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日露戦争期の民間世論の形成について
Hosei University Repository 法政史学第四十六号 〈研究ノート〉 ’七○ 井上敦 論が確立したのは、この時期をおいて他に考えられない。歴史的 日露戦争期の民間世論の形成について はじめに 保ち得たのかという理由を探りたい。そしてできれば、当時の世 本論では、なぜ主戦論が国民の間で力を持ち、戦争中もそれを 意味は重要と思われるのである。 ることはいうまでもない。兵士として従軍するのも、戦費を負担 べきかを考えてみたいと思う。 論形成における陥奔をつきとめ、現代の我々がそこから何を学ぶ 近代戦争を遂行するにあたって、国民世論の支持が不可欠であ するのも、ほとんどが一般国民だからである。日本近代において 主戦論形成・従来の説とその検討 も、くり返される戦争の背景として、これを支持するかなり強力 ならばなぜ、そうした世論は形成されたのであろうか。戦争の な世論があったことは誰しも否定できないであろう。 日露戦争期の主戦論に関して、これまで一般的にいわれてきた 川従来の説の内容 のはどのようなことであろうか。|言でこれを述べるなら、「対 にもかかわらず、これまで必ずしも明確な回答が示されてこな 歴史に学ぶという観点からすればこの問題は非常に重要である。 かったように思える。そこで私は、日露戦争期の世論を調べるこ 露強硬の世論をもりあげて」いたのは政府の「世論操作」であつ この時期の主戦論といえば、「七博士建議書」の提出、対露同 た、ということになる。 (l) とによって解明へのひとつの手掛かりを探ろうと考えた。 周知の通り、日露戦争開戦前の一九○三年から、さかんに主戦 これらはいずれも、政府の「弱腰」を非難攻撃していた。従来の 志会の活動、新聞の主張などがすぐに思い出される。周知の通り 論が唱えられるようになった。開戦後、戦争によって国民生活は は講和反対運動にまで至っている。日本近代における戦争支持世 重大な影響を受けたが、それでも戦争推進論は衰えず、最終的に Hosei University Repository 説では、そうした非難は単なる見せかけであり、実はみな政府が も重要なものだといえよう。 その意図とがはっきりと書かれている。従来の説の根拠として最 小村寿太郎外相である。小村が対露同志会を裏で操り、主戦論を 月四日、『中央新聞』に掲載されたもので、右側の人物は当時の 第二には、図のような漫画があげられる。これは一九○一一一年九 裏で糸をひいてやらせたことだ、とされる。何もしなければ国民 (2) は戦争に背を向けそうになるので、知識人や言論人を教唆し動員 こうした考え方の主な史料的根拠は、だいたい以下の二つであ 呼び起こそうとしていたことを示すものとされる。この漫画だけ して戦争熱を盲同めさせたのだ、といわれているのである。 る。まず第一には、『原敬日記』の次のような記述があげ》られ (3) こうした史料からすると、政府の「世論操作」は確実に存在し を見ている限りでは、確かにそう受け取れよう。 たかのように見える。実は私自身も、最初はそう思っていた。し 「時局は頗る切迫せし如く伝う。実際は蓋し然らざるべし。 る。 対露同志会に政府多少の補助をなして教唆せし如くなるも輿 になった。確実に見えるその史料的根拠が、実は意外に脆弱だっ かし調べていくうち次第に、従来の説は正しくないと考えるよう ②従来の説の問題点 たのである。 論却て之を廟笑する有様なれば、近来何とかして識者の議論 月一七日付)」 を高め以て露に対せんとするものの如し。(一九○三年一○ 「我国民の多数は戦争を欲せざりしは事実なり。政府が最初 りしは事実なり。政府が最初 織せしめて頻りに強硬論を唱 ても、政府を非難攻撃し内閣弾劾までやろうとする団体を、政府 が、これを検証してみると疑問がいくつか出てくる。常識的に見 右の二つの史料のうちで、より重要なのは『原敬日記』の方だ ○『原敬日記』の疑問点 えしめたるは、斯くして以て この記述は、あくまで原敬という一個人の日記の中のもので、主 が「補助」し「教唆」していたとは考えにくい。それにもともと えしめ又対露同志会などを組 七博士をして露国討伐論を唱 露国を威圧し、因て以て日露 観が入っている可能性が高い。これを読む際には、当時の政治情 (4) 協商を成立せしめんと企てた るも、意外に開戦に至らざる 況とその中での原の立場とを度外視できないのである。 かった。特に、藩閥官僚に政治的基盤を置こうとする山県有朋 明治政府と一口にいっても、その内部は決して一枚岩ではな を得ざる行掛りを生じたるも のの如し。(○四年二月一一 日付)」 七 と、政党にそれを求めようとする伊藤博文との間には、激しい確 一 ここには政府の「教唆」と 日露戦争期の民間世論の形成について(井上) 一 Hosei University Repository 法政史学第四十六号 に、伊藤はその呪近者の報道に傾聴して同志会の一派の言動 ずるものとなし、大に排伊藤の運動を企画しつつあると同時 「対露同志会は現閣の優柔断なきを以て一に伊藤の製肘に出 を間接的ながら示しているのが、次の新聞記事である。 の首脳の一人で、伊藤の擁立にも深く関わっており、非常に伊藤 山県の推韓あるものと猜し、伊藤系の山県系を視るの念怨の せんとする狡檜なる小術策なりと信じ、而かもその背後には を以て桂小村が自家の無能を糊塗せんが為めに罪を元老に嫁 念、益々甚しからんとしつつあり」 (8) 原のいう「政府」とは、この桂内閣のことを指す。当然ながら、 当時の新聞記事はもちろん、全幅の信頼を置けるものではな い。しかしこの場合、対露同志会の活動について特に虚偽の報道 これまでの経緯からして、原が右のように「猜し」なかったとは ら、こうしたことがあった可能性はかなり高いといえる。そして をする必要はなく、また伊藤系と山県系との対立は事実であるか 原は特に、外交問題の責任が伊藤に押しつけられ、その政治的 不成功は皆な閣下(伊藤)の罪に帰す、所謂伊藤侯恐露病にて困 う。山県系内閣が同志会を操って伊藤攻撃をさせている、という していたという「原敬日記』の記述も、かなり解釈が違ってこよ こうして見てくると、政府が対露同志会を「補助」し「教唆」 到底考えられないであろう。 るなどの言をなすなり」と予測して、「(外交には)決して深入り 強い猜疑の念を原は持っていた。その認識から、こうした表現が がちであった。原の警戒は必ずしも根拠のないことではなかった めるために「世論操作」を行ったという何らかの情報を得て書い 生まれたと考えられる。いいかえれば、政府が国民の戦争熱を高 どうであったにせよ、原としてはこれを、伊藤迫害のために桂内 のかは不明だが、一般的な世論ということであれば、明らかにこ づく可能性が高い。彼がどのような意味で「輿論」といっている 後に続く「輿論」の「廟笑」云々の記述もまた、原の主観に基 たものとは思えないのである。 閣が仕組んだ新たな策略だと受け止めても無理はない。そのこと んでいるのは伊藤だとして彼を攻撃しはじめた。同志会の意図が こうした情況のあった所に、対露同志会が○三年秋、開戦を阻 といえる。 (7) にロシアとの協商の締結を主張したこともあり、親露派と見られ はすべからず」と伊藤に進一一一一口している。伊藤は日英同盟成立以前 彼は、「現内閣は(対露外交において)成功あれば自ら之を取り 立場が悪くされることを警戒していた。○三年六月の段階で既に い不信を示す言葉が散見できる。 「政府は不相変政党破壊を事とせり」とかいった、桂内閣への強 (6) た。}」の時期の「原敬日記』には、「山県系内閣の好計」とか、 (5) 伊藤系の原は山県系の政府に対していい感情を持っていなかっ 他方、当時の首相は山県の直系ともいわれる桂太郎であった。 とのつながりが強い人物だったといえる。 いたものの、なお彼は同会の中心的存在であった。原敬は政友会 ○年、政友会を組織していた。○三年七月にはその総裁の座を退 執のあったことがよく知られている。そうした中で伊藤は一九○ 七 Hosei University Repository れは間違った記述である。確かに後述の『中央新聞』のように同 た」とされるのである。この『桂大将伝』の記述には、桂が決し て居た」という。同時に「国民の騒然たる声」は「聞き流してい 二面には軟弱外交の如くして、他面には切々最後の準備を附け た。「桂小村」の「小術策」が思うように運んでいないとしたい うという考えを持っていなかったことは窺うことができよう。つ しかし少なくとも、桂内閣が主戦論にくみしてロシアを威圧しよ て「軟弱」ではなかったとしたい伝記作者の意図も感じられる。 (旧) たこの時期、全体として同志会は「潮笑」などされていなかっ 志会に好意的でない言論機関もあったが、主戦論が急成長してい ないだろうか。 い。むしろ彼の疑念に基づく個人的認識に後からつけられた理屈 まり前述の原の「分析」も、現実を反映したものとは考えにく 原自身の気持から、こうした表現がなされた可能性が高いのでは そもそも右のような原の疑念自体、かなり的外れだといえる。 以上のようなことから、主戦論形成に関する『原敬日記』の記 である可能性が高いといえよう。 対露同志会の攻撃の矛先は、先述の通り主に政府に向けられてい 用することができない。 たからである。「原敬日記」の同志会に関する記述は、あまり信 の証拠とはなり得ないということができる。『原敬日記』は確か 述は全体として信愚性に大いに疑問があり、政府の「世論操作」 (9) に、日本近代史を語る上で重要な史料であるが、そこに書かれて 二月一一日付でいわれている七博士についても同様である。 いるからといって全てが真実だとは限らないのである。 「建議書」提出の経緯は戸水寛人の『回顧録』に詳しいが、そこ には政府の「教唆」など全く見られない。むしろ悪意の「干渉」 (川) があった様子が窺皀える。また政府系新聞による七博士への強い非 (Ⅲ) ○『中央新聞』の漫画 さて、『中央新聞』の漫画についても述べておきたい。これに 難からしても、原の記述は事実とは考一えにくいのである。 ついては問題点を一言でいい表すことができる。それは、『中央 もっとも二月二日付の後半部分で、政府が開戦世論を盛り上 げたのは「斯くして以て露国を威圧し、因て以て日露協商を成立 新聞』は『平民新聞』ではないということである。 この漫画は現代的な感覚からすれば、確かに従来の説の通りに せしめんと企て」たからだという一応の分析がなされている。ま 受け取れる。また非戦論を唱える『平民新聞」のようなものに 載っているのであれば、やはりそう捉えて何の問題もないである いう記述がある。これらにも触れなければならない。 た一○月一七日付にも、「以て露に対せんとするものの如し」と 別にこの場合に限ったことではないが、もし相手国を「威圧」 の「弱腰」を非難攻撃していた。漫画の解釈も自ずと違ってこな 声っ。しかし『中央』はこの時、既に主戦論に転じており、桂内閣 (旧) して交渉を有利に進めようとするなら、政府自身も相当に強硬な ければならないのである。 = の戦備を多少とも油断させる」ために「不言実行の主義を執り」 態度を示さなければならないはずである。しかし桂内閣は、「敵 日露戦争期の民間世論の形成について(井上) 七 Hosei University Repository 法政史学第四十六号 「中央』のこの時点での基本的な認識は、開戦を「止むを得 (Ⅱ) ざる運命」とし、また開戦すれば結局は日本が勝つというもの は、短絡的といわざるを得ないのである。 二’’’一□論機関の動向 一七四 主戦論の形成を主導したのは政府ではなく言論機関、すなわち (旧) だった。そして政府の外交姿勢については、強硬のように見一える 一のマスメディアが新聞であり、しかも既に「下層」の人々にも (旧) が「事実においては軟弱」であり、「当局者の所謂強硬は強硬を に主戦論を唱えていたことはよく知られている。また当時ほぼ唯 新聞だったというのが私の意見である。新聞がこの時期、さかん 広く読まれるようになっていて、影響力は強かった。主戦》銅形成 〈、〉 ンバーの中にロシアのスパイがいると報じるなど、あまり好意的 粧ふのみ」だと非難していた。他方、対露同士心△云については、メ ではない。どちらかというと、うさん臭い、信用の置けない団体 だとするとこの漫画は、本当は「軟弱」な小村が、幻燈のよう のような意図をもって主戦論を展開したかを探ることは、本論の における役割は、他の何より大きかったと考えられる。新聞がど (旧) だと捉えていたようである。 に信用ならない同志会をかくれみのにして、いかにも強硬である 目的にとって非常に重要である。 ○紙以上が発行されていた。本論ではこのうち、『二六新報』と しかし一口に新聞といっても、当時既に在京の主要紙だけで一 かのように見せかけ、国民の目をごまかしている、という意味に とることができよう。つまり政府の「弱腰」を風刺したものと思 われるのである。これなら『中央』の論調とも適合する。 (知) 『一一六新報』は、まず何より発行部数が最大であった。また 『万朝報』の二紙に対象をしぼることにする。 「七博士建議書」提出をスクープするなど早くから主戦藝覗的傾向 こうした『中央』の見方が必ずしも正しいとは思えない。しか とへの風刺だとこれを捉えるのは、まず無理といえる。ましてこ し少なくとも、小村が同志会を操って主戦論を「盛り上げた」こ を見せ、○三年一○月頃にはその論調は非常に強硬となる。|方 (卸) の漫画を根拠に、開戦世論を政府の「世論操作」によるものとす (皿) 『万朝報』は、在京紙としては部数が『二六』に次いで一一位で が、その後は急速に主戦論に傾斜する。そして同年末頃には相当 あった。○二一年一○月まで非戦論が掲載されていたことは有名だ るのは、全くの誤りだといわざるを得ない。 このように、日露戦争期の主戦論が政府主導で形成されたとい このように社会的影響力からしても、また主張の内容からして 強硬な論調となり、結局戦争終了までその姿勢を保った。 う説の根拠は、意外に弱いものなのである。『原敬日記』などは 明確な記述がある以上、多少信を置いてもやむを得ないかもしれ も、『二六』『万朝」の役割は他紙より大きかったと思われる。対 ない。しかしどんな場合でも、個人の見解をうのみにしてはなら 象とするならこの両紙が適当と考えたのである。 (旧) 廻して開戦世聿鞠を盛り上げたことは「たしか」だなどとするの ないはずであろう。そうした不確実なものを根拠に、政府が手を Hosei University Repository ッ其日を送っている」労働者たち自身にも問題があるとし、「、U と我身を軽んじ、ヤケ酒を飲み不品行を働き」「お先真暗グッグ 会」は予定通り四月三日に開かれるのだが、それには多くの困難 これは決して口先だけのことではない。’九○|年の「懇親 た」としている。 の地位を高め利益を謀る為には、今後一層力を尽くさうと決心し 構えを改める」ようにと説く。そして『二六』自身は、「労働者 Ⅲ『二六』『万朝」の性格 さて、両紙が主戦論を唱えた理由を探るためには、まずその性 ○「二六』の性格 格を調べる必要がある。『二六』の方から論じていきたい。 『’’六』は一八九三年、秋山定輔の主宰で創刊され、当初はア は一時廃刊となる。これが一九○○年に再刊されるのだが、その が伴っていた。例えば警察からの干渉は当然あり、既に切符を ジア重視の報道姿勢をとった。しかし資金不足のため、九五年に 後は国内の社会問題のセンセーショナルな報道に力を注いだ。再 の性格を表すものといえる。一九○|年四月三日、’’六新報社の めに中止を余儀なくされている。とはいえ『二六』がおとなしく てられた。しかしこれらはいずれも、桂内閣による禁止命令のた 同じような「懇親会」の企画は、翌○二年と翌々○三年にも立 六』は「懇親会」を決行したのである。 (、) ど、難題を押しつけられている。しかしそれでもとにかく、三’ (躯) 売ってしまった後で人数を大幅に縮小するように要求されるな (餌) 刊から日露戦争までの『一一六』の主な業績としては、三井財閥攻 (、) (恥) 撃、遊女綾衣自由廃業、及び「労働者大懇親会」の二一つが、通常 あげられる。 主催で開かれたこの「懇親会」は、事実上の第一回メーデーとし 引下がった訳ではない。○二年の時には会場となるはずだった場 この中でも三つ目の「労働者大懇親会」は、最もよく『一一六』 て知られているが、その呼びかけの過程で『二六』の労働者層に 所に、「懇親会」は禁止されたので「桂内閣をブッッブス迄延 特に三月一一一一日付の「来れ労働者」は、かなりの名文といえ 「労働者に対する圧制政府の暴行・乱行」だと非難した上で、「現 引」するという立札を立てている。また○二一年の時にも、禁止は (畑) 対する考え方が明確に打ち出されていくのである。 る。「我々の身に着けている着物は諸君の手で幟たもの、我々の 内閣をプッッブス」という『二六』の意志に変わりはなく、現在 労働者の地位向上を指向し、そのためには権力との対決も辞さ その「準備に取りかからんことを思惟」していると述べた。 (”) 住む家は諸君の手で建たもの……」と始まるこの文章は、まず 「総ての文明の事業は実際に諸君の手を経て仕上げられた」と労 働者の重要性を強調する。そして「世間から下等社会と賎しめら る。『二六』は労働者層に基盤を置く大衆紙、庶民の新聞だった ない姿勢が、|連の「懇親会」への取り組みを通じて示されてい ということができよう。 れ」「ウラ悲しき境界に沈んでいる」労働者の窮状に憤慨し、「諸 かしその一方で、「オメオメ他人から賎しめられるに甘んじて我 一七五 君に対する世間一般の心得方が間違っている」のだと論ずる。し 日露戦争期の民間世論の形成について(井上) Hosei University Repository 10(15) 147 147(27) 714) 57(14) 67(37) 683 68(37) 0 商店小僧 71 7(10) 77(13) 、023) 90(23) 17(8) 28(15) 0 実業家 1 12 2 9(4) 148) 14(8) 1 会社銀行員 0 2 7 2 10(5) 0 15(3) 4 4 職工 10(15) 16(3) 4 9(4) 2 0 職人 3(4) 12 3 1 2 0 車夫 5(7) 4 3 2 3 0 配達人 2 8 6 0 1 0 兵士 1 014) 80(14) 農民 5(7) 25(5) ほか 10(15) 811 58(11) 7 3 10(3) 5 1 4 24(11) 15(8) 1 17(8) 10(5) 4 20(9) 10(5) 4 14(4) 14(8) ’七六 て記事だけからその性格を探るのは難しい。しかし幸い、『万 3(4) 32(8) 20 185 185 (卯) 山本武利『近代日本の新聞読者層』(法政大学出版局)94頁より。 法政史学第四十六号 単位:人、()内の数字はパーセント (皿) (”) わば二面作戦をとっていた訳で、新聞として 人層へも食い込もうとしていたのである。い 肌」的な記事で労働者の読者を得た後、知識 人を何人も入社させた結果だとされる。「勇 れるが、これは一八九八年頃から著名な知識 他方で『万朝』には学生の読者も多数みら させる効果があったという。 れらは何より、「下層」の人々の溜飲を下げ ダルを扱った、いわゆる「艶種」である。こ のもので、いずれも「上流」社会のスキャン 妾の実例」「私生児の父」「辻云妓の弗匡」など 〈釦) 「勇肌」の記事だったとされる。これは「蓄 『万朝』が労働者層の支持を得た要因は、 者が他紙に比べて際立って多い(表参照)。 が、特に職人・職工・車夫など労働者層の読 と、『万朝』の読者は各階層に広がっている 日』などが対象となっている。これを見る である。『万朝』の他、『報知』や『東京朝 別の比率から各紙の読者層を割り出したもの れたハガキ投書を分類し、その階層別・職業 山本氏の方法は、新聞に寄せられて掲載さ 朝』については山本武利氏の研究があり、その読者層が明確にさ 官吏 3 ○『万朝』の性格 商人 れている。 0 41 3 218 399 3 教員 1644 164(41) 88(16〕 10 10(15) 学生 547 67 計 次に『万朝』の性格の方に移る。結論からいえば、『万朝」も 万朝報 報知新聞 読売新聞 東京朝日 時事新報 日本 基本的には『一一六』と類似の新聞だったのだが、『二六』と違っ 表1ハガキ投書欄にみる新聞読者層 Hosei University Repository 以上のような所が、山本氏の分析である。ほぼ正鵠を射ている のいうよりももっと、庶民の新聞としての性格が強かったといえ 更なる拡大という意図もあったと考えられる。『万朝』は山本氏 くは民衆寄りの姿勢をとっていた人々なのだから、労働者読者の しまえるのではないだろうか。知識人の加入にしても、彼らの多 のだが、なお不充分な点もあると思える。まず、『万朝』が「下 そうである。 の性格も当然、『二六』より複雑だった。 層」の人々の人気を得たのは「艶種」だけによるものだったか、 (狐) という問題がある。特にこれといった「艶種」が掲載されていな の死命を決していた。それだけに、大衆の支持を得るためなら両 『二六』『万朝』はともに大衆紙であり、|般庶民の人気がそ ②主戦論の内容別分類と検討 (妬) い期間もかなり長かったのだが、『万朝』は順調に部数を延ばし 私は、政府に対する歯に衣着せない言論も『万朝』拡大の大き たのである。ならば一体全体なぜ、こうした庶民の新聞が戦争を 紙は相当のリスクをも辞さず、政府と真っ向対立することもあっ ているのである。 て反感を示していた。例えば一八九七年には「薩長藩閥の徒、| この疑問を解くためには、主戦論の内容を分析しなければなら 起こせなどと主張し始めたのだろうか。 な要因だったと考えている。『万朝』は早くから藩閥政府に対し (鋼) たび政権を握りてより(中略)放窓専横復た至らざる所なし」と 政府を罵ったり、時の松方内閣を「野蛮内閣」と呼んだりしてい たが、実はこれが重要なのである。|口に主戦論といっても、そ ない。従来、主戦論の中身などはあまり顧みられない傾向があっ (Ⅳ) る。こうした『万朝』の政府攻撃は、「下層」の人々の一円を代弁 の内容は一様ではない。①ロシアの脅威を説くもの、②戦争その していたという点で『二六』と共通するといえそうである。何も スキャンダルだけで『万朝』が売れていた訳ではないと考えられ に大別できるのである。 ものの肯定、③主戦論を武器として政府を攻撃するもの、の三つ もうひとつ、ハガキ投書の割合をそのまま読者のそれとして受 る。 け取っていいのか、という問題がある。ハガキ投書がいかに短文 主戦論といえば、誰もが真っ先に思い浮かべるのがこれであろ ①ロシアの脅威を説くもの 四方に鉄道を敷設したれば、自今此地方一帯は露の州県に帰せん う。より論理的だったのは「二六」の方で、「(ロシアが)満州の でも、文章を作るのは楽な作業ではない。労働者は学生よりもは るかに不利だったことは容易に想像できる。となると、労働者読 一七七 白にして疑ふ可きものにあらず」といった主張を展開していた。 (犯) 猿臂(猿のように長い腕)を伸ばし、朝鮮を収奪せんとするは明 のみ。露や既に斯くの如く其勢力を満州に樹植せり。他年一日其 者層の割合は、ハガキ投書の数値よりも相当大きく見積らなけれ ばならないはずである。 逆にいえば、不利な条件にもかかわらず労働者層の投書が多い ということで、『万朝』は基本的に労働者の新聞だったといって 日露戦争期の民間世論の形成について(井上) Hosei University Repository 法政史学第四十六号 (”) 一七八 る。これはつまり他の政治課題同様、戦争の問題も政府攻撃の材 主戦論の中で最も大きな比率を占めていたのが、この種類であ 料とするものだと考えればわかりやすい。基本的な論理展開の例 他方『万朝』にはこのような分析はあまり見られず、例えば有 とくり返すわりに、その根拠は今ひとつ明確にされていない。と 名な「万朝は戦ひを好む乎」にしても、「戦ひは避くべか壷らず」 として、『一一六』○三年九月一一六日付「挙国一致の前提」があげ (い) はいえ○三年末頃になると、「出兵せよ、出兵せよ、断々固とし られる。 ふまでもなし。是れ国家は政府の上にあれば也・但しまた外 「一旦砲火を開きたる以上は其戦を引き受くるは(中略)云 て出兵せよ」といった激しい至細調のものがあらわれている。『一一 明らかである。 六』も『万朝』も、ロシアの脅威を相当強く意識していたことは 敵四境に迫るの時と錐も、時の政府が到底、此敵国と相禦侮 するの力なく、|日存在せしむれば一日国運を危くするを信 ②戦争そのものの肯定 (中略)我維新の元老柱石の臣は、皆な外敵四辺より迫ると ぜば、戦争中と錐もまた政府を打倒すに踊踏するを要せず。 (肌) これもよく知られた主戦論であるが、実は『万朝』にはこの種 である。 これは『二六』の基本的な立場を端的に表すもので、同様の趣 き、幕府を倒して出で来りし人々なるを見よ」 類のものはほとんどない。以下に述べるのは全て『一一六』のもの 〈他) の義務也、権利也」というものであった。また個人には正当防衛 多彩であった。例えば二月中旬には、桂内閣を鎮守の稲荷、ロ 旨の論説はこの後数多く掲載されている。その表現の方法は実に ②の中で代表的な論理は、「野性国民を膚懲するは、文明国民 の権利があるとした上で、「国際法は各国不正の行為を寛仮せ てしまう「鎮守」はただの「野狐」でしかなく、「青松葉で燃し シアを「疫病神」に見立てた上で、「疫病神の前に潮つく」ばっ (い) ず、而も侵略的目的の敵に対する応戦の挙を是認するは、国も亦 た。前者は相手を「野性国」と決めつけるもの、後者は国の自衛 独立を自衛するの権利を有するを以てなり」とするものもあっ 出し」「鍬の頭で叩き倒す」べきだ、という風刺的論説を出して (“) 権を大義名分とするもので、いずれも典型的戦争正当化論であ いる。更にその少し後には、近衛篤麿、西園寺公望、児玉源太郎 》らの名をあげて政権交代を主張した。また翌○四年一月にも、桂 (〃) る。文言を特に説明する必要はないであろう。 ただ注意をすべきは、①や②が数としてはあまり多くないこと (岨) 内閣は「我国をして第二の南宋たらしめる」ような内閣であるか (“) である。②などは、例外的なものを除くと、ごく短期間に集中し にいとまがない。 蕾ら、「其当局を辞」すべきだと論じている。この他にも例は枚挙 他方『万朝』の方は、○三年末までこのような論調は見られな (㈹) ている。当時の新聞は、何もこのようなこと「ばかり」書きたて (帽) ていた訳ではないのである。 ③主戦論を武器として政府を攻撃するもの Hosei University Repository い。しかしそれでも一一一月になると、「優柔不断」な内閣は二 た。そしてやはり政府に批判的だった『万朝』も、○三年末に 戦論を武器とすることで政府をより効果的に揺さぶることができ といえる。以前から桂内閣を攻撃していた『二六』だったが、主 (卵) 日存すれば一日其の禍乱を深くす」るものであるか蕾b、「先傘つ之 至って主戦論の有効性に気づき、『二六』とかなり類似した論陣 (別) はじめた。また開戦報道直前の○四年二月にも、「外交に機宜を を打撃して其の更迭を期する」べきだ、という趣」日の論説を出し を張るようになったと考えられる。 このように見てくると、『二六』『万朝』の基本的性格と主戦論 失し」たなどと桂内閣の「前過」を並べた上で、「更に一層有力 とは決して矛盾しないということができよう。両紙は当時の一般 (兜) 的認識に従いながら、それなりに国民の安全を考えていた。①、 健全なる内閣を得るの機会あらば、直に之を迎ふるの急務なるを 亡心るべからず。藩閥政府は何処までも藩閥政府也」と論じてい ②の論説も別に悪意のものではなく、ロシアの脅威から国民を守 (副) る。『万朝』もやはり、この③の論説には力を入れていたといえ そして同時に両紙は、主戦論を通して「圧制政府」に攻撃を仕 たと思われる。 るためにはこれと戦うしかないと真面目に考えていたから書かれ よう。 『二六』『万朝』両紙の、主戦論を通した政府攻撃は、このよ うに執勧であった。特にそれは『二六』に著しい。先述のように 掛け、可能ならば打倒する意図を持っていた。③の論説の比率か 『一一六』は、○三年四月に至っても「桂内閣をブッッブス」意図 を変えておらず、その「準備に取りかからんことを思惟」してい らして、これこそが第一の目的だったことは明らかであろう。新 くともこの二つの有力紙については、完全な誤りだといわざるを 闇が政府に「動員」されて主戦論を唱えたなどというのは、少な (弱) た。主戦論はそのための恰好の武器となったのである。 この時期には、①のようなロシアの脅威が、国民の間でも強く 得ない。大衆紙の立場から政府打倒を目指していくという両紙の (餌) 「権利」だと捉えられていた。そうしたことから、ロシアの脅威 さてそれでは、『二六』『万朝』にとって政府打倒とは最終的に 姿勢は、それまでと全く変わっていないのである。 意識されていた。また②のように、「侵略」に対する「応戦」は より「国運」を守るためには、強硬な外交姿勢をとり、時には戦 どのような意味を持っていたのであろうか。両紙は、政府が「放 争にも積極的でなければならないという認識が支配的であった。 逆にいえばそれができないような政府は、国家と国民を守れない 窓専横」であり「民意の向背は問ふ所にあらず」と国民を軽視す は民意無視の一例といってもよい。そして政府打倒を両紙がいう ることに怒りを示していた。「労働者大懇親会」の一方的な禁止 (弱) ということで、充分に弾劾の対象となり得たのである。 時、その主体とされるのは「国民」であった。つまり両紙にすれ 桂内閣は戦争の準備こそ進めていたようであるが、交渉による 解決をまだ放棄した訳ではなかった。そこには当然外交上の譲歩 一七九 もあったから、主戦論の立場よりすれば非難される点が多かった 日露戦争期の民間世論の形成について(井上) Hosei University Repository 法政史学第四十六号 ば政府打倒は、国民の意志の政治への反映だったといえる。これ 『万朝』が展開することになるのである。 ’八○ た。しかしそのお株を奪うような論陣を、やはり大衆紙であった 『万朝』『二六』の両紙はその性格上、戦争中でも一般庶民の ①国民生活に配慮するもの 生活に気を配らない訳にいかなかった。戦争初期には、経済の萎 ということは、両紙は民権拡大のために主戦論を唱えたことに はすなわち、民権拡大に他ならない。 る陥奔はここに始まるといってもよい。戦争と民権拡大が結びつ なる。これは大変な逆説であろう。日露戦争期の世論形成におけ 縮と労働者の失業を招くとして、過度の倹約を難ずる論説を多数 とはいえ、戦争が国民生活に深刻な影響を与えることに変わり 言えてきた。また○五年五月の靖国神社臨時大祭の時には、戦死者 出している。戦争後半になると、傷病兵の救護に関するものが増 (帥) いてしまったのである。 はない。そのことを新聞はどう捉えたのだろうか。そして上述 とその遺族の苦衷に言及した、次のような論説が出されている。 「諸君(戦死者のこと)の出でて軍に従ふや、其の親、其の (d) の、戦争と民権拡大との結びつきは開戦後どうなったのであろう か。次節で見ていきたいと思う。 て顔を蔽へるなるべし。其の妻は血涙に咽びて傭し、其の児 兄弟は皆涙を呑みなるべし。其の姻戚、其の姉妹は皆鳴咽し は足に綱はりて叫び泣けるべし。諸君若し死せば、其の生業 開戦後、戦争に関する論説が多数出されたことはいうまでもな 0開戦後の論説 い。単なる戦局分析も無論多いのだが、他にも注目すべきものが なるべし」 立たず、|家一族皆困頓窮苦すべきと、諸君能く之を知れる の悲惨さを何一つ伝えなかったと思われている。だがこうした論 済的苦痛を理解するものではある。|般に近代日本の新聞は戦争 定するものではない。しかし戦争の被害による国民の精神的・経 この論説は一方で従軍の意義を強調しており、決して戦争を否 (配) かなりある。これを前節にならって分類してみると、①国民生活 の、④その他、となる。④については紙幅がないのでここでは省 に配慮するもの、②政府への非難攻撃、③民権拡大を要求するも (釘) 略させて頂きたい。 なお、開戦後の注目すべき論説はほとんど『万朝』のものであ る。『一一六』は○四年三月の筆禍事件で発行停止を受けて以来、 説を見る限り、必ずしもそうではないといえよう。 (卵) 目立った》細説を出さなくなってしまう。これは当時の新聞にとっ ②政府への非難攻撃 ら戦争中でも打倒すべきだという考えは、主戦論の③の中で『二 この政府攻撃である。国家と政府とは別であり、頼りない政府な ①とともに戦争中のマスコミの一般的イメージと異なるのが、 て非常に重要だった戦争報道が、発行停止によって中断されるの (鍋) を恐れてのことだと私は考える。日本海海戦後、「二六』は再び 政府攻撃の先頭に立つか、bである。 ともあれ『二六』はこのように、戦争中はおとなしくなってい Hosei University Repository 六』が強調したものだが、開戦後は『万朝』がそれを受け継ぐ形 福を犠牲にし、|に国家の運命を以て自己の禍福とするの覚 亦た盲に血税を以て其の義務に殉ずるのみならず、|家の幸 の材料となったのは主に財政問題であった。特に○四年二月頃 て、実に国民一般の勝利なりと(中略) 獲得せる空前無比の勝利は、独り軍人のみの勝利にあらずし 故に吾人をして忌憧なく言はしめれば、即ち云ふ、日本の 悟を事実に発露せり(中略) となった。 には、翌年の増税計画が明らかになったため、この問題に関する 無論、開戦後は主戦論が有効でなくなる。この時期、政府攻撃 議論が盛り上がった。『万朝』は、予算案の非を非とするのは決 今や国民の壮丁は召集せられて事に遠征に従ふ、其数は (園) (中略)恐らく七八十万ならん。大小の差こそ存すれ、是等 権の拡張即ち一」 (、) (中略)総ての国民を通じて満足せしむるの道は何ぞ、選挙 は皆戦争に功労あるもの、相当の論功を為さざるべからず。 して「挙国一致」に反する一」とではないとした上で、増税計画は 〈則) 「過酷度に過ぎ」「国民を飢餓の惨境に陥らしむもの」だと強く 非難している。 ○五年二月になると、今度は御用商人の大倉組に関わる汚職疑 〈開) ここに見られるのは、実際に従軍し戦費を負担した一般国民こ 惑が浮かび上がった。この件を『万朝』は執勘に追求し、政府の そが戦争を勝利に導いたのだという強い意識と、そこからくる国 (髄) らず」とまで一一一戸い切っている。戦争中も政府攻撃は弱まらなかっ 対応が不適切ならば「根礎より時の内閣を覆へすも忌むべきにあ 民の政治参加への要求である。言い方は違うが、同趣旨の論説は (閉) たのである。 この他にも多い。『万朝』はこの問題に熱心に取り組んでいたと こうした③の論説には、二つの注意すべき点があると思える。 い》える。 (的) ③民権拡大を要求するもの 大衆紙が政府を攻撃する最終的な目標は、先述のように民権拡 ひとつは、それまで「或る極端なる一派の人士に依って専売せら 大にあったと考えられる。その民権拡大を直接要求する論調が、 れ」る傾向があったという一般国民への選挙権拡張の要求が、有 ある。これは選挙権拡張の現実感を増す上で、かなりの効果が 力紙の『万朝』によってくり返し訴えられるようになったことで (刊) は次のように述べている。 戦争後半になるとあらわれてきた。例えば○五年七月、『万朝』 「戦後に於ける各種の経営問題は、蔚然雲の如くに湧き出づ しかしより注意すべきなのは、民権拡大の要求と戦争とが深く あったと考えられよう。 (刑) るや疑ひを容れず。而も吾人は選挙権拡張の断行を以て、戦 後経営の第一事業と為さんとするもの。 結びついていることであろう。開戦前の主戦論は「藩閥政府」攻 一 今更ら云ふ迄もなく、今回の戦争は純然たる国民的戦争に 八 して、独り政府の之れに苦心したるのみならず、|般国民も 日露戦争期の民間世論の形成について(井上) 一 Hosei University Repository 撃のための有効な武器であり、その時点で民権拡大と戦争とは結 ことではない。というよりむしろ、戦争を積極的に肯定する理由 れば民権拡大の根拠が失われる訳で、これは大衆紙としてできる 決して戦争を否定しなかった理由がここにある。反戦論など唱え 法政史学第四十六号 びついていた。これが日露戦争を経て、より強まったということ が開戦前より増えたといえるのである。 において戦争支持の世論が確立した大きな要因だったと私は考え 以上のような、戦争と民権拡大との深い結びつきが、日露戦争期 現代的感覚でいうなら、これはとんでもないことであろう。し そしてこれは決して一時的なものではなかった。例えば大正政 ている。ここに、当時の世論形成の重大な陥奔があったのである。 変の直前、『万朝』社主の黒岩涙香は、「鞭難」に耐えて日露戦争 の方向が、実は現実的だったのである。権利とは、今でこそ天賦 のものと捉えられることが多いが、その獲得にあたっては実質的 戦争を肯定する世論もまた、受け継がれていくのである。 とがわかる。そしてこうした論理で民権拡大が主張される限り、 根拠とした民権拡大要求が日露戦争期以後も受け継がれているこ (布) いという考えは誤りだ、という趣旨の》細説を書いている。戦争を を担ったのは国民なのだから、「閥族」でなければ政権は取れな くる。五大列強のひとつロシアとの戦争は、日本にとって「国家 まとめ それだけのことをしてきた国民を国政運営に参加させないのは不 うである。しかもその一一一一口論機関は大衆に基盤を置く、庶民の代弁 おいては、むしろ民間の言論機関が主導権をとっていたといえそ とするのが、ごく一般的な捉え方であろう。しかし日露戦争期に 戦争支持の世論は政府の「世論操作」によって盛り上げられた 当だ、とする議論が、俄然説得力を持つようになるのである。 (刊) しかしながら、こうした根拠で民権拡大の要求がなされるなら 重要性を強調していたからこそ展開できたともい》える。 『万朝』『二十六』が①のように戦争の被害を認識していながら、 ば、厭戦論や反戦論は民権拡大と対立するものとなってしまう。 最初に述べたように、世論の支持は戦争遂行にあたって不可欠 からではなく、|般国民の側から形成されていたのである。 図って唱えたものだったといえる。つまり戦争世論は、政府の側 者的性格の強いものであった。戦争世論にしても、大衆の利益を 『万朝』の選挙権拡張の要求にしても、戦争における国民の力の ある。その意味ではまさに、日露戦争は「国民的戦争」だった。 難に耐えて戦争を勝利に導いたというのは、かなりの程度事実で 未前の大業」であった。そ}」において国民が、ひどい苦しみや困 (ね) しかし国民が戦争に死力を尽くしているとなると、話は違って 要求しても相手にされなかったであろう。 (、) のうちに「一元全の参政権なきもの」がないという根拠だけでは、 な力が必要となる。国民の参政権にしても、単に「欧米文明国」 かし誤解を恐れずにいえば、当時においてはこのような民権拡大 ある。 に、今度は戦争が民権拡大の根拠そのものとなってしまったので ができる。以前はいかに有効でもひとつの武器にすぎなかったの 八 Hosei University Repository 頁、及び三○○~三○|頁。 公論社、一九七四年、以下『日本の歴史』と略)二四五~一一四六 (2)『東京百年史・第三巻』(東京都、一九七二年)でも、「対露同 の要因であった。それを考えるならば、国民もまた戦争に関して 「民衆」イコール「善」、または「無事の被害者」、という図式が 重大な責任があるといわざるを得ない。普通、歴史においては、 志会や七博士の言動は(中略)政府との黙契があってなされたもの 新聞』同年六月二四日「唯だ此の時を然りと為す」。 (Ⅱ)『衷泉日日新聞』○三年六月二一日「大学教授の外交論」、『国民 (川)同、一一九七~三○三頁。 (9)竜渓書全く一九八六年、二八○~二九六頁。原版は一九○五年。 (8)『二六新報』○三年一一月一○日「元老と閣臣との反目」。 (7)同、六月一二日。 (6)同、’一月一三日。 (5)『原敬日記』(福村出版)○三年七月七日。 (4)『一一六新報』’九○三年二月二四日「同志会の内閣弾劾」。 (3)いずれも『日本の歴史』より。『原敬日記』の日付は筆者が付加。 であった」(八九七頁)とされている。 信じられている。しかし日本近代においては、これは必ずしも正 しくないといえそうである。 同時に「民権拡大」イコール「善」という図式もまた疑わし い。一般的には国民の参政権が拡大すれば戦争のような悪は防げ ると思われている。しかし近代日本においては、周知の通り、民 権拡大は次第に実現するものの戦争否定の世論は生まれず、逆に 積極的に推進する気運が形成されていった。その要因として、民 権拡大と戦争とが深く結びついていたことは、無視できないと考 えられる。 こうしたことを、現代の我々も充分認識しておくべきだと私は 危)杉山茂九『桂大将伝』(博文館、一九二四年)五二四頁。 思う。これは決して国民の参政権の否定ではない。むしろ民主主 義に基づき、責任を持って国政を運営するためにこそ、国民は自 (旧)『中央新聞』は、○三年八月上旬までは主戦論に批判的だった (旧)前出『日本の歴史』二四六頁。 (Ⅳ)同、八月一八日「対露同志会の売国問題」。 (旧)同、九月一三日「是れ何の随」。 (旧)同、八月二三日「果たして強硬平」。 (川)『中央』○三年八月二四・二五日「日露衝突の予言」。 戦論に傾斜していった。 が、八月二一日の「韓国に於ける日露」という論説の後、急速に主 分達が常に「善」とは限らないことを理解する必要がある。でな ければ再び陥奔にはまるかもしれないからである。 無論現代では参政権と戦争とは結びついていない。しかし国民 自身が陥りそうな重大な陥奔は、まだ多数考えられよう。自らは 常に「被害者」だったと思い込んでいる限り、それを避けること はきわめて難しいのである。 註 年、以下『読者層』と略)第二部・第一章~二章。 (旧)山本武利『近代日本の新聞読者層』(法政大学出版目同一九八一 = (1)隅谷三喜男『日本の歴史一一十二巻・大日本帝国の試煉』(中央 日露戦墨エ期の尾寵卿世論の形成について(井上) 八 Hosei University Repository 一八四 (稲)『万期』九七年九月二一一一日「国民的内閣」。 法政史学第四十六号 (幻)同、’二月二八日「野蛮内閣の土崩瓦解」。 (洲)『二六』一九○三年一○月二四日「露国の野心」。傍点原文。 (卯)『一一六新報』○三年一一月二五日「二六新報の一大自白」。『一一 (胡)『万朝』同年一○月一三日。 六』が独自に調査した主要各紙の発行部数が掲載されている。 (Ⅲ)同、○三年六月一六日「対外硬派の篭起」。 ○三年一○月一七日「今に於て何の交渉ぞ」、及び一一月一○日 一月一五・一六日「危険なる平和の切迫(上)(下)」。『万朝』では 一八日「機や逃すべからず」、||月一三日「大機逸せんとす」、’ (卿)①で前出していないものをあげると、『二六』では○三年一○月 (蛆)同、一○月一三日「戦争は権利なり(上)」。 (胆)『二六』○三年一○月二○日「何故に主戦論者たらざる」。 (u)○四年一二月一四日「進歩の代償」のみ。 (加)同、’二月一二日「出兵せよ」。 (犯)前出「二六新報の一大目白」。なお在阪の『大阪朝日』『大阪毎 日』も入れると『万朝』は第四位となる。 (羽)『二六』一九○○年四月二九日~七月二五日。一一一井財閥のスキャ ンダルや企業活動を激しく攻撃したもの。 (別)同、九月五日~七日。吉原の遊女綾衣の自由廃業を『二六』が実 現させた事件。 (弱)一九○|年四月三日開催。翌日の『一一六』で報道。キャンペーン は三月中旬より。 (妬)『国史大辞典』(吉川弘文館)より。 ②の方では、『二六』一○月二三日「戦争は権利なり(下)」、一 「遷延の不利」。 三月一○日「今の非戦論者」。 ○月二六日「戦争は平和の代償」、○四年二月一○日「戦争美観」、 命令」。 (〃)『二六』○一年四月一日「労働者懇親会と警察の厳命」「制限の (肥)同、○二年四月四日「立札の御取上」。 (皿)同、九九年五月六日~六月一八日。 (別)『万朝』一八九八年七月七日~九月二七日。 (帆)同、○四年一月二七日「挙国一致の先決問題」。 (W)同、二月二七日「主戦内閣を作れ」。 (㈹)『二六』○三年二月一八日「村中の評判」。 ことがわかる。しかもこの期間外のものは全く論調が異なる。 (帽)註(皿)~(川)より、②は○三年一○月下旬以外は散発的だという (羽)同、○三年四月四日「四月三日・乱暴政府の乱行、行政権の濫 用」。 (胡)同、九九年六月一九日~七月一六日。 四日「外交失敗の三種」、一○月三一日「国民は只だ迷ふ」、一一一月 (い)前出のものの他、『二六』○三年一○月六日「明後日」、一○月一 (別)前出『読者層』九二~’○一頁。 「蓄妾の実例」以前には「照魔鏡」があるが、九七年一二月二一日 など。数も多いが、内容もバラエティーに富んでいる。 二~六日「内閣沈入の兆Ⅲ~⑤」、一月一○日「列国軽侮の理由」 七日「贋造の帝国主義」、’二月二六日「魔権の跳梁」、○四年一月 (狐)「蓄妾の実例」と「私生児の父」との間は半年以上ある。また までで、ここでも半年以上間がある。 九四年~九九年の間の『万朝』部数の伸びは、概ね順調である。 (鍋)『読者層』四○六~七頁収録の『警視庁統計書』によれば、一八 Hosei University Repository 日「何時までか台閣の上に安坐せしめんとするぞ」などがある。 (記)同、○四年二月九日「冷静なる愛国者を要す」。 (別)同、’二月二日「政府打撃は国論発揮の捷径也」。 (卯)『万朝』○三年一二月五日「先づ現内閣と戦へ」。 (、)同、七月一○日「戦後経営の一問題」。 (閃)同、二月一一一一日「内閣覆滅も忌まず」。 (閲)同、○五年二月七日「姦商大倉組」他多数。 (剛)同、’一月二四日「衣食には安んぜしめよ」。 (閉)同、○四年二月一五日「財政計画と議会並に国民」。 (、)前出「民権拡張の好機」。 度論じたのみだった。『万期』がいかに熱心だったかがわかる。 (い)『二六』は○五年七月四日「車中の代議士」で、普選の必要を一 挙権の拡張」、○五年五月一六日「本日の補欠選挙」など。 (船)同、○四年一一月一九日「民権拡張の好機」、一一月二五日「選 (詔)この他、○三年一一月一日「国民の大奮興を要す」、一一一月一三 ば、ロシアに「併呑されてしまう」という危機感は一般国民にも (別)生方敏郎『明治大正見聞史』(中公文庫、一九七八年)によれ あった二四五頁)。 (記)既出「挙国一致の前提」。 年八月一八日「現行選挙法の一一大欠点」、○三年五月一一二日「選挙 (、)それまでも普選要求連動はあり、『万朝』も賛成だったが(○二 (弱)前出『日本の歴史』三○一頁。 (印)提灯行列に関するもの(『日本歴史』四三六号・桜井良樹「日鰯 (沼)同石。 (犯)前出「民権拡張の好機」。 法改正問題」など)、日鰯戦争期のような強力な論陣はなかった。 戦時における民衆連動の一端」に詳しい)、識和問題に関するもの など、かなり多様なものがあるが、ここでは論じない。 日には発行停止処分が決定した(『万朝』四月一五日「二六新報の (閉)○四年三月一六日付「内閣弾劾問題」が検閲にかかり、四月一四 (刊)『万期』○四年六月一一日「国民の鞭推を要す」、八月二四日 感謝の意を表したい。 一八五 重な御意見を下さった法政大学通信教育部の学友の皆様方に、心より ○末筆ながら、本稿執筆にあたって御指導を賜わった安岡昭男先生、貴 には筆者が句点を入れた。旧字体もできるだけ新字体に直した。 など。また明治の新聞記事には句点がないので、明らかな文の切れ目 ○史料等から引用した文の中の括弧は、全て筆者による註・補足・省略 〔付記〕 (布)『万朝』一九一一一一年一月二四日「全国青年譜君に告ぐ」。 「日本国民の英雄」、○五年四月二六日「敵に勝つの途」など。 控訴棄却」)。『二六』は『東京二六新聞』と改称して発行を続ける が、この事件で受けたダメージは大きかった。 (胡)○五年六月二日「識和の先決問鼬」以後、講和問題を材料とし た政府攻撃を始める。 「労働を与えよ」他。『二六』同年六月一五日「倹約」他。 (別)『万朝』○四年四月二○日「面白からぬ一一風潮」、六月二八日 四日「国立廃兵院」。『二六』も戦争終了後、○五年一一月一一一一日~ (。)『万朝』○四年一二月一二日「傷病兵の治療地」、○五年六月一 ’二月二八日「廃兵救護問題」で傷病丘〈の厳しい実情を伝えてい る。 (田)『万朝』○五年五月三日「鳴呼護国神」。 日露戦争期の民間世論の形成について(井上)