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自由民権運動の教育史的意義 野先行研究の検討を通してー
自由民権運動の教育史的意義 --︱︲先行研究の検討を通して ﹁自由民権運動と教育﹂研究の本格的出発 一九六〇年代末∼七〇年代前 片 桐 芳 雄 (教育学教室) 宮原誠一が、自由民権運動のなかに生れた青年の自主的な学習運 動にいち早く注目し、これを﹁その後の教育制度の発達のなかから ぶきがあった﹂と評価し、その教育史的意義を認めながらも、﹁成長 はたぐりだすことのできない国民的な中等教育のはつらつとした芽 るようになったのは、一九六〇年代末から七〇年代初めにかけての しきらないうちに﹃蹂躪芟除﹄された﹂として、この学習運動とそ 崎の見解は、のちにふれる色川大吉らの研究をふまえて、自由民権 ことである。教育史の分野で自由民権運動をとりあげた個別論文が この時期の論文でます注目すべきは、黒崎勲﹁自由民権運動にお 運動は、日本の公教育制度の成立過程に直接かかわる教育運動で の後の公教育の歴史との﹁断絶﹂を指摘したのにたいして、右の黒 ける公教育理論の研究﹂(﹃教育学研究﹄第三八巻第一号、一丸七一 あったことを提示するものであった。 一方、千葉昌弘の二つの論文は、学制、教育令、改正教育令とい い特に千葉が注目したのは、民権運動への教師の参加と、そこでの 第一三号、教育運動史研究会、一九七一年)、同﹁自由民権運動の教 ます黒崎は、神奈川県会や福島県会における教育費をめぐる論議 活動、およびそれらの教師の教育実践活動であった。そして、宮城 う一連の教育史的事実の展開のなかに自由民権運動を位置づけ、そ の分析をもとに、民権派は県当局(国家)による公教育の組織化に 県の教師たちの民権結社への参加状況や、彼らが中心となって学校 育史的意義に関する若干の考察﹂(﹃教育学研究﹄第三九巻第一号、 対抗し、﹁教育の自由﹂にもとづく﹁人民の協議による公教育の自主 内に組織した﹁教育議会﹂の活動を紹介したうえで、﹁以上のことか の教育史的意義を検討するところに、そのねらいがあった。そのさ 的組織化﹂を志向していたととらえ、したがって自由民権運動は ら教師及び地域住民の結合・協力関係において、﹃上から﹄の公教育 の体制化を主体的に受けとめ、地域の教育に適合したものとして ﹁日本の近代以降の最初の教育運動と呼ぶに値するものといえよう﹂ 一九七二年)であった。 年)、および千葉昌弘﹁自由民権期の教育運動﹂(﹃教育運動史研究﹄ 書かれるようになったのも、このころからであっ( 自由民権運動が教育史研究の対象として、本格的にとりあげられ - と主張した。 一 -234- 1987 February, 221, 234 pp. 36 (教育科学編), 愛知教育大学研究報告, 的な民衆運動としてとらえるだけではなく、わが国最初の教育運動 二 ﹃下から﹄改造し、﹃学制﹄及び﹃教育令﹄の近代的側面を実質的に として教育史のなかに位置づけようとする観点は、教育史研究にお 他方、これと相前後して国民教育研究所内に、所員坂元忠芳を中 伸張させる可能性が、自由民権期に形成されつつあったことが指摘 千葉自ら認めているように、この結論を導くにはなお実証におい 心に、稲垣忠彦、黒崎勲、土方苑子、片桐芳雄らによって﹁自由民 いてはむしろ一做的なこととなっていった。 て不十分なものがあったが、しかし、自由民権運動に参加した教師 権運動と教育﹂研究会が正式に発足しだのは一九七一年一月二三日 できる﹂と主張した。 たちの﹁自主的・主体的教育実践活動﹂の実態を明らかにすること のことであった。 当時坂元はすでに海後宗臣他監修﹃近代日本教育論集﹄第二巻﹁社 をめざし、かつその可能性を示したことは、以後の﹁自由民権運動 と教育﹂研究に大きな道を開くものであった。 由民権運動と教師﹂の節を立て、自由民権運動への教師の参加の事 の教育運動﹂(三一書房、一九六〇年)のなかで、小松周吉が、﹁自 ば井野川潔・川合章編﹃日本教育運動史﹄の第一冊﹁明治・大正期 などをそのなかに収録していた。もとより、自由民権運動の教育権 論稿や、立志学舎趣意書、植木枝盛﹁教育ハ自由ニセサル可ガラス﹂ 設け、民選議院論争にかかわる中村正直や加藤弘之・大井憲太郎の 動の教育思想に注目し、同書に﹁自由民権運動と国民形成﹂の章を 会運動と教育﹂(国土社、一九六九年)の解説において、自由民権運 実に言及しながら、同時に﹁彼らが果して政治と教育=人間形成を 思想に注目し、植木枝盛の自由教育論と中江兆民の干渉教育論を紹 当時において、この観点がいかに大胆なものであったかは、例え 芳 統一的に把握し、その主体的自覚に立ってこれらの運動に参加した 介することはそれ以前にもなかったわけではない。しかし坂元解説 雄 桐 かどうかは疑問である﹂と述べ、﹁教師の教育者的自覚の未成熟﹂を が提起した新しい視点は、自由民権運動の発展のなかで設立された 政社やその附属学校等における学習運動を、政治運動に連なる文化 指摘していたことと比べるならば明らかであろ9 片 今にして思えば、東京と仙台に隔たってほぼ同時に互いに何の連 運動としてとらえ、ここに﹁教育の﹃人民的発想﹄﹂の温床を発見し 坂元のこの指摘は、坂元自身の、ロシヤの革命的民主主義者研究 絡もなく進められたこれらの研究は、その後の﹁自由民権運動と教 黒崎が、人民自らの手による公教育組織化の思想と運動として自 や日本の教育運動史研究をふまえたものであったが、同時に、当時 ようとした点てある。 由民権運動に着目し、千葉が主としてそこに参加した教師の活動に さかんになりつつあった近代日本の民衆思想史研究、とりわけ色川 育﹂研究の方向を暗示するものであった。 焦点をおいたという違いはあるにせよ、二人とも、自由民権運動を、 大吉や鹿野政直の研究をも前提とするものであった。 究﹄二五九号、一九六一年)や、﹁明治二十年代の文化﹂(﹃岩波講 年)に収録された﹁自由民権運動の地下水を汲むもの﹂(﹃歴史学研 色川大吉は、すでに、のちに﹃明治精神史﹄(黄河書房、一九六四 公教育の外側にあってこれを規定する政治運動としてではなく、公 教育の歴史研究そのものの対象として取りあげたという点て共通し ていた。 以後、自由民権運動を単なる政治運動や文化運動、あるいは一做 -233- 座・日本歴史﹄第一七巻、一丸六二年)によって近代日本の民衆思 ﹃未発の契機﹄(色川大吉)をも含めて明らかにすること、そうし それは日本人の精神史のなかの教育思想の豊かな鉱脈を、重要な を従来の教育学説史の枠からひとます解放することを意味する。 て総じて教育といういとなみを、日本民衆の著悩に満ちた生活史 想史研究に衝撃を与えつつあった。一九六八年六月刊行の﹃増補・明 のなかにもう一度照射しなおして、そのいとなみが持つ、民衆の 治精神史﹄の﹁まえがき﹂で、色川自ら述べているように、﹁この四 年間にわが思想史学界はおおきく変った。ひとことでいえば、民衆 主体的形成における実像︲︱-﹄リアリズムをぎりぎり定着させてゆ くことである。﹂ マに関心を寄せるようになり、民衆思想の深みから﹁未発の契機﹂ 国民教育研究所グループの共同研究は、右の線にそって、すなわ 意識・思想の研究が中心テーマとなった。多くの研究者がこのテー をひきだすなどということばは、もはやほとんど常識と化した。以 るこ単当面は、﹁こうした方向で自由民権運動と民衆 の自主的営みの事実を、地域において掘りおこすこと﹂ をめざして 結びっいた民衆の自己形成の歩みを﹃未発の契機﹄を含めて発掘す ち、﹁自由民権運動における教育思想をとりあげ、自由民権運動と 前にはこんな気風はこれほど無かったものであるから、﹃明治精神 史﹄はその風潮の誘い水ほどの役割をもったのかもしれない。﹂ので ある。 出発した。 色川は、﹃明治精神史﹄(一九六四年)において、﹁﹃自由民権﹄と 一八八〇年代に関していえば、この時期は、日本の農民階級にとっ に限っても、七一年に宮城・岩手・秋田・山形・長野の各県、七二 現地史料調査を行なうことに精力が注がれた。共同で行なったもの こうして民研グループによる共同研究は、ますもって全国各地の て、まさに未曽有の学習熱時代であり、全国諸地方の豪農・農民大 衆の思想的文化的エネルギーが昂揚したときであった﹂三一八四頁) 年には富山、石川・福井の諸県、七三年には東京都三多摩地方及び と述べ、さらに、その後の調査をふまえて、[明治前期の民権結社 と学習運動](東京経済大学人文自然科学論集第二一号、一九六九 岐阜等と、山口・鳥取・島根の各県に及んでいる。その一方で日本 埼玉県秩父地方と栃木・茨城・群馬の各県、七四年には静岡・三重・ 年)においては、﹁自由民権運動は国会開設を要求し、専制政体の 教育学会の年次大会においては、七二年(京都大学)、七三年(千葉 変革を迫った民主主義政治運動であったが、半面、広汎な民衆がこ の運動に加わることによって政治的思想的にめざめたという点で、 川らの民衆思想史の成果に触発されながらも、同時に、当時、とも しかし、これがこのように注目されたのは、この共同研究が、色 由民権運動と教育﹂と題する共同執筆論文を掲載し、一定の注目が なされることにな゜(がy た教育史学会紀要﹃日本の教育史学﹄第一六集(一九七三年)に﹁自 大学)、七四年(広島大学)と三回にわたって共同発表を行ない、ま これは一大文化運動、思想運動という意義を持合わせていた﹂と、旧 神奈川県多摩地方の民権結社とその学習運動を詳細に紹介するとと もに、その民衆思想史的意義を明らかにしていた。 坂元が、さきの解説で次のように述べているのも、こうした研究 の進展を前提としたものである。 ﹁教育思想史を、このように、教育に対する人民的発想の歴史的 展開という視角からとらえることは、私見によれば、教育思想史 -232 - 自由民権運動の教育史的意義 一方、これらの研究をふまえつつ書かれた、坂元忠芳﹁天皇制教 - かくして﹁自由民権運動と教育﹂の研究は、客観的に見ればこう 四 した教育史研究の新しい潮流に棹さすものであった。それは、これ 口Iチが、ようやく生起しつつある時期であったのである。 教育政策をより本質的に規定していたと考えられる民衆(父母・教 までともすれば明治藩閥政府に対抗する政治運動とのみ見られがち すれば制度史や政策史にかたよりがちだった近代日本教育史研究を、 師や子ども)の側から描き出そうとする試みでもあったからであろ 育体制成立期の民主教育の思想と遺産﹂(﹃講座・日本の教育﹄第二 -︱一九七〇年代後半以後I ニ、﹁自由民権運動と教育﹂研究の反省と深化 育にかかわる個別論文が書かれたのであった。 忠彦、中内敏夫、梅村佳代、片桐芳雄らによって自由民権運動と教 この時期、黒崎勲、千葉昌弘のほかに、影山昇、土方苑子、稲垣 とともに、この仮説を検証することに精力が注がれたのである。 教育運動としての側面をもっのではないか、という仮説に導かれる であった自由民権運動が、同時に、天皇制教育体制創出に対抗する う。その意味でこれは当時起こりつつあった地域教育史研究の提唱 とも軌を同じくするものであった。 私自身当時(民研の共同研究に参加する以前)、次のように書い たことがある。 ﹁従来の教育史研究は、多くの多合、国家または県段階までの教 て、現在までの教育史研究は結局のところ﹃教育政策史研究﹄ 育政策、教育制度研究が多数を占める傾向にあった。(中略)従っ ﹃教育行政史研究﹄がほとんどであり、そこでは教育政策にあら われた国家の意志を読みとることはできても、具体的にどのよう ていたかを知ることは難しい。(中略)私たちは、国家レベルの政 巻、新日本出版社、一九七五年)と安川寿之輔﹁学校教育と富国強 な教育状況が存在し、そのなかで国民がどのように自らを形成し 策史研究の重要性を認めつつも、﹃地域﹄教育史研究として、自ら とするものではなく、表題に見るように、わが国公教育成立期全体 そもそもこれらの論文は、自由民権運動と教育の問題のみを対象 研究の課題を提示するものであった。 の二論文は、七〇年代前半の諸研究の総括であるとともに、新たな 兵﹂(﹃岩波講座・日本歴史15﹄近代2、岩波書店、一九七六年) の新しい世代を育てることに営々と努めた地域住民の努力を歴史 の流れのなかで生き生きと甦らせることの必要性を感じている。 ある地域の学校教育の形態や内容を規定していたものは、単に、 国家による教育政策にとどまるものではなく、地域の文化伝統、 を対象とするものであった。しかもそのなかで、自由民権運動を重 教育慣行、社会経済的な利害等もまた重要な要因であったのであ る。上からの教育政策の浸透を地域住民の眼で把え直すことに 本の最初の教育運動であったといってよいごと、言い切っている。 りだした運動の意味にとれば、民権運動は、まちがいなく、近代日 ます坂元は右の論文のなかで、﹁教育運動を民主的教育価値を創 要な柱として位置づけていたのである。 サド、その政策の意図を客観的に明らかにしようとするもので ある。﹂ 考えてみれば七〇年代前半は、明治前期は制度・政策史研究、大 正・昭和前期は運動史研究という、研究の分化状況をようやく克服 しつつ、同時に教育史への、子どもや父母、民衆の側からのアプ -231 雄 芳 桐 片 自由民権運動の教育史的意義 [こうして近代日本における最初の教育運動としての民権運動は、 しかし同時に次のようにも述べている。 は、じつは、 史的意義を認めながら、同時にそれが内包する﹁矛盾﹂や﹁欠陥﹂ や﹁限界﹂を指摘するむのであった。 しかし、このような﹁矛盾﹂や﹁欠陥﹂や﹁限界1 七〇年代前半における研究の進行のなかで徐々に明らかになってき 教育の権利思想の地域への具体化のなかで複雑な構造を与えられ ている。それは、教育の自律性、教育の自治と自由、近代的教職 たことでもあった。 民研の共同研究に関して言えば、この間、自由民権運動を﹁最初 の専門性など、それ以降、近代日本の民主的な教育運動が発展さ ある。彼女は﹁岩手県における自由民権運動と教育﹂(﹃国民教育﹄ の教育運動﹂ととらえることに最も慎重であったのは、土方苑子で せていった、多くの原則問題の初発の提起であった。しかし同時 いく過程で多くの屈折をひきおこした。その屈折は、おそらく地 に、それは、教育の権利思想が地域の生活のなかに具体化されて 育運動であった﹂という命題を提示しながら、同時に自由民権運動 このように坂元は、﹁自由民権運動は近代日本における最初の教 えていた教育の習俗や教育観との複雑な関係をも反映している。﹂ していた新しい教育や教育観と、幕末以来、地域社会をひろくとら は正しくあるまい。当時の権力の教育政策にたいして、すなわち天 敷衍してそれを前提として反権力的な教育事象だけとりあげる方法 とせねばならないと思う。民権運動が政治的に抵抗運動であるから あげて論証とするのではなく、曖昧な点も含んだ全体の性格を問題 民権運動のなかで教育に関するあれやこれやの反権力的事象をとり のことだろうか。﹂と問い、次のように述べる。﹁これに答えるには も抵抗運動であったといわれるが、それはどのような根拠をもって が提起した教育の課題は、あくまでも﹁初発﹂のものであり、その 皇制教育体制の創出過程と位置づけられる明治一〇年代前半の教育 第一六号、一九七三年)の冒頭で﹁自由民権運動は教育史においで 具体化の過程で、地域における﹁複雑な関係﹂反映して﹁屈折﹂ 動向の本質的な面にこれらの教育要求が根本的に対決するむので 域における知識人=教師としての民権運動家の出身階層と他の諸 するという、﹁複雑な構造﹂をもっていたという。ひとことで言えば 階層との複雑な関係を反映しているだけではなく、かれらのめざ 自由民権運動を﹁教育運動﹂と規定しながら、その﹁矛盾的性格﹂を いることは、のちの﹁自由民権運動における教育論の一考察﹂(﹃教育 ねばならないごと。土方のこの問いが、その後も執拗に継続されて あったかどうかが重要であり、それによって運動の性格も規定され 学研究﹄第四五巻第一号、一九七八年)においても明瞭である。 安川寿之輔もこの点を、より端的に、次のように表現している。 指摘したのである。 らも、教育における自主と自由の要求を先駆的に提起し、明治政府 義国家の形成過程における、国民の側からの最初の抵抗運動で ﹁明治一〇年代に全国に巻き起った自由民権運動は、明治絶対主 第一五号、一九七三)の冒頭で次のように述べている。 片桐の場合、﹁秋田県における自由民権運動と教育﹂(﹃国民教育﹄ ﹁この民権運動こそは、その内部に多くの欠陥や限界を内包しなが による教育とは異なる近代日本の教育の可能性を萌芽としてでは あったがさし示した。﹂と。 このようにこれらの論文は、自由民権運動を、明治政府の志向す る教育とは異なるもう一つの教育を志向したものとして、その教育 五 ― 230 - りで、より根拠のあるものにする必要がある﹂ことを指摘しながら、 に批判的であったと考えられる人々。彼らにあっては、教育の問 さかんであった地域とでは、自由民権運動と教育に関する様相が異 がそれほどさかんでなかった地域と、高知・福島などの民権運動が また﹁地域性﹂とは、例えば、宮城・岩手・秋田などの民権運動 六 と - あった。天皇を中心とした専制君主国家を形成しようとする明治 つ教育問題に積極的にかかわった人々が、同じく民権運動に参加し た人々のなかでも、主としてBのタイプの人々であり、民権派とい 同時に、この論文の対象、いいかえれば、自由民権運動に参加しつ いつつも、そこにはある限定が必要であることをあきらかにしよう 政府に対抗し、国民は、その自由と権利の獲得のために組織的に 明治政府による絶対主義国家形成の過程は、とりもなおさす明 抵抗したのであった。 治二〇年代に確立する天皇制教育体制創出への過程であった。し とした。 このような分析視角は、秩父事件を手がかりとした﹁学校教育を たがって自由民権運動もまた、これに対抗する教育運動︱真に めぐる地域諸階層と教育要求﹂(﹃教育学研究﹄第四二巻第二号、一 国民の自由と権利を充足しようとする国民教育創造へのだたかい I︱-でもあったのである。﹂ 九七四年)においてさらに展開されている。 と教育とのかかわりを、歴史上のたんなる特異な偶然の現象と見る とは、歴史研究であれば当然のことだとも言えるが、自由民権運動 確立過程全体のなかに位置づけるということである。このようなこ 面を、幕末から明治維新をへて、一八九〇年代にいたる公教育体制 ここでいう﹁歴史性﹂とは、自由民権運動の教育運動としての側 のかかわりのもとで問題になってくる。 ﹁矛盾﹂﹁欠陥﹂﹁限界﹂が、その﹁歴史性﹂、﹁地域性﹂、﹁階層性1 についてどちらかといえば楽天的であったのにたいして、しだいに こうして、七〇年代前半の研究が、自由民権運動の教育史的意義 これは、願望が事実認識に先行した、というべき文章であるが、 これは共同研究開始当時の民研グループの空気の反映でもあった (したがって前述の土方の批判がある)。と同時に、片桐は、当初か ら、自由民権運動と教育の問題に関して、いわば地域性と階層性の 問題に着目していた。すなわち右の論文で、自由民権運動とのかか わり方を軸に、当時の教員及び民衆と教育との関係から、次の三つ 自由民権運動には参加せす、政府の教育政策を地域のなかで実 のタイプを抽出した。 A 践しようとした人々。 自由民権運動に参加しながら、民衆の啓蒙に努力した人々。彼 に行なう必要がある。これは言いかえれば、これまで教育史が明ら のではなく、歴史過程全体のなかに位置づけることを、特に意識的 題よりも、政治・経済的な問題により直接的な関心があったよう なるのではないか、と言うことである。例えば、前者では、明治維 うことでもある。 かにしてきた諸事実と、自由民権運動との関連を明らかにするとい らの場合、教育の普及は、国会開設を含む民衆の政治的経済的自 自由民権運動に参加するなかで、むしろ政府の押しすすめる教 立化のための基本条件と考えられていた。 B C に見える。 育の近代化政策︲--学校の設立、就学の普及・強制1︲-そのもの そして、このようなタイプ分けを、﹁地域の産業構造とのかかわ -229 雄 芳 桐 片 自由民権運動の教育史的意義 新の近代的側面を積極的に受けとめていこうとする基盤-究極的 には産業ブルジョアジーの発展--そのものを欠いていたから、反 政府運動たる自由民権運動自体が啓蒙運動的側面を持っていたので はないか。これらの地域では、民権派教師は、自由民権運動のなか で、国会開設と同じぐらいの比重で公教育の普及に努力せねばなら なかった。これに対して、後者の地域では、教師の啓蒙者的役割の 比重は相対的に小さい。このような視点をふまえて、自由民権運動 と教育とのかかわりを見ていく必要がある。 最後に﹁階層性﹂の問題については先にも触れたが、﹁自由民権運 動と教育﹂という問題設定のもとで、われわれの研究関心にのぼっ しかし、民研の共同研究に関して言えば、上述のような問題点に 逢着し、これをのりこえるのに予想以上の時日を要したのであった。 一応の研究のまとめをするために﹁本づくり﹂が提起されたのが七 四年秋のことであったが、その後各メンバーの個人的事情や出版事 情もあって、ようやく刊行に漕ぎつけたのは約十年後の一九八四年 一月のことであった。 この国民教育研究所﹁自由民権運動と教育﹂研究会編﹃自由民権 運動と教育﹄(草土文化、一九八四年)は、各書評によれば﹁自由民 その到達水準をまがうかたなく示している・﹂(花井信︶と評価され 権運動と教育研究は七〇年代日本教育史研究の成果であり、本書は、 ているが、同時に﹁内に論争を含んでおり﹂、﹁ここ一〇年の研究成 本共同研究の課題と方法論に﹃各論﹄が必すしも統一されてお拓す、 果を統一することは無理であって﹂(同)、また﹁坂元氏が提示しか (千葉昌弘)、﹁著者によって見解の相違がみられる﹂(中島久人)ヽ であった。 ④民権運動は運動に参加した教師の独自の組織活動をともなう運動 ③民権運動は地域人民の学校づくりの運動であった。 ②民権運動は地域人民の自己学習の運動であった。 ①民権運動は政治教育の運動であった。 られている)。そして、研究の構造化のための視点として、 の思想と遺産﹂の﹁二、教育運動としての自由民権運動﹂にまとめ 報告の主要部分は、のち前掲の﹁天皇制教育体制成立期の民主教育 論﹂と題する報告を行なった(﹁国民教育研究所資料﹂、ただしこの 七五年一月にかけて三回にわたり﹁﹃自由民権運動と教育﹄研究序 ます坂元は、共同研究をまとめるに先立って、七四年一〇月から ものになっている。 - てくるのは、いきおい、民権結社への教員の参加、教員の自主的団 体(教育会等)結成の動向、新聞・雑誌に掲載された教育論、県会 における教育論義、民権学舎・学習会の設立などに向けられがちで ある。しかし高知・福島などの﹁先進県﹂はともかくとして、他の 府県では、このような活動に参加したのは、結局のところ豪農層や エリート士族教員層ではなかったか、という問題である。そして、 こうした人々は、基本的には﹁学制﹂を出発点とする近代公教育の 発展を承認しうる人々であったということを認識しておく必要があ るのではないか。 こうして七〇年代後半は、いわば研究の反省期になっていった。 一﹁ 71机一年、千葉昌弘はその総括的論文のなかで次のように書いて いる。 ﹁日本教育史研究の分野で自由民権運動を対象とした研究の端 初は一九五〇年代にみられたとはいえ、それが本格化するのは七 〇年代に至ってのことであり、それも今日では教育史研究におけ る自由民権研究が不活発の度を加えつつあるかに見受けられる。﹂ 一228 のようなサークル的学習会から、政社附属の学塾にいたるまで、さ 出したのであった。例えば五日市憲法草案を生み出した学芸講談会 - おきたい、と考える。 となく言ってきたことだが)、次の二つの点を、あらためて確認して 八 の四点を示し、さらに自由民権運動が教育運動としてもっていた教 の﹁問題構造﹂はかならすしも﹁自由民権運動と教育﹂の研究から まざまな形態で展開された学習運動は、宮原のいうように中等教育 芽ぶき﹂(宮原誠一)ともいうべき青年の自主的な学習活動を生み 自由民権運動は、そのなかに﹁国民的な中等教育のはつらつとした る政治運動は必す何らかの意味で学習運動を内包するものであるが、 ことをめざした一大学習運動であった、ということである。あらゆ れ自体、国民が政治のたんなる受容者から主体者へと自己形成する に、国民の権利の確立を要求した政治運動であったが、同時に、そ ます第一点は、自由民権運動は、国会開設、地方自治等を主内容 育遺産の問題構造を、次の四点においてとりだした。 ④教育の相対的自律性(オートノミー)の自覚。 ⑥教育の権利の思想と事実の定着。 ④教育の自治と自由の思想と事実の展開。 ⑥新しい近代的教職観の形成。 しかしこれらの視点や問題構造の提示は必すしも共同研究メン バー全体の納得の行くものではなかった。そもそも前者の﹁視点﹂ 内在的に導き出されたものとは認識しがたかったからである。この 創出への貴重な模索過程であると同時に、それ自体、国民の自己教 と後者の﹁問題構造﹂との関係が不明確であったし、また特に後者 点については、のちに坂元自身が、﹁このように、坂元があげた四 識のレベルにととめす、それを活用する精神とともに自らのものに とする努力、また、特に青年の教育にあっては、知識をたんなる認 のではなく、民衆の生活と地域の実情に応じて自主的に編成しよう じ合ったこと、さらには、教育内容を国家の要求のもとに従属する ために、自主的な集団を形成し、そこでさまざまな問題について論 としたような、教師が地域住民とも協力しながら、公教育の発展の とづく公教育の自主的組織化の構想、干葉昌弘があきらかにしよう ている。例えば、黒崎勲があきらかにしたような、人民の協議にも また要求されたという意味で、自由民権運動は教育史的意義をもっ て、さまざまなかたちで、教育の﹁自治・自由﹂が模索・構想され、 義をもっている。 そして第二に、自由民権運動のなかで、政府の教育政策に対抗し 育運動であり、教育史研究の対象として見のがすことのできない意 つの問題点は、互いに結びつきあいながら、政治運動としての自由 民権運動がもっていた教育的性格の構造を追及する切り目を示して いたが、この段階では資料の制限もあって、全体としてそれがもっ ていた矛盾構造を十分提示しえなか゜たとヽ認めているとおりで ある。 こうして結局、これらの﹁視点﹂や﹁問題構造﹂は各論の共通の 前提にはなり得なかった。それ故、ます各メンバーがそれぞれの課 題と方法にもとづき各論をさきに執筆し、その後に坂元が総論に よってすじみちをつける、ということにならざるをえなかったので ある。したがって、上述のような指摘がこの本にたいしてなされる のは、けだし当然のことであった。 三、﹁自由民権運動と教育﹂研究の意義と課題 さて私は、自由民権運動の教育史的意義として(これは従来何度 -227 雄 芳 桐 片 自由民権運動の教育史的意義 獲得しようとしたさまざまな営為、等々。 土社、一九七三年、所収)において使用したものである。ここで中 の論理が欠如していた、とする自由民権像を批判し、﹁教育は政治 内は、小松周吉が言うように、結局のところ自由民権運動には教育 ではなく、したがって政治と区別されなければならないとしても、 もちろんそこには、それ自体矛盾的性格をはらんでいた。それは、 明治政府の志向する教育政策に、即自的に対抗するというだけでは という命題を認めるならば、当然政治はあくまで政治であるとして 一定の政治性をもつ。そしてもし、この教育が一定の政治性をもつ も、現実の政治が一定のこれに対応する教育性をおびるという両者 なく、明治政府の教育政策の啓蒙的側面の徹底を求めるという側面 しかしいすれにせよ、右にあげたような事実は、従来の教育史の の関係をも認めざるをえないであろう﹂と述べている。すなわち をもっていた場合もあるからである。 通説においては、部分的に取り上げられたにとどまり、﹁自由民権運 このように中内のいう﹁自由民権運動の教育性﹂とは、﹁政治運動 することは誤りだというのである。 それが欠如しているからといってっ自由民権運動の教育性しを否定 動のなかに﹁教師の狭い意味での﹃教育実践﹄﹂のみを求め、逆に 観的な回答しか期待しえない類いのもの﹂であり、また自由民権運 的価値を前提にするものであるがゆえに'--片桐)、問い自体が主 間いは(﹁教育と政治との区別﹂、﹁教育固有の価値﹂、といった近代 ﹁自由民権運動が教育論をもっていたかいなかったかというような あったかこそが、問われなければならない﹂のである。したがって ﹁反政府運動のもっていた教育性なるものがどういう構造のむので 動と教育﹂という視角によって、初めて本格的に明らかにされたも のである、といってよいであろう。 のちにふれる﹁自由教育﹂と﹁干渉教育﹂の問題を含めて、これら はわが国近代公教育の性格を考えるうえで重要な検討課題となろう。 さて、これら二つの点に関しては、これまでの研究史の検討をふ まえて、なお論すべきことが少なくない。 ます第一の点に関連して﹁自由民権運動の教育性﹂ということに ついて。 前記の﹃自由民権運動と教育﹄のっ総論しにおいて、坂元はっ自 由民権運動の教育性﹂というコトバを多用している。これは同じ内 としての自由民権運動の教育性﹂(つまりは﹁政治運動の教育性﹂) 容を意味する﹁自由民権運動の教育的性格﹂﹁自由民権運動にふく まれている教育性﹂﹁民権運動における独自の教育性﹂﹁民権派の教 と同義である。 た言葉とも同じことを意味する。ところで、﹁自由民権運動の教育 としての側面﹂﹁自由民権運動の教育運動としての固有性﹂といっ する﹁教育運動としての自由民権運動﹂﹁自由民権運動の教育運動 て教育課程を編成し、その﹃自治自脩﹄の訓育過程を、学校教育や る。そしてこの﹁﹃自治・自修﹄論﹂は、﹁訓育の概念を中核におい 体論﹂﹁政教一致の立場﹂を前提とする﹁﹃自治・自修﹄論﹂、であ 官僚派の政教分離論﹂と区別されるところの﹁政治と教育の不離一 コ几田永孚ら復古派のもうひとっの朱子学的政教一致論﹂や﹁欧化 かくして中内が自由民権運動の教育論として引き出してくるのは 育的独自性﹂﹁民権運動における﹃教育性﹄﹂といった表現とともに 性﹂という概念は、坂元も言及しているように、中内敏夫が﹁自由 かなり頻繁に使われる。これは、これまたこの論文でしばしば登場 民権運動の教育性について﹂という論文(﹃近代日本教育思想史﹄国 九 6- -22 ものである。 すなわち、坂元も中内論文を﹁重要な問題指摘を含んでい 十 高く評価するのであるが、それは、中内論文が、坂元の考える﹁自 論法だったから、民権派の学舎構想はちょうどかれらの逆を志向す 副次的なもしくは学校教育の範疇外のものとして位置づけるという おく欧化・官僚派の構想は、教授の概念を軸とし、訓育過程の方は 及した本質として位置づけようとしたのであるが、このことがかえっ な教育遺産として押し出し、それをその後の我が国の教育運動が追 運動の教育性の中にふくまれていたプロパガンダ性をむしろ積極的 本的な点において見解の相違があることは、坂元が、[中内は、民権 り口を示した、と坂元が判断するからにすぎない。両者の間に、基 由民権運動の教育性﹂の﹁階級的性格﹂や﹁矛盾構造﹂解明への切 るものであったということになるであろう﹂ということになる。中 て民権運動の教育性の構造を全体的に見ること、民権運動における 中内の場合、右の視点は、この論文に先立つ周知の生活綴方把握 で紹介したようにかなり包活的なことと関連している。要するにこ 記① ④)といい、﹁問題構造﹂(前記⑧ ⑥)という事項が、前節 ︱同)﹃民主的教育価値﹄をかかげたことで、自ら、放棄したと言え を、(﹃講座・日本の教育﹄第二巻所収論文(一九七五)においてI 桐)教育運動を未発のものを含めてとらえようとした有効な方法論 元氏は、(﹁社会運動と教育﹂の﹁解説﹂(一九六九)においてI片 ﹂と - 一做社会にブリッジする役目をになうものとして外国語や科学の教 授の過程をサブーコースとして位置づける形態﹂、と規定される。 したがってこれは﹁認識の階梯であると同時にプロパガンダ性をも 内はここに﹁民権派の教育構想の独自性﹂を見るのであり、これが 教育の﹃自室の性格を的確に位置づけることをさまたげたと思わ おびることのなる﹂のである。中内によれば、﹁政教分離を前提に 歴史的意義をもつためには﹁その訓育概念のにない手であった政社 れるのである﹄とヽ述べていることから明らかであろう。この限り で、坂元は、近代の諸価値の徹底を志向する﹁近代主義者﹂である がどこまで﹃不覊独立ノ人民﹄たちの﹃自治﹄集団になりうるかに のにたいして、中内は、近代の諸価値を前提にしながらも、これを かかっていた﹂と、述べている。 さてこれに対して坂元の場合、同じく﹁自由民権運動の教育性﹂ L 克服することを志向する﹁非・近代主義者﹂である、といえるかも という概念を使用するのであるが、その意味するところは中内のそ れとはかなり異なっている。ます、先にも述べたように、坂元はこ の概念をいろいろなヴァリェイションのもとで使用するのであるが、 をへて、最近の﹁教育の世紀社﹂研究に至るまで、一貫しているの そこでいう﹁自由民権運動の教育性﹂とは、要するに﹁教育運動と しての自由民権運動の教育性﹂ということである。その結果、そこ である。 れらは、﹁自由民権運動の教育性﹂を明らかにするための﹁視点﹂で るだろう﹂と批判し、さらに﹁﹃自由民権運動と教育﹄研究は、以 教育要求﹂(﹃日本教育史研究﹄第二号、一丸八三年)において、﹁坂 なおこのことは、若干視点は異なるが伊藤伸也が﹁ワッパ騒動の から坂元が取り出してくる教育価値は、中内のそれよりもかなり広 い。これは、中内がこの概念をあくまで前述の﹁﹃自治・自修﹄論﹂ あり﹁問題構造﹂なのであるが、ここで取り出された﹁問題構造﹂ に収斂させながら使用しているのにたいして、坂元が、﹁視点﹂(前 は、前述の引用に見るとおり、あきらかに近代的価値を前捏にした 225- 雄 芳 桐 片 自由民権運動の教育史的意義 価値のみを追求十ることによって、自由民権運動全体において闘わ 上のように、政治運動から教育を切り離し、教育運動の側面と教育 加しながらどのような△教育実践▽を行っていたかをあらかに 出発し、その教員が量的にどれだけ参加したかだけではなく、参 で、予想以上に教育問題が語られていることへの新鮮な驚きから しようとする方向へと進んだ。先做の教育史学会での討論の中で れた政治変革の過程の中にあるであろう人民の主体形成における様 私自身簡単にのべたように、実はこのような問題の立て方自体、 周吉氏に代表される古典的評価﹄は、﹃徐々に克服され﹄たのでは 々な要求や運動形態を、汲みとることができないままになってい なく、実はかえって、我々はそれに呪縛されていたのではないか。 る。﹂と、﹁自由民権運動と教育﹂研究全体を批判していることとも 思うに六九年﹁解説﹂から七五年﹁論文﹂にかけて、坂元が自由 この点て私も、千葉氏が積極的に評価する中内敏夫の﹃自由民 あまりに。現代的”なものではなかったか。千葉氏の言う﹃小松 民権運動の﹁教育遺産﹂を追求した過程は、七〇年代前半における 関連する。 黒崎や千葉に代表される諸研究の成果を前提としたものであった。 権運動の教育性﹄という視点は重要だと考えてい かでの教師の教育実践に引きつけてとらえようとすることは、いわ このように﹁自由民権運動と教育﹂の問題をあまりに公教育のな ば﹁角をためて牛を殺す﹂、いいかえれば﹁内包﹂の教育価値にこだ これらの研究は第一節で述べたように、自由民権運動は単なる政治 ではないか、という仮説に導かれていたものであった。そしてその場 運動ではなく、わが国最初の教育運動としての側面をもっていたの 合、千葉がめざしたように、そこに参加した教師の﹁実践活動﹂を この意味で私は、さきに述べたように、自由民権運動の教育史的 わりすぎて﹁外延﹂をせばめる危険に陥ることにならないであろうか。 意義は、ます第一に自由民権運動自体が政治運動であるとともに なわちそれは、政治とは区別される﹁教育固有の価値﹂という近代 ﹁学習運動﹂であり、それ故﹁自己教育運動﹂であったというところ 明らかにすることこそ最も重要な研究課題であると考えられた。す 的価値が、民権運動に参加した教師たちにもどの程度認められるか いうまでもなく、この第一の観点を強調することは、自由民権運 にある、ということを強調したいのである。 を追求することでもあった。 このことに関連して私自身、以前あるメモで次のように書いたこ とがある。 を軽視するものではない。私がいう第二の点は、この点についてで 自体が抱えた問題が自由民権運動のなかでも展開されたことの意義、 動がわが国の近代公教育の成立過程に与えた影響、あるいは公教育 ある。 介づ千葉昌弘氏は、最近刊の﹃信州白樺﹄自由民権運動百年記念号 勺﹃特に七〇年前半期は一種の﹃自由民権運動と教育﹄研究の ブームを迎えた時期であったともいえる﹄が、﹃それも今日では ﹃自由民権運動と教育﹄について、しばしば、黒崎は﹁自由教育﹂論 問題について、簡単に触れておきこれはヽ国民教育研究所編 そこで、これに関して、﹁自由教育﹂論と﹁干渉教育﹂論をめぐる ・・不活発の度を加えつつあるかに見受けられる﹄とのべている。 は方法的な行きづまりのためだと私は思う。七〇年代の﹃自由民 今、その当否は論じないが、不活発になっているとすれば、それ 権と教育﹄研究は、民権運動に多数の教員が参加し、しかもそこ 十一 -224- に、坂元は﹁干渉教育﹂論に、自由民権運動における教育論の意義 十二 そもそも黒崎のシェマからすれば、兆民の﹁干渉教育論﹂(﹃東洋 八号、同・三・三〇)を、﹁それは、教育政策と教育運動の対抗の中 自由新聞﹄第六号、明治一四・三二七)﹁再論干渉教育論﹂(﹃同﹄第 で生起した公教育の具体的な問題状況に密着して主張されたものと を見出している、といわれる問題でもある。 この問題について、従来最も立ち入って論じたのは黒崎勲であっ ことになるのであるが、右の二論文と同じ時期に、理論と実践との た。彼はそれまで、自由教育論と干渉教育論を、いわゆる内的事項外的 不可分を主張している(﹁意匠業作﹂﹃同﹄第一四号、四・七)兆民で いうよりは、むしろ、自由民権運動の原理の一環とし俗間された 公教育論に対して、明確に公教育の自主的組織化を内容とした自由 ある。また彼がっねに現実に有効な理論を提示することに腐心した 理論であったと仮説することができるのではないだろう管﹂という 教育論を主張したところに自由民権運動の公教育論の独自性があっ ことは兆民研究者がそろって認めるところである。その彼が植木枝 よる義務教育の保障と教育内容の不干渉という啓蒙思想の調和的な たということができるのではないだろ﹂と主張する゜そ゜うえ 事項区別論で﹁統一的﹂にとらえられていたことを批判し、﹁政府に で、自由教育論と干渉教育論との関係を、次のように﹁構造化﹂し 盛と同じく﹁国家統制に死活をかけて対抗しなければならない時期﹂ (にヽ゛問題状況に密着)しない﹁原理﹂や﹁理論﹂を論じていたとは ﹁自由民権運動においては教育をうける権利の社会的保障とい 育論﹂を構造化する試みがなされる必要があろう。 黒崎の主張をふまえながら、今日再び﹁自由教育論﹂と﹁干渉教 考えにくいのではなかろうか。 て見せたのである。 う問題から直接導かれた干渉教育の理論を共通の原理的前提とし ながら、教育の国家統制という事態を否定的な媒介として、保障 され、人民の権利としての教育の意味の自覚が社会運動の展開の されるべき当の教育の中に質的な対立が含まれていることが洞察 の心配にもかかわらす、依然として活発に行なわれている。それ自 今日、﹁自由民権運動と教育﹂の研究は、さいわいにも、千葉昌弘 体を対象とする個別研究だけではなく、わが国の公教育の成立過程 過程で深められて把握されたところから、公教育の自主的組織化 の構想が展望され、自由教育の理論が構成さ を対象とするさまざまな研究のなかで、無視できない比重をもって このように黒崎は、干渉教育論を前提にこれを自由民権運動のな かで発展させたのが自由教育論であったと 牡なこのこと自体 言及されるばあいが少なくない。 ﹁自由民権期の教育﹂がとりあげられたためもあってか、一做の日本 民権百年第二回全国集会(一九八四年一一月゛(で)分科会の一つに また、国民教育研究所編﹃自由民権運動と教晴﹄の刊行や、自由 は卓見というべきであるが、しかし、このようにとらえる中江兆 らに森透の紹介几だ栃木県の山崎彦八やヽ干葉県の佐久間吉太物 民の﹁干渉教育論﹂のみならす、坂元忠芳の提示した田中正造 岐阜県の小池地域民衆の状況をふまえて実質的に干渉教育論 史研究の側からのアプローチも散見するようになってきた。 こうして﹁自由民権運動と教育﹂研究は、公教育そのものの存在 を主張していたと見られる人々の教育論が積極的に評価できなく なってしまうのである。 223- - 雄 芳 桐 片 理由が歴史的に問われているとき、近代公教育とは何か、という教 育史研究にとって最も重要なテーマを解く一分析視角として、なお 研究される必要があるのである。その際、前節で触れた﹁歴史性﹂ (昭和六十一年九月十六日受理) ﹁地域性﹂﹁階層性﹂の問題が、十分考慮されねばならないことは言 うまでもないことである。 十三 -222 - 自由民権運動の教育史的意義 片 桐 芳 雄 十四 -221-