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倭国・日本国の歴史(前100年~700年の日本史

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倭国・日本国の歴史(前100年~700年の日本史
クリニックだより
気・心・体
第95号
平成26年1月1日
高森内科クリニック
*倭国・日本国の歴史
(前100年~700年の日本史)
*
(1)紀元前1世紀~紀元300年頃(小国ができ始め、倭国が形成される)
B.C505:中国大陸で呉越の戦い
呉地方にいた卑弥族(倭人、辰の一種)はそこから逃げだし、黄河下流に倭国
を形成する。しかし、そこも追われて紆余曲折を経て朝鮮半島南部に辿り着
き、そこに倭国を建てる。朝鮮半島南部における倭国の形成の始めである。
卑弥族が進入した地域に先に住んでいた天族(アマテラス族、天氏ともいう)
は卑弥族を恐れて日本列島に移動していった。
(2)弥生時代前期末(前200~100年頃)
B.C108:漢の武帝は衛氏朝鮮を伐って四郡を設置し、朝鮮半島南部まで攻めてくる。
朝鮮半島南部の高天原に住み着いていた天族は、武帝の支配を嫌い、北部九州
へ逃げる。
B.C52 :北部九州に逃げた天族(あまぞく)は福岡県糸島市に移り伊都国を建国(これ
がいわゆる天孫降臨)し、北部九州を支配する(第一次伊都国王朝)。
〈この頃朝鮮半島南部から多数の渡来があり、日本列島各地に国造りをする〉
(3)弥生時代中期後半~中期末頃(前100~0年頃)
1,奴国(なこく)形成
朝鮮半島南部よりの渡来集団によって、北部九州に奴国(なこく)が形成される。
2,倭奴国の形成
弥生時代の中期後半頃、朝鮮半島南部の不彌国から渡来した集団が倭奴国を造る。
B.C57 :倭奴国は強盛になり後漢の武帝から金印を賜る、「漢倭奴国王(漢の・倭の奴
国王)」。
3,狗奴国(くなこく)の形成
弥生時代中期に渡来し、伊都国をさけて福岡県筑紫野市を中心に建国
(4)弥生時代後期後半(紀元100~250年頃)
1,朝鮮半島南部において韓が暴れ回るので、朝鮮半島南部の倭国の中で第一次倭国大
乱となり、韓に追われた人々は日本列島に逃げてくる。北部九州には伊都国があり、
上陸を阻止されて、瀬戸内海へ入る。
その中に饒速日(にぎはやひ)の一群(少数の集団)がいて、奈良県の纒向へ入る。
饒速日は朝鮮半島南部の天族(あまぞく)である。
2,朝鮮半島東北部は (わい)に侵略され、追われた人々は朝鮮半島の東沿岸を南下
し、日本海沿岸の山陰地方から北陸地方に上陸した。先住民の青銅祭祀をする弥生人
を追い出して四隅突出型墳丘墓を造る。先住民は滅ぼされ、弥生時代は終わり古墳時
代に入る。
(5)弥生時代終末(200~350年頃)
A.D204:公孫康は朝鮮半島を荒らし回る韓と を伐った。その時、倭国も伐たれ日本
列島へ逃げる。そして、北部九州に逃げた人々は倭国の卑弥族だけではなくそ
れとは別の部族もあった。
①卑弥族は先住の第二次伊都国王朝と戦い、邪馬壹国(やまいちこく)を樹立し倭国
を再興する。
②卑弥族とは別の部族は瀬戸内海を通り、和歌山の紀ノ川を経由して奈良に入り纒向
を形成したり、関東平野に入ったり、日本列島の各地に移住していった。
(6)北部九州の覇権争い(100~300年頃)
伊都国、邪馬壹国は伐たれ、狗奴国が北部九州を支配することになる。
147~189:倭国乱、
〈倭国乱れ相攻伐すること歴年〉
172:後漢王朝の衰退に伴い伊都国王の権威失墜
210:卑弥呼を倭国王に共立
239:卑弥呼、
「親魏倭王」の称号を魏より与えられる
247:邪馬壹国と邪馬台国の争い始まる
248:卑弥呼死す。争乱続く。
臺與が女王になり、争乱が収まる。
邪馬壹国から邪馬臺国(やまたいこく)に格上げされる
265:臺與が西晋へ遣使
倭国大乱の中で神武は伊都国を出立した(いわゆる神武東征)。
(7)卑弥呼と倭国(200~300年頃)
1,卑弥呼が倭国王に就任する前は狗奴国王が倭国王であった。
2,卑弥呼の死後、邪馬壹国対狗奴国の決戦が筑後平野で行われた。
壹與(いよ)・臺與(とよ)が神功皇后である。
崇神天皇の姉・ヤマトトトモモソ姫が卑弥呼である。
3,倭国大乱において戦いに勝利した壹與(いよ)(神功皇后)は大倭国の女王として
認められ、臺與(とよ)と呼ばれるようになり邪馬壹国(やまいちこく)は邪馬臺
国(やまたいこく)として承認された。
(8)アマテラス族(天族)の分散
①伊都国のアマテラス族は奴国を併合し、北九州市の方へ拡大する。
②朝鮮半島南部の高天原にいた饒速日の一群は近畿河内へ進出する。
③伊都国にいた神武は東征し、奈良・磯城にあった国(唐古・鍵遺跡)を滅ぼす。これ
が記紀における「出雲の国譲り」である。
④崇神天皇は初代臺與を殺し、箸墓古墳を造りそこに葬った。
(9)出雲族・出雲王国・出雲連合(前100~紀元350年頃)
〈邪馬台国連合の都は唐古・鍵遺跡であり、大国主は邪馬台国連合の王のことである〉
1,出雲の歴史の概略
1世紀半ば:小国が発生し、銅鐸が出現する。
1世紀末:八束水臣津野命、素戔嗚尊などの有力神がいくつかできる。
荒神谷遺跡が営まれる。
出雲に四隅突出型墳丘墓が広まる。
150年頃:出雲地方の発展期
2世紀初め:佐太・熊野・野城の大神が誕生
2世紀半ば:大国主が作られる
3世紀初め:銅鐸が消えてゆく
大和朝廷が邪馬台国連合を併合
出雲氏が大和朝廷の勢力下に入る
出雲に前方後円墳が広がる。
2,出雲族の渡来
紀元前6世紀に出雲に渡来し、中国地方と近畿へ広がっていった。出雲族は縄文人と
融和的であった。縄文系の神々と出雲の神が融合した神々が後に国津神と呼ばれる。
3,素戔嗚尊の渡来
紀元前1世紀半ば朝鮮半島南部より渡来し、優れた武器で出雲の部族を征服し、記紀
では八岐大蛇退治として書かれている。アマテラス族と同じ高天原の出身であり、アマ
テラス族とは愛憎半ばする関係であった。
4,出雲は西日本全体を治めてはいない
出雲の最大時は、2世紀後半~3世紀前半の四隅突出型墳丘墓が盛んに造られた時期
である。出雲は日本海沿岸の諸国(石見・伯耆・因幡・越)などの連合の盟主的な存在
に過ぎない。
弥生時代の出雲はいくつかの部族国家が大いに栄えていたが、4世紀中葉頃、加羅系
崇神王朝がこれらの部族国家を征服した。その結果、出雲は加羅系の豪族を首長とする
小王国となった。
そして、筑紫・吉備・毛野などのような他の加羅系の小王国や朝鮮半島南部の加羅諸
国とともに出雲は連合王国(大加羅・南加羅)を構成するするようになった。
その後、5世紀末、出雲は応神天皇が建設した百済系倭国の影響下に入り、直接の支
配を受けるようになったのは欽明時代と考えられる。
5,邪馬台国連合と葦原中国との関係
ところで、記紀でいうところの葦原中国とは邪馬台国連合のことであり、その盟主で
ある邪馬台国王が大国主であった。「国譲り」とは邪馬台国から神武が国の支配権を奪っ
たことをいう。記紀は邪馬台国王のことを書きたくないために、邪馬台国の王である大
国主の代わりに出雲の王である神(大穴持命)が葦原中国の支配者であることにしたの
である。
(10)倭国の歴史(80~701年)
1,倭奴国(博多湾近辺に中心)と邪馬壹国(有明海北東部沿岸に中心)との勢力争い
が第二次倭国乱である。
2,第二次倭国乱にて、邪馬壹国の女王・卑弥呼が倭国王となり、敗れた倭奴国等は新
天地を求めて東に移動した(神武東征)。そして進出した近畿大和の小国(日本)を
併合して近畿倭国を造った。
3,邪馬臺国を中心とした九州の倭国は九州全体を領土とし、後には朝鮮半島南部の
国々を征服した。
4,隋代の倭国( 国)本土は九州島全体であり、その都はかっての邪馬壹国である。
5,近畿大和へ進出した倭種の国(近畿倭国)は大和を中心に成長し、やがて倭の字が
好ましくないことを知り、またこの地が倭地における「ひのもと」であり、かって日
本と呼ばれていたことから、倭国とは別の国として日本と名乗った。
6,日本国は新たに勢力を強め、九州倭国の衰退に乗じて、ついに九州倭国を併合した。
7,日本国は倭国に代わり、名実共に日本列島の代表になった。
8,倭種の国の進出地・近畿大和地域(当初の日本国)は日本列島日本国の都となった。
(11)初期ヤマト王権(210~318年頃)
◇第1期 「纒向王権」 210~270年頃
・饒速日命(朝鮮半島から纒向へ渡来) ・宇摩志摩治命
◇第2期 「磐余王権」 270~300年頃
・神武天皇(伊都国から渡来)
・手研耳命(真の第2代天皇、295~300年頃)
◇第3期 「三輪王権」 300~305年頃
・綏靖天皇(手研耳命天皇を伐ち即位)
◇第4期 「山城王権」 305~318年
・崇神天皇(中国・遼西の伽葉原夫餘から渡来)
1,饒速日の渡来と纒向王権
216~236年頃に朝鮮半島南部の高天原から渡来。朝鮮半島南部において、第一次倭
国大乱が起きた時に渡来し、瀬戸内海を経由し、ヤマトの東南部に移住した天族(アマ
テラス族)である。先住の王・長髄彦(ながすねひこ)のもとに入り婿となる。纒向地
区にある纒向遺跡を築いたと思われる。初期ヤマト王権は纒向遺跡から始まる。
2,神武東征(伊都国の東遷)と磐余王権
伊都国(ウガヤフキアエズ王朝)は倭国の邪馬壹国に支配され、その支配が強化され
るにいたると、伊都国の人々は伊都国を棄て新天地を求めて出て行った。これを神武東
征(250~265)というが、実態は移住であり、逃亡である。神武天皇は朝鮮半島南部
の高天原より「筑紫の日向」に天孫降臨した天族(アマテラス族)の子孫であるが、苦
難の流浪の末に磐余に住み着いたのである。
神武(イワレヒコ)がヤマトに入ったのは纒向遺跡がピークの時であり、この時の纒
向王権の王(首長)は宇摩志摩治命であり、纒向王権の創始者である饒速日は既に死去
している。宇摩志摩治命は伯父の長髄彦を殺して神武天皇に帰順し、纒向勢力は神武天
皇の支配下に入る。纒向遺跡は衰退するが、代わりに磐余の地に大きな古墳(桜井茶臼
山古墳等)が築かれる。
3,崇神天皇と山城王権
中国東北部の遼西から逃げてきた扶羅と思われる崇神は百済とは同族である。強力な
鮮卑と戦った経験があり、高度な技術で作られた武具や武器を持ち、先住の弥生人とは
比較にならない戦力を持っていた。
瀬戸内海ルートを確保し、木津川一帯と瀬戸内海を手中にした崇神は南の大和を平定
する。その後、四道将軍を派遣して北陸・丹波・東海の地を平定する。崇神天皇は日本
列島の約半分を支配しているが、これだけの広い領域を支配した人物はそれまでにはい
ない。崇神天皇は日本列島を統一した最初の王である。 (12)4世紀の北部九州
□4世紀の北部九州の歴史
1,熊襲国(筑紫) 270年頃~364年
狗奴国が邪馬壹国を追い出して建国
2,熊襲征伐 310年頃~364年
景行天皇、日本武尊、仲哀天皇、神功皇后
3,貴国(筑紫・肥前) 364年~398年
神功皇后が熊襲を伐ち建国
竹内宿禰(貴国の天皇)382年~398年
4,倭国(筑後) 398年~
倭王讃が竹内宿禰を追い出して建国 1,熊襲征伐
現在の「日本の歴史」は「貴国」を認めていないし、国民は貴国が存在したことも知
らない。貴国は日本の古代国家形成の基盤となる重要な国である。
貴国は神功皇后が熊襲征伐をして樹立した国である。すなわち、景行天皇・日本武尊
仲哀天皇・神功皇后は渡来人であり、これら4人は、日本列島に永住する土地を探して
先住民と戦ったのであるが、これが「熊襲征伐」なのである。その範囲は筑前と肥前で
ある。熊襲はこの範囲にいた先住民であり、南九州にいたのではない。
神功皇后(オキナガタラシヒメ)は「多羅の姫」であり、おそらく中国の東北地方か
ら混乱を避けて角鹿に逃げてきたのであろう。その後北部九州に安住の地を求めて熊襲
と戦い、364年に貴国を建国したのであろう。
2,貴国の領域と貴国の将軍の本拠地
貴国の宿禰の本拠地は北部九州にある。そこは神功皇后が熊襲を征伐した地域と一致
する。神功皇后の熊襲征伐ルートと貴国の宿禰の本拠地を重ねると、それは筑前と肥前
国内である。貴国は神功皇后が熊襲征伐をして樹立した国であり、その中で伊都国(糸
島市)が貴国(神功皇后)の本拠地である。
貴国の将軍には「宿禰」の称号がついている。宿禰は中国東北地方で用いられていた
称号であり、宿禰の称号が付いている将軍は中国東北地方から逃げてきた渡来人であ
る。日本列島に渡来して、先住民(土蜘蛛、熊襲)を伐ち、住み着いてそこを本拠地に
している。貴国の将軍は肥前に多い。竹内宿禰の時代には肥前が貴国の中心である。
3,貴国の滅亡と倭国
398年に貴国の天皇である武内宿禰は筑紫から紀伊へ逃げて貴国は滅びる。貴国の宿
禰たちも北部九州から近畿地方へ移っている。貴国の天皇である武内宿禰と重臣達もみ
な近畿地方に逃げて、貴国は滅びている。
○武内宿禰が筑紫の天皇の時代 382~398年
○貴国が存在した期間 364~398年
貴国が滅びる時期と倭国が登場する時期は一致している。したがって、武内宿禰を追
い出し、貴国を滅ぼした国は倭国だと思われる。すなわち、竹内宿禰を筑紫から追い出
したのは倭王讃であろう。貴国の中から倭国が生まれた。それは倭王讃が貴国の天皇
(武内宿禰)に対してクーデターを起こし、倭国を樹立したのである。
○貴国と倭国の関係
364年→貴国の建国
: →貴国の時代
397年→百済は貴国に人質を出す
398年→貴国滅亡、倭国の誕生(倭王讃の即位)
: →倭国の時代
(13)貴国の滅亡と大和豪族の誕生(398~450年頃)
1,貴国の滅亡
貴国は398年に滅び、貴国の天皇である竹内宿禰は北部九州から紀伊に逃げて、大和
の葛城に住み着いている。貴国の宿禰達も北部九州から近畿に逃げてきて大和豪族にな
り、建内(武内)宿禰後裔氏族と言われるようになる。その時期は4世紀末から5世紀
初頭である。貴国(北部九州)の人々は近畿地方ばかりでなく全国各地に移り住んだの
であろう。日本列島で一斉に首長の交代が起きているのはそのためであろう。貴国の
人々が日本列島の各地に移り住んだことにより、日本列島は古墳時代中期に入る。貴国
の人々が各地に新しい文化を伝えたのである。
貴国の宿禰は北部九州から逃げてきて大和に住み着き、そこに故郷の地名を付けた。
奈良県に葛城・羽田・巨勢・平群という地名があるのは九州の地名が付けられたのであ
る。貴国の豪族は5世紀初頭頃に大和に移住してきており、大和豪族の誕生は5世紀初
頭である。
2,近畿貴国の始まり
4世紀末から5世紀に畿内では巨大古墳が造られる。百舌鳥古墳群、古市古墳群、佐
紀古墳群および葛城地方の古墳等である。5世紀の巨大古墳はすべて貴国の人々の墓で
ある。貴国の人は九州を追われて近畿地方に逃げてきているが、巨大古墳を築いている。
巨大古墳は王権が存在したことを示している。大阪平野には王権が成立していたと思
われる。九州の貴国は亡びたが、近畿地方に貴国を再興したのである。これを「近畿貴
国」と名付けておく。近畿貴国の領域は奈良県と河内、および播磨ということになる。
3,近畿貴国の滅亡
九州勢力が河内に来て近畿貴国を滅ぼしたと思われる。すなわち、筑紫君(倭王興)
はまず雄略7年(463年)に吉備王国を滅ぼすと直ちに近畿地方へ侵攻して近畿貴国を
滅ぼしたと思われる。貴国は九州にあるときも倭国(筑紫君)に滅ぼされたが、再興し
た近畿貴国もふたたび倭国に滅ぼされたのである。「磐井の乱」の531年にはすでに筑
紫君はすでに近畿貴国を滅ぼしており、近畿地方は筑紫君の領土になっている。
(14)筑紫の君(倭王)と倭の六王(398~531年)
九州の支配者(王権)は次々に交代している。伊都国王朝、邪馬壹国(倭国)、熊襲
国、貴国、筑紫君王朝(倭国)と交代している。
1,倭国とは
筑紫君は倭王である。倭国の王である。筑紫君は倭国(筑紫君王朝)を称している。
日本列島で倭国を称した国は筑紫君王朝(倭国)と卑弥呼の倭国である。卑弥呼の倭国
は266年頃に亡びている。筑紫君の倭国は398年に樹立される。両者は100年以上も離
れている。筑紫君の倭国と卑弥呼の倭国は直接には関係がないであろう。
2,倭国建国の概略
①245年、中国の大凌河の上流域が侵略を受ける。285年、大彦は崇神天皇に従い大凌
河上流の「倭城」から日本列島へ逃げてきて、崇神天皇とともに崇神王権を樹立する。
その後、崇神天皇により四道将軍の一人として越国へ派遣される。
②中国東北部から渡来した神功皇后は角鹿から北九州へ移る。そのとき大彦の子孫は神
功皇后に従い北部九州へ行き、神功皇后とともに熊襲を平定して、364年に貴国を建
国する。
③大彦の子孫である倭讃は貴国を追い出して、398年筑後に倭国を建国する。倭讃(筑
紫の君)は中国の倭城から出たことを意識しているのであろうか、建国すると国名を
倭国と称した。そして、倭国はその後発展して日本列島を統一する。
3,倭の六王の在位期間と事績 倭国(筑紫君王朝)には6人の王がいた。讃・珍・済・興・武・葛である。一字の中
国名である。倭王の名前をみても倭国のルーツは中国であるといえる。その在位期間は
次の通りである。
・倭王讃 398年~426年
・倭王珍 427年~442年
・倭王済 443年~461年
・倭王興 462年~477年
・倭王武 478年~525年
・倭王葛 526年~531年
①倭王讃
・貴国を滅ぼし(398年)
、倭国を樹立した初代倭王
・墓は筑後の石人山古墳
②倭王珍
・中国王朝(宋)からはじめて安東将軍の称号を授与される
・九州内を平定した13人の武将にも将軍号を与えている。はじめて九州のほぼ全域
を統一する
③倭王済
・中国王朝からはじめて「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍
事安東将軍倭国王」に除正される。中国王朝は倭国が朝鮮半島南部を軍事的に支配
していることを認めている。
④倭王興
・雄略七年(463年)に吉備王国を平定し、その後直ちに日本列島を統一する。さら
に朝鮮半島南部まで平定している。「雄略記」は倭王興の記録である。
・朝鮮半島問題にも対処している。すなわち、任那・百済の救援にも力を注ぎ、中国
とも積極的に交流をした。
・九州から関東まで征服し、全国を統一している。その侵略戦争において多くの人を
殺していると記録されている。
⑤倭王武
・日本列島ではじめて「治天下人」になり年号を建てている。
「治天下獲加多支鹵大王」である。
・岩戸山古墳は倭王武の墓である。
・支配体制を確立し、天下を上手に統治したといわれ、広く尊敬されている。
⑥倭王葛
・「磐井」の乱で殺された倭王。しかし筑紫君王朝はその後も細々と続く。年号も続
いている。
・「磐井の乱」は辛亥年(531年)であり、この乱によって倭国はほぼ滅亡した。
4,倭国の日本列島支配
5世紀から6世紀のはじめにかけて、日本列島を支配していたのは筑後の筑紫君(倭
国)である。倭国は西日本の66カ国と東日本の55カ国を征服し、朝鮮半島南部の95カ
国を平定している。
(15)九州の三つの王権の変遷(522~580年頃)
1,三つの王権の概要
磐井の乱で物部麁鹿火は筑紫君王朝(倭国)を倒す。しかし筑紫君の王統は存続し年
号も継続している。阿毎王権が物部王権から王権を奪った後も筑紫君の王統が存続し、
年号も継続している。ところが阿毎王権の金光年号から筑紫君の年号は消える。九州年
号は阿毎王権の年号のみとなる。九州は完全に阿毎王権によって統一されたのである。
〈九州の三つの王権の年号は次のようになる〉
○筑紫君王朝の年号 ○物部王権の年号 ○阿毎王権の年号
善記(522~525)
正和(526~530)
定和(531~537)
殷到(531~535)
常色(538~545)
僧聴(536~540)
(不明)
明要(541~552) 貴楽(552~569)
法清・兄弟・蔵和・師安
和僧(565~569)
金光(570~575)
賢棲(576~580)
鏡常(581~584)
552年に物部尾輿は物部王権を破り、阿毎王権を樹立して「貴楽」年号を建てる。
これで日本列島の中で年号を建てることができるのは阿毎(あめ)王権だけになった。
阿毎王権の十四世物部大市御狩(敏達天皇)は日本列島における唯一の天子になった。
大和には大和王権は存在しないし、570年頃の日本列島を代表する王権は北部九州の阿
毎王権であり、それは「隋書」の 国である。
2,物部王権の樹立
物部麁鹿火は531年に磐井の乱で筑紫君(倭国)を伐ち、ついで物部麁鹿火は国内の
支配に乗り出す。物部麁鹿火は北部九州の豪族から土地を一つ一つ取り上げていく。そ
の結果「筑紫より以西」の地をついに手に入れたのである。それが「筑紫・肥・豊の三
国」である。物部麁鹿火はこのようにして王権を樹立し、地盤を固めて死去した。
物部王権の重臣は大伴金村・物部尾輿・許勢臣稲持である(物部尾輿は552年に物部
王権を倒して、鞍手郡に阿毎王権を樹立して十三世物部尾輿連公になる人物である)。
3,九州の王権(その六世紀の概要)
①物部麁鹿火
・墓は福岡県嘉穂郡の桂川大塚古墳
・磐井の乱(531年)で筑紫以西を支配
・天子となり「殷到」年号を建てる。
②敏達天皇
・本拠地は筑前の鞍手郡
・先代旧事本紀の「天つ物部」氏
「隋書」に「 王の姓は阿毎」とある
「阿毎(あま)」=「天(あま)」
・敏達天皇=十四世物部大市御狩連公
・多利思北孤=十五世物部大人連公
③蘇我馬子・蝦夷・入鹿
・本拠地は肥前の三根郡
・「石川」は肥前の三根郡を流れる寒水川
④上宮王家
・本拠地は肥前の三根郡の「飛鳥」
・591年には上宮法皇は天子となり「法興」年号を建てる。
・法隆寺は上宮法皇の寺、肥前から斑鳩へ移築
・聖徳太子は上宮法皇の子、斉明天皇(宝皇女)は孫
・「乙巳の変(大化改新)」は肥前の飛鳥で起きている
4,阿毎王権(522~627年頃)
552年に物部尾輿は物部王権を倒し、阿毎王権の初代王(十三世物部尾輿連公)とな
る。物部尾輿も年号を建てている。「貴楽」年号である。
①阿毎王権と「隋書」の 国
「隋書」 国伝には「 王の姓は阿毎、字は多利思北孤」とある。従来は、 国(た
いこく)は倭国と考えられてきた。しかし、 国は倭国ではなく、倭国は筑紫君王朝で
あり、531年の磐井の乱で亡びている。 国の方は600年に隋へ朝貢しており、608年
には裴世清が 国へ来ている。
②阿毎王権の領土拡大
554年に百済の聖明王は新羅との戦いで戦死する。新羅が攻めてくるかもしれないと
阿毎王権の王は危険を感じたのであろう。新羅に対抗するだけの武力と経済力が必要で
あり、それには経済的基盤の強化が必要になった。それで阿毎王権の王は555年に最高
位の重臣である蘇我稲目を派遣して、瀬戸内海沿岸や大和を侵略して屯倉を設置する。
阿毎王権の二代目の十四世物部大市御狩連公は古事記・日本書紀の敏達天皇である。
肥前の三根郡を本拠地とする蘇我馬子は父の稲目が設置した吉備の白猪屯倉に行き、そ
の管理を強化している。阿毎王権は瀬戸内海沿岸、大和の高市郡・紀国(和歌山県)、
および日本海沿岸地域を支配している。
③阿毎王権の王統 ○十三世物部尾輿 552年~569年 初代
○十四世物部大市御狩連公 570年~584年 二代目
(敏達天皇)
○十五世物部大人連公 585年~610年 三代目
(多利思北孤)
(押坂彦人大兄)
○十六世物部耳連公 611年~627年 四代目
(茅渟王)
●(天武王権初代) 635年~639年
阿毎王権は十六世の時に王権を奪われたようである。天武王権は阿毎王権から王権
を奪い、新しい王権を樹立し「僧要」年号を建てている。天武王権は天武天皇の父が樹
立した王権であるが、天武天皇の父の名前は不明である。
5,上の宮王家の成立(591~641年頃)
物部守屋は物部尾輿の子であり、十四世大市御狩連公の弟である。物部守屋は甥が天
皇位を継ぎ十五世物部大人連公になったことに不満を持っていたようである。物部守屋
は甥の十五世物部大人連公に辛く当たり、十五世物部大人連公は叔父に逆らえずに叔父
の言うままになる。阿毎王権の重臣である蘇我馬子は天皇を擁護するために遂に物部守
屋を伐つ決心をし、阿毎王権の重臣を集めて物部守屋を伐った。物部守屋討伐は「蘇我
氏と物部氏の争い」と言われているが、真相はそうではなく、物部氏(阿毎王権)の中
の争いである。蘇我氏が物部氏を伐ったのではないし、物部氏が滅んだわけではなく、
阿毎王権(物部氏)の王は存続している。物部一族を伐ったのではなく、あくまでも物
部守屋のみが排除されたのである。
①上宮王家の独立
上宮法皇は物部守屋が伐たれたことを阿毎王権から独立する絶好の機会であると捉え、
4年間の準備期間をおいて、591年に「肥前の飛鳥」に新しい王権を樹立して、自ら太
子となり、年号「法興」を建てる。本拠地は肥前の岡本宮、天皇は上宮法皇、皇太子は
厩戸皇子(上宮皇子)。
○阿毎王権の年号 ○上宮王家の年号
貴楽552~569
:
: 法興591~622
: :
: :
: 聖聴629~641 命長640~646
北部九州に阿毎王権と上宮王家という二つの王権が併存することとなった。蘇我馬子
は阿毎王権の最高位の重臣であったが、その地位を棄てて上宮法皇の臣下になっている。
蘇我氏は360年頃中国東北地方から逃げてきて、肥前の三根郡の石川に住み着いた蘇我
石川宿禰の子孫である。上宮王家もこの時一緒に中国から逃げてきて肥前の飛鳥に住み
着いたのであろう。上宮王家は渡来前から「王家」であり、「宿禰」はその臣下である。
②蘇我氏の専横
蘇我馬子は阿毎王権の重臣から上宮王権の臣下になっているが、最高位の重臣であ
る。622年に上宮法皇が崩じると、続いて皇太子が亡くなる。すると蘇我馬子の専横が
始まる。蘇我馬子は上宮王家に土地を要求する。
626年に蘇我馬子が死去すると子の蘇我蝦夷が後を継ぐ。その2年後に上宮王家の天
皇が死去すると天皇位を継ぐ皇子がいないので、亡くなられた天皇の娘(宝皇女)が天
皇になる。皇極天皇である。この時から蘇我蝦夷の横暴が始まる。642年に上宮王家は
蘇我入鹿に襲われて滅びる。蘇我蝦夷と蘇我入鹿の専横は極致に達する。
③上宮王家と貴国
上宮王家は先祖の代から王であり、蘇我氏はその臣下であった。中国東北地方から渡
来した豪族には「宿禰」の称号が付いている。宿禰等は中国東北地方から逃げてきて北
部九州に上陸して熊襲を伐ち貴国を建国する。その時の中心人物は神功皇后である。そ
の後、貴国は武内宿禰が最高実力者(天皇)になる。神功皇后や武内宿禰は武力を発揮
して宿禰等を統率して北部九州に貴国を建国した。上宮王家は「王家」であるが、象徴
的な王であり、実権はなかったのであろう。390年頃には武内宿禰が貴国の天皇(最高
実力者)になっている。
591年頃には上宮王家は王権を樹立する。上宮王家は200年かけて実力を蓄えてきた
のであろう。上宮法皇は宿禰等を臣下にして王権を樹立し、自ら天子になったのである。
蘇我馬子が阿毎王権を棄てて上宮法皇の臣下になったのも中国東北地方にいたときから
の「王と臣下」の関係によるものである。
④上宮王家の反撃「乙巳の変」
田村皇子は宝皇女と婚姻して上宮王家の入り婿となり、上宮王家を嗣いで舒明天皇と
なる。舒明天皇と宝皇女(皇極天皇)の間に生まれたのが中大兄(天智天皇)である。
山背大兄皇子は蘇我入鹿に襲われて死去する。上宮王家は滅びたといわれるが、宝皇
女とその子・中大兄がいる。中大兄は蘇我氏を討伐することを決め、中臣鎌足の協力を
得て遂に蘇我入鹿を伐つ。「乙巳の変」である。
中大兄は上宮王家を再興する。656年に宝皇女(皇極天皇)は大和に移り、斉明天皇
として上宮王家を発展させる。中大兄皇子は後を継ぎ天智天皇となり、日本の古代国家
の基礎を築く。
6,豊王権の樹立(585~661年頃)
豊王権とは豊のつく三天皇(用明・推古・孝徳)の時代の王権をいう
①用明天皇と豊王権
用明天皇には「豊」の字が付く。
「豊」の付く天皇や皇子の多くは河内の磯長陵に埋葬されている。この三人は同族と
思われる。この3人は同じ王権と思われるので、これを豊王権と呼ぶことにする。
②欽明天皇
欽明天皇は架空の人物であり、その御子はすべて捏造である。日本書紀は大和王権に
よる万世一系である。大和王権以外の王権は存在しない。したがって、物部王権も、阿
毎王権も、豊王権も抹殺している。本当は、日本書紀は抹殺した物部王権・阿毎王権・
豊王権・上宮王家の記録である。大和王権の「天皇は万世一系にしなければならない」
という政策にとって都合が悪い事実は隠され、欽明天皇という架空の天皇を造り上げ
て、阿毎王権や豊王権や上宮王家の人物をすべて欽明天皇の御子にしている。日本書紀
は「北部九州の歴史」を「日本の歴史(大和王権の歴史)」として記述しているのであ
る。
(16)天智王権と天武王権(661~686年頃)
◇概略
①天智天皇と天武天皇は兄弟ではない
・天智天皇は上宮王家の皇子
・天武天皇は宗像に天孫降臨した天族の子孫
②「白村江の戦い」は天武天皇
・斉明天皇・天智天皇は筑紫に来ていない
・朝倉宮で崩御したのは天武天皇の父
③「壬申の乱」は天智王権と天武王権の戦い
・日本列島には天智王権と天武王権の二国があった
④高市天皇と長屋親王
・平城京の長屋王邸跡から「長屋親王」と書かれた木簡が出土
・父高市皇子は「天皇」であり、長屋王は「親王」である
⑤720年に成立したのは「日本紀」であり、
「日本書紀」ではない
・天智王権が「日本紀」を改変して「日本書紀」を作る
・日本書紀は天武王権を抹殺
天武天皇の父を斉明天皇にすり替え、天武を天智の弟にしている
・「日本紀」「高市天皇紀」は「日本書紀」では「持統紀」に改変している
・「日本書紀」の「高市皇子」に合わせて「続日本紀」は「長屋王」にしている
1,天武王権の樹立
天武王権は天武天皇の父が樹立した王権である。しかし、天武天皇の父の名は不明で
ある。600年~632年まで隋や唐は阿毎王権( 国)が日本列島を代表する国であると
認識して交流している。その28年後の660年に百済は滅亡する。百済は日本に救援を要
請する。百済が要請しているのは阿毎王権である。大和の斉明天皇(上宮王家)では
ない。
◇天武王権と筑紫の変遷
五世紀の「倭の五王」の時代から筑紫の変遷をみていく。五世紀の筑紫を支配してい
るのは筑後の「倭国(筑紫君)」である。
531年 : 物部麁鹿火は筑紫君(倭国)を伐って北部九州を支配する。筑紫は物部麁鹿火
の領土になる。
552年 : 物部尾輿は物部麁鹿火から王権を奪い、筑前の鞍手郡に阿毎王権(「隋書」の
国)を樹立する。筑紫は阿毎王権の領土になる。
582年頃 : 元興寺の造営が始まる。
591年 : 上宮法皇は阿毎王権より独立する。
609年 : 元興寺は筑紫に完成する。
635年 : 阿毎王権から天武王権に交代する。筑紫は天武王権の領土になる。
645年 : 「乙巳の変」で中大兄皇子は蘇我倉山田石川麻呂の協力を得て蘇我入鹿を伐つ。
肥前の飛鳥での出来事である。蘇我倉山田石川麻呂は上宮王家(天智王権)の
右大臣になる。
649年 : 蘇我倉山田石川麻呂は天武王権(天武天皇の父)によって伐たれる。すると、
上宮王家(天智王権)も天武王権に降る。
655年 : 斉明天皇(天智王権)は天武の父に中大兄皇子の長女・大田皇女(13歳)を
献上して天武天皇の妃にする。天武王権に対する忠誠の証としての人質であ
る。
656年 : 斉明天皇は天武王権から逃げるため肥前の飛鳥を捨てて、大和へ移る。
657年 : 斉明天皇は再び中大兄皇子の次女・持統天皇(13歳)を天武天皇の父に献上
して天武天皇(35歳)の妃にする。大和へ移っても上宮王家は天武王権の臣
下であることを示すためである。
このように筑紫は635年以来、天武王権の領土である。
2,斉明天皇の大和移住(656年)
656年に斉明天皇(宝皇女)は肥前の飛鳥から大和の飛鳥へ移る。天武王権を恐れて、
九州を棄てての大和への逃亡である。天武王権を恐れて大和に逃げた斉明天皇に対して
百済が救援を要請するであろうか。
◇朝倉宮の役割
660年7月に百済は滅びる。660年9月に残存勢力は百済の再興を計り、天武天皇の
父に救援を要請する。百済を救援するということは唐や新羅を敵に回すことである。天
武天皇の父は唐・新羅と戦うことを覚悟したのであろう。唐・新羅連合軍が日本へ攻め
てくることを想定して、筑前から筑後に至る筑紫平野に本営を置いたのであろう。
3,白村江の戦い(663年)
663年3月に天武天皇は二萬七千名の兵を派遣し、663年8月に「白村江の戦い」が
始まる。「白村江の戦い」で唐・新羅と戦ったのは天武天皇であり、天智天皇ではない。
663年8月の「白村江の戦い」で天武天皇は敗北する。
4,唐による九州占領(665~667年)
660年百済は亡びる。唐は百済の地を統治するために「五つの都督府」を置く。「都
督府」とは「占領地を兵力をもって鎮める」ために唐が設置した統治機関である。筑紫
にも「筑紫都督府」が置かれた。筑紫は唐の占領地になったのである。ところが「日本
の歴史学」は日本列島が唐に占領されたことはないと考えている。すなわち、日本の学
者「筑紫都督府」は日本が設置した「筑紫太宰府」であると解釈するのである。
666年11月に唐は高句麗の討伐に向けて兵を出し、667年11月に高句麗は亡びる。そ
の時、「筑紫都督府」は一時廃止されるが、兵力を高句麗に向けるために、日本列島の
支配を断念したものと思われる。
668年11月に高句麗は亡び、671年に唐は「二千人、船四十七隻」を筑紫太宰府に派
遣してきた。おそらく唐は日本列島を占領したいという計画があり、再び「筑紫都督府」
を設置するために人員と船を派遣してきたのであろう。しかし、「筑紫都督府」は設置
されなかった。日本が備えを充分にしていることを監察した唐は、日本列島を占領する
ことをあきらめたのかもしれない。
吐蕃(チベット)での反乱、中国国内での内紛、新羅との関係悪化、などが起こった
ために、中国は日本列島占領を諦めたようである。神風が吹いたのであろう。九州島が
一時的に占領されただけで済んだことは幸運以外の何者でない。ただ、九州島内では相
当な破壊・略奪があったことは間違いない。
天智天皇、天武天皇は近畿に脱出したとみられているが、ある観点からいうと九州か
ら追い出された、すなわち唐から「罰退」を受けたともみられる。唐は倭国・日本国が
再度「唐・新羅」に反抗し、朝鮮半島に攻めてくることができなくなるような占領政策
をとったはずである。水軍を壊滅させ、九州の軍事基地を壊滅させ、九州から政治的中
心を追い出すという政策をとったはずである。中国は決して甘い国ではない、断固とし
た政策をとる国である。それなのに、一時的な九州占領で済んだということは本当に神
風が吹いたのかもしれない。
天智天皇、天武天皇が恐れた最悪のシナリオは、「唐が、唐・新羅連合軍と戦った九
州倭国に命じて、近畿にある大和政権を攻めさせ、日本人同士を殺し合わさせ、その後
ゆっくりと日本列島全体を占領支配する」というものであった。そうなる可能性も多分
にあったと思われるが、そうなっていたら日本の歴史はまったく変わっていたと思われ
る。
5,天武天皇の対唐・新羅対策(663~671年)
天武天皇は「白村江の戦い」に敗れ、筑紫を割譲する。それを教訓にして、その後は
常に唐・新羅の侵攻に備えている。
・663年8月 「白村江の戦い」で敗北
・664年5月 唐は筑紫の割譲を要求
・665年11月 唐は筑紫都督府を設置
天武天皇は難波(大阪)に移る
・667年3月 天智天皇は近江へ遷都
・667年10月 唐は筑紫都督府を廃止
・667年11月 天武天皇は大和に入る。金田城(対馬)・屋島城(高松)・高安城(大
阪)を築く。
・668年7月 筑紫率を任命
・669年 水城を築造
・670年2月 大野城・基肄城(肥前)の築造
・671年11月 唐は筑紫都督府の再設置を要求。天武天皇は拒否。
唐は必ず攻めて来るであろう。まず、九州を占領し、次に九州を基地として瀬戸内海
に進み、最後に大和に攻め入るであろう。天武天皇は「唐・新羅の侵攻」に備える。
しかも、天武天皇は唐や新羅の使いを大和へは一人も入れていない。大和へのルート
やその地形を知られるのを恐れていたからである。
天武天皇のこれらの防備網が唐に日本の征伐を諦めさせた。天武天皇の功績であり、
天智天皇ではない。天武天皇は日本を救った天皇であり、日本の歴史は天武天皇の功績
をもっと評価すべきである。 6,「白村江の戦い」から「壬申の乱」までの政治的背景
①物部系豪族は政治権力から排斥されていた。その物部氏(昔氏)は、新羅・唐に内通
することによって、一気に倭国革命に持ち込み百済系豪族の排除をはかり、一族の復
権をはかった。
②百済系辰王朝傍流の天智は唐の支配下に入った九州を見限り、近江に臨時政権を建て
るほかはなかった。
③唐の軍政官・郭務倧の帰国を見届けた天武は新羅勢力の支援を受けて、この天智勢力
の一掃を図ったのが「壬申の乱」であった。壬申の乱に大勝した天武は唐の動向を考
え、近畿の物部氏に招かれて、大和朝廷を飛鳥浄御原に営む。
④天武の死後、持統と藤原不比等は天武の意思をないがしろにして、天智体制の復活を
はかった。百済派による新羅派に対する最後的勝利であった。そして、藤原体制の下
で出雲系、蘇我系、物部系豪族は徹底的に排除されたのである。
7,天武の天智に対する怒り
東アジア、朝鮮半島の政治情勢は、「唐・新羅連合」対「高句麗・百済・倭国連合」
の戦いであり、唐・新羅連合の完勝に終わった。そして、敗戦国である百済・高句麗は
国として滅亡することになったのに、同じ敗戦国・日本だけが国として存続しえたのは
なぜかという大きな疑問が残る。
天智の最大の業績は倭国から日本へ日本列島を代表する政権を移したことにある。し
かし、その天智が「白村江の戦い」においてなしたことは、斉明天皇の喪に服すること
を大義名分に兵を百済に送らなかったことで結果として唐・新羅連合軍を助けたことで
ある。これを、唐は天智を同盟者とみなしていたが、天武は天智の裏切りと見たのでは
ないかと思われる。
「白村江の戦い」の後、九州倭国と関東毛野国は歴史の表舞台から完全に姿を消すこ
とになった。
8,なぜ亡国の危険を冒してまで百済救援のために出兵したのか
①百済が祖先の国だったからかもしれない。
②唐の勢力が半島を覆い、対馬海峡のすぐそばに来ることを恐れたのかもしれない。
③唐・新羅連合軍が日本列島に遠征してくることを恐れたのかもしれない。 すなわち、当時の唐の勢力圏は中国史上最大のものであり、諸民族を征服しており、
唐の脅威は強いものであった。
9,朝鮮人に対する日本人の差別感の遠因
当時、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国が対立する状況にあった。そこに唐とい
う大国が朝鮮半島に進出しようとしていた。高句麗と百済は唐に対して服属しないとい
う態度をとった。新羅は唐の助けを借りて高句麗・百済を滅ぼし、そして百済や高句麗
の残党を援助して唐の占領軍を追い出し、その後残党を根絶やしにして朝鮮を統一し
た。
祖先の国、文化を伝えてくれた国を滅ぼした新羅に対して日本は友好を結べなかっ
た。滅ばされた百済・高句麗から日本列島へ逃れてきた人々も新羅に対して憎しみを持
ち続けことであろう。この新羅の政策が、朝鮮人に対する日本人の差別感の遠因になっ
ていると思われる。
(17)壬申の乱と天智天皇・天武天皇(672年)
1,「白村江の戦い」以後の筑紫
①663年:白村江の戦いで天武天皇は敗北する。筑紫を唐に割譲する。
②665年:唐は筑紫都督府を設置する。天武天皇は難波(大阪)に移る。
③667年2月:斉明天皇は大和の飛鳥で死去する。
④667年3月:天智天皇は即位すると直ちに近江へ移る。天武天皇から大和を明け渡す
ように要求されていたのであろう。天智天皇は近江の大津に都を定めると天子とな
り、「中元」年号を建てる。「天武王権」からの独立である。「天智王権」の再興であ
る。日本列島に「二つの王権」が併存することになる。「天武王権」と「天智王権」
である。
⑤667年10月:唐は筑紫都督府を廃止する。筑紫は天武王権の領土に復帰する。
⑥667年11月:天武天皇は難波から大和に入る。
⑦668年7月 :天武天皇は「筑紫率」を任命する。唐・新羅の侵攻に備えるため。
⑧669年 : 水城を築造する。
⑨670年2月 :大野城・基肄城を築造する。
⑩671年12月:天智天皇が崩御する。皇太子の大友皇子は直ちに即位して天子となり、
「果安」年号を建てる。
⑪672年6月 :「壬申の乱」
、天武天皇は天智王権を討ち、日本列島を統一する。
2,壬申の乱の真相
壬申の乱は天武天皇と大友皇子が天皇位を争った事件であるが、真相はそうではな
い。天武天皇は周到な計画を立てて近江朝(天智王権)を討っている。その理由は、日
本列島に二つの王権が存在しているからであり、二つの王権が天子をたて、年号を建て
ている。それが天武天皇にとって不満であり、「天に双つの日無し。国に二王無し」と
考えていたので、日本列島を統一する機会を狙っていた。
壬申の乱は天下統一のために天武天皇が天智王権を討った覇権争いの戦いであり、こ
れが壬申の乱の真相である。
(18)倭国の終焉と日本建国(701年)
〈倭国の建国は西暦80年。
701年文武天皇が大宝律令を発布し、倭国は正式に消滅し、日本国が建国された〉
1,天武天皇から持統天皇へ
天武天皇は「大倭国」の夢の実現を見ることなく、686年に病没した。すなわち、唐
と対等となろうとした倭国の「大倭(やまと)」の精神を継ごうとした天武の意思。し
かし、天武崩御後、称制をとり690年に即位した持統天皇は天武天皇の路線を継がず、
むしろ父・天智天皇の親唐路線で大和の「日本」中心新国家構想を推進した。天智天皇
にその路線を助言したのが藤原鎌足であり、持統天皇に助言したのが鎌足の息子・藤原
不比等である。この親子二代の構想と行動がその後の日本の歴史を作っていった。
2,天武天皇の古事記編纂の意図
①天武天皇の思い
倭国の真の歴史が闇の中に葬り去られようとしている。
日本国民は元々、「倭国」という国名を悪(にく)み、「卑弥呼」という、中国から勝
手につけられた「卑字」を憎んだ。国名は自分達の意思で決めたい、というのが国民の
悲願であった。国力がついてきた今こそ、日本国と天皇を自称し、中国名は徹底的に消
去しようと、国民の心がひとつにまとまった。そういう経緯があって、「倭国」の存在
を抹殺消去し、元々、倭国が本州大和にあり、名前は元々「日本国」であったかの如
く、歴史書はまとめられていくよう、大方針が決定された。
それで、天武天皇としては、せめて、残る古事記・日本書紀の中に、九州倭国の影を
留めた形で作り上げておきたいものだ、また。歌の形でも残しておきたいものだ、そう
すれば後世誰かが真の歴史を読み解いてくれるかも知れぬ、と考えられたのであろう。
②持統天皇の役割
そして持統天皇の役割は次のように推察される。持統天皇は、謚(おくりな)をご自
分で遺言されたのではないかと考えられる。持統とは、「継体・持統」で対語であり、
「皇統を維持する」という意味である。つまり、「日本国」になっても、「倭国」の皇統
を維持するという意味である。持統天皇は、天武天皇亡き後、皇子を助けて政務を見な
がら、暗誦していた「帝紀」「旧辞」を柿本人麻呂に書き取らせたのである。それをも
とに古事記・日本書紀が作成されたと考えられる。
③古事記の編纂意図
古事記には、神代に神武天皇が筑紫日向から東征し、大和州(本州)を征服し、それ
以降代々、天皇が統治してきたかのように記述されている。
ところが、真実は、「筑紫・豊王朝」の物語を近畿大和での物語として記述されてい
るのである。筑紫・豊王朝の帝紀・旧辞(ホツマツタエ=秀真伝)を書き換えて古事記
としている。
古事記・日本書紀ができてから、それまで不安定であった日本の天皇制が安定した。
天皇は万世一系であり、犯すべからざる存在であるという不動の地位はこの時始めて確
立されたのである。
3,日本国の誕生の理由
①七世紀後半の中国・朝鮮半島の情勢の中で、日本列島をまとめるためには、倭人の歴
史ではなく、北東アジア系渡来人の歴史でもない、まったく新しい「新生日本」の
「日本人」の歴史を構築する必要があった。
②白村江の戦いで敗れた倭国のマイナスイメージを、「倭人」の歴史ではない、新しい
「日本人」の歴史を構築することで払拭することができると、考えた。
③新しい「日本人」になることで、天皇は万世一系を、北東アジア系渡来人は日本人と
しての地位を確保することができる、というお互いの利害が一致した。
④日本人は倭人かと問われれば「否」である。したがって、日本国は倭国が改名したも
のかと問われれば、これも「否」である。単純に倭国が日本国になったのではない。
日本と改名したのは「旧唐書」の日本国の地形・地理からみれば、間違いなく畿内の
「倭国(やまとのくに)」である。「倭国」は三世紀中半以降の北東アジア系渡来人の
流入により、倭人の国から徐々に北東アジア系渡来人の国に変化していき、七世紀後
半には「倭国」である意味をもたなくなっていた。さらに白村江での倭国(九州)の
敗戦は、畿内の「倭国(やまとのくに)」にとっても非常に大きな事件となった。「倭
国」を国名としていることにまったくメリットはなくなってしまったのである。「倭
国」の「日本国」への改名は、これらのことが大きなウェイトを占めていたのではな
いかと思われる。
4,日本国と日本人の誕生
日本人は北東アジア系渡来人が多くを占めるが、縄文人と倭人と北東アジア系渡来人
との混血である。縄文時代は縄文人の時代であり、弥生時代は倭人の時代であった。そ
して弥生時代から入ってきていた北東アジア系渡来人が、古墳時代に入るとさらに増え
はじめ、日本列島は北東アジア系渡来人が多数を占めるようになる。それぞれの時代に
生きた人たちの子孫と、お互いに混血した人たちと、日本列島の人たちは多くの段階に
ある混血人の集まりとなった。これらの人たちが、七世紀後半の中国・朝鮮半島の情勢
の中で、一つの国の民としてまとまるにはどうしたらよいのか。七世紀、畿内はすでに
倭人の国では済まない状況になっていた。その答えは、「日本」という新しい国の「日
本人」になることであった。
彼らはその時、縄文人でもなければ、倭人でもない、北東アジア系渡来人でもなく、
「日本人」となったのである。
5,倭国は海峡国家に終わる
朝鮮半島の高天原系倭人が海原系倭人を列島に追いやって、海峡にまたがる倭国を
造った。倭国は海峡国家として始まった。倭国王自ら征戦を繰り返し、半島に、列島に
拡大していく。5世紀以降は、列島経略は倭国大和に任せ、倭国本体はもっぱら半島経
営に注力していく。しかし、新羅の半島統一と共に、倭国は半島の権益を失っていっ
た。
倭国は「海峡国家」から「列島国家」へ変身することもできただろうが、半島にこだ
わり続け、白村江の戦いに破れ、大和を筆頭とする列島の倭国諸国を残して滅亡した。
なぜそこまで半島にこだわったのか? その理由として従来、半島の権益や百済王家と
の血脈などが重視されてきた。諸外国と戦い、国際感覚を磨くうちに、列島内陸部の祭
祀的精神に距離感をもったことや、大和と役割を分担するうちに、列島への直接的影響
力を失っていったことも半島にこだわる理由になったのだろう。しかし、倭国の出発点
が半島にまたがる倭人の海峡国家だったこと、特に倭国の原点が半島であったことも、
もっと重視すべきであろう。現在の我々はそれを失い、理解できないでいるが、倭国に
とって半島は父祖の地であり、深い望郷の念や祖先への絶ち難い思いがあった、と推測
される。
もう一つは、「倭は(呉の)太伯の後」という伝承が呪文のように南朝傾倒・北朝
(隋・唐)忌避として働いたのかもしれないが、今となっては分からない。
6,「倭国の終焉と日本建国」のまとめ
唐の傀儡倭国は駐留していた唐軍の撤退と共に消滅し、天武天皇の「大和日本と九州
の倭国の統合」という「大倭国構想」も天武天皇の崩御と共に消えた。持統天皇が天智
天皇の「親唐日本国構想」を復活させて、文武天皇が実行した。唐と対等に外交しよう
とする 国・大倭の精神は封印され、日本建国は唐への「朝貢」遣唐使で完了した。
遣唐使に対して唐は「日本国と倭国は別の国」と認定し「日本国は倭国の正当な継承
者」とは認めなかった。それに従って「日本国の国史、日本紀(後に日本書紀)は「別
の国である倭国」についての事績は記述しない方針を採用した。公式には「日本国は高
天原から直接天降りした皇孫ニニギの子孫神武が大和に建国した」として「滅亡した地
上の九州倭国から分国したのではない」とする一方、国内向けには「やまと」に「倭
(やまと)」「大倭(やまと)」「日本(やまと)」と振り仮名して「
『倭国』から『日本』
への継承」を印象づけた。
倭国と大和は政事的に対抗することはあっても対立までは到らず、むしろ政・祭を分
担してきた。倭国の自滅によって大和は祭事朝廷色を色濃く残したままの日本国を建国
し、今日に至っている。
7,東アジアおける日本の役割 戦乱・異常気象で中国大陸と朝鮮半島の安全が脅かされると安全を求めて多くの部族
が日本列島に渡来して来た。渡来人は日本列島に大きな影響与え、その下で日本の国作
りが進んできた。特に、中国のすべての分野にわたる影響はあまりにも多大であった。
「白村江の戦い」の後に、中国の影響から脱することを強く望んだ天武天皇の政策はあ
る面ではとても危険であった。天智天皇のように、中国・朝鮮(百済・新羅)との関係
を続けながらの国作りの方が現実的であり安全であったかもしれない。
海峡国家として、また大陸から海を隔てた列島国家として、果たしてきた古代日本の
役割を詳述してきた。ひるがえって、現在の日本は東アジアでどのような役割を果たす
べきであろうか。日本国、日本人とは何であろうか。それを考えるあたり、日本古代史
は重要な視点を与えているように思われる。またいつの時代でも中国の存在は朝鮮半島
と日本列島に多大な影響を与えており、中国とどのように付き合うかは重大な問題であ
るということが痛感させられる。
(19)小論を書き終えての感想
1,縄文の神はどこへ
縄文人が住んでいた所へ出雲族が入ってきたとき、出雲族は融和的であった。縄文人
の神も取り入れ、後にその神々は国津神と呼ばれるようになった。
その後、天族(アマテラス族)、卑弥族、その他の渡来人の集団が進出してきたが彼
らは支配的な部族であったようだ。自分らの神を天津神とし、国津神より優位に置い
た。日本の神の世界は国津神(縄文人の神、出雲族の神)
、天津神の三層構造であるが、
縄文の神はアラハバキ、佐斐神、瀬織津姫など少数の神しか知られていない。
日本は縄文時代の精霊信仰、弥生時代の穀霊信仰、古墳時代の首長霊信仰・祖霊信
仰、飛鳥時代以降の天皇信仰と変化を遂げてきた。日本人の信仰の原点である精霊信仰
と「八百万の神」とは何かを深く考え、それらを感じるようにならなければならない。
2,天皇、天皇制、藤原一族とは何か
これらのことを充分には解明できなかった。この問いは「日本とは、日本人とは何
か」という問いと同じものであると思われる。
3,日本古代史は謎の世界です
記紀の神話は荒唐無稽の話ではないのだが、史実を意図的に改変しているらしいの
で、どのように解釈すべきかとてもむつかしいと言われています。では考古学的資料は
どうかというと、決定的に重要な天皇・皇族関係の古墳は宮内庁管理になっており、発
掘調査は許されていません。それで、日本古代史の調査・研究は行き詰まっているよう
です。そのようなことが原因してか、日本古代史に関しては本当によい本は少ないよう
です。
また、大学などに所属する研究者・学者の著作もたくさん調査しましたが、あまり納
得できず、専門家には無視されている「邪馬台国九州説と九州王朝説」が私にはぴった
りきました。私が福岡県北九州市で生まれ育ったことが影響してるかもしれません。
この小論をまとめるにあたって、本当に苦労しました。それでも、自分なりに「ス
トーリーがある日本古代史」をまとめることができたと思っています。
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