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シュメールの心 その10 商業国エブラの繁栄とアッカドによる征服支配
シュメールの心 その10 商業国エブラの繁栄とアッカドによる征服支配 栁 幸夫 ◆シリアの<エブラ遺跡> 下図に矢印で示したように、シュメールの地か らは遠く離れている。エブラは古代名で現在名 ② エブラ遺跡図(原図パウロ・マティエ教授『The archaeological Guide to Ebla』ネット掲載より) はテル・マルディクである。 ① エブラ遺跡の位置 遺丘はシリア最大のもので900×700 mもある。1964年以来、ローマ大学のパウ ロ・マティエ教が授率いるイタリア隊によって 発掘調査が続けられた。私が訪れた時は遺跡保 ③ エブラ王国を取り囲む外壁 護のための白い漆喰塗り作業が行われていた。 中央奥の切れ目は都市の門跡(西門)で全周 に四つの門があった。 ◆エブラ王国の発見 (王宮のアクロポリスの方から撮影 94 年) 1974年に40数個の粘土板文書をすで に発見していた発掘隊は、11年間の発掘作業 の末、1975年に1万数千枚の粘土板文書を 新たにここで発掘し、ここテル・マルディクが エブラ王国の王宮跡であることを発見して、彼 らは歓喜の声を挙げたといわれる。 同発掘隊の粘土板文書の解読にあたったジ ョバンニ・ペッティナート教授は、これらの粘 土板が前25~24世紀のものであると判断 した。まさに「世紀の大発見」であった。 ただ、シュメールやアッカド帝国との接触が あったことは間違いないが、研究はまだ始まっ たばかりである。西アジアの古代史の解明に大 きな期待が寄せられている重要な遺跡である。 「外壁は最大径1000mの菱形に近く、四 つの切れ目、つまり都市の門があり、遺跡全 体は56ヘクタールもあるのだ。遺跡の中央 はアクロポリスで、径約170mのほぼ円形、 そして外壁とアクロポリスの間は<下町>と 呼ばれている」。 (※『オリエント史講座2 「エブラ王国」柴山 栄 1985 年学生社) ④ エブラ王宮Gのブラン (『シリアの古代都市文化』 ステファニア・マッツォーニ) 『図説世界の考古学2』福武書店 84 年 A 文書庫 B 玉座(壇) C 謁見の間 D 象嵌装飾をもつ儀式用階段 E 貯蔵庫(調度品類) この復元プランにAからEまでの記号を記 し、現地で撮影した遺構と重ねて説明したい。 ⑤ A エブラ王宮Gの文書庫 エブラが征服されたときに文書庫の棚は焼 け落ち、大きな粘土板が床に落ちてしまった。 ⑦ A 文書庫の復元図 (『世界の歴史1「人類の起源と古代オリエント」 前川和也論文 中央公論社 1998 年) この前面に区画された部屋が文書庫Aであ る。ここから1万5~6千枚の断片をつなぎ合 わせて約2500枚ほどの粘土板が出土した。 ⑥ 発見当時の粘土板文書の出土状況 ⑧ エブラ王宮Gの謁見の間・玉座 C (白い漆喰で固め保護されていた) 文書庫は⑦図に見るように、約3m幅の壁の三 面に木製の棚が三段ずつ取り付けられていた。 そこに大きなサイズの粘土板がたてかけられ ていたと推定されている。そして床面には小サ イズの粘土板が置かれていたという。 ⑨ エブラ王宮Gの文書庫Aと「」謁見の間」 ⑫「下の町」の個人住宅か神殿跡か?日干煉瓦 の間にある中庭と王の居室へ通ずる階段 ⑬粘土板文書が示すもの ⑩アクロポリスから見下ろすと別の王宮Pと、周 壁の彼方に現在の街が見える 左の粘土板は89年 福岡市でも開催され た「古代シリア文明展」 で展示されたもので ある。ある国との契約 文書という。前 2350 ~前 2300 頃のもの。 王宮Gから出土した文書で圧倒的に多いの は行政、経済に関する文書である。粘土板は正 方形に近く、一辺20cm近い大型のものが多 い。刻まれた楔形文字は、約8割がシュメール 語、約2割が「エブラ語」であるという。この ⑪94年当時、調査はまだ 100 年くらいかかると 「エブラ語」は、アッカド語、アムール語、ヘ 云われていたが、今はシリア内戦、ISによる破 ブライ語など、セム系言語と何らかの関係をも 壊など遺跡そのものの存在が危惧されている。 つようであるが、その位置づけにはさまざまな 論議が続けられている。又、次回取り上げるマ リ王国を征服した記事も見つかっている。 ◆これまでの発掘調査からわかっていること は、「エブラの仕事は商売であった」といわれ る。出土した粘土板の大部分は、「ほとんど台 帳や取引用の日記帳や商品目録にすぎない。そ の大部分は読み物としては非常に退屈である が、二、三の驚くべき事実を伝えている。その 一つは、まさにエブラの大きさである。 エブラは、二十六万人の住民を擁した非常に 繁栄した商業地域であったらしく、第三千年紀 には、近東あるいは世界の中でも最大の大都市 圏の一つであったにちがいない」。 ⑭( 『エブラの発掘』マイケル・ウァイツマン ハ イム・バーマント山本書店 1983 年刊) ◆エブラは商業国であった 前掲の柴山論文では「エブラはサルゴン、ナ このような記述に驚いて ラム・シンの時代以前より古代オリエント社会 しまう。すでに取り上げた、 における強大な王国であったようで、少なくと あのシュメール都市、ウルは もサルゴン、ナラム・シン時代には政治的、経 推定3万4千人くらいの人 済的、文化的また商業貿易の面でもパレスチナ、 口だから、それをはるかに超 キュプロス、またアマヌス、タウルスの山々を える都市国家がまだ地中に ひかえた地域とも、メソポタミアと同様密接な 埋もれているのである。日本 商業関係を有し、とくに木材、金属産地の支配 では縄文後期頃にあたる。 権を握っていたようだ。そして産地をひかえ木 材がユーフラテス川へ積みだされるのに最適 ◆日本ではあまり知られていないエブラ遺跡 であり、しかもタウルス山地以西のアナトリア 「文書庫発見」のニュースは1975年4月 とメソポタミアを扼する商業上の重要拠点ウ 1日の朝日新聞、東京新聞が報じた。さらに、 ルシューを手にし、マリを抑えバリク、カブル 同年12月31日の朝日は「アメリカ考古学年 両川とユーフラテス川の作る三角地帯を支配 次大会での報告に基づいて「シリアも文明発祥 した。・・・ の地-粘土板の古文書解読で判明」という記事 このエブラ王国こそ、アッカドの王達の生命 を載せたが、これ以後はエブラの記事が日本の 線確保のための攻略目標としなければならな 新聞を賑わすことはなかったようである。私の いものであったのであり、そこでナラム・シン 蔵書には前掲書とともに1980年有斐閣刊 の攻略を受けたその首都は破壊された。 ・・・ の屋形禎亮編『古代オリエント』中田一郎「シ そして、ウル第三王朝時代には、昔日の面影を リアの古代都市エブラ」があるが、邦訳の文献 失ったエブラであり、ウルシューと並んで、主 はきわめて少ない。 として商業活動からのみ文書に現れている」。 ◆エブラ遺跡出土品 ⑮人面雄牛像 ⑯首飾り ◆アッカドのエブラ支配 ⑰アッカド(アガデ)王の征服版図(前川論文) 商業国エブラの主たる経済は、大規模な羊飼 育と毛織物工業で、羊毛製品を輸出品とする交 易にあったとされる。そして、エブラ文書には 膨大な金、銀、銅の量が登場するという。 エブラでは天水による乾地農業も行われた が、シュメールに比べると比較にならないほど の低い生産力であった。文書庫にも農業記録が あまり残っていないといわれる。 「エブラについては、アッカドのサルゴン王が 用しようとしている。今日彼は<ヨルダン川の 次の碑文を残している。すなわち、サルゴン王 >西岸を求めている。数年中にはアレッポとダ がトゥトウルでダガーン神を拝した時、この神 マスカスということになろう」云々と。ベギン は彼に次のように告げた、 「マリ、ヤルムティ、 氏は83年に亡くなったが論争は果たして過 エブラそして杉の森及び銀の山々までも彼に 去のものとなったのか?結局、ペッティナート 与えた」と。次のナラム・シン王は「ネルガル 博士は発掘隊から除名されてしまったが・・。 は彼にアルマヌとエブラを与えた」という碑文 そして前掲の『エブラの発掘』は「今やマッ を残しており、かつ「アルマヌとエブラを征服 ティエ教授は、この書板を発見したことにより、 した」という記録も残している。最初の碑文は 考古学的宝物とともに政治的地雷原に突入し マリ、ヤルムティ、エブラ、杉の森、銀の山々 たことは明らかである」と述べていた。 を記しているが、これはユーフラテス川中流か ら遡ってシリアを西へ進み、アマヌス山地から (『エブラの発掘』マイケル・ウァイツマン/ハイム・ バーマント共著 矢島文夫訳 83 年山本書店 ) タウルス山地にまで至る道路を順序立てて示 している。また次のナラム・シンの碑文は、ア ◆この問題に深入りすると近現代史の泥沼に マヌス山地、タウルス山地等木材山地の山々を 足をとられてしまう心地になる。たとえば、イ その征服の地として特に挙げているわけで、タ スラエル・パレスチナ問題が、あのイギリスの ウルスはまた銀鉱の山々として知られている」 「二枚舌外交」でアラブにもイスラエルにも国 (※『オリエント史講座2「エブラ王国」 家建設を認めるとした大国の干渉からはじま 柴山 栄論文 1985年学生社』 ) ったこと。それが、世紀を超えかたちを変えて 今なお血で血を洗う対立抗争の連鎖の中にあ ◆4千年間埋もれていたエブラ文書の解読は り、混乱と破壊の地獄の様相を見せていて、ア 世界中に大きな興奮とともに物議をも呼び起 メリカをはじめとする大国が自らの権益のた こした。それは、特に「旧約聖書」との関連で、 めに、解決を遅らせていること。今明らかにな 中東現代史の複雑な政治的対立を煽る問題に っている事実をひとつだけ指摘しておこう。 も発展した。当時の私は知る由もなかったが。 エブラ文書の中に、イシュ・ライル(イスラ 全米 50 州に10万人以上の会員をもつ親イ スラエル・ロビー団体から約 1500 万ドルの資 エル)とか、アブラム(アブラハム)、イシュ 金を民主・共和の議員が受け取っていること。 マイル(イシマエル)とか出てきて、解読者の 米国は 1985 年から毎年約30億ドルという膨 ペッティナートはエブラ語とヘブライ語とに 大な額の軍事経済援助をイスラエルに行って 近似性を認めた。しかし、多くの学者から「イ いること。汚いカネが戦争を煽っているのだ! スラエルの起源を示すようなことは記されて いない」という反論も強まった。「イスラエル もう深入りするのは止めよう。 の政治家が他国の古代文書をシリア・パレスチ ここでは、私の感想として、「世紀の発見」 ナ領土を保持しようとの彼らの意図を正当化 はロマンを生むだけではない。えてして民族、 するために濫用する・・」 (エール大・ハーヴ 宗教、領土や政治、文化等々のくい違いや軋轢 ェイ・ウェイス教授)。サバーハ・カッバニ博士 の歴史が現実の土壌の上に突如として躍り出 も「ペッティナート博士はエブラ文書を政治的 てきて、人々を混乱させ、矛盾と対立の舞台を 次元で解釈しようとしている・・・事が重大で 再現させる側面もあるのだ、ということを知る あるのはベギン氏とリクード党との声明のた だけにしてエブラから立ち去りたい。 (続く) めである。ベギン氏は聖書を登記原本として利