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m2001-04 Vol.14元.pmd

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m2001-04 Vol.14元.pmd
民として働き、レビ人を支える責
しその他の部族に属する人は、農
ることが定められています。しか
たときから一生涯神のために生き
おり、レビ族に属する人は生まれ
するための部族として定められて
ラエル人の中のレビ族は神に奉仕
した。生まれる前から神のために
これは実に特殊中の特殊な特権で
の献身者に定められていたのです。
者の型です。彼)は生まれる前から、
全生涯を神にささげて生きる神へ
にささげます。これは今日の献身
とともに自分の髪の毛を切って神
た。民(数記第六章一∼二一節を参
照のこと。ナジル人になるとは、神
彼は生まれる前からナジル人でし
た。ナジル人である期間が終わっ
た髪を切ってはいけませんでし
たものは一切食べてはならず、ま
ル人である間、ぶどうから造られ
ました。そのような人をナジル人
サムソンの生まれは特殊です。 と呼びました。ナジル人は、ナジ
る制度が神によって設けられてい
望するなら、そうすることができ
に奉仕する働きにあたりたいと希
も一定の期間、レビ族のように神
もしそのレビ族以外の部族の人で
れないような大きな恵みを
のです。サムソン自身この考えら
みと同時に責任もお与えになった
命じられました。神は彼の母に恵
たものを一切食べてはならないと
い酒は飲まないように、また汚れ
神は、彼の母にも、ぶどう酒や強
りに対する答えとしてお与えに
かに神が彼の母の信仰の切なる祈
えた特別な祝福です。これは明ら
とは、人間が頭で考える能力を超
用いられることが決定されている
任が与えられていました。しかし、 生きることが許され、神のために
が一般のイスラエル人にお与えに
たとき、その人は感謝のいけにえ
サムソン ①①①①① ︱神の選びと人間の
なった神への献身の生活をするた
を神にささげ、そのいけにえ
責任︵士師記一三章︶
山岸登師
なった神の恵みです。その代わり
めのチャンスのことです。イス
(1)
April
Maranatha!
また頭の髪の毛を決して切っては
えられていたのです。彼は全生涯
与えられ、同時に大きな責任も与
とがあることを示しています。そ
のを口に入れてはならず、汚れた 般の信者には許されていることで
ものに決して近づいてはならず、 も、献身者には許されていないこ
中、決してぶどうから造られたも
の代わり、一般のイスラエル人の
らなかったのです。このことは、一
ル人は、それさえ口に入れてはな
びの表現の一つです。しかしナジ
私たちは見ることができるのです。
れた神の恵みも、彼の生涯の中に
彼を通して御自分の目的を達成さ
や彼の失敗をも使って御自分の御
に、彼の失敗にもかかわらず、い
れたことでしょうか。しかし同時
めに用いられるということは、 非
生涯を神にささげ、神の御用のた
ともに神が受け入れてくださった
表われとして、全焼のいけにえと
の頭髪は彼の神への献身の思いの
ここに献身者が常に覚えておか 頭髪は肉体から生じた汚れた物と
なければならない教えがあります。 して捨てられましたが、ナジル人
てくれますように。
私たちを一層の注意深さへと導い
のサムソンが警告として用いられ、
の世に置かれている私たちに、 こ
にルーズになってしまっているこ
栄光のために、彼をお用いになり、
ならなかったのです。
常に大きな祝福であるのです。 神
のです。このことは献身者の生涯
どうかこの汚れた、すべてのこと
に献身し、伝道者、牧師、宣教師
さてサムソンの生涯のスタート
スラエルの民にお与えになった祝
るのです。ぶどうの実は、神がイ
きな責任も献身者に与えておられ
しかし、神はこの恵みと同時に大
ました。サムソンは、彼の不注意
意な献身者の見本となってしまい
この責任を果たさなかった、不注
残念ながら、サムソンの生涯は
うことを意味しています。
従って歩む人でした。もし人が、
に従って行動し、 自分の好みに
です。彼は自分の目で見たところ
に入ったのですから。
﹂という言葉
れます。それは﹁あの女が私の気
失敗の原因となる言葉が見受けら
においてすでに、彼の全生涯中の
福の象徴の一つです。ぶどう酒は
に対してどれほどの代価を払わさ
として働くことが許されるという が終わった時、神がそれをささげ
ことは、実に大きな恵みなのです。 物として受け入れてくださるとい
イスラエル人にとって喜
(2)
数えよ。
﹄と言って、ダビデを動か
神の観点から物事を見ることを止 ﹃さあ、イスラエルとユダの人口を
関係していない場合、たとい神の
す。神は、人々の考えが直接罪と
め、自分の肉の好みに従って歩み
の女性が彼の気に入りました。 彼
彼はペリシテ人の女性を見、 そ
最後はそうでした。
り、苦痛と悲劇です。サムソンの
そのような人の前途は、暗闇であ
御意志に逆らって、あくまでも人
節から明らかです。ダビデが神の
句の前後関係や Ⅰ歴代誌二一章一
デの考えであったことは、この聖
元々、神の御意志ではなく、ダビ
ています。人口調査という考えは
失敗に終わっています。
人間の意志から出たことは、 常に
た人が負わなければなりません。
の結果についてはそのことを行っ
があるのです。しかし、その行動
その考えの主張を許可されること
御意思に反対することであっても、
はそれを神の律法によって判断す
口調査をしようとしたので、神は、 サムソンの場合も同様です。 サ
始めたならば、失敗は不可避です。 して彼らに向かわせた。
﹂と記され
ることはしませんでした。それが
全体に渡る知識が必要です。
の聖書の表現法の理解には、 聖書
こと﹂であると記しています。こ
一方、聖書はそれが﹁神による
すことのみを求めていました。
は、一時の自分の肉の要求を満た
ついても、頓着しませんでした。彼
ジル人として選ばれていることに
ても考えませんでした。自分がナ
出たことであることが分かりま
を遣わすと言う考えは、民衆から
す。しかし申命記一 二
: 二による
と、前もってカナンの地に探る人
を遣わすように命じておられま
セにカナンの地を探るために人々
民数記第十三章でも、主はモー
です。
意味で彼に人口調査を許されたの
ユダの人口を数えてみよ。
﹂という
どのような結果にいたるかについ ﹁それ程したければ、イスラエルと
テ人と事を起こされたのです。
ムソンの強情を使われて、ペリシ
いことは明らかです。神がこのサ
人の娘を妻にしようとしたのでな
起こそうと考えて、このペリシテ
ムソン自身がペリシテ人と悶着を
サムソンがペリシテ人の娘に会
ンンンンン︵士師記一四章︶
サムソン ②②②②② ︱サムソンとライオ
Ⅱサムエル二四 一:には﹁主は
(3)
April
Maranatha!
サタンはキリストの教会を滅ぼ
み、戦うことができたのです。
このような時に、神の霊に依り頼
を引き裂いてしまいました。 彼は
異常な闘志を持ってこのライオン
を持って攻撃してきました。 彼は
りました。サタンは彼にライオン
頭の若いライオンが彼に襲いかか
うためにティムナに来たとき、 一
らも食べた。その蜜を、獅子のか
て、それを彼らに与えたので、彼
た。彼は自分の父母のところに来
手にかき集めて、歩きながら食べ
蜂の群と蜜があった。彼はそれを
と、見よ、獅子のからだの中に、蜜
を見ようと、わき道に入っていく
て来た。そして、あの獅子の死体
ンは、彼女をめとろうと引き返し
正常な判断力は失われてしまった
も自分の勝利を確認しようと ﹁わ
サムソンの場合も同じでした。 彼
んに、正しい判断力は失われます。
利を自分の業績として見るととた
われました。人が自分の過去の勝
した。そのとたんに彼の理性は失
建てたものではないか。
﹂と言いま
た私の威光を輝かすために、 私が
よって、王の家とするために、ま
す。
を汚し、堕落させてしまったので
したローマ帝国がキリストの教会
がサムソンを汚したように、 敗北
ムソンの場合に殺されたライオン
国は敗北したのです。けれどもサ
キリスト者たちでした。ローマ帝
しました。けれども勝利したのは
多くのものが殉教者となり血を流
﹁この大バビロンは、私の権力に
ら、広大なバビロニヤの都を見て
ザル王は宮殿の屋上を歩きなが
めたかっただけです。ネブカデネ
どのように引き裂いたのかを確か
全くなかったのです。ただ自分が
あったのでしょうか。その理由は
行かなければならない理由が何か
を見に行ったのでしょうか。見に
どうして彼は、ライオンの死体
レクと戦って勝利を得たと
落とし穴となった。
﹂
︵士師記八 二:
七︶その後の時代のサウルもアマ
はギデオンとその一族にとって、
の金でエボデを作りました。
﹁それ
ンでさえ戦いに勝った後、勝利品
に危険がそれに伴います。ギデオ
勝利を見定めようとするとき、 常
人が戦いで勝利を得た後、 その
のです。
き道に入って﹂行ったとき、彼の
そうとローマ帝国を使いました。 らだからかき集めたことは彼らに
﹂
キリスト信者は勇敢に戦いました。 言わなかった。
﹁しばらくたってから、サムソ
(4)
力で勝ち得たものと思う危険があ
さった時、私たちはそれを自分の
主が私たちに勝利を与えてくだ
起こしました。
じました。それが神の怒りを引き
の成果を見ようと、人口調査を命
デも人生の終わりに、自分の戦い
いう宣告を聞かされました。 ダビ
主もあなたを王位から退けた。
﹂と
かしその蜜は、ライオンの死体で
の巣に蜜がたまっていました。し
かって、巣を作っていました。そ
ライオンのミイラに蜜蜂がた
す。
る準備をすることであったので
し、彼をその後の戦いに敗北させ
よって殺されたライオンで彼を汚
ではなかったのです。サムソンに
はライオンでサムソンを倒すこと
建てました。その直後に彼は﹁あ は 、 サ タ ン の わ な に か か っ て し
なたが主のことばを退けたので、 まったのです。サタンの戦略は、実
た。
﹂事でしょう。ああ、サムソン
にライオンの死体で汚れた蜜を提
いました。ですからサタンは、彼
サタンはそのことを良く知って
のです。
通してお働きになることができた
人であるゆえに、神の御霊は彼を
はできません。サムソンがナジル
た所で、御霊は力を発揮すること
と汚れとは全く相反します。 汚れ
の御霊にあったのです。神の御霊
にあったのでしょうか。それは神
す。サムソンの真の力の源は何処
を満たし、彼に活力を与えたこと
き、早速カルメルに戦勝記念碑を
るのです。もしその誘惑に負けた
汚れていました。しかしサムソン
でしょう。しかしそれは肉の力で
なら、その勝利がかえって私たち
は甘かったのです。また彼の空腹
そのことを隠しました。確かに蜜
シュケロンの住民三十人を撃ち殺
のつまずきとなってしまうのです。
供したのです。サムソンは不注意
は
そ
の
蜜
の
誘
惑
に
負
け
た
の
で
す
。
神の戦いを戦っている者は、 この
にもその蜜を口に入れたのです。
サ
ム
ソ
ン
の
肉
が
蜜
の
甘
さ
を
求
め
た
ことを絶対に忘れてはならないの
確かにその蜜は彼に力を与えまし
の
で
す
。
彼
は
そ
れ
が
汚
れ
た
蜜
で
あ
です。霊的戦いは勝利を得た後に、
た。しかもその蜜は彼に何の害も
る
こ
と
を
知
っ
て
い
ま
し
た
。
で
す
か
なお一層激しいのです。なんと多
与えなかったかのように、主の霊
ら
そ
れ
を
彼
の
両
親
に
与
え
た
と
き
、
が彼の上に激しく下り、 彼はア
くの主の兵士が勝利の後に﹁わき
道に入って行ってしまっ
(5)
April
Maranatha!
です。何と恐るべき実利主義では
えあれば、どうでも良くなったの
が、彼に力を与えるという実利さ
い蜜が汚れていようがいなかろう
ていようがいなかろうが、その甘
す。彼にとってその食べ物が汚れ
いものから甘いものが出た。
﹂ので
﹁食らうものから食べ物が出、強
ことは事実です。
を一層不注意にする効果があった
すことができたのです。それが彼
を持っています。
チャンから正しい判断力を奪う力
です。その単語は多くのクリス
私たちはなんとこの実利主義に
を大きな失敗へと導いたのです。
のです。この実利主義がサムソン
ぎではないほど、危険極まりない
てどれほど警戒しても、警戒しす
の実利主義は私たちがそれに対し
のろばのあご骨に手を伸ばしたの
です。しかし不注意にも、彼はそ
義が好んで使う単語は﹁証のため﹂ 遠ざかっていなければならないの
弱いことでしょうか。その実利主
です。それを武器にして戦うため
ないのです。彼は一切の汚れから
ナジル人は死体に触れてはなら
た。
﹂
れを取り、それで千人を打ち殺し
ご骨を見つけ、手を差し伸べて、そ
﹁サムソンは、生新しいろばのあ
不注意が彼を誤りに導いています。
ものならば、何でも良かったので
でした。彼にとって武器にできる
サムソン ③③③③③ ︱サムソンとろばの
ないでしょうか。ここに神の聖さ
は完全に忘れられています。 神か
す。彼はこの実利主義が悪である
を打ち殺したのです。神の恵み
のです。それでもサムソンは千人
では結果が手段を正当化していた
でも良かったのです。彼の頭の中
結果を得るためならば、手段は何
と認めていなかったのです。 良い
ら受けた使命も、それに伴う責任
戦いました。しかしここにも彼の
に激しく下り、彼はペリシテ人と
れていました。主の御霊は彼の上
に、神の恵みはなお彼の上に注が
サムソンがナジル人であるゆえ
あご骨︵士師記十五章︶
も全く忘れ去られてしまっている
のです。
利用できるものは何でも利用し
よう。即時的効果さえあれば、何
でもかまわない。甘いものは汚れ
ていようがいなかろうが、それを
無視して人に与えて喜ばそう。こ
(6)
え﹂ました。彼は衰弱したのです。 正当化しないのです。目的さえよ
れたサムソンは﹁ひどく渇きを覚
しかし汚れたろばのあご骨に触
導いたことは明白です。
かしそれが彼を一層の不注意へと
は、なお彼の上にあったのです。し
うことでしょうか。目的は手段を
しに、不注意に手を伸ばしてしま
ているかいないかを考えることな
で、それが主のみこころにかなっ
あるいは都合が良いという理由
ます。しかしそれは決してその手
の結果をお与えになることがあり
の御名のゆえに私たちにある程度
段を用いたときでも、神は御自分
それと同様、私たちが聖からぬ手
認されたのでは決してありません。
ばのあご骨を使ったことを神が是
ありますが、御霊からの力を枯渇
失われます。実利主義は即効性は
とを忘れたならば、必ず霊的力は
ちが自分自身を神へ聖別すべきこ
嫌っておられることを忘れ、 私た
とと、神の御霊は汚れを最も忌み
たちの真の力が神の御霊であるこ
ための教訓です。もし私たちが、私
特に神の戦いを戦っている兵士の
いでしょうか。
教えに反する手段を用いてはいな
で、世的な手段、あるいは聖書の
教会の発展のためにという目的
ちも、福音伝道のため、あるいは
あるべき姿ではないのです。私た
してみてください。これは決して
り回して敵と戦っている姿を想像
ンが、生新しいろばのあご骨を振
りません。ナジル人であるサムソ
の水源から聖い水を飲み続けるも
ことのない命の泉の源に行き、 そ
きを感じるならば、永遠につきる
た。どうか私たちもたましいの乾
させ、彼に力をお与えになりまし
けを求める彼のために泉を湧き出
を助けておられました。神は、助
憐れみ深い神はなおもサムソン
力を確実に衰えさせます。
うに、汚れた手段は私たちの霊的
サムソンが疲れ果ててしまったよ
段が正しかったとは意味しません。
ければどんな手段を使ってもいい
彼の力は失われました。
これは私たちのための教訓です。 のでしょうか。決してそうではあ
させます。これは絶対に避けられ
神は御自分の御名のためにサム
のでありますように。
ません。
なりました。しかしそれは彼がろ
何と私たちもサムソンのように、 ソンを助け、彼に勝利をお与えに
ただ単に便利という理由で、
(7)
April
Maranatha!
分自身から出たことではなく、 神
よって救われたのです。それは、自
えます。エペソ二 八:、九には﹁あ
なたがたは、恵みのゆえに信仰に
す。
﹂と一見矛盾しているように見
﹁人は行いによって義と認められ
も完全です。しかし、もしキリス
涯を過ごされたはずであり、贖い
るならば、キリストは完全な御生
す。キリストが神の御子であられ
キリストに対する冒涜になりま
あったとすることになり、これは
ではないことが分かるでしょう。
﹂ の贖いの御業に他の何物も付け加
この聖句はローマ四 五:﹁何の働 えてはならないのです。少しでも
きもないものが、不敬虔な者を義 何かをキリストの血による贖いに
と認めてくださる方を信じるなら、 付け加えるならば、私たちは、キ
リストの贖いの御業が不完全で
るのであって、信仰だけによるの
トが神でなかったならば、キリス
によってですから、このキリスト
は、キリストの血による贖いのみ
ちが神の御前に義とされているの
の御業のみであることです。私た
イエス・キリストの血による贖い
ておられることは、救いの土台は
聖霊が使徒パウロを通して語っ
れています。
のみことばである聖書によってで
ように知り得たのでしょうか。 神
では、このことを私たちはどの
です。
く、また付け加えてはならないの
ことはできず、またその必要はな
ならば、それに何物も付け加える
るのです。その救いが完全である
それを土台とする救いも完全であ
な救いがあるのか、それとも救い
かのどちらかです。すなわち完全
も不完全なただの人間であったの
完全な方であられたのか、それと
すなわちキリストは神であられ、
救いは不完全となります。
ことになります。そして私たちの
キリストの贖いも不完全であった
ヤコブ第二章二四節
山岸登師
からの賜物です。行ないによるの
トは不完全であったことになり、
リストの贖いの御業も完全であり、
子であられたのであるならば、 キ
のです。そしてキリストが神の御
は全くないのかのどちらかである
ではありません。だれも誇ること
その信仰が義とみなされるので
のないためです。
﹂と記さ
(8)
子が生まれ、その子孫が天の星の
十才を過ぎているのに、神が彼に
身が八十才を過ぎ、妻のサラが七
ら子がなかったアブラハムは、 自
そのまま信じることです。ですか
ておられる創造主なる神のみこと
言えば、聖書が絶対的権威を持っ
す。聖書がなぜ信頼できるのかと
こそ使徒パウロがローマ人への手
とばへの従順によってです。これ
れるでしょうか。それは神のみこ
うな信仰はどのようにして表明さ
信仰とは、偽ることができない ばを真実と認め、それを受け入れ
絶対的主権者でいます神の宣言を、 ることと定義するならば、このよ
ばであるからです。
紙第一章五節で語っている﹁信仰
その権威に服し、この神のみこと
ます創造主なる神の命令であるゆ
確信とともに、神への命令への従
私たちのすべてが確固たる救いの
は全く矛盾しないのです。どうか
ロを通して語っておられることと
て語っておられることと使徒パウ
このように聖霊がヤコブを通し
です。キリストは絶対的主権者で
信仰を、神の絶対的主権を認め、 神性を認めることが絶対的に必要
えに、それに服従したのです。
でありますように。
れません。救いには、キリストの
権を認めているとは、到底認めら
なったとき、イサクが生まれまし
て義とされました。 彼が百才に
う実を結ぶのです。
す。真実な信仰は、必ず従順とい
信仰ではないということになりま
献金について
王によって命を狙われ、追い立て
ダビデが王位に着く前、サウル
山岸登師
順によって自分の信仰を証する者
あり神であられるのです。
﹂であ
ように数多くなると宣告されたと の従順︵信仰から出た従順︶
き、そのまま疑わず信じたのです。 るのです。すなわち神への従順と
いう実を結ばないものは、真実な
たが、イサクがまだ青年に達して
神への不従順によって実際的に
その信仰のゆえに、彼は神によっ
いないとき、神が彼にそのひとり
と告白していても、神の絶対的主
子イサクを全焼のいけにえとして 神の権威を認めていない者が、た
神にささげるように命じられた時、 とい自分はキリストを信じている
それが絶対的主権者でい
(9)
April
Maranatha!
を命がけで守っていました。 その
を敵の侵略から守り、人々の安全
られていたときも、彼はユダ地方
ない者どもにくれてやらなければ
取って、何処から来たかも分から
祝いのためにほふったこの肉を
の使い方によって分かります。 主
にして生きているのか、何を目的
さて、私たちが実際に何を第一
ために生きるためなのです。
ならないのです。実に全ては主の
もの で」あるのです。しかしクリス
チャンにとってはそうであっては
にあるものは全て 私
「 が稼いだ私
の金、私が労して手に入れた私の
わされました。そして他の十一部
があり、その中のレビ族が特別に
りました。彼らの中には十二部族
を証する任務を彼らにお与えにな
とされ、全世界に対して神の真理
民を特別に選び別け、御自分の民
よって明らかにされます。
のために喜びをもって献金できて
に生きているのか、は私たちの金
ときカルメル地方にナバルという
ならないのか。と」言って、ダビデ
の要請を拒みました。
いるのか、それとも惜しみ惜しみ、
非常に豊かな人がいました。 彼は
羊三千頭、山羊一千頭を持ってい こ れ は ま さ に 不 信 者 の 特 徴 で
て、贅沢な暮らしをしていました。 す。不信者にとって自分の手の中
刈り取りを終えて、祝いの宴会を
ものであり、主から与えられたも
部族を支えるように神によって定
ナバルが年の終わりの羊の毛の
それに羊の毛の刈り取りの
族が収穫の十分の一を捧げてレビ
選ばれ、神に直接奉仕する役を負
旧約の時代、神はイスラエルの
義務として献金しているのかに
開くとき、ダビデの部下たちにも
のです。私たち自身さえ、尊いキ
められました。このような制度は
そのような暮らしができたのもダ
不断の労に報いるためにその祝宴
リストの血によって買い取られて
神を知らぬ異邦人にはないこと
ビデの擁護があったからでした。
バルはダビデの使いの者に ダ
「 ビ 主のものとされ、もはや自分自身
デとはいったい何者だ。このごろ、 のものではないのです。そして私
に参加させてくれるようにダビデ
ちを愛して私たちのためにいのち
主人のところを脱走する奴隷が多 たちが救われたのは、自分自身の
くなっている。私のパンと私の水、 ために生きるためではなく、私た
はナバルに願いました。その時、ナ
を捨ててくださったキリストの
(10)
たとき、彼らは喜んで十分の一を
らが神の恵みを喜び、感謝してい
任を自覚していたとき、そして彼
彼らが神によって与えられた責
した。
で、イスラエル民族特有の制度で
者は野心、名誉心とは無縁であり、 なった。・・・万軍の主は仰せら
げたのではありません。真の献身
手気ままな思いで、自分を主に捧
れた者たちであり、自分たちの勝
彼ら献身者は神によって立てら
つまずかせ、レビとの契約をそこ
はずれ、多くの者を教えによって
す。
﹁しかし、あなたがたは道から
通して次のように語っておられま
ひたすら天での報酬を求めて福音
彼らは地上の物に望みを置かず、 れる。・・・﹂
︵マラキ二 八:︶レ
ビ人を支えることを怠ったイスラ
ささげていました。けれども彼ら
エルに対して神は﹁わたしもまた、
の心が神から離れ、与えられてい 伝道に励んでいるのです。
る任務を忘れ、堕落したとき、彼 この霊的レビ人を支える務めが あなたがたを、すべての民にさげ
らは十分の一を捧げることを怠り、 その他の信者に与えられているの すまれ、軽んじられる者とする。あ
です。昔のイスラエルの民と同様、 なたがたがわたしの道を守らず、
もって献金し、献身者を支えます
私たちはこの世の者ではなく、
えこひいきをして教えたからだ。
﹂
の型であるのです。教会は、キリ
が、心が主から離れ、冷たくなり、 またこの世を楽しむために生きて
今日の教会も主に感謝し、主の恵
レビ人たちはそのために神に奉仕
ストの福音を世に証しするために
いる者ではありません。天が私た
することができなくなりました。
神によって選ばれ、その責任を与
世俗化され、使命を忘れると献金
ちの故郷であり、天こそ私たちが
みを覚え、自らに与えられている ︵マラキ二 九:︶と宣言しておられ
えられているのです。そして主は
しなくなり、献身者を支えなくな
永遠に喜び楽しむべき場であるの
ます。
教会の中に、特別に、直接、主に
ります。
です。この地上で私たちがなすべ
責任を感じているとき、 喜びを
奉仕し、福音伝道にたずさわる者
旧約時代のイスラエルの末期の
きことは福音伝道です。そしてそ
イスラエルの民は、現代の教会
を起こしておられるのです。
状態について神は預言者マラキを
(11)
April
Maranatha!
一と奉納物によってである。
﹂︵マ を履きます。それは重い物を身に
付けてはすぐに疲れて走れなくな
ラキ三 八:︶
どうか私たちがこのような責め るからです。
を受けることがありませんように。 私たちは、イエス・キリストを
信じる前には、不信者としての生
のために喜んで、信仰をもって献
は言う。﹃神に仕えるのはむなしい
活をしていました。その時にはそ
昔のイスラエルは﹁あなたがた
せんか。
金し献身者を支えようではありま
ことだ。神の戒めを守っても、万
います。その人にとって、その
まま、この道を歩もうとする人が
信者の時の生活スタイルを持った
ですが、クリスチャンの中には、不
さわしいスタイルが必要であるの
その道を歩むためには、それにふ
至る道を歩む者とされたのです。
持つ者とされました。そして天に
は神の子どもとされ、天に国籍を
います。キリストを信じた私たち
今、私たちは天を目指して歩んで
しかしクリスチャンとなった
さわしい生活様式があります。
りました。地獄の子にはそれにふ
れにふさわしい生活スタイルがあ
るべく軽い服を着、軽いシューズ
マラソンを走るランナーは、 な
るべきです。
です。何が原因で疲れたのかを知
なぜ疲れたのかを考えてみるべき
しょうか。先ずその人は、自分が
うすれば元気を回復できるので
があります。本当に疲れた人はど
スチャンが言うのを時々聞くこと
このようなことばを初信のクリ
山岸登師
軍の主の前で悲しんで歩いても、 私は疲れた
何の益になろう。今、私たちは、高
ぶる者をしあわせ者と言おう。 悪
を行なっても栄え、神を試みても
罰を免れる。
﹄と。
﹂
︵マラキ三 一:
四、一五︶と言い、捧げることを
怠りました。そのために主は彼ら
に対し、彼らが神のものを盗んで
いると責められました。
﹁人は神の
ものを盗むことができようか。 と
ころが、あなたがたはわたしのも
のを盗んでいる。しかも、あなた
がたは言う。
﹃どのようにして、私
たちはあなたのものを盗んだで
しょうか。
﹄それは、十分の
(12)
﹁私たちは神の作品であって、良
うに記されています。
す。エペソ第二章十節には次のよ
めておられ、備えておられるので
一つしかなく、その歩みを神が定
クリスチャンには歩むべき道が
です。
天への道を歩むことができないの
ます。その不信者のスタイルでは
スタイルが徐々に重荷となってき
つわりつく罪とを捨てて、私たち
﹁私たちも、いっさいの重荷とま
す。
ただ一つ、
﹁捨てなさい。
﹂のみで
のでしょうか。答は﹁否﹂です。
ながら天への道を歩む方法はない
きでしょうか。何とかそれを保ち
ない私たちはその重荷をどうすべ
富にも仕えるということはできま
あなたがたは、神にも仕え、また
他方を軽んじたりするからです。
書が私たちに語っている方法は、 他方を愛したり、一方を重んじて
ではどうすべきでしょうか。聖
せん。
﹂
︵マタイ六 二:四︶
聖霊も私たちに使徒パウロを通
ことはできません。一方を憎んで
﹁だれも、ふたりの主人に仕える
になりません。
同時に両方取ることを神はお許し
つを選ばなければならないのです。
す。
﹂
︵マタイ七 一:四︶
神が私たちのために備えてくだ
く、それを見いだす者はまれで
ちに至る門は小さく、その道は狭
するのか、この二つの中から一
トを愛するのか、それとも世を愛
タンに従うのか、あるいはキリス
のか、それとも肉に従って歩み、サ
私たちは、御霊に導かれて歩む
﹂
︵ヘブル一二 一:︶
神は、私たちが良い行ないに歩む んか。
ように、その良い行ないをもあら クリスチャンに歩むべき道を歩
かじめ備えてくださったのです。
﹂ ませない、からみつく罪の重荷は
捨てる以外にないのです。
い行ないをするためにキリスト ・ の前に置かれている競走を忍耐を
イエスにあって造られたのです。 もって走り続けようではありませ
り取るのです。
﹂︵ガラテヤ六 七:、
者は、御霊から永遠のいのちを刈
びを刈り取り、御霊のために蒔く
の肉のために蒔く者は、肉から滅
取りもすることになります。 自分
して警告しておられます。
しかもその道は狭いのです。
﹁いの
八︶
せん。人は種を蒔けば、その刈り
神は侮られるような方ではありま
﹁思い違いをしてはいけません。
さったこの道を歩まなければなら
(13)
April
Maranatha!
では私たちが失望したとき、 疲
す れ ば た ま し い に 安 ら ぎ が 来 ま を捨てることができますように。
す。わたしのくびきは負いやすく、 そして主の御顔を仰ぎ見る喜びを
て、わたしから学びなさい。そう
たとき、躊躇することなくその罪
れたとき、どのようにすれば元気
置かれた喜びを顧みないで、 はず
なさい。イエスは、ご自分の前に
は﹁主の大庭を恋い慕い﹂
﹁主の家
秘訣を知っていました。その秘訣
を。主の麗しさを仰ぎ見、その宮
ちの日の限り、主の家に住むこと
私はそれを求めている。私のいの
﹁私は一つのことを主に願った。
わたしの荷は軽いからです。
﹂︵マ 十分に味わい、主を喜ぶことが私
たちの力であることを一層はっき
タイ一一 二:八∼三〇︶
ダビデ王も﹁力から力へと進む﹂ りと知ることができますように。
を回復できるのでしょうか。
かしめをものともせずに十字架を
に住む﹂ことでした。彼は次のよ
﹁信仰の創始者であり、完成者で
忍び、神の御座の右に着座されま
うに歌っています。
あるイエスから目を離さないでい
した。あなたがたは、罪人たちの
ている人は、わたしのところに来
一二 二:、三︶
﹁すべて、疲れた人、重荷を負っ
てしまわないためです。
﹂︵ヘブル
がたの心が元気を失い、疲れ果て
オンにおいて、神の御前に現われ
す。彼らは、力から力へと進み、シ
雨もまたそこを祝福でおおいま
彼らは涙の谷を過ぎるときも、そ
中にシオンへの大路のある人は。
ているギリシャ語は、カタラッ
Ⅱコリント五 一:九と二〇で、和
解ということばのために用いられ
ギリシャ語豆知識
このような反抗を忍ばれた方のこ
なさい。わたしがあなたがたを休
ます。
﹂
︵詩篇八四 五:∼七︶
どうか私たちの全てが、聖霊が
山岸登師
﹂
﹁なんと幸いなことでしょう。そ で、思いにふける、そのために。
の力が、あなたにあり、その心の ︵詩篇二七 四:︶
ませてあげます。わたしは心優し
私たちに捨てるべき罪を指摘され
とを考えなさい。それは、あなた
く、へりくだっているから、あな
こを泉のわく所とします。初めの
たがたもわたしのくびきを負っ
(14)
て心で敵であったあなたがたを、
ソーですが、エペソ二 一六とコロ すると次のようになります。
:
サイ一 二
︵二一︶そしてかつて遠くに離れ
: 一で用いられているギ ﹁
リシャ語はアポカタラッソーです。 去って、かつ不道徳な行為によっ
その違いは、語の頭にアポがつい
のからだによって、その死という
ているかいないかです。日本語で ︵二二︶今や、彼︵キリスト︶の肉
は同じように﹁和解﹂と訳されて
ます。ですから、エペソ二 一:六を
直訳すると次のようになります。
態から他の状態へ移す﹂を意味し
アポカタラッソーは、
﹁一つの状
るところのない者として立たせて
の面前に聖く、傷なく、非難され
えてくださいました。そして︵そ
新しい状態に︵決定的に︶移し変
いますが、意味が変わってきます。 手段によって、︵過去の状態から︶
﹁その敵意を彼︵キリスト︶に
くださいました。
﹂
の結果として︶あなた方を、彼︵神︶
よって殺すことにより、両者を十
字架を通して、一つのからだに
よって︵一体とすることによっ
て︶
、神に対して︵敵対状態から︶
新しい状態に移し変えてください
ました。
﹂
コロサイ一 二:一、二二を直訳
(15)
April
Maranatha!
・
℡(〇 七 二二 ) 七三 ‐ 八六一 五
マラナ タ 値段 一部三〇円
発行所 津久野キリスト恵み教会
〒 五 九 三 ‐八 三 〇七
大阪府堺市平岡町 二七六 ‐四
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編集責任者 山岸登・山本啓之・
前田大度・環野浩史・松岡平・河
田哲也
構成・印刷 門上矢
(16)
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