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九州工業大学学術機関リポジトリ Title Author(s) Issue Date URL The Wild Palmsの意図と含み 田中, 久男 1975-03-30T00:00:00Z http://hdl.handle.net/10228/3388 Rights Kyushu Institute of Technology Academic Repository 71 τ加碗14飽1脚の意図と含み (昭和49年10月31臼原稿受理) 出 中 久 男 1938年の6月に書き上げられ,1939年1月にRandom House社から出版された Faulk雄rの10番目の作品丁畑W4 Mmぷは, Y◎knapatawphaから舞台が離れて いるため,彼の作品の中ではどちらかと言えば異質な存在として扱われている。この作品 は,Moぷ4砿oeぷ,1ケ10ηに次いでNew Orleansに物語の舞台が置かれた作品であるが, これら三つの作品の出来ばえ,またその評価が高くないのを考えてみると,彼にとっては ‘‘ Pittle postage starnp of native soil”1)であるYoknapatawpha郡Jeffersonは, 創作に欠くことの出来ない源泉であり,その架空の地なくしては,彼の想像力も思うにま かせなかったといっても言い過ぎではないように思われる。τ加ぷo瑚4但4r胞F加ッ, メ加α1αη,メb5α10〃〃等の一連の作品に描き込まれている過去の現在性,血を主軸にした一 族(clan)の興亡,激しい南部の土俗意識,宿命ともいうべき旧家の論落等の事象が絡み 合って醸し出す息づまるような緊張感 広がり,深みといったようなものは,この7加 碗14M脚には望むべくもないのである。おそらくこの作品では, Yoknapatawphaか ら離れて現実の諸相をあるテーマのもとに虚構の世界に描き込もうとするだけの内的必然 性が作者の側で稀薄であったのではないかと思われる。 だがこれは,ただ単に舞i台がYoknapatawphaから別のところに移されたことだけに 帰因するのではないようである。Pγ10ηがメbぷα10m,メ65α10m!を書くのに行き詰まって, 一時その作品から離れてみるために書かれたものであることは,作者自身語っている周知 の事実だが2),この丁胞助14Pα1mぷの場合も少し事情が違っているものの,創作態度の 点では似たところもあるのではないかと思われる。というのは,1937年8月15月にLos AngelesのTwentieth Century F◎x社のシナリオ書きをやめてから,この作品を書き 上げていた1938年10月までの間,彼は経済的問題に頭を痛めることもなく創作活動に専 念出来たはずであるから,考えられるのは,Yoknapatawpha Sagaの一つの頂点である 肋ぷα10m,メ65α/01η!で呪われた南部の根を探り出し,いわば精神の悪魔払い(exorcize) をした作者の精神の緊張が一時的に弛んだためということになる。もっとも肉体的には必 ずしも良い状態にはなかったようで,1938年2月出版のr々仇wα〃9μ∫W4をまとめてい た1937年11月に,Random House社の一一室で暖房器具で背中に手のひら大のやけどを 負い,その傷をFa迫knerはかなり気づかっていたようである3戊。 以上のような状況から生まれたこのτ加碗14Pα1脚は必ずしも傑作とは言い難いも のになってしまったが,もちろんこの作品も彼の文学世界のタペストリーを彩る一つであ り,いくらY◎knapatarhaを離れたとは言っても,いままでの彼の文学的営為の連続 の上に書き上げられたものであるから,彼の他の作品の余波は多かれ少なかれ受けている はずである。 72 一田中久男一 この小論においては,τ舵碗14Pα1〃∬の特異な構造がどの程度にテーマと有機的に関 って作者の意図を生かしているかを考察し,合わせてこの作品に窺われる他の作品の余波 もみてみたい。 この作品で最も論議をかもしたのは,“Wild Palrns”と‘‘01d Man”の二つの物語の それぞれ5章ずつが交互に組み合わされていることの是非についてであった。この作品に 関する最近の批評はMichael Millgateが指摘しているように,二つの物語を別々に扱 うやり方への反動として,二つの物語の諸々の関係が強調され過ぎる傾向はあるものの4’, 大方の見方としては二つの物語の各章を交互に組み合わせることの妥当性を認めることに 落着いている。ところが,Malcolm Cowleyは,1946年に出版され更にrevised and expanded editionとして1967年に出たτ加Po〃αb1θFα磁ηerセこ“01d Man”を単独 の形で収録している。彼はこの物語の方が“Wild Palms”よりも“a high pitch of in− tegrity”5)を保つ上で効果が上がっており,この物語だけでも一つの作品として十分耐え うると考えている。確かに“Old Man”の物語はCowleyの言うように,励cた1θbθrry 万朋には及ばないにしても“the same impression of the power and legendary sweep of the River”6)を与えることは明らかだが,“Dilsey”の物語,“Percy Grimm” の物語がr舵∫o朋4αη4伽勘rγ,L∫g加∫πオ〃9蜥の中に収まって始めて,それら単 独の物語としては持ちえない深い意味,緊張感,広がりが生まれてくるのと同じように, “01d Man”も丁加〃7〃Pα1mぷの中に収まることにより,単なるMississipPi河洪水 の物語にとどまらず,“Wild Palms”と‘paralle1’な関係になることによって,単独で は持ちえない意味,暗示力を包み込むことが出来るのだ。またそのことこそ作者が意図し たものでもあったはずである。 そういう作者の意図はJean Steinとの・fンタヴューで,二つの関係のない物語が一っ の本にまとめられたのは“akind of esthetic counterpoint”のためかと訊ねられて答 えた次のような言葉に明確に読みとれるだろう。 That was one story−the story of Charlotte Rittenmeyer and Harry Wilbourne, who sacri丘ced everything for love, and then lost that. I did not know it would be two separate stories until after I had started the book. When I reached the end of what is now the且rst section of r乃θ 碗14P已1η2ぷ, I realized suddenly that something was missing, it needed emphasis, something to lift it like counterpoint in rnusic. So I wrote on the“01d Man”story until the“Wild Palms”story rose back to pitch. Then I stopped the“Old Man”story at what is now its first section, and took up the“Wild Palms”story until it began to sag. Then I raised it to pitch again with another section of its antithesis, which is the story of a man who got his love and spent the rest of the book且eeing from it, even to the extent of voluntarily going back to jail where he would be safe. They are only two stories by chance, perhaps necessity. The story is that of Charlotte and Wilbourne.7) 一τ加頒14Polmぷの意図と含み一 73 作者の意図は‘‘Wild Palms”の方を主たる物語にして,“01d Man”は音楽における対 位法のように“Wild Palms”の音度を高めるという,いわば‘backgr◎und e飽ct’と しての従たる物語にすることにあった。これと同様のことはヴァージニア大学での応答に おいても作者は語っているが8),問題はいかに二つの物語を高度の緊張感のもとに保ちつ つ,一つの作品としての有機性を獲得するかということにあると言っていいだろう。なぜ なら,この作品のように二つの異質な物語を組み合わせる場合,対位法的な枠組がうまく いかなければ二つの物語が反発作用を起こして,高次の有機的な世界に向かって進むとい うことがなくなり激しい摩擦音だけを残すことになるからである。もっとも対位法的な枠 組について言えば,L∫9加Zπぷ9〃ぷτ9>, Go 1)owη, Moぷ¢ぷ1°’のみならずKenneth E. Richardsonが考察しているように11), Faulknerの文学世界の全体を貫く構成原理のよ うに働いていると言っていいものであって,彼の作品の形式への関心もそういうところに 根差していると考えていいだろう。そのことはCowleyに宛てた次のような手紙の文章 に読みとれるだろう。 …even to a collection◎f sh斑st◎ries, f◎r孤i批egrati叫is as importam as t◎、 a nove1一舩entity◎f its◎wn, single, set f◎r one pitch, contrapuntal in integration, toward one end, one fmale、12) ここでFaulknerは,小説が短篇をも含めて対位法的な一つの音度に整えられてある一 つの結末,日的を目指すことの重要さを言っているのであるが,このぴε碗14勘1斑 のように異質な二つの物語を一つの有機的な世界に統合しようとする場合,作者は特に作 品構成には気を配ったはずである。とすれば,この作品の対位法的な構成をまず見ておか なくてはならないだろう。 このことに関しては,二つの物語の‘parallerな関係を捉えることにより各章を交互に 組み合わせることの妥当性を説いたIrving Howeの論文を敷衛したかたちで, Joseph J、M◎1denhauerが二つの物語のプロットの“mirr◎r OPP◎site”と,テーマ,出来事 の“ironic contrasts”を対照的に捉えて詳しく論じている13)。彼の分析を要約すると, 一章ではそれぞれ登場人物の紹介がされ,‘‘wild Palms”では主な象徴として‘‘wind” が提示され,“01d Man”では‘‘river”が出される。2章では,“wild Palms”において 二入の恋人達の旅がクロノロジカルに始まり,Harryは今までの禁欲的な生活を捨てて “freedom”だと信じる世界に入っていく。“01d Man”では囚人の旅がクロノロジカルに 始まり,“imprisoning reality,’である河に投げ出される。3章では, HarryがChar− 10tteとの生活で‘‘guilt”と“sensuality”の和解に失敗し, Chic嬉◎, wisconsin, Chicago, Utahと自由を求めて放浪するのに対して,囚人は“woman”という重荷を背 負い込んでしまい‘‘surrender”しようとするが叶えられず,‘‘freedom”を捨てること も出来ない。4章でHa汀yはCha∫10tteの堕胎手術の失敗でもって自分達を罰しよう とし,最後の“freedom”の4日間を海岸で過ごす。囚人の方は女性の分娩の手助けをし, ‘‘ モ盾唐高奄メ@joker”の罰を受けてParchmanに帰って来て入獄する。5章ではCharlotte が亡くなり,H訂ryは自分の‘‘freed鐙”の悔悟のため5◎年の刑に服するのに対して, 囚人は役人の犠牲になって脱獄のかどで10年の刑を言い渡される。 以上がMoldenhauerが二つの物語を対照するかたちで捉えたこの作品の構造で,彼は 74 一田甲久男一 “01d Man”が“Wild Palms”のパロディとして働いていると考え,囚人のfreedom に対する態度に・Harryのそれに対する態度へのアイロニーをみている。おそらく彼の 解釈が,対位法的な構成の妥当性を主張するには最もふさわしいものだろう。だが“01d Man”の物語を‘background effect’として“Wild Palms”の従たる物語にするとい うことでは,必ずしも作者の意図がうまく生かされているとは言い難いように思われる。 というのは・“Wild Palms”の舞台はNew OrleansからChicago, Utahの鉱山等と 移動するが,物語の調子は登場人物の激しい感情の動きのわりには穏やかで,語りの構造 も客観的提示に登場人物の内的独白をイタリックスで示すというやり方であるのに対し て・“01d Man”の音調はかなり高くMississipPi河洪水という動的な状況に合って効果 を上げており,語りの構造も囚人の話をまとめて感動的に語っている別の語り手が存在す るかのような印象を与える複雑な構造になっていて14),Cowleyの言うように作品自体 としてはこの物語の方がすぐれているからである。即ち“01d Man’・は・background effect’としては幾分調子が高い感じがしなくもないわけで,物語の主従の関係が作者の 意図したようには必ずしもうまくいっていないからである。 もっとも,そういう欠点によってこの作品の対位法的な枠組が崩れてしまうということ はないわけだし・またテーマとの関連で“01d Man”が‘background effect・として, “Wild Palms”の物語を浮かび上がらせる効果を果している面もいくつかあるのである。 そのことは・後に詳しく述べなければならないが,その前に主たる物語・Wild Palms・ を少しみておきたい。 この物語のテーマは“01d Man”の場合と同様に大きく見れば,自由と拘束の間で揺れ る人間の姿を描いたものと言えようが,先に触れたMoldenhauerはHarryが自己のピ ュP 潟^ン的特質の故に・Charlotteが示す”pagan freedom”を楽しむことが出来ず, 自虐的で狂気じみた“self−punishment”の道を歩んでいると考え,二つの物語の中心テ ーマは“the conflict between freedom(or sex)and the demands of a restric. tive moral frarnework”15)とみている。いわば彼は意識の働きを型どる精神の枠(それ がHarryの場合にはピューリタニズムになっている)を重視しているわけで次のように 言っている。 Harry’・t・ag・dy(th・thesi・・f th・n・v・1)is caused n・t by th・implacab1。 forces of external nature nor by Charlotte’s“powerful sexual needs,,’_ but by his own inner weakness. His struggle throughout the story is interna1. “01d Man”serves as the antithesis of the novel;the convict succeeds because his struggle is almost purely externa1._16) 確かに彼の言うようにHarryの悲劇の源は彼の‘‘inner weakness・・に求められ, 囚人がうまくいっているのは外的なものとの闘いだからというふうに考えられるが,囚人 の場合は後に触れるとしてHarryの悲劇にはそう簡単には言い切れない面があるように 思われる。 Ratと呼ばれるCharlotteの夫が妻とHarryの奇異な行為を許し,二人の子供を残 されて悲しみを背負わねばならない人物であるとすれば,Harryの悲劇を彼の内面の弱 さにだけ帰することは出来ないだろう。Ratに見送られて二人がNew Orleansを出発 一τ畑澱M勘1郷の意図と含み一 75 するところで‘‘it seemed to him that they both stood now, aligned, embattled and doomed and 1◎st, bef◎㌘e the entire female principle’,17)という文章がある が,これはHarryとRatという二人の男性が,社会の慣習,掟を破ってまで自己の感 情に忠実に生きようとし,絶対的な愛の理想像を心に描いているCharlotteという女性 に屈服せざるを得ない宿命のようなものを暗示している。彼女は“that 1◎ve and suf・ fering are the sarrle thing and that the value of love i$the sum of what y皿haveto pay for it and any time you get it cheap youhave cheated yoursdf.”(p.48)だと考え, Ha廿yに二人の生活はいつまでも‘‘honeym◎o負”(p. 83)のままでなければならないと強要する。27歳の誕生日まで医者を志して質素で禁欲 的な生活を送ってきたHarryは,情熱の燃焼度によって愛の価値を計ろうとする,いわ ば観念が先行するかたちで営まれる彼女との生活において,他の男性が代わりうる恋人と いう役割を演じなければならないのである。 だがそういう状況を超えて更に,Harryの悲劇,というよりはむしろ二人の愛の悲劇 を予め定めるような背景があるのである。次のような一節がそのことを暗示している。 Ime題us. L◎ve, if y◎u wiU. Because it cantぬst. There is n◎Place for it[10v司in the world today, not even in Utah. We have eliminated it. It took us a long time, but man is resourceful and limitless in inve負tmgt◇◎,孤d so we have g◎t rid of love at last justas wehave got rid of Christ. Wehave radio in the place of God’s voice and instead of having to save emotional currency for months and years to deserve one chance spend it all f◎玄1◎ve we can n◎w s貫ead it t垣n int◎c◇ppeぞs and titillate ourselves at any newsstand, two to the block like$ticks of chew・ ing gum or chocolate from the automatic machine8.(p.136) この言葉はH雛ryがUtahに向けて発つときMcCordに自分の恐れを語ったもの だが,文明化された現代において神の声はすでにラジオにとって代られ,愛と呼べるもの はすでに存在の場所を失っているという状況にHarryとCharlotteの愛は置かれてい るわけだから,それは初めから悲劇の烙印を押されていると言っていいのである。にも拘 らず彼らは自分達の愛を,例えば雪に埋れたUtahの鉱山のような社会との関係から拘束 を受けないところで保とうとするのであるが,それは愛というより愛の儀式とでも言うべ きものであって,二人はその儀式においてそれぞれの役割を演ずる一種の{葡晶になってし まうのである。 以上のように見た場合,Harryの悲劇の要因をMoldenhauerのようにただ彼の内面の 弱さにだけ求めることは出来ず,彼を取り巻く人間,社会あるいは自然も彼の悲劇を生み 出す働きをしているとみなければならないだろう。とすればテーマに関しても01gaW. Vickeryの言うように,“Regarded as paralle1, each is concemed with the relationship between the individua1, society, and nature, and between freedom and◎ピde玄.,蜘と考える方が,この物語をもっと広いコンテクストにおいて眺めることが 出来るはずだし,またそのことこそこの作品の対位法的な構成のねらいでもあったはずな のだ。このように考えることは,とりもなおさずこの作品のテーマの内包性を大きくしよ 76 一田中久男一 うということにもなるのだが,その意味で“01d Man”の第5章は重要な働きをしてい る。 一度は刑務所の副長官Buckworthによって死亡したものとして報告された囚人が7週 間後に帰って来ると,つじつまを合わせるため彼は公道巡視員として左遷されるに留ま り・囚人の方は“Attempted escape from the Penitentiary”(P。331)の罪で,更に 10年の刑を言い渡されるというのが第5章の内容だが,このように人間としての囚人の 生き方が,役人の意のままに決められるという社会のある裏の一面が示されることによっ て・“01d Man”が単なるMississipPi河洪水の物語としてだけではなくて,個人と彼 が置かれている社会の枠紬言ってみれば自由と拘束(秩序)という普遍的なものと関る 物語になり得ているのである。またそのことによって,主たる物語“wild Palms・・に対 して,より深い意味と広がりをも暗示することになり,この作品が更に高次の世界に移れ る可能性を示唆することになっているのだ。それに作品の構成面からみても・・01d Man・ の第5章があることにより,二つの物語においてある一つのサイクルが完結するかたちに なっていて作品に統一感が出ている。即ち,Harryと囚人は禁欲的生活(拘束状態での 生活),自由な世界を求めての旅(自由になれる世界での旅),入獄による拘束状態(再び 刑に服しての拘束状態)という似たサイクルを描いている。もっとも囚人の場合第5章が なくてもサイクルは描いているわけだが,“01d Man”が“Wild Palms”と・paraller になって安定したサイクルを暗示するには,第5章がある方がより効果的だろう。 今述べたことと関りながら“Old Man”の第5章が重要な意味を持つのは,この物語の 最後の2ページで明らかにされる囚人の過去が,Harryが自己の旅の帰結として刑に服 することになる悲劇を強く浮かび上がらせる働きをしているからである。囚人の過去とは 彼にもかって恋人がいて,その恋人のために列車強盗を企てたらしいということだが, “there were times later when, musing, the thought occurred to him that possibly if it had not been for her he would not actually have attempted it [train robbery]”(P・338)という文章がそれを示している。三文雑誌から集めた知識を もとに企てた列車強盗も,恋人を喜ばすためのものだったのだが,その女性は彼が入獄し て3ケ月目に刑務所を訪れ・“she would return the丘rst chance she got”(P.339) という言葉を残して去ってから以後は音沙汰もなく,7ケ月目にやっと新婚旅行先から絵 葉書を彼に送ってきたのである。彼はいわばinnocenceの故に恋人に裏切られ,そのこ とによって初めて他者を含めた社会の陰の存在を知ったのだ。言ってみれば,彼は社会の 仮象にまどわされて罪を犯したわけだが,その結果彼は社会の諸々の関係から絶たれた刑 務所において,皮肉にも危険を感ぜず心の平穏を保つことが出来るのである19ノ。こういう 囚人の背景を知ってみれば,彼が洪水の中で救出した女性から,一日も早く解放された いという滑稽じみた気持も理解出来るし,物語の初めから何度か出てくる・・akind of enraged impotence”(P・24)とか‘‘raging impotence”(P.25)という彼の感情がど こに根差しているのかも理解出来るのである。 このような囚人の背景に照らしてHarryの生き方をみてみると,彼が刑に服するま でのいきさつが囚人が刑務所に入ったそれにかなり似ているのがわかる。即ち,囚人は innocenceの故に三文雑誌の言葉によって創り出された仮象の世界の犠牲になり,恋人に 一一 ム加刑14Pθ加ぷの意図と含み一 77 も裏切られたのだが,innocentと言ってもいいHarryもCharlotteの言葉に型どられ た観念的な愛の理想像の前に,自己の本然の姿を見失ってしまったのである。この二人の 男性は共に自己を見極め,自己と自己を取り巻く世界との和解を図るだけの仮面を持て ず,自己をあらわに世界に曝したと言ってもいいだろう。このように見てくると,“01d Maゴの第5章で囚入の過去が明らかにされることによって,“wild Palms”に対して この物語が持つはずの皮肉も一層きいてくるように思われる。もっとも囚人の過去の物語 は,作者が意図した“01d Man”を“Wild Palms”の“complete antithesis”2°〉にす るということには幾分否定的に働くかも知れない。だが彼の過去の物語が付け加えられた ことによって,異質な二つの物語の間に有機的な関係が生まれているのであり,またその ことによって‘‘01d Man”がcomicな調子で終るのを救うことにもなっているに違いな い。 ところで物語の終りでHarryがCharlotteの夫Ratの勧めにも拘らず,逃亡も自殺 も拒否し,5◎年の重労働の刑を受け入れた行為をどのように解釈すればよいであろうか。 刑に服することを決心したHa仕yの考えは次のようなものである。 βεωμ5θぴ〃2e〃20ηθX’3τぷ0碗5∫4¢ρパλeβθぷ乃πWO川bβ〃2θ〃20rγbεCα灘5θττWO川 κηOW}V加τ’τrθ7η6mbθγ5ぷ0}ヅゐθnぷ乃θbecαmθη0ττ加π加ぴ{ヅ7ηeη20ηbεCαmεη斑 顔ゴぴ1δε⑳雄〃o民力βπαZ1〆τε愉m6ε功g夙〃ε孤ぷεzoゐε.一γ診ぷ…ムβ祝8εη97W αη4ηo’λ∫〃g∫w∫11τα」ヒβgr∫4.(p.324) 彼は悲しみに耐えてでも生きて肉体と共にCharlotteの思い出を留めようというのだ が,この彼の行為はいささか感傷的な趣きがなくもない。またその行為は,作者の晩年に 濃厚に窺われる倫理的精神の表われととれなくもないが,すべての悪を引き受けてなおか つ耐えると言えるほどの苦闘を経た後に出てきたものというには重みが欠けるので,その 方向から見ることは控えることにする。だが最後の彼の行為が沈黙の表示であるとすれ ば,それは含むところが大きく,また作者が他の作品で扱ったテーマと関連づけて解釈す ることが出来そうに思われるので,そのことを少し考えてみたい。 Harryの最後の行為に至る過程で見逃すことの出来ないことがあるが,それは彼が捕 えられて役人に“Wils◎ピ’(P.294),“Webster”(P.299),“Wats◎n”(P。301)と呼 びかけられて,それらをいずれも否定しないということである。これはおそらく,彼が名 前(言葉)が一つの表象としてはらむ諸々の含蓄を捨てて,自己の本然の姿に立ち帰ろう とする表われとみていいだろう。更に言えば,彼は言葉の世界を捨て悲しみに耐えるとい う行為を通して,自己の存在の意味を認識しようとしていると言ってもいい。このことを 言葉と行為という大きな視点から捉えた場合,これと関連してすぐ頭に浮かぶのが廊1 加yD吻9という作品である。 Bu且d玄en一家の滑稽な埋葬旅行とでも言いたくなるよう なこの作品において,大まかに見れば,Addieの言葉に対する彼女の夫Anseの行為と いう対照が成り立つだろう。そこでは卑俗だが活力のあるAnseの行為が,教養があって 衿侍を持ったAddieの言葉に打ち勝つという,逆説的で皮肉な結末になっているのであ るが,これと似たような状況が丁加碗74Pα肋ぷにおいても起こっている。そこでは Charlotteの観念(それは言葉の営みから生まれるものと言っていい)によって型どられ 78 一田中久男一 た恋愛像にひきずられて,結局はその愚行が起こす罪を自ら背負うことになった教養のあ るHarryが・粗野だが生命力あふれる囚人と同じように刑に服するという皮肉な結果に なっているのである。 だがここで注意しなければならないのは,上に見たような結末が,単に言葉に対する行 為の優位を説いたものだとか,皮肉,逆説の効果をねらったものだと考えると,その結末 が示唆するもっと深い意味を見落すことになるだろう。前にも触れたように囚人にとって 刑務所が最も安全な場所であるというのも,三文雑誌とか恋人の甘言という仮象が形作る 言葉の世界に裏切られた結果としてであった。とすれば,彼が自由になれるはずの状況を 捨てて刑に服するという姿勢は,彼が意識するとしないとに拘らず,破壊的な力を秘めた 世界に対して,自己の存在の安定を求めて彼がとれる唯一のものであると言っていいだろ う。それは見方を変えれば,彼がそういう世界を前にして沈黙することを余儀なくされた 表われとみることも可能であろう。このような囚人の状況は,沈黙して耐えるという行為 の中に,自己の存在の意味をかろうじて保持しようとする人間の極限的状況を暗示してい るように思われる。囚人に名前がないことは,洪水の中から救出したやはり無名の妊婦と 彼女の出産との関連から見れば,自然状態の人間の原初的存在を暗示し,現代の文明世界 を代表するHarryとCharlotteの世界と鋭く対立して,“01d Man・が・Wild Palms・ に対して持つ皮肉の効果を高める働きをしていると言えるだろうが,上に述べたことと関 係づけて巨視的に見た場合,それは言葉の世界を絶たれた囚人の状況を象徴していると考 えることが出来よう。 Harryもまた最後には,囚人が置かれた位置に立たざるを得なくなっている。彼が自 らの名前を捨てていく過程は,彼の状況が囚人の無名性が象徴する状況に重なっていくこ とを意味している。即ち彼も囚人と同じように言葉の世界を捨て,悲しみを耐えて沈黙す ることによって,自己の存在すら無意味にしてしまう力を秘めた世界に対してimmuni− tyを獲得しようとしている。言い換えれば,彼はCharlotteの思い出を自己の存在の唯 一の証として肉体と共に留め,失われかけた自己の存在の意味を沈黙の世界でかろうじて 回復しようとしているのである。 これまで見てきたHarryと囚人が立っているのと同じような状況にいる人物達を, τん励MPα1〃∬に至るまでの他の作品に求めるとすれば,まず五g伽仇加9〃ぷτの Hightower牧師とJoe Christmasが挙げられるだろう。Hightowerの場合,現実の 世界は説教をするといういわば言葉の世界であったのだが,その説教の中に南北戦争にお ける彼の祖父の栄光の姿を持ち込んだために,彼は,Jeffersonの人々から牧師の職を追 われ沈黙することを余儀なくされる。だが彼にとって馬上の祖父の姿こそが,精神の支柱 となる唯一のリアリティであったので,現実社会においては時代錯誤的な世界を,自己の 存在を脅す喧しい社会に対する一種の‘sanctuary’にして頑に耐えている。こうしてか ろうじて彼の生き方は社会に対しての‘immunity’を獲得することが出来ているのだが, 彼も自己の行為の責任を引き受けるかたちで沈黙することを強いられたのであり,その沈 黙の世界において,彼は現実の世界で失われた自己の存在の意味の回復を願っていると言 えるのだ。 一「加碗14Pα1〃ぴの意図と含み一一 79 Chτistmasは黒人か白人かわからないという血の謎を秘めていたために,アイデンテ ィティの模索は初めから彼を世界との緊張関係に立たせている。象徴的に言えぽ,彼の生 涯は自己の物語を語る手段(言葉)を求めての旅だったと言ってもいいのだが,養父の McEachemにしろChristmasの情婦になってしまった」◎anna B服denにしろ彼らの 世界を形作る言葉は,Christmasをある型にはめ込もうとするものであって,彼はそれを 自己の存在を脅すものと考えたのだ。Burdenが祈りの中で彼を姦淫の順罪として黒い十 字架の・fメジに重ね合わせ始める時,それは彼が黒人の烙印を押されたことを意味するわ けで,今まで彼が根無草的な存在として保ち続けてきた,世界との緊張関係が崩れてしまう ことになる。彼が彼女を殺害したことは,その結果彼が罪人として自己の物語を語ってく れるはずの言葉の可能性を絶たれ,沈黙せざるを得ない状況に追い込まれることになるの だが,その沈黙は彼にとっては死であった。もっとも彼の場合,血の謎の故にそもそもの 初めから沈黙することを宿命づけられた存在とも言えるわけで,彼の人との接触はそうい う強いられた沈黙を断ち切って,なんとか自己の存在の意味を言葉の世界に繋ぎとめよう とする試みとみることが出来るだろう。だがそういう試みも,黒人とか白人とかいう言葉 自らの魔力を破ることは出来ず,彼は結局は死という真の沈黙の世界に葬り去られること になるのである。 丁乃e80姻4αη4伽ガ〃ryのQuentinとBenjyについても同じような観点から見るこ とが出来るだろう。QuemmはC◎mps◎n家の冷落家族のみじめな堕落した姿を,想 像の世界での妹Caddyとの近親相姦という一つのイメジに収歓することによって・破壊 的な力を秘めて変化していく状況の只中にあって,自己の存在の安定を夢みようとする。 それは自己と世界とを何らかのかたちで和解させようとする試みなのだが,言い換えれば それは,世界における自己の存在の意味づけをする言葉の模索と考えられないこともな い。その彼は.4加α1αη,肋ぷα1伽!では,寮友のShreveと共にSutpen一族興亡の物 語を創造したのだが,宿命とも言うべき南部の衰亡の典型的な縮図としてのSutpen王国 の崩壊と,現在のC◎mps◎n家の状況を重ね合わせてしまう時,彼の存在を意味づけてく れるはずの言葉の世界は,彼にあっては単なる観念の飛びかう世界と化して・Christmas と同じように彼は死という真の沈黙の世界に入らざるを得なくなるのだ。 B題jyの場合は,白痴の故に沈黙を余儀なくされてしまっており,自己を表現する言 葉の機能はすでに失われてしまって,視覚とか聴覚などの感覚がその代用をしている。例 えば,彼はゴルファー達の‘‘caddie”という叫び声を聞いて坤き始めるのだが,それはそ の叫び声が,彼の記憶の世界にはめ込まれた姉のCaddyと,彼の目の前にある現実の彼 女不在とのずれを直観させる働きをしているからである。彼は生まれた時から言葉の世界 を絶たれた存在だが,家族の者が自己の存在を意味づける手段としての言葉の機能を半ば 失ってしまっているのに反して,Benjyが感覚でもって存在の意味を保っているのは誠に 皮肉な状況である。 その他にも例えば,Pγ10πの人物達を考えることが出来るかも知れない。飛行士の Roger Shumanとパラシュート降下士のJa¢k Holmesは,文明の一つの象徴とも言 うべき飛行機のスピードと曲芸に生命をかけているのだが,そういう一瞬の中に自己の存 在の証を立てるという行為は,見方を変えれば,社会の一種の根無草として言葉の世界 80 一田中久男一 から閉め出されて,沈黙することを余儀なくされた象徴的な生き方とも言えるだろう。こ の二人の男性と同棲しているLaverneという女性も,自己の物語を語る手段をすでに失 って,彼らとの同棲生活に存在の意味を託しているのだ。また無名の新聞記者は,彼ら三 人の奇妙な生活に興味を持って記事を書くのだが,その行為は飛行機という物体に自己の 物語を託している彼らの存在の意味を言葉の世界に繋こうとするものと考えていいだろ う。だが死者の相貌をした新聞記者自身も,最後には言葉の世界から閉め出されて存在の 意味をも失いかけているという皮肉な結果になっているのである。 以上のようにみてくると,Faulknerの作品の中ではとかく異質な存在として扱われが ちなrん卿14Pα1雁にも意外に,他の作品で扱われてきたテーマが影を落しているこ とがわかるのである。もっとも,この作品の終りでHarryと囚人が置かれている状況は, τ舵∫o〃η4αη4功θ・F〃rγとか五g伽ゴηλ〃g蹴の人物達が立っている状況に比べると, 自らの行為の代償として引き受けたものとしては,いささか釣合のとれない感じのするも のとなっていることは否めない。これは作者が手近にある素材を,あるテーマのもとに感 動的な作品の世界に移し変えようとすることに性急であり過ぎたせいかも知れない。実際 彼は・“Awriter is trying to create believable people in credible moving situations in the most moving way he can.”21戊という信念のもとに,人間の生き 方の典型を照らし出す様々な世界を,これまでの作品に織り込んできたのだが,7’舵 So〃η4αη4τ加勘rγ,』bMlo〃2,4加α10m!などの作品と比べてみると,この作品では, 背景としての物理的空間に似合うだけのテーマの内包性というものが,必ずしも十分では なかったのではないかと思われる。ということは,作者が手近に持っていた素材が,小説 という虚構の世界に移し変えられるだけの重み,増幅性というものがなかったと言ってい いかも知れない。それは裏返せば,その素材がそれほど作者の想像力をかき立てなかった ということになる。小論の初めに言った作者の側での内的必然性が稀薄であったかも知れ ないとは,このことを考えていたのだ。 そのような素材を示唆している文章が,Joseph BlotnerがまとあたFaulknerの伝記 の中にある。 As Faulkner returned to present time, the doctor had learned that their names were Harry and Charlotte and that the woman was hemorrhaging and intermittently delirious. As the section ended, the doctor was about to learn why. Faulkrler had established a tone of feverish desperation emphasized by the doctor’s bafnement. Mood was conveyed by the recurring im・g・・f‘‘th・p・1m f・・nds c1・・hing with th・i・wild d。y bitter sound against the bright glitter of the water....”It was not hard for him to project the pain his principals felt. Not only did he feel the stabbing in his back as he wrote, but he would later cryptically declare that he wrote this book“to stave off what I thought was heartbreak,’22) 捺欄の葉のカサカサというざわめきが醸し出す熱を帯びた自暴自棄的な調子は,失恋を 味わった作者の心の投影とも言えるというのだが,彼の失恋に関しては,Thomas L. 一一 ム加ルゴ14Poみ加の意図と含み一 81 McHaneyが丁舵碗/4勘/妬をAnderso登とHemingwayとの関連から考察した興 味深い論文の中で言及している23/。彼によれば,Fau!knerが失恋した相手は,1925年頃 からしぽらくMississipPiのPascagoulaで二緒に過ごしたことのあるHelen Baird という,彼がMoぷ4碗oeぷを捧げた女性で,τZ沈eぷ’P∫斑夕顕βに彼女がPhil Stoneの従兄 と婚約した記事が載った1926年5月1日が,Faulknerにとっては運命の日となったの である。更に彼の論文によれば,“Wild Palms”の物語も最初は1927年に設定されてい たのが10年ずらされたとのことだが,そうとすれば,この物語は作者が租年前の出来事 を,作品の世界に昇華させようとしたものと考えることが出来る。‘‘afteピall memory could live in the old wheezing entrails”(P.324)と考えて, Charlotteの思い出 を肉体に留めて悲しみに耐えることを選んだHarryの中に,作者は10年前に失恋した自 分の姿を投影していたかも知れない。そして作品の形式,技巧へのあくなき関心を持って いた彼は,“Wild Palms”の物語だけではあまりに単調で感傷的な調子に堕すことを恐 れて,1927年のMississipPi河の大洪水の記録をもとに‘℃1d Man”の物語を創造し24), 更にこの異質な二つの物語が,作品という単一体の中で有機性を持ちうるようにする意図 から,二つの物語の各章を交互に組み合わせてみたというのが,作者の本音であったよう に思われる。 だがこの作品の対位法的な枠組も,二つの物語が有機的に作用し合って,更に広い高次 の世界を生み出すというところまでは必ずしもいっていない。L匡9妬πメμ9鮒でLenaを 取り巻く陽の世界と,Christmas, Hightowerが代表する負の世界が対位法的に創り出 すような奥行の深い濃密な世界は,作者の精神の冒険を駆り立てるY◎knapatawphaと いう磁場を離れたこの7’加碗MPα1聡には,生まれ得なかったと言っていいだろう。 Faulknerが南部の宿命と呪いを自覚し,それを彼の文学的営為の核として小説を書き始 めた時のような感動は,この作品を書く:場合には湧かなかったようだ。そのような感動は 彼の場合,やはり南部の過去と現在を執拗に見つめるところからしか湧いてこないよう で,それが小説のかたちをとるにはT々Hα〃2勧を経て,1942年5月出版のGo 1)owη, Moぷθぷを待たなければならないのである。 註 ヱ) James B. Meriwether and顕chael M謎1gate(e白.), L輌oη∫π坑εG訂4θぽ1解¢τy輌ew w励ル〃1∫αη2Fα〃κηθr,1926−1962(New York:Random Hのse,1968), p.255. 2) Frederick L Gwynn and Joseph L. Bo短eτ(eds.),、F⑳疏ηθr栖仇εζタπiveτぷ∫τyこααぷぷ Coφ7εηc8ぷ川功θL1ηjvβγぷ輌τγ《ヅγかg’η輌α,1957−1958(New York:Vintage Books,1959), p.36.で作者はPyξ侃を書いたいきさつについて‘‘I wrote that book because I’d got in troublewithメ加α∫om,.4ゐぷα10m!andIhad to get away fmm it for a while so I thought a good way to get away from it was to write ano搬er b◎ok,so I wrote Py− 10〃.”と語っている。 3) Joseph Blotner, Fαμ/κη6汽・4.β∫ogrα助)メ, VoL Two(New York:Ra品om House, 1974),Pp.975−87. 4) Michael Millgate, r力β.4c加¢γεη2¢ητげげ匡〃ゴα1ηF顕/た〃6τ(New York:Vintage Books, 1966),p.175. 5)6) Malcolm Cowley(ed.)7w力6 Poτ印ゐ1θF醐疏ner, rev, ed.(New Yoτk:The Vik輌ng Pτess,1967)ジp.480. 7) Meriwether and Millgate, oッ. cゴr., pp,247−48. 82 田 中 久 男 8) Gwynn and Blotner,ρρ. c’τ., pp.8,171. 9) ζの任品では大まかに見れば,Byron Bunch, Lena Groveの陽の世界と, Joe Christmas, Gall H19htowerの負の世界という対位法的枠組が成り立つであろう。 10) この作品についてはJoseph L Fant and Robert Ashley(eds.), Fα〃1んηerατ”!θM Po∫η’ (New York:Vintage Books,1969), P.102.に作者の次のような言葉がある:・・it seemed t°me th・t it w・・necess・・y t・break the st・・y・f th・bea・at・n・p・int。nd put s°mething・1・e i・f・・the same rea…th・t th・m・・i・i・n・ay・,・N。w。t thi、 p。i。t I will need・・unt・・p・i・t・Iwill need disc・・d. O・Iwil1・u・p。nd thi、 th。m, f。, another.’,, 11)Richardsonは, W・Slato∬の(∼〃εM/Or FαW7θ:メS’μめ・q∫〃〔〃1∫α〃2 F醐1んπθτが明ら かにする‘antithesis’の数々には賛同しつつも,彼がFaulknerの世界を‘a quest for failure’ と断じることに不満を示して著した.Forcθαη4 Fα励匡ητ乃θNoyθ1ぷ0∫〃7ゴ11∫醐Fα〃『丘ηεr (The Hague:Mouton&Co・,1967)で, ManとWomanとSocietyという三つの大きな 視点から,Faulknerの文学世界の対位法的構造を捉えている。 12)M・1・・1mC・w1・y・r乃・F・〃1ん…−C・WF輌1・・L・〃・・岨4M・m・・∫・・,1944−1962(N,w York:The Viking Press,1966), pp.115−16. 13)J・・ephJ・M・1d・nh・uer,“U・ity・f Th・m・・nd St・u・t・・e i・τ乃・〃・∫」4P。1m、,・・i。 ル∫11ゴ・mF・”ム・・:τ乃…1)θc・4・・げC硫畝・d.F・ed・・i・kJ.H・κm。n。ndO19。W. Vickery(Michigan State University Press,1960), pp.305−22. 14) このことをRobert Penn Warrenは“the sense of a voice, a narrator・s presence (th°ugh n・t necess・・ily・narrat・・i・th・f・・m・1・en・e), i・alm・・t・・n・t。ntly f。1t−。 method in which the medium is ultimately a‘voice’as index to sensibility.”と述べ ている。(“William Faulkner”in r加θθ1)θco4θぷq∫Crぽc輌3m, P.123.) 15) Moldenhauer, qρ. cfτ., p.313. 16) 16∫4.,p.321. 17)William Faulkner・7▼舵研r∫14 Pα∼〃2ぷ(New York:Random House,1939), P.57.以下 引用はすべてこの版による。 ユ8)019・W・Vi・k・・y・τ乃・胸・・1・σ助1』F・〃ム・・(L・ui・i…St・t・U・i。・・sity P,ess, 1964),p.156. 19)囚人について作者は次のように説明している:“Iwould say that the insecurity came to him with a shock when that woman betrayed him, and he was frightened and he wanted to be where no other woman could catch him off balance and take him overthe jumps again. And the place where he was safe from that was in that penitentiary which wasn’t so different from the life he would have led if he’d been home・”(Gwynn and Blotner,ρρ. c∫τ., P.175.) 20) Meriwether and Millgate, oρ. c輌’., P.ユ32. 21) 1∼ガ4.,p.248. 22) Blotner, op. c輌τ., p.978, 23)Th・m・・L・M・H・n・y・‘‘A・d・・s・・, H・mi・gw・y,・nd F・ulk・・…τ乃・閲4 P・1吻・,・ PMLA,87(1972), pp.465−74. 24)このことに関してはMillgateの説に従った。それは・・Faulkner owned a copy of Lyle S・x・n’・F・舵・Mf∬’∬’〃∫(N・w Y・・k,1927)・t th・tim・・f hi・d・・th(伽・1・9〃・), and it seems likely that he had earlier drawn upon it for some details of the‘‘01d Man”materia1…・” というものである。(Millgate,0ρ. cJτ., P.325.)Faulkner自身は “Wh・n did y・u・・m・i・t・the c1・se c・ntact with th・H・・d・n th・MississipPi th。t the text would indicate?”と訊ねられて‘‘Why, I can’t say.1’ve known it all my life. Th・ti・・thisc・unt・yi・n・t…yf・・f・・mwh・・eIw・・b・・n・ndh・v・1i・・d・11my life・and I have known these people・”(Gwynn and Blotner, oρ. c∫’., P.181)と答えて いるだけである。