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発達過程か ら 見 た 裏 - 愛知教育大学学術情報リポジトリ
愛知教育大学研究報告, 45 (教育科学編), pp. 197 205, March, 1996 発達過程から見た裏言葉 吉 岡 Tsuneo 恒 生 YOSHIOKA (障害児治療教育センター) I 問 う但し書きをつけたのは,研究対象として内面の言葉 題 を翻訳する必要性からである。翻訳とはテキストのあ る部分を切り捨てつつ,翻訳者がテキストの重要な要 ①表言葉と裏言葉 精神分析においてフロイト,S.がなした貢献の一 素と考えるものを伝達可能な形に浮かび上がらせてい つは,意識の関与する世界は無意識がその大部分を占 く作業である。人間の内的言語活動には個々人に独特 める心の動きのごく小さな一部分に過ぎず無意識が知 の文法があり,それに忠実に訳すことも研究の一つの らず知らずのうちに人間の心に重大な影響を与えてい 方法であろうが,それでは内面の言葉のもつ実存的意 ることを示した点にある。広大な無意識の中から,複 味を他者と分かち合うのが困難になる。そこで,上記 雑な仕組みをへて浮かび上がってきたわずかな断片の の但し書きをつけたのであり,これは外国映画の字幕 みが意識化されるのである。それと同様の関係が,表 作製に近い作業である。この定義付けは筆者が,P-F 現される言葉と,表現されずに人間の心にとどまる言 スタディを用いて研究を進めたために,必然的に用い 葉との関係にも当てはまる。ここでいう表現とは,しゃ た操作的定義でもある。 べることであり,書くことである。筆者がここまで書 しかし今回,乳幼児期からの発達という観点から内 くまでの間には,筆者の頭のなかには数限りない言葉 面の言葉の形成過程を探っていくためには,「裏言葉」 が浮沈してきた。それらは,ここまで書いた数行とは の意味を上記の操作的定義で狭めておくよりも,「表現 比べものにならないほど莫大なものであり,決して表 されずに人間の心にとどまる言葉」というより広い意 現し尽くせない不思議な世界をなしている。それゆえ, 味で理解するほうが目的にかなっているように思われ フロイトが「われわれは,無意識を意識化されたもの る。なぜなら,「思ってること」を了解可能な言語イメー としてしか認識できないのであって,そのまえに,無 ジに置き換える能力をもつ以前の乳幼児の内面の言葉 意識を意識におきかえ,いわば翻訳しているのである」 の世界を描写するには,操作的定義がかえって足梅に と述べたのと類似した事情が,表現される言葉と表現 なるのある。ゆえに本稿では,「裏言葉」を「内面の言 されずに人間の心にとどまる言葉との間にも成り立 葉」という広い意味でとらえて論ずることにする。 つ。私達は,内面の言葉を,何らかの形で表現するこ とによって始めて認識することができるのである。 資料1「いまどきのこども①」より 従来の心理学が扱わなかった心的事実を,大衆文化 および芸術が取り上げている場合がある。本橋で論ず る「表言葉(overt speech)と裏言葉(covert speech)」 についても,内面の言葉を表現言語に置き換える技術 にたけた漫画からヒントを得たものである。たとえば, 資料1の漫画の左側の男の子の言葉で言えば,「え?」 と「ありがとう,行くよ」が表言葉であり,「こいつら あんまり頭良さそうじゃないけど損はないだろうな」 と「近所なら便利だし」が裏言葉である。筆者(1991) は,土居(1985)の「表と裏」の考察を土台にして, 実際に「言ってること」を表言葉,日に出さずに「思っ てること」を了解可能な言語イメージに置き換えたも のを裏言葉と定義づけた。 「了解可能な言語イメージに置き換えたもの」とい -197- 吉 岡 ②「外言と内言」と「表言葉と裏言葉」 恒 生 ヴィゴツキーの行なった自己中心的言語に関する実 そこで問題になるのは,「外言と内言」という概念と 験のなかで,本稿で注目すべきものが二つある。一つ の視点の相違である。「表言葉と裏言葉」は従来の心理 は,実験的に幼児にとって困難な課題状況を作り出し 学用語の中では「外言と内言」に最も近い。外言とは。 て,自己中心的言語の増減を見るというものである。 「具体的な発声を伴い,他人に自分の思想や意志を伝 その結果,困難な状況に陥った場合,自己中心的言語 達するコミュニケーションの用具」(新版心理学事典) は二倍近くまで増加した。この結果をヴィゴツキーは, であり,対になる用語との関係で少々ニュアンスが異 自己中心的言語が思考の手段となり,行動のなかで生 なってくるものの,筆者の定義する表言葉とほぼ同義 じた問題解決のプランを形成するという機能を遂行し と考えてよい。それに対して内言とは,「言語活動のう はじめる,と解釈した。 ち,具体的な発声を伴わずに個体内部で進行する言語 もう一つの実験は,集団のなかで理解されていると 活動をさす。主として,思考や意志の用具としてある いう幻想を取り除いた場合に,自己中心的言語の増減 目標に向かって自分の行動を制御し組織づける働きを をみるものである。たとえば,言葉によるコミュニケー 果たす,自分自身に向けられた言語行為」(同上)であ ションの不可能な外国人の幼児の集団のなかにおいた る。定義の前半は広い意味での「裏言葉」と同義であ 場合,自己中心的言語(集団的独語)は急激に減った。 るが,定義の後半に注目すると,「外言と内言」は,そ この結果をヴィゴツキーは,集団的独語を行なってい れを扱ったヴィゴツキーの主著「思考と言語」(1934) る子どもが,自分自身の思想と空想に没頭しているだ の書名が示す通り思考心理学の枠組みの中で語られる けではなくて,周囲の子どもたちが理解してくれてい ことが多く,筆者の関心とは少しずれる。筆者が関心 るという理解の幻想に支えられて,言葉を発している を向けるのは,対人関係とりわけ母子関係の文脈の中 ためと解釈した。そして,子どもの自己中心的言語は, で,言語が準備され,生じ,そして内化されていき, まだ社会的言語から最終的に分離されておらず,社会 必ずしも知的活動とは言えぬ日常場面でこうした内的 的言語の内部でたえず発達し成熟しつつあるものであ 言語が個人の実存に供している,といった言語の情緒 る,と結論づけた。 的側面である。そこで,内言と重なる而も多いとはい 筆者はこの二つの結果の解釈に反論するつもりはな え,情緒的側面に焦点を当てた内的言語を本稿では「裏 いが,別の解釈の可能性も検討してみたい。言語の内 言葉」と呼び考察を進める。 面化についての考察は,本橋の主題である裏言葉につ 筆者の関心から少しずれるとはいえ,ヴィゴツキー いての考察につながりものと思われるからである。ま を頂点とした内言の研究は,裏言葉を考える上で重要 ず第一の結果から,自己中心的言語の機能を思考の手 な手がかりを与えてくれる。とりわけ,内言がピアジェ 段に限る必要はないのではなかろうか。課題解決的に のいう自己中心的言語が内面化されたものである,と 困難な状況にも情緒的な困難は付随しており√それが いう見解は,裏言葉の分化の経緯を示唆するものであ 自己中心的言語を増加させると考えることはできない る。ピアジェは,二名の六歳児の自由遊び場面での発 のであろうか。情緒的な課題解決,自分に語りかける 話を一ヵ月にわたり集録し,そのなかに,他者に伝達 ことによるカタルシスも自己中心的言語の機能に含ま する目的で発せられる社会的言語とは別に,集団的独 れるものと考えられる。ひいて言えば,この時期の子 語(多人数の児童集団のなかで,他人の反応を期待せ どもは,自分に語りかけることと他人に語りかけるこ ずに自分勝手にしゃべる言葉)などの非社会的言語が ととははっきり分化してはおらず,他者,とりわけ重 あることを見いだした。その後両名が七歳になってか 要な他者(母親)に語りかけるに近い心的状況にある ら同様の観察を行なうと,そうした非社会的言語は半 ものと思われる。 数近くに減っていた。そうして,これらが自閉性から 第二の結果に対する解釈には賛成であるが,「社会的 社会性へと移行する過渡期の自己中心性を示すものと 言語」についてもう少し突っ込んで考えてみたい。ヴィ して,自己中心的言語と名づけた。 ゴツキーは,「子どもの最初の言語は,純粋に社会的な そのピアジェの説に異を唱えたのがヴィゴツキーで ものである。それを社会化されたものとよぶのは正し ある。彼は,言葉はもともとコミュニケーションの用 くない」と述べているが,これはおそらく最早期の対 具としてはじま‘り,一方は外言として洗練されていき, 象関係を意識した叙述であろう。自己中心的言語に「社 一方は思考の用具として内面化されて,内的な言語活 会的言語」の残滓があるとすれば,それは母子関係的 動である内言へと進化していく,と考えた。つまり社 な雰囲気に根ざしたものであろう。コミュニケート可 会的言語→自己中心的言語→内言という図式であり, 能な集団のなかでは,集団に母子関係的なものが転移 自己中心的言語を外言から内言への過渡的形式として できるが,そうでない場合はそれが崩壊してしまう。 とらえたのである。こうして,自己中心的言語の直接 この自己中心的言語の背景にある母子関係的な雰囲気 的観察と実験が,内言研究の基本的方法となったので は,内言として独立したあとも何らかの形で残ってい ある。 るものと考えられる。 -198- 発達過程から見た裏言葉 筆者が上記のように母子関係を強調するのは,内的 組成,あるいは「まとまり」と考えている。 言語の発生を考えるにあたり精神分析的に考えれば, スターンは,それぞれに異なった自己一体験の領域と 早期の対象関係,とりわけ母子関係が重要な役割を果 社会的かかわり合いをもつ,4つの自己感について述 たしていると考えるからである。内言の前駆状況であ べている。その4つとは,出生後から2ヵ月の間にで る自己中心的言語は理解の幻想を支えとして生じ,「ぼ きてくる新生自己感,2 くの言ってることをすべてママは理解してくれている 己感,7 6ヵ月の間に始まる中核自 15ヵ月でできてくる主観的自己感,そして はずだ」という万能感を背景としている。困難な状況 それ以後形成される言語自己感である。おのおのの新 における自己中心的言語は,かつての不快な状況にお しい自己感は,新しいかかわり合いの領域の形成を決 いて自分を慰めてくれたそうした母親の機能を呼び起 定し,社会体験の質的変化をもたらす。これらの自己 こしているように思われる。 感は発達段階をあらわしているのではない。つまり, 乳幼児の精神発達研究は,ここ数十年で長大な進歩 次のものが前のものに取って代わるわけではなく,ひ を遂げたとはいえ,まだまだ不明な点が多い。言語の とたび形成されたらそれぞれの自己感は一生涯フルに 発達過程,とりわけ内的言語の発達過程を,その前駆 機能し続け,活発であり続ける。これら4つの自己感 段階から探っていくのは,非常に困難な作業であり, は,成長しながら共存し続ける(図1)。 様々な切り口が考えられよう。筆者は本稿では,内的 言語の情緒的な面,すなわち裏言葉の発生を探求して いきたいと考える。 筆者の仮説は,裏言葉の源は養育者(主に母親,以 後養育者全般を含める場合も,母親という言葉を代用 する)の成長促進的な雰囲気のなかで自然になされる 乳幼児への語りかけであり,その語りかけが自己中心 的言語の形で取り入れられていき,いつしか内在化さ れて裏言葉となっていくと考える。つまり,裏言葉の 源は母親の言葉である。それは,子どもを慰めたり, 子どもに方向性を示したり,子どもの欲求不満を解消 したりする言葉であり,子どもはその言葉が発せられ るときの雰囲気とともに,その言葉を自己の情動を制 御する機能にしていく,と考えるのである。 本稿では主に対人関係という視点から乳児の精神発 達をとらえた精神分析学者スターン(1985)の理論を 援用して,裏言葉の前駆段階から裏言葉の発生および その進化にいたるまで考察していきたい。 図1「乳児の対人世界一理論編-」より II スターンの精神発達理論 次に,それぞれの自己感について見ていこう。 裏言葉の発生を考察する前に,スターンの精神発達 理論の概略を示す。スターンは,乳児の主観的体験を 探る中で,自己感(the ① sense of self)の中心的役割 新生自己感 これは,オーガナイゼーションが生まれ一出でつつあ を強調した。では,自己感とは何か。「まず,他から区 るという体験,新生されつつあるオーガすイゼーショ 別された,一個の,均衡のとれた肉体であるという自 ンの体験である。数多くの体験ひとつひとつが乳児に 己感。そして行動の発動者,感情の体験者,意図の決 とって,この上なく明快ではつらつとしたものとして 定者,計画の設計者,体験の言語への転換者,伝達者, 存在するが,体験と体験とのかかわり合いが欠けてい 個人的知識の共有者であるという自己感もある。これ る状態である。この自己感の形成期の乳児の体験で前 らの自己感は呼吸と同じで,大抵の場合意識の外にあ 景を占めるのが無様式知覚amodal perception (ある 1つの知覚様式で受信された情報を何らかの形で別の りますが,時にそれが意識にのぼり,そこにとどまる こともあります。私たちは,自分たちの体験を,それ 知覚様式へと変換する能力)と生気情動 が何か独特で主観的なオーガすイゼーションに属する affectである。前者は,たとえば,触ったもの(触覚) vitality と思えるようなやり方で,本能的に加工処理します。 と見たもの(視覚)が同じものであると認識するのに この主観的オーガナイゼーションを,通常自己感と呼 必要な情報を,知覚様式一交叉的に移行させることが びます」。スターンの翻訳者である丸田(1992)はここ できる生得的な能力(例,目隠しをして触ったものを, でいうオーガナイゼーションという言葉を,組織とか あとで見てそれと確認できる)である。後者は,怒り, -199- 吉 岡 恒 生 喜び,悲しみといったカテゴリー性の情動とは別に, ターンは自己を制御する他者と呼ぶ)と共にあるとい 乳児は,情動を,活性化(感情特性の強さと緊急性の う体験は実際上の体験そのものであるが,それらは次 量)と快楽的基調(感情特性の快と不快の程度)に沿っ 第にRIGsを形成し,乳児の自己感情を変化させてい て体験するということである。またこの自己感の領域 く。「他者と共にある自己」体験を図解すると次のよう のみが√創造と学習の中心であるオーガナイゼイショ になる(図2)。 ンが生まれ出づる過程にかかわり,あらゆる学習とあ らゆる創造的行為が,新生かかわり合いの領域に始ま る。 ②-1 中核自己感 自己対他者 スターンは中核自己感(普段は当たり前すぎて意識 されない出来事に関する体験的感覚)の形成に欠かせ ない自己一不変要素とし七次の4つをあげる。 (1)自己一発動性 自分の行為のシナリオ・ライターは 自分であり,他者の行為は自分がシナリオライターで はないという感覚。たとえば,自分の腕は自分が動か したいとき動くのだ,という感覚。 (2)自己一一貫性 自分の行為には境界と場があり,身 体的に断片化してないという感覚。自己対他者の一貫 性を助ける体験には,動きの一貫性,時間的構造の一 貫性などがあるが,わかりやすい例で言えば,声がし た方向に目を向けると自分と違う人がいるという体験 が,活動中核の一貫性である。 (3)自己一情動性 自己体験に属する感情(情動)のパ ターン化された内的特性を体験すること。情動は,比 図2 「乳児の対人世界一理論編-」より 較的永続性があるため,すぐれて高次レベルの自己不 図2を多少詳しく説明すると,まず乳児が「自己を 変要素であり,生得的なデザインによってかなり決 まっている。これは,カテゴリ一性の情動についても, 制御する他者」との間で,相互交流のある一つのタイ 生気情動についても言える。 プに関し,すでに6つのほぼ類似した特定のエピソー (4)自己の歴史 ド(たとえば,退屈そうな乳児に,母親がガラガラを 自分の過去との間に連続性,永続性の 感覚がもて,自分が同じ自分として存在し続けたり, 手渡しながら笑いかけ,乳児もそれを振りつつ笑い返 変わることができること。 す)を体験しているとする。するとこれら特定のエピ ソードは一般化され,一般化された相互交流の表象 中核自己感は,乳児がこれら4つの自己一不変要素 の検索を通して世の中の出来事を秩序づけていく結果 (RIG1-6)として登録される。次にこれと似ている 形成される。こうした生の体験のさまざまな特徴を統 が同一でない7番目の特定のエピソード(たとえば, 合するシステムは記憶である。乳児は,体験を集積し, 母親の位置に父親がくる)が起こったとすると,そめ 平均的プロトタイプを抽出する(抽象化)する能力を 属性のあるものは,RIG1-6を想起する手がかりと もっている。そうした形で抽象化された交流の表象を して作用する。このRIG1-6は,あくまで表象であ スターンは,一般化された相互交流に関する表象Rep- り,活性化された記憶ではない。想起の手がかり(体 resentation of Interaction that have been General- 験の属性)が,「呼び起こしの友evoked ized (RIGs)と呼んだ。たとえば,母親との間で授乳 と呼ばれる活性化された記憶をRIGから誘発するの を繰り返すにつれ,腹がすいたときに母親の乳房に吸 である。「呼び起こしの友は,自己を制御する他者と共 い付いて満足を得るといったRIGsが形成されてい にある,あるいは自己を制御する他者がそこにいると く。 いう体験であり,それは意識されることもあればされ companion」 ないこともあります。この友は,過去に実際起こった ②-2 中核自己感 出来事の想起としてではなく,そうした出来事の生き 他者と共にある自己 生きした例としてRIGから呼び起こされます」。 自己と他者が自己不変要素によって区別され中核自 己感が形成されていくこの時期に,主観的体験として 「呼び起こしの友」の仕事は,現在進行中の特定の 重要な意味をもつのが,他者と共にある自己という体 相互交流エピソードを評価することである。つまり進 験である。乳児自身の自己一体験を調節する他者(ス 行中の相互交流体験(7番目の特定のエピソード)が -200- 発達過程から見た裏言葉 「呼び起こしの友」との間で同時に起こっている体験 ③ と比べられる。この比較によって,RIG1-6を書き換 主観的自己感 主観的自己感の特徴の第一は,間主観性 intersub- えるにあたり,進行中の特定のエピソード(#7)がど jectivityの共有が可能になることである。つまり,自 んな新しい影響を与えるかが決まる。そして特定のエ 分とは別個の存在である他者も,自分と似たような精 ピソード#7のユニークさに応じて,RIG1-6から 神状態をもつのだという感じを乳児がもつことができ RIG1-7へと, るようになるのである。その結果,対人間の活動は一 RIGに何らかの変更が起こる。ゆえ にRIGが次の特定のエピソード(#8)と出会う時に 部,目に見える活動や反応から,そうした行動の背後 は,前とは少し違ったものになっているはずである。 にある内的主観的状態へと移っていく。自己と他者を このようにして, 特徴づけるものも,以前は目に見える行動や直接知覚 RIGsは,新しく出会う体験によって 少しずつ更新されていく。 だけであったが,それに加えて体験の主観的状態をも RIGsはもともとは,実際の「他者と共にある自己」 含み込んだものになる。自己感の性質のこのような拡 体験を重ねていくうちに形成されるものであるが,あ 張に伴い,かかわり合いの能力が伸び,扱われる主題 るエピソードの最中,たとえ乳児が一人でいたとして が多様になる。またこの時期,以前の身体的親密感ば も,かつて似たようなエピソードを「自己を制御する かりでなく,心的親密感,つまりお互いの主観的体験 他者」との間で体験したことがあれば,「呼び起こしの をさらけ出しあって快感を得ることが可能になる。 友」を活発な記憶へとよび起こすことが可能である。 この時期における間主観的かかわり合いが展開する たとえば先の例で言えば,生後6ヵ月の乳児が一人で 根拠として,間注意性,間意図性,間情動性などがあ いるする。その子がガラガラを見つけ,手でつかんで げられるが,ここでは間情動性を取り上げる。生後一 振ると音が出ることがわかる。その時最初に体験され 年の乳児は,有名な「視覚的断崖の実験」に見られる る喜びは,笑ったり,声を発したり,体全体を波打た ように,不確実な状況に置かれると,母親の顔に現わ せることによって表現されるかもしれない。この歓喜 れた情動を読み取ろうとする。母親の表情が穏やかで の体験は,ただ単にガラガラの使い方をマスターした 乳児の行動を鼓舞するものであったら乳児はあえて冒 からばかりではない。乳児の歓喜を増幅(制御)して 険に出るし,母親の表情が不安に満ちたものであった くれるような他者の存在のもとで,過去に同様の瞬間 ら行動は慎重になる。つまり,乳児は何らかの方法で, を味わったという歴史の成せる業でもあるのだ。こう 自分自身の内部に体験された感情状態と,他者の“表 した瞬間,マスター成功によって感じた最初の喜びは, 面"や“内部"に見られる感情状態との間に対応を作 RIGを活性化させる想起の手がかりとして作用す り出そうとする。 る。そして,「呼び起こしの友」との間でマスター成功 この間情動性,つまり情動状態の共有を可能にする が共有されたり相互誘発されるような喜びを伴った, のが,養育者(母親)による乳児への情動調律affect 想像上の交流を起こす。だから「乳児は,現実には一 attunementである。情動調律は単なる模倣ではなく, 人でいたとしても,プロトタイプ的な生の出来事の活 何らかの形で乳児の行動に対応した行動である。その 性化された記憶という形をとった,自己を制御する他 場合,親は,乳児の目に見える行動からその子の感情 者ど共にある"のです」。しかし,この中核自己感の 状態を読み取らなければならない。乳児の側では親が 形成期の自己は,他者と間主観的な(相手の心を理解 示す反応が乳児自身のもともとの感情状態と何らかの した)親密感はいまだ得られず,身体的な親密感を確 関係があり,単に自分の行動を真似ているだけではな 固としたものにしていく。 いことを読み取れなくてはならない。スターンは,情 この辺の事情を,ウィニコット(1977)は「一人で いられる能力capacity 動調律の例をいくつかあげているが,そのうちの一つ to be alone」という言葉を用 を次に示す。 いて,幾分詩的かつ逆説的に述べている。「一人でいら 「生後9ヵ月になる女の子が,あるおもちゃにとて れる能力は誰か他の人と一緒にいて一人でいるという も興奮し,それをつかもうとする。それを手にすると, 体験を基盤にし,満足なこの体験のない限り一人でい その子ぱアー"という喜びの声を上げ,母親の方を られる能力は発展しない」。この能力は,母親と共にい 見る。母親もその子を見返し,肩をすくめて,ゴーゴー ながら「一人でいる」ことの体験を経て,その後,母 ダンサーのように上半身を大きく振って見せる。その 親がそこにいなくても,母親は常に存在しているのだ 体の動きは,娘が“アー"と言っている間だけ続くが, という感覚を内在化することによって発達するもので 同じくらい強烈な興奮と喜びに満ちている。」 ある。ここで注意すべきは,スターンの言う「他者と 情動調律は次の三つの特徴をもっている。 共にある自己」体験は,他者との融合体験ではなく, 1.調律は,ある種の模倣が起こったかのような印象 はっきりした自分の体験なのである。 を与える。 2.そのマッチングは主に知覚様式一交叉的に起こ る。つまり,乳児の行動と自分の行動をマッチさせる -201- 吉 岡 恒 生 ために,母親は乳児が使うのとは別の表現のチャンネ 111 裏言葉の基盤とその発生 ルや様式を使う。上の例では,女の子の声の高さのレ ベルと持続時間が,母親の体の動きとマッチしている。 前章で見てきたように,スターンは乳児の主観的体 3.マッチさせるのは相手の行動自体にではなく,む 験がいかなるものであるか,という問いかけから,彼 しろその人の感情状態を反映するような行動の側面に 独自の精神発達理論を展開している。図1のように, である。 各自己感の形成とともに,それに関連したかかわり合 この情動調律に近い臨床概念が,コフートの言う映 いの領域が層状に発展していく。より以前の自己感の し出しmirroringである。この概念は,乳児の感情状 基盤の上にさらに新しい自己感の領域が発展していく 態を映し返してあげることが,乳児自身の情動性や自 わけであり,各自己感は終生一個人の人生のもとにあ 己感に関する認識を発達させるのに大切であるという る。スターンの理論に特徴的なのは,他者と共にある 点で,情動調律の意味合いと重なる点がある。また映 あり方の変容とともに,新しい自己感が成長発展して し出しは,乳児の情動に調律するだけでなく,母親が いくという考え方である。 乳児の内部であいまいかつ部分的でしかなかったもの 筆者は,裏言葉の発生過程も,この4つの自己感の を確固としたものにしていく手助けをしていくことも 領域の発展と呼応していると考える。成長後の裏言葉 さしている。これは,乳児の情動が母親の主観的体験 は,目覚めているときの,人間の主観的世界すべてに に包まれながら変化していくことを暗示している点 かかわっている。それぞれの自己感の形成期に,裏言 で,注目すべきであろう。このことは,次の自己感の 葉の基盤がどのようにして形づくられてきたか,また 領域で言葉を獲得することによって,顕著になってい その自己感が形成された後にそれらは裏言葉が生じる くものと考えられる。 プロセスにどのように関与していくのか,これから見 ていくことにする。 ④ 言語自己感 生後二年目に入ると,乳児は様々な能力を獲得し, ① 自己感は新しい属性を獲得する。この時期に獲得され 新生自己感と裏言葉 新生自己感は何かが生まれ一出でつつあるという体 る能力で重要なのは,自己を客観視する能力,遊びな 験である。何かまとまりが形成されるとき,いつでも どの象徴的行為に従事する能力,そして言語の獲得で 乳児はオーガナイゼイションの新生を体験する。この ある。自己を客観視する能力は,鏡の前の自分を自分 何かが生まれ一出でつつある,何かまとまりが形成され と認識する行為,性同一性の確立,共感的行為(他者 るという体験は,心内で裏言葉が生まれ一出でつつあ によって体験され得る客体としての自己と,客体化さ るという体験を準備していると考えられる。 れた他者の主観的状態の双方を思い描0などに現わ 言語獲得と共に,オーガナイゼイションの体験は, れる。象徴的な遊びができる能力によって,日常生活 良くも悪くも言語体験によって焼き直されたものに の表象を自分が望むように現実化(ままごと遊びで, なっていく。また,新しい何かを体験し,それが心の 女の子が母親の役割をとる)したり,現実の状況を象 中で言葉になっていく体験そのものも,新生かかわり 徴的な形で修復する(けんかしがちな両親の人形を仲 合いの領域に属することである。たとえば,2歳の子 直りさせる)ことができるようになる。これは乳児が, どもがテーブルの上のミニカーを見て母親に向かって 事実はどうであれ,現実はこうであってほしいという 「ブーブー」と言ったとする。このとき,テーブルの 願望を抱き,それを維持できるようになったというこ 上にミニカーを発見し興奮する体験も新生かかわり合 とである。 いの領域に属し,その体験にぴったりした「ブーブー」 とりわけ言語の獲得は,乳児の自己感のあり方を変 という言葉を発見し発声することも,新生かかわり合 容させる。自己一他者かかわり合いは,言語を介する いの領域に属する。この時期にはまだ表言葉と裏言葉 ことによって新しい様相を帯びてくるのである。そも の区別はない。 そも乳児が言葉をしゃべるのは,母親とパーソすルな そして,他者と共にある体験の積み重ねによって, 秩序を再確立する必要性に迫られ,かつそう願うから 生まれ一出でつつある言葉は,理解の幻想に支えられ である。話すことを学ぶ過程それ自体が,共有体験を てはいるものの,実際にそれに応えてくれる他者を必 形づくる,“パーソナル"な秩序を再確立する,そして ずしも必要としなくなる。それが,ピアジェの言う自 大人と子どもの間に新しいタイプの“共にある"あり 己中心的言語として観察される。このときも,体験が 方を創り出すという意味で,鋳直し作業なのである。 言葉として生まれ一出でつつあるという新生オーガナ 間主観的かかわり合いでの共にある体験が,母子間の イゼイションの体験を伴っている。ピアジェの観察と 内的体験の共有を必要としたのと同様に,この新しい言 ヴィゴツキーの見解によれば,6歳から7歳にかけて, 語かかわり合いのレベルでも,乳児と母親は,言語と 自己中心的言語は内化されていく。必ずしも音声に いう象徴を用いて共にある体験を作り上げるのである。 よって表出されずとも,興奮,喜び,苦痛の体験に伴っ -202- 発達過程から見た裏言葉 て,それらが心の中で言葉として生まれ一出でつつある ができる」ことがわかる時期であるが,これを,言語 という体験がここにも伴っているのである。 獲得という観点から見れば,言語獲得の様々な条件が 大人の内的言語活動についても,覚醒中はほとんど 準備される時期である。間注意性,間意図性,間情動 行なわれており,それらが二つとして同じ体験はない 性はいずれも,コミュニケーション言語の獲得のため という意味で言えば,そのすべてが新生かかわり合い の条件であり,中でも裏言葉発生の条件と深く関わる の領域に関与すると考えることもできるが,それが顕 のが,聞情動性である。なぜなら,間注意性,間意図 著に示されるのは,我々がひらめきと呼ぶ現象が現わ 性は主に伝え合うための能力であるが,間情動性は読 れたときであろう。フッと何か新しい考えが心に思い み取り合うための能力であり,より内省的な力の萌芽 浮かぶとき,今までにない状況に置かれ心の中でブツ なのである。 間情動性の発達を促すのが,母親の情動調律である。 ブツとつぶやいて自分を収めていくとき,我々は新生 かかわり合いの領域に深く関与しているのである。 この際忘れてはならないことは,乳児の情動に調律す る母親は,実際にはこの時期の乳児の情動はいまだ未 ② 中核自己感と裏言葉 生後ほぼ2 分化なものであるにもかかわらず,あたかも分化した 情動をもった存在であるかのように乳児に接している 6ヵ月の中核自己感の形成期は,乳児 がもっぱら社交的交流に没頭する時期である。それゆ ということである。そうした母親とのかかわり合いの えこの時期,自己一不変要素の獲得につれて,「他者と 中で母親の情動を取り入れていくことにより,乳児の 共にある自己」体験が顕著になっていく。筆者は,人 情動は次第に分化したものになり,乳児の主観的世界 間の心のなかで裏言葉がつぶやかれる状況は,「他者と はよりまとまったものになっていく。 共にある自己」体験が形を変え内在化(言語表象化) ところが,母親による情動調律は決して中立的なも されていったものであると考える。つまり,裏言葉の のではない。母親によって調律される情動もあれば, 背景には,中核自己期に形成される他者との体験的な 調律されない情動もある。ある母親は乳児の熱狂的な 結びつきがあり,それなくしては裏言葉は成立しない 興奮状態に対して積極的に調律し,興奮がさめた状態 ものなのである。 にはあまり調律しない。また別の母親は,乳児の興奮 「他者と共にある自己」体験をもう一度振り返って からさめた静かな状態に調律し,熱狂的な状態の乳児 みよう。類似した相互交流のエピソードがRIGs(一般 に対してはあまり体験を共有しようとしない。この選 化された相互交流に関する表象)を形成し,新たな相 択的な調律の背景として,母親自身の願望,恐怖など 互交流のエピソードが起こると,「呼び起こしの友」を が影響を与えている。その結果,母親によってうまく RIGから誘発し,そのエピソードと比較の上で,新た 調律された情動は「情動を共有する他者と共にいる」 にRIGsを書き換えていく。ここで大切なことは,そ 体験として乳児に内在化され,一人のときにも乳児に の現在進行中のエピソードは,登場人物は乳児一人で 対して慰撫的に働く。一方,調律されなかった情動は, あったとしても,「呼び起こしの友」が呼び起こされる のちにその情動を体験するときにも,対人関係つまり ことによって,「自己を制御する他者」が共にいる体験 エロスを欠いたものとして体験され,その人の情緒的 として,乳児に体験されるということである。つまり, 生活を潤すものとなりにくい。 「他者と共にある自己」体験は,最初は実在する「他 筆者は,母親によって調律され「母親と共にある体 者と共にある自己」体験として始まり,次第に心の中 験」として内在化された情動こそ,裏言葉を包む情緒 の表象ないしイメージとしての「他者と共にある自己」 的保護膜になると考える。たとえば,乳児がおもちゃ 体験にまで広がっていくのである。この体験は生涯自 で遊んでいて,ふとあたりを見回すと母親がいないこ 己感の土台として働き,成長するにつれて意識されな とに気づき,不安に襲われて泣き出す。そこへ,聞き くなっていくが,主観的体験は本来的に「他者」が伴 慣れた足音とともに母親が現われ,乳児を抱き上げ。 う社会的な体験なのである。こうした「他者と共にあ 「どうしたの。ママはちゃんといるわよ」と声をかけ, る自己」体験の積み重ねによって,「他者と共にある」 乳児は次第に泣きやんでいく。そうした体験が積み重 イメージないし雰囲気が加味されていくのである。そ ねられていくうちに,信頼する人がいなくて不安なと の「他者と共にある」イメージないし雰囲気は,大人 きにも,内的には慰撫する母親が存在する体験となる。 になってからの裏言葉を発している個人の中にも,ご 言語を獲得していくうちに,そうした情動として存在 く目立たない空気のようなものとして備わっているの する慰撫的な母親が,言語表象として生じるように である。 なってくる。これは,慰撫的な母親表象の例であるが, その他にも,身近な人との体験のなかで獲得したエロ ③ 主観的自己感と裏言葉 ス的な表象が,類似した状況の中で裏言葉へと言語表 主観的自己感の形成期は,「私にも心があるのと同様 象化されていく。 に,あなたにも心があるのだから,心を通わせること このように,言葉が生まれる際には,必然的にかつ -203- 吉 岡 恒 生 て他者と共有した情動が伴う。これは,表言葉でも裏 であり,自己中心的言語の観察からもわかるように, 言葉でも事情は同じである。ところが,表言葉を包む そこには意識されているかいなかに関わらず,内在化 情動と裏言葉を包む情動は,内容的に異なったものに された他者は存在しているのである。 なっていく。表言葉を包むものは,主に社会化された 言語が内在化されていく過程を,ドーレは,移行対 情動,たとえば喜び,悲しみ,怒りなどである。一方, 象あるいは移行現象としての言語という観点から記述 裏言葉を包むものは,先述した社会化された情動も含 した。移行対象transitional むが,特徴的なのは,母親との二者関係的な世界に支 1979)とは,「赤ん坊の最初の“自分でない"所有物 配的だった情動,たとえば,万能感,羨望,激怒,攻 で内的体験と外的体験との間を“橋渡じする対象」 撃衝動,呑み込む愛,迫害意識などである。幼児はこ であり,オムツや特定の毛布などが選ばれ,乳児自身 れらの情動が,表言葉の形で対人関係に持ち込みにく が発見し母子分離の痛みをやわらげる機能をもつ。 いものであることを学んでいき,対人関係で疎外され ウィニコット自身も,言語の前段階である哺語や口を object (ウィニコット, たこれらの情動は,内向し裏言葉と結びついて生き続 もぐもぐさせるなどの体験には,空想が結びついて移 けるのである。ゆえに,裏言葉は人を癒すばかりでな 行現象の機能を果たすとしている。言葉も,母親によっ く,ややもすると原初的な対象関係に人を退行させ, て外部から乳児に与えられるという点では外的体験で 病的な症状を引き起こすこともある。たとえば,精神 あり,その言葉が与えられるにふさわしい考えが乳児 分裂病者の強烈な迫害意識を伴った幻聴などがそれで の内部にすでに存在しているという点では内的体験で ある。その背景には,間主観的かかわり合いの領域に ある。母親と共にある体験の中で獲得した言葉には, おける,母親の情動調律の失敗が深く関与しているも エロス的なものが付随し,言葉そのものが母子分離の のと思われる。 痛みをやわらげる機能をもつのである。 ネルソンによる2歳の女児の興味深い観察もある。 ③ 言語自己感と裏言葉 父親は毎晩彼女をベッドに寝かしつける。その儀式と 言語獲得により,乳児の体験様式は大きく変容する。 して二人はその日にあった出来事を振り返り,それが 言語は,感情,感覚,知覚,認知などの総体である非 彼女にとってこの上ない時間となった。彼女は父親に 言語的体験の一断片を切り取ったものである。ゆえに, ずっとそばにいてほしかったが,父親は彼女が寝付く 言語がとらえる断片は,言語作りの過程で変形され, 前に「お休み」と言って去っていった。父親が去った もとの体験から切り離されたものとなる。生の体験か あと,彼女の声は劇的に変化し,淡々とした,語るよ ら,言語によって表象される体験が浮き上がり,非言 うな口調になり,独白が始まった。彼女はひとりぼっ 語的な生の体験が背景にしりぞいていくのである。実 ちの恐怖と苦痛を感じているのだった。自分の感情を 際には言語とは無関係に続く新生-,中核-,主観的 コントロールするために,彼女は父親との対話の一部 かかわり合いの領域に支えられての言語的体験である を,独白のなかで繰り返した。父親の存在を再活性化 が,その三つの領域の体験は意識から疎外されがちに し,彼女は時々父親の声の調子に合わせたり,父親と 。なる。言語的に体験される領域における体験と,それ の対話様のものを再現しているようであった。彼女は, 以外の領域における体験との分裂が引き起こされる。 父親と意味を共有した言語表象を記憶の中から呼び起 「りんご」を見るとき,言語獲得以前の無様式知覚に こし,それを移行対象として独白という形でもてあそ よってとらえられていた「りんご」は「りんご」その ぶことによって,分離の痛みに耐えるのである。そう ものとして体験されにくくなり,たとえば「赤いりん して,父親の言葉は彼女の言葉になっていく(スター ご」という「赤い」という属性に強くとらわれたもの ン(1989)を参照)。 として体験されたりする。 この女児の例は,裏言葉の発生過程を如実に物語っ 言語によって体験される領域そのものも,二つに分 ている。これは言葉が内化される前の女児の例である かれてい剔伝達する相手を必要とする言語によって が,裏言葉が自己とそこに存在しない養育者のイメー 体験される領域と,伝達する相手を必要としない言語 ジとの対話を起源に持つことを暗示している。中核か によって体験される領域である。前者は外言,筆者の かわり合いの領域で母親(父親)の身体を,間主観的 言葉で言えば「表言葉」の世界として発達していき, かかわり合いの領域で母親(父親)の意図,情動等を 体験を一層客体化し,カテゴリー化していく。後者は 自らに取り入れていった赤ん坊が,今度は母親(父親) 自己中心的言語をその端緒とし内言,筆者の言葉で言 の言葉を相互交流のイメージの中で取り入れていくの えば「裏言葉」の世界として発達していく。このとき, である。こうして情緒的に色付けられた言葉そのもの 裏言葉は,生の体験と外的言語によって客体化された が,毛布などと同様に,子どものそばにいて,子ども 体験の間を媒介する役目を果たす。後者を伝達する相 を慰撫する機能をもつようになる。そうした移行対象 手を必要としない言語体験としたが,これは厳密に言 としての言葉は裏言葉に引き継がれ,個人の情緒生活 えば,「実際の」伝達する相手を必要としない言語体験 に寄与することになる。 -204- 発達過程から見た裏言葉 IV 要 き起こす場合もある。 約 言語自己感の形成とともに,それ以前のかかわり合 本稿では,スターンの精神発達理論を援用して裏言 いの領域の体験が意識から疎外されがちになる。言語 葉の発生過程を考察した。裏言葉とは,ヴィゴツキー によって体験される領域も,表言葉と裏言葉の世界に のいう内言に重なる而も多いが,内的言語の情緒的側 分かれていき,前者は体験を客体化しカテゴリー化し, 面に焦点を当てるために用いた述語である。 後者は生の体験と表言葉を媒介する役目を果たす。ま スターンは,乳児の主観的体験を探る中で自己感の た言葉は,分離の痛みをやわらげる移行対象として機 中心的役割を強調し,各自己感の形成とともに,それ 能し,その機能は主に裏言葉に引き継がれる。 に関連したかかわり合いの領域が層状に発展していく ものとして発達をとらえた。出生後から2ヵ月の間に 新生自己感,2 6ヵ月の間に中核自己感,7 15ヵ 月の間に主観的自己感,それ以後言語自己感の形成が 始まる。 裏言葉の発生過程も,この4つの自己感の領域の発 展と呼応していると考えることができる。何かが生ま れ一出でつつあるという体験である新生自己感は,言 語獲得後の言葉が心の中で生まれ一出でつつあるとい う体験を準備する。中核自己感の形成は,「他者と共 にある自己」体験が顕著になり,「自己を制御する他者」 が内在化していくことであり,この「他者と共にある」 イメージないし雰囲気は,大人の裏言葉の中にも,ご く目立たないものと七て備わっている。 主観的自己感の形成期には,間主観性とりわけ間情 動性が発達する。それには,母親(養育者)による情 動調律が大きな役割を果たす。そして,母親によって 調律され「母親と共にある体験」として内在化された 情動が,裏言葉を包む情緒的保護膜になっていく。し かし,情動調律の失敗により,裏言葉が原始的な対象 関係のなかに退行しやすくなり,精神病的な症状を引 -205-