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イエスを葬る人たち - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

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イエスを葬る人たち - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート
イエスを葬る人たち
ヨハネによる福音 43
イエスを葬る人たち
11:45-12:11
「イエスを葬る人たち」という主題です。前半 11 章の終わりの所では、イ
エスを何としても消そうとする人たちの動きと、その代表者、代弁者のよう
なカイアファの言葉、そして後半 12 章の初めが、ナルドの香油を注いだマリ
アの場面です。ヨハネはこの二つの記事のどちらの背後にも、一種の皮肉
―言った人自身の意味を超越した「父なる神」の意思を見たり、言った人
を駆り立てた感情以上の深い意味を見て、それを読者に暗示しようとします。
ヨハネの福音書という作品を文学として、物語の流れから見ると、イエス
が死者ラザロを墓から呼び出すという、最も劇的な場面の直ぐ後で、イエス
を殺そうとする指導者たちを登場させて、イエスの死の意味を勝手に論じさ
せたり、そのイエスの死を直感した一人の女性が、自分でも分からぬ位の激
しい気持を、ナルドの香油をひと瓶まるごとイエスの脚に注ぐという、とっ
ぴな行動で表わして、回りの人たちの顰蹙を買うわけですが、なんとイエス
御自身がそれを、「私の埋葬の準備に取ってあったと考えよ」と評価なさっ
て、弟子たちを唖然とさせます。
とにかく、ここまでのイエスのスピーチと巡回宣教の記事から、いよいよ
福音書の本筋に入って行く、その切り替わりの重要ポイントを、ヨハネは実
に印象的に描いて見せます。これは筆者を内から衝き動かした“神の息”
―聖霊のインスピレーションを度外視すれば、文学的天才の業で、この移
行部のペンが冴えています。
1.イエスを抹殺して葬りたい人たちと、その代弁者 :45-57.
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ここには、ベタニアで死人ラザロを生かした奇跡が、一方では奇跡に圧倒
されて、恐怖とショックからイエスを信じた人たちを生んだ反面、これはこ
のまま放置すれば、取り返しのつかないまでに、大衆はイエスに心を奪われ
る、と危機を感じる人たちをも生んだのです。
45.マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多
くは、イエスを信じた。 46.しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ
行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。47 そこで、祭司長たちとフ
ァリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを
行っているが、どうすればよいか。 48.このままにしておけば、皆が彼を信
じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてし
まうだろう。」
47 節の「祭司長たちとファリサイ派の人々」というのは、いよいよこのあ
とイエス逮捕殺害の主導権を握る人たちです。47 と 48 の引用符の中の言葉
は、これまでイエスを妨害したり圧力をかけたりした努力が、何の効果も無
かったことへの、怒りともどかしさを表わしています。
「ナザレのラビがこれだけ多くの人の心を掴んでいるのに、我々は何をし
ているのだ。もしこのままにしておくなら、国中が彼のもとに走るだろう。
そのうえ、彼と弟子たちはローマ人を不安にさせることになる。我々の国土
は、ローマ軍の侵入と破壊を招くに違いない。」
この人たちが恐れたのは、メシア運動はローマに反抗する民族主義の革命
と結びつくわけで、その嫌疑を受ければ、自分たちの政治的な既得権益も宗
教的自治権も、全部失うことになります。それまでのメシア運動というもの
は、全部その道を辿ったことを彼らは知っていました。
その中で、彼らの指導者で大祭司を務めるカイアファが、不気味な発言を
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します。「あなたがたは何も分かってはいない。一人の人間が民の身代わり
に死ねば、国民全体が破滅を免れる。結局それで我々みんなが助かることを、
計算に入れてみたことはないか?」ナザレのイエス一人を反乱者に仕立てて、
それを民族の安全弁にできるという下心です。
この発言自体は、カイアファが自分の状況判断に基づいて、正味の意見を
述べたものです。そのカイアファが自分の知恵から絞り出した言葉を、皮肉
にも神の意思が、全く別な意味で正にその方向へ動かしておられるのです。
ヨハネはそういう世界史的な視点から、この発言を捉えていると言えましょ
う。「世界史的」と言えば、この直ぐあとの 51,52 節に光るヨハネの眼が、
さらに世界史的です。
49.彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あ
なたがたは何も分かっていない。 50.一人の人間が民の代わりに死に、国民
全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」 51.
これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司で
あったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。 52.
国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるために
も死ぬ、と言ったのである。 53.この日から、彼らはイエスを殺そうとたく
らんだ。 54.それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことは
なく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子た
ちとそこに滞在された。
「散らされている神の子たち」というのは、ユダヤ人の慣用句としては、
外地に離散するユダヤ人のことでした。今で言うなら「アシュケナージ」や
「スフアルディ」を含む、スペイン系・東欧系のユダヤ人を含むことになり
ます。52 節のこの呼び名は、ヨハネ福音書の読者にとっては外地在住の同胞
の意味に理解されたでしょうし、使徒行伝とパウロ書簡では更に範囲を広げ
て「異邦人世界」―旧約聖書とも縁が無かった異民族、異文化の人たちま
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で「離散の神の子たち」に含めたものです。
福音書と使徒行伝と書簡に使われる「異邦人」は、単に聖書と無縁の文化
の中で育った異教徒の意味ではありません。「異邦人」は、神の律
法を守った実績を誇る「選民」とは対照的に、律法に照らし合わせれば「無
資格者」つまり正統派のユダヤ人からは、救われる筈のない者たち、日本な
ら「外道」と呼ばれる失格者の代名詞でした。そんな人たちまでカバーして、
「神の子たちを一つに集めるためにも」イエスは死ぬことになる。カイアフ
ァの言葉はそこまで含蓄していたと言えます。
来週、京都市内寺町丸田町の洛陽教会で、京都市混声合唱団がバッハのカ
ンタータ「来たり給え、異邦人の主」を演奏します。その第一曲はマルティ
ン・ルターの詩で、
“Komm, Heiden Heiland”
(来たりませ、異邦人の主)。
でも、歌う人の中で何人がその「異邦人の主」という主題の意味に気づいて
いるでしょうか……。指揮をする織田和夫君くらいは、パウロの言う意味で
の「異邦人」を把握して振って欲しいものですが……。
今まで「私は選びの外にある異邦人。他の人に救いはあっても、この私は
不浄で無縁の者」と勝手に決めていた人が、「そのお前が私には大事なのだ」
と言って死なれた方を見て、「ああ、この私のために来て下さいましたか、
主よ!」という喜びの応答と、その来臨を命の限り受け止めたい願いを、こ
の「来たりませ、異邦人の主」“Komm, Heiden Heiland”にルターは込め
たのだと思います。バッハはそれを、自分の福音のテーマとして受け止め、
同じ表題の器楽曲と声楽曲を何曲か残しました。
2.イエスの死と葬りを自分のためと察知したある女の行動。
よく似た場面はルカの福音書にもあります。しかしヨハネがここに紹介す
る事件は、ルカ 7 のそれとは別だと、私は思います。この記事の直前には、
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イエスをどうしても「消したい」宗教家の不穏な動きが語られ、それを背景
に、ユダヤの大祭司カイアファの口から出た、イエス処刑の政治的効果の発
言が記されたあと、その緊張感を背景に、この女の慎みが無いと思われるよ
うな行動が、描かれるのです。
1.過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが
死者の中からよみがえらせたラザロがいた。2.イエスのためにそこで夕食が
用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着
いた人々の中にいた。 3.そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香
油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。
家は香油の香りでいっぱいになった。
この高価で純粋な甘松油「ナルドの香油」1 リトラ(約 330 ml)を全部空
けてイエスの脚に注ぎ、自分の髪の毛で御足を拭いたのです。香油は本来、
客人の頭に注いで敬意を表わしたものです。彼女は奴隷が主人の脚を洗う時
のように、イエスが着座して伸ばしておられた足に後ろから近寄って、イエ
スの足に香油を注いで、自分の髪の毛で拭きました。「髪の毛で拭いた」の
は、注解書でもたいてい「十分に説明できない」と書いています。この行為
はマリア自身、何をしているのか自分でも解らなかったのではないか………
…と、これは私の理解です。
唯一つのことだけはハッキリしています。「この方は死ぬ! 人の手にかか
って殺されて死ぬ!」彼女はだれよりも先に、だれよりも鋭くそれを感じ取
ったのです。この方の足許に坐ってお言葉を聞く機会はもうない。そう思っ
た時に、自分にとって一番大事な香油を差し上げて、イエス様の御足に注ぐ
ことしか、咄嗟に思い及ばなかった―と言うより、気がついたら「ナルド
の香油」を全部、空けてしまっていた。ヨハネはこのとき「家は香油の香り
でいっぱいになった」と描写しました。
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さすがに十一人の弟子たちも憤慨した、とマタイは伝えます。無理も無い
ことです。それに、300 デナリオンと言えば、当時約 1 年分の労賃です。そ
れを困窮者のために生かした方が、師の日頃の教えにも添うことになる。こ
れはムダだ! ヨハネはこれを別の意図からも言った、と付記します。マタイ
は、弟子たち全員の顰蹙を買ったことを隠しません。「弟子たちはこれを見
て、憤慨し」(マタイ 26:8)たと記します。これではマリアには立つ瀬が
ありません。
マリアの表現の仕方が崇高で純粋だったのか、感情的で度を失って醜態を
晒したのか……。私自身は、この時のマリアはやはり、心のバランスを崩し
ていたと考えます。ナルドの価格から考えても「もったいない」浪費だと、
弟子たちは失望したのです。これはいつものマリアと違う。第一、「はした
ない」振る舞いだと、皆がマリアに幻滅した時に…………
イエスだけが、別のところに弟子たちの眼を移させて、言われたのです。
「これは私の葬りの準備をしたのだ。ナルドの香油は、わざわざそのために
取ってあった。その折角準備した高価なナルドが、これで生きたではないか」
と言われたその優しさが、この場面の中心です。
7.イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの
葬りの日のために、それを取って置いたのだから。 8.貧しい人々はいつもあ
なたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
お言葉の前半にある「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」は、
申命記 15:11 では「貧しい者に大きく手を開きなさい」というヘブライの修
辞で表現されています。掴んで握りしめておくのではなくて、「開け過ぎる
くらい開けていよ」$'d.y"-ta, xt;p.Ti x;toP' の意です。弟子たちはこの精神を生かし
たつもりで、「300 デナリオンはこんな無駄な形で流さずに、売って貧者に
施すべきだった」(マタイ 26:6)と、女を批判したつもりでした。このヨ
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ハネ福音書では何故かこの不満と批判を、ユダ一人に代表させています。イ
エスの意図に反発した代表者だからでしょう。
このモーセの言葉にも基づいた、十二人の尤もらしい批判を覆すように言
われたイエスの一言は、弟子たちにもショックだったと思います。これは、
かなり後になるまで分からなかったでしょう。ヨハネが代表させるユダがギ
クッとしただけではなくて、ペトロもヨハネもこれは心外だったとのです。
マリア自身は感じ取る余裕はなかったでしょうが。
わたしの葬りの日のために、この香油はこうして流された!
イエスの死の意味をやがて知る人、イエスが葬られた日に何が一緒に葬ら
れたか(ローマ 6:4)を知らされて、人生が一変する人だけが、このイエス
のお言葉の意味と力に触れます。パウロによれば、イエスの死はイエスの復
活の命(ローマ 6:8,11)として働き、“聖なる息”―“霊”で駆動され
る新しい人「“キリストで”の人」を作るのです。(ローマ 8:1)でも、今
はそこまでは福音の中心を追わないで、次講に進みます。
ベタニアの家で、罪ある人たちと食卓に着いたイエスに、申命記の精神
(15:11)を見て、貧者・困窮者のために 300 デナリオンの香油の売上を拠
出して、励まし合って人助けに燃える会食も、貴重で尊敬に足る解釈に基づ
いた適用です。しかし、食卓のイエスの御足に、「高価なナルドを残らず注
ぐ」行為を、周囲の憤りと批判を無視して、敢えて断行したこの女性の中に、
イエスが言われた「葬り」を見る読者がいるとすれば、それは「異邦人を救
う福音」の中心である「神の義」を洞察させます。
(1986/11/23)
《研究者のための注》
1.「議会を召集して」47 節は大多数の訳文が「七十人議会」の意味に受け止めますが、
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Morris の註解では、カイアファのことを単に「彼らの一人」と呼んでいることから、
正式の議会ではなく非公式の予備会議 informal meeting と見ます。
2.大祭司は終身職であることから、49 節の「その年の」を疑問
視する人もいます。「たまたまその年の」ではなく、イエスが殺されて葬られた年=
「救いの御業が成った決定的な年の」大祭司であった意味です。
3.福音との関係で「異邦人」の意味と内容にいては、教友社版 織田昭「ローマ書の福音」
第 48 講と第 49 講に解説しました。またえりにか社の録音版「使徒行伝の福音」最終
講(第 60 講)「聖霊の足跡」の前置きでも語りました。
4.バッハの「来たりませ異邦人を救う方」はよく楽譜に「いざ来たれ異教徒の救い主」
と訳していて、パウロや使徒たちの言う「異邦人」の重点が欠落しています。私の知
る限り、バッハの曲では同じ題のものが 6 曲ありますが、本講で触れたものは作品番
号 BWV61 の「カンタータ第 61 番」です。
5.ルカ 7:36 以下の「罪深い女」の記事は、私は全く別の女性に関する別の時の出来事
と理解してきました。福音史家の伝えようとするメッセージの重点も違います。しか
し、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネのかなり相違する四つの記事が、全部同一の事実
を異なる文脈に処理した“ヴァリエーション”と見る人も多いようです。マタイとマ
ルコの「レプロス病の人シモンの家」は現場をマルタの家とは別の場所と明記するの
ですが、
「ラザロもイエスに同席する人々の中にいた」というヨハネの紹介の仕方は、
これがマルタの家とは別の所であることを暗示すると Morris は
(575 頁)
指摘します。
6.「イエスはこの祭には来ないのだろうか」は、訳文では噂をする人の先入観を入れず
に無色の表現になっています。しかしこのという疑問文は、「彼は絶対
来ないという話もあるが、どうだろう」という響きを持つ主観的な文と見ました。教
友社の織田昭「新約聖書のギリシア語文法」699 頁§261 の 3c(2).Morris の 570 頁
をも参照。
7.香油は客人への礼に祝いと喜びの意味で用いられ、葬儀や悲しみとは結びつかないと、
Morris はマタイ 6:16 以下につき 579 頁に述べています。この場合、「ナルドの香油」
自体は葬りとは結びつきませんが、「香油」という語自体が、ルカ 53:5 では
埋葬と結びつけて語られており、連想はここから繋がります。
8.「私の埋葬の日のために彼女がそれを保存するよう」という結びの無い so that 節(7
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の節)とについては、Moulton の言うように、現代ギリシャ語の
接続法と同じような表現と解しました。Morris 註解 579 頁を参照。
9.「300 デナリオン」は原文の「300 デナリア」と複数語尾で音訳すべきですが、日本語
の限界から「~オン」で通したものでしょう。実際には 1 フット、300 フィートを「1
フィート、300 フィート」と訳すのとは逆の無理をしています。
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