...

本稿はさきに本誌に掲載した 「幕末明治初年の平絹生産の構造」 と [川俣

by user

on
Category: Documents
2

views

Report

Comments

Transcript

本稿はさきに本誌に掲載した 「幕末明治初年の平絹生産の構造」 と [川俣
川
之
助
俣地方羽二重機業の登達
司
’
吉
ことにする。本稿では第三章以下が取扱われるが、便宜上第三童を第︼章︵以下同じ︶として述べることとした。
第三節 工場制への第二次推転
第二節 工場制への第一次推転
川俣地方羽二重機業の発達目次
第一節 生糸、蚕種、織物生産の地域的分布
第一童 幕末明治初年の李絹生産︵東北経済第七号︶
第四童 第二次大戦下における羽二重業
第四節 家内工業の消滅過程
第一節大戦と羽二重業
第五節 羽二重生産の構造と労働者の状態
輸出向絹織物生産の開始
第二節 絹織物農村工業の経営組織
日清戦後における羽二重、李絹
第五章 戦後経営の実際
第二節同業組合組織の変化
第ご章 福島県下羽二重、単組生産の推移︵労働経済第四号︶
手織より力織への転換
第一節 機業再開事憐
﹃第二節 川俣地方機業の諸問題
六三
のである。右二稿と本稿とを合せて幕末より戦後までの一応の発達の状態を述べることができたので、ここに︼括して目次を童別に掲げておく
本稿はさきに本誌k掲載した﹁幕末明治初年の李絹生産の構造﹂と﹁川俣羽二重機業の発達﹂ ︵福島労働経済︶ ︵一部改訂︶の続稿をなすも
庄
絹織物業における工場工業
家内工業より工場制工業への推鞍
羽二重生産の構造的特質︵以下本号︶
川俣地方の羽二重工場
第三第第窮策第
一章五四三二一
節 節節節節節
−川俣地方羽二重機業の発達t
第
1川俣地方羽二重機業の発達−
第一章
羽二重生産の構造
第一節家内工業より工場制工業への推転
六四
川俣地方の工場制工業への推転は明治三十五年頃以降力織機の導入によって行われた.、ところで工場制への転換は一挙に
して行われたのでなく、従前の経営の内部構造の如何によって急速に又は徐々に進行したものである。それと共に立地条件
等もその逞速を条件づけていた。いま、手織機から力織機へ、すなわち動力化の点からみても、そのような差異が川俣地方
の各町村に現われている。各町村共一斉に行われることなしに、平絹や、羽二重等の生産及び市場の発達したところがらそ
の端緒をみるのである。すなわち、明治四+年四月の川俣電気株式会社の創設︵その創設者は絹物生産の問屋等を経営する
、
商業資本家︶によって川俣町の工場化が行われた。次で飯野町がほぼ時期を同じくして工場化へ、更におくれて大久保村の
明治末期より大正初期の工場化、次で青木村、立子山等の周辺農村の工場創設という序列をみるのである。
こういう形で家内工業として発達した羽二重機業は、手織機から力織機へ転換してゆき、家内工業をすて去るのである。
その過程はほぼ明治三十年から昭和十三年の間に行われ、二十五、六年間に家内工業に終焉を告げるのである℃しかし、全
く手織機や家内工業の形態から脱皮するのではない。家内工業はなお各町村の農村内部に存続するのであ一る。
それでは、どのようにして家内工業から工場制工業に転換していったろうか、以下実証してみる。ここでは右のような見
方から明治後期から、ほぼ昭和十三年までの間を対象とするが、統計や資料の関係から、一先づ明治四十四年!大正九年の
間をみよう。先づ、当時の織業戸数として取りあげられたとろの職工+人以上の工場と、十人以下の工場たる家内工業及び
織元、賃織業等の四つの群の合計は明治四十四年には伊達郡全体︵以下郡を中心とするが川俣地方が主なる生産地なので異
論ないと思う︶で二千五百五十一戸存在した。しかし大正九年には九百五十一戸に減少するので蹴る。この減少は先づ家内
工業と賃織業者が十ケ年間に牟分に減少したことである。一方工場と織元とは漸増の傾向を示している。この減少と漸増の
傾向は、家内工業と賃織者が漸次工場制工場へ吸収、没落していく状態を示すものであろう。すなわち、工場は明治四十四
年に+六工場場であったのが、大正八年に四+二工場へ増大している。︵九年には十八に減じたが、これは工場制工場相互
の分散集中ないしは織元へ転落か︶次に家内工業は前に示したように約牛減、織元は六十戸が増減に起伏あるが八十一戸に
増加している。賃職業も半減という状態で、工場と織元の優勢、家内工業と賃織業の劣勢、’添う関係がみられよう。このこ
とは、工場制工業への転換が織元と競合関係にあるが、発展の法則は漸次とられていることをみるに充分であると思う。こ
のことは又所有機台において明瞭に現われている。同じく明治四十四年から大、止九年の間における力織機数と手織機数とを
比較してみる。手織機については、明治四十四年合計三千三百台が大正九年に九百五十台に大減少を示し、家内工業、賃織
粟の二者共約半数以下に減じ、織元のみ大きな変化はない。一方力織機については、明治四十五年合計の干五百台が大正九
年に二千四百台となり、約百台以上の増加である。しかも工場の増加数は顯著で、十年間に約千台以上の増加である。この
ように手織機の減少と力織機の増加とが明であるが、ここで注意さるべきは、家内工業が戸数と手織機数において減少して
いるにかかわらす、力織機において増加していることである。このことは、工場制へ転換されたとはいえ、まだ家内工業が
手織機をすてて、力織機に切りかえている状態で、工場の発達と家内工業が併行している事実を示すのである。このような
傾向は職工数においてもみられる。工場は明治四十四年五百三十五人であったのが、大正八年に千人に倍加し、家内工業は
同じく三千五百人が二千三百入に減少しているが、なお十人以下の家内工業が力織機を採用し、職工を減少しつつその経営
を維持している状態をみせている。織元や賃織業者が更に農村内部に多く残存していることによってみても、如何に一挙に﹂
して工場への転換が行われないかが判ろう。しかも後にふれるように工場でさえも大工場制でなく小規模制である。
−川俣地方羽二重機業の発達− 六五
曲−−−嬉
藩
d 憲 90
㎝qo
①㊤
刈①
8に■
一驚 鷺:一
暴
− 蛤①
一
Lω、旦
L言。。⋮
1ご﹄認
1遷
マ酬瞬細■劃副一締劃鑑、劇
9ミ翌
♪①8一
⋮
一
99㎝■ご08
♪08一ご㎝8
一
﹃Oω一﹃﹂轟O、
相年且 ﹃一α恥一
一
一
&刈O︸轟轟悼■
nω68
﹄噂■年”㎝昌昌
一
一ω㍉ooトコ一
ーゴOω㊤
一。D=”㎝8一
一 一
一
1一ωb9
ー」 垂P
噂 oDn⊃ω
一
一
悼 。。お一
ゴ㊤ Σ
一
一
昌O㎝碁︸OωO
L卜。鳶α﹄
一
←一ぎoD9一
一ω﹂ωα
一 一
にω︸脇ω
一
H黙’
胡9ざく
Nご08
8♪O賃 上ゴ“ω昌
9♪OOO−一ゴ&㎝
一 一
澹Σロ
i oo全
則鼬e
口≒[‘1
1面鋳
9ω躍
oo︸ミ恒
9一
ゴooδ
㎝も2
9。。食
ρ03一
﹁
一
♪出車一
一
ωる煽oo
ω、8己
ω6000
G O
踏跡緊
ネ9
遜叶送
#ωh2﹄co一噂刈㊤
#輿①co一団#ω一
=
癖一〇鼻一ω一〇c;
.二〇 ご悼ωω一い
悼①㊤ごω轟O一
二
一
一嵩OゴOOO一㎝㌔お
一 =
零㎝ゴQoOO一一 9δ。一
⋮ 一一
曽ω一ゴ刈oo㊤一一
一 ]一
4ωO昌一〇①㊨
一一
ィω⋮
。舎、蓉一一
■
一 へ
ωqωゴOnご憩一
二
一
#㎝O㎝二﹂亀
ニ
阜oo#♪ω00ニ 96“一一
鴇﹂メω8⋮
一⋮
り
ゆ理
Σ 六
爵 六
↑1
=
憲1愚
誘望 活 ∼
ハ
躍
憲1!
−川俣地方羽二 重 機 業 の 発 達 −
藩 雑
H灘壌冴日舞一憲神一緯憲室
癖、園圃.[
一
心、㎝ω卜.㎜
♪δoo﹁
♪ωω鱒
ω”80
爬6望
ωるミ 鉾田O
曾誌㎝
一
4︸刈㎝㊤D⊃︸㎝α噂ごω刈﹃
ド1
1一∋①QDO■
一
蹄1
お1舗臥甥韻一場古ミーa⊥
一 一口ト
鎌㎜恥平か郵正望口 風3蒐福灘︺蝉知q藤ゆ奪
温諺ωO岳
斜O .、
全
轟no 一
#ω ■
鉾B■口.
ごω慈
p卜⊇ に㌧草刈α■ ω一ω
ゴOゴハ⊃る≦ユ お㊤一
㎜ 一
n己 肥二〇一 は一〇ωO
一 ㎜
ゴ80ドm鼻に■ごOO㎝
4量噂①隠 に︸OeDω O心“
一 一
4い㎝恥QD一ω﹂ω一一 QD鱒ω
一 一
一 一
、﹁QDω誼 ω一〇一憩ご腰ωO
己㌧O刈㊤爬一Dユ0ω4︸QD昏QD
㎝
︵解︶H蕪伸葺趨H一〇>蛇卜。雌雄謎C4藩Hδ>藩離。瞭師灘冴H器伴黒椀。
⋮ 一
一一
おIOD㎝①阜お結q。ooolltし
禽
)
oo
〇〇
oo
−・・「
ロ邸
ユ
ヨ
盾純
f、コ 一、
⑩ Pコ 一 一 ㎝轟轟#轟轟斜ω ω
章⋮
︾息音爵
9ざ33δ998匂8δ謡器8雪
一一■
』己一
へ「 。。
oo
憩
己瞳ヘコω4 ω ωω斜狛 一驚一…薄
一一
ヨQD
﹃8︸
①㊤㊨
刈Ooo
oo己oo
ゴ“云
ゴ8刈
園圃①
89雪8撃興紹[38 8お雪ωひ。 L
盞 藤 截取罵㍗講叫τ融鵠ゆ¢日H∼櫨こφQG回汽︷掛ぴO
憩
ω
δ認要盆衰899田9鳶8399
マ
〇D
oD
oo
i蛮
一
[
(」1 恥
O QD r O 慧
削
8①粘、8一
ω一9ゴ♪
一
ωωω㌧㎝㎝㊤一
ωωご8no
全ω︸ooooに
89望①
彰α圭
ふOく㌧㎝O阜一
ω㎝Oboo一一
心㊤ざ①Oq
一
田♪D3ωω一
一
斜ω9虫O一
、一
阜㊤ooもOO
㎝謡本㊤Q
﹁
8卜。も紹
午
自1
翻一
樽 ラララララ
叢﹁欝
日一
♪8ご癖田
一
♪おO閨誌
ω、﹃㎝㊤、。昏ω[
四亀㎝﹂亀一
ω、&㎝、。。。一[
轟、ω民㊤、ω㎝ヌ
一
ω︸睾N①誌一
§互
ω、⑩δ、ω﹂
一
舅9量
♪S9ωa
蟹午羅灘盤」麺晦辻…些執
@ ■一一 I II
一一一一 詰boo
ωナ8
一〇〇●謡
δ・コ
﹄ω■鐙O
ゴ面①
㊤■㊨㊨
一9お
PQo㌍
Qo甲ooo
﹄9&
“トO
ゴ品川
試飴㎝
おしoo
E
桜自
翻鎚融一盛謹蛸舞㍉彊
︵濁誘ooO∼冴尉O岳︶
gOoogO8
﹂O気①9ミO
①、おω、噂ωユ
δ幅9900玉
]
I
六七
︵酔︶H曲律舜蚕巳。>逗旨s魂鴬町﹁超昌δ>※簸。蝋衡脚醗H砦伴弔盤
i謬i蹄
薗聖乖・書賃首回 麟3蓼H騨瀬魅隔貯煕益
1ド
_i
卦
瞬!
一
l自,よ1
1 11
1 11
lq
㎝o①㎝斜#ω萄卜。はゴ 1:
一一︺
9鶏9
ざ80D一
ゴ89
9・。﹂⋮
g論一
ωおω.
㎝⋮
ωるO悼
一
器㊤。。.⋮
=
ω㌧oo翠
♪O会
9ωω刈一一
㎝・ω﹂
土お.
I
( i口
I 鐸
喜壽朧爵一。B■一蓋一盞一§一一輩_量一■一書一■童一一一§一
・娘G
一s謬−
臼韓一
`oD㊨
oo
49ミω
憲並馨壷理
δ
a一
三O
δO
詰碁
_OD_璽=;ω_ゆ一_
﹂田瞳噛膚醸一
一
軍。一ごミ
温鑑ω㊨岳
㎜
斜O 9① oo一〇Dゴ
⋮
全 ゴ㎝ω匙 メ800
一
春蘭 ごδα 9㎝鼻oo
﹄
斜 ω ゴoo土 9一お
轟轟 お8一♪§一
訓ざ置屋一8一蹄一8
1川俣地方羽=重機業の発達1
爬瞭_τと_DO_蛤_ゴ__
斜匂_Q一ω鼻一一ω一一.山一一ω_ω
H
︾臣8 禽 ゴooお に68
悼 ゴα8 鉾Oお
一
ω ゴ①窃 ごO望
阜 ゴω。oo ゴ9メ
一
α ゴ↓ooO ごoo己ω■
ハ8
一
0 ごおトコ ごδq
刈 トコ玉お 悼
_エ 一上 岳愚 菰融通護理贈臓卜。㊤園∼櫨こoo。回a爵餌0
co
瞭、§⑩、釜
O 一、塞卜。、ω。ゴ
Dコ
O9ご〇
一〇〇♪誘α
卜ooD㌍トコ其
ωいコ曾ω8
ωδ㍉oo⑩
Uul一」■Ul酷 ピ
…嬉 一一一1』唱11
ゴご ごN H蝿
頭 臨 88紹8お 葦■88 濫Σ 1!
轟σ1一し」σユ、コ σ1ω一一よ 帯一 1
一一■■■一 一一一一一一一一一 一■一 一一一一 一章 1
@ ラ ラ ポ
↓︸鵠㊨一一co#“
料るω刈﹂ooQD一
ω面O㌍①Oω ■
一一刈①㊨︸刈qω
噌一①4ω一沁に〇
鱒﹂O#︸#ωトコ
4︸Qo一く︸ω註㎝日
l H 』
自!ビー磁隷■謎副葬一i。ト1鱒
三諦舘一一全曲郵聾蓑
豊富
ル訓’
煙雲
栂自
一 慮φ喝
Φ■OO
ωb8 40■瞬匹
解合﹃
ω菊Oω
一 a甲oo真
948 ﹂㎝飴帰
9000﹃
9ω黛
ω菊9 一9↓悼
に98
憩Oα 一
譜昌諏、一
_1 _ωΩ堕9一ω、ω璽茸悼 ;豊§..堰」
コ鱒日 ooしO日
ゴおoD qo6㎝
叢﹄
立 一 1 お畠鵯雪雲 3呈望8 理 贈1 )
ω冨[
おω
ω累
叢 藍 曾♪2鯉:賞聖♪ ロト 盆
コ〉 踏 o
︵解︶H麟仁丹薄巳O>蛍卜O瞭酵蒸7藩巳。>藩蕊O瞭酵遡︸H濫伸弔馳。
ωb49ωh⊃O料
“OるトコO﹂噂① 一
ず 藤吏道廉ζ理1 玄六
ωい。刈〔D一ωoo■9■二■・一一一_ 息八
“ t川俣地方羽二重機業の発達−
お
応。己9暴卦
駐
ー旨 震返忠一品魁一雌脚i
§9畠0干
藩G l i
自 1 ・ コト コi .
栂 一一■ 一 一 !
臨 製
曾轟O
♪α④ω
財;一 己一馨10 ロ
δ9ω望
斜ω一σ,[’ごσ》 くDPご、コ#
噸
− ,i、Il劇−−網 3 霞 盤 面 鷺 蹄 咲 驚 勢 欝
薄
L[
壕、羅一理
噂㌧㎝㎝一
認ω ゴ巷ω
団噛距恥斜掛 一〇 トコ﹂2一 〇〇 ω一癖 一−−r油壷嵯曙旧曝露麹−r
﹁ 一
ω皿 ω。⋮。N。一 萄㎝・ 意一 認①
重 ㎝ 8一 ・刈8一 QD 癖ざト⊃ 8㊤
① ω曾 ﹃雪 密
婁
薄
おO ㊤望
.
o
己
#ハ
“辺
刈4
。
0 己刈㎝一 ゴ斜ω恥一
一D
。一㎜
。﹂
。 ご謂
。ふ一
刈㎜ ω㊤一 ゴO翼 oo O﹂OO一 ゴω①に
﹁!− !−一 一一 一一: !
曾︺憲艮、建薄儀時無聾
慈 H
結⑩■
一
ゴ08
トコー紹刈
貸コ、QD刈邸
ド㎝ミ
&。⋮
郭“
Oq
詰一一
おO
め”8刈
9毘㊨
㎝斜一
噂ω凹
蝉 副躍器臨時言一諮;!姦
■︾圖8禽一 噂0 ごOOω 卜eトコ
トコ一 ωO一 9蛮 ♂ oD一 ミO一
巨繍rl 薫書手ぞ一一π二「 欝
ω菊Ooo
誌O
おQD
ε㊤
﹃O
ゴ鼻■
噂一〇〇
①co
ωω
§一
圏
一H豊遡ΣH塵憲箆矯馨緯
FωOゆ一
ωびOoo
一
且、∞①轟
ご①。・。.
m麗
hコ㌧ω;
ィ。⋮
1 一 塒 1 薄
野 。。
臨
㎝ω㎝一
δ.∼
goo
餅・劃_9逮q堕』竃!藩i…曽
へ⊃ へ⊃
欝じ欝1無熱矯
ω噂ωN)ω にω鱒一
劃
莇恥乖識理鯉憎髄O園∼櫨.ωQD回汽欝崩O
ごno惹
ゴOoDO
↓oo①
㊤虫
①ゆ鱒
汗高齢禽
ぬ じ
一溜誘全書
ω⋮
①㎝︸
咽⋮
。一
塞磯 ハこ
oo
1,124
1・2251 261
2 160 781
781
9131 26i
1
田594301一麟引51一肝麟馴飢−72
11ーゴ
⑩1 3 1 1 U 1 0
95i 471
621 391
211 33!
15! 36、
1 181 32
儲き
一: 101 63
_ 11t餌i
備 考 福島県統計書第39回∼第56回に依る。
(註)大正15年以降に関しては力織機・手織機の区分がない。
1川俣地方羽二重機業の発達−
天 −−昭⋮−一I−一i−−ーー!一ーー−
次に大正十年から昭和十ゴ一年ぎでの十八ケ年間の推移を示し
てみる。統計の関係で次表の如く、前でみたような工場、家内
工業、賃織、織元等の四種の統計は出ていない。その代り力織
機と手織機別の機業場が出ている。これによると大正+年の全
機業場は千二百機業場存在したが、大正十三年に六百台に、又
同十四年には四百五十台に減少し、同十五年には百台、昭和二
−五年に百五十台に増加しただけで、同六年以降十一年までは
四・五十台にとどまじ、同十二年に至って八十台に上昇してい
るO乙のような機業場の減少傾向は、実は弱少家内工業や織元
賃織業者の吸収、渡落によるところの工場制への発展タ、示すも
のであるGすなわち、合計欄で判るように、大、止十年+台未満
が千二百戸であったが、昭和十三年には一ケ所となり、全く差し
の姿を消してくるのであるGと同時に、十台以上五十台未満が
大正十年二十六戸が、昭和十三年に六十四戸に増加し、更に五
十台以上が大正十年一ケ所が昭和十三年に七ヶ所に増加してい
ることによって明かである。
更にこうした工場への増大傾向を機台からみょう。総機台数
六九
の合計は大正十年に二千三百台が、翌年から減少しつづけて昭
田10一節復131415和創創剰6刻a創10廿一12恰,,
−a5一5劉1
ド
111一﹃二38.7
u
−26お2319劃一−
1 1
甥 1引
囎 開三 棍
一:−
重
103 55
1 1
668: 231
棚:231 2 .693
2 1お… 482
織以台満
礁未
1
76i 81
1 1
5971 19
5971 19 2 618
361
1認知1儲
論難貿麹酸
553
482
361
2♂301
1− 1
1,124
2 1401 553
機
力 1』281
嘉畢難計1
計
雛
合 計 i
織 機一:一手_織 〔大正10年∼昭和13年)
伊達郡輸出羽二重の規模別機業場数
t川俣地方羽二重機業の発達一 “ 七〇
和七年に遂に六百四十台になるのである。次で同八年より漸増して、同十三年には二千百台に上昇してくるこのような起伏
には経済的影響が問題となるが、それはともかく、工場制への推転はな蔚つづけられるのであるGすなわち、特徴的なこと
は、手織機の消滅傾向で、大正十年十台未満のもの千四百台存在したが、昭和十三年には全く姿を消してしまう。その代り
力織機において特に広幅機の増加となって現われてくるのである。広幅機にしても、十台未満を所有する工場は大正十年三
ごおω
ω④。一
ゴ一〇〇一
ω刈O一
鼻ωQ
ω畏
ω刈,]一
ごお己
ooδ一
一
㊨耐
ゴ03⋮
Bω一
ごω&
ωoD
ご⑩お
ご台碁
o㎝挫
盛鯉
誌⋮
鼠⋮
簗輸⋮一
窃 G
1確濫■
酷 裟
叢母蝉
己.蜜
ごω・。迅
ご篭
呈
一曲皿
§。・=
專一丁鼠塾即。。難暫。霊h理
ごおω一
一
ごOq一
nに一
緒O一
①o。①一
ω茜
一〇。一
一
ミ一
憶刈㊤
δ㎝
〇〇〇一
≦
⑦醤
塁
8ω一
①δ
。ω腫一
㎝
ゴoooooo一
。酷離
1鱒。§
bィ一 ω一
八ユ“oo8 ω
陀68 噌一
歯懸1
「雨孫
百七十台あったが昭和十三年には四台になり、手織機同様消滅の姿をみせるのである。そして十台以上五十台未満の圧倒的
ny
ゴO鶏
n館
㎝5⊃O
①co④‘
己oo
⋮
く国
QDO
怠O
oo己
﹃阜
斜oo
刈㎝
㎝ω
二
〇〇
。。一
詰
hコ
刈一
①①
ω㎝
鼻④
トコ.一。。詮
蓉
禽藩黌叢ま田B掛9︶憲あ尊爵鱗六皿爵H蝉 ︵︾田ざ禽∼器熱ヨω禽︶
藩一一一一
㎝㊤
︵一︶
﹃ 8訃報無
葉−,引明沁副a銀鼠創車回卜一
鼠d﹃ 唱 憲
驚 一 ゆ 理
藩 卜
コ 建
壮 一i憲一:
一 碑
ω己。。一
︵台y
は8一
こ。。噌一
①αω
ごδ㊤一
ご冨①
ごωO刈
ゴ08 塁
㎝ω
ゴ一
Qo
oo■
誌
n⊇
﹃一
一一
ω
ご﹃望⋮
一
誌面誌面oo刈。。o蒲賦に悼
還
B。。 血
ゴ刈至⋮ #一
。・。㎝ ゴ
一ヨω ω一
卜o
鴇一一
式且
ざ。。一
おO一
ω①轟
㎝ω
①〇一
刈ム“
㎝ω
一一
﹃噌ω
お㎝
〇ωω
一一
﹂
㎝Bコ
ラ ④8
ゴ8㊥
ω
口口口口UU U口11
皐誌露讃鎖副長
︵誕
︾田δ
ゴ ω墨
一穂
ω
窒
4
1一
詰㊤
①ωω
零O■
O刈q
ツ一
ご8切
〇NoD
〇弓一
㎝。舛
0㎝轟一
Oお
①紹
δ赴
cR
o。春刈一
云O■
斜
一謙目馴蹴」闘9
H
⋮一1﹂一
ゴさ 8.
ゴ睾“ お皿
①ooO 訪
&㎝ 己Ω
お2 煩
おoo δ⋮
80。 旦
ω刈q 刈一
虜刈一 ㎝一
①鴇 #⋮
衰ω 阜一
。。
# 80
δ
ハコO
甜 曽ハ
⊃ 卜3お■
ω 臨
心
α 。①皿
⑦
oD
㊨ 。。一
﹃
塾
。碁一
誼 O
ゴ
トコ。。⋮
ゴoooooo
鱒﹂oo斜
@㎜
n
丑①
咽心。
qo
盾盾
謂
。。
ごδ轟一
。。
oo
(己
bo
説緬逓誹,理珊櫨ωO回∼鵠㎝O国再毒ぴ。 ︵醒︶踏叶欝3壮憲藷諮・貰霞モ︵ ︶冴。贈聾舜挙最。郎薄酵蜘縛。
枯
お 戴
壽隷
lLu口H
㎝ω、
L
oD
伊攣輸出羽二重の銭轡、一罪響第
良コベ劃一擁1噺遇II筆.歪面格.
ロ し し ゴ ハ 備 考 福島県統計書第39回∼56回に依る。
増加を来たしたことである。大正
十年匹一一[百十二一 台が昭和十一、シ年に
千七百台撮薦形露価してい
る。更に五〇台以上についてはな
お起伏あるにしても楼台集中が激
しい。大正十年五十九台が翌年に
倍の百台に増加し、大正十四年に
百二十九台に漸増、昭和に入って
は初後年減し五+台になつ家
士年旨豆ハ+四台より翌+二
年に四百四十台に上昇してくるの
で勇・かくて、ここ苗奮し
得たことは、機台数.四ついては、
手織−機の消滅と広幅機の増大並に
十台以上の増加特に五十台以上の
工場の増大がみられることであ.
るc
七一
−川俣地方羽二 重 機 業 の 発 達 −
唱
i
ご①一㎝
ゴ§⋮
nハコ
.㎝卜﹂O
紹〇一
己oo
⋮憲
ゆ
ごOδ
ゴ8刈
ごDo8
些卜08
ご斜超
④OQo
㎝#に
一
ooO勾
ゴδ刈
Qo
㎝お
一
一
〇㎝一一
刈oo﹃一
認q
ごωδ
器
七二
=
8 ハ 。二
ω・
阜 旦
曾
ω]ω、“ω9
一
D 合 斜 一 コ㍉
一 斜
主
Uδ ゴトコ8
∞⋮
ご O 紹
一.
ごωωN 昌〇一
q
噌埜 騨
一
郭 鉾ミω一 ω一
−コ・・.①ユ
麗。∞、
f s一
s超
ィ
茎 H鷺
出 一 悪H
⋮
磁
蝉
よq
コ f冑一
ー 驚澹
ニ 難醸
︵︾創δ禽∼超朝ヨω盆︶
理
鑑
理−一。訃報離一膳。。瞬瓶動g叶眞h理
鶴
訟恥還謬珪治口瞬e藤功賢島q斉謬H糞
,⋮! 鵡
一 一 一
:−音 憲 賠
voD一
︵お9
奪
副耳♪
崎錦鱗膀難讐。霊k
∫
「
■一一t■1」1■一U一一一ll一一一ll一一_一U II I
ラ ラ コ ラ ラ ベ ラ ラ ド
ラ ラ コ ラ ラ ド ラ ラ ロ ラ ド
研 囁
︵馳、
函蓄一轟謡側副﹃
y︶
一 一
轟④O■
ご。。。に﹁
ごおO一
NOδ
①湿
ごωお
ごoo①O
一
ごお“
ご8①
8ゴ
ぎ。・⋮
4、。一。。⋮
ゴ麗
n・︸㎝一。−﹃
n。︸ω8⋮
籌講講講一醍墨譜亀
一︾墨。一
ゴ
斜9一
8メ
﹁
O≒
①OO
1齪■麗一置麗璽壷一一器器齪蘂
一一一
斜碧
ごOωoD
ご﹃oooD
ごoo虫
ゴ紹O
ご台4
ごωゴ
ゴおω一
ゴ奪ω
ゴ阜軍
ご㊤δ
ωboDh⊃
齧カ一苗一鶴一一一軸一一露艶器
羅亘
」霧講膳騰鹸
ωむ宅
越 o憂ρ_ひ。堕 oo一一一Q− o刈
卜・
ご蕊。
笠
霧一∫
B∼⋮己や踵メ一己ω⋮
B一ωこ一
塑塾皿
一﹁
≡﹂ ︸
鯉羅 路一㎜一融 面
一
ごO謡
ご命①
一
ごお㎝
ご台“一
玉露一
言一⑩
ま刈ω一一
ゴ。㌶一
ゴoo紹一
“己一一
Do
鱒O
ハ⊃nQ “ 一= 且 一己
1
㌧」ゴ_旦_u」⊥⊥L月」上u」L
︵醇︶離吟嬉。邑聾藤.研颪鶏冊︵︶冴3疑鵠専ラ最。郎簿嘩帥計
一
c一
w
一∞。一■
斗
B「
Dコ
八。
@。
C。
講
』よ 一上 一⊥ G1、コ QD、q
m.
一
(4
蕗』寵議臨壷朧
誌 一
お 一
1 淵
oo
上ω…δ繭。D。。畑贈ミ
oo
。−
∞。
X㎜一
試 ﹃
一﹃
謹i耐ゴδ。。。r①齢ω員
蘇 鼓即乖誹理増櫨ω⑩回∼櫨8回汽齋が位
■一一
a 一
1 . 器
! 3 1
184 782
161 553
158 482
一
1,429
966
714
640
513
一ト
−1 @ 482 603 32 5
一: 361− 475− 34 4
152 361一
1 23103 21
: : i I i
78− 107 21
i 103 58 2
: … 11d 64 2−
4
5 1
6 1
7 1
暑I l
t・嘉1麟l
l I3・1倉早 l
l 劃5111
25i 66 4
lo l
ll l
1 20 91 9
12 i
刊 92 8
13
ユ計一
115 1
L昭和 1
2 1
合 計一_一■一
1
−1 P,2611,刃6, 47 6
− 782 920− 41 5
@ 553 673 ・36 5
1681,261−
訂 −
11411141 34
露
112120 諮
1 13 12艦 32
一一﹂
以台満
春50
11 138 41
合−o上未
大正 1
10 1151 47
(大正10年∼昭和13年)
台満
10未
騨撫計i麟鞠皇
機評
手 愚
力 織 機
16 5 5 5 4
1川俣地方羽二重機業の発達−
福島県輸出羽二重の機業場数
128
k
1871
163
176
134
85
82
81
89
72
95
120
111
備考 福島県統計書第39回∼56回に依に依る。
(註)大正15年以降に関しては力織機・手織機の区分がない。
福島県輸出羽二重σ)生産額
一
…大正1。1謝,771i−1
111306,5831 −i
榔欝霧 二t
I14潔3・973 −
115鋲2・524…308,27。1
睡02卜228,9・2291,79ぎ
1 3、233β88223・412
1 41226,5471221,5諄2
i副lll纂111艘
七
1 7 1161,123 151・434
18:1認ρ20193,9111
g−290,323301,899
i10暫9,912256,0コ7
111螺8窒五:l12
♂31360,891363,4。7
価
格
7,028,725
−一円
メ「 丁
一一一一一・総
量本
一一『一
[数[
(大正10年∼昭和13年)
一 ∫機舞「■場 薯り一一一1
量一1 !
単一 _価一■一一数_■一一一■■
1価 格1
一斥当り一本当り 一斤
本 1 1
」急1書罷
18.塁 里l1267
6ン3荘8,570 20.81 −1 317
一 23.31 一: 407
9,493
6,778,665
− 107663
6,843,737
− 12,785
6,558,831 20.24 一“1 632
5,341,949 15.60 17.3212,676
19・71 rl弘2
27408 41,734
11
1」560 23,904
4,4701e60 19・5315・32i1,224
1,371 19,781
3,224,308 13.82 14.43− 1}432
2,573,573 11.36 11.4g11,田7
2,020」589 11.4511.6311,317
1爆t ll艦
1,356 10,738
912,720 8・13 7・92111・321
1,847 16,912
1,386,783 8.09 14.91 1,965
2,393 23・861
1,989,803 10.28 9.971 3β21
3,392 26,553
2,363,245 8.14 7.83i 3}262
3,556 34,751
2,502,052 8.94 9.77 3,888
3,065 35,777
3,398,856 11.46 11.67… 3,122
45,603
3,201
5,484,379 12.39 14.27 3}688
38,729
3,273
4,29S,982 11.91 11、82−i 3ナ251
1i
備考 福島県統計書第39回∼第肪回に依る。
−川俣地方羽二重機業の発達−
ところで、このように 一
工場制への転換が徐汝に
一
一
行われたことは、一挙に ⋮
転換不可能で、それは、 一
力織機採用の条件や経営 移一
組織等に原因しているこ
ノ 推
較
とはいうまてもない。特 比⋮
に手織機の消滅過程、つ壁
ロ う
まり力織機採用可能の条 製[
件が未成熟のために、手 機一
織
織機の長い間の残存とい 力一
2と劣る・しか箭及
で述べたように、機械化 織
機
への傾向は徐女に進行し 手
たのであ一るOこれを川俣
地方のみならす、主要羽
二重 の 生 産 地 で あ る 福
島、小高においても、手
i I
計
i川
匡A)のI
し
i減少率1
1手概力馴手織臓.手織:力織手織(A)力織(B)合剤
俣F福島小高一
I l
明治42189,313侶,72227,ヰ571ち278 31923,246226,78983,24BIOρ3573・15
143228,653165,05147,45327・9112,53828,931278,聞221,893500,53755創
1嘱137,2112弘β0133・20143,174408130」餌5170,9203窪∂・820499・740糾・20:
1大正元 27,515279,46518,11060,487 321117,53635,9443b7,488393,432 9.14
i 2 22,004331,6679,16761,745 286お,9123荘,457422,3ヨ4453,781 6・93
1 320,879246ン7336,336お・607ZO8113,73427,423297・074324・497 8・45i
・ 4錦,158316,121i6,12232,669 −20,761埆・窃0369,551413,83110・70!
1 5 2,764粥,2181−32,409 」丁7,17711,7餌395,8㎝407,568 2・8gI
i 6 5,747415,391 −29β40 2’19ン886 5ナ749姻,617470・366 122
1 7 378511,991一一4α072 −30・留7 328田2,610鵬9鎗 0・06
1 1
1 『 I l
備 考 福島県輸出羽二重検査統計より作成。
力織機と足踏織機の交替推移
年次t力織機台数
一
1
セ
明治44
大正元1
2
3−
4
ド
5−
%
4,546 51。29
4,039 餌.8¢
4,089 76.851
2,801 71.251
3、135・ 79.37
3,530 78.79
手織機台数
1 %
4・3可81 48.71
1コ922 32.可4
1・23? 23・15
1,13σ 28.74
1
足踏機台数
%
81ぢ・20.63
4,480
5,660、
2,218!33.72
6,5751
2,200− 31.95
2、218i 32,07
2,192 33.50
1、534: 31.20
6,883
6}913
2
3
4卜
鋤い1!器
2ン245 93.741
1・848 94・43
1,058 94.80
可5α 6.25
51
6i
3,414 77.681
2,983 75・23.
3,329 86.941
I
備 考 福島県輸出羽二重検査統計より作成o
5,721
3,931
3,9501
1,8可0 31。98
3,634 88・03
3,559 90.03
3,381 能.791
3ン268172・69/
一1
8,8641
ト
950 21.20
6i
71
81
9i
10
11t
据
質
,昭和兀一
4,349 66.49!
計
5,96T
1
3,650 68.02−
4,357 66.27t
4,683 68.04
4、699 67・921
A・
1 ラ
ド
1,2Zδi27.30
982122・3確
982 24.76
500113.05
1001 5.56
田!520
1
6,541:
4,915
4,496;
4,3961
3,965七
3,829四
4,128−
3,953
2,395
1,957i
1,116 c
一 1
織讐力織機の藝箋毛嚢ム・鶉愈養した時には、手織機の減少キ照丁で判るように、明治四+二
いに昭和六年穏辛八台と奮、手織機消滅と同様の経肇辿るのである。
第二節工場制への第一次推転
!川俣地方羽二重機業の発達ー
−川俣地方羽二重機業の発達− 七六
しかし、このような工場制への転換は徐汝に行われて切りかえられるもので、前述したように都市工業化した川俣町や飯
野町等の場合のように商業資本活動の活溌なところがら開始され、たのである。川俣町が工場制への皮切りであり、ついで飯
野町、大久保村等に器いて開始された。川俣町の場合は明治三十五年一大正二年までの間に工場制への転換の地盤ができあ
がっている。次表にみられるように、この期間に工場が三十八出現し、それ以降大正三年−同八年までに十四工場、大正九
年一昭和十一年までに二十九工場、同十二年卜十八年までに八工場という上うに創設されている。左は昭和九年調査による
八十九工場の創設年代を集計したものである。
このような事情は川俣と程遠くない飯野町の工場への転換も同一事情をもつている。大正三年の同町の工場調査によると
その創業は明治四十三年から四十五年一月までが十二工場、大正元年一工場というように、川俣町の発展と同時に工場化し
>一
雪Qo
aO
悼望
﹃ω
塗 繋
一弼轡離一!
[ 一
諸d
お解O
①ゴq
X0
ω9。一
研1…
ω登8旦
δ︸密㎝
ω8bゴ
刈ω①︸トユQDoD一
”1諾摩
ご霧坤ゴ斜
ωム8
♪薯一
−−一霞,ヒr
曽馴⋮Ii
浅 一
」 :罷
…一懸、言
ヨごω唱
﹃9ハono卜〇一
刈﹂㎝O OD刈一qO①己
①お
①.。避
①ω、。。留一
』湿i霊
的一r曲
: …掛
窃no為轟Ω
ωもS
春ご撃刃
8一ω40 40︸⑩OQD
ゴO琵#①一
δるωO
一
ωトコ図幅bコO刈一
一
一
卜jO
云
ωoo■
一
霞濫︺墜
1 )
一ω㊨︸qoO陣 ハoO9己㊨oo
知i一陣
一
ソ﹂ωO ①Qo︸頃年“
※i
今!_
一−↑一膳鰍酔蹄罷舶ヨ⑳岳一一−薗己一ーロ片肘お並惜溢SザSo一
﹁
a…曹
一一’
腐畿d贈
ミQo
Qo4
溜ω・O
馨i…禽
ている。しかし前にもふれたように、飯野町の場合は、川俣の工場化に次ぐ工場への転換であることに時間的な問題があっ
おO
ω一ω一 トコ#
Oω
一■一一一墨
理欝1
三
■講諮 叶薄
勢
ゴミ全
]
ω①刈
ゴω
800
I
IH
蕊器>
塗維岳凶q⋮雪麟Ln。。論士
摺誘8禽蛇毒
浮田に岳舛d
湯田oo禽叫づ[
︾息ω禽蛇毒
甜善ゴ岳僻す
︾爵O食滓毒
誌曹茜禽蛇毒.
濁諮﹄oo岳辮d
ゴ80一
あ
懸Hl鮎
魯bα0ごaO
口i
:蹉
卜。
匙
・曹騨藩凝翻d鶯知覚薄霞坊薄丑再再弁昏簿唱噛壽墨轡砂摩〇一
ゆ 型
−囚酬﹀:−一,
りco
qo
ハ⊃
卜。
1 1些
L
oo
釈…1一
』露1灘
。。
ョ
曲三選碗
お・9>
001CD
b。
ーー:−−一且,
たわけである。
た。昭和十一年t十八年に入っても八工場が生れている.︶どの創設は新旧工場の交
表で判るように、大正九年より昭和十一年までには、な器二十九の工場が創設され
が、それ以降に語いても工場が新設されてゆく.したとえば川俣町の場合は前掲出の
業910伯101010101010
1が明治三十五年から大正二年までにその創設の基礎があたえられている
柁
工1
場1
創設
創 治 正
碑鍛躰駄簸簸悪計
治田や宋音野や則 野屋丸輪
明 大
泉 水野
代やへ・併、新設といった企業自体の問題と関連されるのであるが、この問題はしば
第三節工場制への第 二次推転
丹作和蒼蒼高清高泉只玉大花
13
1計
一川俣地方羽二重機業の発達− 七七
おくれて創設されたことは又川俣町や飯野町が羽二重一本に生産されていることとは事情を異にして、大久保村は羽二重生
このように創設のおくれていることは、電力、資本等の経営全体の問題にかかわることは前に示した通りである。そして
二、十年−+六年に二というように合計二十二の工場が出来ている。最も多かったのは昭和七年の五工場である。
次表によると、大正七年に二工場、八年三、九年三、十年から十五年三、昭和に入っては四年・六年二、七年に五、八年
の推移を示してみる。
への逓れた原因等が追及されねばならないのである。ところで、一先づ大久保村の大正七年以降昭和十六年までの工場創設
大正七年以降に工場化されたとすれば、川俣町及び飯野町と大久保村との相互関係に蕊いて、大久保村の立地条件や工場化
接する大久保村に及んだ。大久保村の場合は資料の示すかぎりでは、工場創設が大正七年以降にかかるということである。
以上は工場制への転換が川俣町において出発し、次で飯野町に起つた事情を述べた。次の波は川俣及び飯野町とやはわ隣
らく措くことにする。
工揚名
講1驚葉叢懸1灘:1
誰璃ヤモ≒モいい霧諾いい誌い識 熔
測審 謡 翻 幽 妻
割目焔焔繭知略姻淋潮繋知籾米
淋
匪1.1一L圭一一一一一_一絵一上■一』一五豊陣!4一』 一
驚
流「口遡89鑛」粥蛤8田躍8魍鐙8ユー
¢1 轡
パ1 冴
‡
暖i崩ゴδδaの_覗㎝お氏㎝。。8ゴδ韻
薫l b、楠、二bN論bる蕊るるb茄6る面玉6 叢
》
蕪
轟i 自
汁
春1望藻翻藤1癒萎翼盤
響
ド ド
31 毬叢 昨
−川俣地方羽二重 機 業 の 発 建 −
ラ じ 動 譜
は 』 4“ 並
瞭 斜己ωトコωQOσ)σ1一一一碁ω斜。 oo4coσ)ODσ)
瞬
聾… 虚像
H
赤i口_嚇11トコ_上1雑トコ1一一上OQ一上@一一は“一一_
S I 一一一一 一 一
叢
副 瞳蜜
再1口Oσ10㎝。Uσ1①Q OO刈㎝σN忌塑」四__一
塒 1 一一一『■一一一 一一
論
鋒… 一
l 蹄蚕
Il一一1■意8宣寄」a茜8巴8−9台ミミ台8お8ホ&9
〇一 黷P【紹這LL鎚8」宣」&1盆桑L上9鷺駁鏡鐙
r−I
今︶
観」』堂鋤。。。。』⑳一①旦。。⑳旦ミ艘餌、._
鳶
釧 卑壮
甦
一樹
透
昌 一一 雇
ご99999ざP菊99・99罫うPF夢 説
一一L1、墨1酪鐵聾虐署調豊i罷鞭塁器§逼_璽一一l
I 麟
1 コト
1上国重藪部埜茄杢_南壷認粛あ_蝉
ト
ヘ
甜 i認 、
1 望
おお。お。㊨。。おお。。お。。④σ)㊤。。σ)o。。ゴ①i矯一
禽 ・
七八
産も行うが、やは粉飾絹生産に主力が向けられているというところに、大久保村の特殊性がみられるのである。たとえば大
正二年より四年までの三ケ年についてみても節絹生産が多く、又前掲表にみられるように絹節生産が圧倒的である。
この事は、大久保村の機業が羽二重生産に向わす、むしろ節絹へ向つたこの地方の絹織物生産構造にありわしないだろう
か。たとえば隣村の福田村や富田村は平絹や羽二重の生産に伝統をもつというところがらも考えられるo
1 巽 首羅
竃す6鉾¢8ドsドs9劃す芥βPgP叩鉾φsド 禽
節絹生産状態
一一一一一
黶@ 台人疋
、響,訟騰欄1霧灘
大正
いづ費し奄美久保村の響鑑絹生薑克霧化、したこと。しか落蓋毒発してい
る馨ある・そ憂し毫・大当一年か畠年宅の前嚢料蛋力稜が大垂矩三+四台、
歪四廷百台窪し・詫蔚七矩工場化し奄のと推測し得る。そして、このよう釜場.化
への推転がぞ墾畜璽2は套手織禦大豊年芋台、.同四年に千四百台という増袈
示している!は呈場化へ窃8え菌讐していたものである出盛いか。節墾産筆磐羽
重室谷易劣るとぢ点か象ても、工場化への阻裏件でゑた考究る。しかし、手織
から力織へ、力織から工場化への歴史の法則は貫目徹■しているので・.ある.、
以上第一讐b第蕾に雰て、専皐織よ毛織へ、薯霧制、、んの転換事情.〆、川俣駆.舞
及び大久保等の事情を述べたのである・そして、工場えの第茨転饗、仰川俣及び飯野窒董生
産地・第羨の大久保鶴墾鑑というよう娠肇情を果にしょうとしたのである。
第四節家内工業の消滅過程
粟窪と毫荏・累三+五年㌃大正初釜奮て、たとえ霜整髪.空腸げ、秀で
創設調ていを芙毒毒矢2廻状態隊濡需る.︶荒淫、工場への霧高垂
七九
そこ雫こん廷立子山・青奪の手織生鑑の消彊濯曾て壱ハ、乙升、︸にする。立子山や
ない 丘て濃したか麦毒へ転換していつ奈・或箋存していつ奈簿曾てみなけ費奄
葉以来家内手垂として、又喬垂﹂・︸し、・・織出さ農平絹、羽二重、籍等の生一産は.どのよう
福島県産業調査書より。
川俣地方羽 二 重 機 業 の 発 達 1
年次機業戸数力徽手離 計 職工麹数、童亜
八○
島松島上
本
福二福同
1当−−−
西京
伊達郡
t川俣地方初二重機業の発達−
細一西地横
擁景方浜
村 額⋮吻口明一
輸■
子一価﹁亀
山一 7566661 6 2■
立一 反〆
ρ乏2
袋物類
織ル
足綿ネ
輸 入 繭
︵一重
一出 oo32羽
目 輸 ゆ寸1
入 汐一
品 物繭糸
出 目
織
絹屑屑
種験 出
備考 繭は買入れ単組にし西京へ輸出す。
青木村は全部川俣、飯野、大久保等の工場化したところに生産がうばわれたの
でなくして、その大半はそのような状態になったものの、やはり自村内にも工
場が二、三創設されて完全に家内工業を奪っていくのである。さしあたわ農家
の手工業的に生産されている状態をみる。明治二十七年の統計では、立子山の
農民は手織で、絹織物を生産している。下表が示すところでは、原料である繭
は伊達郡一帯より入る。農家が買入れて平絹として京都方面え販売される。絹
織物の同年輸出︵西京へ︶生産は七千反、.屑糸の百三+二貫は横浜へ、屑繭の
百三十二貫も地方へ販売される。輸入では、村内に足袋、綿織物、・ネル類など
が福島、二本松地方から入ってくる。
50
oo 疋
においても続けらる.、それは、工場化でなくして、二、三人の職工を抱え込む家内工業として推転ずるのである。前節で述
べた川俣、飯野、大久保等の諸町村が漸次工場化に向っている大正初年についてみても、立子山村はまだ家内工業と手織機
が圧倒的に多く、大正二年t九年の同村の機業推移にみてもそのような状態にある。しかし手織機は漸次捨てられて、力織
機への転換が行われている。この事はどんな山間地でも、又おくれたところでも近代化への途が徐女に現われていることを
示すが、ごの場合最早先進地たる川俣等へ漸次吸収される過程でもある。おくれた地帯の力織機又は工場化については工場
化へ一直線に向うのでなくして、古い型の問屋制資本がな器手工業や、家内工業に吸着し支配しつづけようとする。次表で
判るように、機業戸数では大正二年から九年まで百八十七戸が二百三十三戸に漸増しているが、職工数に出ている家内工業
家は漸減し、織元が増加し、しかも賃織家が大正二年二十三戸であづたが、同九年に百十一戸に急増しているのである。こ
明治27年分
O0
T0一
一3,000
−3,600
原料輸入
精晶輸出
O0
盾盾
このような生産生活の原型は明治三十五年以後の手織から力織機へ移った川俣、飯野等の先進地が工場化しつつあった時
輸
腸癌醐獅一 鷲
戸数1一が預織一■一議二食}ず!一機一一皿職一モー郵
厩廊滋繋無賃麺羅織元賃糊総織元賃織:
蕪一餐難灘
役場統計書より作成。2機業戸数中職工10人以上は大正7年1戸。
本表中職工数とある.つ離人以上の職工齢する家祖業を指す・統計の
のような家内手工業、織元、賃織等の相互関係、交替又は賃織家への集中傾向は
前で示した他町村の工場化への進展とは正に逆な現象として出ているわけで、む
あるの
しろ、問屋的商業資本の根強い吸着の仕方がいよいよ.露骨に出されているので
\
ところで、このような家内工業の残存の仕方と商業資本の支配の在り方は、工
場制による生産への響かえが書す↑、又こうい茜品生産の市学、ゑ謀
ることに原因して碧雰戻る。しかし、前緊詫たよ2、力馨の導入
は広汎な農村の家内工業として普及していても、又問屋制的な資本の下にあると
はいえ・工場化への傾向を生じるのであ一る・、それは、織元が村内に資本を器ろし
て盆的に霧化蔭㌃、農家の手工董産青雲ゑ劣る¢奮えば青
木村の場住が嚢肇の典型よえよう・大正歪壽い葦間方円暑
くまでも工場化への推簗促進するの窪くして、問屋製本支配の形態、康型
かくてゑ上客奮2、ぞ墾地帯の工場化とぢ時簡矯資本があ
た統合体の原型とみなされるゐである。︶
特発る二この第三揚や篁工縁讐組織は鐸中原料の配険び蒙関係から生れ
内ゴ委所・村塾ケ所筆工場砦は零、第三場、第二霧の名賀下
奎もつて﹄万狸繭藷原醤入費全し、.芳田乞回転資本として竺
ままに従う工場(10人以上)は大正7年に11戸存す。
−川俣地方羽二重機業の発達1
−−:一一大 一 一 一
八一
正23456789 として持続し二塁場制の形態の考濠急が、織元の畜形態が奮陰
座瞬伯⑳⑳麗器お臼お爾
伊達郡立子山村機業推移表 (大正2−9年)
1川俣地方羽二重機業の発達− 八二
のである第一、第二工場はいづれも、工場形態をなしているが賃織である。従って工場経営主と労働者との関係は事実上◎
資本家と労働者の関係に入っていても、織元と経営主との関係は前期的関係に結合している形態を備えているのある。賃金
が安いことと、徒弟的見習的労働によってしか経営主は利潤をうみ出せない。商品は織元に吸収されるからである¢おくれ
地帯の工場制への推転はこのようにして、個々の家内工業を奪って、織元の工場制へすすみ、ここに家内工業が消滅してゆ
くのである。それからもう一つの家内工業の消滅の仕方には、さきに述べたように川俣、飯野、大久保.等の工場化への発展
と
労働者の状態
によっても行われ、むしろこの方が決定的であったのである。
第五節賃金砂態
以上川俣地方の工場化についての実際を明治三十五年頃より大正末までに冷いてみて来たが、ここではこの時期にむける
労働者の状態についてふれておくことにする。
機業家並に職工数については、先づ福島県下全体を概観するG羽二重機業戸数は明治三十九年には五千百戸あった。勿論
ここでの機業戸数は家内工業家がその大半を占めているのであるが、ともかく機業家がこれだけ存在したのである。しかし
大正四年になると八百五十戸に減少しる。ここで機業家として一括された機業戸数については、当時の統計者の経営形態に
ついては問題を指摘出来る。たとえば家内工業と工場工業と一しょにしたものといえるが、この大正四年の八百五+一戸に
減少したということは、工場化による機業の集中を示すのであう︶このことは力織機と手織機台数の減少と、職工のこれ又
減少を物語っている。すなわち力織、手織機の減少は明治三十九年八千五百台あったが、大正四年に三千三百台に減少し、
約五千台姿を消している。職工についても、明治三+九年八千三百人が、大正四年︻一千九百人に減少、約五千人減じてい
る。この事は家内工業が消滅し、工場へ吸収されている事を示すと共に、生産数量に現われてくる。すなわち、明治三十九
1年構灘職工計董藝生蝋長舞
1404,626−9,322110,17312・1317,60568・6
14115,0558,472 6,9791・9326,09364・5;
142・4,蜘11,1㏄7,668:1・5310,0あ62・7一
扇3915,1昇8,諭8,2命』.6143,3爵8鷺
1433,5108,1567,5502・1500,5詔142・6、
1璃13,1257,8706,81112・1499・㈱159・a
織1次元1・7595}961’5,0422・8393,4322236・
1 21,0113,6田3}792−3・7453,781魍・4…
三1§ll翼鵜しlllll響濃
1.本表は福島県全体を示す。
及 1
年四万三千疋の生産は五千戸の機業家と八千人の労働者と八千五百の楼台で行わ
れたが、大正四年には八百五十戸の機業家と三千三百台の機台並に二千九百人の
労働者の手によって四十一万三千八百疋の生産が行われているのである。
それならば、このような工場生産を行っている労働者の状態はどうかというと
ここでは、労働者の状態についての資料の少いごとによって、その全体を述べ得
ないが、さしあたり明治四十年代についての資料について大正末までの事情を示
すが、家内工業と工場の二つの形態に分けてみる。
1、家内工業と労賃の形態
家内工業家は、一、二台の機台をもち、家内婦女子の手で織出すと共に、一、
二の徒弟工をして三年、七年の年期契約で十円乃至二十円の賃金を支払うものと
賃織法どの二つが行われた。すなわち
弟 並 織 賃
従2.大正4年福島県産業調査書。
−川俣地方羽二重機業の発達ー
八三
一ケ年中に契約せるだけの本数を製織し能わざるときは、翌年に至り無給にて其残数を製織すること。
甲例一ヶ舞契約薯干奎定め養料塁人持にて豊隻撃をと。例え些ケ年五+銭を製織すと定め、前金一電髪撃。もし
改むる乙と多し。 ,
至二+禺外隻給す塗のとす・又年期緕実る工農、職工として雇便す.その契約法数種あ£讐近査織塗
弟として傭入るものとすG而して、その契約は髭寒と讐、概ね三年乃至七年の年禦約し、給金鴇金姦て+円乃
職重・二台著する嚢蕎惹ては豪族の塗子之垂苦と讐、多くは越後、羽唾一削、仙台地方より年期徒
、 輸出羽二重に蓄ける機台職工数
一川侮地方羽二重機業の発達− 八四
ノ
乙例 食料主入もちにて一本若干の織賃も定め契約す。例えば食料主人持にて尺八寸巾一本金六十銭とす。但し巾の広狭により増減とす。
西側 食料主人もちにて、 一ヶ月若干の食料を以て契約す。例黛ば食料主人もちにて一ヶ月三町乃至五、六町位。
丁例 賃織法共標準左の如し
尺八寸巾一本一口二十銭。但し広狭により増減あり。此賃織法により契約する時は食料は職工より支払うものとす。 一日の食料八銭乃至十
銭なり。 ︵明治三+四年九月﹁福島県絹織物業沿革﹂芝野卯之輔稿本︶
右による︵甲例︶年期間は食料主人もちで前金で支払し、織高は契約生産で、もし年間契約生産不可能の時は翌年無給で
製織する。この仕方は幕末において五十沢の高橋家の織工契約と同様である。 ︵第一章参照︶家内工業の古い形である.、次
の方法は︵乙︶のように食料主人もちであるが、生産の出来高支払とでもいうべき方法である。 ︵丙︶は食料であるが、一
ケ月賃銭を何程という、生産数量でなく、月の賃金契約である。更に︵丁︶賃織法契約はA、武料を職工より支払うのである。
この四つの形態は、家内工業が工場制への推転過程をあらわしているのではあるまいか。すなわち、甲は古い農工結合の
手工業へ他人労働が賃金的契約で入って来て、契約生産が行われる、、労働の商品化への第一歩を踏み出していて、この方法
が、明治末期まで家内工業が存続する限り保持される。乙は甲のような労働契約によるものが織賃として前借的形態はもっ
ていても、賃金が出来高支払によって行われるという点で更に前進した労働の評価がでていること。丙の場合は前二者の関
係は最早みられない⊂ここでは、食料が主人持であることだけである。生産上の契約は何等規定されない。ただ一ヶ月賃銀
幾らという労働の商品のみである.︶近代化労働者の賃金形態に入っている。ぴもがついているのは主人食料もちという点で
ある。そして丁にみられるように、この食料主人持ちけ完全に払拭されて、賃銭化し、既に甲乙の出来高又ぱ契約生産に入
っていることを示す。この丁の段階に入って資本家と労働者の関係、すなわち完全な労働の商品化への条件がでて来たもの
といえるのであるc
2、工場における労働者の状態
川俣地方の工場は、前述したように、三十五年頃から工場化しているが、労働者の歌態は前で示した食料主人持の徒弟的
見習的なものがあった。 ︵この内にはこういう規制から脱した職工もある︶家内工業的なものがその基底にあるので叶、ある
まいか。明治四+年代はまだ家内工業から工場化への転換期にあっては、古い形と新らしい形が錯綜しているのである.︶四
十年頃の労働者の状態は、労働時間十六時間の長時間労働の上に出来高払の労働強化で著るしく労働者の身体は消耗され.“し
いる。すなわち
﹁今日川俣機業地方に於ける労働時間は十六時間︵この二回食事時間も含まれてあるが︶である。此長時間の労働が幼年の者及び婦女子の、ぞス得
る時間であろうか。彼等は朝の四時に是非起床せねばならぬ。それは起床後顔を洗い、食事をすまして、五時に始業せねばならぬからである。
夜は仕事を九時に仕舞重しξ、疲につ−のは早−ても+牽、大体は±壕あ奪。か−して真裸昼睡眠との醤は五窩誼募
のである。これが・終日の過労を医するに充分であろうか。聞くところによれば、川俣地方、機業地方にあって最も織出しの多い工女即ち﹃等
工女は吹入が多いので・その服装はかなり立派だそうであるが、その反対に顔色が蒼白いとのことである。これが過労の結果ではあるまいか.、
かく工女を過労に使役して、︻時的及び私人的利益を得ることは出来よう。しか﹂、如斯は工女の生産的労力を漸次に減殺するもので、只その
生産性的労力を減殺するばかりでなく、將来母として健全な第二国民を挙げることができようか。!工業主及び雇主は過度に婦女子を使役し
てその生産的労力の衰えた時に他より生産力旺盛の工女を雇い来ることが出来よう.、︵﹁視察報告﹂︶
右の報告は休息と睡眠の時間は五時間しかなく、朝四時から九時の長時間労働を指摘し、しかも出来山口同賃金による過労を
説き・女工の酷使をあげ、ごのようにして利潤をあげている状態、そして、過労と消耗にたえ得なくなった時、彼女等は街
頭に投げ出され、再び生産力の旺盛な工女が農村から、すなわち農村家内工業を失った農家から順た.に、しかも大口亙に労働
の供給源を持つことが出来たのであると結んでいる0
ド
1川俣地方羽二重機業の発達一 八五
月館32084−1 104
松 川! 6− 1171 6σ 一i 137一
相 双三 91 12 71 −1 19
! 1 ! i :
計11記し㍗llO12’1951277i3’留2
1.川俣に飯坂立館
羽 二 重 業
る生産制限、つまり企業整備問題を
述、、へて蕊かなければならない。これ
と共に羽二重機業の経営形態の変化
や内容及び同業組合組織による経営
形態の問題との関連についても検討
されねばならないのである。ここで
はさしあたり大戦と企業整備並びに
同業組合についてみて壽くことにす
る。
大戦が深刻化の様相を壽びて来た
十八年十二月には、企業整備による
川俣簸野地区の企業整催による転廃状況調
第二次大戦下における羽二重業
梁川↑ 12 −1 一… 12
相馬小高 16 11 431− r 432
会津1i −1 22, 一1 22
二本松 11 −1 200 一’ 200
第一節大 戦 と
飯 野 18 2881 15σ 一1 鞠
育 木】 3 571 18. 」 75
立子山1 61 74: 60 16】 150
−川俣地方羽二重機業の発達t
富田11t124111121 206
福田12 32 41 −1 36
大久保 9 106 1271 11 234
ヒ ヒ ド
第二章
川 俣 田 2271 9弱1 239 1,4量1
以上は専ら明治後期より大正を経て昭和期につながる家内工業と工場化及工場の状
I l l l I
態についてみたのである。昭和期に入っては、右で述べたような状態の持続で、生産
地域別工場数 1
…小1中1広i計I
が展開されていたわけであるGところで、第二大戦に入っての生産事情並に大戦によ
(昭和19年)
地域別工場及機台数
機 育 敦
糎
(昭和侶年12月14日)
区分整備前の企業i比率転廃止
@ 『一 一■一一一一一一一一一 1
器広中!1小巾1計
比率転廃止!残 存1
議静広巾亜計虜広巾1些,計
一■一
擁 lil…鰯総翻癖一ll藩染
41∼50!141533!170i70321203116 24!14011!4171硲563
51以上:1315・61朧767−19731g3771165肥4」28972あ
愉i258t?1742t2,脚i5,4。262餌1611,姻11,4962,9。。9711,3錫1,1留2,睨!
! i l l − i l I !
企業診断報告書o
である。
第二節 同業組合組織の変化
蓬ん蓬曇義存毒と毒組籔につ盗る.+九年の馨にかかわる福島県下の織物製造業藩
離離羅耀灘一躍難難癖難︸難
生産が行違組合の下に組馨るに義の釜・表の組合員数量の工場が組合に統合さ黙るこを示すので
−川俣地方羽二重機業の発達i
八七
−川俣地方羽二 重 機 業 の 発 達 一
24 138 一 一 一 一
10 52 10 一 一 一
470 −1 470 一 一 一
帆八
われていたわけである。
終戦間際までこのような組織の下に織物の経営が行
より福島県一円を以て生れている。それはともかく
昭和+七年福島県絹人絹織物工業組合が生産統制に
9
3
8
925
3 3
024
1
0
211あ7
1
7の2
2
るが
、こ
よう2
な工場の統合、組へ・組織化は既に
18
11
15
ー
コ5
ー・
1
23
18
1 9
31
1
二餅爵籍蜥2儲覇勝組窃197
10
織敷
組員
敷巾
⋮
3,864 3,4∈舛 1,837 コ,664 1,897 1,561
掬鴛鰐溜男8署擁6⑳墾3”櫓
場合社
朝会
織綾
丸化福
笹輔勝
機鍵
合 計
台一小
78
1 2 2 ワ ﹂ 1 1
99
一
25σ
場経営の弱さを示していることも事実であろう。そ
織化によって自分を守らなければならないような工
した組織は新らしいものでない.、又、同業組合の組
者が同業組合の組織によつて自己の立場を守ろうと
の下に統合され、その組織形態が異っているが、業
ところで、この組合組織は、戦争下の特殊な条件
って、組合を構成していたのである。
十五の統合体、川俣地方以外には六つの統合体があ
る。この表によるとこうした組合は、川俣地方には
数は川俣人絹組合員の所有楼台合計を指すのであ
いことは勿論である.、たとえば、上表の組合員機台
へ・︶の傘下にある一工場が組員であって、個人でな
S6528175777銘1342一69326068913
6、
1こ
5こでの組合という時は一の統合体︵組
6
従↑
っ2て
38−
鵬菌鋸寵93瑠届響晒舞櫨概言22
8
⋮残一広
42
8
133
11
﹁敷巾
8
組合員外農賃業者
冶小・
431
326
2
6
相馬絹人絹織物工業小組合
相 双 “
一
3
二:本松織物 合資会社
﹄一
71
丸進織物有限会社
ャ、
22
16
福島絹織物工業組合
散巾
一
72
60
大久保絹人絹 〃
飯 野 〃
青 木 〃
松川絹織物 〃
巾
所広︸
57
有限会社丸進機業揚
臨一巾一
統合件名1 K巾小一巾伝一巾ボ
235
66
166
川俣丸元 〃
川俣睦合絹人絹 〃
川俣人絹 〃
川俣マテダ絹人絹〃
川俣織物 〃
大同絹人絹 〃
丸 福 〃
達南絹織物 〃
三協網人絹織物 〃
ミ
i所有■台数1供出一一台
152
126
50
171
存一
一台
265
56
74
212
233
204
23
川俣松栄織物工業小組合
川俣伺栄 〃
(昭和19年)
福島県織物製造業並に供出残存機台数
綿二』19一
丸兀i 5δ 46 −r lO2
ラ
21− 126
1睦台 三四3!371 251
71 202
鰯揚場・
一ヒ243
−1 16
三 協 40 841 6631 187
1: 160
丸進 64 951
大久保 77 −1 一_ 77
t
:
1
1.昭和19年調・2・小は98吋以下
小手織物組合
一有限責任購買生
一産信用組合
俣 町
れでは川織地方の同業組合の変遷はどうであったか
前記川俣節織物同業組合の潰滅状態になるに及んで川俣町の同業暗のみを以て組織
す。この頃手織機から力織機となり事業化し農家の機業は衰微す
睨治末期より大正初期に亘る業界の不況に対処し前記組合を改組強化す。昭和三年
九月解散。共同購入、共同販売等。
難囎、無難麩藩藷灘魏齢議難立.共同購入、
八九
一1一一
一
を左表︵川俣絹人絹組合作成︶を掲げてふれてみること
にする。
⋮轄縮蕃雄、品庫主蒙業捜査壌:
ヲ
轡織勤一鋤認1鱒纏辮讐籔、雛鰯欝響嚢賜
[川俣節織物同業 ■〃 名称変更に過ぎずして地域。事業の内容等小手織物組合に同じ。
癒合
3.中は28吋一50吋 4・広は5C吋以上
戟@ ⋮劃−, 淳Iーヒー 暖
る
業
合
の変遷
川俣地方に於 け
同
組
丁一、刑し,一、、網i−﹂堀 方!一団b俣地方以外
一川マ川松荷丸睦大丸達三丸大塵﹁一一松丸福相相卜[−一
久
■
テ
本 計
義織緑栄元金同福南脇進保野木 川進島馬双松
− 200
箏2。乙
−牟、凧郎一.[一名一≡一−圃一圃一=凹−−一−
明治二十年二月
明治廿六年
明治計二年十二月
明治四一年十二月
大正二隻早言叢離離﹄川
野劃九昊菰難絹織物一川
町 i町
−区分
− 19
1
敷腫
マテザ139i172 一引 211
74 266
川織 161176 7ま56 152
!川俣地方羽二重機業の発達1
ト
台聞
騨留、1譲…T− 366
16 210
機一
川ぺ41・・1… i I
2− 102
一
一 ーー− 一
機 台
1織
継合員小中[広
唱
創 立
2773,542
1}07α2}195
− 432
1: 481
12 22
− 49
_ 34
491 −
一 137
1171 20
@ @ @ @ @ 俣
俣
絹人絹組合員機台数
1川俣浸方羽二重機業の発達;
福島県人絹織物
工業組合
紐i絹…物ヒ物
福島県一円
川俣町一町
月解散。
個人業者は三七の小組合又は会社に組織変更し、
兎○
上記組合を生産統制昭和十九年六
小組合を解散し、個人業者を以て組織す。福島県織物統制組合の組織員となる。昭
和廿二年二月解散。
小巾業者を以て組織す。共販事業、小巾業者は福島県節絹同業組合を組織して居っ
たが、昭和+七年二月県絹天絹織物工業組合に統合さる。
月末日解散.、
網人絹織物等、撚糸業、綿ス7織物業を一丸として発足。生産統制、昭和廿二年二
商工協同組合法の公布施行により施設組合より改組。昭和廿三年十二月解散。 一
,断馨養公搬倉よ晶記組婁改溜和茜年吉百中小企業等協同巡
ラ コ ラ ララ ラヨ ラ ララドヒドラドラ ラ に ト ララ ラ ヤ ララ ララ ラ ラ ラ ドラ ドララララ ラ ドド 合養汚罵濡塵簡哩.泌肇サ︸ −i≡i⋮−−]
当局の勧奨により前記川俣織物工業協同組喰を解散し、会社組織としたが協同組合
の必要を痛感し組織す共同購入、共同販売
の創設をきっかけに、昭和二年まで同業組合又は産業組合或は輸出組合
) 昭和十七年二月
合i織、エ1エ
(1物:剰業
一
一
1一一一一1一・”一、一一一
F l
一川俣織物工業組
物・合人一合織1合織
一 ■
1一
1
がi郡1町町
動1一…附1一
機.…町;近一円
合施設顔合
嚢腫履縷
昭和+九年七月
織溜摸,繍1羅
川俣町附近
口i協1協i協
昭和織物工業施
設組合
に…八 1
小…日1!
手漉一■■
@旨一一
房i月唄i月
福島県一円
口口 1 , 1
昭和十﹂九年七月
隻1七三隣
福島県織物統制
昭和+九年七 月+九日組合
治一甘甘1廿
二 五二1二
十…年年1年
であるo
かくて、終戦後は協同組合法の施行により前記組合を改組して川俣近傍一円を以て昭和織物工業協同組合が創立されたの
至ったG
俣小巾業者を以て昭和織物工業組合施設組合を組織する。ここに大経営者と小経営が二分されて県統制組合に統制されるに
年には川俣地方の小組合を解散して個人業を以てする川俣織物工業施設組合を組織して福島県織物統制組合員となる。又川
終戦前までには同十九年七月の福島県を一丸とした絹人絹、撚糸、綿スフ織物業を以てなる福島県織物統制組合が生れ、同
といった組織の変更が行われて、昭和十七年二月の生産統制令によって前でみたような工業組合が生れるのである。そして
!昭i昭 昭
明1和!和和
第三章 戦 後 経 営 の 実 際
第一節機業再開事情
以上は葉及び明治天正・昭奮戦前罫ける川俣努睾墾産吉翌重への発展藩を述べて来房であ一るが、
ヒこでは戦後現在までの状態をみることにする。
戦後の川俣絹は、織機復元資金その他の事情あったにせよ、いわゆる復元活動により回復するを得た。いま昭和二十三年
の設備復元をみると、同年一月に小巾力織一台、二月広巾三台の復旧、四月に入って小巾四台、五月新設広巾一台復旧、同
+台・六戻巾三主台、+月褻二台、+戸復旧言と零考覆旧、新設笑月寡矯当活動してくる.翌二+
四年に惹ても・予寡頁+台中三認は復元八+台、褻三+四台とぢ復旧ぶ皇示している。しかし逐次襲託
ているが、資金労務者難で操業は良性でなかった。
1、絹及人絹織の出荷状態 このように復旧、新設等によって活動を開始した川俣絹物並人絹織物の生産状態はどうかと
いうと、これを出荷数量からみると大体左の表が得られる。
終戦直後の川俣全体の出荷数量は明かでないが、二+三年一月記載によると二十一年度第一一一回、第五回出荷が五五、00
0橿二+二年笙同勢絹織合計四、六六九反の二六一、二五〇平方ヤーと臨時出荷内需物コ一一、九6反の嬰、
九〇三平方γル並第百窯人絹向二、四〇〇反の三六、五九八平方ヤ←蛋荷している.二士年よ鼻需.内需を
製織している左表によってその後の出荷状況をみよう〇二十三年二月輸出にみても四千八百六十一反の二十五万千余ヤール
から五月芳畢余反の七‡万九‡←呈弄して碧き棄儀台の褻、復元集って生産晶始し奄の房
九一
−川俣地方羽二重機業の発建−
計
含
反 李方礁 反 一 反
1月 一 一 一 一 一 一
2 月 4,861 251,750 25,499 77,907 4,356 54,845
4 月 7,703 416,80010,713 182,821 2,276 27,107
384,502
432,865
626,728
7月! 7」725 363,65024,284 144,689 540 630,618
511,398
3月 4,778267,30013,101 74,80513,294 90,760
5月114,396719,80038,151305,194 0 0
6 月 10,009’ 514,000 26,175 111,758 472 4,860
1,024,994
3,059
8月i − 259,600 −1120,245 − 16,007
9 月 1 −1 340,700i − 43,942 − 10,509
395,852
10月 一 623,950 − 21,544 − 6,000
651,494
395,15↑
11 月 一 866,950 − 89,791 − 56,382
1,015,523
!川俣地方羽二重機業の発達t
月別韓 田 内 需 内需人絹
4
23年度絹織物人絹出荷数量
12 月 一 一 一 一 一 一
川俣織物組合月報より作成。
数 量
在 庫
月 別
輸
内需絹物
内 需 人 絹 物
奉方ヤール
一一一一一一一一
尓絈ア一ル
一一一李方ヤ」兄
1,988,185
1,419,086
1,959,336
1,054,786
161,553
33,586
210,988
278,176
30,247
出
8
9
10
11
(昭和23年4ケ月間)
5,807
88,333
94,358
九二
ることはいうまでもない。すなわち上昇率についてみ、ても
三月は前月比一〇%増、四月同三三%増、五月同一四%
増、というように順調に上昇している。しかし同年八月は
生糸価格の更新により原糸供給の円滑を欠き、前月比一九
四、四〇〇ヤールの二七・O%減じている〇十月、十一月
は受注不振であった。
なお二十四年については、三月に入って需注多く二月に
比して絹織物一一九、[六二平方ヤール、人絹一六、七八
一平方ヤールの増加や、内地人絹も増織、四月、五月共に
増産をみせた。ところが六月に入って前月比約一五六、O
OO平方ヤールの減少をみた.、これは約六〇%のキャンセ
ルにあ一つたためで休業者も出で、更に八月に生糸の殖上り
運転資金涸渇し、川俣機業の危機がさけばれるに至り、更
に九月に入って生糸価格の変動と共に生産手控により、機
業の危機はいよいよ深まって来た時期である。労働者は不
熟練が多く、準備工はむしろ過剰の状態を示した。十月に
入っては生糸価格はやや低落をみせたが、資金涸渇等で輸
出向の殆んどが賃織を歓迎し、商社工場間の新しい型の賃
昭和23年稼労働率(力織) 昭和24年稼労働率(力織)
ミ区巾□計i現業率
ヒ巾1小巾深ri燦矧胞刺小■i計一i堺
刀@ % 一% 一%
% %一一■%一 % % % %
一’『一
75.5 65.7 75.0 93・1
1 月一 55.6 33.2 44.4 77.8 75.5 65・7 75.0
2 月 59.6 辱 33、7 52.σ 76.9 85、0 57.5 79・3
79.3 80・9
85.0 57・5 88.0 69.8 84.0 87.8
3 月 67.8 38.9 59.0 78.9 88.0 69・8 84・0
84.5 78.0 85.0 85・7
4 月 74.8 49.3 67.2 80.0 84.5 78・0 85・0
84.5 85.0 84.5 86.5
5 月 77.4 50.9 69.6 78.4 84.5 85・0 84・5
6 月 ’ 80.↑ 53.9 73.丁 76.4 80.7 83・3 81・2
80.7 83.3 81.2 81、9
77.1 77.6 77.3 88.8
7 月 79.8 61.6 75.5 78.0 77.1 77・6 77・3
8 月 83.4 54.0 71.4 76.3 一 一 73・01
一 一 73.σ 一
9 月 67.9 57.5 69.5 83.0 87.8 75.5 85.7
87.8 75・5 85・7 一
10 月 55.8 57.2 56。1 88.9 一 . 一 一
1ヰ 月 52.0 66.8 55.2 82.4 一 一 一 一
1川俣地方羽二重機業の発達1
一一 稼 画一ハ 牽■ 「『一 一一τ 整一1 働 歪1
広一
月一別
一
12 月 64.8 59、9 63.3 82.2 一 一 一
織が行われるに至った。
2、稼動率の推移 このように、二十三年、二十四年に於いて生産回復したが、
僅か﹂ヶ年後の二十四年置むいて早くも川俣絹物の危機を叫ばれる程に陥ったので
あるが、いま両年度にむける稼動率をみると、ニケ年間に亘っては生産上昇をみせ
ている。しかし、各月にみると、起伏が甚だしく、二十三年には一月四四・四%か
ら十月に七五・五%に上り、十二月に六三・三%に低下、翌二十四年は八四.五%
に上昇するという傾向をみせている。これは前で示した生産事情によるものであ
る0
3、原糸の供給 次に原糸の入手状況については、二十三年五月吏では二十二年
の割当原糸が入荷し、一月には輸出絹織用生糸一九、三二ニポンド、内需絹織用生
糸、玉糸二六、六九四ポンドで、五月まで二十二年割当は入荷完了のようである。
二十年度分については七月に生糸問屋制度の問題が出で、又価格未定等の問題があ
ったが、八月、・十月にかけては、生糸にあっては八月四、二〇〇ポンド、九月七、
〇九六ポンド、十月二一、一一六ポンド、人絹糸八月置、七〇〇ポンド、九月二
六、五七三ポンド、十月二、六一〇ポンドの入荷あった。しかし逞看たるものであ
った〇十一月、十二月は順調に入荷したが、翌二十四年一月には輸出品の丸公撤廃
の影響は大きく、原糸入手困難が予想された.、四月には絹織物の統制撤廃予想が行
われ、生糸の値下りをみるので、手控え状態をみせ、五月にはいよいよ統制撤廃と
九三
1川俣地方羽二重機業の発達一 九四
なり原糸の値下りをみたので、商品の購入自由となったが、金融の行詰りで原糸購入の自由を失って、十月に入っては減税
の問題が出る等、原糸購入と資金問題で相当困難をみせたのである0
4、労務者の需給・生産回復と共に、労務者の需要と熟練工の雇用が問題となった。昭和二十三年の事実についてみても
一般労務者の増員は困難で、漸く増員をみたのは三月以降である。すなわち、三月前月比約一五〇名増、四月同三二二名増
サ
五月同九一名増、六月同二四名増、七.月回三八名増といったように、大半の増員はこの年七月までに出揃ったようである。
しかし、八月、九月、十月に入つは労務者の増員は容易であったが、操業低下並事業不振のため、八月二八名減、九月三三
名城、十月七二名減といったように減員している。ところが、十一月には受注多いため三三七名の増員を行っている。増員
減員の可能なことは企業形態によるとはいえ、その変動ははげしい。二十四年に入っては、労務者の熟練工不足が問題とな
り、織機の増設をみても一〇〇%の運転は困難を予測されていた〇六月に受注不良で各工場共休止機増加を示し、失業者の
出る程深刻化していたO
以上、生産回復とその後の状態について二年間の出荷、稼動率、原料、労働事情等をみたが、戦後五ケ年間の生産回復と
俣機業 の 諸問題
その後の右事情は需用の動向、原糸入手と資金問題、生産設備や技術問題及び川俣絹織物自体がもっている構造的な経営形
態が問題を投げているといえる。
第二節 川
右は戦後の再開事情を二+四年までの事実について素描したのであるが、川俣機業が現在内包している経営上の諸問題は
歴史的にみて、どのように解明されなければならないかということになる。そこで、ここでは若干の手がかりを求めてみ
ようo
川 俣 42人一
ll 俣 42人一 1,295
目 和 20 、 397
昭 和 20、
巽 南 13 1 107
達 南 131
丸 進乳癌蝪
磐 烈験
二1本松 一
相 馬脚垂線工場
相 双1 猷
福島県絹織物工業協同組合調査。
、
戦後、統合体が協同組合法により協同組合に組織がえされたことは、さき
にみたところである。その組織は統合体の名称変更と更に組合員の離合集散
の下に再編成されたものであるということができる。すなわち二十二年一月
の調査にかかわる協同組合組織についてみると左表のように、県下の統合体
が十二に分れている。川俣地方では、川俣四十二人︵工場︶昭和二十、達南
+三、大久保第一工場一第八工場等というように、川俣町、大久保、飯野等
一設手
一現一一力
21 106
¶ 53
t
荘q 3,615
に言いて、それぞれの地域に二つ以上も統合体別の組合が組織されている。
宦│
一要■力一
⋮一
改織
一造一−−
一設手
壷金
一造額
合
別 織
■ こ の統
の 組 へ ・組
は 、 統 5
をなしているわけである。たとえば、生産再開に当ってその要改造の設備や
資金等はこのような統合体の下に計画又は改造が行われたのである。 ︵なお
前表の要改造金額は計画であって、実際の金額はもっと少い。︶
更にこのような組織体は、又別な方向へ進んだ。すなわち、協同組合と統
合体との二重的な組織の中に会社組織が生れたのである。二十三年十一月の
調査によると、下表のような組織が出来上るのであるG代表的なものは川俣
羽二重有限、川俣シルク、同絹業有限、丸絹等の会社組織で、その資本は百
⋮統:−
名
体
合
2 56
2 81
P第聴蝪
飯野
万円と称されていた。しかも組織員は大きなもので、二十二工場の六百台か
要改造機台数(昭和23年8月1日)
悩謝42槻悩脚㈱29
ヒ久保俸1壬場._1 118
泊諱ォ羅謡
大久保
合体を通じて生産され、原料の入手、資金の需給、販売等というような組織
ラ
1 杜 台
1 移
ら六工場の百台、少くて五工場の九十二台というよづな会社が組織された。
本豪は要改造書によるo
1i 88
禦棋18i l…璋8
1 1
2,622 1431,322
[計 t
14 542
2 206
松 川一 46, 4 20
i相馬400i 15:2001
九ヒ本松 143 2 801
五:福島韓揖 56 2− 30
墜 津 22 1i 22
8 99
,大久保 57i a 301
4 137
9 277
5 215
一丸進 96i Z 501
彊野離 1サ…1薯8i
20 165
!昭 和 1101 2σ 50i
統合体名 1組織員数 機台合計
一川俣地方羽二重機業の発達一
1フll 俣 1,246 60 600
D
ス一
台 万国
40 1,620
台1 否「 台!
一偏
備一一
壷三
協同組合組織(昭和盟年1月)
会社組織の内容に一応問題あるとしても、会社経営への組織化と協同組合組織の経営という二つの
1川俣地方羽二重機業 の 発 達 1 九六
藏場台円日
慶工06万25
そこで先づ協同組合に加入した理由からみてゆくことにしよう。組合加入の理由を四つに分けて
一の内訳は三十台未満特に十台未満のものが多く、又融資便宜のためがやはり三十台未満が多いの
性は明治二十二年以来同業組合の組織化を通じて体験されて来たのである。そして前表でみられた
台
内
現
、 手
が
ユ
1 24
4 6
要 改
造
機 数
の
訳
に
わ れ
た
よ う
に
織
機
ま だ
広
汎 に
存 続
5 3
大資本に融資の原糸買付
種 別 対抗手段便宜の製品と販交際上
と してために売上有利__、_
黒 年
23
i i
している事実は、大工場発展にもかかわらす、小規模家内工業や
小規模工場が群小している事を示すのであるGこの事は後にふれ
るとして、組合加入のもう一つの理由は、原料の買付及び製品の
販売のためがやはり三十台未満σものに多い。この事は、大、中
工場にもいえようG生糸の検査制度と、貿易商や問屋の支配とい
11∼20− 1可! 10 9: 11
21∼30[ 9… 8 10 2
裁劉 1 早 ♀1」
51以上1 3 1 3. 4
計 : 41− 31: 45! 3〔
1 1
購脚
内 110
大 年
23
者員敷金日
表織台本年
月
立
代組機質設
うところに原因があろう。検査制度という法的規制が明治末期輸出問題から端を発してい
るにせよ、又戦時中の統制から強化されたにせよ、戦後は、そのような制度の上に貿易商
が問屋的存在でのっかっている事実と、販売上の実権を掌握していることによって、川俣
組合加入理由
1。台縦 14i8 19!1∈
江 1伯
6250月 と同じである。経営の弱さは吠資本への対抗として自巳防衛のための手段であり、このような弱体
義工恰万22
・一人揚合口且一:
黒 年
23
与工92万1 ある。その一は大資本に対抗手段として四十一、原料買付と製品販売上の有利のためが四十五ある
5 00月
江 1 η
この外融資の便宜のため三十一、交際上が三十一となっている。大資本に対抗するためのもの四十
藏場云厭四日,−
三 年
23
浦 10
5130月方向をとらざるを得ない工場経営の実際に問題があるわけである。
分離難襟㌶蝦蟹額灘
区
羽二重経営者が買取、賃織の二様の生産をせざるを得なくなり、商社が川俣地方の大、中
/
企業診断報告書
工場組織の形態 (昭和23年11月10日)
台
数
撫趣藁計i ,翼
1 I l 一 1 :
10台未満
11∼20
21∼30
31−40
4コ∼50
51台以上
46“一246 −1201 366大橋、川俣、川椿、寺島
54 18591−211… 820大橋精機・鈴清
28 42645 − 64 751大橋、木村
10 15312 − 16 343大橋、KS式明和、津田駒
7 2307 − 12 321大橋・津田・五百川
121201591一一 彪 864大橋、寺島、津田多川木村
1 : l l
計
57278饗3…一娼5…3’4聞
経験者の経験年数
家 族 労 働 者 数
蜘籍某解説
種号雌数欝同論蹴纏■
41∼50 11
51台以上1 1:
i +
1計 … 7
1一一_._一■1.__一
企業診断報告書
4 39一 一11 ∼ 20 54
2 22 21∼30 28
− 9 …31 ∼ 40 10
1 5141∼50 71
曹T1台以上1121
「9
1・】11q1計一1571
− 1 一一一■一一一一一一一一一一’一一
企業診断報告書
33
R7
P5
%726853501417
i31∼4σ 一
1 肛場 i馴女
一1
3 32 −10台未満 46
T1293,
七一11∼20 2
−21∼30 11
332一﹃1 9
九 110台未満 2
一6611一1 15
i 「 :
171 45
26 47i
12− 15;
7 4i
r /
i
6311131
1 一」
虚 F一
巾織機は鉄製なく、半木製四百八十五台存在下る。も
っとも小巾は捨てられつつある。明治時代の遺物でも
あろうGそれはともかく型式においても明治後期出現
\
した大橋式の改良織機がその伝統を守っているのであ
る。
次に川俣地方の工場百五十七の内には、まだ家族労
働使用工場が九十三工場存在するということである。
勿論不況や需給関係で操短休業のために労働者を使用
出来す、家族労働に切りかえた工場もあろうが、それ
にしても家族労働に基く工場が三十台未満に圧倒的に
占めている事実である。
の経験者が百十六あり、三十台未満の工場に多く、大
工場に少いOこれ等の諸点の多くは三十台未満の工場
更に経営者の経験年数の調べによると、十一年以上
昭和26年度調査
小工場をして賃織老化している事実に基く、経営の弱さを覆うことが出来ないであろう。
機
しかもこのような弱さは、文機台型式の上にも現われていわしないだろうか。左表は型
織
式別の工場数を示したものだが、これによると、工場百五十七の内大巾織機は鉄製と半木
別
製に分れ、鉄製が二百七十八台、半木製が二千六百五十三台という数字をみせている。小
式
計
数
巾
合
ヤ
オ
械一
型一
大
別
一巾
寝
工場敷
巾
別
模
規
−川俣地方羽二 重 機 業 の 発 達 −
筏
−川俣地方羽二重機業の発達− 九八
が示すところである。大工場が少い川俣地方の工場経営はこのような小、中工場によって占められているとすれば、右で述
べたこ之は川俣羽二重機業の実態なので解決の仕方が検討されなければならないであろう。 ︵一九五二.五︶
Fly UP