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謄写印刷から軽印刷へ

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謄写印刷から軽印刷へ
1952-
●
第2章 組織化・近代化への挑戦
Section-2
謄写印刷から軽印刷へ
業界の機械化はタイプライターの導入で始まった
しさにこだわる筆耕家のあいだで好意的関心を集め、孔
はそれを上回るペースで拡大中で、多くの業者が 24 時
版画家の若山八十氏は寺田の持ち込んだ印刷見本に驚い
間操業に近い状態にあり、中でも腕のいい技術家には仕
て、ただちにタイプ印刷専門誌『孔版印刷』を創刊、タ
事が殺到した。優れた技術家や見識のある関係者ほど、
イプ印刷の普及に乗り出した。
この頃、業としての行き詰まりを感じていたのである。
とを訪れて組版タイプライターを実見し、
『孔版印刷』
誌の第 2 号は孔版関係者の賛辞で埋まった。創刊号で
の方式で作られた。
タイプライター利用の試みはその後も断続的に続けら
■■ タイプ印刷のもたらしたもの
印刷見本を見ただけの読者も各地から賞賛の便りを寄せ
組版用タイプライターの恩恵の一つは、いうまでもな
た。版画家の恩地孝四郎もその一人で、
《郵着した「孔
く機械化による生産性の向上である。一定の資質と熟練
版印刷 1」をくりかえし眺めて居る。実はまだよく読ん
を要する筆耕技能者に対して、タイプオペレーターは比
でいない。恋人にあってうれしくてロクに物がいえない
較的短期間で養成でき、組版タイプの導入は業界の生産
みたいに、ただ眺めてる。
》と書き送ってきた。
性を飛躍的に向上させた。
日謄連の発足は、謄写印刷業界が近代化の試みを開始
れたが、開発が盛んになったのは戦後の 1950 年前後か
明朝体や教科書体の製版で活版に見まがうほどの技術
生産性の向上と並んで標準化も大きな恩恵である。謄
した時期と重なる。経営から技術まで近代化にはさまざ
らである。謄写印刷業界が最初に取り組んだタイプライ
を持っていた植本十一は、若山に連れられて実物を見に
写製版の標準化はすでに大正時代からの懸案であり、標
まな側面があるが、技術に関していえば、業界の近代化
ターの利用方法は、タイプライターで原紙を打ち抜いて
いったが、
《正に一つの産業革命である》
、
《ガリ版の時
準書体制定の試みや定規などを使って書体を統一する試
はまず機械化によってもたらされ、組版タイプ、謄写輪
謄写版で印刷するもので、活字孔版、孔版タイプ、タイ
代は去った》と見て、
《喜びと反面愛別離苦に似た気持
みが行われたが、個人の「手技」をベースとする世界で
転機、小型オフがその主役であった。
プ孔版などと呼ばれたが、業界では「タイプ印刷」を正
に包まれつつ、冷たい夜気の中を自宅へと走った》
。
は、どれも決定的な成果を上げることはできなかった。
組版にタイプライターを利用する試みは以前からあ
式名称として採用した。
一般に新しい技術が登場すると、従来の技術に親しん
タイプ印刷はこの問題を一気に解決した。しかも、たん
り、早い例では 1920 年代(大正末期)に和文タイプに
業界でタイプライターへの関心が高まったきっかけの
できた人々は拒否反応を示すものであるが、タイプ印刷
に標準化を可能にしただけでなく、寺田健が作った印刷
よる版下とオフセット印刷を組み合わせた方式が開発さ
一つに、孔版タイプライター(現・コーハン)の寺田
の場合は、ほとんどの一流筆耕家がこの新しい技術を歓
見本や若山八十氏が発行した『孔版印刷』の刷り上がり
れ、平凡社『大百科事典』全 28 巻(1931 年)などがこ
健が 1952 年(昭和 27)に発表した実用的な精度のタイ
迎した。最大の理由は、当時の過剰な忙しさである。新
は、当時の一流技術者が製版した文字に匹敵する美しさ
組織化・近代化への挑戦
■■
しい人材を飲み込んで拡大した謄写印刷業界だが、需要
創刊号を読んだ東京の筆耕家は、つぎつぎに寺田のも
オフセット化の下地を用意した戦時の技術開発
組版用タイプライターの導入
プライターがある。寺田のタイプライターは、文字の美
を実現していた。植本十一の言った《愛別離苦に似た気
持》とは、組版用タイプの登場を喜びつつも、長年にわ
たって磨いてきた技術が無用になることを悟った技能家
ゆえの悲しみである。
また、組版用タイプライターは業界が事実上はじめて
採用した機械装置であり、オフセット化に向かう重要な
ステップとなった。その後の業界がたどる機械化、自動
化の歩みは、組版タイプが原点である。
もう一つその後の業界に与えた影響として、女性労働
力の活用に道を開いたことがあげられる。謄写印刷業は
明治末期の発生以来、事務などの補助的業務や家族労働
などの形で女性の力を利用してきたが、筆耕も印刷も基
本的には男性の仕事であった。しかし、タイプライター
【上】 タイプ印刷初期の代表的タイプライター。
の導入によって、業界は女性の労働力によって支えられ
【左】 1963年、石川県山中温泉で開かれた第
る時代を迎える。タイピストは女性にとって古くからの
6回軽印連総会。この総会で会長に就任した桜井
花形職業であり、経験者や志望者の多いことが、業界の
文雄は、前日の片山津温泉におけるPTO団体の
タイプライター導入にさいわいした。また当時は男女の
総会でも会長に選ばれたが、そのおりの「われわ
れは日本印刷界における文字印刷の主流とならん
賃金格差が大きく、女性労働力の活用は業界の価格競争
ことを期す」との宣言は、長く業界の意欲を示す
力を高めた。外注の形で在宅労働者(主婦)を組織でき
標語として使われた。
たことも、その後の成長の大きな要因である。
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第2章 組織化・近代化への挑戦
●
1952■■ 謄写輪転機とインキの国産化
各社で製造され、1939 年から 41 年にかけて数十台が中
1960 年前後から日本に輸入された。本格的な利用が始
台本、小部数の学術資料、大正時代や第 2 次大戦直後の
国大陸に送られた。
まったのは、64 年(昭和 39)に富士写真フイルムがポ
同人誌など)
、ページ物の需要も一部にはあったが、出
リクローム社と提携して国産の PS 版を発表してからで
版印刷物を手掛けることはまず皆無であった。
輪転式の謄写印刷機は 19 世紀末に開発され、欧米で
一方のアメリカ軍も大量の小型オフ機を戦争に動員し
謄写印刷
(ミメオグラフ)
といえば一般にタイプライター
た。宣撫工作のために配布するチラシを「伝単」という
と輪転機の組合せを指した。これに対し、手書き・手刷
が、第 2 次世界大戦では各国とも数千万枚から数億枚を
従来のオフセット印刷では、版材(ジンク版)の研磨
出を可能にした。手書き製版の時代には、筆耕家の書体
り方式が高度に発達した日本では、輪転機の導入は官庁
配布したとされ、日本上空の制空権を握った米軍も、連
や感光材の塗布など前準備のための設備と技術が必要で
や書き癖によってページの仕上がりにばらつきがあった
などのごく一部にとどまり、謄写印刷業界では、ようや
日のように B29 爆撃機などで伝単を散布した。謄写印
あったが、あらかじめ感光性を与えられた PS 版はこの
が、活字方式(タイプライター)ならば、そのような不
く戦後、和文タイプと並行して導入が進んだ。
刷業界のオフセット化は、このアメリカ軍が持ち込んだ
前工程がいらない。PS 版はジンク版に比べて割高なた
統一は起こらない。印刷物としての総合的品質では従来
謄写輪転機は堀井謄写堂などの国産品もあったが、
印刷機によって始まった。業界における初期の人気機種
め、
既存のオフセット業界では受け入れられなかったが、
の活版やオフセットに及ばないとしても、タイプ印刷に
おもに輸入品が使われた。代表的機種であるゲステット
のうち、卓上型の A・B・ディック機は主として海軍、
ジンク版を扱った経験のない軽印刷業界にはうってつけ
よって書体の標準化が実現し、ページ物の受注が可能に
ナー製の輸入が 1948 年に再開され、また進駐軍の放出
床置型のマルチリスは陸軍で使われた機種である。
で、メーカーもハードルの高い既存のオフ業界をひとま
なったのである。
まったが、当初はゲステットナーの高額な機資材が導入
の壁となった。
ず避けて、当初は需要先を軽印刷業界に求めた。
■■
オフセット化の模索
タイプライターの導入は、このページ物分野への進
タイプライターの導入に続いて、業界はオフセット印
ダイレクト製版も軽印刷業界が取り入れたことで普
刷による本格的な機械化に取り組んだ。この時代の生産
及した新技術である。一部の業者はゼロックスの機種で
方式を PTO(フォト・タイプ・オフセット)という。
その壁を破ったのは、羽山昇(理想科学工業)と星勝
組版タイプライターの開発と啓蒙・普及活動が業界
この製版方式に親しんだが、本格的な普及は 60 年前後
タイプライターで紙に印字したものを版下とし、これを
右衛門(星インキ製造)があいついで国産化したエマル
内部の力で成し遂げられたことはすでに述べたが、オフ
に光学機メーカーがあいついで製品を発表したころか
オフセット製版・印刷する方式が PTO で、印刷方式が
ジョンインキである。これらの国産インキが登場するま
セットへの移行過程でもさまざまな試みがあった。
らで、とくに岩崎通信機が 61 年、62 年にエレファクス
謄写からオフに変わって印刷品質がさらに向上し、出版
物市場への参入も可能になった。
で、タイプ印刷はゲステットナー製の印刷機でなければ
例えばそのひとつに SOP(シンプル・オフセット・
の新機種を市場に投入すると導入は急速に広がった。62
一定の品質が実現できないとされていたが、印刷品質の
プリンティング)と呼ばれた方式がある。SOP はオフ
年には銀塩方式のアイテックが輸入されて、先行機種と
出版物を扱うには禁則処理など組版ルールの習得が必
秘密はインキにもあったことが判明し、国産の安価なイ
セット校正機をベースに開発されたもので、製版の仕組
競合しつつ人気を広げ、ダイレクト製版機は軽印刷企業
要で、レイアウト技術などとあわせて組版部門のスキル
ンキでも高品質な印刷物が作れることとなって、導入に
みは、鉄筆で製版した謄写原紙を用いてジンク版(オフ
に欠かせない生産手段となった。
向上が進み、本格的なオフセット産業へのレールが敷か
はずみがついた。
セット亜鉛版材)に版を刷り込む。1950 年代に複数の
オフセット印刷機の導入は、輸入品や米軍の放出品で
れた。この時代、一般印刷業界はまだ活版が主流であっ
メーカーから発売され、安価なシステムとして注目され
始まった。初期の人気機種にアドレソグラフ・マルチグ
たが、軽印刷業界は PTO によって製版技術を習得し、
たが、能率は悪く、小型オフセット機が普及すると姿を
ラフ社のマルチリスがある。濱田印刷機製造が 55 年に
活版印刷業界に先駆けてオフ化を進めることとなった。
消した。
開発したポニーグラフは、このマルチリスを模したもの
またこの過程は、生業から企業への移行過程でもあっ
で、今日の世界市場で高い評価を得ている日本の中小型
た。機械の導入によって作業のルーチンワーク化が進ん
印刷機の出発点となった。
だため、コスト計算がしやすくなり、あるいはコスト計
■■ 謄写印刷からオフセット印刷へ
タイプライターと謄写輪転機によって機械化の効果を
軽印刷業界で長く使われた技術に、戦時中に開発され
知った業界は、並行してオフセット技術の習得に取り組
たネガ原紙がある。タイプ印刷では、タイプライターで
んだ。
文字を打ち抜いた原紙を謄写輪転機にかけて印刷するの
卓上型の代表機種である A.B. ディックは 60 年に輸入
算に目覚める契機となり、
経理や財務のあり方は近代的・
業界が導入した小型オフセットの技術は戦争下で発達
に対し、ネガ原紙方式では、タイプで打ち抜いた原紙を
が始まった。この分野でも、輸入品と国産品が入り乱れ
企業的な方向への洗練が進んだ。さらに一歩を進めて、
した。いうまでもなく、軍隊内での連絡文書の作成や事
ネガフィルムの代用品として使う。製版カメラを必要と
て市場を争い、オフセット化のエントリーモデル的な役
経営分析の考え方や手法が取り入れられたのもこの時期
務処理、外部に向けての宣撫工作のために、軍隊ととも
せず、手軽で安価なオフセット方式として、70 年代ま
割を果たした。
からである。
に移動できる軽便なシステムが必要だったからである。
で使われた。
小型印刷機は戦争遂行の必需品であった。
オフセットに限らず、さかのぼれば、堀井新治郎が謄
製造部門の担い手が、それまでの筆耕と謄写印刷工か
■■
生産技術と市場の変化
■■
後発ゆえの利点
ら、タイピストと印刷機オペレータに代わったことは、
スキル格差の縮小をもたらした。とくにタイピストにつ
謄写印刷業界が、タイプライターを導入して機械化に
いては、素人を社内で養成することが可能になり、人材
軽印刷業界は、オフセットに関しては後発であるが、
着手し、さらにオフセット印刷に取り組んで、家内的・
の確保が容易になった。従来はツテや口コミに頼ってい
ら大量の注文を受け、
これによって事業の基礎を固めた。
このことが新技術の取り入れにさいわいした面もある。
手工業的生産から機械による近代的生産への脱却をは
た新規採用も、この頃から新聞広告の利用が広がった。
また、その後の謄写版普及の背後には、戦地や軍の施設
オフセット印刷の設備、技能、人材の不足を、新技術の
かった過程は、同時に市場開拓の過程でもあった。
で技術を覚えた人々の存在があった。
導入で補ったのである。その代表的なものが、PS 版と
写版を発明した 1894 年(明治 27)は日清戦争の起こっ
た年であり、堀井謄写堂は日清・日露の両戦争で軍部か
日本軍が中国戦線で使用した印刷機に、四六 8 裁(美
濃判)の小型オフ「野戦用早刷機」がある。小森印刷機、
中島機械工業、プロタイプ工業(現・日本文化精工)の
ダイレクト製版機である。
組織化・近代化への挑戦
品が市場に出回るなどして、業界でも急速に関心が高
ある。
明治末期の誕生以来、謄写印刷の市場は、官公庁の事
務用印刷物や小部数の資料、小商店のチラシ、小中学校
今日のオフセット印刷では標準の版材となった PS 版
の試験問題など、印刷需要の落ち穂拾い的な領域に限ら
(Pre-Sensitized Plate)は、戦後アメリカで開発され、
れた。時代やジャンルによっては(例えば映画・演劇の
総じていえば、機械の導入という外形的な変化に伴い、
生業から企業へ体質的にも大きな変貌を遂げたのがこの
時代である。
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