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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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ガーヴェイとワシントンにとっての大衆・教育・自立
君塚, 淳一
茨城大学教育学部紀要. 人文・社会科学・芸術, 63: 1-10
2014
http://hdl.handle.net/10109/8841
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お問合せ先
茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)63 号(2013)1 - 10
ガーヴェイとワシントンにとっての大衆・教育・自立
君塚 淳一 **
(2013 年 11 月 26 日 受理)
People, Education and Self-Made Men for Garvey and Washington
Junichi KIMIZUKA **
(Received November 26, 2013)
はじめに
1920 年代,マーカス・ガーヴェイ (Marcus Garvey, 1887-1940) は,民族主義やアフリカ帰還運
動など,そのガーヴェイズムと称される活動で,当時,米国のみならず多くのアフリカ系の大衆を
魅了した。その彼が米国での活動以前,職業訓練学校 Tuskegee Institute を設立し成功を収めてい
た指導者ブッカー・T ・ワシントン (Booker T. Washington,1856-1915) の教育活動に関心を抱いて
いたことは知られている。19 世紀末から 20 世紀初頭に活躍したこのアフリカ系指導者ワシントン
とガーヴェイが,大衆を相手に自立に向けた教育をいかに考え,またこの二人が当時のもうひとり
の指導者 W.E.B. デュボイス (W.E.B. DuBois,1868-1963) にとって,なぜ批判の対象となったのか。
ガーヴェイを中心に,共に 2000 年以降において特に再評価が進むワシントンとの関係を,その重
要なキーワードとなる大衆,教育,自立から論じる。
Ⅰ . ガーヴェイと大衆・教育・自立
ジャマイカではスペインや英国など植民地支配が長年に渡り続く中,奴隷制度は 1833 年に廃止
されたものの,人口の約 80%にも及ぶアフリカ系への差別は 20 世紀に入っても激しい時代が続い
ていた。マーカス・ガーヴェイがこのアフリカ系への差別に対して強い怒りと改革を意識したのは,
18 歳で首都キングストンに叔父を頼り印刷会社で就職した時期と重なる。その契機となったエピ
ソードは,Mary Lawler のガーヴェイの伝記 Marcus Garvey: Black Nationalist Leader(1988) によれば,
1907 年 1 月 14 日にキングストンを襲った地震被害の中,大半が低賃金労働者であるアフリカ系労
働者の被災者には政府や会社から何の援助も行なわれなかったことへの抗議運動に始まる。この時,
賃金引上げのストライキに参加し解雇されたことをきっかけに彼は政治活動に入る。1909 年には
**茨 城 大 学 大 学 院 教 育 学 研 究 科( 〒 310-8512 水 戸 市 文 京 2-1-1; Graduate School of Education, Ibaraki
University, Mito 310-8512 Japan)
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茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)63 号(2014)
コスタリカなど近隣諸国の状況などを視察し,特に 1910 年にはコスタリカでは自らバナナプラン
テーションの労働に加わり,その状況を経験しアフリカ系労働者の命など何とも思わぬ英国人たち
からの扱いに憤りを感じている。その後,帰国し地元キングストンで弁護士などと労働環境改善の
運動に入ったガーヴェイだが,そこで彼が痛切に感じたこととはアフリカ系に対する劣悪な労働状
況を打開するには,強い指導力を持つ指導者が必要であるということであった。
その結果,彼はジャマイカでアフリカ系への「人種・民族の誇り」「労働条件の改善」「教育の
必要性」を説き,自ら UNIA-ACL(The Universal Negro Improvement and Conservation Association
and African Communities (Imperial) League)を設立し改革運動に着手することになる。だが資金面
および指導面での問題に直面した彼が援助を求めたのが,尊敬するブッカー・T・ワシントンであっ
た。しかし彼との面会の約束をようやく取りつけ 1915 年に渡米する彼だが,直前のワシントンの
死で惜しくもその約束は果たせずに終ってしまう。
一般的にこの 1915 年のワシントンへのガーヴェイの面会の目的は,Cronon もガーヴェイの伝記
Black Moses; Marcus Garvey(1969) で以下のように指摘しているようにジャマイカでの黒人教育への
資金援助であるとされている。
In the spring of 1915, Garvey decided that it would be necessary to call upon the Negroes of the
United states for support of his program in Jamaica. Previously he had written to the founder of
Tuskegee Institute and had received an invitation from Washington to visit school. (Cronon 19)
だが周知のように,Garveyism と称された強い「民族意識」と「分離主義」,有名な「アフリカ
帰還運動」そして自らが大統領となり「アフリカにアフリカ系アメリカ人の国を建国するため国
旗を掲げてのパレード」などの 1920 年以降にアメリカで展開されるガーヴェイの UNIA の活動
は,宣伝効果としてはある意味,有効だったに違いない。だが白人優越主義者からの標的にされた
ガーヴェイは FBI からは危険人物としてマークされ,また奇跡的に生き延びたものの二度も暴漢
に襲われ銃弾を受けるなど危険な目にあっている。貿易を目的に創設した蒸気船会社(Black Star
Line)の株で集めた運用資金に関わる郵便法で 1925 年別件逮捕後にアメリカから 1927 年国外退
去を命じられた彼だが,1930 年のエチオピア皇帝(ハイレ・セラシエ1世)の戴冠はガーヴェイ
の予言とも称賛され,またその後ジャマイカを中心とするアフリカ系の民族主義をその根幹に置く
ラスタファリズムを基にしたレゲエでは,その歌詞の中で彼を称えるものも多い。
以上が当時,ガーヴェイ自身と彼が設立したがアフリカ系大衆を惹きつけた UNIA の活動の概
要である。中でもガーヴェイのワシントンへの敬愛の念とその訪問の理由は,これまで「ガーヴェ
イのロンドン留学時代に偶然に手にしたワシントンの自伝 Up from Slavery(1901) に感銘を受けて」
また既述した「資金面および指導面での援助や助言を求めて」という歴史家,批評家筋が繰り返し
てきた解説が定説化しているものである。また両者の評価もガーヴェイが「強い民族主義と分離主
義」,それに対しワシントンは人種間では「穏健派で白人追従型」というイメージが一般化してい
るのは周知のことだろう。上記の大きく異なる二人の関係から特にガーヴェイがなぜワシントンに
惹かれたのかは疑問のままこれまで研究者の間でも放置されていたと言ってもよい。次章ではこの
問題をワシントンの再評価の中でまず検証していくことにする。
君塚:ガーヴェイとワシントンにとっての大衆・教育・自立
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Ⅱ . ブッカー・T ・ワシントンの再評価
2000 年以降に次々と Booker T. Washington Rediscovered (2012), Booker T. Washington and the Struggle
against White Supremacy (2008), Up from History; the Life of Booker T. Washington (2009), Booker T.
Washington, W.E.B. Dubois, and the Struggle for Racial Uplift (2002) など,ワシントンについての新た
な伝記や新解釈をする著書が出版され,再評価が進んでいる。まずここではワシントンの従来の解
釈について論じることからはじめたい。
白人主人の父親と奴隷の母親から生まれたブッカー・T ・ワシントンは,南北戦争そして奴隷解
放後の南部で,苦学してハンプトン職業訓練学校で学んだ後,自らアフリカ系アメリカ人のための
職業訓練学校タスキギー校をアラバマ州タスキギーに設立し,学生には The Self-Made Men を目
指させた。その経緯や努力について書かれた自伝 Up from Slavery はベストセラーとなる。だが同
時期に北部のアフリカ系の学者また指導者として活躍をしていたデュボイスとはその見解の相違か
ら「デュボイス・ワシントン論争」が繰り広げられ当時のアフリカ系社会を二分するほどに発展し
た。特に一般的に知られているのは,アトランタ万博 (the Cotton States Exposition in Atlanta,1895)
での彼の「奴隷制時代と変わらず白人に奉仕する黒人」を明言したスピーチで,デュボイスが著
書 The Souls of Black Folk (1903)おいても批判の対象として取り上げて攻撃したために,ワシント
ンはここで「白人のこびへつらう黒人」のイメージとして固定され,著書も多くあるにも関わらず
Up from Slavery のみが引用され,彼の求めるアフリカ系アメリカ人へのヴィジョンなどへの分析は,
学者や批評家筋からそれほど注目がされてこなかったことは事実であろう。
それゆえ 1950 年代半ばにおいても,ワシントンは「白人にこびへつらう黒人」を意味する蔑称
Uncle Tom にたとえられ,またその後 1960 年代においては民族主義を訴える活動家たちからは,
彼は「白人に仲間を売り払った裏切り者」とまで言われた (Jackson 32)。これはアフリカ系アメリ
カ人作家 Ralph Ellison(1914-94) の名作 Invisible Man(1952) の中でもワシントンを連想させる人物
の登場や場面設定がなされるが,言うまでもなくこの Uncle Tom のイメージであり批判的ある。
しかし 2000 年以降に出版され始めたワシントンに関する研究書では,このイメージを敢えて払拭
する目的で書かれたと言っても過言でないようこれまでのワシントン像を意識して否定し論を展開
している点は注目すべきところである。
たとえば Jackson は Booker T. Washington and the Struggle against White Supremacy の 3 章 Booker T.
Washington and the Psychology of “Black Survivalism” で Paul Lawrence Dunbar の ”We Wear the Mask”
や Marcus Garvey の Diplomacy を冒頭で引用した後,以下のように論を展開している。
The Tuskegee leader learned how to effectively deliver one speech to blacks and another one to
whites during the same presentation. This fact is very important because many historians have taken
a literalist approach in interpreting Washington’s speeches and writings. They simply argue that if he
said or wrote certain things, he meant them―literally. (Jackson 182)
これまでの歴史家がワシントンの発言を文字通りに受け取り,その内容から彼の人種間の方針を解
釈する。だがそれはあまりにも彼の巧みな交渉術を無視したものだ。これは人種差別に苦しみ続け
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茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)63 号(2014)
たアフリカ系がアメリカ南部で生き残る戦術でもあり,それを考慮せずしてワシントンの研究はで
きないと Jackson は主張する。また Lovett もワシントンの白人に対する巧妙な交渉術について指摘
し,“Washington was masterful when playing on whites’ racial prejudices. He knew which of their strings to pull;
which ones to leave alone; and which battles to fight. (Lovett 35)” と強調する。それゆえに Harlan は,ワシ
ントンは決して人種隔離や不平等に甘んじる訳でなく,それどころかアフリカ系が強い力をもつこ
と向上していくことを重んじて奔走しているのだと以下のように強調する。
While Washington publicly seemed to accept a separate and unequal life for black people, behind the
mask of acquiescence he was busy with many schemes for black strength, self –improvement, and
mutual aid. (Harlan 48)
一方,ワシントンについてのこれまでの評価を形成してしまっていると言える「アトランタ万博
でのスピーチ」についても Norrell は伝記 Up from History; the Life of Booker T. Washington(2009) の
中で,当時の人種的緊張を引用した上で独自の解釈を展開している。それはワシントンが職業訓練
学校を持ったタスキギーの町で起きた友人のアフリカ系弁護士 Thomas Harris が巻き込まれた事件
(June,1895) である。1890 年代の南部では黒人の投票権剥奪,黒人教育への反対運動が起き,アラ
バマでは 1891 年には教育における白人優遇措置の法律も通過した時期であり,人種間の緊張が高
まっていた。1895 年,街に白人牧師を招く計画をした Harris が人種平等主義者として目をつけら
れリンチ目的で地元白人たちに襲われ,ワシントンが学内に隠しその後に逃がすという事件が起き
ていた (Norrell 112-13) 。そのためワシントンは関係者から多くの助言をもらいスピーチにおいて
も,意識的に「過剰にへりくだった」スピーチをせざるを得なかったというのが以下の解釈である。
In the summer of 1895 Booker contemplated what he would say at the Cotton States Exposition.
Perhaps the frightening events of the Tom Harris incident in June shaped the careful tone he
eventually adopted, although ultimately what he said echoed themes he had long since embraced.
(Norrell 122)
また反対にこのスピーチで強調した「人種の違いは決して同じにはならず,分をわきまえる」とい
う発言を覆すことになる彼の行為に,南部白人が怒りを表す出来事もその後に起きるが,これにも
ワシントンの隠された意図を読み取るべきだと Bieze や Jackson は白人側の主張を例に出して解説
する。それは 1898 年 Peace Jubilee(Chicago) にワシントンが招待された際の席の位置で,その時は
マッキンレー大統領からはるかに離れた席だったが,1901 年に新大統領ローズベルトからホワイ
トハウスに招待された時には,彼は大統領と共に食事をするまでになる。南部白人は「社会ルール
を破壊し,ホワイトハウスを汚す恐るべきできごと」と怒り(Bieze 167)),別の南部白人は「白
人と黒人は違うとスピーチで語ったのに大統領と食事をするとは何事だ,招待されようとも辞退す
べき」と怒った(Jackson 57)。Bieze と Jackson がここで共通して指摘するのは,この彼の発言と
行動の矛盾は「矛盾」ではなくアフリカ系としての本音と建前,裏の顔と表の顔,表面的な計画と
隠された大いなる計略が一部表出したにすぎないと解釈すべきであるということである。
君塚:ガーヴェイとワシントンにとっての大衆・教育・自立
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そしてワシントンがいよいよその晩年に,黒人コミュニティを自ら回り,黒人の発展には多くの
解決を即座に始めなくてはならぬことを提言し始めるのは,彼の意図がいよいよ本格的に始動し始
めた故のことであると Bieze や Jackson は結論づける。彼がこの講演旅行 ( ミシシッピー州 1908,
テネシー州 1909, ノースキャロライナ 1910, テキサス州 1911, フロリダ 1912) でアフリカ系民衆
に語りかけたのはこれまで彼の白人との交渉では公に表されることがなかった①黒人個々の確立②
黒人の歴史の広い理解③黒人能力の白人からの分離であった。この「民族主義」,そして人種差別
ではなく白人に黒人の能力を提供するなという意味での「分離主義」は言うまでもなく,次章で再
確認するガーヴェイが 1920 年代に行う「民族主義」と「分離主義」にそのまま合致すると言える
だろう。またワシントンがこの講演旅行に力を注いでいたことは,体調が万全でない状態の中,旅
行を続け,その結果,命を落とすことになったことも紹介され,自身の真なる主張を大衆に理解さ
れようとしていたことが理解できる。
ワシントンは晩年にアフリカ系の歴史を民族独自の視点で語り直す The Story of Negro(1909) を執
筆するが Bieze のこの書への評価も,ワシントンの遺した仕事をガーヴェイが継承したことを連想
させるものである。“It is not only anger at the exclusion of Blacks from history that is striking but also
his desire to tell Black history as a global struggle.”(Bieze 168) そしてまた労働についても精神教育
を強調し続けてきた彼は,The Negro Problem の Industrial Education for the Negro の中で“It has
been necessary for the Negro to learn the difference between being worked and working—to learn that
being worked meant degradation, while working means civilization.”(Washington 5) と語る。ここで
はもう「白人のために働く」という「アトランタ万博でのスピーチ」の片鱗もなく,アフリカ系と
して個人としての誇り(つまり既述した①黒人個々の確立)に繋がるものであり,再評価によるワ
シントンの読み直しは納得の行くものである。
だが講演旅行において大衆へ「民族主義」と「分離主義」を説く一方で,それをカモフラージュ
するためのワシントンの巧みな戦略が窺えるのも見落としてはならない。最後に引用する白人の読
む一般雑誌へのワシントンによる以下の投稿は,人種間緊張か想像されるアメリカ南部でも,裕福
に暮らすアフリカ系はいて両人種は仲良くできることを強調している。この文章も,これまで検証
してきた点を考慮すれば,そのまま受け取ることは有りえないだろう。
“Negro Home”(The Country Magazine, May 1908, 71-79)
The first Negro home that I remember was a log-cabin about fourteen by sixteen feet square…. The
average person who does not live in the South has the impression that the Southern white people do
not like to see Negroes live in the South, as well as in the North and elsewhere; but as I have gone
through the South, and constantly come into contact with the numbers of my race, I am surprised at
the large numbers who have been helped and encouraged to buy beautiful homes by the best element
of white people in their communities (Bieze 162)
Ⅲ . ワシントンの再評価とガーヴェイから見えるもの
既に述べたようにこれまで「白人へ奉仕することでアフリカ系の存在価値を見る指導者」と解釈
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茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)63 号(2014)
されてきたワシントンと「1920 年代に強い民族主義と分離主義と訴えアフリカ系大衆を魅了」し
たガーヴェイには,検証もされずその共通性が見出されぬままであったことは事実だろう。それは
ガーヴェイのワシントンに対する敬意の念も断片的に曖昧のまま,それぞれが通説となった解釈で
そのまま二人が解釈されてきたと言えよう。それは残念ながらガーヴェイ研究者にさえも言えるこ
とで,Marcus Garvey: Message to the People(1986)の編者 Tony Martin でさえも ガーヴェイを評価
する上でワシントンの政治性について誤解した指摘を以下のようにしている。
If Washington had lived he would have had to change his program. No leader can successfully lead
this race of ours without giving an interpretation of the awakened sprit of the new Negro, who does
not seek industrial opportunity alone, but a political voice. The world is amazed at the desire of the
New Negro, for with his strong voice he is demanding a place in the affairs of men. (Martin 56) ここでガーヴェイの教育と信念を前掲書 Marcus Garvey: Message to the People より引用し,再度,
既述した晩年におけるワシントンの講演旅行でのアフリカ系大衆への主張と,その後ガーヴェイが
大衆へ主張した内容を検証しておきたい。
まずワシントンの①黒人個々の確立②黒人の歴史の広い理解においては「アフリカ系としての民
族意識」「人種の誇り」への喚起が込められていることが確かであろう。ガーヴェイはアフリカ系
大衆に向けた (Propaganda) (Living for something) の項目の中で以下のように訴えかけている。(以
下,Message to the People からの引用内の下線は論文著者によるもの)
(Propaganda)
Never allow your children to play with or have white dolls. It will give them the idea of having white
children themselves. Give them the dolls of their own race to play with and they will grow up with the
idea of race love and race purity. (129)
(Living for something)
Never allow any race to say that your race is not beautiful. If there is ugliness in a race, it is in the other
race, not in yours because the other race looks different to you. To the Anglo-Saxon the Mongol is ugly;
to the Mongol, the Anglo-Saxon is ugly. Compare the Anglo-Saxon and the Negro; it is the Anglo-Saxon
who is ugly, not the Negro. (159)
1960 年代のブラックパワーや公民権運動の中で語られた民族意識は,まさにガーヴェイのこの
教育と信念の焼き直しであるかのように思える驚くべき主張であるが,ワシントンの理論をより明
確に実践的に語ったものと理解でき,またその源がワシントンにも繋がる点は興味深い。また③黒
人能力の白人からの分離では,(Economy) の項目がそのまま合致する。
(Economy)
Never give your money away outside of your race. If you are called upon to give it to God, ask yourself
君塚:ガーヴェイとワシントンにとっての大衆・教育・自立
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if God is really going to give it to God. (88)
このようにガーヴェイは既に指摘した①②③というワシントンの主張と合う見解を展開すると同時
に,この点を成し遂げるためには個々の追及をするだけでは足りず,アフリカ系が団結するために
the U. N. I. A. のような団体に所属し,その目的を達成することが重要であると説くのである。
(The Five-Year Plan of the U. N. I. A.)
While no individual person can create a nation and government for the race, because each individual
is looking after his own personal and private business, there must be an organized cooperative effort
towards this end, hence the effort is represented by the U. N. I. A to which all Negroes must contribute
and with which they must co-operate. (192)
上記の (Propaganda) (Living for something) (Economy) (The Five-Year Plan of the U. N. I. A.)
についての引用のみを挙げても,ワシントンとの共通的が見出されると同時に,その内容は具体的
且つそれも日常的な生活の中での指示であることが容易に理解できよう。これは理論より実践とし
て理解しやすいだけでなく,大衆に訴える点では何よりも重要且つ効果的であり,これは大衆を相
手にその教育を通して自立(分離)への意識を高める目的でワシントンからガーヴェイに継承され
る形で行われたと考えてよいだろう。
Ⅳ . おわりに:アメリカ政府,W.E.B. デュボイスそして
1920 年代アメリカとワシントンとガーヴェイ
ガーヴェイが活躍した 1920 年代は「狂騒の 1920 年代」と称され第一次世界大戦後の社会で好景
気に浮かれたバブルの時代であった。物価は上昇し株や土地の価格は高騰し,自動車や家電製品,
映画産業など新たな文化が誕生して「アメリカ的な生活がスタート」した時代とも言われた。一方
で 19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて始まった新移民のアメリカへの大量流入は,1920 年代にな
るとこの好景気が逆に貧富の差を広げ,戦争中から始まる反戦運動が今度は労働運動へと移行し,
アメリカ政府を悩ましていた。そこへ戦争という愛国心が「100%アメリカ人」というスローガン
のもとに,移民や労働運動家たちへの排斥運動となり「豊かな時代」という表面的なアメリカとは
裏腹に政府による暴力的な対策がとられていた。
この時代のアフリカ系アメリカ人について述べるならば,周知のように既にアフリカ系の大移動
Great Migration の末にニューヨークのハーレムではハーレム・ルネッサンスを形作るアフリカ系
の作家や芸術家たちが活動し始めていたが,その一方,第一次世界大戦に参戦すれどもよくならぬ
人種差別そして格差貧困の問題に対してのアフリカ系大衆の不満は蓄積していた。またアメリカ南
部を拠点として始まり 19 世紀末には一時活動が絶えていた KKK であったが移民排斥運動や愛国
心のムードから復活していた。このような中で 1920 年に出版され話題になっていたのがロスロッ
プ・スタッダード (Lothrop Stoddard, 1883-1950) の著書『有色人種の勃興』(The Rising Tide of Color
against White World-Supremacy,1920) であった。1925 年に出版されたフィッツジェラルド(Francis
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茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)63 号(2014)
Scott Key Fitzgerald, 1896-1940)の『華麗なるギャッツビー』(The Great Gatsby)の中でトムによ
り「ゴダードの『有色人種帝国の勃興』」として語られる本のモデルとなった著書であるが(1925
年とはガーヴェイが逮捕された年であり,またアラン・ロック(Alain Locke, 1885-1954)が The
New Negro を出版した年),その中で彼がアフリカ系への脅威として警鐘を鳴らしているのは,中
でも 1919 年パリで開催された「汎アフリカ会議」(ちなみにこの会議にはガーヴェイやデュボイ
スも参加している)であり,彼らの結束し問題を討議している点,そしてそれに加えアフリカ系が
白人を含め他の民族とは「異なる」点を以下のように特に強調している箇所である。
An interesting indication of the growing sense of negro race-solidarity was the“Pan-African
Congress” held at Paris early in 1919. Here delegates from black communities throughout the world
gathered to discuss matters of common interest. (99 Stoddard)
Furthermore, the African negro does seem to possess a certain rudimentary sense of race-solidarity. (97
Stoddard)
From the first glance we see that, in the negro, we are in the presence of a being differing profoundly
not merely from the white man but also from those human types which we discovered in our surveys
of the brown and yellow worlds. (Stoddard 90)
ハーディング大統領は 1920 年に出されたこの著書を翌 21 年早々に引用し,既に他界していた
ワシントンに触れつつ,当時の人種問題についてスピーチをしている。ハーディングがワシントン
の考えを人種分離であると認識し公の場で語っている点は大いに注目すべき点である。Cronon が
著書で引用し指摘するのもその点で,彼はこの大統領のスピーチに「分離主義」を主張するガーヴェ
イが歓迎の電報を送ったと付け加えている。(以下の引用内の下線は論文著者によるもの)
In October,1921, President Warren G. Harding made a controversial speech on race relations while
visiting Birmingham, Alabama. Quoting from Lothrop Stoddard’s alarmist book, The Rising Tide of Color
against White World-Supremacy. Harding asserted his belief in the old Booker T. Washington ideal of
social separation of the two races. “There shall be recognition of the absolute divergence in things social
and racial,” the President declared. “Men of both races may well stand uncompromisingly against every
suggestion of social equality…. Racial amalgamation there cannot be.”(Cronon 194)
Cronon の見解がガーヴェイの視点からのみ語られているためガーヴェイとワシントンに共通する
分離主義まで踏み込んでないのは残念としか言いようがないが,そこには確実に(1)アメリカ政
府側からしてワシントンの動きが分離主義的に解釈されていたこと,そして(2)政府においても
二人に分離主義が継承されている点が認識されていること。(3)しかしその分離主義の解釈は二
人が最終的に求めている黒人能力の白人からの分離つまり強い民族主義の立場に立った上での「分
離」,決して「隔離」ではなく,力を持った上での「自立として分離」であることなどは理解して
いないだろう。そして前章で比較したように,元来,職業訓練学校の創立から始まるワシントンの
アフリカ系の発展への考え方が本質的に「現実的且つ具体的」であることは容易に理解できること
君塚:ガーヴェイとワシントンにとっての大衆・教育・自立
9
で,ガーヴェイの Message to the People における同様な「現実的且つ具体的」な記述にもその継承
の一端が認められると言えよう。
このワシントンとガーヴェイの分離主義と民衆を相手にした具体的な教育は,デュボイスとの関
係からいかに考えられうるだろうか。再評価の流れの中で出版された Jacqueline M. Moore によ
るワシントンとデュボイスを比較したユニークな書 Booker T. Washington, W.E.B. Dubois, and the
Struggle for Racial Uplift (2003) にて Moore は,元来はワシントンの支持者で後に「ワシントン‐デュ
ボイス」が始まると中立を保った Kelly Miller 教授の論を引用している。そこでは“Kelly Miller:
the debate between Washington and Du Bois did not have to split the black community and that both
approaches had merit.”(Meier 213-18) と,結局,彼はワシントンとデュボイスはアフリカ系コミュ
ニティを二分する議論を展開したが,どちらにもメリットがあったわけで論争の必要はなかったと
結論づけている。またそれと同時に,当時の状況を検証しアフリカ系たちはこの論争に辟易し,”
The question was no longer“How can we improve our situation?”but“How can we stop it from getting
any worse?”(Moore 89) としてこの論争をまとめている。
既述したようにワシントン再評価の中で「ワシントンの巧みな交渉術」が問題の1つとして指摘
されるが,「ワシントン・デュボイス論争」においてワシントンがいかに,彼のこの術を巧みに利
用したかは明らかでない。利用したとすればデュボイスも十分にそれを理解した上で論争に乗った
のだろうか。しかしデュボイスがワシントンの死後に登場したガーヴェイをその論争の次の相手に
し,無視され続けた挙句に,1921 年1月に掲載された The Crisis におけるガーヴェイへの公開質問
には U.N.I.A の資金管理に対する詳細な数字を入れた疑問が投げかけたこと,そしてこれに目をつ
けた FBI がガーヴェイの逮捕から国外退去への原因となってしまうことを考えると,どうしても
北部のインテリであるデュボイスが「ワシントンの巧みな交渉術」を理解していたかも,また政府
や白人優越主義者への何かの戦略として,敢えてガーヴェイに対して反目していたとも考えにくい。
このようにワシントン再評価はワシントン,デュボイス,そしてガーヴェイの関係を明らかにす
ると同時に,大衆への教育を通して実現を試みたワシントンとガーヴェイの間で継承された「民族
主義」や「分離主義」は,1960 年代以降に実を結び始める。しかし,その彼らの功績が評価され
るのにはまだ時間がかかると思われる。
本論文は 2013 年 11 月 9 日,英米文化学会第 144 回例会にて口頭発表をした原稿に加筆修正し
たものである。
また当研究は科学研究費にて助成を受けた「マーカス・ガーヴェイとハーレム・ルネッサンスの
黒人たち―その反目の裏と表」
(研究課題番号 24520269)の研究の一部として発表するものである。
【引用参考文献】
Beize, Michael Scott. Booker T. Washington Rediscovered. Baltimore: The Johns Hopkins UP, 2012.
Cronon, E. David. Black Moses; Marcus Garvey. Madison : U of Wisconsin Press, 1969.
Jackson, David H. Booker T. Washington and the Struggle against White Supremacy. New York: Palgrave
10
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)63 号(2014)
Macmillan, 2008.
Lawler, Mary. Marcus Garvey: Black Nationalist leader, Los Angeles: Melrose Square Publishing Company,1988.
Martin, Tony ed. Marcus Garvey: Message to the People. Dover: The Majority Press,1986.
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君塚淳一「マーカス・ガーヴェイとハーレム・ルネッサンス」(君塚淳一監修 英米文化学会編
『アメリカ 1920 年代ローリング・トゥエンティ―ズの光と影』金星堂 , 2004)
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