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2013(平成25)年度公開講座講義録(PDF 4.07MB

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2013(平成25)年度公開講座講義録(PDF 4.07MB
平成 二十 五年度
大手前大学公開講座講義録
集 う
衣 ・食 ・住 ・遊
︱衣 食 住 遊︱
平成二十 五年度 大 手 前 大 学 公 開 講 座 講 義 録
集う
目 次
総合テーマ 『 集う ― 衣・食・住・遊 ― 』
第一回(四月二十日)
27
5
ワークショップ
ワークショップ
「正しい知識と技術を学ぶには」 ……………………………………………… 浅利 辰雄
―2―
装う ― 着物作家からみた日本の美 ― …
……………………………………… 大松 紳一
「染織技法・型染 ― ステンシルでポストカード制作 ―」 …
……………… 今福 章代
第三回(六月十五日)
29
第二回(五月十八日)
茶の湯とやきもの ……………………………………………………………… 岡 佳子
第四回(七月二十日)
51
第五回(九月二十一日)
和のしつらえ …………………………………… 上方料理 大和屋女将 阪口 純久
第六回(十月十九日)
ワークショップ
「和ろうそくのお話と絵付け体験」 ……………… 有限会社 松本商店 松本 恭和
―3―
第七回(十一月十六日)
上方の芸、江戸の芸 …………………………………………………………… 柏木 隆雄
第八回(十二月二十一日) 「芸能:神さまごとから楽しみごとへ」
実演:人形芝居えびす座 演目:えびすかきによる「えびす舞」…
………………………
Performing Arts: from Spiritual Communion to Enjoyment
…
…… 村瀬 智 53
87
119
89
147
第一回 平成二十五(二〇一三)年四月二十日
装う ― 着物作家からみた日本の美 ―
大松 紳一 (おおまつ・しんいち)
「しっかいや」という業種を、皆さん、御存知でしょうか。主に古い着物を洗い張りし、再生のための
加工をしたり、派手になった着物を年齢に合わせ染め直すなど、いわゆる着物に関して、どのような要望
にも応える。そんな職業です。その家業を父から引き継ぎました。漢字で「悉皆屋」と書くごとく、染め
き
じ
に関しては、無地染、黒染、型友禅、手描友禅など、すべての職先を廻ります。
五、六年手伝っておりますと、古い着物だけでなく、白生地に、自分の好きな柄(模様)を染めたくな
しょく かた
り、毎日廻っている職方さんを観察し、見様見真似で ―― 職人さんの所へ修業に出ることもなく、作家
え
ば
つけさげ
に就き、伝統柄の模写、運筆、写生など、基礎技術を習得することもなく ―― 全くの我流で、最初は身
内の黒絵羽織や絵羽コート、簡単な附下などから始めました。運が良いことに、時代が戦後復興期と重な
り、作った着物が売れ、面白くなり気合を込めて、作るようになりました。
そんなわけで、基本の修業を全く積んでおらず、我流もいいところですから、着物作家と呼んでいただ
―5―
くのは、面映ゆく、おこがましい限りです。どうぞそのあたりを御諒解下さり、広いお心で作品を御覧下
さい。
では着物の話へと移ります。
そこに飾っています振袖(写真1)は、私の小学校の同級生の娘さんに初めて作った振袖です。スタイ
ル抜群、可愛い娘なので、何にもとらわれることなく、面白いと思うまま、好きに作りました。良く映え
るようにと帯も色を選び織りました。好評で、席が映えるからとお茶の先生から所望され、何度か着て下
さったそうです。
次のは十五、六年前に作りました留袖です(写真2)。素材は古典柄の亀甲ですが、新しさ、めでたさ
を表現したくて作りました。染め仲間から「大松亀甲」と好評でした。ちなみに、この留袖は学長柏木氏
の奥様が着用下さってます。
つ づ い て こ ち ら の 訪 問 着( 写 真 3) で す。 早 朝、 日 課 で 散 歩 し て い る 京 都 市 内、 梅 小 路 公 園 で 早 春、
「いのちの森」と名付けられた林間を抜けますと、光が若葉に射し込み、凄く新鮮で気持の良い若葉のト
ンネルです。新緑の生命感と緑陰を抜ける感覚を着物に表現したくなり、九カ月かけ何とか完成しまし
た。今年(二〇一三年)二月、小売屋さんがお客様に売って下さった折、今回の講座の話をなさったとこ
ろ、「一番新しい作品ですから、是非これを皆様に御覧いただかれたら、仕立をせず仮絵羽で展示なされ
―6―
こしらえ
ば」と、皇居の園遊会には以前にお拵え下さった私の着物で出席されました。私は一度も皇居などへ行っ
たことはありませんが、三年に一度くらいはどなたかがお召くださり行っています。記念品でしょうか、
菊の御紋が入ったものをお土産としていただいたことがあります。
次は訪問着です(写真4)。柏木氏が「夜桜見物に行こう、出ておいで!」と誘って下さり、夙川の夜
桜を観に行きました。隣りの席となった年配のおじさんが、話の非常に面白い方で、話が弾むうち、「家
内に、この夜桜の訪問着を作ってやって欲しい」となり、作りました。少し時季遅れですが、夙川の桜と
いうことで御覧いただきました。
次はもみじの訪問着(写真5)です。ちょうど今の時季、新緑の薄い葉と葉の間を春風がスーッと通り
抜けて行く、その様子を表現したく、写生を入念にし作りました。
次はチューリップです(写真6)。日本・オランダ通商百周年記念でチューリップなら馴染みがあろう
と仰り、作りました。写真ではボケていますが、もっと鮮やかで、金色と黄色の混ったロマンチックな着
物に仕上げました。次は附下です(写真7)。私が色の中で一番大切にしているのは「白」です。白はど
の色と並べましてもその色を引き立ててくれます。この白をメインにすればどうなるか、と作ったのがこ
れらです。引き染め屋の大将に「こら商品になりまへんで! 襦袢より酷いでっせ!」と言われながら作
りました。引き染めというのは、刷毛に染料をつけて反物を一気に染める技法です。今ならも少し気の利
―7―
いた色に染めるでしょうが、きっと洋服にも対抗出来る面白い作品だと、今も思っています。
次へ移ります(写真8)。私の着物を気に入って下さった方が、有馬温泉へ招待下さり(落語家とその
弟子と四人連れ)、大喜利まで演って下さり、芸子さんまでお呼びになり、何せ落語家、鳴り物はお手の
み
と
もの、夜遅くまでドンチャン騒ぎとなりました。明くる日、正月明けで雪が降った中、温泉につかり庭を
見ていますと、植わっている垣に雪が積もり、美しい景色に見蕩れていました。で、招待下さった方に礼
状に添え、その景色を絵にし送ろうと描いていました。そこへ染色職人さんがお見えになり、「この絵で
まきのり
と伝えても、双方の意図は、十年近く付き合わないと伝わりません。もっと深く付き合いますと、職人
さんと喧嘩が出来るまでになり、本物の付き合いとなります。私の下画を見て、「こんなん絶対よう染め
ん!と思うてるやろ! やったろやないか!」とお互い喧嘩腰で作れるまでになれば、面白い物が出来ま
す。有名な染色家は自前で工房を抱えていますが、私はそうは出来ませんので、思いと違って変な物が出
―8―
着物を作らせて欲しい」と仰いました。そしたらまた別の職人さんが「これを基に着物が作りたい」と言
②)と、全く別の世界が染め上がりました。
われるので、黙って時間差で同じ絵を渡し、出来たのがこれらです。片方は得意の撒糊で(写真8 ①)、
ろうけつ
片や蝋纈で(写真8
-
私は、四十名程の職人さん達とお付き合いがあり、各々個性、得意不得意があり、作品と合う職人さん
に頼んでいます。一言に頼むと申しましても、口で「もう少しはんなりと」とか、「派手に」「地味目に」
-
来たり、思いがけぬ面白い物になったりします。それが楽しいです。
次の着物(写真9)は、展示会にお越し下さった方が「私達、銀婚式を迎えます。妻が桜が好きなの
で、桜の着物を頼みます」と仰り引き受けました。年に一度咲く桜、銀婚式なので二十五個の花を染め、
めく
半年後お越しになったお二人が「いくら勘定しましても、二十五個には足りないのですが」と仰います。
で、「 ち ょ っ と 裏 を 捲 っ て 下 さ い 」 と 八 掛 を 見 て い た だ き ま し た。「 私 が 振 り 返 り ま し て も、 皆 さ ん に、
お見せ出来ぬ年も一年や二年はあるものです。それは八掛に染めることにし、合計で銀婚式記念とさせて
)。その島の一つに、お客様の宅があり、旧家で一昔前では、
)。三十年程前、病院の待ち合いで、何気なく雑誌を見ていますと、パリ・
―9―
いただきました」と落語の落ちのようなことで納得いただきました。
次は色留袖、瀬戸内海の図です(写真
実はメインの桐の島がお宅の島、ここは因島、これは向島、ここは本州、こちらは四国今治と説明しまし
でいただきました。半年後、お会いした時、「皆さんに、凄いと褒めていただくのですよ」と仰ったので、
方に、娘に色留袖を作って欲しいと頼まれました。家紋が桐でしたので、桐を中心に染めましたら、喜ん
駕籠で外出なさり先駆けの方が、行き交う人を誰々さんです、と挨拶を促されるようなお家でした。その
10
たら、お客様が予期せぬ程感動なさり、以後、お客を迎えられる折は、衣桁に飾られお迎えしておられる
は次、留袖です(写真
と小売屋さんからお聞きしました。
で
11
コレクションかミラノ・コレクションが載っており、中に、皮をテープ状にして染め上げたのを身体に巻
き付けたようなデザインの服が目に飛び込み、ドギマギしましたので、何とかこれを着物に出来ないか、
と絵を何度も描き直し、思い切って留袖にしました。すぐに気に入って下さる方がおられ、小売屋さんが
仰るには、「見ているより着た方が格段に良かった!」と言って下さったそうで、嬉しかったです。
次は桜の訪問着です(写真 )。一九九八年四月、日本で二度目のソフトウェア工学国際会議が京都で
三千名余りで開催され、出席者に贈る記念タペストリーを染めるよう頼まれました。持ち込まれた図案
は、東山連峰の下、賀茂川、清水寺、五重塔と月、いかにも京都気な図で、「世界中、国も人種も文化も
感覚も異なる人達に配るなら、パッと見て、奇麗!と感じる方が良いのでは」と言いますと、「そう仰る
なら貴方が考え作って下さい」ということになり、一本の桜が満開の絵を描き、三千枚ですから型を彫り
染めました(四〇センチメートル×七〇センチメートル)。その型を活かし、授賞式に着用する訪問着を
)。京都の堀川通りの北に銀杏並木の美しい所があり、通っていると、
染めました。一人は昼の花見、一人は地色を黒にし、夜桜を楽しむ文化を表現しました。
いちょう
次は銀杏の訪問着です(写真
暑苦しい夏からサアこれから秋!という瞬間があり、空の色も蒸し暑い夏空から秋口、澄んだ色に変る。
その変化しかかる表情を捉えたく、日参し堀川通りで写生し、作りました。
何故このように沢山着物の写真が揃っているかと申しますと、滋賀県琵琶湖岸にある琵琶湖ホテルの社
― 10 ―
12
13
長から、「安く貸してあげるから還暦記念個展を催したら」と言って下さり、小売屋さんや知り合いへの
連絡をし集めましたので、このように一部ですが手元に帰って来たのです。
同じ物は二枚だけあります。基本、お断りしますが、一度執拗に頼まれ、先のお客様に説明し諒解を得
て作りました。また、大変手間が掛りました振袖を、始めから色違いで三枚染めたことがあります。
次は振袖です(写真 )。取り引きしている組紐屋が面白い組紐を作られるので、店に来てもらい色々
作っていただき、デザインし染めました。
次も振袖で(写真
)、天使の羽と頭上に輝いているリングです。これをお召し下されば、天上の雲間
で本人が天使になれると喜んで下さると作りましたが、わかってもらえず残っています。どなたか、お好
みの方がおられましたら ―― 染屋に二言は御座いません ―― 店まで引き取りにお出で下されば、差し上
げます。宜しかったら是非どうぞ。
ぢ ぎぬ
というところで作品の説明は終りまして、着物の歴史につき、耳学問で得ました知識を話させていただ
きます。今のように広く着物が行き渡りましたのは江戸中期以降で、それまでは、皇室とそれに連なる朝
つる
とうぎん
廷人達のみで使用されていて、一般人の着用していた物といえば、麻、木綿、地方で自家消費用の地絹、
沖縄なら芭蕉布、山間地では藤の蔓を晒し叩き繊維状にし織る藤絹。着物というより仕事着、作業着でし
た。
― 11 ―
14
15
染めは植物の藍を発酵させて染料とする藍染め、他に紅花を用いる紅染め、炭酸鉄含有の泥を使う泥染
めなどがありました。
古い方の中で染屋を「こんや」「こうや」(紺屋)と呼ばれる方がおられますが、藍染屋をそう呼んだ名
ひ と ごと
残りです。「紺屋の白袴」という諺がありますが、他人事にかまけ自分のことを疎かにしている様をいい
ます。また「紺屋の明後日」の方は、化学染料の無い時代、藍で染めた後、天日に当て化学変化を起させ
かりやす
し こん
むらさきそう
発色させるのですが、「早く染めて」と言われても天候が悪く雨が続くと染められず、「紺屋の明後日」と
きくじん
は当てにならぬという折に使われました。
禁裏、天皇にのみ許された色、麹塵につき話します。手法は、刈安、紫根、 紫 草を乾かし灰にし、色
んな触媒(椿科の植物を灰にして出る金属)を用い、谷の水で水洗する。谷の沢に含まれる鉱物との化学
変化で、緑と黄色の濃い色に発色します。そこの沢への立入りは宮内庁御用達で一般人には禁じられてい
ました。昼、野外での会見の時、衣は麹塵色をしていますが、屋内の広くて薄暗い大広間では、行灯、篝
火で照らされますと、太陽光でない光源に一瞬に反応し金色になり、拝謁者は大いに驚き、禁裏の権威付
けに役立ったでしょう。
今、皆様御存知の数々の色のほとんどが自然界を利用し抽出されていたのは驚きです。
江戸中期となり、貴族社会から商人・武家社会となり、一般人の文化が発展し、今までに無かった文様
― 12 ―
が染められるようになり、例えば、名所図、歌舞伎、能、狂言、四季の絵など、庶民好みの絵柄が流行し
ます。京都で人気のあった宮崎友禅斎が着物の絵師に転向し、その緻密な図柄を紙から絹に染めるため、
こう けち
ろう けつ
米糊を堰にし滲まぬ技法を考案し、その技法が国中に広まり、彼の名を冠し、京友禅、友禅染と呼ぶよう
になりました。京都の円山公園中程に彼を讃え、絵筆を持った銅像が建っています。
型染について話しますと、古来よりいかにして滲まぬように染めるかに腐心し、絞り( 纐纈)、蝋纈、
別に刺繍がありましたが、糊友禅技法は染めを一変させ大量生産出来る画期的な業績です。
おおだな
次に、着物の発展について、本日のテーマ「着物作家から見た日本の美」と通じるような気もしますの
で、思い付くまま話します。
しのぎ
庶民に経済力が付いてくると、三越、高島屋、越後屋、大丸など、今の百貨店、商社の基となった大店
かみさかせっ か
たけうちせいほう
が生れ、各々呉服商が鎬を削り、流行っていた円山応挙、尾形光琳の琳派に図案を依頼、その流れを汲む
神坂雪佳、竹内栖鳳達が、沢山の着物の下画を残していて、時折、百貨店や老舗呉服屋の催される会で観
せていただくと、夥しい写生、古典の模写が観られ、下画、原図の素晴らしさに背筋の伸びる思いに打た
れます。明治、大正、昭和初期と軍需景気に湧き、呉服業界も黄金期を迎えますが、昭和二〇年大戦敗戦
後、壊滅状態となり、戦後、ようやく国力も戻り、新しい文明に依る大発展を遂げます。呉服業界といえ
ば、百貨店、大手呉服店、新興呉服商が〝儲かる〟ということのみで、展示会形式の大掛りなローン販売
― 13 ―
を始め、平成の頃には見るも無残な瀕死の状況で、往時の商い高の一割にも満たぬ現状となっています。
蓄積されて来た先人の技を見直し、美に対する感覚を磨き、消費者に対し、新しい作品で切り込んで行
かねばと思います。去年、ある友禅組合が、全国の中学生以上の若者に、着物の図案を募集なさってい
て、その応募展に行くと、北海道から沖縄まで大勢若者が出品下さっており、それらは皆、生き生きと面
白く美しいので、「わあーいいな! 若者がこんなに沢山着物に興味を持ってくれているのだ!」と嬉し
い気持いっぱいで、次のコーナーへ移りました。そこは、入選作品を基にプロ染色家が、振袖や訪問着に
染めて展示していました。ところが、どれを見ましても、若い人の世界は殺され、古典的な色、柄の配置
で、若者の面白がっている感覚を汲み取り表現しようという気迫、情熱が全く無く、若者をがっかりさせ
たのではと意気消沈、黙って悲しく会場を後にしました。本日のタイトルが私には大きく難し過ぎます
が、今思っていますことを話します。最近は、ネットなどで欲しい情報は瞬時に得られるそうです。そん
な中、情報過多に依り、己をゆっくり育てようにも、自身をはっきり捉えていないことに、何となく違和
なま
感を抱きつつ暮しているのは私だけでしょうか。意図してパソコン、携帯は持っていません。
従来の芸術遺産を知識として知るので見られる人はたくさんおられても、生の刺激を得ようと見に行く
人は減っています。従来の価値基準とは変質し、個人独自の反応で面白いと感じたら、作品と認める。芸
術(美)と呼んでいる物も、伝統の中心にあった芸術の「美しい」という概念から、「面白い、共感出来
― 14 ―
る!」という印象を色んな手段で以って表現された物は、受け手側も認める。そんな状況が巷のあちらこ
ちらに出現し、ある物は長期間、ある物は刹那に消滅、という賑やかな世界と変って行くのでしょうか。
順々にまとまりのない話でしたが、これにて、私の話は終らせていただきます。長時間、お聴き下さり
有難う御座いました。
― 15 ―
〈後記〉
天使の振袖(写真 )の話をしましたが、後日、中年の御婦人が振袖を受け取りに店までお見えになり
ました。その後、その方より、大変楽しげな御写真を数葉お送りいただきました。そこには、袖を訪問着
ました。
に詰められて、古い伊豆蔵製の帯が合されている、美しい着姿で、私自身、納得と満足をさせていただき
15
写真1
写真2
― 17 ―
写真3
― 18 ―
写真4
― 19 ―
写真5
写真6
― 20 ―
写真7-①
写真7-②
― 21 ―
写真8-①
写真8-②
― 22 ―
写真9
写真 10
― 23 ―
写真 11
写真 12
― 24 ―
写真 13
写真 14
― 25 ―
写真 15
― 26 ―
第二回 平成二十五(二〇一三)年五月十八日
ワークショップ
染織技法・型染 ― ステンシルでポストカード制作 ―
今福 章代 (いまふく・ふみよ)
大手前大学の美芸院にある、染色工芸の教室にて、ステンシルで和紙の
ポストカード制作のワークショップを行いました。
まずは、日本の染色について、型染めを中心にその成り立ちと、現在の
型染めの工程を、実演を交えながら説明をいたしました。
そのあと、参加者は京都の職人さんが彫られた型紙と顔彩、豆汁を使っ
て、ステンシルでオリジナルポストカードを作りました。豆汁を定着剤と
して顔彩を刷り込み刷毛で丁寧に染色するコツや、型紙をポストカードの
上にバランスよく配置する方法を学び、美しいポストカードがたくさん完
成致しました。
― 27 ―
また、途中興味のある方々には、染色工芸の浴衣制作のための施設見学もして頂きました。浴衣や着物を
制作するための糊板が並んでいる様子や引き染の設備は、大学設備でありながら染色工房のようで、大変
興味深く見学されました。
― 28 ―
第三回 平成二十五(二〇一三)年六月十五日
茶の湯とやきもの
岡 佳子 (おか・よしこ)
総合文化学部の岡佳子でございます。今回は、「茶の湯とやきもの」というテーマでお話したいと思い
ます。私はこの大学で日本文化史を教えており、「日本美術工芸史」で日本陶磁史を講義していますが、
そこで茶の湯のやきものを取りあげています。この公開講座の目的は、今、大手前大学で行われている講
義を、一般の方に聞いて戴くことですから、講義内容に則して、今回はお話したいと思います。
ゆう やく
近頃の学生は、茶の湯についても陶磁器についても何も知りません。私は、「日本美術工芸史」の最初
の時間に数点の陶磁器を学生に見せます。ある時、「なぜ陶磁器の表面はこんなにつるつると光沢がある
のでしょうか」と学生に聞きました。陶磁器は土で器物を成形した後、 釉薬を掛け窯に入れて焼きます
が、釉薬の成分はガラスと同じですので、高い温度で焼くと溶けて土の上にガラスの皮膜ができます。し
かし、その学生は、「ニスを塗っているのではないか」と答えまして、唖然といたしました。
茶の湯に関しても同様です。私の母親の世代は女学校で「お茶」を習っておりました。私も花嫁修業と
― 29 ―
して「お茶」を習いました。したがって、私の大学時代、大半の学生には茶の湯の知識がありました。し
かし、今の学生の周辺には「お茶」がございません。わずかに高校に茶道部があり、文化祭の時に抹茶を
飲んだことがあるといった程度です。
そういった学生への講義は基礎的なことに終始しますが、ここにご参加の皆様は私の年齢の前後の方だ
と思いますので、「お茶」をご存じない方は少ないと思います。そこで、日本で茶の湯が始まった南北朝
期から、桃山時代前半までの茶の湯に使われたやきものについて、上級編のお話をいたしたいと思いま
す。
茶の湯とは何か
まず茶の湯とは何かということから始めたいと思います。お茶を飲むことは、我々の日々の暮らしで欠
かせません。朝、一日を始める時にお茶を飲む方もおられますし、食事の時には必ずお茶を飲みます。茶
かいせき
こいちゃ
うすちゃ
を喫する、すなわち喫茶は日常的な行為です。しかし、茶の湯は日常的な行為ではありません。茶の湯は
しょう ご
茶会が中心となります。茶会では、亭主が客を招き、懐石、つまり食事を出し、抹茶の濃茶と薄茶を振る
舞います。最も正式の茶事は昼に行う正午の茶事ですが、ちょうど四時間位かかります。この茶事を行う
― 30 ―
す
き や
ために、お茶のお稽古に通い、特別なトレーニングをして作法を学びます。
さし
けん すい
こう ごう
茶会は茶室、数寄屋とも言いますが、このような特定の場所で茶事は行われます。特別の型、すなわち
さ ほう
てまえ
みず
作法に基づいて、客に懐石や茶を振る舞います。茶を点てるためには点前も必要です。茶入、茶碗、水
にちじょう さ はん じ
指、建水、香合などの特殊の道具を使います。特定の場で、特別の型で、特殊な道具を用いて行う喫茶
は、じつは非日常の行為です。「日 常 茶飯事」という言葉がありますが、茶を飲む、飯を食べるという日
常を日本人は茶の湯という非日常の行為へと高めました。
芸能史の分野では、茶の湯は室内芸能に分類されます。茶室は舞台です。演者は茶を点てる亭主です
が、亭主は作法・点前という型の稽古を重ね、舞台に立ちます。招かれた客はそれを見る観客です。茶道
具は舞台に必要な小道具でしょう。皆様方が劇場に足を運ばれ、まったく日常とは離れた能や歌舞伎など
の舞台芸能を鑑賞すると同様なことが茶室で行われる訳です。
南北朝から室町時代の会所の茶の湯 ― 闘茶の時代 ―
特定の場所と型、道具で喫茶を行うことが茶の湯の始まりということになりますが、日本における始ま
りはちょうど南北朝期、十四世紀前半だといわれています。その始まりの頃の茶の湯について述べたいと
― 31 ―
思います。
ちゃせん
そう
茶の湯では、抹茶、つまり茶の葉を粉末にして湯を注ぎ茶筅で混ぜて飲みます。この抹茶法は中国で宋
代に始まります。宋代は日本では鎌倉時代に当たりますので、鎌倉時代に抹茶法と喫茶用具が中国から日
きっ さ ようじょう き
本に伝来しました。これらを日本に運んできたのは禅僧たちです。たとえば、日本に臨済禅を伝えた栄西
は『喫茶養 生 記』を著し、それを鎌倉幕府の三代将軍源実朝に献上しました。『喫茶養生記』に記載され
ていたのが、宋代の中国の禅宗寺院で行われた抹茶法でした。
鎌倉時代の抹茶法や唐物喫茶具の流入を背景に、室町時代初期、南北朝期に茶の湯が成立したと考えら
きっ さ おうらい
から え
からもの
れています。当時の茶の湯を記載した『喫茶往来』に、二階建ての喫茶の亭で、唐絵や唐物を飾り、食事
の後、中国の禅院で行われていた作法で茶が振る舞われたことが記載されています。特定の場と作法で喫
茶が行われたわけですから、この頃に萌芽的な茶の湯が始まったと思われます。
ぐ そく
やがて十五世紀初頭には、足利将軍と守護大名たちを担い手として、「書院茶湯」とか「殿中茶湯」と
言われる茶の湯が盛んになります。これは会所と呼ばれた十二~十六畳の書院座敷において、唐物の茶具
とうちゃ
足を使って行う茶の湯です。私は「具足」と申しましたが、当時は、まだ「道具」という言葉が使われて
おらず、喫茶具は「茶具足」と呼ばれました。この時期には中国風の作法で茶を点じた後、闘茶が行われ
ました。闘茶は茶を飲み比べて産地を当てて、当たった人が唐物の掛け物を取る、いわば、賭け事の遊び
― 32 ―
でした。
ら かん
では、これまでお話しましたことを、画像資料などをもとに詳しく見ていきたいと思います。十二世紀
の中国宋代の喫茶の様相が分かる絵画に、周季常・林庭珪筆「五百羅漢図」(大徳寺蔵)のなかの一幅が
あります。ここでは、羅漢、すなわち仏道の修業者が手に持った天目台の上の天目に、従者が湯を注ぎ、
茶筅で抹茶を点てています。南北朝期の文献である『喫茶往来』に記載された中国風の作法と共通するも
のです。日本に伝来した当時、中国風に椅子に座って行われましたが、書院座敷の発達とともに、やがて
座って行われるようになりました。
いし うす
夏 も 近 づ く 八 十 八 夜 に 茶 摘 み を 終 え た 茶 葉 を 茶 壺 に 詰 め、 木 の 蓋 を し て 和 紙 で 口 を 密 封 し 保 管 し ま
す。秋から冬にかけて茶壺の口を切り、茶葉を 石臼で挽きます。これが抹茶です。高知県の吸江寺には
かく にょ
ぼ
き
え ことば
一三四九年の銘をもつ古い石臼が残り、南北朝期から石臼で茶が挽かれたことが分かります。
だたみ
こ
本願寺第三世覚如の伝記を描いた、一三五一年、つまり南北朝末期の「 慕帰絵詞」(本願寺蔵)には、
かいしょ
しき
初期の会所の有様が描かれています。この頃の建物はまだ寝殿造ですので、床は板敷で、参加者は皆、敷
どう
畳に座っております。奥の壁に三副一対の掛け物が掛けられ、前に唐物青磁の香炉と花を立てた一対の古
れん が
え
銅の花入が置かれています。これが当時の座敷飾りです。中央の絵は歌聖と言われた柿本人麻呂像で、漆
台には短冊や巻物が置かれていますので、ここで行われているのは和歌の集いである連歌会と分かりま
― 33 ―
す。会所の隣の廊下に炉と釜が据えられ、塗り物の水指が置かれています。また台所の棚の上には、朱塗
くみこう
りっ か
りの盆の上に、天目台と天目、茶入や茶筅が置かれています。これらは連歌会が終わって会所で行われる
闘茶のために準備された品でしょう。この絵巻から、南北朝期には、連歌、あるいは組香、立花などが茶
の湯と同一の場所で行われたこと、また、今のように客の目の前でお茶が点てられるのではなく、別の場
いずみどの
所で茶が点てられ客の前に運ばれたことも分かります。
やや時代が下り、室町時代の将軍家の会所のひとつ泉殿の有様を描いた絵画が「祭礼草紙」(前田育徳
会蔵)です。ここでも泉の側に炉と釜が据えられ、側には大きな陶製の甕が水指としておかれています。
従者がそこで点てた茶を盆に乗せて会所に運んでおり、ここでも会所と別の場所で茶が点てられていま
りっ か
え
す。これに続く画面が会所座敷となります。会所の中には、花を生けた多くの花瓶が置かれており、これ
とこ
ま
が将軍と大名たちによる七夕の立花会と分ります。「慕帰絵詞」で描かれた室内は板張りでしたが、「祭礼
草紙」では畳が敷きつめられ、床の間もあります。畳敷も床の間も実は寝殿造の後に出現した書院造とい
う住宅様式の特色です。
四七〇年代に建てられた八代将軍足利義政の東山殿会所の指図を、当時の記録から起こしてみます
一
と、東山殿会所は完全な書院造の座敷と分かります。会所として使われたのは「石山の間」と「狩の間」
ですが、ここには床・棚・書院が設けられています。書院はちょうど出窓のようなもので、ここから書院
― 34 ―
造という言葉が生まれました。また、左側に会所とは別に茶湯の間がありましたが、ここに風炉と釜を据
しゅはんろん
えて茶を点て、将軍と大名達が待つ会所座敷に運ばれました。
さらに時代が下った室町末から安土桃山時代の「酒飯論絵巻」(三時知恩寺蔵)からも、書院座敷の有
様がよく分かります。ここでも茶は別室で点てられています。座敷は畳敷で、襖や床が認められます。私
は授業の時に、学生に「慕帰絵詞」と「酒飯論絵巻」の図を見せて何処か違うかを質問し、寝殿造から書
院造への移行を促したのが床や書院・棚に唐物や唐絵を飾ったからだと講義するのですが、近頃では床の
間のある和室をもつ住宅が少なくなっていますので、大変苦労します。
会所の飾具足と茶具足
かざり ぐ そく
ちゃ
書院には、どのように唐物具足が飾られたのでしょうか。室町将軍足利義政の座敷飾の次第を記載した
くんだいかん そ う ちょう き
『君台観左右 帳 記』などによれば、床の間の中央に三幅一対の唐絵を掛け、前に燭台、香炉、花入の三具
足が置かれます。違棚の下の段には青磁の植木鉢などの飾具足があり、上の段に茶具足が飾られていま
もっけい りょうかい
す。具体的に唐物天目や天目台、茶入などです。
床の間に飾る唐絵は、牧谿、梁楷といった中国宋代の画人たちが描いた水墨画です。鎌倉時代に日宋貿
― 35 ―
りゅうせん
きぬた
易によって、日本に請来されたものです。室町時代になると書院座敷の床に飾られるようになります。南
ついしゅ て ばこ
宋時代、中国浙江省の龍泉窯で焼かれた青緑色の美しい砧青磁の花瓶や香炉、金属の古銅の花入、赤漆を
何層にも塗りかさね花鳥文を彫り入れた堆朱手箱などが床や棚に置かれます。一方、茶具足では、龍泉窯
の青磁茶碗、中国南部の窯で焼かれた茶入、そして天目があります。天目の多くは、中国福建省の建窯で
焼かれ多量に日本に輸入されました。
室町時代の会所座敷で使われた茶具足は全て中国製の唐物で、日本で焼かれたやきもの、すなわち和物
の茶陶は一切、使われませんでした。しかし、日本で喫茶具が焼かれなかったわけではありません。十四
世紀~十五世紀にかけて愛知県の瀬戸窯では、唐物を写した天目や茶入などが焼かれました。しかし、和
物喫茶具は書院茶湯では使われませんでした。和物喫茶具は、寺院や市中の日常の喫茶で使われたので
す。
いっぷくいっせん
最初に、私は茶の湯は非日常の世界だと言いましたが、喫茶には非日常と日常の二重構造がありまし
た。たとえば、「七十一番職人歌合」(東京国立博物館蔵)には、一服一銭の茶売りの有様が描かれていま
す。室町時代、寺院の門前や市中では、茶売りたちが一碗、銭一銭で庶民に茶を販売しました。日常の喫
茶とはこのようなものです。このような日常の喫茶の場で、瀬戸の天目などが使われたと考えられます。
しかし、続く戦国時代に、日常の茶が晴の場に引き出されるようになります。
― 36 ―
数寄の登場
す
き
十五世紀後半、一四六七年~七七年の十年間、応仁・文明の乱が起こり、京都は焼き尽くされました。
争乱は全国に飛び火し戦国時代が始まりますが、この頃に書院茶湯とは異なった新しい茶の湯が生まれま
しゅこう
そうしゅ
たけ
した。これは当時「数寄」と呼ばれ、後に千利休が「侘び茶」として大成した茶の湯です。数寄は十五世
の じょうおう
紀後半に奈良称名寺の僧珠光が始め、十六世紀に珠光の娘婿の京都の宗珠が活躍し、さらに堺の豪商、武
野 紹 鷗へと伝わります。数寄は戦国時代に大きく力を伸ばした堺・奈良・京都の町人たちを担い手とし
た茶の湯でした。
連歌師宗長が記した『宗長手記』と公家の鷲尾隆康の日記『二水記』には、珠光の後をうけ京都で活躍
した宗珠について記載されています。『宗長手記』では、宗珠のもとを訪れた宗長が、近頃、数寄などい
さんきょ
てい
し ちゅう
いん
い六畳や四畳半で茶の湯を行っている、これを「下京茶湯」というと記載しています。また『二水記』で
そうあん ざ しき
も、下京の宗珠の「茶屋」を見学した隆康が、これが「山居の体」をなし、「市中の隠」であり、宗珠は
数寄の張本人であったと言っています。数寄が四畳半や六畳の山里の風情を残した草庵座敷で行われたこ
とが分かります。前代には十六畳ほどの広い会所座敷で、連歌や立花、香などの様々な芸能とともに書院
茶湯が行われたのですが、「茶屋」の記述から、ここが茶の湯の専用空間と分かります。
― 37 ―
けんそう
歴博甲本の「洛中洛外図」(国立歴史民俗博物館蔵)には十六世紀前半の戦国期の町屋が描かれていま
す。京都は道路が縦横に碁盤の目状に走っていますので、正方形の区画の両端に町屋が建っていますが、
中央の空間地に建つ小さな建物が茶屋と思われます。つまり市中の喧噪のなか、家奥で小さな草庵を建て
さし ず
数寄が行われたのです。これを鷲尾隆康は「市中の隠」と表現しました。
『山上宗二記』には、堺の数寄者、武野紹鷗の数寄屋の指図が載ります。その数寄屋の広さは、四畳半
い ろ り
で、中央に囲炉裏が切られているのが特色です。これ以前の、書院茶湯では、茶は別の場所で点てられ会
所に運ばれていました。しかし、この戦国期の数寄の時代から、茶室の中央に囲炉裏を切り、そこに釜を
掛け、亭主が客の目前で点前をする。つまり、現在と同様の形式の茶の湯が始められたのです。かって、
日常の場で行われていた喫茶が晴の場に引き出されて「数寄」が成立したのです。もっとも、書院を場と
しゅきゃく
した茶がなくなった訳ではありません。闘茶は次第に行われなくなりましたが、書院座敷の茶は戦国期、
桃山・江戸時代へと続きます。
国時代に始まった数寄についてまとめます。数寄は炉が切られた四畳半・六畳の茶屋を場に、主 客
戦
どう ざ
同座、すなわち亭主と客が同じ空間で茶の湯を行います。客の目前で茶を点てますので、いかに見事な点
前で点てるか、すなわち点前の作法が重要な役割となります。また、前代には「具足」と呼ばれるもの
が、「道具」と言われるようになります。「具足」から「道具」への変化は大変重要なことですが、長くな
― 38 ―
りますのでまたお話する機会を持ちたいと思います。
数寄の道具
数寄がいよいよ流行する十六世紀前期、ちょうど一五三〇年代ころから、奈良の松屋、堺の天王寺屋な
どの大商人たちの「茶会記」が出現します。茶会記は茶会の記録のことで、客と亭主が集う茶の湯の会合
である茶会もこの時期には成立したと考えられます。茶会記には、客の名前、茶会の順序、使われた道具
などが記載されていますが、茶会記をもとに一五三〇年代以後に使われた道具を見て参りましょう。数寄
た
めいぶつ
の茶会では、前代の書院茶湯でも使われた唐物が使われます。しかし、全てが使われたわけではなく、こ
の時代の茶人の鑑賞に堪えるものが選択されました。
しゅこう
ふるいちはり ま
最も珍重された唐物が茶壺と茶入です。これらには銘、すなわち名前が付けられ、名物となりました。
茶会記には茶席で鑑賞した唐物茶入と唐物茶壺の特色が事細かに記載されています。これらの唐物名物は
堺・京都・奈良の町衆茶人の間で転売され、驚くほど高価格となっていきます。
光が古市播磨
また、数寄には和物道具が使われました。十五世紀後半に数寄の茶の湯を始めた奈良の珠
に宛てた「心の文」という書状が残りますが、その一節で、珠光は「此道」で一番大切なことは和と漢の
― 39 ―
び ぜん
しがらき
境目を曖昧にすることである。しかし、今「ひゑかるゝ」と言い、初心者が備前物、信楽物を持ってい
やきしめ
かめ
すりばち
る。これは言語同断のことと戒めています。鎌倉時代から、信楽や備前の窯では、釉薬を掛けず長時間窯
おに おけ みず さし
で焼成した丈夫な焼締陶器の甕・壺・擂鉢などの庶民の日常器を焼成しました。そこで数寄の道具が焼か
れたのです。
その代表的なものに、信楽焼の「鬼桶水指」があります。これは、縁に帯を廻らせた筒型の焼締水指
で、十五世紀後半の信楽の窯跡からはこの鬼桶水指の陶片が出土します。数寄の茶道具としてこのような
ぼう
さき
水指が制作されたと考えられます。戦国期の茶会記では最も多く使用されるのは信楽焼水指ですが、十六
世紀中期頃から建水も登場します。信楽焼では、棒の先と呼ばれる建水、擂鉢型建水などが伝世品として
残ります。また、備前焼でも建水や水指が焼かれましたが、初期の茶会記にもっとも多く記載される備前
焼は建水です。和物茶陶でも備前焼は建水、信楽焼は水指と使い分けられていたようです。しかし戦国期
の備前建水は伝世しておりません。
こで重要なのは和物茶陶でもっとも早く数寄の場に引き出されたのは水指と建水だということです。
こ
私は、書院茶湯の時代は、茶は別の場所で点てられていたが、数寄では亭主が客の目前で点前するように
なったと言いました。つまり書院茶湯では、水指や建水は客の目に触れることがない裏の世界のものでし
た。しかし、数寄では建水や水指は茶室に運ばれ、唐物とともに晴の道具となります。珠光が語る和漢の
― 40 ―
境を曖昧にするとは、前代の唐物の茶入や香炉、花入などに、和物の信楽水指と備前建水を使うという意
味です。和物が登場したといっても全ての茶道具が和物となった訳ではありません。
戦国期の茶人たちは、唐物や和物の他にも様々な道具を選び取り、茶席に引き出していきます。たとえ
はいかつぎ
ば唐物では灰 被 天目が登場します。前代の龍泉窯の青磁の釉色は美しい青緑色で、建窯の天目も優美な
こうだい
黒色ですが、灰被天目は黒釉の下に黄土が塗っているため、釉色が灰を掛けたようにくすみ、柔らかな趣
をもちます。高台も大きく、口造りも鋭さが消えています。十三世紀頃に中国で生産されたものですが、
なん ばん
こう らい い
ど
き
ざ
え もん
この時代に数寄のなかで珍重されるようになります。朝鮮の李朝の窯で焼かれた高麗茶碗、東南アジアか
ら輸入された南蛮水指なども新たに登場します。たとえば、 高麗井戸茶碗の「喜左衛門」は、大振りの
形、柔らかな釉色、「かいらぎ」と呼ばれる高台の釉薬の縮れをもち茶人に好まれました。
戦国期の茶の湯のやきものをまとめてみましょう。前代から賞翫された唐物が使われます。なかでも茶
入や茶壺は名物として珍重されました。灰被天目・高麗茶碗・南蛮物が新たに賞玩されはじめます。和物
わ
そ そう
では、まず備前建水と信楽水指が用いられ、さらに十六世紀中期頃から瀬戸天目も茶会記に記されます。
茶人たちは「冷え枯れる」という美意識をもとに、次第に侘びたもの、粗忽なるものに美を見出します。
しかし新しい唐物、高麗茶碗、南蛮物も全てが一般に手の入らない舶来の輸入品でした。茶会記には、優
れた道具の条件に「ころ」「なり」「様子」が上げられます。「ころ」は大きさ、「なり」は形、「様子」は
― 41 ―
その雰囲気です。この三条件を満たしたものが名物となり、驚くような高額で取り引きされるようになり
ます。
戦国期のやきものを並べるとすぐにわかるのですが、器面に装飾が認められず、釉色に濃淡の差異は
あっても色は単一です。現在の茶の湯では季節に応じて茶道具を変化させますが、この時代の茶人たち
は、一年中、同じ道具を使いました。季節感のない、重厚なモノクロームの世界が、この時代の茶の湯の
やきものの実態です。
桃山時代の茶の湯とやきもの
桃山時代に入ると茶の湯に新しい展開が生まれます。「桃山時代」は美術史の時代区分で、日本史では
安土・桃山時代といい、その始まりは織田信長が政権を確立した一五七〇年代前半に置きます。和暦でい
かっ き
わび ず
えば、天正の初年です。この時代はさらに十六世紀末の慶長年間まで続きます。一方、日本陶磁史では
き
き はん
一五八〇年代中期の天正一〇年後半に、時代の大きな劃期があります。千利休が数寄を深化させ、侘数
寄、すなわち侘茶を完成させ、同時に和物茶陶は茶の湯の「規範」を超えた創造の時代を迎えます。その
傾向は、慶長から元和・寛永、すなわち江戸時代初期の十七世紀前期まで続きます。日本陶磁史における
― 42 ―
桃山時代は美術史や日本史の時代区分から少し遅いのです。
茶会記が始まった一五三二年から一六一五年まで、つまり戦国から桃山時代の『松屋会記』『天王寺屋
会記』などの茶会記の記事から茶碗のみを抜き出して、唐物、高麗物、和物、不明と産地別の比率みてい
きますと、面白いことが分ります。初期の頃、つまり一五三〇~五〇年代迄は唐物の比率が高いのです
が、五〇年代から高麗物の比率が高まってきます。この時期は和物茶碗の比率は低いです。ところが、天
正十四年(一五八六)に大きな変化があります。和物茶碗が急激に使われるようになり、高麗茶碗と並
び、以後、比率が増加していくのです。まさに、和物茶碗が茶会の表舞台に登場したのでした。
ちょうど、その天正十四年頃の状況を利休の愛弟子の山上宗二が記した名物目録『山上宗二記』の茶碗
いまやき
の項目には、唐茶碗、つまり青磁などの唐物茶碗が廃れてしまい、当世には高麗茶碗、今焼茶碗、瀬戸茶
碗が「なり」「ころ」、つまり形と大きさが良ければ、数寄道具になると記載しています。今焼茶碗は楽焼
の茶碗、瀬戸茶碗は美濃焼の茶碗です。
会記で増加する和物茶碗は単に量が増えたというだけではなく、これまでの茶の湯の茶碗の「規範」
茶
を超えた「創造」があります。「規範」とは決まり事です。先にお見せしたような季節感のない重厚な世
界での決まり事です。では天正十四年頃に急激に和物が増加する茶碗にはどんな「規範」があったので
しょうか。
― 43 ―
べっこう
たい ど
書院茶湯時代から用いられたのは唐物の天目と茶碗です。天目は天目茶碗とも現在は言われますが、厳
密には天目と茶碗は異なります。天目も茶碗は同じく口を開いた朝顔形ですが、天目の口縁は二段に折
そうぐすり
れ、これが亀の口に似るところから鼈口といいます。天目の高台には釉薬が掛からず、胎土が露出してい
ます。一方、茶碗は高台裏まで完全に釉薬が掛かります。これは総釉といいます。これが、天目と茶碗の
「規範」です。
はんづつ
十六世紀になると、井戸茶碗が茶の湯に取り入れられますが、これも総釉の朝顔型ですから茶碗の規範
に相応しています。しかし、十六世紀後半に流行する和物茶碗はその規範を超えました。美濃焼茶碗も赤
楽茶碗も高台は総釉ですが、その形状は腰に丸み持つ半筒形となります。十六世紀末頃に美濃焼では、瀬
戸黒茶碗が焼かれるようになります。腰をクッキリと折り曲げた筒形で、これは半筒型の延長です。とこ
し の
ろが高台に釉を掛けていません。この茶碗は「総釉」という規範を超えます。十七世紀初頭、桃山時代末
期ですが、この頃に美濃焼で白い釉薬をかけた志野が焼かれます。志野茶碗も瀬戸黒茶碗と同様に筒形で
おり べ
高台は露呈しています。しかし、この茶碗には模様が描かれます。これまでの茶碗には文様はありません
ひず
くつ
でした。志野に遅れ、江戸時代初期一六一〇年代に、美濃では織部と呼ばれるやきものが登場します。織
部茶碗の形は歪み、楕円形の沓茶碗となっています。戦国時代の茶の湯の規範は、この時代になると全く
崩れてしまいます。桃山から江戸時代初期にかけて、自由で創造性をもつ様々な茶陶が日本の窯場で焼か
― 44 ―
れるようになります。
千利休の茶の湯
では、最後に、桃山の創造の扉を開いた千利休、その指導をうけて長次郎が焼いた楽茶碗について触れ
ておきましょう。
楽茶碗は、現在迄十五代続く、楽家の祖、長次郎によって焼かれた茶碗です。赤楽と黒楽の二種の茶碗
あめ や
が焼かれました。長次郎の父は飴屋といい中国の瓦職人でした。桃山時代には安土城や聚楽第などの巨大
な城郭が建設され、そこでは最新式の明代の様式の瓦が使われたと考えられています。楽茶碗はこの瓦焼
成の技術と類似します。長次郎も元は瓦職人と思われますが、千利休に出会い、茶碗を焼成するようにな
ります。
在、これらを楽焼とか楽茶碗とか言いますが、「楽」という名称は十七世紀に入ってからの記録に現
現
れ、長次郎時代には、今現在焼かれた茶碗という意味で「今焼茶碗」と呼ばれました。近年の研究では、
な や しゅう
きたむきどうちん
長次郎以外にも楽茶碗を焼いた陶工がかなりいたことが分かってきました。千利休は、当時の茶の湯を展
開させた茶匠です。元は堺の納屋衆、つまり倉庫業を営む商人でした。堺の武野紹鷗、北向道陳に茶を学
― 45 ―
さ どう
はっ と
び、その才能を認められ、織田信長、豊臣秀吉の両天下人の茶堂となり、侘数寄、すなわち侘茶を大成し
ます。『山上宗二記』には、利休は六十歳迄、師紹鷗の茶の湯の法度を守ったが六十一歳から自らの茶の
そうえき
湯を始めたと記されています。ちょうど、天正十年に信長が死没し、利休が秀吉の茶堂になった頃です。
また、天正十四年の『松屋会記』には「宗易形の茶ワン」が使われたとの記事があります。宗易は利休の
たいあん
ことで、この頃に彼は自らの好みを体現させた長次郎茶碗を完成させたと思われます。
天正十年、すなわち利休が自らの茶の湯を始めた頃に「待庵」という茶室が建設されました。待庵は、
京都山崎の妙喜庵という禅宗寺院にありますが、二畳で半畳の床が付いています。紹鷗が好んだ四畳半の
茶室を、利休は一挙に二畳にまで狭くしました。待庵には北西の隅に炉が切られ、そこで利休が点前をし
ますが、客は一人か二人しか座れません。室内の天井は竹天井、壁は土壁で侘びたものです。南側には客
だい め
の出入りのため「にじり口」が付きます。客はここからにじりながら暗い侘びの小座敷に入る訳です。こ
の座敷に相応しいものとして、創始されたのが長次郎茶碗でした。利休は二畳の他にも、三畳、三畳台目
の小間の茶室を好み、天正十年以後、この小座敷が大流行します。空間が変わるのですから、当然、そこ
に使われる道具も変わります。
たとえば、床に置かれる花入は、前代は唐物の青磁や古銅花入でしたが、籠や竹花入が用いられるよう
になりました。利休は自ら竹を切り、籠を編んで花入を作りました。また、抹茶を入れる容器は、前代は
― 46 ―
なつめ
きん りん じ
唐物茶入を用いましたが、利休はそこに木製の棗や金輪寺などの茶器を加えます。長次郎茶碗のみなら
ず、様々な侘茶の道具を利休は創始しました。
長次郎茶碗の諸相
む いちぶつ
長次郎茶碗について詳しくみていきましょう。現在、伝世の長次郎茶碗は十数碗ありますが、最も古い
のは「道成寺」のように口縁が外反した茶碗と思われます。天正八年の茶会記に「ハタノソリタル茶碗」
とあり、この時期にはこの形が登場したと思われます。続いて「無一物」のような半筒形の茶碗が完成さ
おおぐろ
れたと思われます。長次郎茶碗は赤楽から始まり黒楽が焼かれるようになりますが、無一物と同じ形の
「大黒」が次のタイプでしょう。
「無一物」も「大黒」も作為のほとんど無い素直な半筒形茶碗ですが、次に置くことができるのが作為
しゅんかん
の強く現れた「俊寛」と考えられています。この茶碗の作為は、作者の個性などではありません。たとえ
ば、「俊寛」の向かって左側の胴はわずかにくぼんでいますが、ここに左手の親指を置きます。腰の左下
の一部分は平らに作られていますが、ここに左手の掌が当たり、茶碗が手にすっぽりと収まるように作ら
れているのです。口を付ける場所は薄く削られ、内側面の下方は大きく削られていますが、これは茶筅で
― 47 ―
ちゃだまり
攪拌しやすい工夫です。内底には茶をためる茶溜があります。「俊寛」には茶を飲むための工夫が随所に
見られますが、それが作為です。天正十四年に「宗易形の茶ワン」が茶会記に登場することはすでに申し
て づく
上げました。この「宗易形」が素直な無一物や大黒形か、作為の強い俊寛形か論議されていますが、私は
この俊寛形ではないかと考えています。
て ぐせ
では、技法上の特色を纏めてみましょう。通常、茶碗は轆轤で成形されますが、長次郎茶碗は手捏ねと
かたまり
へら
ヘラ削りです。つまり、土の塊を手で茶碗の形に成形し、その後に篦で好みの形迄削るのです。この成型
法では作者の手癖が必ず現れます。お気づきの方も居られると思いますが、長次郎茶碗には銘がありませ
ん。これが長次郎茶碗と判定できるのは、工人の手癖が現れているからです。もっとも長次郎の工房には
うちがま
数人の工人がいたようですので、数種の手癖のある茶碗が認められます。
続いて焼成ですが、これは内窯という小さな窯で一碗一碗を焼きます。赤楽と黒楽は異なった窯で焼か
れ、黒楽の窯の方が高い温度が出せますが、何れも低い温度の焼成です。楽茶碗で茶を飲むと分かるので
すが、熱の伝導率が低いため湯の熱さが手に伝わりません。肌合いは柔らかです。これは低火度焼成によ
けいさんなまり
るものです。赤楽の場合、成形後に全面に赤土を塗り、上から透明の鉛釉をかけ、八〇〇度位で焼きま
す。黒楽の場合、鉄分を多く含む加茂川黒石を砕き、そこに珪酸鉛を入れます。ふいごを使い一、〇〇〇
度程度まで窯の温度を上げます。また、黒楽茶碗は引き出し黒といって、真っ赤に焼けた茶碗を窯から引
― 48 ―
き出し急冷させます。そうする艶やかな光沢が生まれます。
長次郎茶碗はその形状、肌合いの全てが茶を飲むためだけに作られたものです。天正後半に完成した長
次郎の楽茶碗はまさしく、桃山の和物茶陶の創造の扉を開いたやきものでした。
桃山茶陶の創造
これ以後、慶長から元和・寛永期、すなわち陶磁史における桃山時代後半には、多くの窯で優れた茶の
湯のやきものが焼かれます。茶の湯のやきものの講座はここからが本番となりますが、もう時間がなく
なってきました。これは、次回に譲りますが、予告編として、これら創造性に溢れた様々な茶陶を一瞥し
ておきましょう。
ひず
あふ
まず、美濃焼の茶陶です。これについては規範を超える創造の部分で少しお話しましたが、桃山の創造
せ と ぐろ
き せ と
は天正後半の瀬戸黒、黄瀬戸に始まり、慶長期には志野・織部などが焼かれるようになります。戦国期の
茶の湯から信楽水指や備前建水が登場しますが、慶長期になると、歪みを特色とする造形性溢れた茶陶生
産が始まります。さらに伊賀焼という新しい焼締茶陶の窯が登場します。西日本の窯も忘れてはなりませ
ん。唐津の窯は天正末年頃から操業していますが、その他は文禄・慶長の役、秀吉の朝鮮出兵の帰陣の折
― 49 ―
に、諸大名が朝鮮陶工たちを連れ帰り、開窯させました。これらの窯では慶長から元和・寛永、すなわち
江戸時代初期に多くの優れた茶陶を焼くようになります。
講義をお聞きになった皆さんのうち、やきものに詳しい方は、ご自分が知っていることと違うと思われ
た方も居られたかもしれません。実は、やきもの研究は、考古学の発掘により、この二十年間で急激に進
みました。本講義は、その最新の研究成果を盛り込みました。
― 50 ―
第四回 平成二十五(二〇一三)年七月二十日
ワークショップ
正しい知識と技術を学ぶには
辰雄 (あさり・たつお)
大手前製菓学院 浅利
今回のワークショップでは、和菓子の本物の材料を知り本物の作
り方を学び、正しい和菓子の知識と味を学んでいただくために、ま
ず解説を交えながら和菓子(練りきり)作りの実演をご覧いただい
た 後、 受 講 生 の 皆 様 に は「 み た ら し 団 子 」 と「 餡 団 子( 蓬 団 子 )」
作りを体験していただきました。
― 51 ―
― 52 ―
第五回 平成二十五(二〇一三)年九月二十一日
和のしつらえ
阪口 純久 (さかぐち・きく)
柏木‌:皆さん、大手前大学の公開講座も今日で五回目です。熱心に出席していただきましてありがとう
ございます。今回の大手前の公開講座の目玉の一つで、大阪ミナミ宗右衛門町の大和屋の女将に無理を
申しましておいでいただきました。そして、今はやや忘れられがちですけれど、大阪文化が全盛の折、
大阪のおもてなしがいかに心をこめて、器にしても、それから佇まいにしましても、成立していたかと
いうことを、長年、宗右衛門町の本店で女将をしてこられて、単に大和屋のみならず大阪の文化をリー
ドしてきてこられた女将さんにお話を伺うという、まことに贅沢な時間であります。
私、女将さんとお知り合いになりましたのは、かれこれ五、六年でしょうか。大和屋の宴席で知り合
‌
えば、何せおいしいものに目の無い人間ですので、どれほど良かったかしれませんが、あいにくそんな
身分ではありませんで、そういう機会は全くなくて、もう少し後の上方文化芸能協会に関係してからの
ことです。上方文化芸能協会は、司馬遼太郎氏(一九二三~一九九六)、それから大阪大学の総長の山
― 53 ―
村雄一先生(一九一八~一九九〇)、当時の大島靖大阪市長(一九一五~二〇一〇)、岸昌大阪府知事
(一九二二~二〇一一)、そういった方々と女将さんとで上方文化芸能協会というのを立ち上げられて、
はるか後になって私もそれに関わらせていただくことになってからの知り合いです。大和屋の女将さん
は大阪の芸能文化、これを絶やせてしまうのは大変残念だというので、大和屋さんの一番のひいきで
あった司馬遼太郎先生も賛同されて、上方文化芸能協会を発足されました。その際に司馬遼太郎先生か
ら「勧進のことば」という言葉を寄せていただいたとお伺いしています。
‌そういうわけで今日はゆっくりと女将さんに南地大和屋の佇まいの写真、これは『大和屋歳時』とい
う柴田書店から出た本(一九九六年)にその司馬遼太郎先生の巻頭文をはじめ、いろいろ述べられてい
るもの、それらを中心に話していただきまして、また皆さまからご質問があれば受けたいと思います。
‌実は私この間、大松伸一氏も今日いらしていただいていますが、第一回の公開講座で着物の話をされ
ましたときに私も着物でご挨拶しました。今日はそのとき、お話しました私の恩師のお父上、上田敏
(一八七四~一九一六)の一番弟子の竹友藻風(一八九一~一九五四。関西学院大学で英文学の教授の
あと、大阪大学英文学の初代教授をした詩人、英文学者)の泥大島です。昭和初めに作ったもののよう
で、何回も何回も洗い張りをして、それを藻風先生の奥様が私にこういうもので良かったらもらってく
れるかということでいただきました。じつに、ずしりと重い、のではなく、何度も何度もしてるという
― 54 ―
か本当に着ると大変軽いんですね。それで僕が普段着にしていたら、大松さんに「そんなもん普段から
ちゃらちゃら着るな。なかなか今そういう織物はできないんだよ」といわれました。
‌文化もそういうもので、ずっとつながっていく、続けていくという志が必要ではないかと思います。
一つにはこの間お約束しましたので着物を着てきましたが、それとは別に大和屋の女将さんがいつも大
変お美しい着物姿なので、対抗上、この間も「対談藤山寛美を想う」(藤山直美・阪口純久・柏木隆雄、
『やそしま』五号、二〇一一年十月)がありまして、司会をしました。そのときに女将さんがやっぱり
着物着るときは衿元がしっかりしてないといけない。特に長襦袢の衿がきちっとしてないといけない。
私はいつも襟元がぐずぐずですので、今日特別に ――「衿留」というのがあるんですね。私は知りま
せんでした。それを女将さんからプレゼントしていただきましたので、今日はちょっとすっきりしてい
るのじゃないかと思います。
すけさぶろう
‌それじゃお待たせしました。また女将さんのほうからお話があるかもしれませんが、そこにも年表が
ございますように、明治の初めに大和屋は「阪口うし」、女将さんのお父上のおばさまが初代、その後、
甥御さんの祐三郎さんが三代目の当主になって、この祐三郎さんが大変才能のある方で大和屋が戦前、
戦中、そして戦後と大きくなったのには祐三郎さんの大きな力があったということでございます。岩波
新書に中野好夫(一九〇三~一九八五)という英文学者が、『読書こぼれ話 一月一話』
(淮陰生著、岩
― 55 ―
波書店、一九七八年)というエッセイ集は岩波書店のPR雑誌の『図書』というのに毎月一回連載して
いる中に、阪口祐三郎氏が「芸者衆への心得」というパンフレットを出しまして、そこに芸妓はこうい
うことをしてはいけない、こういうことをするんだということを丁寧に書いたことが触れられていまし
て、実に人間の機微を穿った大変含蓄のある言葉が並んでいると中野氏が紹介している文章もございま
す。それで少し、そういうことを前知識の予行としまして女将さんにお話を伺いたいと思います。どう
ぞよろしくお願いします。
阪口‌: 今、 ご 紹 介 い た だ き ま し た 阪 口 で ご ざ い ま す。 よ ろ し く お 願 い し ま す。 お 客 様 と お 相 手 を し て
おしゃべりするのは慣れているんですけども、このように晴れがましく、また改まったお席でおしゃべ
りしますことには大変不慣れでございます。また、そしてそのまんまの大阪弁ですので、お聞き苦しい
かもわかりませんけれども、ちょっとしばらくご相手を下さいますようお願いいたします。
今日は「和のしつらえ」というお題を頂戴したんですけども、その「和のしつらえ」に入ります前
‌
に、大和屋というのはどんなところか、ということを、ちょっとここに書いてはいただきましたけど
も、ご説明をさせていただきたいと思います。
‌まず、大阪の花街とはどんなとこやということですけど、これは相当広い場所でございますけれど
― 56 ―
も、文献には天保年間の大改革から出てくるそうです。新町とかミナミとかはその前からあったそうで
す。それでいろいろな場所に花街はございますけども、大きく分けましてキタ、ミナミ、新町、堀江と
いうところが大きいところでして、大阪夏の陣ぐらいの後からぼつぼつ形作られてきたらしいです。
‌そこで、まずキタですけども、キタは堂島川がございます。そこに徳川の時代になりまして、各大名
の蔵屋敷ができてきます。その蔵屋敷のところには必然的にお侍さんたちが集まります。そこで、北新
地と曾根崎新地とかが盛り場になっていくということらしいです。
‌そして、またミナミは、もっと古うございまして、太閤さんが安井道頓(一五三三~一六一五)に濠
を掘らさはるんですね。その時に集まってきました人たちを相手にしますその湯女が出発点でございま
すが、それがずっと発展していきまして、徳川の時代になりまして、大阪の船場商人の公式の社交場、
また文化交流の場所、また情報交換の場所というふうな位置づけになっていったそうです。
‌そこで新町と申しますと、新町は皆さんご存じやと思いますけども、江戸の吉原より古い遊郭です。
これは公式の遊郭です。それでその周辺に花街が発達していったということです。それで遊郭と花街と
どう違うねんということなんですけども、遊郭は遊女がいるところです。花街は芸人さんがお客さんた
ちにサービスするところで、花街でお遊びになってから、遊郭へ上がられるというようなかたちになっ
てるんです。
― 57 ―
‌堀江と申しますと、これはやはり一番遅いんですけども、船場の旦那衆が個人的にお遊びになる場
所、一人でこっそりお遊びになる場所、いうようなかたちで大阪は大体いろんなところがすみ分けら
れていたということなんです。その他にも松島がありましたり、花街はいろいろあるんですけども、 ざっとしまして大きいところはその四花街が徳川の時代から公式場所やったということです。
‌そこで、ミナミのお話をちょっとしますけど、これはミナミが一番範囲が広うございます。東西は堺
筋から御堂筋。南北は難波から長堀まで。これを船場、島の内と申します。島の内に位置しますのが宗
右衛門町で道頓堀川の北詰に位置しているんです。そこにその範囲の中に甲部が宗右衛門町、乙部が九
朗右衛門町、櫓町、阪町、難波新地、この五つの花街がありまして、ミナミだけは南地五花街と言って
いたんです。
‌その所で明治十年、大和屋が誕生いたします。「阪口うし」と申しまして、それが初代でちょうど太
左衛門橋の北詰、ちょうど宗右衛門町の真ん中辺ですけど、そこに置屋を明治十年に開業いたします。
今、柏木先生もおっしゃっていただきましたけど、阪口うしと申しますのは父の父、私の祖父でござい
ます、その祖父の姉に当たるんです。父の両親は奈良の五条から出てまいります。そして今の堂島の辺
で、薪炭問屋。今でいいますと薪とか炭とかを売って商っているお店をしているんですね。そこの七人
― 58 ―
兄弟に生まれるんです。しかし、祐三郎が十三の歳にその両親が一週間違いで七人の子供を置いて死ん
でしまいます。そこでその全員がうしに引き取られていって、その大和屋へ行くわけです。
‌女は割合にお店のお手伝いができたりしますけど、男はそれができません。そこで十三の歳に松本重
太郎(一八四四~一九一三)さんというところに父は奉公に上がります。ちょっと逸れますけど、松本
重太郎さんはその当時、東の渋沢栄一(一八七三~一九五七)か西の松本重太郎かというような大阪の
経済界の重鎮でした。そして、今の南海、東洋紡、そしてアサヒビール、その他四十社ぐらいの創始者
たけ の ぐん
といいますか、出資者といいますか、役員なさったりしている方というわけでございます。そこへ十三
たい ざ
の歳に行きまして、二〇歳までご奉公いたします。そのお方は何かこれもご縁ですけど、丹後国竹野郡
間人村(現在の京都府京丹後市丹後町間人)というんですけど、皆さんご存じでしょうけど蟹が有名な
とこなんですけど、そこの出身で大阪へ出て来られたらしいです。今年、没後百年この間の九月八日で
したか(二〇一三年九月七・八日)、間人の町でシンポジウムと法要がありまして、私も参加をさせて
いただきました。城山三郎(一九二七~二〇〇七)さんが『気張る男』という重太郎さんの伝記をお書
きになってます。それにまた、NHKで「われ、晩節を汚さず~新夫婦善哉~」というのでドラマ化さ
れて放映されたと思います。そういうお方ですが、昭和恐慌に遭われまして、そしてその時に自分の全
財産だけでなくて家族の全部の財産を潔く出してご自分はひっこまはった、本当にその潔さ、それがや
― 59 ―
はり今の時代の人たちの教訓になるといって、城山三郎さんがご本になさったようです。
‌そこへ父がご奉公に上がってまして、十七のときに手代になるそうです。そして会計係を仰せつかる
らしいです。そいで十九のときに今申しました昭和恐慌になります。そしてたくさんのところに出資な
さってます株が暴落しまして、そのときには第百三十銀行の頭取さんもなさってたそうですけど、その
取り付けに遭われて、今申しましたように破産といいますか、倒産なさいます。それで父は帰って参り
ますんですけど、二十一歳のときに日露戦争の兵役に入ります。入隊いたします。そして二十四歳まで
兵役を務めまして、除隊。
‌そして、帰ってきましたら、うしが大和屋を相続させようという話をしたそうですけれども、「こん
な泥水稼業は男がする仕事と違う」と、頑としていうことを聞かなかったそうなんです。そうしたら、
ある時、ご主人様(松本重太郎)に呼ばれて、「お前は『この泥水稼業なんか継がれへん』と言うたそ
うやけど、じっと泥水も置いといたら澄むやないか。この澄んだところで仕事をしていったらいいね
ん」と。そして「それを一つの企業として立派にやっていったらいい。これからは大切な仕事になって
いくから」と諭されたそうです。それで自分で覚悟を決めまして、それで二六歳のときに初めて大和屋
を相続することになったんです。
― 60 ―
‌それから、今度は、まずはいい芸者衆を育てんといかんいうことになりまして、毎年五人から十人の
芸者衆を入れていきます。だんだん人数が増えまして、後半は毎年二十人ぐらいの芸者衆を入れていた
そうですけど、それを軍隊式に教育をしまして、それから踊り、三味線、狂言を教えたり、戦争中でし
たので、拳法を教えたり、お茶を教えたりということでいろいろ躾をいたします。そして三年間はお座
敷に出さないで教育しまして、三年目からお座敷に出すように教育したそうです。それでだんだん芸者
衆が増えていきます。そうすると、今度、需要と供給で売れるところがなくなってきます。そこでまず
はお茶屋でこしらえるんですけども、お茶屋というのはその当時は置屋がお茶屋をしたらいかんという
法則があったそうなんですけど、どうしましたのか、そのお茶屋を次から次に、料理屋もこしらえて、
それから事業をだんだん大きくしていったそうです。
‌一番最盛期、見習いは大和屋の「少女連」と申します。ある日、昭和二十五年ぐらいですけど、阪急
の小林十三(一八七三~一九五七)さんが私に、「あんな、宝塚の少女歌劇はな、あんたとこのお父さ
んの大和屋少女連の真似したんやで」と私におっしゃったんです。「ええ、そうですか」いうて、お聞
きしたことがあるんです。それはあちらは今はずいぶん流行されて、立派に宝塚の歌劇としておやりに
なってますけど、うちはそうはいかなかったということですけど。それでも最盛期には見習いが百人ぐ
らい、そして現役の芸者が百人ぐらいおりましたから。昭和の十年から十二、三年、支那事変が始まり
― 61 ―
ますまでは、ミナミは千人近い芸者さんがいたということでございます。
‌それで、大正、昭和をやってきまして、昭和十二年ぐらいに支那事変が勃発いたします。それで次
には大東亜戦争、十六年に第二次世界大戦が起こりまして、それで十八年に私たちの営業が休業させ
ら れ る ん で す。 そ れ で 見 習 い は 全 部 家 に 帰 し ま し て、 芸 者 衆 は そ の 当 時、 松 下 幸 之 助( 一 八 九 四 ~
一九八九)さんにお願いをして半分は松下の真空管の挺身隊に取っていただいて、そしてもう半分は大
和屋の広間にミシンを五十台ぐらい並べまして、又市というところがありまして、その又市で、落下傘
を売ったりして戦争をしのいでおりましたんですけども、昭和二十年の三月に大阪の大空襲に遭いま
す。そこでミナミ一帯が全焼するんです。当時、大和屋も七軒ほど家がありまして、一晩のうちに全部
焼けてしまった。そこで一軒だけ鉄筋コンクリートでしたので、残っていました。終戦後、昭和二十年
の十二月三十一日から始めて一軒作りまして、またゼロからの出発をします。ちょうど、父が六十歳ぐ
らいのときだったと思います。そこからこつこつと復興していきまして、戦後、朝鮮動乱とかいろいろ
ありましたけども、復興していきまして、東京に一軒、京都に二軒、大阪に三軒と家を建ててきたんで
す。
‌昭和三十六年の一月に、父は七十八歳でこの世を去ります。その間に全国の、北海道から鹿児島まで
全国の花街と統一していろんなことをしまして、男としてはちゃんとした仕事をある程度したのかなと
― 62 ―
思っております。
‌それからいよいよ私の代になりますが、昭和三十八年に四代目を私が相続します。それで、その当
時、建築資材がなかったものですから、あちらのお屋敷を買ってきては移築し、こちらのお屋敷を買っ
てきては移築して、移築して家を建てておりましたので家が古くなっておりますので、私が相続します
について、全部改築しようということになりました。これからぽつぽつ本題の「和のしつらえ」のとこ
ろに入って行きますが、三十八年といいますと、ちょうどだんだん大阪も空気が悪くなったり、水道が
悪くなったりしてきたんです。だから、お客様に快適な気分になってもらわんといかんなというわけ
で、建築会社さんにいろいろ相談したんですけど、当時まだ空気清浄機なんかない時分だったんで、ア
メリカの潜水艦ノーチラスというのがありまして、ノーチラス号の清浄機を二台購入しまして、そこ
に入れたんです。それからお水は濾過器をしまして、というのはお料理はお吸い物一つあるにしても、
お水が良くなかったら美味しくないんですね。それでお水の美味しいのということでそれを考えまし
て、それを建築の中に取り入れようということになったんです。
‌そんなときに司馬先生がお越しになって、「先生、文化ってなんですやろ」って私がお尋ねしたこと
があるんです。そしたら先生が「あのな、大和屋に来るやろ。大和屋来て、帰りがけに、『ああ今日は
― 63 ―
良かったな』と思って帰るのが文化やねん。しつらえだけがよかってもだめ。そしてまた料理だけがよ
かってもだめ。そしてまたサービスだけがよかってもだめ。もう全部がよかって、『ああ良かったな、
また来うかいな』と思うようなことが文化やねん」といって、教えていただきました。そこで、「ああ、
そうか。文化ってそういうもんか」と思いまして。
‌それともう一つは、私たちは大阪におりまして、町人文化、上方文化の伝承をしております。それに
はやはり芸者衆がしっかりして、その伝承をしていかなければならないということで、どないしたら伝
承ができるんやろうなと思いますけど、やっぱり伝承には緊張せんといかんといかん。それにはやっぱ
り立派な舞台で踊らんといかんということで、そこで西本願寺さんに太閤さんが聚楽第を寄付されたん
ですって。そんなかに能舞台があって、それを見せてもらいに行って、大和屋の広間の前に能舞台をこ
しらえることにしたんです。
‌それだけではいかんと。皆がやっぱしおもてなしの心を一つにせんといかんということで、経営理念
というものをこしらえました。その経営理念は、「ゆとりとやすらぎと温かな心でお客様に感動してい
ただき、上方文化の一端を担えるお店づくりに努めます」いうのがこれが大和屋の経営理念というか、
これを今でも毎日、朝晩の朝礼のときに全店でいろいろと唱和してると思います。その精神で、昭和
四十年の四月の二十八日、これが大和屋の新改築のオープンのお披露目の日で、それでその当日は能舞
― 64 ―
しょうじょう
台のお披露目は先代の梅若六郎(五十五世、一九〇七~一九七九)先生に「猩猩」を舞ってもらい、そ
して「松羽目」は香淳皇后様の絵の先生であります前田青邨(一八八五~一九七七)先生に描いていた
だきまして、その奥様が荻江節の家元(五世荻江露友)だったんです。それで、その荻江節で先々代
の市川團十郎(十一代目、一九〇九~一九六五)さんが ―― 今の海老蔵(十一代目、一九七七~)さ
んのおじいさんですね、その團十郎さんに「八嶋」を舞っていただきました。それで舞台開きをして、
お披露目をしたんです。
‌それで、一番これから考えてお客様にどうしたら喜んでもらえるかなというので、皆さん慌ただしく
お仕事なさっているその喧噪の中から大和屋に入られたと。それでいっぺんに別世界に入られて、ほっ
となさるようなしつらえをせんといかん。それには季節感を感じてもらわんといかん。だんだんと季節
感がなくなっていってる。だから、季節感を感じてもらわんといかんというので、その年間の催しごと
を考えまして、また特にぽっと入ってきていただいた途端に、別世界でほっとしてもらいたいというこ
とで玄関のしつらえだけは一番重点を置きました。
ここからしつらえのお話になるんですけど、まず第一に入っていただいて、ほっとしてもらう。それ
‌
が一番大切なことです。
‌そういうことで、それで私たちの一年いいますのは十二月から始まるんです。あ、写真出ましたね。
― 65 ―
こ
と
見えにくくてごめんなさい。十二月に父や母がおりますところに現役の芸者衆、それに見習いの人たち
が参りましてご挨拶します。「お事多うさんです」というご挨拶をするんです。「お事多うさんです。年
内中はいろいろとお世話になりました。どうぞ来年もよろしくお願いします」というのが皆挨拶でし
かび
て、その時に鏡餅を持ってまいります。「御本家様」と書いて、それで自分たち名前を書いて持ってき
ます。それが戦争後もでしたけど、お餅でしたので、これが一月の十五日、小正月まで飾りますので黴
が生えます。そこで父が真綿にしまして、真綿のお餅をこしらえます。それで皆で通しましてそれを玄
関にこのように飾ります。餅花はそのときには、まだ十二月にはありません。事始めには餅花だけが
飾ってあるんです。それでそこからいろいろお正月のいろんなことが始まりますよ、いう意味でこれが
飾られるんです。お客さんが入って来られたら「そうか、もう事始めやねんな」と思ってもらえるよう
にこれを玄関に飾る。
‌それからぼつぼつと障子の張替えとか畳の入れ替えとかそういうことをします。あと、大掃除をしま
す。畳と申しましても三百畳近い畳ですので、時間がかかります。だから、職人さんが三人ほど入りま
して、一回目は表替えをしますけど、二へん目は裏返しをしまして、畳替えをします。それが終わりま
したら、二十五日ぐらいになったらクリスマスです。そしたらしつらえのようなクリスマス、それを芸
人さんに与えます。お料理もやはりクリスマスらしく和風でどういうふうかというと、キャンドルも出
― 66 ―
してクリスマスの雰囲気を出していただきます。
‌そうしています間に二十七日くらいになりますと私たちが蔵に入りまして、それぞれ飾り物を出しま
す。仲居さんたちが全部、湯通しと申しまして、中から器を出しまして、床に飾るものをきれいに拭い
たり、お湯を通したりしもって、二十七と二十八日ですので、ずっとお座敷に出します飾り物をしま
す。掛け軸を変えます。そういうふうにして二十七日と二十八日でそれで飾り物全部。二十九日はお飾
りをしないといって、「九」のつく日は飾りません。そうしています間に今度はおせち料理です。調理
場は十一月ごろから大変な準備を始めますが、もう十二月の一週間ぐらいは交代ですけども徹夜して、
東京、大阪を含めまして一千以上のおせちをこしらえます。本当に五十人近い人間が一週間ほどかかっ
てこしらえます。これはもう最後二十九日から三十日にかけましては仲居も私たちも全部総じて徹夜を
しまして、それで東京へ送るもの、また大阪から百貨店へ送るものというふうに全部おせちの段取りを
します。そして、やっと終わりますのが三十一日、皆が掃除をしまして、終わるのがそれぐらいです。
‌いよいよこれで準備が終わり、これからお正月を迎えるんですが、一月は後半、平成の中ごろ過ぎか
らは三が日休んでおりました。戦争前は元日からずっと仕事してたんですけど、今は三が日休ませてい
ただきます。しかし、百貨店やホテルに出ております者は元日から仕事をしております。それで四日の
日に、初出になります。この初出は年始回りをいたします。これは後半は芸者衆はなくなりましたけど
― 67 ―
も、黒の紋付を着まして、団体で年始回りへ回ります。そして四団体のお菓子交換会を済ませまして
帰ってきましたら、三々五々とまたお客様たちがお店に年始に来ていただくんです。そこでお客さんと
初めて営業するということですけど、これは新年会の光景ですけど必ず金杯が出まして、そこで皆さん
と杯ごとをしまして。それで ……。
柏木:金の杯ですね。
阪口‌:ええ。これ純金ですけど、「大和福禄寿」と書いてありま
― 68 ―
す。これをずっと皆さん回して、この皆に。これからが宴会の
始まりになります。それでぼつぼつこれから新年会に入るんで
すけど、十日ぐらいまではあまり御宴会はないんです。それか
ら十日戎に入ります。
‌この写真が十日戎でございます。十日戎はもっぱら、歴史的
ほ え か ご
にいきますと「宝恵駕籠」といいますけど、宝永年間からある
そうで。始めは船場の旦那衆が芸者さん達のいろんなことを言
うんですけど、駕籠に乗って今宮の「えべっさん」へお参りに
行ったと。それが元やったということなんですけど、明治の初
(写真1)宝恵籠
めからは芸者衆が乗るようになりました。各お茶屋さんがずっと出しまして、お昼は二十丁ほど駕籠を
連ねまして、今宮の「えべっさん」へお参りに行きます。そして、ご祈祷をしてもらって、福笹を貰っ
てくるんです。それを貰ってきまして、夜、町へばら撒いていくということです。これは朝の出発のと
ころです(写真1)。これで福笹を拝んで帰ってくるんです。そして「一丁駕籠」といいますねんけど、
これは夜、大和屋が成績のええ芸者衆の一人を乗せまして、そこで能舞台のところで皆、踊りをご披露
しまして、そこで皆さん三百人近いお客さんが毎年いらっしゃっていただいたんですけど、それに送ら
― 69 ―
れまして町へ出ていきます。お客様も本当に後
半はいろいろ世の中が慌ただしくなりましたか
ら、あまり表へ出られませんでしたけども、皆
お客さんついて回っていただいていたんです。
知事さんも市長さんも、皆さん回っていただい
て た ん で す。 そ れ に つ い て 町 中 へ 笹 を 配 り に
回っていうのが、これが十日戎の行事です。
‌そ の 次 に 今 度 は 十 三 日 で す け ど、「 始 業 式 」
と申しましてこれは芸者さんがこれから今年初
(写真2)始業式
めての芸の始めをしますいうので、能舞台で、今宮戎さんにお祭りしましてそこでご祈祷していただい
て舞い初めをいたします(写真2)。その時にはお客様も見に来ていただくということでございまして、
それが始業式でございます。それからこれからあと三十一日ぐらいまでが、ぼつぼつ新年会が入ってい
くところになるんです。三十一日まであわただしいんですけど、ずっとお客様が毎年お招びになった
り、お招ばれになったりしてきます。
‌二月に入りますと、二月の二、三、四が節分になるんです。昔は、船場のしきたりだったんですけど
まげ
も、ごりょんさんは結婚しますと頭が、頭の髷が変るんですね。これが「丸髷」になるんです。だけ
ど、娘さんたちは「桃割れ」やとか「い型」やとかいう頭をするんですけど、その節分だけはごりょ
うんさんが桃割れに結ったり「い型」に結ったり、娘さんたちが丸髷に結ったりというようなことで、
「お化け」といったんですけど、「お化け」を船場ではしてたんです。それを模しまして、私たちのとこ
ろは芸者衆が男の役してます芸者衆が女に、女の役してます芸者衆が男になりして、その広間で劇団を
こしらえましてそこで劇をやるんです。それがこれです。そして、お客様に三日間楽しんでいただく。
それで玄関に絵馬を飾ったりするんですけども、お料理は必ず鰯を食べます。それで船場は玄関に柊に
鰯の頭を刺しまして門に刺しておくと厄除けになるいうので、必ずみんな玄関に柊に鰯の頭を刺して置
いたものですけど、戦後はそんなことはだんだん付けなくなりましたけれども ……。
― 70 ―
‌これはそして「丸かぶり」と申しまして、これは恵方を向きまして、そして、願い事をします。無言
で食べたら願い事が叶うというふうにいったんです。このごろはもうどこらでも「丸かぶり」が流行っ
てるそうですけど、これはほんとに京都大阪の風習だったんです。それが今は全国的なものになりまし
た。それと年男の方に豆をまいてもらういうふうな行事を、その二、三、四と三日間出しておりまし
た。
柏木:穴きゅうですか、ものは?
阪口‌:昔は太い太巻きやったんですけど、このごろはみんな細うなかったらお客様たちが召し上がらない
んで、穴きゅうにしてあります。
柏木:おいしそうですね。
阪口‌:昔は悪いことしましてね、太巻きに、いっぱいわさびを入れて、それに当たったお客様は涙をぽろ
ぽろ流しっもってでも無言で食べはったという、悪いことして、お出ししておりましたけど、それが節
分でございます。
そうしておりますうちに、三月に入りますとお雛さんですね。雛祭りです。これは、母が嫁いできま
‌
した時に持ってきましたお雛さん、いろんなお雛さんをいたるところに飾りまして、それで、女の節句
ですけど、お客さん達にお付き合いいただいてお雛祭りをする。ほんとは子供の時分には酒粕を焼いた
― 71 ―
り、また、雛あられを食べたりいうのがありましたけど、この頃はそういうことはありません。この頃
酒粕でも機械で絞りますので酒が無くなってしまってがらがらになってるんです。だから、粕汁をこし
らえても全然あんまりおいしくないということもございます。
‌次に四月。これはお花見なんです。後ろに掛かってます絵は上村松園さんです。それで、お花はここ
もうせん
は床の間に飾ってありますけども、ロビーには桜一本飾りまして、その下に毛氈を敷きまして、そして
お客さん達にお花見をしていただく。そこでちょっと、舞台で芸者衆がいろんな火を灯すというので
お花見をしております。これはお花見弁当の様子でございます。
うえ め
み とし め
‌次に五月になります。五月になりますとガラッと変わりまして「端午の節句」になります。この写真
はは六月です。端午の節句が済みますと六月になるんですけど、六月は「御田植」といいましてこれは
住吉神社の神事です。そして、この植女と御稔女というのが出まして、そして、住吉さんの神社の御田
植をお手伝いする。これは植女が出まして、この神殿から早苗を頂戴しまして、それで本当の植女さん
達に手渡しする。そして、御稔女というのが、「どうぞ雨がよく降りますように」といって雨乞いの踊
りを踊る。そして、住吉の神社の行事がある。住吉神社がお伊勢さんよりも古くからその御田植をやっ
てます。これが花街の一つの年中行事、御田植とそれと天神祭。これは花街の年中行事の一つだったん
です。これで神社の毎年、参加させていただいてお勤めしています。これが六月です。
― 72 ―
‌六月の末になりますと「大祓い」をいたします。そして半年間の穢れを祓いますようにというので
「茅の輪くぐり」をします。それでお料理をそれにちなみましてほげやとか「茅の輪やとかいうもので、
これが「今から大祓いですよ」ということをお客さん達に感じていただくというふうになっておりま
すだれ
す。そうしますうちに梅雨に入ってますので、だんだん梅雨が明けそうになってきます時に、ここで建
しゅ ろ
具を入れ替えてます。障子を外しまして簾に変えるんです。そして、畳がその上に、大きな部屋はで
きませんけれども小さい部屋は、籐といいますか、棕櫚といいますか、それを敷きつめます。そうす
るとお座布団から器から何から全部替えまして、そして夏を迎えるところに入ってきます。これはみ
な ……。
柏木:玄関から入ってきたところ
阪口‌:これは玄関から入ってきたところですけど。簾、これがちょうど夏の建具に替わりましたし、簾も
替わりましたし、そしてお料理も全部替わって、こういう雰囲気に六月の末から七月には入っていきま
す。
七月になりますと七夕さん、天神祭というふうになってきます。七夕さんは皆さん、お客さんたちに
‌
願い事を書いてもろうて、笹に付けるということをいたします。天神祭は、前は北新地が担当しており
ました。北新地が担当しておりましたけれども、後半それは四花街でお手伝いをすることになりまし
― 73 ―
て、上方文化芸能協会から船をしつらえまして出しましたり、また、商工会議所さんがお出しになって
ます船の上で、これが上方の芸能協会のお船です。道頓堀からその歌舞伎のお船が出て、落語の船がで
る。それから文楽などの船が出ています。それが出ていくんです。それと一緒に出てたんですけど、だ
んだん景気が悪くなりまして商工会議所さんのほうも取りやめになったということで、上方文化芸能協
会の御船も今のところは出しておりません。天神祭のお手伝いはある程度しております。これで七月に
なります。
‌八月に入りますと、「八朔」といいまして、八月一日は江戸城に上がるお侍さん達は白い麻の裃を着
て登城するそうです。それをみんな模して、吉原にしても花魁たちが打掛はまっ白にするということな
ので、これは大阪ではそれは致しません。八朔に近いように白いものを主体に考えてお料理も鱧を出し
たりして、これは絵にはございませんけれども、ちょうど地蔵盆の時分に盆踊りをいたします。それ
で、夜店を出します。道頓堀に夜店を出します。金魚すくいやいろんなことの夜店を出して、それでこ
の時だけはお子達連れでお客様方がお越しになります。そこで皆さん、能舞台に上がってもらって、皆
さん踊られたりして楽しんでいただくようにしております。
柏木‌:天神祭の行事の写真がありましたね。ちょっと一つ、あ、これです。料理を説明してもらいます。
(写真3)
― 74 ―
阪口‌:天神祭じゃなくて、これは朝顔市です。大阪では朝
顔市ありません。東京には朝顔市四万六千日というて朝
顔 市 が あ り ま す さ か い、 あ れ は「 ほ お ず き 市 」 で す か
ね。鬼子母神さんのお祭りが朝顔市ですけど、それを模
して夏らしいので ……。
柏木:胡麻豆腐に、枝豆に、向こうのはおこわですか?
わた
― 75 ―
阪口:これはにこごりです。
柏木:にこごり。なるほど。おいしそうです。
阪口‌:涼しい時を買いに来ていただくようにしてあるんで
き
す。そうしていますうちに、「重陽の節句」に入ってきます。
柏木:九月ですね。
阪口‌:これは能舞台してるんですけど、昔は宮中では「菊の被せ綿」といいまして、菊の上に綿を載せま
して、そして、その露を取りましてその露を飲むと長寿でいられるというようなしきたりになりますの
で、お料理、これには載せてませんけども、菊をお供えして、そして、綿を付けたような形のものをし
ております。
(写真3)天神祭
柏木:たぶんどっちかの土瓶のようなあれはお酒が入ってるんですね。
阪口:酒です。はい。
‌こちらからは見えますので、皆さんは屋上へ上がってお月さん見に行ってくれはるんですけども、部
屋からは見えないです。それが御月見です。
‌一〇月になりますと、これはもう今は百貨店は毎年、毎月というていいほど「誓文払い」みたいな
セールをしていますけれども、昔は大阪は心斎橋は十月になりましたら、「誓文払い」といいまして赤
札を付けたものをずっと前に並べまして、安いものを出したりしてましたので、「あ、誓文払いやな」
ということがわかるような風情で玄関も飾っております。
‌次に十一月に入って行くんですけれども、一一月はちょうど、船場では「中の亥の子」といいまし
て、ちょうど「亥」の、二番目の亥の日におこたを出します。炬燵を。それが、船場のしきたりでし
て、「亥の子餅」というのがあります。それをこしらえて、番頭さん以下、丁稚さんらにふるまうとい
うのが大阪のしきたりでした。これに申しますようにお料理をその亥の子餅の形をこしらえまして、み
んな、お客さんに提供してたようですけど。これが十一月です。
それでそのほかに七月か九月か十月かですけど、思い出に残る催し事ということを毎年やってます。
‌
それは何かといいますと、やはり、だんだんと皆さんせわしくなりまして、いろんなものを御覧になる
― 76 ―
機会がありませんから、やはり能やとか文楽やとか、落語やとかそういうものを親しんでもらわないと
いかんというので、それをその七月・九月・十月の間に毎年やっております。それは能でしたら「三
輪」とか、文楽人形ですと吉田蓑助(三代目、一九三三~)さん。また、落語ですと、米朝(三代目桂
米朝、一九二五~二〇一五)さんやとか文枝(五代目桂文枝、一九三〇~二〇〇五)さんやとかいうの
を用意したり、それまた、ときには田辺聖子先生やとか、瀬戸内寂聴さんとかそういう方の、まあいえ
ばお話であったり、また郷土芸能、例えば御神楽をやりまして、それでお客さんにほんの今ひとときで
すけども楽しんでいただきますということをいたしております。
‌それで今度十二月に入ってきますけど、これが大和屋の一年のいろんな催し事だったんです。それで
何が一番私たちが心がけていたかといいますと、昔の良さをどうしていかに伝えていくか、それが一番
私たちのお役目でないかなと。やっぱり大阪には町人文化もあり、上方文化もあり、しますので、それ
ぞれがだんだん皆さん廃れていきますので、なんとか、それを守っていきたいというのがありまして、
こうして一年間通じましていろんなお客さんに上がっていただけたらと思いまして、最後は思い出に残
る催し事に、引田天功さんに入ってもらってやったことがありますし、これまた大変お客さんもびっく
りしてましたけど、そういうこともさせてもらったこともあるんです。
これがその(昭和)四十年に新築いたしましてから四十年近くずっとやってきた行事ですけど、東京
‌
― 77 ―
オリンピックが二〇二〇年には来ますけど、そのときに滝川クリステルさんが「お・も・て・な・し」
とおっしゃいました。「おもてなし」って簡単ですけど、このおもてなしはやっぱし、なかなかこれは
一口でお話できることと違うんです。大変むつかしいことです。
‌それで、やはり芸能人たちは稽古しますし、仲居さん達もお茶の稽古をしたりしますけど、そのお座
敷の中の立居振舞というものは一番大切な、その立居振舞というのは躾がなかったらできない。躾とは
何か。「身を美しく」と書くんですけど、一挙手一投足がやはり美しくなかったらいけない。特にお座
敷では一人の人の動きの空気によってずいぶん変わってくるんです。だから、いかに「身を美しく」す
るかということに大変厳しくいたしております。最近ではどうしてもマニュアルで、私はマニュアルが
嫌だというてたんですけど、マニュアルをこしらえましたけど、マニュアルで頭で覚えても全然ダメな
げん に
び ぜつしん い
んです。やっぱし、自分の体で覚えんと立居振舞はできていかない、いうことが一番大事だと思うんで
す。私どもの古い体質のお話してるんですけど、「眼耳鼻舌身意」と、般若心経にありますけど、この
六感が研ぎ澄まされなかったら全然やっぱしサービス業としてはだめなんです。一つたりとも欠けたら
ダメなんです。それが身に付きますまでにどうしても、芸者さんでも仲居さんでも、五年。この頃みた
いに今日来てすぐにやれるというようなことは全然出来ない。だから私たちはお商売というのは大変難
しいお商売ということなんですけど。
― 78 ―
‌大 阪 の ち ょ っ と エ ピ ソ ー ド が あ る ん で す け ど、 亡 く な り ま し た け ど、 サ ン ト リ ー に 佐 治 敬 三
(一九一九~一九九九)さんという方がいらっしゃいました。佐治敬三さんは司馬遼太郎先生が「なあ、
女将さん、この人がいちばん最後の船場の旦那やな」とお話になりましたけど、お客さんをなさいま
す。たくさんのお客さんをなさってます。そのたんびにこのお客さんをどれだけ満足さすかいうことを
心がけておられまして、そして、小唄にしろ、踊りにしろ、なんでもこのお客さん何が好きやという、
それぞれのご趣味を見られるんですね。
‌そして、ある時オランダの皇太子さんをお迎えしたとき「女将さん、次は仕舞舞うで」とおっしゃっ
たんです。「えっ、仕舞舞わはるんですか」。若いときにちょっとやって、ちょっと綺麗にして見はるわ
け。その当日は着物をお着せして袴はいてもらって、きれいにほんとにきっちりと型どおりに仕舞を
お舞いになったんです。そうしたら、皇太子さまがびっくりして大変お喜びになって、それでまた、そ
の皇太子さんに日本の着物を着せてあげて、それもお喜びになった。というようなことで、ほんとに無
駄なお金は使わない。使う時には徹底してそのお金に無駄がないようなサービスをするというのが、や
はり大阪商人の一番大事なとこやということを、佐治さんからいろいろなことを教えていただいたよう
なことです。そういうふうにしてその代り、帰りがけに、「あ、おかん、今日はおおきに。よかったで」
と必ずいうてくださるんです。そのおっしゃり方によって今日はうまくいったかな。もう一つ気に入ら
― 79 ―
んかったかな、とかいうのがすぐわかるんです。それで「ああ、今日はこれがうまいこといけへんかっ
たな」。一生懸命佐治さんの目をみています。そしていろいろ歌って「あの芸者あんまり一生懸命やっ
てないな」とか、「あの仲居はあんまり働いてないな」とか、ということは佐治さんの目を見てたらす
ぐわかるんです。そやから声が掛かるんです。ただ誉めていただいて、「今日はお褒めの言葉をもらっ
たな」と思うのが、私たちの生きがいやったんです。そういうことでいろいろとやってきました四十年
ですけど、皆さんの意に沿いましたかどうかどうかわかりませんけど、これがおもてなしの心の話で
す。どうぞ、よろしくお願いします。(拍手)
柏木‌:どうもありがとうございました。これがさきほどお配りした司馬遼太郎さんの「思想としての大和
屋」の原稿です。
阪口‌:これが、これこそ本当の絶筆です。私の三十周年のときの原稿ですけど、『大和屋歳時』という本
を出しました。これは絶版になったんですけども、この巻頭に司馬先生が「思想としての大和屋」とい
うことでお書き下さったんです。そのときに実は本屋さんから本を出せといわれて、本があまり得手で
なかったので、「先生、いわれてるんですけど、私、本はよう出しませんわ」といったら、「そらな、女
将さん、なにやで。やっぱし、あんたがやって来てた時代のことを残しておくのもあんたの使命やで」
― 80 ―
といわれました。「いや、私こんなようこしらえませんわ」いうて話してたら、「見てあげるがな」と
おっしゃって、その頃は先生がいろいろコツを教えていただいた。「先生も何か書いてくれはります」
いうたら、「うん、書いてあげるで」。これは亡くなる前年の八月に書いていただいた。私は簡単に書い
てくれはると思っていたんですけど。貰った原稿を読んでびっくりしたのが、あまりにもすごく、なん
ていいますか、高尚な話。これはもう脇の下から汗が出るほど立派な文章を頂戴したんで、どないしよ
うと。こんなこと書いていただいたら私もなんにもよう書けへんなと思うような原稿を頂戴したんで
す。そのときいろんな編集をしまして最後に、「先生。これなりました」というて持っていったら「こ
れでいいがな。これで製本し」とおっしゃって、出来た時には先生はいらっしゃらなかったんです。そ
れで私はご仏前にお供えしたんですけども。
柏木‌:司馬遼太郎のいわゆる推敲の仕方というか、原稿の色を変えてしてるんですね。これが司馬遼太郎
の原稿の特徴。直す時は別の色で書いています。―― これはお座敷の風景ですね。
阪口‌:これは、みんな芸者衆が炊き合わせなどが出ました時分に、「余興」と申しまして、お客様の奉仕
の時には本当のきっちりしたものを踊りますけれども、ちょっと軽くこういった小唄を唄ったりお客様
に合わせてやります。そして、そのおもてなしですけども、今いろいろお話しましたなかでもご宴会の
中身によって全部違うんです。それは、おめでたいお席であるとか、それから今日は偲ぶ会であると
― 81 ―
か、いうことによります。お軸から、お料理から、その芸者が踊ります踊りまで全部変えるんです。そ
れを前日に私が踊りをチェックしたりお料理をチェックしたりして、その当日に掛け軸を替えたりして
やってきましたんですけど。それによって、全部中身はしつらえが変ってくるんです。
柏木‌:次の写真お願いします。
阪口‌:これは四階に屋上庭園がございます。それで、そのほんとに鉄筋コンクリートばっかしですので、
ゆういん
なんか空間がいるなというので、屋上に庭園をこしらえました。そしてこれが茶室どころになったんで
すけど、これは「又隠」といいまして裏千家さんの「又隠」を模してこしらえた茶室でございます。
柏木:次お願いします。お化けですか。
阪口‌: い え、 違 い ま す。 こ れ が 十 日 戎 の 夜 の「 一 丁 駕 籠 」。 ち ょ う ど こ れ か ら「 一 丁 駕 籠 」 に、 み ん な
乗っていきますといったら、違う。これは乗りましたあと。これが、今、お客様が帰ってきましたら、
「宝恵駕籠 たいへん験がええ」といいます。それで今もう亡くなりましたけども、原田憲(一九一九
~一九九七)さんて大阪の代議士さんいてはったんどすけど、落選しはったんです。その時に「先生、
この駕籠に乗ったら験がええさかい乗んなはれ」いうてお乗りになったら、先生がすぐ乗りまして当選
なさった。
柏木‌:お茶屋といっても、女将さん、前お聞きしたときにいわゆる大きいお茶屋と小さいお茶屋という
― 82 ―
こ ぢゃ や
か、そういうのが区別があるんですね。ちょっと教えてください。
阪口‌:だいたいね、道頓堀の浜っ側のほうは小茶屋といいまして、小さいお茶屋さんがあります。これは
個人で遊びに行かれたり、お友達同士でお遊びに行かれたりするようなところですけど、大勢といいま
して昔は「富田屋」さんとそれから「伊丹幸」さんと、それから私のところと、もう一つ「河合」と
いって、これは公式のご宴会をなさる場所だったんです。それで昔ですけど、戦時中、第二次世界大戦
の時分ですけども、陸軍は大和屋、海軍は富田屋さんというように分かれてます。私のとこ、なんでこ
んな汚い兵隊ばっかし来はるんやろ(笑)。海軍さんはきれいでしたでしょ。富田屋さんは海軍さんで
したので、富田屋さんの前に行ってきれいな海軍の兵隊さんやなと思って見に行ったことがある。
‌その時分の宗右衛門町、焼けない前の宗右衛門町はほんとに情緒がありまして、柳は植わってまし
こうもり
て、また、蝙蝠が飛んでました。そういう町でして、何ともいえんしっとりとした感じでして、お茶屋
というのは浜っ側と違って丘側のほうに三軒のお茶屋があるんですけど、その当時はやっぱし宗右衛門
町だけで五十軒ぐらいのお茶屋があったそうです。それで、さっき申しましたようにあっちも花街と申
しましてもやはり、宗右衛門町が甲部です。昔は警察の鑑札がなかったらお商売ができないんです。そ
れで甲部は一枚鑑札といいまして、これは芸者さんだけしかやっていないのが一枚鑑札です。二枚鑑札
といいますと、やはり娼妓さんもいる花街になるんです。そして、阪町は大阪へ仕事に来られる商売人
― 83 ―
さん達いてはりますでしょ。そういうところが遊び場やったんです。こういうふうに棲み分けができて
たんで、大体がここに行ったらどのくらいのお金で遊べるんやという安心感があったと思います。
柏木‌:桂米朝さんとか、綱太夫(九代目、一九三二~二〇一五、二〇一一年に九代目竹本源大夫を襲名)
さんというのは大和屋の女将さんともたいへん、親しくてその『やそしま』という上方文化芸能協会の
機関誌の初号で女将さんを囲んで昔のミナミの話をしました時、私は司会をしたんですが、「お茶屋さ
んというのはなんですか」というか、「どういう役割ですか」とお聞きしたら、米朝さんが、「要するに
遊びに行くまでのところで一つの雰囲気、するとこで、それから遊びになる」、まあ、遊郭に。先ほど
最初に女将さんが説明された通りで、やっぱりそこで料理を食べて下ごしらえをして、それから遊びに
行く、そういうところですね。私はそういうとこ、そういう俗にいう遊びをしたことがない世代ですの
であれですが …… まあ、そんなかたち。大和屋さんには先ほどの政界、財界の人がよく集まりました、
中村勘三郎(十八代目、一九五五~二〇一二)さんが写真に出ましたがいろんな芸能の方が大和屋の女
将さんと親しく、あるいはお世話になっていて、坂東玉三郎(五代目、一九五〇~)というのはこの間
の上方の花舞台でも舞ってくださるなど、そういう意味でも上方文化というのでけん引、引っ張ってこ
られたということでございます。
‌他になければ、女将さん、あと、何か付け加えることございませんでしょうか。
― 84 ―
阪口‌: 昭 和 四 十 五 年 の 万 博 の 時 分 に は ほ と ん ど 国 民 が、 そ の 当 時 は 大 阪 に 五 軒 の 料 理 屋 が あ り ま し て、
「花外楼」さんが一番、それから、「堺卯」さんというのがありました。「なだ万」さん。「吉兆」さんい
うふうにありまして、それを「つる家」、「大和屋」と「なだ万」と、国賓の方が来られると、順にその
お客になることになっていまして、そのイメルダ・マルコス夫人(一九二九~)やとか、ハイレ・セラ
シエ陛下(一八九二~一九七五)とかそういうお方々をお迎えしたんです。
‌一つのエピソードとしますね。万博のときにエチオピアのハイレ・セラシエ陛下が大和屋にお越しに
なって、そしたら朝に警察からお電話がありまして、暗殺団を見失うたからちょっと気を付けてほしい
と(笑)。「えっ」っていうことで、「どないして気を付けんの」とびっくりしたんですけども。それで
ちょうど、皇后陛下を亡くされたところでして、王女さんとご一緒で、王女さんが犬を連れて来てはっ
た。ひょっとしたら犬もいっしょに来るかもわからへんから、お座布団とそれから食べるもんを用意せ
いということでした。「え、日本の犬も何食べるか分からへんのに、どうしてそんな外国の犬の食べる
もんがあるんやろ。どないしたらよろしい」というて、大変心配したんですけど。連れては見えません
でしたけど。お越しになってから、お帰りになってホテルにお着きになりましたという話を聞きますま
で、ほんとに手に汗を握るような思いをしたことがありますけれど。
柏木‌:あと七年後のオリンピックでも同じようなことがあるかもしれません。そういうことで今日は画面
― 85 ―
だけですけども、ほんとに上品ないわゆる大阪の言葉、浪花言葉を聞きながら少しゆったりしたおもて
― 86 ―
なしの気分に浸れたのではないかと思います。ほんとにどうもありがとうございました。(拍手)
(写真4)司馬遼太郎「勧進のことば」筆跡
第六回 平成二十五(二〇一三)年一〇月一九日
ワークショップ
和ろうそくのお話と絵付け体験
恭和 (まつもと・やすかず)
有限会社 松本商店 松本
江戸時代に最盛期を迎えた和ろうそく。特に東北・北陸地方
を中心に、冬場、お花の代わりとして絵ろうそくは発達してき
ました。
今回は、和ろうそくの特色や歴史について、また製造工程に
つ い て 詳 し く お 話 し し た 後 に、 フ ロ ー テ ィ ン グ キ ャ ン ド ル を
使って、この伝統の絵付け作業を体験していただきました。
― 87 ―
― 88 ―
第七回 平成二十五(二〇一三)年十一月十六日
上方の芸、江戸の芸
柏木 隆雄 (かしわぎ・たかお)
この公開講座には、第一回の大松先生の着物談義、第五回の大和屋の女将さんの和のもてなし、あしら
いについてのお話の際にも、ご紹介を兼ねて登場させていただきました。この第七回は「上方の芸、江戸
の芸」というタイトルで、お話をする、というよりはいろいろと懐かしい映像をご覧いただこうという趣
向です。ただし、やはり一応講座ですからそれなりの論というものを立ててみたいと思いますが、実は今
月四日に芦屋市谷崎潤一郎記念館で、「谷崎と歌舞伎」、「谷崎と狐」というメインテーマとして、三回ほ
ど講演会がありまして、私も第三回の講演を担当しまして、「谷崎を魅了した名優たち」というタイトル
で話をいたしました。
日本の作家のなかでも、日本の近代文学作家において谷崎ほど歌舞伎、文楽、そういったものを非常に
よく観ていて、これを小説やエッセイ、論文と言いますか、そういうものに題材を取り込んでいる作家は
ないのではないかと思っています。彼の全集、三十巻ありますが、谷崎の記念館で話をするというので、
― 89 ―
全集をパラパラっと再読しまして、そのなかで歌舞伎に関わるところに付箋を付けていきました。そうす
ると、第一巻、第二巻に付箋が多くつけられて、それから第二十何巻から付箋がまたつけられることにな
る。すなわち歌舞伎に関わる記述が彼の初期の小説と評論、エッセーの巻に多く収められているというこ
とがわかります。
つまり、彼のデビューのときは、いわゆる浅草の血なまぐさい演劇、芝居。沢村源之助とかいう役者の
演ずる女が田んぼのなかでその情夫を刺し殺す場面のある「切られお富」というのが、少年の谷崎に強烈
な印象を残したことを書いていますが、そうしたものの影響が、谷崎に大変強くて、とりわけ、『少年』
とか『刺青』とかいったその時代の彼の代表作には、歌舞伎のおそらく浅草の残虐無惨な、ちょっと血を
見るのが好ましい、血糊のべったりとついた女形の凄みのある立ち回りを思わせるような情景が髣髴とす
る書き方を意識的にしていたように思います。彼は関東大震災を契機に関西の方に移り住みますが、そこ
から東西の文化、芸風の違いに興味が向けられるようになります。従って彼の四〇代くらいのエッセー、
評論は、関西にいる東京人の自覚で、比較論証する文章が多く書かれました。晩年になりますと、若い時
に見た、とりわけ谷崎と彼より一つ年上の同じ下町育ちの六代目尾上菊五郎ですね、『細雪』のなかには
六代目の舞台を宝塚に観に行く。この菊五郎は、江戸っ子の常として、ある意味で大阪が嫌いでして、大
阪にはあまり来なかったようです。神戸に二回ぐらい、それから宝塚の劇場で得意の舞踊を披露したこと
― 90 ―
があり、谷崎がそれを見に行ったという話があります。たいていは東京の舞台で六代目菊五郎を谷崎は観
ていたようですが、谷崎と菊五郎は同じ町内の出身ということで、大変仲が良くて、晩年の菊五郎と並ん
で写真を撮っているのが何枚か作家のアルバムで出ています。先ほども申したように、谷崎は『幼年時
代』という彼の幼い頃の思い出を語ったものの中に、小学生の菊五郎が山高帽をかぶって、誰かの葬儀に
出るために人力車に乗せられていくところを見て、羨ましく思った、と書いていますが、初期の小説のな
かで使う歌舞伎は、いわゆる浅草の大衆歌舞伎の雰囲気を濃厚に出したものとすれば、芥川龍之介との文
芸論争で有名な昭和八年の「饒舌録」では、谷崎は六代目菊五郎という不世出の名優の芸を詳細に分析し
ています。
その他「芸談」という文章でも、九代目團十郎始め八代目團蔵、七世松本幸四郎などいろいろ著名な歌
舞伎役者について論じながら、小説での使い方とは異なり、文学者としての自分のかたちを説明するのに
歌舞伎の俳優の例を上手く使って組み立てています。例えば、「饒舌録」において、明治の時代には、尾
崎紅葉、幸田露伴というので、紅露時代と言っていた。ちょうど明治の始めの頃には、「団」、「菊」、まあ
これに「左」も入れる場合もありますが、九代目團十郎、五代目菊五郎、それから二代目左團次、これが
団・菊・左というわけですが、彼は「中車羽左衛門以下吉右衛門に至る迄何かと云ふと『團菊』を引き合
ひに出されるやうに、われの作品が一々紅葉露伴のものに比較されて、『紅露を見た眼では見られません
― 91 ―
な』などやられては全くたまつたものではない」、小説の世界でも、紅葉はよかった。露伴はよかったと
いうことになるだろうか。現在の作家というのと、そういう昔の文豪たちというのに本当に差があるのだ
ろうかというふうな論の仕方をして、実は自分の文学というものに非常に自信を持った言い方をしていま
す。
しかし、それを「私たちの文学は、昔の作家のものと較べて遜色がない ……」と言うと角が立ちます
から、つまり歌舞伎の過去の名優、現在の俳優の伎倆を比喩として用いながら、訴えるところは別のとこ
ろだというかたちで歌舞伎を使っているわけです。つまりそういう論文と言いますか、エッセイで使うと
きはエッセイなりの使い方、小説のなかで使うときには小説の使い方というのを巧みに行っていると言う
べきでしょう。
今日は、「上方の芸、江戸の芸」ということで、その視線を谷崎潤一郎に借りてお話したいと思います。
というのも、谷崎ほど自分が江戸っ子であるということを徹底的に意識した人はないんですね。そして、
江戸っ子というものは、「照れ屋」であるとか、「口べた」であるとか、またそそっかしくてっていうその
特徴、おそらくは自分を標準にした形で説明します。そして最後まで彼は東京の下町人ということを強く
意識した発言をしました。
もちろん震災後大阪へ来ます。結婚して芦屋に住みました。そして、さらに人妻であった森田松子さん
― 92 ―
と同棲した上で結婚ということになります。いろんなドロドロした人間関係、それを『蓼喰ふ虫』という
小説のなかで詳しく書いておりますが、そういうなかでも大阪の老舗の女の人と再婚をする。「阪神見聞
録」という最初に大阪について書いた文章は、大阪人はケチョンケチョンにけなされています。例えば、
電車のなかで、若いお母さんが赤子をパッパッと新聞紙を敷いて、そのまんまおしっこをさせる。ひどい
時には大便もさせるとか、それから新聞を読んでいても、人がダーッと来て、「ちょっとこれ、貸してな」
と言って持って行って、自分が降りるときまで返してくれないとか、そういう本当にこてんぱんに言って
いたのが、その次の「私の見た大阪人」となると、今度は様子が違ってきまして、大阪人を結構褒めるよ
うになります。
それは一つには森田松子さんという恋人もいて、大阪の気性も分かる。そうしてだんだんと大阪を舞台
にした小説が出来てくるわけですが、彼の歌舞伎を見る目というのはどう変わったかと言うと、これは相
変わらず徹底的に江戸なんですね。彼はいわゆる初代の鴈治郎というのを大変嫌っておりまして、例え
ば、「土屋主税」という四十七士に関係がある、いわゆる忠臣蔵ものの外伝と言いますか、それに出てく
る土屋主税、吉良邸の隣の屋敷の持ち主ですね。それが、四十七士が討ち入った時に、ばーっと高張提灯
をたくさん塀のこちら側から掲げて討ち入りをしやすいようにしたという話、その土屋主税に、鴈治郎が
扮した時に、鴈治郎が縁側に出て来て、すーっと隣の塀を見るかたち、その風情がいかにも、「これでど
― 93 ―
うだ」というような、わざわざ背を伸ばしてする。つまり、やり過ぎのところが、度が過ぎてほんとに
ちょっとがっかりした、というような文章を書いています。いわば徹底的に、大阪のいわゆる関西の歌舞
伎というものに反感がある。
今日は、歌舞伎と文楽とそれから落語に関して、名優とか名人と言われるような人の芸を観てみたいと
思いますが、先程言いました「芸談」、これは昭和八年に書いたものですが、その中で当時勃興していた
映画の話をしまして、やはり歌舞伎で鍛えた人はどこかちょっと雰囲気があるということを言った後で、
「それから此は近頃のことだが、或る朝臥ながら新聞をひろげて見てゐと、若い侍に扮した俳優の写真が
目についた。私は大方剣劇俳優のスチルピクチュアだらう思つたが、それにしては顔のこしらへや、着つ
けの工合や手足のおき所が、ふつくらとして、上品で、チヤンバラ劇の写真に見るやうな生硬な線がな
い。おや、活動にもこんな柔らかみのある役者がゐたのかと思つて、よく見ると、それは寿美蔵の舞台の
ポーズであつた。全く妙なもので、寿美蔵と云ふことが分からないうちに、一と目でその違ひが感ぜられ
た。それが、下駄を穿いて縁側に腰かけてゐるだけの特別な技巧を要するやうな姿勢ではないので、誰が
やつても大した変りはないはずなのだが、それでやつぱり違ふのである。いつたいどこに違ひがあるのか
知らんと思つて、尚よく見ると、ほんの些細な手の加減や足の加減で、たとへば肘の曲げ方とか指の出し
方とか、僅かな呼吸で、襟や肩や袂のあたりに優美な円味が出来てゐる。ぼんやりとしかけているやうで
― 94 ―
す
み ぞう
じゅかい
も矢張り歌舞伎の約束に従ひ、それだけの心得をしてゐるので、着物の皺一つでも自づと違つて来るので
ある」。
この六代目市川寿美蔵という役者、ご存知と思いますが、後の名優三代目市川寿海で、若いときは二代
目左團次の弟子 ― 左團次は当時の歌舞伎役者としては先進的な考えの持ち主でした ― その薫陶を受けて
現代劇と言いますか、創作劇や翻訳物なども一生懸命やりました。菊五郎は世話物、團十郎は時代物とい
うので決まっていましたが、左團次は翻訳物や創作劇など、例えば「父帰る」ということもやりました。
彼の薫陶を受けたものに市川猿之助、後の初代猿翁、そして市川寿海がいます。谷崎のこの文章は、寿海
の若い寿美蔵時代の姿がみごとによみがえってきて鮮やかですね。
こんなふうに、着付けの仕方そのものが、歌舞伎の役者の一つのアイデンティティになっている。近
頃、歌舞伎を観ますと、その着物の着方が大変醜い。若い侍役の者でも普段、背広を着ていますので、結
局どんな時でも着物姿でいた明治大正に比べて、ほんとに着物が板につかないんですね。今の若者の変な
浴衣の着方、それに似た感じすらあるくらいです。もっと言いますと、ある時、今の左團次の一日を追う
番組がありまして、これもこの間亡くなりました勘三郎もそうですが、やっぱりパンツ履いてるんです
ね。楽屋のなかでも。パンツ履いて、そして着物着てというようなね、やっぱりこれはおかしい。常に
ちゃんとしたその当時の下着を着て、普段から着物姿で通していると、着物がぴたと身についてきてはだ
― 95 ―
けないし、裾も割れないんですね。鞍馬天狗の嵐寛寿郎は、派手に殺陣で飛び回っても裾が割れない。そ
れは女形をしていた名残だ、などという人がいますが、今の若い人、特にテレビの時代劇でそうですけれ
ども、身のこなしがぎこちない。まっさらな着物自体が変ですが、その着物が体の動きに付いてこないん
ですね。そこの微妙なところを、谷崎は、何と言うのかな、きちっと見て、着付けや手の動きがいい。誰
かわからないけれどもこいつはなかなかええんじゃないかと思ったら、寿美蔵だったというこういう話を
するわけです。
高橋英樹という今の俳優がおりますが、それがこの間テレビで話していますのに、現代劇から時代劇に
移るときになって、尾上松緑に踊りを習った。つまり時代劇をするようになったら、やっぱり日本舞踊を
きちっと習わないと様にならないと言われて、松緑に習ったということを言っていました。動きの中に着
物が乱れぬ心得が入っているのでしょうね。
さて先程読んだ谷崎の「芸談」の続きです。
「或る劇通に聞いた話に、先年澤正」、これは澤田正二郎の新国劇です。「澤正が助六をやつた時、例の
傘を片手で支えて花道で見栄を切るところで、両脚を開いてウンと踏ん張ると着物の尻の縫ひ目がピリピ
リと綻びる、毎日毎日きつと花道でピリピリと来るので流石の澤正も此れには弱つた。するとそれを旧
劇」、歌舞伎ですが、「旧劇の某優が聞いて、あれは羽左衛門や菊五郎がやると、脚を開いてゐるやうに見
― 96 ―
えても、馬鹿正直には開かないで、腰で加減をしてゐるのだが、舞踊の素養のない者には一寸そのコツが
分らない、普通の人があの着附けであの真似をすれば、必ず綻びが切れるものだと云つたと云ふ。まこと
に、芸と云ふものは一種の魔術だと云ふ感を深くする」
ゆかりのえどざくら
この後で羽左衛門 ― 大変な美男で、フランス人と日本人女性との間に生まれた生粋の江戸っ子ぶりで
有名な羽左衛門ですが、この羽左衛門と七世幸四郎と六代目菊五郎の演じました『勧進帳』をこれから
ごらんいただきますが、先ほどの澤正の話に出ました歌舞伎十八番の一つ『助六(由縁江 戸 桜)』という
のをちょっと御覧に入れます。
御 覧 に い た だ く の は、 十 一 世 の 團 十 郎 演 ず る も の で、 江 戸 の 歌 舞 伎 の 代 表 と で も い う べ き も の で す。
十一世團十郎は、戦後市川海老蔵として大人気、「海老様!」と呼ばれたことは今も語り草ですが、不世
出の名優九代目團十郎の後、十一代目の誕生が待たれていて(九世の婿養子市川三升はもともと銀行員で
恋愛結婚で市川家に入り、中年になって役者に転じた人で、役者としては経歴からも察せられますが、市
川家の演目保存やその他に尽力し、貢献した人です。海老蔵を後継に指名し、海老蔵は三升に十代目を遺
贈することによって報いました)、「早く團十郎を襲名しろ」と言われたのですが、慎重な海老蔵はなかな
か言うことを聞きません。すごく遠慮のある人です。しなかった。ようやく彼が十一代目團十郎として
六十年ぶりに團十郎の名前が歌舞伎座の「招き」に載ったわけですが、ビデオはその襲名披露の時の『助
― 97 ―
六』です。もうこの二年後に團十郎は五十六歳で死んでしまいます。病名は本人には当時のこととて知ら
せませんでしたが、胃癌。そのことがあったのか、あるいは襲名披露公演が続いて疲れていたのか、彼は
口跡のいい人ですが、ちょっと台詞が声に張りがないのが残念ですが、しかし、姿の美しさはさすがに
「海老様」と騒がれたのもうなずけます。最初、出のところだけ御覧いただきます。さっきの脚を踏ん張
るところね。《以下、ビデオを見ながら》
《助六の図像》
こういうのを錦絵から出てきたような色男と言うんでしょうかね。この息子さんも、今のお孫さんにも
マネのできない気品もあり色気のある助六ですね。
《ビデオ上映》
さ っ き、 助 六 が ぱ っ と 傘 を 畳 ん で、「 え っ、 冷 え も ん で ご ざ い。 お っ と、 ご め ん な さ い。 ご め ん な さ
い」って、廓の方に繰り込みましたね。「冷えもんでございます」というのは銭湯に行く時に言う言葉な
んですね。自分の体が冷えているから、湯船に入ると湯が冷える、だから最初、他の人が入っている湯に
入る時には挨拶に「冷えもんでございます」という。そこから湯ばかりでなく、なんらかの一座に新参と
ざく ろ ぐち
して入る者は「冷えもんでございます」と挨拶をつかうわけです。そんなこと知ってて、それがどうした
と言われるとそれまでですが。ついでに銭湯の入り口のところ、石榴口と言います。石榴口、もう今は使
― 98 ―
いませんが、銭湯が当時はいわばサウナのようになっていて、蒸し風呂ですね、湯気を立てる。浴室を温
める。なるべくその薪が少なくてすむように、湯殿が冷えないように入口を狭くしてある。それで、屈ん
で入ります。屈んで入るので、屈み、入る。「鏡、要る」に繋がって、昔から鏡は鉄でできていますから、
鏡面を石榴の実で磨いたんですね。だから、「鏡(に)要る、石榴」という洒落で、「石榴口」って言うん
ですね。
あげまき
江戸っ子は、とにかくそんな例からもわかるように、すごく洒落、いわゆる「考え落ち」の洒落が好き
ですから、たとえば助六寿司というのは助六が好んだわけでも、彼が名づけたわけでももちろんなくて、
稲荷寿司と巻き寿司、揚げと巻きですから「あげまき」、助六の恋人は揚巻だから、「おい、ちょっと、巻
寿司といなりちょうだい」と言ったら、無粋でしょ。安物ばかり。「おい、助六を一つ」と言うと、なん
か、粋じゃないですか。
《ビデオ開始》
こからいわゆる奴連中が出てきます。― これが團十郎の実の弟です。二代目尾上松緑。―― これは
こ
二代目尾上九朗右衛門、これは六代目菊五郎の実の息子です。なかなか進取の気分に富んだ役者さんでし
たが、いかんせん、親父さんほどの技量に達しなかった。うまくなかったので、菊五郎襲名もかなわな
かった。ここから助六のいわゆる江戸歌舞伎の粋をご覧いただけます。
― 99 ―
《ビデオ終了》
これは、團十郎が江戸時代、初演した時にいわゆる甘酒売りの口上もそうですが、すごい早口言葉をを
つら
言う、いわゆる連ねですね、それが代々の團十郎の看板でして、ここでも、助六が荒事のセリフ回しで大
仰に腕をあげ、首を回して「かッかッかッ」というのは、いわゆる荒事の所作の決まりですが、江戸の当
時の言葉がそのまま生かされているセリフといいます。
さて次は先程若い時の寿美蔵の話が出ましたが、この人はもともと東京出身の役者ですが、戦後関西歌
舞伎に移り、やがて市川寿海として関西歌舞伎の大御所となります。今度は昭和三十七年のNHKテレビ
で中継された『鳥辺山心中』をご覧いただきましょう ……。
《ビデオ開始》
上演前の支度部屋。インタビューをする山川静夫さん無茶若いですね。― 寿海はこの年七十四、五歳
でしょうか。こうして話をしていると、彼のセリフは聞き取りにくいんですけどね、これまた若い歌右
衛門で、この時四十七歳とかで、すでに芸術院会員なんですね。― 三代目坂東寿三郎が関西歌舞伎の大
じつ かわ えん じゃく
看板、そして彼亡き後、寿海がそれを支えましたが、東京もん、という意識が関西歌舞伎界に結構根強
かったようです。その寿海も死んで、関西歌舞伎というのはほとんどすたれてしまう。 実川延若、先代
(二代目)の延若が死んだとき、もっと言われました。それで、皆さん、ものすごく懐かしい顔と言うか、
― 100 ―
「えっ」と言うのを御覧いただきます。『番町皿屋敷』。昭和三十八年の上演のものです。
《ビデオ開始》
先程のインタビューと同じ時にやってるんですけど、先ほどのインタビューのモコモコした言い方だっ
た寿海は、舞台に出るとものすごくはっきりした見事な口跡で、あっ、これが亡くなった十三世仁左衛門
ですが。― これ誰だかわかります。これ、孝夫ですわ。今の十五世仁左衛門。もう、若い、若い。ほん
とに出たての頃ですね。
《ビデオ終了》
こんなかたちで、先程の孝夫のセリフを見ても、今の仁左衛門になった孝夫は、セリフ回しが上手に
なっていますが、この時はまだほんとに棒読みみたい。やっぱり芸というのは長いかたちでしないといけ
ない。
先程のインタビューでも言ってますけども、この岡本綺堂原作の青山播磨はまず二代目左團次がやりま
して、そして寿美蔵時代の寿海が先程の仁左衛門の放駒を長くやっていたということ。『番町皿屋敷』の
青山播磨は寿海の当たり役になりました。あと、『鳥辺山心中』の半九郎、時間があればまた御覧いただ
きますが、関西歌舞伎の一つがこういうかたちで江戸と関西の歌舞伎の形の違いというのをお目にかけま
すと、…… これは『伊賀越道中双六』の「沼津」のところですね。
― 101 ―
《ビデオ開始》
これ二代目鴈治郎です。これが先ほどの仁左衛門。結局、関西歌舞伎の二人が関西のなまりある「沼
津」を心地よく演じている、というところでしょうか。― まあ、もともとこれは浄瑠璃、文楽の劇です
のでこういう関西の俳優たちが演じると、それなりの雰囲気が出るということですね。この十兵衛の役
は、今の松本幸四郎なども役をしてますけど、やっぱりこういうふうにちょっと、本当はそれこそ若い男
で、平作の娘お米が惚れるほどですが、鴈治郎がやると、おじいさんに白粉を付けたと形でなかなか大変
ですが。
《ビデオ終了》
いちのたにふたばぐん き
同じような文楽物で、これも懐かしいと言いますか ……。
《ビデオ終了》
良く知られている(『一谷 嫩 軍記』)「熊谷陣屋」、これが名優吉右衛門の、これ初代の吉右衛門ですが、
熊谷です。
《ビデオ開始》
の小太郎役が中村万之助、今の二世吉右衛門。こんな何ともかわいい声でセリフを言っていますが。
こ
これが今の吉右衛門ですね。まだまだ若い時の。この、松本幸四郎の奥さんのお父さん、つまりお舅さん
― 102 ―
が初代吉右衛門ですね。だから、一家で『熊谷陣屋』一幕をやっているという感じになります。
《ビデオ終了》
これ御覧になって、あるいはお聞きになってわかりますように、初代吉右衛門はまた独特の台詞回しと
役柄の解釈で一代を風靡しました。これを聞いてましても、ちょっとくさいところがあるんですが、しか
しセリフのメリハリはきちんとしている。今の歌舞伎に行きますとなかなかセリフが聞き取れない、役者
の人たちが何を言うてるのか聞き取れませんが、この人たちのは本当、日本語がよく分かって浸み通って
くる、そういう台詞回しが昔の俳優ができたということではないかと思います。今の人たちのセリフに、
観客が酔うというところまではいかないように思うのです。セリフを間違えないか、そればかり気になっ
ている。それもあるでしょうが、何よりも時代をさかのぼって、そのセリフ自体の持つ意味が十分にくみ
取れずに、それで感情移入も言葉から入っていかない。なるほど役柄や心理的葛藤は教えられて理解して
いるのだろう。しかしセリフそのものが自分の言葉と同じくらいにわかったものでないと、抑揚も、リズ
ムも借り物になってしまうのです。
この初世吉右衛門と並び称されたのが六代目菊五郎です。やはり菊五郎は踊りとそれから世話物です
ね。そして吉右衛門は時代物というジャンルで真価を発揮しました。それで、今から、吉右衛門と並び称
せられました六代目菊五郎の義経と、先程御覧いただきました團十郎のお父さん、松緑のお父さんでもあ
― 103 ―
ります七世松本幸四郎の十八番の弁慶、この人は千八百回以上、弁慶をやったというので、今の松本幸四
郎も千回以上しているようですけど、まだ、多分千八百までいってないんではないかと思います。
さて富樫が十五世の羽左衛門、お父さんがフランス人でお母さんが日本人ですが、フランス語は全然
しゃべれません。有名な話がありまして、パリに羽左衛門が行った。その時にメガネを誂えるために眼鏡
屋に入った。眼鏡屋はいろいろいい眼鏡をとっかえひっかえ「これはどうです」、「見えますか」「読めま
すか」と言って新聞を出す。羽左衛門は「読めねえ、読めねえ」。「じゃあこれは」と別のを差し出しては
「読めねぇ」とかえされ。フランス人の眼鏡屋が不思議がっていると、「俺は横文字は読めねえ」。見える
んです。見えるけれども、「横文字は読めねえ」と。
今からご覧いただくものは、昭和十八年の十一月の撮影です。昭和十八年というと、すでにミッドウェ
イで負けて、さらに南洋の果てから米軍の反攻が本格的になって敗色濃い、そして日用品、食料の配給も
滞る。空襲が盛んになって逃げ惑う。そういう時でも観客さんがちゃんとよそ行きの和服を着てほんとに
のんきな感じで写っているんですね。― これはマキノ雅弘が撮った映画ですが ……。
《ビデオ開始》
六代目菊五郎の義経の登場です。この杖の立て方、そして足の運び、こういう形のよさがわずかな違い
には違いありませんが、それが大きな違いで他の義経役者と違うところですね。次に四天王が出て来ま
― 104 ―
す。この四天王の一人になっているのが当時の市川海老蔵、後の十一代目團十郎です。それからその次が
市川染五郎、後の八代目松本幸四郎です。そして、あと三代目河原崎権十郎が出まして、弁慶が染五郎や
海老蔵のお父さんである松本幸四郎ということになって、これも親子で共演というわけです。― これが
幸四郎です。やっぱりこの幸四郎の声と先程の團十郎の声と親子ですから大変よく似てますね。
それはともかく、関所へ行くと富樫がいる。
― この場面は勧進帳を読むところですが、ちょっと画像が古くて悪いですが。
― まあ、ちょっと長いので問答のところへ飛びましょう。
― このとき十五代羽左衛門は七五歳、この翌々年昭和二十年に亡くなります。幸四郎もこの後すぐ亡
くなりますので、非常に貴重な映像ですね。でも、声の張り、朗々たる調子、ほんとに素晴らしいです
ね。ほんとはずっと聞きたいですが、もう少しこの芸のええところを見ることにしましょう。
これは船を漕いでるところですね。
― ここで義経の波乱の一生を手踊りで示すわけですが、今の役者にはできない見事な、大きな振りを
いたします。
―
― 大変見事な振りですよね。大きい。小柄な人でも、芸の力で大変大きく見えるあれです。そういえ
ば松本幸四郎は師匠である市川團十郎に、芸については一言も詳しく教わらなかったが、船釣りの際の座
― 105 ―
り方、漕ぎ方から餌のつけようまで、細かいくらいに厳しく仕込まれた、と幸田露伴が書いていますが、
その片鱗がこの船を漕ぐ動作にでているのでしょうか。そしてお酒をもらって踊ります。この「延年の
舞」というのがすごいです。
― これであと、「飛び六方」に移っていきます。
― 今、これだけ長唄連中をずらりと揃えている舞台というのはできません。だから今の『勧進帳』を
やってこれだけ名優、名手が揃う舞台はないです。「飛び六方」が今のとは全然違います。
― こ れ は ゆ っ く り し た 動 作 み た い で す け ど も、 こ の ビ デ オ の 長 さ と 今 の 若 い 人 が や っ て い る 長 さ と、
こちらのほうが短いんです。まさしく緩と急が見事に積み重ねられているわけです。
― さ て、 先 に 落 ち て い く 義 経 一 行 を は る か に 見 や っ て、 こ こ か ら 大 き く 手 を あ げ ま す。 そ し て つ っ
つっつと六方を踏む形で前に進む。と、もう一度戻ります。こうして今度は本格的な六方を踏んで揚幕に
入っていきます。これは息子の十一世團十郎も孫の十二世團十郎もできません。ますます飛びの高さが低
くなります。修練というものの凄さが出ていますね。
《ビデオ終了》
資料でお渡しした谷崎の文章、その二番目のものをちょっと見てください。これは「初昔」という昭和
十七年に書いたものですが、「いつかある人から聞いた話に松本幸四郎が七十一歳で一世一代と称して、
― 106 ―
勧進帳の弁慶に扮しあの『延年の舞』を舞うのを見れば誰しも驚嘆するけれども、実は垂れ幕の前に何本
となく注射を打って辛うじて演じ終せるので、幕間には楽屋でぐったり倒れていると言う。私も幸四郎よ
りは十数年若いけれどもその時ちょうど人生の幕間について」云々と、つまり谷崎がこう語る年よりも、
さらに一年後の舞台が先程の映像です。にもかかわらず、身が軽いと言うか、息も詰まるような踊りの至
芸ですよね。しかし松本幸四郎は不器用な役者と言われていました。菊五郎とか吉右衛門に比べれば不器
よ わ なさけうきなのよこぐし
用な役者だということを言われていました。時間がありませんが、せっかくですから僕の好きな十一代目
の与三郎、『与話 情 浮名横櫛』「源氏店の場」を見てみたいと思います。
《ビデオ開始》
これは蝙蝠安が先代(十七代目)の中村勘三郎です。
― ついつい真似したくなりような台詞回しですね。こんな芝居から家に帰るすがら、お母さんもお父
さんも自ずと「百両百貫貰っても ……」っていうようなことを言うんですね。これを子供が聞いて、ま
た真似をする。そして自分がじっさいに大人になって舞台を見て、あぁ親父やお袋がやっていたのは、こ
この台詞か、ということになる。
この与三郎を演るときには根っからのやくざというのでなく、いくら身を持ち崩していても、どこ
―
か金持ちのお坊ちゃんの風情が残っている、ヤクザな男のヤクザなところと、出の良いお坊ちゃんという
― 107 ―
わ
け
ところが混じっている感じがいいですけど、この團十郎とか羽左衛門はぴったりだったんですね。
― さてここから相手がかつての情理ありの女と知って、蝙蝠安に替わってつっと出るんですが、着流
しで、頬被りしながらも、ぴんと着物の線が崩れないで、迫っていく。実に上手く着こなしていますね。
― お富は六世歌右衛門です。
《ビデオ終了》
どんどん聞いておきたいですが時間が押してますので、文楽に移りましょう。引用3の谷崎の文章にこ
うあります。「むかし、人形芝居を見た時には不気味でグロテスクなやうに感じたが、見馴れて来るとな
かなかさうでない、妙に実感があつて、官能的で、エロチツクでさへある」云々。生身の役者よりもか
てんのあみじま
えって非常に艶めかしいこの文楽の浄瑠璃の人形遣いの説話、谷崎らしい細かい形で語られます。ちょう
ど引用の真ん中の下あたりです。「それ故文五郎が」、これは名人と謳われた吉田文五郎ですが、「天網島
の小春を使ふ時、小春が懐ろ手をして溜息をつかうとすれば文五郎の肉体が溜息をし、文五郎の手が小春
の懐ろに入らなければならない。人形の体は凡て宙に浮いてゐるので、小春が据わる時には脚を使ふ助手
が裾をつぼめて膝をふつくらとふくらませ、小春の腰であり臀であるべき部分は直ちに裃を着た文五郎の
腕と胴とに接続する。かゝる場合には何処迄が人形の領分であり何処迄が文五郎自身であるとも云へな
い」云々と。それをこれから御覧に入れます。
― 108 ―
やましろのしょうじょう
本当はこの後、さらに落語の東西の比較に「宿替え」と「粗忽の釘」を見たいんですけど、時間がなく
なりそうですな。第二編を乞うご期待というかたちになるかもしれませんが、ご覧頂く文楽については、
そんな長くはしないでおきましょう。ちょうど一番の名人の豊竹山 城 少 掾が義太夫を唄い、人形遣いが
吉田文五郎という戦前の最高のコンビの舞台です。…… すみません。これはDVDが開きません。それ
じゃ、豊竹山城少掾の『菅原伝授手習鑑』「寺子屋の段」だけ、どんなものかということだけでも。これ
は音声だけで申し訳ないですけども、お聞きください。
《音声開始》
この三味線は先代(鶴澤)藤蔵です。
― 先程、松本幸四郎がやった(武部)源蔵がちょうど菅秀才の首を打たないといけない、その首を時
平に差し出さなあかんというので、とぼとぼと帰ってくるところです。
《音声終了》
んなふうに大変歯切れの良い、今の四代目竹本住大夫さんのようにウワーと絞るような悪声でない。
こ
住大夫のファンもおられるようですが、私自身は、豊竹山城少掾、そしてその弟子の四代目竹本越路大
夫、こういった人の芸の方を買いまして、大変優れていると思うんです。谷崎は、『蓼喰ふ虫』のなかで
主人公の舅が淡路島の浄瑠璃をお妾さんと観にいく、それに彼もついて行くというのがあります。また、
― 109 ―
その舅とお妾の二人が文楽の小屋に行くのにもついて行く。そのとき舅が言うには文楽は人形を見るんや
ないと。節を聴くんだと。そして酒を飲みながら女の人の横にこう膝枕をしながら舞台には時々眼をやる
けども義太夫を聴きに行く、というようなことを書いていまして、谷崎が大阪に来てから、文楽というも
のに非常に目覚めた一つの証拠であります。それで、次の引用、山城少掾の話、これはそこにあります
ように戦後、昭和二三年に書いたもので、『蓼喰ふ虫』は確か、昭和九年ぐらいかな。それから、十年ぐ
らい経ってから、彼の友人のフランス文学者の辰野隆が、「要するに文楽なんてのはあれは馬鹿の ……」、
とても常識では考えられないような話がしているので、いわゆる『所謂痴呆の芸術について』というエッ
セーで、いろんなかたちの矛盾、ばかばかしさ、文楽の。そういったばかばかしい、そしてけばけばし
い、そのなかで、なぜそれが納得できていくかというと、三味線の名人と義太夫の名人が一致した時に初
めてその痴呆の芸術でなくなって、感動があると。だから、結局そのためには名人の血のにじむような
数々の苦心談があるということを書いてあります。この『所謂痴呆の芸術について』は文楽についての大
変優れた論ですので、それも御覧いただきたいと思います。
さて最後は東西の落語です。昭和二八年桂春団治が亡くなりました。この春団治は、二代目、数え方に
よっては三代目です。初代の春団治、いわゆる「後家殺し」と言われた人は、初代ともいいますし、二代
目ともいいます。谷崎は二代目桂春団治、いわゆる二代目というか三代目が亡くなった時、『春団治のこ
― 110 ―
とその他』と題して『毎日新聞』に感想を寄せています。谷崎は「その師匠である先代の春団治に比べれ
ばなほ大いに遜色はあつたけれども」「春団治の訃を伝へた大阪京都の諸新聞がほとんど異口同音に『此
れで大阪落語も滅びた』と云つてゐたが、いかにもさう云ふ感が深い。五十八歳と云ふ若さだから、せめ
てもう十年も生きてゐて後進の養成をしてくれたらば、大阪落語もまだまだ発展の余地があつたかもと思
う。(中略)笑福亭松鶴なき後は」、この間死んだ六代目松鶴のお父さんですが、「松鶴なき後は、彼が大
阪落語の第一人者であつたことはおそらく誰も異論はない」云々と。こう褒めてはいるのですが、大阪落
語の特色を、とにかく芸も話も人間も「あくどい」ところに特徴がある、としているようです。
落語というのが本来大阪のものだったことはご承知の通りで、いま桂文楽などの名演で知られる「『愛
宕山』『らくだ』『三十石』など、本来大阪のものであり、また当然そうでなければならないはずのもの
が、今では東京落語の古典とされていて、地元の大阪ではめったに聞かれないようになってしまった。谷
崎はよく自分の家に桂文楽とかの芸人を自宅にを呼んで楽しんでいますが、春団治も呼びたかったけれど
も、春団治が家に来てそれをやると、どうしても下がかった話が多いので、家のものが閉口するだろうと
思ってなかなか踏ん切りがつかなかったという話をしています。
私の一番のひいきの東京落語、桂文楽のは、もうだんだん時間が来ましたので割愛し、少しだけ二代目
桂枝雀の『宿替え』と私の大好きな二代目三遊亭百生の『宿替え』を、一つは市販のDVDで、一つは私
― 111 ―
の秘蔵のテープで聞いていただいて、時代の変遷というのを見ていただきたいなと思うんですが、高座に
上がって得意のネタ「大仏餅」を口演中、登場人物の名前が出なくなって、「また勉強して出直してまい
ります」と引き下がって、そのまま高座に上がらずに、ほどなく亡くなった桂文楽は名人中の名人となっ
て、東京落語の象徴ですけれども、この文楽は若い頃に大阪の三代目三遊亭圓馬に世話になった。そこで
修行したんですね。この圓馬と言うのは谷崎潤一郎の若い時には東京で七代目朝寝坊むらくという名前で
出ていました。それが大阪に落ちたというのか、稼ぎに行ってそこで居ついて圓馬になった。その圓馬と
いうのは大変名人だということになってますが、その圓馬のところに文楽が行って学んで、それから帰っ
て来て文楽という東京落語の最高峰になったという。だから東京と大阪の落語というのは与えつつ、取り
つ取られつという感じですね。それでまず枝雀の方を見ていただきましょうか。枝雀の『宿替え』です。
この方も亡くなりましたので懐かしいと思います。
《ビデオ開始》
こんな感じです。それじゃあ、僕の好きな三遊亭百生はどんなふうな話し方か。
《テープ開始》
枝雀のは「重石」と言いましたね。百生のは「漬物石」、それから「ボテ」いわゆるボロ布のボテ、そ
ういうの分からんからすごく新しいカタチで枝雀は「布きれ」とか「ぬか」といって工夫があるのはよく
― 112 ―
わかりますが、やっぱりものすごく早い割には無駄が多く、話でなく、仕方や顔つきで笑わせている。と
ころが、百生のほうが言葉や話し方のギャグが非常によく効いているわけです。今でも我が家では「そう
言う手間で〈はい〉と言えんか」と私の方が言われてますが(笑)、いずれにしましてもこの三遊亭百生
は、大阪で落語をしていて、そして最後は東京の五代目三遊亭圓生の門下に入って東京の寄席で徹底的に
こういうこてこての関西弁でやってました。
今日もっと時間がありませんのでお聞かせできませんが、初代の春団治。初代の春団治のレコードを聴
きますと、どうも百生のような声色と話し方です。だから一種の大阪落語の伝統というのは三遊亭百生が
ある意味では東京に行って絶対に関西弁を崩さずにやっていた。そのおかげで東京の放送局がかえって大
阪落語の百生の高座をテープでいっぱい残してくれて、こうして聞けるわけです。これが関西ですと、関
西の落語は春団治とかは別ですけど、だんだんと少し廃れてしまいます。米朝とか松鶴とかが盛り起こし
ますが全国版にはなかなかならなかった。関西弁大阪落語を全国版にしたのはやはり三遊亭百生の功績が
多かったと思いますし、ある意味で正統的な大阪落語だったと思います。
さて(三代目)笑福亭仁鶴などがいなくなり、桂三枝(二〇一二年、桂文枝を襲名)的な落語が残ると
したら、大阪落語は、なるほど落語のネタがいつまでも江戸、明治、大正の風俗に題材を取るのは、ある
意味で古めかしく、三枝のように現代の風俗をネタにするのも、百年の後にはこれが古典になるのかもし
― 113 ―
れませんが、それだとなんだかうすら寒い。
歌舞伎においても市川寿美蔵、すなわち寿海もそうです。東京で左團次に仕込まれる。しかし関西歌舞
伎に入ってその特色を維持する。さらに東京落語から圓馬が大阪に来て、文楽がそれに習う、東京に帰っ
て芸を完成させる。こんなかたちで実は芸能、江戸と上方という始めこそは整然と分かれていましたけ
ど、だんだんとそれぞれがライバルになり融合しながら反発しながら盗みながらそれぞれの芸を育ててき
たといえるのではないでしょうか。ただし今そういう芸能、かたちの継承というのが行われているのかど
うかと言うのは疑問があるかもしれません。ちょっといろんなビデオを見ていただきたかったですけど
も、これはまたいつか機会がありましたら、こういうかたちで皆さんに御覧いただきたいと思います。時
間が少し一〇分ほど延びてしまいました。どうも申し訳ありません。お楽しみいただきましたでしょう
か。ぜひ、こういうかたちで昔の芸をまた振り返っていただくことが将来の芸能についても大事なことで
はないかと思います。先程の七代目松本幸四郎の『勧進帳』を見ていますと、芸というのは時代と共にだ
んだんと下がっているのではないか、そうする「團、菊、左」を見た明治の人たちがすごく素晴らしいと
いった九代目團十郎の芝居って一体どんなものだったんだろうかと思いたくなるんですが、今は『紅葉狩
り』の一部しか九代目團十郎のフィルムは残っていません。それから、六代目菊五郎は大変踊りの上手な
人でして、『鏡獅子』を、「私の踊りを撮るんだったら日本一の監督に撮ってもらいたい」と言って、小津
― 114 ―
安二郎が監督して『鏡獅子』を撮りました。
私は部分的にしか観てないんですけど、もうやっぱり菊五郎は名人気質ですから、舞台ではなく、映画
のスタジオに舞台を作って、観客なしにやったんですが、踊っていても「ここのところはそのカメラで写
してくれ、これでやって」とか、うるさかったらしいです。フィルムは最初から最後まで演技の中断なし
に全部一息に撮ったんではなくて、「やっぱりこれは上手くいかなかった。もう一回」とか言って、何度
も撮影を中断して、改めてその次の振りから『鏡獅子』を踊ったんですけども、何回も撮り直して映画は
一本のフィルムに編集するわけなのですが、驚くべきことにどの瞬間まで撮っても、すぐその次のフィル
ムにつなぐことができた。つまり、菊五郎は何回踊り直して踊ってもピタッと同じ。要するにフィルムを
つないでも、全然そのつなぎがわからんぐらい同じ踊りをしたということですね。そこに小津安二郎はい
たく感心したそうですが、同時に実は菊五郎は知らされていなかったのですが、あっちこっち、「このカ
メラ」「このカメラ」と言って、ものすごくうるさく注文を付けてカメラを幾台も回させたのですが、小
津安二郎は本当はうるさい監督ですけど、「なるほどそうしましょう。はい、じゃあ、このカメラ。次は
このカメラ」と言って撮ったんですね。ということになってるんですが、助監督が、「監督、そんないち
いち聞いてていいんですか」と心配になって聞くと「いいんだ。いいんだ。カメラにはフィルム入れてな
い」(笑)。
― 115 ―
お互いに名人同士の化かし合いですけども、その小津安二郎が撮った『鏡獅子』は菊五郎も大変満足し
たということです。それでも、今見ますと、先程の『勧進帳』と同じように、やはりフィルムがぼけてい
て見づらい。先程の『勧進帳』にしても、演者の顔は今のテレビ中継ほどはわからないのですが、それで
もその凄味は本当にしみじみ分かる。
実は時間があったら七代目幸四郎の長男、後の十一代目團十郎の最後の飛び六方。その次に十二代目團
十郎。そして海老蔵と、ずっと並べてやってみようかと思ったんですけど、これは全然違って時代が下る
ほど下手です。それで、初代の市川猿之助、これが大昔NHKでスタジオで『勧進帳』をやっています。
二代目鴈治郎が富樫。ここでも飛び六方をやってるんですが、これがまたあまり良くないですね。スタジ
オでやったせいかもしれませんけどね。でも全然、……。だからそんな較べていくとはっきりと違いがわ
かります。それを見ると、芸というのは衰退しているのか。でもそれが昔は多分若い時から徹底的に役者
バカと言われるようにそればかりやっていた。いろいろ遊びもしながらも、ほんとに小さい頃から徹底的
に踊りや芝居を叩き込んでいるから、ほんとにああいう「神品」ができるんですね。七十八の老齢で飛ん
で跳ねて、そして堂々と大きな舞ができるというのはやっぱりすごいことで、学問も精進が肝心ですね。
私も小さい時から一生懸命してたらよかったかなと思うんですが、ちょっと後悔が遅きに過ぎました。
それではこんなところで私の話を終えたいと思います。今日はどうも私の話というよりは、御覧いただ
― 116 ―
いたことになりました。どうもありがとうございました。(拍手)
【関係映像・録音】(事務局・竹村宏調べ)
「助六由縁江戸桜」
一九九四年十月四日NHK衛星第二「山川静夫が案内する歌舞伎特選~戦後の名優たち」
一九六二年五月歌舞伎座(十一代目市川團十郎襲名大興行)市川團十郎・坂東簑助・中村歌右衛門
「鳥辺山心中」
一九六二年六月二十四日NHK総合「劇場中継」
一九六二年五月 歌舞伎座(十一代目市川團十郎襲名大興行)市川壽海・中村歌右衛門
「番町皿屋敷」
一九六三年十二月十五日NHK総合「劇場中継」
一九六三年十二月 南座(吉例顔見世興行)市川壽海・片岡仁左衛門・中村歌右衛門
「伊賀越道中双六 沼津」
歌舞伎名作撰 一九八〇年一月 歌舞伎座 中村鴈治郎・片岡仁左衛門・中村扇雀
NHKエンタープライズ 10401AA
「勧進帳」歌舞伎名作撰
一九四三年十一月 歌舞伎座 松本幸四郎・市村羽左衛門・尾上菊五郎
NHKエンタープライズ B0002MFHMC
「与話情浮名横櫛~木更津海岸見染の場~・~源氏店の場~」歌舞伎名作撰
一九六三年一月 歌舞伎座 市川團十郎・中村歌右衛門・中村勘三郎
NHKエンタープライズ 18378AA
― 117 ―
「一谷嫩軍記 熊谷陣屋」一九五〇年四月東京劇場
中村吉右衛門・市川猿之助・中村勘三郎・中村芝翫
「菅原伝授手習鑑 寺子屋の段」「義太夫選集/豊竹山城少掾(五)」
一九三四年九月録音 浄瑠璃:豊竹古靭大夫(豊竹山城少掾)三味線:鶴澤清六
~ 822
日本伝統文化振興財団 VZCG-8212
「菅原伝授手習鑑 寺子屋の段」
浄瑠璃:豊竹山城少掾 三味線:鶴澤藤蔵
「枝雀の十八番第一集 宿替え/寝床」
一九八〇年八月二十四日収録 EMIミュージック・ジャパン B0020XANEY
「桂枝雀名演集〈第三巻〉宿替え・こぶ弁慶」
一九九四年九月九日 (小学館DVD BOOK) 小学館 9784094804638
「桂枝雀落語大全第三集 宿替え/池田の猪買い」
一九八四年十月九日朝日放送「枝雀寄席」 ユニバーサルミュージック B0000635L9B
「宿替え~粗忽の釘」三遊亭百生
一九八二年六月一九日
「落語 昭和の名人完結編 二三」
桂小南/三遊亭百生/桂小文治(小南『貝野村』・百生『宿替え』・小文治『尻餅』)
小学館 491020121220120
― 118 ―
第八回 平成二十五(二〇一三)年十二月二十一日
「芸能:神さまごとから楽しみごとへ」
Performing Arts: from Spiritual Communion to Enjoyment
村瀬 智 (むらせ・さとる)
二〇一三年度から向こう三年間の大手前大学公開講座の共通テーマは、「集う〜衣・食・住・遊〜」で
す。今日はその第一場第四章の「遊」で、「芸能:神さまごとから楽しみごとへ」という内容でお話しし
ようと思います。
さて、わたしが三十年にわたって追いかけている研究テーマは、インド文明の文化人類学的研究です。
とくに、ベンガル地方の「バウル」とよばれる宗教的芸能集団に焦点をあてて研究をすすめています。今
日のわたしの話も、ベンガルのバウルを紹介するようなことになるかと思います。
― 119 ―
一、ベンガルのバウル(概略)
① 風狂の歌びと
バウルがベンガル社会に与えているイメージは、わざと社会の規範からはずれようとする狂人のイメー
ジです。バウルはカーストやカースト制度をいっさいみとめません。またバウルは偶像崇拝や寺院礼拝を
いっさいおこないません。彼らの自由奔放で神秘主義的な思想は、世間の常識や社会通念からはずれるこ
とがあり、人びとからは常軌を逸した集団とみなされることがおおいのです。実際に、ベンガル語の「バ
」(風邪の熱気あてられた、気が狂った)、あるいは「ヴャークラ
vâtula
」(無我夢中で、支
vyâkula
ウル」という語は、もともと「狂気」という意味です。そしてその語源は、サンスクリット語の「ヴァー
トゥラ
離滅裂な)に由来するようです。
バウルの歴史がどこまでさかのぼれるかは不明です。しかし、中世のベンガル語の文献では、バウルと
いう語は、牛飼い女のゴピーがクリシュナに恋をしたように、「(神に恋をして)狂気になった人」という
)の伝記には、「我、クリシュナのはてしなき甘露の海にさまよい、
Caitanya 1485-1533
意味でつかわれはじめています。たとえば、十六世紀のベンガルの熱狂的な宗教運動の指導者チョイトン
ノ(チャイタニヤ
狂気(バウル)となれり」といったような文脈でしばしばでてきます。しかしバウルという語が、そのこ
― 120 ―
ろに狂人のような宗教的態度の「個人」をさしていたのか、あるいは「宗派」としての意味をもちはじめ
ていたのかどうかは不明です。
現代のベンガルでは、バウルという語にはまだ「狂気」というふかい意味がひそんでいますが、その語
はもっぱら「バウルの歌と音楽を伝承する一群の人びと」、あるいは「バウルの歌と宗教を伝承する一群
の人びと」をさす、といって差し支えないでしょう。このような、バウルという語の語源や中世の文献で
の使われ方、そして現代社会での意味合いやイメージを考慮して、ベンガルのバウルのことを、「風狂の
歌びと」とでも名づけておきましょう。
② マドゥコリの生活
さて、そのバウルとよばれる「一群の人びと」が、いったい何人いるのかあきらかではありません。イ
ンド政府が一〇年に一度おこなう国勢調査の質問項目にもないほど、バウルは少数です。それにもかかわ
らず、バウルはベンガル社会で、はっきりと目立つ存在なのです。
バウルがベンガル社会で目立つのは、彼らのライフスタイルが、一般のベンガル人のそれとは根本的に
異なっているからです。そのちがいは、「生活費の稼ぎ方」です。
バウルは、世俗的な意味で非生産的です。彼らは農業労働や工業生産、手工芸作業、商業活動などに、
― 121 ―
いっさい従事していません。バウルは、一般のベンガル人に経済的に依存し「マドゥコリ」をして生活費
を稼いでいるのです。ベンガル語の辞書は、「マドゥコリ」という語を、「蜂が花から花へと蜜を集めるよ
うに、一軒一軒物乞いをして歩くこと」と説明しています。すなわち、ベンガルのバウルとは、「みずか
らバウルと名乗り、バウルの衣装を身にまとい、人家の門口でバウルの歌をうたったり、あるいは神の
御名を唱えたりして、米やお金をもらって歩く人たち」のことです。バウルは、世捨て人のようなゲルア
― 122 ―
色(黄土色)の衣装を着て、「門づけ」や「たく鉢」をして生活費を稼いでいるのです。
③ バウルの宗教
バウルの宗教は、ベンガルのヴィシュヌ派の思想やタントリズムの系統に属するサハジヤー派の思想、
ヨーガの修行法、イスラム神秘主義など、いくつもの宗教的伝統の影響を受けています。しかしバウルの
宗教の核心的な部分は、「サドナ」(成就法)とよばれる宗教儀礼の実践にあります。そして、このサドナ
のすべては、「人間の肉体は真理の容器」という信仰にもとづいています。
の信仰をもうすこし整理すると、ふたつの原理に分解できるかと思います。( )人間の肉体は、宇
こ
宙にあるひとつの「もの」であるだけでなく、宇宙の「縮図」である。( )人間の肉体は、神の「すみ
1
か(住処)」であるばかりでなく、神を実感するための唯一の「媒介物」である。つまりバウルは、人間
2
の肉体を小宇宙とみなし、みずからの肉体に宿る神と合一するために、みずからの肉体を駆使してサドナ
を実践するのです。このサドナには、ヨーガの呼吸法や坐法を通じておこなわれる性的儀礼や、宇宙を構
成する五粗大元素、すなわち「地」「水」「火」「風」「空」を、人間の器官や分泌物にたとえておこなわれ
る儀礼などをともないます。そして、サドナに関することがらは、もっぱらグルから弟子へ、こっそりと
伝えられるのです。
④ バウルの歌
バウルの宗教はバウルの歌に表現されています。しかしバウルの宗教には秘密のことがらがおおいの
で、その秘密をうたいこんだバウルの歌には、しばしば「なぞめいた用語」(サンダー・バーシャー)が
使用されています。つまりバウルの歌には、表面上の意味の奥ふかく隠された「真の意味」を表現するた
めに、暗号のような語句や表現が意図的に使用されているのです。このためバウルの歌は部外者にとって
は難解で、いくつもの解釈が可能であったり、あるいは意味不明のことがおおい。その反面、部内者には
「なぞ解き」をするようなおもしろさがあるといわれます。
ときどき夕方などに、グルのアーシュラム(道場)に弟子たちがあつまってくることがあります。そこ
でもサドナについて議論されることがあるのですが、それは主としてバウルの歌の解釈を通じてです。彼
― 123 ―
らはバウルの歌をうたい、バウルの歌の「なぞ解き」を楽しんでいるのです。しかし、歌の「真の意味」
は秘密とされ、議論はグルと弟子たちのあいだにかぎられます。そして彼らは、秘密のことがらに関し
て、部外者には軽率に発言しないようにと戒められているのです。
⑤ バウルの道
マドゥコリの生活は、ひとりの人間が「バウルになる」ためにも、また「バウルである」ためにも不可
欠の要件です。これは彼らが選んだライフスタイルです。そしてこのライフスタイルそのものが、彼らが
主張する「バウルの道(バウル・ポト)」の基本なのです。バウルの道とは、「マドゥコリの生活にはじま
り、神との合一という究極の目標にいたる道」です。それは「人間の肉体は、真理の容器」という彼らの
信仰にもとづいています。バウルの説明は実に明快です。「わたしたちは富をもたない乞食です。わたし
たちの唯一の財産は、この肉体です。しかし、この肉体には神が住んでおられる。それ以上になにが必要
ですか」と語るのです。おおくのバウルが説明してくれた「バウルの道」を要約すると、つぎのようにな
るかと思います。
人は、もしバウルの道にしたがうならば、だれでもバウルになれる。ただし、バウルの道の第一歩で
は、(カーストの義務を放棄し)マドゥコリの生活を採用しなければならない。バウルの道の究極の目標
― 124 ―
は、人間の肉体に存在する神と合一し、神を実感することである。バウルと名乗り、バウルの歌をうた
い、マドゥコリの生活をするだけでは、バウルの道の半分しかすすんでいない。バウルの道の究極目標に
到達するには、宗教的トレーニングが必要である。バウルの歌を通じてバウルの宗教をまなび、ヨーガを
通じて自己の心身を鍛えなければならない。そして最終的に、バウルのサドナを実践しなければならな
い。そのためにはグルの導きが必要である。
二、一九八三年の予備調査
さて、わたしがはじめてベンガルの地に足をふみいれたのは、一九八三年五月でした。それ以前にも北
インドや南インドをずいぶん旅行していましたので、コルカタ(カルカッタ)という大都会には、飛行機
の乗り継ぎを利用して何度か訪れていました。しかし、ベンガルの農村に足をふみいれたのは、このとき
がはじめてでした。わたしはイリノイ大学の大学院生でしたが、やや土地勘のあるコルカタを拠点に、西
ベンガル州のほぼ全域を歩いたのです。
当時、わたしのベンガル語会話能力はまだ不十分だったので、ベンガル語による質問を二十項目ほど
準備しました。それらの質問は、バウルとわたしが互いに誤解しないように、単純な構文のものにしま
― 125 ―
した。たとえば、「あなたのお父さんはバウルですか?」、「あなたの兄弟はバウルですか?」、「あなたの
お父さんの兄弟はバウルですか?」、「あなたのお母さんの兄弟はバウルですか?」などです。
)すべてのバウルがバウルの家庭に生まれたわけ
このようなベンガル語の親族名称を使用し、ほとんど「はい/いいえ」でこたえられるような簡単な質
問でしたが、インタビューのテープをおこし、資料を整理しているうちに、その後の研究の方向を決定す
るような重大な結果が得られたことに気づきました。
予備調査の結果は、つぎの二点の要約できます。(
)バウルの家庭に生まれたすべての人がバウルになるわけではない。つまり、ベンガル社
がいまだに根強いベンガル社会の、「だれが」「なぜ」「いつ」「どのように」門づけ・たく鉢の生活を採用
バウルの文化人類学的研究を、ライフヒストリーからアプローチするという方法は、もっとも有効な研
究方法だと思われます。なぜなら、バウルのライフヒストリーは、人びとの行動を規制するカースト制度
予備調査の結果は、インドのカースト社会を勉強してきたわたしにとって、新鮮なおどろきでした。そ
して、バウルの文化人類学的研究を、彼らのライフヒストリーから接近するという方向に導いたのです。
んだライフスタイルです。
会の「一群の人びと」が、門づけ・たく鉢の生活を採用し、「バウルになった」のです。これは彼らが選
ではない。(
1
し、「バウルになったか」を、語っているはずだからです。また、ライフヒストリーの個々のケースは、
― 126 ―
2
バウルになった動機や要因の幅ひろさだけでなく、彼らがバウルになってからの適応戦略の多様性も反映
しているはずです。さらに、バウルのライフヒストリーは、彼らが自分の人生をどのように意味づけてい
るかをも語っているはずです。
三、バウルのライフヒストリー
バウルに、なぜ彼らがバウルになったのかという質問をすると、十中八、九、「子どものころから歌や音
楽がすきだったからだ」という答がかえってきます。しかし、個々のバウルのライフヒストリーを詳細に
検討してみると、長期にわたる心理的・経済的不安を経験したのちに、バウルになったようです。ほとん
どのライフヒストリーは、彼らがマドゥコリの生活をはじめたり、グルをもとめたりする前に、それらの
行動のきっかけとなった危機的状況があったことを、それとなくしめしています。
ベンガル社会の一群の人びとが、なぜバウルの道をえらんだのかを、ただひとつの要因をあげて説明す
ることはできません。彼らがバウルになった動機には、いくつもの要因が複雑にからみあっているのがふ
つうです。それらは、慢性的な貧困、父母の別居による家庭崩壊、本人の意思のはいりこむ余地のない結
婚に対する不安、世代間の反目、そして土地所有権や相続権をめぐる争いなど、解決できない抑圧の具体
― 127 ―
的な経験です。
バ ウ ル に な っ た 動 機 の も う ひ と つ の 主 要 な 要 因 は、 乳・ 幼 児 期 に お け る 親 の 死 の 経 験 で す。 六 六 名
の イ ン フ ォ ー マ ン ト の ラ イ フ ヒ ス ト リ ー の 資 料 に よ る と、 十 歳 未 満 で 父 親 と 死 別 し た バ ウ ル は 十 八 名
(二十七・三%)、おなじく母親と死別したバウルは十四名(二十一・二%)です。このうち、両親ともに死
別したバウルは八名(十二・一%)です。これらの比率は、一般のベンガル人のそれよりも、はるかにた
かいと思われます。
母親の死後、母親を失った乳・幼児は、父方か母方の血縁親族に育てられ、父親は再婚してあたらしい
家庭をもつことがおおいようです。いずれにせよ、このような境遇にそだったバウルは、父親の死にとも
なって、異母兄弟間の相続権争いにまきこまれた事例が数例ありました。また、乳・幼児期に父親を失っ
たバウルは、若くして夫を死なせた不吉な存在としての母親とともに、ただちに経済的にも心理的にも
不安定な状況においこまれてしまっていました。さらに、幼児期に両親と死別し孤児となったバウルは、
「物乞い」をするしか生きてゆく方法がなかった。しかし、近隣の人びとの処置で、その社会の世捨て人
の養子や養女として保護され、育てられた幸運なバウルも数人いました。これは、世捨て人の存在そのも
のが、その社会全体の維持に寄与していることを暗示しています。
バウルになる動機となったその他の要因には、ひくいカースト身分による抑圧、単調な村の生活からの
― 128 ―
脱出願望、神と接触したいという宗教的欲求、世捨て人に対するあこがれなどを指摘できます。しかし、
大多数のバウルに共通していることは、程度の差はあれ、彼らが貧困生活から脱却できないで苦しんでい
たことです。彼らは、まともな仕事につけないそれなりの理由をかかえていた。生きていく手段は、マ
ドゥコリしかなかった。「マドゥコリの生活は、飢えよりまし」だったのです。
このように、バウルになる動機となった要因のおおくは、カースト社会に内在している特質や矛盾に起
因するようです。そしてそれらの要因が彼らを脱出できない貧困においこみ、結果として生じた感情的な
緊張や心理的な圧力は、バウルには、「現実」であるが「耐えがたい」と感じられていたようです。カー
ストの地位や身分による限界、インドの家族制度や結婚制度の特質、経済的な不安定さなどに起因するこ
れらの社会的・心理的な問題に対する解答は、「過酷な現実に耐える」か「耐えがたい現実から自由にな
る」かの二者択一です。このような状況のなかで、わたしがインタビューしたバウルのおおくは、これら
の問題に対する意味ある解決策を、「文化的に是認された世捨て」、すなわち「マドゥコリの生活」に見い
だすことができたのです。
マドゥコリの生活は、個人の選択肢が制限されたカースト社会における、選択可能な「もうひとつのラ
イフスタイル」です。マドゥコリの生活は、それがどのような形態であれ、カースト制度が存続するかぎ
り、個人が生き延びるための「生存戦略」として、これからも選択されるでしょう。またマドゥコリの生
― 129 ―
活は、カースト社会のなかで差別されたり排斥された人びとや、カースト社会の社会関係や規範に疑問を
もつ人びとの、心理的・社会的な「適応戦略」として、これからも存続するでしょう。
バウルのライフヒストリーは、バウルがベンガル社会の「周縁部」の輪郭のはっきりした集団であるこ
とを十分にしめしています。ベンガル社会の大多数の人生を規定するカースト制度に対する彼らの否定
は、バウルを社会の支配的な部分の外側に、そして対立するものとして位置づけます。それにもかかわら
ず、バウルは社会的に認知された周縁的集団の構成員として、ベンガル社会と親密に共存しています。こ
のように、ベンガル社会の「世俗の人びと」と「バウル」とのあいだには、社会的・文化的な緊張と均衡
が日常的に存在します。そして、バウルという周縁的人間の存在そのものが、ベンガル社会の「中心部」
を崩壊から守っているかのようです。なぜなら、「バウルの道」はカースト制度がいまだに根強いベンガ
ル社会において、社会を拒否した人に、あるいは社会に拒否された人に、「もうひとつのライフスタイル」
を提供しているからです。それはあたかも、必然的に矛盾をふくまざるをえない複合社会が周縁的人間を
生みだし、その周縁的人間の存在そのものが社会全体を完全な分裂から守っているかのようです。しかし
バウルにとっては、カースト制度の維持にはたす彼らの役割は、まったく理解の範囲をこえたものでしょ
う。
― 130 ―
四、四住期の制度
さて、世俗の人びととバウルの関係を考察するために、ヒンドゥー教徒の人生に対するかんがえ方を検
討しましょう。
古代インドでは、「ダルマ」(社会的規範)を遵守すること、「アルタ」(実利)を追求すること、「カー
マ」(愛、とりわけ男女間の性愛)を交歓することが人生の三大目的とされ、この三つを充足しつつ家庭
― 131 ―
をいとなみ、子孫をのこすのがひとつの理想とされました。このかんがえ方はその後も生きつづけ、現代
においても、世俗のヒンドゥー教徒にとって理想的な生き方とされています。
こつじき ゆ ぎょう
またいっぽうでは、とくに業・輪廻の思想が明示されたウパニシャッド思想以降、世俗の世界を放棄
し、乞食遊行しつつ苦行や瞑想よって輪廻から解放されること、すなわち「モークシャ」(解脱)を達成
することが宗教的理想として立てられました。
相反する実践を要請するこのふたつの理想を、実践の時期を区分することによって調和させ、合理的に
設定されたのが、「四住期(アーシュラマ)」の制度です。四住期とは、バラモン教徒が生涯に経過すべき
)師のもとでヴェーダ聖典を読誦し、祭式の
ものとして、古代インドの『マヌ法典』が規定する四つの段階のことです。これによると、バラモン教
徒、すなわちシュードラをのぞく上位の三ヴァルナは、(
1
実施法をまなぶなどの宗教的教育をうける「学生期」、(
)結婚して男子をもうけるとともに、家庭内の
)息子に家を託して森林に隠棲する「林住期」、( )諸国を遍歴し、たく
4
は、「見ること」あるいは「知らせること」という意味です。ベンガル語の日常的な会話の文脈では、「ド
「サードゥー」に対する、世俗の人びとの態度の根拠となっている信仰形態です。「ドルソン」という語
世俗の人びととバウルの関係をさらに考察するために、インドの聖地ではどこでも観察される「ドルソ
ン現象」についても、ふれておかねばならないでしょう。ドルソン現象とは、ヒンドゥー教の出家修行者
五、ドルソン現象
「まさにあるべきこと」、それが四住期というかんがえ方のなかに反映しているのです。
生き方を方向づけているゾルレン(当為)としての生き方、人間の理想として「まさになすべきこと」、
なバラモンを除き、家住期だけが実践されています。しかし、古代から現代にいたるインド人の大多数の
あり方とされました。ただ、この制度が実際にどこまで忠実に履行されたかは疑わしく、現在では、特殊
鉢のみによって生活する「遊行期」の四段階を順次に経るものとされ、ヒンドゥー社会における理想的な
祭式を主宰する「家住期」、(
2
ルソンを得る」とは「ちらりと見ること」であり、「ドルソンを与える」とは「ちらっと姿を見せること」
― 132 ―
3
です。世俗の人びとにとっては、聖地を巡礼するサードゥーをちらっと見ることは、聖地の寺院に祀られ
た神像をちらっと見ることに相応するとされています。そして世俗の人びとは、敬けんなヒンドゥー教徒
が神像を取り扱うのとおなじやり方で、サードゥーに丁重に接しなければならないのです。
このドルソン現象は、「神は人類を救済するために、動物や人間の姿をとって地上に現れる」という、
ヒンドゥー教の「化身(アヴァターラ)の思想」と関係があるでしょう。ヴィシュヌ神の十の化身のひと
りがクリシュナです。そしてベンガルでは、十六世紀の熱狂的な宗教運動の指導者チョイトンノは、クリ
シュナと恋人ラーダーの化身だと信じられているのです。さらに、そのチョイトンノの化身とみなされて
いる「本物のサードゥー」が、現代でもベンガルのあちこちに存在するのです。サードゥーの衣装を着た
人が「本物」か「にせもの」かは、シヴァ神だけが知っているといわれます。そしてサードゥーたちが、
しばしば彼らの同僚のことを「サギ師」や「ペテン師」だと言って、たがいに相手を「にせもの」と非難
しあっているにもかかわらず、世俗のヒンドゥー教徒のサードゥーに対する態度は変化していません。世
俗の人びとにとって、サードゥーの衣装を着た人は、すべて「本物」のサードゥーなのです。そして世俗
の人びとは、サードゥーに食べ物や金品を与えて世話をしなければならないのです。それは、「ドルソン
を得た」ことに対する返礼です。しかしサードゥー自身は、「ドルソンを与える」ほかには、俗人に対し
てなんの義務もないのです。
― 133 ―
バウルは、サードゥーのようなゲルア色の衣装を着て、門口でバウルの歌をうたったり、神の御名を唱
えたりして、「ドルソンを与えている」のです。世俗の人びとは、「ドルソンを得た」返礼として、一握り
の米や季節の野菜をバウルに施与し、バウルの生存を保証しているのです。
「バウルの道」(バウル・ポト)は、「サードゥー」(ヒンドゥー教の出家修行者)や「ヨーギー」(ヨー
ガ行者)、「ボイラギ」(ヴィシュヌ派の出家者)、「ファッキール」(イスラム神秘主義者の行者)など、イ
ンド社会に存在するいくつかの「世捨ての道」(ションナーシ・ポト)のひとつです。インド文明には、
カースト制度にともなって、それと矛盾する世捨ての制度が、文明の装置として組み込まれているので
す。
現代においても、カースト社会に生きる世俗の人びとにとって、世捨て人は相反する生活様式を採用し
た人びとですが、「究極の理想を追求する人」として存在しているのです。そして世俗の人びとは、世捨
て人に食べ物や金などを施与し、世捨て人の生存を保証しているのです。それは、世俗の人びとにとって
の「スヴァ・ダルマ」(本分)とされているのです。
西行や松尾芭蕉、菅江真澄をもちだすまでもなく、日本人にも出家願望や漂泊の旅への憧れといった意
識は存在します。インドと日本のあいだには、そのような共通した意識が、たしかに存在します。しか
し、ふたつの点で決定的な相違も存在するようです。ひとつは、インドでは「四住期」という観念が普遍
― 134 ―
化し、いわば実践倫理として定着していることです。もうひとつは、理想を本当に実現しようとする人の
数が、日本に比べればはるかに多いことです。ちなみに、現代においても、全インドには約五百万人の
サードゥーがいるとされます。
六、プロの音楽家の出現
)が、二十世紀初頭にバウルの歌の豊潤さを世に紹介
詩人タゴール( Rabindranath Tagore 1861-1941
して以来、それまで「奇妙な集団の風変わりな歌」と思われていたバウルの歌と音楽が、再評価されるよ
うになりました。タゴールの影響により、その後ベンガル人学者によって膨大な数のバウルの歌が採集さ
れ、なかには注釈つきのりっぱな歌集として出版されるようになりました。
一九五一年、タゴールが創設したヴィシュヴァ・バーラティ大学は、国立大学となりました。大学はそ
れ以後、「ポーシュ月(十二月中旬〜一月中旬)の祭典」(ポーシュ・メラ)や「マーグ月(一月中旬〜二
月中旬)の祭典」(マーグ・メラ)を主催するようになりました。大学は、祭典のプログラムのひとつと
して、バウルの歌の音楽会を開催するようになったのです。
このようなヴィシュヴァ・バーラティ大学の積極的な後援をきっかけに、一九五〇年代後半には、バウ
― 135 ―
ルの歌と音楽は、「ベンガル民俗文化の不可欠の部分」と認識されるようになりました。しかしこのこと
は、ベンガルのバウルの「宗教的求道者」という側面よりも、「民俗音楽家」という側面を強調すること
になりました。音楽的技量に卓越したバウルは、ベンガルの上流階級の邸宅での私的な音楽会に招聘され
たり、大都会での祭典やラジオ・テレビにも出演するようになったのです。
ベンガル社会の急激な変化に呼応するように、音楽的技量に自信をもつ一部のバウルは、マドゥコリの
生活をやめ、プロの音楽家としての道をあゆみはじめました。彼らは音楽チームを組織し、バウルの歌を
音楽会でしか演奏しなくなりました。また、音楽教室を開設し、アマチュアの音楽愛好家にバウルの歌や
音楽を教えるようになりました。彼らは、契約による出演料や授業料によって生活費を稼ぐようになった
のです。
レコードやカセットテープに録音を依頼されたバウルは、バウルの歌や音楽の商業的価値を知りまし
た。また、海外公演に招請されたバウルは、外国人の心をもひきつけるバウルの歌や音楽の魅力に気づき
ました。さらに、野心のあるバウルは、プロの音楽家として活動の機会のおおいコルカタに移住したので
す。
ほとんどのバウルは、今日でもベンガルの田舎の村々をまわり、門口でバウルの歌をうたったり、ある
いは神の御名を唱えたりしながら、一軒一軒マドゥコリをして生活しています。しかし彼らは、コルカタ
― 136 ―
に移住し、自宅には電気や水道はもちろんのこと、冷房装置や温水装置も完備し、テレビや電話、運転手
つきの自家用車まで所有するプールノ・チャンドロ・ダシュのような、プロの音楽家として成功した「ス
ター」の生活も知っています。今日の若いバウルが、バウルの歌を一握りの米と交換するために「門口」
でうたうよりも、気前のよい祝儀が期待できる「舞台」でうたいたがるとしても、それは当然です。そし
て、彼らの関心が、宗教や儀礼に精通したバウルになることよりも、歌手として人気のあるバウルになる
ことだとしても、それは不思議なことではありません。
七、現代インド文明のメッセージ
ふたりの日本人女性が、バウルの歌と音楽に魅せられて、日本での職を辞し、バウルのグルに弟子入り
をして、バウリニ(バウルの女性形)になりました。ひとりは、西ベンガル州バルドマン県に住むかず
み・まきさん(以下、KMさん)です。もうひとりは、西ベンガル州バンクーラ県に住むホリ・ダシさん
(以下、HDさん)です。二〇一一年一月現在のふたりのインド滞在年数は、KMさんが一九年、HDさ
んが八年です。わたしは、彼女たちがマドゥコリの生活をしているのかどうかは知りません。もっとも、
彼女たちはインド人ではないし、ヒンドゥー教徒でもないので、カーストの義務を放棄し、マドゥコリの
― 137 ―
生活を採用する必要もありません。
わたしは、HDさんとは面識がないのですが、KMさんとは一九九二年十一月に会ったことがありま
す。朝日新聞の記事にKMさんのことが紹介されていて、「グルと呼ばれる導師の内弟子となり、導師率
いるバウル一行と村々を巡る日々が始まった」と書かれていました。わたしは、さっそく朝日新聞大阪本
社に電話をし、KMさんの連絡先を教えてもらいました。当時の日本では個人情報に関する意識も低く、
そのようなことが可能だったのです。わたしは、KMさんと会う機会をつくり、話を聞きました。彼女に
よると、一九九一年秋の国立民族学博物館の特別展「大インド展 ヒンドゥー世界の神と人」で行われた
バウルの公演に衝撃をうけたという。そして、その年の一二月に渡印し、弟子入りをはたし、一時帰国中
という。いずれは行動をともにした導師と兄弟弟子を呼んで「日本で公演するのが夢」だという。その
後、KMさんの夢がかない、年に数カ月の日本公演が実現しました。
このことは、べつに驚くことではありません、わたしは、フィールドワーク中に、バウルの歌と音楽に
魅せられて、何度もベンガルの地を訪れているヨーロッパ人女性を、何人も見ていたからです。また、そ
のような外国人女性を広告塔として利用し、海外公演をもくろむバウルも少なからずいたからです。
KMさんは、「演奏活動」という表現をしていたので、最初はワールド・ミュージックとしてのバウル
の歌と音楽の演奏家になろうとしていたのかもしれません。しかし、KMさんによると、「現在は演奏活
― 138 ―
動を控え、ひっそりとアーシュラム暮しをしている」という。そして、現在は「修行中」であるともい
う。彼女は、バウルの歌を通じてバウルの宗教を学び、導師を通じて「バウルの道」の究極の目標を知
り、それを追求しようとしているのです。KMさんが意識をしているかどうかは不明ですが、彼女はサー
ドゥーのようなゲルア色の衣装を着てバウルの歌をうたい、インド人聴衆に「ドルソンを与えている」の
です。そしてインド人聴衆は。彼女の姿を「ちらっと見て」、確実に「ドルソンを得ている」のです。
二〇〇八年、バウルの歌と音楽はユネスコの「人類の無形文化遺産の代表リスト」に登録されました。
これをきっかけに、日本でもワールド・ミュージックとしてのバウルの歌と音楽のファンが急増している
ようです。ひょっとすると、KMさんやHDさんのような日本人女性が、今後も出現するかもしれませ
ん。なぜなら、「人は、もしバウルの道にしたがうならば、だれでもバウルになれる」からです。
現代インド文明は、「神との合一」という究極の宗教目標と、それにいたる「世捨ての道」を、外国人
にも提供しているのです。
「芸能:神様ごとから楽しみごとへ」ということでしたが、「芸能:楽しみごとから神
今日の私の話は、
様ごとへ」ということもありうるのだと、今気づきました。今日の私の話はこれで ……。
あと質問があればどうぞ。
― 139 ―
[ 質疑応答 ]
質問‌者一:最後のバウルが世に言われだしたのを、私なりに受け止めたらヒッピー族のような感じがした
んですけれども、どうでしょう。
村瀬‌:ちょっと違いますね。
質問‌者一:違いますか。どのようなイメージですか。歌を歌ったり、その、社会に寄生したりするよう
な ……。
村瀬‌:ベンガルのバウルとは、「みずからバウルと名乗り、バウルの衣装を身にまとい、人家の門口でバ
ウルの歌をうたったり、神の御名を唱えたりして、米やお金をもらって歩く人たち」のことです。バウ
ルは、世捨て人のようなゲルア色(黄土色)の衣装を着て、「門づけ」や「たく鉢」をして生活費を稼
いでいるのです。
‌バウルの歌は、バウルの宗教を表現しています。しかしバウルの宗教には秘密のことがらがおおいの
で、その秘密をうたいこんだバウルの歌には、しばしば「なぞめいた用語」が使用されています。つま
りバウルの歌には、表面上の意味の奥ふかく隠された「真の意味」を表現するために、暗号のような語
句や表現が意図的に使用されているのです。このためバウルの歌は部外者にとっては難解で、いくつも
の解釈が可能だったり、あるいは意味不明のことがおおいのです。その反面、部内者には「なぞ解き」
― 140 ―
をするようなおもしろさがあるといわれます。
‌ときどき夕方などに、グルのアーシュラムに弟子たちがあつまってくることがあります。そこでもサ
ドナについて議論されることがあるのですが、それは主としてバウルの歌の解釈を通じてです。彼らは
バウルの歌をうたい、バウルの歌の「なぞ解き」を楽しんでいるのです。しかし、歌の「真の意味」は
秘密とされ、議論はグルと弟子たちのあいだにかぎられます。
質問‌者二:先生がイリノイ大学の大学院の時に、ベンガルに初めて行かれたそうですけど、なぜそのバウ
ルについて研究しようと思われた動機は何でしょうか。
村瀬‌:私が経済学部の学生だった頃は、インドには全然興味がありませんでした。むしろ、スペインやポ
ルトガルに憧れていました。四回生の時に、たまたま聴講した文学部の授業で米山俊直先生と出合い、
文化人類学の面白さを知りました。そして経済学部卒業後、文学部に学士入学し米山先生のゼミに参加
しました。ゼミで一緒になった友人がインドのことばかり言うのです。なんであいつが、インド、イン
ドというのかと不思議に思って、それでインドだけでなくアジアのことを勉強しだしたのです。文学部
卒業後、大学院に進学したいと思ったのですが、当時の日本には文化人類学専攻の大学院はなく、一〇
年ほど働きました。
イリノイ大学の大学院に進学したのは一九七九年です。専攻は文化人類学で、フィールドワークはイ
‌
― 141 ―
ンドで行うことを前提に勉強しました。その間、ノーベル文学賞を受賞した詩人のタゴールがバウルの
歌を世に紹介し、それまで「奇妙な集団の風変わりな歌」と思われていたバウルの歌が再評価されたこ
と、プールノ・チャンドラ・ダシュというバウルがボブ・ディランとアメリカ公演をして大成功をした
ことなどを知りました。インドにもずいぶん旅行しました。そして、学位論文のテーマは「ベンガルの
バウルの文化人類学的研究」と決まったのです。八三年の春学期にコースワークが終了し、その年の夏
に予備調査の資金として往復の飛行機代と三千ドルをイリノイ大学大学院からいただきました。約三か
月間、バスや列車を乗り継いで西ベンガル州のほぼ全域を歩いたのです。
質問‌者三:バウルはベンガル地方とお聞きしたのですが、インドでベンガル以外の地方に広がるとか、そ
の可能性とか、それからバウルの人数はどれぐらいいるのか。
村瀬:人数はわからないですね。
質問者三:何万の単位か。
村瀬‌:いやいや、そんなにいないです。私が顔と名前がわかるバウルは二百人程度、バウル全体で一千人
ぐらいでしょうね。
質問者三:そんなに、そのインドだけで。
村瀬:インドというかベンガルです。
― 142 ―
質問者三:ベンガル。
村瀬:彼らはベンガル語しか話せません。
質問者三:ということは、ベンガルから発展性はないですね。
村瀬:そうですね。でもバングラデシュにもいます。
質問者三:バングラデシュ。
村瀬‌:バングラデシュは、一九七一年にパキスタンから独立しました。バングラデシュというのは、「ベ
ンガルの国」という意味です。今はふたつの国に分かれていますが、ベンガル地方というのはもともと
ひとつで、ベンガル語を話すベンガル人が住んでいる地域のことです。一九四七年にインドとパキスタ
ンが分離独立したときに、西ベンガルにはヒンドゥー教徒が比較的多かったのでインド領に属するよう
になり、東ベンガルにはイスラム教徒が比較的に多かったのでパキスタン領に属するようになったので
す。
質問‌者三:そういう哲学的な思想と音楽とが全く切り離されて、音楽だけが世界に流布したという …。
村瀬:はい、そうです。独り歩きしている。
質問‌者三:そうですね。その音楽を奏でてPRをして一緒にイメージするところは、私はヒッピーやと思
うのですが
― 143 ―
村瀬‌:バウルの歌はベンガル人でもなかなか難しいと言いましたが、それが聴衆だけでなく若いバウルが
バウルの歌のことをわかっていない。つまり適切な宗教的トレーニングを受けていない。だから、昔と
いうか、年配のバウルは歌を一曲習おうと思えば、グルのアーシュラムに何日も泊まりこまなければな
らなかった。でも、今の若いバウルはテープレコーダーで簡単に歌を習える。テープレコーダーは歌や
音楽を習うには便利な機械だけれども、バウルの歌の「真の意味」を学ぶことは出来ない。「真の意味」
は、宗教的トレーニングを通じて、グルから弟子へと口頭で伝承される事柄です。テープレコーダー
は、グルの重要性を忘れさせる「危険な罠」だと思います。
司会‌:今の話だとだと、今の若いバウルは歌の「真の意味」も理解せずというお話だったですけど、破門
とかそういうのも …。
村瀬‌:いや昔からバウルの歌の真の意味を理解せず、「九官鳥」みたいに歌うバウルはかなりいたようで
す。バウルの歌の真の意味は「秘伝」なのですね。グルから弟子へと、秘密裏にこっそりと教えられ
る。グルに入門していないバウルは昔にもかなりいたようです。でも、バウルの格好をして、門付けや
托鉢をしていれば、何とか生きていける。マドゥコリの生活は、選択肢が制限されたカースト社会にお
ける「もうひとつのライフスタイル」として機能しているのです。
バウルのライフスタイルを聞いていく過程で、彼らの出身カーストや学校教育年数なども質問するの
‌
― 144 ―
ですが、なんとバラモン階級出身者や大卒者のバウルがいるのですね。
‌その大卒バウルですが、卒業後に中学校の教師の職に就くのですが、教師としてうまくやって行けず
二年で退職しました。やはり教師をしていた兄の紹介で、別の中学校に再就職するのですが、そこでも
うまくやって行けず、やはり二年で退職しました。彼は教師としての自分の資質に悩み、解決を求めて
コルカタのラーマクリシュナ・ミッションに講話を聴きに行ったり、ヴィヴェーカーナンダの著作など
を読みふけったりしていました。二十代後半になったころ、彼は友人とふたりでオリッサ州の聖地プー
リーへ、徒歩で巡礼に行きました。彼らはメディニプール県のある村の河原で自炊をしていました。彼
らのことを不審に思った村人は、その村でアーシュラムをもっていた老バウルに「河原に変な若者がい
ます。どうしましょう」と相談しました。老バウルは村人に「一度ここに連れてこい」と助言しまし
た。村人は彼らを老バウルのアーシュラムに案内しました。彼は大卒で、ヴィヴェーカーナンダの著作
を読むぐらいですから相当のインテリです。しかし彼は、無学のバウルが真理を語るのを聞いてしまっ
た。そして、「真理を前にして、知識は無力である」と悟ったのです。彼は友人と別れ、その老バウル
に弟子入りしてしまったのです。インドには、そういう人がちょこちょこいるのですね。
‌もうひとつの経験をお話ししましょう。バウルではないのですが、聖地ベナレスで、ヒンドゥー教の
出家修行者サードゥーに出合ったときの話です。ガンジス河のほとりの聖地ベナレスで、沐浴をした
― 145 ―
り、ガンジス川を眺めたりしながら、何日か過ごしたことがあります。やはり沐浴をしたり、ガンジ
ス河を眺めたりしながら過ごしているサードゥーがいました。彼はいつも私からすこし離れたところ
にいました。「あれ、あのサードゥー、今日も来ている」と思いながら何日目かのことです。そのサー
ドゥーと目が合いました。彼も私と同じようなことを思っていたのでしょう。彼は私のところに来まし
た。そして聞いたことがないような英語ですけど、私はサードゥーに英語で話しかけられたのです。私
はびっくりして、なぜサードゥーになったのかと尋ねました。彼はあまりしゃべりませんでしたが、そ
れでも二十年ほど前に家族も財産もすべて捨てて放浪の生活をしているという。それ以前は何をしてい
たのかと尋ねると、石油会社を経営していたが、思うところがあって、すべて捨てたという。
‌さきほども言いましたけれど、現在においても全インドで五〇〇万人のサードゥーが存在するそうで
す。インド文明には、カースト制度にともなって、それと矛盾する世捨ての制度が文明の装置として組
み込まれているのだと実感してしまいます。(拍手)
― 146 ―
第八回 平成二十五(二〇一三)年十二月二十一日
「芸能:神さまごとから楽しみごとへ」
Performing Arts: from Spiritual Communion to Enjoyment
村瀬 智 (むらせ・さとる)
二〇一三年度から向こう三年間の大手前大学公開講座の共通テーマは、「集う〜衣・食・住・遊〜」で
す。今日はその第一場第四章の「遊」で、「芸能:神さまごとから楽しみごとへ」という内容でお話しし
ようと思います。
さて、わたしが三十年にわたって追いかけている研究テーマは、インド文明の文化人類学的研究です。
とくに、ベンガル地方の「バウル」とよばれる宗教的芸能集団に焦点をあてて研究をすすめています。今
日のわたしの話も、ベンガルのバウルを紹介するようなことになるかと思います。
― 119 ―
一、ベンガルのバウル(概略)
① 風狂の歌びと
バウルがベンガル社会に与えているイメージは、わざと社会の規範からはずれようとする狂人のイメー
ジです。バウルはカーストやカースト制度をいっさいみとめません。またバウルは偶像崇拝や寺院礼拝を
いっさいおこないません。彼らの自由奔放で神秘主義的な思想は、世間の常識や社会通念からはずれるこ
とがあり、人びとからは常軌を逸した集団とみなされることがおおいのです。実際に、ベンガル語の「バ
」(風邪の熱気あてられた、気が狂った)、あるいは「ヴャークラ
vâtula
」(無我夢中で、支
vyâkula
ウル」という語は、もともと「狂気」という意味です。そしてその語源は、サンスクリット語の「ヴァー
トゥラ
離滅裂な)に由来するようです。
バウルの歴史がどこまでさかのぼれるかは不明です。しかし、中世のベンガル語の文献では、バウルと
いう語は、牛飼い女のゴピーがクリシュナに恋をしたように、「(神に恋をして)狂気になった人」という
)の伝記には、「我、クリシュナのはてしなき甘露の海にさまよい、
Caitanya 1485-1533
意味でつかわれはじめています。たとえば、十六世紀のベンガルの熱狂的な宗教運動の指導者チョイトン
ノ(チャイタニヤ
狂気(バウル)となれり」といったような文脈でしばしばでてきます。しかしバウルという語が、そのこ
― 120 ―
ろに狂人のような宗教的態度の「個人」をさしていたのか、あるいは「宗派」としての意味をもちはじめ
ていたのかどうかは不明です。
現代のベンガルでは、バウルという語にはまだ「狂気」というふかい意味がひそんでいますが、その語
はもっぱら「バウルの歌と音楽を伝承する一群の人びと」、あるいは「バウルの歌と宗教を伝承する一群
の人びと」をさす、といって差し支えないでしょう。このような、バウルという語の語源や中世の文献で
の使われ方、そして現代社会での意味合いやイメージを考慮して、ベンガルのバウルのことを、「風狂の
歌びと」とでも名づけておきましょう。
② マドゥコリの生活
さて、そのバウルとよばれる「一群の人びと」が、いったい何人いるのかあきらかではありません。イ
ンド政府が一〇年に一度おこなう国勢調査の質問項目にもないほど、バウルは少数です。それにもかかわ
らず、バウルはベンガル社会で、はっきりと目立つ存在なのです。
バウルがベンガル社会で目立つのは、彼らのライフスタイルが、一般のベンガル人のそれとは根本的に
異なっているからです。そのちがいは、「生活費の稼ぎ方」です。
バウルは、世俗的な意味で非生産的です。彼らは農業労働や工業生産、手工芸作業、商業活動などに、
― 121 ―
いっさい従事していません。バウルは、一般のベンガル人に経済的に依存し「マドゥコリ」をして生活費
を稼いでいるのです。ベンガル語の辞書は、「マドゥコリ」という語を、「蜂が花から花へと蜜を集めるよ
うに、一軒一軒物乞いをして歩くこと」と説明しています。すなわち、ベンガルのバウルとは、「みずか
らバウルと名乗り、バウルの衣装を身にまとい、人家の門口でバウルの歌をうたったり、あるいは神の
御名を唱えたりして、米やお金をもらって歩く人たち」のことです。バウルは、世捨て人のようなゲルア
― 122 ―
色(黄土色)の衣装を着て、「門づけ」や「たく鉢」をして生活費を稼いでいるのです。
③ バウルの宗教
バウルの宗教は、ベンガルのヴィシュヌ派の思想やタントリズムの系統に属するサハジヤー派の思想、
ヨーガの修行法、イスラム神秘主義など、いくつもの宗教的伝統の影響を受けています。しかしバウルの
宗教の核心的な部分は、「サドナ」(成就法)とよばれる宗教儀礼の実践にあります。そして、このサドナ
のすべては、「人間の肉体は真理の容器」という信仰にもとづいています。
の信仰をもうすこし整理すると、ふたつの原理に分解できるかと思います。( )人間の肉体は、宇
こ
宙にあるひとつの「もの」であるだけでなく、宇宙の「縮図」である。( )人間の肉体は、神の「すみ
1
か(住処)」であるばかりでなく、神を実感するための唯一の「媒介物」である。つまりバウルは、人間
2
の肉体を小宇宙とみなし、みずからの肉体に宿る神と合一するために、みずからの肉体を駆使してサドナ
を実践するのです。このサドナには、ヨーガの呼吸法や坐法を通じておこなわれる性的儀礼や、宇宙を構
成する五粗大元素、すなわち「地」「水」「火」「風」「空」を、人間の器官や分泌物にたとえておこなわれ
る儀礼などをともないます。そして、サドナに関することがらは、もっぱらグルから弟子へ、こっそりと
伝えられるのです。
④ バウルの歌
バウルの宗教はバウルの歌に表現されています。しかしバウルの宗教には秘密のことがらがおおいの
で、その秘密をうたいこんだバウルの歌には、しばしば「なぞめいた用語」(サンダー・バーシャー)が
使用されています。つまりバウルの歌には、表面上の意味の奥ふかく隠された「真の意味」を表現するた
めに、暗号のような語句や表現が意図的に使用されているのです。このためバウルの歌は部外者にとって
は難解で、いくつもの解釈が可能であったり、あるいは意味不明のことがおおい。その反面、部内者には
「なぞ解き」をするようなおもしろさがあるといわれます。
ときどき夕方などに、グルのアーシュラム(道場)に弟子たちがあつまってくることがあります。そこ
でもサドナについて議論されることがあるのですが、それは主としてバウルの歌の解釈を通じてです。彼
― 123 ―
らはバウルの歌をうたい、バウルの歌の「なぞ解き」を楽しんでいるのです。しかし、歌の「真の意味」
は秘密とされ、議論はグルと弟子たちのあいだにかぎられます。そして彼らは、秘密のことがらに関し
て、部外者には軽率に発言しないようにと戒められているのです。
⑤ バウルの道
マドゥコリの生活は、ひとりの人間が「バウルになる」ためにも、また「バウルである」ためにも不可
欠の要件です。これは彼らが選んだライフスタイルです。そしてこのライフスタイルそのものが、彼らが
主張する「バウルの道(バウル・ポト)」の基本なのです。バウルの道とは、「マドゥコリの生活にはじま
り、神との合一という究極の目標にいたる道」です。それは「人間の肉体は、真理の容器」という彼らの
信仰にもとづいています。バウルの説明は実に明快です。「わたしたちは富をもたない乞食です。わたし
たちの唯一の財産は、この肉体です。しかし、この肉体には神が住んでおられる。それ以上になにが必要
ですか」と語るのです。おおくのバウルが説明してくれた「バウルの道」を要約すると、つぎのようにな
るかと思います。
人は、もしバウルの道にしたがうならば、だれでもバウルになれる。ただし、バウルの道の第一歩で
は、(カーストの義務を放棄し)マドゥコリの生活を採用しなければならない。バウルの道の究極の目標
― 124 ―
は、人間の肉体に存在する神と合一し、神を実感することである。バウルと名乗り、バウルの歌をうた
い、マドゥコリの生活をするだけでは、バウルの道の半分しかすすんでいない。バウルの道の究極目標に
到達するには、宗教的トレーニングが必要である。バウルの歌を通じてバウルの宗教をまなび、ヨーガを
通じて自己の心身を鍛えなければならない。そして最終的に、バウルのサドナを実践しなければならな
い。そのためにはグルの導きが必要である。
二、一九八三年の予備調査
さて、わたしがはじめてベンガルの地に足をふみいれたのは、一九八三年五月でした。それ以前にも北
インドや南インドをずいぶん旅行していましたので、コルカタ(カルカッタ)という大都会には、飛行機
の乗り継ぎを利用して何度か訪れていました。しかし、ベンガルの農村に足をふみいれたのは、このとき
がはじめてでした。わたしはイリノイ大学の大学院生でしたが、やや土地勘のあるコルカタを拠点に、西
ベンガル州のほぼ全域を歩いたのです。
当時、わたしのベンガル語会話能力はまだ不十分だったので、ベンガル語による質問を二十項目ほど
準備しました。それらの質問は、バウルとわたしが互いに誤解しないように、単純な構文のものにしま
― 125 ―
した。たとえば、「あなたのお父さんはバウルですか?」、「あなたの兄弟はバウルですか?」、「あなたの
お父さんの兄弟はバウルですか?」、「あなたのお母さんの兄弟はバウルですか?」などです。
)すべてのバウルがバウルの家庭に生まれたわけ
このようなベンガル語の親族名称を使用し、ほとんど「はい/いいえ」でこたえられるような簡単な質
問でしたが、インタビューのテープをおこし、資料を整理しているうちに、その後の研究の方向を決定す
るような重大な結果が得られたことに気づきました。
予備調査の結果は、つぎの二点の要約できます。(
)バウルの家庭に生まれたすべての人がバウルになるわけではない。つまり、ベンガル社
がいまだに根強いベンガル社会の、「だれが」「なぜ」「いつ」「どのように」門づけ・たく鉢の生活を採用
バウルの文化人類学的研究を、ライフヒストリーからアプローチするという方法は、もっとも有効な研
究方法だと思われます。なぜなら、バウルのライフヒストリーは、人びとの行動を規制するカースト制度
予備調査の結果は、インドのカースト社会を勉強してきたわたしにとって、新鮮なおどろきでした。そ
して、バウルの文化人類学的研究を、彼らのライフヒストリーから接近するという方向に導いたのです。
んだライフスタイルです。
会の「一群の人びと」が、門づけ・たく鉢の生活を採用し、「バウルになった」のです。これは彼らが選
ではない。(
1
し、「バウルになったか」を、語っているはずだからです。また、ライフヒストリーの個々のケースは、
― 126 ―
2
バウルになった動機や要因の幅ひろさだけでなく、彼らがバウルになってからの適応戦略の多様性も反映
しているはずです。さらに、バウルのライフヒストリーは、彼らが自分の人生をどのように意味づけてい
るかをも語っているはずです。
三、バウルのライフヒストリー
バウルに、なぜ彼らがバウルになったのかという質問をすると、十中八、九、「子どものころから歌や音
楽がすきだったからだ」という答がかえってきます。しかし、個々のバウルのライフヒストリーを詳細に
検討してみると、長期にわたる心理的・経済的不安を経験したのちに、バウルになったようです。ほとん
どのライフヒストリーは、彼らがマドゥコリの生活をはじめたり、グルをもとめたりする前に、それらの
行動のきっかけとなった危機的状況があったことを、それとなくしめしています。
ベンガル社会の一群の人びとが、なぜバウルの道をえらんだのかを、ただひとつの要因をあげて説明す
ることはできません。彼らがバウルになった動機には、いくつもの要因が複雑にからみあっているのがふ
つうです。それらは、慢性的な貧困、父母の別居による家庭崩壊、本人の意思のはいりこむ余地のない結
婚に対する不安、世代間の反目、そして土地所有権や相続権をめぐる争いなど、解決できない抑圧の具体
― 127 ―
的な経験です。
バ ウ ル に な っ た 動 機 の も う ひ と つ の 主 要 な 要 因 は、 乳・ 幼 児 期 に お け る 親 の 死 の 経 験 で す。 六 六 名
の イ ン フ ォ ー マ ン ト の ラ イ フ ヒ ス ト リ ー の 資 料 に よ る と、 十 歳 未 満 で 父 親 と 死 別 し た バ ウ ル は 十 八 名
(二十七・三%)、おなじく母親と死別したバウルは十四名(二十一・二%)です。このうち、両親ともに死
別したバウルは八名(十二・一%)です。これらの比率は、一般のベンガル人のそれよりも、はるかにた
かいと思われます。
母親の死後、母親を失った乳・幼児は、父方か母方の血縁親族に育てられ、父親は再婚してあたらしい
家庭をもつことがおおいようです。いずれにせよ、このような境遇にそだったバウルは、父親の死にとも
なって、異母兄弟間の相続権争いにまきこまれた事例が数例ありました。また、乳・幼児期に父親を失っ
たバウルは、若くして夫を死なせた不吉な存在としての母親とともに、ただちに経済的にも心理的にも
不安定な状況においこまれてしまっていました。さらに、幼児期に両親と死別し孤児となったバウルは、
「物乞い」をするしか生きてゆく方法がなかった。しかし、近隣の人びとの処置で、その社会の世捨て人
の養子や養女として保護され、育てられた幸運なバウルも数人いました。これは、世捨て人の存在そのも
のが、その社会全体の維持に寄与していることを暗示しています。
バウルになる動機となったその他の要因には、ひくいカースト身分による抑圧、単調な村の生活からの
― 128 ―
脱出願望、神と接触したいという宗教的欲求、世捨て人に対するあこがれなどを指摘できます。しかし、
大多数のバウルに共通していることは、程度の差はあれ、彼らが貧困生活から脱却できないで苦しんでい
たことです。彼らは、まともな仕事につけないそれなりの理由をかかえていた。生きていく手段は、マ
ドゥコリしかなかった。「マドゥコリの生活は、飢えよりまし」だったのです。
このように、バウルになる動機となった要因のおおくは、カースト社会に内在している特質や矛盾に起
因するようです。そしてそれらの要因が彼らを脱出できない貧困においこみ、結果として生じた感情的な
緊張や心理的な圧力は、バウルには、「現実」であるが「耐えがたい」と感じられていたようです。カー
ストの地位や身分による限界、インドの家族制度や結婚制度の特質、経済的な不安定さなどに起因するこ
れらの社会的・心理的な問題に対する解答は、「過酷な現実に耐える」か「耐えがたい現実から自由にな
る」かの二者択一です。このような状況のなかで、わたしがインタビューしたバウルのおおくは、これら
の問題に対する意味ある解決策を、「文化的に是認された世捨て」、すなわち「マドゥコリの生活」に見い
だすことができたのです。
マドゥコリの生活は、個人の選択肢が制限されたカースト社会における、選択可能な「もうひとつのラ
イフスタイル」です。マドゥコリの生活は、それがどのような形態であれ、カースト制度が存続するかぎ
り、個人が生き延びるための「生存戦略」として、これからも選択されるでしょう。またマドゥコリの生
― 129 ―
活は、カースト社会のなかで差別されたり排斥された人びとや、カースト社会の社会関係や規範に疑問を
もつ人びとの、心理的・社会的な「適応戦略」として、これからも存続するでしょう。
バウルのライフヒストリーは、バウルがベンガル社会の「周縁部」の輪郭のはっきりした集団であるこ
とを十分にしめしています。ベンガル社会の大多数の人生を規定するカースト制度に対する彼らの否定
は、バウルを社会の支配的な部分の外側に、そして対立するものとして位置づけます。それにもかかわら
ず、バウルは社会的に認知された周縁的集団の構成員として、ベンガル社会と親密に共存しています。こ
のように、ベンガル社会の「世俗の人びと」と「バウル」とのあいだには、社会的・文化的な緊張と均衡
が日常的に存在します。そして、バウルという周縁的人間の存在そのものが、ベンガル社会の「中心部」
を崩壊から守っているかのようです。なぜなら、「バウルの道」はカースト制度がいまだに根強いベンガ
ル社会において、社会を拒否した人に、あるいは社会に拒否された人に、「もうひとつのライフスタイル」
を提供しているからです。それはあたかも、必然的に矛盾をふくまざるをえない複合社会が周縁的人間を
生みだし、その周縁的人間の存在そのものが社会全体を完全な分裂から守っているかのようです。しかし
バウルにとっては、カースト制度の維持にはたす彼らの役割は、まったく理解の範囲をこえたものでしょ
う。
― 130 ―
四、四住期の制度
さて、世俗の人びととバウルの関係を考察するために、ヒンドゥー教徒の人生に対するかんがえ方を検
討しましょう。
古代インドでは、「ダルマ」(社会的規範)を遵守すること、「アルタ」(実利)を追求すること、「カー
マ」(愛、とりわけ男女間の性愛)を交歓することが人生の三大目的とされ、この三つを充足しつつ家庭
― 131 ―
をいとなみ、子孫をのこすのがひとつの理想とされました。このかんがえ方はその後も生きつづけ、現代
においても、世俗のヒンドゥー教徒にとって理想的な生き方とされています。
こつじき ゆ ぎょう
またいっぽうでは、とくに業・輪廻の思想が明示されたウパニシャッド思想以降、世俗の世界を放棄
し、乞食遊行しつつ苦行や瞑想よって輪廻から解放されること、すなわち「モークシャ」(解脱)を達成
することが宗教的理想として立てられました。
相反する実践を要請するこのふたつの理想を、実践の時期を区分することによって調和させ、合理的に
設定されたのが、「四住期(アーシュラマ)」の制度です。四住期とは、バラモン教徒が生涯に経過すべき
)師のもとでヴェーダ聖典を読誦し、祭式の
ものとして、古代インドの『マヌ法典』が規定する四つの段階のことです。これによると、バラモン教
徒、すなわちシュードラをのぞく上位の三ヴァルナは、(
1
実施法をまなぶなどの宗教的教育をうける「学生期」、(
)結婚して男子をもうけるとともに、家庭内の
)息子に家を託して森林に隠棲する「林住期」、( )諸国を遍歴し、たく
4
は、「見ること」あるいは「知らせること」という意味です。ベンガル語の日常的な会話の文脈では、「ド
「サードゥー」に対する、世俗の人びとの態度の根拠となっている信仰形態です。「ドルソン」という語
世俗の人びととバウルの関係をさらに考察するために、インドの聖地ではどこでも観察される「ドルソ
ン現象」についても、ふれておかねばならないでしょう。ドルソン現象とは、ヒンドゥー教の出家修行者
五、ドルソン現象
「まさにあるべきこと」、それが四住期というかんがえ方のなかに反映しているのです。
生き方を方向づけているゾルレン(当為)としての生き方、人間の理想として「まさになすべきこと」、
なバラモンを除き、家住期だけが実践されています。しかし、古代から現代にいたるインド人の大多数の
あり方とされました。ただ、この制度が実際にどこまで忠実に履行されたかは疑わしく、現在では、特殊
鉢のみによって生活する「遊行期」の四段階を順次に経るものとされ、ヒンドゥー社会における理想的な
祭式を主宰する「家住期」、(
2
ルソンを得る」とは「ちらりと見ること」であり、「ドルソンを与える」とは「ちらっと姿を見せること」
― 132 ―
3
です。世俗の人びとにとっては、聖地を巡礼するサードゥーをちらっと見ることは、聖地の寺院に祀られ
た神像をちらっと見ることに相応するとされています。そして世俗の人びとは、敬けんなヒンドゥー教徒
が神像を取り扱うのとおなじやり方で、サードゥーに丁重に接しなければならないのです。
このドルソン現象は、「神は人類を救済するために、動物や人間の姿をとって地上に現れる」という、
ヒンドゥー教の「化身(アヴァターラ)の思想」と関係があるでしょう。ヴィシュヌ神の十の化身のひと
りがクリシュナです。そしてベンガルでは、十六世紀の熱狂的な宗教運動の指導者チョイトンノは、クリ
シュナと恋人ラーダーの化身だと信じられているのです。さらに、そのチョイトンノの化身とみなされて
いる「本物のサードゥー」が、現代でもベンガルのあちこちに存在するのです。サードゥーの衣装を着た
人が「本物」か「にせもの」かは、シヴァ神だけが知っているといわれます。そしてサードゥーたちが、
しばしば彼らの同僚のことを「サギ師」や「ペテン師」だと言って、たがいに相手を「にせもの」と非難
しあっているにもかかわらず、世俗のヒンドゥー教徒のサードゥーに対する態度は変化していません。世
俗の人びとにとって、サードゥーの衣装を着た人は、すべて「本物」のサードゥーなのです。そして世俗
の人びとは、サードゥーに食べ物や金品を与えて世話をしなければならないのです。それは、「ドルソン
を得た」ことに対する返礼です。しかしサードゥー自身は、「ドルソンを与える」ほかには、俗人に対し
てなんの義務もないのです。
― 133 ―
バウルは、サードゥーのようなゲルア色の衣装を着て、門口でバウルの歌をうたったり、神の御名を唱
えたりして、「ドルソンを与えている」のです。世俗の人びとは、「ドルソンを得た」返礼として、一握り
の米や季節の野菜をバウルに施与し、バウルの生存を保証しているのです。
「バウルの道」(バウル・ポト)は、「サードゥー」(ヒンドゥー教の出家修行者)や「ヨーギー」(ヨー
ガ行者)、「ボイラギ」(ヴィシュヌ派の出家者)、「ファッキール」(イスラム神秘主義者の行者)など、イ
ンド社会に存在するいくつかの「世捨ての道」(ションナーシ・ポト)のひとつです。インド文明には、
カースト制度にともなって、それと矛盾する世捨ての制度が、文明の装置として組み込まれているので
す。
現代においても、カースト社会に生きる世俗の人びとにとって、世捨て人は相反する生活様式を採用し
た人びとですが、「究極の理想を追求する人」として存在しているのです。そして世俗の人びとは、世捨
て人に食べ物や金などを施与し、世捨て人の生存を保証しているのです。それは、世俗の人びとにとって
の「スヴァ・ダルマ」(本分)とされているのです。
西行や松尾芭蕉、菅江真澄をもちだすまでもなく、日本人にも出家願望や漂泊の旅への憧れといった意
識は存在します。インドと日本のあいだには、そのような共通した意識が、たしかに存在します。しか
し、ふたつの点で決定的な相違も存在するようです。ひとつは、インドでは「四住期」という観念が普遍
― 134 ―
化し、いわば実践倫理として定着していることです。もうひとつは、理想を本当に実現しようとする人の
数が、日本に比べればはるかに多いことです。ちなみに、現代においても、全インドには約五百万人の
サードゥーがいるとされます。
六、プロの音楽家の出現
)が、二十世紀初頭にバウルの歌の豊潤さを世に紹介
詩人タゴール( Rabindranath Tagore 1861-1941
して以来、それまで「奇妙な集団の風変わりな歌」と思われていたバウルの歌と音楽が、再評価されるよ
うになりました。タゴールの影響により、その後ベンガル人学者によって膨大な数のバウルの歌が採集さ
れ、なかには注釈つきのりっぱな歌集として出版されるようになりました。
一九五一年、タゴールが創設したヴィシュヴァ・バーラティ大学は、国立大学となりました。大学はそ
れ以後、「ポーシュ月(十二月中旬〜一月中旬)の祭典」(ポーシュ・メラ)や「マーグ月(一月中旬〜二
月中旬)の祭典」(マーグ・メラ)を主催するようになりました。大学は、祭典のプログラムのひとつと
して、バウルの歌の音楽会を開催するようになったのです。
このようなヴィシュヴァ・バーラティ大学の積極的な後援をきっかけに、一九五〇年代後半には、バウ
― 135 ―
ルの歌と音楽は、「ベンガル民俗文化の不可欠の部分」と認識されるようになりました。しかしこのこと
は、ベンガルのバウルの「宗教的求道者」という側面よりも、「民俗音楽家」という側面を強調すること
になりました。音楽的技量に卓越したバウルは、ベンガルの上流階級の邸宅での私的な音楽会に招聘され
たり、大都会での祭典やラジオ・テレビにも出演するようになったのです。
ベンガル社会の急激な変化に呼応するように、音楽的技量に自信をもつ一部のバウルは、マドゥコリの
生活をやめ、プロの音楽家としての道をあゆみはじめました。彼らは音楽チームを組織し、バウルの歌を
音楽会でしか演奏しなくなりました。また、音楽教室を開設し、アマチュアの音楽愛好家にバウルの歌や
音楽を教えるようになりました。彼らは、契約による出演料や授業料によって生活費を稼ぐようになった
のです。
レコードやカセットテープに録音を依頼されたバウルは、バウルの歌や音楽の商業的価値を知りまし
た。また、海外公演に招請されたバウルは、外国人の心をもひきつけるバウルの歌や音楽の魅力に気づき
ました。さらに、野心のあるバウルは、プロの音楽家として活動の機会のおおいコルカタに移住したので
す。
ほとんどのバウルは、今日でもベンガルの田舎の村々をまわり、門口でバウルの歌をうたったり、ある
いは神の御名を唱えたりしながら、一軒一軒マドゥコリをして生活しています。しかし彼らは、コルカタ
― 136 ―
に移住し、自宅には電気や水道はもちろんのこと、冷房装置や温水装置も完備し、テレビや電話、運転手
つきの自家用車まで所有するプールノ・チャンドロ・ダシュのような、プロの音楽家として成功した「ス
ター」の生活も知っています。今日の若いバウルが、バウルの歌を一握りの米と交換するために「門口」
でうたうよりも、気前のよい祝儀が期待できる「舞台」でうたいたがるとしても、それは当然です。そし
て、彼らの関心が、宗教や儀礼に精通したバウルになることよりも、歌手として人気のあるバウルになる
ことだとしても、それは不思議なことではありません。
七、現代インド文明のメッセージ
ふたりの日本人女性が、バウルの歌と音楽に魅せられて、日本での職を辞し、バウルのグルに弟子入り
をして、バウリニ(バウルの女性形)になりました。ひとりは、西ベンガル州バルドマン県に住むかず
み・まきさん(以下、KMさん)です。もうひとりは、西ベンガル州バンクーラ県に住むホリ・ダシさん
(以下、HDさん)です。二〇一一年一月現在のふたりのインド滞在年数は、KMさんが一九年、HDさ
んが八年です。わたしは、彼女たちがマドゥコリの生活をしているのかどうかは知りません。もっとも、
彼女たちはインド人ではないし、ヒンドゥー教徒でもないので、カーストの義務を放棄し、マドゥコリの
― 137 ―
生活を採用する必要もありません。
わたしは、HDさんとは面識がないのですが、KMさんとは一九九二年十一月に会ったことがありま
す。朝日新聞の記事にKMさんのことが紹介されていて、「グルと呼ばれる導師の内弟子となり、導師率
いるバウル一行と村々を巡る日々が始まった」と書かれていました。わたしは、さっそく朝日新聞大阪本
社に電話をし、KMさんの連絡先を教えてもらいました。当時の日本では個人情報に関する意識も低く、
そのようなことが可能だったのです。わたしは、KMさんと会う機会をつくり、話を聞きました。彼女に
よると、一九九一年秋の国立民族学博物館の特別展「大インド展 ヒンドゥー世界の神と人」で行われた
バウルの公演に衝撃をうけたという。そして、その年の一二月に渡印し、弟子入りをはたし、一時帰国中
という。いずれは行動をともにした導師と兄弟弟子を呼んで「日本で公演するのが夢」だという。その
後、KMさんの夢がかない、年に数カ月の日本公演が実現しました。
このことは、べつに驚くことではありません、わたしは、フィールドワーク中に、バウルの歌と音楽に
魅せられて、何度もベンガルの地を訪れているヨーロッパ人女性を、何人も見ていたからです。また、そ
のような外国人女性を広告塔として利用し、海外公演をもくろむバウルも少なからずいたからです。
KMさんは、「演奏活動」という表現をしていたので、最初はワールド・ミュージックとしてのバウル
の歌と音楽の演奏家になろうとしていたのかもしれません。しかし、KMさんによると、「現在は演奏活
― 138 ―
動を控え、ひっそりとアーシュラム暮しをしている」という。そして、現在は「修行中」であるともい
う。彼女は、バウルの歌を通じてバウルの宗教を学び、導師を通じて「バウルの道」の究極の目標を知
り、それを追求しようとしているのです。KMさんが意識をしているかどうかは不明ですが、彼女はサー
ドゥーのようなゲルア色の衣装を着てバウルの歌をうたい、インド人聴衆に「ドルソンを与えている」の
です。そしてインド人聴衆は。彼女の姿を「ちらっと見て」、確実に「ドルソンを得ている」のです。
二〇〇八年、バウルの歌と音楽はユネスコの「人類の無形文化遺産の代表リスト」に登録されました。
これをきっかけに、日本でもワールド・ミュージックとしてのバウルの歌と音楽のファンが急増している
ようです。ひょっとすると、KMさんやHDさんのような日本人女性が、今後も出現するかもしれませ
ん。なぜなら、「人は、もしバウルの道にしたがうならば、だれでもバウルになれる」からです。
現代インド文明は、「神との合一」という究極の宗教目標と、それにいたる「世捨ての道」を、外国人
にも提供しているのです。
「芸能:神様ごとから楽しみごとへ」ということでしたが、「芸能:楽しみごとから神
今日の私の話は、
様ごとへ」ということもありうるのだと、今気づきました。今日の私の話はこれで ……。
あと質問があればどうぞ。
― 139 ―
[ 質疑応答 ]
質問‌者一:最後のバウルが世に言われだしたのを、私なりに受け止めたらヒッピー族のような感じがした
んですけれども、どうでしょう。
村瀬‌:ちょっと違いますね。
質問‌者一:違いますか。どのようなイメージですか。歌を歌ったり、その、社会に寄生したりするよう
な ……。
村瀬‌:ベンガルのバウルとは、「みずからバウルと名乗り、バウルの衣装を身にまとい、人家の門口でバ
ウルの歌をうたったり、神の御名を唱えたりして、米やお金をもらって歩く人たち」のことです。バウ
ルは、世捨て人のようなゲルア色(黄土色)の衣装を着て、「門づけ」や「たく鉢」をして生活費を稼
いでいるのです。
‌バウルの歌は、バウルの宗教を表現しています。しかしバウルの宗教には秘密のことがらがおおいの
で、その秘密をうたいこんだバウルの歌には、しばしば「なぞめいた用語」が使用されています。つま
りバウルの歌には、表面上の意味の奥ふかく隠された「真の意味」を表現するために、暗号のような語
句や表現が意図的に使用されているのです。このためバウルの歌は部外者にとっては難解で、いくつも
の解釈が可能だったり、あるいは意味不明のことがおおいのです。その反面、部内者には「なぞ解き」
― 140 ―
をするようなおもしろさがあるといわれます。
‌ときどき夕方などに、グルのアーシュラムに弟子たちがあつまってくることがあります。そこでもサ
ドナについて議論されることがあるのですが、それは主としてバウルの歌の解釈を通じてです。彼らは
バウルの歌をうたい、バウルの歌の「なぞ解き」を楽しんでいるのです。しかし、歌の「真の意味」は
秘密とされ、議論はグルと弟子たちのあいだにかぎられます。
質問‌者二:先生がイリノイ大学の大学院の時に、ベンガルに初めて行かれたそうですけど、なぜそのバウ
ルについて研究しようと思われた動機は何でしょうか。
村瀬‌:私が経済学部の学生だった頃は、インドには全然興味がありませんでした。むしろ、スペインやポ
ルトガルに憧れていました。四回生の時に、たまたま聴講した文学部の授業で米山俊直先生と出合い、
文化人類学の面白さを知りました。そして経済学部卒業後、文学部に学士入学し米山先生のゼミに参加
しました。ゼミで一緒になった友人がインドのことばかり言うのです。なんであいつが、インド、イン
ドというのかと不思議に思って、それでインドだけでなくアジアのことを勉強しだしたのです。文学部
卒業後、大学院に進学したいと思ったのですが、当時の日本には文化人類学専攻の大学院はなく、一〇
年ほど働きました。
イリノイ大学の大学院に進学したのは一九七九年です。専攻は文化人類学で、フィールドワークはイ
‌
― 141 ―
ンドで行うことを前提に勉強しました。その間、ノーベル文学賞を受賞した詩人のタゴールがバウルの
歌を世に紹介し、それまで「奇妙な集団の風変わりな歌」と思われていたバウルの歌が再評価されたこ
と、プールノ・チャンドラ・ダシュというバウルがボブ・ディランとアメリカ公演をして大成功をした
ことなどを知りました。インドにもずいぶん旅行しました。そして、学位論文のテーマは「ベンガルの
バウルの文化人類学的研究」と決まったのです。八三年の春学期にコースワークが終了し、その年の夏
に予備調査の資金として往復の飛行機代と三千ドルをイリノイ大学大学院からいただきました。約三か
月間、バスや列車を乗り継いで西ベンガル州のほぼ全域を歩いたのです。
質問‌者三:バウルはベンガル地方とお聞きしたのですが、インドでベンガル以外の地方に広がるとか、そ
の可能性とか、それからバウルの人数はどれぐらいいるのか。
村瀬:人数はわからないですね。
質問者三:何万の単位か。
村瀬‌:いやいや、そんなにいないです。私が顔と名前がわかるバウルは二百人程度、バウル全体で一千人
ぐらいでしょうね。
質問者三:そんなに、そのインドだけで。
村瀬:インドというかベンガルです。
― 142 ―
質問者三:ベンガル。
村瀬:彼らはベンガル語しか話せません。
質問者三:ということは、ベンガルから発展性はないですね。
村瀬:そうですね。でもバングラデシュにもいます。
質問者三:バングラデシュ。
村瀬‌:バングラデシュは、一九七一年にパキスタンから独立しました。バングラデシュというのは、「ベ
ンガルの国」という意味です。今はふたつの国に分かれていますが、ベンガル地方というのはもともと
ひとつで、ベンガル語を話すベンガル人が住んでいる地域のことです。一九四七年にインドとパキスタ
ンが分離独立したときに、西ベンガルにはヒンドゥー教徒が比較的多かったのでインド領に属するよう
になり、東ベンガルにはイスラム教徒が比較的に多かったのでパキスタン領に属するようになったので
す。
質問‌者三:そういう哲学的な思想と音楽とが全く切り離されて、音楽だけが世界に流布したという …。
村瀬:はい、そうです。独り歩きしている。
質問‌者三:そうですね。その音楽を奏でてPRをして一緒にイメージするところは、私はヒッピーやと思
うのですが
― 143 ―
村瀬‌:バウルの歌はベンガル人でもなかなか難しいと言いましたが、それが聴衆だけでなく若いバウルが
バウルの歌のことをわかっていない。つまり適切な宗教的トレーニングを受けていない。だから、昔と
いうか、年配のバウルは歌を一曲習おうと思えば、グルのアーシュラムに何日も泊まりこまなければな
らなかった。でも、今の若いバウルはテープレコーダーで簡単に歌を習える。テープレコーダーは歌や
音楽を習うには便利な機械だけれども、バウルの歌の「真の意味」を学ぶことは出来ない。「真の意味」
は、宗教的トレーニングを通じて、グルから弟子へと口頭で伝承される事柄です。テープレコーダー
は、グルの重要性を忘れさせる「危険な罠」だと思います。
司会‌:今の話だとだと、今の若いバウルは歌の「真の意味」も理解せずというお話だったですけど、破門
とかそういうのも …。
村瀬‌:いや昔からバウルの歌の真の意味を理解せず、「九官鳥」みたいに歌うバウルはかなりいたようで
す。バウルの歌の真の意味は「秘伝」なのですね。グルから弟子へと、秘密裏にこっそりと教えられ
る。グルに入門していないバウルは昔にもかなりいたようです。でも、バウルの格好をして、門付けや
托鉢をしていれば、何とか生きていける。マドゥコリの生活は、選択肢が制限されたカースト社会にお
ける「もうひとつのライフスタイル」として機能しているのです。
バウルのライフスタイルを聞いていく過程で、彼らの出身カーストや学校教育年数なども質問するの
‌
― 144 ―
ですが、なんとバラモン階級出身者や大卒者のバウルがいるのですね。
‌その大卒バウルですが、卒業後に中学校の教師の職に就くのですが、教師としてうまくやって行けず
二年で退職しました。やはり教師をしていた兄の紹介で、別の中学校に再就職するのですが、そこでも
うまくやって行けず、やはり二年で退職しました。彼は教師としての自分の資質に悩み、解決を求めて
コルカタのラーマクリシュナ・ミッションに講話を聴きに行ったり、ヴィヴェーカーナンダの著作など
を読みふけったりしていました。二十代後半になったころ、彼は友人とふたりでオリッサ州の聖地プー
リーへ、徒歩で巡礼に行きました。彼らはメディニプール県のある村の河原で自炊をしていました。彼
らのことを不審に思った村人は、その村でアーシュラムをもっていた老バウルに「河原に変な若者がい
ます。どうしましょう」と相談しました。老バウルは村人に「一度ここに連れてこい」と助言しまし
た。村人は彼らを老バウルのアーシュラムに案内しました。彼は大卒で、ヴィヴェーカーナンダの著作
を読むぐらいですから相当のインテリです。しかし彼は、無学のバウルが真理を語るのを聞いてしまっ
た。そして、「真理を前にして、知識は無力である」と悟ったのです。彼は友人と別れ、その老バウル
に弟子入りしてしまったのです。インドには、そういう人がちょこちょこいるのですね。
‌もうひとつの経験をお話ししましょう。バウルではないのですが、聖地ベナレスで、ヒンドゥー教の
出家修行者サードゥーに出合ったときの話です。ガンジス河のほとりの聖地ベナレスで、沐浴をした
― 145 ―
り、ガンジス川を眺めたりしながら、何日か過ごしたことがあります。やはり沐浴をしたり、ガンジ
ス河を眺めたりしながら過ごしているサードゥーがいました。彼はいつも私からすこし離れたところ
にいました。「あれ、あのサードゥー、今日も来ている」と思いながら何日目かのことです。そのサー
ドゥーと目が合いました。彼も私と同じようなことを思っていたのでしょう。彼は私のところに来まし
た。そして聞いたことがないような英語ですけど、私はサードゥーに英語で話しかけられたのです。私
はびっくりして、なぜサードゥーになったのかと尋ねました。彼はあまりしゃべりませんでしたが、そ
れでも二十年ほど前に家族も財産もすべて捨てて放浪の生活をしているという。それ以前は何をしてい
たのかと尋ねると、石油会社を経営していたが、思うところがあって、すべて捨てたという。
‌さきほども言いましたけれど、現在においても全インドで五〇〇万人のサードゥーが存在するそうで
す。インド文明には、カースト制度にともなって、それと矛盾する世捨ての制度が文明の装置として組
み込まれているのだと実感してしまいます。(拍手)
― 146 ―
講師紹介 (担当年月日順) ※二〇一二年十二月現在
大松 紳一 (おおまつ しんいち)
着物作家。京都生れ、京都市立堀川高校卒、家業を継ぎ現在に至る。京都手描友禅協同組合染匠部会所属
今福 章代 (いまふく ふみよ)
大手前大学 メディア・芸術学部 准教授
一九八九年京都市立芸術大学大学院美術研究科工芸専攻修了
、国際テキスタイルコンペティション等入選、個展、グループ展多数
ローザンヌビエンナーレ(スイス)
岡 佳子 (おか よしこ)
大手前大学 総合文化学部 教授
一‌九五四年福岡県北九州市に生まれる。一九八一年京都女子大学大学院文学研究科修士課程修了、京都市社会教育振興財団
職員、京都市歴史資料館嘱託を経て、一九九五年大手前女子大学専任講師、現在、大手前大学総合文化学部教授、二〇〇八
年博士(芸術学 筑波大学)
(角川書店 二〇〇一年)
『国宝 仁清の謎』
『窯別ガイド 日本のやきもの 京都』(淡交社 二〇〇三年)『近世京焼の研究』(思文閣出版 二〇一一年)
― 150 ―
浅利 辰雄 (あさり たつお)
大手前製菓学院 准教授、二〇〇一年より現職
製菓衛生師、一級技能士、職業訓練指導員、選和菓子職
一九八六年 全国菓子工芸大品評会・名誉最高優秀賞受賞、 一九八九年 第二十一回全国菓子大博覧会・菊花工
芸‌賞受賞、一九九八年 第二十三回全国菓子大博覧会・全菓博工芸大賞受賞、二〇〇二年 第二十四回全国菓子大博覧会・
全菓博工芸大賞受賞(農林水産大臣賞受賞)、二〇〇九年 二〇〇九阿部野博二〇〇・全国和菓子協会会長賞受賞
阪口 純久 (さかぐち きく)
上‌方料理大和屋(一八七七年創業)女将
一‌九五〇年より家業の料亭「南地大和屋」を手伝う。一九六一年三代目当主の阪口祐三郎が他界し、大和屋四代目女将とし
てを引き継ぐ。前田青邨画伯直筆の松羽目を持つ能舞台を設けた料亭を切り盛り、政財界からの要人に親しまれた。宗右衛
門町界隈の環境悪化と経済低迷から料亭は休業。現在は東京に店舗と横浜・大阪心斎橋店の四店舗で本格日本料理と上方文
化継承に日々現役で奮闘中・女将業五〇余年。
松本 恭和 (まつもと やすかず)
有限会社松本商店 代表取締役。一八七七年大阪福島区にて初代松本亀吉が創業
銀行員を経験した後、二八歳で家業を継ぐ。
― 151 ―
柏木 隆雄 (かしわぎ たかお)
・日本フランス文学会副会長
大手前大学 学長(二〇一二~二〇一五年度)
『交差するまなざし ― 日本近代文学とフランス』(朝日出版社、二〇〇八年) 翻訳
Balzac romancier du regard, Nizet, 2002. バルザック『ソーの舞踏会』、『暗黒事件』(ちくま文庫、二〇一五年)
大阪大学文学研究科博士課程修了、パリ第Ⅶ大学第Ⅲ期博士
村瀬 智 (むらせ さとる)
大手前大学 メディア・芸術学部 教授
日本文化人類学会、比較文明学会会員。
Ph. D.
(単著、一九九一年、UMI)
、
『
「貧困の文化」
Patchwork Jacket and Loincloth: An Ethnographic Study of the Bauls of Bengal
再考』(共著、一九九八年、有斐閣)、『生活世界としての「スラム」』(共著、二〇〇一年、古今書院)、『貧困の超克とツーリ
一九四四年生まれ。イリノイ大学大学院人類学研究科博士課程修了。
ズム』(共著、二〇一〇年、明石書店)、『地球時代の文明学2』(共編著、二〇一一年、京都通信社)など。
― 152 ―
― これまで(第一回~第一四回)の講義 ―
平成十一(一九九九)年度 総合テーマ 『 生活の中の文化 』
四月十七日(土)
粋の基盤 ― 生活の美学 ― ( 教授 文学部長 鈴木 亨 )
粋は多様な表現を持つ美的理念であるが、その根元は意外に素朴な美意識である。それがどういう場合に
どういう表現をとり、人を感動させるのか、近世文学や演劇から典型的な例を取り上げて検討する。
五月十五日(土)
食具の日欧文化比較 ( 教授 山内 昶 )
日本人は箸を使うが、西洋人はナイフ・フォーク・スプーンを使う。一体その背景にはどういう世界観の
違いがあるのか。食の文化人類学の視座から、この問題を解明する。
生活の中の干支 ( 助教授 丹羽 博之 )
六月十九日(土)
茶の湯とやきもの文化 ( 講師 岡 佳子 )
中国の影響のもとに生まれた日本のやきものは、茶の湯の道具をつくることから、新しい創造の道を歩み
はじめた。数々の名物を遺した数奇の心とその表現の特質を探る。
七月一七日(土)
青春は何故青いのか? 丙午生まれの女性は悪いという迷信のルーツは? 甲子園、甲陽園の由来は?
これらは中国伝来の陰陽五行説で説明がつく。日本人の生活にとけこんだ中国文化を探る。
九月十八日(土)
古筆のなりたち ( 教授 木下 政雄 )
先人たちの遺墨から様々の事柄を学ぼうとする姿勢から「古筆」という概念が成立した。単に書かれた内
容に止まらず、その字すがた(書体・書風)や書のかたち(品質・形状)に注目したい。
― 154 ―
十月十六日(土) 江戸時代婚礼習俗にみる女性の生活 ( 教授 宮下 美智子 )
今日の結婚式は多様化しているが、女性(新婦)中心のイベントの感が強い。本講では嫁入式が庶民の聞
でも行われるようになった江戸時代を中心に、婚礼習俗の変化と女性の生活を考える。
十一月二十日(土) 日本の着物 ― 芸術を着る伝統 ― ( 教授 切畑 健 )
世界各国には各々固有の特色ある衣服が存在し、それらを民族服などとよんでいる。日本では「キモノ」
がそれにあたるのであるが、他の民族服とは一線を画する性格を持つ、すなわちそれを芸術と考え、その
意義と伝統をうかがいたい。
十二月十八日(土) 「生活の中の文化」の研究史 ( 学長 米山 俊直 )
考現学(モデルノロジオ)で知られる今和次郎を中心に、社会調査、参加観察、長期フィールドワークな
ど、「生活文化」の研究史とその方法の変遷をみる。
平成十二(二〇〇〇)年度 総合テーマ 『 歴史の散歩道 』
四月十五日(土) 楠木正成と足利尊氏 ( 教授 熱田 公 )
楠木正成と足利尊氏は、南北朝時代を代表し摂津地域にも縁の深い人物であるが、研究史の上でも、なお
多くのナゾをのこしている。湊川の戦いを中心に二人の行動を追いながら人間像のナゾにもせまりたい。
五月二十日(土)
ハンコいろいろ ― 金印をめぐって ― ( 教授 秋山 進午 )
ハンコはかなりいらなくなってきたとはいえ、今でもやはり大事でかかすことの出来ない必需品の一つで
ある。ハンコは東アジアで最も早く文字を創り出した中国が起源で、中国との国交に伴って東アジア各地
に広まった。わが国へは後漢から与えられた金印が最古のもので、いまは国宝になっているこの金印が長
― 155 ―
い問、昭和二〇年代まで偽物ではないかと疑われていたこともあった。そのことを中心に当時のいろいろ
なハンコのことを話したい。
六月十七日(土)
都市遺跡へのまなざし ― 大手前考古学のあゆみ ― ( 教授 藤井 直正 )
昨今、都市遺跡への関心が高まっている。大坂にはじまり伊丹郷町の発掘をつづけてきた軌跡をたどりな
がら、近世考古学の成果と課題を展望したい。
七月十五日(土)
ギリシア人の「愛」( 教授 芝川 治 )
古代ギリシア人の恋愛というと主流をなすのは、実は、少年愛である。それはギリシア特有の国家形態た
るポリスの盛衰とも不可分の関係にあり、歴史的にも極めて重要である。今回はそうした側面を主に考え
ていく。
九月二十八日(土) 奈良時代の税について ― 役人の不正は古代から ― ( 教授 舟尾 好正 )
奈良時代には公的な稲をひろく貸し付けて利息をとり、その利息で地方財政をまかなっていたが、その制
度の運営の実態と役人のかかわり方を正倉院に残る天平時代の財政帳簿の分析から具体的に検証したい。
十月二十一日(土)
神 戸・公衆衛生からみた近代都市 ( 講師 尾崎 耕司 )
明治以降、貿易港として急速に発展していった都市神戸。しかし、そこでは、あまりにも急激な発展のた
めに、逆に様々な社会問題が同時に発生した。今回は、このうち感染症の問題をとりあげ、そこから都市
神戸のもつ光と影を展望したい。
十一月十八日(土)
ト イレから世界の歴史をみる ( 教授 高橋 正明 )
近年トイレに関心が高まり、快適空間をめざした町づくりの主役となっている所もある。しかし水洗トイ
レのシステムには大きな問題もある。トイレットペーパー、水利用などにも言及しながらトイレの近代化
と問題点について考えてみたい。
― 156 ―
十二月十六日(土) 歴 史を生活に活かそう ― 生活の知恵としての歴史学 ― ( 教授 人文科学部長 鈴木 利章 )
歴史学は、ほほ半世紀前までは、為政者の為のものであった。その為の前提として事実は事実以外の何物
でもないという神話を創り上げた。この様な歴史学の本質を考えつつ、歴史学とは何かを検討したい。こ
の中で、大は、歴史は遠い昔の、自分とは全く無関係なものではないこと、小は、史料批判の方法を修得
すること等々、生活の知恵としての歴史学を考える。歴史学を通して豊かな生活を!
平成十三(二〇〇一)年度 総合テーマ 『 東洋と西洋の出会い 』
四月二十一日(土) 東 洋と西洋の出会い ― 南北も含めて ― ( 学長 米山 俊直 )
「東は東、西は西」というキプリングの詩句のテーマはなお健在ともいえるが、現実の世界は、東西ばかり
か南北の対話を真剣に必要としている。この世界で日本は何ができるか、考えてみたい。
五月十九日(土)
幕末イギリス外交官の描いた〈八ラキリ〉の美学 ― 神戸事件」と関連して ― ( 教授 松村 昌家 )
ここにいうイギリス外交官とは、A・B ミットフォード、日本通としても注目されるべき人物である。彼
は一八六八年に起こった神戸事件に絡んで、外国側の代表の一人として、備前藩士滝善三郎の切腹の場に
立 ち 会 い そ の 様 子 を 克 明 に 描 い た 手 記 を 残 し て い る。 武 士 道 と〈 ハ ラ キ リ 〉 に 対 し て、 こ の 生 粋 の 英 国
ジェントルマンは、どのように反応し、どのような美学を感じたのだろうか。
六月十六日(土)
アメリカン・ポップスと日本文化 ( 教授 勝部 章人 )
東洋と西洋の出会いにもいろいろあるが、我々にとって六〇年代のアメリカ・ポップ・カルチャーとの出
会いはまさにショックであった。一見日本文化とは無縁なこの文化は当時の若者の心を捉え、やがて体の
一部となり我々の体に染みついている。今、日本の中核をなすジェネレーションが織りなす現代の日本文
― 157 ―
化は、能や茶道など一般的に言われる伝統的なものだけではなく、こういうものの延長上にもある。具体
的にポップ・ミュージックの歌詞などを通してそれを例証したい。
七月二十一日(土)
西 洋(アメリカ)から見た東洋(日本)について ( 教授 ローラ・ハラニ 、 通訳:教授 福井 秀加 )
アメリカ、イギリス両国から招聘した本学客員教授が、それぞれの滞日体験を通して、西洋人からみた日
本の教育、文化、生活などの印象を語る。
九月二十二日(土) 西洋(イギリス)から見た東洋(日本)について ( 教授 リサ・タレル 、 通訳:教授 森 道子 )
アメリカ、イギリス両国から招聘した本学客員教授が、それぞれの滞日体験を通して、西洋人からみた日
本の教育、文化、生活などの印象を語る。
十月二十日(土)
過渡期の日本人達 ― 津田梅子の自覚とジレンマ ― ( 助教授 田中 紀子 )
時代が大きく様変わりし、日本政府が近代化へと、邁進していた明治四年、進歩的な父親の方針により数
え年八歳の少女が渡米した。開拓使が派遣した女子留学生のうち最年少の彼女は、教養高いアメリカ人家
庭での生活を体験しながら、個性を尊重するアメリカの教育を受ける。精神的な自立を果たした近代女性
として帰朝した津田梅子の、西洋との出会いと日本との再会を探る。
十一月十七日(土) ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)のアメリカと日本 ( 教授 常松 正雄 )
一九歳のときに、孤児同然の形で、単身でアメリカに渡り、職を転々として厳しい生活をしたハーンは、
一八九〇年(明治二三年)にハーパー社の通信記者として日本に派遣され、間もなく英語教師に転身し、
日本人女性と結婚し、遂には日本に帰化して小泉八雲となった。このギリシャ生まれの特異な存在、ラフ
カディオ・ハーンのアメリカ時代の生活と、来日後特に松江に来てからの彼の経験とを検討して、彼の人
物像のいくつかの面を見ていく。
十二月十五日(土) キリシタン伝来の頃 ( 教授 鈴木 亨 )
一五・一六世紀の戦国乱世(一四六七応仁の乱 ― 一六〇〇関が原合戦)の真っ只中、一五四九、シャヴイ
― 158 ―
エルによるキリシタンの伝来があった。民族の激動期、思想の大躍動・混乱期に、この西洋思想の精粋と
遭遇したわが民衆が猛然と迎え討ち、受け入れ、獲ち取ったものは何か。その世界に類を見ない激突の様
相を検証して見たい。
平成十四(二〇〇二)年度 総合テーマ『 東西文化の比較 』
四月三十日(土)
夏目瀬石における東西文化 ―「草枕」を中心にして ― ( 教授 松村 昌家 )
激石は近代日本人として西洋文化の衝撃を最も切実に感じた文人であった。「草枕」における東西の悲恋の
女性像の喚起から「憐れ」の発見に至る行程を通じて、彼の中における東西文化の相克と調和の諸相を共
に考えてみたい。
五月十八日(土)
放送と文化「TVニュースキャスター」についての一考案 ( 教授 辻 一郎 )
日本のテレビにニュースキャスターが導入されたのは、一九六〇年代のなかばである。以来、三〇余年。
いまどのテレビでも、ニュースキャスターが活躍している。しかし、その実態を子細に眺めると、アメリ
カのアンカーマンとはかなり違っていることが見えてくる。ニュースキャスターとは本来どのような存在
であることが望ましいのか。日米のキャスター誕生の歴史に遡って、そのあり方を考案する。
六月十五日(土)
あべこべの国ジパング ( 教授 山内 昶 )
青い目に日本は「さかしま世界」と映った。フロイスの『日欧文化比較』から面白い話題を選んで、文化
の不思議を楽しもう。
七月十三日(土)
建築と文化 ( 教授 多淵 敏樹 )
建築そのものが文化の表現である。建築は気候風土によって異なった形状をとるが、それ以上に政治経済
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をはじめとして社会のあらゆる状況に対応して変化していく。ここでは日本の建築の歴史を中心として、
西洋や東洋の建築との比較を交えて、文化としての建築を考えることにしたい。
九月二十一日(土)
東 西文明の接点としてのトルコ ( 教授 辻 成史 )
現在のトルコ共和国は古代にはペルシャ、ギリシャ、ローマと慌しく支配者が変わり、中世にはアラブ、
イスラム勢力の支配するところとなった。そのため、まるで深い地層を見るように、さまざまな文明の痕
跡を見ることが出来る。残された考古・美術の遺品をたどりながら各文明の特色を探り比較したい。
十月十九日(土)
食と文化「元気がでる食、幸せな食」( 教授 溝口 正 )
「食」は人々のライフサイクルを評価する上でもっとも基本的な課題である。ライフサイクルの良好なひと
は生活習慣病にならず、高齢時においても活動的に過ごす。物を口に放り込む食ではなく、食を通じて深
い充足感を伴うものでありたい。仲間たちと集まって眺望の素晴らしい部屋でゴージャスな雰囲気に浸り
ながら摂る幸せな食がある。そして幸福ホルモンが分泌される食こそ元気が出る食である。日本ならびに
世界各地で摂った食事などの写真を交えて「元気が出る食、幸せな食」を講述してみたい。
十一月十六日(土)
(試論)( 教授・人文科学部長 鈴木 利章 )
歴 史と文化「身を切り刻む論」
わが国の『蘭学事始』を読めば、蘭学への情熱に目をみはるが、身体を切り刻むことへの反発の大きいこ
とも実感できる。またバスク人F・ザヴィエルの聖体は、焼失前の山口のザヴィエル堂にあるかれの遺骨
からみれば、五体が満足ではないことがわかる。これらを比較し、両洋の身体に対する考え方の差を考え
てみたい。
十二月二十一日(土)天文学と文化「星の光と宇宙の構造」( 教授 長谷川 一郎 )
古代の人々は、夜空の星を見て、彼らの想像力を大いに発揮した。そして惑星の運動に注目して太陽系を
「発見」し、引力の法則が発見された。さらに宇宙の原理が理解されるようになり、望遠鏡などの観測機器
の発展によって字宙の構造がわかるようになって来た。この宇宙観の変遷について考えてみたい。
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平成十五(二〇〇三)年度 総合テーマ 『 二一世紀の〝生〟を切り拓く 』
四月十九日(土) 二一世紀は〝こころ〟の世紀 ( 教授 小室 豊允 )
二〇世紀は革命と戦争の世紀であった。二一世紀は愛と平和の世紀にしなければならない。しかし、九・
一一のテロからアフガニスタンに続いてイラクでも戦争が行われようとしている。その背景にある宗教、
文明、文化などの〝こころ〟の対立を越えて、調和と自己充足をどのように得ていくのだろうか。
五月十七日(土)
狭心症・心筋梗塞の発症メカニズム ( 教授 多田 道彦 )
心臓の栄養血管である冠動脈の狭窄閉塞などにより起こる狭心症・心筋梗塞は、冠動脈硬化の結果として
発症し、一部の例外を除いて、生活習慣病の一種と考えられる。冠動脈硬化とその発生予防は、現在、病
理 医 学 の 主 た る 命 題 と な っ て い る。 狭 心 症・ 心 筋 梗 塞 の 発 生・ 発 症 メ カ ニ ズ ム に つ い て 解 説 し、 そ の 予
防・治療についても言及したい。
六月二十一日(土) 発達心理学における世代性 ( 教授 仲野 好重 )
人間の誕生から死にいたるまでの、さまざまな心の変化を探求するのが、発達心理学の主要なテーマであ
る。他の国々に比較して、わが国では少子高齢化が著しいスピードで進んでいる。そのような状況の中、
加齢の持つ意味をいま一度問い直すことは、有意義な老年期への精神的準備につながる。また、人生にお
ける世代性の役割をライフサイクルの観点から論じ、二一世紀の社会における人類の調和を参加者と共に
考えたい。
七月十九日(土)
対話のこころ ― よりよい人間関係を目指して ― ( 教授 武衛 孝雄 )
家庭・勤め先・学校や自分を取り囲む環境の中で、いつも求められるものは、良い人間関係である。この
人間関係を築くには、自分と他者とが互いに心を開いての「対話」が不可欠である。では、心と心の触れ
合う対話は、どうすれば実現できるであろうか。対話に必要な心構えとは何か。真の対話の基本的精神を
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みつめながら、その具体的方法について考えてみたい。
九月二十日(土)
女、男、そして家族 ( 教授 藤田 道代 )
二一世紀に入り、やっとと言おうか、とうとうと言おうか、政府の社会保障政策の家族モデルが、「共働き
家族」へ変化しようとしている。女と男の関係はどうだろう。変わったようでいて変わらない、変わらな
いようでいて変わりつつある諸相を観ながら、何とはなくザワザワしい世の中だからこそ、広がりを持っ
た柔らかな関係としての、女、男、そして家族について、一度考えて見ませんか。
十月十八日(土)
民族紛争を考える ( 教授 村瀬 智 )
冷戦構造が終結して以来、世界各地で地域紛争が続発している。それらの多くは、国家と国家の紛争では
なく、国家と民族の紛争、あるいは民族と民族の紛争である。「文化」をキーワードに、国家と民族の関係
などを検討しながら、民族紛争や民族問題を考えてみたい。
十一月十五日(土)
日 系アメリカ人の歴史から見た多文化共生社会の可能性 ( 助教授 安藤 幸一 )
「日系アメリカ人」と「在日コリアン」、この二つは、それぞれアメリカと日本と場所こそ違え、ほぼ同じ
歴史的時間を共有する民族グループである。百年以上の歴史を数え既に三世四世の時代を迎えている人々
が、自らをコリア系「日本人」と呼ぼうとしない日本の社会を考える時、その民族差別の重さを実感させ
られる。それでは、日系米人が自らを「アメリカ人」と呼ぶ社会にはそうした差別がないのかといえば、
日本以上に厳しい現実があることはその歴史が証明している。しかし、それでもこうした民族グループが、
まず自らを「アメリカ人」として発想するところに、異なった民族や文化的背景を持った人々が共生でき
る社会の息吹を感じることができる。この講演では、日系アメリカ人の歴史をたどる中で、自らの民族的
ルーツに誇りを持った様々な人々による〝調和ある〟社会はどのようにしたら実現可能なのか考えていき
たいと思う。
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十二月二十日(土) 文 明の調和に向けて ( 学長 米山 俊直 )
諸民族間、諸文化間の対立、摩擦、緊張、紛争が続き、テロとその報復にはじまった二一世紀であるが、
この世紀は地球環境問題をはじめ、貧困、飢餓、飢饉、諸文明全体の諸問題を、国家の枠組みを越えて解
決すべき課題が山積している。西欧中心の世界秩序が、諸文明の存在を前提にした、新しい枠組みで調和
を追及することが必要である。それにはどのような道筋があるだろうか。比較文明学の視点からこの点を
考えてみたい。
平成十六(二〇〇四)年度 総合テーマ『 交流する文化の中で 』 〈本年度から講義録を発行〉
四月十七日(土) 交流する文化の中で ― 仮名から俳句まで ― ( 学長 川本 皓嗣 )
ひとくちにフランス文化、中国文化、日本文化などと言いますが、それらはどれも、外の世界からたっぷ
り栄養分を吸収して育った「雑種文化」です。自給自足の「純粋文化」などというのはうぬぼれか錯覚に
すぎません。むしろさまざまな異文化との交流や衝突のなかでこそ、文化の活気や魅力が生まれてきます。
仮名、和歌、物語、能、俳句など、日本の誇る伝統文化はすべて熱心な異文化摂取の産物で、今後の日本
を考えるためのいい手本になるでしょう。
五月十五日(土)
ジヤポニズムの真相 ― 転換期のヨーロッパと日本 ― ( 教授 六人部 昭典 )
印象派の画家や印象主義以後の画家たちは、浮世絵などの日本の美術から影響を受けたといわれています。
しかし影響という一言葉はきわめて曖昧です。彼らがどのような時代に生き、日本の美術や思想に何を見
いだしたのか、その真相を考える必要があります。今回の講座では、モネやゴーガン、ファン・ゴッホら
の作品を具体的に見てゆきながら一九世紀後半という転換期のヨーロッパと日本の関わりを考察したいと
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思います。
六月十九日(土)
一六・一七世紀における輸入陶磁器の受容と交流文化 ( 教授 川口 宏海 )
一六・一七世紀の日本にもたらされた輸入陶磁器は、日本の生活様式にあわせて輸入されている傾向にある
が、文物を通じて中国文化や東南アジアの影響も受け、伊万里焼きの誕生にも繁がっている。また一方で
は海外の遺跡で伊万里焼きが発掘されたり、寛永通宝が見つかるなどしている。これらのことにふれなが
ら、中国陶磁器及び東南アジア陶磁器の日本への流入の様相とその影響を探ってみたい。
七月十七日(土)
日本におけるキリスト教 ( 教授 村岡 健次 )
幕末の開国と明治維新以後、日本の近代化は文明開化の名の下に西洋を範として進められた。そのさい有
力なスローガンとなったのが和魂洋才で、実際にもそのような形で多くの西洋の文物がわが国に移植され
た。だがそのいっぽうで、西洋文化の魂ともいえるキリスト教も各教団の努力によって伝えられ、それな
りに根づいていった。本講では日本の近代化という日本と西洋の文化交流を、和魂洋才の流れも念頭に置
きながら、むしろキリスト教伝播という側面から見てみようと思う。
九月十八日(土)
スタンダード和英大辞典と編著者竹原常太 ― 米英文化の受容と日本 ― ( 教授 稲積 包昭 )
明治一二年岡山生まれの少年常太は小学校卒業後、神戸の私塾乾行義塾で英語を学び、旧外国人居留地の
商社での勤めを通し当時の和英事典の不備を痛感。二度のアメリカ留学で広く現地の文化を体験し、和英
事典編纂のため新聞・雑誌からの膨大な切り抜き、教科書を持ち帰った。これが後の大著、スタンダード
和英大辞典と旧制中学、女学校用の英語教科書となり実を結ぶ。本講座では、旧制神戸高等商業学校教授
竹原常太の英米文化の受容と日本文化、特に古典芸能への傾倒の過程を観察しながら異文化接触の一つの
例を探る。
十月十六日(土)
憂き世と浮き世 ― 価値観の対立と融合 ― ( 教授 鈴木 亨 )
中世末期から近世初頭にかけて、日本は激動から安定への意識改革をなしとげた。その底流には、極めて
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躍動的な人生観・世界観の交流があった。この世を「憂き世」と見るか、「浮き世」と見るか、それぞれが
どういう文化を創出し、どういう精神で時代をリードして行ったのか。その果てに望見されたのはどうい
う世界であったのか。その様なことを、当時の文学・宗教の側面から推察して見たい。
十一月二十目(土) 翻訳/劇 ( 講師 平川 大作 )
演劇は文化を交流させる理想的な装置です。特に翻訳劇の実践において、世代的/民族的諸文化の交流が、
舞台の上と外でどのように発生するのか、拙訳の戯曲をとりあげて具体的に紹介いたします。また、演劇
の歴史を振り返りつつ、翻訳という文化的行為と演劇という表現が本質において分かちがたい関係にある
ことを示したいと思います。
十二月十八日(土)
ロ ンドン万国博覧会場の幕末使節目 ― 日英交流の幕聞き ― ( 大学院文学研究科長 松村 昌家 )
一八六二年五月一日に行われた第二回ロンドン万国博覧会開会式には、欧米諸国からの貴賓列席者の群に
混じって、七人のサムライの姿があった。幕府から派遣された日本最初の訪欧使節団の代表者たちであっ
た。髷をつけた頭と紋付羽織袴に大小といった彼らのいでたちが、ひときわ異彩を放って注目の的になっ
たことは容易に想像されるが、西欧貴賓たちの正装姿もまた、彼らの眼には奇異に映ったに違いない。万
博開会式という晴の舞台における東西の異文化交流の一幕であったのである …。日本側の資料ばかりでな
く、イギリス側の資料を幅広く活用することにより、イラスト入り幕末遣欧使節団のイギリス往還記の一
説をまとめてみたいと思うのである。
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平成十七(二〇〇五)年度 総合テーマ『 笑いと文化 』
四月十六日(土) おかしみ=ゆとりの表現 ― 中世の絵巻に見る日本人 ― ( 教授 切畑 健 )
一般の日本人はまことに「融通」のきかない、「謹厳」をもって最上最高とし、「自己表現」の不得手な、
むしろそれをあえて控える民族であると、現在でも国際的に信じられているのに出くわし、驚くのである。
い か に も 大 声 を あ げ て 笑 う こ と や 笑 い と ば す こ と は ま れ で も、 し か し 生 活 や 芸 術 の 基 本 の 部 分 に、 豊 な
りの表現」と考え、本講では特に中世の絵巻の中にその片鱗をうかがい、日本人の本質にせまることを試
「おかしみ」を感受し表現する、きわめて繊細な感覚の存在を無視することはできない。それをまた「ゆと
みる。
五月二十一日(土) 笑い≠マンガ ( 教授 加藤 一彦 :モンキー・パンチ)
風刺漫画、四コママンガなど読者を「笑わせる」マンガもある。かつてはそれが主流を占めていた時代も
あった。今も、笑えるものがマンガである、と知らず知らずに定義してしまっていることはないだろうか。
じつは日本文化を代表する「マンガ」には「笑い」だけが描かれているわけではない。むしろ、その世界
順一
)
にはヒューマニティ溢れるストーリーが展開している。あらためて現代マンガ文化を探訪していただきた
い。
( 教授 吉田
六月十八日(土) 「
お笑い」の文化経済学 ― コンテンツ・プロデュースとしての「吉本興業」研究 ―
「お笑い産業」の成長を、既存の経済理論の枠組み(ソフト産業論)から実証するのではなく、情報消費と
文化生産、経済の文化化という文脈の中で、「情報コンテンツとしてのお笑い」の意味を分析します。「大
衆性」という鍵概念は、例えばP・ブルデューの説く「文化資本」と、どのように関係するのか。あるい
は、お笑いコンテンツは、デジタル技術を使って大量複製が可能なのか。「人がヒトを笑わせる」ことの経
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済・市場価値を再考してみましょう。
七月十六日(土)
茶化し ― 複眼の文化 ― ( 教授 鈴木 亨 )
日本人は、俗にテンション民族と言われる程、ひたすらに全身全霊を傾注して目的を追求し、所期の成果
をあげることを好む。そのために脇見、手ぬき、遊び、不誠実を嫌い、注意の散漫を憎む。しかし、そう
いう単眼文化に対し、豊かな複眼文化も存在する。特に近世文学はその宝庫である。通常不まじめで低俗、
非生産的なものとして軽視されている「茶化し」も、その重要なひとつ。実例を通じてその効用を探る。
九月十七日(土) 喜劇「破壊と結合、あるいは、笑う文化と笑われる文化」( 講師 平川 大作 )
明くる年の話に耽れば鬼が笑うとは世に知られた金言なれと、客席を埋める鬼の破顔こそ、まさに古今東
西喜劇作家の見果てぬ夢と言うべし。何となれば計算とまぐれの子にして、あるときは世間を束ねる帯、
あるときは権威と実存のすべてをなぎ倒す暴れん坊たる笑いの鬼神を幕開きの前年にとらまえるのは至難
の業であるがゆえなり。解説者たる小生も先達の実作者に倣いて、まずは演名のみにてご容赦を乞うとこ
ろ(平成一六年秋に記す)。
十月十五日(土) 中国明代後期の世相と笑話 ( 助教授 松浦 典弘 )
中国の明という時代(一三六八 ― 一六四四)は、その初期においては強い皇帝権力のもと厳しい思想統制
が行われたが、中期以降は政治体制が著しく弛緩する一方で多様な文化が花開いた。特に都市の庶民の聞
における世俗的な文学の発展には目覚しいものがあり、儒教的思想に基づく伝統的な価値観を嘲笑するよ
うな現象さえ見られる。本講では明朝の政治史を概観した上で、いくつかの笑話を紹介し、それが生み出
された時代背景について考えてみたい。
十一月一九日(土) 彫 刻された「笑い」と、
「笑い」を彫刻にする ( 助教授 久木 一直 )
カルポー作のパリオペラ座の有名な彫刻「ダンス」に見られる「笑い」の意味を検証し、何故に「歓喜の
笑い」の彫刻表現が、一般市民に非道徳的だと非難され、顰蹙と怒りをかったのかを明らかにしたい。さ
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らにウードン作の肖像彫刻、思想家ヴォルテールの「理性の微笑」とは何か? 古代ギリシア彫刻の所詞
「アルカイック・スマイル」の意味するところは何か? スライドを見て頂きながら示したい。また「笑
い」を彫刻にした体験から、形態の意外な事実についてもお話ししたい。
十二月十七日(土) 川柳は何をどう笑ったか ( 学長 川本 皓嗣 )
江戸中期、一八世紀半ばに興った川柳が、高度に洗練された諷刺文芸・ユーモア文芸として、世界でも類
のない高みに達していることは、どれほどよく認識されているだろうか。川柳は大衆向けの懸賞文芸、匿
名の町人・武士による素人芸に過ぎないが、ひと月の応募句が時に一万を越えた。江戸人の人間観察と句
作の圧倒的なエネルギーを想起しながら、とびきりの秀句を楽しんでみよう。
平成十八(二〇〇六)年度 総合テーマ『 人と文化 』
四月十五日(土) 宰相ウィンストン・チャーチルと二〇世紀英国文化 ( 教授 鈴木 利章 )
英国で行なわれる歴史上の人物の人気投票で、常に上位を占める偉大な宰相ウィンストン・チャーチルの
魅力は何か。ヒトラーに勝利した政治家としてのかれか。ノーベル賞受賞作品『第二次大戦回顧録』の著
者歴史家としてのかれか。チャーチル会の主人画家としてのかれか。葉巻を銜える貴族としてのかれか。
はたまた『昼寝』のチャーチルか。二〇世紀文化の中でのかれの活躍を活写する。
五月二十日(土)
唐代における日中交流 ― 海を渡った人々― ( 助教授 松浦 典弘 )
古代の日本は国家建設に当たって、制度や文化など多方面にわたって唐代中国の影響を強く受けてきた。
本講座では遣唐使の派遣をめぐる問題を中心に取り上げ、一昨年発見された遣唐留学生井真成の墓誌につ
いての研究動向なども紹介したい。また、その後の日本仏教の展開に多大な影響を及ぼした入唐僧の事跡
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についても検討の対象とする。
六月十七日(土)
韓国を愛し、韓国人から愛された日本人 ― 浅川巧の生涯 ― ( 教授 趙 起權 :チャン キグォン)
植民地支配下の韓国で、韓国の自然と文化を敬愛し、韓国人の心の中に生きた日本人がいる。厳しい時代
背景の中で理不尽に虐げられた韓国の人々と心の交流を育み、韓国人から最も愛された日本人、浅川巧。
林業の仕事で韓国に渡った彼は、森林の回復に尽力する傍ら、韓国の陶磁器や膳の美に魅せられ、韓国の
風土と民族をこよなく愛した。この知られざる偉人の生涯をたどりながら、真の日韓友好と文化交流につ
いて考える。
七月十五日(土)
モダンデザインのパイオニア今竹七郎 ― 文明開化・二〇世紀文化・デザイン ― ( 教授 今竹 翠 )
港町神戸は横浜と並び明治期から西洋文明の影響を強く受けた。日常生活環境にもそれは顕著で、外国人
向けに東遊園地が設置され、今日の公園の原型を形作っている。このまちに一九〇五年生を受けた七郎は
幼少期から青年期までを神戸の中心地で過ごした。それは七郎の生活文化の基盤となっただけでなく芸術
活動への始点となったことは明らかである。未開拓であったデザインと画業の両方に生涯全力を傾けたそ
の軌跡をたどる。
九月十六日(土)
戦国時代の女性像 ( 助教授 小林 基伸 )
戦国時代の女性と聞いて思い浮かべるのは、政略結婚の犠牲となって迎える悲劇的な最期だろうか。しか
し、いったん史料をひもとけば、この時代を主体的に生きた女性達が姿を現す。この講座では、「鬼瓦」と
呼ばれた女性守護洞松院尼を中心に、戦国時代の女性の実像を探ることにする。あわせて、「山内一豊の
妻」など、現在の私たちが思い描く戦国女性像がなにに由来するのかも考えてみたい。
十月二十一日(土) 魯 迅「藤野先生」を再読する ( 教授 厳 安生 )
日本の一部国語教科書にも採られたりする表題の作家作品をご存知の方も多いと思うが、この一文に極め
て豊富な示唆が含まれる。清朝末期に興った日本学習ブームに生れた中国近代きっての文豪・思想家であ
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る魯迅は、しかしブームとはおよそ無関係の冷徹さで以てこの過程に現れた中日双方の文明史から国民精
神上の問題性を突き、上述位相の彼の出発点たらしめたばかりでなく、教訓が今日にも及んでいることを
説いて皆様と交流したい。
十一月十八日(土) 映画監督伊藤大輔の美意識 ( 教授 水口 薫 )
日本映画の黎明期、東京の現代もの「新劇」が女優を使う等新しい試みをするのに対して、京都は男性役
者女形が演じ、立ち回りは舞台のままの時代もの「旧劇」映画が作られていた。築地小劇場の小山内薫に
師事、脚本家から映画監督になった伊藤大輔は、時代ものに女優を起用、映画にリアルな演技と思想を持
ち込み、「時代劇」という新しいジャンルを築き、サイレント映画に変革をおこした。その変革と美意識に
ついて述べる。
十二月十六日(土) ハーンとお地蔵様 ( 教授 平川 祐弘 )
ア イ ル ラ ン ド 人 の 父 親 に 捨 て ら れ、 ギ リ シ ャ 人 の 瞼 の 母 と も 別 れ た ラ フ カ デ ィ オ・ ハ ー ン( 一 八 五 〇 ―
一九四〇)は、合いの子としてダブリンで辛酸を嘗めて育った、来日して日本には子供を大切にする文化
があり、子供を護ってくれるお地蔵様がいることに気づき、それがハーンの日本文化論の通奏低音となっ
た。小泉八雲として日本人に愛されるハーンの心根をお地蔵様との関係で解き明かす。
平成十九(二〇〇七)年度 総合テーマ『 旅 ― 人・文化・歴史を求めて ― 』
四月二十一日(土) 巡 礼に見る人・歴史・文化 ― 熊野古道とサンチャゴへの道 ― ( 教授 鈴木 利章 )
道で世界遺産に指定されているのは、現在では、わが国の熊野古道と、スペインのサンチャゴ巡礼路しか
ない。最近とみに整備され、復活してきた熊野古道と、中世より現在まで連綿と続いているサンチャゴ巡
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礼路を例にとり、鎌倉初期の歌人藤原定家の『熊野御幸記』と足利義満側室北野殿の『熊野詣日記』と、
一二世紀の『サンチャゴ巡礼案内記』を基礎に両者の比較も視野に入れ、人・歴史・文化にまつわる様々
な物語をお伝えしたい。
五月一九日(土)
入元僧部元の事跡 ( 准教授 松浦 典弘 )
モンゴル支配期(元代)の日中関係に関しては、二度にわたる元寇のイメージが強く、疎遠であったと考
えられがちであるが、実際には盛に貿易が行われ、また留学や巡礼を目的に多くの僧が中国へ渡った。今
回は、元朝支配下の中国を訪れ、名利少林寺・霊巌寺に撰文した石碑を残す留学僧邵元の事跡を中心に、
日本と元の関係について述べてみたい。
六月十六日(土) 韓国の放浪芸人と伝統芸能の世界 ( 教授 趙 起權 :チャン キグォン)
広大(クァンデ)、男寺堂(ナムサダン)といった韓国の旅芸人をご存知でしょうか。韓国の代表的な伝統
芸能、タルチュムやパンソリなどは、これら放浪芸人によって演じられ、伝授されてきました。笑いと恨
(ハン)に満ちた放浪芸人の哀歓に触れながら、韓国の伝統芸能の世界を旅してみませんか。話題の韓国映
画、「王の男」や「風の丘を越えて」のワンシーンを交えながら、ご案内します。
七月二十一日(土) 路地裏観光の楽しみ ― 中国・チベットの場合 ― ( 教授 高橋 正明 )
世界遺産、名所旧跡などその土地の有名な観光地を巡るのも、旅の大きな楽しみである。一方で生活のエ
ネルギィーあふれる市場、庶民の行く食堂、住まい、迷路のような裏通りを歩くのも心が躍るものである。
このような、案内書では得られない裏の観光は知的好奇心を刺激する旅の醍醐味であろう。この講義では
中国・チベットのトイレ、住宅、物価など庶民生活に焦点を当てながら路地裏をめぐりの観光の扉を開い
てみたい。
九月十五日(土)
エコツーリズムの歴史と現状 ( 教授 貝柄 徹 )
一九八〇年代初頭、リサイクル、自然保護運動、地球環境や生態系の保全といった環境を重視するなかで
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観 光 形 態 が 多 様 化 し、 新 た な 観 光 旅 行 の 形 が 生 ま れ た。 そ れ ま で の 団 体 旅 行 型、 主 要 観 光 地 を 巡 る マ ス
ツーリズムから、「秘境」探訪、動植物の観察を中心としたスタディーツアー、ネイチャーツアー、植林・
井戸掘削などのボランティアツアーなどが創出されてきた。こうしたエコツーリズムの歴史的変遷と現状
の検討を試みる。
十月二十日(土) 一九世紀のパリを歩く ―『パリの悪魔』を素材に ― ( 教授 小林 宣之 )
フランスの首都パリは今なお観光スポットとして衰えぬ人気を誇っていますが、今回は少し趣向を変えて、
まだエッフェル塔もなく、凱旋門も出来たてホヤホヤだった、今から一六〇年ほど前の花の都をご案内し
ます。ガイドをつとめる『パリの悪魔』(一八四五 ― 一八四六)は当代一流の作家と版画家の合作になる
挿絵本ですが、パリ風俗を文章と映像の両面から再構成しようという野心的な意図で制作されました。つ
かの間のタイム・トラベルをどうぞ。
十一月十七日(土) フ ィールドワークとわたし ( 教授 村瀬 智 )
文化人類学は人間の文化、つまり人間の考え方、行動の様式を深く研究することをめざす。そのため研究
者自身が、ある特定の地域、社会、状況のなかで生活する人びとを訪れ、フィールド(現場)のまっただ
なかに自分の身を置きながら、人びとの生きざまをじかに学びとって記録し、まるごと理解しようとつと
める。この作業が、文化人類学でいうフィールドワークである。フィールドワークの実際がどのようなも
のか、私自身の経験をもとに話したいと思う。
十二月十五日(土) 旅 の小説 ― E・M・フォースターと川端康成 ―( 教授 森 道子 )
旅の目的は多種多様であり、その形式も変化に富む。旅人もさまざまである。その記録は、歴史書として、
旅行記として、あるいは、文学作品として、古今東西、数多くのものが残されている。ここでは、鉄道の
普及によって、旅が大衆化された二〇世紀初頭の、異郷・異文化との出会いを描く、イギリスと日本の小
説『天使も踏むを恐れるところ』と『雪国』を取り上げる。その作者フォースターも川端康成も生粋の旅
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人であった。
平成二十(二〇〇八)年度 総合テーマ『 くらし ― ことば・文化・環境 ― 』
四月十九日(土)
多文化共生社会を考える ― アメリカという国から見た日本 ― ( 教授 安藤 幸一 )
私 た ち は 自 分 と 異 な っ た 人 々 を「 鏡 」 と し て「 自 分 」 を 発 見 し て い き ま す。 今、 多 く の 外 国 に ル ー ツ を
もっ人々が日本に住み、異なった文化が目に見える存在として私たちの前に現れてきたという意味では、
恵まれた時代を迎えているのだろうと思います。この講座では、アメリカの多民族・多文化社会の実例を
学びながら、日本において多様な文化が共に存在し、互いから学びあうことができるような社会を目指す
為に、私たちが日々の生活においてできることを共に考えてみたいと思います。
五月十七日(土)
外国人の目からみた日本語 ( 准教授 木下 りか )
書店に足を運ぶと、日本語に対する関心が近年とみに高まっているように見うけられます。とくに敬語な
ど、日本語を母語とする人たちでも難しいと思うような規範的なことば遣いに注目が集まっているようで
す。しかし、これらは日本語のほんの一側面にすぎません。ここでは、外国人の視点を借り、日々のくら
しの中でとくに意識されることなく用いられている日本語について考えたいと思います。日常言語のあた
りまえの使用の中に、その魅力を再発見していきます。
六月二十日(土)
仁清の茶壺 ( 教授 岡 佳子 )
仁清は江戸時代前期の京焼の名工である。現在、仁清の作品のうち、二点が国宝、一九点が重要文化財に
指定されている。うち九点が丸亀藩京極家に伝来し、大半は華麗な色絵茶壺である。この茶壺が、どのよ
うな経緯で制作され、どう大名家で使われたのか。そして美術品としてなぜ高い評価を受けるようになっ
― 173 ―
たのか。王朝の雅の京文化のなかに生まれた仁清の色絵茶壺の謎を解き明かす。
七月十九日(土)
神戸の財界人金子直吉の手紙を読む ( 准教授 尾崎 耕司 )
戦前、神戸には鈴木商店という、全盛期には三井や三菱と「天下三分」の形勢をなしたとまでいわれる商
社があった。その支配人で実質的に経営の切り盛りをした金子直吉は、同時代の政治家・後藤新平に宛て
て多くの手紙を残している。なかでも大正期に書かれたものの中には、孫文や袁世凱のような時代を彩る
人物が登場し、当時の政治状況をリアルに伝えてくれるものもある。本講座では、この手紙を読みながら、
当時の都市神戸をめぐる政治文化について考える。
九月二十日(土) 『とんがり樅の国』が予言した人々の生活 ( 教授 稲積 包昭 )
一九世紀後半に活躍したアメリカの作家の中に、「地方色作家」と呼ばれた一群がいます。大陸横断鉄道
の完成や電信・電話の開設、都市の発達によって、一九世紀後半のアメリカはめまぐるしいほどの社会変
化を遂げました。ニューイングランドに暮らし、この急激な変化の中での人々の暮らしぶりや物質文明に
よって破壊されていく自然の保護に人々の目を向けた作家、S・O・ジュエットの作品を手がかりに、く
らしと環境問題の原点を考えていきます。
十月十八日(土)
美術の中のことば ( 教授 山田 信義 )
一般に造形美術は日常のことばとは違う造形言語で語るといわれている。美術は純粋化がすすむほどこと
ばから遠ざかる。一九六〇年代のモダニズムが最たるものであろう。一方、一九六〇年代後半に起こった
コンセプチュアルアートはことばを介した問いかけである。ものとしての作品を造るのではなく、ある状
況を設定して、そこに相対的な価値を認識せしめるのである。この講座では美術の純粋化とことばがキー
ワードになる。一九六〇~七〇年代の現代美術の展開とその思考を、作品画像を観ながらたどりましょう。
十一月十五日(土) 住まう文化・住まう環境 ( 准教授 川窪 広明 )
私たちが暮らす関西には、歴史ある町並みや建物が数多く残されているため、まちなみ保存活動、まちづ
― 174 ―
く り 活 動 が 各 地 で 盛 ん に 行 わ れ て い ま す。 し か し、 活 動 と い う ほ ど 気 合 い を 入 れ な く て も、 散 歩 の 時 に
ちょっと目線を変えるだけで、今まで気づかなかったまちの一面や人々の暮らしのにおいを発見できます。
本講座では、関西におけるまちづくり活動や「気楽なぶらぶら歩き」を通して、住まう文化と住まう環境
について考えてみたいと思います。
十二月二十日(土) わ たしたちの消費生活と消費文化を考える ( 教授 二階堂 達郎 )
― 消費社会の過去、現在、そして未来 ―
わたしたちの消費生活は、戦後の経済成長を経て大きく変貌してきた。衣服に始まり家電製品や自動車な
どに至る消費財や、宅配・外食・コンビニなど消費者向けサービスのめざましい普及を経て、成熟した消
費社会が出現したと言われるようになって久しい。こうした消費生活の変化がいかなる社会的背景の下で
起こり、どのような消費文化を生み出してきたのかを振り返るとともに、その現状と行方について考える。
平成二十一(二〇〇九)年度 総合テーマ 『 時空をこえて ― 変貌する社会と文化 ― 』
四月十八日(土) 古墳の出現と社会の変化 ( 准教授 森下 章司 )
考古学において、巨大な墳丘をもあった王墓の出現と衰退、そこから出土した様々の品物は、当時の社会
を研究する上で重要な資料となっている。古代の日本では、三世紀に巨大な前方後円墳が出現し、銅鏡を
はじめとする多数の副葬品が納められるようになった。中国や朝鮮半島など世界各地の王墓と比較しなが
ら、日本における古墳の出現と展開、その背後にある社会の変化について語る。
五月十六日(土)
考古学からみた日本の中世から近世への社会変貌 ( 教授 川口 宏海 )
日本の中世から近世への変革は、文献史学では政治体制の変化をもとにして安土・桃山時代を画期として
― 175 ―
語られてきた。近年目覚しく研究が進んだ歴史時代の考古学からみると、それはどのように評価できるの
であろうか。遺構・遺物は、当時の都市や村落の姿を浮き彫りにし、生活を復元する。都市生活の充実、
喫茶の広がりゃ喫煙の風習など、そこにも、実は文献史学では見えない、大きな変貌が認められるのであ
る。
六月二十日(土) コレラと情報 ― 一九世紀の国際社会 ― ( 准教授 尾崎 耕司 )
新型インフルエンザ流行の危機にみられるように、今日にあっても感染症の脅威はこれを拭い去ることが
できません。それは、グローバル化した社会に暮らす我々の宿命とも言えましょう。今から一〇〇年以上
前、日本が近代にさしかかろうとした時代も、コレラに代表される感染症が猛威を振るい、国際社会はそ
の対応に迫られました。本講義では、当時の感染症流行に対峠する世界と、そして日本の動きを、情報を
キーワードに読み解きます。
七月一八日(土) 富士山の文化史 ( 教授 上垣外 憲一 )
富士山が歴史の記録に表れるのは、奈良時代、『万葉集』や『日本霊異記』の時代からである。つまり歴史
上の記録では富士山は千二百歳を越えることになる。文学や歴史記録に現れる富士山の姿は、時代によっ
て千変万化する。仏教の盛んな時代には、仏教的宇宙論に現れる「須弥山」に例えられ、明治以降は日本
ナショナリズムの象徴となった。また、室町時代にはかなりの登山者があったという大衆登山の先蹤とい
う点でも富士山は興味深い例をなしている。その富士山の各時代の姿の変遷を、文学と歴史から浮き彫り
にする。
九月十九日(土)
インド社会の変ぼうと世捨て人の戦略 ( 教授 村瀬 智 )
インドの社会をもっとも顕著に特徴づけているのはカーストである。ところが、世俗のヒンドゥー教徒の
生活と密接にかかわりながら、「世捨て人」が、インドの社会的景観の不可欠の部分として、何千年も存在
しつづけているという事実は、意外とみすごされてきた。現在のインドは、一九九一年の経済改革が功を
― 176 ―
奏し、急速な経済成長を実現している。このインドの劇的な変ぼうに対して、世捨て人がどのように対応
しているかを、ベンガルの宗教的芸能集団を例に考える。
十月十七日(土) パネルディスカッション「在住外国人が見た日本」( 講師 シャーリー・アンドウ )
アメリカ、カナダ、オーストラリア出身の、本学でLEO英語講座を担当している四人の教員が、日本と
いう国についてその思いを語ります。外国人にとって日本人のコミュニケーションや人間関係のあり方は
どのように映っているのか、また日本文化をどのように見ているのか、自由に話し合う場にしたいと考え
ています。ことに、外国人にとって住みよい社会を作っていくための様々なヒントを提言できれば幸いで
す。(日本語通訳がつきます。)(パネリスト:ロバート・シェリダン、スゼット・バートン、ジョン・ジャ
クソン)
十二月十九(土)
インターネットで広がる学びの世界 ( 准教授 畑 耕治郎 )
大人になっても趣味や習い事を通して自分を磨きたいという社会人が増えているようである。このような
背景を受け、インターネットやマルチメディアを活用した〝大人の学び〟がブームとなっている。一方で
時間や場所の制約を受け〝学びたくても学べない〟、あるいはスクールに通っても〝続かない〟といった経
験をした方は多いのではないだろうか。本講座では、インターネットに広がる新しい学びの世界をデモン
ストレーションを交えながら紹介する。
― 177 ―
平成二十二(二〇一〇)年度 総合テーマ 『 味覚と文芸 』
四月十七日(土)/ 五月十五日(土)
第一章 スイーツ学(製菓学)と神戸 ( 大手前製菓学院 教授 松井 博司
)
最近、「スイーツ」という言葉が氾濫しています。単なるお菓子を示すだけでなく、生活用品やデザイン、
さらには「楽しさ」までも表現し始めています。勿論スイーツ学(製菓学)は、お菓子そのものを学ぶこ
とではありますが、その領域は益々広がりをみせています。現在のお菓子の分野を分析し、その役割と効
用についても考察します。そして、神戸がとりわけ洋菓子の発祥の地であることから、洋菓子文化の発展
を調べると共に、地域とお菓子の繋がりについても考えます。
第二回目は、洋菓子の美味しさと、作る楽しさを学ぶための講習です。普段何気なく食べて美味しいと感
じるケーキも、その「しくみ」を知ることで、さらに美味しく又、深い興味が湧いてきます。「お菓子は科
)
学である」ことを体験できます。そして、作りたての洋菓子を賞味することで、さらにお菓子作りに興味
を持つことでしょう。
六月一九日(土)/ 七月一七日(土) 第二章 灘酒の伝統文化と蔵元の暮らし ( 白鷹株式会社取締役副社長 辰馬 朱満子 /教授 仲野 好重
古くから日本酒の主産地として名高い「灘」が、なぜ天下一の酒どころと成りえたのか。灘特有の酒質を
生んだ要因とあわせ、阪神間の地場産業として栄えた酒造りの歴史と、そこに醸成された文化について考
えます。また蔵元五代目として、酒造りを支えてきたかつての蔵元の暮らしについても、関西の商家の生
活と文化的嗜好という観点からお話し、地域文化の応援者としての役割を果たしてきた造り酒屋の伝統に
ついても考えます。
第二回目は、かつての造り酒屋の商家建築を再現した「白鷹禄水苑」で、江戸時代末から昭和初期にいた
― 178 ―
)
る蔵元四世代の生活用品を再現展示した「暮らしの展示室」を見学。また、大手前大学現代社会学部教授
の仲野好重氏との対談を行います。
九月一八日(土)/ 十月九日(士) 第三章 阪神閣の文学と芸能 ―『細雪』から村上春樹まで ― ( 大手前大学非常勤講師 文化プロデューサー 河内 厚郎
西宮芦屋を中心とする阪神間は、戦前には谷崎潤一郎や薄田泣重らが居を構え、野間宏・遠藤周作・野坂
昭如・小松左京・須賀敦子らが育ちました。戦後は井上靖の小説に頻繁に登場し、現在では宮本輝らが阪
神聞を舞台とした作品を発表しています。近年は村上春樹の故郷としても認識されるようになりましたし、
今も多くの文学者が在住です。こうした阪神文学の系譜をたどり、阪神間の人文的風土の特質を読み解い
てみましょう。
)
第二回目は、史跡等を訪ねます。阪急「芦屋川駅」北側にある「細雪文学碑」からスタートし、芦屋川沿
いに南下して、虚子三代句碑→芦屋仏教会館→業平橋→虚子記念文学館→鵺塚橋→芦屋市谷崎潤一郎記念
館→小出楢重アトリエ→富田砕花旧居と回ります。
十一月二十日(土)/ 十二月十八日(土)
第四章 村上春樹の世界~声と音楽と映像による逍遥~ ( 准教授 平川 大作 /講師 酒井 健 /教授 小林 宣之
第一回目は、村上春樹について考える準備として、その諸作品から数篇をとりあげ、声・音楽・映像によ
り立体的に鑑賞します。村上春樹の大きな魅力をなす文体のリズムを体感しましょう。
~世界文学への旅立ち~
現在活躍の場を文字通り「世界」にまで広げている村上春樹は、大学入学までの多感な成長期を阪神間で
すごしました。阪神間という原風景から世界文学の広がりへ、村上春樹の文学はどのような旅路を描いた
のか。この講義では、体験実習でとりあげた作品を軸にすえて、その文学の魅力を論じます。
― 179 ―
平成二十三(二〇一一)年度 総合テーマ 『 歴史と文化の旅 』
四月十六日(土)/ 五月二十一日(土) 第一章 甲子園球場と観光開発の歴史 (教授 四方 啓暉 /大手前大学非常勤講師 田中 義次
)
【講義】
阪神間発展の中心的な役割として、また日本のスポーツ発展に大きく貢献し現在は高校野球と阪
神タイガースにより全国に知られている甲子園球場を改めて考察し、阪神間の壮大な観光開発計画とその
中心となる甲子園球場が、期待され果たしてきた役割等を約九十年の歴史と共に考察する。
【ワークショップ】~甲子園球場視察と歴史館訪~ 二〇〇九年再度の大規模改築を終え、新たに生まれ変
わった甲子園を訪ね、球場関係者によるガイダンスと共に、日ごろ目にする事の出来ない諸施設を見学す
る。併せて同時に開館した「甲子園球場歴史館」も訪ね、球場の歴史のみならず全国高校野球そして阪神
)
タイガースの歴史を映像並ぴに展示資料と共に楽しみ、理解を深める。
六月一八日(土)/ 七月一六日(土)
第二章 歴史にみる西宮・阪神 ― 近代翠明期をめぐって ― ( 准教授 尾崎 耕司
【講義】 近年開館した門戸厄神東光寺松風館には、同地の代官を務めた中島家、特にその明治初期の当で、
西宮を代表する酒造家=辰馬家から出た中島成教氏にかかわる古文書が多数収蔵されるなど、西宮や阪神
地区の歴史を知る上で貴重な手がかりを与えてくれています。六月の講義では、かかる史料を紹介しなが
ら、近代黎明期の西宮や阪神地区について考えてみたいと思います。
【ワークショップ】~門戸厄神東光寺松風館をたすねて~ 門戸厄神東光寺松風館を訪問、見学し、また館
長の大崎正雄先生より、同館と、そこに収蔵されている文化財(古文書等)の紹介、および地域の歴史の
解説などをいただいて、実地に歴史を体感していただきます。
― 180 ―
九月十七日(士)/ 十月十五日(土)
第三章 阪神聞の近代建築 ( 教授 川窪 広明
)
【講義】
商都・大阪と港町・神戸の間に位置する地域、いわゆる「阪神間」は、明治以降、リゾート地や
住宅地として発展してきました。現在でもここには、遠藤新、置塩章、そして村野藤吾といった日本人建
築家の作品の他、フランク・ロイド・ライト、ウィリアム・メレル・ヴォーリズといった外国人建築家の
作品が残されています。本講義では、阪神間の近代建築を紹介するとともに、文化との関わりゃ建築の将
来について考えてみたいと思います。
【ワークショップ】~ヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)の見学~ 阪急・芦屋川駅近くの丘の上に建てられた
旧山邑邸は、アメリカの建築家、フランク・ロイド・ライトの設計による建物です。現在はヨドコウ迎賓
館 と し て 一 般 公 開 さ れ て い ま す が、 鉄 筋 コ ン ク リ ー ト 造 の 建 物 と し て は、 初 め て 国 の 重 要 文 化 財 に 指 定
生活を思い描いてみたいと思います。
)
(一九七四年)された建物でもあります。この旧山口巴邸を訪れ、ライト建築を見学するとともに、当時の
十一月十九日(土)/ 十二月十七日(土) 第四章 ジャズの魅力を昧わいませんか ( 大手前短期大学 野坂 純子 /関西JAZZ協会事務局長 澤崎 致
【講義】 日本のジャズは、大阪・神戸を発祥の地とし、いわば阪神間を中心に全国に発展していきました。
愛好者層は、中高年層はじめ十代の若者層まで広がってきており、最も耳にしやすいポピュラーな音楽で
す。また、ジャズはあらゆるポピュラー音楽の理論的な主柱になっています。例えば、R&Bはブルース
にジャズやゴスペルが影響を与えた都会的な黒人系ポップスであり、ボサノバはブラジルのサンパにジャ
ズハーモニーやアドリブの要素が融合されたものです。アルゼンチン・タンゴの革新的なものには同様な
ことがいえます。このように現在のポピュラー音楽は、大なり小なりジャズの理論と手法を取り入れ豊か
に発展してきたものといえます。さらにジャズボーカルには、多様な英語表現が盛り込まれており、その
― 181 ―
表現を味わうことはいわばアメリカ文化の真髄を体得することにつながります。そして、楽器編成もソロ、
)
コンボから大編成のオーケストラまで多彩な形態を楽しむことができます。本講座では二回にわたり多種
多様な表情を持つジャズの魅力にせまります。
平成二十四(二〇一二)年度 総合テーマ『 アートと聖地 』
四月二十一日(土)/ 五月十九日(土) 第一章 コンテンツが「聖地」をつくる:コンテンツツーリズムの浮上 ( 講師 谷村 要
【講義】
近年「コンテンツツーリズム」ということばが観光学を中心に注目されています。これは、映画
やTVドラマ、小説、まんが、ゲームといったコンテンツを活用して観光地をつくりだしていこうという
動 き を 指 す の で す が、 そ の よ う に コ ン テ ン ツ に よ っ て 価 値 づ け ら れ た 場 所 が「 聖 地 」 と 呼 ば れ る よ う に
なっています。なぜこういった動きが出ているのでしょうか? そして、それは地域に何をもたらしてい
るのでしょうか? 考えていきたいと思います。
【ワークショップ】~「聖地」化を活用した地域振興:新長田の商店街における試み~ コンテンツツーリ
ズムが見られる場所として、新長田の商店街を見学します。新長田では、神戸市出身の漫画家・横山光輝
原作の作品に関連した施設や鉄人二八号のモニュメントを用いたまちおこしを展開しております。また、
商店街のロケーションを活用したコスプレ・イベントも度々開催されています。新たな試みを進める新長
田の現状を観察してみましょう。
― 182 ―
六月十六日(土)/ 七月二十一日(土)
第二章 医療空間におけるアートの役割 ( 大手前短期大学 講師 藤本 幹也 /NPO法人アーツプロジェクト理事 室野 愛子
)
【講義】
医療の現場では、現在施設利用者の心を癒す効果があるホスピタルアートが盛んに取り入れられ
ています。また、一方で医療施設など複雑な建物において、利用者が自分の行きたい場所、あるいは今自
分がどこにいるのかを正確に把握するためのサイン計画においても様々な工夫がされており、利用者も安
心して目的地までたどりつくことに役立ちます。本講座では医療空間に取り込まれているアートについて
着目し、その役割や、機能性を紹介したいと思います。
【ワークショップ】~ホスピタルアートの見学:関西労災病院のホスピタルアートの見学~ 関西労災病院
には院内の受付や待合室などに、壁画を始め、絵画や彫刻、写真などたくさんの「ホスピタルアート」が
展示されています。また、屋外には、日本初の取り組みであるホスピタルパークが設定されているなど、
)
癒しの空間が多数あります。この施設を見学し、実際のホスピタルアートを体験してもらいたいと思いま
す。
九月十七日(士)/ 十月十五日(土)
第三章 川西英《元町初夏》から見る戦後ファッション ( 神戸ファッション美術館 学芸員 百々 徹
【講義】
神戸を代表する版画家・川西英。彼が終戦間もない一九四九年に神戸洋画会で発表した作品『元
町初夏』には、洋服を着てめかし込んだ男女が闊歩する様子が華やかな色調で表されています。神戸元町
にあったジュラルミン街を舞台に描かれたこの一枚の絵を入口として、戦後日本の洋装化の変遷について
お話しします。
【ワークショップ】~神戸ファッション美術館見学~ 神戸ファッション美術館の展示室を案内しながら、
ヨーロッパにおける服飾の変遷を解説するとともに、その西洋のスタイルが日本に入ってきた様子をお話
しします。特に、戦前のモガ・スタイルや、戦後のニュールックなど、日本にも大きく影響を及ぼしたス
― 183 ―
タイルを詳しく解説していきます。
十一月十七日(土)/ 十二月十五日(土) 第四章 阪神間の劇場と演劇文化 ( 大手前大学 准教授 平川 大作 /講師 瀬口 昌生
)
【講義】 劇場は出会いの場所です。演者と観客が、物語と想像力が、東西の文化が、過去と現在が出会う
特別な場所を通じて、阪神間の芸術と文化を学びましょう。小林一三のヴィジョンが花開いた宝塚大劇場、
震災を乗り越えてスタートした兵庫県立芸術文化センター、独自の劇団を有するピッコロ・シアターなど、
すぐそこにある劇場の扉を開くきっかけになれば幸いです。
【ワークショップ】~演劇の聖地:創造の現場~ 稽古場は演劇における聖地です。観客の前で初日を迎え
るまで、稽古場では俳優とスタッフは、上演台本という地図を手にした探検チームのように「創造の現場」
という未踏の地へと旅立ちます。普段は観客の目には触れることがない「稽古場」ではどのような共同作
業が、いかなる表現の刻苦がなされているのかを、模擬的にご覧いただきます。
― 184 ―
楠山 和人
松井 博司
平川 大作
(メディア・芸術学部 教授)
(メディア・芸術学部 講師)
(メディア・芸術学部 教授)
(メディア・芸術学部 准教授)
(総合文化学部 教授)
(総合文化学部 准教授)
「集う ― 衣・食・住・遊 ―」
発行日:2016 年7月
編 集:大手前大学 就業力支援・社会連携室
発 行:大手前大学
〒 662-8552 西宮市御茶家所町 6-42
電話 0798-34-6331(代表)
平成二十五(二〇一三)年度社会連携委員会委員
森下 章司
(大手前短期大学 教授)
〈五十音順〉
印刷・製本:水山産業株式会社
委員長 山下 真知子 (現代社会学部 准教授)
委 員 大野 治代 (メディア・芸術学部 教授)
谷村 要
久木 一直
山田 洋子
平成 25(2013)年度 大手前大学公開講座講義録
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