか。おれ炭酸嫌いになりそう﹂ ﹁紅茶が飲みたいところだな﹂ コーラだけの生活、等というものに憧れるのは小学生とメタボリ 461 ック患者のみである。季節は既に秋。夜は結構冷え込むのだ。ああ、 暖かい日本茶が飲みたいなあ。 ﹁そうですか?お腹もふくれるし、結構重宝しますよ﹂ ごっきゅごっきゅとコーラを飲み干す門宮さん。その仕草を見て ると、間違いなく彼女は半分アメリカ人なんだなあ、と納得せざる を得ない。門宮ジェインの名が示すとおり、彼女の血の半分はアメ リカ人なのだとか。代々の陰陽師の家系がどうして海外に出て行く ことになったのか。実は仕事中にさりげなく探りを入れてみたのだ が、あのステキな笑みでかわされてしまった。三人がコーラに口を つけると、はかったわけではないのだが会話が止み、エアポケット に落ちたような沈黙が降りる。さてさて、どうしたものか。 ﹃ちゃらりらり∼ん ちゃらっちゃらっちゃらっちゃっちゃっちゃ っ!﹄ そんな考えをあっさり無効化する、ルパン三世︵新シリーズ︶の あの軽快な音楽。おれはジーンズからアル話ルド君を引っ張り出す と、届いていた事務所からのメールをチェックした。 ﹁⋮⋮んむ﹂ データを確認し、おれは携帯をしまい込む。時刻は日付が変わろ うとしている。そろそろ動きがあってしかるべきだった。 水池氏は本日初めて、上機嫌になっているようだった。 ﹁ミストルテインの連中が屈服した。これで過半数だ﹂ 当然、専門的な話をおれ達にするはずはない。だが、どうやら例 の買収話の決着がついたのは間違いないようだった。大仕事が片付 いた達成感からだろう、アルコールの力を借りずとも、水池氏は随 分とハイになっている。 ﹁お前もどうだ。大学二年ならそろそろ就職活動を考えなければい かん時期だろう﹂ おれの肩を叩いて気さくに述べてくださった。 462 ﹁ウチの会社にくるか?異能力だったか。あれだけでも充分価値は あるし、お前ならそれ無しでも中々仕込みがいが︱︱﹂ ﹁もうすぐ潰れるような会社は遠慮しておきますよ﹂ おれのコメントはどう取り繕ってもマイナスの温度であり、浮か れはしゃぐ実業家への冷や水以外の何物でもなかった。 ﹁⋮⋮何だと?﹂ ﹁ウチのスタッフからね。御社の詳細なレポートがあがってきたん ですよ﹂ 知りたくもなかったのだが。実際のところ、ここまで酷いとは思 っていなかった。﹃アル話ルド君﹄に先ほど転送されてきたデータ は、我が事務所が誇るブレーン、石動、笠桐両氏の芸術的なコンビ ネーションの賜物だった。来音さんが過去のヨルムンガンドの業績 を調べ上げ、個々のプロジェクトで使用されたであろうファイルを 推測。それを羽美さんがサーバーに侵入して拾い集めるという作業 により、ヨルムンガンド社の﹃丸呑み﹄の実態をほとんど完璧にさ らけ出していた。 ﹁ヨルムンガンド社を冷静に一つの会社と見れば、はっきり言って 赤字続きです。とはいえそれはベンチャー企業には良くあること。 言うならば、成長期の子供がたらふくメシを食べても、全部身体を 作るために使われてしまっていつも腹をすかせてるようなものであ り、健康さの証明でもあります﹂ 決算のデータなどは、書店やネットで四季報を見ればすぐに調べ られる。しかし、誰もが﹃今は成長期。いずれ安定したら利益が出 るから﹄と思い、株を買い続けているのである。 ﹁でもね。ここ数期の決算データは明らかに異常です。利益の殆ど が合意もしくは敵対的買収⋮⋮﹃丸呑み﹄に費やされてます。御社 らしい、極めて積極的な拡大路線と取れなくもありませんが、この データをつき合わせてみると、もう少し説得力のある仮説が浮かび 上がってきます﹂ おれは一気にここまでしゃべり倒して、水、はなかったのでコー 463 ラを口に含んだ。 ﹁御社の﹃丸呑み﹄、そして数々の強力な活動を支える豊富な資金。 全ては﹃高い株価﹄という裏付けあってのものです。でもね。株価、 ってのは本来上がったら下がるもの。上がり続ける株価なんて本来 ないはずなんです﹂ ちなみにこんなにペラペラ流暢にしゃべっているが、全ては送ら れたファイルに添付されていた来音さんと羽美さんの共著レポート を脳裏に焼き付けて読み上げているだけだったりする。 ﹁そこで調べてみると、株価が上昇期を過ぎて下降期に入ろうとす ると、はかったようにヨルムンガンドが他社買収の発表を打ち上げ ている。そうすると、投資家達はそろって﹃またヨルムンガンドの 株が上がるぞ﹄と買いに走り、結果として株価がまた上がる。最初 の頃はもちろん、買収話があって、株価があがっていたのでしょう。 ⋮⋮でも。それが、いつしか株価を維持するために買収話を打ち上 げるようになった﹂ 高い株価に裏打ちされた強気の経営。それはすなわち、株価が下 がれば一巻の終わりということだ。そして、気がつけば、ヨルムン ガンドは﹃高い株価﹄を前提にして全ての戦略を立てるようになっ ていたのだ。すなわち、それが意味することは。 ﹁まあ、おれの経済知識なんて聞きかじりですし、そもそもこんな 話を貴方にしたって釈迦に説法でしょう。ややこしい話は抜きにし て、簡単に要約すればこういう事です。ヨルムンガンド社は、﹃他 社を丸呑みして大きくなっている﹄んじゃない。﹃他社を丸呑みし 続けないと死んでしまう﹄んだ﹂ 門宮さんは数歩退いて、直樹は黙々と、おれ達を見守っている。 ﹁それはこういう事か?ウチが自社の株価をつり上げるための工作 として買収を行っている、と﹂ ﹁推測にしか過ぎませんが。結局﹃丸呑み﹄した会社との相乗効果 はほとんど現れていませんしね。それと。前期の決算書、ウチのス タッフによると粉飾の痕跡が︱︱﹂ 464 ﹁口の利き方に気をつけろよ小僧﹂ もう部屋の中にはうかれムードなどどこにもなく、季節は既に冬 に入ったかと錯覚しそうだった。 ﹁だいたいお前ごときに俺の会社のことをどうこう論評される謂わ れはない。お前の役目は俺の護衛だ。余計な事まで出しゃばるな﹂ ﹁⋮⋮失礼しました。おれが言いたいのは、ウチのスタッフが疑問 に思う程度の事、経済と投資のプロ中のプロである貴方の会社の役 員が気づかないはずはない、ってことです﹂ ﹁会社の役員だと?﹂ 直樹の言葉に頷く。 ﹁先日、貴方がおれ達を雇ったとき、あなたはこう言いましたよね。 ﹃俺を守れ﹄と。﹃犯人を見つけろ﹄じゃなかった。となれば貴方 は当然、自分が何故脅迫されているか知っていたわけです。そして 脅迫者の名前をおれ達に言わなかったのは、知られてはまずいから だ﹂ 社会人未満の学生とて、その程度の知恵は回る。 ﹁このレポートを作成していくうちに、だいたいの話の構成は見え てきました。貴方を脅迫していたのは、ミストルテインなんかじゃ ない。貴方の会社の役員、不動産王サイモン・ブラックストンその 人だ。⋮⋮違いますか?﹂ 水池氏は応えない。 ﹁そう考えれば辻褄が合います。おれ達がこの依頼に携わる前から、 貴方は門宮さん達を警護につけていた。シグマのエース部隊を。そ れは、イズモのスタッフを追い払うためなんかじゃない。脅迫の相 手が、少なくともこの業界の人間を送り込んでくるだろうと予想が ついていたからだ﹂ 直樹が口を挟む。 ﹁しかし、なぜサイモン氏が弟子を狙うと?﹂ ﹁さあな。でもまあ、毎期の貸借対照表と損益計算書を見ればなん となく想像はつく。ここ数期、ヨルムンガンド社に流れ込んでいる 465 利益に相当額、不審なものがある。⋮⋮どう考えても百万円の仕事 に、五百万円の報酬が払い込まれてる、なんて取引が散見されます。 伝票もきちっとそろっていますがね。これ、利益に偽装した、サイ モン氏からの借入金でしょう?﹂ ﹁なぜそんな回りくどいことをするのだ。仮にも役員なのだから、 正式に融資すれば良いだろう﹂ ・ ・・・・・ ・・ ・ ﹁普通なら、な。だが、経営が苦しくなってお金を借りました、な んて事になるとな。下がるんだよ、株価が﹂ ﹁⋮⋮そう言うことか﹂ ﹁サイモン氏との約束はこんなところですかね。今回は助けてやる から、次回の利益で返せよ、と。しかし、それにヨルムンガンドは 応えられなかった。それが何度か続くうち、やがて業を煮やしたサ イモン氏は、ごっつい取り立て屋さんを送り込んできた、ってとこ かなと﹂ 青二才の長広舌に、水池氏は反論しなかった。部屋の空気が重い。 腰掛けたソファーにそのまま沈み込んでしまうかと思えた。 ﹁⋮⋮それがどうした。たしかに返済期限はとうに過ぎている。だ がな、今回の買収話が決着すればウチの株価は今まで以上にはねあ がる。俺の持ち分だけで返済出来てお釣りが来るんだよ。あとは株 価が下がろうと、いくらでも対応が出来る﹂ だからこそ、この買収話だけは、絶対にコケるわけにはいかなか った、という事か。 ﹁しかし。おれだって感づいたんだ。いずれこんなカラクリは長続 きしませんよ﹂ ﹁かまうものか。売り抜け出来れば、後はどうとでもなる。ヨルム ンガンドが所有する株式にもまだ余裕がある。一部売却し、その余 剰利益で経営を仕切り直すシナリオはもう出来ている﹂ ﹁それは、投資家に、下がるとわかっているヨルムンガンドの株を 売りつけると言うことですか?﹂ 答えはない。 466 ﹁しかし、それでは貴方に投資してくれている株主達はどうなるん です?理由はどうあれ、結論から言えば貴方は、貴方とヨルムンガ ンドを信じて金を出してくれた人たちを裏切ることで生き延びよう としているんじゃないですか﹂ ﹁それがどうした!?奴らは見る目がないだけだ。史上最高の株価、 なんていい看板だよな!投資家気取りの素人は結局、理論を並べた 挙げ句そういう看板に乗るんだよ!自己責任だ、ろくに話を聞かず に金を出した方が悪い!﹂ ⋮⋮そう。そういうことだ。だからこそおれは、この言葉を言わ なければならない。誇大な広告で他人から金を巻き上げ、やがて全 てが露見する前に利益を得て勝ち逃げする。そのやりかたは、まさ に。 ﹁それでは、貴方もトミタ商事の連中と同じです﹂ ﹁な⋮⋮に⋮⋮?﹂ その言葉は無形の爆弾であり、この部屋ごと水池氏の精神を吹き 飛ばしてしまったかのように思えた。 ﹁⋮⋮は、ふざけるな、あんなゲスの詐欺師どもと一緒にするな、 俺は﹂ いつもの不敵なドラゴン水池の笑い。だがそれは、意識的に作り 出した表情だった。 ﹁俺は︱︱﹂ ﹁⋮⋮正直に申し上げれば。今までおれが申し上げていた株価だの サイモン氏だのの仮説は、おれが考えたわけではありません。おれ が伝えた情報を元に、ある人が推測したものです﹂ あの程度の情報でここまで会社の内情が推測できるのなら、おれ は一生株で喰っていけるかも知れない。だが残念ながら、予想を立 467 てたのは別人。来音さんと羽美さんが傍証を固め、おれはただのス ピーカーだった。 ﹁⋮⋮誰だ。誰がそれを見抜いた?﹂ ではなかった。 やはり 東京タワーの襲撃の後、その人の助力を仰ぐためにおれはしばら く現場を離れていたのだ。 ﹁露木甚一郎。貴方のお父上ですよ﹂ まさか おれの答えに、衝撃を受ける水池氏。だがその表情は、 であっても ﹁親父、が⋮⋮﹂ それっきり、誰も何もしゃべらなくなった。 沈黙が何秒続いたのか、あるいは何分だったのか。分厚い氷のよ うなそれは、突如けたたましく鳴り響いた卓上の電話の音に砕かれ た。 468 ◆12:スポンサーズジャッジ︵謀略︶ おれ、直樹、門宮さん、水池氏。四対の視線が集中する中、不気 味に電話は鳴り続ける。 ﹁脅迫の電話かも知れません。スピーカーボタンを﹂ この手の状況には慣れているのだろう、門宮さんが落ち着いたト ーンで声をかける。受話器を取った水池氏はその指示に従った。部 屋の中に、向こう側の声が響く。 ﹁もしもし﹂ ﹃やあ恭介。元気だったかい?﹄ だが聞こえてきたのは、歯切れの良い日本語だった。﹃蛇﹄では ないのだろうか? ﹁⋮⋮サイモンか﹂ おれ達は思わず互いの顔を見合わせた。 ﹁サイモンとは、まさか、﹂ ﹁しっ﹂ 門宮さんに目配せするおれ。こちらに声が聞こえていることを知 られたくはない。 ﹃恭介。例の件だがね﹄ ﹁ああ、わかってる。わかってるよ、金は⋮⋮﹂ ﹃だから。もうそれはいいんだ﹄ 耳を疑うような台詞だった。それが脅迫者を雇ってまで借金を催 促する人間の言う言葉だろうか。水池氏は、借金をチャラにしてく れると言われて、かえってまずい方向に考えたらしい。慌てて言葉 を続ける。 ﹁当てが出来た、ちゃんと返す、だからもう﹂ 469 ﹃当て?﹄ ・・ ・ ・・ ・ ・・・・ 脅しはやめてくれ、と続けようとした言葉は、だが口にすること は出来なかった。 ・ ・・・ ・・・ ﹃ああ。あのつぶれる合併話の事かね?﹄ ﹁つぶれる?何を言って︱︱﹂ ︱︱何だ、このイヤな声。 ・ ・・ 口調の裏ににじみ出ている優越感。 まるで、誰もが知らない真理を自分だけが知っているかのような この口ぶり。 ・・・ ﹃おやおや。情報の最先端を行く男にしては随分と鈍いな。三時間 前だったかな。ウェブに君のところの議事録がなぜか流出したみた いでね。個人投資家の掲示板はちょっとした火事場騒ぎだよ。もう 機関投資家にも飛び火したんじゃないかな。少なくとも今朝のウォ ール街は日本売り一色だね﹄ その台詞が水池氏の脳裏に弾け、反射的にこっちを振り返った。 おれは愕然として首を横に振る。リークしたのはおれじゃない。頭 の中で検算する。そうなると、計算の行き着くところはここしかな かった。 ﹁まさか⋮⋮サイモン。あんた、か?﹂ 沈黙。それは断じて、否定を含むものではなかった。 ﹁何を考えているんだ!?確かに金を返せなかったのは悪かった。 シャンハイ シンロンインハン だが現にもう一歩で返す当てがつくんだぞ!?何故こんな事を、﹂ ﹃すまないな、恭介。バランスだよ﹄ ﹁バラン⋮⋮ス?﹂ ﹃君に言わないのはアンフェアだからな。先日上海で星竜銀行の格 付けが大幅に見直されただろう?あれで星竜銀行はつぶれることに 470 なるわけだが、ここで問題が起こった﹄ ・・ ・・・・・・・ 電話口の相手は、確かにこう言った。星竜銀行がつぶれることに なると。それは⋮⋮。 ﹃あんまり中国がここで派手にこけると困る、という苦情がロシア の方から来てね。日本も少し景気を押さえてもらおうと思ったわけ だ。とはいえ先日、メガバンクのヤヅミが派手に失態を晒したこと もあるし。銀行に手をつけるのは控えたい﹄ ﹁それで⋮⋮俺、だとでも言うのか?﹂ ﹃good。飲み込みが早くて助かるね。今にも割れそうなバブル の王座に座る、注目度ナンバー1のカリスマ。日本経済を無駄に傷 スケープゴート つけることなく、日本人の投資熱を冷まして景気を押さえるには、 君ほど適任の羊は居ないよ。何しろ引き金として、説得力ある資料 を揃えてこう言うだけでいい。﹃本当にその株価、実態と釣り合っ ているのか?﹄ってね。ま、君には期日までに借金を返せてもらえ なかったし。別の形で役に立ってもらおうと思ってね。だからもう、 借金は返してくれなくていいんだ﹄ つまり。水池氏は借金の代わりに、会社を潰されたのだ。 ﹁ま、待て!ならば俺を狙っている﹃蛇﹄とやらはどうなるんだ﹂ ﹃そう、それなんだけどね﹄ ・・・・ 電話の向こうの男。サイモン・ブラックストンと名乗る男は、実 にはきはきとした口調で続ける。まるでマナーだけは完璧な営業マ ンのような、心のこもらない一見優しげな口調。 ﹃ついでに命令しておいたよ。君をもう消してかまわない、と﹄ ﹁⋮⋮っ、おい!﹂ スピーカーから、無機質な音が断続的に鳴り響く。そして、それ とは別の、徐々に近づいてくるような海鳴りめいた轟き。 ﹁馬鹿な、なんで俺を、消すなんて⋮⋮そんな﹂ この場にいた残り全員が、ほぼ同時に叫んだ。 ﹁﹁来るぞ!!﹂﹂ そして、それは来た。キッチンの蛇口が。風呂の給湯器が。洗面 471 所の配水管が。天井のスプリンクラーが。ありとあらゆる上下水道 の管がいっぺんに吹き飛び、そこから大量の水が、いいや、水で出 来た何か別のモノが、一斉に部屋に侵入を開始したのだ。おれが水 池氏を玄関へ向けて突き飛ばし、そのままおれも続く。だが、それ キガンジャ・ニョカ 以上の行動は許されなかった。 ﹁﹃絞める蛇﹄!!﹂ 分厚い図体をくねらせて襲ってきたのは、紛れもなく先日六本木 でおれ達を襲ったあの水の蛇だった。その周囲には、数えるのもう んざりするほどの膨大な小さな水の蛇。回りくどい攻撃を止め、一 気に殲滅戦をしかけてきたことは明白だった。豪奢な六本木のマン ションは、気がつけば児童向けの市民プールよりも乱雑な、水の踊 り場と化していた。 ﹁避けろ!﹂ 直樹の声が飛ぶ。﹃絞める蛇﹄がその尻尾をもたげ、思わず流体 力学でシミュレーションしてみたくなるような、重い重い水の鞭を 周囲に叩きつける。哀れ、せっかく片付けた水池氏の部屋は、たち まち暴力吹き荒れるカオスと化した。 ちょうど部屋の真ん中から左右に分断されてしまった態のおれ達。 玄関へと水池氏を引っ張っていくおれの視界の向こうに、無数の小 蛇を叩きつぶしている直樹と門宮さんの姿があった。 ﹁そっちは任せた!﹂ おれの極めてアバウトな依頼に、直樹は背を向けたまま、さっさ と行け、とばかりにヒラヒラと手を振った。走り出そうとするおれ 達に、襲いかかる一匹の小蛇。噛みつこうと剥いた牙は、だが、槍 の穂先のようにすっ飛んできた﹃紙飛行機﹄に正面から粉砕された。 ﹁水池さんを頼みます!﹂ 門宮さんに目線で応えて一気にエレベーターまで走り、地下へと 向かう。幸いにもエレベーターの中では襲われなかった。だが、天 板の向こうから確かに感じる重い質量の気配。連中が確実にこちら に迫っている事は、賭けたっていい。今の状況に甚だそぐわない柔 472 らかな電子音を立ててエレベーターが開き、おれと水池氏は一目散 に走る。 ﹁こっちこっち!﹂ 水池氏の所有するはずのBMW。その後部座席から身を乗り出し た真凛がぶんぶんと手を振っている。帰らせる振りをしてここで待 機させていたのだ。明日は土曜日と言うこともあってか、お子様は 深夜の仕事に大ハリキリだ。鍵は護衛中に水池氏に借りたのをその ままうっかり返し忘れていた︵ということにしてある︶。エンジン はすでに暖まっている。真凛が手早く後部座席のドアを開き、おれ が水池氏を放り込む。芸術的な連係プレーで水池氏が座席に収まり ドアが閉まった時には、おれは運転席に乗り込んでいた。やったね 左ハンドルですよ先生。同時に破裂する駐車場壁際の水道管。おい でなすったか。 ﹁お客さん、どちらまで?﹂ ﹁まっすぐ!!﹂ 真凛の指示におれは従う。免許を取ってはや四ヶ月、S字クラン クや縦列駐車などもう怖くて出来ないが、急発進と急停止なら慣れ っこである。あと車でジャンプとか、二輪の上でどつき合いとか。 ハンドルを全力でぶんまわしつつアクセルを文字通り踏み込むと、 独逸製の鋼の猛獣は、脳髄と下っ腹を蕩けさせるような重低音の唸 り声を上げて敢然と覚醒した。哀れなコンクリートを甲高い音で剣 のように斬りつけつつ、地下駐車場の出口に向かって猛然と躍り出 る。 ﹁陽司!!出口に!﹂ わかってる。出口にはすでに、透明な、ぶっとい蛇の胴体がすで に待ちかまえていた。どうするか?そんなの決まってマス。 ﹁やっぱさあ﹂ アウトバーン 狭い東京で外車を乗り回してるお歴々に、おれは前々から言いた かったのだ。 ﹁ドイツ車は制限速度無しでぶっ飛ばさなきゃウソだよなぁっ!!﹂ 473 親のカタキでも蹴り殺さんばかりの勢いでアクセルペダルを踏み 抜く。馬鹿みたいなGが身体をシートにべったりと密着させる。鋼 鉄の猛獣は実にあっさりと百キロオーバーまで加速し、算出するの も恐ろしい質量×速度で、哀れな水の蛇を容赦なく轢いた。重く柔 らかいものを跳ねとばした衝撃がボンネット越しに伝わる。これば かりはさすがに気持ちのいいものではない。吹き飛び遙か後方へと 長い胴体を転げ落としてゆく﹃絞める蛇﹄には目もくれず、BMW は一目散に地上へと躍り出る。そのまま信号をいくつか見なかった ことにして、脱兎のごとく首都高の飯倉入口へと向かう。正直、道 路に人がいなくて良かった。避けられる自信などまったくなかった もので。深夜でなかったら確実にお巡りさんのお世話になっている ところである。 ETCを使って飯倉から首都高に入り込み、オービスに捕まる前 にようやくおれは速度を落とした。そういえばシートベルトも締め ていなかった。 ﹁どこへ行くんだ?﹂ 激変する状況の中からようやく精神を復帰させた水池氏が問う。 本来ならおれのような若輩にこうまで一方的に主導権を握らせるこ とはないのだろうが、生憎と今彼がいる世界は﹃こちら側﹄なので、 諦めてもらうしかない。 ﹁お父上のところです。オフィスもご自宅ももう戻れないでしょう﹂ その方針はつい数日前なら絶対に飲まなかっただろう。だが今や 自宅にも職場にも行く先を無くした水池氏は力なく呟いた。 ﹁⋮⋮だが妙だ、それなら反対方向だろう﹂ そう、水池氏が中学時代まで育った露木の実家は、おれが今向か っている東方面とは正反対の方向にある。バックミラーから真凛が おれの顔を覗き込んだ。ミラーの中に移る、誰とも知れない小生意 気そうな十九歳のガキ。こういう時にそれらしい表情を作れないあ たりが、まだ青二才の証なんだろう。まったく、自分の顔のことな んぞ良くわからない。 474 ﹁そもそも、調査のプロたる弁護士だったお父上が、わざわざ外部 に貴方の捜索を依頼したこと自体、妙だと思いませんでしたか?﹂ 情報があれば、ヨルムンガンドの粉飾決算すら見抜いた人なのだ。 ⋮⋮そう、情報さえ手にはいるのなら。 無感情を装っておれは述べた。 ﹁病院ですよ。お父上は末期の肺癌でしてね。余命は幾ばくもない んだそうです﹂ 475 ◆13:泡沫の果てに トミタ商事事件。 かがみ かつて、戦後最大と言われた詐欺事件である。 その被害者救済に東奔西走し、弁護士の亀鑑として称えられる事 になったのが露木甚一郎氏。しかしその名声の影には、家族の犠牲 があった。有形無形の圧力が彼自身とそして家族に向けられ、やが て疲れた夫人は、事故を起こして鬼籍に入る。事件が解決した後も、 一人息子である恭一郎は、決して父を許すことはなかった。父の業 績が世間に認められても、いや、認められるほどに、それが誰の犠 牲によって成り立っているのかと思うようになったのかも知れない。 縁を切ってアメリカに渡り、父の業績を否定するようにカネを儲 けることを目指した息子。一方の父は、その後も弁護士として業績 を残したが、やがて年齢を理由に引退する。方々から名誉職や企業 の顧問の地位を提示されたが、応じることはなかったという。トミ タ事件について本をを著してみないか、との誘いも断った。その時 点では誰にも告げていなかったが、癌に冒されていたこともあった し、自分は弁護士であり、それ以外のものではないと思うところも あったようだ。 伝説の弁護士の晩年は、その業績に比してとても寂しいものだっ たらしい。家族はなく、引退と同時に後進の弁護士達との交流も断 ったと聞く。数少ない友人達とは手紙を交わしていたが、直接顔を 合わせることはなく、誰も彼が癌に冒されていた事を知らなかった ようだ。世捨て人とも思える彼の行動が、どういった心境に基づく ものなのかは、おれ程度ではまだ窺い知ることは出来ない。病院に 476 もろくに行かず、担ぎ込まれて入院した時にはもう転移が進んで手 遅れだった。以後、それなりに闘病生活は送っていたが、一縷の生 還の望みに向けて努力するということもなく、淡々と日々を過ごし ていた、とは病院の医師の語るところだ。イズモ・エージェントサ ービスに息子恭一郎の捜索を依頼したときには、もうベッドから起 き上がることも出来なくなっていた。 ︱︱自分はプライドに縛られた弱い人間なのだ。 先日おれが伺ったとき、甚一郎氏はそう語っていた。 歩けるうちは息子を探そうともせず、歩けなくなってから会いた いと思う。 私は弁護士の亀鑑などではない。トミタの時もそうだった。私が あの仕事を引き受けたのは、勇気からではない。恐怖からだった。 でなくなるのが怖かったから、引き受けざるを得なかったの 目の前にいる被害者を置き去りにして逃げたかった。だが自分が 正義 だ、と。 そして今また、家族と会う資格など捨ててしまいながら、息子の 現在の姿を知らないまま逝くことを恐れ、最期の最期で会いたいと 思ってしまったのだ、と。 イズモ・エージェントサービスへの当初の依頼は、今息子がどう しているのか知りたい、というものだった。無事でいることがわか ればそれでいい、会うつもりはない。調査結果を受け取るまではそ う思っていた。 だが、息子がヨルムンガンドの社長であると知り、その商売の内 容を聞いて、一度だけ会わなければならない、会って言葉をかけね ばならないと思ったのだそうだ。 ⋮⋮それが、今回の依頼のそもそもの発端である。 477 ﹁深夜の病院てのはあまり気分のいいものじゃないな﹂ 東京にほど近い千葉西部の病院の三階、入院患者達の部屋がある 棟におれ達はいた。露木氏の病室の扉の前に置かれたベンチに腰掛 け、入り口を護っている。今、この扉の奥には露木氏と、そして水 池氏が居る。十数年ぶりに対面した親子二人が、会話を交わしてい るのだろう。 ﹁これが人捜しの番組なら、一番視聴率的に盛り上がるところなん だがな﹂ ﹁水池さん、お父さんと仲直りできるのかな⋮⋮﹂ ﹁さあな﹂ 病室の中で、どんな会話が行われているのか、おれは知らない。 知る必要もないことだった。十数年生き別れていた親子の仲を取り 持つほどおれは図々しくはないし、義憤に駆られるほど熱血漢でも ない。おれ達はあくまで傭兵︱︱水池氏をここに連れてくることを 請け負った、ただの派遣社員なのだから。 ﹁しまった!﹂ おれはろくでもないことを思い出して舌打ちした。 ﹁どうしたの?﹂ ﹁大学のレポート出すの、明日の朝イチまでだったんだよ﹂ ザックからレポート用紙を取り出して、慌てて筆を走らせる。 ﹁そんなの後にすればいいじゃない﹂ ﹁馬鹿者、これにはおれの輝かしい卒業への道がかかっているのだ ぞ﹂ というか、留年したら学費が足りなくなるのだ。いやホント、こ んなバイトをやっていると、世間のオトナが一年にいくら稼いでい るのかがだいたいわかるようになってくる。すると、私立大学の学 費ってのがいかに親にとって大きい負担かというのはイメージ出来 478 るようになってくるのだ。まして地方から上京させて、家賃に仕送 りまでつけてやるとなれば負担倍増しだ。花の大学生活、授業に行 かずに気楽に遊び回るのも大いに結構だが。出してもらった学費分 の何かを身につけないと親に申し訳ないよ、とバイト代と奨学金で まかなっている男は言ってみる。 と 効率よく勉強して残りはダラダラ遊ぶ は ﹁⋮⋮もしかしてアンタ、意外と真面目な学生だったりする?﹂ サボって遊ぶ ﹁⋮⋮オマエサンはおれを何だと思っていたのカネ?﹂ 違うのである。まあ、出る価値がないと判断した授業は代返しても らったりするし、最近は、このバイトのせいで平日の授業を落とす こともしばしばだが。 ﹁お前もバイトで腕を磨くのはいい。だけど授業サボって親に迷惑 はかけんなよ﹂ いなくなって初めてわかるありがたみ、てな言葉もあったな。 ﹁う⋮⋮はい﹂ なんだか三年ぶりくらいに真面目なことを言った気がする。深夜 の病院では軽口を飛ばす気にもなれず、おれは話題を転じた。 ﹁どうだ、真凛。周囲は﹂ ﹁殺気、って言えばいいのかな。生き物じゃないのに、こっちを狙 キガンジ っている気配が、数えるのも嫌になるほどあるよ。ぐるっとこの病 棟を二重三重に取り巻いているね﹂ ャ・ニョカ そうか、と呟いた。BMWでだいぶ引き離してやったが、﹃絞め る蛇﹄ご一行様はもうしっかりこちらに追いついてきているらしい。 直樹達には連絡を既に入れてある。どうやら仕事は終わりに近づい ているようだ。 その時、静かに病室の扉が開いた。 中から歩み出てきたのは水池氏だった。おれ達は軽く会釈をして、 尻をずらしてベンチに席を空けた。腰を下ろし、タバコ⋮⋮タビド フ・マグナムに火をつける水池氏。 479 ﹁︱︱礼を言わなきゃならん、な﹂ そう口を開いた。半分が灰になるほど深々と煙を吸い込み、一気 に吐ききる。彼はおれの顔を見ると、どうだ、とタバコを差し出し た。 ﹁たまには頂きます﹂ おれはタバコを受け取る。水池さんが手ずから点火してくれた。 きつい匂いだが、一口吸うと、最高級のタバコだけが持つ、甘くて 濃厚で深い香りがおれの鼻腔に充満する。 ﹁⋮⋮驚きました﹂ ﹁美味いだろう?﹂ 若者で、タバコを美味いと思って吸っている奴が何人いることか。 九割がカッコつけで吸い始めて、いつのまにかやめられなくなる類 のものだ。おれも美味いと思ったことは一度もない。だが、これは 別格だった。 ﹁親父がよく書斎で吸っていてな。こいつが吸えるようになったら 大人だとそう思ってた﹂ 吸えるようにはなったんだがな、と水池さんは言う。 ﹁⋮⋮親父のようになりたかったのか。親父のようにはならないと 思っていたのか。走って走って走り抜いて。たどり着いたところが、 お袋を殺した連中と同じ穴、とはな﹂ おまけに会社まで失って、と自嘲する。 ﹁︱︱クソ親父め。後悔していたなら後悔していたと最初に言えば いいものを﹂ 今更そんなこと言われてもなあ、とぼやいた。もう粉飾決算の情 報はネットを伝って日本中に流れている。明日市場が開けば、ヨル ムンガンドの株は一気に暴落するだろう。株主達がどれほどの損害 を被るか、想像もつかない。 ﹁結局、俺がやってきた事はただの詐欺なのか﹂ ﹁そうじゃないと思いますけどね﹂ 480 言葉を続ける。 ﹁おれだって貴方に投資してます。まあ、五万円ですけど。必死に 小遣いから捻りだした金、どこに投資しようか、そりゃあ無い知恵 絞って考えましたよ。投資家気取りの素人ですがね。それでもおれ 達は、貴方を選んで金を投じたんです。少なくともそれだけのもの は、貴方にはあったってことなんじゃないですか﹂ ﹁だが、株価の暴落による損失はもう避けられん。彼らに何と言え ばいい﹂ つい先日、物事はシンプルに捉えた方が良いと言ったのは誰だっ けか。 ﹁また株価を上げればいいんじゃないですか﹂ ﹁⋮⋮簡単に言ってくれるな﹂ ﹁簡単じゃないことはわかってますけど。だからこそ、貴方にしか 出来ない仕事ってことだと思います﹂ ﹁やっぱりお前、どんだけ大変か理解してないだろ﹂ 苦笑する水池さん。 ﹁立て直し、か﹂ そして五秒くらい、天井を見た。 ﹁厳しいものだな﹂ と、不意に視線がこちらを向く。 ﹁⋮⋮そうそう、お前、卒業したら俺の会社に来るか?﹂ ﹁もし卒業まで無事に生き延びて、その時まだ御社があったら考え ます﹂ ﹁忘れるなよ﹂ 久しぶりに、あの不敵なドラゴン水池の笑いが復活した。 タビドフ・マグナムの香りが、ゆっくりと夜の病院の廊下に伝っ てゆく。吸い終えて灰皿に押しつけると同時に、水池氏はぼそりと 呟いた。 ﹁これからまた、忙しくなるな﹂ その言葉を発するまでに、どれだけのモノを背負う覚悟を決めた 481 のか。余人にはうかがい知れなかった。おれも習って灰皿に吸い殻 を押しつける。 ﹁陽司、その。⋮⋮気配が﹂ ニョカ 横から真凛が申し訳なさそうに口を挟む。その言わんとするとこ ろは明白だった。お父上の件が終わったからと言って、﹃蛇﹄の攻 撃が止むわけでは無論ない。 ﹁わかってる﹂ ﹁亘理君﹂ 水池さんはおれに向き直った。 ﹁もう一度、仕事の依頼をさせてくれないか﹂ 力強い言葉である。築き上げられた押しの強い態度の底に流れる この真摯な姿勢こそ、水池恭介という男の本当の基盤なのだろう。 ﹁あの蛇を撃退して欲しい。もう一度ヨルムンガンドを建て直す。 そのために、今は死ぬわけにはいかない﹂ ﹁お断りします﹂ 即答するおれ。あ、隣のアシスタントがなんかわめいてる。 ﹁なんで!仕事はもう終わったんだから、受けたっていいじゃない﹂ ﹁もちろん、事務所を通じて正規のルートで申し込みをさせてもら うつもりだ。君たちにこそお願いしたいのだが。報酬は、三百万は もうムリだろうが⋮⋮﹂ ﹁それなら問題ないでしょ、陽司?﹂ ﹁だめデス。そもそもキミは業界の基本を忘れておるよ七瀬クン﹂ 真凛がおれをじっと見つめている。だからそんな顔するなっつう の。 ﹁⋮⋮ウチの会社は本当に人使いが荒いんですよねぇ、福利厚生が 大したこと無いくせに﹂ おれは窓の向こうに視線を飛ばしたままぼやいた。 ﹁一度受けた依頼は、フォローを含めて完全に達成しないと給料も らえないんですわ﹂ ﹁それは⋮⋮﹂ 482 ﹁どういう意味?﹂ まだわかりませんかねこのお子様。真凛の額をぺしぺしと叩く。 ﹁お連れしたお客さんに安全にお帰り頂くまで、この仕事は終わっ たことにはなりません。⋮⋮ちゃんと覚えておけよ?﹂ おれの発言の意図が奴の脳細胞に届くまで、一秒の時差があった。 ﹁そうこなくっちゃ!﹂ スイッチが入った。真凛が、狩りに出陣する虎の児めいた笑みを 浮かべる。 ﹁水池さんは、部屋の中に。万一の事もあります。お父上と一緒に 居てください﹂ おれ達の仕事は、ここを守りきること。既に連絡は取れている。 ﹃蛇﹄を仕留めるのは、別の奴の仕事だ。 首をごきりとならすと、ベンチから立ち上がり、廊下へと歩を進 める。プールの授業がやってきた小学生のように腕をストレッチし ながら、真凛が続く。 ﹁じゃあ始めるか。⋮⋮ついて来いよ、アシスタント!﹂ ﹁途中で転ばないでね、先輩!﹂ 歩を進めるおれ達。 病院の廊下の向こうから、一斉に水の蛇の群れが襲いかかってき た。 483 ◆14:凶蛇と蝙蝠と紙鶴と 港区芝公園、増上寺。 東京タワーから歩いて足下に広がるその豊かな森に包まれた建築 物は、四百年以上に渡って、徳川家の菩提寺として、人々の素朴な 信仰の対象として、また観光名所として注目を集めてきた。 区は、夜になっても明かりが尽きることは決してない。六本木、 深夜零時、その名の通り、無数のヒト、モノ、カネが行き交う 港 赤坂に繰り出せば、その歓楽の空気と人種の坩堝とに酔ってしまい そうだ。人によっては、同じ歓楽街でも新宿などとは異なった、ど さんげだつもん こか上流の⋮⋮言い方を変えればお高くとまった雰囲気を感じるか も知れない。 うたかた しかし所詮そんな喧噪も、増上寺の境内へと続く重厚な三解脱門 をくぐればまさしく俗世の泡沫。境内の奥、寺社を取り囲む林の中 に踏み入ると、たちまち濃密な鈴虫や蟋蟀の声が身を包み込む。見 上げれば、織りなす枝葉の隙間から、天を貫くようにそびえる東京 タワーから鮮やかな赤と黄白色の輝きが降り注ぎ、異世界じみた光 景を作り出していた。 ﹃蛇﹄は、心地よい緑の匂いと虫の声に抱かれ、深い集中を維持 して﹃絞める蛇﹄へと己の呪力をつぎ込んでいる。薄っぺらい文明 の産物であるスーツを脱ぎ捨て、今の﹃蛇﹄の姿は、太古の呪術師 そのままであった。鮮やかな色彩の顔料で隈取りを施し、首や腕に は幾つものいびつな玉飾り。その素肌を晒した両腕、両足には呪術 記号としての意味を持つであろう入れ墨がびっしりと彫り込まれて いる。﹃蛇﹄が高輪の高級ホテルを出てこの境内に入り込んでいる 484 のは、個人の嗜好だけではない。森の匂い、そして己の精神の昂ぶ りこそが、その呪術をより強力なものに為すのである。﹃絞める蛇﹄ はどうやらキョウスケ・ミズチを追ってかなり離れた位置まで移動 したらしい。後は、奴が仕遂げるまで力を供給し続けるだけだ。距 離を隔てた相手に危害を加えられる代わりに、今現在相手の状況が どうなっているのかはわからない。それが呪いのデメリットではあ るが、﹃蛇﹄は己の放った使い魔に充分な自信を持っていた。 ﹁そこまでにしてもらおうか﹂ 愛想のない、だが秋の夜風のごとき涼やかな声が、﹃蛇﹄を忘我 の境地から引き戻す。眼を開けば、五メートルほど離れた木の幹の 側に、二人の人物が立っていた。一人は若い男。年齢に似合わぬ王 侯の威を備え、流れ星をイメージさせる長い銀の髪を束ね、白皙の 貌に宿した黄玉の瞳でこちらを射抜くように見据えている。もう一 人は女。陸軍迷彩を思わせる無骨なデザインの制服に身を包み、こ ちらは黒髪を結い上げている。 ﹃良くここがわかったな﹄ 硬質でハスキーな英語が﹃蛇﹄の喉から滑り出る。この二人が境 内を潜ったときから、その存在には気づいていた。先制攻撃をしか けなかったのは、その質問をしてみたかったがためである。 ﹃名が売れているエージェントも考え物だな。貴様が攻撃に本腰を 入れて呪術を展開する場合、もっとも己にとって快適な場所である 森を根城にして呪力を高めるとか﹄ ﹃ほう。良くも調べたものだ﹄ 素直に﹃蛇﹄は感嘆した。比較的情報がオープンなランカーとて、 スタッフサービス 仕事上の癖を公開するほど愚かではない。少なくとも数日で調べ上 げられるものでは断じてないはずだ。弱小の派遣会社と聞いていた が、なかなかこの業界の情報通が居るようではないか。 ﹃ウチには元本職がいるのでな﹄ ﹃土地勘のない場所で山に籠もるとも思えません。港区で豊富に緑 があるところと言えば浜離宮、旧芝離宮、増上寺くらいですからね。 485 最悪、東京中しらみつぶしの捜索も考えていましたが、思ったより 近くに潜んでいてくれて助かりました﹄ 女の足下にはいくつもの紙で作られた﹃かえる﹄が誇らしげに胸 を張っていた。なるほど、式神を放って敵を探すのは古来より陰陽 師の本業である。 ﹃この島国にも呪術師が居るのだったな。失念していたよ。アウェ ーでは仕方がないが⋮⋮﹄ Head﹄ ﹃いずれ忘れられなくなります。⋮⋮チェックメイトですよbas e 優雅な発音できつい台詞を吐いて、女が戦闘態勢に入る。男の瞳 が朱に転じ、全身から冷たい銀色の空気が吹き出し、インバネスの コートをはためかせる。太陽の束縛を逃れた吸血鬼が本性を解放し たのだ。それに呼応して﹃蛇﹄の全身から禍々しい原始の殺気が立 ち上る。日本屈指の名刹で、呪術師と吸血鬼とアメリカ人が対峙す る。 獲物を狩るために潜む蛇と、蛇を狙う狩人達の戦いが始まった。 先陣を切ったのは直樹だった。インバネスを翻したと思ったとき サー には、一気に静から動へと転じ、五メートルの距離を二歩で詰めて ベル いる。その左の掌に冷気が渦巻き、瞬時に氷で作られた鋭利な騎兵 刀を構成する。奴自身の剣の技量は達人の領域には及ばない。だが それは奴が弱いことを意味しない。精緻な手の内や足捌きなど気に せず、奴自身のカンと人外の膂力を、緩やかに反りが与えられた刀 身に乗せて倍加し、敵の甲冑ごと両断してのける介者剣法。人間の ように技術を系統だてて後人に残す必要のない吸血鬼には、それで 充分過ぎるのである。左足を踏み込むことで突進の運動量が転化し、 裁断機じみた斬撃が真横に振るわれる。﹃蛇﹄に反応する間も与え 486 ず、その右手首を切り飛ばした。戦闘不能確実の傷である。だが。 ﹁︱︱空蝉!?﹂ 切り落とされた手首と、そして﹃蛇﹄の身体がぐにゃりと歪む。 形を失い色が消え、たちまちそれは巨大な水の蛇と化して、直樹に 躍りかかった。 ﹁日本の忍者の専売特許ではないと言うことか!﹂ バックステップしつつ騎兵刀を翻し、まるで十字架を掴むかの如 く逆手で構える。もちろん、世間一般のマジメな吸血鬼のように十 字架を見て己の罪におののくような敬虔な心情など奴にはカケラも なく︱︱そもそもシスターに欲情する罰当たりだ︱︱その意図は別 にあった。 構えた刀身に躍りかかってきた水の蛇が衝突する、と同時に、そ の蛇身が凍り付き、砕け散った。分子運動を一瞬だけ、だが完全に 停止させることで熱を奪い絶対零度を生み出す奴の力が刀身に込め られ、空蝉を構成していた数十キロの水塊を瞬時に氷塊へと変えて しまったのだ。もっとも、これでも奴は手加減をしている。林の中 でなければ、わざわざ剣に冷気を収束させずとも、全身から放射し ・・・・ ながら戦い続けることも出来るのだから。宙を舞う氷の欠片を払い、 林の奥に眼を凝らす。 確かに戦闘能力では分が悪いな 闇の奥、どこからともなく響く﹃蛇﹄の声。 だが殴り合いに強いだけで勝てる程甘くは無いぞ 突如林の奥、南の方角からがさがさと何か大量のいきものが迫っ てくる気配がする。だが、夜の闇に紛れて姿が見えない。警戒する 間もなく、攻撃がやってきた。門宮さんが、﹃蛇﹄の本体を探し出 そうと密かに展開していた﹃かえる﹄の式神達が、軒並み喰われて しまったのだ。気がつけば、落ち葉の積もった足下、枝枝の隙間、 幹と根本。見渡す限り、水で出来た無数の小蛇がのたくっていた。 闇夜と透明な身体が著しく視認を困難にしているが、その数、少な くとも五百はくだらないだろう。もしも色がついていたら、蛇嫌い 487 の人が間違いなく失神するくらいおぞましい光景だった。 ﹁これほどの水、いったいどこから⋮⋮﹂ ﹁増上寺の南にはホテルがあります。そのプールから拝借したので しょう。夏も終わったのにまだ水を溜めていたんですね﹂ ﹁プール掃除まで業務範囲内とは恐れ入るな﹂ 足下の蛇を二三匹切り払ってみるが、すぐに無益であると確認す る直樹と、準備していた式を全て破壊され、急いで次の術法の準備 に取りかかる門宮さん。しかし二人とも、続いて林の中から現れた モノを見たときは、平静では居られなかった。林の奥から静かに迫 り来て、矢のように噛みついてくるそれをどうにかかわす。 ﹁⋮⋮﹃締める蛇﹄!亘理さん達の方に向かっているはずでは!﹂ ﹁何も一匹だけしか操れないと言うわけでもなかろうよ﹂ 忌々しげに直樹が述べる。森の奥から嗤い声が響いた。 我が用いるはヒトなる種の始原のまじない。力の無さを小手先の 技術でごまかすだけの東洋の三流術師など、到底及ぶ所ではない 一斉に蛇の群れが襲いかかってきた。直樹が剣を振るい、コート の裾を翻すたびに、数十匹の蛇が凍り付き、砕け散る。門宮さんの ﹃鶴﹄が嵐となって吹き散らす。蛇の残骸が水に還り、地面に染み こむが、そのたびに次から次へと林の奥から後続がやってくるのだ。 実際、﹃蛇﹄の呪力⋮⋮キャパシティは恐るべきものだった。同時 に複数の使い魔を操ること、そしてそれらの総合出力。どれをとっ ても超一級足りうるだろう。残念ながら、門宮さんの呪力は奴に及 ばない。門宮さんが弱いわけではなく、﹃蛇﹄が異常なのである。 そしてその合間を衝いて、こちらは巨大な﹃絞める蛇﹄が襲いかか ってくる。こればかりは片手であしらうわけにもいかず、次第に二 人は劣勢に追い込まれていった。 ﹁このままホテルのプールが全て枯れるまで待つ、というのはどう だ﹂ ﹁貴方の体力から言えばそれもありかも知れませんが。私と、何よ り亘理さん達が持ちません﹂ 488 ﹁世話の焼ける﹂ その頃おれ達も、無限の再生力を持つ敵を相手に苦戦を強いられ ていたのである。﹃蛇﹄の本体を見つけない限り、この蛇たちはほ ぼ無限に生まれてくる。能力的に相性の悪い直樹と門宮さんを消耗 戦に引きずり込みつつ、水池氏に攻撃を加えるのが﹃蛇﹄の狙いだ った。 ﹁別に亘理が死んだ程度でどうと言うことはないが﹂ 言いたいこと言ってくれるなこの野郎。 ﹁⋮⋮何より、本体に逃げられては元も子もありません﹂ フォローしてくれる門宮さん。涙が出そうだ。直樹の野郎は剣を 縦横に振るいながら器用に首をかしげ、二秒で決断した。 ﹁聞こえているか﹂ ・・・・・・ 何だ。 ﹁回路を開くぞ。手伝え﹂ マジかよ。 ﹁⋮⋮なんのことですか?﹂ 門宮さんの問いには答えず、騎兵刀を地面に突き立て、手を離し た。そのまま両腕を大きく広げる。膨大な量の冷気が奴の身体から 立ち昇り、それは奴のコートの裾に、まるで折りたたまれた翼のよ うに広がった。 ﹁まずは雑魚を一掃する﹂ ﹁しかし、この林の中で冷気を展開すれば周囲に被害が︱︱﹂ ﹁問題はない﹂ 両腕を前に向けて突き出すと同時に、背中の銀の翼、つまりはた わめられた冷気が一気に前方へと吹き抜ける。 ﹁︱︱かかれ﹂ 主の号令を受け、前方に展開された銀色の冷気の靄から、何かが 一斉に夜へと飛び立つ。それは無数の、白い蝙蝠だった。一匹一匹 の銀色の蝙蝠が密集した木々の間を駆け抜け、それぞれ地面に、幹 に、枝葉に隠れる水の蛇を捕らえ、凍り付かせてゆく。それはたと 489 えて言うなら、マイクロミサイルの乱舞に等しかった。闇の林の中、 殆ど音も立てず銀の蝙蝠が透明な蛇を砕いていく様は、傍から見る 者が居れば美しいと思えたのかも知れない。十秒あまりの無音の戦 闘の後、樹木を傷つけることなく、林の中の蛇は一掃されていた。 なかなかやる⋮⋮だが私が居る限り、何度でも後続が現れるぞ 闇のどこかから、﹃蛇﹄があざける。直樹はその挑発には応じず、 ・・・ ・・・・ ・・・・ ・・・・・・・ 虚空を見上げ、誰にともなく呟いた。 ・・・・ ﹁出番だ、働け亘理﹂ やれやれ。こっちは千葉だってのに。まったく人使いの荒い野郎 だ。 遙か数十キロを隔てた病院の廊下、水の蛇を撃退し続ける真凛の 背後で、おれは脳裏の引き出しから﹃鍵﹄を取り出す。 ﹁﹃増上寺の境内で﹄﹃投じられる一撃は﹄﹂ ﹃蛇﹄と名乗った敵手の能力同様、俺が紡ぐこの因果の鍵も、距 離に影響されて威力が減じることはない。だが状況を正確に把握せ ずに因果の鍵を紡ぐことは、いたずらにその威力を浪費させ減じる 事となり、甚だ効率が悪い。そう、状況を正確に把握できなければ。 くさび ﹁﹃潜む呪術師を﹄﹃外すことはない﹄!﹂ 言語が枷となり、鎖となる。 時間という大河に穿たれる因果の楔。河を流れる、無数の誰かの 意志決定の集積︱︱時に運命とも呼ばれる抗いがたいこの激流に、 楔を打ち込み堤と為して自らの望む結果を引き寄せる。無限の可能 性を封じ、無限以外の可能性を開く因果の鍵が発動する。 ﹃⋮⋮馬鹿な!?﹄ ・・・・・・・・・・ ﹃蛇﹄の口から驚愕の声が上がる。直樹が当てずっぽうに投げた 氷の槍は、あり得ないほど運良く隠れている奴めがけて飛んでいっ た。 490 ︱︱数年前の、割とどうでもいい話である。 ﹃深紅の魔人﹄と﹃召還師﹄は、互いを滅すべくその全ての能力 を解放して死闘を繰り広げた。管理人と清掃屋、目的は同じでも立 場をたがえる両者の、短いが激烈な戦いは、結局のところ相討ちと いう形で終結をみる。 全身が凍り付く直前に放った﹃召還師﹄の﹃切断﹄は、不死の吸 血鬼の肉体を戦闘不可能にまで破損させた。だがその一瞬を機とし て、﹃深紅の魔人﹄は、﹃召還師﹄の首筋に喰らいついたのだ。吸 血鬼の能力、血を啜った人間を己の従僕とする呪いが発動する。雑 魚のそれならともかく、不老不死を認められた原種の呪いを無効化 することは事実上不可能だ。それでもなお、﹃召還師﹄の因果を歪 亘理陽司は、吸血鬼には、ならない︱︱ 曲する力は絶大だった。 強力な因果の鍵は、何千万分の一の確率でさえ、それを回避する 方法を見つけ出す。 だが、世界の罰則規定に裏打ちされた絶大な呪いを無効化する可能 性は、まさしくゼロだった。迷走した因果の鍵は、それでもなお定 義を証明する運命の分岐を模索する。かくして、両者の力が拮抗し 亘理陽司は、吸血鬼には、ならない。⋮⋮今は た結果、実にねじ曲がった現象が残された。すなわち。 言い訳 が成立し 噛まれてから吸血鬼になるまでの時間には個人差がある。その時 間を最大限に引き延ばすという手段で、因果の たのだ。奴は、おれを隷属させるための呪いを、おれは、それから 逃れるための因果の構築を。それぞれ維持し続けなければならず。 結果として、両者はその力を大きく減ずることになったのだ。奴が おれの因果を解くのが先か。おれが奴を倒し呪縛を解くのが先か。 491 いつかは決着をつけねばならない。 そして、この茶番劇には、やはり笑うしかない副作用が存在する。 リンク ねじ曲がった因果の影響で、吸血鬼が従僕に命令するために使う魂 の回路だけは刻まれてしまったのだ。血の鎖環。おれと奴の精神が、 一部歪んだ形で接続されてしまったのである。例えれば、アパート の隣同士の部屋の壁に穴が開いて、玄関や廊下を通らずとも行き来 出来るようになってしまったものだ。もっとも、お互い野郎の心情 なんぞ興味もないので、この回路を使うことはほとんど無い。だが、 いざとなればこのような小技も可能︱︱と言うわけだ。不本意なが ら。 ︱︱氷の投げ槍は、﹃蛇﹄の踵に命中したが、砕くことはなかっ た。代わりに、枝と﹃蛇﹄の脚を凍らせ、ぴったりと貼り付けてし まうこととなった。 おれの中にため込まれた見えない金貨が、ごっそりとどこかに持 って行かれた。感覚共有の負荷が限界になり、おれと直樹の回線が 切れる。 ⋮⋮アバウトな単語をたくさん使うのはさすがにきつい。﹃因果 の鍵﹄とてそうそう万能ではない。多くの言葉を用いたり、曖昧な 言葉を用いたりすると、おれには階乗的に負担がかかる。だからこ そ、﹁少ない数の単語で﹂﹁より状況を絞り込む﹂事が必要になる。 対象を指定するのに、名前がわかっていれば一語ですむのだが、今 回、相手の名前である﹃蛇﹄はただの通り名に過ぎないため、この 代償 を払わざるを得ないし、 とりあえず当たった ようにまわりくどい言葉を使わなければならなかった。当然、通常 より高い という結果になってしまう可能性が高い。 ﹃蛇﹄は舌打ちをひとつ。機動力は殺された。こうなれば一気に 片をつける。喉の奥から力強くリズミカルな呪文をはじき出すと、 それに呼応し﹃絞める蛇﹄が電光の速さで舞い戻り、﹃蛇﹄を庇う 492 ように立ち塞がった。 ﹃吸血鬼は流水が苦手だったな﹄ 直樹の冷凍能力は﹃蛇﹄の天敵であるが、同時に﹃蛇﹄の水攻撃 も直樹の天敵なのだ。直樹は己の冷気を槍の形に変形させたままの ため、防御に隙がある。それを衝いて、怒濤の水流が吐き出されよ うとしたその時。 ﹁脚を止めた時点で、貴方の負けです﹂ 横合いから綺麗な日本語が耳を打った。視線を転じたその先には、 既に攻撃態勢に入っている門宮さんの姿があった。手挟んだその紙 は、従来の折り紙に使う白い紙ではなかった。精緻な模様が丁寧に 漉き込められた色鮮やかな和紙。千代紙と呼ばれるものである。そ して形も、正方形ではなく長方形だった。門宮さんが左の指で軽く 弾くと、その千代紙はまるで切れ込みが入れてあったかのように、 せきれいの おのひこひこを みならいて 真ん中が綺麗に切れた。 桃色の唇が、艶やかな韻を刻む。 日本人のもっとも好む七五調の音階は、まるでそれ自体が一枚の おおきなくにを たれるほどうむ 絵であるかのように、彩をもって響いた。 江戸時代後期、伊勢国桑名の住職が、切り込みを入れることで一 として伝わるこの折り方は、それぞれ異なった四 綴りの紙から数羽の連続した鶴を折る技法を編み出した。後の世に 桑名の千羽鶴 十九の完成型を持ち、それぞれに銘と、銘にちなんだ狂歌を添えら れている。宮中を守護する陰陽師に端を発する術法使い、門宮家。 彼らは近代化する大和の内で廃れゆく己が術法を嘆き、その精髄を、 この優雅な紙折り遊びに隠し伝えたのである。 493 ひでんせんばづるおりがた れんかく ﹃秘傳千羽鶴折形連鶴︱︱﹄ 千代の折り紙が、白い指で瞬く間に無数に折られ曲げられ、命を せきれい 孕んでゆく。門宮さんの差し出した両の掌の上には。 ﹃︱︱鶺鴒﹄ 一枚の長方形の紙から折り出された、四枚の翼と二つの嘴を持つ 異形の鶴⋮⋮いや。胴体を一つとするほどぴたりと寄り添った、夫 婦の小鳥の姿があった。折り上げられた呪が完成する。ふぅ、と息 吹を受けて、掌から勢いよく小鳥が羽撃たいた。夫婦の鶺鴒はたち 絞める蛇 まち百に千にその数を増し、微かな羽撃たきは渦巻く嵐と化した。 ﹃何を飛ばそうが同じ事。お前の呪力は私には及ばぬ。 の鱗は貫けない﹄ ﹁︱︱ええ。一羽ならば﹂ 無数の千代紙で折られた鶺鴒が、螺旋を描きながら一点に錐を揉 むように収束していく。それは万華鏡の内側を思わせる光景だった。 市松、格子、花菱、桜、葵。そして橙、蘇芳、若竹、藍、鴇羽、雪 消水、鳶。幾つもの模様と幾つもの色の鶺鴒が、その艶を競うかの 如く、水の竜の鱗をその嘴でついばみ、翼で斬りつける。一羽では わずかな傷をつける事しか出来ない。だが、その傷を二羽目、三羽 目がえぐり、十羽目、二十羽目が押し広げる。一枚の鱗が剥がれた その一穴が、見る間にその直径を拡大していった。広範囲に回避不 可能の攻撃を繰り出す﹃鶴﹄を、一点に収束させることで飛躍的に 破壊力を増す術法である。門宮さんは己の呪力を決して過信してい なかった。むしろそれをどのように状況に即応させるかに、術の本 領を求めているのだろう。水の竜は苦悶するかのように身をよじら せる。三秒の抵抗の後、土手っ腹がはじけ飛んだ。 ﹁⋮⋮何!?﹂ 494 ﹃蛇﹄のかすかな叫びは、余勢を駆った鶺鴒の羽撃たきにかき消 された。剣呑な花吹雪が吹き抜け、﹃蛇﹄の背を大樹の幹に強かに 打ち付け、素肌をさらしている腕と脚から紅い霧が舞い上がった。 光の角度が変わり、闇の中に埋没していた素顔が露わになった。 ﹁⋮⋮女、か﹂ やじり そこにあったのは、硬質の美しさを湛えた黒人女性の容貌だった。 どこか、鋭く磨き上げられた鏃を想起させる。緑の闇の中、白い吸 血鬼と黒い蛇は静かに視線を交えていた。 ﹁続けるか?﹂ 純白の騎兵刀を突きつけ、直樹が問う。﹃蛇﹄の黒い眼には、狂 躁や激情は見られなかった。逆に質問をする。 ﹃貴様がナオキ・カサギリ、そして先ほど呪いまがいのマネで邪魔 をしてくれたのがヨウジ・ワタリか﹄ 直樹は沈黙を保った。業界で実名をさらす愚を犯すことはない。 だが﹃蛇﹄にとってはその沈黙で充分のようだった。 ﹃ふふ。ならば問題ない。私の仕事は今完全に達成された。追撃な しで見逃してくれるに越したことはないが﹄ ﹁引き留める理由は無い、が、無傷で返してやる義理もないな﹂ まったくもって、年上女性への礼儀がなってない男である。直樹 の放つ冷気は、両の肩に翼のように展開され臨戦態勢となっていた。 だが半瞬の差で、機先を制したのは﹃蛇﹄の方だった。地面に飛び 散りながらも形を保っていた﹃絞める蛇﹄の残骸が、無数の小さな 水の蛇に姿を変え、雨のように放たれる。面倒くさげに直樹が、白 い翼で打ち払った時、すでに﹃蛇﹄は立ち上がり、充分な間合いを 広げていた。軽く舌打ちする直樹。だが、それ以上追撃する意志は 無さそうだった。 ﹃さらばだ吸血鬼、そして東洋の呪術師。小細工もそこまで精緻で あれば面白い﹄ ふいに、雑木林の影が濃くなったように感じられた。それは全く の錯覚だったのだが、気がついたときには、獰猛な﹃蛇﹄は、再び 495 藪の中に完全に消え去っていた。 496 ◆15:再建の道へ ﹁あーあー。これで五日連続のストップ安かよ﹂ おれはいつものように事務所で経済新聞を眺めてため息をついた。 ヨルムンガンド社によるミストルテイン社の買収は失敗した。ひと たび合併話の破談、そしてその根拠となった財政面の不安定さが取 り沙汰されると、出るわ出るわ、粉飾決算の証拠、法的根拠の怪し い強引な買収、取り込んだ企業と本業との合併効果がまったく発揮 されていないこと、等々。様々な情報ががあちこちからリークされ、 また指摘され、ヨルムンガンドの株は連日売りが殺到し、買値がつ かない状態で、システムすらダウンさせかねない勢いだった。敵を 丸呑みすることで巨大化してきた大蛇は、いまや消化しきれなかっ た胃の中身をすべてぶちまけているかのようだった。カリスマ社長 水池氏の名は一転して地に落ち、今や二十一世紀最大の詐欺師であ るかのように書き立てられている。新聞の端々には、検察庁がガサ 入れに入るのも時間の問題。外資系のファンドには早くも買収の動 きアリ、なんて事も報じられていた。 ﹁蛇でもより大きな敵には丸呑みにされちゃうのかねえ﹂ ぶつぶつと呟くと同時に、印刷を終えた任務報告書をプリンター から回収する。念のためもう一度読み返し、ホチキスで止めて、ハ イ完成。ついでに門宮さんとスケアクロウの野郎にも挨拶メールを 送っておいた。 ﹁終わった∼﹂ 背もたれに体重を預けて大きく伸びをする。まったく、休みは休 みでバイトで忙しかったのに、十月に入ったら学校とバイトで忙し いとはどういう事か⋮⋮なんて言うと本職の社会人の方々に怒られ 497 るか。視線を元に戻すと、机の上にはコーヒーの入ったカップが置 かれていた。 ﹁や、ありがとうございます来音さん﹂ 礼を述べてコーヒーを含む。酸味が疲れた頭に心地よい。 ﹁お疲れ様でした。大学のレポートも無事だったようで何よりです﹂ ﹁おかげさまで。ちょっとばかし目立っちゃいましたけどね﹂ あの日、﹃絞める蛇﹄が消えて失せた後、早朝開門直後の大学の キャンパスに水池さんのBMWで乗り付け、滑り込みで課題を事務 局に提出したのである。校舎前の噴水を一見華麗なドリフトで走破、 と思わせて、実はブレーキとアクセルを踏み間違えて慌ててサイド で止めようとしただけだったりして。 ﹁ああ。だから真凛さんが真っ青な表情をしてらしたんですね﹂ まったく根性のないお子様である。ちなみに奴は事務所にいない。 平日の昼間、授業の真っ最中だろう。おれもこれを出し終えたら午 後の授業にトンボ返りの予定である。おれはたった今作り上げた紙 の束を掲げた。 ﹁任務報告書も書いたし。あとはチーフに渡すだけ、なんですがね ぇ﹂ おれは空っぽの席を見やる。つい先日それなりに片付いたはずの 須恵貞チーフの座席には、初雪が降った谷川連峰のような書類の山 が出来上がっていた。むしろあれだけ積めるのは芸術とさえ思える。 ファイリングという概念がどうやら欠落しているようだ。まったく、 致命的なまでに整理整頓が出来ない御仁である。 ﹁別件ですね。例の新大久保大火災事件の元凶だった米国の新興派 遣会社に、日本の派遣会社が連合で圧力をかけるとかで。所長と一 緒に打ち合わせに出ています﹂ そう言えば先日新大久保で、海外の火炎使いと大手派遣会社のチ ームが大乱戦、という事件があった。迷惑な話である。まったく、 何でもかんでも派手にやれば良いってものじゃあないのに。 ﹁当分またこちらには来られないとのことです﹂ 498 来音さんの声はきちんと装われていたが、失望は隠しきれない様 子だ。 ﹁次に出所するのは一年後ですかねぇ。管理職は大変だ﹂ ちなみにウチのメンバーは事務所に顔を出すことを﹃出所する﹄ と表現しているが、もちろんこれは誤用なので真似しないように。 ﹁チーフの決裁が無いと動けない案件も幾つかあるのですが﹂ 困ったものです、とうなだれる来音さんであった。 ﹁自宅に押しかければいいんじゃないっすか﹂ ﹁ええ、お伺いしたいのはやまやまなんですが⋮⋮、って、もう亘 理さん、何言わせるんですかぁっ﹂ 来音さんは顔を真っ赤にすると、おれの肩を軽くはたいて給湯室 の方へ走り去ってしまった。もちろん、背後のはたかれたおれがそ のまま背骨を軸に宙をきりきり舞いしながら応接室へ向けて水平に 飛行していく様は来音さんの目には入っていない。 ﹁愚かな事を﹂ 応接室でお茶を飲んでいた直樹が、サイドボードに激突寸前のお れを無遠慮にはたき落とし、おれはソファーに垂直で強引な接吻す る羽目になった。 ﹁⋮⋮てめぇ、助けるにしたってもう少しやり方ってもんがあるだ ろう﹂ ﹁助けたつもりなどないぞ﹂ こいつはこういう奴なのである。あの戦いの時もそうだった。奴 との戦いにより互いの力が相殺されることがなければ、今頃おれと いう器は内圧に耐えかねて粉々にはじけ飛んでしまっていただろう。 それはともかく、その吸血鬼は半眼で紅茶をすすりながら、携帯音 楽プレーヤー﹃カペラ﹄を起動させてじっと聞き入っている。何も 知らない人間が見れば、青年貴族の優雅な午後のひとときと思えな くもないが、実際のところそのイヤホンを通して延々とリピートさ れているのは、先日発売された某美少女ゲームの初回特典ドラマC D﹃ずっと一緒だよお兄ちゃん!!﹄とやらいうタイトルであると 499 いうことを、おれは知っていた。 ﹁で、貴様、例の株は結局どうしたのだ﹂ ﹁あん?⋮⋮ああ。結局塩漬けにしておくことにしたよ﹂ おれ自身が持っているヨルムンガンドの株券も、それはそれは素 晴らしい早さで価値が下落していった。まるでおれの人生を象徴す るかのように⋮⋮いや、何でもない。暴落が始まった最初の一日二 日は売ってみようかとも思ったのだが、どちらにせよ買い手などい なかったのである。おれはパニックになりかけたが、三日目になる と、別にムリに売らなくてもいいかな、という気分になっていた。 ﹁ほう。それはまた、どうしてだ?﹂ ﹁⋮⋮十年後には値上がりしそうな気がするんでな。いずれ元が取 れるさ﹂ 実は改めて考えると、経営難の情報を調べた時に売りをしかけて おけば良かっただけの事だったりもするのだが。奴が紅茶のカップ から唇を離して、おれを興味深げに見る。 ﹁ふん、気の長いことだ﹂ 時間制限のない吸血鬼がなんか言ってマスネ。 ﹁ふふん、デイトレードなど所詮はギャンブル。成長企業への長期 投資こそ利を産む本道よ﹂ おれは失敗を糧にする男なのである。と、直樹の野郎はおれを哀 れむように見やって肩をすくめた。 ﹁それで﹃実践!二十歳で始める長期投資﹄などという本が転がっ ていたわけだ﹂ ﹁ああっ、てめぇまた人の本を勝手に読みやがったな﹂ ﹁だから事務机の上に出しっぱなしにしておいて偉そうな事を言う な﹂ ぎゃあぎゃあと見苦しく騒ぐ男二人。と、急に直樹の表情が真剣 な者になる。 ﹁⋮⋮一つ気になることがある﹂ ﹁何だ﹂ 500 ﹁﹃蛇﹄とやらは何故わざわざ最後に我々を襲ったのか。脅迫の依 頼は事実上無効となっていたのに、最後に我々にリスクを冒してま で喧嘩を売る必要はないはずだ﹂ ﹁⋮⋮ま、その件は今日の仕事が終わった後で考えようや﹂ おれの言葉に期するところがあったのだろう、直樹も頷く。と、 研究室から出てきた羽美さんが晴れやかな表情で語りかける。 ﹁やあ亘理氏!!おおそれに笠桐氏も!!ちょうど良い。先日の事 件以来小生もいささか株式に興味を持ってな!!我がシミュレーシ ョンに、今後上昇間違い無しの銘柄を算出させたのだ!!どうだ貴 公ら、小生の研究費確保のためにもまずは先行投資をだな⋮⋮﹂ 蕩々と熱弁を振るうドクター羽美。その様子をたっぷり二分も眺 めて、直樹がぼそりと呟いた。 ﹁亘理﹂ ﹁なんだ﹂ ﹁げに恐ろしきは⋮⋮﹂ おれと直樹は顔を見合わせる。 ﹁﹁人の欲なり﹂﹂ 揃って答え、同時に肩をすくめるおれ達。窓の向こうでは街路樹 もわずかに色づきはじめている。夏の熱気の最後の一欠片も、既に 秋の空の彼方に溶け去ったかのようだった。 501 ニョカ ◆※※:任務達成︵裏︶ ﹃蛇﹄が訪れた数日前と変わらず、成田空港の出発ロビーは混み 合っていた。電車の駅と異なり、空港は深夜であっても人の動きは 活発だ。一段と乾燥を増すこの空気は、もはや彼女には耐え難いも のとなっていた。 あらかたの出国手続きを終えた彼女は、待ち時間を利用して、空 港のロビーで買い求めたミネラルウォーターを口にしていた。日本 の経済新聞に目を通し、自身の成果を確認する。あの若者達が自身 の使命を達成したか否かは彼女にはあまり関係がない。彼女はプロ であり、そしてプロとして彼女は十分すぎるほどに目的を果たして いた。ふと、まだ一件済ませておくべき用件があった事を思い出す。 携帯電話からウェブブラウザを起動して、指定のサーバへと繋ぐ。 パスコードを入力して応答を待ち、ブラウザに表示された絵文字を 紙にメモする。ブラウザを落とすと、今度は電話機能を起動させ、 メモした数字を入力し始めた。万一、この携帯電話が誰かに奪われ 履歴が解析されたとしても、二度と同じパスコード、電話番号は使 用されない。電話の相手は、それほどにプライベートに許可しない 他者が立ち入ることを嫌う人物だった。数秒の沈黙の後、甲高いト ーンが鳴り響き、接続したことを知らせる。相手はすぐに出た。 ﹃やあおはよう。いや、東京ではこんばんわだったね﹄ 流暢極まりない日本語だった。 ﹁こんばんわ、マスター・サイモン。しかし、私は、日本語が、そ れほど得意ではない﹂ 生硬な発音の日本語で返すと、マスターと呼ばれた相手、サイモ ン・ブラックストンは電話口で笑ったようだった。マスターという 502 言葉が指す意味は何なのか。主か、師か、あるいは原本か。その口 調からは読み取れなかった。 ﹃失敬失敬。国際電話をかける時はローカルの時間帯と言語に合わ せるのが、私なりのビジネスマナーでね。うっかりしていた﹄ 今度は同じく流暢な、流暢すぎる彼女の母国語がスピーカーから 流れ出す。そう、彼女のマスターは必ず会話をする相手のもっとも 得意な言語に合わせる。それが日本語であろうとドイツ語であろう とアラビア語であろうと、だ。確かめたことはないが、恐らくウル ドゥー語やラオ語のネイティブ相手にも同じ事をするのだろう。 ﹃任務は成功です。迎撃役のヨウジ・ワタリとナオキ・カサギリ、 及び水池の護衛スタッフと交戦の後、脅迫を撤回して引き上げまし た。詳細はレポートにしてメールを送ってあります﹄ ﹃相変わらず手堅いプロの仕事だ。この分ならベスト5にランクイ ンするのもそう遠いところではないのかな﹄ 彼女が英語で返答すると、あちらも英語で返答した。 ﹃それではプロとして言わせてもらいますが、マスター。いかに貴 方の依頼とはいえ、土壇場で﹃脅迫﹄から﹃実力測定﹄へと任務目 標を変更するのはいただけない。このような支離滅裂な命令ではい かなプロであろうと勝利を得るのは難しい﹄ 相手は受話器の向こうで苦笑したようだった。 ﹃すまないすまない、許してくれ。だが君を守るためでもあったの だ。ワタリ、そしてカサギリ。まさか君が彼らとかち合うなどとは 思ってもみなかったのだからね。正直君がこうして生きて私に電話 をしてきてくれて安心しているよ﹄ ﹃理解に苦しみますね。ヨウジ・ワタリ。ナオキ・カサギリ。そこ まで警戒せねばならない相手とは思えませんが﹄ 強がりではなく、プロとしての判断である。おそらくは上位の吸 血鬼、そしてもう一人の方も、彼女の呪術と似て非なる力を持って いるようだった。なるほど大した能力だろう、まっとうな戦いなら ば。だが、彼女の能力であれば如何様にも戦い方がある。留意はし 503 ても、恐れる必要はないと思えた。 ﹃⋮⋮それが君の感想と言うことか﹄ サイモンは言葉を切り、四秒ほど沈黙した。珍しいことだった。 ﹃よろしければ多少なりとも事情を教えて欲しいところです。プロ としてではなく、ごく個人として﹄ つまりは、言いたくなければ別にかまわないというレベルの問い ゆえにへいはせっそくをきい くま もだこうきゅうをみざるなり だった。だから回答があったことに驚いた。 ﹃故兵聞拙速、未睹功久也。︱︱私の信条はね。万事に保留事項を 作らないと言うことだ。保留は何も生み出さない。時間を腐らせ、 事態を悪化するだけだ。古今、やるべき事を先延ばしにする愚図に 勝利の女神が微笑んだ試しはない。全ての物事はやるか、やらぬか、 やらせるか、まだ待つか。待つならいつまでか。それ以外の選択肢 はないのだよ﹄ ﹃はあ﹄ 明敏な﹃蛇﹄も言葉に困る。別に彼女は相手のビジネス哲学を聞 きたいわけではないのだが。 ﹃私と彼らは、いずれ確実に対立することになる。私は利を求め、 彼らはそれを防ぐ。ならばなおのこと、保留事項にするわけにはい かない。そんな折り、君と彼らが交戦に入ったと聞いた。なれば情 報を集める機会を逃す事はない。それを思えば、ヨルムンガンドへ の貸し付け程度は何の問題にもならない﹄ 自分が態の良い斥候に扱われたことも、彼女が彼らと接触した偶 然も、﹃蛇﹄は気にしなかった。マスターに連なるものは数多くい る。その中でたまたまもっとも早くワタリやカサギリに接触したの が彼女だったというだけのことであろう。 ﹃君を生かして帰したということは、ふふ、王と魔人の力も随分減 耗したようだな。国であれば格付けをしなおさなければいけないと ころだ。やはりここは拙速でも打って出るべきだろう、とまあ、こ のような事情だよ。わかってくれたかね?﹄ ﹃全くわかりません。聞いた私が間抜けでしたね﹄ 504 気のない調子で彼女は応えた。どうやら裏事情は、彼女が到底与 り知らぬレベルの話らしい。個人としての興味が消えると、後には 仕事を終えたプロの理論が残った。もはや自分の検知するところで はない。彼女は主に向かい一応の挨拶を述べた。 ニョカ ﹃それでは今日もお仕事頑張ってください。私はこれより休暇に入 ります﹄ ﹃里帰りを楽しんできたまえ、﹃蛇﹄。私はさっそく、彼らにアプ ローチをかけるとしよう﹄ サイモンは彼女を二つ名で呼んだ。である以上、彼女も二つ名で 返事をすべきであろう。もっとも、有名な通り名ではない。サイモ ンが﹃こちら側﹄の人間であり、また、およそ彼女程度では及びも つかない化け物であることを知る人間など、両手の指の数もないだ ろう。弱者は強者になってゆくうちに、その名を知らしめてゆく。 サー・オクタコード しかし最初から圧倒的に強い者は、その名を他者に語る必要はない のだ。 ﹃お気の済むように、﹃組み合わせる者﹄﹄ 主に別れを告げ、電話を切る。搭乗を促すアナウンスが流れた。 ﹃蛇﹄は優美な身のこなしで、おそらく二度と訪れることはないで あろう極東の島国を去るべく歩み出した。 505 ◆※※:任務達成︵裏︶︵後書き︶ 次回、﹃北関東グレイブディガー﹄。 506 ◆01:開幕 おそらく彼は、私の悩みを正確に察知していたのだろう。 ﹁変身と変装、どちらがより高度な技術だと思う?﹂ 不意に彼は、グラスをすすめながらそんな事を聞いた。なぜ私に そんなことを聞くのか、と問い返すと、彼は当然のように、もちろ ん君だから聞くんだよ、とそう言った。今更そんな事を、と抗議の 声を上げかけて、ようやく私は彼の気づかいに思い至った。 だから私は態度を改め、真剣に回答した。変身だと思います、と。 ﹁なぜだね﹂ 当たり前の話である。私は自論を述べた。変身とは、何かに成る こと。変装とは、何かを装うことだ。変装で形だけ誰かの真似をし てみせたところで、その人間に本当に成ることはできない。どれほ どハチミツで味をごまかしてみたところで、メロン味のキュウリが 本当にメロンになるわけではないのだ。 変身は違う。それは、キュウリをメロンにしてのける技術。誰か に本当に成ってしまう技術のことだ。私のような凡人になせる業で はない。だからこそ、結局私は彼からその技を授かることが出来な かった。 当の本人に述べ立てているうちに、次第に私は激昂してきた。彼 に対してではない。自分に対してだった。なぜ私には素質がなかっ たのか。能力がなかったのか。努力などは前提条件。置かれた環境 異能力 の素質がなかった。彼に近づこ も申し分なかった。だが、普通の人に腕は三本ないように、目が三 つはないように。私には うとすればするほど、その差異は明確になった。飛んでいる鳥も、 507 跳ねているバッタも、写真に撮ってみれば宙に浮いている事にはか わりない。しかし、自分はそれ以上高く飛ぶことが出来ないことは、 当のバッタが一番良く解っている。 グラスを前にして心の奥の劣等感をぶちまけ続けた私を︱︱すで に回答どころか、ただ私が一方的に喋っているだけだった︱︱彼は 無言で見守っていた。やがて私の体力と言葉が尽きた。すると彼は、 喘ぐ私に、こう声をかけた。 ﹁私は、変装の方がより高度な技術だと考えている﹂ 最初は侮辱されたのか、と思った。自分より優れた者から、いや あ君の方がすごいよ、などと慰められるのは、屈辱以外の何物でも ない。だが、同時に、彼がそんな見え透いた世辞を述べるような人 間では決してない事も知っていた。自然、私は彼の言葉の続きに傾 聴する。 ﹁変身の行き着く先は、その人の持つデータに己を近づけること。 変装は、自らの裡にその人間を写し取ること。変身も変装も、まず は自分を他人に似せてゆくことから始まる﹂ その通りだ。顔を似せる、声を似せる、癖を知る。髪の色を変更 する。身長を合わせる。 ﹁より高度な技術を求めていけばいくほど、自分と他人の境界は狭 まってゆく﹂ 口調を真似る。思考を真似る。価値観を真似る。骨格を変形させ る。遺伝子を複写する。記憶をコピーする。 ﹁だがここで、変装の場合は物質的な限界が訪れる。男は女にはな れない。白人は黒人になれない。指紋も免疫も、まず変更するのは 無理だろうし、遺伝子を書き換えるわけにはいかない﹂ そう。だから私はその能力に憧れたのだ。他者の記憶と遺伝情報 アクタ を読み取り、皮膚組織から筋肉、必要であれば神経系、脳細胞やそ ー れが生み出す記憶まで、完璧に他人を模写できるまさしく最高の役 お 者としての力を持つ彼に。だが彼は、ゆっくりと首を横に振った。 やま ﹁そこが分岐点なのだ。足りないからこそ工夫をする。たとえば女 508 形の役者は、女を演じるために実に様々な工夫を凝らしているだろ う﹂ それは、事実だ。私も異性を演じるために、彼らの技術を勉強し たことがあった。本当に彼らは﹃女﹄というものをよく観察してい る。おそらくは、大多数の女性よりはるかに。 ﹁他方、私のような変身の力を持つ者は、近づいていこうと思えば 際限なく対象に近づいていくことが出来る。だが、それだけだ。行 き着くところはその個人の劣化コピーに過ぎない。百のものに対し て、九十、九十九に迫ることは出来るが、それだけだ﹂ 彼は何もわかっていない。私は反論した。それは貴方がコピーす る能力を持っているからこその言い分だ。彼らにもし貴方のような、 性別を超えて肉体を変化させる超常の力があれば、あのような面倒 くさい技術は必要なかったはずだ。 私の頑迷な主張に、彼は少し困ったようだった。 ﹁では質問を少し変えてみよう。そうだな、警察が指名手配の犯人 を捜す時、ポスターを作って街中に貼るだろう?﹂ 話が急に飛ぶ。今の今まで女形の役者を脳裏に思い浮かべていた 私は、咄嗟に警察官の映像を思い浮かべることが出来ず、返事に詰 まった。 ﹁君はあのポスターに、犯人の顔写真を載せるのと、似顔絵を載せ るのと、どちらが効果があると思うね?﹂ 今度の質問には、容易に答えることは出来なかった。私自身は職 務上、追われることはあっても、追う立場にはあまりまわったこと がない。同僚達なら答えられるのかも知れないが⋮⋮。私はごく常 識的に考え、顔写真だろう、と答えた。すると彼は、私のグラスに ワインを注ぎながら笑った。 ﹁はずれだ。答えは似顔絵。顔写真のポスターよりも、見かけた人 が犯人と気づく確率が高いんだ﹂ ⋮⋮それは。本当なのか。 ﹁もっとも、私が正確な統計を取ったわけでもないがね﹂ 509 警察関係者ならおおむね同意してくれるはずさ、と彼は付け加え た。何故です、と私は問う。問わざるをえなかった。 ﹁似顔絵とは、他者の持つ顔の情報を写し取るためにある。となれ ば、もっともデジタルに映像を記録出来る写真が、他人が手動で写 し取った似顔絵に劣るはずがない。君はそう考えたのだろう?﹂ 頷く。 ﹁ところがな。実際のところ、写真で見た映像というのは思ったよ りも印象に残らないものなのだ。特にその犯人が髪型を変えていた り帽子を被ったり、逃亡生活でやつれていたりすると、気づく可能 性はぐんと低くなってしまう﹂ 私は時々街中で見かけたポスターを思い出してみた。⋮⋮確かに、 そうかも知れない。 ﹁対して、似顔絵というのはいわば、デフォルメされた画像だ。目 濃縮 されて絵にされる。すると がキツネのように吊り上がっているとか、耳が大きいとか。そうい う情報が、一度描き手によって 面白いものでね。それを観た人間というのは、自然と﹃実際の顔は どんなのだろう﹄と、あれやこれやと想像を巡らせはじめるのだよ。 一枚の絵からね﹂ 私はいつしか、彼の話に聞き入っていた。 ﹁そうして、いつのまにかその人間の頭の中には﹃その人の候補の 顔﹄が幾つも脳内に蓄えられていることになる。だからこそ、髪型 や表情、年齢による変化に惑わされず、その人間を見つけることが 出来るんだ﹂ ⋮⋮私は彼の言わんとすることを、おぼろげながら理解し始めて いた。私は控えめに意見を述べた。つまりは人間は、正確な情報よ りも、誇張された情報を記憶するということなのか。 ﹁そのとおりだ﹂ 似せる という事は、ただ模写をするということではない。 彼は満足げに言った。 ﹁真に 当の本人以上に客観的に本人の特徴を捉え、それを自在にデフォル 510 メしてのける技術。それこそが 似せる ということなのだ﹂ 極論をしてしまえば、私が演じようとする当人の容姿と、私自身 の映像に、私自身の変装を合わせればいいということだ。 の変装がデジタルに同一である必要はない。私を観る人間の脳内の 当人 ⋮⋮気がつけば当たり前のことではある。舞台の役者なら最初に覚 えるような事項だ。幸か不幸か、この単純な事実にも気づかぬほど、 私は彼という人間に近過ぎたということか。 ﹁確かに君には私のような力はない。だからこそ、君には私を越え ていく力がある。私は百のものに九十九までしか歩み寄ることは出 来ない。今の君はまだ九十、いや、八十にも達していないだろう。 だが究極的には、君は百二十に辿り着ける可能性がある﹂ 彼はそう言うと、ついぞ私の前では見せたことのない表情を見せ た。今でも時々思い返す。それは、自嘲、だったのか? ﹁⋮⋮そう。私には結局、模写しか出来ないのだ。模倣以上のもの を産み出すことは、決して出来ない。だからこそ、君に託したいの だ﹂ 彼はそう言って、私との、結果として最後になる会見を締めくく った。 その後、私は何かと忙しく、彼ともあまり連絡を取る機会は得ら れなかった。だが、彼の一言はまるで要石のように確と私の底に埋 め込まれており、私が任務を続けて経験を積んでいくほどに、より 強固な、揺るぎのないものとなっていた。今の私はどの領域に達し ているのだろうか。九十か。百か。それ以上であればよいのだが。 この世は広い。彼と同じような不可思議な力を持つ者も数多くい ると知った。そんな連中に混じって、私も何とか日々の仕事をこな している。 そして今、彼の言葉を得て、今では私はそれなりに食い扶持を稼 げるようにはなった。 511 アクター 私は私でありながら、誰をも装うことが出来る。 さながら舞台に上がる役者のごとく。 512 ◆02:派遣社員、北へ 土曜日の午前六時。 十月の下旬ともなれば日の出の時刻も随分遅くなっている。 かすかに白み始めた紫色の空のもと、澄みきった空気は肌寒く、 街はまだまだ眠りから覚めていない。おれはようやく目的の場所に たどり着き、ひとつ白い息を吐いた。天気予報によれば、今日は暖 かさを感じる秋晴れとのことだったが、それも全ては太陽が昇って からの話らしい。羽織ったジャケットの袖から両の掌を引き抜いて こすり合わせ、おれは喫茶店﹃ケテル﹄の重厚な樫の扉を押し開い た。 からんころん、と平仮名で表現するのが相応しいレトロなドアベ ルの音と、暖かさを保った室内の空気がおれを包む。高田馬場駅か ら二十分、ここまで冷え込んだ薄闇の中を歩いてきた身体のこわば りが解れていくのがわかった。店内には三人の人間が居た。テーブ ル席に向かい合わせで掛けている二人と、カウンターの奥にたたず む老紳士が一人。 ﹁おはようございまーす⋮⋮﹂ おれが寝ぼけ声でカウンター向こうの老紳士に挨拶をする。 ﹁おはようございます亘理さん。何になされますかな﹂ ﹁あー⋮⋮じゃあモーニングセット。眠気覚ましにキツイ奴つけて ください﹂ ﹁早朝に濃いコーヒーを飲むと胃に良くはありません。カフェオレ にしましょうか﹂ ﹁お願いします桜庭さん﹂ 相変わらずの細かい心遣いに感謝しつつ、おれは席に向かった。 513 さくらばしげはる この老紳士は桜庭重治さん。この喫茶店﹃ケテル﹄のオーナーに して、おれ達が所属する人材派遣会社フレイムアップの会計担当。 そして所属するメンバーのうち最後の一人でもある。もともと海外 のあちこちを渡り歩いていた人なのだが、数年前にそれまでの仕事 を引退し、ここに店を構えて落ち着いた。浅葱所長とは遠縁の親戚 にあたり、学生時代は後見人になっていたらしい。会社を設立する 際にも何かと桜庭さんが支援をしたのだそうで、あの所長が唯一頭 の上がらない人物でもある。一応フレイムアップに所属し、喫茶店 の経営ついでに会計もしてくれているが、おれ達からしてみれば同 僚と言うよりOBのような存在である。この人が前線に出てくる事 は滅多にない。まあ、そうそう出てこられると他のメンバー︵特に おれ︶の存在価値がなくなってしまうので、何事もほどほどが一番 と言うことだ。 年の頃は詳しくは知らない。賢者のような老成した雰囲気は七十 を超えているとも思わせるし、背筋が伸び、統制の完璧に取れた佇 まいはまだ五十歳と言っても通るだろう。ほとんど白くなった頭髪 をオールバックにして髭を蓄えた姿は日本人離れしており、冬のス コットランドの暖炉の前でパイプをくゆらせている姿が容易にイメ ージ出来てしまう。加えて、﹃理性と良識﹄という概念を固めて圧 縮成型したようなその人格から、おれ達ヒラメンバーの寄せる信頼 度ははかりしれない。桜庭さんが﹃この仕事は危ない﹄、あるいは 来音さんが﹃今月は苦しいです﹄と発言した時こそが、我が事務所 における真のボーダーラインとされている。 テーブル席に向かうと、そこには二人の少女が向かい合わせに座 っていた。いずれも知った顔であり、おれは軽く手を挙げて挨拶す る。 ﹁おはよ!ってなんか暗いなあ。キアイ足りないよ?陽司﹂ おれに向けて手を振っているのは、ショートカットの黒髪と大き めの瞳が印象的な高校生︵あえて女子高生とは呼んでやらん︶、七 瀬真凛。一応この仕事ではおれのアシスタントという事になってい 514 る。そういえばコイツとのコンビも、すでに半年近くになるのか。 ﹁黙れストレスフリー娘。こちとらレポートが再提出くらって寝る 間も惜しいんだよ⋮⋮﹂ 寝ぼけた頭で応じる。まったく、午前六時だというのにやたらと テンションの高いお子様である。 ﹁それはそうだよ。いつもは朝稽古の時間だしね﹂ そーですか。勿論、おれはいつもは絶賛睡眠中の時間である。麻 雀でも打っていればそれこそ今から寝に入ってもおかしくはない。 ていうか正直今すぐ回れ右して布団に潜り込みたい気分である。 ﹁亘理さん、ここどうぞ﹂ と、真凛の向い側の席に座っていた女子高生が奥にひとつ詰めて、 おれに席を作ってくれた。やあありがとう、とおれは上の空で礼を 述べ、ジャケットを脱いで腰を下ろす。そこでようやく寝ぼけ頭が 違和感に気づいた。 ﹁⋮⋮涼子ちゃん。涼子ちゃんじゃないか。こりゃ珍しいところで 会ったもんだ﹂ ﹁ごぶさたしてます、亘理さん﹂ かなざわりょうこ そう言って、律儀にぺこりと頭を下げる。その動きにつられて長 めのポニーテールがひとつ跳ねた。この少女の名前は金沢涼子。彼 女については以前どこかで少し触れたことがあったかも知れないが、 真凛のクラスメートである。やや明るい色の髪と瞳の、すっきりと した面立ちと、ひとつひとつリズミカルな動作が印象的な少女だ。 真凛のようにバカみたいにエネルギーが有り余ったオーバーアクシ ョンというわけではなく、小さくとも内に秘められたうねりの大き さを感じさせる、海の波のようなリズム。 ﹁たしか君の家は埼玉じゃなかったか?﹂ 半年ほど前、おれは名門女子校にまつわるゴタゴタの解決のため に派遣された事があった。そしてその学校に通う彼女達に初めて出 会い、その際に涼子ちゃんの住所も調べたりしたのである。⋮⋮そ ーいやあの時真凛に目玉を抉られかけてから、しばらく先端恐怖症 515 になったんだっけかな。 ﹁週末の早朝となれば⋮⋮もしかして朝帰りとか∼!?﹂ おれはオヤジっぽい表情をつくって意地悪な冗談を飛ばしてみた。 と、 ﹁ハイ、そうなんです﹂ あっけらかんと答えられたものである。 ﹁ちょ!?、本当?﹂ ﹁池袋でライブをやって、そのまま打ち上げにいったんです。親に 電話したら、無理に夜に帰ってくるよりは歌の先生のところに泊ま っていった方がいいって﹂ ﹁ああなんだ、そういうことね﹂ と、向かいの真凛が冷たい目で睨んでいる。 ﹁どういうことだと思ってたわけ?﹂ ﹁イヤ別ニ﹂ しかし、それならそれで早朝にわざわざ喫茶店に寄る必要はある のだろうか。 ﹁ついでだから借りてたマンガをまとめて返そうと思って。きのう 待ち合わせしたんだ﹂ 真凛の席の隣には、なるほどトートバックにぱんぱんに詰まった マンガの単行本。確かにここまで膨れあがってしまっては学校に持 ってくるわけにもいくまい。というかそもそもこうなる前にこまめ に返せというに。 ﹁けどなんというか、無秩序な⋮⋮﹂ トートバッグから覗くマンガは種々雑多だった。少女マンガに少 年マンガ、青年マンガも一部ある。なんとなく女の子は少女マンガ しか読まないものと思いこんでいたおれには、ちょっとした驚きだ った。 ﹁ふっふん、何をアナクロなこと言ってるんだよ陽司。今時は少女 マンガだけしか読まない子の方がキショウなんだよ﹂ アナクロに稀少ときたかい。ちゃんと言葉の意味を分かって使っ 516 てるんだろうな。 ﹁とくにこれなんかね。最終巻で宿命のライバルが対決するシーン、 行動の読み合いが凄いんだよね﹂ ﹁そうだよね、二人がどれほどお互いのことを考えてるかが良くわ かるよね﹂ ﹁だよねー﹂ 仲が良くて結構なことだ。しかし微妙に二人の会話に齟齬がある ような⋮⋮まあいいか。 ﹁それにしても多いな。そんな重いの引きずって帰るのは大変だろ うに﹂ ﹁あ。大丈夫です。ライブの機材よりは軽いですから﹂ 実はこの子、昼は名門女子高のお嬢様、夜はインディーズのバン ドのボーカルという二つの顔を持っているのである。なんでも子供 の頃から声楽を習っていたのだそうだが、そこの先生が面白い人で、 クラシックとメタルを融合させてシンフォニック・メタル︵⋮⋮も のすごくぶった切って説明すると、ファンタジーRPGのボスキャ ラ戦のような曲︶に傾倒し、その影響を受けて彼女もボーカルにな ったのだとか。世間では有名な音楽家の先生だそうなので、一人で 帰らせるより確かに安心である。その教えを受けた彼女の実力も本 物で、インディーズ業界でもめきめきと頭角を現しつつある。おれ も社交辞令抜きでCDを買わせてもらい、﹃アル話ルド君﹄に突っ 込んで良く聞いていた。 ﹁そうそう、今度の新曲いいね。ソロでギターの代わりにバイオリ ンで早弾きするあたりがツボだったし。声も、初めて会ったときか ら凄かったけど、さらに綺麗になった。水晶みたいだ﹂ ﹁本当ですか?﹂ 普段は優等生と言ってもよい子なのだが、こののんびりした子が ひとたびステージでマイクを握れば、圧倒的な声量でライブのお客 どころか会場ごと津波のように呑み込んでしまうのだから、人間と いうのはつくづくわからない。特筆すべきはその声で、高い音程で 517 歌い上げる時に若干ハスキーが入ると、声自体は十六歳の少女のも のでありながら、おそろしい程に威厳ある声になり、これが仰々し い曲と実に合う。 バンド自体がシンフォニック・メタルで、特に北欧神話をモチー I the dawn, call will ve my of wash spirits thi フにした曲が多いため、ファンの間では﹃ワルキューレ﹄のニック to bloody ネームが定着しつつある。某バンドのカバー曲で、﹃In s soul ngeance﹄とか歌われた時は、おれでも少しゾクっと来た。 ちなみにこのバンドのメンバーというのも、ギターにベースにド ラムにキーボードと全員が全員面白人間だし、ボーカル仲間にも奇 人変人が多かったりするのだが、その紹介は長くなるので割愛させ ていただく。 ﹁ああ、本当も本当。惚れちゃいそうだね﹂ ﹁嬉しいです。亘理さんにそう言ってもらえると﹂ ﹁はは、﹃ワルキューレ﹄のお役に立てれば光栄だ。お世辞でもね ー﹂ おれはからからと笑った。何しろ既にファンクラブまであるとの 話である。メジャーデビューも間近と噂される、ある意味おれごと きとは違う世界の住人である。 ﹁お世辞なんかじゃ︱︱﹂ ﹁そ、それで!今日の仕事のことだけど、どんな内容なのかな﹂ 真凛が声を張り上げる。人の会話に割り込むとは作法を知らん奴 だな。 ﹁ああ、その件だがな⋮⋮。と、その前にメシを食わせてくれ﹂ おれは肩越しに振り返る。一流のバトラーを思わせる動きで、桜 庭さんがたいそういい匂いを立てているトレイを運んでくるのが目 に入った。 518 ◆03:幽霊の出る街 喫茶店﹃ケテル﹄は、おれ達が︵仕方なく︶出入りしているフレ イムアップの事務所と同じビルに収まっている。﹃ケテル﹄が一階、 事務所が二階という構成だ。観葉植物や壁紙でどうごまかしてみて も殺風景な印象がぬぐえない事務所とは対照的に、﹃ケテル﹄の内 装はとことん正統派のヨーロピアンスタイルである。適度に控えら れた間接照明が漆喰とレンガの壁に映え、重厚だがいささか無骨な 椅子と卓とを浮かび上がらせている。どちらも黒光りのするオーク 材で、インテリアにこだわる人が見たら喜びそうな逸品だ。が、実 はこれ、バルカン半島某国の資金源として密輸されかかっていたも のが、紆余曲折を経て桜庭さんのもとに流れ着いたというイワクツ キだったりする。 この落ち着いた雰囲気に惹かれ、いつしか静けさを求める人々が 集うようになった。今では賑やかな学生街の中にありながら、ある 種の別世界を形成するまでになっている。おれもブンガク好きの女 性の先輩と仲良くなるために、六人ほどご招待したことがあったり する。なお戦績は六敗だが気にしてはいけない。そして内装と並ぶ もう一つの目玉が、マスター桜庭さんの提供する食事と珈琲なので ある。 たっぷりのマーガリンが塗られたきつね色のトースト。カリカリ のベーコンと、対照的なふわふわのスクランブルエッグ、そして瑞 々しいトマトとレタス。ありふれていながらどこにも死角のない朝 食を、おれは女性陣の前でがっつかないよう注意しながら口に放り 519 込んだ。一息ついて、真凛達の皿を洗っている桜庭さんに声をかけ る。 ﹁いやしかし、相変わらずの腕前ですね﹂ ﹁お誉めに預かり光栄ですな﹂ 日頃は朝食どころか昼食もろくに摂取しない生活を送っているお れだが、それは単に自分で作るのが面倒だからに過ぎず︵決して食 費が足りないからではない⋮⋮と思いたい︶、このように素晴らし い朝食を出されれば食べない理由はない。あっというまに平らげて、 マグカップに注がれたカフェオレを胃に流し込んだ。糖分とカフェ インが注入され、ようやく頭にエンジンがかかってくる。 ﹁しっかしこういう基本の料理ほど、腕の差がはっきり出るんだよ なあ。嫉妬しちゃうぜ﹂ おれも食べるときはそれなりに自炊する人間である。一回桜庭さ んの真似をしてこの手の朝食を作ってみたのだが、とても比べられ るレベルの代物ではなかった。材料も同じ高田馬場の商店街で仕入 れたものを使っているので、弁解の余地もない。 ﹁やっぱり料理の加減もすべて計算通り、ってとこですかね?﹂ ﹁残念ながら、それほど料理は底の浅いものではありません。計算 だけではコーヒーの豆一粒さえ満足に挽けませんからな。要は練習 です。毎日練習さえすれば、誰にでも出来る﹂ そりゃまあそうなんですがね。毎日腹筋をすればお腹が引っ込む ことは誰もが知っているはずなのに、なぜかお腹の出ている人は世 の中にたくさんいるわけだし。と、なにやら心得顔をして真凛が言 う。 ﹁そうだよ陽司。やっぱり人間、毎日の練習が大事だって﹂ ほほう。カップ焼きそばの湯切りに失敗して半泣きだったお子様 がほざきよるわ。 ﹁でも、前に亘理さんに作ってもらった朝ご飯はおいしかったです よ﹂ そういやライブの合宿の時、メンバーの一人に頼まれてみんなの 520 朝飯を作ったことがあったりしたなあ。 ﹁フォローをありがとう涼子ちゃん。涙が出そうだ﹂ ﹁え?朝ご飯?﹂ ﹁っとと。もたもたしてるとチーフが来ちまうな。先に任務の概略 だけ説明しちまおう。桜庭さん、ごちそうさまでした﹂ 桜庭さんが皿を下げている間に、おれは最近バージョンアップさ れて色々新機能がついた携帯通信端末﹃アル話ルド君﹄を懐から取 り出し、タッチペンでデータを開いてゆく。 ﹁あ、それじゃ私、そろそろ家に戻りますね﹂ お仕事モードに入ったおれを察して、涼子ちゃんがトートバッグ をかついで席を立つ。 ﹁ありゃ、すまんね涼子ちゃん。気を使わせちまったかな﹂ ﹁いいえ。亘理さん、お仕事頑張ってください。じゃあ凜、月曜に ね﹂ ﹁うん!今度はボクがマンガ持ってくよ!﹂ 元気よく手を振って扉を引き、涼子ちゃんは明け始めた街へと去 っていった。その姿が通りの向こうに隠れるまで窓越しに見送った 後、おれ達は改めて液晶画面の依頼内容に視線を落とす。 ﹁えーと。うん。それで。ボクらはどこまで出張するのかな?﹂ ﹁あん?妙に歯切れが悪いな。何か気がかりでもあるのか﹂ ﹁別に﹂ ならいいが。そう、おれ達が貴重な週末の朝早くに集合している 理由は他でもない。今日の仕事先は少々遠いところにあり、これか ら街が動き出す前に現地入りしなければいけないのだった。 ﹁埼玉県元城市。群馬県の境に位置する、国道17号沿いの街だよ﹂ 任務概要に記載された住所をタッチする。ネットの地図検索サイ トと連動するようになったおかげで、すぐに衛星写真が表示された。 ﹁ずいぶん山に近いんだね﹂ ﹁というより、山の麓に街があるといった方が正しいみたいだな﹂ 西北にどんと腰を据えるなだらかな板東山。その東の端を切り開 521 くように、JR高崎線と国道17号が南北に通っている。その二本 の交通網に挟まれたエリアが発展し、つつましやかな繁華街を形成 しているようだ。そしてその周りには豊かな田園が広がり、ところ どころに牛舎や町工場が点在している。典型的な日本の地方都市と 言えた。板東山の一部は切り開かれており、官庁の施設や民間の工 場が誘致されているのが見て取れる。 ﹁今日はここで仕事だな。美味くて安い名産品でもあればいいんだ がね﹂ ﹁のんびりしたところみたいだね。で、今日は猿退治をするのかな ?それともまた自動車レースとか?﹂ おれはとびきり意地の悪い笑みを作って言ってやった。 ﹁真凛、お前幽霊って信じるか?﹂ ﹁ゆ、幽霊?﹂ ﹁ああ。ここ最近、この街には幽霊が出るんだそうだぜ?﹂ 地図上の小さな街を指す。 ﹁この街の住民いわく、ある夜、道を歩いていると、道ばたに一人 の男が立っていた。近寄ると消えてしまった。また別の住民いわく、 やはり夜、駅前で一人の男が歩いていた。こちらに近寄ってきたか と思うと消えてしまった⋮⋮こんな報告が、なんと三十件近くも発 生してるんだってよ﹂ ﹁それはまたなんというか。ずいぶん多いね﹂ ﹁怪談の季節はもうとっくに過ぎたと思っていたんだがな。で、街 の人々は今ちょっとしたパニックらしい。最初は個々人が見間違い や気のせいだと思っていたらしいんだがな。ひとたび噂が広まり始 めると、俺も見た私も見たと言いだして、一気に騒ぎになったらし い﹂ おれは昨日の深夜に来音さんから送られていた任務概要を開いて 解説する。もっともおれも受信した時には半分寝入っていたので、 細部を確認しながら読む形になった。 ﹁幽霊と言っても、別に誰かが呪われただの取り憑かれただの、と 522 いった被害は今のところ確認されていない。反対に、例えば幽霊に 化けた犯罪者に殴られたとか怪我をしたとかといった被害もない。 ⋮⋮ああ、農道でおじさんが驚いた拍子に田んぼに落ちたとか、そ んな程度か﹂ ﹁本当に、ただ﹃出る﹄だけ?﹂ ﹁ああ。﹃出る﹄だけだ。ある意味一番幽霊らしいと言えばらしい な﹂ 幽霊に見せかけた犯罪者なら、まずは警察の領分だ。取り憑かれ たのならとりあえず坊さんか巫女さんの出番である。だが、﹃出る だけ﹄となると、さてどうしたものだろうか。 ﹁街の人からの依頼なの?﹂ ﹁いんや違う。企業からだ﹂ タカミツ おれはタッチペンで板東山を指した。今回の依頼主は、この丘陵 地帯に工場を設置した機械メーカー﹃昂光﹄。なんでもその幽霊と やらが、やはり先日亡くなった、その会社の社員の一人によく似て いるらしいのである。 ﹁その会社員さんの幽霊ってことなのかな﹂ ﹁それを確かめて欲しくて、おれ達に依頼してきたわけだ。会社に してみれば、あまり田舎で変な噂が立てられる前に真相を知ってお きたいってとこかねえ﹂ それにしてもいきなりおれ達の業界を呼び出すってのは妙な話で はあるが。 ﹁幽霊、かあ﹂ ﹁お、ビビッたか?﹂ ﹁ま、まさかあ!陽司のほうこそどうなんだよ。いつも暗いところ はイヤだとか言ってるじゃない﹂ おれは肩をすくめてみせた。 ﹁ああ、ビビってるぜ。だって幽霊は怖いもんな﹂ ・・・・・・・ ・・・ ・・・・・・・ いきなりのおれの敗北宣言に、真凛が呆気にとられる。 ﹁そ。怖いんだよ。もしかしたら幽霊はいるかも知れない、からな﹂ 523 おれ達の業界には魔術師、聖職者、霊能力者、はては死人使いま でもが当たり前のように在籍している。ところが極めて阿呆らしい ことに、その彼らにしても﹃幽霊﹄というものを証明、あるいは否 定することは出来ていない。彼らは死者の霊と会話したり、残留思 念を解析したり、その亡骸を自在に操ることが出来る。だが、それ だけなのだ。たとえその霊が鮮明な生前の意識を保持しているとし ても、それが本人の﹃魂﹄であると証明することは出来ていないの である。 幽霊の定義は諸説あるが、﹃未練や恨みを残した魂が、成仏でき ずに現世にとどまっている﹄という解釈を採用するならば、﹃霊は いるが、幽霊︵=魂︶はいるかどうかはわからない﹄となってしま ったりする。 ここらへんは突き詰めていくと、その能力者が背負っている宗教 や思想ががからんできて大激論になってしまうので省略するが、よ うするに、特殊な能力を持っていても、﹁死﹂の恐怖⋮⋮いや、﹃ 死んだ後、人間はどうなってしまうのか﹄という疑問から逃れるこ とは出来ないということだ。 そう。一度死した者を生き返らせる能力だけは、この業界でも未 だ存在が確認されていないのである。ゲームの中なら美少女神官の レベルを50くらいまで上げれば使えるようになるのだが、現実は そう都合良くはないらしい。存在すると知っており、その法則が分 かっているのならば、魔術や呪術も脅威であっても恐怖ではない。 ゾンビですら、結局は操り主が術で動かしているわけで、生理的な 恐怖や嫌悪はあっても、それ以上ではない。だが幽霊だけは、未だ に﹁いるかいないか﹂わからない。だからこそ、﹃怖い﹄のである。 ﹁⋮⋮はあ。わかったようなわからないような﹂ ﹁今は気にしなくていいさ。これから現地に車で行って調べるんだ からな﹂ 524 おれの言葉に真凛は頷いたが、やがて首を傾げる。 ﹁あれ?でも、幽霊がいるかどうかなんて、どうやって調べるの?﹂ おれはにやりと笑ってみせた。 ﹁ほほう、気付きやがったか。ま、半年で少しは成長してくれんと 困るしな﹂ こういうとき自分のことを棚に上げられるのは、年長者の特権で ある。 ﹁確かに幽霊がいるかいないかを証明するのはとても難しい。⋮⋮ 実際のところこの手の調査の大半は、正体見たり枯れ尾花ってパタ ーンが多い。人違いでした、とか勘違いでした、とかな。本当に幽 霊の仕業でした、なんてことはまずないんだが﹂ それはそれで依頼人を納得させるのが大変なのだ。﹁そんなはず はない。確かに霊の仕業なんだ、もう一度調べて欲しい﹂なんて言 われると、幽霊のせいでないことを証明するための地味な調査が待 っている。人違いなら当の間違えられた本人を捜し出さなければな らないし、部屋の中から霊の声が聞こえるという現象が、近くに立 っていた送電線の電磁波の影響によるものだと証明するために一週 間を費やした事もあった。と、真凛はまたもやすっきりしない顔。 ﹁どうした。今までの説明でなんか問題あるか?﹂ ﹁いや、そうじゃないんだけど。⋮⋮それはスゴク地味な仕事、っ てことだよね?﹂ ああ、そういうことね。 ﹁そ。今日のメニューは地道な聞き込み、写真撮影、資料作りデス。 殺促術次期ご当主たる武術家の出番はないというワケですよ七瀬君﹂ ﹁⋮⋮がっくり﹂ 急速にテンションが下がりカップをかき回す真凛に、おれはコー ヒースプーンの先を向けて笑った。 ﹁ま、何事も経験だ。早く一人前になりたいんなら、まずは一通り の業務を覚えないと。OK?﹂ 実は所長の意向もある。最初のうちは苦手な仕事ほど場数を踏ま 525 せるべきなのだそうだ。そう言えばおれも最初は戦闘系の任務に参 加させられた気がする。真凛は口を尖らせたまま答えた。 ﹁はあい。らじゃーです﹂ ﹁ヨロシイ。早く仕事を覚えて正規スタッフになって、おれから独 立していっておくれ﹂ ﹁そう言われるとやる気なくなるなぁ﹂ ﹁なんか言ったか?﹂ ﹁ううん何も。それで、その亡くなった人って、事故、だったの? それとも⋮⋮﹂ ﹁いや。実はおれも昨夜の遅くにメールをもらったばかりだからな。 これ以上ツッコまれると⋮⋮と。丁度いいや。ここから先は当の指 揮官殿に説明してもらうのが一番早いだろ﹂ 聞き慣れたクラクションの音が響く。おれは窓の外に目をやり、 親指で指し示した。 ﹁今回の仕切りはあの人。おれがアシストで、お前は研修ってわけ さ﹂ ガラスの向こうには、ミニクーパーの運転席から顔を出している 須江貞チーフがいた。 526 ◆04:もう一組の﹃派遣社員﹄ ﹁事故で行方不明、ですか﹂ となかみ やすひこ 清音が米粒一つ残さず食べ終わった弁当をテーブルに置きそう答 えると、対面に座っている土直神安彦が、携帯ゲーム機から目を離 さないまま応じる。 ﹁そ。生きている可能性は低いだろうけど、ホトケさんはまだ見つ かってないのよ﹂ ﹁あ。というと、この間の板東山の崖崩れ?﹂ そうです、とこちらは背広を着込んだ穏やかな表情の中年男性が 答える。 ﹁その崖崩れに巻き込まれたと思われる方の消息を確かめ、必要で あれば将来の生命保険支払いに必要なレポートを作成するのが、今 とくだ しんいち 日のあなた方のお仕事ということになります﹂ 男の名前は徳田紳一。なんでも本社の正調査員で、今日の仕事の ためわざわざ東京から出張してきたのだそうだ。 ﹁生命保険では、災害による特別失踪の場合は一年後に正式に死亡 と見なされるのですが、時間が経てば経つほど立証が困難になりま すからね。証拠が消滅してしまう前に確証をとっておくわけです。 我々新興の﹃ウルリッヒ損害保険﹄が日本でお客様を獲得するには、 何よりサービス第一しかないのですよ﹂ 保険会社ウルリッヒ・グループ。 最近海外から進出してきた新興の保険会社で、生命保険や海上火 527 災自動車もろもろの損害保険をまとめて扱う大手である。 保険の原理は、﹁何かあったときのために﹂みんなが少しづつお 金を出しあい貯めておき、事故や病気、死亡など﹁何かあって﹂困 っている人に、そのお金で補償をするというものだ。これは感情面 を抜きにして考えると、ある意味でギャンブルの要素を含んでいる と言える。そしてギャンブルには、不正を監視したり、点数を判定 する審判役が必要となる。それが、徳田達のような調査員なのだっ た。衝突事故で、どちらにより過失があるかの判定、火事で燃えて しまった家が、いったい金額で幾らに相当するのかの計算、そして いわゆる保険金詐欺の調査。保険にまつわる幅広い業務を担当して いる。 そしてウルリッヒ保険のユニークなところは、この調査員として フリーの異能力者を雇っている事にある。調査の仕事が入ると、徳 田のような正社員が、保険会社に登録している清音達のようなエー ジェントをその案件ごとに雇うのだ。現在彼らは失せ物探し、現場 検証、あるいはヤクザとの示談に遺憾なくその力を発揮しており、 ウルリッヒは急速に日本国内でそのシェアを伸ばしてきている。 そして清音達が現在いるのは、埼玉と群馬の境に位置する地方都 市、元城市。この街を南北に縦断する国道17号沿いのマクドナル ド。徳田の要請により、土曜日の朝に清音達⋮⋮﹃ウルリッヒ損害 保険﹄所属の非正規調査員である三人はここに集まり、ブリーフィ ングを兼ねた早めの昼食を摂っているのだった。 ﹁あの事故の時はウチの学校でも休校になったり、結構大変でした﹂ 一月ほど前、この元城市の面積の大半を占める板東山で、トンネ ルの崩落事故があった。もともと長雨で地盤が緩んでいたところに、 長野を中心に発生した大地震がとどめとなったらしい。山の中腹で 発生した土砂崩れはそのまま板東川の流れる谷底へ向けて一直線に 滑落し、途中にある県道432号をわずか数秒で膨大な量の土塊の 528 下にうずめてしまい、同じく南板東トンネルを崩落させてしまった のである。県民にしてみれば十数年ぶりの大事件だったが、同日、 もっと大規模な土砂崩れが長野県で発生していたため、幸か不幸か 全国ネットにはほとんど流れることはなかった。余談だが、後日そ の長野の土砂崩れは人為的な手段で再度引き起こされ、某製薬会社 の研究所が押し流されることとなる。 ﹁規模自体は確かに小さかったのですが、こちらは人が一人行方不 明になっています﹂ そう言うと徳田は持参のスクラップブックを広げた。地元の新聞 の記事を切り抜いたもので、当日の土砂崩れについて克明に記され ているそれを、清音は眼で追った。 おだぎり つよし ﹁えーと、なになに⋮⋮。﹃先日の土砂崩れの後、機械メーカー ﹃昂光﹄社員、小田桐剛史さんの消息が不明となっていることが判 明した。小田桐さんは土砂崩れの発生した時刻、商用にて板東山に ある昂光の工場から車で出かけており、警察は小田桐さんが車で県 道を移動中、南板東トンネルの崩落事故に巻き込まれた可能性が強 いとして調査を進めている﹄。⋮⋮やっぱり巻き込まれたんですか ?﹂ それを確認するんです、と徳田。 ﹁その後の捜索で、崩落したトンネルの下を流れる板東川で乗用車 が発見されました。車種とナンバーから、小田桐氏の乗っていた乗 用車と断定されました。ところがここからが妙なところでしてね﹂ 次々と資料が並べられていく。ファンタジーの巨人が何発も殴り つけたように無惨に変形している乗用車だったスクラップ。改めて 土砂崩れの恐ろしさを思い知らされる。 ﹁車内に小田桐氏の姿はなかったんですよ﹂ なにやら妙な話になってきた。 ﹁土砂に流されて、車内から外にはじき出された⋮⋮とか?﹂ 徳田は首を横に振る。 ﹁車体は完全にひしゃげてしまっていましたが、ドアも窓も閉まっ 529 たままで、車内に土が侵入した痕跡はありませんでした﹂ 既に説明を受けていた土直神が後をつなぐ。 ﹁つまり、土砂崩れの時、小田桐って人はトンネルの近くに車を停 めて外に出ていたってことになるわけだあよ﹂ 清音は想像してみる。その会社員、小田桐氏とやらが車で県道を 運転している。理由はわからないが、トンネル側で車を停めて外に 出た小田桐氏。そこに唐突に起こる大地震、そして崖の上から迫り 来る大量の土砂。重くて頑丈な車は崖下の河へ流され、もっと軽い ものは抗うすべもなく⋮⋮。 ﹁じゃあ、その小田桐さんが今居るところは、﹂ ﹁一番可能性が高いのが、分厚い土砂の下、ってことだあね﹂ 清音はそれでようやく、朝早くに己が呼び出された理由に納得が いった。 ﹁ああ、それで私に声がかかったというわけですか﹂ ﹁まーねー。ウチの家はソッチ方面の能力は退化しちまったしよ。 今日の仕事は美少女貧乏巫女たる清音ちゃんの力を借りようと思っ ておいらが徳田さんに推薦したのよ﹂ ﹁貧乏は事実ですが余計です﹂ ﹁じゃあ美少女貧乳巫女﹂ ﹁貧乳も余計です!!﹂ ああそう、と清音の抗議をあっさりと聞き流しまた携帯ゲーム機 かざはや きよね に視線を落とした土直神を横目でにらみつけつつ資料に目を通し、 清音⋮⋮ウルリッヒ損害保険調査部門所属エージェント、風早清音 はなぜ自分がこんなことをしているのかという疑問について深刻に 考え込まざるを得なかった。 清音は埼玉県内のごく普通の公立高校に通う女子高生である。 あめのみはしら だが、彼女自身を﹃ごく普通﹄と呼ぶには多少無理があった。彼 女の家は奈良県の龍田神社の流れを汲み、天之御柱なる神を祭る由 530 緒ある神社で、彼女はその神に仕える巫女でもあるのだ。ところが この神社、由緒だけはあるものの、歴代の神主が軒並み商才に恵ま れていなかったらしい。清音が継承した時はすでに神社の修繕の費 用にもまともな資金が払えず、本殿の一部にはシロアリ一家が大帝 国を築いているという有様だった。かくして清音は神楽を舞う暇も なく、神社を存続させるため新聞配達にウェイトレス、道路工事と アルバイトに精を出す日々を送ることになってしまったのである。 ⋮⋮ある意味ではこれ以上もないほど神様に奉仕してはいるのだが。 転機が訪れたのは一年ほど前。バイト代でもいよいよ首が回らな くなり、水商売を本気で検討しなければならないか、いやいやそれ では本末転倒ではないか、と葛藤していた彼女の目に﹃ウルリッヒ 損害保険北関東支社オープン。調査員募集、高報酬をお約束します﹄ なる広告が飛び込んできた時からだ。それから彼女は、女子高生に して巫女にして保険調査員のエージェントという、普通とはほど遠 い生活を送るハメになったのである。 そして紆余曲折を経て今日も自分はこんなところにいる。決して 本意ではないのだが。 ﹁⋮⋮ほ・へ・と・ち!っしゃ!八連コンボ!全消しッ!!﹂ そんな苦悩する彼女をよそに、携帯ゲームを片手に快哉を叫ぶ青 年が、土直神安彦。彼も清音と同じウルリッヒ損害保険の調査員で あり、すでに何度か一緒に仕事をしたこともある。群馬県の在住で あり、北関東を中心に仕事を請け負っている。細身の体格に細い目、 童顔に見られるのを嫌って顎に無精髭を生やしているが、そもそも あまり髭が濃くないようであまり成功していない。こざっぱりとし た古着を好んで着込み、ファッションには彼なりのこだわりがある そうなのだが、正直なところ、良くも悪くも気のいい田舎の兄ちゃ んという印象が拭えていない。基本的には善人なのだが、なにかに つけてセクハラまがいの言動で清音をからかうのはどうにかならな いものだろうか。 531 ﹁よっしゃ今日こそはレベル85突破目指すー!﹂ 土直神がプレイしているのは、なんでもバラバラの水道管をつな げて水を流すとかいうパズルゲームらしい。が、清音が知る限り、 半年前から土直神はも延々とこれだけをやっている。どこが面白い のかと聞いたところ、水が流れる時の音が良いのだとか言っていた。 ふと気がつくと、当の土直神がこちらを見ていた。 ﹁それにしても、いくらなんでもソレはねぇんじゃねぇの清音ちゃ んよ?﹂ 何がです、と問い返す清音に、ソレだよソレ、と卓上の弁当箱を 指さす。 ﹁一応ここ、天下のマックなの。マクドナルドなのよ。ハンバーガ ーショップなのよ?おいらぁ二十年以上日本人やってるけど、マッ クに弁当持ち込む女は初めて見たよ?おかげで注目の的じゃんよお いら達﹂ 確かに周囲の客の視線は彼らの卓に集中している。だがそれは決 して自分のせいだけではない、と清音は声を大にして言いたい。い い年をした大人がさっきから携帯ゲーム機を前に絶叫してる光景も 充分に人目を惹くものである。 ﹁いいんです。ただでさえ今月は苦しいのに、お昼に五百円も使う 余裕はありませんから﹂ ﹁しかしおめぇこの空気のイタさはよぉ。⋮⋮ねーシドーさん、何 か言ってやってよ﹂ そう言って土直神は、今まで一言も発していなかった最後の一人 に声をかけた。 清音の隣、徳田の向かいにその﹁シドーさん﹂なる男は腰掛けて しどう くろうど いた。そしてまず間違いなく、店内の客の視線を集めている一番の 理由が、この男、四堂蔵人だろう。まず単純に、デカい。長身と言 うこともあるが、それ以上に骨の太さと筋肉の厚さ、そして居住ま いがこの男を大きく見せている。陳腐だが、﹃戦士﹄という言葉に 532 相応しい男だった。個性のない安物の背広とノーネクタイが、かえ って四堂自身の禍々しさを剥き出しにしている。日本人離れした彫 りの深い顔立ちも印象的だが、何よりも目を惹くのはその右目であ る。黒い左目に対して、右の目は酷い火傷を負ったかのように白く 濁っていた。四堂本人は意図しているのかどうか、その目を隠そう ともしない。その異相と体格が醸し出す威圧感は生半可なものでは なく、いわばマクドナルドに虎が一匹放し飼いにされているような ものだった。周囲の客は恐れつつも、かえって目を離すことが出来 ないという有様である。 そして一番の問題は、その食事量だった。マクドナルド期間限定 商品、メガマック。肉とバンズが塔のように積み上げられ、何か宗 教的な威容すら感じさせる巨大なハンバーガー。たいていの人が面 白半分で注文して、半分食べた時点で後悔するというそれを四つ、 卓の上に積み上げていた。先ほどから清音達の会話に一切混ざるこ となく、黙々と食事を繰り返していた。すでにそのうちの三つを食 い尽くし、最後の一つの攻略に取りかかっているところだ。四堂は 土直神の言葉に、黒い左目をぐるりと回し、一言ぼそりと呟いた。 ﹁腹﹂ ﹁⋮⋮腹?﹂ 脈絡のない言葉に、思わず清音と土直神が顔を見合わせてしまう。 ウェスト 四堂は渋々と口を開いた。もったいぶっていると言うより、どうや ら喋るのが面倒くさい性格らしい。 ﹁前回の任務で出会った時に比べ、彼女の胴囲は一.二センチ増加 している。彼女ほどの年齢の女性の相応の心理として、食事を制限 することで体脂肪を燃焼し、胴囲を縮小しようと考えているのでは ないだろうか。だから無理に高カロリー食を勧めるべきではない﹂ 淡々と、まるで機械が読み上げるかのように無感情に自説を披露 する四堂を、呆気にとられて土直神が見つめる。反射的に腹部を庇 った清音の姿勢は、根拠のない誹謗に対しての怒りではなく、明ら かに事実を指摘されたことによる狼狽だった。 533 ﹁⋮⋮あのさシドーさん。ウェストが増えたって⋮⋮わかんの?服 の上から﹂ 異な事を言う、と四堂が視線だけで語る。 ﹁相手の体格は戦いにおける貴重な情報源だ。初見でその程度の差 異を見破れなくては問題にならない﹂ いやそれ凄いんだけど、ある意味異能力だよと呟く土直神。ふと バスト 思いついた表情になり、余計極まりない事を聞いた。 ﹁んじゃあ、胸囲もやっぱり増えてるワケ?﹂ 四堂はじろり、と黒い左目で清音を見つめる。三秒ほどの沈黙の 後、やはり無感情に言った。 ﹁いや、増量は認められない﹂ 瞬間、超音速で飛んできた資料の紙束と弁当箱が、四堂と土直神 の顔面を直撃した。 ﹁ほっといてくださいっ!このセクハラコンビ!!﹂ ﹁⋮⋮食べ物を入れる箱を投げるのはよくな、﹂ い、の言葉を発しようとする四堂の口に、手裏剣のように飛来し たトレイが突き刺さった。 ﹁四堂さん!たまに口を開いたら余計なことしか言わないのやめて くださいっ!﹂ 顔を真っ赤にしたまま清音は勢いよく立ち上がった。それを契機 に、土直神と四堂、そして徳田もランチタイムは終わりとばかりに 立ち上がる。 ﹁ま⋮⋮、まあともかく。本日は皆様、よろしくお願いします﹂ この中では正調査員である徳田が、一行のリーダー格となる。清 音が丁寧に、土直神が鷹揚に挨拶を返し、四堂は一つ頷いた。 ﹁とにかく、まずは首根っこを押さえてしまいましょう﹂ 首根っことはなんだ、と視線で問う四堂に答えたのは、徳田では なく清音だった。 ﹁板東山のトンネルです。土砂の下に、⋮⋮その、小田桐さんがい るのかどうかの確認ですね﹂ 534 535 ◆05:墓掘り夫達の憂鬱 国道17号線を北上し、元城市に入る。 交差点を西に折れて道なりに三キロも進むと、すぐに板東山の裾 野にたどり着いた。そのまま山中へと伸びる道路をひたすらに登っ ていくと、やがてなだらかな、大きく拓かれた山の中腹に出る。 板東工業団地。 もともと板東山は、森にうずもれた小高い里山だった。その一部 を元城市が開放し、企業の工場や官庁の研究施設を誘致した一角が ここである。整然と舗装された二車線の道路、立ち並ぶ無個性だが 最新の建築物の数々。毎朝この工業団地に駅からの送迎バスや自家 用車で通う従業員は、実に一万人を越える。そしてこの一万人の昼 食をまかなう社員食堂や飲食店がある。小さいながらも医療施設や 消防設備、土地には事欠かないのでレクリエーション用のグラウン タカミツ ドもあり、まさに元城市の郊外に出現した、もう一つの小さな街と 言えよう。 その工業団地の一角に、機械メーカー﹃昂光﹄の工場はあった。 なんでもこの昂光、業界では超有名な精密機械装置のメーカーだそ うだ。精密機械装置と言っても種類はさまざまだが、要は化学や物 理の実験に使う装置の親玉のようなものを思い浮かべてもらえれば いい。ああいう装置の、はるかに大がかりで、はるかに精密性や耐 熱性が必要とされるものを、大企業や研究所から依頼を受けて作成 しているらしい。なんとアメリカの依頼でスペースシャトルの開発 に必要な装置を作ったこともあるのだそうで、﹃昂光の装置﹄と言 えば、産業界では絶対の安心と最高の性能と同義となっている。取 引相手が限られており、CMも流していないので一般人はほとんど 536 誰も知らないが、知る人ぞ知る、日本の優良企業の一つなのだった。 早朝に須江貞チーフのミニクーパーで東京を出発したおれ達三人 は高速道路で北上し、無事予定通りの昼前に今回の依頼人、昂光の 稲葉工場長と面会することが出来た。 ﹁街に出現するという幽霊は、その土砂に埋もれた御社の社員⋮⋮ 小田桐さんなのではないかとお考えなのですな﹂ 事情を一通り聞き終えて、須江貞チーフはそう結んだ。おれ達が いるのは、工場の一角にある事務棟の応接室。実用性重視のソファ ーに、チーフ、おれ、真凛が腰掛けている。今日は休日のため工場 は稼働を停止しているが、わざわざおれ達に会うために工場長自ら が出勤してくださったのだとか。 ﹁ですが何故また、幽霊が小田桐さんだと思われるのでしょうか﹂ とつとつとした口調のチーフ。うちの男連中のしゃべり方は、ど うも皮肉っぽくなってしまうおれ、キザったらしい直樹、声がデカ イだけの仁さんと、揃いも揃ってロクでもないのだが、おれ達の上 に立つチーフはというと、少々気怠げなことに眼をつぶれば、真面 目過ぎるほどに真面目な口調だった。いつものとおりのくたびれた 背広姿ではあるが、胡散臭さが少ないのは多分ここら辺にも由来す るのだろう。 ﹁行方がわからないのは確かですが、まさかそれだけで幽霊の正体 だと決めつけるわけはいかんでしょう。⋮⋮と、灰皿ありますか?﹂ ﹁すいません、ここは禁煙なので﹂ 工場長の控えめなダメ出しに、しぶしぶ懐から手を離すチーフ。 最近は各社の応接室でも禁煙が進んでおり、実に結構なことである。 工場長は話を続けた。 ﹁厳密に確かめたわけではありませんが、元城市で初めて幽霊騒ぎ があったのは、土砂崩れが発生して小田桐が行方不明になってから 数日後のことだったようです。それまでは市内でも、この工業団地 の中でも、幽霊を見たなんていう話は全くありませんでした﹂ ふむ。偶然にしては出来すぎているってことか。 537 ﹁今はこの工業団地の食堂でも、元城市内の飲み屋でもこの噂で持 ちきりなんです。で、その目撃した人の話をまとめていくと、どう もウチの小田桐に似ているような気がしてならんのですよ﹂ ﹁ご本人の写真なんかありますかな?﹂ 事前に準備していたのだろう。工場長は手元のファイルから一枚 の写真を取りだした。おれと真凛は横から覗き込む。そこに写って いたのは、三十代後半から四十歳くらいの、頑健そうな壮年の男だ った。学生時代はラグビーをやっていました、てな感じのがっちり した体格。癖の強そうな髪を整髪料で固めてオールバックにしてい る。太い眉、大きなあご、そして何より、強い意志を感じさせる眼。 本物のエリート・サラリーマン⋮⋮企業内でどんどん出世していく タイプ。おれが抱いた印象はそんなところだった。 ﹁背筋を伸ばして肩で風を切って歩きそうな人ですね﹂ おれの冗談交じりの言葉に、工場長は苦い笑いを浮かべる。 ﹁その通りです。私と彼が並んで歩いていると、若い彼の方が上役 に見られることもありましたよ﹂ さもありなん。こちらの工場長は、どうみても人の良いおじさん としか思えない。 ﹁ところで、あなた自身は実際にその幽霊を見たんですか?﹂ チーフの質問に、工場長は脅えたように首を振った。 ﹁私は見た事なんてありません。見たくもない。ですけど、私の友 人は実際に見たそうなんですよ。夜に元城の駅前で一杯引っかけま してね。ほろ酔い気分で帰ろうと思ったら、駅のタクシー乗り場の 前にね、なんか背広姿の男がじっと立ってこっちを見つめているん だそうです﹂ 夜だったので顔も良くわからない。だがなでつけられたオールバ ックと、がっちりとした体格、伸びた背筋などが強く印象に残った のだという。その人はなんとなく不気味に思いつつも、ようやくや ってきたタクシーに乗り込み⋮⋮そして、車内からもう一度駅前を 見たとき、その男の姿は影も形もなかったのだという。こんな話が 538 今、元城市のあちこちに転がっているのだ。 ﹁その友人は長年市の職員をつとめている物堅い男でして。いくら 酒が入っていたとは言え、ホラを吹いたり見間違いをするような事 はない、と私は思っています﹂ ﹁ふぅん。﹃出るだけ﹄の幽霊かあ﹂ ペンをつまんだまま首をひねる真凛。ちなみにこいつ、実家で書 道も仕込まれたとかで、字面そのものはやたらと上手かったりする。 だがせめて幽の字くらいは漢字で書け。 ﹁では、質問を変えさせてください。その小田桐剛史さんというの は、どんな方だったのですかな?﹂ ﹁⋮⋮優秀な、そう、優秀な男でしたよ﹂ 言葉を選ぶように、工場長。 ﹁もともと彼は外資系の商社からの転職でしてね。海外との強い人 脈を見込まれて営業部門に入社しました。それまでは海外の市場は ドイツやアメリカの競合メーカーに握られていたのです。日本国内 にしか販路の無かった我が社の機械が、アジアを中心として世界に 広く普及するようになったのは、間違いなく彼の功績です﹂ ﹁仕事の出来る人と言うことですな。ご結婚はされておられるので すか?﹂ ﹁三年前に取引先の社長の紹介のお見合いで結婚しました。結婚を 機に元城駅前のマンションを引き払って群馬県に自宅を購入して、 去年子供が産まれたばかりだったのですが⋮⋮。運が悪かったので しょうか﹂ 仕事に家庭にマイホームか。絵に描いたような順風満帆のサラリ ーマン人生、非の打ち所も見あたらない。しかし突然予期せぬ不幸 が訪れる。事故当日、度重なる大雨の中、小田桐さんは車で工場を 出かけたのだそうだ。もともと普段からあちこちの取引先を営業で 飛び回っており、席に居ることの方が珍しい人だった。だから社内 でも、すぐには事故に巻き込まれたとは気づかなかったらしい。翌 日になっても出勤せず、電話も繋がらないという事態になってから、 539 もしかしたらと思ったのだそうだ。 ﹁しかし、まだ小田桐氏は見つかっていない﹂ ﹁はい。当然捜索願は出して、警察の方にも国道から板東川にかけ て一通り捜索してもらいました。ですが結局、遺体は見つからず、 一旦捜索は打ち切りになりました﹂ ﹁車は見つかったんですよね?﹂ ﹁はい。しかしそれが問題でして。先ほど申し上げたとおり、引き 上げられた車には小田桐は乗っていませんでした。警察は、もしか したら小田桐は土砂崩れから車を降りて逃げたのかも知れないと考 えているそうです﹂ つまりは、﹃普通の﹄行方不明であり、災害には巻き込まれてい ないかも知れない、と言うことか。今後の明確な方針が定まらぬま ま、より地中深いところにあるのかもしれない小田桐氏の遺体の捜 索の予定は立っていないのだそうだ。 ﹁それで、私をお呼びいただいたと言うことですね﹂ チーフは己の右腕にわずかに左手を添える。実は今回のお仕事の 依頼は、どちらかと言えば人材派遣会社フレイムアップよりも、こ ちら関係のお仕事ではそれなりに評判のある、須江貞俊造個人を指 名しての依頼なのであった。もっともそうでもなければ、この人が 前線に出張ってくるような事は滅多にないのだが。 ﹁そうです。⋮⋮その、あなたは、霊がいるかどうかを確かめる事 が出来るとか﹂ ﹁もちろん法的な証拠にはなり得ませんよ﹂ そう、﹃私の霊能力で交信しました。小田桐さんは間違いなく死 んでいます﹄なんて警察署で供述でもしようものなら、ヘタすれば 警察からそのまま病院に搬送されかねない。 ﹁かまいません。そこで小田桐が死んでいることがわかったのなら、 たとえ我が社が費用を負担してでも土砂を撤去します。この業界で のフレイムアップさんの評判は伺っておりますから、法的な証拠に はならなくとも、上を説得する材料にはなるのです﹂ 540 なるほどねえ。確かに筋は通っているが。おれはちょっと口を挟 みたくなった。 ﹁一つ質問してもいいですか﹂ ﹁何でしょう?﹂ ﹁いえ。小田桐さんの死亡が確認できた場合は今の話の通りでいい んでしょうが。確認出来なかったら、どうすればいいんでしょう?﹂ おれの質問に、工場長は面食らったようにも思えた。 ﹁その時は、改めて街に出る幽霊の正体を調べて下さい。それが順 序でしょう﹂ ﹁そうですね﹂ おれは出してもらったお茶をすすった。 その後、工場長と具体的な経費や期限その他の細かい打ち合わせ を行った。今回おれはチーフのアシスト兼、真凛の研修担当みたい な立場なので、チーフの交渉の条件を真凛にメモさせてそれをチェ ックする、なんて事をしていた。これは後々任務報告書の作成に必 要なスキルなのである。そして昂光の工場を辞して三人で駐車場へ 戻る途中、チーフがゴールデンバット︵多分今日本で買えるうちで はもっとも安いタバコ︶に火を付けながらおれに問うた。 ﹁⋮⋮で。どう思う、亘理?﹂ ﹁どう思う、真凛?﹂ おれは飛んできた質問を華麗に横パス。 ﹁は?え!?何を?﹂ 不意打ちを受けた真凛がうろたえる。ったく、気構えのなってな い奴だなあ。 ﹁さっきのチーフと工場長との話し合いだよ。何か気づいたことは なかったか﹂ ﹁ええ!?気づいたこと⋮⋮?﹂ 541 実際のところ、真凛が答えられるとは思っていない。まあ、ちょ っと意地悪なレクチャーである。こういうところでただ依頼人の話 を聞くだけでなく、観察眼を発揮できるようになると、今後何かと 仕事が進めやすくなるワケだ。 ﹁わからんか?じゃあ答えは︱︱﹂ ﹁えっと。同じ会社の人が死んだにしては、工場長さん、ちょっと 冷たいんじゃないかなあと思った﹂ おれは口を﹁は﹂の形に開いたまま、間抜けに硬直してしまった。 真凛はそれにも気づかず、メモを取った手帳に目を落とし、自分の 考えをまとめなおすように説明をする。 ﹁小田桐さんは行方不明だけど、まだ土砂に埋まったとも、死んだ とも決まったわけじゃないんだよね。そんな人の幽霊が出たんだっ たら、普通、同じ会社の人なら﹃生きているかも知れないから確か めたい﹄とは思っても、﹃死んでいるかどうか確かめて欲しい﹄な んて言わないと思う。そこがヘンだと思ったんだけど⋮⋮。ハズレ、 かな?﹂ ﹁⋮⋮いや。当たりだ﹂ 正直、驚いた。生物ってのは知らぬ間に進化するもんである。 そう、工場長の態度は明らかにおかしかった。仮にも自分の部下 である。例え彼が部下の面倒など一切見ない冷徹な性格だったり、 日ごろ小田桐さんの事を嫌っていたのだとしても、仕事中に自分の 部下を死なせたとなれば責任問題になる。間違っても﹁死んでいて くれ﹂などと考えるはずはないのだが。 ﹁鋭いな真凛君は。この仕事、ひょっとしたら単なる幽霊騒ぎでは 終わらないかも知れんよ﹂ ゴールデンバットを吹かしながらチーフ。工場長との会話時に比 べると若干テンションが高い。つくづくこの人の脳細胞はニコチン で回転しているのだと思う。 ﹁もう君がうちに来てから半年経ったのか。早いもんだな﹂ ﹁すいません、仕事おぼえるのが遅くって⋮⋮﹂ 542 ﹁全然そんなことはないさ。むしろ早いくらいだ。亘理なんか独り 立ちするまで一年以上も手間がかかったからなあ﹂ ﹁ええ?そんなに⋮⋮すごかったんですか?﹂ 真凛がおれとチーフの顔を交互に見やる。ンだよこの野郎。 ﹁それはもうアシスタント時代のこいつと来たら、生意気だわ口答 えするわ人の言うこと聞いたフリして全然従わないわでね。前に﹃ 野沢菜プリン事件﹄てのがあってそん時の亘理は、﹂ ﹁ところでチーフ﹂ ﹁何だ亘理﹂ ﹁この敷地内、全面禁煙です﹂ ﹁⋮⋮﹂ チーフはまだ半分近く残っているゴールデンバットをしばし見つ めると、悲しそうに携帯灰皿にねじ込んだ。なんだか悪いことをし たような気分になるのは何故だろう。 ﹁とにかく、これで最初の方針は決まりましたね﹂ やや力技で会話の流れを変えて、おれは駐車場の柵に大きく身を 乗り出す。その下にはなだらかな下りの斜面が広がっており、山の 裾野と元城市を一望することが出来た。 ﹁まずは現場検証から、だな﹂ チーフの言葉に頷く。おれの視線のずっと先には、山の裾野をぐ るりと囲むように伸びる国道432号線。そしてその道路に斬りつ けるかのように、今なお大きく鋭い土砂崩れの傷跡が残っていた。 グレイヴディガー 土砂の下には何があるのか、あるいは何もないのか。確かめること で、何かがわかるはずだった。 ﹁それにしても、土曜のお昼に墓掘り人をやらなきゃならんとはね ぇ﹂ 誰にともなく、おれは皮肉を込めて呟いた。 543 ◆06:山を登る。 本当の顔が欲しいのだろう、と奴は言った。 本当の顔、とはどういうことですか、と鸚鵡返しに問い返す私に、 グラース Третийглаз トゥリーチィ の長たる奴は、この私からしても最悪 奴は実につまらなさそうに﹁言葉通りの意味だ﹂と告げた。 の部類に属する人間だった。いや、本当に人間なのか。私は奴を何 度となく殺してやろうと思い、その度に脳裏で思いつく限りの惨た らしい殺害方法を妄想した。それらを実行しなかったのは、もちろ ん良心が咎めたからではない。単に出来なかったからである。それ ほどまでに、私は奴に畏怖を抱いていた。 ところが、その相手が唐突にそんなことを言いだしたのである。 弱者への施しではない。対等な取引でも無論ない。恐らくはおぞま トレード オーダー しい契約。下級悪魔が踊り出しそうな、こちらの弱みにつけ込んだ、 交換の皮をかぶった一方的な命令のはずだった。サインをすれば、 比喩表現ではなく、本当に命を捧げることになるだろう。それなり に修羅場を潜って培われた私の直感が、全力で﹃否﹄と警告してい た。わかってはいる。⋮⋮だが。 欲しいのだろう、チャンスをやる、と奴は言った。 図星だ。 私は何としても、本当の顔が欲しい。 そう、私には顔がなかった。正確には、失ったのだ。いや、もっ と正確には。 544 奪われたのだ。 顔というのは不思議なものだ。それは、私が私であるという証明。 顔を失ったとき、私は私ではなくなった。私であることを証明で きなくなってしまった。 その後、確かに別の顔を手に入れた。だがそれは、﹃私の顔﹄で はない。 だから、私は私に戻れなくなった。今までの人生で積み上げてき た﹃私﹄が、消えて失せたのだった。 いや。消えて失せるだけなら受け入れられたかも知れない。それ は﹃死﹄だ。 私は強欲だった。少なくとも、それを自覚している。強欲であれ ばこそ、人生というゲームに果敢に挑んだ。強欲であればこそ、可 能な限り楽しんだ。強欲であればこそ、﹃死﹄というゲームオーバ ーへの覚悟も出来ていた。 だが、﹃私﹄は奪われたのだ。私が積み上げてきたものも、全て。 それだけは。断じて受け入れるわけにはいかなかった。 強欲であればこそ、奪われることは許せない。 権力の階段を駆け上がるものが道を踏み外したとき、登った段の 数だけ落下の痛みは増す。私は﹃私﹄でなくなった後、地の底を這 いずるように生き延びてきた。堕ちた誇りを抱え闇に生きる私⋮⋮ いつしか私の生き続ける理由は、一つに収斂していった。 本当の顔を奪り返す。 奴は私に、その機会をくれるという。 545 拒む理由は、なかった。 命をかけることになるだろう。だが、一度は失敗し、泥にまみれ、 ﹃顔﹄を︱︱全てを失う事になった、あの事件に。 そして︱︱私の顔を奪ったあいつに報復が出来るのなら。 再び、私の本当の顔を、奪り返せるのなら。 そのためなら、何だってやってやる。だから、私は。 奴の契約に乗ったのだ。 板東山を北から切り裂くように流れ、元城市へ向けて注ぐ板東川。 なんでも室町時代の文献には既に登場しているほど由緒正しいこの 川は、上流と下流で大きくその姿が異なる。 元城市内を流れるエリアでは洪水に備え、格子状のコンクリート により整然と護岸工事がなされている。だが、上流へ遡り、板東山 も中腹あたりまでやってくると、整備されていない剥き出しの川原 が広がっているのだった。清音達四人は、その細い川原を歩き続け ている。先に進むにつれ、砂は砂利になり、石は岩になる。現在彼 女たちがいるのはもはや、川原と言うより岩場だった。無数に転が る岩と石。突き出た流木とガレキ。それらの隙間を埋め尽くす砂利 と土砂を踏みしめ、ひたすら上流を目指すこと、かれこれ一時間。 大きめの岩に足をかけ、一気に身体を引き上げる。その拍子にバ ランスを崩しそうになるが、とっさに横に張りだした太い木の枝を つかみ、どうにか身体を支えた。清音は岩の上に立ち、大きく息を 吐く。 546 ﹁⋮⋮どうやら、着いたみたいですね﹂ そこに広がっていたのは、清流を堰き止めるように横断する、膨 大な土砂の塊だった。一月ほど前、急角度の斜面から滑ってきた土 砂の塊は、道路とトンネル、そして斜面に生えていた無数の樹木を 呑み込みながら落下し、この地点で板東川と衝突したのだった。当 然板東川は堰き止められ、一時はここら一帯が溢れた水でずいぶん 酷いことになったらしい。その後の復旧活動でどうにか最低限の土 砂は除けられ、水が流れるようになったものの、そこで作業は一旦 打ち切りとなってしまっていた。もしも小田桐氏が流されているの ならば、ここが一番確率が高いはずだった。 ﹁予想はしてたけど、これは想像以上にひどいですね﹂ 惨状を一通り把握すると、清音は岩の上に座り込み、背負ってい たバックパックを下ろす。修行のためと称して割と本格的な山ごも りをさせられた経験もある清音だが、さすがに岩場を登り続けるの は疲れた。 ﹁これは、完全に、トレッキングですねえ﹂ その清音の後ろを背広姿で息を切らしながらついてきたのは徳田 だ。すでに膝にきているようで、その様は岩を登るというより這い 上がると言った方が正しい。清音は手を貸して、徳田を引っ張り上 げてやった。もともとウルリッヒの正社員とはいえ、彼はあくまで 一般人にすぎない。本来はここまで着いてこずとも、会社の支店に 待機して清音達の報告を待っていれば良いはずなのだが。 ﹁はぁやっと着いた。まったく、お客様へのサービスというのも楽 ではありませんなあ﹂ 職務熱心と言うべきなのだろうか。元城市を車で川沿いに北上し て板東山中に入り、行けるところまで進み、そこから徒歩で一時間 というこのハードな行程に、結局最後までついてきてしまった。 ﹁じゃあちょうどいい区切りですし、仕事に取りかかる前に休憩に しましょうよ﹂ 清音はバックパックを開いて中から水筒と紙コップを取りだし、 547 二人分の麦茶を注ぐ。徳田は恐縮恐縮と手で拝む真似をしつつ、麦 茶を飲む。清音も自分の分に手を伸ばす。 ﹁お、清音ちゃん気がきくでないの﹂ 横合いからひょいとその紙コップを取り上げたのは、いつの間に か清音達に追いついていた土直神だった。そのまま清音が止める間 もなく飲み干してしまう。 ﹁ウム。ンマイ﹂ ﹁ちょっと!飲むなら自分の飲んでくださいよ﹂ ﹁おいら水筒持ってないもんよ﹂ ﹁それだけ荷物に余裕があったくせに何言ってるんですか﹂ 大きめのバックパックを背負った清音とは対照的に、土直神は集 合したときの服装そのままで、カバン一つ持ってはいない。それど ころか、呆れたことに片手に未だ携帯ゲーム機を持ったままである。 石の上や川の中に落とせば一巻の終わりだろうに、一向に本人は気 にする様子がない。 ﹁だっておいらぁシティボーイよ?そんな清音ちゃんみたいなセン スのない装備は出来ないじゃん﹂ 確かに清音の今の服装は、高校指定の運動用の分厚いジャージ上 下だった。センスを云々する以前の問題だが、清音にしてみればせ っかくの私服を、誰に見せる必要もない山奥の仕事で汚したり破い たりする気にはなれない。洗濯代というのはバカにならないものな のだ。 ﹁⋮⋮いいですけどね別に。本番ではちゃんと着替えますし。とこ ろでシティーボーイってどういう意味ですか?﹂ ﹁知らんの?そんなんだから田舎モンって呼ばれるのさ清音ちゃん はあ﹂ もちろん清音には、彼女が生まれる前にとっくに死語になった言 葉などわかるはずもないが、少なくとも時々買い物に出かける都内 でシティーボーイという言葉を聞いた記憶はなかった。残りの紙コ ップを取りだして麦茶を注ぎなおす。今となっては癪だが、最初か 548 ら四人分注ぐつもりだったのだ。 一方の土直神はと言えば、携帯ゲーム機からタッチペンを引き抜 くと、清音達の腰掛けている岩に触れ、なにやら小さな円を描くよ うな仕草をしている。 ﹁⋮⋮﹃仕込み﹄ですか、土直神さん?﹂ ﹁ああ。仕事には入ってないけど、こういうのを見ちまうとクセで ね。しかしこりゃあひっでえなあ。脈がぐっちゃぐちゃだ﹂ ぶつぶついいながらあちらこちらの岩や地面にタッチペンで細工 をし始めた土直神から視線を外し、清音はようやく人心地を取り戻 したらしい徳田に話しかける。 ﹁徳田さん。すみませんが、小田桐さん⋮⋮土砂に埋まっているか ・・ も知れない方について、もう少し詳しく教えてもらえませんか。何 も情報がないと、お話が出来ませんし﹂ ﹁は?ええ。私などで分かることでしたら ﹁では。家族の事をお願いします。たしか三年前に結婚されて、子 供も生まれたんでしたっけ?﹂ 徳田は背後のカバンに向き直り、書類を取り出す。 ﹁そうですな。元々はお見合い結婚で、取引先とのパイプを強化す るという意味合いが強かったのですが、そういう事を抜きにしても 実際、非常に美人で気だての良い奥さんで、近所でも評判だそうで すよ﹂ ﹁ご夫婦の仲は良かった?﹂ ﹁ええもうそれは。地元の方によると、御主人の方は物静かで控え めな性格なのだそうですが、記念日や奥さんの誕生日にはプレゼン トを買って早く帰る、連休ともなれば揃って温泉、小旅行に出かけ るという仲睦まじさだったそうです。一応ウルリッヒでも事前調査 をしたのですが、群馬にある自宅の周りでは、ご近所から悪評どこ ろか妬みそねみの類もほとんど聞かれませんでした﹂ ﹁ふえー﹂ 清音はそれ以外にコメントのしようもない。清音のイメージする 549 夫婦像の九割は、町内会の寄り合いで開かれる奥様方の井戸端会議 に依るものである。 ﹁そして昨年子供が誕生。長男ですね。いやはや、全てを手に入れ た幸せな人生、と言うべきですかねェ﹂ うらやましいものです、と徳田は遠い目をする。 書類には奥さんの名前や長男の名前もあった。清音はあくまで徳 田のチームに派遣された臨時メンバーに過ぎず、小田桐氏が行方不 明になった後、この人達が今どれほどに悲嘆の底にあるかを直接知 る立場にはない。もしも小田桐氏が生きているのだとしたら、何と しても会わせてあげたいものだ。と、思考に没頭する清音に、徳田 が遠慮がちに紙コップを差し出す。 ﹁すいません、麦茶もう一杯いただけますか﹂ ﹁あ、どうぞどうぞ。そうだ、四堂さんも飲みます?﹂ 清音は背後に声をかける。最後の一人が、やはりいつの間にかそ こにいた。 この一行において、しんがりを務めているのが四堂だ。徳田と同 じ背広姿だが、猫科動物めいたしなやかな巨体はこの山中に完璧な までに馴染んでおり、まさしく密林に放された人喰い虎のごとく。 足音すら立てず、無造作に足場の悪い河原を踏破している。マクド ナルドを出てから一時間近く、ここまでほとんど口を開いていなか った四堂だが、軽く手を振ると、麦茶には口をつけずぼそりと言っ た。 ﹁近くに複数人の気配がある﹂ ﹁え?﹂ 清音と徳田は顔を見合わせた。復旧作業もすでに打ち切り、警察 の現場検証の予定もないはずだ。 ﹁気配って⋮⋮この現場にですか?﹂ うなずく四堂。その視線は土砂崩れの落ちてきた方向に広がる森 の中に向けられている。 ﹁まさか山菜採りの人でも紛れ込んだとか﹂ 550 ﹁あるいは、上の県道は復旧していますから、もしかしたら興味本 位の野次馬が崖を覗き込んで、そのまま滑り落ちてきたのかも知れ ません﹂ ﹁いずれにしても迷惑な話ですね﹂ ﹁では、警戒に当たる﹂ そこで用を足してくる、と聞こえかねないほどの何気ない口調で 踵を返すと、巨体をひらりと岩の下へと踊らせる。 ﹁あ、ちょっと四堂さん、﹂ 止める間もなかった。両手に何も持たない背広姿のまま四堂は岩 場を降り、斜面へと続く森の中へと溶け込むように入っていってし まった。 ﹁行っちゃいましたなあ⋮⋮﹂ ﹁今回は戦闘系の四堂さんの出番はなさそうですからね。あの人の 事だから、﹃少しは働かないと給料をもらう資格がない﹄とか考え ているんじゃないですか﹂ ﹁職人気質なんですな﹂ ﹁まあ⋮⋮ある意味では﹂ 清音は言葉を濁した。四堂が普段請け負う仕事の内容を考えると、 確かにこれ以上ないほどストイックな職人と言える。徳田の麦茶が 空になっているのに気づくと、清音はよし、と呟いて、両の手を打 ち鳴らした。 ﹁さて。じゃあ徳田さん。私も自分の仕事を始めちゃっていいです か?﹂ 紙コップをしまい、いくつかの道具が詰まったリュックを引き寄 せる。心得顔の徳田が、恭しく一礼した。 ﹁よろしくお願いします、﹃風の巫女﹄。ああ、土直神さん。着替 えの間、我々は後ろを向いていましょうね﹂ ﹁ちぇー。そこはおいらがボケてからツッコんで欲しかったッスよ﹂ つまらなそうに、土直神が口を尖らせた。 551 552 ◆07:遭遇−encounter!− ﹁∼∼∼∼ぁいでででででででっ!!﹂ 二十メートルの高さから、地肌が剥き出しの急斜面を一気に滑落 する。なかなか得難い経験ではあるが、もちろん、好きでやってい るわけではない。 ﹁陽司!手を離すと死ぬよ!?﹂ 上から響く真凛の声。おれは矢も盾もたまらず、斜面に垂らされ た一本の縄︱︱ワンアクションで縄バシゴや多節棍にも変形する万 能縄バシゴ﹃ハン荷バル君﹄を必死でつかみなおす。落下で加速さ れた体重が衝撃となって、腕、肩、掌に一気にのしかかった。掌に 線状に走る熱い感覚。 ﹁がががっ⋮⋮って、お、落ちる!落ちる落ちる!!﹂ とっさに斜面に足と膝をついて踏ん張るが、砂と土の脆い斜面は 容易く崩れ、おれはさらに下へと滑り落ちてゆく。そのままさらに 十メートルほど滑落し、 ﹁ぐがっ!﹂ 盛大に尾てい骨を打ったところで、ようやくおれは一番下に辿り つくことが出来た。と、追いかけるように落ちてきた砂と小石が、 シャワーとなって顔面に降り注ぐ。 ﹁ぶぇっ!﹂ 口に入った砂を吐き出し、天井を遮る枝のカーテンの向こうに眼 をこらす。崖の上、つまり先ほどまでおれが居た県道432号沿い のガードレールから、真凛がひょいと顔を出し、声を張り上げる。 ﹁生きてる∼!?﹂ ﹁⋮⋮ああ。何とか大丈夫だ∼!﹂ 553 こちらも声を張り上げて手を振る。 ﹁⋮⋮びっくりしたよ∼!。そんなくらいで足を滑らさないでよ∼ !﹂ お前の基準で物事を判断するんじゃねーよ∼、と叫ぼうとして砂 を吸い込んでしまい、おれはむせた。三十メートルの急斜面をロー プ一本︵安全ベルトなし︶で降りるのは、救命レンジャーや軍人さ んのお仕事である。運動嫌いの学生にはいささかハードルが高すぎ るというものだ。ああくそ、ジャケットがボロボロになっちまった。 ﹁お∼い!俺達も行くから、しばらくそこで待っていろよ∼!﹂ 降り注ぐチーフの声に、﹁了解∼!﹂と返事をして、おれは尻を さすりながら立ち上がった。ちくしょう、掌の皮がひどいことにな ってやがる。 発生した土砂崩れは県道432号を横断し、そのまま下の森まで 流れ込んだという。最も遺体が埋まっている可能性が高いポイント に向かうには、一度街まで戻って板東川を数時間かけて登るか、あ るいは直接、県道の事故現場から崖を降りるかのどちらかしかない。 結局、おれ達は﹃ハン荷バル君﹄だのみの逆ロッククライミングに 挑戦することにしたのだった。 ﹁沢登りなんぞ時間がかかって疲れるからイヤだ、と主張しやがっ た阿呆は⋮⋮おれか、くそ﹂ ここまで斜面が急だとは思っていなかったんだよなあ。 改めて周囲を見回すと、そこは完全な森の中だった。本来は人が 歩くのはかなり難しいのだろうが、土砂崩れに切り裂かれた箇所が、 一本の道となって緩やかに坂の下へと続いていた。真凛達が追いつ いてくるまではやることもない。何の気無しに森の奥に目を凝らし ていると、不意にがさり、と木々が鳴った。ネズミや蛇じゃあない。 猿や犬、よりもさらに大きい。⋮⋮おいおい。熊は勘弁して欲しい ぜ? と、敵意の無さを示すかのように森の奥から姿を現したのは、熊、 ではなく、安っぽい背広姿の一人の男だった。ただしその体格は、 554 熊と見間違えそうに大きい。男もおれに気づいたようで、しばし視 線が交錯する。 片や、カジュアルな格好。片や、背広姿。どちらも荷物らしい荷 物は持っていない。少なくとも、人気のない山奥の森で遭遇する相 手ではなかった。 ﹁自殺志願っすか?こういうところで首を吊ると地元に迷惑がかか るから︱︱﹂ ﹁学生か?ここはまだ崩落の危険がある。沢伝いに街へ︱︱﹂ おれ達は互いに言葉を交わそうとし。 ︱︱そこで。 ようやく互いの正体に気づいた。 ﹁⋮⋮ワタリ。貴様、あのワタリ⋮⋮か?﹂ ﹁まさか⋮⋮シドウ。シドウ・クロードか?﹂ すでに正午を過ぎて、晴天に陽は高く。だが鬱蒼とおい茂る森の 枝に遮られ、光はほとんど届かない。土砂崩れの傷跡を吹き抜ける 風が、葉を枝を、ざわざわとかき鳴らした。 物陰でバックパックから取り出した小袖と緋袴に着替え、シャン プーの宣伝にも出られるよと友人達からお墨付きをもらった自慢の 黒髪を水引で束ねる。それだけでごく普通の女子高生は、霊験すら 匂わす巫女となっていた。そのまま清音は楚々と進み出で、現場、 つまりは土砂の崩れた場所に降り立つ。 ﹁本来なら巫女というものは神社にあってこそ巫女なのですけれど 555 も﹂ 巫女というものにも様々あるが、もっとも一般的な﹃巫女さん﹄ は、神様に奉仕する存在である。その神様が神社におわす以上、巫 女が巫女として活動するのは、通常は神社の中だけだ。 ﹁ウチは人が足りませんので﹂ 嘆く清音。つまりは、一人で何でもやらなければいけないと言う ことだ。神楽からお賽銭の管理、託宣、お祓い、悪霊退散等々。 次に清音が取りだしたものを見て、徳田が驚きの声を上げる。そ れは、何枚かの微妙に反った板だった。いずれも細長い。材質はそ れぞれ異なり、アルミ合金、カーボン、それに竹で出来ているもの もある。道具と言うより機械のパーツを連想させるそれは、 ﹁もしかして、弓⋮⋮いや、アーチェリーの部品、ですか?﹂ 頷く清音。そう、それは確かにアーチェリーの弓。正確にはリカ ーブボウと称されるものだった。弓道で使われる和弓とは異なり、 パーツごとに分解して持ち運べるという利点がある。清音は慣れた 手つきでパーツを接続し、ボウを組み立ててゆく。 ﹁しかし⋮⋮巫女さんが、アーチェリー、ですか?﹂ ボウ 徳田の疑問も無理はない。事実、巫女さんが和弓ならともかく、 洋弓を構えている姿はミスマッチこの上なかった。清音ははぁ、と 遠い目をする。 ﹁本当は、神社に代々伝わる御弓だったんですよ。でも、折れてし まいまして﹂ ﹁高校の後夜祭で酔っぱらって石段踏み外して、尻餅でへし折った んだよなー﹂ 茶々を入れる土直神。 ﹁ほっといてくださいよ!で、結局、洋弓に再生することにしたん です﹂ そう言って清音が指した弓の上端と下端の部品は、よく見ると確 かに、和弓のそれを切り離したものだった。 何しろ先祖代々の御弓は取り替えのきくものではないし、かとい 556 って折れた弓はどう接着してみても、とても実用に耐えられるもの ではない。試行錯誤の末、高校のアーチェリー部の顧問と商店街の スポーツ店と町内の鉄工所の協力を得て、折れてしまった胴部を切 除し、鳥打から上をアッパーリムに、大越から下をロウアーリムに、 ストリング それぞれカーボンで補強を施して仕立てた。これをアルミ合金から 削りだしたハンドルに接続し、アラミド繊維の弦をかける。ついで にスタビライザーとVバーもセット。こうして風早の神社に代々伝 わる不浄祓いの霊弓は、最新技術を詰め込んだものごっついアーチ ェリーへと魔改造を施されたのであった。ちなみに経費は月賦五年 払いである。 ﹁まあ、見てくれは巫女らしくありませんが、ちゃんと祭具として は機能しますし﹂ ドローイング フォーム すいと背筋をただし、大の男でも引くのが難しい強さの弓を、流 れるように引き分け。筋肉ではなく姿勢で引く、理想に近い射姿だ った。 そのまま矢をつがえずに左手を放すと、キャン、と鋭い音を立て て弦が鳴った。 ・・ ﹁和弓より、こちらの方が何かと使い勝手がいいんですよね。とく に実戦では﹂ つる 物騒で清楚な微笑を浮かべ、清音はそのまま繰り返し矢をつがえ ずに弦を引き、放す。東北を向いて弦打ち。次に西南を向いてまた 弦打ち。そして東西南北、四方へと。鋭く甲高い弦の音が、静かな 森の中に響いていく。 ﹁あの、一体何を、﹂ ﹁静かに﹂ めいげん 徳田を小声で制したのは、土直神だった。 ﹁鳴弦の儀。弦鳴りで穢れを追い払って、神様を迎えるんだぁよ﹂ 上を指す土直神。そこでようやく、徳田も気がついた。 ﹁風が⋮⋮﹂ びょうびょうと鳴り響く弦の音。その空気の震えが増幅するかの 557 ごとく、次第に清音の周囲に緩やかな風が吹き始めていた。次第に それは強く、大きくなり、瞬く間に清音の周囲を巡る渦となる。そ こで清音は弓を下ろし、袴が汚れることもいとわず土砂の上に正座 をすると、 ﹁御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の︱︱﹂ 謡うように、祝詞を紡ぎだした。すると、その声に応じるかのよ うに、周囲を巡っていた風の渦が一気に清音目がけて収束する。舞 い上がった土砂が目に入ったのか、たまらず徳田が顔を伏せる。砂 埃はなお強くなり、徳田は眼を開けていることが出来なくなった。 どのくらいそうしていたのだろうか。 ﹁︱︱聞こしめせとかしこみかしこみもうす﹂ 祝詞が終わったとき、風の震えは既に収まっていた。顔を上げた 徳田が見たものは、土砂の上に正座している清音。ただそれだけで、 ・・ 先ほどと何も変わっていない。だが。 ﹁何か⋮⋮居る?﹂ 清音の二メートルほど前方に、誰かがいた。眼で見る限り、そこ にはただ土砂があるだけだ。だが確かに、そこに誰かがいる気配が あった。別に音がするわけでも、臭いがするわけでもない。だが何 故か、居るとわかる。その異様な感覚に徳田がパニックを起こしか けた時、見かねたのか土直神が解説した。 風の神様 ﹁徳田さん素人だと思うけど、わかるよねアレ?アレが、清音ちゃ んとこの神さん。ま、名前は色々あるけど、いわゆる ってやつだよ﹂ ﹁は、はぁ⋮⋮﹂ ﹁清音ちゃん自身の能力は、あくまで巫女として神様を呼ぶだけ。 でも神様にお願いをすることで、様々な力を使うことが出来るって ワケ。風を操ったりとか、あるいは、霊の声を聞いたり、なんてね﹂ ﹁情報としては知ってはいましたが⋮⋮実際に見ると凄いものです ね﹂ 眼をしばたかせる徳田。 558 ﹁今、清音ちゃんが神さんに話をして、このあたりに眠っている人 がいないか探してもらっているから﹂ ﹁それは⋮⋮幽霊という奴でしょうか?﹂ ﹁どうだろね。実際のところおいら達にも良くわからんのよ。会話 の形をしているけど、実際は亡くなった方の焼き付いた思念を読み 取ってるんだ、って主張する人もいるし、実際は鏡みたいに、話し かける形を取りながら自分の予知能力を発揮してるって説もあるし ねー﹂ のほほんとした調子で、専門的な事を話す土直神。 ﹁しかし。当人が亡くなっている事は間違いないんでしょう?﹂ 今度は土直神が、眼をしばたかせた。 ﹁そうだね。それは間違いないよ。清音ちゃんが話出来るのは、す でに亡くなっている人だけだから﹂ ﹁なるほど﹂ 徳田は眼をくるくると回して成り行きを見守る。すると、今まで 正座していた清音が、すいと面を上げた。 ﹁⋮⋮お休みのところを起こしてしまって本当にすいません。来て いただいてありがとうございます﹂ 丁寧に、目の前の誰もいない空間に向かって一礼。そして、土直 神達に顔を向けて、まるで親しい知人を紹介するように声をかける。 ﹁つい先日、この地で眠りにつかれた方がいらっしゃったのでお越 神様 し頂きました。ここ最近、この辺りで亡くなられた方は、この人お 一人だそうです﹂ ・・ そう、そこには。清音と、目に見えぬ清音の呼び出した なるものに加えて。 さらにもう一人、誰かがいた。 ﹁私はここから少し離れた風早神社に勤めております、風早清音と 申します。貴方のお名前を教えていただけますでしょうか﹂ 丁寧に、だが儀式張ったものではない口調でその誰かに語りかけ る。すると、風がざわざわと細かく、だが激しく震えた。まるでノ 559 イズのようなその音は、チューニングを合わせるように、一つの音 へと絞り込まれていき、すぐにはっきりと、一つの音声となった。 誰か は、風に乗せて、確かにそう言 ⋮⋮ワタシ⋮⋮ハ⋮⋮オダ、ギリ⋮⋮ツヨシ⋮⋮ 清音の前に居る見えない 葉を紡いだ。 ﹁もしもし?⋮⋮ああ、所長、お疲れさん。どうしたの?⋮⋮はあ。 はあ。⋮⋮⋮⋮﹃ティエクストゥラ﹄?いや。特に心当たりはない けどね。うん。じゃあ﹂ 通話を終えて、チーフは携帯をコートの内ポケットにしまい込む。 ﹁所長からですか?﹂ ガードレールの支柱に改めて﹃ハン荷バル君﹄を巻き付け直して いた真凛が駆け寄ってきた。 ﹁ああ。事務所の方にどうもヘンな案件が回ってきたみたいで、俺 にも情報がないか聞いてきた﹂ ﹁もしかして、敵に強い人がいるとかですか?﹂ ﹁いや。正確には依頼じゃない。派遣会社同士の間での情報交換だ な﹂ 心底美味そうにゴールデンバットをくゆらせるチーフ。 ﹁国内で新たな異能力者が現れたり、海外から厄介な﹃派遣社員﹄ がやって来たときに、日本の派遣会社同士でそいつのことを知らな いか、お互いに情報を持っていないか聞きあったりするんだ。戦う にしろ一緒に仕事をするにしろ、事前に相手の能力を知っていれば 560 物凄く有利になれるからね﹂ 訥々と語るチーフ。こういったデータベースを利用できるのも、 会社組織の強みである。業界最大手のCCCは、社長の方針もあっ て国内外合わせて一万人近い能力者のデータベースが揃っているの だとか。 ﹁どうも海外から厄介な奴が入国したらしいんでね。日本中の派遣 会社も一応警戒しておこうということらしい﹂ ﹁強いんですか?その人﹂ 真凛の期待に満ちた問いに苦笑するチーフ。 ﹁いいや。戦闘についてはそう強くはないらしい﹂ ﹁あ、そうですか﹂ それで興味を失ったのか、再びロープを固定しようとかがみ込ん だところで、真凛の眼が鷹のように鋭くなる。 ﹁チーフ﹂ ﹁ん。どうした?﹂ ﹁えっと⋮⋮見間違いかも知れないけど、何か、下の方で⋮⋮﹂ 三十メートル先、しかも森に覆われて崖下の様子はほとんど見え ない。だが一瞬だけ、その枝葉のカーテンの隙間で、何かヒトのよ うなものが動いた、気がした。それだけである。根拠もなにもない 直感に過ぎなかったが、一瞬の判断ミスが生死の境をわける武道家 ヤバイ動き だと。 の本能が告げる。﹃今見えたのは⋮⋮なにかとても⋮⋮そう、物凄 く ﹁すいません!ただのカンなんですけどチーフ、﹂ ﹁わかった﹂ 真凛の表情を見たチーフの行動は早かった。ゴールデンバットを 左手に待避させつつ、コートに右手を突っ込む。やがてたぐり寄せ LEIRU LIGIL URIEL PULLA て取りだしたのは、トランプのカードを思わせる、一枚の銀色の薄 ALLUP いプレートだった。 ﹁︱︱﹃駱駝の王の其の瞳。天を巡り虚を識る星を我に宿せ﹄﹂ 561 不可解な言葉を並べ立てると、チーフは眼を瞑り、己の額に銀の プレートを当て、三秒ほど待つ。やがて眼を開いたとき。その表情 は切迫していた。 ﹁︱︱真凛君﹂ ﹁はい!﹂ ﹁君の直感は当たりだ。亘理がかなりマズいことになっている!す ぐ行ってくれ!﹂ 指示を聞くより先に、真凛は鮮やかに身を翻してガードレールを 飛び越え、縄もつかまず急角度の坂を一気に駆け下りていった。 結論から言うと、チーフの判断は全く正しかった。 まさにその時、おれは死地にいたのだから。 562 ◆08:﹃粛清者﹄ つむぐべき言葉が見つからない。 おれはしばらく逡巡したが、結局くだらない言葉しか思いつかな かった。 ﹁⋮⋮シドウ、あんた、日本人だったのか﹂ 目の前にいるのは、旧知の男だった。 まだ、おれがフレイムアップに所属するよりもずっと前。中学高 パニッシャー 校とロクに通わず、狩りと称しては海外を放浪していた頃に、この 男、﹃粛清者﹄シドウ・クロードとは知り合った。腐れ縁と言うべ きか。複数の派遣会社を渡り歩き、その場限りの危険な仕事を請け 負うこのはみ出し者の異能力者と、当時派遣会社に所属せず、独立 して活動を続けていたおれは、自然と顔を合わせる機会が多かった のだ。一度だけ、同じ仕事を請け負い共闘したこともある。いかつ い体格と彫りの深い顔立ち。そして流暢なフランス語を操ることか ら、てっきりフランス系だとばかり思っていたのだが。 シドウは何もしゃべらない。無言のまま、巌のような沈黙でただ 四堂蔵人 かな。まさかあんたとこんな おれを見据えている。重い沈黙を埋めるように、おれは空疎な言葉 を吐き出し続けた。 ﹁日本語で発音するなら パニッシャー ところで再会するとは思わなかったぜ。こんな山奥でなんの仕事を しているんだ?まさか日本で﹃粛清者﹄稼業を続けているわけじゃ ないだろう。こんな山奥のドサ回りなんぞしているってことは、転 職が上手くいかなかったのか?なんならもう少し真っ当な仕事を、 昔の友人のよしみで︱︱﹂ 563 けが ジェノサイダー ﹁︱︱穢れた口を閉じろ塵殺者﹂ 鉄槌で叩きつぶすように、奴はおれの言葉を遮る。その声は、ま かり間違っても同僚や友人知人に向けるものではなかった。そこに 含まれていたのは、明らかな敵意。いや。殺意だった。 ﹁⋮⋮おい、シドウ?﹂ 今。あいつは、おれの事を、何と呼んだ? ﹁貴様と最後に会ったのはマルセイユだったな﹂ まさか、こいつ。 ﹁その後に。俺も⋮⋮貴様を追ってロンドンへ向かったのだ﹂ シドウの言葉が、後頭部のあたりに氷水のようにじわじわと染み こんでくる。 ﹁柄にもない。俺でも貴様達の戦いの力になれるかと思ったからだ。 だがそこで俺が見たものは、﹂ シドウは言葉を切った。脳裏から流れ出す光景に、必死に耐える かのように。 ジェノサイダー そうか。こいつは、あの﹃真紅の魔人﹄との戦いの一件を、見届 けたのか。 ﹁﹃召喚師﹄⋮⋮否、塵殺者。人殺しのワタリ。あの場に居わせた 者として、﹃粛清者﹄として。生きている貴様を見逃すわけにはい かない﹂ ﹁待ってくれ、今のおれは︱︱﹂ おれの言葉を、奴はかぶりを振るだけで拒絶した。いかなる言い 訳も切って捨てるという無言の、そして鉄壁の意思表示。 ﹁貴様が都合良く忘れたふりをしようとも、貴様が老若男女問わず に皆殺しにした者達は、決して貴様を許しはしない。数多の犠牲の 上に立つ貴様が生きながらえる程に、その罪は重くなるのだ﹂ 左足を半歩前に進め、半身の構えを取る。それだけで圧倒的なプ レッシャーがおれに向けて吹きつけてくる。 ﹁待て、待ってくれ。シドウ︱︱﹂ おれはなんとか舌を回転させようとして、だが出来なかった。弁 564 明が、したかった。数え切れないほどの人々の命を瞬時に奪ってし まったその理由、そして、﹃俺﹄が、今の﹃おれ﹄になってしまっ す たその理由を、こいつに言ってしまいたかった。だが。 ﹁貴様が言い訳をすれば。貴様が擂り潰した命が帰ってくるのか?﹂ ︱︱そう。弁明の余地なんて、あるわけがない。 さえず パニッシャー ⋮⋮おれは唇をひん曲げ、嘲弄をひらめかせる。 ﹁囀るなよ﹃粛清者﹄﹂ 自分でも笑えるくらい冷たい声が出た。舌が滑らかに回り始める。 一度ささやかな望みを諦めてしまえば、あとはいつものように振る 舞うことが出来た。 ﹁無口が身上のクセに、オマエ、何時から舌で戦うようになった?﹂ 両手をポケットに突っ込み胸を張り、上背のある相手を傲然と見 下す態勢をとる。これは対等な者の戦いではなく、格上が格下に加 ・ える誅罰であるという、無言の宣告。 ﹁まさか実力で俺に勝てないから口喧嘩、か?やれやれ、往年の﹃ 粛清者﹄も堕ちたものだな。人喰い虎もすっかり猫になってしまっ たらしい﹂ おれは毒々しい侮蔑を吐きかける。かつて、敵に対していつもそ うしていたように。 奴はもう何も言わなかった。渦巻いていた怒気は鳴りを潜め、代 わりに過冷却された殺意がおれに向けられる。 ・ 共に戦ったこともあるのだ。お互い手の内は知れている。だが、 俺ならともかく、今のおれでは、逆立ちしたところで勝てる相手で はない。せめて一回、距離を取ってなんとか﹃鍵﹄を使う時間を稼 565 がなければ。狭い獣道、左右には避けられない。おれは威勢の良い はったりとは裏腹に、いつでも動けるようじりじりと重心を後ろへ と逃す。 重心を完全に移し終えるその直前に、奴が動いた。獲物を狙い定 めた虎の如く。凄まじい勢いで突進し、おれに向けて右腕でつかみ かかってくる。 狙いは︱︱喉! 読みはドンピシャ。おれは後ろに跳ぶ︱︱と見せかけて、反動を つけ一気に前方に跳んだ。横に逃げられない以上、後ろに跳んでも 絶対に追いつかれる。ならば、イチかバチか、前に進んでシドウの 背後に回るしかない。伸びてきた右腕をかわしざま身を低くし、奴 の左脇の下をかいくぐるように捨て身の突撃。どうにか⋮⋮かわし きった! ﹁﹃亘理陽司の﹄︱︱﹂ 安堵したそのとき。 しゅるり、と不吉な音を立てて、おれの首に何かがからみついた。 地味な柄の、茶色く細い布。 それは、ネクタイ。 奴は背広姿なのにネクタイを身につけていなかった。それは奴の 左の袖口に隠され、脇の下をくぐりぬけようとする愚かな獲物を捕 らえるための罠と化していたのだった。おれの動きは、最初から奴 に読まれていた︱︱そして、その事実がはじき出す、次に奴が為す であろう挙動に、脳裏で無数の警告が乱れ飛ぶ。 シドウがそのいかつい両腕でネクタイの両端をつかみ、無造作に 引きしぼる。巻きついた何の変哲もないネクタイが、一瞬の後には まるで鋼鉄のタガのようにおれの喉を締め上げていた。おれの全力 の突進など、まるで縫いつけられたように停められている。と、 ﹁ぬん﹂ 566 間髪入れず、奴はネクタイをがっちりと握ったまま鋭く身体をひ るがえし、まるでサンタクロースが袋を背負うように、おれを背中 合わせにかつぎあげた。 つるべ ︱︱釣瓶! 井戸に沈んだ汲み桶を引き上げるかのように。 絞殺対象の首に縄を巻きつけて、背負い、釣り上げる。宙に浮い たおれ自身の体重と、奴自身が引き絞る腕の力がネクタイに伝わり、 容赦なくおれの喉を締め上げた。 ﹁⋮⋮っがっ⋮⋮、⋮⋮ッ!!﹂ 釣り上げられた相手がいくら手足をばたつかせようと、人間はそ の身体の構造上、背中の相手をまともに攻撃することは出来ない。 パニッシャー あとはこの態勢を数秒維持するだけで、絞殺対象は窒息死する。石 マン・キリング・ 一個、紐一本あればそれを即座に暗器に仕立ててのける﹃粛清者﹄ メソッド おれ の技。ユーモラスな名前とは裏腹に、一片の遊びもない無骨な殺人 術だった。 ﹁詠唱はさせん﹂ 宣告。 ・ そう、奴はよくわかっている。亘理陽司の殺し方を。 おれが、いや、俺がどれ程の力を持っていようが、その全てはま ず単語の詠唱をもって発動される。すなわち。言葉さえ封じてしま えば、﹃召喚師﹄もただの人間に過ぎないのだ。 ﹁⋮⋮⋮⋮ッ!⋮⋮⋮⋮⋮⋮!!﹂ 完璧に入った絞殺技は、気道も頸動脈も塞いでしまう。おれの脳 はたちまち酸欠に陥り、抵抗しようとする意思、そのものが暗闇の 中に沈んでゆく。それでもなお緩むことなく、むしろおれの頸を縊 り切るかのように容赦なく込められる腕の力。目から涙を、口の端 から泡を吹きながら、おれの意識は完全に遮断されようとしていた。 今回ばかりは隠し技も切り札もなし。 567 こんな山奥で何の用意もなく﹃粛清者﹄と遭遇したのが不運とし か言いようがない。 亘理陽司の生命と使命はここで終わる。 脳細胞を流れる電流が行き場所を失い、いくつもの記憶の走馬燈 をランダムに表示する。 ⋮⋮すまない、影治さん。 はるか そして、脳裏の底に眠る、もっとも大切だった人の顔。 ⋮⋮⋮⋮ごめん、晴霞さん。 ︱︱突如、喉を締め上げていた力が緩んだ。 シドウがとっさに両手を離し、頭部をガードしたのだ。一瞬遅れ て、横合いから岩をも打ち割る勢いの飛び足刀が、シドウの両腕に 叩きつけられた。 ﹁ぐぅっ﹂ 奴の手がネクタイから離れ、おれの身体は支えを失い地面に落下 した。潰れる寸前だった気道と頸動脈が広がり、大あわてで血液を 送り始める。おれはひゅうひゅうと喘ぎ、遮断されかかった意識が、 ブラックアウトの淵から少しずつ光を取り戻していく。どうにか︱ ︱生き延びたようだ。 シドウの表情が警戒を帯びる。先ほどの反応が僅かでも遅れてい れば、シドウはこめかみを割られるか、頸骨が折られるかだったろ う。それほどの蹴りを繰り出せるのは、いまここでは一人しかいな い。 ﹁陽司!﹂ 着地しながら続けざまにシドウに向けて貫手、回し蹴りを繰り出 したのは、崖の上から全力疾走で駆けおりた我がアシスタント、七 568 瀬真凛だった。突如現れた増援に、シドウは飛び下がって距離を取 る。真凛は深追いをせず、おれとシドウの間に割り込む形となった。 ﹁陽司⋮⋮陽司!大丈夫!?﹂ 今にもトんじまいそうな意識に響く音声。 真凛の⋮⋮声、だよな。なんだアイツ、ガラにもない声出しやが って。 大丈夫だよ、と手を挙げて答えようとした拍子に唾を吸い込んで しまい、おれは激しくむせかえった。咳き込む度に、締め上げられ た喉に激しい痛みが走り、立ち上がることも出来ない。ちくしょう、 これじゃ﹃鍵﹄を使うどころじゃねぇぞ!? そんなおれの様子を見て、ひとまずは安堵したのか。真凛はシド ウへと向き直る。 ﹁︱︱今の。殺し技だったよね﹂ ⋮⋮先ほどとはまた別の、おれが初めて聞く真凛の声。それは研 ぎあげられた切っ先のように、澄み渡った凶暴性を秘めていた。 ﹁殺す気で戦いに臨んでいるヒトなら﹂ 声に殺意が込められていくのとは裏腹に、表情からは一切の喜怒 哀楽の感情が失せていく。いつもの闊達でめまぐるしい表情がなり を潜めると、本来の、ぞっとするほど整った面立ちがあらわになっ た。 ﹁殺される覚悟は、あるよね﹂ 対するシドウはすでにネクタイをポケットに仕舞い、迎撃の構え に入っていた。両腕を掲げ、どっしりと根を張った巨木のごとく。 の 真凛の技量を知ってなおその表情は変わらず、 ﹁退け﹂ とだけ言った。真凛は返事をしなかった。言葉では。 バネが弾けるように一気に間合いを詰め、右の貫手を放とうとす る。合わせるように、シドウが足下に転がっていた小石を軽く蹴り 上げた。高速で真凛の顔面に向けて飛来する石つぶて。巧妙な牽制 だった。シドウは片足を浮かせただけ。真凛が小石を避けても叩き 569 落としても、その隙に乗じて踏み込みを乗せたカウンターを叩き込 むことが出来る。 だが、真凛はあえて小石を避けず、眼を開いたまま顔面で受けた。 反応すれば罠にはまる。しかしそのまま当たれば、小石はただの小 石にすぎない。そのまま勢いを殺さず突進、貫手を放つ。狙いはシ ドウの顔面、突き出したのは人差し指、中指、薬指の三本。 実戦で小さな眼球を狙うのは難しい。本気で相手の眼を潰そうと するなら、指は二本ではなく三本使う。まず相手の鼻っ面に掌をた たき込み、そのまま中指で鼻筋をガイド。すりあげるように人差し 指と薬指で両目をえぐるのだ。 ⋮⋮バカ野郎、それはシャレにならねぇだろうが! おれは叫ぼうとして、だが激しい喉の痛みにまた咳き込んだ。く そっ! ﹁︱︱﹂ だがシドウは、その顔面への一撃も予期していた。疾風のように 放たれた真凛の指をギリギリでかわすと、そのまま真凛の右腕を両 腕で巻き込み、己の巨躯を投げ出すように回転させた。 ⋮⋮柔術! 変形の一本背負い。巨大な遠心力に引きずり込まれ、真凛が地面 に叩きつけられる。即座、素早く膝立ちに移行したシドウがそのま ま真凛の右腕を引きずりあげ肘の関節を極めた。完全に投げと極め いせのとだりゅう が連携した、流れるような動作。 シドウの殺人術の根本には、伊勢冨田流なる古流柔術がある。投 技や関節技、捕縄術、小太刀術を中心とする技法は、あまりに実戦 的であるゆえに使われる機会を失い、三重県の寒村に細々と伝えら れているに過ぎなかった。だが、それをシドウが殺人術というフィ ールドに還元させた時、ひなびた伝統芸能は、恐るべき本来の姿を 取り戻したのである。 完璧に極まった腕ひしぎ。TVの試合ならここで決着である。だ が、シドウはまったく躊躇せず己の体重を真凛の肘に乗せ、へし折 570 りにかかった。 ﹁くぅ⋮⋮っ!﹂ 肘を曲げて力を込め、こらえる真凛。押し切られれば腕は折れる。 仰向けのため腕の力しか使えない真凛に対して、全体重を使えるシ ドウ。あまりにも分が悪すぎる勝負だった。真凛はとっさに残った 左手でシドウの腕をつかむが、シドウは一切頓着せず、より一層の 力を込める。 と。 ﹁︱︱﹃おろしがね﹄﹂ ぞり、と確かに音がした。 ﹁ぬぐっ⋮⋮!!﹂ 突如、シドウがくぐもった叫びを上げ、手を離した。すかさず真 凛は腕を抜いて地面を転がり、距離を取って立ち上がる。同じく立 ち上がったシドウ。その額には、脂汗が浮いていた。 真凛がしたことは単純である。空いている左手で、つかんでいる シドウの腕を﹃ひっかいた﹄のだ。取っ組み合いのケンカになった とき子供がやることと大差ない。だが。 背広の袖が千切れている。それはいい。皮膚が破れている。それ もまだいい。だが、皮下組織がごっそりと削ぎ落とされ、筋繊維が 掻き千切られているとなれば、話は別だった。 真凛の鍛え上げた握力と指でひっかいた時、それは凄惨な﹃技﹄ となる。人間は身体を鍛えて筋肉を太くすれば、パンチやキックに 耐えられるようになる。だが、真凛の攻撃は、防具であるはずの筋 肉そのものを、皮膚ごと剥ぎ取ってしまう。シドウの左腕からは、 壊れたポンプのように血が噴き出していた。またも入れ替わった攻 守。 571 しと ﹁為留める﹂ 凍った呟きは真凛のものだった。好機を逃さず突進しつつ、左手 を鞭のように振るう。宙を飛んでシドウに叩きつけられたのは、こ そぎとったシドウ自身の腕の皮膚だった。先ほどの小石への返礼。 血という液体を含んだ皮と肉の残骸は、より厄介な目潰しとなる。 シドウは無事な右腕を掲げてそれを受けざるを得なかった。背広の 袖に、びちゃりと血の花が咲く。 ﹁⋮⋮もうよせ⋮⋮!﹂ ここでようやく、おれは声を絞り出すことが出来た。 牽制しながら左側面に回り込む。シドウの左腕は破壊され、左半 身が完全に無防備だった。研ぎあげられた指先の狙いは︱︱頸動脈! ﹁もういい!真凛!﹂ 一切の妥協のない殺し技。間違いなく頸部を切断する渾身の刺突 が放たれた。 572 ◆09:﹃派遣社員﹄VS﹃派遣社員﹄ ﹁はじめまして、小田桐剛史さん﹂ 居住まいを正して座る清音の前で、無色透明な 何か はそこに たたずんでいる。他のメンバーが見守る中、葉音に紛れてかすかに 渦を巻く音が届いた。 ﹁今日は、奥様とお子様のご依頼でこちらにうかがいました﹂ ⋮⋮オク⋮⋮サマ⋮⋮? 風が震える。声の発生源と思われる宙の一点が、右に左に、遠く に近くにぶれるため、非常に聞き取りづらい。が、清音は慣れた調 子で続ける。 ﹁小田桐花恵さん、そして小田桐敦史くんです﹂ ⋮⋮ハナエ⋮⋮アツシ⋮⋮⋮⋮ 声の調子がやや強くなる。 ﹁そう。はなえさんと、あつしくんです﹂ 子供に言い聞かせるようにやさしい言葉使い。厳密に言うなら、 清音達がここにやって来たのは小田桐氏の家族の依頼ではなく、ウ ルリッヒ保険の仕事である。だがそこまで事情を説明しては複雑に なるだけであり⋮⋮そして、残念ながら、彼らはそういった論理的 な考えをする事がとても難しくなっている。少しずつ、少しずつ。 清音は言葉を積みあげてゆく。 ﹁花恵さんと、敦史くん。この間、みんなで赤城山にドライブに出 かけたでしょう﹂ 事前に目を通した資料にはそんな報告が載っていた。その時、こ うなることを彼らのうち誰が予想していただろう。 ⋮⋮アカギヤマ⋮⋮ソウダ⋮⋮クルマデ⋮⋮みんなで⋮⋮ 573 声が近くなり、ぶれが小さくなる。 霊との会話、特に死後時間が経過しているモノとの会話は、熟睡 している人間を叩き起こして話しかけているようなものだ。最初は ろくに言葉をしゃべれないが、いくつか質問を重ねていくうちに、 次第に意識は焦点を結び、自分が誰なのか、今どこにいるのかを思 い出していく。一月ほど前に失踪した小田桐氏がその時に死亡した とするのなら、時間をかけてその意識を掘り起こさなければいけな いのだった。 ﹁そう、車で。青いホンダのレジェンド。買ったばかりの新車なん ですよね?﹂ 事前に読んだレポートと徳田に聞いた話をもとに、清音は霊相手 の﹃世間話﹄を続けた。 ⋮⋮あおいレジェンド。⋮⋮そうだ。アツシが立てるようになっ て⋮⋮ 誰か の声 ⋮⋮家族でのドライブの機会を増やそうと⋮⋮買い換えたんだ⋮ ⋮ チューニングが完全に合った。今、清音の前にいる は、清音の操る風に増幅、補正され、驚くほどくっきりと聞き取れ るようになっていた。その声も、もはや霊の声などとは思えない、 しっかりとした意志を感じさせる男のものとなっていた。 ﹁ええ。会社にも毎日、その新車で通勤されていましたよね﹂ ⋮⋮会社⋮⋮?⋮⋮ああ。昂光だ。毎日、会社と自宅を通勤して たな。山道を走るのが結構楽しくて⋮⋮それで会社では⋮⋮そうだ、 プロジェクトを⋮⋮。赤城山にもみんなでドライブに行ったのが⋮ ⋮夏だから⋮⋮ 寝起きの人間が、今自分の居る場所を思い出すかのように続けら れるつぶやき。清音は一旦質問を切って、しばらく静観する。こう して記憶を蘇らせていくと、霊は必ず一つの事実を思い出す。自分 がなぜ、今、こうなってしまったのかという原因について。 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮そうだ。⋮⋮⋮⋮私は⋮⋮あの時⋮⋮ 574 見えない誰かの、重い、重すぎる沈黙。全ての記憶が、つながっ たのだろう。 清音にしてみれば、ここからが正念場である。霊の中には、己が 死んだという事実に気づいていない者が多い。特に不意の事故で何 起こされた ら、死んでいた 事に気づく。たい もわからないうちに亡くなった人は尚更だ。なぜか意識を失い、ふ と永い眠りから ていの霊はそのショックで錯乱し、暴れ出すのだ。袖に手を隠し、 密かに印を組む。最悪、法力で強引に押さえ込まなければならない だろう。 ﹁驚かれるのは当たり前だと思います。ですが、どうか落ち着いて 私の話を、﹂ ⋮⋮教えて欲しい。今は、何月だ? だから、そんな冷静極まる質問を返されたことに驚いた。 ﹁え!?十月、というかもう十一月みたいなものですけど﹂ では、あの土砂崩れがあった日から、一月経ったのか。それとも もう何年も過ぎたのか? ﹁ま、まだ一月です﹂ そうか、と呟く霊。清音はあっけに取られている。まずあり得な い事だった。巫女としてそれなりに経験を積んではいるが、自分が 死んでしまったという事実を、いともあっさりと呑み込み、逆に質 問をしてくる霊になど、出会ったことはなかった。 ﹁とにかくですね。私たちは貴方を、﹂ ⋮⋮そこの二人は? 遮るように質問が飛ぶ。その意志は、清音から少し離れた場所に たたずむ二人、土直神と徳田に向けられているようだ。 ﹁私の同僚と、雇い主です﹂ 完全に会話のペースを相手に握られてしまっていることを自覚し つつ、清音はあえて素直に答えることにした。それにしてもこの霊 は、生前並外れた意志の強さを持っていたとしか思えない。いや、 あるいは⋮⋮一つ、例外があった。自分が死ぬということについて、 575 とっくに覚悟を済ませていた場合だ。清音の視線と、霊の 気配 が向けられたことを感じ取ったのだろう。土直神は悠々と手を振っ て応え、徳田はやや薄気味悪そうに首の辺りをさすった。 そういうことか なにやら、一人得心がいった様子の霊。 私は生死不明扱いになっていて、それを確かめるために霊能力を 持つ君が呼ばれたと言うことだな? 清音はとりあえずは現状を受け入れることにした。ここまで相手 の意志と知性が明瞭であれば、変に話を省略したりごまかしたりす る必要はない。単刀直入に切り出すことにした。 ﹁はい。貴方がご契約されていたウルリッヒ保険会社より派遣され てきた者です。ご遺族への保険のお支払いのため、小田桐さん、貴 方の死因とご遺体のある場所を伺いに参りました﹂ 説明や説得をせずとも、すでにこの霊は事態を正確に把握してい る。大切な妻子に保険金を残すとなれば、正確に事故の要因と自身 の遺体の場所を教えてくれるだろう。驚きはしたが、清音の仕事自 体はこれで終わったも同然だった。 ﹁一ヶ月前の土砂崩れの日、いったい何があったのですか?﹂ ⋮⋮ 沈黙。 ﹁土砂の中から掘り出された車は、全ての扉が閉まっていて、中に 貴方は居なかった。会社からご自分の車に乗って出かけ、あのトン ネルまで向かった後、車から降りたのですか?﹂ ⋮⋮⋮⋮ またも沈黙。それは、思い出すのが嫌だ、とか、口に出したくな い、という類のものではないように思えた。何か、ぬぐいきれない 違和感がある。肥大化する違和感に耐えられなくなり、 ﹁小田桐さん、あなたは、本当に亡くなられたのですか?﹂ つい、そんな馬鹿馬鹿しい質問をしてしまった。相手は間違いな く霊である。となれば、生きているはずもない。清音自身がそんな 576 ことは一番よくわかっているのだが。 さて、どうだろうな。死んだと言えばそうかも知れないし、死ん でいないと言えばそうかも知れない 返ってきたのは、そんな答えだった。 ﹁はい!?﹂ 君の言う小田桐剛史、とは、そもそも誰の事だろうね? いったい、何を言っているのだろうか? ﹁それは⋮⋮その、小田桐花恵さんの夫、敦史君のお父さんですよ﹂ 風が震える。苦笑、だろうか? 君が知っている小田桐剛史と、妻や子が言う小田桐剛史というモ ノが同一人物であるという保証など、あるのかね? ﹁どういう⋮⋮意味ですか?﹂ 舞台に上がる役者と同じだよ。芝居を見る人は、役者の名前は気 にしなくていい。ただ、それが演ずる役名さえ識っているのなら。 だが、役とはキャラクター、架空のもの。役者は死んでも、キャラ クターは死なない。⋮⋮キャラクターが死ぬとすれば、それは誰か らも忘れられた時、か 清音にはこの霊の言っている言葉の意味がまったくわからなかっ た。というより、行動そのものが理解できない。錯乱して意味のわ からない言葉を叫ぶ霊や、狂気に触れた霊と相対したことはある。 だが、この霊には、むしろ冷静極まりない理性が感じられる。だか らこそこの霊の言っていることが理解できなかった。 ﹁でも。貴方の霊がここにこうして居るということ自体が、貴方の 死亡を、﹂ なぜそう言いきれるのかね ﹁なぜって、それは、﹂ 幽霊、という存在は所詮、科学的にも、あるいは君の使うような 特殊な能力においても、正式に証明された存在ではない。今ここに いる私は、その小田桐剛史とやらのただの残留思念かも知れない。 あるいは、そうだな、君自身の意識が作り出した妄想かも知れない 577 ﹁そんなことはありません!﹂ 自分の能力を妄想と否定されたのでは、巫女として清音の立つ瀬 がない。だが反面、以前、土直神が言っていたことも思い出す。 と。 もしかしたら、霊との会話は、実際は鏡のように、霊に話しかける 形を取りながら自分の予知能力を発揮しているだけなのかも 清音が戸惑ったのを感じてか、霊の気配がすこし和らいだ。 ⋮⋮すまない。たしかにそうだな。君の能力は本物だ。私が言い たいのはね。死んだ人間の魂が幽霊になる、などという証明は、誰 もしてみせたことはないということだよ ﹁そ、それでは。小田桐さん、貴方は今、どこにいるのですか?﹂ 探してみるといい。意外と、近くにいるかも知れないぞ 霊 の気配は、急速にノイズ混じりのものにな チューニングがずれた。ひとつ風を震わせると、小田桐剛史であ るはずの見えない って溶けていった。 ﹁小田桐さん?、小田桐さん!!﹂ しかし返事は、なかった。森の中に清音の声だけが虚しく響く。 ﹁⋮⋮いったいどうなっているんでしょう?﹂ よりにもよって最も肝心な、亡骸のある場所を教えてくれないと いうことは、清音にとっては完全に想定外の事態である。こういっ 孤独 の思念が焼きついている。彼 た仕事はすでに何度か請け負ったことがあるが、通常、不慮の死に 遭った人の霊には、圧倒的な らは例外なく、親しい人に今一度会いたいと思っている。そして、 人の通らない事故現場ではなく、自らのかつて知ったる場所や、祖 先の隣で眠りにつきたいと、そう望んでいるのだ。だから彼らから ﹁早く俺を見つけてくれ﹂と急かされることはあっても、﹁見つけ たければ探してみろ﹂などと言われることは、まずありえない。冷 たく暗い土中に何ヶ月も、あるいは何十年も取り残される孤独は、 想像すら及ばぬ苦痛だと思う。それを圧してまで、自分の遺体を見 つけてほしくない理由があるとでもいうのか。はたまた︱︱本当に、 死んではいないのだろうか? 578 ﹁小田桐さん、どういうことですか?事情があれば、私に話してい ただければ︱︱﹂ とにかくもう一度、聞かなければ。そう思ったとき、不意に清音 の意識に強いノイズが走った。 ﹁⋮⋮ぅあっ!!﹂ 耳元でいきなりガラスを引っかく音を聞かされたような不快感。 たまらず集中が途切れてしまった。異変を察知した土直神が、すぐ に駆け寄ってくる。 ﹁どうしたん!?清音ちゃん﹂ ﹁⋮⋮気が乱れています。この近くで、何か強く激しい感情が渦巻 いて⋮⋮﹂ 清音が正座を解いて立ち上がる。それを契機としたのか、二つあ る気配のうち、自らを小田桐と名乗った方は、完全に存在感が消失 した。立ち上がる際に、儀式を妨害されたフィードバックが一気に 押し寄せてきて、軽くよろける。 ﹁おいおいなんだあ?ハイキングの団体さんでも押し寄せて来たっ てかい﹂ 舌打ちする土直神。清音の霊との会話︱︱神下ろしは、風という 形の定まらないものを媒介にして行われる。その利点として、死者 がどこにいるかわからなくとも、あるいは亡骸や遺品などの直接の 接点を持たなくても、だいたいの位置さえわかれば会話が可能にな る。その反面、近くに騒がしいもの⋮⋮騒音や電子機器、あるいは 誰かの強い感情といったものが近くにあると、途端にその効力が落 ちてしまうのだった。だからこそ土直神達は沈黙を保っていたとい うのに。だが、清音はかぶりを振った。 ﹁いえ⋮⋮そんな生易しくありません。これ、近くで戦いが起こっ ているんじゃないでしょうか﹂ 全員が顔を見合わせる。今回はあくまで調査だ。こんな山奥で突 発的に戦闘が発生する事などありえないはずなのだが。 ﹁もしかして、四堂さん?﹂ 579 斜面の方角へ視線を転じる土直神。森の奥、土砂によって切り裂 かれた一本道は昼なお暗く、まるで洞穴のようにぽっかりとその口 を開いていた。 暗い森の中に鈍い音が鳴り響き、そして両者の動きが停止した。 頚動脈を獣の牙のように食いちぎるべく放たれた凄烈な一撃は、 ・・ ﹁⋮⋮その年齢でこの技量に達しているか﹂ シドウ・クロードの左手に捕まれて、宙で停止していた。真凛が 驚愕に凍りつく。 ありえない状況である。先ほどの一撃は、左腕の皮膚と筋肉のみ ならず、腱と神経までまとめて確実に掻きちぎった。発狂してもお かしくない激痛に、たとえ耐えることができたとしても、どうやっ ても動かすことなど出来ないはずなのに。だが、現にこの男は左腕 を掲げ、万力のような握力で攻撃を掴んで止めてみせた。とっさに 判断に迷う真凛。そしてそれは、この﹃粛清者﹄相手には致命的な 隙だった。 捕まれた手首が外側に向けて鋭くひねられ、そのまま下に向けて 剣を撃つように振り下ろされる。力学の妙味。大男のシドウの全体 重と真凛自身の体重が、ひねられた手首に一点集中する。人間の本 能として、激痛と骨折を免れるべく体勢を崩してしまい、結果とし て、自分から投げられたように地面に叩きつけられることになる。 小手返し。合気道や柔術ではごく基本の技であるが、その動きの キレが尋常ではない。おれ達の業界では、くどくどしい大技やもっ 580 たいぶった秘奥義を使う武術家より、こういう一見地味な手合いの 方がよほど危険で恐ろしいのである。地面に倒れた真凛、だがその 手首は捕らえられたまま。そしてシドウは追撃に入る。無防備とな った肋骨の下端、章門と呼ばれる人体の急所に、無造作なまでにサ ッカーボールキックを放つ。人間を﹃蹴り殺しうる﹄えげつないと どめ技である。だがしかし、間一髪、残りの腕で真凛が防御。蹴り 足を受け止めるのではなく、すくい上げるように払う。蹴りをすか され姿勢を崩すシドウ。その隙に、真凛は最大限乗じた。 ﹁せやっ!﹂ つかまれたままの手首を鋭く翻す。つかんでいる側のシドウの手 首がひねられ、崩れかけたバランスに拍車をかける。絶妙なタイミ ングだった。結果、シドウは立っている姿勢を維持できなくなり、 ﹁ぬぅっ!!﹂ 先ほどとまったく逆の形で、今度はシドウが自身の体重で投げ飛 ばされる形となった。真凛がすばやく後転して、ようやく解放され た手首をさすりながら立ち上がったとき、すでにシドウも体勢を立 て直している。距離をとってふたたび向かい合う両者。技のキレは 確かに恐ろしいが、何より解せないのはあの左腕だ。確実に破壊し たはずなのに。いったいどうやって? そこでようやく、真凛の表情に理解が浮かぶ。 ﹁⋮⋮それが、貴方の異能力ってこと?﹂ 真凛の視線の先。ずたずたに掻きちぎられたはずのシドウの左腕 に、異変が起こっていた。無残な傷跡が異常なスピードでかさぶた となり、それが剥がれ落ちると、内側から鮮やかなピンク色の肉が 盛り上がる。みるみるうちに薄い皮膚が張り、やがて周囲の皮膚と 同じ色になじむと、そこにはもう傷跡は残っていなかった。 リジェネレーション 近くの幹によりかかってなんとか身を起こし、おれは戦いに口を 挟む。 ﹁真、凜⋮⋮。そいつの力は⋮⋮﹃再生﹄⋮⋮どんな傷も、すぐに、 回復する⋮⋮!﹂ 581 そう。トリックは単純。この男の腕は確かに壊れた。だが、﹃再 生﹄したのだった。まるで安っぽいSF映画のように。 ﹁攻撃にも使えない程度の、安い能力だがな﹂ そう応えるシドウの顔の、右半分に異変が起こっていた。奴の右 目︱︱ひどい火傷を負ったように白濁したその目を中心として、皮 膚の下にびっしりと細く青黒い血管が浮き出ている。よく見れば、 ブレスド・キャンサー 一つ一つの血管がまるで微生物の鞭毛のようにうごめいている。 奇跡の癌。 それが﹃粛清者﹄シドウ・クロードの本来の異能力である。人間 の体内では常に細胞がコピーされ、分裂が起こっている。その中で コピーエラーによって時折発生する壊れたDNAを持つ細胞⋮⋮こ れがガン細胞だ。そしてガン細胞は壊れているがゆえに、他の細胞 のような抑制を受けず、際限なく増殖していく。人体から見れば、 身体の中で全く別の生き物が育っているようなもので、これにより 人体にいくつもの深刻な悪影響が現れる。荒っぽい説明だが、これ がいわゆる﹃ガン﹄である。 だが、人体に拒絶反応を起こさず、ただ﹃増殖を繰り返すだけ﹄ のガン細胞があるとしたらどうだろう。体細胞から変化し、万能細 胞のような分化多能性を獲得し、なおかつテロメアの軛を離れ無限 に増殖するガン細胞。全身に転移し、ひとたび身体が傷ついたとき にはすみやかに皮膚や筋繊維、骨へと分化し急速成長する。それは つまり、傷を修復すると言うことと同意だ。 もちろん、こんな病気どころか不老不死の可能性にすらつながる ようなガン細胞は、現代の最先端医療でも作ろうとして作れるもの ではない。シドウがどういった経緯でこの﹃奇跡の癌﹄と共棲する ことになったのか、当人以外は誰も知るものがいない。この細胞は 右目の奥で発生したらしく、結果として眼球そのものは使い物にな らなくなってしまった。だが、ここから分裂して常に体中に転移し 582 ていくガン細胞によって、シドウの全身は、負傷に対して異常なま での復元力を発揮するのだ。 おれの見立てでは、上位の吸血鬼である直樹あたりとくらべても、 再生速度で言えばおそらく上回るだろう。破格の能力と言えた。 ﹁︱︱ふぅん。それなりに面白そうだね﹂ 興味なさげな口調で、真凛がつぶやく。だが、それは未知なる強 敵と相対したときに、逸る闘争心を押さえつけるためのものだとい うことを、おれはこの半年ばかりの付き合いで知っていた。 ﹁死合うには、ちょうどいい相手かな﹂ 殺人に特化した高度な戦闘技術と、身体のパーツを破壊する殺捉 術の天敵とも言える再生能力。難敵を相手に、真凛の表情はますま す消え失せ、戦闘機械じみた冷たさに満たされてゆく。ある意味、 ﹃殺促者﹄としての正しい姿︱︱なぜか、もうすでに誰のものかも 思い出せなくなった表情と重なる︱︱ではある。 だが。 それを看過するわけには、いかない。 まだ痛む喉を押さえたまま、おれは二人の間に割って入る。 ﹁陽司!?大丈夫なの?﹂ 真凛の表情が、ふとゆるんだ。それに片手を挙げるだけで応え、 相対する﹃粛清者﹄に、喉の痛みを無視して言葉をかける。 ﹁ここは、退け、シドウ。おれが、他の異能力者と、組んだときに、 どれほど厄介か。おまえ自身が、よく知っているだろ?﹂ おれの能力は、こと直接のケンカにおいては、せいぜいパンチや キックを一発か二発命中、あるいは回避させる程度にしか役に立た ない。だが、他の異能力者とコンビを組み、その能力による攻撃を 確実に命中させる事が出来れば、その脅威は飛躍的に増加する。︱ ︱かつて、シドウ自身と組んだときにも採った戦術だ。 シドウに恨まれるのは⋮⋮仕方がない。しかし、奴は戦闘の玄人 だ。そして玄人ならば、感情に流されず、勝てる戦いと退くべき戦 いの判断は冷静に下すはずだった。 583 だというのに、シドウは退く様子を見せず、おれに殺気を叩きつ ける。そもそも奴の目標は最初からおれなのだ。 ﹁差し違えても、貴様は倒す﹂ くそっ。そこまでやる気かよ。 ﹁陽司、あいつと知り合いなの?﹂ とりあえず戦闘態勢を解いたらしい真凛。やれやれと、おれは密 かに安堵する。 ﹁⋮⋮まあ、な。昔の同業だ﹂ おれ達は今、幽霊騒ぎを解決するためにここにいる。この戦闘は、 任務のために必要なものではなく、個人的ないさかいなのだ。そう おれは説明したかったのだが、そんなヒマもなく、即座に真凛は烈 火のようにシドウを非難する。 ﹁知り合いに殺し技を仕掛けるわけ!?業界のジンギはどうなるの ?﹂ だがシドウは、そんな真凛を見て目を細め、やがて哀れむように うなずいた。 ﹁そうか。何も知らないのか﹂ 奴は、その黒い左目と、濁った右目でおれと真凛の双方を捉えた。 ︱︱おい、まさか、貴様。 ﹁例え仁義破りに堕ちようとも﹂ シドウの声は、その構えのように頑として揺るがない。︱︱それ を、言うな。 ﹁そこの人殺しをこれ以上のさばらせておくわけにはいかん﹂ ﹁えっ?﹂ おれの胃の中に、巨きな氷の塊がどこからともなく現れて、ずし りと沈んだ。重く、冷たく、苦いものが、腹から喉、脳へとせり上 がってくる。 ﹁⋮⋮ひと、殺し?﹂ 真凛の視線が、ゆっくりと、おれに向けられるのが、背中ごしに も、わかった。 584 おいおい。シドウ。そりゃあ、なしだぜ。 おれは小さく罵り。一つため息をつくと、肩をすくめた。 殺す。 そのまま単語を絞るように吐き出す。 ﹃我は﹄﹃亘理陽司に﹄﹃非ず﹄︱︱﹃無数の名を持ち、だが全て は無意味﹄ ⋮⋮本当なら、首絞めの時点でケリはついていたはずなのだ。 今回真凛が助けに来たのは、あらかじめ想定していたからでも策 を用意していたからでもない。ただの幸運だ。拾った命に過ぎない。 ﹃我は﹄﹃人に﹄﹃非ず﹄︱︱﹃万能の工具、而して意志を許され ず﹄ つまりここから先は死人も同じ。死人には、もう恥も名誉と言っ たつまらん体裁を取り繕う必要もないってこと⋮⋮か。 それなら。 ﹃我は﹄﹃つなぐものに﹄﹃非ず﹄︱︱ 手っ取り早くこのでかぶつをバラバラに斬殺して、終わりにしよ う。 ﹁陽司!危ない!!﹂ そうした俺の思考は、突如後ろから突き飛ばされたことで中断さ せられる。 585 ﹁っ、何をする﹂ 振り返った刹那。 硬質の風切り音を走らせ、何か細いものが俺の真横を一瞬にして 横切った。 ﹁狙撃⋮⋮か!?﹂ 俺、いや、おれは、痛む頭を振って慌てて起き上がり、たった今 自分の肩をかすめていったものを見る。幹に突き立っていたのは、 矢。それも、本格的なアーチェリーの矢だった。大学の体育館で見 たことがあるから、多分間違いない。 獣道の奥に目を凝らす。 ﹁⋮⋮なんだ、ありゃあ?﹂ 思わず叫んでしまったが、それも仕方がない。何しろそこには、 あまりにも場違いな人間⋮⋮こんな山中には不釣り合いなファッシ ョンに身を包んだ兄ちゃんと、それから、アーチェリーを構えてこ っちに向けている巫女さんが居たのだから。 586 ◆10:疾風と濁流と ﹁⋮⋮なんですか、あれは?﹂ アーチェリーを構えたまま清音は思わず叫んでしまったが、それ も仕方がないことだった。何しろそこには、あまりにも場違いな人 間⋮⋮こんな山中には不釣り合いな女子高生と思しき少女と、もう 一人、奇妙に印象の不鮮明な青年が居たのだから。まして、その少 女の方が、彼女の同僚にして白兵戦の達人であるシドウに手傷を負 ・・ わせていたとなれば尚更だ。考えられる理由はただひとつ。彼女達 もまた、同業だということだ。 ﹁にしてもよぉ。いきなり警告なしでぶっ放すのはさすがにヤベェ んじゃないの?清音ちゃん﹂ いささか呆れ顔で土直神がつぶやく。 ﹁︱︱あ、そ、そうですね。すみません﹂ 清音が駆けつけざまに青年に向けて放った矢は、結果として相手 が同業者だったからかわされてしまった。だが万一、これが山に迷 い込んだただの学生だったのなら、矢が命中して間違いなく大怪我 になっていたはずだ。責任問題どころか歴とした傷害罪である。 ﹁まぁ結果オーライだけどさあ。らしくないっつうか﹂ 弁解のしようもない。本来、清音は戦闘を好む性格ではない。だ が、清音がシドウの様子を確かめに駆けつけたとき。少女の隣にい る青年から、異様な︱︱そう、異様、という言葉くらいでしか表現 ができない気配を感じ取ったのだった。巫女の家柄の清音は、生ま れつき霊の気配を察知する力に長けているし、やや人間からはみ出 は知っている。だが、あのとき。青年から発せられてい した血筋の者や、魔術師や超能力者とも仕事をして、彼らの独特の 雰囲気 587 た気配は明らかにそれらとは別物だった。気がついたときには、清 音はほとんど直観的に矢を放っていたのである。恐怖や嫌悪といっ それをこ 使命のようなものを感じた、と た感情とは微妙に違った。なんというか⋮⋮本能的に、 こから追い返さなければいけない でも言えばいいのか。 ﹁んでさ?ぜんぜんおいら状況が飲みこめねーんだけど。清音ちゃ んわかる?﹂ ﹁無茶な振りしないでくださいよ。私だってさっぱりわけがわから ないんですから﹂ あの二人が同業者だと言うことは納得してもいい。ついでに言え ば、清音よりも小柄な︱︱さすがにあれには勝ったと思う、色々︱ ︱女子高生が、シドウに傷を負わせたということも、この業界なら ありえないことではない。だがしかし。清音の儀式を妨害するほど のシドウの戦意、いや、殺意は、目前の女子高生ではなく、後ろの 青年の方に向けられていることが不可解だった。先ほどの気配とい い、この青年には何かあるのか。 判断をする暇もなく、シドウが動いた。清音たちの参戦に驚いた 相手の隙に乗じて、すかさず青年のほうにつかみかかったのである。 そこに女子高生が割って入り、たちまち二人は熾烈な戦いを繰り広 げる。なるほど、女子高生の方は相当の武術の心得があるらしい。 クィーバー ﹁ちっ、いまさら落ち着いてお話し合いしましょ、なんて言える雰 囲気じゃないってか﹂ ﹁とにかく、援護します!﹂ アロー 清音は腰に装着した、緋袴とマッチしないこと甚だしい矢筒から 新たな矢を引き抜いて、アーチェリーに改造された霊弓につがえる。 片や土直神はと言えば、またしてもポケットから携帯ゲーム機を取 り出すと画面に視線を落とした。そして地面にかがみこむと、タッ チペンで地面に触れてなにやら小さな丸を描き、気のいい兄ちゃん そのものといった表情を曇らせる。そして、 ﹁⋮⋮やっぱさっきの場所だな。二人でもヤバそうだったらあそこ 588 まで戻ってきてくれ﹂ そう言い残すと、くるりと踵を返し、今来た道をまっすぐ戻って いってしまった。それに振り返らずにうなずいて、清音はつがえた 矢を向けた先に意識を集中する。シドウと女子高生の戦闘は膠着状 態に入ったようだ。青年の方は負傷しているのだろうか、後ろに下 がっている。めまぐるしく位置が入れ替わる接近戦に割って入る余 地はない。 それならば。 清音は弓を打ち起こす。 ドローイング フルドロー 姿勢、という言葉そのままに、構え姿の持つ勢いを利して流れる ように引き分け。そのまま更に弓を押し出しつつ弦を引き絞り、会 へと至る。弓というものは、撃とうと思って撃つものではない。た フルドロー リリース まった雨露が自然に地に落ちるように、自然と己の心技体が充実し、 会から自ずと離れに至った時、真の射となる。例え和弓であろうと 洋弓であろうと、その理は変わらない。 そして。風早清音はただの弓使いではない。 ﹃風の巫女﹄には、さらにまだその先がある。 満月を連想させるほどに引き絞られた状態を保ったまま、清音は またも言葉を口ずさむ。一音一音に力を込めるように。 はらいことば ﹁と・ほ・か・み・え・み・た・め︱︱﹂ 祓詞に応じ、再び清音を中心として周囲に風が渦巻く。否、その 中心は清音自身ではない。清音のつがえた、矢の先端であった。 頭から冷や水をぶっかけられたようだった。 ︱︱何をやっているのか、おれは。 589 森の奥から攻撃をしかけてきた場違いな二人は、明らかにおれ達 の同業者。つまりはシドウの仲間と考えるべきだろう。真凛に突き 飛ばされなければ、さっきの矢の一撃で即リタイヤしているところ だった。 ⋮⋮バカが。冷静になれ。 真凛に言いきかせるどころではない。おれはまず自分自身のアタ マをクールダウンさせなければならなかった。先ほど感情にまかせ て、おれは何をしようとしていたのか。アレは、アレと同質のモノ に関する戦いの時だけ呼び出すべきもの。力欲しさに感情にまかせ て振るうのであれば、おれのメンタリティはキャンディ欲しさにラ イフル銃をぶっぱなす子供と大差がないことになってしまう。正直 まだシドウの野郎は殺してやりたいが、だとしてもそれは別の手段 によってでなければならない。 絞められた首の跡が痛む。くそっ、認めなきゃいけないんだろう な。たぶんおれは今、焦って集中を欠いている。全く偶然に旧知の 人間に出くわし、殺されかけた事。そして。 シドウと斬り結ぶ真凛の背中が目に入る。 組み技は危険と見た真凛が、徹底的に腕や足など先端部分に攻撃 を加えるのに対し、シドウはもはや隠す必要の無くなった回復能力 を全開にし、文字通り肉を斬らせて骨を断つ機会を伺っていた。 ⋮⋮とにかく、今は目の前の事態を切り抜けることを考えなけれ ばならない。現れた増援のうち、妙なファッションの男の方は撤退 し、巫女姿の少女の方は、すでに第二射をつがえようとしていた。 どうやら男の方は戦闘系の能力者ではないようだ。となれば、増援 はこの子一人ということになる。 真凛とシドウが高速で接近戦を演じている以上、狙ってくるのは まず間違いなくおれだろう。おれはひとまず獣道から森の下生えの 中へと飛び込み、立木を盾にして身を隠した。腰までが下生えに埋 もれ、むっとする草いきれの臭いが鼻をつく。 590 ﹁さすがに飛び道具は卑怯だと思うんだよなあ﹂ おれはぼやいた。銃で狙われるのは、悲しくもずいぶん慣れてし まった身であるが、弓矢で狙われるというのはまた別の恐怖である。 何しろ相手とこれだけ離れていても、ぴりぴりと張り詰めた空気が はっきりと伝わってくるのだから。一流のハンターと対峙した野生 動物の気分だった。対策を練ろうにも、とにかく相手の情報が足り ない。銃ならいざしらず、弓矢ならば木の幹を貫通することは出来 ないはずだ。時間を稼ぎながら、少しでも状況を打開するヒントを 見つけださなければならない。木立の影から様子を伺う。 ﹁⋮⋮あれ?﹂ すると、獣道の奥で弓を引き絞った巫女の少女は、おれが森の中 に逃げ込んだことを気にも止めず、無造作におれのいる方向に矢を 向け︱︱そして、放った。 刹那。 おれの前にあったはずの立木が消失した。 耳の奥で、わずかにきぃんと不快な音がなったような気がした。 そしてそんな事を知覚する余裕はまったくなく。 おれは、爆発に巻き込まれ土砂ごと無様に宙を舞った。 カマイタチ、突風、つむじ風。 ゲームや小説でも散々登場する﹃風使い﹄の攻撃のイメージは、 わけではない。そうした風によ 風を吹かせている だいたいこんなところだろう。確かに、この派遣業界にも、こうい った能力を持つ人間は多数いる。 使っている だが、風早清音からしてみれば、それはただ だけであり、風を 591 る攻撃は、石をぶつける、火で燃やすといった他の系統に比べても 効率が悪く、どうしても馬力勝負になりがちだ。それを嫌い、天之 リリース 御柱の力を借りて風を操る清音が選んだ攻撃方法は、実に合理的で 恐ろしい物だった。 充実した心技体より繰り出された離れの時、アルミ合金とカーボ ンフレームで出来た弓と、アラミド繊維で縒りあげた弦に満々と蓄 えられた力は、全て矢に転化され撃ち出される。通常どんな強弓で あろうと、撃ち出された矢は空気抵抗によって減速し、いずれ地に 落ちる。当然の物理法則だ。ここまではいい。 だが、清音は風早の霊弓を媒介として、矢の先端に圧縮された小 さな風の塊を纏わりつかせていた。これは清音の風使いとしての技 量の精髄とも呼べる物で、まず猛烈な勢いで後方に空気を噴射し、 矢を前方に押し出す。そしてその速度が一定域に達した時点で極小 の渦を形成。前方の空気流を吸い込み圧縮して後方に噴射すること ・・・・・ で、さらにもう一段階爆発的な推進力を得る。いわば擬似的なジェ ットエンジンを構成するのだ。 そう。元来、風というものは、物体を加速させる時にこそその真 ポイント の威力を発揮する。そしてその速度を最大限に生かすのが、今回清 音が使用した矢である。鏃の中に鉛を詰め込み通常の倍近く重くし た規格外のシロモノで、これが際限なく加速され音速を凌駕したと き、その最大破壊力はアンチマテリアルライフルに匹敵する。これ は、鏃の素材次第では現役軍隊の装甲車両を貫通しうる値だ。通常 の風術による攻撃よりも遙かに効率的で凶悪な、超音速の魔弾。こ んなものを撃ち込まれたのでは、相手もたまったものではなかった。 直接あの青年に当てれば、誇張無しに首から上が消失する。あえ て外して放った一撃は、立木をチーズのようにへし折り森を一瞬に して駆け抜け、その軌道上に凄まじいソニックブームを引き起こし た。爆発音と同時に大量の土砂が舞い上がり、青年を巻き添えにし て吹き飛ばす。そしてシドウと交戦中の女子高生も、その光景に驚 愕して動きが止まった。 592 ﹁シドウさん!こちらへ!﹂ ここで初めてシドウに声をかける事が出来た。 戦闘としては明らかな好機である。一気に決める事も可能だが、 清音はなぜか、ここでこちらも体勢を立て直すべきと感じたのだ。 巫女として生きる清音は、己の直観が割と要を衝くことを経験的に 知っていた。だがしかし、シドウはそれに応じない。好機と見るや、 女子高生を無視して再び青年の方へと向かったのだ。 ﹁シドウさん⋮⋮!本気ですか!?﹂ 信じたくはなかったが、認めざるを得ない。シドウ・クロードは、 本気であの青年を殺そうとしているのだった。一体、あの青年とシ −A −R −A −K ドウの間に何があったというのか。舞い上がった土煙をものともせ MARAK ず、シドウが猛然と突進する。 ﹁︱︱﹃手弱女が髪の如く縺れる束縛の銀よ﹄﹂ ふいにそんな声が響くと。 異変が起こった。シドウの突進が、ぴたりと止まった。いや。止 められていたのだ。いつの間にかシドウの全身に、幽かに輝く無数 の銀の糸が張り巡らされていた。咄嗟に引きちぎろうとしたシドウ の鋼鉄のような容貌に、はじめて明確な警戒の色が浮かぶ。 ﹁⋮⋮六層拘束術式。魔術師が居るのか﹂ シドウが視線を転ずる。 ﹁やっと崖から下りてみれば。いったいどうなっているんだ﹂ そこには、くたびれたコートを身に纏った男がいた。 ﹁チーフも来てくれたんですか﹂ とんでもない爆弾みたいな矢に吹き飛ばされ盛大に尻餅をついた 状態から起き上がりつつ、おれは背後から現れた人物、つまりはお 593 視た 時のお前の様子が尋常ではなかったしな﹂ れ達のリーダーである須江貞俊造に声をかけた。 ﹁ああ、上から 左手には火のついたゴールデンバットを挟んでいる。まさか崖の 上で吸っていて、捨てるのがもったいないから持ったままあの急な 崖を降りてきたのか。その右手には、ちょうとトランプのカードく らいの、薄い銀のプレートがあった。 ﹁で、その。こうなるに至った経緯なんですが﹂ 一体どう説明したものやら。 ﹁ああ。少なくとも、誰も状況を把握していない、ということは把 握している﹂ 的確な観察である。コートを翻らせて、無数の銀の糸に囚われた シドウに向き直った。 ﹁こちら側には戦いを仕掛ける理由はないが⋮⋮この男は聞いてく れそうにもないな﹂ まだ半分残っているゴールデンバットを愛おしげに口に運び、た っぷり肺に吸い込む。そういえば以前この人、高原の空気でタバコ を吸うと実に美味いんだ、などと本末転倒も甚だしい台詞を吐いて いた前科がある。他方シドウは、新手の参戦でも怯むことなく、か らみついた銀の糸を引きちぎろうと、全身に力を込めた。その様を 冷たく見据えて、チーフは紫煙を吐き出す。 ﹁小技が通じる相手じゃなさそうだな﹂ そのまま、右手にもった銀のプレート︱︱祭壇で清められ、翼あ る御使いが文字を刻んだそれ︱︱を、天へと掲げた。 ﹁やっべぇ!真凛、離れろ!﹂ ABALA MAHAM ALABA 稲妻 GAMAH 也﹄ おれは叫ぶと同時に、自分でも全力でシドウから距離を取った。 HAMAG ﹁︱︱﹃八大副王が一の長。豊穣と打擲の蛇其れ即ち !﹂ いかずち チーフの詠唱と同時に、シドウの身体が、突如光り輝いたように 見えた。 雲一つないはずの晴天から降り注いだ雷が、シドウの脳天を直撃 594 したのだった。閃光と爆音。またしても衝撃が大気を振るわせる。 魔力によって編まれた銀の糸によって対象を拘束。そのまま次の詠 唱によって上空へ接続された見えない魔力の経路︽パス︾が、大気 中に存在する静電気を瞬時に一点に集積し、対象への落雷を引き起 こしたのだ。200万ボルト、1000アンペア程度の小さな雷で はあるが、本来人体を破壊するには充分すぎる威力だった。 莫大な電子の濁流がシドウの体内をかけぬけ、たちまち水分を蒸 発させ全身から煙となって吹き出す。落雷による電流の多くは銀の 糸にも伝わり、からみついた皮膚をずたずたに灼き斬る。発生した 熱はたちまち背広を炎上させた。 肉と髪の毛のこげる不快な臭いがもうもうと立ち込める。 ﹁ぐは⋮⋮⋮⋮っ﹂ 開いた口からも煙が吐き出される。内臓も焼けただれているのか も知れない。だが炎と煙を全身から噴き出しつつも、まだ、﹃粛清 者﹄シドウ・クロードは動くことが出来た。のみならず、焼けこげ ただれ剥がれ落ちたはずの皮膚がたちまち剥がれ落ち、新たな肉が 盛り上がり再生を始めているのだった。 ﹁これなら出力を抑えなくても良かったか﹂ その様を見て、呆れたようにチーフが呟いた。たしかにここまで 来るとほとんどホラー映画のモンスター並みの不死身っぷりだ。 ﹁仕方ない。悪いがもう一発喰らってもらおう﹂ チーフは再びプレートを掲げる。別に無慈悲だからでも残酷だか らでもない。ここまでしないと止められない敵手なのだ。 ﹁シドウさん!後退を!﹂ 獣道の奥から、あの弓使いの巫女さんの声が飛んだ。シドウが初 めてその歩みを止める。チーフ、真凛、そして、おれをそれぞれに 見つめた。これでは相討ちも不可能と判断したのか。全身から煙を 吹き出しながら大きくバックステップして距離を引き離し、そのま ま巫女さんの方に向けて走り出す。落雷の衝撃によって銀の糸は焼 き切れていた。それに真凛が反応した。 595 ﹁ここまでやっといて逃げるのはなしだよ﹂ 追いすがろうとする。 ﹁真凛!バカ!追うな!⋮⋮くそっ﹂ 何度も言っているが、これはおれとシドウの私闘に過ぎない。双 方のチームが決着をつけるまで戦う必要などどこにもないのだった。 手負いのシドウをここで仕留めるにはリスクが大きすぎるとわかる 程度には、おれの頭の血も下がっていた。 ﹁チーフすいません、あと頼みます!﹂ 快足を飛ばして追いすがる真凛。やむなくおれも、真凛を追わざ るを得なかった。 シドウがこちらに向けて走ってくるのを見て、清音はひとまず安 堵した。援護に現れたもう一人のコートの男は、おそらくは清音同 様、術法を扱うタイプ。しかも、シドウを一瞬で拘束したこと、晴 天に落雷を落としてみせたことといい、並々ならぬ技量を持ってい ると判断せざるをえなかったのだ。清音は自分のやるべき事を弁え ている。追いすがってくる敵を牽制するため、すでに第三射の準備 は整っていた。莫大な加速を引き起こす疾風の矢の狙いを定めたそ の時。 ﹁﹃亘理陽司の﹄﹃指さすものは﹄﹃仮初めの理を﹄﹃紡ぐことは ない﹄﹂ 矢の先端に収束させていたはずの風が、突如雲散霧消した。 ﹁︱︱え、なんで?﹂ 思わず目を向けると、少女を追ってこちらに走りながら清音を指 さしている青年と目があった。青年は首を抑えて走りながら、清音 596 に向かって皮肉っぽく口を開いた。 ﹁悪いな。術法なんて不確定なものを妨害するのは、得意中の得意 でね﹂ そう唇が動いた気がする。どうするか。判断に迷ったのも束の間、 清音はつがえた矢をそのまま少女の方に向けて射る。だが、少女は まるで矢の軌道があらかじめ見えているかのように易々とかわすと、 なおもシドウに向けて追いすがった。 ﹁⋮⋮どうも、二対三でどうこう出来る相手ではなさそうですね﹂ 清音は現状を認めると、弓を降ろした。そして、 ﹁走りますよ、シドウさん﹂ やはり踵を返し、獣道の奥へと向けて走り出した。 ﹁くっそ、どいつも、こいつも、体力バカ、かよ!﹂ 痛む喉をさすりながら、おれは息も切れ切れに喘いだ。⋮⋮まあ、 おれが運動不足なのは正直認めるところではあるが。前方を走る真 凛の脚力は大したものだが、足場の悪い山中の獣道を走破するとな ると、軍隊で専門の訓練を受けたシドウに一日の長がある。併走す る巫女さんの方も山歩きに慣れているのか、やたらに早い。そして おれはといえば、連中に引き離されないようにするのが精一杯だっ た。 ちくしょう、今日は完璧にオーバーワークだぜ! 朝の予定では、実務はチーフに、雑用は真凛にまかせておれは気 楽な中間管理職を気取っていられるはずだったのに。息切れで愚痴 をこぼすことも出来ず、おれは走り続けた。 すると、唐突に森が消え、ひらけた場所に出た。いや、そこは正 確にはひらけた場所というわけではなかった。水はけの悪い土砂が 大量にぶちまけられており、そこらにあったはずの木々が根こそぎ 597 押し倒され、流された跡があった。そしてすぐ側に見える濁流は、 板東川か。 ﹁⋮⋮そうか。ここが、土砂崩れのあった場所なのか﹂ 合点がいったおれが周囲を見回す。 すでにシドウと巫女さんは歩みを止め、追いついた真凛と静かに 相対していた。 ﹁ここで決着をつけるつもり?﹂ 真凛が問う。だが、シドウと巫女さんは言葉を返さない。それな らば、と真凛がさらに一歩踏み込む。 ﹁おい止せ真凛︱︱﹂ おれは駆け寄る。妙に落ち着き払った二人の様子が、おれの脳裏 に黄色信号を点滅させていたのだ。迷わずここに向けて走ってきた You art erapped! ことも気になる。そしておれが真凛の傍らに立ったとき。 ﹁はい。ひっかかった﹂ 横合いからとぼけた声がかけられた。 ﹁えっ?﹂ 真凛が間抜けな声をあげた時には、おれはすべてを理解していた。 ﹁しまった⋮⋮誘い込まれた!!﹂ おれ達から少し離れた岩の上に、さっきの妙ちきりんなファッシ ョンの兄ちゃんが腰掛けていた。それも、こともあろうに携帯ゲー ム機をもったまま。 ﹁悪いが、仕込みはとっくに済ませてあったんだよね﹂ 機体からタッチペンを引き抜く。山の中、川の傍、土砂崩れ、誘 い込まれたとくれば。 ﹁地脈使い!罠を設置するタイプの異能力者か!!﹂ ﹁ご名答。でも遅かったね﹂ 兄ちゃんはそのまま、タッチペンで己の座っている岩を突いた。 598 ずん、と低音がひとつ響き渡った。 結局のところ、今日のおれはまったく頭が回っていなかったよう だ。 今さらになって、そう言えば北関東を中心として活動する、とく に山岳地帯や河川地帯では無類の強さを発揮する厄介な異能力者が いる、なんて噂を思い出していたのだから。代々受け継がれる神道 系の能力者ではあるが、﹃土と豊穣の神様﹄を奉るうちに、普通の 神主さんとはずいぶん異なる進化を遂げた。土、それも﹃地脈﹄を 扱うすべに強力に特化し、今ではむしろ、大陸の風水師のイメージ に近いものとなっているのだとか。 その低音が消えるとやがて、地の底から咆吼のごとき地鳴りが轟 き始める。 その家系には先天的に地脈の﹃線﹄と﹃ツボ﹄を見抜く力がある とされる。地脈の流れを読み、ツボを突いて刺激をすることで、地 脈に含まれた余分な水や土を河川に排出させたり、あるいは氾濫止 まぬ河川に流れ込む地下水を断ち鎮める、といった行為を可能とす る。便秘解消と下痢止めみたいなもん⋮⋮と言ってしまうと身も蓋 もないのだが。 とにかく。土の理を知り五穀豊穣をもたらす地脈使いからしてみ れば、突然の土砂崩れにより山肌が切り崩され、川の流れが妨げら れているなどという状況は充分に﹃地脈が乱れている﹄ということ もとに戻ろうとする 力を与えられたならば。 になるのではないだろうか。そしてそこに、地脈の﹃ツボ﹂への刺 激が加わることで、 堆積している邪魔な土砂や水は、どうなる? 地鳴りは鳴りやまない。 ﹁ホントはアンタ達に備えて張ったモンじゃないんだけどね。すで 599 ・・ ・・ に十箇所の﹃ツボ﹄を突いてある。このコンボは、ちょぉっとごっ ついぜ﹂ ﹁でええええええっ!?な、何あれ?﹂ 真凛が目を見開くのも無理はない。岩の上に座る兄ちゃんのすぐ いらないもの ファフニール があった。 脇にはこの地鳴りの原因である満々とたたえられた土砂と泥の塊︱ ︱ここにあった大量の ドラゴンバスター の噂はあちこちで飛び ﹁へぇ。そこのちっこいお嬢ちゃん、たぶん﹃毒竜﹄をぶっ倒した 子だろ。史上最年少の 交ってるよ﹂ 二つ名で﹃竜﹄を名乗れるということは、周囲にそれを認めさせ ドラゴンバスター などと称されることも、ま る実力がある証でもある。そしてその﹃竜﹄に勝利した者には、二 つ名とは別に時折 まあるのだ。それはさておき、兄ちゃんはタッチペンでおれ達を指 メイルシュトローム し示す。 ﹁﹃浄めの渦﹄土直神安彦。今後ともよろしく﹂ 兄ちゃん⋮⋮土直神の背後に湛えられた膨大な土砂と水が、まさ しく堰を切ったかのようにいっせいに襲いかかってきた。兄ちゃん 本人と、少し離れたところにいる巫女さんとシドウを綺麗に避けて、 おれ達だけをまるで生き物のように狙ってくる。関節を破砕する凶 悪な武術も、因果をねじ曲げる反則技も、襲いかかる土石流の前に はなんら意味をなさない。 ﹁ああああああああああああぁぁぁぁぁぁ⋮⋮﹂ 抵抗する間もありはしない。おれ達二人は瞬く間に呑み込まれ、 たいそう間抜けな声を挙げながら、板東川の遙か下流へ向けて流さ れてしまったのだった。 600 ◆11:ブレイク&リコール︵サイドB︶ 彼からの手紙を受け取ったとき、私は少なからず驚いた。 彼とはここ数年すっかり音信が途絶えてしまい、こちらからの連 絡もとりようがなかった。色々と言葉を取り繕ってはいるが、しょ せん、我々のやっていることはやくざな仕事である。正直なところ、 最悪の事態も想定していないでもなかった。だから安堵もしたのだ が︱︱手紙の封を開いた途端、そんな安堵も吹き飛んでしまった。 手紙は二通。 一通は、彼から私への贈り物だった。こういう時、彼には到底か ・・ なわないな、と思う。彼に学び、彼に近づこうとしていた時、一度 でもそれを欲しがったつもりはなかった。だが実際に貰ってみると、 晴れがましさと畏れで胸が満たされる。私に演技の道を説き、自分 には演技は出来ないなどと言っておきながら、私の知るところ、彼 ほど人の心をよく把握している人物はそうはいなかった。 そしてもう一通は、彼の舞台への招待状だった。 そしてそれを一通を開いたとき。なぜ彼が私に贈り物をしたのか、 その理由を知った。なればこそ、私にはその招待を断ることなど出 来るはずもなかった。勿論、恩義がある人の頼みだからということ もある。だが、それだけではない。 舞台の幕が上がったのだ。 601 限りなく100%に近づくことを可能とし、だがそれ故に100 %になることが出来なかった男。その彼が、はじめて100%の向 こう側に辿り着くための舞台。 この私にも欲はある。 そのひそやかな、誰にも知られぬ偉大な挑戦の中で、ささやかで はあるが役を与えられ、そして同時に観客という名の見届け人を務 めることになるのであれば。 彼からの﹃贈り物﹄にかけて、これほどの栄誉はないと胸を張っ て断言できるのだから。 ﹁ありゃあ﹃フレイムアップ﹄つう派遣会社の連中だあね。東京に あるちっちゃい会社だけんど、なーんかロクでもないのがいっぱい 揃ってるらしいよ﹂ ワゴンの助手席で、相変わらず携帯ゲーム機に外付けのモバイル アンテナを取り付けながら土直神が説明するのを、またジャージに 着替えた清音と、こちらは変わらぬ背広姿の徳田が聞き入っている。 ﹁ええっと⋮⋮あのちっちゃい子は﹃殺促者﹄。ウルリッヒのデー タベースによると、野生のケダモノも真っ青なルール無用の残虐超 人。なんでも半径一メートル以内に近づくと目ン玉を抉られるとか。 でも知能はそんなに高くないらしいんで、作戦や罠にはよくひっか かるらしい﹂ 時刻はすでに三時を廻り、日は傾きかかっている。今彼らがいる のは、元城市の国道17号沿いにあるショッピングセンターの立体 602 駐車場に停めた、徳田の大型ワゴンの中だった。 あのほとんど訳がわからないまま突入した三対三の戦闘の後。清 音は元の場所に戻ってはみたのだが、土直神の術の影響で大幅に地 雰囲気 に焼き付いてしま 相が変化してしまったことと、先ほどの苛烈な殺気と闘志のぶつか り合いが、感光したようにこの辺りの ったため、当分は神下ろしの術式を執り行うどころではなさそうだ った。このままここにいても仕方がないとの判断から、清音達四人 は得るものがないまま、元来た河原を下って徳田の車に乗り込み、 ひとまずは街で態勢を整え直しているのである。 ﹁んで、一番厄介なのは、あのコートのおっちゃん。連中のまとめ 役の須恵貞ってヤツだな。こいつはあのちみっこより、倍以上の脅 威と考えといた方がいいやね﹂ 最近の携帯ゲーム機はノートPCの真似事も出来るらしく、液晶 画面をタッチペンで繰りながら、データを読み上げていく土直神。 あのタバコ臭い男が駆使した術式の数々は、清音の使う術とはかな り系統が異なるようだ。恐らくは西洋の流れ。そして自然の力を借 り受けるよりも、自然そのものを従え支配する思想に基づくもの。 ﹁銀のプレートを使ったって言ったろ?ならたぶん、方陣魔術だぁ な。悪魔と交渉して力を引き出す魔術とも、神の慈悲を願い授かる だぁね。魔方陣の刻まれたプレートをかざして簡単な呪 法力とも異なる、神サマの命令権を行使して俗世に奇跡を行使する 聖魔術 文を唱えるだけのクセして、かなり強力らしい﹂ 術 に仕立て上げなければならない。本当に強 行使出来る力が弱いほど、組み合わせたり重ねがけしたり蓄えた り増幅したりして い者が力を使う場合、柏手一つで魔を祓い、歩法一つで大地や大河 すら操る事が出来るのだ。 ﹁そーいや昔、有名どころの魔術結社の団長が発掘したとかって話 もあったな。でも天使サマか聖者でもないと扱いは許可されないモ ノのはずなんだがなぁ⋮⋮って、どしたん清音ちん?﹂ 603 ﹁⋮⋮いえ。土直神さんって意外と博識だったんだなぁ、とちょっ と感心してたところです﹂ ﹁意外と、とは失礼な。見てくれよおいらを。いかにも内なる知性 がにじみでてる顔だろ?﹂ ﹁ええ。だから意外だと言ったんです﹂ ﹁引っかかる言い方だぁな。まぁいいや。実際ウチはまっとうな神 道からはずいぶん外れてるんで、その分こだわりなくあっちゃこっ ちゃの術を貪欲に研究して取り入れてるワケ。とくにあの方陣魔術 のレパートリーは多彩だぁね。雷を起こす、銀の糸で敵を拘束する、 なんて攻撃系から、失せもの捜し物についてもかなりの⋮⋮﹂ 不意に土直神は言葉を切り、ううんと一つ唸った。そして業界長 いけど実物拝むのは初めてだねー、などとぶつぶつ呟く。だが清音 は彼らの能力以前に、そもそもの疑問を解決しておかなければなら なかった。すなわち、なぜ、彼らと戦うことになったのか。 ﹁ほんで最後のあの兄ちゃんについては⋮⋮あんまり情報がないけ んど。まぁそこは、詳しそうなシドーさんから説明してもらいまし ょーか﹂ 土直神の、そして清音と徳田が視線が一斉に四堂に向く。当の四 堂はといえば、無言のまま運転席で食事を繰り返していた。 四堂が今口にしているのは、徳田にショッピングセンターの中の ドラッグストアで買い込んできてもらった巨大な缶入りのプロテイ ンに、袋詰めの上白糖をぶちこみ、牛乳を混ぜて練りあげたもので ある。それを、無言のままペットボトル入りのスポーツドリンクで 胃の中に流し込みながら、サプリメントの錠剤をおつまみ代わりに かじっている。 どうひいき目に見ても美味そうな食事ではなかったが、四堂は一 ・・ 向に意に介した様子はない。それもそのはず、これは食事ではなく、 ﹃補給﹄なのだ。不死身じみた再生能力とは言え、材料がなければ 細胞は分裂できない。損傷箇所の補修と、次に向けての物資の備蓄。 そのために経口摂取するものは、栄養バランスが整って軽量でさえ 604 あれば良い。引き裂かれ、焼けこげた背広とは対照的に、まったく 無傷の筋肉は、傍目に見てもあまりにも不自然に過ぎた。 ﹁⋮⋮昔の知り合いだ。たまたま遭遇したので戦闘を仕掛けた﹂ ﹁⋮⋮それだけ、ですか?﹂ ﹁ああ﹂ それきり四堂は、ただ栄養補給のみに口を開閉させるだけだった。 ﹁ちょい待ってよシドーさん。さすがにそれで納得しろってのはム リだってばよ﹂ 仁義 土直神のコメントはもっともだ。問いただすべき事はいくらでも あった。そもそも任務中に私怨で戦闘を行うなど、業界の からすれば相当問題のある行為だ。清音が知る限り、派遣社員達の 中でも四堂はそういうことには人一倍スジを通す男である。仁義を 無視して遭遇戦を仕掛けたあげく、結果として本来の任務を大きく 妨げるような事は、他人にも自分にも許すはずがないのに。そして もう一つ。清音が駆けつけた時にあの青年から感じた途轍もない違 和感。あれは一体なんなのか。 ﹁四堂さん、﹂ ﹁すまん。これ以上は話せない﹂ そういうと四堂は、深く頭を垂れた。 ﹁え﹂ そして四堂は、本当に岩と化したように喋らなくなってしまった。 口先だけで誤魔化そうとするならまだしも、こうなってしまっては 追求のしようもない。微妙な沈黙の中、土直神が一つタッチペンを 弾くと、間抜けな電子音が社内に響いた。 ﹁しょーがない。シドーさんが頭を下げるくらいなら、きっと知ら ない方がおいら達も幸せなんだろ。とーにーかーく。これからどう するかを決めよっか﹂ ﹁⋮⋮そうですね。起こった事は仕方がないとして。これからどう するかを考えましょうか﹂ 完全に納得したわけではないが、確かにここで問答をしていても 605 無意味だ。それに、そもそもの任務の方も、腑に落ちない点が多す ぎたのだった。 ﹁まず確実に言えることは、板東山のあの辺りで人がひとり亡くな っていること。そしてその人は、例の落盤事故について知っており、 小田切剛史さん本人の可能性が高いと言うことです﹂ ﹁ただしその幽霊さんは、本人だとは言ってないんだけどな﹂ 対話する形をとりながら話をまとめる土直神。どう推理しても本 人だとしか思えない幽霊が、死んだのかどうか、死体を見つけて確 認してみろ、と言い放つ。あまりにも不自然な話ではある。 ﹁そんなこと、私の今までの経験からはまずあり得ない事なんです が﹂ ﹁あのぅ⋮⋮。私たちのお仕事は、保険金を支払うために死亡を確 認することです﹂ ためらいがちに口を開いたのは徳田だった。 ﹁私は未だに幽霊なんてものは信じられないんですが⋮⋮とにかく 居るとして。こういう言い方はどうかと思いますが、ご本人の幽霊 が居るなら、亡骸も近くに埋まっているはずです。掘り起こしてみ て、当人だったならば万事解決。そうでなければ身元を照合し、あ の事故の関係者であるとわかれば、それはそれで事態は発展するん ではないでしょうか﹂ ﹁⋮⋮つまり、あの幽霊さんの言うとおりに、ホトケさんを探す、 っつうことだぁね﹂ おそらくそれは正論である。ただしそうなると、そもそもの根本 的な問題が浮かび上がってくる。 ﹁でも、どうやって亡骸を見つけるかが問題になります。だいたい それが可能だったなら、最初から私が霊を呼ぶ必要なんて無かった わけですし﹂ ﹁そうだーなぁ⋮⋮おいらが地脈をいじった表層にもホトケさんの 反応は居なかったし。埋まっているとすれば結構深いところなんだ ろなぁ﹂ 606 なにやら首をひねって考え込んでいる土直神と、黙々と養分の補 給を続ける四堂。そして、これ以上の意見が思いつかないままの徳 田。しばらく考えた後、膠着状態を断ち切るように清音は声をあげ た。 ﹁徳田さん。私、この街で他にも居なくなった方がいないか調査を してみてもいいですか?﹂ ﹁え!?それは、なんでまた﹂ ﹁根拠はないんですが⋮⋮人生もこれから、という方が亡くなった にしては、やっぱり不自然が過ぎると思うんです﹂ ﹁巫女の直観、という奴ですか?﹂ ﹁そうかも知れません。自分が死んでしまったという事実を、あそ こまで平然と受け止められるあの霊のイメージは、徳田さんから頂 いた小田桐氏のプロフィールとはどうにも重ならない﹂ ・・・・・ かと言って、全くの別人にしては平仄が合いすぎていて、どうに も据わりが悪い。山中での神下ろしから清音がずっと抱いている違 和感がこれだった。 ﹁はぁ⋮⋮。しかし、私どもの仕事はあくまで小田桐氏の死亡の確 認ですし、今さら他の情報を再確認してみたとしても得るものは⋮ ⋮﹂ 徳田は人の良さそうな顔に困った表情を浮かべ、かいてもいない 汗をぬぐった。どうやらこれが、この男なりのやんわりとした拒絶 らしい。と、土直神が口を挟んだ。 ﹁いーんじゃないの徳田さん。どうせ今おいら達は手詰まりなんだ しサ。どっちにしろ今日はもう陽が落ちるし、現場に行くにしても 明日だ。なんかヒントがあるかも知れないし、夜の間に調べるだけ なら損はしないやね﹂ ﹁はぁ﹂ 未だ気乗りしない風だが、それ以上積極的に反論する気も徳田に はなさそうだった。 ﹁⋮⋮それでは、ウルリッヒ社内の該当するデータにアクセス出来 607 るように本社に申請をしておきます。それと皆さん、明日は日曜日 ですが、継続して任務に参加いただけるということでよろしいんで すか?﹂ はい、と返事をする清音。年頃の女子高生にとって土日がまるま る死体探しのアルバイトなどで潰れてしまうのは、もちろん楽しい 話ではない。だが風早の巫女として、山中で出会った霊をこのまま 見過ごすつもりはもはや清音にはなかった。 ﹁ま、しょーがないさね。本当は今日中に片付けて明日は原宿の表 参道ヒルズを冷やかすつもりだったんだけどなぁ。まあ原宿なんて もう行き飽きてるんだけどぉ。久しぶりに原宿も悪くないかなって さぁ﹂ ﹁聞こえよがしに原宿原宿連呼しなくてもいいですよ土直神さん。 で、四堂さんは?﹂ あれほどあった缶入りプロテインを空にして、四堂は己の左腕︱ ︱あの少女につけられた傷は完全に消え失せている︱︱をなぞり、 無言で強く頷いた。つまりは誰も降りるつもりはないということだ。 ﹁じゃあ、ウチが提携してる駅前のビジネスホテルを確保しておき ます。備え付けのPCでネットには繋げますので、清音さん、調査 の方はそちらで﹂ ﹁わかりました﹂ ﹁そーと決まれば、ホテルに移動するとしましょっか﹂ 土直神の言葉に応じて、四堂がキーをまわす。ワゴン車はショッ ピングセンターを出て、元城市の中心部へ向けて走り出した。 ﹁ところでシドーさん、あのフレイムアップの連中の事なんだけど サ﹂ ハンドルを握る四堂に、カーナビを設定し終えた助手席の土直神 が声をかける。 ﹁場合によったら連中を排除しなけりゃいけない。このメンバーで 戦闘になったら、前に出て戦えるアンタが要になる。そんときゃ頼 んます、シドーさん﹂ 608 頷く四堂。言葉を続ける土直神。いつもどおりの飄々とした、だ が少しだけ低い声で。 ﹁人一倍仁義にうるさいアンタがいきなり襲いかかるような敵って 事は、相手の素性もきっとロクでもないんだろ。そこはまあ呑むけ どさ﹂ 携帯ゲーム機を折りたたんで胸ポケットにしまう。 ﹁今度連中と鉢合わせしたとき、いきなり襲いかかるのだけはカン ベンして欲しい。いくらアンタが戦闘担当でも、お互いの利害も確 かめずに戦いをふっかけるようじゃ、チームにとってマイナスにし かならないよ﹂ 今度は四堂は頷かなかった。そのまま車を走らせ、ややあってか らその重い口を開いた。 ﹁最大限努力する。こちらから襲いかかる事はもうしない﹂ それなりにつきあいのある土直神は知っている。この寡黙な男が 口にした約束は、誓約と言っていいほどの重みを持つと言うことを。 ひとまずは安堵し、胸を撫で下ろそうとしたとき。 ﹁だが︱︱﹂ ﹁だが?﹂ 再び沈黙。今までのが重い沈黙だったなら、今度のそれは、重苦 しい沈黙と呼ぶべきものだった。フロントガラス越しに国道の先を 見つめる四堂蔵人の眼は、どこか昏く、陰鬱な光が宿っていた。 ﹁正直、奴の顔を見た時、自制できる自信がない﹂ 609 ◆12:ブレイク&リコール︵サイドA︶ 切断する。 切断する。切断する。切断する。 ダウンロード 男を切断する。女を切断する。若者を切断する。老人を切断する。 幼子を切断する。 俺の認識に応え、意識野に召喚された魔神︱︱禍々しい銀色に輝 く、無骨な刃を纏った独楽︱︱が、縦横自在にその鋼の刃を巡らせ る。俺が意識野で引いた線の通りに空間が裁たれ、その延長線上に あるものが切り離される。無謬の切り裂くための手段は持っていて も、対象を探す方法は人の身のそれだ。だから歩いて探した。見つ けたら切った。女を切ったら、たぶんつれあいだろう、男が叫びを 上げてこちらに向かってきたからこれも切った。家の中に入ったら 赤子が泣いていたので、親に残されたら可哀相だと思ったから切っ す ておいた。遺体をさらしておくのは当人達も望んでいないだろうと 思ったので、三人とも原型が無くなるまで切りきざんで擂り潰した。 山奥の小さな寒村に、突如現れた不可思議な力を使う殺人鬼︱︱ 傍から見ればそんなところか。十人切ったところで村人達が事態を 把握し、一斉に悲鳴を上げて逃げまどい始めた。 ありがたいことだ。 隠れているのを探すのは手間だが、そちらから出てきてくれる分 には効率的に仕事が出る。とりあえず、村の外へと逃げ出そうとし ている村人達の、アキレス腱のあたりを視線で縫う。俺の視線を正 確にトレースして空間が断ち割れ、全員の両の足首を綺麗に切り落 とす。まずは移動出来なくしておいて後の工程で処理。仕事は段取 610 り良く、だ。俺は優先順位の通り、目先の村人、俺に向けて鍬を振 り下ろそうとしている三人に向けて線を引きその首を裁つ。 べつだん、たいしたことをしているという認識はない。 子供の頃は友達の住む隣街でさえ遠い異世界だが、大人になって 海外を訪問するようになれば、地球の裏側だろうとごく近い世界で しかならなくなる。 少年時代はあれこれと女性に対して妄想したり憧れてみたりもす ・・・・・・・ るが、何人かの女と寝床をともにしてみれば、慣れと同時に目新し さは失われていく。 単純なことだ。 体験は多かれ少なかれ、人を変える。 人を殺すというのはもちろん良くないことだ。人間にとっては。 それは人間達を形成する社会というものに不安定をもたらすから だし、同族を減らすのは、種の繁栄から見てもあまり賢い選択肢で はない。それは全く健全な思考だ。だがそれも、人間以外︽・・・・ ダウンロード ︾を経験すれば、当然のようにその価値観は、多かれ少なかれ変化 記憶 する。意識野に人ならざるモノを召喚するというのは、そういうこ となのだ。幾つもの世界に呼び出され、そこで得た情報を する36の道具達。 彼らを使役するとき、俺の脳には彼らが蓄えてきた知識がダイレ クトに展開され焼きつく。それはすなわち、一秒の間に一万の人生 ・ を︱︱いや、人ならざる異世界の生き物の体験を︱︱引き継ぐと言 うことであり、そうなれば必定、判断基準も変わってくる。 ・・ ・・ 今の俺は、蓄えた経験とそれによってもたらされる価値観から総 合的に判断して、ここにいる村人達を全数、処理するのが良い、と 611 の結論を導き出していた。 これは、理解してもらうのは難しいかも知れない。 子供に、行ったことのない異国の話をしても、本質的には理解を してはもらえまい。 童貞に、女と寝ることの愉しさ、あるいは虚しさを説いてみたと しても、やはり本質的には理解をしてはもらえまい。 説明の技術の善し悪しの問題ではない。ある種の経験談というの は、受け手側にも経験がないと、認識を共有してもらえないのだ。 ・・ だから、今の亘理陽司の価値観を他者に説明しても︱︱人間に、 人間を処理することの正当性と必然性を情熱を以て説いてみたとし ても︱︱やはり、本質的には理解をしてはもらえないのだろう。 だから、説明はしない。弁解も、言い訳ももちろんしない。恐怖 ・・ にさらすためにやっているわけではないのだから、ひたすら迅速に、 効率性だけを考えて処理していった。 ようするに。 亘理陽司が今、人を殺しているのは、狂気に走ったわけでも絶望 に心が壊れてしまったからでもない。 ただ単に。 経験を積んで成長し価値観が変わり、人を殺しても大丈夫になっ たというだけの事。 それだけなのだ。 612 ﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮悪夢にしちゃぁチープだよな﹂ ごうんごうんと鳴動するマッサージチェアにうずもれて、おれは 胃の中のモノを全部吐き出してしまいたい気分で覚醒した。 広い部屋に高い天井、明るい照明に陽気な有線放送。周囲ではテ ーブルを囲んで、運動を終えた中高年のおばさま方が談笑している そばを、子供達がはしゃぎながら走り抜けていく。平日のスポーツ クラブにおける、典型的な午後の平和なひとときだった。 メ おれが今いるのは、元城町の国道17号沿いにある、スーパー銭 イルシュトローム 湯兼スポーツクラブといった感じの施設である。板東山の山中で﹃ 浄めの渦﹄なる兄ちゃんの罠にまんまと引っかかって濁流に呑まれ たおれ達は、川下に流れ着いてくたばっていたところを、車を回収 して追いついてきたチーフに発見されたのだった。 たぶん、手加減されたのだと思う。あのシチュエーションなら、 泥だけでなく、流木や岩塊とともにおれ達を押し流すことが出来た はずだ。洪水の威力は恐ろしい。身動きできない水の中、流れに乗 った高速の岩や木にもみくちゃにされたら、今頃挽肉になって板東 側を漂っていたに違いないのだ。 で、泥まみれの体では街に戻ることも出来ず。そのままこのスー パー銭湯で汚れを落とすことになったのだった。それにしても、こ ういった街では、本当に国道沿いに車を三十分も流せばどんな店で も見つかるもんである。都内の街が駅の中心に行くに発展している のとは対照的だ。ここらへんが電車中心と、車中心のライフスタイ ルの差なんだろうなあ、と今更な事実に気づいてみたりもする。 下着はここで新しいのを買って取り替え。上着とズボンだけは備 え付けのコインランドリーに放り込んだが、ボロボロだし東京に戻 ったら処分しなけりゃならないだろう。くそ、あのジャケットは結 構奮発して買ったのに。女湯に向かう真凛と、もともと汚れていな いチーフと別れて銭湯に入って三十分。たっぷり暖まったことだし、 613 真凛が来るまでマッサージでもするか、と浴衣姿でロビーのマッサ ージチェアにコインを投入したのが、たしか十分前だった。これだ けリラックスした癒し空間、さぞ良い夢が見られるだろうと思いき や。 ﹁今さらあんなモン観るとはな﹂ まだ動き続けているマッサージチェアから上半身を引きはがすと、 自嘲が口を衝いた。原因は探るまでもない。﹃粛清者﹄シドウ・ク ロード。まさかまた遭遇するとは、おれのリアルラックもよっぽど ワースト記録に挑戦したいらしい。 ⋮⋮苦いものが胸のあたりにわだかまっている。奴に殺されそう になったことは、別にいい。理は向こうにありすぎるほどだ。いず れ誰かに首をくれてやらにゃならんとしたら、奴にやってもまあい いかな、とも思う。それはいいとして問題は。 ﹁お待たせ﹂ 振り向くと、同じようにさっぱりした様子の真凛が立っていた。 おれと違って、泥まみれの服はもう上着もなにもすべて諦めたのだ ろう。このスポーツクラブのロゴが入ったTシャツに、同じくロゴ 入りジャケットとパンツという出で立ちだった。 ﹁湯加減はどうだった?﹂ ﹁良かった﹂ ﹁そっか﹂ おれはマッサージチェアから移動して空いているテーブルを占拠 した。向かい合わせに真凛が座る。 ﹁ああそうそう。チーフは車ン中に居るぜ。なんでも、海外から入 り込んできた相当危険なエージェントの行方が一週間ほど前から掴 めなくなってたらしいんでな。あぶり出すために、他の派遣会社の エースやチーフと情報交換してるらしい﹂ ﹁⋮⋮そうなんだ﹂ すぐ近くにあった冷蔵庫みたいな自販機に百円玉を投入すると、 ビン入りのコーヒー牛乳がひとつ落ちてきた。 614 ﹁コーヒー牛乳くらいならおごるぞ。飲むか?﹂ おれ的に出血大サービスな提案だったのだが。 ﹁いらない﹂ ﹁じゃあフルーツ牛乳か?﹂ 首を横に振る真凛。手持ちの雑談のネタを使い切ってしまうと話 の接ぎ穂がなくなり、おれ達は一分ばかり間抜けな時間を消費した。 やがて真凛がこちらに顔を向けると、意を決したように、だがおず おずと話しかける。 ﹁あの、陽司︱︱﹂ ﹁﹃ひとごろし﹄、の事だろ﹂ これ以上アシスタントに気を使わせるのもどうかと思い、おれは 自分から本題に踏み込むことにした。そう、戦闘を終えて冷静に状 況を整理してみれば、ひとつ見過ごすことの出来ない言葉が混じっ ていることに気がつく。かつての知り合いシドウが語った、亘理陽 司の過去の一端。 ﹁ボク、あんな奴の言うこと信じてないからね、だから陽司も﹂ ﹁︱︱さてここでクイズです。お前の見立てる所、おれは何人殺し てるでしょう?﹂ この娘が、自分自身に嘘をつくのは似合わない。おれは意地悪な 質問で、敢えて逃げ道を塞いだ。⋮⋮誰にとっての逃げ道なのかは 知らないが。この娘は相対した敵を良く読む。洞察力はまるで足り ないくせに、些細な仕草や、攻撃における踏み込みの深さなどから、 ﹃なんとなくどんな人間か﹄を読み取るのだ。力量、士気、覚悟。 いざという時、人の命を奪うことが出来る種類の人間なのか。奪っ た事がある人間なのか。 ならば︱︱気づいていないわけがないのだ。亘理陽司がどういっ た類の人間なのか。 おれの質問に、真凛が顔をくしゃくしゃにする。どれだけ感情が 615 否定しても、彼女の稀なる武術家としての資質は、間違いなく正し い判断を下しているのだろう。 二ヶ月程前ならどれだけ問い詰められようが、適当に煙に巻いて あしらう手もあった。 しかしコイツが本気でこの業界に踏み込もうと⋮⋮いや、おれのア シスタントを務めようとしている以上、いずれは表面化する問題で はあったのだ。答えを待たず、おれは解答を口にする。 ﹁ま。実際のところカウントしてないんで正確な人数はわからん。 直接ならたぶん四桁に届くくらい。間接も含めても、たぶん五桁の ファフニール ・・ 大台には乗ってはいないと思うが自信がない。そんなとこだ﹂ ついこの間も、﹃毒竜﹄を処理している。今さらたいした感慨は ない。一人殺すのも二人殺すのも同じ、という言葉は間違いだ。二 人殺せば、間違いなく罪は倍重い。⋮⋮だが、このルールを適用す るならば。10,000人殺すのと10,001人殺すのでは、罪 の総量はわずか0.01%しか違わない。つまりはそういうことな のだ。 機械的にコーヒー牛乳のビンを口元に運びながら、おれは自分の 言葉が真凛に染み渡る時間を待つ。胸にわだかまっていた苦いもの は、今や苦い後悔へと変わりつつあった。やはり何としても煙に巻 いておくべきだったかと。あるいは、半年前コイツがウチの事務所 にお粗末な履歴書を持って面接に来た時。どうせすぐに辞めるだろ う、などと考えず、一人の方が気楽だからアシスタントなど要らね ぇよ、と最後まで抵抗すべきだったのではないかと。ま、今となっ てはどちらももう遅すぎる話だが。うつむく真凛に、おれは声をか ける。 ﹁つまりは、あのヤロウの言った事は本当だってことだ。だからお 前も︱︱﹂ ﹁︱︱ゼロ﹂ 唐突に意味不明な単語をかぶせられて、おれは話の腰をキレイに 折られた。 616 ﹁⋮⋮何だ?ゼロって﹂ ﹁だからさっきのアンタの質問だよ。答えはゼロ。ボクの見立てる ところ、アンタは一人も殺してない﹂ 今度は、コイツの言葉がおれに染み渡るまでに時間がかかった。 そして理解すると同時に、おれは何だか無性に腹立たしくなった。 ﹁おい、お前おれの話聞いてるか?たった今ちゃんと答えを言った だろうが﹂ するとこの娘、顔を上げておれを真っ向からにらみ返してこう言 ったものである。 ﹁アンタの言うことなんて信じない﹂ おれは音高くコーヒー牛乳のビンを卓にたたき付けて立ち上がる。 ﹁あのな真凛、お前がわからないはずないだろうが﹂ ﹁わかるよ。だからゼロって言ってる﹂ ﹁この⋮⋮!﹂ 頭の悪いループにはまりかけていることを自覚しつつ、抜け出す ・・・・・・・・ ことが出来ない。わけのわからない腹立ちは収まらず、ついに激発 しようとして、 ・・ ﹁︱︱だって。それをやったのは本当にアンタなの?陽司﹂ おれはその場ですべての動きを止めていた。 三秒ほど押し黙った後、ゆっくりと腰を下ろし、テーブルの上に 置かれたコーヒー牛乳のビンを手元に寄せる。 ﹁⋮⋮どういう意味だよ﹂ 真凛は自分自身が発した言葉にびっくりしたように、目を白黒さ せた。 ﹁え⋮⋮と⋮⋮うまく言えないけど。なんかその⋮⋮時々、陽司が 陽司じゃなくてもう一人いるみたいな⋮⋮でもそれはやっぱり陽司 で、なんていうか⋮⋮﹂ しどろもどろながら懸命に説明する真凛。 ﹁陽司がもし⋮⋮その、人を殺していたとしても。それは今の陽司 とは違うと思う。ごめん、ワケわからないこと言って。でも⋮⋮﹂ 617 ・・・・・ 大きく深呼吸して、真凛は言い放った。 ﹁今のアンタはたぶん、人が殺せるような人間じゃないと思う。そ れが、ボクの見立て。だからアンタが何を言っても、ボクは自分の 見立てを信じる﹂ おれはたぶん、五秒くらいぽかんとしていたんではないかと思う。 ﹁⋮⋮そっか﹂ 急に肩の力が抜けた。風呂に入ってマッサージチェアに座ってい たはずなのに、今さら体が軽くなったような気がした。真凛が説明 できないのはムリもない。そもそもおれの現状の方がよっぽどぐっ ちゃぐちゃなのだ。正直、真凛の説明はそれこそ正解に一番近いの ではなかろうか。 ﹁そうなのかもな﹂ まったく、生物ってのは知らぬ間に進化するもんである。⋮⋮い や。おれが過小評価してただけなのかね。おれは冗談抜きで、脳内 から生物学から人類学、教育学の情報を総出で引っ張り出してこの 問題を検証したくなった。と、そこでもう一つ未確認の問題があっ たことに気がついた。 ﹁ところでお前。顔の怪我は大丈夫なのか?﹂ ﹁え?﹂ 急に話題が変わったのについて行けない真凛が慌てる。たしか山 中での戦闘で、シドウの牽制をかわすために、真凛は敢えて小石を 顔面で受けたはずだった。ごく軽い石とはいえ、かなりの速さで顔 面に叩き付けられたはずだ。たしか右のこめかみのあたりだったか ︱︱おれは顔を寄せて頬に手を伸ばし、指で真凛の前髪をかきわけ る。生え際のあたりに、赤いものがあった。指先で軽く撫でてみる。 ﹁あー。やっぱり少し腫れちまってるなあ⋮⋮。でも皮膚は剥けて ないから、キズは残らないか﹂ おれはひとつ、安堵のため息をついた。⋮⋮まぁ、顔にキズでも つくと、コイツのご母堂に何を請求されるかわかったもんではない しな。 618 ﹁たいしたことがなくて良かったな。一応薬塗っておくか?﹂ 確かまだザックに入ってたはずだが。 ﹁い、い、いいよいいよイイデス﹂ 両手を振って全力で拒絶する真凛。さもありなん。 ﹁まあ臭いがキツイし、何より羽美さんの発明品だしな⋮⋮だがあ れは他の小道具よりはまだ安心できる性能でだな﹂ ﹁ぜんっぜん大丈夫だから!じゃ、じゃあボク、チーフ呼んでくる ね﹂ ﹁お⋮⋮おう﹂ よっぽど薬がイヤなのか、脱兎のごとくスーパー銭湯の出口へと 駆け去っていく真凛。 そのショートカットがエントランスの向こうに消えてしまうと、 先ほどと変わらない有線放送のポップスと、離れた卓の笑い声だけ が残った。 肝心の問題は解決したのかそうでないのかもわからないままにな ってしまったが、ともかくおれは頬杖をついて何とはなしに天井を 見上げる。天井の一部は空間に広がりをもたせるために鏡張りにな っており、そこに映った、何度も見ているはずなのに一向に見覚え のない男の顔と視線が合った。わざわざ口に出して、やれやれと呟 き苦笑する。 ﹁どーにもまいったね、これは﹂ 先ほどと同様に、だが少しばかりベクトルの異なる自嘲が口を衝 いた。 ︱︱まったく。おれの方が過大評価されてるんじゃないか。 619 ◆13:幽霊あらわる 真凛がチーフを呼んでくる間、おれは残ったコーヒー牛乳をのん びりと飲み干しながら、ロビーの片隅のハイビジョンテレビに目を やった。画面内で繰り広げられる刑事ドラマの再放送ををぼんやり と眺めていると、おれのアタマがようやく、今回の仕事そのものに ついて考えを巡らせ始めた。 シドウの事を抜きで整理してみると、笑えるほど事態は進展して いなかった。幽霊が出るという街に来て、ちょうどその頃行方不明 になった人の事故現場に行ってみたら、何故か他所の異能力者と遭 遇して叩き出されました、以上。である。工場長の言っていた、小 田桐氏とやらが本当にあそこに埋まっているのかすら確認できてい ない。時刻はもう夕方。板東山に再び入るのであれば明日以降にせ ざるを得ない。 ﹁日をまたぐと宿泊代がなぁ⋮⋮﹂ 前に言ったかも知れないが、おれ達の仕事上の経費はすべて自己 負担である。一泊すればその分がまるまる報酬からマイナスされる わけで、はなはだオイシくないし、ついでに言えば夜間も仕事は続 くのでオモシロクもない。いつぞやの別の仕事で、車で移動するカ ・・・ ップルを仁サンと直樹の野郎とおれの三人で尾行した時などは最悪 だった。カップルがそのまま田舎の高速道路沿いのその手のホテル に泊まってしまい、おれ達もそこに泊まらざるを得なくなってしま デルタ ったのである。となりの部屋からのだだ漏れの声をBGMにしなが ら、鏡張りの部屋で男三人が年代物の特大回転ベッドでΔ型になっ て眠るという光景は、異界に通じる召喚師と原種吸血鬼と海千山千 の忍者をして、﹁これ以上の地獄絵図はない﹂と言わしめた程であ 620 った︵ちなみにベッド以外の寝床の選択肢は、タイル張りの床に直 接か、風呂場になぜかある大きめのビニールマットかだった︶。ま あそもそも学生の旅行や合宿でもなし、趣味や夢や好きな娘につい て一晩中語り合うほどの純粋さはどいつもこいつもとうに失って久 しいのだが。 真凛にも言ったように、幽霊騒ぎなんぞというのはとにかく解決 が難しい。明日再調査に赴くにしても、もし小田桐氏の件が空振り なら、今度はそれこそ雲をつかむような幽霊探しをしなければなら ないだろう。この街のどこかに、ほとんどランダムに現れる幽霊︱ ︱そんなものに遭遇するのを待っていた日には、大学の授業の単位 をいくつ生け贄に捧げればいいのかわかったものではない。 気がつくと刑事ドラマがCMに入っていた。すでにたっぷり十分 経っているというのに真凛は戻ってくる様子がない。 ﹁ったく何をやってるのかねあのお子様は⋮⋮﹂ 口に出しては見るものの、さっきの話の続きとなればそれこそ何 を言ったらいいものか。我ながら修行が足らんなぁ、などと思いつ つ、もう一度エントランスの自動ドアに視線を向ける。 と、外からこちらを覗き込んでいる一人の背広姿の男と、偶然に 視線がかち合った。 ⋮⋮いや、偶然ではない。 その男は明らかに、おれを見ていた。 どこかで見た顔。そう気づいたときにはおれは椅子から立ち上が りエントランスに向かって走り出していた。それを認めると、エン トランスの向こうの男は身を翻して駆け去る。当然のように追おう として、自分が浴衣姿だったことに気づき、舌打ちしながらコイン ランドリーのジャケットとズボンを引っ張り出す。 ﹁︱︱単位をつぶす必要はなかったらしいな﹂ 生乾きの服に袖を通しながら、脳裏に保存してある写真の画像と 621 照合し、確信する。 見間違いではない。 エントランスの向こうにいた男は、小田桐剛史その人だった。 ﹁って、また走るのかよ!﹂ 誰にともなく悪態をつき、逃げる人影を追ってひたすらに全力疾 走。 ﹁肉体労働は、おれの担、当じゃない、ってぇのに!﹂ おれが悪態をつく間にも、小田桐氏は背広を翻して走り続ける。 スポーツクラブの建物をカベ沿いに回り込み、裏手へと抜けていく その姿を追って、さらに走る、走る。クラブの裏は駐車場になって おり、ごくささやかな雑木林を経て河へと続いていた。おれが角を 曲がって駐車場にたどり着くと、果たして男の姿は、煙のようにか き消えていた。 すでに西の太陽はその下端を、板東山の山頂にかすらせており、 都内では見ることの出来ない、十月の巨大な夕焼けがおれの視界に 飛び込んでくる。赤から紫へと鮮やかなグラデーションを描く空の 下で、ひたすらあえぎ、肩で息をすること一分。どうにか酸素を補 給し落ち着いたところで、おれは駐車場を横切り、雑木林へと慎重 に足を進める。見失った、とは思わない。わざわざご指名でおれの 前に姿を現した以上は︱︱ ﹃︱︱墓荒らしよ。なぜ死者の尊厳と安息を妨げようとする?﹄ 622 何処からか、そんな声が響いた。 何処、とは比喩ではない。雑木林の奥からか、はたまたその向こ うの河原からか。あるいはスポーツクラブの建物の陰からか。遠く に近くに響く、不可思議な声。 ﹃死とは終わりだ。死ねばこれ以上何かを得ることはない。だから 死とは恐怖だ﹄ 不思議な声だった。時に野太い男の声になったかと思うと、唐突 に甲高い女の声に転じる。一つの言葉ごとに老いては若返り、怒号 したかと思えば、一転して悲嘆にくれてみせる。それでありながら、 言葉としては一糸も乱れてはいないのだ。まるで何人もの人間が喋 った同じ台詞を、あちこちに取り付けられたスピーカーからランダ ムに放送しているかのような幻覚を覚えた。グラデーションが東か ら西へと流れ、急速に夜の闇へと沈んでいく世界。闇の向こうから 聞こえるこの声は⋮⋮到底この世のものとも思えなかった。そうい えばこういう時間帯を﹃逢魔ヶ時﹄というのではなかったか。 ﹃死とは終わりだ。死ねばこれ以上何かを失うことはない。だから 死とは安らぎだ﹄ 朗々と響く声。おれが右を向けば左から。左を向けば今度は真後 ろから。目に見えない何者かが、おれにまとわりつきながら語りか けてくる。 ﹃愚者でも最期に善い事を為せば聖人となり、英雄でも最期に凶事 を為せば姦賊に堕ちる。人は死した時点で評価が確定し、それ以上 もそれ以下ももはや存在しなくなる﹄ おれは立ち止まり、周囲に目を配る。どうせ居所がわからないの 623 であれば、動くだけ無駄だった。 ﹃墓を暴くということは、固定された死を覆すという行為だ。だか らこそ、墓荒らしは罪である﹄ 気の弱い人間ならアタマがおかしくなりそうな幻惑の声。だが、 ・・・ ﹁へーぇ。二十一世紀の幽霊はずいぶんと喋るもんだな﹂ 幸か不幸か、本当にこの世ならざるモノの声を脳裏でしょっちゅ う聞いている﹃召喚師﹄にしてみれば、こけおどし以外の何者でも ない。 ﹁おれがガキの頃やってたホラー番組と特撮番組じゃあ、霊と怪人 は喋らないのが一番コワイってセオリーだったんだがね。最近はど っちもCGに頼り切りで情けない限りだぜ﹂ 霊だろうが悪魔だろうが知ったことではない。少なくともコイツ は意志が疎通できる相手であり、意志が疎通できれば理性的な解決 小田桐 が可能だと言うことだ。あちらの思惑はどうか知らないが、喋れば 喋るほど、おれの方は冷静さを増していた。 ﹂ ﹁⋮⋮で。一体おれに何の用だ?そろそろ顔を見せなよ、 剛史氏の幽霊サン おれの質問は、しばしの沈黙を以て報われた。その時、おれはひ とつ、決定的な食い違いに気がついた。奴はいま、墓荒らしは罪、 だとか言った。だがそもそもおれ達がここに来た理由は⋮⋮と。い うことは。あれがこうしてこうなって⋮⋮つまりは、こういう事か? ・・・・・・・ ・・・ ・・・・・・・・ 頭の中で高速に推論が組み立てられ、おれは一つカマをかけてみ ・・・・・ る気になった。 ﹁なあ。墓荒らしはおれ達じゃない。たぶんあいつらの方だぜ﹂ ﹃︱︱何?﹄ 幻惑の声がはたと止む。幽霊が息を呑む、ってのは変だよなあ、 と、おれはこんな状況にも関わらず笑い出しそうになった。 ﹃では、貴様達は何者だ?﹄ 624 ・・・ ・・・・・・ ・・・・ ・・・・・・・ ・・ ﹁ああ。おれ達は、オマケで引っかかった方だよ。おれ達は、ただ 幽霊を探しに来ただけだ﹂ こういう例えが正しいのかはわからないが、カニ漁船に引き上げ られたサンマのようなものだ。唐突に幻惑の声が止み、壮年の男性 を思わせる力強い声になった。 ﹃ああ。⋮⋮そういう事か。私は愚かな間違いをしていたというこ とか﹄ カマが一つ引っかかったことで、おれは自分の推測が正しかった ことを知った。 ﹁多分そうだ。おれ達は、舞台にずかずか上がりこんできた配役に ないメンバー、って事なんだろ?それでアンタは脚本家としておれ 達の真意を確かめるために来たって事か﹂ 幽霊 の声。それは逢魔ヶ時の魔物の声などではすでになく、 ﹃私は脚本家ではない、がな︱︱﹄ 一個の人間のものだった。なんとも間抜けな話ではある。勘違いと 予定違いが、それぞれの思惑を大きくずらしてしまっていただけ、 という事か。 ﹁⋮⋮で。どうする?おれ達は争う必要がないように思うんだがな ?﹂ おれは腕を広げて、敵意のなさを示す。 ﹁︱︱確かに。どうやらお前の言うとおりのようだ﹂ 幽霊 は雑木林の向こ ややあって、雑木林の奥からその声は聞こえた。もう、声の出所 を隠すつもりもなさそうだった。どうやら うから、なにがしかの技法を用いて、声の高さと方向を変えながら おれに語りかけていたらしい。おれは一つ、大きなため息をついた。 あまりのアホらしさに、安堵と疲労が一気におそってきたのだった。 ・・・・・・ ・・・・・ ﹁やーれやれ。じゃあこれでおれ達は任務解決だな。日帰り任務で 終わりそうで何よりだ﹂ ﹁そうなのか?﹂ ﹁ああ。だって、どっちにしろもうすぐ幽霊は出なくなるんだろ?﹂ 625 ﹁⋮⋮そう、だな﹂ 雑木林の向こうの 幽霊 が、そう告げる。その声が心なしか気 落ちしている様子なのが、おれには引っかかった。 ﹁なんだよ一体⋮⋮って。ああ。三人も来るとは思わなかった、っ 幽霊 が頷く気配があった。さもありなん。あんな化け物共が てことか?﹂ 出てくるとは想定の範囲外だったのだろう。と、そこでおれの脳裏 に一つ、閃くものがあった。 ﹁⋮⋮なあ。どうせなら顔を合わせて話をしないか?アンタが姿を 隠している理由は、多分おれ達の方には関係ない﹂ 幽霊 が、その姿を現した。 その声に応じ突如、雑木林の向こうからがさりがさりという音が したかと思うと。 ︱︱唐突に。おれの前に、 完全に夜の闇に染まったスポーツジムのロビーで、夕方のニュー スをぼんやりと眺めている。どうやらチャンネルが地元の放送局に 合わせてあるらしく、そこでは板東山でごく小規模な土砂災害があ ったが、幸いにも被害者はゼロだったとのコメントが為されていた。 ﹁それじゃあおれはゼロ以外、って事かよ﹂ そう毒づいたところでエントランスの自動ドアが開き、律動的に 揺れるショートカットと、くたびれたコートが視界に入ってきた。 こちらに早足で向かってくる真凛に、おれは仏頂面を作ってみせる。 ﹁遅い。というか遅すぎる。何やっとるんだおまいは﹂ 駐車場のチーフを呼びにいくはずが、かれこれ二時間である。遅 刻しようったって出来る芸当ではない。応えたのは、真凛ではなく 626 チーフの方だった。 ﹁そう言うな亘理。ちょうどすぐそこの給油に行こうと思ったとこ ろに真凛君が来たんで、つきあってもらったんだ﹂ ﹁そこのガソリンスタンドがサービスデイだったらしくて、洗車も 吸い殻掃除も全部タダでやってくれるって言ったんだよ。でもチー フが⋮⋮﹂ ﹁汚れてないのに掃除してもらう必要もないだろう。別に汚れてな いよな?﹂ ﹁⋮⋮いやまあ、外装はともかく。あの灰皿に生えたウニのような 吸い殻のカタマリはどうにかした方がいいんじゃないですかね﹂ ぶっちゃけおれも真凛も車内がタバコ臭すぎて窓を開けないと乗 れない程だったんですが。ついでに言うと車内に散らばった紙ゴミ の残骸もどうにかしないと、いつ吸い殻から引火するかと心配でし ょうがないし。 ﹁だめだ。俺はこの香りがないと落ち着かないんだ。お前達は応接 室だけでなく、この場所まで俺から奪う気なのか!?﹂ 動物ですかアンタは。ちなみにウチの事務所はめでたく応接室も 完全禁煙になりました。 ﹁それで、親切な店員さんと吸い殻を捨てる、捨てないでずっと揉 めてたんだ﹂ アシスタントの報告に、おれは軽い目眩を覚える。最近は頼んで も吸い殻を片付けてくれないスタンドもあるというのにこの人と来 たら。 ﹁勿論それだけじゃないぞ?例の別件、姿を消したとかいうエージ ェントの方でも所長から情報を求められてな。ずいぶん長電話をし ていたんだ﹂ ああ、そういうことですか。そりゃ納得だ。 ﹁それから、ついでに駅前をまわってホテルの予約もしてきちゃっ たから﹂ ﹁⋮⋮電車でいったん家に帰るって選択肢もあったんだがなぁ﹂ 627 遠いように思っても、ここから都内まで、電車でも一本なのであ る。⋮⋮まあ、泊まりなのはこの際仕方がないことになったわけで はあるが。 ﹁あ!そっか。⋮⋮でももう部屋取っちゃったし。家にも電話入れ ちゃったからさ﹂ そういえばまだ合宿気分を失っていない奴が居たのを忘れていた。 ﹁お前なぁ⋮⋮。ただでさえ親御さんに心配かける仕事なんだから、 日をまたぐ時はなるべく帰れって言ってるだろうが﹂ ﹁アンタとチーフと一緒だって言ったら、じゃあ大丈夫ねって言っ てたよ。﹃すみませんがよろしくお願いします﹄ってさ﹂ ﹁そ、そうか﹂ ⋮⋮なんなんだ、この退路を断たれるような妙な焦燥感は。 ﹁ま、そんなことはいい。とにかく今日の夜と明日の方針について なんだがな﹂ 右手にライター、左手にタバコを取り出しながら同時に着席とい うさりげない離れ業を披露するチーフが、ライターを点火する前に おれは口を挟んだ。 ﹁実はその件ですがチーフ﹂ 至福のタイミングを外されたチーフが恨みがましい視線を送るの を無視しておれは続けた。 ﹁生前の小田桐さんの仕事について、ちょっと調べてみてもいいで すかね?﹂ 628 ◆13:幽霊あらわる︵後書き︶ ★キャラクター募集中! 2011年夏のコミックマーケットにて発行予定の ﹁人材派遣会社シリーズ設定資料集︵仮︶﹂に収録される キャラクターを募集しています。〆切は7/10まで! 詳しくはhttp://www.nekomatakosi.co m﹃猫又公司﹄にて! ※ちなみに、今回登場の四人の﹃派遣社員﹄は、第一次募集の結果 採用されたキャラクター達です。 629 ◆14:夜、旅館にて ﹁ンで。悪戦苦闘一時間、なんともならずオイラ達を呼んだってワ ケだぁね﹂ 畳の上にふくれて正座する清音の前に、ちゃぶ台を挟んで土直神 と四堂が座っている。今三人がいるのは、彼らが今夜の宿と定めた、 元城駅前にあるウルリッヒ保険御用達のビジネスホテル⋮⋮とは一 応名乗ってはいるものの、どうやら元々は旅館だった建物が、出張 客を当て込んでホテルに転身したというのが正直なところのようだ った⋮⋮である。畳、ちゃぶ台、押し入れ、床の間。部屋自体は多 少古いものの、清掃が行き届いており快適である。お値打ち価格で 手足もゆっくり伸ばせてその上なにより自分でご飯を炊かなくても いい!ので、そのことについては清音は全く異存がない。問題は。 ﹁だって。線がつながらないんですよっ﹂ ぶうぶうと文句を言いながら、テレビ台に据え付けられたPCと、 土直神に借りたLANケーブル、そして壁に取り付けられた差し込 み口を順番に指さす。事件について調べてみます、と言ってはみた ものの、まさかネットに繋ぐことすら出来ないとは思ってもみなか ったのである。 ﹁徳田サンに聞けば良かったのに﹂ ﹁さすがにもう帰ってしまいましたよ。自宅で書類仕事をしなきゃ いけないそうです﹂ ﹁土曜だってのに社会人は大変だねぇ。ま、いーけどサ。清音ちゃ んがメカ音痴ってのは今さらだし。⋮⋮ってうわぁ、これモジュラ ージャックじゃないか!﹂ 珍しい昆虫でも見つけたように、呆れ半分はしゃぎ半分の声をあ 630 げる土直神。 いそでん ﹁ひっさしぶりに見たなー。ってか、ビジネスホテルでダイヤルア ップとかISDNってアリなのか!?でも徳田サンはブロードバン ドは使えるって言ってたし⋮⋮あー﹂ ﹁ワイアレスが導入されているようだな﹂ 清音にはさっぱりわからない会話を交わす男二人。こちらはすで に一風呂浴びて、浴衣に着替えている。自販機で買い込んできたビ ールを片手にあぐらをかく土直神と、対照的に膝を開いた正座の四 堂。鉄の棒でも入っているのではないかと思わせる伸びた背筋は、 例え今この瞬間に敵が乱入してきても、即座に叩き伏せる気構えで あることを伺わせる。 ﹁んだね。じゃあアンテナを優先にして⋮⋮ほい、これでOKだぁ よ﹂ ケーブルが引っこ抜かれたPCの画面を確認すると、確かにネッ トに繋げられるようになっていた。なんでケーブルを抜くとネット につながるのか。清音からすると、術法などよりよほど魔法じみて いる。 ﹁まあ、いいです。つながったら後は私でもわかりますから﹂ ウルリッヒの社員用ページへのアクセス自体は清音も慣れている。 任務をこなす度に、このページから報酬を請求しているので嫌でも 覚えざるを得ないのだった。自宅にPCなんかない清音は、一時は 学校の視聴覚室から授業中にアクセスしていたこともあった。 ﹁ここ数年、この元城市で起こった事故と事件⋮⋮﹂ 幽霊 の正体は本当に小田桐剛 徳田から借りた仮パスワードで、ウルリッヒ保険北関東支店のデ ータベースにアクセスする。あの 史なのか。それを確かめたかったのだが。 ﹁⋮⋮うう、全然情報が載ってません﹂ ﹁あちゃあ。まーそーだとは思ってたけど﹂ ウルリッヒ保険はあくまでも保険会社であって、興信所や調査事 務所ではない。彼らに必要なのはあくまでも自社の契約者が死亡、 631 被災した際の情報であり、いちいち街で起こった事故や事件を記録 してもあまり意味はないのだった。 ﹁ここにあるのはあくまでも、この街でウルリッヒ保険に入ってた 小田桐さんじゃない が仮に居たとしても、他社の保険に入ってたりそもそも保険 人に関するデータだからなぁ。清音ちん説の 誰か に入ってなかったらお手上げだぁよ。新聞の方を調べてみた方がい いんじゃね?﹂ 新聞社と契約を結ぶと、かなり昔の記事にまでさかのぼって記事 を検索することが出来る。再びウルリッヒの仮パスワードでアクセ スし、﹃元城市﹄や﹃事故﹄﹃事件﹄といったキーワードで記事を 絞り込んでいく。だが、今度は数が多すぎてとてもすぐにチェック できるものではない。 ﹁こうしてみると、一つの街でも小さな事件は毎日起こっているん ですね﹂ それでも一つ一つヒットしたデータを調べていた清音だが、さす がに限界を感じたらしく、座ったまま大きく伸びをする。 ﹁あんまり今から根詰めてもしゃあないやね。これでも飲みなよ清 音ちん﹂ ﹁ありがとうございます⋮⋮ってこれビールじゃないですか!﹂ 今さら固いこと言ってもはじまらないじゃん、とプルタブを押し 込みながら土直神。ちゃぶ台の上を見てため息をつく。 ﹁あーあーこんなに菓子なんかたくさん買い込んじゃってまあ﹂ ﹁いいんですよっ。昨日と今日はほとんどお金を使ってないんです から﹂ 一日山歩きをしたら甘いものが食べたくなったのである。と、そ の様をしげしげと眺めて、土直神がぼそりと呟く。 ﹁⋮⋮清音ちん、もしかしてダイエットする度にリバウンドするタ イプだろ﹂ マウスをクリックする音がはたと止まり、ぎ、ぎ、ぎと清音の首 がこちらを向く。 632 ﹁ナ、ナゼ、ソレ、ヲ﹂ 土直神は頭を抱える。 ﹁⋮⋮二回節約したから三回目はお金を使っていい、って考えるタ イプの人は、朝昼抜いたから夜は豪華に食べていい、って考えちゃ うんだよねー。一番太るパターンなのに﹂ ﹁ほ、ほっといてくださいよ!﹂ ﹁怒らない怒らない。ストレスためるとまーた太るよ⋮⋮って痛ェ !き、清音ちんマウスを投げるのはよくないな⋮⋮ちょっと!ディ スプレイはだめだろディスプレイは!?﹂ ﹁問答無用ッ!!﹂ ⋮⋮それでも根気よく清音は調べ続け、たいしてやることのない 土直神達がそれを交代で手伝った。結果として、深夜までかかった ものの、ヒットした全ての事件に目を通すことは出来たのだった。 だが、そこで得られたものは。 ﹁いなかった、なぁ﹂ ビールの空き缶をべこべこともてあそびながら土直神。すでに空 き缶がいくつも畳の上に転がっている。 ﹁うう、私の見込み違いでしたか⋮⋮﹂ 応じる清音の声には疲労がにじみ出ている。実際に疲れていたし、 何より無駄骨に終わったという事実が堪えていた。事故や失踪事件 をしらみつぶしに調べてみたものの、いずれも交通事故や、海外旅 行中の失踪が大半で、少なくともデータで検索できる十数年の範囲 では、板東山のあの場所と関わりのありそうな情報は見つからなか ったのである。 ﹁ま、巫女さんのカンが百発百中だったら、そもそもおいら達がこ こに来るまでもなくどんな仕事も片付いちゃうかんね。当たんない のが普通、くらいで考えときゃいいんじゃないの﹂ 633 ﹁でも、それじゃあ明日はどうやって動けばいいんでしょうか﹂ また板東山に登っていって神下ろしをしたところで、上手くいく という保証はない。死亡の確認が仕事である以上、何はなくとも遺 体の場所がわからない限りは手の打ちようがないのだ。 ﹁あー。そのことについてだけんどね。ちょっとバクチっぽいけど 方法はある﹂ ﹁え?あるんですか?﹂ ﹁いやまあ分の悪い賭けかも知れんけど、やってみる価値はなきに しもあらずかなー、ってとこだぁね﹂ 妙に歯切れの悪い返答だった。その態度に不審を抱いた清音が問 いただそうとしたその時。 ﹁いたぞ﹂ 不意にそんな声が届いた。慌てて後ろを振り返る。 ﹁シドーさん?﹂ そこには、立ち上がってディスプレイを覗き込んでいる四堂がい って証明されたばっかりなん た。いつも通りの寡黙な表情だが、その左目には常以上に強い光が 宿っている。 いない ﹁いたって、⋮⋮何がです?﹂ ﹁行方不明者だ﹂ ﹁い、いや⋮⋮今まさに、 だけど?﹂ 四堂は大きく首を横に振る。そして、ディスプレイ上にいくつも 広げられたウィンドウの一つ、ウルリッヒ保険のデータベースを指 し示す。 ・・・・・ ﹁確かにこのデータを見る限り、ウルリッヒ保険の依頼人には不審 な失踪や死亡を遂げた人間は居ない。⋮⋮依頼人には﹂ ﹁え?﹂ 四堂が指さすデータ。それは、ウルリッヒ保険の営業日報⋮⋮い わば、企業の日記だった。指の動きを目で追うと、そこには、シン プルな文字列が一行、無機質に躍っていた。 634 タカミツ ﹃昂光社元城工場に派遣中の社員、帰還せず。連絡途絶﹄ ﹁こりゃあ⋮⋮﹂ ﹁日付は、四年前ですね﹂ PCの画面を、三人が覗きこむ。八畳あるはずの部屋の片隅に、 人間三人が窮屈に身を寄せ合っている様は滑稽に見えたかも知れな いが、当事者達はそんな事を気にしてはいられなかった。 ﹁⋮⋮四年前っつったら、まだウルリッヒ保険が日本に出てきたば っかり。北関東支店も出来たてだったはずだぁよ﹂ ﹁私はもちろん、土直神さんもまだ派遣登録してない時代ですよね﹂ ﹁シドーさんが入ったのはつい最近だしな。誰も当時は知らないっ てか﹂ ﹁どういう事なんでしょう?﹂ ﹁清音ちん、この当時の情報を片っ端から出してみてくんない?﹂ ﹁今まとめます。⋮⋮﹃昂光﹄って、小田桐さんの勤め先⋮⋮あの 板東山の上にある大きな工場ですよね?﹂﹂ そうだ、と応えたのは四堂だった。 ﹁日本ではそれほど有名ではないが、海外では非常に評価の高い企 業だ。そして、﹂ ・・・ そこで四堂は、言葉を選ぶように一度沈黙した。 ﹁俺が従事していたような仕事では、とても有名だった﹂ ﹁へ?シドーさんがやってた仕事って言やぁ︱︱﹂ そこまで言って、土直神も気まずそうに口をつぐむ。 ﹁﹃昂光﹄自体は非常に優秀で誠実、立派な企業と聞いている。だ が、その製品が﹂ ﹁良くない?﹂ またも首を横に振る四堂。 635 ﹁良すぎる、のだ。﹃昂光﹄が作っているのは精密測定器。研究所 や大学、企業の開発室の依頼を受けて世界最高レベルの装置を作っ ている。しかしその技術はひとたびテロリストの手に渡れば、容易 に核の製造へと転用できる﹂ ﹁へぇ。核に使えるんすか。︱︱って、かくぅ!?﹂ かく ?﹂ 土直神が素っ頓狂な大声を張り上げ、慌てて声のトーンを落とす。 ﹁かくって、核ミサイルとか核爆弾の ﹁の、製造装置の一部だ﹂ ﹁⋮⋮な、なんか急に話がでっかくなってついてけないんだけんど も﹂ そうでもない、と四堂。 ﹁もともと核兵器の理屈自体はそう難しいものではない。小型のも ので爆発さえすればよいレベルのものなら、個人が台所でも作れる 程だ。重要なのは材料と、そして理屈通りにモノを作ることの出来 る装置。特に高威力のものを作るには、物理学の理屈どおりに反応 が起きるよう、精密な球体や楕円状に物質を成形する事が不可欠だ﹂ それを実現するのに﹃昂光﹄の装置は最適なのだという。 ﹁そ、そんなもん日本のこんな田舎の工場で作って売りまくってて いいワケ?﹂ ﹁日本国内なら大丈夫だ。あの測定器を使用しなければ、携帯電話 も液晶テレビも作ることは出来ないからな。だが、海外に輸出され る際は非常に強い規制がかかる。政情不安定な国や、外交上問題の ある国には輸出できないし、研究用に作成するとしても大幅なスペ ックダウンが要求される﹂ 当然、買い手側の身元も何重にもチェックされる。だからこそ、 核兵器を持ちたがるものにとっては、﹃昂光﹄の精密測定器は、プ ルトニウムと並んで喉から手が出るほど欲しいものの一つなのであ る。 ﹁⋮⋮そーいやおいらがガキの頃、プレステ2が核ミサイルの弾道 計算に使えるから輸出禁止だー、なんて話もあったっけかね﹂ 636 うなずく四堂。 ﹁ヒロシマに原爆が落ちてから数十年、世界の技術は信じられぬほ ど急激に進歩を遂げている。携帯電話やカーナビ、車を作ることが 出来るだけの技術があれば、核ミサイルを作るなど全く難しい事で はないし、作り方だけならネットで誰でも見ることが出来る。だか ら今、国際社会は、核の拡散を防ぐために、材料と装置を中心に規 制を行っているのだ﹂ ﹁そ⋮⋮そーなんすか。まさか国際情勢の勉強をすることになると は。︱︱ってちょっとシドーさん、そんな工場にウチの社員が派遣 されたってぇ事は!?﹂ ﹁出ましたよ、たぶんこれだと思います﹂ 清音がディスプレイを指し示す。そこには四年前のウルリッヒの 資料から、関連すると思われる情報をピックアップした項目が並ん でいた。 ﹁日報には任務の詳細な情報までは書いてありませんでしたが、依 頼主は⋮⋮﹂ ﹁そこなら知っている。NPO法人で、出資の大本は国連のはずだ﹂ ﹁さすが詳しいっすね、シドーさん﹂ 四堂が操作をかわる。任務に使われたとおぼしきいくつかの事務 的なドキュメントをネット上から呼び出して、そこにある定款や契 約内容を確認した上で、判断を下した。 ﹁ウルリッヒはこの法人と、有事の際に核不拡散のフォローを行う 保険契約を交わしている。おそらく四年前に、それが履行されたの だろう﹂ 淡々と語る四堂。その内容を整理するうちに、土直神の顔から笑 いが消えていく。 ﹁⋮⋮と、いうことは。要約すると?﹂ 対する四堂の声は、変わらす冷静だった。 ﹁四年前。この元城市で、核兵器の密輸に関するなんらかの事件が あった可能性が高い﹂ 637 土直神の表情が真剣さを帯びることで、ようやく清音は、これが 冗談や茶飲み話ではないという事を実感できた。核兵器を巡る冒険 物語など、それこそクラスの男子が読んでいる漫画の話である。 ︱︱帰還せず。連絡途絶 ﹁そ、それで。一体ウチから誰が派遣されたんですか!?﹂ コード ディスプレイの隅の文字列が、急速に不気味さを帯びてくる。 ﹁日報に本名を書いてあるはずはない。あったとしても二つ名だが ⋮⋮ああ﹂ 急に四堂が珍しい声を出した。それは、驚きの声だった。 ﹁知ってるヤツなんすか?﹂ 土直神の質問に、四堂は頷いた。 ﹁知っている。だが、直接に会ったことはない﹂ actor という場違いな単語が一つ、混じって 日報の一カ所をクリックする。英語で書かれた専門的な契約書の 文面の中に、 いた。 ﹁アクター?﹂ アクター またも頷く四堂。 ﹁﹃役者﹄。一昔前には、業界の中では知らぬ者無きほどの凄腕だ った。戦闘能力はないが、あらゆる場所や組織に潜入し、重要な機 密をいとも容易く持ち出してのけた﹂ ﹁⋮⋮そりゃあまた、ゼロゼロセブンも真っ青な凄腕スパイだぁね﹂ 清音も土直神も、どちらかと言えば戦闘や追跡、それも屋外が得 意なタイプである。屋内や組織への潜入、機密奪取の事となるとど れだけ凄くともあまり実感はわかない。 ﹁どんな能力を持っていたんですか?﹂ 四堂はそれについて、あくまでも伝説だが、と付け加えた上で述 べた。 ﹁一度会った人間には、まったく同じ顔、同じ声、同じ体つきに化 638 けることが出来、完璧に当人のように振る舞うことが出来たらしい。 業界には同じような能力者は多々いたが、それらの追随を許さない、 超一流の変身能力者だったそうだ﹂ ﹁⋮⋮へんしん、﹂ ﹁のうりょくしゃ!?﹂ 清音と土直神が、思わず顔を見合わせた。 639 ◆15:夜、繁華街にて ﹁それにしてもとんだ食わせ者でしたね、小田桐って野郎は﹂ 元城駅のそばにある、歓楽街とも言えないほどささやかな飲み屋 街。そのさらに裏通りにあるごく小さな酒場﹃アリョーシャ﹄を出 ると、おれはチーフに言った。アルコールで微妙にハイな声のおれ と対照的に、チーフは一向に酔いが回ったとも思えない表情で頷い た。 ﹁人の印象や感想というものは、書類やデータベースで検索しても そう引っかかるものではないしな﹂ コートから取り出した手帳に、今までの聞き込みで得た情報を手 早く書き込んでいくチーフ。さすがに元刑事らしく、その仕草は実 にサマになっていた。 ﹁しかしさすがに、これは飲み過ぎたかな⋮⋮﹂ 若干ふわふわする頭に手を当てて、おれは独り言をつぶやく。な るべく飲むよりも飲ませる側にまわっていたが、四時間も飲み屋を ハシゴしていれば、何も飲み食いしないというわけにはいかない。 思わず出てしまったげっぷを掌で押さえると、腹の中にたまってい たウォッカとビールの炭酸ガスと唐揚げの油の臭いが鼻をさした。 ﹁こういうときに喫煙者は間の取り方が上手くていいですよねぇ﹂ 普段はどちらかというと訥々としたしゃべり方で、積極的な会話 というのは苦手なチーフだったが、テーブルの上にボトルとグラス と灰皿とライターが揃うと、実に自然な寡黙さが演出される。する と、それがまた磁力のように、相手の会話を自然に誘い出すのであ る。おれがおっちゃんやサラリーマン相手に必死に話の糸口を探っ ている傍らで、悠々と集まってくる情報をチーフが吸い上げていく 640 サマを見せつけられると、さすがに実力と年季の違いを感じないわ けにはいかない。 ﹁ならお前も吸えばいいのに。というか吸え。吸ってくれ。喫煙者 同盟だ﹂ ﹁金と健康の両面から謹んで同盟は辞退させていただきます。まだ 酒の方がマシです﹂ おれはタバコは吸わないが、酒とはごくまっとうなつきあい方を している。すなわち、自分の気が向いたときや気の合う友人との集 まりのとき、つきあいの浅い奴の内面をもう少し知りたいとき、そ れなりに飲む程度だ。下戸でも酒豪でもないので、残念ながら面白 いエピソードというのはない。 ってのは﹂ ﹁しかしさんざん連れ回しておいて言うのも何だが。お前もう二十 歳になったのか?﹂ ああ ﹁⋮⋮ああ!﹂ ﹁なんだその ﹁いやぁ。⋮⋮自分が未成年だってのを忘れかけてまして﹂ そう、まだおれは十代。夢と希望に溢れたセイショウネンなので ある。 ﹁飲み屋でジョッキ片手に情報収集をする青少年がいるとは知らな かったな﹂ 冗談とも本気ともつかない表情で、チーフが呟く。その台詞を聞 かなかったことにしつつ手帳を横から覗きこみ、おれは先ほどまで の情報収集の成果を頭の中でまとめ直していた。 同じくらい栄えていても、東京都内の街と地方の街では大きな違 いがいくつかある。そのひとつとして、酒が飲める場所が限られる、 という点が挙げられるだろう。都内なら電車や地下鉄で何駅か移動 すれば、銀座の一流の店から隠れた名店、財布に優しいチェーン店 までよりどりみどりだし、深夜まで飲んでも終電やタクシーがある 641 ので帰り道には困らない。 他方、地方の街で飲むとなると、どうしても街の中心部や駅前の 飲み屋にならざるをえない。終電の時間は早いし、もちろん車で帰 るわけにはいかないので、事前にタクシーを予約しておいたり、旦 那や奥さんに迎えに来てもらえる立地でなければならなかったりす る。こうした事から、どんな街にも必然的に﹃地元の人たちがいき つけにする飲み屋﹄というものが発生することとなる。 予約を入れたホテルへチェックインした後、チーフとおれは元城 市内のその手の店に片っ端から顔を出していたのだった。なお、真 凛はホテルに待機させてある。例によって散々ぶーたれたものだが、 さすがに﹁お酒が飲めない子は連れていくわけにはいかないよ﹂と いうチーフの説得は聞いたらしい。今は出前で頼んだホテル近くの 店屋物をかきこんでいるところだろう。真凛を外したのは我ながら 賢明な判断と言わざるを得ない。あやつの酒癖の悪さと来たら極め つけで、以前おれはひどい目にあったことがある。 地元の人向けの飲み屋と、観光客や商談客用の酒場を見分けるに はちょっとしたコツがいるのだが、かつて現場をかけずりまわった 刑事であるチーフにしてみれば﹁ここだろうなと思う場所に行けば、 まずここだろうなという飲み屋がある﹂らしく、まったく店選びに は迷わなかった。若者向けのチェーン店、大きいがひなびた飲み屋、 そこはかとなく昭和の香り漂うバー。それぞれに一時間ほど逗留し、 ﹃地元の店に迷い込んでしまったビジネスマンと、そこにくっつい てきたバイト作業員﹄を演じる。多少酒をおごったりカラオケを入 れてやったりしながら、﹁ところで今日聞いたんだけどさ。この街 にオダギリとかいう人の幽霊が出るんだって?﹂と話を振ってやる と︱︱まあ引っかかる引っかかる、呆れる程の入れ食い豊漁っぷり だった。 この街での小田桐剛史の評判は、それはもうひどいものだった。 642 昼に工場長から聞いた、別の会社から転職してきたエリート・ビ ジネスマンという肩書きは、確かに事実だった。だが、仕事につい てはともかく、人格についてはまた別の側面がある。この街にやっ てきた当時から、元城市内での彼の素行の悪さは有名だったようだ。 タカミツ ﹁確かに仕事は出来たんだろうけどさ。ああはなりたくないって思 ったね﹂ これは、たまたまチェーン店で捕まえた昂光の若手社員の弁であ る。 ﹁部下にも取引先にもゴリ押しの一手でさ。俺の同期なんて自宅の 鍵を取り上げられて、契約取れるまで家に帰らせてもらえなかった んだぜ﹂ 次の店ではこんな話も聞けた。 ﹁ウチの叔父さんの車が駅前であいつの車に追突されてさ。抗議し たらものすごい勢いで逆ギレしやがって。出るとこ出たっていいん だって脅されて、いつのまにか叔父さんの方が弁償させられるハメ になったんだよ﹂ バーにもよく部下を引き連れて飲みに来ていたらしいが、﹃こん な田舎の店に金を払ってやって居るんだからありがたく思え﹄と放 言し、実際に女の子に絡むは大声で騒ぐは備品を壊すは、いまどき 学生サークルでもやらないほど無様な飲みっぷりだったらしい。あ まりにしつこく小田桐に絡まれて店を辞めてしまったホステスの子 も、一人や二人ではないとのことで、店の子からは、 ﹁こないだの土砂崩れで死んだんでしょ?お客さんの事は悪く言っ ちゃいけないんだけど、正直いい気味だって思ったわね﹂ などと実に率直なコメントを頂いたわけである。 聞き込みに回ったいずれの店でも﹁小田桐なんて知らないな﹂と いうコメントが無かったあたり、マイナス方向だとしても相当に有 名ではあったのだろう。憎まれっ子世にはばかる、という事らしい。 とはいえ、先ほど述べたように、営業マンとしての彼が会社の成績 を伸ばしていたのは事実である。﹃敵だろうが味方だろうが、馬力 643 にものを言わせて押して押して押しまくる﹄体育会系タイプだった と推測するべきだろうか。 幽霊 が目撃されている事件は、この街の人々に大小様々 そんな街の嫌われ者の小田桐氏が行方不明になり、街のあちこち で彼の な波紋を巻き起こしているようだった。 ﹁小田桐の幽霊?冗談じゃないね。こっちが恨むことは沢山あって も、アイツに恨まれる筋合いなんかあるものか﹂ という声もあれば、 ﹁大人しく地獄に堕ちていればいいのに。死んでまで未練がましく 迷い出てくるなんぞ、つくづく強突張りだな﹂ という意見もある。 ﹁幽霊なんているわけないさ。みんなアイツにビビってたから見間 違えたんじゃねぇの?﹂ というごくまっとうなコメントも多かったのだが、実際に幽霊と 遭遇した身にしてみればこれはあまり参考にならなかった。しかし、 ﹁きっとアイツ、死んだふりしてまた何かロクでもないこと企んで るのかもよ?ああイヤだイヤだ﹂ 何か企んでる、って。前にもなんか企んでたってコトで というバーのママさんの話には、一つ無視できない単語が含まれ また ていた。 ﹁ すか?﹂ 気前よく水割りの追加を頼み︱︱久しぶりのアシスタント業務、 風を装っておれが訪ねると、故人相手 経費を気にしないですむ特権を利用しない手はない︱︱いかにも こういうお店は初めてです ならばもう義理立ての必要もないと思ったのか、ママさんは気前よ く話してくれた。 ﹁そう⋮⋮何年前だったかしらね。アイツが全然お店に来なくなっ た時期があったのよ。︱︱結局、二ヶ月くらいしたらまた戻ってき たんでウンザリしたんだけど。その時は、私もウチの子達も正直ほ っとしたものよ。でも、そうならそうで、どこで飲んでるのかが気 644 になっちゃうのよね。最低の客とはいえ、他の店に取られたならそ れはそれで悔しいし、でもまたそこで絡むんじゃその店の子が可哀 相だし﹂ ママさんの言葉には水商売の複雑なプライドがにじんでいた。 ﹁でね。たまたまお店の外に買い出しに行ったとき、通りでアイツ を見つけたのよ﹂ 余談ながら、この手の飲み屋ではお酒やフルーツの類が足りなく なって、急遽お店の人が裏口から八百屋やコンビニに買いに走る、 ということは結構あるんだそうだ。五百円で買ったスナック菓子や あり合わせの果物が、裏口から店のカウンターを通って出撃すると きには二千円や三千円になっているのがこの世界なのである。 ﹁普段肩で風切って歩いているようなアイツが、妙にコソコソして たのよねぇ。で、これは何かあるな、と思って。そしたらアイツら、 ら ?﹂ ﹃アリョーシャ﹄に入っていったのよ﹂ ﹁アリョーシャ?それに、アイツ 我ながら芸のないオウム返しの質問。さすがに不自然かなとも思 ったのだが、ママさんは何年か越しの秘め事を打ち明けられること にすっかり心を奪われているようだった。 ﹁その時は、なんか体格のいい外国人が何人か一緒にいたの。で、 アリョーシャっていうのは、ちょっと奥の通りにある酒場なんだけ ど、昔日本人と結婚したロシアの人がマスターをしててちょっと珍 しいお酒が飲めるのよ。だから、たぶん一緒にいたのはロシアの人 じゃないかしらね。いつもと違ってやたらと挙動不審だったし。あ れは相当、後ろ暗いことやってたハズよね﹂ そう言われてしまえば、﹃アリョーシャ﹄へ向かわないわけには いかない。幸い、店自体はすぐに見つかった。歓楽街というにはさ さやかすぎる通りの、店と店の隙間の通路に体をねじ込む。通常の 店の従業員用の通用口の隣にある安っぽいスチールの扉を開けて中 に入ると、雑居ビルの一室を改装したのだろう、小さな酒場がそこ にはあった。恐らくは内装のチープさを照明を暗くすることでごま 645 かしているのか。鈍いライトの光が無骨なカウンターを照らし出し ひぐま ており、その後ろのラックにはウォッカをはじめとして幾つもの酒 が無造作に並べてあった。カウンターから出てきた羆のような巨漢 のマスター、オレグさんに話を聞くと、 ﹁四年前の夏だな﹂ と、彼はあっさりと答えてくれた。もちろん、高めのウォッカを 一本ボトルキープさせてもらった効果も大きいだろう。 ﹁ずいぶんはっきり覚えてるんですね﹂ ﹁その一ヶ月後に女房が出い行った﹂ ﹁⋮⋮そ、そうですか﹂ というようなやり取りはあったものの、マスターは当時のことを よく覚えていた。四年前に来た常連でもない客の事を覚えているの だろうかとも思ったのだが、むしろ今はほとんど常連相手にしか商 売をしていないため、一見の客、しかもロシア人というのは相当珍 しかったらしい。 ﹁まして、マフィアと来ればな﹂ ﹁マフィア?⋮⋮というといわゆる、ロシアンマフィア?﹂ マスターは苦々しげに首を縦に振ったものだった。 ﹁ハバロフスクに駐在していたときにあの手の奴らは何度も見たか らな。においでわかる﹂ 照明の下でよく見ると、しかめ面をしているマスターの長年の飲 酒で灼けた頬に、うっすらと刀疵が浮かんでいるのが見て取れた。 となるとこの御仁も、前職ではテッポーやらドスやらを扱っていた のかも知れない。 ﹁その時の様子に、何か変わったことは無かったかい︱︱ああ、俺 もボトルを入れさせてもらおう。スタルカはまだ飲んだことがない んだが、お勧めの飲み方は?﹂ 根本まで吸い終えたゴールデンバットを灰皿に押しつけ、チーフ が問う。 ﹁ストレート以外あるわけなかろうが。︱︱四年前の客の様子なん 646 ぞ、さすがに覚えておらんよ﹂ と言いつつ、マスターはしばし考え込み⋮⋮ふと思い出した表情 になる。 ﹁ああ。そう言えば、マフィア共は随分と日本人をせっついていた ようだったな。﹃装置﹄だの﹃納期﹄だのなんてロシア語を聞いた のはずいぶんと久しぶりだった﹂ へぇ。﹃装置﹄に、﹃納期﹄ね。隣の席を見やると、チーフの目 が、鷹のそれを思わせるほど鋭いものとなっていた。 ﹁ああいう手合いが紛れ込んでくるから、俺達が白眼視される。小 樽に流れて漁師の家に婿入りした俺の同期も、ずいぶんと差別を受 けているんだ﹂ とにかく鬱陶しい連中で、早く帰ってもらいたかったものだ、と マスター。一通り聞けることを聞き出した後、おれ達は勘定を済ま せ、﹁キープしたボトルは他の客に出すなりアンタが飲むなり好き にしてくれ﹂とお決まりの台詞を投げて出てきたのであった。 そして今、おれ達はホテルまでの道すがら、集めた情報について の議論を交わしている。 ﹁たしか、小田桐さんが昂光にやって来たのは、商社マンとして海 外に強力なパイプがあることを買われたから、でしたよね?﹂ 頷くチーフ。午前中に工場長はそう言っていたはずだ。そして小 田桐氏は海外に積極的な売り込みをかけ、昂光の業績に大きく貢献 することとなる。 ﹁となると、ロシアの顧客と相談をしていた、というのもあり得な い事ではないでしょうし、それで﹃装置﹄とやらの﹃納期﹄につい て、もっと早くしろと飲み屋でせっつかれていた、というのは十分 考えられることでしょうが⋮⋮﹂ 思考の検証のためあえて常識的な道筋をつけてみるが、チーフは 首を横に振る。 647 ﹁そういう交渉ならば、会社でやればいい。わざわざ人目につかな い飲み屋を選んでやることはないさ。それにそんな連中を接待する なら、もっと女の子のいる派手な店にでも連れ込んで、懐柔をはか るのが普通だろう﹂ ﹁ですよねぇ﹂ ロシアンマフィア。﹃装置﹄。﹃納期﹄。その三つの単語は、頭 の中でどう組み合わせてみても、あまり気持ちのよい回答にはなり そうになかった。ふと閃くものがあり、おれは午前中に工場長から もらったままの昂光のカタログをバッグから引っ張り出してみる。 ﹁四年前、もしかして昂光に何か大きな動きでも⋮⋮と。ああやっ ぱり﹂ ﹁ビンゴか?﹂ チーフとおれの目が一点に釘付けになる。企業のカタログの裏に はたいてい、その会社の略歴のようなものが載っており、昂光につ いても例外ではなかった。そして、ズバリ今から四年前の年末に、 昂光の最新次世代測定器﹃TKZ280﹄なる商品が世界に向けて 発表されたことが、誇らしげに年表の中に書き込まれていたのだっ た。 ﹁⋮⋮えーなになに。﹃この﹃TKZ280﹄は世界中の研究所、 機械メーカー様より高い評価を頂いており、現在、測定器における 弊社のシェアは国内一位72%、世界で一位45%となっておりま す﹄⋮⋮改めてみると、世界で45%ってとんでもない数字ですね えこれは﹂ たとえばゲーム機ならA社もB社も両方そろえるという事はある し、次世代機の性能次第ではあっさり乗り換えられることもしばし ばだが、こういった業務用の大きな工業機械は、信頼性の面からも、 A社ならA社のものだけを、何世代に渡って使う事が当たり前だ。 すなわち昂光は、世界の精密機器メーカーのうち45%というお客 をがっちりとつかみ、今後しばらくはその数字が大きく変わること はないという事になる。まず将来は安泰と言っていいだろう。 648 ﹁昂光が全力を挙げて作り出した次世代機。⋮⋮年末に公式発表さ れたとなれば﹂ おれは今までの仕事で何回かお邪魔した機械メーカーさんのスケ ・・・・・ ジュールを頭の奥から引っ張り出して逆算してみる。 ﹁その年の夏頃には、さぞかし企業秘密を巡って色々とあったんじ ゃないでしょうかね?﹂ おれの皮肉っぽい笑みに、チーフは仏頂面で同意する。 ﹁亘理、お前は知っているかもしれんが、この手の製品というのは、 非常に強い輸出規制がかかっていて、海外のあまり身元がまっとう でない相手には売ることが出来ないんだ﹂ ふむ。おれはかつて手当たり次第に脳裏にぶちこんでおいた法律 の条文に検索をかけて、該当するものを引っ張り出してみる。 ﹁えーと、輸出貿易管理令。銃や爆弾、核兵器や毒ガス、細菌兵器 などなど、物騒なモノやその材料となり得る品物は、政府の許可を 得なければ輸出しちゃいけない、って奴でしたっけ﹂ ﹁そう。だからこそ、何としても手に入れたいと考えている連中に はさぞかし高く売れるのだろうな﹂ ﹁たとえばロシアンマフィア、ですか?﹂ するとチーフは、肯定とも否定ともつかない表情を浮かべた。 ﹁マフィアやヤクザというのは、経済に寄生する事で栄えるものだ。 経済そのものをぶち壊してしまっては、彼らもまた生きてはいけな い。核兵器なんぞ手に入れたところで、連中にとってはお荷物にし かならんだろう﹂ ﹁⋮⋮となると?﹂ ﹁実際には転売だろうな。手っ取り早くテロリストなり某国なりに ザ・ 売り飛ばして多額の利益を上げる。マフィアというより武器商人と サード・アイ 読んだ方が近いかもな。ロシア系と言えば最近は、新興勢力の﹃第 三の目﹄という組織が⋮⋮⋮⋮うむ?⋮⋮⋮⋮となると、いや、ま さか?﹂ なにかがひっかかったのか、チーフがいぶかしげな表情を作った 649 まま虚空を見据える。その素振りはもちろん気になったが、その時 おれは自分の仮説の方に気を取られていた。 ﹁例えば、ですけどね﹂ 前置きして続ける。 ﹁四年前にその、新型の測定器の企業秘密についてなにがしかのト ラブルがあってですね。ロシアンマフィアが、小田桐さんを狙って いたとしたらどうでしょう﹂ ・・・ ・・・・・ ・ ⋮⋮実のところ、おれ達が今ここでこうしているのは蛇足にすぎ ・・・・ ない。先ほどのスポーツクラブでの遭遇で、すでに幽霊騒ぎは解決 しているのだ。 ﹁そいつは執念深く小田桐氏から機密を奪う機会を狙っていた。四 年越しの機会を手に入れたそいつは、まんまと小田桐氏を事故死に 見せかけ、土砂で生き埋めにすることに成功する。でも、機密その ものは手に入れることが出来なかった。そう気づいたそいつは、慌 てて小田桐さんの遺体を掘り起こそうとするが、すでに地の底にあ ってどうしようもなかった⋮⋮とか﹂ チーフが目を細める。本来、おれの意見は仮説と呼べるレベルの ものではないが、チーフは黙っておれに先を促してくる。 ﹁そうこうしているうちに、何故か小田桐氏の幽霊が現れるという 異常な事態が起こった。当然、そいつは焦ったはずです。自分が殺 したはずの相手が生きているかも知れないのだから。そして次に取 り得る行動は⋮⋮﹂ チーフがおれの言葉を引き取った。 ﹁確認、だな。自分で実際に埋められた亡骸を暴いてみる。つまり 何か︱︱﹂ 一つ言葉を切ったあと、おれの考えを正確に形にした。 ﹁お前は、今日遭遇した奴らの中に、小田桐氏を殺害した犯人が紛 れ込んでいると思っているのか?﹂ 650 ﹁ええ。そしてそいつは、回収し損なった企業秘密を手に入れよう としている﹂ ・ これではさすがに仮説というより、妄想と取られてもしかたがな い。だが、この推測であれば、奴の話と辻褄は合うことになる。チ ーフはそんなおれを見つめることしばし。やがておれの肩に手を置 いて言った。 ﹁⋮⋮やってみるか?﹂ その言葉の意味を、たぶんおれは正確に理解できたと思う。チー フは多分わかっているのだろう。わかっていながら、おれの好きな ようにやってみろと言ってくれているのだ。 ﹁スンマセン。ありがとうございます、チーフ﹂ 素直に感謝の言葉を述べる。もしおれがチーフの立場だとして、 果たして自分のアシスタントに同じ事が言えるだろうか。ここらへ ん、まだまだおれは青二才だなぁ、と自覚させられざるを得ない。 だが、これでおれの腹は据わり、方針も決まった。 ﹁明日の朝、もう一度板東山に向かいましょう﹂ 歩き続けるおれ達の視線の先に、ようやく小さなビジネスホテル の看板が見えてきた。本当ならもう一、二時間は早く戻ってくる予 定だったのだが。店屋物を食べ終えた真凛が不機嫌な顔をしてロビ ーに居座っている光景が容易に想像できて、おれは顔をしかめた。 ﹁とりあえず、今日はシャワー浴びてゆっくり眠るとしましょうか﹂ アルコールに少し霞んだ頭を振り、大あくびをして肺に酸素を取 り込む。振り返ってみれば、今日は朝から早起き、車での長距離移 動、山歩きから川流れに飲み歩きとずいぶん多忙な一日だった気が する。おれの予想が正しければ、明日もおそらくハードスケジュー ルになるだろう。 どういう形になるにせよ、そこで今回の幽霊騒ぎについては幕が 下りるはずだった。 651 652 ◆16:決戦の朝 ものを作る人間と、それを盗み出して自分のものだと言い張る人 間がいる。 どちらの人間ももっともらしいことを延べ、素人目には容易に区 別がつかない。 それでは、どちらが本物の﹃作者﹄なのか。確かめるすべはある のか? ︱︱ある。 古来あらゆる文献に載っているように、それはとても簡単だ。 新しく、別のものを作らせればよい。 偽物には、決して新しいものを作り出すことは出来ない。 コピー 笑えもしない話だ。 エミュレート どれほどに精緻に模写をしても。 を、真似る事だけは出来 どれほどに精緻に擬態をしてのけても。 新しいもの それは今という一瞬だけのこと。 その人間が次に生み出す ない。 653 生み出される新しいもの、とは別に作品には限らない。 ピエロ 仕事であり、恋愛であり、人生そのものであるとも言えよう。 そしてここに、一人の滑稽な道化がいる。 他人の作品を盗む事に長けた者。 誰のどんな作品を見ても、即座にそれを模倣してのけることが出 来る。 人はその技術のあまりの見事さに心を奪われ、人はその道化を職 人と称えた。 その道化も、一時は己の才に酔い浮かれたこともあった。 だがある時、道化はこの上もない罰を科された。 エミュレート 新しいものをつくれ、と。 作れたはず のものを。 完璧な擬態が出来るのならば。 オリジナル 失われた原本が お前は苦もなく作ることが出来るだろう? 最初は、当然だと思った。 オリジナル 事実その道化は、完璧なまでの贋作を提供し続け。 誰もがそれを原本だと信じて疑わなかった。 だが。 月日が巡り。 やがて道化は道をたがえた。 それは些細な一歩。だがそれは何よりも致命的なもの。 654 オリジナル 原本よりも己を採った罪。 オリジナル オリジナル わずかでもひずみが存在すれば、それはもう原本ではない。 正しい答え を確かめ修正することは永久にかな そして原本は失われて久しく。 道化はもう、 わない。 失敗した試練から降りることももう出来ず。 月日が巡るほど、道化は己の技に自信を持てなくなっていた。 100%を目指した男。 99.99%に近づくことが出来たが故に。 101%の領域に踏み込んだとき。 道化の傲慢な挑戦は、これ以上もないほどの重い罰を以て報われ た。 十月の早朝は昨日にも増して肌寒い。 とくに板東川沿いから河原を遡って板東山中へと続くルートは、 触れれば手が切れそうな冷水に大気の温もりが奪われて流され、凍 えるような風が吹き抜けていた。 昨夜の酒もまだ抜けない早朝に起き出したおれ達は、再び板東山 へと向かった。今回は昨日の県道から直接坂道を滑り落ちるルート を避け、時間をかけて河原を登っていくルートを選んだのであった。 昨日の戦闘からすでに半日以上経ってはいるが、板東川には未だ土 655 石流の影響があるらしく、水はやや茶色に濁っている。 ﹁ううぅぅ。寒い⋮⋮。こんな事ならダウンと手袋も持ってくるべ きだったぜ﹂ ぼやくおれが今着ているのは、昨日と同じジャケットである。坂 でズタボロに裂け、河で泥まみれになったそれを昨日コインランド リーで無理矢理洗った結果、お気に入りのジャケットは大層無惨な 様子へと成り果てていた。なんだか喉も痛い。昨日川に落ちたし結 構無理もしたので、もしかしたら風邪を引いたのかも知れない。 ﹁そんな背中丸めてると余計に寒いよ!ほら、もっと手足を動かす !﹂ ⋮⋮朝からテンションが高い奴を見ると無性に腹が立つのはおれ だけだろうか。 ﹁お前、風邪ひいたことないだろ﹂ ﹁うん。ないよ﹂ そうだろうさ。 わかりきったことを今さらながらに確認しつつ、さらに歩を進め ていく。やがて周囲の木々が開け、多少なりとも見覚えのある場所 に出た。 ﹁陽司、ここって昨日の⋮⋮﹂ ﹁ああ。どっかの誰かさんが水洗式よろしく流された時の場所だよ﹂ ﹁うぐ。って、アンタも一緒だったじゃない﹂ ﹁そうだったか?﹂ メイルシュトローム 大量の土砂が板東川に流れ込んだ影響で周囲の地形はだいぶ変化 していたが、確かにここは昨日おれ達が﹃清めの渦﹄土直神靖彦と 遭遇した場所である。あのトラップは強力な分、即興で仕掛けられ る代物ではないはずだ。おれ達と遭遇する前、奴らがここに色々と 仕掛けを施していたということは⋮⋮。 ﹁とりあえず、ここまで来ればいいんじゃないですか?﹂ おれの言葉にチーフは頷いて立ち止まる。そしてコートのポケッ トから取り出したのは、工場長から受け取っていた、小田桐氏愛用 656 の万年筆だった。 ﹁それではここで!元警視庁ヒミツ捜査官、須江貞氏による心霊捜 査です!﹂ のある おれはTVのよくある番組の司会の真似をして場を盛り上げてみ たが、当の本人は一向に感銘を受けた様子がなかった。 縁 のある品物さえあれば外部の雑音に影響され ノイズ ﹁俺の術はそう便利なものじゃないぞ。よっぽど強い 縁 品物がないと、そもそも発動も出来んのだし﹂ ﹁その代わり、 ないじゃないですか﹂ まあな、と言いつつ次に取りだしたのは、術の基点となる魔方陣 を刻んだ銀のプレートと、同じく銀色に輝く一巻きの糸だった。銀 の糸の上端を指に巻き付け、下端で器用に万年筆をくくる。そして 銀のプレートを地面におき、手帳から破り取った白紙のページをそ の上に載せる。その少し上に掌をかかげると、ちょうど掌から糸で つり下がったペン先が紙に触れるか触れないかのところで停止する 形になった。 ETHANIM −T−H −A− チーフが静かに目を閉じ、低く静かな声で呪文を唱える。 N −I−M ﹁︱︱﹃盤石たる東司の皇。埋み朽つ色の即、逝きて還る縁の横糸 を我が標と為せ﹄﹂ 詠唱が終わると同時に、プレートと、そして銀の糸が淡い輝きを 帯びた。やがてかすかに、糸に垂らされた万年筆が振り子のように 揺れ始めた。チーフがまったく掌を動かしていないのに、振り子の ごとき揺れは次第に大きく、かつ不規則にぶれだした。そしてチー フがこころもち掌を下ろすと、揺れるペン先が紙に触れ、不規則な 線を刻みつけてゆく。 いや、不規則ではなかった。刻みつけられていく無秩序とも思え る線の羅列は、だがやがて集まり重なり交わり、いくつかの意味あ る象形へと姿を変じてゆく。五分ばかり時間が経過した後、チーフ 657 は目を開き掌を閉じた。すると、今までの激しい揺れが嘘のように、 万年筆は元通りまっすぐに垂れたままとなった。 プレートの上に置かれた紙を拾い上げるチーフ。そこにはたどた RED ROCK﹄ どしい、だがはっきりとした金釘文字で、 ﹃ ↓ 130m UNDER と、記されていた。 長年愛用したモノ、長年共に過ごしたヒトの間に繋がった、ある いは繋がるべく定められていた﹃縁﹄をたぐり、失われたものを見 つけ出す失せ物探しの魔術。もともとこういった即物的でささやか な願いは、魔術のもっとも得意とする分野である。どうにも戦闘能 力に偏った連中が多いウチのメンバーが、まがりなりにも調査や交 渉の仕事も引き受けることが出来るのは、ひとえにチーフのバラン スの取れたこの能力によるところが大きい。 ﹁北東の方向百三十メートル、赤い岩の下。そこに、この万年筆の 持ち主が眠っているってことですね﹂ 紙に描かれた矢印の位置をずらさないように注意しながら持ち上 げ、指し示しながら目測で距離をはかる。ここからではうずたかく 積み上げられた瓦礫と倒木、そして雑木林に遮られているため、獣 道の向こう側から回り込むしかないようだった。目標ポイントを記 憶し、頭の中の地図に見えないピンを刺す。 ﹁それじゃあ向かうとしようか﹂ 手早く魔術の小道具を仕舞い込むと、森の奥へと歩を進めるチー フ。その後におれ達が続こうとした時。 ﹁陽司、河原の雑木林の奥に気配がある!﹂ 真凛が小声で鋭い警告を発した。ああ。おいでなすったか。心身 を戦闘態勢に整えていく真凛を軽く手を挙げて制し、おれはむしろ のんびりとした声音で、雑木林の向こうに呼びかけた。 ﹁おうい。そこにいるのはウルリッヒ保険の連中だろ。出てこいよ﹂ しばしの沈黙ののち。 ﹁⋮⋮あっちゃあ。やっぱばれてた?﹂ 658 特に悪びれた様子もなく雑木林の向こうから姿を表したのは、昨 日の連中。 妙なファッションの兄ちゃん、巫女さん。そしてシドウ・クロー ドとあともう一人、微妙に冴えないスーツ姿の男の四人だった。 ﹁ちょっと土直神さん!思いっきりバレてるじゃないですか尾けて たの!﹂ ﹁ウン。まぁしょうがないでしょ。おいらとシドウさんだけならと もかく、こっちには清音ちんや徳田さんまでいるわけだし﹂ 今日は最初から巫女服で、組立済みの弓を背負った清音の抗議に、 こちらは昨日同様ラフな格好に携帯ゲーム機をぶら下げた土直神が 応じる。その背後には背広姿の二人、一切の表情を遮断し沈黙を保 ったままの四堂と、やっとのことで後についてきた徳田の姿があっ た。 ﹁さりげなく責任回避してますけど。ゲーム機の音楽鳴らしっばな しでバレないと考える方が甘いんじゃないですか?﹂ 確かに土直神の携帯ゲーム機からは、この山中に相応しくない電 子音が漏れていた。 ﹁ありゃこいつは失礼。まあとにかく、見つかっちゃったものはし ょうがないさね﹂ 憤る清音とは正反対に、一向に危機感のない土直神だった。 ﹁だから私は最初から反対だったんです!あちらの術法の力に頼る なんて﹂ 今朝早くに宿泊した旅館を出発した清音達は、板東山の入り口付 近で一度車を停め、フレイムアップのメンバーがやってくるのを待 ち伏せし、そこから尾行していたのだった。昨夜土直神が言ってい た、﹃小田桐の遺体を見つけるための方法﹄とは何のことはない、 659 フレイムアップのチームに遺体の場所を探させてその後を尾けると いうものだった。 ﹁それくらいならいっそ、もう一度私にやらせてもらえれば⋮⋮!﹂ 清音としても土直神の作戦の有効性は理解している。確かに手と してはアリだろう。だが昨日自分の術で遺体の場所を見つけること が出来なかった清音にとっては、これは屈辱以外の何ものでもない。 ﹁まあそう言わんでよ清音ちん。昨日の旅館でもそうだったけどサ。 こういうのは無線と有線の違いだから﹂ 広域での捜索が可能な反面、環境の影響を受けやすい清音の術と、 範囲が特定され、手がかりとなるアイテムが必要とされるかわりに 環境の影響を受けない相手の術。どちらが優れた術というわけでは なく、使い方と状況次第と言うことだ。 ﹁あのう⋮⋮お二人とも、あちらの方々がお待ちのようですが⋮⋮﹂ 控えめな徳田の声に土直神が慌てて前を向くと、挑戦的な視線を こちらに向けている青年と目があった。傍らに控える少女もすでに パニッシャー 臨戦態勢となっている。奥のコートの男はまだ自分が出る幕ではな メイルシュトローム いと思っているのか、こちらに背を向けたままだ。 ﹁昨日は世話になったな、﹃清めの渦﹄、﹃風の巫女﹄、﹃粛清者﹄ 。ここら辺じゃあんたらは結構有名らしい。少し調べればウルリッ ヒ保険所属だって事もすぐにわかったぜ﹂ 口調だけは軽薄に青年が言う。三人の中で今ひとつ異能力が判然 としないひとり⋮⋮たしか亘理陽司、とか言ったか。 ﹁それはお互い様。おいら達も兄サン達らの事はすぐ調べがついた よ。だからそこの聖者様の奇跡を当て込んでここまで尾けてきたん だし﹂ こちらも口調だけはのんびりと土直神が返す。表情筋だけ笑顔の まま、油断なく視線を交える両者。三秒ほどの沈黙の後、口を開い たのは土直神だった。 ﹁なあ兄サン、協力しないかい?﹂ ﹁土直神さん!?﹂ 660 ﹁協力!?﹂ 清音と、あちらの女子高生、﹃殺捉者﹄が同時に眉をひそめる。 ﹁兄サン達はどう思っているかは知らないけどサ。元々昨日の戦闘 は、偶然お互いのメンバーに因縁があったから発生したもんだし。 純粋にこの任務に限れば、おいら達が戦わなきゃいけない理由は、 多分ないよ﹂ 語りながらさりげなく視線を横に向ける。隣の大男、四堂蔵人は 亘理陽司を鷹のように鋭く睨みつけたまま。だが必死に自制してい るのだろう、それ以上の行動を起こすつもりはないようだった。 ﹁兄サン達が何のために東京からこの山奥まで来たかってのは知ら ないよ。でも多分、﹃幽霊騒ぎの正体を確かめにきた﹄とかってと ころじゃないの?そんなら、平和的に協力すれば、すぐにお互いの 案件は解決するって話サ﹂ 亘理はその提案を聞くと、皮肉っぽい笑みを閃かせた。 ﹁はっ!協力したいっつっても、遺体の埋まっている場所はもう判 明したんだ。今さらあんた等に手助けなんぞ乞わなきゃいけない義 理はないだろ?﹂ その言葉を聞いて、むしろ土直神は安堵した。この青年は土直神 の提案を否定しているわけではない。どうせなら恩を売って優位に 立とうとしているだけだ。そうであれば後は交渉の世界である。 ﹁へえ。じゃあ兄サン達は、地中深く埋まった遺体を手作業で掘り 返すつもりなのかい?﹂ 手に持ったタッチペンを振ってみせる土直神。 ﹁オイラの力なら、五分とかからず掘り出すことが出来る。そう悪 くない話だと思うんだけどサ。︱︱そうだろ、シドーさん?﹂ 水を向けられても、四堂は無言のままだった。己の激情と理性が せめぎ合っているのか。その眼は閉じられ、硬く握られた拳が細か く震える。だが、 ﹁⋮⋮そうだな﹂ 眼を開いた時には、すでに己の中で一つの決着をつけていた。 661 ﹁今は任務が優先だ﹂ 絞り出された声は、鋼の塊をこじ開けたかのようだった。 ﹁だってサ。ってのがこっちの提案なんだけど。そっちはどうする よ?﹂ ﹁陽司⋮⋮どうするの?﹂ ﹃殺捉者﹄が亘理陽司を見上げる。その亘理はと言えば、土直神 達四人をなにやら意味ありげにじっと観察していた。そして四堂を 一度だけ視線で薙いで、ひとつ息をつき︱︱ ﹁はぁ?冗談じゃねぇな。こちとらそいつに殺されそうになった恨 みがあるんだよ﹂ どぎつい嘲笑を浮かべて、そう言い放った。 ﹁亘理、貴様︱︱﹂ ﹁おっと、お前にどうこう言われたかないぜシドウ。こりゃあ元々 お前の方から売ってきた喧嘩だからな﹂ 四堂を睨み付けつつ、己の首筋を撫でる。 ﹁ヒトを殺しかけておいてハイやっぱり無かったことにしましょう、 なんて話が通用するわけ無いだろ。まずはテメェにきっちり落とし 前をつけなきゃ帰れない。シドウ・クロード。二度と再生できない ようバラバラに刻んでこの山奥に埋めてやるよ﹂ 相手の怒気を含んだ挑発。それに応じる土直神は、むしろ興醒め といった態だった。 ﹁⋮⋮兄サンはもっと頭の良さそうな人だと思ってたんだけどなー。 残念だよ﹂ 土直神がタッチペンを掲げる。 ﹁交渉決裂、ってことだぁね﹂ すでに清音も弓を構え、矢筒に手を伸ばしている。そして、 ﹁せっかく自制してくれたんだけどシドーさん、好きにやっていい って話らしいや。こうなりゃ例のブツも使っていいんじゃないの?﹂ シース 無言で頷くと、四堂は己の背中に腕を回し、シャツと背広の間に 背負っていた一つの得物を鞘から抜き放つ。それは刃物。だが、厳 662 密に言えば 剣 ではなかった。 マシェット 藪を切り払うために制作されたナイフ オンタリオ社製、米軍公式採用の山刀。 分類上は ではある。だ が六十センチに及ぶ黒焼き入り炭素鋼の刀身が放つ禍々しさは、も はや直刀と呼ぶ方がよほどに相応しい。そしてこの﹃ナイフ﹄のも う一つ恐ろしい所は、分類上はあくまでも﹃道具﹄であるがゆえ、 日本国内でも比較的入手が容易であるという事だった。専用の得物 を持たず、あくまで武器の現地調達を旨とする﹃粛清者﹄が、戦力 の補強を期して、昨日ショッピングモールに入っていたキャンパー 向けのショップで買い求めていたのがこの﹃道具﹄だった。だが殺 気を総身に漲らせる四堂に握られたその姿は、もはや﹃凶器﹄以外 のなにものでもない。もうこの男を制止する理由は何もない。その 視線の先には、先ほどから挑発の薄ら笑いを浮かべている青年。 ﹁土直神さん、徳田さん。ここは私達が食い止めますので、二人は 先に遺体のある場所へ向かってください﹂ ﹁いいの?清音ちん﹂ ﹁ええ。あくまで一般人の徳田さんと、事前準備が必要な土直神さ んの能力はここでは発揮できませんし﹂ 土直神は苦笑いをせざるを得ない。 ﹁はっきり言うなあ。流石に女の子に正面切って役立たずって言わ れるとへこむさね﹂ ﹁すみません。ここに居てもらって下手に巻き込むくらいなら、先 に向こうで準備しててもらった方が助かりますし、それに︱︱﹂ ﹁それに?﹂ 清音が例の清楚で物騒な笑みを浮かべる。 ﹁私たちがあの三人程度に遅れを取ると思いますか?﹂ ﹁⋮⋮了解。じゃあ任せたよ、清音ちんに四堂さん﹂ 頷く二人。しびれを切らしたように向こうからかかる声。 ﹁能書きはもういいのか?それじゃあさっさと⋮⋮﹂ ﹁能書きを垂れているのは貴様だろう﹂ 663 四堂が青年の長広舌を断ち切る。 ﹁⋮⋮ああそうだな。それじゃあ始めるとしようか!﹂ 青年の言葉が臨界寸前の空気を発火させる。四堂が地を蹴り、﹃ 殺捉者﹄がそれに応じる。土直神と徳田は遺体のある方角へと向け て走り出し、清音が矢を取り出しつがえ、青年とコートの男が後方 で詠唱に入る。半日前の戦闘が同じ場所で、だがより一層苛烈な戦 意を以て再開されようとしていた。 664 ◆16:決戦の朝︵後書き︶ ようやくコミケ原稿が終わりました⋮⋮ 沢山のご応募、誠にありがとうございました! 665 MARAK −A−R ◆17:死闘ふたたび マシェット −A−K ﹁︱︱﹃手弱女が髪の如く縺れる束縛の銀よ﹄﹂ 山刀を構え圧倒的なプレッシャーを伴って突進してくるシドウ。 それにまず反応したのは、先ほどから黙して後方でおれに交渉を任 せてくれていたチーフだった。プレートを掲げた詠唱に合わせて、 ペンを操るのに使っていた銀の糸が水に溶けた塩のようにほどけ、 目映く輝く蜘蛛の糸と化してシドウを捕らえようと迫る。そして真 凛は迎撃の態勢。チーフが移動を封じて真凛が仕留める、即席のコ ンビネーションだった。 ﹁私たちに二度も同じ手が︱︱﹂ そこに割って入る涼やかな声は、あちらの後方に控えていた﹃風 の巫女﹄のものだった。前回の戦いで見せた疾風の魔弾は、凄まじ い威力を誇る反面、長時間の精神集中が必要のようだ。すなわち、 おれからしてみれば非常に妨害しやすい格好のカモ。そう思ってカ ウンターに備えていたのだが。 ﹁通じるとは思わないでください!﹂ 無造作とも思えるほど素早く弦を引き、矢を放つ。詠唱もないの で当然、あの凶悪な疾風の魔弾ではない。狙いも甘く、ただおれ達 の方角に向けて放っただけ。ただの牽制攻撃か。ならば取るに足り ない︱︱おれはそう判断を下しかけ。 そこでようやく気がついた。板東山の大気を震わせ、高らかに響 き渡る笛の音を。 666 ひきめ ﹁そうか、﹃蟇目﹄があったか!﹂ 日本の矢には、穴を開けた金具を先端に取り付けて射る事で、風 を吸い込みあたかも笛のように音を鳴り響かせる類のものがある。 これを蟇目と言い、神社ではしばしばこの矢を放つ儀式が執り行わ いびつ スペル れる。清めの音を以て邪を打ち払う魔障退散の一撃⋮⋮すなわちそ ブレイク れは戦場において、歪な理によって生み出された怪異を退ける呪術 破りと化す。 ﹁今です!四堂さん!!﹂ チーフが展開した魔術の銀糸が、響き渡った大気の震えにまるで 打ちのめされるかのように青白い火花を発し、千切れて消える。最 初から支援を予期していたのか、四堂は一切動じる事無く当初の予 定通り突進。立ちふさがった真凛に向けて巨大なナイフを振り下ろ す︱︱いや、そんな雑な動作ではなかった。それは何万回と繰り返 され磨き上げられた武道の動き。小太刀の撃ち込みと呼ぶべきもの だった。肩に食い込み、鎖骨を無惨に打ち割り腹まで斬り下げる斬 撃が真凛を捕らえた、かに思われた。わずかでも反応が遅れれば本 当にそうなっていただろう。だがしかし、必殺の一撃は、甲高い金 属音と共に受け止められていた。 ﹁⋮⋮そっちばっかり武器を持ってると思わないでよね!﹂ 真凛の両手に握られ山刀を十文字に食い止めているのは一本の棒。 その正体は、おれが昨日斜面を滑り降りるときに使用した縄梯子、 ﹃ハン荷バル君﹄である。この羽美さんご自慢のチタン製の小道具 は、ワンアクションでヌンチャクや三節根にも⋮⋮そして、刃を受 け止める木刀もどきにも変形するのだった。 ﹁ふっ!﹂ 不意に力を抜き、受け止めていた木刀の角度をゆるめる。食い込 んでいたシドウの山刀が耳障りな音と火花を立てて下方に流された 時にはすでに、真凛の強靱な手首が翻り、苛烈な面への撃ち込みに 化けていた。これまた必殺の軌道。だがそこに、下方に流されて崩 れたはずのシドウの山刀が魔法のように肩口から出現し、真凛の撃 667 ち込みに合わせてきた。﹁受け止めて﹂、﹁流す﹂のではない。一 挙動で﹁受け流す﹂、精妙な受太刀の捌き。 ﹁⋮⋮上手い⋮⋮ッ!﹂ 真凛の驚嘆。言葉と動きのどちらが先だっただろうか。透明なガ ラス球の表面を滑るように弾かれた己の一撃。その隙間に入り込む ように、またも魔法じみた挙動で今度は下段から跳ね上がるシドウ の小太刀。首筋を狙ったその横薙ぎの一撃に、振り下ろしてしまっ た木刀での受けは間に合わない。 刹那の思考、そして決断。大道芸じみた挙動でとっさに上体を海 老のように反らせ、暴風の一撃にかろうじて空を切らせた。額のす ぐ側を刃先がかすめ、浮き上がった前髪が数本中空で両断される。 そのまま体重を後方に預け、鮮やかにとんぼを切って着地する真凛。 距離を取って仕切り直し。対するシドウ、すでに山刀を片手正眼に 戻し、微動だにせず。 昨日から数えればすでに何度目の対峙か。こちらは木刀もどきを 彼ノ勢ヲ制シ我ガ勢ト為ス之太極乃構エ ⋮⋮小刀で大刀を制 八相に構えた真凛が、ややあって感嘆の声を漏らす。 ﹁ する受けの術理、だったっけ?口で言う人は沢山いたけど、まさか 実戦で使える人がいるなんて﹂ 柔術、回復能力、そして剣の心得。これ程己とかみ合い、かつ底 の知れない相手にはまず出会えるものではない。戦闘者としての真 凛の貪欲な本能が悦びに震え、新しいおもちゃ箱を与えられた子供 のようにその瞳が輝く。鉄塊じみたシドウの硬い気配が、ふと緩ん だ。 ﹁⋮⋮それはこちらの台詞だ。七瀬が組討以外を使えるなど聞いて いないぞ﹂ シドウの言葉。真凛が苦笑する。 ﹁専門じゃないんだけどね。剣を防ぐには剣を知らないといけない から一応練習はするんだ﹂ ﹁その力量を一応で済ませるか﹂ 668 わずかに唇をゆがめたシドウの口調に、おれは我が耳を疑った。 苦笑 しやがった⋮⋮﹂ まさか、アイツが。 ﹁ 我知らず漏れたおれの呟きは、誰の耳にも入ることがなかった。 そこでふと、シドウの眼がまともに真凛を捉えた。 ﹁奴とチームを組んでいるそうだな﹂ おれは、今更ながらに気づいた。今の今までこの男は、真凛を徹 底して﹃亘理陽司を殺す目的の障害物﹄としか見なしていなかった ⋮⋮いや、敢えて見なそうとしていなかった、ということに。 ﹁⋮⋮そう、だけど?﹂ 真凛の表情が厳しさを増す。シドウの目的はおれの殺害。その事 実を真凛は忘れたわけではない。シドウの気配は再び鉄塊じみたそ れに戻っていた。 ﹁ならば問う。その男は、貴様がその背に庇う価値がある者か﹂ ︱︱殺戮の記憶。そういえばあれは己の罪だったのだろうか。そ れとも生まれる前から引き継いだ自身の原罪だっただろうか。 ぬぐ カタチ ﹁アンタが昔アイツと何があったかは知らないけど﹂ 己の罪は己で拭う。それは人として在るべき象であり、なればこ そ、己の為すべき何かを他者に見せる必要などあるはずもなく、他 者の安易な踏み込みなど絶対に許すべきではない。 ﹁ボクはボクが知ってる今までのコイツを信じるよ﹂ そう誓ったからこそ、今この場所まで辿り着いたというのに、今 さら。 ﹁︱︱ならば﹂ シドウが片手正眼の構えに左手を添え、ずい、と歩を進める。八 方に張り巡らされた剣気、いかなる太刀筋も受け払い斬り返すその 所存。 ﹁貴様の信ずるところにかけて、俺を止めてみせろ﹂ ﹁⋮⋮わかった﹂ 対する真凛は八相から大上段に。腰を据え手首を外に向けた姿勢、 669 いせのとだ 小癪な護りそのものを撃ち割り捨てるその覚悟。 ﹁伊勢冨田流小太刀術、四堂蔵人﹂ ﹁七瀬式殺捉術、七瀬真凛﹂ 両者の得物が描き出す制圧圏が球状を描く。互いの死を招くはず のそれが、まるで吸い込まれるように次第にその距離を詰めなお交 錯し。互いをその圏内に捉えたその刹那、必殺の太刀筋が深々と交 錯した。 ﹁それにしてもなー。フレイムアップの連中はもうちょっと頭が良 いと思ってたんだけどなー﹂ ぼやきを口にしながら、苛烈な戦闘を背にして遺体のあるはずの 場所へと向かうのは土直神と徳田だった。 ﹁と、土直神さん、置いていかないでください⋮⋮!﹂ 森の中、瓦礫と流木で抉られた即席の獣道では全速力で走ると言 うわけにもいかず、まして素人同然の徳田もついてきているとなれ ばそうそう無理は出来ない。直線距離で百三十メートルとは言って も、実際にはその倍近い距離を駆け足程度のペースで移動して、よ うやく目指す場所に到着したのだった。こちらからふり返ると、ほ んの百三十メートルしか離れていないはずの、四堂や清音達の戦闘 の様子はまったく窺い知ることは出来ない。 ﹁百三十メートル先の赤い岩。⋮⋮ま、これだろうね﹂ 堆積した土砂と石の中に、一回り大きな岩が埋もれていた。不吉 さを感じさせる暗い赤色の、重苦しい花崗岩のカタマリ。自然石の はずなのに妙に四角いその岩は、まるで森の奥地に作られた何者か の墓を思わせる。︱︱いや、現地に来てみて確実にわかった。間違 いない。これは確かに墓標なのだ。 この巨大岩のために小田桐氏の遺体が見つからなかったと言うこ とは。 670 ﹁⋮⋮つまりあれか。土砂崩れの時に崖から吹っ飛んで落ちてきた この岩に⋮⋮﹂ ﹁は、はやく退かしましょう、土直神さん﹂ わかってますって、と徳田に応じると、早速タッチペンを取り出 し、岩の周囲の土砂をマークし始めた。 ﹁地盤が緩いとはいえずいぶん深く埋まってるねぇ。いったいどん だけの衝撃だったのやら。はいはい、か、ご、め、か、ご、めっと﹂ 岩そのものをどかすことはできないので、地脈のツボを打ち、岩 の周囲の土砂を押し流す術を織り上げていく。 ﹁もし、お、小田桐さんがその下にいるならその⋮⋮潰れて⋮⋮﹂ ﹁いついつ、えーっと、こっちか、でやる、っと。⋮⋮そもそも下 にいるのは本当に小田桐さんなんですかね?﹂ ﹁え?﹂ 手際よく術を組み上げながら、いつしか土直神の意識は昨夜見つ アクター けた情報を思い返していた。四年前行方不明になったというエージ タカミツ ェント﹃役者﹄。その任務の内容は相当シビアなものだった。当時、 昂光社が開発していた次世代三次元測定器﹃TKZ280﹄。転用 すれば核開発を飛躍的に容易にするであろうその装置を、政情不安 な某国に密輸しようとする動きがある、という情報がさる筋からそ の筋へとリークされたのだった。これを受けて国連と、その息のか かった日本国内のNPO法人ががなんのかんのと動いた結果、その NPOと専属契約を結んでいたウルリッヒ保険が隠密で調査に当た ることになる。そしてそのために派遣されたのが当時のウルリッヒ のエース⋮⋮誰にでも化けることの出来る最強の潜入捜査官、﹃役 者﹄だった。 ﹁徳田さんには悪いと思ったんすけど、昨夜遅くのことなんで、許 可取らずにウルリッヒのデータベースを漁らせてもらったんですよ﹂ ウルリッヒの共用サーバーを漁ってみたら、四年前に﹃役者﹄が 送ったと思われる、中間報告書とその下書きが残っていた。﹃役者﹄ は、その変身能力を遺憾なく発揮し昂光に潜入、かなり事件の核心 671 に迫っていたようだった。 ﹁⋮⋮でね。その密輸の犯人が誰かと言いますと﹂ ﹁ま、まさか﹂ 土砂に無造作にペンを突き立て、板東川がある方向に向けて矢印 を刻むその様は、校庭で遊ぶ小学生と大差はなかった。 ﹁そう。営業担当の小田桐剛史部長。そもそも海外への売り込みの 責任者だった人だから、いわば最有力容疑者、一番の信頼を裏切っ てたって事になるんスね﹂ そして四年前。小田桐はすでに﹃買い手﹄と﹃商談﹄を済ませて いたらしい。 ﹁買い手⋮⋮テロリスト、とかですか?﹂ ザ・サードアイ ﹁んー、もう少しタチが悪いッスかね。徳田さんもこの業界長いか ら、もしかしたら﹃第三の眼って聞いたことないスか?﹄﹂ ﹁き、聞いたことはあります。たしか、新興の武器商人グループと か⋮⋮﹂ ﹁そ。ロシアンマフィアを母体とする武器商人で、カネになるなら 地雷でも毒ガスでも売りまくるって連中なんだって。最近は子飼い の異能力者やら払い下げのサイボーグもかなり抱え込んでいるらし くって、ずいぶんブイブイ言わせてるらしいっすよ﹂ 矢印をいくつも描くと、今度は散らばっている石に一つずつ触れ ていく。 ﹁そんな奴らに核開発の技術を⋮⋮﹂ ﹁たいした売国奴って感じっすよねえ。おいらぁ愛国心とか恥ずか しくてとても口に出せないけど、さすがにカネのためにヨソに核を 売り飛ばす気にはなれないや﹂ ﹃役者﹄はすでに状況証拠を固めていた。そして決定的な証拠︱ ︱﹃買い手﹄と﹃商談﹄を済ませた小田桐が実際に現物を持ち出す ﹃取引﹄の瞬間を狙っていたのだという。 ﹁⋮⋮でもそれが、データベースに残っていた最後の報告書でした。 恐らくその取引の現場を押さえようとして何かがあって⋮⋮﹂ 672 ︱︱帰還せず。連絡途絶 一流のエージェントは姿を消した。 ﹁⋮⋮連絡が取れなくなったんすけど、潜入捜査だからウルリッヒ の方から連絡を取るわけにはいかなかったらしい。そうこうするう ちにTKZ280は無事に正式発売され、某国に輸出されたという 情報もとくには無く﹂ 今度は矢印の交わる箇所をざくざくとペンでつつきほじくり返す。 見ている分には本当に子供の砂遊びと代わらない。 ﹁密輸疑惑はいつの間にか風化してしまった⋮⋮ということですね ?﹂ ﹁そ。犯人と目されていた小田桐さんも、その後特に不審な挙動も 見せることなく現在まで会社勤めを続けてる。いなくなったのは﹃ 役者﹄ただ一人ってワケです﹂ そしてその四年後。今度はその小田桐さんが行方不明になり、あ ちこちで幽霊騒ぎが起き。土直神達はこうして、その墓を暴こうと している。 ﹁偶然にしちゃあ、出来すぎてる、っすよねぇ﹂ そもそもは土砂崩れに関わる遺体を捜索する任務のはずだった。 ウルリッヒ社員の徳田が気づかなかったのも無理はないだろう。だ がひとたび関連性に気づけば、これほど怪しいものはない。 ﹁そこで問題になってくるのが、清音ちんの心証ってワケで﹂ 直観を重視する巫女が、﹃あの霊は小田桐氏とは思えない﹄と言 った。もちろん的外れの可能性も十分あるし、警察の捜査と矛盾す るようなら笑い飛ばしたってかまわない。 ﹁だけど、もし﹃ここに埋まってるホトケさんの霊が、小田桐さん でない﹄と仮定してみたら。それは何を意味するんだろう?﹂ じゃあ、小田桐さん以外にこの辺りで﹃いなくなった人﹄はいる 673 のか。 一人、いることはいる。だが、当然時間が合わない。彼がいなく なったのは四年も前だ。 ﹁で、昨夜布団の中で珍しく健全に悶々としてたワケなんスけど。 ちょっと考え方を変えてみたら意外と簡単にパズルがはまったんで す。うしろのしょーめん⋮⋮﹂ ・・ ・・・・・・・ 中腰のまま、岩をぐるりとタッチペンの線で囲む。 ・・・・・・・ ・・・ ・・・・・・ 四年前にいなくなったのが﹃役者﹄ではなく別の人だったなら。 先日の土砂崩れで小田桐さん以外の人がここに埋まる事が可能と なる。 ﹁だから、この任務を完結させようと思ったら、小田桐さんの遺体 を確認するんじゃなく⋮⋮だ・あ・れっと!!﹂ 最後に、岩そのものをタッチペンで軽く触れると。 ・・・・ ・・・・・・ ﹁まずはこの四年間、小田桐氏として昂光で働き、群馬に良き家庭 を持っていた夫であり父だった人は、いったい誰だったのかを確認 しなきゃならないってワケ﹂ 土砂がまるで水と化したかのように流れ去った。岩がどれほど深 く埋まっていようが、埋まっている土砂そのものがなくなってしま えば、それを退かすことは容易い。 そしてバランスを失った岩はごろりと転げ落ち。 隠されていたものが、ようやく昇り始めた陽の下に曝け出された。 674 ◆18:墓をあばく。 ﹁うっわ、危ねぇ!マジで撃ってきてるし﹂ 火を噴くような熾烈な剣戟を数十合に渡って繰り広げている真凛 とシドウの背後で、おれはといえば﹃風の巫女﹄が放つ矢から、土 砂を跳ね上げながら逃げ回るのが精一杯という有様だった。 ﹁弓道家なら他人に弓を向けちゃ行けませんって最初に教わるだろ うがよー!﹂ おれの非難など聞こえぬ態で、無慈悲にこちらに矢を向け放って くる巫女さん。敵はなかなか割り切りが良いらしく、例の疾風の魔 弾が通じないと分かった時点で、詠唱の必要のない﹃ごく普通の連 射﹄に切り替えてきたというわけだ。魔弾だろうが普通の矢だろう がどっちにしろ当たったら終わりなおれとしては、むしろこちらの 方が遙かに脅威である。 ﹁くっそ⋮⋮!﹂ 巫女さんの弓の腕は中々のものだ。業界にいる﹃降下中の隼を撃 ち落とす﹄ようなバケモノじみた達人というわけではないが、充分 に訓練された腕。高校生だとしたら全国大会を狙えるのではなかろ うか。あちらの矢が尽きるのが先か、はたまたおれがドジやって命 中するのが先か。互いに詠唱を妨害しあって不毛な膠着状態に入っ てしまうと、もはや手の空いている残り一人に望みを託すしかない。 ﹁チーフ、すいませんがよろしくお願いします!⋮⋮っと、マジで 顔面狙うかよ!?﹂ ﹁そうは言われてもな。こっちもちょっと相手が厄介で困っている﹂ 三対二の戦闘で唯一手が空いているはずのチーフなのだが、なぜ か油断無く銀のプレートを構えたまま、まったく動こうとしない。 675 実はいろいろあって、今朝からこちら、チーフは主導権をおれに預 けてくれて控えに徹してくれている。だが、流石に戦闘でここまで 下ろ チーフが動かないというのは解せない。いや︱︱動けないのか。 ・・・ と表現する方が正解なのかな﹂ ﹁使役︱︱ってのは、俺達側の言い方だな。神道ならむしろ した チーフの目の前に、なにかが居た。目には見えない無色透明な、 だが確実に気配を感じさせるなにか。 ﹁むっ⋮⋮!﹂ チーフが咄嗟にマントのようにコートを翻し己を庇う。その直後、 いきなり前方の地面が爆発したように弾け、砂利や石が散弾のよう に襲いかかった。突風を地面に叩きつけることで、より効率の良い 物理攻撃に転化する、いわゆる﹃ストーンブラスト﹄。実戦的な風 使いがよく使う手口だ。 ﹁でも、﹃風の巫女﹄さんはおれと相対しているんだが⋮⋮って、 ああそうか﹂ 風の を呼び出し、神様にお願いすることで風を操るのだろう。そ おそらくあの巫女さんは、自然の精霊を召喚し⋮⋮いや、 神様 して巫女さん本人が弓でおれを潰しにかかっている間、風の神様は チーフの牽制に専念している、ということか。 ﹁チーフ!銃は持ってきてないんですか!?﹂ ヴァーチャ アラガミ 本来のチーフの戦闘スタイルでは、銃を使用するのだ。それさえ あれば例え力天使や荒神レベルの精霊であろうと全く問題はないの だが⋮⋮。 ﹁馬鹿を言うな。ここは日本だぞ。許可無く民間人が銃器を持ち歩 けるか﹂ ﹁ですよねぇ﹂ チーフはコートで石礫の弾丸を払い落とす。くたくたの一張羅の コートだが、内側にケブラー繊維が織り込んであり、即席の防弾チ HAMAG ABALA ョッキ程度の防御力は発揮するのだ。 ﹁﹃八代副王が一の長︱︱﹄﹂ 676 なに の気配を素通りし、単にごくわずかの地面の水蒸気を沸騰させ、 詠唱と共に、気配があるあたりに雷撃が落ちる。だが雷は か 小さな爆発を引き起こしただけにとどまった。 ﹁⋮⋮ま、やっぱ霊体に雷撃は効かんよなあ﹂ ﹁真面目にやってくださいよ!﹂ ﹁そうは言われてもこっちだってな⋮⋮おっと﹂ 今度は強力な突風が吹きつけ、成人男性であるはずのチーフを軽 々と浮き上がらせて後退させる。単に吹きつけるだけの突風、とい うのは意外と厄介だ。下手に収束や操作をしない分、パワーに特化 して術を使用できる。そして相手を遠ざけつつ動きを釘付けに出来 るというのは、牽制としてはかなり有効な戦術である。 ﹁おれとチーフを釘付けにして⋮⋮前衛同士の戦闘に集中させる気 かよ﹂ 互角の条件の一騎打ちならシドウが負けるはずはない、という事 か。だがそれは︱︱こちらも同じ事だ。巨体から繰り出される剛壮 の小太刀と、小柄な身体からは想像もつかないほどダイナミックに マシェト 空を切り裂く疾風の大太刀は、今も一進一退の攻防を繰り広げてい る。﹃先の先﹄﹃対の先﹄﹃後の先﹄。研ぎあげられた山刀とチタ ン合金の木刀が擦れる度に、耳障りな音と黄金色の火花をまき散ら す。本来、殺傷能力が極めて高い真剣の立ち会いでは、剣道のよう なチャンチャンバラバラはほとんど発生しない。これ程の剣戟が続 くと言うことは、互いの力量が恐ろしいほど均衡しているという証 拠だろう。真凛の眼に宿る気迫の意味は⋮⋮さすがにおれにもわか る。己が信ずるところにかけて、絶対に退かぬと言う覚悟。 ﹁ったく⋮⋮妙なところで張りきりやがって﹂ 単純すぎるのも考え物だと正直思うんだがなあ。⋮⋮とにかく、 この戦闘が長引きそうなのは確かな事実だった。またも飛んできた 矢を泥の混じった地面に伏せながら回避して︱︱ああ、昨日洗濯し たジャケットがすでに泥まみれだ︱︱おれは、しばらく事態の推移 を見守ることにした。 677 ﹁うっ⋮⋮﹂ 軽薄な外見以上に荒事には慣れているし、もちろん情景も想像し ていた。だがそれでも、いざ現物を目にした土直神は、その光景に 息を呑まざるを得なかった。 巨大な岩を退かした穴の下にあったのは、一人の男性の亡骸だっ た。恐らくは土砂崩れでここに流されたあと、時間差で山の上から 飛ぶように落ちかかってきたあの岩に潰されたのだろう。遺体の上 には大量の土砂と瓦礫が積もっていたが、瓦礫はいずれも粉々に砕 けている。一体どれほどの衝撃が彼を襲ったのか。己が大地を操る 術を持つからこそ、その総エネルギー量の巨大さを理解し背筋が寒 くなるのだった。 もう一度簡単な術式を組み立て、遺体の表面に積もった土砂を地 脈の流れに乗せて退かす。岩が落ちてくる瞬間、遺体の上に大量に 土砂が積もっていたために、衝撃の方向と位置はかなりバラバラに 分散されたようだった。損傷の酷い箇所もあれば、ほぼ無傷のよう なところもある。土砂崩れのあった一ヶ月前から急速に気温が下が ったこと、比較的低温な山の地中に、奇しくも土砂と岩に密閉され る形でほとんど空気に触れていなかったため、腐敗は驚くほど進行 していなかった。 南無南無、と口に出しかけて土直神は表情を改め、略式ながら神 道の作法に則って死者に礼を施した。そして穴を覗き込む。不幸中 の幸い、と呼ぶのは不謹慎だろうが、顔にはほとんど外傷らしいも のはなかった。そしてその顔立ちには、確かに、小田桐剛史の印象 が残っていた。 ﹁どう見てもご本人のようですがねえ⋮⋮﹂ 横で徳田がしげしげと覗き込む。やっぱり死んでいましたか、と 呟く声はかすかに震えているが、死体を前にしては仕方のないこと 678 だろう。 ﹁これが、﹃役者﹄の変装だと言うんですか?﹂ ﹁もし四年前に行方不明になったのは小田桐さんの方だったとした 小田桐さん ら、﹃役者﹄は消息不明になったんじゃない。小田桐さんになりす まして四年間を過ごしていた事になる﹂ ﹁はあ⋮⋮﹂ ﹁そうなると、今回の土砂崩れで行方不明になった は、実は﹃役者﹄が化けてる、ってことになるワケで﹂ 未だにどうにも納得がいかないと首を捻る徳田に、土直神が苦笑 した。 ﹁まあ、仮説も仮説っすから﹂ ﹁それって、三人で考えたんですか?﹂ ﹁いんや、おいらの思いつき。ちょっと突飛すぎるんで二人には話 してないよ﹂ ﹁⋮⋮そうですか﹂ ﹁ま、ぶっちゃけ本筋にはあんまり関係ないッスよ﹂ 注意深く遺体の状況を確かめつつ土直神。 ﹁要は、この山の遺体を発見することがまず第一目標でしたからね。 。オイラの説が外れてたら、この遺体は小田桐さんなので任務は万 事解決。おいらの説が当たってたら﹂ うん、こりゃあ何とか引き上げられそうだぞ、なとという呟きを 所々に挟みつつ、言葉を続ける。 ﹁そもそも、遺族の方々が探して欲しいと言っていたのは、小田桐 さんじゃあない。小田桐さんになりすましていたこちらのヒト、っ てことになるわけだし。四年前に行方不明になった本物の小田桐さ んについては、とりあえず考えなくてもいいでしょ﹂ ﹁ああ⋮⋮そうですねえ。四年前行方不明になった小田桐の事は、 誰にとってもどうでもいいことですよね﹂ なるほどなるほど、確かにそうだと口の中でぶつぶつ呟く徳田に 土直神が声をかける。 679 ﹁徳田サン。んじゃあ清音ちんたちが来る前に、引き上げるだけ引 き上げてしまいましょう。あんまり気が進まないかも知れないスど ⋮⋮﹂ しゃがみ込んで腕を伸ばすが、この態勢では遺体を引き上げるほ どの力は出せない。仕方なく腹ばいになって、穴へ向けて大きく腕 を伸ばす。徳田はと言えば、おっかなびっくりといった態で、土直 神の背後から穴の中を覗き込んだ。そして、はたと気づいた表情に なる。 ﹁︱︱ああ、土直神さん。さっきお話しを伺っていて、一つ間違っ ているところがありましたよ﹂ ﹁え?﹂ 腹ばいのまま、自分でもなぜか分からないまま咄嗟に身をよじっ たとき。 ざん、と。 背中に鈍い衝撃が走った。 ﹁⋮⋮四年前、小田桐剛史は﹃第三の眼﹄に商品を売り渡そうとし ていたんじゃない﹂ 殴られたのか、と土直神は思った。だが、衝撃は背中の表面だけ ではない。もっと深いところまで到達していた。そして、そう認識 した瞬間、鈍い全体に広がるような衝撃が、たちまち焼け付くよう な鋭い激痛へと化け、土直神の意識に火花が飛び散った。 ﹁⋮⋮最初から商品の情報を手に入れるために昂光に入り込んだ﹃ 第三の眼﹄のスパイだったんですよ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮っ、⋮⋮ぐ、⋮⋮ごふっ!!﹂ 反射的に喉が叫び声を上げようとしたが、代わりに飛び出してき たのは小さな血の塊だった。大振りのナイフによる刺突。刃先が背 筋を突き破って肺を傷つけている︱︱土直神は激痛の中、自分でも 驚くほど冷静に状況を把握していたが、逆に今の思考を放棄した途 680 端、自分の意識は激痛に呑まれて消えるであろうことも理解してい た。 ﹁くぅ⋮⋮ああっ!﹂ 激痛に耐え、仰向けになりながら大きく腕を振り払う。背中から 素早くナイフを引き戻される感覚が、さらに新たな激痛を産み出し た。振り向いたその先には、これまで何度となくつきあいを続けて きたはずの男がナイフを持ったまま、奇妙にのっぺりとした表情で 立ち尽くしていた。 ﹁⋮⋮徳田、さん?﹂ どうにか声は出た。ダメージは左の肺。なんとか呼吸は確保でき ているが、依然危険な状態。 ﹁⋮⋮そして四年前、任務に失敗した哀れな男はすごすごと逃げ戻 りましてねぇ﹂ その男はウルリッヒ保険会社正社員、徳田紳一のはずだった。少 なくとも、その顔のパーツの構成は、間違いなく徳田のものである はずだった。だが同じパーツで作り上げられたはずのその表情は、 土直神が今まで一度も見たことのないものだった。 ﹁社会的な地位を奪われ。組織内での立場を奪われ。そして己の顔 まで奪われて﹂ 徳田の顔に、変化が起こっていた。 土直神は最初それを、激痛にかすむ目の錯覚だと思った。だがそ うではなかった。 ﹁任務に失敗した無能者として﹃第三の眼﹄の中でも随分と屈辱を 受け﹂ ・・・・ 徳田の顔の筋肉が、まるで強力なマッサージ器でも当てているか のようにぷるぷると不気味に波打ち、とろけていく。そして、皮膚 と肉が蠢いているその一枚向こうで、目玉と歯並びだけがおぞまし い笑みを浮かべていた。 ﹁⋮⋮アンタ⋮⋮誰だ?﹂ 徳田ではない事だけは、もはや確実だろうが。土直神の問いなど 681 耳に入った風もなく、徳田だった何者かは、まるで酔っぱらいの胃 にたまった反吐のように言葉をぶちまけ続ける。 ﹁⋮⋮やがて組織内で、無能者には無能なりの価値を見いだされる﹂ ︱︱顔というのは不思議なものだ。それは、私が私であるという 証明。 顔を失ったとき、私は私ではなくなった。私であることを証明で 顔のない男であれば、今さらどんな顔になってもかまわんだろ きなくなってしまった。 う? 奴はそう言い、包帯に巻かれた私の顔を実験台にして︱︱ ﹁そして四年ぶりに。懐かしの日本に舞い戻ってきた、ってわけな のさ﹂ ぐずぐずに溶けきったかのような顔面の皮膚が、突如として、ま るで電気でも通したかのように再び引き締まる。だが、顔面を構成 異能力 。セラミッ する皮膚も筋肉も肌の色も、徳田のそれとは全く異なっていた。そ こにあったのは、もっと若々しい別の顔。 ﹁⋮⋮これが、全てを失った男に与えられた ク製の可動式フレームを頭蓋骨にボルトで埋め込み、高分子ゲル製 擬態する顔 だよ。⋮⋮間に合わせの顔とし の筋肉で覆って有機薄膜とナノマシンのブレンド皮膚と人工毛髪を 貼り付けた試作品。 ては、なかなかのものだろう?﹂ 土直神が奥歯を食いしばる。激痛のためもあるが、それだけでは ない。今、彼の目の前にあるものをどうしても許せなかったからだ。 若々しい、細身の面立ちに細い目。童顔に見られるのを嫌って顎に 無精髭を生やしているが、そもそもあまり髭が濃くないようであま 変装 。こうやって君の顔を解析して、その り成功していない、鏡で毎朝見ているその顔を。 ﹁能力はもちろん、 通りに顔面を変形させることが出来る。そうそう、声紋の解析と変 682 更も出来るんだ﹂ トゥリーチィ・グラース いつのまにか、その声すら土直神のものとなっていた。 ティエクストラ ﹁そういえば質問に答えてなかったな。﹃第三の目﹄所属の異能力 者。﹃貼り付けた顔﹄。⋮⋮ああ。君たちには本名で、小田桐剛史 と名乗った方が通りがよかったかな?﹂ 目の前の己の顔が、他人の表情で嗤う。 欲望に飢え、絶望に乾ききった、ゆがんだ笑顔だった。 683 ◆19:とある男の半生/とある役者の半生 そもそもの私、小田桐剛史は、公立高校から私立大学を出て総合 商社に就職した程度の男だ。田舎の街では神童と呼ばれ、末は博士 上の中 程度のでしかない、ということも思い知らされ かノーベル賞かと煽てられていたものの、大学に入ってからは自分 の頭脳が ていた。だからこそ私は、目に見えない頭の良さよりも、数字で残 る金とチカラを求めるようになった。多少アクは強かったかも知れ ない。ラグビー部やサークルで対人関係のトラブルがあったりもし たが、だが逆に言えばその程度のものでしかなく、今から振り返っ てみれば、まずまず順風満帆の人生だったのではなかろうか。 全てが狂い始めたのは、仕事で三年間アジア某国に滞在したとき だった。日本に居たときから接待やリベートの重要性は十分に理解 していたつもりだったが、海外でのビジネスはその比ではなかった。 こちらがどれほどルール通りに商売をしても、相手がゴーサインを 出さなければそこで全てが止まってしまう。権限を持つ政治家や官 僚をいかに取り込むか。あるいはいかに敵に回さないようにするの か。誰それに金品を送りつけ、その便宜によって得られた多大な利 益の一部を使って次にあてがう高級コールガールを調達する。そう いったことに腐心するうち、私はいつしか、現地の汚職官僚と、彼 が繋がっている麻薬組織やその私兵達とすっかりズブズブの仲とな っていた。リベートの件が日本国内で発覚し大騒ぎになると、私は 社内で全ての責任をなすりつけられ降格させられた。 社内派閥という名前の輝かしいエスカレーターから下ろされた私 は、同僚や後輩達が昇進への道を駆け上がっていく様をただ指をく 684 わえて見ていることしかできなかった。そんな時だった。かつてズ ブズブだった麻薬組織の支援者、と名乗る組織、﹃第三の眼﹄から コンタクトがあったのは。 結果として、私は﹃第三の眼﹄に所属する事になった。と言って も、社会的な身分は今まで通りの商社マンである。ただ時々、商社 でなければ知り得ないような最新のデータや社内情報を、先方から の指示に従って集めて流す。それだけで、同僚や上司どもすら及ば ない報酬を手にすることが出来た。 数年後、私は総合商社を辞め、昂光に引き抜かれることとなる。 表向きには海外へのパイプを活かしたキャリアップのためとなって いるが、そのスカウト話自体、﹃第三の眼﹄の工作によるものだっ た。私自身、これ以上出世の望みのない会社に未練はなかったので、 転職の指示には不満はなかった。そして昂光での任務は、開発中だ った次世代三次元測定器の密輸だった。一見地味なようでいて、使 うものと使う相手を間違えなければ莫大な金を生むカード。元商社 マンの営業部長として赴任した私は、昼は営業マンとして仕事に励 み、夜はその商品の機密データを手に収めるべく、社内で暗躍して いたのだった。会社の重要ポストだからといって全ての情報を把握 できるわけではない。社内の雑多な情報から必要なものを抜き出し、 いくつかの基幹部品のサンプルをちょろまかして、どうにか﹃取引﹄ として先方に渡せるものを揃えるためには随分時間を必要とした。 ところがその頃から、身辺に違和感を感じるようになっていた。 確証はないが、私を誰かが調べ回っている⋮⋮そういう雰囲気。た だのサラリーマンとは言え、これでもゲリラ共と後ろ暗いビジネス をやりとしていた身だ。いつしか私はこの手の異変については、昆 虫の触覚並みに鋭敏なセンサーを持つようになっていたのだ。﹃第 アクター 三の眼﹄の支援を仰ぎ、こちらからも調査したところ、私を追って いたのは﹃役者﹄などと名乗る、自分の顔を変える男だという。私 はそういう能力を持つ連中が結構この世に居るということはすでに 知識として知っていたが、それでも奴の能力に︱︱取引現場で、い 685 つの間にか﹃第三の眼﹄の連絡員とすり替わっていた奴に︱︱気づ いたときは戦慄したものだった。その男と私は、一年以上に渡って 連絡を取り合ってきたというのに、その正体が見破られるまでは、 その男を疑ってみようとも思わなかったのだから。完全な変装。い や、あれはもはや変身と呼ぶべきレベルのものだった。実際にその 場にいた私でさえ、今でもいかにして奴の正体が見破られたのか。 未だに推測すら出来ずにいる。 だが、いかに完璧な変身とは言え、バレてしまえばもはや意味が ない。私と、暴力のプロである﹃第三の眼﹄の構成員と、裏家業と はいえ基本的に戦いを好まない﹃役者﹄。互いにもはや引くわけに はいかない状況だった。 山中の県道、夜の闇の中でひっそりと行われたこの両者の衝突は、 結果として私達の敗北だった。現場から車で強引に逃亡しようとし たところ、それまでの銃撃戦での着弾がタンクに引火し大爆発を起 こした。構成員達は全員死亡。そしてかろうじて生き残り、﹃第三 の眼﹄の支援部隊に回収された私は⋮⋮全身に重度の火傷を負い、 とくに顔面の皮膚はすでに原型を止めないほどに灼けただれていた。 鏡を見てそれと気づいたのは、回収後に秘かに搬送されたハバロフ スクの廃業寸前の病院だった。組織は死体をどこかに遺棄したり、 交通事故として下手に勘ぐられるよりも、手元に回収してしまう方 が総合的にリスクが低いと判断したらしい。私はおそらく日本では 行方不明扱いになっているのだろう。そう思っていた。 だが社会的立場も帰る家も働く場所も失い、絶望する私にさらに 追い打ちがかかった。伝え聞くところによれば、なんと﹃小田桐剛 史﹄は行方不明になどなっておらず、相変わらず昂光で営業部長と して働いている、というのである。あまつさえ見合いをして家庭を 持ち、子供まで生まれたとか。この怪現象の原因は、一つしか考え られなかった。 ﹃役者﹄。 あの誰にでも成りすます事が出来る卑劣な男が、この私、小田桐 686 剛史になりかわり、何食わぬ顔をしてエリート会社員と良き家庭人 としての人生を謳歌している。この私が鎮痛剤を投与されている冷 たく湿った地下の病室から海を挟んだ向こうでは、奴がぬくぬくと 妻と子に囲まれ平和に暮らしている︱︱到底許されていいことでは ない。 偽りの顔を与えられ、日陰をのたうつように組織の中で生き延び てきた私に、四年後の今、願ってもいなかった機会が巡ってきた。 私の顔を奪ったあいつに報復が出来るのなら。再び私の本当の顔 を奪り返せるのなら。 そのためなら、何だってやってやる。 日本に舞い戻り、組織の構成員共を再び動かして情報を集め。 そして、一ヶ月前のあの大雨の日。私は奴を坂東山に呼び出した のだった。 その手紙には、私と連絡が取れなくなってからの彼の、その後に ついてが書き連ねられてあった。 変身能力を活かして昂光に潜入し密輸の証拠をつかむのは、彼に とってはごく簡単な任務のはずだった。事実、彼は社員、取引先相 手、警備員などにまさしく変幻自在に化けて、いとも容易く主犯で ある小田桐某の正体に迫ることが出来たのだという。しかし︱︱私 には未だに信じられないのだが︱︱最終的に彼はその正体を見破ら れてしまい、銃撃戦となってしまう。 結果、逃走を図った小田桐某は爆発事故で行方不明になり、密輸 の決定的な物証を握ることは出来なかった。それでも、襲撃の手口 からして小田桐が主犯なのは疑いようのない事実であり、密輸のた アクター めに形成されたネットワークも被害甚大。まず任務成功と言っても よかったはずだった。しかし、彼⋮⋮誇り高き我が師、﹃役者﹄に 687 は、銃撃戦で決着をつけるような無骨な結末は、到底受け容れられ るものではなかったらしい。 彼は昂光に固執した。ウルリッヒ保険にも任務完了の報告をせず、 行方不明になった小田桐剛史に変身を行い、その代役を完璧に演じ 続けた。そしてその手に握った小田桐の権限と情報を以て、構築さ れたネットワークをことごとく、彼の言を借りれば偏執的に、潰し ていった。 ﹁今にして思えば、正体を見破られた事に対する子供じみた腹いせ だったんだよ﹂ アクター ミュータント 彼は手紙でそう述べている。 ﹃役者﹄。 分類で言えば突然変異の部類に入るのだろう。異常発達したミラ ーニューロンと、自在に変化する体細胞。DNAまで一時的に組成 を偽装させることが出来るその能力は、ひょっとしたら人類の新た な可能性を模索するものだったのかも知れない。生まれながらの﹃ 物真似師﹄である彼にとって、己の能力を見破られる屈辱というの は、私のような凡才には計り知れないものがあったのだろうか。 99.99%の擬態を可能とする人間。その傷ついたプライドは、 ・・・・・・・・ いつしか歪んだ挑戦へとねじ曲がっていった。 オリジナルを模写することは容易だ。 そんな低レベルな演技ではまだ足りない。オリジナルが無い状況 で、完璧に本人を演じきってこそ﹃役者﹄である。小田桐剛史とし てのレールを、誰にも疑われずに、小田桐らしく歩み続ける。小田 桐として上司に疎まれ、部下に敬遠されようと一向にかまわない。 己一人の胸に秘かに満たされるものさえあればよい。そう考えて過 ごしてきたのだと彼は言う。小田桐のように考え、小田桐のように 振る舞う。演技は精髄を極め、自分が﹃役者﹄だと言うことを思い 出すのが一週間に一度、という事も珍しくはなかったのだとか。 結局、彼の﹃演技﹄は一年以上にも及んだ。潜入捜査には数ヶ月 688 から半年を要することが多いが、そこから考えても長い時間である。 だがしかし、そのレールは、いつの間にか後戻り出来ないものにな っていた。その頃にちょうど降ってわいたのが、取引先の重役の娘 との見合い、だった。﹃小田桐ならば﹄己の出世のために受けない はずがない縁談。迷うことなく婚姻を申し入れ、式を挙げ、妻が懐 妊したあたりで︱︱ ﹁悪い夢から、はたと醒めた﹂ そう彼は語っている。彼とて、自らの異能力や遺伝子の秘密を完 全に理解しているわけではない。遺伝子まで擬態できる彼の子供は、 果たして誰の子なのだろうか?彼の意地による﹃挑戦﹄のため、偽 者の小田桐と結婚した妻の人生は、一体どうなるのか。 ﹃小田桐ならば﹄政略結婚で娶ったような妻に愛情は注がない。 毎晩女のいる店を経費で飲み歩くほうが﹃小田桐らしい﹄。 ﹃小田桐ならば﹄土日に子供と一緒に車で出かけるような事はし ない。人脈つくりに取引先とゴルフでもしている方が﹃小田桐らし い﹄。 ﹃役者﹄であるならば、どうすべきかは明らかなはずだった。 ステージ だが結局、彼の家庭は⋮⋮後に私が調べたところ、幸せな家庭と アクター 呼びうるものであった。 一流の﹃役者﹄は、新たに作り出された家庭、という舞台での演 技をやめてしまったのだ。 調和ある家族、暖かい帰るべき場所。そして相互の信頼。世の中 のどんな人間であろうと、どちらが欲しいかと言われれば、不幸な 家庭よりも幸せな家庭と答える決まっている。それは絶対的に正し い、世間では賞賛されるはずの行為のはずだった。 だというのに、己一人の胸には、己が﹃役者﹄として失格である という事実が突きつけられ続ける。どれほど苦しみもがいても、今 689 更舞台を降りることなどかなわない。 傲慢な挑戦に対する、これ以上もないほどの重い罰。 幸せで過酷な時間は、実に三年も続いた。 ある時、彼はとある情報を聞きつける。再び昂光の企業秘密に接 触しようとする不穏な動きがある、と。半ば予感めいたものを感じ て、彼はその機会を待ち続けた。 そして、一ヶ月前のあの大雨の日。彼は奴に坂東山に呼び出され たのだった。 690 ◆20:埋葬されていたモノ ﹁自分が小田桐剛史ではなく、どこの馬の骨とも知れない人間だと ティエクストラ 会社にバラされたくなければ昂光の機密情報をまとめて持って来い。 そう伝えたら、奴はあっさり承諾したよ﹂ 土直神の顔をした徳田。いや、エージェント﹃貼り付けた顔﹄。 あるいは本物の小田桐剛史。どう呼ぶべきか定まらない男が、熱に 浮かされたように語り続ける。瀕死の土直神にナイフを突きつけつ つ、一向にトドメを刺そうとしないのは合理的ではなかったが、納 得は出来た。この男は排泄の快楽を味わっているのだ。四年間己の 心の内にひたすらにため込んできた、真相という名の排泄物を。 ﹁そりゃあそうだよなあ!誰だって地位も金も失いたくはない。俺 ならそうさ。あいつだってそうだ。俺の地位を奪った、あの下衆野 郎なら当然そうでなくちゃなァ!﹂ ため込み続けた排泄物があまりに巨大なためか、その眼が見開か れ全身は細かく痙攣している。言葉の合間にしゃっくりをするのは、 横隔膜が引きつっているせいか。 ﹁⋮⋮それで、あの雨の日に、あのトンネルに呼び出したのか⋮⋮ ?﹂ ﹁あそこはな。四年前に俺が奴に取引を邪魔された場所なんだよ。 この下らない茶番に決着をつけるなら、ちゃんと舞台も相応しい所 を選ばなきゃ駄目だろう!?﹂ あの大雨の日。呼び出された﹃役者﹄扮する小田桐剛史は車でト ティエクストラ ンネルまでやってきて、車を降りる。そこに待ち受けていたのは、 密輸の主犯、﹃貼り付けた顔﹄⋮⋮本当の小田桐剛史。そして、二 人がまさに、因縁の顔合わせをしようとしたとき。 691 ﹁でも地震はダメ。地震はいけない。ああ、地震だけはいけなかっ た。あのタイミングで地震なんてな。まったく。はは、クソが!畜 生が!!なんてことだ!!!これが舞台なら脚本を書いた奴は三流 だ!あのタイミングで土砂崩れが起きるなんて、偶然なんて言われ ても嘘くさすぎて誰が納得できるかよ!?﹂ 怒りと憎悪と後悔、無念。ありとあらゆる負の感情と怒声を撒き 散らしながら小田桐が吠える。四年越しの復讐の対象は、長雨と地 盤によって緩んだ土塊によって、彼の目の前で、一瞬のうちに押し 流されてしまったのだ。 ﹁ホント、はは、笑えねえよな。そうだろう!?野郎はあっという まに地面の底。しかもアレだ、俺が持って帰らなきゃいけない機密 情報まで抱え込んだままだ。俺はどうすりゃいい?四年間、八つ裂 きにすることだけを考えてきた男が消えちまって、しかも帰ること も出来ねぇ!!このまま帰ったら、今度こそ俺は粛清される。それ よりなにより、このままじゃ俺自身が納得できるわけがねえ!!﹂ だが、今の小田桐には、山中のどこかに流され、膨大な土塊に埋 もれたであろう﹃役者﹄を探す事も掘り起こすことなどかなわない 事だった。 小田桐剛史の が、亭主の遺体を見つけて欲しいと思ってる、なんて情報 ﹁悩んだし、焦ったよなあ。でもそんなときだよ。 奥さん が飛び込んできたのはさぁ﹂ ﹁⋮⋮そんで、オイラ達を⋮⋮使おうと思ったワケか。⋮⋮本物の 徳田サンはどうした?﹂ ﹁あ?ああ。今頃は海底で魚と遊んでいるんじゃないか。重しの鎖 が切れていれば、太平洋辺りをのんびり漂っているのかも﹂ 激情から一転して、外国のお天気情報でも説明するかのような無 関心さ。土直神の奥歯が軋んだのは、激痛をかみ殺すためだけでは なかった。 ﹁四年前に奴を潜り込ませてきたウルリッヒに、今度は俺が潜り込 んでやる。なかなかいいアイデアだろ?それなりに気晴らしにはな 692 ったぜ、この一ヶ月は﹂ 今にして思えば、この仕事はまず徳田から土直神に紹介された。 そして、霊と交信できる能力者が居た方がよい、という徳田のアド バイスを元に、土直神は清音を引っ張ってきたのだ。何のことはな い、このメンバーは最初から、捜索対象が﹃死んでいて﹄﹃埋まっ ている﹄という前提で揃えられていたのだ。 ﹁それでも本当に死んでいるかどうか、この目で確かめるまでは不 安だったよ。しかも奴の幽霊とやら、あの場にいた俺の正体を、仕 草だけであっさり見抜きやがった。その途端、のらくらと自分の正 体をぼかして思わせぶりなことをほざきはじめやがって。結局、邪 魔が入って発掘は遅れるは、あの巫女やお前にはいらん推測をされ るは。まったく最後までくだらん足掻きをしてくれる﹂ 自らの遺体が発掘され、小田桐に機密情報を奪われることは避け ねばならない。死してのち一ヶ月を経て、その意識のみを呼び覚ま されたとき、即座に﹃役者﹄はそう判断したのだ。だからこそ、掘 り起こされて家族の元に返されるよりも、誰もいない冷たい土砂の 下で眠り続けることを選んだのだった。 ﹁これが俺が今ここにこうして存在している理由だ。理解したか?﹂ ナイフを弄んだまましゃがみこみ、土直神の顔を覗きこむ。返事 をしないでいると、土直神の髪の毛をつかんで強引に引き起こし、 地面に後頭部を思い切りたたき付けた。何度も何度も。 ﹁理解したかと、聞いて、いる、んだよッ!﹂ 自分と同じ顔をした誰かが、細いはずの両眼をまん丸に見開いて 喚いている。激痛が染み渡り、もはや麻痺し始めている背中に力を 込めて声を出してやる。 ﹁⋮⋮ああ⋮⋮解ったよ﹂ ・・・・ 見開かれた眼がぎょろりと回る。 ﹁そうか?ちゃんと理解したか?俺は誰だ?﹂ ﹁いろいろ言ってるけど、要はアンタが本物の小田桐、なんだろ?﹂ その声は魔法のような反応をもたらした。子供のように晴れ晴れ 693 とした表情を浮かべ、 ﹁ああ︱︱スッキリした﹂ 小田桐剛史と呼ぶべき男は、充足の大きなため息を吐いた。目の 前の男がすでに狂気の領域に片足を踏み出しているのはもはや明白 だった。不意に立ち上がると、躊躇することなく身を翻し、遺体の ・・・・・ ある穴の中へと降りていく。遺体の、まだ原型をとどめている胴体 部から、つぶれてほとんど一体化している背広の布地を引き剥がし てめくる。そしてごそごそとその裏側をかき回すことしばし。突如 頓狂な声が上がった。 ﹁あった!あったぞ!ハハ、無事じゃないか!﹂ 小田桐の手に握られていたのは、タバコのケースほどの小さな金 属ケースだった。力を入れて箱をねじると、密閉構造になっていた 蓋がはずれて中身があらわになる。USBメモリと、なにがしかの サンプルと思われる小型の電子部品がいくつか。恐らくは、かつて 小田桐が持ち出そうとして失敗し、今回呼び出された﹃役者﹄が取 引に持ち出した、昂光の機密情報だろう。 ﹁几帳面な奴だ!ちゃんと指示通りハードケースに入れてやがった !最後の最後でツイてる。しかもまあ⋮⋮ハハ、ハハハハハハハハ !!一番大切なモノまで無事じゃねェかよオ!﹂ 歌い出しかねないほどの異様なテンションの高さで、四年前まで ・・・・・・・ 小田桐だった男は、四年前からつい先ほどまで小田桐だった遺体に、 両の掌を伸ばす。 その先には。 未だなお原型を留めている、小田桐剛史の顔があった。 ﹁︱︱そうだ。この顔だ﹂ 694 額と掌に仕込まれた高精度の複合スキャナーが、触れている頭部 の骨格と皮膚の形状をデータ化し、己の顔に埋め込まれたセラミッ クフレームの中に配置されたマイクロチップへと転送してゆく。う ごめく顔面。 ﹁あの日までは、鏡を見れば当たり前のようにあったんだ﹂ 損傷が激しい表皮は、経年劣化を逆算して再現。毛穴の位置も拾 えたので再配置し、そこに人工毛髪を移動させる。波打つ皮膚。 ﹁だけど意識を失って気がついたら顔面包帯グルグル巻きでなァ﹂ 遺体の喉に手をやる。声帯をスキャン。その形状から想定される 声質を算出し、己の喉に埋め込まれたボイスチェンジャーにフィー ドバック。 ﹁それ以来、どうやっても思い出せなかったんだよ﹂ 声が変化してゆく。聞き慣れた土直神自身の声から、野心がぎら ぎらと溢れた、野太い中年男性の声へと。 ﹁自分が、どんな顔をしていたかって事がな!﹂ 確かに、後になって自在に顔面を変化させる能力を手に入れるこ とはできた。 だが、どれほど精度の高い変形が可能であろうと、元のデータが 残っていないものを復元することは不可能だった。それでは、もう ・・ それは永遠に手に入らないのだろうか? 違う。 オリジナルこそ失われたが、複写はどうにか現存している。そし てそれをさらに複写すれば。 懐から小さな手鏡を取り出し、己の顔を映し出す。 ﹁ずっと探していた。思い出そうとしていた。奴に奪われた、俺だ けの顔⋮⋮!﹂ 語尾が笑いに化けた。それは高笑いに変じ、そして轟くほどの哄 笑となった。 そこにあったのは、癖の強そうな髪、太い眉、大きなあご。そし て強い意志のかわりに突き抜けた狂気を感じさせる眼。事前の資料 695 にあった、小田桐剛史の顔そのものだった。 ﹁⋮⋮どーりで。欲しかったのは⋮⋮最初っからそっち⋮⋮だった ワケか﹂ 山奥にまで無理矢理にでもついて来たがったはずだ。 ﹁⋮⋮で。⋮⋮アンタはこれから⋮⋮どうするんだよ?その顔で﹂ ﹁顔なんぞもう残っているとは思っていなかった。本当ならデータ だけ回収して組織に帰還する予定だったんだがな﹂ 確かにそうだろう。一ヶ月も前に埋もれた死体の顔がきちんとし た形で残っている可能性というのは、極めて低かったはずだ。 ﹁だが、な。こうなってくれば話は別だ﹂ 中年男が己の顔を愛おしげに撫でくりまわしても気色悪いだけだ な、と土直神は思った。努めて冷めた思考を保っているものの、痛 みは麻痺に変わり、だんだん視界が暗くなりつつある。︱︱こいつ は、ちょっとばかりヤバイかも知れないね。 ﹁なあ、俺は誰だ?そうだ、小田桐剛史だよ。なら⋮⋮小田桐剛史 が自分のものを奪り戻すのは当然の権利、だよな?﹂ ﹁⋮⋮やーっぱ、そーいうこと⋮⋮﹂ 今現在、世間での小田桐剛史の扱いはあくまでも﹃行方不明﹄で ある。そこにひょっこりと小田桐剛史の顔と記憶を持つ男が現れた らどうなるか。この一ヶ月の間どこで何をしていたかと勿論問われ るだろうが、ショックで軽い記憶喪失だったとでもごり押せばよい。 血液や遺伝子を調べたとしても、そこから出てくるのは紛れもない 本人の証明なのだ。いずれはその正当性が認められ、晴れて小田桐 剛史としての社会性と権利が回復されるはずだった。 ﹁この遺体は⋮⋮どうすんだよ﹂ ﹁お前達は遺体の場所を見つけたら、そのまま警察に連絡を入れる か?そうじゃないだろう。お前達はただの通行人じゃない。ウルリ ッヒの本社に連絡をして、そこでお前達の仕事は一段落。その後で 正式に場所を確認して警察に通報するのは、︱︱さて誰の仕事にな るんでしょうかな?﹂ 696 言葉の最後だけ、徳田の口調と声でしゃべってのける。発見後の 実務をとりまとめるのは徳田だ。誰も事情を知らない上に非合法組 織﹃第三の目﹄の支援があるとなれば、遺体のすり替えぐらいはや ってのけるかも知れない。だが、そこまで考えて土直神はろくでも ない事に思い至った。⋮⋮そう。この手は﹃誰も事情を知らない﹄ 事が前提条件となる。余計な事実に気づいてしまった人間は、さて どうなるか。 ﹁⋮⋮オイラはとんだとばっちり、ってワケだぁね﹂ 調子に乗って当人の前で己の推理を並べ立てていた愚かさに泣き たくなる。あの時点でそこまで予測しろというのも無理な話ではあ ったが。 ﹁お前にはちょっと死んでもらって、二、三日適当な藪の中にでも 転がっていてもらおう。なあに、安心しろ﹂ ふたたび小田桐の顔が、不気味に波打ち、土直神の顔になった。 ﹁︱︱徳田サンは危ないんで先に帰ってもらったッス。じゃあ清音 ちん、はやくこの死体を引き上げちゃおうか︱︱とでも伝えておく さ﹂ ﹁⋮⋮ホンット、趣味が悪い能力だよなソレ⋮⋮!﹂ ﹁ああ。俺もそう思う﹂ 罵声にごく真面目に受け答え、また顔を己のものに戻し、小田桐 はナイフを逆手に構え直した。 ﹁お前が居なくなれば、疑う者はもういない。正真正銘、これが俺 の顔になるんだ﹂ その腕を振り下ろせば、間違いなく土直神の心臓に突き刺さるだ ろう。その切っ先を見つめつ土直神の額を、脂汗が一筋流れた。さ すがにこのタイミングで、森の向こう側の四堂や清音達が騎兵隊よ ろしく駆けつけてくれる、などという期待は出来ない。恐らくは互 角の勝負、長期戦となっていることだろう。 ﹁じゃあ、ごきげんよう﹂ それでも顔を伏せるのはシュミじゃない。死を前にしてなお、土 697 直神は不敵に小田桐を見上げた。振り下ろされようとするナイフ。 ﹁いいや、その顔はもうお前のものではないよ﹂ 唐突に、横合いから冷水のように鋭い声を浴びせられた。 小田桐剛史は咄嗟にそちらを振り向き、そしてあんぐりと口を開 けたまま硬直してしまった。誰もいないはずの山奥の森に、一人の 男が佇んでいた。良く見知った顔だった。高級な背広と、ラグビー でもやっていたのだろうかというがっしりとした体つき。そして︱ ︱癖の強そうな髪、太い眉、大きなあご。そして強い意志を感じさ せる眼。 ﹁⋮⋮あれ?⋮⋮どゆこと⋮⋮?﹂ 土直神は朦朧とする意識の中、今見ている光景が現実なのか疑わ しくなった。 たった今、唐突に現れた第三の男。その男の首から上についてい ・・・・・・ ・・・・・・・・・・ たのは、穴底の遺体、そして自分にナイフを突き立てようとした男 と、まったく同じ小田桐剛史の顔だった。 ﹃世の中には同じ顔をした人間が三人いる﹄という。 迷信だ。迷信のはずだ。 だが、それならば、﹃同じ顔﹄が一所に三つも揃っている今のこ の状況は、なんと理由づけたら良いのだろうか。 ﹁だ⋮⋮誰だ、お前は!?﹂ 小田桐がナイフを突きつけて問うその先には、埋まっていた遺体 からついさっき奪い返したはずの己の顔があった。すると、その顔 は笑みを形作り口を開いた。 ﹁誰だ、とは心外だな。俺だよ。わかるだろう?﹂ 小田桐の眼球がめまぐるしく動き、事態を検証する。この顔でこ 698 アクター の物言いをする人間はただ一人しか居ないはずだ。だが、まさか。 ﹁貴様、﹃役者﹄か⋮⋮!?﹂ ﹁そうとも呼ばれているな﹂ 小田桐と同じ顔をした男が、芝居がかった仕草で優雅に一礼する。 本来の小田桐にまったく似合わぬその仕草は、なまじ顔が同じな分 だけ違和感を際だたせていた。 ﹁馬鹿な、お前は死んだはずだ。あの時、俺の目の前で土砂崩れに 呑まれて!それに、あの霊の声だって⋮⋮!﹂ 死んだ ⋮⋮か。それは、 誰が 死んだという意味で発言し 相手の顔に笑みが浮かぶ。思考の鈍い者を見下す、憫笑。 ﹁ ているのかね?﹂ アクター 人一倍自尊心の強い小田桐は、他人の憫笑には敏感だった。たち まち驚きよりも怒気が勝る。 ﹁くだらん言葉遊びはやめろ!貴様は何者だ。﹃役者﹄の野郎は、 間違いなくあそこでくたばってる死体のはずだ!﹂ アクター ・・・・・・・・ ﹁仮にあそこに埋まっている遺体が﹃役者﹄だとして。それがなん の役を正しく理解し、必 ・ だ?ここに今、﹃役者﹄たる私が居れば、その役割は継承される。 なんの問題もない﹂ キャラクター ﹁どういう⋮⋮意味だ?﹂ ・・ ﹁言葉通りの意味だよ。 要な知識を備えている役者であれば、なんの問題もなく演技を継続 してゆける﹂ いつのまにか男は、まるで鏡に映したように、小田桐と左右対称 の同じポーズを取っていた。ナイフはもっていないし服装も違うと いうのに、それは奇妙に舞台装置めいた効果を醸し出してゆく。 ﹁人は皆、人生という舞台において、大なり小なり与えられた﹃役﹄ がある。そしてね、これが肝心なのだが﹂ 鏡の中の悪魔が嗤う。 ﹁当人がどんな夢だの誓いだの義務だのを抱え込んでいようとね。 結局他人が期待しているのは﹃役﹄。同じ役を果たせるのであれば、 699 幾らでも換えが効く﹂ ﹁おい、貴様⋮⋮﹂ ・・ 話題がすり替えられている。わかってはいるのだが、その独特の 会話のペースが、口を挟む隙を与えない。 ﹁ここで逆に言えば。役を果たせないのであれば、役者が同じでも、 それはもう別のキャラクターだ。舞台には立てない﹂ この口を塞がなくてはならないと、そう思った。だが遅かった。 ﹁つまりは﹂ 鏡の中の悪魔は、舞台の効果を高めるかのように、絶妙の間で台 詞を挿入して流れを作り上げ。 ﹁君にはもう﹃小田桐剛史﹄の役は務まらないということだよ﹂ 致命的な言葉の一突きを抛り込んだ。 ﹁︱︱ダマレ﹂ ﹁君が取り戻そうとしている﹃小田桐剛史﹄という役は、すでに変 質を果たしている﹂ ﹁黙れと言っている﹂ ﹁君自身もわかっているだろう。この四年間で築き上げられた時間 に、もう入り込む余地など無いと言うことを﹂ ﹁黙れぇっ!!﹂ ・・ 手にしたナイフを縦横に振るう。しかしそれは虚しく空を切り、 小田桐の顔をした何かは、するするとまるで影のように距離をあけ、 ティエクストラ 雑木林の葉陰へと移動した。 ﹁高望みはするな。﹃貼り付けた顔﹄とやら、君にはもう別の役が ・・ あるはずだ。それを果たせ。配役を違えた舞台は、役者も観客も誰 も喜ばない﹂ 声が遠くなり、急速に、何かが葉陰の中へと埋没していく。どこ にも移動していない。隠れようともしていない。まるで陰に溶ける ように、それは急速に気配を薄れさせた。 700 ﹁消えた⋮⋮?﹂ もう一度目を凝らしてみる。そこにはもう人影はなく、ただ鬱蒼 と茂る枝葉と、それが形作る濃厚な葉陰があるだけだった。 ﹁役が違う、だと?﹂ 血走った目で唾を吐き捨てる。 ﹁それを言うならそもそも、他人の役を奪いやがったヤロウが元凶 じゃねぇか⋮⋮!﹂ 小田桐が、すでに血の気を失いつつある土直神に向き直る。確か に今なら、ここを真っ直ぐ立ち去り、﹃第三の目﹄の本部まで高飛 びするという選択肢はあった。組織の中で成功が認められ、彼の立 場も少しは改善されるだろう。だが、 ﹁人生が舞台だと?ああ、そうかも知れないな﹂ それから先に、どんな展望があるというのだ? どんな惨めな人生を送っている人間だろうと、その人生は、当人 の努力や才能、運や環境によって織り上げられた一つの物語である。 負けたまま終わるにせよ逆転勝ちを目指すにせよ、それはある意味 では納得が出来るだろう。だが。 俺はずっと、違う人間が自分の人生を織り上げられていくのを遠 目に見ていることしかできなかった。 ならばきっと、どこまで行っても。 多分、このままでは俺に納得はない。 ﹁だから。主役に戻るんだ。俺の人生という舞台の⋮⋮!﹂ もう一度ナイフが振り上げられる。 数奇な運命を断ち切るべく掲げられたその一撃は、 ﹁︱︱いやあ。やっぱ客観的にもその計画には無理があり過ぎる気 がしますよ﹂ だがまたしても、唐突に横合いからかけられた声に遮られたのだ った。 701 慌てて視線を向け、小田桐は今日立て続けに、心底からの驚愕を 味わう羽目になった。 ﹁貴様の説明とは、やや状況が異なるようだな﹂ ﹁結局、お前の読みも半分当たって半分外れたってとこか、亘理﹂ ﹁土直神さん、大丈夫ですか!﹂ ﹁うわっ、本当に同じ顔の人がいる!﹂ 何しろそこには、向こう側で死闘を繰り広げているはずの男女の 姿があったのだから。 702 がおれ達五人を驚愕の表情で見つめている。獣道 ・・ ◆21:セクスタブル・コンボ︵インスタント︶ 小田桐剛史 ﹁ば、馬鹿な⋮⋮﹂ をようよう歩きながら、おれ達は小田桐と土直神の元へと近づいて いった。 ﹁お前達がなんでここにいる。それも一緒に!?﹂ ﹁そりゃあ、一緒にここまで移動してきたからさ﹂ 他人に化けて姿を隠し、事態を自分の思うように誘導する。おれ 達を共食いさせて事件の黒幕を気取っていたつもりの小田桐の声は、 全くの想定外の事態にすっかりとうろたえていた。 ﹁そ、それに︱︱さっきのアレはなんだ。お前達の誰かの能力か?﹂ ﹁さあ?﹂ ・・・・ ・・・・・・・・ そんな彼に、おれは冷たく返答してやる。 ﹁幽霊でも見たんじゃないの?﹂ 小田桐の喉のあたりが引きつる。その全てをあえて無視して、お れはさっさと話を進めることにした。倒れている土直神の顔色は相 当ヤバイ。おれ達の到着まで時間稼ぎをしていた幽霊さんとは違う。 ティエクストラ いちいち小田桐に懇切丁寧にネタバラしをしてやる理由も余裕も、 おれにはなかったのだ。 ﹁これで終わりだよ、﹃貼り付けた顔﹄。こっちの﹃風の巫女﹄の フレイムアップ 術のおかげで、アンタの話してた内容は把握してる。あとはその密 輸の証拠さえ押収すればもう幽霊は出ない。ウチの仕事も解決。ア ンタ自身をとっつかまえれば、どういう形であれ、﹃小田桐剛史の 安否を確認する﹄ってウルリッヒの仕事も解決する﹂ ﹁来るんじゃない!﹂ 703 近寄ろうとしていたおれ達に、小田桐が鋭く警告を発する。その 左手に掲げられた、何かのスイッチのようなソレを見て、おれ達は 息を呑んだ。 ﹁陽司、もしかしてあれって⋮⋮﹂ ﹁おいおいおい、正気かよ?﹂ そのまま己のスーツとシャツのボタンを引きちぎる小田桐。そこ にあったのは、ごく薄いメッシュ素材で作られた軍用ベストだった。 そのポケット全てに何かが詰め込まれている。メッシュの編み目に 絡ませるように細いコードが配されており、ポケットの何かに接続 されていた。それを見たチーフが、かすかに目を細める。 ﹁爆弾ベストだな。テロ屋が人質に着せたり自爆に使うものだ。無 理に脱がせようとすればポケットに詰め込まれたプラスチック爆薬 が爆発するし、ものによっては、装着者の心音が止まると爆発する﹂ ﹁ほぅ、察しがいいな!その通りだよ。迂闊に俺に近づいてみろ。 お前達も一緒に⋮⋮﹂ ドカンだぜ、という言葉は発するまでもなく全員が了解していた。 ﹁ってえか、アンタ普段からそんなもの着込んでいるのかよ﹂ おれの呆れ半分のツッコミに、奴は自嘲気味に笑った。 ﹁ふん、こちらは一般人あがり、ろくな戦闘手段も持ってないんだ よ。貴様等のような生まれついてのバケモノどもと互角に渡り合う には、このくらいの手札を常備するのは当然だろう?﹂ おれだって別に生まれつきこうだったわけじゃあないんだがな。 おれが舌打ちする間にも、奴は起爆装置を持ったまま、倒れている 土直神の身体をひきずり上げて抱え込み、右手のナイフを突きつけ る。 ﹁土直神さん!﹂ 血の気の失せた顔の土直神に巫女さんが声をかけるが、返事はな い。彼の背中からは、見ただけでわかる程の出血があり、早めに手 を打たないと正直ヤバそうだった。 ﹁どけよ。俺がこの山を下りるまでこいつは人質だ。俺をさっさと 704 通して、麓でこいつを解放させれば、まだ助かるかも知れないぞ?﹂ このまんま奴におめおめと核兵器製造のネタを渡してやる気には なれない。それに、ここまで内情を知られた土直神を、奴が素直に 解放するとは到底思えなかった。 ﹁あいつに自爆する度胸がありますかね?﹂ ﹁度胸はどうか知らんが、奴は恐らく追い詰められている。必要と あれば押すかも知れん﹂ ﹁くそっ﹂ 膠着状態がしばし続く。何とか奴と土直神を引き離し、かつ、お れ達も奴の爆弾から身を守らなければならない。ふと視線を横にや ると、こちらを見ている巫女さんと目があった。どうやら考えるこ とは同じらしい。 ﹁それと、もう一つ。あいつの持っているナイフは、多分スペツナ ズナイフだ﹂ ﹁マジですか?厄介な骨董品を持ち出しやがって﹂ ロシアの特殊部隊スペツナズ。奴らが旧ソ連時代に使用したナイ フの中には、グリップの内部に強力なバネが内蔵されているものが あった。いざというときは鍔のレバーで刀身を十メートルも撃ち出 すことが出来、奇襲や暗殺に使用されたという。最近ではロシア軍 の装備の近代化に伴いほとんど使われることはないと聞くが、それ でも海外への持ち出しが比較的容易で、火薬を使用せず、音もせず、 意表も衝ける飛び道具の利点が消えたわけではない。マフィア崩れ の武器商人グループなんぞにはおあつらえ向きの武器だろう。つま りは、土直神に刃を向けつつ、飛び道具も所有している事となる。 ﹁どうした、どけよ。⋮⋮さっさとどけと言っているだろう!﹂ 土直神を盾に突き出す小田桐。本当に、手はないのか。そう思っ た時。血の気の失せた土直神が、こちらを見ているのに気づいた。 その視線を追っておれが彼の足下に目を動かすと︱︱そこに勝機が 見えた。 705 おれはそのまま視線を真凛、チーフ、そして巫女さんへと移しな ・・ がら、土直神が伝えたかったものを目で示していく。視線のバトン リレー。意図に気づいた全員が、それに向けてさりげなく態勢を整 えていく。そして、最後の一人、シドウ・クロード。こいつが動い てくれるなどと期待はしていないが。邪魔だけはして欲しくない。 奴はおれの視線を受けても何一つ動じることなく、相変わらず巌の ように沈黙を保ったまま佇んでいた。 ﹁さあもういいだろう、早くどけよ!﹂ 奴がさらに土直神を押しだし、ついに歩を進めようとするタイミ ングに合わせて、今までぐったりしていた土直神が、唐突に声を放 った。 ﹁そういや⋮⋮アンタが、小田桐だ、ってんなら⋮⋮もうそれなり の、歳ッスよね﹂ ﹁なに?﹂ くたばりかけていた人質の声は、だか思ったよりも明瞭だった。 背中のキズから腿を伝って流れ落ち、すでに危険な量に達している 足下の血溜まり。それがいつのまにか、土直神の足によって砂と混 ぜ合わされ、赤い泥となっていた事に、小田桐はついに気づくこと が出来なかったのだ。 ﹁アンタくらいの、歳なら⋮⋮、ガキの頃、絶対、やったっしょ?﹂ 赤い泥は土直神の足によって引き延ばされ、シンプルな星形︱︱ 晴明紋を描いていた。 ﹁校庭で朝礼、してるとき先生の話が、タイクツでさぁ⋮⋮、足で 絵を描く、ってぇヤツ﹂ ﹁貴様ッ⋮⋮!!﹂ ﹁それとサ。徳田サンとオイラはそれなりに︱︱﹂ 土直神の意図に気がついた小田桐がナイフの切っ先を再び向ける。 だがすでに遅すぎた。 ﹁長いつきあいだったんだよ!﹂ 残された最後の力を込めて、踵で思い切り星の中心を踏み抜く。 706 土砂崩れによって積み上げられた柔らかな地面は、まるでとろける ように、文字通りの泥沼と化して土直神自身と、そして彼を捕まえ ていた小田桐を引きずり込んだ。 今だ、などという合図を口にする余裕はなかった。 これから要求されるのは、精密な外科手術ばりの連係プレー。つ いでに言えばリハーサルどころかブリーフィングもなし、もひとつ 言うなら立ち会うメンバーはほぼ初対面の上に敵対関係ときたもの だ。難易度で言えば、サジを投げるどころか最初から手に取る気す ら起きない。 だが。 それをやってのけるからこそ、おれ達に存在意義があるのだ。 ﹁﹃亘理陽司の﹄︱︱﹂ 足を取られ、態勢を崩しながらも起爆装置にかかった奴の指に力 がこもる。俺の詠唱ではどう言葉を短く詰めてもそれを防ぐことは ち 叶わない。しかし。 ﹁疾ッ!﹂ 風の神 が、地面の小石をその風で撃 俺のすぐ側を、鋭い音を立てて石礫が吹き抜けた。﹃風の巫女﹄ の願いに応じ、下ろされた ち出したのだ。 ﹁ぐっ!﹂ 小石は正確に小田桐の手首を打ち据え、反射的にその指の動きを 硬直させる。とはいえ、敵も一通りの訓練は受けた間諜の端くれ。 紐でくくられた起爆装置を手放すようなはしなかった。﹃風の巫女﹄ の機転も、奴がすぐに腕に力を入れ直し、再び起爆装置を押し込む までの、わずか二秒の時間を稼いだに過ぎない。しかし。 ﹁﹃指さすものの﹄﹃爆発を禁ずる﹄!﹂ その稼ぎ出された二秒は、おれが詠唱を完了させるに充分だった。 施錠された因果が鎖となって確率を縛り上げる。確かに押し込んだ はずのボタンがなんの反応も示さない、その事実に小田桐は驚愕す るしかなかった。 707 ﹁なんだそれはっ⋮⋮!ふざけるな、ふざけるなっ!!﹂ 狂ったようにボタンを連打する小田桐。実はおれとしてみればこ れは一番マズいパターンだった。﹃鍵﹄をかけて都合の悪い未来へ の道を封鎖できるのは、数秒程度の時間に過ぎない。ああやって何 度もトライされれば、いずれ﹃鍵﹄の拘束は解け、本来ごくあり得 るべき結果が再現されるだろう。単語数と対象を絞り込んで出来る だけ負担を軽くし、そのぶん時間を延ばしてかけた鍵だが、それも 持ってあと三秒か。しかし。 その稼ぎ出された三秒は、ほとんどヘッドスライディングの要領 で飛びかかった七瀬真凛が、小田桐のベストを引っ掴むまでには充 分すぎる時間だった。 ﹁いっ、せぇえええ、のおおお⋮⋮!﹂ ﹁小娘っ⋮⋮!﹂ プラスチック爆弾の爆薬部分を直接ひっつかんで、その握力にも のを言わせて起爆コードとベストごと引きちぎらんとする真凛。解 除も分解もあったもんではない。警察の爆弾処理班の人が見たら卒 倒しそうな光景だが、おれの﹃鍵﹄が作用している間は、数万分の 一でも爆発しない可能性があれば、その未来が現実のものとなり続 ける。一秒。真凛の指と、ベストを構成するケブラー繊維の間に恐 るべき引張力が発生する。二秒。古流武術と現代化学の粋という、 二つの人類の英知の綱引き。そして、三秒。 ﹁せぇっ!!﹂ 今回の軍配は武術に上がった。分厚いガムテープを大量にまとめ て引っぺがす時のような異様な音とともに、ケブラー繊維のベスト が引きちぎれる。勢い余った真凛が腕を振り上げ、爆弾が高々と宙 に舞ったとき︱︱おれの﹃鍵﹄が消失した。咄嗟に目を閉じて頭を かばった。まだ連打されていた起爆装置が、ここで本来の性能を回 復する。 炸裂音。火薬の臭い、まぶたを閉じていてもはっきりと感じる強 い光、そして大気の震え。空中で爆発したプラスチック爆弾の衝撃 708 が、上からおれ達に降り注ぐ。思惑を外された小田桐と、既に行動 EH を終えたおれ達。膠着状態。だがまだ一人、この機を伺っていた者 NAV がいた。 ﹁﹃砂漠を蹂躙せし戦車の司︱︱﹂ 相変わらず左手にタバコを掲げたまま、チーフは右手に掲げた銀 のプレートで緩やかな円を宙に描く。円の内部はたちまち破邪の銀 A.Q−VQ−E−H D 光に満たされ、正視できぬほどの輝きを放ちはじめた。 ﹁︱︱猛き女神の投槍を見よ﹄!﹂ そして、号令をけしかけるようにチーフのプレートが振り下ろさ れたとき、円環に満ちた銀光は枷が外れたように弾け、小田桐へと 疾駆する。それは、編成した小型の結界の中に魔力を過剰充填した、 館を砕いた矢 とも記さ いわば魔力の砲弾だった。かつてエジプトに招聘された、異教の女 グリモワール 軍神の顕現。魔術書には故事にちなんで れるものである。威力は最低も最低レベルに抑えてある。それでも 小田桐の胸に命中した銀色の光は、ヘビー級ボクサーのストレート 並の衝撃を炸裂させ、ぬかるみに脚を取られていた小田桐を数メー トル後方まで吹き飛ばした。人質に捕らえていた土直神から、爆弾 と小田桐を引き離すことに成功したのだ。 ﹁やぁったぜ、おい!!﹂ 異能力の即興五連コンビネーションを、敵対していたチームとで 完全に決めてのけた。思わず指を打ち鳴らしていたおれに、油断が あったことは否めないだろう。吹っ飛んだ奴の様を確認しようとし たとき。倒れたままこちらを向いた小田桐と、ちょうど眼が合って しまった。怒りに燃える小田桐、そしてその右手には、まだ握られ たままのスペツナズナイフ。 ﹁ちょ、⋮⋮っ!﹂ 柄に仕込まれたスプリングが解放され、凄まじい勢いで刃が射出 される。刀身そのものの重量があるため、近距離では銃弾以上の殺 傷力を持つ一撃。おれに反応など出来るはずもなかった。 709 ざん、と音を立てて。 ﹁お前︱︱﹂ ﹁相変わらず後詰めが甘いぞ、ワタリ⋮⋮!﹂ 必殺の刃は、横合いから割って入った﹃粛清者﹄シドウ・クロー ドの分厚い胸板に、根本まで深々と突き刺さっていたのだった。膝 をついて沈む、大きな背中。 ﹁⋮⋮おい、シドウ!﹂ 駆け寄ったおれの呼びかけにも、奴は応えない。あの位置は、間 違いなく心臓だった。不死めいた再生能力の奴でも、さすがにあれ は。その事実を理解したとき、唐突におれは叫んでいた。 ・・・・・・・・・ ・・ ﹁⋮⋮待て、ふざけるな!人を思い込みで誤解したまま、勝手に死 ぬんじゃない!﹂ また一人、居なくなる。 冗談じゃない。 ・・ そういうのが面倒だから、一人でやるか、殺しても死なないよう な奴とだけ組むようにしてきたってぇのに⋮⋮! ﹁お前には、あの時の真相を知る義務があるんだ⋮⋮!﹂ 肩をつかんでこっちを振り向かせる。そこにあったのは、唇の端 から血を流し、既に息絶えた男の顔︱︱ ﹁⋮⋮この程度で﹂ ﹁え?﹂ ︱︱ではなく、無愛想なツラでこちらに視線を返す、シドウの仏 頂面だった。 ﹁俺が死ぬと思ったか﹂ 心臓付近に深々とめり込んだはずのスペツナズナイフの刀身が、 再生される心筋と大胸筋に押し出されて地面に落ちる。 ﹁⋮⋮⋮⋮イヤ、普通、思ウヨ?﹂ 心臓貫かれたら吸血鬼だって滅ぶぜ。 ﹁酸欠で脳死するまでの間に心臓を修復することが出来れば問題は 710 ない。ましてナイフの攻撃面積は、結局の所鉄板一枚程度に過ぎぬ﹂ ⋮⋮あー、そーですかそーですか。口の中で呟いて、おれは何と なく足下の砂利を蹴っ飛ばした。なんだよ、くそ。 ﹁で、真相とは?﹂ ﹁うっせえよてめぇ!まだ仕事中だろうが!﹂ 巨体に背中から蹴りを入れるが、びくともしない。そうだった、 と目線だけで返事を寄こして、﹃粛清者﹄とおれは、最後の牙をも 失った男へと改めて向き直った。 711 ◆22: 変貌 の果てに ﹁︱︱形勢逆転、だな﹂ 近づいたシドウが、スラックスのポケットから密輸品の証拠を奪 い取る。すでに巫女さんと真凛は土直神を庇うように移動しており、 ちょうど小田桐を包囲する形となっていた。シドウを含めて戦闘向 きの異能力者が三人。潜入専門の異能力者である小田桐にはもはや 万に一つの勝ち目もない。しばらくぐったりと仰向けに倒れていた 小田桐が、やがて力なく立ち上がる。 ﹁⋮⋮ハ、結局ここまでかよ﹂ そう言うと、刀身を射出し終えたナイフの柄をあっさりと地面に 投げ捨てた。そしてそのまま、くるりと踵を返すと、 ﹁じゃあな﹂ そう言って、何事もなかったかのようにこの場を立ち去ろうとし た。 そのあまりの自然さに、おれ達は一瞬、呆気にとられてしまった。 ﹁ま、待ってください⋮⋮待ちなさい!﹂ 我に返った巫女さんが、慌てて弓を構えて叫ぶ。 ﹁土直神さんへの攻撃はともかく。徳田さんを手にかけたことは絶 対に許せません!﹂ ひでぇなあオイラへの攻撃はスルーでいいのかよ、という声には 誰も耳を傾ける者はなく、小田桐も歩みを止めることも、ふり返る こともなかった。ただ、 ﹁イヤだね﹂ むしろうんざりとした声で応じた。 ﹁待ちなさい!止まらないと撃ちます!﹂ 712 ﹁じゃあ撃てよ。撃って殺せよ﹂ 小田桐がふり返る。取り戻した本来の 顔 には、狂気の彩りを 帯びた笑顔がへばりついていた。おれには馴染みのある表情があっ た。最後の賭け金で勝負をかける人間の、もう失うものが何もない、 ある意味解放された笑顔。 ﹁止めてみろ。その矢でアタマでも狙えば簡単だ。仲間の敵討ち、 処女喪失 とくりゃあ仁義破りの粛清と大義名分もばっちり。お嬢ちゃんもこ こで人を殺していくのも悪くはない﹂ 自分の命というカードでの脅迫。お前も殺人者になれ、と脅して いるのだ。 ﹁⋮⋮なにも頭だけを狙う必要はありませんよ﹂ 巫女さんが矢を頭でなく、脚へと向ける。 ﹁陽司、組み伏せるよ﹂ 真凛もおれにささやく。だがおれがそれにゴーサインを出す前に、 小田桐のけたたましい笑い声がほとばしった。 ﹁じゃあ、俺を捕まえるか?いいぜ、なら捕まえてくれよ。殺人容 疑で警察に突き出してくれよ﹂ スイッチが入ったかのように、今度は一転してこっちに不気味に にじり寄ってくる小田桐。 ﹁俺はしゃべるぜ、なんだって。今まで四年間、小田桐剛史の振り をしていたのが誰かってことも。どこぞの女が結婚していたのが小 田桐剛史ではなかったということも。どこぞのガキの父親が小田桐 剛史ではなかったということも!﹂ ﹃役者﹄に対する復讐⋮⋮彼が築き上げてきたものが手に入らな いというのなら、全てぶち壊してしまおうという考えなのか。おれ にはコイツが何を求めているのか、今ひとつ把握できなかった。 ﹁⋮⋮変身能力による入れ替わり、なんて普通の警察関係者は信じ ないだろうし、そういうことが有り得ると知ってる警察関係者も起 訴は難しいだろうけどさ。その流れで行くとアンタ、密輸と徳田さ ん殺害の件はどうするんだよ。幸か不幸か密輸の証拠は立った今見 713 つかったばかりだし、徳田さんの遺体だってウルリッヒの連中が絡 めばまず見つかる。そうそう都合良く﹃役者﹄にばっかりダメージ が行くと思うなよ﹂ もちろん極刑だって充分に有り得るだろう。 ﹁︱︱いいんだよ﹂ だが、返ってきたのは、末期の熱病患者のように乾ききって狂熱 をはらんだ声だった。 ﹁俺はきっとテレビに出るんだろうな。﹃小田桐剛史﹄容疑者。新 聞にだって載る。﹃小田桐剛史﹄。それでニッポン全国の皆さんが ・・・・・ ・・・・・・・・ 俺の顔を見る度にこういうんだろ、あの﹃小田桐剛史﹄って。いい ねぇ、最高じゃないか!誰が見ても、俺が小田桐剛史だ﹂ 男の口から吐き出される狂気と哄笑、そして毒気に、六人も居る 異能力者がただ圧倒されるだけだった。 ﹁なら、いいさ!平和な家庭も、仕事も、それに比べたらクズ以下 だ!絞首刑だって一向に構わない。小田桐剛史として公式の書類で 死亡が確認してもらうなんて、はは、夢のようだ!さあ捕まえろ! 俺を捕まえろ!何だってしゃべってやるぞぉ。どうした、俺を捕ま えろよおっ!!﹂ おれはこの男の経歴を詳しく知らない。だが、今までの会話の断 片とこの叫びから、どうにか把握することが出来た。ある意味では、 小田桐剛史という人間はとうに死んでいたと言えるのかも知れない。 なぜなら、この男の究極的な目標は、﹃第三の目﹄とやらの任務で も、﹃役者﹄への復讐でも、人生の奪還ですらもない。 ただ、﹁自分が誰だったのか﹂という、ただその一つの事を確か めたかっただけなのだから。 自分の顔がわからない。 ﹁自分が誰なのか﹂わからない。 その不安は。おれには、少しだけ、理解することが、できた。 714 ﹁なあ、アンタ︱︱﹂ 気がつけば、おれは奴に声をかけていた。その時、おれはどんな 言葉をかけようとしていたのか。後になってふり返ってみてもよく わからなかった。 ﹃︱︱たわけ。おぬしの個人的な動機で我々に都合の悪いことを喋 られたら困るのじゃ﹄ おれの言葉を遮るように唐突に発せられたその言葉は、日本語で はなかった。 日本人にとってはリズム、発音共に非常に馴染みのない言語、ロ シア語だった。その言葉を発したのは、もちろんおれ達じゃない。 そして、ウルリッヒのメンバーでもない。驚く皆の視線が一点に集 中する。 ﹁⋮⋮え?﹂ ・ ・・・・・ だが、言葉を発したその人物⋮⋮小田桐剛史は、誰よりも愕然と ・・ していた。 ﹁俺は、今、何と言った?﹂ ・・・・ おれの聞き違いでなければ、確かにいまのロシア語は、小田桐の 口から聞こえた。それも、全く別人の、しわがれた老人の声で。 異変は急激に起こった。 ﹁がっ?、ご、ぐっ⋮⋮!?がはぁああっ!!﹂ 突如小田桐が苦しみだしたかと思うと、両の掌で顔を覆い、頭を 狂ったように振り回す。頭痛か、はたまた毒でも飲んだのか。そう 思う間もなく、すぐに理由は判明した。 ﹁顔が⋮⋮暴走している?﹂ それは、正視に耐えない光景だった。小田桐の顔面が不気味に波 打ち、べったりと頭蓋骨に貼り付くように展開している。それはち 715 ょうど、濡れた布を顔面に被せたような形状だった。 ﹁はごっ!?⋮⋮っ⋮⋮!、⋮⋮!、ばはぁっ!﹂ 顔 が、持ち主に対して造反を起こして 鼻を塞がれた小田桐が喘ぐ。この男が手に入れた異能力である、 自在に変形する顔。その いるのだ。セラミックのフレームが頭蓋に恐ろしい圧力を加え、不 気味な軋みをあたりに響かせる。まがい物の表情筋と皮膚が拘束具 と化して、鼻と口、そして喉を締め上げていく。それは、見えない 加害者による扼殺だった。 ﹁ぎ、っ、ざ、マッ!、こん⋮⋮、な、ものをっ、仕掛、けやが︱ ︱﹃やれやれ、無能だけならまだしも、有害となれば﹄︱︱ふ、ざ、 け︱︱﹃もはや救いようもない。結局、廃物利用にもならなかった のぅ﹄︱︱る⋮⋮ぐぇ、⋮⋮っ!﹂ 歯と舌が小田桐としての言葉を喋っているのに、唇と喉がそれを 遮って全く別人のロシア語を喋る。おそらく、あの顔面を制御して いるチップに、何者かが外部から干渉をしているのだろう。当然そ んなことが出来るのはここにいる人間ではない。おそらくは、奴に この顔を与えた者の仕業。 ﹁真凛!アイツの顔の皮をひっぺがせっ!﹂ 突然の怪異に硬直していた真凛が、やるべき事を明示されて即座 に行動に移る。そしてそれより少し先に、シドウも同じく動いてい た。少女と大男の腕が、苦悶する男の顔面へと殺到する。 だが、間に合わなかった。 何かが致命的に砕ける音。男の全身が、電撃を受けたかのように ぶるるっ、と痙攣し。そして、糸の切れた人形のように、すとん、 と座り込むように土砂の上にくずれおちた。 ﹁︱︱あ、﹂ その声は誰のものだったか。おれも、真凛も、そして﹃風の巫女﹄ も、土直神も。ただその光景の前に、呆然と立ちすくむしかなかっ 716 た。 ﹁どう⋮⋮なってるの、これ?﹂ 真凛の声に、おれは苦虫を百匹ほどまとめてかみつぶして答える。 ﹁口封じだ。任務に失敗したこいつから、組織の余計な情報が漏れ るのを防ぐために﹂ 思いつきで実行させられるような動作ではない。おそらく外部か らの指令で駆動できるよう、最初からモーションプログラムが組み ザ・サード・アイ 込んであったのだろう。 ﹁けっ、﹃第三の目﹄のボスとやらは、よっぽどお友達を信用でき ない寂しい子らしいな﹂ おれが毒づくと。 ﹃まあそう言うでない﹄ 思わぬところから返答があった。 ﹁うひゃあ!?﹂ 真凛が素っ頓狂な声を上げるのも無理はない。喋ったのは、今ま さに地面に倒れ伏したはずの死体だった。いや、死体に貼り付いた ワシ 顔の皮が、まだ動いて声を出しているのだった。 ﹃本来この程度の枝葉の処分、儂が自ら出向くまでもないのじゃが のう﹄ ﹁なに、何て言ってるの?﹂ この場でロシア語を理解できるのは、おれと、あとはチーフとシ ドウくらいか。おれは真凛を手を挙げて制止し、アタマをロシア語 モードに切り替え応答する。 ﹃へぇ、じゃあ何のためにわざわざ黒幕みずからお出ましで?﹄ ﹃そりゃあもちろん、一言おぬしに挨拶しておこうと思ったからじ ゃよ、﹃召喚師﹄﹄ ﹃︱︱何だと﹄ トゥリーチィ・グラース サード さん おれの二つ名と顔を即座に結びつけられる者は、そうは多くない。 第三の目⋮⋮。第三。三。 ああ、そういうことかよ。おれは得心がいった。 717 ﹃⋮⋮成る程ね。業界屈指の潜入捜査官だった﹃役者﹄の正体があ っさり見破られたわけだ﹄ どれだけ精密かつ完璧な変身だろうと意味はなかった。奴が﹃役 ・ 者﹄を﹁見つけたい﹂と思えば、見つけることが出来てしまうのだ。 みっつめ 俺と同質の、ルールや限界を無視したデタラメな能力。 ﹃﹃検索﹄はお前の得意芸だったよな、3番?﹄ 奴の唇が笑いの形に歪む。肯定の意思表示。その皮一枚奥では、 すでに死したはずの小田桐の喉の奥から、ひゅうひゅうと音が漏れ ている。おそらくは喉を圧迫することで、無理矢理空気を押しだし て声としているのだろう。表情、という言葉の定義そのものが冒涜 されているかのような醜悪な光景だった。 ﹃ドレスデンを根城にしていた23番もお前に奪られたんだってな。 不良在庫のくせに相変わらずフライングだけは得意らしい﹄ 以前所長に仕入れてもらった情報を匂わせてやると、へばりつい た顔の皮が驚きの表情を形成する。 ﹃耳が早いのぅ。確かに23番は使い方次第では充分にこのゲーム に勝ち残れるカードだったが、いかんせん宿主に才がなさ過ぎた。 丁度昔のおぬしのようにの﹄ そう、どんな素晴らしい道具も、野心と才がなければ使いこなす ことはできない。 極端な話だが、例えば普通の人間が偶然に核爆弾を入手したとし ても、大抵の人はそれを使おうとすら思えない。野心がある人間な ら、これを使って一儲けしてやろう、あるいはテロでもやってやろ うと思うかも知れない。だが、それを成功させるには今度は核爆弾 ムラサメハルカ を効率よく爆発させたり、脅迫のカードとして用いたりするための 才覚が必要なのだ。 ﹃おぬしには才がなかったし、あの女︱︱村雨晴霞には野心がなか った﹄ その固有名詞だけは、流暢な日本語の発音だった。おれの背後で 真凛がわずかに身じろぎする。ままならぬものよ、としわがれた老 718 人の声。 ﹃愚かな女じゃ。我ら三十六全てを手中にする機会など、栄耀栄華 を窮め尽くした覇者であろうと、屍山血河を贄に捧げた左道であろ うと、垣間見ることすら叶わぬ幸運だと言うに︱︱﹄ ﹃道具風情が気安く彼女の名前を口にするな﹄ なげう つぶやく自分の声がひどく遠く感じられた。砂漠の風のように、 乾ききった、だが熱を孕んだ声。かつては人生の全てを抛って追い 求め、今もなお、片時も忘れることなどあり得ない仇敵。その尻尾 がいまここにある。 ﹃おお怖い怖い。清掃係が使命を忘れて私怨に狂っておるわ﹄ 露骨な嘲弄の響き。わざとらしいジジイ言葉が気に障る。今すぐ にあの薄ら笑いを浮かべている皮一枚を削ぎ取ってやりたい︱︱そ の衝動を必死に抑える。奴は操作をしているだけ。本体はおそらく は﹃第三の目﹄の本拠地に居るはずだ。 ﹃今おぬしが持っているカードでは儂に干渉する事は出来んじゃろ う。それともめくらめっぽうに海を越えて﹃切断﹄でも撃ち込んで みるかの?﹄ ﹃魅力的な提案だが辞退させてもらおう﹄ ザルム レント おれは乾いた声のまま応じ、儀礼的な通告を出すに留めた。 ﹃三十六の第三席、﹃万偽にて一真を示す針﹄。﹃召喚師﹄の名に かけて、貴様を捕らえてみせる。貴様の行く末は、我が脳髄の奥で 保管される標本の一つとなって、共に虚無へと還るのみだ﹄ ﹃残念じゃが当分は儂の出番はない。おぬし達にはいずれ8番か1 6番あたりが挨拶に行くじゃろうて。奴らを排除しおぬしが儂の前 に現れるその時を︱︱楽しみにしておるぞ﹄ 皮が表情を失い、だらりと垂れ落ちる。高分子ゲルの表情筋とセ ラミックのフレームがコマンドを解除され、その役目を終えたのだ。 すべてのモーションが初期化された跡に残ったのは、どんな顔にも 効率よく変化できるよう配された、もっとも平均的な個性のない、 苦悶の痕跡すらも消え失せた無表情な顔立ちだった。 719 風が獣道の隙間を吹き抜け、ざわざわと悲しげに音を立てる。 ︱︱結局、本当の顔を求め続けた男の元に残ったのは、誰のもの でもない顔だった。 720 ◆23:閉幕 そしておれ達は今。 なぜか六人揃って国道17号沿いのソバ屋でソバを喰っている。 ﹁結局、休みを全部使っちまったなぁ。土曜中には終わらせたかっ たんだけど。うん、それにしてもこのソバ、思ったよりイケるな﹂ ﹁あまり食事中に下品な音を立ててすするのはマナーがなってない のでは、亘理さん﹂ ﹁何をおっしゃる風早クン。音を立てずに食べるのはヨーロッパの マナー。日本のソバはむしろ音を立てることに意義があるってもん だぜ﹂ ﹁そーだよ清音ちん。マナーってのはしょせんローカルルールの集 合体なんだから、気にしちゃいかんよ。あ、おねーさん、オイラぁ ざるもう一枚追加ね。もう腹減ってサ﹂ ﹁はーい﹂ ゲートキーパー ﹁⋮⋮それがつい五時間前まで背中刺されて死にかけてた奴の言葉 かよ﹂ ﹁いやー、さっすがに音に聞こえた﹃守護聖者﹄サンだぁね。あん だけの深手を一発で直しちまうとは。ホント助かりましたッスよ﹂ ﹁処置が間に合ってとにかく良かった。もともと俺は治す方が得意 なんだよ。そもそも俺がこの術を修得したのも子供の頃に⋮⋮﹂ ﹁あ、チーフ、ここ禁煙なんで。回想とタバコは外でやってくださ いね﹂ ﹁⋮⋮お前最近、どんどん俺に冷たくなってないか?﹂ 721 ﹁気のせいです。それはそうと、流石に今回はおれも腹が減ったん で⋮⋮すいません、ざる一枚追加お願いします﹂ ﹁はいはーい、ただいまー﹂ ﹁あ、ボクももう三枚お願いしまーす﹂ ﹁はーい。ざる三枚入りましたー﹂ ﹁⋮⋮七瀬クン。君は﹃アシスタント、三杯目にはそっと出し﹄っ ていうコトワザを知っているカネ?﹂ ﹁う⋮⋮。だってお腹すいたし⋮⋮みんな食べてるもん⋮⋮﹂ ﹁そりゃあね?失血のせいで大幅に血糖値が低下してる人とか、キ ズを再生するために動物みたいに無駄食いしなきゃいかんデカブツ はいるけどね?ああいうのと自分を比べて良しとしちゃあいけない。 もっと人生の比較基準は高く持たなきゃ、うん﹂ ﹁⋮⋮俺のを食うか?﹂ ﹁わあ、四堂さんありがとうございます!﹂ ﹁あ、こらてめぇシドウ、無責任な餌付けは犯罪なんだぞ!?﹂ ﹁いいじゃねえの亘理の兄サン、せっかく面倒な仕事が終わったん だから、ソバくらい好きなだけ食わしてやんなってサ﹂ ﹁良く言うぜ土直神ぃ。お前んところの子はぜんぜん食べないじゃ ないか。この満腹中枢がアレなことになってるお子様はな、喰って いいと言ったら本気で内臓のキャパシティいっぱいまで詰め込むん だよ。んで結局最後はジャンケンに負けておれが全額払うんだ﹂ ﹁いやいや勘違いしちゃあいけない。清音ちんが食べないのは、ダ イエットの失敗でこれ以上喰うとまた太るからだぁよ?﹂ ウェイト ﹁ほっといて下さいッ!もともと私は食べるとすぐ増える体質なん ですよ!!﹂ ﹁うわぁいいなぁ。ボクどんだけ食べてもぜんぜん重量が増えない んです。もっと打撃を重くしたいのに。ねえ風早さん、今度体重の 増やし方のコツ教えてくれませんか?﹂ ﹁⋮⋮真凛君、そんな地雷原に空爆をかますようなブラッディーメ アリーな発言は⋮⋮﹂ 722 ﹁うふ、うふふふふふ。七瀬さん、と言いましたね。そうですね。 まずは手っ取り早く一キロほど体重を増やしてみましょうか。折良 く今私の手元には50グラムの矢が20本ほどありますし。ああで も、もしかしたら逆に削れて減ってしまうかも知レマセンネ?﹂ ﹁外でやれ外で!つか、なんかずっと機嫌悪いね風早クン﹂ ﹁⋮⋮もしかして、土直神君の傷を俺の術法で治したのは出しゃば りだったかな?﹂ ﹁いぃいえ!?私にはまだ治癒の術は使えませんから!?西洋魔術 の最高位に位置する聖魔術師に叶わないのは当然ですし!?マッタ ク未熟者でスイマセンでした!﹂ ﹁でも君はスジがいいよ。たぶんあと三年も修行を積めば、業界で もトップのレベルに到達できる﹂ ﹁え?﹂ ﹁俺が君の歳だった頃よりはるかに基礎がしっかりしてるしね。多 分ずいぶん努力してきたんだね﹂ ﹁い、いえそれほどでも⋮⋮あはは。あ、すいませーん、私にもざ るを五枚ください﹂ ﹁はーい。ざるを五⋮⋮五枚っ!?﹂ ﹁でも正直、伊勢冨田流と決着がつかなかったのは残念だなあ﹂ ﹁組み手なら受ける﹂ ﹁ありがとうございます。⋮⋮でもいいです。多分四堂さんにとっ て、戦いは目的じゃなくて手段なんですよね。そういう人と技比べ をやっても、多分練習にしかならないだろうし﹂ ﹁⋮⋮かも知れん﹂ ﹁結局途中で戦闘どころではなくなってしまったしな﹂ ﹁ホント、陽司がいきなり、﹃停戦だ停戦!土直神が危ない!﹄っ て言いだしたときはビックリしたよ。それまでは本気で決着をつけ るつもりだったのに﹂ ﹁そーそー。オイラも気になってたんだよね。どうやってあの場に 駆けつけることが出来たのかとか。あのワケのわかんねー幽霊の正 723 体とかさあ﹂ ﹁そうですよ。一体いつから状況を把握していたんですか亘理さん ?﹂ ﹁確かに、説明が欲しい﹂ ﹁そういうワケで、全体像のネタばらしってやつが欲しいんだけど ね、亘理の兄サン﹂ ﹁兄サン、って同い年だろうがおれ達。⋮⋮まあいいや。じゃあ、 順を追って解説するとしましょうか。⋮⋮すいませーん!﹂ ﹁はーい、ご注文ですか?﹂ ﹁ええ。ざるをもう一枚。それとこの人達に、ちょっと挨拶をして もらえませんか。貴方の存在抜きでは、どう説明したところで消化 不良だし、そもそも幕引きは貴方がすべきでしょう﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮へ?﹂ ・・・ おれの言葉に、他の五人がそれぞれに間抜けな反応を示し、一斉 に七人目の人物⋮⋮今の今までおれ達のソバの注文をとりまとめて くれていた女性店員さんに注目する。ごく普通の中年女性と見える ソバ屋の店員さんは、おれの言葉を聞くと観念したように顔を伏せ た。 ﹁そうですね。それではご挨拶させていただきます﹂ ﹁⋮⋮ってぇ言われても⋮⋮﹂ 唖然とした表情のままの土直神。 ﹁⋮⋮陽司、えっと。この人、誰?﹂ 真凛の素朴な疑問に、おれはやれやれ、とわざとらしく肩をすく めてみせる。 ﹁誰、とは失礼な話だな。そもそもおれ達は、この人を探すために ここに来たんだぜ?﹂ ﹁え?っていうと﹂ 真凛が顎に手を当てて考え込むのも無理はない。思えばずいぶん、 当初の任務からねじれた結末になったものだ。 ﹁じゃあこの人が、元城町に現れていた、小田桐さんの幽霊?でも 724 ︱︱﹂ ぜんぜん似てない、と言葉を続けることは出来なかった。女性の 店員さんが顔を上げたとき、そこにはすでに中年の女性の面影は微 塵もなかった。 そこにあったのは、驚くほど整った、だが驚くほど印象が薄い女 性の顔立ちだった。通常これほどの端正な顔の持ち主ならば、また たく間に衆目を集めても良いはずなのに、そんな気にはどうしても なれない。その顔は、ただ整っているだけ。こう言っては失礼だが、 あくまでもパーツの配置バランスが良い、というだけでしかないの 個性 が一切欠如していた。⋮⋮いや、あえて巧妙に、印象 だ。一流のスターやアイドル、女優が持ち合わせているような、強 烈な を消しているのだ。 ﹁おれも知らなかったんですが。業界最高峰の潜入捜査官だった﹃ 役者﹄には、その技術を全て受け継いだ秘蔵の弟子がいたんだそう です﹂ ﹁︱︱技術だけですよ。能力は到底及ぶものではありません﹂ 隣の女性が注釈を入れる。 ﹁ええ。師匠のように異能の力を持つわけではない。しかし弟子は それを補う技を身につけた﹂ 完璧なまでの﹃演技﹄。変身ではなく、変装の達人になったのだ った。 ﹁そしてその弟子は、師匠の遺志を継ぎ、本物の小田桐剛史の暗躍 を阻止するためにこの街を訪れた。そしてその技術で小田桐になり すました。それが幽霊騒ぎの発端ですよ﹂ おれが促すと、女性は立ち上がる。その瞬間、わずかに表情が変 変貌 してい 化する。それだけで、無個性に思えた容貌は、たちまちに人を惹き つける美しさと危うさを備えたものへと、まさしく た。 ﹁初めまして皆様。人材派遣会社CCC第二営業部所属。高須碧と 言います﹂ 725 アクター 一流の舞台挨拶を思わせる、歯切れのよい台詞と優雅な一礼。 ﹁つい先日、師の遺言により﹃役者﹄の名を継承いたしました﹂ ﹁⋮⋮そもそも今回の件は、おれ達フレイムアップ組が出てきたせ いでややこしくなったようなもんですよ﹂ 一ヶ月前。 かつて行方不明になった小田桐剛史が、凶悪なエージェントとな って日本に戻ってきた。 彼からの呼び出しを受けた﹃役者﹄は、自分が演じ続けてきた﹃ 小田桐剛史の人生﹄という舞台に、ついに終わりが来た事を悟った。 そして、独り立ちしていたかつての弟子に手紙を送り、後事を託し たのだった。弟子は、連絡の絶えていた師匠が、一人の人間の人生 を四年間に渡ってトレースし続けたという事実を初めて知り、そし アクター て師の依頼に従い活動を開始した。 ﹁先代の﹃役者﹄は弟子に、自分が四年間続けてきた舞台の幕引き ・・ をするよう求めたんです。なぜなら、恐らく当の本人は、本物の小 田桐との対決をもって、自分が四年間演じてきた舞台を終わらせよ うと思っていた﹂ ﹁最初から死ぬつもりだった、ということですか?﹂ ﹁土砂崩れはあくまでも事故だと思う。今となっては確かめるすべ はないけど⋮⋮当人は、死んでもいいか、くらいには思っていたん じゃないですか?﹂ おれの問いに、二代目﹃役者﹄は黙して応えようとはしなかった。 ﹁︱︱まあ、脚本の意図を俳優さんに求めるのは野暮ですね。とに かく結論として、﹃役者﹄は土砂に呑み込まれて消息を絶ち、本物 の小田桐もいずこかへと消え去ってしまった﹂ 決着をつけるべく望んだ舞台は、実に中途半端な結果に終わって 726 しまったのだ。 ﹁そして貴方は、師匠から託されていた任務を実行することにした﹂ ﹁任務?﹂ ﹁ああ、任務だ。⋮⋮貴方が託された任務。一つは、先代が力及ば なかったときには三次元測定器の機密漏洩を防ぐこと。そしてもう 一つは、小田桐の、いや、師匠の奥さんと子供を護ること。そうで すよね?﹂ おれの言葉に、今度こそ彼女はしっかりと頷いた。 完璧に誰かになりきることを得意とした彼︱︱我が師匠は、だが 結果として、誰かを演じる事よりも、己の人生を選んだ。 ﹃肉体も、心までさえも他人になりすまそうとした愚かな私に罰 が下るのは当然だ。だがどうか、妻と子にはこの咎を背負わせたく はない。 師から弟子への命ではない。 同じ道を目指し、結果、違う手段を選び取った友に頼みたい。 どうか、花恵と敦史を護ってやって欲しい﹄ それが、彼の手紙の最後の文章である。 手紙を受け取った当日の夜、私は元城市へと向かったのだった。 ﹁土砂崩れ事件の顛末を知った貴方は、最悪の事態を想定した﹂ それは、先代﹃役者﹄亡き後、本物の小田桐剛史が妻と子供の前 に姿を現すことだった。かつて本物の小田桐剛史の行動パターンを すべて把握し尽くした先代は、小田桐が形ばかりの妻や自分のもの 727 でない子供にどういう仕打ちをする人間なのか、判りすぎるほど判 っていたのだろう。 それだけは、なんとしても避けなければいけないことだった。 ﹁で、貴方は自分の変身能力で何が出来るかと考え、やがて一計を 案じた。それがあの幽霊騒ぎです﹂ 毎夜毎夜その変装技術で小田桐そっくりになりすまし、街のあち こちに出没。市民にその様を印象づけていった。 ﹁貴方はことさら﹃小田桐剛史の幽霊﹄を演じたわけではない。小 田桐の格好をした男⋮⋮つまりは﹃役者﹄がまだ死んでいないので はないか。その疑念を、どこかに潜んでいる本物の小田桐に抱かせ ればよかった﹂ 幽霊が無害だったのも当然である。要は噂が広まりさえすればよ かったのだから。 ﹁そして貴方は待っていた。誰かがもっともらしい理由をつけて、 この場所を掘り返そうと動き出すのを﹂ つまり、二代目﹃役者﹄が、師匠の仇である本物の小田桐を捕ま えるために罠を張っていた。今回の事件は、本来はただそれだけの 話だったのである。 ﹁ところが誤算は、﹃役者﹄の墓に、あまりにも沢山の人数が集ま ってきた事だった。真犯人の小田桐はまんまとウルリッヒに潜り込 タカミツ んで異能力者のチームを調達してきたし、皮肉にも度重なる幽霊の 目撃情報が昂光を刺激し、おれ達までが呼ばれる事となってしまっ た﹂ ついでにおれとシドウの因縁なんぞも混じったせいで、どんどん 話はややこしい方向に転がっていってしまった。 ﹁困惑した貴方は、まずおれ達の方に真意をはかるべく、スポーツ クラブで接触してきました。もしも本物の小田桐であれば、幽霊の 格好をして近づけば当然反応があるはずだった。だが結局おれ達は シロだったので、なんとも間抜けな邂逅になってしまった﹂ ︱︱固定された死を覆してはならない。あの時彼女はそんなこと 728 をいっていた。それは決意を込め、様々な情報、功績、そして罪を 抱えたまま亡くなった師匠への思いだったのかも知れない。 ﹁ま、とにかくそうなれば話は簡単です。おれ達はそもそも幽霊を 探しに来たのであって、墓を暴きに来たんじゃない。となれば犯人 が紛れ込んでいるのはウルリッヒ側、四人の誰かということになる﹂ しかし、強力なエージェントが三人も揃っているとなれば、彼女 一人の手に余る。そこで彼女は、疑惑が解けたおれ達に対して協力 を依頼したのだった。 ﹁あとは簡単ですよ。潜入している奴の狙いが墓に埋まった密輸の 証拠だとすれば、チャンスがあれば真っ先に墓を暴きにかかるでし ょうからね﹂ それでわざわざウルリッヒの連中に後をつけさせ、難癖をつけて 無理矢理に戦闘の状況を作り出したわけだ。 ﹁戦おうとする者、リスクを避けようとする者。現場に向かおうと する者、ここに残ろうとする者。それぞれ誰が誰であるか、おれと 彼女はそれを見ていればよかったわけです﹂ ⋮⋮などと偉そうに言ってみても、結局のところ最初に描いてい た絵とはずいぶん違う形になってしまった。小田桐が変装をしてい るだろうとは思っていたものの、まさか顔を失い。それを取り戻す ためにこれほどの暴走を引き起こすという流れは、完全におれの想 像の外にあった。 ﹃浄めの渦﹄土直神安彦︱︱正直おれは、彼がホンボシだとばか り思っていたのだが︱︱がケガを負ったのは、実際のところおれの 作戦ミス以外の何者でもない。 印象 を消すのは彼 彼女から連絡を受けたおれは慌てて停戦を申し出て現場に急行。 隠れて徳田と小田桐を尾行してきた役者︱︱ 女の得意技である︱︱が、咄嗟に先代の幽霊の振りをして時間を稼 ぎ、なんとか最悪の事態は避けられたのだった。 ﹁結果として、皆様に大変なご迷惑をおかけすることになってしま い申し訳ありません。それでも、皆様のおかげで、師匠のやり残し 729 た仕事と、そして師匠が残そうとしたものを護ることが出来ました。 本当に、ありがとうございました﹂ そのときようやく、おれは彼女の﹃役者﹄ではない、一人の人間 としての表情を垣間見ることが出来た、ようにも思えた。 そうして、彼女は深々と礼をした。舞台挨拶とは異なる、素朴な お辞儀。 虚実と様々な思惑が入り交じったややこしい任務の、それが本当 の幕引きになった。 その後、おれ達は依頼主である昂光の工場長に連絡。今日はまだ 日曜日のため、留守番電話に仕事が終了した旨だけを告げるに留め、 正式な報告書は後日提出することにした。おれ達の任務は、終わっ たのだった。 ﹁んじゃあ、オイラ達はこれで﹂ ソバ屋を出るとすでに夕日は沈みかかっていた。東京では到底望 めないようなデカイ駐車場に止められたワゴンに、土直神達ウルリ ッヒのチームは乗り込んでゆく。 ﹁このワゴンも、本当の持ち主のところに返してやんないとだぁね﹂ ﹁徳田さん、だったよな。彼はもう⋮⋮﹂ ﹁ああ。もうウルリッヒに依頼してあるから。たぶんすぐに遺体が 見つかると思う﹂ ﹁⋮⋮そうか﹂ ﹁結局、あの人が一番とばっちりだったんだよなァ﹂ そもそも彼らがこの仕事に参加した時点ですでに、小田桐がすり 替わっていたのだ。どう頑張っても事態は防げたはずはないのだが、 それでも無力感だけは残った。 ﹁すまないな。後始末ばかりを押しつけてしまって﹂ 730 横合いからのチーフの言葉に、土直神は気安く応じる。 ﹁あー気にしないで下さい。もともとこっちが片付けるべき案件で さぁね﹂ ﹃小田桐剛史の亡骸を見つける﹄という依頼は、皮肉にも完璧に 果たされることになった。家族から小田桐剛史だと思われていた男 の亡骸と、そして正真正銘小田桐剛史だった男の亡骸。両方が見つ かってしまったのである。この二つの亡骸はとりあえず、ウルリッ ヒの資本の入った病院によって回収された。そして皮肉にも⋮⋮ど ちらの亡骸も、おそらくは小田桐剛史として公式に認定されうるだ けの情報を所有していた。果たしてどちらを﹃小田桐さんの亡骸﹄ と主張すべきなのだろうか。 ﹁やっぱり奥さんと息子さんが探していたのは先代の﹃役者﹄サン の方だから、こちらで報告しようと思ってサ﹂ 顔 を求めついに叶わなかった男 そう土直神は言った。やはり、それが道理なのだろう。だが、お れは少しだけ⋮⋮あれほど己の に、ほんの少しだけ同情していた。公式には密入国どころか、そも そも出国さえしていないはずの男だ。任務に失敗したエージェント を﹃第三の目﹄がわざわざ引取に来るはずもなし、彼は一体どうな ってしまうんだろうか。 ﹁そのことなんだけんどね﹂ おれの疑問に、土直神が応える。 ﹁たった今、﹃役者﹄の姐さんから聞いたんだけど、先代の﹃役者﹄ さんが、自分のとは別に、小田桐の実家近く、先祖代々のお墓に場 所を確保してるんだってサ﹂ ﹁ってことは﹂ ﹁表向きは分骨、ってことになるだろうけど、たぶん実家の墓には 本物の小田桐が、今の家族の墓には、先代の﹃役者﹄サンが収まる ことになるんじゃあないかな﹂ メンドイけどそれぐらいの手続きはこっちでなんとかするやね、 と請け負う土直神。 731 ﹁そうなのか⋮⋮﹂ 結局のところ、収まるべきところに収まったというべきなのだろ うか。土直神がエンジンが始動させ、窓を閉めようとすると、後ろ の席から風早清音が顔を出した。 ﹁私もこれで失礼します。言っておきますが、今回は私たちウルリ ッヒは負けたわけではありませんからね!﹂ ﹁い、いや。そもそもこれ、勝ち負けを競うような話じゃなかった でしょうに﹂ ﹁気持ちの問題です、気持ちの!﹂ ﹁あ、じゃあ清音さん、また増量の仕方とか教えてくださいね﹂ ﹁あははははは。まったく愉快な人ですね七瀬さんは﹂ ﹁ストップ!そこまで。それじゃあまた、別の仕事で会ったときに はよろしくな﹂ ﹁︱︱ええ。決着をつける機会があることを祈ってます﹂ 運転席の窓が閉まる。そうして二人を乗せた車は、国道の北へと 消えていった。 ﹁じゃあボクらも帰ろうか﹂ ﹁ああ。それじゃあお前、先にチーフのところに行っておいてくれ﹂ ﹁陽司は?﹂ ﹁おれはソバ屋で土産買って帰るわ。所長から買ってこいってメー ルが来てたのすっかり忘れてた﹂ 了解、と告げてチーフの車へと走ってゆく真凛。おれはソバ屋の 店内に戻り、併設されている土産物屋で適当なものを物色した。 ﹁えーと。﹃保己一もなか﹄に、なんだこれ。﹃つみっこ﹄⋮⋮? 微妙にマイナーだなあ﹂ この手のお土産はメジャーすぎても芸がないし、マイナーすぎる と敬遠されるので、さじ加減が結構難しかったりするのである。 732 ﹁まーしかたがない。この﹃かぼちゃシュークリーム﹄にしとくか。 なんのかんの言ってもあの人達なら甘いものは一日でカタがつくだ ろう﹂ そうやって手早くレジを済ませる。帰りがけに、入り口近くの物 陰に声をほうり込んだ。 ﹁︱︱お前は車に乗って行かなくていいのか?﹂ ﹁構わん。現地解散で、このまま徒歩で次の職場に向かう﹂ 柱の陰に背を預けていた大男、シドウ・クロードがあさっての方 向を向いたまま答える。おれも出口の方を向いたまま、奴を視界に 入れずに言葉を続けた。 ﹁徒歩かよ。相変わらず仕事熱心だな。で、次はどこなんだ?﹂ ﹁福島の山間だ﹂ ﹁そりゃ、伊勢冨田流は修験者の流れも汲んでるし、歩いた方が早 いかも知れないけどな。たまには文明の利器も使ったらどうだい﹂ ﹁必要なときは使う﹂ ﹁そうかよ﹂ わずかに、空白の時間が流れた。 ﹁なぜおれを助けた?﹂ 数秒の沈黙の後、返ってきたのはなぜか質問だった。 ﹁あの娘がお前と組むようになったのはいつ頃からだ?﹂ ﹁なんだそりゃ、答えになってねぇぞ﹂ ﹁いいから答えろ﹂ ﹁⋮⋮もう半年くらいだよ﹂ ふん、とシドウが鼻を鳴らした。 ﹁いい太刀筋だ。冨田の小太刀でも捌ききれぬほど、迷いのない伸 びのある剣だった﹂ ﹁いや、だから⋮⋮﹂ それじゃぜんぜん答えになってねぇって。 ﹁ワタリ、聞きたいことがある﹂ ﹁なんだよ?てかなんでおればっかり質問されているんだよ!?﹂ 733 ・・・・・・ ﹁お前が相手にしてきたのは、ああいうモノか?﹂ ・・・・・ ﹁︱︱ああ﹂ ﹁奴らが、お前をああさせたのか?﹂ ﹁⋮⋮それは、﹂ その質問に、気楽に肯定の返事を出すことは出来なかった。乗っ 取られたわけでも洗脳されたわけでもない。莫大な体験と情報量に よる価値観の変化。それは決して、外的な要因ではないのだから。 ﹁そうか、わかった﹂ おれが答えを出す前に、シドウはそう呟いた。 ﹁なんだよテメェ、勝手に一人で結論出してんじゃねぇよ﹂ ﹁そこでお前が安易に肯定していたら、今度こそ息の根を止めてい た﹂ ﹁おい⋮⋮﹂ どんどん独り合点されると、やりにくくって仕方がない。 ﹁最後の質問だ﹂ ﹁なんだよ?ってかお前ずいぶん饒舌だな﹂ ﹁今後も、ああいうモノを相手にし続けるのか?﹂ ﹁ああ。それが、おれがこの世に生まれてきた意義、って奴だから な﹂ それだけは即答だった。貴方は男性ですか?と聞かれたら﹁はい﹂ と答えざるをえない。それぐらい、今の質問は亘理陽司の本質をつ いていたので、おれには迷う余地もなかった。 ﹁︱︱ならば、時が来れば俺はお前達の力となろう﹂ 論理が飛躍しているというよりワープしている。なぜそういう結 論になるのやら。 ﹁おれの力になる?そりゃ一体、どういう風の吹き回しだよ﹂ ﹁お前ではない。お前達、だ﹂ 視界の端で、奴の視線がどこを向いているかがわかった。ってち ょっと待て。 ﹁お前、何か勘違いしていないか?おれは個人的な問題にメンバー 734 やアシスタントを巻き込むつもりはないぜ﹂ ﹁お前はそうかも知れん。だが、周囲はそうではない。それを忘れ るな﹂ ﹁おい、さっきからなんなんだ。思わせぶりなことばっかり言いや がって︱︱﹂ おれが根負けしてついに視線をそちらに向けたとき。 果たしてシドウ・クロードの姿はもうそこにはなかった。 力となろう、か。 奴の言葉は奇妙に耳に残った。人は社会の中でコミュニケーショ ンを築き、たがいに補い合いながら生きていく。それは当然だ。だ が、どうしても自分が戦わなければいけないもの、乗り越えなけれ ばいけないものがるのならば。誰かの支援を仰ぐ⋮⋮いいや助けて もらうという行為は、果たして可能なのか。 人は究極的には、どこまで行っても孤独なのではなかろうか? おれの思考を遮るように、向こう側からミニクーパーのレトロな クラクションが響いた。 ﹁遅いよ陽司、日が暮れちゃうよ!﹂ ふり返って駐車場を見れば、窓から真凛が顔を出して、なかなか 戻ってこないおれにぶうぶうと文句を飛ばしている。 ﹁はいはい、今戻りますよ﹂ 頭の中身をバイト学生のそれに整理しなおす。 苦笑してかぼちゃシュークリームの袋を持って立ち上がり、北の 方角に目をやった。夕日に染まりつつある板東山。すでに幕が下り た﹃役者﹄の舞台跡をもう一度だけ視界に焼き付けると、おれは今 度こそ東京へ帰るべく、ミニクーパーに戻っていった。 735 ◆01:罪と罰、遙けき地にて 水辺の果樹に吊された男がひとり。 その水は、男が口を近づければ潮の如く下へ引き。 さいな その果実は、男が身を起こせば風の如く上へ舞う。 かつ 果実と水を目の前にしながら、 死ぬことも出来ず永遠の飢えに苛まれる。 それがこの男に課せられた罰である。 虚無は必ずしも罰とはなりえない。 悦びを知らねば、それを望むこともないのだから。 悦びを知っているからこそ、 決して手に入らないそれが、罰となりえる。 なればこそ、この男には相応しい。 人の身にありながらあらゆる悦びを極め、 そしてついには神の座を望み。 あまつさえ我が子を殺め、 神々を試したこの男には。 736 もはや天地が終わろうと、男の罪は赦されることなどない。 それは当然の報いだ。 だがしかし。 気づいていた者が果たしていたのであろうか。 男が永劫の罪に問われたのは、 彼が神々を試したがゆえの罰であり。 けっして、彼が我が子を殺めたがゆえの罰ではなかったことを。 737 ◆02:佳人来訪 インフルエンザの自覚症状はないか?事前に書いた問診票に間違 いはないか?入国の目的は?滞在期間は?滞在先は?パスポートは ?査証は?ルーナライナ王国?聞いたことがないぞどこの国だ?申 告の必要な輸入品はないか? 諸々の質問攻めから解放され、ファリス・シィ・カラーティに正 式に入国の許可が下りたのは、飛行機がナリタ空港に降り立ってか ら実に一時間後の事だった。なんでも未曾有のインフルエンザの大 流行だとかで、とくに検疫が厳しかったらしい。スタンプの押され たパスポートを手にしたまま、エコノミークラスという名の牢獄に 疲れ果てた体を引きずってエスカレーターを降り、急いで手荷物の 受取所へ。ベルトコンベアーの一番手前に立ちながら、次々と吐き 出されてくるスーツケースに目を光らせ、自分が預けたスーツケー スが現れるのを待ち続ける。 ファリスとて、もちろんわかってはいるのだ。この国には他人の スーツケースをこれ幸いと持っていくような不心得者はまず居ない。 それどころか!聞いた話によれば、例えスーツケースを持って帰る のを忘れたとしても、何とわざわざ空港職員がお客の住所を調べて、 届けてくれるのだという。確かに、ふり返れば空港の無防備に置き 去りにされているスーツケースがいくつも目に入る。持ち主はスタ ンドに軽食でも買いに行ったのだろう、注意を払ってすらいない。 ︱︱そう、まったく信じられない光景なのだ。 これが彼女の国の空港であれば、こうしてスーツケースを見張っ ていなければ、たちまち誰かに持って行かれ、丸一日も経てばケー 738 スと中身がそれぞれ闇市のどこかで売りさばかれる事となるだろう。 国民の多くが、盗みを心配せずにすむほど安全で、盗みをする必要 もない。 ここは日本。アジアでもっとも清潔で安全で豊かな国。 乗り換えの際に誤配されてはいないかという疑念も杞憂に終わり、 スーツケースが無事に手元に戻ったとき、ファリスは心から安堵し た。なにしろルーナライナ唯一の国際空港から一旦ドバイに出て、 そこからフランクフルトとバンコクを経由してトウキョウに至ると いう、ユーラシア大陸を丸三日かけて一周する強行軍だったのだか ら、多少ナーバスになるのは仕方がないだろう。まして今回は、何 も知らなかった子供時代のお気楽な観光旅行とは違うのだし。 私塾のオチアイ先生にお墨付きをもらい、日本語にはかなりの自 信があったファリスだが、それでも空港に着いた途端に押し寄せて くる日本語の津波には閉口した。壁という壁に貼ってあるさまざま な広告のポスター、天井と床に描かれた標識と、目の前を流れる電 光掲示板のテキストが、これでもかとばかりに異国語のインフォメ ーションを脳みそに押し込んでくるのだ。しかもそのうちの一枚を 頑張って読み解いた結果が﹃コズミックマーケット今年も開催、海 外からのお客様も大歓迎!コスプレもおっけー宅配も出来ます﹄で あれば、機内でろくに眠れなかった身にはもはや拷問ですらある。 ケータイ それでも三十分をかけて膨大な情報の波から電話マークの看板を セルラーフォン 見つけ出し、ようよう窓口へ。事前に予約を入れておいた携帯電話 をレンタルする事が出来た。ファリスが普段使っている携帯電話か らSIMカードを抜き出し、装填。相性が心配だったが、どうやら 無事に動作するようだ。 ﹁しかし、すごい⋮⋮﹂ その液晶画面の大きさ、細かさ、明るさにはため息しか出ない。 739 日本人は ケータイ をこよなく愛し、子供でさえスマートフォン に匹敵する機能を詰め込んだ携帯電話を所有しているという噂は、 まさしく真実だったわけだ。﹃モノを小さく・薄く・軽くする﹄事 に関しては、日本の技術は飛び抜けていると言わざるを得ない。フ ァリスの携帯電話など、ごく小さな液晶画面に電話番号が表示され る程度で、しかも不便を感じた事はなかったというのに。 続けて電車とバスの時刻表を見つけ出し、ファリスはなんとかリ ムジンバスのチケットを購入する事にも成功した。あとはこのバス に乗り、シンジュク駅に辿り着けば、そこで迎えが来ることになっ ている。ロビーのソファに腰を下ろすと、ようやく人心地つくこと が出来た。 ﹁シンジュクク、タ⋮⋮カ、ダノ、ヴァ、ヴァ⋮⋮たかだのばば、 高田の、馬場﹂ 借りたばかりの携帯電話に、アドレスが正しく引き継がれている かを確認。事前に入力を済ませてきた、やや発音しづらいaが五つ も並ぶ固有名詞を復唱する。これからしばらくお世話になる街なの だ、発音を思い出しておくに越したことはないだろう。隣のスタン ドからたいそう芳しいコーヒーの香りが漂ってくるが、ここはじっ と我慢の子である。なにしろ先ほど価格をチェックしたら一杯65 0エンなどという正気の沙汰とも思えぬ数字が目に入ったので。も ちろん食事付きではない。ただでさえ交通費と携帯電話のレンタル 代金でギリギリなのだ、無駄な出費など出来るはずもなかった。 ﹁おねえちゃん、なにじん?﹂ ふとそんな言葉をかけられ横を振り向くと、5歳くらいの日本人 の女の子が隣のソファに座っていた。海外旅行帰りなのだろう、お 土産とおぼしき花飾りのついた麦わら帽子をかぶってご満悦の様子 である。⋮⋮実のところ、あまり良くない傾向ではある。正直、今 は他人と必要以上のコミュニケーションを取るべきではない。 ﹁ぎんいろのかみのけ。ねー、どこのひとなの?﹂ 黒い瞳は、興味津々でファリスの髪、肌、目を遠慮無くながめま 740 わす。 メジスト ア 確かに、ファリスの容貌︱︱シルバーグレイの髪に褐色の肌、紫 水晶を思わせる澄みわたったバイオレットの瞳という組み合わせは、 遺伝学的に見ても極めて珍しい。というより確率的にほぼ有り得な いだろう。隣に座っていた母親が娘の様子に気づいてたしなめる。 ﹁あやちゃん、おねえちゃん困っているでしょ、よしなさい﹂ ﹁だって、きれいなんだもん﹂ そのやりとりを見て、警戒していたファリスの口元も思わずほこ ろんだ。 ﹁私はかまいませんよ﹂ ﹁あら⋮⋮。日本語お上手なんですね﹂ まさか日本語で返事があるとは思わなかったのだろう。母親の方 が驚いた。 ﹁はい、日本人の先生に教わりましたから﹂ ふと気がつくと、彼女に好奇の視線を投げかけていたのはその女 の子だけではなかった。ロビーにたむろする周囲の大人達も、もち ろんあからさまにじろじろと見つめたりはしないが、ファリスの容 姿に興味を持っているのは明白のようだった。やや声を潜めて、と っておきの秘密を打ち明けるように。 ﹁お姉ちゃんはね、ルーナライナという国の人なの﹂ ﹁るぅな、らいな?﹂ ﹁そう。月の国、という意味なの。アジアの中央、山に囲まれた砂 漠の国よ﹂ かつてシルクロードに栄えた東西交易の要地、それがルーナライ ナ王国である。このような異相がファリスに備わったのも、いにし えより東西のみならず南北の民が無数に訪れ、何代にも渡ってその 血を残していったルーナライナの末裔なればこそである。実際、彼 女の国の人々は一人一人髪と瞳の色が違うのが当たり前だった。自 分の髪色と瞳が珍しいものだとは、国元を離れるまで彼女はついぞ 気がつかなかったのである。 741 ﹁あじあ?﹂ 眉根をよせて一生懸命考えようとする子供の姿に苦笑いをせざる をえない。実のところ、説明だけでルーナライナの位置を正確に把 握するのは、子供どころか、大人、政治家でさえも困難なのだ。だ から結局、こう言い直すことにした。 ﹁とても遠いところにある、山と砂がたくさんある国なの﹂ その説明の方がすんなりと理解できたのだろう。子供はにっこり と笑うと、 ﹁じゃあ、きっと、お姉ちゃんはそこのお姫さまなんだね!﹂ そう言った。 ﹁なんでそう思うの?﹂ ﹁だって、とっても目がきれいなんだもん﹂ ﹁⋮⋮ありがとう。あやちゃん﹂ そう微笑んだファリスの表情は、いくつかの心情がないまぜにな ったものだった。 頭上に掲げられた電光掲示板が点滅した。 たった今予約したばかりのバスがもう到着したらしい。﹃トウキ ョウでは、バスと電車は五分に一本、必ず時間通りに到着する﹄⋮ ⋮噂には聞いていたが、これも正直、旅行者のジョークだとばかり 思っていた。その結果、予定時刻の10分後に来ればもうけもの、 と考えていたファリスは完全に意表を突かれることになった。 慌ててスーツケースを引っ張り起こし、携帯電話を片手のままに あやちゃんとその母親に別れを告げ、空港のゲートをくぐって外に 出る。十一月の日本の冷たく乾いた空気は、もはや充分冬の気配を 漂わせていたが、それまでバンコクの空港で味わっていた蒸し暑い 空気に比べれば、よっぽどファリスにはなじみ深いものだった。 初めての日本の空気を味わいつつ、重いスーツケースをようよう 押し歩きながら、指定された番号が掲示された乗り場に向かおうと 742 した、まさにその時。 ﹁ファリス・シィ・カラーティ第三皇女殿下?﹂ 横合いから、英語で声をかけられた。 743 ◆03:大陸の者たち ターミナルビルの前では何台もの送迎バスが大音量で行き交い、 空港から吐き出された人間達とスーツケースを詰め込んでは連れ去 っていた。その機械的な作業が繰り返される光景の中、その女は立 っていた。 ﹁貴女は⋮⋮?﹂ 名前と、そして身分を知られていたのだ。思い返せば、ファリス はこの時点で踵を返して全力で空港内に逃げ込むべきであったかも 知れない。だが、そのときファリスの意識は完全にその女に支配さ れていた。女は東洋系で、恐らくは二十代の半ば程度。長身で、高 級でありながら個性を巧妙に消したビジネススーツに包まれた肢体 は、肉付きが良いにも関わらず、締まるべきところが引き締まって いるため、大層めりはりの利いた情熱的なプロポーションを形成し ていた。そしてその容貌はと言えば、端正な顔立ちにきめ細かな白 い肌、海棠を連想させる唇と、つややかな黒髪の対比がなんとも艶 めかしい。計算し尽くされた造形︱︱しかし、それは端正ではあっ ても、3DCGや人形のような人造のものとは根本的に異なってい た。 そこでファリスはようやく気づいた。自らの意識を引きつけて放 さない、女の瞳に。 その魅惑的な容貌と肢体よりもなお印象的なのが、その切れ長の 大きな目だった。真夜中の海を思わせる潤みがかったオニキスのよ うな瞳。その黒目の周りに、よく見れば、まるで金環食のように淡 い虹色の輝きが宿っている。ファリス自身の紫の瞳も珍しいが、こ の女性の虹彩もそれに匹敵するほど希有なものだろう。奇妙な感覚 744 だ︱︱だまし絵を見ているような。その虹彩の模様や色あいを認識 しようとすればするほど、そのどちらも不思議と変化していくよう な気がする︱︱。 女性は、そこでようやくファリスの当惑に気づいたように、あで やかに微笑んだ。まるで大輪のバラが開花したかのよう。 フォ・メイリン かくみれい ﹁これは失礼しました。まずはこちらから名乗るべきでしたわ。私 は霍美玲。日本では霍美玲と、呼んでクダサイのコト﹂ 台詞の前半は英語で、後半は日本語。英語の発音は完璧、日本語 もまあ、悪くはなかった。陳腐な表現でまとめれば、蠱惑的な美女、 という言葉がまさに相応しかろう。同姓のファリスですら目眩を覚 えるほどの濃厚な色香なのだ。この女性に見つめられてのお願いを 拒める男など、この世にはいないのではなかろうか。 美玲と名乗った女は、硬直するファリスに実にさりげなく歩み寄 ると、まるでエスコートをするかのように、ファリスの肩とスーツ ケースをとらえた。手にしたレンタル携帯を、思わずお守りのよう に抱きしめる。 ﹁あ、あの、貴女はいったい⋮⋮!?﹂ この女とファリスは初対面である。断じて会ったことなどないの に、まるで旧来の親友に再会したかのような愛想の良さは何なのだ ろう。 ﹁もちろん、アナタを迎えに来たです。さ、こちら、ドウゾドウゾ﹂ ﹁ちょっと⋮⋮﹂ ただでさえ混雑する空港の出入り口では、出迎えの車が停車する ことは許されない。だというのに、女が手を挙げると、まるで魔法 のようなタイミングで、艶消しの黒塗装をされたリムジンが滑り込 んできた。停車した時には後部座席のドアが開いており、ファリス がそう認識したときにはすでに、彼女の身体は後部座席に押し込ま れていた。 ﹁まさか、貴女たちは⋮⋮!﹂ ファリスがそう叫んだときには、美玲が続いて後部座席に乗り込 745 みドアを閉め、スーツケースはトランクに格納されていた。最初に 声をかけられてから、この間わずか十五秒。芸術的なまでの流れ作 業だった。周囲でバスを待っていた誰一人として、ファリス達に気 づいた者は居なかった。 抵抗は出来なかった。それどころか、抵抗しなければと考えるこ とすら出来なかった。女性の海外一人旅、ましてや、ファリスはた だの気軽な観光旅行者ではないのだ。十二分に警戒していたはずの 彼女でさえ、女の印象に呆気に取られ、気がついたときにはリムジ ンの後部座席に押し込められていたのである。⋮⋮断じて、素人に なせる芸当ではない。 つまりは︱︱ 人さらいのプロ。 その認識が、ファリスの心を一瞬で絶望へと塗りつぶした。 リムジン バスなどと ナリタ空港と都心を結ぶ東関東自動車道を走るリムジン。 その内装は、成田空港から出発している は異なり、実に豪華なものだった。運転席との間には仕切りがもう けられ、ハイビジョンテレビとオーディオセット、ワインクーラー まで設えられており、後部座席に座る三人の賓客をもてなせるよう になっている。だが、後部座席に両脇を挟まれた格好でシートベル かくみれい トを装着させられて座らされているファリスにとっては、リラック スなど出来ようはずもない。 ﹁貴女たち、いったい私に何の用ですか﹂ しごくまっとうな質問にも左隣の女⋮⋮霍美玲とやらは、微笑を 浮かべるだけで答えようとはしない。そのくせに、ファリスが何か 不穏当な動きをすれば、即座に押さえ込んでしまう気がする。今パ ニックに陥ったら終わりだ。胸の中で凄まじい速度で膨れあがる焦 746 りを必死に押さえつけ、ファリスは呼吸を整える。何か出来ること はないか。 ハイビジョンテレビに眼を転ずると、分割された大画面に、刻々 と移動するカーナビの地図、幾つかのウェブサイト、そしてテレビ 番組が映し出されていた。カーナビなら彼女の国でも見かけないこ とはなかったが、こんなテレビは、そもそも車内に設置しようとい う発想が出てこない。 ﹁⋮⋮手荒な真似をして悪かったな﹂ 右側からかけられた唐突にかけられた声が、ファリスの思考を現 実に引き戻した。右を向けば三人掛けのシートの左側には、ひとり の男が座っていた。⋮⋮いや、落ち着いてよく見れば、それは男と 言うより、少年というべき年齢の若者だった。 ﹁あんた個人に危害を加えるつもりはないが、急いでいたんでな﹂ ぶっきらぼうに声をかけつつ、ファリスとはなぜか視線を合わそ うとしない。 すると左隣の美玲が、たしなめるように口を開く。 ﹁坊ちゃま、そういう時、王様しゃべらず、どーん、かまえている 方が格好いいのコトよ﹂ にこにこしながら美玲。英語を流暢に喋っている時は王族の風格 すら漂わせるのに、日本語を使用すると、妙にたどたどしく、あど けない口調になってしまうようだった。 ﹁坊ちゃまはやめろ。それから俺にはそんな虚仮威しは必要ない﹂ そう返答した声は、やはり少年のものだった。 歳の頃は十代の後半。もしかしたら、ファリスよりも下かも知れ ない。小顔と大きな瞳は、ややもすると童顔ととれなくもないが、 への字に引き結んだ唇と、不機嫌そうにつり上がった目つきの方が、 良くも悪くもその印象を裏切っている。体格は同世代の少年と比較 すると小柄な部類に入るだろうか。服装はジーンズにスニーカー、 パーカーとごくラフなもので、行儀悪く足を組んで広い車内に放り 出している。だがこの高級車の車内でそんな仕草や服装をしていて 747 も、まったく浮いた印象はなかった。その原因に、ファリスはすぐ に気づくことが出来た。ひとつは、服装はラフな印象を与えるよう デザインされているだけで、その実すべてテイラーメイドの高級品 であること。そしてもうひとつは、少年本人が身に纏っている気配 だった。ファリスの知人にも同じ雰囲気の人間が何人もいる。高級 なものを使うこと、人にかしずかれることを幼少の頃から﹁ごく当 然のこと﹂と受け止めて育ってきた、高貴な血筋の者が持つ気配。 ファリスは少し作戦を変えてみることにした。 ﹁すでにご存じのようですが、私はファリス・シィ・カラーティ。 ルーナライナ国王アベリフの第三皇女にして、大帝セゼルの系譜に 連なるものです﹂ 公式の名乗り。ファリスと目線が合いそうになると、少年はちっ、 リュウ と舌打ちをして、視線をハイビジョンテレビに戻した。そのまま言 葉を続ける。 リュウ・ソウマ ﹁なら、こっちが名乗らないのはフェアじゃないな。⋮⋮俺は劉。 劉颯馬だ。あんたには、華僑ゆかりの者、と名乗るのが一番判りや すいかな﹂ 748 ◆04:オープン・コンバット︵β︶ 華僑。 その言葉を聞いて、ファリスの中で膨れあがっていたパニックは 急速に収まっていった。不安が解消されたから、ではない。不安が 現実のものになったからだ。 わかってはいたことだ。 そもそも気軽な海外旅行などではなかったのだから。 ﹁では、貴方がたは、叔父様の差し金なんですね﹂ ﹁⋮⋮さてね。俺から出せる情報はここまでだ。これでイーブン。 あとはあんたがあんたなりに知恵を絞るべき事だろ﹂ 少年はひとつ鼻を鳴らすと、今度は視線を窓の向こうを流れる風 景へと転じた。すると女の方が困惑したように眉をひそめる。 ﹁坊ちゃま。ソレ、フェア言わないのコトよ。せっかくこちらが先 手打ったのに、モッタイナイね﹂ ﹁坊ちゃまはやめろと言っただろ!いいんだよ、どうせこっちが質 問すれば俺達が何者かなんてすぐにわかっちまうことなんだから﹂ ﹁だったら、なおさら坊ちゃまが教えるコトないね﹂ ﹁うっ、⋮⋮うるさいんだよ美玲は!早く聞き出すことを聞けって の!!﹂ 華僑の差し金。そう聞いて黙って座っているわけにはいかない。 たとえ一欠片でも、情報を集めたければ。 ﹁教えていただけませんか、颯馬さん。叔父様はどうして私が︱︱﹂ ﹁ち、近づくなよ!﹂ 思わずファリスが身を乗り出すと、颯馬と名乗った少年はまるで 749 猛獣に襲われたかのように、狭い車内で大きく飛び退いた。 ﹁⋮⋮あの、颯馬さん?﹂ ﹁あ、気を悪くしないでクダサイ。坊ちゃま、いわゆる一つの、女 ギライね﹂ ﹁お、女嫌い⋮⋮ですか﹂ すると、颯馬の顔がみるみるしかめっつらになる。 ﹁っせぇな!女なんぞと話をすると、ロクなことがないんだよ。あ んな顔を合わせれば食い物と恋愛の話しかしない奴ら!﹂ ﹁いわゆる一つの、思春期におけるテンプレですネ﹂ ﹁はあ﹂ ﹁黙れ美玲!そもそもお前が日本に来てから俺につきまとうから、 学校で俺が︱︱﹂ ﹁ヒドイです坊ちゃま、ワタシ坊ちゃまのお世話役として育てられ たのコトよ。子供の頃は一緒におフロ、入って、洗ってあげたのに﹂ ﹁だからそういうことを人前で言うんじゃないっ!﹂ 顔を真っ赤にしてうろたえる、颯馬と呼ばれた少年。 ﹁何やら⋮⋮その、大変そうですね⋮⋮﹂ 呆気にとられた態のファリス。だが、颯馬の年相応の仕草に気を 弛めてしまったのは、迂闊と言うべきだったろう。 ﹁︱︱ええ、大変なのです。だから仕事は早く終わらせないと、ね﹂ たどたどしい日本語から一転、ぞくりと肌が泡立つほどの妖艶な 英語の発音。 気がつくと、美玲がするり、と身をこちらに寄せてきていた。 ﹁すみませんね、日本語はまだ覚えたてですの。貴女が英語を理解 できて助かりますわ﹂ 声のトーンが落ちると同時に、ビジネススーツにつつまれた豪奢 な肢体が、肩に、二の腕に、太股に密着する。 ﹁⋮⋮それでは、お話と参りましょう。まず要求を伝えなければ交 渉も始まりませんし﹂ ファリス・シィ・カラーティ、十七歳と十一ヶ月。今までの人生 750 で女性に性的な興味を覚えたことは断じてない、はずなのだが、思 わず息を呑んでしまう。その隙をつくように、鼻腔に侵入してくる 匂いが鼓動を早める。香水か。いや、そんなにどぎついものではな い。たぶん服に炊き込めた香。それも、自らの肌の匂いを熟知し、 鍵 ⋮⋮興味がありますの。 それを最大限に活かすよう調整された︱︱ ﹁貴方がはるばる持っていらした、 渡していただけません?﹂ 吐息と共に耳元に流し込まれる、可聴域すれすれの、ささやくよ うな声。本能的に聞き取ろうと集中してしまい、そして、罠にはま る。 ﹁それは⋮⋮﹂ 銀髪の少女と黒髪の女が身を寄せ合う光景は、もしも他に見る者 が居れば、男性女性問わず胸の奥のなにやら不健全なものをかきた てられたかも知れない。ファリスは自分でもびっくりするほど容易 に、﹁はい﹂と返事をしかけて、慌てて首を横に振り、体を離す。 今自分は、何をされたのか。 ﹁⋮⋮ううん、やっぱり同性には効き目薄いですね。自信はあった んですが﹂ 見れば美玲が、悪戯に失敗した少女のような照れ笑いを浮かべて いる。 人間の五感というものに対して、千年以上の長きに渡って積み上 げられた研究の成果。 触覚、嗅覚、聴覚。ヒトは何を快とし不快とするかを徹底的に調 技 べ上げ、その成果を以て、快い声、快い触感、快い香りを自在に操 ・・・ にすぎない。 り、他者を翻弄し魅了する。この女にとってはごくごく初歩の 術 ﹁やはり、こちらで伺った方が健全ですわね、色々と﹂ 苦笑を収めると、美玲は今度は一転して、静かにファリスの瞳を 覗き込んだ。 ﹁⋮⋮っ!﹂ 751 直観的に危険を察知した。だが遅かった。ファリスのアメジスト の瞳と、美玲のオニキスの瞳が正対してしまった瞬間、吸い込まれ るように視線が固定された。黒い瞳と、その周囲を金環食のように 薄く縁取る虹色の紋様。その模様や色あいを捉えようとすればする ほど、そのどちらも不思議と変化し、追えば追うほどに意識を絡め 取られてゆく。脳内のうち視覚を司る部分が、否、それどころか他 の知的活動を行っている領域までがすべて侵入され、占領されてゆ く感触。苦痛も、不快感もないところが逆に恐ろしい。 ﹁⋮⋮⋮⋮貴方は、何者⋮⋮っ﹂ 舌を動かすだけでもすさまじい努力が必要だった。 鍵 を託されるだけのことはあるようですわね⋮⋮ま、 ﹁私の﹃眼﹄を見ながら喋ることができますか。その意思の強さ、 さすがに それも時間の問題ですけれど﹂ 驚いたような美玲の声。目の前で喋っているはずなのに、はるか 自覚 鍵 ⋮⋮渡してくださる を構成する脳神経すらも溶かされてゆく気がする。 遠くから響く。自分が幻惑に囚われつつあることを自覚しつつも、 その ﹁もう一度お願いしたいのです。貴方の ?﹂ コマンド ささやき声が何重にも脳内に反響する。意識はたちまち塗りつぶ は⋮⋮ 鍵 は私が⋮⋮今⋮⋮﹂ されてゆく。与えられた命令を検証することなど思いつく余地もな 鍵 い。 ﹁ 頼まれたことをするだけ。何の問題もないはずなのに。 ﹁ええ。渡してくださいますよね?﹂ でもそれは。お父様と、街のみんなの願いが。いなくなる子供と、 出て行く若者。誰にも泣いていて欲しくない、あれが最後の︱︱ その時。 ﹃いやーどうも!お久しぶりっスねぇ美玲さん!﹄ 752 妙に軽薄な男の英語が、唐突に大音量でびりびりと車内に響き渡 った。 ﹃お取り込み中のところ失礼します!ってかそんなおいしいシーン。 ギャラリーが童貞の颯馬だけ、ってのは勿体ないにも程がある!と ここでおれは力説したいわけなんですよ!﹄ 美玲が反射的に音の方向へと視線を逸らす。その瞬間、ファリス は幻惑の檻から解放され、正気を取り戻した。とたんに、まるで数 キロを泳ぎ切ったかのような疲労感が脳裏に押し寄せてくるが、声 の方向を確かめないわけにはいかなかった。 そこにあったのは、リムジンに備え付けのハイビジョンテレビと オーディオセットである。だが先ほどまでニュースと地図を写し出 していたはずのその画面には、ノイズの砂嵐が踊り、オーディオセ ットから最大音量で、皮肉っぽい青年の声が流されていた。 ﹁⋮⋮あらその声。どなたかと思えば﹃人災派遣﹄の亘理さんじゃ ありませんの。お呼びした覚えはありませんけれど?﹂ 恐らくは不慮の事態のはずなのに、おくびにも出さず嫣然と笑み を浮かべる美玲︱︱そして、先ほどから一言も発しないまま、への 字をかすかに笑みの角度に釣り上げる劉颯馬。 ﹃すみませんね、おれもお騒がせをするつもりはなかったんですが。 実は先ほど、遠路はるばる来日いただいたウチのお客さんが、空港 に着いたとたん、土地勘のない外国人を相手にするタチの悪いポン 引きに絡まれたってえ話を伺いまして、あちこち探し回っていたと いうわけですよ﹄ まるで原稿でもあるかのように、すらすらと並べ立てる青年の声。 ﹃んでまあ、調べてみれば、ウチのお客さんが美玲さん達の車に保 護されているじゃあありませんか。さっすが、華僑の流れを汲み、 義と侠を重んじる好漢武侠が集まるマンネットブロードサービス社 のエース社員。ココロイキからしてひと味もふた味も違いなさる﹄ そうせい ちょうてんこう 颯馬の唇は、いまやはっきりと笑みの形を作っていた。 ﹃そのうえわざわざ﹃双睛﹄と﹃朝天吼﹄の二人までが護衛につい 753 ていただけるとは、ありがたいことこの上ない。イヤほんと、空港 ・・・・ のしょうもないポン引きどもに爪の垢でも飲ませてあげたくてしょ うがないですね﹄ ﹁そうですか、この方は貴方のお客さんでしたの。たまたま空港で ・・・ お知り合いになったのですけど、それはまさしく奇遇ですわ。では いったん弊社にお連れした後、せっかくですから少しお話しして、 改めて御社に送り届けさせていただきましょう﹂ ・・・・ ﹃あーいえいえ!美玲さんにわざわざそんなお手間を取らせるのは 申し訳ないですよ。たまたまおれ達も近くにいましたので⋮⋮﹄ そこで一拍置く、亘理と呼ばれた青年の声。颯馬が組んでいた足 を解き、かすかに呟く。︱︱﹁来るか﹂と。 ﹃ウチの若いのを迎えに寄こしました﹄ 申し合わせたように、運転席から入る通信。 ﹃美玲様!高速道路の路上に人影が⋮⋮!こ、子供⋮⋮いや、学生 ?﹄ ﹁轢きなさい﹂ 即答であった。 ﹃は!⋮⋮は!?いや、しかし!﹄ ﹁それでちょうどいいくらいよ﹂ ﹃で、ですが⋮⋮ば、ばかな、子供がこっちに向かって走って︱︱ !﹄ それ以上の報告は必要なかった。 何しろ、轟音と共に通信そのものを遮って、粉々に砕け散ったフ ロントガラスの吹雪と、叩き割られた仕切り板を巻き散らかし、﹃ 殺捉者﹄︱︱七瀬真凛がドロップキックの体勢まま後部座席に飛び 込んできたので。 754 ◆05:天地を貫く獣 ﹁おーおー、派手だねぇまったく﹂ 身を隠していた中央分離帯の植え込みから身を起こし、このおれ、 今日も今日とて清く正しく強制労働に勤しむ学徒、亘理陽司は呟い たのであった。マイク代わりに口元にあてていた多機能携帯﹃アル 話ルド君﹄のチャンネルを切り替え、軽くお礼を述べる。 ﹁ターゲットと接触完了。回線への侵入、カーナビネットワークへ のダミー情報、ありがとうございました羽美さん﹂ ﹃くかかかか!なんのなんのお安い御用であるよ。車載無線のくせ にファイバーケーブル並の通信速度を得ようなどと無理を考えるか ら、セキュリティが穴だらけであったわ。技術の限界をカネでカバ からか麺 をフルオプションでおごれ﹄ ー出来ると思う連中にかける情けは無しッ!あとそれはそうとして この後一風堂の ﹁⋮⋮そこは可及的前向きに善処する可能性を粛々と検討するのも やぶさかでなく﹂ お役所的な否定の返事を投げておいて回線をオフにし、﹃アル話 ルド君﹄を胸ポケットにねじ込む。視線の向こうには、たった今凄 まじいブレーキ音を立てて緊急停車したリムジンが一台。︱︱さて。 お仕事開始と行きますか。 成田空港に急行する際に相手車両の移動情報をつかみ、反対車線 で緊急停車。中央分離帯で待機しつつ待ち伏せ。それがおれの選択 した作戦である。ちなみに羽美さんにカーナビの渋滞情報にダミー を流してもらったおかげで、しばらくは後続車両がこないはずであ る。 がしかし、自分の指示とはいえ、時速百二十キロ近くで突っ走る 755 リムジンのフロントガラスに、真っ正面からドロップキックで飛び 込んでいけるウチのアシスタントは度胸が良いというかなんといか。 むしろヒトとして大事なものが何か抜け落ちているのではないかと 心配にならざるを得ない。一応、当人いわく、フロントガラスの硬 度と、比較的柔らかな内装で衝撃が吸収できるという野生の本能の 確証があったのだそうだが。 ﹁もっとも、足止めにしかならないだろうけどな⋮⋮やっぱり﹂ 緊急停止する直前、後部座席のドアがほぼ同時に蹴り開けられ、 女性⋮⋮霍美玲さんと、少年⋮⋮劉颯馬がそれぞれ飛び出してゆく のが見えていた。ガラスが割れた時点で即応し、真凛に車内に飛び 込まれる前に脱出したのだ。時速百キロ超の車から投げ出されたと いうのに、二人とも受け身をとって鮮やかに衝撃を殺し、即座に立 ち上がれるあたりはさすがである。おまけに美玲さんと来たら、転 げ回ったはずなのにスーツに汚れすらほとんどついていない。おれ は停止している車の運転席のそばまで移動。ドアを開け、気絶して いる不幸な運転手さんのシートベルトを外すと丁重に車外に降ろし た。なんだか最近、車強盗の手口ばかり慣れている気がしないでも そうせい ない。そこでおれは、近づいてきた美玲さんに牽制がてら英語で声 をかける。 ﹁お久しぶりです美玲さん。﹃双睛﹄とまたお会いできるとは、今 日のおれは実についてる﹂ 本当はさっさと運転席に乗り込んでしまいたかったのだが、美玲 さんの﹃間合い﹄はかなり広い。警戒するに越したことはないし⋮ ⋮何より美人と会話できる機会を放棄する理由はどこのポケットを 裏返しても見つかるはずがない。 ﹁お久しぶりね。亘理サン。こないだのシンジュク清掃キャンペー ンの時以来ネ﹂ 美玲さんが日本語を喋ったことに、おれは少なからず驚いた。 ﹁あれー⋮⋮半年前は喋れなかったはずですが﹂ ﹁ハイ!あれから半年、イチから勉強したのコト。ガンバリました 756 !﹂ チュウ そうですか。ちなみに大人の女性の声でそのしゃべり方、すごく イイと思います。 ﹁まあ、貴女と、あの街の﹃玉麒麟﹄朱姐さんにはずいぶんとまた お世話になりましたからね。こちらも忘れようもありません﹂ ﹁こちらも同じネ。おかげで坊ちゃまが︱︱﹂ ﹁ようやく会えたな、亘理陽司!﹂ パーカーにジーンズという格好の小柄な少年、劉颯馬が割って入 る。おれはにやりと笑みを浮かべ、とりあえず礼儀正しく社交辞令 をかわすことにする。 ﹁よお颯馬。あれから半年、少しは背ぇ伸びたか?﹂ ﹁っ!⋮⋮相変わらず無礼な男だな、お前は﹂ こいつの身長は同年代の平均より多少低い程度なのだが、どうも 本人は過剰に気にしているらしい。 ﹁いつぞやの新宿での戦いは、お前の卑劣な策略に不覚を取った。 けどな、俺個人がお前に負けたわけじゃないぞ﹂ ﹁⋮⋮いやあだからさ。戦いと考えてる時点でお前とは世界が違う んだって。こっちはあくまで仕事なんだからさ﹂ そういう勝った負けたの次元の話は他所でやっていただきたいも のである。 ﹁黙れ。お前達とまたまみえるこの時を、半年間待ったのだ。今度 こそフェアな戦いをさせてもらうぞ﹂ そういうと颯馬はどっしりと腰を落とし、ゆるやかに息吹を整え る。年相応の未熟な怒り。だがそれに付随する殺気は、断じて街の 不良少年のそれではない。おれは表面上は軽薄な表情を作りつつ、 油断せず美玲さんに声をかける。 ﹁さて、こっちはお客さんをお迎えに伺っただけですので、用件は すみました。あとはこちらで連れて帰らせていただきますので﹂ ちらりと車内に視線をやる。後部座席の真ん中の少女⋮⋮銀髪に 褐色の肌という異相の娘は、運転手ともども、急停止の衝撃で気を 757 失っているようだった。 ﹁いえいえ!大事なお客さん、事故に遭わせたのコチラね。このま まだとワタシ達、立つ瀬ないヨ。こちらで介抱するね﹂ ﹁いやいや、これ以上お手間を取らせるのは心苦しい﹂ ﹁ダメダメ。せめてこれくらいはやらせて欲しいのこと︱︱﹂ おれ達が白々しい日本的ご謙遜を応酬する横で、滑るように颯馬 が動いた。 彼我の距離は七メートル。 何を仕掛けられても反応は間に合うと踏んでいたのだが、颯馬の 動きは予想以上に滑らかで、隙のないものだった。 おれは咄嗟に、開きっぱなしだった後部座席のドアを盾として、 その後ろに回り込んだ。相手の視界をさえぎり、かつ攻撃を和らげ る防具にもなる。咄嗟にしては我ながらよい反応だったと思う。 ︱︱相手が﹃朝天吼﹄劉颯馬でなければ。 ﹁ぎ⋮⋮っ!﹂ 四征拳六十五手の十一、﹃落鵬敲水﹄。 内家拳法家が勁を込めて放つ拳。その衝撃は﹃殴る﹄というより、 ﹃押し込む﹄に近い。﹃硬く﹄も﹃鋭く﹄もなくただ、﹃重い﹄︱ ︱例えて言うなら、三階から落ちてきた重さ70kgの砂袋に運悪 くぶつかってしまったような一撃。ぼくん、とおぞましい音をたて て、リムジンのドアがなにか巨大な鉄球でもぶつけられたようにひ しゃげる。そして減少することなく、そのままおれにのしかかって くる莫大な力積。右肩から背骨、腰、左の太股へとかかる凄まじい 負荷に、たまらず膝が挫けた。 いかに硬い鎧を身につけていようと、鎧ごと﹃押し込まれて﹄し まえばダメージを殺すことは出来ない。高速で全身を沈み込ませる ことで己の体重を一瞬数倍に増加。重力という﹃天の気﹄を、強靱 758 ちんついけい な足腰で受け止め、大地の反発力﹃地の気﹄を以て拳より送り込む、 凄まじい練度の沈墜勁。 ﹃朝天吼﹄︱︱天と地をつなぐ柱となる獣。ファンタジーでもな んでもなく、事実﹃天地の気を操る﹄この少年、劉颯馬に相応しい 称号と言えよう。 ひしゃげたドアが千切れ、吸い込まれるように地面にへばりつく。 おれはと言えば、見えない巨人に襟首を引っ張られたように、五、 六歩後ろによろけ、そのまま無様にすっころんだ。内臓を強く圧迫 された感覚。奴らの言葉で言えば﹃気を乱された﹄状態だ。こりゃ あ、後遺症残るなあ⋮⋮。 ﹁お前に不覚を取ってから、師父に学びなおし、死ぬ気で練り直し た歩法だ。半年前とはひと味違うぞ!﹂ 転倒したおれの側に、すでに接近している颯馬。やれやれ、確か にやる気は充分らしい。振り上げられる右脚。︱︱さすがにまずい。 あれ程の沈墜勁を生み出せる脚で踏み抜かれれば、それだけでおれ のアバラと心臓はご臨終確定である。 ﹁ちょおっと待ったぁ!﹂ それを妨害する、後部座席からすっ飛び出てきたドロップキック 第二弾。 ﹁出てきたな七瀬っ!!﹂ 片足を挙げていた颯馬にかわす術はなく、咄嗟に腕を上げてガー ド。それでも姿勢が崩れないあたりが練りあげられた内勁の凄まじ さか。 ドロップキックを決めた体勢から、落下するまでに一回転して両 脚で着地する。こんなふざけた真似をやってのけたのは、律動的に 踊るショートカットが印象に残る高校生、七瀬真凛だった。 759 ◆06:龍虎相撃つ︵リトルリーグ︶ ﹁やっほお、ひっさしぶり颯馬!!またキミと手合わせできるとは ね!﹂ 満面に物騒な笑みを浮かべ、猫のように全身の毛を逆立てる真凛。 今日は早朝にフットサルの試合があったとかで、そのユニフォーム をそのまんま着ていたりする。ちなみに解説しておくと、こいつが この仕事におけるおれのアシスタントである。 ﹁⋮⋮お前との立ち会いも待ち望んでいた!夷蛮戎狄を征する我が ﹃四征拳﹄。前回は水入りだったが、日本の傍流の武術如きに遅れ を取ったまま退く道はない!﹂ ﹁そーだね。ボク的にもアレ、ショウカフリョウだったしね!今日 は白黒つけよっか!﹂ のっけからテンション最高潮で吼え猛るお子様。一応もうひとつ ひと つけくわえておくと、実はこいつ、意外にも生物学的分類ではギリ ギリ女性にカテゴライズされるのである。 ﹁遅いよお前!車内で何やってたんだ﹂ おれの抗議に、真凛が視線も返さずに答える。 ﹁テレビのケーブルが足にからんでたんだって!あとあの女性のシ ートベルト外してあげたんだよ、苦しそうだったし!﹂ ﹁ば⋮⋮﹂ バカ、んなことわざわざしなくていい、言わなくっていい! 真凛の襲撃の際、颯馬と美玲さんがこの少女を抱えて飛び降りる ことが出来なかったのは、彼女がシートベルトをしていたせいだ。 そうでなければ、彼女は美玲さんか真凛のどちらかの取り合いにな っていただろう。それが外れたとなれば︱︱ 待機していた美玲さんが、すっと動いた。まだ例の少女は後部座 席の真ん中。おれ達の反対側から回られたら打つ手がない! 760 ﹁おい真凛、颯馬は任せ⋮⋮っ!?﹂ 立ち上がろうとして、脇腹のあたりにずきりと走る重い痛み。ま ずい。さっきの一撃が、時間をおいて単純な衝撃から内臓の不調へ と転化したらしい。衝撃を内部に染み渡るように撃つことによる、 自律神経や臓器へのダメージ。これが勁を込めた一撃の恐ろしいと ころだ。肝機能あたりが低下しているのか、額からどっと冷たい脂 汗が吹き出してくる。 ﹁⋮⋮∼∼っ!!﹂ 腹の調子がよくない状態で大渋滞に巻き込まれて二時間くらい監 禁された時の、あの絶望感を思い出していただきたい。ふくれあが る疼痛に、叫び声を挙げることもままならない。それでもおれはつ んのめるように前進し、後部座席の反対側のドアの側になんとか移 動出来た。一気に距離を詰めてきた美玲さんに先回りできたのは、 単純に距離の差のおかげである。そのまま車体によりかかり、肉の 壁となったおれに微笑む美鈴さん。なんとはなしに、胸ポケットの あたりをまさぐるおれ。 ﹁そこ、どいていただけないのこと?、亘理サン﹂ その笑みは変わらずあでやか。 ﹁おれもそうしたいです。マジで。⋮⋮でも仕事なんですよねぇ﹂ ﹁⋮⋮お腹、踏んじゃうデスよ?﹂ 十秒、ってところかな。 ﹁素足ならむしろお願いします。黒ストッキングならお金も払いま す。でもヒールはちょっと⋮⋮今は勘弁して欲しいっすかね﹂ キック おれの真心をこめた返答に、美玲さんはにっこりと微笑むと。 ﹁ごめんなさいネ﹂ 遠慮仮借の一切ない、実に切れ味鋭い弾腿をおれの腹に叩き込ん だものである。 そんなおれの苦境も目に入らず、真凛と颯馬はとっくに二人だけ 761 バトルジャンキー の世界に入り込んでいた。因縁持ちの戦闘狂が二人、いずれもスト ッパー不在となれば、もはや気化したガソリンが充満する中で火打 ち石をこすり合わせるにも等しい状態である。 エンゲージ 互いの間合いと呼吸をはかることしばし。双方の得手が近接戦闘 なのだ。どちらが提案することもなく、吸い込まれるように交戦す るのは必然であったとも言える。 ︱︱口火を切ったのは颯馬。 初手は得意の十一手﹃落鵬敲水﹄。沈墜勁を乗せた重い一撃で真 凛の両腕をはじき飛ばすと、一転して軽功を効かせた七手﹃飛鴻弄 雲﹄で鋭く攻めたてる。脱力した両腕から繰り出される、嵐のよう コンビネーション な無数の鉤手、掌打、劈拳、把子拳。手数を稼いだだけの軽い拳と 油断し守りを怠れば、たちまち必殺の威力を伴う套路に化けるとい う、剣呑極まりない技である。 対する真凛、空手の掛け受けの要領で、内から外側へと攻撃を掃 き出してゆく。 もともと戦国時代の組み打ちをベースとする七瀬の守りは、剣や フェイント 槍など一撃必殺の武器への見切り、封じが主体であり、このような 手数の多い技への対処法は比較的少ない。 コンビネーション ほんもの だが、真凛はすでに本質を捉えている。手数の多さはしょせん虚。 そこに混じった套路に繋がりうる実を見抜けば恐ろしいものではな い。虚実を見抜く方法。それは技の形でも振りの速さでもなく︱︱ 呼吸と重心! 無数のフェイントを巡らしつつ、颯馬が僅かに呼吸を落とし、重 心の意識をこころもち前方に傾けた瞬間、芸術的な合わせで真凛が なまぎざき 右の掛け受けを変化させ、倒れ込むような拳打と為して突き進んで きた。 七瀬の技の一つ、﹃生木割﹄。左の掌は右の肘に添えられている。 ガイドとして伸ばした右の拳が敵に接触した瞬間に、左の掌で肘を 渾身の力で押し込むことで、命中が確定した後で全力攻撃を選択出 762 来るという殺し技の一つである。一度重心と意識を前に傾けてしま った颯馬に、後ろや左右に体を逃がす余裕はない。 だがそれは囮だった。 確かに颯馬は重心を前に倒していたが、同時に攻撃のための右腕 ・・・ を大きく外へと振り回し、遠心力を得ていたのである。結果、右腕 に引っ張られるように斜め前にかしいだ颯馬の体は、真凛が繰り出 した拳をすれすれでかわす結果となった。そして、上半身が崩れて もなお揺るがない、柔らかく強靱な颯馬の足腰。 深々と交錯する間合い。 すれちがいざま、颯馬が会心の笑みを浮かべる。 おとがい 空気を掻くように振り回された右の掌が、たっぷりと遠心力を乗 せて、両腕を突き出したままの無防備な真凛の頤へと奔る。 四征拳六十五手の二十四、﹃佳人仰月﹄。 雅やかな名前とは裏腹に、勁を乗せた掌を高速で顎の骨にひっか け振り抜き、そのまま頸骨を回転させねじ折ってしまうという、こ ちらも殺し技である。 凄まじい音が、真凛の顔面で弾けた。 ﹁︱︱で。退いて頂けると嬉しいのですけれど?﹂ 本気を出すと共に、まだ慣れない日本語を破棄したのだろう。ゾ クゾクするほど硬質の発音で、極上のおみ足をおれの前に無防備に さらけ出しながらのたまう美玲さん。 ﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮いや、マジで⋮⋮容赦ないっすね﹂ 素晴らしく遠慮のないキックのダメージが、腹にじんじんと広が っている。多少でも手加減してくれるのではないかと、心のどこか で期待していた甘い自分に腹が立つ。そして、それでもスーツのス リットからのぞくおみ足を目撃できたことを歓んでいる自分を、心 の底から愛してやりたい。あと四秒。 763 ﹁こう言っては何ですが、現在の貴方にこの状況をひっくり返す手 段があるとは思えませんわ。ここからは蹴られ損ですよ?﹂ ﹁⋮⋮まあ、多少は粘ってみたくもなるじゃあないですか。何しろ お姫様の前でカッコをつけるチャンスなんて、現実ではそうそうな い﹂ ﹁当のご本人は気絶なされているようですけど﹂ 無言のまま、二秒ほど経過。やがて美玲さんは、諦めたようにた め息をついた。 ﹁仕方ありませんわね。こちらの方法で退いてもらうしかないよう ですわ﹂ そう言うと、美玲さんはおれの方へ、わずかにその端正な顔を近 づける。その両眼に灯る、淡い虹色の輝き。その眼を見てしまった 者は、幸福感に満たされたまま、彼女に永遠に隷属することとなる。 そう、貴女は実に素敵な女性ですとも。 最終的には暴力に頼らないあたりも含めて。 ﹁︱︱実はこちらには、こんな手もありまして﹂ 目を合わせる直前、おれは胸ポケットから﹃アル話ルド君﹄を抜 き出していた。背面に取り付けられたCCDカメラの上には、LE Dの白い点滅。 ﹁それはっ⋮⋮!﹂ コンデンサへの充填、完了済! ﹁はい、チーズ!﹂ おれに向けて瞳を凝らしていた美玲さんの反応は間に合わない。 ボタンを押し込むと同時に、プロ仕様のストロボすら遙かに上回る まばゆい閃光が、美玲さんの虹彩を染め上げた。 ⋮⋮一拍の空白の後、飛び退ったのは颯馬の方だった。右の拳を 引き、その表情に嫌悪をあらわにする。 764 ﹁下賤な真似を⋮⋮!!﹂ ﹁ざんねん。前歯四本と小指薬指のとっかえっこだったら、悪くな いと思ったんだけどなあ﹂ 口の端に小さく膨れた血を舌でなめとり、不敵な笑みを浮かべる 真凛。 顎に掌が伸びてきた瞬間、真凛は迷わず口を開き、指の噛みちぎ りを敢行したのである。もちろん、頸椎を折ろうとするほどの一撃 に噛みつくのだ。歯の何本かは根こそぎ持って行かれるだろう。だ が、それと引き換えに、﹃拳や武器を握る﹄という行為の要となる 小指を奪うことが出来る。武術家的には魅力的なトレード、という わけだ。勿論、おれは死んでも実施したくないが。それを察知した 颯馬が、すんでに指を引っ込めたために、結果、拳の一部が真凛の コレ 唇をわずかにかすめ、歯をかみ合わせる音だけが甲高く鳴った、と いう結果にとどまったのである。 ﹁勝つためには手段を選ばない、か﹂ ﹁卑怯っていう?﹂ ﹁まさか。一切の言い訳が効かないからこそ実戦は止められない﹂ ﹁だよね!でも︱︱﹂ 力強く同意するお子様。だが互いが拳を構え直したところで、リ ムジンが唐突に動き出すと共にクラクションが大音量で鳴り渡った。 ﹁真凛、乗れ!﹂ もちろんこれは、痛む腹に鞭打って︱︱いちおう、脳をいじって 痛覚を一時遮断するという小技も使えたりするのである︱︱運転席 に乗り込んだおれの所業である。閃光を直視してしまった美玲さん は、一時的に目を覆って行動不能。 ﹁がってん!今日はここまでだね!﹂ 身を翻し、急加速するリムジンに飛び乗る真凛。慌てて颯馬が歩 を詰めるが、その時点ですでに時速七十キロに達していたリムジン に追いつく事はさすがに出来なかった。 ﹁七瀬⋮⋮!お前逃げる気か!?﹂ 765 ﹁ごめんね。今のボク達にとって、勝つって事はこの人を取り戻す ことだから!﹂ ﹁待て!俺はまだ、すべての手を見せてはいないぞ!﹂ 屋根の上で本心から颯馬に謝っている真凛に、やれやれとため息 を投げかける。まあそれでも、ちゃんと目先の戦闘に意識を奪われ ずに行動できたところは、及第点としておくか。おれはアクセルを 踏み込むと、一気に東京方面に向けて加速していった。⋮⋮そうい や、乗ってきたバンも後で回収しないと。 ふとバックミラーを見やると、颯馬の姿は随分と小さくなってい た。だが、ドアが外れた後部座席を通じて、その声だけはいやには っきりと届いた。 ますらお ﹁七瀬!次こそ決着をつける!なりこそ小さいが、お前こそ俺が倒 す価値のある益荒男よ!﹂ ﹁小さいは余計だよ!﹂ おれは思わず、屋根の上に声をかけてしまった。痛覚を通常モー ドに戻したので、現在進行形で痛みと気持ち悪さがぶり返してきて いる。 ﹁⋮⋮なあ真凛、お前、マスラオ、って言葉の意味知ってるか?﹂ ﹁うん。強いヤツ、ってことだよね?﹂ ﹁まあ、間違っては居ないが⋮⋮﹂ ⋮⋮どうにも、今回のお仕事も、楽をして給料をもらうことは出 来なさそうである。 766 ◆07:今日の授業︵偽︶︱︱世界史B かつて、遠く隔てられた東と西の世界をつないだ、幾条かの細い 道筋があった。 険しい山岳や熱砂の地平、乾いた大地の隙間を縫い、滔々たる大 河を横切り点在するオアシスを繋ぐように刻まれたそれらの道筋を、 ある者は一攫千金の夢のため、ある者は己の生業たる商いのため、 とんこう ろうらん ウルムチ コルラ ある者は勅命を帯びて視察のため、命をかけて往来した。 敦煌、楼蘭、烏魯木斉、庫尓勒、トルファン、ホータン、ヤルカ ンド、サマルカンド、ガンダーラ、タシュケント。現在ではシルク ロードとも呼称されるその交易路には、無数の人種、物資、知識、 宗教、財宝が行き交い、それらを旺盛に取り込んだ都市や国家が、 独特の華やかな文化と歴史を幾つも築き上げてきたのである。 その中でも一際幻想と神秘に包まれた城砦都市が、ルーナライナ である。 西方の嫦娥国 と同一であると 都市としての歴史は三千年以上も過去に遡るとされ、中国の某古 墳から出土した文献に登場する、 も言われる、まさに幻の都市。 急峻な山脈に四方を囲まれたこの都市は、ひとたび交易路である 東西南北の街道を閉ざしてしまえば、まさしく鉄壁の城砦都市と化 す。中国を中心とした﹁東洋史﹂と、ヨーロッパを中心とした﹁西 洋史﹂の歴史観に分割された日本の授業では語られる事が少ないが、 中央アジアの歴史は、都市の支配権と交易の利権を奪い合う、過酷 な戦いの連続でもあったのだ。そんな血塗られた戦国時代にあって も、天嶮に護られたルーナライナが陥落することはなかった。かつ てかの苛烈なる草原の覇者の軍勢が攻め寄せた折にも、数年にも及 ぶ包囲網に耐え抜き、ついには王族でもある敵将を馬上から射落と 767 し敗走せしめたという。失政や政変により内側から王が倒される事 はあっても、簒奪者も、あるいは後を継いだ者も、常に王族の出身 者であり、他の国の者に政権を渡すことはなかった。ひとつの血族 が、数千年に渡って支配者であり続けたという例は、世界史におい ても極めて珍しい部類と言って良いだろう。揺るぐ事なき交易の街 は、黒髪の東方の文人、巻き毛の西方の騎士、北方の草原の民、南 方の褐色の美姫、様々な人を受け容れ、長き繁栄を享受してきたの だった。 だが、伝説の城砦都市も、交易路そのものの衰退には為す術がな かった。 航海技術の発達により、交易の主力が陸路から海路にシフトする きょうど とっけつ きったん と、これらの交易路を利用する人そのものが少なくなっていったの だ。タタール、スクタイ、パルティア、フン族、匈奴、突厥、契丹、 そしてモンゴル。東西双方の世界で恐れられた、﹁辺境から攻めて くる騎馬の民﹂が、歴史の表舞台から姿を消すのがこの時代である。 交易路を支配、保護することで力を維持していた彼らは、交易その ものの衰退と共に力を失っていったのだ。ルーナライナもその宿命 には逆らえず、華やかな交易都市は、徐々に辺境の地方都市へとそ の立場を貶めてゆくことになった。 そして二十世紀。第一次世界大戦が終了し、ソビエト連邦が成立 すると、この小国は中華民国とソ連という二つの大国の間に挟まれ、 熾烈な重圧にさらされることとなる。交易なき交易都市は、砂漠に 降り注いだ水のように、いずれ力を失い、庇護を求めてどちらかの 大帝セゼル が即位することがなければ。 大国の領土の一部となり、世界地図から消滅していったであろう。 カルガド・ビィ・セゼル・カラーティ。ルーナライナの何百代目 かの国王で、中興の祖と言うべき人物である。彼は、さびれた地方 都市の復興のため、実に劇的な手を打った。 768 それは、金鉱の発掘である。 ルーナライナを守護する天嶮の山脈、その地底に豊かな金鉱が眠 っていることを、彼は突き止めることに成功したのだった。数千年 もの間、人が暮らしていたにも関わらず見つけることが出来なかっ た金鉱を発見したことから、ルーナライナの民はセゼルを﹃天の目 を持つ王﹄として称えたという。 それだけなら、ただ幸運に恵まれた山師、と考える事も出来る。 だが、セゼルの非凡さはむしろそこから発揮されたと言ってよい。 産出された金を元に技術者を呼び込み、採掘技術を発展させ、人夫 による細々とした肉体労働を、最先端の機械による一大産業へと生 まれ変わらせた。それは同時に、貧しい小国が豊かな金の卵に化け たと言うことであり、周囲の大国の食指を動かすに充分すぎたとい う事でもある。セゼルは四方から突き出される外交上の威圧や軍事 的な牽制を、巧みにさばき、一方に肩入れすることで他方を牽制し、 ある時はしたたかに相討ちを狙い漁夫の利を得ることにより、ルー ナライナの強固な基盤を、文字通り死力を尽くして築いてきたので 大帝 の名を刻まれる ある。十年ほど前、八十歳で大往生を遂げるまで一流の政治家であ り、王で在り続けた彼は、近代史において こととなった。 そしてもう一つ、セゼルについて特筆すべきは、彼が王太子時代、 日本に留学していたことだろう。二十代の若き日々を、セゼル王太 子は日本のとある大学で学び、そこで得た知識は後の彼の経済政策、 国の政治に大きく反映されたのだという。 日本人が知らない﹁日本を好きな国﹂は、実は意外と数が多い。 ルーナライナの人々にとって、日本は大帝セゼルのもう一つの故郷 であり、海の向こうにある遠い憧れの地でもあった。 そして、二十一世紀の今日。 セゼルの末裔が、この地にやってくることとなったのである。 769 ﹁︱︱以上、ざっと高校レベルの世界史に絡めて、ルーナライナ王 国の歴史をわかりやすく語ってみたわけだ。これでだいたい理解で きたろ?﹂ ﹁え!?あー、うん、たぶん﹂ ﹁多分、って。本当にわかったのか真凛?やっぱりきちんと年表つ きで説明した方がよかったか?﹂ ﹁だ、だいじょうぶ大丈夫!ところで陽司、ここが気持ちイイんじ ゃない?﹂ ﹁おぅ!?おぉー、そこ、そこがたまらん、もっと頼む﹂ ﹁そう?じゃあもっと強めにいくね。これでどう?﹂ ﹁おお!⋮⋮いい。いいぜそれ。ああ、最高だ﹂ 一応状況を説明しておくと、ここは高田馬場にある﹃フレイムア ップ﹄の事務所であり、今のおれは応接室のソファーに寝そべって おり、その上に真凛が馬乗りにまたがっている状態である。 ﹁前から言おうと思ってたけど、⋮⋮お前やっぱり、上手いよ﹂ ﹁へへへ。そう言ってくれるなら、もっと頑張っちゃおうかな﹂ ﹁⋮⋮っ!やべ、アタマが真っ白になりそうだ⋮⋮﹂ 普段のガサツな態度からは想像もつかないほど丁寧な真凛の刺激 に、おれは思わず恍惚の笑みを浮かべてしまう。 ﹁うーん。キレイに五臓六腑に気を送り込まれてたねー﹂ ぼうこうけい ﹁あの一撃でそこまでか⋮⋮﹂ ﹁うん。とくに膀胱経がひどいことになってたから、あのままだっ たらトイレに行ってもおしっこが出ない体になってたよ﹂ ﹁⋮⋮恐ろしいことを言わんでくれ﹂ 颯馬と玲美さんとの一戦の後、おれ達は気絶したままの依頼人⋮ ⋮ファリス・シィ・カラーティ氏を乗せたまま、一気に高田馬場の 事務所まで引き返してきたのである。フロントガラスに大穴が開い 770 た状態でのドライブはお世辞にも快適とは言えなかったが、それよ りもおれは颯馬に撃ち込まれた﹃気﹄の影響が酷かった。痛みを無 視して無理矢理動き回った反動もあり、二日酔いと下痢と神経痛が いっぺんにやってきたような激痛と不快感を味わうはめになりつつ、 それでも車を運転し続けたのだが、事務所にたどり着くなり限界を 迎え、グロッキー状態のままソファに突っ伏してしまった次第。 こういう時には、飲み薬や塗り薬よりも、指圧やマッサージの方 が効果がある。かくしておれは、真凛の実家に武術と共に伝わって いるという指圧術を施療してもらっているというわけだ。経絡を押 されることによって、萎縮していた臓器や混乱していた神経が、徐 とくみゃく 々に落ち着き本来の機能を取り戻してゆくのがわかる。 ﹁督脈に沿ってもう一周やっておくね。そのあと昼寝でもすれば、 動けるようになると思うよ﹂ ﹁ああ、頼む⋮⋮﹂ それにしてもこいつ、やたらとマッサージの類が上手いのである。 まあ、こいつの武術の要諦は急所を正確に攻撃することにある以上、 裏を返せばツボ押しなどは得意中の得意と言うことなのだろうが、 正直、ネットカフェのマッサージチェアなどとは比べものにならな い快楽に、ここ最近の徹夜やら飲み会やらの疲労も合わさって、急 速におれの意識は奈落の底へと落ちかかっていった。 ﹁ところでさっき、羽美さんがラーメンをおごれ、って言ってたよ﹂ ﹁ああ⋮⋮ほっとけ⋮⋮どうせあと一時間もすれば忘れてるよ⋮⋮﹂ ﹁そうかなあ。あ、そう言えば今日の夕ご飯どうする?ボク、今日 はいらないって家にいってきちゃったんだけど﹂ ﹁まぁ、今日は一日仕事だったからなぁ⋮⋮﹂ 泥のように沈みかけていた意識の中、おれは半分眠りながら応答 する。 ﹁事務所のみんなで、どっかに食べに行くのかな?﹂ ﹁いや⋮⋮今夜は六本木にオールナイトで特撮映画観に行くつもり だったんだ⋮⋮﹂ 771 いつぞや知り合いになった水池さんからもらったチケットを使い 損ねていたのである。 ﹁オールナイトって、泊まりがけで映画を観るってやつ?﹂ ﹁ああ⋮⋮。メシ食いがてら⋮⋮一緒に行くか?﹂ ⋮⋮まあ、たまにはいいか。 ﹁あ、うん。じゃあ、そうしようか﹂ どうもそういうことになったらしい。まあとにかく、今はゆっく り眠りたいものだ。 おれは心地よい眠りに意識のすべてを委ねようとして︱︱ ﹁起きて亘理君。ファリス皇女が意識を取り戻したわよ﹂ われらが事務所の主、所長の声に、現実に引き戻されることとな った。 772 ◆08:赤焼けた記憶 夢を見ている。 これが夢だという自覚はある。明晰夢、というものだろう。 空港にいる私に話しかけてくる、一人の女の子。 そう、さっき出会ったあやちゃん、と呼ばれていた女の子だ。 海外旅行から帰ってきたばかりなのだろう。 お土産を握りしめて︱︱現地の土産物屋で買った他愛のないもの。 でも子供にとっては、はるか世界の彼方から持ち帰った偉大な戦 利品。 ・・・ それを自慢したくて自慢したくてしょうがない。 そう、だから目の前の、その人に話しかける。 その人は少し困ったような顔をして。 でも子供の自慢話に真摯に耳を傾けて頷いてくれる。 ・・・・・ 決して、まだ子供だからとか、女だからとか、三番目だからとか、 ・・ 母親が違うなんて理由で分け隔てをしない。 だから私は、その人が大好きだった。 ︱︱ああ、あれは私だ。 いつの間にか、あやちゃんは子供の頃の私に。 彼女の話を聞いていた私は︱︱私の一番大切だった人になってい た。 辻褄が合わない。 変だ。 ︱︱ああ、これは夢だったっけ。 夢なら配役が入れ替わるのもしょうがないか。 773 空港で他愛の無いおしゃべりが続く。 でもおかしい。 さっきまで私は、迎えに来てくれたあの人にお土産の自慢をして いたのに。 いつの間にか、私が、海外から帰ってきたあの人を迎えたことに なっていた。 ︱︱まあ、しょうがない。夢なんだから。 留学から帰ってきたあの人は、すごく大人になっていて。 ぜんぜん別の世界の人になってしまったんじゃないかとすごく不 安になった。 でも、私に話かける時の笑顔はいつもの通りで。 なぜだか泣きそうになった事を覚えている。 そんな私の頭を撫でようとして。 空港にとつぜん、こわい人たちがたくさん入ってきて、あの人を つかまえてしまう。 ︱︱ああ、だめだ。この先はだめだ。 私は気づく。これは何度も見た夢。 どんな夢を見ていても、人が入れ替わり舞台が移り、必ず辿りつ くあの時あの場所。 見てはいけない。醒めなければいけない。 いつもの抵抗。 それはいつものように実らず︱︱舞台が回る。 774 夕日が沈む真っ赤な砂漠。 あの人が鎖に繋がれている。 その横で、いつもはやさしい大叔父様が、とっても怖い顔で。 ﹁ルーナライナのきんをもちだしたばいこくど﹂ そんなことを言っていたように思う。 そんなに。 そんなにしてまで守らなければならないものなのですか。 ルーナライナの金脈は。 金だけでは国は立ちゆかない。 金があるうちにこそ、人を育てるべきなのです。 いつもやさしいあの人が、血を吐くように声をしぼりあげる。 それを聞いているのは大祖父様。 私は怖くて。 今まで大祖父様の顔を前から見たことなんてなくて。 でも私は大祖父様に言いたかった。︱︱何をだろう? 一生懸命伝えたくても伝えられなくて。 そして結局。 何も大祖父様は言葉を発しなかった。 最後の一言。 刑を執行する命令以外は。 目を閉じてはならない。 例えそれが十にも満たぬ幼子であっても。 赤い砂漠が灰色に染まる。 775 音の失せた世界。 色も失せた白黒のせかい。 急速に失せていくげんじつかん。 こうぞくのしょけいはこうぞくがみとどけなければならない。 それがさだめだから。 だからわたしはみなくてはならない あのひとの を おもいものがふりおろされて かるいものがころげおち ﹁︱︱アルセス兄様!﹂ 私は、目を覚ました。 聞くところによると、この事務所が入っているビルは、本来はマ ンションとして設計されたらしい。しかし諸事情があり、結局企業 向けのオフィスとして貸出される事になったのだそうだ。その名残 なのか、事務所の奥には六畳の洋室と和室がある。洋室はベッドと 机、本棚が備えられた物置兼休憩室となっており、男衆が徹夜上等 で事務所に詰める際は、ここのベッドで仮眠を取ることもしばしば である。 いつもならここは、おれが持ち込んだ健康グッズ、仁サンが読み 捨てたコンビニコミック、チーフの替えのシャツ、仮置きされた資 776 料が散乱し惨憺たる有り様なのだが︱︱今この時ばかりは、それら の雑多な私物はまるで神隠しにでもあったように何処かへ消え失せ ていた。山谷の簡易宿泊所を思わせる草臥れたフトンはふかふかの 羽布団へと差し替えられ、窓際の机には、一体どこから出現したの やら、シンプルだが趣のある陶器の花瓶に南天が生けてある。つい でに言えば部屋の壁紙にこびりついていたはずのヤニの臭いも、魔 法でも使ったかのように拭い去られ、今はくどくならない程度の仄 かなアロマで満たされている。こういった細やかな気配りが出来る のは、もちろんおれや直樹でも、こと家事についてはそろいも揃っ て赤点レベルなウチの女性陣でもない。 ﹁いやしかし、相変わらずの腕前ですねぇ﹂ ﹁お誉めに預かり光栄ですな﹂ 扉の前に詰めていた桜庭さんに一声かける。我々フレイムアップ の会計担当にして、事務所の一階、喫茶店﹃ケテル﹄の店主たるこ の白髪の紳士こそが、小汚い雑魚寝部屋をわずか数日のうちにセン スが光る山荘の一室風に改装してのけた張本人であった。コーヒー や料理のみならず、家事全般を芸術と呼べる領域で実行できる人間 を、おれは他に知らない。 ﹁それで、依頼人さんは?﹂ ﹁こちらへ﹂ ﹁失礼しまーす、っと⋮⋮﹂ 桜庭さんに従って部屋の中へ。 ︱︱そこに、彼女はいた。 ﹁ヨウジ・ワタリさん、マリン・ナナセさん、でしょうか?﹂ 入室したおれ達の耳に届けられた、鈴の音のように澄んだ日本語。 ウチの事務所の主である所長に付き添われ、羽根布団からチェッ アメジスト クのパジャマ姿で上半身を起こしていたのは、月光を連想させる銀 髪と、滑らかな褐色の肌、大粒の紫水晶の瞳の少女だった。 ﹁ああ。⋮⋮おれは亘理陽司。よろしく﹂ 777 ﹁あ、あの!七瀬真凛です!﹂ ﹁私はファリス・シィ・カラーティです。ファリスと呼んで下さい﹂ そう言って、現代に継がれるルーナライナ王国の第三皇女は、柔 らかな微笑を返した。 ﹁︱︱んじゃあ、お言葉に甘えてファリス、と呼ばせてもらうよ。 おれの事は陽司で頼む﹂ ﹁ボ、ボクは何でもいいです﹂ ﹁はい、ではよろしくお願いします。陽司⋮⋮さん、真凛さん﹂ 下々にファースト・ネームで呼ばれても一向に気にしないあたり、 先ほどの言葉はリップサービスではなく本心なのだろう。 ﹁⋮⋮きれいな人だなあ⋮⋮﹂ ぽかんとしたままの真凛の呟きにも、同意せざるを得ない。規格 外の人間の集まるこの業界、﹁ハリウッド女優みたいな美人﹂に会 う機会も時にはあるが、目の前の少女の現実離れした美しさは、映 画というより、もはや絵本の世界の住人と呼ぶほうが相応しかった。 一分一秒を争う高速道路での戦いの後、事務所に戻った途端にぶ っ倒れてしまったおれはろくに彼女の顔を見ることもなかったのだ が⋮⋮改めて意識を取り戻した彼女と向き合うと、端正な容貌と、 伝わってくる静かな気品に驚嘆せざるを得ない。資料によればもう すぐ十八歳、日本なら遊び盛りの女子高生なのだが、いやはや。 ﹁桜庭のおじさまから伺いました。高速道路で私を助けて頂いたの は、貴方がた二人だったのですね﹂ ありがとうございます、と日本語で礼を述べ、丁寧に頭を下げる 皇女様。その仕草と発音、そこらの女子高生では十年かかっても真 似できる気がしない。 ﹁い、いえいえいえ!ボク達仕事ですから!ねえ陽司!?﹂ ﹁そうだな。依頼人をきちんと事務所に連れてくるのもサービスの うち。当然のことさ﹂ おれはつとめてぞんざいな口調で返答した。今後のことを考える と、あまり堅苦しい敬語を使わない方がいいだろう。 778 ﹁このような格好で失礼します。本来ならば改めて︱︱﹂ ﹁ああ、無理しないほうがいいぜ。さすがにエコノミーで何日も飛 行機旅のうえ、到着したとたんに誘拐未遂と交通事故に遭遇したん だ。すぐに起き上がれって方が無茶な話さ﹂ そもそも目を覚ました途端に貴人の寝室にどやどやと押しかける 事の方が無礼というものだ。本来であれば、十分に休養を摂った後、 応接室でゆっくり話を聞かせてもらうべきなのだが。 ﹁あまり時間的な猶予がない仕事、ってわけですね?所長﹂ 彼女の傍らに立つ、おれ達フレイムアップの主、嵯峨野浅葱所長 に問いかける。このところ渉外関係の仕事が多く事務所を空けてい ることが多かったのだが、今回は所長と、そして彼女の後見人でも ある桜庭さんの緊急の招集を受け、おれ達は現場に急行させられた のである。 ﹁そ。今回はいつもよりちょっと急ぎで、ちょっと話が大きくて、 ちょっと気合の入った仕事になりそうってワケ。君たちにもがっつ り働いてもらうことになるからね﹂ 前菜にラーメン、メインでステーキ、デザートにギョウザをつけ る食生活と激務を繰り返しているにもかかわらず、ちっとも崩れて いないプロポーションをスーツに身を包み、あっけらかんと言って くれやがる所長サマ。 ﹁ちょっと、ねぇ⋮⋮﹂ 所長が﹁ちょっと﹂と口にするのは稀な事態である。﹁いつも﹂ の仕事で絞殺未遂やカーチェイスや銃撃戦をこなしている身として は、﹁ちょっと﹂がどれほどの負荷の上積みになるか、あまり深く 考えたくないものだ。 ﹁︱︱追加報酬、出るんでしょうね?﹂ 緊急招集で報酬の交渉をする暇もなかったのだ。派遣といえど、 これくらいは要求する権利はある、と思う。さてここから依頼人の 前で醜い交渉を繰り広げなければならんか、とおれは密かに腹に気 合いを入れる。しかし。 779 ﹁ええ、出すわよ∼。報酬ランクA、プラス特急料金﹂ 拍子抜けするほどあっさりと返答なされる所長。 ﹁⋮⋮マジですか﹂ その言葉に、おれとしては喜びよりも危機感を覚えざるを得なか った。つまりはかなり﹁でかい﹂仕事と覚悟せねばならないと言う 事だ。 ﹁決まり、ですね﹂ となれば、本当に時間がないのだろう。報酬が確定した以上、所 長と駄弁っている場合ではない。おれは早々にアタマを切り替え、 仕事モードに入ることにした。 ・・ ﹁じゃあ、ファリス、すまないが改めて、依頼の内容を聞かせても らえないかな。あのルーナライナのお姫様がわざわざこの時期にや ってくるんだ。ただの観光旅行、ってわけじゃあないんだろう?﹂ おれの言葉に、ファリスはしばしの逡巡の後、こくり、と明確に 頷き、今回の依頼の内容を語り始めた。 780 ◆09: 勇者よ、国を救ってください ︵現代編︶ ﹁ご存知かもしれませんが、私達の国、ルーナライナは、⋮⋮今存 亡の危機にあります﹂ 開口一番、彼女が発したのはそんな重苦しい言葉だった。 ﹁やっぱり、状況は悪いのか?﹂ おれの返答に、驚きの声をあげる真凛。 ﹁ええ!?だってさっき、ルーナライナは王様が金を掘り当てて国 を建て直した、って言ってたじゃない﹂ ﹁ああ。確かに大帝と呼ばれたセゼル王によって、ルーナライナは 国としての基盤を確立したんだ。だが⋮⋮﹂ おれは言葉を濁した。新聞を読んで国際情勢を論評するのならと もかく、当事者の前であまり無神経なことは言えない。おれの逡巡 を引き取るように、言葉を続けるファリス皇女。 ﹁ですが、その繁栄はセゼル大帝が生きている間だけだった⋮⋮で すよね?﹂ 彼女の言葉。そこには深い悲しみと、わずかな自嘲がこめられて いた。 シルクロードに埋もれて中世のまま時間が止まった一都市を、ソ 連や中国に併合される前に、その脅威と渡り合えるような近代国家 に造り替える︱︱それがセゼルの目指した為政である。彼は掘り当 てた膨大な黄金に裏打ちされた力をバックとして、政、官、財、軍 の近代化に着手した。当然のことながら反発は凄まじかったらしい。 門閥の貴族達、数百年前の法律と慣習を唯一絶対とする官吏達、他 国の息がかかった交易商達と、彼らの供給する銃器を有する軍人達。 ⋮⋮そして、旧勢力の利権を代表する、ルーナライナの皇族達。 ﹁私が生まれる前から、ルーナライナでは幾度となく内乱の動きが 781 ありました﹂ 税制の改革、国営企業の民営化、あるいは皇族やその親族が経営 する偽りの民間企業の解体。近代化とはシステムの変更であり、旧 システムの支配者達が抱え込んでいる利権と冨を吐き出させること でもある。いつの世も、いずれ他国に併呑されるかもしれない危機 を、現在の自分の利権が侵害される不利益より優先できる者は少な い。ほとんどの皇族は、セゼルを暴君、圧制者、裏切り者と罵り、 ある者は積極的に、ある者は軍部や他国に唆されて反乱を企てた。 当時のセゼルは﹁奴らがいる限り、ルーナライナの近代化は三十世 紀になっても来ない﹂という発言を残している。 これに対してセゼルが採った策は、懐柔でも和解でもなかった。 徹底した弾圧と粛清。多くの皇族が反乱者として討たれ、反乱を企 てたとして逮捕、処刑された。セゼルは民衆に対しては寛大で公正 な王だったが、身内に対しては恐ろしいほどに容赦がなかった。国 外に逃亡した者、他国と通じた者、ルーナライナの生命線である金 鉱の情報や現物を諸外国に売り渡した者、王の許可無く軍備を拡張 した者等は即刻死刑を申し渡し、一切の例外なく執行した。血で血 を洗う、皇族同士の争い。そんな時代が二十年ほど続き、謀反の芽 は摘まれ、産出される金によって産業は成長し国政は潤い、ようや くルーナライナの近代化は果たされた、かに思えた。 ﹁しかし、セゼル大帝の崩御の後、その後継者を巡ってふたたび内 乱が起こったのです。三ヶ月の後、セゼルが後継者に指名したルベ リア第四王子が爆弾テロによって殺害されると、第一王子イシュル が即位を宣言。しかしセゼル派の大臣達はそれを認めず、イシュル をテロの主犯として逮捕、銃殺。その後も王位を巡ってしばらくク ーデターやテロ、投獄が相次ぐこととなりました﹂ それこそ新聞記事のように淡々と語るファリス。 ﹁で、でも、そのルベリアさんとかイシュルさんとかって﹂ ﹁︱︱私にとっては、大叔父ということになりますね﹂ 782 彼女の穏やかな紫水晶が、その時だけ、硬質で冷たい輝きを放っ た。 ﹁ただの権力争いならまだ良かったのです。しかしセゼル大帝の偉 業は、一転して大きな災いの要因となってしまった﹂ ﹁金鉱、か﹂ それまでは皇族の利権争いなどと言っても、結局は領地の広さと 畑や家畜、細々とした手工業とそこから上がる税の取り合いでしか なかった。だがしかし、セゼルが開発した金鉱は、そんなものが霞 んで吹き飛ぶほどに莫大な利益を生み出すものだった。王位と、各 地に点在する金鉱を手に入れた者は、標準的なルーナライナ人が千 年働いても追いつかないほどのカネと力を手にする事ができる。た かだか平民や兵士の命の百や千で購えるのなら安い買い物だ。 ﹁⋮⋮そこから先はおれが語ってもいいかな。その後も王位継承者 と、彼らに組みするそれぞれの勢力が衝突を繰り返し、結果、セゼ ル大帝の孫のひとり、現在のアベリフ王、つまり君の父上が勝ち残 った。そうだろう?﹂ ﹁はい。でも父は勝ち残ったと言うより、生き残ったという方が正 しいのかも知れませんね﹂ 皮肉でも謙遜でもなく、やはり新聞記事のように淡々と述べるフ ァリス。日本人であるおれが入手できる情報に照らしても、確かに その通りだった。もともとアベリフ王は学者肌の人で、王位に興味 はなく、また継承順位も高くなかったため、海外の大学で研究に打 ち込んでいたらしい。しかし権力争いで目立った候補者が軒並み死 亡、失脚してしまった結果、こう言っては何だが、お飾りの王様と して呼び戻されることとなったのである。 そして皮肉にも、各勢力の妥協案として選び出されたこの中立の 国王のもとで内乱は一応の終息を見せ、ようやく国は小康状態を取 り戻した。それがわずか三年前の出来事である。 ﹁とはいえ、今でも皆自分の勢力を拡大させて、金脈を手に入れよ うと隙をうかがっているわけだ。どうにも不安定な政情であること 783 は否めないよなあ﹂ ﹁はい。結局のところ、今の私は傀儡の王の娘に過ぎません。第三 皇女などと肩書きだけは立派でも、実権はほとんどないのです﹂ ﹁えっと、えらい人達が何年も金脈を取り合ってケンカしてたんで すよね。ってことは今、ファリスさんの国は⋮⋮﹂ ﹁ずいぶんひどいもの、らしいな。道路や官公庁は焼かれ、電線や 上下水道は断たれて復旧は進まず。首都の城壁の周りには、諸侯の 争いで焼け出された人達がスラムを形成し、犯罪が絶えないらしい。 市民が外出できるのは昼のうちだけ、って聞いたぜ﹂ おれのCNNからの受け売りの知識に、彼女はひとつ頷いただけ だった。 ﹁︱︱日本は、いい国ですね。明るくて、賑やかで、安全で﹂ ﹁ファリスさん⋮⋮﹂ おれと真凛は、その言葉には容易に返事をすることができなかっ た。もちろん日本でも、凶悪犯罪がニュースに流れることはある。 だが、本当に治安の悪い国では、凶悪犯罪などいちいちニュースで は流さない。日常の出来事なのだから。朝を迎えるたび、夜に強盗 が入ってこなかったことを感謝する生活など、日本人の大多数にと っては実感できないだろう。せいぜい海外のニュースを見てああ大 変だねえと共感する程度だ。おれとてそうした国を訪れた事はある が、そこに根付いて生きていく事が出来るかと問われれば否と言わ ざるを得ない。 ﹁空港で、海外旅行帰りの女の子と会いました。ルーナライナの子 の多くは、あの歳くらいになると金鉱に連れて行かれて働かされま す﹂ ﹁ええっ、みんな学校は行かないんですか?﹂ ﹁⋮⋮学校は、残ってないんです。首都と、そのごく近郊くらいに しか﹂ ﹁そんなことって⋮⋮﹂ あるのだ。テレビでも時々流れている。ただ実感できないだけの 784 事である。 ﹁ん?ちょっと待ってくれ。たしかセゼル大帝は在位中に多くの採 掘機械を導入し、ずいぶん自動化や効率化が進んだはずだ。今さら 児童労働なんてやらせる必要があるのか?﹂ ﹁内戦が激化してから、金鉱を抑えた各勢力は、採掘機械をフル稼 働させるようになりました﹂ ﹁まあ、そりゃそうだな。いつ他の勢力に奪われるかわからない以 上、手元にあるうちに出来るだけ金を掘り出しておきたいところだ ろう﹂ ﹁ええ。本当に。彼らは24時間休みなく採掘を続け⋮⋮そして、 あらかた掘り尽くしてしまったのです﹂ ﹁おいおい、そりゃ本当か!?﹂ 公式のニュースには流れていない話だった。 ﹁未だどの勢力も公にはしていませんが。この数年間、ルーナライ ナで採掘される金の量は一旦例年の五倍近くに跳ね上がった後、激 減しています﹂ ﹁無茶な採掘で掘れるだけ掘っちまったってわけか⋮⋮﹂ ﹁機械が使用できるほどの主力の鉱山はあらかた掘り尽くされ、今 では各領主が、その鉱山の機械が使用できないほどの細い鉱脈や、 まったく見当違いの山をカン任せで採掘しています。その労働力と して使われているのが、ルーナライナの市民、そして子供達です﹂ ﹁⋮⋮お貴族様が市民を奴隷のように強制労働ってか。ファンタジ ーRPGに出てくる国の話なら、いずれ主人公が助けに来る分救い があるんだがな﹂ 残念ながら二十一世紀の紛れもない現実である。 ﹁掘り出された金はどうなったんですか?﹂ ﹁恐らくは、各勢力に裏で支援をしている中国やロシアに、だぶつ いた所を格安で買い叩かれたのではないかと思います﹂ ﹁ちょ、ちょっと待ってくれ。内戦に使用される武器や弾薬はどこ から?﹂ 785 ﹁それらは中国やロシア系の商人から購入しているはずです﹂ ﹁⋮⋮つまりそりゃ、同胞を撃ち殺すための銃器を買い揃えるため に、自分とこの金山を無理矢理掘り進めてるってことになるよな?﹂ ﹁その通り⋮⋮です﹂ ベッドの上で握りしめられたファリスの拳が、わずかに震える。 ﹁現状は、セゼル大帝が初めに恐れていた状態なのです。王家が力 を失い、諸外国にいいように搾取されている。いえ、なまじ金鉱が 見つかってしまった分、予想よりはるかに悪い状態です﹂ ﹁そのうえ、金鉱そのものさえ掘り尽くされてしまったとしたら⋮ ⋮﹂ おれは状況をシミュレートしてみる。ルーナライナは現在、金の 取り合いで争いとなっているが、同時に金の産出国として成り立っ てもいる。この状況で金が枯渇した事が判明したら、諸外国との交 易は打ち切られ、後には戦争の傷跡のみが残ってしまうこととなる。 政治と経済は崩壊するだろう。国土はロシアと中国に切り分けられ、 国民達は難民としてキャンプにでも押し込められることになるかも 知れない。国を失った人々がどれほど惨めな目に会うか想像できる 人間は、戦後生まれの日本人にはいないのではないだろうか。 ﹁だから、存亡の危機、ってわけか。ニュースで流れているよりも、 よっぽど事態は深刻ってことだな﹂ ﹁えっと⋮⋮国の偉い人を決めるためにみんながケンカして、ケン カをするためのお金が欲しいから、みんなが国中の金山を子供まで 使って掘らせている。でも、金山そのものがもう掘り尽くされてき たから、偉い人を決めるどころか国そのものがなくなっちゃうかも、 ってこと?﹂ ﹁そういうことになるな。だが⋮⋮﹂ 対策など立てようもない。森や畑であれば、乱獲を抑えてしばら く休ませるという方法もある。だが金山となれば、何年か掘らずに 休ませていたら金がまた沸いてくる、ということはあり得ない。こ のままではどのみち、ルーナライナの滅亡は避けられないのだ。 786 ﹁改めてルーナライナの現状が厳しいということはわかったよ。で もそれが、君が日本に来ることとどうつながるんだい?﹂ ここまではすべて、状況の説明にすぎない。ここからが依頼であ るはずだった。 ファリスはちらり、と桜庭さんの方を見やった。静かに頷く桜庭 さん。そしてファリスはその紫水晶の瞳で、おれをじ、と見つめる。 ︱︱信ずるに足る者か、重要な事を託せる相手か、必死に自らの判 断で見極めようとする目。美少女に見つめられてうれしいなあ、な どと軽口を叩く気にはなれなかった。 ﹁︱︱今は形だけの王ですが、私の父アベリフは、セゼル大帝から 一つの﹃鍵﹄を受け継いでいました﹂ そういうとファリスは自らのうなじに両の手を伸ばし、銀の髪を かき上げる。露わになったすべらかな褐色の首には、細く黒いチョ ーカーが巻かれていた。慎重な手つきでそれを取り外す。 ﹁真に国が存亡の危機に陥ったとき、それを使えと託された、﹃鍵﹄ が﹂ 革の裏側に指を這わせると、そこには目立たない切れ込みがあっ た。ごく小さく薄いものを隠すときの、スパイ用の小道具。一国の 王女には似つかわしくないもの。 ﹁これを﹂ チョーカー裏の切れ込みから引っ張り出されたのは、一枚の古い 紙片だった。おれと真凛は目の前で繰り広げられる事態に呆気にと られたまま、その紙片を手にする。おれもこの仕事を初めてそれな りに長いが、まさかこんな﹁らしい﹂仕事を請け負うことになると は。紙片を開く。そこにびっちりと書き記されていたのは、数字の 羅列。 ﹁これは⋮⋮﹂ 787 おれと真凛の声がハモる。 ﹁暗号、かい?﹂ こくりと頷くファリス。 ﹁セゼル大帝は晩年にこう言ったそうです。 と﹂ 極東の地に在りし、 うずもれたもう一つの﹃鍵﹄。二つの﹃鍵﹄を揃えたとき、失われ し我らの最後の鉱脈が示される ファリスは、いや、ルーナライナ王国第三皇女ファリス・シィ・ カラーティは、その紫の瞳でおれと真凛を真っ直ぐに見つめ、静か に告げた。 ﹁ここに記されしは、大帝セゼルが唯一手をつけずに秘した、ルー ナライナ最後の大金鉱。これこそが、破綻しつつある我が祖国︱︱ ルーナライナを救うための最後の希望なのです。亘理陽司さん、七 瀬真凛さん。私の依頼とは、この国に隠された、暗号を解くための もう一つの﹃鍵﹄を探すこと。即ち、貴方がたに我がルーナライナ を救っていただきたいのです﹂ 788 ◆10:紅華飯店にて 日本でも最大規模の港町、横浜。 だがその歴史は、日本の他の港町と比べると意外と短い。ほんの 百五十年ほど前まで、海運の要となっていたのは北の神奈川、南の 六浦であり、その中間に位置する横浜は小さな漁村に過ぎなかった。 幕末の開国によって、欧米の大型商船が接岸できる国際港の必要性 が高まった。そしてその候補地として、立地や政治の要因も考慮し て選出されたのが、横浜だったのである。 首都に近く、当時最新の設備を備えていた横浜港は、瞬く間に交 通の要地となり、現在まで続く国際都市ヨコハマのいしずえとなっ た。その後は輸出入の要地であることを活かして京浜工業地帯が誕 生し、ベイブリッジ、赤レンガ倉庫などの観光スポットも生まれ、 商業、工業、観光業が揃った、名実共に日本を代表する港町となっ ている。 そんな横浜のベイエリア、市街と港双方を一望できる位置に﹃紅 華飯店﹄はあった。 飯店という単語は、この場合はレストランではなくホテルを意味 する。しかも、その実際の姿は地上五十階建てガラス張りの超高層 ビルであり、中に足を踏み入れれば、最新のセキュリティと、クラ シカルな調度、要所にバランス良く配されたチャイナアンティーク が宿泊客に最高級の環境を提供する。もちろん隅々まで行き届いた サービスは言うに及ばず、食事は横浜中華街トップクラスの料理人 の手によるもの。まさに堂々たるグランドホテルであった。 だが、この豪華ホテルに隠された、幾つかの事実を知るものは少 ない。 789 この豪華ホテルの歴史は、百五十年前の横浜開港当時に遡るとい うこと。 当時の紅華飯店は、小さく粗末な中華料理屋兼宿屋で、創業者は、 特異な力を持った一族 だったということ。 衰退していく清王朝に愛想を尽かし中国大陸から夢を求めてやって 来た、とある 彼らが言葉の通じない異国で、この料理屋を中心にして同族同士 助け合って生きてきたということ。 が大陸から横浜を に惚れ込み、仲間となったこと。 特異な力を持った者 彼ら以外にも、新天地を求めて、あるいは国を追われて、外国人 義 の用心棒として、様々な 訪れ、彼らの 幇 ギルド に発展したということ。 彼らの結束は固く、やがてその集まりは義兄弟の契りによって結 ばれた 特異な力 は非 横浜に居着いた中国人⋮⋮華僑達がコミュニティを形成し、中華 街を作りあげるに際して、彼ら﹃紅華幇﹄の持つ 常に頼りにされたこと。 紅華幇が成長して強大となってからは、より多くの人材を日本に 迎え入れ、組織はさらに大きくなったこと。 紅華幇は今では横浜の中華街や日本の華僑社会のみならず、中国 本土まで多大な影響力を持っているということ。 移転とリニューアルを繰り返し豪華ホテルとなった今でも、﹃紅 華飯店﹄は変わりなく、彼らの本拠地であるということ。 特異な力 を行使して、その解決に当たること。 百五十年前から変わることなく、顧客から厄介事の依頼があれば、 彼らは継承された ︱︱そして紅華幇は、二十一世紀の現代では、﹃人材派遣会社マ ンネットブロードサービス﹄という表の肩書きも持っているという こと。 790 ﹃それで、みすみすファリスを目の前でひっさらわれた、と報告を しに来たのか!?﹄ 部屋中に響くルーナライナ語のがなり声。﹃紅華飯店﹄の三十六 階、ドラゴン・スイートと呼ばれるVIP向けの豪華客室の中で一 人の男が喚いていた。 年の頃は四十の後半か。小太りの体躯、灰色の髪をオールバック に撫でつけ、つり上がった眼と過剰に跳ね上がった髭が、栄養過剰 で躾のなっていない家猫を思わせる。その衣装はといえば、中世の 絵画から抜け出してきたかのような厳めしい軍服で、精悍さの欠片 もないこの男には絶望的なまでに似合っていなかった。対面に座る 霍美玲としては、失笑を堪えるのに少なからず意志の力を割かねば ならなかった程である。 ﹃何のために貴様等を雇ったと思っている!国外では問題を大事に すべきではない、現地のスタッフに任せるべき、と言ったのは貴様 等の方だぞ!?﹄ テーブルに叩きつけられたグラスが跳ねて、カーペットにワイン の赤い飛沫をまき散らした。本来ルーナライナ語は、歴史書にも﹃ 星が瞬くような﹄リズミカルで美しい言葉と記されているのだが、 それも発音する者次第でここまで下品になってしまうものか。あで やかな営業スマイルを浮かべつつ、美玲は内心ため息をついた。 ワンシム・カラーティ。 ルーナライナ王国の外務大臣にして、現国王アベリフの兄にあた る人物である。劉颯馬、霍美玲の二人を雇いファリス皇女を拉致し ようとしたのは、実の叔父であるこの男であった。ファリスを空港 で確保するのに失敗した二人は、日本に駐留している依頼人に中間 報告を入れに来たのだが、当然ながらそれで依頼主の機嫌が良くな るはずもなかった。 ﹁⋮⋮⋮⋮ト、ワンシムハモウシテオリマス﹂ 冷や汗を浮かべながら、かたわらに立つツォン青年が日本語に訳 す。外務大臣のくせにまともに英語が話せないワンシムの通訳を務 791 める、二十代の東洋人の青年。どうにもぱっとしない印象だが、ル ーナライナ語、英語、中国語、片言の日本語を操る事が出来る貴重 な人材である。今この場で会話が成り立っているのは彼の尽力によ るおかげだった。 ﹃ではツォンさん、訳してくださいな。その点については我々の意 見は変わりませんわ。貴方がたが皇女殿下の動向を察知されたとき は、すでに皇女は出国された後。ルーナライナ国内なら如何様にも 手の打ちようがあったでしょうが、この日本では我々マンネットブ ロードサービスこそが、事態解決のための最適な手段と自負してお ります﹄ ツォンが丁寧にルーナライナ語に訳すと、またワンシムががなり 立てる。 ﹃そう聞いたからこそ、私が日本に飛ぶ前に、貴様等に指示を送っ たのだ。空港で捕らえてさえいれば、今頃ここで締め上げて﹃鍵﹄ の在処を吐かせていたものを⋮⋮!﹄ およそ叔父が姪に対して言ってよい言葉ではなかったが、当の本 人は自覚していないようだった。そもそも現国王を補佐すべき男が、 泡を食って外交官用の飛行機を私用して日本まで姪を追いかけてき たと言うこと自体、無能ぶりの証明である。 ソファーに座るワンシムの後ろにはもう一人、筋肉質の大男が控 えていた。ワンシム同様の軍服に身を包み、混血の進んだ無国籍な 風貌からルーナライナの軍人であると判る。 ﹃閣下、自分はやはりこのような素人に任せるべきではないと考え ます﹄ 前に進み出る大男。ルーナライナ軍の大佐で、ワンシムの腹心だ という。名前は確かビトールとか言ったか。ワンシムの領内でくす ぶる不満分子や反乱分子を鎮圧して功を上げた、とのことだが、美 玲の調べた情報に寄れば、結局、﹁弱い者いじめのスペシャリスト﹂ 以上の男ではなかった。 ﹃聞けば奴らはここから三十キロと離れていないシンジュクに居る 792 そうではありませんか。民間人の住居など大した障害ではありませ ん。自分に命令を下していただければ、私が部隊の指揮を執り、二 時間以内に制圧の後、皇女殿下をここに連れて参ります﹄ ﹃⋮⋮日本の首都圏で市街戦をやらかすおつもりでしょうか?﹄ こちらの無能に至っては無益どころか有害だ。中央アジアの荒野 で隣村に出かけていって略奪を働くのとは訳が違うと言うことを、 想像すら出来ていない。美玲の言葉をツォンが訳すと、ビトールは 無駄に分厚い胸を反り返らせて反論した。 ﹃大した違いなどない。現地の部隊が反応する前に引き上げてしま えばよい。それが戦術というものだ﹄ ﹃東京に自衛隊はあっても軍隊は駐留しておりませんよ﹄ 一方的な内戦、民間人の弾圧しかしたことがない軍隊が戦術とは。 自分のやろうとしている事がどれほどの問題を引き起こすか、微塵 も理解していない。やや痛むこめかみを指でもみほぐしながら、美 玲はにこやかな表情を維持するのに多大な労力を払わざるを得なか った。 ﹃だいたい武器も兵隊も、どこから調達してくるつもりですの?﹄ 美玲の発言は無能な相手に気づかれない程度に皮肉をまぶしたも のだったが、ビトールは一層胸を張って答えた。 ﹃ふん、例え異国の地であろうと兵を集めるのが将の才というもの だ。もっとも貴様達のような民間人の素人には理解できないだろう がな﹄ ﹁やめとけ﹂ 横合いから口を挟んだのは、今まで沈黙を保っていた颯馬だった。 依頼人の前だが、ソファーにどっかと腰を下ろし足を組む、そのふ てぶてしい態度は毫も揺らぐことがない。 ﹃見てくれこそ貸しビルに集まった貧乏人に過ぎんが、やつらの実 ワンマン・アカデミー 力は本物だ。あの二人だけを相手にするならともかく、いずれも最 高峰の吸血鬼と忍者と魔術師に、一人学会の装備が加わり、二十世 紀最高の戦術家の一人が指揮を執るとなれば、能力者でさえ三桁、 793 並の軍隊ならそれこそ核でも持ってこないと相手にもならん﹄ ﹁くだらん冗談だな﹂ ツォンの通訳をを介して、ビトールが鼻で笑う。 ﹃だいたい小僧、貴様はなんだ?我々に雇われただけのくせにその でかい態度は。余程親の躾がなっていないらしいな﹄ ﹃︱︱なんだと﹄ 急低下する颯馬の声の温度。それが氷結する前に、美玲が口を挟 んだ。 ﹃こちらの劉颯馬は、確かに我々マンネットブロードサービスの社 員です。しかし同時に、紅華幇の幹部でもあります﹄ その言葉に反応したのは、ビトールではなくワンシムの方だった。 ﹃ほう?その若さで幹部となれば⋮⋮もしや﹃竜成九子﹄か?﹄ ﹃その通りですわ﹄ ワンシムはなお、怒りと猜疑に満ちた眼差しをぐるぐると回転さ せていたが、やがてふたたびソファに身を沈めた。 ﹃⋮⋮ならば聞かせてもらおう。これからどうするつもりなのだ?﹄ 激怒の段階が去り、話し合いのステージに移ったと見て、美玲が あの大輪の微笑を復活させる。ビトールが露骨に喉を鳴らし、ツォ ン青年も眼を丸くして、その微笑に魅入る。 ﹃実のところ、ファリス皇女を逃がしても大勢に影響はございませ ん﹄ というか、そもそもこの男の唐突な指示がなければ、彼女にファ リスを捕らえるつもりなどなかったのである。 ﹃皇女がわざわざ危険を冒してまで日本にやってきたのは、セゼル 大帝から受け継いだという﹃鍵﹄のヒントなり答えなりがこの地に あるということでしょう﹄ ﹃む、その可能性はあるかも知れんが⋮⋮﹄ というより、日本には彼女の後見人となるような人物が居ない以 上、それ以外考えられないのだが。 ﹃ならばわざわざ皇女から情報を引き出すことはありません。放っ 794 ておけば彼女と護衛の連中が、﹃鍵﹄の暗号解読に走り回ってくれ ることでしょうから﹄ ﹃ふん、ならば連中の後をつけ回し、鍵の謎が解けたところで取り 上げると言うことだな?﹄ ﹃表現を飾らなければ、まさしくそういう事ですわね。もちろん、 皇女殿下が匿われた事務所の入ったビルは、我々の部下が監視を敷 いています﹄ マンネットブロードサービスのような大規模な派遣会社のメリッ トとして、任務に望む際、部隊の支援が受けられるという点がある。 監視や連絡など、能力は必要としないが人手はかかる、という仕事 を一般のメンバーに任せ、能力者は自分の専門分野にのみ集中でき るのだ。 ﹃⋮⋮いいだろう。だが必ず﹃鍵﹄を手に入れろよ。あれに運命が かかっているのだからな﹄ 事実だろう、誰の運命かは知らないが。笑みを浮かべた美玲と、 仏頂面の颯馬が退出する。扉が閉まる前に、ワンシムは新たな酒杯 に腕を伸ばしていた。 ﹃落ちたもんだな、俺達紅華幇も﹄ ドラゴン・スイートを出てエレベーターに向かう廊下の道すがら、 颯馬が口を開いた。 ﹃弱きを助け強きを挫く。侠者の魂こそが、大陸を離れこの島国に 生きる我らを支えてきた絆じゃないか﹄ 愚痴や呟きというにはいささか大きすぎる声だが、颯馬には声を ひそめるつもりはさらさらないようだった。上に立つ者が下を向い て小声で話していて誰がついてくるものか。エレベーターホールに たどり着き、ボタンを押す。 ﹃それが江湖の掟を忘れ、あんな輩に肩入れし、あまつさえ数人が かりで女を攫ってこい、などと﹄ 795 口調こそ抑えているものの、颯馬の怒りは本物だ。だが彼にこの 仕事を持ってきた美玲としては、それでも反論せざるを得ない。 ﹃しかし、お父上⋮⋮塞主直々の命ですわ﹄ ﹃どうせ中南海の連中に高く恩を売りつけようというハラだろう?﹄ 中国政府 事実である。今回、ワンシムの依頼を彼らマンネットブロードサ ービス⋮⋮紅華幇が請け負うにあたり仲介を務めたのは、中南海と 太いパイプを持つさる要人である。骨肉争うルーナライナの諸勢力 の中でも、一番の力を持っているのがワンシムの派閥であり、そし てその理由はワンシム本人の実力でも人望でもなく、彼の操り主で ある中国政府の支援に拠るものだということは、中央アジアの政界 では公然の秘密だった。 アベリフが退位、もしくは崩御しワンシムが即位したあかつきに は、ルーナライナは完全に中国の傀儡政権に成り果てるだろう。た だでさえ国境、戦争、宗教、資源問題を抱え込み混乱にある中央ア ジアの勢力図が、さらに大きく描き換わることは明白だった。紅華 幇の塞主、つまり颯馬の父は、これに荷担することで幇の中国政府 への影響力を強めようと考えているのだった。 ﹁仕方がないことなのです。企業であれ組織であれ、今後の世界で 商いをしようとするのであれば、大陸の市場を無視することは出来 ないのですから。塞主の指示は、慧眼と私も思いますわ﹂ みし、と音が一つ。 紅華飯店の建物が軋んだ。 颯馬がほんのわずかに右脚を浮かせて︱︱踏み下ろす。ただそれ だけで、安普請などという言葉とは対極にある堅牢極まりない巨大 な構造物が、小さな悲鳴を上げたのだった。 ﹃商売人としては、そうだろうさ。だが侠客として、官吏に尻尾を 振るというのはどうなんだ?﹄ ﹃坊ちゃま⋮⋮﹄ 796 ﹃坊ちゃまはやめろ﹄ ﹃⋮⋮塞主より仰せつかっております。今回の件が成功すれば、そ の功績はご兄弟に大きく勝り、次期塞主の座は貴方のものになろう、 と﹄ ﹃ふん⋮⋮﹄ 颯馬の声がわずかに揺らいだ。そう、彼は塞主にならなければな らない、なんとしても。己の両脚と武技にのみ拠って立つ、一介の 武侠でありたいという彼の思いとは別に。 微妙な沈黙を打ち割ったのは、昇ってきたエレベーターのチャイ ムだった。扉が開いたときには、すでに颯馬の眼から葛藤は消え失 せていた。 ﹃⋮⋮まあいい。どちらにせよ、七瀬が出てくるとなれば、俺に断 る理由はない。我が﹃四征拳﹄にかけて、奴を倒す。それもまた江 湖の掟だ﹄ 受けた依頼は果たす。立ち塞がる敵は倒す。それが紅華幇に名を 連ねる武侠の道であり、マンネットブロードサービスに所属する派 遣社員のルールであるはずだった。 797 ◆11:静謐なる原種吸血鬼の孤城 いするぎ 事務所の奥の六畳和室、通称﹃石動研究所﹄のドアを開けたのは ずいぶん久しぶりな気がする。部屋の中を覗き込んだ瞬間、おれと 真凛は間抜けな声を上げてしまっていた。 ﹁なんだ、こりゃ?﹂ 和室と言いつつ無数の配線と機材のジャングルに埋もれ、畳なん か一平方センチメートルだって見えやしない部屋︱︱それはいい、 いつものことだ。問題は、普段なら部屋中にばら撒かれているはず のPCやら小型工作機械やらが軒並み部屋の隅に積まれ、こじ開け られた中央のスペースに、何やら細長い物体が、どん、と横たわっ ていることだった。ちょうど人間一人がすっぽり入りそうな、黒塗 りの箱。 ﹁これってやっぱり⋮⋮﹂ ﹁棺桶⋮⋮だよ、なあ?﹂ 顔を見合わせるおれ達に、積み上げられた機材の向こうから声が 掛けられた。 リッチモンド ﹁当たり前だ。それが棺桶以外の何に見えるというのだ﹂ トパーズ そこにいたのは、おれ達の同僚、笠桐・R・直樹だった。自称日 英ハーフ、流れるような銀髪と、眼鏡の奥に鋼玉の瞳を持つ︵認め たくはないが︶美男子にして、絶対零度を支配する吸血鬼。だがそ ごみ の真の姿は、十八歳以下の女性にしか性的興奮を催せない潜在的犯 罪者にして社会の塵芥である。 ﹁⋮⋮久しぶりに顔を合わせたと思えば随分な暴言を吐くではない か﹂ ﹁な、なんでおれの心が読めるんだお前﹂ ﹁いや、さっきから口に出してしゃべってたよ陽司⋮⋮﹂ ﹁ううむ、しまったつい本音が﹂ 798 ﹁まったく失礼極まりない。世間ずれした十八歳など俺の守備範囲 ではないわ﹂ ﹁⋮⋮やっぱりお前、今すぐ警察行け、な?柵がついてる病院でも いいぞ﹂ ﹁で、その。この棺桶、やっぱり直樹さんのですか?﹂ やや強引に話題を変えた真凛が問うと、直樹はあっさりうなずい た。 ﹁ああ。これは俺の棺桶だよ﹂ そう、さっきも言ったように、直樹は一応吸血鬼なのである。部 屋の中に棺桶が横たわっているというのは相当な異常事態だが、吸 血鬼と棺桶というセットで考えればまあ不思議なことではない。⋮ ⋮吸血鬼というモノが当たり前のように存在しているという事実の 異様さはさておいて。だがしかし、まだ疑問は半分残っている。 ﹁しっかし、じゃあなんでお前の棺桶が羽美さんの部屋にあるんだ よ﹂ おれの問いに、なぜか直樹は口の端に妙に得意げな笑みを浮かべ、 眼鏡を指で押し上げた。 ﹁ふむ、理由を聞きたいか?﹂ ﹁いや、やっぱり聞きたくない﹂ 即答するおれ。コイツがこんな表情をする時はただひとつ。手に 入れたオタクグッズの自慢をする時しかないのである。 ﹁そうか、聞きたいというのなら仕方がない、教えてやろう﹂ ﹁聞きたくないって言ってんだろう。まずお前が人の話を聞け﹂ ﹁実は以前から少しずつ資金をつぎ込んで、寝床でもある俺の棺桶 の改造を石動女史に依頼していたのだ。城に暮らしていようがアパ ートに暮らしていようが、眠りについた吸血鬼の領地は結局この棺 桶一つに過ぎないのだからな﹂ ﹁ほう?﹂ そう言われるとおれも少しばかり興味がわいた。吸血鬼が一番無 防備になるのは、棺桶の中で眠っている時である。ハンターに狙わ 799 れる吸血鬼の中には、対策として自らの棺桶に結界や罠、仕掛け武 器、迎撃用の従者を召喚する魔法陣など、様々な装備を施す者も多 いと聞く。しまり屋のコイツが費用を投じたとなれば、それなりの 価値がある装備のはずである。 ﹁で、どんな装備を仕込んだんだ?﹂ ﹁うむ、これだ﹂ 直樹は抱え込んでいたものをおれに渡した。それは巨大なゴーグ ルに機械部品をとりつけたような代物で、棺桶のフタと本体の間か ら伸びたコードに接続されている。 ﹁⋮⋮なんだこれ?﹂ ﹁ヘッドマウントディスプレイだ。見てわからんのか?﹂ ﹁そりゃま、見ればわかるが⋮⋮﹂ 問題はなんでそれが棺桶に接続されているのかということだ。 ﹁ちょうど石動女史のメンテも一区切りついたのでな。特別に中身 を見せてやろう﹂ そう言って、重厚な棺桶の蓋を持ち上げる直樹。もはや不吉な予 感しかしなかったが、おれはしぶしぶ棺桶の中身を覗き込み︱︱そ して絶句した。 普通︵という言葉を使えるほど多くの数を見たわけではないが︶、 棺桶といえば外はともかく中はシンプルな板張りであるべきはずで ある。また最近のコミックやアニメに出てくるような﹃吸血鬼の棺 桶﹄だとしても、その内装は、闇の貴族に相応しい﹃血の色をした 豪奢なビロード張り﹄とかであるべきであろう。 だがそこにあったのは、みっしりと詰め込まれた電子機器⋮⋮パ ソコン、ケーブル、スピーカー、その他おれにはもはや判別も付か ない何かの機械と、その中にぽっかりと空いた、人間一人が収まる だけの空間だったのである。それはもはや、戦闘機のコックピット と言われた方が納得できる光景であった。 ﹁⋮⋮⋮⋮これは、棺桶なのか?﹂ おれの質問に、直樹はまるで世界の真理を説くように腕を広げて 800 のたまった。 ﹁うむ。世界にただ一つ、俺だけのアニメ鑑賞専用棺桶だ﹂ ﹁アニメカンショ⋮⋮何だって?﹂ 失礼。あまりに異形の単語の組み合わせゆえ、音を聞いただけで は咄嗟に頭の中で日本語に変換出来なかったことを、ここにお詫び いたします。 ﹁だから、アニメを鑑賞する専用の棺桶だ﹂ 不吉な予感を確信に変えて、おれは仕方なく質問する。 ﹁⋮⋮なんだ、この棺桶のあちこちに張り巡らされたパイプフレー ムとメッシュは﹂ ちょうど背もたれと肘掛けと枕とフットレストを埋め込んだよう な形になっている。 ﹁ハーマンミラー社に俺の身体を採寸させて作らせた。これにすっ ぽりと収まることで身体そのものの重さが極力均等に分散され、極 めて長時間同じ姿勢で横たわっていても、蒸れや床ずれ、痺れが発 生しない。エコノミー症候群対策も完璧だ﹂ ﹁はぁ﹂ ﹁PCそのものは映像さえ過不足なく再生出来ればそれでよいので な。その分静粛性と放熱量にこだわった。隣に置いておいてもほと んど気にならないほど静かだ﹂ ﹁へぇ﹂ ﹁そしてデータストレージについては、場所と入れ替えの手間を考 慮した上で、DVDやブルーレイは採用せず、ナマのデータをすべ てハードディスクに取り込むことにした。もちろん可能な限り増設 してな﹂ ﹁ふぅん﹂ ﹁そして迷ったのだが、やはりヘッドホンではなく、BOSEの5. 1chホームシアターセットカスタム版を導入し、棺桶の四隅と蓋 面に配置した。俺の全身を包み込むように音が再現されるよう、既 に調整済だ﹂ 801 ﹁ほぅ﹂ ﹁そしてこちらがユニバーサルデザインのトラックボール。手を添 えていても疲れず、親指だけで全てのマウス操作を代行出来る﹂ ﹁それはそれは﹂ ﹁つまり視聴覚と親指だけ覚醒させておけば、眠りについた状態と ほぼ同じ条件のままに、選択したアニメを最高の環境で半永久的に 視聴し続けることが出来るという案配だ﹂ ﹁⋮⋮そんなに見るアニメがあるのか?﹂ ﹁当たり前だろう。これで撮り溜めしたままのアニメや、未開封の ままになっていたディスクをじっくりと消化できるというものよ。 いずれ再び土中に埋まる時が来ても、悠久の時を有意義に使用でき る。ウム、我ながらまさに一石二鳥の妙手と自賛せざるを得ない﹂ ﹁いずれと言わずに今すぐ埋まれ。そして人類が滅亡するまで這い 出てくんなこの土中ひきこもり﹂ そういえば、今まで日本で放送された全てのアニメを観るとした ら、消化に何年かかるのだろう。⋮⋮まあ、そんなことよりコイツ はとっととアパートを引き払って、カプセルホテルの一室でも買い 取って棺桶を運び込んだ方がいいと思うぞ、マジで。 おれの脳裏にまざまざと浮かぶ、今から数百年後の光景。深夜の 墓地にかすかに響くポップな曲調。誰からも見捨てられたはずの古 びた墓の土が盛り上がり、棺の蓋が開く。棺桶の中から流れいでる 美少女アニメのキャラクターソングに乗って、始原の吸血鬼が常世 に帰還する︱︱。 ﹁ア、アタマが⋮⋮﹂ ﹁頭がどうした亘理氏?貴公の前頭葉のスペックが貧弱なことは周 知の事実。今さら周囲に嘆いてみても始まらぬぞ?﹂ その声でふり返った部屋の入り口には、直樹の要望を具現化した 諸悪の元凶、ドクター石動が肩を聳やかして仁王立ちしていたもの である。 ﹁⋮⋮おれも、人よりは世界中のヘンなものを見てきた自信があり 802 ますが。USBコネクタつきの棺桶というものがこの世にあるとは 知らなかったですねぇ﹂ ﹁知らないのは当然だぞ亘理氏。それは世界にただ一つの小生の最 新作。安心したマエッ﹂ ﹁もちろん皮肉で言ってんですよ!こんな奇天烈なシロモンがこの 世に二つとあってたまりますか!﹂ ﹁ハハハハハ褒めるな亘理氏!貴公に言われずとも世に二つも三つ もあるようなモノにはこの不肖石動、端から興味はないッ!﹂ ﹁言っときますが褒めてませんからっ!﹂ おれ達のやりとりを尻目に、座り込んで物珍しげに棺桶を眺めて いた真凛が、ふと呟いた。 ﹁でもこれ、電源はどうするんですか?﹂ ﹁﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮えっ?﹂﹂ 絶句するマッドサイエンティストと吸血鬼。 ︱︱っておい、まさかアンタら気づいていなかったんかい。 ﹁ええっと⋮⋮ここは⋮⋮電算室⋮⋮でしょうか?﹂ 着替えを終え、ドアを開けておそるおそる部屋の中を覗き込むフ ァリス王女に、おれは手招きする。 ﹁似たようなもんだよ。大丈夫、獲って喰われたりはしないからさ﹂ ﹁そうだな、石動女史が獲って喰うのは年端のいかぬ少年だけだ﹂ ﹁大丈夫ですファリスさん、いくら羽美さんでも人間は食べません から!﹂ ﹁貴公ら⋮⋮﹂ 高田馬場の貸しビルの一室に、銀髪が二人いるという光景も珍し い。この棺桶が鎮座する狭い部屋に五人は入れないので、王女に黙 礼して入れ違いで退出する直樹。振る舞いだけは王侯貴族並みに完 いくつ 璧だった。ちなみに今回、﹁たいそう美少女なお姫様が依頼人らし い﹂という情報をおれが伝えたときの奴の第一声は﹁何歳だ?﹂だ 803 ったことをここに記しておきたい。 ﹁︱︱とまあ、そういうわけでしてね。ファリス王女の持ってきた この暗号の解読をお願いしたいわけですよ﹂ 簡単に事情を説明し終えた後、おれはファリスから預かった紙片 を羽美さんに手渡す。数字で構成された暗号の解析とくれば、まず はコンピューターと数学に詳しいこの人の出番というわけだ。⋮⋮ いかに奇人変人の類といえど。 ﹁最新のコンピューターで推論すれば、もう一つの﹃鍵﹄とやらが なくても解読できるんじゃないかと期待しまして﹂ ﹁よろしくお願いいたします﹂ ﹁ふふん、成る程。大帝セゼルの記した暗号とな﹂ 一目見るなり、ぞんざいに頷いて紙片を受け取る羽美さん。 ﹁⋮⋮あれ、思ったより食いつきが良くないですね。お宝の在処が 記された秘密の暗号なんてシロモノ、男の子なら一度は手に入れた いと夢見るものでしょうに﹂ ﹁亘理氏、ちなみに聞いておくが、脳の収縮の末に小生の性別まで 失念したわけではないよな?﹂ ﹁はっははー、まっさかぁー﹂ ちなみに、少年達は大人になるにつれそうしたものへの関心を失 っていくが、それは成長するにつれ、宝の地図などそうそう存在し ないと理解するからであり、決して宝の地図そのものが嫌いになっ たわけではないのだ、とおれはここで力説しておきたい。 ﹁⋮⋮誰に言ってるの?﹂ ﹁いや別に。てか、この手の暗号なら羽美さん、普通に好きそうに 思ったんですが﹂ ﹁まあ、暗号は好物ではあるが﹂ そう言うと羽美さんは、LANから切り離した小型のノートパソ コンにスキャナを接続し、手早く紙片の映像を取り込む。そして何 やら画像解析ソフトを立ち上げると、たちまち紙片に記された手描 きの文字列が識別され、整然たる数列となってディスプレイに表示 804 された。 ﹁へぇ、ずいぶん優秀な解析ソフトですね。自前ですか?﹂ 文字をソフトで画像解析する際、どうしてもくせ字や細かい字の 識別が困難になるものだが、おれがざっと見比べたところ、誤認識 はしていないようだ。 ﹁ウム。最初に判りやすい文字を解析して簡単な筆跡鑑定を実施し、 判読できない文字は筆跡から推定する、という手法を採っておる。 十種類しかない数字ならまず間違えることは無かろうよ﹂ ﹁⋮⋮どこかの企業の依頼品とか?﹂ ロジックだけでも充分に特許を出願できそうなものだが。 ﹁いんや、趣味だ。人工知能に読書をさせようと思いつきで作って はみたものの、使う機会が無くて放っておいた。所詮は片手間もの、 市場に出せるものではない﹂ ⋮⋮胡散臭い実験よりも、むしろこういうところをきちんと伸ば せていれば、マッドサイエンティスト呼ばわりの末学会を追放され ることもなかったろうに。 ﹁何か言ったかね﹂ ﹁いえいえ。で、いよいよ肝心の暗号解析をお願いしたいんですが﹂ ﹁ああ、それならもう終わったぞ﹂ ﹁なんだもう終わったんですか。⋮⋮って、マジですか!?﹂ おれの大声に、棺桶に設置されたPCを覗き込んでいた真凛、そ してファリスが慌てて顔を上げる。 ﹁ほ、本当ですか、ドクター・石動!?﹂ ﹁まあな!ふむ、ふむッ!ファリス王女殿下、貴女は近頃の権力者 層にしては珍しく、なかなかに賢者を遇する術を心得ているではな いか!﹂ ドクター、の敬称に気をよくしたのか、鷹揚に頷く石動女史。っ てかこの人の方こそ、もう少し王族に対する敬意を払うべきだと思 う。 ﹁政治の世界など十年一日千年一日。真に歴史の針を前に進めるの 805 は叡智を求める科学の歩みよッ!﹂ ﹁それで、どんな結果だったのですか、﹃鍵﹄は!?﹂ せっかくの石動女史の雄弁も、国の命運を担った王女の耳には入 らない。いささかばつの悪そうな顔になって、羽美さんは告げた。 ﹁うむ。⋮⋮まあ、これがRSA暗号だろうということはわかった﹂ ﹁RSA暗号?﹂ ﹁一通りの解析ソフトを走らせてみたのだが、RSAをどうにか解 析させようとしたときの典型的なパターンが現れておるからな。亘 理氏から聞いた二つの﹃鍵﹄の話からして、まず間違いないであろ う﹂ ﹁⋮⋮ってぇと、ネットでの情報のやりとりに使われるあれですか ?﹂ ﹁陽司、知ってるの?﹂ ﹁まあ、ちょっと初歩を舐めた程度だけどな⋮⋮。たしか素数から 秘密鍵と公開鍵を生成する、って奴でしたっけ?﹂ ﹁ほほう、亘理氏にしてはなかなか勉強をして居るではないか。そ もそもRSA暗号とは桁数の大きい合成数の素因数分解が困難であ るという事実に基づいて作られた公開鍵型の暗号で︱︱﹂ ﹁ストップ!ストップ!あんまり専門的なウンチクを語られてもお れ達じゃ理解できませんよ!⋮⋮まあなんだ、世界中の誰もが暗号 化できて、なおかつコンピューターで解析しても解析するのは事実 上不可能に近いっていう、ネット上で使うにはとても便利な暗号の ことさ﹂ ﹁いや、陽司、やっぱりよくわからないんだけど⋮⋮﹂ RSA暗号とは、﹃秘密鍵﹄﹃公開鍵﹄という二種類の数列を使 用する暗号である。 詳しい計算式は省略するが、他人に知られたくない文章や数字を ﹃公開鍵﹄と組み合わせることで暗号文を作る。そしてその暗号文 806 を﹃秘密鍵﹄と組み合わせることで、元の文章や数字に戻すことが 出来るのである。 この暗号の便利なところは、﹃公開鍵﹄︵と計算式︶さえ知って いれば世界中の誰もが簡単に暗号を作ることができ、かつ、﹃秘密 鍵﹄を知らないと︵暗号を作った本人でさえ︶元に戻すことができ ないという点である。 実は我々も、日常生活でこのRSA暗号を頻繁に使用している。 たとえばネットショップで注文をする際、﹃お客様の送信する情報 は、SSL暗号化により保護されています﹄なんて表示を見たこと はないだろうか。このSSL暗号化︵の一部︶に使用されているの がRSA暗号である。 注文の内容や住所やクレジットカード番号。もしもこれらを送信 するとき他人に読み取られてしまったら大変なことになる。それを 防止するため、パソコンは情報を﹃鍵﹄によって暗号化して送信す る必要がある。 だが、﹃鍵﹄で暗号化するにせよ、受け取った相手が﹃鍵﹄を使 って暗号を解読できなければ意味がない。かといって、相手に﹁こ ういう﹃鍵﹄を使って暗号化しましたよ﹂あるいは相手から﹁こう いう﹃鍵﹄で暗号化してくださいね﹂などという情報をやりとりし ていたのでは、その﹃鍵﹄を読み取られてしまえば意味がないので ある。 そこで使用されるのが、このRSA暗号である。 ネットショップで注文をする際、パソコンはそのショップがイン ターネットで全世界にオープンにしている﹃公開鍵﹄を読み取り、 それを元に、注文内容や番号、住所などを暗号化する。仮にこの暗 号を盗まれても、﹃公開鍵﹄だけでは暗号を解読することはできな い。ネットショップが持っている﹃秘密鍵﹄を使用して初めて、元 の情報に戻すことができるのである。世界中のどこから注文しても 簡単に暗号化できて、かつ、﹃秘密鍵﹄を知らない限り誰も解読で 807 きない。まさにインターネットでの情報のやりとりにうってつけの 暗号と言えるだろう。 ﹁まあ、正確に言うとネットショップが直接﹃秘密鍵﹄を持ってい るわけじゃなく、間のネットワークにあったり、他にも色々細かい ところがあるんだけどねー﹂ ﹁⋮⋮でも亘理さん、腑に落ちません。﹃公開鍵﹄で誰でも暗号を 作ることができるのであれば、﹃公開鍵﹄をコンピューターなどで 解析すれば、暗号を解読することも出来そうな気がするのですが?﹂ ﹁理屈の上では可能だよ。実際、﹃秘密鍵﹄と﹃公開鍵﹄はもとも と同じ数から作られているしね﹂ ﹁じゃあちっとも安全じゃないじゃない!?﹂ ﹁ただし時間がかかる。今のネットショッピングで使われている標 準レベルの﹃公開鍵﹄を解析して暗号を解読しようと思ったら、一 秒間に億や兆の回数を計算できる現代のコンピューターを駆使して さえ、何年、もしかしたら何十年何百年もかかるのさ﹂ ここらへんは数学の世界の奥深いところである。 ﹁⋮⋮まあ、そんな細かい話は興味があれば調べればいいだけのこ と。問題は﹂ おれは紙片に羅列された数字を見やる。羽美さんが言葉を継いだ。 ﹁左様、これがRSA暗号である以上、もう一つの﹃鍵﹄がないと 解読するのは事実上不可能に近い、ということであるな﹂ ﹁もう一つの、﹃鍵﹄⋮⋮﹂ ﹁ファリスの言うことが正しいのであれば、二つの﹃鍵﹄とやらは、 ﹃公開鍵で暗号化された金脈の情報﹄と、そしてそれを解読するた めの﹃秘密鍵﹄ということになるな﹂ ﹁秘密の鍵、ですか⋮⋮﹂ 808 解析ソフトを終了した羽美さんがLANを繋ぎ直す作業に入って しまうと、ぽそりとファリスは呟いた。 ﹁確かに聞いたことがあります。セゼル大帝の敵は、皇族や親族。 近しい者ほど信用できなかったと。セゼル大帝は敵対する派閥や海 外に部下達を潜ませ、暗号で連絡を取り合っていたそうです。しか も部下達は暗号を作る事が出来ても、解読はセゼル大帝本人にしか 出来なかったとか﹂ ﹁⋮⋮そりゃあまた、徹底したもんだ﹂ そうでもしなければ、陰謀と諸外国の思惑が渦巻く国の中で王な どやっていられないのかも知れない。王様なんぞ、つくづくなるも のではないと思う。 ﹁ってことは、セゼルから受け継いだっていう君の﹃鍵﹄は、セゼ ルが暗号解読に使っていた﹃秘密鍵﹄ってことか。⋮⋮しかしそう なると、なんでまた遠く離れた日本に﹃暗号化された金脈の情報﹄ なんてものが残されたのかがわからんなあ﹂ ﹁⋮⋮それは⋮⋮﹂ ﹁ところで陽司、﹃アル話ルド君﹄の修理頼まなくて良かったの?﹂ ﹁おっ、いかんいかん、暗号話をしていたらもう一つの用件を忘れ るところだったぜ。羽美さーん!﹂ フラッシュバン ﹁騒々しいぞ亘理氏。この六畳間で大声なぞ上げんでも充分聞こえ るわ﹂ ﹁すいませんね、コイツ、ストロボを閃光弾モードで使用したら動 かなくなっちまいまして﹂ そう言っておれは、支給されている多機能携帯﹃アル話ルド君﹄ を差し出した。最近ではバージョンアップの末、ほとんど高性能な デスクトップPCと変わりない機能を獲得しつつある。 ﹁また壊したのかね?フラッシュバンモードはオマケ機能だから使 うなと言っておいただろうに﹂ ﹁オマケ機能でも何でも、あれば使うのが家電ってものじゃないで すか。すみませんが予備との交換お願いしますよ﹂ 809 ﹁常々言っておるが亘理氏、小生はフレイムアップの技術支援担当 であって、小道具の修理係ではないぞ﹂ ぶつぶつ言いつつも、手際よく﹃アル話ルド君﹄のケースをこじ 開ける羽美さん。そこにはバッテリーやカメラ、そしてびっしりと 電子部品が敷き詰められたプリント基板が整然と収められていた。 ﹁コンデンサが破損しておるな。やはりタンタルコンデンサといえ どもこの電圧ではもたんか﹂ ﹁コンデンサ、とはなんですか?﹂ 物珍しげに問うてくるファリス。だんだん判ってきたのだが、ど うやらこのお姫様、結構機械ものに興味があるらしい。 ﹁電流を蓄えて、必要時に大容量で放出する部品だね。カメラを撮 影するときに使うフラッシュなんかは、このコンデンサがバッテリ ーの電気を蓄えて、一気に発行させることであの眩しい光を作り出 すんだ。君を助けた時はこれを応用して、本来の限界値以上に電気 をため込んで、相手の眼を潰すくらい強力な光を放ったのさ﹂ ﹁おかげでコンデンサどころか、周囲の部品までまとめてお陀仏で あるがな!﹂ ﹁限界以上のチャージが出来るよう実装したのは羽美さんでしょう に﹂ ﹁だって仕方ないであろう!?携帯電話が閃光弾になったらちょっ と面白いかなとか、誰でも一度は考えることがあるだろう?﹂ ﹁⋮⋮否定はしませんよ﹂ まだ試してはいないが、同様に本体の破損覚悟でスタンガンやレ ーザー照射、音響爆弾も使用可能だそうである。 ﹁噂には聞いていましたが、日本のケータイの進化というのは凄い ものですね﹂ ﹁あ、あくまで例外だからね?こんな物騒な機能がついているのは 日本でも多分これだけだからさ﹂ まあ、色々と妙な機能がつくのは、進化に行き詰まった電化製品 の宿命でもある。日本のケータイのガラパゴス的進化は果たして今 810 後どうなるのであろうか。 ・・ ﹁⋮⋮でもまあ、結果として、その機能に助けられたわけだしね。 ケータイ 君がそれで連絡をくれなかったら、到底間に合わなかった﹂ おれはそう言って、ファリスの携帯を指差した。彼女はさらわれ そうになったとき、とっさに登録したまま画面に残っていたうちの 事務所の番号をワンコールしていたのである。このタイミングで海 外ナンバーのワンコールが何を意味するか気づけないほどウチの事 務所は間抜けではない。そしてあとは羽美さんがGPSをアレして 位置情報をコレして場所を特定し、おれ達が動いたというわけであ る。 ﹁しかし、ルーナライナで私が持っている携帯電話とは性能が違い すぎます﹂ ﹁そりゃやっぱり、部品の高性能化、小型化が大きいかな。このタ ンタルコンデンサ一つ取っても、従来のセラミックコンデンサと比 べて格段に性能が上がっているからねえ﹂ ﹁ま、その分値段はしっかりお高くなるわけだがな、亘理氏。修理 代は報酬から天引きでよいな?﹂ ﹁実験費、ってことで落ちませんかねえ?﹂ ﹁そう交渉してみるかね?﹂ ﹁遠慮しておきます﹂ ⋮⋮さすがにこればかりは仕方がない。経費をケチってどうにか なる状況ではなかったのだから。 ﹁ねぇ、陽司、これからどうするの?﹂ 真凛が問うてくる。ふむ。そう言えば朝からバタバタだったせい ですっかり時間感覚を失っていたが、時刻はまだ昼を回った程度。 本格的に調査をするには遅く、明日に持ち越しするには早い時間だ った。 ﹁どうせなら、今夜の映画で︱︱﹂ ﹁じゃあ、ちょっと大学に顔を出すとするか﹂ おれは羽美さんから受け取った予備の﹃アル話ルド君﹄をポケッ 811 トに収めると立ち上がった。 ﹁大学、って、陽司の?﹂ ﹁ああ。東京都高田馬場、相盟大学。ここから歩いても十五分程度 だからな﹂ ﹁それは知ってるけど⋮⋮今日、なんか特別な用あったっけ?﹂ ﹁ああ、そりゃあね。仕事も仕事、こちらが本命さ﹂ そう言っておれはファリス王女を見つめる。 ﹁じゃあ案内するよ、ファリス。おれ達の大学、相盟大学を。君の 留学先に相応しければいいんだが﹂ おれの言葉を半分予期していたのだろう。ファリスはどこか思い 詰めたような表情で頷いた。 ﹁︱︱はい。ご案内よろしくお願いします、亘理さん﹂ おれは将来の後輩候補生に向かって笑ってみせる。 事情を飲み込めない真凛が、不思議そうにおれ達を交互に見やっ ていた。 812 ◆12:ルート・ジャンクション 王太子時代に日本に留学していた﹃大帝﹄セゼルは、王に即位し てからもその親日家としてのスタンスは変わらなかった。彼はその 黄金を元に、日本との交易を希望していたとも言われるが、冷戦当 時のソ連と中国に挟まれたという地勢と、戦後日本伝統の事なかれ 外交主義に阻まれ、叶うことはなかったのだそうだ。 だが交易こそ実現しなかったものの、国際親善の名目で人の交流 はわずかながらも続いていた。日本からは掘削や精錬の技術者、日 本語講師等らがルーナライナを訪れ、またルーナライナの王族の間 では、十代後半から二十代にかけて、日本の大学に留学をすること が珍しくなかったらしい。相次ぐ内乱でそんな留学話はとんと途絶 えていたのだが、このたび今年十八歳の誕生日を迎えるファリス皇 女殿下は、こんな時期だからこそ、親善のため、また王族に相応し い教養と人脈を身につけるため日本への留学を希望し、そのために 大学の下見に訪れたのである︱︱というのが、﹃鍵﹄の探索にあた って彼女がこじつけた表向きの出国理由なのであった。 ﹁であれば、ちゃんと大学も見学しなくっちゃな﹂ 日が傾きつつある早稲田通りを歩くおれ。ファリス、真凛が後に 続く。 事務所を出て飯田橋方面に向かって十五分ほどで、ほどなく商店 街や貸しビルの間に埋もれた総合公園のようなキャンパスが視界に 入ってくる。 私立相盟大学。日本でも比較的名の知れた大学であり、現在おれ が文学部生として通う母校でもある。そして何より、今回ファリス 皇女殿下が留学先として希望する大学でもあった。 813 ﹁とりあえずここだけ見ておけば、大義名分も立つんじゃないかな﹂ ﹁ありがとうございます、陽司さん。⋮⋮すみません、こんな観光 ガイドみたいな仕事までお願いしてしまって﹂ 都内を歩くには目立ちすぎる、というしごくもっともな理由から、 所長と来音さんの手による措置が施され、ただ今ファリスは大きめ の帽子の中にその豊かな銀髪をすっぽりと収め、紫の瞳を隠すため に色の入った野暮ったい厚いフレームの眼鏡をかけている。どうみ ても不審人物なのだが、割と﹃とんがった﹄ファッションに走る私 服姿の学生の中に埋もれると、それほど違和感を感じないあたりが この学校の懐の深さか。 ﹁ああ、気にしないで。言ったとおり、こっちが本命なんだからさ﹂ 彼女の表向きの出国理由に合わせて、おれ達の任務も一応は﹃ル ーナライナからやってきた裕福な家柄の留学生を東京案内する﹄と いう事になっている。⋮⋮こんな胡散臭い業界でも、タテマエとい うものは必要というわけだ。それに、たとえばオプショナルツアー を希望する観光客相手に、突発でツアコンをやってのけるというの は、むしろ本来の派遣社員としてはなじみ深い任務でもあった。 ﹁東京都内だと何かと金がかかるんで、近頃はどこの大学も郊外に キャンパスを移転しているんだけどね。ここは珍しく、都内に一極 集中してるのさ﹂ 文学部、法学部、政治経済学部、教育学部、理工学部等々がこう まで一箇所に集中している大学は、今となっては珍しい部類に入る だろう。おれは日ごろの通学路、商店街を抜けて正門へ至るコース を辿る。換気扇から店外へ排出されるタイカレーの香りが、雑食性 の学生ランチタイムの名残を示している⋮⋮ってそこのお子様、物 欲しそうな顔をするんじゃあありません。 ﹁だってタイカレーって、おいしそうじゃない?﹂ ﹁今度連れてってやるから好きなだけ喰え﹂ おごってはやらんがな。そして特辛レッドカリーを喰って悶死す るがいいわ。 814 ﹁タイカレーが東京で食べられるのですか?﹂ ﹁ああ。ここは結構いろんな国の料理が集まるんだ。インド料理、 トルコ料理、台湾料理。あと珍しいところではペルシア料理なんて のもあったな。学生向けだから財布にもやさしいよ﹂ ﹁ルーナライナって、どんな食べ物があるんですか?﹂ ﹁そうですね。主食は⋮⋮対応する日本語がないですね⋮⋮牛の挽 肉とタマネギ、香辛料をベースとしたものが多いですよ。よく炒め てドライカレーみたいにしたものを、小麦の麺にかけて食べたりと かしています﹂ ﹁麺にカレーですかぁ。じゃあ、カレーうどんとかも大丈夫ですか ?﹂ ﹁カレーうどん!ええ、一度食べてみたかったのです。なんでも日 本人がインドとイギリスの叡智を取り込み自国の文化と融合させて 作り出した食の芸術だとか﹂ ﹁じゃ、じゃあ、この近くにカツ丼屋さんがあるんですよ。そこは カレーうどんもおいしいんです。あとで行ってみませんか?﹂ ﹁真凛さん、それはとても素敵な提案です。ぜひお願いいたします !﹂ きゃいきゃいとうどんの話題で盛り上がる二人。うどん食ってる お姫様ってのもなかなか斬新ではあるが、まあ年少組同士仲良くな ったようで何よりである。 そして校門へ。無骨な新宿区の道路とキャンバスを隔てる並木を 見上げ、ふといつぞやのフィギュア奪還の仕事を請け負ったときの ことを思い出す。あの頃はセミが鳴いていたというのに、今はもう 葉が舞い落ち、枝をさらし始めている。ちょうど午後の授業が終わ った時刻で、教室を移動する学生が校舎からあふれ出してくる。 ﹁ここがメインストリートだね。向かって右側が法学部の校舎、左 側が政治経済学部。奥にあるのは教育学部と理工学部﹂ ﹁相盟大学⋮⋮ここが⋮⋮﹂ 815 ざっくりとしたおれの説明に、しきりに周囲を見回すお姫様。も ちろん数時間で全部を見て回れるはずもないから、今日のところは 感触さえ掴んでもらえればいい。 ﹁ボクも中に入ったのは初めてですよ﹂ ﹁真凛さんはどこの学校に通われているんですか?﹂ ﹁あ、この近くにある、別の女子高です。大学も近くにあるんです よ﹂ ﹁とりあえず、この通りの突き当たりに留学生向けのセンターがあ るんだ。入学したとしたら何かとそこを拠点とするだろうし、まず はそこまで案内するよ﹂ 掃除をしてもすぐ埋もれてしまう落ち葉を踏みしめつつ中へ。穏 やかな晩秋の午後、設えられたベンチに腰掛けた学生たちが、皆思 い思いに時間を過ごしている。試験に向けてノートの回し読みをし ていたり、女子同士のおしゃべりに花を咲かせていたり、携帯ゲー ム機での対戦に興じていたり、おそらくサークル活動なのだろう、 楽器を演奏していたり。ごくごくありきたりのキャンバスの風景だ った。 ﹁あの方たちは、政治について意見を交わしているのでしょうか?﹂ ファリスの視線の先では、三人ほどの学生が、何やら政治家の献 金問題について与党の隠蔽体質と、野党の追求の弱腰ぶりについて アツい討論を交わしていた。 ﹁まぁ、ネットの掲示板で流れているのに毛とツノが生えたくらい だけどね﹂ 最高学府の学生の議論といえども、九割程度はそんなものである。 だが残りの一割くらいには魅せる論を吐くヤツやユニークな指摘を するヤツがおり、そのうちジャーナリズムの世界に身を投じたり、 政界に進むヤツも出たりするからなかなか侮れない。 ﹁往来で政治の話を口に出来るのですね⋮⋮﹂ ﹁ま、まあね。最近だとこう、ツイッターで色々幅広くやりあって るヤツもいるよ﹂ 816 ちなみに﹃アル話ルド君﹄も対応済である。 ﹁ツィッターですか。私の国でもみんなやっていますよ﹂ ﹁へぇ、それはちょっと意外かな﹂ ﹁あれなら、ネットワークが検閲されていても外の情報を手に入れ られますから﹂ ﹁⋮⋮﹂ いかん、どうにも話題が深い方に沈んでいってしまう。 ﹁しかし、東京でも大学は数あるだろうに、なんでまたウチの大学 を?﹂ 所長に聞いた話だが、家庭教師について学んだファリス皇女の学 力はかなりのもので、国の学校が機能していないため点数づけ等は されていないものの、日本のどこの大学でも充分に狙えるほどだと か。 ﹁それは⋮⋮、フレイムアップさんの事務所から近いと聞いていま したから﹂ ﹁⋮⋮ふぅん、そう﹂ おれはぞんざいに頷くと、歩を進めた。やがて大きな噴水に辿り 着く。 ﹁ここがキャンバスの中央、﹃相盟の井戸﹄、ってやつ。もともと ウチの学校はこの井戸のそばにあった私塾が元になってるんだって さ﹂ 今ではその井戸も石造りの噴水へと造り替えられ、各校舎の間を 移動する学生たちのジャンクションとなっている。ちょうど午後の 授業が終わった時刻で、多くの学生が校舎からあふれ出してくる。 先ほど以上にごった返すキャンパス。おれは真凛とファリスをはじ っこに寄せてやり過ごしつつ、なんとなく辺りを見回す。と、おれ は見知った顔を見つけ声をかけた。 ﹁どーも、就活お疲れ様っす﹂ ﹁おー亘理、亘理じゃねーの。おめーが顔出すなんて珍しいじゃん﹂ ベンチで遅めの昼食を摂っていた学生が顔を起こす。周囲の緩ん 817 だ私服姿の学生とは異なり、黒の背広一式を身に纏っている。この 人はおれが時々顔を出すサークルの三年生で、飲み会に誘ってもら う程度には仲が良かった。 ﹁調子はどうっすか﹂ くたび 質問しつつも回答はだいたい予測できていた。まだ新しいのに妙 に草臥れた背広、まだ世慣れない学生の仕草と不釣り合いな疲れ切 った表情が、昨今の就職活動の厳しさを物語っている。 エントリーシート ﹁どーもこーもねーぜったく。二次面接までこぎ着けたのが二社。 一次が七社。あとは全部ESでハネられちまったわ﹂ ﹁マジっすか⋮⋮﹂ この先輩、ゆるい口調とは裏腹に、経営学の論文で賞を取る程の 優秀な人だったりもするのだが、その彼にしてこの戦績とは。つね 日ごろニュースで流れている就職氷河期の恐ろしさを改めて実感す る。 ﹁午後から虎ノ門でまた面接だよ。⋮⋮おめーも二年だろ?そろそ ろ準備を始めておいた方がいーぜ。ま、おめーは要領いーからそこ らへんは抜かりねーだろーけどよー﹂ ﹁肝に銘じておきますよ﹂ つい半年前までは徹夜で酒を飲んでバカ話をしていた先輩の世知 辛い話に、やや暗澹たる気持ちになりながら相づちを打つ。 ﹁先輩は銀行志望でしたよね﹂ ﹁あー。ウチほれ、親が町工場で兄貴が結婚して継いだだろ。だか ら俺はカタいとこ行って、イザって時はカネ関係で助けられるよー にってネライさ﹂ ﹁⋮⋮立派だと思います﹂ 過不足無しにそう思った。大学時代とはある意味特殊な空間なの だと思う。個々人が背負った環境や背景から解放され、﹃学生﹄と いう平等な存在として扱われる。共に学びバカをやり、そして学生 生活が終盤を迎える時、家の都合、経済状況、親の期待といったも のに追いつかれ、過ごしてきた時間が夢のように楽しく貴重だった 818 と気づくのだ⋮⋮なんてのは余りにも穿った見方だろうか。 ﹁って亘理、後ろの二人は?﹂ ﹁ああ、見学希望者ですよ﹂ おれはさらりと流した。ちょいと注視すれば一人は世にも類い希 な高貴さ漂わす美少女であると気づいたはずだが︵もう片方のお子 様も少年に見えるがまぁ面立ちは整っていると認めてやらんでもな い︶、大分煮詰まっている雰囲気の先輩はそーか、と呟いたのみで、 すぐに手元の昼食とエントリーシートに没入してしまった。おれは 軽く会釈すると、引き続き二人を連れてさらに奥へと案内した。 ﹁ねぇ陽司﹂ 道すがら真凛が問うてくる。 ﹁なんだよ﹂ ﹁陽司も、来年はああやってシューショク活動するの?﹂ ﹁⋮⋮どうだろうな﹂ 大学以後 を真面目に考えなけれ 今現在、おれは二年生。欠席による留年さえなければ来年には三 年だ。三年生となればそろそろ ばならない時期だ。︱︱真っ当な学生なら。 ﹁例えばさ、なんかやりたいことがあるぞ、とか、おれの夢はこれ !とか﹂ ﹁夢、ねぇ﹂ おれは視線を遠くへ飛ばす。そういやそろそろ、学生には﹃面接 官を説得するためのエントリーシートの書き方∼志望動機を明確に しましょう∼﹄なんて資料が回ってくる頃合いだ。 ﹁そうさなぁ∼若ぇ頃はそんなのも持ってたような気がするのぅ∼﹂ ダメ学生よろしく韜晦してみせる。 ﹁冗談なしで。どうなの?﹂ ﹁⋮⋮おおい、そこは﹃なに年寄り臭いこと言ってんの﹄とかツッ コむところだろうがよ﹂ 苦笑いしながらふり返り︱︱真凛の表情が存外にマジだった事に 819 気がつく。 ﹁陽司ってさ、アタマはいいと思うけど、逆に得意な教科も苦手な 教科もなさそうだよね。文学部ってことは、現国、とか?﹂ ﹁おまえさん妙に食い下がるね﹂ 教科だの現国だのという言い方に、ああコイツ高校生なんだなぁ と妙に実感もしたり。 ﹁だってさ。⋮⋮シューショク活動するんだったら、いつまでもフ レイムアップの仕事を続けるわけにもいかないんじゃない?それに ︱︱﹂ 語尾はアヤツらしからぬもごもごとした言葉に化けてしまって聞 き取れなかった。先ほどの先輩のコメントにあてられたか、おれも 少し態度を改める。 ﹁⋮⋮そうだな。いずれマジメに考えなきゃいかんよなあ﹂ ︱︱嘘をつくな。 ・ ヒビの入った欠陥品の分際で。何が、いずれ、だ。 脳裏から覗き込む、俺の声。 それを努めて無視し、思考を走らせる。 夢。 一生をかけて捧げてもよいと言えるだけの目的。 それに関わり続ければ幸せだと信じられるだけの趣味や嗜好。さ て、そんなものおれにあっただろうか。現国⋮⋮いわゆる現代文学 なんぞには実のところとんと興味はない。はて、じゃあおれは何で 相盟大学文学部に入学したんだっけか。確かに進学の際は文学部を 志望していたはずなのだが。 ︱︱いいや、それも偽りだ。 820 勉強なんてどうでもよかった。 ただ、前みたいに三人で居られれば。 姉みたいな晴霞さん、そして、兄みたいな、彼女とお似合いの︱︱ ﹁どうしたの?﹂ ﹁⋮⋮いや、なんでもない﹂ 脳裏に走ったノイズに顔をしかめる。いかんいかん、くだらない ことを思い出すところだった。話題を転換する必要があるな。 ﹁人に夢云々を聞く前に、お前はどうなんだよ真凛﹂ ﹁え!?ボ、ボク?﹂ ﹁ふふん、そうだ。お前の夢ってヤツも、まだおれは聞かせてもら ってないぜ﹂ どうせ宇宙最強とかそんなだろうが。 ﹁えっと、それはその⋮⋮﹂ 何故そこで顔を赤くするのだろうか。ともかく話をそらすことに 成功したおれは質問をたたみかける。 ﹁進路はどうなるんだ?お前のところは確か大学まで一直線だった はずだが﹂ 気を抜くとすぐ忘れてしまいがちになるが、こいつはこれでも元 士族のお嬢様であり、学校は小中高大一貫のエスカレーター教育。 本来であれば、朝の挨拶はごきげんようでもおかしくないのである。 ﹁あ、うん。⋮⋮大学にはいかないかも。家を継ぐから﹂ ﹁ああ、そうか﹂ おれは納得した。コイツは元士族のお嬢様である以前に、武術の 流派の後継者なのだ。流派本来の姿は情無用の殺人技術だが、オモ テの顔として一般向けの﹃普通の﹄護身術道場、またその理にかな った立ち居振る舞いに基づく礼法の家元としての顔も持っている。 格式はかなり高いらしく、上流階級の子女を中心に門弟の数も中 々。真凛はいずれ伝統に則り正式な頭首となり、以後は門弟の指導、 公式行事や神事への出席が義務づけられることとなる。ある意味お 821 れなぞよりずっと、社会に﹃組み込まれて﹄いるのかも知れない。 ﹁そう考えると、おれ達が組む期間も、長くてあと一年前後ってと こかー﹂ おれが就職活動するにせよ、コイツが家を継ぐにせよ。 ﹁そう、だよね﹂ ﹁やれやれ、こりゃあ尚更さっさと一人前になってもらわないと困 るな。頼むぜおい?﹂ おれは真凛の肩をかるく肘でつついた。真凛は少しだけ大人っぽ い表情で、わかってる、と言うと、 ﹁あ、ほら、あれがそうじゃない?﹂ インターナショナルエデュケーション そう言って、真新しい建物を指さした。金属のプレートには﹃相 盟大学国際留学センター﹄と刻まれていた。 822 ◆13:国際交流︵未成年お断り︶ おれ達が中に足を踏み入れるなり、連中は一斉に話しかけてきた。 ﹃ようワターリ、なんかうまい儲け話ないか?﹄ ヨンシー ﹃ねぇよフェルディナンド、あればこんなトコ来てねぇって﹄ ホンシィ ﹃ハァイ陽司!今日はこないだのイケメンいないの?﹄ ﹃どもー香雪!直樹の野郎はメカ棺桶作りに忙しいってよ﹄ 国際留学センターの一階はテーブルや椅子が並べられた広いロビ ーとなっており、東西南北、様々な国からの留学生達が軽食や缶ジ ュースを買い込んでたむろしていた。壁際には誰かがジャンク屋で 見つけてきたらしい無駄にデカいスピーカーが据え付けられ、接続 されたiPhoneから流し込まれたアイリッシュ音楽を大爆音で まき散らし、癒し系だか環境妨害なんだかわからない不思議空間を 作り出している。英語を中心に無数の言葉が飛び交い、当然のよう にアルコールも転がされておりカオス極まりない。高校の部室や大 学のサークル棟の惨状を数十倍にしたようなもの、といえばご想像 いただけるだろうか。 ﹃メカ棺桶?それはあのミセス・イスルギの作品だろうか、亘理サ ン?﹄ ﹃おお元気かロディ?お前が研究室から出てくるなんて珍しい。あ と羽美さん一応まだミスのはずだからー﹄ ﹃亘理君、そろそろ授業にちゃんと出てくださらない?そろそろ里 村先生のチェックも厳しくなってきて貴方の代返も限界なのよ﹄ ﹃ごめんナターシャ、古典の研究ってのはどうにも性に合わなくっ てさー代わりに以前別の友だちに作ってやった会計学のレジュメあ げるからー﹄ 溜まっている留学生達に適当に言葉を返す。任務以外でほとんど 外国人と出会うことがない真凛は、ぎゃんぎゃんとハイテンション 823 で飛び交う雑多な言語が全く理解できずパニックに陥り、また日本 に来たばかりのファリスもすっかり呑まれてしまい、二人しておれ の背中に隠れて目を白黒させている有り様である。 ﹁よ、陽司、いつもこんななの、ここの人達?﹂ ﹁いーや、まだ昼だし酒も少ないからまともな方。以前ナターシャ のロシアの実家からウォッカの仕送りがあった時はホント酷かった﹂ ﹁に、人気なんですね亘理さん⋮⋮﹂ 肩越しにささやくファリス。 ﹁あーいや、そうでもないよ。連中の母国語が一通りしゃべれるの がおれだけだったから、入学当時に色々面倒見させられて、ずるず る付き合いが続いてて、って感じ﹂ ﹁そ、そうなんですか﹂ ﹃よーう亘理、元気そうじゃないか。またバイトだったのか?﹄ ﹃ひさしぶりサホタ。バイトだった、っていうより今もバイト。現 在進行形﹄ ﹃バイト?お前のバイトってアレだろ、胡散くさい日雇いの⋮⋮﹄ インドからの留学生、サホタがそこまで言葉を続けたところでお れの後方に視線を転じ絶句する。まあそれはそうだ。室内に入り、 帽子と野暮ったい色つき眼鏡を取り去ったファリスの瞳は、ちょっ とした人種の坩堝であるこの室内でも一際異彩を放っていた。 ﹃おい亘理⋮⋮なんだよそのすっげー可愛い子は﹄ ﹃もしかして⋮⋮まさか、アレか?﹄ 他の連中もたちまち寄り集まり始めた。おれはそれにややもった いぶって間をおいた。視線が焦点を結び、連中の興味と注目が最高 潮に達する︱︱その瞬間を見計らって、おれはにやりと笑みをひと つ、トリガーを引いた。 ﹃あぁ、そのまさかだよ野郎ども!紹介するぜ!入学希望者、来年 もしかしたらお前等の後輩になるかも知れない、ルーナライナ出身 のファリスちゃんさぁ!!﹄ 一拍置いて、WOOOOOOOOO!とわき起こる怒号。 824 ﹁ちょ、ちょっと亘理さん?﹂ ﹃マジか、ルーナライナってこんな可愛い子がいるのかよーなーい つ入学してくんの?部屋は決めた?寮住まい?このあたりにイイ飲 み屋あるんだけどさー﹄ ﹃⋮⋮美しい﹄ ﹃あ、あの、ありがとう、ございます﹄ ﹃ねぇアナタその銀髪スゴイ自然だけどどうやって染めたの?え? 嘘、地毛?マジで?目も?カラコンじゃないの?マジでマジでー! ?﹄ ﹃え、はい、生まれつきです、一応⋮⋮あの、亘理さん⋮⋮!﹄ 四方八方を取り囲まれて質問攻めにされるファリスが目線でこち らに助けを求めてくるが、笑顔で受け流すことにした。もちろん﹃ 鍵﹄を探すためのお忍びの来日ではある。だが肝心の敵対勢力にバ レてしまっている以上、下手に隠すよりも、いっそ情報を広めてし まった方が、少なくとも闇から闇に葬られることはなくなると言う ものだ。⋮⋮ま、実際のところそれはあくまでタテマエで。 ﹁これが学生生活ってヤツだよ。家庭教師とのマンツーマンに比べ ると、効率は悪いかも知れないけどね。わりぃけど、しばらくそい つらの相手してやってて﹂ ﹁え、えぇー?﹂ 留学生たちの間にうずもれていくファリスを、おれはアタタカい 眼差しで見送った。 ﹁陽司、いいの?ファリスさんのこと﹂ 銀髪の皇女を囲んで盛り上がる留学生たちの輪を見やりつつ、真 凛が問う。 ﹁たまにはいいんじゃねぇの?あんまり同年代の友人とかいなさそ うだし。ああいう生真面目な子は、強引に振り回した方がかえって ハメを外せるもんさ﹂ 825 ﹁詳しい、んだね。今日会ったばっかりなのに﹂ ﹁ん?ああ⋮⋮﹂ そういやそうだったな。彼女については、初対面にも関わらず、 無遠慮とも言えるくらい踏み込んでしまった。その理由をおれは考 え、ふと思い至った。 ﹁どうもあの子、他人とは思えなくてな﹂ ﹁それってどういう、﹂ ﹃おーい、ワターリ!﹄ 横合いから、張りのある低音でイタリア語が飛んできた。 ﹃ワターリ、お前の後ろに隠れているその子はなんだ﹄ 振り向くと、南イタリアからの留学生フェルディナンドが居た。 外見はいわゆるイケメンの部類だが、少女漫画の王子様タイプでは なく、特濃ソースを大鍋で煮詰めたような、顎の割れた濃ゆい顔の セクシー胸毛イケメンである。 ﹃ん、こいつ?あー。バイト先の後輩。一応仕事中なんでな﹄ ﹃後輩?お前のバイトと言えばあの危険な仕事だろう?それにこん な子供が⋮⋮﹄ 濃ゆい顔を近づけて覗き込むフェルディナンド、イタリア語にビ ビっておれの背後に回り込む真凛。するとヤツは、野太いイケメン 笑顔を浮かべてこう言ったものである。 ﹁アーアナタ。アナタモ、ワターリノ、オシゴトイッショノヒトデ スカ?﹂ ﹁は、はいその、えぇっと⋮⋮﹂ ﹁あーいや、雑用係みてーなもんだよ、うん。気にすんな﹂ ﹁誰が雑用係だよっ!アシスタントでしょ!?﹂ ﹁あ、バカ⋮⋮﹂ 思わず首を出しておれに噛みつく真凛。エルナンドはその顔をま Seipropb re il ola じまじと見つめていわく。 ﹃⋮⋮愛らしい⋮⋮!﹄ ﹁えっ?﹂ 826 ﹃おお、愛しい人よ!君のような美人と出会えるなんて、俺はイタ リア中の男に殴られても文句が言えない幸運な男だ!君の黒い瞳と 黒い髪の前では、クレオパトラが飲み干した黒真珠だって恥じ入る だろう!!﹄ ﹁よ、陽司この人いったいどうしちゃったの?﹂ えぇい、迂闊な奴め。フェルディナンドは重度の黒髪フェチで、 髪の毛を染めていない日本人女性と見るやスイッチが入り、ところ かまわずオペラ調で口説きにかかるという病癖の持ち主なのである。 ﹁あー、なんかお前の目と髪の色が珍しいってさ﹂ 情報を取捨選択してわかりやすくするのも通訳の務めである。 ﹁そ、そうなんだ。は、はろー、じゃなくて、ちゃおー、ぐらっつ ぇ、みれ?﹂ おれの隣で聞いているうちに覚えたのだろう、片言であいさつを 返す真凛。まさかイタリア語で返事があるとは思わなかったらしく、 嬉しさの余りか、雷に打たれたように身を震わせるフェルディナン ド。そして一拍おいた後、ガソリンの一斗缶をキャンプファイヤー の中に放り込んだようなイタリア語の濁流が返ってきた。 ﹃ああ、まさか天国から落ちてきた天使が日本にいたなんて。怪我 はなかったかい?その瞳、その黒髪はまさに東洋の奇跡だ。俺の心 は今この時から君のことを一瞬たりとも考えずには︵中略︶、いや 本当に君はまさしく芸術︵中略︶世界で︵中略︶素晴らしい虹のよ うな︵中略︶で︵中略︶を︵中略︶が︵中略︶だろう!﹄ なお、南部イタリア男の口説き文句を脳内で日本語訳するのは非 常に苦痛な所業なので、あえて中略させて頂いたことを諸兄には何 卒ご賢察賜りたい。 ﹁︱︱あ、えぇと、どうも、です﹂ もちろん真凛はまったく理解は出来ていないのだが、そんなこと を斟酌するフェルディナンドではなかった。 ﹃いやはや、日本には美人がたくさんいたが、これほど気品溢れる 美しい女の子に出会ったのは始めてだ。ワターリ、貴様なぜ今まで 827 隠していた?﹄ ﹃⋮⋮いやフェルナンド、お前アタマおかしいんじゃねぇの?こい つのどこが美人で気品が溢れてるって?﹄ ﹃頭がおかしいのは貴様の方だワターリ、こんな美しいレディが側 にいて何も思うところはないのか?﹄ ﹃あるわきゃないだろ﹄ ﹃そうか!うむ、決めた。彼女は俺と結婚してレモン畑を共に経営 マンマ する運命にある。大丈夫だ土地はある、一生苦労はさせないぞ。う ちのおふくろも気に入ること間違いなし。よぅしさっそく電話だ﹄ ﹁この、えっと、フェルディナンド、さんはなんて言ってるの?﹂ ﹁︱︱うむ。どうやら先ほど唐突に神の啓示を受けたらしくてな。 急遽実家に帰ってレモン畑を継ぐことになったらしい。実に残念だ。 ちなみに先ほどこいつが滔々と吐き出していたイタリア語は、神の 啓示への歓びなので、とくに注意は払わなくてよろしい﹂ ﹁でも、あの人、ボクに向けて言ってなかった?﹂ マンマ ﹁きっと気のせいであろう。彼は目の前に天使が見える体質なのだ よ。さっさと行くぞ﹂ 電話口でイタリアのおふくろさんから﹃アンタが嫁を見つけたっ て、これで何度目よ!?﹄と叱られているらしいフェルディナンド を横目に、おれはロビーの片隅に置かれている冷蔵庫からジンジャ ーエールを取り出し、真凛に注いでやった。 ﹁え、もらっちゃっていいの?﹂ ﹁ああ。むしろとりあえず飲まずにそれをキープしとけ。未成年の コップにも平気でワイルドターキーを流し込んでくる連中だからな﹂ そう言いつつ、頃合いを見て人混みをかき分け、今度はファリス のところに。 ﹃なぁなぁ、ルーナライナのどこらへんに住んでいるんだい?﹄ ﹃ルーナライナの首都、シークァという区域です﹄ ﹃彼氏いるの?いない?ウッソーしんじらんなーい﹄ ﹃あ、あの。あまり、そういう機会がなかったもので⋮⋮﹄ 828 ﹃日本に来たのは初めて?﹄ ﹃子供の頃に、何度か観光では来たことが﹄ ﹃一人っ子?ってか、兄弟はいるの?お兄さんとかいたら超イケメ ンじゃない?紹介してよー﹄ ﹃姉が二人います。兄⋮⋮と呼べる人は、いました﹄ 答えるたびに、留学生達の間から無駄に歓声や嬌声が飛び交う。 質問攻めに遭う彼女の手には、いつの間にか紙コップが握らされ、 留学生の一人がそこに焼酎を注ぎ込もうとしていた。おれはタイミ ングを見計らってそれに先んじ、ジンジャーエールを流し込んだ。 ﹃あ、ワタリてめぇ!せっかくファリスちゃんに秘蔵の黒霧島を飲 んでもらおうと思ったのに!﹄ ﹃悪いが今日は見学のみだ。彼女に好印象を持って入学して欲しい んだったら、未成年に飲酒はさせないようにな﹄ ﹃ちぇー、ウチの国じゃアルコールは十五歳からなのによー﹄ ﹃そう言うなよ、ほれ、代わりにこのサンクト・ヴァレンティンを くれてやろう﹄ ﹃おっ!?話がわかるじゃねーのワタリ﹄ さっきフェルディナンドとの会話がてら拝借したものだがね。そ の留学生を追っ払うと、おれは自分のコップにもジンジャーエール を注ぎつつファリスに身を寄せ、喧噪の中声を張り上げる。 ﹁どうだい⋮⋮!?うるさいけど、面白い連中だろ!?﹂ ﹁ええ⋮⋮!びっくりしましたけど、皆さんすごく楽しい人たちで すね!いつもこんなににぎやかなんですか!?﹂ ﹁ああ!こいつら、ここに住んでてね!毎日がこんな調子だよ!﹂ この留学生センターの二階以降は留学生向けの格安寮になってお り、ここで騒いでいる連中もおれ以外はみな寮の住人なのである。 ﹁留学生向けの⋮⋮寮、ですか﹂ ﹁ああ。君が希望して、ここからウチの大学に通うことも出来る。 部屋に空きがあれ ば、だけどね﹂ 829 物価高の東京で破格の家賃を誇るこの寮は留学生達に大人気で、 部屋は常に空き待ち、熾烈な奪い合いとなっている。そのため、あ る国出身の留学生が卒業するとき、同じ国出身の後輩に部屋を引き 継がせるのが、暗黙のルールとなっているのだ。もちろん卒業と同 時に同じ国の新入生が必ず入ってくるわけでもないので、何年か途 切れたり、しばらく別の国の留学生が入居すると言うことも当然あ り得る。 ﹁過去にルーナライナの留学生が誰か使ってれば、その部屋をシェ アしたりとか、譲って貰うなんて交渉も出来るんだけどね。もし部 屋があれば、見てみたいかい?﹂ ﹁見てみたいです﹂ ︱︱即答、だった。 ﹁ぜひ、見てみたいです﹂ ﹁⋮⋮そっか﹂ おれは一つうなずく。 場を見回すと、ファリスを囲んで始まったはずの騒ぎは、アルコ ールが行き渡ったことによって、もはやただの宴会と化していた。 狂騒の輪からファリスをだいぶ引き離し、真凛と共に留学生センタ ーの外へ逃がしたおれは、留学生の一人、サホタに近づいて声をか ける。 ﹃おう亘理、ルーナライナからの留学生とはまた、珍しいところか らのお客さんだな﹄ このサホタ、色々とアレな留学生どもの中ではまとめ役をつとめ ており、比較的意思の疎通が可能な人物なのである。 ﹃まあな。で、彼女が入学するかも知れないんだが、寮の部屋はま だ空いてたか?﹄ ﹃ルーナライナか。たしか俺達よりだいぶ前の世代に居たとは聞い ているなあ。今は他の国の奴が使ってるが、もしかしたら来年は空 くかも知れん。あたってみよう﹄ サホタは彼お気に入りのAcer製の大振りなノートパソコンを 830 その場で拡げると、寮の管理に使用していると思しき幾つかのエク セルファイルを拡げた。 ﹃デキる奴はレスポンスが早くて助かるよ。どうだ?﹄ ﹃えぇっと⋮⋮部屋番号はわかるな。っておい、香雪とナターシャ の部屋じゃねぇか﹄ ﹃マジか?﹄ ﹃ああ。なるほど、ルーナライナの留学生が来なくなったところに、 ロシアからの初めての留学生だったナターシャの数代前の先輩が部 屋を割り当てられたらしいな﹄ ﹃あちゃぁ、となると部屋は空かないかな?﹄ ﹃いやいや。おあつらえ向けに、ナターシャが寮を出るという話が ある﹄ ﹃ほう、マンションにでも引っ越すのか?景気のいい話だな﹄ ﹃いや、どうやら彼氏の部屋で同棲するらしい﹄ ﹃それはそれは。誰だか知らんが、同棲するスペースがあるとは学 生にしちゃずいぶんいい部屋に住んでるじゃないか﹄ ﹃学生じゃないぞ、一文の里村准教授だ﹄ ﹃︱︱それは、それは﹄ というヤツだな。かまわんぞ。︱ 思わぬところで友人の個人情報を仕入れてしまったが、それはさ ておき。 ツバをつけておく ﹃部屋の下見は可能か?﹄ ﹃日本語で ︱おおいナターシャ!﹄ ﹃呼びました?サホタさん﹄ ファリスを囲む輪から離れ、ナターシャがこちらに来る。往年の ナディア・コマネチを彷彿とさせる容貌と不釣り合いな物堅い表情 のロシア美人なのだが。 ﹃︱︱なるほど、そういう事ならかまいませんよ。私の後輩達は親 御さんが石油発掘で儲けてまして、赤坂のマンション暮らしな方ば かりですから、引き継ぐ人もいませんし﹄ 831 ﹃こちらも景気のいい話だこと。資源のある国は強いねぇ﹄ ﹃一時間ほどしたら、私と香雪が出かけますので、その後は自由に Спасибо 見学して下さいな﹄ Не за что ﹃ありがとさん、じゃあ鍵借りるわ﹄ ﹃どういたしまして。それより亘理さん、来週の講義こそはちゃん と出席されるのでしょうね?﹄ ﹁そこは可及的前向きに善処する可能性を粛々と検討するのもやぶ さかでなく﹂ ジャパニーズ・エンキョク表現で煙に巻きつつ、おれは戦術的撤 退を決め込んだ。 センターから外に出ると、おれは二人に手早く事情を説明した。 ﹁ってことで、部屋が空くまで一時間ほどあるんだが、とりあえず 他の校舎でもぶらぶら歩き回ってみるかい?﹂ ﹁うーん。どうだろう﹂ ﹁ええと、そうですね⋮⋮﹂ ﹁まぁ、またセンターの中で駄弁りつつ時間を潰してても構わんけ どさ﹂ ﹁行こう!行こう!﹂ ﹁ぜひお願いします﹂ 即答する二人。いきなりうちの大学の一番濃い部分を見せてしま ったので致し方なしとも言えるが。しかし授業に忍び込むにも間の 悪い時間帯だし、どこに行ったものか。と、その時、ロビーの向こ うから流れる音楽にも負けないほど大きな腹の音が、はっきりと鳴 り響いた。もちろん、誰のものかは言うまでもない。 ﹁⋮⋮お前ねぇ。昼飯は食っただろ?﹂ ﹁あ、あは、あははははは﹂ ﹁笑って頭を掻けばごまかせると思ったら大間違いだ﹂ 真凛の額を人差し指で軽く押す。と、今一度、先ほどよりもさら に大きな腹の音が鳴り響いた。 832 ﹁⋮⋮お前、いくら何でも⋮⋮﹂ ﹁ボ、ボクじゃないよ!?﹂ 全力で首を振って否定する真凛。 ﹁じゃぁ他に誰がいるってんだよ﹂ すると、視界の端にそろそろと挙がる手。振り向くと、顔を真っ 赤にさせてうつむいたファリス王女が、小さく挙手をしていたのだ った。 ﹁その⋮⋮すみません﹂ ﹁あ、いや。これは気づかなくて悪かった﹂ ﹁なんだよその差は!﹂ そういえば、片や朝から午前にかけては高速道路で戦闘。片や地 球を半周する時差のきつい飛行機旅。腹が減るのもやむ無しではあ る。 ﹁ふむ。食欲があるのはいいこと、か﹂ おれはばつが悪そうに顔を見合わせる女性陣二人を前に、首をひ ねった。 ﹁じゃあちと遅いが、昼飯にしようか﹂ 833 ◆14:灼熱の死闘 ﹁じゃあじゃあ、ファリスさん、せっかくだからカレーうどんを食 べましょうよ!﹂ ﹁本当ですか!それはとても楽しみです!﹂ ﹁はいはい、じゃあ今日の昼はカレーうどんな。真凛は自分で払え よ?﹂ ︱︱学生街である。いざ昼飯となれば、安くて量が多く良心的な 店はたくさんあり、むしろチョイスに困るほどだ。ファリスと真凛 の希望を聞き入れ、おれ達はさして苦もなく食事にありつくことが 出来た︱︱ ﹁⋮⋮はずが、どうしてこうなった⋮⋮﹂ おれは目の前のテーブルに載っているどんぶりを見て、頭を抱え た。 ﹁カレーうどん、だよ、ね⋮⋮﹂ カウンター席の隣で同じものを注文したはずの真凛もどんぶりに 釘付けになった視線を逸らすことが出来ない。そこにあるのは黒色 でごく標準的な大きさの、麺を盛るためのどんぶりであり、中に収 まっているのは程よく茹で上げられたうどん、のはずである。 だが。 赤い。 赤いのだ。 834 スカーレット クリムゾン クェーサー 緋色、鮮紅色、いや、もはや赫と表現すべきであろうか。漆黒の どんぶりの中に、マグマのようにどろりと重く赤い油が流し込まれ、 白いうどんを呑み込み覆い尽くしている。目をこらせば、油の正体 はカレーであり、その赤灼した色は、なんかコズミックでケミカル な密度で濃縮された唐辛子などの各種スパイスによって構成されて いることが判じられるだろう。その上にはブロック状の豚肉が乗せ メテオ られており、脂がとろけそうなまでに赤辛く煮込まれたそれは、大 気すらまだない始原の星に、天から投じられた巨大な隕石を連想さ せた。 ﹁陽司、ボク、カレーって黄色いものだと思ってたんだけど﹂ ﹁その解釈で合っている。これは例外だ。⋮⋮とびきりのな﹂ ﹁はーイ、ナロック特製レッドカリーうどん三つお待ちしましタ∼﹂ 硬直するおれ達の横で、高田馬場の名物タイ料理店﹃ナロック﹄ の店長さんがトレイ片手に屈託のない笑顔を浮かべた。 カレーうどんを食べるべく学生街に繰り出したおれ達だったが、 目星をつけていた店はいずれもランチタイムを終えて夜に向けて仕 込中だった。スケジュールにあまり余裕のなかったおれは深く考え ず、﹃アル話ルド君﹄で適当に検索をかけ、﹁近場で他にカレーう どんを食べられる店﹂と打ち込んだナビに従いを入店したところで、 ここが﹃ナロック﹄だった事を今さらに思いだしたのである。 高田馬場に最近出来たタイカレー店、﹃ナロック﹄。特筆すべき は、辛口で有名な本場のタイカレーすら上回るほどの、唐辛子を中 心としたスパイスを遠慮仮借なくぶちこんだ一切妥協のない炎のよ うな激辛レッドカリーである。その辛さは凄まじく、珍し物好きで 体力だけはある新入生達が度胸試しで食いに行っては、何割かがぶ っ倒れるのが恒例行事となりつつあるとの事だ。 ﹁まさか新メニューでカレーうどんを始めていたとはなぁ⋮⋮﹂ ﹃カレー屋﹄で探していれば即座に気づいていたであろうに。我 ながら今ひとつ迂闊なこのデジタル思考を呪いたくなる。 835 ﹁なんか凄そう、だね⋮⋮﹂ ﹁ま⋮⋮まぁ、美味いって評判だし、とりあえず食べるとしようか﹂ どんぶりから立ち上る湯気が、ひりひりと肌を刺すのは錯覚では あるまい。おれ達は覚悟を決めて割り箸を手に取ると、厳かに宣誓 した。 ﹁いただきます﹂ 先陣を切ったおれは灼熱の海に箸をつっこみ、うどんをひきずり 上げて啜り込む。その瞬間、刺激性の強い高温の空気が呼吸器系に 流れ込み、 ﹁ぶっほごふっぶむっ!?﹂ おれは盛大にむせた。 むせた瞬間にうどんつゆ、というかカレーが鼻腔に飛び込み、高 濃度のカプサイシンが鼻粘膜をダイレクトに焼いた。肺から空気を 排出する反射行動と、刺激物を押し戻すべく空気を吸入する反射行 動とが相反し、錯乱した横隔膜がみぞおちの奥でへたくそなタップ ダンスを踊った。 ﹁ちょっ、だ、大丈夫!?﹂ 椅子の上でのたうち回るおれの背中を慌てて真凛がさする。おれ はそれにかろうじて左手を挙げて応え、どうにかパニック状態の呼 吸を落ち着けると、コップの水を慎重に飲み込んだ。 ﹁︱︱︱︱はぁ、はぁ。⋮⋮強烈だな、これは﹂ 一分ほどの深呼吸でようやく平常心を取り戻し、おれは感想を述 べた。まだ鼻腔と舌先に爛れるような刺激が残っている。胃のあた りにはかっと熱いものががわだかまっており、この辛さが単なる味 覚の刺激にとどまらず、人体に重大な影響を与えうるものだと言う ことを示している。 ﹁うっあ、これ、ホントに辛いね⋮⋮!﹂ 撃沈したおれに倣う愚を犯さず、レンゲにすくったカレーをひと なめした真凛が眉をひそめる。おれ達は顔を見合わせると頷き、箸 を置いた。普段ならともかく、今日は激辛カレーで度胸試しをしに 836 きたわけではない。お店の人には悪いが、店を変えてもう少し無難 なメニューを食べた方が︱︱。 ずる、ずるるずるるるるる。 豪快な音がとどろき渡る。反射的におれはその方向、つまりは反 対側の隣の席を振り返った。 ﹁これが日本のカレーうどん⋮⋮。とても美味しいですね!コシの ある麺にスパイスの効いたスープが調和していて、とても食べ応え があります!﹂ ずるるるる、ずるるるーッ。 ﹁⋮⋮﹂ 唖然として見守るおれ達の目前で、月光のような銀髪を備えた褐 色の美姫の桜色の唇へ、白いうどんと灼熱の汁が新丹那トンネルに 突入する東海道新幹線のごとき勢いで啜り込まれてゆく。おれ達の 視線に気づき、ファリス・シィ・カラーティは赤面して箸を置いた。 ﹁あ、あのすみません、日本ではおうどん、おそばを食べるときは 音を立てるのが作法と習っていたのです。不作法でしたでしょうか ?﹂ ﹁ああいや、そこは全然問題ないのだが﹂ ﹁辛くないんですか?﹂ ﹁確かに辛いです。ですが、様々な辛さが素晴らしいバランスでま とまっているので、不快な辛さではなく、むしろ麺自身の味を引き 立てる形となっています。日本にここまで香辛料を扱えるお店があ るとは驚きです﹂ ﹁そ、そういうものなんですか?﹂ ﹁ふむ⋮⋮﹂ そう言われると、おれも未練が湧いてくる。実のところ、先ほど の辛さはまだ舌先に残っているが、決してまずいわけではなかった。 鼻を灼いた強烈な刺激も時間が経つと、鮮明な香りとして感じられ るようになっている。気を取り直して、おれは慎重に麺をすくい、 再びすすった。 837 ﹁⋮⋮!、やっぱ辛い、けど、結構イケる、な﹂ まぶしい光の下で何も見えない状態から、段々目が慣れると周囲 の状況が解るように。舌が慣れ、辛いだけとしか思えなかった中か ら徐々に微妙な味の判別できるようになってきていた。なるほど確 かに、このレッドカリーが決してただ強い刺激を求めたキワモノで はなく、厳然とした一品の料理であるということが理解できる。な るほど、競争の厳しい高田馬場の学生街を、ただ辛いだけで生き残 れるはずがない。激辛でありながら絶妙のスパイスの構成、とろけ る豚肉との組み合わせ。辛い辛いと言いつつもやめることが出来ず 完食してしまう者が後を絶たない悪魔のカレーという評判も、今な ら納得だ。 ﹁あまり冷たい水は飲まない方がいいと思います。辛さが長引くの で﹂ ﹁アドバイスサンキュー。⋮⋮へぇ、だんだんイケるようになって きた。この角煮、柔らかい上に味がきっちり染み渡っていて極上だ﹂ ﹁おいしいですよね?﹂ ﹁あぁ。美味いね﹂ ﹁う∼ん、でもボクはやっぱり苦手かなぁ﹂ ﹁まぁ、お前にはまだちょっと早いわな。無理しなくていいぞ。別 の頼むか?﹂ もともと味覚というものは年齢によって変化する。甘いチョコレ ートやコーラが大好きだった子供が、大人になるにつれ辛い酒だの 苦いモツ鍋だのを好むようになるのもそのせいだ。︱︱と、ここま で思考した時点で後悔した。どうせコイツのことだ、子供扱いする なとか、また店の中でわめき立てるに相違あるまい。 ﹁⋮⋮いいよ。頼んだんだから、ちゃんと最後まで食べる﹂ だが、真凛はそれだけ言うと、積極的に箸をつけてうどんを啜り 始めた。むぅ、辛いものを食ったせいで喋る気が失せたか。 ランチタイム後の客の少ない店内に、男女三人がうどんを啜る音 838 がしばし響く。三者三様、どうにか激辛うどんをあらかた食べ終え る。摂取した高濃度のカプサイシンが、腹に収めたうどんが今まさ に消化器官のどこにあるかを雄弁に主張していた。人心地つくと、 おれ達の話題は自然とこれからの予定についてのものへと移った。 ﹁今日はこれから学校見学して、﹃鍵﹄を探すのは明日から?﹂ ﹁まぁそうなるだろうな。﹃鍵﹄が見つかるまでファリスはウチの 事務所に泊まって貰うことになるけど、かまわないかい?﹂ ﹁かまわないどころか!お礼を申し上げなければなりません。本来 ならホテルに泊まるべきなのに﹂ ﹁気にしない気にしない、どうせ最初に君が払った依頼料に宿代も 込みだろうからね﹂ 彼女を護衛しつつ﹃鍵﹄の捜索。なるほど確かに大仕事である。 ﹁でもさぁ﹂ ﹁あん?﹂ ﹁何日ぐらいかかるんだろう?ボクも毎日ってなると、その、学校 が﹂ ﹁そこなんだよな﹂ ひりつく舌を労りつつ、おれは朝からドタバタ続きだった状況を 整理する。 ﹁結局の所、﹃鍵﹄があるのは日本のどこか。日本と言っても、北 海道から沖縄、離島だってある。それこそ九十九里浜でダイヤモン ドを一粒探すようなもんだよ﹂ ﹁なんで九十九里浜?﹂ ﹁気にすんな。そしてもう一つ、﹃鍵﹄が日本にあるという情報そ のものの真偽。まぁ、セゼルがこんな凝った嘘をわざわざつく理由 というものは割と見 もないとは思うが、数十年前に隠した暗号が、まだこの世にちゃん 宝の地図 と形として残っているという保証もない﹂ 実は考古学なんかの世界では、 つかるのだ。貴重な遺跡の所在地を記した文献や、貴族の屋敷跡か ら発掘された財産の目録など。だが現実は散文的なもので、そもそ 839 も文献の情報そのものが、当時の噂や伝聞をもとに書かれた誤りで 宝の地図 を正しく解いても、宝 あったり、確かに当時はそこに財宝があったものの、数百年前の火 災でとっくに焼失していたり。 にたどり着けないことの方が圧倒的に多いのである。先日の幽霊騒 ぎでもあったが、﹃探す﹄任務でいちばん厄介なのは見つからない ものを﹃ない﹄と証明することだ。ファリスも何時までも日本に滞 在するわけにはいかないだろうし、ウチもあてどもない捜索をずる ずる続けるわけにはいかない。 ﹁それは、確かにそうですが﹂ 口ごもるファリス。おれはしばし彼女の表情に視線を置く。彼女 の言葉は続かなかった。︱︱いい機会、か。 ﹁まぁ、それはこっちで何とかするよ。それよりもう一つ、もっと 重要で根幹的な問題がある﹂ ﹁なん、でしょう?﹂ ﹁⋮⋮おれが口を出していいものかどうかは、わからないけど。た ぶん、依頼に取りかかる前に、この問題はクリアしておく必要があ る﹂ ﹁どういうこと?陽司﹂ 不思議そうにおれを見る真凛とは対照的に、視線を赤いカレーう どんに落とし沈黙するファリス。おれは腹に一つ力を入れ、いずれ しなければならない話を、ここで切り出すこととした。 ﹁仮に﹃鍵﹄が見つかり、暗号が解け、ルーナライナの最後の大金 脈が見つかったとして。⋮⋮それで、君の国は救われるのかい?﹂ ファリスは頭を上げなかった。 そう、この聡明な王女が、そもそもこんな簡単な問題に気がつか ないはずがないのだ。 視線を落としたまま、膝の上に置いた両の拳を、微かに震わせた。 根源的な問題。 もしも、最後の金脈の在処が彼女の国にもたらされたとしたら、 840 何が起こるか。 何も変わらない。分裂した諸勢力は歓喜の声を上げて金脈に殺到 し、銃でその土地を奪い合い、勝ち取った者がまた、老若男女を問 わず民衆を奴隷のように働かせ採掘させるだろう。金鉱が何年持つ のかは解らないが、それで終わりだ。黄金は同胞を撃ち殺す銃と引 き替えに諸外国に吸い上げられ、ルーナライナには凶器と廃墟と死 体と怨恨しか残らない。 ﹁君はおれ達に、﹃鍵﹄を見つけて、ルーナライナを救って欲しい と言った。でも﹃鍵﹄を見つけてもたぶんルーナライナは救えない、 んじゃないかな﹂ なるべく言葉を選んでいるつもりだが、彼女を傷つける事になる ことも覚悟していた。結局のところ彼女の依頼は、一つの国の内戦 を収めて欲しいということでもある。そして、身も蓋もないことを 言えば、しょせん遠く離れた日本の学生バイトになど解決できるは ずがないのである。例え、おれ達に今以上に常人離れした力があっ たとしても。 だからここではっきりさせておかなければならない。﹃鍵﹄を見 つけることが国を救う事にはならないという事を。おれ達に出来る のは﹃鍵﹄を探すことまでだという事を。国の危機を救うのは、通 りすがりの冒険者ではない。国を支配する者と、その国で生きる人 々でなければならないのだ。魔王を倒したり伝説の秘宝を手に入れ ることでは、現実の戦争は終わらせられない。 ﹁⋮⋮隠された﹃鍵﹄を見つけて、ルーナライナを救って欲しい、 というのは父の命令でした。それは間違いありません﹂ しばりの沈黙を、ファリスが割った。 ﹁対となる﹃鍵﹄も確かに、父から受けとったものです。でも、父 はこうも言っていました。⋮⋮見つかるまで、帰ってこなくていい、 と﹂ ﹁帰ってこなくていい?ちょっとそれって⋮⋮﹂ ひどい、と言いかけた真凛が口をつぐんだ。そう、ひどくはない 841 のだ。今の彼女の故郷の状態を思えば。 ﹁父も、この金脈の在処をそこまで信じていたわけではなかったと 思います。私が見つけられる可能性も。私を海外に逃がす口実と半 分半分。たぶんそんなところじゃないでしょうか﹂ ﹁ファリスさん⋮⋮﹂ ﹁父の意志にはすぐに気づきました。成功は期待されていない、と いうことも﹂ 寂しげに笑う皇女。 ﹁なら、受けないことも出来たかもな﹂ ﹁⋮⋮はい。もしかしたら、断ってルーナライナに残ることも出来 たかも知れませんね⋮⋮﹂ ﹁でも、結局君は日本に向かうことにした。それはなぜ?﹂ おれの質問に、彼女は驚いたようだった。もしかしたら、彼女自 身も己にその問いかけをしたことがなかったのかも知れない。 ﹁⋮⋮あそこに居ても、私に出来ることは何もないんです﹂ ﹁それは、どういう意味かな?﹂ おれは意図的に、反応をシンプルなものへと絞っていった。彼女 に必要なのは、たぶん、自問自答のための、鏡だ。 ﹁王族の仕事は、その立場を利用して国の役に立つことです。その 財力を利用して産業を興したり、文化を保護したり、国の広告をし たり﹂ 真凛がおずおずと手を挙げた。 ﹁あのぅ、お姫様ってこう、お城の中でおいしいご飯を食べて、毎 晩舞踏会をしてるものかなあ、と﹂ ﹁お前それ、幼稚園の頃読んだ絵本のイメージしか頭の中にないだ ろ!?﹂ ちなみに食事や舞踏会も、人脈を築くという重要な仕事の一つで ある。パーティーを仕切り、人を人に紹介したりするホストとして の器量が求められ、なまなかな実力では務まらないのだ。 ﹁学生時代に懇意にさせて頂いた他国の皇族の方にも、そうして社 842 会で活躍している人がもう何人も居ます。⋮⋮私には、いずれもそ れらの力はありません。皇女などと言っても、人を動かす権限も、 国のお金を使う権限もないんです﹂ ﹁でも、﹃鍵﹄を探すことなら出来る。そういうことかい?﹂ おれの言葉に、彼女はしばし考え、そして静かに頷いた。 ﹁そう、ですね。﹃鍵﹄を見つければ、少なくとも、金鉱が尽きて 国が崩壊するまでの時間を稼ぐことは出来るはずです。城の中に残 って何も事態を打開できないよりは、まだまし。そう考えたのかも 知れません﹂ 瞑目し、言葉を紡ぐ。 ﹁それに、⋮⋮そう、私に﹃鍵﹄を使いこなすことが出来なくても、 叔父様達にだけは渡すわけにはいきません。彼らの手に落ちれば、 亘理さんの言うとおり、さらなる内戦の火種になるだけです。それ だけは︱︱見過ごすことが出来ないんです。だから、私は﹃鍵﹄を 手に入れなければならないんです﹂ ﹁︱︱そっか﹂ おれは両手を頭の後ろで組んで、天井を見上げた。 ﹁やっと、君の顔が見えてきた気がするな﹂ わざと意地の悪い笑顔を作ってみせる。 ﹁⋮⋮私も、国を出てから今の今まで、自分がどうしたいのかが自 分でも解っていなかったんです。でも。貴方に話をしているうちに、 少し整理がついてきました。ありがとうございます﹂ ﹁礼を言われることじゃないさ。判断に迷う時、他人との会話で自 分の意見を整理するのは有効な手段だ。︱︱これで決まりだな。ま ずはとにかく﹃鍵﹄を見つける。颯馬や玲美さんに取られる前にな。 その上でそれをどう使うかは、ファリス、君の判断次第だ﹂ そういうと、おれは彼女の前に右手を差し出した。 ﹁あの、亘理さん⋮⋮?﹂ 目を丸くする皇女殿下。 ﹁本来ならまだ君くらいの年なら、そこまでの責任はないはずだ。 843 でも君が現状でやれる事をやろうと思う、その姿勢に敬意を払う。 ⋮⋮偉そうな物言いでごめんね。雇われの身だけど、おれでよけれ ばできる限り力になるよ﹂ 正直、アイテムを手に入れれば国が救える、程度の認識しかない ようなら、必要最低限の役割を済ませて、日本に留まるなり帰国す るなりを選んで貰おうとも思っていたりしたのだが。⋮⋮まぁ、頑 張ってる子は応援したくなるじゃないか。 ﹁よろしく、お願いします﹂ おずおずと腕を伸ばすファリス。 ﹁よろしく﹂ おれ達は握手を交わした。皇女の手は少しつめたく、柔らかかっ た。 ﹁⋮⋮ねぇ﹂ 横からのぞっとするほど平坦な声。おれが思わず振り返ると、真 凛が恐ろしく思い詰めた表情でこちらを見つめていた。 ﹁な、なんだよ﹂ 真凛の顔色は蒼白。さっきまでの闊達さが消え失せ、なんだか泣 き出しそうな目をしている。 ﹁い、言っておくが今回は下心はないぞ、もともとおれは年下に興 味は︱︱真凛?﹂ おれ達に向けた視線が機械的に下へとかしぎ。 ごとん、と。 七瀬真凛はテーブルに突っ伏したのであった。 ﹁⋮⋮大丈夫かおい?﹂ ﹁う⋮⋮うん、大丈夫だいじょうぶ、へいきへいき﹂ ﹁脂汗を垂らしながら言っても説得力ねぇぞ﹂ 口では平気と言いながら一向に椅子から立ち上がる様子を見せな い真凛。こりゃどう見ても、アレだな。 844 ﹁︱︱ここ痛いか?﹂ アバラと下腹の境目あたりを、かるく指で押してみる。 ﹁ぴゃあ!?﹂ 感電したように身体を震わせる真凛。どうも当たりらしい。 ﹁こりゃ腹じゃなくて胃だな。あんまりにも辛いものを食ったから、 胃壁に刺激が来てるんだろう﹂ ﹁病気などではないのですか?﹂ ﹁素人見立てだが、安静にしていれば問題ないと思うけど﹂ ﹁良かった⋮⋮。でも、どうしましょう?﹂ ﹁救急車を呼ぶほど大げさではなし、かといって家や事務所に連れ 帰るには大変、か。⋮⋮すみませーん﹂ 困ったときはその場の責任者に聞けば、それなりに解決方法を知 っているものである。 ﹁はーイ?﹂ 店の奥からさっきの店長さんが応じる。すると彼女は真凛を一目 見るなり、 ﹁もしかしテ、お腹痛くなったですカ?今、お水と薬もってきまス﹂ そう言って、店の奥に薬を取りに戻っていった。ファリスが真凛 の背中をさすり服装をゆるめ、おれは他のお客さん達に簡単に事情 を説明しお詫びする。こうして、おれ達の午後の予定は大幅な軌道 修正を余儀なくされることとなったのであった。 粉末の胃薬をぬるま湯で流し込んで十分ほど経過すると、脂汗は 止まり、真凛の体調は明らかに上向きになったようだった。だが未 だ腹を抱えてグロッキー状態のままであり、到底動けそうにない。 いざ戦闘となればヘビー級ボクサーのボディーブローに耐え抜く腹 筋も、内側からのダメージにはなんら役に立たないらしい。 ﹁ごめん⋮⋮また足引っ張っちゃった⋮⋮﹂ ﹁いや、おれも悪かった。もっと無難な店にすべきだった﹂ ﹁ううん、ボクが調子に乗って食べたからだよ⋮⋮﹂ とはいえ、そんな調子でいられると、多少はこちらにも思うとこ 845 ろはある。 ﹁すまん﹂ ﹁謝らないでよ⋮⋮﹂ 微妙な沈黙。うむむ、いつぞやの反省を踏まえ、今回は素直に非 を認めているつもりなのだが、何故こうなるのか。 と、ファリスの腕時計からひとつ、小さなアラームが鳴った。 ﹁あっ﹂ 時計を覗き込んだファリスがちょっと気まずそうな表情になる。 律儀な彼女はサホタ達との約束の時間に合わせ、タイマーを設定し ていたのだった。 ﹁亘理さん、ここは一旦出直した方がよいのではないでしょうか﹂ それを耳にした真凛が、力なく遮る。 ﹁いいよ⋮⋮ボクここで休んでいくから⋮⋮二人はサホタさんとこ、 行ってきて⋮⋮﹂ ﹁さすがにまずいだろうそれは﹂ 置いていくのも問題だが、お店にも迷惑がかかる。 ﹁かまいませんヨー、これからディナーに向けてお店一旦しめます かラ﹂ 見れば店長さんの手には派手な刺繍の施されたブランケットと枕 があった。おれが何か言う前に手早く真凛にかぶせ、そのまま座敷 に寝かせてしまう。 ﹁初めてウチのカレー食べた人、よくこうなりまス。薬飲んで二時 間くらい休めばだいたいヨクなりまスから﹂ ニコニコと笑う店長さん。どうも本当にこんな事態には慣れっこ らしい。 ﹁⋮⋮すみません、それじゃあ、ちょっとお願いします。じゃあ大 人しくしてろよ真凛、終わったら戻ってくるからな﹂ 出来れば一日浪費したくないというのは事実だ。ここは店長さん の好意に甘えておくべきだろう。 ﹁⋮⋮うん、気をつけて﹂ 846 ﹁いやまあ、特に気をつけることもないんだが﹂ ブランケットにくるまって手を振る真凛に軽く手を挙げて応え、 おれとファリスは店を後にした。 ﹁何やってるんだあの間抜けは﹂ パイプ椅子にどっかと背を預け、颯馬は額に手を当てた。紅華飯 店の三階、商用客のミーティングやプレゼンテーションに使われる 会議室の一つである。マンネットブロード社の派遣社員は仕事にあ たる時、交通の便、ネットインフラ設備の充実、依頼人とのコンタ クトなどの観点から、ホテル内の会議室を前線基地として使用する ことが多々ある。颯馬達がいるこの部屋もまさにそれで、高級な内 装にそぐわない実用一辺倒の折りたたみ机や椅子が並べられ、卓上 に置かれたノートPCからは、監視にあたっている部下の記録した 音声がリアルタイムで再生されていた。 ﹁任務中にカレーで腹を壊すなんぞ、プロの自覚があるのかアイツ﹂ 憮然としてつぶやく。さすがに店内の様子まではわからないが、 ファリス皇女と亘理の会話を拾えば、だいたいの内容はわかった。 ドラゴンバスター ﹁七瀬真凛サン、ですカ。最年少のフレイムアップメンバー。この 間、﹃竜殺し﹄の称号も得た、聞いてマス﹂ ﹁ふん。武技の研鑽は怠っていないようだな﹂ 美玲の言葉に、颯真は嫉妬を隠さなかった。﹃竜﹄の異名を許さ れた化物を打倒した者のみに与えられる、﹃竜殺し﹄の銘。武術に 生きる者にとっては、エージェントとしての実力や格付けとはまた 別の、垂涎の称号である。 ﹁近頃彼女のコト、ウチの社員達からも人事課へ問い合わせあるよ うですネ﹂ ﹁だろうさ。ウチの前衛はどいつもこいつも社員である前に武芸者 だ。強い者がいたら手を合わせたくなるのはもう本能みたいなもん だろ﹂ 847 ノービス ターゲット ﹁無名の新人から、追われる側になテきてるてことデス。ご本人、 自覚ないようですガ﹂ ﹁渡さんさ、他の奴になんぞ﹂ 左の袖をまくる。肉を毟りとられた無惨な傷の跡が、ミミズのよ つけ うにのたくっていた。外見で相手を侮り無造作に放った崩拳の、高 価な代償。地仙の元で鍛え、神童、並ぶ者なしなどと謳われ増長し た小僧への、手厳しい実戦の洗礼だった。 ﹁あれから半年。鍛錬と大物喰いを為したのは、お前だけじゃない ぞ﹂ 唇の端が曲がる。それは武芸者としての誇りと、好敵手に対する 若者らしい敵意が混じり合った、物騒な笑みだった。 ﹁坊ちゃまの出番、まだ後。今はフレイムアップが暗号探す、待ち でいきまショウ﹂ ﹁だが、何もしてないわけじゃないんだろう?﹂ 颯馬の問いに、美玲ははて、と惚けた表情を浮かべる。 ﹁冗談はよせ。七瀬の相棒はあの古狐よりたちの悪い亘理だ。今の うちに仕込みを済ませておかねば遅れをとることくらい、俺にもわ かる﹂ 惚けた顔から一転、なんとも曖昧な笑みへと変わる。称賛と艶と、 そして毒。 ﹁坊ちゃま、日々成長私嬉しいのコトです。でも王様、細かいこと 考えずどーんと構えてればいいデス。細かいことするの、臣下のシ ゴト﹂ ﹁⋮⋮だな。では存分に勤めを果たせよ、美玲﹂ ﹃お任せあれ﹄ リズミカルな中国語で返答する美玲。とその時、卓上に置いてあ った携帯電話がうなりを上げた。 ﹃もしもし?⋮⋮ええ⋮⋮ええ⋮⋮なんですって?わかったわ。⋮ ⋮そちらは、引き続き監視と報告を﹄ 電話を切った美玲の表情には困惑が浮かんでいた。相手は今回の 848 任務に従事している監視員のひとりだ。 ﹁どうした?﹂ しばしの逡巡の後、彼女は答えた。 ﹃ビトール殿が、動き出したと﹄ 849 ◆15:お部屋内見︵歴史の闇︶ ﹁ここが留学生向けの部屋ですか⋮⋮﹂ 物珍しげに部屋を見回すファリス。留学生向けの寮は二人相部屋 となっており、八畳の部屋の両側にベッドと机が据え付けられてい た。右側は香雪のものらしく、壁は某アイドルの特大ポスターで覆 われ、机とベッドにはCDや本、紙袋やバッグ各種が雑然と積み上 げられている。かたや対面のナターシャの机は整然と片付けられ、 本棚には見ただけで陰鬱になりそうなロシアの分厚いブンガクショ がずらりと鎮座ましましていた。 ﹃んじゃアタシ達はみんなで池袋に飲みに行ってくるからサ。その 間この部屋をゆっくり下見してってよファリスちゃん﹂ ﹃急な話ですみません、香雪さん﹄ ﹃いいっていいってー。アタシもナターシャが抜けた後次に入って くるのがファリスちゃんだったら嬉しいしね。あっ、陽司は三和土 から一歩でも上がったらコロすからね﹄ ﹃ふふん、おれは用もないのに女性の私室に上がり込むほど不埒で はないぜ?﹄ ﹃へぇー、じゃあ用があれば上がり込むんだ﹄ ﹃ま、長居はしないがね﹄ ﹃それでは亘理さん、終わったら鍵は管理人さんに電話して預かっ てもらってくださいな﹄ ﹃おー、ありがとさん﹄ ナターシャ達にお礼を言って送り出す。他人が自室へ出入りする ことへの気楽さは、さすが毎晩部屋飲みをやっている寮生といった ところか。ちなみに直樹あたりは例え姉の来音さんであろうと部屋 に寸毫たりとも立ち入ることを絶対に許さないらしい。 扉が閉まると、ファリスは玄関を上がり、部屋の中を確認する。 850 ﹁机とかベッドは、新しいものみたいですね﹂ その様子は、どことなく落ち着かないように見えた。 ﹁残っているわけ、ないですよね⋮⋮﹂ 無意識の呟きには、かすかな失望と、安堵が含まれていた。そこ に、おれは一つ言葉を放り込んだ。 みは ﹁︱︱﹃鍵﹄の手がかりは、ここにはなさそうだね﹂ ﹁えっ⋮⋮﹂ 反応を観察する。その一瞬、瞠られた彼女の紫の瞳に走った驚き は、﹃何を訳のわからないことを言っているのか﹄ではなく、﹃な ぜ知っているのか﹄だった。 ﹁ああ、やっぱりそうなのか﹂ ﹁亘理さん、貴方は⋮⋮﹂ ﹁ごめん、カマをかけるような真似をしちゃってさ﹂ 日本にある なんて曖昧 おれは一つため息をつくと、玄関の横に据え付けられた鏡を見た。 映り込んだ、誰とも知れぬ他人の顔。 ﹁いくらセゼル大帝の遺言だとしたって すぎる話だけじゃ君だって動けるはずがない。情報はないにしても、 多少の目星くらいはつけていたんじゃないか、ってね。⋮⋮この部 屋に手がかりがあると思ったんだろう?﹂ しかし、ここに至ってそんな手がかりを彼女がおれ達に隠すメリ ットはない。となれば、考えられる今の彼女の心情は。 ﹁な、何を言っているんですか、ここに来たのは、ただの部屋の下 見ですよ?﹂ その手がかりが、当たりであって欲しくない︱︱とか。 ﹁アルセス・ビィ・カラーティ﹂ その単語に、ファリスはまるで雷に打たれたように身を震わせた。 ﹁なぜ、その、名前を﹂ ﹁⋮⋮おれなりに﹃鍵﹄のヒントを探ろうと思ってさ。実は今回の 851 依頼を受けてから、片っ端からルーナライナと日本をつなぐ記事を 検索してたんだ﹂ そう言っておれは自分のこめかみを小突く。 ﹁検索⋮⋮新聞記事が頭に入ってるとでも?﹂ ﹁ここ数年分の日経とニューヨークタイムズだけだけどね。あとは 近所の図書館の書庫で一ヶ月かけて流し読みさせてもらったトピッ クスをプラス十年ほど﹂ おれの言葉をタチの悪い冗談と受け取ったのだろう、ファリスは 怒りよりもむしろ、悲しげな瞳でおれを見つめた。その憂えるアメ ジストにおれは一秒で降参。くだらない特技自慢はやめにして話を 進めることにする。 ﹁まあ、日本とルーナライナの繋がりといえば、技術交流と留学く らいしかない。﹃鍵﹄に繋がりそうな情報は思い出せなかった。⋮ ⋮﹃相盟大学﹄というキーワードが手に入るまでは。過去にルーナ ライナから相盟大学に留学した人物は一人しか居ない﹂ 唯一の留学生。つまりは、この部屋のかつての主。 ﹁アルセス・ビィ・カラーティ。相盟大学理工学部への留学生にし はとこ だね﹂ て、大帝セゼルの曾孫。君にとっては、お互いの父親が従兄弟同士。 いわゆる、 だが、アルセス氏をただのいち留学生と呼ぶには、いささか無理 があった。 、でしょう?﹂ ﹁存在に気づけば、彼と﹃鍵﹄の関係を結びつけるのは難しくない。 ルーナライナの売国奴 何しろ彼は、﹂ ﹁︱︱ ﹁⋮⋮ファリス?﹂ 涼しげな声。美しい発音には何も変わりはないのに、それはまる で新月の砂漠のように、どこまでも乾き澄み渡った虚ろな闇を思わ せ、おれの背筋をかすかに震わせた。 血を絶やさぬ事が義務とされ、十代で子供を設けることが当たり 852 前とされるルーナライナ王家にあっては、大祖父と成人した曾孫が 同じ時代に存在することも決して珍しくない。アルセスは第二王子 の血筋で、当時の王位継承権は十位以内。孫や曾孫達の中でも抜き んでて聰明であり、セゼルの後継者として最も期待されていた王子 だったという。 ﹁今でこそ第三皇女、なんて肩書きですけど﹂ どこか他人事のようにファリスは呟いた。 ﹁元々私は、領地も持たない傍流の王族。それに正妻の子でもあり ませんでしたから、子供の頃は、王宮で他のはとこ達の小間使いみ たいな仕事をしていました﹂ ﹁⋮⋮なんか本当に、ファンタジー世界の話を聞いている気になる よ﹂ ﹁でも、そんな中でもアルセス王子は、私や他の子達にも、分け隔 てなく接してくれる人でした。私も物心つく前から、しょっちゅう 彼の後をついて回っていたそうです﹂ ﹁だけど。アルセス王子は、日本への留学が決まったんだよな?﹂ ﹁はい。その頃は既に、アルセス王子はセゼル大帝の右腕となるべ く、国の仕事を幾つも担うようになっていました。そして、その仕 事の一環として日本へ留学することとなりました﹂ モラトリアム延長のために﹃語学の勉強﹄と称して海外に留学す るようなおれの友人どもとは異なり、開発途上の国から国費で留学 してくる学生は、政治や経済のシステム、技術を学び、あるいは人 脈を構築し、国に還元するという使命がある。アルセスもおそらく は、日本の技術を学び、あるいは将来のジャーナリストや政治家、 起業家の卵達と交流をするという目的があったのだろう。だが。 ﹁そこでアルセス王子は⋮⋮彼は、とある日本の企業と接触を持ち ました。ルーナライナの、金脈の情報を、渡そうとしたのです﹂ ﹁ファリス?﹂ 最初に感じた、新聞記事を読み上げるような口調。失われていく 抑揚。 853 ﹁ルーナライナの金脈の情報を漏らす。当然それは、セゼル大帝が 敷いた鉄の掟に違反するものでした。発覚した後、アルセス王子は 直ちに拘束。国元に召還され裁判を受ける身となりました﹂ ﹁ファリス、﹂ ﹁当時、もっとも信を置いていた皇族の裏切りは、セゼル大帝を激 怒させるに十分たるものでした。結果、アルセス王子はルーナライ ナの国益を大きく損ねた売国奴として、見せしめを兼ねて、他の皇 族立ち会いのもと、郊外の砂漠にて斬首の刑に︱︱﹂ ﹁ファリス、もういい!﹂ 彼女の肩を強く揺さぶる。淡々と流れていた言葉は、スイッチを 落としたように止まった。 ﹁すまん、おれの考えが足りなかった﹂ 他の皇族の立ち会いもと斬首。彼女はそう言った。つまり。おそ らく、彼女は︱︱自分が子供の頃大好きだった人の、首が切り落と される光景を目の当たりにしたのだ。 ﹁無理をするな、今日はいったん引き上げよう﹂ ﹁いいえ、大丈夫です⋮⋮﹂ 皇女は力なく笑った。 ﹁亘理さん、こう考えていたんでしょう?セゼル大帝の隠した金脈 とは、アセルス王子が売り渡そうとしていた金脈のことじゃないか、 って﹂ おれは頷いた。そもそも徹底して金脈の情報を管理し、﹃漏らし たら死刑﹄を実践までしたセゼル大帝が、金脈の情報をわざわざ日 本に隠す理由などないし、ましてや意地の悪い宝探しゲームを仕掛 ける理由は全くない。だが、﹃信頼できる親族に、後継者として預 けた﹄のであればどうだろうか。﹃アルセス王子だけが知る大金脈 の情報﹄があれば、彼が後に王位を継承する時に当然発生するであ ろう、他の親族との権力争いに強力な武器となったはずなのである。 そしてそれを他国に売り渡そうとしたのであれば⋮⋮セゼルにとっ ては、二重に許せない裏切り行為だっただろう。 854 ﹁当時、アルセス王子が接触していた企業が、その後金の採掘に着 手したという事実はない。とすれば、アセルス王子が持ち出した金 脈の情報は、セゼルの元に回収されたか︱︱あるいは、行方不明に なった﹂ だからこそ﹃見つけることができれば、金脈の情報がわかる﹄と いう形になった。そう考えれば、辻褄は合う。だからこそ、アセル ス王子の滞在した部屋に、何かの手がかりがあるだろうと踏んだの だが。 ﹁そう、ですよね。アセルス王子の盗み出した情報。やっぱり、そ れしか考えられませんよね﹂ 皇女は深く息をついた。 ﹁滑稽な話ですよね、国を救うため﹃鍵﹄を手に入れたいなんて言 って、その手がかりも持っていながら、⋮⋮こうして実際に日本に 来るまで、その事実になるべく目を向けないようにしていたのです から﹂ ﹁本当に目を向けようとしていなかったのなら、そもそもこの部屋 を見てみよう、なんて気にはならなかったんじゃないかな﹂ ﹁え?﹂ ﹁ひとつ疑問があるんだ。アセルス王子は、なぜリスクを冒してま で、日本の企業に情報を売り渡そうとしたんだい?﹂ ﹁それは⋮⋮採掘を進めるにあたって、日本の企業の力を借りよう としたのでは﹂ ﹁確かに、そうとも思えるけどねぇ﹂ おれは首を傾げた。 ﹁まあいいや。とにかく、留学生だったアセルス王子が何か大事な ものを隠せた場所は、決して多くはないはずだ。自分の部屋、心を 許せた友人、研究室。この三つに絞って進めてみよう﹂ ﹁⋮⋮はい。でもやっぱり、この部屋にはアセルス王子が使ってい た頃の私物は残っていないようです﹂ ﹁そりゃあそうだな。でも手がないわけじゃない﹂ 855 おれは軽薄に言うと、﹃アル話ルド君﹄を取り出し、先ほど聞い た番号にコール。 ﹁あ、どうも管理人さんですか。︱︱ええ、鍵を返す前にちょっと 教えて欲しいんですが。留学生が寮を出る時、いらなくなった荷物 はどう処分するんですか?︱︱ええ。ええ。いや実は十年近く前に、 ルーナライナの留学生が荷物を残したまま国元に急遽帰らなくては ならなくなった事がありまして。たまたま親戚の子が来日してその 行方を︱︱引き取った?︱︱ええ。ええ。︱︱わかりました、ええ。 ありがとうございます﹂ ﹁荷物は捨てられていなかったのですか!?﹂ おれが通話を切ると同時に、視界に切羽詰まった皇女の顔が飛び 込んできて、思わずのけぞってしまった。 ﹁あ、ああ。アセルス王子の私物は、彼が所属していた研究室の人 たちが、資料や書籍と一緒に引き取ったらしい。急に国元に帰って、 戻ってくることもなかったなんて事態は珍しいんで、管理人さんも はっきり覚えていたみたいだよ﹂ ﹁では、そこに行けば、何か手がかりが⋮⋮﹂ ﹁あるかも知れないな。とりあえず理工学部の教授どもには、アポ を取っておくとするよ﹂ 昔ちょっとした雑用を片付けた事があり、多少の顔は利くのであ る。 ﹁今日はさすがに無理だろうが、明日、日を改めて出向くとしよう﹂ ﹁亘理さん、⋮⋮ありがとうございます﹂ 喜びと、だがそれ以上に不安を抱えた紫の瞳。おれはそんな皇女 の肩を軽く叩いた。 ﹁まあなんだ。あれこれ悩むのは、まずフタを開けてからにしよう ぜ﹂ 彼女は小さく頷いた。 856 ◆16:路地裏遁走劇 留学生向けの寮を出たおれ達は、管理人さんに礼を言って鍵を返 し、香雪達に電話で報告した。ようやく日が落ちたばかりだという のに、既に連中は出来上がっており、すでにおれに鍵を預けたこと など記憶の彼方に埋もれてしまっているらしい。友人達の防犯意識 を不安に思いつつも、おれはファリスとともに相盟大学を後にした。 キャンバスを離れ、事務所へ向けて歩く。ものの十五分も歩けばた どり着く︱︱はずだったのだが。 ﹁ねぇ、マジ?マジだろこれ、マジヤバイよな?﹂ 大通りを折れ、事務所に向かう細い道路に入り込んだ時だった。 ﹁へぇマジかよ、銀髪なんてホントにいるんだな﹂ ﹁ヤベー!マジだわコレ﹂ おれ達の行く手を、八人ほどの男が塞いでいた。通路の両端に座 り込みこちらにじろじろと無遠慮な視線を向けていたのだが、おれ 達が通り過ぎようとするとにわかに立ち上がり、なれなれしい様子 で近づいてきたのだった。タバコ臭い息を吐き散らし、先頭の一人 が話しかけてくる。 ﹁あ、あの、貴方たち⋮⋮は?﹂ ﹁うおーマジ?日本語わかんの?やっべオレお友達になっちゃう? なっちゃう?﹂ 下品な笑い声。いずれも二十代かそこら。染めた髪。異性の目を 意識しているくせに、細部までは行き届いていないだらしのない服 装。相盟大学の学生かとも思えたが、その顔に浮かんだにやにやと した笑み、そしてこちらに向けられる明確な悪意が、連中を典型的 なチンピラの類いであるとはっきり示していた。その一人、タバコ 臭い息の男が無遠慮に近寄ってくる。 ﹁なあ姉ちゃん、日本はじめて?おれ達が色々案内してやるよ﹂ 857 台詞にまでコピペめいて独創性がない。連中の視線がおれとファ リスどちらに向いているかを確認︱︱悲しいかな、おれも恨みを買 う相手にも理由にも不足しないのだ︱︱し、視界の端で後背を捉え ると、そこにもすでにチンピラ達が立ちふさがっていた。明らかな 待ち伏せ。こちらがここを通ることを確信していなければ出来ない 行動だ。合計十三人。おれはため息をひとつ、肩にかけていたザッ クを下ろす。 ﹁まあ貴方たちにもヤベーくらい魅力的な女性に一声かける権利く らいはマジ認めて差し上げても構いませんが。マジ世界情勢と政治 についてヤベー視点と二時間くらいは語れる知識はお持ちでしょう か?マジ僭越ながら現時点ではヤベーほど準備不足ではないかとマ ジ推察いたしますが﹂ ﹁ア?何わけわかんねぇ事言ってんだよガキ。すっこんでろや﹂ そういや二十代ってことは、こいつら一応年上になるんだよな。 年長者には敬意を払いましょう︱︱年月が知恵と人格に正しく蓄積 されているならば。おれはすみやかに態度と二人称と切り替えるこ とにした。 ﹁すまんな。会話のレベルをお前達に合わせてやるべきだった。わ かりやすく言うとこうだ。︱︱今すぐ舌を噛んで死ね。そして生ま れ変わって神様に顔面と脳ミソを作り直してもらってから出直して こい﹂ ﹁喧嘩売ってんのかテメ︱︱ぶっ!?﹂ 歯をむき出しにして威嚇するチンピラの顔面にザックを叩き付け、 ﹁当たり前だ。それともいちいち確認しなければ理解できんほど残 念なのか?﹂ 渾身の自己流右ストレートをたたき込んだ。真凛あたりなら﹁腰 がぜんぜん入ってない﹂と評しただろうが、素人の喧嘩ならこんな ものである。ザックを緩衝材代わりにしたのは、歯や鼻骨を殴って 拳を傷めないためである。 ﹁わた⋮⋮あのっ!﹂ 858 おれの名前を叫ぼうとして思いとどまるファリス。大変賢くてよ ろしい。 ﹁逃げるぞ!﹂ 先頭のチンピラがよろよろと後ろの仲間にもたれた。それによっ て崩れた包囲網の隙間に身体を割り込ませ、皇女の腕を強く引き寄 せる。予期していたのだろう、ファリスは逆らわずにおれに身体を 預けてきた。受け止めると同時にすばやく反転し、皇女の背中を通 りの奥に押し出す。 ﹁大通りまでまっすぐ走れ!﹂ ﹁はい!﹂ 視線を一度だけ交わしたあと、躊躇せずに走り出す。聡明な娘だ。 ここで変におれを心配して立ち止まったりしては、却って双方に危 険が増す事を弁えている。 ﹁ンだテメェなに邪魔くれて⋮⋮ぶげあ!!﹂ 後続、長髪にピアスのチンピラがつぶれた蛙のような悲鳴を上げ、 テー 突如雷に撃たれた様にひっくり返る。いや、比喩ではなく雷に撃た ザ︱ れたのだ。違法改造携帯電話﹃アル話ルド君﹄裏機能の一つ、電針 銃モードである。過剰にコンデンサの電圧を高め、ガス圧でワイヤ ー付きの仕込み針を発射し電流を流し込む射撃型スタンガン。もち ろんよい子が街中で持ち歩いて良い品物では決してない。 ﹁てっめ⋮⋮﹂ ﹁死にたくなけりゃ近寄るんじゃねえぞ!!﹂ おれは大声を張り上げ、チンピラ共に電針銃に変形させた携帯を つきつけた。自慢じゃないが喧嘩の腕はからっきしである。しかし 喧嘩というものはレベルが低ければ低いほど、戦闘の技術よりも威 嚇が重要になる。要は猿山の縄張り争いだ。そしてこれも自慢じゃ ないが、ハッタリには自信がある。何しろこの電針銃、弾数は一発 のみだったりするのだ。大音声と威嚇に、相手が歩を止めたその一 瞬に合わせ、おれも踵を返し通路の奥へと駆けだしていた。 ﹁逃がすな!捕まえろ!!﹂ 859 背後から刺さる怒声を無視して、おれは走った。 だが奥に向けてしばらく走ると、先に行ったはずのファリスが棒 立ちで佇んでいた。 ﹁何やって⋮⋮﹂ 文句を言いかけて気づいた。大通りに通じる細い通の突き当たり に、ねじ込まれるように趣味の悪いワンボックス車が停車していた のだ。もちろん進入禁止である。あのチンピラどもの移動手段、兼 即席の壁ということか。舌打ちを一つ。なかなか知恵が回るじゃな いか。 ﹁こっちだ!﹂ ファリスの手を引いて左に折れる。背後からは﹁曲がったぞ!﹂ だの﹁左だ!﹂だの声。おれ達は右に左に道を折れ、雑居ビルの裏 へとまわった。ビルの通用口の前では、休憩中なのだろうか、くた びれたサラリーマンが数人、タバコをふかしているのが目に入った。 ここを抜ければ大通りに抜けられる。日ごろの運動不足で上がりつ つある息を抑えつけ、ファリスの手を引き走る︱︱だが。 ﹁亘理さん!﹂ ﹁っと!﹂ ファリスの悲鳴。反射的にザックを振るったのはおれの反射神経 から考えれば上出来だった。舌打ちが聞こえた。見れば、さっきま でタバコをふかしていたはずのサラリーマンが、唐突にファリスに 向けて腕を伸ばしてきていたのだった。ザックを叩き付けられた腕 を引っ込め、おれをにらみつける。 ﹁クソが⋮⋮、大人しくしやがれよ﹂ その焦燥感に駆られた濁った眼を見て、おれはだいたいの事情を 理解した。 ﹁﹃アーバンジョブネットワーク﹄﹂ ﹁な⋮⋮﹂ 男達の動きが止まった。図星か。 ﹁どうせギャンブルで借金こさえて、ろくでもないバイトに手ぇ出 860 したってとこだろ。アンタらの身元、メアドと住所くらいならすぐ わかるぜ?﹂ ﹁ま、待て⋮⋮﹂ 男達はあきらかに狼狽したようだった。 ﹁動画つきでネットにさらしてやってもいいんだぜ。クビになった 上に前科がついちゃあ借金返せても割に合わんと思う︱︱がねっ! !﹂ 口からなめらかに脅迫を垂れ流しつつヤクザ・キック。ダメージ は最初から期待していない。腰が退けた相手を押しのけて突破口を 開き、おれ達はさらに通路の奥へと身を躍らせた。遠ざかる男達の 罵声を背にひた走る。 ﹃ふん、ネズミも逃げ回るとなれば小知恵を効かすものらしい﹄ とある雑居ビルの屋上から、それらの騒動を見下ろす無国籍な風 貌の大男が一人。手すりに凭れ、軍用の双眼鏡を覗き込みながら独 りごちる。手すりには持ち物なのだろうか、杖⋮⋮と言うには太く 長過ぎる、異形の鉄棒が立てかけてあった。軍から支給されたレー ションを噛みちぎり、舌打ちを一つ。 ﹃それにしても日本人はなぜこうも惰弱なのか?どいつもこいつも 栄養の行き届いた体格をしていながら、ルーナライナの物盗りのガ キより足が遅い﹄ 日本の晩秋、すでに冬の気配を漂わせており日は短い。すでに夕 陽は高層ビルの隙間に半ば以上を沈めつつあった。それに抗うよう に家々の窓やネオンの看板が灯りだし、狭い通路の様子はそのコン トラストの中に急速に埋もれてゆく。だが大男⋮⋮ルーナライナ軍 大佐ビトールの瞳は、宵闇の中を逃げ回る第三皇女の姿を見失うこ とはなかった。 ﹃何をしている?﹄ 背後から英語での問い。驚きはなかった。 ﹃﹃朝天吼﹄か﹄ 861 ﹁ほう、足りない脳でも俺の名前くらいは覚えていたか﹂ 振り返れば、仏頂面の少年⋮⋮劉颯真がそこにいた。接近そのも のにはとうに気づいていた。いかに気配を隠して近づこうとも、彼 の体毛は空気の震えを捉える。もっともこの傲岸な少年にとって、 隠れて近づくなどという考え自体が選択肢として存在しないようだ が。 ﹃ここは俺の作戦領域だ。貴様等が今さらその青いクチバシを突っ 込む隙間はないぞ﹄ ﹁なぜ勝手に動いた?しばらくは皇女を泳がせることで合意したは ずだ﹂ 颯真の声が低く沈む。その声は激昂する少年のものではなく、己 の領を犯した者へ罰を下す王のそれであったが、ビトールは鼻を一 つ鳴らしたのみだった。 ﹁閣下のご命令があったのだ。物事は迅速に為せ、とな﹂ 颯真の眉が急角度に跳ね上がる。 ﹁ワンシム様はお忙しい方だ。貴様等の効率の悪いやり方につきあ う必要などない。女など攫ってきて尋問で必要な事を吐かせればそ れでよい﹂ ﹃尋問?拷問の間違いではないでしょうか﹄ 少年の傍らに影のように従う女、﹃双睛﹄が言う。その魅惑的な 肢体を眺めやり、小さく舌なめずりをする ﹃馬鹿を言うな。ルーナライナの軍人が民間人を傷つけるような恥 ずべき真似をするものか﹄ ﹃逮捕した市民を砂漠で一昼夜連れ回すのがお好きと聞いたのです けれど﹄ ビトールの目尻が歪む。︱︱おぞましい悦楽の記憶に。 ﹃俺は慈悲深い男でな。怠けがちな市民の運動不足解消につきあっ てやっているのだ。健康のために裸足で砂漠の上を一日歩く。する と皆、なぜか俺に感謝して色々と喋りたくなる。人徳というものだ な﹄ 862 ﹃熱砂の上を歩かせられればそうでしょうね。特に足の爪を剥がさ れた状態であれば﹄ ﹃ふん、随分と些事を調べ上げているようだな?﹄ ﹃くだらん問答はいい。今すぐ駆りだした雑魚共をまとめてここを 去れ。そうすれば合意を反故にしたことは不問にしてやる﹄ ﹃ハ!寝言を抜かすなよ小僧。取り違えるな、俺達がお前を雇って いるのだ。俺達が予定を変更すれば、お前達がそれに合わせる。当 然だろう?﹂ ﹃ほう。︱︱要求を呑む気はないということだな?﹄ 颯真が右足を一歩踏み出す。コンクリの屋上が、みしりと軋んだ。 ﹃当たり前だろう。それから小僧。最初から目に余っていたが、貴 様、雇用主に対する態度にだいぶ問題があるなア?﹄ ビトールが向き直る。両腕を大きく開き、その唇から歯茎がむき 出しになった。 ﹃︱︱お楽しみをお邪魔してすみませんが﹄ 激発寸前の空気は、狙い澄ましたタイミングで差し込まれた美玲 の声で霧散した。屋上から路地裏を見下ろす彼女の瞳は、都会のネ オン光を反射し、幽玄な淡い光を放っている。 ﹃状況に動きがあったようですよ﹄ ﹁亘理さん、彼らはいったい、誰ですか⋮⋮?﹂ 皇女の息が僅かに上がっている。おれはそれに年長者の余裕を持 って、 ﹁ああ、アーバン、ジョブ、ネットワーク、つってね⋮⋮!﹂ 答えたつもりだったのだが、どうも呼吸器系は過剰労働に文句を 言いたい模様。こないだの山中走破といい、やっぱり基礎訓練って 大事なんだなァ。 ﹁⋮⋮お手軽な、兵隊調達、手段さ!﹂ アーバンジョブネットワーク。近頃口コミで広がっている、暴力 団にも所属できない程度の中途半端なチンピラ、タチの悪い不良学 863 生、借金を抱えた社会人⋮⋮裏の世界に﹁片足とは言わないが半歩 踏み出しているような﹂しょうもない連中を対象にしたSNSだ。 今日では男女の出会いもお手軽なバイト探しもSNS上で行われる が、こと裏の世界もそれは例外ではない。ヤバくても割のいいバイ トを求める連中がアドレスを登録しておき、そこにヤバい仕事をし たいが自分の手は汚したくない連中が携帯のメール一本で依頼を⋮ ⋮例えば﹁銀髪の女を攫ってこい﹂とでも持ちかければ、即座に私 兵集団を作り上げる事が出来るといういわけだ。ちなみに報酬は駅 前のコインロッカーの位置と暗証番号という形で支払われ、アドレ スを辿っても依頼人に辿り着くことは不可能という寸法。ってな事 を解説してたら袋小路である。 ﹁追い込んだぞ!行き止まりだ!﹂ ﹁手こずらせやがって、ぶっ殺してやるからなガキが!﹂ はん、どうせ新宿あたりから出張ってきた連中だろうが、こちと らホームだ。安い昼飯を食わせてくれる店を探して日々街を彷徨っ てる学生ナメんなよ?行き止まり近くの中華料理屋のドアを無造作 にオープン。 ﹁ちいっす大将、ちょっと通りまっす!﹂ ﹁あの、すみません、お邪魔します⋮⋮﹂ 目を丸くする店長に目で詫びながら店内を突っ切る。この店は確 か旧いビルのフロアを間仕切りして四つの店舗にしたものだから、 確か奥で一杯飲み屋とつながっていて、そこを抜ければ︱︱ ﹁抜けた!﹂ おれの叫びに、早上がりのサラリーマン達がぎょっとした視線を 向ける。そう、おれ達は今、一杯飲み屋ののれんをくぐって、事務 所の裏口へと続く通りへと抜け出ていたのだった。あとはここを直 線ダッシュすれば、 ﹁逃がすかよオラァ!女をつれてきゃ十万円、テメェは全殺しだ!﹂ どやどやと店を突っ切り追いかけてくるチンピラ共。あああご主 人すみません。今度メンツ集めてここで飲み会させてもらいますん 864 で。 ﹁つうかお前ら、十万で誘拐罪を背負うつもりかよ﹂ 言っておくが社会的信用はいざ失ってみると取り戻すのに十万や 百万ではきかないんだぞ、これだから本当の意味で頭の悪い連中は ︱︱などと思考を逸らしたのがいけなかったのかも知れない。次の 瞬間、おれは足をもつらせ盛大にすっころんでいた。 ﹁大丈夫ですかっ!?﹂ ﹁立ち止まるなっ!﹂ ああもう泣きそう。怪我ならともかく、運動不足で足がつったの である。いざ一般人が映画のようなシチュエーションに巻き込まれ ても、ヒーローのようには行動出来ないという見本になってしまっ た。 ﹁早く行けっ!﹂ ﹁でも︱︱﹂ ここでファリスが躊躇したのは、判断を誤ったのではなく、迷っ たからだ。己が標的という事は彼女も判っている。だが散々挑発さ れて頭に血が上った連中が、おれを無傷でスルーするはずはなかっ た。 ﹁気にすんな、給料のうちさ﹂ まあ腕と前歯くらいは仕方ない。 そう、腹は括ったつもりだったのだが。 ﹁⋮⋮だから、行けってのに﹂ 皇女は、踵を返していた。紫水晶の瞳がおれを見つめる。桜色の アルク と。 唇が微かに動き、声なき声でルーナライナの言葉を紡いだ。 そして腕を取って立ち上がらせる。 ﹁⋮⋮ごめんなさい﹂ 時間としてはわずか。だが、チンピラ達がおれ達に追いつくには 十分な時間だった。背後から風。とっさに皇女を庇う。振り返りざ まに顔面に一発いいのを貰った。 865 ﹁⋮⋮っ痛ぅ﹂ 視界がぶれる。口の肉が歯に当たって裂けた。こりゃしばらく口 内炎は確定だ。両腕を上げてなんとか二発目をブロック。だがガー ドが上がったところにボディ。今度は入った。腕の隙間から怒り狂 ったチンピラの顔が覗く。よく見れば最初におれが顔面パンチを入 れた奴だ。嘔吐感をこらえる。口先三寸も通用しそうにない。あー もう。ここで玉砕するっきゃねえかな! ﹁︱︱おまたせっ!!﹂ その声は頭上から聞こえた。 後ろから助走をつけて跳躍。おれの頭を台にして跳び箱の容量で まさかり もう一段己の身を引き上げ空中で一回転︱︱そしてその勢いを微塵 も殺さず、我がアシスタント七瀬真凛は鉞のように踵を振り下ろし た。 ﹁はぎゃっ!?﹂ 異様に小気味の良い破裂音。助走と落下と回転の勢いを全部乗せ た踵がチンピラの鎖骨を容赦なくへし折ったのだ。しかもそのまま 体勢を崩すことなく、苦悶に反り返った胸を蹴って真横に跳躍。後 続のチンピラ⋮⋮おれが電撃をかました長髪ピアスに襲いかかる。 空中から無造作に左手で長髪、右手でピアスをひっつかみ、そのま ま背骨を軸として全身の筋肉をうねらせ、ぐるんっと一回転した。 ﹁うっわ﹂ おれは思わず声を漏らしてしまった。長髪とピアスをハンドル代 わりにされて首を捻られ、ちょっと言及できないほど凄惨な状態に なったチンピラ二号が顔を覆って悶絶する。残心しつつバックステ ップ、おれ達を背後にかばうその様はまさしくヒーローのそれであ った。 ﹁なんだテメェ!?﹂ ﹁ガキか?今何しやがった?﹂ 後続のチンピラ達が呆気に取られ、足を止める。その一瞬、魔法 866 の杖のように伸びた真凛のつま先がさらに一人の鳩尾を蹴込んでい た。これで三人。 ﹁集団戦?いいよ﹂ ぞっとするほど冷たい声。この娘の本質、刃物じみた美貌が垣間 見える。 ﹁そういうのは得意だから﹂ ﹁真凛さん!!﹂ ﹁遅くなりましたファリスさん!もう大丈夫ですよ!﹂ ﹁もう腹痛はよくなったのか?﹂ ﹁おかげさまで!休んだあと御礼言って一度事務所に戻ったんだよ。 そしたらあんた達が来たから︱︱﹂ ﹁ああ。それでパンツも履き替えてたのか﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮な﹂ うん、まあなんだ。いくら色気よりも食い気とは言え、スカート 履いて飛んだり跳ねたりは、ちょっとな︱︱って、 ﹁痛ッてえじゃねぇか!?普通顔面蹴るか?﹂ さっきのパンチよりよっぽど痛ぇぞ!? ﹁うっさいバカ!普通助けてもらってその台詞はないでしょ!?バ カでしょアンタ!?あのまま死んでればよかったのに!バカ!﹂ ﹁おいお前今バカって三回言いやがっただろ?﹂ ﹁亘理さん、さすがに今のはどうかと﹂ ﹁え⋮⋮⋮まずかったかな?﹂ ﹁ルーナライナでしたらその場で射殺されても無罪判決のレベルで す﹂ ﹁⋮⋮ま、まあそれよりアレだ。真凛、そいつらをやっつけてしま え!﹂ 自分がダメな悪の幹部になった気がする。四天王最弱とかそうい う奴。 ﹁⋮⋮あとできっちり話しよっか﹂ 猛獣めいた視線の女子高生。小娘一人、だが異様に喧嘩慣れした 867 その雰囲気と、何より三人を瞬殺してのけた技量。チンピラ達は明 らかにひるんだ様子だった。 ﹃あらあら、これは良くない状況ですわね﹄ 胸の下で腕を組んだ美玲が言う。暗闇を見通す彼女の視界の中で は、七瀬真凛に突っかかっていった与太者達が、ほとんど鎧袖一触 の状態で次々と戦闘不能に追い込まれている。 ﹃当然だ。小銭をばらまいて雑魚を集めたところで所詮は雑魚。戦 闘要員のエージェントが出てくればそれで終わり。自明の事だ﹄ そう言って颯真が横目でビトールを睨んだのには当然、無断行動 への非難もあるが︱︱ ﹃まさかこれで終わりか、とでも思っているのだろう?﹄ 陽が殆ど沈み、あたりを覆い尽くす夜の帳の向こうから、ビトー ルの声が響いた。 ﹃違うのか?﹄ ﹃当然、終わりではない。与太者どもをかき集めてけしかける程度 ならば子供でも思いつく方法だ。本番はこれからよ﹄ 闇の中、その瞳のみが異様なぎらつきを放つ。金色の輝きの中で、 瞳孔が縦に裂け、そして拡がった。筋肉質の大男の輪郭が黄昏にに じみ、ぼやける。陽炎のようにゆらいだそれは、やがて二足歩行の ・・ ままに、全身の毛を炎のように逆立てた異形のけだもののそれとな った。 闇の中、それは己が歯を食いしばり、そのまま大きく呼気を吐き ﹄ だした。口腔内で一度せき止められた呼気が圧をかけられ歯と歯の ルーナライナとトウキョウとでは条件が異なる? 隙間から幾条も吹き出す︱︱朦々たる黒煙となって。 ﹃︱︱ 兵隊もいないのに? ︱︱いかにも人間が口にしそうな言 再び男の姿がかき消える。夜の闇よりなお暗い、光を呑む靄によ って。 ﹃︱︱ い訳よな﹄ 868 しばらく黒い靄の中に眼を凝らしていた美玲が、やがて得心がい ったように組んでいた腕を開いた。 ﹃これはこれは︱︱そういう筋の方でしたか。こう言っては何です が、我々の反りが最初から合わなかったのは仕方のないことだった のかも知れませんね﹄ 闇の向こうで空気が震える。ぐつぐつと笑い声。 ﹃そうさな。本来は俺は喰う側、お前達は喰われる側︱︱だ。女、 貴様のししむらを食い千切れなかった事は心残りだが、それはまた いつかの楽しみとしよう﹄ 轟、と突風が一つ。 黒い靄が風に散る。美玲が風になぶられた髪をかき上げた時には、 すでにルーナライナ軍大佐ビトールの姿は雑居ビルの屋上からかき 消えていた。 ﹁行ったか﹂ ﹁追いますカ?﹂ ﹁それこそまさか、だ﹂ ﹁一応確認ですケド、我々ビトール殿を止めに来たコトデスヨ?﹂ 己の忠臣の言葉に、若き暴君は鼻を一つだけならした。 ﹁気が変わった。ビトールの奴、頭はともかく腕はそこそこ立つよ うだからな﹂ 先ほどビトールが凭れていた手すりに身を乗り出し、劉颯馬は言 った。 ﹁七瀬め。﹃竜殺し﹄、どこまでやるのか見せて貰おう﹂ 869 ◆17:妖怪変化と覚醒少女 路地裏を風が吹き抜けた。 おぞけ 突如、怖気が走った。 全身の肌が粟立ち、毛が逆立つ。 すでにその時、路地裏の乱闘は決着がつきかけていた。十数人い モノ モノが含ま 陰風 いんぷう 。ヒ とも少し違う。幸か不 悪い たチンピラのほとんどは真凛に打ち倒され、おれは今度こそ皇女を 連れて事務所へ戻る準備をしていたのだが。 ﹁⋮⋮っ!お出ましかよ!﹂ 瘴気 晩秋の夜よりなお寒い、そしてなにがしかの れた、底冷えするような風。不浄な モノ 幸か、おれは今までの経験でその正体を知っていた。 トからはみ出した存在、あるいはヒトならざる怪異がその力と共に 解き放つ邪悪な気配。︱︱すなわちその意味は、 ﹁上だっ!﹂ ﹁受け身っ!!﹂ おれと真凛の叫びが同時にあがる。夜の闇よりなお暗い、ネオン の光も通さぬ黒いかたまりが、明確な殺意を以ておれの頭上に落ち かかってきていた。 とっさに皇女を抱えるおれの背中を、真凛が思いっきり蹴り飛ば し、反動で自分も飛んだ。絶妙の判断。おれ達が左右に別れた一瞬 あとの空間を、大質量の黒い塊が押しつぶしていた。 轟音、破砕。打ち割られたアスファルトの破片が飛び散り、おれ の背中にいくつも跳ねた。降り注ぐ砂埃の中、真凛の警告通り受け 身を取って起き上がったおれと皇女が見たものは。 ﹁シイイィィィィィ⋮⋮!!﹂ 870 黒い靄の中に佇む、獣、だった。 いや、基本的なシルエットは人間︱︱二メートル近い長身、屈強 な筋肉質の体躯、無骨なミリタリー装備に身を固めたその姿は、日 本ではまず目にすることは出来ないとしても︱︱、確かに人型のそ れである。直観。精神をシフト。小声で呟く。 ﹃亘理陽司とファリス・シィ・カラーティに︱︱﹄ だが、その全身から立ち上る禍々しい黒い靄が、明らかに男がま っとうなヒトのそれではない事を示している。そして両腕と顔は黒 い斑点混じりの銀色の体毛にびっしりと覆われ、大きく張り出した 顎から覗く牙、金色に輝く瞳孔は、まさしく獣、それも獰猛な猫科 猫 の生き物のそれであった。長く突き出した首、異常に発達した背中 バネ を形成している。もちろん不健康な姿勢のそれではない。瞬時 と、曲げられた脚にたわめられた筋肉、そして浮かせた踵が、 背 に得物に飛びかかることを可能とする、危険な発條。 ﹃致命打は︱︱﹄ そしてその両腕で逆手に握られ地面に突き立てられているのは、 長大な鉄の棒であった。中央の持ち手のみが人間が握れる程度の細 さだが、それ以外の箇所は梁のように太い。奴は上空からの落下速 度、己の膂力、そしてこの鉄塊の重さを一点に集約して俺を叩き潰 そうとしたのだ。直撃していれば、俺は頭から踵まで圧縮された肉 塊に成りはてていただろう。 ﹃小僧共、カンはいいようだな﹄ 黒い靄を周囲に放射しながら、獣が異形の口腔を器用に動かし西 域の語を発音する。瞳孔が俺を見据える︱︱と同時に、筋肉で形成 された異形の猫背が弾けた。 ﹃︱︱当たらない!﹄ 紡ぎ上げられた言葉が﹃鍵﹄を形成する。 ﹁ヌゥッ!?﹂ 先読みの博打は見事に当たった。おれを狙った鉄塊の一撃は、見 えざる因果の鎖に絡め取られ⋮⋮結果、﹃先の一撃の余波で断線し 871 たビルのケーブルが、獣の眼前に落ちかかってくる﹄という形で妨 害された。咄嗟に硬直する獣。だが、直前で急停止し勢いが殺され たものの、鉄塊はおれの左肩に重く食い込んでいた。 ﹁くっは⋮⋮!!﹂ おれの視界が急速に横に流れ、大音声と共に急停止。三メートル ほど横に吹っ飛ばされてビルの壁面に叩き付けられたのだ、と二拍 ほどして認識する。 仕方がない。ファリスへの流れ弾を防ぐためには﹃鍵﹄の対象を 二人にせねばならす、その場合、必要なコストは加算ではなく乗算 になる。負荷を削減するために、﹃当たってしまう﹄こと自体は受 インナー け入れざるを得なかったのだ。ダメージ検証︱︱右の肩甲骨にヒビ。 腕の筋肉に一部断裂、アバラに衝撃、防刃防弾下着越しとはいえ全 身に打撲。内臓まわりは後でチェック。︱︱暫定結果、防具を付け た状態で二階の窓から突き落とされた程度。充分活動可能だ。アド レナリンを分泌させて痛覚を遮断し、身を起こす。 挙動を崩されたのもつかの間、即座に皇女につかみかからんとす る獣。だがそこに、極端に身を沈め、影から滑り込むように真凛が 追いすがっていた。 ﹁ジィィッ!!﹂ 獣が反応し、咄嗟に跳躍する。正しい判断だろう。アキレス腱を つかんで引きちぎろうとした指先が空を切る。そのまま真凛は前転 して身を起こし、おれの代わりに皇女の護りとなる。跳躍した獣は そのまま、雑居ビルの壁を蹴り、合間を駆け上がってゆく。そして ︱︱ ﹁また来るぞ!﹂ ﹁わかってる!﹂ 十分な位置エネルギーを稼いだ時点で獣は身体を反転させ、一転 して下方、つまりおれ達に向かって壁を蹴った。今度の狙いは︱︱ 真凛! ﹁っ⋮⋮!﹂ 872 真凛と皇女が咄嗟に飛び退る。再び弾丸と化した獣が、アスファ ルトに鉄塊を炸裂させたのはその直後だった。獣が唸り声を上げる。 追撃はなかった。 ﹁ちぇ、さっきより速いや。合わせそこねちゃったよ﹂ 真凛が五指を屈伸させてぼやく。攻撃を避けざまに眼球を狙い貫 き手を放っていたが、またも獣の反射神経にかわされたのだ。睨み 合う両者。 初手の見せ合いが終わり、互いの力量が知れたところでわずかに 膠着状態が訪れる。周囲を満たし始めた黒い靄に不吉な予感を抱き つつも、そこでおれ達はようやく相手を観察・分析することができ た。こいつが敵であり、さっき喋ったルーナライナ語から、皇女を 取り戻すための刺客だという事までは明白だ。問題はその能力。 ﹁⋮⋮棍、かな?﹂ きね 真凛が敵の持つ異形の鉄棒を見て呟く。 ﹁︱︱いいや、ありゃあ杵、だな﹂ ﹁杵!?って、あのお餅つく奴?﹂ 真凛が驚くのも無理はない。だいたいの人間にとって、杵という 横杵 じゃなくて、竪杵⋮⋮逆手 たて ものは道具であって、武器ではない。こんなものを使う連中と言え ば。 ﹁ああ。だがハンマーみたいな に構えて重さで突き潰す方が得意な奴だ﹂ さっきアスファルトを叩き潰したのもそれだろう。真凛の言葉に 応えていくうちに、おれの頭の中で検索結果が急速に絞り込まれて いった。 ﹃小娘が格闘使い、男は添え物︱︱なるほど、事前情報の通りだな﹄ ﹃添え物で悪かったな﹄ まあ否定はしないが。ルーナライナ語でお返事してやると、会話 が出来ることに驚いたのか、黒い靄を顎から垂れ流しながら獣は言 葉を続けた。 ﹃貴様等も運がない。よりによってこの俺を相手にするとはな﹄ 873 ﹃はっ、獣のくせに随分器用にさえずるじゃないか﹄ 前に戦った竜人は変身するとまともに喋れなかったもんだが。と、 獣が喉をぐつぐつと震わせた。嗤っているらしい。 ﹃獣、か。なるほど貴様らにはそう見えるかも知れぬな。愚かな奴 め、俺が何者かもわからぬまま、臓腑を裂かれて死ぬがいい﹄ ﹃ははん。さてはお前、頭悪いだろ?脅し文句に独創性がない﹄ 先ほどチンピラ相手に独創性のない文句を吐いた事実を棚に上げ つつ、おれは内心舌打ちした。コイツは殺意を明示した。つまりは まっとうな﹃派遣社員﹄ではなく、業界の仁義を守るつもりもなけ れば必要もないということだ。 ﹃けどまあ、アンタの正体、心当たりがないわけでもないぜ?﹄ ﹃ほう。小僧、俺様を知っているとでも?﹄ ﹃そうさな、おれが知ってるのは︱︱かつて中央アジアのある部族 添え物 扱いするのはやめ が、雪渓に埋もれた寺院に封じられし邪法を解き放ち、獣の力を我 が物とした︱︱なんて伝説だけど﹄ ﹃⋮⋮ふん⋮⋮﹄ 獣の気配が変わる。どうやらおれを たらしい。 妖怪変化 、といえばヒントがあり ﹃当たりか。ま、簡単なクイズだったな。銀色の毛皮に黒の斑点、 鉄の杵をかまえて陰風を纏う すぎなくらいだぜ﹄ 獣の口の端が急角度に歪む。 ﹃ならば言ってみるがいい、⋮⋮我が真名をな﹄ ユキヒョウのあやかし ﹃その昔、ありがたいお経を取りに天竺に旅立った坊さんを喰らお うとした魔物の末裔。花皮豹子精︱︱またの名を﹃南山大王﹄!﹄ ナンザンダイオウ、の日本語を知っていたのだろう、獣は嗤った。 禍々しい歯列がむき出しになる。 ﹃気に入ったぞ小僧!男の肉は好かぬが、貴様の脳随は啜りがいが ありそうだ!﹄ 再び弾ける筋肉のバネ。夜闇を裂いて鉄杵を唸らせ、﹃南山大王﹄ 874 は跳躍した。 ﹁ふん、生憎おれの役割はどっちかっていうと念仏唱える方でね︱ ︱荒事は任すぜ孫行者!﹂ ﹁なんだかよくわかんないけど任された!﹂ そこはがってんお師匠様とか言って欲しかったがまあいい。割っ て入った真凛が鉄杵を潜り込みつつ掴みかかり、接近戦を挑む。獣 は己の爪牙を振り回しつつ、鉄杵の有利な間合いを取ろうとする。 剣呑な技巧と獰猛な黒靄が混じり合い、一挙手一投足の間合いでの 乱戦となった。 ﹁大丈夫か?﹂ もつれる両者から距離を取り、皇女の元へ。おれが獣相手に正体 当てクイズをやっていたのは、別に自分の知識自慢のためではない。 真凛が皇女を安全圏に退避させるまでの時間稼ぎである。 ﹁亘理さん、肩が⋮⋮!﹂ ﹁ああうん、まあ軽い打ち身ってとこ﹂ ﹁嘘です、あの音なら骨にヒビが入っているはずです!﹂ ﹁だいじょぶだいじょぶ、割とまれによくあることだから﹂ 皇女の気遣わしげな視線。どうも扱いに困るなぁ。ケラケラ笑っ て手を振り、話題を転換する。 ﹁で、今の襲いかかってきた獣に心当たりは?﹂ ﹁たぶん⋮⋮ビトール大佐です。叔父の右腕を務めていて、豹の魔 物に変じる力を持つなどという噂がありましたが、まさか﹂ 本当に豹に化けるとは思っていなかったのだろう。それが普通の 世界の常識というものだ。 ﹁んじゃ、厄介者の相手は真凛に任せて、おれ達はとっととずらか ろうか﹂ ﹁そ、それは真凛さんがあまりにも危険では!﹂ ﹁へーきへーき。君も見たろ?アイツのえっげつない暴力をさー﹂ 蹴られた顔面をさすってみせる。 875 ﹁しかしビトール大佐のあの姿は、もはや人間ですら⋮⋮!﹂ ﹁大丈夫。アイツはああいった手合いとはもう何度とやってるしね。 それに﹂ ま、そろそろアシスタント業務も長いしな。 ﹁任せられるから任せる。︱︱そういうことさ﹂ ﹁信頼、してるんですね﹂ ﹁と、とにかく!ここから離れるぜ、⋮⋮ってなんだこりゃあ?﹂ ﹁黒い⋮⋮壁!?﹂ 皇女を連れてビルの谷間から抜け出そうとしたおれ達は、黒いガ ス状のものがわだかまり、出口を塞いでいることに気がついた。 ﹁あの黒い靄か⋮⋮!﹂ 己の迂闊さにまた舌打ちする。確かに陽は落ち、もう夜と言って もいい時間だ。だが外から届くはずのネオンや街灯の明かりが一切 遮断されていたことに気がつくべきだった。辺りを見回す。イヤな 予感は的中。いつの間にか周囲一帯が黒い靄に閉ざされていた。 ﹁これが、ビトール大佐の力なのでしょうか?﹂ ﹁だろうな、奴さんの撒き散らしていた黒い靄、ただの虚仮威しっ てわけじゃないらしい﹂ 試しに手をかざすと、不吉な寒気が腕に走り思わず引っ込めた。 分類するなら﹃妖術﹄のくくりだろう。精神的な嫌悪感を催す人払 いの結界。恐らくこの黒い靄の中で何が起ころうと、外の人間には 感知されない。表通りを歩く人間が悪臭漂う路地裏や薄暗い物陰に 視線を向けるのを避けるように、この場で起こる事を無意識に忌避 し、忘れようとする力が働くのだ。人に仇なす﹃妖怪変化﹄が力を 振るう際、しばしばこういった結界を用いることを、おれは経験と して知っていた。 ﹁気合い入れて突っ切りゃいいだけの話なんだけどな⋮⋮!﹂ 額に脂汗が浮かぶ。理屈ではそう判っていても、ヘドロの海に顔 を埋めるような強烈な嫌悪感が行動を阻む。ファリスを見れば、こ ちらも顔を青くし身を竦ませている。 876 ﹁作戦変更だな、こりゃ﹂ 二人揃って突破できる目は薄いと判断せざるを得ない。 ﹁こうなったらそいつを一気に片付けて脱出するぞ︱︱って、おい !?﹂ 皇女を連れて引き返したおれ達の前に、意外な光景が広がってい た。 獣が吠え、巨大な体躯が唸りを上げ︱︱アスファルトに叩き付け られた。 ﹃ガハァッ!﹄ 牙の間から肺の中の呼気と黒い靄が吐き散らされる。己の重量と 速度がそのまま凶器となって跳ね返り、頑丈な骨格と胸筋をも押し つぶしたのだ。 ﹃舐め、るな小娘ェェエ!﹄ コンマ数秒で身を跳ね上げ、﹃南山大王﹄は突進、膂力に任せて 鉄杵を振り下ろす。遠心力をためこんだ極太の鉄の塊が七瀬真凛の 小さな頭に振り下ろされ、木っ端微塵に粉砕された、かに見えた。 真凛は左手左足を前に出した構えから、右足を半歩だけ退いて半 身に身体を開いた。半瞬前に己の頭があった空間を鉄杵が通過する。 強敵の攻撃を紙一重で避ける﹃見切り﹄だ。そこまではまあわかる。 おれも何度も見たことがある。 だがそこからが異常だった。真凛はそのまま前に突き出した己の 両の掌で、鉄杵を掴んでいる﹃南山大王﹄の手首を軽く包み込んだ ︱︱ように見えた瞬間。 ﹃ッッガァ!﹄ 苦悶とともに﹃南山大王﹄はまるで高圧電流に感電したかのよう に背筋をびくんとまっすぐ伸ばし、そしてその姿勢のまま斜め上空 にすっ飛んで行ったのである。 ﹁ま、真凛さん!?﹂ 877 呆気にとられるおれ達の視界で、﹃南山大王﹄の巨大が放物線を マジック 描き、そのまま雑居ビルの壁面に叩き付けられ、轟音を撒き散らす。 ﹃ゴ⋮⋮ガ⋮⋮!﹄ 地面にずり落ちた獣が痙攣する。 ﹁亘理さん、真凛さんは武術の他に何か魔術も使われるのですか?﹂ ﹁いや、そんなはずは⋮⋮﹂ 先ほどのチンピラとの戦いで、真凛が護衛として十分な戦闘力を 備えている事を確認済のファリスだが、驚くのも無理はない。触れ ただけで相手を吹き飛ばすなど、武術ではなく超常現象の領域のは ずだ。 ﹁うん。うん。だいたいわかってきた﹂ 不可思議な技を使った当の本人は、ごく平然と、なにやら確かめ るように己の五指を開閉させている。と、瓦礫が吹き飛び、またも ﹃南山大王﹄が身を起こし突進してきた。 ﹃殺す!殺す!貴様は臓腑を引き裂いて殺す!!﹄ 憎悪のこもった絶叫も、ルーナライナ語を解さない真凛には届か ない。 ﹁要は銃弾を見切る時とおんなじなんだよね。力の流れを︱︱﹂ 鉄杵が風を巻く。横薙ぎの一閃。縦を躱されたのであれば次は横。 シンプルだが確実な選択、のはずだった。だが真凛は、敵が撃ちこ んだ時にはすでに暴風圏の中心に吸い込まれるように前進。体幹を 軸に収縮する螺旋のように身を翻すと同時にまたも両の掌で﹃南山 大王﹄の手首と肘にあてがうように触れ、糸の切れた人形のように すとんと膝を抜いていた。 ﹃⋮⋮!﹄ 獣はもはや悲鳴も上げなかった。再び宙に己の身を跳ね上げ、今 度は吹き飛ぶ事すら出来ず、自身の起こした暴風に巻き取られるよ うに巨体が鋭く空間を翻り︱︱べちゃりと雑巾のように地面に吸い 込まれ、潰れた。 ﹁︱︱よく見て、螺旋にして相手に集積してあげればいいんだ﹂ 878 片膝立ちのまま真凛が呟く。その両手はいつの間にか、剣を撃つ ように振り下ろされていた。 ﹁⋮⋮マジ?﹂ 合気道で言うところの四方投げ、いや小手返しだろうか。あまり に速く到底目で追えるものではないが、ネットの動画で観た武道の 技ではそれが一番近いように思えた。多分ではあるが、いわゆる合 気の類い。﹃南山大王﹄の獣の膂力、体重、そして鉄杵の重量や遠 心力。それらを巧みに取り込み相手に送り返したのだろう。﹃南山 大王﹄は自分自身が放った力で宙を飛び、壁や地面に叩き付けられ る羽目になったのである。 ﹃⋮⋮ガ⋮⋮ハ⋮⋮ッ﹄ 倒れ伏したままの獣。残心したまま真凛は距離を置き、一息つい た。 ﹁よし、上手く出来た。颯真とやり合う時は余裕なかったけど、こ の人は力も動きも大きかったからかえってわかりやすかったよ﹂ ﹁真凛さん、それも武術の技、なのでしょうか﹂ 皇女が恐る恐る確認した。そうであって欲しい。万が一このお子 様が超能力にまで目覚めでもしたらそれこそ手が付けられない。 ﹁うん。やってることはウチの基本技。他の流派にも普通にある技 なんだけど﹂ ﹁ンな技が普通にあってたまるか﹂ ﹁あはは。こないだ、シドウさんとやり合ったでしょ?その時にあ の人もボクと同じく﹃見えてる﹄っぽい人だったからさあ、色々コ ツを聞いたんだ﹂ シドウというのは以前の仕事で真凛が戦った巨漢で、柔術の使い 手である。この女子高生の特技として、銃を構えた相手の殺気、銃 口の位置から弾道を﹃線﹄として見るというものがあるのだが、ど うやらコイツ、その特技を投げ技や関節技に応用し始めたらしい。 ﹁体格が大きい人相手だと指とか目とかを攻撃しないと崩せないか ら、読まれちゃうと手詰まりになっちゃったんだけど、これでだい 879 ぶ幅が拡がったよ﹂ 己のレベルアップを実感するように、何度もうんうんと頷くお子 様。素人見立てだが、﹃南山大王﹄は決して弱敵ではない。むしろ 戦闘能力で言えば今までおれ達が渡り合ってきた中でも上位の部類 に入るはずだ。それをここまで一方的に叩き伏せるということは、 つまり成長していると言うことだ。 ﹁真凛、おまえ﹂ ﹁ん?﹂ ﹁いや⋮⋮、何でもない﹂ いつも通りのあっけらかんとした表情に、おれは言葉を失った。 自分でも何を言うつもりだったのか、よくわからなかった。 ﹁ま、まあ障害も排除したことだし。さっさとみんなで事務所に戻 ろうぜ﹂ ズボンの埃を払ってザックを背負い直す。帰り支度を始めようと したおれの耳に、皇女の叫びが刺さった。 ﹁亘理さん、あれを!﹂ ﹁どうしたファリス?﹂ ﹁靄が、晴れていません⋮⋮!﹂ ﹁何だって?﹂ おれの視界の先には、路地裏と表通りの境を塞ぐ黒い靄。﹃南山 大王﹄を倒したはずなのに、それは晴れずに未だどろどろと蟠った ままだった。 ﹃グ、⋮⋮グ⋮⋮、ハハ⋮⋮ハハハハハ!﹄ 瓦礫の山が崩れ、﹃南山大王﹄が身を起こした。己自身の重さと 速度で何度も地面に叩き付けられたダメージは相当に大きいらしく、 鉄杵を杖代わりにしている。だがその眼はまだ凶暴な殺意に満ちて いた。 ﹃まだやるのか?正直、こちらとしてはこれで手打ちにしたいんだ がな﹄ あちらはどうか知らないが、こちらは生命のやりとりをしても何 880 の得もないのだ。 ﹃バカを言うな⋮⋮これからよ⋮⋮。キサマ、気づいていないのか ?﹄ ﹁陽司、後ろ!﹂ 真凛の声に背後を振り返り、おれは眼を向いた。 ﹁これは、⋮⋮いったい何が起こっているのですか?﹂ 皇女の狼狽も無理はない。そこにはおおよそあり得ざる光景が展 開されていた。 先ほど倒されたチンピラ達。その多くは逃げ散り、何人かは完全 に昏倒し無力化していた。だがそのうちの三人に、周囲に漂ってい たあの黒い靄が、もつれた蜘蛛の巣のように幾条もの糸となって絡 みつき、そして繭のように包み込んでいたのだ。 そして靄が完全にすっぽりとチンピラを覆いきると⋮⋮それは、 むくりと立ち上がった。二メートルの巨体と、鉄杵を携えた獣のシ ルエット。つまりは﹃南山大王﹄のカタチを採って。 一体二体と起き上がり、そして三体目が起き上がる。 気がつけば四匹の獣に、おれ達は囲まれていた。黒い靄に包まれ た﹃南山大王﹄の影三体と、そして、 ﹃これで形勢逆転だな、小僧共。⋮⋮これこそ我が真の力、必勝の 陣よ﹄ オリジナルの﹃南山大王﹄に。 ﹁亘理さん、これもビトール大佐の力、なのですか?﹂ ﹁っていうかこれ、ちょっとずるくない?﹂ 四方を囲まれ焦る皇女と、唇をとがらして不満を述べるアシスタ ぶんりゅうばいか ント。おれはと言えば、額に手をやり己の迂闊さを反省していた。 ﹁﹃分瓣梅花の計﹄か。そりゃそうか、﹃南山大王﹄ならそう手を 打つよなぁ﹂ ﹁ぶんりゅ⋮⋮ナニソレ?﹂ ﹃分瓣梅花の計﹄。かつて﹃南山大王﹄が取経の旅に出た聖僧を 881 襲った際、武芸と神通力に長けた弟子達を遠ざけるために打ったと いう策。自らの姿を己の部下に映し化けさせ、囮となし行動させる 妖術だ。いくつかの言い伝えによれば、化けさせられた部下達も主 と同じ能力を持ち、聖僧の弟子達をそれぞれ苦しめたとある。 ﹁まあ、なんだ。四捨五入すると部下の肉体を依り代にして分身を 作り出す術ってところだな。餅つきに分身たあ、どうやら新年隠し 芸の心得もあるらしい﹂ 強いて減らず口を叩きつつ、内心冷や汗を拭う。見た目以上に状 況は不味かった。先刻の戦いで見せたように、真凛であれば例え数 が増えようと﹃南山大王﹄の攻撃を捌いて投げ飛ばすことは出来る かも知れない。だが。 ﹃小僧ハ殺シ、皇女ハ攫ウ。ソノアト小娘、キサマヲ切リ刻ンデク レル⋮⋮!﹄ 靄で出来た分身が、濁った言葉を紡ぐ。獣の何体かの視線は、真 凛ではなくおれ達に向けられていた。そう、数に物を言わせた各個 撃破にかかられたら、打つ手がない。 ﹁皆さん、私は⋮⋮﹂ ﹁ハイつまんない事は言いっこなし﹂ ﹁そうそう。ボク達これでも、オシゴトとして引き受けたんですし﹂ 実は任務達成率は百パーセントだったりする。ケツを捲る選択肢 はなかった。 ﹁ボクが引きつけるよ。二人は逃げて﹂ ﹁殊勝な申し出だが、そもそも逃げられるかどうかも怪しいもんだ よなぁ﹂ 通路にはいまだ靄がわだかまったまま。皇女を連れて複数の獣の 追撃を振り切り、強力な﹃人払い﹄の力を持つ障壁を突っ切るのは、 さすがに要因が多すぎておれの﹃鍵﹄でもカバーしきれない。あま り言いたかないが、絶体絶命というヤツのようだった。 ﹃⋮⋮終ワリダ!!﹄ 本物と分身の﹃南山大王﹄達が声を揃えて言葉を紡ぎ、そして一 882 斉に向かってくる。 ﹁ああくっそ!﹂ こうなりゃ一か八か、逃げの一手しかねぇか! そう思った時。 夜を裂いて、冷気が走った。 晩秋の夜よりも、おぞましい陰風よりも、遥かに冷たく清冽な白 い冷気。 ﹃ガハァ!?﹄ 獣の一体がのけぞった。他の三体も、驚き突進を止める。 ﹃ア⋮⋮ガ⋮⋮?﹄ その胸に突き立っていたのは、白い剣。 サーベル ﹁まったく、皇女を案内すると街に出て行ってみれば帰ってこない﹂ 冷気であつらえられた、純白の騎兵刀。 ﹁まさか貴様、皇女をタチの悪い夜遊びにでも誘おうというのでは あるまいな?﹂ 事務所のメンバー、﹃深紅の魔人﹄、笠桐・R・直樹の得物であ った。 883 ◆18:群豹跋扈 ﹁直樹さん!﹂ ﹁やあ真凛君。遅くなった。少々準備に手間取ってしまってね﹂ おれのアシスタントに軽く手を挙げ、皇女に黙礼すると、﹃深紅 の魔人﹄︱︱原種の吸血鬼は敵を見据える。 ﹁人の軒先で生臭い妖気と騒音を撒き散らすとは迷惑千万。今は冬 だ。獣の発情期はとうに過ぎたぞ﹂ 直樹の纏う極低温の空気が、周囲との温度差により放射状に風を 巻き起こす。季節に合ったインバネスのコートと銀髪をはためかせ、 絶対の冷気を操る吸血鬼は、燃える黄金の瞳で﹃南山大王﹄を見据 えた。 ﹃何者だ、貴様。どうやって俺の結界内に入ってきた!?﹄ ﹁せめて英語で喋れ、獣。皇女殿下のルーナライナ語は意味が判ら ずとも耳に心地よいが、貴様のわめき声は傾聴に値せん﹂ 幸か不幸か、両者の会話は成立しなかった。直樹が左手をかざす と、そこには再び銀色の騎兵刀が形成されている。おれは心強い増 援に小走りに駆け寄り︱︱その後頭部を思いっきりぶったたいた。 ﹁何やってんだよお前!﹂ ﹁⋮⋮、⋮⋮、⋮⋮。おい亘理。俺は確かに任務で皇女殿下の救援 に来たのであって、貴様を助けに来てやったわけではない。だがそ れを差し引いても、今貴様に後頭部を殴られる謂われは微塵もない ぞ﹂ 騎兵刀を引っ提げ、血も凍るような声音で吐き捨てる吸血鬼。ウ ンその眼は結構マジでおれを唐竹割りにするつもり満々ですね。 ﹁いやそうじゃなくって。お前が串刺しにしたの、中身普通の人間 なんだって!﹂ ﹁なんだと!?﹂ 884 直樹が目を剥く。おれの指さす先で、胸に深々と騎兵刀を突き立 てられた﹃南山大王﹄の分身が、アスファルトに倒れ込んで痙攣し ていた。やがて力尽きたのか、水にさらされた泥人形のように黒い 靄はほどけ、消え去った。 ﹁⋮⋮セーフ﹂ ﹁⋮⋮だな﹂ 核となっていたチンピラの姿を見て、おれと直樹は同時に冷や汗 を拭った。 妖気が纏わり付いて膨れあがることで二メートルの﹃南山大王﹄ の体を形成していたのだ。巨漢の左胸を貫いた騎兵刀は、実際には チンピラ本体の鎖骨の辺りを斬り込むに留まっていた。おれ達の安 堵は別に善意からではない。つまらん殺人を犯して、社会的、道義 的に余計な負い目を被るのは面倒くさいし、何より後始末が厄介な のだ。 ﹁ならばよし。⋮⋮まさか貴様、皇女をタチの悪い夜遊びにでも誘 おうというのではあるまいな?﹂ ﹁あー、そこから仕切り直す?⋮⋮ふふん。本格的な夜遊びに誘う のはこれから。今夜は前哨戦、ダンスの練習ってとこさ。⋮⋮こん な感じでいいか?﹂ ﹃俺の結界はどうしたッ?﹄ スペルブレイク 獣が吠える。怪訝な顔の直樹に通訳するおれ。これだから海外の 相手との任務は厄介なんだ。 ﹁そんなことか。こちらには魔術破りのスペシャリストがいるから な﹂ こともなげにのたまう直樹。振り返れば黒い靄の壁が、まるでえ ぐり取られたように人ひとり分だけぽっかりと開いていた。アスフ CODSELiM COH ABIM ァルトに転がる薄いアクリル板に、金色の油性マジックで無造作に Oeule CoaliO 書かれた、﹃八大副王が蛆の長 悍ましきその身で不浄を喰らい 羽音を以て清めと為せ﹄の文字。魔王マゴトの力を使役した魔術破 りの呪法であった。 885 ﹁チーフの魔術か﹂ ﹁今回は大仕事だといったろう?生憎本人は会合で不在だが、代わ りに魔力を込めたカードを何枚かせしめてきた。日持ちはしないが な﹂ 魔術に通暁したウチのメンバー、須恵定チーフが魔力を込めて刻 んだ式である。見てくれは雑な落書きをされたアクリル板だが、そ のコストは決して馬鹿にはならない。魔術と科学の違い、それは﹃ 保存が利くか﹄だったりするのだが︱︱まあ今はここらへんの談義 はいい。 ﹁ついでに石動女史からこれを預かってきた﹂ コートの内ポケットから取り出した金属製の筒をおれに手渡す。 ﹁わーお⋮⋮﹂ 円筒に刻まれた、安心からはほど遠い﹃試作品﹄の三文字。 ﹁にしても、おれ、お前、真凛、チーフ、羽美さん。ここまでメン ツを動員するあたり、所長の入れ込みようも相当だな﹂ ﹁いったい幾ら皇女殿下に吹っかけたのやら、そら恐ろしくなる﹂ ﹁依頼料もそうだが、これを機に海外にも営業かけようって魂胆じ ゃなかろうか?﹂ ﹁俺はやらんぞ。仕事は関東圏内で十分だ。ネットも使えないよう な僻地での任務なぞ耐えられん﹂ ﹁ネットも通ってねぇ僻地の出身のくせに何言ってやがる﹂ ﹃何をごちゃごちゃと喋っている!!﹄ 与太話はそこまでだった。獣の群が一斉に身じろぎする。おれ達 は一瞬視線をかわした後、左右に散った。呼応するように影どもが ネオンの浮かぶ夜空に放たれ、上空から襲いかかった。もっとも厄 介な真凛に﹃南山大王﹄本体が、そして直樹にと、皇女をかばうお れに分身がそれぞれ一体ずつ。互いにもつれあい、乱戦が始まった。 分身のうち一体が直樹に飛びかかる。大ぶりで振るわれる鉄杵、 かわす直樹。だがそこで獣は意外な行動に出た。鉄杵を放り捨てる 886 と、両の腕で直樹につかみかかったのだ。 ﹁ぬっ!?﹂ 咄嗟に両腕を掲げる直樹。騎兵刀を取り落とし、がっぷり四つの 力比べの体勢となった。他の分身を一撃で葬った刀を驚異とみたの だろう。獣の戦術は悪くなかった。双方武器の使えない組み合いに 持ち込んでしまえば筋力勝負、己の勝利は揺るがない。それは正し かった。︱︱筋力だけならば。 ﹃︱︱ガ?﹄ 原種の吸血鬼の力が解放される。 ほんの一時。しん、と大気が静まり、音が失せた。 それは、永遠の命と共に与えられし呪われた職能。 世界で日々を暮らす側から、日々暮らすもののため世界を管理す る側に堕ちてしまった愚者に課せられた、時空を調律するため局所 的に時を停止させる力。 ﹃深紅の魔人﹄が周囲の空間の時間を停める。 刹那の間、存在する全ての分子は完全に振動を奪われ停止する。 そして時が再び動き出す際、分子は振動を再開するために周囲の空 間から振動を奪い︱︱すなわち、そこに膨大な冷気が発現する。 ﹁おい!中に入ってるのは、社会的にはアレだが並の人間だ。ほど ほどにしとけよ!﹂ おれの警告にヤツは舌打ちする。 ﹁難しい注文だ﹂ 直樹の両腕からほとばしった冷気が夜光を反射し白く輝き、獣の 両腕が瞬く間に凍り付く。﹃南山大王﹄の術は、他者の肉体に己の 妖気を縛り付けることで為されており、実体と妖気の境界が曖昧だ。 だがそんな理不尽すらも﹃深紅の魔人﹄の力は捻じ伏せる。妖気が 肉体を覆っているなら、その覆っている空間を凍らせてしまえばい いのだ。獣の両腕が、肩が、胴が、ゆらめく妖気ごと氷に閉じ込め られていく。 ﹃ッガ、ガァアア!ガ⋮⋮!﹄ 887 断末魔の絶叫。吸血鬼が力任せに両腕を広げると、極低温で金属 に貼りついた皮膚が無惨に剥がれるように、獣の上半身が引き千切 られた。崩れ落ちる獣。妖気の靄を無理矢理に引きはがされ、昏倒 したままの中のチンピラの顔が露わになった。 ﹁因果応報。霜焼けと軽い凍傷くらいは許容して貰うとしよう﹂ 騎兵刀を拾い上げた吸血鬼は悠然と嘯いた。 ﹁お前もさっさと片付けてしまえ、亘理﹂ ﹁お前みたいな脳筋要員と頭脳労働者を一緒にするんじゃねえよ!﹂ 他人事風に声をかける直樹に悪態をつき、おれは獣の分身が振り かぶった爪を辛うじてかわした。一撃、二撃。なんとかかわす。 おれに獣の一撃を見切るほどの俊敏な運動神経が突如備わった︱ ︱わけではもちろんない。皇女を背後にかばっている以上、ヤツは 彼女ごと傷つけるような大ぶりの攻撃は避ける。そしておれのよう なひ弱な人間には、その程度の攻撃で充分、ヤツにそう考させる。 ターゲットである皇女と、己自身の弱さを用いて敵の思考を誘導し つつ、おれはギリギリの範囲で攻撃をかわしていた。手にした金属 筒のダイヤルを合わせる。マックスの5⋮⋮いや、さすがに3にと どめるべきか。 杵をつかわず、つかみかかってくる爪に空を切らせる。だが、身 体能力を小細工で補うのもそれが限界だった。最初のダメージのせ いか、足がもつれ、おれは皇女を巻き込んで転倒してしまう。諸手 を挙げて、おれの首を掴まんとする獣。 ええいしゃあねえ。どうせ二発目はないのだ。ギリギリまでひき つける。 ︱︱ダイヤルを4に合わせ、おれは金属筒を掲げ引き金を引いた。 ずばむ、と爆発音が響いた。 ﹃ガッ!!?﹄ 困惑の咆吼。 網 に囚われていた。 獣の影は、おれの構えた金属筒から発射された玉虫色の光沢を放 つ 888 石動研究所謹製、ブレードネット。金属筒に装填された特殊な薬 品が、火薬の炸裂で放射されたと同時に大気と化合し、極めて強靱 な繊維を蜘蛛の巣状に形成、対象に絡みつく。異能力者を捕獲する ために製作された試作武装だった。 ﹁悪いが容赦はできないんでな﹂ つんざ おれは引き金をさらに押し込む。金属筒に内蔵されたモーターが 回転を始め、 ﹃ッガギャアァガアアア!!﹄ 胸の悪くなるような獣の悲鳴があたりを劈いた。 この装備の悪辣なところは、ただ繊維を生成するだけでなく、金 属筒内に同封された極小の工業用ダイヤモンド粉末を取り込み、鋭 利なワイヤーソーとしての特性を持たせるところだった。そして化 学反応の副産物として発生した大電流がネオジム磁石をアホほど突 っ込んだ強力モーターに流れ込み網を巻き上げることで、 ﹃ガギャギャアア、ギャアアアッ!!!﹄ 全身を言葉通りズタズタに切り刻むのであった。拘束された上に 橋梁用コンクリートすら切断するワイヤーソーに全身をヤスリがけ され、黒い靄が剥がれていく。 ﹁⋮⋮ずいぶんと非人道的なやり口だな﹂ ﹁お前に言われたくねえよ!﹂ 直樹に抗議しつつ、おれはダイヤルを徐々に落としていった。対 異能力武装とはいえ所詮は一発芸。初見で仕留められなければ、二 発目はまず当たらなかっただろう。生成する網の量を多くしすぎれ ば中の人間までヤスリがけしてしまう。かといって少なければ捉え きれない可能性がある。テストなしで適量一発を決めた技量を褒め て貰いたいものだ。纏わりついていた靄が剥ぎ取られ、チンピラの 本体が露わになる。服はズタズタ、たぶん全身シャレにならないレ ベルで擦り傷だらけだろうが、まあ死ななかっただけありがたいと 思って頂きたい。 ﹁さて﹂ 889 ﹃まだ続けるかい?﹄ ﹃き、貴様等⋮⋮﹄ ﹃南山大王﹄が狼狽えるのも無理はない。分身三体と共に必勝の 陣を敷いたはずが、増援によって瞬く間に体勢を覆されてしまった のだ。今や逆に三対一。窮地に陥ったのはヤツの方だった。皇女を かばうおれ、そしておれとヤツの間に割り込み、構えをとる真凛。 ﹁ボク個人としてはとことんやりたいけど。退くなら追わないよ﹂ ﹁おお、これは奇跡か。まさか戦闘狂に分別がつくようになるとは﹂ ﹁誰が戦闘狂だよ﹂ ﹃舐めるな⋮⋮舐めるなよ⋮⋮!!﹄ 退く、つもりはないのだろう。誰かに命じられたのか、己のプラ イドのためか。 猫背 がさらに撓められる。 ﹃南山大王﹄は杵を水平に構えた。ふくらはぎと背中の筋肉が盛り 上がり、異形の ﹁⋮⋮ちょっとあれはまずくないか?﹂ おれはヤツの狙いに気づいた。ヤツの攻撃は恐らく、﹃シンプル な体当たり﹄だ。杵や爪を振り回す﹃円﹄の動きを用いるから真凛 に絡め取られ投げ飛ばされる。であれば、杵を横一文字に構え壁と し、そのまま己の筋力で真っ直ぐぶち当たれば良い。単純なようで、 決して侮れない獣の勘だった。 ﹁大丈夫﹂ 一言だけおれに返すと、真凛は構える。両腕のガードを緩め、静 かに腹で呼吸を整える。無防備にも程がある体勢だったが、その表 情は完全に戦に望む武芸者のそれだった。おれは役に立たない忠告 を飛ばすのをやめ、直樹と共に見守った。 ﹃殺す⋮⋮殺す⋮⋮コロス⋮⋮コロス⋮⋮!﹄ ﹃南山大王﹄が呪詛を繰り返す。殺意を言葉にすることで結晶化 し、己の凶暴性を底までさらけ出していく。猫背が限界まで撓めら れ、殺意が臨界に達した瞬間。 ﹃南山大王﹄が消失した。否、人間の脳が映像を認識する1フレ 890 ームの間を突破し、亜音速で大気を裂き、真凛を粉砕せんと突撃し たのだった。 世界が鈍化する。 本来ならば、認識できるはずもない超高速の映像。だが極限の緊 張下だからか、そのやりとりを認識することが出来た。 ﹃南山大王﹄が突進する。音速に迫り、裂かれた空気が気流とな って周囲に撒き散らされる。真凛は棒立ちのまま反応できない。横 一文字に壁のように押し出された鉄杵。大質量と超高速が生み出し た巨大な運動エネルギーが、棒立ちとなった少女の胸を無惨に砕き 押しつぶした︱︱はずだった。 雷が、地から天へと駆け上がった。 そう錯覚するほどの凄まじい衝撃波が、地面すれすれから上方へ と突き抜け、裂帛の轟音となって夜空を貫いたのであった。 ﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮、ガッ⋮⋮﹄ ﹃南山大王﹄の後頭部が、自身の尻にめり込んでいた。 その背は再び極度にたわめられていた。 ただし、先刻とは真逆の方向、前のめりではなく、後ろに仰け反 る方向に。 直立したまま背中を支点として背骨があり得ない曲がり方をして、 頭部が尻にくっついている。 人としておおよそあってはならない姿だった。 その体勢のまま、一歩、二歩と﹃南山大王﹄はふらふらとよろめ き。 ﹃ガ﹄ 891 不明瞭な言葉を一つ吐き。 どうと倒れ伏した。 ﹁よっし、イメージ通り﹂ 着地し、構えを崩さず残心の真凛。期せずして顔を見合わすおれ 達。 ﹁⋮⋮見えた、か?﹂ ﹁⋮⋮見えた。だが、信じたくはない、な﹂ 緊急時に加速するおれの脳みそと、吸血鬼の眼は、今起こった事 実をどうにか捉えていた。﹃南山大王﹄が亜音速で突っ込んでくる その瞬間に合わせ、真凛は跳躍したのだ。跳躍といってもほんのわ ずか、地面から両の足が数ミリ離れる程度のささやかなもの。だが それで充分だった。その刹那のみ、七瀬真凛の身体は壁にも地面に も固定されない完全に自由な状態にあった。 そこに﹃南山大王﹄が衝突し、膨大な運動エネルギーが真凛に流 れ込む。本来、流れ込んだエネルギーは地面、筋肉のこわばり、骨 などに乱反射することで体内に無惨な破壊をまき散らしたのち、転 倒、吹き飛び、空気のふるえ⋮⋮破裂音などの物理運動という形で 発散される。だが、真凛は己を空にとどめ、呼吸により水のような 脱力状態を作り出していた。宙を舞う羽毛を全力で殴りつけても、 羽毛を砕くことは出来ない。己に加えられた力を素通しし無効化に する、打撃殺しの極意である。真凛の胸部に流し込まれた膨大なエ ネルギーはその身体をほとんど傷つける事無く、肉体を移動させる ための運動エネルギーへと転化されていた。 だがここで更に凄まじい事に、真凛は呼吸を腹に落とし、へその あたりに己の﹃重心﹄を作り出していた。膨大な運動エネルギーは、 へそを﹃支点﹄として円運動へと転化。上半身が後方、下方へと移 動。その反動として下半身、つまり脚部が下方から前方、そして上 方へと、﹃南山大王﹄渾身の突進の勢い全てを乗せて跳ね上がった。 すなわち。 892 真凛は﹃南山大王﹄の巨体による亜音速の突撃を風車のように受 け止め、集約し、超音速のサマーソルトキックと為して、﹃南山大 王﹄自身の顎をカウンターで蹴り上げたのであった。 ﹃南山大王﹄が常人であれば、誇張抜きに首はそのまま引き千切 れてネオンの夜空の彼方へと吹き飛んでいったであろう。首をとど めたのはひとえに、獣の強靱な背骨と筋繊維の賜物だった。 ささら ﹁ああっ、靴が破けちゃったよ!結構お気に入りだったのに∼﹂ 超音速の殺人技を振るった当の本人は、音の壁を越え皮が簓のよ うに裂けたローファーを見やり、涙目で嘆いた。 ﹁まあ、なんだ、今度代わりの靴を買ってやるよ﹂ ﹁えっ、ホント!?﹂ ︵⋮⋮現場作業用の爪先に鉄板が入ってるヤツをな︶ ︵冗談でもやめておけ、それをお前が喰らえば、首どころか脊髄ご とぶっこ抜きで残酷ペットボトルロケットを披露する羽目になるぞ︶ おれ達の小声のささやきは、浮かれる当人の耳には入らなかった。 まあ、費用は成功報酬のうち、あいつ自身の取り分から引いておけ ばいいか。 ﹁で、こいつはどうする?﹂ ﹁このまま路地裏に転がしておくさ。そのうち飼い主が引き取りに 来るだろ﹂ 視線の先には、塩に溶けるように体積がしぼみ、人の姿を取り戻 しつつある﹃南山大王﹄。 ﹁⋮⋮もし半年早く戦ってたら、全滅させられていたかもな﹂ あまりも一方的に撃破された敵に、少しは優しい言葉をかけてや りたくなる。誇張ではなかった。半年前なら真凛と﹃南山大王﹄の 戦いは血みどろの攻防となり、分身を使われた時点でおれは直樹が 来る前に逃げ切れず倒され、皇女は攫われていただろう。認めざる をえまい。もう足手まといでも力不足でも、ない。 ﹁終わった⋮⋮のですか?﹂ おれの肩越しに恐る恐る覗き込むファリス皇女。肌から漂うかす 893 かな香料がおれの鼻腔をくすぐった。ひとたび戦闘が始まった後、 彼女はおれ達の行動に従いほとんど口を挟まなかった。素人は騒が ず、専門家に任せ従うべきと弁えている。賢い人だ。 ﹁ひとまずはな。これで決着となってくれればいいんだが﹂ 気づいてい をしてみせた。気配なぞ読み取ることは出来ないが、 おれは大げさに周囲の雑居ビルをぐるりと見回し、 るぞアピール どうせなにがしかの監視が敷かれているに違いないのだ。 ﹁ショックか?﹂ おれは皇女に声をかけた。 ﹁いえ、判っていました。⋮⋮判っていたつもりです。私を狙って いたのはやはり叔父様なのですね﹂ ビトール大佐とか言ったか。腹心の軍人が襲ってきたのだ。首謀 者はいうまでもなかろう。叔父、事前資料に寄ればたしかワンシム・ カラーティ。颯真達が襲ってきた時点で目星はついていたが、改め て肉親から狙われていると明らかにされれば平静では居られないの は当然だった。 ﹁気を落としなさんな。犯人がわかったのなら読みやすい。さっそ く明日から叔父さんとやらの動向に探りを入れるとしよう﹂ ﹁いえ、それはいいのです。⋮⋮ただ﹂ ﹁ただ?﹂ ﹁国がこんなことになっているのに、私達はまだ身内でこんな馬鹿 なことを繰り返している。それが、⋮⋮情けないのです﹂ 俯く皇女。そこに居たのは、昼に見た絵本の世界の住人のような お姫様ではなく、歳不相応な重責に押しつぶされそうになっている 一人の少女だった。衝動的に細い肩を抱き寄せて安心させてやりた くなったが、自制した。それは立場にかこつけたセクハラというも のである。結局、おれはややぎこちなく話題を接ぐことにした。 ﹁︱︱ところで。さっき変なこと言ってなかったか?ええっと、﹃ アルク﹄とか﹂ ﹁え!?﹂ 894 ファリスは顔を跳ね上げた。なぜかその頬に朱が差している。 ﹁えーと、おれの記憶違いでなければそれはルーナライナ語では﹂ ﹁いえいえいえ!なんでもありません。きっと聞き違いでしょう!﹂ ﹁そうだったかな?﹂ ﹁そうです。きっとそうですよ﹂ ま、いいか。おれも徹夜二日目くらいはよく意味不明な単語を口 から漏らしているらしいし。自覚はないが。 ﹁よっし、とりあえず靴はなおったよ!﹂ 直樹が持っていた塗装用マスキングテープ︵何故そんなものを持 ち歩いているのか︶でぐるぐる巻きにし、ずさんな応急処置を済ま せたローファーを履いた真凛の声に、おれは手を挙げて応じた。周 囲を取り巻いていた黒い靄の結界も晴れ、通路の向こうからネオン の光と雑踏のざわめきが流れ込んできている。振り返るとまだ元気 がない皇女の顔。おれは指を打ち鳴らし、一つ提案した。 ﹁んじゃま、今夜は歓迎パーティだな﹂ ﹁パーティだと?﹂ ﹁そうさ、ファリス来日記念だ。都合のつく奴全員かき集めてな﹂ ︵いや待て、たしか全員の日程を揃えて後日やるはずでは?︶ ︵ああ、だから今夜は前哨戦さ。景気づけにな︶ どうせ今回はメンバーを多数駆り出す算段なんだ。顔合わせは早 いに事はない。 ﹁いいん、ですか?﹂ ﹁ああ。たぶん宅配ピザとドラッグストアで買ってきた缶ビールに なるけど﹂ ﹁ふむ、飲み会の類いは気乗りしないが﹂ ﹁イヤそこはお誘い嬉しいです、って言っとけよ引きこもり﹂ ﹁引きこもりは余計だ。だが俺も皇女殿下にはきちんと挨拶をして いなかったからな。今回は参加させて貰うとしよう﹂ ﹁⋮⋮パーティ?今夜?﹂ ﹁ああ。真凛、お前は予定空いてるか?酒は出せんがピザなら食え 895 るぞ﹂ ﹁うん、そだね。⋮⋮空いてるよ﹂ 真凛がそう呟いた。 ﹁亘理サン、きっと我々に気づくてイルのコトでしたよ﹂ 雑居ビルの屋上から闇に覆われた眼下の一部始終を視界に収め、 ﹃双睛﹄は主に報告した。だが、彼女の主、﹃朝天吼﹄はそれに反 応を返さず、手摺りを左腕でつかんだまま石像のように硬直してい る。︱︱いや、石像のように、ではなかった。よく観察すれば、そ の腕がぶるぶると震えていた。そしてそれを押さえつけるかのよう に、右腕で左腕の古傷を強く握りしめていた。 ﹁⋮⋮坊ちゃま?﹂ ﹁坊ちゃまはやめろ﹂ 劉颯真が低く呻いた。腕の震えを押さえつけたかと思うと、今度 は肩が震えだした。喉奥からはくつくつと声が漏れる。笑っていた のだった。 ﹁竜殺し、とは聞いていたが、よもやあの域とは⋮⋮!!﹂ この半年、歩法と吐納法から全てを練り直した。剣で言えば、な まくらを炉に入れ直し、再度一から叩き上げたという自負がある。 丹田の充実は比較にもならない。その彼にして、先ほど獣を一方的 に屠った﹃殺捉者﹄の技量は想定の範囲を超えていた。半年前の奴 であれば、いかなる攻守も崩し勝つ自信があった。だがしかし、こ れは。 ﹁笑えるな。勝つ見込みが半分も見えんとは⋮⋮!!﹂ だからこそ、戦慄と、そして興奮が若き王の魂を震わせる。次に 奴とまみえた時、己が誇りを砕かれ地べたを舐めているのではない かという恐怖。あれほどの強者を打ちのめし屈服させた時、いかな る退廃的な遊びに身を任せても味わえない快楽が己の脳髄を焼くで あろうという甘美な期待。そうだ、そうでなくてはならない。 896 てがみ を用いる﹄とな﹂ ﹁美玲。師父に信を。︱︱﹃次の戦にて、我、 九句 ﹃颯真様!?﹄ 七句 、 八句 、 常に余裕を崩さない美玲が、驚愕を露わにした。言葉も己の母語 に戻っている。 いくさ ﹃どうか再考を。四征拳九句六十五手、そのうち七句より後は秘奥、 王の拳。無名の師で開陳するものではありません﹄ ﹁構わん。あれほどの魔性を討つには、我が秘奥を注ぐより他ある まい﹂ ﹃しかし、四征拳の秘奥は御兄弟の中でも颯真様のみが伝えられた もの。もしも他の御兄弟に漏れては今後に⋮⋮﹄ ﹁構わんと言ったはずだ﹂ 美玲は一礼し、一歩退さがった。それは王の決定であり、臣下が 竜殺し 殺し。その銘こそ王に相応しい。そのためなら秘奥の それ以上口を差し挟む事ではなかった。 ﹁ 一つや二つ、なんのためらいがあるものか﹂ 夜風を頬に受け、若き王は獰猛な笑みを浮かべた。 897 ◆19:ミックスカクテル︵その1︶ 時計の針が二十二時を回った。地方の街であれば人通りは少なく なり、商店はシャッターを下ろし明日に向けての準備を始める。だ が都内、それも新宿区高田馬場の駅前ともなれば、店舗の終日営業 などはごく当たり前。ネオンはより一層輝きを増し、二次会へと向 かう酔っぱらった学生達の喧騒に駆り立てられるように、街のせわ しなさはより加速していく。 ﹁なんだかなあ﹂ 駅前の一角、小さなビルの一室に押し込められたファミリー向け のイタリアンレストランのカウンター席のひとつに、七瀬真凛は己 の身を押し込んでいた。真凛が知る限り、本来このチェーン店は余 裕のある座席配置でゆったりと食事がとれるはずだったが、都内の 高騰した家賃で利益を出すのは容易ではないらしく、いま彼女は隣 の客と肘がぶつかりそうな細いカウンター席に詰め込まれ、女子高 生にもお手頃な値段のドリアと飲み放題のドリンクバーに向かい合 っていた。 一通り歓迎会が盛り上がった後、皇女は疲れを癒やすため割り当 てられた客間に引き取り、後は残ったメンバー達の単なる飲み会と 化していた。来音さんが遅いから家まで送ってくれると言ってくれ たが、謝辞し、そのまま自分の足で帰路についたのがついさっき。 そのまま真っ直ぐ帰宅するだけの事だったのだが⋮⋮なぜか今、自 分はファミレスでドリアをつついている。 グラスの中には薄桃色の液体。アイスティーとオレンジジュース とソーダを混ぜ合わせたドリンクバー・カクテル。友人から教えて 貰ったものだ。 カバンの中のがま口を開けて、硬貨の枚数と金額をいまいちど数 え、注文したメニューが予算内に収まっているか確認する。消費税 898 を忘れずに。七瀬の家には小遣いという概念がない。母は使う目的 さえはっきりしていれば金額の大小に問わずお金を出してくれるが、 それ以外には友人達に喫茶店に誘われた時用にごく小額を渡される のみである。現役女子高生の懐事情としてはお寒い限りであった。 メニューを見て、テーブルにある呼び出しボタンを押し、店員さん にメニューを告げる。たったそれだけの事にもたつき、ボタンを何 度も連打し、店員さんから冷たい眼で見られてしまった。 ﹁⋮⋮なんだかなあ﹂ 繰り返し、ため息を一つ。自分の馬鹿さ加減が時々心底嫌になる。 いつもこうだ。学校帰りに一緒に寄り道する達、そして仕事で同席 するアイツが当たり前のように出来ていることができない。やった ことがないからだ。この一年あまりで、いかに自分が﹃箱入り﹄︵ その単語すらつい最近知ったのだ︶であるかということを、七瀬真 凛はつくづく思い知らされていた。 正直なことを言えば、アルバイトでもないのに夜十時を回って一 人でファミレスに居るというのも初めての体験だった。勢いで入店 したものの、極めて落ち着かない。今すぐ食事をかきこんで、店を 出て行きたくなる。それも情けなかった。つい数時間前、武道家と して新たな境地に達したことを喜んでいた自分がどこか遠くに消え 失せてしまったかのようだった。 ﹁映画の約束なんて覚えてないよね﹂ またドリアをつつきまわし、そんなことを呟いていた。六本木の オールナイト特撮映画。もちろんそんなものは皇女と出会う前にバ タバタとかわした口約束にすぎない。自分だって勢いで友達とかわ した放課後のお茶の約束なんて、忘れたり反故にされたりするのが 当たり前だ。当たり前なのだ。だが、とは言え。 ﹁素敵なひとだったなあ﹂ 銀髪のお姫様。絵本の中から出てきたような。そして頭がいい。 なんか難しい国の話とか戦争の話をアイツとしていた。脳みそを使 った難しい会話をする時、アイツは決まってそういう時嬉しそうな 899 顔をする。自分相手には決してしない。どちらの約束を優先するか など、わかりきっていたことだろう。 ・・・ 彼女とは何歳離れていただろうか。国と、そこに暮らす人々の事 を心から思う優しい女性。彼女、いや、彼女達から見れば、自身の 事で手一杯の幼稚な自分など、子供、いや、猿か何かに見えている のではないか。いやいやそんな事はない。彼女は自分を友人として 扱ってくれている。それこそ彼女に失礼だ。いや、だがしかし。 ﹁あああああ∼!なんなんだろうコレ﹂ 頭を抱えてテーブルに突っ伏すと、ドリアの皿が抗議の声を上げ る。どうにもこれはよくない。普段シンプルな思考に慣れきった頭 が、複雑な問題を解決しようとしてオーバーヒートしているようだ った。そんな状態がしばらくつづいた後。 ﹁⋮⋮あれ?﹂ ふとテーブルの端にある伝票に眼をやり、︱︱凍り付いた。 伝票に記載された合計額が、予算を上回っていた。 ﹁うそ﹂ 計算を間違ったのか。 胃のあたりが締め付けられる。そんな馬鹿な。確かに数学は大の 苦手だが、いくらなんでも三桁の足し算を間違えるはずが。確認し たのに。だが数字には確かにそう書かれていた。 大慌てでカバンの中をまさぐる。小銭の入ったがま口、学生証、 定期を兼ねた交通カード、余白の目立つ手帳と筆記用具、非常食と 包帯、通話機能のみの携帯。友人達が口々に﹃残念﹄と評するカバ ンの中身は、それだけだった。 食い逃げ。無銭飲食。おまわりさん。逮捕。死刑。 チープな単語が脳内で連鎖しぐるぐると回転。涙目でパニックに 陥りかける。この半分食べ残しのドリアを返せば料金へらしてもら えるだろうか。そんな愚かなことを本気で実行しようかと思った時。 ﹁こういうレストランだとね、時間によっては深夜の割り増し料金 を取られることがあるんだよ﹂ 900 横合いから声がかけられた。 ﹁あー、すまない、ここ、いいかな﹂ 慌てて振り返ると、そこには二十代後半とおぼしき男が居た。隣 の席が空いたので、そこに座ろうとしていたようだった。ほとんど 反射的に武道家としての目付を行う。背は高い方だろうか。すっき りとした印象だが、痩せすぎという程ではない。日ごろの運動習慣 はないが、本来そこまで不得意ではない、そんなところか。 ﹁も、もちろん。どうぞ﹂ 慌てて少し椅子をずらし、男の座れるスペースを確保する。 ﹁や、助かるよ。どうも狭いところは苦手でね﹂ 男はしごくのんびりした挙動で腰を下ろした。その緩やかな挙動 に、パニック寸前になっていた真凛の思考は、いったん落ち着きを みせていた。焦ったところでどうしようもない。最悪、電話で実家 に助けを求めるという手もあるのだ。そこでようやく顔と服装に目 が行った。おさまりの悪い長めの黒髪をざっくりと整髪料でまとめ、 後ろに流している。穏やかな表情に柔らかな笑みを浮かべ、かっち りとした背広に季節相応のコート。服のブランドには微塵も知識が 無い真凛だが、とりあえず﹁高そうだな﹂という事はわかった。生 地や糸がしっかりしている。自分が普段来ているものと同様に。 ﹁学校の先生ですか?﹂ ついそんな感想が口をついた。席に着いた男はちょっと虚をつか れた表情で、 ﹁そりゃどうして、そう思ったのかな?﹂ と疑問を挟んだ。真凛は赤面した。どうにも考えなしに思いつい たことを口にしてしまう。学校やアルバイト先ならいいが、会った ばかりの人には失礼ではないか。 ﹁ええっと、その。頭が良さそうで、教えるのが得意そう、だから ⋮⋮?﹂ 901 男はどうやらその言葉をかみしめているようで、感慨深げに何度 も呻いた。 ﹁そう言って貰えるととても嬉しいね。こう見えてもその、ぼく、 人にものを教える仕事をしているものでね。経営コンサルタントを しているんだ﹂ などと言いながら男は手早くスタッフを呼び、スープとサラダ、 ピザ、ドリンクバーを注文する。 ﹁コンサルタント、ですか?﹂ ﹁ああ、うん。高校生だとまだちょっとイメージしづらいかな﹂ ﹁会社の偉い人とかに、これからどうすればいいかを教える仕事、 ですよね﹂ ﹁へえ、すごいな!よく知ってるね﹂ ﹁いえ、ただ前にアルバイト先でそういう人に会ったことがあるだ けです﹂ たしかそのコンサルタントは詐欺に手を染めていた気もするが。 ﹁いやこれは本当に凄い。単語を知っていても実際の仕事内容まで 知っている高校生はなかなかいないものだよ。たいしたものだ﹂ 男は屈託のない笑みを浮かべる。頬のあたりに熱を感じた。日頃、 こと知識や知恵については、からかわれることはあっても褒められ ることはほとんどないのだ。 ﹁あ、そうだそうだ。これ名刺ね。よろしくどーぞ﹂ 真凛は名刺を見た。黒色の背景に赤字に黄色縁取りのゴシック体 ででかでかと﹃絶対安心!売り上げ倍増!あなたのおたすけ経営コ ンサルタント!﹄なる題字、そして﹃お困りの際はこちらへ!﹄の コメント共にメールアドレスがあるのみだった。電話番号も、住所 すら書いていない。 ﹁⋮⋮⋮⋮これ、本物、ですか?﹂ いかに真凛でも、まともな社会人がこんな名刺を使うはずがない ということくらいはわかる。 ﹁あー。胡散臭いよね。名刺刷る時、この方がインパクトあるから 902 良いって言われたんだけど。⋮⋮メールでだけ仕事を受け付けてい るんだよ。あちこち飛び回ってて、事務所もないから郵便物は極力 なしにして。ね?﹂ 慌てて弁解する様が、なおさらに怪しい。 ﹁別に、名乗る分には自由だと思います、けど﹂ 陽司が以前言っていた。国家試験が必要な弁護士や医者とは異な り、名乗るのに資格がいらないコンサルタントだの社長だのはまず 疑ってかかれと。横文字のそれっぽい肩書きがくっつけばくっつく ほど怪しいのだとかなんだとか。 ﹁あ、信じてないよねそのまなざし?そりゃ確かにお得意さんの数 は少ないけど、結構みんなお金払いもいいし、これでもそれなりに 軌道に乗ってるんだよ!?﹂ 弁明するほど墓穴が深くなっていく悪循環は、店員がおりよく料 理を運んできた事で断ち切られた。 ﹁や、これは助かる。⋮⋮良かったら、ピザたべる?﹂ ﹁えっ﹂ 反射的に皿に視線を移しかけ、目を伏せた。正直なところ、今日 の乱闘続きで昼に食べたタイカレーはすでに消化し尽くしており、 ドリア一皿程度では到底カロリー消費を補いきれていなかったので ある。 ﹁ぼくこれでも体型維持のためにカロリー制限しててね。半分も食 べないから。どーぞどーぞ﹂ 年寄り臭いセリフとともにボリュームあるピザの皿を差し出す。 理性と礼儀と食欲が二秒ほど葛藤し、後者に軍配が上がった。 ﹁そ、それじゃあ、少し、頂きます。⋮⋮今日もお仕事帰りなんで すか?﹂ ﹁んー、ちょっと違うかな。夕飯は軽く済ませて、仕事をするのは これから。お客さんがどうしても夜がいいって言うんでね。せっか くだから、昼は東京観光に回したんだよ﹂ ﹁観光、ですか?﹂ 903 思わずまじまじと見てしまう。この男の顔立ち、そして発音は完 璧に日本人のものだった。今日一日︵名目上の︶観光案内をしてい た浮き世離れした銀髪の皇女と比べるとどうにも違和感がぬぐえな かった。 ﹁ああ。ぼくは日本人なんだけど、最近ずっと日本を離れていたん だ。せっかく戻ってきたから、東京の思い出の場所を巡っていたん だよ。会いたかった人も二人ほどいたしね。いやはやさすがはトー キョー、ちょっと目を離すとすぐビルが生えてくる。思わず刈り取 りたくなっちゃうよ﹂ 高層ビルを空き地に生えた雑草か何かのように言う。 ﹁ぼくが昔居た大学も近くにあってね∼。変わってるものもあり、 変わっていないものもあり。懐かしくってついつい長居しちゃった よ。あ、会いたかった奴ってのは大学の後輩なんだけどね、あいつ め、学校サボってバイトに精を出してるらしく、いなかったんだよ﹂ ﹁あ∼、やっぱりそういう人、多いんですか﹂ ﹁多いねえ。まったく困ったものだ。学生の本分は勉強だと言うに。 ︱︱まあいいよ。会いたかったもう一人には、今ここで会えたから ね﹂ 男は屈託のない笑みのまま、真凛の顔をじっとみつめた。 ﹁︱︱え?﹂ ﹁七瀬真凛、さんだよね﹂ 真凛の瞳孔がすっと細くなる。もしや先ほど倒した﹃南山大王﹄ の関係者か。そこにはすでに世間に疎い女子高生ではなく、武道家 の顔があった。警戒に気づいたのか、男は大げさに両手を振った。 ﹁あーいや!ごめんごめん!これじゃ完全に不審者だよね。言い直 すよ。アルバイトで陽司のアシスタントをしてる子、だよね?﹂ ﹁えっ!陽司の知り合いなんですか?﹂ ﹁昔ね。結構これでも、仲は良かったんだよ﹂ ﹁昔のアイツ、⋮⋮って﹂ どんなヤツだったのか。以前少しだけ聞いたことがあったが、そ 904 の時はケンカ状態でありとても教えてくれる状態ではなかった。こ の男は知っているのか。そう疑問をぶつけようとした時。 ﹁やー君のことは知り合い経由で良く聞いててねー。陽司のやつが 事あるごとに君のこと語っているっていうから気になって気になっ てさ。いやはやいやはや、まさかこんな可愛らしい子と毎日一緒に バイトしているとは!あの人間不信のひねくれ者にはちと果報が過 ぎるというものだよ。バイト先が高田馬場にあるっていうから寄っ てみたらまさかのドンピシャ﹂ ﹁っ、そ﹂ そうなんですか?知り合いとは誰なのか?というか、亘理陽司が 自分のことを事あるごとに話しているとはどういうことか?可愛ら しいとはどういうことか?というか貴方そんなに陽司と親しいんで すか、どういう関係ですか︱︱瞬時に脳内が複数の疑問で焼き切れ かけ、言葉が詰まる。どうにか口を開こうとしたが、 ﹁︱︱そうなん、﹂ ﹁飲み物お代わりいる?﹂ 結果、七瀬真凛はいずれの質問も口にすることはできなかった。 ﹁好きなものを頼んでよ。まあ、お代わり無料のドリンクバーだけ ど﹂ ﹁あ、じゃあ、コーラを﹂ 男が自分と真凛のグラスを持って席を立つ。さすがにそれは申し 訳ないと真凛も席を立ち、結果二人揃ってドリンクバーのマシンの 前で話し込んでしまっていた。 ﹁はいコーラ。ふふん、じゃあぼくはちょっといいものを飲んじゃ おうかな﹂ 男は何やら自信ありげに言うと、氷を放り込み、まずはアイステ ィーを半分ほどグラスに注いだ。 ﹁これにね、オレンジジュースと、ソーダを混ぜる。これがちょっ 905 としたカクテルになって美味しいんだよねえ。どう、知ってた?﹂ 満面の笑み。今の今まで自分がそれを飲んでいたことを言い出せ ず、真凛は曖昧に頷いたまま、男がマシンを操作するのを見守った。 ﹁このアイスティーみたいなものさ﹂ マシンを覗き込んだまま、男が唐突に呟いた。 ﹁⋮⋮。⋮⋮は?﹂ 咄嗟に文脈が把握できず目を白黒させる真凛に構わず、男は言葉 を続けた。 ﹁君の最初の質問。昔のアイツ。亘理陽司ね。アイツはそう、こう いうアイスティーみたいなもんだった。味もある。色もある。でも 甘くなくて、まあ透明でね﹂ ﹁⋮⋮ええっと﹂ ﹁でも、ね﹂ 男はボタンを操作する。マシンが稼働し、オレンジジュースがグ ラスの中に注がれていった。透明な琥珀色の液体に、橙色の不透明 な液体がまざり、どちらでもない新たな液体に変わってゆく。 ﹁今のアイツは⋮⋮そう、こんな感じかな﹂ 続いてソーダ。透明の液体と炭酸ガスが注がれ、また液体が変質 する。男はさらにボタンを押した、ジンジャーエール。グレープジ ュース。今度は烏龍茶。新たな液体が注がれるたびに、グラスの中 身は色も、味も、見た目も、混ざり合い変化していった。最初は数 色が混じり合い綺麗だった色も、種々雑多に混ざるうちにどんどん 濁り、汚らしくなっていった。 ﹁調子に乗って片っ端から色々混ぜちゃってさ﹂ グラスを掲げた。自身が言っていたメニューとも明らかに違う、 謎の液体。 ﹁もう最初にグラスの中に入っていたのが何か、それすらもわから なくなっちゃっている。ばっかだよねえ﹂ 906 ストローを差し込み、軽く口をつけ、顔をしかめた。まあ、美味 いものではないだろう。 ﹁君にはこれ、何に見えるかな﹂ ﹁へ?﹂ 男の奇妙な言動にいいかげん突っ込もうと思っていたのだが、さ っきからどうもことごとく機を外されてしまう。 ﹁何⋮⋮って﹂ ﹁﹃異物が混じったアイスティー﹄かな。それとも﹃いろいろ混ぜ 合わせた炭酸カクテル﹄?﹃飲むに値しないゲテモノ﹄?君の意見 は、どうかな?﹂ 試されている。 唐突に、そう感じた。 気がつけば、男はグラスを突きつけて、凝と真凛を見つめていた。 その表情は穏やか。だが、決して曖昧な答えをしてはいけない。根 拠はないが、直観する。今真凛を包んでいたのは、ストリートで野 試合を挑まれた時に似た緊張感だった。男の顔と、グラスの中身を 見て。彼女は、己の答えを口にした。 ﹁まず、飲みます﹂ 男は目を見開いた。ちょっと意表を突かれたようだった。 ﹁それが何かは、飲んでみて、決めます。口にしないだけで、見た だけで決めつけるのは、いやです﹂ 907 ﹁︱︱うん。うん。そうかあ、うん﹂ 男はしきりにうなずいた。そして何を思ったか、 ﹁あ、ちょっと!﹂ ストローに口を付け、お世辞にも美味しいとは言えない液体を一 気に飲み干してしまった。 ﹁参りました。ぼくの負けだよ。さすがに女の子にこんな得体の知 れないものを飲ませる訳にはいかないからね﹂ 誰が何に勝って負けたのか、さっぱりわからない。 ﹁いやはや、なるほど。これはあのひねくれ者には、本当に果報す ぎるようだ﹂ 結局、意味もわからないまま、その問答は終わった。 席に戻り、男は手早くサラダと、残りのピザを平らげ、ナプキン で指を拭った。 ﹁今日は楽しかったよ。ありがとうございました﹂ そう言うと、ひょいと二人分の伝票をつまんで立ち上がる。 ﹁あっ﹂ あまりに自然な動作のため、真凛にして虚を突かれ、阻止する事 が出来なかった。 ﹁ここは持たせてよ。せっかく後輩の頼りになるアシスタントに会 えたんだ。ご飯くらいおごらせてやって頂戴﹂ ﹁⋮⋮その、ありがとう、ございます。ピザもおいしかったです﹂ ﹁そりゃ良かった。本当なら君みたいな人とイタリアンなら、ミラ ノあたりのちょっとイイ感じなトラットリアでお昼でも、ってとこ ろから始めたかったんだけどね。今日はまあ、ご挨拶と言うことで﹂ ﹁そんな!こちらこそ、今日のお礼をしないと﹂ 気にしないで気にしないで、と男は手を振り︱︱それにね、と呟 いた。 ﹁また会えるよ、七瀬真凛さん﹂ 908 ﹁えっ﹂ ・・ ・・・ ﹁だって、ぼくの言うことは、真実になるからね﹂ 手早く荷物をまとめ、席を離れようとする。そのとき真凛は、肝 心なことを聞きそびれていたことにようやく気づいた。 ﹁あのっ﹂ ﹁ん?﹂ ﹁その⋮⋮御名前、まだ﹂ 男はちょっと眼を丸くして、その後苦笑した。 ﹁そうそう、そうだった。君にだけ名前を聞いといて。いかんなあ、 どうにもぼくは肝心な所が抜けている﹂ 面目なさげに頭をかくと、男は真凛の手にある名刺を指さした。 意図に気づいて名刺をひっくり返す。表には胡散臭いケバケバしい 宣伝文。だが裏返すと、そこには一転して、シンプルな白地に、名 ムナカタ エイジ 前が一つ、あった。 エイジ ﹁︱︱影治。宗像影治、そう名乗っているよ、今はね﹂ 影治。どこかで聞いた名前だっただろうか? ﹁そうそう、ぼくが帰ってきたことは、ナイショにしといて貰えな いかな?﹂ ﹁え、でも折角日本に戻ってきたんですよね?どうせなら会った方 が﹂ ﹁いやいやなに、ほんの数日の間だけ。陽司のやつをびっくりさせ たいのさ﹂ ﹁はあ。⋮⋮そういうことなら、まあ﹂ 影治と名乗った男は、徹頭徹尾胡散臭いまま、歳不相応の悪戯っ ぽい笑みを浮かべてこう言った。 ﹁やつとはすぐに会うからね﹂ 909 ﹃何をやっているのだあのたわけものめが!!﹄ 怒声とともにワイングラスが宙を飛ぶ。重厚なガラス細工は回転 しながら﹃紅華飯店﹄ドラゴンスイートの布張りの壁に衝突し、大 音声とガラスの破片、赤い飛沫を盛大にまき散らした。 ﹁⋮⋮ト、ワンシムハモウシテオリマス﹂ ﹃翻訳は結構ですよツォンさん。おっしゃっていることはわからな くても、何をおっしゃりたいのかはよくわかりますので﹄ ほとんど涙目で必死に通訳するツォン青年を大輪の華のような笑 顔でねぎらい、美玲は精算時にこの男の宿泊代金がいくら上乗せさ れるか暗算する。この哀れな青年は、ワンシムらと同じ部屋を使う ことは許されていない。おそらく今夜の事変を知ったワンシムに問 答無用で呼び出され、泣く泣く駆けつけたというところだろう。 ﹃では改めて報告の続きを。ビトール大佐は雇用した日本人ととも に皇女へ襲撃をかけましたが、護衛により撃退。そののち、雇用さ れた日本人達は器物破損の現行犯で逮捕されました。元々大した情 報が渡されているでもなく、先方から被害届が出ているわけでもあ りません。誘拐の片棒を担いだ事が日本の警察に漏れる可能性は低 いでしょう﹄ ツォン青年が丁寧にルーナライナ語に通訳すると、ワンシムの弛 緩しきった体が、水素ガスの量を誤った風船のようにふくれあがっ た。そして何事かを低くつぶやく。 ﹁⋮⋮ソレデ、ビトール大佐ハドウナッタノカ、ト訪ネテオリマス﹂ つたない日本語訳に、颯真が大げさに手を広げ、首を振ってみせ る。 ﹃我々の支援チームが状況の隠蔽に駆けつけたときには、姿が消え ていました。一度立ち去った皇女の護衛達が再度連行したとは考え にくいので、まあ、逃亡したと考えるのが妥当ではないでしょうか﹄ 本当にそれを訳すのか、半分涙目で訴えてくるツォン青年に、先 910 ほどと同じく華のような笑顔で促す。美玲は笑顔のまま、颯真は露 骨に両の耳に指を突っ込んで雇用主の激発に備えた。 ﹃∼※○△#×○※○△#☆◆!!?﹄ 水素ガスが破裂するような、音だけ大きく威厳のない怒声は、ツ ォン青年が訳さなかったことと、聞き手の二人がまったく興味がな かったため言語化されることがなかった。居眠り中にしっぽを踏ま れた太った家猫のように毛を逆立てて興奮するワンシムの罵声の嵐 を、美玲は一分の隙もない笑顔でやり過ごす。笑顔とは裏腹に、決 して彼女の内心は穏やかではない。依頼を受けてこちらで立案した 活動計画を二度も無視して暴走されたあげく無様な失敗をし、その たびに事態を悪化させているのだ。MNBの商習慣はより大陸のそ れに近い。身がすり切れるような思いで顧客の無茶に応じる日本の シタウケ企業とは異なり、契約外のことに責任を取るつもりも取ら されるつもりも毛頭ない。尻ぬぐいの代金を上乗せしない分だけま だ良心的だろう。罵声とともにテーブルクロスや灰皿が飛び交う。 美玲は主に向けて飛んでいこうとした万年筆を鮮やかな﹃纏﹄の動 きで絡め取り、颯真はそれをごく当然のこととして傲然とソファに 身を沈めていた。 この程度の男が怒ったところで出来ること、やらかすことなどた かが知れている。怒り疲れたところで改めて今後の話をするつもり だったが、その怒りは意外な形で収まった。ワンシムの携帯電話が アラームを鳴らしたのだ。餌を与えられた猫のように携帯に飛びつ く。 ﹃!!っ、メールか⋮⋮!ハハ、ハハハ!ハハハ!!さすがだ!さ すがはセンセイの根回しだ!﹄ メールの内容を読み進むにつれ、今度は喜びのオーラがみなぎっ てくる。ひとしきり哄笑をばらまいたあと、ぎらついた視線を向け た。 ﹃聞け、おまえ達。かねてから水面下でコンタクトしていた中南海 とクレムリンの有力者の方々が、金脈の情報と引き替えに私の支持 911 に回ってくれることが確定した。これがどういうことか、わかるか ?ん?﹄ ツォンの訳に、颯真の視線が刃のように細められる。実際に答え たのは美玲だった。 ﹃まずはお祝いを申し上げますわ、閣下。隣接する二大国の主流派 の支持を得たということは、ルーナライナの次期国王の座が内定し たということですものね﹄ 愚かで操りやすい傀儡の売国奴として。続く言葉を喉奥にしまい 込み、卑屈さの欠片もない完璧な追従の笑みを浮かべた。 ﹃そうだ、そういうことだ!それはつまり、中南海の方々に、今回 この案件を担当したおまえ達の覚えがよろしくなると言うことでも ある。おまえ達はなんとしてもあの小娘から情報を奪うのだ。いい な!?﹄ 元からそのつもりで動いているのだ、と口を開こうとした主を、 美玲はわずかに視線を寄せて制し、心得ておりますとだけ告げた。 ﹃それにしてもビトールの愚か者めが!こんな時にこそ奴が必要だ と言うに。手柄を焦り専行しおって、知恵の足らぬけだものめが!﹄ その言葉に、颯真と美玲は一瞬だけ互いの目をからませる。だが 結局は無言のまま、ドラゴンスイートを退出した。口にはしない。 だが主従の表情が、言わんとすることをはっきりと物語っている。 ︱︱まったく、さんざん余計な回り道をさせてくれた。 これでようやく、我々のやり方で戦えるというものだ。 912 ◆20:ルート・ダウンポート ﹁久しぶりに来たが、やっぱり雰囲気が違うよなあ﹂ 明けて翌日。陽はすでに頂点を過ぎている。とにかく多事多忙だ った昨日の疲れを癒やすため、おれ達は午前をまるまる休みにあて て、活動開始は午後からとしたのだった。 ﹁私は正直、こちらの方が落ち着きます。今まで日本の大学は、こ ういうものだとイメージしていました﹂ 興味深げに紫の瞳であたりを見渡すファリス・シィ・カラーティ 皇女殿下。 ﹁確かに、昨日のキャンパスとはちょっと空気が違うかな?﹂ 授業を終えた後合流した七瀬真凛が問う。ちなみに真凛は、ご母 堂の﹃極めるものは一つで十分﹄なる教育方針に従い、部活動の類 いには参加していない。時々弱小運動部の試合の助っ人に参加する 程度である。放課後の時間が取れることは実に結構だが、果たして これでいいのだろうか。︱︱おれが言えた義理ではないが。 相盟大学、理工学部キャンパス。昨日訪問した留学生センターと は少し離れた場所に位置し、運動公園に隣接した敷地の中、無骨な コンクリート製のビルディングが数棟突っ立っている。その中心に は石畳を敷いた広場があり、学生が思い思いに過ごしている中、お れ達は研究棟に向かって歩いていた。学生達の雰囲気も基本的に違 いはないが、ファッションに無頓着な者が多かったり、大人数で騒 ぐよりも少人数で話し込んでいたり⋮⋮良くも悪くもオタクっぽい、 と評すべきだろうか。 ﹁ま、どっちの連中も酒飲んじまえばおんなじなんだけどねえ﹂ 仕事や学内での用事の関係で、どちらにも交流があるおれとして は、あまり文系理系で優劣をつけたり対立を煽ったりする気にはな れない。結局は各人が与えられた環境で何をするかだ。 913 ﹁⋮⋮ただまあ、積極的に声をかけてくる奴が少ないのは助かる﹂ ﹁それはちょっと残念です。せっかくキャンパスに来たのですから、 ぜひ先輩方と授業の内容や学校についてお話を聞いてみたかったの ですが﹂ ﹁うーん、それはまた後でねー﹂ 周囲から向けられる視線を努めて無視しておれはのたまった。皇 女殿下は昨日アクションに巻き込まれた反省を踏まえ、今日はシン プルで活動的なパンツスタイルに来音さんから借りたコートとハン ドバックをあわせて、年頃の少女ながら大人びた秋の装いといった 体であらせられる。帽子とサングラスはやめにして、アンダーリム の眼鏡を整った鼻に乗せて私物であるルーナライナ織りのスカーフ で銀髪を纏めており、野暮ったさは消え失せたが、おかげで非の打 ち所のないミステリアスな銀髪の美少女が爆誕してしまい、人目を 引くことこの上なかった。 ﹁⋮⋮しかしだなファリス、昨日の酒は大丈夫だったのか?﹂ ﹁ハイ!正直眠れないのではと不安だったのですが、就寝の前に桜 庭さんから頂いたお薬とアロマのおかげで熟睡できました。時差ボ ケも飛行機旅の疲れも吹き飛びました﹂ ﹁⋮⋮若いっていいなあ﹂ ってか変なもん薬に混ぜてないだろうな、桜庭さん。 昨日のファリス皇女歓迎会はたいそう盛り上がった。ドラッグス トアで買い込んだ発泡酒とおつまみとケータリングのチキン類を事 務所に持ち込んだだけのものだったが、奇跡的に事務所メンバーが 全員集まったため、ずいぶんとひどいことになったのである。 ﹁陽司!やっぱりボクが帰った後ファリスさんにお酒飲ませたの! ?﹂ ﹁一度は休んでもらったんだがなあ。桜庭さんが地下からワインを 持ち出したんで﹂ ﹁ファリスさん未成年なんだからお酒だめだって言ったのはアンタ じゃない!﹂ 914 ﹁まぁそういうな。ルーナライナでは酒は十七歳から飲んでよいの だそうだ。王族とは実質的に外交官、しからばこれは外交官特権が 暫定的に随時適用されているようなもの、皇女殿下にわざわざ日本 のつまらぬ規制を当てはめる必要はあるまいよ﹂ ﹁よくわからないけど、アンタが屁理屈を言ってるって事はわかる よ﹂ ﹁それになおまえ、ファリス皇女殿下の肝臓はな⋮⋮﹂ ﹁亘理さん、昨日の勝負については、後日余計なことはおっしゃら ないと約束していただいたはずですよ﹂ ﹁ハイ﹂ まばゆい笑みに、酔った勢いで始めた飲み比べで無様に撃沈した 間抜けは引きつった笑顔で応じる。くそっ、途中で焼酎とビールを ちゃんぽんしていなければここまで無様な負けはさらさなかったと いうに。ちなみに直樹は悪酔いしたあげく自前のノートPCでカラ オケソフトを走らせダウンロードした最新アニソン︵PVつき︶を 歌い出し、連続で六曲まで歌ったところで来音さんにしめやかに超 人絞殺刑に処されて昏倒した。羽美さんはここぞとばかりに特撮ヒ ーローに影響を受けて作成した怪しげなガジェットを宙に飛ばし大 顰蹙を買い、仁サンはビキニパンツ一丁になって鉄板の宴会芸の分 身ボディービルで受けを取った後、さらなる高みを目指しパンツも 脱ぎ捨てようとしたところで青少年への悪影響を懸念したチーフの 魔術で次元の狭間に放り込まれた。そのチーフは手を滑らせて床に 灰を落としてしまい、桜庭さんの笑みに屈して外階段でさみしく火 を灯すホタル族と化し、来音さんはこれまた悪酔いして泣きながら 延々と恋愛論という名のダメンズ遍歴を語り、それに二時間つきあ った所長が開き直って生き残りを連れて夜の町へと二次会に出撃す ることでようやくカオスは収束を見た。 ﹁えぇー、なんかみんな楽しそうじゃない。ボクも残ってればよか ったかな﹂ ﹁私も、真凛さんとはいつか一緒にお酒を飲んでみたいですね﹂ 915 ﹁はははー絶対ダメ!です﹂ ﹁まあそりゃあ、お酒はまだダメだってわかってるけどさあ﹂ こいつの酒癖は人としても武道家としても最低最悪の部類である。 何しろ酔っ払うと他人に技をかけたくなってたまらなくなるのだ。 いつぞやの忘年会でおれは危うく因幡の白ウサギめいて背中の皮を 剥がれて泣きながら布団にくるまって眠る羽目になるところだった。 こいつが成人した後、いつか将来酒で深刻な問題をやらかさないか、 おれはひたすらに不安である。 ﹁ってかおまえこそ、途中で帰ったけど、無事に家につけたんだろ うな?﹂ ﹁へ?﹂ ﹁そう、来音さんも心配されてました。真凛さんは無事に帰れたの かと﹂ ﹁あ、その、うんもちろん帰れたよ。ちゃんと学校にも遅刻しなか ったし﹂ ﹁ま、地下鉄で一本だし、無事につけなきゃ困るんだが﹂ ﹁うん。無事無事。なんにもなかったよ﹂ それならいいが。傷害事件だけは勘弁してほしいものである。 ﹁さて、研究棟についたぞ﹂ おれは受付に学生証をかざし、アポを取っていることを告げた。 ﹁やあ亘理君。よく来てくれたねえ﹂ ﹁お久しぶりっす、斯波⋮⋮えーっと、今は教授ですよね﹂ 白衣に黒縁の眼鏡、四十代後半という年齢以上に後退した額の人 物がおれ達を迎える。 ﹁おかげさまでね。無事論文も認められて教授の資格を得ることが 出来たよ。君には感謝してもしたりない﹂ ﹁まーわかりやすいほど雑なコピペでしたからねえ﹂ ﹁君みたいに簡単に見抜いてくれる人がもっと多ければ助かるんだ 916 けどね﹂ この御仁、せっかく書きあげた論文を盗用され、しかも先に発表 されてしまうと言う被害に遭ったことがある。事務所でバイトを始 めたばかりのおれに、人脈があるという理由で調査依頼がまわり、 なんとか盗作を証明したという経緯があったりしたのだ。 ﹁なんにしても、これでやっと恩が返せる。研究室のみんなには話 を通しておいたからね﹂ ﹁ありがとうございます。ってか、恩とかそういうのはなしでお願 いします。おれが手伝ったのも仕事なんで。報酬ももらってますし﹂ ﹁まあそう言わないで。君が盗作を証明してくれなかったら、僕は 教授どころか学校にも残れなかったんだから。個人的な感謝の念と 思ってくれ﹂ ついてくるように促し、鍵をぶら下げたまま踵を返す斯波教授。 おれ達は礼を言い、階段を上ってゆく。 ﹁前から思ってたけどアンタ、結構顔広いんだねえ﹂ 後に続く真凛が仏頂面で声をかける。 ﹁そうか?﹂ ﹁だってあの人、先生なんでしょ?﹂ ﹁ふむ﹂ 高校生の真凛にしてみれば、教師とは生徒にものを教える側の存 在で、互角の立場で話をするというのは違和感があるのかも知れな い。 ﹁大学になれば卒業した先輩がそのまま教える側になるってのもそ う珍しくはないからなあ。仕事で会えば単純に元依頼人と担当者だ し。後は何かの折に時々連絡を取り合うようにしてると、自然とつ ながりが生まれる。そんなところだ﹂ ﹁へえ∼、でもなんか先生と仲良くなると、宿題増やされそうじゃ ない?﹂ オマエにとって先生とは会話するたび宿題を押しつけてくるもの 917 でしかないのか。 ﹁ふふん、それよりテストの傾向とかを教えてくれるから楽になる かもしれんぞ⋮⋮ってぇか、普通におまえのところの学校の先生方 とも時々話してるからな﹂ ﹁えっ﹂ 真凛の顔が凍り付く。実は以前、おれは真凛の通う学校内での調 査のため、事務員見習いとして潜入したことがある。その時先生方 の何人かとはそれなりに交流を持ったりもしたのである。 ﹁オマエの成績についても色々聞いてるぞ。秋の中間試験、とくに 英語の成績がさんざんだったそうじゃあないか。こないだ若松先生 から相談を受けたんだからな。常々言ってるだろう、この仕事に注 力するのはいいが、本分である勉強をおろそかには︱︱﹂ ﹁あーっ!見えてきたよ、あれが研究室かなあ?﹂ 露骨に話をそらす真凛。まったくどこでそんな手管を学んでくる のやら。 相盟大学理工学部、研究棟A−301、斯波研究室。そこが目的 の場所だった。ドアを開けると数人の院生が物珍しげにこちらに視 線を向けてきたが、斯波教授が軽く挨拶をすると、見学希望の学生 かと思ったのだろう、それ以上詮索はしてこなかった。 ﹁ここが、研究室なのですね﹂ 皇女がややうわずった声でつぶやいた。壁際には整然と並べられ た机とPC、中央には巨大な黒い天板の机⋮⋮いわゆる実験台。そ の隣には高価そうな何かの試験装置とおぼしき巨大な機械がいくつ も設置され、低い音を立てて稼働しながら液晶ディスプレイ上に数 字を吐き出し続けていた。部屋の半分は通常の教室同様コンクリー トの打ちっ放しだが、残り半分は透明なシートで仕切られており、 その中で動く人々はみな白衣と帽子と手袋で全身を覆っている。ゴ ミや塵の侵入を嫌うクリーンルームという奴だ。 ﹁⋮⋮なんか学校の理科室みたいだね﹂ 918 ﹁そりゃまさしく 学校 の、 理科室 だからな﹂ もっとも、中の設備で言えば高校の理科室とは比べものにならな い。ここに入っている機械一つで一千万円を超えるものも珍しくな いだろう。 ﹁すみません、こちらの機械は何に使われるのでしょうか?﹂ ﹁え、ええっと、それはウェハーの測定に使用するもので⋮⋮﹂ ﹁ではこちらの大きな機械は?﹂ ﹁そちらはメモリのテストを行う奴ですけど、﹂ ﹁もしやフラッシュメモリも評価できるタイプでしょうか?﹂ ﹁あ、はい。最近設備更新した奴なんで⋮⋮﹂ ﹁一回あたりのテスト時間と同時測定個数はいくつなのでしょうか ?﹂ 院生のひとりを捕まえてもの珍しげに質問しまくる皇女様。昨日 からちょっと思っていたのだが、どうやらこのお姫様機械に詳しい、 というかこちらを専攻希望している模様だ。会話を続けるうちに単 語がどんどん専門的になり、おれもついていけなくなってしまった。 というか質問された院生の方は、銀髪の美少女から質問攻めにされ るというゲームでもまずないシチュエーションにすっかり舞い上が ってしまい、結構致命的な機密っぽい情報もぺらぺらしゃべってし まっているような気がするのだが、大丈夫であろうか。来週の今頃、 キャンパス内がどんな噂で持ちきりになっているか、おれは容易に 想像することが出来た。この任務が終わったら、しばらくこっちの キャンバスに顔を出すのは控えた方がいいか。 ﹁ってか、教授の専門は半導体なんですよね﹂ ﹁そうそう。ざっくり言えば、省エネCPUの開発がメイン。まー あれだよ。陶芸家みたいなもの。焼き方とか、何をまぜるとか、何 度で焼くとか、そんなことばかりやってるの﹂ のほほんと答えるが、この人の提唱した理論は次々世代CPUの 基礎開発にあたって業界に相当なインパクトを与えたらしく、某大 手半導体メーカーとの共同研究も始まっているとかいないとか。 919 深呼吸を一つ。皇女の質問攻めが一段落したところでおれは切り 出した。 ﹁さて、ファリス。そろそろ本題に入ろうか﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮はい﹂ 今までのはしゃいだ様子が鳴りを潜め、表情に陰が落ちる。昨日 の寮での、あの新聞記事を読み上げるような無機質な会話が思い出 されたが、今日は彼女の顔にそれ以上の変化はないようだった。 ﹁うん。アセルス王子のことだよね﹂ ﹁彼はここの︱︱正確には、僕が受け継ぐ前の、この研究室に所属 していたんだ﹂ 先述の通り、斯波先生が教授になったのはつい最近のこと。教授 への昇進にあたり、丁度恩師に当たる老教授が定年を迎えていたた め、最後の愛弟子として指名を受けてこの研究室を譲り受けたのだ という。アセルス王子は、その定年となった先代教授の教え子だっ たそうだ。 ﹁こちらでのアセルス王子は、どんな方だったのでしょうか﹂ ﹁実は僕も直接は会ったことがないんだ。彼が在学していた間、僕 は別の大学で助教をつとめいたし⋮⋮彼はそう長く在学していたわ けではないからね﹂ 言葉を濁す斯波教授。その後のアセルスの運命については、多少 は耳にしているのだろう。 ﹁そう、ですか﹂ ﹁ただ、彼と面識のあった後輩からの又聞きだけど、大変熱心に研 究に打ち込んでいた人だったらしいよ。それでいてまじめ一辺倒と いうこともなく、ユーモアのある人気者だったらしい﹂ ﹁研究室にこもりきり、というわけではなかったんですね﹂ ﹁それどころか、様々な企業や役所の人と頻繁に食事や会合をして たらしいよ。将来、母国に戻ったときのためのパイプ作りだって言 ってたそうだ。後輩の中には、その食事会に同席したことがきっか けで就職が決まった奴もいたりして、アセルスさんを一生の恩人と 920 思う奴も多かったらしい。⋮⋮そいつらは、アセルスさんが帰国後 に亡くなった事が信じられない、と言っていたよ﹂ ﹁企業や官庁との接触、ね⋮⋮﹂ それが後に、金鉱脈の情報の流出、そして処刑へとつながる。ア セルス王子。時期王の座に最も近いところにありながら、王を裏切 った男。彼の目的は、いったいどこにあったのだろうか。 ﹁そうそう。教授のテーマは半導体ですけど、アセルス王子個人は いったい、何を専門に研究していたんですか?﹂ ﹁ああ。コンデンサだそうだよ﹂ ﹁コンデンサ?ってええっと、アキバの電子部品屋で売ってるよう な筒みたいなちっちゃい部品ですよね。こちらの研究とはちょっと 毛色が違うような気が﹂ ﹁ああいえ、亘理さん。コンデンサの中には半導体を使用してるも のも多々あります。こちらで研究されている製造技術とは、かなり 共通するものがあると思いますよ﹂ そのコメントは教授ではなく、ファリスのものだった。 ﹁えーっと、もしかしてファリス、こういうの詳しい?﹂ ﹁あ。⋮⋮はい。結構、機械いじりとか楽しくて⋮⋮﹂ ふぅん。そりゃぜひ詳しく聞いてみたいところだ。 ﹁アセルス王子のテーマはシンプルだが王道、品質のよいコンデン サの量産だったね。そういう意味ではメーカーの人とも共通するも のが多かったんだろうなあ﹂ 砂漠の国の王子にして、電子部品の研究者。すでに故人となって いる王子の姿は、おれの脳内で二転三転し、明確な像を結ぼうとは しなかった。 ﹁でですね。その、アセルスさんの荷物をこちらで預かっていると 伺ったのですが﹂ おれは話を進める。ここで想像にふけっているわけにはいかない のだ。 ﹁ああ。昨日のうちに色々電話して確認したんだけど、さっきの後 921 輩達が、寮からアセルスの荷物を引き取っていたんだそうだ。いつ か戻ってきたら、って思ってずっと保管していたんだけど、、ほら、 ああいうことになったから⋮⋮。それで処分するわけにもいかず、 そのうち彼らも卒業してしまってね。手つかずの状態で研究室の倉 庫に保管したままになっていたんだそうだよ﹂ ﹁では、では今もここに?﹂ 逸る皇女の問いに、教授は首を振った。 ﹁ここから丁度キャンバスの反対側、隅っこに古い共用の倉庫があ ってね。そこに使っていない資材とか古い資料とかがまとめて積ん であるんだ﹂ ﹁ああ、あそこでしたか﹂ おれはその場所に心当たりがあった。たしか年に一度、学祭の時 に使うテントなんかもそこに放り込まれていたはずだ。 ﹁鍵は借りてきておいたよ。倉庫の奥の方、﹃斯波研﹄て札がある スペースが僕らの置き場になっている。前の研究室から丸々引き継 いだから、たぶん底の方に眠っているはずだ﹂ ﹁ありがとうございます、忙しいところ﹂ ﹁なに、それこそお互い様さ。頑張ってね﹂ おれは昭和製と思われる古くさい南京錠の鍵を受け取り、硬い面 持ちの皇女を振り返った。 ﹁んじゃあ、そこに行ってみますか﹂ 皇女は不安げに、だがしっかりと首を縦に振った。 922 ◆21:オープン・コンバット︵take2︶ 研究棟を出たおれ達は、キャンバスを大きく回り込んで、公園と 一体化している遊歩道を歩いていた。ちょうど建物の裏口に沿って 移動する形となり、にぎやかなキャンパスの裏の顔、ゴミの山や廃 棄された看板がさらけだされている。 研究棟と倉庫は、キャンバスを挟んで丁度反対側。向かう道は幾 通りもあった。 その中で最も人目につかず、それで居てそこそこ道幅の広い道を 選んだのは、同行者達に対するおれなりの配慮というものであった。 ﹁⋮⋮気づいたの?﹂ 歩きながらさりげなく肩をよせ、ささやく真凛。おれも速度を落 とさぬまま、肩をすくめて鷹揚に応じた。 ﹁まさか。おれに気配なんて読み取れるわけないだろ﹂ ﹁それじゃあ﹂ 気配は読めなくても、相手の考えなら読み取れる。 ﹁﹃鍵﹄の在処はつかめた。都内で人目を気にせず襲いかかれるチ ャンスはそうない。事務所に逃げ込まれてしまえばアウト。多少の リスクを侵してもここは打って出るべき︱︱そんなところだろう?﹂ 振り返らずに後ろへ声を放る。程なく街路樹からするりと、スー ツ姿の油断ならない美女が滑り出た。 ﹁ドーモです、亘理サン。マタまた会えて嬉しいなのデス﹂ ﹁どうも、美玲さん。一応気配読んでみようと思ったんですがねえ。 まったく感じ取れませんでしたよ﹂ ﹁貴女は、空港の⋮⋮ッ﹂ ﹃ご機嫌麗しゅう皇女殿下。ほんの一日ぶりですけども﹄ 艶やかに笑う美女。その視線が捉えるは銀髪の皇女。素早く真凛 が割って入り壁となる。 923 ﹁ってことは、颯真も来てるってことだよね!﹂ ﹁サテ、どうデショ?今日はお休みカモですよ?﹂ あたりを見回す。街路樹、キャンパスの建物、金網、植え込み、 街灯。だが美女とつるんでいるはずの獰猛な青年の姿はない。 ﹁前回はアナタタチ待ち伏せデシタからね。今度は少し焦らシタイ のことよ﹂ 一定の距離を保ったままの美玲さん。真凛が突撃して皇女の護衛 ががら空きになったところに颯真が不意打ちをかけてきたら厄介で はある。あるのだが。 おれはしばらく考えて︱︱真凛にアイコンタクトを送る。頷く真 凛。 ﹁そうかそうかあ。いやはや参った、雷名轟かす若き侠客、﹃朝天 吼﹄も所詮は横浜ローカル。東京の裏社会に君臨する﹃竜殺し﹄と 拳を交えるのを避けるは賢明、これぞまさしく書生の︱︱っとあっ ぶね!!﹂ 中空に放ったおれの挑発は、上空に茂る銀杏の木から瀑布のよう に落ちかかったブ厚い斧刃脚によって遮られた。当たって居ないは ずなのに、頭髪が数本舞い、額の皮が薄く裂ける。 ﹁誰が誰から逃げたと?﹂ 斧刃脚、右脚を宙にまっすぐ突き出し、左脚を深く折り曲げた片 足立ちの体勢のまま、毫も構えを崩さず青年⋮⋮劉颯真は冷たく言 い放った。 ﹁ふふん、まだまだだなあ颯真、せっかく美玲さんが不意打ちの陣 を敷いたってのに、肝心のオマエが安い挑発一つで算を乱してどう する﹂ おれは軽口を弄しつつ、真凛の代わりに皇女のガードに。冷静さ を奪うべくなおも挑発を繰り返そうとしたが⋮⋮叶わなかった。目 の前の青年の放つ、凍てつく殺気によって。 ﹁⋮⋮なに、貴様相手に不意打ちなど最初から成功するとは思って はおらん。美玲の顔を立てたまでのこと﹂ 924 静かに圧縮され力をため ぎりぎり、と音が聞こえる。幻聴ではない。呼吸により練り上げ られた内勁に応じ、奴の深層部の筋肉が 込んでいるのだ。︱︱さながら、重い橋脚を吊り下げるスプリング のように。 ﹁策は美玲がどうとでも取り繕う。我が為すべき事は︱︱﹂ あ、やべぇな。おれは内心舌打ちした。挑発が効果を持つのは迷 いを持つ奴、選択肢を持つ奴だ。最初からやるべき事を一つと決め ている者には︱︱ ﹁真凛!﹂ おれの声なぞ、とうに戦闘モードに入っている女子高生の耳には 届かない。 ﹁貴様と雌雄を決する事よ!!﹂ バネが弾けた。 昨夜の﹃南山大王﹄と同様に力強く、だがそれよりも遙かに静か に、氷上を滑るように。 かいしょうはりゅうのごとく 四征拳六十五手の四十一、﹃揚水如竜﹄。 三十七手より先の四征拳は、その姿をいささか変える。 それまでは﹃沈墜勁﹄︱ーすなわち鬼すら踏み砕く大地の気、そ の反動として衝き上がる天の気を産み出し、炸裂させる技法を主と する。 だがそれより先は次なる段階。 膨大な天の気を炸裂させるのではなく、己が身に纏いて東西南北 縦横自在に拳を、腿を、靠を叩き付ける神速の身体運用︱︱すなわ ち﹃十字勁﹄。 劉颯真はその位に達したのだ。 ﹁⋮⋮くっ⋮⋮﹂ 925 真凛は身構える。だが。 銃弾を避ける回避が、﹃南山大王﹄の超音速の突撃すら斬って捨 ・・・・・・・ てたカウンターが間に合わない。 否、応じきれない。それは単純なベクトルではない。神速であり ながら意思を持ち、着弾のその瞬間まで真凛を狙い、補正し、護り を貫きかいくぐる魔性の拳。 まるで迫撃砲で打ち出された水銀のごとく。 異常な疾さ、重さ、滑らかさを伴う崩拳。 轟音。 おれは信じられない光景を見た。胸部に致命の打撃を叩き込まれ、 宙を吹き飛ぶ七瀬真凛の姿を。 926 PDF小説ネット発足にあたって http://ncode.syosetu.com/n3444q/ 人災派遣のフレイムアップ 2016年10月28日14時19分発行 ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。 たんのう 公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、 など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ 行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版 小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流 ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、 PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。 927