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ロシアの作家とチェチェン

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ロシアの作家とチェチェン
ロ シ ア の 作 家 とチ ェチ ェ ン(藤
沼)1
ロ シ ア の 作 家 とチ ェ チ ェ ン
一A・A・
マ ル リ ン ス キ...._(ベ
ス ト ゥ ー ジ ェ フ)の
生 活 一
貴
藤 沼
は じめ に
私 は1999年(第9号)の
本 誌 に 「ロ シ ア の 作 家 とチ ェチ ェ ン ーA・S・
グ リボ エ ー ドブ の 場 合 一 」 と い う小 論 を 発 表 した 。 こ の小 論 は 、 そ の 序 文
で 説 明 した よ う に 、 も う 少 し規 模 の大 き い 論 考 の 一 部 分 の 簡 略 な 見取 り図 で
あ った 。
こ こ で 提 出す るA・A・
マ ル リ ンス キ ー(ベ
ス トゥー ジ ェフ)に
ついての
小 論 も 、 や は り同 じ大 き め の 論 考 の別 の 部 分 の 見 取 り 図 で あ る 。 前 回 と 同 じ
く少 数 の 資 料 を も と に した 素 描 にす ぎ な い が 、将 来 の ま と ま った 論 文 執 筆 の
責 任 を 自 らに 負 わ せ るた め に 、 あ え て 衆 目に さ らす こ と に した 。
素 描 と は い って も、 カ フ カー ス に か か わ る作 品 が 「グ ル ジ ア の 夜 」 の 断 片
ユ
しか 残 って い な い グ リボ エー ドブ と違 い 、 マ ル リ ンス キ ー に は 「カ フ カ ー ス
物 」 と呼 ばれ る相 当数 の 作 品 が あ り、 それ は マ ル リ ンス キ ー個 人 と カ フ カ ー
ス の 関係 に と って ば か りで な く、 カフ カー ス戦 争 全 体 や ロ シア 文学 全 体 に と っ
て も重 要 な 作 品 群 で あ る。 そ の 作 品群 をur・ す るだ け で も 、十 分 に 独 立 した
労 作 に な るで あ ろ う。 そ こで 、 この 小 論 で は か れ の 生 活 と実 際 的 活 動 に焦 点
を しぼ り、 作 品 にっ い て の言 及 は 必 要 最 小 限 に と どめ る こ と に した 。
A・A・
マ ル リ ン ス キ ー(ベ
ス トゥー ジ ェ フ)に
っ い て 述 べ る場 合 、 ま ず 、
2
名 前 の 表 記 にっ い て 一 言 して お く必 要 が あ る。
か れ の 本 名 は ベ ス トゥー ジ ェ フ。 マ ル リ ンス キ ー は ペ ンネ ー ム で あ る。 か
れ は1811年
軍 務 にっ き 、 近 衛 竜 騎 兵 連 隊 に 編 入 され た が 、1816年
に配 属 さ
れ た 中 隊 が ペ テ ル ブ ル グ に近 い ペ テ ル ゴフ郊 外 の マ ル リに駐 屯 して お り、 そ
2
の地 名 に ち なん で ペ ンネ ー ム が 作 られ た 。 しか し、 この筆 名 が 恒 常 的 に使 わ
れ た わ け で は な い 。1825年
の デ カ ブ リス ト事 件 で 逮 捕 流 刑 さ れ る まで は 、
小 説 は 本 名 の ベ ス トゥー ジ ェフ で 書 か れ 、 詩 の 署 名 に は 、 当時 の 習 慣 に した
が って 、A.B.と
い う本名 の頭 文 字 だ け 、 あ るい は べ
フ な どの本名 の
省 略 形 が 使 わ る こ とが 多 く、無 署 名 の場 合 も あ った 。 マ ル リ ンス キ ー や 、 そ
の省 略 形 と思 わ れ るA.Myが
使 わ れ る の は まれ で あ った 。
デ カ ブ リス ト事 件 で 逮 捕 流 刑 後 、1830年
短 期 間 だ けA.M.と
か ら執 筆 活 動 が 再 開 され た 時 、
い う署 名 が 使 わ れ た 。 これ は ア レク サ ン ドル ・マ ル リ
ン ス キ ー の 頭 文 字 に違 い な い 。 そ れ か ら ま も な く1831年
に発 表 され た 小 説
3
「ベ ロ ゾ ー ル 中 尉 」 でA・ マ ル リ ンス キ ー が 使 わ れ 、 そ れ が 定 着 した 。 作 品
集 も1832∼34年
の 第0版
は 無 署 名 だ った が 、1835年
リ ンス キ ー 作 品 集 と銘 打 た れ て い る。9ペ
以 降 の も の はA・ マ ル
ー ジ で 触 れ る よ う に 、 ベ ス トゥー
ジ ェフ と い う名 が あ ま り に も濃 厚 にデ カ ブ リス ト事 件 を思 い 起 こ させ 、 そ れ
は 当 時 と して は 好 ま しい こ と で は なか った ので 、 ペ ンネ ー ムが 使 用 され た の
で あ ろ う。
筆 名 や 通 称 が 固定 的 な も の で あれ ば 、 一 貫 して そ れ を使 う の が 当 然 で あ る。
ゴ ー リキ ー をペ シ コ フ、 ス タ ー リ ンを ジ ュ ガ シ ヴ ィー リと言 って も混 乱 を 招
くだ け で あ る。 しか し、 マ ル リ ンス キ ー の 場 合 は 作 家 と して も、 本 名 と筆 名
の 両 方 が 使 わ れ て い る し、 デ カ ブ リス トと して の活 動 の 範 囲 で は 、 自他 と も
に 本 名 の ベ ス トゥー ジ ェ フ を使 って い た 。
か な り多 くの場 合 に、 ベ ス トゥー ジ ェフ=マ
ル リ ンス キー と い う複 合 形 が
使 わ れ て お り、 一 時 は これ が ほ とん ど固 定 した 観 さえ あ った 。 しか し、 ロ シ
ロ シ ア の 作 家 とチ ェチ ェ ン(藤
ア人 な ら と も か く、わ れ わ れ 外 国 人 は こ の形 を リム ス キ ー=コ
ル トゥイ コフ=シ
ルサ コフ、サ
チ ェ ドリ ンの よ う に 、 も と も と複 合 形 の 姓 と受 け 取 って し
ま うで あ ろ う。 デ カ ブ リス ト事 件 で 死 刑 に な った5人
フ=リ
沼)3
の 中 に 、 ベ ス トゥー ジ ェ
ュー ミ ン と い う名 が あ り、 これ は 元 来 複 合 形 の 苗 字 だ が 、 ベ ス トゥー
ジ ェ フ=マ
ル リ ンス キ ー と い う姓 は実 際 に は存 在 しな い 。 女 性 な ら結 婚 前 の
姓 と夫 の姓 を組 み 合 わ せ て 、 クニ ッペ ル=チ
ェー ホ ワの よ う に新 しい 複 合 形
を 作 るの が 好 都 合 な場 合 も あ るだ ろ う 。 しか し、 本 名 と筆 名 を 結 び っ け て
(本 人 は 一 度 もそ ん な こ と を して い な い の に)、 ダ ブ ル ネ ー ム を 創 作 す る の
は 、私 と して は 賛 成 で き な い 。
この 小 論 は マ ル リ ンス キ ー の カ フ カー ス 時 代 に 重 点 を お い て い る の で 、 最
初 だ け マ ル リン スキ ー(ベ
ス トゥー ジ ェフ)と
い う表 記 を使 い 、後 は カ フ カー
ス 以 前 の時 期 も ふ くめ て マ ル リン ス キ ー で 通 す こ と に した 。
1カ
フ カ ー ス行 き以 前
4
① 生 い 立 ち と人 と な り
マ ル リンス キ ー(ア
フ)は1797年
レクサ ン ドル ・ア レクサ ン ドロ ヴ ィチ ・ベ ス トゥー ジ ェ
ペ テ ル ブル グで 生 まれ た 。 ベ ス トゥー ジ ェ フー 門 は15世
紀初
め に そ の 源 を発 し、15世 紀 後 半 に は モ ス ク ワ公 の 家 臣 と して 活 躍 し、17世
紀 に は 一 門 の 多 くの者 が 重 職 にっ いた 名 家 で あ る。 一・
門 の 中 で 特 権 的 な地 位
に な った 家 系 の者 が 、 ピ ョー トル時 代 に(同
区 別 す るた め か)ベ
ス トゥー ジ ェ フ=リ
門 の平 凡 な 者 た ち と 自分 た ち を
ュー ミ ンを 名 乗 った 。 これ は15世
紀 の 祖 先 の あ だ 名 リ ュー マ に ち な ん だ もの で あ る。 近 ・現 代 に な って も こ の
一 門 は す ぐれ た 人 物 を 輩 出 し 、 肉乳 牛 の ベ ス トゥー ジ ェフ 種 、1878年
にペ
テ ル ブ ル グ に 開 設 され た ベ ス トゥー ジ ェフ女 子 専 門学 校 、 ベ ス トゥー ジ ェ フ
神 経 興 奮 液 な どは 、 す べ て こ の一 門 の 人 た ち の 業 績 で あ る。
4
マ ル リ ン ス キ ー の 父 ア レ ク サ ン ドル ・フ ヨー ドロ ヴ ィチ ・ベ ス ト ゥー ジ ェ
フ は 退 役 砲 兵 大 尉 で 、18人
の 農 奴 しか 持 た な い 小 地 主 に す ぎ ず 、 生 活 も 苦
し か っ た 。 しか し、A・S・
ス トロ ー ガ ノ ブ 伯 爵 の 推 薦 で 芸 術 ア カ デ ミー と
公 共 図 書 館 の 事 務 長 に な っ て 生 活 が 好 転 し、1798年
も に雑 誌
に は1・P・
プ ニ ンとと
「サ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル グ ・ジ ャ ー ナ ル 」 を 出 版 し、 文 化 的 に も重
要 な 活 動 を は た す こ と に な っ た 。P・N・
ベ ル コ フ は こ の 雑 誌 を 「18世 紀 最
5
後 の進 歩 的 な雑 誌 」 呼 ん で い る。 父 の 書 斎 に は 豊 富 な蔵 書 が あ り、 客 間 には
第 一 級 の知 識 人 が 訪 れ 、 ベ ス トゥー ジ ェ フ家 は 知 的 な雰 囲 気 に包 まれ て いた 。
こ う して 、 マ ル リ ン ス キ ー は 物 質 的 に も恵 まれ 、 知 的 レベ ル も高 い環 境 で 成
長 した 。
ソ連 時 代 フ リー ・メ ー ソ ンに 言 及 す る こ と は タ ブ ー だ った し、 も と も と ブ
リー ・メ ー ソ ンは 秘 密 結 社 で 、 公 開 され た 情 報 は とぼ しいが 、 今 挙 げ た ス ト
ロ ー ガ ノ ブ、 プ ニ ン の名 か ら推 測 して 、 マ ル リン ス キ ー の 父 が ペ テ ル ブ ル グ
の フ リー ・メ ー ソ ンの ス ウ ェー デ ン派 に関 係 して いた こ と は ま ちが い な い。
この グ ル ー プ に は シ ュワ ー ロ フ 、 ム ー シ ン=プ
ー シ キ ン、 ク ラ ー キ ン、 ドル
ゴル ー キ ー 、 ガ ガ ー リ ン、 ス トロ ー ガ ノ ブ、 レー プ ニ ンな ど、 そ うそ うた る
名 門 貴 族 の 重 臣 た ち が 名 を 連 ね て い た 。 父 ベ ス トゥー ジ ェ フ と雑 誌 を共 同 出
版 した プ ニ ンは レー プ ニ ン公 爵 の庶 子 で 、 そ の苗 字 の 後 半 を借 りて プ ニ ン と
6
名 乗 って い た の で あ る。
マ ル リ ンス キ ー は 家 庭 で 初 等 教 育 を 受 け た が 、 先 生 の 中 に は ア カ デ ミー の
教 授 も い た と い う 。1810年9歳
で 鉱 山 学 幼 年 学 校 に入 学 し、 数 学 は苦 手 だ っ
た そ うだ が 、 勉 強 好 きで 、 知 識 欲 旺 盛 だ った 。 か れ の知 識 欲 と研 究 者 的 傾 向
は 一 生 た もた れ て お り、 マ ル リ ンス キ ー の 一 特 徴 と な って い る。 デ カ ブ リス
ト事 件 で 勾 留 さ れ た 後 、 「ど の よ う な学 問 を も っ と も深 く究 め た か 」 と い う
査 問 委 員 会 の 質 問 書 にた い して 、 マ ル リ ンス キ ー は 「私 が 理 論 的 、 実 際 的 に
勉 強 しな か った学 問 の 分 野 は 一 っ も なか った と 、暦 越 なが ら申 しあ げ る こ と
ロ シ ア の 作 家 とチ ェチ ェ ン(藤
沼)5
7
が で き ます 」 と答 え て い る。
文 学 的 創 作 は鉱 山学 幼 年 学 校 で 始 め られ た とみ な さ れ て お り、 最 初 期 の 作
品 の 一 つ は 戯 曲 「魔 法 の森 」 で 、 これ は幼 年 学 校 の 生 徒 た ちが 上演 した 劇 の
台 本 だ った と伝 え られ て い る。 しか し、 この 頃 書 か れ た 作 品 や 日記 は 現 存 せ
ず 、 デ カブ リス ト事 件 が 失 敗 して 、 マ ル リ ンス キ ー が 自首 す る前 に焼 却 した
8
も の と言 わ れ て い る。 いず れ に して も 、青 年 期 以 降 の 詩 か ら判 断 して 、 マ ル
リンス キ ー は ゲ ー テ や プ ー シ キ ンの よ う な早 熟 の 天 才 詩 人 で は なか った と考
え られ る の で 、9歳
か ら13歳
まで の幼 年 学 校 在 学 中 の 作 品 に 重 き を お く必
要 は あ るまい。
マ ル リ ンス キ ー は1811年
幼 年 学 校 を 中 退 して 軍 務 にっ き 、 見 習 士 官 と し
て近 衛 竜 騎 兵 隊 に 入 隊 した 。 そ の理 由は 、1810年
に父 が49歳
で 死 に 、 自力
で 生 活 しな けれ ば な らない とい う個 人 的 な理 由 もあ った だ ろ うが(ベ
ジ ェフ 家 に は8人
の 子 供 が あ り、 年 額2000ル
ス トゥー
ー ブ ル の亡 父 の 恩 給 と 農 奴34
人 の 領 地 か らの 収 入 で 生 活 す る の は 容 易 で な か った)、 ナ ポ レオ ン と の 対 決
が せ ま りっ つ あ った 国際 情 勢 を第 一 の理 由 と考 え なけ れ ば な る ま い。 軍 務 に
つ い て か らマ ル リ ンス キ ー は 順 調 に昇 進 し、 デ カ ブ リス ト事 件 の 時 点 で は 二
等 大 尉 に な って い た 。1822年
か らは 軍 司 令 官 の 副 官 を っ と め 、 そ の 前 途 は
9
洋 々た る もの だ った と 、 コ トリャ レフ ス キ ー は 記 して い る。
iplx兵
隊 に入 る直 前 、 か れ は 海 軍 に勤 務 す る兄 ニ コ ラ イ の 軍 艦 に 同乗 させ て
も らい 、 訓 練 航 海 に参 加 した 。 この 体 験 で か れ は海 の 魅 力 に と りっ か れ 。 海
軍 に入 ろ う と した が 、 数 学 が 不 得 意 だ った の で 断 念 した と い う説 も伝 え られ
て い る。 自 由の イメ ー ジに っ なが る海 は 、 マ ル リ ンスキ ー の重 要 な文学 的 テ ー
マ の 一 つ で 、 の ち にか れ が カ フ カー ス行 き を切 望 した 理 由 の 中 に は 、 海 の 近
くで 生 活 した い と い う思 い も あ った と考 え られ る。
6
② 「ロマ ンチ ス ト」 マ ル リン ス キ ー(1)
マ ル リ ンス キ ー が 軍 務 の か た わ ら文 学 的 創 作 を っ づ け て い た こ と は容 易 に
想 像 で き る が 、 作 品 が 雑 誌 や 詩 文 集 に発 表 され は じめ た の は1817年
、20歳
の こ とで 、 当 時 の 詩 人 と して は遅 い ほ うで あ った 。
最 初 の5年
間 に 発 表 され た マ ル リ ンス キ ー の 作 品 は ほ とん ど詩 で あ った 。
か れ の詩 は 思想 が 先走 った り、理 に落 ちた り して 、 詩 情 に欠 け る う らみ が あ っ
た 。 端 的 に 言 え ば 、 す ぐれ た詩 と は 言 え ず 、詩 人 と して の 評 価 は 当 時 も現 在
も高 くな い。 しか し、 か れ の 詩 は 高 遭 な理 想 を格 調 高 い 言 葉 と強 い 調 子 で う
た い上 げ る こ と を め ざ して お り(そ
れ が どの程 度 実 現 され た か は 、 こ こ で は
問 わ な い)、 そ の 理 想 は 抽 象 的 で 観 念 的 だ が 、 幻 想 で は な く、 究 極 的 に 実 現
され るべ き もの と考 え られ て い た 。 また 、 か れ に は セ ンチ メ ンタ リス ト詩 人
に 見 られ るや さ しい ハ ー トへ の も た れ か か り も な く、 ジ ュ コフ ス キ ー 的 な ロ
マ ン主 義 者 に 見 られ る 自己 の 内 面 世 界 の 深 奥 、 幻 想 、 神 秘 の 領 域 な どへ の没
入 も な い 。 マ ル リンス キ ー の詩 は 思 想 的 に は 啓 蒙 主 義 、 文 芸 的 には 古 典 主 義
の伝 統 な ど(西 欧 文 学 で は 原 則 的 に ロ マ ン主 義 の 対 立 物 とみ な され て い る も
の)に
結 び っ い て い るが 、 そ れ は 当 時 の ロ シ ア詩 の 傾 向 の 一 つ で あ った 。 そ
の 本 質 に っ い て は 、 か れ 自身 の 論 文 「ロマ ン主 義 に っ い て 」 が も っ と も よ く
語 って い るが 、 こ こで は そ の 内 容 に は 立 ち入 ら な い。
マ ル リ ンス キ ー は1821年
に 最 初 の 散 文 作 品 「レー ヴ ェルへ の旅 」 を 書 き 、
創 作 の 中心 を 詩 か ら散 文 に 移 した 。1823年
以 降 は 詩 を 書 く こ と も あ った が 、
小 説 、 ル ポ ル タ ー ジ ュ、 評 論 な どの 散 文 が 主 に な った 。 しか も、 そ れ が詩 よ
りは る か に読 者 の 人 気 を 博 し、 か れ は散 文 作 家 とみ な さ れ る よ う に な った 。
現 在 で もか れ は小 説 家 、 評 論 家 と して記 憶 に と どめ られ て い る ので あ る。
マ ル リ ンス キ ー 自身 は 自分 の 「ロマ ン主 義 」 の 本 質 か ら して 、 卑 俗 な散 文
作 品 で は な く、 格 調 高 い韻 文 で 真 と善 の 融 合 した 作 品 を 書 き 、本 当 の 美 を実
ロ シ ア の作 家 とチ ェチ ェ ン(藤
沼)7
現 した か った の か も しれ な い。 た しか に 、 か れ の散 文 に は 型 に は ま った 勧 善
懲 悪 や 波 瀾 万 丈 の 作 品 、 メ ロ ドラ マ が 少 な く な い。 しか し、 か れ の散 文 作 品
も、 基 本 的 に は 、 ② で 述 べ た か れ の 「詩 」 と 「ロマ ン主 義 」 の 延 長 で あ っ
た 。 か れ が デ カ ブ リス トに な った 源 泉 もや は りそ の ロマ ン主 義 で あ った 。
③ デ カ ブ リス ト事 件
マ ル リ ン ス キ ー は 、 周 知 の よ う に 、1824年
に デ カ ブ リス トの 秘 密 結 社
「北 方 同 盟 」 に入 り、 そ の 中 心 的 人 物 の 一 人 と な った 。 そ の 前 後 の 行 動 ・発
言 か ら判 断 して 、 か れ は 政 治 的 活 動 をす る素 質 を ほ と ん ど欠 い て い た 。 か れ
の政 治 活 動 は政 治 的 改 革 を しなけれ ば な らな い とい う希 求 と ロマ ン主 義 に引 っ
張 られ て到 達 した 地 点 で あ り、 理 想 よ り現 実 を重 視 し、 行 動 的 な組 織 を作 り、
力(時
に は 暴 力)の
行 使 を辞 さ な い と い う 、 一 般 の 政 治 活 動 と は性 格 を 異 に
して い る。 しか し、 これ は他 の 多 くの デ カ ブ リス トに も見 られ る傾 向 で あ り、
そ れ は かれ らの行 動 の 脆 弱 さ と 同 時 に純 粋 さ を 表 して い た 。
マ ル リン ス キ ー 自身 の供 述 に よ る と 、1825年12月14日
起 の 日、 かれ は午 前9時
、 デ カ ブ リス ト蜂
に 弟 ミハ イ ル の勤 務 す る モ ス ク ワ連 隊 に行 った 。 そ
こで 待 ち 受 け て い た ミハ イル 、 シ チ ェー ピ ン=ロ
ス トフ ス キ ー 公 爵 な ど と と
も に 、 新 皇 帝 に 宣 誓 を しな い よ う兵 士 を 説 得 し、 か れ らを 引 き 連 れ て 、 元 老
院 広 場 に 向 か った 。 そ れ を 阻 止 しよ う と した フ リー ドリ ヒ少 将 を マ ル リンス
キ ー は ピス トル で 威 嚇 した だ け だ った が 、 シ チ ェー ピ ン=ロ
ス トフ ス キ ー公
爵 が か れ に サ ー ベ ル の 一 撃 を くわ え た 。
マ ル リ ンス キ ー た ち に ひ き い られ るモ ス ク ワ連 隊 が 元 老 院広 場 に到 着 した
の は 午 前11時
こ ろ で あ った 。 そ れ か ら後 の 状 況 は デ カ ブ リス トの 「蜂 起 」
と して よ く知 られ て い る通 りで あ る。 モ ス ク ワ連 隊 は ピ ョー トル 大 帝 像(い
わ ゆ る青 銅 の 騎 士)の
そ ば で 方 形 陣 と呼 ばれ る 防 御 隊 形 を組 ん で 、 宣 誓 を拒
ん だ が 、 それ に 同調 す る部 隊 は い なか った 。 よ うや く午 後1時
こ ろ に な って 、
8
近 衛 榔 弾 兵 連 隊 と近 衛 海 兵 隊 が 合 流 した が 、 そ れ で も士 官30人
、 兵 隊3000
人 ほ どにす ぎず 、皇 帝 に 忠 実 な部 隊 に数 的 に圧 倒 され て い た 。 しか も 、 指 揮
官 に 予 定 さ れ て い たS・P・
トル ベ ツ コ イ公 爵 は 姿 を 見 せ ず 、そ の 場 でYe・
P・ オ ボ レ ンス キ ー 公 爵 を代 理 に選 ぶ と い う始 末 だ った 。 反 乱 部 隊 は 皇 帝 に
忠 実 な部 隊 の威 嚇 射 撃 を避 け なが ら、 宣 誓 を拒 ん で い る だ け で 、 そ れ 以 上 は
何 もせ ず 、 結 局 、夕 刻 に は 皇 帝 部 隊 の 散 弾 攻 撃 に あ って 、逃 げ散 って しま っ
た。
これ が1825年12月14日
の 元 老 院 広 場 に お け る デ カ ブ リス ト蜂 起 の全 容
で あ る。 デ カ ブ リス ト事 件 の 思想 的 ・精 神 的 な根 は深 く、 こ の表 面 的 な現 象
だ け を見 て 、運 動 全 体 を過 少 評 価 す る こ と は で き な い が 、 蜂 起 そ の もの は 子
供 じみ た も の にす ぎ なか った 。
マ ル リ ンス キ ー は 蜂 起 の 失 敗 を さ と って 、 い ち は や く広 場 を去 り、 凍 て つ
い た ネ ヴ ァ川 を歩 い て 向 こ う岸 に渡 り、 一 晩 じ ゅう町 を さ ま よ い歩 い た 末 に 、
翌 日の夕 方 自首 し、 ペ トロ=パ
ヴ ロ要 塞 監 獄 に 収 監 され た 。 かれ は 素 直 に 取
り調 べ に 応 じ、 改 俊 の情 を示 した 。
デ カ ブ リス ト事 件 は 蜂 起 の 貧 弱 さ とは 対 照 的 に 、取 調 べ を受 け た 者579人
流 刑 や 懲 役 に 処 せ られ た 者121人
、 死 刑 が 執 行 され た 者5人
、
と い う大 事 件 に
な った。 死 刑 に な った 者 の 中 に は 、 マ ル リンス キ ー と と も に 「北 極 星 」 を 発
行 した 友 人K・F・
ジ ェフ=リ
ル イ レー エ フや 、 遠 縁 とは い え 、一 門 のS・P・
ベ ス トゥー
ュー ミ ンもふ くまれ て い た 。 近 親 で は 、 兄 ニ コ ラ イ とす ぐ下 の 弟
ミハ イ ル が マ ル リ ンス キ ー よ り重 い 無 期 懲 役 を 宣 告 され 、 二 番 目の 弟 ピ ョー
トル は官 職 を剥 奪 され て 、 一 兵 卒 と して カ フ カー ス 方 面 軍 に追 い や られ 、精
神 に異 常 を き た した 。 末 弟 の パ ー ヴ ェル は デ カ ブ リス ト運 動 に は 直 接 参 加 し
なか った が 、4人
も の謀 反 者 を 出 した 家 の 人 間 と して、 逮 捕 監 禁 され 、 流 刑
同様 に カ フ カ ー ス の 軍 隊 に送 られ た 。
こ の小 論 の 冒 頭 で 書 い た よ う に 、 ベ ス トゥー ジ ェ フ と い う名 は ロ シ ア で よ
ロ シ ア の 作 家 とチ ェチ ェ ン(藤
沼)9
く知 られ て い るが 、何 よ りも まず デ カブ リス トー 家 と して 、人 々の 記憶 に残 っ
た 。 デ カ ブ リス トの 中 に は 兄 弟 や 一 族 が た くさ ん い るが 、 兄 弟5人
もが連座
した 例 は ほ か に な い。
マ ル リ ンス キ ー は まず1826年8月
れ 、1827年
フ ィ ン ラ ン ドの ス ラ ー ワ 要 塞 に 禁 固 さ
暮 れ ヤ クー トの 流 刑 地 に送 られ た 。 禁 固 中 の1年4か
月 にっ い
て は ほ と ん ど資 料 が な い。 お そ ら く、 語 るべ き こ と の とぼ しい 、 わ び しい 幽
閉 の 月 日だ った ので あ ろ う。
④ ヤ ク ー トの 流 刑 地 で
マ ル リ ンス キ ー は1827年10月
ク ー ツ ク を 経 由 して 、12月24日
到 着 し、 そ こで1829年7月
フ ィ ン ラ ン ドを 去 り、 ペ テ ル ブ ル グ 、 イ ル
、 ヤ ク ー ツ ク(北
ま で1年
東 シ ベ リア)の
流 刑地 に
半 以 上 生 活 した 。 ヤ ク ー ツ ク は 帝 政 時
代 の有 名 な流 刑 地 で 、 そ の 生 活 条 件 は 厳 し く、生 活 改 善 を 要 求 して再 三 暴 動
が 起 こ った ほ どで あ った 。 マ ル リ ンス キ ー の 生 活 も苦 しく、 しか も退 屈 だ っ
た が 、 そ れ で も フ ィ ンラ ン ドで の 禁 固 の 日々 よ りは 楽 で 、 本 を読 む こ と も で
き 、創 作 意 欲 も次 第 に 出 て き た 。 散 文 小 説 を ま とめ る ま で に は い た らなか っ
た が 、 時 折 、叙 情 的 な詩 を っ く った 。 そ れ は そ れ と して 一 定 の意 義 を も って
い るが 、 こ の時 期 の マ ル リ ンス キ ー の創 作 は 、 中 絶 さ れ た ロマ ン主 義 者 が 自
分 を 再 確 認 す るた め にお ず お ず と お こ な った 試 み で あ った 。
か れ は も っ と 自分 に ふ さ わ しい 所 を 求 め て 、1829年2月
トル コ戦 争 の 総 司 令 官 で 、 元 帥 だ った1・1・
、当時 ロシ ア ・
デ ィー ビチ ・=ザバ ル カ ン ス キ ー
伯 爵 に 手 紙 を 書 き 、 「一 兵 卒 と して 軍 に参 加 す る 」 嘆 願 を 皇 帝 陛 下 にお 伝 え
い た だ き た い と頼 ん だ 。 そ して 、 「ロ シ ア軍 の 栄 光 が 古 代 世 界 の 揺 藍 と マ ホ
メ ッ ト教 徒 の棺 桶 の 上 に轟 きわ た って い る時 に 、 無 為 の う ち に朽 ち果 て る軍
人 の 苦 しみ 」 を 訴 え 、 「求 め るの は 利 益 や 恩 賞 で は あ り ませ ん 、 求 め る の は
た だ 皇 帝 陛 下 の こ栄 光 のた め に私 の血 を流 し、陛 下 か ら賜 った命 を名 誉 を も っ
10
10
て終 え 、私 の亡 骸 に罪 人 の 汚名 が 重 くと どま らぬ た め で あ ります 」 と 訴 え た 。
「陛下 に賜 った 命 」 とい う の は 、 デ カ ブ リス ト事 件 で マ ル リ ンス キ ー が い っ
た ん 死 刑 を 宣 告 され 、 死 一 等 を 減 じ られ て流 刑 に な った こと を 意 味 して い る。
ま た 「古 代 世 界 の揺 藍 云 々」 とい う 言 葉 で 、 か れ の 希 望 が カ フ カー ス行 き で
あ る こ と を 明示 して いた 。
ユユ
この 願 い は皇 帝 に伝 え られ 、 皇 帝 じき じき の裁 可 で 、 マ ル リ ンス キ ー は4
月13日
に一 兵 卒 と して入 隊 を許 可 され 、 カ フ カー ス 軍 団 に 配 属 さ れ た 。 マ
ル リ ンス キ ー 自身 の 言 葉 に よ る と 、 こ の転 属 が 実 現 した の は 実 質 的 に は グ リ
12
ボ エ ー ドブが 総 司令 官 の パ ス ケ ー ヴ ィチ に働 き か け た結 果 で あ った 。 グ リボ
エ ー ドブ は パ ス ケ ー ヴ ィチ の職 務 上 の 右 腕 で あ り、 姻 戚 で も あ った 。 マ ル リ
ンス キ ー は グ リボ エ ー ドブ とペ テ ル ブル グで 知 り合 い 、 尊 敬 して いた し、 グ
リボ エ ー ドブ もか れ に好 意 を持 って い た の で あ ろ う。
流 刑 地 生 活 が どれ ほ ど苦 痛 で 不 便 だ った に して も 、 しば ら くそれ に 耐 え て
いれ ば 、刑 期 満 了 か 恩 赦 で 帰 国 で き る はず だ った 。 一 方 、軍 隊 に入 って カ フ
カ ー ス に 行 け ば 死 地 に飛 び こむ こ と に な る。 しか も 、1829年
は後 述 す る よ
う な理 由で 、 ロ シ ア と カ フ カー ス諸 族 の 衝 突 激 化 の 時期 で あ った 。 も ち ろん 、
マ ル リンス キ ー は そ れ を承 知 の 上 で 、 カフ カ ー ス行 き を選 ん だ の で あ る。
そ の理 由 の 中 に は 、 かれ 自身 が デ ィー ビチ=ザ
バ ル カ ンス キ ー伯 爵 あ て の
手 紙 に書 い て い た よ う に 、 祖 国 の た め に尽 く して 、 謀 反 人 の 汚 名 をす す ぎ た
い と い う気 持 ち も あ った だ ろ う。 だ が 、 そ れ 以 上 に無 為 よ り行 動 を欲 し、 み
じめ な生 よ り輝 か しい死 を望 む マル リンス キー の ロマ ンチ ック な生 き方 が あ っ
た と 思 え る。1827年4月
か れ は ヤ ク ー ツ ク か ら、 カ フ カー ス に い る 弟 ミハ
イ ル に あ て て 、 まだ 見 ぬ カ フ カー スへ の 自分 の思 い を こ ん なふ う に表 現 して
い た 。 「お 前 は カ フ カー ス を 見 なが ら、 詩 人 に な らな か った の か 。 そ れ ほ ど
天 の近 くに い な が ら、 詩 人 に な らな い の は無 礼 な こ とだ とぼ くに は 思 え る」
ロシ ア の 作 家 とチ ェチ ェ ン(藤
こ う して マ ル リ ンス キ ー は ヤ ク ー トの流 刑 地 を離 れ 、1829年8月
ス に 到 着 、 最 初 の1か
1837年6月7日
沼)11
カ フ カー
月 ほ どだ け トル コで の 戦 争 に参 加 した が 、 そ の後 は
、 黒 海 沿 岸 の ソ ー チ 近 郊 に あ る ア ドラ ー 岬 の 戦 闘 で 行 方 不
明 に な る ま で 、40年
の 生 涯 の 最 後 の8年
を カ フ カー ス で す ごす こ と に な っ
た。
2カ
フ
カr..一 ス で
ユ4
① カ フ カ0ス
の情勢
グ リボ エ ー ドブ に っ い て の 拙 論 で 述 べ た よ う に 、 ロ シ ア の カ フ カ ー ス 戦 争
は 現 在 も っ つ い て お り、 そ の 歴 史 は数 世 紀 にお よ ぶ 。 しか し、 ロ シ ア 史 で い
う狭 義 の 「カ フ カー ス 戦 争 」 は1817∼64の
1814年
に ナ ポ レオ ン戦 争 が 終 結 して 、 ロ シ ア軍 が 東 方 に相 当 な戦 力 を 向 け
る こ と が で き る よ う に な り、1816年
ア(後
間 の 戦 い を指 す 。 そ の 起 点 は
に カ フ カー ス)方
に はA・P・
エ ルモ ー ロフ将軍 が グル ジ
面 軍 総 司 令 官 に任 命 され て 、個 別 的 な討 伐 戦 だ けで
な く、 総 合 的 な軍 事 ・経 済 封 鎖 作 戦 を 開 始 した 時 で あ る。 終 点 は ロ シ ア軍 が
抵 抗 の 指 導 者 シ ャ ミー ル を1859年
と考 え た(実
に捕 虜 に し、 カ フ カ ー ス 全 体 を 制 圧 した
際 に は 、 そ う簡 単 に は い か なか った)時
こ の 狭 義 の 「カ フ カ ー ス 戦 争 」 で1829年
で あ る。
は転 機 で あ った 。 こ の 場 合 、 長
年 に わ た って総 司 令 官 だ った エ ル モ ー ロ フ将 軍 が デ カ ブ リス トと の 関 係 のた
め に解 任 に な り 、1828年
に ニ コ ラ イ ー 世 の 腹 心 パ ス ケ ー ヴ ィチ が 新 しい 総
司 令 官 に任 命 され た と い う こ とは 本 質 的 な 問 題 で は な い 。 ま た 、 ロ シ ア ・ペ
ル シ ャ戦 争 が1826年
に 、 ロ シ ア ・ トル コ戦 争 が1829年
に ロ シ ア の 勝 利 に終
わ り、 そ の 結 果 、 カ フ カ ー ス で の ロ シ ア の勢 力 が 拡 大 して 、 カ フ カー ス 諸 族
と の 衝 突 も激 化 の 方 向 を た ど った と い う こ とは 重 要 だ が 、 二 義 的 な も の で し
か な い。 も っ と も重 要 な の は この 時 期 に カ フ カ ー ス の 人 々 の 間 に 、 抵 抗 戦 の
12
思想 的 支 柱 と な る、 いわ ゆ る 「ミュ リデ ィズ ム」 が 形 成 され 、 イ マ ム と呼 ば
れ る精 神 的 、 政 治 的 、軍 事 的 指 導 者 を 中心 に不 屈 の抵 抗 が 展 開 さ れ る よ う に
な った こ と で あ る。
ミュ リデ ィズ ム に っ い て は カ フ カー ス の人 々の間 に も さ ま ざ ま な解 釈 が あ っ
て 、 簡 単 に は 理 解 で き な い。 こ の複 雑 な 問 題 に っ い て 私 が 何 か を 言 う こ と は
で き ない し、 言 うべ きで も ない で あ ろ う。 た だ一 っ 言 え る こ とは 、 ミュ リデ ィ
ズ ム とい う イ デ オ ロギ ー 的 な支 柱 を 得 て 、 カ フ カ ー ス 人 の抵 抗 が そ れ ま で に
も ま して頑 強 に な った こ と で あ る。 い ま だ に ロ シ ア 人 の 間 に は 、 カ フ カ ー ス
戦 争 が カ フ カー ス 民 族 の 好 戦 的 気 質 か ら生 じて い る と い った 考 え が あ るが 、
これ は偏 見 以 外 の何 もの で も な い。 また 、 戦 争 の 原 因 を単 純 な政 治 的 、 あ る
い は経 済 的 な も の と した り、 ミュ リデ ィズ ム を狂 信 的 思 想 と考 え る の も ま ち
15
が い で あ る。
マ ル リンス キ ー は こ う した カ フ カ ー ス 戦 争 の 激 化 ば か りで な く、 深 化 の 時
期 に カ フ カー ス に来 た 。 しか も 、 か れ が カ フ カ ー ス で も っと も長 く生 活 した
ダ ゲ ス タ ンは ミ ュ リデ ィズ ム の温 床 で あ った 。
② カ フ カー ス で の 生 活
aダ
ゲ ス タ ン行 き ま で
マ ル リ ンス キ ー は1829年6月
ヤ ク ー ツ ク を 去 り、 イ ル クー ツ ク、 エ カ テ
リ ンブ ル グ を経 て 、 ボ ル ガ川 を 南 下 、 カ ス ピ海 沿 岸 の ア ス トラハ ン に 出 て 、
キ ズ リャル を通 過 、 有 名 な グ ル ジ ア軍 用 道 路 を 通 っ て 、8月
都 チ フ リス に到 着 した 。 直 線 距 離 に して約6000キ
ロ、2か
に グル ジアの首
月 の大 旅 行 で あ っ
た。
チ フ リス に着 くと マル リンス キー は 郊 外 の聖 ダ ビテ修 道 院 にあ る グ リボエ ー
ドブ の墓 を訪 れ た 。 か れ は マ ル リ ンス キ ー を ヤ クー ツ クか ら救 い 出 し、 あ こ
がれ の カ フ カー ス に移 して くれ た 恩 人 だ った が 、 こ の年 の1月
に テ ヘ ラ ンで
ロシ ア の作 家 とチ ェチ ェ ン(藤
沼)13
悲 劇 的 な死 を とげ て い た 。 今 で こそ グ リボ エ ー ドブの 墓 は きれ い に整 備 さ れ
ユ6
て い るが 、 当 時 は墓 石 さえ な か った 。 ロ シ ア 第 一 の 外 交 官 で あ り、 殉 国 の 士
で も あ った 人 の 見 す ぼ ら しい埋 葬 の 地 に 立 って 、 マ ル リ ンス キ ー は何 を 思 っ
た で あ ろ う か?
マ ル リ ンス キ ー は カ フ カ ー ス に 来 た もの の 、 最 初 に配 属 され た の は トル コ
東 部 の エ ル ズ ル ム(ア
ル ズ ル ム)付
1828年 に は じま った 第8次
リス トリア(シ
撃 連 隊 で あ った 。
ロ シ ア ・ トル コ戦 争 は ロ シ ア軍 の 有 利 に展 開 し、
トル コ戦 最 高 司令 官 デ ィー ビチ=ザ
シ タ イ ン元 帥)の
近 で 戦 って い る第41狙
バ ル カ ンス キ ー 元 帥(初
め は ヴ ィ トゲ ン
ひ き い る軍 は 黒 海 西 岸 沿 い に南 下 し、1829年6月
初 め に は ア ドリア ノー プ ル(現
エ デ ィル ネ)
を 占領 して 、 西側 か ら トル コを侵 し、 コ ンス タ ンチ ノ ー プ ル(現
イ ス タ ンブー
ル)に
リス トラ)、9月
にはシ
せ ま った。 一 方 パ ス ケ ー ヴ ィチ 将 軍 の ひ き い る カ フ カー ス 方 面 軍 は カ
フ カー ス 内 の トル コの 軍 事 拠 点 を 占領 し、 トル コ本 土 の 東 部 に入 って 、1829
年6月27日
エ ル ズ ル ム を 占領 した 。 パ ス ケ ー ヴ ィチ 将 軍 は そ れ で カ フ カ ー
ス軍 の 任 務 は 終 了 した と思 った が 、 ニ コ ラ イー 世 は さ らに 西 進 を 命 じ、 ロ シ
ア軍 は トル コ本土 を東 西 か ら挟 撃 した 。
マ ル リ ンス キ ー が エ ル ズ ル ム に 来 た の は9月3日
、 第41狙
撃連 隊 に正 式
ユ7
に 配 属 さ れ た の は9月19日
だ った が 、 実 は か れ が 到 着 す る前 日の9月2日
に は 、 西 部 の ア ドリア ノー プ ル で ロ シ ア と トル コの講 和 条 約 が 締 結 され 、 法
律 的 に は戦 争 は終 わ って いた 。 しか し、東 部 で は そ の情 報 が ま だ伝 わ らなか っ
た た め か 戦 闘 が っ づ き 、 マ ル リ ンス キ ー は9月26日
参 加 した 。 そ れ 以 上 戦 闘 は な く、 か れ は10月
の バ イ ブ ル ト攻 略 戦 に
なか ば に チ フ リス に も ど り、
士 官 た ち の集 ま り に 出 て 、 か れ 一 流 の プ レイ ボ ー イぶ りを 発 揮 して い た 。 し
18
か し、 官 等 を 剥 奪 され た 罪 人 と して 警 戒 す る者 も 多 か った とい う。
14
bダ
ゲ ス タ ンで
1829年12月8日
マ ル リン ス キ ー は グル ジ ア常 備 軍 第10大
デ ル ベ ン ト守 備 隊 の 兵 士 と な った 。 こ こで が れ は1834年
隊 に 配 属 され 、
前 半 ま で4年
あま
り生 活 した 。 ペ テ ル ブ ル グ は別 と して 、 か れ が これ ほ ど長 く住 ん だ 場 所 は ほ
か に ない。
デ ル ベ ン トは 現 在 の ダ ゲ ス タ ン共 和 国 に あ る小 都 市 で 、 カ ス ピ海 西岸 の ほ
ぼ 中 央 に位 置 して い る。 東 側 は カ ス ピ海 に守 られ 、 北 は レス 山系 と ウル チ ャ
イ川 、 マ ジ ャ リス川 、 南 西 は サ ムー ル 山 系 と ギ ュル ゲ ル イ チ ャイ 川 や サ ム ー
ル 川 な どに よ って三 重 四 重 に防 御 され た 天 然 の要 害 で 、5世
紀 か ら要 塞 都 市
と して発 達 した 。 と くに 町 の西 端 の丘 に あ る ナ ル イ ン ・カ ラ要 塞 は 「優 しき
砦 」 と い う意 味 の そ の 名 に似 合 わ ず 、 西 北 南 の 三 方 が 絶 壁 で 囲 まれ た 強 力 な
要 塞 で あ った 。 原 住 民 た ち は 「山 は神 に よ って 、 町 は 人 に よ って 、 デ ル ベ ン
ユ9
トは 悪 魔 に よ って 建 て られ た 」 と言 って い た 。1813年
か らは ロ シ ア 軍 が こ
こを 確 保 し、 勇 敢 な ダ ゲ ス タ ンの 山 民 もめ った に攻 撃 して こ な か った 。
そ のた め 守 備 隊 の 活 躍 の 場 は な く、 マ ル リ ンス キ ー も退 屈 して い た 。1830
年5月15日
か れ は 作 家 ・ジ ャー ナ リス トのF・V・
ブ ル ガ ー リン に あ て た 手
紙 で 「カ フ カ ー ス は詩 人 と ロ マ ンチ ス トの た め の 対 象 に富 ん で い ます が 、運
20
悪 く、 こ こ は花 も腐 臭 を発 し、 ブ ドウ は黄 熱 病 を滴 らせ て い ます 」 と嘆 い た 。
ブ ル ガー リ ンは マ ル リ ン ス キ ー の 気 持 ち を 察 して 、 自分 がN・1・
グ レー
チ と い っ し ょに 発 行 して い た 雑 誌 「祖 国 の 子 」 に原 稿 を 送 る よ う にす す め 、
カ フ カ ー スで 書 か れ た 最 初 の作 品 「試 練 」 を は じめ 、 い くっ か の 作 品 を掲 載
して くれ た 。 マ ル リ ンス キ ー もそ れ に応 え て 、 次hに
小説 や実録 風 の作 品を
発 表 し、 た ち ま ち人 気 第 一 の散 文 作 家 に な った 。 しか し、 こ の創 作 活 動 は か
れ が カ フ カー ス に期 待 して いた 輝 か しい体 験 の結 果 で は な く、 退 屈 で 散 文 的
な 日常 を ま ぬが れ るた め の も の だ った の で 、 か れ 自身 と して は不 満 で あ った 。
1831年8月
か ら カ フ カー ス 戦 争 の指 導 者 カ ジ=ム
ラ(ガ
ジ=マ
ゴ メ ッ ド)
ロ シ ア の 作 家 とチ ェチ ェ ン(藤
沼)15
が デ ル ベ ン トと ブ ー ル ナ ヤ要 塞 の 間 の地 域 一 帯 を制 圧 す るた め 攻 勢 に 出、 マ
ル リ ンス キ ー も ゲ オ ル ギ ー勲 章 に値 す る活 躍 を した が 、 か れ が こ こで 発 見 し
た 戦 争 は ロマ ンで は な く、生hし
い現 実 で あ り、 そ の ヒー ロー は華hし
い勇
士 で は な く、 血 と泥 に まみ れ た 寡 黙 な兵 士 で あ った 。
そ れ か ら一 年 後 チ ェチ ェ ンへ の大 攻 勢 が 計 画 され 、 マ ル リ ンス キ ー も参 加
を 志 願 した が 、受 け 入 れ られ なか った 。 この 戦 闘 で ロ シ ア軍 は カ ジ=ム
立 て こ も った ギ ムル イ を 占領 し、 カ ジ=ム
ラが
ラを 戦 死 させ る と い う 「輝 か しい 」
戦 果 を 挙 げ た 。 しか し、 こ の 時 マ ル リ ンス キ ー は カ フ カー ス 戦 争 の 実 情 も 、
戦 争 一 般 の 本 質 も知 って いた ので 、 不 参 加 を残 念 と も 思 わ なか った 。
この よ う な状 況 の 中 で 、 マ ル リ ンス キ ー は また して もヤ クー ツ ク時 代 と 同
じよ う な陰 欝 な気 分 に落 ち こみ 、創 作 力 に も不 安 を感 じた 。1831年12月16
日の手 紙 で か れ は こん な風 に書 い て い る。 「… … 作 品 の 中 で 私 は よ み が え り
ます 。 … … た しか に 、 私 は そ の 時 別 の 生 を 生 き て い ま す 。 軽 や か な私 の 想
像 力 は あ らゆ る形 を と ります 。 妖 怪 変 化 で 、 そ れ は 皮 を か ぶ ります 、 そ れ は
手 袋 の よ うに私 や 他 人 が創 造 した 人物 に観 念 をか ぶせ ます 。 私 は紙 の上 で 笑 っ
た り泣 い た り します … … しか し、 そ れ は一 瞬 で … … 私 は ま も な く冷 え て し
ま い ま す 。 言 葉 が私 に は 実 に うす っぺ らで 、 ペ ンは 実 に ま だ る っ こ く、 そ の
上 読 者 は 実 に遠 くに い て 、 そ のハ ー トに近 づ く道 は 心 の 上 で も 、実 質 的 に も
21
実 にた よ り な く思 え る の で す … … 」
そ して1832年12月14日
に は 、7年
前 の デ カ ブ リス ト事 件 を 思 い 出 し な
が ら、 か れ は 「き ょう は 私 の 命 日だ 。 沈 黙 と悲 しみ の う ち に私 は 自分 の魂 の
22
追 悼 供 養 を お こ な う」 と書 い た 。
こ の 気 分 か らの救 い の 一 つ を マ ル リンス キ ー は結 婚 、 あ るい は 、 女 性 と の
安 定 した 愛 の 中 に 求 め た ら しい 。 か れ は1833年
に こ う告 白 して い る。 「ぼ く
は 女 性 を あ さ り なが ら何 年 も無 駄 にっ ぶ した 。 それ は大 体 い っ も う ま くい っ
た け れ ど も 、 め った に ぼ くを 幸 せ に して は くれ なか った 。 … … ぼ くの 青 年
16
23
時 代 は去 ろ う と して い る、 だ か らぼ くは そ の 最 後 の 花 を 摘 み た い の だ 」
そ れ で もか れ は相 変 わ らず 女 性 との ア ヴ ァ ンチ ュー ル をっ づ け 、 そ れ を 得
意 げ に ひ け らか した り も して い た が 、1833年2月23日
か れ の 自宅 の ベ ッ ド
の上 で 若 い 女 性 が ピス トル の弾 丸 で 胸 を負 傷 し、 三 日 目に死 ぬ と い う奇 怪 な
24
事 件 が お こ った 。 マ ル リ ンス キ ー に殺 人 の嫌 疑 が か け られ 、取 り調 べ を受 け
25
た が 、 か れ 自身 は 暴 発 事 故 と主 張 し、 結 局 、 無 罪 と認 め られ た 。
この 女 性 は下 士 官 の娘 で 、名 は オ リガ ・ネ ス テ ル ツ ォー ワ 、年 齢 は 二 十 歳 、
針 仕 事 の た め にマ ル リンス キ ー の と こ ろ に 時h来
て い た と い う。 マ ル リ ンス
キ ー の 説 明 で は 、 オ リ ガが ふ ざ け て ベ ッ ドの 上 の枕 に飛 び 乗 った 拍 子 に 、 護
身 の た め にそ の 下 に 隠 して あ った ピス トル が床 に落 ち 、 暴 発 事 故 が お こ った
ので 、 二 人 の 問 に は特 別 な 関 係 は な か った と い う こ とだ った 。 しか し、仕 事
に来 て い た 若 い 女 性 が ふ ざ け て ベ ッ ドに寝 転 が った りす るわ け は な く、私 に
は 少 な く と も オ リガの 自殺 で は な い か と思 え るが 、 も ち ろん 根 拠 は な い。
一 件 落 着 後 もマ ル リ ンス キ ー の 隊 長 を は じめ と して
、 か れ の 殺 人 説 を噂 す
る者 は多 か った 。 一 般 に、 この事 件 は長 く人 々 の記 憶 に 留 ま って い た よ うで 、
1858年
に ロ シ ア を訪 れ た ア レ クサ ン ドル ・デ ュマ(ペ
ー ル)は
この事 件 の
26
話 を き き 、 オ リガ に捧 げ る詩 を っ く った ほ どで あ った。
c西
グル ジ アへ
この 事 件 の 後 、 も と も と嫌 気 の さ して い た デ ル ベ ン トが い っそ う居 心 地 が
悪 く な った の か 、 マ ル リンス キ ー は 転 属 を願 い 出 る こ と に し、 チ フ リス に い
27
る弟 の パ ー ヴ ェル に助 力 を た の ん だ 。 そ の結 果 、1833年12月
され 、 病 気 な どの た め に や や 遅 れ て1834年4月
に 着 任 した(か
に転 属 が 許 可
れ が デル ベ
ン トを 去 る 時 、 現 地 民 の 多 くが か れ と の 別 れ を惜 しん で 見 送 った と い う)。
新 しい勤 務 先 は黒 海 沿 岸 に近 い グル ジ ア 西 部 の アハ ル ツ ィへ の守 備 隊 で 、変
わ りば え が しな い ど こ ろか 、 デ ル ベ ン トの時 よ り生 活 条 件 は さ らに悪 化 し、
ロ シ ア の 作 家 と チ ェチ ェ ン(藤
沼)17
マ ル リン ス キ ー の欲 求 不 満 と焦 燥 は ます ます ひ ど くな った 。
か れ は 西 グル ジ ア 各 地 を転 戦 した り、休 暇 を 得 て チ フ リスや ピ ャチ ゴル ス
ク で 静 養 も した が 、 さ さ くれ 立 った 神 経 は癒 され な か った 。 か れ は1837年
6月 に戦 死(?)す
る まで 、3年
以 上 も西 グル ジ ア で す ご した が 、 そ の生 活
は デ ル ベ ン ト時 代 よ りは るか に不 毛 で 、 作 品 も 「ム ラ=ヌ
ル」 以 外 ほ と ん ど
書 か れ なか った 。 か れ は また ま た 転 属 を 希 望 し、1835年6月
憲兵 総 監 ベ ン
ケ ン ドル フ に 直 訴 状 まで 書 い た が 、 皇 帝 ニ コ ラ イ 自身 が 一 笑 に 付 し、 却 下 し
29
た と い う。 マ ル リ ンス キ ー の 焦 燥 を理 解 しに くい 第 三 者 か らす れ ば 、 皇 帝 で
な くて も、 そ の た び 重 な る転 属 願 い を 、 身 勝 手 か 甘 え とみ な した で あ ろ う。
③ 「ロマ ンチ ス ト」 マ ル リン ス キ ー(2)
カ フ カー ス で のマ ル リ ンスキ ー の創 作 活 動 は十 分 に多 産 で 多 彩 だ った 。 個 々
の 作 品 を 見 て も 、 「ベ ロ ゾ ー ル 中 尉 」、 「ア マ ラ ト=ベ ク」、 「ム ラ=ヌ
ル」 な
ど注 目す べ き も の が あ り、 文 学 的 な価 値 は と もか く と して 「戦 艦 ナ デ ー ジ ダ
号 」、「水 夫 ニ キ ー チ ン」 な どの 人 気 小 説 もあ った 。 何 よ り もか れ の 創 作 活 動
全 体 が1830年
代 の ロ シ ア文 学 の 重 要 な現 象 で あ った 。
また 、 マ ル リ ンス キ ー は この 時 期 に 、 ロ シ ア 兵 士 の 「発 見 」 や 他 者 の 視 点
の 導 入 と い った 画 期 的 な業 績 も あ げ て い た 。 レフ ・ トル ス トイ は1850年
代
初 め に 「襲 撃 」、 「森 林 伐 採 」 な どの カ フ カー ス 小 説 を 書 い て 、 ツル ゲ ー ネ フ
が 「猟 人 日記 」 で ロ シ ア 民 衆 の す ば ら しさ を発 見 した よ う に 、 自分 が 最 初 に
ロ シ ア兵 士 を 発 見 した と信 じて い た が 、 実 は そ の20年
前 に マ ル リ ンス キ ー
が 自分 の カ フ カ ー ス小 説 で そ れ を して い た 。 トル ス トイ は マ ル リ ンス キ ー の
作 品 を読 ん で い た の に 、 芸 術 家 に あ りが ち な思 い こみ で 、 マ ル リンス キ ー は
30
ロ マ ン主 義 の色 眼 鏡 で ロ シ ア 兵 士 を 見 て い る と き め つ け て い た 。
マ ル リ ンス キ ー が 「ア マ ラ ト=ベ ク」、 「ム ラeヌ
ル 」 で お こ な った 他 者 の
視 点 の導 入 は ロシ ア 文 学 で 空 前 の も の で あ り、特 筆す べ き意 味 を も って い る。
18
この 点 で も トル ス トイ は 苦 心 惨 憺 して 、 や っと1902∼04年
ト」 で 成 果 を あ げ た が 、 そ の70年
の 「ハ ジ ム ラ ー
前 に書 かれ た マ ル リ ンス キ ー の作 品 を も っ
と早 く、 虚 心 に学 ぶ べ き だ った と思 わ ざ るを え な い。
しか し、 マ ル リ ンス キ ー 自身 は 自分 の創 作 に い っ も不 満 で あ った 。 そ の理
由 は次 の よ う な も の だ った と私 に は思 え る。
1時
代 の 要 請 で あ る写 実 的 な方 法 を 取 り入 れ なが ら、 自分 本 来 の ロマ ン
主 義 を 実 現 す る難 しさ。
2生
活 の 中 に ロ マ ンチ ック な も の が 発 見 で き な い も どか しさ 。
3自
分 が祖 国 や 生 活 人 の生 活 か ら隔 離 され 、 文 学 に た いす る要 請 を実 感
で き な い不 安 。
こ の小 論 で は これ 以 上 に深 入 り しな い が 、 中 絶 され た ロマ ン主 義 者 マ ル リ
ンス キ ー の悲 劇 は別 の論 考 で深 く追 究 す る に値 す る問 題 で あ る。
④ 死 の謎
マ ル リ ンス キ ー は1837年6月7日
帯 の 一 角 に な って い る)ア
、 黒 海 東 岸 の(現
在 で は ソーチ保 養地
ドラ ー 岬 の 山 民 討 伐 戦 に 参 加 し、 胸 を射 た れ て 戦
死 した とみ な され た 。 しか し、 死 体 は発 見 され ず 、 捕 虜 の 一 人 が か れ の 武 器
や 軍 服 を持 って いた だ けだ とい う。 負 傷 した マ ル リ ンス キ ー を 山民 が っ れ 去 っ
31
た と い う説 もあ り、 真 相 はわ か ら な い。
32
この 日、 戦 闘 参 加 の直 前 に マ ル リ ンス キ ー は 遺 書 を書 い て い た 。 戦 闘 に赴
く者 が 遺 書 を した た め る例 は無 数 に あ る。 しか し、 マ ル リ ンス キ ー が遺 書 を
書 い た の は この 時 一 回だ け で 、 そ の 遺 書通 り見 事 に 戦 死 した 。 か れ の 生 活 は
さ ま ざ ま な点 で 行 き詰 ま って い た の で 、 自殺 同 然 の 突 撃 を した の か も しれ な
い。 しか し、 か れ の 死 は実 は 山 民 側 に移 るた め の 作 意 だ った と い う考 え も成
り立 っ 。 実 際 、 そ の種 の 「逃 亡 者 」 が カ フ カー ス に存 在 して い た 。 カ ジ=ム
ラ の 死 後 カ フ カー ス住 民 の 指 導 者 と な り頑 強 な抵 抗 戦 を展 開 した シ ャ ミー ル
ロシ ア の作 家 とチ ェチ ェ ン(藤
沼)19
こそ が 変 身 した マ ル リ ンス キ ー だ と い う説 ま で あ る。 二 人 の共 通 点 は1797
年 生 ま れ と い う こ とだ け だ し、 第 一 シ ャ ミー ル が 指 導 者 に な った の は1834
年 だ か ら、 マ ル リ ンス キ ー=シ
ャ ミー ル 説 は ま った くの虚 説 で あ る。
だ が 、 中 絶 さ れ た マ ル リ ンス キ ー の ロマ ン主 義 が よ み が え る場 所 は もは や
ロ シ ア に は な く、 カ フ カ ー ス の 山 の 向 こ う に しか な か った とす れ ば … … と
い う人 々の 思 い 、 っ ま り、 マ ル リンス キ ー の夢 を実 現 させ て や りた い とい う
願 い が シ ャ ミー ル こそ マ ル リンス キ ー と い う途 方 も な い 幻 想 の源 泉 で あ る と
す れ ば 、 私 も よ うん で 学 問 的 真 実 と や らを捨 て 、 この 虚 説 に賛 成 す るで あ ろ
う。 そ して 、 か れ の墓 に詣 で 、 花 束 の 一 つ く らい捧 げ た い 。 しか し、 死 体 の
見 っ か ら なか った マ ル リン ス キ ー の墓 は い まだ に ど こ に も な い 。
注
1
藤 沼 貴
ロ シ ア の 作 家
と チ ェ チ ェ ン ーA・S・
創 価 大 学 外 国 語 学 科 紀 要
2
第9号
グ
リ ボ エ ー
ド ブ の 場 合 一
、1999、p.15
MacnuxH.H.A.A.becTyxces=MapnHxcxKH//A.A.becTyxceB‐MapnHxcxHH.
CoqHHeH圏B耶yxToMax.M.,1958,T.1,C.V
3
Tony60eC.becTyxceB=MapnHxcxHH.M.,1938,C.307
4,
伝 記 の 部 分 は 主
の も の を 参 照
と し て 、上 掲 のMaC」lklH,rb■y60Bの
も の
と 下 掲 のKoTnApescxHH
し た 。
く4
5β ρκ061Z、 砿HcTop瑚pyccKo益)KypHa∬HcTHKHX皿BeKa.M.,JL,1952,C.377
〆0
i'1∂cxuuT.PyccxoeMacoHcTBo.IITpr.,1917,C.10
句1
Meurcax」
鼠(J・ 刀〔eKa6pHcTcKa∬H八e牙HaHHoHa■LHoroBo3po)K八eHH牙Hpyccl(aπ1くynbTypa
HaHaJlaBexa.//1耳elくa6pHCTbzHpyccKa牙1(yJlbTypa.∬.,1975,C.8
S
Kom.nRpeecxuuH.A八el(a6pHcTbI.1くH.A.H.4AoeBCxKHHA.A.BecTy)KeB=
MapnHxcxHH.Hx)KH3HLH朋TepaTypHa朋e∬Te∬LHocTL.CH6.,1907,C.110
9
TaMxce.C.115
10
TaMxce.C.166
11
TaMxce.
12
オ.A.、5θ α 昭 併cθ8=ハ 勿 脚 観cκ 磁CoqHHeHH朋
八ByxToMax.M.,1958,T.2,C.646
20
3
一
■■
1VlacnuhC.XLII
4 .
1
こ の 部 分 は 主
と し てbnHeBM.M.,1工eroeBB.B.KasxasxaxBoHxa.M.,1994に
よ っ た 。
5
1
ミ ュ
リ デ ィ ズ ム に っ い て は 上 掲 書
と そ の 注 に あ る 文 献 を 参 照 す
る の が よ い 。
6
1
ムθc〃1四cε8Coq.T.2,C.673
7
1
Kom/zRpeacxuuC.166
8
1
TaMxce.C.171-172
9
1
Tony60eO.301
0
2
TaMxceC.305
1
2
TaMxce.C.321
2
2
TaMxce.0.320
3
2
TaMxce.C.323
4
2
KoTnApeBCxHHは
ら 判 断
こ の 事 件
し て 、1833年
が 正
を1834年
の こ と と し て い る が(C.180)、
し い 。
5
2
TecmyarceeCoy.T.2,C.646
6
2
Tony60eC.327
7
2
TaMxce.C.330
8
2
Ko〃 醐1フ ε8cκ ㍑撹C.166
9
2
1ヌεc〃2鋼cε8Coq.T.2,C。719
0
3
1hπ α ηo鹿 ∬Hno皿Hoeco6paHHecoqHHeHH近.M.,JI.,T.3,c.22,215
1
3
KomnsapegcxuuC.213-215
2
3
1ヨθc履 卿cθ8Coq.T.
他 の 資 料 か
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