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機構ニュースレター第10号

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機構ニュースレター第10号
信州大学
全学教育機構ニュースレター
第 10 号
S G E 随 想 ⑩ 有名予備校が再編をする時代
鈴木 治郎
自然科学教育部門 教授(部門長)
私たちの自然科学教育部門ではいわゆる高校数学・理
科の発展に当たる数学・物理・化学・生物・地学を基礎
学力の面から扱う基礎科学科目の運営を中心に、共通教
育カリキュラムの運営に関わっています。
そして私たちは、もう何年も前からリメディアル教育
として、高校までで未履修または理解の不十分な学生を
対象に補習教育を実施してきています。こうした学生を
相手にし、またそのためのカリキュラム設計を部門で議
論するにつけ、高校までの単位取得の甘さが目につきま
す。
「これを覚えておけよ、試験に出るからね」というフ
レーズは TVCM でも見かけますが、
基礎科学科目はいくつ
かの事柄を一時的に覚えておけば足りるものではなく、
「なぜその知識が基礎的なのか」を感じられるまでにく
り返し練習も必要な科目です。
いわゆる「ゆとり教育」の弊害については様々な論点
が議論されてきました。
例えば高校数学に関していうと、
教える内容の限定化により、たとえ大学入試問題レベル
であっても、
計算結果として利用する公式が 10 に満たな
い領域が多数出現したという影響がありました。指導要
領を作成した側としては内容の限定化により生徒の理解
のための時間を多くとることができるだろうという狙い
をもったのでしょうが、勉強する側としては、いち早く
成果を得られる手段を選んだわけです。
目的のために現在利用できる手段を効率的に組織する
★目 次★
SGE 随想 ⑩ 鈴木治郎 自然科学教育部門長………………1頁
フレキャンセミナー開催歴 (3 件) ………………2 頁~3 頁
私の研究 Ⅹ 庄司和史 ……………………………… 3 頁~7 頁
スポット・松本平タウン情報寄附講義について……8 頁
スポット・市民タイムス寄附講義について…………9 頁
チャレンジ教育 10 速水達也 ……………………………10 頁
-1-
ことは、知恵として褒められる部分でもあるので、こう
した学習態度を一概に否定することはできません。教え
る側の「教えたい」ばかりではなく、学習する側が採用
できる手段も、学習者の血肉とさせるためには多少の努
力を要求するものを選ばざるを得ないように、学習内容
の設計が必要となった時代に来ているのです。
学校が知識の牙城として世間に君臨していた時代だと
現代を錯覚している人はおそらくいないだろうとは思う
のですが、それでも学校が知識の一番の供給源であると
無意識に思っているだろうことが、こうした高校数学の
事例からは透けて見えてきます。まして高校生ですでに
スマホ所有率 90%になろうとする時代です。答えが得ら
れるまでの時間を学生は非常に重視していると構える必
要があるでしょう。
逆にいうと、短期的な効率はたとえネット検索が勝る
としても、長期的には努力を伴う時間をかけた学習が、
結局は得をするのだということを説く場所が(義務教育
課程も含む)学校なのでしょう。また、その学習をある
程度の強制力とともに実施できる環境が学校であるのだ
と、指導する側が意識するべきではないでしょうか。
大学教育に話を戻しますが、こうした練習を要する基
礎科学科目の特性は、成績評価での GPA 利用で先行する
アメリカでも「GPA 評価を優先すると自然科学科目を学
生が忌避する」実態として、長らく現れてきており、解
決策は見出されていません。
2014 年夏のニュースに浪人向け予備校の勇である
代々木ゼミナールが 27 校中 20 校を閉校するというもの
がありました。リメディアル教育で一番の実績をもつの
は予備校だという事実を考えると、入学者の減った予備
校を何とか活かしたいものです。秋入学や 1 年間を 4 学
期に分ける制度が議論される時代です。いっそのこと高
校卒業資格と大学入学資格を学力面で分け、学力不足の
大学合格者は 4 月から 9 月に予備校で勉強し、大学は秋
入学になるなんて時代も考えるべきなのかも知れません。
そのとき学力が秋までに伸びなかった学生はどうするべ
きか、それは入学の 1 年繰り越しでいいでしょう。
フレキャンセミナー開催歴
機構のフレッシュキャンパスセミナー(略称:フレキャ
ンセミナー)3 回分について講師自身に概略を報告して
頂きました。
・第 62 回(6 月 21 日) 佐々木 洋城
自然科学教育部門 教授
割り算の商と余り、どっちが偉い?~数からくる「数もど
き」の話:
ほとんどすべての書物には ISBN 記号
(国際標準図書番
号)という、書物を特定するための番号がつけられてい
ます。その一番右の数字は「検査数字」と呼ばれていま
す。実際に書物を特定するのはこの検査数字の前までの
数字です。
検査数字はその ISBN 記号に誤りが含まれてい
ないかどうかを調べる機能があるのです。もちろん、全
ての誤りを検出できるというわけではありません。これ
には旧い規格と新しい規格がありますが、
旧い規格では、
書物を特定するための数字は 9 個あり、検査数字はその
9 個の数字からある方法で計算した数を11 で割った余り
なのです。
11 で割った余りが 10 のときは X と定めます。
検査数字は①一つの数の誤り、②隣り合う二つの数の入
れ換えという誤りを検出できるのです。
その理屈は 11 で割った余り、つまり、0 から 10 まで
の数に(ふつうの数の掛け算や足し算を用いながら、こ
れらとはちょっと違う)
「足し算もどき」や「掛け算もど
き」を考えることで、明快に説明できます。さらにいえ
ば、11 で割った余りの、例えば、3 は「11 で割ったら余
りが 3 である整数のすべてを表す」と思ってみます。こ
のとき、3 はもはや数ではなく「数もどき」です。数学
では「法 11 の剰余類」とよんでいます。
「法 11 の剰余類
の間に足し算や掛け算を定義する!」これが極意です。
そして、11 という数は「素数」です。これがまた、大い
なる力を与えてくれます。
数から出発して、
「数もどき」をつく
るのは、まさしく、
現代の抽象数学の第
一歩なのです。
セミナーでは
ISBN 記号の他に、通
信における誤り訂正についての理論、暗号の理論を紹介
しました。
素数やあまりについて現在確認できる最も古い文献は
かの有名なユークリッドの「原論」です。およそ 2300
年前に彼がこれらの重要性を見抜き、後世に伝えなけれ
ばならぬと思い、書き残してくれたおかげで、現代の暮
らしが保証されているといえば大げさでしょうか。もち
ろん、このたびお話したような「応用」を彼が考えたは
ずはありません。
「数というものを理解するために必要で
-2-
ある」
という論理のみが彼をして書かしめたと思います。
数学が数学の論理に従って発展したことによって理論
が育まれ、一方では、他の科学・技術が発達し、また、
社会の発展に伴い解決されなければならない課題が提示
され、これらが数学の理論を現実に応用させたのです。
数学の研究に皆様のご理解とご声援を心からお願いす
る次第です!
・第 63 回(7 月 5 日) 上野 きより
国連 WFP(世界食糧計画)支援調整官
つの
「アフリカの角」で飢餓と闘う―元信濃毎日新聞記者が
現地から国連 WFP の食糧支援活動報告―:
国連 WFP(United Nations World Food Programme 世界
食糧計画)は、飢餓に苦しむ人々に小麦粉や豆類などの
食糧を配る仕事をしている人道支援組織です。私は3年
前から WFP で働き始め、昨年からは WFP エチオピア事務
所で支援調整官として、主要各国の代表との調整、資金
調達の仕事をしています。
支援して
いる「アフ
リカの角」
と呼ばれる
地域 (アフ
リカ大陸東
端のソマリ
ア全域とエ
チオピアの
一部などを占める半島) は、1千万人余が飢饉や内戦で
飢餓に苦しみ、5人に1人の子供が栄養失調で亡くなっ
ています。
700人の事務所スタッフの中で、唯一の日本人、元
ジャーナリストが現場で見た過酷な現実や世界の中での
日本の立場などを報告します。
・第 64 回(7 月 20 日) マーク・ブライアリー
言語教育センター 外国語准教授
プラス・エネルギー住宅へ:
日本で消費されるエネルギーの 80%が輸入されてお
り、それは主に化石燃料です。消費されるエネルギーの
30%は住宅で使われています。住宅がエネルギーを消費
するのではなく、エネルギーを作るようになれば、経済
にも環境にもいい影響を与えます。自宅を建設すること
になり、
「プラス・エネルギー住宅」を目指しました。技
術的な課題はさることながら、英国人として、日本で家
を建てようとすると、様々な文化の違いを感じました。
英国人は古い家が好きな一方で、日本人は新しい家を好
みます。家を住み替える場合、英国では多くが家屋を売
買して引越しをしますが、日本では新たに建て直す傾向
があります。根本的な違いは、英国では建物は財産とな
りますが、日本ではむしろ土地に価値があり、建物は消
耗品の扱いです。また、セントラル・ヒーティングは、
日本では「おしゃれ」なイメージがありますが、英国で
は一般的な暖房設備です。断熱への関心は、最近日本で
高まっていますが、英国では建設基準によって義務付け
られており、中古住宅に取り付ける場合、補助金が出ま
す。
このような
文化的な違い
がある中、英
国と日本の施
主の間に、多
くの共通点が
ありました。
どちらも低予
算で、冬暖か
く、夏涼しい、湿気がこもらず、ランニグコストがあま
り掛からない家を望みます。両者とも収納が多く、掃除
が楽なデザインを望みます。日本の住宅は狭い印象があ
りますが、英国の平均面積と比べて、実際は若干広めで
す。持ち家率は両国6割以上、ロンドンと松本なら一年
間を通して暖房は同じ程度必要です。
住宅の暖房要求を最低限にするためには、壁・屋根・
基礎に断熱を設け、暖かい空気が逃げないよう気密性を
高め、自動熱交換気の設置が必要となります。窓の設定
と性能も重要であり、窓の性能がよければ、寒い松本で
も冬期間日の射取得は窓からの熱損失を上回ります。日
本の伝統とは言い難いものの、アルミサッシが多く普及
されており、樹脂や木造サッシに比べると、アルミの熱
伝導率はそれらの 1000 倍以上です。つまり、冬に熱を損
失しやすいのがアルミサッシの特性です。日本にも窓性
能の改善に務めているメーカーがありますが、今回は輸
入窓に頼りました。
高断熱高気
密、自動熱交
換機、性能の
高い窓の使用
によって、ド
イツのパッシ
ズハウス基準
を満たしまし
た。さらに太
陽光発電を使
用して、家の消費電力の 2 倍を超える電力を発電してい
ます。去年真冬2週間家を空けましたが、暖房なしで、
最低室温は 18 度でした。
省エネ住宅について英語のブログはこちらです:
http://minuszeroeco.blogspot.com/
私の研究Ⅹ
障害のある子供の教育について
庄司 和史
教職教育部門 教授
はじめに
私は、約 27 年間、障害児学校(聾学校)の現場で教員
として働いたあと、6 年ほど前に大学の教員になった。
大学を卒業して聾学校の教員になったときは、まさか自
分が大学で研究をするような職に就くとは夢にも思って
いなかったし、絵に描いた餅のような無味乾燥な研究に
は、興味も関心もなかった。しかし、研究の面白さを感
じ始めたのはそれほど年をとってからではなく、学校の
現場に立って間もない段階だったとも言える。それは、
授業研究であった。
私は、実践としても研究領域としても、聴覚に障害の
ある子供の幼児教育が専門である。子供の聴覚障害は、
言葉の発達に大きな影響を与える。そのため、早期から
の言語指導が不可欠になる。しかし、幼児の発達段階の
特徴を考えると、大人の失語症のリハビリテーションの
ような言語訓練を行っても効果はない。幼児の言語指導
は、遊びを中心とした保育活動や日常の生活行動の中で
行われる。日常の中でどのように言語発達を促すかが重
要な授業研究のテーマとなるのである。この実践的研究
は現在も全国のいくつかの学校とコラボして研究を進め
ている。
また、聴覚障害児の言語指導に当たっては、基礎的な
環境整備の問題が生じてくる。その一つが、聴覚補償の
問題である。子供の聴覚障害の多くは、補聴器の装用に
よって障害の程度がいくらか改善される。視力の低下を
眼鏡で補うような訳にはいかないが、飛行機の爆音がや
っと聞こえるような程度の重度の難聴でも、補聴器を装
用すると近くの人間の声が何とか聞こえるまでにはなる。
言語発達にとって人間の声が聞こえるかどうかは重要な
課題である。こうした補聴器装用にかかわる、聴力検査
の方法や補聴器の調整方法、幼児への装用習慣指導、保
護者支援等々が、私にとって授業研究と並ぶ実践的研究
のテーマである。
この聴覚補償については、もう一つの研究テーマと関
連する。学校現場での経験の後半、私は、乳幼児の教育
相談の担当者となった。これは、病院で早期に障害が診
断された乳幼児の早期療育を担当する部署で、聴覚障害
児教育を行う聾学校では、古くから教育相談として組織
化されてきた。私が担当になった時期は、ちょうど医学
的に新生児段階で検査できる新しい方法(新生児聴覚ス
クリーニング)が導入された時期で、私は、医療機関と
教育機関を結ぶ連携の窓口としてたくさんの経験をさせ
てもらった。この時期に、医療国家資格である言語聴覚
士を取得し、修士の学位も取得したが、私の修士論文の
テーマである「0 歳段階での補聴器装用支援」は、現在
-3-
も、教育に重点を置いた研究としては、それほど多くの
専門家が存在しない分野とも言えるかもしれない。
こうした 27 年間の現場経験で、私は、たくさんの障害
のある子供達と出会ってきた。また、その両親、家族と
かかわってきた。
教育は、そもそも専門領域のない分野だとも言える。
人間の発達のことならどんなことでも必要になる。私が
携わってきた聴覚障害の幼児教育も、聴覚補償の側面か
ら言うと、音響学や電子工学の知識も必要になるし、心
理学も社会学の視点も必要になる。文部科学省の指定を
受けてカリキュラムの編成研究も行ってきたし、厚生労
働省の調査研究にも加わった。必要なことは何でもしな
ければならないのが、教育の実践研究とも言える。
その中で、私の経験してきたことは、聴覚障害教育と
いう一部の分野を通してではあるが、小さく細かい部分
に着目するのではなく、人間の発達と教育との関係、発
達における心理的な問題、人間と人間の関係づくりの問
題、そして人間の障害の問題というように、全体的視点
から人間や教育について考えることにつながる。そのこ
とが、今の研究テーマとも言える。
以下、障害の理解、人間の発達、発達と教育の関係、
について、今考えていることの一端を述べたい。
は、若いときに自分の障害について「五体不満足」とし
て著し、障害のある当事者が自身の障害のことを語る当
事者研究の草分け的な存在である。そうした社会的に有
名になっている人たちはごく一部だと思われるかもしれ
ないが、障害のないと言われる私たちだって、社会的に
有名になるのはごく一部だということを考えると、何も
変わらない。
私は、30 年近い学校教員としての期間の中で、多くの
障害のある子供達と出会ってきた。若い頃に出会った子
供達はすでに成人し、社会の中で働いている。Y くんは、
子供の頃から「お花屋さんになりたい」と言っていた優
しい男の子だったが、今は、本当にフラワーデザイナー
になり、ある地域の大きな空港ロビー内のフラワーデザ
インの中心的な存在になっていると言う。同じ学年だっ
た T くんは、障害者のサッカーチームでたくさんの仲間
と共に生き生きと頑張っている。R さんも、小さい頃か
らの夢を叶え保育士になった。ついこの前、結婚したと
写真を送ってくれた。現在、小 4 になった G くんは、妊
娠 6 ヶ月 600g の早産で生まれた。ずっと入院生活をし、
いくつかの障害が発見され満 1 歳の時に私のもとに訪れ
た。様々なことがあってご両親も大変な思いをしながら
一生懸命育ててきたが、今は、学校大好きな生活を送っ
ている。
障害のあることは、
決して不幸なことではない。
第一、
今は長寿社会、誰だって長生きすれば障害になるわけで
ある。不幸だと決めつけては、
「高齢者は皆不幸」という
ことになってしまい、長生きすることは不幸なこととい
うことになってしまうだろう。障害のある子供を育てた
親も、障害が発見されたばかりの頃はショックで悲しみ
に暮れるが、育てていくうちに、子供を育てる喜びに満
ちていくと言う。不幸だと思っているのは誤解なのだ。
障害者になりたくないという思いは、私たちの無知や想
像力の欠如が生んでいる思いなのではないか。
それでは、障害を理解するということはどういうこと
なのだろうか?
私たちが誰か他人を理解していく過程を考えると、そ
れは、自分と同じ部分と違う部分を少しずつ発見してい
くということでもある。例えば、初めて出会った人と人
は、最初、まずお互いに「私は○○です」
「私は△△です」
というように名乗り合う。一方が名乗ってももう一方が
名乗らなかったら、それ以上の関係はできていかない。
逆に片方が名前を名乗っただけなのに、もう一方がベラ
ベラと自分のことを旧知のように話し出してしまったら、
それも普通の人間関係とは言えなくなる。お互いに少し
ずつ近づいていくのが人間関係で、その近づきの中で、
自分と同じ部分や違う部分を発見していく。この「同じ」
と「違う」の発見の積み重ねが、人間関係の深まりであ
り、他者理解の過程なのだろう。単に、相手のプロフィ
ールを1から10まで調べ上げて知識として獲得していて
障害理解の基礎(障害とは何か)
私たちは、障害についてどんなイメージを持っている
だろうか。素朴に考えると、私たちは、例えば、健康で
いたいと思っており、障害者にはなりなくないと思って
いる。そういう考えは、病気は嫌だということと同じか
もしれないが、病気はだいたい薬を飲んだり、点滴をし
たりして治療を行えば、まあ治るのではないかと期待し
ているので、患ってしまえばまあ仕方ないと思って、受
け入れるところはある。
しかし、
障害はそうはいかない。
障害は、治らないから「障害」なのだ。もしも障害者
になったら、仕事を失うかも知れないし、学業を続けら
れなくなるかもしれない。何より、今の日常の行動がで
きなくなってしまうかもしれない。だから、そんな状態
になるのはゴメンだと思っている。つまり、心のどこか
で「障害は不幸」だと思っている。そういう思いが心の
奥のどこかにある。
一方、私たちは、実際に障害のある人は不幸なのかと
いうと、そうではないだろうとも考えている。世の中に
は、障害のある人がたくさん活躍し、堂々と自己実現し
ている。
例えば、
ピアニストで作曲家の辻井伸行さんは、
生まれつき目が見えない視覚障害があるが、世界的に有
名なピアノコンクールでグランプリを獲得し、その後、
世界中で活躍している。若手のピアニストとして世界中
から期待されている。
また、
ダウン症の金澤翔子さんは、
書家として活躍しており、
数年前の NHK の大河ドラマ
「平
清盛」の素晴らしい題字を見せてくれた。乙武洋匡さん
-4-
も、それは、その人を理解していることにはならない。
障害を理解することも同じように考えることができる
のではないだろうか。障害についての詳しい情報を知識
として知ることも必要かもしれないが、それは、理解の
一部に過ぎない。障害のことを人間のこととして、でき
るところと制限されているところ、つまり、障害があっ
てもなくても「同じ」であるところと、
「違う」ところが
あることを、一つずつ一つずつ確かめていくことが障害
の理解なのではないだろうか。
人間関係がどこまでいっても終わりがないように、障
害の理解も永遠に続くのである。
「同じ」も「違う」も、
年を重ねたり環境が変わったりすると当然変化する。変
化のたびに新たに知ることが求められていく。そのよう
に考えると、障害のある人と出会ったり、自分自身の老
いと立ち向かったりすることも楽しみになるとも言える
のではないだろうか。
人間の発達について
人間の発達というと、素朴に考えると、生まれてから
だんだん大きくなること、と言うことができるかもしれ
ない。しかし、心理学的に「発達」は定義されている。
即ち、
「生命の誕生から死亡までの、体や心の構造・機能
に生じる連続的、または斬新的な変化」ということにな
る。文献によって表現は異なるが、大まかにまとめると
このようになる。この 1 行程度の文章の中にはいろいろ
な意味がこめられている。
まず、「生命の誕生」
である。これは出生から
始まるのではないという
意味がある。精子と卵子
が受精する生命の誕生が
発達のスタートであると
いうことである。右の写
真は、胎児が指しゃぶり
をしているところである。
よく見られる指しゃ
ぶりは、2 歳とか 3 歳の
幼児の段階で、何かの欲求を満たすために習慣化してい
る姿である。母乳をやめたときなどに始まるケースも多
く、幼児期の後半になっても、夜に寝付くときにこの習
慣が残ることも多い。つまり、後天的なものととらえら
れている。ところが、外界とはほとんど接点のないはず
の胎児が指しゃぶりをしているのである。環境からのス
トレスがそれほどあるわけではない段階で指しゃぶりが
見られるのである。環境からのストレスに対応するため
の「指しゃぶり」は、胎児の段階から、つまり生来もっ
ている行動であるわけである。母親のお腹の中で、やが
て訪れるストレス解消法を練習しているとも言えるわけ
である。
-5-
また、発達は、
「死亡」まで続くものであると定義され
ている。何か小さいものが大きくなることを発達と考え
ていると、この概念はなかなか理解が難しくなる。しか
し、変化することが発達だとすると、筋力が衰えたり、
耳がきこえにくくなったりする加齢による変化も、発達
の一部だということができる。このような話をすると必
ず「認知症も発達なのか」と質問される。そうした変化
全般が発達ということになるのである。つまり、総合的
に考えると、身体的な変化に適応する精神的なものは、
質的には加齢と共に高まっているとも言えるのである。
つまり、人間は、総合的に成長し続けている。これが、
「体や心の構造・機能に生じる」変化である。
また、発達は、
「連続的」または「斬新的」な変化であ
ることが定義に示されている。連続的な変化とは、例え
ば、子供の身長や体重の成長のようなものである。発達
には、
数値で表すことができるものも少なくない。
一方、
例えば、大きくなったらなりたいものは何か、というよ
うな問いに対しての答えを見ると、小学校低学年の男子
などは、プロ野球の選手だとか J リーグの選手といった
スポーツ選手がトップになるのに対し、中学生くらいに
なるとそうしたものはグンと順位を下げ、現実的に考え
るようになってくる。
このような質的な違いが出てくる。
こうした質的な発達は、連続的な視点では捉えることが
難しい。どこかの段階で「斬新的」に変化するものとと
らえられる。この質的に側面に焦点を当てて表されたの
が発達段階という考え方である。
発達段階は、どの領域に焦点を当てるかによって様々
な説がある。エリクソン(Erikson, E, H.(1902-1994))
は、人間の自我の発達に焦点を当て、発達は環境との相
互作用の中で起こるものとした。人間は、生涯発達し続
ける存在であり、前段階の発達課題を達成して次の段階
へ進む漸成発達をするとし、生涯を 8 つの漸成的発達段
階に分けた。各段階では心理・社会的危機があり、この
葛藤を経験して発達をしていく。
例えば、人間は最初に経験する葛藤は、
「基本的信頼感
vs 不信」である。生まれたばかりの子供は自力では移動
も栄養の摂取もできない存在である。育児を行う親は
100%子供の欲求に合わせていく。この間、子供にとって
は、自分の要求をかなえてくれる親の存在に気づいてい
く。そして同時に自分の要求をかなえてもらう経験を通
して、
自分の要求は正当なものであることを知っていく。
ところが、そこには、必ずしも 100%かなえられない事
情が生じてくる。例えば、生活習慣の育成とか、しつけ
という行為が必要になるため、もっと遊びたいと思って
も遊んでもらえない、お腹がすいたと訴えても叶えられ
ない時間が出てくる。信頼感を得るということはこうし
た不信を伴いながら葛藤した結果ということになる。
同じように、1 歳から 3 歳に起こるもっとも大きな危
機は、
「自律性 vs 疑惑」
、3 歳から 6 歳の段階では「積極
性 vs 罪悪感」
、6 歳から 12 歳では「勤勉性 vs 劣等感」
というように位置づけられる。
こうした人間の発達は、環境からの影響が大きいこと
は当然のことである。人間は、ある限られた側面では遺
伝的な要素が大きくかかわるが、全般的に見ると環境に
よって発達を遂げている。
例えば、生まれて 1 ヶ月ほどすると赤ちゃんはさかん
に声を出すようになる。この発声は、よく聞くと「アー」
とか「クー」とかと聞こえる気もするが、なかなか文字
で表すことができないような発声で、初期喃語(クーイ
ング)と言われる。実は、この初期喃語は、耳のきこえ
ない重度の難聴のある子供でも発することが観察されて
いる。つまり、自分の声を聞いたり、周りの声を聞いた
りしなくても初期喃語が見られるわけである。その後、
生後 7,8 ヶ月頃になると、今度は、
「ンマンマンマンマ」
「バブバブバブ」といった連続的で反復性のある発声が
始まる。これを後期喃語とか規準喃語(バブリング)と
言う。
初期喃語はどんな赤ちゃんにも見られたのに対し、
この後期喃語は重度の難聴の子供には見られない。つま
り、初期喃語と後期喃語の質的な変化の中間に過渡的な
段階が存在し、この段階で、周囲からの声や自分の声を
聴覚で聞くという環境からの学習が関与していることが
示唆されるわけである。
この過渡的段階を観察した江尻(2000)によると、こ
の時期に発声と共に手足の同期運動が見られ、徐々に発
声のみの運動に分化していくとされている。つまり、脳
からの筋肉運動への指令が曖昧な段階では発声と手足の
運動が同期するが、音を聞くことによって学習が重ねら
れ指令が分化していく。黄ら(2002)は、重度の難聴児
でも 8 ヶ月以内に補聴器等を装用して適切な療育環境を
整えればこの後期喃語が始まることを示している。庄司
の調査でも同様のことが保護者の観察記録から示された
(庄司他,2006)
。
障害がある子供でも適切な環境からの働きかけによっ
て同じように発達が進むということが言えるわけである。
発達と教育の関係
絵を 3 枚示す。いず
れも 3 歳の子供が描い
た絵である。1 枚目の
絵は自由画である。こ
のような絵は、
よく
「宇
宙人画」と言われ、顔
から手足が直接出てい
たりする。絵の発達段
階では「命名期」とも言われる。顔のような絵を描くが、
「これは誰?」と尋ねると、あるときは「ママ」で、別
のときは「パパ」になったりする。
2 枚目の絵も同じような時期の絵で、顔を描いていた
-6-
にもかかわらず、気
分が変わって目や鼻
や口にいろいろなク
レヨンで色を塗り始
めたりする。保育者
は、一番いいような
段階でさっと「上手
にかけたね」
「お片付
けしよう」などと切り上げさせることで、こうした絵を
「完成」させていく。このタイミングを逸すると、せっ
かくの絵が他の色で塗りつぶされてしまったりする。
3 枚目の絵も同じ
ような時期に描かれ
ているが、前の 2 枚
の絵とは、明らかに
異なって見える。こ
れは、
「カメ」を描い
たものである。これ
を描いた子供の幼稚
園には大きなカメがいた。手に持てるようなカメではな
く、大きな柵の中で飼われている幼児にとっては巨大な
大きさである。
ある日、
年少の子供達はこのカメと遊ぶ。
先生に抱きかかえられながら甲羅を触ってみたり、えさ
を与えたり、様々に体験する。たくさんカメと遊んだあ
と、先生は「おしまいだよ、お部屋に入って」と声をか
け、子供達は、手をきれいに洗い、部屋着に着替える。
そこで、先生に声をかけられるわけである。
「さあ、カメ
の絵を描こう」と。そこに用意されていたのは、大きな
画用紙、大きな筆、たっぷりの墨の入った器。子供達は
白い画用紙に墨で一気にカメを描いた。それがこの作品
である。
どのような環境を用意し、どのような体験をさせ、ど
のような活動を行うかによって、子供の表現は大きく変
化するのである。
同じことがことばの発達の中にも表れる。
「一年一組せ
んせいあのね」
(鹿島和夫・灰谷健次郎)理論社 1981 年
から子供の詩を抜粋する。
でんでんむし
でんでんむしが
あめにむかって
のぼっていきました
こうした作品は、子供に表現を丁寧に拾っていく教師
の活動によって支えられる。同じように、
おとうさん
おとうさんのかえりがおそかったので
おかあさんはおこって
いえじゅうのかぎを
ぜんぶしめてしまいました
それやのに
あさになったら
とうさんはねていました
害児は加わることができないのだ。しかし、知的障害が
ある子供達も、人間として同じように発達し自己実現し
ていく。平均的な水準の知能を持っている者に比べると
著しく低い知能の発達かもしれないが、その自分の知能
を最大限に使って人生を生き抜いている。
教育の役割は、
本当はそこのところにある。このことを見失うと、教育
は間違った道に進む。
自分の考えや心の動きを文章で表現するという学習が
どんどん展開されていくのである。それは、次のような
作品を生み出していく。
おわりに(障害児の教育をめぐる状況)
現在、日本の障害児教育は、特別支援教育というシス
テムで制度化されている。しかし、この制度に転換され
たのはわずか 7 年前で、課題は山積している。世界は、
「障害者の権利条約」に基づき、ノーマライゼーション
の思想に基づいたインクルーシブな教育システムへの転
換を求めている。日本の特別支援教育も同じ方向性をも
ってはいるが、変化のスピードは極めて遅い。障害のあ
る子供も地域の学校で普通に学習ができるシステムが必
要になるが、未だに障害を理由とした排除の現状が様々
なところで見られている。大学の現状にも同じようなと
ころがないとは言えない。障害児と普通児を分けて考え
る意識、障害があるかないかで分離する意識は、ノーマ
ライゼーションの思想とは相反している。
「障害児を普通
の学校に入学させる」というのはインクルーシブではな
い。そもそも、すべての地域には障害のある人もない人
も含まれているという姿が「普通」と考えるのがノーマ
ライゼーションであり、この理念に基づくのがインクル
ーシブである。一緒に学習し生活するためには、どのよ
うな支援が必要かを考えることが必要なわけである。
一緒に学習し生活するために考えなければならないこ
とに、
「バリアフリー」がある。一般的にバリアは、物理
的バリア、制度的バリア、文化・情報面のバリア、意識
上のバリアの 4 つに分類されている。例えば、スロープ
の設置は物理的バリアへの対策である。特定の障害に対
して一律にある資格の取得を認めないというようなこと
が制度的バリアである。視覚障害や聴覚障害の人だけが
得られないような情報提示は文化情報面のバリアとなる。
そういうように考えると、この大学の教育システムとか
入学選抜システムとか、あるいは施設設備などは、バリ
アだらけではないかと感じる。また、何より、私たち自
身の意識はどうだろう。障害のある学生が入学し、授業
を受けていることに差別意識を持っていないか。このこ
とについて、大いに自らを省みる必要があると思う。
おとうさん
おとうさんのしゃしんがあるから
あさになったら
「おはよう」といいます
よるになったら
「おやすみなさい」といいます
いもうともあかちゃんもおかあさんも
てをあわせます
おとうさんはなんにもいいません
解説によると、これを書いた児童の父親は、数ヶ月前
に突然の事故で亡くなったという。この子にとってどん
なに悲しい出来事だったか。それを文章で表すことはこ
の子にとってどれくらい辛いことだったろうと思う。し
かし、教育の役割は、このことをしっかりと自分の中で
消化させ、その辛さを乗り越えていくことを助けること
である。そういう力をつけることである。そのために、
悲しさをしっかりと文章で表現させようとする。このこ
とを通して、この子は、少しずつ悲しさを乗り越えてい
くことができる。こうした教育活動によって子供は成長
していくのである。
こうした発達の原理は、障害があっても何ら変わるも
のではない。このことが、障害のある子供の教育の基本
にある。
発達には教育が関与するということは、当然のことで
あるが、上に述べたように、絵画という表現の発達やこ
とばの発達を見ていくと、その教育の成果が、あたかも
知識の獲得、あるいは、学力の向上であるかのようにと
らえるのは、ごく一面を見ているに過ぎず、間違いであ
ることが分かる。知識の獲得や学力の向上は、単なる結
果に過ぎないとも言える。学力が高い方が人生の選択肢
が広がるなどというのがキャリア教育であるかのように
もっともらしく語られることもあるが、これも間違いで
ある。それぞれの知識や学力を使って何をするかが問題
なのである。少ないなら少ないなりの知識を使えるし、
低い学力だって自分の人生に役立たせて,社会に十分貢
献することができる。
一例であるが、知的障害児は学力テストを受けさせて
もらえない。世界中で競われている学力テストに知的障
江尻桂子(2000)乳児における音声発達の基礎過程.風間書房
黄麗輝他(2002)前言語期における健聴児と先天性高度難聴児の音
声の発達に関連する因子の統計学的研究.音声言語医
学,43(2):125-133.
庄司和史他(2006)聴覚障害の早期発見に伴う 0 歳からの補聴器装
用への教育的支援.特殊教育学研究,44(2),127-136.
-7-
スポット・松本平タウン情報寄附講義について
矢崎 幹明
タウン情報編集長(常務)
新聞が読まれなくなっている、
とりわけ若い世代に―。
本も含めた「活字離れ」はもう何年も前から指摘されて
きたことですが、新聞社にとっては全国紙、地方紙を問
わず、発行部数の減少にもつながりかねない頭が痛い問
題なのです。この背景にはインターネットや SNS の広が
りなど、メディアの多様化があるといわれています。
若者たちに新聞を読み、新聞に親しんでんでもらうた
めにはどうしたらよいのか。
「新聞論」を言っても始まら
ない、実際に作ってもらったらどうか。そんな思いから
始めたこの講座は、5 年になりました。
「新聞とは何か。長所と短所は」の基本的な話から始
め、資料収集や取材のノウハウ、記事の書き方、報道写
真の撮り方など主に実務について勉強してもらいながら、
学生たちがグループ(または1人)に分かれ、話し合い
でテーマを決め、実際に取材・執筆を行っています。
今年は 17 人が受講し、4 つのグループで記事を書きま
した。その結果は、松本平タウン情報に 7 月 20 日付から
8 月 1 日付まで 2 ページずつ計 4 回掲載されました。
(1)工芸の街を探る(5 人)
毎年 5 月に松本市で行われる「クラフトフェアまつも
と」は、今年も大賑わいでした。
「工芸の街」として定着
した感のある松本は、なぜそれが発展したのか、そんな
疑問から出発し、柳宗悦、丸山太郎ら民芸研究家の努力
によって強まった松本と民芸のつながりを解き明かし、
将来のあり方も探りました。
(2)太陽光発電の今(3 人)
2 年前の東日本大震災に伴う福島第 1 原発事故を契機
に高まった自然エネルギーへの関心。その中で、最も身
近な存在と言える太陽光発電に焦点を当て、太陽光発電
パネルが松本市内の一般住宅にどれほど普及しているか
を調査し、電力買い取り制度など今後の普及の課題につ
いても取材しました。
(3)電車の旅の味わい(5 人)
信州の魅力の一つである観光に興味を持ち、電車にゆ
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かりが深い中信地方の観光に的を絞りました。2 班に分
かれ、松本駅から約 1 時間で行ける奈良井宿を訪ねると
ともに、電車の旅の楽しみでもある「駅弁」について、
松本駅で売られている「山賊焼弁当」
「とり釜めし」など
を取り上げました。
(4)留学生との交流(4 人)
信大では日本人学生と外国人留学生がどう交流してい
るかを知りたいと考え、松本キャンパスで日本人学生
206 人、留学生 44 人にアンケート調査を行いました。日
本人学生、留学生とも交流をもっと進めるべきだと考え
ている人が大多数。取材ではチューター経験者や交流推
進サークルの関係者にも話を聞きました。
以上が各グループの取材概要です。
新聞は、事実を正確に伝えるメディアのため、多くの
人に取材をしなければなりません。週 1 回の講座(1 時
間半)の時間内に、取材先との時間調整を行って取材す
るのはほとんど不可能です。授業のない時間を見計らっ
て行ったり、土日や夜間を利用したり、各グループで工
夫が見られました。授業時間外にも取材活動をしなけれ
ばならない難しさを持っているのが、この講座の特色で
もあります。
講座の最終回にはまとめを行い、一人一人から新聞作
りを振り返ってもらいました。
「限られた長さで記事を書
くのは大変」
「客観性が求められる記事の書き方は難し
い」などの意見もありましたが、自分の書いた記事が紙
面になり、
「良い経験になった」と感じた学生が多かった
ようです。
ゼロからの出発で、自ら調査・取材をし、簡潔で分か
りやすい記事にまとめることは、これからの学生生活に
もプラスになるのではないでしょうか。
新聞制作は取材・執筆に加えて、紙面に見出しをつけ
たりレイアウトをしたり、新聞社で言う「整理」の仕事
があります。本来なら、整理まで勉強してもらえば良い
のですが、残念ながら、大学とタウン情報社の場所が離
れていることもあって、実現できていません。
「せめて会
社(整理の現場)の見学だけでも」との声があり、今後、
課外の講座を計画するなど持ち方を考えていきたいと思
います。
スポット・市民タイムス寄附講義について
新保 裕介
市民タイムス専務
ました。今や「時代遅れ」ともなった新聞に関する講義
にもかかわらず、
約 30 人の意欲的な学生の皆さんが集ま
ってくれたことに勇気づけられました。
第 1 節のタイトルは「新聞と地域社会」
。計 4 回の講義
で、新聞の歴史や役割、新聞業界の現状などについて、
文献や客観的なデータを示しながら解説しました。ポイ
ントを置いたのは「報道の使命」に関する部分で、国民
の「知る権利」に応え、権力の暴走・不正をチェックす
るという新聞社(新聞記者)の仕事が、民主的な社会の
実現に欠かせないということを強調しました。
怪しげな情報が多く流れるネットの世界とは違い、新
聞社では訓練された記者が確かな取材源を基に記事を書
いています。これが情報の信頼度を担保しており、デジ
タル時代になっても新聞が大きな影響力を保持している
源泉ともなっています。さらに、各記者は「権力の横暴
は許さない」
「弱者の味方でありたい」といった正義感を
胸に秘めて仕事に打ち込んでおり、これが公正で暮らし
やすい世の中の実現に向けて大きな役割を発揮している
という点にも目を向けてもらいました。
第 2 節では「地域紙を読み解く」と題して、計 7 回に
わたって市民タイムスの紙面を検証しました。幼稚園の
運動会や公民館の健康講座といった小粒の話題であって
も地域紙にとっては重要な取材テーマであり、それらを
伝えることによって笑顔が広がり、地域の絆も深まると
いうことを理解してもらいました。
事件や事故が発生した場合の対応や、高校野球をはじ
めとするスポーツ取材の舞台裏などにも触れて、新聞づ
くりの雰囲気を感じ取ってもらうようにも努めました。
一線で活躍している若い記者やカメラマンがゲストスピ
ーカーとなり、自らの体験を紹介しながら仕事への熱意
を語る場面もありました。
第 3 節は「新聞づくりを覗いてみよう」
。実際の市民タ
イムス紙上に寄附講義に関する特別紙面を掲載すること
を最終目標に、記事の書き方や紙面レイアウト(割り付
け)の基礎などを実戦的に講義しました。
実際の特集紙面では、市民タイムスの社員が記事執筆
と紙面割り付けを担当しましたが、その基になったのは
講義で学生の皆さんから提出されたレポートでした。全
員の集合写真をあしらって完成した紙面には、将来の夢
や希望、松本地域への注文といった思いがつづられ、若
者らしいエネルギーに満ちています。
寄附講義を通じて学生の皆さんが、現代社会の諸課題
に関する知見を広げるとともに、活字に接することの楽
しさに触れられたとしたら、新聞社に勤める者として、
これ以上の喜びはありません。講義が円滑に進むよう親
切に導いてくださった担当教官の松岡俊裕先生にも深く
感謝申し上げます。
ありがとうございました。
以上です。
市民タイムスは松本市に本社を置く地域新聞社です。
昭和 46(1971)年の創刊で、松本市を中心とする長野県
中信地方のニュースや話題に特化した紙面づくりが特長
となっています。
「地域の応援団」をモットーにして、笑
顔があふれる元気な郷土づくりを願いながら、
「タブロイ
ド判」という小さなサイズ(通常の半分)の新聞を日々
発行しています。
世界のあちこちで、いま新聞は大きな試練に直面して
います。インターネットの普及に伴って、パソコンやタ
ブレット端末、スマートフォン(多機能型携帯電話、ス
マホ)といった電子ツールで各種情報にアクセスする人
が急増し、かつては情報メディアの中核にいた新聞が、
その地位を脅かされているためです。
日本でも、平成 12(2000)年に約 5370 万部だった新
聞の総発行部数が平成 24 年(2012)年には約 4777 万部
と約 11%も落ち込みました。これに伴って新聞の広告売
上高も低迷を続けており、世の中には「紙の新聞は、い
ずれ消え去る運命にある」という極端な悲観論さえ出て
います。
確かに電子ツールは便利ですし、インターネットへの
入り口となるポータルサイトにアクセスすれば大きなニ
ュースや注目のトピックスなどを無料で素早く知ること
ができます。わざわざ購読料を払って紙の新聞を手に取
らなくても、日常生活には困らない時代になりました。
しかし、新聞社に勤務する私たちは、まだまだ新聞の
魅力や役割は薄れていない、と考えています。むしろ、
安全で暮らしやすい民主的な社会づくり・地域づくりに
向けて、新聞の存在はますます大きく、重要になってい
ると信じています。
こうした信念を若い人たちに伝え、新聞を通して社会
の諸相を理解してもらえれば、地域発展の一助になるの
ではないか。信州大学全学教育機構で市民タイムスの寄
附講義を開設することが決まったときに、このような期
待が膨らみました。
寄附講義「地域における新聞の役割」は 4 月から 7 月
までの計 15 回で、全体を 3 つの「節」に分けて話を進め
-9-
チ ャ レ ン ジ 教 育 10
体育・スポーツで得られる「気づき」
速水 達也 健康科学教育部門 講師
学生に、体育・スポーツの授業に対するイメージを聞
くと、
「面白い」
「単位をとることが容易」
「リフレッシュ
できる」などの意見が多く聞かれます。喜ばしいと思え
る意見もあれば、どうにか問題を解決しなければならな
いと思える意見もあります。私は、そういった意見に、
運動の興味深さや難しさに対する「気づき」が加わって
欲しいという想いがあります。ここで、当たり前のよう
に実現している身体運動がどれだけ高尚な出来事である
かを理解することを目的にすると、物事の現象を捉え、
そのメカニズムを解明する一連の流れを簡易的に設定す
ることができます。少し言い過ぎかもしれませんが、あ
らゆる学術研究分野に進むための良い準備段階を構築で
きると考えています。
これらを背景として、私は、運動の複雑さを紐解き、
運動能力の向上を目的とした運動の仕方について実践的
に体験してもらうべく授業を展開しています。
ここでは、
そのうちのいくつかをご紹介します。
○自発的に考え、調べ、まとめる
「身体運動科学ゼミ」という授業では、受講生各自が
自分でテーマを決定し、それについて調べ、まとめ、プ
レゼンテーションする練習を行っています。
先に述べた、
物事の現象を捉え、それに対するメカニズムを探るとい
う一連の流れに加え、最終的にそれをまとめて他者に伝
えるというところまでを練習します。学生は、それぞれ
自分の経験や現在の環境に基づいてテーマを設定するた
め、必然的に背景や仮説に説得力が出てきます。
○座学のみでは理解しきれない「運動」の複雑さ
運動の仕方を考える上で重要なことは、現象を構成す
るどの要因に焦点を当てるかということです。
「コオーデ
ィネーションエクササイズ」という授業では、焦点を当
てた要因に対するアプローチの仕方を学生に考案しても
らい、それを受講生全員で実践する演習形式を採用して
います。
受講生のほとんどが教員免許取得志望ですので、
教育現場で生徒を対象とした際に使用できる、オリジナ
リティを有した教育手法を習得してもらう良い機会にな
っているようです。写真は、実際に学生が考案した新た
なストレッチ方法です。大きなボールを持ち、それを落
とさないように身体を側屈(横に倒す)しながら隣の学
生に渡していきます。ボールを落としたら最初からやり
直します。2 グループ同時に行います。これによって、
参加者はゲーム性が反映された中で柔軟ができるという
仕組みにしたそうです。このように、目的を達成するた
めの手法を考え、他者に説明し、実践してもらうという
流れを全て学生に任せています。当然ですが、適宜、助
言および方向性の誘導は行います。
○おわりに
初年次教育の段階では、
「経験する」ことが再優先事項
であると考えています。
「百聞は一見に如かず」と言いますが、私は「百文は
一験に如かず」という言葉を授業の中で使用します。論
文や著書を読み込み、
知識を増やしていく事は重要です。
しかしながら、特に体育・スポーツの分野においては、
自分で実際に体験してみない限り、知識を反芻すること
ができないと考えています。経験から生じた疑問点や、
日頃無意識的に理解している現象を少しアレンジして再
認識する。ことのような流れを取り入れられる事が、体
育・スポーツらしさであり、身体運動に対する「気づき」
をもたらす良いきっかけになればと思います。
☆
編集後記
☆
☆
☆
☆
信州大学全学教育機構ニュースレター
第10号
2014年4月30日
編集:SGE 広報・情報委員会
発行:信州大学 全学教育機構
School of General Education、SGE
〒390-8621 長野県松本市旭 3-1-1
本ニュースレターの編集長に当たる松岡先生(広
報・情報委員長)が体調を崩されて、急遽、委員長交
代で鈴木が任を受けました。今後は読者ならびに執筆
者の方々にはよろしくお願いします。執筆者の方々か
らはすでに受け取っていましたのに、原稿の発行まで
がたいへん遅れてしまい、ご迷惑をおかけしました。
みなさんのご意見をお待ちしています。
URL:http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/general
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