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存在論の方法としての言語分析

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存在論の方法としての言語分析
存在論の方法としての言語分析
飯田 隆
1993 年 12 月
一 分析哲学と言語分析
分析哲学に言語分析はつきものであると一般に考えられている。しかしな
がら、
「分析哲学」と言うときの「分析」がつねに言語分析のことを指してい
るとは限らない。とりわけ興味深いことには、分析哲学が、今世紀はじめの
ケンブリッジにおいて、そこで当時支配的であった観念論哲学に反旗をひる
がえした、ムーアとラッセルというふたりの哲学者から始まったとするなら
ば、かれら最初の分析哲学者たちが「分析」ということで意味していたもの
は、決して言語分析のことではなかったのである。たとえば、ムーアの『倫
理学原理 Principia Ethica 』
(一九〇三年)は、そうした初期の分析哲学の代
表的著作のひとつとして有名であるが、そのなかでもとくに有名な一節は、
善が定義不可能であることを、馬の定義の例をもちだしてつぎのように説明
している。
しかし、馬を定義するという際、われわれはもっと重要なことを
意味しているかもしれない。われわれみなが知っているある対象
が、ある一定の仕方で構成されているということ、つまり、馬と
は、四本の脚、一個の頭、一個の心臓、一個の肝臓、等々が、決
まった仕方で相互に配置されているということを意味しているか
もしれない。善の定義可能性を私が否定するのは、定義のこの意
味においてである。善について考える際、善の代わりに置き換え
て考えることのできるような部分から、善が構成されているので
はないと、私は言いたい。馬について明瞭かつ正確に考えられる
のは、その全体を考えるのではなく、その部分のすべてとそれら
の配置を考えるときであろう. . . しかし、善については、そのよう
な仕方で置き換えることのできるものはまったくない。そして、
このことこそ、善が定義不可能であると言うことで私が意味して
いることなのである。1
1
G.E.Moore, Principia Ethica. 1903. Cambridge University Press. p.8.
1
ここに見られるような定義についての考え方は、ムーアの言う「分析」が
言語的なものと直接の関係はないことをよく示している。実際、ここに引い
た箇所の直前では、
「馬の定義」ということでかれが意味するものは、決して
ことばの上で馬を定義することではないと力説されている。かれにとって、
哲学的に意味のある定義とは、複合的なものが、どのような要素からどのよ
うな仕方で構成されているかを示すものでなくてはならない。分析とは、こ
うした定義に至る過程である。分析の対象は、言語的なものではなく、概念
や物である。ムーアによれば、分析とは、「実在的定義 real definition」のこ
とであって、
「言語的定義 verbal definition」のことではない。言語的な事柄
は哲学と無縁であるとさえ、ムーアは断言する。
「ことば上の問題は辞書の書
き手やその他の文学に関心をもつひとびとに任せておくのが正しい。後に見
るように、哲学はこうした問題といっさい関係をもたない。」2
ラッセルの同時期の著作『数学の原理 Principles of Mathematics 』(一九
〇三年)に目を転ずると、言語的な事柄は、哲学的議論においてもう少し積
極的な役割をあてがわれているかのように見える。
概して、文法は、哲学者たちのあいだで現在流布している意見な
どよりもずっとよく、正しい論理へと導いてくれるように、私に
は思われる。以下では、文法は、たとえわれわれの主人ではない
としても、われわれの導き手とみなされるであろう。3
しかしながら、この書物におけるラッセルにとっても、ムーアと同様、分
析とは複合物を定義不可能な単純者へと分解することである。『数学の原理』
の目的のひとつは、「数学が定義不可能なものとして認める基本概念の説明」
という「純粋に哲学的な課題」にあり、
「定義不可能なものは、基本的には分
析の過程から必然的に析出されてくる」4 ものであるとされている。そして、
何が定義可能で、何が定義不可能かは、決して言語上の問題ではなく、概念
そのものの本性に基づくのである。
つまり、今世紀初頭のムーアとラッセルにとって、分析とは、言語を対象と
してなされるものではなく、言語とは独立の存在者に関して、その構成要素
と構成様式とを発見するためになされるものである。ラッセルのように、言
語的な事柄がそうした分析のための手がかりとなりうることを認めている場
合でさえ、それはあくまでも手がかりにすぎない。言語によって表現されて
いる事柄こそが分析の対象なのであって、表現媒体としての言語に固有の特
性といったものが問題とされることはまずない。事実、
『数学の原理』におい
ては、言語自体に関する問題、とくに意味の問題は、心理的な事柄にすぎず、
2 Op.cit. p.2. この時期のムーアの分析に対する考え方については、つぎを参照された
い。Thomas Baldwin, G.E.Moore. 1990. Routledge. pp.61–65.; Peter Hylton, Russell,
Idealism and the Emergence of Analytic Philosophy. 1990. Clarendon Press. pp.143ff.
3 B.Russell, Principles of Mathematics. 1903. Cambridge University Press. §46.
4 Russell, Op.cit. Preface.
2
「論理とは無関係である」として、意識的に排除されている節さえある5 。
言語的事柄を哲学的考察の手引きとしながらも、言語それ自体を哲学的考
察の対象としないということは、アリストテレスやカントを引き合いに出す
までもなく、哲学の過去全体を通じて広く見られる現象である。この意味で
は、初期のムーアやラッセルの哲学も、そうした過去の哲学と変わりがない
と言える。分析哲学が、言語自体についての哲学的考察と切っても切り離せ
ないものであると考えるならば、かれらは分析哲学者ではないことになる。
だが、他方で、分析哲学と言語分析とが密接に結びついているという一般
的な観念は、まったくのまちがいであるとも言い切れない。その理由は、分
析哲学が哲学の歴史に対して何かを貢献したとするならば、その第一の候補
として挙げうるものは、言語そのものを対象とする分析を哲学的問題解決の
ための中心的方法とみなすという考えにあると思われるからである。なかで
も、存在論を言語分析によって展開するという発想は、分析哲学によっては
じめてもたらされたものであろう。この発想の源を探るならば、それはふた
りの哲学者に行き着くと思われる。そのひとりは、ラッセルそのひと、ただ
し今度は「表示について On Denoting」(一九〇五年)以後のラッセルであ
り、もうひとりは、分析哲学の源流に位置するとされながらも、その哲学史
的位置をそれ以上正確に確定することが困難なひとりの哲学者、すなわち、
フレーゲである。
二 ラッセル—文法形式と論理形式
「表示について」以後のラッセル、いわゆる記述の理論以後のラッセルが、
それ以前のラッセルと大きく相違する点は、言語そのものが哲学的考察の主
題として前面に登場してくることにある6 。そうした変化を引き起こしたも
のは、文の表面的構造と文が表現しようとしている事態のもつ構造とが大き
く異なりうるという、記述の理論からの帰結である。文法形式は必ずしも論
理形式を正しく反映するものではなく、哲学的分析の目的は、文法形式に覆
い隠されている論理形式を発見することにあるとされる。そうすると、哲学
的分析は、いやおうなしに言語的事柄にかかわらざるをえなくなる。しかも、
文法形式と論理形式との相違は体系的な相違であるから、いくつかのとりわ
け問題となる言い回しを分析するだけでは決定的に不十分である。どのよう
な文についても、その文が属する言語の機構そのものが明らかにされなけれ
ば、その論理形式を最終的に確定することはできないからである。つまり、
5 Russell, Op.cit. §51. 『数学の原理』のこうした側面については、拙著『言語哲学大全 I
論理と言語』(一九八七年、勁草書房)一六二–一六三頁をも参照されたい。
6 ラッセルの記述の理論の背景およびその帰結については、前掲拙著の第 3 章「ラッセルと記
述の理論」を参照して頂ければ幸いである。また、最近出版された P.Hylton の大著(註 2 参
照)は、記述の理論前後のラッセルの哲学的発展を詳細に論じているだけでなく、分析哲学の起
源という近年さかんに論議されている主題に対して大きな貢献をなすものとしても重要である。。
3
言語分析は、個々の表現に対してその都度なされるという性格のものではあ
りえず、ひとつの言語全体を対象とせざるをえないのである。
いま述べたことをもう少し詳しく見ておくことにしよう。「表示について」
は、英語の定冠詞「the」で始まる単数形の名詞句を含む文(「The present
King of France is bald.」)の分析がとりわけ有名であるが、その扱う範囲はそ
れよりも広く、「表示句 denoting phrase」とラッセルが呼ぶ表現すべてが分
析の対象である。表示句とは、
「all」、
「every」、
「any」、
「no」、
「a」、
「some」、
「the」という七種の表現のいずれかを先頭にもつ名詞句のことである。こう
した表現は、英語において量化を表すための基本手段である。
表示句の分析をラッセルが試みたのは「表示について」が初めてではない。
『数学の原理』では、この分析のためにまるまる一章が割かれている7 。な
ぜ表示句の分析が『数学の原理』において必要となったのかと言えば、それ
は、ラッセル自身の言葉を借りれば「定義、同一性、クラス、記号法、変項の
全理論が、表示の理論のなかに隠されている」からであり、したがって、表
示という概念が「基本的な論理的概念」8 であるからということになる。実
際、表示句が英語において量化を表現するための基本手段であることを考え
れば、それが「基本的な論理的概念」にかかわるものであることは明らかで
ある。ただし、ここで試みられているのが「表示句の分析」であると言うの
は、じつは正確ではない。分析に対するこの時期のラッセルの基本線に違わ
ず、問題となっているのは、言語表現としての表示句を分析することではな
く、表示句によって指されている対象をその基本要素にまで分析することで
ある。ラッセルがそこで提出している分析はきわめて複雑怪奇な様相を呈す
るものであるが、ここではその細部に立ち入る必要はない9 。注目しておく
べきことは、表示句という文法的単位が、それにあてがわれるべき対象をも
つという点で意味的単位としても扱われていることである。
「表示について」における表示句の分析を、
『数学の原理』における表示の
分析から根本的に分かつ点は、この仮定—表示句は意味的単位でもある—の
放棄にある。
私が擁護する表示の理論の原則とは、つぎのものである。すなわ
ち、表示句はそれ自体で意味をもつのでは決してなく、その言語
的表現が表示句を含むような命題のいずれもが意味をもつのであ
る。10
7
Russell, Op.cit., Chapter V.
Russell, Op.cit., §56.
9 だが、
『数学の原理』における表示の分析が、
「複雑怪奇」ではあってもそれなりに筋が通って
いることは、つぎの論文がかなり説得的に論じているところである。Terence Parsons, “Russell’s
early views on denoting” in David Austin (ed.), Philosophical Analysis. 1988. Kluwer.
pp.17–44.
10 B.Russell, “On denoting” in Logic and Knowledge. (ed. R.C.Marsh) 1956. George
Allen & Unwin. pp.42–43. 邦訳、ラッセル「指示について」清水義夫訳、坂本百大(編)『現
代哲学基本論文集 I』(一九八六、勁草書房)所収、四九–五〇頁。
8
4
この原則がどのような仕方で実現されるかを見るためには、とりあえず、つ
ぎのような文を考えてみるのがよい。
(1) 私はある男に会った。
正確な対応ではないが、ここに現れている「ある男」を、表示句の一種であ
ると考えてよいことにすれば、「表示理論の原則」が言うことは、「ある男」
という表現が有意味な表現であるのは、それがそれ自体で意味をもつ—何ら
かの対象を指す—からではなく、それを含む文のすべてが意味をもつからで
あるということである。そうすると、「ある男」という表現を含む文(文脈)
を「C (ある男)」で表すならば、
「ある男」という表現がそれに対応する意味
をもつとは仮定せずに、こうした文がどのようにして意味を得るかを説明す
る必要が出てくる。このことを、ラッセルは、
「C (ある男)」という文脈をつ
ぎのように書き換えることによって行う。すなわち、一般的に「C (ある男)」
という文脈は、
(2) 「C (x)、かつ、x は男である」は常に偽ではない
と書き換えられる。その一例として、(1) は、
(3) 「私は x に会った、かつ、x は男である」は常に偽ではない
に書き換えられることになる。こうした書き換えによって、もともとあった
表現「ある男」は、もはやひとつの単位としては文に登場してこない。した
がって、
「ある男」がどのような対象に対応するかといった、
『数学の原理』で
出された問いはそもそも立たないことになる。
「表示について」でラッセルは、すべての表示句について、それを含む文
を、それを含まない文に書き換えるための一般的規則を与えている。だが、
これだけのことであれば、それが哲学と何の関係があるのか訝しく思われよ
う。ここで登場するのが文の「論理形式」という考えである11 。(1) を (3)
に書き換えることのポイントは、(3) が、(1) という文の「論理形式」を明示
的に表現していることにあると言われる。なぜ、(1) ではなく、(3) が、論理
形式の明示的表現であると言われるのか。そもそも、文の論理形式とは何か。
また、文の論理形式を明示することは、いったい哲学にとって何の意味があ
るのか。以下では、当然出てくると思われるこれら三つの疑問に対して答え
ることを試みよう。
11 ただし、
「表示について」にこの用語が現れているわけではないし、また、より後の著作で
ラッセルがこの用語を使う場合でも、それは以下の本文で述べるものとはかなり違う意味で用い
られている。だが、ラッセルの記述の理論が「哲学的分析のパラダイム」とまで呼ばれるように
なったことの背後には、論理形式という概念が、ラッセルが本来意図したものよりもずっと一般
的な仕方で解釈されたことがあったと思われる。論理形式の概念がどのように把握され使用され
てきたかを、さまざまな哲学者に即して追跡することは、そのままで一冊の—あるいは、数分冊
にわたる—分析哲学史となろう。
5
三 論理形式の明示的表現とは何か
なぜ、(1) ではなく、(3) が、論理形式の明示的表現であると言われるのか。
(1) という文を、それよりもはるかに複雑な (3) という文に書き換える理由
は、(1) の意味を与えるのに、直接 (1) によるのではなく、それと同じ意味を
もっているとされる (3) を経由する方がよいと考えられるからである。(1) の
意味を (1) それ自体によって与えることとは、(1) のもつ文法的構造に忠実に
(1) の意味を与えることである。すなわち、それは、「私はある男に会った」
を構成しているひとつひとつの文法的単位がもつ意味に従って、この文の意
味がそうした単位的意味からどのように複合されているかを示すことである。
そのためには、とりわけ、ここに現れている「ある男」の意味が何であるか
が説明されなければならない。つまり、
『数学の原理』においてラッセルが表
示に関して行った分析と同様なものが必要となる。
それに対して、(1) の意味を、直接 (1) からではなく、それを書き換えた文
(3) を経由して与えるという方針を取れば、(3) には「ある男」という表現は
もはや現れていないのであるから、「ある男」の意味であるような何かを探
すという課題は存在しない。その代わりに必要となるのは、たとえば、変項
「x」を含む表現(ラッセルによれば命題関数を指す表現)が「常に偽ではな
い」とはどういうことかを説明することである。「表示について」の時期の
ラッセルがこうした説明を完全な形で与ええたかどうかは、かなり疑わしい
が、この点に関して、現在のわれわれはラッセルよりもはるかに有利な立場
にいる。というのは、表示句を含む文をそれを含まない文に書き換えること
によってラッセルが行ったことの実質は、前者を、述語論理の言語の語彙を
用いて書き直すことであると言え、この言語の構造は、ラッセルをはじめと
する多くの論理学者たちの長年にわたる努力によって、現在ではきわめて明
確なものとなっているからである。現在の論理学の標準的な記法によれば、
(3) は、
(4) ∃x (私は x に会った ∧ x は男である)
と書かれることになる。そして、この文の意味を与えるために必要なことは、
ふたつの述語、
「私は x に会った」と「x は男である」の意味の説明、ならび
に、ふたつの論理的操作、連言「ϕ ∧ ψ 」と存在量化「∃xϕ」の意味の説明で
あるが、これらはすべて、述語論理の意味論が教えてくれることである。
そうすると、なぜ (3) が、(1) とは違って、論理形式の明示的表現であると
言われるのかは、つぎのように説明できよう。ただし、(3) そのものよりは、
(4) の方がはるかに明瞭であるので、以下では (4) を取り上げることにしよ
う。述語論理の意味論が与える (4) の意味の説明は、(4) を構成している文法
的単位—ふたつの述語、連言、存在量化—が同時に意味論的単位でもあると
いう事実を用いてなされている。つまり、(4) の意味は、(4) の文法的構成を
6
辿ることから、ほとんど自動的に読み取れるのである12 。つまり、論理形式
の明示的表現である文とは、その文の意味が、その文法的構造に即して決定
できるような文のことである。
そうすると、文の論理形式ということを問題にするためには、その論理形
式の明示的表現を与えているとされる文が属する言語が、ある際だった特徴
をもっていることが必要となる。すなわち、そうした言語においては、その
文法と意味論がある仕方で調和していなければならない。そうした調和が成
り立っている言語を「論理的に完全な言語」と呼ぶことにしよう。論理的に
完全な言語に属する文は、いずれも、それ自体で自身の論理形式の明示的表
現になっている。これに対して、論理的に完全ではない言語の文は、論理的
に完全な言語においてそれに対応する文によって、その論理形式の明示的表
現を得ることになる。つまり、(1) を、(3) あるいは (4) に書き換えるという
ことは、じつは、(1) のような日本語の文を、「論理的に完全な言語」に翻訳
することにほかならない13 。
論理的に完全な言語において成立すべき、文法と意味論とのあいだの「調
和」とは、具体的にはどのようなことか。第一に、言語的表現の全体は、いく
つかの文法的カテゴリーに分割される。論理的に完全な言語においては、同
一の文法的カテゴリーに属する表現はすべて、同じ種類の意味論的値を付与
されるものでなくてはならず、また逆に、同じ種類の意味論的値を付与され
る語—これらの語は同一の意味論的カテゴリーに属すると言えよう—はすべ
て、同一の文法的カテゴリーに属していなければならない。たとえば、述語
論理の言語において、閉項(closed term)と呼ばれる種類の表現には、何ら
かの個体がその意味論的値として割り当てられ、逆に、個体をその意味論的
値としてもつ表現は閉項に限られる。第二に、単純な表現から複雑な表現を
得るために用いられる文法的構成法—形成規則と呼ばれる規則はこの構成法
の明示的表現である—は必ず、構成される複雑な表現の意味論的値を、単純
な表現の意味論的値から導出するための意味論的構成法に伴われている必要
がある。たとえば、再び述語論理の言語から例を取れば、単項述語「F 」をひ
とつの個体定項「a」と連結して文「F a」を得るという文法的操作には、単
項述語の意味論的値である個体の集合と、個体定項の意味論的値である個体
のふたつが与えられたとき、文の意味論的値である真または偽という真理値
を決定するための意味論的規則が対応している。つまり、「a」の意味論的値
である個体が「F 」の意味論的値である集合の要素であるとき、「F a」はそ
12 このことは、タルスキ流の真理の定義に従って、(4) の真理条件を導出してみることによっ
て、もっとも明瞭となる。
13 この点、および、以下の本文で述べるような「論理的に完全な言語」の特徴づけを、私はつ
ぎに負う。David Kaplan, “What is Russell’s theory of descriptions?” in D.F.Pears (ed.),
Bertrand Russell: A Collection of Critical Essays. 1972. Anchor Books. pp.227–244. ま
た、つぎの論文からも学ぶところが多かった。Gareth Evans, “Semantic structure and logical
form” in G.Evans & J.H.McDowell (eds.), Truth and Meaning: Essays in Semantics.
1976, Clarendon Press. Reprinted in G.Evans, Collected Papers. 1985. Clarendon Press.
pp.49–75.
7
の意味論的値として真理値「真」をもち、それ以外のときには「偽」をもつ
という規則である。
論理的に完全な言語のこのような特徴づけは、未だ、完全なものでも厳密
なものでもないが、とりあえずはこのままにしておいて、文の論理形式の発
見が、論理的に完全な言語におけるその文の翻訳を得ることであるという、
われわれが至った結論から、いくつかの教訓を引き出すことを急ごう。
まず、文の論理形式を明示することが、その文を、論理的に完全な言語に
翻訳することであるのならば、この論理的に完全な言語の構造が明示されて
いる必要がある。ある言語が論理的に完全であるかどうかは、その言語の文
法的構造と意味論的構造が、うえに述べたような意味で調和している必要が
あるが、そうした調和が成り立っているかどうかは、その言語の文法と意味
論とが明示的に取り出されない限り判定できないからである。文法と意味論
が明示的に与えられている言語の典型は、
「形式言語」あるいは「形式化され
た言語」と呼ばれる種類の言語である。形式言語がすべて論理的に完全な言
語であるわけではない。しかし、言語が形式化されている場合には、その言
語が、論理的に完全な言語であるための要件を満たしているかどうかを直接
的に判定することが可能である。それに対して、自然言語のように、明示的
な文法と意味論をもたない言語が、論理的に完全な言語であるかどうかを判
定するためには、形式化という手続きが必要となる。したがって、文の論理
形式の発見を哲学にとっての重要な課題であると考える哲学者たちが、論理
形式を表現すべき言語の候補として、さまざまな形式言語をみずから構成し
たり、あるいは、すでに存在する形式言語を考察の対象とするのは、当然の
ことであると言えよう。分析哲学のなかでも、その関心がいちじるしく形式
的なものに片寄っていると部外者から評価されがちな哲学者が、多かれ少な
かれラッセルの影響を受けていることは偶然ではない。
ラッセル自身にとっては、論理的に完全な言語とは、ホワイトヘッドとと
もに書かれた『数学原理 Principia Mathematica 』(一九一〇—一九一三年)
で提示されている論理学の言語、すなわち、タイプ理論の言語である。しか
しながら、論理形式の表現を与えるための言語としてもっともしばしば採用
される言語は、先にも出てきた一階の述語論理の言語である。とりわけ、ク
ワインは、一階の述語論理の言語に「正規的記法 canonical notation」という
高い地位を与える14 。自然言語の文の論理形式の発見というプログラムの、
今日におけるもっとも忠実な実践者と目されてよいデイヴィドソンもまた、
同様な選択を行っている15 。とはいえ、一階の述語論理の言語では、自然言
語の文の論理形式を表現するためには決定的に不十分であるとする哲学者も
14 W.V. O.Quine, Word and Object. 1960. The MIT Press. Chapter 5. 邦訳、クワイン
『ことばと対象』大出晁・宮館恵訳、一九八四年、勁草書房。
15 Donald Davidson, “The method of truth in metaphysics” in Donald Davidson, Inquiries into Truth and Interpretation. 1984. Clarendon Press. p.203. 邦訳、D・デイヴィ
ドソン『真理と解釈』野本和幸・植木哲也・金子洋之・高橋要訳、一九九一年、勁草書房、二二
〇頁。
8
少なからず存在する。そうした哲学者の多くは、述語論理の言語をさまざま
な仕方で拡張して得られる言語を、論理的に完全な言語の候補として採択す
る。自然言語の分析には述語論理の言語では不十分であるとされる理由の多
くは、いわゆる内包的文脈にかかわるものである。そうした文脈の例として
は、「. . . でありうる」「. . . でなくてはならない」といった様相が現れる文脈
や、「. . . と思っている」「. . . と期待している」といった命題的態度を表すと
言われる表現によって作られる文脈などがある。こうした文脈の自然な形式
的表現を得ようとしてさまざまな内包論理の体系が作られてきたが、そうし
た体系に哲学者が興味をもつ理由のひとつは、それによって自然言語の文の
論理形式をよりよく表現できるのではないかという期待にある。
四 論理形式とは何か
このように、具体的にどの言語を「論理的に完全な言語」と見なすかにつ
いて、意見の一致が見られているわけではない。また、そうした言語が満た
すべき要件についても、その正確な定式化に関しては、多くの未解決の問題
が残っている。それでもなお、論理的に完全な言語における表現という想定
を介することによって、
「論理形式とは何か」という問いに対して答えを与え
ることが可能となる。
ある文 S の論理形式の明示的表現とは、論理的に完全な言語におけるその
文の翻訳 T のことであった。T がそのような資格をもつのは、その文法形式
がその論理形式を忠実に反映するものだからである。このことがなぜ論理的
に完全な言語において可能となるのかと言えば、それは、その言語の文法と
意味論とのあいだにある調和が存在することによって、文が、文法的規則に
従って形成されてくる過程と、その文の意味が意味論的規則に従って決定さ
れる過程とが正確に対応するからである。そうすると、文の論理形式とは、
その文がもつ意味論的構造のことにほかならない。
では、なぜ、文の意味論的構造が「論理形式」と呼ばれるのか。とりわけ、
ここで「論理」という形容が適切だと考えられているのはなぜなのか。この
問いに対しては、これまでほとんど不問に付してきたひとつの問題を考える
ことが手がかりを与える。その問題とは、ある文の論理形式が、これこれの
形式言語におけるこれこれの文によって与えられるという主張の正誤を、わ
れわれはどうやって判定することができるのか、という問題である。たとえ
ば、(4) が (1) の論理形式を与えているというラッセル流の主張は、何によっ
てその真偽が確かめられるのだろうか。
論理形式の明示的表現に関するこれまでの説明から出てくる答えは、つぎ
のものである。すなわち、それは、(4) が、述語論理の言語における (1) の正
しい翻訳であるから、ということである。より一般的に言えば、論理的に完
全な言語の文 T を、自然言語の文 S の論理形式の明示的表現であるとみなす
9
理由は、T が、論理的に完全な言語における S の正しい翻訳であるから、と
いうことになる。だが、この答えで満足するわけには行かない。
「正しい翻訳
とは何か」という問いが、明らかに、答えを要求するからである。T が S の
正しい翻訳であるということを、T と S が同じ意味をもつことであるとする
ことは、よく知られているつぎの理由から言ってできない相談である。つま
り、
「同じ意味をもつ」という概念は、そのままではあまりにも漠然としすぎ
ていて、ほとんど説明の役に立たないのである。だが、
「文の意味」というこ
とで何を考えるのかをもう少し特定できるのならば、事情は違ってくる。文
の意味をどう考えるかは、分析哲学の伝統のなかでもただひとつの見解があ
るわけではないが、支配的であると言ってもよい見解は、文の意味をその真
理条件と同一視するものである。この見解に従えば、T が S の正しい翻訳で
あるための条件とは、T と S の真理条件が一致することである。
実際、これまでに論理的に完全な言語の候補とされてきた、具体的な形式
言語—一階述語論理の言語、あるいは、それを拡張した内包論理の言語—を
見るならば、そうした言語に属する文と、自然言語の文とが、意味の側面で
何かを共有しうるとすれば、それは真理条件をおいてはほかにないとまで言
い切れる。こうした言語の意味論は、それに属する文の真理条件を体系的に
述べるためのものである。言い換えるならば、こうした言語においては、文
の意味論的構造とは、その真理条件を決定する機構のことなのである16 。
ところで、ひとつの言語に属するすべての文に対してその真理条件を体系
的に述べることは、その言語に属する文のあいだにどのような論理的関係が
成り立つかを述べることでもある。つまり、文の真理条件を決定する意味論
的機構は、同時に文のあいだの論理的関係をも決定する。
ここに、文の意味論的構造がなぜ「論理形式」と呼ばれるかの理由がある。
それは、直前の二つの段落でそれぞれ述べられたことを足し合わせればよい。
論理的に完全な言語における翻訳によって明示されるような文の意味論的構
造とは、その文の真理条件を決定する機構のことであった。だが、文の真理
条件を決定する機構は、同時に、その文と他の文とのあいだにどのような論
理的関係が成り立つかを決定する機構でもある。そうすると、文の意味論的
構造、すなわち、その論理形式が明示されているならば、その文が現れてい
る推論の妥当性を、それに従って説明することができる。たとえば、(1) を前
提とするつぎの推論
(5) 私はある男に会った
ゆえに、私はあるひとに会った
16 真理条件以外の概念を用いて言語の意味論的構造を体系的に述べることができるならば、論
理的に完全な言語への翻訳に際して保存されるべきものは、真理条件以外のものであるとするこ
ともできよう。たとえば、文の検証条件あるいは反証条件を体系的に述べる形で構成された意味
論をもつ形式言語が存在するならば、そうした形式言語は、論理的に完全な言語の候補となりう
る。その場合、文の論理形式とは、その文の検証条件もしくは反証条件を決定する機構と同一視
されよう。
10
がなぜ論理的に妥当であるかは、それを述語論理の言語に書き直してみるこ
とによって明らかになる。(5) は、つぎのように書き直される。
(6) ∃x (私は x に会った ∧ x は男である)
ゆえに、∃x (私は x に会った)
(6) が論理的に妥当な推論であることは、(6) の前提と結論が属している述語
論理の言語の意味論から帰結することである。
文の正しい論理形式の発見は、推論の妥当性の説明と密接な関係をもつと、
一般に考えられている。そう考える理由はいまや明瞭である。文の意味論的
構造が明らかにされるということは、その文の真理条件がどのような意味論
的機構によって決定されているかを明らかにすることである。だが、この意味
論的機構は同時に、その文が関係する推論の妥当性の源泉でもあるのである。
しかしながら、(a) 真理条件における一致、および、(b) 推論の妥当性の説
明の成功、というふたつの条件だけでは、どのような言語のどの文を、自然
言語の文 S の論理形式の明示的表現とみなすべきかは一義的に決まらない。
(a) については、S に対して同一の真理条件を指定しながらも、そうした真理
条件の導出のために用いられる意味論的機構が大幅に異なりうるという事実
を指摘すれば十分であろう。(b) については、意味論的機構の異なる選択に
応じて、
「論理的に」妥当とされる推論の範囲が変化するという事実が挙げら
れる。
では、文の論理形式について語る哲学者たちは、いったい、どのような基
準に基づいて、「S の論理形式は T によって表現される」といった主張の正
誤を判定するのだろうか。そもそも、こうした哲学者たちは、論理形式の発
見ということにどのような価値を見いだすのだろうか。
五 論理形式の発見とふたつの存在論的プログラム
すでに述べたように、文の文法形式と区別されるものとしての文の論理形
式という考え方は、「表示について」で提出されたラッセルの理論に由来す
る。しかしながら、論理形式という概念にどのような方法論的意義を与える
かに関して、ラッセルと、最近の哲学者たち—もちろん、論理形式の概念に
積極的な意義を認める哲学者に限ってのことである—とのあいだには、ほと
んど対照的と言ってよいほどの相違がある。それは、論理形式の発見という
企てが、その哲学的意義を汲んでくる存在論的プログラムの違いから来る。
「表示について」からほぼ十年後の『外部世界はいかにして知られうるか
Our Knowledge of the External World 』(一九一四年)は、その後の分析哲
学に多大な影響を与えた書物であるが、そこで述べられているラッセルの哲
学観の根底には、論理形式の概念がある。
「哲学の本質としての論理学」と題
11
された章の冒頭近くでラッセルは、
「どのような哲学的問題も、分析と純化と
いう必要な手続きが施されるならば、そもそも哲学上の問題ではないか、さ
もなくば、われわれの言う意味での、論理の問題であることが判明する」と
宣言する。
「われわれの言う意味での、論理の問題」とは何か。それは、
「命題
とは何であり、命題の形式(=論理形式)にはどのようなものがあるか」とい
う問いに答えることを目的とする「哲学的論理学」に属する問題である。そ
して、哲学的論理学によって「論理形式の十分な目録 an adequate inventory
of logical forms」が作成されてはじめて、
「多くの哲学的問題を科学的に論議
することが可能となる」17 。
ここで注意しなければならないのは、ラッセルが「命題」と言うものは、文
のような言語的なものではないことである。したがって、
「命題の形式」と言
われるものも決して、文の形式のことではない。実際、ラッセルにとって、命
題の形式としての論理形式とは、「事実」の形式のことにほかならない。「表
示について」以後、ラッセルが言語的な事柄を問題にせざるをえなくなった
と言っても、ラッセルの主要な関心事は、あくまでも、文そのものではなく、
文によって表現される事実の側にある。言語的な事柄は、ラッセルにとって
もっぱら否定的な相のもとに現れる18 。文の文法形式が、その文の表現して
いる命題の形式(われわれの言う「論理形式」)からきわめてかけ離れたもの
となりうるという自然言語の特性こそが、さまざまな哲学的誤謬の源泉であ
るというのが、
「表示について」以降のラッセルの一貫した主張である。一九
一八年の「論理的原子論の哲学 The philosophy of logical atomism」から特
徴的な箇所をふたつ引用しておこう。
記号法の理論は、哲学にとってきわめて重要である。その重要性
は一時期の私がそう考えたよりも、はるかに大きなものである。
私の考えでは、その重要性は大部分、完全に否定的なものである。
つまり、記号についてのはっきりとした自覚をもたず、記号とそ
れが記号であるものとのあいだの関係についてもはっきり自覚し
ていなければ、単なる記号の性質をものに対して付与してしまう
ことになるからである。
. . . 哲学的文法の重要性は、一般に考えられているよりもはるかに
大きなものであると私は考える。事実上すべての伝統的形而上学
が、不適切な文法に由来する誤りに満ち満ちており、形而上学の
伝統的問題とその伝統的成果—成果と称されるもの—のほとんど
すべてが、. . . 哲学的文法においてなされるような区別を立てるこ
17 B.Russell, Our Knowledge of the External World as a Field for Scientific Method in
Philosophy. 1914. Allen & Unwin. Lecture II “Logic as the Essence of Philosophy.” 邦
訳、ラッセル「外部世界はいかにして知られうるか」石本新訳、『世界の名著 70 ラッセル・
ウィトゲンシュタイン・ホワイトヘッド』
(山元一郎責任編集、一九八〇年、中央公論社)所収。
本文での引用に該当する箇所は、この邦訳の 113 頁および 143 頁にある。
18 この指摘を私は、P.Hylton, Op.cit. pp.269f. に負う。
12
とを怠ったゆえに生じたと私には思われる。19
単なる文法形式に惑わされて哲学的誤謬に陥ることの実例としてラッセル
が挙げているものの多くは、存在論(形而上学)の領域に属する。そうした
誤謬は二種類に分かれる。ひとつは、ある種の存在者の存在を認知し損なう
種類の誤りである。たとえば、文はすべて「主語–述語」という形式をもつと
考えることから、関係は実在しないという結論に導かれるような場合が、こ
の種の誤りに属する。もうひとつの種類の誤りは、本当は存在しないものを
存在すると考えてしまう誤りである。記述の理論は、この種の存在論的誤謬
の指摘によって名高い。つまり、
「現在のフランス国王」や「まるい四角」の
ような句を主語にもつ文が有意味であることから、こうした句に対応する何
らかの存在者が存在すると考える誤りである。文が表現している事態がどの
ような構造をもつを明らかにすること、すなわち、文の論理形式の発見は、
こうした存在論的誤謬の源泉を明らかにするとともに、その根を断ち切る効
果をもつ。言語分析が必要であるのは、言語が存在への通路となるからでは
なく、その反対に、言語が存在を覆い隠すものだからである。
このことを別の仕方で言い直すならば、言語分析は、何らかの存在論的主
張が提起されたときに、それを確証もしくは反証するための手段として用い
られるということである。
「私はある男に会った」と言われるとき、私の会っ
た男が誰であるかは特定されていない。だが、この文は意味をもつ。これら
ふたつの疑いようのない前提から、
「ある男」が指すものとして、太郎とか次
郎とか三郎といった男たちみんなの誰とも異なる「不確定な」男が存在する、
あるいは、もっと一般的に、
「ある F 」という表現が意味をもつのだから、F
であるような個々のもののどれとも異なる「不確定な」F が存在すると結論
する哲学者がいたとしよう。だが、
「不確定な男」や「不確定な猫」や「不確
定な椅子」といったものが存在すると認めることは、多くの解きがたい問題
を生み出す。それに対して、
「私はある男に会った」という文が表そうとして
いる事態は、この文によってではなく、
「ある男」という句をもはや含まない
文によってはじめて正しく表現されるということが、言語分析によって明ら
かにされるならば、不確定な F にまつわる形而上学的問題と思われたものは
解消される。言語分析は、こうした存在者が存在するという主張の根拠を取
り除くのである。だが、言語分析にそれ以上の積極的な役割を期待すること
はできない。言語が、存在への通路ではなく、むしろ障壁であるのだとする
と、積極的な存在論的主張を言語分析によって確立することはできないはず
だからである。
そうすると、ラッセルにとって、論理的に完全な言語が満足すべき条件は、
先に述べた条件—文法と意味論の調和—だけでは未だ尽くされていないこと
になる。これに加えて、論理的に完全な言語が事実の形式を正しく反映して
19 David Pears (ed.), Bertrand Russell: The Philosophy of Logical Atomism. 1985.
Open Court. p.44, p.141.
13
いることが、ラッセルから見て欠くことのできない条件である。つまり、か
れにとっては、正しい存在論がまず確保され、それを写す形で、意味論と文
法が構成されるのでなくてはならない。われわれが使っている言語から存在
論を引き出すのではなく、われわれの言語とは独立に存在論が立てられ、そ
れに則って論理的に完全な言語が作られるのである。
それでは、正しい存在論はどのような手段によって確保されると、ラッセ
ルは考えているのか。それは、もっぱら認識論的な考慮によってである。そ
うした考慮は大別してふたつの種類のものに分類できる。ひとつは、究極的
な意味論的単位、あるいは、ラッセル流の用語で言えば、事実の究極的な構
成要素は、われわれにとって直接知られているものでなくてはならないとい
う制約に由来するものである。この制約を表現しているものが、有名な「見
知りの原理 the principle of acquaintance」である。それによれば、「われわ
れが理解できる命題はすべて、われわれが見知っている構成要素のみからで
きていなくてはならない」20 のである。もうひとつの種類の考慮は、われわ
れが求めるべき存在論は、数学と科学の全体に対して、必要かつ十分なもの
であるべきだという制約から来る。なかでも、存在者を必要以上に増やして
はならないという「オッカムの剃刀」を重視することによって、ラッセルは、
存在論が数学と科学の全体に対して単に十分であるだけでなく必要でもある
べきことを強調する。その理由は、もっぱら認識論的なものである。すなわ
ち、多くの存在者が存在すると仮定するよりは、少ない存在者が存在すると
仮定することの方が、誤りに陥る可能性が小さいからだというのが、その理
由である21 。
要約するならば、論理形式の発見という形の言語分析がラッセルにとって
重要なのは、それによって、言語に惑わされて誤った存在論へ導かれるとい
う誘惑を斥けることが可能となるからである。正しい存在論へと至る道は、
あくまでも認識論的なものであり、言語分析は、その途上に横たわる障壁を
取り除くための副次的手段以上のものではない。だが、分析哲学のなかには、
言語分析に対して、存在論におけるはるかに中心的な位置を与えようとする
伝統も存在する。あるいは、こちらの伝統こそが分析哲学の「正統」である
と考えるならば、
「表示について」以後のラッセルもまた、未だ「分析哲学者」
とは分類されないことになる。
論理形式の発見が、哲学とくに存在論にとって重要な方法論的意義をもつ
と考える最近の哲学者たちのなかから、デイヴィドソンを取り上げるのは、
ある意味で必然とも言える。こうした考えの哲学者は少なくないが、かれ以
上の明確さで、論理形式の探究という形での言語分析が、存在論における方
法であることを主張している哲学者は他にいないと思われるからである。こ
20 B.Russell, The Problems of Philosophy. 1912. Oxford University Press. p.58. 邦訳、
ラッセル『哲学入門』中村秀吉訳、一九六四年、現代教養文庫、五九頁。
21 この点がもっともはっきりと述べられているのは、
「論理的原子論の哲学」の最終章である。
14
の主張のもっとも直截な表現は、「形而上学における真理の方法」(一九七七
年)と題された論文の冒頭に見られる。
コミュニケーションのために必要とされるという意味で、言語が
共有されているとき、われわれは、大綱的な特徴において真でな
ければならない世界の描像をも共有している。このことから、言
語の大綱的な特徴が明らかにされるならば、実在の特徴も明らか
になるはずだということが帰結する。形而上学の探究を進めるひ
とつの道は、それゆえ、言語の一般的構造を研究することである。
もちろん、これが形而上学の唯一正しい方法というわけではない。
唯一の方法などというものは存在しない。だが、それはひとつの
方法であり、プラトン、アリストテレス、ヒューム、カント、ラッ
セル、フレーゲ、ウィトゲンシュタイン、カルナップ、クワイン、
ストローソンのような時代的にも学説的にもきわめてかけ離れた
哲学者たちによって実践されてきた方法である。22
この主張を擁護するためにデイヴィドソンが展開している議論はきわめて興
味深いものであるが、いまはその当否について論じることはできない。残さ
れた枚数で簡単に論じたいのは、デイヴィドソンのこの主張に見られるよう
な、形而上学的あるいは存在論的プログラムと、ラッセル流のプログラムと
の対比である。
デイヴィドソンがここで挙げている現代の哲学者の名前からもわかるよう
に、このような存在論的プログラムは、分析哲学の伝統のなかで培われてき
たものである。ただし、デイヴィドソンが名前を挙げている哲学者たちが、こ
うしたプログラムをどこまで共有しているかについては疑問が残る。プラト
ン、アリストテレス、ヒューム、カントといった分析哲学以前の哲学者につ
いては論じないとしても、ラッセル、フレーゲ、ウィトゲンシュタイン、カ
ルナップ、クワイン、ストローソンのいずれに対しても、こうした存在論的
プログラムを無条件に帰属させることはできないであろう。ラッセルは、す
でに見た通り、言語の一般的構造の研究が直接、存在論へと導くと考えてい
たわけではない。ラッセルの方法は、むしろ、デイヴィドソンがつぎのよう
に記述しているものの方に近い。
[自然言語の構造についての]包括的な理論のもとにではなく、
直接、名辞や文を研究するならば、われわれは形而上学を言語に
持ち込まざるをえない。つまり、われわれは、認識論的な根拠や
形而上学的な根拠に基づいて[言語とは]独立に措定されたカテ
ゴリーに沿って、語や文に役割を与えるのである。23
22
23
D.Davidson, “The method of truth in metaphysics” p.199. 邦訳、二一四頁。
Davidson, Ibid. p.205. 邦訳、二二二頁。
15
この引用の後半があてはまる、もっとも極端な例は、
「論理的固有名」につ
いてのラッセルの理論24 である。かれにとっての論理的に完全な言語にお
いて、名前という文法的カテゴリーに属する表現は、自然言語における名前
とはきわめて異なる種類の表現である。ラッセルによれば、本来の意味での
名前—論理的固有名—は、その名前を使用する者が(ラッセルの意味で)見
知っている対象を指示する表現でなくてはならない。そうすると、何が本来
の意味での名前であるかは、認識論的考慮によって決定されることになる。
この認識論的考慮は前もってある存在論的カテゴリーを決定し、そのカテゴ
リーに属する対象を指示する表現として、ひとつの意味論的カテゴリーが画
定される。そして、論理的に完全な言語においては、意味論的カテゴリーと
文法的カテゴリーのあいだには完全な対応が存在するのであるから、意味論
的カテゴリーが決定されるならば、それに対応する文法的カテゴリーも決定
されることになる。
だが、じつは、これほど極端な例を持ち出すまでもない。ある表現が単称
名という文法的カテゴリーに属するかどうかの判定基準としてしばしば耳に
するものは、それが単一の対象を指示する表現であるかどうかというもので
ある。この基準が適用できるためには、何が単一の対象であるかが前もって
定まっているのでなくてはならない。つまり、対象という存在論的カテゴリー
が先に与えられ、次いで、単称名という意味論的かつ文法的カテゴリーが定
まるという順序である。
この順序が一見いかに自然であろうとも、「言語の特徴から実在の特徴へ」
というデイヴィドソン流の方針を取るならば、この順序は逆転されねばなら
ない。対象という存在論的カテゴリーによって、単称名という意味論的カテ
ゴリーを規定するのではなく、後者によって前者を規定すべきなのである。
つまり、対象とは、単称名によって指示されるものであり、それに尽きると
考えるのである。
こうした発想の転換が哲学の歴史のなかでいつ生じたかを探って行くとき、
ぜひとも考慮されねばならない哲学者はフレーゲである。かれの論理的考察
を導く基本原理のひとつは、対象と概念—より一般的には、対象と関数—と
のあいだの存在論的区別である。ひとつの有力な解釈によれば、この区別は、
単称名と述語表現という言語表現のあいだの区別に由来し、かつ、それのみ
に由来するものであるという25 。フレーゲこそ、ラッセルよりもはるかに先
立って、述語論理の言語を構成した最初の人物である。また、かれは、ラッ
セルと同様に、自然言語をその論理的欠陥ゆえに非難し、そうした欠陥から
免れている形式言語を構成した哲学者でもある。しかしながら、フレーゲと
ラッセルのあいだの根本的相違は、存在論的事柄が考察されるべき本来の場
所の設定にあると考えられる。ラッセルの場合、それは認識論であったのに
24
この理論については、前掲拙著の 3.3 節を参照されたい。
この解釈はダメット(Michael Dummett, Frege: Philosophy of Language. 1973. 2nd
ed. 1981. Duckworth.)に由来する。前掲拙著、七〇—七二頁、参照。
25
16
対して、フレーゲはその場所を論理学に求める26 。対象のような、きわめて
一般的な存在論的カテゴリーを画定するためにフレーゲが取った手段は、対
象について語るためにわれわれがどのような言語的装置を用いるかを明らか
にすることである。そうした言語的装置は必ずしも単称名だけとは限らない。
後にクワインがはっきり指摘することになるように、量化と同一性もまた、
われわれが対象について語るための装置である。こうした言語的装置がどの
ように働くかを明らかにすることは、それが属する言語全体のもつ意味論的
構造を明らかにすることである。だが、いったんそれが明らかにされるなら
ば、もっとも一般的な水準において、われわれがどのような存在論を取って
いるかもまた明らかにされることになる。
そうすると、文の論理形式の発見への努力は、その文が属する言語の意味
論的構造を明らかにすることを通じて、その言語を用いることによって何が
存在するとわれわれが言うことになるかを明らかにしようとする努力である
と言える。この存在論的プログラムに対して当然提起される反論は、
「何が存
在するとわれわれが言うか」が明らかにされたとしても、それは、
「何が存在
するか」が明らかになったわけではない、というものであろう。第一に、言
語はただひとつではなく、さまざまの言語があるという問題がある。第二に、
もし仮に、さまざまな言語が、言語である限りで共通の存在論的含意をもつ
としても、それはあくまでも「言語を通して」存在すると言われるだけのこ
とであって、端的に存在することとは違うと、言われよう。もしもこれら一
連の反論に答えられなければ、このプログラムは不完全であって、言語とは
独立の認識論的もしくは存在論的考慮によって補完される必要があるという
ことになろう。
「何が存在するとわれわれが言うか」と「何が存在するか」のあいだのギャッ
プを埋めようとする議論が存在しないわけではない。先ほどここでは検討し
ないと断ったデイヴィドソンの議論が、そのひとつである。だが、いずれに
せよ、言語から存在への道は、まったく平坦というわけではないのである。
26 Charles Parsons, “Objects and logic” The Monist 65 (1982) 491–516 を参照。また、
拙論「フレーゲと分析的存在命題の謎」
(『理想』第六三九号(一九八八年夏)四四—五三頁)を
も参照して頂ければ幸いである。
17
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