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2007年1月25日 聖パウロの回心の祝日・キリスト教一致週間閉幕荘厳晩

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2007年1月25日 聖パウロの回心の祝日・キリスト教一致週間閉幕荘厳晩
2007 年キリスト者一致祈祷週間閉幕・聖パウロの回心の祝日荘厳晩課説教
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
キリスト者一致祈祷週間閉幕・聖パウロの回心の祝日荘厳晩課
ベネディクト 16 世聖下の説教
サン・パウロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂
2007 年 1 月 25 日
毎年 1 月 25 日使徒聖パウロ回心の祝日は、キリスト者一致祈祷週間の幕を閉じる重要な意義も兼ねており、教皇
はバジリカ・サン・パウロ・フオリ・レ・ ムーラ(城壁外の聖パウロの大聖堂)に赴き、正教会や英国国教会、それにル
ター派等プロテスタント各派の代表を迎え、荘厳晩課を司式される。 2007 年のこの日、ベネディクト 16 世はキリス
ト教徒一致の意義を再確認・再強調されながら、祭儀の後わりに、埋葬者の遺物が初めて具体的な形で確認され、
巡礼者にも目に見えるように公開されることになった主祭壇下の聖パウロの墓所の前に佇み、偉大な異邦人の使徒
の面影を求め、その取次によって、分裂したキリスト者の一致が進行するように祈られた。
親愛なる兄弟姉妹方!
今宵幕を閉じる「祈祷週間」の間、全世界の種々様々な教会や教会共同体の中でキリスト者の
一致を願って主に対する共通の懇願の祈りが熱心に捧げられてきました。私達は一緒に、先ほ
ど読み上げられたマルコの福音の言葉について、黙想してまいりました。『耳の聞こえない人々
を聞こえるようにし、口のきけない人々を話せるようにする』
(マルコ 7,37)という、南アフ
リカのキリスト教共同体によって提案された聖書のテーマです。人種差別主義、貧困、紛争、
搾取、病気、苦難など、彼らの置かれている状況は、困難の中にある自分の状態を理解しても
らえないという不可能性そのものによって、神の言葉に耳を傾け、勇気を以て語るという緊迫
した必要を彼らの内に掻き立てます。聾唖状態の存在は、聞くことも話すこともできないとい
2007 年キリスト者一致祈祷週間閉幕・聖パウロの回心の祝日荘厳晩課説教
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
う状態によって実に、コムニオーネ(交わりと一致)の欠如と分裂の徴候に他ならないのでは
ないでしょうか?分裂とコミュニケーションの不能性、罪の結果、それらは神の計画に背反し
ています。アフリカは私達に今年、宗教的にも政治的にも非常に重要性が高い熟察のテーマを
提供してくれました。なぜなら、「話すこと」と「聞くこと」は、愛の文明を築くための本質的
な条件だからです。
『耳の聞こえない人々を聞こえるようにし、口のきけない人々を話せるようにする』言葉は良
い知らせとなり、それは神の王国の到来およびコムニケーション不能状態と分裂の回復を告げ
知らせます。このメッセージは、イエスの説教と活動の全ての内に見出され、イエスは村々や
町、田園を通り過ぎながら、彼の現れる所はどこでも人々が『広場に病人達を運び、せめてマ
ントの房にだけでも病人達に触れさせてほしいとイエスに願い、そして、彼は触れた人は皆、
回復しました』
(マルコ 6,56)。この数日私達が黙想した聾唖者の回復とは、イエスがティルス
地方を去り、いわゆるデカポリスと呼ばれる、多民族多宗教地帯を通り過ぎながら、ガリラヤ
湖に向かう最中に起こった出来事です。私
達の現代にとっても寓意的な状況です。他
と同様、デカポリス地帯においても、人々
はひとりの病人、耳が聞こず話すこともま
まならない(moghìlalon)男をイエスに紹
介し、その男の上に手を置いてくれるよう
に願います。なぜなら人々はイエスを神の
人だと考えていたからです。イエスはその
聾唖者を群衆から離れた所に連れていき、
救いをもたらす接触を意味するジェスチャ
ーを為さいます――指を両耳の中に入れ、御自分の唾を病人の舌に付けます――、それから眼
差しを天に向け、命令なさいます、
『開け!』と。それはアラム語 (“Effatà”)で、多分その場に
居合わせた人々とその聾唖者自身の言語で発した命令ですが、福音史家はギリシャ語に翻訳し
ます(dianoìchthēti)。耳が聞こえない人の両耳が開き、彼の舌のもつれが解け、
『そして正し
く話し出しました』(orthōs)。イエスは彼に、奇蹟について何も言わないように諭します。し
かし、そう諭せば諭すほど、『人々はそれについて話しました』
(マルコ 7,36)。そして、その
出来事を見ていた人々の驚嘆のコメントが彷彿とさせるのは、メシアの出現を語るイザヤの
『耳の聞こえない人々を聞こえるようにし、口のきけない人々を話せるようにする』
(マルコ
7,37)という説教でした。
この聖書のエピソードから引き出せる最初の教訓、それは洗礼式の式次第の中でも思い起こさ
れていますが、キリスト教的見解では、聞くことが優先するということです。その点に関し、
イエスははっきりと、
『幸いなのは、神のことばを聞き、それを実践する人々』
(ルカ 11,28)
2007 年キリスト者一致祈祷週間閉幕・聖パウロの回心の祝日荘厳晩課説教
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
と断言しておられます。むしろ、多くの事に心を煩わせていたマルタに向かってイエスは、
『必
要なのはただひとつ』
(ルカ 10,42)と仰せになります。そして文脈から、このただひとつの事
とはみことばを従順に聞くことであると、読みとれます。それ故、神の言葉の傾聴は、私達の
エキュメニズムに関する責務にとっての優先事項です。実際、教会の一致を作り上げるのも企
画するのも、私達ではありません。教会は自己を作り上げるのでも自己によって生きているの
でもなく、神の口から出てくる創造主たる言葉によって生きているのです。神の言葉を一緒に
聞くこと、聖書のレクツィオ・ディヴィナを実践することです、即ち、祈りに結び付けられた
読書のことです、斬新さに驚嘆させられることです。それは決して廃れることがありません、
神の言葉を消耗し尽くすことは決してありません。私達の先入観や意見と合わない言葉に対す
る私達の難聴を克服することであり、全ての時代の信徒達のコムニオーネ(交わりと一致)の
内に傾聴し、研究することなのです。その全てが、みことばの傾聴への回答として、信仰の一
致に到達するために辿り通すべき歩みを成していきます。
それから、神の言葉の傾聴を心がける人は、聞い
た言葉を他者に語り伝えなければなりません、そ
の言葉を未だかつて聞いたことがない人々や、そ
れを忘れてしまっているか、いろいろな心配事や
世間のまやかしといった茨の中に埋もれさせてし
まった人々(参照:マタイ 13,22)に語り伝えな
ければなりません。私達は自分に問いかけなけれ
ばなりません、私達クリスチャンはもしや、余り
にも口を閉ざしてばかりいるようになったのではないでしょうか?私達には、デカポリス地帯
の聾唖者の回復の証人だった人々が行ったように語る勇気や証しする勇気が、もしや欠けてい
るのではないでしょうか?私達の世間はこの証を必要としていますし、何よりもクリスチャン
共通の証を待ち望んでいます。そのため、神がお話しになることの傾聴は、相互の傾聴を暗示
しており、諸教会と諸教会共同体の間の対話をも暗示しています。正直で公正な対話は、一致
の追及と切り離すことができない道具です。第2ヴァチカン公会議の発令は、クリスチャンた
ちが相互に知り合わないのであれば、コムニオーネの道の進展すら想像することは不可能であ
ると強調しました。対話においては実際、私達は互いに耳を傾け合い、コムニケーションし合
いますし、私達は比較し合い、そして、神の恵みによって、神のみことばに収束しながら、全
ての人々に通用する彼のみことばの要求を受け入れます。
傾聴と対話の内に公会議教父方が予見したのは、エキュメニズムの進展にだけ排他的に絞り込
んだ有用性ではなく、カトリック教会自体に関連した見解も付言しました。即ちそれは、
『この
対話から――公会議文書が断言するに――カトリック教会の真の状態がどのようであるかも、
もっとはっきりと見えてくるでしょう』(Unitatis redintegratio, 9)。真正面から取り組み、議論
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ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
し、クリスチャン達の間に存在する不一致を克服する対話のためには、
『教義の全てをはっきり
と打ち出すこと』がもちろん不可欠ですが、同時に、
『カトリック信仰を述べる仕方と方法が、
兄弟達との対話の障害になってはいけません』(同上 11)。適切に(orthōs)、理解可能な形で話
す必要があります。エキュメニズムの対話は、福音的で兄弟的な矯正を伴い、キリスト教信仰
と生活の本物の体験の分かち合いによって互いに豊かになる相乗効果に繋がります。それが現
実となるには、神の恩寵の援助と聖霊の照らしを倦むことなく懇願することが求められます。
それが世界中のキリスト者達がこの特別な『週間』に行った事なのであり、もしくは、聖霊降
臨に先立つノヴェナにおいて行う事であり、他にも適当な状況において行う事です。キリスト
の弟子達がただひとつでありますように、みことばの傾聴を以て私達の時代の男女に適した証
を与えることができますようにという、信頼に満ちた祈りを捧げることによります。
この濃厚なコムニオーネ(交わりと一致)の雰囲気の中で、私は
心を籠めて御列席の皆様、このバジリカの首席司祭枢機卿様、キ
リスト者一致促進評議会議長枢機卿様、その他の枢機卿様方、司
教職と司祭職における敬愛する兄弟方、ベネディクト会の修道士
方、その他の修道士・修道女方、ローマ教区共同体全体を代表す
る一般信徒の方々に御挨拶したいと思います。特に、祭儀に御臨
席下さっている他の諸教会と教会共同体の兄弟方には、ダマスコ
への途上にあった聖パウロの霹靂の如き回心を記念する日に「祈
祷週間」を一緒に閉じるという意義深い伝統を新たにしながら、
御挨拶申し上げます。ここで私は喜んで発表致します、私達が今
その傍らに集っている異邦人の使徒の墓所は、最近の学術調査と
研究の対象となり、それに続いて、主祭壇の下部に適当な処置を施すことにより、巡礼者達に
見えるような形態になりました。この重要なイニシアティブに対し、私の祝意を表明致しま
す。教会一致の飽くことなき構築者である聖パウロのお取次に、2006 年の間に催された多くの
対話や兄弟的会合において、東方教会とも西側の諸教会や教会共同体とも、私達が共に経験で
きた傾聴や共通の証の様々な実りを託します。これらの催しにおいては、依然として緊張状態
にある悲しみもさることながら、兄弟愛の喜びが感じられ、主が私達に注いでくださった希望
が常に保たれてきました。祈りによって、自分達の苦しみの捧げものによって、倦むことなき
活動によって、エキュメニズムの対話を強化するのに貢献してくださった方々に感謝致しまし
ょう。それは誰よりもまず私達の主イエス・キリストです、私達は全てに関する熱烈な感謝を
彼に捧げます。おとめマリアが、彼女の神聖な御子の『全員がただひとつでありますように…
世界が信じるようになるために』(ヨハネ 17,21)という一致への熱望が一刻も早く実現するよ
うにしてくださいますように。
2007 年キリスト者一致祈祷週間閉幕・聖パウロの回心の祝日荘厳晩課説教
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
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