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Kobe University Repository
Kobe University Repository : Thesis
学位論文題目
Title
学校教育とアイデンティティ形成に関する研究 ―亡命
チベット人共同体を事例として―
氏名
Author
榎井, 克明
専攻分野
Degree
博士(学術)
学位授与の日付
Date of Degree
2014-09-25
公開日
Date of Publication
2016-07-21
資源タイプ
Resource Type
Thesis or Dissertation / 学位論文
報告番号
Report Number
甲第6202号
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/D1006202
※当コンテンツは神戸大学の学術成果です。無断複製・不正使用等を禁じます。
著作権法で認められている範囲内で、適切にご利用ください。
Create Date: 2017-03-30
2014年6月20日
提出
学校教育とアイデンティティ形成に関する研究
―亡命チベット人共同体を事例として―
神戸大学大学院国際協力研究科
地域協力政策専攻
指導教員
高橋基樹教授
学籍番号
044I202I
氏名
榎井克明
目
序章
次
........................................... ............................. ....
1
第 1節
問題意識と研究課題
..............................................
1
第 2節
理 論 的 枠 組 み ............................................ ...........
3
1
亡命チベット人共同体とアイデンティティ
........................
3
2
国 民 国 家 に お け る 国 民 形 成 .... ..... .... .... .... .... ... .. .... ..... ..
7
3
国民社会の文化形成
.... .... ..... .... ...... ... . .... ..... .... .... . ..
8
4
分析的枠組み
5
学 校 教 育 の 分 析 的 枠 組 み ... ..... .... .... ... .... .... ..... .. .. ..... ..
.......................... ............................
9
12
第 3節
研究方法
第 4節
調査地の概要
............................ ..........................
15
第5節
本研究の意義
.......................................... ..........
18
第 6節
本論文の構成
.............................. ..........................
................... ............. ....................
チ ベ ッ ト の 歴 史 と 亡 命 チ ベ ッ ト 人 共 同 体 の 形 成 ... .... ..... .... ...
第 1章
第 1節
チベットと中国の歴史的関係
第 2節
ダ ラ イ・ラ マ 1 4 世 と チ ベ ッ ト 亡 命 政 府
第 3節
................ .....................
13
20
26
26
........... .............
30
チベット亡命政府の外交政策
....................................
35
第 4節
亡命チベット人共同体の形成
....................................
36
第5節
チベット問題の現状と課題
.......................................
41
第 2章
亡命チベット人共同体の教育システム
第1節
チベットの教育史
................................................
1
チベットの伝統的教育
2
中華人民共和国併合時代の教育
3
チベット自治区の教育状況
第 2節
....................... ......
..............................................
47
47
47
....................................
49
.........................................
51
亡命チベット人共同体の教育システム
.............. ............
53
1
亡命チベット人共同体における教育発展
..........................
54
2
亡 命 政 府 の 教 育 行 政 ..................................... ...........
57
3
亡 命 政 府 の 教 育 政 策 ..................................... ...........
59
4
亡 命 チ ベ ッ ト 人 学 校 (formal education:初 等 等 ~ 中 等 教 育 )
.....
60
5
カ リ キ ュ ラ ム と 教 科 ..................................... ...........
65
6
僧 院 教 育 (non-formal education) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
66
チベット語の習得とアイデンティティの形成
72
第 3章
.....................
第1節
亡命チベット人共同体におけるチベット語の価値
第2節
チベット語の言語学的位置づけ
..............
.................................
72
74
第3節
亡命政府のチベット語教育政策
第 4節
入植地における子どものチベット語の状況
....................
78
第 5節
学校におけるチベット語の習得メカニズム
....................
82
第 6節
チベット語習得のメカニズムとアイデンティティの形成
第 4章
.................................
仏教価値の内面化とアイデンティティ の形成
77
....
87
...................
94
第1節
チベット仏教とチベット人
第 2節
入 植 地 に お け る 仏 教 の 現 状 ...................................... .
97
第 3節
学校空間に顕在する仏教
....................................... .
98
第 4節
ノ ン・フ ォ ー マ ル 教 育 に 見 る 仏 教 指 導 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
101
第 5節
仏教価値内面化のメカニズムとアイデンティティの形成
....
102
...............
106
............................................
106
第5章
.....................................
ダ ラ イ・ラ マ 崇 拝 意 識 と ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 形 成
第 1節
ダ ラ イ・ラ マ の 歴 史
第 2節
入 植 地 に 顕 在 す る ダ ラ イ・ラ マ の イ メ ー ジ
第 3節
学 校 にお け る ダラ イ・ラ マ 崇拝 意 識の 浸 透
第 4節
ダライ・ラマ崇拝意識形成のメカニズムとアイデンティティ
の形成
第6章
...................
109
..................
110
...........................................................
子どもの意識の諸相
...............................................
第 1節
仏教への帰依の意識
第 2節
ダ ラ イ・ラ マ へ の 崇 拝 意 識
第 3節
子どものアイデンティティの諸相
.............................................
......................................
..............................
終 章 .......................................... ..................................
第 1節
1
本論文のまとめ
94
...................................................
111
117
117
119
122
127
127
亡命チベット人の子どもは、いかにして「父国」の「国民」と
な っ た か ? .............................................................
2
学校教育とアイデンティティ形成に関する考察
3
亡 命 チ ベ ッ ト 人 共 同 体 が 直 面 し て い る 教 育 的 課 題 .................
第 2節
今後の研究課題
.................
...................................................
参 考 文 献 ... .... ..... .... ..... .... .... ..... .... ... .... .... ..... .... ... .. .... .... .
付録資料:質問紙調査票
127
131
135
139
143
序章
第 1 節 問題意識と研究課題
本研究の主たる課題は、発生からおよそ 半世紀以上を経過した今も難民流出
の原因となった問題の本質が解決しておらず、難民という地位のまま庇護国に
居住しながら「祖国」1への帰還を目指している亡命チベット人を研究対象と
し て 、 イ ン ド 亜 大 陸 の 広 範 な 地 域 に 点 在 す る チ ベ ッ ト 人 居 住 地 ( the scattered
Tibetan Refugee Community ) に お い て 「 祖 国 」 を 知 ら ず に 生 ま れ る 子 ど も た
ちが、いかなる過程からチベット人としての共通のアイデンティティを形成し
ていくのか、その獲得過程に学校やその他のアクターがどのように関与してい
るのか、そしてそこにどのような問題や葛藤があるのかを多層的多重的に考究
することである。
次章以降で詳述するが、本研究の対象であるチベット人 とは「チベット高原
に居住し、チベット語を話し、チベット仏教ならびにチベットの土着宗教であ
るボン教を奉じる民族」2及びその子孫の総称である。チベット人は長い歴史
的時間をかけて固有の文化・生活圏を形成してきたが、1949年に チベット
の領有権を主張する中華人民共和国によって中国の主権のもとに組み込まれ、
そ の 後 、首 都 ラ サ で 起 こ っ た チ ベ ッ ト 人 に よ る 大 規 模 な 抵 抗 運 動 を 契 機 と し て 、
ダライ・ラマのインドへの亡命及び大量の難民流出という事態に至った3。越
境して行き場を失った難民たちは、インド政府やネパール政府が設置した難民
キャンプに収容され集団生活を送るようになるが、榎木によれば、この亡命と
いう体験が収容された人々に「新しい概念」を齎したという。その「新しい概
念 」 と は 、 亡 命 チ ベ ッ ト 人 た ち が 受 入 国 か ら チ ベ ッ ト 難 民 ( Tibetan Refugee)
と し て ラ ベ リ ン グ さ れ る こ と に よ り 、 自 ら を チ ベ ッ ト 人 ( Tibetan ) と し て 強
く認識する過程で創出されたものである 4。
もともと伝統的なチベット社会は世襲の族長のもとに形成された部族的階級
社会であり、人々は国家に対するよりも出自の部族に対する帰属意識の方が強
かった5。難民キャンプに収容された人々もまた出自の部族は様々であり、そ
れぞれの地方的アイデンティティを保持していたが、難民キャンプにおける共
同生活の中で、ともに中国によってチベットにおける生活基盤が喪失させられ
たこと、異国において難民という不安定な立場に置かれ ていること、チベット
仏 教 を 信 仰 す る こ と な ど の 共 通 点 を 互 い に 見 出 し 、枝 葉 末 節 の 相 違 を 乗 り 越 え 、
苦難にともに立ち向かう運命共同体的意識が自然発生的に芽生えて行ったと考
えられている6。あらゆる共同体を成立させる基本的な条件の一つは統合であ
1
ろう。難民キャンプにおける混住生活よって齎された共同体意識は、やがて旧
来チベット人社会に備わっていたダライ・ラマを奉じる緩やかな紐帯意識を変
容させ、ダライ・ラマを国民統合の象徴とする国民国家体制を強固に志向する
に至ったのである7。
グ リ ー ン( Andy Green )は 、国 家 が 国 民 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 確 立 に よ っ て
国 民 形 成 を 加 速 さ せ る 時 期 に は 、あ る 共 通 の 状 況 が 存 在 す る と 指 摘 し て い る 8 。
グリーンによれば、その共通の状況とは「国家存亡の危機」9であるという。
亡命チベット人共同体の場合もまさに「祖国」を失い、将来の見えない生活が
始まった亡命初期の頃に強固な集団的アイデンティティが形成され、そのアイ
デンティティに基づいてナショナリズムが発動されたのである。榎木の指摘す
る「新しい概念」とは、このような亡命チベット人たちのナショナリズムに連
なる共通のアイデンティティのことを指している。
中国共産党政権がチベットを実効的に支配して既に60年以上が経過したが、
チベット亡命政府と中国政府の間のチベットの主権を巡る議論には未だ決着が
ついておらず、亡命チベット人たちの難民状態は極めて長期化している。中国
の不興を買ってまでチベットを正式な国家として承認する国はひとつもないが、
チベット亡命政府とそれを支持する大半のチベット人にとって、チベットこそ
が自分たちの国家あり、チベット人とはそこに住む国民であると考えているこ
とは明白である。亡命チベット人たちが「独立を志向するにせよ、自治を求め
るにせよ、その要求の根底には民族としてのチベット人の権利を政治の場で行
使 し よ う と す る 思 想 」 1 0 が あ る 。ア ー レ ン ト( Hannah Arendt )が 指 摘 す る よ
う に 1 1 生 得 の も の と さ れ て い る 人 権 で さ え 、あ る 国 家 の 国 民 で な け れ ば 保 障 さ
れないことを考えると、難民として人権から最も遠く疎外された存在である亡
命チベット人たちが、自分たちの国家を強く志向するのもごく自然のことであ
るといえる。
今後も難民の状態が続いていく可能性が高い亡命チベット人たちにとって、
チベットにおける主権の回復12を達成するために民族の結束を維持していく
ことは必要不可欠と見なされており、チベット人としての集団的アイデンティ
ティが共同体の新しい構成員、つまり「祖国」を知らずに生まれる新しい世代
にスムーズに継承されることが重要な課題となる。しかし、チベット人として
の集団的アイデンティティを次の世代に継承していく上で、亡命チベット人共
同体にはいくつかの難点を有してきた。そのひとつは、亡命チベット人たちが
インド亜大陸の広範な地域に分散して暮らしていることである。これはディア
スポラ型の共同体においてもしばしば見られる特徴であるが、このような共同
体が統一を保ち、存続していくためには構成員の間に何らか のネットワークを
2
必 要 と す る 1 3 。も う ひ と つ の 難 点 は 、亡 命 チ ベ ッ ト 人 た ち が 生 活 の 基 盤 を 置 く
居住区がホスト国政府によって保障されている関係上、あらゆる活動が著しく
制限を受けるという点である。例えば亡命チベット人は土地の所有や政治的な
活動は認められておらず、国外への移動にも審査や届出などの条件がつく。こ
のような状況の中で亡命チベット人たちは、いかにしてチベット人としての共
通のアイデンティティを維持してきたのであろうか。 本研究は、その困難な事
業に取り組んできた亡命チベット人共同体の足跡をたどりながら、 多様なアイ
デンティティを有する個人が、どのようにチベット人としてのアイデンティテ
ィを形成するのか、その獲得過程に教育はどのように関わるのかについて明ら
かにしていく。
第 2節
理論的枠組み
1 亡命チベット人共同体とアイデンティティ
ま ず 議 論 を 進 め る に あ た り 、 ア イ デ ン テ ィ テ ィ ( identity ) と い う 用 語 の 曖
昧さがもたらす混乱を避けるために、ここでその概念の整理と一定の定義づけ
を行なっておきたい。もともと心理学・精神分析学用語であったアイデンティ
テ ィ と い う 用 語 は 、フ ロ イ ト 派 の 発 達 心 理 学 者 エ リ ク ソ ン( E. H. Erikson )が
1950年代に哲学や精神分析学以外の分野において使用を開始して注目を浴
び る よ う に な っ た が 、今 で は 通 俗 化 し 、広 く 普 及 し て い る 1 4 。近 年 、ア イ デ ン
ティティという用語はナショナリズムや少数民族、或いは社会的マイノリティ
の問題を扱う研究に頻繁に使用されており、その概念は文学や評論の領域にも
普及している。アイデンティティという英語は日本語での適切な言い換えが困
難であるとされ、研究者によって解釈の分かれる要因にもなってきた。例えば
村田翼夫はアイデンティティという言葉のすぐあとに(帰属意識)という注釈
を 付 し て お り 1 5 、西 川 長 夫 は ア イ デ ン テ ィ テ ィ に( 同 一 性 )と い う 別 の 表 現 を
付 し て い る 1 6 。こ の 用 語 と 概 念 の 普 及 に 大 き く 寄 与 し た エ リ ク ソ ン 自 身 は ア イ
デンティティを「第一に自己の単一性、連続性、不変性、独自性の感覚を意味
し、第二に、一定の対象(人格)との間、あるいは一定の集団(およびそのメ
ンバー)との間で、是認され役割の達成、共通の価値観の共有を介して得られ
る 連 帯 感 ・ 安 定 感 に 基 礎 づ け ら れ た 自 己 価 値( self-esteem)お よ び 肯 定 的 な 自
己 像 」1 7 と 定 義 し て お り 、ア イ デ ン テ ィ テ ィ が 多 義 的 な 概 念 で あ る こ と を 示 し
ている18。
このようにアイデンティティは一義的な定義付けが困難な用語であるが、
種々の形容詞を付けて使用することによって、対象となる領域をかなりはっき
3
りと画定することができる。人文・社会科学分野の研究論文などに頻出する使
用 例 と し て は 、 そ の 属 性 を 問 う も の と し て 、「 性 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ ( sexual
identity)」、「 民 族 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ ( ethnic identity)」、「 宗 教 的 ア イ デ ン
テ ィ テ ィ ( religious identity )」、「 職 業 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ ( professional
identity )」 な ど が あ り 、 ま た 類 型 を 示 す も の と し て 、「 社 会 的 ア イ デ ン テ ィ テ
ィ( social identity )」「 集 団 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ ( group identity)」「 個 人 的 ア
イ デ ン テ ィ テ ィ( personal identity)」な ど が あ る 。ま た 、ア イ デ ン テ ィ テ ィ の
病 理 と し て 、「 ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 拡 散 ( identity diffusion)」、「 ア イ デ ン テ ィ
テ ィ の 混 乱 ( identity c onfusion )」「 ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 葛 藤 ( identity
conflict)」 な ど が 挙 げ ら れ る 1 9 。
本研究がアイデンティティという 用語を用いて考察を進める以上、まず明ら
かにしておかなければならない点は、亡命という体験によって齎され、共同体
形成の核となり、今日に至るまで亡命チベット人たちを強固に結びつけている
アイデンティティとは、具体的にどのようなアイデンティティであるのかとい
うことであろう。ある社会集団の結集原理としてのアイデンティティには、い
くつかのカテゴリーがあるが、亡命チベット人の共同体形成に密接に関連する
アイデンティティとして、さしあたり考えられるのは「民族的アイデンティテ
ィ 」「 宗 教 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ 」「 ナ シ ョ ナ ル ・ ア イ デ ン テ ィ テ ィ 」 と い う 三 つ
の集団的アイデンティティである。
まず「民族的アイデンティティ」であるが、それは特定のエスニック共同体
への帰属意識として捉えることができる。エスニック共同体とは、社会生物学
的に原初的集団であると考える人もいるが、
「系譜の神話と歴史的記憶の役割を
強調し、宗教、慣習、言語、制度のような単独または複数の文化的特色によっ
て 認 知 さ れ る 」2 0 一 種 の 文 化 的 共 同 体 で あ る と 考 え ら れ る 。エ ス ニ ッ ク 共 同 体
の属性として、
「 集 団 に 固 有 の 名 前 、共 通 の 祖 先 に 関 す る 神 話 、歴 史 的 記 憶 の 共
有、ひとつまたは複数のきわだった集団独自の共通文化の要素、特定の故国と
の 結 び つ き 、集 団 を 構 成 す る 人 口 の 主 な 部 分 に 連 帯 感 が あ る こ と 」2 1 が 挙 げ ら
れるが、これらの属性は、共同体の構成員が自らを「他者」と区別しながら、
構成員同士を結びつけるものであると同時に、他のエスニック共同体との境界
を示すものである。既に多くの先行研究が明らかにしているように、エスニシ
ティとアイデンティティには密接な関係がある。例えばエスニック集団への帰
属意識によって自尊心が回復し、人間としての自立心や連帯の感情や意欲を高
めることなどがよく知られている。エスニック・アイデンティティ は、例えば
ユダヤ人やアルメニア人がそうであったように、
「その構成員が長くその地を追
われ、亡命しているときでさえ、彼らを故国に引きつけたり、遠く離れたとこ
4
ろ か ら 鼓 舞 す る 」2 2 も の で あ り 、強 烈 な 郷 愁 と 精 神 的 愛 着 に よ っ て 存 在 す る も
のである。亡命チベット人共同体は、現状において、このディアスポラ型のエ
スニック共同体に近似する社会集団であるといえる。
次に考えられるのは「宗教的アイデンティティ」である。宗教的アイデンテ
ィティとは、
「 信 仰 す る 単 一 信 仰 共 同 体 に 属 す る 人 間 集 団 と 自 己 を 、い く つ か の
象徴的記号、価値体系、信仰と儀 礼の伝統を共有することによって形成される
感 情 概 念 、信 念 、信 仰 者 的 一 体 感 」 2 3 と 定 義 さ れ る が 、歴 史 的 に 見 て も 宗 教 共
同体は、しばしばエスニック・アイデンティティと密接に関連している。世界
にはアイデンティティが宗教的な識別基準に基づいているエスニック共同体は
今も数多くあり、その代表的な例としては北アイルランドのカトリックとプロ
テ ス タ ン ト 、セ ル ビ ア 人 、ク ロ ア チ ア 人 、ポ ー ラ ン ド 人 、シ ー ア 派 ペ ル シ ア 人 、
シ ン ハ ラ 人 な ど が 挙 げ ら れ る 2 4 。チ ベ ッ ト 人 の 場 合 も そ の 殆 ど が チ ベ ッ ト 仏 教
を奉じており、典型的な「エスノ・宗教的共同体」であ るといえよう。人類史
のほとんどの期間を通じてそうだったように、宗教的アイデンティティとエス
ニック・アイデンティティはしばしば重複し、相互に強化しあってきた。そし
て両者は「単独であれ、結合してであれ、強力な共同体を動員し、維持するこ
とができる」25のである。
最後に考えられる集団的アイデンティティは、
「 ナ シ ョ ナ ル・ア イ デ ン テ ィ テ
ィ」である。個々人が所属する国家に対して抱くアイデンティティを意味する
言葉としては、日本では「国民的アイデンティティ」という用語が使用されて
い る が 、1 9 9 1 年 に ス ミ ス( Anthony D. Smith )が そ の 著 書『 ナ シ ョ ナ リ ズ
ム の 生 命 力 』( 原 題 National Identity ) を 著 し て 以 降 、 ナ シ ョ ナ ル ・ ア イ デ ン
ティティという言葉は、その概念とともに学術用語として広く普及・定着して
きた。このようにナショナル・アイデンティティは比較的新しい用語であるが
26
、そ の 概 念 は ネ イ シ ョ ン と い う 用 語 の 普 及 と と も に 国 民 国 家 を め ぐ る 言 説 の
ほ と ん ど 常 に 中 枢 に 存 在 し て い た 概 念 で あ る 2 7 。 し か し 、「 ネ イ シ ョ ン 」 自 体
が研究者間で一致した定義がなく、
「 ア イ デ ン テ ィ テ ィ 」に つ い て も 前 述 の よ う
な 複 数 の 定 義 を 包 摂 し て い る こ と か ら 、そ の 曖 昧 な ふ た つ の 概 念 が 結 合 し た「 ナ
ショナル・アイデンティティ」は、いみじくも田辺俊介がその著書『ナショナ
ル ・ ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 国 際 比 較 』 の 中 で 指 摘 し て い る よ う に 、「 鵺 の ご と き 」
28
正 体 の 定 ま ら ぬ 概 念 で あ る と い え る 。以 下 は『 ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 生 命 力 』の
中でスミスが提示しているナショナル・アイデンティティの基本的な特徴であ
る29。
1.歴史上の領域、若しくは故国
5
2.共通の神話と歴史的記憶
3.共通の大衆的・公的な文化
4.全構成員にとっての共通の法的権利と義務
5.構成員にとっての領域的な移動可能性のある共通の経済
実際ナショナル・アイデンティティの特徴の多くは民族的アイデンティティ
のそれとも重なっているが、ナショナル・アイデンティティには民族的アイデ
ンティティに包摂されていない政治的、経済的、法的な要素が含まれている。
その中でも特に注意しなくてはならない点は、ナショナル・アイデンティティ
が政治共同体としての意識を強く包摂しているという点である。政治共同体は
構成員にとって権利と義務を謳った単一の法律や制度を有し、その構成員はか
なり明確に画定され、その構成員は境界 に囲まれた領域に対して帰属感を抱く
のである。
これらスミスによって示された特徴から、本研究ではナショナル・アイデン
テ ィ テ ィ を 田 辺 の 定 義 3 0 を 参 考 に「 自 己 を 自 身 の 属 す る ネ イ シ ョ ン 、即 ち 歴 史
上の領域、共通の神話と歴史的記憶、大衆的・公的な文化、全構成員に共通の
経済、共通の法的権利・義務を共有する、特定の名前のある人間集団と一体化
させることを通じて形成され、生涯持続する信念、感情概念、国民的一体感、
国民意識」と定義することにした。
スミスは、ナショナル・アイデンティティが、共同体とその構成員に対して
作 用 す る 二 つ の 機 能 を 有 し て い る と 述 べ て い る 。そ の 二 つ の 機 能 と は 、
「対外的
機 能 」と「 体 内 的 機 能 」で あ る 。ス ミ ス に よ れ ば 、「 対 外 的 機 能 」と は 、構 成 員
の資格、境界、資源を定義することによってナショナルな自足という理想に理
論的根拠を齎し、政治に関わる人材の選択、政治運営行為の調整、法的諸制度
に体現された共通の法的権利と義務を正当化するなどの諸機能である。
「体内的
機 能 」と は 、
「共同体内部の構成員を<国民>や<市民>として社会化する機能」
31
を 指 し て い る 。ス ミ ス は 、こ れ ら ナ シ ョ ナ ル・ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 特 に 重 要
な機能として、
「 国 家 と そ の 諸 機 関 を 、あ る い は 固 有 の 国 家 を も た な い ネ イ シ ョ
ン に つ い て は そ れ ら に 相 当 す る 機 関 を さ さ え る 」3 2 こ と を 指 摘 し て い る 。政 府
の選出は、包含されるすべての人々のナショナル・アイデンティティとナショ
ナルな意志を反映しているとみなされるが、スミスの論考では、ナショナル・
アイデンティティの持つ諸機能は、固有の国家をもたないネイションに対して
も作用することが示されている。
ヴ ェ ー バ ー ( Karl Emil Maximilian Weber ) は 、「 ど ん な に 人 工 的 に つ く ら
れたものであれ、なによりもまず政治共同体こそが、共通のエスニシ ティにた
6
い す る 信 念 を 鼓 舞 す る 」3 3 と 指 摘 し て い る が 、こ の ヴ ェ ー バ ー の 言 説 は 政 治 行
動がエスニックの形成と存続にとって重要であることを示している。共通のエ
スニシティを持つ人々によって「統一された政体が作られれば、エスニック共
同体に対する自覚はもちろん、究極的には、凝集力のあるネイションが展開す
る際に大きな役割を果たす」 34のである。
ナショナル・アイデンティティの特徴は、根本的に多元的なものであり、階
級、宗教、エスニックといった他の型のアイデンティティと結合できるという
こ と で あ る 3 5 。亡 命 チ ベ ッ ト 人 た ち に と っ て 、民 族 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ と 宗 教
的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ は 、ほ と ん ど 部 分 で 重 複 し て お り 、相 互 に 強 化 し あ い 、人 々
を強く結び付けている。しかし、亡命チベット人たちがその存在の発端から一
貫して強く望んでいたのは、難民というカテゴリーからの解放であり、民族と
してのチベット人の権利が政治の場で行使できるようになることであった。従
って亡命チベット人共同体形成の核であり、同じ境遇にある人々を強く結びつ
けていたアイデンティティとは、チベット人社会に旧来備わっていた民族的ア
イデンティティや宗教的アイデンティティを包摂し、強い凝集力をもって 集団
的な政治意識や行動を動機づける新しい型の集団的アイデンティティ、つまり
ネ イ シ ョ ン な き「 ナ シ ョ ナ ル・ア イ デ ン テ ィ テ ィ 」、或 い は そ れ に 極 め て 近 似 し
た集団的アイデンティティであると考えられるのである。
現在の国際情勢下で、チベットを国家、チベット人をそこに住む国民と表記
することは不適切であろう。本研究の目的は、あくまでも学校教育とアイデン
ティティ形成の関係を明らかにすることであり、チベットの主権を巡る政治的
議論に参加することを意図しているものではない。従って亡命チベット人を強
く結び付けているアイデンティティを 「ナショナル・アイデンティティ」と表
記することは筆者の政治的表明とも受け取られかねないので、本論文では、そ
のアイデンティティを「亡命チベット人共同体のアイデンティティ」と称して
論考を進めていくことにする。
2
国民国家における国民形成
人 間 は 生 涯 に わ た り 実 に 多 く の ア イ デ ン テ ィ テ ィ ― 家 族 、領 域 、階 級 、宗 教 、
エスニック、ジェンダーなど―を形成するが、本研究では、チベット亡命政府
の 主 導 す る「 国 民 」文 化 を 亡 命 チ ベ ッ ト 人 の 子 ど も た ち が 内 面 化 3 6 す る 過 程 を
「亡命チベット人共同体のアイデンティティ」の形成と捉え、チベット人と し
ての「国民」文化の内面化が、どのような主体との相互作用から生じているか
という視座から考察する。そこでまず、国民国家における国民形成や国民文化
の概念を整理し提示しておく。
7
一般的に国民国家とは、
「境界線に区切られた一定の領域からなる主権を備え
た国家で、そこに住む人々(ネイション=国民)が国民的一体性の意識(ナシ
ョ ナ ル・ア イ デ ン テ ィ テ ィ = 国 民 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ )を 共 有 し て い る 」 3 7 一
種の政治共同体であると解釈されている。1648年ウエストファリア体制を
基盤とする領域主権国家及び国民国家システムは今や全世界を覆い尽くしてお
り、国民国家は現在の世界を構成する基本的単位であり、主要な構成原理であ
る と も い え る だ ろ う 。 国 民 国 家 が 存 立 す る た め に は 「 主 権 」「 領 域 」「 国 民 」 が
必要であり、国家の政治・経済的基盤の確立には「領域」内に存在する多様で
異質な集団の言語や文化を統合し、国民的一体性を持った均質的成員を形成す
ることが重要となる。既に多くの研究によって明らかにされているとおり 38、
人は生まれながらに国民ではなく、成長とともに国民国家の価値 や規範を内面
化し、社会構成的文化の中で形成されるアイデンティティを他の構成員と共有
しながら身体的・精神的同一性を獲得することによって国民として形成される
のである。
18世紀以降に世界中で成立していった国民国家の形成政策に、 学校教育は
重 要 な 役 割 を 果 た し て き た 。 ナ シ ョ ナ リ ズ ム 研 究 の 先 駆 ゲ ル ナ ー ( Ernest
Gellner) は 、「 正 統 化 さ れ た 中 央 集 権 的 学 校 教 育 制 度 に よ っ て 読 み 書 き を 基 盤
とした等質的教育が与えられ、そのことを介して人々が均質な集団へと組織化
される」39ことがナショナリズムの発生に不可欠な要因である と述べている。
ヨーロッパ的コンテクストでは近代国家による教会からの学校管轄権の回収に
よって実現された「国民教育」システムにより標準化された国語教育や文学教
育、
「 エ ト ニ ー の 記 憶 」を 利 用 し た 新 た な 伝 統 や 国 民 的 英 雄 物 語 の 創 出 に よ り 推
進される地理教育や歴史教育、宗教規範や共同体的道徳観念にかわる国家によ
る非宗教的な道徳教育、そして規律化された身体を可能にする習慣形成や体育
と い っ た 諸 装 置 に よ っ て そ れ は 実 現 さ れ て き た 4 0 。 ワ ト ソ ン ( Keith Watson)
も「国民の統合は、共通の学校教育パターンに基づく共通のナショナル ・アイ
デ ン テ ィ テ ィ に よ っ て 促 進 さ れ る 」4 1 と 述 べ て い る が 、こ れ ら 中 央 集 権 的 で 文
化的に同質な国家の形成に資した教育システムは、やがて ヨーロッパ諸国の植
民地支配を介してヨーロッパ大陸から世界中に拡散していったのである。
3
国民社会の文化形成
西 川 は『 序 日 本 型 国 民 国 家 の 形 成 』の 中 で 、国 民 形 成 の 過 程 を「 国 民 化 」と
呼んでいる。西川のいう「国民化」と は、国家が公認した文化(思考、価値、
行動、生活様式など)が、社会階層や地域的集団などの枠組みを越えて国家の
あらゆる空間に浸透し、そこに住む人々が均一の文化様式に統合されてい く過
8
程 の こ と で あ る 。 西 川 は 、「 国 民 化 」 を 以 下 に 挙 げ る 5 つ 概 念 に 分 類 し て い る 。
即ちそれらの概念とは、
「 空 間 の 国 民 化( 均 質 化 、平 準 化 さ れ た 明 る く 清 潔 な 空
間 、国 境 、中 央( 都 市 )- 地 方( 農 村 )- 海 外( 植 民 地 )、中 心 と 周 縁 、風 景 )、
時 間 の 国 民 化 ( 暦 、 労 働 ・ 生 活 の リ ズ ム 、 神 話 、 歴 史 )、 習 俗 の 国 民 化 ( 服 装 、
挨 拶 、儀 式 、新 し い 伝 統 )、身 体 の 国 民 化( 五 感 、 起 居 、歩 行 、学 校 ・ 工 場 ・ 軍
隊 等 々 で の 生 活 に 適 応 で き る 身 体 と 感 覚 )、言 語 と 思 考 の 国 民 化( 国 語 、愛 国 心 )」
42
の5つである。
野津はこの西川の分類を、学校を通して意図的に形成される文化として「習
俗 の 国 民 化 」「 身 体 の 国 民 化 」「 言 語 と 思 考 の 国 民 化 」 の 3 つ に 着 目 し 、 再 整 理
を行った。その結果、国民文化を「国民に共通する価値、言語、習俗、身体活
動などの総体」43と定義づけている。
西川や野津が用いている「国民化」或いは「国民形成」という概念は、とも
に国民の共通性を形成するという目的で、国民文化が国家の中央から周縁部へ
伝播・普及し、次第に「国民」というひとつの均質的人間類型が生成されてい
く 動 的 な 過 程 の こ と で あ る 4 4 。本 研 究 で は こ の 野 津 や 西 川 の 視 座 を 援 用 し 、チ
ベット内外のチベット人たちにとって唯一正統な政府であるという立場をとっ
て い る チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 の 主 導 す る 文 化 を「 国 民 文 化 」
(=国民に共通する価値、
言語、習俗、身体活動などの総体)として規定し 、それが亡命政府のあるイン
ド・ダラムサラ(=中央)からインドやネパールに点在する 亡命チベット人居
住区(=周縁部)へ伝播・普及し、やがて亡命政府の意図する国民的一体性を
持った均質的成員を形成していくという仮説をたて、その形成に学校やその他
の主体がどのように関わり、いかなる相互作用を生じさせているかを 検討して
いく。
4
分析的枠組み
発展途上国の教育研究では「国民統合」や「国民形成」というテーマを持つ
先行研究は少なくない。しかし、それらの研究の多くは学校制度や カリキュラ
ム、教科書などごく部分的な領域 を対象としており、学校内部と学校外部を総
合して分析する構造的視点を持つも研究 は多くはなかった。その中で、野津が
タイ東北部の小学校において行なった国民文化形成に関する研究は、マイク
ロ・マクロ連携アプローチ を用いて学校と学校を取り巻く外部世界との関係か
ら国民形成過程を分析し、国民形成を子どもの意識次元までも含めてトータル
に探り、社会変化を齎す主体を異なる次元に分け総合的に分析している点で多
く の 示 唆 を 与 え て く れ る 。マ イ ク ロ・マ ク ロ 連 携 ア プ ロ ー チ は 、
「マイクロな次
元で展開する諸事象がどのようなマクロの諸力によって枠づけられているのか
9
に 注 意 を 払 う 」 4 5 ア プ ロ ー チ 法 で あ る 。野 津 は こ の ミ ク ロ・マ ク ロ 連 携 モ デ ル
を用い、タイ東北の周縁部 で生まれた子どもがいかにして均質なタイ国民とし
て 形 成 さ れ て い く の か 、 そ の メ カ ニ ズ ム を 詳 細 に 検 討 し た 。 以 下 の 図 ( 序 -1)
は、野津がタイ東北部の子どもたちの国民形成プロセスを分析する予備的枠組
みとして使用したものであ る。
図 序 -1
野津による「タイ東北の国民形成」分析枠組み
出 所 : 野 津 隆 志 (200 5)「 国 民 の 形 成 」 p.30.
野津の分析枠組みでは、分析対象レベルをマクロ・レベルとコミュニティ・
レベルの二層に分け、各レベルに国民形成に関わると推測される主体が配置さ
れている。マクロ・レベルは地域社会外部の層であるが、国民形成を直接主導
す る と 考 え ら れ る < 文 教 政 策 > 、村 落 を 巻 き 込 む 国 民 < 経 済 シ ス テ ム > 、国 家・
中央の情報を伝達する<情報通信メディア>、村落文化を支配してきた<文
化・価値体系>が配置されており、コミュニティ・レベルには国民を形成する
中心的な装置としての<学校>、生活の基盤である<家族>、文化形成に不可
欠な主体である<仏教寺院 >、子どもの日常生活に強く影響を及ぼす<テレビ
など>が配置されている。野津は、この分析枠組みの修正と洗練を繰り返しな
がら多様な「国民文化」形成主体の配置構造や複雑な相互の関連性 を考察し、
国民形成の様々な主体と子どもの内面に与える外的要因との相互作用の中で、
最 終 的 に「 言 語 」
「価値」
「 身 体 」と い う 3 つ の 要 素 が 互 い に そ れ ぞ れ を 規 定 し 、
複雑に重なり合うことで総合的に子どもを国民として形成するという結論に達
10
している46。
本研究の研究対象である亡命チベット人共同体の場合、コミュニティ・レベ
ルにある「国民」文化形成主体は、ホスト国と亡命政府という二つのマクロ層
にある主体と相互的に関連していると考えられるので、 野津の使用した分析枠
組みを、そのまま使用することはできない。そこで野津の分析枠組みを発展さ
せ 、 以 下 の 図 ( 序 -2) の よ う な 分 析 枠 組 み を 設 定 し た 。
図 序 -2 「 亡 命 チ ベ ッ ト 人 共 同 体 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ 」 形 成 の 分 析 枠 組 み
出所:筆者作成
本研究では、亡命チベット人たちが生活するコミュニティが 、亡命政府とホ
スト国という2つのマクロ層に包含されていると考え 、分析対象レベル(層)
を暫定的に3つに分けることにした。その上で相互関係と共に各層に「亡命チ
ベット人共同体のアイデンティティ」形成に関与すると思われる主体 を配置し
た。まずマクロ層はコミュニティ外部の層であるが、亡命政府を中心とする亡
命チベット人社会側の層には「亡命チベット人共同体のアイデンティティ」形
成を教育政策を通じて直接主導すると考えられる亡命政府の<教育省>、チベ
ット人社会で常に政教の中心であり崇拝の対象である <ダライ・ラマ>、祭事
や信仰、親子関係や社会のつながりなどチベ ット文化を支配してきた文化価値
体系としての<伝統文化システム>を配置し、ホスト国社会側の層には、時と
して亡命政府の教育政策を阻害するホスト国の<教育省>、 コミュニティに直
接影響を及ぼす<経済システム>及び<情報通信メディア>を配置した。次に
ミクロ層である亡命チベット人コミュニティには、
「亡命チベット人共同体のア
11
イデンティティ」を形成する上で最も重要な装置と考えられる<学校>、生活
の基礎単位としての<家族>、コミュニティの中心である仏教寺院、そして子
どもの日常生活に強い影響を及ぼすと考えられる<テレビ・ラジオ>を配置し
た。本研究では、この分析枠組みを用いて各層に配置された「亡命チベット人
共同体のアイデンティティ」形成の主体相互の関連性を精緻に観察し、亡命チ
ベット人の子どもたちがチベット人としてのアイデンティティを形成 していく
メカニズムを解明していくとともに、亡命チベット人共同体が国際法上の国家
で は な い 政 治 共 同 体 で あ る が 故 の「 亡 命 チ ベ ッ ト 人 共 同 体 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ 」
形成を阻害する要因についても具体的に探っていく。
5. 学 校 教 育 の 分 析 的 枠 組 み
学 校 教 育 は ど の 国 で も 、そ の 機 構 、内 容 、目 標 に お い て 共 通 性 を 持 っ て い る 。
国民国家における学校教育は、画一的なナショナル・カリキュラムに従い、統
一された言語体系(国語)を用い、学校という単一の教育機関と教師により、
国家機構の最小単位である個々の人間の文化(言語、意識、行動、価値)を同
化し、国民の共通性を形成する「統合的機能」と、産業社会の発展のため国民
の知識や技能を高め、職業人として選別し配置する「配分的機能」を担ってい
る 4 7 。こ の 統 合 的 機 能 と 配 分 的 機 能 は 、大 ま か に 言 え ば 前 者 を 初 等 教 育 が 担 当
し、中等・高等教育に進むに連れて後者の比重が 増していく。エリクソンはア
イデンティティの基本的な確立は子ども時代からその最終段階である青年期に
か け て 達 成 さ れ る べ き 心 理 社 会 的 な 課 題 で あ る と 述 べ て い る が 4 8 、初 等 教 育 に
おいて、国民形成を達成するために個々の人間が国民として身につ けるべき教
育内容は、知識や技能の習得とともに、価値から身体活動に至るまであらゆる
側面が関係する。世界の国民国家形成の発端となった19世紀の欧州において
も 、初 等 義 務 教 育 と い う 兵 役 に 並 ぶ 共 通 体 験 が 人 々 を 束 ね 、
「 同 胞 」観 念 を 生 み
出 す 最 も 重 要 な フ ァ ク タ ー と な っ た と 考 え ら れ て い る 4 9 。以 上 の こ と か ら 学 校
におけるアイデンティティ形成のメカニズムを主要テーマとする本研究では、
特に初等教育に焦点をあて、カリキュラムや教科書の分析だけに留まらず、イ
デオロギーや仏教への帰依、チベット人としての振る舞いなどの獲得過程を検
討し、教室内の教科学習以外の学校行事や特別活動、教師や子どもの関係、更
には微細でインフォーマルな挨拶や慣行に至るまで視野を広げて考察する。本
研究が対象とする亡命チベット人学校の初等教育における「国民」文化形成の
項目は以下の通りである。
・ 言 語 ― 「 国 語 」( チ ベ ッ ト 語 )
12
・ 価 値 ― 「 チ ベ ッ ト 国 家 」 へ の 忠 誠 意 識 、「 国 土 」、 歴 史 へ の 愛 着 、 ダ ラ イ ・ ラ
マ崇拝意識、仏教への帰依。
・習俗―学校生活上の規律、マナー、学校で行われる儀式・行事など の形式的
活動。
・身体―形式的な活動を遂行する上での個々の身体技能、集団場面での振舞い
など。
言語は人々を均質的な集団へと組織し 、社会を統合する等質的教育の基盤と
な る も の で あ る 。ま た 母 語 5 0 の 力 は 歴 史 的 生 活 の 関 連 確 保 に お い て 大 き な 力 を
保持しており、また母語に対する愛着心は民族的アイデンティティ の形成にと
って重要な要素のひとつであるといえる。チベット亡命政府がチベット人の母
語であるチベット語を亡命チベット人 社会の統合と維持、
「 国 民 」文 化 伝 達 の 基
礎手段として教育政策の中でどのように普及させたのか、またそこにどのよう
な阻害要因があるのかを第3章において分析する。第4章、第5章では、チベ
ット人としての価値を検討する。チベット人にとってダライ・ラマと仏教は一
体不離の絶対的価値であるが、本研究ではそうした認識が、いかなる回路を通
して個人の深層に内面化されるのか、学校はそこにどのように関与しているの
かを分析する。習俗と身体に関しては言語や価値の習得の連鎖の中で複雑に絡
み合っていると考えられるので各章で適時言及していくことにする。
また、本研究では「実践共同体論」における文化の捉え方に着目し、学校内
部 に お け る 国 民 文 化 形 成 の プ ロ セ ス を 詳 細 に 考 察 す る 。レ イ ヴ と ウ ェ ン ガ ー は 、
文 化 は 徒 弟 制 の よ う な「 実 践 共 同 体 」の 中 で 伝 達 さ れ て き た こ と に 着 目 し 、
「知
識や学習がそれぞれ関係的であること、意味が交渉で作られること、さらに学
習 活 動 が 、そ こ に 関 与 し た 人 々 が の め り 込 ん だ も の で あ る こ と 」5 1 な ど を 条 件
とする「状況に埋め込まれた学習」と いう概念に発展させた。野津は「実践共
同体論」を、ある個人が特定の集団の成員に共有される成員の大多数が反復す
る慣習化された行為に参加し、漸次的に文化実践の技能を高めて行く事で最終
的 に は 文 化 の 使 用 者 に な る と い う 理 論 で あ る と 説 明 し て い る 5 2 。本 研 究 で は こ
の理論を援用し、チベット人としての「国民」文化を内面化するための実践が
学校活動のいかなる場面に埋め込まれているのか、またどのような学校空間が
そ れ に 関 与 し て い る の か 各 章 に お い て 検 討 し 、終 章 に お い て 総 括 的 に 提 示 す る 。
第3節
研究方法
本研究は比較教育学、教育社会学 を中心とした文献資料に基づく理論研究、
13
歴史研究、比較研究に加え、フィールドワークによる現地調査の結果分析に基
づく実証的研究を行なった 。理論研究では教育に関連する国民形成論、国民統
合 論 の 諸 議 論 に 沿 っ て 検 討 し た 。検 討 の 対 象 は 、チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 の 教 育 制 度 、
教育政策の変遷と「亡命チベット人共同体のアイデンティティ」形成に関わる
教育内容が中心であり、その分析にあたっては亡命政府の刊行物、ホームペー
ジ、教科書などを活用した。また、亡命政府の教育制度・政策が、インドやネ
パールに点在する亡命チベット人コミュニティにある学校 などで、いかに実施
されているかを実証的に把握することを目指した。歴史研究では、チベット人
の歴史を難民発生のメルクマールとなった事件「ラサ暴動」を境として「ラサ
暴動」以前の歴史と、それ以降の亡命チベット人社会の歴史、及び中国統治下
のチベット民族の歴史の3つに区分して概観しつつ、チベット人の教育の歴史
的 変 遷 に 焦 点 を 当 て た 。更 に 比 較 研 究 の 視 点 も 取 り 入 れ 、
「亡命チベット人共同
体のアイデンティティ」の形成過程を明らかにするため、国民国家の国民形成
モデルとの比較考察を行なった。
以上の文献研究に加え、本研究では亡命チベ ット人の子どもがチベット人と
して形成される現場の調査を重点的に実施した。ナショナル・アイデンティテ
ィの国際比較研究を行なった田辺は、
「 ナ シ ョ ナ ル・ア イ デ ン テ ィ テ ィ が エ リ ー
ト に よ っ て < 生 産 > さ れ 、国 家 が 管 理 す る 教 育 を 通 し て 伝 達 さ れ る 過 程 」5 3 に
おいて、教育学の諸分野でこれまで関心を集めていたのは主に「作り手」側で
あり、
「 消 費 者 」側 た る 一 般 の 人 々 が そ れ を ど の よ う に 受 容 し て い る か の 研 究 に
つ い て は 手 薄 な ま ま で あ る こ と を 指 摘 し て い る 5 4 。本 研 究 で は こ の 点 に 留 意 し 、
「亡命チベット人共同体のアイデンティティ」形成のプロセスを、学校 内部と
学校外部を総合して分析し、教育政策の受容側である子どもの意識の次元まで
を含めて解明することを目標とした。そこで本研究では一箇所のコミュニティ
に焦点を合わせ、具体的な子どもの学校内や村落内での日常生活をできるだけ
幅広く観察し、聞き取り調査を繰り返し行ない、生活をトータルに把握する文
化人類学などで用いられる調査方法を採用した。比較教育学研究では、このよ
うなフィールドワークによる現地調査を一つの村落に集中的に行なう手 法はあ
まり実施されてこなかった。しかし本研究では、この調査方法が、 教育政策や
イデオロギーの浸透過程を政策的事実と学校という二者の相互関係のみで 分析
するのではなく、
「 亡 命 チ ベ ッ ト 人 共 同 体 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ 」形 成 主 体 相 互 の
関連性を理解し、亡命チベット人 の子どもたちがチベット人としての価値や規
範を内面化していくメカニズムを 意識の次元までを含めて解明するためには有
効な方法であると考えている 55。
現地調査は、インド・ダラムサラにあるチベット亡命政府での聞き取り調査
14
に加え、ネパールにある亡命チベット人の居住地のひとつ タシ・パルケル
( Tashi Palkhiel ) に お い て 、 2 0 0 5 年 か ら 2 0 1 3 年 ま で の 間 に 計 5 回 に
わたり実施した。調査内容としては、面接調査、アンケート調査、心理テスト
とともに、仮説生成型のフィールドワーク法に基づく エスノグラフィー(民族
誌的記述)を行なった。野津によれば 、概念、命題、仮説を予め明晰化したも
のを経験的データによって検証するという従来の量的・統計的研究方法では、
研究者の問題意識の枠組みから仮説や概念が予め構成されるため、対象とする
フィールドの本質的に重要な問題や現象の背後に潜むメカニズムを十分に 解明
するという課題に対して限界があるという。そして、仮説生成型 研究こそがこ
の限界を乗り越える方法であ り、その代表例がフィールドワーク研究であると
述 べ て い る 5 6 。そ れ ま で の イ ン プ ッ ト・ア ウ ト プ ッ ト 型 研 究 で は 学 校 が ブ ラ ッ
クボックスとなって実際の学校内部で何が起こっているのか解明できなかった
ことに対し、エスノグラフィー(民族誌的記述)を重視した フィールドワーク
研究の手法が学校の内部過程を分析するのに有効な手段として認識され 、特に
1990年代以降に教育社会学の分野で積極的に試みられ るようになった57。
箕浦は、学校や子どもの現実を精緻に記述し、その背後にある複雑な因果関係
を現場のコンテクストから内在的に分析するフィールドワーク研究の有効性を
強調しており、従来の量的・統計的研究によるアプローチとフィールドワーク
研 究 の 違 い を「 仮 説 検 証 型 」と「 仮 説 生 成 型 」の 対 比 に お い て 説 明 し て い る 5 8 。
野津によれば仮説生成型研究とは、
「調査研究のプロセスにおいて事象を生成す
る行為者の行為に即して繰り返し仮説を生成し、その妥当性を検証し、理論を
構 築 し て い く 」5 9 方 法 で あ り 、箕 浦 は そ の プ ロ セ ス を「 螺 旋 状 に 位 相 を ず ら し
な が ら 、密 度 を 高 め て 絞 り 込 み な が ら 積 層 的 に 上 に 昇 っ て い く イ メ ー ジ 」6 0 と
説明している。本研究においても、対象となる事象をよりよく説明していくこ
とが可能となる仮説生成型のフィールドワーク法の有効性を認め、前 節第4項
の「図序-2」において示した分析的枠組みを一次的仮説として 提示し、学校
での日常的学習過程、学校行事、学校内のコミュニケーション、更には子ども
が暮らすコミュニティでの具体的な生活環境までを幅広く観察し、インタビュ
ーを行い、その結果を各章の考察に適用し、 野津の手法を参考に仮説の修正と
洗練を循環的に行なっていく。
第4節
調査地の概要
調査地タシ・パルケルは、ネパールの首都カトマンズから西へ約200Km
の 位 置( 図 序 -3)に あ り 、1 9 5 9 年 の「 ラ サ 暴 動 」勃 発 後 、多 く の チ ベ ッ ト
15
人がネパール側に逃れてきた国境の山岳地帯ムスタンから徒歩で 南東に7日目
の距離にある。タシ・パルケルを調査地に選定したのは、予備的調査で本研究
の目的と調査方法にふさわしい調査地を探すためにインドやネパールで多くの
亡命チベット人学校と入植地を回った際、この入植地が亡命チベット人共同体
の中心地ダラムサラから遠く離れている点、今も亡命時の記憶を有する難民一
世と、難民一世を親に持ち この地で生まれた難民二世、更にその子どもたちで
ある難民三世の三世代が一緒に暮らしている点、ネパールの中でも比較的開発
の遅れた地域にあって僧院中心の伝統的生活様式が温存されている点などから
調査地として最も適切である判断したためである。
図 序 -3
調査地タシ・パルケルの位置
出 所 : 佐 伯 和 彦 (2 003) 「 ネ パ ー ル 全 史 」 p.1 6.の 地 図 を も と に 作 成
入植地としてのタシ・パルケルの歴史は、1960年に国際赤十字がヒマラ
ヤの国境地帯から次々と流れ込んでくる難民たちのために、この地に臨時の難
民キャンプを設営したことに始まる。ネパール政府から要請を受けた国際赤十
字は荒れた牧草地に簡易な小屋を建てて 難民たちの保護に当たった。当時、こ
の難民キャンプに収容されていた難民は約360人であり、国際赤十字及び
SATA 6 1 が 食 糧 支 援 な ど を 行 な っ た 。 1 9 6 2 年 、 亡 命 政 府 の 要 請 を 受 け た ネ
パール政府は、難民たちが自給自足できるように難民キャンプに近接する12
0 Ropine 6 2 の 土 地 を 無 償 で 提 供 し 、英 国 の 援 助 団 体 OXFAM 6 3 に よ っ て 入 植
16
地の整備が行なわれたのである。
2013年11月現在、タシ・パルケルには682名の亡命チベット人たち
が暮らしている。ネパール政府は1996年までにネパール国内にやってきた
亡命チベット人とネパール国内で生まれた亡命チベット人に対してRC
( Refugee Card) と 呼 ば れ る 身 分 証 明 証 を 発 行 し て い た が 、 1 9 9 6 年 以 降 、
ネパール政府は新規発行を停止している。タシ・パルケルの住民682名の内
訳 は 、R C ホ ル ダ ー が 2 8 7 名( 男 性 1 3 4 名 、女 性 1 5 3 名 )、R C 未 保 持 者
は395名(男性218名、女性177名)である。RC未 保持者の中には1
996年以降に中国から新たに亡命してきた亡命チベット人も含まれているが、
RC未保持者の多くは、1996年以降にネパール国内で生まれた第3世代の
子どもたちである。
以前のタシ・パルケルは居住地を取り囲むように柵が設置されていたという
が、今では入植地とそうでない地区と の境界を示すものは何もなく、出入りは
まったく自由である。入植地の入口付近に、そこがチベット人 入植地であるこ
と を 示 す サ イ ン ボ ー ド が あ る が 、 そ こ に は 「 難 民 キ ャ ン プ ( Refugee Camp)」
と 表 記 し て あ る 。 入 植 地 を 示 す 言 葉 は 正 確 に は 「 Settlement」 で あ る が 、 今 で
も「難民キャンプ」という通称の方が「通り」が良いためである。 タシ・パル
ケルの面積は約5万㎡であり、入植地の端から端 までは10分程度で歩けるほ
どの広さである。亡命チベット人たちが暮らしている住居は彼らの 所有物では
な い が 、家 賃 や 地 代 は 無 料 で あ る 。 家 屋 は OXFAM に よ っ て 建 て ら れ た も の で
あるが、老朽化がかなり進んでいる。これらの家屋はもともと5人の家族が居
住できるように設計されたものだが、入植地の人口が増加したことによって 慢
性 的 に 過 密 状 態 と な っ て い る 。入 植 地 内 に は 亡 命 チ ベ ッ ト 人 た ち の 住 居 の 他 に 、
仏教寺院、学校、病院、老人ホーム、商店、ハンディ・クラフト・センター な
どがある。
タ シ・パ ル ケ ル に は 亡 命 政 府 の 代 表 部 事 務 所 6 4 が あ り 、タ シ・パ ル ケ ル の 住
民は、この事務所に住民登録することが義務付けられている。この代表部事務
所には亡命政府の総務省から職員が1名派遣され ており、入植地に関する亡命
政府の予算の執行を行なうとともに、亡命チベット人にとって中央政府である
亡命政府の意思を入植地に伝え、また入植地の要望を亡命政府に伝える パイプ
的な役割を果たしている。また、 タシ・パルケルには選挙によっ て選ばれた1
5 人 の 議 員 で 構 成 さ れ る 地 方 議 会 ( Local Assembly )が あ り 、 日 常 の こ ま ご ま
とした揉め事の仲裁から、入植地全体の予算の執行、入植地内の要望を取りま
とめるなどの役割を担っている。
17
第5節
研究の意義
ここで、まず従来の国民形成をテーマとする教育研究との対比から、本研究
の意義を述べておく。
「 同 質 的 住 民 と 政 府 に 対 す る 住 民 の 積 極 的 同 意 を 前 提 と す る 」6 5 国 民 国 家 に
おいて、個人を国民として形成することは近代の学校が担う重要な役割のひと
つであると考えられている。近年、比較教育学や教育社会学の分野で 国民国家
と 教 育 の 関 係 を 再 検 討 す る 研 究 が 数 多 く 提 出 さ れ て い る が 6 6 、こ れ ら の 研 究 は
東西冷戦体制の崩壊以降に生じた世界的な少数民族の勃興や民族間の緊張激化
による国民国家の揺らぎを背景として提起されたものである。国家の置かれて
いる状況は様々であるが、いかなる国家においても国民形成の核となるナショ
ナル・アイデンティティの凝集は重要な関心事のひとつであり、その意味にお
いて教育とナショナル・アイデンティティ形成に関する考察は普遍性を持つ主
題であるといえる。
ア ガ ン ベ ン ( Giorgio Agamben) は 、 国 民 国 家 に お け る 「 生 ま れ が た だ ち に
国 民 と な る 」 6 7 と い う 虚 構 を 重 視 し 、「 難 民 は お そ ら く 、 現 代 の 人 民 の 形 象 と
して思考可能な唯一の形象であり、この難民という範疇においてはじめて、到
来すべき政治的共同性の諸形式および諸限界をわれわれは垣間見ることができ
る 」6 8 と 述 べ て い る 。こ の ア ガ ン ベ ン の 言 説 は 、難 民 と い う 国 民 国 家 に と っ て
周縁的な形象が国家―国民―領土という三位一体を破壊している以上、難民と
いう観点から国民国家の形成を再検討することは有意であることを示唆してい
る 。こ れ ま で の 教 育 学 研 究 に お い て 、国 民 形 成 や 国 民 統 合 を 推 進 す る も の は 様 々
な国家装置であり、公教育はその中心的な役割を果たしているという前提があ
る。ルイ・アルチュセールの古典的な論考に従えば、それらの国家装置とは、
宗 教 、教 育 、家 族 法 、政 治 、組 合 、情 報 、文 学 、美 術 、ス ポ ー ツ な ど で あ ろ う 。
これらの国家装置は、国家の構成員である個々人が所属する様々な公共圏に配
置されているが、公共圏を根本において規定するものは国境と国籍であるとす
るならば、自らの領土や国籍を持たず、国民国家システムにとって周縁的な存
在である亡命チベット人共同体において、それらの国家装置はどのように配置
され、どのように機能しているか、そして「国民」の形成はいかにして達成さ
れ、そこにどのような問題が生じているのかを多層的多重的に考察する本研究
は、今後の国民形成や国民統合をテーマとする教育学研究に、参考可能な新た
な視座を提示できるものと考える。
次に、従来の難民研究との対比から、本研究の二つ目の意義を述べておく。
二十世紀初頭から中葉にかけて起こったふたつの世界戦争と革命によって、ま
18
た 、前 世 紀 末 に か け て 頻 発 し た 民 族 問 題 や 宗 教 間 対 立 に 由 来 す る 紛 争 に よ っ て 、
地球上にかつてない夥しい数の難民が出現し、難民問題は、地球的 問題群のひ
とつとして高い関心を集めるようになった。世界の難民人口は 二十世紀末まで
急激な増加を続けてきたが、1995 年をピークとして一時的に減少トレンド
に 入 っ た 6 9 。そ の 減 少 ト レ ン ド の 過 程 で 、新 た な 問 題 事 象 と し て 浮 か び あ が っ
て き た の が 長 期 滞 留 す る 難 民 の 存 在 で あ る 。UNHCR の 定 義 に よ れ ば 、
「長期化
し た 難 民 状 態 ( PRSs=Protrac ted Refugee Situations)」 と は 、「 同 じ 国 籍 を 持
つ2万5千人以上の難民集団が、庇護されている国において 5年以上の難民の
状 態 に あ る 」7 0 こ と を い う 。こ の よ う な 長 期 滞 留 状 態 に あ る 難 民 は 1 9 9 3 年
には難民全体の約48%であったが、2004年時点で61%、 2011年に
は 6 8 % と そ の 割 合 は 増 加 傾 向 に あ り 7 1 、 PRSs の 存 在 は ホ ス ト 国 に 大 き な 負
担を強い、新たな紛争の火種ともなり得ると指摘されている。また、難民状態
の最善の解決策は「自発的帰還」とされているが、自発的に帰還する難民の数
は 2 0 0 1 年 以 降 減 り 続 け て い る 7 2 。こ れ ま で 難 民 と は 、問 題 が 解 決 す る ま で
の「一時的な」状態にある個人、或いは人々と考えられていたが、現在の難民
が置かれている状況はそれとは大きく乖離したものとなっているとい える。ま
た、これまで国際社会では、緊急性の高い保護や人道支援の観点から、195
1年「難民の地位に関する条約」や1967年「難民の地位に関する議定書」
を基盤とする難民保護レジームの強化に力が注がれてきたが、長期滞留する難
民の増加によって、ホスト国の社会的・経済的負担を軽減することを目的とし
た 難 民 の 自 立 を 促 進 す る 開 発 志 向 の 議 論 が 活 発 化 し つ つ あ る 7 3 。同 様 に 難 民 研
究においても、これまでは保護の重要性から法学的・政治学的な領域を中心に
個々の学問体系の中で論じられてきたが、長期滞留する難民の諸問題は自立や
定住・適応のプロセス、子弟の教育など多岐に及ぶため、経済学、心理学、社
会学、教育学など多様な研究領域からの横断的且つ学際的なアプローチの重要
性が増している。
「 人 の 移 動 の 時 代 」と も 称 せ ら れ る 現 代 に あ っ て 、長 期 滞 留 す
る 難 民 は 偶 発 的 な 移 住 者 7 4 の 一 類 型 と も 捉 え る こ と が で き る が 、ホ ス ト 国 が 人
道的な理由から受け入れた「人的にも文化的にも繋がりのきわめて薄い難民」
に対してどのような教育を提供すべきかは、現代社会の抱える重要且つ困難な
課題のひとつである。本研究が長期難民状態にある亡命チベット人を研究対象
として、難民状態の長期化が進行した 場合の諸問題を教育の観点から考察する
ことによって得られた知見を基に、今後期待されている学際的な難民研究にひ
とつの試論を提供できるものと考える。
最後に、チベット問題解決の観点から本研究の意義を述べておく。近年、少
数民族の勃興や民族間、異宗教間の緊張の高まりが、全世界的レベルの政治・
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経済・社会的連携に対する不安定要因ともなっている。チベット問題は半世紀
以 上 前 に 発 生 し た 民 族 問 題 で あ る が 、こ う し た 諸 問 題 の 代 表 的 な 一 例 と い え る 。
その問題の発端となった中華人民共和国が、近年の急速な経済発展を伴って大
国として地位を固めていく中で、この国が、チベット問題のみならずチベット
問題と類似の展開を見せるウイグル問題をどのように扱って行くのかについて
は、もっと関心が注がれても良いだろう。現在、中華人民共和国はグローバル
に展開する市場経済競争に勝ち抜くために権威主義体制の洗練化を推進してお
り、その体制の安定を損なう勢力や思想には統制を加え、あらゆる民族的・文
化的差違をひとつの優越的価値のもとに従属させようとしているように見える
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。 し か し 、「 国 民 統 合 や 国 民 形 成 を 考 え る 上 で 必 要 な の は 、 そ れ が 決 し て 経
済的予定調和に還元できない、一人ひとりの人間の記憶と感情の集積によって
い る 」7 6 以 上 、内 部 の 民 族 間 に お け る 対 話 的 理 解 が 重 要 で あ る こ と は 明 白 で あ
り、チベット問題解決に向けても両者の対話的譲歩が必要であると考える。世
界では長期滞留状態にある難民の存在が新たな問題となっていることは既に述
べたとおりであるが、難民状態が長期化していくのは難民発生の原因や、難民
の存在そのものに対する「国際社会の無関心」が、その背景にあるという。チ
ベット問題を例に挙げれば、冷戦構造下で中華人民共和国と拮抗する勢力が多
かった時代には国際社会の関心と支持を集めていたが、中華人民共和国が国際
社会において影響力を拡大し始めると亡命チベット人を支持する国は相対的に
減 少 し て 行 き 、国 際 社 会 に お け る チ ベ ッ ト を 巡 る 議 論 も 一 時 期 の 勢 い を 失 っ た 。
松本は、日本におけるこれまでのチベット研究は「伝統的なチベット社会の構
造 や 宗 教 的 思 想 に 関 す る 分 野 に お い て は 多 大 な 蓄 積 が あ る 」と し な が ら も 、
「中
国をめぐる国際関係の中でチベット問題を位置づけるといった研究は1970
年 以 降 、ほ と ん ど 行 わ れ て い な い 」 7 7 こ と を 指 摘 し て い る 。本 研 究 は 、チ ベ ッ
ト問題をめぐる政治的議論に参加することを意図していないが、亡命チベット
人の難民状態は何らかの方法で解消されるべき状態であると考えており、亡命
チ ベ ッ ト 人 共 同 体 を 取 り 巻 く 現 状 と 課 題 を 、マ ク ロ( 亡 命 政 府 や ホ ス ト 国 政 府 )
と ミ ク ロ (亡 命 チ ベ ッ ト 人 た ち の 生 活 の 現 場 )、 そ の 両 方 の レ ベ ル か ら 提 示 す る
ことで、チベット問題の解決策を再考する際の基礎的手引きとなることを目指
している。
第5節
本論文の構成
本論文の構成は以下の通りである。第1章「チベットの歴史と亡命チベット
人共同体の形成」では、チベットの歴史、及び中国との歴史的関係を概観した
20
上で難民発生の原因を探り、その後の亡命チベット人社会の形成についての概
説を行なう。第2章「亡命チベット共同体の教育システム」では、調査地を対
象にした次章以降での検討に先立ち、チベット民族の教育の歴史、現在の亡命
チベット人の教育を取り巻く環境、教育システムを概説し、亡命チベット人社
会の教育の現状と問題点を先行研究や教育統計などを分析しながら説 明を加え
る 。ま た 中 国 側 の チ ベ ッ ト 民 族 に 対 し て 行 わ れ て い る 教 育 と の 比 較 分 析 も 行 い 、
問題点を探っていく。第3章「チベット語の習得とアイデンティティの形成」
では文献研究によりチベット語を言語学的に概説するとともに、亡命チベット
人学校で使用されているチベット語の教科書、教授法を分析し、子どものアイ
デンティティ形成への影響を検討する。更に調査地で実施したフィールドワー
クの結果をもとに、チベット亡命政府がチベット人の母語であるチベット語を
亡命チベット人社会の統合と維持、
「 国 民 」文 化 伝 達 の 基 礎 手 段 と し て 教 育 政 策
の中でどのように普及させたのか、またそこにどのような阻害要因があるのか
を分析する。第4章「仏教価値の内面化とアイデンティティの形成」では、 チ
ベット人の「国民」文化の象徴である仏教に焦点をあて、仏教価値の内面化に
よる「亡命チベット人共同体のアイデンティティ」形成の実態と、その過程に
関与する主体相互のメカニズムを検討する。第5章「ダライ・ラマ崇拝意識と
アイデンティティの形成」では、チベット人にとっては観音菩薩の化身である
とともに、共同体の政治的な指導者であるダライ・ラマへの崇拝意識に、学校
教育やその他の主体がどのように関与しているのかを検討する。第6章「子ど
も の ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 諸 相 」で は 、
「亡命チベット人共同体のアイデンティテ
ィ」形成のメカニズムの受容者である子ども自身に焦点をあて、調査地で実施
した面接調査、アンケート調査、心理テストの結果から、亡命チベット人の子
どもがいかなるアイデンティティを有しているのか検討する。
「 終 章 」に お い て
は、第3章から第6章までの分析結果を基に、子どもたちの「亡命チベット人
共同体のアイデンティティ」形成のメカニズムを提示し、研究全体のまとめを
行なう。また、亡命チベット人共同体の現状と課題を取 り上げ、今後の研究課
題を提示する。
21
現時点で、チベットを正式な国家として認めている国はひとつ もなく、従って
こ の よ う な 国 際 情 勢 下 で チ ベ ッ ト を 国 家 、チ ベ ッ ト 人 を 国 民 と 表 記 す る こ と は 不
適 切 で あ る と 考 え ら れ る 。し か し 、本 研 究 の 対 象 で あ る 亡 命 チ ベ ッ ト 人 た ち と 亡
命 政 府 に と っ て チ ベ ッ ト は 主 権 国 家 で あ り 、亡 命 チ ベ ッ ト 人 た ち が 、そ こ に 住 む
住 民 は チ ベ ッ ト の 国 民 で あ る と 考 え て い る こ と は 明 白 で あ ろ う 。そ こ で 本 論 文 で
は 、チ ベ ッ ト の 主 権 を 巡 る 問 題 に 決 着 が つ い て い な い こ と に 鑑 み 、鍵 括 弧 付 き で
「 祖 国 」と 表 記 す る こ と に し た 。ま た 同 様 の 理 由 か ら 、本 論 文 の 全 体 を 通 じ 、亡
命 チ ベ ッ ト 人 側 の 立 場 か ら 国 民 、国 歌 、国 旗 、国 語 な ど の 単 語 を 使 用 す る 場 合 も
鍵括弧付きで表記することにした。
2 松 原 正 殻 (1995)『 世 界 民 族 問 題 事 典 』 平 凡 社 , p.674.
3 チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 の 発 表 (The Departmen t of Information and In tern ation al
Relation s, CTA, Dh aramsala (1994) Tibet : Proving Truth From Facts )に よ れ
ば 、1 9 5 9 年 に 国 境 を 越 え て 難 民 と な っ た チ ベ ッ ト 人 の 数 は 約 8 万 5 千 人 に の
ぼる。
4 亡命チベット人の国民統合のメカニズム解明に取り組んだ榎木は、 亡命チベッ
ト 人 社 会 に あ る「 チ ベ ッ ト 人 」と い う 意 識 は 古 く か ら 存 在 し て い た も の で は な く 、
比 較 的 新 し く 創 ら れ た 概 念 で は な い か と い う 疑 問 を 論 考 の 出 発 点 と し て い る 。榎
木 美 樹 (2009)「 亡 命 チ ベ ッ ト 人 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ 構 築 」 『 龍 谷 大 学 経 済 学 論
集 』 ,p. 3 及 び pp. 7-9.
5 例えば、チベット問題を国際関係論の中で位置付けるという研究を行なった松
本 は「 伝 統 的 な チ ベ ッ ト 社 会 で は チ ベ ッ ト 人 は 村 落 や 家 族 を 基 礎 と し た ア イ デ ン
テ ィ テ ィ を 有 し て い た も の の 、エ ス ニ ッ ク・グ ル ー プ 全 体 と し て の 結 び つ き は 比
較 的 弱 か っ た 」こ と を 指 摘 し て い る 。松 本 高 明 (1996)『 チ ベ ッ ト 問 題 と 中 国 』ア
ジ ア 政 経 学 会 , p.58.
6 榎 木 美 樹 (2009)前 掲 論 文 ,pp. 8-9.
7 榎 木 美 樹 (2009)前 掲 論 文 ,pp. 15.
8 グ リ ー ン ,ア ン デ ィ (2000)『 教 育 ・ グ ロ ー バ リ ゼ ー シ ョ ン ・ 国 民 国 家 』 ( 太 田 直
子 訳 ) 東 京 都 立 大 学 出 版 会 , p.55.
9 グリーンはフランスにおける革命、プロシアにおける外国からの侵略、アメリ
カ 合 衆 国 に お け る 独 立 戦 争 な ど を そ の 例 と し て 挙 げ て い る 。ア ン デ ィ・グ リ ー ン
(2000)前 掲 書 ,p. 55. 参 照 。
1 0 榎 木 美 樹 (2009)前 掲 論 文 ,p.1.
1 1 ア ー レ ン ト ,ハ ン ナ (1972)『 全 体 主 義 の 起 源 Ⅰ 』 (大 久 保 和 郎 訳 )み す ず 書
房 ,p. 16.
12 チベット問題の解決を困難にしているのは主権の帰属が不明確 なこ とで ある 。
チベットに現政権以外の主権が存在していたかどうかに関する議論は本研究の
領域ではないが、本研究では亡命チベット人側の視点に立って考察する場合に
は、かつてそこに主権があったものとして議論を進めることにする。
1 3 デ ィ ア ス ポ ラ 型 の 共 同 体 の 場 合 で も 、聖 職 者 や ラ ビ 、法 学 者 た ち が 中 央 と 結 び
ついて、裁判所や弁護士のネットワークを形成し、宗教や法、文化などの面で
統一性が保たれていることが確認されている。例えばユダヤ人やアルメニア人
などは宗教上の公的なネットワークが発達していたので、共同体ならびにその
歴 史 的・宗 教 的 伝 統 が 統 一 を 保 ち 、存 続 で き た と 考 え ら れ て い る 。ア ン ト ニ ー ・
ス ミ ス (1998)『 ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 生 命 力 』 (高 柳 先 男 訳 )晶 文 社 ,P. 81. 参 照 。
1 4 例 え ば 、 平 成 25 年 3 月 に 発 表 さ れ た 文 部 科 学 省 の 「 人 材 力 強 化 の た め の 教 育
戦略」につけられた副題「日本人としてのアイデンティティを持ちつつ、高付
加価値を創造し、国内外で活躍できる人材の育成に向けて」においても、「ア
イデンティティ」という文言には何ら注釈が付けられることなく、そのまま使
用 さ れ て い る 。 平 成 25 年 3 月 15 日 第 4 回 産 業 競 争 力 会 議 配 布 資 料 。
1 5 村 田 翼 夫 (2007)『 タ イ に お け る 教 育 発 展 ― 国 民 統 合 ・ 文 化 ・ 教 育 協 力 』 東 信
堂 ,p. 9.
1 6 西 川 長 夫 (2006)『 新 植 民 地 主 義 論 』 平 凡 社 ,p. 206.
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星 野 命 (1983)「 子 ど も た ち の 異 文 化 体 験 と ア イ デ ン テ ィ テ ィ 」小 林 哲 也 編『 文
化 に 育 つ 子 ど も た ち 』 有 斐 閣 ,p. 42.
ア イ デ ン テ ィ テ ィ は 『 岩 波 哲 学 ・ 思 想 事 典 』 に お い て も「 ( 1 )「 私 」な い し
自我が生の経験の全体を通して同一に保たれている事実。(2)理性の地平で
ルールとして同一なもの、つまり論理的普遍性としての思考。(3)あらゆる
思 考 の 対 象 に 備 わ る A= A と い う 事 実 。 ( 4 ) 認 識 的 に 主 観 と 客 観 が 合 致 す る
こ と 」 と 多 義 的 な 概 念 で あ る こ と が 示 さ れ て い る (栗 原 彬 の 定 義 に よ る )。 廣 松
渉 、子 安 宣 邦 、三 島 憲 一 、宮 元 久 雄 、佐 々 木 力 、野 家 啓 一 、末 木 文 美 士 編 (1998)
『 岩 波 哲 学 ・ 思 想 事 典 』 岩 波 書 店 ,p. 5.
ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 分 類 に つ い て は エ リ ク ソ ン ,エ リ ッ ク (1973)自 我 同 一 性 ―
ア イ デ ン テ ィ テ ィ と ラ イ フ サ イ ク ル 』 (小 此 木 啓 吾 訳 )誠 信 書 房 に 詳 し い 。 訳 者
の小此木は日本でエリクソンに早くから注目していた研究者として知られる。
ス ミ ス ,ア ン ト ニ ー (1998)前 掲 書 , p.51.
ス ミ ス ,ア ン ト ニ ー (1999)『 ネ イ シ ョ ン と エ ス ニ シ テ ィ 』 (巣 山 靖 司 ・ 高 城 和 義
訳 )名 古 屋 大 学 出 版 , pp. 27-56. 及 び ス ミ ス ,ア ン ト ニ ー (1998 )前 掲 書 , p. 5 2. 参 照 。
ス ミ ス ,ア ン ト ニ ー (1998)前 掲 書 , p.55.
ス ミ ス ,ア ン ト ニ ー (1998)前 掲 書 , p.27.
こ れ ら の 代 表 例 は ス ミ ス に よ っ て 例 示 さ れ た も の の 一 部 で あ る 。ス ミ ス は 他 の
例として「マロン派」「シク教徒」「カレン族」なども挙げている。 スミス,
ア ン ト ニ ー (1998)前 掲 書 , p.28.
ス ミ ス ,ア ン ト ニ ー (1998)前 掲 書 , p.30.
西 川 の 指 摘 に よ れ ば 、ネ イ シ ョ ン と ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 関 係 に つ い て 認 識 が 広
まったのは1990年代以降のことであり、1983年に発表されたベネディ
クト・アンダーソンの『想像の共同体』でもアイデンティティはキーワードに
なりえておらず、巻末のインデックスにも 取り上げられていない。西川長夫
(2006) 前 掲 書 ,p. 207.
西 川 長 夫 (2006) 前 掲 書 ,p. 198.
田 辺 俊 介 (2010)『 ナ シ ョ ナ ル ・ ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 国 際 比 較 』慶 應 義 塾 大 学 出
版 会 ,p. 16.
ス ミ ス ,ア ン ト ニ ー (1998)前 掲 書 , p.39.
田 辺 (2010) 前 掲 書 ,p. 41.
ス ミ ス ,ア ン ト ニ ー (1998)前 掲 書 , p.42.
ス ミ ス ,ア ン ト ニ ー (1998)前 掲 書 , p.43.
ス ミ ス ,ア ン ト ニ ー (1998)前 掲 書 , p.61.
ス ミ ス ,ア ン ト ニ ー (1998)前 掲 書 , p.61.
ス ミ ス ,ア ン ト ニ ー (1998)前 掲 書 , p.61.
内 面 化 と は「 言 語 、文 化 、価 値 、規 範 な ど 社 会 的 に 形 成 さ れ た も の が 個 人 の 内
部に取り込まれること」であり、内化、内在化ともいう。タルコット・パーソ
ンズは「共有された認知・表出・評価の体系を内面化することが社会システム
と パ ー ソ ナ リ テ ィ 形 成 の 要 件 」で あ る と 述 べ て お り 、P. L.バ ー ガ ー や T.ル ッ ク
マンらは「制度化された客観的現実が社会化により主観的現実として内在化さ
れることで社会構造とアイデンティティが再生産される」と述べている。大澤
真 幸 ・ 吉 見 俊 哉 ・ 鷲 田 清 一 編 集 (2012) 『 現 代 社 会 学 事 典 』 弘 文 堂 , p.9 66. 参 照 。
野 津 隆 志 (2005) 『 国 民 の 形 成 』 明 石 書 店 , p.24.
い く つ か の 例 を 上 げ る と す る な ら 、 野 津 隆 志 (2005 )『 国 民 の 形 成 』 明 石 書 店 、
橋 本 伸 也 (2004)「 序 章 ネ イ シ ョ ン と ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 教 育 社 会 史 」望 田 幸 男 ・
橋本伸也編『ネイションとナショナリズムの教育社会史』昭和堂 、村田翼夫
(2001) 『 東 南 ア ジ ア 諸 国 の 国 民 統 合 と 教 育 ― 多 民 族 社 会 に お け る 葛 藤 ― 』 東 信
堂 、 高 橋 秀 寿 (1995)「 ド イ ツ 人 の 脱 国 民 化 」 宮 島 喬 ・ 西 川 長 夫 編 『 ヨ ー ロ ッ パ
の統合と文化・民族問題』人文書院、など。
ゲ ル ナ ー , ア ー ネ ス ト (2000)『 民 族 と ナ シ ョ ナ リ ズ ム 』 岩 波 書 店 , p.58.
橋 本 伸 也 (2004)「 序 章 ネ イ シ ョ ン と ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 教 育 社 会 史 」望 田 幸 男 ・
23
橋 本 伸 也 編 『 ネ イ シ ョ ン と ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 教 育 社 会 史 』 昭 和 堂 , p.4.
Watson, Keith (1992) Ethnic and Cultural Diversity and Educational Policy
in an International Context , James Lynch, Celia Modg il and Soh an Modgil
(eds.), Cultural Diversity and the schools , Vol4 - Human Rights, Education
and Global Responsibilities , The Falmer Press, p.250.
4 2 西 川 長 夫 (2006) 前 掲 書 ,p. 203.
4 3 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 26.
4 4 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 27.
4 5 箕 浦 康 子 (1999)「 フ ィ ー ル ド ワ ー ク と 解 釈 的 ア プ ロ ー チ 」箕 浦 康 子『 フ ィ ー ル
ド ワ ー ク の 技 法 と 実 際 』 ミ ネ ル ヴ ァ 書 房 ,p.13.
4 6 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 264.
4 7 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,pp.24-25.
4 8 エ リ ク ソ ン , エ リ ッ ク (1973) 前 掲 書 ,pp.147-150.
4 9 橋 本 伸 也 (2004) 前 掲 書 ,p. 5.
5 0 「 母 語 」と は「 生 ま れ て は じ め て 出 会 い 、そ れ な し に は 人 と な る こ と が で き な
い、またひとたび身につけてしまえば離れることのできない根源のことば」で
ある。つまり人間が幼少期から自然と習得する言語である。これに対して母国
語は、母国の言語であり、必ずしも母語と一致するとは限らない。また、ある
人が最もうまく使いこなせる言語を「第一言語」と呼び、多くの場合、その人
の受けた学校教育の教授言語が「第一言語」となる。亡命チベット人にとって
チベット語は「母語」であると同時に「第一言語」であるが、本論では世代か
ら世代に継承されるという意味において「母語」という用語を使用する。田中
克 彦 (1981)『 こ と ば と 国 家 』 岩 波 新 書 ,pp. 26-52.参 照 。
5 1 レ イ ブ ,ジ ー ン /ウ エ ン ガ ー ,エ テ ィ エ ン ヌ (1993)『 状 況 に 埋 め 込 ま れ た 学 習 ― 正
統 的 周 辺 参 加 』 ( 佐 伯 胖 訳 ) 産 業 図 書 ,p.7.
5 2 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 35.
5 3 吉 野 耕 作 (1997) 『 文 化 ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 社 会 学 』 名 古 屋 大 学 出 版 会 , p.229.
5 4 田 辺 俊 介 (2010) 前 掲 書 ,p. 7.
5 5 本 調 査 法 は 野 津 の 研 究 に お い て も 採 用 さ れ て お り 、そ の 有 効 性 が 説 明 さ れ て い
る 。 野 津 隆 志 (2005)前 掲 書 ,p. 36.
5 6 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,pp.37-38.
5 7 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,pp.36-37.
5 8 箕 浦 は 仮 説 生 成 研 究 で は デ ー タ 収 集 と 分 析 が 同 時 進 行 す る が 、仮 説 検 証 研 究 で
は デ ー タ 収 集 後 に デ ー タ 分 析 が く る 点 が 、決 定 的 に 違 う 点 で あ る と 述 べ て い る 。
箕 浦 康 子 (1999) 前 掲 書 ,p. 7.
5 9 野 津 は 、仮 説 生 成 型 研 究 で は 仮 説 の 生 成 か ら 理 論 構 築 ま で が 一 直 線 に 進 行 す る
わ け で は な く 、 何 度 も 循 環 的 に 進 行 し て い く と 説 明 し て い る 。 野 津 隆 志 (2005)
前 掲 書 ,pp. 37-38.
6 0 箕 浦 康 子 (1999) 前 掲 書 ,p. 7.
6 1 SATA : Swiss Association for Techn ical Assistance 、 ス イ ス に 本 部 を 置 く 非
営利援助団体。
6 2 Ropan i は ネ パ ー ル に お け る 土 地 面 積 を 表 す 単 位 。 9 Ropan i =約 1 エ ー カ ー 。
6 3 OXFAM : Oxford Committee for Famine Relief 、 1942 年 に 発 足 し た 英 国 オ ッ
クスフォードに本部を置く非政府援助団体。
6 4 こ の 事 務 所 の 正 式 名 称 は Tashi Palkhel Tibetan Settlemen t Office で あ る 。
この事務所では亡命政府の職員1名と現地採用の事務職員数名が働いている。
6 5 花 崎 皐 平 (1993)『 ア イ デ ン テ ィ テ ィ と 共 生 の 哲 学 』 筑 摩 書 房 ,p. 133.
6 6 例 え ば 山 内 は 論 考「 ア ジ ア に お け る 国 民 国 家 と 教 育 」の 中 で「 従 来 の 国 民 国 家
と教育との関係は大きく揺らぎつつあるように見える」と述べており、「国民
国家が学校を国民形成の手段として利用する時代は遠のきつつある」 と指摘し
て い る 。 山 内 乾 史 (2007) 「 ア ジ ア に お け る 国 民 国 家 と 教 育 」 山 内 乾 史 編 『 開 発
と 教 育 協 力 の 社 会 学 』 ミ ネ ル ヴ ァ 書 房 ,pp.12-16.
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69
ア ガ ン ベ ン ,ジ ョ ル ジ ョ (2000)『 人 権 の 彼 方 に −政 治 哲 学 ノ ー ト 』 (高 桑 和 己 訳 )
以 文 社 ,p. 29.
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http://www.unhcr.or.jp/in fo/unhcr_news/ pdf/r efugees30/ref30_p15. pdf
( 最 終 閲 覧 日 : 2014 年 2 月 6 日 )
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UNHCR(2011) Global Trend 2011, UNHCR,p. 12.
UNHCR(2011) 前 掲 報 告 書 ,p. 12.
佐 藤 麻 理 絵 (2013)「 現 代 中 東 に お け る 難 民 研 究 の 新 地 平 」『 イ ス ラ ー ム 世 界 研
究 第 6 巻 』 京 都 大 学 イ ス ラ ー ム 地 域 研 究 セ ン タ ー ,p. 295.
難 民 援 助 (refugee aid)と 開 発 (development)を リ ン ク さ せ よ う と し た 試 み は
こ れ ま で も 何 度 か 試 み ら れ て い る 。主 な と こ ろ で は 1967 年 の ア ジ ス ア ベ バ「 ア
フ リ カ 難 民 問 題 の 法 的 、経 済 的 、社 会 的 側 面 に つ い て の 会 議 」、1983 年 の ジ ュ
ネ ー ブ 「 難 民 援 助 と 開 発 に 関 す る 専 門 家 会 議 」 、 1984 年 の ICARAⅡ ( th e
Intern ation al Confer ence on Assistance to Refugees in Afric a Ⅱ ) な ど で 開
発アプローチが提言されたが、難民を対象とする開発援助には資金が集まらず
こ と ご と く 失 敗 に 終 わ っ て い る 。 し か し 、 2003 年 の UNHCR 執 行 委 員 会 で 開
発援助と難民問題をリンクさせた方策「難民および関係者に対する恒久的解決
の枠組み」が策定され、以降、難民援助と開発をリンクさせた議論は活発にな
っ て い る 。 小 泉 康 一 (2001)「 難 民 研 究 ― 問 題 の 所 在 と 将 来 の 研 究 方 向 」 難 民 問
題 研 究 フ ォ ー ラ ム 編 『 難 民 と 人 権 ― 新 世 紀 の 視 座 』 現 代 人 文 社 , p. 199. 及 び 杉
本 明 子 (2007)「 難 民 開 発 援 助 と 難 民 の エ ン パ ワ ー メ ン ト に 関 す る 予 備 的 考 察 」
『 神 戸 学 院 法 学 第 3 7 巻 第 1 号 』 ,pp.31-32.
最 近 の 移 民 研 究 者 は 難 民 の よ う な 弱 い 立 場 の 移 住 者 を 、働 き 盛 り の 青 壮 年 男 子
と い う 従 来 の 移 民 の イ メ ー ジ と の 対 比 に お い て 「 弱 者 移 民 (vulner able
migran ts)」 と 独 特 の 名 で 呼 ん で い る 。 宮 島 喬 (2011)「 グ ロ ー バ ル 化 の な か の
人の移動と民族」江原裕美編著『国際移動と教育:東アジアと欧米諸国の国際
移 民 を め ぐ る 現 状 と 課 題 』 明 石 書 店 , p.20.
平 野 聡 (2004)『 清 帝 国 と チ ベ ッ ト 問 題 』 名 古 屋 大 学 出 版 会 , p.16.
平 野 聡 (2004)前 掲 書 , p.17.
松 本 高 明 (1996) 前 掲 書 ,p. 2.
25
第1章
チベットの歴史と亡命チベット人共同体の形成
西 蔵 の 地 域 、即 ち ヒ マ ラ ヤ の 奥 地 全 體 は 、太 古 、一 面 に 湖 で あ つ た 。
然るに或時、湖水が乾いて水が引き、潅木が生え、自然そこに鳥獣が
來り棲むやうになつた。その間に一疋の猿が現れ、また一人の魔女、
即ち羅刹女が出て來た。そこで羅刹女が猿公に愛情を感じ、自分は宿
業のために羅刹に生まれたけれども、前世には汝と親しい間柄であつ
たとて、互に打解け、遂に同棲した。間もなく六匹の猿が生まれた。
その猿が發育するにつれ、體がなくなり、尾が短くなつて次第に消え
去つた。さうして人間らしい姿となつた 1。
第1節 チベットと中国の歴史的関係
ア ン ダ ー ソ ン ( Benedict Anderson ) は そ の 著 書 『 想 像 の 共 同 体 』 の 中 で 、
国 家 の 歴 史 を「 国 民 の 伝 記 」 2 と 呼 ん で い る 。 ア ン ダ ー ソ ン の 『 想 像 の 共 同 体 』
は、国民国家が国家と国民の幻想の相互投射によって成立することを提起し、
近年の国民国家の形成に関する研究動向に大きな影響を与えた論考であるが、
興 味 深 い こ と に ア ン ダ ー ソ ン は 、 フ ラ ン ス の 思 想 家 ル ナ ン ( Joseph Ernest
Renan )の 著 書『 国 民 と は 何 か 』か ら 、「国 民 の 本 質 と は 、す べ て の 個 々 の 国 民
が多くのことを共有しており、そしてまた、多くのことをおたが いすっかり忘
れてしまっていることにある」3というフレーズを序章と終章において二度も
引 用 し て い る 。そ し て 終 章 に お い て 、
「 世 俗 的 、連 続 的 な 時 間 に 埋 め 込 ま れ て い
るという意識、そうした時間はそれ自体おのずと連続性を意味するのにこの連
続 性 の経 験 を 忘 れ てい る と い う 意 識」4 が ア イ デ ン ティ テ ィ の 物 語の 必 要 を 生
み出すと説明している。このアンダーソンの言説は、国民がナショナルな存在
であることを自覚するためには自己を国家の歴史や伝統の中に位置づけること
の重要性を示している。本章では共同体を形成・維持していく上で亡命チベッ
ト人たちの間で共有され、記憶されなくてならないチベットの歴史的領域、共
通 の 神 話 、建 国 の 史 実 、中 国 と の 関 係 、難 民 化 後 の 足 跡 に つ い て 概 説 し て い く 。
まず、チベット人が自分の「国土」と考えている歴史的領域であるが、中国
の西、インド・ネパールの北、イランの東、新疆ウイグルの南に位置する東経
78度から102度、北緯28度から36度までの面積約250万k㎡の領域
であり、チベットの南の「国」境にはヒマラヤ山脈、西の「国」境にはカラコ
ルム山脈が横たわり、世界で最も標高の高い地域のひとつである。チベット人
は古来、北チベットの標高4千8百メートルから南チベットの標高1千2百メ
26
ートルまでの間に居住し、耕作の適さない標高の高い地域では羊やヤク5を放
牧し、標高3千6百メートル以下の土地では大麦・大豆など穀物類の耕作を行
なってきた。
日本では西蔵と書いて「チベット」と読ませているが、もともと西蔵(シー
ツァン)いう名称は近代中国政府が用いている呼称であってチベット人自らが
用いている「国名」ではない。西蔵とは中国の西にある蔵(ツァン)という意
味 で あ り 、明 代 に 烏 斯 蔵( ウ ス ツ ァ ン )、若 し く は 衛 蔵 、元 代 で は 西 藩 、若 し く
は西香、唐代には吐藩と呼ばれており、 清朝以降には前蔵、後蔵、内蔵、外蔵
と時代とともにその呼称は変わってきた6。チベット研究の先駆である多田等
観 に よ れ ば 、 チ ベ ッ ト 人 自 身 は 自 ら の 「 国 」 を ブ ゥ ( Bod) と 呼 ん で お り 、 こ
の「国名」は本章の冒頭に記載した太古のチベットは湖に覆われていたという
神 話 に 由 来 し て い る と い う 。ブ ゥ と は チ ベ ッ ト 語 の「 叫 ぶ 」、或 い は「 呼 ぶ 」と
い う 意 味 の 動 詞 hbod か ら 派 生 し た 名 詞 で あ り 、 神 話 の 中 の 人 々 は 湖 の 対 岸 の
岩 窟 に 住 む 者 と 互 い に 呼 び 交 わ し て 生 活 し て い た こ と か ら 、そ れ が そ の ま ま「 国
名 」 に な っ た と さ れ る 。 ま た 、 チ ベ ッ ト 人 は ブ ゥ ( Bod) に 、 人 を 意 味 す る パ
( pa)を 組 み 合 わ せ て 自 ら の こ と を ポ ェ パ Bod-pa( =チ ベ ッ ト 人 )と 称 し て い
る 。 現 在 の チ ベ ッ ト ( Tibet) と い う 英 語 名 は 、 も と も と 中 央 ア ジ ア に あ っ た
Tufan と い う 部 落 名 が Topo、 更 に Tobo に 変 化 し 、 こ れ に モ ン ゴ ル 語 の 接 尾 辞
t が つ い て Tobot と な り 、最 終 的 に Tibet に 変 化 し た も の と い う 説 7 や 、唐 代 の
中国人が吐藩と呼んでいたのを中央アジアのチュルク人がティピットなどと呼
び、それが欧州に伝わってティベットに変化したという説 8がある。
図 1-1
チベットにおける概念的地域区分
出 所 : 松 本 高 明 (199 6)「 チ ベ ッ ト 問 題 と 中 国 」 p. 18 6.
27
従来チベット人たちは自分たちの住む地域をウ、ツァン、カム、アムド、ガ
リという五つの地域に分けていた。ウは首都ラサを含む中央部、ツァンは経済
の中心シガツェを含む南部穀倉地帯、カムは東部放牧地帯、アムドは北東部放
牧地帯、そしてガリは北西部放牧地帯である。しかしチベット人の分け方は各
地域の地理的境界も曖昧で、ウとツァンをひとまとめにしてウ・ツァン
(U-Tsang) と 呼 ぶ こ と も 多 い 。 ま た チ ベ ッ ト 人 は ウ ・ ツ ァ ン 、 カ ム 、 ア ム ド を
チベットの「3つのチョルカス9」という特別の呼称で呼んでいる。亡命チベ
ット人たちが解放を主張し、帰還を望んでいるのは、この3つのチョルカスで
ある10とされている。
本章冒頭で示した文章はチベットとチベット人の起源に纏わる神話であるが、
実際の史実は、チベットの最初の王ニャティ・ツェンポが即位した漢の初期に
あ た る 紀 元 前 1 2 7 年 に ま で 遡 る こ と が で き る 1 1 。チ ベ ッ ト で は ニ ャ テ ィ・ツ
ェンポ王の死後、数百年にわたって部族集団同士の覇権争いが続いたが、紀元
7世紀にソンツェン・ガムポがチベット高原一帯を統一し、762年には長安
(現在の西安)を占領して 青海東部、四川西部から雲南南部まで領土を広げた
12
。 ソ ン ツ ェ ン ・ ガ ム ポ の 時 代 、 チ ベ ッ ト は 隆 盛 を 極 め 、「 西 は 中 央 亞 細 亞 か
ら、東は唐に至るまでの諸國が西蔵に修好を求めて來た」 13といわれている。
また、ネパールの王室と唐の皇室は、それぞれ娘をソンツェン・ガンポ王のも
と に 嫁 が せ て い る 1 4 。ソ ン ツ ェ ン・ガ ム ポ 王 は 仏 典 を 自 国 語 に 翻 訳 さ せ る た め
にトンミ・サンボタ等16人の留学生をインドに派遣し、サンボタは帰国後に
グプタ文字15を模してチベット文字を創製したといわれている。
唐代に強大となったチベットであるが、1252年頃に勃興し たモンゴル人
に よ っ て 征 服 さ れ る 1 6 。モ ン ゴ ル 帝 国 の 衰 退 後 、中 国 で は 明 朝 が 興 っ た が 、復
興したチベットと明の外交関係は希薄なものであったとされる。復興後のチベ
ットは仏教国として栄え、暫くは政治的にも安定した時期であった。しかし、
1700年代になると国内で内乱が頻発する。チベット政府は国内の秩序維持
のため、また、1790年の喀爾喀人(ネパール・ゴルカ王朝)によるチベッ
ト 侵 攻 の 際 に 清 軍 に 派 兵 を 依 頼 し て お り 1 7 、こ の 時 代 の 清 と チ ベ ッ ト の 良 好 な
関係が窺える。1900年代初頭は、英国やロシアなどの外国勢力によるチベ
ットへの干渉が強まった時代である。1904年にチベットと英国の間で西蔵
条約が締結され、英国は条約の締結によってチベットの主権をいったん認めて
いるが、1906年になると英国と清の間で北京条約が締結され、更に英国と
ロ シ ア の 間 で 英 露 協 商 1 8 が 締 結 さ れ る と 、英 国 と ロ シ ア は 一 転 し て 清 の チ ベ ッ
ト に 対 す る 宗 主 権 を 承 認 し た の で あ る 。1 9 0 9 年 、光 緒 帝 と 西 太 后 の 死 去 後 、
28
清軍がチベットの宗主権を確立すべくラサに侵攻してチベットを占領し、ダラ
イ ・ラ マ 1 3 世 が イ ン ド に 亡 命 す る 。し か し 、チ ベ ッ ト 人 は 辛 亥 革 命 の 勃 発 を き
っかけに清軍を駆逐し、1913年1月、亡命先から帰還したダライ・ラマ1
3世がチベットは独立国家であるとの宣言を行なった。同時にモンゴルとの間
で お 互 い の 独 立 を 認 め 合 う「 チ ベ ッ ト・モ ン ゴ ル 相 互 承 認 条 約 」を 締 結 し た が 、
一方で中華民国政府外交部は在中国の各国臨時外交代表に向けて、満州、モン
ゴル、チベットの主権は中華民国にあるとの声明を発表したのである 19。
独立宣言以降、チベットは中国の影響を完全に排斥しており、事実上の独立
状 態 ( de facto independent ) に あ っ た 。 1 9 5 1 年 に 中 華 人 民 共 和 国 に 併 合
される以前のチベット政府機構は、聖俗両界の指導者を兼ねたダライ・ラマを
頂点に、行政の指導母体であるカシャグ(内閣)が国内で起こる様々な問題を
処理していた。カシャグは三人の俗官と一人の僧官によって構成され、それぞ
れ が 大 臣( カ ロ ン )の 称 号 を 保 持 し て い た 。カ シ ャ グ の 下 に 政 治 、軍 務 、財 務 、
司法、外務、教育の各局、及び宗教問題を取り扱う評議会、国家的重大事を討
論する国民議会があった。更にチベットには徴兵制度があり、独自の軍隊を有
していた20。また、1792年以降、チベットは独自の通貨を保有しており、
紙幣単位をサンと呼び、硬貨単位をショカンと呼んでいた 。
1949年10月、毛沢東は中華人民共和国建国と同時にチベット、新疆、
海南島、台湾を含む中国全土を解放する宣言し、ウ・ツァン東部に人民解放軍
を進駐させた。チベット政府はすぐさま国連事務総長に仲裁を要請したが反応
は鈍く、11月にはエルサルバドル共和国が国連総会においてチベット問題を
取り上げるよう提案したが却下されている。人民解放軍の首都ラサへの圧力は
日 増 し に 強 ま っ て 行 き 、チ ベ ッ ト 政 府 は そ の 当 時 、親 政 を 行 な っ て い た ダ ラ イ・
ラマ14世をインドとの国境に近いヤートン(亜東)へ避難させ、国連提訴等
の対応策を打ち出したが受理されず、人民解放軍の圧倒的な兵力の前にチベッ
ト政府の代表者たちは中華人民共和国との交渉の席に着くことを余儀なくされ
たのである。1951年5月23日、チベット政府と中華人民共和国政府との
間で「中央人民政府とチベット地方政府のチベットの平和解放に関する協定」
21
が 調 印 さ れ る こ と に な っ た 。こ の 協 定 は 序 文 と 条 約 本 文 か ら 構 成 さ れ て お り 、
本文が17条あるため一般に「17条協定」と呼ばれている。この「17条協
定」によりチベットは事実上中国の主権のもとに組み込まれ、中国による新し
いチベット統治体制が開始されたのである。以下の地図は、併合後、中国によ
って分けられたチベットを含む周辺地域の行政区画を示すものである。201
3 年 現 在 、中 国 内 の チ ベ ッ ト 族 の 人 口 は 約 6 0 0 万 人 2 2 で あ り 、主 に チ ベ ッ ト
自治区、青海省、四川省、雲南省、甘粛省に居住している。
29
図 1-2
チベット族分布地域と中国行政区画
出 所 : 松 本 高 明 (199 6)「 チ ベ ッ ト 問 題 と 中 国 」 p. 18 4.
第2節 ダライ・ラマ14世とチベット亡命政府
1959年3月、ラサでチベット人が大規模な抵抗活動(中国共産党はこれ
を反乱と規定)所謂「ラサ暴動」を起こしたため、中国共産党は武力でこれを
鎮 圧 2 3 、宗 教 的・政 治 的 指 導 者 で あ る ダ ラ イ・ラ マ 1 4 世 が 側 近 た ち と と も に
国 外 に 脱 出 し た の を 機 に 、8 万 5 千 人 近 く の チ ベ ッ ト 人 が 国 外 へ 脱 出 し 2 4 難 民
となった。ラサを脱出したダライ・ラマ14世はチベット南部のルンツェ・ゾ
ン( Lhuntse Dzong)に お い て 臨 時 政 府 を 樹 立 し 、
「 1 7 条 協 定 」の 破 棄 を 宣 言
した。中国政府はインドとの国境を封鎖したがチベット人の脱出は止まらず、
その数は最終的には10万人以上にも上ったのである。難民の約9割はインド
に、その他はネパールやブータンに脱出した。当時、国連難民高等弁務官事務
所 は ヨ ー ロ ッ パ 以 外 の 難 民 問 題 に は 殆 ど 関 心 が な く 2 5 、各 国 政 府 も 中 国 か ら 内
政干渉と見なされるとの意識から亡命チベット人に対する援助を積極的打ち出
すことはしなかった。しかし、インドの首相ネルーはチベット人の民族自決権
に強い支持を表明し、中央救済委員会を設立して難民たちの救済事業に乗り出
したのである。国連がこの問題に関与し始めるのは1960年になってからの
ことであり、ジュネーブにある国際法律家委員会が初めて「チベット問題」を
取り上げ、中国の人権侵害とジェノサイドを指摘した。国連は1961年に中
30
国 に 対 し て「 チ ベ ッ ト 人 の 自 由 や 基 本 的 人 権 を 奪 い 、民 族 の 自 決 権 を 奪 う 政 策 」
をやめるよう勧告(決議1723番)を行なった。同様の勧告(決議2079
番)は1965年にも行なわれている 26。
イ ン ド に 亡 命 し た ダ ラ イ・ラ マ 1 4 世 は 、
「 ど こ に い よ う と 、私 と わ が 閣 僚 た
ち が い る 限 り 、チ ベ ッ ト 人 民 は 私 た ち を チ ベ ッ ト 政 府 だ と 認 め る だ ろ う 」2 7 と
宣 言 し て 行 政 機 構 を 再 組 織 し 、 チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 ( the Tibetan
Government-in-exile) を イ ン ド 北 部 の ヒ マ ー チ ャ ル ・ プ ラ デ ー シ ュ 州 ダ ラ ム
サラにおいて樹立28した。
図 1-3
チベット亡命政府組織
出 所 : S tepha nie Roemer(20 09) The Tibetan Government - IN-EXILE ,p.9 5.
チベット亡命政府は国家元首をダライ・ラマ法王と定め、インドやネパール
に流失離散したチベット難民たちを「チベット独立」を目指す政治的共同体と
31
して組織するだけでなく、
「 チ ベ ッ ト に お け る チ ベ ッ ト 政 府 の 延 長 と し て 」2 9 の
機能を具備し、チベット内外のチベット人にとって唯一正統な政府であると自
らを規定している。新たに設置された亡命政府には、それまでのチベット政府
とはいくつかの異なる点があった。そのひとつが選挙によって選ばれた人民の
代 表 に よ る 「 亡 命 チ ベ ッ ト 代 表 者 議 会 ( The Assembly of Tibetan People’s
Deputies )」 が 設 置 さ れ て い る 点 で あ る 。 そ の 背 景 と し て 、 チ ベ ッ ト 問 題 を 世
界に知らしめ、国際社会の支援を取り付けるためには正常な民主主義的手続に
よって大多数のチベット人は独立を望んでいると言う集 団的な意志を正確に表
すことが必要であり、亡命政府がそれまでの中世封建的な政体から民主的な政
治体制へ移行し、民主主義メカニズムを具備していることを示す必要があった
ことが挙げられる。亡命チベット人共同体に設置された「亡命チベット代表者
議会」はチベット内地居留者を含めた全チベット人を代表しているとされてい
るが、チベット内地における選挙実施は事実上不可能であり、従って亡命チベ
ット人共同体を構成するのは主にインドやネパールで暮らす亡命チベット人た
ちである。
また、亡命政府は1963年に亡命チベット人共同体の憲法として 、チベッ
ト 仏 教 と 民 主 主 義 を 基 本 理 念 と し た 憲 法 草 案 3 0 を 公 布 し て い る 。1 9 9 0 年 に
は「亡命チベット代表者議会」の議席をそれまでの12議席から46議席に増
やす変更を行ない、また、それまでダライ・ラマが直接指名していた大臣を議
会で選出するなど「亡命チベット代表者議会」の権限を拡大させている。更に
1 9 9 1 年 に は 国 連 人 権 宣 言 に 基 づ く 「 亡 命 チ ベ ッ ト 人 憲 章 ( Charter of
Tibetan-in-Exile)」 を 公 布 し て い る 。 ま た 、 ダ ラ イ ・ ラ マ は 1 9 9 2 年 に 「 チ
ベ ッ ト の 将 来 に お け る 政 治 形 態 の 指 針 と 憲 法 の 基 本 要 点 」3 1 を 発 表 し 、そ の 中
で、将来の民主主義的なチベット政府のもとでは「旧来の制度で保証されてい
た 政 治 的 地 位 は 一 切 引 き 受 け な い 」3 2 と 述 べ て い る 。更 に 亡 命 政 府 に つ い て は
チベットから中国の軍隊が撤退し、チベット憲法が公布されるまでの過渡期に
暫定大統領を任命し、ダライ・ラマの政治権力と政治責任を委任し、その時点
で役割を終え、消滅すると説明している。以下は、現亡命政権下の主たる機関
とその機能及び役割である。
1. 立 法 機 関
亡命政府の立法府である「亡命チベット代表者議会」は46人の議員で構成
され、うち43名は各地に分住している亡命チベット人による直接選挙によっ
て選出される。直接選挙で選ばれる43名のうち30名は中国域内のチベット
三 区 3 3 か ら 各 1 0 名 ず つ 選 出 さ れ る 。他 に 宗 教 議 員 1 0 名 が 仏 教 の 5 つ の 宗 派
32
34
か ら 2 名 ず つ 、更 に 西 欧 、北 欧 、北 米 地 区 か ら 各 1 名 ず つ 選 出 さ れ る 。他 に
4名がダライ・ラマ法王によって指名される 35。選挙は5年に一度実施され、
25歳に達したチベット人であれば誰でも議員に立候補することができ、18
歳以上のすべてのチベット人に投票権が与えられている。亡命チベット代表者
議会の最も重要な役割は、亡命政府の予算を承認すること、政策を認可するこ
と 、内 閣 を 選 出 す る こ と の 3 つ で あ る 。な お 、
「 亡 命 チ ベ ッ ト 人 代 表 者 議 会 」の
下 部 組 織 と し て 、 3 8 の 主 要 な 亡 命 チ ベ ッ ト 人 入 植 地 に 「 地 方 議 会 ( Local
Assembly)」 が あ る 。
2. 行 政 機 関
「 亡 命 チ ベ ッ ト 代 表 者 議 会 」に よ っ て 選 出 さ れ る 内 閣( Kashag)は 、亡 命 チ
ベ ッ ト 人 社 会 の 最 高 行 政 機 関 で あ る 。 内 閣 は 1 名 の 主 席 大 臣 ( Kalon Tripa)
と主席大臣の指名及び「亡命チベット代表者議会」の承認により任命される7
名 の 大 臣 ( Kalon) に よ っ て 構 成 さ れ 、 各 大 臣 は 以 下 に 挙 げ る 各 省 の 最 高 責 任
者を務めることになっている 36。
(1) 宗 教 文 化 省 ( Department of Religion and Culture )
中国側のチベットでは文化大革命時に多くの僧院や文化施設が中国共産党に
よって破壊されており、チベット固有の文化や伝統、精神文化が消滅の危機に
瀕していると言われている。宗教・文化 省の任務は、破壊された僧院をインド
やネパールに再建すること、世界中にある仏教の主要な拠点との交流プログラ
ムを促進すること、宗教・文化的出版物を発刊することなどである。
(2) 内 務 省 ( Department of Home )
総務省は亡命したチベット人の社会的自立を担当している。省の主要な任務
は、難民の受入国政府や難民を支援する国際組織と協力し、亡命チベット人社
会全体の雇用機会を創出し、自立を促進することである。
(3) 財 務 省 ( Department of Finance)
財務省の主な役割は、亡命政府の活動資金(政府歳入)を調達することであ
る。財務省は予算部門、融資部門、事業部門の3つのセクションから構成され
ている。予算部門は亡命政府の年間予算計画を策定し、事業部門はインド、ネ
パール、米国、オーストラリアなどで企業体を経営し、亡命政府の資金を調達
している。
33
(4) 教 育 省 ( Department of Education )
教育省は、インド、ネパール及びブータンにある80校のチベット人学校を
管理監督している。また、様々なドナーから経済的援助を受け、生徒を支援す
るための制度を整備し、就学の普遍化を促進するとともに、一人でも多くの生
徒がより高度な教育を受けられるよう奨学金を支給するなどしている。
(5) 公 安 省 ( Department of Security )
公安省の主要な責務はダライ・ラマ14世の安全を確保することである。ま
た、庇護国が発行する居住許可書取得の支援を行ない、更に新たに流入してく
る難民たちの受入れセンターを管理運営している。公安省の管轄下には、占領
されているチベット祖国及び中国の開発事業の状況を監視する調査機関がある。
(6) 情 報 ・ 国 際 関 係 省 ( Department of Information and International
Relations)
情報・国際関係省はチベット亡命政府の外交を担当する機関として国際諸機
関や各国政府、支援組織と連携をはかり、チベットとチベット難民を取り巻く
現状を広く世界に向けて訴え、国際世論における理解を深めることを任務とし
ている。
(7) 厚 生 省 ( Department of Health )
厚生省は亡命チベット人の保健全般に責任を有し、殆どのチベット人入植地
に配置されている保健センター、及び6箇所の委託病院を管理運営して いる。
3. 司 法 機 関
「 最 高 司 法 委 員 会( Sup reme Justic e Commissio n )」 は 、亡 命 チ ベ ッ ト 人 共 同 体
の憲法である「亡命チベット人憲章」を基本として1992年に設立された委
員会であり、
「滞在国の法に違反しない範囲で亡命チベット人社会の民事問題を
裁 く 」 3 7 権 限 を 有 し て い る と さ れ る 。「 亡 命 チ ベ ッ ト 人 憲 章 」 に は 、 法 の も と
の平等、差別のない人権の享受が規定されている他、亡命政府の司法、立法、
行 政 の 三 権 分 立 が 明 確 に 示 さ れ て い る が 、司 法 の 独 立 を 担 保 す る た め 、ダ ラ イ・
ラマ法王によって直接任命された委員会の最 高位者3名は、
「亡命チベット代表
者 議 会 」で 3 分 の 2 以 上 の 賛 成 を 得 な け れ ば な ら な い と 定 め ら れ て い る 。ま た 、
「 最 高 司 法 委 員 会 」の 下 に は 、6 つ の 入 植 地 に「 巡 回 司 法 委 員 会 」が 設 置 さ れ 、
更に簡易な司法機関として62の「地方司法委員会」が設置されており、全て
の亡命チベット人居住区を網羅している 38。
34
第 3 節 チベット亡命政府の外交政策
このように高度に組織化された亡命政府ではあるが、チベットを実効的に支
配する中華人民共和国への配慮から、亡命政府を正式な政府として承認する国
はどこにもない。また、受入国のインドが中華人民共和国の正統性を認めてい
る限りにおいてチベット亡命政府は国際法上の根拠を有さない組織であり、民
族解放団体に近い組織であるといえる。しかし亡命政府には、歴史的に不明瞭
な立場に置かれているチベットの主権と国際社会における自らの政府の正統性
をアピールするために、
「 チ ベ ッ ト 問 題 」を 中 国 国 内 の 少 数 民 族 問 題 で は な く 国
際 問 題 で あ る と 認 知 さ せ る「 外 交 」活 動 が 必 要 で あ っ た 3 9 。そ こ で ま ず 、亡 命
政 府 は 国 連 を 外 交 活 動 の 場 に 選 ん だ の で あ る 。1 9 6 0 年 以 降 、国 連 総 会 で「 チ
ベ ッ ト 問 題 」が 幾 度 も 取 り 上 げ ら れ 4 0 、こ の 問 題 が 世 界 に 広 く 知 れ 渡 っ た こ と
を 考 え る と 、チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 が 行 っ た「 国 連 外 交 」 4 1 は 一 定 の 成 果 を 収 め た
といえよう。しかし亡命政府の主張は、冷戦構造下で中華人民共和国と拮抗す
る勢力が多かった時代には一定の支持を集めていたものの、
「中国が国際社会に
おいて自らの影響力を拡大し始めると、亡命政府を積極的に支援する国は相対
的 に 減 少 」 4 2 し て い っ た 。こ の 事 実 は 、亡 命 政 府 が 一 時 で あ っ た に せ よ 西 側 諸
国に受け入れられていたのは人道的レベルか、或いは中国包囲網の一環でしか
なかったこと示している。亡命政府は中国が徐々に影響力を増していく国際情
勢の変化に対応し、
「 国 連 外 交 」以 外 の 新 た な 外 交 手 段 を 打 ち 出 す 必 要 に 迫 ら れ
ていた。そして、その新たな手段として登場したのがダライ・ラマ14世の宗
教活動の一環として行われる「訪問外交」 43であった。
ダ ラ イ ・ラ マ 1 4 世 の「 訪 問 外 交 」は 、ま ず 1 9 7 0 年 以 降 に 米 国 で 実 施 さ れ
て い た「 人 権 外 交 」4 4 と 合 致 し 、米 国 で 高 い 支 持 を 取 り 付 け る こ と に 成 功 し た 。
更 に ダ ラ イ ・ラ マ 1 4 世 は 1 9 8 9 年 の ノ ー ベ ル 平 和 賞 受 賞 前 後 か ら 各 国 政 府
が無視できない存在感を有し始め、
「 訪 問 外 交 」に よ る 非 政 府 レ ベ ル の 外 交 を 充
実させることにより、国際社会における新しい支援者層を拡大させていったの
で あ る 。こ の よ う な ダ ラ イ・ラ マ の「 訪 問 外 交 」は 主 に 西 欧 諸 国 で 成 功 を 収 め 、
特に米国では1994年10月に「大統領指名によるチベット特使の設置法案
( 上 院 No.S2554、 下 院 No.HR5254)」 の 両 院 提 出 を 引 き 出 す こ と に 成 功 し て
いる。この法案には、米国政府のチベット特使が中国に駐在し、ダライ・ラマ
若しくはその代表者と中国政府の交渉を促進することなどが盛り込まれている。
ダライ・ラマ14世がインドに亡命して以降、約20年間チベット亡命政府
と中国政府の間に政治的な交渉はなかった。中国政府は亡命政府を外交交渉の
35
対象にしておらず、この問題はあくまでもダライ・ラマ14世個人の問題であ
り、
「 ダ ラ イ 個 人 と し て の 帰 国 は 認 め る 」4 5 と い う 一 貫 し た 前 提 条 件 を 設 定 し 、
それを承諾せずに交渉に入ることはないという姿勢を堅持していた。また亡命
政 府 側 も 、毛 沢 東 を 大 躍 進 か ら 文 化 大 革 命 4 6 ま で 直 接 チ ベ ッ ト 人 弾 圧 を 指 揮 し
ていた人物として交渉相手にすることを拒んでいたのである。しかし、197
6年の毛沢東の死が、亡命政府と中国政府の関係に変化を齎した。ダライ・ラ
マ 1 4 世 が 次 の 指 導 者 で あ る 鄧 小 平 と の 交 渉 に 期 待 を 抱 い た た め で あ る 。ま た 、
1 9 7 0 年 代 に 入 っ て 中 国 を 取 り 巻 く 国 際 情 勢 も 大 き く 変 化 し て い た 4 7 。即 ち
中国政府は文革期の国際的孤立からの脱却を図り、国連や西側諸国との関係を
改善する過程で、国際問題化していたチベット問題の解決を迫られていたので
ある。このような情勢を背景にようやく始まった和解交渉であったが、両者の
溝はなかなか埋まらなかった。1981年、胡耀邦総 書記長は「ダライ・ラマ
に 関 す る 五 か 条 の 方 針 」 4 8 を 示 し た が 、ダ ラ イ・ラ マ の 地 位 の 問 題 に つ い て 亡
命政府側が反発し、これを拒否している。1987年、米国議会の人権問題小
委員会においてダライ・ラマ14世が「チベットに関する五項目和平案」を提
示したが、今度は中国指導部がこれを拒否している。ダライ・ラマ14世は1
988年に欧州議会で演説し、
「 完 全 な チ ベ ッ ト 独 立 と い う 選 択 肢 を 放 棄 し 、チ
ベットを中国の一部とするものの、連邦制に近い高度な自治地域に改変する」
49
と い う 主 旨 の 譲 歩 案 を 盛 り 込 ん だ「 ス ト ラ ス ブ ー ル 提 案 」5 0 を 提 示 す る が 、
ダライ・ラマ14世が欧州議会の場で一方的に演説を行なったことに対して中
国側が不快感を示し、両者が交渉のテーブルにつくことはなかった。また、亡
命 政 府 側 と し て か な り 踏 み 込 ん だ 譲 歩 案 で あ る こ の「 ス ト ラ ス ブ ー ル 提 案 」は 、
「 チ ベ ッ ト の 主 権 と 独 立 を 売 り 渡 す も の 」5 1 と し て 一 部 の 独 立 推 進 派 の 不 興 を
買 い 、亡 命 チ ベ ッ ト 人 共 同 体 内 部 で も 大 き な 議 論 を 巻 き 起 こ し た 。1 9 9 3 年 、
ダライ・ラマ14世は鄧小平と江沢民に書簡を送って膠着状態を脱しようと試
み て い る が 、亡 命 政 府 側 が 会 談 の 条 件 と し て 、
「公平かつ意味のある交渉を行な
う に は 、両 国 と も 前 提 条 件 を 持 ち 出 す べ き で は な い 」5 2 と 提 案 し た こ と に 対 し
て 、中 国 政 府 は ま ず「 祖 国 の 統 一 を 受 け 入 れ る こ と 」 5 3 を 前 提 条 件 と し て 譲 ら
ず、交渉は発展しなかった。以降、今日に至るまで両者の交渉は中断したまま
で あ る 。中 国 政 府 は 一 貫 し て 亡 命 政 府 を「 反 中 国 勢 力 」
「 国 家 分 裂 勢 力 」と 敵 視
しており、今も続くダライ・ラマ14世の「訪問外交」を阻むため関係各国に
様々な外交的圧力をかけている。
第4節
亡命チベット人共同体の形成
36
亡命政府の発表によると亡命チベット人の人口は当初8万5千人程度だった
が、2012年12月現在、約13万4千人にまで膨らんでいる。亡命チベッ
ト人の一部は第3国定住プログラムなどにより、米国、スイス、カナダなどに
居住しているが、約9割の亡命チベット人は一次庇護国であるインドやネパー
ルに居住している。
図 1-4
亡命チベット人の定住状況
出所:ダライ・ラマ法王日本代表部事務所ホームページ
http://www.tibethouse.jp/e xile/worldmap.html
亡命政府の機能と役割はチベット代表政府としての正統性と統合を維持する
ことであるが、もうひとつの重要な役割は亡命チベット人の受け入れや生活保
護を関係国政府と交渉することである。1960年代初頭、 難民発生に至った
複雑な政治的背景から問題の長期化を予想した亡命政府は、離散していた亡命
チベット人たちがある程度まとまって住み、自給自足の生活ができる土地を提
供してもらえるよう受入国政府との交渉を開始した。その結果、インド、ネパ
ール、ブータンの各政府から、農業を行なうことができる土地を26箇所、農
業と工業を行なうことができる土地を17箇所、手工業を行なうことができる
土 地 を 1 1 箇 所 、 合 計 5 4 箇 所 の 土 地 を 亡 命 チ ベ ッ ト 人 の 入 植 地 ( Tibetan
Settlement) と し て 無 償 で 借 り 受 け る こ と が で き た の で あ る 。
1962年、亡命政府の要請を受けたインド政府は農耕ベースの入 植地の設
置と職業訓練案などを盛り込んだ包括的な難民支援計画を策定した。各州政府
37
は そ の 計 画 に 従 っ て 難 民 一 家 族 あ た り 平 均 1 .2 ヘ ク タ ー ル の 土 地 を 割 り 当 て 、
更に難民たちが居住できる家屋、上下水道や公共施設、ハンディ・クラフト・
センター、学校など生活インフラの整備にも着手したのである。また、インド
政府はチベット人社会が独自の政治・行政システムだけでなく、独自のアイデ
ンティティと文化的価値を維持できるように配慮した。このようなインド政府
の支援によって離散していた亡命チベット人たちは比較的短時間でインド諸州
に点在するチベット人居住区や入植地に落ち着くことができたといわれている。
一方で中国と国境を接し、インドに次いで多くの亡命チベット人を受け入れた
ネパール政府は、中国との政治的摩擦を避けるため亡命チベット人への支援は
あくまでも緊急的な「人道援助」であるという点を強調しなければならなかっ
た。自国経済が貧しく、資金的に余裕のないネパール政府は国際社会に援助を
要請したが、中国に対する配慮から国際機関や各国政府の積極的な支援が思う
ように受けられず、民間の援助団体に支援を仰がざるを得なかった。その要請
に応えて亡命チベット人たちに支援の手を差しのべたのは、既にネパールにお
け る 活 動 拠 点 を 持 っ て い た 国 際 赤 十 字 や OXFAM な ど の 民 間 援 助 団 体 で あ っ た 。
国連難民条約にも加入せず国際機関による自国の難民へのアクセスを認めず独
自の援助を推進するインドと、主に欧州の民間援助団体が中心となって難民の
保護や入植地の整備が進められたネパールとでは援助の状況は異なっていたが、
両国に共通していたのは、亡命チベット人たちが独自の文化、伝統、宗教様式
を維持することに対して比較的寛容だった点である。世界に視線を転じれば、
多くの国々では言葉や文化の異なる様々な民族を一時 に大量に受け入れたり共
生した経験に乏しく、難民固有の文化を破壊したり、庇護国の文化への同化を
強制するというような諸問題が起こっている。それを非寛容と呼ぶかどうかは
別として、インドやネパールが亡命チベット人に対して示したある種の寛容さ
の背景には、両国はもともと国内のエスニックな構成が多様な多民族国家であ
り、常に社会の多元的構成に起因する諸問題に対処する経験を持っていたこと
や、インドに発祥を持つ仏教を信奉するチベット人を、同じ「文化的背景を持
つ隣人」と考える人道的感情が多分にあったことなどが考えられる。偶然にも
亡命チベット人たちはこのような隣国に逃げ込んだおかげで、チベットと同様
の文化的、宗教的生活を概ね確保することができたのである。
しかし、当然のことながら問題がないわけではなかった。難民たちが暮らし
始 め る こ と に な っ た 入 植 地 は イ ン ド 全 土 や ネ パ ー ル に ま で 分 散 し て お り 、「 祖
国」への帰還を目指す共同体としての結束を維持するためには、各入植地を結
ぶ何らかのネットワークを構築する必要があったのである。そこで亡命政府は
インド亜大陸の広範な地域に点在するすべての入植地に亡命政府内から選抜し
38
たリーダーたちを送り込み、そのリーダ ーを中心とする部族首長的共同体を形
成し、入植地の開拓を行ったのである。ここに中国側が「封建的」と批判する
伝統的チベット社会が入植地に継承されたわけであるが、当時の入植地の生活
環境が劣悪だったために「民主的社会の成熟を待つ余裕もなく改善を急がなけ
ればならなかったことや、半永久的に滞在国に根付かなければならない可能性
を考慮して早急に社会的自立を目指さなければならなかった」 54ためである。
その後、入植地には国際社会からの技術援助を含む支援があり、難民たちは自
立して生活していくだけの環境を徐々に整えていった。やがて亡 命チベット人
たちは、建築的にも高水準の夥しい数の僧院を居住区内に建設し、チベットと
同じ僧院中心の活気ある社会を再構築することができたのである。 このように
入植地は、時間の経過とともに広がる心理的遠心性と物理的拡散性を有してい
る亡命チベット人社会において、ダライ・ラマ14世と亡命政府が政治的求心
力を獲得していく過程で大きな役割を果たしてきたのである 55。
図 1-5
インド・ネパールのチベット人入植地
出 所:Pl anning Co uncil Centr al Tibet an Ad ministrat io n
of His Holiness the Dalai Lama( 199 4)p.5.
39
現在、チベット人入植地は47箇所あり、約7万人の亡命チベット人がそこ
で暮らしている。すべての入植地には亡命政府の代表部があり、亡命政府と入
植地をつなぐパイプの役割を果たしている。入植地では入植地内の選挙によっ
て キ ャ ン プ 長 5 6( Camp Leader)が 選 ば れ 、住 民 の 代 表 と し て 亡 命 政 府 代 表 部
との様々な交渉にあたる。また、入植地内における日常生活を更に機能的、民
主 的 に す る た め に 、選 挙 で 選 ば れ た 議 員 た ち に よ る 地 方 議 会 が 設 置 さ れ て い る 。
地方議会は地方ごとの法規やルール、協約を入植地に派遣されている総務局の
職員とともに制定したり、地方予算を通過させる責務を負っている。地方議会
は3年ごとに解散、選挙が行なわれている。
亡命政府によると、現在、亡命チベット人社会全体の労働者のうち約30%
が農業に従事しており、約13%がチベットの伝統工芸であるチベット絨毯産
業 に 関 わ っ て い る 。そ し て 約 2 9 % が 主 に 手 編 み の セ ー タ ー の 販 売 5 7 な ど の 商
売で生計を立てている。残りの30%は亡命チベット人学校の教師のように亡
命政府の関連組織で働いているか、ホテルやレストラン、商店などの一般の企
業で働いて生計を立てている。難民となって既に半世紀以上が経過しており、
当初と比べれば職業の選択肢は増えたものの依然として仕事不足は深刻で、職
を求めて入植地を離れる者も多い。入植地によっては仕事不足のために成人の
約 8 0 % が 入 植 地 を 離 れ る ケ ー ス も 報 告 さ れ て い る 5 8 。亡 命 チ ベ ッ ト 人 社 会 の
成人全体の失業率59は18.5%である60。現在、5万人以上の亡命チベッ
ト人が入植地以外に散在するチベット人居住区、あるいはその国の地域社会で
暮らしているとされるが、亡命チベット人が入植地を離れた場合、亡命政府か
ら社会的自立プログラムの支援を受けられなくなり、生活が困窮するケースが
多いという。また、亡命チベット人社会が抱える深刻な問題のひとつとして、
いまだに流入し続ける新たな難民の存在がある。1959年の「ラサ暴動」以
降 も チ ベ ッ ト か ら 流 入 し て く る 難 民 は 後 を 絶 た な か っ た が 6 1 、1 9 8 0 年 に 中
国―ネパール間の国境が開通して以降、その数は急速に増加 した。1986年
以降の8年間で、その数は1万8千人を越え、これは亡命チベット人口全体の
約15%にも相当する。これに対し、自主的にチベットへ帰還した亡命チベッ
ト 人 は 約 3 千 5 百 人 で あ る 6 2 。こ れ ら の 新 し い 亡 命 チ ベ ッ ト 人 た ち は 、チ ベ ッ
ト独立に関する政治的な信条や、宗教上の理由、教育上の問題、チベットで政
治犯として逮捕、抑留、拷問などを受ける可能性があるなど様々な理由で亡命
してくる。新たに亡命してくる人たちの中には着の身着のままで極寒のヒマラ
ヤ国境地帯を越え、病気を患っていたり、ひどい凍傷を負っている場合などが
ある。このような人々に対する緊急的な保護活動も必要であるが、最大の問題
40
はこの急激な難民人口の増加に対して亡命政府や既存の亡命チベット人社会が
対応できていない点にある。既に居住区は過密状態であり、寺院にもスペース
がない。また、これら新しい亡命チベット人の約半数近くは14歳から25歳
ま で の 青 少 年 で あ り 、約 1 7 % が 1 3 歳 以 下 と い う 状 況 で あ る 6 3 。こ れ ら の 子
どもたちは保護者と逸れているケースも多い。子どもたちを受け入れる亡命チ
ベット人学校や寄宿舎もこの急激な人口の増加に対して対応できておらず、ま
た 、彼 ら の ほ と ん ど が 英 語 、ヒ ン ズ ー 語 、ネ パ ー ル 語 を ま っ た く 話 せ な い た め 、
インドやネパールの学校に入学することもできない。このような新たな難民の
流入は今なお続いており、しかもその数が急速に増大している現実は、亡命チ
ベット人社会の抱える大きな問題となっている。
第5節
チベット問題の現状と課題
チベット問題を考察する場合、中国とチベットの間に横たわる対立関係は、
清朝末期以降の両者の主権の所在をめぐる攻防によって生まれてきたが、19
5 9 年 を 境 に 、チ ベ ッ ト 族 の エ ス ノ・ナ シ ョ ナ リ ズ ム に 起 因 す る「 独 立 」と「 統
合」という主権に纏わる中国領域内の紛争から、ダライ・ラマの亡命及び大量
の難民の発生という事態に至って、近隣諸国を巻き込む国際問題に構造的変化
を遂げたと認識する必要がある。チベットは「元朝以来祖国の不可分の一部で
あ り 、中 国 の 主 権 の 下 に あ っ た 」 6 4 と い う 歴 代 中 国 政 府 の 主 張 は 、清 朝 か ら 現
在の中華人民共和国に至るまで基本的に変化はない。ただ、この主張は「歴代
の中国政府がチベット地域を含むひとつの国民国家を作り上げてきたというこ
とではなく、中国とチベットは「宗主国」と「保護国」という朝貢関係にあっ
た 」6 5 と い う こ と を 根 拠 と し て い る 。こ れ に 対 し て「 チ ベ ッ ト が 国 家 と し て 中
国から独立していた」というチベット側の主張は、1913年の「独立宣言」
から38年もの間、
「 保 護 国 た る 中 国 政 府 の 影 響 を 実 質 的 に 排 斥 し 、独 自 の 内 政
や 対 外 政 策 を 展 開 し て い た こ と 」6 6 な ど を 主 な 根 拠 と し て い る 。つ ま り チ ベ ッ
ト問題とは清朝末期に淵源を持つ中国とチベットの国家主権に関する主張の対
立であり、その対立が決定的になったのは1913年の「独立宣言」なのであ
る。中国の研究者の間では独立宣言以降も中国のチベットに対する主権は中断
さ れ て い な い と す る 見 方 が 主 流 で あ る が 6 7 、独 立 宣 言 以 降 、チ ベ ッ ト は 確 か に
中国の影響を完全に排斥しており、独自の意思決定を行なっていたという点で
は 事 実 上 の 独 立 状 態 ( de facto independent ) で あ っ た こ と は 間 違 い な い 。 し
か し「 関 係 各 国 の 承 認 と 国 際 社 会 に お け る 地 位 」6 8 と い う 点 か ら 見 れ ば チ ベ ッ
トは「独立」の要件を完全に満たしているとはい えなかった。また、チベット
41
が独立状態を維持できた背景には、中国が清国から中華民国に政権が移行する
不安定な状態にあったことが挙げられる。従って不安定期を脱した中国が再び
チベットに対する主権を主張し始めるのもごく自然な成り行きであり、中国が
1950年10月にチベットに侵攻を開始したとき、チベットを取り巻く国際
情勢はそれを阻む環境にはなく、人民解放軍はいとも容易くチベットに進駐で
きたのである。その後、締結された「17条協定」によってチベットは中国に
併合されたわけであるが、中国はチベットを国境的に囲い込むことには成 功し
たものの、内側の住民を国民として統合することには失敗したといえる。その
証 左 に 、併 合 後 1 0 年 も 経 た な い う ち に チ ベ ッ ト 問 題 を 全 世 界 に 知 ら し め る「 ラ
サ 暴 動 」が 勃 発 す る 。
「 ラ サ 暴 動 」は 決 し て 偶 発 的 な も の で は な く 、エ ス ニ ッ ク
集団としての自律性を維持しようとするチベット人と、中華人民共和国の国民
として統合を推進する中国側との対立関係において、チベット内部に醸成され
ていた反中国感情が一気に噴出する形で起こったものである。結果としてダラ
イ ・ラ マ 1 4 世 が イ ン ド に 亡 命 し 、追 い 従 う よ う に 大 量 の チ ベ ッ ト 難 民 が 発 生 し
た。こうしてチベット問題は、中国がチベットを併合した後に解決できなかっ
た国民統合の問題から、南アジア地域を巻き込む国際問題に一気に変容を遂げ
たのである。
難民問題の恒久的解決として、やはり「自発的帰還」こそが最適な解決策で
あろう。チベットへの帰還はダライ・ラマ14世や亡命チベット人たちも切望
しているところであり、亡命チベット人の場合も「自発的帰還」が最良の解決
策であることに間違いない。しかしチベット亡命政府が解放を主張し、帰還を
望 ん で い る の は 解 放 さ れ た「 3 つ の チ ョ ル カ ス 」で あ る の に 対 し 6 9 、中 国 政 府
が承認する帰還はあくまでも中国の国家主権のもとの「チベット自治区」への
帰還であり、両者の主張には今も大きな隔たりが存在する。チベット本土に目
を向ければ、毛沢東の遺産ともいえる青蔵鉄道がラサに通じて以降、チベット
域外からチベット地域への流入が加速しており、人口比率では既に中華人民共
和国を主導する漢民族の人口がチベット族よりも多くなり、ビジネスの実権も
漢族が握っている。経済的、政治的、社会的弱者となったチベット人たちは頻
繁にデモを起こしており、死者や投獄される者を生み出している。このような
状 況 が 更 に 新 し い 難 民 ( fresh refugees) を 生 み 出 す 温 床 と な っ て い る 。 ま た
2009年以降、中国国内でダライ・ラマの帰還とチベット人への自由と権利
を 求 め る チ ベ ッ ト 人 の 抗 議 の 焼 身 自 殺 が「 困 惑 す べ き ペ ー ス で 増 加 」7 0 し て い
る。最初の難民が国を出てから既に50年以上が経過しているが、根本的な解
決策が示されるにはまだ長い時間が必要とされるだろう。
42
多 田 等 観 (1942) 『 チ ベ ッ ト 』 岩 波 文 庫 ,p. 83.
ア ン ダ ー ソ ン , ベ ネ デ ィ ク ト (1997)『 増 補 想 像 の 共 同 体 』 (白 石 さ や •白 石 隆
訳 )NTT 出 版 ,p. 332.
3 ル ナ ン ,エ ル ネ ス ト (1997)『 国 民 と は 何 か 』 (鵜 飼 哲 ・ 細 見 和 之 訳 ) 河 出 書 房 新
書 ,p. 48.
4 ア ン ダ ー ソ ン , ベ ネ デ ィ ク ト (1997)前 掲 書 , p.334.
5
Gyaku : チ ベ ッ ト や カ シ ミ ー ル な ど の 高 地 に 棲 む ウ シ 科 の 哺 乳 類 で 体 側 の 毛 が
長 い の が 特 徴 。野 生 は ほ ぼ 絶 滅 し て お り 、荷 役 用 、肉 用 、乳 用 と し て 重 要 な 家 畜
である。
6 チ ベ ッ ト の 呼 称 に つ い て は 多 田 等 観 (1942)前 掲 書 ,p. 74, 及 び 青 木 文 教 (2010)前
掲 書 ,p. 21.を 参 照 。
7 多 田 等 観 (1942) 前 掲 書 ,p. 73.
8 岡 本 雅 享 (1999) 『 中 国 の 少 数 民 族 教 育 と 言 語 政 策 』 社 会 評 論 社 , p.431.
9
チ ョ ル カ ス と い う チ ベ ッ ト 語 は「 チ ベ ッ ト の 歴 史 的 な 地 域 」と い う 意 味 で あ り 、
ウ・ツ ァ ン は「 ダ ル マ( 宗 教 )の チ ョ ル カ ス 」、カ ム は「 人 間 の チ ョ ル カ ス 」、
ア ム ド は「 馬 の チ ョ ル カ ス 」と 呼 ば れ て い た 。 D epar tment of Education “ Basic
Education Policy for Tibetan in exile “p. 1. 参 照 。
10
Depar tment of Education “ Basic Educ ation Policy for Tibetan in ex ile “ 第
1 章 に 「 Article 17(2) of the Char ter of Tibetan, under Direc tive princ iples
states : ”Towards enh ancing the real basic needs if impor ting of educ ation,
an ideal educ ation policy meeting the r eal basic needs of Tibet sh all be
formulated. ” As no such policy h as y et been formulated, it is felt that the
time is r ipe to review the curren t situ ation of education of Tibetans in exile
and to resolv e upon a basic education policy that is better su ited to th e
current needs of the Tibetan s in exile an d may serve as a bas is for the
education policy of Tibet in fu ture when a self -govern ing statu s is attained
for the whole of th e three Cholkas of Tibet」 と 明 記 さ れ て い る 。
1 1 チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 情 報 ・ 国 際 関 係 省 (1999)『 チ ベ ッ ト 入 門 』 (南 野 善 三 郎 訳 )鳥
影 社 ,p. 50.
1 2 岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,p. 431.
1 3 多 田 等 観 (1942) 前 掲 書 ,p. 134.
14
唐 の 文 成 公 主 と ネ パ ー ル の ブ リ ク テ ィ が そ れ ぞ れ 后 と し て ソ ン ツ ェ ン・ガ ム ポ
に 嫁 ぐ 社 会 的 背 景 は シ ャ カ ッ パ , W・ D (1992) 前 掲 書 ,pp. 32-33. に 詳 し い 。 尚 、
現 在 の 中 国 の 小 学 校 社 会 科 教 科 書 に は 、ソ ン ツ ェ ン ・ガ ン ポ に 嫁 い だ 文 成 公 主 の
チ ベ ッ ト に お け る 功 績 を 称 え る 記 述 が あ る 。 大 沼 正 博 訳 (2000) 『 中 国 小 学 校 社
会 教 科 書 』 明 石 書 店 ,pp.46-49.
15 グプタ文字とは、北インドにあったグプタ王朝で使用されてい た文 字で ある 。
Ngawang thondup, Narky id (1983) The origin of the Tibetan script,
Contributions on Tibetan Language, History and Culture, Ar beitskreis fur
Tibetische und Bu ddhistische Stu dien, p.62.
1 6 青 木 文 教 (2010) 前 掲 書 ,p. 178.
1 7 青 木 文 教 (2010) 前 掲 書 ,p. 186.
1 8 1 9 0 7 年 に 英 国 と ロ シ ア の 間 で イ ラ ン 、ア フ ガ ニ ス タ ン 、チ ベ ッ ト に お け る
勢力範囲を取り決めるために締結された協定。
1 9 岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,pp.437.
2 0 多 田 等 観 (1942) 前 掲 書 ,pp.115-116.
21
1 7 条 協 定 の 主 な 条 文 は 以 下 の 通 り で あ る 。「 チ ベ ッ ト 人 は 団 結 し て 、帝 国 主
義侵略勢力をチベットから駆逐し、チベット人民は中華人民共和国の祖国の大
家 庭 の 中 に 戻 る( 第 1 条 )」「 中 国 政 治 協 商 会 議 共 同 綱 領 の 民 族 政 策 に 基 づ き 、
中央人民政府の統一的指導のもと、チベット人民は民族区域自治を実行する権
利を有する(第3条)」「「チベット軍は逐次人民解放軍に改編し、中華人民
共和国国防武装の一部とする(第8条)」「チベットに関する各所の改革につ
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いては、中央は強制しない。チベット地方政府はみずから進んで改革を進め、
人民が改革の要求を提出した場合、チベットの指導者と協議の方法をとってこ
れを解決すべきである(第11条)」「中央人民政府は、チベット地区の一切
の渉外事項を統一して処理し、かつ平等、互恵、領土主権の相互尊重という基
礎の上に隣邦と平和な関係を保ち、公平な通商貿易関係を樹立発展させる(第
1 4 条 ) 」 以 上 す べ て 宋 黎 明 (1999)「 1 7 条 協 定 を 再 評 価 せ よ 」 曹 長 青 編 『 中
国 民 主 活 動 家 チ ベ ッ ト を 語 る 』 日 中 出 版 ,pp. 144-145.
中 国 国 家 統 計 局 (2010) 中 国 統 計 年 鑑 の 数 値 。
西 蔵 人 民 出 版 社 (1960)「 チ ベ ッ ト の 状 況 と 人 物 教 育 の 基 本 教 材 」に よ る と「 ラ
サの暴動」以降の約10ヶ月で、ラサ及びその周辺で反抗活動に参加したチベ
ット人約8万7千人が「反乱の平定」のために中国軍に殺害された。
当 時 の 難 民 た ち の 逃 避 行 の 様 子 を 今 に 伝 え る 資 料 と し て は 、 タ リ ン ,リ ン チ ェ
ン ・ ド ル マ (2003)『 チ ベ ッ ト の 娘 』 中 央 公 論 新 書 な ど が あ る 。
1 9 5 0 年 代 の UNHCR の 活 動 は 主 に 西 ヨ ー ロ ッ パ の 難 民 を 対 象 と し て い た 。
その活動内容は、東西の緊張関係の中で共産主義政権から逃れてくる 難民の再
定住、難民条約の施行に必要となる各国の法整備の支援などに限られていた。
Planning Council Cen tral Tibetan Admin istr ation of His Holiness the Dalai
Lama(1994) Tibetan Refugee Community Integrated Development Plan - Ⅱ ,
CTA, Dh aramsala,pp.2-3.
松 本 高 明 (1996) 前 掲 書 ,p. 121. 及 び ダ ラ イ ・ラ マ (1989)『 チ ベ ッ ト わ が 祖 国 』亜
細 亜 大 学 ア ジ ア 研 究 所 , pp. 304-308.
チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 は 1 9 5 9 年 4 月 2 9 日 、イ ン ド 北 部 の 丘 陵 地 に あ る ム ス リ
ー (Mussoor ie) に 設 置 さ れ た 。し か し 翌 1 9 6 0 年 5 月 、現 在 も 亡 命 政 府 の あ る
ダ ラ ム サ ラ (Dhar amsala) に 移 転 し て い る 。
チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 に よ る と 、ダ ラ イ・ラ マ 法 王 の 亡 命 政 権 の 正 式 名 称 は 中 央 チ
ベット政権であり、チベットにおけるチベット政府の延長として設立された。
http://www.tibethou se. jp/c ta/govern ment.h tml
(最 終 閲 覧 : 2013 年 10 月 31 日 )
正 式 に は「 チ ベ ッ ト の 将 来 に む け た 憲 法 草 案 」と 言 う 名 称 で あ る 。ダ ラ イ ・ ラ
マ 1 4 世 (1990) 前 掲 書 資 料 編 参 照 。 「 国 民 議 会 が 最 高 裁 判 所 と 協 議 し 、 議 会 議
員の三分の二の賛成を得て、それが最も国益にかなうと判断され た場合、ダラ
イ ・ ラ マ の 行 政 権 は 摂 政 評 議 会 に 委 譲 さ れ る も の と す る (第 3 6 条 第 1 項 )」 の
一 文 が 盛 り 込 ま れ て い る 。 チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 情 報 ・ 国 際 関 係 省 編 (1999) 前 掲
書 ,p. 96.
亡命チベット人憲章はチベット亡命政権の機能を統括する最高法規であり、
1991 年 6 月 14 日 に チ ベ ッ ト 人 代 表 者 議 会 に よ っ て 採 択 さ れ た も の で あ る 。こ
の 憲 章 が 施 行 さ れ る ま で は 1963 年 に ダ ラ イ ・ ラ マ 1 4 世 に よ っ て 公 布 さ れ た
「チベットの将来にむけた憲法草案」が亡命チベット人社会の「憲法」として
機能していた。
http://www.tibethou se. jp/c ta/fu ture_tibet_intro.html
(最 終 閲 覧 : 2010 年 10 月 31 日 )
http://www.tibethou se. jp/c ta/ future_tibet_in tro.html
(最 終 閲 覧 : 2013 年 10 月 31 日 )
チベット3区とは、ウ・ツァン、カム、アムドの3地区を指している。
そ れ ら は チ ベ ッ ト 仏 教 の 4 大 宗 派 ゲ ル ク 派 、ニ ン マ 派 、カ ギ ュ ー 派 、サ キ ャ 派
に加えてポン教の各宗派である。
趙 暁 薇 (1999)「 チ ベ ッ ト の 自 由 な 選 択 に つ い て 」曹 長 青 編『 中 国 民 主 活 動 家 チ
ベ ッ ト を 語 る 』 日 中 出 版 ,pp.180-181.
各 行 政 機 関 の 日 本 語 名 称 は 、ダ ラ イ・ラ マ 法 王 日 本 代 表 部 事 務 所 ホ ー ム ペ ー ジ
記 載 の 名 称 で あ る 。 各 省 の 役 割 と 機 能 に つ い て は 下 記 Web サ イ ト を 参 照 し た 。
http://www.tibethou se. jp/c ta/departmen t.html
(最 終 閲 覧 : 2005 年 9 月 30 日 )
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http://www.tibethou se. jp/c ta/gov ernmen t.html
(最 終 閲 覧 : 2013 年 10 月 31 日 )
司 法 の 機 能 と 役 割 に つ い て は 下 記 Web サ イ ト を 参 照 し た 。
http://www.tibethou se. jp/c ta/govern ment.h tml
(最 終 閲 覧 : 2013 年 10 月 31 日 )
松 本 高 明 (1997) 前 掲 書 ,p. 131 参 照 。
議 題 と し て 正 式 に 取 り 上 げ ら れ た の は 1 9 5 9 年 (第 1 4 回 総 会 )、 1 9 6 1 年
(第 1 6 回 総 会 )、 及 び 1 9 6 5 年 (第 2 0 回 総 会 )の 各 総 会 で あ る 。 松 本 高 明
(1997) 前 掲 書 ,p. 131.
国 連 の 正 式 加 盟 国 で も な く 、特 別 参 加 資 格 を 与 え ら れ た 民 族 解 放 団 体 で も な い
チベット亡命政府が国連総会への要請を行なうには、当事者に代わって議題を
提出する加盟国が必要となる。チベット亡命政府を支持し、その役割を担った
の は マ ラ ヤ (現 マ レ ー シ ア )、 ア イ ル ラ ン ド 、 タ イ 、 エ ル サ ル バ ド ル 、 フ ィ リ ピ
ン な ど で あ っ た 。 松 本 高 明 (1997) 前 掲 書 ,p. 132.
松 本 高 明 (1997) 前 掲 書 ,p. 136.
こ の「 訪 問 外 交 」と い う 用 語 は 、松 本 が 著 書『 チ ベ ッ ト 問 題 と 中 国 』の 中 で 使
用している用語である。松本がこの用語を使用するのは、通常、外交とは外交
官を介して国家間の利害を調整することを目的とした活動を指すが、国家間に
おいて交渉相手と認められていない亡命政府が、宗教行事などの日政治分野活
動を名目としてダライ・ラマという象徴的存在の訪問国を拡大することがすな
わち自らのアピール伝達のチャネル獲得を可能にするという成果を狙った「首
長の訪問」という部分を特化した活動形式をとっていることによると説明して
い る 。 松 本 高 明 (1997)前 掲 書 , pp. 167-168.参 照 。
「 人 権 外 交 」と は 人 権 を 侵 害 さ れ て い る 対 象 が 、米 国 議 会 な ど で 演 説 を す る た
め米国に招かれることである。元来は議会主導で始まったものであるが、カー
ター大統領がその就任演説の中で「米国の人権に対するコミットメントは絶対
的なものでなければならない」とする意思表明を行ない、以降政府レベルで公
然化していった。
松 本 高 明 (1996) 前 掲 書 ,p. 6.
チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 側 の 主 張 に よ れ ば 、1958 年 か ら 1960 年 ま で の 大 躍 進 政 策 に
よ り チ ベ ッ ト 全 土 で 多 数 の 餓 死 者 が 発 生 し 、 更 に 1966 年 に 始 ま っ た 文 化 大 革
命により、チベット全土にあった寺院の殆どが破壊され、多くの僧侶が投獄・
殺害された。この二つの政策を主導したのが当時の国家主席・毛沢東である。
チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 情 報 ・ 国 際 関 係 省 編 (1999)前 掲 書 ,pp.148-149.
最も大きな変化は中ソ対立と米中和解による「米国主要敵論」 の放 棄で ある 。
1979年にダライ・ラマの訪米が実現したのも、米国に配慮した中国の対外
政策が背景にあると言われている。
胡 耀 邦 の 発 表 し た「 5 か 条 方 針 」の 主 な 内 容 は 以 下 の 通 り で あ る 。「 ダ ラ イ ・
ラマの帰国をいつでも歓迎するが、必ず北京に居住しなければならない。ただ
し定期的にチベットへ視察に帰ることができる(第3条)」「ダライ・ラマは
帰国後1959年以前と同じ政治および経済的な特権を持ち、人民代表大会副
委員長もしくは政治協商会議副主席の任につく(第4条)」以上すべて宋黎明
(1999) 前 掲 書 ,p. 161. 参 照 。
松 本 高 明 (1996)前 掲 書 ,p. 163.
ダ ラ イ・ラ マ が 発 表 し た「 ス ト ラ ス ブ ー ル 提 案 」の 主 な 内 容 は 以 下 の 通 り で あ
る。「チベット全域については人民の同意を経た法律に従って中華人民共和国
と関係を持つ自治を行なう民主的な政治実体とする」「チベットは民主制に基
づく政府を設け、この政府はチベットとチベット人に関わる一切の事項を決定
する権利を有する。政府には民選による主席行政官を1名置き、三権分立を維
持 し 、首 都 は ラ サ に お く 」「 言 論・集 会 そ し て 特 に 信 仰 の 自 由 を 保 証 す る 」「 中
国政府はチベットにおける人権侵害を中止し、移民政策を放棄しなければなら
ない」「ダライ・ラマは、中国人との交渉の結果に関係なく、チベット人民自
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身が最後の決定を下す権威を持たなければならない点を強調する。このため、
いかなる提案も全住民投票によって決定する形式により、チベット人民の願望
を確定するための整備された手続きと計画を含んでいなければならない」以上
す べ て 宋 黎 明 (1999)前 掲 書 ,pp.158-159.
宋 黎 明 (1999)前 掲 書 , p.159.
チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 情 報 ・ 国 際 関 係 省 (1999)前 掲 書 ,p. 195.
チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 情 報 ・ 国 際 関 係 省 (1999)前 掲 書 ,p. 195.
松 本 高 明 (1996) 前 掲 書 ,p. 123.
松 本 高 明 (1996) 前 掲 書 ,p. 122-123.
本 文 中 で も 述 べ て い る が 、イ ン ド や ネ パ ー ル の 入 植 地 の 多 く は 難 民 キ ャ ン プ 地
の跡地をそのまま利用しているので、今でも入植地や居住地のことを「難民キ
ャンプ」と呼ぶケースが多い。従って慣習的にこのような呼称になったものと
思われる。
亡 命 チ ベ ッ ト 人 た ち の 生 計 は 、主 に 農 産 物 の 販 売 、チ ベ ッ ト の 伝 統 的 工 芸 品 で
ある手織り絨毯の輸出、サービス業での就労、冬用の手編みセーターの販売か
得 ら れ る 収 入 で 成 り 立 っ て い る 。 下 記 Web サ イ ト 参 照 。
http://tibet.net/ about-c ta/tibet-in-exile/
(最 終 閲 覧 : 2013 年 11 月 22 日 )
Planning Council Cen tral Tibetan Admin istr ation of His Holiness the Dalai
Lama (1994)前 掲 報 告 書 ,p. 6.
亡 命 政 府 の 定 義 で は 、失 業 者 と は「 6 ヶ 月 以 上 職 に 就 か な か っ た 者 」の こ と で
ある。
亡命政府の統計によれば16歳-25歳の就業率は16. 9%である。
松 本 は 亡 命 政 府 や ダ ラ イ・ラ マ の よ う に 外 交 主 体 と 認 識 さ れ て い な い 政 治 共 同
体が、中国に対して一定の影響力を持ちえた理由のひとつとして、「チベット
本土から流失してくる難民を媒介として、いまだに中国国境内のチベット族と
亡 命 政 府 の 関 係 が 密 接 で あ る こ と を 指 摘 す る 。 松 本 高 明 (1996) 前 掲 書 ,p. 6.
Planning Council Cen tral Tibetan Admin istr ation of His Holiness the Dalai
Lama (1994)前 掲 報 告 書 ,p. 8.
Planning Council Cen tral Tibetan Admin istr ation of His Holiness the Dalai
Lama (1994)前 掲 報 告 書 ,p. 8.
平 野 聡 (2004)『 清 帝 国 と チ ベ ッ ト 問 題 』 名 古 屋 大 学 出 版 会 , p.26.
松 本 高 明 (1996) 前 掲 書 ,p. 8.
松 本 高 明 (1996) 前 掲 書 ,p. 10.
中 国 外 交 部 編 (1969) 『 チ ベ ッ ト 問 題 』 北 京 外 文 出 版 社 ,p. 213.
松 本 高 明 (1996) 前 掲 書 ,p. 11.
Depar tment of Educ ation (2001) Basic Education Policy for Tibetan in exile
CTA, Dh aramsala,ch. 1.
中 国 政 府 側 の 発 表 が な い た め 正 確 な 数 字 は わ か ら な い が 、亡 命 政 府 側 の 発 表 で
は 2009 年 以 降 に 5 7 人 が 焼 身 抗 議 を 行 な っ て い る 。 2012 年 12 月 6 日 に マ リ
ア・オテロ米国国務次官はチベット本土のチベット人の焼身抗議が加速してい
る事実に懸念と悲嘆の意を表明し、中国政府に亡命政府との無条件対話を呼び
かけている。
http://www.tibethou se. jp/new s_release/ 2012/ 121210_us -governmen t-urgesbeijing-to-hold-uncon ditional-dialogue-w ith -tibetan-leader ship -to-solve-tib
et-problem.html
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 3 月 20 日 )
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第2章
亡命チベット人共同体の教育システム
本章の目的は、次章以降の本研究の課題の検討に先立ち、チベットで展開さ
れ て い た 伝 統 教 育 の 歴 史 的 変 遷 を 概 観 し つ つ 、亡 命 政 府 が 共 同 体 の 構 成 員 に「 亡
命チベット人共同体のアイデンティティ」を持たせるために、いかなる教育を
重視し、どのように実施したのかを亡命政府の教育発展の経緯を辿りながら、
亡命政府の教育行政を中心に検討することである。
第1節
チベットの教育史
1 チベットの伝統的教育
7 世 紀 の ソ ン ツ ェ ン ・ ガ ン ポ 王 の 時 代 か ら 2 0 世 紀 に 至 る ま で 、チ ベ ッ ト で
は 教 育 の 中 心 を 成 し て い た の は 僧 院 教 育 で あ っ た 。僧 院 は チ ベ ッ ト 全 土 に あ り 、
町や、村や、ごく小さな集落にさえ存在していた。チベット人の教育は仏法を
あらゆる学問の基本にしており、仏教との関わりを密接に保ち続けていたので
ある1。チベットでは古来、家庭の子どもたちの中で少なくとも一人の男子を
僧にするため僧院に送るという慣わしがあった2。出家して僧院に入った子ど
もは仏教の知識だけでなく、チベット語の読み書き、天文、暦、医薬なども学
んだ。僧院で成人に達し、仏教哲学と論理学を修了すれば、僧院の与える最も
高位の学位ゲシェ3(仏教学博士)を得ることができたという。つまり当時の
僧院は、初等教育から高等教育までの機能を有していたといえる。
このようにチベットにおける伝統的な教育は、古来、僧院を中心にして発展
してきたが、19世紀後半になると、主に地政学的な要因からチベットの各地
域で異なる発展を遂げている4。即ちカム地方は常に中国と対峙する交戦地帯
となり、チベット側と清朝・中華民国側がこの地を交互に統治する過程で中国
政府の学校制度が導入されるなど中国の影響が一定程度及んでいた。また、ア
ムド地方は地域の権益のために中国との協調路線を歩み、中華民国との協力関
係を築きながら学校教育の普及を図っていた。一方でウ・ツァン地方は英国の
干 渉 を 受 け つ つ も 、ほ ぼ 独 立 状 態 を 保 ち 、数 世 紀 来 の 伝 統 的 な 教 育 シ ス テ ム( 僧
院、私塾、官学、医学校)を温存させていた。19世紀後半以降のチベットの
教育史を専門的に議論するならば、これらの異なる教育発展を辿った3つの地
域ごとに検討すべきであるが、本章においてチベット人の教育史を概観する意
図は、旧来の教育システムと後述する亡命チベット人共同体の教育システムと
の比較の中で、どのような教育システムが引き継がれ、何が刷新されたのかを
考察することにあるので、本節では外来の干渉を受けながらもほぼ独立状態を
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保ち、旧来の伝統的な教育システムを温存し、ま た亡命政府に最も大きな影響
を与えたウ・ツァン地方の教育史に絞って概観していくことにする。
20世紀前半のチベットにおける最高学府は15世紀につくられたゲルク派
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の四大学問寺-ガンデン僧院、デブン僧院、セラ僧院、タルシンポ僧院であ
る。これらの僧院では、組織的なカリキュラムによって僧侶を養成するための
教育が行われていた6。20世紀前半は依然として僧院教育が教育の主流であ
ったが、数は少ないながらも ラサには私塾、官立学校、医学校など僧院以外の
教育機関も存在していた。当時ラサに6、7箇所あったとされる私塾は民間の
篤 志 家 に よ っ て 経 営 さ れ 、規 模 の 大 き い 私 塾 で 4 、5 0 名 の 生 徒 が 学 ん で い た 。
私塾はチベット語の読み書きや文法、
「 釈 迦 格 言 」や 訓 戒 の 暗 誦 な ど が 主 な カ リ
キュラムで、もっぱら初等教育機関の役目を果たしており、学習を終えるまで
に最低3年、平均的して7、8年を要したという7。私塾には特別の校舎はな
く、一般の家屋や寺院の一部が教室に充てられていた。1913年から4年間
に渡りラサに滞在した青木文教8は「私塾では貴族平民、男女の区別なく平等
に生徒を収容する」9と述べている。
チベット政府によって運営される教育機関(官立学校)には僧 官学校と俗官
学校があり、ともに政府の官吏である僧官と俗官を養成することを目的として
い た 。僧 官 学 校( ツ ェ ・ ラ プ タ )は 1 7 5 4 年 に 創 立 さ れ 、教 室 は ポ タ ラ 宮 1 0
内にあり、約4、50人の生徒がそこで学んでいた。僧官学校の生徒の殆どは
寺院関係者の子弟であったが、ごくまれに一般庶民の子弟も入学できたとされ
ている。僧官学校のカリキュラムはチベット語の書法、文法、算術、梵文字、
医学、薬学、占星術、儀礼、詩歌などであり、卒業までには8年から15年を
要したという。一方、俗官を養成する学校は会計学院(ツイカン)と呼ばれ、
私塾で一定の読み書き、算術能力を身につけた貴族の子弟が入学し、生徒数は
約2、30人で特定の僧院(トゥルナン寺、タルシンポ寺)に校舎を置いてい
た。会計学院のカリキュラムはチベット語の公文書の書法、算術、文法、税収
法、会計などであり、1年から5年間程度就学した後、ポタラ宮での見習を経
て正式に政府の官吏として登用されたのである 11。
1951年、中華人民共和国の人民解放軍がチベットに進駐した時点で、首
都ラサには私塾が95校、官立学校が20校あり、これらの教育機関で約3千
人 の 学 徒 が 学 ん で い た と い わ れ て い る 1 2 。ま た 、私 塾 と 官 立 学 校 の 他 に 伝 統 的
な チ ベ ッ ト 医 学 1 3 を 教 え る 医 学 校 が ラ サ や シ ガ ツ ェ に 数 校 あ り 、7 0 人 か ら 1
00人の医学生が学んでいた。医学校は民間人によって運営されており、就学
年数は3年から9年が一般的であったという。医学校ではチベット医学の他、
暦学、薬学、天文学などのカリキュラムも含まれていた。医学校は、同じよう
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に医学を教えていた官立学校とは異なり、生徒が平民の出身で占められていた
ことも特徴のひとつである 14。
青木文教によれば、1910年の清のラサへの進軍によってインドに亡命し
たダライ・ラマ13世は、亡命先のインドで学校教育の 重要さを認識し、19
13年にチベットに戻ると英国や日本に留学生を送って教育システムを学ばせ、
チ ベ ッ ト に 近 代 的 な 学 校 教 育 を 普 及 さ せ る 試 み を 始 め た と い う 1 5 。1 9 1 8 年
に ダ ラ イ・ラ マ 1 3 世 は 各 ゾ ン 1 6 に 小 学 校 を 建 て 、身 分 に 関 係 な く 学 校 教 育 を
望む者は誰でも入学させるように指示を出し、多くの子どもたちがチベット語
の読み書きを学ぶようになったが、この近代的な学校教育システムは僧院の保
守的な勢力の反対によって頓挫し、ダライ・ラマ13世の死去とともに急速に
衰 退 し て し ま っ た 1 7 。こ の よ う に 2 0 世 紀 前 半 の チ ベ ッ ト は 、事 実 上 の 独 立 状
態の中で、数世紀来続いていた固有の教育システムを温存させつつも、新しい
タイプの教育システムが芽生え始めていた時期であったといえる。
2 中華人民共和国併合直後の教育状況
1951年5月23日に結ばれた「17条協定」によって、チベットは事実
上、中華人民共和国に併合された。まず、中央人民政府はチベット東部のチャ
ムドを占領し、この地域を西康省に組み入れて同省のチャムド地区とした 18。
そして同年、中央人民政府の手による初めての学校であるチャムド小学校が建
てられ、その後チャムド地区には1年間に12校の小学校が新たに設 置された
のである。次に中央人民政府はラサに人民解放軍を入城させ、それまでのチベ
ット政府を地方政権とし、チベット地方政府の中に中央人民政府の駐チベット
代表部を設置した。そして、チャムドの例に倣って、中央人民政府による初め
て の 学 校( ラ サ 小 学 校 )を ラ サ に 設 置 し た の で あ る 1 9 。こ の 時 、中 央 人 民 政 府
側とチベット地方政府の間で、ラサ小学校のカリキュラムと教授言語を巡り対
立があったという。対立の背景には、チベット政府内で中国共産党主導の教育
により子どもたちが「赤化」されること憂慮する声が強まったことが挙げられ
る 2 0 。チ ベ ッ ト 側 の 反 発 は 日 増 し に 強 く な り 、暴 動 に ま で 発 展 し か ね な い 状 況
に至って中央人民政府は同校にチベット地方政府が僧官や俗官を教師として派
遣することを認めたのである。その結果、ラサ小学校ではすべての教科がチベ
ット語で教えられるようになった。また、私塾と同じように、毎朝の読経の時
間も認められることになったのである。このような措置は一見すると中央人民
政府がチベット民族の感情に配慮しているようにも見えるが、後に王隆駿が認
め て い る 通 り 、こ れ ら は 一 時 的 な「 戦 略 的 譲 歩 」 2 1 に 過 ぎ な か っ た 。そ の 証 左
に、導入されたチベット語の教科書から は国民統合に不都合と思われる箇所は
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すべて削除されており、社会の授業では中国共産党や毛沢東、人民解放軍の業
績や、チベットは祖国の不可分の一部分であること、またチベットが併合され
た根拠となる「17条協定」の内容を教えるなどのカリキュラムが組まれてい
た。このように併合後のチベットでは、中央人民政府による国民統合のための
教育が徐々にではあるが、着実に推し進められていったのである。
1956年、チベット自治区準備委員会は、初等教育修了者の受け皿として
ラサ中学校を開校した。ラサ中学校は、開校当初は3クラスで、第1・第2 ク
ラスがチベット族、第3クラスがチベット族以外の民族というクラス編成だっ
た。また、ラサ中学校の教職員には、中央政府の国家教育部から派遣された漢
族教師や政府機関の共産党員、チベット政府の僧官や俗官、ラマ僧などが含ま
れていたという。ラサ中学校では、チベット語の授業は伝統的な学習方法に合
わせ、文法、修辞、文学、書法などに分けて行なわれていた。更に、正規のカ
リキュラムとして読経の時間を設けることも認められていた。
当初、ラサ中学校におけるすべての授業はチベット語で行なわれていたが、
高学年の理数系の授業が徐々に漢語で 行なわれるようになった。理数系の授業
の内容が高度になり、チベット語で理数科の授業ができる教師が少なくなった
ことや、チベット語の教科書の編纂が追いつかなくなったことがその理由だと
いわれている。このチベット語から漢語への教授言語の変更を受け、中学校の
修学年数がそれまでの6年から7年に延長され、漢語能力の低いチベット族の
生徒のために最初の1年間が漢語の強化に充てられるようになった。このよう
にラサ中学が開校した当初は、旧来のチベットの伝統教育と中央人民政府主導
の近代教育が交じり合っていた状況であったが、理数系の教科 から始まった教
授言語の漢語へのシフトは、やがて中学校の全教科にまで及んでいき、チベッ
ト語は中等教育以降における教授言語の地位を失ったのである 22。
1950年代前半のチベットの学校教育を振り返ると、チベット語は教育の
あらゆる面で第一言語の地位にあった。それは当時、ラサに漢語のできるチベ
ット族は殆どいなかったことが最も大きな理由であるが、
「チベット入りした漢
族 の 共 産 党 員 は 率 先 し て チ ベ ッ ト 語 を 学 ぶ 姿 勢 を 見 せ 」2 3 、ラ サ 小 学 校 の 漢 族
の教師にはチベット語を流暢に話せる者を抜擢したという。また宗教教育が、
ある程度カリキュラムの中に入れることも認められていた。これらの背景とし
て、1950年代にはチベット政府がその政権機能をまだ維持しており、チベ
ット族に中央人民政府の主導していた学校教育と宗教の分離の原則を押しつけ
れば激しい反発を招くだけでなく、反動勢力による大規模な暴動に発展しかね
ず、中央人民政府による 穏歩的統合路線がとられていたことが挙げられる。し
かし、このような穏歩的統合路線がとられていたにもかかわらず、チベット族
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住民の間の反中国感情は鬱積していき、最終的には「ラサ暴動」の勃発、ダラ
イ・ラマ14世の亡命、大量の難民発生という事態に至るのである。
20世紀中葉までチベットの教育を支えていたのは寺院の僧侶や貴族であっ
た が 、こ れ ら の 人 材 が 中 華 人 民 共 和 国 政 府 と 対 立 し 、
「 ラ サ 暴 動 」を 契 機 と し て
多 数 国 外 に 流 失 し た 2 4 こ と に よ り 、残 さ れ た チ ベ ッ ト の 教 育 界 に 、チ ベ ッ ト の
伝統教育を担う人材不足が発生したことは想像に難くない。これらの人材不足
は、やがてチベット自治区におけるチベット語教育の質の低下をもたらすこと
になるのである。
3 チベット自治区の教育状況
ダ ラ イ・ラ マ 1 4 世 の 亡 命 後 、ラ サ に あ っ た チ ベ ッ ト 政 府 は 政 権 機 能 を 失 い 、
自治区準備委員会主導のもとで新しい教育政策が開始された。当然のことなが
らチベットの特殊性に対する配慮は急激に弱まり、官立学校も廃校となった。
1965年にチベット自治区が設立され、翌年に文化大革命が勃発すると、一
切 の 宗 教 活 動 は 禁 じ ら れ 、多 く の 寺 院 や 聖 地 は 破 壊 さ れ 、経 板 や 典 籍 は 焼 か れ 、
多くの宗教者が拘留されたのである。チベットの学校ではおよそ4年間にわた
って授業が行われない状態が続いた。また、チベット文字は農業奴隷主階級の
ものとして批判の対象となり、学校以外の場所でもチベット語を学ぶ機会が失
われ、チベット族全体のチベット語のレベルは低下していったのである。
1977年まで続いた文化大革命中、宗教は毒であると否定され、チベット
語は仏教のための言葉であるという理由から学校で教えることが禁じられた。
チベットの学校ではチベット語の古典的文法書「三十頌」のかわりに、漢語の
教材として「毛沢東語録」や共産党の新聞が用いられた。 文化大革命が終わっ
た後も中央人民政府の政策転換はチベット自治区には直ちに及ばず、教育局が
チベット語の教師を集めてチベット族に対するチベット語の授業を再開を試み
たものの、質の高いチベット語の教師は既に国外に亡命しており、チベット語
の授業の再開は困難を極めたという。また、チベット語の授業の内容はチベッ
ト の 歴 史 や 宗 教 と 切 り 離 す こ と が で き な い た め 、こ れ を「 脱 線 授 業 」
「授業に宗
教色が濃い」と言って批判する勢力もチベット自治区内に依然として残存して
いた。その批判を恐れてチベット語教師となる人材が集まらず、チベット自治
区内の公立学校におけるチベット語の授業の質は低迷をし続 ける の であ る 25。
1981年以降のチベット自治区の初等教育の就学率は平均約50%程度で
推移している26。一方で中途退学率は9%と非常に高い27。民族別の中途退
学率は不明だが、チベット自治区における初等教育ではチベット族の占める割
合が多いこと、漢族人口の多い地区では就学率は高く、中途退学率が低い傾向
51
にあることから何らかの理由でチベット族の就学率は低く、中途退学率は高い
と 考 え ら れ る 2 8 。初 等 教 育 に お け る チ ベ ッ ト 族 の 中 途 退 学 率 が 高 い 理 由 に 関 し
て、チベット族の子どもは一般にチベット語で授業を受け、高学年で漢語を学
習するシステムになっており、進学や就職に際に漢語のテストを課せられるケ
ースも多いために、学校における漢語のテストは非常に厳格で、チベット族は
こ の 点 で ド ロ ッ プ ア ウ ト し 易 い と 言 わ れ て い る 2 9 。ま た 、二 言 語 教 育 政 策 3 0 に
より1980年代後半にチベット自治区内の一般の小学校は、ほぼチベット語
で 授 業 が 行 わ れ る よ う に な っ た が 3 1 、中 等 教 育 以 上 で は チ ベ ッ ト 語 を 除 く す べ
ての授業が漢語で行なわれている。そこで、小学校でチベット語による教育し
か受けたことのない生徒は1年間の漢語の補修クラスを受けさせられる。従っ
て中等教育ではチベット族の子弟は通常より1年間多く在学しなければならな
いハンディと、母語ではな い漢語による学習を強いられるという二重のハンデ
ィを負わされることになる 32。
また、チベット自治区で使用されている教科書であるが、チベット語以外は
すべて全国統一編纂の教科書がチベット語に訳されただけのものであり、その
内容はチベット族の子どもたちが見たこともない汽車 33や汽船が出てくるな
ど実生活とかけ離れた内容となっており、従ってチベット族の子どもたちには
難解で理解しにくいといわれている。更に教科書にはチベット族の歴史や文化
を反映した内容は非常に少なく、例えば現在使用されている全国統一編纂の社
会科教科書では、唐朝の文成公主と吐蕃王の婚姻に関する史実のみが記載され
ており、チベット統一を成し遂げたソンツェン・ガンポ王の功績についてはま
っ た く 触 れ ら れ て い な い 3 4 。中 国 に は 、チ ベ ッ ト で「 政 教 一 体 の 封 建 農 奴 制 を
維持されていたことや、チベット仏教のために近代的な学校教育の普及が遅れ
たこと、今でも仏教の影響が大きく、学校教育の妨げになっていること、漢語
が で き る 者 が 少 な い こ と 」3 5 な ど を 理 由 に 、チ ベ ッ ト 族 は 学 校 教 育 に 熱 心 で は
なく、従って就学率も低いというロジックが存在する。しかし実際には、全国
統一編纂の教科書の内容はこの地域の実生活とかけ離れており、チベット族児
童の興味を引かないだけでなく、チベット族としてこの地域で生きていくため
の必要な基礎的知識や能力も培われないと考える親も増え、結果として就学率
が低迷していると考えるのが自然であろう。
1988年に北京で開催された中国チベット学研究センターでの第1回会合
で、パンチェン・ラマ10世が以下のようなスピーチを行なった。
「 7 世 紀 以 来 、1 3 0 0 年 に も わ た っ て う ま く 機 能 し て き た 国 が 、解
放 後 に そ の 言 葉 を 失 い ま し た 。た と え 立 ち 遅 れ た 国 で あ っ て も 、あ る い
52
は 失 政 が あ っ て も 、私 た ち は 世 界 一 海 抜 の 高 い 高 原 に 住 み 、唯 一 チ ベ ッ
ト 語 を 使 っ て 暮 ら し て き ま し た 。仏 教 で あ れ 美 術 工 芸 で あ れ 天 文 学 で あ
れ 、あ る い は 占 星 術 や 詩 歌 、論 理 学 で あ れ 、あ り と あ ら ゆ る も の が チ ベ
ッ ト 語 で 著 さ れ て き ま し た 。行 政 庶 務 も チ ベ ッ ト 語 で な さ れ ま し た 。中
国 チ ベ ッ ト 学 研 究 セ ン タ ー が 設 立 さ れ た と き 、私 は 人 民 大 会 堂 で の 挨 拶
で 、チ ベ ッ ト 研 究 の 土 台 と な る の は チ ベ ッ ト の 宗 教 と 文 化 だ と 語 り ま し
た 。こ れ ま で の と こ ろ 、こ れ ら 二 つ の 分 野 は 疎 ん じ ら れ て い ま す 。チ ベ
ッ ト 文 化 を 死 滅 さ せ る の が 党 の 最 終 目 標 だ と す る な ら ば 、そ れ は 賢 明 と
は 言 え な い よ う に 思 い ま す 。チ ベ ッ ト 語 は 果 た し て 存 続 す る の で し ょ う
か、それとも滅びるのでしょうか」 36
パンチェン・ラマ10世とは、かつてのチベット社会でダライ・ラマに次ぐ
地位にあった高僧であり、ダライ・ラマ14世のインド亡命後もチベットに留
まって中国政府に協力姿勢をとっていたものの、1962年に中国政府のチベ
ット統治を批判した「七万言書」を提出して失脚し、約14年間投獄されてい
た 人 物 で あ る 3 7 。チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 は 、こ の 声 明 の 内 容 が 中 国 内 の チ ベ ッ ト 族
の言語状況を端的に表しているものとして懸念を表明している。
チベット語族が約10万人住んでいる雲南省デチェン・チベット族自治州で
は、1980年代にはチベット語ができる者が殆どいなくなり、チベット族で
あ り な が ら も 漢 族 式 の 名 前 を つ け る 者 が 多 く な っ た と い う 3 8 。ま た 近 年 、チ ベ
ット自治区の学校における教授言語がチベット語から中国語へ変更されつつあ
る こ と が 確 認 さ れ て い る 3 9 。中 国 ウ イ グ ル 族 の 教 育 研 究 で 知 ら れ る 藤 山 は 、
「近
代の言語はまず教育言語として存在し、教育の場からはずされていくと、衰退
す る 」4 0 と 述 べ て い る が 、も し 中 国 域 内 に お け る 学 校 の 教 授 言 語 が す べ て 漢 語
に切り替わるとするならば、チベット語は中国全土で徐々に失われていく可能
性があるといえる。
第2節
亡命チベット人共同体の教育システム
前節ではチベットの教育史を概観した。そこからもわかるようにチベット民
族の教育は歴史的にチベット仏教と密接に結びついており、更に教授言語とし
てのチベット語が重要な役割を果たしている。当節以降は亡命先でホスト国か
ら様々な制約を受けながらも構築した亡命チベット人共同体の教育システムに
ついて概観していく。
53
1 亡命チベット人共同体における教育発展
亡命直後の難民キャンプの状況を今に伝える記録は多くは残っていないが、
ジ ョ ル デ ン ( Nagwang Jorden ) に よ れ ば 、 亡 命 初 期 の 頃 の 子 ど も た ち の 教 育
状況は劣悪なものであった。難民キャンプに収容された亡命チベット人の子ど
もたちは何ヶ月もの間、無為な時を過ごしていた。やがて亡命チベット人たち
は自分たちの手で竹やテント用の布を利用して臨時の教室を作り、子どもたち
にチベット語の読み書きを教え始めたという。また、その簡易教室では難民キ
ャンプで働いていた西欧諸国からのボランティアも英語を教えていたという記
録が残っている。
亡命初期の混乱期を脱した頃、各地の難民キャンプでは、チベットからの亡
命途上に両親が死亡したり、或いは生 き別れて孤児となった子どもたちの存在
が徐々に問題となり始めていた。亡命チベット人社会は、そのような孤児たち
に 対 す る ケ ア と と も に 、す べ て の 子 ど も た ち が チ ベ ッ ト 人 と し て の 宗 教 や 文 化 、
伝統を維持しながら異国の地で生きていくための教育を受けられるようにする
必要に迫られていたのである。資金のない亡命政府は国際社会に支援を要請し
たが、チベットを実効的に支配する中国政府への配慮から、政府レベルの支援
はなかなか受けることができなかった。そのような困難な状況の中で、欧州の
非政府援助団体が亡命政府に対する支援を表明し、その結果 、孤児を受け入れ
る 養 護 施 設 と し て T C V ( Tibetan Children’s Village ) と T H F ( Tibetan
Homes Foundation ) 4 1 が 、 そ れ ぞ れ ダ ラ ム サ ラ と イ ン ド 北 部 の ム ス リ ー
( Mussoor ie) に お い て 設 立 さ れ た の で あ る 。
1960年、自分たちの難民状態が長く続くことを予測した亡命政府は、亡
命チベット人のすべての子どもたちに教育の機会を提供 するために亡命政府内
に 教 育 省 ( Department of Education ) を 設 置 し た 。 亡 命 チ ベ ッ ト 人 た ち の 中
に は 、既 に 自 分 の 子 弟 を カ リ ン ポ ン( Kalimpong)や ダ ー ジ リ ン( Darjeeling)
にあるインド政府の公立学校に入学させるケースもあったが、それは経済的に
裕福なごく一部の家庭に限られていた。 そこで教育省は一般家庭の子弟が平等
に学校教育を受けられるよう国際社会から資金を集め、教育省が直接管理運営
す る 亡 命 チ ベ ッ ト 人 学 校 ( Tibetan Refugee School) を 開 校 し た の で あ る 。 こ
れ ら 教 育 省 管 轄 の 亡 命 チ ベ ッ ト 人 学 校 は 一 般 に D o E ( Department of
Education) ス ク ー ル と 呼 ば れ 、 学 費 は 基 本 的 に 無 料 で あ っ た 。 教 育 省 は 1 9
60年3月に最初のDoEスクールをムスリーに設置し、およそ50人の子供
たちがそこに入学した。このムスリーのDoEスクールは、現在は寄宿舎制の
学校となっており、約900名の生徒と35名の教員が在籍している。また、
1962年に2校目となるDoEスクールをヒマチャル・プラデッシュ州のダ
54
ル ハ ウ ジ ー ( Dalhousi) に 設 置 し て い る 。
亡命チベット人子弟のための学校の中で、DoEスクールと並んで重要な役
割 を 果 た し て き た 学 校 に 、 イ ン ド 政 府 の 人 材 開 発 省 内 に あ る C T S A ( the
Central Tibetan Schools Administration ) 直 轄 の 学 校 が あ る 。 こ れ ら の 学 校
は一般にCTSAスクールと呼ばれており、インド政府が自国内に受け入れた
亡命チベット人の子どもたちに適切な学校教育を受けさせるため、インド政府
の予算で運営されている。ダライ・ラマ14世は亡命直後にインドの首相ネル
ー ( Pandit Jawaharlal Nehru) に 対 し て 亡 命 チ ベ ッ ト 人 子 弟 に 関 す る 教 育 支
援を要請した。ネルーはその要請に応え、インド政府内に亡命チベット人子弟
に 対 す る 教 育 を 支 援 す る 部 局 T S S( Tibetan Schools Society ) 4 2 を 設 置 し た
の で あ る 。 T S S は 、 後 に C T S A ( the Central Tibetan Schools
Administration ) と い う 名 称 に 変 更 さ れ た 。 C T S A ス ク ー ル は 現 在 の と こ ろ
インド国内に28校あり、亡命チベット人子弟全体の約40%がこのCTSA
スクールに就学している。
1960年代以降、様々な運営母体による亡命チベット人学校がインドやネ
パール各地のチベット人入植地に次々に建設されて行き、その数は2013年
時点で73校まで拡大した。就学者数が最も拡大した時期は1984年からの
1993年の10年間であり、この期間にインド、ネパール、ブータンにおけ
る亡命チベット人学校の就学者数は17,231人から27,220人にまで
増加している。また、亡命政府は1967年に、高等教育機関として、6年制
の 高 等 チ ベ ッ ト 学 中 央 研 究 所 ( The Central Institute for Higher Tibetan
Studies) を イ ン ド の ウ ッ タ ル ・ プ ラ デ ッ シ ュ 州 に 設 置 し た 。 こ の 研 究 所 は 、
亡命チベット人学校を卒業した者やアジアの仏教圏からの学生たちがチベ ット
仏教の高度な専門科目を学ぶことを目的に設立されたものである。この他にも
亡 命 政 府 は 、 チ ベ ッ ト 医 学 暦 法 研 究 所 ( The Tibetan Medical and Astro
Institute )や チ ベ ッ ト 舞 台 芸 術 研 究 所( Tibetan Institute of Performing Arts )
などを設置し、これらの高等教育機関は亡命チベット人学校の卒業生の進学先
ともなっている。亡命チベット人学校で特に優秀な成績で卒業した生徒にはイ
ンドや欧米の大学への留学プログラムが用意されており、そこで修士や博士の
学位を取得する者も増えてきた。現在、チベット亡命政府の諸機関で働く職員
の殆どが、前述の高等教育機関や留学プログラムによって学位を取得した者た
ちであるといわれている。
このように亡命チベット人共同体 の教育事業は、まず難民化の過程で発生し
た大量の孤児や居場所のない子ども たちへの緊急的かつ包括的な民間の海外援
助の一環として始まり、次に難民状態の長期化が強く予測された時点でチベッ
55
ト亡命政府が教育省を設置し、自助努力を開始した。教育省は「質の高い近代
的な教育の供給」と「チベット語とチベット文化の保護」という双子の目標を
掲 げ 4 3 、ホ ス ト 国 や 海 外 か ら の 支 援 を 受 け て 様 々 な タ イ プ の 亡 命 チ ベ ッ ト 人 学
校をインドやネパールに設立し、ホスト国の教育行政の干渉を受けつつも今日
に至るまでそれらの学校を維持・運営してきたのである。
半世紀に及ぶ亡命チベット人共同体の教育発展の歴史の中で最も大きな出来
事は、初等教育レベルにおける英語からチベット語への教授言語の変更であろ
う。もともとインドやネパール各地の亡命チベット人学校では、1980年代
までは英語で授業が行われていた。
「教授言語として何語を採用するかは初等教
育 に お け る 重 要 な 課 題 」4 4 で あ り 、亡 命 政 府 も 最 適 な 教 授 言 語 は 母 語 で あ る チ
ベット語であると考えていたが、ホスト国政府からチベット語で授業を行なう
許可が下りなかったのである。しかし1985年、ホスト国政府の関与が比較
的希薄なTCVスクールにおいて英語からチベット語への変更が実施され、1
994年にはすべての亡命チベット人学校における教授言語の変更が実現した。
この教授言語の変更に伴い、チベット語で書かれた教科書を供給する必要が生
まれ、それが亡命政府によるチベット人の文化的遺産、価値観などを反映した
教科書の開発に繋がったといわれている。現在、亡命チベット人学校の授 業で
使用されている教科書のうちチベット語で書かれている教科書のほとんどは、
亡 命 政 府 内 の チ ベ ッ ト 文 化 ・ 宗 教 出 版 局 ( Tibetan Cultural & Religious
Publication Center ) に よ っ て 編 纂 さ れ て い る 4 5 。
かつてチベットではチベット文字を習得し、識字能力を獲得していたのは貴
族と僧侶に限られており、庶民がその能力を身に付けるためには近代学校の普
及を待たねばならなかった。周知のように、 多くの国で近代学校が拡大する前
には宗教施設などによる伝統教育が存在していた。野津によれば、これらの伝
統教育が近代学校に転換した後も一般民衆の就学期間は1、2年と短く、フル
タイムで連続的に教育を受ける社会慣行が定着するのには長い時間を要したと
いう。例えば日本の場合、1886年の小学校令発布から小学校の就学率が9
0%を超えるのに34年を要しており、タイの場合でも1921年の初等学校
令 発 布 か ら 小 学 校 卒 業 率 が 8 0 % に 達 す る の に 6 0 年 か か っ て い る 4 6 。亡 命 チ
ベット人共同体の場合、小学校の就学率は1990年代初頭には推定で90%
を越えており、伝統教育から近代学校への転換が難民化によって齎されたと し
て、日本やタイの定着レベルに約30年で到達したことになる。 英国のジャー
ナ リ ス ト で あ る パ ー キ ン ス( Jane Perkins)も 、そ の 著 書『 TIBET IN EXILE 』
の 中 で “ Educ ation is a prec ious bonus of exile, since children in Tibet have
little chance of schooling ” 4 7 と 述 べ て い る 。 パ ー キ ン ス の 指 摘 ど お り 、 ダ ラ
56
イ・ラマ13世の時代に僧院の保守的な勢力によって妨げられていた近代学校
の 普 及 が 、皮 肉 な こ と に 、難 民 と な る こ と に よ っ て よ う や く 実 現 し た の で あ る 。
2 亡命政府の教育行政
1959年の亡命以来、亡命チベット人共同体の指導者であるダライ・ラマ
1 4 世 は 、常 に 亡 命 チ ベ ッ ト 人 の 子 ど も た ち の 教 育 の 重 要 性 を 強 調 し て き た 4 8 。
亡命チベット人共同体の憲法である「亡命チベット人憲章」には、亡命チベッ
ト人子弟の教育に関して「社会の進歩は国民の基本的な 教育水準に依存するこ
とから、健全な文教政策に基づき、高等教育・専門教育を含むあらゆる段階の
教 育 と 科 学・技 術・研 究 の た め の 適 切 な 努 力 が な さ れ な け れ ば な ら な い 」 4 9 と
明記されている。亡命政府は1960年代の学校教育の普及期に 「将来のチベ
ッ ト 独 立 に 向 け て 必 要 と さ れ る 人 的 資 源 の 開 発 」と 「チ ベ ッ ト 民 族 と し て の ア イ
デ ン テ ィ テ ィ の 維 持 」と い う 二 つ の 教 育 目 標 を 掲 げ て い た 。ま た 、1 9 9 0 年 代
以降、亡命政府はチベット民族としての伝統的な教育とグローバル・スタンダ
ードな近代的教育とのバランスの取れた融合を目指しており、具体的には以下
のような亡命チベット人学校における教育目標を掲げている 50。
1.亡命チベット人憲章に従い、亡命チベット人共同体における若い世代
の識字率を100%にするため、すべての亡命チベット人の子どもに
初等教育を供給する。
2.共同体の子どもたちを、自国の文化や国家的遺産に深く根づいたチベ
ット人として育てる。
3.亡命チベット人学校において教授言語としてチベット語の使用を増加
させる。
4.共同体の子どもたちに、近代的な科学教育、技術教育を提供する。
5.職業訓練や技術訓練が受けられる教育へ進学する機会を与える。
6 .子 ど も た ち の 身 体 的 、精 神 的 、宗 教 的 ニ ー ズ を 満 た し 、責 任 感 が あ り 、
生産的で自立した共同体のメンバーに育てる。
先にも述べたとおり、亡命チベット人共同体における教育行政を主導してい
るのは教育省であるが、教育省を司る教育大臣は亡命政府に7つある行政機関
の 長 の 中 で も 特 に 要 職 で あ る と さ れ て お り 、現 在 は 首 相( シ キ ョ ン 5 1 )の ロ ブ
サ ン ・ サ ン ゲ イ ( Lobsang Sangay ) が 教 育 大 臣 を 兼 任 し て い る 。 教 育 省 の 主
な役割は以下の通りである。
57
1.学校における教授法の変更。
2.教員トレーニングの実施。
3.学校への経営指導。
4.カリキュラムや教科書などの開発。
5.教師や生徒、保護者に対するガイダンスやカウンセリングの実施。
6.学校や大学への進学に係る奨学金の支給。
7.孤児などに対する里親プログラムの実施。
8.児童書や定期刊行物の翻訳及び出版。
9.学校への予算配分。
10.教育に関するカンファレンスやセミナーの開催。
11.海外留学プログラムの実施。
12.教員や生徒の交換プログラムの実施。
13.学校の教育達成度の検証及び評価。
14.優秀な教員や生徒の表彰。
チベット亡命政府は、政府予算の約65%を教育事業に毎年配分していると
い う 5 2 。こ の 数 値 だ け 見 れ ば チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 の 教 育 へ の 優 先 度 は 非 常 に 高 い
と映る。亡命チベット人共同体には租税というシステムはなく、独自の経済活
動 に よ っ て 調 達 さ れ る 資 金 5 3 も 少 な い 。チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 の 場 合 、歳 入 の 半 分
以上は国際機関やインド政府をはじめとする各国政府、国際的NGO、更には
個人レベルのドナーからの寄附に依存している。そして、これら海外のドナー
から亡命政府へ流れる資金の多くはチベット問題の政治的な複雑さを反映して、
使途が教育や福祉の目的に限定されていることが多い。その結果、教育予算の
比率が高くなっていると見るのが自然であろう。 更に教育予算の配分先を見て
みると、約半分が学校運営に割り当てられていることがわかる。教育省が行な
った調査で学校関係者の33.3%が学校の予算が足りておらず、教育の質の
面 で 悪 影 響 を 及 ぼ し て い る と 考 え て い る こ と が 報 告 さ れ て い る が 5 4 、教 育 予 算
は前述のとおり行き先がドナーによって予め指定されているケースが多く、亡
命政府の意思や亡命チベット人社会の教育ニーズが教育予算の配分にそのまま
反映されているとはいい難い。例えば1992年度のインド政府から亡命政府
への資金の流れは約4千8百万ルピーであるが、そのうち4千2百万ルピ ーは
CTSAスクール運営に使途が限定されていた。例えば、このインド政府から
の資金を、問題の生じているネパールのリモート・エリアの亡命チベット人学
校に転用することは事実上不可能である。このように財源の殆どを海外からの
援助に依存している状態で、なおかつ資金の使途に条件がつけられている現状
58
では、教育省が主導的にできることは限られているといえる 55。
3 亡命政府の教育政策
亡命当初、亡命チベット人共同体における識字率は僧侶を含めても約20%
程 度 で あ り 、 女 子 の 識 字 率 は 僅 か に 2 .5 % 程 度 だ っ た 5 6 。 教 育 省 が 若 い 世 代
における識字率100%を目指して初等教育の普遍化に取り組んで約半世紀が
経過したが、その目標は今日ほぼ達成されつつある。亡命政府の取り組みは、
初等教育の量的拡大を伴って識字率向上の面などで大きな成果を残してきたが、
この20年間で新たな課題も生まれてきた。例えばツェリン・ドンドップ
( Dhondup Tsering) は 、 亡 命 チ ベ ッ ト 人 の 若 い 世 代 で 西 欧 文 化 へ の 傾 倒 が 強
まっており、チベット語やチベット固有の文化、宗教を軽視する傾向があるこ
と を 指 摘 し て い る 5 7 。ま た ツ ェ リ ン ・ラ サ ン( Lasang Tsering)は 、亡 命 チ ベ
ット人学校の教育システムはホスト国の教育目標に沿って構築されており、祖
国の独立という最終目標を持つ亡命チベット人にとって適合していない点が多
く あ る と 指 摘 す る 5 8 。更 に サ ン ペ ル( Samphel )は 、亡 命 チ ベ ッ ト 人 共 同 体 の
教育システムが機能しないのは、そもそも亡命チベット人にとって教育の定義
や 目 的 が 明 確 に さ れ て い な い こ と が 原 因 で あ る と 指 摘 し て い る 5 9 。こ れ ら 亡 命
チベット人共同体内部の教育関係者が指摘する様々な課題を解決するために、
2004年に教育省は、亡命チベット人憲章に謳われている教育の目的に合致
し た 全 1 5 章 か ら な る『 Basic Education Policy for Tibetans in Exile( BEP)』
60
を策定した。このBEPは、それ以降の教育政策立案の指針 とな っ てい る。
BEPの内容を要約すると、まず第1章において「亡命チベット人憲章」第
17条(2)を引用し、この教育政策が「現在の亡命チベット人の基本的ニー
ズ 」 を 充 足 し 、「 将 来 の チ ベ ッ ト に お け る 自 治 ( self-governing ) の 達 成 」 に 資
するように構築されていることが示されている。また第2章で「教育」とは、
「外界で起こる諸現象を理解し、内なる潜在能力を覚醒に導く」ものと定義さ
れ て お り 、続 く 第 3 章 で 、亡 命 チ ベ ッ ト 人 に と っ て「 教 育 の 目 的 」と は 「他 者 か
らの援助に頼らず自立しており、国家と国民に力を与え、献身的に国や社会の
目 的 を 達 成 す る 人 間 を 育 成 す る こ と 」、及 び「 3 つ の チ ョ ル カ ス を 非 暴 力 と 平 和
の地区に変え、チベット人社会を非暴力の社会に変え、その他の人々を非暴力
と慈愛の道へと導くというチベット人の最終的な目標の達成に資する人間を育
成することである」ことが示されている。そして、これらの目的を達成するた
め 第 4 章 以 降 の 各 章 に お い て 、教 育 シ ス テ ム や カ リ キ ュ ラ ム 、シ ラ バ ス 、試 験 、
教師、学校運営などの具体的な政策について述べられている。
1960年代以降、亡命政府は初等教育の普遍化を最優先課題として 「若い
59
世代における識字率を100%にする」という教育目標を掲げていた。その目
標がほぼ達成されつつある今日、ツェリン・ドンドップやツェリン・ラサン、
サンペルたちによって示されたような新たな課題に対処する必要性からこのB
EPは策定された。これまで亡命政府には、BEPのように体系化され明文化
された教育政策は存在していなかった。新たに策定されたBEPには、チベッ
トにおける自治の実現に資する人材の養成こそが最も重要な教育の目的である
と宣言され、特にチベット語教育の重要性が強調されている。
多くの国民国家では、学校教育は法令に基づいて運営されている。日本を例
にとると、まず日本国憲法の精神に則って教育基本法や学校教育法が制定され
ており、例えば学校教育法第51条の1で日本における高等学校の目標が「国
家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと」などと定められている。こ
のBEPにも全体を通じて亡命チベット人共同体の憲法にあたる亡命チベット
人憲章の精神が色濃く反映されており、それに基づいて教育政策が方向付けら
れている。つまりBEPは、国民国家における教育基本法のような役割を果た
しているといえる。しかし、亡命チベット人憲章がホスト国の憲法に優先され
ることがないのと同じように、このBEPがホスト国の教育関連法に優先され
ることはなく、従って亡命政府の教育政策はホスト国政府の教育政策の影響を
常に受けざるを得ないのである。
4 亡 命 チ ベ ッ ト 人 学 校 ( for mal education:初 等 ~ 中 等 教 育 )
公 教 育 ( formal education ) と は 、 国 家 や 地 方 自 治 体 な ど は 行 な う 教 育 の こ
とである。そして、多くの場合それは学校教育を意味する。亡命政府の実質的
な影響下にある亡命チベット人学校は、亡命チベット人社会における公教育と
いえる。現在、亡命チベット人学校はインド、ネパール、ブータンに73校あ
るが、亡命チベット人子弟の約84%がそこで学んでいる。
現在の亡命チベット人学校は、基本的にはホスト国の教育システムに則って
運営されている。例えばインドの亡命チベット人学校は、インド政府の中等教
育 中 央 委 員 会 ( CBSC: the Central Board of Secondary Education ) の 管 轄 と
な り 、イ ン ド 全 土 で 標 準 的 に 導 入 さ れ て い る 1 0 + 2 制 を 採 用 し て い る 。ま た 、
ネ パ ー ル に あ る 亡 命 チ ベ ッ ト 人 学 校 は ネ パ ー ル 教 育 省 の 地 域 教 育 事 務 所( REO:
Regional Educ ation Office ) の 管 轄 と な り 、 ネ パ ー ル の 学 校 制 度 に あ わ せ て 1
0+2制を採用している。+2の後期中等教育は、一般教養コース、自然科学
コース、商業コース、職業訓練コースに分かれている。BEPの第7章4項に
は、亡命チベット人の学校制度は3年間の就学前教育、5年間の初等教育、3
年間の前期中等教育、4年間の後期中等教育という4つのレベルに分割される
60
ことが示されているが、現在のところインドやネパールの学校制度に合わせ、
前期中等教育以降の4年間を中期中等教育と後期中等教育に分ける運用がなさ
れている61。また、3年間にわたる就学前教育はモンテッソリ式教育法62が
実践されている。
図 2-1
亡命チベット人共同体の学校体系
年齢 学年
25
8
24
7
23
6
22
5
21
4
20
3
19
2
18
1
17
12
16
11
15
10
14
9
13
8
12
7
11
6
10
5
9
4
8
3
7
2
6
1
5 幼稚園年長組
4 幼稚園年少組
3 託児所
博士課程・研究職
(Doctorate, Postdoctoral, Professional Study & Reserch)
高等教育(修士)
(Master's Program)
高等教育(学士)
(Bachelor's Program)
資格コース
後期中等教育
(Senior Sec. School)
中期中等教育
(Secondary School)
職業訓練
コース
前期中等教育
(Middle School)
初等教育
(Primary School)
就学前教育
(Pre School)
出 所 : 榎 井 克 明 (200 6)「 難 民 の 教 育 問 題 」 p.55.
亡命チベット人学校は、運営形態によって大きく2種類に分類できる。それ
らの学校とはインド政府によって運営されるCTSAスクールと、基本的 に自
己 の 財 源 で 運 営 さ れ る 自 主 運 営 ス ク ー ル ( Autonomous School ) で あ る 。 自 主
運営スクールは、その運営母体によって更に4つに分類することができる。即
ち S T S( Sambhota Tibetan Schools Administration )ス ク ー ル 、S L F( Snow
Lion Foundation) ス ク ー ル 、 T C V ( Tibetan Children Village) ス ク ー ル 、
T H F ( Tibetan Homes Foundation ) ス ク ー ル の 4 つ で あ る 。 そ れ ぞ れ の 学
校の特徴は以下の通りである。
61
(1) C T S A ( the Centr al Tibetan Schools Administration ) ス ク ー ル
CTSAスクールは、インド政府の予算で運営されている亡命チベット人学
校である。現在、CTSAスクールはインド国内に28校あり、約1万人の生
徒が就学している。全28校のうち4校が全寮制の学校で、残りが全日制の通
学校である。学費は基本的に無償であるが、1975年以降にインドで生まれ
た亡命チベット人の学費は有償となっている。また、全寮制の生徒の学費(寮
費も含む)に関してはインド政府と亡命政府が折半している。学 校を運営する
CTSAの理事会はインド政府側の4名の理事 63及び亡命政府側の4名の理
事 6 4 に よ っ て 構 成 さ れ 、亡 命 政 府 側 の 教 育 政 策 が 一 定 程 度 、反 映 で き る 仕 組 み
になっている。当初CTSAスクールは英国領時代から継承したインドの教育
システムを導入し、教授言語は全学年とも英語であった。また、インドのNC
E R T ( National Council for Education Rese arch and Training) が 定 め た 3
言 語 ポ リ シ ー ( three-language policy) が 適 用 さ れ 、 第 1 言 語 は 英 語 、 チ ベ ッ
ト語は第2言語、ヒンズー語は第3言語として教えられていた。この教育シス
テムは基本的に現在も変わらないが、1994年以降、初等教育における教授
言 語 が 英 語 か ら チ ベ ッ ト 語 に 変 更 さ れ て い る 。1 9 9 4 年 の 教 授 言 語 の 変 更 後 、
CTSAスクールにはインド人の生徒は入学できなくなっているが、特例とし
て学校による特別な言語的配慮が行なえる場合に限ってインド人生徒の入学が
認められている。CTSAスクールの生徒は中期中等教育の最終学年である1
0年生時にインド全土で実施されるセカンダリー試験を受験する義務があり、
その結果に基づいて後期中等 教育の各コース(一般教養コース、科学コース、
商業コース、職業訓練コース)へ振り分けられる。また、後期中等教育の12
年生時にインド全土で統一のシニア・センカンダリー試験が実施され、高等教
育への進学資格が審査される。
(2) S L F ( Snow Lion Foundation ) ス ク ー ル
SLFはネパール国内にいる亡命チベット人の健康、老人福祉の向上、子ど
もへの教育支援などを目的として、1972年にスイスの民間援助団体SAT
A ( Swiss Association for Technical Assistance ) 6 5 に よ っ て 設 立 さ れ た 非 営
利・非政府組織である。SLFを実質的に運営しているのは執行委員会
( Executive Committee ) で あ り 、 そ の 執 行 委 員 会 は 亡 命 チ ベ ッ ト 人 共 同 体 か
ら選出された委員に加え、ネパール政府総務省の役人や国際援助団体の代表者
など8名の委員で構成されている。SLFの2010年度(2010年4月-
2011年3月)年間予算は約4千3百万ネパール・ルピーであるが、これら
の予算は主にチベット亡命政府、亡命チベット人共同体内部の企業、海外の非
62
政府系支援組織16団体からの歳入によって賄われている。SLFの予 算配分
を見ると、亡命チベット人学校への運営交付金が約46%と最も多く、奨学金
や寄宿舎の運営費まで含めると、年間予算の約81%が教育関連事業費で占め
られていることがわかる。
図 2-2
S LF の 予 算 配 分 (2 010 年 度 )
出 所 : S LF ANNU AL REPORT 2010/ 2011 を も と に 筆 者 作 成
SLFによって運営されている亡命チベット人学校はネパール国内に現在1
2校ある。インドのCTSAスクールには基本的にインド人の子どもは入学で
きないが、SLFスクールは通常の私立学校としてネパール政府に登録されて
いるため、地域のネパール人の生徒も受け入れている。しかし、多くの学校で
は初等教育の教授言語がチベットであるため、初等教育レベルにおけるネパー
ル人の生徒数は少なく、教授言語が英語に変わる中等教育以降か、英語を教授
言語としている一部の亡命チベット人学校で多いのが実態である。
SLFスクールは中期中等教育まで の学校が1校、後期中等教育までの学校
が 1 校 し か な く 、生 徒 が よ り 高 い 教 育 を 受 け る た め に は S T S ス ク ー ル と 同 様 、
地元を離れて首都のカトマンズかインド各地の亡命チベット人学校に移る必要
が生じる。そのためSLFは、寄宿施設の整備事業および生活費の補助などを
行なっている。また、インドと同様に中期中等教育の10年生修了時にはネパ
ー ル 全 土 で 統 一 の S L C ( School Leaving Certification )試 験 が 実 施 さ れ 、こ
のSLCに合格すればネパール人の生徒と同様の学歴を獲得し、更にネパール
国内の大学へ進学すること ができるのである。
63
(3) S T S ス ク ー ル
S T S S ( Sambhota Tibetan Schools Society ) は 、 1 9 9 9 年 に 教 育 省 の
責任範囲の多様化に伴い、ネパール国内にあったDoEスクールをSLFに移
管し、残る12のDoEスクールを管轄するために設立された組織である。S
TSSは亡命政府の教育大臣を委員長とする7人の委員によって運営されてい
る。STSSの運営する学校は一般にSTSスクールと呼ばれ、CTSAスク
ールが比較的大きな入植地に設置されているのに対して、STSスクールの多
くが辺境の地にある亡命チ ベット人コミュニティに設置されている。STSス
クールは、そのようなエリアの子どもたちにも均等に教育の機会を提供するこ
とを役割としている。しかし、STSスクールには中期中等教育以降のレベル
の学校がなく、前期中等教育を修了したSTSスクールの生徒が更に上の学年
で勉強を続けるためには、CTSAスクールなど都市部の学校に移る必要があ
る。そのためには親元を離れなくてはならず、親は学費だけでなく多額の滞在
費用を工面しなくてはない。従ってSTSスクールの子どもたちの中期中等教
育以降のレベルへの進学率は、他の亡命チベット人学校と比較して低い結果と
なっている。
(4) T C V ( Tibetan Childr en’s Village ) ス ク ー ル
1960年、51人の孤児のための養護施設として設立されたTCVは、現
在、インド国内に4つのチベット子ども村、5つの全寮制学校、8つの全日制
学校、10の幼稚園、4つの職業訓練センター、2つのユースホステルを経営
しており、約9千人の亡命チベット人の子どもたちが居住し(或いは通学し)
ている。ダラムサラにあるTCVの工芸職業訓練センターでは、3年間の訓練
コースを受講すると、チベット伝統工芸における資格が得 られる。また、この
訓練センターは自らの商品の95%を海外に輸出することで経済的に自立して
い る 。T C V は 現 在 、ウ ィ ー ン に 本 拠 の あ る SOS Kinderdorf International 6 6
の 正 式 メ ン バ ー で あ り 、 T C V ス ク ー ル の 財 源 の 殆 ど が 、 SOS Kinderdorf
International か ら 拠 出 さ れ て い る 。
(5) T H F ( Tibetan Homes Foundation ) ス ク ー ル
THFは1962年に設立され、当初は75人の幼児のための養護施設とし
て ム ス リ ー で ス タ ー ト し た が 、現 在 で は イ ン ド 国 内 に 3 9 の 養 護 施 設 を 設 置 し 、
1,300人以上の子供たちが入居している。THFも設立後すぐに学校運営
を開始し、現在では初等教育から後期中等教育までの亡命チベット人学校を運
営している。更に、TCVと同様、生徒数60人規模のチベット伝統工芸を教
64
え る 職 業 訓 練 校 も 運 営 し て い る 。 T H F は 主 に イ ン ド 政 府 、 SOS Kinderdorf
International お よ び SOS Denmark か ら の 援 助 金 に よ っ て 運 営 さ れ て い る 。
亡命チベット人学校は上のレベルへ行くほど学校数が減っていく。初等教育
を修了しても、近くに通学できる中等教育レベルの学校がない場合が多い。ま
た、自主運営スクールには中等教育以上の学校が極端に少なく、殆どの場合、
親元を離れなければ進学できない。教育省が1998年に実施した調査によれ
ば、71.4%の生徒は全寮制の学校に通うことを望んでおり、その理由とし
て83.5%の生徒が自宅より寮の方が勉強をする環境として望ましいと答え
ている。この点についてBEPの第13章第2項では、両親と子どもの関係を
良好に維持するためにも、特に子どもが幼少の頃には親から離れて寄宿させる
べきではないとの方針が示されている。
5 カリキュラムと教科
教育社会学的にいえば、カリキュラムは文化を伝達するために考案された装
置である。社会装置としてのカリキュラムは「人類の文化遺産のなかから教育
的 に 価 値 の あ る 知 識 を 選 択 し 、分 類 し 、配 列 」 6 7 す る 。教 育 知 は こ れ ら の カ リ
キュラムの統制の後に学習者に提供される。田中によれば、特定の教育知を指
示するイデオロギーが、このカリキュラムの統制過程に働いており、以下に挙
げる決定がなされるときに顕在化するという 68。
1. 教育知として妥当な内容は何か(定義)
2.教育知のどの領域をより高く格付けるか(序列)
3.誰に、いつ、どの教育知を伝達するか(配分)
4.その決定にあたって、どの集団の考えを優先させるか(ヘゲモニー)
5.特定の集団の考えを実行に移す場合、その根拠は何か(正統性)
イデオロギーはこれらの決定を背後から統制していると考えられている。こ
のような教育知の統制は、何らかの形で全体社会のイデオロギーを反映してお
り 、そ の 帰 結 と し て カ リ キ ュ ラ ム は 、
「知識の伝達としての学校を社会的統制の
機関に変える」69のである。
亡命チベット人学校において、初等教育から始まる12年間の学校教育は 基
本的にはホスト国政府の教育システムに則って行われる。カリキュラムも基本
的にはそれぞれの国のカリキュラムに従っている。亡命政府は、就学前教育か
ら後期中等教育に至るすべての学年において、亡命チベット人社会の共通語で
ある「チベット語」を最も重要な教科として位置づけている。また、 亡命チベ
65
ッ ト 人 学 校 で は 、正 規 の カ リ キ ュ ラ ム と 併 行 し て 、チ ベ ッ ト 舞 踊 、チ ベ ッ ト 劇 、
ディベートなどの授業を行なっている。殆どの亡命チベット人学校には一人、
またはそれ以上の人数のチベット舞踊やチベット劇を教える教師がおり、これ
らの教師の指導のもとで亡命チベット人の子どもたちはチベットの舞踊や劇を
学び、民族衣装を着たり、民族楽器を奏でたりすることができる。これらの授
業はチベット民族の伝統を維持し、滞在国や世界に向けてチベット文化の豊か
さを広く伝えていくことを目的としており、チベット語と並んで非常に重要な
教科であると考えられている。また、チベット舞踊や劇はそれぞれの地域の中
で学校対抗戦が行なわれたり、全亡命チベット人学校の大会が開催されたりし
ている。これらの大会はしばしば学 校行事の中でハイライトにもなっているの
である。
「チベット語」を含め、ホスト国の授業科目にない教科をカリキュラムに加
え る 場 合 に は 、基 本 的 に は ホ ス ト 国 政 府 の 許 可 を 受 け な け れ ば な ら な い 。ま た 、
先にも述べたとおり特定の学年になればホスト国特有の全国統一試験があり、
この統一試験に対応する教科、例えばホスト国の「国語」などを教科として設
置しておく必要がある。このように亡命チベット人学校では 亡命チベット人側
が自由にカリキュラムを組むことはできず、ホスト国政府の教育政策に従わな
ければならない。しかし、ホスト国政府の教育政策に従うことで亡命チベット
人学校の教育もホスト国の公教育(私立学校)として認められ、ホスト国の定
める統一試験に合格すれば難民であってもホスト国の生徒と同じ学歴を獲得で
きるというメリットもある。
6 僧 院 教 育 ( non-formal educ ation )
亡 命 チ ベ ッ ト 人 社 会 に お け る ノ ン ・ フ ォ ー マ ル 教 育 ( NFE ) と し て 、 伝 統 的
な僧院教育がある。ノン・フォーマル教育という言葉は、1968年にクーム
ス ( P. H. Coombs) が 著 書 『 World Education Crisis 』 の 中 で 取 り 上 げ 注 目 さ
れた言葉である。クームスは教育活動を、学校教育などの公的機関によって制
度化されたものをフォーマル教育、日常の経験などに基づく組織的でない学習
過程をイン・フォーマル教育、ある目的を持って学校教育の枠外で組織的に行
なわれる教育活動をノン・フォーマル教育という3つの様式に分類している。
ノン・フォーマル教育自体は古くからある様式で、対象は子どもに限らず何ら
か の 理 由 で 教 育 を 受 け ら れ な か っ た 成 人 も 含 ま れ る 。ノ ン・フ ォ ー マ ル 教 育 は 、
1960年代に学校教育が十分に普及していなかった発展途上国の農村開発、
或いは貧困層のベーシック・ニーズの充足に寄与する戦略として構想され、現
代では学校教育の限界性の認識から、学校以外の組織的教育の重要性が指摘さ
66
れる過程で注目を集めてきた。BEPの第7章においても亡命チベット人共同
体におけるノン・フォーマル教育の重要性が示されている。 亡命チベット人共
同体における僧院教育は僧侶を養成することが目的であり、ホスト国政府の干
渉も殆ど受けない。従って亡命チベット人社会の価値や思想をダイレクトに反
映させるカリキュラムづくりが可能になる。僧院学校は寄宿制で、学費や食費
は無料である。僧院では仏教の知識だけではなく、チベット語の読み書きに加
え、かつての僧院教育の伝統的なカリキュラムであった医学、天文学、暦学の
代わりに今では数学、英語、ホスト国の言語、チベット史などを学んでいる。
ク ラ ス は 一 般 的 に 1 年 生 か ら 8 年 生 ま で あ り 、低 学 年 で チ ベ ッ ト 語 の 読 み 書 き 、
一般教科を学び、高学年になるにつれて仏教関連の専門科目が増えていく仕組
みになっている。僧院教育を修了した者は、その殆どが僧侶への道に進むとい
う。また、高いレベルの僧侶を養成するための高等教育機関として、ノルブ・
リ ン カ・イ ン ス テ ィ テ ュ ー ト( Norbu Lingka Institute)、ア ム ニ ー・マ チ ェ ン ・
イ ン ス テ ィ テ ュ ー ト ( Amny Machen Institute )、 サ ッ キ ャ 大 学 ( Sakaya
College )、 ゾ ン サ ー ル ・ イ ン ス テ ィ テ ュ ー ト ( Dzongsar Institute)、 ペ ノ ー ・
リ ン ポ チ ェ・イ ン ス テ ィ テ ュ ー ト( Penor Ronpoche’s Institute)な ど が あ る 。
これらの僧院大学は世界の仏教界の寄附によって建てられ、現在ではインドや
ネパールに100を越える僧院大学が存在する。
67
青木文教は「すべてチベットの教育はその主義を仏教に取り、仏法僧の三宝に
信 頼 す る こ と を 以 っ て あ ら ゆ る 学 問 の 根 本 と し て い る 」と 述 べ て い る 。青 木 文 教
(1969) 『 西 蔵 』 芙 蓉 書 房 , p.169.
2 伝統的なチベット社会では、男子は7歳で出家するのが通例であった。稀に女
子 が 尼 僧 院 に 送 ら れ る こ と も あ っ た が 、こ の 場 合 は 7 歳 よ り も 少 し 上 の 年 齢 に 達
し て か ら で あ っ た と さ れ る 。 Bur man, Bin a Roy (1979) RELIGION AND
POLITICS IN TIBET , Vikas Publish ing,p.34.
3 岡 本 に よ れ ば 、本 来 チ ベ ッ ト 寺 院 に お け る ラ マ と は 、密 教 の 修 行 を 積 み 、弥 沙 、
比丘と戒をとり、ゲシェの試験に合格した最高学位者を指すという。岡本雅享
(1999) 前 掲 書 ,p. 438.
4 こ れ ら の 比 較 に つ い は 岡 本 雅 享 (1999)前 掲 書 , pp.435-458.に 詳 し い 。
5 ゲルク派とはウ地方に本拠を置くチベット仏教の 4 大宗派(ゲルク派、ニンマ
派 、カ ギ ュ ー 派 、サ キ ャ 派 )の ひ と つ で あ る 。黄 帽 派 と し て 知 ら れ る ゲ ル ク 派 は
歴 代 ダ ラ イ・ラ マ を 輩 出 し 、17 世 紀 以 降 、チ ベ ッ ト 社 会 で 最 も 力 を 有 し て い た 。
多 田 等 観 (1942) 前 掲 書 ,p. 10.
6 ゲ ル ク 派 の 四 大 学 問 寺 の つ い て は 岡 本 雅 享 (1999)前 掲 書 ,p. 439. に 詳 し い 。 ゲ ル
ク 派 の 四 大 学 問 寺 以 外 に も 、サ キ ャ 派 の サ キ ャ 寺 、中 央 チ ベ ッ ト の ツ ル プ 寺 や ミ
ンドゥルリン寺、アムドのラブラン・タシキル寺、チャムドのチャンパリン寺 、
リ タ ン の ゴ ン チ ェ ン 寺 な ど が 学 問 寺 と し て 有 名 で あ る 。チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 情 報 ・
国 際 関 係 省 (1999)前 掲 書 , p.144. 参 照 。
7 私 塾 の 記 述 に つ い て は 青 木 文 教 (2010)前 掲 書 ,p.94. 及 び 岡 本 雅 享 (1999)前 掲
書 ,pp. 440. を 参 考 に し た 。
8 青 木 文 教 (1886~ 1956) は 、 ダ ラ イ ・ ラ マ 1 3 世 の 招 き に よ り 1 9 1 3 年 か ら 3
年 間 、ラ サ に 滞 在 し た 仏 教 学 者 で あ り 、多 田 等 観 と と も に 日 本 に お け る チ ベ ッ ト
研究の先駆者として知られる。
9 岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,p. 440.
1 0 1642 年 に チ ベ ッ ト 政 府 ガ ン デ ン ポ タ ン 成 立 後 、 十 数 年 の 歳 月 を か け て 建 築 さ
れた宮殿である。最上階にはダライ・ラマの住居があり、他の階層は政府諸機
関 の 執 務 室 で あ っ た 。 多 田 等 観 (1942)前 掲 , pp. 107-110.
1 1 官 立 学 校 の 記 述 に つ い て は 青 木 文 教 (2010)前 掲 書 ,p.96.及 び 岡 本 雅 享 (1999)
前 掲 書 ,pp. 440-441 を 参 考 に し た 。
1 2 岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,p. 441 参 照 。原 典 は 張 済 川 (1994)『 西 蔵 自 治 区 』中 国 科
学院民族研究所・国家民族事務委員会文化宣伝司主編「中国少数民族語言使用
状 況 」 pp. 165-168.
13 チベット医学とは、インドのアーユルヴェーダを基礎とする伝 統医 学で ある 。
尿 を 用 い て 診 断 す る「 尿 診 」や 高 山 植 物 や 鉱 物 を 薬 と し て も 用 い る「 薬 物 療 法 」
が チ ベ ッ ト 医 学 の 特 徴 と さ れ る 。 伝 統 的 な チ ベ ッ ト 医 学 に つ い て は Norb,
Thubten Jigme/Turn bull,Colin(1969) TIBET , Penguin Books, pp. 107-108. に
詳しい。
1 4 医 学 校 の 記 述 に つ い て は 及 び 岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,p. 441.を 参 考 に し た 。
1 5 青 木 文 教 (1969) 前 掲 書 ,p.169.
1 6 ゾ ン : Zhong と は 当 時 の 行 政 区 域 で 、 州 あ る い は 地 方 を 意 味 す る 。
1 7 ダ ラ イ ・ ラ マ 1 3 世 の 教 育 へ の 取 り 組 み と 挫 折 の 状 況 は 岡 本 雅 享 (1999)前 掲
書 ,pp. 441-442. に 詳 し い 。
1 8 チ ャ ム ド 陥 落 の 様 子 は タ リ ン , リ ン チ ェ ン・ド ル マ (2003)前 掲 書 ,13 章 に 詳 し い 。
19 チャムド地区での小学校設置からラサ小学校の設置までの状況は岡本雅享
(1999) 前 掲 書 ,p. 462.を 参 照 し た 。
2 0 岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,p. 464.
2 1 王 隆 駿 と は 1956 年 に チ ベ ッ ト 自 治 区 準 備 委 員 会 文 教 局 に 赴 任 し た 中 央 人 民 政
府の役人であり、報告書『党在西蔵地区教育工作経験初探』の中で「学校を設
立する際、チベット政府は学校で読経の時間を設け、仏教行事がある日はそれ
を行うよう求めて譲らなかった。私達は民衆の宗教的迷信が「まだとても濃厚
1
68
な時には、単純に行政命令で学校における宗教的活動を取り消すのは、民族感
情を害するばかりか、宗教的な感情に油をそそぐことになると考え、宗教信仰
が学校に入ってくる問題について、戦略上必要な譲歩を行なった」と述べてい
る 。 岡 本 雅 享 (1999)前 掲 書 ,p. 464.参 照 。 ま た 、 松 本 は こ の よ う な 戦 略 的 譲 歩 を
「 優 遇 さ れ た 穏 歩 的 統 合 」 と 呼 ん で い る 。 松 本 高 明 (1996) 前 掲 書 ,p. 115.
22 ラサ中学の状況と教育現場におけるチベット語の衰退については岡本雅享
(1999) 前 掲 書 ,pp. 473-477. を 参 考 に し た 。
2 3 岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,p. 465.
2 4 全 体 の 正 確 な 数 字 は 不 明 で あ る が 、以 下 の 文 献 に 7 千 人 の 僧 侶 と 数 百 人 の 高 僧
が 亡 命 し た と の 記 述 が あ る 。For bes,Ann Armbrecht (1989) SETTLEMENT OF
HOPE , Cu ltur al Surviv al, Inc. ,p.59.
25 ラサ暴動以降及び文化大革命中のチベットにおける教育の状況は岡本雅享
(1999) 前 掲 書 ,pp. 469-470. を 参 考 に し た 。
2 6 岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,p. 470.
2 7 こ の 中 途 退 学 率 は 1989 年 の チ ベ ッ ト 自 治 区 全 体 の 年 間 中 途 退 学 率 で あ る 。 ラ
サ 市 に 限 っ て み れ ば 2. 9% で あ る が 、山 南 地 区 は 13.4%、ナ グ チ ュ 地 区 は 11.4%
で あ り 、 都 市 部 以 外 の 中 途 退 学 率 が 高 い 。 岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,p. 472.
2 8 岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,p. 472.
2 9 岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,pp.470-473.
3 0 中華 民国 成立 当時 、孫 文に よ り「五 族(漢 、満州、モン ゴル 、回、チベ ト)協
和」の思想が唱えられ、中華人民共和国成立以降は漢族と五十五少数民族を分
離した統合政策が採られてきた。中華人民共和国は、国民統合のための国民教
育とともに、国家を支える人材養成のために少数民族に対して行なう少数民族
教育を実施しているが、1980年以降中国語と民族語の二言語教育(双語教
育)が推進されている。二言語教育にはいくつかの類型があるが、小学校の低
学年で民族語の読み書きを習い、中・高学年で漢語を習い始めるパターンが一
般的である。二言語教育は、圧倒的多数の漢族人口に囲まれる中で、或いは反
右派闘争・大躍進、文化大革命時の民族語排斥という政治的運動の結果として
民族語を喪失した子どもたちに民族語を取り戻させるために教育という意味合
いもあるが、中国に個人の民族的アイデンティティ尊重といった観念が形成さ
れているとは言いがたく、二言語教育の本質は、1980年代後半から中国は
秦漢の時代から五十六民族(漢族と五十五少数民族)によって構成された「中
華 民 族 」に よ っ て 作 り 上 げ ら れ た と す る「 中 華 民 族 多 元 一 体 」論 の 台 頭 に よ り 、
「中華民族」の凝集力をより高めるため、少数民族の児童や生徒が漢語をより
効 果 的 に 学 ぶ た め で あ る と 考 え ら れ る 。 岡 本 雅 享 (1999)前 掲 書 , pp.114-117.
3 1 チ ベ ッ ト 自 治 区 の 第 四 期 人 民 代 表 大 会 の 第 五 回 会 議 で「 チ ベ ッ ト 自 治 区 に お け
るチベット語の学習、使用と発展に関する若干の規定」が採択され、第 3 条に
「チベット族の小学生はすべてチベット語で授業を受ける」と規定されたこと
に よ る 。 岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,pp.487-488.
3 2 岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,p. 477.
3 3 2006 年 に 青 海 省 西 寧 と チ ベ ッ ト 自 治 区 の ラ サ を 結 ぶ 青 蔵 鉄 道 が 開 通 後 、 チ ベ
ット自治区子どもたちにとって汽車は幾分身近な存在となっている。
3 4 小 島 晋 治 監 訳 ・ 大 沼 正 博 訳 (2000)『 世 界 の 教 科 書 シ リ ー ズ ― 中 国 の 歴 史 ― 』明
石 書 店 ,pp. 35-39.
3 5 岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,p. 478.
3 6 http://www.tibethou se. jp/education/educ 02. html
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 10 月 31 日 )
3 7 パ ン チ ェ ン ・ ラ マ 10 世 は 、 こ の 発 言 の 翌 年 に チ ベ ッ ト の タ ル シ ン ポ 僧 院 で 急
死 し て い る 。パ ン チ ェ ン・ラ マ の 転 生 に つ い て は 、ヒ ル ト ン ,イ ザ ベ ラ (2001)『 チ
ベットの少年』世界文化社に詳しい。
3 8 岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,pp.500-508.
3 9 こ の 書 簡 は 2012 年 11 月 25 日 に 中 国 政 府 に 送 ら れ た 。 こ の 書 簡 の 中 に 「 こ の
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数年、チベット語圏で指導用言語としてのチベット語の使用が禁止あるいは大
幅に制限されるといった政策が中国当局によって導入」されていることが述べ
られている。
http://www.tibethou se. jp/new s_release/ 2012/ 121210_an -appeal-to-presiden
t-xi-jinping-from-the-intern ation al -tibetan-studies-community.html
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 10 月 31 日 )
藤 山 正 二 郎 (2007)「 ウ イ グ ル の 漢 語 教 育 」 『 福 岡 県 立 大 学 人 間 社 会 学 部 紀 要
Vol. 15』 ,p. 38.
THF 設 立 は 『 チ ベ ッ ト の 娘 』 の 著 者 で あ る リ ン チ ェ ン ・ ド ル マ ・ タ リ ン 女 史
の 尽 力 に よ る と こ ろ が 大 き い 。 タ リ ン , リ ン チ ェ ン ・ ド ル マ (2003)前 掲 書 第 20
章参照。
TSS は イ ン ド 政 府 の 教 育 青 年 省 の 管 轄 で あ っ た が 、後 に 人 材 開 発 省 に 移 管 さ れ 、
名 称 も CTSA: the Centr al Tibetan Schools Admin istr ation に 変 更 さ れ た 。
Planning Council Cen tral Tibetan Admin istr ation of His Holiness the Dalai
Lama(1994)前 掲 報 告 書 ,p. 119.
浜 野 隆 (2005)「 初 等 教 育 」黒 田 一 雄・横 関 祐 見 子 編『 国 際 教 育 開 発 論 』有 斐 閣 ,
p.92.
チ ベ ッ ト 語 で 書 か れ た 教 科 書 は TCV か ら も 出 版 さ れ て い る 。
野 津 隆 志 (2005)前 掲 書 ,p. 73.
Rai,Raghu/Perkins, Jane(2010) TIBET IN EXILE, Penguin Books,p. 44.
http://www.tibethou se. jp/education/educ 01. html
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 10 月 31 日 )
http://www.tibethou se. jp/c ta/ future_tibet_constitu tion.html
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 10 月 31 日 )
Planning Council Cen tral Tibetan Admin istr ation of His Holiness the Dalai
Lama (1994)前 掲 報 告 書 ,p. 119.
2010 年 ま で 亡 命 政 府 の 政 治 最 高 責 任 者 の 称 号 は 主 席 大 臣 ( カ ロ ン ・ テ ィ パ )
で あ っ た が 2012 年 9 月 20 日 に 首 相 又 は 摂 政 の 意 味 す る シ キ ョ ン に 改 め ら れ た 。
亡命政府の発表によれば、政府収入の約65%を教育事業に配分している。
http://www. tibethouse.jp/educ ation/educ03.html
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 10 月 31 日 )
自 己 調 達 資 金 と し て は 難 民 社 会 の 税 金 に あ た る 徴 収 金 、ハ ン デ ィ ・ ク ラ フ ト ・
セ ン タ ー な ど 直 接 運 営 し て い る 企 業 体 か ら の 収 入 等 が あ る 。 Planning Counc il
Centr al Tibetan Admin istration of His Holin ess the Dalai Lama(1994) 前 掲
報 告 書 ,p. 25.
Planning Council Cen tral Tibetan Admin istr ation of His Holiness the Dalai
Lama (1994)前 掲 書 ,p.116.
教 育 セ ク タ ー に 関 連 す る プ ロ ジ ェ ク ト と し て 、学 校 拡 大 プ ロ ジ ェ ク ト 、チ ベ ッ
ト語出版物に関するプロジェクト、職業教育プロジェクト等、5 年間で計 7 千
3 百 万 ル ピ ー の 予 算 計 画 を 計 上 し て い る 。 Planning Council Centr al Tibetan
Administration of His Holiness the D alai Lama (1994) 前 掲 報 告 書 ,p. 105.
2006 年 8 月 に イ ン ド ・ ダ ラ ム サ ラ で 実 施 し た 亡 命 政 府 教 育 省 関 係 者 か ら の 筆
者によるヒヤリング・データによる。
Tser ing,Thondup (1986) Improving Tibetan education in exile, Tibetan
Review 34(5),p. 15.
Tser ing,Lhasng (1986) Education of Tibetans in India: Some suggested
changes, Tibetan Review 21(2),p. 11.
Samph el (1986) Education of Tibetans in India, Tibetan Review 21(4)
pp.16-17.
http://tc ewf.wangyaldesign.com/ index.ph p/tcewf/basic_edu_policy
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 3 月 10 日 )
調 査 地 の マ ウ ン ト・カ イ ラ ス・ス ク ー ル の 校 長 の 話 に よ れ ば 、過 去 に ネ パ ー ル
の学校制度が1971年に5-3-2制から3-4-2制に、1981年に5
70
62
63
64
65
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69
-2-3制に、1993年に5-3-2 制とたびたび改編されているが、この
改編によって亡命チベット人学校の学年編成や教員の配置に問題が生じたこと
が あ る と い う 。 2005 年 の ヒ ヤ リ ン グ ・ デ ー タ に よ る 。
イ タ リ ア の 教 育 学 者 M aria Montessor i(1870 ~ 1952)が 唱 え た 子 供 の 自 主 性 の
伸張を重視した児童教育法。
イ ン ド 政 府 側 の 理 事 は the M inistry of Ex ter nal Affair s か ら 2 名 、 th e
Ministry of Home affair s か ら 1 名 、 the Secretary of CTSA の 計 4 名 で あ る 。
亡 命 政 府 側 の 理 事 は Educ ation Min ister 、Education Secretary 、the Bureau
of His Holiness The D alai Lama か ら 各 1 名 、 the Direc tor of th e Cen tral
institu te of h igher Tibetan Studies か ら の 計 4 名 で あ る 。
SATA は SDC : Swiss Agency for Development and Cooper ation の 前 身 。
オーストリアに本部を置く国際NGOで、家庭を失った子ども たち を保 護し 、
家 庭 環 境 下 で 養 育 す る 事 業 を 世 界 132 カ 国 で 展 開 し て い る 。
田 中 統 治 (1992)「 カ リ キ ュ ラ ム と イ デ オ ロ ギ ー 」柴 野 昌 山 ・ 菊 池 城 司 ・ 竹 内 洋
編 『 教 育 社 会 学 』 有 斐 閣 ブ ッ ク ス ,p.110.
田 中 統 治 (1992) 前 掲 書 ,p. 110.
田 中 統 治 (1992) 前 掲 書 ,p. 110.
71
第3章
チベット語の習得とアイデンティティの形成
ビジネスや法律を学ぶのにチベット語は便利とは言えない。しかし
三百以上の経典に収められたカンギュルとテンギュルを学ぶのにチベ
ット語能力は不可欠である。チベット語は我々の母語であるのだから
維持するのは我々の役割であり、宝石のように大切にしなければなら
ない1。
第 1節
亡命チベット人共同体におけるチベット語の価値
本章の冒頭の文章は、2010年12月に訪問先のチベット人居住区で教師
や生徒を前に語ったダライ・ラマ14世のスピーチの一節である。このスピー
チの中に、チベット語に込められた二つのイメージが示されている。
ひとつは、仏教と強く結びつく言語としてのイメージである。チベット語が
いつ頃から中央アジアで使用されていたかは定かではないが、チベット語を表
すチベット文字は、いつ誰が、何のために創製したのかは、概ね特定されてい
る。チベット文字は、紀元7世紀にチベットを統一したソンツェン・ガンポ王
がサンスクリット語で書かれた仏典を自国の言語に翻訳するためにインドへ使
者を送って創製したものであり、また、チベット語の文法も仏典の訳出によっ
て 固 定 し た も の で あ る と い わ れ て い る 2 。テ ィ デ・ソ ン ツ ェ ン 王( 776~ 815 年 )
の時代にサンスクリット・チベット語辞典が編纂され、9世紀前半から14世
紀 初 期 に か け て 集 大 成 さ れ た 翻 訳 仏 典 は「 チ ベ ッ ト 大 蔵 経 」と 呼 ば れ て い る が 、
ダ ラ イ ・ ラ マ 1 4 世 が ス ピ ー チ の 中 で 言 及 し て い る カ ン ギ ュ ル( bka-gyur) お
よ び テ ン ギ ュ ル ( bastan-gyur ) と は 、 こ の 「 チ ベ ッ ト 大 蔵 経 」 の こ と を 指 し
て い る 3 。周 知 の よ う に 仏 教 文 献 の 原 典 は サ ン ス ク リ ッ ト 語 で 書 か れ て い る が 、
後期仏教のサンスクリット文献の多くは散逸し、現存しているものは少ない。
例 え ば「 入 中 論 」
「 思 択 炎 」な ど の 重 要 な 論 書 の 多 く が 、ま た 密 教 系 の 文 献 の 多
くがチベット語訳のみを残して原典は既に散逸してしまっている 4。
「チベット
大 蔵 経 」は 、9 世 紀 の 初 め に「 翻 訳 名 義 大 集 」に よ っ て 訳 語 が 統 一 さ れ て 以 降 、
現在に至るまで統一が保たれているため訳出への信頼性が高い。原典が既に消
滅している場合には、
「 チ ベ ッ ト 大 蔵 経 」か ら サ ン ス ク リ ッ ト 語 原 典 に 翻 訳 し 戻
すことが可能なほどである5。宗教は様々な表現形式を介在させて時間や空間
を超えて伝承されるものであるが、主に口伝と詠唱や経典などの文字によって
伝 承 さ れ て い く 。 パ ー ソ ン ズ ( Talcott Parsons)は 「 書 か れ た 記 録 は 、累 積 的
な文化発展の基礎を形成する」6と述べているが、文字による宗教的価値の伝
72
承 も 口 伝 的 伝 承 し か な い 場 合 よ り も は る か に 正 し く 効 率 的 に 伝 達 さ れ 、累 積 し 、
発 展 し て い く も の で あ る 。冒 頭 の ダ ラ イ・ラ マ 1 4 世 の ス ピ ー チ の 内 容 か ら も 、
仏教を最上の価値と見なしている大多数のチベット人にとって、チベット語は
単なるコミュニケーション・ツールではない ことがわかる。
もうひとつのイメージは、チベット語は「我々」チベット人に共有される母
語であり、
「 我 々 」は 同 じ 言 葉 で つ な が る 単 一 民 族 、単 一 言 語 国 家 で あ る と い う
イメージである。いうまでもなく国語は、人々を国家が必要とする均質的な集
団へと組織し、社会を統合する等質的教育の基盤となるものである。歴史的に
見ると、多くの国で単一の言語を国語または公用語として普及させる共通言語
政策が導入されている7。例えば近代の国民国家のモデルとなったフランスで
は、フランス革命までは北フランスのオイル語と南フランスのオック語の二大
言語圏が存在していたが、1793年にフランス政府がオイル語を国語として
制定して以降、オイル語がフランス国内の公用語となり、それ以外の言語は反
革命的な言語として使用が禁止された8。多くの国で共通語の普及は統一され
た ナ シ ョ ナ ル・カ リ キ ュ ラ ム と 学 校 教 育 に よ っ て 促 進 さ れ る が 、鹿 島 は 論 考『 サ
ブサハラ・アフリカの言語政策の取り組みと今後の課題』の中で 「教育におけ
る 言 語 政 策 の 背 後 に は 常 に 政 治 的 、社 会 的 、経 済 的 な 問 題 が 隠 さ れ て い る 」9 と
指摘する。そして「教授言語政策は、どの社会集団、言語集団が政治的及び経
済 的 機 会 へ の ア ク セ ス を 持 つ の か 、剥 奪 さ れ る の か を 決 定 す る 」1 0 と 述 べ て い
る。チベットにも互いに意思疎通ができないほど差異のある三大方言があった
が、亡命政府はこの中でチベットの首都ラサで話されていたラサ口語の属する
ウ ・ ツ ァ ン 地 方 の 言 葉 を 、 亡 命 チ ベ ッ ト 人 社 会 の ベ ・ ケ ( bpal-skad = 公 用 語
の 意 味 )と し て 定 め た 1 1 。亡 命 政 府 が ウ・ツ ァ ン 地 方 の 言 葉 を 亡 命 チ ベ ッ ト 人
社会のベ・ケと定めた背景には、当時の亡命政府内で使用されていた言葉はラ
サ口語であり、亡命チベット人共同体の首都的機能を持つダラムサラの住民の
多くがウ・ツァン地方の出身者で占められていたことが挙げられる。このよう
にしてウ・ツァン地方の言葉は亡命チベット人社会の公用語となったのである
が、ウ・ツァン地方以外から亡命してきたチベット人はベ・ケをうまく話すこ
とができず、亡命当初は同じチベット人同士でもコミュニケーションをとるの
に苦労したという。現在でも稀に流暢にベ・ケを話せない亡命チベット人と出
会うことがあるが、それはかなり高齢の第一世代の亡命チベット人に限られて
おり、第二、第三世代の亡命チベット人が話す言葉はすべてべ・ケである。
チ ベ ッ ト 語 は 「 我 々 」 を 統 合 す る 言 語 で あ る が 、 こ の 「我 々 」の 範 疇 に は 亡 命
チベット人だけではなく、中国域内のチベット族住民も含まれている 。前章で
も述べたとおり、チベット人が最も多く住むチベット自治区では2010年頃
73
から中国当局により学校の教授言語がチベット語から中国語に変更され、チベ
ット自治区以外のチベット語圏でも、同様にチベット語の教科書廃止、中国語
の教科書導入という政策が導入され始めた。このような状況に対して亡命政府
は新しく中国の指導者になったばかりの習近平国家主席に向けて、チベット語
圏における教育現場での教授言語をチベット語に戻すよう請願書を送っている。
カ ウ ツ キ ー ( Karl Johann Kautuky) は 、「 民 族 の 言 葉 は ま す ま す 家 庭 内 の 使
用に制限されていくだろう。たとえ実際にはあまり役立たないとしても、家庭
で代々受け継がれてきた家族の古い家具のように、それはなにかしら尊敬の念
を 持 っ て 取 り 扱 わ れ る だ ろ う 」1 2 と 述 べ て い る が 、こ の よ う な 亡 命 政 府 の 対 応
は、中国域内のチベット族の言語が「古い家具」のようになることへの恐れを
表している。なぜなら中国の社会主義には「独自の言語の喪失は民族の同化を
意味する」という「マルクス・エンゲルスからカウツキーを経てレーニンに至
る 、マ ル ク ス 主 義 の 伝 統 」 1 3 が 色 濃 く 反 映 さ れ て お り 、中 国 の 統 合 政 策 に よ っ
てチベット語が喪失し、将来チベット族が漢民族と同化するようなことになれ
ば、チベットにおける主権の回復は永遠に叶わぬと懸念される からである。ダ
ライ・ラマ14世のスピーチの内容や亡命政府の対応から、亡命チベット人た
ちは、チベット語は亡命チベット人共同体の統合だけでなく、ヒマラヤを隔て
て南北に離散している「我々」チベット人の再統合にとっても不可欠な言語で
あると考えていることがわかる。
第2節 チベット語の言語学的位置づけ
チベット語は言語学的にはシナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派に属
す 言 語 で あ る 1 4 。チ ベ ッ ト 語 は 、現 在 チ ベ ッ ト 高 原 を 構 成 す る 4 カ 国( 中 華 人
民共和国、インド、ネパール、パキスタン)に住むチベット系民族約600万
人 及 び 約 1 3 万 5 千 人 の 亡 命 チ ベ ッ ト 人 に よ っ て 使 用 さ れ て い る 1 5 。中 国 内 の
チ ベ ッ ト 語 は 、 ウ ・ ツ ァ ン ( ラ サ 中 央 部 )、 ア ム ド ( 東 北 チ ベ ッ ト )、 カ ム ( 東
チベット)の三大方言に分けられる。亡命チベット人社会の共通語であり、亡
命チベット人学校で教えられているチベット語は、ウ・ツァン地方の方言であ
る。各方言の文法は概ね一致しており、語彙の共通性も75%以上ともいわれ
るが、発音の差異は著しく、一般的には会話はできない 16。
チベット文字は、紀元7世紀にチベットを統一したソンツェン・ガンポ王が
イ ン ド に ト ン ミ・サ ン ボ ー タ( Thonmi Sambhota)を 送 っ て 学 ば せ た グ プ タ 文
字 1 7 が モ デ ル と な っ て い る 。ト ン ミ・サ ン ボ ー タ は グ プ タ 文 字 を 模 倣 し て 3 0
個の文字を作り、当時のチベット語の発音に合致する単語の構成法、作文の規
74
定などを定めてチベット語の文法の基礎を作った。チベット語は9世紀に正字
法が確立されて以降、ほとんど変化せずに今日まで伝承されてきたために、現
代口語と発音、文法、語彙の点で随分と違っており、それぞれの方言の発音で
読 み 上 げ ら れ る 1 8 。そ の 反 面 、文 語 は 全 土 で 一 致 し て お り 、現 代 の チ ベ ッ ト 人
でも文語の素養があれば殆ど支障なく中世の文献を読むことができる。多くの
国では文語は時代により大きく変化し、古代・中世の文学は研究者でなければ
ほとんど理解できないことを考えると、チベット文語の不変性には驚くべきも
のがある。9世紀にトンミ・サンボータが著した文法書「三十頌」は、現在で
もチベット語学習の基本的文法書として使用されている。
歴史的に見ると、チベット語は7世紀から9世紀半ばにかけてアジアの主要
な書き言葉のひとつであった。それは様々な言葉を話す諸民族を併合した軍事
国家チベット(吐藩)の最盛期のことであり、チベット語は広大なチベット帝
国領土内で使用されただけではなく、チベット語以外の言語を記すにもチベッ
ト文字が用いられていたのである。チベット文字の影響力は大きく、モンゴル
語など元(げん)の言語を表すバスパ文字などへも派生した。敦煌などの中国
西北部では、数千の文字の習得を必要とする漢字よりも学習が容易だったため
中国語を表記するのにもチベット文字は使用されており、9世紀半ばにチベッ
ト帝国が崩壊した後も、自らの文字を持たない中央アジアの諸民族は、チベッ
ト文字を使い続けたのである 19。
11世紀に再び中央アジアの歴史の舞台に姿を現わしたチベットは、かつて
の吐藩王朝のような軍事強国ではなく、仏教を国教とする仏教国に生まれかわ
っていた。仏教はチベット文化の中心軸となり、言語・文学はすべて仏教の発
展に資するものとして機能していた。やがてチベット仏教は独自の形態を持つ
に至り、広域に流布していったのである。中央アジアの広大な領域において、
チベット語は仏教用語として用いられる一方、言語・民族を異にする仏教徒間
の共通言語としての地位を占めるようになった。チベット文字は、チベット語
の他にチベット系民族によ って独立したブータンのゾンカ語や、インド・ラダ
ック地方のラダック語を表すのにも使用されている 20。
チベット文字には種々の字体と書体があるが、代表的な書体として、楷書体
(ウ・チェン)と草書体(ウ・メ)がある。楷書体は木版の文字や活字のもと
となった書体であり、現在のチベット語の出版物の殆どはこの楷書体で書かれ
ている。草書体は、かつてチベットで政府の公文書や日常書簡などに使用され
ていた書体で、現在では手紙やメモを書くときに使用する書体である。学校で
最初に習うのはこの草書体である。昔のラサでは、庶民の多くは草書体の 読み
書きができたと言うが、楷書体で書かれている仏典などは読むことができなか
75
った。逆に仏僧は楷書体を読めたが草書体は読むことができなかったという。
つ ま り 楷 書 は 仏 僧 の 文 字 、草 書 は 俗 人 の 文 字 と 言 う 区 別 が 歴 然 と 存 在 し て お り 、
仏僧と庶民は互いに言葉は通じるが、文字による意思疎通はできなかったので
ある。
図 3-1
楷 書 体 (ウ ・ チ ェ ン )
出 所 : འཛི ན ་གྲྭ་བཞི ་ པའི ་ སློ བ ་དེ བ ་རི ག ་པའི ་ ཉི ན ་བེ ད ,p.115. よ り 抜 粋
図 3-2
草 書 体 (ウ ・ メ )
出 所 : འཛི ན ་གྲྭ་གཉི ས་ པའི ་ སློ བ ་དེ བ ་རི ག ་པའི ་ ཉི ན ་བེ ད ། ,p.104.よ り 抜 粋
亡命チベット人は、高齢者になればなるほど文字を神聖視しており、チベッ
ト文字で書かれているものを跨いだり、足で触れたりすることはない。榎木に
よると、チベット人の高齢者が「不注意でチベット文字で書かれたものを落と
したり、足が触れたりしたら、それを一旦頭の上に押した頂いた後、頭頂につ
け る と い う 動 作 を 行 い 、対 象 物 に 対 す る 不 遜 な 行 為 を 帳 消 し に す る 」と い う 2 1 。
高齢者がチベット文字をこれほどまでに神聖視するのは、チ ベット文字が仏教
由来の聖なる言語、或いは真実語として発展してきたためであろう。
76
第3節 亡命政府のチベット語教育政策
国民統合の観点から見た場合、教育には求心的作用と遠心的作用の両機能が
あ る と い わ れ て い る 。求 心 的 作 用 と は 、
「同一の教育を施すことによって国民統
合 を 促 進 す る 機 能 」 2 2 で あ る 。一 方 、遠 心 的 作 用 と は 、別 々 の 異 な っ た 教 育 を
施すことによって、国民統合の観点からは、むしろ国民の分離・分裂を促す機
能 」2 3 で あ る 。多 く の 国 民 国 家 で は 、国 民 統 合 や 国 民 形 成 を 促 進 す る た め に 教
育の求心的作用を期待して、公教育の確立に力を注いできた。その中核となる
装置が学校教育であった。国民国家における学校教育機構は、統一された言語
体系を用い、画一的なナショナル・カリキュラムに従い、学校という単一の教
育機関と教師により、国家領土のすべての空間を包括し、国民の形成を達成す
ると期待されたのである。
亡命政府は、就学前教育から後期中等教育に至るすべての学年において、亡
命チベット人社会の共通語である「チベット語」を最も重要な教科として位置
づ け て い る 。例 え ば 現 行 の 初 等 教 育 カ リ キ ュ ラ ム で は 、
「 チ ベ ッ ト 語 」は 1 年 生
から5年生までの間、月曜日から金曜日まで毎日1時限(約40分)教えるべ
き基礎教科となっており、すべての教科の中で最も多くの時間数が配当されて
いる。初等教育レベルにおいては多くの国で、国語或いは国の共通語教科によ
り多くの時間数が配当されているが、これは各国とも基本的に国語科で培われ
た言語能力が他の教科の基礎となるという考え方に立脚しているためである。
日本の場合も国語科は基礎科目として他の教科よりも多くの時間数が配当され
て お り 、小 学 校 1 年 生 時 が 最 も 多 く 、全 体 の 3 4 .8 % を 占 め て い る 。し か し 、
学年が上がるにつれて配当される時間数は減少していき、小学校5年生時に1
9 .0 % 、中 学 3 年 生 で 1 0 .7 % に な る 2 4 。こ の 数 値 の 減 少 は 、 他 の 教 科 の
基礎をなすという初等教育レベルでの教科の役割が、国語を習熟するにつれて
減少していくためである。これに対して 亡命チベット人学校では、チベット語
教 科 へ の 時 間 数 の 配 当 割 合 そ の も の は 、1 4 .2 % と 日 本 と 比 べ て 低 い も の の 、
小学校の1年生から5年生まで配当割合に変化はなく、全教科の中で最も多く
配当されている。
また、亡命チベット人学校ではチベット語教育を基軸としながらも、 3言語
ポリシーが導入されている。3言語ポリシーとは、母語であるチベット語を第
1 言 語 と し て 学 び 、第 2 言 語 と し て は 英 語 、ヒ ン ズ ー 語 、中 国 語 、ス ペ イ ン 語 、
その他教授可能な言語の中から一言語を選択し、更に後期中等教育の始まる1
0年生以降に、仕事に就くために必要となる滞在地域の言語を第3言語として
学習することである。第3言語に関しては、地域 の言語がチベット語か第2言
77
語である場合は、その他の言語を選択することができる。BEPの 第8章第4
項において、就学前教育レベルから初等教育の3年生まではチベット語以外の
言語を教えることを禁じ、授業で使用する何気ない単語や歌でさえチベット語
以外の言語を使用することを避けることが指示されている。しかし、実際の亡
命チベット人学校のカリキュラムを見てみると、就学前教育レベルから既に英
語の授業が組まれており、このポリシーは徹底されていないことがわかる。
教授言語については、初等教育の5年生まではチベット語である。6年生 以
降、教授言語は英語に切り替わる。亡命チベット人学校における教授言語の変
遷は前章において述べたとおりであるが、これまで滞在国の教育政策の影響を
強く受けてきた。例えばネパールの亡命チベット人学校の場合、1971年に
ネ パ ー ル 政 府 の N E S P ( National Education System Plan ) が 導 入 さ れ 、 初
等教育がそれまでの5年制から3年制へと変更になった際、国語であるネパー
ル語が最重要視され、ネパール国内の学校における教授言語はネパール語に限
定されたのである。NESP導入の目的は、それまで未整備だった ネパールの
公教育の目標を当時の国家体制であったパンチャーヤト 25の維持と一致させ
ることであり、ネパール国内の無秩序で未組織の教育機関をすべて国家体制の
中に取り込むことであった。教授言語がネパール語に限定された結果、ネパー
ル語を理解できない亡命チベット人の子どもたちは授業についていけず、徐々
に学校に通わなくなっていったという。この事態を憂いた亡命チベット人教師
たちは、学校に来なくなった子どもたちを早朝や夜に学校の空いている教室に
集 め 、自 主 的 に チ ベ ッ ト 語 で 授 業 を 行 な っ た 2 6 。こ の よ う な 状 況 は 、ネ パ ー ル
政府の教育政策が緩和され、学校が亡命チベット人たちの手に返還される19
81年まで続いたのである。この出来事は、自分たちの言語が奪われることへ
の 悲 し み と 、自 分 た ち の 言 語 へ の 愛 着 を 描 い た ド ー デ の 小 説『 最 後 の 授 業 』 2 7
を思い起こさせる。亡命チベット人たちは自分たちの言語を守るために、或い
は教育という最も基本的な権利を守るために、亡命先においても、いくつもの
摩擦を乗り越える必要があったのである。
第4節 入植地における子どものチベット語の状況
前節までに亡命政府のチベット語のカリキュラムについて見て来たが、亡命
政府の教育政策がダラムサラから遠く離れたチベット人入植地で具体的にどの
ように展開され、子どもたちはどのようにチベット語を習得しているのだろう
か。そのことを実証的に把握するため、調査地において調査を行なうことにし
た。本節以降は、その調査で得られたデータを基に、入植地における子どもた
78
ちのチベット語の習得メカニズムを明らかにしていく。
まず、本節で用いた調査方法について述べておく。亡命チベット人の子ども
たちのチベット語の状況を把握する予備的な調査として、2005年9月にネ
パールにある3つの亡命チベット人学校を訪問し、言語の状況を調査し た。そ
れら3つの学校とはタシ・パルケルのマウント・カイラス・スクール(生徒数
169 名 )、 ジ ャ ワ ラ ケ ル の ア テ ィ シ ャ ・ ス ク ー ル ( 生 徒 数 199 名 )、 ゴ カ ル ナ の
ナ ム ギ ャ ル 高 校 ( 生 徒 数 454 名 )の 各 学 校 で あ る 。 更 に 、 2 0 0 6 年 9 月 に イ
ン ド に あ る 2 つ の 学 校 、 ダ ラ ム サ ラ の TCV ア ッ パ ー ・ ダ ラ ム サ ラ ・ ス ク ー ル
( 生 徒 数 1,634 名 )、ダ ル ハ ウ ジ ー の CST ダ ル ハ ウ ジ ー・ス ク ー ル( 生 徒 数 321
名)でも同様の調査を行なった。予備的調査ではいずれの学校でも、学校内外
の様々な空間ごとの言語分布状態を調査した。その結果、学校内部にお いて子
どもたちが使用してる言語はほぼチベット語であり、学校外部においても、会
話の相手がチベット人である場合、子どもたちはチベット語で会話しているこ
とが確認できた。調査対象となった子どもたちは殆どが滞在国で生まれた難民
三世である。つまり、亡命チベット人三世の世代においても、チベット語は日
常会話に使用されているということである。
坂本は、その論考『カナダにおける外国籍児童生徒の就学への対応』の中で
移民三世になると、ほぼ母語は失われることを指摘している。坂本によると、
母 語 喪 失 の プ ロ セ ス は 以 下 の 通 り で あ る 2 8 。移 民 一 世 は 、家 庭 で は 現 地 の 言 語
ではなく母語を話すため、彼らの子どもである移民二世は母語を理解できるよ
うになるが、その移民二世は現地の学校へ通うため、ある程度バイリンガルに
なる。しかし、第2言語使用が可能な移民二世は、家庭内でのみで通用するマ
イナーな言語よりも現地の言語を高い価値を置き、優先的に使用する傾向があ
る。従って、この世代を親に持つ移民三世になると母語は失われる。つまり、
一世が母語のモノリンガル、二世が母語と第二言語のバイリンガル、三世が第
二言語のみのモノリンガルになってしまうのである。米国の移民二世児研究 の
金 字 塔 と 言 わ れ る『 移 民 児 童 生 徒 の 継 続 的 研 究 』 2 9 で も 、移 民 で あ れ ば 継 承 言
語 の 喪 失 は 1 .5 世 3 0 か ら 始 ま り 、二 世 に お い て 多 く の 子 ど も た ち が 継 承 語 を
喪失することが報告されている。亡命チベット人は、共同体を形成してある程
度まとまって暮らしており、教授言語が自分たちの母語である学校に通ってい
る。従って単純にカナダや米国の移民児童の言語状況と比較することはできな
いが、難民三世の世代においても彼らの母語であるチベット語が喪失せず維持
されている状況は、いったいどのようにして作り出されるのであろうか。
こ の 問 題 に 接 近 す る た め に 、本 研 究 で は 野 津 が タ イ 東 北 に お い て 行 な っ た「 一
行政村集中型」のフィールドワーク調査を採用することにした。野津は、これ
79
まで発展途上国の教育研究で主流となっていた政策・制度レベルの文献研究で
完結するような研究や、短期間の面接調査や質問用紙調査などでは実態の理解
に大きな限界があり、
「 不 明 な 研 究 領 域 を 残 す だ け に と ど ま ら ず 、わ れ わ れ の 既
存 の 教 育 イ メ ー ジ に 基 づ き 、き わ め て い び つ な 途 上 国 の 教 育 像 を 描 く 危 険 」3 1
があることを指摘している。これらの課題を克服するために野津が採用したの
が、文化人類学や農村社会学で実施されてきた一箇所集中型のフィールドワー
ク調査であった。一箇所集中型のフィールドワーク調査は比較的長期間その社
会に滞在し、その社会で起こる様々なイベントを観察し、関係者に聞き取り調
査やアンケート調査を実施して、可能な限り対象となる社会を理解する調査技
法である。野津の指摘どおり、国民国家では「学校は単独では言語の国民化を
達成することができず、言語生活全体の変容と相まってはじめてそれが可能に
な る 」 3 2 。ま た 、学 校 は 単 独 で 国 民 を 形 成 す る の で は な く 、コ ミ ュ ニ テ ィ 全 体
とのかかわりの中でその機能を発揮するものであり、教育現象の意味を 内在的
に理解するためには学校の内と外を総合して捉える視点は不可欠である。以上
の理由から本研究でも一箇所集中型のフィールドワーク調査の有効性を認め、
亡命チベット人の子どもたちの現実を理解し、教育現象の意味を理解するため
に、ひとつの入植地に焦点を合わせて一箇所集中型のフィールドワーク調査を
実施することにした。調査では、2006年から2013年の間に計5回にわ
たってひとつの入植地に滞在し、入植地内外に限らず子どもの日常の行動を幅
広く観察し、仮説の生成、概念カテゴリーの発見に努めた。既に序章の第3節
に お い て 示 し て い る と お り 、調 査 地 は ネ パ ー ル の 入 植 地 タ シ・パ ル ケ ル と し た 。
調査を実施したマウント・カイラス・スクールは、亡命政府の分類ではSL
Fの運営するSLFスクールである。マウント・カイラス・スクールは、19
61年に国際赤十字によって建てられた粗末な竹小屋を使用して、教師4名、
生 徒 数 約 1 0 0 名 で ス タ ー ト し た 3 3 。開 校 当 時 を 知 る 教 師 に よ る と 、当 初 の カ
リキュラムはチベット語、英語、ネパール語、算数の4科目のみであったとい
う。現在のマウント・カイラス・スクールは、7年生までの生徒が通う昼間学
校 ( Day School ) で あ り 、 教 員 数 は チ ベ ッ ト 人 教 師 が 1 2 名 ( 男 性 教 員 7 名 、
女 性 教 員 5 名 )、 ネ パ ー ル 人 教 師 が 3 名 ( 男 性 教 員 3 名 )、 教 師 以 外 の 職 員 が 4
名(いずれも男性)である。校長の話によると、入植地内に住む1年生から7
年生までの学齢に達している子どものうち、学校に通っていない子どもは一人
もいないという。つまり入植地内に限ってみれば、就学率は100%というこ
とになる34。マウント・カイラス・スクールの校舎は入植地のはずれにあり、
入植地内に居住する生徒たちの中でもっとも時間のかかる生徒でも約10分で
登校できる。1965年にカトリック 系の慈善団体によって建て直された校舎
80
は、この地方に多く見られる石組みの工法で建てられており、屋根はトタンで
ある。教室はおよそ80㎡で電気はない。この教室で生徒たちは三人がけの長
机で授業を受ける。また、学校の敷地内には図書室と職員室、校長室がある。
校舎の脇にコンクリート製のトイレがあるが水は出ない。
カリキュラムはチベット語、ネパール語、英語、数学、理科、社会の他、体
育、美術、音楽の授業が行なわれている。マウント・カイラス・スクールもネ
パールの教育行政下にあり、ネパールの学校と同様に1年生から5年生までは
郡の教育事務所の所轄となり、6年生以上は地域教育事務所の所轄となってい
る 。マ ウ ン ト・カ イ ラ ス・ス ク ー ル の 生 徒 も 、一 般 の ネ パ ー ル 人 の 生 徒 と 同 様 、
8 年 生 終 了 時 に 郡 統 一 試 験 、 1 0 年 生 終 了 時 に は 全 国 統 一 の S L C ( School
Leaving Cer tific ate) 試 験 を 受 け る こ と に な る 。 そ の た め カ リ キ ュ ラ ム も S L
C試験を受けることを前提に組まれている。尚、1年生から5年生までは教授
言語はチベット語であり、6年生以上から教授言語は英語に切り替わる 35。
予備的調査の結果から、子どもたちは少なくとも3つの言語を話すことがわ
かっている。すなわち母語であるチベット語、ホスト国の言語、及び英語の3
つ で あ る 。そ こ で 、ま ず 子 ど も た ち の 言 語 使 用 の 状 況 を 総 体 的 に 把 握 す る た め 、
個々の言語の空間的配置と時間的配置を確認することにした。
入植地内の会話場面では、チベット語は圧倒的な頻度で出現する。まず、子
どもたちの家庭であるが、親、兄弟たちとの会話はすべてチベット語である。
ベ・ケを流暢に話せないカム地方出身の祖母がいる家庭においても、子どもは
躊躇することなくその祖母とベ・ケでコミュニケーションをとっている。子ど
もたちの親の多くはこの入植地の生ま れであり、子どもとの会話、親との会話
はチベット語である。子どもたちの行動範囲は、入植地の中だけに限られてい
るものではないが、もっぱらその行動範囲は仲間の家、学校の校庭、入植地内
に張り巡らされた小さな路地、仏教寺院の境内に限られている。これらの場所
で子どもたちはサッカーや携帯ゲーム、鬼ごっこに似た伝統的な遊びなどに興
じている。仲間集団内の共通語はすべてチベット語である。入植地内には文具
や雑誌、飲食物などを売る商店があるが、店員は皆チベット人であり、これら
の商店で買い物をする時もチベット語で発話している。まれに 入植地の外部か
らネパール人が菓子売り屋台を曳いて入植地内に入ってくることがあるが、子
どもたちはこのネパール人とはネパール語で会話している。また、入植地内に
ある僧院に欧米からの観光客がやってくることがあるが、これらの観光客から
話しかけられたときは英語で返答している。このように日常の大部分を過ごす
入植地という空間では、チベット語を理解できない相手とコミュニケーション
をとる必要が生じた場合を除き、子どもたちはすべてチベット語で会話してい
81
るのである。
しかし、入植地を一歩外に出れば状況は一変する。入植地の外には広大 なネ
パール語の空間が広がっており、子どもたちは町へ出るバスに乗るとき、ネパ
ール人の商店で物を買うとき、ネパール人の子どもの集団から話しかけられた
ときなどはネパール語で発話している。興味深いことに、ネパール人の子ども
たちとチベット人の子どもたちが複数でコミュニケーションをとる場合には、
亡命チベット人の子どもたち同士もネパール語で会話している。
次に学校内の空間ごとの言語分布状態を調査した。教室内の会話場面では、
会話相手がネパール語を教えるネパール人教師である場合を除き、チベット語
は圧倒的な頻度で出現している。 英語の授業においても教師がチベット人であ
る場合、英語で質問を受け回答する場合を除いてチベット語で発話している。
教室外では職員室、廊下、図書室、校庭、倉庫で観察を行なったが、友人間に
おける会話はすべてチベット語である。ごく稀にネパール語と英語が出現する
が、それはネパール人教師がネパール語で話しかけたときと、最近インドから
引っ越して来たチベット語の苦手な生徒の周辺などに限られている。また、マ
ウント・カイラス・スクールにはネパール人の生徒もいるが、このネパール人
の生徒たちも学校内ではチベット語を喋っている。学校内 では早朝の体操の時
間に始まり、放課後の読経の時間に至るまで、教室の内外を問わず使用されて
いる言語は、ほぼチベット語であるといって良い。
第5節 学校におけるチベット語の習得メカニズム
先にも述べたとおり「国語科教育で培われた言語能力は、すべての教科の基
礎 を な し て い る 」 3 6 と い わ れ て い る 。例 え ば 日 本 を 例 に と る と 、1 8 7 2 年 の
「 必 ず 邑 に 不 学 の 戸 な く 家 に 不 学 の 人 な か ら し め ん 事 を 期 す 」3 7 と 明 示 さ れ た
学制の発布以来、国語の教科書は読み書きの練習書として常に重要な役割を果
たしてきた。1947年に文部省が発刊した『学習指導 要領国語科編』に示さ
れている「聞く、話す、読む、書く」言語活動は、現在も国語科の学習指導の
基 盤 と な っ て い る 。ア メ リ カ の 場 合 も 英 語 科 3 8 は コ ア 教 科 の ひ と つ と し て 位 置
づけられており、
「 効 果 的 に 伝 達 す る 能 力 、す な わ ち 読 む 、書 く 、聞 く 、そ し て
話すことは、人間としての経験のコアになるものである。言語の技能は、将来
的な学習と職能の開発のための基盤となるために必要であるだけでなく、人間
の精神を豊かにし、信頼できる市民性を育成し、国民の集合的な記憶を保つ重
要 な 手 段 で あ り 、不 可 欠 な も の で あ る 」 3 9 と さ れ て い る 。ま た 、国 語 の 教 科 書
は基礎的知識の源泉としてだけではなく、人格形成の媒体としての役割も果た
82
していると考えられている。例えば石塚は、社会性の育成について国語科の教
科書は「読み物」として分量が多いことを理由に「自然に学習の中に織り込み
な が ら 反 復 し て 考 え さ せ 、そ の 結 果 、ソ ー シ ャ ル ス キ ル が 身 に つ く 」 4 0 効 果 が
あることを指摘している。
亡命チベット人学校におけるチベット語教科の目標も、基本的にはすべての
教科の基礎として、
「 聞 く 、話 す 、読 む 、書 く 」言 語 能 力 の 育 成 に あ る 。チ ベ ッ
ト 語 の 教 科 書 は 、 前 述 の チ ベ ッ ト 文 化 ・ 宗 教 出 版 局 ( Tibetan Cultural &
Religious Publication Center )で 編 纂 さ れ て い る 。チ ベ ッ ト 語 は 幼 稚 園 ク ラ ス
か ら 学 び 始 め る が 、 教 科 書 は 年 少 組 ( Lower Kindergarten Class) 用 と 年 長 組
( Upper Kindergarten Class)用 が あ る 。子 ど も た ち は 年 少 組 で 基 礎 と な る 3
0 個 の 父 音 文 字 ( gsal byed) と 4 つ の 母 音 記 号 ( dbyangs) を 覚 え 、 そ の 発 音
や声調を学ぶ。文字や発音を覚えたら、次に1文字から3文字で構成された簡
単な単語を学んでいく。年少組の教科書の後半には学 習する単語群が収載され
ており、それぞれの単語の右横には、その単語を示すイラストや写真が載って
いる。子どもは単語とイラスト・写真を見比べながら、それらの単語の意味、
書き方、正確な発音を覚えていくのである。年少組の教科書に収載されている
単語には「豚」や「橋」などの一般的なものもあるが、半分以上が、チベット
の風習、文化、仏教などに関連する単語で占められている。また、数は少ない
ものの政治的な意味合いを持つ単語も収載されている。例えば、年少組の教科
書の65ページに「旗」を意味する単語「タルチャ」が載っているが、その横
に は チ ベ ッ ト の「 国 旗 」と さ れ る「 雪 山 獅 子 旗 」の イ ラ ス ト が 掲 載 さ れ て い る 。
チベット語の教師によると、年少組ではチベットの「国旗」の意味までは教え
ないが、これが自分たちの「国」の「国旗」であるということは明確に教えて
いるという。年少組で学ぶのは基本的には3文字程度までの簡単な単語である
が、年長組では文字数の多い単語を学習する。教科書は年少組と同様、列挙さ
れた単語の右横に、その単語を表すイラストや写真が載っている。採用されて
い る 単 語 は 、や は り チ ベ ッ ト の 風 習 、文 化 、歴 史 に 関 連 す る 単 語 が 多 い 。但 し 、
年少組の教科書と異なる点は、各単元の終わりに演習問題のページがあること
である。また、年長組では 草書体(ウ・メ)のカリグラフィーを学習する。
チ ベ ッ ト 語 の 授 業 は 基 本 的 に「 教 科 書 を 読 む こ と 」
「板書をノートに転写する
こと」
「 ワ ー ク ブ ッ ク を さ せ る こ と 」で パ タ ー ン 化 さ れ て い る 。観 察 し て い る と 、
教師自らが教科書を読み、その後生徒たちが復唱する時間が最も多い。生徒た
ちだけで声を合わせ教科書を音読することもある。教科書を繰り返し読むこと
で子どもたちはチベット語を習得していると思われるが、教師は特に声調に注
意しているようである。生徒が気になっ た声調を発したときには何度も修正す
83
る。調査地の子どもたちはほとんどが難民三世であるが、親や祖父母がウ・ツ
ァン地方以外の出身の者もおり、家庭で「訛り」を受け継いでいる子どももい
るため、教師はべ・ケの正しい発音や声調を覚えさせることに特に注意を払っ
ている。また、教師は正しい発音や声調だけでなく、正しい姿勢で発生するこ
とも訓練している。このように子どもたちはチベット文字の読み書きや文法を
学ぶと同時に、適切な声調を発生する技法、さらにはチベット人としての「言
葉使い」
「身振り」
「 し ぐ さ 」な ど と い う 微 細 な 行 動 作 法 4 1 を 学 校 の 中 で 習 得 し
ているのである。
小学校の第1学年以降は、いくつかの単語を組み合わせた簡単な文章を教材
として文法を学び始める。それらの文章は、単語の収載状況と同じく チベット
習俗、文化、歴史、仏教のことに触れた内容が多い。例えば2年生の教科書で
は、65ページから71ページにわたってチベット本土の位置、標高の高い広
大な国土、川や草原などに囲まれた豊かな自然、金や銀など豊富な資源などに
つ い て 、 地 図 ( 図 3-3)、 イ ラ ス ト 、 写 真 入 り で 詳 し く 説 明 さ れ て い る 4 2 。
図 3-3
教科書に見るチベットの地理的領域
出 所 : འཛི ན ་གྲྭ་བཞི ་ པའི ་ སློ བ ་དེ བ ་རི ག ་པའི ་ ཉི ན ་བེ ད ,p.65
この地図にラサの位置は示されているが、中国政府の行政区画名であるチベ
ット自治区という名称は見当たらず、亡命チベット人たちが自分たちの固有の
領 域 と 考 え て い る「 プ ゥ ー( Bod)」が 示 さ れ て い る 。チ ベ ッ ト 語 の 教 師 に よ る
と 、こ の 単 元 は 第 2 学 年 の チ ベ ッ ト 語 授 業 の ハ イ ラ イ ト の ひ と つ で あ る と い う 。
これに関連して付言すると、日本の小学校学習指導要領では「国土の位置」に
84
ついて、第5学年の社会科で「我国の領土と近隣の諸国を取り上げるものとす
ること」43と指導されている。
3年生以降の教科書にはイソップ寓話『金の斧』のように多くの国で採用さ
れ て い る 教 材 も 収 載 さ れ て い る が 4 4 、や は り チ ベ ッ ト の 歴 史 、例 え ば 古 代 チ ベ
ッ ト の 3 聖 王 で あ る ソ ン ツ ェ ン・ガ ン ポ 王 、テ ィ ソ ン・デ ツ ェ ン 王 、テ ィ レ ル ・
パ チ ェ ン 王 の 功 績 4 5 や 、『 ヤ ク と 水 牛 』 の よ う に 古 く か ら チ ベ ッ ト に あ る 寓 話
46
な ど が 頻 出 す る 。ま た 、学 年 が 上 が る に つ れ て 、教 材 に 採 用 さ れ て い る 物 語
には仏教価値に関するもの、政治に関連するものが増えていき、また教材とし
て収載されている物語も長文化していく。小学校の高学年では、これら長文の
教材を読み込むことで読解力や文章作成能力を育成することが狙いとなってい
る。更に物語が収載されている各単元の終わりには、物語の内容に関連した演
習問題が載っている。
5年生の教科書の最初のページにはチベットの「国旗」の説明が収載されて
いる。この「国旗」は「雪山獅子旗」と称され、1913年のチベット独立宣
言の際にダライ・ラマ13世によって制定されたものである。また、その図案
は1900年代初頭にチベット滞在していた日本のチベット研究者・青木文教
が旭日旗を模倣して考案したものであるといわれている。この「雪山獅子旗」
はチベットでは1959年まで、亡命チベット人社会では今も使用されている
も の で あ る 4 7 。一 方 、中 国 政 府 は 中 国 域 内 で の「 雪 山 獅 子 旗 」の 掲 揚 を チ ベ ッ
ト独立の意思表示として禁止しており、掲揚が発覚した場合には禁固刑などの
実刑に処される48。教科書の「国旗」の説明には以下のことが 書か れ てい る。
「中央にある三角形は雪山を表し、雪山に囲まれた地(カンジョン)
と し て 知 ら れ る チ ベ ッ ト の 国 を 象 徴 し て い る 。太 陽 は チ ベ ッ ト の 民 が 自
由 を 平 等 に 享 受 し 、精 神 的 、世 俗 的 な 繁 栄 を 手 に す る こ と を 象 徴 し て い
る 。6 つ の 赤 い 光 線 は 、チ ベ ッ ト 民 族 の 起 源 と な っ た 6 つ の 氏 族( ミ ュ
ド ゥ ン テ ゥ ク )を 象 徴 し て い る 。赤 と 青 の 光 線 が 並 ん で い る の は 、チ ベ
ッ ト の 2 つ の 守 護 神 の 堅 い 決 意 に よ り 、国 の 精 神 的 、な ら び に 世 俗 的 な
伝 統 が 護 ら れ て い る こ と を 象 徴 し て い る 。一 対 の 雪 山 獅 子 の 勇 ま し い 姿
は 、チ ベ ッ ト の 精 神 的 お よ び 世 俗 的 な 方 策 が 完 全 な 勝 利 を お さ め る こ と
を 象 徴 し て い る 。雪 山 獅 子 が 支 え て い る 3 つ の 宝 石 は 、チ ベ ッ ト の 民 に
とって精神的な拠り所となる3つの源に対する尊敬の念を象徴してい
る 。 そ の 3 つ の 源 と は 、 ブ ッ ダ 、 そ の 教 え で あ る 法 ( ダ ル マ )、 そ し て
僧 侶( サ ン ガ )た ち で あ る 。雪 山 獅 子 が 持 つ 円 形 で 2 つ の 色 が 塗 ら れ て
い る も の は 、十 善 業 法 と 十 六 浄 人 法 に よ る 自 律 を 象 徴 し て い る 。黄 色 い
85
縁 取 り は 、仏 教 が す べ て の 場 所 で 永 遠 に 栄 え る こ と を 象 徴 し 、縁 取 り の
ない一辺はチベットが仏教以外の教えや思想に対してもオープンであ
ることを示している」49
国旗はその国を象徴するもののひとつであるが、学校教育における国旗の掲
揚には自分が国民の一員であることを自覚させる狙いがある。周知 のように日
本では学校教育における国旗の指導が法制化されているものの、その是非を巡
り い ま だ に 議 論 が 続 い て い る 。日 本 以 外 の 国 に 目 を 向 け れ ば 、米 国 や フ ラ ン ス 、
イ タ リ ア 、 韓 国 な ど 多 く の 国 に お い て 「 社 会 」「 公 民 」「 歴 史 」 な ど の 教 科 で 国
旗の意味が教えられ、国旗掲揚が朝礼や式典などで慣行されている。日本の場
合 、国 旗 の 学 習 は 第 5 学 年 の 社 会 科 に お い て 国 土 の 位 置 の 指 導 と と も に 行 う が 、
小 学 校 学 習 指 導 要 領 に「 我 国 や 諸 外 国 に は 国 旗 が あ る こ と を 理 解 す る と と も に 、
それを尊重する態度を育てるよう配慮すること」 50と記載されているとおり、
自国の国旗の意味を正しく理解するだけでなく、国際協調の精神を涵養する内
容となっている。亡命チベット共同体では、国旗掲揚は法制化も明文化もされ
ていないが、多くの亡命チベット人学校で、朝礼時にホスト国の国旗とともに
「雪山獅子旗」を掲揚する。当然のことであるが、その掲揚には政治的な意味
合 い が 込 め ら れ て い る 。亡 命 チ ベ ッ ト 人 学 校 の 場 合 、
「 雪 山 獅 子 旗 」の 指 導 は 第
5学年のチベット語教科で行なわれており、学年末試験で「雪山獅子旗」の内
容に関する出題が頻出するため子どもたちの多くはこの説明文を丸暗記してい
る。ネパールのヒマラヤ山 脈に抱かれたリモート・エリアの学校でも、南イン
ドの都市部の学校でも、亡命チベット人学校では同じ チベット文化・宗教出版
局編纂による教科書が使用されており、子どもたちの「雪山獅子旗」に関する
知識は均質に保たれているのである。
ブルデューによると、
「 言 語 使 用 空 間 」は そ の 言 語 使 用 を 成 り 立 た せ る 様 々 な
社 会 的 指 標 が 埋 め 込 ま れ た 場 で あ る と い う 5 1 。つ ま り 視 線 の 集 中 す る 先 に あ る
黒板、整然と並べられた生徒たちの机、壁に掲げられたダライ・ラマ14世の
肖像、教師たちのチベット語発話時の正確さ、話しぶり、態度、服装などがそ
の指標である。特に教師たちは、言語を話す上でも聞く上でも重要な指標とな
る。教師たちの殆どはインドで高等教育を修了した者であり、ダラムサラで亡
命政府により教授法などのトレーニングを受けたエリートたちである。また、
教師たちの多くは生徒と同じく「祖国」を知らずにチベットの外で生まれた難
民二世であり、自分たちも亡命チベット人学校でチベット語を学んだ 経験があ
る。このような教師たちが、チベット語習得のモデルとなっている。また、 こ
のような教科書が機能するためには、それを授業で使用する教師の力量も重要
86
なファクターとなる。亡命政府はチベット語の教師の採用には特に厳しい資格
を 要 求 し て お り 5 2 、採 用 後 も 教 育 省 が 定 期 的 に 開 催 す る 教 員 ト レ ー ニ ン グ を 受
けることが義務付けられている。 亡命チベット人学校のチベット語教師の質の
問題は、コミュニティにとっても重要な問題である。2005年9月のタシ・
パ ル ケ ル の 地 方 議 会 ( Local Assembly ) に お い て 、 マ ウ ン ト ・ カ イ ラ ス ・ ス ク
ールにおける質の高いチベット語教師を確保するための議案が審議されていた
ことがそれを裏付けている。筆者がタシ・パルケル地方議会の議員に「質の高
いチベット語教師とは具体的にはどのような教師のことを指すのか」と質問し
た と こ ろ 、「 質 の 高 い チ ベ ッ ト 語 の 教 師 と は 、 チ ベ ッ ト 語 を 教 え る だ け で な く 、
テキストとして収載されているチベットの地理や歴史、仏教についても豊富な
知識を持っている教師である」と答えた。初等教育レベルにおけるチベット語
教育の主たる目標は言語能力の育成であり、そのためには音読・暗誦、チベッ
ト語の読み書きなど基本的な力を定着させるスキルが求められる。しかし、そ
れ以上にチベット語教師に期待されているのは、
「 教 科 書 を 教 え る 」力 で は な く
「教科書で教える」力であるといえる。
第6節 チベット語習得のメカニズムとアイデンティティの形成
ここまで検討した子どものチベット語習得にかかわる主体を整理し、子ども
のチベット語習得のメカニズムを、その関与する主体相互の対比から阻害要因
も含めて検討し、子どものアイデンティティ形成過程を提示する。
図 3-4
チベット語習得のメカニズム
出所:筆者作成
87
図 3-4 は 、 序 章 で 示 し た 分 析 枠 組 み を 再 整 理 し 、 チ ベ ッ ト 語 習 得 の メ カ ニ ズ
ムに関わる主体をホスト国の層と入植地の層に分け整理したものである。亡命
チベット人の入植地において、チベット語習得を促す最も強力な経路は、やは
り亡命政府から学校への経路であろう。この経路は亡命政府のチベット語教育
を通して、子どものチベット語能力の育成を主導している。当たり前のことで
あるが子どもたちはチベット語を第1言語とする家庭に生まれ、ごく自然にチ
ベ ッ ト 語 を 話 す よ う に な る 。家 庭 や コ ミ ュ ニ テ ィ で の 使 用 言 語 が 母 語 で あ れ ば 、
学校などで学習しなくとも言語保持はできると考えられるかもしれない。しか
し、学校で使用する言語というものは、家庭で使用する言語パターンと重複す
る部分もあるが、学校特有の異質な言語パターンがあり、家庭ではそれらすべ
てをカバーできない。更に学校における学習に不可欠な要素は読み書きの能力
である。これらは家庭で促進されることは殆どない 53。
野津の研究では、タイ語以外の言語を母語とする子どもたちの場合、<家族
>と<仲間集団>は母語の習得を強力に促進する主体として機能しており、国
語である中央タイ語の習得には影響を与えていないことが述べられている 54。
このことは亡命チベット人の子どもたちの場合にもあてはまる。すなわち<家
族>と<仲間集団>という言語習得における二大主体は、母語であるチベット
語習得を促進する主体として機能しており、ホスト国の言語の習得にはほとん
ど影響を与えていない。
次に<外部世界との往来>や<経済システム>の経路を整理する。野津によ
れば、タイ東北のケースでは、都市部への出稼ぎの増加が、東北農村が国家経
済システムに包摂されていく過程であると同時に国家言語システムに周縁の言
葉が包摂される過程であったという。野津は「出稼ぎは中央タイ語使用能力を
形 成 し た 」 5 5 と は っ き り 述 べ て い る 。亡 命 チ ベ ッ ト 人 の 場 合 、そ の 職 業 は ホ テ
ルやレストランの従業員、手編みセーターの行商など様々であるが、約60%
の成人が入植地の外で働いている。そこで必要とされる言語はチベット語では
なく、ホスト国の言語や英語である。従って「入植地外での労働は、チベット
語 以 外 の 言 語 能 力 を 形 成 」し て い る と い え る 。子 ど も の 場 合 は ど う で あ ろ う か 。
入 植 地 に は 学 校 か ら 病 院 、食 料 品 を 扱 う 商 店 や 寺 院 、絨 毯 工 場 な ど が あ り 、日 々
の生活の殆どは入植地内で完結する。学校が終われば、友達と一緒に校庭や寺
院の広場で球を蹴って遊び、入植地内の雑貨屋でチューイング・ガムを買う。
日が暮れる前に家に戻り、親の手伝いをして、テレビを見た後は宿題をして寝
る。入植地内にいる限り、朝起きてから夜寝るまでチベット語ですべてが事足
りるのである。しかし、入植地を一歩外に出れば、そこにはネパール語の世界
88
が広がっている。ネパール語が理解できなければ買い物はおろか、バスに乗る
こともできない。外部世界は子どもにとって欲望への通路である。子どもたち
はこの通路からあらゆる欲望の対象となる情報を入手する。その際に、ホスト
国の言葉や英語はどうしても必要となる言語 なのである。
アンダーソンは『想像の共同体』の中で、小説や新聞などの活字メディアの
大衆の間での流行を「出版資本主義」と呼び、それが国民の想像に果たす役割
の重要性を指摘している。つまり、活字メディアを通して遠隔地の人間が「隣
人 」と し て 想 像 さ れ 、
「 自 ら と 同 等 な 他 者 」が 爆 発 的 に 拡 大 し て い っ た と い う の
である。現代社会では活字メディア以上に、テレビや放送メディアの役割が際
立っている。野津によれば、タイ東北部では1960年代以降、村落社会にこ
れら<情報通信メディア>の経路が作られ、子どもたちの国語接触が急速に増
えたという。子どもは幼い頃から毎日のようにテレビを見ており、<情報通信
メ デ ィ ア > が 作 っ た 日 々 国 語 を 耳 か ら 摂 取 す る 言 語 生 活 を 送 っ て い る 。そ し て 、
これら<情報通信メディア>が学校での国語育成を強く後押しし、補完経路と
なったというのである。翻ってチベット難民入植地の場合、アンダーソンが重
要性を強調する活字メディアや野津がその重要性を強調する<情報通信メディ
ア>は、ここには無いに等しい。勿論、亡命チベット人の家庭にもテレビやラ
ジオはあるが、子どもが接触することができる活字メディアや放送メディアは
ホスト国の新聞や雑誌、テレビ放送、或いはBBCなどの英語放送に限られて
いる。チベット語で書かれた小説は学校の図書館にしかなく、その数も非常に
少ない。現在、子どもたちがチベット語と接触できる<情報通信メディア>は
インターネットだけであるが、その普及率もまだ低いのが現状である。アンダ
ーソンの指摘どおり、国民国家における<活字メディア>が国民形成に果たす
役割は相当に大きい。しかし亡命チベット人社会では、この国語育成の補完経
路が欠落しているだけでなく、むしろホスト国の言葉や英語の習得を促進する
力が働いているといえる。
以上のことを整理すると、 亡命チベット人の場合、通常であれば国語育成を
促進する主体である<経済システム>、<外部世界との往来>、<情報通信メ
ディア>がチベット語ではない言語、つまりホスト国の言語や英語の習得を促
進しているといえる。チベット語習得を促す主体は<学校>、<コミュニティ
の伝統システム>、<家族>、<仲間集団>である。その中で<学校>のもつ
ヘゲモニーは絶大である。BEPにも示されているとおり、<学校>における
チベット語教育の目標は他の すべての教科の基礎となる言語能力の育成にある。
しかし亡命政府は、その目標とは別に、子どもを共通の目標を持つ共同体の一
成員として育て、チベット人としての集合的な記憶を維持し、取り戻すべきチ
89
ベットという「国家」に所属する「国民」として形成するための役割を初等教
育レベルのチベット語教科に持たせていることも明らかである。確かにチベッ
ト語の教科書には、ソンツェン・ガンポ王のような国民的英雄によって推進さ
れる歴史や地理教育、仏教的規範や共同体的道徳観念などが数多く教材として
採用されている。それらは本来、歴史科や社会科、或いは道徳教育で教えられ
るべき内容である。通常の国民国家であれば、中央集権的で文化的に同質な 国
民形成に資した教育システムを導入することは困難なことではない。しかし、
前述の通り、ホスト国の法制下にある亡命チベット人共同体には、自国の歴史
や文化を伝える手段として独立した教科をカリキュラムに自由に組み込むこと
が困難であった。そこで亡命政府は、インド亜大陸の広範な地域に離れ離れに
暮らしている子どもたちに、チベット人としての アイデンティティを持たせる
手段として、ホスト国政府に正式なカリキュラムとして認められているチベッ
ト語教科の中で、チベットの文化や価値を伝達しているのである。
チベット語教育による「亡命チベット人共同体のアイデンティティ」の形成
は、亡命チベット人学校が亡命チベット人社会のアイデンティティ・ポリティ
クスの主要装置としてすべての入植地に設置されて以降、亡命政府、ホスト国
政府、コミュニティ三者の変化の絡み合いの中で展開してきた。難民となって
既に半世紀以上が経過し、亡命チベット人社会の中心は難民二世、三世の時代
に移りつつあるが、チベット語は依然として共同体の共通言語であり、共同体
そのものも強固に維持されている。亡命チベット人学校におけるチベット語教
育 は 、共 同 体 の 共 属 感 情 を 醸 成 す る チ ベ ッ ト 語 を 維 持 す る た め に 機 能 し て お り 、
更に亡命政府の主導する国民文化をダラムサラからすべての入植地へ効率的に
伝播普及させ、亡命政府の意図する「国民」的一体性を持った均質的成員を形
成する装置として、今のところ有効に機能しているものと考えられる。
90
http://www.tibethou se. jp/new s_release/2010/101227_language.h tml
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 6 月 22 日 )
2 多 田 等 観 (1942) 前 掲 書 ,p. 93.
3 チベット大蔵経は8世紀以降に梵語で書かれた仏典をチベット語に訳出して編
纂 さ れ た チ ベ ッ ト 仏 教 経 典 が 集 大 成 し た も の で あ る 。 カ ン ギ ュ ル (bka-gyur) と
は 経 典 と 戒 律 を 、 テ ン ギ ュ ル (bastan -gyur)と は そ の 論 疏 を 内 容 と し て い る 。
http://www.tibethou se. jp/new s_release/ 2013/ 131216_tibetan -scholar s-meethis-h oliness-to-review-bu ddhist-science-textbook.h tml
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 6 月 22 日 )
4 ケ サ ン ,ツ ル テ ィ ム /小 野 田 俊 蔵 (1980) 『 現 代 チ ベ ッ ト 語 教 本 』 永 田 文 昌 堂 , p.1.
5 今 枝 は チ ベ ッ ト 大 蔵 経 が 決 定 訳 語 (skad g sar bcad)と 呼 ば れ る 長 年 統 一 さ れ た
訳 語 に よ っ て 忠 実 に 訳 さ れ て い る た め「 す で に 散 逸 し て 現 存 し な い 中 国 語・サ ン
ス ク リ ッ ト 語 原 典 の 復 元 を 可 能 な ら し め る 」と 述 べ て い る 。今 枝 由 郎 (1989)「 チ
ベット大蔵経の編集と開版」『岩波講座 東洋思想 第二巻 チベット仏教』岩波
書 店 ,p. 328.
6 パ ー ソ ン ズ ,タ ル コ ッ ト (1971)『 社 会 類 型 −進 化 と 比 較 』 (矢 沢 修 次 郎 訳 )至 誠
堂 ,p. 40.
7 藤 村 和 男 (2008) 『 初 等 中 等 教 育 の 国 語 科 の 教 科 書 及 び 補 助 教 材 の 内 容 構 成 に 関
する総合的、比較教育的研究―学力の基礎をなす言語能力の形成を中心として
― 』平 成 18 年 度 ~ 平 成 19 年 度 科 学 研 究 費 補 助 金 (基 盤 研 究 (B))研 究 成 果 報 告 書 ,
p.9.
8 田 中 克 彦 (1981) 前 掲 書 ,pp.78-105.
9 鹿 島 友 紀 (2005)『 国 際 協 力 論 集 第 8 巻 第 2 号 』広 島 大 学 教 育 開 発 国 際 協 力 研 究
セ ン タ ー , p. 97.
1 0 鹿 島 友 紀 (2005) 前 掲 論 文 ,p.97.
1 1 榎 木 に よ れ ば 、亡 命 政 府 の 置 か れ た ダ ラ ム サ ラ で は ラ サ 語 を 基 礎 と し て 主 要 三
大 方 言 が 混 合 し た ベ ・ ケ ( bpal-skad=共 通 語 の 意 味 ) が 話 さ れ る よ う に な っ た
と い う 。 榎 木 美 樹 (2009) 前 掲 論 文 , p.9.
1 2 ボ ブ ズ ボ ー ム , エ リ ッ ク (2001)『 ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 歴 史 と 現 在 』大 月 書 店 , p. 43.
1 3 高 橋 基 樹 (2010)「 民 族 、言 語 、お よ び 開 発 」『 ア フ リ カ レ ポ ー ト No. 50』, 日 本
貿 易 振 興 機 構 ・ ア ジ ア 経 済 研 究 所 ,p. 38.
1 4 村 田 翼 夫 (2001) 前 掲 書 ,p. 5.
1 5 ブ ー タ ン の 公 用 語 は ゾ ン カ 語 で あ る が 、ゾ ン カ 語 を 表 す 文 字 と し て チ ベ ッ ト 文
字が使用されている。
1 6 多 田 等 観 は 1900 年 代 初 頭 の チ ベ ッ ト で 、 チ ベ ッ ト 語 が 地 方 に よ っ て ま っ た く
通じないのはチベット全土で統一した教育施設がないからであると指摘して
い る 。 多 田 等 観 (1942)前 掲 書 , p.96.
17 グプタ文字は4世紀から6世紀にかけて繁栄した北インドのグプタ王朝で用
い ら れ 、現 在 の 北 イ ン ド 系 文 字 の 祖 と も 言 え る 文 字 で あ る 。6 世 紀 以 降 、グ プ
タ王朝の衰退と分裂に伴ってシッダマートリカー文字とナーガリー文字等に
分裂・派生していく。
1 8 岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,p. 434.
1 9 チ ベ ッ ト 人 自 身 は 、チ ベ ッ ト 語 を「 ホ ル 」の 言 語 と 呼 称 す る 。「 ホ ル 」と は 中
央 ア ジ ア を 指 す 言 葉 で あ る 。 多 田 等 観 (1942) 前 掲 書 ,p. 92.
2 0 町 田 和 彦 (2001) 『 華 麗 な る イ ン ド 系 文 字 』 白 水 社 ,pp.180-181.
2 1 榎 木 美 樹 (2009) 前 掲 論 文 ,p.13.
2 2 村 田 翼 夫 (2007) 前 掲 書 ,p.18.
2 3 村 田 翼 夫 (2007) 前 掲 書 ,p.18.
2 4 藤 村 和 男 (2008) 前 掲 論 文 ,p.15.
25 パンチャーヤト体制とはインド蕃王国に源流を持つパンチャーヤト制を地域
行政機関制度を採用した政治体制のことで、ネパールでは国王親政を支える行
政機構に発展した。パンチャーヤト制は地域を代表する5名以上の長老たちに
1
91
よって構成される行政組織の単位を指す。ネパールのパンチャーヤト組織は4
段階あり、最下層の村落パンチャーヤト及び市町パンチャーヤト、第2層の郡
パンチャーヤト、第3層の県パンチャーヤト、最上層の国家パンチャーヤトと
なる。1962年に発布されたネパールの憲法では国家パンチャーヤトは国の
立 法 機 関 と 位 置 づ け に な っ て い る 。佐 伯 和 彦 (2003)『 ネ パ ー ル 全 史 』明 石 書 店 ,
pp.600-601,pp. 650-652, p.656, p.658.参 照 。
2 6 こ の 時 の 様 子 は 、当 時 か ら こ の 学 校 で 働 い て い る Buche(男 性 、59 歳 )と 言 う チ
ベ ッ ト の 教 師 の 記 憶 に よ る 。 榎 井 克 明 (2006)『 難 民 の 教 育 問 題 ― イ ン ド ・ ネ パ
ールのチベット難民の事例から』神戸大学大学院国際協力研究科修士論文,
p.81.
2 7 田 中 克 彦 (1981) 前 掲 書 ,p. 122.
2 8 坂 本 光 代 (2001)「 カ ナ ダ に お け る 外 国 籍 児 童 生 徒 の 就 学 へ の 対 応 ― 在 ト ロ ン ト
日系新移住者を事例として―」江原裕美編著『国際移動と教育 東アジアと欧
米 諸 国 の 国 際 移 民 を め ぐ る 現 状 と 課 題 』 明 石 書 店 p. 309.
2 9 「 移 民 児 童 生 徒 の 継 続 的 研 究 」 (The Children of Immigr ants Longitu di n al
Stu dy)は 、 マ イ ア ミ と サ ン デ ェ ゴ の 移 住 二 世 児 5, 262 人 (中 学 2 年 生 ・ 3 年 生 )
を 対 象 と し た も の で あ る 。学 校 数 49 校 、対 象 児 出 身 国 77 カ 国 、そ の う ち メ キ
シ コ 、フ ィ リ ピ ン 、キ ュ ー バ 、ベ ト ナ ム 出 身 生 徒 40% を 占 め る 。第 一 回 の 面 接
調 査 は 1992 年 、 2 回 目 の 保 護 者 も 含 む 面 接 調 査 は 3 年 後 の 1995-96 年 に 行 な
った。中学後半から高校卒業までを跡付けた大規模な継続的研究である。中島
和 子 (2012)「 定 住 1. 5 世 代 の 継 承 語 と 日 本 語 の 関 係 及 び そ の 評 価 」真 嶋 潤 子『 日
本語母語児童への国語教育と非母語児童への日本語教育を言語環境から構築す
る 試 み 』 平 成 21 年 度 - 平 成 23 年 度 科 学 研 究 費 補 助 金 基 盤 研 究 (C)研 究 成 果 報
告 書 ,p. 42.
30「移民児童生徒の継続的研究」
の 共 同 研 究 者 で あ る Rumbau t は 当 人 の 出 生 地 、
入 国 年 齢 、親 の 出 生 地 と い う 3 要 因 を も と に 分 類 を 行 な っ た 。1. 5 世 と は 、「 当
人 も 親 も 外 国 生 ま れ 、入 国 年 齢 が 6 歳 ~ 12 歳 」の 子 ど も の こ と で あ り 、本 研 究
は こ の 1. 5 世 に 焦 点 を あ て た 研 究 で あ る 。 中 島 和 子 (2012) 前 掲 論 文 , p.43.
3 1 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 45.
3 2 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 126.
3 3 Jha,Har i Bansh(1992), TIBETAN IN NEPAL , BOOK FAITH INDIA, p.48.
3 4 し か し 、入 植 地 に あ る 亡 命 チ ベ ッ ト 政 府 代 表 部 の 話 で は 、何 ら か の 事 情 で 入 植
地を離れた亡命チベット人の子弟たちが学校に通っているかどうかまでは追跡
調査をしていないと言う。亡命チベット人共同体のセンサスは、入植地の居住
者について亡命チベット政府代表部への登録が義務付けられているので正確な
数値がわかるが、仕事の都合などで入植地を離れるケースも多く、そのセンサ
ス は 曖 昧 で あ る 。こ の 情 報 は 2006 年 9 月 に 筆 者 が 実 施 し た ヒ ヤ リ ン グ に よ る 。
3 5 教 授 言 語 を 巡 っ て は 、亡 命 政 府 の 指 導 (BEP 第 8 章 第 4 項 )に 従 っ て 少 な く と も
3 年生まではチベット語で行わなければならないが、近年、英語に戻そうとす
る動きもある。
3 6 藤 村 和 男 (2008) 前 掲 論 文 ,p.9.
3 7 吉 田 裕 久 (2008)「 国 語 科 教 科 書 に お け る 教 育 内 容 の 史 的 推 移 」藤 村 和 男 編『 初
等中等教育の国語科の教科書及び補助教材の内容構成に関する総合的、比較教
育 的 研 究 ― 学 力 の 基 礎 を な す 言 語 能 力 の 形 成 を 中 心 と し て ― 』 平 成 18 年 度 ~
平 成 19 年 度 科 学 研 究 費 補 助 金 (基 盤 研 究 (B))研 究 成 果 報 告 書 , p.18.
3 8 ア メ リ カ に お け る 英 語 科 は 、 Reading( 読 み )と Langu age Ar ts(言 語 科 )に 区 分
さ れ る 。 二 宮 皓 (2008)「 諸 外 国 の 国 語 教 科 書 の 分 析 」 藤 村 和 男 編 『 初 等 中 等 教
育の国語科の教科書及び補助教材の内容構成に関す る総合的、比較教育的研究
― 学 力 の 基 礎 を な す 言 語 能 力 の 形 成 を 中 心 と し て ― 』平 成 18 年 度 ~ 平 成 19 年
度 科 学 研 究 費 補 助 金 (基 盤 研 究 (B))研 究 成 果 報 告 書 ,p. 125. 参 照
3 9 二 宮 皓 (2008)前 掲 論 文 ,p. 126.
4 0 石 塚 修 (2008)「 小 学 校 国 語 科 教 科 書 に お け る 社 会 性 の 育 成 の 必 要 性 ― 手 紙 文 教
92
41
42
43
44
材を中心として」藤村和男編『初等中等教育の国語科の教科書及び補助教材の
内容構成に関する総合的、比較教育的研究―学力の基礎をなす言語能力の形成
を 中 心 と し て ― 』 平 成 18 年 度 ~ 平 成 19 年 度 科 学 研 究 費 補 助 金 (基 盤 研 究 (B))
研 究 成 果 報 告 書 ,p. 57.
野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 263.
བློ ད ་ག ་ ེ ས ་རི ག ་ ས་ ས། (༢༠༠༥ ),འཛི ན ་གྲྭ་གཉི ས་ པའི ་ སློ བ ་དེ བ ་རི ག ་པའི ་ ཉི ན ་བེ ད ,pp.65-71.
།
文 部 科 学 省 ホ ー ム ペ ー ジ「 新 学 習 指 導 要 領 第 2 章 第 2 節 社 会 科 第 5 学 年 3-(1)ア」参照。
http://www.mext.go. jp/ a_menu/ shotou/news -cs/youryou/syo/ sya.htm
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 2 月 10 日 )
བློ ད ་ག
་ ེ ས ་རི ག ་དཔར་ཁ ་ ནས་ད པར་ འ ེ ས་ ས།།(༢༠༠༥ ),འཛི ན ་གྲྭ་ ་པའི ་ སློ བ ་དེ བ ་རི ག ་པའི ་ ཉི ན ་བེ ད །
,pp.38-43.
45
བློ ད ་ག
་ ེ ས ་རི ག ་དཔར་ཁ ་ ནས་ད པར་ འ ེ ས་ ས།།(༢༠༠༥ ),འཛི ན ་གྲྭ་ ་པའི ་ སློ བ ་དེ བ ་རི ག ་པའི ་ ཉི ན ་བེ ད །
,pp.121-125.
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བློ ད ་ག
་ ེ ས ་རི ག ་དཔར་ཁ ་ ནས་ད པར་ འ ེ ས་ ས།།(༢༠༠༥ ),འཛི ན ་གྲྭ་ ་པའི ་ སློ བ ་དེ བ ་རི ག ་པའི ་ ཉི ན ་བེ ད །
,pp.71-77.
青 木 文 教 の 著 書『 祕 密 之 國 西 蔵 遊 記 』の 中 に 、青 木 文 京 が チ ベ ッ ト の 象 徴 的
記号である雪山、獅子、太陽、月をあしらったそれまで軍旗に、大日本帝国陸
軍が使用していた旭日旗に擬似した図案を組み合わせてチベット軍の司令官に
見 せ た と こ ろ 、そ れ が 新 し い チ ベ ッ ト の 軍 旗 と し て 採 用 さ れ た と の 記 述 が あ る 。
青 木 文 教 (1920) 『 祕 密 之 國 西 蔵 遊 記 』 内 外 出 版 ,p. 67.
http://www.tibethou se. jp/new s_release/2005/050511_natinal_flag.h tml
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 2 月 10 日 )
http://www.tibethou se. jp/ about/n ation al_flag.html
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 2 月 10 日 )
文 部 科 学 省 ホ ー ム ペ ー ジ「 新 学 習 指 導 要 領 第 2 章 第 2 節 社 会 科 第 5 学 年 3-(1)ア」参照。
http://www.mext.go. jp/ a_menu/ shotou/news -cs/youryou/syo/ sya.htm
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 2 月 10 日 )
ブ ル デ ュ ー ,ピ エ ー ル /バ ス ロ ン ,ジ ャ ン =ク ロ ー ド (1991)『 再 生 産 教 育・社 会 ・
文 化 』 (宮 島 喬 訳 )藤 原 書 店 , pp. 135-162.
亡 命 政 府 よ れ ば 、チ ベ ッ ト 語 の 教 師 に は 教 育 学 関 連 分 野 に お け る BA 以 上 の 学
歴を要求している。一方、英語や他教科の教師には後期中等教育以上の学歴を
要 求 し て い る が 、体 育 や 音 楽 、舞 踊 な ど の 副 教 科 の 教 員 に は 特 に 学 歴 は 問 わ ず 、
実力本位で採用している。
坂 本 光 代 (2001) 前 掲 論 文 ,p.305.
野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 110.
野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 102.
93
第4章
仏教価値の内面化とアイデンティティの形成
紀元7世紀にソンツェン・ガムポ王が仏教に帰依して以降、仏教はチベット
人の精神と文化を形成する母体となってきた。チベット人にとって、仏教は単
なる宗教体系ではない。仏教は亡命チベット人の日常に浸透し、人と社会を結
びつける社会的基盤を形成している。本章ではチベット人の文化の支柱と考え
られる仏教に焦点をあて、コミュニティ内部の仏教信仰の状況を概括した後、
教育政策の中の仏教、学校空間に顕在化する多様な仏教指導の展開過程を明ら
かにし、子どもの仏教価値の内面化メカニズムを、その関与する主体相互の対
比から検討し、子どものア イデンティティ形成過程を提示する。
第 1節
チベット仏教とチベット人
チ ベ ッ ト に 初 め て 現 れ た 宗 教 は 「 ボ ン 教 ( bon)」 で あ る と い わ れ て い る 1 。
一般にボン教は、仏教伝来以前のチベット土着のアニミズム宗教として知られ
ているが2、チベット人社会ではボン教の一宗派であるユンドゥリン・ボン
( Yungdrung Bon、 永 遠 の ボ ン の 意 ) が 広 く 信 奉 さ れ て い た 。 ユ ン ド ゥ リ ン ・
ボ ン の 開 祖 は 、 西 チ ベ ッ ト の シ ャ ン シ ュ ン ( Shangshung ) の シ ェ ン ラ ブ ・ ミ
オ( Shenrab Miwo)で あ る 3 。ユ ン ド ゥ リ ン ・ ボ ン は 用 語 の 面 な ど で 仏 教 の 要
素を多く取り入れており、チベット仏教もユンドゥリン・ボンの影響を強く受
けている。ユンドゥリン・ボンは仏教の伝来とともに影響力が低下したとされ
るが、今でも亡命チベット人の中にはユンドゥリン・ボンを信仰する人が存在
する4。亡命チベット人共同体では仏教が国教的な地位にあるが、ユンドゥリ
ン・ボ ン の 影 響 も 一 定 以 上 あ る こ と か ら『 Basic Education Policy for Tibetans
in Exile 』 に お い て も 、 チ ベ ッ ト 人 社 会 の 伝 統 的 教 育 の 最 も 重 要 な 情 報 源 は 、
ユンドゥリン・ボンと仏教の両方 であると示されている5。
チベット仏教は7世紀に始まり、チベットを中心として独自の発展を遂げた
仏教の一派である。チベット仏教は、高度に密教化していた後期のインド大乗
仏教をそのまま受容しており、
「さらにそれをタントラ的に極度に発展させてい
る」6のが特徴である。確かにチベット仏教には土着宗教であるボン教との習
合や化身ラマの尊崇など独自の要素も見られるが、密教化していたインドの大
乗仏教を忠実に踏襲しており、インド仏教において高度に発達していた哲学的
概念や術語を受け継いでいるという点で、後期インド仏教の要素を色濃く 残し
ている仏教であるといえる。このようにチベット仏教の最大の特色は密教を根
幹としていることであるが、中国や日本に伝来していない教義なども数多く残
94
っており、例えば「最奥義の実践修行であるアヌッタラヨーガタントラ」7な
どが、その例として挙げられる。
またチベット仏教は、
「 ラ マ 教 」と い う 俗 称 で 呼 ば れ る こ と も あ る 。チ ベ ッ ト
仏教の特徴を知る上で「ラマ」について理解することは重要であろう。ラマ
( Bla-ma) と は チ ベ ッ ト 語 の 「 ラ 」 と 「 マ 」 の 複 合 語 で 、「 ラ 」 は 「 上 」 を 意
味し、
「 マ 」は「 人 」を 意 味 す る 言 葉 で あ る 。こ の こ と か ら ラ マ を「 上 人 」と 訳
し て い る 日 本 語 文 献 も 見 受 け ら れ る が 、日 本 の 場 合 、
「 上 人 」は 仏 教 に お け る 高
僧への敬称としてだけではなく、宗派によっては称号として使用される場合も
あるので正確な訳出とはいえない。チベット仏教では仏の存在や教えなど総て
の面でラマの導きを必要としており8、その意味においてラマは「導師」或い
は「師匠」という意味で捉えておいた方が良いだろう。また、チベット仏教特
有の制度として化身ラマの尊崇がある。化身ラマ制度とは、密教の奥義を極め
た徳の高僧が遷化すると、その弟子たちが「高僧の生前の言動、側近の夢、祈
祷師のお告げ、占い」9などを参考に高僧の命終と同じ時刻に生まれた「生ま
れかわり」の神童を捜し出し、前世の記憶を確認するなど最終の審査を経て遷
化 し た 高 僧 の「 生 ま れ か わ り 」と し て 認 定 す る 継 承 制 度 の こ と で あ る 1 0 。弟 子
たちは、この神童を化身ラマとして寺に迎え、先代のラマと同様な敬虔な態度
で奉仕する。また、人々は化身ラマを先代ラマの「生まれかわり」と考えるだ
けでなく、遠い過去に遡り、その本生(観音、菩薩、薬師など)を見て尊崇す
るのである。
伝統的なチベット社会では、一切の仏・菩薩のうちで、智慧の代表者が文殊
菩薩、慈悲の代表者が観音菩薩、力の代表者が秘密主菩薩ということになって
おり、この三菩薩の三徳、すなわち智・仁・勇の三徳の総合体がラマであると
す る 考 え 方 が あ る 1 1 。チ ベ ッ ト 人 に と っ て 、ラ マ は 萬 善 萬 徳 の 対 象 で あ り 、功
徳の根源であり、善根を積むにもラマへの奉仕が最上の方法であると信じられ
ている。逆にラマに対する不敬は最大悪と見なされる。このようにチベット人
たちが強くラマを尊崇するところから「ラマ教」という俗称がついたものと考
えられるのである12。
歴史的に見るとチベット仏教はティソン・デツェン王の時代に国教となった
が、吐藩王朝の滅亡により一時、衰退する。しかしチベット仏教は、11世紀
にインドから来た宗教家アティーシャによって復興し、教義の解釈や実践の違
いから様々な学派に分派しながら中央アジアの広範な領域に流布していったの
である。それらの学派の内、現在も勢力を維持している学派はニンマ派、カギ
ュ派、サキャ派、ゲルク派の4学派である。青木文教によれば、チベットは1
206年頃に元王朝の下に置かれたが、フビライ汗がチベット統治に当時ツァ
95
ン地方で勢力を有していたサキャ派の教権を利用したことにより、サキャ派が
全 チ ベ ッ ト の 支 配 権 を 握 る こ と と な っ た 1 3 。サ キ ャ 派 が 元 朝 の 崩 壊 と と も に 没
落した14世紀中葉から15世紀末にかけては、強力な氏族集団であったパク
ト ゥ 派( カ ギ ュ 派 系 )が 中 央 チ ベ ッ ト の 政 権 を 握 っ た 1 4 。パ ク ト ゥ 派 が 衰 退 し
た後に全チベットの政権を握ったカルマ・カギュ派が、チベットで最初に化身
ラマ制度を導入したといわれている。その後、ツォンカンパによって開創され
たゲルク派も化身ラマ制度を取り入れ、ダライ・ラマ5世がモンゴルのグシ汗
からチベットの政権を付与されて以降、中国に併合されるまでの間、ゲルク派
が政教両権を掌握し、神権政治ともいえる政体がチベットに形成されたのであ
る15。
ダライ・ラマ5世が権力を手中に収めた1642年以降、約3世紀にわたっ
て仏教と政治の調和の取れた状態がチベットにおいて展開されたといわれ てい
る。累代の王が仏教を保護し、ダライ・ラマ5世以降の10人のダライ・ラマ
によってチベットが統治されたことにより、チベット仏教は、チベットとそこ
に住むチベット人たちに計り知れない影響を与えてきた。仏教の影響は亡命チ
ベット人社会の憲法である「亡命チベット人憲章」においても顕著であり、亡
命政府が、仏の真理(ダルマ)を政策の基調としていることがわかる。政教の
中心であるダライ・ラマ14世は、仏教について以下のように述べている。
「( 仏 教 は ) チ ベ ッ ト 社 会 の 性 質 を 変 革 し 、 チ ベ ッ ト の 歴 史 を 根 底 か ら
変 え た 。チ ベ ッ ト の 知 識 人 た ち は 、法( ダ ル マ )の 原 義 と 哲 学 に 矛 盾 し
な い 深 遠 な 文 化 を 代 々 研 究 し 、発 展 さ せ た 。数 世 紀 を 経 て 、彼 ら の 尽 力
は大いなる発展をもたらし、世界に類を見ない稀有の文化を作り上げ
た」16
このように仏教はチベット人の日常に深く浸透し、人々と社会を結びつける
社 会 的 基 盤 を 形 成 し て い る 。か つ て の チ ベ ッ ト に は 少 数 の イ ス ラ ム 教 徒 1 7 が い
て 、モ ス ク も あ っ た 1 8 。ま た 、ご く 少 数 で あ っ た が ヒ ン ド ゥ 教 徒 も キ リ ス ト 教
徒 1 9 も 存 在 し て い た と い う 。し か し 、チ ベ ッ ト の 人 た ち を ひ と つ の 民 族 に 纏 め
上 げ て い た 最 も 強 力 な 絆 は 紛 れ も な く 仏 教 で あ ろ う 。ア ン ソ ニ ー・ス ミ ス は「 人
類史のほとんどの期間をとおして、宗教的アイデンティティとエスニック・ア
イデンティティの二つの輪は、まったく一致しないまでも、きわめて近似した
も の だ っ た 」 2 0 と 述 べ て い る が 、チ ベ ッ ト 人 の 場 合 も 、チ ベ ッ ト 民 族 の ア イ デ
ンティティと仏教徒としてのアイデンティティの二つの輪は、かなりの部分で
重なり合っていたと考えられるのである。
96
第2節
入植地における仏教の現状
か つ て チ ベ ッ ト で は 僧 院 は チ ベ ッ ト 全 土 に あ り 、そ れ は 都 市 や 、町 や 、村 や 、
ご く 小 さ な 集 落 に さ え 存 在 し て い た 。中 国 で は 文 化 大 革 命 の 時 期 に 宗 教 は「 毒 」
とされ、亡命政府の発表によるとチベット全土にあった6千を越える僧院・尼
僧 院 が 中 国 政 府 に よ っ て こ と ご と く 破 壊 さ れ た と い う 2 1 。パ ン チ ェ ン・ラ マ 1
0世も、1988年に北京で開かれた中国チベット学研究センターにおける第
1回総会で「チベットで行われた寺の破壊は、余すところがなく100%でし
た。ほぼ99%が全壊し、残った7、8の寺院とて損害は免れていません。そ
の 中 で ポ タ ラ 宮 の 状 態 が 一 番 ま し で す が 、そ れ で も 被 害 は 受 け て い ま す 」2 2 と
述べている。1959年の「ラサ暴動」により多数のチベット人がインドやネ
パールに亡命したが、その中にはチベット仏教の各学派を代表するような高僧
も多く含まれていた。その高僧たちによってチベット本土で破壊された僧院が
亡命地であるインドやネパールで次々と復興され、今や亡命チベット人たちの
宗教活動の拠点となっている。半世紀以上にわたって亡命チベット人共同体が
最も力を注いでいたのは、入植地における学校と僧院の建設だったといわれて
いる。その結果、今ではすべてチベット人入植地に必ず亡命チベット人学校と
僧院がある。このように亡命チベット人たちが夥しい数の僧院を、しかも建築
的にも極めて高水準のものを国外に建設して 、チベットと同じ僧院中心の活気
ある社会づくりに成功したのは、20世紀の奇蹟のひとつであるともいわれて
いる23。
入 植 地 の 一 日 は 、僧 院 か ら 聞 こ え て く る サ ン ガ( 僧 侶 )た ち の 読 経 で 始 ま る 。
朝まだき頃、入植地の中心にある僧院本堂で読経が始まると、入植地の住民た
ち は 右 手 で マ ニ ・ラ コ ー 2 4 ( マ ニ 車 )を 回 し な が ら 僧 院 に 集 ま っ て く る 。住 民
たちの住居から僧院本堂までは徒歩で数分の距離である。住民たちは本堂の巨
大な金色の仏像の正面に座り、サンガたちの低い読経の声に耳を傾ける。入植
地内でチベット文字を目にする機会は必ずしも多くないが 、僧院内には巨大な
マニ・ラカン(僧院本堂にあるマニ車)やマニ石(念仏やお経が彫られた石塊
や 石 板 )、ル ン タ( 経 文 を 印 刷 し た 旗 )な ど が あ り 、こ の 空 間 だ け は チ ベ ッ ト 文
字で溢れている。
難民一世の世代における仏教への帰依は非常に強い。入植地で老齢の難民一
世たちは、早朝から夕刻まで幾度となく僧院を訪れ、本堂の周囲をマントラを
唱えながら右回り何周もまわったり、仏像の前で瞑想したり、僧侶同士の問答
修行を眺めたりして一日の大半を僧院で過ごす。たいていの入植地 には亡命政
97
府によって運営されている老人ホームがあるが、信心深い入居 者たちが、日に
何度も僧院に参拝することに配慮して、多くの場合、老人ホームは僧院の近く
に建てられている。
入植地では、年中行事はすべて僧院で執り行われる。年中行事の中で最も大
き な 祭 事 は 、太 陰 暦 で 行 な わ れ る チ ベ ッ ト の 正 月( Tibetan New Year )で あ ろ
う 2 5 。 大 晦 日 に は 僧 侶 た ち が 、「 す べ て の 生 き と し 生 け る も の の 幸 福 と 平 和 を
祈 る チ ャ ム と 呼 ば れ る 」2 6 仮 面 舞 踊 を 踊 り 、最 後 に コ ミ ュ ニ テ ィ の 住 民 も 加 わ
り輪舞となる。また、僧院で催されるチャムを見ようと近隣の村からもホスト
国の人々が大勢見物に訪れる。この見物人たちに チベット茶をふるまうのは、
主にコミュニティの子どもたちの仕事である。
亡命チベット人の家庭には必ず仏壇か仏間があり、仏壇の中には仏像やダラ
イ・ラマ14世の肖像などが安置されている。また、居間の壁面に四十九日な
どの法事で使用されるタンカ(仏画)の掛軸が掛かっている家も多い。子ども
は物心つく頃から仏像やタンカへの拝礼や真言を唱えることを家庭で両親から
学んでいる。正月にはチベットの伝統に則りデルカと呼ばれる祭壇を家庭内に
設け、家族で水、灯明、菓子、果物、バター、チーズなどを供える。また、家
の中の壁などに曼荼羅、八 吉祥、幸福、円満などといった縁起の良い文字を小
麦 粉 で 書 く 2 7 。こ の よ う な 作 業 を 子 ど も は 両 親 や 祖 父 母 と と も に 行 な う 。チ ベ
ット人の老人は間断なくマニ・ラコーを廻す習慣があり、亡命チベット人社会
では僧侶を除いて仏教の慣行実践の頻度が最も高い。家庭にこのような老人が
いる場合、一連の作法を習得させる主体となっているものと考えられる。
第3節
学校空間に顕在する仏教
本節で取り上げるのは学校空間に顕在する仏教である。果たして学校は、子
どもの仏教価値の内面化にどのような影響を与えているのであろうか。本節で
は学校における仏教指導の全体像を探ってみる。
マ ウ ン ト・カ イ ラ ス・ス ク ー ル で は 午 前 6 時 か ら 3 0 分 間 体 操 の 時 間 が あ り 、
その後30分間の読経と瞑想の時間がある。この読経と瞑想の時間は亡命チベ
ット人の学校教育において特徴的なカリキュラムのひとつである。チベット自
治区内では中華人民共和国に併合されて間もない頃、学校における読経の時間
の 設 置 を 巡 り 、チ ベ ッ ト 族 側 と 為 政 者 側 で 鬩 ぎ 合 い が あ っ た と い わ れ て い る 2 8 。
「ラサ暴動」勃発後、チベット自治区では学校教育における読経の時間は廃止
されているが、亡命チベット人学校で実施されている読経と瞑想の時間は滞在
国政府によって認められている。
98
毎朝、決まった時間に子どもたちは校庭に整列し、合掌しながら一斉にいく
つかの経文の一節を唱える。経文の唱和後、子どもたちはしばらく瞑想を命じ
られる。マウント・カイラス・スクールの場合、読経の時間が終わると子ども
たちはいったん帰宅し、朝食を済ませた後に再び登校する。そして午前9時か
ら 全 校 朝 礼 が 始 ま り 、全 員 で ネ パ ー ル の 国 歌 と チ ベ ッ ト の「 国 歌 」を 斉 唱 す る 。
「チベット国歌」の内容は以下の通りである。
「 輪 廻・涅 槃 に お け る 平 和 と 幸 福 へ の 、あ ら ゆ る 願 い の 宝 蔵 に し て 、願
い を 意 の ま ま に 叶 え る こ と の で き る 、宝 石 の ご と き 仏 陀 の 教 え の 光 明 を
輝 か せ よ う 。そ し て 、仏 教 と 生 衆 の 持 宝 た る 大 地 を 育 み 、守 護 す る 護 法
神 よ 。汝 の 徳 の 高 い 偉 業 の 大 海 が 広 が り 、金 剛 の よ う に 堅 く 、慈 悲 を 持
っ て 全 て の も の を お 守 り く だ さ い 。百 の 歓 喜 を 備 え た 天 授 の 法 が 、我 々
の 頭 上 に 留 ま り 、四 徳 の 力 が 増 大 し 、チ ベ ッ ト の 三 区 全 土 が 、幸 福 で 円
満 な 時 代 で 満 た さ れ 、正 教 が 盛 行 し ま す よ う に 。仏 陀 の 教 え が 十 万 に 広
が る こ と に よ っ て 、世 界 中 の す べ て の 人 々 が 平 安 を 享 受 で き ま す よ う に 。
そ し て チ ベ ッ ト の 仏 教 と 衆 生 の 吉 兆 な る 陽 光 と 、十 万 に 広 が る 吉 兆 な る
光明の輝きが、邪悪な暗闇との戦いに勝利しますように」 29
「国歌」を歌い終えると子どもたちは、下級生から順番に一列になって教室
へと向かう。午後3時45分に授業は終了するが、午後5時15分になると子
どもたちは再び夕方の「読経の時間」に校庭に集まり、教師の指導で合掌しな
がら一斉に経文を唱える。そして、ようやく一日の活動を終えるのである。
ど の 国 民 国 家 も 何 ら か の 形 で 宗 教 知 識 教 育 を 実 施 し て い る が 3 0 、公 教 育 に お
いて宗教教育を独立した科目として導入している国と、そうでない国に大別で
きる。前者はマレーシア、タイ、インドネシア、トルコといった国々であり、
後者は宗教的中立性を重視するアメリカやフランスといった国々である。公教
育と宗教の関係は、国家と宗教の関係を強く反映しているものと考えられてい
る。公教育において宗教教育を独立した科目として導入している国々は、国民
国家としての社会的共通価値や道徳観念の形成を宗教的価値に直接依拠してい
る 国 々 で あ る 。 亡 命 チ ベ ッ ト 人 共 同 体 の 場 合 も 、『 Basic Education Policy for
Tibetans in Exile 』 第 4 章 に お い て 示 さ れ て い る と お り 、 社 会 的 共 通 価 値 や 道
徳観念の形成を仏教的価値に依拠している共同体である。しかし、亡命チベッ
ト人学校のカリキュラムはホスト国の管理下にあり、自分たちの価値の中で最
上位にあると考えられる「仏教」を直接伝達する授業は組むことはできない。
そのため亡命政府はチベットの歴史と同様にチベット語の教科書を通して、仏
99
教価値や規範、共同体的道徳観念などを伝達しているものと考えられる。例え
ば、以下は筆者が 3 年生のチ ベ ット 語の 授 業 を参 与観 察 した 時の 様 子で あ る。
教師
「それでは皆さん、教科書の124ページを声を出して読み
なさい」
生徒全員(声を合わせてそのページを音読する)
教師
「さて、このページに書かれている王様の名前は何ですか?」
生徒A
「ソンツェン・ガンポ王です」
教師
「ソンツェン・ガンポ王は何をしましたか?」
生徒B
「国を統一し、チベットを建国しました」
教師
「ソンツェン・ガンポ王は誰の生まれ変わりですか?」
生徒C
「チェンレーシック(観音菩薩 31)様です」
教師
「そうですね。慈悲の菩薩、観音菩薩の化身ですね。私たちは誰
でも心の中に慈悲の心を持っています。慈悲の心をはぐくむこ
とで私たちはお釈迦様の意識に近づくことができるのです。皆
さん、わかりましたか」
生徒全員「はい」
小学校のチベット語の教科書を1年生用から5年生用までを通読して強く印
象付けられるのは、仏教の歴史、教義、慣行、儀礼祭礼行事、仏教的観念など
が繰り返し登場することである。チベット語教科書の各単元の終わりには、そ
の単元に関連した演習問題が載っている。1年生の教科書には「以下の文章を
読んで正誤マークをつけよ」という演習問題が載っているが、例えば「カラス
は黒い鳥である」
「 食 事 の 前 に 手 を 洗 う 」な ど と い う 文 章 に 混 じ っ て「 帽 子 を 脱
がないで拝礼する」という文章が載っている。
図 4-2
チベット語教科書の演習問題「帽子を脱がないで拝礼する」
出 所 : འཛི ན ་གྲྭ་ད
100
་པློ འ ི ་ བློ ད ་ཡི ག ་སློ བ ་དེ བ ་རི ག ་པའི ་ ཉི ན ་བེ ད ། ,p. 3 4 .
正解は勿論「誤」であるが、観察していると教師は答え合わせの後、仏像や
ラマへの不敬がどれほど大罪であるかを子どもたちに説明していた。このよう
に子どもたちは授業でチベット語の単語や文法を学びながら、チベット人とし
て共通の仏教的規範や道徳心を内面化していくのであろう。
これまで見てきたとおり亡命政府側の<教育政策>は計画的に子どもたちに
仏教を修得させる主体とな り、
「 チ ベ ッ ト 語 」の 教 科 書 に 埋 め 込 ま れ た 仏 教 価 値
や規範、共同体的道徳観念と訓練されたチベット語の教師によって亡命チベッ
ト人共同体共通のアイデンティティは形成されていくのである。また、ミクロ
層の主体である<学校>では、日常的学内活動として、かつてのチベットにお
ける伝統的な僧院学校が受け持っていた経文唱和や瞑想などの仏教的指導訓練
が行なわれている。また、経文唱和や瞑想の際、胸の前で手を合わせたり、時
にはチベットの聖地カイラス山で行われる五体投地を模倣したり、チベット人
と し て の 礼 拝 動 作 を「 身 体 」で 学 ん で い る 。
「仏教は知的学習である以上に身体
訓 練 を 通 し て 習 得 さ れ て い く 」3 2 も の で あ る か ら < 学 校 > は 、仏 教 信 仰 の 訓 練
装置として機能しているといえよう。
第 4節
ノン・フォーマル教育に見る仏教指導
かつてチベットでは、家庭の子どもたちの中から少なくとも一人の男子は僧
にするために僧院に送る習慣があった。僧院に送られた子どもは、仏教の知識
だけでなく、チベット語の読み書き、医薬、天文、暦、絵画などを学んだとい
う。そのような習慣は今では消失しているが、その名残とも呼べる僧院学校が
亡命チベット人社会には存在している。亡命チベット人学校を公教育とするな
ら、これらの学校は基本的には僧侶を養成するノン・フォーマル教育であり、
ホスト国政府の干渉も殆ど受けることがない。従って亡命チベット人社会の価
値 や 思 想 を ダ イ レ ク ト に 反 映 さ せ た カ リ キ ュ ラ ム づ く り が 可 能 に な る 。『 Basic
Education Policy for Tibetans in Exile 』 第 7 章 に お い て も 亡 命 チ ベ ッ ト 人 共
同体におけるノン・フォーマル教育の重要性が示されている。
調査地タシ・パルケルには、この地の難民たちの要請でチベットからやって
き た 高 僧 ( Drupsing Rinpoche ) に よ り 建 設 さ れ た 僧 院 ( Jangchub Choeling)
が あ る 。僧 院 の 敷 地 内 に は 伝 統 的 な 僧 院 教 育 を 行 な う 僧 院 学 校( Vikrama Shila
Buddhist Institute) が あ り 、 常 時 、 7 0 名 程 度 の 学 僧 が 在 籍 し て い る 。 僧 院
学 校 の 責 任 者 の 話 に よ る と 3 3 、学 僧 は ネ パ ー ル 各 地 の リ モ ー ト・エ リ ア か ら や
ってきたあまり裕福でない家庭の出身か、或いはチベットから自由な仏教教育
101
を求めて最近この地にやって来た難民であるという。僧院学校は寄宿制で学費
や食費は無料であり、経済的に貧しい家庭の子どもたちや、新しい難民の受け
皿となっている。学年は1年生から8年生まであり、低学年でチベット語の読
み書き、天文学、暦学、算数、チベットの歴史などを学び、高学年になるにつ
れて仏教関連の専門科目が増えていくカ リキュラムとなっている。僧院学校で
学んだ学僧は、ほぼ全員が僧侶の道を進むという。そしてこれらの人材は、仏
教界の宗教的ネットワークを通じてインドやネパールだけではなく、世界各地
にあるチベット仏教寺院に配属されていくのである。
第 5節
仏教価値内面化のメカニズムとアイデンティティの形成
ここまで検討した子どもの仏教価値の内面化に関与する主体を図4-2のよ
う に 整 理 し 、仏 教 価 値 内 面 化 の メ カ ニ ズ ム を 、そ の 主 体 相 互 の 対 比 か ら 検 討 し 、
子どものアイデンティティ形成過程を提示する。まず、序章において示した分
析枠組みに従い、2つのマクロ層である亡命チベット人社会側とホスト国側の
主体の配置を確認する。
図 4-2
仏教価値内面化のメカニズム
出所:筆者作成
最初にホスト国側の主体である<教育省>、<情報通信メディア>、<経済
システム>であるが、これらの主体は子どもの仏教信仰形成に殆ど影響を与え
102
ていない。ネパールの場合、入植地の外には濃厚なヒンドゥ教の空間が広がっ
ているが、それがコミュニティ内に進入してくることは滅多にない。歴史的に
見てもヒンドゥ教と仏教は共存状態にあり、ホスト国側が亡命チベット人にヒ
ンドゥ教を強要することもなければ、チベット仏教が迫害されることもない。
従って、ホスト国と亡命チベット人社会の境界線を自由に行き来する子どもた
ちが、ヒンドゥ教徒になることもないかわりに、外部世界の主体により子ども
たちが仏教信仰を深めることもないのである。
やはり子どもの仏教価値の内面化には、もう一方のマク ロ層である亡命チベ
ット人社会側の<教育省>の教育政策と<伝統文化システム>、ミクロ層であ
る入植地に配置された主体の影響が大きい。その中でもミクロ層の<学校>、
<家族>、<仏教寺院>という3つの主体が子どもの仏教的価値の内面化に大
き く 関 与 し て い る も の と 考 え ら れ る 。マ ク ロ 層 に あ る 亡 命 政 府 の < 教 育 省 > は 、
教育政策を通じて計画的に子どもたちに仏教を修得させる主体となり、チベッ
ト語の教科書に埋め込まれた仏教的規範や共同体的道徳観念を、ダラムサラで
訓練されたチベット語の教師により内面化させる主体として機能している。
ミクロ層の主体である<学校>では日常的学内活動として、かつて僧院学校
が受け持っていた経文唱和や瞑想など伝統的な仏教的指導訓練が行なわれてい
る。仏教は知的学習以上に瞑想や経文唱和などの身体訓練を通して習熟されて
いくものと考えられることから<学校>は、仏教信仰の身体訓練装置としての
機能を十分果たしているといえよう。また、<伝統文化システム>はコミュニ
ュティ内の<家庭><仏教寺院>に仏教慣行や祭事を促し、<仏教寺院>はコ
ミュニティ内の住民の精神統合の中心として機能している。子どもは僧院で毎
日行なわれる慣行や、コミュ ニティあげての祭事に幼児期より親とともに日常
的 に 参 加 し 、一 連 の 信 仰 作 法 や 共 同 体 意 識 を 自 然 に 内 面 化 し て い く の で あ ろ う 。
また、<家庭>で行われる仏教の慣行実践教育も重要である。子どもは、幼い
頃に仏教信仰を習得する性向を家庭で身に付け、学校で伝達される仏教価値を
殆ど抵抗なくスムーズに受容していくものと考えられるからである。仮に入植
地内に別の宗教を信奉する家庭があり、その家庭では仏教ではない別の宗教価
値が伝達されていたとするならば、その子どもは学校で伝達される仏教価値を
拒否しやすい性向を獲得している可能性がある。従って宗教価値を内面化させ
る主体として<家庭>の影響は、相当大きいと考えられる。
このように子どもに影響を与える主体群はコミュニティ内部の仏教空間で共
同的、相補的に存在しており、チベット人としての共通の社会的価値や道徳観
念を内面化し、子どもの「亡命チベット人共同体のアイデンティティ」形成を
推進しているものと考えられるのである。
103
青 木 文 教 に よ れ ば 、ボ ン 教 信 仰 は 紀 元 前 4、5 世 紀 頃 に チ ベ ッ ト の 住 民 の 間 に 広
ま っ た と 指 摘 し て い る 。 青 木 文 教 (2010)前 掲 書 ,p.115. 参 照 。
2 ボン教は中央アジアのホル人によって齎されたシャマン教とチベットに住む原
住民固有のアニミズム信仰と結びついて発達した宗教であると考えられている 。
青 木 文 教 (2010) 前 掲 書 ,pp. 115-116. 参 照 。
3 Basic Educ ation Policy for Tibetan s in Exile 第 4 章 及 び 多 田 等 観 (1942)前 掲
書 ,p. 168.参 照 。
4 チベットから亡命したボン教の信徒たちによってボン教の本部もチベット亡命
政府があるインド・ヒマーチャル・プラデシュ州において再建されている。
http://www.tibethou se. jp/education/ educ03.h tml
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 10 月 31 日 )
5 Basic Educ ation Policy for Tibetan s in Exile 第 4 章 第 1 項 参 照 。
6 長 尾 雅 人 (1989)「 チ ベ ッ ト 仏 教 概 観 」『 岩 波 講 座 東 洋 思 想 第 二 巻 チ ベ ッ ト 仏
教 』 岩 波 書 店 , p.4.
7 http://www.tibethou se. jp/cu lture/ buddh ism_trait.h tml
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 10 月 31 日 )
8 チベット仏教においてラマが高く尊崇される のは、チベット仏教復興の祖アテ
ィ ー シ ャ の 弟 子 の 一 人 で あ る ド ム ト ン が ア テ ィ ー シ ャ に 向 か っ て 、「 経 論 の 語 と
師 の 語 と い ず れ に 従 う べ き か 」と 問 う た 時 、「 経 論 も 師 匠 に よ っ て の み 初 め て 近
づ き う る の で あ る か ら 、師 こ そ 最 高 に 尊 敬 せ ら れ る べ き で あ る 」と ア テ ィ ー シ ャ
が 答 え た と い う こ と に 由 来 し て い る 。 長 尾 雅 人 (1989) 前 掲 書 ,p. 19.
9 石 濱 裕 美 子 (2004)『 チ ベ ッ ト を 知 る た め の 5 0 章 』 明 石 書 店 ,p. 147.
10 併合前のチベットでは選定された化身ラマは政府の認許を受け てい たと いう 。
多 田 等 観 (1942) 前 掲 書 ,p. 8.参 照 。
1 1 多 田 等 観 (1942) 前 掲 書 ,p. 3.
1 2 多 田 等 観 (1942) 前 掲 書 ,p. 2.
1 3 青 木 文 教 (2010) 前 掲 書 .pp.176-177.参 照 。
1 4 立 川 武 蔵 (1989) 「カ ギ ュ 派 」『 岩 波 講 座 東 洋 思 想 第 二 巻 チ ベ ッ ト 仏 教 』岩 波
書 店 ,p. 185.
1 5 長 尾 雅 人 (1989) 前 掲 書 ,p. 18.
1 6 チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 情 報 ・ 国 際 関 係 省 (1999)前 掲 書 ,p. 144. (括 弧 内 は 筆 者 追 記 )
1 7 チ ベ ッ ト に は 古 来「 チ ベ ッ ト の ラ マ 教 を 滅 ぼ す も の は 回 教 で あ る 。チ ベ ッ ト の
東北隅から襲来する回教群である」という預言があった。併合前、チベット在
住の回教徒は主にインドのカシュミール地方からの移住者であり、チベット人
で あ っ て 回 教 を 信 仰 し て い る 者 は 皆 無 で あ っ た と さ れ る 。 多 田 等 観 (1942)前 掲
書 ,p. 174.
1 8 チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 情 報 ・ 国 際 関 係 省 (1999)前 掲 書 ,p. 145.
1 9 キ リ ス ト 教 は 1800 年 代 の 初 め 頃 、 東 部 の 国 境 を 越 え て カ ム 地 方 に 教 会 堂 を 建
て て 宣 教 を 試 み た 。ま た 、1900 年 代 の 初 め 頃 に は プ ロ テ ス タ ン ト の 伝 道 師 が ヒ
マラヤ地方に拠点を持って伝道しておりチベット人の中から洗礼を受ける者も
現 れ た と さ れ る 。 多 田 等 観 (1942) 前 掲 書 ,p. 175.
2 0 ス ミ ス ,ア ン ト ニ ー (1998)前 掲 書 ,p. 28.
2 1 チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 情 報 ・ 国 際 関 係 省 (1999)前 掲 書 ,p. 149.
2 2 チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 情 報 ・ 国 際 関 係 省 (1999)前 掲 書 ,p. 149.
2 3 国 連 難 民 高 等 弁 務 官 事 務 所 (2001)『 世 界 難 民 白 書 2000
人 道 行 動 の 50 年 史 』
時 事 通 信 社 ,p. 63.
2 4 真 言 を 唱 え な が ら 手 で 回 す 円 筒 状 の 仏 具 で 、円 筒 の 内 部 に は ス ン と 呼 ば れ る 経
典が巻かれている。心身こめてマニ車をまわせば、回した分量の真言を唱えた
と同じ功徳があると信じられている。
2 5 例 え ば 2013 年 の チ ベ ッ ト 正 月 は 2 月 9 日 で あ っ た 。
2 6 http://www.tibethou se. jp/cu lture/newyear.h tml
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 10 月 1 日 )
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チ ベ ッ ト 人 の 正 月 の 風 習 に つ い て は 下 記 Web サ イ ト を 参 照 。
http://www.tibethou se. jp/culture/newyear.html
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 10 月 1 日 )
岡 本 雅 享 (1999) 前 掲 書 ,p. 464.
http://www.tibethou se. jp/ abou t/n ation al_flag.html
(最 終 閲 覧 日 : 2012 年 12 月 1 日 )
江 原 武 一 ・ 杉 本 均 (2003)「 序 章 世 界 の 公 教 育 と 宗 教 」江 原 武 一 編『 序 章 世 界
の 公 教 育 と 宗 教 』 東 信 堂 ,p. 7.
チ ベ ッ ト 仏 教 で は 転 生 思 想 が 極 度 に 一 般 化 さ れ 具 体 化 さ れ て お り 、高 僧 の み で
はなく仏教の興隆をはかった歴代の諸王たちも観音菩薩の化身とみなされてい
る 。 長 尾 雅 人 (1989)前 掲 書 ,p. 18.
野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 161.
僧 院 学 校 の ヘ ッ ド ・ ラ マ (Khen po Losang)か ら の ヒ ヤ リ ン グ (2005 年 10 月 )に
よ る 。 榎 井 克 明 (2006)前 掲 論 文 ,pp.78-79.
105
第5章
ダライ・ラマ崇拝意識とアイデンティティの形成
観 音 菩 薩 の 化 身 で あ る ダ ラ イ・ラ マ 1 4 世 は 、国 家 の 保 護 者 で あ り 、
守護 者で あ る。彼は 道 を照 らす 案 内人 、至 高 の指 導者 、チ ベ ット 人 と
し て の ア イ デ ン テ ィ テ ィ と 統 一 の 象 徴 で あ り 、す べ て の チ ベ ッ ト 人 の
代弁 者で あ る。彼の 権 威は 、何 世紀 に もわ た る歴 史や 伝 統、そし て 何
より生得の権利と責任からなる人々の意志に由来するものである 1。
第1節
ダライ・ラマの歴史
2011年5月28日、
「 亡 命 チ ベ ッ ト 代 表 者 議 会 」は 亡 命 チ ベ ッ ト 人 社 会 の
憲法である「亡命チベット人憲章」の改正案を決議した。翌2012年9月2
2日、この改正案は、亡命政府のロブサン・サンゲイ首相による署名をもって
正式に発布されたのである。冒頭の一文は改正された憲章の第一条の条文(筆
者 に よ る 試 訳 )で あ る が 、こ の 条 文 に よ り ダ ラ イ・ラ マ の 地 位 に つ い て 、
「チベ
ット国家の守護者にして象徴」であると再定義されたのである。
16世紀以降のチベット史において、また現在もチベット問題の中心的人物
として国際政治の舞台にたびたび登場する「ダライ・ラマ」とは、いったいど
のような存在なのであろうか。
「 ダ ラ イ・ラ マ 」と は 、も と も と モ ン ゴ ル の ア ル
タン汗がゲルク派の貫主ソナム・ギャンツォ(在位1543年―1588年)
に送った称号である。ダライは「海」を意味するチベット語「ギャンツォ」を
モンゴル語に訳したものであり、ラマは前章で示したとおり「導師」という意
味である。チベット仏教では観音菩薩の化身である活仏=ダライ・ラマは死後
も転生すると考えられており2、ダライ・ラマの死後、常にその転生者を捜し
出し、ダライ・ラマとしてのあらゆる権限を継承させてき た。ダライ・ラマ5
世がチベット全土の支配権を握った1642年以降、その権威と地位は10人
のダライ・ラマによって脈々と受け継がれてきたのである。現在のダライ・ラ
マ 1 4 世 テ ン ジ ン ・ ギ ャ ン ツ ォ ( Tenzin Gyatso ) は 、 1 9 3 5 年 に チ ベ ッ ト
東 部 の ア ム ド で 生 ま れ 、1 9 4 0 年 に ダ ラ イ・ラ マ 1 4 世 と し て 即 位 し て い る 3 。
前章でも述べた通り、化身ラマ制度とは徳の高いラマが遷化すると、その弟
子たちが伝統的な方法に基づいて転生者を捜し出し、最終的には同じ学派の高
位ラマなどによって先代ラマの転生者として認定されるという転 生継承制度で
ある。化身ラマ制度が生まれてきた背景には、当時のパクトゥ派に代表される
ような、特定の氏族が高僧を半世襲的に輩出するという慣習や、僧侶が公然と
妻帯するという仏教界の堕落に対する一般民衆の批判の高まりがあった。化身
106
ラマ制度は厳格な戒律復興への動きとも合致しており、人々の支持を集め、短
期間のうちにチベット全域に広まったのである。化身ラマの存在はチベット仏
教の特色のひとつであるが、秀れた高僧が転生するという思想はインドや日本
にもあり4、必ずしも荒唐無稽な思想とはいえない。例えば日本では浄土宗の
開祖である法然などは阿弥陀の化身などと見なされていた 5。
「 化 身 」と い う 言
葉 自 体 は 、大 乗 仏 教 が 仏 身 論 に お い て 三 身 説 を 樹 立 し た と き「 自 性 身 」
「愛用身」
と並んで考え出された言葉である。仏教学者の山口瑞鳳は「大乗の菩薩はこの
世の全ての衆生が悟りに導かれない限り、自らの務めを投げ出して自分のため
に涅槃の境地を享受する事がない。ひたすら転生を重ねて教化に当たる」6と
いう「楞伽経」7の理念が、チベットにおける化身ラマ制度発展の背景にある
と指摘している。テンジン・ギャンツォ少年もダライ・ラマ13世の遷化によ
り捜索が開始され、伝統的な 確認の手続きを経て真性ダライ・ラマ13世の化
身として認定された。
チベット人のダライ・ラマへの思い入れは、他に比較するものがないほど強
いものがある。大量の難民流失の原因となった「ラサ暴動」も、ダライ・ラマ
14世の身を案じた民衆の集団行動により発生したものである。1959年3
月10日、ダライ・ラマ14世が人民解放軍から兵営内で開かれる演劇に招待
された際、ダライ・ラマがそのまま北京に連行されるのではないかとその身を
案じた民衆がダライ・ラマの外出を妨害するために夏の離宮ノルブリンカを取
り 囲 み 、そ れ が 大 規 模 な 反 中 国 デ モ に 進 展 し た の で あ る 8 。現 在 で も 、
「 ダ ライ・
ラマを間近で見ることができて思い残すことはないと死出の旅路へ発つ者、ダ
ライ・ラマに会見できた興奮で涙を流し嗚咽する者」9に出会うことは珍しい
ことではない。榎木はダライ・ラマに対する多くの尊称の中で、ゴンサ・チェ
ン ボ ( Gongsa Chenpo 、 至 高 の 人 の 意 ) ほ ど 、 チ ベ ッ ト 人 の 心 情 を あ ら わ す の
に 最 適 な 尊 称 は な い と 述 べ て い る 1 0 。「 至 高 の 人 」 で あ る ダ ラ イ ・ ラ マ の 意 志
は絶対である。だからこそ、何をするにも「ダライ・ラマがそう願ったから」
という表現が可能なものとなるのであ る11。
亡命初期の頃、難民キャンプにおける厳しい混住生活よって醸成された運命
共同体としての集団意識は、もともとチベット人社会に備わっていたダライ・
ラマを奉じる紐帯意識によって強化され、ダライ・ラマを国民統合のシンボル
とする国民国家体制を志向する政治共同体としての意識へと変容していった。
榎 木 に よ れ ば 、 そ の 「 ダ ラ イ ・ ラ マ と C T A ( =亡 命 政 府 ) を 同 一 だ と み な す
意識、あるいはダライ・ラマが推進する政策にしたがうという民衆心理読み替
え 」 1 2 と 、「 至 高 の 人 」 に よ っ て 表 象 さ れ る 「 父 国 チ ベ ッ ト 」 と 自 分 を 同 一 視
する積極的な自己規定の相互作用によって、難民一世の間に「父国チベット」
107
に連なる「国民」としてのアイデンティティが確立されたのである 13。
第1章第2節でも述べたとおり、ダライ・ラマ14世は亡命後、チベット亡
命政府の代表者としてチベットの独立、或いは高度な自治の獲得を求めて国際
社会に支持を訴え続けて来たが、2011年、ダライ・ラマ14世は高齢を理
由にチベット亡命政府の政治的指導者から引退することを表明した。しかし、
高齢だけが引退の理由ではないことは明らかである。ダライ・ラマ14世は自
分の後継者問題に絡んで自らの政治的権限を弱め 、亡命チベット人共同体をよ
り民主的な組織に変えることで、共同体を継続させようとしているものと考え
られる。ダライ・ラマ14世の後継者問題―それは亡命チベット人共同体にと
ってもっとも気にかかる問題であろう。なぜなら1990年に起こったパンチ
ェ ン・ラ マ 事 件 1 4 の 苦 い 経 験 か ら 、ダ ラ イ・ラ マ 1 4 世 の 後 継 者 問 題 を め ぐ っ
て、中国との争いが再び起きることが強く予測されているからである。亡命チ
ベット人社会には、パンチェン・ラマ事件以降、古くからチベット文化を成り
立たせていた転生ラマ制度が、反宗教を標榜する共産党政府によってチベ ット
民衆を支配する道具として利用され始めているのではないかという懸念が広ま
っている。ダライ・ラマ14世はこの事件後、自分の転生者が中国政府に利用
されることを危惧し、自分は中国の支配下にある地域には生まれ変わらないと
の異例とも思える発言を繰り返している。しかし、中国政府側は2001年8
月7日付の新華社通信で「ダライ・ラマ14世亡き後、我々はその転生者を、
1792年に清朝が定めた規則に従って選出すると」と述べている 15。
「亡命チベット人憲章」の改正は、このような流れの中で実施されたもので
ある。この改正に伴い、亡 命政府の名称も「チベット人民機構」へと変更され
た。この名称の変更は、亡命チベット人たちが永久的に住むことになるかもし
れないインドやネパールで、亡命政府の「政府」という単語が将来問題になる
かもしれないとダライ・ラマ14世が懸念を示したことによるといわれている
16
。こ の よ う に 刷 新 さ れ た「 亡 命 チ ベ ッ ト 人 憲 章 」は 、ダ ラ イ ・ ラ マ に 依 存 し
ない共同体の存続を見据えたものであるが、現状では実質的な変化はないとの
見方が支配的である。事実、この「亡命チベット人憲章」改正以降もダライ・
ラマ14世は、チベット仏教の最高指導者として世界各地を訪れ、仏教の智慧
に関する講演、異なる宗教間における宗教的な対話とともに各国要人との意見
交換を活発に行なっている。ジャワハルラル・ネール大学の中国研究者コンダ
バ リ は「 ダ ラ イ・ラ マ は 政 治 的 責 任 を 減 ら し 、精 神 面 に 力 を 注 ご う と し て い る 。
ただし、表舞台から消えるわけではない。チベット人は非常に信仰心が強いの
で 、亡 命 政 府 の 首 相 や 閣 僚 が 誰 で あ ろ う と 、ダ ラ イ・ ラ マ と と も に 歩 む 」 1 7 と
述べている。
108
第2節
入植地に顕在するダライ・ラマのイメージ
本章の課題は、インド亜大陸の広範な地域に離れ離れに暮らす亡命チベット
人たちが、いかにしてダライ・ラマを首長とする「父国チベット」の「国民」
としてのイメージを共有することができたのか、また子どもたちのダライ・ラ
マの崇拝意識に、学校教育やその他の主体はどのように関与しているのかを検
討することである。
チベット人にとってダライ・ラマと仏教は一体不離の絶対的価値である。チ
ベット仏教ではダライ・ラマは観音菩薩の化身であり、カルマを背負った衆生
の救済のために死後も涅槃に入らずこの世に転生してくるものと考えられてい
る 。こ の こ と に つ い て ペ マ・ギ ャ ル ポ は 1 8 、
「絵に描いた象徴的な観音菩薩と、
実 際 に 生 き て い る 観 音 菩 薩 と が 、つ ね に オ ー バ ー ラ ッ プ し て 」1 9 い る 感 覚 が チ
ベット人の中にあると述べている。また、ダライ・ラマは弱冠16歳にしてチ
ベット本土の政治上の全権を担い、亡命政権樹立後は亡命チベット人社会の指
導者としてチベットの独立や高度な自治権獲得を国際社会に訴え、非暴力主義
を掲げて中国と政治的闘争を続けてきた優れた政治家でもある。このように、
亡命チベット人の内面に刻まれたダライ・ラマ14世のイメージには、チベッ
トの守護神である観音菩薩の化身としてのイメージと、亡命チベット人社会の
政治的指導者としての2つの イメージがある。
マクロ的な国民の想像に果たすメディアの役割についてはアンダーソンもそ
の重要性を指摘しているが、活字メディアや放送メディアは単に情報を伝達し
ているだけでなく、特定の仕方で対象の解釈を促すイデオロギー装置としての
機 能 を 有 し て い る と 言 う 2 0 。通 常 で あ れ ば 視 覚 化 政 策 に 最 も 強 力 な 影 響 を 及 ぼ
すメディアはテレビであろう。しかし、亡命チベット人が視聴できるテレビ番
組は、基本的に滞在国の番組だけである。例えば日本人なら「皇室アルバム」
を見て、天皇が地震の被災地を訪れ住民に語りかけたりする様子や、外国の要
人を皇居に迎えて晩餐会を催す映像を見て、天皇の具体的なイメージを持つこ
と が 可 能 で あ る 。国 王 崇 拝 が 顕 著 で あ る タ イ な ど で は 、ど の チ ャ ン ネ ル で も「 王
室ニュース」が放送されており、全国津々浦々の人々が王室の様子を把握して
い る 。 従 っ て 「 プ ミ ポ ン 国 王 の 顔 色 が 悪 い ( 心 配 だ )」「 国 王 は 、 今 日 は お 元 気
そうだ」などという会話が成立する。しかし亡命チベット人が自宅のテレビの
中でダライ・ラマ14世が実際に何かをしたり、喋ったりするのを見ることは
稀であり、放送メディアを通じてダライ・ラマ14世の具体的なイメージを持
つことは殆どないといえる 。
109
最近はインターネットの普及している地域であれば、ネットに接続さえすれ
ば い つ で も そ の 姿 を 見 る こ と が で き 、ネ ッ ト T V で そ の 声 を 聞 く こ と も で き る 。
しかし、ほんの10年ほど前までは、ダライ・ラマ14世の動向を知る媒体は
活字メディアしかなかった。活字メディアといっても滞在国の新聞などではな
く、チベット亡命政府やその支持団体が発行する僅か数ページのニューズレタ
ー 2 1 の よ う な 媒 体 で あ る 。「 そ れ で も 、 ク ン ド ゥ ン の 動 向 が 知 り た く て 、 何 度
もむさぼり読んだ」と入植地の大人たちは口を揃える。クンドゥンとは、チベ
ット人が敬慕の念を込めてダライ・ラマを呼ぶときの尊称である。
一般に王国などでは国王を国民の目に触れさせ、その存在を顕在化すること
で 国 民 と し て の 意 識 を 形 成 す る 視 覚 化 政 策 が 政 治 的 操 作 で 作 ら れ て い る 2 2 。亡
命チベット人社会の場合、亡命政府の意図的な政策によりダライ・ラマ14世
の写真が掲出されているわけではないが、チベット人入植地のあらゆる場所で
ダライ・ラマ14世の写真を目にすることができる。それは入植地内に限った
ことではなく、入植地外でもチベット人が営むに商店や飲食店、ホテルなどで
は必ずダライ・ラマ14世の写真が飾られている。亡命 チベット人が運転する
車のダッシュボードにも、ダライ・ラマの写真は置かれている。お守りの意味
があるのだという。およそチベット人に関連する施設であるならどこにでも、
部屋の高い場所にダライ・ラマ14世の写真は飾られている。チベット人が部
屋などの限られた空間でダライ・ラマの写真を高い場所に設置するのは、そこ
が最も目立つという理由よりも、ダライ・ラマ14世に対する深い尊敬の念の
表れであり、敬虔な仏教徒が仏像を上から見下ろすこと決してしないのと同じ
理由である。亡命チベット人の家庭でも、仏壇の中や、応接間、台所など様々
な場所にダライ・ラマの写真は飾られている。またコミュニティ内にある雑貨
店では、外国人観光客向けにダライ・ラマ14世のブロマイド写真や顔写真バ
ッジなどが売られている。ダライ・ラマ14世の画像は、かなり流通している
といえるだろう。このように亡命チベット人は、主に画像を通して頻繁にダラ
イ・ラマ14世のイメージに触れているのである。そして、その写真の飾られ
ている場所や、扱われ方、写真の中で微笑むその姿から、入植地の人々はダラ
イ・ラマ14世のイメージを内面化していくのであろう。
第3節
学校におけるダライ・ラマ崇拝意識の浸透
前節で述べたとおり、王国などの国王崇拝意識の浸透は、政治的操作の結果
である場合が多い。亡命チベット人共同体の場合、政策的操作によるものかど
うか定かではないが23、ダライ・ラマの崇拝意識の浸透は公の場だけでなく、
110
家庭など様々な空間において実現しているといえる。本節で取り上げるのは学
校空間におけるダライ・ラマ14世のイメージである。果たして学校は、子ど
ものダライ・ラマ崇拝意識にどのような影響を与えているのであろうか。
学校においてもダライ・ラマの肖像は至るところで見かけることができる。
教室、図書館、職員室、校長室など学校内のあらゆる空間で子どもたちはダラ
イ・ダライ・ラマのイメージに接している。また、子どもたちはチベット語の
教科書を通じてダライ・ラマの歴史や仏教的意味を学んでいる。しかし初等教
育のカリキュラムでは、ダライ・ラマは政治的な文脈では扱われず、歴史上の
人物、或いはソンツェン・ガンポ王と同様に観音菩薩の化身として教えられて
いる。そして中期中等教育以降、ダライ・ラマ14世の具体的な政治活動を取
り上げた内容が増えていくのである。
ダライ・ラマの崇拝意識形成を促す装 置として、特に学校行事の役割に注目
し た い 。 3 月 1 0 日 の チ ベ ッ ト 民 族 蜂 起 記 念 日 ( Tibetan Uprising Day ) と 7
月 6 日 の ダ ラ イ ・ ラ マ 1 4 世 誕 生 日 ( HH The 14 th Dalai Lama’s Birthday )
は、亡命チベット人共同体にとって特別な日である。チベット民族蜂起記念日
とは1959年の「ラサ暴動」が起きた日のことを指しており、政治色の濃い
行事のひとつである。これらの記念日には学校で記念式典とともに様々な催し
が実施される。記念式典にはコミュニティ内外から来賓が招かれ、子どもたち
は来賓たちの前でチベットの歌を歌ったり、チベット舞踊を披露したり、スピ
ーチをしたりする。主賓の席にはダライ・ラマ14世の写真が置かれており、
そ の 写 真 に は 歓 迎 の 意 を 表 す た め の カ タ ー( Katag ) 2 4 が 掛 け ら れ て い る 。そ
の行為は、式典に参加しているすべての人々にダライ・ラマ14世がこの共同
体の主であることを雄弁に伝えている。また、式典に出席する来賓たちの首に
カターを掛けるのは上級生の役割である。このように相手を敬いながらカター
を 掛 け る チ ベ ッ ト 人 独 特 の 所 作 を 、子 ど も た ち は こ の 行 事 を 通 じ て 学 ん で い る 。
スピーチに立った来賓はダライ・ラマ14世のこれまでの功績を称え、校長や
生徒はダライ・ラマが自分たちに教育の機会を与えてくれたことに深い感謝の
意を表明する。子どもたちは、これらの行事に参加することにより、おそらく
は同じ時間に各地の入植地で記念の行事を執り行っている同胞たちの姿を想像
し、同じ共同体の一員としての連帯感が醸成されるのであろう。まさに亡命チ
ベット人共同体のアイデンティティ形成の空間として、学校行事は機能してい
るといえる。
第4節 ダライ・ラマ崇拝意識形成のメカニズムとアイデンティティの形成
111
ここまで検討したダライ・ラ マ崇拝意識形成に関与する主体を図5-1のよ
うに整理し、ダライ・ラマ崇拝意識形成のメカニズムを、その主体相互の対比
から検討し、子どものアイデンティティ形成過程を提示する。これまでと同じ
ように序章において示した分析枠組みに従い、まず2つのマクロ層である亡命
チベット人社会側とホスト国側の配置を確認する。
図 5-1
ダライ・ラマ崇拝意識形成のメカニズム
出所:筆者作成
ダライ・ラマ崇拝意識の形成にホスト国側の主体群は沈黙する。ホスト国側
の<情報通信メディア>などは、子どものダライ・ラマ崇拝意識の形成に殆ど
影響を与えていない。一方で亡命チベット人社会側の主体の内、<伝統文化シ
ステム>は、チベット社会にもともと内包されていたダライ・ラマの宗教的な
イメージを家族や寺院に伝達しており、亡命政府の<教育省>はカリキュラム
などを通じて学校に影響を及ぼしている。また近年、ヒマラヤ山間部の入植地
にまで伸びたインターネット網は、より具体的なダライ・ラマのイメージを伝
達する新しい経路として機 能し始めている。しかし、入植地の子どもたちのダ
ライ・ラマ崇拝意識形成に最も影響を及ぼしているのは、やはりミクロ層にあ
る<寺院>、<家族>、<学校>であろう。
例えばコミュニティにある僧院の本堂には観音菩薩像があり、その像の前に
はダライ・ラマ14世の肖像が置かれている。つまりダライ・ラマ14世は観
音菩薩の化身であるということを視覚化し、教示しているのである。また、ど
112
の家庭内の祭壇にもダライ・ラマ14世の写真が飾られていて、子どもは親た
ち と 一 緒 に 朝 夕 こ の 写 真 に 向 か っ て Om-ma-ni-ped-me-hum と い う マ ン ト ラ を
唱える。このマントラは観音菩薩の慈悲を表現しているため観音六字と呼ばれ
て お り 、子 ど も た ち は 日 に 何 度 も こ の マ ン ト ラ を 唱 え る こ と で 、自 然 と ダ ラ イ・
ラマが観音菩薩の化身であることを内面化していくのであろう。このように<
寺院><家族>と言う主体群は、ダライ・ラマの仏教的価値に関するイメージ
の形成を促進しているのである。
<学校>も子どもたちがダライ・ラマの崇拝意識を形成する主体として機能
している。前章で述べた仏教価値の内面化が、主に日常活動やチベット語の授
業を通して行なわれるのと同様、ダライ・ラマへの崇拝 意識も学校行事や日常
的学内活動、チベット語の授業を通して浸透していく。教室では子どもたちの
視線の集中する黒板の上の一番良い場所にダライ・ラマ14世の写真が飾れら
れており、子どもたちは教室の中でダライ・ラマ崇拝意識に無意識に接してい
る 。ま た 、学 校 行 事 や Om-ma-ni-ped-me-hum と い う マ ン ト ラ を 唱 え た り す る
日常的学内活動によってダライ・ラマ14世の子どもの崇拝意識は形成されて
いく。見落としてはならない点は、ダライ・ラマ14世の崇拝意識が「隠れた
カ リ キ ュ ラ ム 」2 5 と し て も 伝 達 さ れ て い く こ と で あ る 。
「隠れ たカリキュラム」
とは、学校生活を営む中で子どもが学び取っていく総ての事柄のうち、学校の
公のカリキュラムにはない事柄が教育的行為を通じて伝達されていくことであ
る 。 サ ド カ ー ( David Sadker) が 『「 女 の 子 」 は 学 校 で つ く ら れ る 』 の 中 で 指
摘 し て い る よ う に 、こ の「 隠 れ た カ リ キ ュ ラ ム 」は 暗 示 的 な 教 育 的 行 為 で あ り 、
知識の伝達などの明示的な教育的行為とともに学校における教育的働きかけの
全 体 を 構 成 し 、子 ど も の 性 向 を 形 成 す る 。学 校 に お け る「 隠 れ た カ リ キ ュ ラ ム 」
を構成するのは、学校の場のあり方や雰囲気であるともいえる。学 校教育がダ
ライ・ラマ14世の仏教的価値や政治指導者としての功績を教えても知的理解
だけでは不十分であり、実際にダライ・ラマ14世を敬愛或いは崇拝している
雰囲気が浸透している学校で生活することで、はじめて子どもはダライ・ラマ
14世の崇拝意識を形成できるのである。
アンダーソンは『想像の共同体』の中で、人々の想像力のなかにある「共同
体」の記憶に着目した。そのような記憶が、大多数の構成員が互いに会うこと
もないにもかかわらず、ひとつの「共同体」として強く結び付けているのであ
る。亡命チベット人共同体の構成員には、これか らも記憶され、共有されなけ
ればないイメージがある。そのイメージこそが、ダライ・ラマ14世である。
それは単なる宗教的崇拝の対象としてだけではなく、自分たちとともに悲劇的
ともいえる政治的運命を経験し、自分たちを指導する政治的存在としてのイメ
113
ー ジ で あ る 。そ の イ メ ー ジ の 共 有 が「 共 同 体 」の ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 核 と な り 、
どんなに遠く離れていても人々を強く結びつけるのである。
114
憲 章 の 原 典 は チ ベ ッ ト 語 で あ る が 、 本 訳 文 は 英 語 版 “ His Holiness the
Fourteen th Dalai Lama, human manifestation of Avaloketeshv ara, is the
guardian and protector of the n ation. He is the guide illuminating the path,
the supreme leader, the symbol of the Tibetan iden tity and un ity, and the
voice of the whole Tibetan people. His au thor ity is derived from centur ies old
history an d heritage and, above all, from th e will of the people in whom
sovereignty is vested and therefore comprises th e foll ow ing inheren t righ ts
and respon sibilities. ”か ら 筆 者 が 試 訳 し た も の で あ る 。
http://www.tibetbetpost.com/en/new s/exile/ 1623 -tibetan-char ter-drafting-co
mmittee -issues-dr aft-preamble を 参 照 。
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 12 月 12 日 )
2 ダライ・ラマとパンチェン・ラマはゲルク派の二大活仏であるが、ダライ・ラ
マ は 観 音 菩 薩 の 化 身 、パ ン チ ェ ン・ラ マ は 阿 弥 陀 仏 の 化 身 と し て 知 ら れ る 。長 尾
雅 人 (1989) 前 掲 書 ,p. 18. 参 照 。
3 先代ダライ・ラマの遷化後、テンジン・ギャンツォ少年がどのように捜し出さ
れ 、 そ の 地 位 か ど の よ う に 継 承 さ れ た か に つ い て は 『 チ ベ ッ ト わ が 祖 国 』 (原 題
MY LAND MY PEOPLE )第 1 章 に 詳 し い 。 ダ ラ イ ・ ラ マ (1989)『 チ ベ ッ ト わ が
祖 国 』 中 央 公 論 新 社 ,pp. 26-56.
4 長 尾 雅 人 (1989) 前 掲 書 ,p. 18.
5 中 村 元・福 永 光 司・田 村 芳 朗・今 野 達 編 著 (1989)
『 岩 波 仏 教 辞 典 』岩 波 書 店 ,p. 224.
6 山 口 瑞 穂 (1989) 「チ ベ ッ ト 仏 教 思 想 史 」 『 岩 波 講 座 東 洋 思 想 第 二 巻 チ ベ ッ ト
仏 教 』 岩 波 書 店 ,pp. 73-74.
7 大乗経典のひとつであり、経中の「一時不説」の語が禅宗の「教外別典・不立
文 字 」 の 典 拠 と な っ て い る 。 中 村 元 ・ 福 永 光 司 ・ 田 村 芳 朗 ・ 今 野 達 編 著 (1989)
前 掲 書 ,p. 833.参 照 。
8 チ ベ ッ ト 亡 命 政 府 情 報 ・ 国 際 関 係 省 (1999)前 掲 書 ,pp.86-87.
9 榎 木 美 樹 (2009) 前 掲 論 文 ,p.10.
1 0 榎 木 美 樹 (2009) 前 掲 論 文 ,p.10.
1 1 榎 木 は そ の 例 と し て 、 2006 年 に 開 催 さ れ た 大 規 模 宗 教 行 事 の 際 、 ダ ラ イ ・ ラ
マ 14 世 が 動 物 愛 護 の 観 点 か ら 動 物 の 皮 や 毛 を 利 用 し た 伝 統 的 衣 装 の 着 用 を 批
判する発言を行ったところ、数日後にはインドをはじめ世界各地で毛皮着用反
対 キ ャ ン ペ ー ン が 起 き た こ と を 挙 げ て い る 。 榎 木 美 樹 (2009)前 掲 論 文 ,p. 11.
1 2 榎 木 美 樹 (2009) 前 掲 論 文 ,p.14.(括 弧 内 は 著 者 追 記 )
1 3 榎 木 美 樹 (2009) 前 掲 論 文 ,p.14.
1 4 パ ン チ ェ ン・ラ マ と は チ ベ ッ ト で は ダ ラ イ・ラ マ に 次 ぐ 第 2 の 高 僧 で 、や は り
転 生 に よ り そ の 地 位 が 継 承 さ れ る 。 1 9 8 9 年 に パ ン チ ェ ン ・ ラ マ 10 世 が 中
国 域 内 で 崩 御 し た 後 、亡 命 政 府 側 と 中 国 政 府 側 が そ れ ぞ れ の 転 生 者 を 選 び だ し 、
最 終 的 に は 中 国 政 府 側 の 転 生 者 が そ の 地 位 を 継 承 し た 。事 件 の 経 緯 は ヒ ル ト ン ,
イ ザ ベ ラ (2001) 前 掲 書 に 詳 し い 。
1 5 2007 年 8 月 4 日 の 中 国 国 営 新 華 通 信 の 報 道 に よ る と 、 中 国 政 府 は 国 内 の 化 身
ラマが転生する際、政府の許可なしに転生は認 めないことを決定した。これも
高僧を管理下に置くための措置と見られている。
1 6 こ の 決 定 に 対 し て チ ベ ッ ト 法 律 セ ン タ ー な ど は 、亡 命 チ ベ ッ ト 政 府 や チ ベ ッ ト
中央政府という名称を変更し、「政府」という肩書きを外してしまえば、国際
法的にも「独立国チベット」の主張を曖昧にしてしまい、将来のチベット主権
獲 得 を 難 し く す る も の で あ り 、 亡 命 政 府 が た だ の NGO に な っ て し ま う と 反 発
している。
1 7 http://www.newsweekjapan. jp/ stories/wor ld/ 2011/ 04/post -2069. php
(最 終 閲 覧 日 : 2012 年 2 月 21 日 )
1 8 1953 年 チ ベ ッ ト ・ カ ム 地 方 生 ま れ 、1959 年 に イ ン ド に 亡 命 。日 本 留 学 の 後 ダ
ライ・ラマ法王アジア・太平洋地区担当初代代表に就任する。現在は岐阜女子
大学名誉教授であり、岐阜女子大学南アジ ア研究センター長でもある。
1
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ギ ャ ル ポ , ペ マ (1995) 『 日 本 の 宗 教 』 総 合 法 令 , p.162.
野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 171.
例 え ば 亡 命 チ ベ ッ ト 人 社 会 で 読 ま れ て い る 雑 誌 の ひ と つ に ”Tibetan Rev iew”
が あ る 。 ”Tibetan Rev iew” は イ ン ド で 発 刊 さ れ て い る 英 字 月 刊 誌 で 、 チ ベ ッ ト
の状況や亡命チベット人社会の様々な話題を網羅したニュースを掲載している。
ま た 、支 援 団 体 の ニ ュ ー ズ レ タ ー と し て は 、Tibetan Cen tre For Human Rights
And Democracy が 発 行 す る ”Hu man Righ ts”な ど が 良 く 読 ま れ て い る 。
野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 171.
筆 者 が 2005 年 に マ ウ ン ト ・ カ イ ラ ス ・ ス ク ー ル の ロ ブ サ ン ・ フ ェ ル ゲ イ 校 長
に対して学校におけるダライ・ラマの肖像の掲出は亡命政府の指示かどうか尋
ねたところ「特に指示はない。不文律のようなものである」と回答した。
チ ベ ッ ト 仏 教 圏 で は 、寺 の 参 拝 、高 僧 と の 謁 見 、知 人 ・ 友 人 の 送 迎 、結 婚 式 な
ど様々な場面で、心からの敬意を表すという意味でカターと呼ばれる白いスカ
ーフを相手の首にかける習慣がある。
「 隠 れ た カ リ キ ュ ラ ム 」に つ い て は 、サ ド カ ー ,マ イ ラ / サ ド カ ー , デ イ ヴ ィ ッ ド
(1996) 『 「 女 の 子 」 は 学 校 で つ く ら れ る 』 時 事 通 信 社 を 参 照 。
116
第6章
子どものアイデンティティの諸相
前章までチベット人入植地を舞台に展開する「亡命チベット人共同体のアイ
デンティティ」形成過程を、チベット語教育、仏教価値の内面化、ダライ・ラ
マ14世への崇拝意識の3つの要素から見てきた。本章では入植地の子どもた
ちが、それをどのように受容しているのか、また、どのようなアイデンティテ
ィを形成しているのか、調査地で実施した面接調査、アンケート調査、心理テ
スト、マイクロ・エスノグラフィーの結果に基づき検討する。
第 1節
仏教への帰依の意識
本節では子どもたちの仏教への 帰依の意識を、2012年9月、2013年
2月、および2013年10月に調査地の学校の5年生、6年生、7年生の計
32名に対して行なった面接調査の結果と、調査地を観察対象として実施した
マイクロ・エスノグラフィーの結果に基づいて検討する。子どもへの面接は、
校長室や教室の片隅、運動場など様々な場所で、一人ずつ、約15分程度行な
った。あらかじめ20問程度の質問を用意していたが、回答方法はオープンエ
ンドで行ない、状況に応じて質問内容も変えて実施した。
これまで見てきたとおり、亡命チベット人社会において仏教の教義や習俗は
人々の日常生活に深く浸透しており、祭事、労働規範、家事などに強い影響を
及ぼしている。勿論、すべてのチベット人が仏教徒というわけではないが1、
やはり大多数の亡命チベット人が仏教徒であることは事実である。亡命チベッ
ト 人 入 植 地 で 子 ど も に「 あ な た は 仏 教 徒 か 」と 尋 ね る と 、即 座 に「 そ う で あ る 」
と い う 答 え が 返 っ て く る 。 し か し 、「 な ぜ 、 そ う 思 う の か 」 と 質 問 し て み る と 、
明確な答えは返ってこない。そこで質問を変えて「あなたはいつから仏教徒な
のか」と尋ねてみると、殆どの子どもが「生まれたときから」と回答した。ま
た、仏教の教えについて質問してみると、7年生の生徒の中に少数であったが
カルマ(業)やカラーチャクラの三身、ダライ・ラマの表象である「慈悲」な
どについて答えられる子どもがいた。
子どもたちが、最も活き活きと回答したのは「どういう時に自分が仏教徒で
あると感じるか」と質問した場面である。この質問に関しては、子どもたちは
実に雄弁であり、様々な答えが返ってくる。その中で、最も多い答えは「マン
ト ラ を 唱 え て い る と き に 、そ う 感 じ る 」
( 2 1 名 )で あ る 。チ ベ ッ ト 仏 教 で は マ
ントラを念じながら瞑想する「真言陀羅尼」が重要であるとされている。マン
トラとは、仏陀の教えや功徳などを秘めた讃歌、或いは祈りを表現した短い言
117
葉のことであるが、確かに僧侶でない大多数のチベット人にとって最も象徴的
な宗教行為は、マントラを唱えたり、マントラが彫り付けられたマニ車を廻し
たりすることである。それは子どもたちの場合も同じであり、子どもたちは学
校に入る前から既にいくつかのマントラを諳んじることができる。その代表的
な マ ン ト ラ の ひ と つ が Om-ma-ni-ped-me-hum 2 で あ る 。 チ ベ ッ ト 仏 教 で は 、
この「慈悲の化身とされる観音菩薩のマントラを唱えることによって悪行から
逃れ、徳を積み、苦しみの海を出て、悟りを開く助けになる」3と広く信じら
れ て い る 。 チ ベ ッ ト 語 の 教 師 や チ ベ ッ ト 仏 教 の 僧 侶 に Om-ma-ni-ped-me-hum
の意味を尋ねると、他の言語には翻訳できない難しい言葉であるという。日本
では「蓮華の宝珠よ、幸いあれ」などと訳されることが多いが、それぞれの文
字 に 多 く の 意 味 が 内 包 さ れ て お り 、正 確 な 訳 出 で は な い 4 。
「おそらく子どもた
ちも、その正確な意味を理解していないだろう」とチベット語の教師は指摘す
る。しかし、多くの子どもは、このマントラを唱えている時に最も「自分が仏
教徒であると感じる」のである。つまり、マントラの正確な意味はわからなく
とも、その行為は入植地の日常生活や学校活動に埋め込まれており、子どもた
ちは実践知としてその概念を理解しているといえる。
ま た 、自 分 が 仏 教 徒 と 感 じ る 場 面 と し て「 マ ニ 車 を 回 し て い る と き 」
( 1 6 名 )、
「 朝 礼 の 瞑 想 の 時 間 」( 1 2 名 )、「 祭 事 に 参 加 し て い る と き 」( 1 1 名 )、「 仏 教
に関する本を読んだとき」
( 1 1 名 )な ど と 答 え る 子 ど も が 多 い 。興 味 深 い こ と
は、8名の子どもが「ヒンドゥ教の寺院を訪れたとき」を自分が仏教徒と感じ
る場面に挙げている点である。子どもたちは入植地を出てヒンドゥ寺院という
濃密なヒンドゥ教の空間に入り込んだ瞬間に、自分が仏教徒であると感じるよ
うである。筆者が入植地で実施したマイクロ・エスノグラフィーで は、子ども
が入植地内の仏教寺院を頻繁に訪れていることを確認している。しかし、その
訪問の目的は何らかの宗教的行為を行なうためにではなく、多くの場合、仲間
との「遊び」の場として利用するためである。つまり、入植地内の仏教寺院は
子どもにとって宗教行為を行う特殊な場所というよりも、日常的な空間の一部
として存在している。従ってそこにいるだけでは自分が仏教徒であることを感
じ る こ と は 殆 ど な い が 、コ ミ ュ ニ テ ィ を 離 れ て 異 質 な 宗 教 空 間 に 触 れ る こ と で 、
自分たちの宗教的アイデンティティを強く意識するのであろう。
次に子どもたちに「あなたは良い仏教徒か」と言う質問をしてみた。子ども
た ち は 一 様 に 、は に か み な が ら も「 そ う 思 う 」と 答 え た 。
「 そ う 思 わ な い 」と 回
答した子どもは、ごく少数である。更に「そう思う」と答えた子どもたちに、
「なぜそう思うのか」を尋ねてみた。以下はその回答例である。
118
1.嘘をつかないから。
2.私は困っている人を助けるのが好きである。
3.先生の言いつけを守っている。
4.他人に親切にしている。
5.時々、家の周辺を掃除している。
6.お年寄りの世話をしている。
7.親の手伝いをする。
これらの回答群から、子どもが「 良い仏教徒=良い行ないをする人」と考え
ていることがわかる5。しかし、これらの回答群だけでは子どもたちの内面に
濃厚な仏教信仰が存在しているかはわからない。
「あなたはいつから仏教徒なの
か」という筆者の問いかけに対して多くの子どもが「生まれたときから」と答
えているが、それは幼少期から家庭や寺院で日常的に行なっている信仰作法を
通して仏教徒としての意識を「知らないうちに」内面化したためであろう。内
面化されたその意識は、学校における経文唱和や瞑想など伝統的な仏教的指導
訓練によって強化される。また、仏教価値に結び付いた道 徳観、倫理観、例え
ば「帽子を脱がないで拝礼する」ことは良くないことであるという規範が、チ
ベット語の授業を通じて伝達されている。子どもの内面に仏教信仰が存在して
いるかどうかは不明だが、少なくとも子どもたちは善行をすることが、良い仏
教徒の証であると考えていることは確かである。つまり、子どもは家庭や学校
での仏教実践や知識教育を通じて、チベット社会に継承されてきた道徳観、倫
理間、価値観を、ある程度、受容しているといえる。
第 2節
ダライ・ラマへの崇拝意識
第5章でも述べたように、チベット人にとってダライ・ラマは 観音菩薩の化
身であり、仏教とは一体不離の絶対的価値である。またダライ・ラマは、亡命
チベット人社会の政治的指導者として中国と政治的闘争を続けてきた優れた政
治家でもある。そして、亡命チベット人の内面に刻まれたダライ・ラマ14世
のイメージには、チベットの守護神であり、偉大なラマという仏教的イメージ
と、亡命チベット人社会の指導者としての政治的イメージがある。
本節では子どもダライ・ラマへの崇拝意識を、2005年10月に調査地の
学校の4、5、6、7年生の生徒計108名に対して実施したアンケート調査
の結果と、2012年9月、2013年2月、2013年10月に調査地の学
校の5、6、7年生の生徒計32名に対して行なった面接調査の結果、及び入
119
植地を中心とした実施したマイクロ・エスノグラフィーに基づいて検討する。
まず、2005年に同じマウント・カイラス・スクールで108名の子ども
を対象に行なったアンケート調査6であるが、この調査は筆者が亡命チベット
人学校の現状把握と学校に内在する教育問題を明らかにすることを目的として
実施したものであり、子どもの問題意識を明らかにするための質問を7項目設
定した。その中の設問のひとつ「あなたの最も尊敬する人物はだれか」に対し
て得られた結果は以下のようなものであった。
表 6-1
質 問 : あ な た の 最 も 尊 敬 す る 人 は 誰 で す か 。( 複 数 回 答 可 )
70
60
50
40
30
20
10
0
出 所 : 榎 井 克 明 (200 6)「 難 民 の 教 育 問 題 」 p.93.
事前に予測していたとおり、
「 最 も 尊 敬 す る 人 物 」に ダ ラ イ・ラ マ 1 4 世 を 挙
げ る 子 ど も が 最 も 多 い 結 果 と な っ た 。子 ど も た ち に 、ダ ラ イ・ラ マ 1 4 世 を「 最
も尊敬する人物」とした理由を尋ねてみると、以下のような回答が得られた。
1.私たち亡命チベット人の指導者だから。
2.非暴力主義を貫いている。
3.たった一人で中国と戦っている。
4.慈悲に満ち溢れている。
5.ノーベル賞を受賞した。
ダライ・ラマ14世を最も尊敬する人物として挙げる傾向は、8年後の面接
調査結果においても大きな変化はない。確かに亡命チベット人社会全体のダラ
120
イ・ラマ14世に対する尊敬意識・崇拝意識には、比較の対象がないほど高い
ものがある。ダライ・ラマを目にするとき、老若男女を問わず「ただならぬ畏
敬 の 念 」「 保 護 さ れ て い る と い う 感 覚 」「 不 覚 に も む せ び 泣 く 」 と い う 衝 動 を 心
のうちに生じさせるほどである7。難民二世、三世という「祖国」や亡命初期
の苦難の時代を知らない若い世代においても、写真の中で微笑むダライ・ラマ
の姿に無上の喜びを覚えるという8。これほどまでに強い崇拝意識はいったい
どこから生まれてくるのであろうか。
榎木によれば、このような崇拝意識は歴代のすべてのダライ・ラマに向けら
れていたものではなく、それはダライ・ラマ14世に特化されているものであ
り、多くの亡命チベット人は過去13人のダライ・ラマについてはそれほどの
思い入れは持っていないという。しかし、この榎木の指摘は 亡命チベット人に
とって少々矛盾を含んでいる。なぜならチベット人にとって歴代ダライ・ラマ
は転生によって生まれ変わり続けており、ダライ・ラマ5世もダライ・ラマ1
4世も基本的には同一の存在だからである。
過去のダライ・ラマへの崇拝状況はわからないが、確かにダライ・ラマ14
世は非常に強い崇拝意識を集めている。この点について榎木は、かつてはなか
った民衆とダライ・ラマとの直接・間接的交感が、亡命チベット人社会におい
て可能になったことを理由に挙げている9。かつてのダライ・ラマは、ラサの
住民でさえ滅多にその姿を目にすること ができなかった。それが亡命後、頻繁
に民衆の前に姿を現すようになったのである。今ではネットに接続すればいつ
でもその姿を見たり、声を聞いたりすることができる。ダラムサラへ行き、手
続きを踏めば謁見も可能である。確かに以前と比べてダライ・ラマは身近な存
在となったといえる。
亡命チベット人たちにとって、ダライ・ラマ14世は菩薩の化身であり、慈
悲に満ち溢れており、チベット人の守り本尊であり、偉大なラマであることは
今も昔も変わりはない。ペマ・ギャルポが述べた「絵に描いた象徴的な観音菩
薩 と 、実 際 に 生 き て い る 観 音 菩 薩 と が 、つ ね に オ ー バ ー ラ ッ プ し て 」 1 0 い る と
いうイメージは、チベットの人々が綿々と抱き続けてきた伝統的なイメージで
あり、それらは主に伝統文化システムや家庭、寺院などで伝承されるものであ
ろう。しかし、現在の子どもたちが抱くダライ・ラマ14世のイメージは、民
族の大量難民化という苦境を乗り越え、中国という大国に非暴力主義で立ち向
か い 、国 際 社 会 が ノ ー ベ ル 平 和 賞 1 1 を 与 え て 応 援 す る 民 族 の 英 雄 と い う イ メ ー
ジであり、それらのイメージは主に学校行事や教室、インターネットや情報通
信メディアを通じて子どもたちに伝達されているものと考えられる 。
121
第 3節
子どものアイデンティティの諸相
当節では2012年9月、2013年2月、及び2013年10月に調査地
の 学 校 の 5 年 生( 1 3 歳 )2 1 名 、6 年 生( 1 4 歳 )2 1 名 、7 年 生( 1 5 歳 )
17名、卒業生(15歳から18歳)39名の合計98名を対象として実施し
た 心 理 テ ス ト 「 2 0 言 明 テ ス ト ( Twenty Statement Test)」 の 結 果 を 基 に 、 子
どものアイデンティティの全体像を検討し、その中で「亡命チベット人共同体
のアイデンティティ」がどのように位置付けされているかを確認する。
「 2 0 言 明 テ ス ト 」 と は 、 社 会 心 理 学 者 ク ー ン ( M. H. Khun) 1 2 ら に よ っ
て 開 発 さ れ た 心 理 テ ス ト で あ り 、対 象 者 は「 私 は 誰 か 」と い う 問 い に 対 し て「 私
は ○ ○ で あ る 」と い う 答 え を ご く 短 時 間 の う ち に 2 0 個 書 く こ と が 求 め ら れ る 。
「 2 0 言 明 テ ス ト 」 は 主 に 自 我 概 念 ( Self Concept) の 分 析 に 用 い ら れ る が 、
ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 分 析 ツ ー ル と し て も 使 用 さ れ て い る 1 3 。ア イ デ ン テ ィ テ ィ
は、
「 あ な た は 何 者 で あ る か 」と い う 問 い に 対 し て 、そ の 場 面 、関 係 性 に お け る
「自分とはこういうものだ」という一定の感覚を伴う言説として現れる動態 性
と し て 捉 え ら れ る こ と が 可 能 で あ り 1 4 、従 っ て「 2 0 言 明 テ ス ト 」の「 私 は ○
○である」という回答から、回答者がどのようなアイデンティティを有してい
るのか推測することができるのである。表6-2は、ある7年生の女子が「私
は○○である」という問いに対して自由記述した回答例である。
表 6-2
7 年生の回答例(女子)
122
越井が指摘しているとおり、
「 2 0 言 明 テ ス ト 」に 対 す る 子 ど も の 回 答 は 実 に
バ ラ エ テ ィ に 富 ん で い る 1 5 。し か し 、子 ど も の 頃 は 、例 え ば 表 6 - 2 の 回 答 例
の よ う に 「 私 は パ ン ダ が 好 き で あ る 」「 私 の 趣 味 は 読 書 で あ る 」「 私 は 小 食 で 、
たくさん食べない」といった自分の好みや性格、情動の面から定義づける傾向
にあるが、年齢が上がるにつれて中立的で客観的な社会構造上の記述概念を使
い、成人では職業、階層、性別、など社会的な地位や役割の概念で自己を規定
する傾向にあるという16。
表 6 - 2 は 筆 者 が 実 施 し た「 2 0 言 明 テ ス ト 」の 回 答 を 、先 行 研 究 1 7 の 分 析
手法に従って28種にカテゴリー化し、更に7種のアイデンティティ項目(生
得的属性、能力・特性・発達、嗜好・関心、価値観、所属集団、人間関係、そ
の他)にグループ化したものである。
表 6-2
子どもアイデンティティの諸相
※ 言 及 率 =言 及 さ れ た 回 数 ÷人 数 ( % )
まず自己描写で言及率の多かったカテゴリーの順位は、1活動の嗜好(読書
や ス ポ ー ツ な ど )、2 性 格 、3 学 校 、4 道 徳 ・ 価 値 ・規 範 、5 家 族 関 係 の 順 で あ
る 。当 該 年 齢 に お け る「 活 動 の 嗜 好 」が 高 い こ と は 、越 井 の 指 摘 1 8 や 野 津 の 先
行研究のデータとも一致する。また、この年齢になると自己の性格に対する関
心が深まるのは自然な心理発達であると言えるが、
「明るい」
「優 しい」
「愉快だ」
123
などという自己肯定的な回答が目立ち、否定的な回答は皆無である。否定的な
回答という点では「私は難民である」と答えた子どもは一人もいない。亡命チ
ベット人の子どもたちに特徴的な点は、アイデンティティ項目である「道徳・
価 値・規 範 」に つ い て の 言 及 率 が 高 い 点 で あ る 。こ れ ら は「 老 人 に 親 切 で あ る 」
「 親 を 助 け る 」「 正 直 者 で あ る 」「 貧 し い 人 を 助 け た い 」 な ど の 回 答 群 で あ る 。
また、仏教信仰に関する言及率はそれほど高くはないが、野津がタイ東北で実
施 し た「 2 0 言 明 テ ス ト 」の 結 果 と 比 較 す る と か な り 高 い 1 9 。亡 命 チ ベ ッ ト 人
の 子 ど も の 仏 教 信 仰 に 関 す る 回 答 群 は 「 ラ マ を 尊 敬 す る 」「 瞑 想 が 好 き で あ る 」
などである。これらの回答結果と、本章第1節で検討した内容を考え合わせる
と、入植地の子どもは家庭や寺院での仏教実践を通じてチベット社会に伝承さ
れてきた道徳観、倫理観、価値観を素直に受容しており、それが学校で強化さ
れ 、「 道 徳 的 で 良 き 仏 教 徒 で あ る 」 と 自 己 を 規 定 し て い る よ う に 思 え る 。
次の問題は、子どもたちがどのような集団アイデンティティを形成している
の か と い う こ と で あ る 。そ の 中 で「 亡 命 チ ベ ッ ト 人 共 同 体 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ 」
はどのような位置を占めて いるのであろうか。まず所属集団についての言及で
あるが、学校への所属を記述する回答が最も多い。学校への帰属意識が高いの
は 、先 行 研 究 の 結 果 2 0 と も 一 致 す る 。そ し て 、2 番 目 に 多 い 回 答 が「 私 は チ ベ
ット人である」という回答である。この言及率は自分たちの暮らしているコミ
ュニティを意味する「タシ・パルケルの住民」よりも高く、子どもたちの帰属
意識は自分たちのコミュニティよりも「チベット人」の方が強いといえる。亡
命チベット人の子どもの事例と、タイ東北部の子どもの事例を単純には比較で
き な い が 、タ イ 東 北 部 の 場 合 、
「 私 は タ イ 人 で あ る 」で あ る と 回 答 し た 言 及 率 は
小学校6年生の場合で54%、中学校3年生の場合で67%である。これに対
して亡命チベット人の子どもは5年生から10年生までの平均で89%であり、
タイ東北の事例と比較してかなり高いといえる。
ここで考慮しておかなければならないのは、子どもがどのような意味で「チ
ベ ッ ト 人 ( Tibetan )」 と い う 言 葉 を 使 用 し て い る か で あ る 。 考 え ら れ る の は 民
族 と し て の チ ベ ッ ト 人 、又 は「 父 国 チ ベ ッ ト 」に 属 す る チ ベ ッ ト 人 の い ず れ か 、
或いはその両方であろう。それが「父国チベット」に属するチベット人である
場合、
「 国 家 」を 志 向 す る 政 治 的 な 意 識 を 内 包 し て お り 、子 ど も は「 亡 命 チ ベ ッ
ト人共同体のアイデンティティ」を有していることになる。今回の「20言明
テスト」の結果だけでは、どちらの意味で使用しているかは明確にはわからな
い 。し か し 、
「 2 0 言 明 テ ス ト 」の 回 答 の 中 や 、個 別 に 行 な っ た 面 接 で の 子 ど も
発言の中に、子どもの内面にある政治的な主張を見出すことができる。それら
は「 私 は 中 国 が 嫌 い だ 」
「 私 は 中 国 か ら チ ベ ッ ト を 取 り 戻 す 」と い っ た 回 答 群 で
124
ある。これらの回答から、全員ではないにせよ、子どもたちの内面にライ・ラ
マを首長とする「父国」チベ ットの「国民」としての意識があるものと考えら
れる。
そ れ で は 、な ぜ 亡 命 チ ベ ッ ト 人 の 子 た ち の 、
「 2 0 言 明 テ ス ト 」に お け る 自 己
のエスニシティに関する言及率が高いのか。この疑問に対して関口が2001
年に日系ブラジル人生徒に対して行なった「20言明テスト」の分析結果は示
唆を与えてくれる。関口の調査では日系ブラジル人の他に海外帰国生徒と日本
人生徒も対象としており、その調査で日本人生徒が「私は日本人である」との
言及率は18%であり、海外帰国生徒の自己のエスニシティに関する言及率は
38%であった。これに対して日系ブラジル 人生徒の自己のエスニシティに関
す る 言 及 率 は 9 1 % と 、か な り 高 い 数 値 を 示 し て い る 2 1 。関 口 は 、日 系 ブ ラ ジ
ル人生徒のエスニシティへの言及率が高い理由を「彼らが常にマイノリティと
しての自己の出自を意識せざるを得ず、そのネガティブな意識が『私はブラジ
ル 人 で あ る 』と の 記 述 を 増 加 さ せ る 」 2 2 と 分 析 し て い る 。エ ス ニ シ テ ィ に 関 す
る亡命チベット人の子どもたちの言及率は、日系ブラジル人生徒に匹敵するほ
ど高い。亡命チベット人の場合も日系ブラジル人と同じように、常に自分たち
が「チベット人である」ことを意識せざるを得ない外的要因が存在し ているの
であろう。その外的要因とは、この国では自分たちがマイノリティであるとい
うことに加え、難民一世の頃から変わることのない「難民」というラベリング
であるように思われる。そして、その外的要因とアイデンティティ形成を促進
する主体との相互作用により、子どもたちのチベット人としてのアイデンティ
ティは強固に形成されていくものと考えられる。
125
チベットの「国旗」である「雪山獅子旗」にも、「チベットが仏教以外の教え
や 思 想 に 対 し て も オ ー プ ン で あ る 」こ と が 示 さ れ て い る 。亡 命 チ ベ ッ ト 人 社 会 に
仏 教 徒 以 外 の 亡 命 チ ベ ッ ト 人 が い る の か は 統 計 が な い の で 定 か で は な い が 、中 国
に 併 合 さ れ る 前 の チ ベ ッ ト で は 、イ ス ラ ム 教 徒( イ ン ド・カ シ ミ ー ル 地 方 か ら の
移 民 )や キ リ ス ト 教 徒 、ヒ ン ズ ー 教 徒 も 少 数 な が ら 暮 ら し て い た と の 記 録 が あ る 。
多 田 等 観 (1942) 前 掲 書 ,p. 97.
2 長尾雅人は、チベット仏教の特色として、この観音六字真言が宗派のいかんを
問 わ ず 普 遍 的 で あ る こ と を 指 摘 し て い る 。 長 尾 雅 人 (1989) 前 掲 書 ,p. 19.
3 http://www.tibethou se. jp/cu lture/ omph.h tml
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 12 月 20 日 )
4 Om・ M ani・ Pedme・ Hum の Om と は 、 釈 迦 の 説 い た 「 悟 り 道 を 開 い て 純 粋 な
境 地 に 到 達 し た と き 、過 去 の 不 浄 か ら 負 の 属 性 を 取 り 除 き 、不 浄 な 身 体 ・言 葉 ・
思 考 も 変 わ る こ と が で き る 」 と い う 意 味 が 集 約 さ れ た 言 葉 で あ る 。 M an i と は 、
宝 石 を 意 味 し て お り「 秩 序 、慈 悲 、他 者 へ の 思 い や り な ど の 悟 り を 開 く 要 素 」を
示 す 言 葉 で あ る 。 Pedme と は 、 蓮 を 意 味 し て お り 、 「 泥 の 中 に 生 え て い て も 泥
に 染 ま ら な い 知 恵 の 本 質 」 を 表 す 言 葉 で あ る 。 Hum と は 、 「 秩 序 と 知 恵 が 調 和
することにより至ることができる純粋な境地」を表す言葉である。
http://www.tibethou se. jp/culture/omph.h tml
(最 終 閲 覧 日 : 2013 年 12 月 20 日 )
5 筆 者 が 面 接 調 査 を 行 っ た 32 名 の う ち 、「 あ な た は 良 い 仏 教 徒 か 」と い う 問 い か
け に 対 し て 「 そ う 思 う 」 と 答 え た の は 25 名 で あ り 、 「 そ う な り た い 」 と い う 回
答が 2 名、「そうは思わない」が 3 名、「わからない」が 2 名だった。「そう
思う」と答えた子どもは、その理由をひとつから 3 つ程度あげ、それらはすべ
て自分の善行に関連付けられた内容であった。
6 榎 井 克 明 (2006) 前 掲 論 文 ,pp. 84-95.
7 榎 木 美 樹 (2009) 前 掲 論 文 ,p.10.
8 榎 木 美 樹 (2009) 前 掲 論 文 ,p.10.
9 榎 木 美 樹 (2009) 前 掲 論 文 ,p.10.
1 0 ギ ャ ル ポ , ペ マ (1995) 前 掲 書 ,p. 162.
1 1 ダ ラ イ・ラ マ 1 4 世 が ノ ー ベ ル 平 和 賞 を 授 与 さ れ た こ と を 記 念 し て 、受 賞 日 で
あ る 12 月 10 日 を 亡 命 チ ベ ッ ト 人 共 同 体 の 定 め る 祝 日 と し て い る 。
1 2 越 井 郁 朗 (1986) 「 自 我 と 社 会 」 間 場 寿 一 編 著 『 社 会 心 理 学 を 学 ぶ 人 の た め に 』
世 界 思 想 社 ,p. 42.
1 3 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,pp.228-229.
1 4 高 橋 聡 (2012)「 言 語 教 育 に お け る こ と ば と 自 己 ア イ デ ン テ ィ テ ィ 」『 言 語 文 化
教 育 研 究 第 10 巻 』 言 語 文 化 教 育 研 究 所 , p.37.
1 5 越 井 郁 朗 (1986) 前 掲 書 ,pp.42-43.
1 6 ク ー ン (Khun)は 、 子 ど も の 頃 に 見 ら れ る 個 人 的 ・ 主 観 的 な 自 己 規 定 を 潜 在 的
合 意 (su b-con sen sual)、 成 人 の 頃 に 見 ら れ る 社 会 共 有 的 な 規 定 を 合 意 性
(consen sual) と 名 づ け て い る 。 越 井 郁 朗 (1986) 前 掲 書 ,p. 43.
1 7 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 232.
1 8 越 井 郁 朗 (1986) 前 掲 書 ,p. 42.
1 9 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 233.
2 0 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 238.
2 1 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 238.
2 2 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 238.
1
126
終章
第1節
まとめと今後の研究課題
本論文のまとめ
本研究の主たる課題は、半世紀以上も難民という地位のまま庇護国に居住し
ている亡命チベット人を研究対象として、インド亜大陸の広範な地域に点在す
る居住地において、
「 祖 国 」を 知 ら ず に 生 ま れ る 子 ど も た ち が 、い か な る 過 程 か
らチベット人としてのアイデンティティを形成していくのか、その過程に学校
やその他のアクターは、どのように関与しているのかを明らかにすることであ
った。本節では本研究の結論を、序章において示した本研究の意義に沿って提
示していく。
1 亡命チベット人の子どもは、いかにして「父国」の「国民」となったか?
ア ン ダ ー ソ ン( Benedict Anderson )は 、そ の 著 書『 想 像 の 共 同 体 』の 中 で 、
国民とは「想像された共同体」であると述べている。家族や村落単位の共同体
意識が、その構成員を互いに知っていることによって成立しているのに対し、
国民としての共同体意識が大多数の構成員が互いに会うこともないにもかかわ
らず成立するのは、共通の歴史や文化を共有している同胞たちが住む「祖国」
と し て の イ メ ー ジ を 共 有 し て い る か ら で あ り 、国 民 と い う 共 同 体 は こ の 想 像( イ
メージ)の共有によって成立する概念であるというのである 1。
亡命当初、ダライ・ラマは亡命チベット人たちが収容されていた各地の難民
キ ャ ン プ を 訪 問 し 、過 酷 な 生 活 を 強 い ら れ て い た 人 々 を 励 ま し 、
「 祖 国 」を 再 建
するための青写真を直接示したという2。チベット人にとって観音菩薩の化身
であり、雲の上の人であるダライ・ラマが眼前に現れ、語り始めた時の民衆の
歓喜と熱狂は容易に想像ができる。難民キャンプにおける混住生活を通して醸
成 さ れ た 同 胞 意 識 は 、 ダ ラ イ ・ ラ マ が 表 象 す る 「 父 国 ( Pha yul)」 3 に 属 す る
「国民」としてのイメージを共有することにより、強い凝集力をもって集団的
な政治意識や行動を動機づける新しいタイプの集団的アイデンティティに変容
していったのである。本研究では、その集団的アイデンティティが、民族への
帰属意識だけではなく、
「 国 家 」を 志 向 す る 政 治 共 同 体 と し て の 意 識 を 包 摂 し て
いたことから、そのアイデンティティを、ネイションなき「ナショナル・アイ
デ ン テ ィ テ ィ 」、或 い は そ れ に 極 め て 近 似 し た 集 団 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ と 規 定 し
て 議 論 を 進 め て き た 。 そ れ で は ダ ラ イ ・ ラ マ が 表 象 す る 「 父 国 ( Pha yul)」 と
は、いったいどのような「国家」であったのか。それは、1963年に亡命政
府によって公布された「チベット人憲章草案」に明確に示されている。そこに
127
は、
「 釈 尊 の 説 か れ た 教 義 、チ ベ ッ ト の 宗 教 界 、世 俗 界 の 伝 統 的 遺 産 、及 び 近 代
世 界 の 考 え と 理 想 」 4 が 取 り 入 れ ら れ 、「 転 生 」と い う 一 種 の 世 襲 制 度 に よ っ て
地位が継承されていくダライ・ラマを国家元首と定めつつも、民主主義を基本
理念とした近代的な国民国家が描かれていたのである。
アンダーソンは「国民を構成する」ということは、我々の時代の政治生活に
おけるもっとも普遍的で正統的な価値のひとつであると述べている。
「国民を構
成する」ということは、ナショナリズムと並ぶ特殊な文化的人造物であり、そ
れはひとたび創り出されると「モジュール(規格化され独自の機能を持つ交換
可能な構成要素)となって、多かれ少なかれ自覚的に、極めて多様な社会的土
壌に移植できるようになり、これまた極めて多様な、政治的、イデオロギー的
パターンと合体し、またこれに合体されていく」5。アンダーソンの指摘どお
り、このモジュールは、分断国家の断片のような亡命チベット人共同体にも移
植 さ れ 、国 家 の 再 建 を 目 指 す 亡 命 政 府 の イ デ オ ロ ギ ー と 合 体 を 遂 げ た の で あ る 。
近代のあらゆる国家は国民国家であり、主権を有する国家群の中では国籍や
市民権を付与された国民が暮らしている。それでは「近代のフィクションであ
る国民」6は、どのようにして形成されるのであろうか。パーソンズ社会学に
よれば、人々が作り上げた思想や哲学、宗教や道徳は、それぞれの地域や時代
に応じてある独特のまとまりを持ち、整合的な「価値」のシステムを形成して
いるという。
「 価 値 」は 内 面 化 さ れ る と 人 々 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 核 と な り 、人
格 を 一 つ の シ ス テ ム と し て 形 成 す る こ と を 可 能 に す る 7 。ま た 、「 価 値 」が 人 々
に共有され制度化されることによって、社会はひとつのシステムとして形成さ
れるようになる。その「価値」を内面化し、他の人々と共有することにより人
は身体的・精神的同一性を獲得する。国民国家の場合、その「価値」とは、国
家 の 歴 史 の 中 で 独 特 の ま と ま り を 持 つ に 至 っ た 文 化 、言 語 、思 想 、哲 学 、宗 教 、
道徳などであろう。つまり、人は成長とともに国民国家の価値や規範を内面化
し、社会構成的文化の中で形成されるアイデンティティを他の構成員と共有し
ながら後天的に国民として形成されるのである。
カ ナ ダ の 政 治 哲 学 者 キ ム リ ッ カ ( Will Kymlica) は 、 シ チ ズ ン シ ッ プ 論 に お
ける議論の中で、
「 同 じ 市 民 権 を 共 有 し て い て も 、人 々 は 同 じ 国 民 と は 感 じ な い 。
より本質的なのはアイデンティティの共有である」8と述べている。亡命チベ
ット人共同体の場合も、構成員を「父国」に属する「国民」として形成するた
めには、亡命チベット人社会に内在する整合的な「価値」が、すべての構成員
に内面化され、構成員の間で「国民」としてのアイデンティティが共有される
必要があった。何かを伝達する場合、社会が広範になればなるほどしっかりと
したシステムが必要となる。国民国家の場合、国民としてのアイデンティティ
128
の核となる「価値」を伝達する手段は「学校教育、ラジオ・テレビ、新聞など
のマスコミ報道、国民的行事」9などの諸装置であろう。公教育はその中心的
な役割を果たしているものと考えられている。通常、これらの諸装置は、国家
の支配の及ぶ様々な公共圏に配置されているが、亡命チベット人共同体には自
らの公共圏は存在しない。また、亡命チベット人たちが生活の基盤を置いてい
るのは、インドやネパールにある47のチベット人入植地である。それらの居
住地はインド亜大陸の広い範囲に点在し、そして互いに遠く離れていた。
1960年代、チベット亡命政府は、これらの入植地に国際社会の支援を受
け て 学 校 を 建 て 、国 民 国 家 が 国 民 形 成( nation-building)に 用 い た 擬 制 的 な 教
育制度を導入した。それ以降、約半世紀にわたって亡命政府は入植地の子ども
たちに、亡命チベット人学校という単一の教育機関、共通の教科書、ダラムサ
ラで均一のトレーニングを受けた教師によって均質的な教育を与えてきたので
あ る 。グ リ ー ン は「 国 家 形 成 の 過 程 が 特 に 圧 縮 さ れ 急 激 で あ る よ う な 場 合 に は 、
国 民 教 育 制 度 の 発 展 も ま た 急 激 な も の と な っ た 」1 0 と 述 べ て い る が 、ま さ に 亡
命 チ ベ ッ ト 人 共 同 体 の 場 合 も 、共 同 体 の 形 成 が 大 き く 進 展 1 1 し た 1 9 6 0 年 代
に、学校教育は最も拡大している。
社会装置としてのカリキュラムは「人類の文化遺産のなかから教育的に価値
の あ る 知 識 を 選 択 し 、分 類 し 、配 列 」 1 2 す る 。教 育 知 は こ れ ら の カ リ キ ュ ラ ム
の統制の後に学習者に提供される。このような教育知の統制は、何らかの形で
全 体 社 会 の イ デ オ ロ ギ ー を 反 映 し て お り 、そ の 帰 結 と し て カ リ キ ュ ラ ム は 、
「知
識 の 伝 達 と し て の 学 校 を 社 会 的 統 制 の 機 関 に 変 え る 」1 3 と 考 え ら れ て い る 。亡
命チベット人共同体の教育カリキュラムにも、本来であれば亡命チベット人社
会 の イ デ オ ロ ギ ー が 反 映 さ れ る は ず で あ っ た が 、ホ ス ト 国 政 府 の 制 限 が 厳 し く 、
カリキュラムを自由に組むことができなかった。そこで、亡命政府はチベット
語 の 教 科 書 に 、チ ベ ッ ト の「 歴 史 上 の 領 域 、共 通 の 神 話 と 歴 史 的 記 憶 、大 衆 的 ・
公的な文化」14、仏教などの教育知を反映させたのである。
ハ ー グ リ ー ヴ ス ( Alec G. Hargreaves ) は 、 著 書 『 現 代 フ ラ ン ス ― 移 民 か ら
見た世界』の中で以下のように述べている。
「今日、三つの主要な要素が文化体系の伝達に影響を及ぼしている。個々
の人生に最も早くから影響を及ぼすのが家族である。次にくるのが、子が
成人になる準備として経由する教育である。これとともに、その後の人生
を通して、マスメディアが個々の世界観に多大な影響を及ぼす映像と情報
を伝える」15
129
山内は、
「 こ れ ら 家 族 、教 育 、マ ス メ デ ィ ア の う ち 、国 家 は 家 族 に 対 し て 統 制
を 及 ぼ す の は 難 し い が 、教 育 と マ ス メ デ ィ ア を か な り 統 制 し て い る 」1 6 と い う
フランスにおけるハーグリーヴスの見方が、アジアにおいてどの程度当てはま
るのかということについて、
「マグレブ系移民の教育問題と共通する面はあるが、
アジアにおいては家族の教育=インフォーマル教育とフォーマル教育の衝突が
頻 繁 に み ら れ る 」 1 7 と 指 摘 し て い る 。亡 命 チ ベ ッ ト 人 共 同 体 の 場 合 、当 然 の こ
とながら「マスメディア」を統制することは難しい。しかし、亡命チベット人
共同体は公教育に相当する教育システムを作り上げ、滞在国の教育政策による
制約を受けながらもかなり統制している。換言すれば、亡命政府は国民国家の
使用する国家装置のうち、教育だけは文化体系の伝達の手段として使うことが
できたのである。更にいえば、亡命チベット人共同体では家族の教育とフォー
マル教育の衝突は見られず、むしろ家族の教育(主に宗教的価値の伝達)がフ
ォーマル教育を補完しているといえる。
これまでの検討から、亡命チベット人学校は共同体のアイデンテ ィティ形成
を達成するための主要装置の役割を果たしているといっても良いだろう。その
形成メカニズムを、序章において示した実践共同体論を援用して提示する(下
図 )1 8 。実 践 共 同 体 論 は 学 習 と い う 概 念 を 単 に 頭 の 中 の 認 知 過 程 と し て 見 る の
ではなく、特定の共同体への言語活動や身体活動、アイデンティティ形成も含
む全人格的な参加の過程として捉えるというものである 19。
図 7-1 亡 命 チ ベ ッ ト 人 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ 形 成 メ カ ニ ズ ム
出所:筆者作成
130
亡命チベット人の子どもは、亡命チベット人学校入学と同時に「亡命チベッ
ト人共同体のアイデンティティ」形成装置の中に参入する。カリキュラムでは
教科としての「チベット語」に最も重要な役割が与えられている。子どもたち
は「チベット語」の授業を通して共同体の共通言語であるチベット語を学習す
る だ け で な く 、教 科 書 が 表 象 す る「 国 家 」と し て の チ ベ ッ ト 、そ の 歴 史 や 風 土 、
仏 教 的 道 徳 規 範 を 内 面 化 す る 。教 科 書 に は 幾 度 と な く「 བློ ད( Bod)」と 書 か れ た
チベットの歴史的領域を示す地図が登場する。子どもたちは学校を卒業した後
も 、そ の 形 を 見 た 瞬 間 、自 分 た ち の「 国 家 」を 想 起 す る の で あ る 。ま た 、
「音楽」
や「舞踊」の授業では伝統楽器の弾き方を学び、民族衣装を着てチベット舞踊
を踊る。これらは共同体で催される祝典や祭事などで同じ踊りを目にしたり、
聞き覚えのある歌を耳にした時に、同じ共同体の一員としての連帯感を強める
装置として作用している。
教室や職員室の壁に掲げられたダライ・ラマ14世の肖像や、校舎の壁に描
かれた仏陀の生涯、チベットの原風景、校庭で風にはためく「雪山獅子旗」な
ど、学校空間はまるで「チベット国家」を表象した小宇宙のようである。この
小宇宙に顕在するダライ・ラマへの崇拝意識や仏教価値、国家イメージなどを
子 ど も た ち は 毎 日 の 学 校 生 活 で 視 覚 か ら 取 り 入 れ 、内 面 化 し て い く 。
「雪山獅子
旗 」の 掲 揚 、
「 チ ベ ッ ト 国 歌 」の 斉 唱 、マ ン ト ラ の 唱 和 な ど の 毎 朝 、校 庭 で 行 わ
れる日常的学校活動は子どもたちの生活のリズムを創出するともに、共同体へ
の忠誠意識、仏教への帰依などを涵養する。また、同時に仏陀への礼拝動作や
公共の場での振舞いなどを訓練され、チベット人に共通した「身振り」や「し
ぐさ」を無意識に会得し、身体的同一性を獲得する。コミュニティに内在する
様々な主体は、学校における 子どものアイデンティティ形成を補完し、更にホ
スト国文化との接触によって齎される難民としてのネガティブな意識が子ども
の内面に影響を及ぼす外的要因となっている。このように子どもたちは、学校
とコミュニティ内における主体との相互作用と、その複雑に絡み合った文化の
習得の連鎖の中で共同体共通のアイデンティティを獲得し、総合的に「父国チ
ベット」の「国民」として形成されて行くものと考えられるのである。
2 学校教育とアイデンティティ形成に関する考察
「 同 一 で あ る こ と( being identical)」か ら「 ア イ デ ン テ ィ テ ィ( 同 一 性 )を
分 け 持 つ こ と( sharing an identity)」へ 、さ ら に 自 分 自 身 を 特 定 の 集 団 の 他 者
と 「 同 一 化 ( identifying )」 す る こ と は 、 ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 概 念 の 一 般 的 な
用 例 の う ち 最 も よ く 知 ら れ て い る も の で あ る 2 0 。人 は 生 涯 に わ た り 実 に 多 く の
アイデンティティを形成するが、学校教育は人のアイデンティティ形成にどの
131
ように関わり、どのような役割を果たすのであろうか。
代 表 的 な 集 団 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ の ひ と つ で あ る「 民 族 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ 」
を形成する要因は、その民族の生まれであるかを自覚する、民族的集団の一員
であることに対して自信や誇り等の好意的・肯定的な感情を持つ、民族的集団
内で他の構成員から「仲間であること」を認めてもらえる、民族固有の文化・
行 動 パ タ ー ン・価 値 観 を 身 に 付 け て い る 、の 四 つ で あ る と い わ れ て い る 2 1 。こ
れらの要因は、同じ民族である程度まとまって集住することなどにより齎され
るものであろう。しかし、ある種の集団的アイデンティティは、自然に形成さ
れるものではない。憲法学者の百地章は「郷土愛(パトリオティズム)は自然
と身につく感情であるが、国家意識さらには愛国心(ナショナリズ ム)は、本
能 だ け で は な く 教 育 等 に よ っ て は じ め て 育 ま れ る も の で あ る 」2 2 と 述 べ て い る 。
百地のいう国家意識とは、序章において示した国家に対する帰属意識、つまり
ナショナル・アイデンティティのことである。
今日、多くの国民国家では同質的国民を形成するため、ナショナル・アイデ
ンティティを統合原理とする教育が導入されている。国民国家において国民と
しての身体的・精神的同一性(=ナショナル・アイデンティティ)の獲得はル
イ・アルチュセールが指摘したような様々な国家装置を用いて達成されるが、
その中で学校教育は特に重要な意味を持っている。古典的社会学者と評される
デ ュ ル ケ ム ( E. Durkheim ) や ウ ェ ー バ ー は 教 育 知 を 文 化 支 配 の 手 段 で あ り 、
カリキュラムを、その社会の支配勢力が構築した統制装置であると見なしてい
た 2 3 。山 内 も 論 考『 ア ジ ア に お け る 国 民 国 家 と 教 育 』の 中 で「 見 方 に よ っ て は 、
公教育とは社会への準備を図るという名のもとに、ある民族の特殊な文化を、
普遍的な国民文化としてすべての構成員に修得を強制する、支配のための暴力
装置であるともいえる」と述べている。確かに公教育は、国語教育や歴史・地
理教育、各種儀式の制度化などの諸装置を用いて遂行 される「アイデンティテ
ィ・ポ リ テ ィ ク ス の 一 形 式 」 2 4 と い う 一 面 が あ る 。亡 命 チ ベ ッ ト 人 共 同 体 に お
いても、共同体共通のアイデンティティの獲得における学校のヘゲモニーは強
力である。果たして公教育とは、文化的に豊かで同質な国家の形成に資した教
育システムなのであろうか、それとも支配のための暴力装置なのであろうか。
我 々 は 社 会 か ら 切 り 離 さ れ た「 孤 島 」 2 5 と し て 生 ま れ 、生 き て い く の で は な
く、何らかの集団や共同体の一員として生きていく。従って子どもの頃から慣
れ親しんだ共同体の言語や慣習は、思考構造や感受性の様式に影響を与え、生
きていく上で必要な価値観、倫理観を形成していく基盤となる。また固有の倫
理観や規範を持った共同体は、そこで生まれ育つ人々に、連帯感や責任感など
のような公共心を涵養する機能を持つ。つまり人は、ある共同体との関わりの
132
中で共同体の構成員としてのアイデンティティを形成し、
「 自 分 は 何 者 か 」と 言
っ た 根 源 的 な 問 い に 対 す る 答 え を 見 出 し 、自 己 を 安 定 さ せ る と 同 時 に 、
「合理的
判断の様式や合理性の理解、行動規範や慣習、個人の道徳意識や政治的立場な
ど 」2 6 を 身 に 付 け て 行 く の で あ る 。こ の よ う に 考 え る 時 、教 育 シ ス テ ム は 文 化
的に豊かで同質な共同体の形成に資するシステムであるといえる。一方で、あ
る特定の共同体、ある特定の文化の中に生まれ育った人が、その共同体や文化
の中で生きる殆どの人々とはまったく違う考え方を持っていたり、他の共同体
に帰属意識を示してはいけないということがある場合、それは合理的思考をす
ることが共同体の偏狭な価値観によって抑圧されていることになり、公教育は
その共同体の文化や価値を押し付ける支配のための暴力装置であるといえる。
ア マ ル テ ィ ア・セ ン は そ の 著 書『 ア イ デ ン テ ィ テ ィ に 先 行 す る 理 性 』の 中 で 、
社 会 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 重 要 性 を 認 め た う え で 2 7 、そ れ は 発 見 す る も の で は
なく、選択し得るものだと主張している。しかし、ナショナル・アイデンティ
ティについていえば、殆ど選択の余地などないように見える。子どもは公教育
の義務性、無償性によって国民形成装置の中に参入し、国語教育や歴史・地理
教育、各種儀式や複雑に絡み合った文化の習得の連鎖の中で国民として形成さ
れていく。つまり、学校教育を通して、ほとんど無意識のうちに一人の国民と
して形成されるのである。しかし、それでもアイデンティティは、無制限では
な い に せ よ 、「 選 択 で き る 」 と い う の が セ ン の 主 張 で あ る 。
センの主張は以下のようなものである。社会的アイデンティティとは、ある
特 定 の 集 団 へ の 帰 属 意 識 、す な わ ち あ る 共 同 体( 家 族 、学 校 、地 域 、会 社 組 織 、
国 家 ) の 成 員 で あ る こ と か ら 生 ま れ る 共 同 性 の 意 識 の こ と で あ る 2 8 。「 わ れ わ
れが倫理や規範、更には知識や理解力を身に付けていく時に、われわれが同一
化し、付き合いをもつ共同体の人々は、大きな影響力を持っている。この意味
で 社 会 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ は ま さ に 人 間 生 活 の 中 心 」2 9 に あ り 、従 っ て 社 会 的
アイデンティティは重要であり、更にそれは発見するものではなく選択可能な
ものである。例えば移民とし てある国に移住した人がその国の国籍を取得した
場合、自分の出自の民族的・文化的アイデンティティとナショナル・アイデン
ティティは一致しない。この二つのアイデンティティが何らかの理由で競合し
た 場 合 、出 自 の 民 族 的・文 化 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 方 が 重 要 に な る と は 限 ら ず 、
国民として帰属する国家へのアイデンティティの方が強いことも起こり得る。
つまり問題は、人がどのようなアイデンティティを持っているかではなく、ど
のアイデンティティがその人にとって重要かということであり、従ってそこに
は常に選択の余地が残されている。そして、その選択に際して、最も重要な役
割を果たすのは「合理的判断」である 30。
133
更にセンは、
「 ア イ デ ン テ ィ テ ィ に お け る 多 元 性 、選 択 、合 理 的 判 断 を 否 定 す
ることは、暴力や野蛮のみならず今も昔も変わらない抑圧を生み出す可能性が
あ る 」 3 1 と 指 摘 し て い る 。「 合 理 的 判 断 」 に 基 づ く 選 択 と し て で は な く 、 あ る
社会的アイデンティティを何の疑問も抱かずに受け入れた結果、過激なアイデ
ンティティの変化が生じて極端な行動が引き起こされることは確かにあり得る。
セ ン は そ の 事 例 と し て 、1 9 4 0 年 代 半 ば に イ ン ド で 分 離 政 策 が 実 施 さ れ た 後 、
インド人としてのアイデン ティティが数ヶ月の間にヒンドゥ教徒、イスラム教
徒、シーク教徒というセクト別のアイデンティティに取って代わられ、大虐殺
を伴う無分別な群衆行動を引き起こしたことを挙げている 32。
この例を引き合いに出すまでもなく、我々は過激なアイデンティティが引き
起こした極端な例として、ベネディクト・アンダーソンが「かくも限られた想
像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいっ
た」33と指摘する、あのふたつの戦争を思い浮かべることができる。
亡命チベット人共同体においても、アイデンティティが極端な行動が引き 起
こ し た 事 例 が あ る 。 事 の 発 端 は 1 9 9 8 年 に ト ゥ プ テ ン ・ ゴ ド ゥ プ ( Thupten
Ngodup ) と い う 一 人 の 亡 命 チ ベ ッ ト 人 が 、 イ ン ド で 抗 議 の た め の 最 初 の 焼 身
自殺行為を行なったのだが、この焼身自殺事件以降、亡命チベット人共同体で
はトゥプテンの勇敢な行為を讃える傾向が強まった。2001年以降の小学校
のチベット語の教科書には焼身自殺をはかるトゥプテンの写真が載っており、
その横には「勇敢」と言う単語が付与されている。トゥプテンの行為が教科書
に 肯 定 的 に 取 り 上 げ ら れ て い る こ と と 3 4 、チ ベ ッ ト や イ ン ド で 頻 発 し て い る 焼
身 自 殺 行 為 と の 関 連 性 は わ か ら な い が 、少 な く と も 子 ど も た ち の 記 憶 の 中 で は 、
抗議の焼身自殺と「勇敢」という言葉は一対になっている。
センは、ナショナル・アイデンティティへの過剰な思い入れに対して警鐘を
鳴らしている。ナショナル・アイデンティティの神聖化は独裁的な支配にも繋
がり、ひどい場合には紛争を引き起こす可能性もあるからである。だからと言
っ て ナ シ ョ ナ ル・ア イ デ ン テ ィ テ ィ が 不 要 だ と い う の で は な い 。セ ン の 主 張 は 、
多くの人々が国家単位を超えた連携関係によってつながるようになれば、国家
や民族以外のアイデンティティが重要な意味を帯びてくるというものである。
例えば国境を越えて協同する医師としての職業的アイデンティティなどがそう
である。医師としての職業的アイデンティティが葛藤の末、自分の属する国へ
の忠誠意識より優先されることがあっても決して間違いとはいえない。つまり
セ ン は 、我 々 が 分 け 持 っ て い る 人 間 と し て の 責 務 は 、
「 民 族 」や「 国 民 」の 一 員
であることによって成り立っているわけでなく、
「 人 間 」で あ る と い う 、お そ ら
く最も根源的なアイデンティティを正しく理解することが重要だといっている
134
のであろう35。
ア ン ソ ニ ー・ス ミ ス は 、
「世界のいくつかの地域においては集合的アイデンテ
ィティ形成の新しい段階の到来を予感させるが、当分の間、ナショナル・アイ
デンティティは強力な凝集力を保持し、地球上の様々な場所へ伝播していくで
あ ろ う 」 3 6 と 述 べ て い る 。お そ ら く ス ミ ス の 指 摘 は 正 し い 。だ と す れ ば 、我 々
はその他の尊重すべきアイデンティティの主張を排除して、ナショナル・アイ
デンティティのみを最優先させるというのではなく、どのアイデンティティを
選択すべきかについての合理的判断を下す余地を残しておく必要があるという
センの主張は、今後ますます重要になってくるだろう。
亡命チベット人たちが歩んできた半世紀に及ぶ歴史は、ダライ・ラマ14世
と亡命政府が近代的な国家の建設を希求し、次の世代を担う子どもたちに高い
教育レベルを達成してきた歴史でもある。彼らの学校は、ホスト国との間に大
きな摩擦もなく、亡命チベット人たちのアイデンティティの形成と再生産に成
功し、亡命チベット人たちに経済的自立を齎した。もし亡命政府が偏狭なアイ
デンティティを要求し、チベット語至上主義や極端な排他主義をとっていたと
し た ら 、亡 命 チ ベ ッ ト 人 た ち の 現 在 の 状 況 は 違 っ た も の に な っ て い た 筈 で あ る 。
このように考えると亡命チベット人共同 体の教育の歴史は、センが主張するア
イデンティティの選択について、一つの基盤を与える実践例といえるのではな
いだろうか。
3 亡命チベット人共同体が直面している教育的課題
これまで見てきたように、半世紀以上も難民が続いているにも関わらず、亡
命チベット人共同体は今のところ瓦解せず維持されている。中国側のチベット
自治区ではチベット族の就学率が低迷していることが報告されているが、亡命
チベット人の初等教育における就学率は約97%であり、滞在国の就学率をも
上 回 っ て い る 3 7 。か つ て 各 地 の 入 植 地 に あ る チ ベ ッ ト 絨 毯 工 場 で は 、亡 命 チ ベ
ット人の子どもたちが働いている姿をしばしば見かけた。筆者が1985年に
ジャワラケルという入植地で行なった調査では、約30名の学齢期にある子ど
もたちが絨毯工場で働いていることを確認している 38。当時の学校の話では、
入植地全体の約15%の子どもが「家計が苦しい」という理由で労働に借り出
され、学校に行けない状態に置かれていた。しかし現在、どの入植地の絨毯工
場においても亡命チベット人の子どもたちの姿はまったく見かけない。逆に現
在、給料の安い絨毯工場で働いているのは亡命チ ベット人に雇用されたネパー
ル人であり、学校で教育を受けた難民二世、三世は、より高い収入を求めて入
植地の外で働いている。難民一世たちの時代には言葉や学歴の問題で収入の良
135
い仕事を得ることができなかったが、難民二世、三世は滞在国の言葉や英語を
話すことができ、また、滞在国政府の公認する学歴を有することで仕事の選択
肢も随分と増えた。亡命政府の約半世紀にわたる教育政策が奏功し、亡命チベ
ット人たちを取り巻く生活環境はかなり改善されてきたといえる。
しかし、問題がないわけではない。近年、亡命チベット人共同体で「チベッ
ト 語 の 危 機 ( Tibetan language in crisis )」 と い う 言 葉 を 頻 繁 に 耳 に す る よ う
になったが、それは、特に難民三世の世代におけるチベット語能力の低下を意
味する言葉である。亡命チベット人共同体の子どもたちのチベット語のレベル
の低下は、既に教育関係者の間では1980年代頃から問題となっていたが、
最近はコミュニティ・レベルでも若い世代におけるチベット語の能力の低下を
心配する声が上がっている。また、子どもたちのチベット語の能力に対する危
機感は、本論第3章で取り上げたダライ・ラマ14世のスピーチの中にも表れ
ている。入植地の子どもたちは、家庭においても、学校においても、入植地内
で の 仲 間 集 団 や 大 人 た ち と も チ ベ ッ ト 語 で 会 話 し て お り 、入 植 地 内 に い る 限 り 、
チベット語以外の言葉は殆ど聞こえてこない。筆者は30年前から亡命チベッ
ト人の入植地をたびたび訪れているが、入植地で暮らす子どもたちの言語状況
に大きな変化を感じたことはなかった。それでは「チベット語の能力の低下」
とは、具体的にはどのような状況を指すのであろうか。調査地の学校のチベッ
ト語教師によると、それは「読み書き能力の低下」であるという。その教師は
「例えばここに、同じ内容が書かれたチベット語の本と、英語の本があるとす
る。必ずその本を読まなければならないとしたら、子どもたちの多くは英語の
方を選択するだろう」と述べた。この事象を理解するため、筆者は2012年
9月、2013年2月および10月に調査地にあるマウント・カイラス・スク
ールの5年生以上の生徒59名と調査地に住む卒業生39名に対して「日常会
話において最も簡単に感じる言語」と「読み書きにおいても最も簡単に感じる
言語」に関するアンケート調査を実施した。以下はその結果である。
表 7-1 チ ベ ッ ト 語 に 関 す る ア ン ケ ー ト 調 査
136
「読み書き能力の低下」という場合、そこには暗黙裡に「以前と比較して」
という前置詞が必要となるが、これを示す客観的なデータは存在しない。しか
し、教育関係者やコミュニティの大人たちの見立てによれば、子どもたちのチ
ベット語の読み書き能力は明らかに低下している。本研究の実施した調査の結
果からは、子どもたちのチベット語の読み書き能力が以前と比較して低下して
いるかはどうかわからないが、そこからは子どもたちの複雑な言語状況が浮か
び上がってくる。すなわち「会話の言葉」としては母語であるチベット語が圧
倒 的 に 優 位 で あ る が 、「 読 み 書 き の 言 葉 」 に な る と 英 語 に 逆 転 さ れ る の で あ る 。
高学年に進むにつれてこの傾向は更に強まる。当たり前のことであるが子ども
たちはチベット語を第1言語とする家庭に生まれ、ごく自然にチベット語を話
すようになる。しかし、子どもたちがチベット語の文字や文法を覚えるのは学
校に入ってからのことである。英語も同じく学校に入ってから単語や文法を学
び始めるのに「読み書きの言葉」になると、なぜ英語が優位になるのか。それ
にはいくつかの要因が考えられる。
まず考えられるのは、子どもたちを取り巻く言語空間の特殊性であろう。例
えば日本人でも正式に日本語の文字や文法を習うのは小学校に入ってからだが、
物 心 が つ い た 頃 か ら 身 の 回 り は 既 に 日 本 語 の 文 字 で 埋 め 尽 く さ れ て い る 。新 聞 、
絵本、小説、雑誌、テレビ、商品のラベル、看板、駅の表示板等、子どもが意
識しようがしまいが殆どの文字情報は日本語で入ってくる。同じ目線で入植地
を観察してみると、チベット文字を目にする場面は意外と少ない。入植地内に
ある雑貨店で売られている商品のラベル、映画のポスターや商品の宣伝チラシ
などはすべて英語かネパール語であり、チベット文字は殆ど見当たらない。ア
ンダーソンが「出版資本主義」と呼び、国民の想像に重要な役割を果たすと指
摘した小説や新聞などの活字メディアも、その殆どは英語版である。チベット
文字を目にすることができるのは、コミュニティの掲示板やチベット語の経典
や仏具がある仏教寺院内に限られている。つまり、亡命チベット人の子どもを
取り巻く文字空間は、主に英語で占められており、子どもたちの接する文字情
報の殆どはチベット文字ではなく英語のアルファベットで入ってくるのである。
二つ目の要因として考えられるのは、チベット語の教科書と教授法の問題で
ある。チベット文語が9世紀から不変の難解 な言語であるせいもあるが、子ど
もたちへのインタビューでは「チベット語の授業は難しい」という声が多く聞
か れ た 。チ ベ ッ ト 語 の 教 科 書 に は 文 字 や 文 法 、語 彙 を 覚 え る た め の 教 材 と し て 、
「 父 国 チ ベ ッ ト 」の 歴 史 や 地 理 、文 化 、仏 教 知 識 な ど が 数 多 く 採 用 さ れ て い る 。
日本でも、国語科教育で文学作品を道徳的に扱い、説明文を知識的に扱う手法
137
に対して、
「 聞 く 、話 す 、読 む 、書 く 」言 語 能 力 の 育 成 と い う 本 来 の 国 語 教 科 書
の 効 果 が 十 分 に 発 揮 で き な い の で は な い か と の 指 摘 が あ る が 3 9 、亡 命 チ ベ ッ ト
人学校のチベット語教科についても同じことがいえるのではな いだろうか。勿
論、この手法が、子どもたちに「国家」としてのチベット、その歴史や風土、
仏教的道徳規範を伝達し、子どもたちのチベット人としてのアイデンティティ
形成に寄与していることは間違いない。しかし、亡命チベット人学校初等教育
レベルの 1 週間あたりのチベット語授業の配当時間数は日本の国語科の配当時
間数の約半分(240分)であり、この時間内にチベット人としての「価値」
教育も行っていることを考えると、本来の読み書き能力の 育成が十分に達成で
きていないとしても不思議ではない。
以上の要因に加え、見落としてはならないのは子どもたちの英語習得への期
待の高まりがある。英語教育に関しては子どもよりも親のほうが熱心である。
調査地の学校の保護者と亡命政府関係者に対して、学校の授業科目で最も重要
な科目について面接調査を行なったところ、亡命政府関係者はチベット語が最
も重要であると考えているのに対して、保護者は英語を最も重要な科目と考え
ていることがわかった。子どもたちへのアンケート調査でも「英語」が好きな
授業科目のトップである。移民の場合、移民二世は家庭内のみで通用する母語
より現地の言語に高い価値を置く傾向が指摘されているが、亡命チベット 人の
子どもたちはホスト国の言葉より、英語により高い価値を置いているように見
受けられる。
このような子どもたちの言語状況は、何か一つの原因によって齎されている
のではなく、いくつかの要因が複合的に重なり合って作り出されているもので
あろう。認知言語学の領域では、言語は認知主体と環境との相互作用を反映す
る認知活動によって身体化されるとみなされている。観察していると、子ども
たちは3つの言語を巧みに使い分けていることがわかる。相手がチベット人の
場合はチベット語を使用し、ネパール人の場合はネパール語で会話する。本や
雑 誌 は 英 語 で 読 み 、遠 く に 住 む チ ベ ッ ト 人 の 友 人 と も 英 語 で E メ ー ル を 交 換 す
る。つまり現状では、子どもたちにとってチベット語は入植地内のコミニケー
ション・ツールでしかないのである。個人の言語意識とアイデンティティ形成
のプロセスには密接な関係があるが、チベット語の力が失われていくことは、
チベット人としてのアイデンティティを不安定にする可能性がある。確かに複
数の言語を内在化するということは異文化リテラシーの涵養にも繋がり、物事
の多様な捉え方に資すると考えられる反面、
「 自 分 が 自 分 で わ か ら な い 」と い う
アイデンティティの拡散に繋 がる可能性を孕んでいる。パーソンズの指摘する
と お り 、「 書 か れ た 記 録 は 、 累 積 的 な 文 化 発 展 の 基 礎 を 形 成 」 す る も の で あ り 、
138
「制度化された書き言葉の有無が原始諸社会と中間諸社会を分かつ分水嶺であ
る 」4 0 と す る な ら ば 、亡 命 政 府 関 係 者 や コ ミ ュ ニ テ ィ の 大 人 た ち が 抱 い て い る
危機感は正当なものであり、理解できるものである。
第 2節
今後の研究課題
中国共産党政権がチベットを実効的に支配して約60年が経過した。これま
で述べてきたとおり、チベット問題の解決を困難にしているものは、この問題
の持つ特殊性と主権の帰属が不明瞭なことである。こと主権にまつわる問題に
関して中国政府は強硬な態度を維持しており、その姿勢に変化は見られない。
他方、亡命チベット人共同体は、すべての面で「ダライ・ラマ」という限界を
有 し て い る 。将 来 、ダ ラ イ ・ラ マ 不 在 と い う こ と に な れ ば 、ど の よ う な 事 態 が 発
生するのか現時点では予測もつかない。亡命政府は既にダライ・ラマに依存し
ない共同体の未来像を描きつつあるが、ダライ・ラマ亡き後の亡命チベット人
共同体は、どのように変容していくのであろうか。福田歓一は「エスニック集
団がネイション、即ち主権国家という資格を請求しなくとも、諸政治社会、少
なくとも政治体から成り立つ世界体制のうちに、ある種の秩序としての地位を
認 め ら れ る よ う に す べ き 」 4 1 で あ る と 主 張 し て い る が 、果 た し て ダ ラ イ・ラ マ
なき後の亡命チベット人共同体が結束を維持し、そのような地位を獲得するこ
とができるのであろうか。それとも中国政府のいうとおり、共同体は雲散霧消
し て 、す べ て の「 チ ベ ッ ト 人 民 は 中 華 人 民 共 和 国 の 祖 国 の 大 家 族 の 中 に 戻 る 」4 2
のであろうか。いずれにしても亡命チベット人共同体は、ダライ・ラマ14世
の 遷 化 と と も に 、過 去 に 経 験 の し た こ と の な い 重 大 な 局 面 を 迎 え る こ と に な る 。
亡命チベット人社会は、それほど遠くない未来に大きな社会変動が予測され
るが、筆者は今後も亡命チベット人社会を研究対象として、亡命チベット人共
同体のアイデンティティが、決して偏狭なものにならず、いかにして経済的な
自立を齎す柔軟なアイデンティティとなり得たのか、その要因について更なる
考察を進めていく。以下に、当面の研究課題を二つほど述べておきた い。
まず一つ目の課題であるが、本研究では、亡命チベット人社会に内在する整
合的な「価値」が、亡命政府のあるインド・ダラムサラ(=中央)からインド
やネパールに点在する亡命チベット人居住区(=周縁部)へ伝播・普及し、や
がて亡命政府の意図する国民的一体性を持った均質的成員を形成していくとい
う仮説の中で、主に周縁部にあるネパールの入植地の子どもたちを研究対象と
して検討を進めてきた。しかし当然のことであるが、それはインドやネパール
にあるすべての入植地の状況を表しているものではない。入植地の状況や亡命
139
チベット人学校の状況は、それぞれ固有の状況により幾分異なっていると考え
る方が自然であろう。今後は各入植地間の比較を行ない、子どもたちの集合的
アイデンティティ形成にどのような差異が生じているのか、その差異は何によ
って生み出されているのかを考究することにより、学校教育とアイデンティテ
ィ形成をめぐる考察の更なる深化を目指したい。
もうひとつの課題は、グローバリゼーションの進展が共同体の統合に、いか
なる影響を与え、いかなる課題をつきつけているのかを明らかにすることであ
る。西川は「グローバル化のなかの言語生活における際立った変化のひと つは
国 語 の 変 質 で あ る 」4 3 と 述 べ て い る が 、そ の 兆 候 は 前 節 に お い て 詳 述 し た と お
り亡命チベット人共同体においても見てとれる。 地球上で同時進行しているグ
ローバル化の波は、ヒマラヤの山間部にある入植地にも、インド平原の孤島の
ような入植地にも確実に押し寄せている。西川は「国民化の帰結が愛国心とナ
ショナリズムであるという道理は、地球上で同時進行しているグローバル化の
波によって否定され、ネイションなきナショナリズムが形成されつつあるので
は な い か 」 4 4 と い う 考 え を 示 し て い る 。本 来 、人 間 は 複 数 の 集 合 的 ア イ デ ン テ
ィティを有しているが、その範囲と強度は時とともに変化するものである。ネ
イ シ ョ ン そ の も の が「 想 像 の 共 同 体 」と 考 察 さ れ る よ う に 、超 国 家 的 社 会 は「 人
類 史 上 も っ と も 大 胆 で 、も っ と も 包 括 的 な 想 像 力 の 行 為 」4 5 で あ る と す る な ら
ば、難民という状況に永く置かれている亡命チベット人たちが、センの主張す
る合理的判断に基づき、ナショナルなものではなくグローバルなものにより強
い帰属意識を示すようになったとしても不思議なことではない。
グリーンは、
「 グ ロ ー バ リ ゼ ー シ ョ ン の 影 響 は 、国 民 教 育 制 度 に も み ら れ る が 、
実際には教育制度を部分的に国際化した程度であって、国民教育制度が消えて
い く 状 況 に は な い 」 4 6 と 述 べ て い る 。し か し 、多 く の 国 で「 国 民 形 成 重 視 の 教
育」から「グローバリゼーションに対応する教育」に転換しつつあるのもまた
事 実 で あ る 4 7 。亡 命 チ ベ ッ ト 人 共 同 体 に と っ て グ ロ ー バ リ ゼ ー シ ョ ン と は ど の
ような意味を持つのか、また亡命政府の教育政策は、共同体の結束とグローバ
リゼーションを巡る諸力の鬩ぎ合いにどのように対応していくのであろうか。
今後は国民国家形成とグローバリゼーションに関する先行研究を参考にしつつ、
亡命チベット人の子どもたちのアイデンティティ形成を、グローバリゼー ショ
ンとの関係において検討することを課題としたい。
140
ア ン ダ ー ソ ン , ベ ネ デ ィ ク ト (1997)前 掲 書 , p.22.
榎 木 美 樹 (2009) 前 掲 論 文 ,p.10.
3 榎 木 に よ れ ば 、ダ ラ イ・ラ マ 14 世 が パ ユ ル (Pha yul「父 国 」 )を 顕 現 し 、愛 着 の 象
徴 と し て 位 置 づ け る 萌 芽 は 1950 年 代 か ら 見 出 さ れ る と 指 摘 す る 。 榎 木 美 樹
(2009) 前 掲 論 文 , p.6. 参 照 。 も と も と パ ユ ル と は 仏 教 用 語 で あ り 、 直 訳 は 「 神 国 」
或 い は「 天 人 国 」と な り 、意 訳 で は「 神 聖 仏 国 」或 い は「 仏 聖 国 」で あ る 。青 木
文 教 (2010) 前 掲 書 ,p. 256.
4 松 本 高 明 (1996) 前 掲 書 ,p. 117.
5 ア ン ダ ー ソ ン , ベ ネ デ ィ ク ト (1997)前 掲 書 , p.22.
6 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 16.参 照 。 エ ル ネ ス ト ・ ル ナ ン も 『 国 民 と は 何 か 』 の 中
で 、近 代 的 な 国 民 は「 同 一 方 向 に 収 斂 し た 一 連 の 出 来 事 に よ っ て も た ら さ れ た 歴
史 の 産 物 」 と 述 べ て い る 。 ル ナ ン ,エ ル ネ ス ト (1997)『 国 民 と は 何 か 』 (鵜 飼 哲 ・
細 見 和 之 )河 出 書 房 新 社 ,p. 48. 参 照 。
7 朝 日 新 聞 社 (2004)『 新 版 社 会 学 が わ か る 』 朝 日 新 聞 社 ,p. 136.
8 西 川 長 夫 (2006) 前 掲 書 ,p. 178. 参 照 。 原 典 は キ ム リ ッ カ , ウ イ ル (1998)『 多 文 化 時
代 の 市 民 権 ― マ イ ノ リ テ ィ の 権 利 と 自 由 主 義 』 (角 田 猛 之 他 訳 )晃 洋 書 房
9 村 田 翼 夫 (2007) 前 掲 書 ,p. 16.
1 0 グ リ ー ン ,ア ン デ ィ (2000)前 掲 書 ,p. 179.
1 1 亡 命 チ ベ ッ ト 人 社 会 の 形 成 を 、亡 命 政 府 の 諸 制 度( 亡 命 チ ベ ッ ト 人 の 憲 法 で あ
る 亡 命 チ ベ ッ ト 人 憲 章 の 制 定 な ど )の 確 立 と 亡 命 チ ベ ッ ト 人 の 入 植 地 へ の 定 住 、
入 植 地 の 整 備 事 業 (家 屋 や 病 院 な ど の 公 共 施 設 な ど )の 進 展 過 程 と し て 捉 え た 場
合 、 そ れ ら の 殆 ど が 1960 年 代 初 頭 に 始 ま り 、 19 6 0 年 代 後 半 に 終 了 し て い る 。
松 本 高 明 (1996) 前 掲 書 ,pp. 113-136. 参 照 。
1 2 田 中 統 治 (1992) 前 掲 書 ,p. 110.
1 3 田 中 統 治 (1992) 前 掲 書 ,p. 110.
1 4 ス ミ ス ,ア ン ト ニ ー (1998)前 掲 書 ,p. 39.
1 5 山 内 乾 史 (2007) 前 掲 書 ,p.14.参 照 。 原 典 は ハ ー グ リ ー ヴ ス , A.G.(1997) 『 現 代
フ ラ ン ス ― 移 民 か ら み た 世 界 』 (石 井 伸 一 訳 )明 石 書 店 ,p. 140.
1 6 山 内 乾 史 (2007) 前 掲 書 ,p. 14.
1 7 山 内 乾 史 (2007) 前 掲 書 ,p. 15.
1 8 亡 命 チ ベ ッ ト 人 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ 形 成 メ カ ニ ズ ム を 示 し た 図 7-1 は 、野 津 の
「 小 学 校 の 国 民 構 成 機 構 図 」を 参 考 に し た 。野 津 隆 志 (2005)前 掲 書 , p.259. 参 照 。
1 9 野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 258.
2 0 セ ン , ア マ ル テ ィ ア (2003)『 ア イ デ ン テ ィ テ ィ に 先 行 す る 理 性 』 関 西 学 院 大 学
出 版 会 ,p. 3.
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的志向性の研究」『東京学芸大学海外子女教育センター研究紀要』第 1
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2 2 百 地 章 (2005)『 憲 法 の 常 識 常 識 の 憲 法 』 文 藝 春 秋 ,pp.29-30.
2 3 田 中 統 治 (1992) 前 掲 書 ,p. 110.
2 4 橋 本 伸 也 (2004) 前 掲 書 ,p. 5.
2 5 セ ン , ア マ ル テ ィ ア (2003)前 掲 書 ,p. 47.
2 6 セ ン , ア マ ル テ ィ ア (2003)前 掲 書 ,p. 10.
2 7 セ ン , ア マ ル テ ィ ア (2003)前 掲 書 ,p. 8.
2 8 セ ン , ア マ ル テ ィ ア (2003)前 掲 書 ,p. 60.
2 9 セ ン , ア マ ル テ ィ ア (2003)前 掲 書 ,p. 8.
3 0 セ ン , ア マ ル テ ィ ア (2003)前 掲 書 ,pp.19-28.
3 1 セ ン , ア マ ル テ ィ ア (2003)前 掲 書 ,p. 33.
3 2 セ ン , ア マ ル テ ィ ア (2003)前 掲 書 ,p. 30
3 3 ア ン ダ ー ソ ン , ベ ネ デ ィ ク ト (1997)前 掲 書 , p.26.
34
བློ ད ་ག ་ ེ ས ་རི ག ་ ས་ ས། (༢༠༠༥ ), ློ ན་འ ློ འ ི ་ སློ བ ་དེ བ ་རི ག ་པའི ་ ཉི ན ་བེ ད ། དེ བ ་གཉི ས་པ ། ,p. 14.
1
2
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35
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41
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43
44
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46
47
セ ン , ア マ ル テ ィ ア (2003)前 掲 書 ,pp.42-48.
スミスの指摘している集合的アイデンティティ形成の新しい段 階の 到来 とは 、
「汎」ナショナリズムの文化的基盤に支えられて現れつつある地域連合、つま
り 、EU を 想 定 し て い る も の と 思 わ れ る 。ス ミ ス , ア ン ト ニ ー (1998)前 掲 書 , p.272.
ネ パ ー ル に お け る 初 等 の 教 育 就 学 率 は 9 1 . 9 %、イ ン ド は 州 に よ っ て 大 き く こ
と な る が 平 均 9 0 % で あ る 。 ( 最 終 閲 覧 日 : 2012 年 12 月 26 日 )
(http://www.mofa.go. jp/ mofaj/toko/wor ld_sch ool/ 01asia/in foC10900.h tml )
筆 者 は 亡 命 チ ベ ッ ト 人 の 子 ど も た ち の 奨 学 金 制 度 を 立 ち 上 げ る た め 、 1984 年
から 1 年 間 、ネ パー ルの ジ ャワ ラケ ルと いう 入 植地 にお いて 様々 な調 査を 実施
し た 。 榎 井 克 明 (1985)『 チ ベ ッ ト 難 民 児 童 奨 学 会 ― ジ ャ ワ ラ ケ ル 難 民 キ ャ ン プ
レ ポ ー ト Vol.1』 参 照 。
石 塚 修 (2008)前 掲 論 文 ,p. 57.
パ ー ソ ン ズ ,タ ル コ ッ ト (1971)前 掲 書 , pp.40-43.
花 崎 皐 平 (1993) 前 掲 書 ,p. 145.
17条協定の第 1 条の文言である。第 1 条の全文は「チベット 人は 団結 して 、
帝 国 主 義 侵 略 勢 力 を チ ベ ッ ト か ら 駆 逐 し 、チ ベ ッ ト 人 民 は 中 華 人 民 共 和 国 の 祖
国 の 大 家 庭 の 中 に 戻 る ( 第 1 条 ) 」 宋 黎 明 (1999)前 掲 書 ,p.144.
西 川 長 夫 (2006) 前 掲 書 ,p. 101.
西 川 長 夫 (2006) 前 掲 書 ,p. 229.
ス ミ ス ,ア ン ト ニ ー (1998)前 掲 書 ,p. 269.
グ リ ー ン ,ア ン デ ィ (2000)前 掲 書 , p.224.
野 津 隆 志 (2005) 前 掲 書 ,p. 266.
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