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福澤諭吉と日本の保険業

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福澤諭吉と日本の保険業
展示企画
福澤諭吉と日本の保険業
『西洋旅案内』 慶應 3(1867)年刊
慶應義塾保険学会・慶應義塾図書館共催
慶應義塾福澤研究センター協力
会期:平成 27 年 9 月 28 日(月)~10 月 31 日(土)
会場:慶應義塾図書館 1 階展示室(慶應義塾大学三田キャンパス)
1
展示にあたって
日本の保険業は、福澤諭吉(1835‐1901)が『災難請合の事 イシュアランス』
として本格的に紹介したことにより、具現化されていきます。爾来、150 年にな
ろうとする歴史の中で、多くの先達たちの尽力によりその隆盛が築かれてきまし
た。その意味では、全ての日本の保険人は等しく福澤諭吉との縁を持っていると
言えます。
慶應義塾保険学会と慶應義塾図書館は、福澤研究センターの協力をいただいて、
『福澤諭吉と日本の保険業』と題した展示会を開催することにしました。福澤に
始まる日本保険業史を巨大な山脈に喩えれば、そのすそ野に連なる者として、今
一度それを仰ぎ見ながら振り返り、広く皆様にわが国における保険業の歴史の一
端をご紹介したいと存じます。本展示では、福澤諭吉と日本の保険業の関わりを、
5 つのテーマに分けて、保険業生成期の貴重な書籍や史料を通じて説明していま
す。ご一緒にこの福澤保険山脈を縦走していただければ幸いです。
本展示会を開催するに当たっては、慶應義塾をはじめとして、いろいろな企業・
団体から多大なるご協力をいただきました。改めて厚く御礼を申し上げます。
慶應義塾保険学会展示企画委員会
2
テーマ 1
『慶應義塾之目的』
福澤諭吉の本邦への保険紹介
書幅
明治 29(1896)年
1幅
慶應義塾図書館所蔵
明治 29(1896)年 11 月 1 日、芝紅葉館で行われた
慶應義塾旧友会(三田に移転する前に義塾に学んだ者
の同窓会)席上で、福澤諭吉が行った演説の一節。この
演説で福澤は、義塾が培ってきた一種特別な気風・気
品を維持継承して世の先導者となっていくべきことを
訴えた。そして、末尾において「慶應義塾は単に一所の
学塾として自から甘んずるを得ず。其の目的は我日本
国中に於ける気品の泉源智徳の模範たらんことを期し、
之を実際にしては居家処世立国の本旨を明にして之を
口に言ふのみにあらず、躬行実践以て全社会の先導者
たらんことを欲するものなり」と述べ、その部分を改
めて書き残したのがこの書である。 福澤はこの演説を「恰も遺言の如くにして之を諸君に
嘱託するものなり」と結んでおり、義塾出身者のあるべき姿を示した「気品の泉源、智徳の
模範」の語は、今なお慶應義塾のモットーのひとつとして尊重されている。
(
『未来をひらく
福澤諭吉展』2009 年より)
『西洋事情』
初編
福澤諭吉著
初版
慶應 2(1866)年刊
本書は初編、二編、外編から成る福澤
諭吉の代表的な著作。福澤が欧米視察を
通じて得た外国での見聞が記されてい
るほか、アメリカ、イギリス、ロシア、
フランス、
オランダなど西洋文明国の歴
史や経済社会、
政治制度についても紹介
されている。当時、西洋について断片的
な情報しか得ることができなかった日
本人に対して、福澤は、洋書から得た知
識をわかりやすい言葉で訳し本書で体
3
福澤研究センター所蔵
系的に紹介している。初編では、「火災請負」と「海上請負」について述べている一方で、
外編巻之二の中で、当時イギリスで隆盛を見せていた「相対扶助の法(フレンドリ・ソサイ
チ)
」を紹介し、
「人々の随意に会社を結び、平静より積み金を備えおきて、その社中に病人
または不幸にあう者あるときは、積み金を以てこれを扶助する法なり。」と説明している。
この記述は、近代的保険以前から存在していた友愛組合(共済制度)を紹介したものである。
『西洋旅案内』
福澤諭吉著
慶應 3(1867)年刊
福澤研究センター所蔵
欧米に旅行する人向けに書かれた旅行
の手引書。
福澤諭吉は慶應 3(1867)
年に、
幕府の軍艦受取委員の一行に随行して 2
度目の訪米を果たしたが、旅行中に上司
の命令を拒んだり不従順であったりした
というので、帰朝後に謹慎を命ぜられ、そ
の間に執筆したのがこの書である。福澤
はこの旅行ではじめて外国為替や保険な
どの実際を学び、帰国後に記した本書の
なかでそれらを紹介している。付録の中
で、保険のことを日本で最初に紹介した書物として有名である。当時は、まだ保険という文
言はなく、
「災難請合」の事として、生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請
合(海上保険)の 3 種の災難請合について説明している。
『民間經濟録』
二篇
福澤諭吉著 明治 13(1880)年刊
福澤諭吉が初学者用に著した古典派経済
学のテキスト。本文の各ページ上部には確認
用の小問が多く用意されていて、復習しやす
いように学習者の立場に立った工夫がなさ
れている。『民間經濟録』は、初篇と二篇か
らなっており、初篇は家計を中心に据えた身
近な家庭経済学であったのに対し、二篇は、
初篇を学習した読者を想定して、保険、銀行、
運輸交通、公共事業、国家財政など、より視
4
福澤研究センター所蔵
野の広い社会経済学が講じられている。二篇「第二章 保険ノ事」において、「西洋に行わ
るる保険とは、火災なり、水難なり凶作なり又は死亡なり、すべての人間の確かに期して免
れるべからざる所の災難を衆人に平均して、独り大に不幸を蒙ることを無らしめるものな
り。
」として、初めて保険という文言を用いて説明している。
『乳母車』
福澤研究センター所蔵
慶應 3(1867)年、福澤諭吉が2
度目に訪米した際に、ニューヨーク
で、長男と二男のために購入したも
の。この四輪式の乳母車は、1866 年
4 月に特許が取られたばかりの最新型
であった。福澤は、この乳母車を持
って帰るにあたって、アメリカで購
入した夥しい洋書とともに、外国保
険会社と海上保険契約を結んだとさ
れる。これが、日本人として最初の保険契約であった。なお、この乳母車をヒントに、慶
應義塾出身の内田勘左衛門が人力車に幌をつけるなどの改良を加えたといわれている。
(
『福澤諭吉事典』2010 年より)
『福澤諭吉ウェーランド経済書講述図』
複製 安田靫彦画
明治 43(1910)年
福澤研究センター所蔵
慶應 4(1868)年 5 月 15 日、旧幕臣の結成した彰義隊が、上野
寛永寺で新政府軍と衝突した日の慶應義塾の様子を描いた日本画
家・安田靫彦(1884‐1978)による作品。このとき、上野から 2
里(約 8 キロ)ほど離れた慶應義塾(芝新銭座・現東京都港区浜
松町)では、時間割どおりに土曜日朝 10 時の福澤諭吉によるウェ
ーランド経済書の講義が行われていた。市中は騒然とし、学問に
関心を向ける者などいない中、学問修業に休みはないと英学の灯
を絶やさなかった福澤の決意を象徴するエピソードとして今なお
義塾において尊重され、5 月 15 日はウェーランド講述記念日と
5
つらな
されている。なお、明治生命創業者である阿部泰蔵は、
「余もまたこの講演に 列 りし一人
にて、同日恰も雨天なりしは、今尚記憶するところなり」(『阿部泰蔵伝』より)と述べて
いる。画中、福澤から講義を受けている人物が、
(家紋から判断して)阿部泰蔵である。
『咸臨丸難航図』
複製 鈴藤勇次郎原画
昭和 13(1938)年
文部省刊
慶應義塾図書館所蔵
万延元(1860)年に日米修好通商
条約の批准書交換のためワシント
ンに向かったのが幕府の軍艦咸臨
丸である。冬の北太平洋の荒波に翻
弄されながらも日本人初の太平洋
横断を成し遂げた。咸臨丸に乗り込
んだのは、軍艦奉行木村喜毅(摂津
守)、艦長勝海舟ら 96 名で、木村
の従者のひとりが福澤諭吉である。
原画は咸臨丸乗組士官だった鈴藤勇次郎が帰国後に描き、木村喜毅に贈ったもの。本資料は
昭和 13(1938)年、小学校教育用に印刷された。原画は海軍館に寄贈されたが、戦後所在
不明となった。
テーマ 2
『海国図志』
福澤諭吉の時代の保険認識
魏源著 安政 3(1856)年序刊
慶應義塾図書館所蔵
中国清末の魏源が著した海外事情紹介をも兼ねた地理書。魏源は第
1次アヘン戦争(1840)のとき、捕虜になったイギリス兵の口述をも
とに「英吉利小記」をつくって、イギリス事情を紹介した。それに基づ
いて、翌年夏、欽差大臣林則徐の依頼により着手し編纂された。欧米の
地理書や歴代の史書・地理書に載る外国の記述を漢訳して、各地域の地
図を付している。
『海国図志』印度國付録の中には、
「船擔保」
(海上保
険)
「宅擔保」
(火災保険)
「命擔保」
(生命保険)の記述がみられる。
6
『理財雑録』
初篇 森下岩楠編
明治 13(1880)年 4 月刊
慶應義塾図書館所蔵
森下岩楠(1852‐1917)の編纂による著書。保険の理
論ならびに歴史を取り上げた最初の書物である。森下は、
嘉永 5(1852)年に和歌山藩に生まれ、明治 3(1870)年
に慶應義塾に入学し、明治 7(1874)年 9 月から 10 月ま
で三田演説会書記に就任している。義塾草創期の有力者
のひとりで、交詢社の創立や明治会堂の建設など、福澤諭
吉の行った事業には準備段階から参画している。明治 11
(1878)年に、岩崎弥太郎と共に、三菱商業学校の創設に
関与し、校長も務めた。その他の著作として、
『民間簿記
学(上・下)』(1884)、
『商用文例』
(1893)などがある。
テーマ 3
福澤諭吉と保険人脈
『福澤先生と生命保険―阿部章蔵(水上瀧太郎)原稿』
大正 13(1924)年 8 月
慶應義塾図書館所蔵
慶應義塾商業学校校友会報に掲載されたもの
で、阿部章蔵(小説家水上瀧太郎)の自筆原稿で
ある。時代背景を絡めた生命保険の必要性を説き
ながら、保険会社設立経緯と福澤諭吉との関わり
や、支援のための別掲「田中信吾宛書状」につい
ても言及している。阿部章蔵は、阿部泰蔵の四男
として生まれ「小説家水上瀧太郎」としても高名
であるが、明治生命保険会社の専務取締役として
活躍した。営業部門担当として業容拡大に邁進し
たが、昭和 15(1940)年 3 月本店(現在の重要
文化財明治生命館)7 階の講堂にて講演中に急逝
した。
7
『阿部文庫』
大正 5(1916)年寄付
慶應義塾図書館所蔵
明治生命保険会社の創設者である阿部
泰蔵(1849‐1924)が慶應義塾図書館に
寄付した基金をもとに、当時の保険関係
の書籍を収集したコレクションで、和書
174 点(426 冊)
、洋書 356 点(393 冊)
が所蔵されている。その経緯について、
『三田評論 235 号』
(1917)には、次の
ように記述されている。
「昨年 12 月 2 日
阿部泰蔵氏の我保険界に於ける功労に対
し盛大なる表彰式ありしがその際醵金
ママ
凡そ一万二千円より紀 念の胸像其の他
諸経費を除きたる残金七千二百六十五
円三十五銭を同氏に贈呈したるに阿部
氏は今回其全部を義塾図書館に寄付し
之より生ずる利子を以て年々保険に関
する図書を購入せしめ広く斯業者の研
究に資することとなせり阿部氏が特に
義塾図書館を指定したるは日本に於て
始めて保険会社の事を研究したるは義塾同社小幡篤次郎、小泉信吉、荘田平五郎等諸氏にし
て氏は専ら其実行の任に當りたるものなるを以て結局義塾は我邦保険事業の誕生地なるが
為なりと云ふ同氏の好意を記念し且保険従事者並に研究者をして随意に之を閲覧せしむる
方針なり」
。
(
『三田評論 235 号』
(大正 6(1917)年 2 月)
「阿部泰蔵氏指定寄付―義塾図書館へ保険文
庫資金として―」より)
8
テーマ 4
『丸屋商社之記』
福澤諭吉と生命保険業
丸善株式会社所蔵
福澤諭吉は、保険を知識として紹介するばかりで
なく、その事業化への試みにも直接関与している。そ
の代表例が丸屋商社の「死亡請合規則」である。
丸屋商社は、丸善株式会社の前身会社で、当初も洋
書・洋品の輸入販売を取り扱う会社として、福澤門下
生の早矢仕有的によって明治 2(1869)年 1 月に横
浜に設立された。
福澤の創案により組織を株式会社に改めるととも
に、明治 7 年、社員を対象とした弔慰金制度「死亡請合規則」を定めて『丸屋商社之記』に
追加している。具体的には、会社が福澤の拠出も加えて 500 円を出資し、運用利益を積み
立てて社員の死亡のさいに 50 円を支払うというものである。まだ近代的な保険ではなく、
金額も少額であったが、社員は 3 年以上勤務すれば退社後でも支給され、この制度は、早矢
仕有的自らも発起人となった明治生命が開業するまで続いた。
『福澤諭吉書簡-田中信吾宛て』
明治 15(1882)年
慶應義塾図書館所蔵
福澤諭吉が明治生命頭取阿部泰蔵に与えた金沢在住の交詢社社員田中信吾宛ての紹介状。
よく
この手紙の中で、福澤は、創業間もない明治生命が「百事都合能行はれ」ていることを伝え
て、地方巡回に出かける阿部泰蔵について、
「御地出張の節万端御指図を煩わし度」と現地
での世話を福澤自ら丁重に依頼している。
9
『明治生命第 1 号生命保険証券』
明治 14(1881)年
明治安田生命保険相互会社所蔵
明治 14(1881)年の明治生命保険証書で証
券番号第1号である。契約者および被保険者は、
尾張藩生まれの科学者、発明家である宇都宮三
郎で、受取人は同妻貞とある。印紙が貼られ、
保険金 2,000 円、年払い保険料一年分の領収済
の記載もある。
宇都宮は科学者であるとともに、熱心な生命保険主唱者でもあった。明治生命創立にも参
加し、初代頭取(社長)として大学南校の同僚であった阿部泰蔵を強く推薦したのも宇都宮
である。福澤諭吉とも「無二の良友」で、福澤が病後に断髪した際に、鋏をとったといわれ
ている。
また、この契約締結後に大病をしたときには、設立間もない会社に迷惑をかけたくないと
解約を申し出た。頭取の阿部から相談を受けた福澤が、宇都宮に黙って保険料を建て替え継
続させたとの逸話が残っている。幸いにもこのときの病気は全快し、明治 35 年老齢による
死去の際に、無事保険金 2,000 円が遺族に支払われている。
『千代田生命設立広告』
明治 37(1904)年
千代田生命保険相互会社が創立された明治 37
(1904)年に、
『慶應義塾學報(現在の三田評論)
』
77 号に掲載された広告。千代田生命は、第一生命
(1902 年創立)に続いて、日本で2番目に誕生した
相互会社形態の生命保険会社で、この初代社長が門野
幾之進である。この広告の中で、
「保険契約者即ち會
社なり」
「會社の利益は保険契約者の物なり」
「會社は
保険契約者の共有なり」として、当時の新しい会社形
態であった相互会社の経営理念を明確に打ち出した文
言が示されており、大変興味深い。
10
福澤研究センター所蔵
テーマ 5
福澤諭吉と損害保険業
『海上保険会社創立願書』
明治 11(1878)年 9 月 7 日
東京海上日動火災保険株式会社所蔵
明治 11(1878)年 9 月 7 日に東京府知事楠本正隆に提出
されたわが国初の保険会社である東京海上保険会社の創立
願書。創立願書には出資した華族が名を連ねており、東京
-横浜間の鉄道事業払下げのために募った資金を海上保険
会社設立に振り替える旨が記載されている。その後、明治
11 年 12 月 12 日付けをもって東京府知事から創立許可を
受けた。
設立の発起人は渋澤栄一であり、渋澤は華族資本の動員
により東京-青森間をつなぐ鉄道会社の設立、続いて東京
-横浜間の鉄道事業払下げを企図するが、いずれも相次い
で挫折し、この集められた約 60 万円の華族資本を鉄道に代わる国家有用の業に投資するた
めに海上保険会社が考案されたものである。海上保険会社創立にあたって、渋澤の推薦によ
り益田克徳が海上保険に関する詳細の調査を行った。益田克徳は東京海上保険会社の創立
に伴い支配人に就任した。
『中外物価新報』
明治 12(1879)年 8 月 6 日
東京海上日動火災保険株式会社所蔵
明治 12(1879)年 8 月 1 日に東京海上保険会社が開業し
たことを報じる『中外物価新報(現日本経済新聞)
』の記事。
資本金は 60 万円、本社は東京日本橋区南茅場町 23 番地、
横浜をはじめ各地に代理店を置くことを伝えており、事業
目的や保険の機能等について詳細に報じている。
11
主な展示品一覧
テーマ1
福澤諭吉の本邦への保険紹介
西洋事情 西洋旅案内 民間經濟録二篇
乳母車 慶應義塾之目的 ロンドンでの福澤
先生像 咸臨丸難航図 福澤諭吉ウェーランド経済書講述図
テーマ2
福澤諭吉の時代の保険認識
海国図志 理財雑録 福澤諭吉がアメリカから購入してきた書籍
テーマ3
福澤諭吉と保険人脈
小泉信吉肖像 小幡篤次郎肖像 福澤諭吉と門下生たち 物集女清久肖像 中村道太肖
像 阿部章蔵肖像 福澤先生と生命保険―阿部章蔵(水上瀧太郎)原稿 阿部文庫
福澤諭吉による村瀬春雄の紹介状―田中不二麿駐仏大使宛て
テーマ4 福澤諭吉と生命保険業
安田善次郎肖像
共済五百名社々員之証 若山儀一肖像
仕有的肖像 丸屋商社之記
宇都宮三郎肖像
阿部泰蔵肖像 阿部泰蔵傳
明治生命第1号生命保険証券
福澤諭吉の医員報状
日東保生社の開業広告
福澤諭吉書簡-田中信吾宛て
尾崎行雄肖像
明治生命 保険金支払第1号控え
早矢
尾崎行雄保険申込書
門野幾之進肖像
門野幾之進
「独立自尊」 千代田生命設立広告
テーマ5
福澤諭吉と損害保険業
荘田平五郎肖像 益田克徳肖像 中外物価新報(明治 12 年) 大阪名所広告(明治 37
年) 明治火災保険株式会社五十年史
明治火災チラシ
海上保険会社創立願書及び全
文(明治 11 年)
展示企画
福澤諭吉と日本の保険業
発行日
平成 27 年 9 月 24 日
慶應義塾保険学会
編
集
展示企画委員会
代
表
堀田一吉
〒108-8345 東京都港区三田 2-15-45 慶應義塾大学
TEL:03-5427-1234/FAX:03-5427-1578
http://www.keio-hoken.jp/
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