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第2部 熱気抱く女神たちと 【前回までのあらすじ】 V.G.がオリンピック競技

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第2部 熱気抱く女神たちと 【前回までのあらすじ】 V.G.がオリンピック競技
第2部
熱気抱く女神たちと
【前回までのあらすじ】
V.G.がオリンピック競技に正式認定された。一年前の試合で八百長の疑惑を受けた御剣
珠緒は、このオリンピックに再起をかけて参加することになった。コーチの武内優香、八
島聡美、そしてもう一人の日本代表選手、楠真奈美とともに、珠緒は開催地、イラクのバ
グダッドに到着した。
イラクで待ち受けていたのは、かつてのライバルエリナ・ゴールドスミスと久保田潤が育
て上げたえりりんの従姉妹、コーデリア・ゴールドスミス。輝美をセコンドに従えた綿貫
弓子(競技登録名は張麗坤)であった。そのほかにも、各国の精鋭たちが待ち受けていた。
優勝するには、合計7試合を勝たなければならない。珠緒と反対側のブロックには真奈美、
弓子、コーディがいて、決勝の相手が誰になるかはまだわからない。優香は珠緒の左パン
チの才能を見出し、それを使って優勝できるようアドバイスする。
一回戦。ライバルたちは順当に勝ちあがり、珠緒も苦戦の末、インドネシア、シラットの
選手、フエミナ・メルニーシーを撃退。真奈美もブラジルの強敵、柔術家のジル・フェロ
ーゾを倒す。
珠緒は日本でうけたバッシングに心を痛めており本来の実力が発揮できず、真奈美もこれ
までの戦術が災いして、蓄積された故障で体の各所が蝕まれている。
過酷な日程の中、2回戦が始まろうとしていた。
1.海賊の末裔
透き通った汗が、ひっきりなしに散っていた。
長い両腕はワイヤーのような筋肉に包まれ、
小さな二つの拳は、槍の穂先のよう。
スウェーデン代表、ユディト・ウェルニヒ。
拳が貫く風の音にあわせて、赤いセミロングが跳ねまわった。
先祖は北欧のヴァイキング。
父から教わったボクシングを武器に、プロとして活躍中の選手だ。
この大会でも、優勝候補の一人に数えられていた。
だが、彼女の面持ちは沈痛だった。
「何を緊張してるんだ、ユディト」
傍らの、腕を組んでいる彼女のトレーナーが声をかけた。
「緊張なんてしてない。いい調子だよ。
今までやってきた、どんな試合よりいい調子だよ」
シャドーを続けながら、ユディトが答えた。
「なあ、ユディト。タマオ・ミツルギのデータを見たか?」
にやにやと笑いながら、トレーナーが続けた。
「19 歳。身長 157cm。体重 48kg」
ユディトが答えた。
「データの通りなら、6 階級以上の差だぞ」
「ボクシングならね」
「どんな格闘技でも、この体重差はありえないよ」
トレーナーは、笑いをかみ殺していた。
ところが、ユディトはそれを聞くとシャドーをやめ、
トレーナーに向けて大声を出した。
「あのねえ!
試合前に気の抜けること言わないでよ!
これから戦うの、あたしなんだけどな!」
ユディトが、握りこぶしで壁をぶん殴った。
おいおい、と、トレーナーが両手を出して、引きつった笑顔を見せた。
「何を言ってるんだ、チャンプ。キミより 20 キロも軽いんだぞ」
「勝ち上がった連中は、ほとんどが 50 キロ級だよ。
リヒテンシュタインのラウレンも、
リトアニアのバルバラも、80 キロ越えてた。
それで、1 ラウンドも持たなかった。覚えてるでしょ」
「どっちも女子プロレスだよ。あんなのボクシングと比べたら……
ユディト。心配しすぎだよ。キミが優勝だよ。
V.G.の沿革を読んだろう?
最強のウェイトレスを決めるとか、バカどものお祭りだよ。
キミの相手なんて、とてもとても……」
別のトレーナーも、ユディトの機嫌を取った。
「もういいよ、あんたらの話はいつも一緒さ。
これはあたしの勝負だ。関係ないね・・・・・・」
そこで、係員が控え室に入ってきた。
「ウェルニヒ選手、時間です!」
「行くよ!」
答えて、両手のバンテージをもう一度、口と手できつく締めた。
見てなよ、ミツルギ。
ボクシングがどういうものか、泣き叫ぶまで味わってもらうわ。
****
試合場を前に、珠緒がもう一度優香のアドバイスを聞いていた。
対策は完全に頭に入っている。
珠緒は、昨日よりもかなり落ち着いた態度で、
それを聞いていた。
「珠ちゃん、よーやくエンジンかかってきよったな」
真奈美も、珠緒の態度に少し気分がほぐれてきていた。
熱砂の上に、かおりが立った。
マイクを握り締め、会場を見回す。
「ただ今より V.G.競技二日目、第二回戦、第三回戦を行います!
二回戦第一試合!
御剣珠緒、V.G.競技、日本!」
「はいっ!」
「さあ、御剣選手の入場です。本家は私。私こそが V.G.といわんばかり。
昨日より固さが取れた表情です。
さあ、この御剣、今日はどういう試合を見せてくれるでしょうか」
そしてかおりが、もう一方の陣を指差した。
「ユディト・ウェルニヒ、プロボクシング、スウェーデン!」
「ヤー!」
「姿を見せました!
スウェーデンのボクシング女王、ウェルニヒです!
WIBA ・ IWBF ・ IFBA で、それぞれ三階級の統一王者、
現在 WIBA では三度の防衛戦を勝ち抜き中です!
大きい!
軽量級を見慣れた私たちには、まるで巨人のように見えます!
昨日はタンザニアのローラ・オクウェイ選手を破っていますが、
太子橋館長、このウェルニヒの経歴と、得意技について少し」
「そうですな。欧州では、ウェルニヒ選手は御剣選手よりも有名人ですよ。
スウェーデンから出た初の世界王者ですな。
ウェルニヒはプロですから、ボクシング競技でオリンピックは出られません。
そこで、V.G.競技に出場したそうです。手にはバンテージのみ。
彼女が初めて見せる、ノーグローブマッチです」
二人が、試合場で向かい合った。
「でっ、でけえええ!」
「おいおい、大人と子供じゃねーか!」
「ミツルギーっ!
「ウェルニヒ!
フットワーク!」
油断すんなーっ!」
観客席から、各国の言葉で野次が飛ぶ。
「ごらんください!
まさしく大人と子供です!
御剣選手、この体格差をどう凌ぐのか!
レフェリーは、梁瀬かおりが行います!
まもなく試合開始です!」
「始めてください!」
かおりの合図で、ゴングが鳴った。
その瞬間・・・・・・
「珠緒ちゃん!」
「えっ・・・・・・」
優香の声に反応したときには、自分の目線と同じ高さに、
ユディトの顔があった。
直後。
衝撃が顎に走った。
上からじゃない。
下から。
どうして・・・・・・
考える間もなく、ぐらりと景色がゆれた。
顎に命中したユディトの一撃は、大きく珠緒をのけぞらせたが、
ダウンまでは行かなかった。
なんとか踏みとどまり、次の一撃に備える。
ひらめくように、ユディトの左が風を切った。
「ううっ・・・・・・!」
珠緒が防戦に入った。
ユディトの長い左腕を、両手でさばいていく。
大きく下へ叩き落したところで、ユディトが離れた。
「ちえっ、仕留めそこなったか……」
ユディトが、苦々しくマウスピースをかみ締めた。
「これは……予想外の展開です。
ウェルニヒ選手の奇襲、しかも驚いた事に、かなり姿勢を下げてきました。
膝を大きく曲げて前後に広くスタンスを取っています。
これは霧島宗家、こういうスタイルがあるのでしょうか?」
「極端な身長差というのは、逆に不利になることがあってな」
恭子が、琴荏の言葉を受けて答えた。
「といいますと?」
「人間の骨格は獣のころの名残で、内側が柔らかく外側が固い。
小柄な人間が丸まってしまうと、上からの打撃というのは、
意外と当てにくいものなのだ。
蹴りがあればともかく、ウェルニヒはボクサーだ。
振り下ろす突きが頭蓋骨に命中すると、拳をいためてしまう」
「あっ、確かに……」
「そういう事情を背景に、ウェルニヒは腰を低く落として
こう、左腕を大胆に伸ばす方法をとったのだろう」
恭子が左拳を伸ばして半身になった。
その姿勢は長いリーチを活かして、一方的に攻められるようになっていた。
「ばかりか、一撃目はボクシング以外であまり使われない
下から打ち上げるフリッカージャブだ。長躯に目が行きがちだが、
彼女はこの試合に向けて、十分に作戦を練ってきたようだな」
「となりますと、御剣選手は苦しい戦いになりそうですね。
太子橋館長、御剣選手はこれに対してどう反撃するべきでしょうか」
「そもそもの体格差にくわえて、あの慎重な姿勢、充実した技術です。
勢い任せでは崩せないでしょう。
御剣に勝機が来るとすれば、動きに慣れた後半でしょうな」
「後半。後半ですね……」
****
セコンドの聡美と優香は、最初の一合で、
ウェルニヒの実力をすばやく計算した。
そして出した結論は、どちらも同じだった。
「軽い」
「うん。軽い」
確認しあって、二人が同時にうなずいた。
「全部受けようと思わないで!
正面に来たのだけ払い落とす!」
優香が口に手を添えて叫んだ。
「はい!」
珠緒が、狙ってきた攻撃だけを叩き落しに入った。
二つ、正面から飛んできた右ストレートを打ち返す。
「取れる取れる!」
優香が叫んだ。
「はい!」
珠緒がフリッカーの一発を受け止めて、ユディトの腕を引いた。
「うっ!」
足を引いて、ユディトが姿勢を戻そうとする。
「アタック!」
聡美が怒鳴る。同時に、珠緒が宙へ跳んだ。
「空旋脚!」
「うっ!」
ユディトが手を開いて、珠緒の足を止めた。
バックステップで離れる。
「いいよ!
相手の腕だけ狙って!」
「はいっ!」
珠緒が離れる。
そのあとはほとんど様子見で、1 ラウンドが終わった。
珠緒は 1 ラウンドのうちに、ユディトの特徴をとらえていた。
想像していたほどじゃない。いける。
熱い汗を流しながら、珠緒が優香の出した椅子に掛けた。
「十分巻き返せる。あせらなくて大丈夫だよ」
「はい」
「ボクの指示、聞き取れてるかな」
「はい、ほとんど大丈夫でした」
「これから、もっと細かく指示を出してくよ」
せっかくセコンドが OK なんだ。それを活かそう」
「わかりました」
「次から使っていこう。珠緒ちゃんの左」
優香が、後ろから珠緒の両手を取って、それをしっかりと握り締めた。
「は、はい!」
急に手を握られて、少し赤くなりながら、
珠緒の体に気迫が宿っていた。
優香が、珠緒の耳元に最後の激励を投げた。
「がんばって、珠緒ちゃん」
2.勝負への想い
「どうだユディト。何も心配しなくていいだろう」
セコンドがユディトの汗を拭きながら言った。
「何えらそうに。あたしの立てた作戦じゃないか。
それに……これで最後までごまかせるかね」
「そうか?
たしかに暑いが、スタミナは問題ないだろう」
「気温の話はしてないよ」
「不機嫌だな。今のまま続ければいいんだぞ」
横のトレーナーが体を引いて言った。
「ノーダウンなのに、今のままねえ。
ちょっとは真面目にやれないかね」
「なに?」
「いいや、もういいよ。なんでもない」
ユディトが憤然と立ち上がった。
ゴングが響くと同時に、珠緒が動いた。
「ハイジャンプ、腕蹴って左!」
優香の声を背に、珠緒が跳んだ。
1 ラウンドには見せなかった、積極的な攻撃だ。
駆け込むなり、走り高跳びのように、大きく体をひねる。
一回転して、ユディトの伸ばした左腕に着地。
飛び込んで、珠緒が左を出した。
「うあっ!」
ユディトが身をひねって、突きをかわそうとした。
予測を超える速度で、珠緒のパンチが胸元に命中した。
珠緒が着地して、姿勢を立て直した。
今の・・・・・・セコンドの指示か?
ユディトが優香と聡美に目をやった。
この速度のパンチがあるのか。ミツルギの奥の手は、これか。
「右ハイ、左手蹴ったらミドル!
そのタイミングで手首取って!」
「はい!」
指示の通りに、珠緒が動いた。
珠緒の右ハイキックはきれいにユディトの左腕を跳ね上げ、
その奥へミドルキック。
「このっ・・・・・・」
ユディトが姿勢を正面へ向ける。
その瞬間、珠緒がユディトの左腕を抱え込んだ。
「うわっ?」
「珠緒ちゃん、左!」
聡美が叫んだ。ユディトがあわてて腕を振りほどく。
「ぐっ・・・・・・」
またもユディトがパンチを食らった。三発。
鋭い。ヨーロッパのボクサーからは、
こんなパンチを食らったことは無かった。
このパンチはなんだ?
ボクシングの技術には無い。気道でもない。
何度も食らったらまずい。
「ヒュウアアッ!」
ユディトが下からフリッカーを叩き込みにいく。
奥から、また声が響いた。
「右左右で避ける!」
珠緒が、パリー、スウェー、スリッピングで、
ユディトのジャブをかわした。
外れた?
全部!
なんて反射神経。
いや、いいセコンドがついてるのか・・・・・・
チッ、と、ユディトが小さく舌を鳴らした。
日本語だから何言ってるか知らないけど、泣けてくるね。
あたしには、あんな役立たずしかいないってのに。
まあいいよ。そのくらいは覚悟してた。
最後に立ってるのはあたしだ。
いつだって、どの試合だって、そうだったんだ。
ユディトが劣勢をなんとかしのぎ続ける。
やがて、かおりが間に入った。
「ストップ!
セカンドラウンド、フィニッシュト」
「ヤー」
ほっと息をついて、ユディトがニュートラルコーナーへ戻った。
「ふう」
珠緒も残念そうな表情を見せたが、素直に従ってコーナーへ向いた。
セコンドへ戻ってきた珠緒に、真奈美が水を渡した。
「苦しいな。でもこれからやで。だんだんタイミングが合ってきとる」
「ありがと。もう一歩って感じだよ」
対するユディトは、反対側のセコンドで、
長躯を椅子に落として体を休めた。
これが V.G.か。こんな暑い中の試合・・・・・・
ガタガタだ。筋肉も、心臓も・・・・・・
あと 1 ラウンド・・・・・・こんなに疲れる競技なのか。
リングもロープもグローブもない。しんどいな・・・・・・
セコンドがユディトに水を飲ませた。
「大丈夫だ。ユディト。ちょっとおかしな技を使ってきただけだ」
セコンドの声が、さっきよりも沈んでいた。
「お気楽でいいね、あんたらは」
ギラギラと突き刺す陽光を受けながら、ユディトがつぶやいた。
「そ、それはもう、君の勝利が確実だからな」
「はっ」
ユディトが笑い飛ばした。
「そんなにナーバスになるな。見てみろ、あの体格だぞ。
それに戦跡だって、ユディトは世界で三度の防衛を・・・・・・」
その台詞にとうとう、ユディトが激情にかられて体を起こした。
目に乗せた濡れタオルをつかみ、砂の上に叩きつける。
「あんたたち、いい加減にしてよ」
「ユ、ユディト・・・・・・?」
セコンドたちが、ユディトの剣幕にのけぞった。
「なんども言ってんでしょ・・・・・・
ミツルギはとんでもないファイターなんだよ。
あたしは十回戦以降、一度もとられたことのないフリッカーを、
三回も引っ掛けられてんだよ・・・・・・
それなのに、情報収集も対策もしてこなかったじゃないか。
何しにきたのさ、あんたら」
「いや、それは、君の実力を信じて・・・・・・」
「あたしは、あたしの実力なんて信じられないよ!」
ユディトは顔を上げると、泣きそうな表情で胸に手を当て、
セコンドに向かって怒鳴り続けた。
「あたし、あたし、まだ 1 ダウンも取ってないんだよ!
1 秒だって手を抜いてないのに!
聞いてよ!
6 階級も違う相手なのに!
昔の話なんかどうでもいいよ!
あたしの戦跡なんて、全部あたしの頭に入ってる!
そんなんじゃないんだよ!
ミツルギを甘く見てたら、勝てないって言ってんだよ!
あたしに勝たせたいなら、本気になってよ!
あたしが勝てるように、真剣になってよ!」
反対側の珠緒たちも、このやりとりに目を向けた。
「なんか・・・・・・もめてますね?」
「なんだろね?
それより言った方法。できそう?」
「たぶん、できます」
「おっけ。チャンスは何度もない。最初が勝負だよ」
「はい」
珠緒の陣営で話がまとまったころ。
ユディトたちの怒鳴りあいも、収まっていた。
ユディトのセコンドが両手を前に出して、
落ち着いた声で言い直した。
「悪かった、ユディト」
それまで歯を食いしばっていたユディトが、口をゆがめ、
はあ、と、息をついた。ようやく通じたか。
「状況はどうなの?」
ユディトがセコンドへ聞く。
「ユディト、おそらく、お前はまだ負けてない。
打点が多いからな。V.G.の判定基準は、1 が打点、2 がダメージだ。
2 ラウンドは、まだお前のポイントだろう」
「そうなんだ?
ちょっと意外だね・・・・・・」
「どうもミツルギの決め手は、あの左の連打のようだ。
ただ、それを使った組み立てが荒い。
左を出しそうだと思ったら大胆に下がれ。
ここは水に顔をつけたつもりで耐えろ」
「わかった」
「あと、ミツルギは、お前のジャブを取るのにこだわっている。
そのタイミングで、こちらも狙え。右ストレートだ。
構えをかえて、もう少し正面を向け。
ミツルギに気づかれないようにな」
「右か・・・・・・わかった。右だね」
「ユディト。勝ちたいんだな」
「勝ちたいね」
「勝てるよ」
セコンドが親指を立てて、片目を閉じた。
「ありがと」
この試合、初めて微笑を浮かべて、ユディトが立ち上がった。
次のゴング。左を延ばし、腰を落としたが、
ユディトの体は、今までのラウンドよりも前を向いている。
珠緒はオーソドックスに構え、
顎の高さに両手をあげていた。
ゴングの音にあわせて、二人は砂の上をじりじりと回った。
ユディトのジャブが、軽く珠緒の手をこすった。
その瞬間、珠緒がミドルキックでユディトの肘を狙ってきた。
「右!」
ユディトのセコンドが叫んだ。
「ダック!」
聡美が叫んだ。
ユディトのチョップブローを、珠緒がしゃがんで避ける。
頭皮を、ユディトの拳がかすめた。
「アッパー!」
優香が叫ぶ。
「スウェー!」
ユディトのセコンドが叫ぶ。
珠緒の打ち上げを、ユディトがのけぞってかわした。
近距離から繰り出した二人の打撃は、
どちらもダメージにならなかった。
高度な攻防に、歓声が上がった。
ミツルギ・・・・・・あんたの強さに、心から敬服するよ。
その体力、その技術、その根性。
あたしが戦ってきた、誰よりも上だ・・・・・・
でも・・・・・・
ユディトが、もう一度チョップブローを打ち込みに行った。
いける!
ユディトの手に熱い衝撃。
顔を上げて、もう一撃を打ち返そうとする珠緒には、
完全なカウンターになった。
ユディトの手が、珠緒の頬に当たる。鈍い衝撃が伝わってきた。
珠緒が姿勢を崩し、砂の上に膝をついた。
や、やった・・・・・・
ダウンを・・・・・・
ユディトの手に届いた感触は、勝利を刻む手ごたえ。
あとは逃げ回ってりゃ、あたしの勝ちだ!
やった・・・・・・あたしは、ミツルギに勝ったんだ・・・・・・!
油断の笑みが、ユディトの口の端からこぼれた。
その瞬間だった。
ユディトが静止した。
彼女の眼には、まるで、フィルムが巻き戻っているように見えた。
砂の上に倒れた珠緒が、地面から跳ね返るように起き上ってきたのだ。
驚愕で、ユディトの体が硬直した。一瞬だった。
うそだ!
そんな・・・・・・?
「鬼吼弾!」
ユディトの鼓膜に、声が響いた。
視界が白く輝いていく。
自分の名前を、誰かが呼んだような気がした。
ユディトは砂の上に崩れていた。
膝が震えている。景色が揺れている。起き上がれない。
『わざと当てさせて、相手に隙を作る。そこで反撃を出そう。
リーチを埋めるために、鬼吼弾を使おう』
それが、優香が与えた珠緒の作戦だった。
****
「強かった!」
砂の上に倒れたユディトへ残心を向けて、珠緒が、思わず声を出した。
後ろから、優香が駆け寄ってきた。
「センパイ!」
荒い息を吐きながら、パシッと優香の手に自分の掌をたたきつけた。
「いい試合だったよ」
「はい」
でも……
最初から、3 ラウンドの動きで攻められたら危なかったな。
珠緒が厳しい表情で、試合場を後にした。
3 ラウンド、1 分 20 秒。
ヴァイキングの末裔と呼ばれた北欧の女神が、
トーナメントから姿を消した。
3.フランスの小公女
「一方的になってきたわね」
「うん。間違いなくシャナだ」
優香と聡美が、控え室のモニターを見続けている。
二回戦前半の最終試合が、今、終わろうとしていた。
「エイト・・・・・・ナイン・・・・・・テン!
K.O.!
ウィナー、シャナ・スィーブワーロイ、タイランド!」
「立ち上がれません!
ボスニア・ヘルツェゴビナ代表
ヴィクトリア・ヴラフー、スィーブワーロイの強烈な肘打ちに倒れました!」
琴荏の声が、スピーカーから流れた。
「ようやく前半が終わったわ」
「だね。真奈美ちゃん、出番だよ」
後半の第一試合は、楠真奈美 VS シルヴィア・オッフェンバック。
真奈美が入念な準備体操を終えたころに、入り口が開いた。
「楠選手、時間です!」
「うん!」
真奈美が通路へ向かう。
優香、聡美、珠緒の三人がその後ろに。
たっぷり汗をかいた真奈美の体に、
通路の向こうから差し込む光が反射していた。
真奈美の力強い背中を、聡美がじっと見つめていた。
聡美はこれまでの事を思い出していた。
****
真奈美ちゃんが、ここまでやる気になるとは思ってなかった。
一年前。センチュリアで判定負けしてから、真奈美ちゃんはかなり変わった。
あたしにスパーリングをお願いしてきたり、聞いた話だと、
かおりや千穂のところにも行ったらしい。
日本代表が二人選ばれるって話が出たとき、
一人は珠緒ちゃんで決まりだったけれど、
もう一人には、あたしたちが出ることもできた。
そうしなかったのは、真奈美ちゃんの強い希望があったからだ。
レイミさんに直談判に行ったと聞いたときは、さすがに驚いた。
でも、今のこの真奈美ちゃんの背中を見ていればわかる。
あたしが現役の時は、一度も見られなかった彼女の本気。
真奈美ちゃん。期待してるわよ。
レフェリーの千穂が、二人の名を呼んだ。
「赤コーナー!
青コーナー!
V.G.競技、楠真奈美、日本!
柳生自然流兵術、一羽流空手道、ダルク派サバット、大連武館通背拳、
テコンドー・シュタインジム、プジァストゥティ派エスクリマ、他多数、シルヴィア・オ
ッフェンバック、フランス共和国!」
真奈美の前に、フランスの少女が立った。
身長も体格も真奈美と同じくらい。
小麦色の肌に、真っ黒なウェーブの三つ編み。
シルヴィアは自信に満ちた笑みを浮かべていた。
放送席から、琴荏が二人に注目した。
「さて、これは面白い対決です。
かたや、みなさんご存知、我流の王者、楠真奈美。
プロ V.G.では何度も入賞しています。
昨日は見事なパウンドで、ブラジルのフェローゾ選手に勝利しました。
そして対するはフランスの古武術家、シルヴィア・オッフェンバック。
競技選手としては知られていませんが、しかし古武道 83 流派の皆伝。
霧島宗家、一人の人間が、こんなにも多くの武術を極められるのでしょうか?」
「ふむ・・・・・・まあめずらしいな。
ただ、格闘競技と異なり、武術とは技なのだ。
技の覚えが早ければ、そういう事もあるだろう。
数だけなら、私も 8 流派ほどの皆伝だ。
普通、肩書きに入れるのは 1 流派だけだがな」
「うーん、なるほど。では太子橋館長、昨日の動きを見る範囲では、
オッフェンバック選手に勝機はありますでしょうか」
「先ほど霧島宗家もおっしゃいましたが、
普通、武道家、格闘家は、一つの技術だけを名乗ります。
それは、複数の流派を習う場合、普通はどちらかを土台に、
どちらかを発展的に身に着けるものだからです。
ですがオッフェンバックは、あれだけ多数の技術を、
まるで手持ちのトランプから一枚を選ぶように使えるのです。
対する楠は、我流の強みといいますか、型にはまらない技が多い。
オッフェンバックの経験に無い技術が、楠にあるかどうか。
そこが決め手となるでしょうな」
「ありがとうございました。さあゴング!
軽快にステップを踏む楠選手に対して、
オッフェンバックは一歩も動きません!
まさしく静と動!
楠が徐々に距離をつめていきます!」
****
優香、聡美、珠緒の三人が、
真奈美をじっと見守っていた。
やたらに声援だけを飛ばしたりはしない。
指示は、ここぞというところで出す、と決めていた。
真奈美は判断能力が高くない。
しかし、それを補う創意工夫がある。
それを最大限に引き出すのが作戦だった。
真奈美がシルヴィアに近づいていく。
跳んだ。
「上・・・・・・ですか・・・・・・」
シルヴィアが両手を挙げた。
太陽を背に、真奈美が蹴りを落としてきた。
「他愛の無い・・・・・・」
真奈美の蹴り足に、シルヴィアの小指がかかった。
飛び降りてくる軌道が、弧を描いてそれた。
背後を取って、シルヴィアが真奈美のひざ裏を蹴った。
着地に失敗して、真奈美が崩れる。
流れるように、シルヴィアが背面から真奈美の首へ飛びついた。
「巧い!
オッフェンバック、楠の蹴りをいなし、
背後を取ってチョークに入りました!」
「あれは・・・・・・至心流の捌き方だな」
太子橋がつぶやく。
「中継ぎの関節蹴りがうまい。
あのタイミングは、よく練習していないと入らないぞ」
恭子も思わずうめいた。
「キャッチ」
レフェリーの千穂が、真奈美のノドへ指を向けた。
立った状態で、締めが入っている合図だ。
ここでギブアップを取れば K.O.勝ちになる。
真奈美は両手でシルヴィアの手を取り、
必死に離そうとした。
「真奈美ちゃん!」
珠緒が叫ぶ。
「まだ大丈夫だ。首が細いせいでポイントがずれてる」
優香が真奈美を見てつぶやいた。
「右足絡めてかわずがけ!
左手で手首、右手で腕の筋肉つかむ!」
聡美がこの試合で、初めて指示を出した。
「う~っ!」
真奈美が指示のとおりに足を絡め、両手を開いた。
「腕ひねって体は右!
逃げたら蹴りで追撃!」
真奈美が右へ体を逃がしながら、腕をつかんで引き離そうとする。
シルヴィアはすばやく腕を解いて、真奈美の体を前に押した。
「おやっ・・・・・・?
これは・・・・・・オッフェンバック選手、
せっかく極めていた首を、簡単に外してしまいました」
琴荏が不思議そうに声を出す。
「いや、あれでいいのです。ああいう逃げ方があるのですよ」
厳三が答えた。
聡美が真奈美に教えた技術は、奇しくも、
聡美が V.G.へ出る時に、厳三が教えた技術だった。
「ファイ!」
千穂が両手を交差させて、戦いを促した。
次の攻撃は、シルヴィアが先手を取った。
ふわりとジャブを当てに行く。
真奈美が無意識に、パンチに反応した。
そのわずかな時間に、シルヴィアが間をつめて、
真奈美の左手首をつかんだ。
「四方投げだ!」
恭子が叫ぶ。
「ハイヤアッ!」
シルヴィアが身を翻し、真奈美の手首をねじりあげた。
芸術のような美しさだった。
真奈美の右腕が一瞬で極められ、
続いて体が大きく縦回転して、砂の上に倒れた。
ダウンか、と、千穂が真奈美に駆け寄る。
しかし、真奈美が跳ね起きた。
「やれるか」
「あたりきや!」
「ノーダウン!
ファイ!」
「ヒゥアアッ!」
跳躍と同時に、半円を描いてシルヴィアの足がこめかみを狙う。
真奈美がぐろーぶで蹴りをガードした。
「えいっ・・・・・・」
真奈美が右手を突き出す。
「させませんわ」
シルヴィアが、ぐろーぶに手を重ねる。
爪を立て、起毛を引き抜いた。
つまんだ毛に、軽く息を吹きかける。
ふわりと散って、自分の姿を真奈美の視界から消した。
「クスノキ。その武器を選んだのは失敗でしたわね」
中段へ、シルヴィアが深く踏み込んだ。
「おおっ、指を立てた!」
「貫手だ!」
厳三も恭子も、この絶妙な技術にのけぞった。
真奈美のみぞおちに、四本の指先が突き刺さる。
「うあっ・・・・・・」
真奈美が、膝を崩した。
なんとか立っているが、ダメージは間違いない。
「フランスのオッフェンバック、日本の楠を圧倒しています!
なんという技術!
これは決まったか――いや、倒れません!」
「やるなあ・・・・・・けど、こんくらいなら、倒れへんなあ」
「・・・・・・さすがですわね。
けれど、あなたの技はすべて見せていただきました。
何もかもが、想像の範疇。この私に届く技など、ありませんわ」
「余裕やなー、むっかつくわあ。
けどなあ、これ見ても、その顔してられるかなー」
真奈美が突進した。
正面からではなく、斜めから。
体を丸めて、回転しながら突っ込んでいく。
ごろごろあたっくだ。
「それは昨日、ジルにだって通じなかったでしょう」
シルヴィアが落ち着いて左へよける。
ところが、技の途中でそれを止めると、
真奈美は体を広げて上に跳ね上がった。
ばんざいあたっくだ。
「変化があるのですか……けれど、それなら」
シルヴィアが空へ向けて両手を挙げた。
跳んで出す技なんて、下策中の下策ですわ。
空中でどれだけ変化しても、そう軌跡はかわらな……
「なっ!?」
真奈美が体をさらにそらした。
柔軟な真奈美は、空中でたくみに重心を変えていた。
シルヴィアの支え突きが空を切る。真奈美がその手に抱きついた。
「お……お離しっ!」
「おことわりや」
シルヴィアの腕をつかんだまま、真奈美が蹴りを出した。
鈍重な音。シルヴィアの頬がしたたかに打たれ、
小柄な体が崩れ落ちた。黒の三つ編みが跳ねる。
「ダウン!」
千穂が手を横に振った。
「これは見事。楠は、オッフェンバックに体重をあずけて蹴った。
教本どおりでは対処できん技術です」
厳三がマイクを引き寄せた。
「やりました、楠、ポイントです! ダウンを取りました!」
琴荏がマイクに向かって叫んだ。
「スリー!」
千穂がカウントを続けている。
油断しましたわ・・・・・・私の技にも、まだまだ隙があったという事ですわね。
「フォー!」
けれど、数限りなく打たれ続けたこの体。
クスノキ。私の武術は、テクニックだけではない。
タフネスでも、決して遅れをとりませんわ。
「いけるか!」
千穂がシルヴィアの両手首をつかんで聞いた。
「ウイ、マドモアゼル。ウイ」
シルヴィアが答えた。
「ファイ!」
千穂がシルヴィアの前から身を引き、真奈美に目を向けた。
審判を続けながら、真奈美の動きを見つめる。
「オッフェンバック前へ。ミドルキック・・・・・・
いや、変化してハイキックへ・・・・・・じゃない!」
「踵落としか?」
恭子が身を乗り出した。
「いや、あれは全部フェイントだ」
厳三が読み取って言った。
シルヴィアが足を引きざまに左ストレートを飛ばした。
だが、真奈美はそれを的確に見切っていた。
「これやっ!」
フェイントに隠された本命の左を、
真奈美が軽快に弾いた。
「まさか!」
「ダマしあいなら 10 年早いで!」
しゃがんで、真奈美がぐろーぶを飛ばす。
足に、ゴムひもが絡まった。
「なっ!」
「にゃあっ!」
真奈美が力任せに右手を引く。
足をすくわれて、シルヴィアの姿勢がガクッと崩れた。
「いくでえ!」
真奈美が逆のぐろーぶを飛ばす。
シルヴィアの胸元に、にくきゅうが命中した。
「かはっ!」
「ラストや!」
真奈美が蹴りを突き出す。
「おおっと!」
その足を、千穂が止めた。
「ほえ?」
「ファーストラウンド、エンド・・・・・・」
千穂が、汗をふき取りながら片目をつぶり、二人を交互に見た。
4.野生対伝統
「いや・・・・・・すさまじいラウンドでした。霧島さん」
「拮抗しているな。これはいい試合だ。タイプの違う選手同士というのは、
たいていあっさり決着がつくのだが・・・・・・」
優香たちの前に戻ってくると、真奈美がちょこんと椅子に座った。
それから、得意そうに珠緒へ視線を向ける。
「どーや!
負けとらんやろ!」
「すごい!
すごいよ、真奈美ちゃん!」
「みとれや。勝って帰ってくるで」
肩で息をしながら、真奈美がうれしそうに答えた。
「さすが本家ですわね」
シルヴィアがタオルで汗をぬぐいながら、はーっと息をつく。
「まあそうかもしれん。だが、向こうはもうタネが切れる。
こちらはまだ、10 も 20 もあるんだ」
シルヴィアのセコンドが言った。
「承知しましたわ」
シルヴィアが立ち上がり、中央へ向かった。
シルヴィアは腰を落として体重は後ろに乗せ、
両手を中段と上段に分けた。
真奈美は構えずにステップを繰り返している。
「セカンラウン!
レディ・・・・・・ファイ!」
千穂が、拳を突き出した。
真奈美が右のぐろーぶを飛ばしてから左に回り、
ダッシュに入った。
狙いはシルヴィアの胴体を狙った体当たり。
この一撃にかけるつもりだった。
シルヴィアちゃん、これで終わりや。
こんな難しい技、こんなたくさん、ようおぼえたな。
けど、技は試合の中だと、ほんのちょびっとの部分や。
どんな人間やって、全部の体重をたたきつけたら、立ってられん。
「シルヴィ!」
セコンドが体を前に出し、口に手を添えて叫んだ。
「逃げろ、逃げるんだ、シルヴィ!」
セコンドが大声で、繰り返す。
真奈美の姿勢は低く、肩からぶつかる動きだ。
食らったら、ダメージは大きい。
「シルヴィーっ!!」
だが、シルヴィアは動じていなかった。
ったく、うっさいですわねえ。
あの体当たりが尋常じゃない威力だなんて、
とうに気がついてましてよ。
それでも、逃げるなんてありえませんわ。
私の武術から唯一つ、欠けている物。
83 人の師、全てが教えてくださったけれど、
私の心には宿らなかった技術。
それは、退却の二文字ですわ。
「チィアァ!」
シルヴィアが中段へ突きを放った。
「おおっ!?」
シルヴィアのセコンドが、驚きの声を上げた。
「くーっ!?」
なんの変哲もないその突きに、
全力の体当たりを仕掛けた真奈美が、したたかに打たれた。
ぐらりと、姿勢が崩れ落ちる。
「ダウン!」
千穂が駆け寄った。
勝負をかけた真奈美の一撃が、
シルヴィアのカウンターに敗れたのだ。
意外な展開に、観客が全員、言葉を失った。
「これは・・・・・・いったい?
攻勢に出ていた楠、
無造作に出した、オッフェンバックの突きに飛ばされました。
何が起こったのでしょう?」
「裏当てですな」
厳三が、太い笑みを浮かべた。
「見事だ。肩甲骨が割れたかもしれん」
恭子が続けた。
「裏当てといいますと、あの?」
琴荏が、手のひらを重ねて聞いた。
「そう。二枚重ねた板をたたき、一枚目ではなく、
二枚目が割れるという、あの技の事ですよ」
厳三が、琴荏の手の甲へ、軽く拳を当てる。
「もう少し、詳しくいただけますか」
琴荏が顔を横へ向けた。
「裏当ては古くから空手の秘伝といわれていますが、
手品の域を出ないとも言えます。
二枚目だけ割れたところで、たいして意味もありませんからな」
「言われてみれば、たしかに」
「本来の裏当てというのは、後ろの板を割る技術ではないのですよ。
それは、二枚目に割れやすい板を用意する、ただのトリックです。
今のオッフェンバックの技術こそが、本来の裏当てなのです。
両足と打ち手を一直線にそろえ、
裏側まで届く、貫通力のあるパンチです。
ボクシングにしろ空手にしろ、普通は連打を想定するため、
あそこまで整えた姿勢で技を出すことはありません。
これは、さしもの楠選手でも耐えられないでしょう」
「ありがとうございます。楠選手、ダメージは大きいか。
これでは立ち上がれ・・・・・・」
と、そこで琴荏の言葉が止まった。
シルヴィアは、倒れた真奈美をじっと見つめていた。
お立ちなさい。
完璧なフォームから打ち出した私の拳。自信がありましたわ。
それでも、あなたの内臓も骨格も壊せなかったようですわね。
いいでしょう。それなら、お立ちなさい・・・・・・
「太子橋さん!
真奈美は動くぞ!」
恭子が声を上げた。
「まさか!」
厳三が、思わず声を荒げた。
「カウントを数えて立った。まだ余裕があるのか。
信じられん。オッフェンバックはカウンターに、
まったく巧みな裏当てを出した。完全に通っていたはずだ」
恭子が息をついてつぶやいた。
真奈美が立ち上がり、千穂に戦意を見せる。
シルヴィアは憎憎しげに、真奈美をみつめていた。
「やられたで・・・・・・けど・・・・・・さっきのは切り札やないで。
真奈美ちゃんの全力、見せたるわ!」
真奈美が突っかけた。
左右から、両手、両足を振ってくる。
規則性も秩序もないが、その連打は速く、威力もある。
果てしない才能に裏付けられた連撃だ。
シルヴィアは磨かれた技術でそれをしのいでいたが、
やがて、防御が切り裂かれていった。
「すごいわね」
セコンドの聡美からも、思わず言葉が漏れた。
「真奈美ちゃん、いよいよ本気だね。
あのスピードなら、ボクにも避けられるかな」
「オッフェンバックのブロックが破られる!
楠が押し切るか?」
琴荏が、興奮の声を張り上げる。
シルヴィアは冷静に手を回し体を入れ替えていたが、
両手に蓄積する痛みが無視できなくなっていた。
まずいですわね。この速攻は予想してませんでしたわ。
流し切るのは無理。奥の手・・・・・・いきますか・・・・・・
「ヒュウッ!」
「んっ?」
真奈美のぐろーぶが、大きく跳ね上がった。
「な・・・・・・なんや・・・・・・」
シルヴィアが片手で、真奈美の突きを弾き飛ばしたのだ。
姿勢を立て直して、真奈美がもう一度攻撃に出る。
しかし、左右から雨あられと降り注ぐ連撃は、
またもシルヴィアに弾かれた。
「―――っ!」
真奈美の両手に、鋭い痺れがまきついてきた。
「優香、今・・・・・・」
「あ、あれ・・・・・・おかしいな」
「え?
今の、何ですか?」
聡美も優香も、そして珠緒も、シルヴィアの動きに思わず言葉を失った。
体が、二つに見えた。
目の焦点が合わないときのように、
シルヴィアの体がぼんやりと左右にぶれている。
****
試合を見ていたアメリカの潤やえりりん、コーディも、
このシルヴィアの反撃に、目を向けてざわめいた。
「なんだありゃ?」
「急に乱視にでもなったかいな?」
「ううん。あたしにも見えた。なんか、ダブってなかった?」
****
輝美や弓子も、この試合に目を向けていた。
「弓子、なんだ今の?」
「初めて見るね。忍術の分身?」
****
「れいどう……」
レフェリーの千穂が、体を引きながらつぶやいた。
声が震えていた。
「霊動法だ!」
恭子が叫んで立ち上がった。
「霊動?」
琴荏が聞き返す。
「柔術の起源にあたる古神道で、神官たちが、
魂の振動を増幅するために使ったという、伝説の技だ!」
「初めて聞きますな。どういう技術なのでしょうか?」
厳三が恭子に聞いた。
「神道の思想に、人の体や魂は、そもそも震えているもの、
振動を持つものという理論がある。
その振動を強めたり弱めたりすることで、
人間は健康になったり、病気になったりするというわけだ。
古神道の儀式では、魂をゆさぶり蘇生を試みるものすらある。
心臓マッサージなどの医学にも通じる考え方だ。
オッフェンバックは、これを攻撃に用いた。
全身の振動を増幅させて、あたかも左右に分裂する、
二重の体を作り出したのだ!
身体能力は活性化され、しかも急所は半減する。
ばかりか、その振動自体が反撃にもなる。
古武術に残された、攻防一体の秘技と言われているが、
まさか、実際に目にする日が来るとは・・・・・・」
うわあ、この人を解説にしといて良かった・・・・・・
琴荏が唇を震わせて、もう一度試合場へ目を向けた。
「それが、どしたんや・・・・・・どんな技やって、
おんなじ人間がやることやん・・・・・・」
真奈美が歯の隙間からつぶやいた。
「真奈美ちゃん、気をつけて!」
聡美の声よりも早く、真奈美がつっかけた。
シルヴィアが、再び体を二重に増やした。
真奈美の手足が、シルヴィアに襲い掛かる。
チリ、チリと、羽音に似た音が響いた。
真奈美のぐろーぶが、またも弾き飛ばされた。
「うわっ・・・・・・」
鮮血がほとばしる。真奈美の細い手首が切り裂かれた。
「完全に受けきったのか!」
厳三が驚きの声を上げた。
「楠、裂傷を負いました!
ピンチです!」
琴荏も叫ぶ。
シルヴィアが体を戻し、構えなおした。
「楠さん・・・・・・そう軽々しく、
武道を見てもらっては困りますわね・・・・・・
私の身に染み付いた武術は、何百年という英知の結晶。
ただのケンカ好きに、かなうわけがありませんわ・・・・・・」
シルヴィアの両手が、上段と中段に分かれる。
その体が、さらに左右に増え、すり足で真奈美に向かっていった。
シルヴィアの打撃が真奈美を襲った。よけられない。
三発の打撃に、真奈美が弾き飛ばされた。
立ち上がったが、明らかにダメージが残っている。
「オッフェンバックの掌打がクリーンヒットです!」
琴荏が叫ぶ。
「形勢逆転か!」
厳三が立ったまま、マイクをつかんで言った。
追い詰められ、コーナー代わりの支柱を背負う。
逃げられへん。
あかん。このままじゃジリ貧や。
負けるんやろか。
真奈美ちゃん、まだ二回戦なのに、もう負けるんやろか・・・・・・
心が折れそうになる。
これまでの試合でいつも湧き上がってきた、
逃げ出したくなる気持ちが浮かんでくる。
しかし、そこで。
真奈美の耳に、小さな声が届いた。
「真奈美ちゃん・・・・・・」
珠緒の高い声。
かすかに震えた、真奈美を心配する、小さな声だった。
逃げへん!
真奈美ちゃん、今日だけは逃げられへん!
「うああああっ!」
真奈美が下を向いて、一際大きく気を開放した。
シルヴィアが、その気配に身を引いた。
二重の体が一つに戻る。
真奈美が息を止めて、シルヴィアに向き合った。
熱気を右手に込める。
まだや。
真奈美ちゃん、まだ行けるんや。
こんなとこで、負けられん!
見とれや!
これが、真奈美ちゃんのとっておきやで!
真奈美が、左手でぐろーぶの口を引いた。
「あっ・・・・・・」
珠緒が、開いた口に手を当てた。
ごっついねころけっとぱんちだ。
あれなら面積が大きいから、体がどうなっていようと関係ない。
分かれた体の両方を吹き飛ばすつもりだ。
「にゃあーっ!!」
真奈美が、ぐろーぶを飛ばした。
シルヴィアは、その異様に巨大なおもちゃを睨み付け、
落ち着いて切り返しを狙った。
霊動法で体を二重に分けると、
息を止めて腰を落とす。
古武術に伝わる秘伝の一撃が、
真奈美のぐろーぶを迎え撃った。
ドン、と、太鼓のような音が空気を振るわせた。
沈黙が訪れた。
しん、と、観客が静まり返っている。
試合場は、二人が作り出した砂塵に包まれていた。
人影はまだ見えない。
やがて、風が砂を払った。
最初に顔を見せたのは千穂だった。
舌を出して、砂をぬぐっている。
そして・・・・・・
「真奈美ちゃん!」
珠緒が叫んだ。
真奈美は立っていた。
凛と顔を上げ、試合場の中央に。
シルヴィアはなんとか立とうとしていたが、
体が動かないようだった。
「ドクター!」
両手を振って、千穂が叫んだ。
「試合終了!
すさまじい乱戦を制したのは、日本、楠です!」
琴荏の声に、遅れて歓声が上がった。
「やっと終わったか。息が止まりそうだったな」
恭子もほっと息を吐いて、椅子にかけなおした。
「いい勝負でしたな。まさに紙一重です。
オッフェンバックはまだ 17 歳。これからが楽しみですな」
厳三も続けた。
真奈美がぐろーぶをとって、シルヴィアの手を握った。
「悔しい!
あと少しでしたのに!」
涙目になって、シルヴィアが言った。
「惜しかったな。でも、真奈美ちゃんに勝つにはまだまだやで」
真奈美が手を差し伸べた。
優勝候補の一角、シルヴィア・オッフェンバックも、ここで消えた。
5.過去、現在、未来
二回戦が続く。
アメリカの選手がアップを始めた。
控え室の選手たちが、さっとそちらへ眼を向ける。
「姉さん、ミット持ってよ」
「あいな。さ、来ーや」
えりりんがビッグミットを重ねて構える。
「はじめるみたいよ」
聡美が、優香に声をかけた。
珠緒もストレッチをやめて、そっちへ目を向けた。
すっと、コーディが構えた。
リラックスした、隙の無い構えだ。
無造作に、コーディが腰を回した。
ドン!
と、落雷のような一撃が、広い控え室に響いた。
「ええなあ!」
えりりんが、ビリビリと響く蹴りに体を震わせる。
珠緒が、そのミドルキックにゾクッと体を震わせた。
「あれが、コーデリアのミドルキックだよ」
優香が、珠緒の耳にささやいた。
「・・・・・・すごい」
珠緒の胸の奥底まで、衝撃が伝わってきた。
それまで見た中でも、最高のミドルキックだった。
「誰だって、蹴りのある格闘技をやってれば、最初に習う技術。
腰を切って、手を振って、足をたたきつける。
当てる場所は足首から足の甲にかけて。
ミットが一番響く蹴り方だね」
珠緒の体中に鳥肌が立った。
軽量でリーチの無い自分の蹴りとは、
ぜんぜん質が違っていた。
こんな・・・・・・
こんな技・・・・・・
「ほな、もう一丁!」
「おおっ!」
パアン!
さっきの蹴り込みではない。今度は打ってすぐに引いた。
皮を叩くような、鋭く高い音が響いた。
衝撃が空気を揺らして、部屋の全員へ風圧が届いた。
こんな技・・・・・・受けられるわけないよ・・・・・・
珠緒の体が、その音にすくみあがった。
泣き出したい気分だった。
試合が始まる前から逃げたくなるのは、生まれて初めてだった。
センパイが、怖がる必要が無いなんて言ったのは、ただの気休めだ。
あたしを安心させようと思っただけなんだ。
こんな選手だったなんて。
こんな人が、世界にいるなんて。
係員がコーディに声をかけた。
「ゴールドスミス選手、そろそろ」
「いいわよ!」
三人が、試合場へ向かった。
****
コーデリア・ゴールドスミスの初戦の相手は、
オランダのヴァネッサ・アダムス。
綾子の合図で、試合が始まった。
「ひゅう!」
悠々とコーディが蹴りを振り上げた。
「さあ注目のアメリカ、コーデリア・ゴールドスミス。まずは先手です!」
「力が抜けていますね。最初の試合なのに、まったく緊張していない。
いい選手です」
琴荏と太子橋がアナウンスを始めた。
コーデリアは蹴りを戻してからジャブとフック。
ヴァネッサは苦い顔をすると、
一回間をおいてから、タックルに入った。
「アダムス選手、タックル!
ゴールドスミスの脇を刺した・・・・・・」
「あ、いや、切ってるようだぞ」
恭子が言った直後。
「やっ!」
強烈な膝蹴りがヴァネッサのあごを打ち抜いた。
あっさりと砂の上に倒れる。
「ダウンどす……いや、ストップやな」
綾子が手を振って、ヴァネッサを裏返した。
白目をむいている。何度か頬をはたいて、ようやく目を覚ました。
「これは……余裕の勝利でした。霧島宗家。
アダムス選手も期待されていましたが……」
「ゴールドスミスの初手、あれが、ガードの上から効いていたようだな。
アダムスが焦ってタックルに入ったのだろう」
「軽く蹴ったようですが、十分な威力があったんですね」
コーディがバンテージをといて、右腕を振り上げて試合場を降りた。
わずか 17 秒で、試合は終わったのだ。
相手のアダムス選手だって、有名なシュートボクサーなのに……
控え室で見ていた珠緒が、体を震わせた。
「珠緒ちゃん、気になる?」
優香が冷たい声で言った。
その態度は珠緒にではなく、画面の向こうのコーディへ向けたものだった。
「え、だって……」
「威力はあるし、速い。でも、V.G.は蹴りを競う競技じゃない」
「それは……そうですけど」
珠緒が、腕を振り上げて舞台を降りていくコーディを見る。
画面へ向けたその視線が、自分を標的に見据えているような気がした。
あのミドルキック。
コーディさんのように蹴らないと。
蹴ることができないと、負ける。
この試合は、そういうレベルの試合なんだ。
珠緒の心の中で、その言葉が駆け巡っていた。
「センパイ、すいません。
あたし、ちょっとお手洗いに行ってきます」
「あ、うん……気分悪い?」
「あ、いえ、大丈夫です……」
「なんやあ。珠ちゃんビビリやなあ。真奈美ちゃん、ちょっと慰めてくるで」
真奈美が、ぴょこんと珠緒の後を追った。
****
聡美は珠緒を追おうとしていたが、真奈美は一直線に走っていった。
聡美が振り向いた。
優香は憮然と、アメリカ選手の背中を見送っていた。
「優香。コーデリアとは一緒に練習してたことあるのよね」
「あるよ」
「最悪のファイターって、なに?」
「……それ、ボクが言ったの?」
「珠緒ちゃんに言ったの、聞こえてたから。
優香にしちゃ、珍しいセリフじゃない?」
「……言わないほうがいいとは思ってる。
でも、ボクだって、そう思う人の一人くらいはいるよ」
「話したくないこと?」
「話してもつまんないからね。黙ってたんだ」
「聞いてもいいのね」
「聡美ならね」
優香が気まずそうに顔をぽりぽりと掻き、
少しためらってから、話し始めた。
****
テキサスの短い冬も終わり、春。
コーディのプロデビューが決まったのは、そのころだった。
全米アルティマシー・トーナメントのテキサス州大会で、
順調にコーディは勝ち上がった。
コーディのジムはそれまでプロ選手がいなかったこともあり、
この大活躍に大きく沸きあがっていた。
決勝戦の相手は、メキシコのルル・ナナプッシュ。
インディオの血を受け継ぐ彼女の士気は高く、
コーディと比べても遜色のない選手だった。
ただ、準決勝でフルラウンドを戦っており、
コーディよりもダメージを受けていた。
三十分の休憩をはさみ、期待の高まる決勝戦の前。
数人の男女が、コーディの控え室に入ってきた。
このとき、潤とえりりんはどちらも仕事が入っていたため、
優香がチーフ・セコンドを受け持っていた。
入ってきた男女が、椅子にかけているコーディの前に立った。
「ゴールドスミスさん。私たちは、メキシコ住民協会の者です」
初老の男が言った。
「はあ」
コーディは興味もなさそうに、シューズの紐を締めながら答えた。
「突然の失礼をお許しください。われわれメキシコ系の市民は、
ルルの活躍に対して非常に大きな誇りを持っています。
彼女のような人が、われわれには必要なのです」
すがるような顔で、男性が話し続けた。
優香が間に割って入った。
「用事ならプロモーターを通してください。
ファンの方なら、あとで……」
「いえ、聞いてください。
ルルは私たちの希望なのです。負けるのは見たくない。
しかし、先ほどの試合で手傷を負っている。
これでは、公平な勝負とは……」
優香が、あきれ顔で押し黙った。
トーナメント競技で、ダメージを覚悟しないで出る人がいるもんか。
早く引き上げてもらおう。
と、優香が口を開く前に。
「この大会の賞金は 2 万ドルです。その全額を……」
男が、バッグを前に差し出した。
「帰ってください」
「いいわよ」
優香とコーディが、続けて言った。
「ええっ?」
優香が、ぎょっとしてのけぞった。
「要するに、あたしが捨てた勝ちを、あんたらが拾いたいんでしょ」
「いえ、われわれはあくまで、公正な試合を……」
「落ちたわね。インディオの聖女、ルル・ナナプッシュも」
「いえ、これは、私たちの判断でして……」
「お金は、うちのジムに小切手で送ってちょうだい」
コーディが優香も闖入者も押しのけて、試合に向かった。
「ちょっと!
コーデリア、待って!」
優香がコーディの背中を追った。
「気にしなくていいですよ、コーチ」
「だからって、引き受けてどうするんだよ!」
「そうとでも言わなきゃ、引っ込まないつもりでしょ」
「コーデリア!」
振り返らず、コーディは廊下をまっすぐに抜けていった。
その先のドアが開き、リングへ続く花道を早足に歩く。
満場の拍手と、高らかな歓声が、
コーディの実力と、ルルの根性に惜しみなく注がれていた。
そして、試合開始。
****
怪我だらけのルル・ナナプッシュは、
それでも全身の気合を振り絞って、コーディへ向かっていった。
コーディは冷たいまなざしで、それを待ち受けた。
ルルのわき腹に、強烈なミドルキックがめり込んだ。
ルルの動きはそれだけで止まった。
そして……
「コーデリア!」
優香が追いつき、リングサイドで叫んだとき。
崩れ落ちるルルの腹を、コーディが踏みつけた。
どん、どん、と。ルルの体が、マットの上を2回跳ねた。
「なにやってんだよ、コーデリア!」
優香が悲鳴を上げた。
この試合は、ダウンした相手への追撃が認められない。
コーディの体を、レフェリーが止めた。
「ディスクォリフィケーション!
退場!」
レフェリーがレッドカードを取り出して、コーディの鼻先に突きつけた。
一発退場だ。コーデリアがその手を払いのけた。
赤い紙がひらひらと落ちて、激痛でのた打ち回る、ルルの上に乗った。
リングを降りるコーディの背中に、ブーイングとガラクタが叩きつけられた。
コーディは、アルティマシー主催者から州大会の準優勝を剥奪され、除名処分。
地元のスポーツ紙で、雨あられのバッシングが叩きつけられた。
ジムに小切手は届かなかった。
****
「ひどい話ね」
聡美が、試合場へ目を落としながら言った。
「頭にくるのはわかるよ。でも、それを試合にぶつける必要はない。
プロの選手として、反則は許されない。
それに……コーデリアは、
ファンも、主催者も、ルルも、ボクも、全員の気持ちを裏切った。
自分の気分ひとつでね……」
「ルル・ナナプッシュは、この大会にも出ているわよね」
「全米アルティマシーを優勝したのは、結局ルルだからね。
テキサスの州大会は、やたらレベルが高かったんだ。
それでレイミから推薦が入ったんだと思う。
ボクはルルが、八百長の話を知っていたとは思えない。
知っていたら、あの目で、あの体で、堂々と前に出たりはしないよ」
「潤とえりりんに、その話は?」
「ボクはしてない。コーデリアの勇み足で反則負けになったんだと思ってる。
二人とも笑って、じゃあ次は V.G.だな、って言ってたよ」
「言うべきだったんじゃない?」
「言ったっていいよ。でも、コーディが言ったほうがいい。
コーディが本当の事を言ったかどうか、ボクは知らない。
そのことがあってから、会ってないし」
「優香は、コーデリアが好きだったのね」
「以前はね。今は嫌いだ」
優香が口を閉じた。
聡美も、それ以上は聞こうとしなかった。
やがて、真奈美が戻ってきて、二人の横に座った。
「なに、二人で暗い顔してるんや?」
「あ、いや、なんでもないよ」
優香が、無理に笑顔を作って答えた。
「珠ちゃんが心配なんか?
今、仮眠室で休んでるけど、大丈夫やって。
ちょっと落ちてるけど、すぐに復活する思うで」
真奈美がにっこりと微笑んだ。
優香も聡美も、その笑顔に心を落ち着かせ、
もう一度試合場へ目を向けた。
2 回戦も、終わりに近づいていた。
6.強者と弱者
コーディの試合が終わり、最後のブロックへ。
今日の最終戦が始まった。
珠緒は休憩室にいるということだったので、
屋外で観戦していたのは、優香、聡美、真奈美の三人だった。
「赤、アリシア・グラハレス!
青、張麗坤!
キューバ共和国!
中華人民共和国!」
弓子が颯爽と上がってきた。
数年前に中国へ帰化していて、今ではそっちの名前を使っている。
戦闘用に直した、短い黒のチャイナドレス。
自信に満ちた戦士の瞳が、相手へまっすぐ向けられていた。
「アップしてないね。息が長い。
聡美、相手のグラハレスさんってどういう選手?」
「柔道とレスリングね。中南米大会で優勝してるわ」
聡美が言い終わると同時に、ゴングが鳴った。
弓子は、無造作に間合いを近づけていった。
アリシアがローキックに入る。
ほぼ同時に、弓子の足が、ゆっくりと動いた。
二人が交差する。直後、アリシアさんの姿勢がぐらりと崩れた。
「えっ、入ってる?」
「へ?
どこ?」
聡美と優香が、ほぼ同時に叫んだ。
「こっちやと見えへんけど、たぶん左の背中や」
弓子とアリシアを見つめたまま、真奈美が言った。
「あ、本当だ。キドニー打ちね」
「V.G.じゃ反則じゃないもんね」
起き上がらない。
アリシアへ、レフェリーのかおりが駆け寄っていく。
弓子は相手を見ずにコーナーへ戻った。
「ストップ!」
かおりが両手を交差して叫んだ。
「ドクターお願いします!」
リングドクターが、医療器具をかかえて駆け寄る。
アリシアは腹を抱えてうずくまっていた。
「内臓がやられてるかもしれん。すぐに精密検査だ」
「大丈夫ですわ」
弓子がドクターに言った。
「損傷を与えないよう、軽く打ちました。
見てみれば、すぐにわかりますわ」
「K.O!
ウィナー、張麗坤!」
弓子が右の拳を左手に合わせて、礼を向ける。
きびすを返して、試合場を降りていった。
セコンドの輝美に平手をぶつけて、二人が試合場を降りた。
弓子は、疲れも見せずに退場した。
不敵な笑顔に、観客が、ぞっと背筋を凍りつかせた。
輝美と弓子が、お互いの約束を目で伝え合った。
今回は、ヒールに徹する、という約束だ。
V.G.の評価は、この一年で下がりに下がった。
しかし本家 V.G.には、なお弓子がいるのだと。
それを見た人の頭に叩き込むのが、弓子たちの目的だった。
万が一、珠緒と真奈美が負けても、V.G.の名前だけは守る。
そのためにも、勝つ。
この大会は、冷静に、非情に、全力で行かないと、勝てない。
毎回できるだけ早い時間で勝負を決める。
控え室へ向かう通路で、弓子が口を開いた。
「輝美」
「ああ」
「緊張で息が止まりそうよ」
「ああ」
「ミス・グラハレスは決して弱くない。明日も、強い相手と戦う」
「ああ」
「怖いよ」
弓子の足は震えていた。
戦わなければならない。
勝って、勝って……
そして、流言をねじ伏せ、真実を見せ付ける。
V.G.戦士は、本当に強いのだと。
****
一方、試合場ではグラハレスが立ち上がり、リングを降りた。
悔しさに口をゆがませていたが、神妙に退場した。
「鎧袖一触・・・・・・」
聡美がつぶやいた。
「まさに、鎧袖一触だね」
優香も、低い声を押し殺していた。
****
珠緒は仮眠室で横になっていたが、
優香たちが入るとすぐに体を起こした。
「調子どう?」
優香が聞いた。
「・・・・・・大丈夫です」
珠緒の顔に、焦りと怒りが混じったような、そんな色をしていた。
「お昼だよ。行こう」
さりげなく、優香が珠緒の肩を揉みながら、
肌の体温を感じ取った。
寝ていたにしても、低すぎる。
これは、戦意が無い冷たさだ。
それに顔が赤い。焦っているのだ。
「センパイ。弓子さんは」
珠緒が優香に顔を向けた。
「ん?
勝ったよ」
「内容はどうでしたか」
「危なげなかったね。結構実力差があったみたい」
下を向いて、珠緒が重い表情を見せた。
弓子さんは、勝った。
あたしも勝たないと。
どうすればいいんだろう。
どうすれば、あたしは勝てるんだろう。
あたしには、真奈美ちゃんみたいなひらめきや、
弓子さんみたいな技術は無い。
優香センパイに言ってもらった左だけじゃ、勝てないかもしれない。
左パンチは、他の技に組み合わせないとならないんだ。
あと一つ欲しい。
自分に自信を与えてくれる技術が。
そう。あの、コーデリアさんの右ミドルみたいに、
最初から最後まで使い続けることができるような・・・・・・
****
食事を終えて、4 人が控え室に向かった。
最初はいつもどおり、珠緒からだ。
相手は、アルジェリアのジャミラ・フォーレ。
ベリーショートの茶色い巻き毛、真っ黒な肌。
骨格はたくましいが、筋肉は少し薄い。
相手が入ってきたのを見て、
ちらりとそちらを見たが、もう一度天井に顔を向けなおした。
「ミツルギは無理だなー」
部屋の反対側で柔軟体操を始めた珠緒を見ながら、
ジャミラが苦い笑顔で言った。
「しかし・・・・・・せっかくの機会だぞ。みんなにも期待されている」
「みんな?
あの少年ギャングの事かい?」
ジャミラはアルジェの少年院で、
キックボクシングを教える仕事についていた。
「1 回戦、2 回戦は自分なりにベストが尽くせたけどねえ。
アタシはここまでの選手だよ。
層の薄い国なんだから、ここらで終わってもしょうがないだろ」
「ジャミラ、オリンピックだぞ」
セコンドの声が自然に厳しくなる。
「いやいや、手は抜かないさ。ただ、ミツルギは強いよ。
あのボクシング女王だって負けた。
アタシがウェルニヒとやったら、100 回が 100 回ボロ負けだ」
「しかし・・・・・・」
「努力はするよ。ただ、期待されてもねえ」
憮然とセコンドたちが沈黙したが、
ジャミラはもう一度、珠緒に目を向けただけだった。
人間、できることと、できないことがあんのよ。
****
「名試合が続きます、バグダッドオリンピック V.G.競技!
三回戦第一試合は、本家日本、御剣珠緒を前に、
アルジェリアの戦士、ジャミラ・フォーレが立ちはだかります!
さて太子橋さん、どうでしょう、この予想は」
「そうですね。これまでの経歴、身体能力、技術などを総合して考えても、
やはり圧倒的にフォーレ選手が不利ですね」
厳三が言った。
「うーん、そうですか。しかしフォーレ選手にも期待したいところです。
さあ試合開始です!」
ゴングと同時に、二人が前に出た。
ジャミラは右のジャブを出しながら前に。
珠緒がすぐに反応してパンチを返した。肘で受ける。
いってー。
心の中でジャミラが叫んだ。
何食ってりゃ、こんな手が出せるかね。このチビっこいのが。
でもまあ、しゃーないわな。
誰が相手だって、やることはやるよ!
「フォーレ選手、左のハイキック!
しかしこれはかわした!
御剣、紙一重です!」
「ふーむ」
厳三も恭子も、地味な試合だなあと思いながらも、
小さな違和感を感じていた。
「あらよっと!」
ジャミラが体をひるがえして、後ろ回し蹴りを蹴った。
バチッ、と、珠緒のこめかみを、ジャミラの蹴りが刻んだ。
「ありゃ?」
直撃を受けて、珠緒が体を震わせていた。
当たっちゃったよ。
間合い詰めに行っただけなのに。
ジャミラがジャブからフック、アッパーまでを打った。
珠緒が組み付いてくる。
やっべ、投げられる!
距離をとろうと、ジャミラが珠緒のあごをひっぱたいた。
ところが、これもいい角度で入った。
「ありゃりゃ?」
離れながら、ジャミラが不思議そうに構えなおす。
珠緒が首を振って両手を高く構えた。
ずいぶんガードが甘い。なんだ、この子。
そこから先はにらみ合いが続いた。
やがて、1 ラウンドが終わった。
不思議そうに戻ってきたジャミラが、
うがい水を受け取った。
「いいぞ。悪くなかったぞ」
「そうだね・・・・・・なんか、悪くないね」
ジャミラが反対側のコーナーへ目を向けた。
珠緒が肩を動かしている。あれは、武者震いとかじゃない。
息が切れているんだ。
そこで、ジャミラの頭に、ある光景が浮かんだ。
アメリカのコーデリア。あの派手なミット打ちの時、
たしかミツルギも同じ部屋にいた。
あの時、ミツルギはどんな顔をしてた……
やけにびくついてなかったか……?
アタシは流してたけど……
ふむ。と、ジャミラがうなずいた。
なんか見えてきたぞ。
なんでこんな雑な蹴りで攻めんのか、
すごく気になってたんだけど。
ミツルギがコーデリアの蹴りを恐れているなら?
そしてできもしない、強い蹴りにこだわっているのなら?
なんかそう考えると、すごくしっくりこないか……?
「ふっふっふ」
ジャミラが、にやりと頬をゆがめた。
「なんだ?」
セコンドが、ジャミラの奇妙な笑い声をつかまえた。
「ちょっとねえ。気がついちゃったよ、アタシ」
「は?
何に気がついた?」
「意地、張ってみようかなって思ってさ」
くくくっ、と、ジャミラが笑いをかみ殺した。
「お、おお、やってこい。がんばれよ!」
やる気になってくれるなら、それにこしたことはない。
セコンドもうれしそうにジャミラの肩を叩いた。
ジャミラが立ち上がり、椅子を後ろに蹴っ飛ばした。
やってみるか。
無名のアタシがミツルギを倒す。面白いじゃない。
7.虚飾の報い
2ラウンドが始まった。
審判席で、千穂とかおりが話しこんでいる。
「珠緒さん、焦りすぎてますねえ」
かおりが言った。
「まあな。あのアルジェリアの奴はどうみても並だ。
国内の V.G.じゃ、予選通過できりゃラッキーくらいだな」
千穂がつまらなそうに言った。
「うーん、まあ……ただ、珠緒さんがかなり崩れてますね」
「ああ。なんか、コーデリア見てビビリが入ったんだとさ」
「あ、それであんなに動作が大きくなってるんですか」
「そこに気がついてるかどうかで変わるな。
アルジェリアの奴、気がついたかな」
「どうでしょうね?」
「気がついてなきゃバカだな。
気がついててそこを攻めてなきゃ、ものすごいバカだ」
「んー……それなら……」
「はん?」
千穂がかおりから試合場へ目を移した。
ジャミラが、珠緒の蹴り足を見定め、落ち着いて払っている。
そこから、ためらわずローキック。
珠緒の太ももに、脛がめり込んだ。
「ジャミラさん、賢いようですよ」
かおりが答える。
「ふーん……やってるねえ」
千穂が腕を頭の後ろに組んだ。
珠緒がまた蹴りを出す。
ジャミラが悠々とそれをかわして、カウンターのミドル。
千穂が身を乗り出し、舌を打った。
くすっ、と、かおりが千穂にばれないように微笑んだ。
千穂さん、悪態ついてても、結局、珠緒さんを応援してるんですね。
****
優香と聡美は、むずかしい顔で試合を見守っていた。
珠緒がコーディの蹴りを見て、落ち込んでいたのはわかっている。
ただ、ここで劣勢は無いと思っていた。
「珠緒ちゃん、落ち着いて、自分のペース!」
「蹴り低く!
相手取りに来てるわよ!」
二人とも、そういう次元ではないとわかっている。
だが、
『しっかり』だの『どうした』だの、そんな事を言っても、
今はどうにもならない。ラウンド中に、気力を回復するのは無理だ。
確実な勝負に負けることも、まさかの強敵に勝つこともある。
そういう番狂わせで、一つ、確実に言えることがある。
弱いほうが、突然強くなることは無い。
しかし、強いほうが突然崩れることはあるのだ。
****
座席で観戦していた輝美も弓子も、きょとんとしていた。
この二人はコーディの練習風景を見ていない。
「なにやってるね、珠緒は」
「ありゃメンタル崩してるな。なんでか知らんが」
「もろいね」
「うおっ、厳しいお言葉だな」
輝美が脇を開いて両手を上げ、
つらっと白い目を向ける弓子へ言った。
「珠緒さん……古い V.G.だと、優香さんにもレイミさんにも勝ってる。
でもビデオも見たけど、内容も大して良くないよ」
ため息をついて、弓子がつぶやいた。
「そらまあ、あの試合はミランダの陰謀どーこーと混ざってたからな」
「純粋に勝負すれば、こんなものね。
昨日あんなに挑発したのに、期待はずれよ」
「ふーむ……」
輝美がもう一度試合場へ眼を向けた。
二ラウンドが終わり、綾子が二人の間に入った。
「もうちょっと行けるはずだけどなあ……」
輝美がさびしそうにつぶやいた。
「輝美、ここ暑い。屋内に戻るよ」
「そーするかい。ま、いいよ」
円形に並ぶ石段から立ち上がって、二人が試合場へ背を向けた。
****
「珠緒の 3 回戦だぜ。見ねーのか」
潤が控え室に入ってきた。
「アルジェリアのジャミラでしょ?
あいつ知ってるよ。見なくたって」
コーディがストレッチをしながら答えた。
「それが、えらく劣勢だ」
潤がドアを閉めながら言った。
「は?」
えりりんがコーディの背中を押すのをやめ、潤を見た。
「負けとるんか?
ジャミラならよう知っとるで。そんな強ない」
「判定じゃ明らかに珠緒が取られてる。
それも、ユディトの時みたいな、狙ってる感じじゃねえ」
「いきなり生理とか?」
「まさか。止める薬飲んどるやろ」
「そういう感じじゃねーんだよな。アレが来たなら集中力が散漫になるだろ。
そうじゃなくて、気がはやりすぎてんだ」
「うわー、ヤバいな。優香と聡美ついてんのに」
「あいつら真面目すぎっからなぁ。重すぎる事でも言われたかねえ」
3 人とも、自分たちが原因だとは気がついていなかった。
コーディ本人も含めて、珠緒の実力はこちらと互角と見ていたのだ。
そんな考えが浮かぶわけもなかった。
「潤コーチ。ミツルギが落ちたら、反対側は?」
「ロシアか、ドイツか、アイルランドか、タイだ」
「さて、どうなるやろな・・・・・・?」
****
絶望的な不調をかかえて、珠緒がコーナーへ戻ってきた。
迎えた三人ともが、何も言えなかった。
ジャミラのアタックは薄い。
K.O.負けにはならないだろう。
ただ、V.G.は打点を優先してとる競技だ。
このままいくと判定で負ける。
ウェルニヒ戦のような、一発に賭ける気力が芽生えていない。
そして、当の本人が、一番それをよくわかっていた。
珠緒の頬に、冷たい、不愉快な汗が流れていた。
****
あたし……
珠緒は視線を下げたままだった。
優香と目をあわせられない。
どうして?
いつもどおりにやろうとしているのに。
ぜんぜん、体が動かないよ。
コーデリアさんの事は考えないようにしてるのに。
そう思えば思うほど雑になっていく。
キックだけじゃない。
パンチも投げ技も、思うようにできない。
かっこわるい……
真奈美ちゃんに、聡美さんに、なによりセンパイに、
こんな試合、見せたくない……
「珠緒ちゃん……」
センパイが声をかけてきた。
「は、はい……」
蚊の鳴くような声で、珠緒が答えた。
「おちついて。負ける相手じゃない。
ここから取り返していこう。予定変更して、ここからは左中心で行こう。
なんとか乗り切っちゃおうよ」
珠緒が口をつぐんだ。ハイ、といえなかった。
なんとか乗り切って、それで、次は?
その次は?
答えられない。
乗り切られるなんて、いえない。
今までのように勝っても、次で勝てない。
今の方法で勝てなければ、なおさらだ。
できない。
どうしても。
あのコーデリアさんのような、鋭い技が出せない……
「あ、あたしよりも……」
額から、冷たい汗が流れてくる。
けれど、心を決めて、口を開いた。
「あたしよりも、真奈美ちゃんのほうを考えてください。
あたし、真奈美ちゃんみたいにやるのは、もう……」
ああ……言っちゃったよ……
ガッカリさせる台詞ですよね、今の。
センパイたち真面目だもん……
いつもふざけてる真奈美ちゃんも、今日は別だし……
でもセンパイ。あたし、もうしょうがないんです。
言わないなんて強さ、あたしにはないんです。
さすがに怒鳴られるかな。
でも、もう言われたほうがすっきりする。
悪いけど、あたしのこと、見捨てるって言っちゃってくれませんか?
8.弱さの中の強さ
「はあ」
と、聡美が、間の抜けた声を出した。
「よかった。セーフだね」
優香もほっと息をついた。
「えっ?」
珠緒が顔を上げた。
真奈美が、ほっぺたを掻きながら空を見上げた。
なんだかなー。
珠ちゃん、優香ねーちゃんに、そんな弱音もはいてなかったんか。
いくら素直でマジメな珠ちゃんでも、それじゃいい子すぎや。
そんくらい言わへんと、こんなんやってられへんやん。
真奈美はそう思ったが、口には出さなかった。
ここで言うことでもないと思っていた。
「あ、あのさ……別にそのくらい言ったっていいんだよ?
誰だって怖いんだよ。ボクだって、聡美だって。
だから、そんなに気にすることないって」
「え?
あの……?」
「珠緒ちゃん、こういう経験したことなかったのねえ。
優香の新人戦なんて、ガタガタ震えてずっとあたしに抱きついてたのよ。
『聡美ー、やだよー、怖いよー、負けたらどーしよー』だって」
「ここで言うことじゃないっ」
優香が肘で聡美を小突いた。
「まあそれはそれとして、ずっと押し殺してたのね。
そっちのほうが驚きだわ」
珠緒が、呆けた顔で三人を見回した。
そうなんだ。
この人たちも。
誰かが怖くて、負けるのが怖くて。
それが、普通なんだ。
あたし、ずっと付き合ってたつもりで、
そんな事も知らなかったんだ。
珠緒の顔に、生気が戻っていた。
コーデリアさんは怖い。
弓子さんも怖い。
今、目の前にいるジャミラさんも怖い。
でも、それで、いいんだ。
「珠緒ちゃん、今回は左を使うのやめよう。
ジャミラさんの攻撃なら、珠緒ちゃんには見切れる。
心を決めて、カウンターにかけてみて」
「え……」
「返事!」
「は……はいっ!」
言って、珠緒が立ち上がった。
相手を見る。
ジャミラも、珠緒に視線を返した。
その奥には、闘志と一緒に、恐怖が浮かんでいるのがわかる。
緊張しているんだ。あたしが緊張しているように。
怖いのも辛いのも抱きかかえて、
戦い続けようって思ってるんだ。
できることしか、できない。
あたしも。相手も。
今は、やるしかない。
****
ジャミラが緊張を押し殺して立ち上がった。
じっと珠緒の顔を見る。
なんか、おっかない顔してんねえ。
でもまあ、いまさら無理でしょ。
ダメな日は、何やったってダメなもんさ。
そういう日があるんだよ。チャンプのあんただってね。
ミツルギ。悪いけど、この試合はアタシがもらうよ。
****
ゴングの音。
狙う。カウンターを狙う。
姿勢を低く、手を高く。
これまでの V.G.で、優勝したときのように。
ジャミラの後ろ回し蹴りが跳んできた。
落ち着いて見切る。
まだだ。ここからどう入るかまで、確認する。
ジャミラは間を詰めてローキック。珠緒は脛でカット。
打ち下ろす右のロングフック。左腕でガード。
センパイの軌跡と、そんなに違うかな?
威力は明らかに下だよね。
ジャミラのキックを右手で払って、ローキックを返す。
ジャミラが後ろに逃げた。
パンチもキックも、なんてことないや……
珠緒が、落ち着いて組み立てを考えた。
ジャミラさんの攻撃。
最初は、徹底して後ろ回し蹴りだ。
つぶせるのは二発目。
次だ。次は、攻めるぞ……
珠緒が右手を腰に添えた。
気を込める。
ジャミラが前に出た。さらに後ろ回し蹴りを出してくる。
そこで、珠緒の右拳が走った。
「蒼龍撃!」
****
気を宿したアッパーの直撃を受けて、
ジャミラは放物線を描いて宙を舞った。
これは、倒せる。
観戦していた千穂が、ぐっと拳を握り締める。
かおりも、息を呑んで試合を見守った。
ジャミラが砂の上に落ちた。
小さく弾む。
綾子が割って入る。
「ダウンどす、離れて!」
珠緒が身を引く。カウントが始まった。
「……スリー!
……フォー!」
ジャミラが、地面へ手をついた。
「ジャミラ踏ん張れ!
立てる!」
セコンドが絶叫する。
「……セブン!
行けます?」
「ははっ……」
ジャミラが、両手を握って、ぐっと前に突き出した。
やれやれ、なんつー変わり身の早さだろね。
これがチャンプの素質って奴か。
ま、もともと、負けてもいいって覚悟はあったけどさ。
ただ、なんか立っちゃったなあ。
やっぱダメだね。わざと倒れるとか、できないね。
だって、さあ……
だってさあ!
世界最高の舞台に!
V.G.に出てるんだしさ!!
「ジャミラ!
行けよ、ジャミラ!」
セコンドがもう一度叫んだ。
声とほぼ同時に、ジャミラが動いた。
珠緒が正面から突っ込んでくる。
「ジャミラ!!
見せてやれ!!!」
ジャミラが、体を大きく回した。
「イヤーッ!」
「ええーい!」
ジャミラのフライングニールキックと、
珠緒の跳び蹴りが、
空中で交差した。
衝突の音。
ニールキックは珠緒の腹をわずかにはずれ、
珠緒の足は、完璧にジャミラの顔をとらえていた。
珠緒が着地した。
力なく、ジャミラが崩れ落ちる。
「く~~~っ……」
ジャミラのセコンドが、悔しそうに両手を握り締める。
「まだだ……まだ、やるんだ……」
ジャミラが、砂の上に手をつく。
「ううっ……」
立ち上がる。手を握って、顔の高さへ持ち上げる。
「う~ん。もうちょっと、前でてもらえます?」
一歩。
重心が揺れている。膝が崩れ、体が斜めに倒れた。
綾子が駆け寄って、その体を抱き止める。
「やるんだ……ミツルギを倒すんだ……」
「えーガッツやわあ。でも、今はあきまへん。
もうちょっと、休んどくんなはれ」
****
審判の控え席で、千穂がうれしそうに鼻をこすっていた。
「へへっ……ったく、あんなのに手こずるなよなあ」
かおりが、目を閉じて微笑する。
「まったくですね。千穂さんが落ち着かなくてしょうがありません」
「は?」
「いえいえ、何も」
****
「珠緒が勝った、ジャミラが負けた」
控え室でモニターを見ていた輝美が言った。
「腐っても鯛あるね」
寝転んだまま、弓子が答えた。
「最後のあたりは、腐ってもいなかったな」
「それなら、料理する価値はあるね。嬉しいよ」
モニターへ目を向ける。
珠緒が試合場を降りていくところだった。
「待ち遠しいね」
「だな」
****
足を引きずりながら、ジャミラが肩を支えられて戻る。
「やーや、負けた負けた。すがすがしいくらいに負けた。
チャンピオンって強いんだねえ」
「よくやったぞ。俺たちの誇りだ。いい試合だった」
「いやいや、アタシじゃこんなもんよ」
ひらひらと手を振りながら、ジャミラが苦笑した。
トレーナーの一人が、ジャミラへ携帯を渡した。
「ジャミラ。アルジェから電話が入ってるぞ」
「はん?
誰から?」
「受けりゃわかるさ」
受話器の向こうでは、やたら騒がしい子供たちの声。
聞き覚えのある声の色だった。
「先生!」
「先生!」
「おあ?
なんだよ、ム所から電話かい?」
「刑務の人が、特別だって!」
「先生、すごかったよ!」
「先生、やっぱ強いんだね!」
「なに言ってんだか。ボロ負けじゃんよ」
「だって、先生、チャンピオンのミツルギとやったんだよ!
すごいよ!
それも 3 ラウンドも!」
「バーカ。負けたら負けだよ。
でもまあ……あれだ……
ちょっとは、いいとこ見せられたかねえ……」
通路の奥へ向けて、一歩、一歩、ゆっくりと。
全身を包む痛みよりも、充実した気持ちが上回っていた。
3 ラウンド 55 秒。
アルジェリア代表、ジャミラ・フォーレ敗退。
9.聖域の戦士
三回戦後半、第一試合。
日が傾き、少しは気温が落ちてきた。
珠緒が、さっきの三回戦を思い返していた。
あの、コーデリアさんのキックを見てから、
あたしは、自分を失っていた。
ジャミラさんの蹴り。
最後のフライングニール。
あれが、もし当たっていたら……
ひやっ、と、背中を冷たい汗が流れる。
いや。
それでも。それでも、あたしは勝ち上がってこれたんだ。
次もできる。次も、負けないぞ……
一方、真奈美は落ち着いた足取りでドアを開けた。
熱気が流れ込んできた。次の試合は、ギリシャの選手だった。
****
反対側の控え室で、選手が金属の銀輪を手に取った。
天馬を描いたアクセサリーを頭にかぶる。
肩当てと脛当てをもう一度押さえて、体に合わせた。
「さて、と……」
真奈美の相手は『聖域の戦士』と呼ばれている、
ギリシャのサラ・レキサンドロス。
均整のとれた体格。黄色い巻き毛。緑の目に高い鼻。白い肌は彫りが深い。
21 歳、女子格闘技の全盛期だ。
彼女は今大会では唯一、武器ではなく防具を装備している。
腕と拳、脛、胴の一部、こめかみを保護できるようになっていた。
一回戦ではフィリピン、二回戦ではネパール。
サラはエスクリマの棍棒やグルカの短刀術を相手に、
正面から戦い、勝った。
「サラ、どう?」
同じ控え室にいた、コーディが声をかけた。
二人は何度か、アマチュアの大会で当たった事があった。
つい最近の大会で、サラはコーディと引き分けている。
「どうとは」
サラがローテンションな声を出した。
平静そのものという感じだ。
「調子よ。あんたの『音速の拳』の事よ」
困ったようにコーディが笑う。
サラの特長は、その驚異的な拳の速度にある。
調子のいい時には、音の壁を破り衝撃波を打つことすらできた。
「さて、どうでしょう。いつもどおりですかね」
「いつもどおり、勝つと」
「別に、そうは言ってませんが」
「あーもう!
なんでそー冷たいのよ!
なんかさあ、こう、クスノキなんかに負けるかー!
っての、ないの?」
「いつもこうですからねえ」
「あーもういーわよ。てきとーにがんばってね!」
「そうですね。てきとーに」
サラが軽い足取りで控え室を出た。
セコンドはいない。彼女はたった一人、
鎧だけを抱えてイラクまで来たのだ。
「あれで、試合になると性格変わるからなあ」
潤がぼそっとつぶやいた。
「せやなあ。ジキルとハイドやで」
えりりんが続ける。
「さーて、どっちが上がってくるかね・・・・・・」
コーディがモニターへ目を向けた。
歓声を受けて、サラが試合場へあがった。
観客がものめずらしそうに注目している。
銀色の防具は太陽を反射し、まぶしくその姿を浮き立たせていた。
反対側から入場した真奈美たちも、
その豪華な衣装に息を呑んだ。
「その突きは空を引き裂き、その蹴りは大地を割るという。
ギリシャ神話の戦士をモデルに、
ヨロイを使う全く新しい格闘技を生み出した、か・・・・・・」
優香が大会のパンフを思い出してつぶやいた。
「なんかこう、趣味全開よね」
聡美もコメントに困ったという顔をしている。
格闘家というより、ファンタジー映画に出てくる女戦士だ。
サラが真奈美の陣営へ目を向け、
その表情を見て、小さく苦笑した。
イロモノと思われてるんでしょうかね。
まあ、私も昔はそうでしたけど。
こんな格好と思っていましたけどね。
でも・・・・・・
格闘技をやっていたころ。
サラにとっても、そのコスチュームはただの装飾だった。
戦いの道具とは、とても思えなかった。
けれど、それを一度身に付けてから、サラの生き方は変わった。
彼女の闘志を、情熱を燃焼させた。
サラのとぼけた無表情が、一瞬で戦意に満ちた。
試合以外では決して見せない、
自分の本性が体に満ちていく。
この鎧は、私の誇り。
心を戦場へ駆り立てる爆薬。
気がはやる!
早く、クスノキと戦いたい!
相手が欲しい!
強い、強い相手が!
サラは砂の上で両手を組み、真奈美を待った。
待望の相手が試合場に立った。
千穂が二人を招き寄せる。
「V.G.競技、3 回戦第 9 試合!
日本国代表、楠真奈美!
ギリシャ共和国代表、サラ・レキサンドロス!
両者構えて!」
千穂が大きく上げた手を振り下ろした。
「はじめ!」
サラが歩を進める。
聡美が、サラの周囲をつつむオーラに目を見張った。
「あの選手・・・・・・」
「うん」
優香がうなずいた。
「強い。それに、燃焼させた気力が、防具でもう一段膨れ上がってる」
「……行くぞ!」
先手はサラが取った。大きく足を振り上げる。
「速い!」
珠緒が叫んだ。
「くーっ!」
真奈美がぐろーぶでガードする。
真奈美は倒れない。
サラの蹴りを本能で受けた。
びりびりと震えるぐろーぶを引いて、真奈美が距離をとった。
見えへん!
カンで避けただけや。チートやで、こんなん。
「おらおらおらあ!」
サラの突きが走った。連打だった。
試合場の誰一人、打つ手がまるで見えない。
「なっ……なんでしょう、これは!
サラ選手、怒涛の連撃!
すごい速度!
琴荏が絶叫した。
これは……これは……
まるで目が追いつきません!」
「感覚の活性だな」
恭子が言った。
「感覚の?」
琴荏が恭子に向いた。
「知っているか。仏教では、人間の感覚は八つあると言われている。
仏道では、感覚の事を「職」という。八つとは、
視職、聴職、嗅職、味職、触識、意識、無意識、阿頼耶識だ。
あの鎧は、無意識と阿頼耶識を活性化するための、
いわば触媒なのだろう」
「しかし、なぜそれがあの速度に?」
琴荏が質問を続ける。
「意識と同じ速さで、肉体を動かすことができるからですか」
厳三が続けた。
「そのとおりだ。意のままに体を操るのは理想だが、
普通はできるものではない。
しかし彼女の鎧は、魂の燃焼に反応して、それを可能にするようだ」
「な、なるほど。しかしこれは、予想外の展開です。
サラ選手の手は止まりません。このまま一方的に押し切り・・・・・・」
「いや」
厳三がその言葉をさえぎった。
「それはまだ、わかりませんよ」
厳三が試合場を指差す。
真奈美がサラの突きを受けて、息を荒げながら両手を前に出していた。
10.真奈美の知略戦
「まずいわね……前の試合が響いてるわ。
シルヴィアさん相手したときに、相当スタミナをなくしてる」
聡美が、優香に小声を飛ばした。
「うん。でも、なんだろう。押されてはいないね」
優香が答えた。
「狙ってる……」
珠緒がつぶやいた。
真奈美は両手のぐろーぶを前に出して、サラの攻撃を受けていた。
だが、奥に光る目は死んでいない。
珠緒は、じっと試合を見守っていた。
防戦一方の真奈美は、苦痛に耐えて一撃の逆転を狙っている。
何かを狙っている。
何を……?
****
「ぬあああああ!」
サラは序盤の勢いを緩めず、さらに加速する拳と蹴りを繰り出してきた。
しかし、真奈美は両手のぐろーぶで身を守りながら、
俊敏に頭を回転させていた。
一発目はびっくりやったけど、
二発目からは慣れてきたで。
速く打ちたいからって、出すとこが一緒や。
変化もないしリズムも単調になっとる。
右、左、右、左の繰り返しやん。
それにスピードは一緒やけど、息が長くなっとるな。
ウチの耳に届いてくる空気の音が、だんだん、長く、長く。
スピードに自信があるんやろけど、勢いに任せすぎや。
人間は動物とちゃう。
V.G.選手は、スピードだけじゃあかん。
いっぺん、ぜったい下がる。
そっから、大きく息をつく。
「はあっ……」
サラが手を止めた。攻めあぐねて身を引く。
そして、スタミナ切れとるのをごまかすために、
なんか派手な技でつなぐはずや。
砂を踏みしめると、彼女は輝く右手を突き出し、気弾を放った。
「行くぞ、流星拳!」
「えっ、日本語?」
聡美が声を上げる。直後、サラの光弾が真奈美の体に迫った。
「ひえー!」
真奈美が両手を交差して防ぐ。
今の悲鳴は演技やで。
飛び道具は、全部ぐろーぶで止まっとる。
本命はキック。ハイキックや。
「しゃあ!」
畳み込むようにサラのハイキックが走った。
利き足は右。
ウチがグローブを重ねて左に構える。
ズン。鈍い音。重いキックや。アタマ揺れたわ。
けど、耐えたで。だから、次に……
サラが左手を弓のように大きく引き、
真奈美のこめかみへ向けて振り下ろした。
真奈美は冷静に、その一撃をじっと見守っていた。
ついに来たで。仕留めるためのパンチや。
手に取るように伝わってくるわ。
サラねーちゃんの、倒したがってる気持ち。
自分のテンションにおぼれとるで。
ヨロイで体を隠しても、心の中は筒抜けやな。
「これで、終わりだっ!」
サラのロングフックは、ノーガードの真奈美へ向けて、
音の壁を突き破りながら迫っていった。
****
「あっ……」
珠緒が息を呑んだ。
普通なら後ろに逃げるところだ。
しかし、瞬間。
「うっ……?」
真奈美は前に出て、ぐっと膝を曲げた。
サラの懐に、真奈美がもぐりこんでいる。
ぞくっ、と、サラの背中を悪寒が走った。
パワーとスピードで負けていても、
戦いには、駆け引きという要素がある。
サラもまた、真奈美が戦いの天才だという事を思い知らされた。
真奈美は声も出さず、スクワットのように立ち上がった。
真奈美の頭が、サラのあごに直撃した。
ガツッ、と、低い音。
サラの戦意は、その一発で霧のように散っていった。
「いいったーっ!」
真奈美が頭をおさえてうずくまった。
サラが膝から崩れた。
遅れて上体が倒れ、かすかな砂煙を立てた。
「ダウン!」
千穂が割って入った。大逆転だ。
サラが砂の上に倒れた。
****
観客席で試合を見ていたコーディたちが、この波乱に立ち上がった。
「まさかっ……」
コーディが歯を食いしばって、サラのダウンに手を握りしめた。
サラの打ちおろしにドンピシャで合わせて、
顎へ綺麗に額をぶつけた!
あいつ、上手い!
真奈美がこの試合で命中させたのは、たったの一発。
それを食らって、サラは完全に失神していた。
****
「な……なんちゅー固いヨロイや……」
頭を抑えて転がる真奈美をなんとか起こして、
千穂が右腕を上げた。
最後に大逆転をもぎとった真奈美へ、満場の拍手が響いていた。
「ひー、ひー、いった~~~」
頭を抱えながら真奈美が降りてくる。
「やったよ、真奈美ちゃん!
優勝候補相手に三タテだよ!」
珠緒が真奈美ちゃんに抱きついた。
泣きながら、真奈美も抱きついた。
****
「サラ!」
コーディが、担架に乗って退場するサラのそばへ駆け寄った。
「むう。負けてしまいました」
「焦りすぎでしょ、あんた!」
「次からは作戦を立てましょうかねえ」
「あったりまえよ!
モノ考えないで勝てるつもりだったの?」
「アホみたいに言わないでくださいよ。泣けてきちゃう」
「ウソつけ。まあ、見てなさいよ。仇はとってきてあげるわ。このあたしが」
「あー、それなんですが」
「ん、なに?」
「最後の一つ前に当てたハイが、ガード貫いた感触があったんですよ」
「へえ?」
「ひょっとしたら、クスノキは次で棄権かもしれません」
「なぬ?」
「仇討ちは、お気持ちだけ受け取っておきますよ。それでは」
担架に乗ったまま、サラが退場していった。
「ひ……人をバカにしてんのか、あいつは!」
担架を追いかけようとするコーディを、潤が羽交い絞めで止めた。
「ああいう奴だよ、わかってんだろーが」
「人が気にしてやってるのに!」
担架に乗ったまま、サラがひらひらと手を振った。
マナミ・クスノキ。
次に会うときは、もっと速く打てるよう、磨いておきますね。
音速では足りない。私の目標は、光速の拳。
そこまでには、まだ至っていないもので。
1 ラウンド 1 分 5 秒。ギリシャ代表、サラ・レキサンドロス敗退。
****
リングドクターがサラを診終えてから、真奈美が医務室に呼ばれた。
先ほどの試合でダメージがあったように見えた、との事だった。
「ミス・クスノキ。私の指を、目で追ってください」
「ほえ?」
「その指見てって」
優香が英語を翻訳して伝えた。
「顔を動かさないで。どなたか、頭を固定してください」
「はいはい。真奈美ちゃん、目だけでその指を見て」
聡美が頭を押さえる。
「ふむ・・・・・・」
医者がカルテにさっとアラビア語を走らせた。
「大丈夫ですか?」
「何度も脳震盪を受けていて、左目の眼球運動に異常が出ている。
次の試合は見合わせたほうがいいですね」
「うーん・・・・・・」
優香が口ごもる。
「なんやて?」
頭を抑えられたまま、真奈美が聞いた。
「四回戦は棄権にしようって」
聡美が伝えた。
「へ?
ウチ、まだやれるで!」
「いや、医師の指示ならやめましょう。
目が追えないと、どのみち勝てないわよ」
「じょーだんやないで!
ウチまだピンピンしとるやん!」
「脳震盪は後遺症につながる可能性がある。
最悪、しゃべれなくなったりするわよ」
「今日のために来たんやで!
いやや!
そんなんで納得できるかいな!
真奈美ちゃん、こんなとこでひっこめんわ!」
「拒否していますか?」
ドクターが聡美に聞いた。
「ええ。出たいそうです」
聡美が英語で答えた。
「次の試合までまだ時間があります。
精密検査で通れば許可はしますが……」
「わかりました。お願いします。
真奈美ちゃん、もうちょっと細かい検査するって」
「すれば出られるんか?」
「わからないわ。やってから答えがでるの。
やらなければ、もう無理よ」
「わかった。すぐ受けるわ。真奈美ちゃん、まだ元気やもん!」
優香はこのやりとりをじっと見守っていた。
選手を止められないのは、トレーナーの弱さだ。
障害が残れば、責任はトレーナーのボクたちにある。
でも、聡美は止めなかった。あの慎重な聡美が。
聡美は、真奈美ちゃんに勝算があると見ている。
聡美が優香に目を向けた。
優香が、目で答えた。
そうだね。
真奈美ちゃんはまだいける。
四回戦は明日。勝算があるなら、逃す手は無い。
11.恐怖と闘志
「ルル、時間だ」
薄暗い控え室で、インディオの女性が声をかけられた。
瞑想を終えると、彼女は静かに立ち上がった。
「気負うなよ。多くの試合の一つだ」
「わかってる」
栗色の総髪を三つ編みにまとめる。
簡素なコスチューム、小麦色の肌。
メキシコ代表、ルル・ナナプッシュが、試合場へ向かった。
日の昇る中を、琴荏のアナウンスが響いていた。
「ほとんど時を同じくして、
メキシコ、ナナプッシュと
アメリカ、ゴールドスミスの入場です!
両者は以前、テキサスの州大会で当たっておりますが、
そのときはルルの反則勝ちという、なんとも歯切れの悪い幕切れ。
しかし、この大会ではどちらも堂々とした戦いを見せてくれるはず!
さあ太子橋さん、この試合、どう見ていますか」
「ナナプッシュは空手の出身では珍しく、戦略的な戦い方をする選手です。
ゴールドスミスの大技にどう対応するか。そこが見どころですな」
厳三が答えた。
試合は、すぐに始まった。
****
怖い。
ルル・ナナプッシュはその言葉を、頭の中で繰り返した。
私は怖い。
ええ
Si.
コーデリアが怖い。
そうね
S i.
私に、初めての恐怖心を植え付けたのが、
この少女、コーデリアだった。
二年前の全米アルティマシー、テキサス州大会決勝戦。
予選トーナメントで、あれほどの苦戦をするとは……
州大会決勝の相手、コーデリア・ゴールドスミス。
たしかにあの時、私はダメージを受けていたが、
それでも、私にチャンスはあると思っていた。
あの気迫。
あの筋力。
あの、ミドルキック。
メキシコシティの空手道場で、チャンピオンに育てられた。
あらゆるルールで戦ってきた。
恐怖を克服し、強くなったと思い込んでいた。
なんという浅はかな幻想。
あの試合は、明らかに私の負けだ。
彼女が捨てた勝ちに、私はすがりついた。
全米で優勝すれば忘れられると思ったが、間違いだった。
私に植え付けた恐怖。
眠りを忘れさせた恐怖。
ここで私が勝たないと、あの恐怖は拭えない……
****
ぜーったいに、勝つ。
コーデリアもまた、必勝の信念を胸に、ルルの攻撃を待った。
あの時とは違うんだからね。
あたしの目標は、この V.G.での優勝なんだ。
今度は、勝ちを投げつけたりしない。
ルル・ナナプッシュ。
望みどおり、堂々とやってやる。
ゴングが鳴った。
ルルが突っ込んでくる。右手を振り上げた。
まっすぐな蹴り。速い!
下がる。直撃はしなかったが、受け手は空振った。
こいつっ……
思いっきり蹴ってきたわね。
大した度胸じゃない。
今度は後ろ蹴りだ。右に避けた。
詰めてきてる。
ルルは空手出身。近い間合いで打ち合いたいわけだ。
間を取らないとまずいかな。
弱気にはならないぞ。畳み込まれる前に、カウンターとってやる!
ルルはバックキックから、さらにハイキックで攻めてきた。
ここだ、蹴り返す!
「シャアッ!」
空気を切り裂く、コーディのミドルキックが走った。
前傾していたルルのわき腹を狙う、完璧な軌跡を描いたはずだった。
「ああっ!」
「はずした……?」
潤とえりりんが、同時に叫んだ。
ルル・ナナプッシュはそのミドルを察知し、すでにラッシュを止めていた。
見きられた……!
コーディは大きく身を引いて、両手を高く掲げ、構えなおした。
****
ついてるな。
ルルは下がりながら、今のミドルキックを思い返した。
組み立てがおかしい。攻撃のタイミングが雑だ。
なんでもかんでも、ミドルキックにまとめようとしている。
一つ覚えは、若い選手のよくやる失敗だ。
両手を浅く前に出し、上腕を平行に並べる。
『竜変』と呼ばれる空手の構えだ。
警戒してカウンターを狙ったのかもしれないが、
コーデリアはもともとファイター。
カウンターが得意な選手じゃない。
相手セコンドからは指示なし。
よっぽど信用があるんだろうが、
そう簡単にやらせるものか。
コーデリアが構えなおした直後。
蹴り、そしてパンチをつないだ。
命中。コーデリアが悔しそうにこちらを睨み返した。
「このっ!」
攻め手を立ち上げるより早く、近間になった。
いけるぞ。得意の乱戦だ。
****
まずい。慎重になったつもりでドジった。
なんつー計算高さ。
この距離で空手相手じゃ、圧力に差がありすぎる。
もう一度、ミドル使って離れるかなあ。
いや、もう次で倒すつもりじゃないとダメだな。
あたしの得意のミドルキック。
1、2、3 回戦で、あわせて 10 回以上使ってる。
それでも、いいところに入ったのはせいぜい 3、4 回。
野球じゃないんだ。
3 割じゃ、得意技なんて言えない。
狙え、コーデリア。
ルルの右に合わせるんだ。
当てろ。
当てろ。
当てろ――――
****
鈍重な音が、屋内を駆け巡った。
「くううっ!」
「出ました!
ゴールドスミスのミドルキック!
ナナプッシュ、速攻が途切れて大きく飛ばされた!」
「っしゃあ!」
コーディがぐっと拳を握り締めた。
よーし、当てたぞ、いい手ごたえじゃない。
これで勝ちが見えるでしょ。
コーディの士気が高まっていった。
ところが、これに負けず、ルルもカウントを待たずに立ち上がった。
潤とえりりんの背に戦慄が走った。
耐えた。
まずいぞ。
ルル・ナナプッシュは、
コーディのミドルを受けても戦える相手だ。
****
ルルの心に、落ち着きが宿っていた。
もう一度来た。コーディのミドルキック。
一発目はカンで避けたが、今は完全に見えた。
私の目でも見えた。
賭けに勝った。
この一撃は、ずっと私にとりついていた、恐怖の元凶だ。
この一撃を耐えられたなら、私にはチャンスがある。
この相手には、ラッシュが使える。
ダメージを怖がる癖があるようだ。
あの強敵を倒せる。
行くぞ、ゴールドスミス。テキサスの続きはここからだ。
****
ルルが突っ込んで、コーディの顎にパンチを命中させた。
コーディの受け返しが入ったが、
かまわず、ルルは前に出た。
「まずいぜ、またラッシュだ。すげえスタミナだな」
潤がつぶやいた。
「畳まれると弱いのはわかっとる。ここからや」
えりりんも試合場をにらみながら言った。
「ルルは試合中に組み立てを考えられる。
押し切られると、K.O.負けもあるぜ」
「つっても、狙う姿勢になっとらん。
一回、どっかで仕切りなおさんと……」
****
さっきのミドルキックを受けてから、戦法が変わった。
このラッシュは、勝利を確信した動きだ。
ルル・ナナプッシュ。
あんたの判断は悪くないわよ。全米を取っただけあるわ。
でもね、あたしのミドルキックは、そんな安い技じゃない。
見せるよ。ここで。
これが、テキサスのころから引きずってきた、
あたしたちの結論なんだ。
****
コーディが、大きく体をひねった。
ルルの体一つ向こう側まで蹴り込む動きだ。
潤とえりりんが、ぐっと身を乗り出した。
「厚く行きやがった!」
「起こりが大きいで!
入っとるか?」
コーディが、手で砂を打って立ち上がる。
ルルは体をくの形にまげて、ゆっくりと倒れていった。
「入ってるぜ!」
「やったで!」
****
コーデリア……
今度こそ、決着か。
私の組み立てを食い破った。
そこまでの女だったか……
待っていろ、コーデリア。
私はまだ、あきらめない。次こそ。
きっと、貴様を……
ひゅう、と、息を吸い込んで、ルルが目を閉じる。
立ち上がらない。
「ダウン!」
レフェリーのかおりが、二人の間に入った。
ルル・ナナプッシュは一度だけ息を継いで、
そのまま仰向けに横たわった。
****
「終わった……」
荒い息を繰り返して、コーディがルルを見下ろした。
あのテキサスの大会から、自分は成長したつもりでいた。
もう、ルルに追いつかれることは無いと思っていた。
この僅差。なめていたら負けていた。
恐怖。
戦いたい。
恐怖。
打ち合いたい。
恐怖。
誰にも負けたくない……
3 回戦第 12 試合。1 ラウンド 1 分 42 秒。
メキシコ合衆国代表、ルル・ナナプッシュ敗退。
恐怖を抱きながら、前へ。
コーディもまた、この大会で多くを学んでいた。
12.経済・軍事・武術
「軍曹」
「ああ、行くよ」
迷彩ズボンに、カーキ色の T シャツ。
亜麻色の髪をまとめて、
イスラエルのシンディ・ロスチャイルドが立ち上がった。
「緊張していますか」
「まさか。戦場とは違って、殺される心配はないからな。
それに……私はこの試合のために来たんだ」
シンディは振る舞いこそ落ち着いていたが、表情は固かった。
瞳の奥に、深い想いを宿していた。
シンディの父親は、イスラエル軍の中将だった。
自分もほとんど疑うことなく、軍隊に入った。
子供のころは、アメリカやヨーロッパから来るビジネスマンたちを、
うらやましいと思ったこともあった。
それが今では名門ロスチャイルド家の一員。
私は恵まれているのかもしれない。
でも……
****
3 年前。
イスラエル共和国首都エルサレム、ユダヤ人居住区。
華人の一家がテロ組織に拉致され、
その救出を依頼されたのが、シンディの部隊だった。
「マイスキー兵長。敵の配置はわかったか」
「9 人が 3 交代です」
結婚前。シンディ・マイスキーだった彼女は、
イスラエル軍で部隊を率いる女性兵士だった。
「少ないな。まあ、犯行声明も出ないし、身代金の要求だけだ。
拉致したのがチャイニーズでは、要求するところもないのだろう」
彼女の上官が、書類を読みながら言った。
「作戦は殲滅ですか」
「AK を持った相手だ。そうせざるを得まい。
最悪、人質の犠牲もやむを得まい。
投降しない限り、全員殺してかまわん」
テロリストにテロリストの理屈があるように、
軍人には軍人の理屈がある。
それは、今、この瞬間には埋まることの無い事実だ。
すぐに部隊は出動した。
街灯も無い、闇の中。シンディたちの分隊は廃墟を走りぬけ、
華人たちが拉致された自治区へ向かった。
シンディはテロリストたちの拠点に迫ると、
壁に張り付いて、中の様子を伺った。
相手は武装している。
旧ソ連の突撃小銃で正確に狙いをつけ、襲ってくるだろう。
催涙ガスと閃光弾を投げつけてから突入。
誤射に注意。相手は全員殺す。
人質は助けられるだけ助ける。
手順をもう一度反芻して、
無線を手に取った。
ところがその無線が、いきなり自分にむけて開局した。
「兵長。ひとり、民間人がこちらへ向かっております」
「制止しろ。いちいち命令を待つな」
「いえ、それが、その……」
「なんだ。はっきり言え」
「二人、取られました。失神であります。外傷無しですが」
「なにっ?
なんだ、その民間人というのは?」
「160 センチほどの女性であります。チャイナドレスの……」
「何を言ってるんだ、お前は?」
その背中に声がかかった。
「今晩は。月が青くて、とても綺麗ね」
シンディが振り向いた。
****
その少女は、まるで夜の散歩から帰るかのように、家のドアをノックした。
ドアが開いた。
覆面の男性が、小銃を少女に構えた。
一瞬だった。
少女の蹴りは銃を跳ね上げ、
続く掌の一撃が、テロリストの腹に命中した。
「なっ、なんだ、あいつは!?」
シンディの後ろに、兵たちが集まった。
少女がドアを閉めた。
屋内に銃声が響き、窓から断続的な閃光が漏れた。
「ど、どうします?」
「収まってからだな。なんだ、あいつは?
自殺か?」
数分。
屋内の怒声と悲鳴が収まった。
「そろそろ」
シンディの後ろから、古参兵が声をかける。
「いや、まて・・・・・・」
「Don’t shoot」
中国人の英語が響いた。
「生き残りか?」
シンディがつぶやいた直後。
とらわれていた人質一家が全員。
その後ろから、先ほどの少女が現れた。
「20 分は目が覚めないね。突入はお好きにどうぞ」
少女は微笑を投げると、闇の中に消えていった。
あとには人質が残された。
廃墟の中からは、うめき声も聞こえてこない。
「追え!」
「い、いえ、見当たりません。赤外線の届く範囲から消えました。
まるで魔術です!」
「くっ……」
****
無傷で人質を救い出し、テロリストを全員生きたまま捕獲。
シンディ・マイスキーに、叙勲と二階級の出世が認められた。
その叙勲式で、彼女の美貌が、ロスチャイルド家の銀行頭取を魅了した。
若い後妻となって半年。
シンディは、軍人としても、女としても、全てを手に入れた。
そして、何も満たされなかった。
戦場で心と体をすり減らしながら生き残るための毎日も、
大邸宅で平穏な日々を過ごすのも、
どちらも自分の心には響かなかった。
彼女が覇気を取り戻したのは、結婚して三ヶ月ほど過ぎたころ。
テレビで、武術大会を見たときだった。
その画面に映っていた少女は、
あの夜、あの場所で遭った彼女だったのだ。
驚愕で手が震えた。
持っていたコーヒーがするりと落ち、コップは二つに割れた。
あふれるほどの資産が自由になってから、
初めて、自分のために、夫に頼んだこと。
それは、格闘技の専属トレーナーをつけてもらい、
自分を鍛え上げることだった。
****
あの日からずっと。
ユミコ・ワタヌキの名前は、私の全てだった。
勲章?
階級?
結婚?
財産?
くだらない。
この世には、そんなものなんか、
どうでも良くなるほどの驚きに満ちている。
****
「赤コーナー!
青コーナー!
イスラエル共和国、クラヴ・マガ、シンディ・ロスチャイルド!
中華人民共和国、八卦掌、張麗坤!」
綾子の声に、二人が上がる。
シンディは軍人らしく歩を進め、立ち止まると敬礼を弓子に向けた。
弓子は、右の拳を左の掌に合わせて礼を返した。
試合を終えたコーディたちはその場に残っており、
二人の対照的な挨拶に、えりりんも潤も、興味深そうに見守っていた。
「世界でいっとうカネ持ってる組織の二大尖兵だ」
「商社と銀行、華人とユダヤ人、武道家と軍人、武術と格闘技。
いろんなとこの代理決戦やな」
「姉さん、ロスチャイルドってのは有名なの?」
「へ?
世界中の銀行シメとる一家やで。知らんほうが驚きや」
「いや、家じゃなくて、彼女個人よ。強いのかって」
「ああ、そいことか。まあ、どっちが強いかって、そんなら・・・・・・」
一泊置いて、潤とえりりんが試合場を見下ろした。
「弓子だろなあ」
「ま、ウチらは弓子知ってるからな」
「そんなに強い人がいる?
中国拳法に」
「そんなに、強い」
二人の声が重なった。
「伝統武術が現代格闘技に勝ったなんて話、聞いたことないわよ」
コーディが言い返した。
「ま、そりゃな。普通はあんな練習してても、強くならんわな」
「なんつーかな。武術の世界には、時々ああいう突然変異がいるんだよ」
潤の言葉に、コーディも視線を落とした。
熱砂の中。
涼しい顔。落ち着いた表情。
弓子の態度は、風のない水面を思わせる静けさだった。
****
「始めとくんなはれ」
綾子の合図で、二人が一度、後ろにとんだ。
弓子はじっと腰を落として動かない。
シンディはサウスポーに構えて軽快にステップを踏みながら、
徐々に距離を詰め、右のジャブを打ち込んだ。
弓子はその拳に手の甲を合わせ、
緩やかに彼女を誘導した。
シンディの拳は、まるで弓子の手に接着剤で貼り付けられたように、
するりと前に引き込まれていった。
「ああっ?」
シンディが足を踏ん張る。
弓子が逆の手を開き、シンディの首筋に触れた。
「うううっ・・・・・・」
シンディが後ろに飛んだ。
首が熱い。なんだ、どうなった?
いや、そもそも、こいつは何をやったんだ?
「軍曹!
ガード!」
シンディの後ろから指示が跳んだ。
「なっ?」
シンディが、クロスガードブロックに両腕を交差する。
その中央に、鋭い衝撃が来た。
シンディが跳ね飛ばされた。
倒れる、受身を!
ごろごろと転がった。止まらない。
たったの一撃で、試合場の端を越えて飛ばされた。
「ラインアウトや。コーナーへ戻っとくんなはれ」
シンディが立ち上がり、試合場へ戻る。
なんて奴だ……
3 年。強くなるために全てをささげてきた。
一生の中で、一番長い 3 年だった。
ここで、この少女と会うために捧げた毎日だ。
シンディが走りこみ、蹴りからパンチにつなげた。
弓子は防御の姿勢のまま、体の中心にそろえた手を、
小さく動かしただけだった。
右手と右足に、焼き切られるような激痛が走った。
シンディはひるまなかった。
殴る。
当たらない。
蹴る。
当たらない。
ボクサーとも戦った。
レスラーとも。
総合格闘技とも。
タックルをしかける。袖をつかみにいく。体当たりをしかける。
かすりもしない!
バカな!
そんな事が!
そんな、夢のような事が!
「うおおおっ!」
シンディが床を蹴り、大胆な回し蹴りを打ち込みにいった。
弓子の頭にむけて、蹴り足が斜めに伸びる。
「カット」
輝美が、この試合で初めての指示を出した。
「はいある」
かつっ、と、シンディの軸足が、弓子の足に蹴り飛ばされる。
ハイキックの勢いそのまま、体が再び一回転した。
床の上に、シンディが腰から倒れた。
弓子を見上げた。
汗一つかいていない。
話にならない。
これは、勝負の形をなしていない。
驚きで、立ち上がる気にもならなかった。
弓子が、試合中にもかかわらず、
にっこりと笑って口を開いた。
「あなたは、私を覚えてるね」
穏やかなソプラノの声が、シンディの耳に届いた。
シンディが目を伏せた。
「私も、あなたを覚えてるよ。
腕を上げたね、マイスキー兵長。また来る。ずっと待ってるね」
それは確かに、あの廃屋で聞いた、アジア訛りの英語だった。
「やります?」
綾子が、シンディの前に立った。
「軍曹!」
「軍曹、立ってくれ!」
仲間の声援が届いた。
しかし、その声はシンディの耳を素通りして、
はるかかなたへ消えていった。
屈辱すら感じられないほどの、圧倒的な実力差。
シンディは、立ち上がる気力を失った。
「いや……私の……私の、負けだ……」
「ギブアップ!
ウィナー、張麗坤!」
残念そうなため息が、場内を流れた。
誰も、シンディを責めはしなかった。
シンディは強く、そして、全力で戦ったのだ。
3 回戦、最終試合。
1 ラウンド 54 秒。イスラエル代表、シンディ・ロスチャイルド敗退。
13.希望抱く胸に
夕闇に夜の帳が下りる。
明日は四回戦。
珠緒の相手は、ドイツのヒルデガルド・コールハンマー。
そして……
医務室で、看護師たちが真奈美の体を拭いていた。
レキサンドロス戦でもらった全身の痣も、
シルヴィア戦で切られた手足の傷も残っている。
しかし、それはみるみるうちに肌色に戻っていた。
「信じられん回復力だ。裂傷の治癒も内出血の再吸収も、異常に早い」
「大丈夫でしょうか」
聡美は医師と話し続けていた。
「脳波も比較的安定しているが……」
「先生!」
寝転びながら真奈美が叫んだ。
ドクターが真奈美へ目を向ける。
「ウチは次もやるで!」
日本語で言ったのだが、真奈美ちゃんの声を聞いて、
ドクターがうなずいた。
「やりたいんだね」
「と、言っています」
「判断に迷うところだな……」
ドクターが続けた。
「珠緒ちゃん、そろそろ戻るよ。ここは聡美に任せよう」
優香が珠緒に声をかけた。
「あ、はい。行きます」
あたしがセンパイの後についていった。
****
「真奈美ちゃん、大丈夫でしょうか……」
珠緒が心配そうに優香へ言った。
「珠緒ちゃん、今は、それは考えちゃダメだよ」
「えっ……?」
珠緒が驚いて優香を見た。
「自分の事を考えないと」
「え、でも、それはそうですけど・・・・・・」
「真奈美ちゃんの事は、ボクたちが考える。
珠緒ちゃんは、勝つことを考える。それが、チームだよ」
「は、はい……」
珠緒が、ほうっと息をついて優香を見上げた。
「明日のヒルダさんは、シュートボクシングからの転向だけど、
気も使える。正面から当たるタイプだけど技術も多い。
特に投げ技が上手い。ただ、パンチが甘い。
明日の試合を、部屋で一緒に考えよう。
今日の試合は気にしなくて良いよ。
まずいところを直すよりも、落ち着いて自分の武器でね」
優香が話し続けた。
明日のラウンドごとの組み立て、使えそうな武器、
どういうところが攻めやすいか・・・・・・
優香は、わかりやすい言葉で、丁寧にそれを語っていった。
珠緒はいちいち首を縦に振りながら、それに聞き入っていた。
センパイは、すごい。
あたしたちの事を考えて、あたしたちを勝たせてくれてる。
一人だったら、きっと、もう負けてた。
センパイは、ずっとあたしの味方だった。
マスコミに叩かれても、あたしが不調でも。
「あ、あのっ」
珠緒が、話しながら前を歩く優香に声をかけた。
「うん」
顔だけを珠緒へ向けて答える。
「あ、ありがとうございます。センパイのおかげで……」
「ん?」
「一年前から今日まで。あたし、ずっとセンパイに支えてもらって。
今までのこと。本当に……」
自然に優香の手が、珠緒へ触れた。
珠緒の頭を、優香の暖かい手が包んでいた。
「センパイ、あたし……あたし、次も勝ちます。その次も、その次も!
金メダルを取るまで!」
珠緒の目から涙がこぼれていた。
必ず勝つ。それだけが、優香センパイへできる恩返しだ。
珠緒の声に、思わず優香も目頭に熱いものを感じた。
「勝てるよ、珠緒ちゃん。ボクが、ずっとそばにいるから」
優香が優しい声をかけた。
「はい」
珠緒が、泣きじゃくりながら答えた。
優香が、珠緒の頭を抱きしめた。
優香もそこで話を区切って、
これまでの事を考えた。
いわれの無い中傷。
優香やレイミが現役だったころに比べると、
落ちると言われてきた V.G.。
けれど、珠緒ちゃんはずっと、何も変わらない。
初めて会ったときと同じように、
夢に向かって、自分を奮い立たせて前に進める子だ。
大丈夫だ。
正直、始まるまでは不安だったけれど、
珠緒ちゃんはここに来て、多くのものを手に入れている。
ボクが、支える。
****
夜。
部屋のテレビに、日本の衛星放送を流していたとき。
オリンピックの中継が始まっていた。
「さて、それでは本日のオリンピックニュース。
今大会一番の目玉といわれている女子競技、
V.G.の結果です」
おっ、と、寝転がっていた優香と珠緒が、ベッドの上に座った。
「今日の試合、まずは二回戦です。
日本の御剣、楠、両者ともに優勝候補が相手でしたが、
見事、これを下しました。VTR をごらんください」
歓声の中を、琴荏の声が響いていた。
「強烈、ウェルニヒの攻撃が御剣を直撃、いや・・・・・・
反撃です!
御剣、起き上がりざまに気弾を直撃させました!
逆転です、逆転!
ウェルニヒ、起き上がれません・・・・・・」
スタジオがもう一度映し出された。
「スウェーデンのボクシング女王相手に、
日本の御剣、見事な反撃を決めました。これは狙っていたんでしょうか?」
アナウンサーが隣の女性に聞いた。
「はい、もちろんです。御剣選手の動きを見ればわかるとおり、
ウェルニヒの攻撃を軽く当てさせながら倒れこみ、
砂に手をついてからの反撃ですね。見事な計略勝ちですわ」
「あ」
優香と珠緒が、同時に口を開いた。
画面に映っていたのが、見たことのある顔だったのだ。
「雅子さんだ」
「こんな仕事もらってたんですね」
「そして日本の楠です。うわ、すごいですね。
砂が舞い上がって・・・・・・」
「この試合はオッフェンバックの技術と、楠の野生のぶつかり合いでしたわね。
予想を超えて、綺麗にかみ合う名勝負になりましたわ」
雅子が、VTR に目を移しながら答えた。
「さて、次は 3 回戦。御剣はアルジェリアと対決、苦戦の末の勝利でした」
「アルジェリアのフォーレ選手は、刑務所の教官だそうです。
知られていない選手でしたが、健闘しましたね。
ですが、ここは御剣選手のほうが、一枚上手というところですか」
画面には、珠緒とジャミラの空中戦が映っていた。
「そして日本の楠です。相手はギリシャの戦士、サラ・レキサンドロス。
この試合で楠が出したのは、なんと頭突き一発だけ。
しかし、それまで防戦一方だった楠は、
この一撃で、見事な逆転勝利を収めました。
北条院さん、これ、見事ですねー」
「頭突きが強力な技だということは、誰でも知っていることです。
ただ、普段あまり練習しない技でもありますわね。
試合で有効に使えるのは、楠選手くらいでしょう」
「ありがとうございます。ぜひ、優勝まで駆け上がって欲しいですね。
それではその他の試合です。
優勝候補の一角、ティテューリア・オコンネルが 3 回戦進出。
ロシアのソーフィア・ネスメヤーノハ、アメリカのコーデリア・ゴールドスミス、
中国の張麗坤も危なげなく 4 回戦に進出しました。
その中でも、アメリカのゴールドスミス選手は、
北米大会で当たったルル・ナナプッシュとの再戦でしたが、
ここでリベンジ!
というところですね」
「コーディ選手は、以前 V.G.選手だった、エリナ・ゴールドスミスの
遠縁に当たるそうですわ。血筋かしら、気の強そうな選手ですわね」
「どうですか、また、彼女たちと戦って見たいと思いませんか」
「は?」
それまで真面目に解説していた雅子の顔が、
一転して邪悪な色を浮かべた。
声まで、男のように低くなっている。
「あ、いえ、以前、北条院さんはこのお二人とも勝負したという話を……」
しどろもどろと、アナウンサーが言葉をつなぐ。
「あたしが出てりゃ優勝に決まってんでしょうが!
レイミのバカチン、なんであたしに声かけなかったのよ!」
「あ、あの、北条院さん?
これ生放送……」
かまわず、雅子がカメラ目線でテーブルに片足を上げた。
「珠緒に真奈美!
よくもあたしをハブったわね!
覚えときなさいよ、メス犬どもが!
戻ってきたら、ケチョンケチョンにのしてやるわ!」
「CM!
CM 入りまーす!」
コマーシャルの前に、優香がリモコンのスイッチを押した。
顔を見合わせて、二人で吹き出す。
「あの人、何世紀立っても変わりそうにないね」
「なんで解説にしたんでしょうね……」
ぱたん、と、珠緒がベッドに横になった。
「コーデリアさん、勝ちましたね」
「勝ったね」
優香も珠緒の横に寝転んで、そう答えた。
「弓子さんも、真奈美ちゃんも勝ちました。
相手のブロック、誰が来ると思いますか」
「誰かはまだわからないよ。でも、珠緒ちゃんは、誰が相手でも勝てる」
「センパイ、コーデリアさんの事、気になるんですよね」
「え?
いや、別に?」
優香が体を起こして両手を振った。
ころん、と、珠緒が寝返って優香の目を見た。
「あたし、勝ちますね」
****
珠緒が目を閉じた。
優香が、黙って珠緒に布団をかけた。
自分のために戦っているコーディと、
V.G.のために戦っている珠緒ちゃんじゃ、がんばるところが違う。
珠緒ちゃん。ボクはキミががんばっている事、
いつだって誇りに思ってる。
キミの勝利を見たい。
優しさと、強さと……
そのどっちもを持っているキミに、優勝して欲しい。
「キミと会えて、よかった。
お休み、珠緒ちゃん。
明日もきっと、キミを勝たせるからね」
バグダッドの夜が更けていく。
長い夜を、珠緒は優香に寄り添って眠りについた。
夢の中でも、優香はずっと珠緒の隣にいた。
あたしは、負けない。
優香センパイが、そばにいてくれるから・・・・・・
【選手名鑑】
・海賊の末裔
ユディト・ウェルニッヒ(18 歳 198cm 71kg)
スウェーデン王国代表選手。ウェルター級プロボクシング統一王者。女性離れした長身
とプロボクシングを武器に V.G.へ参戦するが、セコンドの理解が得られずストレスを抱
く。珠緒との戦いでは善戦するが、一瞬の油断を突かれて敗北。先祖は北欧のバイキン
グ。大柄な奴は気が優しくて抜けている、というテンプレを無視したキャラ。デカいく
せに神経質でウザい。
・小公女
シルヴィア・オッフェンバック
(17 歳 156cm 46kg)
フランス共和国代表選手。多数の古武術を習得した、生きる武術事典。二回戦では真奈
美と名勝負を繰り広げ、僅差の判定で敗北。もともとフランスでは武道の免状が乱発さ
れているという皮肉で作ったのだが、ずいぶん熱血な正当キャラになってしまった。
『霊
動』は神道とかで検索すると出てくるが、武術とは関係ないでっちあげ設定。
・吸血鬼殺し
ヴァネッサ・アダムス
オランダ王国代表選手。総合格闘技。コーディに敗北。かませ。
・ミス・グラップル
アリシア・グラハレス
キューバ共和国代表選手。柔道・レスリング。弓子に敗北。か(以下略
・アルジェの牢番
ジャミラ・フォーレ
アルジェリア共和国代表選手。実力不足を自覚しながらも V.G.に参戦するが、珠緒の不
調を見破り、勝ちをめざす。地味なキャラの割りに、おいしいとこを持ってった奴かも
しれない。レイミに派手なニックネームを考えてもらったのだが、本人が遠慮して「こ
れにしてくれ」と頼んだ裏設定があったりなかったり。でも『アルジェの牢番』ってあ
んまりだと思う。
・聖域の戦士
サラ・レキサンドロス(20 歳 166cm 54kg)
ギリシャ共和国代表選手。防具を使った新しい格闘技の選手。コーディとアメリカのア
マチュア大会で知り合い、以来、親交がある。三回戦で真奈美に敗北。普段はやたらロ
ーテンションだが、試合になると性格が変わる。必殺技は音速の拳と、気弾の流星拳。
セブンセンシズに目覚める某マンガのパクリだとは口が裂けても言えない。
・インディオの聖女
ルル・ナナプッシュ(20 歳 161cm 52kg)
メキシコ合衆国代表選手。空手。全米アルティマシートーナメント優勝選手。知性と根
性を武器とするストイックな選手。本作で最も地味な人かも知れない。コーデリアとの
因縁は今後も続くが、たぶん語られる日は無い。いいライバルになるんですよ、きっと。
・ジェリコの剣
シンディ・ロスチャイルド(22 歳 168cm 55kg)
イスラエル共和国代表選手。クラブ・マガ。軍人時代に弓子と出会い、その超人的な腕
を見て生き方を変える。V.G.で念願の弓子と対戦するが、全く歯牙にかけられず敗北。
弓子の超人性を強調するために出てきたかませだが、こいつはこいつで、面白い人生を
送っている奴かもしれない。ジャミラと一緒で、普通の人から昇格して V.G.にやってき
たタイプである。クラブ・マガとは実在するイスラエルの軍事格闘技である。
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