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死の価値論的考察 - Researchmap

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死の価値論的考察 - Researchmap
応用哲学会 2011 年
応用哲学会 2011 年
しかし、発表者には倫理学とのつながりがいまだに見えないのが正直なとこ
死の価値論的考察
ろである。たとえば、剥奪説とは本当のところ何なのだろうか。倫理学では規
杉本俊介(京都大学文学部非常勤講師)
範倫理学上で功利主義や義務論や徳倫理があり、メタ倫理学上で非認知主義や
[email protected]
認知主義があるが、それらと同列される立場なのだろうか。また、剥奪説はど
のような立場と対立するのだろうか。さらに、四次元主義などの形而上学的立
はじめに
場と快楽主義などの価値論はどのような関係にあるのだろうか。
そして、死がエピクロスに従って悪でないとした場合、殺人は果たして悪い
近年、死の哲学がさかんになってきた。そのなかでも主に英語圏の哲学を中
のだろうか。逆に、死がエピクロスに反して悪であるとすれば、それは殺人の
心とした議論に本発表では話を絞りたい。死に対する哲学的関心はエピクロス
倫理的評価につながるのだろうか。
やルクレティウスにまでさかのぼることのできる話題だが、英語圏では主にト
以上のような疑問を、本発表ではフェルドマンの分類での2.エピクロス問
マス・ネーゲルの「死」(Nagel[1979])を中心に展開されてきた。
題を通して考えてゆきたい。
こうした死の哲学を、フレッド・フェルドマンは五つのトピックに分類して
本発表の流れは以下である。まず、エピクロス問題に関する先行研究を紹介
いる(Feldman[2010])。1.死んでしまったらその人の存在が終焉するという終
し、従来の全体的な見取り図を提示する。発表者はこの見取り図はミスリーデ
焉テーゼ1、2.死は死んだ人にとって悪くないというエピクロス問題2、3.死
ィングだと考える。なぜならば、人生の福利(lifetime well-being)とある時点の
んでしまった状態は生まれる前の状態と同じなのだから怖がることはないとい
福利(temporal well-being)がこれまで明確に区別されてこなかったからである。
うルクレティウスの対称性問題3、4.永遠の命を手にすることは魅力的なのか
そこで次に、この区別の重要性を指摘し、そのうえでエピクロス問題に対して
という死の克服の問題4、5.死の悪と殺しの倫理との関係5、である。
発表者自身の答えを提示したい。結論を先取りして言えば、人生の福利に注目
とりわけ、日本において形而上学的な考察が注目されている。たとえば、吉
するかぎり、いわゆる無時間説をとり、ある時点での福利に注目するかぎり、
沢文武氏は死者とはどのような存在者なのかをハリ―・シルバーシュタインの
生前説を支持したい。こうした見解はいわゆる剥奪説を前提にしているが、本
四次元主義(+永久主義)に訴えた見解(Silverstein[1990])やパレ・ユアグロー
発表ではその擁護を試みることはできなかった。代わりに、剥奪説に対立する
のマイノング主義(+現在主義+三次元主義)からの見解(Yourgra[1987])を検
立場としての時間相対的利益説を紹介し、両者のちがいを生命倫理の中絶問題
討している[2009b]。また、こうしたシルバーシュタインやユアグローの一見奇
と関連づけて示し、反照的均衡によって考えすすめてゆく道を提案するにとど
妙な見解を批判し、鈴木生郎氏はごく標準的な三次元主義+永久主義の枠組み
めたい。
で応答を試みている[2009]。
本発表では、こうした死の形而上学が従来の倫理学に与えるインパクトをは
1.エピクロス問題に関する先行研究:全体的な見取り図
かりたい。この点に関して、既に一ノ瀬正樹氏[2011]、福間聡氏[2008, 2009]に
よる一連の研究が挙げられる。
エピクロス問題とは、以下のエピクロスの論考に由来する哲学/倫理学上の
問題である。
「それゆえに、死は、もろもろ悪いもののうちで最も恐ろしいもの
1
たとえば、Feldman[2000]。
2 本発表の参考文献を参照されたい。
3 たとえば、鶴田[2009]。鶴田尚美氏はネーゲルの「死」(1970)から注目され始めたル
クレティウスの対称性問題に関して従来の論者たちの応答を批判し、トマス・ネーゲル
の『どこでもないところからの眺め』(1986)での見解から答えようと試みている。
4 たとえば、Williams[1993]。
5 たとえば、McMahan[2002]や一ノ瀬[2011]。
1
とされてはいるが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜか
といえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときに
は、われわれはもはや存しないからである。」6
6
出隆・岩崎允胤訳『エピクロス 教説と手紙』岩波文庫、1959 年、67-68 頁
2
応用哲学会 2011 年
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近年の英語圏での哲学者たちはエピクロスの以上のような考察から次のよう
ピクロス問題」と呼びたい。
な論証を再構成している(Bradley[2009] 73, Johansson[forthcoming])。
エピクロス問題に対して、これまでの論者たちは前提1と前提2のどちらか
を否定してきたように思える。
1.ある者にとって悪いものは何であれ、その者にとって特定の時間に悪い。
まず前提1は、死の悪についてのテーゼではなく、悪一般に関する価値論的
2.死が死ぬ者にとって悪い特定の時間は存在しない。
テーゼである8。このテーゼが意味するのは、悪は特定の時間に位置づけられな
3.それゆえ、死は死ぬ者にとって悪くない。
ければならないということである。これは、上記の引用でエピクロスが言及し
ているわけでないが、彼の議論の隠れた前提になっているとみなすことができ
形式化すれば、以下のようになるだろう。
る。
1.!x (BadforS(x)!"t Bad’forS(x, t))
この隠れた前提を否定する論者として、トマス・ネーゲルが知られている。
2.¬"t Bad’forS(death, t)
彼は論文「死」のなかで次のように言う。
「およそ死が何らかの意味で悪である
3.¬BadforS(death)
とすれば、それは死のもつ積極的な性質のゆえではありえず、もっぱら死がわ
れわれから奪うもののゆえでしかありえない。
」(Nagel [1979] 4)。死は、死なな
ここで、この論証がある主体 S に相対的な悪さ(BadforS, Bad’forS)について
ければ過ごすことのできたさまざまな人生の可能性を奪い去ってしまう点で悪
の論証であることに注意したい。確かに、ある人の死は、その人を愛する人々
いとされる。この可能性を奪われるという事態は、特定の時間に位置づけられ
にとってとても悪いことかもしれない。しかし、エピクロスの論証はその種の
ない、というのがネーゲルの注目する点である。
悪さを問題にしているわけでなく、当人にとっての悪さを問題にしている。
他方で、前提2を否定する論者たちもいる。前提2とは、死が死ぬ者にとっ
エピクロスの論証の問題点は、何よりも、死は死ぬ者にとって悪くないとい
て悪い特定の時間は存在しない、という見解であった。これは死の特徴である
う結論が私たちの直観に反するという点にある。死は死ぬ者にとって悪いよう
と考えられる。すなわち、死の悪は、特定の時間に位置づけることはできない
に思える7。そこでこの論証のどこかがおかしいと問題視されてきた。これを「エ
という見解である。エピクロスの議論の中心的な部分はこの前提の正当化にあ
るように思われる。
その正当化はさまざまなかたちで再構成できるだろうが、ここでは害(harm)
7
反論として、死は必ずしも悪いことではないと言われるかもしれない。たとえば、自
に訴えた論証を示す。
分の尊厳を守るための死は善いのではないか。その場合でさえ死は悪いとネーゲルなら
1.死は生前にその人に害を与えない。
ば言うだろう。発表者はこの点について判断を保留したいが、二点注意点を指摘したい。
2.人が死ぬとき、その人は端的に(simpliciter)存在しなくなる9。
第一に、この論証は死が死んだ者にとって悪いという主張に対するひとつの反論にす
ぎない。死が死んだ者にとって悪であると主張するのであれば、この主張を支持する論
ここで VforS, V’forS は何らかの価値づけができることを表現する。このエピクロスの論証
は、死はその人にとって善いや悪いと価値づけすることができないことを結論にしたい
っそう強力なものである。
本発表では、価値論(axiology)という言葉で、goodness は betterness に還元可能であ
るかどうかや betterness は推移律を満たすかどうかなど価値の構造に関する理論を一
方では指し、他方では快楽が good なのか欲求充足が good なのかなど価値の実質に関
する理論も指す
9 フレッド・フェルドマンによれば、この見解は終焉テーゼ(termination thesis)と呼ば
れる(Feldman[2000])。終焉テーゼは人(person)を実体種(substantive sortal)だとみ
なすことで支持できるように思われる(たとえば McMahan[2002])。しかし、フェルド
マンは、人を実体種だとみなす根拠がないとし、死の定義からの正当化、動物説からの
正当化、四次元主義からの正当化とともに拒否する(この点でシルバーシュタインがフ
ェルドマンの見解を四次元主義からの見解に含めるのは誤解である
(Silverstein[2000])。
3
4
証も展開しなければならないだろう。
第二に、たとえ死が必ずしも悪くなくとも、エピクロスの論証と似た論証が作れる
1.!x (VforS(x)!"t V’forS(x, t))
2.¬"tV’forS(death, t)
3.¬VforS(death)
8
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3.2より、死は死ぬときやそれ以降にその人に害を与えない。
提2を否定する立場にもなりうることを示す。人生の福利を比較するタイプの
4.もし(1)と(3)が真であるならば、死が死ぬ者に害を与えるような特定の時間
剥奪説は、
「いつ死が死ぬ者にとって悪いのか」と問えないことを含意する。こ
は存在しない。
れが従来言われてきた「無時間説」に相当する。他方で、ある時点の福利を比
5.もし死がその人に害を与えるような特定の時間が存在しなければ、死が死
較するタイプの剥奪説は、「いつ死が死ぬ者にとって悪いのか」という問いに、
ぬ者にとって悪いような特定の時間も存在しない10。
死後・生前・死ぬと同時・永遠、とそれぞれの立場から答えることができる。
6.それゆえに、死が死ぬ者にとって悪いような特定の時間は存在しない(=
どの立場が有利かに関しては、この福利が実質的に何であるかを考えて、検討
前提2)。
していくのがよいと考える。
この前提2を否定する論者たちは、死が死ぬ者にとって悪いような特定の時
間が存在すると主張する。さらに、その論者たちは「いつ死が死ぬ者にとって
2.提案:人生の福利とある時点の福利の区別
悪いのか」をめぐって五つの候補を挙げてきた(Luper[2009] 126-13911)。死後
説(subsequentialism)、生前説(priorism)、死ぬと同時に死は悪であるという同
本節では、前節で示したエピクロス問題に対して、人生の福利とある時点の
時説(concurrentism)、死は死ぬ者にとってどの時点でも悪いという永遠説
福利の区別を提案する。これは、上述したエピクロスの論証における「悪い」(bad)
(eternalism) 、 死 が 死 ぬ 者 に と っ て 悪 い 時 間 は 存 在 し な い と い う 無 時 間 説
には、ある人生の福利が別の人生の福利よりも悪い(worse)という意味と、ある
(atemporalism)がある(後で見るように、これはエピクロスの論証の前提2を
時点の福利が別の時点の福利よりも悪い(worse)という意味のふたつが区別され
認め、前提1を否定している)
。
ずに含まれているという指摘である。これら二つのタイプの福利の区別は、ジ
以上のように、エピクロスの論証に対して前提1を否定する立場が剥奪説で
ョン・ブルームがエピクロス問題とは別の文脈で強調している(Broome[2004])12。
あり、前提2を否定する立場としていま挙げたさまざまな形而上学的立場が提
この区別をはっきりさせるために、
「悪い」とはそもそも何かを考えてみたい
案されているように見える。
13。たとえば、私たちが「天気が悪い」と言う時には、一般的に、雨を指す場合
しかし、次節で、こうした従来の図式は、人生の福利(Lifetime Wellbeing)と、
(人生の)ある時点における福利(Temporal Wellbeing)の混同に基づいているこ
....
が多い。そして、晴れた天気と比較されて、雨は晴れより悪いという考えを表
とを指摘する。人生の福利とある時点における福利を区別することで、剥奪説
明している。あるいは、私たちが「この社会は悪い」と言う時、この社会が他
....
の(あるべき)社会より悪いという考えを表明している。もちろん、比較に訴
はどちらのタイプの福利を比較するかに応じて、前提1を否定する立場にも前
えず、雨の絶対的な悪さを表明している場合もあるかもしれない14。しかし、死
の悪を考える際、そこでは死ななければありえた人生との比較が行なわれてい
また、フェルドマンによれば、死の議論の多くがこのテーゼを前提にしているという
が、エピクロス問題にかぎっていれば前提2を批判する文脈でしか登場しない。
10 エリザベス・ハーマンが指摘する例は、この見解の反例とみなされるかもしれない
(Harman[2004] 99)。その例によれば、ある女性がレイプされて妊娠しその子を育てた。
その女性の人生は、レイプによる心の傷を考慮してもなお、最終的にその子どもとのか
けがえのない関係により、仮にレイプされなかったよりも善いとみなされうる。これは
たとえ害を被っても当人にとって必ずしも悪くない例だとされる。
しかし、ベン・ブラッドリーが指摘するように、一見自明な害(prima facie harm)と
すべてを考慮したうえでの害(all-things-considered harm)を区別することで、ハーマ
ンの例は前者についての例であり、すべてを考慮したうえでの害を被るならば当人にと
って必ず悪いと応じることは可能である (Bradley[2009] 66)。
11 スティーブン・ルパーは、この他に、死が死者にとって悪であるのは定まった時間
ではないとする不確定説(indefinitism)をとりあげている(Luper[2009] 126, 136-8)。
5
る。この意味で、「悪い」(bad)は「より悪い」(worse)に還元可能である。これ
が、発表者の理解するところの剥奪説である。
では、何が何より悪いのか。本発表では、関係項として人生の福利をとる考
え方と、ある時点の福利をとる考え方が区別されるべきだと主張したい。
死という出来事の価値を評価するために人生の福利どうしを比較する場合、
12
ブルームはエピクロス問題にも取り組んでいるが、時間に相対的な価値を認めない
ので、人生の福利どうしの比較からしか考察していない(Broome[2004] 68-76, 235-8)。
13 既に述べたように、悪の実質でなく構造に注目してゆく。
14 ブルームはこうした絶対的な善悪の可能性を否定し、
「善い」
(悪い)は「より善い」
(より悪い)に還元可能であると主張している(Broome[1999] 162-173)。
6
応用哲学会 2011 年
応用哲学会 2011 年
ある時に死ぬ現実の人生の福利と、そのときには死なないありえた人生の福利
で行為選択に迫られている。帰結主義によれば、下式で表現される事態を導く
を比較している。具体的には、ある人にとってある出来事の価値は、その人に
行為をすべきである。なぜならば、下の事態のほうが上の事態よりもより善い
とっての人生の内在的価値とその出来事が起こらない何らかの関係 R において
からである。ポイントは、では「いつ下の事態ほうが上の事態よりもより善い
最も似ている人生のその人にとっての内在的価値の差だと考えることができる。
のか」という問いがナンセンスだという点である。これに納得できれば、アナ
ロジカルに考えて、人生の福利の比較においても「いつある出来事がその者に
形式的に、ある出来事 E の主体 S にとっての価値 V(S, E)は、
とって悪いのか」という問いはナンセンスであると言えるはずである。だから
V(S, E) = IV (S, LifeE) " IV (S, Life*~E)
この場合、悪は特定の時間に位置づけられない。
それゆえに、エピクロスの論証の「悪い」を人生の福利どうしを比較する意
と表現できるだろう15。この表現における「IV (S, LifeE)」は S にとって E が起
味で捉えるかぎり、前提1は否定される17。
こる人生の内在的価値(Intrinsic Value, IV)であり、
「IV (S, Life*~E)」は S にと
の出来事は善く、負であればその出来事は悪い。それゆえ、出来事に死をあて
今度は、死という出来事の価値を評価するために人生のある時点の福利どう
..
しを比較する場合を考えてみたい。この場合、ある時に死ぬ現実の人生のある
....
......
時点での福利と、そのときには死なないありえた人生のその時点での福利を比
はめてみれば、死の悪さがはかれる。
較している。
このように、人生の福利どうしを比較することで死を含めた出来事の悪さを
このタイプの比較のもつ含意を明らかにするために、つまずくという出来事
はかることが、エピクロス問題に対してどのような意味をもつだろうか。それ
を例にとってみたい。つまずくという出来事が起こった後、t1 で痛み始め、t5
は「いつある出来事がその者にとって悪いのか」という問いがナンセンスであ
で痛みがいよいよ大きくなり、t20 でやっと痛みがなくなり、t25 でも痛くないと
ることを意味する。ある人生の福利とありえた人生の福利を比較し、どちらが
しよう。このとき、t1 においてつまずくという出来事はその人にとって悪いで
より悪いのか、ということは時間のなかに位置づけられるものではないからだ。
あろうが、t20 ではその人にとってもはやどうでもいい出来事になっているだろ
って E が起こらないありえた人生の内在的価値である。この値が正であればそ
この点を明確にするために、時点=人アナロジーを使ってみたい16。
(ω,ω,…, ω, w1, w2, w3, ω, ω.
.
.ω,ω)
(ω,ω,…, ω, w1, w2, w3, w4, ω.
.
.ω,ω)
まず、ωは存在しない状態、wn はある時点 n でのある人の福利である。上の
う。ここでは、出来事の価値が時点に相対的である。その価値の大きさは、つ
まずかなかった人生におけるそれぞれの時点との比較による。
......
具体的には、ある人にとってある出来事のある時点での価値は、その人にと
......
っての人生のその時点での内在的価値とその出来事が起こらない何らかの関係
......
R において最も似ている人生のその時点でのその人にとっての内在的価値の差
だと考えることができる。
式の場合、この人は時点 3 で死んだことを意味する。これを現実世界だとしよ
う。それとありえた人生の福利(下式)と比較した場合、この人の死は−w4,だ
形式的に、ある出来事 E の主体 S にとっての価値 V(S, E)は、
け悪い。
V(S, E, t) = IV (S, LifeE, t) " IV (S, Life*~E, t)
ここで、話を変えて、ωは誰も存在しない状態、wn は番号 n の人物だとしよ
う。いま、上式で表現される事態か、あるいは下式で表現される事態のあいだ
17
ルパーが比較主義(Comparativism)と呼び、ブラッドリーが差異の作り手原理
(Difference-Making Principle, DMP)と呼ぶものに相当する(Luper[2009] 86-7,
Bradley[2009] 50)。同様の考え方は Feldman[1991], Broome[1999]にも見いだせる。
16 Broome[2004] 237-8 を参考に、表記を変えて細かい論点を省略している。
吉沢はこの見解を「人生説」と呼んでいる。人生説に対する吉沢の不満は、この比
較が終焉テーゼに反するということだが、この比較はエピクロスの論証の前提2を認め
るので終焉テーゼには反しないと考える([2009a]140)。また、人生説は主体の問題を解
決していないと言う(ibid.)が、本稿で示したアナロジーに使えば、帰結主義が選択肢を
考慮するとき、その選択肢のなかで当の行為者が本当に存在しているかどうかは問題に
ならないように思える。
7
8
15
応用哲学会 2011 年
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ほどその人にとって悪い出来事になるということである。その人が生まれた(存
と表現できるだろう18。たとえば、つまずかなければ福利 5 であった人物にとっ
在し始めた)ばかりで死んでしまうことは何よりもその人にとって悪いという
て痛みが始まった t1 の福利は 3 だったが、t5 では 1 であったとしよう。この時、
ことになる。逆に、十分に生きてしまえば、もはや奪われる人生の可能性があ
つまずくことの悪さは、その人にとって t1 では-2 であり、t5 では-4 と絶対値と
まりないので、その死はその人にとってそれほど悪くない出来事になる19。
して大きくなり、t20 や t25 では 0 となる。注意したいのは、この例においてつま
....
..
ずくことの評価は出来事が起こった後にのみ可能であり、各時点の福利は快苦
これは早期中絶が当人にとって非常に悪い出来事だということを意味する20。
でカウントされている点である。
もちろん、中絶される主体が福利の担い手としての人(person)でいまだにないの
.
であれば、当人にとって悪い出来事だとは言えない。ここでポイントになるの
他方で、死という出来事のその人にとっての悪さをある時点の福利どうしの
は、剥奪説において、人格の同一性が重要であることを前提にしている点であ
比較ではかる場合、同じように死後に快苦でカウントされるとはかぎらない。
る。
なぜならば、死後には比較対象である現実世界にその人はもはやいないからで
他方、マクメイハンは、人格の同一性は重要でなく心理的つながりが重要で
ある。そこで、前述した、生前説や同時説あるいは永遠説が提案されている。
あるというデレク・パーフィットの立場をおしすすめ、剥奪説に対抗する立場
発表者はこの段階において欲求充足説+生前説を支持したいが、その試みは別
を提案している(McMahan[2002])21。彼はそれを「時間相対的利益説」と呼ぶ。
の機会にしたい。
それによれば、剥奪説と同様にある者のある時点の福利どうしの比較は認める
ここまでをまとめると次のようになる。エピクロスの論証における「悪い」
が、それだけでなくその者の現在と将来との心理的つながり(記憶や意図)が
には、人生の福利どうしの比較からの理解と、ある時点の福利どうしの比較か
福利のファクターとして入ってくる。したがって、胎児の段階では、いまの私
らの理解がある。前者で考えると、悪は特定の時間に位置づけられない。それ
たちとの記憶や意図はほとんどつながっていないので、その死はほとんど悪く
ゆえ、前提1が否定される。他方、後者で考えると、死が死ぬ者にとって悪い
ない出来事だとされる。
ような特定の時間が存在する可能性が出てくる。これは、前提2の否定である。
時間相対的利益説は、人になる一瞬前と人になった一瞬後でそれほどちがい
いずれにせよ、エピクロス問題は解決されるように思える(もちろん、前提2
がないという直観に合致する自然な見解である。
を否定するために、いずれかの立場を擁護しなければいけない)。
これはまた、中絶は早ければ早いほど悪くない出来事だという含意をもつ。
発表者は、人生の福利どうしの比較もある時点どうしの比較も可能だと考え
それゆえ、中絶の評価に関して、剥奪説と時間相対的利益説は真逆の見解を出
る。しかし、剥奪説を正当化する議論をいまだ展開していない。そこで、次節
す。この点に関して、私たちの直観では、中絶は早ければ早いほど悪くない出
ではこの意味での剥奪説と対立する立場として、ジェフ・マクメイハンに代表
来事であるように思われる。それゆえに、こうした直観に合う時間相対的利益
される時間相対的利益説(Time-relative Interest Theory)を挙げ、両者の対立点
説が正しいのだろうか。
を中絶問題に見いだし、反照的均衡によって考えすすめてゆく道を提案したい。
19
時間における差異の作り手原理(Difference-Making Principle for Times, DMPT)と
ブラッドリーが呼ぶものである(Bradley[2009] 90)。
本発表ではとりあげないが、剥奪説はまた、医療資源の分配において年齢差別
(ageism)を助長する可能性をもつ。
20 しばしば指摘されるように、ここから早期中絶は道徳的に許されないという主張は
直接導かれない。帰結主義のひとつの解釈によれば、最善(best)である選択肢を選ぶべ
き(ought)であるので、ある出来事が当人にとって非常に悪いのであれば、中絶をすべ
きかどうかの考慮に大きなウェイトを占めるだろうが、その他の人物(主に母親)の福
利や権利が当然考慮されるはずである。また、非帰結主義であれば、中絶を行なうとい
う行為者性が問題になってくる。
21 マクメイハンは本発表で言うところの剥奪説を人生比較説(life comparative
account)と呼んでいる。
9
10
3.生命倫理とのつながり:中絶問題
これまで見てきた剥奪説の解釈にはある含意が存在する。奪われる人生の可
能性が大きいほどその死が当人にとって悪いということは、死が早ければ早い
18
応用哲学会 2011 年
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ここで注目したいのが、往復的均衡法(反照的均衡、reflective equilibrium)
Feldman, F. [2010] “Life, Death, and Ethics”, in The Routledge Companion to
と呼ばれる倫理学の考え進め方である。倫理学において、直観とある理論ない
し原理が衝突した場合、かならずしも理論や原理が放棄されるわけでない。時
には、直観が放棄される場合もある。唯一の道徳的事実の存在がはっきりしな
い現状で、私たちの直観と当該の理論を行ったり来たり往復させながらすりあ
わせてゆくことが賢明な考え進め方であるように思われる。
中絶問題という生命倫理の問題に関して私たちの直観に合致しない帰結が出
てくるという点は、剥奪説の魅力を一見すると奪うものであるが、逆にいえば
私たちの直観を変えてしまうほどインパクトのある考えだと言うこともできる。
Ethics ed. by J. Skorupski, pp.707-719.
Feldman, F. [2000] “The Termination Thesis”, Midwest Studies in Philosophy,
Vol.24, pp.98-115.
Feldman, F. [1991] “Some Puzzles about the Evil of Death,” Philosophical
Review, Vo.100, No.2, pp.205-27.
Harman, E. [2004] “Can We Harm and Benefit in Creating?” Philosophical
Perspectives, Vol.18, pp.89-113.
Johansson, J. [forthcoming] “The Timing Problem”, in Oxford Handbook of
また、エピクロス問題というやや形而上学的な問題を解く点は剥奪説をとても
Philosophy and Death, eds by B. Bradley, F. Feldman, and J.
魅力的な立場にしている。
Johansson, Oxford University Press.
Luper, S. [2009] The Philosophy of Death, Cambridge University Press.
McMahan, J. [2002] The Ethics of Killing, Oxford University Press.
おわりに
Nagel, T. “Death” [1979] in his Mortal Questions, Cambridge University
本発表は、エピクロス問題においてこれまで明確に区別されてこなかった、
人生の福利(lifetime well-being)とある時点の福利(temporal well-being)の意義
Press, pp.1-10. (トマス・ネーゲル(永井均訳)「死」『コウモリである
とはどのようなことか』勁草書房、1989 年、1-16 頁)
Silverstein, H.S. [1990] “The Evil of Death” The Journal of Philosophy,
を明らかにした。
さらに、エピクロス問題を通して、以下のことを示した。
・ 剥奪説には二つの解釈があり時間相対的利益説と対立する。
・ 死の形而上学的な立場は無時間説を別とすればとエピクロスの論証の第二前
提を否定するものであり、ある時点の福利の比較を前提にしている。そして、
その福利が実質的に何であるか(=実質的な意味での価値論)に依存して、
どの立場が支持されるか検討されている。
・ 死の悪は、剥奪説として解釈されるかぎり、中絶問題において考慮すべきひ
とつの点として殺人の悪をかかわってくる。
今後の課題として、時間相対的利益説はエピクロス問題にどのように応答す
るのか、死後説などに対して生前説を支持できるか、を検討してゆきたい。
pp.401-424.
Silverstein, H.S. [2000] “The Evil of Death Revisited”, Midwest Studies in
Philosophy, Vol.24, pp.116-135.
Williams, B. [1993] “The Makropulos Case: Reflection on the Tedium of
Immortality” in J.Fischer (ed.) The Metaphysics of Death, pp.73-92.
Yourgra, P. [1987] “The Dead”, The Journal of Philosophy(パレ・ユールグラ
ウ[ユアグロー](村上祐子訳)「死者」『現代思想 特集=可能世界/固
有名』)
一ノ瀬正樹[2011]『死の所有:死刑・殺人・動物利用に向き合う哲学』東京大学
出版会。
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