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ジョルジョ・アガンベン『開かれ――人間・動物――』 読書会(3) 平成27
ジョルジョ・アガンベン『開かれ――人間・動物――』 読書会(3) 平成27年1月7日 井上 第9章 人間学機械 1899 ヘッケル 『世界の謎』を刊行、科学的進歩主義のバイブルとなった 『世界の謎』における問題中の問題 → 人間の起源 人間の起源についてのヘッケル見解 「人間は猿の子孫」 (ハクスレイ、ダーウィン)という命題の 比較解剖学と古生物学による進化の再構成 ヘッケル 『人類発生学』 (1874) 猿人の仮定 類人猿(人猿) → 猿人 → 言葉をもたない原人(ピテカトロプス・アルラス) 1891 ピテカントロプス・エレクトゥス 人類 猿人、言葉をもたない原人の内包するアポリア 比較解剖学や古生物学に採掘資料を強調したが、それらは言語という要素を滅法した残余の、 あらかじめ前提とされた人間の表徴による証明であった。 言語と同一化することによって、話す人間は、自己固有の沈黙を自己の埒外に置いた シュタインタールによる「言語をもたない人間」 (ヘッケル)に対する批判 人類の前言語的段階の提唱 前言語的段階 → 知覚のみによって営まれていた人間の段階 動物の知覚的生と人間の知覚的生との比較 結論 → 言語は人間の知覚的生から生起し、動物の知覚的生からではない この結論の内包するアポリア 人間と動物の知覚的生という精神段階を比較し、人間の知覚的生における力の過剰が言語を生 み出した、とした。 しかし、言語をもたない人間、人間の知覚的生、という人間段階は一つの虚構である。 言語を通して動物性が人間性に進化したのが人間であるという根拠を動物と人間を比較するこ とによって証明しようとした しかし、言語をもたない人間(人間的知覚)は既に人間である。 アポリア → 言語は歴史的産物、故に、言語は動物にも人間にもあてがうことは出来ない この証明は、言語という要素の滅法による証明であった。 滅法による証明は2つの断絶を生む 人間の動物化 → 言葉を話さない人間 動物の人間化 → 人猿(言葉を話そうとする動物) 何故、人間だけが言語を生み出し、動物は生みださなかったのか」 という問いの内包する矛盾 → 人間の起源と言語の起源を同一である、とした。 最初に人間(言葉を話す)を措定し(神の創造) 、次に、人間に言葉を生みださせた シュタインタールの矛盾=人間学機械の内包する矛盾 人間学機械 p59 人間学機械 → 人間対動物、人間対非人間、という対立項を介した人間の産出(定義) 人間学機械の矛盾 → 排除と包摂によって機能する 人間学機械はあらかじめ人間を前提とする、一種の例外状態である。 近代の人間学機械 外部が内部の排除 → 外部=動物 言語をもたない人間 脳死、臓器提供者 古代の人間学機械 内部が外部の包摂 → 動物の人間化、人間の姿をした動物の形象 (奴隷、野蛮人) 古代と近代の人間学機械が機能する条件 → 中心に未確定領域を設けること 未確定領域においては人間と動物、人間と非人間の間に分節化が生じる 未確定領域とは空洞であり、そこに生じてしかるべきである真に人間的なものとは、絶えず最 新のものと更新される決定の場である。 未確定領域において獲得されるべきものは、動物的な生でも人間的な生でもなく、自己自身か ら分断され排除された生、― 剥き出しの生(人間と人間ならざるもの) ― だけである。 第10章 環境世界 ユクスキュルの動物環境調査について p62 生命科学における人間中心主義的視点の呵責なき放棄 自然のイメージの根本的な脱人間化 古典的(生物)科学 → 全生物の単一のヒエラルキー的配列、単一世界 ↓ ユクスキュル → 生物世界とは無限の多様性を持つ数々の知覚世界 巨大な楽譜のように、相互に結合しているが、交流のない排他的世界 微小生物(ウニ、アメーバ、クラゲ)の環境の再構成 環境と微小生物との機能的一致 全ての生物がある単一の世界に位置づけられるという考えは幻想 特定の動物主体が環境の中の事物と保っている諸関係は、人間が諸対象と同じ時間と空間の中 で生じている、という考えは幻想である。 生物は同一の時間、空間を共有してはいない 環境、環境世界 p65 環境 → 客観的空間、環境は人間に固有の環境世界である 環境世界 → 一連の大小の豊かな諸要素によって構成される空間 要素=意味の担い手、知覚標識の担い手(動物の関心を惹く唯一のもの) 環境世界は観察する視点の取り方によって変化しうるもの、客観的に規定出来るもの ではない 動物観察の研究者の第一の課題 → 動物の環境を構成している意味の担い手を見極めること 外部に在る意味の担い手と、動物の体内における受容とは、同じ楽譜の2つの要素、鍵盤上の 2つの音符を構成するもの。この鍵盤上で自然は、時間と空間を超越した意味作用の交響楽 を演奏する。この意味作用によって、始めて異質な2つの要素が密接に結びつく。 例:クモとハエという2つの知覚世界には全く交流がないが、両者は完全に調和している。 クモはハエの大きさを知らないが、ハエの大きさに合わせて、ネットを張る。 ユクスキュルの原理 「いかなる動物も物自体と関わり合うことは出来ない」のであり、関わり合うことのできる のはただ、動物固有の意味の担い手とでしかない。 第11章 ダニ ユクスキュルのダニの研究 ダニの環境世界は3つの意味の担い手、標識の担い手に還元される ① 哺乳類の汗に含まれる酪酸の匂い ② 哺乳類の血液と同じ37度の温度 ③ 体毛と毛細血管に覆われている哺乳類特有の体皮 ダニはこれらの担い手との関係そのもの、 ダニが生きるのはこの関係の中であり、この関係を介してである。 ダニの逸話 餌もない研究室で、18 年間1匹のダニが生き続けた。 18 年間、生殖(死)を待っている時間、ダニは一種の冬眠状態にあった(しかし、酪酸の刺激が あれば、ダニは直ちに反応する) ヤクスキュルの帰結 生きる主体を抜きにして時間は存在しない(待機中は時間が停止し、刺激に反応する時、再び 時間は動き出す) 環境との関係の中にいたダニが、環境が絶対的に欠如した状態で、如何に生き延びたのか、時 間もなく世界もなく待つとはどういう意味か。 第12章 世界の窮乏 ハイデガー『形而上学の根本概念――世界・有限性・孤独――』 (1,929-30 年冬学期講義、1983 年刊行)の課題 → 動物=世界の窮乏と人間=世界形成との関係を通して、現存在の根本構造を動物に対して位 置づけること、これによって、人間の登場と共に生物に現れる開示の根源と意味を探求すること ハイデガーの出発点、拒否したもの → 人間は理性的動物、という命題 只生きているもの(生物)に何かが付け加えられる(理性)事で人間存在が規定され得る、と いう考えの拒否 『存在と時間』における主張 生物学は現存在の存在論の中に基礎を持つ 生命の存在論は、一種の欠如的解釈を通じて遂行される 「ただ生きていだけ」ということがあり得るためには、何が必要か) 『形而上学の根本概念』の主題的問題 動物と人間の間の前提と指示、剥奪と追加という形而上学的ゲーム 生物学との対決(『存在と時間』では数行で片づけられたもの) → 動物と人間との間に開示される深淵=動物性、人間性という捉え難い不在のもの 『形而上学の根本概念』の叙述を導く3つのテーゼ ① 石には世界がない ② 動物は世界が窮乏している ③ 人間は世界を形成する ①について → 無生物はそれを取り巻く物に接近するあらゆる可能性を欠いている ②の究明 → 同時代の生物学、動物学の研究(ドリーシュ、ベーア、ミュラー、特にユクスキ ュル)に方に方向づけられている ハイデガーとユクスキュルとの対照 ユクスキュル → 環境世界、意味の担い手、抑止解除圏、 ハイデガー → 抑止解除するもの 作用器官 出来ること、可能存在 ユクスキュル → 動物は動物の知覚世界を規定するわずかな要素に閉ざされている ハイデガー → 動物は他のものに関わり合うとしても、可能存在を奮い立たせるものにし か出会うことができない 動物とその抑止解除との関係を解釈し、この関係の存在様態を探求しようとする時、ハイデガ ーは(動物と人間との違いという)自らのモデルから逸脱し、「世界の窮乏」と人間世界とを同 時併行して把握しようとする。 放心(とらわれ)の分析 放心 → 動物に固有の存在様態(動物と抑止解除するものとの関係) 動物は放心して抑止を解除するから、抑止解除するものに対して、真の意味で行為したり、行 動したりできず、只振舞うことができるだけである。 動物は環境の中で振舞うことができるが、世界の中で振舞うことは出来ない 放心は世界に開かれていない 例:ミツバチ ① 蜜をいっぱい満たしたグラスの前にミツバチを置き、蜜を吸わせる ② ミツバチの腹部を切ると、腹から蜜が漏れる ③ 腹部を切られて蜜が漏れても、ミツバチは蜜を吸い続ける 蜜を吸い続けるミツバチは、蜜がたくさんあること、腹部を切られていることに気づかない。 ミツバチは単に餌に気をとられている。このため、動物は餌に対峙することができない 動物には何かを何かとして知覚する可能性が剥奪されている。故に、動物は知覚することでは なく、本能的な振る舞いだけがある。知覚することが剥奪されているので、放心する。 放心とは何か ① 知覚することの一切が、本能的に剥奪されていること ② ~に夢中になること ③ あるものを自己に関係づけることが剥奪されていること 動物が放心状態の中で自己に関係づけているものに特有の存在論的ステータス 動物は存在者への露顕性の内にいない、露顕性の可能性の外にある 動物の環境も動物自体も、存在者として露わになっていない しかし、動物は ~ に関係し、ある関係性を持っている、という難問が生じる → 関わり合うことの不可能性とは、謂わば、開示の一形式、露顕なき開示である 振舞とは無との関係でも存在者の関係でもないが、 何かに関係している (関係するものがある) 振舞に関係づけられるものは動物にとってある種の仕方で開かれているが、それは存在者とし て露顕しているのではない 動物の環境の存在論的なステータスの定義 動物にとって存在者は開かれているが、露顕していない。存在者は開かれているが、近づく ことができない 動物にとって存在者は、接近不可能性と不透明性の内に、非関係性の内に開かれている 動物における世界の窮乏とは、露顕なき開示である 動物が抑止解除するものに心を奪われることは関わりを持たないが、 ~ に対して開かれている 関わりを持たないことは、開かれた存在を前提としている。 放心に開かれた存在とは動物の本質的な所有である。この所有は世界を持つことではないが、 抑止解除圏にとらわれると言うことは、抑止解除するものを所有することである。 しかし、抑止解除するものが存在者として露顕するという可能性が剥奪されている。 第13章 開かれ 課題 → 開かれを存在と世界の名の下に定義すること リルケ、 「ドゥイノの悲歌 第8歌」における「開かれ」 生き物(被造物)は開かれた世界を見ている。人間だけが反対の方向を見ている ハイデガー → 人間と生き物のヒエラルキー的関係の転倒(革命) 哲学が真理として思考してきたものの名において「開かれ」を考察すると、リルケとは反対 になる リルケの開かれは、ヴェールを剥ぎ取られたもの(真理、アレーテイア)という開かれでは ない。リルケもニーチェも真理について何も知らない 19 世紀の生物学主義や精神分析学の根柢にあるものは、完全な存在の忘却であり、この結果 が途方もない動物の人間化、人間の動物化である 動物は露顕と隠蔽が衝突する本質的な領域から締め出されている。この本質的な締め出しの 徴が言葉を持たないことである。 再度、動物の領域と人間世界との差異についての考察 動物の特徴的な活動=運動能力 運動能力に准じて、生物は刺激される 刺激によって興奮性に満ちた領域で自らを現す 興奮を土台として生物は、運動の領域に何か他なるものを挿入する ↓ しかし、運動能力も興奮性も、動物を自由な存在にはしない 動物は外的な何かに依存して(へばりついて)おり、外部も内部も見ていない つまり、存在の自由へと自らが露顕されたあり様を見てはいない リルケの詩、ビバリについて p90 人間は理性的動物である、という尺度で動物は非理性的動物、とされる。この定義には生き 物の秘密が顧慮されない → 生物は化学対象か、心理学の対象として取り扱われる 生物と人間との本質的な境界が経験されることも守られることもない。この結果、限界も根 拠もない生物の人間化が行われ、生物を人間以上のもの、動物を超人化にしてしまう。 ↓ 再度、人間と動物の境界の定義(『形而上学の根本概念』に戻る) 動物は抑止解除の中で放心するが、存在者を暴露しない。動物は非暴露性へと開かれている ここで、ハイデガーは2つの対極の間で揺れ動く 放心状態 ←――――→ 強烈で魅惑的な一つの開かれ 肯定神学 合理的認識の光耀 抑止解除するものの非暴露性 不透明性 否定神学 神秘主義の隠秘と暗闇 両者の神秘的合一を表す蛾による放心の説明 蛾は、焔に引き寄せられ身を焦がすが、このことに頑迷に気付かず、炎に近づく 動物学者の説明 → 蛾が焔に盲目になるのは焔が抑止解除源であるから 動物の放心、世界の窮乏は『形而上学の根本概念』において、豊かさへと転倒する 動物の世界の窮乏性は、粗雑な言い方をすれば、貧乏ではなく豊富である この問題の困難さは、動物の窮乏と抑止解除の輪を解釈するのに、動物に関連する事柄を一 つの存在者であるかの様に問題を想定し、また、動物が自分を関連させるさせ方は動物にとっ て露顕的であるかのように解釈せざるを得ない(人間と同じように解釈せざるを得ない)とい う点にある。 しかし、このような解釈が不可である以上、生物の生の本質は破壊的考察(消去方式の考察) という形式によってのみ近づき得る、というテーゼに帰着する。 このテーゼは動物の生には価値がない、人間より低いということではない。動物の生は人間 世界ではまったく認識されない開かれた存在に満ちた領域なのである。 テーゼの再提出 動物の世界の窮乏が豊かさに転じ、動物環境と人間世界が根源的な異質性によって二分され て出現してくるかと思われる、その時、ハイデガーはテーゼの再提出を行う 動物は抑止解除するものに対して開かれているとともに、放心の内で本質的になるものへと 放出されている。 抑止解除するものは露顕的ではないが、しかし、抑止解除とするものは抑止解除するものと して、そこに含まれている抑止解除の変容の全てを伴って、一種の本質的な震撼(衝撃)を動 物の本質の中へと持ち込むのである。 この衝撃は人間と動物、開示と非開示に刻まれた距離を縮める。放心は人間本質を際立たせ る恰好の背景となる。 ↓ 世界の窮乏が動物環境と開かれ(人間世界)との間に一つの突破口を保証する戦略的な機能 を担うことになる。 ↓ ここで、ハイデガーは、動物の放心と人間の深き倦怠とを共鳴させる 動物性の本質である放心は深き倦怠の特徴的要素と極度の近似性を帯びている。両者には深 い深淵があるが。 人間世界の理解が可能になるのは、この動物の放心と酷似したもの、深き倦怠を経験するこ とである。 その方法は人間から出発して、破壊的考察(消去方法)によって動物に辿りつくのではない。 動物世界に対して行使される一つの操作、抑止解除するものに対する動物の開かれがほんの 束の間だけ踵を接し合う倦怠、これを操作の場とすることである。