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Human Rights とは何か? ~本質は「人間としての正しいこと」~

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Human Rights とは何か? ~本質は「人間としての正しいこと」~
H22.3.3. 第 31 回米子市民自治基本条例検討委員会 講演資料
Human Rights とは何か?
~本質は「人間としての正しいこと」~
松本城洲夫(2007.3)
§1.はじめに - 共通理解が生まれていない「人権」
今日、日本の社会において、
「人権」についての共通理解は果たして生まれているのでしょ
うか。なかには「人権=差別」と差別を読み換えたものとして人権を考えている人もいるよ
うです。また、そこまで極端な誤解でなくても、人権を事実上差別と結び付けてとらえてい
る人は結構多いのではないでしょうか。
たとえば、数市の「人権意識調査」に関わった際、
「人権」についてのイメージを「自由、
平等、差別、尊厳、友愛、格差、共生、暴力、自立、公正」などランダムに並べられた語群
から選ぶという設問がありましたが、「平等」と「差別」を選択する人がやはり多いのです。
私が文化交流に取り組んでいるイタリアの友人たちに同様の質問をしたところ、ほとんど
の人が「自由」と「尊厳」
、または「自立(独立)」と「個人」
(この選択肢は設問にはありま
せん)などと答え、
「差別」を選んだ人はいませんでした。そして、これらの言葉を選んだ理
由を尋ねると、
「
『自由、平等、友愛、自立、尊厳、共生、公正、個人』などは人権の中身で
あり、
『差別、格差、暴力』などは、人権を否定する言葉だ」という答えが返ってきました。
たしかに「差別の問題」は、人権に深く関わった問題ですが、
「人権=差別」ではありませ
ん。1965 年(昭和 40 年)に出された「同和対策審議会答申」では、
「近代社会の原理である
市民的権利と自由が侵害されたり、未保障なままで放置されていることが差別である」と差
別について定義されています。
これは全ての差別の問題にも適用できる普遍的な定義であり、
ここで表現されている人権は、
「近代社会の原理である市民的権利と自由」です。
このほか、人権については、世界人権宣言などの日本語への翻案をきっかけとして、国内
の人権関連法令などにも様々な定義づけがなされています。例えば、2002 年(平成 14 年)3
月に策定された国の「人権教育・啓発に関する基本計画」においては、
「人権とは、人間の尊
厳に基づいて各人が持っている固有の権利であり、社会を構成するすべての人々が個人とし
ての生存と自由を確保し、社会において幸福な生活を営むために欠かすことのできない権利
である。
」
(第 3 章-人権教育・啓発の基本的在り方 1.人権尊重の理念)と述べられています。
これらの文章を関連づけて考えると、
「社会において幸福な生活を営む」ための「権利と自
由」の実現を阻むことが差別であると言えるでしょう。
また、このような定義づけを読むと、
「人権」が複合的でかなり幅の広い概念であることが
分かります。そして、この「人権」を構成している「人間の尊厳」「固有の権利」
「個人の生
存と自由」
「幸福な生活」などといった個々の概念がもともと日本の社会では生れ得なかった
外来語の翻案であり、重要なことは、これらの訳語が原意を十分に踏まえつつ、リアリティ
ーを持った言葉として私たちの日常生活に定着しているかどうかなのです。
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H22.3.3. 第 31 回米子市民自治基本条例検討委員会 講演資料
§2.人権概念の原意と漢字の訳語 - 翻案家たちの苦闘
人権という言葉は、Human Rights の翻案である「人間の権利」を約したものですが、right
を「権利」と訳したことから、本来含意されていた「正しいこと」から「利益」に比重が置
かれた概念へと変化したことは否めません。明治時代初期においては、right に対して「正
しいことが通る」という意味の「通義」
「達義」「権義」
「権理」などの訳語が使われており、
1886 年(明治 19 年)ごろから「権利」という造語が一般化しました。
「権利」という造語の
「権」は power の意味で、
「利」は「利益」を表していますから、どうしても「得をする」と
いうニュアンスが付着しています。このように、
「権利」という言葉からは「正しい」という
本来の意味が滑り落ちてしまい、造語としての漢字の意味がいわば一人歩きするようになっ
てしまったのです。もし、
「権利」のかわりに「権能の理(ことわり)
」という意味の「権理」
が right の訳語として定着していたら、私たちの人権に対する意識は今とは違ったものにな
っていたのではないでしょうか。
近代ヨーロッパの抽象的な概念の翻案に最も大きな役割を果たしたのは福沢諭吉ですが、
当時の翻案家たちは、当然自分の文化的規範にヨーロッパの概念を引き寄せて考えました。
彼らのほとんどは武士階級で、藩校で儒教を学び、一方庶民は寺子屋で仏教を学んでいまし
た。儒教の中心的徳目として「亓常の徳-仁、義、礼、智、信」があり、right はこの中の
「義」と必然的に結び付いたのです。
(仏教では「慈悲心」
「知恵による解放」
「自利利他」が
徳目)
ところが、封建社会で暮らす当時の日本人にとってまったく意味不明の言葉が、liberty
(=自由)でした。自由という概念は、すでに江戸時代後期にオランダ語の「vrijheid」
(フ
レイヘイド)として輸入されていますが、蘭学者たちは翻訳に窮し、最後には「わがまま」
と訳しました。後に liberty の訳語として「自由」という翻案を普及させた福沢諭吉も、訳
語としての「自由」を選択することに慎重でした。なぜなら、江戸時代において、
「自由」は
「わがまま、身勝手」の意味で使われていたからであり、残念ながら、今日においても日本
語の「自由」は同じ用法で使われ続けています。例えば、
「私の勝手」と「私の自由」
、
「お金
に不自由する」と「好き勝手に使うお金がない」は同じ意味です。ですから、
「自由」という
のは「いつでもどこでも、自分の好きなことができること」と考えている人が少なくありま
せん。
近代市民社会で Human Rights の中心概念として誕生した自由は、このようないわば「欲求・
欲望の自由」ではなく、封建的身分から解放されて「自立(独立)
」した「個人」が獲得した
「思想・良心」
「信条・信教」
「言論・出版などコミュニケーション」
「学問」などの規範的自
由なのです。
福沢諭吉をはじめ明治時代の思想家たちは、この「自由」の原意を出来るだけ正確に伝え
ようと悪戦苦闘しました。たとえば、彼はその著書『西洋事情』の中でつぎのように述べて
い
います。
「リベルチとは自由と云う義にて、漢人の訳に自主、自専、自得、自若、自主宰、任
しょうよう
いま
意、寛容、従 容 、等の字を用いたれども、未だ原語の意義を尽すに足らず。 自由とは、一
な
い
身の好むまゝに事を為して窮屈なる思なきを云う。古人の語に、一身を自由にして自から守
そな
るは、万人に具わりたる天性にて、人情に近ければ、家財富貴を保つよりも重きことなりと。
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H22.3.3. 第 31 回米子市民自治基本条例検討委員会 講演資料
(中略)又好悪の出来ると云うことなり。危き事をも犯して為さねばならぬ、心に思わぬ事を
ま
も枉げて行わねばならぬなどゝ、心苦しきことのなき趣旨なり。」
そして、諭吉は、この liberty に「自由通義(自由という正しいことが通る)
」「自主自
立」
「自由自在」などの造語を翻案として使っています。これは、liberty の本質である領主
などの支配・拘束からの「解放」という含意を伝えたかったからであり、これらの訳語が当
てられたことは妥当なことでした。また、liberty と密接に結びついている「自立」
「独立」
を意味する英語の independence が、
「依存する」という意味の dependence を否定(in)する
言葉として誕生したことからも理解できるものです。これに対して、同じ自由という訳語が
あてられた freedom は、ビートルズの「Free as a Bird」の歌のように、
「解放・独立」後の
「なにものにもとらわれない自由な状態」を意味しています。ですから、諭吉は、
「自由で束
縛のない状態」という両義を持たせた「自由不羈」(「羈」は馬に鞍を載せる意)という表現も
使いました。
このような人間としての規範的自由を獲得した「個人」
(=individual)の訳語として諭吉
などは「独一個人」と訳しました。これは、
「自分は独立した一個の人であり、私以外の何者
でもない」という自己存在を自覚した言葉であり、後に諭吉は、近代人のあるべき人格の表
現として「独立自尊」という複合的な意味を込めた造語を作りました。
この「独立自尊」の「尊」は dignity(=尊厳)であり、
「自分自身の価値を尊ぶ」という
意味です。
「尊厳」という言葉は dignity の訳語として定着しましたが、
「尊く、厳かなこと」
として、
「神仏の尊厳」などの用法とともに普遍化し、これにヨーロッパの人権概念である
Individual Human Dignity という「個人の尊厳」が重なったと考えられます。そして、dignity
には「価値のあること」という翻案もあり、これは、self-respect=「自分の価値を振り返
って認めること」によって、
「誰からも侵されない」という不可侵の価値を自覚することでも
あるのです。
その後、これらの概念を日本の文化的土壌に根付かせようという努力は、後述するように
明治時代の近代文学者たちに受け継がれ、
「個人の確立」や「近代的自我の獲得」などが多く
の文学作品のテーマになったわけです。
§3.人権のスタートは「自由」- 身分から解放された「個人」
このような近代社会の原理としての人権概念は、18世紀にホッブスやロック、ルソーな
どの啓蒙思想として誕生した「社会契約説」を根拠として、1776 年のアメリカ独立宣言、1789
年のフランス市民革命を経て、生成・発展してきました。
アメリカ独立宣言には「すべての人間は平等につくられている。造物主によって譲りわた
すことのできない生命、自由、幸福の追及の権利を付与されている。
」また、フランス人権宣
言では、
「人の譲りわたすことのできない自然的権利を宣言」し、第1条において「人は、自
由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。」
、第2条において「…これら
の諸権利は、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。」と記されています。これは、人
権についての原初的・基礎的な定義であり、両宣言において共通している権利は自由です。
領主と領民という封建制度の身分的枠組みの中で、封建領主は「考える・決定する」特権
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を持ち、ほとんどの人々は「命令され・実行する」存在でした。その後近代社会の登場とと
もに、自らの存在の原理を「考え・決め・実行する自由」に見出だした封建制度の身分的枠
組みから解放された人一般としての「無条件の個人」が、その人権の主体として自立したの
です。
(参考図「ヒューマン・ライツのスタートは自由」参照)
このように人権は、歴史的には近代社会人の基本的属性である自由を出発点として発展し
てきたのです。ここにおいて、理念上の人権として「基本的人権」という概念が誕生しまし
たが、その後「人は市民となってはじめて人となる」
(ルソー)と言われたように、「精神的
自由」
「経済的自由」
「身体的自由」などの実定法上の具体的な「市民的自由」が法律に明記
されて保障されるようになりました。これらは、国家が「個人の自由意思」に介入すること
を排除する「自由権的市民権」
(市民的自由)として発展してきました。
しかし、近代社会の発展、とりわけ資本主義の発展によって、貧富の差の拡大、恐慌、失
業、労働問題などの社会問題が発生し、社会的、経済的弱者が「人間に値する生活」を営む
ことを国家に求める「生存権」「教育を受ける権利」「勤労の権利」など「社会権的市民権」
(市民的権利)が誕生しました。
ですから、一般的には、市民的自由は Right to be Alone、つまり「放っておいてもらう
権利」で、市民的権利は「国家による幸せの実現」と考えられています。そして、前者には
お金がかかりませんが、後者には沢山のお金がかかるわけです。日本国憲法では、これらの
市民的権利と市民的自由について「第3章・国民の権利および義務」で具体的に保障してい
ます。そして、お金の裏打ちが必要な市民的権利については、これを実現するために各種の
法体系が作られています。たとえば、教育権(第 26 条)保障のために教育関係法、生存権(第
25 条)保障のために福祉関係法、勤労権(第 27 条)保障のために労働関係法などを制定し、
国・自治体の責務を明記しています。そして、これらの多面的な「市民的権利と市民的自由」
を実現するために、
「教育」
「福祉」
「労働」
「移動」
「健康」
「医療」
「防災」
「居住」
「裁判」な
ど、人間のさまざまな営みに関わる「幸せ」の実現のために制度や行政システムなどを整備
し、発展させてきたのです。
(参考図「人権行政概念図」参照)
このような考え方の根本原理として、憲法では第3章の最初に「個人の尊厳」
(第 13 条)
の実現をかかげ、基本的人権としての「生命、自由、幸福の追求」を最大限保障し、これを
実現するために「民主主義の確立(国民主権)」
「基本的人権の尊重」
「恒久平和の実現」を原
則としています。
そして一方で、これらの権利が「無条件の個人」に保障されなければならないところから、
1964 年の憲法公布時点で明らかに日本社会に存在した「人種(race)
、信条(creed)、性別
(sex)
、社会的身分(social status)
、門地(family origin)」などを理由とした「政治的・
経済的・社会的関係における差別」を憲法第 14 条(法の下の平等)で禁止しています。
しかし、今日においてもなお、これらの事由を根拠としたさまざまな差別や人権侵害が続
いており、私たちの生活文化規範が明治から続く「前近代的要素」を克服できていないこと
を示しています。
§4.日本の近代化と人権 - 世間の文化と「個人の自立」
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近代社会における人権の生成と発展について述べてきましたが、このような観点をふまえ
て日本の社会に存在する様々な人権侵害や差別問題を解決していくために、何が大切かを次
に考えてみたいと思います。
2002(平成 14)年3月に策定された「国の人権教育・啓発に関する基本計画」には、人権
問題が生じている背景として、
「人権尊重の理念についての正しい理解やこれを実践する態度
が未だ国民の中に十分に定着していない」ことを挙げられています。そして、このために、
「自分の権利を主張して他人の権利に配慮しない」
「自らの有する権利を十分に理解しておら
ず、正当な権利を主張できない」
「物事を合理的に判断して行動する心構えや習慣が身に付い
ておらず、差別意識や偏見にとらわれた言動をする」と言及しています。さらに、差別を温
存している背景として、
「世間体や他人の思惑を過度に気にする一般的な風潮や我が国社会に
おける根強い横並び意識の存在等が、安易な事なかれ主義に流れたり、人々の目を真の問題
点から背けさせる要因となっており、そのことにより、各種差別の解消が妨げられている側
面がある。
」
(第4章 人権教育・啓発の推進方策 1.人権一般の普遍的が視点の取組み)
と日本独特の文化的風土の存在を指摘しています。
この分析に即して、人権についての今日的な課題は何かを考えてみたいと思います。最初
に「人権尊重の理念」についてですが、これは近代ヨーロッパで生成・発展してきたもので
すから、まず、その正確な歴史的認識と前提となる意味の理解が不可欠です。§1~§3で
述べたように、人権概念は、自由を土台として発展してきました。そして、様々な自由権的
市民権が獲得され、その後、社会権的市民権が誕生し、これらは実定法上の権利として明記
され、近代自然法の思想に基づく人が生まれながらにして持っている理念上の人権としての
「基本的人権」と分けて考えられています。
しかし、私たちは今日でも十分にこれらの権利の主体としての自覚があるでしょうか。ま
ず、一般的な自由の概念についてです。近代市民社会の自由は、封建的身分から解放された
人一般としての個人がその主体になりました。そして、様々な市民的自由を獲得したことは、
「考え、決定し、実行する」という人格を持った個人が自分自身の主体性によって、自分の
人生を選択して生きることを獲得したわけです。ここから人は、
「誰からのコントロールも受
けない自分」
「かけがえのない自己」を確立していきます。これが「近代的自我の獲得」であ
り、
「個人の確立」という社会の近代化に不可欠なテーマとなり、
「個人の尊厳」
(個人の尊重)
の自覚につながっていくのです。
残念ながら、この自覚は明治からの近代化の歴史の中で、今日においても私たちにとって
「人権」に関わる重大なテーマであり続けています。なぜなら、
「出る杭は打たれる」
「長い
ものには巻かれよ」
「太いものには呑まれよ」といった生活規範の中で、
「世間的序列意識」
がカテゴリー化されて、日本人独特の強い生活意識を形成しています。これは、
「国の人権教
育・啓発に関する基本計画」で「人々の中にみられる同質性・均一性を重視しがちな性向や
非合理的な因習的意識の存在」と説明されていることとも関連しています。
ところで、明治時代の思想家たちは、society の訳語として「世間」を当てず、
「社会」と
いう翻案を定着させましたが、これは彼等に「社会」が「制約のない自由な個人の集合体」
という認識があり、身分や権威や序列で成り立つ世間との差異を感じ取っていたからです。
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(諭吉は、
「人間交際」
「人倫交際」と訳しています)
身分や権威や序列に屈伏しない「個人の確立」というテーマは、島崎藤村や夏目漱石など
の文学者や多くの明治の人々の心をとらえ、様々な文学作品などの所産となりました。しか
し、この「個人の確立」は今日の私たちにつながる課題であり続けており、これが遂げられ
ていないことによって達成されない実際生活上の人権課題は実にたくさん存在します。まず、
世間的序列を大事にする態度や心情からは、絶えず「上級の権威」へのへりくだりや迎合の
態度が生みだされ、偏見や差別的意識にさえ結び付いていきます。憲法第 14 条に掲げられて
いる人種(民族)
、信条(信教)
、性別、社会的身分(社会的地位)、門地(家柄)などによる
差別が今日においても未だに解消されていない文化的要因の一つがここに存在しています。
さらに、これは「権利の主体として、正当な権利主張ができない」ということにも結び付
いていきます。私たち一人一人に保障された様々な市民的権利と市民的自由を認識したなら
ば、憲法第 13 条が保障している「生命、自由、幸福の追求」について、はばかることなくこ
れを主張できるわけですが、十分にこれらの権利を理解したり、認識していないために「黙
ってしまう」ことも見受けられるのです。
§5.自由の境界と責任 - パブリック・モラルと社会
次に「自らの権利を主張して他人の権利に配慮しない」ことについて、考えたいと思いま
す。
「自由とは、他人を害しない全てのことをなしうることにある」(フランス人権宣言・第
4条)と定義されているように、自由は「責任」のもとに発揮されなければならないものな
のです。そして、自由に対する「責任」
(=responsibility)という言葉が使われるようにな
るのは、18 世紀の近代市民社会が登場して後のことなのです。ここから「公衆道徳」という
意味の Public Morals が生まれるわけです。ただ、日本においては、近代社会の誕生を契機
として生まれた「みんなの」
「万人の」
「人々」という意味の public の概念を「お上の」とい
う意味の「公の」という訳語を作ったことで、身分から解放された「自立した個人」が責任
を持って自由を発揮するという考えは、
今日においても社会に定着しているとは言えません。
自由な個人が権利の主体として自己を確立し、幸福を追求していくことは、人間としての
当然の権利です。しかし、前述したように、これは「他人を害しない」という責任の上に成
り立っています。お互い個人としての尊厳を持った存在として認め合うことによって、自由
をコントロールするわけで、たとえば、パブリックな空間を自分のものとして扱わないとい
う「モラル」に結び付いていきます。public という概念には「開かれた」という含意があり、
近代に輸入された公衆浴場(=public bath)、公衆便所(=public lavatory)
、公衆酒場(パ
ブ=public bar)などの場所は、誰の許可もいらず、自由に出入りができる空間です。この
ほか、電車の中、駅、レストラン、道路なども同じくパブリックな場所です。これらの場所
は「開かれたみんなの空間」であり、私的な(=private)な空間ではありません。ですから、
「電車やレストランの中で走り回らない。化粧をしない。通行の妨げをしない。道に看板や
商品を並べない。
」などのパブリック・モラルは、「みんなのもの」を私物化しないという自由
のコントロールによって達成されるべきものなのです。
さらにそれは、
「他人の命を奪わない」「他人を支配しない」
「他人を抑圧しない」
「他人を
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差別しない」
「他人のものを盗まない」といった倫理観にも結び付き、自分にとっても、他人
にとっても幸せを達成していくために共通した倫理として発展してきたのです。
じ
ぎ
前掲書の「西洋事情」の中で福沢諭吉はこのことについて、
「さればこの自由に字義は、初
わがまま ほうとう
あ
篇巻之一第七葉の割註にも云える如く、決して我儘放蕩の趣旨に非らず。他を害して私を利
たく ま し う
するの義にも非らず。唯心身の働を逞して、人々互に相妨げず、似て一身の幸福を致すを云
やや
つまびらか
うなり。自由と我儘とは動もすればその義を誤り易し。学者宜しくこれを 審 にすべし。」と
述べています。
ですから、このことについて憲法では、第 13 条で「個人の尊重」と「生命・自由・幸福追
求の権利」は、
「Public Welfare(公共の福祉=万人の幸せ)に反しない限り、最大の尊重を
する」という条件が付いているのです。
このような歴史的な経過を見れば、人間としての幸せを実現していくために「liberty 」
(=自由)という「right」
(=正しいこと)を土台として、
「人権」概念は様々な価値を内包
しながら発展してきたのです。そして、「人権」とは「人としての正しいこと」、すなわち、
「権利の主体として、かけがえのない自由な個人として自己を自立させ、お互いの人間の尊
厳を社会において達成していく」ための原理であり、倫理であると言えるでしょう。
そして、近代社会人である私たちが他の人々と平等な存在として「友愛」を結び、社会を
形成しながら協力しあって幸せに生きていくために、
「個人の自由・自立」
「人間の尊厳」
「市
民的権利・自由」
「責任とパブリック・モラル」などの概念が発展してきたのであり、それら
が有機的につながった総合的な概念が人権なのです。
このような人権の多面的な価値のひとつひとつを、私たちは実生活の中でリアリティーを
持って理解し、認識を深めていく必要があります。言葉を使う前提となる理解を欠いたまま
言葉を使い続けていては、共通の理解や認識が生まれるはずがありません。Human Right を
全ての人が幸せになるための近代社会の原理・倫理として、文字通り「人としての正しいこ
と」という意味でとらえなおすことが今日求められています。
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