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平成 16 年9月 1 日 水曜日 第18号
毎月 1 回発行
(毎月 1 日付)
(平成 16 年 4 月 20 日第三種郵便物認可 郵業認第1号)
1
1 部 50 円(消費税込・送料別)
発行所/天台宗出版室
発行人 / 出版室長 工藤 秀和
〒520- 0113 大津市坂本4- 6- 2
天台宗務庁内
電話 077-579-0022(代)
E メール/ [email protected]
天台青少年比叡山の
集いが、今年も八月三
日から五日まで開催さ
れた。
今年度参加した青少
年 は、 百 七 十 三 人 で、
彼らを指導する研修
リ ー ダ ー は 六 十 六 人。
今年で三十九回目とい
うこともあり、一度参
加した子ども達が親と
なり、その子どもが参
加 し た り、 成 長 し て
リーダーとなって参加
するケースも多い。毎
年宿舎として利用する
延暦寺会館が、改築中
のために、今回は京都
東山閣が利用され、そ
の分移動等に神経を
使ったが、例年にない
研修コースも組み入れ
られるなど、多角的な
研修となった。
2004 年( 平 成 16 年 )
9月 1 日水曜日(毎月 1 日発行)
ごくみ
今夏のアテネオリンピ
団の主将として最後まで
ックでの日本選手の活躍
一線に立って自分の役割
は見事だった。
を果たした。そして「こ
だが、金メダルの最有
れからも人生は続く」と
力候補だった柔道の井上
彼は言った。
康生選手がなんと予選で 栄光を手にした者と敗
敗退してしまった。敗戦
れ去った者との落差。オ
後の痛々しい彼の姿はそ
リンピックの魅力はこう
の映像を見る我々もつら
したドラマを我々にみせ
かった。
てくれるところにもあ
しかし、彼は日本選手
る。
極微
に臨んだ。従来、止観は、比
千手観音像の前で止観の実習
い、六時三十分から御本尊・
床、京都の三十三間堂に向か
翌四日は、五時三十分に起
座主猊下より授戒を受けた。
結団式ののち、渡邉惠進天台
の御廟である浄土院に参拝。
参加者を迎え、まず伝教大師
初日の三日は、全国からの
達は、取り除いた国旗を別パ
ミットの象徴である。青少年
言葉をもっており、今回のサ
た。オリーブは「平和」の花
いるメインパネルが出現し
なぎ、オリーブの芽を育てて
界の人々が輪になって手をつ
取り除かれると、下からは世
た。パネルから各国の国旗が
モニーの主要な役割を担っ
えていた青少年たちも、修了
り、般若心経も遠慮がちに唱
むきがちでおどおどしてお
う子ども達。初日には、うつ
修学旅行気分で、お土産を買
を持参することも認められ、
が行われた。少額のお小遣い
の京都清水寺で班別自由行動
最終日には、これも初めて
も気持ちがいい」と評した。
あるリーダーは「子ども達
式では、規律に慣れて堂々と
の成長する姿がはっきり見ら
しており、新しい友達と名残
同日は、横川の元三大師堂
れ た 」 と 語 り、
「 次 は、 リ ー
ネルに自由にならべ、世界の
で 夕 食 と な っ た。 青 少 年 達
ダーで帰って来いよ」と呼び
国々には序列も、区別もない
「おそらく、御本尊の前で止
が、元三大師堂で食事をとる
かけた。リーダー達は、天台
叡山根本中堂で行われてお
観を行ったのは、今回が初め
の も、 今 回 初 め て で あ っ た
り、三十三間堂での実習は初
てではないか」という。
が、大人数のために灌室まで
宗寺院の師弟や寺族が多い
を惜しむ姿が見られた。
ミット十七周年世界平和祈り
午後からは「比叡山宗教サ
提供されての食事という、異
が、一方で檀信徒の子弟もあ
という世界を表現した。
の集い」に参加し、特設舞台
例ずくめの対応に関係者は感
めて。また、三十三間堂でも
中央に設けられたパネルか
サミットの主要な役割を担う
シップの日程を振り返った。
日々だった」と濃密なスキン
「厳しかったけれど充実した
参加した青少年の一人は
果たしている。
り、次代の交流という役割も
と、一度火は空中に舞い上が
激を新たにした。
夜は最大のイベントである
り、花火が仕込まれた火壇が
ら、国旗をはがすというセレ
キャンプファイアー。折から
った演出に、参加者の興奮は
最高潮に達した。各班のリー
勢いよく燃え上がるという凝
ーダー達は一様に天を仰ぎ祈
ダー達が趣向を凝らした衣装
の台風十一号の影響で、夕方
った。荒天で開催が危ぶまれ
や踊り、バンド演奏で雰囲気
より激しくなった風雨に、リ
たが、ときおり強く雨が降る
を盛り上げ、最初は遠慮がち
体となって最後の夜を楽しん
中、天台宗の秦社会部長も参
比叡山の駐車場に設けられ
だ。 雨 の 中 を 歓 声 が こ だ ま
だった青少年達も、全員が一
た火壇を子ども達が取り囲
し、手をとりあって涙にむせ
加して決行された。
む。リーダー代表が点火する
ぶ子ども達とリーダー達。秦
社会部長は「比叡山青少年の
集いに参加した子ども達は、
もともと道心が備わってい
る。実に素直で、接していて
皆が手に
大津の東南寺で行われた戸
津説法に随喜した。
天台宗出版室 長
のひらのような茎
の中から小さな手
秋ミョウガが土
達した。
し、ついには、阿羅漢の境地に
札を背負って、掃除のみに精進
お釈迦さまに書いてもらった名
「 亡 く な っ た 母 か ら『 あ な た も、
から、常にご詠歌は近くにあった。
真島さんも、寺で育った娘である
のがミョウガで、食べすぎると
彼の死後、その墓から生えた
た」という。
もあってそのままになっていまし
ら勧められてはいたのですが、仕事
長 男 の 一 周 忌 が 済 む 頃、 決 心 し
本、所作の道具一式と、形見の着物
て、実母が大切にしていたご詠歌の
を譲り受け、打ち込むことにした。
インドにもあるが、食用にして
いるのは日本だけらしい。
ショウガ科の多年草、中国や
れたものだった。
槃特さんのようになる、といわ
ご詠歌をやりなさいよ』と娘の頃か
を出している。茎
のてっぺんに淡いクリーム色の
花が見える。
幼いころにはミョウガの味や
香りは大人が珍重するほどのも
のではないと思っていた。
山の小僧暮らしで、裏の竹や
ぶにどっさり茂るミョウガの花
いは、やはり思い出しては泣いてい
が 消 え た わ け で は な い。
「三年ぐら
しかし、もちろん、すぐに悲しみ
で、 冷 や 奴 に 刻 ん で の せ た ら、
ました」
。 し か し、 十 人 の 会 員 と 共
インド人の友がやって来たの
不意の来客のおしのぎにそなえ
匂いをかいで顔をしかめ、ミョ
に月二回の練習を重ねるうちに、し
を摘み、梅酢に一夜漬けをして
たりした。
よけられた。
ウガだけを器用に箸でつまんで
ー ラ パ ン ダ カ ) の 故 事 に よ る。
の一環としての大興善寺訪中参拝団
平成十四年には「日中友好交流」
だいに心は落ち着いてきた。
彼は自分の名前も覚えられない
に参加、本年六月にはハワイ別院な
う真島さん。
た。ただもう泣くばかりで…」とい
「 ど ん な、 慰 め も 聞 き た く な か っ
物に激突し、帰らぬ人となった。
でもあった。
合って貯金をしていたあこがれの地
前に「家族全員で行きたい」と話し
った。ハワイへは、長男が亡くなる
日系の人々と交流を深めるまでにな
どにも参拝し、奉詠舞を通じて現地
ほど物忘れがひどく、師である
話にある仏弟子周利槃特(チュ
し ゅ り はんどく
る」といわれるのは、仏伝の挿
俗に「食べ過ぎると物忘れす
工藤
秀和
ましたが、今では逆に長男から『お
母さん頑張って』と励まされている
「亡き子への供養のつもりで始め
う。本当の城と宝のあるとこ
禅寺の松本達淳住職である。実は、
ような気がするのです。いつまでも
を習ってみたら」と勧めたのは、安
らしい真理の教えばかりで
ろ は も う 近 い。 前 進 し よ う 」
松 本 住 職 は 真 島 さ ん の 実 弟。
「地元
そんな真島さんに「ご詠歌と詠舞
「法華経一部二十八品のどこ
と 告 げ る の で あ る。 こ れ は、
を読んでも、また僅かの時間
悲 し ん で い て は、 息 子 に も す ま な
宗祖大師が父母の供養のた
背振村の公立幼稚園の園長まで務め
現世利益にとらわれている仮
事故で、長男を亡くしたが、ご詠
でも法華経を聞いた人で仏に
い」
。
めに妙法蓮華経(法華経)を
た姉が、病人のようになってゆく姿
の信仰を、本当の信仰に高め
歌のお陰で立ち直った女性がいる。
成れぬ人は一人もない」とい
九州西教区・安禅寺支部の真島壽
説かれた故事にちなみ、毎年
土に迎えられ
日夜に弥陀の法をき
悲しみを乗り越えると「花散る浄
子さん(六十七歳)である。
真島さんは笑顔で話す。
ざして一心不乱に励んでいます」と
取県で開かれる西日本奉詠舞大会め
らなくてはりません。今年十月に鳥
「 ご 詠 歌 に は 検 定 も あ る し、 頑 張
た。
もはいると確信できるようにもなっ
讃)という世界に、亡くなった子ど
ぬ香華のかしこさよ」
(弔いのご和
く
蓮のうてなしろきはな
尽きせ
を見ていられなかった」という。防
ようとする仏の慈悲を示して
した。
衛庁職員だった夫・英治さんも賛成
いる。
真島さんが、長男をスノーボード
われる。現代の世相を考えな
また、私たちが、回向のと
の事故で失ったのは今から五年前の
がら、私は第七品の「化城喩
き 唱 え る「 願 わ く ば、 こ の
平成十一年。当時長男は公務員で、
行われている説法で、説法師
喩えとして、リーダーに連
功徳があまねく一切に行き渡
三人の子どもの父親だった。学生時
は、 将 来 の 天 台 座 主 候 補 と な
は大変重要な意義を持ってい
れられて遠い国へ、珍しい宝
り、われわれと生ある者たち
品」のことを思った。
る。 東 南 寺 は、 昔 な が ら の お
を 求 め て ゆ く 隊 商 の こ と が、
代には、バレーボールの全国大会に
る だ け に、 比 叡 山 と 天 台 宗 で
寺で、冷房もなにもないので、
出場したほどのスポーツマンでもあ
り、 真 島 さ ん に は 自 慢 の 息 子 だ っ
とが皆共に、仏道を成就でき
もこの品にある。自分だけが、
た。
「 こ れ か ら、 帰 る よ 」 と 電 話 で
ますように」という「普回向」
救われるのではなく、自分が
話したのが、最後の会話になった。
は険しく、猛獣もいるので隊
員たちは「もう帰ろう」とい
受けるべき良い結果を皆に振
小城で練習中の彼は、誤って障害
語られる品(章)である。道
法 華 経 は、 空 か ら 花 降 り、
うのだが、リーダーは神通力
り向けて、皆が共に救われな
ずかな涼を求めながら聞く。
地 は 振 動 し、 仏 の 光 は 世 界 を
で幻の城を見せて、そこで彼
くてはならないという教えな
お堂に立てられる氷柱に、わ
照らすところから始まる。壮
んで、幻の城で休息するのだ
らを休ませる。隊員たちは喜
のである。
大 な お 経 で、 一 種 の ス ペ ー ス
が、リーダーは「さあ、行こ
オペラといってよい。
全二十八品は、どれも素晴
真島英治さん(写真左)。松本達淳安禅
寺住職(同中央)。真島壽子さん(同右)
2
平成 16 年9月 1 日 水曜日
(第三種郵便物認可)
第18号
葬送というのは故人だけのも
のか。墓参りは、ピクニック
ではない」と意見も根強い。
お墓を巡って、各宗教、宗
亡くなれば、墓石の代わりに
樹木葬は、生前に契約し、
を寺院がするのではないか」
家族関係を崩壊させる手助け
「 家 の 問 題、 親 子 の 問 題、
派で、当世風の新形式が試み
という疑問もあった。
忙しく、わざわざ墓参りに遠
らは「家族がいても、仕事で
その一方で、利用する側か
ウメモドキなど、約二十種類
場所は、日当たりの良いと
植えてくれるという。
の木のうちから希望のものを
られている。
血縁ではなく、個人の契約
による廟のような形、あるい
は、里山全体を墓地として、
持参で訪れ「これは、お父ち
休日になれば、遺族が弁当
慮があるという。
れずに一代限りで」という遠
ない。それなら縛らず、縛ら
くからきてもらうのも申し訳
ゃんの木よ」と偲んでいる。
ころから、売れてゆく。
その裏には、家の崩壊、あ
一代限り。枯れてしまえば、
墓石の代わりに樹木を植える
るいは子どもがいない、また
文字通り自然に返る。
親孝行より、好むと好まざる
子化に加えて「家族団らんや
マスコミでも紹介され、関
にかかわらず仕事優先」とい
樹木葬などである。
子どもはいても、娘だけで将
問題の裏には、核家族、少
来夫婦だけになってしまう、
心も高いというが「流行に左
う現代日本の構図が、透けて
といった事情がある。
お墓にも、少子化の影響が
右されて、それでよいのか。
もあります。最近、近所のマン
に見つけようとしたいのだけれ
分の悩みを解決する方法を仏教
いていました。それで周囲の人
しがみついて、大声をあげて泣
きには心の底からにっこりと笑
い真珠の涙を流し、うれしいと
います。悲しいときには、美し
スなんですよ。
ださい。そのびくびくがストレ
と、あまりびくびくしないでく
ら、心を強くして泣かないよう
(写真はイメージです)
見える。
出てきているのだろうか。
える人が、本当にすばらしい人
泣かないようにするのではあり
は、 そ の ま ま 弱 く て い い の で
ません。悲しいときには美しい だ か ら、 ス ト レ ス に 弱 い 人
なんです。仏教はそのように言
った人は、強く生きればいい。
真珠の涙を流すのが、禅の教え
あ
―るがままに生きなさい ― 流しているのですよ。禅の教え
ということです。強い心をも は、悲しいときに涙をこらえて
弱い心の人は弱いまま生きれば
す。無理に強くなる必要はあり
ま せ ん。 心 の 病 気 に な る と き
っていると思います。
いい。それが仏教の教えです。
ですよ」
おさつ
江戸時代に、阿察という女性
が い ま し た。 彼 女 は 白 隠 禅 師 そうなんです、悲しいときに
は、仕方がありません。病気は
はくいんぜんじ
は 泣 け ば い い の で す。 世 間 で
病気ですから、しっかりと病気
て仏教が好きになり、いろいろ
の 治 療 を す れ ば い い の で す。
「ぼくはストレスを受けやす
は、悲しいときにじっと涙をこ
病気になったらどうしよう……
(一六八五 一
―七六八)に師事
して禅を学びました。
呼びますが、それはまちがって
らえている人を「立派な人」と
ションの建設の騒音によるスト
ども、自分ではその答えが見つ
間が、阿察婆さんに忠告しまし
かんおけ
レスや、他人のことがひどく気
けられないので、わたしに教え
た。
ばあ
になったりして、またストレス
てほしいと言ってきたわけで
と仏教を勉強しています」
い人間です。以前に、ストレス
き、阿察婆さんは孫娘の棺桶に
によって心の病気になったこと と書いています。それで、自 そ の 彼 女 の 孫 娘 が 死 ん だ と
による心の病気になるのではな
す。
「せっかく禅を学んだのだか
いかと、不安でいっぱいです。
うすれば心を強くすることがで
どうすればストレスを感じない さあ、困りました。仏教はど
ですむ強い心が持てるのでし
きるか、そんな方法を教えては それに対して阿察婆さんはこ
にしなさい」
ょうか?その方法を教えて下さ
「わたしは美しい真珠の涙を
う言いました。
くれません。仏教が教えてくれ
ているのは、
い」
そんな相談の手紙が来まし
た。相談者はお寺のお子さんで
す。だから、彼は
「 い ま、 ぼ く は 以 前 に も ま し
(カット・伊藤 梓)
平成 16 年9月 1 日 水曜日
(第三種郵便物認可)
第18号
3
さんぽうえん
きよほうへん
えた。三十五度を超える猛暑
だが、小・中学生の子どもた
ちも真剣で、不満を言うもの
はない。法要後、栢木は、ひ
とり切り立った断崖に立っ
て、散華を海に撒いた。天上
の花を形取った紙華は、空中
高く舞い上がり、世界一深い
マリアナ海峡の風でまた地上
きながら、再び海へ吸い込ま
へ押し戻され、キラキラと輝
れてゆく。厳粛な美しさであ
る。海は、どこまでも群青で
澄み、吸い込まれるような魅
力に満ちているのだが、同時
続いて、シーサイドクリフ
山家学生式や ご 遺 戒 の 中 で 、
れた伝教大師 の 教 え が あ る 。
だ。しかし、 法 華 経 を 集 約 さ
をすべて習得するのは無理
「 自 分 に は、 膨 大 な 法 華 経
か。
国に派遣しようと思ったの
では、どう し て 青 少 年 を 外
が整ったこと か ら 始 ま る 。
と知り合い、 受 け 入 れ の 母 体
たカマチョ氏 ( の ち に 知 事 )
サイパンの初 代 知 事 候 補 だ っ
することにな る き っ か け は 、
あまり下がらない。深夜三時
より高いし、夜中といえども
てくれる。温度と湿度は日本
役所からも世話係が二人付い
らっているのだ。サイパン市
教室を宿舎として提供しても
スクールに向かう。中学校の
ップウッド・ジュニア・ハイ
一時である。キャンプ地のホ
日本を発って、現地着は深夜
二十八日夜八時三十五分に
和建設社長)で、石材は木下
ォーラムの山本博章会長(大
は栢木の外護者である山城フ
塔」を建立した。協力したの
して「太平洋戦争戦没者慰霊
に青少年派遣二十周年を記念
三宝莚も、一九九八年五月
てられている。
ため、いくつもの供養塔が建
た岬である。その霊を慰める
砲二百十一門で対抗する。対
上陸を開始した。日本軍は火
トンの砲爆撃を行い、次々と
当時米軍は、上陸前に三千
司令部の置かれた岩屋には鑑
残 骸 が さ び 付 い た 姿 を み せ、
跡で法要。戦車や、高射砲の
そして、中部陸海軍司令部
げて祈りを捧げるのみだ。
心経にあわせ、ただ、頭を下
中・高校生たちの唱える般若
念の最期を遂げた場所だ。
小・
ように砕けよ」という「瓦全
全より、名誉を重んじ、玉の
玉砕とは「何もしないで安
クサイって、なぁに?」
。
観光客らしい母親が幼い娘
何度も聞いた。
くなったという話を取材中に
ない。六万人から七万人が亡
数を、現地の人々は信じてい
捕虜九百人といわれる。この
三 万 人、 市 民 の 死 亡 一 万 人、
サイパン島では、戦死者約
口たたく人もいるけど、それ
よ。
『売名行為だ』なんて陰
と、二十六年も続かないです
た。
「 で も、 栢 木 先 生 で な い
無常観も……。
気持ちが溢れている。同時に
の言葉の裏に、戦没者を悼む
ちって不思議ですねえ」
。そ
生きているんですねえ。いの
の 孤 島 に も、 蟻 が い ま す よ。
か け た。
「 ね え、 こ ん な 南 海
引率者の一人が、私に話し
は、いや増すばかりである。
か。酷暑の中で、激しい怒り
人々が、どれだけ亡くなった
回されて、死ななくてもよい
バンザイクリフにある供養塔
の前で、慰霊法要を行う一行
た。世話役のボランティアを
による日本本土攻撃が可能に
比叡山麓三宝莚住職・栢木寛照は、毀誉褒貶の激しい人だ。それは、在俗
から僧になったことに加えて、テレビ出演など世間への露出度が高いからだ
や ゆ
ろう。「タレント坊主」などと揶揄されたこともある。しかし、そうして稼
いだ費用で、毎年、数十人もの青少年を、いまだに戦争の傷跡が残るサイパ
ン島へ連れてゆき、平和の尊さを教えてきた。また、現地で世話になったお
礼も込めて、冬にはサイパン島から日本に青少年を受け入れてきた。一人の
予算は二十万円。二十六年間、のべ千百人の青少年をサイパン島へ派遣し、
現地から六百人を受け入れてきたのは、やはり偉業ではないか。
に声なき声を呑み込んでいる
ようでもあり、不気味な美し
加えると約三十人。「今年は、
に向かう。山伝いに逃げて来
なった。
さといってよい。
ら 八 月 三 日 ま で の 派 遣 に、
今 年 は、 七 月 二 十 八 日 か
ちょっとお金がなかったか
た人々が、次々と飛び降り無
砕する。これで米軍は、B
二千三百キロ の 太 平 洋 に 浮 か
サ イ パ ン 島 は、 日 本 の 南
九州、滋賀、和歌山、長野、
ら」
。
一貫して主張 さ れ て い る 人 材
に残る。
砲射撃の弾痕がいたるところ
が玉砕したところよ」と説明
に「ここは、日本の兵隊さん
ダ ー 格 で あ る 椋 梨 が、 言 っ
引率者ボランティアのリー
る。もうひと つ は 、 平 和 を 守
い』とご遺戒 で 述 べ ら れ て い
ある童子を温 か く 育 て て 欲 し
い。法を継承 す る 大 切 な 宝 で
を手に罰を加えたこともな
葉を使ったこ と は な い し 、 笞
より、誰に向 か っ て も 荒 い 言
た。大師は『 わ た し は 生 れ て
わせている。今すぐ、なんら
でいい。私の照準は未来に合
の体験を生涯忘れない。それ
んかなくていい。彼らは、こ
ケチなことやない。見返りな
か、信者になれとか、そんな
ら、彼らとつき合いが続くと
「サイパンに連れて行ったか
なかなかのハードさである。
近くなって、就寝となった。
に、どのような心がまえ、ど
は、いま生きているわれわれ
「お釈迦さまの教えの目的
に参加者全員が般若心経を唱
慰霊法要では、栢木を導師
それを聞いた栢木が怒っ
「疲れた」という声があった。
参加した子どもたちから
七月七日、サイパン島は玉
てきた人がいてこそやない
を目指してガムシャラに働い
て、その後平和で豊かな日本
んなテイのよい言葉に振り
そうだった。でも、ブームが
がブームだった。慰霊法要も
「 一時、遺骨収集のツアー
んだ」
。
なら自分でやってみろという
ることである 。 戦 争 は 、 再 び
かの結果が出るなんてことは
より玉砕」から来ている。こ
繰り返しては な ら な い 。 そ の
ハナから考えてない」。
する米軍は二千四百十一門で
ためには、戦 争 を 語 り 継 い で
中学生に体験 で 教 え た い と 思
意味で、国際 的 な 目 線 を 、 小
立ちゆかない 国 で あ る 。 そ の
社会の支持を も ら わ な く て は
で世界に対抗 し て き た 。 国 際
日本は資源が な い の で 技 術 力
軍に追い詰められた日本軍の
で、大平洋戦争中、アメリカ
サイパンの最北端にある岬
ザイクリフ(岬)へ向かう。
たのち、一行はバスで、バン
ートする。知事を表敬訪問し
翌日から、公式日程がスタ
会を維持できるのは、余裕が
裕ができる。平和と豊かな社
とだ。そうすれば、社会に余
支える人の底辺を厚くするこ
そして、大事なのは、日本を
形 成 す る こ と に あ る と 思 う。
ということを示唆し、人格を
のような考え方が正しいのか
疲れたとは何事や。この平和
くれる人もある。若いくせに
もある、連れてきて世話して
絶対必要や。水もある、食事
することが、君たちの将来に
国に行き、知らない人と交流
いのは日本も同じ。知らない
「 情 け な い こ と 言 う な! 暑
イパンの方が楽しい。また来
ジュールがいっぱいなの。サ
「 家 で は 塾 や お 稽 古、 ス ケ
ひとりの少女が、私にそっ
で。しっかりせいよ!」
。
いうのが普通ではないのや
蔵庫を開けたら何でもあると
大事にせんとあかんのや。冷
か。だから、両親を、先祖を
なってゆく。今日から、子ど
外 が、 ゆ っ く り と 明 る く
手を合わせて懺悔文を唱え
だいにうねりをましてゆく。
まで美しかった海は荒れ、し
台風のせいだろうか、昨日
まりこないネ……」
。
去ったら、もう、日本からあ
た。
った」。
兵士や一般市民たち、子ども
あればこそだ」と栢木は主張
も湧いて出たわけやない。戦
無理もない、と思う。どれ
誰かが、口笛で低く日本の
が、この地にはあるのだ。無
年たちを待ち続けている魂
横 山
和人
文・天台宗出版室編集長
(文中敬称略)
栢木寛照の言葉である。
たちは生涯忘れない」
。
「サイパンの体験を子ども
ステイに行くのだ。
もたちは、現地家庭にホーム
切我今皆懺悔」
。
た。
「 我 昔 所 造 諸 悪 業 …… 一
参加者は、 毎 年 新 聞 紙 上 で
を抱いた母親までもが「バン
する。
たい」
。
のとばりが下りてくる。
●
目覚めた。ホテルの窓を台風
朝三時(日本時間四時)に、
十号の風が激しく叩いてい
陀 仏 」 と「 南 無 妙 法 蓮 華 経 」
の 文 字 を 書 き、 灯 籠 を 作 る。
る。窓辺に立つと、雷鳴がと
どろき、スコールが窓ガラス
に吹き付けた。
て く れ た こ と を 思 い 出 し た。
加した青少年たち、また地元
が、 ひ と り ひ と つ の 灯 籠 を
夜になると、彼らは、バンザ
が」と前置きして、私に話し
持って流す。ワン・B・タド
イクリフや激戦地で、今も日
現地の人々が「オフレコだ
ラ市長も訪れ、灯籠の行方を
本兵の姿を見ることがあるの
ゆっくりと流れてゆく灯籠
ほど生きて祖国の土を踏みた
だという。
は、そこだけがほんのりと明
かっただろうか……。
歌を吹いた。それが、実に心
念 の う ち に 亡 く な り、 戦 後
年に一度訪れる栢木と青少
にしみる。マリアナ海峡に夜
ゆくいのちを思わせる。
るく、久遠の光の中に帰って
夕 闇 の 迫 り 始 め た 海 岸 を、
見守った。
のチャムロの人々、白人たち
法要したのち、海に流す。参
夕方には、それらを並べて
その数は約三百個。
赤、白、黄の紙に「南無阿弥
の準備である。
青少年たちは、 次の日は、朝から灯籠流し
争で犠牲になった英霊がい
と囁いた。
公募され、例 年 だ と 五 十 人 前
ザイ」と叫びながら身を投げ
は、言った。
サイパン市役所の担当者
……。
去られようとしている人たち
五十九年が過ぎて、今や忘れ
忘れないことだ。また、戦後、
ある。話にならない。
していた。娘が聞いた。
「ギョ
いですか」と栢木。
を合わせる必要があるのやな
度ぐらい、ここで戦没者に手
「 日 本 人 と し て、 一 年 に 一
育成に力を注ごうと決意し
建設石材部が担当した。
栢木が日本の青少年を派遣
ぶ小島である 。
兵庫等から二十一人が参加し
29
後が採用され る 。
子どもたちばかりではなく、地元の人々も
ひとつづつ持って手作りの灯籠を海に流す。
4
平成 16 年9月 1 日 水曜日
(第三種郵便物認可)
第18号
5
す。ただそうすることが良い
とは分かってはいても、現実
には自己中心的なエゴの欲望
寺において比叡山宗教サミッ
去る八月四日、比叡山延暦
のぼった。世 界 の 国 々 に は 何
教者など参加 者 は 約 七 百 名 に
国から集まっ た 五 百 名 近 い 宗
教などの各代 表 者 、 そ し て 全
ス ラ ム 教、 新 宗
キ リ ス ト 教、 イ
は、仏教、神道、
同日の集いに
た。
めるものとなっ
和交渉を強く求
にねばり強い平
者、 宗 教 指 導 者
に傾く政治指導
停 止、 武 力 行 使
闘とテロの即時
集 い は 特 に、 戦
今回の祈りの
なった。
う宗教者の真摯な祈りの場と
ど、一刻も早い平和到来を願
和メッセージが披露されるな
各国の宗教指導者からの 平
を 訴 え( 別 掲 )
、さらに世界
安田暎胤師が平和の大切さ
法相宗管長で薬師寺管主の
た、「 平 和 を 語 る 」 と 題 し て
で平和への祈りを捧げた。ま
ち鳴らされる中、参加者全員
訴えた。続いて平和の鐘が打
停止を「平和祈願文」の中で
進天台座主が武力行使の即時
レモニーがあった後、渡邉惠
に国旗を並べ替えるというセ
現すために、青少年達が自由
の序列も、区別もないことを
献しなければならないと思い
られた人間として、社会に貢
に基づく正しい信仰に裏付け
です。宗教者は、各々の宗教
感動や癒しを与えてきたもの
ぞれが真理を語り、人の心に
性と普遍性があります。それ
は、時間と空間を越えた永遠
や国を越えて伝わった宗教に
千年以上も継承され、人種
の働きが同じだからです。
多いのです。それは人間の心
ても、教えの内容は共通点が
信ずる神や仏の名前は違っ
思います。
るかが宗教の果たす役割だと
何に浄化し慈愛の心に転換す
が持っているエゴの心を、如
ともあって、今回は募集定員
夏休みに入って間もないこ
会」を実施した。
に お い て、
「青少年一日修行
町の大谷寺(西山良忍住職)
二十四日、福井県丹生郡朝日
良 浩 会 長 ) で は、 去 る 七 月
北陸教区仏教青年会(光照
い思い出になったようだ。い
容で、参加した小学生にも良
の中にも楽しさを配慮した内
の体験を加えるなど、厳しさ
近くの植物園で〝草木染め〟
掃などのスケジュールの他、
が働いてしまうのです。誰も
ト十七周年「世界平和祈りの
宗教者間の対話が必要だと思
ます。世界の平和に向けての
午前十時からの開会式に始
小学生二十五名が参加。
二十名のところ予想を上回る
活する子どもたちに、お釈迦
いる現代社会です。そこで生
北 陸 教 区 仏 青 で は、
「物で
信仰がなされていない証拠で
います。お互いが他の宗教を
ま り、 般 若 心 経 の 習 礼、
「山
様の素晴らしい教えに触れて
ションで知られている京
と声明の絶妙なコラボレー
開催したと語っている。
ば」との思いでこの修行会を
活を省みる機会の一助となれ
一般に受け入れられたこと
東儀秀樹氏の作品が幅広く
楽 部 出 身 の ア ー テ ィ ス ト、
で使われる楽器は、宮内庁
笙、篳篥、という「雅楽」
「雅楽は生ける正倉院」
含 し て い る こ と か ら、
ラシア大陸の文化を包
られてきた。従って、ユー
てきた歌舞とが融合し形作
ら、日本で古来より育まれ
社刊・二五〇〇円(税別)
。
別 冊 太 陽「 雅 楽 」 平凡
【南総・長榮寺】石井堯俊師
【埼玉・長覺寺】鎌田亮宣師
【栃木・正光寺】池田宗道師
(報告・中野純賢師)
により、最近若い人達にも
ともいわれている。こ
(平成十六年七月二十三日〜
についても詳しく述べられ
都・ 三 千 院 の「 御 懺 法 講 」
もらい、すこしでも自分の生
栄えて心で滅ぶと危惧されて
す。
理解すれば、対立がなくなり
家学生式」の写経、止観、清
目指していることは皆同じで
争いの原因を避け、平和を
友情が生まれます。
が担当。
ずれの研修も講師は仏青会員
集い」が開催された。
人類における平和な世界と
は、世界中の人々が互いに助
け合い、武力を持って争わず、
物心両面が豊かで不平や不満
を抱かず、生き甲斐をもった
知られるようになった。し
の〝生ける正倉院〟に
八月二十日
法人部調べ)
しかしその 宗 教 が 、 戦 争 や
かし雅楽そのものは余り理
ついて一般向けに分か
ており、興味深い。
全なもの、平和を実現しよう
ように誤解さ れ て い る と こ ろ
世の混乱の火 種 に な っ て い る
解されていないのが現状で
りやすく解説したのが
しょう ひちりき
と願うのは空想論である」と
も あ り ま す。 宗 教 は 信 仰 に
ある。
も雅楽は演じられる
仏教の重要な儀式で
生活がなされている社会では
冷笑される方もあります。
よって強い信 念 が 養 わ れ ま す
発した音楽・舞踊がもとに
そうした社会は、人類史上で
実現されていないのです。人
の中には「所詮、人間は不完
が、本宗関係では雅楽
17
ないかと思います。ところが
たとえそれが空想論と揶揄
が、ともすれ ば 排 他 的 に な る
なっている。大陸の様々な
す。
されようとも、宗教者は平和
面もあります 。 も し 宗 教 の 名
地域の歌舞を吸収しなが
本書である。
実現や理想の追求を諦めては
において戦争 が 行 わ れ て い る
とするならば 、 そ れ は 正 し い
雅楽は、古代中国に源を
人々の行くべき方向を示すこ
とが宗教者の役割だと思いま
【 訂 正 】 第 号 6 面「 ス ー ダ ン へ の 緊 急
支援を」記事中、国連難民高等弁務官駐
日代表の氏名を「ピルコ・コウラル代表」
とお伝えしましたが、正しくは「ピルコ・
コ ウ ル ラ 代 表 」 の 誤 り で し た。 訂 正 し、
お詫び致します。
なりません。混沌とする世に、
「平和を語る」と題し講演する安田管主
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平成 16 年9月 1 日 水曜日
(第三種郵便物認可)
第18号
が、坐禅止観、滝修行など日
初は戸惑いもあったようだ
寺での規律ある生活には最
り、有り金はたいてもう一個
てから、折角だからと店に戻
しました。しかし一度店を出
りあえず一個だけ買うことに
……。
あるいは 先生も多分、
うことだったかと思いますが
経営の足しにしなさい」と言
ういうみやげ物を売って寺の
二 十 二、二 十 三 の 両 日、 三 徳
なった。白衣に黒帯という一
も達にとって貴重な経験と
知人に会って、私は早速ダイ
それから、ロサンゼルスで
のダイヤだと信じて私にくれ
見たこともなく、あれが本物
常とかけ離れた研修は、子ど
「君も一休さんになってみ
山三佛寺及び、輪光院・正善
休さんスタイルでの研修もな
私のように本当のダイヤなど
よ う 」。 天 台 宗 山 陰 教 区 は、
院・皆成院を会場に開かれ、
買いました。
こんなキャッチフレーズのも
たのかもしれません。さらに
言 え ば、
「経寸十枚国宝にあ
ヤとサファイアを自慢げに出
して見せました。その知人は
らず」
、こんなものをあてに
かなか好評であった。
不動産業をやりながら土産物
してはいかんよ、と私を諭し
小学生五十八名が参加した。
今年で二十六回を迎える
店も経営しているので、宝石
ていたのかも知れません。
を開催した。
こ の 青 少 年 研 修 会 は、 八 月
には詳しいようでした。
その後の開教生活三十年を支
ば」と、ユー モ ア を 交 え た 身
見た後、サファイアを嘗めて
える言葉となりました。
八月二十一日から二十五日
みたりしていました。その結
しかし、あの時頂いた「忍
ロラドの山の中にあって、西
屋根替え工事は、一隅会の
彼は先ず、ダイヤの指輪を
部劇に出てくるような風景で
果、
「このダイヤはガラスだ
役員たちのほとんどが日系社
近な話題で説 法 。 聴 衆 は メ モ
達で宝石屋をやっている白人
した。
ね。サファイアは樹脂で作っ
会や他宗教団のリーダー格の
までの五日間にわたり、大津
この戸津説 法 を 勤 仕 し た 僧
がセンターシティの金山跡
友人の店に入ると、北欧の
た模造品だよ。おみやげ用だ
終不悔」という言葉は、私の
本年の説法師である、延暦
侶には探題職 へ の 第 一 歩 と な
にいるから、明日行ってみま
おとぎ話に出てくるような赤
光に当てたり透かしたりして
寺長﨟・瑞応院住職の山田能
る望擬講職に 任 命 さ れ る こ と
しょう」と言ってくれたので
をとるなど、 熱 心 に 聞 き 入 っ
裕師( )は「聴衆の中には
から、天台座 主 に 至 る た め の
人達であったので、ハワイ全
市下阪本の東南寺で戸津説法
先生は、更に「わしの友
多 く の お 年 寄 り が お ら れ る。
な。これが本物なら五万ドル
島に「名入れの屋根瓦」の寄
ら 顔 の 老 人 が 出 て き ま し た。
はする筈だよ」と気の毒そう
付を呼びかけました。その結
す。
に言ったのでした。
果、宗教、宗派に関係なく協
出 し、
「このサファイアはど
あれから二十五年余。あの
力 し て く れ、 檀 家 が 殆 ど な
老 人 は 二、三 個 宝 石 を 取 り
うですか。二百ドルだが、半
時のことは鮮明に浮かんでき
の西北、車で二時間ほどのコ
登竜門といわ れ て い る 。
今回がはじめ て 。
孫 さ ん に 伝 え て も ら い た い。 親子二代の 戸 津 説 法 厳 修 は
そのことで家族の絆が深まれ
額に負けてあげましょう」と
国民国家形成の基本にかか
かったにもかかわらず、一年
行き過ぎたことに困惑しつ
ま す が、 未 だ に 解 け ぬ 謎 は、
えられ る の だ か ら 、 国 威 発
いって見せてくれました。
アテネオリ
ほどで屋根替え工事は見事に
したのか、
ということでした。
いうパターン
カー試 合 の こ と だ 。 日 本 選
国での ア ジ ア カ ッ プ の サ ッ
は途轍もなく深い。さらに
躙されたと思えば、その傷
で、その野蛮国に国土を蹂
限界にくるだろう。しかし
の普及などで、情報操作も
る。やがてインターネット
に共有されていることであ
もありませんでしたから、取
のホテル代など考えると幾ら
しかし、手許には、この後
して動き回る。色々と、興味
日半だったが、ほとんど密着
都合で同行取材したのは、二
サイパンから帰る。仕事の
界平和の祈りの集い』と同じ
を書く姿勢を反省する●『世
だ。いつも、一を聞いて、十
し か し、 こ れ が あ る べ き 姿
の関係で捨てざるを得ない。
入れたネタの半分以上は紙面
深い話は聞いたが、結局、仕
(終)
完工致しました。
先生が私に何を教えようと
判りませんから、サファイア
宝石のことなど私には全く
「 ハ ワ イ は 観 光 地 だ か ら、 こ
わっていることを注視しな
のような高価なものが、半額
ければならない。日中の軋
みを解決するための日本政
で手に入り、しかもハワイで
つも、国民感情を抑えるこ
ジレンマがある。中国には
府の戦争謝罪と、その代償
売 っ た ら 二、三 倍 に 売 れ る と
とのできない、中国政府の
闘い、 国 民 が 熱 狂 し て 一 丸
自国を文化国家とし、周辺
としてのODA支援は、残
聞いて、これで屋根替え工事
揚の場 と な る 。 ま た 自 国 の
躍はめざまし
となっ て 応 援 す る 姿 は 、 微
の民族を夷狄(野蛮人)と
念ながら中国国民に正確に
昇るような気持ちでした。
は成功したも同然と、天にも
代表選 手 が 死 力 を 尽 く し て
か っ た。 い つ
笑まし い も の の 、 い さ さ か
呼んで蔑視してきた長い
ことは、正しい情報が相互
伝えられていない。重要な
本人選手の活
もは前評判だ
常識を 逸 脱 し て い る き ら い
日 本 も 夷 狄 の 一 つ( 東 夷 )
伝 統( 中 華 思 想 ) が あ る。
ンピックの日
けは高く大騒
もない で は な い 。
でフラストレーションが溜
手に対 す る 中 国 人 観 客 の ブ
その国が世界第二の経済大
人 の 端 然 た る 姿 勢 で あ る。
何より大切なことは、日本
いてき
ぎ し て、 結 果
るばかりだったが、今回は
ー イ ン グ が 激 し く、 日 本
国 に な っ て い る こ と な ど、
だから中国は今や経済発展
その才能を誉められただけ
大 国 で あ っ た 唐 の 役 人 に、
伝 教 大 師 が 入 唐 し た 折 り、
神奈川教区増福寺前住職
平成 年 月
寺田
良道師
月2日本葬儀執行
田中
圓雄師
8
月
日遷化
キャンプファイヤーは雨だっ
たが、若い人々は楽しそうで
元気が出る。だが、カメラを
向けると皆が必ずVサインを
平成 年
福島教区岩角寺名誉住職
か?●北陸の中野純賢師、山
するのは、日本の若者の特徴
中里
昌念師
ありがとうございます。感謝
陰の米田良中所長さん、記事
栃木教区日増院住職
しています。
平成 年8月
8月 日本葬儀執行
日
9月 日本葬儀執行予定
8
佐藤
俊董師
11
16
日の夜は、青少年の取材へ。
それがない。水泳や柔道の
そ う 簡 単 に 許 せ な い の だ。
を遂げ、日本を追い抜いて
ではなく「来ること、礼義
平成 年 月2日
日本葬執行
の国旗 が 焼 か れ た だ け で な
世界第二の石油消費国とな
の国よりす」といわしめて
月
く、日本大使館の公用車が、
ガラス を 割 ら れ る な ど ひ ど
り、高揚するナショナリズ
いる。買春や珍妙な寸劇な
いに溜飲を下げた。
堂々たる勝ちっぷりに、大
い破損 を 受 け た 。
日へ向けられてきたといえ
ムのエネルギーが一挙に反
日遷化
メディ ア は 、 こ の 事 件 を 報
は戦争だ、というひともい 政府 の 管 制 下 に あ る 中 国
典というが、一方スポーツ
道しな い ど こ ろ か 、 日 本 を
る。確かに国家を代表した
はじめ 国 際 的 批 判 を 無 視 し
選手がメダルを争い、金メ
東京教区本覺寺名誉住職
ダルには国旗が掲揚され国
ど、
もっての外なのである。
20
よ う。 こ こ で 反 日 思 想 が、
ている 。 こ こ に 反 日 教 育 が
オリンピックは平和の祭
日中関係の課題
センターシティはデンバー
今日の法華経の話を家族やお
ていた (写真 )
。
とに、この夏の青少年研修会
T
が行われた。
T
は 予 選 落 ち と そこ で 思 い 出 す の は 、 中
T
73
家が吹奏されて、栄誉が讃
15
18
7
8
25
16
16
16
24
8
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(第三種郵便物認可)
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球救援募金事務局では、スー
渡し、引き続き、小堀会長か
ダン難民支援として五十万円
らから大野幸男日本ユニセフ
(写真)
。
を、WCRP(世界宗教者平
が、「 毎 日 の よ う に 戦 争 の 悲
ありません。私たちが平和へ
一隅を照らす運動総本部地
和会議)
日本委員会を通じて、
惨な映像が目に飛び込んでき
の願いを込めて持ち寄った募
球救援募金事務局では、活動
国連難民高等弁務官(UNH
一隅を照らす運動総本部地
金を、全世界の友だちの笑顔
の一環として「ユニセフ・国
協会協力事業部長に贈られた
わ れ た。 こ の 募 金 は 、 毎 年
連児童基金」へ十三年前から
ます。これほど悲しいことは
八月四日、延暦寺根本中堂
のために寄託します」と記さ
CR)駐日地域事務所に寄託
れた目録を読み上げ、小堀光
支援を続けている。
青少年比叡山の
詮一隅を照らす運動会長へ手
八 月 に 行 わ れ て い る「 天 台
集い」に参加し
で、地球救援募金寄託式が行
災地の復興支援に取り組んで
た 中 学 生 が、 こ
訪した、
駐日地域代表ピルコ・
した。先月、天台宗務庁を来
力 に よ る 襲 撃 が 続 き、 隣 国
部ダンフール地方では武力勢
一隅を照らす運動総本部で
高見
光は光で人を招く
太古の昔から、私たち人
の は、 仏 心 を 具 え て い る
詩集『樹木派』より
順
光は声で人を呼ばない
光は声を持たないから
況が続いている。
の日のためにと
は、七月二十三日に東北・上
を照らす運動総本部地球救援
口 座 番 号0 1 0 5 0 ―
1 ―
69505・加入者名・一隅
アフリカ東部のスーダン西
チャドに二十万人近くのスー
金の協力を呼びかける。
今後四国地方も含め復興義援
も多く、
天台宗対策本部では、
が、尚まだ支援の必要な地域
廃止されているところもある
いる。各市町村の対策本部は
コウルラ代表の要請に応えた
お小遣いの中か
金 と、 全 国 か ら
ら出し合った募
寄せられた浄財
を合わせたもの
で、 今 回 総 額 は
三百万円にのぼ
寄 託 式 で は、
る。
参加者を代表し
て北川泉水さん
東北・上越・北陸を襲った
越・北陸地方の被災地に支援
送金方法(郵便振替)
集中豪雨から約二カ月が経過
金 を 送 金 し て お り、 そ の 後、
募金事務局。受付期間は平成
末から八月にかけて、台風に
天台宗務庁は各所管部が合同
したが、四国地方では、七月
よる集中豪雨で甚大な被害を
智慧であり、慈悲を現しま
十六年九月十五日まで。
虐待といった問題が山積して
す。戸惑う人々に、み仏は
それは、仏の心と、仏の
して災害対策本部を設置、被
と教えます。
自分自身が輝けば、その
輝きは、さらに別の輝きを
います。またスアンプルース
一条の光を投げかけ、歩む
心が共鳴する世界です。
生み出します。
一隅を照らす運動総本部・
ラムでは今年四月に大規模な
べき道を示してくれます。
なく自分自身が「あの人の
理屈で説得されるのでは
受ける事態となった。
類は本能的に光を求めてき
ました。闇は禍々しく、光
は希望でした。
地球救援募金事務局では、発
火災が発生し、継続的な支援
光に感応することができる
この、み仏の投げかける
光とは、仏教では、仏の
展途上国の現況やこれまでの
が 必 要 で す。 更 に、 ド ゥ ア
照らされて、照る世界が
海外支援の成果、また関係団
ン・プラティープ財団が実施
へ「交流親善視察団」を派遣
す る、 青 少 年 更 生 の た め の
のは、私たちが、生まれな
活動は、素晴らしいな」と
施設や、ラオスでは建設され
は、一隅を照らす運動総本部
ります。詳細のお問い合わせ
法 華 経 で は、 こ の こ と
が光り輝くチャンスです。
その時こそ、あなた自信
しつうぶっしょう
を、悉有仏性 存
( 在するも
らされています。
感じた時、あなたは光に照
今回視察するタイ最大のク
た学校の状況も視察します。
地球救援募金事務局℡〇七七
|
からです。
がらに光を内に持っている
あります。
視察するため、タイ・ラオス
体が実施するプロジェクトを
­
Wonderful Words
「ニューライフプロジェクト」
ロントイスラムは、家屋が密
日程は十二月五日から十
致します。
集し、鼻を突く悪臭、子ども
日(五泊六日)を予定してお
五七九 〇〇二二まで。
にまで及ぶ麻薬や売春、幼児
|
)
ダン難民が流入し、危機的状
© ロイター・サン
もの。
河川の氾濫により、大量の汚泥が流れ込
んだ学校の校庭に消毒剤を撒く学校関係
者(写真 = 福井県・北陸教区撮影)
8
平成 16 年9月 1 日 水曜日
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