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第五回:1960年代韓国のキリスト教(民主化運動とキリスト教)
【アジアのキリスト教 1】 第五回:1960年代韓国のキリスト教(民主化運動とキリスト教) 2004年5月24日 香山洋人 1、はじめに 1945年8月15日、大日本帝国はアメリカを中心とする連合国の前に敗戦した。しかしこ の戦争は、朝鮮に端を発するアジア太平洋地域に対する侵略戦争であり、日本の植民地となった 地域では「戦争」という名前のつかない闘いが半世紀に渡って繰り広げられていた。日本はアメ リカに負けただけではなく、アジアの太平洋地域の民衆に負けたという側面があることを忘れて はならないだろう。 日本の敗戦は植民地朝鮮にとって「解放」であった。現在韓国ではこの日を「光復節」と呼び、 国民の祝日としている。しかし大日本帝国からの解放は朝鮮の独立を意味しておらず、米ソ冷戦 構造の中で解放直後からアメリカ、ソ連、中国といった強大国のつばぜり合いの現場としての苦 難を味わうことになる。キリスト者から社会主義へと転向した呂運亨(ヨ・ウニョン)は8月1 5日に「朝鮮建国準備委員会」を結成するが、米軍の極東軍司令官マッカーサーは、北緯38度 を境に朝鮮半島南北をアメリカとソ連で分割する考えであり、ここから南北分断の歴史が始まっ て行く。 独立運動家呂運亨は、米国主導の「臨時政府」 (アメリカの軍政)によって南だけで行われる単 独選挙に反対していたが1947年7月に殺される。しかし、東学農民軍出身で三一独立運動後 海外に亡命していた独立運動化、金九(キム・ク)などが南の単独政府樹立に反対、朝鮮半島全 域から米ソなどの駐留軍が撤退するように要求した。しかし、米軍の後押しによって反対の声を 文字通り圧殺して行われた単独選挙の結果、1948年8月15日、南には「大韓民国」政府が 樹立、北では9月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」の樹立が宣言された。南ではアメリカから 帰国した李承晩(イ・スンマン)が大統領に、一方北では抗日闘争時代からソ連の支援を受けて いた「朝鮮労働党」の金日成(キム・イルソン)が国家主席となる。 以上の説明はあまりに不十分だ。1945年から48年までの歴史は実ははるかに複雑だ。し かし、本稿は韓国の60年代の民主化運動とキリスト教が主題であり、それまでの歴史は「参考」 までに触れるにとどめることとしたい。1950年5月26日に始まる「朝鮮戦争」こそ現在の 南北分断を決定付ける原因であり、日本の戦後史にとっても特別な意味を持っていたことは事実 であり、この問題に触れずに解放後の韓国社会について語ることは不可能だ。しかしこの授業で は朝鮮戦争についてはあえて触れずに通過することにしたい。なぜなら、生半可に語って一応の 取り扱いをするというような姿勢を拒否する重みが、そこにはあると感じているからだ。 「朝鮮戦 争」に何らかの興味のある者のために、和田春樹著『朝鮮戦争全史』 (岩波書店、2002年)を お薦めする。500頁に及ぶ大著だが、最新の研究や膨大な資料に裏打ちされた内容はもちろん のこと、南北どちらが先に侵略したかという正邪二元論ではなく、この戦争を日本や台湾を含む 「東北アジア戦争」とみなし、強大国を含めた世界の多くの国がこの戦争の影響を受け、この戦 1 争によってその後の東北アジアの構造が決定付けられたという大きなとらえ方が重要な意味をも つ著作だ。 2、軍事独裁政権 大韓民国の初代大統領李承晩は、アメリカの代弁者たる反共主義者、保守派のクリスチャンで あった。彼はアメリカの支持と財閥、軍部の力を背景に1948年から1960年まで 4 期にわ たり大統領を務める。李承晩政権は、植民地時代の親日官僚、警察、法曹などを積極的に登用し て構成された。特に末端の警察と行政に「親日派」を登用したことは、解放後の韓国において「恥 ずべき前科」であった親日的過去を問わない見返りに、政権への絶対的忠誠を引き出す意図であ ったといわれている。北朝鮮と対峙する韓国に李承晩のような反共政権があることはアメリカの 戦略にかなったことであり、そのためアメリカは李承晩政権を全面的に支援し、韓国も対米依存 の度合いを強めていった。朝鮮戦争後の韓国国民の生活を支えたのはアメリカからの援助だった が、たとえばそれはアメリカの余剰農産物を引き受けるという内容であり、韓国の農業は甚大な 被害をこうむった。疲弊した農村の人々は都市へと流入し、その結果都市部の慢性的労働力過剰 が生じ、必然的に労働者の賃金は低下し条件は劣悪化して行った。 3、1960年代のキリスト教 この項目は、韓国の宗教社会学者李ウォンギュの研究を参考にしたい。李ウォンギュは197 1年メソジスト神学大学を卒業後、米国エモリー大学大学院で宗教社会学を専攻、博士号を取得 して帰国、現在メソジスト神学大学宗教社会学科教授で、韓国社会とキリスト教の関係について、 特に民主化運動などの社会的働きと教会の関係について注目し続ける研究者である。ここでは、 「社会変動」 (Social Change Theory)理論に基づいて、韓国の社会発展における宗教の役割につ いて検討した論文、 「韓国キリスト教の社会変動的機能」の第3章「韓国社会の歴史的発展とキリ スト教の役割」から、1節「1960年代までのキリスト教」と2節「1960年代以降のキリ スト教」の一部を試訳でご紹介する。 ・・・・・・・・ 「韓国キリスト教の社会変動的機能」 スンシル大学キリスト教社会研究所編 『韓国の社会発展とキリスト教の役割』所収 (2000 年、ハヌル) 李ウォンギュ(Won Gue Lee, Ph.D) 3−1−(1)沈滞期(1945∼1959) 1945年日程から解放された後1960年、「4・19革命」訳注を経るまでの時期はひとこ 訳注 1960年、李承晩政権打倒を訴えた大衆蜂起で、4月19日にソウル市内の27大学の学生、さらには高 校生までもが一斉蜂起した。25日にはこれに呼応する大学教授団のデモが行われ、市民も加わった。李承晩 2 とで社会的混乱と政治的激変の渦巻きのただ中にあったといえるだろう。解放の感激はほんのひ と時であり、民主主義と共産主義の思想対立と葛藤が深まり、挙句の果てに南北に分断され、1 948年には南韓だけで総選挙が実施され独立政府が樹立された。1950∼1953年の間の 朝鮮戦争は韓国社会を焦土と化した。アメリカへの依存は政治的自立の危機を招き正視に耐えな い政治的腐敗が蔓延した。経済の疲弊と次第に可視化する政治的独裁は社会倫理と価値体系を混 乱の状況に陥れた。したがって、政治的・経済的・文化的な社会発展のためにキリスト教の活動 が大きく期待されていた状況であった。しかしそうした役割を果たすことが出来なかった時期で あることから、1945∼1959年を沈滞期と呼ぶことにしよう。 宗教全体を見渡した場合、解放によって春を迎えたのはキリスト教であった。キリスト教は独 立運動、社会運動において先頭を切っていたがために日帝から多くの弾圧を受け、それだけに日 帝からの解放を感激をもって受け止めたのはキリスト教徒たちであった。解放が西欧勢力、特に アメリカによってもたらされたという事実と、その背後にはキリスト教があるという認識がキリ スト教の立場を高める作用をした1。解放後アメリカ軍政は、形式上は政教分離政策を実施して宗 教間の自由競争体制が形成されたが、実際にはキリスト教に対するえこひいきが進んでいた2。そ うして南韓単独政府の樹立以降、多くの政治指導者たちがキリスト教徒で埋められていった3。し かし執権層がキリスト教を庇護したことこら、韓国のキリスト教は腐敗した独裁政権を擁護する ことによって反民主的・反民族的役割を果たしているという否定的な認識が広がり始めた4。 キリスト教はまた、解放後さほど時間がたたないうちに分裂の醜態を示し始めた。日帝支配下 に神社参拝をしたかしなかったかという問題で、韓国プロテスタント教会最大教団である長老教 会が二つに分裂し、出獄聖徒訳注を中心とする大韓イエス教長老会(高麗派神学派)が生まれ(1 951年)、ここから神学問題で韓国基督教長老会(キ長)が生まれ、高神派とキ長が脱落した後 に残ったイエス教長老会内でも理念問題(特に世界教会協議会に対する立場)によって大韓イエ ス教長老会合同派と、大韓イエス教長老会統合派の分裂が起こった(1959年)。こうして始め られた教派分裂はその後も加速し、現在は168の教団へと分かれた。プロテスタント教会のこ のような分裂は神学と信仰類型の違いに起因する面もあったが、権力と財産に関する利害関係、 地域葛藤などによって主導権争が生まれた場合も多かった5。韓国教会の分裂は教会のエネルギー を内的葛藤問題に使い果たさせ、それによって社会発展を導く力量を発揮できなかっただけでな く、社会的信頼度を弱める結果を招いた。そして韓国教会を保守−進歩の両極化することに、決 定的な役割を果たした。 このように1945∼1959年の間の韓国キリスト教のイデオロギーにおいては神学的な保 守−改革葛藤イデオロギーが量産され、社会発展の動因となるだけの理念的土台を教会に提供す はこれによって退陣したが、後の朴正熙軍事政権の登場を阻止する流れを形成することはできなかった。 「四月 革命」「学生革命」とも呼ばれる。 1 柳東植『民族宗教と韓国文化』現代思想社、1978、235∼236頁。 2 チェ・チュンゴ『国家と宗教』現代思想社、1983、193∼199頁。 3 詳細は次を見よ。カン・インチョル『韓国プロテスタント教会の政治社会的機能に関する研究、1945−1 960』ソウル大学博士学位論文、1992、第7章。 4 イ・ウォンギュ、前掲書、1993、188頁。 訳注 神社参拝拒否を理由に投獄され転向せずに獄につながれたまま解放を迎えたキリスト教徒。 5 ノ・チジュン『韓国の教会組織』ミンヨン社、1995、303∼341頁。 3 ることができなかった。キリスト教の指導力は四分五裂し、政教癒着のありさまから抜け出せな いことによって、その力は社会を変化させる推進力を持つことができなかった。自然に動員され た資源[信徒の増加]も主に教会内的な成長と信仰的な自己弁護の手段として活用されるだけだっ た。したがってこの時期は、社会発展という側面からみれば非生産的な沈滞期だといえるだろう。 2)1960年代以降のキリスト教(1960∼現在) 韓国のキリスト教が再び社会発展に寄与し始めるのは1960年以降からであった。解放以降 に深刻な教会分裂と政教癒着のありさまを示しつつ、社会変動を主導するとか預言者的な洞察力 によって社会発展を追及するというよりは、現状を維持し現存する腐敗した政治と社会秩序を正 当化してきたキリスト教は、1960年の「4・19革命」以降、徐々に変化し始めた。すなわ ち、教会が独裁政権を庇護した反社会的勢力だという批判を受けるようになり、そこから社会正 義に無関心であったことに対する自己反省が起こり始め、キリスト教は社会的責任を認識し社会 発展のために努力しなければならないという動きが起こり始めたのだった6。従って宣教後期、す なわち1960年以降の時期はキリスト教が社会発展のためにそれなりに重要な貢献をした社会 参与期であるといえるだろう。1960年以降をいくつかの時期に分けて、社会発展とキリスト 教の役割に対して概括的に見ていこう。 (1) 1960年代のキリスト教(覚醒期) 1960年代に入り韓国社会は次第に安定を見せ始めた。戦争の惨禍も次第に復旧され、特に 政治的民主化の熱望が表出しつつ起こった「4・19革命」は独裁政権を倒した。たしかに「5・ 16軍事革命」が長期軍部独裁に道を開いたことは事実だが、少なくとも1960年代は、経済 成長によって韓国社会がある程度統合され安定の方向へと進み始めた時期でもあった。 「セマウル 運動」訳注の拡散と経済開発五ヵ年計画の試行は国民的共感の基盤を形成する重要な役割を果たし、 国家再建という巨視的な目標を中心に、ある程度の社会的一体感が備えられていった。目を見張 る高度の経済成長が始まり、社会は活気ある発展を追求するようになる。しかし、この時すでに 根を張り始めていた政治的な官僚的権威主義と官主導型の経済成長一辺倒の政策などは、197 0年代の政治的・経済的・社会的諸問題の原因となった。一方、産業化と都市化の過程を通して、 工業、製造業などの二次産業人口が次第に増大し、都市人口が増加し始めた。 1960年代に入り、自らの力量を再整備した韓国キリスト教においては二つの流れが形成さ れ始めた7。ひとつは保守的傾向を帯びた多数の教会による、いわゆる社会統合の役割が担われる ものであった。これらは国家再建と再成長を主導した軍事独裁の政治的・経済的路線を足がかり に社会秩序の安定と統合をもたらすのに重要な役割を担当した。特に冷戦時代に反共意識の強化 に便乗することで社会の安定に寄与した8。こうした宗教の成功は安定の中の発展を期待した多く 6 イ・ウォンギュ前掲書、1992、91頁。 朴正熙政権が始めた祖農村改良運動、セマウル運動の推進機構は全国組織であり朴正熙政権を支える機能をも 果たしていた。しかしこれは1970年に始められた運動であり、60年代の社会分析には直接当てはまらな い。 イ・ウォンギュ前掲書、1993、194∼199頁。 ユン・スンフン『現代韓国宗教文化の理解』ハヌルアカデミー、1997年、126頁。 訳注 7 8 4 の人々をして宗教に感心を持たせ、この時期に前例のない教会成長をもたらした。もちろんここ には次第に韓国教会を襲い始める復興運動、聖霊運動に大きく力を借りたものである。こうした 運動は1970年代に絶頂を迎えることになる。 しかしキリスト教の中に生まれたもう一つの流れは、政治的な批判勢力の台頭であった。すな わち、キリスト教の一部進歩勢力は新しい形態としてあらわれた政教癒着の実態を批判し、一連 の政治的諸問題に対して挑戦し始めたのである。彼らは1965年の屈辱的な韓日協定〔日韓条約〕 批准に反対する運動を行ない、1969年には三選改憲訳注反対運動を展開した。これらの運動の 中心には進歩的な傾向を持ったキリスト教指導者たち(教授、牧師)たちがいた。 一方キリスト教進歩集団は産業化の過程の中で不適応によって生まれた労働者問題に関心を持 ち、労働運動を展開し始めた。労働者たちに加えられる非人間的な扱いと搾取の現実に目を開き、 これを是正する為の組織的活動を広げ始めたのだった。これがいわゆる都市産業伝道である。こ の宣教が分岐点を迎えたのは1966年に韓国産業伝道実務者協議会が組織されてからであった。 もちろん初期段階の産業伝道の性格は教会による伝道の延長として、労働者たちにも福音を伝え て信徒にするというものであった。しかし労働現場の問題が量的に増大し、質的に深化する状況 において、産業伝道の方式は次第に積極性を帯び始め、1970年代にはとてつもない波紋をも たらすのである。 また1960年後半からは、社会的な脈絡が無視され個人の魂の救いと福音伝道だけを強調す る既成教会に満足できないでいたキリスト教徒学生たちが社会参与を叫び始めた。その一つの結 実として1969年、全国69の大学代表が集まり韓国キリスト教学生会総連盟(KSCF)を 出帆させ、政治的・経済的・社会的正義の実現のためにあらゆる勢力と共同し、組織的で効果的 な社会開発運動を展開することを明らかにした9。1966年には「クリスチャンアカデミー」が 専用の会館を建築し韓国の社会問題を解決するための対話の窓が用意され、これによってキリス ト教界と社会との対話運動が始められた。 1960年代のキリスト教の保守集団は社会統合を志向する道徳的根拠となり、結果的に国家 再建、民族和合、社会安定、などを助長する作用をともなっていた。個人に対して心理的満足と 福祉感を提供する役割を行うことで社会発展に寄与した面があったのはたしかだが、我々の関心 の中心が社会変動に焦点をあわせているという点において、この時期の社会発展にはキリスト教 進歩集団の貢献が大きいといえるだろう。それは、1960年代のキリスト教進歩集団により、 政治的民主化と経済的平等化、社会的福祉化のためにキリスト教の積極的な闘争、ないしは活動 の橋頭堡が備えられたからである。 1960年代にキリスト教が社会発展に寄与したことにはいくつかの重要な宗教的条件があっ た。まず、「神の宣教(Missio Dei)」のような進歩的な宣教理念と1968年の非人間化、分配 正義の問題を基盤としたウプサラ大会において提起されたWCCの社会参与的神学路線が社会変 革のイデオロギーとして作用した。そして進歩的な傾向を持ったキリスト教指導者が次第にその 姿をあらわし、影響力を行使し始めた。1960年代は都市産業宣教団体やキリスト教青年団体 訳注 9 当時の憲法では、大統領の任期は一期四年で二期までとされており、 「三選」は認められていなかった。しか し、朴正熙大統領は政権延命の為に「三選」を可能とする憲法改正案を準備した。 イ・ウォンギュ「韓国プロテスタントの政治参与」、イ・ウォンギュ編『韓国教会と社会』、ナダン、1989、 207∼208頁。 5 のような人的次元、WCCや韓国教界協議会(KNCC)のような支援次元がキリスト教の社会 発展のために動員された主要諸次元であった。 ・・・・・・・・ イ・ウォンギュの論考を通じて我々は、解放直後は政府との癒着や腐敗、内部的権力闘争とい った弱点をさらしていた韓国のプロテスタント教会が、60年代に入って学生革命を経験し、さ らに工場労働者など貧しい人々との出会いを通して徐々に変革を遂げて行く過程を見ることがで きた。この時期の教会は、量的急成長を遂げた保守派と、労働者や農民といった民衆との連帯を 模索した急進派、リベラル派、社会参与派とに大別される。こうした二分法はやや危険ではある ものの、こうした二つの要素、すなわち、個人の内的充足を目的とする部分と、社会変革の役割 を担う部分は、キリスト教に限らず宗教すべてがもっている二つの極といえるかもしれない。前 者の鍵語を「救い」と言うならば後者は「解放」であり、前者が「教会の宣教」であるとすれば 後者は「神の宣教」と言い分けることもできるだろう。この点においてイ・ウォンギュは明らか に「救いではなく解放」 「教会の宣教ではなく神の宣教」の立場に立っている。彼が社会発展とキ リスト教の関係を論ずる際の前提は、「キリスト教が生の価値の完成」にどれだけ寄与できるか、 ということだった。そしてここで語られる「生の価値の完成」とは、 「政治的民主化、経済的平等 化、社会的福祉化、文化的成熟化、そして民族統一」だ。これはきわめて戦後韓国における固有 の価値世界といえるかもしれないが、たとえ個人の内的充実がはかられたとしても集団的、ある いは共同体的生の側面が考慮されない限りにおいて、個人の生の価値が完成に向かっているとは いいがたいという大前提があるといえるだろう。 我々の関心は韓国における「民衆伝統」の流れを読み取る作業だ。東学における農民・民衆の 決起、三一独立運動における民衆の決起、日帝の弾圧に抗した人々、神社参拝を拒否した人々、 それらとキリスト教の関係を一瞥してきたのだが、こうした韓国の民衆伝統の上に、1960年 代の教会が自らの立つべき位置を見出した、韓国におけるキリスト教の役割を再発見した決定的 瞬間が、都市産業伝道などによる工場労働者との出会い、 ‘民衆’と‘教会’との再会であったこ とに注目したい。 6