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過去の国有化: 中国史の中の韓国

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過去の国有化: 中国史の中の韓国
過去の国有化: 中国史の中の韓国
Alisa Jones(漢陽大学)
Ⅰ.序論: 高句麗の紛争
最近数年間、日本の高位政治家と軍の将官及び教科書が、日本が過去の戦時状況で犯
した蛮行を糊塗しようとする方法をめぐり、強く抗議する韓国と中国、東南アジアの一
部に対し、海外の言論で幅広く報道した事がある。広く報道されなかったが、他アジア
の国家間にも歴史的な紛争の事例があった。最近、日本は戦争の当事者ではなかったと
いう、このような歴史の葛藤の代表的な事例は古代国家の高句麗(とこれを継承した渤
海)の 「国家性」に対する否認を挙げられるが、高句麗は中国国家の分裂時代に中国領
土の一部を支配した少数民族の政権であったという中華人民共和国(以下中国とする)の
主張がその中心にあった。このような主張は韓国人の強い反論を呼んだが、韓国人は 1
千年前に高麗の史家が三国史記と三国遺事を著述して以来、韓国史の一部となった特有
の「三国時代」を形成した独立した三国の一員として高句麗を捉えている。韓国人に
とってこのような歴史が他人の「所有」となりえることは想像もつかないことであり、
中国の主張は 「盗難」を構成する。彼らは中国が堂々と歴史を侵犯し韓国人が適法に
韓国のものであると信じていることを強奪していると非難する。中国は一時期高句麗が
支配した領土は大半が現在の満州とPRC国境に位置しているため、高句麗の歴史は中国
史の一部であると反論している。
言及する必要もないが、昨今の紛争は他の歴史争点と同様に過去だけでなく、現在と
も深い関係があり、政治と領土、アイデンティティ等、現在の問題とも関係している。
朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮とする)で、古代高句麗の王国は国家のアイデン
ティティと政治的正当性が構築された歴史的な土台である為、独立的で事大主義 1 を避
け、唐だけでなく朝鮮半島の南に位置する新羅との戦闘を通じ、漢民族の純粋性と安慰
を守った現政権の祖先として描写している。しかし、国際的に孤立した状況で中国の政
治的、経済的な支援に過度に依存している北朝鮮の歴史学者は、中国の主張に対し、ほ
1 この用語は古代韓国語が中国を追従した両国の属国関係である『事大』から派生した。
-1-
しかし、これはアイデンティティ政治の問題だけではない。たとえ言葉では表現され
てなかったものの、歴史自体の「正確性」に対する怒りの底には高句麗の歴史に対する
中国の突然の主張は高句麗の領土全体に対する失地回復型の主張につながりかねないと
いう明らかな懸念がある。北朝鮮が崩壊し中国が介入すれば、このような歴史的な主張
は朝鮮半島の北部の併合の正当化に使われる。以下詳しく述べるが、領土に対するこの
ような歴史的な主張は中国(だけでなく彼らの先祖)がチベットやモンゴル、新疆ウルグ、
その他の少数民族地域の支配を正当化するのにも使われてきた。これを受け、韓国人は
中国の北方プロジェクト(この地域の歴史研究のために政府が後援するプログラム)や
2003 年 12 月の満州地方の高句麗の王陵を中国の世界文化遺産として認めてもらうため
のユネスコへの申請だけでなく、中国の教科書の内容 3 について公開的なデモ行為と正
式な告発等を通じ、激しく非難してきた。
韓国の恐怖は理解できるが、中国の意図は容易く把握できない。高句麗を中国史の一
部として明白に盗用することは比較的最近の事で、以前は中央政府の明らかな政治的な
宣言もなく、現中国の国境の外部に対し、領土を主張したこともなかった。中国が攻撃
的な領土の拡張の野望を抱いているという心証があるだけである。今後、統一韓国が現
地の中国領土内にあり、韓国民族が多数居住している過去の高句麗の領土に対し実権を
主張することを防御的に事前に遮断しているという主張も妥当性がある。実際に韓国で
は 1909 年清国に移譲(日本が韓国「代わり」に)され、現在の中国の延辺朝鮮族の自治
州の一部である間島返還を要求する運動が活発に展開されている。このような状況が発
生すると、中国内の他の少数民族の集団による独立の要求や隣接兄弟国家との統一運動
が触発されることもあり得る。このような展望は中国としては負担となる。「本来の中
国」(東部地域)は相対的に領土が狭く、この地域に富が集中しているものの、長期的に
中国の経済成長を持続させるには人口が少ない少数民族地域の領土と資源が必要である
ためだ。その上、帝国の分裂過程を規定してきた「分裂」と混乱、暴力に対する根深い
恐怖も存在している。また、もうひとつの動機は地域レベルから見出せる。例えば、最
2 この用語は古代韓国語が中国を追従した両国の属国関係である『事大』から派生した。
3 高句麗の王陵の遺産問題はAhn (2006)参照。2004 年から韓国は高句麗問題に対する中国の教科書の『歪
曲された』内容に関して幾度か中国に公式的に主張した。
-2-
近、文化遺産の保存や復元作業の為に地域政府に補助金が交付されている。したがって、
北東部の省地域は高句麗の王陵や遺物などの遺産に対する権利を主張する重大な実益が
あり、保存のための努力と高句麗王陵の世界文化遺産指定は観光を活性化させることが
できる。最後に、地域歴史を研究する史学者と考古学者の利益がある。満州地域の学者
が高句麗に興味を持つのは極めて当然のことである。
高句麗やこの地域に属するその他の古代国家に対する中国の主張を裏付ける主な動因
が国家的な動機によるものであるのか、地域的な動機によるものであるのか判断するこ
とは確固たる結論を導けるほどの経験的な根拠がないため予断できない。その為、この
ような動機の説明や最近の葛藤の説明、高句麗史に対する各国(韓国や中国) 主張の長
所と短所を議論するのは別の場(特に、Byington et al.、 2004; Ahn、 2006 & 2008;
Lankov、 2006 参照)ですでに幅広く取り上げられた為、本稿の目的とはしない。本稿
は今まで高句麗論争の特性を説明する傾向であった政治的な道具主義と民族主義の論争
(韓国と中国)の過程まで議論を拡大し、高句麗に対するアプローチ方法を探る中国の態
度と観点を検討しようと思う。
言及する必要もないが、「中国の態度や観点」は決して均一でも不変のものでもない。
最近の多くの研究を通じ、立証されたように「中国」と「中華思想」は単一であったり、
本質的な実体や概念ではなく、国家のアイデンティティや国家の空間を持続的に再交渉、
再構成する多様かつ競合する論議と集団性から誕生するものである。したがって、中華
民族と他人に対する態度と観点により生まれる民族主義は一般的に漢族/非漢族、主流/
少数、中心/周辺の二分法(と境界)が示唆するもの以上に、かなり複雑であり固定され
ていない。実際に「中国的」なものと同意語の同質的な民族-文化的なカテゴリーに推
定される「漢族」の概念自体も比較的最近の構成体である 4 。 Duaraが説明した如く、
中華民族は多くの「下部民族」の共同体を含めている 5 だけでなく、共同体の「国家」
は「国家により蹂躙されず実際に定義したり構成する」(1995、 p. 10)。 それにもか
かわらず、「常に存在してきた民族-空間」(Duara、 1995、 p. 28)である中華の内容
と時期、方法は時代によって異なるが(国家間の競争を通じたり、当面の政治状況に対
応し) 文明と野蛮、「多数性」と「少数性」、我々-彼ら、国家的なものの限界に対す
る重要な「態度と観点」は特に公式的な歴史の議論で強固に維持されてきたものと思わ
4 例えば Gladney (2004)、 Duara (1995)、 and Hershatter (1996) 参照。
5 ここで「包含」を強調したのは国家の構成要素だけでなく、差異を含め、制限する方法を暗示する為であ
る。
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れる。従って、本稿では高句麗に対する中国の主張が既存の領土の境界を合法化したり、
領土拡張のための主張を提示したり、新しい中国の支配理念として社会主義の腐敗を隠
蔽し、少数民族や分離主義者の挑戦を抑圧するために民衆の民族主義を扇動しようとす
る中国共産党の陰謀が生んだ副産物であるという主張を否定はしないが、現代の高句麗
問題を公式の歴史叙述の伝統の中に置き、この問題の複雑さとこれを実証する過程を照
明したい。
20 世紀の初めに現代の大衆教育制度が始まって以来、歴史教科書で提供される説明は
今まで大半が国家が直間接的に制作及び流布してきた為、公式的な歴史の議論を認証す
る過程を体系的に評価する有用な出所を提供している 6 。 大半の専門史学者は強圧を通
じたり、専門家的或いは理念的革新を通じ、公式的な議論を支持しているが、専門家に
許容された解釈の多元性(熾烈な理念キャンペーン禁止期間)に後押しされ、史学者は時
折、否定的ではあるが国家の正統性に異議を唱えることができた 7 。これに比べ、教科
書は厳しい統制を受け、大半過去に対し国家が承認したり命令する単一の解釈に限られ、
学会の理論及び実証的な研究にかなり遅れをとる傾向がある。従って、清国末期から現
在まで教科課程と教科書の内容分析を通じ、重要な情報として含まれる価値があると判
断された内容と国史や世界史からこのような情報が位置するところ、関連する個人や事
件を陳述する方法を検討し、「中国」と「中国史」と関連し、高句麗と「韓国史」に対
する公式的な観点からはかなりの連続性があったことを証明する。このようなアプロー
チ方法は中国の歴史記述に根深く定着しており、過去、中華民族の目的因を正当化し、
(想像の) 国境周辺で起こる少数人の挑戦を抑圧するため、中華中心の世界秩序は古代
の概念と現代の民族主義及び社会発展の「科学的な法則」を混合した政治的、民族-文
化的過程に起因している。従って、高句麗と朝鮮半島の歴史一般に対するアプローチ方
法は中国民族-国家の確固たる線型的な歴史を建設しようする努力の中で過去と現在の
中国帝国の厳密な周辺部や比喩上の周辺部に対し、人民と国家の歴史を同質化させよう
とする大規模な政治プロジェクトの断片となった。
Ⅱ.清国末期と初期の中国
6 20 世紀中国の教科目に歴史の発展に対する要約は Jones (2005)参照。
7 共和革命当時、歴史記述に対する調査はWang (2001 & 2002)参照。1949 年以降、史的遺物論の伝統の
歴史記述はFeuerwerker (1968) and Harrison (1974)参照。最近の専門史学者は、専門誌の発表を通じ、同
僚間の回覧に研究結果を限定する限り、かなりの自由を享受した。
-4-
「中国」と「韓国」の歴史的な関係(またはこれについて分類された具体的な表現)は中
国式の用語で表現するとよく 「唇と歯」ほど近いという。このような隠喩が暗示する
ように親密な関係は平等な提携ではなかった。中国帝国は二千年もの間、 「本国」で
あった上、朝鮮半島は属国であった。韓国の唇は外敵の侵入に抵抗するだけの力はなく、
侵入者を追いやるために中国の強い歯が必要な場合が幾度もあった。一方、中国の歯は
韓国の唇を本土の安保のために防御すべき緩衝地帯として把握したが(中国のことわざ
に 「唇がなければ歯が沁みる」)、日常的な存在の支配はしなかった。このような歴史
的な不平等が韓国に対する中国の公式の歴史記述にも反映されているのは言及するまで
もない。伝統的な儒教の歴史編纂において、朝鮮半島の国家が中国史に登場するが属国
の慣習と文化に関する補充資料においてのみ言及された。しかし 20 世紀の初めに中華
の世界秩序は欧州の列強と、一時期韓国と共に中国の属国であった日本の侵略により劇
的に崩壊した。新しい世界秩序とこれを正当化する歴史記述は近代性を目的因とし、民
族-国家を唯一合法的に政治組織の単位として理解した。これは一時主に、太古以来存
在してきたものと主張されてきた民族-文化の路線と言語路線によって構成された自然
な集団や有機的な集団として映し出された現民族-国家の観点から過去を再支配する作
業につながった。
民族-国家の新しい世界史は決して非位階的な歴史でなかっただけでなく、人種差別
的な歴史であり、「現代性」を達成した国家(大半は欧州の国家)が頂点に、アジアの
「専制」政権は中間に、アフリカの部族の共同体は末端に位置づけられた。このような
観点は中国の史学者により幅広く採択され、新しい歴史記述と現代の大衆教育がすでに
定着した日本の理論を集中的に借用し教科書にも登場し始めた。実際に清国末期の教科
書は大半が日本教科書を直接翻訳したり、脚色したものである。新設の学校のための歴
史教科過程や教科書は一般的に中国史や「国史」と「外国史」や 「世界史」 等、 2 つ
の過程に分けられた 8 。外国史は引き続き (日本の先例にのっとり清国末期に一時使用
された) 「東洋史」と 「西洋史」に分けられた。
民族-国家(実際または目標)と人種階級の観点から世界を再概念化したことは歴史学
習をする初めから全世界の人々の説明及び映像、彼らの進化状態と共に、児童に人種と
8 伝統的に国史院の史官 が維持してきた王朝の歴史を意味するが、使用してきた国史という用語は廃棄された。しかし、
韓国では国史教科書でこの用語を使用している(北朝鮮は朝鮮歴史を使用する)。
-5-
国境は大半が清国の直間接的な管轄権に属し、海外の帝国列強の支配を受けてなかっ
た地域に決められた。したがって、チベットとモンゴルは中国の領土であると主張され
たが、韓国とベトナム、ミャンマーは除外された。このような事実は歴史にどのように
反映されたのだろうか。 実際に従来の属国(中国の省、独立国、欧州やアジアの植民地
等)の地位は 「開化」(中華-儒教政治文化と社会規範に半開された)されたり 「未開」
(全く開化されなかった)の野蛮人の属国の地位と中華帝国の歴史的な関係に比べ、歴史
叙述で重要に扱われなかったものと思われる。未開の野蛮人(例、匈奴族)は 「国家」
がなかった為に中国の国境を 「脅威」し、度々中国を征服したが、中国(漢族)文明の
優秀性により 「漢族化」されたり「同化」され、中国王朝史の一員となった歴史をの
ぞいては歴史がなかった。これに比べ「文明化された国家」に居住している開化された
野蛮人は、自国の歴史があり弱小ではあるが歴史に空間が割愛されているが、彼らもや
はり大半が中国帝国の本土との関係に対してのみ概念化された。朝鮮半島の場合には、
朝鮮半島の歴史が「中国の歴史」教科書に主に登場するが「外国史」や「東アジア史」
の教科書でも、扱われていることを意味した(Chen、 1905; Huang、 1906; Qian & Dai
、 1905)。しかし、韓国が言及されているところとは関係なく、言及されているテーマ
は禹王が直接、古朝鮮に下賜したものと推定される箕子朝鮮や中国を通じ韓国に伝播さ
れた仏教、高句麗、百済、新羅三国、高句麗に対抗する羅唐連合、新羅と高麗の朝鮮半
-6-
Ⅲ.中国
1910 年代の末と 1920 年代の初めに、コロンビア大学の師範大学において John
Dewey から師事を受けた新文化運動の学者の影響力が教育分野で顕著であった。彼らは、
小中等教育の米国式モデルを追従した日本式のモデルから脱却し、Dewey の教育理論を
土台に、教科書中心主義を排斥するとともに、児童を個人として育成し国家と世界社会
の優秀な構成員として育てるのに、主眼点を置いた教育法を擁護した。授業の目標を略
述し、講義の根拠と教科書に使われる要綱を提供する個別科目の教科過程が始めて発行
された。新設の教科過程である歴史は伝統的な道徳化を排斥し 「環境に適応し、自然
を征服する学生の能力を育成するために時代によって人類の生活が如何に変遷したか」
説明するのに主眼点を置いた。また、「友愛と相互援助の精神を培養するために人類に
対する同情心を引き起こす」 事にも注力した。さらに、「全世界の人類社会の共通の
発展」に対する理解を深めるために、中国史と世界史を統合した(COH、 2001、 p. 14)。
新設された教科過程は事件と思想、現象の因果関係を強調し(COH、 pp. 14-20)、 世界
政治と経済、文化の変化に対する「科学的」 アプローチ方法を目指すためのもので
あった。「科学」に対する新文化運動の先入観に根を置き、理想的に見えたこのような
「近代的」 アプローチ方法は、反帝国主義、愛国主義の情緒を強化した日本の拡張政
策と覇権をめぐり、軍閥間に続いた戦闘の政治現実により半減し、これは中国の初期に
は前衛的な教育の政策が実行される機会がなかったこと意味する。それにもかかわらず、
一部の教育改革家の思想は生き残り、国民党(KMT)が、1927 年に中国を統一したときに、
歴史に関する教育思想に広く統合された。
新設された歴史教科過程は道徳に対する古い偏見が多かったが、伝統的な王朝の興亡
史を超え、時代による社会文化的な変遷の概念に関する議論の包含を試みた。
20 世紀初めに導入された社会進化論の流れを維持するだけでなく、孫文の「三民主
9 ある教科書(Chen、 1910、 ch. 5)では清国に対する降伏も論じられたが、興味深いことに明国が壬辰倭
乱当時、援助を提供したにもかかわらず、恩知らずにも「祖国」を攻撃する事は、「反撃行為」であったと
韓国の抵抗を記述している。(これに対し、明朝を簒奪した清朝は描写されない)。
-7-
朝鮮半島に対しては過去中国の文化拡張のおかげで、幸いにも発展できた受益者であ
り、 近代世界に適応するのに失敗し現在帝国主義と闘争している同族の黄色人種とし
て新しく想像する世界歴史秩序に配列された。特に、朝鮮半島はこのような挑戦に応戦
するのに失敗し、国家の自律性をなくし、日本の植民統治を受け亡命 「政府」は中国
に定着したということである。これを通じ古い位階説話が維持され、これは韓国史を選
択的に説明する方法では従来の教科書と大差がないということを意味している。つまり、
韓国は中国文化と軍事的支援の受益者に過ぎないという事である。古代の高句麗人と渤
海人は明白に中国領土や歴史として主張されないが、漢族に「同化」されたと説明され
た(Zhu、1930、vol.1、ch. 2)。したがって、彼らの国家は初等学校の教科書 の「朝鮮
半島の漢族化」のような章に登場した(Fan、1941、vol. 2、ch. 7) 。本章でこれらは
「周王朝当時、箕子が統治したとき、中国の文化を吸収した」と、説明されている。次
のページでは三国が中国の学問を積極的に追従したと説明されており 「我が国」によ
る朝鮮半島の住民に対する儒教と仏教を「伝播」及び「教える」活動に対する言及が繰
りかえされ、特に「発展した」唐を見習うために、新羅の努力が強調されている。同一
の教科書の次の巻には 1894-1895 年に日中戦争で韓国が再び登場する。日本は明治維新
以降、アジアに「拡張しようとする野望をもった」 と描写されている。日本は 「琉球
-8-
「中国史」と 「世界史」を扱う他の教科書も類似した根拠によるものである。初等
学校の教科書の指導書には唐の「国境の防御」と 「中国民族の偉大性」は唐の太宗の
統治を説明する章で集中的に取り上げられている。この説明によると太宗は「平和を維
持し」、「中央の徳と正義を伝播し、現地人の情緒を正し、国境地域の文化的レベルを
高めるために」広い帝国の領土に支部を設立した(Guoli bianyiguan、 1948、 vol. 2
、 pp. 5-6)。 拡張政策による戦争に対する言及はなく、高句麗は儒教文化の吸収とい
う流れでのみ唯一取り上げられ、百済と新羅は全く言及されなかった。一方、中等学校
の世界史の教科書では 「韓国と日本の発展」というテーマの章で韓国史が多少詳しく
説明されているが、今回も主なテーマは中国との関係である(Bo & Tan、 1948、 vol.
1、 pp. 44-46)。韓国に対する説明で、教科書は朝鮮半島にもともと居住していた民族
は「漢族(韓族)」(中国本土の漢族(漢族)と混同してはならない)と説明されている。周
の初期に王国を建設するために箕子が「家族数千名」を連れて朝鮮半島の北に派遣され
た時、国家が始めて建国された為、彼らは精巧な形態の社会組織がない未開の野蛮で
あったということである。漢の時代には最南端の平城まで朝鮮半島に 4 つの支部が設立
され、「中国の直接支配を受けた」(p.44)。 漢民族が朝鮮半島の南側に自ら国家を建
国した後、「中国の権力と接触」することになった(p.45)。
この章の残りの部分には主に高句麗、百済、新羅の 3 国の建国と彼らが唐に服従する
前に一時、日本の属国となった事実、その後新羅により統一、その後、高麗に没落した
ということ、契丹とモンゴルへの屈服、朝鮮の統一等が簡単に説明されている。説明に
割当てられたページ数が少ない点を勘案すると、このような説明は皮相的なレベルに過
ぎず、この中で 4 分 1 は中国文化が朝鮮半島に与えた影響について述べている。他の教
科書や帝国内陸地域(例えばベトナム)の他の地域に居住した開化された野蛮人に対する
説明と同様に、ここでは主に 3 国時代に伝播された中国文化による有益な効果と仏教と
中国政治制度の輸出が強調されている(P.46)。
Bo and Tan の 1948 年度の教科書 2 巻にも韓国は「日本の国家権力」の節で 日中
関係の中で再登場する。ここで韓国は究極的な目的が中国侵略である日本の拡張政策的
-9-
な 「大陸政策」の一環であると表示している。日本は 「当時、先進帝国列強がすでに
印度亜大陸と東南アジア、オセアニアを分割占領した」 ため 「帝国主義の欲望」を満
足されることができなかった(22 章)。したがって、日本はまず、「琉球の属国を飲みこ
んだ」のち 「韓国を 支配した」 後、1894-1895 年戦争が終わると「台湾と本土を分
離」させ、「韓国に対する宗主権をあきらめさせた。」 日本はこれに満足できず「我
らの北東地域」をめぐり、ロシアと競合を繰り広げ、1904-1905 年に日露戦争の後、自
国の領土よりも2倍以上も大きな満州南部地域に対するロシアの利益を引き継くととも
に韓国を横取りした(p.42)。
第二次世界大戦が終わるまで、中国教科書には日本の韓国占領や韓国の独立運動につ
いて一行も記述されていなかったが、これは部分的に中国に知らされた内容が無かった
上、中国も日本との闘争に没頭していたためであると思われる。しかし中国は自国を非
抑圧民族の革新構成員であるとみなした為、1930 年から共和国の歴史カリキュラムや教
科書に言及されたテーマであった「弱小民族」と「反帝国主義」運動の主体は戦後の時
期に全世界反植民地及び独立運動の発展と共にかなり詳しく記述された。上述した 1948
年の教科書の最後の章にはインドとインドネシア、ベトナム、フィリピン、韓国の独立
運動が取り上げられている。しかし、韓国関連の部分は出版する時期を勘案すると
(1948 年) 問題を詳しく議論せず、主にソ連と米国が対日戦争で得た戦利品の一環とし
て、韓国に入り、36 年間日本の圧制に苦しんだ韓国人を解放したという説明だけがある。
「韓国独立の問題」とは節のタイトルから分かるように韓国が表面上、4 大列強の信託
統治を受けた後、問題は解決されず、実際にはソ連と米国が北と南分離した(Bo & Tan
、 1948、 pp. 135-6)。以下で議論するように、これは共産主義者が 1949 年 10 月に戦
勝した後、解決すべき現代の「韓国問題」として残っている。
Ⅳ.中国の共産主義
中国の執筆陣の主張とは異なり、新中国の教育体系は以前の国民党の政権と大差が無
かった。実際に初期の5年間には国民党の政権時代の教科書を引き続き使用し、教育部
は新しく設立された人民教育言論に、新しい社会にふさわしい教科書を立案するよう指
示した。これと同時に、中国共産党(CCP)と前任の国民党は似たような先入観と観点を
共有した。政治的には両党は皆、中央政府を過度に信頼するレーニン主義政党であった
- 10 -
上、帝国主義に激しく反対しながらも、過去の中国帝国領土に対しては中国の一部とな
るという住民の要求を問わず、自国の権利を主張した。歴史の叙述にも国民党と共産党
は絶え間ない数千年の歴史を有する古代の実体として近代国家を見つめた。これに従い
両党は、中華民族は遺伝子の観点から優秀な民族として邪悪な帝国主義者に利用された
ものの、開放を望んだ遺伝的に優秀な民族として見なされた。そして、少数民族と隣国
は遅れているため、開化が必要だと描かれている。教育に対しては両党は教育が近代化
の要求と政治の統合、市民の道徳の涵養に貢献するべきであると信じた。
したがって、国民党(とその後の台湾政権)の 歴史教科書と共産党の歴史教科書は両
側の激しい対立にもかかわらず、驚くほど類似した面が多い。二つの教科書の重要な差
は過去の解釈に対する理論上のアプローチがあるが、共産党は原始時代から奴隷制、封
建制、資本主義、社会主義のように、生産の勢力と関係の変化、それに伴う階級の闘争
を動因として連続的な線形発展として歴史を解釈する史的遺物論の体系を土台にした。
新しい体系の為には国家(だけでなく程度はより低いが世界)の過去を再構成し、王朝興
亡の原因として皇帝の道徳的な資質より階級闘争の役割を強調しなければならなかった。
他 の 部 分 で 幅 広 く 議 論 さ れ た よ う に (Dirlik 、 1978; Feuerwerker (ed.) 、 1968;
Harrison、1974; Jones、2005)、実際に史的遺物論が頂点に至る間にも農民と労働者を
歴史発展の主体及びファクターとして叙述の中心におく為の努力が続き、王朝の興亡に
対する伝統的な叙述は根本的に変更され、歴史に対する史的異物論の解釈の経済決定論
は伝統的な中国の歴史叙述の自発的で道徳的な決定論を完全に代替した。歴史的な人物
と事件に対する伝統的な判断は大半が覆され農民の反乱(以前は反逆として描写された)
は、「正当な農民の蜂起」として描写されたが、偉人と彼らの業績、悪行は引き続き歴
史の叙述において集中的に取り上げられた。
少数民族と隣国と関連し、共産党は初期に国民党と殆んど同様のアプローチ方法を採
用したが、1950 年代の半ばから、より包括的で-少なくても原則的には-位階的ではな
い形で「中華民族」の新しい構想を試みた。国民党の教科書において顕著になり、初期
共産党の教科書に含まれた漢と唐、明、清国の領土の拡張主義の逸話は姿を消した
(Xinhua、1945;PEP1951; PEP、 1953)。その代わり、帝国本土と周辺部の少数民族の戦
争は(遥か遠い) 「古代から」中国の「神聖な領土」であった領土を守るために開戦さ
れたと叙述された。したがって、モンゴルと満州、その他の民族の侵略と征服は国家
「統一」か「民族の統合」運動に改造された一方、王朝と分離主義運動に対する蜂起は
- 11 -
大衆をごまかしたり、海外の帝国列強と共謀したり、挙国一致を破壊しようとする反動
的な支配階級が誘発する「階級的な矛盾」であった。このような説話で、中国は絶対に
侵略戦争を起こしたり、他の国家や社会、人民を抑圧したことは無く、平和を愛する多
民族国家であった。
しかし、実際に中国の少数民族は今でこそ漢族より教養や文明が不足していると描写
されてはいないが、それにもかかわらず歴史遺物論の用語により国家の歴史の位階にお
いて、低い社会的地位に分類された。つまり、彼らは「族長社会」(原始社会)や「奴隷
社会」、「封建社会」であるのに比べ、漢族は既に「社会主義」の優秀な発展段階を達
成したという事である。それ故、少数民族が後進的な思考と慣習を一新し、一層前進す
る為には共産党の努力が必要であった。少数民族は退行的で女性化されると同時に、生
きている博物館の展示物の異国的な民族衣装を着ている姿で描写され、後進的である事
と比べ、漢族の優秀性を立証できた(Harrell, 1995; Gladney, 2004)。少数民族が教科
書に登場する場合(稀であった)には主に、過去と同一な観点で中国文化の開化した影響
力を望んでおり、民族国家主義や宗教、近代思想の欠如により、遅れたものとして描写
された。少数民族は彼らが「弓術と歌舞、その他の知能と関係がない趣味において秀で
ていることに比べ、偉大な思想家と芸術家、発明家は皆漢族」という主張により暗黙的
に未開であると描写された。しかし、少数民族や彼らが過去に建国及び支配した国家は
古代から現在まで国家の説話の連続性を維持し「内部の混乱と外部による災害(侵略)」
の二重苦により中国帝国が崩壊した格差を解消するだけでなく、現在の中国の支配下に
ある領土はいつでも中国国家の一部であったと証明するために必ず必要であった。その
為、彼らは核心的な構成要素として国史に包容されるべきであるが、筆者が主張したよ
うに、主に「国家のアイデンティティに参加するのは人ではなく領土」であった(Jones,
2008)。少数民族は国家説話から決して平等主義が与えられることはなく、彼らが建設
した国と帝国の歴史は中国との交流と「発展した」 中国文化の受容を除外し大半が無
視された。
一方、外国は原始社会から古代ギリシャとローマの奴隷国家、アラブとヨーロッパ、
アジアの封建社会、ヨーロッパと北米の資本主義の発展、アジアと南米、アフリカの反
植民地独立運動、そしてソ連と東ヨーロッパ、アジアの社会主義革命など、世界史的唯
物論の発展に対し、大半がソ連により考えられた説明が配列されている。世界の全地域
を含めようとする試みがあったが、このような説明はあまりにもヨーロッパ中心的な説
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明であった。世界史の皮相的な目的は史的遺物論進化の法則を「証明」するだけでなく
国際共産主義の精神を涵養し、全世界のプロレタリアが団結し、世界の資本主義のため
に闘争するというものであった。しかし、世界の共産主義は「一国の社会主義」精神の
為に早くから破棄され、中国と世界史の統合のための簡略な努力を除いて両者はいち早
く分離され授業時間と叙述空間の大半が前者に割り当てられた。 10
それでは、中国の歴史教科書の中で韓国と韓国史の陳述に如何なる意味があったのだ
ろうか。以前と同様に韓国は自国の歴史だけでなく、世界史にも曖昧に配列された。前
者のカテゴリーでは中国文化の受益者であり属国であっただけでなく、中国領土に対し
ては韓国人が居住する領土の大半が中国の土地であると主張し、中国の少数民族集団の
一員として、韓国を認めた。後者に対してはアジア封建制の初期事例(勿論、中国から
学んだ)であり、帝国の拡張政策の犠牲者、全世界の社会主義革命の増加の一部である
独立した新しい社会主義国家(韓国は認められなかった)として描写された。朝鮮戦争は
同じく国史(中国が北朝鮮と連合した後)だけでなく冷戦と米国の「ヘゲモ二-闘争」の
叙述において海外の歴史も含まれた。これによって朝鮮戦争は二つの教科書に含まれた。
上述の通り、中国史で中国最初の教科書は漢と唐の帝国主義を説明し朝鮮半島を限定
的に言及した。高校の教科書は漢の支配時代「中国の国境拡張」を叙述し、唐と高句麗
の戦争を新羅(を支援したのではなく)の支援を受けた攻撃戦争として描写した(Xinhua、
1950、pp. 42-43)。また、他の教科書は「彼らが征服した国家(や部族)の富と人口を強
奪し、彼らが開拓できる土地の範囲を拡張」するために高句麗に対抗する新羅を支援す
るという名分を利用し「中国の領土を拡大」しようとする唐の努力をこれと同じように
叙述した(PEP、1953、p. 18)。しかし、中国の攻撃に対するこのような説明はすぐに廃
棄され、1955 年まで「唐の拡張政策」の逸話はすべて削除され相互利益の和平関係が新
しく構想されたが、中国は大君主として「発展した」社会と地位を享受し、受けるより
は与えるものが多かった。3 国に関する唯一の言及は「唐とアジアの帝国家との経済及
び文化的交流」に関する章で「唐は朝鮮半島と緊密な関係を維持した」と叙述する短い
段落に叙述された。「韓国音楽が中国に伝播され、中国の芸術と音楽を豊かにした」
「新羅は 7 世紀、朝鮮半島を統一した後、多くの国民を中国に留学させた……彼らは最
10 1949 年以降、ソ連教育の影響を受けたが、中国教育の管理は初めからソ連式の歴史の解釈に警戒し、歴
史(と中国語) 問題を監督し中国史の特別な特性が外国の解釈に支配されないようにするために教育部の傘
下に特別委員会を設立された。国史を理解する枠組みとして使われたソ連式の世界史モデルはいち早く破棄
され、再び教科課程(だけでなく専門家の歴史記述)の中心として記述した。
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新の手工芸の技術を学んだ……新羅文化はこの期間に急速に発展した」(PEP、1955、p.
9)。後続の教科書は三国時代に対するこのような基調を維持し中国史の教科書にこれら
を維持しつつ、1970 年代末まで日本及びベトナムと共に「封建制のアジア」に関する部
分で世界史の叙述にこれらを含めなかった。
韓国史は主に 1592-1598 年の壬辰倭乱の部分で主に登場した。ここでも韓国よりは中
国中心の叙述が多いが、中国史と世界史での事件がすべて言及された。1950 年代の中国
の歴史教科書で壬辰倭乱は略奪を繰り返す倭敵を倒した明の話と共に「日中戦争」とし
て叙述された。中国の南部に対する倭敵の攻撃が日本国家の許可を受けたものとして
描写された最近の教科書と異なり(PEP、1998、vol. 2、p. 168)、初期の教科書は「倭
敵」は中国の匪賊と連携し海賊のような「失職戦士」たちであったと強調している。
1592 年の韓国に対する攻撃はこのような問題の延長線上で描かれており、明は朝鮮の要
請によって参戦し日本軍隊は結局退却したが、戦争は明にとって「損失は多く、勝利は
少ない」「災難」として描写され、日本が結果的に敗北した唯一の理由は将軍豊臣秀吉
の死であった(Xinhua、1950、 pp. 113-115)。
このような説明は後続の説明と極端な対比を見せている。5 年後、中国史だけでなく、
世界史の教科書に戦争は日本を負かした中国と韓国の偉大な「勝利」として描写されて
いる。中国史の教科書には「すべての韓国人が総決起し」明の援助によって「力をあわ
せ倭軍を破った」と叙述されている(PEP、1955 [Chinese]、p. 61)。世界史の教科書の
叙述の内容もほぼ同様である。つまり「16 世紀の韓国人は日本に勇敢に抵抗し祖国を防
御した。韓国人と中国の軍隊は力を合わせ、倭軍の侵略を撃退し両国の国民の間で相互
善隣の支援の必要性と重要性を証明した」ものである(PEP 1955 [World]、p. 37)。こ
のような用語と戦争を「韓国支援の為の戦争」として再定義したことは、明らかに最近
終戦した「米勢に抵抗し韓国を支援するための戦争」を思い起こさせる。20 年後にも叙
述の内容はほぼ同一であるが、国を弱化させ百姓に苦痛を与えた日本が「中国侵略の目
的を抱え、韓国に侵略する機会を捕捉するよう」許容した韓国の腐敗した封建政府を重
点的に取り上げた。例えば、1978 年度版の高等学校の教科書は最近、歴史教科書に際
立っている情緒的な言語と生々しい暴力の描写に依存し「倭軍は行く先々で放火と殺戮、
残忍な破壊を繰り返した」と叙述している。このような叙述は大半が 20 世紀の日本軍
の中国侵略を叙述する上で使用されている言葉と同じである。ここでも韓国人は勇敢に
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抵抗し(プロレタリアと農民の)知恵と能力で、戦争の遂行に寄与したと描写されている。
それにも関わらず、彼らは結局明に事態の収拾を要請した。
共和革命当時、教科書と同様に歴史的に重要な(連帯期順に)「韓国」に対するテーマ
は中国が主導的な役割をする主題、つまり 1894-1895 年の日中戦争である。ここで韓国
の東学の抵抗と清国に対する朝鮮の要請は戦争の勃発当時、中国に伝わった日中戦争の
遥かに重要な事件(中国としては)に対する背景を供給するのみである。興味深いことに
1980 年代の初めに中国の教科書も農学運動の宗教的要素を否認し、階級闘争の枠組みに
入れるためだと思われるが、東学の抵抗を「甲午農民戦争」として言及した。この説明
によると好戦的な日帝は 1592 年と同様に中国の直接的な権限は及ばなかったが、中国
の「影響圏」にあった地域に対する支配を拡大し究極的には中国本土の侵略を試みるも
のとして描写された。韓国は初期PRC教科書に「支配階級が農民を搾取し、外部人を無
視し」帝国主義者の侵略に弱まった「未開な封建国家」として叙述している(PEP、1959、
pp.1-3; PEP、1955、vol. 2、pp. 96-99; PEP, 1978、pp. 69-72)。
壬辰倭乱と同様に、使用された用語と内容は最近の事件を思い起こさせる。例えば、
上で引用した 1959 年度と 1978 年度の高等学校の教科書には日本の征服以前に韓国を征
服しようとする米勢の努力が重点的に取り上げられている。日韓合併は開放の闘争の為
にゲリラ戦術を使用する大衆運動の一環として韓国の激烈な抵抗があったと描写されて
いるが、これは日本と国民党に対する共産党の抵抗と外勢と国内の反対勢力に対する持
続的な闘争、朝鮮戦争と明らかに軌をいつにする。実際に教師の指導書(1978 年度の教
科書と同封する為につくられた)はこのテーマの目的が「韓国人が日帝の侵略者だけで
なく親日協力者に抵抗し、日帝だけでなく反動的な国内の勢力を負かした不屈の闘争精
神に対し学生に対し教える」ものであると具体的に叙述している(PEP、1979、vol. 2、
p. 83)。最近の教科書は反封建的な表現を控え、この戦争で韓国を事実上削除されたが、
反日と反帝国主義的な叙述を強化し、清国は 「メロンのごとく領土が分けられる」絶
対絶命の危機に直面したティッピングポイントとしてこれを強調した。勿論、これはや
はり 1895 年の終戦を締結した下関条約が台湾を日本に移譲した為、現代的な反響を起
こした。
最後に、最近まで韓国がPRC歴史教科書で最も幅広く叙述される部分は当然朝鮮戦争
である。韓国に関する他のテーマと同様に朝鮮戦争は中国史と世界史の教科書にも登場
し一般的に「米勢に抵抗し韓国を支援した」戦争、または運動として知られた。名称か
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最近まで大半の教科書では、この戦争が共産主義のブロックを封鎖し、全世界を支配
するという究極的な野欲とともに、ヘゲモニーを拡大しようとする努力の一環として韓
国の「内政」に「干渉」するため、軍隊を派遣するよう国連を「操った」米国の「侵
略」だと描写した(PEP、 1959、pp. 97-98; PEP、1989、 pp. 150-156)。韓国人は侵略
者と李承晩大統領の傀儡政権に決然と抵抗して朝鮮半島の最南端まで追いつめた。しか
し米国は海軍を台湾海峡に送り「我々の台湾領土の解放を妨害することで中国の内政に
干渉」し、その後、仁川に上陸して中国人民解放軍を鴨緑江まで追いつめ「北東側を砲
撃して祖国の安保を甚大に脅威」した。(PEP, 2000[Chinese]、vol. 4、pp. 140-144)
このような状況で中国は参戦以外の代案がなかった。あらゆる教科書が強調しているよ
うに、これはダビデとゴリアテ、(正義たる)人間の決断対侵略者の技術及び軍事力の
戦いだった。したがって、人海戦術の勝利で人民は帝国主義の侵略を撃退して結局「祖
国を救う」ことができた。
世界史教科書も接近方法は似ているが、脈略と語調は若干の差がある。中国教科書は
戦争を国内統合過程(土地改革と「チベットの平和な開放」、「反革命」勢力の鎮圧と
ともに)の一環として描写する一方、(PEP、1959; PEP、1978; PEP、2000 [Chinese]、
vol. 4、pp. 140-144)世界史教科書は「米国のヘゲモニー政策」の一環として事件を冷
戦の脈略で把握する。本章はまず、ヨーロッパとアジアの支配を狙う米国の「戦略」を
略述する。(PEP、2000 [World]、vol. 2、 pp. 119-126)米国の侵略以後、韓国人は
「直ちに侵略に抵抗し、独立と統一を成し遂げるために解放戦争に突入した...韓国人
は偉大な愛国精神で外勢と戦った」(PEP、1959、 pp. 144-145)。 仁川上陸後、「米国
と英国、フランス、その他の弱小国家はまず、韓国を壊滅させて、次にわが国を侵略す
るため北朝鮮に猛攻撃を行った」(PEP、1959、p. 146)。このため、中国は行動に出ざ
11 中国が闘争に加わった後、この教科書は発刊されなかったが 1949-1950 に執筆された。.
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1990 年代以後、中国史だけではなく、世界史教科書にも叙述の方向における段階的転
換があった。初期の教科書が戦争を米国の「侵略」で触発されたと説明したなら、1990
年代の教科書は朝鮮戦争が先に「勃発」したと言及されている。最も最近の説明(2001
年国定教科過程によって著述)では朝鮮戦争は、高校の世界史教科書から除外され、冷
戦部分は今や米―ソの「対立」とトルーマン・ドクトリン(Truman Doctrine)、NATO
とワルシャワ条約機構の創設、キューバミサイル危機だけを叙述している。朝鮮戦争は
一部の中国史教科書に登場し、高校教科書でも一部は扱っているがささやかな役割に分
類されている。朝鮮戦争は相変わらず、米国のヘゲモニーに抵抗した戦争であり、新中
国の主要な勝戦として描写されているが、米国の攻撃と北朝鮮の「解放戦争」は多くが
無視されている。更に、ある教師用の指導書には米国の「侵略」が「韓国の崩壊を防ぐ
ための介入だった」という説明に変わった(Ditu [Teachers]、2004、vol. 4、p. 163) 。
朝鮮戦争の重要性が減少した理由は幾つかあると思われるが、1992 年、中国と韓国
の外交関係の正常化も大きく寄与した。また、他の動機は、扱われる資料の量を大きく
減らし、学生が認識する「学習負担」を軽減させるための努力があった。 現代中国で
朝鮮戦争は、教師があらかじめ与えられた時間枠の中で必要な資料を活用するために努
力している高等学校のレベルでは、関心を持つほど重要だと思われない。範囲の縮小は
史的唯物論がすべての目的と目標であるにもかかわらず、音もなく消えた歴史(と中国
の地位)理解の変化も反映する。階級闘争と農民の反乱が無くなり、改革家と近代主義
者が現れた。このような説明で祖国の近代化の動力を養成することが目標ならば、韓国
は低迷した北朝鮮よりはるかに説得力があり、有意義な教訓を与えるのも明らかである。
実際に韓国(民主化以前)は一角ではシンガポールとともに中国の発展軌道に適合する
新権威主義の役割を果たすと考えられた。北朝鮮プロレタリアの解放戦争という朝鮮戦
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上記した変化は英語翻訳本に皮相的に登場すること以上の意味がある点に注目する価
値がある。初期の教科書は、中国が革命後、近代世界に強大国への野望を持つ勢力とし
て再登場し、帝国主義の危機から社会主義民族―国家とアジア解放の指導者として、中
国を統合した主要作品だと描写した。したがって、戦争の重要性をけなすことはかなり
急進的なものだ。教科書は「韓国」をいつも最後の王朝の名であって、北朝鮮が現在、
国号として使っている朝鮮で記録してきた。韓国は国家として認められなかった上、
「朝鮮の南半部」に建てられた米国の傀儡政権だと叙述された。しかし、最近の教科書
で韓国が始めて登場し、北朝鮮とは関係なく、アジア国家の発展と復興に関する段落で
シンガポールとともに世界史の教科書に含まれたりもする(Huadong、2004、 pp. 104105)。内容と用語において起きたこのような改正は、中国における変化だけではなく、
国際秩序の変化に対し、決して少なくない対応であることは確かだ。
Ⅴ.結論:国家化
中国が高句麗を中国史の一部だと主張するのは、このすべてと如何なる関係があるの
か。序論で提案したように、中国の現在の主張が、中国にある過去の高句麗領土に対す
る既存の領土権主張の強化や、現在、北朝鮮にある新たな領土に対する権利の主張や、
より一般的に少数民族の実地回復主義の未然防止や、これらとは関係なく昨今の領土問
題に根をおいていることは相当な妥当性をもつ。彼らが主張した「中国」と「外郭地
域」(地理的でも文化的でも中心と離れている)に関する思考方式の産物でもある。こ
のような思考方式は中華普遍主義に根をおいた古い「帝国主義」の歴史を有しており、
社会進化論と史的唯物論(の中国流の解釈)の両大進化のモデルだけでなく、民族例外
主義の特殊主義的な談論によって補強された。したがって、筆者は最後に中国の観点か
ら見た「国境」、「国境の歴史」、「少数民族」、「少数民族の歴史」の概念化を簡略
に検討し朝鮮半島だけでなく、他の地域の過去の歴史に対し中国が現在(掲げている)
主張を強化する論理を説明したい。
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Gladney (1998 & 2004) 、 Duara (1995) 、 Hershatter et al. (1996) 、 Dirlik
(2003)などが主張したように、全ての中国領土(と少数の変節した制度)は常に中国の
領土であり、過去や現在中国の民族文化を構成する純粋な本質があるということを決定
的に証明する円満かつ均質的な線型の歴史的な叙述に対する多くの努力にもかかわらず、
中国史は多様かつ混乱しており、国家領土の国境内外に置かれた「入込んだ歴史」
(Werner and Zimmermann, 2006)で構成された。たとえば、Millwardは「国境」(特に
新疆)は「場所」ではなく、「プロセス」として理解すべきだと提言する(1996、p119)。
上記に引用した筆者らが主張したように、関係の構成体と「 列極 」、協力交流、相互
対立の中で文化とアイデンティティが形成されるため、「確信」だけでなく「周辺」が
主張、妥協、定義する「国家全体」の中国に対しても同じ内容が適用できる。したがっ
て、中国史と「非中国」少数民族、他の未開人の歴史は分離され、均質なものではなく、
複合的で異質的なものと考えるべきだ。
このような歴史的な多元性と「未開人」が「発言」(Spivak, 1988)できるよう準備さ
れた空間は中国と世界の学会において重要な進展であることは確実だが、このような複
雑な話と「入り組んだ歴史」は中国だけでなく、他国の歴史教科書には載っていない点
を肝に銘じるべきである。全世界の教科書の分析からわかるように、教師や保護者に販
売し学生を欺瞞する重要な国家の叙述は大半が単純で勝利を中心に書かれており、支配
人種や社会階級、宗派の「偉人」が紹介される。最近、制限された複数の教科書を許可
した中国の改革にもかかわらず、歴史教科書は根本的に変わらなかった。中国の過去に
関する重要な叙述は国家の政治と文化の中心地で絶え間なく発展し、未開な周辺部(社
会、民族、地理的)を教育し、先導する文明化された主流の漢族(たとえ、その定義は
曖昧になったが)に対する叙述を維持している。「不可分の神聖な領土」に対する原初
論的主張が定義されるが、これは国家の「地理的身体」の統一を統合する文明化と近代
化の過程、多少は不利な表現を使っても「植民化」(Gladney, 2004)の過程である。上
記の通り、このような叙述は反対の主張を無視する二大アプローチ方法によって予測さ
れ、合法化された。一つは少数民族と彼らが居住する土地を大中華民族という仮想の生
物ー文化的共同体に吸収するアプローチ方法である。また、もう一つは周辺国家の自律
権は認めるが、文化的血族関係と不均等な軍事同盟の過去の位階的な関係と関連し彼ら
に家父長の権利を主張するアプローチ方法だ。勿論、両者とも中国の帝国的メトロポー
ルは支配的パートナーとして描写されており、周辺部は支配と同和が必要だ。
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確認したように、朝鮮半島の歴史は一般的に中国の皇帝に朝貢をささげたが、皇帝の
直接支配はほとんどなかった半独立国家や国家集団として描写されるため、ほとんど二
番目のカテゴリーに該当する。しかし、「少数民族」や「国境」、「周辺」国家と民族
に対するこのような歴史的叙述方法はほとんどが重複し、特定民族や政治国家に対する
「帰属」の最終名称だけ異なると判断される。韓国人は中国内の少数民族(一時、高句
麗の一部だった中国の東北部に居住する韓国人は公式の民族集団である)と同じく「中
国」の文明が必要だったり、それを望んだものとして描写されている。彼らは永久に学
生(被支配者)の地位になるだけではなく、野蛮人から彼らを救済するため、中国軍を
必要とすることで暗黙的に属国化し、または退行した。前述の教科書の叙述に対する説
明からわかるように韓国は歴史でほとんど中国に割り当てられた救出任務の一部として
登場するだけで、大半、中国は韓国人の野蛮人や外勢撃退に協力するため中国軍を派遣
する。したがって、韓国は教科書に叙述したように、独自的な(男性的な)「力」や注
目すべき自律的な存在がない。中国の歴史叙述では「国家」(朝鮮)と認められたが、
韓国は母国の中国との関係以外は意味のある「自体的な国史」(や文化)がない。
これは少数民族の描写とほぼ同様で、中国の歴史周辺部にある国家を少数民族集団と
して再構想することは大きな飛躍がない。地政学的事件によってチベットや大理のよう
な過去の一部の属国は中国に包摂され「少数民族」と描写される一方、モンゴル(と論
議はあったが台湾)のような一部の「民族集団」は自分の民族―国家を建てることに成
功した。したがって、高句麗に対する中国の主張はいくら反駁しても中国の世界秩序の
項目にあまりにも簡単に当てはまる。この図式で高句麗はこの地域内の漢民族の存在
(彼らは中華民族の一員だと命名されたため、彼らの領土は今も、過去にも中国の一部
である)、一国の存在(領土が同和及び「国家化」された)、歴史的にほとんど一方的
な文化の伝播と軍事保護の主従関係(高句麗は他の属国と同じく中国国家ー文化民族の
一部である)によって中国領土だと正当化される。近い未来に中国がこのような談論に
よりさらなる領土拡張戦争を起こす可能性はないが、チベット「解放」を名目で侵略し
た経験があり、台湾には武力「統一」の脅威を与えており、紛争制度をめぐる主権問題
に対する好戦的態度は近隣諸国の懸念を招いている。韓国人は最近まで中国に対し好意
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12 最近、韓国では中国に関する好意的な世論が急速に悪化している。2002 年、中国に対する肯定的な世論
は 66%に達したが、2007 年には 52%に減少した。また、2007 年には回答者の 60%が中国の経済権力を否
定的に考えており、89%が軍事力の増強を否定的に考えている(Pew Research, 2007)。
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