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倫 理 綱 領 - 国分寺国立支部

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倫 理 綱 領 - 国分寺国立支部
目次
上原邦男 支部長挨拶
1
祝辞・藤田和夫 都宅協会長
2
星野信夫 国分寺市長
3
関口博 国立市長
4
松本洋平 衆議院議員
5
三田敏哉 都議会議員
6
歴代支部長紹介
7
支部40年のあゆみ
8∼16
支部創設40年記念誌座談会Ⅰ「調和のとれた支部をめざして」
17∼22
支部創設40年記念誌座談会Ⅱ「これからの国分寺・国立支部」
23∼27
国分寺・国立支部の事業紹介
28∼31
委員会の紹介
32∼37
武蔵野探訪(国分寺市、国立市の40年前と現在)
38∼41
国分寺・国立支部会員名簿
42∼46
国分寺・国立支部会員数推移
47
記念誌発刊特別委員紹介
48
太田和正雄 記念誌発刊特別委員長 編集後記
倫 理 綱 領
1. 我々会員は、国民の貴重な財産を託された者としての誇りと責任を
もって社会に貢献する。
2. 我々会員は、依頼者と地域社会の信頼にこたえるよう常に人格と専
門的知識の向上に努める。
3. 我々会員は、諸法令を守り、公正な取引の実現に努める。
4. 我々会員は、依頼者のために、誠実かつ公正な業務の遂行に努める。
5. 我々会員は、業界発展のため、業者間の相互信頼に基づく親密な協
力によって業界秩序の確立と組織の団結に努める。
【表紙写真】上・お鷹の道(提供=国分寺市役所) 下・谷保天満宮の神幸祭
ご挨拶
国分寺・国立支部
40周年を迎えて
国分寺・国立支部長 上原邦男
はじめに日頃より当支部の運営につきましては、格別なご支援とご協力を賜り、心から
厚く御礼申し上げます。お陰様をもちまして、当支部も創立40周年を迎えることが出来まし
た。これも偏に会員の皆様をはじめ関係各位のお力添えの賜物と深く感謝を申し上げるしだ
いです。
支部が設立された昭和41年はいざなぎ景気の真っただ中にあり、総人口は1億人を越え、
国民総生産が世界第3位になったと発表された年でした。昭和42年の支部会員は、61名で、
当時事務局はまだ整備されておらず、2代目小川重行支部長時代までは支部長の会社に事務
局を置き、手弁当で運営が行われていました。
その後不動産業界は、アメリカのドル防衛によるドルショック、中東戦争によるオイル
ショック、平成2年に破綻したバブル経済等、いくつもの試練を経験してきました。しか
し、その間も我々業協会は停滞することなく、着実に発展を遂げてまいりました。
そんな激動する時代の中、歴代の支部長はじめ役員、会員の皆様はその困難と荒波を乗り
越え、今日の立派な支部を築いて下さいました。私達はこの先達の苦労を決して忘れてはい
けません。現在の支部会員は170名で、都宅協33支部中30番目の規模ですが、お陰様をもち
まして大変融和と調和のとれたすばらしい支部になっています。
40年が経ち、業界を取り巻く環境は大きく変化しています。平成20年には110年ぶりに公
益法人改革が行われ、都宅協は公益社団法人を目指すことになっています。それと平行し本
部・支部の組織改革も行われようとしています。又、急速に進む小子高齢化、インターネッ
ト社会の進展による仕事内容の変化、規制緩和による競争の激化、それに伴う格差社会の出
現等、私達にはこれらに対応すべく新たな変革が求められています。私達は日頃の取引を通
して、国民の基本的財産である土地・建物の円滑な流通に寄与・貢献するという極めて重要
な社会的使命と責務を負っています。消費者に安心・安全を与える信頼産業です。日々研鑽
を積み、時代に即応しながら仕事に精励していかなければいけません。
この度の記念誌は、創立期からの支部の歩みを振り返り、これを整理・記録することによ
り過去を再認識し、そのうえでこれからの将来を展望する糧となるよう、又、支部会員相互
理解の一助になるようにとの思いで発刊することに致しました。
これからも会員の皆様と一致団結しながら支部発展のために努力してまいりたいと思いま
す。
最後に皆様の仕事の益々のご発展とご健勝を祈念し、ご挨拶とさせていただきます。
①
祝
辞
社団法人 東京都宅地建物取引業協会
会長 藤田和夫
社団法人東京都宅地建物取引業協会国分寺・国立支部の創立40周年を迎えられるにあたり心より
お祝い申し上げます。
貴支部におかれましては、創立時より一貫して本会の事業目的である宅地建物取引業の適正な運
営を確保し、本業全般の社会的地位の向上と健全な発達を図るため、会員相互の緊密な結合と自立
を促し、公正な取引慣行を確立すると共に会員の指導啓発に努められ、本会の模範支部としての名
誉と伝統を固く守り続けて頂いていることに改めて敬意を表する次第でございます。
また、貴支部は行政との太いパイプを築いて、土地住宅政策はもとより、街づくり政策・高齢者
対策をはじめ、その他福祉・文教・環境問題等につきましても積極的に協力し、住民の方々からも
温かい賛辞を頂いており、本会全体としても非常に名誉なことと存じ深く感謝申し上げます。
業界を取りまく環境は、都心部の地価上昇に引きずられ幾分明るい兆しも出て参りましたが、地
方圏はいまだ下落傾向にあり、我々の実感としては厳しい状況が続いております。また、昨今は各
種法律・税制改正や制度改革、不動産証券化をはじめとする多種多様なビジネスモデルの構築等に
より、私たちには今までの不動産業経営のノウハウだけではなく、金融・証券・保険など多種多様
な知識も必要になって参りました。
そのような観点から、一昨年より会員の方々の実務に即した勉強会(宅建経営塾)を実施して
おりますが、近い将来には会員・従業員・子弟の方々のための総合的な教育機関を構築して参りま
す。
また、一昨年、私たち会員の自前の金融機関として「全宅住宅ローン」を立ち上げ、東京におき
ましては同年7月より稼動を開始しましたが、貴支部の会員の方々は設立当初より温かいご支援ご
協力を頂戴しており、同年10月から全国展開を致しましたところ、もっか予想以上のご利用を頂い
ているところでございます。
さらに、皆様の賃貸仲介・管理業を支援するための「宅建ファミリー共済」も全国一の共済制
度として充実をして参りましたし、昨年度より金融庁より全宅連がこれを取り扱うための資格試験
(少額短期保険募集人資格試験)の実施機関として認定され、多くの会員・従業員の方々が資格を
取得されました。
今後は、総合的な保険制度の構築に向けて更なる前進を続けて参ります。
私は、会員の皆様方の業務支援を最重点施策として掲げ、不動産業が日本経済全体の最も重要な
基幹産業であるということを念頭に、私たち不動産業界とこれに関連する生活全般に係わる関係各
方面と緊密な連携を図り、総合的な施策の遂行に向けて全力を傾ける所存でございます。
どうか、貴支部におかれましても、これまで同様に協会本部との連携を密に業界の中枢支部とし
てご活躍をされますことを祈念し、お祝いの言葉とさせて頂きます。
②
祝 辞
国分寺市長
星野信夫
社団法人東京都宅地建物取引業協会国分寺・国立支部が昭和42年の創立からめでたく40周年を迎
えられたことを心よりお慶び申し上げます。
市民への無料不動産相談や国分寺まつりへの参加をはじめ、高齢者民間賃貸住宅あっせん事業に
ご協力いただくなど、その献身的な活動と市事業への積極的な取組みにあらためて感謝申し上げま
す。また、これまで業界全体の発展と地域の住環境の向上に尽力された支部運営に携わってこられ
た役員の方をはじめとして事業を支えてこられた会員の皆様のご労苦に心より敬意を表するもので
ございます。
人間が生きていく上において欠くことのできないものは衣食住ですが、その衣食住に一番求めら
れるものは、やはり「安全」と「安心」でしょう。先頃の台風や中越沖地震といった自然災害だけ
でなく耐震偽装事件などは人の生命を脅かすものであり、誰もが被害者となりうる可能性をもって
います。
国分寺市では、平成19年度を初年度とする第四次長期総合計画を策定し、「市民が安全・快適に
暮らせるまち」、「市民の生命と財産を守るまち」など6つの将来の都市像を設定し、個別目標を
掲げてその実現を図ってまいります.緑や湧水、文化財といった地域資源の保全と回復、公害対策
や道路ネットワークの形成、ゴミの資源化率向上と減量化、防災・防犯のための地域力の発揮と向
上など、より良い住環境を形成していくために数多くの課題がございます。これらをひとつひとつ
解決していくためには住民の方をはじめとした地域の協力が不可欠であり、皆様方のような専門家
の知識や経験を必要としております。今まで同様、市の事業に対しましてもお力添えを賜りたくあ
らためてお願い申し上げる次第でございます。
最後に、社団法人東京都宅地建物取引業協会国分寺・国立支部の今後のますますのご発展と皆様
方のご健勝を心からお祈り申し上げ、お祝いの言葉といたします。
③
祝
辞
国立市長
関口 博
社団法人東京都宅地建物取引業協会国分寺・国立支部の創立40周年おめでとうございます。貴協
会が、バブルの時代、バブル崩壊の時代を通って40年の長きに渡って活動され続けましたことを心
からお祝い申し上げます。
日頃は、国立市の不動産相談コーナーに相談員を派遣して市民相談に乗っていただきありがとう
ございます。また、例年行われる国立市民祭では無料不動産相談所を開設していただき、市民サー
ビスの向上にご協力いただいていますことに重ねて感謝申し上げます。
市民にとって不動産を取得することは人生の中で大変大きな出来事です。また住居の賃貸契約や
不動産活用についても、法的に理解しがたいことが多々あるものですが、住み慣れたこの街で、そ
れらの疑問に答えていただけることは、私たち市民にとって大変心強く助かります。
貴協会は、全国ネットワークを組み、研修制度を取り入れて消費者に信頼される組織作りをして
いることがパンフレットから読み取ることができます。このような皆さまの日々の努力と研鑽が多
くの人たちの安心へとつながっているものと思います。
これからも、益々貴協会が活躍されますように、また、国立市民のサービス向上にもご協力いた
だけますようにお願い申し上げて、創立40周年のお祝いの言葉とさせていただきます。おめでとう
ございました。
④
祝 辞
衆議院議員
松本洋平
この度、社団法人東京都宅地建物取引業協会国分寺・国立支部が創立40周年を迎えられましたこ
と、心からお慶び申し上げます。
会員の皆さまはこれまで業務や協会を通じて、地域社会の発展に大きく寄与されてこられまし
た。特に貴協会は“安心”、“安全”をモットーに、住宅や不動産の流通、供給に大きな役割を果
たしてこられたことはいうまでもありません。貴支部の歴史を振り返ってみますと、地元である国
分寺市、国立市の歴史と重なるといっても過言ではありません。
高度成長期における街の発展、住宅不足に悩む国民、バブルの崩壊による経済の停滞これらの大
きな課題は全て会員の皆さまの努力によって乗り越えることが可能となり、現在の地域社会を作り
出しています。これも全ては会員の皆さまが貴支部を通じ、力を合わせてサービス向上に努めてき
た結果ではないでしょうか。
住宅ローンを中心とする金融事業や家財保証をはじめとした保険事業、会員の皆さまが保有する
不動産物件情報をインターネット上に公開する等、消費者が安心してより良いサービスを受けられ
るように工夫されたものですし、地元に密着をして様々な地域のイベントにも積極的にご協力頂い
ております。
住宅や不動産は、人が生きていくためには必要不可欠なものです。だからこそ貴支部が果たして
きた役割と成果は大変高い評価がなされているものと確信しておりますし、今後ますますの発展を
期待する次第です。
これからの国分寺・国立を考えた時、少子高齢化社会の本格的到来や、都市計画のなかで大きく
変貌しようとしている街の姿があります。同時に国分寺・国立を含めた多摩地域は、我が国で最も
発展が期待されている地域でもあります。
そうした変化のなかで、私たちの街を素晴らしいものとしていくためには、貴支部のますますの
ご活躍とご発展が不可欠です。
今回の創立40周年という節目を契機として、これまでの歴史を思い起こし、先人に感謝をしなが
ら、貴支部が更に飛躍されますことを心からお祈り申し上げます。
本当におめでとうごぎいました!
⑤
祝
辞
東京都議会議員
三田敏哉
社団法人東京都宅地建物取引業協会国分寺・国立支部創立40周年を迎えられましたこと心よりお
慶び申し上げます。
上原邦男支部長をはじめ、歴代の役員の皆様方におかれましては、創立以来、地元の住民の住環
境向上とともに、地域社会に貢献できる体制作りにご努力を重ねるなど、多大なご尽力を重ねてこ
られました。
本日までに至るご苦労に対しまして、心から深甚なる敬意と感謝の意を表する次第でございま
す。
さて今や、いざなぎ景気を超えての成長といえども、世界経済の視点からの判断であって、経
済・雇用失業情勢はきわめて深刻な事態となっており、皆様方の業界におきましても並々ならぬご
苦労をされていることと存じます。
しかし、こうした状況にあるときこそ、長年にわたって蓄積された知識や経験が求められるもの
であります。
会員の業務研修や一般消費者に対する相談の取り組みをはじめ、中小企業を取り巻く環境を改
善するために関係各方面にさまざまな働きかけを行うなど、多大なご努力をされている皆様方の力
は、不動産業界はもとより、国分寺市、国立市にとりましても、発展への大いなる原動力となって
おります。
どうか、引き続き皆様方の英知を集結し、多摩の発展を目指しての「まちづくり」と、都民そし
て市民生活向上のためにより一層のご尽力を賜ることをお願い申し上げます。
都議会といたしましても、皆様方と力を携えながら、都民が安心して暮らせる希望に満ちあふれ
た「東京」を実現するために全力を尽くしてまいる所在でございます。
結びに、社団法人東京都宅地建物取引業協会国分寺・国立支部のさらなるご発展と創立40周年を
心からお祝い申し上げまして、私の祝辞とさせていただきます。
⑥
歴代支部長紹介
初代支部長
故 岡部 高三郎
(在任期間 昭和42年∼昭和46年8月
第2代支部長
第3支部長
小川 重行
故 (在任期間 昭和46年8月14日∼昭和
岡 孝一
(在任期間 昭和55年4月25日∼昭和
14日)
55年4月25日)
61年4月25日)
第4代支部長
第5代支部長
第6代支部長
岡部 誠一
(在任期間 昭和61年4月25日∼平成
3年4月22日)
植松 一男
(在任期間 平成3年4月22日∼平成9
年4月25日)
田和 孝雄
(在任期間 平成9年4月25日∼平成
14年4月26日)
第7代支部長
小川 誠
(在任期間 平成14年4月26日∼平成
18年4月25日)
⑦
支部40年の歩み
昭和
42年(1967年)∼46年(1971年)
会報創刊号(昭和45年6月1日付)
会報4号(昭和45年9月1日付)
会報12号(昭和46年6月1日付)
会報15号(昭和46年9月1日付)
昭和40年、東京都宅地建物取引業組合連合会、三多摩不動産取引業組合連合会、東京都宅地建物取引員会の
3団体が統合して、東京都宅地建物取引業協会が設立される。昭和42年には宅地建物取引業法がスタート、同
協会は社団法人に認定された。
同時にこの年、国分寺・国立支部が結成される。初代支部長には、太陽土地株式会社の岡部高三郎氏が就任
した。
昭和45年6月1日、同支部の会報第1号が発刊。副支部長の坂本信次氏は会報第1号の中で、「絶大なる自然の
愛に抱かれて希望の彼方に向かってすこやかにすくすくと伸びて行く春の若芽のように支部報発展の前途を祝
福いたします」と祝辞を寄せている。
同年、岡部高三郎氏は勲五等瑞宝章に叙せられ、11月12日に伝達式が行われた。
昭和46年8月14日、支部臨時総会が開かれ、新支部長に郊外土地株式会社の小川重行氏が就任した。また支
部長交代により、支部事務所が太陽土地㈱内から郊外土地㈱内に変更となった。
⑧
支部40年の歩み
昭和
47年(1972年)∼50年(1975年)
街頭無料相談所(昭和48年10月23日)
昭和50年度新年会(昭和50年1月14日)
第8回通常総会(昭和50年5月6日)
昭和47年8月15日号の会報には物件情報が掲載されており、土地33.65
坪、建物11.5坪、築8年、国分寺駅から歩17分の売家で565万円であっ
た。
昭和48年2月13日、全国宅地建物保証協会設立。3月30社団法人認可。
昭和50年4月30日、初めての支部主催ゴルフ大会が武蔵カントリー・
豊岡コースで開催され、17名が参加した。優勝者は池田実氏。
同年9月26日、㈳東京都宅地建物取引業協会創立10周年記念祝賀会
がホテル・グランドパレスで開かれ、功労者記念表彰が行われた。支部
で表彰されたのは、小川重行氏、岡部高三郎氏、坂本信次氏、濱仲惣寿
会報27号(昭和47年9月15日付)
氏、西村安正氏、石井正巳氏。
⑨
支部40年の歩み
昭和
51年(1976年)∼54年(1979年)
第9回通常総会(昭和51年4月24日)
国分寺氏商工祭り
(昭和50年11月3日) 国分寺市役所内不動産相談所風景(昭和
52年4月26日)
昭和51年、国分寺市役所内に「不動産無料相談所」が設置される。こ
の相談所設置の目的は、「不動産の公正な流通と取引の安全を確保する
ため専門的立場において取引にたずさわるあらゆる相談に対する助言と
指導」とある(会報より)。
昭和52年、支部内に国友会が発足する。これは、支部会員相互の親睦
をより深めるため、趣味・スポーツ等の同好の方を集め活動する団体。
囲碁・将棋、釣り、麻雀、野球、ゴルフ等が行われた。
昭和54年には、国分寺市役所内の不動産無料相談所に関して、国分寺
市長から支部相談所長の岡孝一氏に感謝状が贈られた。
昭和55年4月25日、第3代支部長として岡孝土地株式会社の岡孝一氏が
就任した。
同年11月25日、東京ヒルトンホテルのおいて、㈳東京都宅地建物取引
業協会創立15周年記念式典が開催された。当支部から岡部高三郎氏、小
川重行氏、岡孝一氏、濱仲惣寿氏、石井正巳氏、植松一男氏が表彰され
会報74号(昭和53年6月1日付)
⑩
た。
支部40年の歩み
昭和
55年(1980年)∼58年(1983年)
街頭不動産無料相談日
(昭和55年10月18
日)
街頭不動産無料相談日・反省会(昭和55年10月18日)
多摩ブロック第16回総会懇親会・箱根湯本「吉池」
(昭和58年5月19日)
昭和56年には、東京都不動産協同組合が創立され、5月1日創立総会が
開かれた。当支部からの入会者は74名。
昭和57年、支部事務所に初めてファクシミリ機(NEC・
NEFAX4500)が導入される。
同年、永年の不動産業界への貢献が認められ、小川重行氏が黄綬褒章
を受章。
会報84号
(昭和56年1月31日付)
昭和58年の12月15日号をもって「支部会報」が100号を迎える。
⑪
支部40年の歩み
昭和
59年(1984年)∼62年(1987年)
支部の旅行・諏訪湖ホテル(昭和59年10月24日)
会報104号
(昭和59年7月15日付)
支部の旅行・秋保温泉ホテル佐勘(昭和62年10月21日)
昭和60年11月7日、㈳東京都宅地建物取引業協会創立20周年記念式典
が京王プラザで開催された。当支部から、岡孝一氏、小川重行氏、岡部
高三郎氏が表彰状を授与され、岡孝一氏、岡部誠一氏、岡田秀久氏、植
松一男氏、田和孝雄氏が感謝状を授与された。
同年11月15日、当支部初代支部長で、不動産業界に多大なる影響を与
えた岡部高三郎氏が逝去された。享年85歳であった。
昭和61年2月28日、国分寺市に続いて国立市においても「不動産相談
日」を開設することが決定された。
同年4月25日、岡部誠一氏(太陽土地㈱)が第4代支部長に就任。同
年10月1日には、会員のファクシミリに物件データを定期的の送る流通
会報108号
(昭和60年5月15日付)
⑫
システムの「東京レインズ」が発足。
支部40年の歩み
昭和
63年(1988年)∼平成3年(1991年)
支部旅行・鬼押出し園(平成3年10月22日)
会報121号より国友会ゴルフコンペの
模様(昭和63年9月21日)
.
会報128号
(平成2年10月25日)
平成3年4月22日、第23回通常総会において、武蔵土地商会の植松一男
氏が支部長に選任された。植松氏は支部長就任の挨拶として次のように
述べた。「支部事業については、総務、財務、企画事業、組織、広報、
指導研修、厚生、自主規制、苦情処理相談の9委員会において諸事業を
行ってまいります。会員の皆様には支部の諸事業、活動等に積極的に参
加していただき、お互いに親睦の輪を広めることにより、自店の業績向
会報131号
(平成3年6月25日)
上の役にたつことを期待しております」
⑬
支部40年の歩み
平成
4年(1992年)∼8年(1996年)
支部旅行・下呂温泉「望月館」
(平成5年10月)
会報144号
(平成6年10月10日付)
会報150号
(平成8年2月20日付)
平成5年、小金井・国分寺国際交流地域防犯協力会創立。当支部から
は、国分寺地区宅建業防犯協力会が構成団体として参加。
平成6年、当支部および本部顧問の小沢潔衆議院議員が国務大臣国土
庁長官に就任。8月2日、東京不動産政治連盟の河原将文会長(当時)に
同行して、当支部から植松一男氏、小川誠氏が表敬訪問した。
同年秋の叙勲で、小川重行氏が勲四等瑞宝章を受章。
平成8年、国分寺市と「高齢者等民間住宅斡旋協定」を取り交わす。
これは高齢者等住宅に困窮する世帯に、当支部会員が賃対住宅を斡旋す
会報138号
(平成5年3月31日付)
⑭
る協定。また、冨士野勉氏が勲五等瑞宝章を受章。
支部40年の歩み
平成
9年(1997年)∼13年(2001年)
会報153号
(平成9年3月15日付)
会報160号
(平成11年6月30日付)
会報161号
(平成12年2月1日付)
平成9年2月4日、当支部事務局長春日二郎氏が逝去。享年79歳。
同年4月25日第30回通常総会において、株式会社興和不動産の田和孝
雄氏が新支部長に選任される。
平成11年、支部内にスキー同好会設立。2月9・10日、舞子後楽園ス
キー場へ1回目のスキーツアー実施。
平成13年、賃貸問題特別委員会設置。インターネットの普及により、
賃貸仲介業務が激変したことに対応するもの。
平成13年春の叙勲において、岡部誠一氏が勲五等瑞宝章を受章。永年
会報157号
(平成9年6月30日付)
の不動産業界への貢献が評価された。
⑮
支部40年の歩み
平成
14年(2002年)∼18年(2006年)
第38回通常総会(平成17年4月26日)
ボウリング大会・懇親会(平成18年8月1日)
都宅協本部創立40周年記念研修会(平成18年1月30日)
平成14年4月26日、第35回通常総会で誠和商事の小川誠氏が第7代支部
長に就任した。
同年9月11日、山歩き同好会が第1回山歩き会を実施。御岳山∼日の出
山∼つるつる温泉の行程。
平成15年5月20日、岡孝一氏ご逝去。
平成17年、賃貸管理業務推進特別委員会設置。これは賃貸管理業務の
重要性が増し、業務支援を行い、賃貸不動産管理業協会への入会を促進
するためのもの。
平成18年4月25日、第39回通常総会において、有限会社上原土地の上
会報(平成15年7月7日)
⑯
原邦男氏が新支部長に就任。
支部創設40周年記念誌座談会Ⅰ
調和のとれた支部をめざして
出席者
行かなければなりません。
小川重行・相談役(第2代支部長)
今日は40年を振り返っていただいて、ざっくば
植松一男・相談役(第5代支部長)
らんに当時のいろいろな話を聞かせて頂きたいと
田和孝雄・相談役(第6代支部長)
思います。
小川誠・監事(第7代支部長)
上原邦男・支部長
気の遠くなるような時間が経つ
司会 太田和正雄・副支部長(記念誌発刊特別委員長)
(敬称略)
司会 皆さんがそれぞれ支部に入会されたのはい
つごろでしょうか。
司会 本日はお忙しい中、ご足労いただきまして
小川(重) 昭和40年ころから宅建業協会設立の
ありがとうございます。この度、国分寺・国立支
下話がありまして、どういうスタイルの支部にし
部が40周年を迎えまして、支部創設当初のお話を
ようかと相談していました。結局、国分寺と国立と
伺いたいと思いまして、この座談会を企画いたし
ました。はじめに上原支部長からご挨拶をお願い
します。
上原 お忙しい中をご出席いただきまして、あ
りがとうございました。国分寺・国立支部も40年
経ったわけですが、どんな組織でも歴史と伝統と
いうものがあります。国分寺・国立支部は、調和
のとれた融和のある素晴らしい支部です。現在が
あるのは、歴代の支部長の皆様が一生懸命築いて
こられた結果だと感謝をしています。私達は、先
人の知恵を学んでこれからの支部運営にあたって
上原邦男 支部長
⑰
支部創設40周年記念誌座談会Ⅰ
たんですね、団体が。それを東京都の骨折りで一
本化したわけです。それが宅地建物取引業協会と
なっていった。
植松 当時私は20代で、役員になったのも20代
なのですが、毎月役員会をやるわけですよ。その
時は岡部さんの太陽土地の社長室で15、6人でやっ
ていました。今みたいに専従の事務局もなくて、
太陽土地の社長秘書の人が事務局をやっていまし
た。最初は、皆さん大変だったと思いますね。
上原 あの当時郊外土地建物に勤めていた人が
小川重行 相談役(第2代支部長)
退職後独立して不動産業を始めた人が結構いまし
で一つの支部として誕生した。考えてみたら、そ
た。「郊外学校」なんて言われていましたね。人
のころから気の遠くなるような時間が経過してい
材が豊富で社員教育が良かったんですね。また、
ます(笑)。
大変歴史のある会社でした。
植松 私は昭和39年まで会社に勤めていたのです
小川(重) 今年で会社創立90年になります。
が、辞めまして、40年から協会の前身の組合にお
司会 田和さんが初めて入会されたころ、支部の
世話になっています。
状況はどうでしたか。
田和 私がこの協会に入会させてもらったのは、
田和 そのころは部長制度になっておりまして、
昭和44年です。今年で38年になります。支部長に
部長の下に担当者がいました。私が最初に法務
なったのは、平成9年5月です。
部の担当になったと記憶しています。しばらくし
小川(誠) 僕は昭和47年7月です。あの当時は2
て、法務部長になりました。法務部というのは、
人の推薦がないと入会できないので、小川重行さ
今の自主規制委員会です。
んと植松さんの所へ行って推薦をもらいました。
岡孝一さんが支部長の時まで、専務制度があり
田和さんのすぐ後、僕が支部長をやることになり
ませんでした。岡さんの1期目に岡田秀久さんが専
ます。
務理事をやられた。私が岡さんの2期目の専務理事
上原 私は、昭和46年に不動産業を始めました
を務めました。その後、岡部誠一さんが支部長を
が、それまでは不動産のことが全く分かりません
やられた時に、私が2期専務理事を務めました。
でしたので、前年の昭和45年に小川重行相談役の
小川(誠) 当時の資料を見ると、私がボウリン
郊外土地建物に入社をさせて頂きまして、一から
グ大会に参加してて、2位になっている(笑)。
仕事を教えて貰いました。宅地建物取引主任者の
504ピンと書いてあるから、すごい成績です。3
資格をとって、1年在籍していなかったと思います
ゲームでしょうけど(笑)。
が、私がこうして不動産業を営んでいる原点は郊
私が理事になったのは昭和57年です。その前3
外土地建物さんです。その節はいろいろとありが
年、理事補佐をやっていました。突如、長沼さん
とうございました(一同笑)。
の指導研修員長を引き継ぎました。予算も決算も
小川(重) とにかく、当時は真面目な役員会
知らないで、本部に行った経験もありました。
でした。岡部高三郎さんが初代支部長だったので
すが、副支部長を私と坂本さんが務めました。植
高くはなかった不動産業者の社会的地位
松さんが国立で根回しをしてくれて、なるべく国
⑱
立と国分寺が一体となるように配慮をしました。
司会 創立当時の社会的情勢というのは、どう
それで、今日までも国立と国分寺は融和していま
いったものだったのでしょうか。
す。
上原 私が入会した昭和46年の前年45年に三島由
当時は三多摩宅地建物取引業組合など、3つあっ
紀夫が自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をする事
調和のとれた支部をめざして
件がありました。それから、金とドルの交換停止
ませんでした。テレビでも悪役は、不動産ブロー
をしたドルショックがあり、2年ぐらいしたらオイ
カーが多かった(笑)。一般の人がわれわれ不動
ルショックがあって、どうも私のスタート当初は
産業を見る目は厳しかったんだろうと思います。
余り良かったという感じがしませんでした。
植松 うちの女房も、一時は「主人の仕事は不動
植松 皆さん、国会にデモ行進したこと覚えてま
産業者と言えなかった」って言いますからね。
す? 昭和42、3年頃です。政府が不動産業界を大
司会 「周旋屋」という言葉が出てきましたが、
手業者と中堅と零細に3分割する案を出したので
仲介業者の言葉で「閉め場」というのもありま
す。それに反対だということで、最初で最後の国
した。事務所を衝立で3畳ぐらいに仕切っちゃっ
会デモ行進をやりました。
て、案内から帰ってくるとそこにお客さんを入れ
武道館に全国の不動産業者が集まりました。あ
て、鍵かけてしまう。
れは非常に良く覚えています。
当時は自家用車を持っている人が少なかったの
司会 私も代々木公園で決起集会があって、赤い
で、「半日車に乗せてもらったからいいか」とい
鉢巻きした覚えがあります。
う感覚で、買う気もないのに手付金を置いていく
小川(誠) 僕が始めたのが昭和47年7月ですか
人がいたそうです。
ら、オイルショックが始まる頃でしたね。それま
そういう業者がいる反面、したたかなお客さ
で売り手市場だったものが、買い手の立場が強く
んもいてね。日曜に「多摩湖周辺の中古の物件
なって逆転しました。
を見たい」という連絡があって、行ったら子ども
司会 当時の不動産業界というのは、社会的には
がリュック背負ってて、「お父さん、早くしよう
どんな存在だったでしょうか。
よ」って言っている。現場行ってみると、ちょこ
小川(誠) 高くはないですよね。「周旋屋」な
ちょこっと見て、「もう結構です。この辺でおろ
んて呼ばれていましたから。
して下さい」と言うわけです。これ、西武園に来
田和 私は早くから宅地建物取引業者という言い
るためにタクシー代わりに使ったなって(笑)。
方をしていたのですが、「周旋屋さん、ちょっと
本題に戻りますが、支部報の創刊号が昭和45年6
お願いします」なんて言われても返事しないんで
月1日です。その前には、何か出されていたのです
すよ(笑)。そういう意味では、私自身プライド
か。
を持っていたのかなと思いますね。武士は喰わね
小川(重) ガリ版刷で連絡をした程度だね。会
ど高楊枝、という感覚でしたから。
報的には作っていません。当時は本部からも、今
小川(重) あの当時、業協会ができる背景は、
みたいに手取り足取り通知が来ませんから。
自主規制に対するムードが盛り上がってきたんで
小川(誠) 報道出版部と言ってましたね、広報
すよ。われわれの業界には、自分で自分たちの首
委員会ではなくて。
を絞めるような悪い奴らがいましたからね。
植松 私も、3∼4年一生懸命やりましたよ。
もう一つは、宅地開発という問題も野放しだっ
たんだ。勝手に道路付けて、勝手に分譲し、水
道管を引かずに蛇口だけ付けてというような、い
い加減な商売をやっているのがいたから、これを
取り締まるために宅地造成規制法ができたんだ。
そんな中で、業者の中から危機感が出てきたんだ
ね。このままでいいのかと。
上原 免許を持っていなくて、店舗も持たずブ
ローカー的にやっている人達がいて、問題をよく
起こしていました。大多数は真面目にやっていた
んですが、一部悪い人が出ると全体が良く見られ
植松一男 相談役(第5代支部長)
⑲
支部創設40周年記念誌座談会Ⅰ
小川(重) 当時は、実際の実務は私と植松さん
は賑わうけど、なべてお客さんの動きは鈍いんで
でやったようなもんです。
す。
植松 役員会の連絡から、当日の役員会の進行か
司会 昔南口に小学校がありましたよね。
ら、説明から、全部小川さんがやったんです。そ
小川(重) 第一小学校ですね。府中に近い方に
れは僕が良く覚えています。
移転しました。駅前の土地を売却して、市の財政
を助けたわけだね。
独特の雰囲気があった当時の国分寺・国立
司会 当時皆さんが物件を売る時に、広告はどの
ようにしていましたか。
司会 当時の国分寺駅、国立駅周辺は、今と比べ
上原 当時はマイソクとかアットホームというの
てどうだったでしょうか。
がありませんでしたから、物件を頼まれたら、自
田和 国立駅の北口は、以前は大きな松がありま
分で用紙に図面を書き、それを青焼きで刷って、
した。中央線沿線で国立駅だけなんですね、駅前
業者の人に配ったりしていましたね。
に林があったのは。国立駅の周辺は、北も南も文
司会 新聞で「五行広告」というのがありまし
化人が多かったんです。そういう意味では、「あ
た。朝日広告社というのがあって、よくそこに出
あ国立に帰ってきたな」という雰囲気がありまし
していたのを覚えています。
た。
小川(重) 昭和39∼43年頃、広告で一番効い
今は、下駄履きのマンションだらけになりまし
たのは、新聞に入れた折り込みチラシです。あれ
たけどね。普通の駅になってしまいました。昔は
は効いたなあ。今は効かないけど、あの当時は効
駅前でありながら、キノコが採れたんです。私は
果てきめんで、チラシを見た人がほとんど来まし
4種類ぐらい食べたかな(笑)。
た。
小川(重) 国分寺は、改札出たらすぐ立ち小便
ができる(笑)。平成元年に、中央線の特別快速
他支部から羨ましがられるわが支部
が停まるようになった。それから様変わりしてき
たんだ。南北の通路を架線橋にするなど、駅の改
司会 皆さんが支部長時代に、目標としていたこ
修が完了しましたね。
とはありますか。
小川(誠) 国分寺駅はそのころから北と南が逆
小川(重) 私が支部長時代に規制が始まってき
転したのではないですか。南に大きい建物ができ
ていました。宅地造成の規制法の制定の時も、業
て。
者が納得する内容に修正をお願いしました。東京
小川(重) 商工会の商業売上げを見ますと、今
都や建設省の役人とも仲良くなりました。当時、
でも北の方が多いですよ。南はすぐ坂になってし
役人と一杯飲むなんて当たり前だったんです。今
まって、お客さんの回遊性が弱いんですね。一時
のような状況ではないから、わりあいと意思疎通
ができましたね。
植松 私は平成3年から6年間支部長をやったんで
すが、とにかく支部を仲良くしていこうと思って
いました。
当時僕が支部長やっている時は、本部の仕事が
非常に多くなりました。週に3回ぐらい本部に行
きました。ちょうど各団体の運営が成熟した時期
で、やたら仕事が多かったですね。最後には東京
不動産政治連盟の会計責任者というのをやらされ
て、印鑑を預かって、何かあると飯田橋の本部に
小川誠 監事(第7代支部長)
⑳
持って行くという状況でした。本部の仕事がきつ
調和のとれた支部をめざして
かったです。副支部長が立派な人でしたから、支
部の運営は滞りなくできましたが。
小川(重) 平均的に見ると、平穏な支部ですよ
ね。対立とか抗争とかありませんでしたから。そ
れだけ人柄の良い人が、支部長になったんでしょ
う。
植松 他支部からその点は羨ましがられるんで
す。とにかく選挙はおろか、派閥もない。だいた
い支部長は、2期で交代しているわけです。他の
支部の人から「国分寺・国立さんは2期で辞める
ことになっているんですか」と聞かれて、「いや
田和孝雄 相談役(第6代支部長)
いや、やりたい人がやればいい。しかし、最低で
「周旋屋」という言葉が嫌いなもんですから、会
も2期はやらなきゃいけないよ」と言っているんで
員の資質の向上をめざそうと、本部の会長にも進
す。
言してきたつもりなんです。それで、今のような
上原 私で8代目の支部長なんですが、他支部では
研修制度ができました。そういう意味では、業界
倍近く変わっている支部もあるようです。うちの
の資質向上にお役に立てたのかなと思いますね。
支部は、選挙ということもなく、円満に話し合い
小川(誠) 私の場合は、もう流れに沿ってやっ
で引き継がれてきています。そういう意味でも素
ただけです。みんな仲良くやろうよ、というぐら
晴しいまとまりのある支部だと思いますね。
い。でも私の時から、指導研修でニューヨークに
小川(重) 本部行くでしょ。そうすると、三多
行くことになりましたから、それが大変だったぐ
摩というのはどちらかというと袖にする傾向があ
らいかな。
るんです。冗談じゃない、三多摩を制する者が東
支部がもう形づくられてきているし、行事的に
京都を制するんだと。政治の世界でも通用してい
も、内容的にも、やることがなくなってきたんで
るんだと。本部でも頑張って支部の意見を通しま
すね。支部長が「あれやろう、これやろう」と言
した。
うのがだんだんなくなってきた。支部の中でも、
今考えれば、支部が安定して和やかに行ってい
「みんな、これやろう」という声がなくなってき
るからできるんであって、足下がガタガタしてた
たのかなとも思いますね。
らそうはいかないからね。
上原 素晴らしい歴代の支部長が、このような良
司会 植松相談役が支部長の時代、今でも支部の
い支部をつくってくださいましたからから、私は
基本方針の一つである高齢者の住宅あっせん事業
その伝統を壊さないようひたすら守って、一年が
を始めました。当時、マスコミにインタビューを
経ったところです。
受けましたが、その点についてお聞かせ下さい。
今年の1月に「子供110番の家」をやり始めま
植松 国分寺・国立両市に働きかけて、太田和
した。子供が危険な目にあったとき、会員店舗を
さんが本当に努力していただいて、国分寺市につ
一時避難場所として利用して貰おうということで
いては高齢者住宅あっせん事業を実現いたしまし
す。
た。あれは非常に良かったです。今でも感謝され
私達は、日頃から地域に密着して仕事をしてい
ています。国立市については実現していませんの
るわけですから、その地域社会に貢献することも
で、これからの課題です。
必要です。我々会員のイメージアップにも繋がり
小川(誠) 国立市は財政的に悪いからと言うん
ます。来年から公益法人改正があって、業協会も
ですが、国分寺市ができたんだから、本当はでき
「公益社団法人」を目指すことになっています。
るはずなんです。意識の問題だね。
今までの事業や組織のあり方も変わってきます。
田和 私の時は、さきほども言いましたように、
支部間の格差是正、本部・支部との連結決算な
支部創設40周年記念誌座談会Ⅰ
ど業協会も変革期に入って来ています。支部もそ
ば発展していくだろうと思いますね。
れに併せて、これからの運営を考えていかなけれ
若い人の力に一つ期待したいと思います。
ばいけませんね。
小川(誠) 伝統を考えてくれて、形を変えてい
くというのがいいと思います。突然、「選挙やろ
若い人の新しい発想に期待
うぜ」というのではなく(笑)。これまでの伝統
を守りつつ、新しい形を考えれば良いんじゃない
司会 最後に現在の支部運営、会員活動等につ
かな。
いて、ご意見・ご希望を一言ずつお願いできます
今2世が半分近くいるんじゃないでしょうか。彼
か。
らは親の代のこともわかっているし、自分の代で
小川(重) 一言で言うと、いかにして良い人間
どうするべきかもわかっている。
関係を定着させるかということ。良い人間関係の
それから、委員会も多くなって大変ですから、
所に良い協力が生まれ、発展する。それは家庭で
もう少し削ろうという考え方もあるようです。そ
も職場でも何の組織でも同じです。現在の素晴し
うしたことにも対応できるようにしたらいいので
い役員と会員との関係を、より深く広くするよう
はないでしょうか。
に努力していただくと、必ず生きる喜びにつなが
司会 本日は長時間にわたりまして、貴重なお話
ると思いますね。
ありがとうございました。
植松 うちの支部は歴代、支部の親睦を一番大事
にしてきました。それが結果的に商売につながっ
ていくだろうと。
最近2世が役員になってますね。非常に良いこ
とだと思います。若い方が大いに要職についても
らって、一生懸命やってもらうのが一番重要だと
思います。
田和 今の若い方がある程度流れを引き継いで
もらって、われわれには古いところもあるわけで
すから、そういうところは払拭していただいて、
まったく新しい感覚で支部を運営していただけれ
司会 太田和正雄 記念誌発刊特別委員長
支部創設40周年記念誌座談会Ⅱ
これからの国分寺・国立支部
出席者
いただきたいと思っています。今日は是非、忌憚
中村早苗・清水開発㈱
のないご意見を頂戴できればと思います。
福喜多真理・清水開発㈱
司会 まず、皆さんが不動産業界に入られたいき
岡田俊介・泉産業㈱
さつを教えていただきたいと思います。
齋藤良太・斉藤商事㈱
渋谷 うちは家業が不動産会社でしたので、物心
渋谷修一・ ㈱かめや不動産
ついた時から「将来そうなるだろうな」と学生時
渡邊裕亨・ ㈱渡邊土地
代に思っていました。親父の方から「やってみる
遠藤誠司・ ㈱相互開発
か」と言われて、仕事に就きました。
武藤豊治・ ㈱井の頭不動産
武藤 私も同じで、父がやっている仕事が不動産
太田和正雄・記念誌発刊特別委員長
業でした。あまり興味はなかったんですけど、気
司会 飯塚勝弘・記念誌発刊特別委員
が付いてみたら同じ仕事に就いていました。
(敬称略)
福喜多 私も両親の働く姿を後ろから見ていた
のですが、「あんたに払う給料はないよ」と言わ
バブル崩壊後に不動産業界へ
れてしまって(笑)。そう言われると、余計入り
たくなるんですよね。気が付いたら入っていまし
司会 今日は40周年記念誌発刊の企画による座談
た。
会に、若手経営者の皆さんにお集まりいただき、
中村 私は在学中に、
お話を伺うことになりました。あまり堅くならず
親から「費用を出すか
に、ざっくばらんにお願いします。はじめに、記
ら宅建の資格と運転免
念誌発刊特別委員長の太田和正雄さんからお話を
許はとるように」と言
お願いします。
われました。大学時代
太田和 皆さん、お忙しいところをお集まりいた
に、アルバイトでハウ
だきまして、ありがとうございます。わが支部の
スクリーニングやお客
現在と未来について、お若い方から意見を述べて
さんの案内などをして
中村早苗・清水開発㈱
支部創設40周年記念誌座談会Ⅱ
齋藤良太・斉藤商事㈱
いました。
ないかなとも思ってい
違うところで働いて
ます。
いる期間もあったので
岡田 僕は今年で38歳
すけれども、地元の街
になりますが、ちょう
が好きで、地元の街に
どバブルが崩壊した頃
貢献する仕事がしたい
に入社しています。僕
と思って家業の不動産
らの前の年に入社して
の仕事をするようにな
いる人たちは、内定も
りました。
らうと企業の「囲い込
岡田俊介・泉産業㈱
齋藤 私も家業が不動産なのですが、父が10年前
み」があって、どこか高級リゾートに泊まり込み
に体を壊しまして、店番程度から始めました。
で連れて行かれてました。けれども、僕らの時に
岡田 結果的に家業を継いだことになったので
はなくて、近場のキャンプみたいのに変わってい
すが、僕の場合は少し違っています。仕事先を
ました(笑)。
見つける時に、やるからには大きな仕事をやり
渋谷 私は卒業して1回違うところに勤めました
たい、お金が大きく動く仕事をやりたいと思っ
が、2000年問題がありました。今ではニートとい
たんです。それで、ハウスメーカーに就職するん
う言葉ができましたが、その時期は就職難で、ア
ですけど、不動産というのを知る機会が多かった
ルバイトしかできない友人も多かったです。バブ
業界だったので、不動産というのは取引額が大き
ルというのは、過去のうらやましい時代でしかあ
いな、大きい仕事をやっているなというイメージ
りません。
を持ちました。それで、家業が不動産業者ですの
遠藤 バブルのつけを払っている頃の話だよね。
で、そこに飛び込んでみようと思ったわけです。
渋谷 「厳しい、厳しい」と言われますが、それ
渡邊 私は不動産をやるつもりはなく、設計事務
が普通でしたから。
所でお世話になっていたのですが、どうもうまく
武藤 私もこの業界に入った頃は、バブルが崩
いかないということで辞めてしまったんです。や
壊し始めていた頃でした。新卒ですぐ業界に入っ
ることがない時に、たまたま父が大きいワンルー
ていればバブルを経験したのですけれども、どう
ム・マンションの管理委託を受けて、とても手が
しても世間一般の感覚から言うバブルというのは
足らないということで、「ちょっと手伝ってよ」
“何でも高い”というイメージでした。だけど、
と言われました。そこからずるずるという感じで
あまり興味がなかったんです。その後、業界に
す。
入ったら落ちる一方で(笑)。
司会 皆さんお若い方なのですが、不動産業界
福喜多 私はこの業界入る前に、別の会社に5年
に入られた当時の世相や時代背景というのはどう
いました。就職状況は1年上の学年まではとても良
だったでしょう。
かったのですが、私たちの代ではまず女子から切
遠藤 私は昭和60年新卒で、この業界に22、3年
ろうということになって、すごく大変になりまし
はいますので、「お若い方」には入りませんが…
た。あんまりうま味がないままOL5年やって、そ
(笑)。入社した時はバブル前の暗い時代でした
れからこの業界に入ったんです。
遠藤誠司・ ㈱相互開発
が、だんだん泡がふ
中村 私も会社で働いていた時はバブルの絶頂期
くらみ、気がつけばタ
で、とても良い時代でした。
クシーを停める時もタ
齋藤 私がこの業界に入ったのは平成7年です。
クシーの目の前に行っ
景気のことはよく覚えていないんですけど、一
て、立ちふさがらない
番鮮明に覚えているのが地下鉄サリン事件と、阪
と停まらないという絶
神・淡路大震災です。
頂時を、サラリーマン
渡邊 僕もサリン事件だけは妙に覚えています。
時代に経験しました。
岡田 たぶん僕らはみんな、国分寺や国立で不動
またそういう時代が来
産業をやりだしたのが10年ぐらい前だと思うんで
これからの国分寺・国立支部
すよ。逆に言うとバブルを経験していない分、こ
ね。他のエリアが再開
んなものかとも思いますし、底辺から入ってきて
発進んでいるのを見る
いるから、「頑張れば行ける」という見方しかし
と、うらやましく感じ
ていません。泡を見ていないから。
ます。
業界とりまく環境は日々変化
福喜多 最近、武蔵小
金井もめきめき変わっ
司会 女性の方に伺います。女性の方の目線で、
ているので、このまま
不動産業界を見るとどうでしょうか。
埋もれちゃうんじゃな
福喜多 女性は相談を受けやすいですね。うちは
いの、という危惧はあ
女性ばかりの店舗なのですが、初めは店舗に入る
ります。
のが怖かったけど、女性が多くて入りやすかった
岡田 私の周辺の西国分寺駅は、たまたま再開発
と言われます。逆に女性しかいないデメリットも
が終わったばかりなんですけど、やっぱり良くで
あって、頼りなさそうという声もあります。男性
きています。街並みが綺麗になって、人通りをう
と女性、両方いるのが理想でしょうね。
まく作って。新しければいいというものではない
中村 女性か男性かというよりは、世間的に言
のですが、人も集まりやすくなるでしょうし、機
う「不動産屋」で働く方々のモラルをもっと上げ
能的にも優れていると思います。
られないのかなと思っていて、他業種と比較する
ただ西国分寺駅は、北口側の道路付きが良くな
と、電話の応対にしろ、何かのやり取りにしろ、
いので、この先再開発のしようがあるのかとも思
やはり世間的な評価は低いことを感じます。転職
いますが、国分寺ほど開発されていないところな
される方も多いというのを聞くと、まだまだ社会
ので、これからかなと思います。
的な地位は低いのかなと思わざるをえません。
司会 国立はどうですか。
この仕事はすごく奥深い仕事で、何をとっても
齋藤 国立のシンボルである三角屋根がなくなり
専門知識が必要だったり、経験が必要だったりし
ました。
ます。また、長くやろうと思えばできるのに、女
渋谷 北口は今までお店というお店がなかったで
性は結婚・出産して辞めてしまうケースが多いで
すけど、線路の下が通路になって、南口の人の流
す。女性が長く働けば、協会の中で女性の会員さ
れが北口まで来てくれると北口で商売やっている
んが増えると思います。
人にはいいと思います。
司会 国分寺の方にお聞きします。国分寺駅北口
司会 今、エンドユーザーはインターネットで
の再開発の話が上がっていますが、再開発に関し
検索して問い合わせをしてきます。皆さん、広告
て期待するところはありますか。
媒体として利用されていると思うのですが、実際
遠藤 もちろん期待しています。中央線沿線で再
やってみて、費用対効果はどうですか。
開発されていないのは、国分寺だけなんです。新
渋谷 正直言って、成約率はゼロに近いです。わ
宿に直通できる通勤特快があり、三鷹駅の次に停
ざわざホームページ100万円かけて作ったけれど、
まるのは国分寺駅で、非常に便利なのに、北口の
すぐ商売に結び付くものではありません。お問
メインストリートは非常に狭いうえに、バスも通
い合わせは来たことがあるのですが、成約までは
武藤豊治・ ㈱井の頭不動産
福喜多真理・清水開発㈱
るし、タクシーも通
至っていません。100万
るし、最近は「ぶん
円かけても、かけたお
バス」も通るので、通
金を回収するのは至難
行人はとても歩きにく
の業です。
い。
岡田 賃貸の場合、
武藤 ここまで再開
ネットで探す方は増
発やらないというこ
えていますね。ネッ
とは、逆に言うとでき
トで探しに来る人は決
ないのかなと思います
めに来ている人が多い 渋谷修一・ ㈱かめや不動産
支部創設40周年記念誌座談会Ⅱ
ので、案内しても楽だ
支部の将来に向けて
し、一つの物件を見せ
司会 飯塚勝弘・記念誌発刊特別委員
ただけで決まってしま
司会 業協会は公益法人法の改正もあって、近
う場合もあります。集
い将来組織改革がなされます。支部について皆さ
客という点では有利で
んから要望、ご意見がありましたらお聞かせ下さ
はありませんが、来て
い。
くれたお客さんの中で
遠藤 要望が一つだけあるのですが、国土交通大
成約に至る率は高いと
臣を不動産業界から出してもらいたいです。やは
思います。
り政治力は必要と考えています。
司会 最近は高齢化社会と言われますが、それは
それから、私は役員をやらせていただいてい
感じますか。
るんですけど、役員になって考えたのは、何のた
福喜多 お年寄りの方は多いですね。近くに家族
めに協会に参加しているのだろうかということで
が住んでいるんだけど、独りで住みたいという方
す。
が増えています。
皆さんこうやって集まりますけど、ある意味で
遠藤 実際問題、お年寄りって大変ではありませ
はライバルなわけです。でも、手を繋ぐところは
んか。「身元保証人いませんか」と必ず聞いてし
手を繋いでいきたい。では、手を繋ぐところは一
まう。
体どこなのかというと、医者や弁護士と比べると
福喜多 「週に1∼2回お家に来られる方はいます
社会的地位の低い業界を底上げしていくことなの
か」と聞きますね。
ではないかと思っています。
岡田 もし万が一事故があると、その物件の予
渋谷 研修会とかまだ1回しか参加したことなく
定収益が見込めなくなりますから。難しい問題で
て、父は指導研修委員をやっていたことがあるの
す。
ですが、話を聞くと大変さだけが伝わります。会
福喜多 お若くても、痴呆ってどの時期に来る
社の利益を考えると、役員などは損というように
かわからないんです。実際にそういう方もいまし
なってしまうのではないでしょうか。
た。
武藤 役員の方は、いつも良くやられているなと
司会 市役所は、不動産業者に依存するケース
つねに感謝しています。
が多いんですよ。高齢者あっせん事業との関係で
福喜多 私が業界に入ったときに、「不動産屋」
は、太田和さんいかがですか。
というと怖いイメージがありましたが、協会の
太田和 市の高齢者あっせん事業に該当するケー
皆さんは穏やかで、こういう集まりはいいなと感
スというのが、非常に限られているんです。身寄
じました。こういう良さを外に出せればいいなと
りがなくて、保証人がいなくて、生活保護者でな
思っています。
いと該当しない。その代わり生命保険は、市長が
中村 私は父に「楽しいから行こう」と無理矢理
保険金を受け取れるようになっています。
連れられて、皆さんと顔見知りになったのがきっ
その保険を私は6ヶ月かかってつくったんです
かけだったのですが、自分の店ではない方と知り
よ。日動火災の所へ行って、厚生省と大蔵省に申
合いになれて良かったなと思いました。
太田和正雄・記念誌発刊特別委員長
請して6ヶ月かかった
齋藤 私も印象としては、役員の方々非常に熱心
んです。損保というの
にやられていて、組織力がしっかりしていると思
は、被保険者以外受け
います。私も父が役員としてお世話になっていま
取れないんですが、そ
す。
れを「これは公的な保
岡田 僕は4年役員をやっているんですけど、いか
険だから」ということ
んせん支部自体が必要なのかどうなのか、微妙な
で、市長が受け取れる
ところだと思います。
ようにした。
支部に加入されている会員さんは、個人商店
が多いわけです。支部の横の繋がりをつくること
これからの国分寺・国立支部
によって、大手の不動産会社に対抗していきたい
というのが私のポリ
と思うのですが、できていないと思います。どこ
シーです。不動産業者
が敵でどこが味方かということではないんですけ
も、オーナーさんも、
ど、仲間としてうまく支部を活かせればいいなと
もっと自分たちの街を
思います。
気にして、個性化を
司会 支部運営には、仕事の活性化、親睦の活性
目指して街づくりをで
化もあって各委員会で活動していますが、業況を
きればいいなと思いま
改善するためにも、さらに事業の繁栄とか支援の
す。
ため支部でもやれる部分はたくさんあると思いま
齋藤 会社を潰さない
すね。
ようにしたいと思います(一堂笑)。
渡邊 自分は役員2年目です。初年から指導研修委
岡田 多分、不動産業界の未来は明るくないと
員になったのですが、研修をやるときは資料を作
思います。ただ、生き残っていく方法は必ずある
成しなければいけません。この前も4時間ぐらい
と思いますので、いわゆる提案がこれから必要に
かけてコピーしましたが、これだけ作ってたいし
なると思っています。たとえば、相続にしても、
て来てくれないし、途中で帰って行く人も多かっ
アパート建てるにしても、家を貸すにしても、全
た。
部提案していく営業スタイルになります。相手の
皆さん主に置いているものが、賃貸なのか、売
ニーズにあったものを、どれだけ提案できるかが
買なのか、違うわけです。皆さんの声を集めて演
重要になると思います。
題を決めれば一番良いと思います。本部の意見に
渡邊 先日研修の時に、古い写真を見る機会が
沿ったものだけやっていたのでは、興味がなかっ
あったのですが、今相談役や参与をやられている
たらみんな来ないし、途中で帰られてしまいま
方の頭が黒々としていて(笑)、青年なんです。
す。
ああ、こういう人たちが支部をつくったんだな、
会員さん同士の繋がりが薄いのも、要因なので
それを潰すか発展させるかは私たちにかかってい
しょうか。このところも、若い世代で何かできな
るなとしみじみ感じました。
いかなと思います。
協会が50年、60年、100年続くのかそれはわから
司会 最後に、これからの抱負についてお聞かせ
ないですけど、続くかどうか決めるのは自分たち
ください。
の世代なのだと思います。つくってくれた方に敬
遠藤 細く長く生きていきたいですね(笑)。
意を表したいし、なくしてはいけない団体なんだ
渋谷 自分名義の建物を建てたいです。
と思っています。抱負というより、ここから考え
武藤 私は社長が亡くなって継いで数ヶ月しか
ていくことですが。
経っていないんですけど、自分が代表になって感
司会 これを機会に、お互い良い関係で地域貢献
じたことは、このままこの業界は続くのかな?い
ができるようにしたいですね。本日はどうもあり
つまで続けられるかですね。毎日努力して長く続
がとうございました。
けたいです。
福喜多 私はよくドラマに出てくる「不動産屋
さん」のイメージを変えたいですね。そのために
は、専門知識を持って、みんなから尊敬されるよ
うにならななければと思います。
中村 不動産に携わっている人たちが、街をつく
る大きな核になってほしいです。国分寺なら国分
寺、国立なら国立をもっと個性ある楽しい街にし
たいと思うので、全国どこにでもあるチェーン店
に貸してテナントにするというのはしたくないん
です。もっと国分寺が魅力的な街になるように、
渡邊裕亨・ ㈱渡邊土地
国分寺・国立支部の事業紹介
ここでは国分寺・国立支部が取り組んでいる
数々の事業をご紹介致します。
不動産の日 街頭不動産相談
専門的見地から、消費者の立場に立って無料で相
談に応じるものです。
その概要は主に①土地、建物を購入する際の注
意②賃貸借契約書、更新に関する注意点③紛争、
苦情等の諸問題に関する相談などとなっていま
毎年、秋の行事の先頭を切って実施していま
す。
す。不動産についていろいろとお困りの消費者の
両市役所での毎月の相談件数も回を重ねるごと
ため、気軽に相談が出来る場として開設していま
に増えていますし、本相談所に対しても多大な期
す。
待が寄せられています。
弁護士、税理士、鑑定士、家屋調査士、建築士
当支部はこうした相談会を通じ、協会のPRや社
などといった不動産に関する専門家が、それぞれの
会的信頼の向上のため努力しています。
「テントの設営が終わらないうちに、相談者が
訪れ、早速相談が始まりました。今年は、この相
談所開設の情報を事前に認識していて、相談に欠
かせない資料を持参して来られた相談者が多かっ
たように思いました。真剣な方が多く、1件当たり
の相談時間も長く、一人で弁護士と税理士、そし
て我々支部相談員にと熱心に相談している姿も見
られました。」(支部報掲載記事より)
国分寺・国立両市の
社会福祉協議会への寄付
獲得大作戦」の配布も行っています。中でも毎年
人気なのが、パネル展示する地元(国分寺・国立
エリア)の「地価図」で、混雑の中にもかかわら
ず、立ち止まって見入る人が少なくなく、地価に
対する関心の高さがうかがわれます。
毎年、国分寺・国立両市の歳末助け合い運動に
参加し、両市の社会福祉協議会に金一封をお渡し
しています。
会員の皆様もご承知の通り、この寄付金は新年
会々費の一部を充当しております。
当支部は今後も、社会福祉事業等に協力参加
「こうした市民まつりへの参加は、相談・PRと
し、貢献してまいります。
並んで会員相互の親睦が柱の一つでもあります。
食べ物・飲み物等を買い集めたり、差し入れたり
「国分寺まつり」
「くにたち市民
まつり」に不動産相談で参加
して、懇親ムードが完成されます。そうして大勢
のまつり参加の市民の方々の中にすっかり溶け込
んで、楽しい有意義な一日を過ごしました」(支
部報掲載記事より)
当本部は「不動産よろず相談所」を開設し、両
市民まつりに毎年参加しています。
不動産相談のほか、PR用小冊子「マイホーム獲
業務と無関係に一般的なカリキュラムに基づい
こども110番
た全体的なパソコン操作方法の講座とは一線を画
した内容で、余分なパソコン操作を一切省き、業
務に直結したソフトの基本操作の学習を中心に、
受講後のQ&Aも万全にした内容で企画されていま
す。
国友会の親睦事業
スキー
私たちは「子供110番」の運動に協力していくこ
とで、私たちの業界が、「町の不動産屋さん」と
して市民の中に溶け込み、イメージアップに繋が
るのではないかと考えております。
当支部は、地域の子供たちの安全、安心の町づ
くりの一助となるよう、「子供110番」のステッ
カーを各会員の店頭の目立つ場所に貼り出してい
ただいています。
小金井・立川両警察署と連携して、少しでも市
平成11年に同好会が設立されました。毎シーズ
民の防犯に役立つようにと思っています。
ンツアーを開催しています。
子供たちが入店し、助けを求めて来た場合に
「8キロのゆるやかなロングコースが心地よく、
は、配布したマニュアルに則った、素早い対応を
思わず笑みがこぼれます。一気に滑る方、ご夫婦
行っていきます。
で楽しく滑る方、思い思いのベースにあわせ、楽
しくスキー三昧の一日です。草津っていいスキー
パソコン教室
場だねと、皆の評価があがりました。温泉です
が、宿泊したホテルもすばらしく、窓を開けると
目の前が湯畑です。湯気と雪が織り交ざった中、
宿泊先の浴衣姿の温泉客が温泉饅頭を買い、風情
のある風景です。ホテルのお風呂の温泉も濃く、
露天風呂からみる雪景色に思わず心からリラック
スし、手足をいっぱいに伸ばしました。」(支部
報掲載記事より)
最近では、出かけた先でスキーと温泉、両方を
満喫する「スキー&温泉ツアー」というスタイル
が定着しています。
当支部では随時、東京都不動産協同組合主催の
パソコン教室を実施しています。
温泉旅行
レインズ・プロの普及、インターネット情報シ
毎年実施される秋の温泉旅行は、参加人数から
ステムヘ容易に参加できるよう、初心者向けのも
見ますと、当支部を代表する大きな行事の一つに
のから開講しています。
数えることができましょう。
てくれた。多摩川に吊り橋が架かり、5人を超え
ての立入禁止の看板がある。予定時刻に奥多摩町
営『もえぎの湯』に到着。川を望む露天風呂で疲
れを癒し、大広間の一角に陣取り、湯上がりのの
どをビールで潤し、しばし話に花を咲かせる。」
(支部報掲載記事より)
ゴルフ
これまで訪れた温泉地は、鬼怒川、石和、箱根
湯本、房総鴨川、諏訪湖、秋保、草津、大町、岩
室などといったところです。
「房総鴨川温泉への海の幸グルメ旅行を行いま
した。1泊2日のバスの旅で、海ほたるでは、東京
湾360度を見渡し、歓声の一言でした。海鮮バーベ
キュー、あわびの踊り喰い、いわしの天ぷらの喰
い放題と、2日間、良く食べ、良く飲みました。2
次会どころか、3次会、4次会までもやられた元気
な方々もおられたようです。」(支部報掲載記事
より)
ゴルフコンペを毎年、年3回開催しています。こ
れまで桜ヶ丘、相模湖、日高、箱根仙石、狭山、
青梅、武蔵松山、高麗川などバラエティに富んだ
コースでプレイしています。
「4月上旬の陽気となり、風もなく絶好のゴルフ
日和となりました。そんなわけでスコアの悪い言
い訳を見つけることができず困った諸氏(小生も
その筆頭です)もいたように思われます。スコア
のことは二の次として15名全員がとても気持ちの
良い、すがすがしい一日を過ごせましたことをご
ウォーキング
報告致します。」(支部報掲載記事より)
コンペの楽しさは、結果より“中身”にあるの
かもしれません。目標とするスコアを目指す、参
加者の日々の努力、苦悩、喜びが、この日に凝縮
するといっても過言ではないでしょう。
これまでに「奥多摩むかしみち」ウォーキング
を実施しています。
「『むかしみち』の沿道には藤の花が時を謳歌
するごとく満開で、又、山つつじが目を楽しませ
委 員 会 の 紹 介
総務委員会
企業と同様で、総務という仕事分担は非常に
⑤事務局の運営管理に関する事項
判りにくい部署ですが、当支部の中では通常次
⑥関係官庁および団体との連絡に関する事項
の部分を担当しております。
⑦関係図書当の購入ならびにその保管に関す
1. 通常総会の開催に関する件
る事項
2. 「宅建試験」の監督員・本部補助員の派遣に
⑧その他、他委員会に属さない事項
関する件
等です。文字でみると大変のように思われ勝ち
3. 拡大役員会の開催に関する件
ですが、事務局員が庶務的な事項は殆ど処理す
4. 事務局員の勤務に関する件
ることが多いので、さほど仕事量の多い委員会
5. その他、他の委員会に属さない件
ではありません。問い合わせ先の管掌委員会が
改めて支部規定を見ますと、第5章、第21条2
解らない時は当委員会にお問い合せ下さい。
項で「定款施行規則第17条の規定に準ずる」と
あります。そしてその17条を見ると13項目の管
掌事項が記載されております。その中で特に日
常関わりのある項目は
①庶務並びに職員人事に関する事項
②本部・支部間の連絡に関する事項
③会務運営の企画立案に関する事項
④会議及び議事運営ら関する事項
委員長 浅見 正
副委員長 宮田 洋耳
財務委員会
40周年記念誌発行にあたり、財務委員会の業
事になります。
務内容を簡単に紹介させて頂きます。
会員の皆様からお預かりした大切な会費を、
1. 予算の作成 3月末までに作成
いかに有効、且つ無駄のないよう運営されてい
2. 決算の作成 3月末までに作成
るかを念頭に確認しております。
⑴収支決算書の作成
この度、めでたく40周年を迎えたことは、こ
⑵正味財産増減計算書の作成
れまでの諸先輩の方々や会員の皆様のご理解と
⑶貸借対照表の作成
ご協力があってこそ、この日を迎えられたこと
⑷財産目録の作成
であり心から感謝し、お祝いを申し上げます。
3. 予算の執行管理及び資金管理、固定資産管理
毎月⑴現預金管理表
⑵予算管理月報
⑶精算表
※事務局から提出されたものをチェックする
4. 3ヶ月毎に、支部長、副支部長、専務理事の会
計点検があり、点検前に領収書等の確認をする
以上のような仕事が主で、金庫番のような仕
委員長 吉田 忠弘
副委員長 立野 剛吉
委 員 会 の 紹 介
企画事業委員会
企画事業委員会では、定款第17条に記載され
格」に付、会員に聞き取り調査を行ったり、毎
ている事業分担は、
年度版の当支部該当の行政区域の価格について
1. 取引に関する諸契約書類の諸様式に関する事
会員に聞き取り調査を
項
行い本部企画事業委員
2. 地価調査並びに不動産の調査研究に関する事
会・専門委員会合同会
項
議においてその年度の
3. 企業振興に関する事項
「行政区別・最高地点
4. 東京都地価図の作成に関する事項
価格」並びに「住宅地
等御座いますが、例年行っている支部事業と
価格」の決定を行いま
しては、当支部該当の「行政区・最高地点価
す。
委員長 山本博司
広報委員会
広報委員会は、理事を代表するメンバー2名と
広報宣伝活動のように、業界の知名度の向上を
事務局員1名により構成されています。業協会本
図ったり、戦略的な広報活動により業界の社会
部と国分寺・国立支部の両委員会が主な活動の
貢献活動を広報することにより、業界イメージ
中心です。
の向上を図るものには、なっていません。
本部における活動は、
したがって、広報委員会における広報活動の
1. 年度事業計画に参画
中心は会員相互のコミュニケーションに資する
2. 対外的な活動として本会の公益活動を「新
ため、支部方針の周知徹底、本部・支部活動、
聞」・「雑誌」などの広告媒体を通じて、広く
会員動向報告等収録した会報の発行配布です。
一般に周知活動をしています。
1. 支部「会報」を年3回[春季・夏季・秋季]B5
3. また、宅地建物取引業法などの関連法令の改
判、20ページの編集、発行です。
正動向等を把握し、その情報を広報誌「宅建」
2. 支部行事の写真取材の時に、デジタル一眼レ
を通じて、会員に提供しています。
フとフィルムカメラで撮影した画像を事務局PC
4. 広報紙・月刊「宅建」年9回の編集、発行
に整理保存してデータ活用します。
5. 関係団体との連携の中で、効率的な広報活動
を実施
6. ホームページの運営・研究
7. 「宅建」07年9月号表紙の「住めば都 住む
なら都」は、国分寺・国立支部の掲載です。
以上が主な活動ですが、実務的には本部職員
と本部委員長他スタッフにおいて事業が執行さ
れています。
当支部における広報委員会は業協会本部の
委員長 飯塚 勝弘
副委員長 遠藤 誠司
委 員 会 の 紹 介
組織委員会
支部40周年にあたり御祝いを申し上げるとと
として、新入会員の紹介キャンペーンを実施し
もに、そこに加わり役員をやらせていただくこ
たり、当支部の組織委員会も積極的な推進を行
とにありがたいことだと思っております。
い、お陰様で平成18年には171社と少しずつです
さて、今迄の会員数の動向をみますと、地価
が増えてまいりました。
が上昇した平成2年頃が最も多かったのですが、
今後も会員の増加と支部の組織力の強化を図
その年の秋頃よりバブルがはじけ地価の下落が
るべく、努力をしてまいりたいと思います。
始まりました。
私事ですが、矢川も平成3年に入会させてい
ただきましたが、その後会員に退会が多くな
り、平成10年には194社、平成13年には178社、
そして最も少なくなったのが平成17年の165社
となりました。そして地価の下げ止まり傾向と
同時に、都心の一部地区より上昇の兆しが見え
始め、業協会も会員の入会促進活動を重点目標
委員長 降矢 邦次
副委員長 安ヶ平 裕之
指導研修委員会
私は、今から約28年前25歳の時に、当時の岡
うございました。でも、あの時の大量のコピー
孝一支部長のご指名により、理事補佐となりま
代どうなったんでしょうね?委員長か事務局さ
した。干支で言えばちょうど一回りした時に、
んが支払ってくれたのかなぁ。下っ端・使い走
理事の仲間入りをしたことになります。3年
りの副にはよく判りません。まぁ、当時は、そ
目からは補佐の字が外れましたが、最初の仕事
の位研修生が多かった訳です。
は、当時役員会の常打ち小屋だった西国分寺南
我々の委員会の主な事業は、本部・支部主
口の多喜窪公会堂での机・座布団出しと、用
催の研修会となります。情報流通委員会と共
務員さんが使う様な大きなやかんでのお湯沸か
に、宅建協会がもっとも力を入れている委員会
し。茶葉は言われなくても自分達で用意しろと
の一つでもありますが、最近では、会場が満員
怒られつつ、茶碗を持ち上げた先輩達に、その
になる事は無くなってしまいました。酷い時は
都度お茶を注いで回る日々。それは、今は副支
50名、良くて70名平均。勿体ない事だと思いま
部長になられた同期の大田和さんと二人の仕事
す。特に支部の研修会では、標題は地味でも、
でした。当初4年間は広報委員会に所属し、支
その時に一番ホットなものを取り上げる様にし
部の催事の時に岡支部長が踊られる黒田節撮影
ていますので、今後とも是非ご参加頂きたいと
の専属カメラマンでもありました。
思っています。
その後所属したのが、今回二度目となるこ
の委員会で、故清水清二委員長の下に就きまし
た。支部研修会で出席者数を予想間違えし、講
義中に慌てて最寄りの支部会員の会社に行き、
何十部もの研修会資料をコピーさせて貰う羽目
になり、大汗かいたのは苦い想い出です。殆ど
面識が無く、いきなり飛び込んだにも係わらず
協力してくれた浅見正さん(現理事)、有り難
委員長 近藤 將
副委員長 渡邊 裕亨
委 員 会 の 紹 介
厚生委員会
厚生委員会は理事メンバー2名で構成されて
が楽しもう!」をスローガンにこれからもがん
いて、副委員長には岡田俊介氏、そして委員長
ばっていこうと思います。
が私とイケメン揃いの委員会でございます。
最近では各企画に参加して下さるメンバーも
事業内容としては、
固定され、皆さん和気あいあいと楽しんでいた
☆支部旅行(年1回)
だいております。まだ各企画に参加されたこと
☆国友会ゴルフコンペ(年3回)
のない方、初参加大歓迎ですので、是非参加し
☆納涼ボウリング大会(年1回)
てみてください。必ず楽しんでいただけると思
☆ウォーキングの会(年2回予定)
います!
☆スキー&温泉バスツアー(年1回)
と一つの事業が終われば、また次の事業の企
画と結構忙しい委員会でございます。
今期、厚生委員長に任命され、「どうしたら
皆さんに楽しんでもらえるか? 喜んでもらえ
るか?」を考えた時、自分が楽しくなければ参
加した皆さんも楽しくないと考え、取りあえず
「自分たちが楽しいことをしよう! 自分たち
委員長 林 芳晴
副委員長 岡田 俊介
自主規制委員会
自主規制委員会は、業協会の社会的地位の向
でいます。
上を図るため、会員の遵法精神の高揚と公正な
「不動産広告実態調査」を秋に行い、地域で
取引の慣行を確立することを目的として設立さ
特に常習的であり危険が目に余る違法屋外広告
れた委員会です。
物(電ビラ、捨て看板等)について実状を調査
具体的な行動として、「会員点検指導調査」
の上、本部に報告しています。また、東京都の
を毎年秋に実施しています。これは主に入会
「違法屋外広告物共同除却キャンペーン」に参
間もない会員や研修会にあまり参加されていな
加し、国分寺・国立両市役所及び関係団体と共
い会員を中心に、業法に定められた備え付け台
同で除却作業を実施しております。
帳、掲示物の整備状況および専任取引主任者の
更に、指導研修委員会の協力により、支部
常駐違反の有無等を重点に調査し、改善指導を
研修会において「不動産広告に関する研修」を
行っています。
不動産公正取引協議会から講師を派遣してもら
近年、違法案内広告や不正表示の不動産広告
い、実施しています。
に対しては、市民や行政の監視が厳しくなって
います。我々不動産業者にとって、広告による
営業は効果的な販売促進手段ですが、不法設置
や内容が虚偽・誇大であっては、対象企業のみ
ならず業界全体の信用が失われかねません。昨
今はインターネット広告に必要な表示事項が漏
れたという、うっかりミスからの警告や課徴金
が課せられるケースも頻発しています。自主規
制委員会は、重点的に違法広告排除に取り組ん
委員長 濱仲 幸弘
副委員長 常見 太郎
委 員 会 の 紹 介
相談委員会
相談委員会は、委員長、副委員長3名の合計4
交代で無料街頭不動産相談所を開設する。
名にて構成されており、行事の運営にあたって
1,国立市民祭、国分寺まつりの出店参加、不
おります。
動産相談所を開設(年1回、毎年11月初旬)
年間の行事の内容について説明いたします。
お祭りムードの中なので、深刻な相談は無い
1. 本部相談所出席(毎月1回)
が、毎年10名前後の相談者が訪れる。
各支部の相談委員長が交代で毎月1回程度、
40年記念誌発行にあたり、相談委員会の年中
本部相談窓口で来所されるお客様や電話での相
行事について説明いたしました。
談に対応しています。相談件数が多いため大変
忙しく対応せざるを得ません。
相談内容は賃貸借関係のトラブルが最も多
く、一般的な修繕に関するトラブルや借地権
関係、更新料についての質問等、幅広い内容と
なっている。業者からの相談内容は、売買関係
が多く、重要事項説明に関連する事や契約上の
トラブル関係です。
1,国立市役所、国分寺市役所、不動産相談所
委員長 渋谷 孝雄
副委員長 齋藤 満
副委員長 小柳 洋次
副委員長 奈良 重安
に出席(毎月1回)
各市役所とも毎月1回、我々相談委員4名が交
代で対応しております。
1,無料街頭不動産相談の実施(年1回、毎年9
月)
弁護士と税理士の先生方にも、出席していた
だき、不動産関係の相談にあたる。当支部では
国分寺南口駅前と国立南口信用金庫前にて毎年
共済会運営委員会
共済会運営委員会では、「宅地建物取引主任
取引主任者の業務が多様化する中で、宅地建
者賠償責任補償制度」をメーンに、「終身生命
物取引業法第35条及び宅地建物取引業法第37条
共済制度」などを行っております。
等の説明不足・書面の書き落としと言った様な
終身生命共済制度は、割安な会費で、充実し
業務に起因して提起された損害賠償について、
た幅広い保証と終身にわたって保証する画期的
法律上の損害賠償を負担する事によって被る損
な共済です。業務中・業務外を問わず保証され
害、などに対して支払
ます。
われます。
特に、宅地建物取引主任者賠償責任補償制度
まだ、ご加入を戴い
は、日頃業務に携わる取引主任者の保護と業務
ていない取引主任者
の適正化を目的として、宅地建物取引主任者賠
は、この機会に是非と
償責任保険を利用し、㈳東京都宅地建物取引業
もご加入されてはいか
協会が平成11年度より会員向にご案内している
がでしょうか。
ものです。
委員長 太田和 正雄
委 員 会 の 紹 介
情報流通委員会
1. ハトマーク不動産情報センターの運営並びに
の新規製作に全力であたっています。
利用促進
今までの通常のホームページでは更新作業に
⑴ハトマーク不動産情報センターの運営
専門知識が必要とされ、一部の人間しか作業出
⑵ハトマーク加盟店への来店促進
来ず、頻繁にホームページを更新が出来るブロ
⑶利用会員数・登録物件数の促進
グというものが流行っています。このブログと
⑷ハトマークネットの認知促進
⑸図面・画像登録の促進
⑹各支部ホームページの支援
⑺埼玉・千葉宅建協会との連携
データベースを組み合わせてホームページを作
り直せば、運営費の削減や利用促進企画の実現
に繋がるのではないかと思います。
今年中に制作を終わらせ、来年早々には利用
促進の段階に入りたいと思っております。
2. 全宅連統合サイトへの参画
3. 不動産統合サイトへの参画
4. 東京都不動産協同組合との連携強化
5. 財団法人東日本不動産流通機構への協力
6. 全宅連の東日本地区指定流通機構協議会への
参画
7. 4レインズ統合への対応
支部情報流通委員会では去年より組織委員会
のお手伝いとして、会員名簿のデータベース化
を進めてきました。本年度は支部ホームページ
委員長 志村 文彦
副委員長 本多 幸雄
武蔵野探訪
かつて国木田独歩は『武蔵野』の中で次のように述べた。
武蔵野にはけっして禿山はない。しかし大洋のうねりのように高低起伏している。それも外見には
一面の平原のようで、むしろ高台のところどころが低く窪んで小さな浅い谷をなしているといったほ
うが適当であろう。この谷の底はたいがい水田である。畑はおもに高台にある、高台は林と畑とでさ
まざまの区劃をなしている。畑はすなわち野である。されば林とても数里にわたるものなく否、おそ
らく一里にわたるものもあるまい、畑とても一眸数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一頃の
畑の三方は林、というような具合で、農家がその間に散在してさらにこれを分割している。すなわち
野やら林やら、ただ乱雑に入組んでいて、たちまち林に入るかと思えば、たちまち野に出るというよ
うな風である。それがまたじつに武蔵野に一種の特色を与えていて、ここに自然あり、ここに生活あ
り、北海道のような自然そのままの大原野大森林とは異なっていて、その趣も特異である。
豊かな自然と人間の暮らしが混在している武蔵野の姿は、今も国分寺・国立両市に色濃く残ってい
る。国分寺に住む人が、国立に住む人が、いずれも自分たちの街を特に愛しているのも、そのせいだ
ろうか。
られている。国分寺崖線は武蔵村山市緑ヶ丘付近
国分寺市
に始まり、西武拝島線と多摩都市モノレールの玉
川上水駅付近を通り、JR中央線を国立駅の東側で
国分寺市は東京都のほぼ中央に位置し、東は小
横切り、国分寺市・小金井市と国立市・府中市の
金井市、南は府中市と国立市西は立川市、北は小
市境に沿って東に進む。さらに野川の北に沿いな
平市に接している。市域は東西約5.68㎞、南北約
がら調布市に入って深大寺付近を通り、つつじヶ
3.86㎞、面積11.48㎢、人口は11万6000人。市域の
丘などの舌状台地を作りながら世田谷区の玉川地
大部分を占める高台上の平坦地である武蔵野台地
と、国分寺崖線を境に一段低い立川台地、および
高台を刻んで流れる野川上流の谷でできている。
武蔵野台地では2種類の発達した河岸段丘が見
られる。一つは南側を流れる多摩川によって形成
されたものであって低位面を立川段丘あるいは立
川面、高位面を武蔵野段丘あるいは武蔵野面と呼
ぶ。もう一つは北部に見られるものであって、か
つての多摩川の流路の名残りと考えられているも
のである。
立川面と武蔵野面とは国分寺崖線によって分け
昭和40年頃の国分寺駅北口前
区南部を通り、大田区の田園調布を経て同区の嶺
は不適な土地であった。したがって、三宝池や善
町付近に至る。
福寺池、井頭池などの湧水によってつくられた池
国分寺崖線は「ハケ」とも呼ばれ、「お鷹の
やそこから流れ出る小河川は、武蔵野に暮らす
道・真姿の池湧水群」(名水百選に選定)といわ
人々にとってたいへん貴重な水源であった。
れる湧水群があり、ハケ下の野川に流れ込んでい
る。
近代の国分寺
明治22年(1889年)、市制・町村制施行で10村
武蔵国分寺
が合併し国分寺村が誕生した。同年には甲武鉄道
国分寺とは、聖武天皇が巷に流行った疫病や叛
(現在の中央線)が新宿・立川間に開通し、国分
乱を鎮めるために各国に、国分尼寺とともに建立
寺駅が現在地に開設される。
を命じた寺院である。奈良時代の天平13年(741
明治26年(1893年)、国分寺村は神奈川県から
年)、当時国府のあった現在の府中市から北方約
東京府に編入され、翌27年、国分寺・東村山間に
2.2㎞、武蔵野台地を背にした平原部(現在の西元
川越鉄道(現在の西武国分寺線)が開通した。こ
町)に東西約0.9㎞、南北約0.5㎞にわたって国分寺
うして、めざましい交通機関の発達や都市住民の
の建立が開始された。完成した武蔵国分寺は、諸
郊外進出により、国分寺の人口も増えていった。
国の国分寺に比べ規模や雄大さは群を抜いたもの
昭和15年(1940年)、町制が施行され国分寺町と
だった。
なり、昭和18年(1943年)、東京府は東京都に改
この地域は武蔵の政治・文教の中心として 、経
称。昭和39年(1964年)市制施行によって国分寺
済・交通・文化・産業等あらゆる面で発達し、画
市となり 、現在に至っている。
期的な繁栄時代を迎えることになった。また鎌倉
時代には鎌倉街道も設けられ、恋ヶ窪地域は宿場
サブカルチャーの花開く
町として栄えた。
昭和中期以降、漫画は子供だけでなく大人をも
しかし、偉容を誇った武蔵国分寺も元弘3年
虜にした。国分寺には、才能ある漫画家たちが集
(1333年)、新田義貞が鎌倉に攻め上る途中の
合し、新しい大衆文化の発信基地となった。
戦火によって焼失し、それとともに国分寺・恋ヶ
「竜の子プロダクション」は昭和37年(1962
窪地域は次第に普通の農村集落へ落ち着いていっ
年)、漫画家の吉田竜夫が、弟の吉田健二、吉
た。
田豊治とともに設立した漫画専門のプロダクショ
また、武蔵野台地は厚く関東ローム層に覆わ
ン。辻なおき、望月三起也、中城健などが在籍
れ、保水性が悪く乾燥しやすく、人が定住するに
していた。『マッハGoGoGo』、『ハクション大
魔王』、『いなかっぺ大将』、『科学忍者隊ガッ
チャマン』、『タイムボカン』などの名作が、こ
の地から誕生した。
また、後に『ゴルゴ13』で一世を風靡するさい
とう・たかを、独特の画風で“青年漫画の教祖”
と呼ばれた永島慎二も在住している。
国分寺はヒッピーたちの拠点でもあった。ヒッ
ピーとは、伝統・制度などの既成の価値観に縛ら
れた社会生活を否定し、自然への回帰を提唱する
人々。“コミューン”と呼ばれる共同体が、国分
現在の国分寺駅北口前
寺のあちこちに出現した。その名残は、国分寺に
あるロック喫茶や古着屋などに偲ばれる。
派な蔵のある農家が並んでいる。
鎌倉時代の後期には「谷保郷」という地名が
成立した。本来谷保の「谷」は「ヤツ」で、湿地
国立市
帯を意味し、この地域が水田に適した土地条件を
国立市の市制施行は、昭和42年(1967年)1月1
らる。鎌倉の御家人の津戸氏と名のる武士が、谷
日。奇しくも宅建国分寺・国立支部創立の年と同
保に住んでいたといわれている。
じだ。
江戸時代、今の甲州街道を中心に民家が立ち
「国立」という名前は、大正時代の末期、西武
並び、やがて村へと発展。住民は農業、養蚕を主
鉄道グループの前身・箱根土地株式会社によって
とし、街道沿いには商業・手工業を営む家もあっ
谷保村の北部の山林が開発された際に出てくる。
た。
当時の省線・中央線は国分寺駅の次が立川駅で、
明治22年(1889年)には、谷保村・青柳村・石
ちょうどその真中に当たる場所に新駅をつくるこ
田村飛地の3村が合併し、国立の前身「谷保村」と
とになっていたため、両方の頭文字を取って「国
なった。同26年(1893年)には、それまで属して
立」と名付けた。
いた神奈川県から東京府へと移管された。
この案は「この地から新しい国が立つ」という
大正時代末期になっても、谷保村は甲州街道
願いとも相まって、住民に支持される。「国立」
沿いに数百戸の農家が点在するだけだった。しか
が正式名になったのは、昭和26年(1951年)4月1
し、この地域が様変わりする起点となったのが、
日。戦後、国立地区に移り住む人々が増え、村制
箱根土地株式会社による開発だ。谷保村の北部一
から町制に移行するときに、谷保村議会で投票の
帯の山林が買い取られ、箱根土地の堤康次郎社長
結果「国立町」に決定された。
の唱える「学園都市構想」によって、整然とした
「谷保」は本来は「やぼ」と読む。しかし、旧
街路が作られた。大正15年(1926年)には国立音
国鉄が南武線の谷保駅を開設した際、「やほ」と
楽大学が創立され、昭和2年(1927年)に一橋大学
したことが契機となり、今日では「やほ」と呼称
が誘致された。
されることが多い。単に「やぼ」が「野暮」に聞
同5年(1930年)に南武線が開通。昭和20年
こえるから、「やほ」にしたという話もある。
(1945年)代には第2次世界大戦による疎開と戦
面積は8.15㎢で、全国の市では5番目、都内の市
後の住宅復興によって、人口はうなぎのぼりに増
では2番目に小さい。ちなみに都内で最も小さい面
え、26年(1951年)に谷保村から国立町になる。
積の市は、狛江市である。
同40年(1965年)、公団の富士見台団地が完成
持っていたことからも、稲作が盛んだったと考え
国立の歴史
かつて国立が谷保村であった頃、村の中心は谷
保であり、武蔵野台地の崖線下の豊富な湧水と谷
保天満宮の存在が集落を形成させた。特に初期の
甲州街道は府中を出ると谷保付近で崖線を下り、
多摩川を渡っていた。その後、渡河地点が上流の
日野の渡しに固定されることで道筋が台地の上に
移り、今日に到っている。その名残が谷保天満宮
に見てとれる(現在の甲州街道からは参道を下る
形で本殿に至る)。甲州街道沿いには、今でも立
昭和42年の国立駅前(写真提供・くにたち郷土文化館)
し、人口も一躍5万人を突破。平成10年(1998年)
転した結果、文教地区指定を議決し、都に申請。
には7万人を超え、現在に至っている。
昭和27年(1952年)文教地区の指定を受けた。
国立市の「第三期基本構想」では、国立の理想
文教地区指定運動は、単なる歓楽街の進出反対
の姿を“緑豊かでふれあいのあるまち”“誇りを
運動ではなく、開発以来の理想の学園都市づくり
もって次世代へ引き継ぐまち”“人が交わり文化
の再選択の運動であったといえる。この運動で国
を創造するまち”と掲げ、心豊かでいきいきとし
立市民は、学校、行政と一丸となって「開発」よ
た活力のある文化都市の創造をめざしている。
り「環境」のまちづくりを選択した。これは、そ
の後の国立のまちづくりの方向を市民が決定づけ
文教地区指定運動
たことであり、住民自治の先駆的事例としての歴
国立駅前のロータリーには、「国立文教地区」
史的意義は大きい。
の看板が掲げられている。この文教地区の由来
現在の、多くの学校を擁する、緑豊かで閑静な
は、たんに大学や学校の数が多いからではない。
町並みは、この文教地区指定によって守られてい
1950年代の町を二分する大論争の末に決められた
るといえる。
ものだ。
(※)文教地区とは、地方自治体が都市計画区域
昭和25年(1950年)、朝鮮戦争が勃発し、隣の
内に指定できる特別用途地区の一つ。教育施設の
立川市には基地があり、多数の米兵が進駐してき
周囲や通学路において、教育上好ましくないと目
た。その影響は国立にも及び、米兵相手の簡易旅
される業種(パチンコ店や風俗店、ホテルなど)
館や飲食店などが出現し、性風俗の商売を始めだ
の進出を規制できる。
した。
環境を守ろうとする市民や学生を中心に、東
大学通り
京都文教地区建築条例の指定を目指して運動が始
国立駅から一橋大学につづく幅の広い一本道。
まった。この条例は、市街地の青少年の環境を守
別名、24間道路。堤康次郎氏の「学園都市構想」
ることを目的とし、その地区では、風営法の適用
が如実に現れている国立独特の景観である。
を受ける料亭・キャバレーなどの建物は建てられ
大学道路両脇の緑地帯はコクド(現プリンスホ
ず、ホテル・旅館建築も制限される。しかし、経
テル)の所有となっている。大学通りが都道、緑
済的発展のためには文教地区指定は障害になる、
地帯がコクド、歩道が市道という、いわば三すく
町がさびれ税金が高くなるという反対派との間で
みの状況が、大学通りの景観維持に少なからぬ貢
大論争が起こった。
献をしている。
町議会では熱気にあふれた討議が続き、一転二
大学通りに唯一かかってる歩道橋が建設された
当時、住民の間から「歩道橋を建設すると自動車
の速度があがり、かえって自動車事故が増える」
などと建設反対運動が起きた。結局、車椅子でも
渡れる障害者にも優しい歩道橋にすることで折り
合いがつき、今の形となった。
この歩道橋は桜見物の名所として、いまや市民
の間にしっかり定着している。岩井俊二監督、松
たか子主演の映画『四月物語』のロケが行われた
ことでも有名だ。
現在の国立駅前
国分寺・国立支部会員名簿
平成19年8月現在
アイウエオ順 敬称略
㈱アイティープラス
㈲青葉建物
㈲アクロス
㈲アサヒエステート
㈱明日香カンパニー
井上 武夫
蓑部 美奈子
堀池 靖子
佐本 昭夫
田中 勲
㈱アパート・マンション
プラザ 国分寺店
遠藤 洋介
㈱アパマンショップリー
シング 国分寺駅前店
原田 忠臣
㈱新井コーポレーション
㈱荒田興産
泉産業㈱
新井 勲
荒田 茂
岡田 秀久
㈲イズミハウジング
㈱井之頭不動産
㈲上原土地
㈲エー・セレクト
島村 紘宇
武藤 豊治
上原 邦男
中川 厚子
㈱エイエスジェイ中央
西国分寺店
関 隆行 ㈲エクシード
㈲エヌエフ
㈲エヌ・ティーハウジング
㈱恵比寿不動産部
山村 富男
エス・ジー・ビルサービ
ス㈱
曽我 昌敏
北田 和憲 延山 龍彦
大矢 泰司
㈱エムプラン
㈲エル不動産
㈲遠藤工務店
岡孝土地㈱
学園土地㈱
村島 国美
初澤 昭彌
遠藤 清美
岡 孝彦
近藤 將
㈱加寿屋土地商会
㈱かめや不動産
㈱かめや不動産販売部
㈱北島商店
㈱北田設計事務所
糟谷 光一
渋谷 孝雄
渋谷 米雄
北島 正典
北田 和憲
㈱協同
㈲京和商会
㈲きよとも
㈱グッドフェローズ
国立商事
丸山 義光
青木 裕二
清友 龍一
鈴木 美知子
下山 昌利
くにたち不動産
㈱ケイ・プロジェクト
㈲建榮興産
郊外土地建物㈱
島澤 忠保
志村 文彦
㈱けやき台住宅
国分寺店
安ヶ平 裕之
森田 笑子
小川 泰正
㈲興洋エステート
㈱興和不動産
国土公業㈱
㈲コヒラ企画
小柳 洋次
田和 孝雄
田中 滋造
小平 末子
㈲小松ハウジングセン
ター
小松 篤夫
㈱コミゾ
㈲コンフォート企画
斉藤商事㈱
㈱サカイ
㈱サクセス
古溝 康朗
前田 勝廣
齋藤 満
酒井 完江
藤田 賢治
澤藤不動産
㈲三愛ホ−ム
㈱三栄
㈱サンケイハウジング
㈱サンケー・ビルト
澤藤 栄夫
石岡 康至
花澤 運平
佐野 章
古溝 晴夫
三幸不動産
㈲サントウケン
㈲三洋商事
三和興業㈱
長谷川 武子
㈲ 三 多 摩 ハ ウジ ン グ
サービス
吉野 利春
吉田 憲司
宮田 洋耳
徳山 隆章
㈲じっせん
清水開発㈱
ジャパンエステート㈱
周英産業㈱
住宅ネット㈱
上山 直樹
百田 晶子
平澤 丞哲
水野 ちさ子
小笠原 正光
秀鳳土地㈱
㈱常栄
㈱新日本アーバンマト
リックス 国分寺営業所
伊藤 一也
新ホ−ム産業
常見 太郎
城西商事㈱
国立店
川東 有治
濱仲 幸弘
㈱新陽
㈲杉喜
㈲鈴木不動産部
㈲須藤住販
㈲住まいの幸興産
濱石 榮子
杉田 喜重
鈴木 秀明
須藤 純正
佐藤 ゆき子
住友林業ホームサービ
ス㈱ 国分寺店
志水 健
西都産業㈱
誠和商事
㈱せきど
㈱相互開発
浅見 高義
小川 誠
髙山 次男
相澤 昭次
㈱相互開発
国分寺駅前支店
相澤 誠人
創和建設㈱
㈱双和住地
山本 博司
太田和 正雄
㈱そのだ不動産
国分寺営業所
園田 重蔵
第一アセットマネージ
メント㈱
渡邉 六郎
大成土地㈱
国分寺店
中村 正利
大善産業㈱
大日建設㈱
㈱泰凰地所
㈱タイランド計画・東京
類家 末次郎
杉山 武久
尾亦 清
秋本 一夫
㈲たかえ商事
㈲たかつえ
㈲タカツコンス
高柳建設㈱
向井 薫
今野 恵美子
中原 勝利
渡辺 利親
タクトホーム㈱
国分寺店
上原 広樹
田中商事不動産部
㈲多摩エステ−ト
地建プランニング㈱
㈲中央商事不動産
田中 房次
川越 照彦
㈱タマホーム
国立営業所
岩本 久男
西野 博
中島 正男
下瀬 高徳
㈲中央商事不動産
南口店 西田 まき
長建産業㈲
㈱東京サービス
東住建設㈱
佐藤 収一
㈱東京リビング
国立支店
船倉 賢隆
長谷川 健一
東宝商事
㈲東邦土地商会
㈱東宝ハウス国分寺
㈲東洋興業
㈲東和不動産
安藤 邦男
片桐 健一郎
大家 輝之
赤羽根 俊男
對馬 恭子
㈲土地朗
㈲七岡
㈱南武開発
日昭ハウジング
柳澤 吉朗
吉岡 健司
㈱ナミキ
国分寺支店
松村 丘
白神 正一
中島 昭幸
㈲日伸ホーム
㈱野中工務店
㈱ハウジングフォリス
㈱ハウス・
F1
㈱ハウスシステム工房
小柳 哲男
野中 正勝
石塚 真也
高松 敏明
星 文明
㈱ハウスパートナー
㈱ハウスプラザ多摩
㈲ハシバ商事
㈱パトラハウス
藤原 政廣
清野 利昭
馬上 勇
一建設㈱
国分寺営業所
中村 剛志
㈱花咲
㈱花沢コーポレーション
㈱花沢ネクスト
㈲ハナワ企画
福友商事㈱
飯塚 勝弘
小宮 一夫
松﨑 功知
塙 繁
関 福男
㈱藤開発興業
富士産業㈱
冨士土地㈱
富士土地商会
㈱プランニング大栄
加藤 忠夫
林 芳晴
冨士野 みや
高橋 満喜子
杉田 春夫
成瀬 一
高 寿美子
㈱ブルク企画
㈲平成不動産
宝徳建設㈱
㈱ホ−セイ土地
㈱北越
水澤 敏晴
奈良 重安
小澤 秀一
鮎澤 芳子
山本 佳子
㈲ホクシンハウスプラ
ンニング
浅見 正
㈲ホクシンハウスプラ
ンニング駅前店
浅見 正一郎
㈲本多不動産
㈲真商事
本多 康治
山内 昭子
㈲真商事
国立北口店
齋藤 勝昭
㈱マップ
松本達雄不動産
㈱丸越
㈱マレード
㈲みのる商事不動産
高島 恵子
松本 達雄
蓑部 博夫
廣田 恵美子
辻村 模登子
㈱武蔵開発
武蔵土地商会
㈱萌不動産
本池商事
㈱森事務所
関根 克臣
植松 一男
尾﨑 三千夫
坂本 磬一
森 秀夫
㈱矢川
矢野商事
山一建設㈱
㈲YAMAGUCHI
㈱ヤマトコーポレーション
降矢 邦次
矢野 福春
山下 博文
吉田 和仁
平山 和克
㈲山延住宅
国分寺営業所
小野 知代子
吉田商事㈱
㈲ヨシダハウジング
㈱ライフワールド
吉田 滉
吉田 忠弘
㈱RISE
(ライズ)コー
ポレーション
今井 豊
㈱ラス・コ−ポレーション
㈱リョウシンホーム
㈲緑地工房
㈲若竹商会
㈱渡邊土地
池田 良二
尾花 良雄
渡辺 君子
猪井 政栄
渡邊 正夫
村上 恵美
国分寺・国立支部 会員数推移
200
150
100
50
会員数
昭和
平成
42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 元 2
年度末
3
4
5
6
7
8
9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19
(8月現在)
記念誌発行特別委員紹介
左から本多幸雄情報流通副委員長、浅見正総務委員長、太田和正雄副支部長、飯塚勝弘広報委員長、
小川泰正専務理事、遠藤誠司広報副委員長
編 集 後 記
40周年記念誌発刊特別委員会
委員長 太田和正雄
40周年を迎えるに当たり、多くの方々に当支
頂戴し本誌を引き締めております。
部の生いたちについて知って戴こうと、40周年
ご寄稿戴きました方々には、大変御忙しい中
誌の編集を計画しました。
を御手数をお掛け致しましたことを誌上をお借
最後のページまで開いて頂ける記念誌づくり
りして厚くお礼申し上げます。有難う御座いま
をめざし、写真を多用して、見る40年誌を心が
した。
けました。
40周年記念誌を発刊するに当たり特別委員会
又、諸先輩にお集まりいただきまして生の声
を設立し6名のメンバーと、株式会社週刊住宅新
を聞き取る座談会も開催いたしました。
聞社様には、共々御骨折りをいただき、大変御
その際には、当支部の草創当時の話題で盛り
世話になりました。
上がりました。
とにかく、第1回委員会を6月4日に開催してか
それと、座談会パートⅡといたしまして、若
ら実に6月中に7回・7月には3回も開催し、我々
い方々の現在未来について大いに語って戴きま
メンバーに於いては、時間との戦いでした。
した。
目標は10月中旬発行予定と言う事で大変忙し
そんな様子もタップリと誌中にしたためて御
い日々でした。
座います。
この「記念誌」が支部の歴史を踏まえて、
現在の会員全員のご紹介から、支部長経験者
それぞれの立場を認識し、将来の方向を考えて
(現相談役)・現役員のご紹介まで、網羅され
いく上での糧となり、「宅地建物取引業協会」
ております。
を一人でも多くの皆様に知って戴く一助になれ
刊頭には、宅建協会会長を始めとして、快く
ば、この小冊子を編纂した者の望外の幸せで
ご寄稿を戴きました関係各位の数々のご祝辞も
す。
発行日 平成19年11月15日
発行人 支部長 上 原 邦 男
発行所 ㈳東京都宅地建物取引業協会国分寺・国立支部
〒185-0012
東京都国分寺市本町2-12-3 こやまビル3F
TEL 042 323 4900 FAX 042 324 7721
編集人 40周年記念誌発刊特別委員会
委員長
委 員
太田和正雄(副支部長)
小川泰正(専務理事)
委 員
浅見正(総務委員長)
委 員
委 員
委 員
飯塚勝弘(広報委員長)
遠藤誠二(広報副委員長)
本多幸雄(情報流通副委員長)
制 作 株式会社週刊住宅新聞社 TEL 03 3209 7621
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