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法然上人鑓仰会 - 法然上人鑽仰会

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法然上人鑓仰会 - 法然上人鑽仰会
n- ド 日発汁》
md勺 A
組和十年五月廿日鰐 三 相自陣便物
毎J
唱
ニ厳
吸正規
昭島開ニ和四年四月二十八日遺品開省内特別紙三
承五留
日発行
筒和三十六年七月二十五日印刷謝和三十六年べ un-
第二十七巻
第七号
e a
法然上人鑓仰会
号
月
人
最新刊
浄土トラクト
村 瀬秀 雄 著
B
価
6
十五 円
十六頁
版
定
十円
送 料
二十部以上 五 分引
五十部以上 }割引
川館以上 一 ・滞納 引
ラ
クト
lこ
L、
展
、
御法 語の莱り
ト
本誌「扉の御法語 」とし て毎月執筆中のなかから著
者が七 篇を選ん で解説を付して新らたに浄土
の一編として刊行
目次
てよ人のご臼常《われ聾教を見ざる目なし)
、
決定の信《我はぬ相子もきね法然防仰也》
、
、
し為
御
利
、
二 浄土宗の意義〈われ品げ土宗をたつる心は)
三 道を求むハかくの如くして昨日もいたづらに暮れね)
四
、
一
の
、
、
会
正の
。
仰
ー
州光と は 》
五 弥陀名号の功徳内部破
六 信仰のすがたハつ みは 十悪五逆のものも〉
v石を
七 念仏を勧めるハ不経大土の品位木瓦
八 あとがき
人鎖仰
を
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番、../い。
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東ヒめの全土
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京おま会でを同な
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東京都千代 国区飯 田町 ニ ノ八
申込先法然上
振替東京八二一八七番
下申知仰ーの員費な
さ込令運入金 にはた
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4砂
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用おお信おこ金金ど
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都
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替にひ多様月
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いはの動ではは年で
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影
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八月号
わが身のよきままには
、
ゆゆし
八月号
中
正
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表紙・:・鎌倉大仏
人生の 真実
身を捨てる信念
山
努
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〈一一)
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20
松太郎
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(一六〉
海
.
.
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・
・・・・・・
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出・
品:(言〉
俊総
排匡
中国祉関談心不可得
大
水
三分家
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幹
表紙の写真 ji--:
吉
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・・・・・・:・:・
座談会寺院と布教
水子と念仏
近代高僧伝梶筆順
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::::・::
賞筒 王子のゆめ
真冬の幽霊
実路割肢の前後・ji--ji-
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述くの方から :::28
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口出の御法鰭::
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常:・23
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思者の杖
.
〆町、
き念仏者にてある物かな.たれだ
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会員だより::::
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危ない愛欲;::
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正
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中
れにもすぐれたりと思う也。この
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良
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反省と勤労と煩悩 22)
・
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カ
尾
浄
やすらけき旅路
き
事をばよくよく意えてつつしむべ
き也。
法然上 人御法語
~型
あ 磁典
と
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}
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土
飴雪t を涼<ï託手
中失アジア ・ コータンで
発見の絵遜断片 (l氏本)
、
、
女馬子の鈴の音にゆられなが
富士山に登ったのは三十一年前のことで当時はパス等
四 という騒々しいものはなく
二合目か三合固まで行った。またその頃は御師の宿が
、
、
父も引統いて亡くなった。それまでは会社に動
実
のかわからない
、
秀
それ以来私は官立とか官僚という言葉が大嫌いになった。
、
、
今から思えば 不良になったわけで 親の反対を押しきっ
横光利一は
、
いたものである。
、
、
いつも学
しかし横光は
私は文学などは一番楽だろうと思ってやったわけ で
れでどうしようというわけでなかった。
ういっていた。
、
、
こ
こ
ている。 いつ売れるか知れない原稿を必死になって性いて
って帰ってくる。 いつ でも繍光の部屋にだけは 灯火 がつい
三時になると
、
制執より二つ年上で やはり文学を一生やろ
て早稲図の文科に入ってしまった。そこへ来て横光利一を
、
我催なためにボーナスは誰よりも安いし
、
一番楽だろうと思ったけれ
、
うと決心していた。下宿は私と一緒であったが
山 を亡くし
w 多く如何にも行者の宿らしく
、
義
知った。
ら
山
向 めていたものの
、
この世に生きてゆく稜難しいこ
一年生の
酔
暗い感じであった。ところ
中
校には行かない。夜二時
、
、
自分の好きな道をやろうと思いたち 初めて文学
、
自分の好きなことで
、
、
私はなんで停学になる
は
酒
、
員
一 がその時分から速が悪くなって 子供を三人亡くし 家内
向
の
一 月給はよらなかった。一二十にして芯を立つという言が
葉あ
日 るので
ど
自分の好きなことをやれば
四 に自分の人生をかけることとなった。
由
日
、
私
ど
も
- 2 ー
生
四 とはない。私は中学時代に級長を勤めていたが
日 ときに停学に処せられた。その時
•
人
、
世間から悪口いわれているが
、
それだけやり甲斐
「私は文学をやるために親兄弟に反対された。また三文
文士と
、
必の毛一筋も地には落ちない」と
一いわれ
の耶は自分の思う通りになるものとて一つもない。 「神の 由
意志なくては
、
、
、
の欲望とか理想とか なんかやろうとする時には
、
ただで 一
は手に入らない。私もすでに四十に近い子供を持っている一
、
通りである。若い時には 全世界が自分の思うようになる 一
人間 の感情に入ること
稔も味方になってくれない。稔も背景
、
、
と考え それが若者の特権でもあるけれど さて百円の金 一
、:
になってくれない。けれども我々は感情を支配する王者に
5::
村骨AAHeωL・刀
を借りようとしても符易に俗してはくれない。まして自分 一
、
なろう」
。
文学というものは
ができる
が、人生というものは 東京駅から列車にのって九州に者一
、
「我々は感情の王者になろうではないか人。間として立
、
l
、
フロンティアな
、
遂に未来は不可解であろうし 新しい
、
自分から開拓し 今ニ品
、
、
どという宮築が流行っているが 何を開拓してゆくのか
ものであるし
める人にとっては
何事も経験であると乏人がいっても これからふ生を始 一
ものである・
くようなものでない。やはり富士山を一歩一歩登るような一
、
俺はそうは思わない」
、
、
それから子供に死
、
派ではないか。さすがにこ薬亭は 文学は一生の撲にあら
ずといったけれども
、
彼は一生けん命であったのだろうが 私はその時わから
、
、
、
といわね
その目標があればまだよい方で 将来は実際闇mm
、
父に死なれ 初めて 人間一通りの経験
、
ばならない.自分のカをこれだけ貸したからこうなるとい
、
これからは自分はどうすべきか こう考え
、
なかった。芝居をみたり 女性に気をとられたり 若い者
として当り前のことを行っていた。
、
婆に死なれ
、
ところが人の夫となり 父親となり
なれ
をつんだ時に
、
私は文学に 人生を かけ たかどうか わ から
、
、
あるいは妥の子供
、
、
また両親をなく
つまり不傘というものが人聞の精神に作用して、人
の感じられない何ものかを出す.
す等
た者が少ない.片親
たのが三十六歳、つまり二度とかえらぬ自分の一生を何
ものではない。
うも
のかにかけようとしたのであった。それに横光利一を知ら 小説家の中には 健康なれ象庭や幸せな身の上として育っ
、.
なかったならば
t
ふjH・V
、
-才能というけれど 当 人には わからない・ そして世の中
3 ー
-
があるではないか
•
、
い えない
福岡県柳川と いう所に
、
母貝の病気
芸術の花を咲かす
、
こういうも
十二万石橋宗霊とい
、
、
何れは心に傷のある
設にも訴えられな い
、
、
真珠貝というものは
傷をつけて でき るといったが
も
文学の花を 咲 かすというのは
。
大詰守
治がいった 泊り
、
である
とか
人間が殺に
、
のが結品して花を咲かせたのである。
筑後の国
、
、
、
百石につき 一人、 つまり昔
その た め柳川 十 二万石を没収 された
、
。
う人がいた。戦国時代には有名な武将であった関
がケ原
で豊臣方に味方し
、
、
、
ると
、
、
いで裸になった。そして十六歳から戦場にでて万 鉄砲
、
、
、
仏
側 弓等で受けた傷 四十四カ所の傷の一つ一つについて
、
誰一人口をきくも
、
あった。加藤肥後守五万 人 の家中の中の上級
四十四カ所 の傷を受 けているのに 五千石で は安かろう
、
。
説明を行った 与三郎 は三十四カ 所の万傷 というが 、小 野
和泉の場合は 侮一カ所が一つの財産になった当時として
は
とい うもので
の侍ばかり二百 人 が鈍っていたのだが
のがなかった。
、
だが戦国時代といっても 戦場に行ったものだけの人生
、
、
ではない 身体の傷は見えるけれども 心の傷は誰にも見
えない。傷を受けるのは何も戦場ばかりと限ったものでな
い。我々の臼常でも多くの傷を受ける筈であそ
るの
。傷が
-
、
それは作家ではあるまいか。
、
たとえどのような傷であるにしても それについて何かを
諮る資格があ るとすれば
、
そのよう
または高位高官やその日ぐらしの人等
、
、
一緒に酒を飲む事があっても 我々にとって
な世の中のことはあまり問題にならない。問題になるのは
、
、
そういう気持である。世の中に生きてゆくのに
、
その人の心に曇りはないか 自分の心をごま化していない
か
、
、
や消潔ばかりでゆゆけずに 皆傷 を 受けるけれども傷をい
かに受けても心の正直な人、美しい 人 には
ー
4
-
昔は広役と いうものがあって
、
、
は 馬 上武者 といい 拾一筋 馬一一朗 家来が 十 人 ついて い
た。それを一騎といった。
だから二万石で は 二百騎 そう
、
すると二千人ばかりの人数になるが その家中で一番いい
侍を皆ほしがる。加藤消正は 土木の大家であり 優れ た
命をまとに戦っ た 人 々か らみ
、
、
自分の 滑物を 脱
と
一 人であるから橘宗霊にはいいものがいるというので小野和 金持 や貧しい人
し
一 泉という人を初め五十人ほどを高級な月給でかかえた。と
ころ が戦場を往来
、
を
、
皆の集った所で
、
正
直
子
}
小野和泉は
帽
一 加藤家に対して何んの 手柄もたてて いない小野和泉が 五
千石の領地をもらったというので 植才蔵等の有名のもの
、
第
までがプツプツ不平をいった。
ある時
.
ラ
し、
、
る者はいない。 生きて n凡なければわからない。 生きてゆく
。
、
、
自分の勝手放 題をしよ うと して
、
一
当然 一
その度に心の侮を受けた。たとえば棋が富士
一の
私は我ままで親に苦労をかけ、それ だけ蹟く容が多かっ 一
たわけで
裾野を馳け廻 って
、
の天罰を受けたようなもので そのかわりそんな世の獣で
他からかくれて自分の傷をなめながら月の美しさ夜の一
深さ
、
我ここに生きた. なければ 、わか らない悲しみゃ 誰も聞いてくれぬ訴えや一
やはり自分の汗と血を以て買わ
、
のも門分の行いと門分の血を以て買わねばならない
、
とい うものは五十万年も続 いているので
という慰じを 受け るには
紙
たり刷問機、
しそ の後は館仏とし
、
、
、
政治家
、
いう貧しい人生だったかと
、
、
、
こうした良心の反省を感じ
その他忙しい仕事の人 なら
一
私どもは自分の時間だけ一
、
。
、
一
一
そ 一
いかに自分が努力しても直ぐには報いられるような 一
.
さ しい。いかに努力しても報いられない
こに人生の深さがある
人生ならばや
あり
を考えていた。試験が通ったらすぐにゆけるようなもので 一
、
自分 に運が向いてくるか 何時自分の原稿を買いにくるか一
った。室生犀星は壁に向って三年いたとい。
うつまりいっ
子をどうして養うのかと考えること程恐ろしいことはなか 一
、
た.団体で百万の敵に向うのは易しいかも知れないが 斐 一
、
私の経験の中で一番恐ろしいのは やはり生活難であっ 一
は 自由になると ころか ら感じ得るのである
そう は考えないかも知れない
が
る。これが実業家
、
を感じ 自分の孤独であること そして時代はいかに実っ一
、
、
一
一
人生の 何んたるか がわかる筈 がな い。決して努
写真
の
、
、
、
てゆこうとも自分の人生は自分の人生だけであり、何 んと 一
、
人
カや祉や口先きだけで人生は買えない。少なくとも 人生の
。
表
て現在に至った。今見る
大仏殿
如州制に仕えた稲多野門川が礎
元石
仁によ って当時の相続ほの大立
元年ハ一二二四〉にエを起し暦 か ったことを知る。大仏の原型
は不明であるが 州問ヱは
仁元年 (一二三八)に周八丈の木 作製品唱
造大仏を建立。克一冗元年二二 丹治久家、大野五郎潟衛門の二
挙安の倫相を
応峻ヱ。 人で、 市H鎮の部分を寄せ集め
四三)に大仏
ところが家治二年〈一二四八)の表簡をやすりで削ったものであ
秋大風で倒縦し 符び稲多野局 る。当初は賃金色で 今もほほ
の努カによって金銅の大仏と大 の二郎に金が残 っている。また
仏殿を山店長問年こニ宏
vに
ニ完 ギリシ ャ 印度 、日本の逃似の
成 大仏殿 の方は総武 二年二
特色を調和幽際会さ
れている点 で
三三五、応安 二年 二 三六 九) 宥名である。一時荒廃したもの
、
本当の真価を口うことができない.
なければ
生
人生の其実とは何ぞや といってもその其突を知ってい
ぎ
た
三の
明応四年(一四九五)
回にわ を復旧したのは祐天上人である
-5-
脱
一
、
、
、
、
やはり
人生は決して不幸で はない。眼前のことで
それでは人生は不公平かというのに 私の六十 二年の緩
一 験からいえば
、
、
、
できるだけ静か
そう悪いことをし
できるだけ汚れのない そしてこの世に生れてきてよ
私の成った僅かな人生を
、
、
人生には勘定古があって
、
いつ
りの世界に閉じこもるしか方法がないのではないか。一
結局
、
いろいろの惨さつを越したりす 一
自分の生活は自分で何んとか苦労してでも片付けないこと
一
或いは自殺したり
、
四
自分の生活を大事にするという事が根 一
、
、
つくとすぐ
、
床 一
移府に入り 薬草園を預っていたの 一
、
、
一
「これは九州の太宰の梅でございま
一
ある大名に呼ばれた時に鹿に
、
、
、
う」といった。大名は驚いて どうしてそれがわかる
k
、
その時に木目
、
、
その他すぺ
一
一
彼は宕い頃に太宰に行って織の伐られ一
、
、
は床の間の木を一回みてすぐ当てたわけであった。
、
、
一
彼はそれほどの大家であった。彼の晩年のある日のこと 一
一
候や風土の関係で ある極の特色を現わしてくるので 彼 一
ての点を調べておいた。同じ梅であっても その土地の気
るところを見たことがあって
かと問うたところ
し
の聞の置物を指して
であるが
そこで小野繭山は
本ではあるまいか。
には
、
、
人間の 生きて いる社会の奥には
長い時を経過してみると
、
、
一は 公平不公平があるが
人生の
ることとなるので
、
一神の秤は公平なのではないか。私は信者ではなし戸なき
一 戸ではないが
に
現在の私は
一 正しいものがあるような気がする。
一
一
一 かったと 思いたい 。私は誰に対しても
、
一 なかったと思いたい。若い時は我武者羅であり やりたい
一 事はやっていいけれども
一 か必ずその払いをしなければならない。これは間違いのな
小野蘭山という今から二百三四十年前の人 があった 。彼
一 いことである。
一
一 は「本草綱囲網要」という六十巻の大著書を残した。彼が
、
湯に入ったときに 何時まで経っても省一つしないので
たまたま比叡山で植物の採集をしたところ
一 七十放の時に
家人 一
年容だからもしや湯でのぼせているのではないかと
、
一 へ京都町奉行から召し抱えたいといつできた。ところが小
、
「湯が熱いから 冷めるのを待っているの 一
がみに行くと
、
一 野間山は逆って迷惑な顔をした。孤独と社会との関係は
だ」と答えた。たった独りの自分の世界に住んでいる人の 一
ここにあるわけである。自分独りの生活を大事にし
・
一
、
一 人間対人間の関係か ら大変難しい。若し誰かが自分独りで
、
姿が
、
一 生きていたとする。その場合は植物なり小鳥なり草花なり
、
ろということが即ち文学の教えでもある。〈文安在記者)
、
6
ー
-
一何んでも結構だが 耐えられなくなった時には 自分の独
.
法
、
語
、
あきましくわ
ということです。内容より外見を線ぶ人が
形をととのえて尤もらしくお念仏を申し
、
、
と
まま自分だけが勝れてみえ
、
うになり
、
其剣さ います。何故なら腕憾の心の人には阿弥陀
、
同時に他人がすべて劣って見える 駿慢の心をおこすべからず」と断図申されて
、
からであります。これ は俗仰の深さ
。
とはほど速い空虚なものであります・即ち自 さまや他の仏さまたちが決して綬念して下さ
、
野戒すベぎは慢
・
尤もらしい人は 他人を侮り自分を偉く思
分を偉い者とか、膨れた者とか思うようでは らぬとの説明さえさ れています
、
念仏者ではなくなっているわけであります。
、
救いを求めるところに の心であります。この自分を他より勝れたり
維でも 、常 に反省し 餓悔し、そしておの うところがいけないのです
慈悲があっても
、
、
ほんとに反省してみる
、
、
つであります・また慢には七岨八
問慢ありと
と何んの役にも立たないことを知ります。こ いわれています。
、
、
こに初めてお念仏がロをついて申されるので 七慢とは 自分より劣っている者 同等の
あ ったなら
、
、
、
、
、
、
、品
川上慢 卑劣慢 邪慢の四つがあります
一
いかにお念仏を申しても それに自分の方が勝れていると必う二
組類と、設
は変のものになるでしょう。温問
、
、
、
自分の能カをたのみにし
他人が態劣に見えるのは 自分に慢の心が我慢は我意を張り
、
すべての人が劣 ってみえてきます・維々 あるからです。ところがお念仏に限りとなるて他を侮ること増上慢はうねぼれること
りすました人は
、
大田市紛れていることです。
、
上人のこのご注意は 外見だけを勘定え尤
、
、
、
、
-枚起鶴岡文の「智者のふるまひをせず
「返す返すも して只一向に念仏すベし」であります。
、
よくよく心得て似しめ」とのお 銅を有難く頂ととは反対側
かねばなりません。とは
他のご法鰭で
のことだと知られます。お念仏
容易ならざる人聞の弱点について 上人の「はありません・この点からもお念仏をゆすこ
、
りにひどいという意味です。「ゆゆしく」は いは油断なく常に続けねばなりません。この
す。そして慢心のあるところに 進歩や発展
、
うになります。「あきましく」は 驚くばか 維の心の中にも巣くっています。これとの闘邪慢
は自分を省みずに三笠を敬しないことで
、
は皿瓜劣だとか、大したことはないとか思う
慢よ
、つまり「うねほれ」という怒成は 突は卑劣慢は自分が搬出羽しながら他を仰ること
て
、
「げにげにし」とは、如何にも尤もらしあ
いります。もし自分におごりたかぶる気持がもの自分より勝れている者等に対して常
治則条〉
《こころvえてつつしむべぎ也。(念仏行 ゃ
信窓
仰が生れます。僅かばか りの智恵ゃ、持戒 とする慢とは 六つの線本的煩悩のうちの一
ぐれたりと思う也。この事をばよくよく
己が姿をみぎわめて
b念
c 仏者にてある物かな、たれだれにもす
ろければ、わが身のよきままには、ゆゆし
みなわが心にはおとりたり
き人になりねれば、よろづの人を 見るに
げにげにしく念仏を行じて げにげにし
御
もらしい人になってはいけねということです
、
•
の
が、そ のわけは自分独り大田市立派だと思うよ また上人は
7-
扉
主回
一年学
座談会
」
抱われ中心的指導の役割を楽される方々ば まず初めに寺院に対する 現代人の関心とい
には現代への批判から出発すべきですから
う点からとり上げていただきたいと存じ ま
当然近い将来に仏教界を
新進学徒の
かりであります・従って将来あるべき仏教
、
先生たちの
、
にお考えのことと存じます・縦入、宮林 って紡縦です。組入先生から一つ。
す。ただし老人と部何年と分けてお考え下
さ
仏教の
、
をお示し叙
来への指針
ても住峨候補者という点から本日おいでを 草寺のような寺があり ここは宗派を趨え
に背得している点から
佐藤先生は寺院 にい 塩入 品吋の師
h相
似
H といいますか 第一には浅
磁という立場から また石上先生は寺院外
、
こ
、
いたく
願いました。しかし特にそれらの立婚を強 た在家中心の信仰道場、いうならば不特定
寺院の積々相
の計画を持
調していただくつもりはありません。
、
、
、
仏教の中心道場は寺院であり 寺
、
ったのであ
さて座談会の剛旭日は「寺院と布教」であり話者に対して 考としてどうすべきか 仏
、
ります。先
ますが
広い場所を公共に提供する 制祉事業を行
、
生方は現に
院の機能は布教にあるわけで 仏教の段も
う等いろいろあります。しかし寺は仏教を
、
、
、
、
、
像を持ませる 価値あるものを拝観させる
、
多飲のぼ者を待っています。あの多数の品世
、
正大学生の
具体的実態を談り 未来への指針とすると
伝える所ですから いかに不特定多数の診
、
桁導に臼夜
いうことにほかなりません。未来図を翁く
、
実柑掛から将 斎藤三先生には 天台 浄土 mu山派の住
て
の姿については、それ ぞれの立場からすで
さ っていますが
く
お集りを得
司会 本自は
「
寺
院と布教
き
お骨折り下
8-
一
徒
作者であ
っ ても 、何んらかの形で布教する
、
という次第で、中には仏体の上に採る者が
、
で、大仏さまを一段高くしてもらい 仏体
ことが不可欠であると 点すでは方法を考え います。今度窓要文化財保捜委員会の手
、
ています。第二には法隆寺のように 歴史
、
諮る 人
大正大学講師
に上らねよう祭礼を出しました。特に日教
、
的 霊要文化財の寺で拝観に人が集 まる
組の影甥の学校は全く閤ります。道場たる
、
所です・ここでは毎年夏期大学が聞かれ
寺に入った以上は、単なる美術品鑑 賞 で は
、
て-本打ち出してゆく所にかえって若人
い
、
同
編集部
司会
助手
話要文化財ブ 1 ムにのって 、歴史的に宥名
ありません。学校の宗教々育の大切なこと
、
、
、
年が集まりま
な仏像仏具の前に多数のお
H
、
〈五土M矧》
石上善応
、
《発文学専攻浄土宗V
佐藤行信
、
ハ宗教学専攻 浄土宗〉
斎藤先純
、
〈西蔵学専攻 蹴富山派〉
境入亮遼
、
門天台学専攻 天台宗 v
宮林昭彦
、
ハ仏教学専攻 浄土宗〉
方法には炎術が}番です。仏教の話をする
、
にはどこにも場所があるわけで 修養とい
入
、
、
、
- 9 ー
を痛感します。
す。以前私も診加して 佐伯管長がその期
間中欠かさず出席されたことに感心しまし 円覚寺で今年夏期総習会が閃かれニ遡聞
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た。出制い者〈主として学生》は仏間に入るにわたり早朝の座織から終日の修行に熱心
ロして炎術的なものを観る形 です。外交官、政治家 資本家 妥能人と
とキ冒ロキ
モダンに咽恋仲刊されています。
、
でしたが、老貌下は仏像の前に来る度に必 滋々ですが案外若い人が多数います。車寸は
、
、
普の ように努力し 大衆と結びつくことが
順雄総
たら逃げられます。用鱈を用いないですむ
成哲 秀
弱気を捨
文化的になるよう努力するより
ず礼拝されました。第三には、一般の寺院
で
、
こ
の関心を呼ぶようです。それと同時に寺は
宮林 かつて京都法然院にお箔りした時普
通の寺にはない内陣に掠の花が放っている 社会福祉穆業等を鴎家や委員にまかせず
、
のを感心しながら出てきたら 廊下のと
若い人の関心
ろで「あなたは何をしに来たのです。見物 大切だと思います。
鎌倉の大仏殿に詣る人で
、
ならお断りします」と顕から叱られました
佐官庸 私のところ
藤谷瀬
師
師
師
う包的で 若い人が寺にゆくには また別
人生の上り坂といった守年たちは関心が簿石上 若い人に関心を持たせるには 仏教奨
、そ の後に秘められたものと
な関心を持たせなくてはなりません。
く 大仏さまの柑酬で拝む人は五十すぎの人慣例をとりあげ
仏教の行 それも儀式的な大容なもの
です。遠足の人たちは写其をとるのが目的 して仏教を教える・ただし仏数術館を用い
、
佐水村
講
講
同
同
問
同
泡
でなしに
、
宗教的なものに入る簡単な行
、
に統一的に入 信す るよう行事や布教を行い
本の問題があ りはしませんか。
宮林 宗教的鋭
るとまた特別な削係を生じてくるのです。
を月並で保 ったのです。座り込んで話をす
、
開拓者と一絡に惑し 般家と の務触
ですが
、
も大切
そ の内に考でも毎月何回も会合を催し
ま
やはり人絡の
た借金をして保育闘をたてました。これら
、
ふれ合う場を
師は
け上 北海道 は近庁令によって 政初から寺 が
白分で実践でさるものが欲しいものです。 小寺ではその後の例々人に対して引き受右
菊地を持つことを禁止していました・開教
多加
、
が緑で椀家が常に来るようになりました。
だ ったわけで す。
つくるべぎで
大部分
、
Hの仰をはる愈帽刈込
み
裂するに最初か ら A水
うが
す。小寺とい
お互に協力して人を引きつけてゆく。
い立なり教羽を説く布教は失敗します・弘 る・また伐織にしても純手不得手によって
、
で々ながら
は中学時代に納税からの命令織
大台精神文化研究所の夏期秘密に診加しま
、
上
した。同時に起床 水をかぶってからmm
って
で日の出を作むのです。-行二世で日中は
れを終
泥巡び等の仕取です。こ
してよかったと感じました。情智光寺の附段
州知りも岡山保でしょう。ご本尊を拝むばかり
自分の足で歩 いてをたという点
、
、
、
ょ う。
おしまず
少しでもよいから他と
らば
突時闘力があるな
、
、
その住職
、
住臓が宗教活動に然心であり 努力を
寺門の興隆
とか守 ψ占 一
持することは大切なことです。
寺がなくな ったら仏教がなくなるので何ん
途ったところがあれば立派だと患います。
、
ただ向じ仲間にあ って「さすが僧侶である」
健康 住臓が勤め人であってよいと思います
また魅力です。話だけならテレピ が小寺 な ので 何依然をかけずに人を引ぎつ
、
でなしに
がよく
、
とかすればよいでし
寺の再出発
貧しくなった。 そこで役喝とか学校得に動
農地解放犯すによっていたる所の寺が
、
会等を催すとか パンフレット を配布する
佐官蝿必ず人が集まるように 毎月毎週瑚綿密 といわれるように
ける方法に苦心があるわけです.
で家庭で聞けます。足を巡んだかいがあっ
たという点が大切なのです。
斎棺厭串寸に対
する関心が
芯い人に ι
いわけでみ
りません。
これは家の
、
-般人と同じ勧めをして
、
に対して宗国が十分援助すべきです。キリ
、
10 ー
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という
住際だからといって特別に活動
•
寺は
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相輔自身が実行している家の行年
務するわけで
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-
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5貨 政
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も串に
、
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ことが無現になってぎました 。この辺に綴
鋭の問題で
宮
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計画的
ってきます。そこで大きな守では
、
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滋人
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人の問題でなく宗聞の問題です。仏教には
うした婦人たちが考のことに参加してもら
然と寺の活動に入り込むことになった。こ
、
行って相談にのります。近 頃 は団地に対し
、
宗門は分裂し 寺院
、
それがないどころか
、
、
にきた人たちですが
、
血寸からあるお念仏と
新興宗教 斎藤 都議の錫入 つまり他の土地からお嫁
うことは新しい意味で必要なことです。
宮林
民・
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布教師が
・・・・・・・・・
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は独立して各個ばらばらであります。宗門てこちらから開拓していきます。
、
に対して刻待が持てないとか談会をのが
、
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・・・
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、
部落の大部分の婦人が参加したので
、
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毎日暇に行ったことがあります。ところが
上っていて信者
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明姐E 純病院の前に称立
する総に必要なお伸被の解説をたのまれて
串寸は
れて自分勝手になるのだといっても
、
小寺の区別があれば それぞれが協
、
単独で活動で念るものでありません。本土寸
大寺
、
お嫁にゆくという点から婦人は大切で
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大森斑順師が昭和三年に浅拡寺に住職
込まれてゆくことですから。
、
す。紛人の宗教的関心は 他の地方に持ち
彼は 佐渡
、
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はただイヤラシイだけですみません
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来があがりません。
、
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、
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、
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観音経疏爾会をつくりまし
、
、
、
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、
、
お銭にゆくことになって
、
引絞いて来会する紛人もありますが
れから三十四年になって現在も続いていま
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そうでない人は
稲の株がふえる ように自 然と他の地方にそ
たのです。
-11 ー
宮林
、
、
、
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きれた時に
、
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た。その時,お緩の務をするからというピ
、
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、
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、
、
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、
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、
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、
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、
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こ
、
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その寺はもとの小寺になりました。
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、
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、
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この婦人たちが 寺の行壌を手伝って
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、
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不孝に見舞われた家とか
と実践カでゆく人です。術問国徒との接触に
を探し廻っています。学問はないが 信念
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、
、
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。
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、
、
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、
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、
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、
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、
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2-
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、
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村瀬
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いろいろの苦心は肝要ですが さりと
、
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宮林
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、
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以前と巡ってぎたといわれます。
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、
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、
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、
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、
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傾向を知り 老人なり若い人なりで同傾向 者に与える必要があり
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い人も喜びます。
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、
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も あるので
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13 ー
-
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、
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、
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、
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、
ることになりました。そこで仏教界では毎 いてさえくれません。
、
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、
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、
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、
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、
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従業員が
二千名以上いる会社があります。初めは会 ありませんか。
宮林
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、
、
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、
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、
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、
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、
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、
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、
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、
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時にはルンペン風の人が
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あれは沢山
、
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の功績を残しました。
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くの先
精子にねながら聴いていました。多
、
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しに終ります。
、
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今から用意すべでしょう。
、
花まつりだけが共問事業では心細い。
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、
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友松先生も当時の闘士であったわけで
す。布教は
言語だけで行うものではありま
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動が何より大切です。
るのもお恥しいながら現実です。
、
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、
突は私たちであったということになり
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、
が速います。大寺中心の行事もよいが 各
宗共同の布教の場がほしいです
ね。
、
右上 終戦後の北海道は左派が妊んになり
二刀キリスト教の進出がすばらしかった.
そのため仏教界は、この
両面から攻撃され 坂入 しかも専門的言葉を用いての説教は開司会 長時間にわたって宥難うございました
14 ー
-
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、
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、
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、
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、
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、
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、
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私も 蒋 び起つこ
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磁に集めて お別れ の営業を告 げ
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「この たびは
、
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、
「そんなに大変な御旅行ならば
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、
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悠か者の持つ伎は あなたが持つ
げた人はおりますまい。世界 一の
役 の中にこれほ ど馬鹿
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また
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「この杖を今日おかえし致しま
、
お簡は役 の部屋から 例の放を持 って来て
これを含くと 、岡
忠か品市は自分
お前より尽かな者をみつけ 何の支度もしておらん。」
、
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、
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、
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、
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、
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。
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、
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、
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、
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、
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、
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、
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、
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、
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、
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、
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たばにして粛にかけるとずい分震番違い家までつ っ走るんだ。
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、
行くほど緩くしたほうがいいと思 る。そうすると
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、
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ように。しかし
く
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っちまう。泣きたくな
ていやにな
決してムダにならぬところに 人
遠いところへ来てし 生の妙味がある。符物の窓たいの
、
はじめ
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窓たい新聞を一枚もく より気分 の震いほうがつ ら いとい
、
、
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まう
、
、
ばらずに行くのだから 何だか狽
をしてるみたいだけれど
- 1
5-
中
締
談
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可
尾
、
良
海
、
、
大病にかか
、
今 はただ死を待つばかりであ
、
った。
たとえ全財 砲Mを泌尽
が一得良く効くのだが
、
まあ
、
助
と
せめ て
、
、
たとえ鈍太舷で歩い
、
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生きている人聞の心臓なんて
、
からぬものとお思いなさるがよい。」
宗索は
ても無理 なこと だと判
又
、
、
寄って見ると
、
且 つやせており
、
中に磁 波僧が いた。師酬は老け
毛ほろを袈裟の様に房から
、
かけて 大をな石のよ に坐って いるのであ
、
、
る。宗紫 は 之は異人に違いないと思い 前
へ進み出て 拝 礼 した。
「師父は何処の方でございますか
?
こん
、
な人皇隊れた山の中に独りぼっちでおられ
待者のお方もおいでにな らね様でありますが
のを
恐ろしく はご ざいま せねか
、
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それと
その老僧が言っ た。
、
も仏道の妙術のおできになる向仰 であらるる
のでし ょうか?」
宗索が品噌
ねると
、
、
「抽出はもと家氏
出で
の 遠視 は 巴山にお
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、
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管制岡山の谷中に倣り住んで
少しでも長く好命を保たせたいものと思い りましたものじゃ。子孫が分れてて陽にいた
、
或る目
、
例の通り布施物や霊結めを持って
、
、
す。詩人迷は伎が詩吟がう まいとて
相当に
名を知っていて呉れまする。孫という一一族も
親践にありますが この」肢の巡中は貸族家
、
、
出かけて行ったが どこでどう路をとり間違
演劇を
門と給んで交遊し 情甘く情胞を骸じ
っ て人に利議を与えております。抽出はひ
、
山道へ迷いこんでしま った・遥
、
えたものか
も行
、
か向う下の所に一つの石績が見えたので近
、
、
仏像を闘かせて礼拝
供養にも専念し 後には おりまする。刷出は視先の家訟を守って山聞に
郡中遠近の仏寺へお
諮りをして僧畑山にお斎を 隠居し 持を低吟しては自ら楽しんでおりま
、
父親の霊病に心を痛め
っ たのじ
ったり
例制を呼んでお経を鋭 んでもら
、
陳と いう名涯を探しあてて診断を
、
、
、
心臓が いかれて いるとの判定を下した。
、
、
「この御港人は 財産が余り多いので ゃ
、
ま
れ利娘 ゃれ併婚と余りにも心を使いすが守た
ら
仰いだ。陳先生は すっかり診控却を終ってか 捧げることも怠りなく勤めた。
やがて
これ湯繋名医を探し求めていた。
って あれ
しても何とか治してやりたいと思
大層な孝行者で四隣に
評判が高かった。彼は
この暢老人 には宗紫という息子があったが
ら
って窓態に陥ち入り 病床で苦痛に帥仰ぎなが てもそんなものは見付から ぬから
いう大金持があったが 或る時
市岨の乾元年聞のことである。会神間滞に舗
ゃと
。この病気には 生ぎている心臓を食うの 野獣が師父に危笹を加えるかも知れませねも
d心
為心神がすでに身体を隠れて し
•
得
牧
国
、
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、
に委せようというこの身体じゃ。人の
聞生命
品目今,
とり仏教を好んで俗
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を避け 心を厳谷の中 {
'
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「ょいともよいとも。どうせ野の
獣喰うの
にすまわせ不動心を養うておりますのじゃ。
、
常に仰 gw
構うところは 身肉を割いて禽獣に
、
伎は
、
喰わしめたかの育利王や盤下にとんで飢えた が助かるというのなら 、そ の方に上げた方が
る老虎に沓が身肉を与えた釈迦牟尼その人で
ねうちが上ると 言うものじゃ。したが
、
、
甘んじてこの身を
、
しよう。」
。
」
?
「線越どの! 先におん身の求めたのは何
じ+ったか
、
「生きている人 の心臓を頂いて 昔日か父の
疾を治さんとの心組みでございま
す。」
「そうか。撹越どのの希望を俄はすでに許
、
おりまするによって
、
容いてあるのじゃ。
、
金剛経にはこう
、何 とぞお聞かせ下さ
「きればじゃ よいかな
早速持っていた御幅制定を老僧の前 い。」
、
と言うのである 宗紫は小四
mりせんばかり
に喜んで
その御馳
、
、
!
」
、
、
その不可得というやっじ
、
"'
す。鍵はここで橡商用を食い
泉水を飲んでお 今日はまだ何も余つてはお らんから 先に加門 した訳だな。今 先に金制緩の奥妙を説ぎ教
れば足り ることで たとえ虎狼が襲いかかっ か食べ てか ら 、それから抽出の心陪帽を進ぜるえ
とようと思うがどうじゃ?」
「私めはもとより仏教を噂いものと思うて
て倭を喰いつく そ うとも
やりますよ。」
、
「老師は其に至高無上のお方です@よくそ
、
過去心不可得。現雀心不可得。米米心不可
キよ
と由。ってもそれ
「さてきて今日が分のお宮崎を頂いた。これ制吋とな。椛越殿がもし沓が心の臓を取ろう
宮っ た。
仁勇ともに緩まれるお方とい 走をあっという聞に平らげ尽すと 叉宗紫に
の身をすてて顧みず 山獣に白河を呉れても惜 に進めた。老僧 は、 食うわ食うわ
しくないとは
うべきです。きて、私めの父は窓病に悩むこ
、
と既に数カ月 浴びるほど繋をやりましても
、
から四方の紳鐙にお別れの掛け礼をするから
何とか方法なきものか
、
さらに効 eg がなく
少しく待つがよい。」
から出て
、
、
、
、
、
た。
、
、
が 化して去るその後姿
(大正大学教授》
は一匹の狼であっ
今度はやにわに傍らにある一本の思うと、す るすると断盤をよじ登って行った
、
老仰は怒鳴り終ると 忽ち身をひるがえし
考品川は立ちょってその衣を整えると石窟
粉々しく東の方を拝礼した。これ エ戸大きく けだものめいた咽間引をしたかと
、
と日夜苦しみ悩んでおります。お医者さま は
、
心臓がひどく惑いから 生きている人聞の心
臓を食う以外には政務はないと言わ れました
、
大樹のよに蹴りょった。宗諜は 神通変化
が 、も しも老師がそのお体を虎狼に与えても が終ると
、
よいとお考えでしたら 曲げて一つ 人間­
て云った。
老僧は激しい戸で宗紫を大織の下へ呼びつけ
人の生命を救う方向へ考え直して疏けないも誠に驚くべき神技だわいと感心していると
のでしょうか?」
、
宗紫がおそるおそる頼んでみると その老
、
、
、
身を捨
、
仏般に手を合せて
、
ナンマンダ
正信備を読み
、
、
、
、
ナンマンダ
l
「南無阿弥陀仏」といくども繰り
1
一 弘は 、越中古山の生まれである。ご承知のように 北陸
一 方面は念仏信仰の篤いところで かならず 毎朝毎晩 仏
一極にむかつてお詣りする ことを習慣と し て養われる。私も
一 二つ三つの幼少のころより 母の膝にだかれて 朝晩の日
一 部として
、
一 と唱えさせられたものである。
母は
、
る信念
ので
、
武道のある境地に到迷するには
、
どうして
山
…
い
円十述、本郷の動坂で庵を結んでいた勝峰大徹老師 ~
、
、
大学の一年の試験が終ると すぐ郷里の 山
、
、
、
…
、
つ い た.そこで
どって
富山へ帰って両相続にその話をし翌日また東京の下宿にも
、
、
どうに かして武道が上迷したいと願ってい たのであ
良B
も拙怖が必要だ心を練ることが必要だ ということに気が
の本を読んで
とこ ろ が
丸山.曹
太
川
松
大学に進学したころ 柳生但馬守や宮本武蔵
カ
る
、
、
、
… 私は武道が好きであり
、
、
、
また両親が非常に熱心に奨励した
、
の門をたた い た。
、
、
何の
~
この和尚に頼んでみようと思ったか V
、
、
面白 い学生だとでも思ったの か、 非常に
、
山
大徹和尚を訪ねて直談判した。和尚も 私 い
き
、
だと聞いて い たので
しに
の熱心さに驚
一 らは職務の余暇に柔道と剣道を四年間ゃった。それほど 紹介もな
、
一
、
大徹和、
雲
尚寺
がの前管長
当と
時し
のて
非常
な
名
〈
正
ロロ
~ かえし唱えたあと 、 「惑いことをすると地獄へゆき普い
~ ことをすると極楽へゆく 生きものは殺してはいかん」と
… かならず 子供たちを識したものである。
、
室主
らである。今から思うと 全く汗顔の至りであるが
、
を
て
験
ん 私は 中学時代 学業のかたわら剣道を五年間 同校
~ 大学を通じて柔道を七年間やり さらに警視庁に入ってか
- 18-
体
〈すそくかん〉をやれ
、 姿勢を正しくして
、
、 息をととのえ
{ 喜んで迎えてくれた。「手前が梢をやるにはまず数息観
一
、
訓えられた通り
、
しびれる足を我慢しながら
、
一一線呑一本分の時間いでいから 、毎日何回でも出来るだけ多
そこで
~ く一生懸命ゃれ」と訓えてくれた。
~
い うも のを幽された。そのとき和尚は
一もっぱら数息観を続けいてたが 、 一月ほどたって、和尚か
… ら「無字」の考案と
、
理屈に走るな
、
、
ということであった。
一切の観念や雑念を断ち切って 、真如を観ずる
、
、
ザ 「手前は顕で物を考えてはだめだ 祉で考えろ」 というの
、
引 である 。とにかく
… しかし
そんな大問題の前には
、
警視庁に
、
、
あるい
、
たり
、
、
{
アメリカ箪は日 {
山
ピストルでねらわれたことなどあって 殺されかけ V
、
ということで頭をしぼっ
、
終戦になると同時に
、
たこと が度 々 で あった。
ご承知のように
本閣を どうして弱 体化するか
まず言論機関を抑えなければならな(
、
一
た。その 一つとして
℃それと同時に監獄にいた共 産党員を釈放 し た。その計
~
、
幹部の
、
画は成功し まず朝日新聞 で ストライキをおこし
。
。
日
命を賭 してもこれと戦わねばならない 日
この混乱した故情をみて このままでは日本はだ ~
、
、 これ 一
総辞職を迫った。 つまが読売新聞であった。そして
、
はすぐ毎日新聞へ波及した
J
私は
めになってしまう
、
と覚悟を闇めた。そのときに いちはやく私に湯川迫状が舞
お前は即座に読売新聞社長をやめよ・
:: :
それは念のいったことに速逮郵便で来た@
、
しからずんばお前をただちに射殺する :::という文面であ
った。しかも
‘
、
私の胸をうったのは これはほんとに俺を殺
、
私は警視庁時代に暗殺の努迫状を何回となく受取ったが
、
、
という予感であった。それなら猶更 私は命を
、
管迫状を速遂で届けられたのは はじめてであった。
そのとき
す気だな
じめ
、
柑橘 内閣書記官長
、
賭し て戦おうと決心したのである。そこで当時の自由党の
総裁で あ った鳩山一郎 さん をは
19 ー
-
一ということは、それこそ理屈では解るまうな気がしても
、
{ いざ何 だ と問いつめられたら
打込めずにいるナマクラ
山私などまるで手足も動かせない赤ん坊同然であった。「無い込んできた。
、
三十五年間 というものは
、
、 その周囲をぐるぐる回っていたのである。
} 字」の公 衆 とい う怪物に対 して
それから
…剣士のように
~
、
~ は新聞社に 寸暇もなく迫い回わ され ながら働きまくっ
一 た。いま、鼠分のあゅんだ生涯をふりかえってみて、 私ほ
日 ど波ら んの多い人生を歩んだものも少な いであろう・よ く
、
、
叩今まで命があったものだと われながら 不思議に思う く ら
日 いであった・ 日本万 で首筋を切られたり 石で頭を慾 た れ
司、,
、
、
そのほかの人からも仲裁を申出て
しかし
、
、
、
、
・
どこの印刷所でも 後難を
これがため
。
このパンフレヲトが一部刷り
、
、
、
私はまだ収容までに九日間ある
は 、 全然わいてこなかった。ただ
が
、
、
ついに
、
、
、
妥協は絶対にし
そのときの私に
、
読売
これを拒
、
内
~
一
…
w
問題は笠械の解決とい 一
夕方帰宅して
、
、
、
よ
も
{
…
一
私は {
、
へとへとの体を {
私の推砲によることとして辛い争政は
、
さまざまな いきさつが私にはあった か ら
、
後任の社長に事務の引継ぎをして
、
翌朝八時に刑事が来て
、
内
経営協議会を作ることと 私の後任の社 叩
、
および抵役は
、
、
冬は五時半に起される。起きると~
、
それから朝食をとる。自分の椀を
…
、
製本宮さままでも一緒であった。食窃が済む…
と
大将であろうがみな自分でやらなければならない。東 }
、
もって食事をもれついにゆくのである。これは大臣であ…
ろう
同時に部民の鮒除をし
削減鴨では夏は五時
っともっと自己を見究めねばならないと真剣に考えた。}
こういう
そのまま巣鴫へ収容されたのである。
うやく床に就いた。そして
やすめる間もなく
解決したのである。私は
長
んだが
一
絶して交渉が破れ 、 かれらが深夜退場すること三国にも及
新聞の経営管理を主張したが 、私は断固として
いよいよ談判に入ると 争議団側の交渉代表者は
、
、
という回い決心であくまで闘いつづけた。したが ~
ないぞ
、 私がここで縫ったり
、
、 私は強く断わった。もし
一 伊藤共同通信社理事長
一 来たが
、
、
、
、
った 巣鴨に収容されるという実感など
日本の経済界全体が破壊されると思
断聞として闘
、
、
あらゆる仲殺を断り
一 下手に妥協をしたら
、
、
う一点にあった。
この間に 、争議団側は暴力をもって読売の社屋を占拠し
、
った。それで 私は
』
吋 ったので 争議は紛糾してニカ月以上も続いた。
・
一
、
一新開発行権まで奪取したので 金諸国側幹部を告発した。
、
~検事局も幹部数人を召喚して取調べ 起訴する意向であっ
一 たが 、夕刻になって突如として釈放してしまった 。 これは
、
、
トにしようとしたが
7
ようやくにして
、
、
「社長収容」と大きく掲示して気勢をあげた。 条さんも
20 ー
-
一 アメリカ箪の命令によったものだと伝えられている。のみ
ンフレ
一 ならず 争扱団側は 紙面を使って私に不当な攻略酬をつづ
… けたので 私は 東京都の委此会で述べた自己の主張をハ
叩
、
一 恐れてか引き受けてくれなかった。ようやく凸版印制の山
、
ストライキまで起したのである
一 国三郎太社長が引き受けてくれた。ところが
しかし
一 凸版印制の労働者が
…
、
一 あがったところ アメリカ軍が検凶を行なうと発悲し 配
一 炉仰を禁止してしまった。そこへ突然アメリカ犯から 私
一を巣鴨に収容すと
るいう命令が来たのである。読売新聞
) 争議団は
•
、
そして
、
、
、
その
自分の
午後は運動
て
、
短かい坐継の期間であるか い
こうして坐拙怖をしつづけた。}
そ
、
、
他の人たちにとっては
、
在監 一年九カ月の問
、
〈 部屋の点検がはじまる・それが済むと今度は労働に引き出 ようになった。ともあれ 私は大徹和尚のことを思い出し}
~ される。それから帰って畳食
ときどき点検がある。といったぐあいで
Bは運動がないので、自由な時間乞八時
で坐ったのであるか与
、
、
一
この二年聞は 私は自分の一生涯
、
れは
、
雨の
~ 間には
、
もしれないがとにかく私にとっては 自分の柑訓怖を打込ん{
それでも
~ 自由な時間を如何ることは、仲々 容易なことではなかった。
~
その他余裕があれば宗教の本を
読み
、
、
、
はじ
訟は非常に
、
四月ほどたって四人になり五人にな
婆婆へでてくると
、
たって居り
、
、
、
凡夫のあさましさで
、
坐制修行も {
旬
…
いまこの年になって酪々と感ずることは
「悪いことをすれば地獄へゆくんだ。普いこ~
~
幼少のころ 、母にお説教された「因果応報」が身にしみわ
しかしながら
できなくなってしまったのである。
し
} 聞から九時間とれるのである。それで暇あえあれば 山惣蜘仰 のうちで一番充実した時間であったと思っている。しか山
日 をやり
、
い 充実した時間を送ることができた。私どもの部屋は
日 め私一人であったが
精神家で有名な大倉邦彦君が一緒であった。
、
とをすれば緩楽へゆくんだ」という言楽が耳にしっかりと ~
、
心が乱れ
、
、
は…
瀬もあれ」とあるが 自分だけを大切にまもっていて、
「ふりおろす太万の下こそ地獄なれ身を徐ててこそ浮}
ぷ
う実践的信条が、いまの私の文柱となっている。古歌にい
、
一心に専念する とい い
、
一番私の困ったことは 坐榔を組んでいるとき 一人の
、
一 った。そして最後の一年間は、文部大臣をした太閤耕遊君
山ゃ
山
、
人の話声が耳に入ってく
周囲の人がいて話されると
、
どうも
どうにも仕方がない。
、
、
、
残っている。それが私の生活を貫く倫理観でありさらに }
、
それで
脅年時代に入門した坐制を通して
雑念
{ 場合はなんでもないが
向 を入れまいと 思えば思うほど
凡夫のあさましさで
… ることであった。これではまだまだ修行が足らないと思つ
、
・
、
ハ舵売新聞社主 元国務大臣、{
日本テレビ社長)
考えてやる寛容さが必要である。~
、
もう一人に器をすすめた。獄中では紙 成功した人聞はない。どんな場合でも 常に相手のことを
、
で
一計を案じた。幸いなかに碁の好 大事は決して成就されない。世のなかで自分だけ欲張り一
い
人の自由を束縛するわけにはゆかず
叩 ても
叩
一 てし主うがない
日 きなのがいたから
、
叩 で碁の道具を作るのである・二
人が器を打っていると 他
一 の一人も黙ってい・るそうすると、 いくらか心が乱れない
。,“
.
、
水
子
、
と
尾
仏
弁
匡
であり ます
。
るので す。あ あ そうだつたかなと今頃思うの
仕比
4rs
Jl".i、
A持
、
制に
それを出てから偽抑
、
学問として仏教を
、
ますと、その各々に念仏に育てられた私があ
うと
、
、
、そ の時分 母
やっぱりそんなように廻って
、
ったのですが
まだ母胎も十分脊たず
、
、
家庭生
弘の 一番上の兄は母制輔が十七の時生んだ
、
殺は三十六という 、ま あ相当十分に育った頃
で
のですから
、
。
どのような胎教をするのか米だ考えて
、
活にも十分に慣れず 子供が出来たらどうす
るか
いなかったらしいで す
、
五人目のようで すが
突は
、
、
明治六年
それから私は戸籍では五男とな っています
から
、
私は繰り上げ当選で 六男にはなら
こ れは私が一二十歳になる明治三十八年 内に死んでしまったのです。戸籍にも届けな
、
、
女としてもう円熟した時分であり しか
、
いから
、
まで遡るのですが 殊に私が考えたのは母殺
ずに五男になっているのです。そのことです
、
旧の聞の五月十五
、
、
その次に弘が生れ
母親がいくらか弱ったとか故障があった
、
ことで
、
、そ れ以上に相当
地上寺に来るように
、
お設やお彼岸にやります。笑にたく
、
なってから 、そ して水子の供養をやれとい う
ここ
よく念仏したと思うのです。
ったでしょうが
内,“
気があったのでしょう。つまり安産を願うこ
て来たので余程静かに完全に生みたいという
とかはよく判りませんが
に
も双子が相継いで死んだ肉体的 ・続神的の 上
が
のお般の中にいる時分 母親がどんな風に宵
、
磁かに母貌の生援
、
私は考えてもおかなかったのですが
、
来たのでそう思
になってから
日のお畳に生んだといいました。そして還暦 それは終戦闘明
すからそうなっ℃ますが
すが 、それ は太陽暦が行われてからの戸籍でとは総論あ
私は明治九年七月六日の誕生になってい ま
んだと思うようになったのです。
の中にもめずらしく母線が念仏で私を宵てた
妙なことに十年このかた
事実
やるのにどんなであったかと分けて私を湾え てたか。こ れは よく聞いておかなかったので
なってどんなになったか
にどんなになったか
んなように念仏に育てられたか 小学校時代
あります。一つは凪時間柄の胎内にいる時分に第
ど}に安いました母・減に育てられた頃とい に生れた双子がありまして、それ が一カ月の
、
弥陀仏に育てられた生縦だった と思う点が
弘の生滋は 今になって考えると南無阿
私 の 自 叙伝
,
、
さんのお母さん迷が来る。それでふとお経
な生涯を作るようになったらしい。
、
とによって
私には水予のことで母親が新し
、
い念仏ができるようになりお拝みを強くする
改めて数十年前まで むろんみたこともな
、
を続んで何になるんだと考えてみる度に 私
、
終く母親がなくなって 五十年が経ってから
、
疲近漸くこの五年この方、特別に
、
ようになったということを思い出すのです。
い私の前にでた二人の水子に向って合診し
そこで、近来 私は胎教のことを全国で線
、
の上に水子が しかも二人もあったではない
同時に来るお母さん迷にも 「あなた方が前
、
今まで何とも忽わないで来たが 八十
総したけれども 、そ れに深く峨じたのは母親
、
かと
に失くした水子が可愛そうだとか すまなか
が兄弟の中で特殊に胎教をし、よくまた後生
、
にまで生ぎて来たのは兄弟のうちにも兄と私
ったとか 、後 の子供が丈夫に脊つようにとか
を想い念仏を申された時であったからだと云
、
と二人だ 、あとの 兄弟は皆死んでしまった。
思いなさるのはもっともで、訟が水子を失っ
、
それが了度少ない箆の実にすると大ぎな突に
うことを
菊の樹
出を減らすと大含な花が咲く
この二 人 の水子の後牲でなったとか た。」とこう場えるようになったのです。
、
たことによって一番長生きすることになっ
、
なるとか
ように
反省と動労と煩悩
、
てしまいます。
、
、
、
、
つとめ
ない三困層はあり得ないと同じように
供獲してくれたとかで弘がこの長生舎の大き これは数千の水子のお母さんを眺めていると後でありますから深く感じております。
、
、
賢い人は、自分の過ちを教えられれば 反
、
てもらいたい」
、
、
、
、
、
、
自分の過ち
皿思かな人は、つとめ
省をして改めます。皿思かな人は、
励むことを知らないで ロに入れるためにはそれを邪魔している煩悩
を鋭かれると、かえってその過ちを再度霊ねただ良い給呆だけを求めます。しかし土台の の火を消すことを さ 8 にすべ晶ぜです。
、
。
励むことがなくて よい結来が得られる管が
あるとき釈尊はこう怒られました。
金持ちで窓かな人がありました。ある時
ありません。
気が早くて怒りっぽい努がいました。ある 高く鋒えた美しい三層の家をみて自分も高
O
時 その男の家の前を通りかかった二人の人 械が欲しくなりました・
ある 人が剛山を熊ていました。そこへ叙友が
が噂をしました。
早速大エを呼んで処罰慌を命じました。大来
エたので鐙を御馳走しようと思い 火にかけ
「ここの人は大変普い人だが、気 の早いの は まづ器礎を作り 地融問を立て、二階を組た玄宏 国であおいで冷やそうとしました。
と怒りっぽいのがいけない」
んで三層に進むことになりました。これをみ
しかし火から下さずに担いでも、蝉取が冷える
すると男が出てきて、持ち前の怒りっぽさ た主人は いいました。
道理がありません。
を発きし 二人の人に打ってかかり 乱目撃を 「私の求めるのは一-一層の家である。基礎
悠や
かな人は 煩悩の火を消きないで 清涼
しました。
地階や二階はどうでもよい。平く高絡を作っの悟りという鐙を得ょうとしますが ついに
得られる道理がありません。悟りという蜜を
、
- 23-
•
のお目さ
まは、王
さまの御
殿の花墳
に咲いて
いるカン
ナやケシ
の花の色
より・もも
子
の
正
宏
、
ムヲタ
1
王子はいいことを
動くのを見ては心をなぐさめてい志した・
ある日のこと
思いつきました。
「そうだ、ボクもいかだを作
ってこの池 に
浮かべて遊ぼう」
そう決めると王子はさ っそく自分が祭れる
トのような自よけをつけたいかだができあが
、
ロビンソン
、
クル
、
王子 はす っかり有頂天になって
、
御殿の庭にシカやサルを飼ったりしておりま
、
、
「ゎぁ すごいぞ
のよりも立派だなア。これならば海へ出て
、
どこか述くの涼しい国へ行ってみたい
大丈夫かもしれないぞ。このいかだに乗
、
って
も
1
ると
て
、
水のよにできる淡の給や、木の葉の品川が とひとりごとをいいました。そんなことを
}人ほっちの王子はよくその池のふちに行っ なア」
、
ー
した。けれども図のならわし巡り おひるに
なるとこの大陸も、そればかりではなく動物
、
たちまでもがグウグウと寝てしまうので 王
子はそれがとても不服でなりませんでした。
、
「ぁァ ボタはどうして こんな暑い国の王
子なんかに生まれてきたんだろうなあ・みん
なひる寝ばかりしていてち
っともボクと遊ん
でくれやしない。つまらないなあ:::」
ました 。まひるだというのにどこへ行ってし
、
といつもそんなことばかり つぶやいてい
うにじりじりと地面に照りつけるのです。毎
という王子
ー
御殿のすぐわきに 大きな池がありました
ま ったのか一羽だってやさしい戸を聞かせて
、
ムッタ
げでひる寝をして過ごしました。
、
、
ひとり子だったので 王さ
この国の王さまには
、
ソ
まは王子の遊びあいてに大医を一人つけたり くらい大きないかだを組み始めました。テン
7
k ゆ
日、暑い臼が続くので
、大人 たちはお臼さま
ど火が燃えているときの よ
2昔
くれるような小鳥さえもいなかったのです。
う
王
t
め
口
•
の高いうちは仕事を休んで樹の下や家のか
っと赤く ち
、
官問の悶
童
がありましたが
-
一 24
一
ないか」
、
だれかがムッタ
王子の名
1
ま
ウがその両端をくわえて笠の大旅行が始ま
りました。ところがどうでしょう。ハクチ冨
g
しゃいましたネ。でもそれはおやめになった
ウたちの湖が近ずくにつれて笠気が冷めたく
っ
のいかだに乗って遠くの国へ行きたいとお
方がいいですヨ」
なってきたので友だちはすっかり来くなり
、
「ねえ ヵ〆さん、それはどうしてなの」
とうとうクシャミをしてしまったのです。も
、
「それならば話してあげましょうか」
「王子さま、よその土地はどこでもみなよ
る大けがをしてしまったのです:::』
『わたしの友だちがあると命、この池に遊 ちろん地面まで続ちてコウラにひびをいら姶
びにきた二羽のハクチ mウと親し〈なったの
です。そしてそのハクチョウから、北の国の
そこへ行ぎたがると 、わ たしの友だちのよう
湖は水がとてもきれいに緩んでいて気持のい く見えるものなんですよ。けれどもむやみに
いところであることを聞かされて、すっかり
な自に合いますよ」
ハクチ笥
いなあ」
、
「それならば
ムッタ
1
王子さ ま
、
これからも毎日
、
王子がねむりからさめたとき 池
お絡をしてあげますから」
この池にいらっしゃい。わたしがいろいろな
、
涼しくて 友だちのおおぜいいる国へ行きた
「ふーん、そうかなあでもボクはやっぱり
に つてみたくなっ
たのです。わたし
たてもたまらなく
なって連れていっ
、
てくれるように一
生懸命
ウに頼みました。
の簡にはもう夕方の涼しい風が吹きはじめて
aウ
二羽のハタチ
いました。
した。
ハジャ 1タカ一一一五より〉
王子 はまたあすもこの池で遊ぼうと思いま
はためら っていま
相談のす
、
、
の友だちは一本の練をくわえ 二羽のハクチ
えに連れていくことに決めたのです。わたし
「ああ、カメさんかい、ピックリするじゃ したが
「王子さま/こんにちは」
に甜酬を出していいました。
あたりを見まわすと、一匹のカメが水の上
えを呼ぶのは、一体、だれだろう」
「はてな、こんな池の其ン中でボクの名
まえを呼ぶのです。
どまできたとき
湾えながら王子のいかだが池のちょうど中ほ の友だちは、やも
,rエニー
「ムヲタ 1王子さま/あなたはさ っき 、そ
- 25-
さと
2三
d、
ある・
、
、
の
、
早口でまくしたてることとな
、
す・こうなると舷替はますま
窓要な役割をmm
す然立って
、
る。もはや万策っき 三十六計黙るにしかず
そ
の一
士ロ
する苦楽 τあって
、
、
この雲築をロにした相手
、
ものらしい。野蛮人とか人喰人綴とかに相当
、
待 刷版切りが最も下等な腿倒の周紛となった
、
これは以前に歌舞伎劇が かの地で公演し
幹
前
聞きおぼえの片言をならベ立てる
、
腹
のが精一杯で 後は主として乎ぶり足まねが だしものが忠臣蔵であったのでそれ以来
い限りで
害j
グルの思い出
-Y!
こち
の慾mu
たちとよく口論をした。監督としては
戦後ソ巡に抑留されていたとき 工事現場
、
骨国禁の意味の違いで
時には商白いことが
•
、
て決められたものであるから
その組のノル
、
いのが本心である。従って監管とはいつも喧
眺めるという次第。こちらが黙ると、それに ものであった・
ハラキリ」
を鶴倒する順序となる。
「サムライ !
、
こちらとし
、
るわけにはゆかない。今度はこちらでも燭倒
、
、
したくなるのも人併で 事実そんな場合も度
「何を鍔助め」
先方として は、三千世界にこれ以上ないと 々であった。そんな時は
、
これがまた甚だ心細 裁にして 立ち去るのが普通である。
、
、
ることとなる。こちらがニヤリとすると
、
さ
おは和解ということになる。
、
いうより訪問更慈くない紫銀りを示し逆
てに
と相手は必ずモデモデして温和しくなる。と
ては、侍の腹切りといわれて、思わず苦笑す と思いきり大戸でどなりつけてやる。する
ては兵隊たちに無浬のないよう仕事をさせた いう最下低の関宮のつもりだが
マの遂行を目標にやかましいし こちらとし
マとは述せられないのが当然で、監献 Uはノル
、
境で 伝普の努力をした場合の仕事盆によっ 比例して相手は激昂する。遂に相手はこちら 監督と痘噂をして 馬鹿にき れ てばかりい
知ったことでない。しかもノルマは最良の環
らとしては、先方が勝手に決めたノルマ等は相手がロ角泡をとばす光景を半ば来れながら の方が恥かしい思いで以亦になるという位の
ノルマだけは仕事をさせたいだろうし
翠
後
野
話
実
こちらが一応ロシア訟に通じ すが囚人相手に鍛え上げた監管君も瀕を其
、
嘩ということになる。
こう申すと
ているように見えるが
- 26-
命、略
、
これは相手にはロスキーと聞えるらしく
こちらの共産諸氏から禁止させられ
、
、
ゲルハ収容所
ー
||
かくの如くソ述人にとって 最下劣の言葉
たので
、
第一から第六まであったラ
ー
ゲルの
聴診部制は
、
ったことがある
その軍医は何がおかしいという顔つき
、
に持って行った。外の兵士が思わずフキ出し
たが
笑うに笑えず図
、
またわがデクにしろカラスにしろ
一千人単位〉め医務室で突淡する事件が起きだったので
認のや途で「息抑却さん」と呼びかけられたと 「侍の腹切」を わがラ
、
悶じ結来となった。しかし「露助」という言
築は
、
、
一方を山崎者の胸に他
方を自分の耳・にあてて結局績を向いたまま診
、
同制裁で玩具のラフパのような形をしている。
た。要するに帝国主義時代の言葉を禁ずるとソ巡側-同が前世紀の怪物が出現した時と木
、
、
入院室を有する別機なので 一寸し
、
、
さすが日本の軍医は あちら側にもこちら
控刑することとなる。
-名 日本衛生下士宮ニ名と衛生兵宕千とい
医務室の構成は ソ連寧医二名、日 本軍医
いう布告が幽されて それ以来阜、めてしまっ じように吃驚仰天したのも無期唱ではなかった これを片手に握って
た。
もう一つ例を挙げる。初対面にはお互に氏
名をいうのが礼俄である。その時、こちらは うわけで
、
海名
、
見上げるよ
医の一名は、海名を『アクといい
、
、
日本
療を行い 午後からは-般のソ巡人から初聞か
、
軍医には織成があって 事実彼一人が鯵断治
に近くなる等といわれながらも やはり
「吉野さんです」という如く、自分の名前をた田舎の病院というところであった。ソ述寧側にも信頼されていた。寧医三年やれば紫人
さんづけにしておく。もちろんこちらのお互
、
、
女官串医中・紛ウでズベック
、
、
また救世の
、
れて往診に忙しかった。医は仁術とか 敵か
さすが女性らしい愛婿があって らも味方からもあげて尊敬され
、
どちらが綴か顕か判らぬ伎に色が
をカラスといい
一名は
同士も 必ずさんづけで呼び合うように注意 うに大きな・身体であった。もう
、
する。従って致督務君もこっちを呼ぶ時 例
人らしく
、
えばどんなに怒っていても どんな文句をい
黒かったが
、
うときも、「吉野さん」とさんをつけてく
、
衛生下士宮の-人は安藤曹長で 立派な体
る。恐らく日本人の氏名の語尾は「さん」で評判は怒くなかった。そして主任務が誌退治
仕事をやってのけたのは日本軍医であった。
でないかと思われる位に 気退治に熱心だっ
、
格をし 柔剣道の迷人ではなかったかと忠わ
ラーゲルに来る寧医は程度が低いとみえて せる像丈夫だった。技術の点でもソ述軍医よ
、
終ると彼らが理解したのであろう。こちらと
た。
、
しては・如何なる場合でも決して悪い気持は
、
しない。事情がたて浪んで監替がどなり廻
、
これが風変りな男で
、
営業も動作も全部
彼が診察を行った。もう一人は絞伍長
、
り数等よの信頼が待たれ 日本箪医のいない
、
総珍総}つ持っていなかった。ある時外を
、
、
時は
、
行軍していて 兵士が気分が忍いといい 寧
まことによいものであつ
で
、
怒っているのは
医に診断を乞うたことがある。やがて第医は
、
E しかしこれも共産諸氏が相手方に内報す
れ,
、
兵士のボタンを脱させ 自分の耳を兵士の胸 女性と同じであった。またラーゲル淡世窓会の
、
るに及んで 自然になくなった。
っている時も 後かれなしに「さん」づけで
27 ー
-
ラ ー
ゲルから運び去
であった。デクの如きは腰でも抜けたか呆然 死体はその日の内に
許容線}つあるわけではなかった。そして同じ
、
花形でもあった。どこから都つ
合けるのか、
られ 翌日墓地に埋葬された。墓地といって
外にとび出してしまった。
、
どこか遠くに転
、
盟自に はソ巡寧医ニ名とも
、
任となり 日本軍医も他のラ ーゲルに移され
後になって雌}人感綴しないもののなかった その政由について錐も知る者はなかった。医
、
それなら安藤曹長が何故自殺をしたのか
をそのままにして
、
普段でこそ女形であったが どこにこれだけ
、
さすが日本軍下士官森伍長は
、
自失 夢でもみている如く座ったまま動かな
をあげたまま
、
和服益で胸高に帯を結んだところは、 どうみ
も日本兵士が何人も緩められたというだけで
、
鍛突であり 親
、
一応片づいたわけである。
てしまった。こうして事件は裂簡のシg ヲク
、
のカがあったかと思われる位の活縦ぷりであ
こうなると
、
かった。さすが女のカラスは 奇妙な叫び声
、
当
ても「女」であった。そればかりでなく
日の出演者の治付か
ら化粧に亙るまで、一人
、
で世話をするので 演芸会になくてならね一
、
人であ った。「わたしが舞台に上ると、腰の
あたりばかりみているワ」等といわ
れ ると
「彼奴の怨丸みてみたい」という兵隊が現わった。身体の大をな安藤曹長を組み伏せて
まことに勤勉であり
、
れてくるゆえんである。しかし一度勤務とな
メスをとりあげ、 手早く処鐙を行った動作
は
ると
し
、
- 28-
、
、
結局死
思いつめるような事があるとも田耐えなか
、
藤曹長は 健康上も、勤務上も立派であった
、
務笈勤務は 例の労働に山山るわけでなし ソ
、
った。
切であった。特に入室息者の中には彼の沼程
波、見 務なことであ
連側からも一応の待遇を受けていた。当の安
とってしまった。
った。あれこれ推理を行 ってみたが
、
かし何ものに対する抗蛾だったか この点に
一段下ってしまった。平常は業用アルコールの杭聞であったろうということになった。し
この事件のおかげで ソ述軍医の株がまた
、
当のかひなく出血多量で 間もなく息を引き
、
ぶりに対し終生忘れ待ない感紛の念を持って しかしカ自慢の安藤野長の刻版なので 手
いる者が多かった。
きである自の午後三時頃、大陵性気候のま
、
暑さにうだつた医務室で 安
、
、
継も不思綾に思うものがなかっ を一滴残らず飲んでしまっても
、また 炊事に
肉の配給があると上等のところをピンはねし ついてどう考えても納得できる事がらがみつ
、
た。その安藤曹長が裸になると、いきなり捌
たにしても、議にも薬にもならぬ二人であ っ
、
一つはソ迎軍医のラーゲル迎営に対する抗
れた。
の怠見の指ったのに次のニつのことが符えら
、
理由闘は何か判ら山両ながらどうやら一同
からなかった。
からメスをとりだし 、わ し掲みにす ると 自分
突発事故に出あって何んの役にも立た
、
たが
何しろ突然も突然 暑さで気でも狂ったか ないことを続明したばかりか、いかに女でも
のである。折から日本軍医は往診のため不在判のよいわけがなかった。
伝説的存筏であった剣肢が自の前で行われた軍医でありながら逃げてしまったカラスの好
、
の肢を目茶苦茶に切りたててしまった。
ふくのかと
藤柑
unが
xいきなりシャツを脱いだが 身体を
ん中にあって
•
あった。
シャツのよに防寒外恋〈
、
たくなった。便所といっても 七八十米は隠
、
、
様であった。外傷は別であるが下痢にして
、
れたところにあり
、
も風邪にしても、体温が八度以下の者に対し例の女カラスが 急に罰則検笠を思いたち
、
動に立たせ カラスが笹だ失礼な検笠をした
、
仕事場ではノルマが待ってい 帝国軍人術生首長殿をまっ線のまま復立不
、
、
ラーゲルの中を
、
わずかに星明りをたよりに
独りゆくのは なれた所とはいえ余りよい気
、
ては患者扱いをしなかった。従って当然労働第-に安藤曹長を葉線にして検べたという。 日本製の毛皮〉を活てゆくのであった。広い
に出されるし
た。多少はこちらの演出もあったと思うが
、
ロクに歩けそうにもない者
とは信ずる方がおかしい位であった。
、
、
たしかに誰かが 石灰をまいている気
、
かであるが音が聞えてきた。写をすませてい
、
朝整列して労働に出かけるときに、両院を戦 という。しかしまさか、そのために制限した 持はしない。使所で用をたしているとかす
友にかかえられ
、
ると
、
結局のところ 安藤管長の制服の原因は
まで労働にかり出された。しかしこれは冬か
かった。しばらくすると奮がやん だが
周を
、
闘ってくれた。また共産主義の攻勢に対するすませたので外に出た。何の相凡なしにいくつ
ラーゲルのソ述将校もこちらの味方になって
督相手にノルマの交渉が続いた。この交渉り
はとてその他の音とはどうしてもきぎとれな
、
ままに終ってしまった・そして相変らずの監 便所を消毒する者があるとは思えないがさ
、
配と感じられた。もちろんこんな其夜中に
、
ら初互にかけてのおで いつか戦友に支えら 践しも解らないどころか 想像さえできない
れて労働に出かける風景もなくなった・
、
初夏から真夏にかけて ラーゲルでは南京
、
、
虫に攻められて図った。夜目がさめると 壁
ご閲南京虫が動いていた。これをつぶすと
、
、
、
獲が 目-杯に映るような気持になった。思わ
た。すると簿く見えていた白いなりの兵士の
、
それをみた途端 あれは安藤曹長だと感じ
いて行った。
りをした兵士が一人 医務箆の方に静かに歩
、
いざこざがあった・この攻勢は臼本人同士の もある小屋と小口織の繍丁をみたと白
きいな
秋も過ぎ
、
壁-面がまっかになった。時には寝台を分解
、
、
決してソ巡将校は強制しないし 監
もので
、
してまで消議することがあったが 不忠雄な
管はこの点になるとこちらの味方になって
、
ことに消議のあった自は一層南京虫に攻めら
日本人共産路氏に対抗してく れた。これらの
、
れた。とうとう小屋を南京虫にあげ渡し 人
、
、
聞は外に寝て ようやく船舶を免れたものであ おは別のこととして 夏が終り
、
、
毎日の疲労の程度は 帰国の夢
、
そなえて早く限ろうとすると衛生下士の白
、
に馳込んだ。毛布を頭からかぶって明日に
、
一8の労働を終って帰ると 寝るのが}革命 ずプルツと・川河がふるえ一目散に自分の小屋
る・しかし明方は毛布-枚では寒くて自が覚積療の冬がきた・
、
める位に冷えるので しまいには下痢息がふ
の楽しみで
、
be 衣が般にかぶってくるのであった。
のだがもう}つの理由は更におかしなものでそんなある夜 フト自が党めて使所にゆ
安藤曹長がこうした実情に抗綾したという さえ見せてくれない位であった。
えて闘った。
- 29-
、
、
、
JI頃
主住
近代高僧伝
宝
俊
、
人とな
、
、
った。故国にあって法務にたずきわっ
、
って居 るべきではない
、
東京に出
、
、
、
、
治よ寺山内に設けて 九月雑誌「来光」を発
、
、
ったという。 そして明朗であり
商もそなえていた。
、
ハイカラな
大正といえば何か三普も凶品目もするといっ
、
た古い時代という感がするのに彼の住家に
、
は電話もあればガス燈・匂鈴ーもあり水道も
まわりはガラス戸。事務室には大事務用
、
ひかれていた。軍制実は別殺してベッドがおか
れ
、
のデスクと回転精子もそなえつけられ オル
ガンもあるといったような近代的設備がほど
こされていた。彼のもっていた万年第はアメ
1
、
オ
と骨一
えば
回
7ンであったと す固
い
、
、
リカから初めて一ダ 1ス輸入され 丸相官から
先り幽されたオタ
ルガンもひけば自転車にものった
、
文化の先端をゆく人であったかが想像でをる
、
仏教唱歌の普及には特に注意をむけ
、
、
に従事したが 彼は一二河古武士の風絡をそなつくって 大いに少年少女たちに宗教的感化
、
、
、
で融通性に欠けていたが 極めて親切な人で
て宗門のためにつくしたいという念願にもえ え 東奔西走寸暇をさいて仕取をしたせい を鼓吹したこともゐった。彼はご聞笑に頑凶
にひきこも
ていた彼も 長ずるに及んで何時までも回舎 行 自坊貞岩寺を来光支社として発行と経常ていた。そればかりではなく仏教少年協会を
であり
り
明治十一年特には父を失い その秋問的 と改題されるや 彼
来陣柑琢道とはかつて仏教音
d は主怨古河をたすけて専 とにも心を傾け
函館寺に入り日木隆実について得度し仏門のらその経営にあたり 三十一年には来光祉を 楽会を創立したのは明治四十一年三月のこと
六名村に生れたのは元治元年八月サ五日であ の雑誌がサ二年古河老川の手にうつり「仏教」 であろう。従って仏教に音楽をとり入れるこ
本多講の家老梶唆次郎の長男として
額悶郡 ふみいれるきっかけとなったようである。こ
をかく保守的であった教界において いかに
ゐった人は梶笠順であった。彼が=一河国岡そ
崎もそも宝抑制をして宗門出版文化の上に足と
、
橋
明治から大正にかけての頃 宗門文化のよ 回行践をたよ って上京し その後西条公道と
に賀献した人は数多いが その先駆的立場に はかつて「能潤新報」を発行したが これが
大
一時は引きとめられたけれども 同十九年街 か日常生活も緩めて規則正しく時間的であ
ー
- 30
梶
あり
、
、
的著作であり 宗門文化に対する一代の功績
り
、
、
時には償り時には泣きw
甘んで 三者の聞
又実行家であった。新らしい空気を給
常制法然上 人行状画図」 は終生における代表 く宗務所 ・僧 上寺 ・伝送隊員の聞を走りまわ
、
自己築制m中
- のものと
、
、
しかも
報いられて
、
級滋教師
文金伝送の功によりコ一
とりまとめに努力した。その功は認められ
進んでその実現につとめようとした人で
であったと述べたことがあった。思うに此の役
にすいとんで消化し
し
、
ある。何事に対しても刻苦精励し兵衛自な は四十八巻伝を袖珍ポケット型とし
、
、
それだけに全 文中に綿密な写真版の絵数十枚をのせ標顕 締教に任ぜられた。大正二年には祭会殺員に
性格は設からも岡怖をあつめ
間四年八月法嗣と定めて
、
、
いた勝道がなくなり 且つ彼の病状が東京在
更に索引をそえるなどし 選ばれたけれども
、
には見出しをつけ
、
仏教界
く血みどろになって努力した仕事は
て捌帯に伎なるようにした法然上人伝であ
、
、
、
、
、
、
要務
る。この位のことなら維にでも出来そうであ 住を併さなくなったのを機縁として、小 問原
それは完成されてからの話。着服誠に の常光寺に移られることになった。時に「官民
の先踏をつとめただけではなく 多くの仕療
を迷成する原動カとなった。
、
、
のを学び
その中でも文部の出版と 伝道文化容業は るが
、
、
u 刊号を出して廃刊を宣言され
大設すべきもので、「行誠上入金集」 の如き 結構桝なこのような念ては到底凡人にはできる光」h終
ただひたすらに淋しい乍
三十二年一月出版されたが それは突に二十 ものではない。申品販のような常に新らしきもから一切手をひき
出版を手がけ 読者がどのような らも静穏な療養生活を送り 念仏生活に入る
、
、
大著を世におくつたということは経済的に
、
、
、
ではない。
、
、
、
、
れる事もなく 静かに安養の浄土に婦られ
、
、
かったらしい。曽って渡辺海旭は彼の著 「 教区の北部伝道隊長として 何かと疎通を欠 阿知足袋服和尚という。
、
、
、
は毎 日街道に出て法を説いた。どの町にも東京に巡れもどし世話をしようとする人々を
は「仏教小説統切物経連夜説教」という善か之
丞とか角張成阿 ・熊谷底突をとり扱った仏教どの公閣にも伝道隊の出なかったことはなかしりえに 同十四年五月大殺の浜辺に入水自
的色彩を濃厚にもつ通俗的な小説もあったっ
。たというほどの日々の巡統であり 又それ 殺をとげて一生の幕をとじた。彼の最後は淋
四仁
上
けに 活
これは可成りヒットしたようで売れ行きもだよ
w 気を呈していた。その頃彼は第一大 しいものがあった。法名を幸運社仙批人
り
の多くは何等の報酬を求めることもせず
ねて移住し 纂守されていたが 苦悩になや
は浅草吉野町の自坊貞岩考に経世容院をつ侶く
に要のほ まされ側近者を図らせることも様々 ために
中に 名誉をもすてて宗法閣内隆のため法
当時八十八冊もの単行本を発行し
然上人の七百年御忌当時 布教を志す僧 た。時に年五十七。夫人も後世にあとをゆだ
も容易なことではなかったであろう。勿論法彼
、
五日夫人珠子のほか誰}人の肉身にもみとら
た成采であり のみならず九百三十六頁もの んでいる人でなければ容易に発想でをるもの
織者の門をたたいて資料の蒐集をつづげられものを求めているかということを適磁につか
七年から計画を立て 五カ年の閥たえまなく
31 ー
、
こと六カ年に及んだが 遂に大正九年一月 十
-
,
升
一
霊
家
幽
一
一
旅先きの珍談
冬
の
勝
月も末
途中さまざまな体験をいたしまして
、
海を渡って北海道の小椋に渚いたのが十
一月
も末の頃でした。
、
来る日も米る日も営又宮で そろそろ東京
へ帰りたくなって私の胸を悲しませたもので
した。いくら私だって東京には秘の帰りを待
っててくれる人が一人や二入居たんです から
お察しを綴います。繁躍平衡をチョイと外れた
その晩は特のロからお客間怖がつめか定
け刻
、
でしたが
どんなに辛い使い走り同様の前座
います。手前共の絡の中に凶て来る人物は
、
には身動ぎならぬ認の大入消口特にあと二
イとなるいい思い
a
で満ちて居ります。その晩の高度の芸なんて
師匠から行けと守口われた先 れると言うんですから楽震は久しぶりに笑声
、
ヒ回イとするとヒ
いうものですが
、
でも
、
てえと熊さんに八さ必 それに繍丁の御隠
日でここを打ち上げればなつかしの東京へ帰
、
の一つも出来ょうかと甘い夢の一つも見様と
11
、
御存じの
、
ように修業中の若い者は旅鑓に泊るなどとは
さてこれから本問題のお穏で すが
言うもの は生緩に何度も出来ないと言う穫の
いた前中もないような街道の宿場を-つ一つ
、
いて唐りますが 今日どうやら人さまの憾に
こう申して
、
も上るような抑制板になりましたがさてこう
打って行くと官うんですから管をあげました はり切りょうで、お客織にも大変満足して頂
速い北口の取なのでどんな顔ぶれだったかは
いて拶出度く閉ネとなりました。
、
いい柳校ハ故人V芝楽(故人)五郎なんて言
倍「若えうちの旅の修業は、そのまんま身に
、
いませんから端折りますが この修業の中の
師匠文楽に激励されて出発したのが十
、
つくんだからしっかりやって来いよ」
と
-つに旅と宮うものが入って居りました。
と言う楽尽泊りです。魚の生干しと沢陣地に御
手口叩飾さん、
が線電球が寒々と光っていよう
、
は旅館へ 私を入れて前紀の朋鍛とお雌惜し兼
、
いえ今日は苦労話をするのが目的ではごう
ざ悪友が顔付けの中に居りましたんで勇気百夢にも考えられない時代で 兵打ちの締匠逮
大変な苦労を積んで居りますんで。
は何ですが今の若い方々には分って頂けない っきり思い出せませんが、品
中な耐引に普段仲の
なる迄の修業なんと宮うもの は
、
とまア高度でロを 一つの資本でお給金を頂 が北海道で それも陸前浜街道と言う今迄聞
八
居さんと決って底ります。オイ熊公何だ
、
まい閥抗ばかばかしいお話しで御綴織を伺
で東海巡あたりの宿均々々を来り打ちするの所のOO座ハ鹿名は御かんべん願いますて
真
何人かの気の合った者向
志が弥次符多気分
- 32-
、
•
、
デ
、
夕
、
タ
ヮ、ヮ
lll
』
何が山山たんだよツ』
、
途鑓盛り込んでしまいました。
、
ナ
、
アキにやられたら
1-
後を頼むぞ、ナムマイダナムマイダと入る前
次が芝楽で||俺がユ
ただ震えているばかりです。
『ゥ、ゥ
と言うと手の先をフラフラと膝のあたりで 『デ
飯 御飯だけは沢山食べて下さいとこれは驚 れこうして出るんだ』
く稜大きなおひっに 一杯入れてありました。
みんな
、
、
『ナ
さア飯にしようかと一向車座になったその時 錬るんです。
『ひえツ』
、
縛ッ気味の感いもの
、
ll
』
ンと人の名前を呼んだ
さめざめと泣くじゃないか
7 1
『どうしたもこうしたもお前 女が泣いてる
『お前どうしたんだよツ』
て出て来た。
楽屋の抑帯電球以外は真ヲ陣。御采内の方
からぶるぶるです。この芝楽も隠居まで背くし
、
思わず額を見合せました。
る
きア大変 昨盟主は帰っちゃう酒はなくな
、
『お前逮今夜はよくやってくれた。これは鐙弘途は今迄の陽気きは何処へやら
座主さんが一介統一本持ち込んでくれ
、
のほんの心持ちだ、}杯やっておくれ』
と
ました。するめの足かなんか鳴り乍ら腹ヘキ
でございますよええ。
、
んだ、何とかちゃ
行って来ないと図る嘆になった。ええい世相え あと
さ 7寝ょうとなったが寝る前にどうしても
7
品ツと泌みる奴をめいめい茶碗に注いで人も
総多いと思いますがぬ人気のなくなった劇場
、
には聞かされない 馬鹿話を者にグイグイとや なんてものは、そりゃ
りはじめますと
『お前速に話しておくのを忘れる所っ
だた
健の言うことを必 ず守 っておく れよいいね』
、
と座主が真剣な顔つきで坐り復すからみ
、
クガグです。
、
者をおどかそうたってその手に来るかい 俺
と言うんですからもう誰も入ろうときう者
ら江戸ヲ児だい、一丁俗らが一審乗りとやっ が居ない。そこでやおら立ち上った私が少し
、
ろつながって行ったんですが あすこは}人
、
んな何事かとロへ行く手を止めて座
主のロ併
これから明け方まで 間違 って
、
つけるか、者ども続け、てんで玄人がぞろぞも騒がず なんてのは強で正直な所 膝がガ
、
をみつめました。
『いいかな
になる所なんでこんな時には絢に不使 『中で何か変った事があったら精わず聞けて
で鴻nH
。
も組問屋の便所へは入ってくれる済
なまない
まるで遺 言でも するような気持ちです。
くれよ』
です。
経初に柳校が勢よく戸を開けてやっとか何
が速くても客席の方のを使ってくれよ』
、
『貌方 便所がどうかしたんですか』
とか鈴戸かけて入った迄はよかったんですが
授を織にして戸を聞けて中に入ると中は兵
『出るんだよ』
ニた呼吸もするかしない中にガタンガタンと
、
、
閥 便所の窓から雪明りがかすかに入って来
『へ? 何がです』
大ぎな音を立てて哀ヲ車問な踊酬をして出て来
また
す。暫くじっとしていますと 地獄の底か
、
『分らない奴等だな レスだよ〈醐鐙》。こ
-33 ー
‘ー
•
1
ン』
ら問えるかと思われる速い所から
『おきくさア
ツと
と細い女の戸がイ γに響いて問えます。
、
ヒ 1
第で恨めしくも悲しくも聞えるとい
ま
ったん
った具合なんです。伎な時間にこれ
だけの容がば ッと分 ってし
ですから当時から〈当時は文七〉小
ッ
「ひえ ツ」 と思った途端 、ヒ
勝は大変顕がよかったわけですな。
1
女の泣き声がさもうらめしそうに聞えます。
それにしても人が感い、座主には
、
それでも動かずに等協伸して居ますビ
とュー
翌日おどか すにも 程がある 私述だ
、
ッ。これは完全に雪を捲く風の音
1
危な
、
、
、
ある時 世尊はこう話
されました。
満々たる河の流れに
渦
、
いかにも楽しそうに見受けられた。俸に
「流れを下ることを止めよ。下流には波が立ち
、
立つ人があって 筒'を慨して叫んでいた。
速くなり
舟を浮べて下る人があった。下るに従って品川あしも
欲
ン』
、
Bct7
として思わず首を引っ
1
。
、
、
、
、
、
、
、
品川の人のカが弱いためかやがて一件び品川は液れに乗
、
かね 、そ れを知らないもんだから今
前よりも迷く 下流に進んで行った。
、
それに執渚することをいうので進むに従
、
ってますますその流れから離れられなくなるもので
・
をゆだ ね
ここで「河の流れに楽しく下る」とは 愛欲に身
、
って
これも本当に知らなかったら
、
迄随分気を使って来たんだよ』
と
しいんです。馬鹿に幕切れがアフケ
便所の隣りがチョイとし なかったと仰有るんでしょう?そ
、
これを通り越した所が大きな
徒ら に悶じとこ
、
一一用抜け出し難い姿をいう。
こうなっては
それがす智てやがて「渦」のあるのは、
、
うなんですよ。今時怪談欄しは流行 ある。「波立つ」とは 悠りと悩みの生活のことを
、
た広場があり
りませんからね。私もこの辺で失礼
、
、
、
ことをいう。出汗で叫ぶ人とは仏をいうのである。
、
沈んでゆく界の姿が やがては滅びゆく生活に焔る
、
「わにと夜叉の住む淵」とは 写楽を求め 愛欲に
ろをぐるぐる廻って
逆って欲楽が婚し
、
料理屋殺旅館の調理場なんです。と 訪けばも
きして頂きましょう。この旅先きで
いうので
うお分りでしょう。女中さん同志が朋悠を呼
の珍談奇行の数々は 又何れ時を改
、
び合うのか、それとも女中頭の 人が女中さん
、
さア府本へ
めて申上げる取として
。
の名を呼んでいる。その兵うしろが丁度この
、
ったり、聞く方の耳次
J
を吋
行く時間です。皆臨時御機嫌よろし
じゃありませんか
込めましたが よくよく外を見ましたら驚く
と釆ました
『おしげさア
ますと途端に今度は
もなるんだなと分りました。大分落活きを取 りますよと撚じ込みますと
舟の λ の耳に 熊で叫ぶ戸が入ったとみえて 俸
り戻したので窓から首を出す線にして耳をす 『へえ。あれは隣りの物店目だったの の方に品川を向け始めた。しかし流れが速いためか
、
です。ハハンこれは風の誉だ 風の強弱で女
ったからよかったものの
ほかの人
があり わにと夜叉とが住む制酬がある。そのまま下
の泣くような戸にも問えれば咽ぶような戸にに話したら劇場ののれんにもかかわ ってゆけば まもなく死なねばならね」
ッ。ビュ
愛
開かずの楽摩便所になる次第 風の具合でこ
れが聞えたり問えなか
- 34 -
い
員
だ
、
よ
、
り
って
、
、
、
中にあ目
一の
、
先鍍の宗祖御途忌は
は失敗しました。その第一一ほと一
乙
版しました ζ の人は仏教にも側一
一
書
一
何号とな〈鈴刊日が一定していな一油
心田が
り料開学入門
さあ
まに
一
書札
と仏教は今や文字湿り悶商楚抗原
一やというζとでした。それと同じ 一して鍛せんいたします。
、
、
、
、
、
をなくします。《愛知
それ…
創刊以来一
に文曾伝巡の釜一節さ、は
、
山間〉
・
、
自然と亥柑怖が結成一
さだ
けではあきられてしまいまナ。…
十数年を経た今日でも滞感して一
い
Av近頃若い人たちの聞で 不思被
、
も凡人情で会員になりたいという一
信
近代は慣れたと申 し 宜ナか
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、
、
一
、
一・
何かもう一沙文総として一
勧
文浮捌を気取ったP また柑脇村一
宇町
靴下をはき、女の人で民援を綜
- 35
、
とができ
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、
した。惨殺前一
解散のかたちですが 皆
ま
、
一じます。ハ視ぬ
し
、
んと共一
がおるそかに流れぬよう戒心ナベ一でしょう。少な〈とも他阪人
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酬H山〉
・
・
、
、
陵中〉
一
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学汲」初に「宗教不鍍と宗教不信と一
皆無だからと患います。宗教家の
小品位がどう努力してみても一
以
の
…
奮起を忽みまナ。〈崎去
前の成刷用はもとよりζの
と、事実一と題 ナ るや さしい軒目竿入門書を
尚
はいまや一般的な傾向である」と一
が
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人心の変化といえばそれ主でです一
一と題す る務績を務見しました。そ一妙
動務し 今は芸大の助教授である
一ハv小企の悲殺している高校に以前
一
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て再発足してみ ました。終戦後の
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、
山・
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一野
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後の曲献金がおさまって再び支鶴 一
愉快の念を与えてよいという乙
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に集まれば穆土があるというば一
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勿論議一で、できるだけ実施しま7 、幅制自販される、
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一め第一斡を出版しまし売。仏教一宗教の俊英についてお考えなの
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まという簡単な勘行を行いますが 一に限らずすべての酔需品似の伝道一
、
、
一〈大 切 な ととは ただ線総を銃む一
その絢剣豪猿干のゆえに ほんとう
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ていまナ。その当時 毎月一団信一
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し〈覚えるとされています。私
て成長しない ζとを知りました …思いながら実行できなか ったが、一殺
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一行が一絡にならな〈て一今回「一
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、
•
一
一
•
つ
の
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、
す
、
…観音様にお詣りするに
まづ
は仁王門をくぐらねばならな
、
、
キリスト教では 天国に至る門は
、
川い。他家を訪問するにもやはりその家の門をくぐらねば
…ならぬ。門は ある特定の場所に入るためには是非くぐら
、
、なければならぬものである。
信仰の場合も同じで
… 狭いといわれている。仏教でもまた「仏門に入る」といっ
その第一常に
、
しかも型遊をすて
…て 、 仏教の修行をするには「仏教の門」をくぐることをい
っている。
、
まさしく浄土に帰するの文」
、
選択鈍を開くと
、
(二)
信
常
路
中
旅
竹
~t
き
、
、
、
m
そう簡単にはゆかなくなる。そのどち…
それをくぐって中に入ればよいのである・ところが、山
一つしかないのならば
る。
て
、
、
、
仏教には八万四千の法門といって 数山
、
それぞ一れにすぐれた内容と深い意味がそなわってm
、
それは徒らに空し山
いづれとも判定を下しがたい.自分の能力をぬき
、
、
、
それだけにその到迷する境地も低劣なものとなっ
自分の宗教的理想を満足させることが出来なくなる。…
選べば
い努力といわざるを如何ない。また自分相応の低い法門を町
してむづかしい教門に入ろうとしても
おり
みても
多くの教理教説の門がある。しかもそのどれ一つをとって山
そうでなくとも
らかを選ばねばならない。山
ニつあるとなると
に
問題はない。誰も彼もみな平等叫
と密かれている・仏教の中に二つの門のあることが知られ
ら
選択集私解
や
…パリ見物はエタフ且ル塔と凱旋門から始まるし浅草の
一
「道料術師型 道 浄土の二門をたてて
山て
ー
- 36
•
吋そこで
、
人々は 迷うのである。 一体
うした迷いに対して
、
自分はどこへ行った
、
古来多くの祖師逮はそれぞれ自
らよいのか。どの門をくぐったらよいのか.
、こ
、
問分の体験と所信をもととして 会仏教を 体系づけているの
著〉の文を引用して
次のように説明している・山
、
、
今日ではこれを実際に体現する
「聖道ハすぐれた道〉は
、
ことはむづかしい。何故なら これを説かれた釈尊が亡っ…
、
、
てから久しい時がたつてしまったし また その理論が深…
遣で解釈が実に微妙であるからである。だから大柴月蔵経
w
…である。たとえば天台宗では金仏教を四つの教えと五つの
、
というお経には 仏法がすたりおとろえ、悪道のさかえる…
…時期を立てて体系づけており、、
真
宗るでは
さと
り言
に至
、
そのいづれもが
、
最もすぐれた
最もよい教
、
いまだ雄一人として仏になった、のはないといっている」…
、
末の
にい
なってはいくら多くの人々が
・ 仏道を修行しても …
…心理的段階を十に分けて、人間の宗教心理乞整理
し役て
ω る。そして
それは
、
末設の人々にとっては無駄なものであり 人山
、
、
これ
は で折
角最上の教え 最良の道を示めしてくれて…
…門に人を警」うがために努力しているのである。
天で台
は
、
、
も
、
山お酒でいうならば 一番波厚なトロリとした芳惇な味を持
制
m
々は永久に救われないことになってしまう。こんな「門」山
、
'V
…つ醍醐ハだいご)にもくらべるべき
円熟完成した「法務
、
、
本当の商売というものは、買手の都合を考え金
てのな…
二 二つの道…
に人を導くのは「売らんかな」の商業主義というほかはな
、
動物のような粗野な 荒々しい心から 段々に純化さ
、
一番すぐれたものをすすめてくれること
、
…経」の教えを最上のものと、し
人て
々にすすめる。其言で
山は
m れた微妙なはたらきをする第十の「秘密荘厳心」に至って
、
mさとりの境地に入ることが出来るのであると教える。
…一番よいもの
、
安楽集ハ道綿織師
、
、
、
m
本当の仏の道ではあるまいか.そう山
、
何としてでも救い刈
、
しかも少しでもよいものをすすめるべき
上げようとするのが
ょうはづはない。そうした人聞をこそ
このような世に住む人聞に
、
い人には安くて
、
そし
れは買手のフトコロ
…はありがたいことである。しか
、
川具合を考えずに 高価なものを押しつける商人に似て い
である。現在はまさに末世末法であり 五湖悪世である。…
どうして「精神的金持」のい、
、
川る。「よい」ことはわかっているのだ
やが
はり買手にも
刈色々と都合があるのだからむやみに手を出すことは出来
…ない.選択鈍にはこのことについて
-31-
してこそ
、
・本当の仏者といはれるべきではあるまいか。
、
そこで宗祖ははっきりと
、
、
、
なぜ浄土門を選ぶのかというと
、
それは繰り
自分に口うことの 出来 る「浄土門」を選べと教え
、
.
、
、
、
である。難行道というのは にごりけがれ
、
、
しかも釈尊も 叩
去っておいでにならぬ末法の世において不退転の信仰を …
第一に
、
、
、
仏教を信じな い人 々がみせかけの普行をして
仏道修行をしているものの善行をまぎらわしくする。
、
悪 い人聞が他 人 のよいことをするのを邪魔す
、
自分のカだけをたよりにして
…
仏の偉大なるカ …
、
苦
m
いまの枇には限りなく行われているが山
丁度 自分の足で 山坂多い陸絡を旅するように
、
、
闘った考えでする行為が仏教の正しい修行をう 山
、
、
を知らぬ.…
第五に
ちこわす.…
第四に
る。山
第三に
第二に、自分だけさとればよいとする人々が大勢の 人山
を救おうとする人の修行をさまたげる。
…
山「たとえ聖道門を学んだ人でももし浄土門がよいと忠っ
硝立することは非常にむづかしいということである。その山
…たら すべからく聖道門をすてて浄土門に帰すべし :::」
理由はいろいろあるが 五つほどあげてそのわけを明かに山
…とい って 買いたくても買えぬような高価な「聖道門」は してみると
山
m やめ て
れでは
時 られた。
同そ
…かえしていうように 、 いわば「精神的貧乏人」でも気兼ね
…なく「 くぐれる 」門 だからである。気兼ねなくくぐれると
、
、
こうしたことが
これは
。
、
ただみほとけをたより信じて 浄土に生れ 山
38 ー
-
いう のはどう いうことか。それはこの門に通 ずる道が平々
…坦々とした安らかな道だ か らである
、
、
、
このことについてし ばらくみると
、
…「このよう に 仏教を二つに分けることは 道梓締師だけ
… でなく 曇鷲 天台 迦才 怒思などの方々も やはりそ
問う であった。ここには曇 鷲大師の往生繭註という本 に よっ
、
山てみると 次のように脅かれてある。
しい 道である
電樹菩躍の箸曾十住見獲沙輸には大
、
、
つつしんでみるに
易行道とは
、
みほとけが建てられた本願のカにのってm
、
、
ただちに往生することが出来るということで たとえば
山意以下 の如く に述べられて いる。修行して仏に成ろうと努
、
ニつの道がある。一つには難行道 二つには易行道
ょうとねがえば
、
m カしている菩躍が
、不 退転の位(くらい〉に至ろうとする
には
•
、
、
しく旅をするようなものである。
…船〈ほとけの本願)にのっ楽て
、
…である・そして この難行進というのは先にいった型遊門らばせよ
…のことであり 易行道と いうのは浄土 門 のことである」かまわずに
、
苦難に耐えがたい 人 もいれば
、
、
人を して
その能力(機構〉に ふさわ しい道をえ
、
いたづらにむづかしい
。
、
m
困難な道を行かせる ω
であるのか 。その前にたたづん で
山
m
しばしその風姿 …
一二つの経典と一つの稔著ら
か出来ているので m
、
それに他の様々の経愉が装飾や屋根や軒ま…
句。
nwd
ここに本当のすくいの心が師くのである。相手…
、
、
どのような「門」であ
門の骨組みと土台
、
決して真の仏者のとるところではないのである。
、
三
、
木
.丹背に 彩られた都中麗な円であるのか。あるいは…
易行の道に通ずる浄土の門とは
…そこ で さきには「門」といって 、特定の場所に入る入ことは
1 いまはそこへ至るにはどのよ うな
…ロについていったのを
、
「道」があるかということを説明したわけである 。ところ山
川 が私共 人間には足弱わな
、
て行ける強健なるのか
敢然として苦難に立ちむかつ
…意志も強く
、
、
、
門」くわしくは「往生浄 …
出発点 で よく自分のカを考えをたのしむのも決して無駄であるまい。
、
旅土門」とは
、
必らず目的地に到迷出来る道を選ぶわれわれがくぐるべき「浄土の
、
世の中の大部分の 人 は足弱わで
、
、
…心の人々もいる。旅足
な弱れ
な
い 苦難の多いの目も鮮かな白木の門であるの堅
か牢にして荘重な石造…
わな
人に
も
無理のない
い。 だから
歩めと い っても無理であり、途中でへたばってしまりの円
…陸路を
、
… うにちがいな
山 てみて
m べき である 。しか
られており
、
折角わりに用いられているのである.したがって 浄土の門の 山
、
蛤岨の道をある。いわば三つの経典と一つ の輸を骨組みとして組み立…
、
である 。て
…なれていないのである。いつの世においても
…踏み行くことの出来る 人は き わめてまれ
、
宗祖が晃られたのは 験飽 な山道に行きなやんで
、
、
この三経と 一論をよく読むことが肝要で
…
… の「信仰の旅」を途中であきらめてあらぬ方角にそれた構造を知るには
… り 、道ばたにうづくまってしまったりしている大勢の人々ある。…
p-
、
、
念仏の衆生を w
ω のあわれな姿であった。このような「智轄のまなこめしいその第一の無量寿経は無量寿阿弥陀仏が
…行法の足なえたる」 人々を、無事安穏に目的地に連れてゆ F救いとろうとして誓われた四十八の願いとその仏の本願 山
、
町を信じ 、とくに第十八番目の「もしわれ仏を得たらんに
・くにはどうしたらよいか。これが宗祖級生の念顕だったの
山 十方の衆生
ょ
至心に信楽〈しん MC う)して、わ が国ハ浄
、
、
…土〉に生ぜんと欲して乃至十念せんに もし生ぜずば正覚
、
、をとらじ」という願いにしたがって、念仏をとなえみほ
t
間
むと 、心 の底から極楽浄土に生れたいという願いが湧きお山
ζ って来る ようである。
次に 一輪とは天親菩躍の脅かれた往生論のことである。
山
、
、
、
天親菩麗ただ一 人 弥陀信仰の川
曇鷺大師はわざわぎこれの注釈曹を執筆さ
上からこの本を密かれたので 、この意味でこの論は大切
、
天親
人 であるが 元来 、イ ンド時 川
…とけの救いにあずかるべきことを鋭いたお経である
・捜同離というのはインドの
…第二の慨無量痔経というのは、うひ
にじ
劇的に構成さ 代の仏教ではアミダ仏の信仰はまだはっきり
父王
、
…れたお経である。マカダ国の王舎城に住む阿間世という王のえなかったのであって
、
…子が悪 心を持つ提婆という出家にそそのかされて
、
ているのである。往生輪は主として安楽世界に往生するた ω
てにに
はこお
れをし
殺しこめ
ものとされ
…と母のイダイケとをは室
w てしまおうとするのであるが、月光という忠義な家臣にい
、
、
このようなわが子を生んだおのれの罪の深さ
、
また 一人の女として 死を目前にした身の悲運と不
、
、
おしえが導き出されるための もとの論拠がここに求めら m
、
ロ称念仏につきるのであるが 弥陀本願の専修ロ称念仏の ω
、 ずればそれは
詮
…さめられる。他方、イダイケは牢獄にとぢこ母
めとられ めの五つの方法が説かれている。むろん
制して
… 傘をなげき
、
、
、
、
、
、
れたのは
、
、
、
たためば選択娘
、
、
、
。
かなめは一枚起蛸文」
この疑問に応えるためだったのである
、
という宮築が深く味合われるゆえんである。〈文学博士〉
「聞けば三部経
、
れるのである。従って これは 浄土の門の土台 または礎山
…にめざめ 釈尊の導きによって弥陀の極楽のあり様をあり
…のままに思い浮べ、仏の名号を唱え、その本願に釆じて若
石をなすものとして抜くことの出来ぬ大切なものとされて …
いるのである。山
山の境涯から救われて行くことを叙述したものである。この
川
ところが いくら大切であり ありがたいとわかってい
…お経については 特に 普湾大師が注釈を脅かれており
…それだけにこの経が浄土教にとって大切なものであることても これだけのものを全部よんで しかもこれを寝解す …
…が知られる。
、
現にその土において鋭法されている阿弥陀仏の気高い
、
…第三の阿弥陀経というのは 極楽の美しさ 楽しさを描
m き
、
…お姿を手にとるように説き示 めしたお経で このお経をよ
40 ー
-
由
一
し ます
。
一念」をお持ちなれば乙そ
…致
、
と感服 一ナ
@
k
んが元
先生は相変らずご多忙で 次
。
ます
一と 剛帽
の暖まる暇もありませ
凶〈〉中山磯秀先生は明治三十三年初 "〈〉特訓滋学後
よに
る「 等院と布教」 …気でど活胞 になってい
、
、
、
…
…
一応に金札 早師相関英文科都中絡 一度 絞会をお 願い し ました 。所 属 祭…〈〉水口芭宏氏以定大大学院国文学
一教負を 畿で、昭和十三年芥川賞た後と支が違っていますが、何ん に在学
中ですが、
児童研究部の中
一受けられ 長い作家生活た続けて 一とな〈騒#し V現代にあ っ て、日 一忠一として働いています。
。
一ο牧尾喜一先生の中国語践は 、数
一おら札ます。 「人生の宙実」 は先…常にお考えのととをお絡し願った
一紘一の体験をそのまま綴られたも の一わけです。従って哲也'も銀笛な一
わ多い 中国 の材料から選ぶにど苦労
…けで 、 いつつきるともなくお 鰍 が一なさってい ます 。 心不可得の心は
市で す
、
、
をカ
、
いと
乙う犯すより外によ V
・はついに他人から は得られな
…
…のEとで
の絡
とで大汗をかいていま ・に前自さが わります。心《心緩V
ζ
。
ヲとさせていただきました
そ 一した・総萄の 関 係 で いるいる
一をかける
の…
者 EEると V う乙 とと心機という意
一O 推陪弁匡先生は お自が不自問 一一はずみました。そのため句会
向にかか わ らず 以前と少しも変ら …・万が図ってしまザ お慨にプレ l キ 一政と両者を然ねて窓旅 すると乙る
、
日ぬ御活 照 ぷりです。ど俄阪の併す
乙とは
の人に先生に 桜 Tる機…題
Mかぎり 穐方に凶ら れる
一れ だ け多〈
一会を与へるととで、有難 vζとで一ζ とを
、
お綻 びし ます また 編集 部 号唱がみつかり ません でし た 。
佐藤両氏の写実を会員各~0 吉野田事
y速
後に抑
斡氏は、抽斡酔職
一す 。自叙伝として「水予と念仏」
一の水谷
T
。
、
…
附土門の も 見渡す限
制
、
P樹木一つな 〈
、
。
夏にな
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m一
m遊牧の人速が時 お P平 mE 出
惜開
慣切っ
トてゆ〈外は何もない所 だそうです
それに械で修 一の選択集が先生の麗鍛を通して会
@
何回珊陀さまについて絡 の…れば掌も枯れてし まうそう
、
位に紹介の窓味での せま した。 …m即されていた方で ζの割腹事件
Vうお匹舶
は先生のどまゆをのべ一
…。竹中借金主の選択一集引を解俗 …は事実をそ のまま書いたも のです
目られたに MZPません
、
Vよ本鎗に入り
す 一つ窓隊
一OE カ相松太郎先生夜、各方衝での一
vよ
mC活四階
ぷ P は肢も知るととみで
、
・
れてきま -かかる荒野での制級でした。
主2}7 ハ
QU :ー前v』 十
五
金
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錬えられたお抜体がも …乙とにふ れて下さいました
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昭和三十六年七月二十五
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