...

金の星 ∼インカ終焉の女神∼ (第一部)

by user

on
Category: Documents
22

views

Report

Comments

Transcript

金の星 ∼インカ終焉の女神∼ (第一部)
金の星 ∼インカ終焉の女神∼ (第一部) yamayuri
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
金の星 ∼インカ終焉の女神∼ ︵第一部︶ ︻Nコード︼
N2494BW
︻作者名︼
yamayuri
︻あらすじ︼
インカ帝国末期。平穏に思えた国内で次々と不思議な現象が起き
ていた。ある晩、月のまわりを囲むように丸い虹が三重にかかった。
神官たちはその現象を何度も占うが、すべて凶兆を示したのだ。 ■■■■■ その十二年前、首都クスコでは不思議な女の子が産声
を上げていた。褐色の肌に黒い髪の民族の中で、その子は透き通る
ような白い肌と薄蒼の瞳。そして何よりも金色に輝く髪をしていた。
やがて国の運命を見定める役目を負うことになるその娘は、成人す
1
ると﹃コリ・コイリュル︵金の星︶﹄と名付けられた。 ■■■■
■ 混乱期にあったインカ帝国、やがて海の向こうから白い人間が
やってきて帝国は一気に崩壊のときを迎える。皇女として生まれな
がらその容姿から数奇な運命を辿らざるを得なかったアルビノの少
女コリ・コイリュルの目を通して語るインカの終焉の物語。 ■■
■■■■■ ︻第一部︼ 幼い頃偶然に出会ったクイとクッシリュ。
淡い恋心を抱いたまま別れたふたりは、成長し敵対する王家の者同
士として再会する。ふたりの想いはなおも強くなるが、やがて国を
二分する戦争が起き⋮⋮。 2
1、 クイ ︵1︶
1、クイ
﹁クイ! クーイー!﹂
伯母の金切り声が、石の壁を奮わせる。四角く切り取られた窓か
らは、目に染みるような藍とも蒼ともとれる空だけがクイの目に映
る。
︵ああ、今日も一日が始まる⋮⋮︶
クイにとっては、そのさわやかな青空さえも疎ましいものに思え
るのだった。乾いた季節はクイを憂鬱にさせるだけだ。高原から吹
き上がってくる赤い埃を、石壁の細かい目地や、長く迷路のような
廊下の隅の隅から取り除いていかなくてはならない。
クイ︵ねずみ︶のように、いつも身を屈めて屋敷中を這い回る。
その名は確かに私にぴったりだ。クイは自分への皮肉に思わずフン
と鼻で笑ってみた。そうやって不満を漏らしそうになる自分を抑え
て立ち上がる。
﹁クーイ!﹂
伯母の声が殺気立って近づいてくる。
﹁はい! ただいま!﹂
クイはともかく返事を返し、慌てて敷き布の横に置いてあるかつ
らに髪の毛を押し込む。黒リャマの毛で作られた波打つような癖の
あるかつらは、被ると頭中がチクチクとする。リャマの癖毛を軽く
指でしごき、その上を鮮やかな色の頭巾で覆えば、もともと漆黒の
髪を持っていたように見える。そしてクイは、ようやくこの国の人
になれるのだ。
3
クイはここに来たばかりの頃よりもかなり手早く身支度ができる
ようになったというのに、どんなに記録を更新しても、支度を終え
て走り出てきたクイに伯母がかける一言は決まっていた。
﹁遅い! いつまでたってものろまな子なんだから!﹂
クイはくちびるを噛み締めて謝るしかない。
︵きっと、伯母さんが起きる前に部屋の前に跪いて待っていたとし
ても、この人は同じ言葉を口にするんだわ︶
クイには分かっていた。だったらせめて伯母に呼ばれるまで、ぼ
んやりと空を眺める時間をもらったほうが得というものだ。
昨日山から強い風が吹いたお蔭で、回廊も中庭も赤く染まって煙
っている。クイにとって風は忌々しいものなのか? いや、かえっ
て積もってもいない埃を掻き出す振りをしながら一日をもてあます
よりはいい。風のお蔭で仕事に充実感がもてる。
サ
クイは俄然やる気になって、掻き出し棒と器を持ってきた。こっ
ラ
てりと目地に溜まった赤土を丁寧に掻き出して器に落とす。とうも
ろこしの毛の束で、石の表面についた土も優しく落としていく。
赤い石が黒く艶やかになっていくのを見て、クイは得意な気分に
なった。
石がきれいになったところで、この屋敷に喜んでくれる者など誰
もいないが、放っておいたら赤い土ぼこりに埋もれてしまうであろ
うこの屋敷を守っているのは私なんだと、クイは自分で自分を自慢
している。クイにはそんな芯の強さがあった。それは堅物の父譲り
なのだろうか。それとも顔もよく覚えていない母の血なのだろうか。
いずれにしても今自分の周りに無条件で守ってくれる存在がいない
彼女には、その持ち前の明るさと芯の強さが大きな味方になってい
ることに間違いはなかった。
壁が艶やかに輝くごとに彼女の顔が赤い埃でまだら模様になる。
4
汗で流れた土がまるで血のように彼女の顔に筋を作る。手の甲でぬ
ぐえば目の周りにくまのような痕⋮⋮。汚れた顔の中で唯一、彼女
の澄んだ泉のような眼は不思議な光を放っていた。
回廊を一周掃除し終えると、太陽は天高く輝いていた。仕事が一
区切りすると急に腹が減ってくる。いつも朝から何も食べずに回廊
の壁と向き合い、宮殿内の人々が優雅な食事をとったあと、残りも
のの干芋にありつけるのだった。
厨房に向かい、飯炊きの召使いに顔を見せる。パパリャという飯
炊き娘はクイに歳が近く、この宮殿で唯一クイを人間らしく見てく
れるのだった。
﹁今日もお疲れだね。特に昨日の大風で仕事が大変だったろうに﹂
﹁いいえ。私は壁磨きが好きだから﹂
トゥープ
朝の憂鬱を達成感に変えたあとのクイの蒼い瞳は、本心から言っ
ていることを証明するように輝いていた。
パパリャは、クイの耳飾りやケープを留める青銅のピンに眼をや
ぞうしめ
って、不信そうな顔をする。
﹁あんたは壁磨きの雑仕女という身分ではないだろうよ。なんだっ
て奥様はあんたにきつい仕事を任せているのかねえ﹂
﹁パパリャ、私の生まれは貴族らしいけれど、身内を亡くした今は
身分など無い身。伯母さんは私を引き取ってくれて養ってくれる上、
こうして母の形見を身につけることを許してくれているわ。それだ
けで十分よ﹂
あまりにも無垢で無知で疑うことすら知らないこの小さな哀れな
娘を、パパリャはしばらく見下ろしていたが、フッとため息をつい
て口の端でせせら笑うような顔を見せた。馬鹿にしているわけでは
ない。クイの純真さに尊敬の念さえ覚える。
パパリャは、甕に残しておいた干芋とジャガイモのスープの器を
クイに押し付けた。
﹁まあ、それだけの覚悟があるならしっかり働くことさ。まずはし
5
っかり食べろ!﹂
パパリャは小さく細いクイの体に合わないようなたくさんの干芋
となみなみのスープをいつもくれる。パパリャがクイに送る精一杯
の友情の印。クイにはとても食べきれない量だが、素直に喜んで受
け取る。
それを持って回廊の隅に腰を下ろし、飼われている本物のクイた
ちや小鳥たちと分け合いながら楽しく食事を取る。クイの一番楽し
みな時間だった。
少し日差しが強い日だった。乾季の季節は太陽は一番遠くにある
が、それでも陽の光はまっすぐ浴びればとても熱い。先刻まで陰に
なっていた回廊にも斜めから眩しい光が差し込んでいた。
赤い埃の筋から覗くクイの透き通った白い肌が太陽の熱に照らさ
れて、埃の筋よりも赤くなる。クイは頬に火照りを感じ、急いで庇
の下に身を引っ込める。陽の光をまともに浴びるといつも寝込んで
しまい、不注意だと伯母に責められるのだ。小動物たちも一斉にク
イの後を付いてくる。食事を分けてもらわねばと必死のようだ。そ
んな小さな友だちの様子にクイはくすくすと笑った。
6
1、 クイ ︵2︶
ガサガサッ。
前の壁より高くそびえている木の枝が揺れた。
︵小鳥? いえ、コンドル?︶
その茂みにいるのは明らかに小鳥よりもずっと大きい物だ。
パンッ。
クイは機転を利かせて手を大きく打ち鳴らし、周りに集まってい
た小動物たちを追い払った。コンドルならクイの大事な友達が襲わ
れてしまうだろう。この国では神の遣い、コンドルには、喜んで動
物を差し出す人がほとんどだが、クイはこんなところもこの国の普
通の人とは違う感覚を持っていた。伯母が嫌うのは、そんなところ
もあるのかもしれない。
ガササ。
また大きく枝がきしんだ。枝の陰から突然、ニュッと小枝が伸び
る。その小枝の先には藁のサンダルがひっかかっている。
﹁人間の足?﹂
クイに見取られたのも知らず、小枝の持ち主はまた茂みにそれを
引っ込めた。
﹁誰なの?﹂
クイは悲鳴のような声を上げた。茂みの陰で﹁チッ﹂と舌を鳴ら
す音がする。
﹁誰?﹂
クイは、片手に干し芋、片手にスープの器を持ったまま立ち上が
り、さらに声を張り上げる。
﹁静かにしてくれ。他の人が来る!﹂
子どもの声。まだ甲高い、男の子の声。
7
﹁だれ⋮⋮﹂
クイは言われたとおりに声を潜めて優しく訊き、そろりと枝の覆
いかぶさる石壁に近づいていった。
ニュッと、茂みから顔が飛び出した。
赤い羽根を真ん中に一本だけあしらった組みひものバンドを広い
額に巻きつけた男の子の顔。日に焼けた黒い顔に黒い大きな瞳が光
っている。その目はじっとクイを睨みつけて、﹁騒いだら承知しな
いからな﹂というように警告を送っていた。年のころはクイより少
し幼い七、八歳だろうか。
﹁大丈夫よ。誰もいないわ﹂
クイは碧い瞳を優しく細めて男の子に呼びかけた。しかしなおも
男の子は慎重に辺りを見回して警戒した。
﹁待っていて。今私が外に行くわ﹂
クイはスープの器と干し芋を持ったまま壁に沿って歩き、一番左
端にある出口から外に出た。
クイが外に出ると、男の子はもう木の下に降りていて、強がるよ
うに唇を噛み、仁王立ちになってクイのほうを向いていた。クイを
待っているくせにまだ警戒の色を見せているその少年のチグハグな
仕草に思わず笑いが漏れそうになる。クイは下を向いてククッと笑
いを吐き出してから男の子に近づいて行った。
﹁こんにちは。私はこの屋敷の下働きだから、あなたのことを聞く
つもりはないわ﹂
ならば、なぜこの少年に会いに来たのだろう。クイは言ったあと、
自分に疑問を投げかけた。
﹁ねえ、スープと干し芋、いる?﹂
クイは唐突に手に持った器を差し出していた。
﹁お前、何だ?﹂
少年は器には目もくれず、仁王立ちのままクイの顔を睨みつけて
いる。
﹁だから、私はこの屋敷の⋮⋮﹂
8
言いかけたとき、ハッと何かに気付いてクイは顔中に後悔の色を
滲ませた。そして慌てて踵を返し、走り去ろうとしたクイの腕を、
少年がぐっと掴んだ。
﹁この屋敷に変な奴がいるってうわさを聞いて、見に来たんだ。
お前、魔物か?﹂
少年はぶっきらぼうに容赦ない言葉を浴びせる。黒い瞳はするど
く冷たく光って、クイを映す。
﹁お願い。黙っていて。見なかったことにして﹂
クイは顔を覆ったまま、かすれるような声で泣き叫びながら、少
年の腕を振り払おうとした。しかし、少年はものすごい力でクイの
腕を握り締めて離さなかった。クイが振り払おうともがくほど、少
年はクイの腕を掴む手にますます力を入れて握り返してくる。
観念したクイは、少年に掴まれた腕をだらりとのばしたままその
場にしゃがみこみ、片方の掌で顔を覆って肩を震わせて泣き伏した。
伯母にあれほど口すっぱく言われていたことを、こんな風に破っ
てしまうことになるとは。もう伯母に折檻されて、暗い地下室に閉
じ込められるに違いない。
小さく丸まって泣きじゃくるクイを見て、少年はさすがに気が咎
めてきた。掴んだ腕をゆっくり放すと、今度は一緒にしゃがみこん
でしばらくクイの震える肩を眺めていた。
﹁ごめん⋮⋮﹂
少年は聞き取れないような声でもごもご言った。
クイはまだ動かない。
﹁ごめんよ。悪かったよ﹂
少年はクイの肩をグイグイとゆすった。クイは少年の手を振り払
って頭を振りながら、なおも泣き続けた。
﹁ボクは別に、君をやっつけにきたわけじゃない。ただ、何でも知
りたがる癖があるんだ。母さまにいつも注意されるのに止められな
くて﹂
今まで自分の怖ろしい運命を決める怪人のように思えていた少年
9
が、突然子どもっぽい口調でおろおろと話し出したのを聞いて、ク
イは涙と埃でぐちゃぐちゃになった顔をゆっくり上げた。
﹁もうボクの知りたがりの心は満足したよ。もう何もしない﹂
少年はうなだれた。
﹁ほんと?﹂
クイは懇願するような顔で哀れに少年を見つめた。少年の方も泣
き出しそうな顔になって大きく頷いた。自分の好奇心から起こした
ことがこんなにもこの少女をうろたえさせてしまったことがどうし
ようもなく悲しくなっていた。
﹁魔物は泣かない。君は人間だよ﹂
クイはようやく安心して、右手の甲で顔をゴシゴシとこすった。
しかし急に不安になって辺りを見回した。幸いにもこの騒動を見て
いた人はいなかったようだ。それもそうだ。街外れのうらさびしい
この辺りを通るものはめったにいない。だからクイはここに預けら
れているのだ。
クイは大きくため息をついた。
﹁もう戻るわ。私の事は言わないって約束してね﹂
クイは最後にまた念を押した。
﹁分った。約束する﹂
クイが屋敷の方に向こうとすると、少年が唐突に訊いた。
﹁ねえ、君は友達いないのだろう?﹂
クイはなぜ少年がそんなことを訊くのか分らず、眉をしかめて答
えた。
﹁そうね。人間の友達なら屋敷にひとり。ほかの人には会ってはい
けないから﹂
﹁じゃあ、二人目の友達になってやるよ﹂
クイは驚いた。さっきまで自分を泣かせていたというのに。﹃や
るよ﹄という言葉にはカチンと来たが、クイはこの少年の素朴な感
じが気に入った。フッと笑顔になると、
﹁分ったわ。友達になって﹃あげる﹄﹂
10
挑戦するように少年にそう言った。
﹁また来てもいい?﹂
母親に甘えるような声で少年が訊く。
﹁いいけれど、私は食事の時以外は一日壁磨きをしていて会えない
わ﹂
﹁じゃあ、今日みたいに食事の時間に庭に出てくるのをこの木で待
っているよ﹂
クイの心は躍り上がっていた。自分と言葉を交わせる人は一生、
パパリャひとりだと思っていたし、そのパパリャに会えるのも食事
を取りに行く一時だったから。
たわいもないおしゃべりをしたり、街の様子を聞いたり、少しな
ら屋敷を抜け出して遊びにいくこともできるかもしれない。
そんなクイに、少年が遠慮がちに付け足して訊いた。
﹁友達として知りたいんだけど、君はどうしてそんな碧い目なの?﹂
少年の﹁知りたがりの癖﹂は、まだ満足していなかったようだ。
でも少年にさっきのような悪意はないことが分って、クイは安心
して打ち明けた。
﹁私にも分らないの。生まれたときからこうだったって。肌の色も
普通の人よりずっと透き通っていて、山の雪のようだし、髪も⋮⋮﹂
クイは言葉を切った。しかし少年はその言葉で、はっとクイの黒
い髪の下から一筋見えている金色の毛に気付いた。
﹁ふ、うん。君のお母さんはどこか遠くの国の人なのかな?﹂
﹁いいえ。私は知らないけれど、伯母さんの話では、あなたと同じ
髪の色で同じ目の色をしていたはずだわ﹂
クイは悲しげにうつむいた。
変わった容姿をもったために、街外れのこんな寂しいところで人
と会うことも許されないクイの思いが少年には痛いほど伝わってき
て、自分のいたずらを深く反省した。
﹁クイー!﹂
屋敷の奥から伯母の声がかすかに聞こえてきた。
11
﹁私はもう行かなくちゃ﹂
﹁ああ、また来てやるよ﹂
少年の自覚のない横柄な言葉に、クイは苦笑した。
﹁そうだ。あなた、なんて名前?﹂
﹁ボク? クッシリュ﹂
﹁そう! 私がクイ︵ねずみ︶で、あなたがクッシリュ︵猿︶。な
かなかいい組み合わせだわ! また、会いましょう!﹂
クイは転がっていた干し芋と器を拾い集めると、急いで中へと姿
を消した。
今の短い時間の間に起きた出来事を全て頭の中で整理できないま
ま少年クッシリュは、クイの姿が消えてもしばらくそこに立ち尽く
していた。
︱︱ 街外れの屋敷には、化け物が住んでいる ︱︱
そんなうわさが、町ではまことしやかに流れていた。大人たちは
たてがみ
相手にしないうわさも、こどもたちの間では常識のような話になっ
ていた。
︱︱ その化け物は黄金のプーマのような鬣で、死者のような碧い
顔と月に鈍く光る鋭い瞳 ︱︱
うわさはその胎内でこの世のものとは思えない怪物の姿を作り上
げていった。
人一倍好奇心の旺盛な少年が、
﹁化け物を見てきてやる﹂
と宣言し、勇ましく出かけていったあと、町の子どもたちは英雄
の帰りを今か今かと待ち焦がれていた。クッシリュの姿を見た途端、
たくさんの彼の仲間が一斉にかけよって、クッシリュの報告をせっ
ついた。
﹁ただ庭にプーマがいただけだった﹂
﹁ただのプーマなのか? それともこんなにでかいやつか?﹂
12
クッシリュと同じくらいの背丈の少年が、大きく頭の上に輪をか
いて伸び上がった。
﹁ただのプーマだ。それも人間に飼われて、すっかり臆病になった
やつだ﹂
子どもたちの顔が次々曇り、大きなため息があちこちでもれた。
﹁本当に行ったのか? お前﹂
﹁実は途中で怖くなって引き返してきたんじゃないか?﹂
子どもたちの流行の話題は、ちっぽけな少年のばかげた報告でお
しまいになるわけにはいかなかった。
﹁嘘じゃないさ。うわさが大嘘だったんだ﹂
クッシリュがどんなに訴えても、仲間たちはつまらない事実を話
すクッシリュのほうをけむたがった。英雄は突然うそつき呼ばわり
された。
﹁いいさ。ボクは大事な秘密を守るんだ﹂
泥にまみれて大勢の仲間とかけまわっていた少年は、自分の背が
少し高くなって、大人に近づいた気分だった。そしてその日から、
かつてのクッシリュとは違う生活が始まった。
昼間、街でクッシリュの姿を見る者はいなかった。仲間から離れ
た彼は、唯一の友達に会うために毎日街を抜け出した。
13
2、 クッシリュ ︵1︶
2、クッシリュ
少年が街外れに走っていくのを見て、かつて仲間だった子どもた
ちは哀れむようにささやき合った。
﹁かわいそうに。きっと街外れに住む魔物に呪術をかけられたのさ﹂
﹁クッシリュは、取り殺されてしまうよ﹂
﹁しかたないさ。下手に助けようとすれば、ボクたちも取り憑かれ
てしまうよ﹂
子どもたちは毎日街外れの丘の向こうへと通うクッシリュを遠巻
きに見ながら、彼がいつか丘の向こうから戻ってこなくなる日が来
るのではないかと恐れた。
あれからクッシリュは毎日街外れのお屋敷に通っていた。高い塀
の向こうまで枝を伸ばしている木によじ登り、茂みに身を潜めて中
の様子を窺っていた。しかしあのときクイ︵ねずみ︶と名乗った女
の子の姿を見ることは一度も無かった。そろそろ日が落ちる頃にな
ると諦めて街へ帰る。そんなことの繰り返しだった。一日中木の上
でじっとしているのは、これまで始終街の中を走り回っていた少年
には苦痛だ。さらに目的を果たせない虚しさから、少年の表情は徐
々に暗く沈んでいった。周囲の子どもたちが﹃取り憑かれた﹄と噂
するのも無理はない。
一日中遊びまわっていて、日が暮れてから帰宅するのは今に始ま
ったことではない。しかしクイと出会ったあの日からクッシリュの
生活が少し変わってきた。毎日木の上でぼんやりと過ごすだけの日
14
々と待つ人が現れてくれない寂しさから、クッシリュは何をするに
も上の空になった。
クッシリュの母親はそんな少年を厳しく叱る。
﹁クッシリュ! いったい毎日何をやっているの。遊びに出てそん
なに疲れていてはどうしようもないわ。もう遊びに行くのはおよし
なさい。これから一日三度の水運びをおまえの仕事とします﹂
成人を迎えるまで正式な名を持たない子どもたち。親はその子の
クッシリュ
性格や雰囲気から呼び名を付けることもある。つまり愛称のような
ものだ。
クッシリュの両親がわが子を迷わず﹃猿﹄と呼んだほど、クッシ
リュは活発で、悪く言えば落ち着きがない。仲間と一緒になって悪
戯を働くこともあったし、ほとほと手をやく子だと言いながらも、
明るく元気に育ってくれたことを喜んでいた。
いちにち街中を飛び回って腹が減らないと帰ってこないような子
が、夕暮れになると放心状態で帰ってくることが何日も続けば、心
配しないわけにはいかない。
クッシリュの母親は息子の変化に心を痛めていた。ましてや子ど
たわごと
もたちが﹃魔物に取り憑かれた﹄と噂するのを聞けば、それがまっ
たく戯言だとはいえなかった。そこでおかしな場所に行かないよう
に用事を言いつけてクッシリュの行動範囲を制限してしまおうと考
えたのだ。
かめ
しかしクッシリュが本来、何事も思い込んだら止められない性格
だということを母親は失念していたのだ。クッシリュは水汲みの甕
を背中に縛り付けたままクイの居る屋敷に通い、時間を見計らって
水を汲んで家に運び、また出かけていくことを繰り返した。
そこまでしてあの少女に会おうとするのは意地っぱりの性格から
なのか、幼いクッシリュには動機など思い当たらなかったし、それ
はどうでもいいことだった。
15
街はずれの屋敷でクイが現れるのを待ち続けて何日が過ぎただろ
うか。大人ならすでに相手は自分のことを忘れてしまったのだろう
と諦めるところだが、一途な少年はその理由を探ろうともしなかっ
た。何時ものように大きな甕を背負ったまま木によじ登り、茂った
葉の陰でぼんやりと屋敷の方を眺めていた。
やがて屋敷の中から小さな人影が現れた。手には食べ物の器を持
ひさし
っており、それを目当てにねずみや小鳥がちょこちょこと後を付い
てくる。そして庇の陰に腰を下ろすと器の中の食べ物を千切って小
動物たちに分け与え始めた。
かつて出会った少女と同じような仕草をするその人影を、クッシ
リュは葉の陰から身を乗り出してよく見つめた。しかし何かが違う
ことに気づいてすぐに声を掛けることはできないでいた。
不自然なほど豊かな黒髪には見覚えがある。あのとき少女が金の
髪を隠すために被っていたのであろう黒毛のかつらと似た髪形だ。
しかしその人は、クイの外見で最も印象的だった透けるような白い
肌ではなかった。クッシリュと同じ褐色の肌をしている。そして泉
の底を覗いたような薄青の瞳は⋮⋮。残念なことに高い木の上に居
るクッシリュからは、俯いている彼女の顔をよく見ることはできな
かった。
せめて瞳の色さえ分かれば。クッシリュは必死に身を乗り出した。
根もとの太い枝なら小柄な少年を十分に支えることが出来るが、先
の方の細い枝はそうはいかない。掴んだ枝の先が鈍い音を立ててし
なったと思うや、クッシリュはバランスを崩して滑り落ちそうにな
った。咄嗟に枝にしがみついたが、重い甕を背負った背中が反転し、
宙吊りのような体勢になってしまった。まさに枝にぶらさがる﹃猿﹄
だ。
その騒ぎに目当ての人はさっと顔を上げクッシリュの姿を見つめ
た。体力だけには自信のあるクッシリュは、何度も反動を付けてよ
うやく枝の上に戻ることができた。
大騒ぎのあと、恐る恐る後ろを振り返ると、すでに木の下に来て
16
いた彼女が夜明けの空のような色を放つ瞳をクッシリュに向けてい
た。
﹁クッシリュ﹂
声を掛けられてようやく褐色の肌の少女がクイその人だと分かる。
﹁クイなの?﹂
﹁そうよ。ひさしぶりね﹂
クイは蒼い瞳を嬉しそうに歪めた。
﹁もうとっくに忘れてたんじゃないのか﹂
クッシリュの中に、やっと会えたという喜びよりも、約束を守っ
てくれなかったクイへの苛立ちが湧き上がり、思わず口を尖らせて
そう言った。
﹁そんなことないわ。待ってて。いま外に行くから﹂
拗ねたクッシリュのことなど気にしない風に、クイははしゃぐよ
うにそう言って脇の出口へと走っていった。クッシリュは苛立ちの
持って行き場を失い、いつまでも拗ねているわけにはいかなくなっ
た。すると、クイに再会できた喜びで心が躍っていることに気づい
た。甕の重さなど感じないように軽々と枝を渡り、ひらりと壁の外
へと降り立った。着地したクッシリュにちょうど屋敷から出てきた
クイが駆け寄ってきた。
﹁約束、守ってくれたのね﹂
息を弾ませてクイが言った。
﹁当たり前だろ。約束だもの﹂
﹁ずっと来てくれていたの?﹂
﹁違うよ。ぼくもいろいろと忙しくて、ようやく今日来ることがで
きた﹂
クイを前にしてしまうと、毎日此処で待っていたことなど逆に恥
ずかしくて言えなかった。クイはクッシリュの背中の甕を見ながら
すまなそうな顔をした。
﹁何かご用の途中なのね。わざわざ寄ってくれたのね﹂
﹁別に大した用じゃないんだ。夕暮れまでに水を汲んで帰ればいい
17
話さ﹂
昼の水汲みを終えた後で良かったと、心の中でほっと溜め息を吐
く。
﹁そうだったの。私たち、ちょうど同じ機会に会えるなんて素敵ね。
だって私もあのあと寝込んでしまって、今日ようやく外に出られた
ところなんですもの!﹂
クッシリュはクイの意外な言葉に驚き、心配そうに訊いた。
﹁どうして? もう大丈夫なの?﹂
﹁あなたと会った日は日差しが強くて⋮⋮。私、お日さまに当たる
と具合が悪くなってしまうのよ。それでしばらく寝込んでいたの。
でも、もうすっかりいいのよ﹂
クイは背筋を伸ばすと、握りこぶしを作った両腕を脇で振って見
せた。
﹁でも、今日も日差しが強いよ﹂
まだ心配そうなクッシリュに、クイは自分の顔をぐっと近づけ、
頬を指差した。
﹁だからこれ。アンティ・スーユ︵東の熱帯雨林地域︶でとれる日
よけの塗り薬なんですって。滅多に手に入らないみたいなんだけど、
この屋敷の主のおばさまが苦労して見つけてきてくださったの。私
が倒れてしまったら屋敷の壁を磨くものがいなくて、たいへんなん
ですって。
倒れなければこの薬をもらうことはできなかったし、そうなると
私は一生建物の中でくらさなければならなかったわ。だからね、ク
ッシリュに感謝したいくらいよ。私これを塗っていれば、どこへだ
って行くことができるのよ!﹂
その薬は肌の色だけでなく、心までも変えてしまうのだろうかと
クッシリュは思った。あのとき出会った儚く弱々しい少女はそこに
はいなかった。クッシリュの遊び仲間と何も変わらない、喜びを全
身で表す元気で明るい女の子だった。
クイに会いたかったのは、幽魔のような神秘的な少女に好奇心を
18
抱いていたというのが本当のところかもしれない。しかし待ち望ん
だ再会のあと、一緒に遊ぶこともできないのでは虚しい。けれどク
イは、いま確かにクッシリュの友だちとしてそこに存在していた。
ひる
﹁ねえ、実はね。今日はなんとなくあなたに会える気がしていたの。
だから一日ぶんの用事を午までに済ませてしまったのよ。せっかく
予感が本当になったんだもの。私を街へ連れていってくれないかし
ら﹂
クッシリュは大きく頷くやいなや、クイの腕を掴んで走り出した。
クッシリュの唐突な行動に一瞬戸惑ったものの、手を引かれて走り
ながら、クイは気持ちが大きく弾んでいることに気づいた。
19
2、 クッシリュ ︵2︶
はじめて目にする街の様子は、クイの想像とはだいぶ違った。重
厚な石積みの建物が建ち並ぶさまは、確かに街はずれの鄙びた風景
とはまったく違う。往来にも剥き出しの土はほとんどなく、平らな
石が美しい模様を描くように敷き詰められていて、ぬかるんだ場所
で足を取られることもない。道に沿うように掘られた水路には、地
面に溜まった雨や山から流れてくる湧き水が集まって規則正しい流
れを作っている。街の中を歩いてみれば、背の高い建物が両脇に迫
っていて非常に窮屈な感じがした。
何よりも違和感を覚えるのは、自然の草木や動物たちの姿が見当
たらないこと。ときどきすれ違うのは、飼いならされた家畜が猿轡
を嵌められて主人の後を不満そうに付いていく姿だ。そして、クイ
が想像していたような人で溢れる賑やかな街ではなく、まったく閑
散として、ぽつりぽつりと往来を行き交う人々の目には何の感情も
見出せない。
クッシリュに手を引かれて街の中を進んでいくうちに、クイは得
体のしれない不安と寂しさを覚えていった。
街には父が住んでいる。記憶には無いが、生まれたときはクイも
この街に居たはずだ。自分が他とは異なる容姿でなければ、この街
で育ちこの風景を当たり前のものと見ていたのかもしれない。そう
すれば此処を好きになっていただろうか。
少なくとも、郊外の自然に囲まれた屋敷で物心ついたクイは、こ
れからどんなに頑張っても此処を好きになれないだろう。そしてい
ずれは此処に戻らねばならないとしたら、それは壁磨きよりも苦痛
だろうと思った。
20
一方、クッシリュのほうは得意だった。荘厳な石積みの屋敷など
は田舎暮らしのクイには驚くべきものだろう。入り組んだ路地はか
くれんぼにはもってこいだ。見通しの悪い路地裏は数歩先に何が待
っているのか分からない。ときどき人目を盗んで屋敷の壁によじ登
り、中から顔を覗かせている枝になった果実を失敬することもある。
それは子どもたちにとってわくわくする空間だ。路地を抜ければ広
場があり、整備された石畳の上で思いっきり走り回ることができる。
クッシリュがこれまで自然と覚えてきた遊び。それはこの街の中だ
からこそ楽しいのだ。
クッシリュは街の中のすべてを紹介するように、クイの手を引い
てぐるぐると路地を歩き回った。
しばらく歩いて、ちょうど水汲み場に行き当たった。石の壁の穴
から澄んだ水が勢いよく噴出して下の水溜めに落ち、飛沫を上げて
いた。
﹁そうだ。待っていて。ここで水を汲んで家に届けてしまえば、そ
のあとゆっくり遊ぶことができる﹂
クッシリュは背中に結びつけていた甕を下ろすと、穴から噴き出
す水にその口をあてがった。手を解放されたクイは、水溜めを囲っ
ている低い石壁に腰を下ろし、サンダルを脱いで水に足を浸してみ
た。歩き回ってむくんだ足に心地よい刺激が加わった。
そういえば、屋敷で使う水は屋敷の裏山から水路を伝って直接敷
地内に流れてくる。これまで遠くから水を汲んで運ぶなど考えたこ
とは無かったが、街に暮らす者はここで水を汲んで家まで運ばなけ
ればならないのだ。クイは自分の生活が意外にも豊かで不自由のな
いことを知った。
甕の入り口から溢れるほどなみなみの水を汲んで、クッシリュは
また甕を背負った。何倍も重くなった甕を持ち上げるのに、さすが
のクッシリュでも一瞬よろめいた。クイは素早く甕の底を支えて手
伝った。
21
﹁ありがとう。何時もやっているから、これくらい簡単に持ち上が
るはずなのに、今日は欲張り過ぎたかな﹂
強がりを付け加えるのを忘れないクッシリュに、クイは思わずく
すっと笑った。クッシリュの自尊心を傷つけないように、さりげな
く寄り添って甕を支える。前屈みになってゆっくりと歩きだしたク
ッシリュの横に並んで、クイも同じ歩調で歩き出した。
さっきまで早足のクッシリュに付いていくのに必死だったが、歩
調を緩めて改めて辺りを眺めてみると、先ほど感じた違和感や不安
感が少しやわらいでいた。そそり立つ暗灰色の石壁もひとつひとつ
丁寧に磨かれて輝いている。明らかに人の手が加えられて整えられ
た街の様子は、ここが忘れ去られた空間でないことを証明していた。
突然クッシリュが立ち止まった。クッシリュの背中に手を添えて
いたクイは、クッシリュの身体に押されてよろめいた。
﹁まずい⋮⋮﹂
忌々しそうに呟くとクッシリュは、クイの手を強く掴んで踵を返
し、走り出した。クッシリュに引き摺られるようにして、クイも全
力で走らなければならなかった。
﹁クッシリュ! クッシリュー﹂
後ろから呼びかける声が聞こえたが、すぐに遠ざかった。
クッシリュの背中の甕から水が溢れてふたりの服を濡らす。クイ
の喉からヒューヒューと苦しそうな息が漏れ、どんどん激しくなる。
黒毛のかつらが風に煽られ飛ばされそうになり、必死に押さえて走
り続ける。
声はもう聞こえないのにクッシリュは速度を緩めてはくれなかっ
た。
しばらく路地を縫うように走り回って、クッシリュはようやく止
まった。クイはもう息も絶え絶えで、その場にしゃがみこんでしま
った。クッシリュも荒い息を吐きながらクイの前にしゃがんでその
22
顔を覗きこんだ。
﹁遊び仲間なんだ。君を見たらいろいろ訊いてくるだろうし。君も
困るよね﹂
確かにそうだが、知り合いに会いそうな場所にわざわざ連れてい
ったクッシリュも悪いのではないか。クイはクッシリュの問いかけ
を無視して、必死に息を整えている風を続けた。
﹁これを家に置いてきたら、今度は街の外に行こう。ぼくのとって
おきの場所があるんだ﹂
見るとそこは小ぢんまりとした家の前だった。小さな家ではある
が、周囲を大人の背たけほどの壁が囲っている。壁の入り口の脇に
しゃがみこんでいるクイを残し、クッシリュは中へと入っていった。
せっかく汲んだ水はもう半分ほど減ってしまっているかもしれない。
それでも中からざあっと水を汲み足す威勢のいい音が響いてきた。
街なかで見た、平らに磨かれて隙間無く組み合わされた美しい石
壁とは異なり、その家の壁はいびつな形の石を積み上げて白い土を
塗っただけの簡素なものだった。クイの屋敷よりもずっと粗末な造
りだ。辺りを見回すと同じような造りの家が通りに沿って並んでい
た。
中心街と同じく往来に人影はまばらで静かだったが、背の高い壁
に囲まれた場所とは違って明るい日差しが降り注ぐその辺りの景色
に、緊張していたクイの心は和んだ。
それからほどなく、水甕を置いて身軽になったクッシリュが姿を
現した。さきほどクッシリュの行動を不満に思ったことなどすっか
り忘れて、クイは笑顔で立ち上がった。
﹁さあ、行こう﹂
日が暮れるまでにはまだ時間がありそうだ。クッシリュの手を自
分から握って、クイは弾むような足取りで彼に従った。
23
24
2、 クッシリュ ︵3︶
まるで天の果てから人の世界を眺めているようだ。都から出て、
小高い丘を上った先で振り返ると、街の隅から隅までもが一望でき
た。背の低い草に覆われた殺風景な丘だが、その眺めを振り返った
途端クイは、自分の背中に翼が生えて天に飛び立ったのではないか
と錯覚した。
クッシリュが﹃とっておきの場所﹄と言ったのは、その丘の頂上
に立つ小さな泥レンガの小屋だった。街から延びる大街道から少し
外れたその場所に、どうしてこんな小屋があるのか不思議に思った
が、本当かどうかクッシリュの説では、大街道が整備される前はこ
の辺りに街道が敷かれていて、街に出入りする人を見張るために役
人が常駐していた小屋なのだという。
打ち捨てられて久しいことを物語る朽ち掛けた藁葺き屋根やとこ
ろどころ崩れた泥壁は、周囲の草の乾いた色と相まって侘しさを感
じるが、そこからの眺めはまるで人々の世界を全て手の中に収めて
いるような贅沢さがあった。
﹁街が全部見渡せるんだ。凄いだろ。でもこの中にはもっと凄い宝
物があるんだ﹂
クッシリュはそう言ってクイの手を引いて小屋の中へと入ってい
った。
藁屋根の朽ちた部分に開いた穴から日の光が差して中を照らして
いた。光の筋が床に反射して小屋の中をぼんやりと明るくしている。
小さな小屋にはいくつもの棚が設えてあり、そこに何か道具が並ん
でいる。役人が此処を利用することがなくなっても、彼らが使って
25
いた道具がそっくりそのまま残されているのだ。
中に入ってクッシリュは、クイの手を離すとその棚のひとつに近
づいて何かを探し始めた。やがて目当てのものを見つけたのか、そ
れを両手で大事そうに抱えてクイの前に戻ってきた。
は
せきふ
クイがクッシリュの腕を覗くと、そこには頑丈そうな木の棒に嵌
め込まれた石の刃があった。石斧だ。少なくとも狩猟の道具では無
いだろう。街を守るために役人が携帯していた武器なのだ。
しかし柄の部分の木の棒も刃の石も、使い込まれたせいなのか、
丁寧に手入れされていたからなのか、クイの影がうっすらと映るほ
どつるつるに磨かれていた。
﹁きれい⋮⋮﹂
人を殺めるものだと分かっていながら、クイは思わずその輝きに
目を見張った。
﹁凄いだろ。本物だぞ。これで悪い奴をやっつけるんだ﹂
クッシリュがその石斧に感じる魅力はクイのそれとは少しずれて
いるようだ。しかし彼にとってここは宝の山なのだということはク
イにも分かった。
クッシリュは斧を片手に持って天井へと突き上げた。丁度光の筋
が刃の部分にぶつかり眩しい光を放った。高々と持ち上げた斧を見
サパ・インカ
上げたままクッシリュは言った。
﹁ぼくの父さんは皇帝さまに仕える軍人なんだ。こんな武器を軽々
と持って悪い奴をばっさばっさと斬っていくんだ。とっても強いん
だ﹂
クイにはクッシリュの自慢の意味が少し分かりづらかったが、そ
れでも彼が父親に憧れていることがよく分かる。そして仲が良いこ
とも。クッシリュにとってこの場所は憧れの父親に近づくことので
きる場所なのだ。
﹁その斧を触らせて﹂
クイが頼むと、クッシリュは斧を下ろして両手で平らに持った。
﹁見た目よりずっと重いんだ。ちゃんと持たないと足の上に落とし
26
てけがするぞ﹂
言われてクイは両腕を緊張しながら差し出した。クイの差し出し
た腕の上に、クッシリュは慎重に斧を置いた。クッシリュが持って
いた手をそっと離すと斧の重さは一気にクイの腕に移り、支えきれ
ずに思わず落としそうになった。クイはさらに腕に力を込めてなん
とか持ち堪えた。
よろめいたクイを見てクッシリュは笑った。
﹁ほら、言わんこっちゃない!﹂
﹁本当だわ。こんな重いものを振り回すなんて、信じられないわ﹂
﹁そうだよ。普通の力じゃ持てないさ﹂
クッシリュはふたたびクイの腕から斧を取り上げた。
﹁ぼくは父さんみたいな軍人になりたいんだ。でも今、学校でも武
器の使い方を教えてくれないらしい。だからぼくは学校には行かな
い。自分でこの小屋に残っている武器を使って練習しているんだ。
くに
もうこの斧もうまく振れるようになった。投げ石だって、棍棒だっ
てできるようになってきた﹂
﹁お父さんは教えてくれないの?﹂
﹁父さんはインカさまに従って、ずっと北の邦に行ったきりだ。ぼ
くが小さいころに一度会ったきりなんだ。今度帰ってきたときには、
どんな武器も使いこなせるようになって、父さんを驚かせてやるん
だ﹂
﹁まあ、そうだったの。私、てっきりお父さんと仲良しなんだと思
っていたわ﹂
﹁仲良しさ。気持ちはいっつも繋がっている﹂
クッシリュがそう言って笑ったので、彼を一瞬でも羨ましいと思
ったことを後ろめたく思っていたクイの気持ちが和んだ。
﹁私にも出来るようになるかしら?﹂
﹁え、クイが?﹂
クッシリュは目をまんまるにした。自分が武器を扱えることを女
27
の子に自慢してみたかった気持ちが無かったわけじゃない。おそら
く誰も知らないところで努力していることを誰かに知ってほしかっ
たのが本当のところだろう。その自慢した相手が、まさか自分もや
ってみたいと言い出すとは思ってもいなかった。
﹁女の子にはたいへんだよ﹂
﹁クッシリュだって最初はたいへんだったのでしょう? 練習すれ
ば私だって出来るようになるんじゃないの﹂
﹁そうかもしれないけれど、本当に辛いぞ﹂
・・
﹁我慢できるわ﹂
﹁おれは厳しいぞ﹂
急に大人びた言い方になったクッシリュに、クイは負けまいと答
える。
﹁大丈夫よ。そのほうが上達するわ﹂
﹁覚悟しろよ﹂
﹁もちろん、覚悟できているわ﹂
あれこれと言い方を変えて思い止まらせようとするクッシリュに、
クイはまったく動じない。結局クッシリュの方が根負けして、自分
の秘密の特訓をクイに伝授することを約束させられてしまったのだ。
しかし秘密を分かち合える仲間が出来たことはクッシリュにも大き
な張り合いとなる。自慢だけでは終わらなかったが、クッシリュに
は大きな楽しみが出来たのだ。
こうして些細なきっかけで始まった戯れが、やがて来る時代を生
き抜く大きな力になることなど、このときのふたりにどうして予見
できただろうか。
28
3、 クイとクッシリュ
3、クイとクッシリュ
クイとクッシリュの秘密の練習は、それから丘の上で毎日行われ
た。
クイはクッシリュと会うのが楽しみで、朝早く飛び起きて壁磨き
を午前中に完璧に済ませてしまう。今まで一日掛けてのろのろと磨
いていたものだから、屋敷のものは午後にクイの姿を見かけなくて
も、屋敷のどこかでまだ壁と向き合っているに違いないと思い込ん
でいた。そのうえ、これまでクイの行動に何かと難癖を付けてきた
伯母も、クイの仕事ぶりが変わったことでそれほどクイに関心を示
さなくなった。伯母は、クイがてきぱきと働くようになったのは塗
り薬のお蔭でクイの体が丈夫になったせいだと信じているらしい。
クイにとっては幸運な誤解だった。
ただひとり、厨房のパパリャだけは流石にクイの隠し事に気づい
たようだ。
﹁クイ、最近は本当に楽しそうだね。それが魔法の塗り薬のせいじ
ゃないことは、あたしには分かるよ﹂
干しいもとスープを手渡しながら、パパリャはクイに囁いた。訊
かれてクイは観念したようにちろっと舌を出して見せる。しかしそ
の問いを待っていたかのように急に顔を綻ばせると小声でパパリャ
に耳打ちした。本当は大声で叫びたいくらいだというくらいに息を
弾ませて。
﹁そうなの、パパリャ。あなた以外の友だちが、屋敷の外に出来た
のよ!﹂
言われてパパリャは少し身を引くと心底驚いた顔をクイに向けた。
29
そしてまたクイの脇に顔を近づいて囁く。
﹁いったい、ぜんたい、どうやったら屋敷の外に友だちができるん
だい﹂
﹁そうね。彼は空から堕ちてきたの。そして私を街に連れていって
くれたの﹂
﹁彼って⋮⋮。男の子?﹂
パパリャはさらに驚いて、驚くというよりも信じられないという
ように呆れた顔をして、逆にクイに忠告した。
﹁その男の子が誰だかなんて野暮なことは訊かないけれど、あんた
がちょっと浮かれすぎていることは分かるよ。屋敷の外を知らなか
ったから、連れ出してくれた彼を神サマのお遣いみたいに思ってい
るんだろうけど、気をつけたほうがいい。街にはあんまりいい噂は
ないんだから﹂
輝いていたクイの顔が俄かに翳った。
﹁どうして、そんなことを言うの? この目で街を見たわ。そりゃ
あ、少し寂しい感じがしたけれど、どうってことなかったわ﹂
クイが泣きそうな顔になったのを見て、パパリャはまた表情を変
えた。
﹁ごめん。あんたが心配で余計なことを言っちまった。友達が出来
たのはいいことだ。大事にしなくちゃいけないね。ただね、街の大
人たちには近づくんじゃないよ。いろいろと厄介ごとを抱えている
やつが多いからさ﹂
クイと違い、パパリャは街へお遣いに行くことが多い。お屋敷の
食糧や必需品は侍従や侍女が調達してくる。パパリャのような少女
であっても、この屋敷の主人よりも街の事情に詳しいのだ。クイの
伯母はクイの容姿を隠したくて街へ出ることを赦さないが、パパリ
ャはクイを守りたくてやはり街へ出るのを止めさせたいようなのだ。
いったい街という場所がどんな厄介ごとを抱えているというのだろ
う。しかしおそらくこの場でその理由を聞いたとしてもクイには理
解できそうにもない。
30
﹁分かったわ。パパリャ。気をつける。でも心配しないで。いつも
クッシリュと遊ぶのは街外れの誰もいない丘の上なの﹂
それを聞いて、パパリャは安堵の溜め息を漏らした。
﹁そう。それならいいよ。あんたが危ない目に遭っていないなら。
お蔭であんたのこんなに元気な姿を見られるんだから、そのクッシ
リュとやらに、あたしからも感謝したいくらいだよ﹂
﹁パパリャはまるでお母さんみたいね﹂
﹁ひどいな。せめてお姉さんにしといてくれよ﹂
パパリャがそう言って笑うと、つられてクイもくすくすと笑った。
街の厄介ごと。クイがその真実を知るまでにはそれから数年の歳
月を要さねばならない。そのときはただただ、自分の世界が屋敷の
中の狭い空間から大きく広がっていくことが、クイには嬉しくてな
らなかった。
遅い朝食を終えるころを見計らったかのように、クッシリュが壁
の向こうから伸びている枝を揺する。クイは小さな友だちに残りの
食事を分け与えて急いで壁の出口をくぐる。壁の外で待っていたク
ッシリュは走り寄ってきたクイの腕を捕えるとそのまま間を置かず
に走り出す。少しクイに気遣って、走る速度を控えながら。
丘の上に上ると、クッシリュはここでもクイに休む間も与えずに
小屋の中から武器を持ち出してきた。そんなクッシリュの行動に慣
マカナ
ワラッカ
ボー
れたのか、もともと体力があったのか、クイも疲れもみせずにクッ
シリュの行動に付いていくのだった。
ラ
クイはだいたいの武器の扱いを覚えた。斧、棍棒、投石器、投げ
石⋮⋮。その種類も使い方も実に様々だが、とりあえずひととおり
のものが扱えるようになっていた。クッシリュの教え方が上手なの
か、クイの呑み込みが早いのか分からないが、クッシリュと対戦で
きるくらいまでになっている。まだまだクッシリュと互角にとはい
かないが、まったく相手にならないほどではないのだ。そうなると
31
クッシリュは負けていられないと焦り出す。ときどきクイが女の子
だということを忘れて本気になって向かっていくこともあった。
屋敷からほとんど言葉も交わさずに丘にやってきて、︿戦いごっ
こ﹀に夢中だったふたりが手を休めるのは、そろそろ陽光が傾き始
めるころだ。
武器を小屋に片付けて丘を覆う芝草に腰を下ろすと、眼下には石
の都が箱庭のように広がって見えた。腰を落ち着けて今日の稽古の
ことや今日までに起こった出来事などを取り留めなく話す。ふたり
にはいくら話しても足りないくらいにいろいろな話題があって、途
切れることはない。暗くなる前に少しでもたくさんのことを知りた
くて、教えたかった。
北の中空から照らしていた太陽はだいぶ西へと傾いて街の建物の
影を向こうがわからこちらへと長く長く伸ばしていた。
クッシリュと話しながら突然、クイはパパリャに言われたことを
思い出した。
﹁ねえ、クッシリュ。街は危険なところなの?﹂
﹁どうして? クイも知っているとおり、きれいで静かなところだ
よ﹂
﹁私の屋敷の友達、召し使いのパパリャが街の大人に気をつけてっ
ていうの。パパリャは用事を言いつけられて街へ行くことが多いか
ら、街のことをよく知っているのよ﹂
訊かれてクッシリュは黙り込み、街のほうを向いた。しばらくそ
のまま思いを巡らせていたが、また静かにクイのほうへと向き直り
口を開いた。
﹁きっと太陽が照らなくなってしまったからさ﹂
﹁え? 太陽なら今も空の上にあるじゃない﹂
くに
﹁ちがうよ。太陽ってサパ・インカさまのことさ。大人たちは言っ
にせもの
ている。いまサパ・インカさまは都を離れて遠い北の邦を照らして
いるんだって。だから都を照らしている太陽は偽物なんだって﹂
32
その話から、クイは前にクッシリュの言っていた言葉を思い出し
た。
くに
︱︱ 父さんはインカさまに従って、ずっと北の邦に行ったきりだ
︱︱
しかしクッシリュはその話に不安や寂しさを感じているわけでは
くに
ないようだ。寧ろ目を輝かせて続きを話し出した。
﹁北の邦はそれはそれは素晴らしいところなんだ! 都みたいに太
陽が遠ざかってしまうこともないから、たくさんの草木が生えてい
て美しい花が咲いていて、緑の山や広い河の流れる深い谷があって、
たくさんの珍しい鳥たちが飛んでいる。インカさまがいらっしゃる
ところはいつも暖かくて気持ちがいいのさ﹂
クッシリュが見てきた風景では決して無いだろう。誰かから聞い
た話をまるで自分の体験のように話しながら、クッシリュもその世
チンチャイ・スーユ
界に居るつもりになっているようだ。
﹁ぼくは大きくなったら北の邦に行くんだ。父さんのようにインカ
さまを守って戦う戦士になるんだ﹂
クッシリュの夢を聞いた途端、クイの心の中に不安が広がってい
った。
﹁いつか北へ行ってしまうの? クッシリュ。ずっと都に居るわけ
ではないの?﹂
﹁大人になったらってことさ﹂
﹁でも⋮⋮﹂
ずっと一緒に遊んでいられるわけではない。いつかふたりとも大
人になるのだ。しかしもう大人になったときのことまで決めている
クッシリュに対して先のことなど想像すらできないクイは大きな不
安と寂しさを覚えた。
﹁クイも一緒に北へ行けばいいさ。大人になればひとりでなんだっ
て決められる﹂
33
﹁そうかしら。だって私、何にも知らないのよ。こんな近くにある
都のことだって﹂
﹁ぼくが教えてあげるよ。都のことも、北のことも。ぼくが見てき
たものや、行ってきたところのことも。だから心配いらないよ﹂
いつかは屋敷の外へ出て暮らしたい。しかしクイは他所の世界の
ことを知らな過ぎる。でもクッシリュが居ればその願いも叶えるこ
とができるのかもしれない。屋敷から連れ出してくれたようにクイ
をもっと広い世界に導いてくれるのはこの少年しか居ないと、その
ときクイは思っていた。
無邪気なふたりの時間がどれほど続いたのか分からない。ふたり
の時間が噛み合わなくなったのは何時ごろだったのかも定かではな
い。そしてどの時点で大人になったのかも⋮⋮。
しかし時は確実に流れていったのだった。
34
金の星 ∼物語上の地図と登場人物∼︵前書き︶
第二章の前に、背景となる地図と、主な登場人物を載せておきます。
地名、人物名が非常に混乱しやすいので、その都度、参考にしてい
ただければと思います。
登場人物は物語の進行具合で書き加えるかもしれません。
地図は実際のペルー周辺の地図をもとにしています。この地図の下
の部分を省略していますが、ボリビア、チリ南端近くまでタワンテ
ィン・スーユの領土は続いています。
なお、主人公の名前の呼び方をより原語に近い発音に変えました。
クリ・クイリョル↓コリ・コイリュル
35
金の星 ∼物語上の地図と登場人物∼
︱︱ タワンティン・スーユ︵インカ帝国︶ 版図 ︱︱
<i97634|5074>
※カラー部分がタワンティン・スーユ勢力圏
アルファベット表記と黒線は現在の国名および国境線
︵主な登場人物︶
*クイ︵コリ・コイリュル︶
金の髪、薄蒼の瞳、白い肌の少女。
他と異なった容姿のため、隠すようにして育てられた皇女
*クッシリュ
クイの幼馴染。軍人の父に憧れて、自らも軍人となる。
*パパリャ
クイの預けられていた屋敷の飯炊き娘
36
クイの親友
*ワイナ・カパック︵サパ・インカ︶
ときの皇帝
首都クスコを留守にして、生まれ故郷の北方を好み、拠点としてい
る。
*ニナン・クヨチ
ワイナ・カパックの正室の皇子
次期皇帝と目される。皇帝に従い、北方に居を構えている。
*アタワルパ
ワイナ・カパックの皇子。ニナン・クヨチの異母弟
皇帝に従い、北方で他民族の反乱を治める役目を担う、有能な軍人。
*ワスカル
ワイナ・カパックの皇子。ニナン・クヨチ、アタワルパの異母弟
クスコ生まれのクスコ育ち。内向的で臆病だが、父や兄たちに反抗
心を持つ。
*アトック
クスコ︵ワスカル軍︶の将軍
*チャルコチマ
37
*キスキス
*ルミニャウイ
*ウクマリ
北方︵アタワルパ軍︶の将軍
*フランシスコ・ピサロ
北方海岸に上陸したスペイン征服者たちの総督
*エルナンド・ピサロ
総督ピサロの弟
*エルナンド・デ・ソト
ピサロの部下
*バルベルデ
スペイン人宣教師
38
1、月を捕える虹
1、 月を捕える虹
騒然。
そこに人の声は無かった。物音さえも微かにしか聞こえない。し
かし漂う空気は﹃騒然﹄という表現が最も良く当て嵌まる。人々は
一様に空を見上げていた。肩と肩が擦れ合うほど大勢の人々で広場
は埋め尽くされている。しかし動き回る者も声を上げる者もほとん
ど居ない。先刻から時が止まったかのように誰もが同じ姿勢でそこ
に立ち尽くしているのだった。
もや
月は満ちていた。何時もなら夜でも出歩くのに不自由は無いほど
おぼろづき
明るいはずの満月の光は、その晩薄っすらと掛かった靄に遮られ弱
々しく辺りを照らしていた。朧月は珍しいことではない。しかし人
々が異様に感じているのは、月の周囲で輝く七色の光だ。月の輪郭
を取り囲むようにひとつ。それを囲むようにまたひとつ。そして月
と二重の輪を取り囲むように大きな輪が空いっぱいに広がっていた。
︱︱ 三重の虹に捕えられた月が苦しそうに弱々しい光を放ってい
る ︱︱
誰もがその場景をそのように捉えた。そして戦慄を覚えた。
恐怖が最高潮に達したとき、人は言葉を発することさえ忘れる。
騒然を通り越した先の静寂。例え音が無くともたくさんの動揺が周
囲の空気を震わせているようだった。
39
広場の﹃異様な騒ぎ﹄を感じ取って、中央に建つ神殿から数人の
神官を引き連れて大神官が姿を現した。大神官の姿に気づいたもの
は、窮屈な空間でも身を捩るようにして座り込み、ひれ伏した。
大神官さえもその夜空を目にすると言葉を失い息を呑んだ。しか
し広場に集う民衆は彼の感じた何倍もの恐怖を感じていることだろ
う。唯一の救いは大神官がこの不可解な現象を正しく読み解き意味
を理解させてくれることなのだ。大神官は傍に侍る神官たちに静か
カルパ
に指示した。
﹁急ぎ、占の準備を﹂
大神官の言葉を受けて、速やかに神官たちが神殿の中へと消えた。
大神官は眉間の皺をさらに深くして再び夜空を見上げる。空一面
に広がった虹の色は儚げでいてあまりにも美しい。それがかえって
妖しさを感じさせる。おそらく占いに依っても吉となることは無い
だろうと彼は悟った。そう思うのは今宵の現象だけが原因ではない。
以前からすでに異変は各所でぽつぽつと起きていたのである。ある
ところでは豊かな湖が突然干上がり、あるところでは神の遣いとさ
れるコンドルが大量に死んでいた。その場に居合わせた神官が行っ
た占いはすべて凶兆を示していた。しかしそれらの事象は広い国内
のあちらこちらで起こった出来事であり、すべての報告を受けてい
カルパ
た大神官だけがその経緯を知っていたのである。
おそらくこれが神からの最後通告なのだ。占は、誰もが目にして
しまったこの現象の意味を無知な民衆に知らしめるための手段であ
る。いま、この群集の中で最も動揺しているのは他ならぬ大神官で
あろう。しかし彼はまったく平静を崩さず、支度が整うまでの間、
うっとりと美しい虹を鑑賞しているかのようであった。
カルパ
占の準備が整うころには、徐々に虹の色は薄くなり消えかけてい
た。月は厚い雲の中にその姿をすっかり隠してしまい、はじめに内
やぐら
縁の虹が消え、順々に外側の虹が消えていった。
広場の中央には大きな櫓が組まれ、炎が焚かれた。住民の家から
40
うごめ
さば
急遽家畜が集められ、その場で捌かれ心臓が取り出される。神官た
ちは未だ蠢く心臓を持って大神官へと手渡す。大神官は祈りの言葉
を途切れさせることなく臓腑を炎の中にくべていく。黒毛のリャマ
と白毛のリャマ、それぞれ五頭ずつが犠牲となった。広場には夥し
い血が流れ、辺りは血の臭いに包まれた。
しばらく置いて、炎がすべて焼き尽くさないうちに神官たちが掻
き棒で取り出した臓腑は、長い板の上に丁寧に並べられた。大神官
はその形状を念入りに確かめていく。炭の塊と化したそのものに意
味を見出すことができるのは限られた神官のみである。十個目の塊
を手にとってつぶさに眺めた後、そっと元の位置に戻した大神官は、
事の次第を見守る大勢の民衆へと面を向けた。そして一息吐くと声
を張り上げた。
﹁神はわれわれに心せよとおっしゃった。われらは偉大なる太陽を
失うであろう。新たな太陽が昇ることを期待し、われらはじっとそ
なん
のときを待つが、光が現れ始めたとおもえば消え、また現れては消
びと
えを繰り返し、そのうち世界は闇に包まれるであろう。その先は何
人も知ることは叶わぬ﹂
大神官の言葉が終わらないうちに、広場は悲鳴に包まれた。人々
は泣き叫び、怒り、罵り、文字通り﹃騒然﹄となった。
事実を隠蔽して人々の心の平穏を保つほうが良かったのか。しか
し神託を誤魔化すなどという背徳は大神官には赦されないことだ。
最早抗えない運命が迫っているのなら、誰にも覚悟の時間が必要で
あろう。
皇帝
しかし。神託は神託であるが大神官自身は解せなかった。国は広
大であり、太陽の化身とされるサパ・インカの光の及ばぬ場所は最
早ないといっても過言ではない。確かにサパ・インカは高齢で、最
近は床に臥せっていることが多い。そろそろ、その役目を次に引き
か
継ぐ準備を始めなければならない。しかしもう跡を継ぐ皇子は定ま
っており、彼の人には有力な貴族たちの後ろ盾もある。この期に及
んでいったい何が起きるというのだろうか。
41
なんびと
︱︱ 何人も知ることは叶わぬ ︱︱
人の了見では知りえない運命が動き出していることは確かだった。
42
2、 金の星 ︵1︶
2、 金の星
カルパ
皇帝の不在に首都周辺の住人のほとんどが目にした異変。その後、
数度に亘りこの事象について占が執り行われたが結果はすべて芳し
くなく、人々の心に芽生えた不安は薄れるどころか日に日に大きく
いにしえ
なっていくのだった。その矛先は誰も口にはしないが一様に不在の
クスコ
皇帝へと向けられていた。古からあまたの世界の中心とされてきた
カルパ
都を見放し、母君の故郷である暖かな北の地で安閑と暮らす皇帝。
もちろん首都の異変と占による神託は、即刻北の都に伝えられてい
たのだが、皇帝と皇帝の有する軍隊は、たびたび反乱を起こす北方
民族の監視が優先であるとし都に戻る気配を見せない。表立って非
サパ・インカ
難することはできないものの、貴族の中には夜陰に紛れて集い、都
を放棄した皇帝はもはや皇帝に在らずと、現皇帝とその後継者とさ
れる皇子の失脚を画策する動きも現れ始めていた。
くだん
不穏な都の空気はクイの住む片田舎までは届かなかった。屋敷の
何人かは件の月を直接目にし、﹁不気味だ﹂とか﹁天変地異の前触
れでは﹂などと噂し合ったが、それが国の最高神官によって﹃凶兆﹄
と宣言され一大事になっていることなど思いもしなかった。
クイは相変わらず壁磨きに精を出していた。クッシリュが顔を見
せなくなってもう何年になるだろうか。いつかは戦士となって北の
皇帝軍に入ることを夢みていた彼だから、大方その夢を叶えるため
に北へ引っ越していったのだろう。当初は挨拶もなしに姿をくらま
したクッシリュに憤りを感じなかったわけではないが、クッシリュ
43
との出会いそのものが幼い時分の好奇心から生まれたものであり成
長と共に消える関係だったのだろうと割り切った。
クイは十二歳ほどになっていた。曖昧なのは正確に年を数える慣
習がこの国には無い為であるが十二歳というのはちょうど思春期に
入る少し手前というくらいだ。そして身体は大人へと変化を遂げる
過渡期である。クイの日常は相変わらずだった。けれどその﹃変化﹄
はすぐそこまで迫っていたのである。
あるとき、何時ものように朝早くから壁の砂を念入りにこそぎ落
としていると、ずんと腰に鈍い痛みを感じた。中腰の姿勢のまま何
刻も同じところを磨き続けていたからかもしれない。クイは作業を
止めてゆっくりと背中を伸ばした。少し腕を上げて伸びをしてみよ
うと思った瞬間、下腹に鋭い痛みが走りクイは腹を抱えて蹲った。
額に脂汗が滲み息遣いが荒くなる。少しでも動いたら腹が引き裂か
れてしまうのではないかという恐怖でクイは何刻もその姿勢のまま
動けないでいた。
﹁今日はやけに遅いな﹂
厨房のパパリャがすっかり冷えたスープと固くなった干し芋を眺
めながら溜め息を吐いたとき、がたんと何かが倒れる音と足を引き
摺る音を聞いて厨房の入り口を振り返った。
﹁クイ!﹂
入り口の脇にクイが座り込んでいた。額に大粒の汗が噴き出て苦
しそうに息をしている。
﹁どうしたんだい﹂
いつ
﹁お腹が、お腹がいたい﹂
﹁なんだって! 何時からだい﹂
﹁さっき⋮⋮急に。少し良くなったと思ったら、また﹂
ふうとゆっくり息を吐き出して何とか痛みを堪えようとしている
が、立ち上がるのは難儀なようだ。パパリャは何とかクイを楽にし
44
てやろうと彼女の傍にしゃがみこんでそっと腹を擦った。しばらく
そうしているとクイの顔がだんだんと穏やかになり汗も引いてきた。
﹁⋮⋮落ち着いたみたい。でもまだお腹の底に石でもあるみたいに
重い﹂
言われてパパリャははっとする。
﹁クイ、もしかして⋮⋮。ちょっとスカートの中を覗くよ﹂
クイのスカートの裾を少したくし上げ白い腿の辺りを覗いたパパ
リャはすべてを納得して笑顔になった。
﹁病気じゃないよクイ。でもそのままにしておくわけにはいかない。
あたしが付いていってやるから奥様のところに行くんだ﹂
それを聞いてクイは目を剥き、激しく首を横に振った。
﹁嫌よ! 病気じゃないなら伯母さまのところへ行く必要なんてな
いじゃない!﹂
パパリャは怯えるクイを宥めようと肩を優しく擦りながら説明す
る。
﹁病気じゃないけど大事なことなんだ。でもとっても嬉しいことな
んだよ。奥様だってお喜びになるさ。大丈夫、あたしがちゃんと奥
様に説明するから﹂
それならばいま自分に説明してくれればいいものをとクイは思っ
たが、唯一の頼みであるパパリャに抗ってふたたび痛みが襲ってき
たとき、ひとりではどうしていいのか分からない。仕方なくクイは
パパリャの言うことに従うことにした。
さらし
﹁その前にとりあえずの手当てをしておこうね﹂
パパリャは厨房の奥に引っ込み清潔な晒を手に戻ってきた。
﹁厨房で使うものだけど、新しい物だから大丈夫だろう﹂
そう言ってクイのスカートをたくし上げ下腹から尻の辺りに巻き
つける。クイはパパリャの手当ての意味がまったく分からなかった
が、これで楽になるならとおとなしくされるがままにしていた。
支度を終えるとパパリャはクイの身体をしっかりと支えて屋敷の
45
奥へと進んでいった。本来なら飯炊き娘が勝手に入れる場所ではな
いのだが、クイを連れていることですれ違う使用人たちは見て見ぬ
振りをする。陰では﹃壁磨きしか能のない娘﹄と揶揄されていても
クイの身分が認められている証拠だ。クイは、あるいはこの屋敷の
女主人よりもずっと地位の高い人物なのかもしれない。使用人たち
があまり彼女に接したがらないのは彼女を蔑んでいるからではなく、
彼女の身分の高さを畏れているのだ。パパリャは改めてそのことを
実感した。
屋敷の最も奥まったところに小さな部屋がある。中庭からその部
屋に向かう道筋には両脇に色鮮やかな花が植えられて蝶や羽虫が舞
っている。外壁に絡まる蔓草にも目の醒めるような鮮やかな色の花
がいくつも付いていて花の中の小部屋といったところだ。気難しい
女主人がほぼ一日を過ごすその部屋はとても居心地が良さそうだ。
クイがこの部屋までやってくることは滅多に無かった。滅多にど
ころか此処に来たのは、初めてこの家にやってきたほんの幼い頃と、
二度ほど都からクイへと荷物が送られてきたときのみである。荷物
というのはクイの成長に合わせた大きさの新しい服だったが、荷は
部屋の入り口に無造作に置かれており、﹁早くそれを自分の部屋に
持っておいき﹂と伯母が奥のほうから声を掛けたのでクイは部屋の
中に入ることも叶わずそそくさと荷物を持ち帰ったのだった。
クイは、伯母がこの部屋に呼ぶときにはいつも不機嫌だったこと
を思い出し、入り口が近づくに連れて表情を強張らせた。治まって
いた腹の痛みもまた蘇ってきそうだ。なんとかそれを堪えるために
パパリャの腕にひっしとしがみつく。パパリャが﹁大丈夫さ﹂と言
うように縋りつくクイの細い腕を擦った。
外があまりにも明るく華やかなために、部屋の中は夜の闇のよう
に暗く感じた。それほど奥行きが無いはずなのに暗さでどこに何が
あるのか分からない。ふたりは入り口で歩みを止め目が慣れてくる
46
のを待った。
逆に中の人物から声が掛かる。
﹁おや、パパリャ。クイ様をお連れして、どうしたんだい﹂
女主人の身の回りの世話をする侍女の声だった。ふたりはその声
がした方を向いて目を凝らした。ようやく左奥のほうに小さな窓の
明かりが浮かんできた。その下に設えられた石の寝台に幾重も毛布
が重ねられ誰かが横たわっているのが見えてくる。声を掛けた侍女
はその寝台の横に立ってこちらを向いていた。
﹁あ、あの⋮⋮。クイ様のことで奥様にご報告が⋮⋮﹂
気丈なパパリャもさすがに緊張するのか、しどろもどろになった。
パパリャの言葉を聞いて侍女が寝台の上の人物のほうに屈みこみ何
かを語りかけている。すると寝台の上の人がぼそぼそと何かを答え、
それに頷いた侍女が再び身体を起こしてこちらを向いた。
﹁こちらへいらっしゃい、とおっしゃっているわ﹂
ふたりはその言葉に従ってそろそろと寝台に近づいていった。パ
パリャが先に立ち、クイがその腕に引かれるような形で後ろに従う。
クイの緊張は極限まで達し、もう自分で歩いている感覚さえなかっ
た。こういうときに限って腹の痛みや不快感はまったく感じられず、
さっきまで泣き言を言っていた自分が情けなく思えてしまう。あの
ときもう少し辛抱できていたならこんなところに連れてこられるこ
とも無かったのに。
寝台の傍にやってくると、侍女が自分の場所を空けて寝台に横た
わる人物の顔が見える位置を勧めた。そして寝台の枕の下にまたさ
らに多くの毛布を挟みこんで寝ていた人の上半身を起こした。お蔭
でクイと寝台の伯母の視線がちょうど重なった。これまで張り詰め
ていたクイの神経がふと弛む。寝台の上の伯母はクイがこれまで抱
いていた冷たく厳しいイメージではなく温和でどことなく儚げな表
情をしていたのだ。驚いて伯母を見つめているクイの後ろでパパリ
ャが女主人の午睡を妨げなければならない理由を説明した。
﹁奥様、おやすみのところ申し訳ありませんが、すぐにご報告しな
47
ければならないことがありますのでクイ様をお連れしたのです﹂
これまで友だち、いや姉とも思うほど親しかったパパリャの堅苦
しい言葉にクイはひどく衝撃を受ける。パパリャは表面では親しげ
にしていても心では距離を置いていたのだと思うと孤独を感じた。
つづいたパパリャの言葉にもクイは驚かされることになる。
﹁おめでとうございます。クイ様はいよいよ成人を迎えられること
になりました﹂
48
2、 金の星 ︵2︶
パパリャの言葉から部屋の中にしばらく沈黙が流れた。やがてそ
の静寂を破ったのは女主人の足許に立っている侍女だった。
﹁⋮⋮奥様、いよいよこの時がやってきたのですね﹂
侍女の言葉に寝台の上の老婦人がゆっくりと頷いた。置かれてい
る状況が何も分からないクイも、そして事の大きさをある程度予想
していたパパリャさえも、予想外の深刻な事態に繋がっていくこと
を感じ取って身を引き締めた。
ふたりの視線の先で老婦人が僅かに口を開き、掠れた声を発する。
﹁それでは儀式の準備を進めておくれ。介添えはこの飯炊き娘にお
願いするとしよう﹂
視線は少女たちに向けられたままだが、老婦人の言葉は侍女に向
けられたものだった。 女主人の傍に仕えてきた侍女は、すべての事情を知りこの日に備
えて女主人と打ち合わせをしてきたようだ。今は身体を容易に動か
すことのできない主人に代わって計画を進める用意があるようだ。
﹁畏まりました。奥様。お任せくださいませ﹂
侍女が胸に手を当てて軽く腰を折る。そして少女たちの傍にやっ
てきて二人の背中に手を添えた。
﹁これからすぐに支度を始めますよ。パパリャ、お前はお嬢様の介
添えとしてこれから三日間お嬢様の傍でお世話をしてもらいます。
さあ、こちらへいらっしゃい﹂
侍女はそのままふたりの背中を押して外へ出るように促した。
嬉しいこと、奥様もお喜びになる⋮⋮パパリャは確かにそう云っ
49
た。けれど事態はまったく逆の方向へと進んでいく。伯母の部屋に
連れて行かれることになったときから不安を感じていたクイには予
想どおりであったが、パパリャの言葉に期待していなかったわけで
もない。悪い予感のほうが現実となり、クイはパパリャを恨みがま
しく見た。するとパパリャのほうが余程弱りきった顔でクイを見つ
め返した。侍女に追い立てられるように歩きながらパパリャの瞳は
クイにすまないと告げている。クイは、いつも気丈なパパリャのす
っかり弱った表情にさらに不安を覚え、慌てて視線を逸らした。
心と呼応するかのように、クイは再び腹に重苦しさを感じた。し
かし先を往く侍女にも隣を歩くパパリャにもそれを訴えることは躊
躇われた。額に脂汗を滲ませながら痛みに耐え、侍女の後を付いて
いくしかなかった。
ふたりが連れて来られたのは、伯母の部屋の並びにある広い部屋
だった。屋敷の奥まった場所にあるその部屋はたいへん立派な石造
りであるが、長年使った形跡のない殺風景な部屋だった。主が無く
ても常に綺麗に掃除されているようだが、生活の跡が無いと酷く寒
々しく感じられる。牢獄とはこんな場所ではないだろうかとクイは
思った。
侍女は少女たちを部屋に通して入り口の厚い掛け布を下ろした。
三人だけになると侍女は二人に向き合いこれから行われることを説
明しようとした。
﹁お嬢様、まずはご成人の兆しおめでとうございます﹂
当のクイは未だ何が起きているのか理解できず、侍女の言葉に首
を傾げた。
﹁待ってください。私、今朝とつぜんお腹が痛くなって、今も苦し
いのです。なぜそれがおめでたいことなのですか?﹂
侍女は今度はパパリャに視線を移して怪訝な顔をした。
﹁パパリャ、お嬢様に何も説明していないのかい?﹂
パパリャは縮こまって答える。
50
﹁すみません。奥様にご報告するのが先と思い⋮⋮﹂
侍女は小さく溜め息を吐き、再びクイに向き直った。
﹁お嬢様、貴女のお身体は大人になる準備を始めたのです。子を宿
すことのできる身体になろうとしているのですよ。これから儀式を
経て貴女さまは成人の女性に成られるのです。
奥様はお嬢様が大人に成られるまでご成長を見守ってこられまし
た。けれどお嬢様が成人されれば皇族として高い地位が与えられま
す。もう奥様が見守る必要も無くなるのです﹂
﹁皇族としての地位?﹂
これまでクイは自分が貴族の出身だということは聞かされていた。
ゆかり
両親が首都に住んでいたことも。けれど﹃皇族﹄とは貴族の中でも
特に皇帝に縁の深い一族であるということだ。自分の出自がそれほ
どまでに高い位であることなど思いもしなかった。それならば何故、
伯母は自分を疎むのか。そして長年厳しい下働きをさせられなけれ
ばならなかったのか。考えれば考えるほど腑に落ちないことばかり
だ。
パパリャにしても同じ思いだった。クイが貴族であることを知り
ながらも、下働きと同じ生活を送らなければならないクイはすでに
その地位を失くしてしまったも同然なのだと思っていた。そんな彼
女を不憫に思い、畏れながらも同じ立場の者に相対するように接し
てきたのだ。しかし﹃皇族﹄となれば平民にとって神にも等しく畏
れ多い存在なのである。
ふたりの表情がそれぞれ強張ったのを見て取って、侍女は付け加
えた。
﹁詳しいことはすべての儀式を終えたあと奥様からお話があります。
先ずは無事に成人の儀式を済まさなければなりません。パパリャ、
お前はお嬢様が最も信頼を置いている者なのですから、これから三
日の間、お嬢様のお世話の一切を任せます。重要な役目なのです。
動揺していてはいけませんよ﹂
するとクイはパパリャの手を取って力強く握った。パパリャがク
51
イの顔を見つめると、クイは少し不安な表情を残したままそれでも
微笑んで頷いた。彼女の表情はこう語っているようだ。
﹃パパリャ、貴女だけが頼りよ﹄
それを見てパパリャのほうもしっかりせねばと自分を奮い立たせ
る。何時しかふたりはこれまでと同じ信頼関係を取り戻していた。
儀式とはこれから三日の間、クイがこの部屋に篭って外部との接
触を絶つことだった。それだけでなく飲むことも食べることも禁じ
られる。いわゆる断食を行うのである。パパリャの役目はクイの健
康状態を見守ったり、汚れた着衣を取り替えたりすることであった。
たらい
それに先立ってパパリャはクイの本当の姿を目にすることになる。
ふたりに儀式の次第を説明したあと、侍女は水の張った盥と手拭
を持ってきてクイの顔に塗られた日除け薬を丁寧に落としていった。
クイが本来持っている透き通るような白い肌が露わになる。間近で
顔を合わすことの多かったパパリャは、クイのその白い肌と、覗く
と奥の奥まで見通せそうな薄蒼の瞳はよく識っていたが、驚いたの
はその後だった。
侍女はクイの肌を整え終えると黒毛のかつらを取った。かつらの
中に丸めて押し込まれていた豊かな髪がはらはらとクイの肩に滑り
落ちる。その色はまるで老婆の白髪のようだった。
パパリャは驚いて言葉を失った。まだ若いクイの髪が真っ白であ
ることに何度も目を疑う。しかしよくよく見ていると、さらさらと
流れるような髪は窓から差し込んでいる陽の光をはね返して艶やか
に輝いていた。時折窓から吹き込む微風に揺らされれば、それは尚
一層キラキラと眩く光るのだった。パパリャは遠くからしか見たこ
とはないが、祭典のときに神輿に飾り付けられた﹃太陽の汗﹄︵金︶
の色を思い浮かべた。
本当の姿を初めて親友の前で晒されて、クイはパパリャが自分の
容姿を恐れるのではないかと不安に思った。
そんなクイの心など察することなく、侍女はまるで何事も無いか
52
のようにクイの髪を手早く櫛で梳き、必要なものを揃えて部屋を出
て行ってしまった。クイは身支度を終えたままの姿勢で、パパリャ
はその傍に突っ立ったまま、暫し無言の時が流れる。けれどパパリ
ャはすぐに気を取り直し、クイに明るく言った。
﹁その髪、クイによく似合っているよ。黒い癖毛なんかよりずっと﹂
クイも笑顔で返す。
﹁ありがとう。嬉しいわ、パパリャ﹂
53
2、 金の星 ︵3︶
﹁ねえ、パパリャ。あなたが成人を迎えたときも、こんなに辛い儀
式を行ったの?﹂
パパリャの肩にぐったりともたれながら、力無い声でクイが訊い
た。
クイは石の部屋に閉じ込められたまま、食べることも飲むことも
禁じられていた。
パパリャが食事をとるときは、女主人の侍女が代わりにやってき
てクイの世話をした。けれどパパリャもクイに遠慮してそれほど食
事が喉を通らず急いで戻ってくるのだった。ただ、少しでも何か口
にできるパパリャとクイとでは明らかに衰弱の様子が違っていた。
クイは三日目の朝まではまだ余裕があった。けれどその日の夜に
なると、さすがに全身の力が抜け、立ち上がるのも容易ではなくな
った。
石の寝台に腰掛けて、横に居るパパリャを支えにようやく身体を
起こしているような状態だ。顔に掛かった金の髪も、クイが弱って
いくと同時に輝きを失っていくようだった。パパリャはクイの背中
に腕を回し細く柔らかいその髪を撫でながら答える。
﹁いいや。あたしは同じ故郷の者たちが暮らす場所に帰されて成人
を迎えたけど、こんな厳しいものじゃなかったよ。みんなあたしが
大人になったことを喜んでお祝いしてくれた。丈夫な子が産める身
体になるんだよと、食べきれないほどのご馳走が出されたよ﹂
クイは蒼白い顔を上げてパパリャを見つめた。
54
ここ
﹁同じ故郷⋮⋮って。パパリャはクスコの生まれではないの?﹂
﹁ああ、そうだよ。でもこの街にはほんとうに幼い頃にやってきた
から、この街の生まれだといってもいいくらいだけどね。ただ、ク
イと同じケチュアの民じゃない。あたしの故郷は遠い北の果てなん
だ﹂
﹁北?﹂
北と聞いてクイが思い出すのはクッシリュのことである。クイに
屋敷の外の世界を教えてくれた友は北の地に憧れ続け、そして実際
し
チンチャイ・スーユ
に旅立っていった。
﹁識っているわ。北の邦って、とても素晴らしいところなのでしょ
う?﹂
﹁⋮⋮さあ、どうかな。幼い頃だったからはっきり覚えていないけ
ど、あんまりいい思い出はないな。たくさんの高い木が日の光を遮
るからいつも薄暗くて、地面はじとじととしていたな。鳥や動物の
鳴き声が絶えず響いていた。暗い森の中から何時凶暴な動物が襲っ
てくるか分からなくてびくびくしていた。動物じゃない何かも⋮⋮﹂
パパリャはそこまで言って言葉を切った。彼女にとって故郷は本
当に良い思い出が無いらしい。寧ろ思い出したくない程辛い体験が
あるようだ。
クイはそれ以上パパリャに故郷について訊くことはできなかった。
けれどパパリャの話す﹃北﹄はクッシリュの言った理想郷のような
イメージと正反対で、北の邦とは一体どういう場所なのだろうかと
クイは気になって仕方なくなった。
で
やがてパパリャのほうから違う話を切り出した。
﹁そういえばむかし、街近くの村の出の侍女が話していたな。彼女
は成人を迎えるために実家に戻ったけど、三日の間食べることも飲
むこともできなかったって。でも彼女は言っていた。家族に励まさ
れながらその三日を終えると、村中の人がやってきて彼女を祝福し
てくれたって。それに素晴らしい名前をもらったんだと誇らしげに
55
実家から戻ってきた。
クイがあたしとふたりきりでこんな冷たい部屋に閉じ込められな
くちゃならないのは、いったいどういう理由なんだろうね。クイは
普通の身分じゃないから特に厳しいんじゃないかな。位の高いお姫
様はたいへんなんだな。同情するよ﹂
それを聞いてクイは深く溜め息を吐いた。
﹁私は皇族なんかに生まれたくなかったわ。そのうえこんな変わっ
た姿で生まれてきたために、本当の姿を隠して生きていかなくては
ならないなんて。私が大人になることを喜んでくれる人なんている
のかしら﹂
﹁あたしは嬉しいよ、クイ。クイが皇族だろうと、少し変わった姿
だろうと、親友には違いないさ。お互いに大人になれば、ますます
助け合っていけるじゃないか﹂
﹁ありがとう⋮⋮大好きよ、パパリャ。これからもずっと傍にいて
ね⋮⋮﹂
そのまま会話は途切れた。パパリャが肩に一層の重みを感じてク
イの顔を覗くと、クイは静かな寝息を立てていた。差し込む月明か
りにぼんやりと輝く美しい髪が彼女の顔に幾筋も掛かっている。パ
いぎょう
しるし
パリャはこの世の人とは思えないようなその姿を見ながら呟いた。
﹁異形は神の祝福の徴︵※︶って云うじゃないか。ましてやこんな
きれいな子がなんで人目をはばかって暮らさなくちゃならないんだ
ろう。あんたは女神にだって成れるはずなのにさ。クイ﹂
四日目の朝が明けると、女主人の侍女が大きな布を持って部屋に
やってきた。まだうとうととしているクイの身体を寝台の上に起こ
し、パパリャにも手伝わせて、身に纏っている衣服を全て取り去る。
抵抗する力も無く、クイはふたりの為すがままになっていた。パパ
リャが目にしたクイの裸体は、その顔や髪と同じく透き通るような
色をしていた。
56
くる
侍女は大きな布を広げ、クイの頭から足先までを覆うように巻き
つけた。早朝、まだ人気のない屋敷の中を、布に包まれたクイがふ
たりに支えられながらよろよろと進んでいく。向かう先は屋敷の主
が使う沐浴場である。
とばり
中庭のような空間の真ん中に、山から引いて来た清水が湧き出る
石桶がある。もちろん女主人が沐浴するときには周囲に帳が立てら
れるのだが、クイが連れてこられたときには、その帳が何重にも張
り巡らされていた。ほんの僅かでも中の様子を覗かれてはいけない
と警戒しているようだ。立てられた帳の間を縫って石桶の前にやっ
てくると、ようやくクイの身体に巻きつけられていた布が取り払わ
れた。
侍女はクイを石桶の前にある石の台に座らせて、桶から流れ出る
澄んだ水を足先から少しずつ掛けていく。クイはきんと冷えた水が
足先に触れただけで震え上がったが、何度かそれが繰り返されると
冷たさにも慣れ、逆に快感さえ感じるようになった。空腹をとっく
に通り越して、身体の感覚も麻痺しているのだろう。白い帳の張り
巡らされた中で朦朧と宙を向いているクイの白い肌を、侍女とパパ
リャは冷たい清水で丁寧に洗っていった。
ふと、クイは思った。こんなに厳重に目隠しをされ、最低限の人
間にしか本当の姿を晒すことが赦されない自分は、成人を迎えても
素顔を隠して生きていかなくてはならないのだろうか。自分の肌や
瞳や髪の色が暴かれれば、何か大きな災いを招くのだろうか。
そのときクイの脳裏に、幼い頃に起きたある事件の記憶が蘇った。
まだ幼かったクイは一度だけ伯母の言いつけを破ったことがある。
人前で黒毛のかつらを取ってはいけないと厳しく言われていたにも
関わらず、同じくらいの年の召し使いの子どもの前でうっかり取っ
てしまったことがあった。クイ自身もそれほど重大なこととは思っ
ていなかったのだ。召し使いの子どもが﹃その髪きれいね﹄と誉め
てくれたので、クイは得意になって堂々と本当の姿を晒していた。
57
伯母がその場を発見し、クイは地下室に閉じ込められてお仕置き
を受けた。地下室から出してもらったあと、クイは二度と召し使い
の子どもに会うことはできなかったのだ。
それまで虚ろな目で宙を見ていたクイが、はっと険しい表情にな
った。
﹁いけないわ。あれを持ってくるのを忘れていた﹂
クイの身体を洗い終えた侍女はそう呟くと、パパリャに向かって
云った。
﹁大事な物を取りに行ってくるわ。その間にお嬢様のお身体を綺麗
に拭いて差し上げてね﹂
侍女の姿が帳の向こうに消えると、クイは背中の水滴を丁寧に拭
き取っているパパリャに神妙な声で呼びかけた。
﹁パパリャ、もしも私がこの屋敷を出ていくことになったら一緒に
付いてきてくれる?﹂
パパリャは手を止めずに明るく云った。
﹁当たり前だろ。親友なんだから﹂
﹁成人の儀式を終えても、私には自分の生き方を自由に選ぶ権利は
与えられないかもしれないわ。でも貴女を連れて行くことだけは譲
らないつもりよ。私がどんなに厳しく叱られたとしても貴女は私の
言うことに黙って頷いていてほしいの﹂
パパリャは、珍しく強い口調で訴えるクイを不思議に思ったが、
クイと一緒に屋敷を出ることはそれほど難しいことでは無いと感じ
ていたので、気軽に返事をした。
﹁もちろんさ﹂
58
2、 金の星 ︵3︶︵後書き︶
︵※︶アンデス地域には、奇形や障害を伴って生まれた子を神の生
まれ変わりとして信仰する風習がありました。
59
2、 金の星 ︵4︶
パパリャがクイの身体を拭き終えたとき、侍女が戻ってきた。侍
女が手にしているのはクイがこの三日間目にすることのなかった物
だ。それを見てクイは心の中で溜め息を吐く。
それは、クイが石の部屋に閉じ込められるまでほとんど毎日身に
つけていたあの黒毛のかつらだった。しかしこれまでクイが使って
いた縮れて埃を被ったものとは違い、まだ新しく艶やかだ。沐浴場
の隅に畳まれている色鮮やかな衣服同様、クイが成人を迎えるに当
たり新調してくれたのだろう。
しかしそれは、今後もクイが本来の容姿を隠して生きていかなけ
ればならないということの証である。
侍女とパパリャの手によって、クイの華奢な体に美しい模様をあ
しらった衣装が着付けられ、色鮮やかな帯が巻かれる。まだ金の髪
を隠していないクイの姿は、人とは思えないほど神秘的な美しさを
放っていた。パパリャはその姿を多くの人に知ってもらいたいと思
ったが、侍女は素早くクイの金糸の髪を纏め上げて黒いかつらの中
に仕舞い込んでしまった。それでも、以前より滑らかで光沢のある
黒毛のかつらを被ったクイは、これまで屋敷の隅に縮こまっていた
地味な少女とは思えないほど、美しかった。
身支度を整え終わったクイは、その姿を念入りに隠すように頭の
上から大きな薄手の布を被せられた。そして両脇をふたりに守られ
るようにして沐浴場を後にした。
屋敷の廊下を歩いていくと、すれ違う召し使いたちが立ち止まり
クイのほうへと頭を下げる。屋敷の主人が育ててきた令嬢が成人を
60
迎えたことは、ここで働く者たちはすでに知っているらしい。それ
がこれまで屋敷の壁を磨いていた小さな少女であることを知ってい
るかどうかは分からないが。
侍女とパパリャに抱えられてクイが辿り着いたのは、客人を迎え
るための立派な部屋の前だった。侍女はそこでパパリャに言った。
﹁さあ、私たちのお役目はここで終わりです。パパリャ、行きます
よ﹂
侍女に促されてその場を去ろうとするパパリャの腕を、クイはぱ
っと掴んだ。
﹁待って。行かないで頂戴﹂
﹁お嬢様、ここから先は下々の私たちが入ることは赦されません。
心細いでしょうが、中で奥様がお待ちです。奥様のお言いつけに従
ってくださいませ﹂
﹁違うのよ。パパリャを連れていっては駄目﹂
﹁どうしてです? パパリャのお役目は済んだのですよ﹂
﹁いいえ。パパリャには此処に居てもらいます。私は大人の皇族に
なったのでしょう? ならば自分の召し使いも選んでいいはずだわ。
パパリャには私の傍付きになってもらいます。伯母さまにお許しを
いただくまでここで待っていてもらいます﹂
﹁それならば、お許しをいただいたあとにパパリャを連れていけば
よろしいではないですか。パパリャにもいったん休息を与えてやり
ませんと﹂
﹁それはなりません。これは私からの命令です﹂
クイがそう言い切ったとき、入り口の掛け布の向こうがわから老
女の声が響いてきた。
﹁いったいそこで何をやっているのですか。お客さまがいらっしゃ
るのですよ。静かになさい﹂
侍女は困ったように掛け布の向こうの主人に答える。
﹁申し訳ありません。お嬢様がここで飯炊き娘を待たせるようにと
61
おっしゃるので﹂
﹁クイ、何を我儘を言っているのです。未だ大事な儀式があるので
すよ﹂
クイも負けずに掛け布の向こうへ答える。
﹁伯母さま、私は召し使いにここで控えていてもらいたいのです。
まだ身体が思うとおりに動かせないので倒れやしないかと不安なの
です﹂
侍女は先ほどとは違うことをいうクイを睨んだ。掛け布の向こう
からは暫しの沈黙のあと、再び老女の声が響いてきた。
﹁とりあえずは滞りなく儀式を済ませることが先です。貴女の我儘
をいちいち聞いているわけにはいきません。身体が心配だというな
ら、その侍女たちのどちらかに、部屋の中の声が聞こえない場所で
待つように申し付けて、さっさと入っていらっしゃい﹂
それを聞いてクイはパパリャの身体を自分のほうへ引き寄せて侍
女を睨み付けた。侍女は呆れた顔でクイを見たが、軽く頭を振って
その場を去っていった。侍女が去ったあとクイはパパリャに耳打ち
した。
﹁少し離れた場所で私が出てくるのを待っていて。誰かがパパリャ
を連れていこうとしても主人の命令でここから動けないっていうの
よ﹂
パパリャが守ってきた憐れな少女はそこにはいなかった。これま
でとは立場が逆転してパパリャは母親の言いつけに従う子どものよ
うに神妙な顔で頷いて部屋の前を離れていった。
独りになってクイは客間の掛け布を上げて中へと入っていった。
正面の石の座台に伯母が珍しく背筋を伸ばして座っていた。ここ
数年、老いて身体の弱った伯母とは滅多に顔を合わせることはなか
った。断食の前に見た弱々しく寝台に横たわっていた姿がいちばん
新しい記憶として残っている。しかしクイの正面に座る人はかつて
クイの行動にいちいち目を光らせ粗相は無いかと見張っていたあの
62
厳格な貴婦人その人だった。クイは思わず視線を足許に落とし肩を
強張らせた。そして反射的に伯母に何か指摘される前にと自分の成
りを確かめようとした。威圧的な伯母の視線に晒されて瞬時に幼い
ころも
頃厳しく躾けられた記憶が蘇ってきたのだ。
﹁折角美しい衣を着せてもらったのだから、もっと堂々としたらど
うなの?﹂
小さくなって俯いているクイに伯母は笑いながら声を掛けた。そ
れは意外にも優しく温かみのある声だった。かろうじて姿勢を保っ
ているものの、伯母は年老いてクイを叱る力も無くなっているらし
い。いや、もうクイは伯母から何かを指摘されるような年齢ではな
いのだ。これから正式に﹃大人﹄になろうとしているのだから。
安心を得て再び背筋を伸ばし正面を見据える。伯母と目が合った
途端、伯母の脇に控えていた人物が声を上げた。
﹁ほう。なるほど。話には聞いていたが、こうして間近に見ればま
すます不思議な⋮⋮﹂
若い男の声にクイは再び身体を強張らせた。この部屋に入ったと
きは伯母の視線ばかりが気になって彼の存在にはまるで気が付いて
いなかったのだ。斜めに差し込んでいる高窓の光が伯母の正面に落
ちているので、その奥の人物が陰になっていたことも原因ではある
が。幼い頃から他人⋮⋮屋敷の中でもかぎられた人としか目を合わ
せてはいけないといわれて育ってきたので、まるで知らない人物の
前に晒されることはクイにとって恐怖にも等しかった。驚き怯える
クイに伯母が説明を加える。
﹁クイ、この方はお父上の弟君、ワスカル皇子です。いま都にいら
っしゃる皇族のなかでは貴女にいちばん近しい身内に当たるのです。
本日はお前の成人を祝いにお父上の代理としていらしてくださった
のですよ﹂
63
64
2、 金の星 ︵5︶
紹介を受けてひとりの男が伯母の席の前へと進み出てきた。陰と
なっていたその姿を光がはっきりと照らし出す。
父の代理と云う割には未だ二十代はじめと思われる若者だった。
兄と云うにはかなり年が離れているがクイの父親と云う年齢でもな
い。しかしその立ち居振る舞いはどこか老成したような落ち着きが
あった。
﹁お身体がお辛いでしょう。どうぞこちらに腰を下ろしてください﹂
青年皇族は、まずはクイの身体を気遣って伯母の席の前に敷かれ
た大きな敷布に座るように勧めた。クイはちょうど立っているのが
辛くなっていたので勧められるままに敷布に腰を下ろした。クイが
席に落ち着いたのを見届け、青年はその正面に跪いた。そして大袈
裟なほどゆったりと片腕を広げそれを胸の前に置いて深々と頭を垂
れる。そうしてクイに最大限の敬意を示すとゆっくり顔を上げ、改
めて挨拶を述べた。
﹁このたびはご成人、誠におめでとうございます。お初にお目に掛
かります、姫君。サパ・インカ、ワイナ・カパックと妃ラウラ・オ
クリョが息子、クシ・トパ・ワルパにございます。広くはワスカル
と呼ばれております。本日は、お父上ニナン・クヨチさまの代理と
して姫のご成人を見守らせていただきたく存じます﹂
クイは挨拶を返す礼儀も忘れて、思わず気になったことを口にし
た。
﹁私の父はニナン・クヨチと云う名なのですね。父はどうしてこの
場に来てくださらないの?﹂
これまで伯母からクイの父がどんな人物かは聞かされていた。こ
65
の屋敷に来る前には父の元で暮らしていたというから、クイの記憶
のどこかには父の面影もあるはずなのだが、そのときのクイはあま
りにも幼かったため、その記憶を見つけ出すことは難しかった。だ
から伯母の話す厳格で無口な人物というのがクイの頭のなかの父親
像だ。母はクイが生まれると同時に亡くなったという。唯一の肉親
である父に会える日をクイは密かに楽しみにしていた。しかし成人
という大きな節目を迎えても父に会うことが叶わないと知ってクイ
は落胆した。ようやく大人になり厳しい伯母の監視の許から解放さ
れるときが来たというのに、彼女を待っていたのは頼れる身内のな
い孤独だったのだ。
クイの薄蒼の瞳が哀しげに揺れるのを見て、皇子ワスカルは彼女
に同情するように眉を顰めた。
﹁姫、お父上にお会いできる日を心待ちにされていたのですね。そ
れを、お父上の代わりに参ったのがわたくしだったとは、さぞかし
がっかりなさったことでしょう﹂
﹁いいえ。その様なことは⋮⋮﹂
口では否定しながらも、クイは未だ浮かない表情を隠せないでい
た。
﹁いいのですよ。そのようなお気持ちになられるのは当然のことで
チンチャイ
す。しかしご安心なさってください。お父上も姫のご成人を心待ち
にされていたのですよ。お父上は皇帝陛下のお供で北にいらっしゃ
るのです。いまはどうしても都に戻ることが出来ず、心苦しく思っ
ていらっしゃいます。だからこそ、信頼を置いてくださっている異
母弟のわたくしに数々のお祝いの品を託され、姫のご成人を見守っ
てほしいと頼まれたのです﹂
﹁本当ですか﹂
﹁ええ。その証拠にこちらに並んだ品はすべてお父上から贈られた
ものなのですよ﹂
ワスカルの指し示す方へ目を遣ると、そこには美しい織りの着物
や帯が数着、意匠の凝らされた装飾品が数点、そして丈夫そうなサ
66
ンダルが置かれていた。それはこれまで侍女と変わらない質素な服
しか身に付けたことのなかったクイにはとても贅沢なものに見えた。
﹁こんなにたくさん⋮⋮。お父さまが私のために⋮⋮﹂
クイの顔に喜びが滲み出てくるのを見て、ワスカルは満足そうに
頷いた。
﹁まだ喜ばれるのは早いですよ。わたくしはお父上より貴女さまの
お名前を預かってまいりました。貴女さまがお生まれになったとき
に思いつかれたお名前なのだそうです。お父上はようやくその名を
貴女に授けることができると大変お喜びです﹂
クイはますます目を輝かせてワスカルを見た。ワスカルの方では
摩訶不思議な光を放つその瞳に魅入られクイから目が離せなくなっ
た。
︱︱ なんという色なのだ。この娘を世間から隠さねばならない理
由が分かる ︱︱
﹁クイ。本来なら多くの者たちに祝福を受けて成人を迎えるもので
すが、貴女は特別なのです。ですから貴女の成人は私とこのワスカ
ル皇子しか見届けることができません。分かりますね﹂
呆然としているワスカルの背後から伯母が彼の説明を補うように
云った。その声でクイを見つめていたワスカルは我に返った。そし
て老婦人に一礼すると速やかに脇に退き、そこに置かれた来客用の
敷布に腰を下ろした。
﹁⋮⋮はい﹂
伯母に答えたあとクイの顔にまた翳が差す。皇女ならば多くの召
し使いがクイの身体を清めその身体に美しい着物を着せ付けてくれ
るのではないだろうか。そして立派な宮殿の広間で大勢の貴族、皇
族たちにお披露目されるのではないだろうか。例え庶民だとしても、
パパリャの話にあったように村中の者から祝福されるのではないだ
ろうか。
だだ広い部屋の中で伯母と、父の代理とはいえ初めて会った男性
67
と、三人きり。とても祝いの席には思えない。
﹁⋮⋮けれど貴女の成人は、国中の者が待ち望んでいたものなので
すよ﹂
つづいた伯母の意外な言葉にクイは目を見開く。伯母はクイの驚
きを承知していたのだろう。そのままゆったりとした口調でクイに
語りかけた。
﹁これまできっと何度も、自分は生まれてきてはいけなかったので
はないかと思ったことだろうね。なぜこんな辛い目に合うのだろう
と思ったろうね。そして私を憎く思ったことだろう⋮⋮﹂
クイは瞬きもせずに伯母を見つめていた。
﹁貴女のその肌の色、瞳の色、髪の色、どれをとってもわが国の、
いやこの大地のどの部族の民にも見られないものです。しかし貴女
は紛れもなく、サパ・インカの第一皇子であり、我が妹の忘れ形見
でもある皇太子ニナン・クヨチと、その正妃ユユとの間に生まれた
皇女なのです﹂
68
2、 金の星 ︵6︶
伯母はその先の言葉を続ける前に、固く目を閉じ、深く息を吸い
込んだ。それを長く吐き出しながら天井を見上げ、溢れてくる想い
をその胸の中へ押し込めようとするように、再び大きく息を吸い込
んだ。クイはそんな伯母の姿に、今まで誰からも見限られてきたと
思ってきた、特にこの伯母にとっては厄介者でしかないのだと感じ
ていた自分という存在が、何かひどく重々しく、常に彼女の気を削
がねばならないものであったのかもしれないと気付いた。
胸に溜めた息を、またゆっくりと最後まで吐き切って、老女は言
葉を継いだ。
サパ・インカ
﹁貴女の父、ニナン・クヨチは、私の大切な妹の忘れ形見。早世し
た妹に代わり、私が育てたようなものなのです。皇帝はその後、こ
こにいるワスカルの母を正妃としたのですが、ワスカルの母も私の
妹。つまり、ニナンとワスカルは、どちらも私の息子のようなもの
なのです。だから貴女にとって、このワスカルも父と同様、信頼を
置いていい人物なのですよ。私亡きあとは、このワスカルに貴女の
後見を頼みました。もちろん、本当の父が居るのですから、その必
要はないはずなのですが、実はもう、貴女をニナンの許に返すこと
は出来なくなってしまったのです﹂
クイはその衝撃的な言葉に、碧い目を大きく見開いて唇を震わせ
た。
﹁⋮⋮お父様の許に⋮⋮帰れない?﹂
69
上座に座っていた伯母は、そのクイの姿を見ると、弱々しく立ち
上がった。足を引きずるようにしてクイの前にやってくると、その
前でゆっくりと片方ずつ膝をつき、クイの両肩に骨ばった手を伸ば
した。
﹁ああ、貴女にとって、それがどんなに辛いことか、察しますよ。
だからこそ、しっかりと聞いてほしいのです﹂
膝立ちになっていた伯母は、片腕をついて体重を支えながら、そ
の場に腰を下ろしていった。足が痛むのか苦痛に顔を歪めながら、
ようやく片膝を立てた姿勢で座った。早朝、クイを追い立てるよう
に金切り声を上げることは、もう出来ないだろう。憐れむような眼
を向けてクイの頬を撫でる老女に、これまで辛い仕打ちを与えてき
ワカ
た意地悪な女主人の姿を重ねることは出来なかった。
ユラック・ワワ
ハトゥン・ルナ
﹁白い子。生き神。
貴女は人間ではありません。いえ、人として育ててはいけなかっ
た。神、ビラコチャが、間違えて人の世に堕としてしまった子ども。
それをニナンとユユが授かったのです。本当なら生まれ落ちた時点
で、神殿に預けて人の穢れから隔離するか、あるいは天にお返しし
なくてはならなかった。
しかし、貴女の父はどうしてもそれを受け入れられなかった。さ
らに、最愛の妃ユユが、貴女を生んですぐに亡くなってしまったた
めに、なおそなたを離し難くなってしまったのです。
もしや、真の姿を隠して人として躾ていけば、いつか人になって
くれるのでは。ニナンは万にひとつの望みに賭けたのです。愚かな
願いでした。けれど、それほど貴女を愛していたのです。それで、
世間の目から遠ざけながらも、人が行う最低限の生活を自分の力で
ハトゥン・ルナ
出来るように躾てほしいと、貴女を私に託したのです。結局、貴女
が﹃人間﹄になることはなかった。成人を迎えても、その姿が変わ
70
ることはなく、いえ、さらに人離れした美しさを放つようになった。
神の子の存在を隠して、人の生活を強いてきたことなど、とんで
もない背徳。貴女の父も私も、大変な罪を犯してしまったのです。
しかし、今更貴女を神にお返しすれば、そのお怒りは、私たちだけ
に収まらないでしょう。神は、この世の者をすべて消し去るまでお
赦しにはならないでしょう。
私はもう長くはない。そして、ニナンはやがて国を背負って立つ
ことになる。貴女をニナンの許に返せば、神はこの国を滅ぼしてし
まわれる。どうか、この国の全ての民のために、今後もその姿を隠
し通して生きていただきたいのです﹂
話すうちに深く深く刻まれていく老女の顔の皺に、クイは気を取
られていた。内容は理解できたが、実際それがどれほど自分に影響
してきたものなのか、今後自分の生きる道をどれほど左右するもの
なのかは、想像ができなかった。目の前でクイの服の裾を握りしめ、
身体を屈めて叫ぶように泣き始めた伯母の姿を見ても、自分とは関
わりない出来事を傍観しているようにしか感じられなかった。老女
は、自分の言葉で封印を解いてしまったかのように、ますます取り
乱して泣き叫ぶ。クイはそれにどう応じていいのか、まったく見当
も付かなかった。
ただ
﹁憎んでこうなってしまったわけではない。深く相手を想えばこそ。
人は愚かで浅はかなものです。姫君は、そんな人の世を糺すために
遣わされたのでしょう﹂
しばらく後、横で低く落ち着いた声が響き、伯母はようやく顔を
上げた。クイもそちらを振り返る。穏やかな笑顔を二人に向けて、
ワスカルが深く頷いた。
﹁わたくしは、何と素晴らしい役目を与えていただいたのだろうと、
71
喜んでおります。こんなに美しく気高い神の御遣いをわたくしに託
してくださるとは。姫君はもう、立派に独り立ちされました。姫君
がこの人の世で楽しく心穏やかに生を全うされれば、神も納得して
くださることでしょう。もちろん、その容姿が原因で姫君に危害が
及ぶことは避けなければなりませんが、それ以外の不自由はおかけ
いたしません。わたくしにどうぞお任せくださいませ﹂
﹁ワスカル皇子⋮⋮﹂
ワスカルの言葉に救いを得て、伯母は彼の方に深く身体を折り曲
げた。これまで何をどう理解して良いのか分からなかったクイも、
ようやく落ち着いて自分の立場を悟ることができた。
﹁伯母さま⋮⋮。私は自分が神の子だなど、信じられません。生ま
れてすぐに天へ還されていたら、私はこの大地の美しさも、人や動
物たちとの触れ合いも知らずにいたでしょう。これまでの間、辛い
こともあったけれど、それ以上に嬉しいこと、楽しいこともたくさ
んありました。お父様と伯母さまが私を人の世界に留めてくださっ
たお蔭です。それに、お父様と伯母さまが、どれほど私のことを愛
して、心配してくださっていたのか、今日、知ることができました。
それだけで私はほっとしました。もちろん、伯母さまの厳しさが辛
いと思ったことは嘘ではありません。でもその厳しさが、私にひと
りで生き抜く力を与えてくれたのです。
そして新たに、ワスカル様という良き理解者に引き合わせていた
だきました。これ以上、恵まれた娘はほかにはおりません﹂
﹁クイ⋮⋮﹂
伯母は骨だらけの細い腕をクイの身体に回し、きつく抱き締めた。
クイには痛いくらいだったが、その痛みに、あれだけ気丈だった伯
72
母の命が残り少ないことを知った。そして、クイが新たな生活へと
旅立たなくてはいけない時期が近づいていることも。
﹁姫君⋮⋮﹂
ワスカルはゆっくりと立ち上がり、抱き合う二人の横に立った。
伯母がクイに回していた腕をほどいて、ワスカルに場を譲る。ワス
カルは先ほどのようにクイの前に跪くと、胸に片腕を当てて深々と
頭を下げた。
﹁次期皇帝、ニナン・クヨチ様の第一皇女。さらに神の血筋を受け
継がれし尊いお方。畏れながら、不肖ワスカルより、貴女様にお父
上より授かった正式なお名前をお届いたしたいと思います。
貴女様は本日より、コリ・コイリュル様と名乗られますよう⋮⋮﹂
コリ・コイリュル
﹁金の星⋮⋮﹂
﹁クイ⋮⋮、いえ、コリ・コイリュル様。その名にあやかって、貴
女の未来が輝けるものとなることを祈っていますよ﹂
ワスカルの横で、伯母も深々と頭を下げた。
﹁⋮⋮新たな名をいただいて、大人になった私は、この館を出て、
都に行くのですね﹂
クイの唐突な質問に、ワスカルは驚くような顔を見せたが、すぐ
ににこやかな顔で返事を返した。
﹁はい。貴女様をお迎えする準備は何時でも整っております﹂
73
﹁それならばひとつだけ、私の願いを聞いていただきたいのですが﹂
﹁何でございましょう﹂
﹁今、外に控えている侍女を、私の傍付きとして都に連れていきた
いのです﹂
﹁それは⋮⋮﹂
何故か、ワスカルはその表情に難色を滲ませる。顔を上げた伯母
も同じような表情になり、お互いを見つめ合った。その二人の様子
から、クイがこの屋敷を出ていったあと、パパリャが口封じをされ
る危険が高かったことが分かる。クイは決してこの意思だけは譲っ
てはいけないと決意した。
ワスカルがクイに向き直って言った。
﹁コリ・コイリュル様。あの者よりも有能な侍女は都にたくさんお
ります。貴女様にふさわしい傍付きを、こちらでご用意いたします﹂
﹁いいえ、どんなに有能な侍女よりも、私はパパリャがいいのです。
私をずっと励まし支えてくれた人だからです。パパリャが一緒でな
ければ私は都に行きたくありません﹂
﹁ま⋮⋮﹂
伯母が何か諭そうと口を開きかけるが、もはやクイが自分の保護
下ではないことを悟ってそれを飲み込んだ。ワスカルはそんな伯母
の方に再び顔を向け、やがてゆっくりと首を横に振った。そしてク
イの方へと視線を移し、大きく頷いた。
74
﹁分かりました、コリ・コイリュル様。仰せのままにいたしましょ
う。あの者は貴女様の真の姿を知る者でもあります。秘密を守るた
めにも、貴女様のお傍に置いておく方がいいでしょう。
では、都でお待ちしております﹂
ワスカルはそう告げると最敬礼をした。クイは生まれて初めて自
分の意思を押し通したことに、少し震えながらも心地よい満足感を
得ていた。
クイが新たな名を得たことで、儀式は終了した。しかしそれは単
よし
なる儀式には留まらない。クイにとっても、そしてそのときには他
の誰も知る由は無かったが、この国にとっても大きな節目となった
のだ。
この日、クイ⋮⋮コリ・コイリュルの人生が、大きな時代のうね
りの中へと投げ出されたのだった。
75
3、 新しい住まい
3、新しい住まい
街は、以前クッシリュに連れられてやってきたときとはだいぶ様
子が違って見えた。無機質な壁の立ちはだかる通りも、今のクイに
は重大な秘密を隠して安全を守ってくれる頼もしい味方である。
早朝、人の往来もほとんどないうちに、ワスカルの遣わした数人
の警護の男たちとパパリャとともに、物心ついたときから暮らして
いた屋敷を後にしたクイは、都のワスカルの用意した館へと移動し
リクリ
た。成人の儀のときにワスカルから申し伝えられた段取り通り、黒
ャ
毛のリャマのかつらを被り日よけ薬をたっぷり塗り込んで、肩掛け
布を頭から被り、さらには目を閉じて盲目の振りをする。
クイ⋮⋮コリ・コイリュルが初めて外界に触れる日、彼女の秘密
を知る者はひどく敏感になっていた。しかし、コイリュルは時々目
を上げてリクリャの陰から以前クッシリュと走り回った街の様子を
懐かしく眺めていたのだ。
石畳を踏みしめるたびにクッシリュを思い出す。少年に引かれて
躓きそうになりながら走ったあの日を思い出す。無邪気な思い出の
残る街はようやく彼女の安住の地となったが、もう頼もしい友人は
そこにはいない。代わりに自分を守ってくれるこの高い壁の中で一
生を過ごしていくのだ。
案内された館にはワスカルが待っていた。皇子直々にコイリュル
を迎えると、パパリャ以外の護衛はそこで役目を終えて去っていっ
た。長い廊下の奥の奥に連れられて部屋に入ると、ようやくリクリ
ャを取ることを許された。
76
﹁なんて⋮⋮広い部屋﹂
コイリュルは思わずそう呟いて、碧い瞳にその部屋の様相を隅々
まで映し出した。
﹁ここは、お父上、ニナン・クヨチ様のお屋敷のひとつです。実は
チンチャイ・スーユ
お父上が貴女のために用意していたお屋敷なのですよ。お父上は、
即位される日が来るまで、北の邦を離れられないでしょう。表向き
は、ニナン様の留守を、成人した﹃私の娘﹄が引き受けたのだとい
うことになっています。しかし貴女のお屋敷なのです。どうぞご自
由にお使いください﹂
﹁私が、ワスカル様の娘と?﹂
﹁貴女が次期皇帝ニナン様のご息女であることが知れると不都合な
ことが多いため、そういうことにさせていただいたのです。実際に
は親子というにはかなり無理がありますが、他の者がそれを詮索す
る方法はありませんし、何よりも貴女をお守りするには、﹃遠縁の
者﹄ではなく﹃皇族直系の者﹄である方が都合がいい。私の娘なら
ば、下々の者は迂闊に貴女に近づくことはできません。もちろん、
﹃妻﹄としてしまった方が無理がないのですが、ね﹂
﹃妻﹄と謂う言葉にコイリュルが一瞬身を強張らせたのを見て、
ワスカルは笑った。
﹁正直な方だ。冗談ですよ。貴女もお嫌でしょうし、何よりも﹃妃﹄
という立場は逆に多くの場に顔を出さなくてはならなくなってしま
う。ですから、本日より貴女はこのワスカルの娘ということで通し
ていただきます。しかし、あくまで建て前です。貴女は紛れもなく
77
ニナン・クヨチ様のご息女。そしてこの館の主なのですから﹂
ワスカルはそう弁明したが、コイリュルは知らないところで自分
の立場が決められていたことに大きな不安を覚えていた。ワスカル
が彼女を妻にした方が都合が良いと判断すれば、そうなっていた可
能性もあるだろう。便宜上﹃娘﹄としただけに過ぎない。
そして父が次期皇帝であることは、思った以上に娘であるコイリ
ュルの生活を大きく左右するものであったことも衝撃だった。目立
つ容姿を隠さなければいけないだけでなく、父の娘であることも公
言できないのだ。ワスカルの娘というのは建て前であるが、実際、
ワスカルの庇護の許でしか暮らせないということだ。
ワスカルが部屋を退出して、パパリャがようやく口を開いた。
﹁クイ⋮⋮。あのワスカルという皇子、あたしには何か引っかかる。
本当にクイのことを第一に考えているのか知れたものじゃない﹂
﹁どうして? あの方は私の秘密を守りながら、それ以外には自由
を与えてくださるとおっしゃったわ。優しい方よ。何よりもお父様
の弟なんですもの。私にはたった一人の頼れる身内⋮⋮﹂
本当はパパリャと同じようにコイリュルも不安を抱いたのだが、
それを認めてしまうのが怖くてコイリュルは必死に否定した。しか
しパパリャはそれを聞いて、あまりにも楽観的なコイリュルに逆に
不安を覚えたようだ。。
﹁突然現れた﹃身内﹄と、長くあんたを見て来た他人のあたしと、
どっちを信じるのさ﹂
78
﹁まあ、なんて悲しいことを言うの。パパリャと比べられるはずは
ないでしょう。ワスカル様も私を守ってくださる大事な方よ。でも
私にはパパリャがいなくては生きていけないわ。こんな風に私のこ
とをいちばんに考えてくれるのは貴女だけですもの﹂
﹁そこまで言われると照れるけどね。でも、あたしはどんなことが
あってもクイの味方に変わりないよ。例えこの都を追われたとして
も、必ず一緒に付いていくから﹂
﹁都を追われる?﹂
﹁⋮⋮例えば、という話さ。クイの﹃身内﹄が誰もいなくなっても、
あたしだけは味方だって言いたかったんだよ﹂
コイリュルは黙ってパパリャに近づき、自分よりもずっと逞しい
ママ
少女の身体を抱きしめた。
ママ
﹁パパリャはお母さんみたい。きっと私を生んですぐに亡くなった
というお母さんの生まれ変わりなんだわ﹂
﹁そりゃおかしいよ、クイ。あたしが生まれたとき、クイのお母さ
んはまだこの世にいたんだろう。それから、前にも言ったけど、あ
たしはそんなに年じゃないよ。あんたと大して変わらないじゃない
か﹂
﹁そうよね。でもいいの。そう思いたいの﹂
しがみつくコイリュルの身体を抱き留めて﹁ま、いいか﹂とパパ
リャは苦笑いしながら呟いた。
79
*****
*****
*****
*****
*****
﹁⋮⋮そういうことでさ。何でも、こんなものじゃ収まらない金銀
財宝をたんまり溜め込んだ﹃大国﹄があるってハナシだ。ワシらが
戦ってきた野蛮人なんかより、遥かに物分かりのいい奴らがいて、
げ
げ
ワシらが国王陛下を敬愛するのと同じくらい奴らが崇める﹃王﹄が
治めているそうでさ。ビル︱の野蛮人どもなんて、下の下。それこ
そわがエスパーニャと並ぶ大国かもしれんてハナシさ。その分、手
ごわい相手となるかもしれんが、ワシらはあらゆる戦いをかいくぐ
ってきた騎士の一団だ。真向から戦いを挑んでも負けることなんて、
ありゃあせん﹂
薄汚い顔から酷い臭いを振り撒きながら、男は夢中で語った。彼
の振り撒く悪臭など気にならないほど、その話の内容は涎がこぼれ
るほどにかぐわしい匂いを漂わせていた。いつしか男の体臭も香ば
しく焼けた肉の匂いに思えるほどに。
ここ
﹁旦那、そりゃあパナマも、最高の住まいだろうさ。景色はいいし、
食べ物もたんまりある。旦那もここから南に下って散々な目に遭っ
たから、これ以上厄介事は御免だと思うかもしれんけどな。厄介事
のさらに厄介事のその先には、こんな場所なんてメじゃないパラダ
イスが手に入るかもしれないんですぜ﹂
80
確かに、この地の北方にあった黄金の帝国を、勇敢な彼らの同胞
が手に入れたとの報せ︵※︶が、ついこの間、飛び込んできたばか
りである。多くの同胞を失い修羅場を潜り抜けた先の快挙であった。
散々無頼者とそしられた同胞は一転、祖国に莫大な富をもたらした
﹃英雄﹄に成り上がったのである。熱帯のパラダイスで安穏と余生
を送りここに骨を埋めるか、はたまた宝の山を目指して更なる苛酷
な戦いに挑むのか。
思えば生まれてこの方、安穏とした暮らしなど一度も経験したこ
とはない。今更そんなものを求めてどうなるというのだろう。富と
権力を手に入れた夢を見ながら最後の最後まで戦い抜いて死んでい
くほうが、よほど性に合っている。
チンチャイ・
悪臭男の話を熱心に聞いていた細面の男の大きな瞳が輝きを放っ
た。
スーユ
コイリュルたちの暮らす都よりも、いやコイリュルが夢見る北の
邦よりもさらに北。太陽の通う道さえも越えた熱帯の地で、一人の
男の野心が燃え上がっていた。のちに、コイリュルとその周りの多
くの人々の記憶に、嫌というほどその存在を刻み付けることになる
であろう、その男。
名を、フランシスコ・ピサロと云った。
︵※ 1521年 コルテスによるアステカ征服︶
81
金の星 ∼歴史背景・簡易年表∼
インカの歴史といっても、ほとんどの方には馴染みのないもので、
それを背景に物語を綴っていても、なかなかイメージや流れが掴み
にくいと思います。
そこで、簡単な歴史の流れを載せておきたいと思います。
ただ、もちろんのこと﹃新大陸﹄には西暦というものが存在しませ
んので、大航海時代のスペイン人征服者の動きを中心として、その
間の新大陸での出来事を重ね合わせて表示したいと思います。
あくまで﹃歴史﹄ですので、ネタバレよりも歴史の流れに沿ってど
のように物語が展開していくかということに興味を持っていただけ
たらと思いますが、もしも全く知らない方が良いと思われる方は、
これ以降の資料をご覧にならないでお楽しみいただければと思いま
す。
1492年 コロンブス カリブ海 バハマ諸島到着
1493年 コロンブスの成果により、スペインが新大陸植民地化
の独占権をローマ法王から与えられる
1502年 フランシスコ・ピサロ 新大陸へ出発
82
1510年 スペイン人 パナマ地方に植民地ダリエン市建設
1513年 バルボア パナマを横断し太平洋を発見
1519年 スペインから派遣された総督ぺドラリスによって、バ
ルボア処刑
1519年 パナマ市 建設
1521年 メキシコでコルテスがアステカ王国征服
1522年 アンダゴーヤ 南米大陸太平洋岸をコロンビア北部ま
で探検 黄金帝国の情報を得る 1524年 ピサロ、南米大陸太平洋岸 第一回の探検に出る︵コ
ロンビア北部まで︶
1526年 ピサロ 第二回探検 インカ人との初めての接触
1525年前後 インカ皇帝 ワイナ・カパック死去
: 次期皇帝 ニナン・クヨチ死去 : ⋮⋮どちらもヨーロッパ人によって持ち込ま
れた天然痘が原因
:
: ワスカル皇帝即位
: 北部のアタワルパ派と対立
:
: ワスカル︵クスコ派︶とアタワルパ︵キー
ト派︶の内戦
83
1532年ごろ
1528年 ピサロ 報告のためスペインへ帰国
1529年 王室よりペルー総督に任命される
1531年 ピサロ スペインより自身の親族を加えた大船団を率
いて第三回探検
1532年 ピサロ インカ北部 トゥンベス上陸
植民地 サン・ミゲル市建設
カハマルカにて皇帝アタワルパを捕える
1533年 ピサロ クスコ入城
※新大陸での天然痘流行は、コロンブスのカリブ諸島到着とともに
始まりました。
さらに、スペイン人と逆ルートで、アマゾンを通ってポルトガルの
探検隊もインカの辺境に到達しています。
ピサロがインカに直接接触する前から、侵略者たちはインカ国内に
様々な影響を与えていたのです。
この物語では、
第一部 ワイナ・カパック皇帝の崩御から、ワスカル、アタワルパ
の戦争の時代
第二部 ピサロに率いられたスペイン人とアタワルパとの出会い、
インカ帝国の崩壊
84
を描いていこうと思っています。
85
1、翳りゆく陽光
1、翳りゆく陽光
北の地は陽光に満ち溢れ、暖かな大地に抱かれた神の地だ。遥か
クスコ
昔、先祖は南の湖より出でて北へ北へとのぼっていった。そこで湖
よりも温かく、湖と同じ恵みをもたらす地を見つけた。それが都だ。
ビラコチャ
偉大なる祖先たちは永き時に渡り、都を守り続けた。しかし⋮⋮。
ワイナ・カパック
神は旅を続ける。より良き土地を求め、より良き民を得るために。
トパ・インカ
そして今上皇帝は再び、新たな都を探し当てたのだ。正しくは、探
タワンティン・スーユ
し当てたのは先代であったが、それを首都にするべく尽力した。
サパ・インカ
新都キート。クスコを中心に発展し続けた国に新たな時代が訪れ
サパ・インカ
ようとしている。皇帝はそう信じていた。そして彼に従い新たな開
拓に精を出す多くの貴族兵士たちも。
しかし北の地に古くから住まう民は、皇帝とタワンティン・スー
ユに従うことを強く拒んだ。彼らがクスコからやってきた新参者に
支配されることを嫌った。当然である。太陽の通い道に最も近い北
パラダイス
はクスコのように寒く乾いた土地ではない。あたたかな光と豊かな
水によって無数の実りを居ながらに手に入れられる楽園である。な
ぜ故、彼らがそのパラダイスを、南より突然侵入してきた者たちに
よって追われなければならないのか。太古より北の地に根差してい
た民族は団結して反旗を翻す。一方、サパ・インカに率いられたク
スコの軍隊は、北の地の野蛮な人々に秩序をもたらすためにやって
来たのだと、大義名分をかざして彼らをねじ伏せた。
かくして北の地の混沌は幾年も幾年も続き、もはや解決の糸口を
見い出すのは難しくなっていた。
86
ワイナ・カパック帝は、美しく過ごしやすいキートをこよなく愛
していた。さらに北の地の各所で絶え間なく起こる反乱を制すため
に、北都を離れられなくなっていた。最愛の息子にして、自身亡き
あとはそのすべてを託すことのできる資質を備えたニナン・クヨチ。
気性は荒いが、軍部の采配にかけては天賦の才能を持つ皇子アタワ
ルパ。そして幾世代に及びこの大地にて最強と恐れられてきたタワ
ンティン・スーユの武者たちが居れば、今やキートがクスコに代わ
チンチャイ・スーユ
る都といっても過言ではない。
老皇帝は、北に骨を埋める心づもりだったのだろう。
世は新しい世代を迎え、タワンティン・スーユの首都がキートへ
と遷る。
ひとつの時代を終え、新たな時代が始まる。人々は不安と期待を
胸に、そのときを静かに見つめていたのだった。
インティ
太陽がその光を徐々に弱めつつあった。北の地では、かつて南都
クスコで起きた異変と騒然をなぞるように動揺が広がっていった。
夕暮れにはまだ遠い。いや、太陽は昇り始めたばかりで未だ中空に
も達していない。しかし明らかにその光は弱まっていく。首都の歴
そら
史資料館になら、この現象を描いたレリーフを見ることができただ
ろう。あるいは古参の歴史学者ならその伝承を諳んじることができ
ただろう。しかしそのような知識はすべてクスコに置き去りにされ
ていた。
し
日食⋮⋮太陽の一部に影が差し一時的にその光を弱めるというこ
とを、北の人々は識らなかった。いや識っている者がいたとしても、
同時に起こっている大事とその現象を、結び付けずにはいられなか
った。
太陽の光が弱まるとともに、老皇帝の顔から生気が薄れていく。
87
し
皇帝が病床にあることは、宮殿の奥の近しい者たちしか報らされて
いなかったが、もう幾月も皇帝の姿が見えないことに市井の民です
サパ・インカ
ら異変を感じていたのだ。時でもない薄暗さは誰の心にも不安をも
たらす。人々はその不安の現況を、彼らの太陽の命に関わることと
察していた。
影は完全に太陽を消し去ることはしなかった。しかし闇は確実に
すぐ傍を掠めていった。再び光が活気を取り戻したとき、人々は彼
らの懸念が杞憂に終わったと安堵した。息を潜めて成り行きを見守
っていた人々が、復活した光の中で歓声を上げているとき、宮殿の
奥ではひとつの時代の終わりを告げられた人々が悲嘆に暮れていた。
サパ・インカ
︱︱ 皇帝崩御 ︱︱
これが古来からの都クスコであったなら、後に続く儀式に向けて
すぐに準備が始められたであろう。しかし。
今や国は、新都キートと古都クスコとに分けられていた。悪いこ
とに、古都の貴族は新都の貴族を快くは思っていない。いくら新都
が皇帝の御膝下といっても古都には古都の伝統と誇りがある。皇帝
の権威があればこそ、新都に刃を向けることを自粛していただけだ。
事が露見すれば古都は必ずや復権を望んで彼らに都合の良い後継者
を立てるだろう。その前に同じく新都派の皇帝を戴冠させねばなら
ない。
ひみつり
クスコ
宮殿では速やかに、秘密裡の策が練られた。すなわち、皇帝の死
をできるだけ公に知られないうちに、遺体を南都へ運ぶこと。南都
への道程の途中にある都市トゥミパンパに居る皇太子を伴って、南
都に到着後、速やかに戴冠してもらうのだ。いくら北都が栄えつつ
あるといっても、すべての伝統は未だ南都で守られている。葬儀の
祭典も、新皇帝の戴冠も、北都にはそれを行える神官もおらず、設
88
備も整っていなかったのだ。
北都が南都に代わってこの国の都として機能するには、時期尚早
だったのである。
皇帝の崩御により、北都の貴族は南都の貴族をこれまで以上に警
戒するようになった。このときの北都の疑心暗鬼が、やがて国を決
定的に分断する事態への序章だったのである。
89
2、 嵐の前の静寂 ︵1︶
2、 嵐の前の静寂 館のいちばん奥に小さな庭がある。使用人たちはそこに入ること
を禁じられていた。館の主のプライベートな空間だ。毎朝夜が明け
る頃、静かな空間にさくさくと地面を踏む音がする。時折カツカツ
と何かを叩く音がする。朝の静寂の中ではその音は本当に微かでは
あるが、館中に響いていた。館の者は、鳥がやってきて餌をついば
ふ
んでいる音だと疑わなかった。実際、朝は多くの鳥が入れ替わり立
かや
ち替わりやってきては、けたたましい声で啼いたり、屋根に葺いた
萱の上を歩き回るのだから、珍しいことではなかった。
使用人たちが誰も知らない空間で、皆がまだ寝静まっている時間
にそこに居るのは、館の主だ。しかし誰かがその場を覗き見たら、
わが目を疑っただろう。年若い戦士が透き通るような金の髪を乱し
て盛んに斧を振っているのだから。その構えは力強いが、華奢な体
せきふ
を柔らかくくねらせ、輝く金糸がうなじの辺りで揺れる姿は、優雅
な舞を舞っているようだった。彼はただ無心に石斧を振るう。上か
ら下へ、右から左へ、時に右上から左下、左上から右下へと。空を
切り、あるいは立ち木の幹に斧の背を打ち付けて手応えを確かめる。
日々の鍛錬の成果か、彼の腕は、その細い身体に見合わないよう
なしっかりとした肉を付けていた。短い金の髪が舞い踊ると同時に、
飛び散る汗が僅かに届き始めた朝の光の中にときどきキラキラと輝
いた。
朝日が直接庭に差し込んでくると、彼はその手を止めて庭の端に
90
腰を下ろし、用意されていた布で額や身体の汗を拭い、別の布で石
斧の刃を磨き始めた。
そのとき、彼だけの空間に人影が近づいてきた。彼は気付きもし
ないで夢中で道具の手入れをしている。人影は彼のすぐ脇に屈み込
み、彼の前に茶器を差し出した。
﹁ありがとう﹂
鳥の囀りのような高い声で戦士は答え、道具の手入れを中断して
茶器の中の果物を手に取って頬張った。
﹁熱心ですね。そんなに毎朝鍛錬なさって、兵士にでも志願するつ
もりですか?﹂
館の主に接するには随分と軽い口調で、果物を運んできた人物が
問い掛ける。すると戦士は果物を口に運ぶのを止めて、中空を見上
げた。
﹁戦いたいわけではないの。これが私を生き返らせてくれた方法だ
から。昔、大切な友達が教えてくれた、私が私であるための秘密の
練習なの﹂
目線を、中空から問い掛けた人物に移して、少年は微笑んだ。い
やその顔は少年では無かった。短い髪もその服装も、鍛えられた腕
や武器の扱いも戦士を思わせるが、彼⋮⋮彼女の顔は、虫も殺さな
いような繊細な少女のものだった。
﹁まあ、滅多に外に出ることはできませんし、外の空気を吸える場
所はここしかありませんからね。少しでも身体を動かさないとその
うち根が生えてあの木のようになってしまうかもしれません﹂
91
そう言って庭の真ん中に生えている細い木を指す相手に、少女は
けらけらと笑い声で返した。
﹁ほんと、パパリャっておかしな例え話を思いつくわね。でも本当
になりそうでちょっと怖いわ。こうして身体を動かさないと、私は
あの木の横に根を生やしてしまうかもしれない﹂
﹁これならまだ、昔の方がマシだったかもしれません。自由に外に
出ることは出来なかったとはいえ、貴女の様子を監視している者は
いませんでしたから。しかしここでは、貴女が少しでも外へ出よう
とすれば警護の者がすぐに血相を変えて引き止めます。こんな窮屈
クイ
クイ
コリ・コイ
なことってありませんよ。まるで家の外から出ることを許されない
鼠※﹂
リュル
﹁懐かしい名が出てきたものね。そうかもしれないわ。私は﹃金の
星﹄という名を与えられた鼠なのかもしれない﹂
コイリュルがパパリャとともに、ワスカルに与えてもらった屋敷
に移り住んで数年が経っていた。育ててくれた伯母はそのあとすぐ
に儚い人となり、あの屋敷も無人となったそうだ。おそらく伯母は、
自身亡きあと家が絶えることを見越して、コイリュルをワスカルに
託そうと考えていたのだろう。運が良いのか、コイリュルの成人が
丁度良いきっかけとなったのだ。路頭に迷っていたかもしれないと
思えば有難いことなのだろうが、コイリュルがこの館の主となった
こと、身分を偽っていること、さらにはその容姿さえ暴かれてはい
けないものだとされているのは、伯母の家よりもコイリュルの生活
を縛ることとなった。
コイリュルの自由は、この奥庭で好きなように武術の稽古をする
92
ことぐらいしか無かったのだ。
他人に明かしてはいけない容姿なら、女性らしく振る舞う必要も
無い。長い髪を切り落とし、身軽な貫頭衣に身を包んで思う存分身
体を動かす。これほどの解放感は無かった。そしてその稽古は、唯
一本当の姿を知りながら友達となってくれたクッシリュに教えても
らったものだ。武術の稽古は、少女クイに戻ってクッシリュとの思
い出に浸る最も愉しい時間だった。
誰にも知られることなく、コイリュルの容姿はまさに絶世の美女
つや
と呼べるほどに美しくなっていた。本来の透き通るような白い肌は
ますます張りを増して、滑らかで艶やかなビクーニャの毛織物を思
あお
わせ、短くても輝く金の髪は、皇帝の胸元に光る装飾のようだ。そ
して清んだ蒼の瞳は、丁度太陽が昇り始めて夜の闇をかき消した直
後の清々しい蒼空を思わせた。この国の民が﹃美しい﹄と表現する
おそ
ものを、遥かに超えた神々しい﹃美﹄であったから、おそらく誰も
が彼女を突然目にしたら、﹃美しい﹄よりも﹃畏ろしい﹄という感
覚を抱くであろう。それほどまでに一般の人々との違いが際立って
いたのである。
そんなコイリュルの成長をずっと傍で見守ってきたパパリャは、
彼女が人離れした美しさを増すたびに心が痛んだ。美しくなればな
るほど、彼女の容姿は人々に畏怖を抱かせる。ましてやその地位は
人々の頂点に達するほどに高い。彼女の神聖さを純粋に敬うだけな
ら良いが、おそらく今の世は、そんな純真な心を失い掛けている。
これまで平穏に見えた世の中が、底辺から四隅から少しずつ崩れ始
めていることを、誰もが感じ取っているのだ。不安を抱く人々は必
すが
ず神々しいものを崇めたくなる。崇めるだけならいいが、不安の渦
から抜け出そうと必死にもがく大勢の人々が彼女の身体に一度に縋
りつき、彼女をその渦の中へと引き摺り込んでしまうことも大いに
考えられるのだ。そうならないためにも、彼女はその金の髪を黒毛
93
のかつらの中へ押し込み、白い肌に褐色の薬を塗り、盲目の振りを
して碧い目を隠さなければならない。皮肉にもそれが、彼女が生き
残る唯一の道であることに気付いていた。
﹁さて、もう日がこんなに眩しくなってきました。ここを片付けて
早く身支度をしないと﹂
﹁そうね。また一日が始まる⋮⋮﹂
コイリュルはかじり掛けた果物を地面に転がす。途端に鳥たちが
集まってきて、美味しそうにそれをついばみ始めた。小さな動物た
ちのその姿に満足げに微笑んで、コイリュルは斧を持って立ち上が
った。パパリャも残りの果物を庭に散らしてコイリュルの後を追っ
た。
※ ここでの鼠は、家畜として飼われているクイのことです。
94
2、 嵐の前の静寂 ︵2︶ ワスカルは苛立っていた。
それというのもここ数日、北からの使者がひとりもやってこない。
北での様子が全く分からないことに不安が増しているからだ。そも
そも皇帝が、皇太子とアタワルパという、兄弟の中でも重要な位置
を占めるふたりの兄を連れて北へ行ったことにワスカルは疑念を抱
いていた。さらに皇帝がクスコを棄て北に首都を建設しようとして
いる噂を聞き、疑念は色濃くなるばかりだ。実際にクスコ近郊にあ
る聖なる石切り場の石が、宮殿の建築のために大勢の人夫の手によ
って北に運ばれていった。それはそれは大変な騒ぎであった。人夫
を集めるためにワスカルもどれほど骨を折ったことだろうか。割に
合わない強制労働に無償で力を貸してくれる自治体などなく︵※︶、
ワスカルの私財を投じて皇帝のために尽力したというのに、北は異
民族の反乱鎮圧に忙しく、ワスカルの負担に対する感謝の意も表さ
なかった。
クスコにこだわりがあるわけではない。北へ遷都する必要がある
のなら、それも時代の流れと受け止めよう。しかし、兄弟のうちで
自分だけがこの古い窮屈な都に留め置かれ管理を任され、皇帝に従
った兄弟たちは信任篤く大いに活躍の機会を得ている。彼らのため
ちち
に何故、自分は我慢させられているのか。それが面白くなかったの
である。
もちろん、皇帝が、数えきれないほどの息子の中で、皇太子に継
ぐ信任を自分に置いていると思えば気持ちも収まるが、それなら何
故、自分よりも格下であるはずのアタワルパが北の軍部を一任され
華々しい活躍をしているのか。アタワルパは、ワスカルよりも年長
ではあるが、母の身分はワスカルの方が上である。つまりワスカル
95
は、皇太子に次ぐ継承権を持つ者として重んじられなければならな
いはずなのだ。
遷都が完了するまではクスコが首都である。今首都を管理するの
はワスカルである。従っていくら皇帝が居るとしても北での出来事
をワスカルが把握するのは当然のことである。その北が最近、公然
と無視を続けているのだ。これは由々しき事態だった。
ワスカルの不安が増しているのは、さらに原因があった。
先日、日中に日が翳り、まるで夜のように辺りが闇に閉ざされた。
それは短い間のことで、建物の中に居て気付かなかった者も居たく
らいだ。しかし、太陽の動きを識っていれば、明らかにおかしな現
象であった。
首都周辺には天文観測所がいくつかあり、学者はこの事象を観測
し様々な見解を突き合わせていた。さらに歴史伝承に詳しい語り部
カルパ
も交えてこの事象についての会議が何度も行われたのである。同時
に神官による占いも行われた。呪術師たちは総出で魔除けの祈祷を
行ったのである。
そのような非常事態において、北からの連絡は一切ない。クスコ
ほどの叡智が向こうに揃っていないのは明らかだ。にも拘らず、何
も打診がないのは流石におかしかった。
かいらい
﹁奴らは何を考えている。もしや老いた皇帝に代わって、すでに皇
太子が実権を握っているのでは。いや、皇太子を傀儡にして、実質
は軍部の信任篤いアタワルパが支配しているのではないだろうか。
不信心なアタワルパなら、あの現象を不思議とも思わないだろう﹂
もはやワスカルの疑念は疑念に収まらず、皇帝と、それに従う北
の貴族に対する恨みへと変わりつつあった。
96
ちょうどワスカルの心を見透かしたように、北からの使者が到着
したのはそのすぐあとだった。使者は久しぶりの皇帝と皇太子の帰
還を伝えたのだ。
クスコ
﹁なんと、父上と兄上がご帰還を。これは大変だ。さては先日の太
陽の異変に大事を感じられたのであろう。ようやく首都の重要性を
実感されたのかもしれぬ。ともかくご高齢の父上にゆっくりと滞在
していただくために宮殿を整えねばならぬ。長年使っていなかった
ので、これは大掃除が必要になるぞ﹂
使者は、皇帝が亡くなっていることを口にしなかった。ただ皇帝
がクスコに帰還することだけを伝えるために遣わされていた。それ
が遺骸かそうでないかには非常に重要な違いがあるのだが、敢えて
それを伏せたのは北の画策に他ならなかった。
普通なら皇帝の突然の帰還の理由を問いただすところだが、偶然
にも先の異常現象が、ワスカルの中でその理由と結びついてしまっ
たのだ。取り立てて厳しい追及もされず、使者は命拾いをした。
ワスカルはただ素直に﹃父親の帰還﹄を喜んだ。それは長年父親
に見放されてきたと思っていた息子の純粋な喜びであった。まだほ
んの若いうちに首都の管理を押し付けられ、褒められることも無け
れば忠告を受けることもない、そんな忘れ去られた息子の寂しさが、
実は彼の心の大部分を占めていたのである。
意気揚々と、ワスカルはコイリュルの住む館を訪ねた。
逢えなかった父親に再会できる者同士、喜びを分かち合いたかっ
たのかもしれない。コイリュルにとっては生まれて初めて逢うにも
等しい。父親の帰還を知れば、自分の比ではないほどの喜び様に違
いない。美しいその顔に満面の笑みが浮かぶのを見てみたかったと
97
いうのもある。
まと
ワスカルの前だけでは、コイリュルは素の姿を隠さずにいられた。
ア
白い細い身体に映える淡い暖色の衣を纏い、胸元や耳朶に薄紅色の
クリャワシ
ムユ貝の装飾を身に付けた姿は、国中の美しい娘だけを集めた太陽
の巫女の館でも見つけることはできないだろう。短い金の髪に囲わ
れた小さな白い顔は、まさに光り輝く太陽か月を思わせた。
ワスカルが初めて﹃クイ﹄という少女に出会ったときにも、彼の
想像力が及ばない美しさに目を見張ったものだが、彼女は成長する
たびにワスカルの想像を覆す。その姿を目に出来るのはいまのとこ
ろ、傍付きの侍女パパリャと自分しかいないのだと思うと、言いし
れない優越感に浸ることができた。
﹁お久しぶりにございます。お父様。ご機嫌麗しく、何より﹂
コイリュルは、例え偽装であってもワスカルのことを﹃父﹄と呼
び、敬意を払う。本当の父の血筋であり、今は彼女の後見人である
のだから、ワスカルは﹃父﹄には違いなかった。
身内にことごとく裏切られたように感じている今は特に、父親と
して敬意を払ってくれるコイリュルが唯一、家族の暖かさを感じさ
せてくれる存在であった。
﹁ああ。確かに久しぶりになってしまったな。ここのところ色々な
事件が立て続けに起こって、ここを訪問するどころではなかった。
しかし、そなたの顔を見たら、その疲れも癒された﹂
﹁それは大変でした。わたくしがお父様のお疲れを癒すことができ
るのなら何より嬉しいですが﹂
﹁そなたの姿を見るだけで、十分に癒される﹂
98
ワスカルの言葉に、コイリュルは気恥ずかしくなり、俯いた。
﹁今日は、そのお礼と言っては何だが、そなたが待ち望んでいた報
告を持ってきた﹂
コイリュルは怪訝な顔を上げた。
﹁ニナン・クヨチ様が、クスコに帰還されることとなった﹂
コイリュルの顔にみるみる喜びが滲み出てきた。
﹁⋮⋮本当、です、か﹂
﹁私はそなたの後見人に過ぎない。そなたのお父上はニナン・クヨ
チ様、ただおひとりだ。お父上に逢いたいであろう。いくら隠して
育てなくてはならなかったとしても、ニナン様もどれほどそなたの
ことを心配なさっていたことか。
これまで北を離れることができなかったのは、お立場上、仕方の
ここ
ないことだ。けれど、今回久方ぶりに皇帝がご帰還されることにな
ったのだ。従ってニナン様もようやくクスコに戻られることができ
る。まず最初にそなたに逢いたいに違いない。
ここはニナン様のお屋敷だ。殿下はここに滞在される。そなたに
はこの館の留守を預かっていた者として、ニナン様にご挨拶する機
会が与えられよう。あくまで私の娘としてだが。けれど殿下もそな
たの成長をどれほど楽しみにされていたことか。美しく成長したそ
なたの姿をご覧になれば、さぞお喜びになるだろう﹂
コイリュルの目に涙が溢れ、一粒零れ落ちた。それ以上の涙を落
とすまいと唇を噛みしめて耐えているが、今にも喜びの涙が溢れて
99
流れそうだ。そのままコイリュルは静かに頭を下げた。
喜びを分かち合いたいなどと、浅はかな考えだったとワスカルは
気付く。コイリュルにとって父親との再会は、これまで生き抜いて
きた意味を知ることと、今後も密やかに生き抜いていくための力を
与えてくれる重要な意味を持つものなのだ。
この小さな娘がひとりで耐えてきた想いに、ワスカルは改めて心
を動かされたと同時に、今この哀れな娘が頼るべき者は、自分しか
いないのだという自負を、どこかで小気味良く感じていた。
ワスカルという青年の中に、満たされない父親への想いがあり、
ようやくそれが解消されようとしている。コイリュルに対する慈愛
に満ちた言葉は、彼のそんな心理の裏返しに過ぎなかった。
彼が裏切りを知るとき、その切実な想いは膨大な憎悪へと変わる
危うさを秘めていることなど、コイリュルは知る由もない。しかし
コイリュルは、その不気味さをどこかで感じ取っていた。本当なら
喜びを顕わにして泣き叫びたい気持ちであるが、ワスカルにはそれ
ができない、やってはいけないことを、本能で感じ取っていたのだ。
︵※︶ インカをはじめとするアンデス世界では、例え皇帝や領
主であっても、民間の協力を得るときには、それに見合った報酬を
払ったり、恩情を具体的に示さなければなりませんでした。
100
101
あに
2、 嵐の前の静寂 ︵3︶ ちち
皇帝と皇太子を迎えるべくその準備に奔走していたワスカルの元
へ、またひとり使者がやってきた。
使者は北方の宮殿から正規に遣わされた先の使者とは異なり、皇
帝の正妃が個人的に遣わした者だ。正妃ラウラ・オクリョは、ワス
カルの実の母である。コイリュルを育てた伯母とニナン・クヨチの
母の妹に当たる。そしてニナンの母が亡くなったあと、正妃の座に
就いたのである。
皇族は、女系の血族の繋がりを非常に重んじる。そもそも、ワス
てきがいしん
カルがニナンの娘の後見人となったのも、同じ兄でありながら、ニ
ナンの地位は尊重し、アタワルパに敵愾心を燃やすのも、この血族
はは
の繋がりを重んじるがゆえだ。
正妃が皇帝とは別に遣いを寄越すとは。おそらく皇帝の妃たちの
間で、この血族間の確執が強まったのであろう。深刻な争いの場合
もあるが、多くは女同士の感情のぶつかり合い程度のものである。
感情の起伏の激しい母のこと、今までもこのようなことは度々あっ
た。皇帝の帰還という大事が無ければ、さして問題にもしないのだ
が。
コヤ
﹁申し上げます。正妃ラウラ・オクリョさま、陛下の一行に先立ち、
首都へご到着の予定にございます。つきましては、近郊のウルコス・
カリャまでお出迎えを願いたいと存じます﹂
﹁この大変なときに、何を我がままを申しておるのだ。気難しい母
を持つと苦労する﹂
102
ただでさえ手が足りないと嘆いているときに、わざわざ出迎えを
寄越せという母にワスカルは頭を抱えたが、それを無視すればます
ます面倒なことになるのは判りきっている。仕方なくワスカルは信
頼の置ける数人の側近に正妃の出迎えを申し付けた。
コヤ
ワスカルの命を受けた側近たちが、正妃の一行が待つウルコス・
コヤ
カリャに到着したのはその翌日であった。近郊とはいえ、急ぎ足で
もまる一日掛かるほどの距離だ。にもかかわらず正妃は到着した側
近たちをなじった。
﹁このわたくしをいつまで待たせれば気が済むのじゃ。急ぎ重大な
報らせを持ってきたというに、その大切さなど何も分かっておらぬ。
どれほど暢気なのか﹂
側近たちは、正妃の気が済むまで頭を垂れて小言を聞き続けなく
てはならなかった。息子の不甲斐無さに対する苛立ちに始まり、こ
れまでの北の後宮での不自由な暮らしの不満など、彼女の中に積も
コヤ
り積もっていたものを八つ当たりのように一方的に吐き出した。側
近たちにはまるで関わりのない話を延々と並べ立てたあと、正妃は
ようやく、彼らをわざわざ都の外れまで呼び付けなければならなか
った理由を話し始めた。
しかしその内容は、これまでの意味のない話に聴く力を閉ざして
コヤ
いた側近たちの耳に、突然鋭い刺激となって響いてきた。あまりの
衝撃に側近たちは、正妃の話が終わってもしばらく、今聴いたこと
の内容を整理するために動きを止めていなければならなかった。
﹁何をぼんやりしておる。わたくしの話はそれだけじゃ。分かった
らさっさとクスコに戻り、ワスカルにしかと申し伝えよ﹂
﹁はっ﹂
103
コヤ
側近たちは一斉に返事をして正妃の滞在する館を飛び出した。し
かし、急ぎようにも彼らの足には限界がある。途中、彼らの中で特
に早足に自信のある側近が、仲間に申し出た。
﹁私が一足早く戻って伝えよう。そなたたちは無理をしなくていい﹂
チュキス・ワマンというこの貴族の早足は有名だった。仲間たち
はほっと胸を撫で下ろし、チュキスに全てを託すことにした。
しかし彼らは気付いていなかった。チュキスという男が、ワスカ
ルの出自である一族と対立する一族の出身であることを。家系に関
わらず、ワスカルはチュキスの実直な人柄を信頼して傍に置いてい
コヤ
たのである。
今回、正妃から得た情報はこの家系に大きく関わる事柄だった。
チュキスの中で、個人の信頼よりも一族の絆を重んじる心が芽生え
ていた。
︱︱ 一足早く戻って伝えよう ︱︱
チュキスの伝える相手はワスカルではなく、同じ一族の者だった
のである。
仲間たちよりも半日早くクスコに到着したチュキスは、宮殿に向
かわず、自分の親類の館を訪れた。そしてそこに集う同じ家系の貴
族たちに、正妃の話を告げたのだ。
﹁皇帝陛下が重い病に掛かられ亡くなった。北の貴族は陛下の死を
伏せ、陛下のご遺体を生きているかのように見せかけて首都へ戻そ
うとしているようだ。
一行は、途中のトゥミパンパで皇太子ニナン・クヨチ様を伴い、
クスコに到着次第、ニナン様の戴冠を行う予定であったらしい。し
104
かし一行がトゥミパンパに到着したとき、ニナン様も陛下と同じ病
に掛かられ、すでに亡くなられていたというのだ。
今、皇帝の玉座は無人となった。
マルキ
北は、ニナン様が亡くなられたことで、無人の玉座に我ら一族の
出自アタワルパ様を据えようと動き出したようだ。陛下のご遺体が
マルキ
クスコに安置された頃合いを見計らって、北で戴冠を強行するつも
りであろう。
正妃様はそれを察し、ワスカル様に、ご遺体に付き従った北の貴
族は裏切り者であるから、到着次第すべて抹殺せよとお命じになっ
た。その様なことになってみろ、粛清は付き従った北の貴族のみな
らず、我らが一族全てに及ぶ﹂
一族の中に戦慄が走る。彼らの中で特にワスカルに近い位置に居
る男に、その矛先が向いた。
コヤ
﹁ティト、他の側近が到着する前にワスカルを暗殺せよ。他の者は
急ぎ仲間を集め、正妃の一行を狙うのだ﹂
人がどこを拠り所とするか、誰を信頼するか。この時ほどその事
が運命を大きく左右するものであると知る機会はなかっただろう。
正妃ラウラの陰謀を聞いたチュキスは、血族のためにその裏を掻こ
うとした。しかしチュキスの計画を聞いたティト・アタウチは、皮
肉にも一族の絆より主従の関係を重んじる人物であった。
ティトは急いで宮殿に赴き、チュキスの計画をワスカルに暴露し
た。
ワスカルはこの時はじめて、北で起こった出来事と、それにまつ
わる北の画策、さらに母の陰謀とその情報を得た臣下の陰謀を一度
に聞かされる羽目になった。
105
﹁待て⋮⋮。頭が整理できぬ。先ほどまで、父上と兄上がご帰還さ
れるという喜ばしい報せに沸いていたのでは無かったか。あの母の
ことだ。単に気が触れただけかもしれぬ。真に受けることはない﹂
いとま
﹁殿下。最早それを確かめている暇はありません。それに⋮⋮⋮⋮。
確証が得られるまで殿下にはお伝えすることはできないと伏せて
おりましたが、皇帝陛下が亡くなられたのは事実のようです。先の
﹃日の翳り﹄の折、皇帝陛下がお隠れになるという事を言い当てた
神官が実は何人も居たのです。密かにその情報を確かめるために北
へ遣いをやっていました。彼の報告では確かに皇帝は亡くなられた
とのこと。ただ、その時点で何故、北が正式な報告をしないのか分
からなかったので、殿下にお伝えすることができなかったのです。
マルキ
おそらく次期皇帝の戴冠まではニナン様をお守りすることを優先す
るつもりだったのだろうと。陛下のご遺体とニナン様が無事に到着
されれば、殿下も納得されるとお察ししておりました。
しかしニナン様が亡くなられたにも関わらず、北が隠ぺいを続け
るのは不自然です。正妃様のご懸念はごもっとも。折り悪く、それ
を聞いたチュキスが一族の者を焚きつけてしまいました。最早、動
きは止められませぬ。
この先は、正妃様を狙うチュキスたちを捕え、陛下に付き従った
北の一行を尋問するしか方法はございません﹂
﹁何故、このようなことに⋮⋮。
しかも、そなたは何故一族に加担しないのか。これも一族のため
に私を懐柔する画策なのではないか﹂
マルキ
﹁私は、一族よりもワスカル様を信じております。クスコは亡霊の
街。貴族は歴代のミイラに支配された家系で息づいている。︵※︶
おかしな話です。ワスカル様には、是非とも次期皇帝の座を受け継
がれ、この悪しき慣習を取り払っていただきたい。私が望むのはそ
106
れだけにございます。
血族を重んじ、その後ろ盾を得てさらにその絆を強めようとする
北の保守派は、敵にございます﹂
ティトの言葉は、実はワスカルの理想であった。常々ワスカルが
語ることを傍で聞いていたがゆえの受け売りだった。ワスカルはテ
ィトの言葉で本来抱いていた想いを取り戻しつつあった。
﹁ティト、チュキスらを捕えよ。母上を無事に都に迎えたあと、北
の一行の処分を検討しよう﹂
ふけ
ティトは深々と頭を下げて速やかに部屋を出て行った。
残されたワスカルはしばらく考えに耽っていた。
ないがし
やがてその心の中に、本来の自分が抱いていた気高い理想が蘇り、
同時に自分を蔑ろにした者たちへの激しい憎悪が湧き上がってきた
のである。
※ インカの貴族は、十を超える家系︵派閥︶に分かれていました。
その祖は歴代の皇帝であり、新しい皇帝が生まれるたびに家系が築
かれました。この家系の主は亡くなった皇帝のミイラでした。つま
り、一族はミイラに仕え、ミイラのために結束していたのです。土
地などの財産も、持ち主はミイラです。ひとつの家系が所有する土
地や財産は膨大なものであり、新王が獲得できる領土は、この時代、
ほとんど残っていませんでした。ワスカルにはその伝統を覆そうと
107
いう考えがありました。
108
2、 嵐の前の静寂 ︵4︶ コヤ
チュキス・ワマン以下数名の貴族が、正妃の命を狙ったとして捕
えられたのは、正妃の一行と彼らが遭遇する寸前のことだった。先
頭に立って反逆者たちを制したのはティト・アタウチである。チュ
キスははじめ、同胞と思っていたティトが何故、自分たちと対峙し
ているのか分からなかった。
﹁貴様、それでも﹃ハトゥン・アイユ﹄の一族か。裏切者め﹂
﹁裏切者はどちらだ。貴様こそ、ワスカル殿下の臣下でありながら、
殿下を裏切るとは言語道断﹂
古来からの一族を守る者、新しい時代に期待を寄せる者、民の中
に、それぞれの想いが複雑に交錯している事が明らかになった事件
であった。
コヤ
チュキスの率いた反逆者たちはクスコで直様処刑され、正妃はテ
ィトたちに護られて無事に都に入城した。
この時、ワスカルは母の口から北の実態を聞かされることになる。
北の暮らしに良い想いを抱いていなかった正妃ラウラ・オクリョの
怨恨がその中には多く含まれていたが、チュキスの裏切りに遭った
ワスカルは、その整合性を確かめようという冷静さを欠いていたの
だ。
マルキ
﹁北の一行はこの私を欺き、父の遺体を押し付けたあと北に引き返
し、アタワルパを擁立してキートという国を築くつもりだ。クスコ
109
むくろ
は皇帝たちの骸を葬る墓場となり、生者はキートに移って栄えよう
という魂胆か。寝ぼけたことを。兄上ニナンに次ぐ地位を持つのは
マルキ
この私、ワスカル以外にない。
マスカパイチャ
父上の遺体を迎えたあと、付き従った者はすべて処刑せよ。ひと
りも北へ返してはならん。王徴を頭に戴くのはこの私だ。アタワル
パが動く前に私の即位を行うのだ﹂
歴代の皇帝が揃い、母も自分の許に居る。もはや北に弱みを握ら
れることもない。戴冠を強行するのを阻む要因は何ひとつないこと
が、ワスカルを強気にさせていた。
﹁コイリュル様、街で騒動が起きているようです﹂
遣いから帰ってきたパパリャがコイリュルに怯えた顔でそう告げ
たのは、ちょうどチュキスたちが捕えられて都に連れて来られたと
ころを目撃したからだった。数人の貴族が揃って手を縛られて引き
連れられている様は、庶民の目にはかなり衝撃的に映った。貴族は
庶民の秩序の手本である。ましてや位の高さは服装や装飾ではっき
りと判る。パパリャにも、捕えられた貴族が皇族の側近であること
など一目瞭然だった。
﹁騒動って﹂
いさか
﹁何やら宮中で諍いがあったようなのです。そのうち、この館にも
知らせがあるかもしれません﹂
先日、ワスカルが嬉しい知らせを持ってきてくれたばかりだとい
うのに、何故そんな不穏なことが起きるのだろう。コイリュルはど
110
ちらを信じていいのか分からなくなっていた。
﹁お父様⋮⋮。ニナンお父様は、ご無事に都に到着されるかしら﹂
コイリュルは胸元を握りしめてため息を吐いた。
﹁コイリュル様。そうであると私も思いたいのですが、ここで慰め
合っていても始まりません。確かなことが判るまで、憶測はかえっ
て貴女を追い詰めることになります。これから私が頻繁に街を訪れ
て情報を探りましょう﹂
すが
不安な気持ちを何とか押さえて、コイリュルはパパリャに縋った。
﹁お願いよ、パパリャ。私はどんなことでも受け止めるわ。だから
正しいことを教えて頂戴﹂
縋りつくコイリュルの肩に手を回して、パパリャは﹁はい﹂と力
強く返事をした。
それからの動きはあまりにも慌ただしく、パパリャが探るまでも
なく、コイリュルの館の使用人たちが不安を露わにして語る噂話で、
大方のことを知ることができた。
あぐら
皇帝がクスコに帰還した。大勢の家来が担ぐ輿の上に胡坐をかい
て、堂々たる姿勢で前を見据えてクスコの中心通りを進んでいく皇
帝の姿を目の当たりにしたとき、違和感を感じない者はいなかった。
肌の色は黒ずみ、目に不自然な金の眼帯をして、輿が大きく揺れて
もまるで姿勢を崩さない。
彼がすでに生者でないことは誰の目にも明らかだった。
111
ワスカルが北の裏切りに失望したのと同じく、民の衝撃は大きか
った。待ち望んだ皇帝の帰還を祝おうと総出で繰り出していた都の
人々の歓声は、徐々に止み、次第にブツブツという不満げな呟きに
変わり、やがて怒号や罵声や号泣へと変わった。
﹁サパ・インカはどうした﹂
﹁陛下はいつ亡くなられたのだ。なぜ我々には知らされなかったの
だ﹂
﹁我らの上には、もう太陽が照ることはないのか﹂
ないがし
﹁宮殿は、民の心を蔑ろにするのか﹂
騒動は皇帝の輿を追って宮殿の前へと押し寄せた。皇帝の輿が中
へ消えても騒ぎはますます激しくなるばかりだ。騒ぎが更なる不安
くぼち
を呼び、また大きくなり、都中にこだました。四方を山に囲まれた
しゃく
窪地であるクスコでは、その声は都を取り囲む山肌で反響し、雷鳴
よりも激しい大音響となって地面を揺らした。
じょう
しばらくして、宮殿から大神官が進み出てきた。そして黄金の錫
杖を頭上に高々と突き上げた。陽光に反射した錫杖の眩い光に、人
々は騒ぎを止めて見入った。辺りが静かになったのを見極めて、大
神官は声を張り上げた。
﹁サパ・インカ、ワイナ・カパック様、崩御。次期皇帝は、クシ・
トパ・ワルパ ︱ ワスカル ︱ 様なり。
これより都は喪に服し、喪が明けて早々、新皇帝の即位を行うこ
ととする。謹んでワイナ様の死を悼み、我らがサパ・インカの魂の
112
復活を願う。
みよ
同時に新皇帝クシ・トパ・ワルパ様の御代が、さらに輝かしき時
代となることを願う﹂
大神官の言葉に押し寄せていた人々が次々に膝を折ってその場に
ひれ伏した。彼らの前に皇帝の亡骸が晒されたのは衝撃的な出来事
いつ
だったが、北で亡くなった皇帝を都へ帰すためには仕方ないことな
のだ。何時かは訪れる世代の交代を目の当りにしただけのことだ。
愚直な人々は、大神官の言葉を素直に受け止め、安心を得た。喪
中にあからさまな喜びを表すことは出来ないが、新皇帝の時代に早
くも心を躍らせる者まで居たのである。
よし
この喪の期間に宮殿内で密かに、皇帝に付き従ってきた使者たち
が処刑されたことなど、人々は知る由もなかった。
コイリュルの耳にも街での出来事は届いていた。しかし、父ニナ
ン・クヨチの死とそれに関わる今後の運命を聞かされるのは、ずっ
と先になる。いくらパパリャでも、街の人々が知る以上のことを、
知り得ることはできなかったからである。
113
3、 牽制 ︵1︶
けんせい
3、牽制
ワイナ・カパック帝の喪が明けてすぐ、新皇帝にワスカルを立て
るべく、戴冠にまつわる儀式が執り行われた。
ワスカルの即位式は歴代皇帝の中でも特に派手やかだった。いや、
ぜい
歴代皇帝のものとの違いを直接その目で確かめられるほどの年齢の
者は少ないが、そう思わせるほどに贅を尽くしたものであった。何
故ならそれが単なる代の交代ではなく、北の反対勢力に見せつける
狙いがあったからだ。
戴冠の儀式から続く祝宴は、何日も何日も催された。
ごうしゃ
ワスカル自身はもちろんのこと、その妻、子、親類、そして生母
ラウラ・オクリョまで、豪奢な服や装飾品を身に付け、連日贅沢な
宴に興じ、市民たちにも祝いの菓子が配られるほどであった。
これまで館の奥でなりを潜めていたコイリュルも、この時ばかり
は公の場に顔を出さなくてはいけなくなった。﹃ワスカルの娘﹄と
して、父親の晴れの席に欠席してよい理由などないからだ。ワスカ
ルの妻や子、そして親類は、これまで障害を抱えて宮殿の奥でしか
暮らせないとされていた﹃謎の娘﹄の姿を初めて目にすることがで
きると、好奇心を抱いた。
コイリュルの胸の内では、疑念と緊張と恐怖がない交ぜになって
いた。そもそも本当の父親が次期皇帝であると彼女に告げたのはワ
スカルである。そしてその父がもうすぐ都に帰還すると期待させた
114
のも彼だ。確かにワスカルが、心の底から父ニナン・クヨチに敬意
を払っているのかは疑問だったが、少なくとも皇帝と皇太子が帰還
するという事に偽りは無かったように思う。何故なら、ワスカルも
心底嬉しそうな表情をしていたからだ。あの時の彼はとても演技し
ているようには見えなかった。
しかし、その後ワスカルがコイリュルの館に吉報を持って訪れて
くることは無かった。さすがにそろそろ、何か報せがあってもおか
しくないと思っていた頃に、ワイナ・カパック帝の死と次期皇帝が
ワスカルに決まったことを知った。
ワイナ・カパック帝が亡くなったとすれば、次期皇帝はコイリュ
ルの父ニナン・クヨチだったはずである。しかし、何故ニナンが次
期皇帝にならないのかということについては誰も口にしない。もし
亡くなっていたとしても、仮にも皇太子。皇帝と同じく盛大な葬儀
が行われても良いようなものだ。
結局その謎の答えを誰からも聞かせてもらえないまま、コイリュ
ルはワスカルの娘として宴席に駆り出された。
普段、すれ違う程度の使用人たちの前なら、黒毛のかつらも、褐
色の塗り薬の色も、盲目の振りも、不自然に映ることはないだろう
が、長時間、貴公子、貴婦人たちの目に晒されたとき、果たしてそ
の正体を隠し通すことができるのだろうか。
未だ父の安否が分からず不安を抱いたままで、突然多くの人の目
に晒されなければならなくなった恐怖は、コイリュルを震え上がら
せた。
その朝、パパリャがいつもの数倍の時間を掛けて彼女の支度を整
えてくれた。そしていつものように冗談めかして、
﹁このパパリャの腕を信じられないのですか。どこから見ても黒い
髪と褐色の肌の美しいご婦人ですよ。コイリュル様は目を閉じて私
に従っていればいいのです﹂
115
と言ってくれたことで、少し気持ちがほぐれた。さらに、盲目の
貴婦人を案内するために介添えとしてパパリャが付くことが許され
たのは何より心強かった。
パパリャに手を引かれて祝宴の席に姿を現したコイリュルの姿を
かくま
見て、そこに集う貴族たちが一斉に感嘆の声を上げた。目が見えな
いことでワスカルが世間から匿うように育ててきたという﹃箱入り
娘﹄は、彼らが想像していた以上に神秘的な少女だった。もちろん
金の髪や白い肌を隠しているが、その容姿は他のどの貴婦人たちと
も違う魅力を放っていた。
ワスカルは上機嫌でコイリュルを玉座の傍らに呼んだ。
ちん
﹁皆の者! これが朕の自慢の娘であるぞ。不具を抱えておるゆえ、
ちん
ひとりで外へ出す事が出来なかったが、得も言われぬ美しさであろ
う。我が娘コイリュルは、朕の世を太平に導く女神である!﹂
目を閉じているのでワスカルの様子は分からないが、その声音や
口調から酔っているのであろうことが分かる。
これまで決して外へ出てはならないと言っていたワスカルが、突
然大勢の前に自分を晒し、さらに酔った勢いで自分の娘と公言し、
めまい
兄皇太子の娘として敬意を払ってきた態度を一変させたことに、コ
イリュルは怒りで眩暈がしそうになった。
掌に脂汗が滲み出す。おそらく日よけ薬を塗っていなければ、そ
の透き通るような肌に一気に赤みが差すのが誰の目にも分かっただ
ろう。それでもなお、コイリュルは玉座の横で無数の目に晒されて
立ち続けていなくてはならなかった。片手で服の裾を握りしめ、片
手で横に立つパパリャの手を探り当てて強く握りしめた。
116
︱︱ どうか、耐えてくださいませ ︱︱
そう告げるように、パパリャがコイリュルの手を握り返して小さ
く振った。
無情にも宴は夜半過ぎまで延々と続き、その間コイリュルはパパ
リャの介添えを受けながら、たくさんの貴族たちににこやかに挨拶
を交わさなくてはならなかった。笑顔を作りながらも心の中は哀し
みと怒りでいっぱいだった。
﹁何故このようなことに。私はどうなってしまうの。ニナンお父様
と逢うのはもう絶望的なのね。あのような場で私がワスカル様の娘
だと宣言され姿を晒したのでは、もう取り返しはつかないわ。私が
お父様に逢えなかったのは、お父様が皇帝になる時、私の存在が知
られてしまえば国が滅びると言われていたからではなかったの。そ
れなのに、皇帝に即位したワスカル様の娘だと知られても国は滅び
ないの。それなら私がお父様と離れて暮らさなければならない理由
など無かったはずなのに﹂
館に帰り、パパリャに身体を拭いてもらいながらコイリュルは、
徐々に放心状態から我に返り、やがてそう叫ぶようにパパリャに訴
えた。
﹁さぞかしお辛かったことでしょう。私にも何がなんだか分かりま
せん。怒りの前に、あまりにも謎が多くて、ワスカル様は冗談をお
っしゃっていたのだと信じたくなってしまいます﹂
﹁あのような大勢の前で放った言葉は、例え冗談であっても真実に
なってしまうわ。ワスカルは私を騙したのよ。本当はお父様はとっ
117
サパ・インカ
くに亡くなっていて、異質な容姿を持つ私の噂を聞いて自分の許に
引き取り権力のために利用しようとした。皇帝となった今、今度は
さら
私を使って自分の神聖さを人々に知らしめようとするわ。あの男は、
そのうち身ぐるみはがした私を民の前に晒すかもしれない﹂
﹁そんなこと! コイリュル様、お疲れになっているんですよ。だ
からそんな突拍子もないことを考えてしまうのです。ともかくお休
みくださいませ﹂
﹁パパリャ!﹂
まと
ざんぎ
何も纏っていない白い裸体をパパリャの胸に押し当てて、コイリ
ュルは泣きじゃくった。散切りにしていた金の髪は、最近、朝の鍛
錬にも身が入らなかったため背中の中ほどまで伸びてきていた。伸
びるたびに輝くような色艶を増していく不思議な色だ。
︱︱ 身ぐるみはがした私を民の前に晒すかもしれない ︱︱
疲れから妄想を抱いただけに過ぎないだろうが、先ほどのコイリ
ュルの言葉が蘇り、パパリャは足元から悪寒が這い上がってくるの
を感じた。もしもそんなことになったら⋮⋮。
パパリャまで不安を覚えたら共倒れになってしまう。パパリャは
何度もかぶりを振り、震える白い身体を包んだ。そして壊れ物に分
厚い布を幾重にも巻いて保護するかのごとく、両腕と上半身でしっ
かりと抱え込んだ。
118
3、 牽制 ︵2︶
新皇帝の即位に沸き立っていた街が、ようやく日常の平穏を取り
戻し始めた頃、コイリュルも少しずつ、ワスカルへの疑念を忘れ始
めていた。
父ニナン・クヨチについて何も聞かされないことが答えなのだ。
ここから先、コリ・コイリュルという一皇族として、自分の生き方
を考えていかなくてはならない。そもそも父に逢えようが逢えまい
が、孤独の中で生き抜かなくてはいけない運命は定まっていたのだ
から。
おそらく、コイリュルがそう決心した後で無ければ、その日の出
来事はあまりにも衝撃的で、彼女は途方に暮れていただろう。何日
も悲嘆に暮れて泣き暮らしていたかもしれない。けれどコイリュル
には、自らの運命を淡々と受け止める覚悟は出来ていた。
再開した朝の鍛錬を終え、身支度を整えた後、皇帝の宮殿から使
者がやってきた。謁見を申し込まれてから、それほど待たせたつも
ね
りはないのに、使者は、パパリャと共に客間に現れたコイリュルを
睨め付け、小さく舌打ちをした。苛立たしげに胡坐をかいた膝の上
を指で細かく叩いていた。盲目の振りをして目を伏せながらも、コ
イリュルは薄く開いた瞼の隙から使者の様子を伺っていた。
コイリュルと正面に向き合うと、格下の者に敬意を払わされる屈
辱に耐えるのは苦痛だと言わんばかりに、挑戦的な目をコイリュル
に向けて、大袈裟に頭を垂れて見せる。
﹁皇帝陛下のご息女におかれましては、お変わりなくお過ごしのこ
119
と、お慶び申し上げます﹂
そう言ってしばらく床擦れ擦れに頭を下げた姿勢で動かない使者
に、コイリュルは言葉を掛ける。
﹁お気遣いありがとう。お蔭さまでつつがなく暮らしております。
お父様にもしばらくお目に掛かっておりませんが、益々ご健勝のこ
ととお察しいたしております。私のことはお案じなさらぬ様、お伝
えください﹂
あるじ
訪問先の主に型通りの挨拶を投げ掛けられてはじめて、頭を上げ
ることを赦される。ようやく姿勢を元に戻した使者は、相変わらず
鋭い目つきでコイリュルを見据えた。彼がコイリュルに敬意の欠片
も持っていないことは一目瞭然だ。コイリュルも、傍で見つめるパ
パリャにも、この使者がもたらす報せは、彼女たちにあまり良いも
のでは無いことが判った。
ことづて
そんな二人の様子など全く気に掛けず、使者はいきなり本題を切
り出した。
みょうにち
﹁皇帝陛下より、コイリュル様へのお言伝をお預かりしております。
明日より、コイリュル様に於かれましては、陛下の姉君ラグア様
のお屋敷へとお移りいただきますようお願い申し上げます。
このお屋敷は、先代皇帝の皇太子であられたニナン・クヨチ様の
ものでございました。コイリュル様には、長年ご不在のニナン様に
代わり、このお屋敷を管理いただき、陛下もその功績を労っておら
れます。しかし、ニナン様亡き後まで、ご負担をおかけするわけに
は参りません。つきましては、コイリュル様のご結婚が決まります
まで、ラグア様の許でゆっくりとお過ごしになりますようにと、陛
下のお心遣いにございます﹂
120
コイリュルははじめ、使者の言わんとするところが全て理解でき
ず戸惑った。使者は同じ言葉を二度と繰り返すことは無かったので、
コイリュルの覚えている限りの言葉を、もう一度ひとつひとつ思い
返して、意味を繋げていくことしかできなかった。
使者は再び頭を深々と下げ、コイリュルの返事を待っていたが、
それに応えるためにはかなりの時間を要さなくてはならなかった。
ようやく意味が繋がっても、それに納得することはその場ではと
てもできそうにない。コイリュルは自分の解読した内容が正しいか
どうかを使者に確かめなければならなかった。
げ
﹁今お聞きした内容をうまく解せないので、繰り返すことをお許し
ください。
つまり⋮⋮。私は明日から、この屋敷を出てラグア夫人の館で暮
らすことになると。その理由は、この館の持ち主であったニナン・
クヨチ様が亡くなられたからだと。そういうことですか﹂
﹁はい。その通りにございます﹂
ラグア夫人とは、ワスカルの姉であり、先代ワイナ・カパック帝
の側近の妻であった。北の戦乱で夫を亡くし未亡人となったが、そ
の莫大な財を受け継ぎ、クスコで悠々自適な生活を送っている。皇
族の間でも一目置かれる存在なのである。コイリュルは、このニナ
ンの館を引き払い、突然ラグア夫人の許で暮らすようにと命令され
たのだ。
﹁私は、ニナン様が亡くなられたこともお聞きしておりませんでし
た。それをいきなり、明日にはここを出て行けなど⋮⋮。なんとひ
どい仕打ちでしょうか。お父様は、とても私を労っているようには
思えません﹂
121
使者は姿勢を戻すと、怪訝な顔で告げた。
﹁ご存知のように、陛下はもう皇子様ではございません。多くの民
を束ねるという重責を担っていらっしゃるのです。コイリュル様に
直接お声をお掛けしたくても叶わない事情があること、どうかご理
解くださいませ。今後コイリュル様に、皇女に相応しい豊かな教養
を授け、安心して暮らしていただけるようにと、ラグア様にコイリ
ュル様を託されたのでございます。どうか陛下のお気持ちをお察し
くださいませ﹂
よ
建て前は、最愛の娘を心配する佳き父親である。しかしその実は、
後ろ盾の無くなった哀れな娘の処遇に困り、財のある未亡人に押し
付けようという魂胆だ。しかしそれを説明したところで、もはやコ
イリュルの言葉を信じる者など、誰ひとりとして居ない。コイリュ
ルには怒りを持つことさえ赦されないのだ。
﹁パパリャは⋮⋮。ここに居る侍女は連れていけるのですね﹂
唯一残った救いを手放すことだけはしたくない。使者ごときに訊
いても答えられないだろうが、コイリュルは確かめずにはいられな
かった。使者がワスカルの許にその伝言を届けてくれるだけでいい
のだ。
しかし意外にも、使者はあっさりそれに答えた。
﹁そのことも言付かっております。この侍女は今日限り、その任を
解くこととなりました。彼女は北の一大部族カニャーリの姫君でご
ざいます。人質としてクスコの皇族の館で働くことを強要されて参
りました。陛下は、先代皇帝の許で理不尽にも重労働を課せられて
きた他部族の人質を解放されることを宣言なさいました。明日より
122
彼女には自由が与えられます。故郷に帰るのも良し、都のカニャー
リの居住地区で暮らすのも良し。これまで自由を制限してきた分、
彼女には今後の生活の保障をさせていただきます﹂
へきれき
コイリュルがパパリャを振り返ると、パパリャ自身も青天の霹靂
という表情だ。
﹁そんなこと⋮⋮。初めて聞いたよ。あたしは別に重労働をしてい
たなんて、思ってない。この館で働いてはいたが、故郷の仲間の所
へ行くことも自由だった。コイリュル様も特にどこへ行くかなど詮
索することはなさらなかった。今更コイリュル様の傍を離れろと言
われても納得できない。あたしはこのままコイリュル様に付いてい
きたい﹂
あるじ
﹁残念ながら、それは叶いません。いくらコイリュル様の傍遣いと
いっても、ラグア様のお屋敷では、主はラグア様です。そのラグア
様が、外部から侍女を入れることをお赦しにはならないでしょう。
ましてや皇帝陛下が他民族の人質に下働きをさせてはならないと宣
言されたのです。どうか今後はカニャーリの王族としてふさわしい
暮らしを送られますように﹂
﹁嫌だよ! あたしはクイと一緒に居る!﹂
すが
パパリャは思わずクイの身体を抱きしめて叫んだ。これまではコ
イリュルの方からパパリャに縋ることばかりだったが、初めてパパ
リャの方からコイリュルに縋ったのだ。コイリュルは、いつもパパ
リャに助けられてばかりだと後ろめたい気持ちだったが、実はパパ
リャにもコイリュルが必要な存在だったということに、そのとき気
付いたのだ。コイリュルも縋りつくパパリャの服をぎゅっと握りし
めた。
123
そんな二人の姿にも使者は何の感情も動かされず、冷静に告げた。
﹁私の役目はただ、陛下のお言葉をお伝えするのみ。明日、ラグア
様の使者がコイリュル様をお迎えに上がります。そのときにお話さ
れてください。おそらく陛下のご裁断が覆ることは無いでしょう。
お二人の今後に差し障りがあることはお控えなさった方がよろしい
かと存じますよ﹂
いんぎん
使者はそう冷たく言い放ち、また慇懃な礼を尽くして部屋を出て
行った。
残された二人は抱き合ったままその場に崩れ落ち、そのまま言葉
もなく支え合っていた。
124
3、 牽制 ︵3︶
﹁アタワルパはまだか。皇帝への拝謁を欠くとは、何という失敬
な態度だ。それとも、この私を皇帝として認めないという意思表示
か⋮⋮﹂
おの
ワスカルは忌々し気に、北向きの窓の外を眺めて言った。後ろに
控えるティト・アタウチはワスカルを慰めるつもりなのか、自ずか
ら掴んだ情報をただ報告したかったのか、淡々と﹃北の事情﹄を話
し始めた。
﹁陛下、そのように考えられては、ただ疑心暗鬼にかられ、真実を
観る目を曇らせてしまいます。
極秘に北に遣わした使者によれば、陛下のご即位と同時期に、極
北の海岸に見たこともない人間が現れたそうなのです。これまで我
が国に反抗してきた幾多の部族とも違う。肌も目も髪も、その色が
まるで異なる人間なのだそうです。今のところ、彼らは我が国の領
︵※︶、怪しげな﹃
土を攻めるわけではなく、その土地の民に財宝を分け与え、友好的
に接しているようですが。
ただ、得体の知れない巨大な乗り物を操り
いで立ち﹄に、物騒な武具を携えているとか。ひとたび態度を変え
れば、我々には太刀打ちできない敵になる可能性が大いにあるとい
うことなのです。北の貴族は、アタワルパ様を筆頭に、この異邦人
の動向から目が離せない状態にあるようです。
か
即位式にもたらされたアタワルパ様の伝言にもあった通り、北で
よう
は陛下のご即位を記念して、陛下のための宮殿を建築中だとか。斯
様な非常事態であるゆえ、なかなか上京できないことを心苦しく思
125
い、是非とも陛下に一度北の地に保養にいらしていただきたいとの
願いは、本当のことのようです﹂
ティトの進言を聞いて、ワスカルの表情は緩むどころか、ますま
す険しくなった。
﹁そなた⋮⋮。矢張り自分の一族が一番大切なのだな。いくら皇帝
は私だといえ、アタワルパが私を懐柔すれば、北の、ひいてはそな
たの一族が実権を握ることができる。理由は何とでも作ることがで
きる。私を北の地におびき寄せて捕らえ、私を通してアタワルパの
意思を語らせようという魂胆だな﹂
﹁何ということを! そのようなことは決してございません。北に
異邦人が現れたのは事実にございます。
少なくとも、私に陛下を裏切ろうなどという二心はございません。
では、その証拠に、もしもアタワルパ様が陛下を裏切ったことが
発覚したとき、私には考えがございます。是非ともそれをお聞きく
ださいませ﹂
ワスカルの表情がそのとき、はじめて緩んだ。いや、緩んだとい
うよりも憐れむように微笑んだというのが正しい。ここまで大胆な
れんびん
進言をしておきながら、ティトがどんな苦しい言い訳をするのか、
少しは耳を貸してやろうではないかという﹃憐憫﹄の眼差しだ。
﹁ほう。それは興味深い。申してみよ﹂
ワスカルは、一段高くなっている王の座を下りて、真剣な眼差し
を向けている部下の近づいた。その目をじっと覗き込み、少しでも
後ろめたい色が無いか探る。しかしティトの眼光には微かな曇りも
見い出せなかった。部下を嘲るようなワスカルの表情が一転し、彼
126
も真剣な眼差しになった。
﹁畏れながら。
万一、アタワルパ様と北の一派に、陛下を捕らえようという動き
が見られたとき、陛下にお味方する者を北に忍ばせておくのです。
北の動向によって、内部より彼らを分裂させ崩壊させることのでき
る者。北の異部族の中で、親タワンティン・スーユ派である者たち
⋮⋮カニャーリを懐柔しておくのです。カニャーリ族は、北の多く
の部族が我らと敵対するなかでも、常に友好的な関係を保ち続けて
まいりました。そして現在の北の安定に多大な貢献をしてまいりま
した。北の貴族の信任も篤い。だからこそ、彼らの裏切りは、北を
崩壊させるには十分過ぎる力を発揮するでしょう﹂
おり
とうとう、ワスカルの表情が心から穏やかなものへと変わった。
いやそれ以上に、これまで心の底に溜まっていた澱が流れ出し、爽
快さを得たような清々しい表情になった。
あっぱれ
﹁ティト! そこまで考えておったとは! 天晴だ! 確かにいざ
という時、こちらに奥の手が残されていると思えば、北の揺さぶり
も恐るるに足らず。
しかしカニャーリを取り込むにはどうすればいいのか。彼らはす
でに北の貴族たちの片腕も同然。私とアタワルパ、どちらを信用す
るかと問われれば、迷わずアタワルパと答えるであろう﹂
﹁陛下、彼らの信用は、半面は我らに友好を感じているということ
ですが、半面は、彼らにとって最も重要なものを我らに預けている
ので逆らえないということなのです。彼らにとって最も重要なもの
⋮⋮。それはかの民族の心の拠り所である王女。そしてクスコに住
むカニャーリの重鎮たちです。
陛下は先頃、その王女を不当な労働から解放し、自由をお与えに
127
なりました。クスコに住むカニャーリ族からは陛下の御恩情に感謝
する声が上がっております。もっともっと彼らを優遇すれば、彼ら
の陛下に対する敬愛はますます強まるでしょう。不本意に兵役に就
かされていた者たちの解放も訴えるに違いありません。そのときこ
そ、彼らの本当の敵は﹃北﹄であると知ることとなるでしょう﹂
﹁なるほど。面白い。私はただ、古くからの伝統に縛られたこの都
を改変させようと思ったまでだが、そこに私に有利に働く条件が隠
されていたとは。父なる太陽は私の行いをしっかりと見届けていて
くださったのだな。
うむ。それならば何も恐れることはない。私はこのまま新しい時
代を築くことに全力を注ごうではないか。そして、北が何を画策し
ていようとも我が意思を貫き通そうではないか。
しかしいくら上京できない事情があるといえ、アタワルパ自身が
それを伝えるのが筋であろう。ティト、北に遣いをやり、アタワル
パの意思を確かめるのだ。奴が返事をはぐらかすようなら、こちら
もそれなりの心づもりがあることを伝えるのだ。このまま皇帝であ
る私を蔑ろにするなど、許されるものではないからな﹂
﹁御意!﹂
ティトは深く頭を下げて、早速、使者を派遣するために部屋を後
にした。
﹁面白くなってきた。これ以上北に大きな顔をさせてなるものか。
皇帝の権威が絶対であることを、奴らに知らしめてやるのだ﹂
ひとり残された、だだ広い部屋の中に、ワスカルの笑い声が響き
渡った。
128
︵※︶この頃スペイン人たちは、船で海岸沿いに南下し、その航路
の途中で陸に上がっては、原住民と接触していました。好奇心旺盛
な原住民が、バルサ船でスペイン人の巨大な帆船に近づき、乗り込
むこともあったそうです。
129
3、 牽制 ︵4︶
案内人はコイリュルを部屋の中央に導いて姿を消した。コイリュ
ルは、彼女の瞳の色を隠すために頭から掛けられた薄布を通して正
面の人物を見つめた。豊かな黒髪と彫りの深い顔立ちを持つ絶世の
美女が、ゆったりとした石の椅子に腰かけ、左のひじ掛けに身体を
預けるような姿勢でこちらを見つめていた。
美貌の女性にじっと見つめられれば、例え同性であったとしても
胸が高鳴る。魅惑的な大きな黒い瞳は、自分を詮索しているのか、
それとも親愛の情を示しているのか判断が付きかねて、コイリュル
は身を縮ませ、額に汗を滲ませた。
クスリ⋮⋮
緊張するコイリュルの様子に、女性はようやく笑みを浮かべた。
かしこ
﹁そのように畏まらずともよい。そなたを捕えて何かを訊き出そう
というわけではない。縁あってこの屋敷で暮らすことになったのじ
ゃ。今日から此処がそなたの安住の館。好きなように過ごしてよい
のじゃよ﹂
聞きなれない宮中ことばと、同じ皇族でありながら見下したよう
なその科白に、コイリュルの緊張は一気に解け、代わりに不快感が
湧き上がってくるのを感じた。丸めていた背中をすっと伸ばし首筋
を立て、女性の瞳に真っ直ぐに向き合うと、コイリュルは静かに告
げた。
130
ひとすみ
﹁このお屋敷の一隅をお貸しいただけること、大変ありがたく思っ
ております。しかし、本来わたくしは皇帝の娘。住み込みの使用人
でも居候でもありません。諸々の事情があり、宮殿にわたくしの部
屋が用意できないため、こちらに用意していただいた。そう心得て
おります。ラグア様にお赦しをいただかずとも、好きなように過ご
すのは当然のことと存じておりますが﹂
そんな科白を言い放ちながら、コイリュルは自分がいつからその
ようなプライドを身に付けたのだろうかと思い返していた。
幼い頃から使用人のように扱われ、その姿を汚らわしいものであ
るかのように隠し、都へ来てもなお、与えられた屋敷の隅で影のよ
うに暮らすことを強要されてきた。
しかし本来は、皇太子であったニナン・クヨチの娘なのだ。現皇
帝ワスカルよりも高い地位を得るはずであった。ニナンが亡くなっ
てその地位は消滅したかに思えたが、奇しくも現皇帝自身が彼女を
﹃娘﹄として世間に公表したのである。彼女は未だ皇族の中でも高
い地位を保障されているのだ。さらに、皇帝ワスカルに彼女の神秘
性を利用しようという心づもりがあるのなら、皇帝自身もコイリュ
ルに一目置かなければならないという事だ。この期に及んで何を遠
慮することがあるだろうか。
パパリャの庇護を失くし、コイリュルがひとりで生き抜く決意を
したとき、彼女はそんなことに思い至ったのだった。
﹁ほほほほほ⋮⋮⋮⋮﹂
突然、正面の貴婦人が口許に軽く手を当て、天井を向いて高らか
な笑い声を上げた。ひとしきりそうしたあと、またコイリュルに向
き直り、先ほどより穏やかな声で言った。
﹁素晴らしい貴婦人であらっしゃるな、コリ・コイリュルさま。わ
131
らわは、このような物言いしか知らぬゆえ、ご無礼をお赦しいただ
きたいのじゃ。確かに貴女は皇帝陛下の御姫君。わらわのような、
一介の軍人の未亡人とはその位が違う。貴女がしかるべきお方に嫁
がれるまでは、皇帝の御姫君として敬うのは当然のこと。この屋敷
の中で最も優遇されなければなりますまい﹂
コイリュルに敬意を示すような言葉を述べながら、美貌の未亡人
の瞳になおも鋭い光が宿っていることをコイリュルは見逃さなかっ
た。どう体裁を繕っても、居候であることには違いない。ラグア家
にとって面倒な存在であるのは確かだ。当主ラグア夫人の気分次第
で再び住処を追われることも大いにあり得ることだ。それならばせ
めて、生意気な小娘と反感を持たれても、﹃貴賓﹄として丁重に扱
われなくてはならないことを主張しておく必要がある。コイリュル
も負けじと薄布越しに、ラグア夫人へ鋭い視線を投げ掛けた。
しばらくの静寂が流れたあと、ラグア夫人は深く嘆息し、再び満
面の笑みを浮かべた。
ユラック・ワワ
﹁⋮⋮⋮⋮さすがは﹃白い子﹄じゃ。賢く気高い貴女をお迎えでき
て、わらわは幸せにござりまする﹂
ゆっくりと席を立った夫人は、コイリュルに向かって身体を折り
曲げ、最敬礼の姿勢を取った。
まこと
﹁この館では、そのお姿を偽る必要はない。いえ、むしろ偽らぬお
姿でお過ごしくだされ。いつかは真のお姿で民衆の前にお出ましに
なり、この乱世で生きる力を失くした者たちの希望となってくださ
れば﹂
﹁そんな大それたこと⋮⋮﹂
132
﹁いいえ、この時代に貴女が生を受けたこと、それはおそらく、非
常に重要な意味を持つものではないかと、わらわは感じまする﹂
ワスカルは、ラグア夫人にコイリュルの秘密を明かしていたのだ。
ラグア夫人だけでなく、すでにこの館の多くの者がコイリュルの﹃
真実﹄を知っているのかもしれない。今度はそのことを懸念しなけ
らばならなくなった。
ユラック・ワワ
﹁私が﹃白い子﹄であることは、お父様からお聞きになったのです
か﹂
﹁ええ。しかしご安心を。貴女のことはこの館の者しか知りません。
決して他に知られることのないようにと、陛下より厳しいお達しが
ありましたゆえ﹂
﹁いったいお父様は、私をどうなさるおつもりなの⋮⋮﹂
コイリュルは、ラグア夫人の前であることも忘れて思わず不安に
思っていることをひとり言のように呟いた。しかしその答えはラグ
ア夫人の口から告げられた。
﹁尊い貴女の存在は、時が来るまでこのラグア家がお守りいたしま
する。時が来たら、わが都には女神が居ることを民に報せるのです。
さすれば民はこのクスコが本来の都であることに気付くでありまし
ょう﹂
ないがし
﹁何故、そのようなことをする必要があるのですか﹂
チンチャイ・スーユ
ここ
﹁⋮⋮⋮⋮北の邦に⋮⋮陛下とクスコを蔑ろにして、都を築こうと
する者が現れたとき、クスコが本来の都であることを知らしめるた
133
め﹂
チンチャイ・スーユ
﹁北に? 北の邦は平和で美しいところと聞いています。その様な
者が現れるなどと、信じられません﹂
﹁はて、どこからその様なことをお聞きになったのやら。北の者た
ちは油断なりませぬ。ならば、北からの使者がやってきたときは、
貴女もお会いになるとよろしい。あやつらがどのような者たちなの
か、曇りのないその目で見定めてくださりませ﹂
まるで北の人々が敵であるかのように話すラグア夫人に、コイリ
ュルは不安を覚えた。同じ国の中でありながら、クスコ地方とは分
断され、敵対しているような印象だ。コイリュルの知らない遠い地
のことではあるが、北といえば幼なじみのクッシリュが暮らしてい
るはずだ。二度と会うことは無いだろうが、それでもかつて最も心
を許した友が敵になるのは哀しい。
これまで強気にラグア夫人に対峙していたコイリュルだったが、
そのとき足許から崩れ落ちそうな無力感を覚え、姿勢を保つのがや
っとのことだった。
ラグア夫人との面会のあと、与えられた部屋に戻ったコイリュル
の心は沈み切っていた。
もくろ
北を敵視し、自らを優位に立たせるために、コイリュルを利用し
ようと目論むワスカル皇帝とその一族。これまで神の怒りを畏れて
隠されてきたコイリュルの真の姿を、今度は敵への牽制として利用
しようとしている。その恐ろしさに思わず身を震わせる。これから
自分の運命はどうなってしまうのだろうか。
134
﹁コイリュル様⋮⋮﹂
その時、微かな声が自分を呼んでいることに気付いた。
﹁コイリュル様⋮⋮⋮⋮クイ﹂
声は窓の外から聞こえた。そしてその呼びかけで、声の主が誰な
のかをコイリュルは察した。慌てて窓の外に身体を乗り出し下を覗
く。そこにはうずくまって上を見上げるパパリャの姿があった。
﹁パパリャ、どうして⋮⋮﹂
問いかけたコイリュルから視線を逸らし、パパリャは忙しなく辺
りを見回した。そして再びコイリュルを見上げて言った。
﹁今のうちだ。手を貸しておくれよ﹂
コイリュルが窓から身を乗り出して差し延べた手を握り、それを
支えに足で壁を伝って、パパリャは窓からひらりとコイリュルの部
屋に舞い込んだ。
﹁パパリャ、どうしてここにいるの!﹂
パパリャの身体にしがみつきながら、嬉しそうにコイリュルが訊
く。コイリュルの身体を受け止めながら、パパリャは言った。
﹁あたしの仲間がこの館の建設に関わっていたんだ。この館には地
下水路に繋がる秘密の抜け道があってね。逆に外から地下水路を伝
ってここへ潜り込んだってわけさ。館に入り込んだはいいけど、ク
135
イの部屋を探すのが一苦労だった。さっき、あんたがこの部屋に入
るのを見かけたから、外から小さな声で呼びかけてみたのさ。あん
たがひとりかどうか確かめなくてはいけないからね。会えて良かっ
た﹂
﹁またパパリャに会えるなんて、夢じゃないかしら﹂
﹁夢じゃないよ。あたしはまだ都に居るし、こうしていつでも会い
にこれるんだ。クイをひとりになんてしないからね﹂
﹁ありがとう。とうとう私の味方は誰も居なくなってしまったと思
って悲しんでいたところよ。こんなに嬉しいことはないわ﹂
神は未だ、自分を見捨ててはいなかった。パパリャの胸に顔を埋
めながらコイリュルは、絶望で暗く沈んでいた心に、眩い一筋の光
が差し込むのを感じた。
136
ワスカルとアタワルパ
この物語で、主役の次に中心となる人物、ワスカルとアタワルパに
ついて、解説したいと思います。
インカ帝国が滅んだのは、スペイン人の侵略によるものというのが
通説ですが、実はこの二人の皇帝の争いが無ければ、崩壊に至るこ
とまでは無かったのかもしれません。
侵略者ピサロさえ、はじめはこんな大帝国をあっさり征服できるな
どと思っていなかったでしょう。
ピサロにとっては、運が味方したといえるかもしれません。
ワスカルとアタワルパ。
作中で語っている通り、ワスカルが首都クスコを中心とした勢力で、
アタワルパが現エクアドルを中心とした北部地域を本拠地としてい
ました。
アタワルパは、長年北に駐留していたため、一説に、﹃前皇帝ワイ
ナ・カパックが、北の異部族の王女に生ませた皇子である﹄という
ものもありましたが、れっきとしたクスコ出身の皇子です。
この二人の確執の根底には、﹃異なる家系同士の争い﹄というもの
がありました。
地域の断絶というよりも、もともとクスコの皇族たちの間にあった
溝が深まったといえるでしょう。
ワスカルは、第10代皇帝トゥパック・ユパンキが創設した﹃カパ
ック・アイユ﹄という家系であり、アタワルパは、第9代皇帝パチ
137
ャクティが創設した﹃ハトゥン・アイユ﹄という家系です。
この家系同士の確執というのは根深く、例えばカパック・アイユの
者は、ハトゥン・アイユの祖であるパチャクティについて語ること
もはばかるくらいだったと言われています。
それゆえに、征服後にスペイン王室が、インカの歴史を調査しよう
としたとき、語る者の出自によって、歴代皇帝の実績や存在が抹消
されているということが起こったくらいなのです。
文字記録が無かったために、口頭伝承の中で自然と、おそらくは故
意的に語られなくなったのだろうと思われますが。
それほどまでに、この﹃家系﹄へのこだわりや誇りが強かったのだ
ということです。
この家系というものは、母親の出自によって決まります。
つまり、ワスカルの母が﹃カパック・アイユ﹄出身であり、アタワ
ルパの母が﹃ハトゥン・アイユ﹄出身だったのです。
そして、ワイナ・カパック帝の正妃がワスカルの母であったため、
ワスカルが正統な後継者と思われがちなのですが。
ここで、インカの皇位継承は、必ずしも正妃の子どもや長子ではな
いということが混乱の原因になってきます。
インカ皇帝には、その時々で、最も能力のある皇子が選ばれること
となっていましたし、決定権は皇帝自身による使命や、権力のある
皇族たちの推薦、または神託にありました。
本来なら、皇帝自身が生前に後継者を指名しておけば問題はないの
ですが、この物語で述べた通り、ワイナ・カパック帝は、スペイン
人によって持ち込まれた未知の病、天然痘によって、突然亡くなっ
てしまいました。
138
その時点で、皇帝自身が指名していた後継者は、ニナン・クヨチで
した。彼は、皇帝の指名、有力皇族たちの推薦、さらに神託で吉と
出るなど、あらゆる点で後継者としての条件を満たしていたので、
他に後継者を立てる必要は無かったのです。
ここで、インカ皇族たちにとって予想外の出来事が起きてしまいま
す。
まだ若いニナン・クヨチも、ワイナ・カパック帝と同時期に天然痘
によって命を落としてしまったのです。
この病はこれまで大陸に無かったものなので、ニナン・クヨチの死
は誰も予想できない出来事でした。
こうして急遽、クスコの貴族はワスカルを皇帝として擁立したので
すが、彼の即位に反対する皇族は多く、さらに神託でも凶と出て、
不満を募らせる者が続出したのです。
ワスカルの皇帝即位に関しても、彼の生母、ラウラ・オクリョの画
策で、正規の手順を踏まずに、性急に強引に行われた印象があり、
これによって対立する貴族の不満が高まった可能性が高いのです。
アタワルパははじめ、ワスカルの即位を好意的に見ていました。新
皇帝のために、北部に別宮を建てたり、多くの祝いの品を贈ったり
しました。
しかし、すでにワスカルに不満を抱いていた貴族たちによって、ワ
スカルの対立候補に仕立て上げられていったのです。
ただ、ワスカル自身は、新皇帝としての責務を自覚し、様々な改革
に意欲的に取り込んでいたのではないかと思われます。
139
そのひとつとして、歴代皇帝たちとその一族が所有する莫大な不動
産、財産を没収し、それを均等に分配しようとしていました。
ただこの改革は、多くの有力皇族を敵に回すことになり、結果的に
次々と反対勢力をつくることとなってしまいます。
これらの反対派が頼るはアタワルパのみ。さらには、アタワルパの
許には、先代皇帝の時代から、北の保安のために多くの有能な軍人
が集っていたために、軍事力の差は歴然でした。
ワスカルが気付いたときには、アタワルパ側の勢力は、歯が立たな
いほど膨大になっていたのです。
この内戦については、今後の物語の中で語っていく予定ですが。
これに付け込んだピサロは、最後の皇帝アタワルパを処刑する理由
をつくるために、彼の罪状を﹃クーデターを起こし、正統な後継者
ワスカルから権力を奪ったうえ、国内を混乱に陥れた罪﹄としまし
た。そうして正式にスペイン王室に処刑の許可を得たのです。
結局、同じ民族間で起こった壮絶な内乱は、縁もゆかりもない異邦
人の利益として吸い上げられて、終結するのです。
ワスカルとアタワルパは、どちらも有能な為政者だったのかもしれ
ません。
ただ、多くのアクシデントと大勢の思惑が複雑に絡み合い、残酷な
運命を辿らなければならなかったのではないかと思われます。
140
1、招かれざる訪問者
1、招かれざる訪問者
﹁いよいよ、奴らは我らが領土に足を踏み入れたか﹂
トクリコク
﹁はい。しかし居合わせた巡察官によれば、﹃白い人間﹄は、非常
に友好的だったそうです。巨大で不気味な動物の背に乗り、光り輝
く武器を持ち。住民たちは敵対すると怖ろしいと思い、はじめは警
戒していたそうですが、彼らは動物の背から降り、武器を収めて、
ルナシミ
笑顔で歩み寄ってきたらしく、住民たちもそれに応じて親愛を示し
た。
我らの言語を識る者を連れており、その者によれば、彼らの王が
ぜひとも我が国の王に謁見し、友好を結びたいと望んでいると。彼
らは終始温和的であり、一度も腹を立てたり攻撃的な素振りを見せ
ることはなかったと﹂
﹁聞けば聞くほど、奴らの目的が分からなくなる。我らがはじめて
奴らの噂を聞いたとき誤解したように、奴らの容姿や行いは、神ビ
いさ
ラコチャにそっくりなのだ。ビラコチャがこの世の愚かさを憂えて、
我ら人間を諫めにご降臨あそばれたのではないかと思ってしまう。
しかし、奴らは我らと友好を結びたいと申しておる。つまり明ら
かに﹃人間﹄ということだ。
この大地を治める者は何人も要らぬ。奴らは我が国と友好を結ん
で何を為そうというのだ。友好と見せかけて、我が国を奪い取ろう
という魂胆ではあるまいか﹂
141
﹁彼らの方からも、彼の国で貴重とされる珍しい宝を贈ってきたそ
うです。奪うことが目的であれば、そのような貴重な物を贈るはず
がありません﹂
﹁ふむ。そこだ。そこまでするからには、我らからも、その価値に
等しい物をもらいたいのであろう﹂
クラカ
﹁はい。領主が普段使っている道具や衣服を贈ったところ、大変喜
んだそうで﹂
﹁はじめのうちは物珍しいのだ。しかし親しくなってお互いの文化
を識れば、そんなものは貴重でもなんでもなくなる。そのときこそ
奴らの本当の狙いが分かる﹂
﹁⋮⋮⋮⋮なるほど。確かに珍しいものを集めるためだけに、命賭
けで我が国に侵入しようと試みるはずはありませんな。それに見合
うものを彼らは望んでいるのだと。
奴らは再び海に出て、海からこちらへと近づいているようです。
殿下、いかがなさいますか﹂
﹁海岸沿いの警備を怠ってはならぬ。しかし、こちらから戦いをけ
しかけてもならない。土地の者に任せておいたのでは危険だな。海
岸の各所に信任篤い者たちを配置しよう﹂
﹁異民族の反乱分子の制圧は、どうなさいますか﹂
﹁もしも反乱分子が奴らに接触したとなれば、大変なこととなる。
我らに不満を抱く者たちは、奴らの未知の力を利用しようと考える
やもしれん。強力な味方を得たとなれば、これまで抑圧してきた者
たちまで蜂起するであろう。決して奴らを上陸させてはならぬ﹂
142
﹁かしこまりました。直ちに各所へ通達を﹂
北部の偵察から戻ってきた側近の報告を聞き、アタワルパは頭を
抱えた。
以前から、遠く北の果てに、海から奇妙な為りをした人間がやっ
てくるという噂は流れていた。彼らは時に残虐で原住民の村を壊滅
に追い込むこともあれば、時に親切で友好的で世にも珍しい宝を授
けていくという。
白い肌をしてあごひげをたくわえているその姿は、伝説の創世神
の相貌によく似ていて、はじめこそ、神の再来ではないかと騒がれ
た。しかし彼らに虐げられた住民は、彼らが神だとはとても謂えな
いと口を揃えた。
サパ・インカ
そのうち実際に、噂の﹃人間﹄がタワンティン・スーユの領土に
クスコ
その姿を現したのだ。彼らは着実に南下して来ている。しかも王に
会いたがっているという。彼らが目指しているのは首都に違いない。
チンチャイ・スーユ
得体の知れない人間をむやみに国内に入れてはいけない。首都を、
この国を守るために、北の邦で彼らの動きを封じなくては。アタワ
ルパは、今それこそが自分の使命であると、気持ちを奮い立たせた。
別の側近が部屋に入って来たのは、アタワルパが北の報告に動揺
した気持ちをようやく取り戻したときだった。さすがに続けて悪い
報告は無いであろうと、アタワルパは少々面倒そうに側近の報告を
聞いていた。しかしその内容に、再び眉間に深い皺を刻まなければ
ならなくなった。
﹁ワスカルより緊急の呼び出しだと。何事か﹂
143
・・
﹁殿下、もう弟君ではございません。お言葉を慎まれてください﹂
クスコ
﹁ああ、分かっておる。サパ・インカ陛下であったな。その陛下が
直々に私を呼ばれるとは、首都に何か重大な事でも起きたのか﹂
﹁いえ。ワスカル陛下が即位されてから、殿下が未だ上京されてい
らしゃらないので、直接お顔を見せるようにとの、陛下のお達しの
ようです﹂
﹁何を⋮⋮。この地で以前から不穏なことが続いており、私がここ
を離れられないことは、すでに都に報せてあるであろう。さらに非
常事態になっていることを、その使者を通じて報せればいい。いく
らクスコに居てこちらの様子が見えないとはいえ、広い国土の隅々
の様子に気を配るのが、サパ・インカの役目であろう!﹂
﹁殿下! お言葉が過ぎます。外に使者が控えております。無用な
誤解を招かぬよう慎まれてください﹂
・・
﹁ああ、わかったわかった。サパインカ陛下の命令は絶対だ。しか
おのれ
とが
し、その命令に従えばこの国は最大の危機に陥る。どちらを取るか。
私は、己が咎を負うこととなっても、国の存続が大事と考えるぞ!﹂
﹁どちらも重大ですな。殿下に代わる重鎮を上京させては⋮⋮﹂
﹁無理だ。ちょうど今、海岸地域に私の重鎮たちを派遣して、警護
に当たらせようとしていたところだ。それでも人が足りずに頭を悩
ませていたところなのだ﹂
﹁では、彼らに次いで信任篤い者は、どなたかいらっしゃいません
144
でしょうか⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そうだな。
おお、そうだ! キリャコに行かせよう。私の御曹司よ﹂
﹁キリャコ⋮⋮ウクマリ将軍の息子ですか﹂
﹁おお、そうよ。キリャコは父親よりも優れた才覚を備えておる。
我が息子と思って将来を期待しておるのだ。目の中に入れても痛く
ないほどだ。我が分身に相応しい﹂
﹁殿下⋮⋮。キリャコが殿下の信任篤いことは、陛下には伝わりま
ないがし
せん。何せキリャコは若過ぎる。見かけだけでは重責を担うに相応
みょうだい
しい人物とはみなされません。陛下の命令を蔑ろにしたと誤解され
るやもしれません﹂
クンビ
﹁それならば、私の紋の入った上着を託そう。キリャコが私の名代
である証になる﹂
﹁それならば⋮⋮﹂
みょうだい
﹁まず、使者を通じて、北に危機が迫っていることを陛下にお伝え
クンビ
するのだ。その上で、ここを離れられない私に代わって名代を立て
チンチャイ・スーユ
ると。キリャコに、名代である証明の上着とともに、ここにある限
キープ
りの宝物、特産物を持たせよう。そして、北の邦に陛下の宮殿を建
てる心づもりがあると、私が直々に縄文字に綴ろうではないか。そ
れでどうだ﹂
﹁そこまでされるなら、陛下も納得されるでしょう。そう申し伝え
て使者を都へ返します﹂
145
側近は、ようやく肩の荷が下りたと、晴れやかな表情で部屋を後
にした。
﹁今日は何と疲れる日だ。身体を使わずに気ばかりを回してこんな
に疲れるとは⋮⋮﹂
ようやく独りになって、アタワルパは腰かけている椅子の背もた
れに身体を預け、天を向いた。そして盛大に嘆息した。
146
2、 運命の出会い ︵1︶
2、運命の出会い
ラグア家での日常はコイリュルに、生まれてこの方、味わったこ
かくさく
とのない自由と平穏を与えてくれた。皇帝ワスカルとラグア夫人が
も
何を画策しているのかを詮索すれば切りが無く、底知れない不安を
あお
覚えるが、起きてもいないことにあれこれと気を揉んでも虚しいだ
さら
けだ。それよりも、コイリュルは初めてその白い肌と碧い瞳と金の
髪を多くの人に晒すことを恐れずにいられる。そのことだけでも心
の平穏が得られることを知ったのだ。もちろん、それはラグア家の
屋敷の中に限ったことであるが、屋敷内に居る大勢の使用人が、自
然とコイリュルの姿を認めているというのは、常に人の目から逃れ
ることを考えていたこれまでの生活とはまるで違う。コイリュルは
たど
その時はじめて、幼い頃から何と窮屈な日常を送ってきたのだろう
と気付いたのだ。
さらに嬉しいのは、ときどき地下水路を辿ってパパリャが会いに
来てくれることだ。最も心を許す友人が見守ってくれる安心感に加
えて、コイリュルが知ることの出来ない屋敷の外の様子をパパリャ
が教えてくれるというのも、不安を和らげてくれる。
今のコイリュルにとって、自分の知らないところで運命が動き出
してしまうことが最も恐れることだったからだ。
ひるげ
ある午後、屋敷の者たちが昼餉の片づけを済ませて暫しの休息を
取っている時間に、パパリャがやってきた。パパリャに依れば、夜、
静まり返った屋敷に忍び込むよりも、この時間が一番人目に付きに
くいそうだ。だから彼女はこの時間にコイリュルを訪れることが多
147
かった。
何時ものごとく、少し高めに設けられた窓をよじ登って、コイリ
ュルの部屋に転がり込んだパパリャだが、その日は何時ものように
弾むような笑顔が見られなかった。
﹁パパリャ、街はどう?﹂
その日に限らず、コイリュルは真っ先にパパリャにそれを訊くの
だった。ラグア家の平穏な日常が続けば続くほど、また運命が暗転
することをコイリュルは最も恐れていた。パパリャにもそれはよく
解っていた。だから、多少の物騒な噂を耳にしても、たいていは﹁
変わりはないよ﹂と彼女を安心させていたのだが⋮⋮。
その日、パパリャはすぐには返事を返さなかった。その態度が、
コイリュルの恐れていた答えではないかとコイリュルの方でも身構
えた。暫しの間があり、パパリャが口を開いた。
﹁⋮⋮少し、動きがあった﹂
パパリャの言う遠慮がちな﹁少し﹂はそのままの意味ではない。
コイリュルは碧い瞳を細めて、眉の間に軽く皺を寄せた。
﹁⋮⋮動きって﹂
﹁北から使者がやってくる﹂
﹁北から? それは悪いことなの?﹂
サパ・インカ
﹁悪いこととは限らない。北の使者は、皇帝陛下の戴冠のお祝いに
やってくるのだから﹂
148
﹁戴冠のお祝いって⋮⋮。ワスカル様が戴冠されたのは、もうひと
月も前よ。何故今頃になって﹂
チンチャイ・スーユ
おさ
﹁そうなんだ。北の邦の長、アタワルパ様は、これまでサパ・イン
カの戴冠を直接祝うことはしなかった。もちろん使者を通じて祝辞
や贈り物は届いていたようだが﹂
﹁それなら祝福の気持ちは表していたはずだわ。それなのにまた?﹂
﹁サパ・インカ・ワスカルは、使者ではなく、北を支配するアタワ
ルパ様に直接出向くように再三要請していたらしい。しかしアタワ
ルパ様はどうしても北を離れることができないと。今回はアタワル
パ様の最も信頼する使者を都城させることでサパ・インカの意向を
汲んだことにしたいようなんだ。しかし、サパ・インカにそれが伝
北の者たちは油断なりませぬ。ならば、北からの使者がや
わるかどうか⋮⋮﹂
︱︱ ってきたときは、貴女もお会いになるとよろしい。あやつらがどの
ような者たちなのか、曇りのないその目で見定めてくださりませ ︱︱
つ
パパリャの言葉を継ぐように、ラグア夫人の言葉がコイリュルの
おとし
脳裏に響いた。使者が信頼の置けない人物であったとき、おそらく
ワスカルは、サパ・インカの権威を貶める行為だと非難するだろう。
その使者がどれほどの重きを置かれている人物なのか、それによっ
て運命は大きく変わってくる。
コイリュルは突然早まった動悸に耐えられずによろめくと、胸を
押さえて大きな深呼吸を繰り返した。パパリャがそれを支えようと
近づくと、コイリュルは大丈夫というように片手で制した。
どうにか息が整うと、コイリュルは訊いた。
149
﹁そもそも⋮⋮。なぜ、宮殿の者でないパパリャが、そんなことを
知っているの?﹂
パパリャのことは信用しているが、冷静に考えればおかしなこと
である。パパリャは宮殿の者でないばかりか、コイリュルと同じケ
チュア族でもないのだ。
コイリュルがパパリャに期待していたのは、市井の人々の噂に上
る程度の情報だった。しかし、パパリャは宮殿の者にすら伏せられ
ているような機密情報を知っている。パパリャが噂をでっち上げて
意図的にコイリュルを不安に陥れようとしているとも考えにくい。
いや、そうは思いたくなかった。
パパリャは大きく溜息を吐くと、これまで見せたことのないよう
な険しい顔つきで語り出した。
﹁クイ⋮⋮。今更もう隠しても仕方ないし、隠してもあんたを傷つ
けるだけになるだろう。だから正直に話すよ。あたしたちは、あた
チンチャイ・スーユ
しの一族カニャーリは昔、ケチュアに忠誠を誓うことを強要された。
クイも知っている通り、あたしの故郷は北の邦だ。北はもともと、
あたしたちの土地だった。しかし、前皇帝ワイナ・カパックの率い
る軍隊に突然襲われたんだ。最初は抵抗した。一族の者は命がけで
戦った。けれど力の差はどうにもならなかった。一族の王であるあ
たしの父さんは、これ以上戦えばカニャーリの民が絶えてしまうと
思い、ケチュアに従うことで一族を存続させることを選んだ。幼い
あたしを人質にすることで、一族をサパ・インカの支配下で生き延
びさせてもらいたいと願い出たんだ。
あたしはそうしてクスコに連れて来られた。北に残ったカニャー
リの一族は、サパ・インカのために働いた。ときにかつての同盟者
そし
とも戦わなくちゃならなかったけど、一族が生き残るほうが大切だ。
裏切者と謗られても、カニャーリはサパ・インカに従った。その功
150
績を認められて、一部のカニャーリ人がクスコに移住しカニャーリ
の自治区を作ることも許された。まだ幼いうちにひとりクスコに連
れて来られたあたしだったけど、ようやく仲間と会うことができた
んだ。そして今は仲間と暮らせるようになった﹂
﹁パパリャが前に話していた、森の向こうから襲ってくる得体の知
れないものというのは⋮⋮﹂
﹁ああ、サパ・インカの軍隊のことだ。あたしはまだ、ほんの小さ
な子どもだったけど、その時の記憶だけは色褪せない。あたしたち
は、恐ろしい敵の懐に自ら飛び込んで生きる残る決心をしたんだ。
けれど、それは間違いじゃなかった。あたしにはクイという親友が
できて、今は仲間と暮らすこともできるようになった。あのときイ
ンカに従わなければ、あたしはここに居なかった﹂
﹁⋮⋮パパリャ﹂
コイリュルは、これまで自分の運命ばかりを嘆いていたことを恥
ずかしく思った。パパリャはコイリュルが俯いて押し黙ってしまっ
たことに慌てて、コイリュルの顔を覗き込んで優しく言った。
﹁あたしは、生き残ってクイと出会えたことが幸せだって、言いた
いんだよ。別に自分の運命を恨んでいるんじゃない。
ただね、そんなあたしたちも、また大きな運命の分かれ道に立た
されることになった。この都と北の都の対立だ。サパ・インカ・ワ
スカルは、何人かのカニャーリ人を重臣に取り立てた。カニャーリ
がワスカル様に忠誠を誓えば、再び北の故郷で暮らせるようにして
やると⋮⋮﹂
コイリュルはハッと顔を上げ、怒りを顕わにして叫んだ。
151
﹁それって!﹂
﹁おそらく、ワスカル様に従い、万が一のときにはアタワルパ様に
対抗せよと⋮⋮。北の地理に詳しいあたしたちは間諜にもなれる⋮
⋮﹂
チンチャイ・スーユ
﹁そんな! ではワスカルは、もう北の邦と和解するつもりはない
ということ?﹂
﹁判らないが、今度北からやってくる使者がどのような人物かによ
って、運命は決まると思う⋮⋮﹂
ゆうげ
そのとき、部屋の外が騒がしくなってきたことに二人は気付い
た。夕餉の支度のために、召使いたちが動き出したのだ。パパリャ
がこれ以上、コイリュルの部屋にいることは危険だ。訊きたいこと
はまだまだあるが、コイリュルは諦めるしかなかった。
窓へ向かう前に、パパリャはコイリュルの両肩をしっかりと掴ん
で言った。
﹁あたしは、ワスカル様の味方でも、アタワルパ様の味方でもない。
クイ、あんたの味方だ。それだけは忘れないで!﹂
固い笑顔を作って深く頷くと、パパリャは窓枠をまたいで姿を消
した。
北の使者がクスコに着いたとき、コイリュルは再び大きな岐路に
立たされる。果たしてそれは絶望の道か希望の道か⋮⋮。判ってい
るのは、彼女の人生に平穏はあり得ないということだった。
152
153
2、 運命の出会い ︵1︶︵後書き︶
※インカ内乱の際に鍵となる﹃カニャーリ族﹄
彼らはふたりの皇帝の間に立って裏切りを繰り返し、決定的な対立
に導いたという、不名誉なことで知られるようになってしまいまし
た。
しかし、負の歴史というのは、本当に最初から負に向かおうとして
いたのか。
どの歴史も、そこにより良く生きたいという願いがあったのだと、
私は考えます。
ふたりのインカを翻弄させて、混乱に陥れたように描かれてしまう
カニャーリ族も、生き残るための苦肉の策が裏目に出てしまったと
みることができるでしょう。そして、彼らが弱い立場だったからこ
そ、汚名を着せられても抗うことができなかったのではないでしょ
うか。
さて、コイリュルとパパリャの運命もまた、変わってきます。
不穏なことを予告するような流れですが、この先は悪いことばかり
が起きるわけではないという事だけ、予告しておきます。
154
2、 運命の出会い ︵2︶
コイリュルが珍しくラグア夫人の部屋に呼ばれたのは、パパリャ
がコイリュルに秘密の情報をもたらしてから数日経った頃だった。
最初の面会以来、ラグア夫人はコイリュルに無理なことを要求する
ことは無かった。コイリュルが皇族としてのプライドを持ち、毅然
とした態度を取ったことを、ラグア夫人はいたく気に入ってコイリ
ュルに尊敬の念すら抱いていたからだ。だから夫人はコイリュルを
部屋に呼び出すことさえ遠慮があったようである。部屋に入ってき
たコイリュルを見るなり、酷く申し訳なさそうな表情を浮かべた。
ニュスタ
﹁ああ、姫君。わざわざお呼び立てしてすみませぬ。貴女にはこの
屋敷で自由に過ごしていただくと約束したはずでありましたが、少
々事情が変わりましてな。
近々、この屋敷に遠方からの客人を泊めることになったのです。
少々長い滞在になりそうでして。その間、貴女の姿を客人に見られ
ては、ややこしいことになるやもしれませぬ。出来ればその間だけ、
お部屋の外では以前のように髪と肌の色を隠していただきたいのじ
ゃ。盲目の振りをして、その瞳の色も客人には知られぬようにして
いただきたいのじゃ。他所から来た者が貴女の姿を見たとき、おそ
らくおおいに驚くでありましょう。ただ驚くだけで済めば良いが、
何分、よく見知らぬ者のこと。どのような噂を広められるか、分か
りませぬゆえ﹂
ラグア夫人はあれこれと言い訳を取り繕いながら言葉を選んでい
るが、要は、この屋敷にコイリュルのように特異な者が居ると知ら
れると非常に都合が悪いということだ。ラグア夫人がいくらコイリ
155
ュルの立場を尊重していても、居候に変わりないコイリュルには、
主人の申し出に抗う権利はない。
﹁ええ、外からのお客様ならば、私の姿は奇異に見えるでしょう。
大事なお客様を驚かせてはいけませんものね﹂
多少皮肉を込めてそう言うと、ラグア夫人は神妙な顔になった。
サパ・インカ
﹁そのようなことではないのです。客人といっても、心からもてな
したいわけでは⋮⋮。実は、皇帝陛下の命で、この度やってくる客
人の素性を、謁見の前に、このわらわに探って欲しいと⋮⋮﹂
﹁それは随分、穏やかではないお話だこと⋮⋮﹂
やから
コイリュルはふと、パパリャの話と繋がる気がした。素性を探る
というのは、得体の知れない輩の本意を暴き、サパ・インカに仇な
す気配があれば、始末せよということかもしれない。サパ・インカ
に仇なす危険のあるもの⋮⋮北の使者に違いない。
クスコ
﹁いえ、そのような大それたことではないのですよ。ただ、都のこ
とをよく知らない客人ゆえ、まずは郊外のこの屋敷で旅の疲れを癒
してから宮殿にお連れするのが良いかと、この屋敷を提供したまで
のこと﹂
先ほど自分が発した﹃探る﹄という言葉が持つ不穏な空気に、俄
かに気付いたのか、ラグア夫人は慌ててそう言い直した。コイリュ
ルにはその慌て様が、ますます怪しく思えた。
しかし、その客人がパパリャのいう﹃北の使者﹄ならば、この屋
敷での客人の振る舞いが、そのままコイリュルの運命を決める重大
事となるはずである。コイリュルにとって願ってもいないことだ。
156
﹁ええ、分かりました。サパ・インカのお客様でしたらなおのこと、
粗相があってはいけませんから﹂
﹁ああ、ご理解していただけましたか。わらわも大役を任されて緊
張しておりますのよ。姫君が協力してくださるならありがたいこと
ですわ﹂
ラグア夫人はそう言って、にこやかにコイリュルの手を取った。
それからラグア家では客人を迎える準備が慌ただしく整えられて
いった。時々やってくるパパリャは、先日語っていた以上の情報は
知らないようだが、ラグア家の客人が北の使者であるというコイリ
ュルの憶測に同意した。
﹁クイ、その使者がどんな者たちか、よく見ておくんだ。あんたの
運命だけじゃなくあたしの運命も、そいつらによって大きく変わる﹂
パパリャに背中を押されて、コイリュルは運命の日に向けて覚悟
を決めた。
それから間もなく、ラグア家は五人の﹃客人﹄を迎え入れた。は
あるじ
じめのうちは、コイリュルが彼らに遭遇することは無かった。客人
さら
たちの応対は主ラグア夫人の務めであるから、コイリュルがわざわ
ざ出向いて彼らに挨拶する機会は無かったし、自らその姿を晒しに
行くのは、不自然であり危険でもある。コイリュルはいつも以上に
部屋を出ることに慎重になっていた。しかし彼らを目にする機会を
心待ちにもしていた。
157
その機会は、客人たちが到着して三日目の晩にやってきた。
その夜、ラグア夫人が歓迎の宴を催したのである。屋敷はクスコ
郊外の自然豊かな場所にあり、美しい景観の臨める広い庭が自慢だ
った。ラグア夫人はその自慢の庭に敷物や座卓を並べさせ、屋外で
歓迎の宴を開くことにしたのだ。
その場には、もちろんコイリュルも同席することになった。黒毛
のかつらの中に慎重に金の髪を収め、日よけ薬で顔や露出している
肌の色を変え、碧い目を閉じて盲目の振りをし、侍女に案内されて
末席へと腰を落ち着けた。彼女に末席が用意されたのは、客人の目
にあまり晒されないようにというラグア夫人の気遣いであろう。し
かし、客人たちの席が離れていたことと、宴の開始が夕暮れだった
ことで、コイリュルは少し目を開いて、上座の客人たちの姿を遠目
で観察することができたのである。
五人の客人は、遠目から見ても随分と鍛えられた身体をしていた。
これまでコイリュルが目にした男性といえば、伯母の館にも、父の
館にも居た、使用人や門番といった下働きの者たちくらいだ。貴族
の男性といっても、ワスカルと、ワスカルの即位式でちらりと覗き
見た数人だけである。
客人たちはそうした都の男性とはかなり違う容姿だった。屈強な
体に動きやすい簡素な衣服を身に付け、装飾もそれほど付けていな
あぐら
い。しかし下働きの者たちとは明らかに違う高貴な雰囲気を漂わせ
ている。一様に背筋を伸ばして胡坐をかいている姿が、等間隔に植
えられた樹木のようである。そっくり同じ姿勢で誰もが微動だにし
ないところは、樹木というより、生気のない﹃岩﹄と言った方が近
いかもしれない。
身に付けているものは皆同じようでありながら、よく見れば、真
ん中に坐した男性の恰好は、他の男性とは僅かに異なっていた。一
見、簡素な形の服装だが、そこに縫い付けられた色とりどりの石の
158
ビーズが、かがり火の仄かな灯りにちかちかと反射しているのが分
かる。襟元には左右の男性とは明らかに違う金属製の首飾りが下が
っている。そして頭帯に差し込まれた羽根の数も左右の男性よりも
多く、立派なものばかりだ。おそらく彼が、この客人たちのリーダ
ーなのだろう。それにしては、彼は明らかに他の四人よりも若かっ
た。鍛えられた身体つきは変わらないものの、少年からようやく青
年へと変わり始めた頃のような、どこかにあどけなさを残している
相貌だった。
違和感を感じたコイリュルは、薄く開いていた目をいつの間にか
大きく開いて、まじまじとこの客人たちを見つめていたのだ。ふと、
真ん中の青年の瞳がコイリュルの視線と重なった。コイリュルは慌
てて目を閉じ、俯いた。
﹃どうしよう、私の瞳を見られてしまったかもしれない。この薄暗
がりでは気づかなかったかしら﹄
コイリュルはそれから不安を抑えられなくなり、額に汗を滲ませ
て深く俯いているしかなくなった。周囲で何が起こっていようとも、
宴がたけなわになろうとも、コイリュルの耳にはもう、誰かの話し
声も物音も一切届かなくなってしまった。
どのくらい時が経ったか分からないが、俯くコイリュルの前に、
突然大きな掌が二つ差し出され、そっと彼女の膝の先に載せられた。
驚きのあまり、心臓は早鐘を打ち、額に溜めていた汗が流れ落ちる。
じっと掌の先を見つめていると、頭の上から聞きなれない低い声が
降ってきた。
﹁どうですか。一緒に踊ってくださいませんか﹂
159
声は彼女を怖がらせないように、穏やかに慎重にそう告げた。は
っと、自分がいま﹃盲目である﹄ことに気付く。コイリュルは瞳を
閉じて、ゆっくりと声の主の方に顔を上げた。声はその彼女の正面
から再び告げた。
﹁私はこのお屋敷に招いていただいたキリャコという者です。奥方
さまより、貴女さまがサパ・インカの御息女であらせられること。
そしてお目が不自由であらせられることをお伺いいたしました。お
招きいただいた者たちの代表として、姫君にご挨拶申し上げようと
思い⋮⋮。しかし貴女さまには、私の姿がお分かりにならない。そ
れならば、私を知っていただくために、この手を取って一緒に踊っ
てはいただけないかと﹂
ためら
コイリュルは前に居るのであろう男の方へ顔を向けたまま、すぐ
に答えるのを躊躇った。
これはラグア夫人の挑発であろうか。ラグア夫人はなるべく客人
の目を避けるようにと言っておきながら、この男にコイリュルのこ
あやつらがどのような者たちなのか、曇りのないその目で
とを紹介したのである。その真意は何か⋮⋮。
︱︱ 見定めてくださりませ ︱︱
ひとときの逡巡の後、ラグア夫人の言葉が思い起こされた。彼女
はコイリュルに、その目、いやその感触で、この使者を見定めよと
言いたいのだ。
コイリュルは決心して、男の掌に細い指を重ねた。男はその指先
をそっと握り、彼女を引き起こすように立ち上がった。
ケーナ
ティンヤ
これまで無音だったコイリュルの周りが急ににぎやかな音で満た
された。いつの間にか、陽気な骨笛や太鼓の音が響き渡っていて、
160
人々は席を離れてそこかしこで歌い笑い、騒いでいたのである。
コイリュルが立ち上がると、男はコイリュルの手全体を握り直し
て、彼女を音の渦の中へと誘っていった。
161
2、 運命の出会い ︵3︶
ティンヤ
夜のしじまを切り裂く甲高い笛の音が、幾重にも重なって軽快
なハーモニーを奏でる。太鼓の激しいリズムは大地を揺らし足許か
ら響いてくる。人々の声はますます熱気を帯び、酔狂な騒ぎが加速
していく。
こんな宴は初めてだ。客人を愉しませたいというよりも、今この
ときくらいは、不安を忘れてしまいたいという、屋敷の人々の切実
な叫びではないだろうか。コイリュルは、異様な騒ぎに不吉なもの
を感じ取っていた。
さらにいま、自分を支えるものは見知らぬ男の両手のみ。男が気
まぐれに手を離せば、闇の中に放り出されて周りで何が起こってい
るのか分からなくなる。自分が正体を探ろうと思っていた男に全て
を委ねてしまうとは。気付いてコイリュルは、自分の浅慮を激しく
後悔していた。
いざな
コイリュルを誘って踊りの渦の中に入っていった男の歩みが止ま
った。コイリュルはただ、その動きに従うしかない。男の手は、コ
イリュルの両手を小さく左右に引いた。男が音楽に合わせて左右に
揺れているのだ。男は自分の動きに付いてきなさいと言うように、
握る手に力を込めた。
仕方なく、コイリュルもその動きに合わせてステップを踏む。コ
イリュルが動き出すと、男の動きは少しずつ大きくなっていく。コ
ケーナ
イリュルがその動きに合わせてまた大きく足を踏み出す。そうして
いつの間にか、骨笛の軽快な音に合わせて、コイリュルの身体が自
然とリズムを刻むようになっていった。
不安だった心は、動きが軽やかになっていくたびに薄らいでいく。
162
はじめは男の手に頼り切っていたが、次第にコイリュルの方が彼の
手を引いて踊りを教えるような形になった。
これまで屋敷の隅で目立たぬようにひっそりと暮らしてきたとい
うのに、どこでこんな動きを覚えたのだろう。自分でも不思議に思
ったが、おそらく父の館で毎朝武術の稽古をしていたときに身に付
いた感覚だろうと思い至った。
﹁なんと、お目が不自由とは思えない。とても踊りがお上手なので
すね﹂
男が息を弾ませながら愉し気にそう言った。
﹁身体を動かすのは好きなのです﹂
不審に思われるのを怖れて、コイリュルは当たり障りのない答え
を返した。
﹁それは良かった。無理やりお誘いしてしまったが、お身体に障っ
たらどうしようかと少し後悔していたのです﹂
男は正直にそう話した。誠実なその言葉に、コイリュルは彼が悪
意のある人間には思えなかった。
﹁このお屋敷の奥方様は、北のことをよくご存じだそうで、北から
やってきた私たちのことを歓迎してくださっているのが分かります﹂
男が嬉しそうにそう話した。北を警戒しているはずのラグア夫人
が、北の人間を歓迎しているとはどういうことだろうか。
﹁どうしてですか?﹂
163
﹁この曲は、北で有名な民謡なのですよ。まさかクスコでこの曲が
聴けるとは思いませんでした﹂
ラグア夫人は確かに北に住んでいた。亡き夫は、北の皇帝軍の武
将だったのである。それだけ北を理解しているはずのラグア夫人が、
北を警戒するのは何故なのか。歓迎していると見せかけて北の使者
を監視しようとするのは何故なのか。コイリュルはますます理解し
難くなった。
しかしそうなれば、自分の感覚で目の前の男を見定めるまでだ。
今のところ、彼に不信感を持つ理由は見当たらない。むしろ素直で
誠実な人間だと感じる。
そして、彼のいう﹃北の民謡﹄のメロディは美しく、リズムは軽
やかで、とても魅力的な音楽だ。そんな音楽を生んだ北の地が、危
チンチャイ・スーユ
険な地域だとはとても思えなかった。
昔、友が語っていた北の邦のイメージ、そのままだ。
心地よい音楽に身を任せて踊るうちに、コイリュルの心は弾んで
きた。クッシリュは決して嘘を吐いていなかった。北は素晴らしい
ところなのだ。きっと、ワスカルやラグア夫人が何か勘違いをして
いるだけなのだ。後でラグア夫人に尋ねられたら正直に答えよう。
北の使者は悪い人間では決してないと。
音楽が止んだ。コイリュルは動きを止めてもなお、頬を上気させ
息を弾ませていた。意識せずに目前の男に満面の笑みを向けていた。
彼がどんな表情でコイリュルを見ていたのかは知らないが、そんな
ことは気にならなかった。
やがて次の曲が始まったが、握っている男の手は動き出す気配が
ない。ステップを踏み出そうとしたコイリュルは拍子抜けした。男
164
がどうして動けなくなったのか、見えないコイリュルには見当が付
かない。少し不安が込み上げてきたとき、男がコイリュルに語りか
けた。
クスコ
﹁私は幼い頃、都に住んでいたんですよ﹂
﹁え?﹂
男が唐突に昔話を始めた意図は分からない。けれど、彼の生まれ
故郷は北ではなくクスコだと聞いて驚いた。
流れる音楽を無視して、男は突っ立ったまま話を続けた。
﹁幼い頃、私はとてもやんちゃで、仲間と一緒に、日が昇ってから
たてがみ
暮れるまで、街中を走り回っていました。好奇心が強くて、いたず
らや冒険が大好きだった。
あるとき、街はずれの屋敷に黄金の鬣をしたプーマのような化け
物がいるという噂を聞いた。仲間のあいだで、それを確かめに行く
勇気のある者は誰かという話になった。負けん気の強かった私は、
真っ先に名乗り出た。そして屋敷の塀の上に枝を伸ばす大きな木に
よじ登って、中の様子を覗いたんです。
実際には化け物もプーマも居なかった。代わりに見つけたのは、
一筋の黄金の毛を持つ﹃鼠﹄だった﹂
ふたりの周囲から一切の音が消えた。
コイリュルは思わず目を開いていた。そこには、さっき遠目に見
た、僅かに少年の面影を残しながらも精悍さを備えた青年の顔があ
った。
その面立ちに、コイリュルは確かに見覚えがあった。
﹁その﹃鼠﹄の瞳は、夜明けの空のような不思議な色だった﹂
165
166
2、 運命の出会い ︵4︶
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
どこかで虫の羽音がしたと思い、コイリュルはさして気にも留め
なかった。しかし羽音はだんだんと近づいてきて、コイリュルの背
後で大きな音を立てた。
﹁⋮⋮クーイ!﹂
飛び上がって振り返ると、そこにはパパリャが立っていた。
﹁嫌だな、どうしたっていうんだい。あたしを不審者のような目で
見て。まあ、この屋敷に勝手に潜り込んでいるんだから、確かに不
審者だけどね﹂
パパリャの冗談が終わらないうちに、コイリュルはパパリャに飛
びついた。
﹁え? ますますおかしなことをするよ。どうかしたのかい﹂
﹁ああ、パパリャ。私のこれまでの苦労は無駄ではなかったわ。私
はこの時のために、此処に来る運命だったのよ﹂
﹁この時って﹂
﹁運命の人に会ったの。昔私を救ってくれた人が、また私を救いに
167
来てくれたのよ﹂
﹁昔⋮⋮何時のことだい﹂
﹁伯母さまの屋敷に居たとき。パパリャの次に出来た友達よ。彼に
また出会ったの﹂
﹁それは本当かい? あの、いつの間にか居なくなってしなったと
いう友達に﹂
﹁そうよ。彼は北から戻ってきてくれたのよ﹂
それを聞いて、パパリャはそっとコイリュルの身体を自分から引
き離し、その目を覗き込んだ。パパリャの顔は険しかった。
﹁クイ⋮⋮。それって、北の使者が、その友達だったってことかい
?﹂
﹁その通りよ!﹂
パパリャの訝し気な表情にもコイリュルは全く気付かず、興奮気
味に返事をする。パパリャはそんなコイリュルの両腕を強めに掴ん
だ。
﹁ダメだ、クイ。それは罠だよ。クイの気持ちを惹きつけてクイを
利用しようとしているんだ﹂
コイリュルの満面の笑みが俄かに泣き顔に変わる。その表情の変
わりように、パパリャはコイリュルが少々正気を失っていると判断
した。
168
﹁何故? ひどいわ。ワスカルさまも、ラグア夫人も、パパリャま
で! なんでそんなに北の人を悪く言うの? 彼は何にも知らない
わ。私が此処に居ることなんて、知るわけがないじゃない! 私は
それでなくても、存在を隠していなくてはならないというのに。ど
うやったらクスコが敵だと思っている北の人間が、そんなことを知
ることができるというの!﹂
パパリャはコイリュルの剣幕に押し黙った。コイリュルが興奮し
ているのは確かだが、彼女の話は決して妄想ではない。よく考えれ
ば、北の人間があらゆることを画策しているという根拠の方が曖昧
なのだ。
パパリャは掴んでいた手を緩めてしばらく考えた。
﹁⋮⋮確かに。クイの言う通りかもしれない。北の使者がわざわざ
クイの居場所を探って近づき、あんたを利用しようと企むなんて、
とてもできることじゃない﹂
クイはぽろぽろと涙を零して、さらに訴えた。
﹁クッシリュだって驚いていたわ。最初は私だって気付かずにいた
のよ。私がサパ・インカの娘だと思って、挨拶のつもりで踊りに誘
ってくれたの。けれど一緒に踊っているうちに、かつらの中から一
筋金の髪がこぼれて、それで、もしやと思ったんですって。彼が私
と出会ったときのことを話し出したのを聞いて、私、思わず目を開
けて彼を見てしまったの。でもその時、この瞳を見て確信したんで
すって。罠に嵌めようとして、そんな演技が出来るはずないでしょ
う? それにクッシリュとの思い出は、パパリャにさえ話していな
いことだわ。私と彼だけが知っている秘密なの﹂
169
必死に訴えるコイリュルに、パパリャは済まなそうな表情を浮か
べた。
﹁⋮⋮ごめんよ、クイ。あたしは、前にクイからその友達の話を聞
いたときも、確か気を付けろと言ったよね。あたしはきっと、あん
たたちがうらやましいのさ。もしかしたらそのクッシリュとやらに、
大切な友達を奪われるんじゃないかって警戒しているのかもしれな
い﹂
﹁まあ、パパリャ。そんなことを気にしていたの﹂
コイリュルは潤んだ瞳のまま、今度はころころと笑い出した。
﹁クッシリュのことは信じるよ。ただね、クイ。都と北の関係が良
くないことだけは確かなことだ。だからいくらこの屋敷の中に居る
とはいえ、クッシリュと簡単に会ってはいけないよ。罠じゃなくて
も、罠にされてしまうこともある﹂
﹁そんなに⋮⋮。そんなに事は深刻なの?﹂
﹁この際、誤魔化したって仕方ない。いまのところ、サパ・インカ
に、北の使者団を歓迎する意図はない。使者団の出方次第なんだ。
その﹃クッシリュ﹄のことをサパ・インカが気に入れば、事態は好
転するかもしれない。つまり﹃クッシリュ﹄の行動ひとつで運命は
決まるんだ﹂
﹁それを、事前にラグア夫人が見定めようとしているのね﹂
﹁そういうことだ﹂
170
コイリュルの顔に再び翳が差し、項垂れた彼女はじっと床を見つ
めていた。
さっきから、自分の言葉がコイリュルの心を何度もかき乱してし
まったことをパパリャは後悔した。せめて彼女の心に希望の灯をと
もす方法はないだろうか。思いを巡らせて、はっとひらめいたパパ
リャは、項垂れるコイリュルに優しく呼びかけた。
﹁でもクイ。せっかく友達に会えたんだ。あたしも何とかあんたた
ちの時間を作ってやりたい。良かったら、あたしの使っている地下
水道を教えるよ。その道を通れば、誰にも知られずに館の外へ出る
ことが出来る。今夜、月が中空に掛かる頃に、この部屋の窓の外で
待っていてくれればいい。このことを、クッシリュに伝えることは
できるかい?﹂
パパリャの方へ向けたコイリュルの顔に、再び笑みが戻っていた。
﹁ええ、今夜も宴が催される予定よ。そのとき彼はまた、私を踊り
に誘うって約束してくれたわ。そのときに伝えることはできるわ﹂
﹁分かった。宴が解散したら、ふたりで待っていておくれ。あたし
が案内するから﹂
コイリュルはもう泣いたり笑ったりしなかった。黙ってパパリャ
の肩に手を回し、強く強く抱き締めた。それがコイリュルの最大の
感謝の表わし方だと察したパパリャは、どんなに危険を冒そうとも
誰を敵に回そうとも、ふたりの時間を作ってやらねばと決意を新た
にした。
171
2、 運命の出会い ︵5︶
満月は昼のように辺りを明るく照らしていた。
たいまつ
夕刻から始まった宴だが、さすがに連日となると昨日のような盛
り上がりにはならなかった。中庭が松明で明るく照らされているう
ちは、月の光など誰も気に留めなかったが、場が片づけられ、松明
が全て消されたあとは、広々とした芝の庭とその向こうに広がる山
並みを、夜とは思えないほど月がはっきりと映し出していた。
一旦部屋に戻っていたコイリュルは、ふたたび宴会場となってい
た庭に戻って、庭の隅に立っている大木に走り寄った。幹の蔭から
彼女の伸ばした手を取って大きな影が動く。コイリュルはせわしな
く辺りを見回してから、影を伴って素早く傍の茂みの中に消えた。
コイリュルの部屋の窓の下で、パパリャは膝を抱えて座っていた。
こんな夜更けに誰が来るわけでもなかろうが、辺りに張り詰めた静
寂が少しの物音でも許さないと言っているようで、身動きするのを
躊躇わせるのだ。だからこそ、前の茂みががさがさと小さな音を立
てただけで、パパリャには大嵐で大木が揺すられているような大音
量に思え、縮み上がった。
しかし、現れた少女とその連れ合いの姿に、パパリャは一気に身
体の緊張を解いた。
﹁はあ、驚いたよ。息が止まるかと思った﹂
﹁ごめんなさい。遅くなってしまったわ﹂
172
﹁いや、遅くはないよ。あたしのほうこそ、しっかりしなくちゃ。
あんたたちを案内してやるって言ったくせに、こんなにビクビクし
ていちゃ、務まらないよ﹂
自分を奮い立たせるように両頬を軽くぱんぱんと叩くと、パパリ
ャは立ち上がり、コイリュルの連れに話し掛けた。
﹁はじめまして、クッシリュ⋮⋮と話したいところだけど、挨拶は
後だ。急ごう。それと﹂
・・
今度は二人の背中に手をやって引き寄せると、小さな声で強く諭
した。
﹁いいかい。地下水路の中では決して話をしないこと。足音くらい
くら
なら水音に紛れて分からないだろうが、話し声は地上に響く。まし
てや皆が寝静まったこの時間なら、なおさらだ。それと、水路は昏
い。手を繋いで転ばないように慎重に行くからね。つまり、往きと
還りに時間が掛かるってことだ。それを忘れないでおくれ。あたし
はあんたたちを案内したら都に戻るから。ふたりでしっかり道を覚
えておいておくれよ﹂
パパリャの約束に二人が大きく頷いた。
パパリャがコイリュルの手を引き、コイリュルがクッシリュの手
を引いて、三人はコイリュルの部屋の先にある緩やかな崖を下って
いった。崖の途中に、人ひとりがようやく通り抜けられるような細
い裂け目があった。パパリャは身体をくねらせて器用にその裂け目
の中へ潜り込んだ。コイリュルもクッシリュも何とかそれに続く。
裂け目の中に入ると、途端に激しい水音が響いてきた。人工的に造
られた地下を流れる河である。しかしその姿は闇に紛れて見えない。
暗闇の中に響く轟音は不気味で、コイリュルは、パパリャの手とク
173
ッシリュの手を同時に強く握りしめた。
パパリャに従って歩き出すと、意外にもそこは歩きやすい平坦な
通路になっていた。目が慣れてくると、上部に設けられている明り
取りの窓から月の光が差し込んで、辺りの様子をうっすらと照らし
出しているのが分かった。三人が歩いているのは、勢いよく流れる
河に沿うように綺麗に敷かれた石畳だ。しかし数十歩先は相変わら
ず闇の中だった。
どれほど歩き続けただろうか。話すこともできず先の様子も分か
らず、手の温度だけでお互いの存在を確認しながら歩き続けるとい
うのは、それが例え、ほんの僅かな時間だったとしても、果てしな
い時間が経ったように感じるものだ。
ようやく行く手に明かりが見えたとき、コイリュルは悪夢から目
覚めたような気がした。クッシリュを振り返ると、彼も眩しそうに
明かりの方を見つめていた。
地下水路は蛇行してその先へと流れていくが、パパリャは脇に逸
れて明かりの方へ向かった。出口までは少し急な上り坂だった。滑
らないように慎重に坂を上り、地下壕から這い出た先には、なだら
かな丘へと続く広い草原と、丁度丘の真上で煌々と辺りを照らす月
だけがあった。
﹁なんてこと!﹂
地下で口を噤んできたコイリュルは、その反動か、思わず大きな
声で叫んでいた。
﹁すごい!﹂
コイリュルにつられるように、クッシリュも叫んだ。驚くふたり
174
を振り返って、パパリャは嬉しそうに言った。
﹁ああ、良かった。連れてきた甲斐があるってもんだ。ここは都の
外れの丘さ。地下水路はあのまま都へと流れていく。でも、あんた
たちは都に行きたいわけじゃないしね﹂
﹁ありがとう! パパリャ!﹂
コイリュルはパパリャに飛びついた。パパリャはその身体をいつ
ものごとく、母親が子供をなだめるように優しくさすった。コイリ
ュルが身体を離すと、パパリャは改めてクッシリュに向き合った。
﹁はじめまして。あたしはクイの友達のパパリャだ。あんたのこと
はクイから聞いて前から知っていた。クイはずっとあんたに会いた
がっていた。こんな風に再会できて、あたしの方こそ嬉しいよ﹂
﹁はじめまして、パパリャ。幼い頃、クッシリュと呼ばれていまし
た。今はキリャコと申します。私も、あなたのことはクイから聞い
て知っていました。クイが屋敷の中で唯一、友達と呼べる人だと。
どんな人なのかずっと知りたかった。こうして会うことができて、
私も嬉しい﹂
﹁嫌だな。お互いを知っていながら、会うのにこんなに時間がかか
っちまうなんて。おかしな縁だ﹂
﹁本当に﹂
笑い出したふたりにつられてコイリュルも笑い出し、楽し気な声
が野原に響く。ここでは誰に遠慮もせず語り合うことが出来る喜び
を、三人は噛みしめていた。
175
﹁おっと。あまり、あんたたちの時間を邪魔するのは良くないね。
最後にひとつだけ。キリャコ、あんたにこれを託すよ。宮殿に行く
ときはこれを首に提げていくがいい。あたしの仲間があんたを悪い
ようにはしないから﹂
パパリャが手渡したのは、螺旋を描く小さな銀板がさがった首飾
りだった。螺旋はよく見れば、とぐろを巻きその上に頭を乗せて眠
る蛇を描いたものだった。
アマル
﹁蛇﹂
﹁﹃眠る蛇﹄⋮⋮。あたしの紋章さ。あたしはカニャーリの﹃眠る
蛇﹄。宮殿に仕える仲間たちに、そう言えば分かるはず。覚えてお
いておくれ﹂
不思議そうな目で見つめるクッシリュに、パパリャは笑顔で大き
く頷いた。クッシリュが首飾りを提げたのを見届けて、パパリャは
地下壕の入り口へと走って戻っていった。
パパリャの姿が消えるまで並んで見送っていたふたりは、どちら
からともなくお互いの手を絡めていた。
176
2、 運命の出会い ︵5︶︵後書き︶
※インカの地下水壕について。
物語の中では、都合よく出てきた秘密の抜け道のような使い方です
が、この地下水壕の存在は、未だ解明されない帝国末期のインカ人
たちの行動の謎を解くうえで、重要なカギとなるものです。
密林に秘密都市を築いたインカ人たちが、たびたび征服された地域
に現れたのは何故か。厳しいスペイン人たちの監視を逃れて、多く
のインカ人が秘密都市に逃げ延びることができたのはなぜか。
それは広大な範囲に通じる裏のインフラが存在したせいではないか
と。
征服後に俄かに整備したとは考えにくい。すると普段から使用して
いたもの⋮⋮水道ではないか。
しかしこの存在は未だに確認されていません。だからこそ、ミステ
リアスな存在として注目を浴びています。
クスコの上下水道は、第9代皇帝パチャクティが治めた頃に、すで
に整っていたと言われています。
その規模と完成度は、現在の都市にも劣らないほどだったそうです。
しかも電気もなく重機もないことを考えると、現代を超える技術で
しょう。
マチュピチュの王の間にあるトイレは、水洗トイレであったことが
分かっていますしね。
なので、16世紀の話でありながら、頭の中は、現在のニューヨー
クを舞台にしたスパイ映画みたいに、下水溝を使って敵から逃げる
177
ようなイメージで書いてみました。
違うのは、地上がやたらと騒々しかったり、臭くて汚いイメージじ
ゃないところでしょうか?︵笑︶
そう、インカの都市は、想像以上に超近代的、いや近未来的な都市
だったのです。
178
2、 運命の出会い ︵6︶
月に照らされて、丘一面を覆う背の低い草が光っている。風は時
折優しく吹いては凪ぐ。手を繋いで丘を上る間、ふたりは言葉を交
わすことをしなかった。気恥ずかしいのでも、緊張していたのでも
ない。ただ、再びこうして巡り合い、ふたりきりで過ごすことがで
きるなど、未だ信じることができないでいたのだ。
コイリュルは、握ったクッシリュの手の感触で、昔のことをあり
ありと思い起こしていた。あの日少年はいきなり彼女の手を掴んで
走り出した。クッシリュにとっては日常によくある何気ない行動だ
ったのかもしれないが、コイリュルにはまるで天地がひっくり返っ
たような衝撃だった。異性の子と、いやそうでなくても、物心付い
てからその時まで、少女クイが直に誰かの肌に触れることを知らな
かったからだ。伯母に叩かれたことなら何度もある。けれどそれは、
温もりを感じ取れるような温かな触れ合いではない。だから自分の
手を通して誰かの温もりが伝わってくるという感触に、彼女は衝撃
を覚えたのだ。
はじめは驚きと怖さが混じっていた。けれど、クッシリュにとっ
てそんなことは当たり前過ぎることだったのだろう。少年が無邪気
に手を添え、手を繋ぎ、ときに頭を撫でるのを、彼女は驚きながら
も心地よく感じるようになっていった。その後も彼女が温もりを伝
え合えた相手は、クッシリュとパパリャしかいなかった。
久しく会うことのなかった少年は、すっかり別の人になっていた。
あのときコイリュルの大きさとさほど変わらなかった掌は、彼女の
手をすっぽりと包み込むほどになっていて、骨ばって皮膚も硬かっ
179
た。とても柔らかさは感じられないが、温かさは変わらないどころ
か、遠い記憶のそれよりもずっと熱かった。
少し前に立ってコイリュルを誘うように丘を上るかつての少年の
肩先を見つめるうちに、知らずにコイリュルの目から涙が零れた。
彼が振り返らないうちに涙を拭い去ろうとすればするほど、ますま
す涙は溢れてきてコイリュルを困らせた。
丘の頂上までやってきて、クッシリュは手を離し、コイリュルに
向き合った。傾きかけた月を背にしてクッシリュの大きな黒い影が
コイリュルを包み込む。コイリュルはたくさん涙を拭った顔を見ら
れて恥ずかしくなり、俯いた。クッシリュは容赦なく、身を屈めて
その顔を覗き込んできた。
﹁私は⋮⋮。ぼくはあの時、宝物を発見したんだ。透明で太陽の光
に溶け込んでしまいそうな美しい女の子。誰にもその姿を知られて
いないのなら、ぼくだけの宝物だった。だから誇らしかった。君と
一緒にいることそのものが、優越感だった。だから誰にも知られた
くなかったし、独り占めしておきたかった。
けれど会っているうちに、君はそんなか弱い子では無いとわかっ
た。ぼくに容赦なく向かってくる喧嘩仲間みたいに強かった。すぐ
に砕けてしまう薄い氷のように弱いのか、どんな斧も歯が立たない
岩壁のように強いのか、君がいったいどんな子だったのか、ぼくに
は結局分からなかった。でも、ひとつ言えるのは、君のような人に
は、その後どこに行っても会えなかったということだ。
だからぼくは、ずっと忘れられなかった。いつも心の隅に君が居
た。もしもこうやって再会できなかったとしても、死ぬまであの時
の君が心の奥に居ただろう。ぼくにとって、君は何物にも代えられ
ない存在だった﹂
クッシリュはそう言ってコイリュルの頬に手を添えた。クッシリ
180
ュの影が動き、少し上げたコイリュルの顔に月の光が当たる。顔に
はり
塗っていた日よけ薬が涙でところどころ落ちて、彼女の白い肌を顕
わにしていた。潤んだ碧い瞳は輝く玻璃のようだった。クッシリュ
が最初に出会った少女が、時を超えてそのままそこに立っていた。
﹁⋮⋮私の方もそうよ。私を心から友達として認めてくれたのは、
クッシリュとパパリャしかいない。でも、パパリャにはあまりにも
助けてもらうことばかりで、対等では無かったわ。私にとってお姉
さんのような存在だったから。一緒に遊んでぶつかり合って、遠慮
のないことも言い合える存在はクッシリュしか居なかった。多分、
これからもずっとそうよ。私の周りには、私を利用しようとする人
たちしか居ない。クッシリュが唯一、私という人間を認めてくれた
人だった。
ねえ、まさか、クッシリュも私のことを利用するためにやってき
たのではないわよね。もしそうなら、私は唯一の心の拠り所を失く
してしまうの!﹂
もしも本当にその通りなら、聞いても誤魔化されるだけだろう。
それでもコイリュルはクッシリュに聞かずにはいられなかった。
クッシリュはコイリュルの追及にも動じず、頬に手を添えたまま
じっとコイリュルの瞳を覗き込んでいた。そのまま視線を外さずに、
クッシリュは答えた。
みょうだい
﹁私は、クイのお父上が疑念を抱いているアタワルパ様の名代だ。
立場はどう言い繕っても変わらない。だから、君が何を想像したと
しても、それを全く否定することは出来ない。私にその意思が無い
と言っても、私の意思とは違う方向に行く可能性もある。
ただ、ひとつ。私はクイのことを誰にも話したことはない。そし
て今宵、ここで再会したことを誰にも話すつもりはない。これだけ
は真実だ﹂
181
コイリュルは、ワスカルが本当の父では無いと、クッシリュに話
す必要を感じなかった。立場を考えてしまえば、どんなに信じたく
ても信じられなくなる。今、ここで、幼馴染が再び巡り合ったこと、
それだけが真実なのだ。
すが
コイリュルはクッシリュの首に手を回してしがみついた。幼い頃
は友達でありライバルだった。だから彼に縋ろうという気など抱か
なかった。けれどこうして成長し、彼の存在の大きさを目の当たり
にして、コイリュルは自然とクッシリュに縋りたいという気持ちが
湧いてきた。それに彼が幻ではないことを確かめたかったのだ。
コイリュルの身体を受け止めて、クッシリュも彼女を包み込む。
回した腕に徐々に力が籠っていく。手放してしまった秘密の宝物を
やっと取り戻し、二度と失くしたくないという気持ちの表れだった。
月明かりの下、ただじっと抱き合って二人は長い時を過ごした。
言葉を交わす時間も惜しかった。欲しかったのはお互いの温もりで
あり、もしも離れてしまったら手に入らないのもその温もりだった。
ここまでの時間もこれからの時間も、二人には必要は無かった。た
だ触れ合える位置にいるこの瞬間だけが必要だった。
月は丘の向こうに傾こうとしている。空は微かに色を付けてきた
ようだ。これ以上の時間が無いことをどちらからともなく悟り、名
残惜しそうに身体を離す。
クッシリュの腕にコイリュルのかつらが絡みつき、身体が離れた
瞬間にコイリュルの頭からそれを引き離してしまった。
クッシリュの目の前に、見たことのない金の髪の精霊が現れた。
クッシリュは手にしたかつらを一瞬見て、再びコイリュルの姿を眺
めた。
182
﹁⋮⋮⋮⋮知らなかった。もちろん、一筋の金の髪と君の話で想像
はしていた。けれど、これほどまでに美しいものだとは想像も付か
なかった。
あのとき幼いぼくは、とんでもない宝物を手にしていたんだ﹂
一旦離した身体を引き寄せ、クッシリュはコイリュルの柔らかい
金の髪を撫でた。そして互いの額を突き合わせ、どちらからともな
く唇を重ねた。
手を繋ぐことしか知らなかった幼い友達はもうそこには居ない。
初めてこの丘で出会い、恋に落ちたふたりが居るだけだった。
183
3、 謁見 ︵1︶
3、謁見
クッシリュ⋮⋮キリャコたち、北の使者が滞在するようになって、
ラグア家では連日宴が開かれていた。
同じことの繰り返しに、どれくらいの日時が過ぎたかも分からな
くなっていたが、おそらく一週間は経ったであろうか。さすがに屋
敷の者たちの表情にも疲れが滲み出ているのが分かる。それでも何
かに突き動かされるように、毎晩贅沢な食事を供し、派手な音楽を
奏で、踊りに興じる姿は、滑稽ですらある。
使者たちも徐々に違和感を感じ始め、あるとき使者団の代表であ
るキリャコに詰め寄った。
﹁キリャコどの。我々は本当に歓迎されているのであろうか。サパ・
インカは謁見してくださる意思がおありなのだろうか。こんな扱い
を、いつまで甘んじて受け入れていればよいのか﹂
キリャコもそれは疑問に感じていたところではあるが、代表とし
て仲間の不安を煽るようなことを口にするわけにはいかなかった。
﹁サパ・インカご自身がアタワルパ様をお呼びになったのだ。我ら
はその代理。謁見を拒まれる謂われはない。陛下はご多忙なのだ。
なかなかお身体が空かないのであろう。その分、こうしてお気遣い
くださっている。ありがたいことと思って、待とうではないか﹂
184
キリャコは自分でそう話しながら、自身の中の不安も慰めていた。
しかし何よりも、コイリュルとの逢瀬の機会を一日でも多く持ちた
いというのが本音だ。同時にその気持ちは仲間への裏切りでもある
と、罪悪感も抱いていた。
仲間は純粋にキリャコを信じた。
﹁確かに。我々が焦ったところで、悪い方にしかいきませんな。こ
れもアタワルパ閣下のため。耐えることも軍人には重要な務めです
な﹂
キリャコの言葉を後押しするように、最初に問い掛けた者とは別
の仲間がそう言うと、その場の全員が大きく頷いた。キリャコだけ
が、頷かずに鋭い視線を天井に向けた。
ちょうど同じ頃、コイリュルはラグア夫人に呼び出されて夫人の
部屋にいた。
﹁姫君を連日の宴会に駆り出してしまい、申し訳ありませぬ。しか
も、その容姿を隠しながらご臨席なさるのは、さぞ難儀であったで
しょうな。しかし、これだけ時間を設ければ何か感ずるところもお
ありではないかと。
さて、姫からご覧になった北の者たちの印象は、どうでありまし
ょうや﹂
コイリュルはクッシリュを擁護する機会を与えられて心が弾んだ。
サパ・インカの娘として率直に感じたことを話せば、ワスカルの頑
な心を解くことができるかもしれない。自分の目は何ら政治的意図
を持つものではないと、ワスカルもラグア夫人も承知の上だ。だか
らこそクッシリュや北の者たちの誤解を解くことができる。
185
﹁はい。この目で直接彼らの姿を見ることは叶いませんでしたが、
だからこそ彼らの振る舞いや言葉から、彼らの人となりを感じ取る
ことができました。彼らはとても純粋で人間味のある人たちです﹂
﹁はて。﹃彼ら﹄とは妙なおっしゃりよう⋮⋮。姫君はいつも同じ
方と踊っていらっしゃったはず⋮⋮﹂
﹁これは、私の言葉が足りませんでした。私を踊りに誘ってくださ
ったあの方が、北のことについて、あれこれと教えてくださったの
です。北はとても風光明媚な土地で、人々の心も温かいと。そう話
してくださったあの方も、踊りの間、私の身体を気遣ってください
ました。彼は、ラグア様が北の民謡で歓迎してくださったことに感
動しておりました。ラグア様は客人を温かく迎えてくださるお優し
い方だと。こんな素晴らしい歓待を受けて感謝に耐えないと﹂
﹁それはそれは⋮⋮。随分と高く買っていただいたこと。客人をも
てなすのは、クスコの貴族として最低限の礼儀です。それを知らな
いとは。果たして彼は本当に皇族の名代として相応しい者なのかの
う⋮⋮﹂
コイリュルの言葉が、かえってラグア夫人の疑惑を煽ることにな
り、コイリュルは焦った。まさかそのような解釈をされるとは思い
もしなかった。コイリュルは慌てて弁解をするように言葉を継いだ。
﹁そんなことはありません。彼は、ラグア様が北のことを理解され
ていることに感激していたのです。北のことをよくご存じのラグア
様なればこそ、親しみを感じると。いくらもてなしをしようとして
も、彼らの喜ぶことを知っているかどうかでは、大きく違うのでは
ないですか? ラグア様のお心遣いを感じ取って、彼は感謝の気持
186
ちを抱いたのだと思います﹂
北の使者への誤解を解く絶好の機会だというのに逆効果になって
はいけないと、コイリュルはまくし立てた。焦りから、コイリュル
は自分の言葉に随分と力が籠っていることに気付かなかった。これ
までラグアの夫人の前では常に平静を保っていたコイリュルが、感
情を顕わにして語る姿が、夫人の疑念をますます強めることになろ
うとは、コイリュルには思いもよらなかった。
ひと通りコイリュルの話を聞いたあと、夫人は椅子の背もたれに
大きく寄りかかり、微かな微笑みを浮かべてコイリュルを眺めてい
た。
コイリュルは、必死の弁解が伝わったかどうか気になり、ラグア
夫人の顔を険しい表情で見つめていた。
﹁⋮⋮姫君がそのように必死になるとは、﹃北の者﹄は随分と姫君
のお心を動かしたようですな。そういえばあの﹃北の者﹄は、宴が
始まると真っ先に姫君を踊りに誘っておりましたなぁ。こちらも微
笑ましくなるくらい、一途で⋮⋮。若いとは良いものだと思ってお
りましたが。なるほど、あの熱心さに心を動かされない女性はおり
ますまい。気高い姫君の心を動かすほどの者であれば、彼は悪い人
間では無いのでしょう。心に留め置いておきまする﹂
コイリュルの額から、みるみる汗が滲み出てきた。コイリュルの
弁解は、まったく思いもしなかった方向へと伝わってしまった。さ
らにふたりの秘めた想いまで暴かれてしまうとは。
﹁そんなことはありません! 私たちはたまたま、一緒に踊ってい
ただけ⋮⋮⋮⋮﹂
﹁何も隠すことはありますまい。一緒に踊っていても飽きない相手、
187
それだけでも十分親しいといえるのではありませぬか﹂
ラグア夫人は笑いながらそう言った。夫人にとっては、まだ若い
ふたりが意気投合し、無邪気に踊りを愉しむことも悪くないという
程度であろうが、コイリュルにとっては、決して知られてはいけな
い秘め事を白日のもとに晒されてしまったようなものだ。
実際クッシリュとは、満月の丘の逢瀬以来、男女の関係を続けて
いる。もうふたりは幼い友達ではなく、真剣に結婚を考え始めた恋
人同士なのだ。だからこそ、二人が少しでも近い関係にあることを
他の誰にも知られてはならなかったのだ。
それ以上コイリュルは何も言えなかった。いや、何かをこれ以上
口にすれば、もっと酷いことになるだろう。怒りと気恥ずかしさに
顔を真っ赤にして俯いた。
﹁よろしいのですよ。姫君はまだお若い。殿方に憧れる気持ちを持
つことを、誰が咎めることができましょうや。姫が見込んだあの青
年を、サパ・インカも悪いようにはなさりますまい﹂
ラグア夫人は、コイリュルが北の使者の代表に憧れていると告げ
るつもりなのだろうか。せめてそれだけは制止しなければならない。
﹁どうか、お父様にはそのような出まかせはおっしゃらないで! 私たちはそのような関係ではありません。あの方が良い方だと思っ
たのは事実ですが、それ以上の気持ちはありませんから﹂
嘘を吐いた。実際には全くその逆だが、彼を守るためには嘘を吐
かねばならなかった。そしてそれが嘘だと気付かれてはならない。
クッシリュを守るために、コイリュルは心の底からクッシリュへの
想いを否定しているつもりになった。
188
﹁⋮⋮わたくしは、そんな軽々しいことをサパ・インカに申し上げ
るつもりはありません。しかし、すでにあの宴には宮殿の遣いが数
名、北の使者の様子を探るために紛れておりましたから、彼らから
どう見えたのか、そこまではわたくしには分かりかねますわ﹂
何という事だろうか。コイリュルは自分の浅はかなふるまいを激
しく後悔した。
﹁どうしたの﹂
もうすでに三日月は西へと沈みかけ、辺りが暗闇と静寂に包まれ
ていた。やわらかい草の上に横たわるコイリュルを庇うようにクッ
シリュは彼女の上に覆いかぶさっていた。クッシリュの背中に回し
たコイリュルの腕が小刻みに震えていることに気付き、クッシリュ
はコイリュルの顔を上から覗き込んで聞いた。見つめるクッシリュ
の前で、コイリュルの瞳からみるみる涙が溢れ出てきた。
﹁私⋮⋮愚かだったわ。あなたを追い詰めることをしてしまった⋮
⋮﹂
そしてぽつりぽつりと、昼間のラグア夫人とのやり取りを話した。
﹁ごめんなさい。私、ただ、あなたといることが幸せで、うれしく
て、こんなことになるとは思いもしなかったの。こうして二人で会
うところを見られさえしなければ大丈夫だと⋮⋮。私の態度が、あ
なたを想っていることを周りに知らしめてしまうなんて、思いもし
なかったから⋮⋮﹂
189
そうしてコイリュルはしゃくりあげた。クッシリュはそんな彼女
を頭を抱え込んで、湿った頬に自分の頬を擦り合わせた。
﹁大丈夫。単なる憶測に過ぎない。それに、奥方様は、君が見込ん
だ者なら、サパ・インカも悪いようにはなさらないとおっしゃった
のだろう? それは私にとっても願ったりだ。警戒されるよりよほ
どいい﹂
﹁本当にそう思うの?﹂
﹁ああ、本当だ。君に感謝しなくてはいけない。これで我々も務め
を果たすことができる﹂
﹁クッシリュ⋮⋮。私は本当は、サパ・インカ・ワスカルの娘では
ないの。私は、ニナン・クヨチの娘。ワスカルは私を利用しようと
している⋮⋮﹂
﹁⋮⋮それなら、尚更。君が何を思おうと何をしようと、自由なは
ずじゃないか。君を縛るものは何もない﹂
﹁クッシリュ!﹂
コイリュルがその身体に縋りつくと、クッシリュはさらに強くコ
イリュルを抱きしめた。三日月はすっかり丘の向こうへ姿を消し、
無数の星が二人の上に降ってきた。二人にとって、これが最後の夜
になるかもしれないと思うと、何度溶け合っても満ち足りることは
ない。空が色を増してくるまで、ふたりは愛し合った。
薄らと空が色づいてきたのを感じ取って、身を起こしたクッシリ
190
ュは言った。
﹁結婚しよう、クイ⋮⋮いや、コイリュル。私はこの役目を終えた
ら、君を北へ連れていく。私が宮殿に呼ばれたら、私の帰りを、街
道の外れで待っていてくれないか。むかし、君と武術の稽古をした
あの場所だ。あの小屋で落ち合おう。そしてふたりで北へ行って暮
らそう﹂
﹁⋮⋮ほん、とう?﹂
﹁本気さ﹂
﹁約束よ﹂
﹁約束する﹂
﹁私、待っているわ。あなたが戻ってくるまで、毎日、あの丘に行
くわ。あなたも、私が居なかったら待っていて。必ず行くから﹂
﹁ああ、いつまでも待っているよ。君に逢えるまで﹂
二人が固く抱き合ったとき、空の色は一気に色づいてきた。その
まま固く手を繋ぎ、ふたりは地下水路の入口へと走っていった。
191
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n2494bw/
金の星 ∼インカ終焉の女神∼ (第一部) 2016年9月2日20時47分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
192
Fly UP