...

リカルテ将軍の政治思想について

by user

on
Category: Documents
14

views

Report

Comments

Transcript

リカルテ将軍の政治思想について
[研究ノート]
リカルテ将軍の政治思想について
荒 哲
はじめに
びついていった、とする従来の「定説」は上
本稿は、日本と最もゆかりの深いフィリピン
記の諸先行研究で指摘されてはいるものの、
革 命 家アルテミオ・リカルテ・ビボラ将 軍
その親日的政治思想がどのような状況で生ま
(General Artemio Ricarte Vibora、以下リカルテと称
れ、そしてどのように展開していったのかにつ
する)のフィリピン独立へ向けての政治思想が
日本亡命後、どのように形成され展開していっ
たのかを考察する。
過 去 の マライ(Malay, 1966)、 グッド マン
いて十分検討されてはいない。
本稿は、従来まで十分議論されることの無
かったリカルテの日本亡命期における思想的
1)
推移を従来の伝記、リカルテの個人書簡 、日
(Goodman, 1966)
、アミストソ(Amistoso, 1974)、
本側の外務省資料、フィリピンにおける親族
池端(池端、1975; Ikehata, 1991)の研究等を踏
へのインタビュー等を手がかりに検討し、最
まえ、荒ではリカルテの「反米主義」を客観
終的に日本占領下のフィリピンにおいて対日
的に捉えようとする視点が示された(Ara, 1997;
協力をするに至った思想的背景を明らかにす
荒、1999)
。つまり、リカルテの「反 米 主 義」
る。
が日本亡命後、一貫しておらず、従来から言
われているリカルテの「頑なな反米主義者」
観を見直すべきとする視点が提示された(荒、
Ⅰ リカルテの生い立ちとカティプーナン
への入会
1999: 223)
。しかしながら、フィリピン史におけ
リカルテの思想的分析を始める前に、彼の
るリカルテについての研究は現在に至っても十
生い立ちとナショナリストとしての源流を若干
分なされているとは言えず、その歴史的評価
見ておく必要があろう。アルテミオ・リカルテ
をめぐっては今もって明確な回答が示されてい
は、1866 年 10 月 20 日、スペイン領フィリピ
るとはいえない。
ン諸島ルソン島北部(イロコス地方)の町バタッ
その意味でリカルテを評価する際に重要な
ク(Batac) で生まれた。父は、エステバン・
彼の政治思想については未だ深く議論されて
ファウスティノ(Esteban Faustino)といい、母は、
はいないということができよう。元来、対スペ
ボニファシア・リゴナン・ガルシア(Bonifacia
イン革命闘争や比米戦争の頃に育まれたリカ
Rigonan Garcia)といった。父母はこの地方では
ルテの反スペイン、反米思想がその後の日本
かなりの名家の出身であったといわれ、自分
亡命によってどのように変化したのか。彼の
たちの子供たちに十分な初等教育を施すこと
親日的ナショナリズムが亡命先の日本におい
ができたという。母は熱心なカトリック教徒で
て形成され、それが背景となってその後の日
あり、リカルテもこの地でカトリック教徒とし
本占領下のフィリピンにおける対日協力に結
て洗礼を受けた。その後リカルテは、勉学の
62
アジア研究 Vol. 54, No. 1, January 2008
ためマニラへと上り、1884 年、サンフアン・
教師時代を契機として、彼の人生の目標となっ
デレトラン学院(Colegio de San Juan de Letran)
た「フィリピン独立」の観念が心中に宿り始め
に入学し、5 年後、文学士として卒業した後、
ていた。カビテの小学校で民族主義教育を徹
当時のフィリピンの名門大学サント・トーマス
底して行なっていたリカルテの存在がカティ
大学(Universidad de Santo Tomas)に入学したが、
プーナンのボニファシオの目に留まり、リカル
神父のみが教える教育内容に飽き、1 年足ら
テに同志になるよう幾度も誘いをかけ、熟慮
ずでマニラのエルミタ地区にあったという師範
の末、1896 年リカルテはカティプーナンのメン
学 校(い わ ゆる Escuela Normal) に 転 校 し た。
バー、いわゆるカティプネーロ(Katipunero)に
1890 年、24 歳のときこの学校で初等教育機関
なった。リカルテはボニファシオの説くフィリ
での教員免許を取得した(Fleetwood, 1997: 1;
ピン独立へ向けての教義に深い感銘を受ける
Amistoso, 1974: 11)
。
ようになった(Amistoso, 1974: 15)。
リカルテは、サント・トーマス大学での教育
ボニファシオのフィリピン独立思想について
がフィリピンにおけるスペインの植民地経営に
は、 レイナルド・ イレトによる Pasyon and
有利な人物しか輩出しないのではと考え、当
Revolution に詳しい。この思想は、短的に言え
時多くの若年エリート層がスペインへ留学す
ば改革主義者であるエリートらがスペイン語
る機運を憂いていたという。そのためリカルテ
を媒体として伝えようとした西欧の自由主義
は、スペインへの留学を断念し、フィリピンに
思想と一線を画しているということである。ボ
とどまりながら民族主義教育をする決心をし
ニファシオは、民衆の言葉であるタガログ語
た。教員免許を取得した 1890 年の 7 月、リカ
を用いて、民衆の世界観であるフォーク=カト
ルテは、マニラ南部カビテ(Cavite)にあるサ
リシズム(フィリピン化された民間のカトリシズム)
ンフランシスコ・デ・マラボン(San Francisco
の文脈で、革命の必要性とその意味を語って
de Malabon、後の General Trias)の小学校の教師
いた。19 世紀のフィリピン・カトリック社会で
となった(太田、1972: 9)。
は、キリストの受難詩、いわゆるパッションの
当時のフィリピンでは、穏健な改革主義者
詠唱が盛んであったが、カティプーナンは、
による対スペイン民族主義運動がことごとく
パッションの言葉と論理で、革命の意味づけ
失敗し、唯一残された方法として、労働者階
を行なっていた。リカルテは、ボニファシオの
級の出身であったアンドレス・ボニファシオ
片 腕 とし て 活 躍 し た エミリオ・ ハ シ ント
(Andres Bonifacio) が指導者となり、1892 年 7
2)
(Emilio Jacinto)の説く kalayaan こそが「フィ
3)
月に結成されたカティプーナン(Katipunan)に
リピン独立」の原点であると主張している 。
よる武力革命でスペインの植民地支配に対抗
植民地時代の「暗闇」の中で革命こそが「光
するという運動が秘密裏に浸透し始めてい
明」をもたらすとし、その手段がカティプーナ
た。この組織の正式な名称は、Kataas-taasang
ンであり、同時にスペインによって破壊された
Kagalang-galang na Katipunan ng mga Anak ng
フィリピンの伝統的な価値観を取り戻す、とい
Bayan(崇高神聖なる人民の子の団体、という意味)
うのがボニファシオ流の革命観であった(Ileto,
であり、略して KKK と呼称した。リカルテは、
1985: 82–87)
。リカルテは、このようなボニファ
教師として様々な経験を積んでいたが、この
シオやハシントらが説くフィリピン独立論に傾
研究ノート/リカルテ将軍の政治思想について
63
倒し、これを彼の独立へ向けての基本的思想
に抗戦したが、1900 年 7 月、マニラにおいて
として位置づけたのである(Ricarte, 1927: i)。
米国当局によって捕らえられた。その後、リ
カルテは、グアムへ流され、帰国が許された
Ⅱ リカルテの日本亡命と宇佐穏来彦の役割
後でも米国に忠誠を誓うことなく再び香港へ
リカルテがどのような経緯で亡命したかにつ
と流された。香港滞在中もしきりに革命蜂起
いては、Ara(1995: 17–24, 1997: 32–44)でも明
を企て、フィリピンに密入国を果たした。1904
らかにされているので、ここでは亡命に至るま
年 5 月、再び逮捕され、再度米国への忠誠を
での過程をごく短く紹介することとする。そし
拒否し、ビリビド刑務所に収監された。6 年後、
てどのような日本人とリカルテは関わりを持つ
1910 年 6 月、彼は刑期を終えて釈放されるが、
ようになったのかを検討したい。
またもや米国への忠誠を拒否し、再度香港へ
フィリピン革命は、1897 年 3 月のテヘロス
4)
追放されたのである。
会議以降新たな局面を迎える 。この会議でボ
香港滞在中、リカルテは、
「フィリピン革命
ニファシオは失脚する。カティプーナンは事実
評議会」(Consejo Revolucionario de Filipinas)を
上消滅し、新たな新革命政府が樹立され、ア
設立し、密かに革命再起を狙っていた。一方、
ギナルド(Emilio Aguinaldo)がその指導者となっ
リカルテは、宇佐穏来彦なる日本人国家主義
た。革命勢力はこれにより統一され、同時に
者と親交を持っていた。宇佐とリカルテの関
革命の本拠地をブラカン州(Bulacan)サンミゲ
係については、グッドマンの研究でも断片的
ル 町(San Miguel) のビ ヤクナ バト(Biak na
に触れられているが(Goodman, 1966: 50)、ここ
Bato) 村に移した。その後フィリピン革命は、
ではもう少し具体的に見ていきたい。
おんきひこ
スペインとの和解(いわゆるビヤクナバト和平協
宇佐は、1872 年(明治 5 年)11 月、福岡県
定)
、アギナルドの香港渡航等によって新たな
三池郡銀水村大字草木(現在の福岡県大牟田市)
局面を向かえ、その後の米国の介入で複雑な
に生まれた。父は、宇佐益人といって地元の
展開を見せるに至った。米国は香港にあった
草木八幡宮の神官であったが、幕末、尊王攘
5)
フィリピン革命評議会(Hongkong Junta) と巧
夷運動に関わった経緯があった。穏来彦は、
みに交渉し、アジア進出あるいは中国進出へ
父益人の尊王攘夷運動に若干影響を受けつつ
の足がかりとしてフィリピンを植民地化しよう
も、熊本の学校においてキリスト教の教義に
と模索していたのである。アギナルドは、当
感銘を受け自らクリスチャンに改宗した。熊
時香港に停泊していた米国艦隊と共にフィリ
本の学校を卒業後、一時、長崎日日新聞の記
ピンに帰国したが、リカルテは再三にわたって
者となるが、長じて上京し一般企業に就職す
米国の「侵略的協力関係」についてアギナル
る。その後、幕末に活躍した勝海舟の門下生
ドに警告していたという。フィリピンは、1898
となり、勝の説く中国論に感銘を受け、これ
年 6 月、スペイン当局に対し正式に独立を宣
をきっかけに宇佐は、同郷の国家主義者、宮
言していたが、米国の介入によって独立は危
崎滔天と友人関係を築くようになった(中山、
機に瀕し、1899 年 2 月、比米戦争が勃発した
1942: 巻末 1 ページ ; 新藤、2000: 101)
。中国大陸
(Agoncillo, 1960: 179)
。
リカルテは比米戦争において徹底して米軍
64
渡航を夢見る宇佐は、当時の玄洋社や黒龍会
のような国家主義団体に所属することはな
アジア研究 Vol. 54, No. 1, January 2008
6)
かったが 、その後実際に中国へ渡り、北京修
ラマ島に居住していたとされるリカルテと「密
文館で中国語を学び、1897 年(明治 30 年)頃
会」を繰り返していたと綴っている(各国内政
香港に移り住んだ。1 年後の 1898 年(明治 31
関係雑纂、米領比律賓第一巻 : 1・6・2・1-6)
。以
年)5 月頃、対スペイン・フィリピン革命時の
上のように、宇佐が 1897 年から香港を拠点に
フィリピンへ日本海軍の明石元二郎少佐に随
フィリピン人革命家とかなりの程度まで交流を
行したという(要視察外国人挙動関係雑纂、米国
持っていたことは事実であろう。
人一 : 4・3・1・2-7)
。しかしながら、実際に宇
ところで、船津によって書かれていたこの機
佐が明石少佐とともにフィリピンへ渡航できた
密報告によれば、リカルテが香港において交
かどうかについては具体的に裏付ける史料が
流できた日本人はこの宇佐だけであったとい
無く、詳細は不明である。
う。リカルテは、 報 告 書が書かれた翌 年の
この点を綴った上記外務省記録によれば、
1911 年(明治 44 年)2 月、宇佐を通して日本
宇佐は、そのフィリピンで当時日本の横浜に
政府に対して「香港革命評議会」への援助を
在住していたフィリピン革命勢力の 1 人ホセ・
申し出ている。それは次のような内容を持つ
7)
ラモス(Jose Ramos、日本名、石川保正) の紹介
書簡であった。
でリカルテと知り合ったという。宇佐は滞在し
ていた香港において清朝改革派の 1 人康有為
「前略 私は、貴政府に対して我フィリピン
一 派と積 極 的 に 交 流 を 持 ち(黒 龍 会、1966:
諸島革命政府がここ英国領において設立 2 ヶ
623)
、1898 年(明 治 31 年)9 月、 その 康 有 為
月目に入ったことをお伝え申し上げます。そ
が日本に亡命する際に宮崎滔天と共に同行し、
してこの日より、貴国の天皇陛下と、我が祖
帰国した日本において中国革命(辛亥革命)の
国において米国政府の主権を転覆させるべく、
孫文(孫逸仙) 一派とも交流を持った(宮崎、
尚且つ、旧マロロス憲法の下でのフィリピン共
1962: 156–167; 黒龍会、1966: 624)
。また 1898 年
和国を再興させるべく私が計画しているこの
7 月当時ラモスと共に横浜に住んでいたフィリ
革命政府についての諸問題について当方と直
ピン革命家マリアノ・ポンセ(Mariano Ponce)
接連絡できることもお伝えしたく存じます。私
が香港のフィリピン革命委員会 Hongkong Junta
は既に、現在香港に在住しております貴政府
に書き送った書簡では、宇佐はこの Hongkong
の代理人である宇佐穏来彦氏と協議を持ちま
Junta のフィリピン人革命家とも積極的に交流
した。私は、宇佐氏を通して東京の外務省に
していたことが書かれており、また、中国語
我 々 の 願 い を 伝 え て お りま す。(以 下 略)」
に流暢な宇佐が中国人を装って康有為を救っ
たことも書かれている(Camagay, dela Peña, 1997:
(Goodman, 1966: 49; 各国内政関係雑纂、米領比律
賓第一巻 : 1・6・2・1-6)
243)
。その他、在香港日本総領事代理であっ
た船津振一郎は、1911 年(明治 44 年)3 月 14
果たして宇佐がリカルテの願いを実際に日
日付けの機密報告書の中で、宇佐が娼妓屋や
本政府に伝えたのかどうか詳細は不明である。
雑貨屋を経営しながら生活しており、1910 年
無論、東京の外務省は日米友好関係維持の都
(明治 43 年)6 月にリカルテが香港に追放され
合上、この書簡に対して全く反応しなかった。
て以降リカルテと連絡を密にし、当時香港の
研究ノート/リカルテ将軍の政治思想について
この書簡で注目されることは、リカルテが一介
65
の「大陸浪人」に過ぎなかった宇佐を日本政
セズシテ国家ノ為メ之レヲ善用スル考ナリ」と
府の代理人と位置づけていることである。当
述べている。その後の外務省の文書によれば、
時リカルテが設立した「フィリピン革命評議
宇佐はその年の 6 月末頃、横浜警察署長の
いかりやま
会」には、過去の Hongkong Junta が持ちえた
錨 山と接触し、リカルテの日本滞在に便宜を
ような日本への太いパイプはなかったと思わ
図るよう要請したという 。この錨山とは、宇
れる。リカルテは、香港で知りえた唯一の日
佐にリカルテを紹介したとするホセ・ラモスが
本人、宇佐を信頼しつつ、フィリピン革命再
1898 年当時(明治 31 年)横浜に住んでいた際
興のための最後の望みを宇佐に託したのであ
の横浜警察の警視であると考えられる。上記
ろう。それほどリカルテと宇佐の関係は深かっ
ポンセの書簡によれば、このラモスと錨山は親
たのではないかと思われる。
しい友人関係にあった。錨山は、フィリピンの
1915 年(大正 4 年)、第 1 次世界大戦勃発後、
8)
革命運動家に強い理解を示し、ラモスやポン
香港ではイギリス官憲のアジア民族主義者ら
セと親しく交流していたのである(Camagay and
への取締りが厳しくなり、香港を拠点にして
dela Peña, 1997: 129)
。こうした状況から察する
いたリカルテの「フィリピン革命評議会」も解
に、1915 年(大正 4 年) 当時、横浜警察の幹
散を余儀なくされる。リカルテはその後、上
部であった錨山が宇佐の要請によってリカル
海へ逃れ、当時リカルテの消息を追っていた
テの滞在に便宜を図ったことは十分に考えら
米国官憲の手を逃れるべく日本へ逃亡した。
れよう。
この中で宇佐は、上海から日本へ渡るリカル
テの乗船する船の手配を行い、日本側では宇
次にリカルテが日本へ亡命するに至った思
想的背景について検討してみる。
佐と同じ国家主義者で大日本国防義会なる右
げんたく
翼団体の代表であった葛生玄 晫がリカルテの
Ⅲ 日本へ傾倒するリカルテの思想的背景
受け入れに尽力した。本来、公式にはリカル
元来、明治期のアジア主義者であったとさ
テの日本亡命は日本政府にとって日米外交上
れる宇佐をはじめとする国家主義者たちの活
の影響を考えれば決して受け入れることので
動の場は、中国大陸や朝鮮半島であった。そ
きるものではなかった。しかしながら、再三に
れが何故フィリピンといった東南アジアへ活動
わたる米国政府からのリカルテのフィリピン送
の場が広がったのだろうか。鈴木静夫は、日
還要求にも関わらず、外務省は最終的に「帝
本国内でのアジア主義者たちを中心とするフィ
国政府ニ於テ未俄カニ追放ノ処分ニ出ツヘキ
リピンへの比米戦争時の武器援助は「フィリ
次第ニ非スト認ムル」と静観を決めてしまった
ピン人が強大なアメリカにほとんど素手で立ち
のである(要視察外国人挙動関係雑纂、米国人一 :
向かっているという、アジアにおける圧迫者対
4・3・1・2-7)
。
被圧迫者の構図」があり、孫文を中心とする
日本政府は非公式にリカルテの日本亡命を
中国人と日本人が互いに民族主義の枠を乗り
認めた。その背後には宇佐や葛生を始めとす
越えて計画された、と指摘している(鈴木、
る日本の国家主義者たちの尽力があった。宇
1984: 312)
。無論そこには強力な軍事大国日本
佐は、1915 年(大正 4 年)7 月、警察当局の取
にフィリピン独立への援助を期待するフィリピ
調べに対し「リカルテヲ所謂浪人組ノ手ニ委
ン革命家たちと日本の国家主義者たちとの交
66
アジア研究 Vol. 54, No. 1, January 2008
流があり、彼等の唱えるアジア主義思想に共
のバターン州(Bataan)マリベレス(Mariveles)
鳴するフィリピン人も多かったのである。リカ
で逮捕され、その後の裁判でビリビド刑務所
ルテもその 1 人だったであろう。また比米戦争
に収監される。リカルテは後年、マニラに住
以前の対スペイン革命時における秘密結社カ
む友人サントス(Jose P. Santos)へ宛てた書簡
ティプーナンの拡大には、1894 年(明治 27 年)
において自分の対米蜂起が 1904 年(明治 37 年)
の日清戦争の衝撃によってフィリピン知識人
2 月に勃発した日露戦争に駆り立てられるよう
階層が日本への関心を高めたことにその要因
に計画されたことを綴っている。そして「でき
を見出すことができると池端雪浦は指摘して
れば日露間の戦争と時を同じにして(対米蜂起
いる(池端、1989: 4–5)。
を、括弧筆者)成功させたかった」とも述べて
9)
対スペイン革命の勃発から、比米戦争、そ
いる 。また、後年、日本占領下のフィリピン
してリカルテの日本亡命まで期間にして延べ
において配布されたパンフレット『日本と武士
20 年弱の時間が経過しているが、リカルテの
道を訊く』の中でも「日露戦争では当時の一
日本への傾倒はこの時期に育まれてきたと考
大強国を破って全アジア民族に覚醒の機を与
えてよいであろう。では具体的にいつの時期か
えた、丁度その頃わしは同志とともに香港に
らリカルテの日本への傾倒が始まったのだろう
亡命していたが日本必勝の信念をもって密か
か。確かに日清戦争がフィリピン知識人階層
に帰比して同志を集めて米軍と闘った」とも
やフィリピン革命家に与えた衝撃は高かった
述べている(Ricarte, 1943: 4)。その他にリカル
と考えられるが、リカルテ個人が日本への強
テは、1927 年(昭和 2 年) に出版された自分
い関心や傾倒に転じたのは、その後の日露戦
の回顧録の冒頭で日本の日露戦争の勝利を
争であったと考えられる。1912 年、香港にい
「同じ褐色民族である日本人の白人ロシア人へ
たリカルテは、フィリピン人ジャーナリストか
の勝利」と捉えていたのである(Ricarte, 1927:
らのインタビューに次のように答えているので
ix)
。
ある。
この 1927 年のリカルテの記述で注目される
のは、人種的な文脈において日露戦争を捉え
「私は日本を同胞として評価している。日本
ている点である。これは、1881 年(明治 14 年)
は東洋の尊厳をロシアに勝利したことで高め
に頭山満によって設立された玄洋社あるいは
た唯一の国である。日本こそ我々の独立闘争
1900 年(明治 33 年)に内田良平によって設立
に援助を差し伸べることのできる国である。
」
された黒龍会などが唱える「アジア主義」と
(Philippine Republic, Feb. 1, 1912)
共通する部分がある。そもそも玄洋社や黒龍
会が唱えるアジア主義の特徴は、明治 20 年代
日露戦争が勃発した当時リカルテは、前節
以降に入っての自由民権運動の後退、天皇制
でも述べたように 1903 年、米国当局によって
国家機構の確立、または対清軍備の拡張など
流されたグアムからマニラに戻り、1904 年に
によって生まれてきた「大アジア主義」に見る
かけて再び流された香港から再度フィリピン
ことができる。当初、民権論を唱えていた玄
へ密入国し対米蜂起を企てていた時期にあた
「有色人種とし
洋社は、1887 年(明治 20 年)、
る。リカルテは、1904 年 5 月末ルソン島中部
て欧米人に対抗するには軍国の設備が必要で
研究ノート/リカルテ将軍の政治思想について
67
あり、ことに東洋の新興国として勃興せる我
龍会の内田良平の世話で東京の世田谷に住ま
が国が、将来の東洋の盟主たらんとの希望を
いを持つことができ、同時に 1920 年(大正 9 年)
包蔵する時代において、軍国主義の主唱は最
から 1 年間にわたって黒龍会が発行していた
も時をえたり」として国権主義の転向を表明
英文雑誌 Asian Review の編集記者になった。
していたのである(竹内、1963: 9)。
そこで月 50 円の収入を得ることができたとい
10)
リカルテの思想にこうした日本のアジア主義
う 。その後リカルテ一家は、住居を横浜に移
と日露戦争での日本の勝利がかなり影響して
し、1923 年(大正 12 年)の関東大震災におい
いることは疑いない。リカルテは、
『日本と武
て九死に一生を得た。特段目だった政治活動
士道を訊く』の中でも「日露戦争で日本があ
を行うでもなく、妻アゲダ(Agueda Esteban)に
の大国を敗つたという一事は、俄然我々同種
よって経営されていたフィリピンレストラン、
東洋民族に大なる自覚と希望を与え」と捉え、
カリハン・ルズィミン(Karihan Luzimin)で少し
日本がアジアの盟主になりつつアジアを解放
ばかりの収入を得、リカルテ自身も週に何度
することを主張している(Ricarte, 1943: 27)。こ
か通う東京渋谷にあった海外殖民学校のスペ
の点から考えると日本亡命当初のリカルテの
イン語教師として静かな毎日を過ごしていた
アジア主義も玄洋社、黒龍会が唱えるアジア
(Fleetwood, 1997: 4)
。
主義と同じ文脈で捉えることができよう。亡
ところで、同じアジア民族主義者で日本に
命後のリカルテの政治思想は、こうした日本
亡命していたボースや孫文の日本における政
の国家主義団体らによって唱えられていた国
治的発言に比べると、リカルテの発言はそれ
権主義的なアジア主義に沿う形で形成されて
ほど注目されていない。その背景の 1 つとして
いく。次にその政治思想が具体的にその後の
リカルテが日本に亡命した当時、日米関係は
亡命生活の中でどのように展開されていたか
良好であり、リカルテは表立った反米活動が
をフィリピン独立に関する言説に絞って検討し
できなかったことが挙げられよう。実際、リカ
てみよう。
ルテは絶えず警察当局外事課によって尾行さ
れ、
「反米思想」を有した人物として常時監視
Ⅳ フィリピン独立に関するリカルテの言説
下におかれていたのである(要視察外国人ノ挙
リカルテの日本での亡命生活は当初から困
動関係雑纂、米国人ノ部二、4・3・1・2-7)
。また
窮を極めていた。生活資金に事欠くほど収入
大正から昭和期にかけてリカルテを支えた国
源がなかったという。そのためリカルテの亡命
家主義団体の関心のほとんどが日本の対朝鮮
生活は、亡命を援助した玄洋社や黒龍会から
半島や対中国大陸政策に向けられており 、
の資金援助によって支えられていた。ちょうど
こうした理由からリカルテの政治活動や発言
リカルテが日本に亡命した頃、同じように日
が孫文やボースほど注目されなかったのであ
本に亡命したインドの独立運動家ラス・ビハ
ろう。また英語や日本語ができない リカル
リ・ボース(Rash Behari Bose)は、孫文、頭山
テのフィリピン独立に関する言説や意見表明
満、犬養毅らに相談して、1917 年(大正 6 年)、
のほとんどがフィリピンの言語タガログ語やス
当時愛知県で生活していたリカルテを上京さ
ペイン語だけで行なわれており、この言語的
せたという(太田、1974: 83)。リカルテは、黒
障壁もリカルテの政治活動が日本人に認知さ
68
11)
12)
アジア研究 Vol. 54, No. 1, January 2008
れなかったもう 1 つの理由であったと考えられ
であった米国民主党に対しリカルテが高い評
る(太田、1974: 106)。
価を与えていたと見ることができよう。しかし
日本亡命中のリカルテのフィリピン独立へ向
ながら、こうしたリカルテの米国への寛容な態
けた発言は、その時々のフィリピンをめぐる政
度は、米民主党がフィリピンの自治と独立を
治状況によって様々な色彩を見せている。具
進展させる政策を展開していたことが背景と
体的には、米国政府が民主党を中心にフィリ
してあったわけで、
「米国帝国主義」それ自体
ピン独立に積極的なときは頑なな反米主義を
への寛容さではなかった。そのため共和党の
薄め、逆に独立に消極的な共和党が「帝国主
政権復帰、フィリピン自治と独立後退という
義」的な政策を打ち出した場合は従来の反米
動きに対しては依然としてリカルテは「反米」
主義を強める、といった具合に政治的発言を
であった。
変えていたことである。そして、もう 1 つの特
例えば、1921 年(大正 10 年)、米国ではフィ
色として指摘しなければならないのは、米国
リピン植民地の維持を主張する共和党が政権
植民地下のフィリピンで絶大な政治権力を持
に復帰し、フィリピンでは前述したジョーンズ
ち始めたケソン(Manuel L. Quezon)による独立
法以降のフィリピンの自治へ向けた動きが失
運動を強く支持しながらも、最終的には日本
速した際、リカルテは、東京の黒龍会で編集
の国家主義者たちのアジア主義に共鳴しつつ
していた Asian Review の 7 月 8 月合併号にお
そのケソンに失望したことである。次にそれを
いて次のように述べているのである。
具体的に見てみよう。
リカルテは、日本に亡命してから 1 年後の
「米国帝国主義が意図的になしているよう
1916 年に米国民主党政権の下で制定された
に、日本の不安というものはまさにそこにあ
ジョーンズ法(Jones Act)を高く評価し、マニ
る。まさしくそれは、東洋民族すなわち非白
ラのタガログ語新聞 Taliba(1917 年 3 月 20 日付
人種間で相互不信を生じさせる唯一の戦略で
け) に「米国のみが自由を愛する国であり、
あり、そうすることで、帝国主義者たちは貪
虐げられている如何なる国々の自由も米国の
欲な手を差し伸べている国々を食いものにし
援助によって獲得されている。合衆国万歳!」
ているのである。現在の米民主党政権の下で、
などと、頑なな「反米的」態度を軟化させて
まったくもってフィリピンの独立の現実性は疑
いた(Ricarte, 1927: 13–15)。リカルテは、日本
わしくなっている。中央政府において任命さ
のアジア主義の影響を受けながらも、独立、
れたすべてのポストのためのフィリピン化政策
自治へ加速するフィリピン本国の動きに注意
の保持あるいは維持も同様に危機に瀕してい
を払い、米国に対して態度を軟化させていた
る。(途中省略)私は、日出る国日本が我々を
のである。そのため、亡命直後から 1920 年前
援助しなければ、フィリピンは自由と独立を
後までのリカルテの発言には反米的な色彩が
享受し得ないであろうと固く信じているのだ。
」
ほとんど見受けられない(荒、1999: 213–214)。
(Ricarte, n.d.: Lingguhan ng Mabuhay, Oct. 23, 1932)
これは、フィリピンにおける米国植民地体
制が堅固に確立されてしまったことに対するリ
ここでもアジア主義思想からの影響と思わ
カルテの容認と当時、フィリピン自治に積極的
れるが、リカルテは日露戦争の時の記述と同
研究ノート/リカルテ将軍の政治思想について
69
じように「西洋民族」と「東洋民族」に白人、
運動の後退」(Paurong ang lakad ng kasarinlan ng
非白人という人種的概念をあてはめ、日本へ
Pilipinas)と題する政治声明を発表した。リカ
の期待を込めている。この他、1924 年(大正
ルテはここで、
「フィリピン人には独立後の国
13 年)2 月、リカルテは横浜市加賀警察署外
家運営を行なう十分な能力が備わっており、
13)
事課の職員に通訳
を介して当時のフィリピ
それについては米国植民地体制が確立される
ン独立運動について発言し、米国共和党政権
頃のフィリピン委員会のタフト(William Taft)
下で派遣された新しいフィリピン総督、レオナ
も認めざるを得なかった」と主張した。そし
ルド・ウッド(Leonard Wood)の政策について
て、10 年後に独立に積極的な民主党がそのま
当初は期待したものの、その後のフィリピン自
ま政権党であるかどうかわからないのに、そ
治を後退させるような政策に幻滅し、ウッド
のままフィリピンに独立がもたらされるかどう
総督の更迭を強く求めていた(「要視察外国人ノ
か不確かであるとし、
「コモンウェルス」条項
挙動関係雑纂」米国人ノ部三、4・3・1・2-7)
。
に反対の意を表した 。
14)
こうした発言があった 5 年後、フィリピン独
ところでこのフィリピン独立法案問題をめ
立へ向けた米国内の動きは加速した。1929 年
ぐっては、リカルテは対スペイン革命と比米戦
(昭和 4 年) の世界恐慌以後、フィリピン領有
争時の自分の部下であったケソンの役割に多
に反対する米国内の勢力が急激な力を得たか
大な期待を寄せていた。ケソンは、かつてリ
らである。不況に苦しむ米国内の酪農家を始
カルテが学んだサンフアン・デレトラン学院で
めとする農業団体がフィリピンからの農業製品
の後輩であり、思想的にはリカルテと異なる
が免税で輸入されるのを阻止するためにフィリ
部分も多かったが、お互い書簡で連絡を取り
ピン独立運動を開始したのである。その頃行
合うほど信頼し合っていた。ケソンは、当時、
なわれた米国下院議員選挙でフィリピン独立
フィリピン上院議長の職にあり、1919 年 2 月
に積極的な民主党が躍進、ヘア・ホーズ・
以来、毎年のように米国議会へのフィリピン
カッティング法案(Hare Hawes Cutting Act, HHC)
独立使節団を率いており、渡米あるいはフィリ
が 上 程されたのである。この HHC 法 案は、
ピンへの帰国途上、必ずといっていいほど横
1933 年(昭和 8 年)1 月に米国議会で成立した
浜にいたリカルテの自宅を訪れていた。リカル
が、10 年間の独立準備期間、いわゆるコモン
テはケソンとの会談において必ずケソンにエー
ウェルス(Commonwealth)期をおいた後の独立
ルを送り、独立問題の解決に期待していたと
法案であった。米国で独立運動をすすめてい
いう 。1933 年(昭和 8 年)8 月、リカルテは
たセルギオ・オスメーニャ(Sergio Osmeña)と
サントス宛の書簡でケソンについて次のように
フィリピン下院議長マヌエル・ロハス(Manual
書いている。
「彼こそ(ケソン、括弧筆者)全フィ
Roxas)の独立使節団はこれに賛成して帰国し
リピン国民に必要な人間である。特にこの時
たが、この「コモンウェルス」条項をめぐって
期、我々の独立の運命が現在不明瞭なときこ
フィリピン議会は、賛成派・反対派に大分裂
そ彼の政治生命に全フィリピン国民は期待し
して論争を展開した。
ているのだ」 。
15)
16)
横浜のリカルテは、この HHC 法案成立後
またリカルテは、当時フィリピンにおいて反
直ちに反応した。すぐさま、「フィリピン独立
ケソンや反米闘争を展開していたサクダル運
70
アジア研究 Vol. 54, No. 1, January 2008
動(Sakdal) やタングラン運動(Tanggulan) を
新しいフィリピン独立法、いわゆるタイディン
厳しい言葉で非難し、ケソンの独裁的権力に
グス・ マックダフィ法(Tydings-McDuffie Act,
よるフィリピン独立獲得を強く求めていた。ま
TMD 法)は、HHC 法案の一部を修正したにと
た同時に、ケソンやオスメーニャらの展開する
どまり、
「コモンウェルス」条項はそのまま残
独立路線を「穏健な政治運動」と捉え、上記
されたからである。この法案は、最終的には
2 つの運動はフィリピンの独立へ向けた国民統
1934 年(昭和 9 年)5 月にフィリピン議会によっ
一に反するとした(荒、1999: 214)。ケソンは、
て承認されるに至った。
こうした中、リカルテやアギナルドといった過
リカルテは、TMD 法に不満であった。リカ
去の「英雄」も HHC 法案に反対であるとの言
ルテは、1934 年(昭和 9 年)12 月に横浜を訪
質を得て、HHC 法案破棄へ向けたイニシアチ
れたケソンからのフィリピン帰国要請を彼自身
ブを発揮するに至った(Friend, 1965: 119–120)。
の反米主義を全うするために拒否したという
それにしても何故、リカルテはこれほどまで
にケソンに期待していたのだろうか。リカルテ
17)
が、真の理由は、コモンウェルスそのものへの
不満であったに違いない。後にリカルテは、
は、思想的には「親米」であり、強力な政治
『日本と武士道を訊く』の中でケソンの行動に
指導力を持ったケソンに期待することで「即
ついて次のような言葉、
「ケソンが日本へ来た
時独立」が可能であると考えていたのであろ
時、わしは口を酸っぱくして将来比島民族を
う。しかし、こうしたリカルテの「純粋」な期
亡くす者は実にアメリカの謀略であるからと忠
待感とは裏腹に、ケソンは当時、フィリピン独
言して置いたが、彼もその位のことは解らぬ
立問題をフィリピン議会における政治的なイニ
男ではなかったのだが人気に溺れて一生を
シアチブ獲得のための手段と考えていた。ケ
誤 って し まっ た の は 残 念 で あ る」(Ricarte,
ソンは、HHC 法案が仮にフィリピン議会で通
1943b: 5)と述べ、ケソンの政治姿勢を痛烈に
過したとすれば、この法案を持ち帰ったオス
批判していたのである。
メーニャとロハス両人のフィリピン政界におけ
コモンウェルスの成立に失望したリカルテ
る力は絶大なものとなり、こうした動きを阻止
は、その後日本への期待をよりいっそう高めた
するためにもケソン自らが HHC 法案に代わる
と言えよう。表面上、リカルテはコモンウェル
独立法案を獲得する必要があると考えていた
ス成立に尽力した米国政府に感謝しつつも 、
のである(Agoncillo, 1975: 194–196)。フィリピン
一方で満州事変や満州国成立などの日本の対
史家アゴンシリョも指摘しているが、結局のと
外膨張政策を賞賛していた(荒、1999: 217)。
ころケソンは上院議長という立場を利用しな
その後、ボニファシオの独立思想を基盤とす
がら独立問題を自分に有利に展開させ、自己
るリカルテ独自のフィリピン独立思想が日本の
のフィリピン議会における独裁制を高めた狡
アジア主義に影響される中、太平洋戦争勃発
猾な政治家でもあった(Agoncillo, 1975: 195–
後のフィリピンにおいて明確化されていくので
196)
。リカルテは、このケソンのしたたかさを
ある。
18)
十分認識していなかった。というのも、HHC
法案が 10 月にフィリピン議会で否決された後
に、ケソンが米国からフィリピンへ持ち帰った
研究ノート/リカルテ将軍の政治思想について
71
Ⅴ Pagkakaisa 概念と Pamahalaang
Magulang 構想
3 つの要素に基づく国家が「カティプーナン政
府」であり、これは共和制国家であるとした
1941 年(昭和 16 年)12 月リカルテは、太平
(Ricarte, 1927: 54)
。リカルテにとってこの 3 つの
洋戦争勃発と同時に海外殖民学校のスペイン
要素のうち①の pagkakaisa 概念はフィリピン
語の教え子太田兼四郎を通訳に同行させ、日
独立には極めて重要なものと位置づけられて
本軍と共にフィリピンへ帰国した。当初、日
いた。リカルテが 1928 年に東京で発行した
本軍当局は、日本占領にコモンウェルス閣僚
パンフレット、
『ひとりの分別ある男が相手を
が従わなかった場合の最終選択肢としてリカ
悔み、傷つけることほど見苦しいものはない。
』
ルテを占領後のフィリピン首班に指名する計
の最後の部分では、フィリピンの独立には何
画でいたという。しかしながら、リカルテが信
よりもまして国民的な団結精神 pagkakaisa が
頼していたコモンウェルス大統領のケソンが国
必要であると繰り返し記されている(Ricarte,
を去り、めまぐるしい状況の中でこの計画は
1928: 21–22)
。
実行されなかった。代わって、治安維持のた
またリカルテは、この「団結精神」を成し
め日本軍政の方針である旧コモンウェルス閣
遂げるには「宗教」の役割も重要であると説
僚を利用しての軍政が 1942 年(昭和 17 年)1
いている。彼の言う宗教とは、
「一人一人の祈
月に開始され、
「比島行政府」(Philippine Execu-
りによって人々の間に連帯感を生じさせ、大
tive Commission) が発足したのである(池端、
きな目標を達成させるための手段」(Ricarte,
1975: 44–49)
。リカルテは、軍政の蚊帳の外に
1928: 21)と解釈している。リカルテは生来カト
置かれ、旧サクダル党で名称を変えたラモス
リックであったが、スペイン語で表現される
(Benigno Ramos)率いるガナップ党(Ganap)と
「神」いわゆる Dios という言葉を使用すること
距離を置く中、軍政に代わる彼独自の「独裁
を嫌い、フィリピンにカトリックが布教される
政権」構想を練っていたのである。それがリ
以前の神概念 Bathala を好んで使用していた。
カルテの 提 唱 する Pamahalaang Magulang で
前述した『日本と武士道を訊く』のパンフ
あった。この構想の正式名称は、タガログ語
レットにおいてリカルテは日本の宗教について
で Balak na Pamahalaan sa Pagsasariling Pilipinas
次のように述べている。
「建国以来日本には神
o Luviminda(Ricarte, 1943a)といい、これはボ
道がある。これが日本固有の宗教である。そ
ニファシオの革命思想を土台にした独立構想
の後支那大陸から仏教が伝わって、今日では
案であった。これを検討する前に、リカルテが
同教が大衆宗教となっている。それからもっと
ボニファシオの思想についてどのように解釈し
もっと後代になってカトリック教が入り新教も
ていたか、もう一度検討する必要があろう。
仲間入りしている。回教もある。こんな具合
リカルテは、1927 年に出版した革命闘争を
で日本では宗教の自由がゆるされているので
回顧した自著において、ボニファシオが提唱し
あるが少しもそのところに矛盾を感じないのは
たカティプーナンの思想的根幹には 3 つの要素
一体どうしたことだと思うだろうが、そのとこ
があると主張していた。すなわち、①「団結
ろが日本人のいいところだ。日本肇国の大精
(Pagkakaisa)
(Pagkatapatiran)
、②「誠実さ」
、
精神」
神である“八紘一宇”の理想に悉くこれ等の
③「平等」(Pagkakapantay-pantay)であり、この
宗教が包まれているからである。
“八紘一宇”
72
アジア研究 Vol. 54, No. 1, January 2008
というのはこの世界が一家族であるという意
実行しなければならないとする。すなわち、
味である。
」リカルテは、日本の宗教をこのよ
①誠実さと精錬潔白な行動を行なうこと、②
うに解釈し、それぞれの地域や国々には独自
一致団結すること、③白人優越主義を排除す
の宗教が存在し、フィリピンの Bathala も日本
ること、④神(Bathala)、お年寄り、教師を尊
の神道のように位置づけなければならないと
敬し、友人を助け、国家の英雄と殉教者を敬
主張したのである。そして、
「国家や民族を問
うこと、⑤平常心を保ち、互いに尊重しあう
題外にしているような宗教では、毒があって
こと、⑥国家のために自らを犠牲にすること、
も益はない、民族意識または国家意識が第一
⑦他人のため、特に他の国民に対して奉仕す
であらねばならぬ」と述べ、国民統一や国民
ること、であった。さらに、いわゆる日本語の
意識を向上させない宗教は宗教でないとした
ことわざである、
「三人寄れば文殊の知恵」を
(Ricarte, 1943b: 14)
。
てがかりに、国家統一の重要性を強調した
19)
リカルテはこのように過去ボニファシオに
(Ricarte, 1944: 11) 。リカルテは、今ここに提示
よって創設されたカティプーナンを基礎に、日
した 7 つの要素を織り込みながら国家建設へ
本の神道に学びながら国家統一や国民的団結
向 け た 独 自 の 理 論 を 展 開 し、Pamahalaang
心を pagkakaisaの精神で成し遂げる政体がフィ
Magulang 構想を練っていくのである。
リピンに必要と考えていたのである。その政体
この構想の原本は、現在フィリピン大学中
こそがリカルテの考える日本占領下フィリピン
央図書館に保管されている。全文、タイプラ
で提唱された Pamahalaang Magulang だったの
イターで書かれており、リカルテの友人サント
である。この政体構想には、戦前におけるケ
スによって戦後自宅に保管されていた。全文
ソンのフィリピン独立へ向けた強力な政治姿
タガログ語で書かれており、文章のスタイルな
勢からの影響も見受けられる。つまりリカルテ
どから察するにリカルテによって書かれたこと
にとって、それは、pagkakaisa 精神を通して団
にはまちがいないであろう。
結精神を向上させ、ケソンのような 1 人の「独
まず前文のタイトル、
「大日本帝国の非常に
裁者」(Magulang)の下で国家独立を成し遂げ
神聖な任務」において、日本が「八紘一宇」
るという政治体制でもある。ここには、米国
の精神の下で行なっているこの戦争が「神聖
がフィリピンにおいて流布しようとした米国式
かつ正義のための戦争」であることが述べら
民主主義とは違った概念が存在していたので
れ、白人支配にあえいでいる東洋を解放する
ある。
ためのものであることが強調されている。そし
リカルテが日本占領下のフィリピンで陸軍報
て、1943 年に「独立」が約束されたことはフィ
道部の宣伝活動に参加していた際に用いられ
リピンにとって栄光を勝ち取ったことであり、
たタガログ語パンフレットに『青少年訓』(Sa
フィリピン国民は喜んでその名誉な独立を受
Mga Kabataan)がある。リカルテは、そこで米
けるべきであるとする。そして、実際の独立
国式民主政治を痛烈に批判し、その思想は
付与までの一定期間、フィリピンには軍事政
「真の東洋精神に対する裏切りそのものに他な
権たる「独裁政府」(Pamahalaang Magulang)が
らない」と主張している。リカルテは、このパ
設立されるべきであるとした。リカルテが提唱
ンフレットにおいて若い世代は以下 7 つの点を
する Pamahalaang Magulang とは、
「その土地の
研究ノート/リカルテ将軍の政治思想について
73
国民から選ばれたたった 1 人の指導者によっ
Aquino)からの「フィリピンには独裁政治は必
て維持される。この政体による厳格な政治は、
要でない」(上妻、1958: 253)という強い反対、
全能の神(Poong Bathalang Maykapal)からのす
そして一方で、従来のコモンウェルス体制を
べての祝福をすべての国民に享受させること
継続させフィリピンの治安を維持していくとい
である。すべてのフィリピン国民には、自由と
う日本軍政の方針(池端、1975: 41)のために
独立という祝福が与えられなければならな
拒否されてしまう。そのため、リカルテはこう
い。
」であった。
した自分の主張を宣撫活動で一般住民を前に
Pamahalaang Magulangの指導者は、いわゆる
説いたが、彼の宣撫活動の範囲は、マニラ市
「独裁者」
、タガログ語では Dakilang Matanda
内とその周辺のみに限られており、
「リカルテ」
(スペイン語の Dictador も併記されている)と称さ
の名は過去の英雄として住民の記憶には留
れ、その「独裁者」は、
「光明は大衆の利益
まっていたにせよ、自分が主張する独立理念
のために毎日輝き続ける」という過去ボニファ
が住民に対し十分伝わらないまま 、1945 年
シオ率いるカティプーナンの革命理念を基礎
20)
(昭和 20 年)7 月に死去する。
に政策を実行するのだという。この後、ボニ
ファシオとその片腕、エミリオ・ハシントの革
結びにかえて
命理念を胸に秘めて、国家国民統一を実現さ
リカルテの思想を長いフィリピン史の文脈の
せ、そして来るべき独立に備える、という内容
中で見るとどのように位置づけられるであろう
が書かれている(Ricarte, 1943a: 1–9)。
か。リカルテは、生まれ故郷であるフィリピン
ここには、リカルテのフィリピン独立へ向け
のイロコス地方を離れてマニラで教育を受け
た「夢」が凝縮されている。ボニファシオと
ることのできたエリートの 1 人であった。彼は、
の革命闘争、比米戦争後の頑なな反米主義、
多くの知識人階層の若者がフィリピンを離れ
強いリーダーシップとカリスマ性を有した「し
て植民地宗主国スペインへ留学するという風
たたかな」政治家ケソンとの交流、神道によっ
潮をあえて嫌い、フィリピンで民族主義教育
て達成された国民統一がある日本。彼の日本
を体得したのである。リサール(Jose Rizal)を
占領下のフィリピンにおける独立理念は、今ま
始めとする多くのフィリピンの民族主義者たち
での経験を踏まえた上での思想的集大成で
に共通することは、彼等の思想が欧米の自由
あった。彼はこの構想案を比島行政府に提出
主義や民主主義に多大な影響を受けていたこ
した。また日本軍に対しても、早期の軍政の
とである。一方で、日清・日露戦争に勝利し
撤廃と、同時にフィリピン国民による独立政
た日本に影響を受けたフィリピン人知識人も
府の樹立、そして構想案にも指摘されている
多かった。日本に亡命したリカルテはその中
一時的 Pamahalaang Magulang 独裁政権の組織
で特に日本から多くを学んだナショナリストで
に日本軍の後援を要求したのである(太田、
あった。彼の「親日的な」思想には、独立を
1972: 133)
。
急ぐ余り「親米」的な政治家でもあったケソ
しかし、このようなリカルテの政体構想は実
ンに対し多大な期待を寄せ、最終的に失望す
現することはなかった。リカルテの要求は、比
るという状況認識の甘さもあった。しかし結
島 行 政 府 内 の ベ ニ グ ノ・ ア キ ノ(Benigno
果的にその失望の後に従来の反米主義思想が
74
アジア研究 Vol. 54, No. 1, January 2008
強まり、リカルテ独自のフィリピン独立の構想
が明確化されていったのである。
で対日協力を行った。
残念ながら、日本語に流暢でなかったリカ
Pamahalaang Magulang 構想からもわかるよ
ルテの真の思想を理解できる日本人アジア主
うに、リカルテは、米国の植民地体制に堅固
義者たち、ひいては日本軍の首脳部は、一部
に組み込まれたフィリピンをより「アジア的」
の国家主義者や太田を除きほとんど存在しな
な独立国にしたかった。リカルテは、日本の
かった。結局リカルテは、竹内の説く「擬似
伝統文化や歴史に当時のフィリピンで失われ
思想」である大東亜共栄圏思想に翻弄され、
かけた「アジア的」な要素を見出した。リカ
祖国フィリピンで死亡するまで軍部に利用され
ルテは、多くの日本人国家主義者らと深く交
続けたのである。そして彼の思想を十分理解
流し、直に日本の歴史や文化と接する中で、
できないほど、フィリピン人は「米国化」され
彼等の説くアジア主義思想をフィリピン独立の
ていたのである。
ための思想に適用しようとしていた。欧米的
な思想によらず、東洋的な思想に基づきボニ
ファシオの革命思想を再興し、フィリピン人が
忘れかけてしまった「アジア的」なるものを見
つめなおしながら愛国精神、独立精神を育ま
なくてはならないことを主張した。その意味か
らすれば、松本健一が北一輝の原理主義思想
を引用しながら指摘すると同様に(松本、2000:
154)
、リカルテもアジア主義の原理主義的な側
面に着目しながら、内面からのフィリピン革命
を模索していたと思われる。つまり、第Ⅰ節で
も触れたように、リカルテの言うフィリピン革
命、フィリピン独立とは、過去スペインや米国
に破壊されてしまったフィリピンの伝統的価値
の復興を伴うものでなければならなかったの
である。
竹内好は、その著書『アジア主義』の解説
文「アジア主義の展望」において、戦前から
のアジア主義の最終的な帰結点が「大東亜共
栄圏」思想だと捉え、これがアジア主義を含
めて一切の「思想」の上に成り立った擬似思
想であったと述べている(竹内、1963: 11)。ケ
ソンの独立運動に失望したリカルテは、最終
的にはこの「大東亜共栄圏」思想に共感し、
日本に期待する中で日本占領下のフィリピン
研究ノート/リカルテ将軍の政治思想について
(注)
1) 本稿では、リカルテの日本亡命中にフィリピンの友
人ホセ・サントス(Jose P. Santos)に宛てられた書簡
集(Santos, 1935a, 1935b)を使用する。サントスの史
料にはその信頼性に疑問を呈するフィリピン史家もい
るが、すべてタイプライターで書かれているリカルテ
の書簡集は以下の理由で信頼を置くことができると
考えられる。
(1)1935 年にサントスが編集した Mga Liham ni Heneral
Artemio Ricarte kay Jose P. Santos を除きすべての書
簡にリカルテ自身の自筆署名が見受けられ、横浜
滞在時代の幾人かのリカルテの友人または親族
(孫たちを中心とする)により確認を受けた。
(2)
リカルテの書き方にはいくつかの特徴が見出され
る。例えば、自分が強く主張したい箇所の文字は
すべて大文字で記してある。またリカルテは北部ル
ソン地方の出身で元々はタガログ語圏の人間では
ないため、所々にタガログ語ではない語句、イロカ
ノ語が使われている。
(3)書簡集(Santos: 1935b)には自筆による「追伸」
の箇所がある。リカルテの孫の 1 人は、これが確か
に祖父の筆跡であると証言している。
一方、前述した Mga Liham(Santos: 1935a)は、
すべてカーボンコピーであり、オリジナルは未だ確認
されていない。最後の署名の部分も、Artemio Ricarte
Vibora(sgd)と書かれ、元々のオリジナルを誰かが
タイプライターで複写し製本したものと考えられる。
現在この史料は、フィリピン大学中央図書館に保管
されており、マイクロフィルム複写されたものだけが
閲覧可能である。そのカーボンコピーは、一般には
閲覧複写が禁止されている。カーボンコピーにせよ、
リカルテが直接にタイプライターを打ったかどうか今
となっては知ることもできないが、書かれている文体
から判断するに、リカルテ自身の言葉と断言してもい
いであろう。
2) タガログ語で「自由」
、
「独立」の意味。元々は何
75
からも束縛されない状態のタガログ語 laya から派生
した言葉が kalayaan となった。
3) リカル テからサントス 宛 書 簡、1928 年 8 月 4 日
(Santos, 1935b)
。
4) この会議についての詳細は、リカルテの回顧録
(Ricarte, 1927: 18–19; 31–32, 59, 60–61)の各ページ
参照。このリカルテの回顧録の記述については、その
真偽をめぐって様々な論争があるが、紙数の関係上
ここでは触れないこととする。
5) 1896 年 12 月下旬、香港在住のフィリピン革命家達
によって設立された委員会名。別称、香港委員会
(Hongkong Committee)ともいう。この委員会の主な
目的は、対スペイン革命を成功させるための資金集
めと対スペイン戦のための武器調達にあった。設立
当時、在ロンドンのスペイン大使館は、本国に香港
での委員会設立を伝え、それが一種の junta であると
した。これがこの委員会の称号 Hongkong Junta の始
まりとされる(Mactal, 2000: 18–19)
。
6) 宇佐については実際のところごく限られた史料でし
かその存在を確認できない。玄洋社関係の資料ある
いは黒龍会関係の資料でもほんの一部の記述を除き、
宇佐の名は見当たらない。宇佐が特定の組織に属し
てなかったことについては、福岡県大牟田市の郷土
史家、新藤東洋男氏の教示による。
7) ホセ・ラモスについては、
(池端、1985: 6–7)が詳
しい。
8) リカルテは日本に亡命してから「南彦助」なる偽
名を使用しているが、その偽名は実は宇佐の名前で
ある「穏来彦」の「彦」から由来するもので、リカ
ルテが日本に亡命した 1915 年(大正 4 年)6 月、宇
佐がリカルテにその名前の使用を薦めていたのである
(要視察外国人挙動関係雑纂、米国人一 : 4・3・1・
2-7)
。
9) リカルテからサントスへの書簡、1931 年 7 月 25 日
付け(Santos, 1935b)
。
10) リカルテからサントスへの書簡、1930 年 12 月 20
日付け(Santos, 1935b)
。または、
「要視察外国人ノ
挙動関係雑纂、米国人ノ部五」4・3・1・2-7 参照。
11) 昭和初期に出版された黒龍会の『東亜先覚志士記
伝』においてフィリピンを扱った箇所は、対スペイ
ン・フィリピン革命から比米戦争にかけての部分の
みで、リカルテの日本亡命やその後のリカルテの活
動については全く記述がない。
12) リ カ ル テ の 孫 の 1 人、 ビ ス ル ミ ノ・ロ メ ロ
(Bislumino Romero)とのインタビュー。1995 年 5
月 1 日。フィリピン・マニラ首都圏カロオーカン市
にて。当時、65 歳。
13) リカルテの孫娘によれば、日本語に流暢な東京
在住のフィリピン人学生たちが時折リカルテの通
訳にあたったという。フリートウッド(Maria Luisa
Fleetwood)とのインタビュー。フィリピン・ケソン
市にて。1995 年 11 月 15 日。
14) 日付は無いが、恐らく HHC 法案が成立した 1933
年(昭和 8 年)1 月の中旬から下旬にかけて書かれ
たと想像される(Ricarte, n. d.)
。この史料は、リカ
76
ルテの書簡やエッセーをフィリピン大学図書館が複
写し編集したものと思われるが、いつ頃作成された
かは不明。
15) 前掲ビスルミノ・ロメロへのインタビュー。
16) この書簡も日付は無いが、内容から 1933 年 8 月
ごろと推測される。タガログ語原題は、Maligayang
Bati sa Kgg. Pangulo Quezon(ケソン上院議長閣下へ
のご挨拶)である。
(Ricarte, n. d.)
17) リカルテからサントスへの書簡、1934 年 12 月 19
日(Santos, 1935a)
。
18) リカルテからサントスへの書簡。1934 年 5 月 10
日付(Santos, 1935a)
。
19) このパンフレットはリカルテがフィリピンへ帰国
する 1 年ほど前に印刷されていたという説もある。
20) 当時、リカルテの宣撫活動に同行した The Manila
Tribune の記者、Armando Malay へのインタビュー。
1995 年 3 月 5 日。ケソン市の自宅にて。
(参考文献)
日本語
荒哲(1999)
、
「フィリピンのリカルテ将軍に関す
る一考察」
『国際政治』第 120 号、210–229 ページ。
池端雪浦(1975)
、
「フィリピンにおける日本軍政
の一考察」
『アジア研究』第 22 巻第 2 号、40–74
ページ。
―(1989)
、
「フィリピン革命と日本の関与」
(池端雪浦・寺見元恵・早瀬晋三編『世紀転換期に
おける日本・フィリピン関係』東京外国語大学ア
ジアアフリカ言語文化研究所)
、1–36 ページ。
上妻斎(1958)
、
『比島戦記』日比慰霊会。
太田兼四郎(1972)
、
『鬼哭』フィリピン協会。
黒龍会編(1966)
、
『東亜先覚志士記伝』
(復刻版)
上巻、原書房。
新藤東洋男(2000)
、
『大牟田の歴史散歩物語』上
巻、古雅書店。
鈴木静夫・横山真佳編著(1984)
、
『神聖国家日本
とアジア』勁草書房。
竹内好(1963)
、
『アジア主義』筑摩書房。
中山忠直(1942)
、
『ボースとリカルテ』自費出版。
松本健一(2000)
、
『竹内好「日本のアジア主義」
精読』岩波書店。
宮崎滔天(1962)
、
『三十三年の夢』
(三田正道訳。
世界ノンフィクション全集第 33 巻所収)
、筑摩
書房。
英語
Agoncillo, Teodoro A. (1960), Malolos: The Crisis of
the Republic, Quezon City: University of the Philippine
Press.
― (1975), A Short History of the Philippines,
New York: The American Library.(岩崎玄訳『フィ
アジア研究 Vol. 54, No. 1, January 2008
リピン史物語』井村文化事業社、1977 年)
Amistoso, Mercedes Y. (1974), “General Artemio
Ricarte, 1896–1915,”M.A. Thesis, Ateneo de Manila
University.
Ara, Satoshi (1995), “Artemio Ricarte’s Political
Asylum in Japan,”Diliman Review (University of the
Philippines), 43(3-4), pp. 17–24.
Fleetwood, Ma. Luisa Dominguez. (1997), General
Artemio Ricarte (Vibora), Manila: National Historical
Institute.
Friend, Theodore (1965), Between Two Empires: The
Ordeal of the Philippines, 1926–1946, New Heaven:
Yale University Press.
Goodman, Grant K. (1966),“General Artemio Ricarte
and Japan,”Journal of Southeast Asian History, 7-2 ,
pp. 48–60.
Ikehata, Setsuho (1991),“The Japanese Administration
in the Philippines and the Tragedy of General Artemio
Ricarte,”(translated by Elpidio R. Sta. Romana), Research Paper No. 14, Department of Japanese Studies,
University of Singapore, Singapore.
Ileto, Reynaldo C. (1985), Pasyon and Revolution,
Manila: Ateneo de Manila University Press.(清水
展・永野善子監修『キリスト受難詩と革命』法政
大学出版局、2005 年)
.
Malay, Armando ed. (1966), Artemio Ricarte, Memoirs
of General Ricarte, Manila: National Heroes Commission.
タガログ語(フィリピノ語)
Ara, Satoshi (1997),“Si Heneral Artemio Ricarte at ang
Kasarinlan ng Pilipinas,”Ph.D. Dissertation, University of the Philippines, 1997.
Camagay, Maria Luisa. and de la Peña, Wystan (1997),
Mariano Ponce Cartas Sobre La Revolucion, Quezon
City: Sentro ng Wikang Filipino (University of the
Philippines).
研究ノート/リカルテ将軍の政治思想について
Mactal, Ronaldo B. (2000), Hongkong Junta/ Comite
Central Filipino, Manila: De La Salle University
Press.
Ricarte, Artemio (n. d.),“Articles and Essays of General
Artemio Ricarte.”
― (1927), Himagsikan Nang Manga Pilipino
Laban Sa Kastila, Tokyo: Ohmusha.
― (1928), Mahalay sa Isang Ganap na Lalaki ang
Magsisi o kaya Sumisi, Tokyo: Ohmusha.
― (1943a),“Balak na Pamahalaan sa Pagsasariling
Pilipinas o Luviminda,”Manila? (Mimeographed).
― (1943b), Nippon at Busido, Manila: Hodo-bu
(日本語対訳『日本と武士道を訊く』
.
― (1944), Sa Mga Kabataan, Manila: Hodo-bu
(日本語対訳『青少年訓』
)
.
Santos, Jose P. ed. (1935a),“Mga Liham ni Heneral
Artemio Ricarte by Jose P. Santos.”
― (1935b),“Unpublished Letters of General
Artemio Ricarte.”
外務省外交資料館史料(東京)
各国内政関係雑纂、米領比律賓第一巻 : 1・6・2・
1-6。
要視察外国人関係雑纂、外国人関係 : 1・3・5・2・
2-1。
要視察人関係雑纂、外国人関係第六巻 : 1・4・5・2-1。
要視察外国人ノ挙動関係雑纂、米国人一 : 4・3・1・
2-7。
要視察外国人ノ挙動関係雑纂、米国人ノ部三 : 4・3・
1・2-7。
要視察外国人ノ挙動関係雑纂、米国人ノ部五 : 4・3・
1・2-7。
(あら・さとし 福島学院大学、福島大学、
日本大学非常勤講師
E-mail: [email protected])
77
Fly UP