Comments
Description
Transcript
1 「貧困者の歩みの発展:新たな発展(開発)モデルを求めて:パキスタン
「貧困者の歩みの発展:新たな発展(開発)モデルを求めて:パキスタン、タイの事例か ら」 下川雅嗣 はじめに これまで数十年にわたって、全世界の発展途上国また第三世界と呼ばれる国々に対して、 先進国政府や国際機関、NGO において数多くの開発援助プロジェクト、貧困削減プログラ ムが行われてきた。しかしながら、未だに世界人口 60 億のうち、半数に近い 28 億人が 1 日 2 ドル以下、6 分の1にあたる 11 億人が 1 日1ドル以下の絶対貧困と言われる生活を強 いられており、中国とインドという 2 大大国の例外を除いては、ほぼ世界の全域で、この 貧困者の数は減るどころか増加している(UNDP、2004)。さらに、世界全体の貧富の格差は 拡大する一方である1。これだけ全世界で開発援助が行われながら、貧困解消があまり進ん でいないのはなぜだろうか。これに対して、国際社会・先進国の開発援助プログラム、貧 困削減プログラムは、先進国の人々の消費財及びそのための中間財や資源を大量かつ安価 に生産する拠点としての途上国経済をグローバル経済の中に組み込むためのプログラムで あって、貧困国が先進国と同じ経済レベルに発展することを、本気で貧困を無くす意思が ないと言う人もいる2。一方、たとえ世界全体の政治・経済構造的にはそのような位置づけ であったとしても、実際に開発援助機関や NGO で働いている人々の中に本気で貧困を無く したいと思っている人々が多数いることも事実である。しかしそのような貧困を無くした いという意思を持つ多くの人々でさえ、特に先進国の人々や途上国でも富裕層、すなわち 貧困者ではない外部者の場合、何か根本的な誤解をする傾向にあるのではないだろうか。 本来、development「発展」とは、自分たちが発展していくという自発性をもったもの で、今の多くの先進国はそうやって自ら発展してきた。つまり、他者が「開発」すること によって「発展」するという性質のものではないのかもしれない。最近は、開発援助にお いても「参加型開発」がしばしば提唱され、開発プロジェクトにおいて貧困者自身が参加 することの重要性が言われるようになってきたが、これにしても本当に貧困者の可能性を 大切にし、彼らの歩みを尊重しているとは言い難いように思う。またアマルティア・セン は、貧困者を開発の対象としてみるのではなく発展の主体(エージェント)として考える ことの重要性を主張している3。しかしながら、実際の開発援助の現場では、貧困者自身の 主体性も、よくて外部から持ち込まれた個々のプロジェクトの実施において尊重されるだ けであり、発展のプロセス全体において貧困者が主体となっているとは言えないように思 う。発展のプロセスを再び貧困者の視点から見直してみる必要があるのではないか。 そこで、実際に貧困の現場を見ると、貧困者自身の社会・経済・政治的スペースを広げ 世界人口のうち最富裕層 20%の平均所得と最貧困層 20%の平均所得の格差は、1960 年に 30 倍、1991 年に 61 倍、1997 年に 74 倍と拡大を続けている (UNDP、1994, 1999)。 2 例えば Ferguson (2004)参照。 3 アマルティア・センの貧困者を発展の主体(エージェント)として考え、発展を自由の拡 大として捉える考え方は Sen (1999)に詳しく論じてある。 1 1 自分たちの歩みを強くする動きが力強く存在する。下川 (2007)は、この動きの特徴を、① 共同性が大切にされ、多くはコミュニティを基盤とした取組みであること、②創造的な試 みであること、③貧困者同士の経験交流などの学び合いのプロセスで広がっていること、 ④目的重視というよりはプロセス重視の傾向を持つこと、とまとめている。しかしながら、 これらは普通、多くの開発援助プロジェクトではほとんど無視され、場合によってはかえ ってそのプロジェクトによって潰される場合もある。本論文では、この広がりつつある貧 困者自身の歩み(以後、People’s Process と呼ぶ)の中から特にメッセージ性が高いパキス タンとタイの People’s Process の発展の事例を紹介し、さらにこのような People’s Process の発展が貧困者のグローバルなネットワークを可能にし、国家政策やグローバルな環境を 変える可能性があることを示し、それを通して、People’s Process の発展による新たな発展 モデルの可能性を提示したい。 本論文での議論は、鶴見和子の「内発的発展論」と密接に関係する議論であると言えよ う。鶴見は、その著書で「内発的発展とは、目標において人類共通であり、目標達成への 経路と創出すべき社会のモデルについては、多様性に富む社会変化の過程である。共通目 標とは、地球上すべての人々および集団が、衣食住の基本的要求を充足し人間としての可 能性を十全に発現できる、条件をつくり出すことである。それは、現在の国内および国際 間の格差を生み出す構造を変革することを意味する。そこへ至る道筋と、そのような目標 を実現するであろう社会のすがたと、人々の生活スタイルとは、それぞれの社会および地 域の人々および集団によって、固有の自然環境に適合し、文化遺産にもとづき、歴史的条 件にしたがって、外来の知識・技術・制度などを照合しつつ、自律的に創出される。した がって、地球的規模で内発的発展が進行すれば、それは多系的発展であり、先発後発を問 わず、相互に、対等に、活発に、手本交換がおこなわれることになるであろう」(鶴見、1980: 193) と述べている。この内発的発展論は 1970 年代から 80 年代にかけて、主として近代化 論との対抗関係の中で注目されたといえる。ところが、80 年代以降あまり聞かれなくなっ ている。これは内発的発展論が消えていったというよりは、地域の個性を主張する地域主 義に展開していったとも言えるであろう(西川、2000:67)。実際に、内発的発展のアジア における展開として、西川(2001)はアジアにおける事例を収集して個別に、すなわち地 域主義的に紹介している。しかしながら、内発的発展が地域主義に還元されてしまったと したならば、現在急速に進展しているグローバル化、特に経済偏重、企業活動偏重の市場 至上主義的な、いわゆる新自由主義的グローバリゼーションの中で埋もれてしまい、最終 的には内発的発展論というものは消えてしまうのではないだろうか。そこで本論文では、 80 年代以降地域主義へと還元されつつある内発的発展論の原点に戻り、国内および国際間 の格差を生み出す構造の変革につながっていくグローバルな視野をもつ内発的発展を再び 復活させる可能性とその条件を模索するものであると言える。 以下、まずパキスタンにおける People’s Process の発展の事例を紹介する。パキスタン は政府の力が弱く、巨額な累積債務のため特に開発・経済政策において国際機関の強いコ 2 ントロール下にある。そのような状況の中で政府によらず自分たちの力でスペースを拡大 する動きを中心とした People’s Process の発展の事例である。次にタイにおける People’s Process の発展を紹介する。タイにおいては早くから People’s Process が比較的育っており、 それを基盤にした発展を国家の開発戦略の一部で受け入れている。これによって、貧困者 と政府のパートナーシップが確立され People’s Process の発展が一挙に加速する例として の紹介である。続いて第 3 節では、これらの People’s Process がどのようにグローバルな 経験交流を行い、ネットワークを構築しつつあるかについてその実践を紹介する。これが グローバルな視野をもつ内発的発展を再び復活させる可能性に繋がる。最後に、現代の特 に経済を中心としたグローバル化の時代において、各地の貧困者たちが生き抜くため、そ して今の先進国の歩んだ道とは異なる新たな発展を実現するための鍵となることを、それ までに紹介した事例の中からまとめる。 1.パキスタンのオランギ・パイロット・プロジェクト(OPP)の試み パキスタンは、人口 1 億 5 千万人で、世界銀行によれば一人当たりの国民総所得(GNI) は約 600 ドル(2004 年)で低所得国に分類されている。また国際的貧困ラインである一日 2 ドル未満人口は全人口の 65.6%に及ぶ(UNDP、2005)。これまでの日本を筆頭とした多額 な二国間援助及び国際金融機関からの援助の結果、2001 年にパキスタンの累積対外債務は 365 億ドルとなり、この対外債務のほとんどは公的債務で、これは国家の GNI の 50%を超 えた。その過程の中で、パキスタン政府はしばしばデフォルトの危機に追い込まれ、この ため国際通貨基金(IMF)の構造調整プログラムを幾度も受け入れざるを得ず、このため 保健衛生と教育の分野の助成金は大幅に削減さており、貧困対策への補助金は 1991 年 52 億ルピーだったものが 2001 年には 2.8 億ルピー(約 490 万ドル)に削減され、しかも 1998 年から 2002 年の間に、最低所得層の税金が 4%増え、最高所得層の税金は 21%減少し、貧 困者の生活は困窮を極めている。さらには貧困削減プロジェクトの 70%は、国際金融機関 からの融資か二国間援助の融資であり、債務は膨れる一方でより一層パキスタンを貧困化 し、パキスタン社会は、特に貧困者を中心に大きな苦しみの中にある(Hasan、2003:154)。 このような状況に直面しているパキスタンは、いかにしてこの状況を改善できるのであ ろうか。そのためには、まずパキスタンのありのままの現実を認めることからはじめ必要 があるであろう。すなわち、パキスタンの都市人口の 55%はインフォーマル定住地に住ん でおり、彼らの生活状況は劣悪でありはするが、彼らは生きるために必要なすべてを自分 たちで行っており、その中でその試みの幾つかは大きく発展していているという現実があ る。すなわち、現実には草の根で People’s Process がすでに育っているのである。この節で は、そのような例としてオランギ・パイロット・プロジェクト(Orangi Pilot Project:OPP) の試みを紹介することによって、People’s Process が独自に育っていることを示すと同時に、 グローバル化が進む中でいかに地域コミュニティが生き延び、政府によらず自分たちの力 で People’s Process の発展が可能であるかを考察する。 3 OPP は、カーン(Akhter Hameed Khan)博士4が中心となり、1980 年に、当初はカ ラチのオランギ地区(当時住民約 90 万人の不法占拠地区で、現在約 120 万人)の貧困者の 生活改善を目指して設立された NGO である。カーン博士とその回りに集まった中心メンバ ーの思想の根本には、「貧困の中にある人々の中に無限の可能性と光がある。特に人々が協 力して一緒に何かを自分たちでやるところに可能性がある。それを発見し、回りに伝える ことによってよいものは自ずと広まる」という信念があった。この信念が OPP の多くの試 みの一つ一つに具現化されているわけであるが、彼らが人々と関る際の具体的姿勢の特徴 としては、まず人々の中に入って、人々が何をしているのかを見る。その中でうまくいっ ているもの、すなわち自分たちの力で発展できているものを探す。それを最大限尊重した 上で、場合によってはその実践に専門家としてのアドバイスを加える。そして、そのよう なよい実践が広がるように手伝うのである。一方、人々が自分たちで歩もうとする際に何 が障害になっているかを見つけ出すことも大切にし、その除去を人々の力で如何に実現す るかを考えるのである。もう一つの際立った特徴としては、貧しい人々に対して、行政が やってくれるのを待つのは時間の浪費であり、自分たちで解決を見出すこと、すなわち自 立的な空間や制度の構築の可能性を常に志向している点であろう5。 最初の 2 年間は、OPP のスタッフはオランギ地域をただ歩き回り、お茶を飲みながら 人々と話すだけだったと言う。そうやって見出したオランギにおける大きな問題は、①下 水、②雇用、③健康、④教育、の4点で、そのうち住民が一番改善を望んでいたのは下水 問題であった。OPP が提案した下水プロジェクトは、一つの路地(20 世帯くらい)に面す る住民が一緒になって家の中と路地の下水道を作り、費用も住民が負担するというもので あった。その際、オランギ地域内ですでに自分たちである程度うまくやっているところも あり、それをモデルにして OPP は若干の技術的なサポートをするだけであった。実際にこ れがうまく行きだすことによって、行政に要求する、または行政がやってくれるのをただ 待つという姿勢がオランギ地区から徐々になくなっていき、さらに各路地から自然排水路 までの比較的太い下水管をも自分たちで作っていくという運動になっていった。こうして、 住民の側が本来行政の仕事とされる領域まで踏み込み、彼ら自身が自分たちで出来るとい う力を示すことによって、逆にこれまで何もしなかった行政は初めて動かざるを得なくな カーン博士は、1963 年に旧東パキスタン(現バングラディッシュ)のコミラ県において、 農村開発の功績によりマグサイサイ賞を授賞した。国家の大規模的かつ一方的な開発方法 に対し、小農が地域規模でまとまり、自らを組織することによって新しい制度をつくりだ すことが唯一の貧困脱却の方法であると説いた「コミラモデル」は、その後第三世界の開発 政策に大きな影響を与えた。OPP を貫く思想はコミラモデルに通じるものがあり、コミラ モデルが農村における貧困脱却の一つのモデルであるならば、OPP モデルは都市における 貧困脱却の一つのモデルである。コミラモデルと OPP に一貫するカーン博士の思想につい ては、Khan (1998)を参照。 5 ここに述べた信念や特徴は、筆者が 1997 年 11 月、2003 年 8 月、2004 年 3 月に OPP を 訪問し、前述したカーン博士や OPP の顧問 Arif Hasan 氏, OPP の事務局長 Perween Rahman 女史らと話し、彼らがしばしば強調したことをまとめたものである。 4 4 り、その先の自然排水路の下水幹線としての整備を行うことになっていったのである。 この成功の噂を聞いて、カラチの他のスラム地区の住民、そしてそれだけでなく全国か らスラムのリーダーや NGO などがやってくるようになり、この住民自身による下水道敷設 運動は、全国に広がっていった。OPP の下水プロジェクトが成功している要因のひとつは 図面作成と見積もりの作成にあると言われている。つまり、技術的な基盤があるのである。 この技術的基盤の構築のやり方もOPPらしい。下水プロジェクトが始まったとき、まず オランギの下水道マスター・プランを作ることになった。その際、国連開発計画(UNDP) が来て、専門の外資系コンサルタント会社に頼むように提案してきたが、OPP は外資系コ ンサルタントではなく、カラチの大学生が貧困の現場との接点を持つ場を提供する機会と 考え学生に頼んだ。建築学科の学生とスラム内の人々が一緒になって、オランギの道と傾 斜と設置済みの下水についての調査をした。しかしながら、その後 OPP は、学生は卒業す ると自分たちの生活が重要になりスラムから離れていくとのことで、1991 年以降は学生へ の呼びかけはやめて、スラム内の若者に直接アプローチし建築家を養成するようになった。 具体的な訓練の内容は調査、草案、記録、測量、設計、見積もりのすべてである。それ以 来、スラムの若者がスラム街の図面作成を続けている。彼らはカラチに既にある自然排水 路の傾斜や幅、浸水、主な下水道や雨水配水管の入り口について調査し、図面を作る。2004 年までにカラチ市の 539 箇所のスラムのうち 332 箇所の調査と図面が完成した(Rahman、 2005:63)。またカラチの41の自然排水路の図面も作られた。 この OPP のやり方に対して、アジア開発銀行(ADB)、世界銀行、UNDP などの国際 援助機関が、開発プロジェクトとして下水道システム整備を行う際には、普通、既存の住 民による下水管や自然排水路を無視6し、代わりに道路の下に下水本管を敷設し、そこから 各路地、各家に新たに下水管を繋げ、勾配が逆なところは必要なところにポンプを設置す るといった計画を立てるのである。このようなプロジェクトは以下に述べる3つの大きな 問題を生じさせる。 まず、現実がわからないままプロジェクトが立案されていることである。実際に一度も コンサルタントが現場に来ずに設計図が描かれた例もあるという。その結果、例えば、そ の地域の道路が尾根伝いにあったとしてもそこに下水本管を敷設し、勾配が逆なので下水 が逆流してはじめて、ポンプをつけるということもあったと言う。さらに、多くの地区で は電力供給が不安定で必ずしもいつもポンプが動くわけではないということが考えられて おらず、また、もしポンプが壊れても住民の手で修理をすることがかなり難しいことも考 慮されていない。実際に、カラチの一つのスラム地区であるバルディア地区の ADB 融資の 下水プロジェクトでは、雨季にポンプが壊れ、下水が逆流してあふれたマンホールに子供 6 日本の下水道の発展の歴史を見ると、その過程において、自然排水路を無視して新たに下 水本管を設置するようなことはあまり行わず、自然排水路に蓋をして、その上を遊歩道に するようなケースがかなり多い。にもかかわらず以下の例のように日本の ODA では、自然 排水路を使いたがらないのである。 5 が落ちて死亡する事故も起きたと言う。もう一つの問題は、たとえこのような失敗がなく 国際金融機関等によるプロジェクトが成功したとしても、そのプロジェクトはこれまで住 民が敷設した下水を無視したものであるために、かえって住民の自信と自分たちで何かを やろうとするやる気を失わせ、People’s Process を潰していくのである。これに対して、自 分たちの作ったものがそのまま活用される発展は、自分たちの自信と今後の主体的、創造 的な発展へと道を開くのである。そして第三番目に、これまで住民たちが敷設した下水を まったく無視し、またポンプを使い、さらに計画においては先進国のコンサルタント会社 を用いることから費用が膨大にかかることである。例えば、オランギ近隣のコランギとい うスラム地区に対する ADB の下水プロジェクトの全体予算は約 1 億ドルで、そのうち ADB 融資が 7000 万ドルで、州政府負担が 2600 万ドル、受益者負担が 400 万ドルの予定だった。 これに対して OPP が住民たちの敷設した下水管と自然な傾斜及び自然排水路を利用して作 った代案は、約 15%の 1500 万ドルの予算で済むため、融資が不要であることが示されて いた。普通、国際機関等が持ち込むこうしたプロジェクトを政府が拒否するのは非常に難 しい。しかしながら 1999 年にはじめて、OPP はこのコランギに ADB が持ち込んだプロジ ェ ク ト に 対し て 代 替 案を 出 し 、 政府 に そ れ を認 め さ せ るこ と に 成 功し た ( Hasan 、 1999:104-107)。これは、前述した OPP の持つこれまでの住民敷設の下水管と自然排水路 の詳細な図面の技術的基盤があったことと、さらに前述のバルディアでの子供の死亡事故 に怒った住民たちが、ADB 融資の下水システムのマンホールをすべて埋めてしまうという 事件があり、最終的には ADB の謝罪等も行われたのだが、その影響もあったのではないか と思われる。 OPP は現在では、各家内、各家から路地まで、路地から自然排水路までの下水システム の 敷 設 を 内 部 開 発 ( Internal Development ) と 呼 び 、 そ の 先 を 外 部 開 発 (External Development)と区別し、内部開発は住民が行い、外部開発は政府が責任を持つべきだとす る「役割分担モデル(component sharing model)」を提唱している。OPPの計算による と ADB 等の国際機関の下水プロジェクトの場合は 1 世帯あたり 900 ドルの費用がかかるが、 この「役割分担モデル」を用いたら、内部開発の住民たちの負担分が1世帯あたり 30 ドル、 外部開発の政府負担分を 1 世帯あたりにすると 130 ドルの合計 160 ドルで済むと言う。ま た外部開発に関しても、多くの国際機関や外資系企業の提案とは異なり、自然排水路を用 いることで、ポンプを用いずできるだけ自然の傾斜を利用し、また自然排水路に蓋をして 遊歩道なり子供たちの遊び場にする「外部開発 OPP 型モデル」を提唱している。巨額な累 積債務が開発援助によってさらに膨らみ、それが貧しい住民たちの将来の負担になること が予想される状況の中では、このような「役割分担モデル」と「外部開発 OPP 型モデル」 を用いた開発が唯一の選択肢であると OPP は主張している。 ロビー活動や実際にスラム住民たちによって各地で内部開発が進んでいること、また OPP はこのための技術的基盤を持っているという実績が評価され、1997 年以来、OPP の 下水モデル(「役割分担モデル」と「外部開発 OPP 型モデル」)はカラチ市上下水道局 6 (Karachi Water & Sewerage Board:KWSB)やシンディ州各地で次第に認められるよう になった。そして、2002 年 11 月パキスタン全 4 州のうち最大の人口を持つパンジャブ州 においても州政府は OPP の「役割分担モデル」を、スラム居住環境改善方法として採用す ることとした。それに伴いパンジャブ州政府は、ADB を通してやることになっていた 21 都市の 425 スラム地区、UNDP を通してやる予定だった 3 つの都市のスラム地区の下水道 整備に OPP モデルを用いることとなった(Rahman、2005:63)。一方、「外部開発 OPP モ デル」については、1999 年シンディ州と KWSB は、カラチの 47 スラムの下水計画におい て採用を決定し、2004 年、OPP は下水システム全体に関するシンディ州の政府コンサルタ ントに任命された。そして、この下水道整備の OPP モデルは、今やパキスタン国内だけで はなく、ネパール、インド、カンボジア等へも広がってきている。 以上、OPP が最初に取り組んだ事業が下水道の問題だったので、下水道敷設を通して、 OPP の姿勢によってどのように People’s Process に沿った発展がなされてきたかを記述し てきたが、これは実は OPP のやってきたことの一例にすぎず、OPP は同様に「既存にある ものの中で良いものを探して、必要ならばそれに技術的サポートをし、みんなに真似をし てもらうことによって自然に広がって行く」という People’s Process に沿ったやり方で、下 水以外の居住環境の問題のみならず、教育、保健衛生、仕事、マイクロクレジット、マー ケットへのアクセス等の様々な問題に取り組んで、People’s Process の発展を促している。 そして上述した役割分担モデルも、いまや上水道、電力供給、ゴミ処理、砂漠化防止のた めの植林、教育、健康、仕事づくりにも応用され、そのあるものは、すでに行政にも承認 されている。 このように People’s Process に沿った OPP のやり方は、地理的にも領域的にも急速に 広がってきているが、OPP のやり方が可能になった鍵は、①OPP の住民がやっていること を大切にする姿勢と②住民をサポートする技術的基盤が重要だったと言えよう。よってパ キスタン全土で OPP モデルによるスラム改善を成功裏に実現していくためには、単に行政 がこのモデルを採用しただけでは無理である。このためにOPPが取った方策は、全国各 地に OPP の支部を作り自分たちの組織を拡大することではなかった。その代わりにOPP は各地でできるだけ People’s Process を大切にしながら活動している既存の NGO や住民組 織を探し、そこに OPP の考え方を伝えると同時に、スラム住民が自分たちで図面作成や下 水道敷設等が出来るように指導する人を育て、各地に出来るだけ OPP と同じようなビジョ ンを共有できる独自の組織を育てていくという方法を選んだ。ここにも既存のものをでき るだけ尊重し、その良さを活かすという OPP らしい姿勢が貫かれている。現在、シンディ 州とパンジャブ州を中心に、27 の組織が OPP と考え方とやり方を共有しており、彼らはコ ミュニティ開発ネットワーク(Community Development Network:CDN)というネットワ ークで繋がっている(Rahman、2005:64)。このネットワークはお互いの学びあいの場とし て機能するだけではなく、州政府レベルでの政策変化を実現するための大きな影響力とな ってきている。 7 2.タイの都市コミュニティ開発事務局(UCDO)とコミュニティ組織開発機構(CODI)の 試み タイで本格的な経済開発が始まるのは 1960 年代である。1958 年、軍事クーデターによ って軍事独占体制を固めたサリット政権は、軍事政権下で上からの開発、すなわち民間主 導、外国資本導入による工業化を中心とした経済開発を進めた。その後幾度かの軍事クー デターにもかかわらずこの経済開発戦略は継続し、その結果国全体としては 1960 年代 8.7%、70 年代 7.3%、80 年代 7.1%と高い経済成長率を維持してきた。一方で、この過程 において都市部では60年代以降スラムが急増し、また農村部の貧困も拡大し、貧富の格 差の拡大は著しいものがあった。これに対して、タイの都市スラムコミュニティは、まず 強制撤去に抵抗することによって彼らの組織を強化し、次第に貯蓄・信用グループの強化、 それらの連盟の構築、そして地域を越えたネットワークの構築、また種々の問題に対応す るための都市貧困者組織のネットワークをつくることによって、彼らの歩みの前に立ちふ さがる障壁を一つ一つ乗り越えながら、People’s Process を発展させてきた。農村部におい ても、化学肥料の促進など農業の近代化によってかえってより貧しくなった農民や巨大ダ ム開発や天然資源開発によって追い出された農民たちや追い出しの危機に直面している農 民たちが自分たちの組織を創出し、その強化、ネットワーク化を行ってきた。しかしなが ら、彼らの直面する大きな問題を解決するためには、政府に対してもっと強力な圧力をか ける必要のあることが意識されだし、90 年代後半以降、農村と都市の貧困者運動が共同歩 調をとり、全国の貧困者グループのネットワーク組織である「貧民連合(Assembly of the Poor)」が結成された。一方、タイ政府内でも、そのような People’s Process を強くしてい くことこそが真の国の発展につながるというビジョンに基づいて、貧困者の People’s Process をサポートする政府機関である「都市コミュニティ開発事務局(Urban Community Development Office: UCDO)」が 1992 年に創設された。さらに UCDO は、People’s Process をより発展させるためには、農村部の貧困者コミュニティとも一緒に歩むことが重要とい う考えから、2000 年に「農村開発基金(Rural Development Fund)」と合併して、 「コミ ュニティ組織開発機構(Community Organization Development Institute: CODI)」とな った。タイの貧困者コミュニティは自分たちの発展経路を自らで創りだし、さらに部分的 に政府とパートナーシップをとり、彼らの政治的、経済的状況を改善する道を歩んでいる と言えよう。この節では、まず他の国では例を見ない政府機関 UCDO 及び CODI の取り組 み7、そしてこれらが依拠する考えを詳細に紹介し、このビジョンがどのように実現されて きているかをも紹介する。これらによって、グローバル化の波の中にあってもタイにおい て People’s Process が強く育っていること、そしてそれを促進する外部者の支援のあり方を 示すことを目的とする。 1992 年、タイ政府は 12 億 5000 万バーツ(約 50 億円)を国家予算から支出して、 「都 7 UCDO と CODI の歴史及び詳しい内容は、Boonyabancha (2003)を参照のこと。 8 市貧民開発基金」を設置し、その運営主体として、 「都市コミュニティ開発事務局(UCDO)」 を創設した。主な事業は、都市スラムコミュニティで組織された住民信用貯蓄グループに 対する回転資金の融資である。これは、その当時すでに多くのスラムコミュニティは何ら かの住民信用貯蓄グループを持っており、これらの貯蓄グループに回転資金を融資するだ けで一挙にスラムコミュニティが安定化し、自分たちの力で土地・住宅の取得が容易にな り、さらには小規模事業が始められ、スラムコミュニティが発展し、このような People’s Process の発展はタイ全体の発展につながるだろうと言う考えに基づいている。UCDO は、 国家住宅公社の下に置かれてはいたが、独立した意思決定機関である理事会を持っており、 この理事会の構成に大きな特徴があった。この理事会の構成員は 9 名で、3 名は政府代表、 3 名は民間代表、そして残りの 3 名はスラムコミュニティによって選ばれるスラム住民代表 であり、このように、意思決定の中心に政府代表と民間企業代表等とともにスラムコミュ ニティメンバーがいることは、貧困者自身のスペースを拡大し、People’s Process の発展に 大きく寄与した。UCDO は、People’s Process の発展のために回転資金の融資のみならず、 住民組織化の促進、貯蓄グループの設立支援等も行っていった8。1995 年頃からは、それま での経験を通し、People’s Process の発展のためにはスラムコミュニティがいろいろなレベ ルや領域でのネットワーク組織を構築することが重要であると意識されだし、積極的にス ラムコミュニティのネットワーク化が行われた。1992 年の発足から 2000 年までの 8 年間 で、コミュニティ間の経験交流を中心とした研修やワークショップが 350 回以上もたれ、 タイ全国 75 県のうち 53 県内で 950 のスラムコミュニティに新たな貯蓄グループが設立さ れ、100 以上のコミュニティネットワーク組織が構築された。その後 UCDO は、農村部の 貧困者コミュニティとも一緒に歩むことが重要という考えから、2000 年に「農村開発基金 (Rural Development Fund)」と合併し、 「コミュニティ組織開発機構(CODI)」となった。 この UCDO と CODI の試みにおいては一人の重要な人物の考えがかなり大きな影響を 与えている。UCDO 設立のために働き、UCDO と CODI の 2006 年末現在まで一貫して事 務局長を務めているスムスク(Somsook Boonyabancha)女史である。彼女の考えは、タ イの People’s Process を強めるために大きな影響力を持っただけでなく、この影響力は多く のアジア諸国そしてアフリカ諸国での People’s Process の発展にも及んでいるので、彼女の 考えを、筆者が 2003 年 2 月に行ったインタビューをもとにまとめてみたい。 《基本的考え方》 スムスクの基本的考え方の本質を一言でまとめると、 「貧困者コミュニティが形成され、 強くなり発展し、さらにそれらのコミュニティがネットワークを作ることによって互いに 経験交流をしあいながら、さらなる発展を自分たちの歩みで行っていくこと、貧困者自身 が社会的、経済的、政治的スペースを拡大していくことによって自分たちの歩みで貧困か ら脱却していくこと、すなわち People’s Process の発展こそが真の発展である」という考え これ以外にも UCDO は、コミュニティ・ビジネスの促進や、それらのマーケットアクセ スへのサポートなども行っている。この試みに関しては下川 (2006)を参照のこと。 8 9 に集約されるであろう。 この考え方に基づいて、政府の貧困者及び貧困問題に対する従来のやり方を変えたいと 考える。政府が専門家に依頼して問題を発見・認識し、その問題に対してやはり専門家に 依頼して解決策をつくり実施するというのが従来の政府のやり方である。もちろん最近で は、専門家だけではなく、「参加型開発」という手法で言われるように貧困者自身に話を聞 くことも多くなっている。しかしながら、この一連のやり方の流れ自体を変えようとはし ていない。ひどい場合には、建前上貧困者を参加させようとすることさえある。また NGO であってもほとんどは、同じような一連のやり方で貧困者・貧困問題に関ってくる。これ に対して、新しいやり方は、まず社会構造の中に貧困者コミュニティのスペースを作るこ とである。貧困者たちは、実は自分たちのコミュニティの中に大きなエネルギーを持って おり、もし彼らが社会構造の中にそのエネルギーを出すことのできるスペースさえ持てば、 あとは自分たちで始めることができると考えるからである。その際、政府も含めて外部者 は、People’s Process を強くするという方向性だけを意識し、あとはストラテジーの可能性 を提示するのみで、それ以上の細かい方向性、プロジェクトは持ち込まないのである。 《プラットフォーム(基盤)作り:外部者の姿勢》 外部者の役割は、貧困者のスペースを創ることである。なぜなら貧困者のスペースを狭 める社会構造になっているのは一般的に社会のエリート層に主たる原因があり、外部者は 基本的にはそのような人たちであるから、彼らのスペースが広がるようにする責務がある のである。そして、貧困者のスペースを創造・拡大するためには、プラットフォーム(基 盤、拠点となる場)作りが重要である。このプラットフォームを作る目的は2つある。一 つは水平的学びあい(horizontal learning:貧困住民どうしの経験交流による学びあいのこ とで以下「水平交流」と呼ぶ)を行うためである。貧困者の学びのプロセスにおいては、 誰か専門家や外部者が教えるのではなく、コミュニティ内で、またコミュニティ間、地域 間で学びあうことが重要かつ効果的である。そしてこの水平交流を通して彼らの自己尊厳 の回復にもつながるわけだが、このためにはプラットフォームが必要なのである。もう一 つの目的は、行政と交渉する場が必要なのである。行政と貧困者コミュニティまたはその ネットワークとの接点において、はじめて社会構造の中での貧困者のスペースが生み出さ れるからである。これらの目的のために、様々な規模、レベル、領域(課題)でのプラッ トフォームを数多く作っていくことが重要である。外部者としては、今どんなプラットフ ォームを促進しようとしているのか、そして社会構造に変化を起こすためにはどのプラッ トフォームを促進することが効果的かを考え、意識し続けることが重要である。 《People’s Process のスピードとグローバル化した現代社会の緊張》 上述したようなプラットフォーム作りを外部者が意図的に促進する場合には、危険性も ある。現実には、コミュニティの歩むスピードはそんなに速くない可能性が往々にしてあ るからである。一方、People’s Process を育てようとする際には、現代のように一部の社会 が高度に産業化し、富が集中し、かつグローバル化したような状況においては、ふつう貧 10 困者たちの前には、既存の社会構造によって作られている大きな障壁が立ちはだかってい ることが多い。それを打ち破るためには、数少ないチャンスを活かさなくてはならない。 少なくとも外部者からはそう思える。コミュニティの歩むスピードが遅いと外部者から見 て絶好のチャンスを逃すように見える場合もある。だからと言って、外部者がそのプロセ スを仕切りだしたら、それはもう外部者のペースとなり、People’s Process ではなくなる。 すなわちコミュニティの歩むスピードと外部者の考えるスピード、またグローバル化され た社会において People’s Process が生き延びるために要求されるスピードは違うのである。 このようなジレンマにおける最低限の鍵は、 意思決定するのは誰か ということであろう。 外部者としては、スピードアップのために住民を後押しする必要はある。具体的には、彼 らに対して、いろいろな選択肢を提示する、関連する情報を出来るだけ多く伝えるなどで ある。しかし、最終的には貧困者自身、コミュニティ自身の決定でないといけない。そし て外部者としては、ときどきこれをきちんと評価する必要がある。そのうえで、コミュニ ティの歩みを速めるために非常に効果的な手段としてわかってきている方法は、上述した 水平交流である。例えば、一つのコミュニティ、一つの地域のネットワークの歩みだけで は10年かかる People’s Process の発展を、別なコミュニティや地域でもっと先に進んでい ると思われるところとの水平交流によって、2 年ほどに加速することができる。ただし、そ の場合にも、外部者はその可能性を提示するだけで、実際にその場に行くか行かないか、 水平交流後どうするかの決定は貧困者たち自身によってなされることが重要である。 《すべての人の心の中にある「政府」との闘い》 貧困者にとって政府とは、自分たちをコントロールし、命令し、時に排除しようとする 存在であるので、普通、貧困者は政府が嫌いである。そして、多くのこれまでの運動は、 その政府との闘いが中心だった。しかしながら、この『政府』、すなわち他者をコントロー ルし、命令し、時に排除したい心の動きは人々(住民組織)の中、NGO の中、一人一人の 心の中にあることに注意を払うべきである。政府や国際機関はもちろん、NGO などの市民 団体だけでなく、政府と闘っている運動団体の中にでさえ、その闘いのプロセスの中で、 貧困者をコントロールしようする動きが出てくる。また貧困者自身のコミュニティの中で も、あるリーダーや少数の人が他の人々をコントロールしようとする動きが出てくる。 People’s Process を育てるためには、いろんなレベルに存在するこの『政府』と闘わなけれ ば、どこかで行き詰まるのである。過去、タイにおいては、社会の不正を正すことや階級 闘争を意図したイデオロギーの基づいた政治運動がたくさんあった。しかし、その多くは、 貧困者をコントロールし、時に力ずくで、トップダウン的に理念や理想を押し付けてきた ため、これらはすべて目的を達せずに失敗した。そのような運動では、大概の場合、人々 の創造性とそのエネルギーは窒息してしまうからだ。よって、この経験を肝に銘じて、外 部者の役割を、貧困者自身の中にあるエネルギーと創造的なイニシアティブを発見し、そ れをサポートすること、またそのような動きを地域内、地域を越えた国内、または国を超 えて繋げていくことだと考えている。 11 《持続的発展に関して》 一般的に国際機関、先進国、国、先進国 NGO の貧困者への政策や開発プロジェクトは 「あげるーもらう」の構造を持っているが、これは持続的発展にはつながりにくい。この 構造を変えるには、People’s Process 以外はありえない。これまで貧困者を巻き込んだ多く の運動が生まれたが、多くは一時的で消えていった。その中で持続的なものは、貧困者自 身に根を持ったプロセスだけである。木がしっかり根を地中に張っていたら、地上部分が 切られても死なずに、また生えてくるというのと同じである。持続的発展のためには、貧 困者自身に根を持った People’s Process を文化にしていくことが重要であるし、そのような 文化をつくるためには、可能なときに、貧困者自身が意思決定できるスペースを制度的に 作っておくことが重要である。People’s Process が文化にまで育っていたら、たとえ、政権 交代やグローバルな変化によって一時的に制度的なものが壊されたとしても、再び People’s Process は発展し続けるだろう。 《NGO の一般的問題:なぜ広がらないか》 多くの NGO は貧困者に対して、自分たちが何かの問題を解決したいと考え、関りを持 ってくる。何かをしてあげることが目的で、それで満足する傾向を持つ。一方、構造的な 問題はあまりにも大きくかつ複雑なので、そこには手をつけようとしない。さらには、多 くの NGO は途中から自分たちの組織維持のための働きになっていく。組織維持のためには ドナーにアピールすることが大切となり、その結果、貧困者自身のスペースを切り拓くの ではなく、自分たちが何かを「してあげる」ことが重要になる。そのような関り方の場合 は、あるレベルまで来たらそれ以上の発展はなくなってしまう。このとき、NGO も結局、 官僚的になっていき、貧困者自身に根をもたない動きしかできなくなり、People’s Process は広がっていかない。 《日本の政府開発援助(ODA)について》 以上、スムスクの考えをまとめてみたが、最後に、スムスクのインタビューにおいて、 唐突に、日本の ODA について、はじめ期待していたががっかりしたと語ってくれたことが 印象的、かつ示唆的だと思われたので、紹介しておく。「日本は、元々はアジアの一員なの で、個人主義的ではなくコミュニティを大切にする感性を持っていたはずである。また目 的志向型ではなく『道』にあるようなプロセスを大切にする感性を持っていたはずである。 つまり、アジアの中で、コミュニティやプロセスを大切にする感性を持った唯一の先進国 だったはずである。だからはじめは期待していたががっかりした。世界銀行(WB)は、元々 欧米のものだから期待はしていなかったが、国際協力銀行(JBIC)は日本の ODA である し、アジア開発銀行(ADB)は日本政府が一番多く出資しているのだから日本が影響力を 行使できるはずである。アジア的な文化を共有するものとして、JBIC や ADB は、もっと 日本的な特徴、例えば、コミュニティを大切にするとか、プロセスを大切にするとか、心 を大切にするといったような特徴を出してくれることを期待したのに、そしてそうするこ とによって日本はもっとアジアに貢献できただろうに、ただ WB のやり方をまねしようと 12 しているようにしか見えない。しかも、貧困者の現場の理解の欠如と物質主義への偏りに 関しては、WB よりもひどいように思われる。JBIC、ADB、そして多くの日本人は、開発 プロジェクトの目的は考えるが、そのプロセスを考えようとしない。プロセスこそが重要 ではないか。その奥には、人間を信じず、貧困者が判断できることを認めず、自分たちの 技術のみを信じているのではないか。日本もアジアの一員としてアジア的な価値を大切に する方向に戻ったらよいのではないか。」 UCDO は、このようなビジョンに基づいて、例えば貧困層に打撃を与えた 1997 年のタ イの経済危機の際にも、逆にこの危機をコミュニティ同士の意思疎通と相互支援のための プラットフォーム形成、そしてコミュニティ連合や連合同士のネットワークの形成促進、 そのネットワークの広がりや強化のためのチャンスとして用いた。さらに、経済危機への 緊急援助として、WB からの融資や、日本政府からの救援資金として「宮沢資金」が提供さ れたが、そのうちUCDO に提供され資金は、スムスクのビジョンを実現するためのユニー クな方法で利用された。すなわち、これらの資金の利用を、各コミュニティ、そしてコニ ュニティ連合、連合ネットワークが自分たちに必要なことを考え、自分たちの方向性を主 体的に決定する習慣、文化を作っていくための機会としたのである。そしてその結果、驚 くべきことに、多くのスラムコミュニティやネットワークでは、住民創出型のセイフティ・ ネット構築という将来につながる新しい可能性を生み出していった(穂坂、2004:93)9。 このように UCDO、CODI は 1997 年の経済危機を、逆に People’s Process を発展させ るための良い機会として利用しながら、その後さらなる進化を遂げる。2003 年 1 月、タク シン内閣は、都市スラムの改善策の一環として、「バンマンコンプログラム(安心できる住 まい計画という意味):BMP」10を承認した。政府は 5 年以内に 200 都市 2000 スラムコミ ュニティを対象として、安心して住むことのできる居住環境を実現することとしたのであ る。そして、この居住環境改善をすべてスムスクのビジョンである People’s Process で行う ことが合意された。これだけの大規模な事業を CODI スタッフの限られた人手と時間でや るのは不可能である。そのために大切にされているのは水平交流である。BMP 初年度の 2003 年は、タイ全国から 10 コミュニティ(約 1500 世帯)がパイロット・プロジェクトと して選ばれ、このパイロット・プロジェクトにおいて経験を積んだ住民たちが、その後は 経験の浅いコミュニティに出向き、住民同士で話をし、教えあい、学びあうという方法を 用いた。経験豊かな住民たちが、問題把握の仕方、貯蓄の仕方、予算や計画の立て方など を自分たちの経験に基づいて説明する。CODI はそのような経験交流の場を促進するために、 多くのセミナーやワークショップを企画するだけである。これらの経験交流は、時に国境 を越え、他国での画期的な経験を学びあうこともあるのである。これらのやり方によって 貧困者はこのプロジェクトは自分たちのものであるという意識を持っており、これがこの プロジェクトの成否の鍵であろう。この CODI の試みは住民が発展のプロセスの主役とし 9 10 詳しくは ACHR(2002)参照。 詳しくは Boonyabancha (2005)参照。 13 て、意思決定と実施をコントロールすることによって、成果をより確かなものとできるこ と、そしてそのような開発を政府が実行することが可能だ、ということを示している。 タイの People’s Process は、その後もさまざまな問題に直面している。しかし、どんな 問題であろうが、その問題は People’s Process を強め発展させていくための機会として利用 可能であると考えている。なお、これは、CODI だけではなく、本節冒頭で述べた「貧民連 合」においても見出されるものである。例えば、タイは 2004 年末にインド洋大津波の被害 を受けた国の一つでもある。これに対して、 「貧民連合」も CODI も争うかのように、その 復興を被害住民がコミュニティを組織化し、そのネットワークを構築していくための機会 としてとらえ、新たな村づくりや復興計画の意思決定を住民自身が行うという住民中心型 復興(People-centered Rehabilitation)の新しいやり方を確立しつつある。さらにタイで起き た 2006 年 9 月のクーデターでさえも、やはり「貧民連合」も CODI も貧困者が People’s Process を強めるため、特に政治的領域においてスペースを広げる機会としてとらえ、対応 していると言う。 3. People’s Process のグローバルなネットワーク11 これまでパキスタンとタイにおける People’s Process の発展について紹介してきた。し かし、これだけでは地域主義的な発展でしかない。元々の鶴見が言う内発的発展、すなわ ち地域主義に還元されず、国内および国際間の格差を生み出す構造の変革につながって行 くグローバルな内発的発展が実現させるためには、これらの People’s Process がグローバル なネットワークを築いていき、新自由主義的グローバリぜーションのオルタナティブにな っていく必要があるであろう。本節では、各地域の People’s Process のグローバルな経験交 流とそのネットワーク構築について、特にアジア居住権連合(Asian Coalition for Housing Rights:ACHR)とスラム住民国際ネットワーク(Slum/Shack Dwellers International: SDI)12の試みを紹介し、その可能性を議論したい。 アジア各国の多くのスラムではいろんな問題に直面し、いろいろな創造的な試みが行わ れてきた。しかしながら、このスラムに対する外部者の援助の多くは、自分たちのプロジ ェクトを持ち込み、そこにすでにあった住民たちの創造的な試みを往々にしてつぶすこと が多かった。このような中で、1970 年代後半から各地のスラムを訪問し、その先進的取り 組みを別なスラムにて紹介する役割を始める外部者が出てくるようになった。しかし、そ のような役割を果たしているうちに、次第にそのような先進的取り組みの知恵を伝えるこ とが同じような問題で苦しんでいるスラム住民にとって役に立つことであるとは言え、そ の知恵を外部者が独占していて良いのか、また外部者を通してではなく当事者どうしで学 本節の具体的データは主に Patel, Burra and D'Cruz (2001)に基づく。 アジアでは slum という用語が一般的に使われるのに対し、アフリカでは、shack とい う用語がより一般的である。そこからこの SDI という組織の名前は使うものの好みで Slum Dwellers International とも、Shack Dwellers International とも呼ばれるようになった。 11 12 14 びあった方がより力強く良い試みが広がっていくのではないかという考えが生まれるよう になった。スラム住民にとって、自分たちとは違うエリートから何かを教えられるのでは なく、同じような境遇の別なスラム住民がやっているのをみたら、自分たちにも可能であ ることがより強く意識できるし、自分たちもやってみたいという動機付けになり、かつ実 際の交流を通してスラム同士のネットワークも作られていくというのである。そのような 考えに基づき、1980 年台半ばから、スラムコミュニティの住民が別なスラム地域へと経験 を学びに行くことを、外部の支援者、NGO がサポートするようなことが少しずつ始まって いった。これが前節で述べた水平交流である。そしてこの水平交流は、国内で行われるだ けでなく、すぐに国境を越え、アジア各国の都市スラム、さらにはアフリカ、ラテンアメ リカにも広がって言った13。 この水平交流の流れを最初の大きく形作ったのは、インドの全国スラム住民連合 (National Slum Dwellers’ Federation:NSDF)とマヒラミラン(Mahila Milan:「女性 がともに」という意味)と地域資料センター推進協会(Society for Promotion of Area Resource Centres: SPARC)である。SPAC はボンベイ大学社会福祉学科の卒業生によって 1984 年に結成された専門家集団 NGO である。この組織は、貧困層と連帯し社会公正を実 現することを目的に結成された。当初はボンベイ(ムンバイ)のスラムや路上生活者のた めに社会福祉的アプローチを取ろうとしていたが、社会福祉的アプローチでは社会公正を 実現する根本的な社会変革にはつながらないことに気づくと同時に、スラム住民自身が持 っている力に気づくようになり、その力を組織し、また専門的にサポートすることによっ て社会変革を目指すようになる。そして強制排除の危機にあった路上生活者を組織するプ ロセスの中で生まれたのが路上生活者の女性による貯蓄グループであるマヒラミランであ る。一方 NSDF は 1970 年代半ばに結成された全国的なスラム住民約 50 万人のコミュニテ ィの連合体であり、主に強制立退き阻止の行政交渉を行っていた。そこからマヒラミラン と NSDF の接触が生じ、次第に SPARC、マヒラミラン、NSDF は協力関係を深めていく。 1985 年にボンベイの路上生活者コミュニティのマヒラミランが NSDF と SPARC との協力 関係の中で、ケララとマドラス内のスラムコミュニティとの水平交流を行った。これが大 きな実りをあげるに伴い、SPARC、マヒラミラン、NSDF は同盟関係を結んだ。その際、 スラム住民団体であるマヒラミランと NSDF が主役となり方向性やプログラムの意思決定 を行い、これに対して SPARC は決してイニシアティブを取らず、その意思決定に沿った専 門的アドバイスやトレーニング、そして行政・国際援助機関・他の NGO との仲介、及びマ ヒラミランや NSDF の動き、すなわち People’s Process の広報的役割に徹するというよう な役割分担を行った。 この住民組織を主役にしてそれを裏から支える NGO の協力関係は、実は第1節で取り 上げた、1980 年に設立された OPP とスラム住民組織との関係にも共通している。そして スラムコミュニティの水平交流の始まりから 2000 年までの各地の具体例やこの成功の 秘訣等の詳細については、ACHR(2000)を参照のこと。 13 15 このようなスタイルでの People’s Process がアジアでさらに広がっていくきっかけは、国連 が定めた 1987 年の国際居住年であった。これを機に翌 1988 年アジア 10 カ国から、スラ ムで活動する NGO と CBO がタイに集まり ACHR が結成された。この際、上述のインド の SPARC/マヒラミラン/NSDF やパキスタンの OPP、その他の People’s Process を重視し た各国の経験は、非常に強いメッセージ性を持っており、ACHR はあくまでも主役である 住民組織をサポートすることによって、貧困者たちの People’s Process を育て、発展させる ことを目的としたネットワークとなっていった。そして住民どうしの水平交流はそのため の重要なツールと考えられた。 1998 年以降 ACHR は、アジア各国内及び各国間でのスラム住民及びそのリーダーたち の水平交流を活発に促進し、次第にスラム住民たちの国境を越えるネットワーク構築が行 われるようになった。そして 1991 年、初めてアジアを越え、インドと南アフリカの水平交 流が行われた。この時南アフリカはアパルトヘイト廃止直後であり、マンデラ大統領はこ の水平交流に興味を持ち、その影響もあって、その後アフリカ大陸内の各国内、各国間で も水平交流が盛んに行われるようになった。それを通して各国内にはインドの NSDF にな らって全国スラム住民連合が結成された。そして 1996 年、アジアから 6 カ国、アフリカか ら4カ国、ラテンアメリカから 1 国の計 11 カ国のスラム住民連合の代表たちが集まり、SDI という国際ネットワークを作ることが合意された。それ以降、そのネットワークを通して 水平交流はいよいよ盛んになり、これによって様々な貧困者たちの経験が共有された。例 えば、貯蓄グループの実践や住民自身によるスラム調査が People’s Process を発展させるた めには効果的であるという認識とそのノウハウ、貯蓄グループを強く安定的にするための 回転基金の重要性、住民による下水道敷設や低価格住宅建設のノウハウ、さらには「行政 がやってくれるのを待ち続けるは時間の浪費であり、自分たちで解決を見出すことが可能 である」という意識、「住民自身が力を持っていて、自分たちが主体である」という意識ま でもが共有されるようになり、あたかも貧困者のグローバルスタンダードとなっていった。 またスラム住民連合のグローバルネットワークができることにより、各地のスラムの経 験が共有されるだけではなく、実際に国家レベルでの大きな政策転換を可能とする力も持 つようになってきた。これは、当初、経験交流は住民たちが学び会う場としての水平交流 が中心だったが、次第に、場合によっては政府も巻き込んだ経験交流が行われるようにな ることによって実現された。例えば、SDI のネットワークを通して、1995 年に南アフリカ のスラム連合のリーダーと土地住宅省の大臣を一緒にインドに招待し、NSDF と SPARC の案内で、インドで貧困者自身が主体的に住環境を改善している事例を紹介した。これに よって、それ以降南アフリカ政府は、スラム住民たち自身の試みに対してより協力的にな った。また、ACHR のサポートと SDI のネットワークを通して、カンボジアのスラムコミ ュニティのリーダーと共に、カンボジア政府やプノンペン市の行政官をインドの試みやタ イの試みに案内した。この旅によって、スラム住民と行政担当者はお互いを理解し、その 後も SDI がサポートすることによって、カンボジア政府とプノンペン市の部分的な協力の 16 中で、People’s Process がほぼ皆無であったカンボジアにおいて、スラム住民の組織化、貯 蓄グループの創設、都市貧困開発基金の設立がなされた。 さらに、1990 年代の末あたりから SDI の力が増すにつれ、国際機関が SDI に関心を持 つようになってきている。当初 SDI は、これまでの各地のスラムでの経験上、国際機関は かえって People’s Process を潰すことが多いため、国際機関と結びつくことに強い警戒を持 っていた。しかしながら、国連居住センター(UNCHS)が、「安定した居住獲得のための グローバルキャンペーン(Global Campaign for Secure Tenure)」の協力関係を SDI に持 ちかけてきたときには、強制排除阻止を中心にした協力ならば、People’s Process の発展に マイナスになることはないだろうと考え、これに対しての協力関係に合意した。このグロ ーバルキャンペーンの最初のイベントは、インドのムンバイで UNCHS、SDI、NSDF の 共催で行われた。2000 年 7 月 16-18 日、インド中から 6000 人のスラム住民・路上生活者 たちが招待され、同時にケニア、南アフリカ、ナミビア、ネパール、タイ、フィリピン等 の SDI 各国からのスラム住民連合の代表者たち、そして、国連事務総長補佐(UNCHS 事 務局長)、インドの住宅省と都市開発省の大臣、マハラシュトラ州知事らインドの行政責任 者たち、さらには WB のインド事務所長、英国際開発省代表、ケニア、インドネシア、日 本、ノルウエー、タイの在インド大使が招待され参加した。このイベントによって、イン ド・ムンバイのスラム地区 20 万世帯の環境改善のための融資を都市開発省の大臣が約束し、 住宅省の大臣は、NSDF との協力を条件に、不法占拠地 5 万世帯の土地所有権を付与する ことを約束、さらにムンバイ市は 2000 年に 3000 世帯、2001 年に 7000 世帯の路上生活者 に家を与えることを約束した。 続いて、2000 年 10 月 12-14 日には南アフリカ・ダーバンで行われ、インド・ムンバイ のときと同様多くの成果が得られた。その後 2000 年 11 月 27−29 日にはフィリピン・マ ニラでイベントが行われる予定であったが、ちょうどそのときに、フィリピンのエストラ ーダ大統領が上院にて弾劾されており、国連はこのイベントを中止した。しかしながら、 SDI はフィリピンのスラム住民連合からこのイベントの開催を強く求められたため、SDI のみでイベントを実施した。そのイベントにエストラーダ大統領を招待し、その結果 1990 年代終わり頃から組織化されだしたスラムコミュニティの貯蓄グループの回転基金として 1500 万ペソが与えられた。 この UNCHS との協力の経験は、SDI が国際機関等のワークショップやキャンペーン に参加することによって国家政策に影響力を与えることが出来るということの実績となり、 それ以後、SDI は People’s Process を壊さない限りでの国際機関等との協力関係は持つよ うになった。2004 年現在で、SDI には 14 カ国から約 560 万人が属しており、彼らの貯蓄 グループの貯蓄総額は 3200 万ドル、そしてこれまでに SDI の働きによって 12 万 5 千世帯 が新たに安定した土地の権利を獲得している。また、SDI の支援によって、それ以外に 11 カ国において、新たな貯蓄グループが組織化されはじめており、それぞれの国内のスラム 住民連合の設立の途上にある。 17 おわりに 本論文では、先進国の視点から行われている開発援助においてほとんど無視されている People’s Process が、実は貧しい人々の中にすでに存在していて、少しずつ発展しているこ とを示すために、特にメッセージ性の高い、パキスタンとタイの事例を紹介し、さらにそ れがアジア各国、さらにはアフリカ諸国にも広がっていることを示した。また People’s Process の発展が何を意味し、それを可能にする鍵が何であるかをより明確にするために、 タイのスムスクの考えを詳しく紹介した。実はここで紹介したものの他にも相通ずるよう なビジョンを持ち、発展してきている試みは各地に存在しており、このように各地に同じ ような考えの試みが独自に誕生していることは興味深い。そしてこれら各地の試みが、今 では国境を越えた数多くの経験交流を通して学びあうことによって共有され、影響を与え 合っている。そしてそれらを通して草の根のグローバルスタンダードのようになってきて いるのである。 最後にこれらの経験から、経済のグローバル化が進展している現代において People’s Process の発展という新たな発展モデルをどのように構築できるのかを考えてみたいと思 う。これは簡潔にまとめると次のようになるだろう。「経済のグローバル化の中で、貧困 者達が生き抜き、People’s Process を発展させるためには、まず①ローカル(地域)におい て貧困者に根ざした動きが強くなることである。そして②それらが様々なレベル、領域に おいてネットワークでつながって行くこと、しいてはグローバルな民衆レベルでのネット ワークになっていくことが必要である。そしてその際に、③可能な限り国家や地方自治体 との協力関係を模索して行くことが重要なのである。」 ローカルにおいて貧困者に根ざした動きが強くなるためには、まず各地域に質の高いコ ミュニティが育つことがすべての基礎である。そしてこの質の高いコミュニティとは、ス ムスクが言うように、少数の力あるものによってコントロールされるようなコミュニティ ではなく、すべての人が民主的に、主体的に参加できるコミュニティである。そして OPP のメッセージにあるような「行政や外部者がやってくれるのを待ち続けるのは時間の浪費 であり、自分たちで解決を見出すことができる」というメンタリティをもつコミュニティ こそ質が高いと言えるだろう。次に、このコミュニティが強くなり、人々が自分で道を切 り拓いていくようになるわけだが、そのプロセスの中でより主体的になっていくことが重 要である。そして政治的、経済的、社会的等様々な領域における貧困者のスペース、特に 意思決定に参与するスペースが拡大していくことが重要である。このスペースの拡大のた めには、コミュニティが強くなるだけでなく、OPP、CODI、SPARC などでも大切にされ ていたように、外部の様々な専門家の支援も重要な役割を果たす。さらに CODI の事例で 示されるように政府の協力も効果的である。一方 OPP の特徴であった既に地域に存在して いるものを大切にする姿勢も重要であろう。そして最後に、長いプロセスの中で様々な技 術、知識、知恵を奪われてきた貧困者自身が、地域に根ざしたものを中心に再び技術、知 18 識、知恵を自分たちのものとして取り戻し、様々な問題を自分たちで解決し発展していく ようになることが重要であろう。 グローバルな民衆レベルでのネットワークの有効性は、第一に、それによって力や可能 性がないと思い込まされていた貧困者たちが、自分たちが貧困の状態に置かれているのは 運命ではない、また自分たちの問題ではないことに気づく契機となり自信を持つことがで きるし、それと同時に、特に SDI の例によって示されたように国家の大きな政策変更や国 際機関の働きを変えていく実際的な力を持つことがわかる。これは前段でローカルなレベ ルにおいて政治的、経済的、社会的等様々な領域における貧困者のスペースを拡大するこ とについて述べたが、この貧困者のスペースを国際社会の中に創出する試みとも言えよう。 第二に、グローバルな学びあいのプロセスによって、貧困者たちの経験が共有され、例え ば、貯蓄グループの実践や住民自身によるスラム調査が People’s Process を発展させるため には効果的であること、そしてそのノウハウ、貯蓄グループを強く安定的にするための回 転基金の重要性、住民による下水道敷設や低価格住宅建設のノウハウ、土地の所有権を獲 得するための様々なノウハウ、さらには、住民自身が力を持っていて、自分たちが主体で あるという意識までもが共有されるようになり、あたかも草の根のグローバルスタンダー ドが確立されていくのである。これは国際社会が考えている開発援助におけるグローバル スタンダードとは明らかに違うものである。ただし、このように確立されつつある草の根 のグローバルスタンダードにおいては、本論文では十分に事例を紹介することができなか ったが、地域性が尊重された上でのグローバルスタンダードになっていることに注意をす べきであろう。この地域性の尊重は、People’s Process の発展にとっては忘れてはならない ことであるし、最初に述べたように「多系的発展である地球規模で内発的発展」を実現す るためにもこの地域性は維持され続ける必要があるのであろう。 これまで、経済のグローバル化が進む中で People’s Process が生き延び、発展していく ための条件として、地域の強化とそのグローバルなネットワークの必要性、すなわち地域 のレベルとグローバルなレベルについて注目してまとめて来たが、最後にその間に位置す る国のレベルとの関係をまとめてみる。パキスタンは国家が弱く、またその国家は People’s Process にそれほど好意的ではなく、一方タイは国家が開発政策の一部においては People’s Process を受け入れる例としてとりあげられていた。タイにおいては政府の協力を得ること によって People’s Process の発展は一挙に加速する一方、例えばグローバル経済の影響等で 政策転換が行われた場合は、その影響は People’s Process にも直接及んでいる。しかしなが ら、スムスクが「People’s Process が文化にまで育っているならば、木が折れても根があれ ば再び木が生き返るように、再び People’s Process は復活する」と言うとおりに、1997 年の経済危機においてもタイにおける People’s Process は脈々の発展しつつある。 また OPP のカーン博士は「とにかく住民組織を強くしておけば長い目でみたら国は良い方向に発展 する」というようなコメントも残していて、この考えはスムスクの考えと基本的には同じ で、国のレベルが People’s Process をたとえ受け入れないとしても、とにかく People’s 19 Process を強くしていくことによって、スピードは国が協力する場合よりは遅いかもしれな いが、確実に People’s Process は発展の可能性があるのである。ただし、本論では十分に紹 介できなかったが、現在タイの CODI もパキスタンの OPP も、もう一度フォーカスを地域 に戻して、People’s Process をより草の根の行政レベルに根づかせる試みを始めていること にも注目すべきである14。これは、昨今のグローバル化に伴い、グローバルレベルでの直接 の影響、そしてそれが国を通して伝わってくる間接的な影響にできるだけ振りまわされな いための応答だと言えよう。すなわち、ローカルにおいて貧困者に根ざした動きを強める 際に、ただコミュニティを強化したり、そのネットワークを強化したりするだけでなく、 それらのネットワークが地方政府の中にきちんと位置づけられること、すなわち、地域そ のものが全体として強くなっていくことが重要なのであろう。 以上、People’s Process の発展という新たな発展モデルを描いてみたが、これは最初に 書いたように、内発的発展をグローバル化の進展した現代に再び復活させる試みとも言え るだろう。このような発展が進むことによって国内および国際間の格差を生み出す構造の 変革につながっていくし、逆にそうでないとグローバル化の流れの中で、貧困者は排除さ れるか極貧の状態で固定化されるだろう。このような立場にたつとすれば、私たちは先進 国中心のグローバルスタンダードとなっているような開発援助を考える以前に、各地に存 在する People’s Process を妨げているものを取り除くことをまず考えるべきではないだろ うか。そして People’s Process の尊重し、これ以上それを無視し、潰すことのないような支 援を考える必要があるのではないか。また、さらにアジア、アフリカの People’s Process の経験およびその発展から、逆に日本社会の閉塞感を打ち破る光や秘訣を学ぶ必要さえあ るのではないかと筆者は思う15。 参考文献 ACHR (2000), Face to Face, January, A sian Coalition for Housing Rights. ACHR (2002), Community Fund:Housing by People in Asia 14, February, Asian Coalition for Housing Rights. Boonyabancha, Somsook (2003), “A Decade of Change: From the Urban Community Development Office (UCDO) to the Community Organizations Development Institute (CODI) in Thailand, Increasing community options through a national government development programme,” IIED Working Paper 12 on Poverty 14 これについては、近日中に別な論文にて論じる予定である。 最後の一文は、筆者の主観である。筆者の感覚では、日本社会はすでにコミュニティ的 センスがかなり失われてしまい、また人々は主体的、創造的というよりは現在の制度に自 分を合わせるだけの受動的メンタリティが必要以上に強くなり、そのためにグローバルス タンダードを過度に求め、さらに協力というセンスよりも競争が強調されすぎているよう な点で閉塞感に陥っていると考えている。これらは People’s Process で大切にされているこ とはちょうど逆であり、そこから学ぶことが多いのではないだろうか。 15 20 Reduction in Urban Areas, International Institute for Environment and Development. Boonyabancha, Somsook (2005), “Baan Mankong: going to scale with "slum" and squatter upgrading in Thailand,” Environment and Urbanization 17(1), 21-46. Ferguson, James (2004), “Decomposing Modernity: History and Hierarchy after Development,” AGLOS News 5, November, 20-28,上智大学21世紀 COE プログラム AGLOS 事務局. Hasan, Arif (1999), Understanding Karachi: Planning and Reform for the Future, Karachi, City Press. Hasan, Arif (2003), “The New World Order and Pakistan,” David Satterthwaite (eds.), Millennium Development Goals and Local Processes: Hitting the target or missing the point?,, London, IIED, 153-156. Khan, Akhter Hameed (1998), Orangi Pilot Project: Reminiscences and Reflections, Karachi, Oxford University Press. Patel, Sheela, Sundar Burra and Celine D'Cruz (2001), “Shack/Slum Dwellers International (SDI): Foundations to Treetops,” Environment and Urbanization 13 (2), 45-59. Rahman, Perween (2005), “A Letter on the Updates on the OPP-RTI (November 2004),” SELAVIP Newsletter (Journal of Low-Income Housing in Asia and the World) April 2005, 63-66. Sen, Amartya (1999), Development as Freedom, Anchor Books. UNDP (1994,1999,2004,2005), Human Development Report, United Nations Development Programme. 下川雅嗣 (2006)、「アジアにおける貧困者のあゆみとコミュニティ・ビジネス」、内田雄造 編『まちづくコミュニティワーク』 、解放出版社、159-185。 下川雅嗣 (2007)、「貧困者の現実、彼らの歩みとオルタナティブな発展―アジアの都市部の 事例を中心にー」、村井吉敬、デビット・ワンク他編著『グローバル・ダイナミックス (グローバル・スタディーズ叢書第一巻)』、上智大学出版、2007 年出版予定。 鶴見和子 (1980)、「内発的発展論へむけて」、川田侃、三輪公忠編『現代国際関係論:新し い国際秩序を求めて』、東京大学出版会、185-206。 西川潤 (2000)、『人間のための経済学:開発と貧困を考える』、岩波書店。 西川潤編著 (2001)、『アジアの内発的発展』、藤原書店。 穂坂光彦 (2004)、「都市貧困と居住福祉」、絵所秀紀、穂坂光彦、野上裕生編 『貧困と開発』 (シリーズ国際開発 第一巻)、日本評論社、79-97。 21