Comments
Description
Transcript
中国華南における“漢族”社会の成立
大阪大学 片山 剛 大阪大学歴史教育研究会 2006 年 7 月 1 日 中国華南における“漢族”社会の成立 <キイ・ワード> 〈中間的存在〉 、化外の民/技術・開発史 ベクトル/漢族、非漢族/斉民、 ◆越人=粤人=百越:浙江省からベトナム北部にかけて分布していた“非漢族”。単一部族ではなく、 種々の部族に分かれていた。猺ヤオ族、壮チワン族、蛮獠バンリョウ=峒獠ドウリョウ族、べト 族(ベトナム北部)など。タイ語系と非タイ語系。 1.教科書等に登場する中国歴代王朝の版図を示した地図 “漢族”:発祥は、古代華北の関中・中原。その後、次第に分布が拡大。 図1:殷代に、 「黄河中流域の文明」とは無縁な「越人世界」が南方に存在。秦漢帝国による「越 人社会の征服」 (&「朝鮮の征服」)。 問題:秦や漢、さらに隋・唐などの中国歴代王朝の版図内の住民は、みな“漢族”であったか? 換言すれば、「朝鮮の征服」によって朝鮮人は漢族になったか? 「越人社会の征服」に よって越人は漢族になったか? 解答:朝鮮の場合(4世紀)。 ベトナム北部およびそれに隣接する広東の場合(10 世紀)。 図2:China Proper シナ本部:17 世紀の清初に、 “漢族”が主要居住民であった地域。 2.江南デルタ中心の明清社会経済史研究から、多様な地域を対象とした研究へ ・戦後から 1970 年代までの研究/1980 年代以降の、日本・中国・欧米の研究 ・China Proper における多様性について、その地域的歴史的個性が検討される。 ・珠江デルタと江南デルタ(長江下流デルタ)の比較 明初の洪武 14 年(1381)に全国的に施行された里甲制が、江南デルタでは清代の 18 世紀初 に解体する。これに対して、珠江デルタでは 20 世紀前半(極端な場合、1949 年の中華人民 共和国の成立前夜)まで存続。 ・China Proper の各地域における漢族社会の成立はいつか 3.中国王朝の「いわゆる版図」内に居住する人々の 3 分類 (1) 斉民:中国王朝の戸籍に登録され、職業に応じた徭役・税糧を正規に負担する人々。 * “漢族”について、集合で表すと「斉民⊃漢族」となる。 “非漢族”の斉民も存在。 (2) 〈中間的存在〉 :中国王朝と関係をもつが、中国王朝から〈特別待遇〉を受けており、徭役・ 税糧を正規に負担しない人々。これが斉民との相違。 (元代までの羈縻政策、明清時代の土 司・土官制度。熟蕃) (3) 化外の民……中国王朝とはなんら関係をもたない人々。 (生蕃) 4.“漢族” (プロト漢族)とは 漢族という語が「黄帝の子孫」を指して、観念として誕生するのは 20 世紀極初。それ以前の時代については、 漢族という概念を、特定の時代や空間を超えて普遍的に定義するのは困難。しかしそれ以前の時代について も、 「プロト漢族」とでも呼び得る概念を設定し、その拡大の過程を考察することは意味があろう。 ①斉民であること。 1 古代の華北中原に“漢族”が誕生した時の“漢族”としての政治的要件は、 「 (城郭都市に住み、 )戸籍に登録 され、職業に応じた負担を(都市の)君主に提供すること」 。のち、城郭都市の外にも“漢族”が居住するよ うになる。戸籍登録から外れて職業に応じた負担をしないことは“漢族”としての政治的要件を欠く。 ②非漢族アイデンティティをもたず、漢族アイデンティティ(後述の中原出自など)のみをもつこ と。 ③漢語(方言を含む)を話し、漢字を読み書きしようとすること。 5.華中・華南に関する自然地理景観・生業にもとづく分類(白鳥芳郎による5類型) 図3 ①南嶺から四川・チベットに至る高地山岳地帯。移動による焼畑農業(陸稲や雑穀)。民族とし ては、猺ヤオ族、苗ミャオ族、畬ショ族など(非タイ語系)。 。民族と ②河川下流域、河口デルタ地帯から沿岸線に沿った平地。定住の水稲耕作(米を主食) 、、、、、 、、 してはタイ系諸族と漢族。 ③①と②の中間の山麓丘陵性高地地帯。①の山地民と②の平地民とが種族的にも言語的にも接 触融合。 ④長江上流、雲南・四川とそれ以北の陝西・甘粛にまで連なり、北アジア遊牧諸民族との交流 がある南北アジア民族・文化流通地帯。 ⑤東南沿岸地帯における水上生活の漁撈民(いわゆる蛋民) 。生業は漁業・漕運業。 * 本報告に関係するのは主に②。漢族とタイ語系諸族とは、生活空間および生業を共通に していることに注意。つまり華中・華南において、漢族と最も共通性を有する非漢族は タイ語系諸族。 6.技術・開発史から、②平地をさらに2分類 図3 ②-A:10 世紀以前において耕地化された平地は、主に「丘陵・台地」。 ②-B:10 世紀の江南デルタ(長江下流デルタ)に始まる低地開発技術(江戸時代の新田開発)。 * 10 世紀以降について、②-A:9世紀までの技術に依拠して、丘陵や台地などの平地を 依然として耕作する者、②-B:新技術の摂取によってデルタ等の低地を新たに開発す る者、この二つに分化する可能性を考慮。 7.西南中国における漢族・非漢族雑居地域と中国王朝との関係 図4(出所:片山作成) ア:化外の民(「生蕃」)が存在。 イ:斉民も存在するが、住民の大部分を占めて 化外の民 いない。斉民から離脱する者も存在。 〈中間的存在〉 → (都市の近辺) 斉民である状態を固定的に考えずに、 そのベクトルを考慮する必要。 (都市内) ウ:斉民と化外の民の間に〈中間的存在〉がいる。 → 〈中間的存在〉についても、斉民化に 向かうベクトルのみならず、これと 斉民=漢族 斉民=漢族 〈中間的存在〉 逆方向の反乱による〈中間的存在〉 からの離脱のベクトルを考慮する必要。 2 化外の民 エ:非漢族有力者のなかには中原出自(=漢族)であると自称する者がいる。広東では、南朝 時代の馮氏や五代の南漢国の劉氏などが、その祖先は中原出自と自称。 → 中原出自の自称は有力者レベルにとどまっており、非漢族庶民には浸透していない。 8.漢族かつ斉民としての「広府人」の誕生 (日本では広東人と呼ぶ) 。 ○現在の広東省珠江デルタ地域における主要な住民は「広府人」 ○広府人は漢族のサブ・グループで、漢語の方言である「広州話」(広東語)を話す。タイ語の 痕跡。 ○その祖先は中原から移住してきたという伝説(後述)をもつことに象徴されるように、強い漢 族アイデンティティをもつ。珠江デルタ地域の歴史において、かかる強い漢族アイデンティ ティをもつ最初の集団。 → 珠江デルタ地域における漢族の登場、漢族社会の成立を考える時には、 「広府人」とその 社会がいつ、どのように成立したのかを考察する必要。 9.珠江デルタ地域における<漢族と非漢族><斉民・ 〈中間的存在〉 ・化外の民>の歴史 9-1.秦漢時代 征服後、官僚や軍隊が城郭都市に駐留。また流罪者が北から移住させられる。 → 越人、特に生活空間と生業が共通するタイ系諸族と、北から移住してきた漢族との間 で相互同化=融合が始まる。 9-2.唐代 836 年ごろ 「土人」 :北からの移住民の子孫と土着の「蛮獠」のうち漢化した者から成るらしい。 【唐王朝】←→【 「土人」と呼ばれる〈斉民〉+「蛮獠」と呼ばれる〈中間的存在〉 】 「土人」は両税を負担 「蛮獠」は「土人」のような権利をもたず ・ 「土人」と「蛮獠」は日常的に密な関係をもつ。官憲が「土人」と「蛮獠」の関係を弱めよ うとすると、「土人」は「蛮獠」と一緒に唐朝に反乱を起こす。 → 「土人」は恒常的に斉民でありつづけるわけではなく、 「蛮獠」=〈中間的存在〉に向 かうベクトルをもつ。つまり恒常的斉民はまだ存在せず。 * 「土人」と「蛮獠」とでは、どちらの勢力が大きいか? 9-3.10 世紀、五代十国期の南漢国 ・国王の劉氏は、「自分たちの祖先は中原出身」と自称するが、実は非漢族。 ・また国王は、自分の被統治民を「南蛮」 「百越」等と呼び、被統治民の大部分が非漢族(唐 代の「蛮獠」)。つまり南漢国は非漢族の国。唐代の「土人」も建国に協力したが、 「土人」の勢力 < 「蛮獠」の勢力 9-4.北宋期の斉民化政策 ・南漢国は北宋によって統一される。そして北宋期に斉民化政策が採られる。しかし斉民化 されても、非漢族( 「蛮獠」)は依然として斉民から離脱するベクトルを強くもつ。 → 「土人」という〈斉民〉の動向は? 9-5.明代: 「広府人」の登場 広府人: 「土人」のなかの一部が広府人に転換した、と推測される。以後、珠江デルタで「土人」から広府 人へ転換する者が増加し、次第にその周辺地域にも拡大し(元「土人」だけでなく、 「蛮獠」から 3 も広府人へ転換するものが出たと思われる) 、広東省における漢族の三大民系のひとつになる。 ◆言説(伝説)からみた広府人の特徴 移住伝説をもつが、その内容は史実とは考えられない。 ①珠江デルタへの移住後、里甲制に帰属して徭役・税糧を正規に負担することを、地方官 に誓約 → 里甲制は斉民によって構成される。これは、斉民であることを誓約。 ②漢族の発祥地たる中原から移住してきた。→ 漢族であること(=非漢族であることの 否定)を表明。非漢族に授与される特別待遇としての〈中間的存在〉であることを主体 的に放棄したことにもなる。①とも関連。 ③上記の内容をもつ伝説を、族譜に記載。→ 文字に記して公示。永続的に漢族かつ斉民 であることの宣言を意味する。恒常的な斉民かつ漢族の誕生。 ◆「広府人」対「土人」・「蛮獠」の実際の構図 ○丘陵・台地では、明朝に対する反乱が多い 図3 → 旧技術に依拠し、「蛮獠」「土人」が住 む。勢力では、「土人」よりも「蛮獠」の方が大きく、「土人」の斉民へ向かうベクトル は弱い。 ○デルタ低地では、明朝側に立って反乱を鎮圧する側に立つことが多い → 新技術に依 拠する世界であり、 「蛮獠」の勢力があまり及ばない世界。斉民=広府人になることが可 能な世界。 * 「土人」のなかから広府人という漢族になることを選択した人々がでてくる動機は未詳。 しかしその基礎として、デルタ低地の開発者であること、つまり、蛮獠の勢力があまり 及ばず、新技術に依拠しなくてはならない新世界の人々であることに注目したい。 * 広東における明代は、制度上では宋代に斉民化されたが、実際には〈中間的存在〉への 回帰を依然として志向する人々(唐代以来の「蛮獠」&「土人」)が、明朝の軍事的バッ クアップを受けた「広府人」によって駆逐される時代。そして 16 世紀の明末に、漢族か つ斉民である広府人社会が成立。 10.歴史的刻印 ○広府人という漢族(元来は「土人」であった)の誕生は、明代に、明朝の軍事的バックアッ プを得て、「蛮獠」や「土人」の世界(〈中間的存在〉への回帰を志向する世界)から離脱す ることが可能となった。そして離脱後は、斉民たる証として、明代において斉民が所属する べきとされる里甲組織に永続的に所属することを選択した。広府人にとって、里甲組織に帰 属しているか否かは、斉民である証であると同時に、自己と他者(「土人」 「蛮獠」 )とを区分 する重要な基準となった。 ○珠江デルタ地域では、里甲制が 20 世紀にいたるまで存続した。対照的に長江下流デルタでは、 清代の 18 世紀初には里甲制が解体してしまう。長江下流デルタでは、五代十国の 10 世紀に 東アジアで最初に低地が開発された。長江下流デルタにいつ漢族社会が成立したのかは未詳 だが、南宋かモンゴルの元代には漢族社会が成立していたと考えてよかろう。その意味で、 長江下流デルタの漢族社会の誕生・成立にとって、明代里甲制が持つ意味はあまりない。 ○18 世紀以降、里甲制の維持は王朝にとっての全国的政策ではなくなった。にもかかわらず珠 江デルタ地域で里甲制が存続したのは、王朝という外部からではなく、社会内部からの要請 にもとづくもの。そして、それは当該地域における漢族社会の成立にとって、里甲制が不可 4 分であったことと関係するように思われる。 図1(出所:宮崎正勝『早わかり東洋史』日本実業出版社,2002 年第 5 刷,40-41 頁) 図2(出所:小倉芳彦ほか著『教養人の東洋史』 (上)社会思想社、1981 年初版第 31 刷、15 頁) 5 景観・生業・担い手の分類 9 世紀までの技術に依拠する旧世界 地形 生業 10 世紀以降の技術に依拠する新世界 平地1 平地2 丘陵・台地 デルタ低地 移動。焼畑。雑穀 定住。水稲。 定住。水稲。 非タイ系 タイ系>漢族 10 世紀以降に開始 (猺族、苗族 etc.) (峒獠 etc.) 広東人(=広府人) 山地 担い手 図3(出所:片山作成) 6