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吉澤商店主・河浦謙一の足跡( 1)

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吉澤商店主・河浦謙一の足跡( 1)
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
吉澤商店の誕生
入江良郎
これまでの研究と本稿のねらい
かわうらけんいち
河浦謙一(1868-1957)
は、日本映画史の第一頁を飾った明治期最大の映画商社、吉澤商店の店主で
の輸入と公開、初の国産映写機の製造、常設
ある。映画史の基礎文献では、活動写真(シネマトグラフ)
館第一号「電気館」
の開館、最初の撮影所の建設など、草創期の主要なトピックのあちらこちらに、吉澤
商店と河浦謙一の名が刻まれているのを目にすることができる。明治 30(1897)年に映画の渡来に関
や荒木和一(ヴァイタスコープ)
、柴田忠次郎(ヴァ
わった他の実業家たち―稲畑勝太郎(シネマトグラフ)
イタスコープ)―が、興行界の因習になじまず早々と活動写真事業から撤退したのに対し、唯一本格
的な映画商社へと成長を遂げることになるのが、河浦の吉澤商店であった。そして、この吉澤商店を含
年に誕生したのが日本活動写真株式会社(日活)
である。すな
む映画商社 4 つを統合して大正元(1912)
わち、映画の輸入・製作から興行にいたるサイクルをいち早く完成し、20 世紀的な映画産業のモデルを
先取りしたのが吉澤商店であった。あるいは、我が国に「映像の世紀」
をもたらしたのが河浦謙一であっ
た、といっても過言ではない。だが、この偉大なパイオニア
について、いまだ我々は多くを知らない。
吉澤商店の業績を発掘したのは、大著『日本映画発達
史』
などで有名な映画史家の田中純一郎であった。もっと
も、映画史という研究分野が、既にその当時我が国に存
在していたわけではない。田中が自国映画史の研究に着
手したのは関東大震災直後のことであったが、当時は映画
草創期の事情を伝える正確な記録もなければ、資料も既
に多くが散逸していたため、彼は活動写真の輸入や初期
の興行、製作に関わった当事者たちを探し出し、その証言
や資料を集めながら、今日読まれる日本映画史の基礎を
自らの手で作り上げたのである。
そして、それらの中でもとりわけ大きな功績と考えられ
るものの一つが、吉澤商店の再評価である。例えば、吉澤
商店系の広報誌で、現存最古の映画雑誌として知られる
32
図 1 河浦謙一肖像写真 柴田直子氏蔵
『活動写真界』
(明治 42 年 6 月創刊)
の合本が田中により発見されたのは震災のあった大正 12(1923)
年
の暮れのことであったが )、その当時はシネマトグラフとヴァイタスコープが 4 つのルートで(それぞれが関
1
西と関東で 2 系統ずつ)
我が国にもたらされたという、今では当たり前のように語られている史実もまだ
と「荒井」
(商会)
の類似に戸
明らかではなかったし、研究者はヴァイタスコープを輸入した「荒木」
(和一)
は当初表記に混乱が見られた)
、シネマトグラフ
惑い(柴田忠次郎が活動写真の輸入に関わった「新居商会」
と考えられていたほどである。
『活動写真界』
の発見は、そ
の輸入者も当初は稲畑ではなく横田(永之助)
こに、シネマトグラフの第二の系統として、吉澤商店の名前が加わるきっかけをもたらすこととなった。
また、戦中に新橋際の吉澤商店跡を訪ねあてたのも、伊豆の船原で余生を送る河浦謙一本人の消息
を突き止めて聞き書きを行い、あるいは商店や撮影所の関係者に取材を重ねて、往時のエピソードを活
)
字にまとめたのも、田中の功績である 。吉澤商店の人や映画づくりについて今日我々が持ち得るイメー
2
ジの多くはこのときの調査によって形づくられたものであり、また田中の著作で目にする貴重な記録写
)
真の数々も、これらの関係者たちから直接譲りうけたものと考えられる 。つまり、吉澤商店と河浦謙一
3
が行った日本映画草創期の調査
の業績は、
(キネマ旬報の「日本映画史素稿」や塚田嘉信の『映画史料発掘』
研究などの例外を除き)
そのほとんどが田中純一郎独自の調査によって明らかにされたものである 。
4)
しかし、その田中自身も、ついに吉澤や河浦に関する長年の研究をまとめ一冊の書物に著すことはな
『日本映画』
昭和 17 年 6
かった。これらについて田中が残した重要な文章は、ほとんどが「日本映画史」
(
月号~ 18 年 9 月号)
『映画技術』
昭和 17 年 11 月~ 18 年 10・11 月号)
や「日本映画技術史に関する覚え書」
(
、
『映画評論』
昭和 22 年 2 月号~ 24 年 11 月号)
(
といった雑誌の連載の中で発表された
「定稿 日本映画史」
年に上梓されたのが、
『日本映画発達史』
の原形となる『日本
ものであり、それらを経て、昭和 23(1948)
4
4
(齋藤書店)
であった。このように、田中の関心が日本映画通史の編纂という大きな目標
映画史 第一巻』
に向けられていたとすれば、そのため調査や記述の対象に自ずと優先順位が生まれてきたとしても、そ
れは日本映画史研究の成立そのものに関わった《第一世代の映画史家》
の立場からみれば、むしろ当然
の選択肢ではなかったかと思われる。
それでは、いまからでも、吉澤商店と河浦謙一について、入手し得る可能な限りの情報や資料を集め
整理しておくことはできないだろうか。いや、そもそも田中の研究が河浦本人をはじめとする関係者たち
の証言や資料に支えられていたことを考えれば、それ以上の成果を後続の研究に望むことなどとうてい
無理な話のようにも思われる。それでも、筆者に今回の調査をうながすことになったいくつかのきっかけ
がある。
一つには、この十数年の間に吉澤商店に関する重要な資料の復刻が相次ぎ、初期映画史の研究環境
(国書刊行会)
に劇的な変化をもたらしたことが挙げられる。例えば、平成 11 年の『復刻版 活動写真界』
は、田中が発掘した『活動写真界』
の合本を主な底本にして復刻された資料であり、またその翌年平成
12 年にも、田中が河浦本人から直接入手したと思われる実物資料を元に「吉沢商店 日活合併契約書」
『吉沢商店 日活合併契約書』
写真復刻と解説」
『日本映画史
が復刻されている(本地陽彦「田中純一郎旧蔵・
[田中純一郎記念第三回日本映画史フェスティバル実行委員会]
探訪 3 映画への思い』
)
。さらに、平成 18 年
(ゆまに書房)
が刊行されて
には、牧野守編『日本映画論言説大系 22 明治期映像文献資料古典集成②』
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
33
おり、これは、吉澤商店が活動写真事業のピークにあたる明治 38(1905)
年から 43(1910)
年の間に刊
行した幻燈や活動写真の定価表など 7 冊を復刻した資料集である。
『活動写真界』
も「日活合併契約書」
も、田中の映画史の主要な情報源となった資料であるが、かつて
は他の研究者の目にはほとんど触れることのなかったものであり、また吉澤商店の定価表もわずかな現
物が専門図書館や収集家の元に残されているだけで、従来ならまとめて閲覧することのかなわなかった
自身の著作には反映することのな
資料である。これらの原資料は、田中が(知識は持ち得ていたとしても)
かった事実を教えてくれるばかりでなく、田中の記述、ひいては日本映画史の成立過程そのものを再検
証するきっかけをもたらすものといえる。
第二に、吉澤商店が活動写真の輸入に関わる以前から浮世絵の輸出を行っていたことはよく知られ
ているが、それでは、浮世絵研究の世界で吉澤商店がどの程度知られているのか調べてみると、実はこ
の分野の専門書の中にもしばしば吉澤商店のことが、
(映画商の草分けではなく有力な浮世絵商の一つと
して)
取り上げられていることが判る。また、吉澤商店の刊行物を探してみると、活動写真や幻燈の定価
表については先の復刻資料の他には新たな発掘がほとんど見られないのに対し、錦絵の買入目録等は
今なお多くの出物があり、収集することも比較的容易である。こうした資料に触れてみると、これまで映
画史研究が追いかけてきた吉澤商店とは、実際には商店の二つの顔の一つにすぎなかったことが理解
できる。
このことは、吉澤の商店としての沿革や、河浦の実業家としての足跡をトータルに解明する最初の手
がかりをもたらすものであろう。吉澤商店は一体どこから現れ、どこへ消えたのか。そして、浅草興行街
の開発やルナパークの建設、さらには船原温泉のリゾート開発まで、いくつもの事業を立ち上げながら
明治・大正・昭和の時代を駆け抜けた河浦の生涯とはどのようなものだったのか。これは河浦に限らず、
どのような人物の手で我が国に映画がもたらされたのかという大きな問いにも連なる研究課題である。
河浦の
第三には、河浦の生まれ故郷である富山県の郷土史研究の中に、しばしば(地元の名士として)
功績を顕彰している資料が見られることである。それらの中に、河浦の生い立ちを解くためのヒントが
含まれていることは注目される。なにしろ、この偉大なパイオニアの出生地や家系といった初歩的な(し
かし伝記的には極めて重要な)
事柄ですら、長く謎に包まれてきたのである。
また、これと並行して、河浦の遺族の消息について手がかりを探していたところ、漸く河浦の墓所が
見つかり、そこから遺族のもとにたどり着くことができた。そこで得ることができた、河浦の身内のみが
明らかにし得る情報や、親族のもとで保管されていた資料を整理しておきたいというのも、本稿の執筆
を考えた大きな動機の一つである。
当然のことながら、今日の初期日本映画史研究では、資料や情報を入手するためのインフラが田中の
時代とは比較にならないほどの進化を遂げている。しかしその反面、時の経過とともに確認が困難に
なってしまった事実も多数に上ることであろう。本研究では、吉澤商店と河浦謙一の足跡をひとつひと
つ検証し、現時点で明らかにできたことや今後の調査の課題を明確にしながら、可能な限りの記録を残
しておきたい。その手始めとして、本稿では、河浦謙一の生い立ちと吉澤商店の由来をたずねることに
しよう。
34
河浦謙一の生い立ち
河浦謙一 ルナパーク(株)
相談役、吉澤商店、貿易商、東京府平民
妻 たみ 明一二、七生、大阪、前島與平二女
男 亮一 明三一、四生、慶應義塾大学出身
君は富山県津澤町立島順誓の男にして明治元年二月を以て生れ河浦姓を冒す少壮大阪に赴き藤澤南岳に
漢学を東雲学校に英学及普通学を修む後東京に出でて古代錦絵美術品及雑貨輸出業等に従事し又活動写
真の有利なるに著眼し之が輸入を企図し目黒に撮影所を建て英国倫敦に支店を設け映画の製造及販売に
ママ
努めしも郷男爵等の発起にて活勝写真のトラスト起り日本活動写真会社の設立に際し之を譲渡したり先に
米国に渡航して商業を視察せり長女しづえ(明二八、一二生)
は東京府人法学士栗本瀬兵衛に二女富(同
三四、一生)
は菅谷爲吉長男慶之輔に嫁し二男純一(同三六、一一生)
は同府士族清水まつに三男誠一(同
三八、六生)
は外祖父前島與平に各養子となれり(東京市外大崎町上大崎二二七 電高輪一○一五)
『第七版人事興信録』
(人事興信所、大正 14 年)
『人事興信録』
に河浦謙一の記述があることは、横浜開港資料館の平野正裕氏にご教示いただいた。
これも映画史だけを研究している者には盲点になりやすい資料だが、河浦の実業家としての足取りやそ
のときどきの肩書を知る上では貴重な情報源であり、河浦が現役の当時に刊行された資料である点で
も注目される。また、今回取り上げる河浦の家族や学歴などについても初めて目にする情報が含まれて
おり、我々の研究に新たな光を投じる資料といえよう。本稿では、折に触れて『人事興信録』
を参照しつ
つ記述を進めていくことにしたい。まずは河浦謙一が生まれてから吉澤商店の店主となるまでの経緯に
ついて、従来の文献にはどのように書かれてきたのか、いくつかを比較しながら検証してみよう(本稿の
内は引用者による補足である)
引用文は一部の固有名詞を除き新字に改めた。また[ ]
。
[吉澤商店の]
店主の河浦謙一氏は、富山県西砺波郡津澤の出身で、青雲の志を抱いて上京し、縁戚に当る
吉澤の店に寄寓し、慶應義塾に学んだのは、まだ吉澤の店が紺屋町にあった頃のこと。
田中純一郎「日本映画史(五)吉澤商店の活躍」
『日本映画』1942 年 11 月号
河浦さんは、
[中略]
明治元年二月十五日、富山県の生れだというが、七十五歳にしては若々しい感じだった。
上京して神田区紺屋町の親籍、吉沢家の養子となり、浮世絵、郵便切手類の輸出を目的に、吉沢商店を開
き、大いに発展したという。
田中純一郎「秘稿日本映画 第 6 回 イタリア人・ブラッチャリーニ」
『キネマ旬報』
昭和 40 年 7 月下旬号(No395)
日本の映画史をひもとくと、まず登場するのが富山県出身の河浦謙一(一八六八 - 一九五七)
である。魚津の
寺院に生まれ、東京の貿易商吉沢商店に入り、店主となった手腕家である。
原玄一「富山キネマ小史④」
『北陸中日新聞』
昭和 57 年 1 月 26 日
河浦謙一 かわうら・けんいち 1868・2・15〜1957・10・26(慶応 4 〜昭和 32)
実業家。砺波郡津沢
くつわ だ
町西島(現小矢部市)
に轡 田誓順の長男として生まれる。魚津町の河浦家の養子となって慶応義塾に学び、
貿易商吉澤商店を経営する。 『富山大百科事典 上巻』
(北日本新聞社、平成 6 年)429 頁、原玄一「河浦謙一」
の項
これらを見ると、河浦が慶応 4 =明治元(1868)
年 2 月 15 日に富山県で生まれたという点では記述の
等)
の記載からも裏付けることができ
内容が一致しており、そのことは『人事興信録』
(第 3 版[明治 44 年]
る。ところが、それ以外のことになると、出身地を「西砺波郡津澤」
としている記述がある一方で、
「魚津
の寺院に生まれ」
たとしているものがあり、また吉澤商店との関わりについても、河浦が「吉沢商店を開」
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
35
いたという記述がある一方で、
「吉澤の店に寄寓し」
たというものもあり、そのときどきで(ときには同じ
著者による記述でも)
内容が一定ではない。
まずは、河浦の生い立ちから考えてみたい。はたして河浦が生まれたのは、西砺波郡津沢町(現小矢
部市、河浦が生まれた慶応末年は加賀藩領)
だったのだろうか、あるいは新川郡魚津町(現魚津市、河浦が
生まれた慶応末年は加賀藩領)
だったのだろうか。ところで、河浦が「寺院に」
生まれたという話や、
「轡田
誓順」
という父の名前は、原玄一など富山の郷土史家たちの著作の中に見られるもので、映画文献では
)
年に河浦が死去
ほとんど取り上げられることがない 。ただ、ここで思い出されるのは、昭和 32(1957)
5
した際『キネマ旬報』
に掲載された訃報記事の記述である。
元吉沢商店店主として明治時代の日本映画業者の代表的存在だった河浦謙一翁は、十月十六日夜富山県
滑川市養照寺の寄偶さきで逝去した。
『キネマ旬報』
昭和 32 年 11 月上旬号(No.190)104 頁「映画界の動き」
。
かつて、この記事を見たときには河浦が「富山県滑川市養照寺」
で没したというのはどのような事情に
よるものか、全く見当が付かなかったが、先の文献によれば、そもそも河浦自身が寺院の出身であった
というのである。
そして、この件を調べるうえで大きな手がかりを与えてくれたのが、インターネット上で見つけた「京
という個人サイトであった。それは、映画にまつわる場所や建物など
橋 OL と行く世界の映画写真紀行」
内外の旧跡を写真とコメントで紹介したもので、
「日活の前身・吉沢商店をひらいた河浦謙一の実家・照
)
善寺」
と題したページに、次のように書かれていたのである 。
6
富山県魚津市にある浄土真宗のお寺、照善寺です。実は私の母がこの寺の出身でして、祖父の轡田慧眼(く
つわだえげん)
はここでお坊さんをやっています。祖父が言うところによると、日活の前身である吉沢商店の
創業者、河浦謙一がここのお寺の出身で、本名を「轡田」
というらしいのです。こういう話をきちんと誰も伝
えない、と明治生まれの 90歳を超えた祖父が嘆いているので、ちょっと詳しく書いておこうと思います。あ、
といっても私は河浦謙一さんの子孫ではありません。残念ながら。照善寺は大きな寺なので、2 つの家で切
り盛りしているのですが、河浦謙一さんは大寺の「轡田」
の子供。私の母は小寺の「轡田」
の子供。同じ名字
で、同じ職場で働いているのに、何故か血縁関係は無いそうです。
[中略]
私の祖父はたぶん、明治 40年前
後生まれなのですが、子供の時に一度だけ河浦謙一さんを見たことがあるそうです。河浦謙一さんのお父さ
んが亡くなった時に、お葬式に参列している姿を記憶しているとのこと。タキシードにシルクハットの立派な
服装だったそうです。時代を感じさせられます。
ここでも、河浦の本名として「轡田」
の姓が明記されているのみならず、
「浄土真宗のお寺、照善寺」
の
出身と、具体的な寺の名前や、その現在の写真までが掲載されている。しかも、この執筆者本人が、照
善寺の「小寺」
の僧侶、轡田慧眼氏の孫にあたるというのである。ただ、それでも解らないのは、先の『人
に「君は富山県津澤町立島順誓の男」
と書かれていることで、ここでは父の姓は「立
事興信録』
(第 7 版)
島」
、また名が「順誓」
とあるのも『富山大百科事典』
などの「誓順」
と異なる。しかしいずれにしても、や
がて東京は「吉澤」
商店の主人として歴史の表舞台に登場する河浦謙一は、当初は「河浦」姓を名乗っ
てはいなかったことになるわけだが、果たして河浦の元の姓は「轡田」
だったのだろうか、
「立島」
だったの
だろうか。
そこで、これらの疑問点について問い合わせをしてみたところ、サイトの運営者である「マリコ」
こと千
36
田麻利子氏から返事をいただき、照善寺の「小寺」
、すなわち敬恩寺の住職である轡田均氏(千田氏の叔
父)
が、あらためて慧眼さんへの聞き取りと寺の過去帳の調査にあたって下さることとなった。また本件
では、魚津市立図書館の初道ゆかり氏のご協力を得て、照善寺住職の轡田普善氏からも貴重な情報を
提供していただけたことは幸運であった。
また、それと平行して、河浦の墓所は意外にも東京の青山霊園にあることが判った。これは、日本大
学芸術学部の田島良一教授にご教示いただき明らかになったもので、そこから河浦謙一の五男である
加藤信一氏、三女の柴田直子氏、四男の故・河浦敬一氏夫人の道子さんと連絡をとることができた。河
浦謙一は生涯にてる、たみ、ゑいの三人を妻に迎え、五男三女をもうけたが、敬一さん、信一さん、直
子さんは最後の妻ゑいとの間に生まれた兄妹である。
)
これら関係者への取材を通して判明した事実は次の通りである 。轡田均氏と轡田普善氏によれば、
7
にしのしま
4
4
4
4
河浦謙一の父は津沢町西島の大谷派寺院、光西寺の僧侶だった立島順誓である。ところが、魚津にあ
る照善寺の 16 世住職が若くして亡くなり、その跡継ぎが幼かったため同じ宗派の順誓が養父として
4
4
4
4
移った。このため立島順誓は照善寺の 17 世住職、轡田順誓として過去帳に名前を残している、というこ
4
4
『人事興信録』
と同様に)
「順誓」
と明記されていることから、
とである。また、河浦の父の名は過去帳にも(
4
4
は、誤って伝えられたものと思われる。
『富山大百科事典』
などに見られる「誓順」
これにより、津沢と魚津、
「立島」
と「轡田」
の関係を明らかにすることができた。すなわち、津沢にある
たつしま
くつわ だ
の姓を名乗り、魚津の照善寺は「轡 田」
を名乗っている。河浦の父、順誓は光西寺
光西寺は代々「立島」
から照善寺へと移り、それに伴い姓を「立島」
から「轡田」
に変えていたのである。それでは、河浦の出生
時の姓はどうだったのだろうか。これには、父の順誓が光西寺から照善寺へ移った時期が影響を及ぼす
と考えられるが、その記録は残されていない。一方、照善寺の過去帳によれば、16 世住職が亡くなった
年 4 月。つまり、河浦が生まれる 10 か月前であるから、河浦が津沢で生まれた可能
のが慶応 3(1867)
魚津で生まれた可能性も、したがって河浦の当初の姓が「立島」
で
性も、
(順誓が照善寺へ移った後に)
あった可能性も、
「轡田」
であった可能性も残されているように思われる。
年 3 月 13 日付中部日本新聞夕刊の記
しかし、現時点で最も有力と思われる資料に、昭和 32(1957)
事がある。それは、
「映画界草分け」
として河浦謙一を紹介したもので、次の記述が見られる。
マ マ
謙一氏は富山県西砺波郡津沢町(現砺中町)
光西寺に生まれ、五歳のとき魚津市下村木照善寺をつぐことに
なったが、十六歳のとき大阪に行き、漢学と英語を修め、二十五歳のとき上京し、外国人に人気のあった切
手コレクションの売買に着目[後略]
「シネマトグラフ買入れが発祥 富山の河浦氏が映画博へ出品
映画界草分けの資料」
『中部日本新聞』
昭和 32 年 3 月 13 日夕刊
これはおそらく生前の河浦に取材した最後の記事と思われるもので、同年 3 月に犬山自然公園で開
幕した日本映画博覧会に河浦所蔵の資料が出品されたことが取材のきっかけとなったようだが、河浦自
身は既に滑川で病床にあり、記事が出てから 7 か月後に他界している。そうした状況を考慮すれば、年
なども慎重に扱う必要はあるものの、
「光西寺に生まれ」
と明記されていることは注目に
代の記述(記憶)
値する。これと、
『人事興信録』
の「富山県津澤町立島順誓の男」
という記述、そして、河浦本人に取材を
行った田中純一郎の「津澤の出身」
という記述をあわせれば、やはり津沢の光西寺に生まれた河浦が、
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
37
父の順誓とともに魚津の照善寺へ移ったと考えるのが妥当と思われる(ただし、この場合には、その後父
にならい自らも「立島」
から「轡田」
に改姓した可能性が出てくるわけだが)
。
なお、その後の「河浦」
への改姓についても詳しい事情は判っていない。照善寺には、謙一が門徒の河
浦家に養子入りしたという言い伝えがあり、また実際に、魚津には現在も河浦姓が多く点在しているこ
とが確認できるが、現時点でそれ以上の裏付けは取れていない。
まだまだ不明な点が残されているものの、ここまでの調査で、光西寺のある「津沢」
と照善寺のある
「魚津」
、そして河浦が最期を迎えた養照寺のある「滑川」
をつなぐ、一本の糸が見つかったことも大きな
収穫であった。これら三つの寺院はいずれも同じ真宗大谷派に属しており、また後で見るように、河浦
が「養照寺の寄偶さきで逝去した」
というのも、親類のいる養照寺で晩年を過ごしたものであることが明
らかになった。
河浦謙一の血縁
魚津で照善寺の 17 世住職となった轡田順誓、つまり河浦の父は、寺の過去帳によれば大正 7(1918)
年 10 月 29 日に享年 74 歳で他界している。照善寺では、その後 16 世の実子である轡田順十が成長して
18 世住職を継いだということだが、順誓の妻や子(河浦謙一の母や兄弟姉妹)
についても、詳しいことは
判らない。ここでは、これまでの資料調査と富山での取材を合わせて、現時点で判明した限りのことを
記しておく。
と書かれてい
まず、
『人事興信録』
の記載を見ると、先に引用した第 7 版に、河浦は「立島順誓の男」
ママ
と書かれている
たが、この記述の内容は版によって違いがあり、
「立島順敬の弟」
あるいは「高島憧の弟」
ケースも見られる。
君は富山県平民立島順敬の弟にして明治元年二月十五日を以て生れ[後略]
『第三版 人事興信録』
(人事興信所、明治 44 年)
君は富山県平民高島憧の弟にして明治元年二月十五日を以て生れ[後略]
『第五版 人事興信録 上』
(人事興信所、大正 7 年)
「立島順敬」
の名は第 4 版(大正 4 年)
にも、また「高島憧」
の名は第 6 版(大正 10 年)
、第 8 版(昭和 3)
に
も見られる。従来の文献で河浦は「長男」
と書かれているのをよく目にするが、
『人事興信録』
の記述を見
る限り、河浦には少なくとも二人の兄がいたことになる。
一方、富山の調査では以下の情報を得ることができた。
照善寺の過去帳には、
「順誓殿ノ三男」
に「轡田順憲」
がいたことが記されている。この順憲は明治 9
(1876)
年に生まれ昭和 2(1927)
年に没しているので、謙一の弟にあたる。
また、吉澤商店のロンドン支店でフィルムの買い付けなどを担当し、映画史の文献では有名な河浦の
)
弟、立島清はその後津沢の光西寺住職として名を残している 。
8
さらに、謙一には、後に滑川の養照寺に嫁ぎ坊守になった重尾という妹がいたことも判った。つまり、
河浦は晩年この重尾のいる養照寺に身を寄せたのであり、このことは、柴田直子氏と養照寺住職の藤
38
谷惠氏の証言で明らかになった。なお、先の中部日本新聞には、次の記述が見られる。
同氏[河浦謙一]
は一昨年春から妹筋にあたる藤谷彰亮師(富山県滑川市領家町養照寺)
方に身を寄せ[後略]
当時の養照寺住職、藤谷彰亮は重尾の長男であり、河浦謙一には妻のゑいと直子さんが付き添い生
活を共にしていたという。
河浦謙一の学歴
吉澤商店の話へと進む前にもう一つ、河浦の学歴にも触れておきたい。これについては、既に見たよ
うに、多くの文献で慶応義塾への進学という話題が取り上げられている。しかし、前掲の『人事興信録』
には慶応義塾への言及はなく、かわりに次のような記述が見られる。
少壮大阪に赴き藤澤南岳に漢学を東雲学校に英学及普通学を修む
同様の記述は第 5 版(大正 7 年)
にも見られる。なにより、
『人事興信録』
は河浦が現役の実業家として
大きな影響力を及ぼし、また社会的な責任も求められたその当時に編纂された刊行物である。かたや
様々な文献で伝えられてきた「慶應義塾」
についての記述は後代の研究者によるものであるから、この情
報もいったんは留保しておくのが妥当であるように思われるのだが……。ここでは、大阪の「藤澤南岳」
「東雲学校」
について判明した情報を記しておきたい。
を開
藤澤南岳は、高松藩の儒官を務め大阪に漢学塾・泊園塾(文政 8[1825]年開塾、後に泊園書院)
年に家督を継いでいる(本名は恒)
。慶応 4(1868)
年に、高
いた藤澤東畡の長男であり、慶応元(1865)
松藩を佐幕から勤皇へ転換させて危機から救った逸話が有名で、
「南岳」
の号はこのときの功績を賞し
て藩主頼聡から与えられたものとされる。また、南岳は漢学への精通で当代随一をうたわれ、名づけの
名人として、今日では例えば大阪新世界の「通天閣」
の命名者として取り上げられることもある。一方、
父・東畡が開いた泊園書院は、大阪大学の源流とも言われる懐徳堂や緒方洪庵の適塾などと並び称さ
年に再興された。後には南岳の長男・黄
れた私塾の名門であり、南岳によって維新後の明治 6(1873)
年に歴史を閉じている。泊園書院は開塾以来、
鵠、さらに次男の黄坡へと受け継がれ、昭和 23(1948)
年に東区淡路町 1 丁目に移転した頃より入門者が激
大阪内で移転を繰り返しているが、明治 9(1876)
)
年にはさらに南区南錦屋町 46 番地に移転) 。
増し最盛期を迎えたといわれる(明治 39[1906]
9
河浦が「藤澤南岳に漢学を」
学んだというのは、この泊園書院での修学を指すものであろう。明治 35
(1902)
年発行の『近畿遊学便覧 大阪之部』
には、書院の概要が紹介されているので、その一部を紹介し
ておこう。
本院は正徳を主とし知識を広めんが為め漢学を教授する所にして院主は藤澤南岳氏なり
▲学級を分ちて九等とし、一等より四等に至るを高科とし、五等より九等に至るを初科とし、初科は素読に
始まり無点の書を了解するに挙り、高科は諸子に通ずる得業の修り識の定るに挙り、八等は始めて詩を学
び、七等始めて文を学ぶ[中略]
▲授業は講義一日二時間、輪講一日四時間にして質疑会読共に定限なく文会詩会は毎月二回、別に毎週詩
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
39
文各一首を作らしめ尚ほ余暇を以て他の諸学校に通学することを許せり
西原実光編『近畿遊学便覧 大阪之部』
(近畿遊学便覧発行所、明治 35 年)47-48 頁
一方の「東雲学校」
は、やはり『近畿遊学便覧 大阪之部』
に記載されている大阪東雲学校のことを指
すと思われる。同書によれば泊園書院と同じ大阪東区の南久太郎町 1 丁目にあった私学で、校長は武田
楢三郎、創立は明治 15(1882)年 1 月とある。前掲の中部日本新聞によれば河浦が大阪に赴いたのは
「十六歳のとき」
で、これが事実なら河浦の入学は明治 17 年となるが、いずれにしても、この東雲学校の
開校初期の生徒の一人であったことは間違いないだろう。以下に概要の一部を紹介する。
本校は大阪中学校、大阪商業学校、大阪師範学校、大阪工業学校、大阪農学校、陸軍士官候補生、中央幼
年学校、海軍兵学校、一年志願兵、大阪府小学校教員検定受験生等を養成する所にして校長は武田楢三郎
氏なり
▲教科は受験予備科、正科、別科、夜科の四種とし○受験予備科は前記各受験に必要の学科を教授し○正
科は実業に就かんと欲する者に須要なる学科を教授し○別科は本校正規の学科を履修し能はざる者又は
学期半途入学にして学科の短所を補習せんとする者に其志望の学科を教授し○夜科は昼間来学し能はざ
る者をして僅に一年半に日常必須の諸科を学修せしむ○修業年限は各三ヶ年にして夜科は一ヶ年半とす
▲学科及課程、受験予備科並に正科は倫理、国語、漢文、英語、独逸語、算術、代数、幾何、三角、教育、地理、
歴史、生理衛生、動物、植物、鉱物、物理、化学、簿記、図書、習字、唱歌、体操○正科並に夜科は倫理、国語、
漢文、英語、独逸語、算術、代数、幾何、簿記等とす
西原実光編『近畿遊学便覧 大阪之部』
(前掲)33-35 頁
各校の概要の記述から、おぼろげながらも河浦が勉学に励んだその環境を想像することができるだろ
う。河浦が漢学を学んだ泊園書院では「余暇を以て他の諸学校に通学することを許」
していた。また、普
通学と英学を学んだという東雲学校では「受験予備科」
の他に「実業に就かんと欲する者に須要なる学
科を教授」
する「正科」
を設け、また正規の学科を履修できない者や昼間の通学ができない者のための
「別科」
や「夜科」
も用意されていたというので、あるいは河浦も二つの学校に同時に在籍しながら、後の
商店経営に必要な知識と教養を身に付けたのではなかっただろうか。なかでも英学の素養は、浮世絵や
幻燈、活動写真などの貿易で一時代を画した河浦の自己形成を考える上で興味深い。
吉澤商店創業の
今回の調査では、河浦が生まれ故郷の富山を離れ東京へと移る前に、大阪で過ごした時期があった
ことが明らかになった。それでは、河浦は、その後どのようにして吉澤商店の店主となったのだろうか。
この吉澤商店の由来についても既に見たように、河浦が縁戚の「吉澤の店に寄寓し」
たという記述と、
河浦自身が「吉沢商店を開」
いたという記述の両方がある。
が店主の名前(河浦)
と異なる理由についても様々な説が唱え
また、興味深いのは、店の商号(吉澤)
られてきたことである。
上京して神田区紺屋町の知人の吉沢家に寄食し、写真、幻燈機の販売、浮世絵、郵便切手類の輸出を目的
に、吉沢商店を開き、大いに発展したという。吉沢の名を使ったのは僧籍を表に出したくなかったためだが、
[後略]
40
田中純一郎『活動写真がやってきた』
(中央公論社、昭和 60 年)76-77 頁
人々から紙屑屋あつかいにされるのを恐れて、新聞広告に自分の名を出すのを避け、下宿していた家の名前
を無断借用して吉沢商店と名のったほどだ。
岡田晋「日本映画の歩み(2)河浦謙一と創生期の撮影所」
『映画評論』
昭和 30 年 2 月号
吉沢商店という名は、使用している女中の名をとって付けた。住職の出をはばかったのであろう。
受川策太郎「日本映画の創始者河浦謙一(富山県出身)
を語る」
『石川郷土史学会々誌』
第 25 号(平成 4 年 12 月)
それぞれ内容は異なるが、河浦は自身の名が表に出ることを避けて、商号に他人の名前を借用した
というのである。そして、これらはいずれも河浦を吉澤商店の創業者とみなしている点で共通している
のだが、実際はどうであろうか。ちなみに、田中純一郎が河浦に取材を行った直後、
『日本映画』
に発表
した記事には河浦自身の談話として次のように記されている。
元来吉澤商店といふのは、私の縁戚に当る店の名でありましたが、私が錦絵の貿易を初める頃は、まだ年が
若かったので、吉澤の店の名で商売をしたのです。そんな関係から、幻燈や活動写真の商売をやるやうに
なっても店名は吉澤をそのまゝ踏襲してゐました。
田中純一郎「日本映画史(三)一本が五十呎」
『日本映画』
昭和 17 年 9 月号
このことを考えるヒントの一つは、現存する吉澤商店発行の定価表に「ESTABLISHED 1879」
という
年とみなすことができる。
記載が見られることである )。これにより、吉澤商店の設立を明治 12(1879)
10
しかしこの時点では、河浦自身はまだ 11 歳であったため、吉澤の店は河浦が関わる以前から存在して
いたと考えるのが自然ではないだろうか。
すると、次に気になるのは商店の先代や創業者の存在であるが、これについては後で取り上げる。ま
ずは、初期の吉澤商店がどのような様子だったのか、情報をまとめておこう。吉澤商店の沿革について、
田中純一郎は次のように記している。
吉澤商店は、初め神田区紺屋町で錦絵や郵便切手類の輸出貿易を試みてゐたが、業務の発展と共に、
二十七年に京橋二丁目へ移り、蒔絵、彫刻、陶器等の美術品を初め、写真器、幻燈、蓄音器等の貿易販売
を兼ね、更に京橋区南金六町(新橋際)
に別館を設けて、貿易品の陳列場を開いた。
田中純一郎「日本映画史(五)吉澤商店の活躍」
(前掲)
ところがその後、塚田嘉信の『映画史料発掘⑮』
(昭和 49 年 4 月)
によって明らかにされた事実がある。
に掲載された「吉澤商店幻燈部」
の広告に次のような記述があるのが見つ
明治 30 年 1 月発行の『太陽』
かったのである。
従来丸川商店ト称シ数年営業致居候処今回吉澤商店幻燈部ト改称シ
その後、フィルムセンターでは「丸川商店」
から刊行された『幻燈並映画定価表』
の第 4 版(明治 27 年)
を入手することができた。これらの奥付を見ると、商店の住所として「東京市南金
と第 6 版(明治 28 年)
が記載されている。とこ
六町十三番地」
、また第 4 版には支店の住所として「同市神田区紺屋町五番地」
は後から貼紙されたもので、その下には「南伝馬町二丁目
ろが、第 4 版の「東京市南金六町十三番地」
十一番地」
という文字が印刷されている。これはすなわち商店が「神田区紺屋町」
から「京橋二丁目へ移
に別館を設け」
たという田中の説明と符号するものであろう。
り」
、
「更に京橋区南金六町(新橋際)
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
41
だが、ここから直ちに、丸川商店を吉澤商店の前身とみなすことはできないようだ。それは、上記の
年の『古代浮世絵買入必携』
など、
「吉澤商舗」
から刊行
『幻燈並映画定価表』
よりも古い明治 26(1893)
された資料が残されているからである。その住所はやはり「神田区紺屋町五番地」
、そして電話番号
「七百七十四番」
も丸川商店の定価表に記載されているものと同じである。つまり、吉澤のルーツに吉澤
商舗と丸川商店の二つが存在していたことになるが、これら二つの商店は、商号も扱う商品もまるで異
なり、定価表などを見る限りではそれらが互いに関係していることも判らないほどである。以下では、こ
れまでの調査で判明した事実を整理しながら、南金六町の吉澤商店が成立するまでの経緯をたどるこ
)
とにしたい 。
11
吉澤商舗と浮世絵の輸出(1)
:読むと金のもうかる広告
既に見たように、吉澤商店の設立は明治 12(1879)
年のことであったと考えられるが、筆者がこれま
年に発行された吉澤商舗の
でに確認することのできた商店の刊行物で最古のものは、明治 21(1888)
「読むと金のもうかる広告」
という一枚物のチラシである。その発行元は次のように書かれている。
神田区紺屋町五番地
今川橋まつやの向横丁
雑貨輸出商 吉澤商舗
住所の目印となっている「今川橋まつや」
とは、今川橋松屋呉服店のことであろう。今川橋松屋は江戸
呉服店の老舗であり、このチラシが出た翌
時代からの歴史を持つ(安永 5[1776]年の創業とも言われる)
年の 12 月には横浜の鶴屋呉服店に買収されその支店となったが、その後も松屋の
年、明治 22(1889)
のれんで営業を続け、百貨店の草分けとして大きな成長を遂げることになる。その正確な住所は東京市
神田区鍛冶町 34 番地、これは現在の千代田区鍛冶町 2 丁目 2-1、三井住友銀行神田駅前支店がある場
所にあたる。そして、吉澤商舗があった「神田区紺屋町五番地」
は、現在の千代田区鍛冶町 2 丁目 4、鍛
冶町ビルのある場所にあたる。
次に「読むと金のもうかる広告」
の内容を見てみよう。
◦古にしき絵江戸絵又絵紙買入上等百枚百五十円迄右は古き程高価にて近頃の物は百枚二三十銭位にし
か相成不申候
◦古絵本買入草双紙読本を除き彩色ずり上等一冊五円迄以下色々
◦俳偕名広め其他各種のすり物買入絵の美麗なる物程高価に買入可申候
◦葛飾北斎の画は掛物、巻物、画帖、屏風、額面、まくり其他下絵及はん物も高価に買入申候
◦浮世絵即ち美人其他古代の風俗を画きたる掛物、巻物、画帖等は美麗なる物程高価に買入可申候
◦古郵便切手はがき類買入当時通用の物を除き百枚三銭より百五十五円迄数十種
右は何れも外国にて一時流行の為め買入れ候に付流行のすたらぬ内に御持参被下度右等の品は外国へ沢
山出るに順ひ安く相成外国にすたる時は元の二束三文の品に相成申候
これはつまり、古錦絵や古郵便切手の買取広告であるが、本来なら「二束三文」
の錦絵が、上等の品
42
なら「百枚百五十円」
の高値で取り引きされるというもので、それが一時的な海外での流行に起因して
いること、この好機を逃せば再び価格の下落が起こることを説きながら、
「金のもうかる」
という露骨な
表現で持ち主に売却を促す内容となっている。なお、錦絵は地方では「江戸絵」
、また関東から東北地
。
方では「絵紙」
とも呼ばれていた(樋口弘編『浮世絵の流通・蒐集・研究・発表の歴史』)
しかし、流行がすたることはなかった。この「読むと金のもうかる広告」の発行から 5 年目の明治 26
(1893)
年になると、吉澤商舗は 40 頁以上におよぶ冊子体の『古代浮世絵買入必携』
を刊行しており、ま
た、同じ頃海外向けに刊行された英語やフランス語の売立目録も残されていることから )、吉澤商舗は
12
数年の間に浮世絵商として大きな躍進を遂げたものと思われる。
吉澤商舗と浮世絵の輸出(2)
:明治の浮世絵ブーム
明治期以降、膨大な数の浮世絵が海外へ流出し、国内から姿を消したことは周知の通りである。その
当時浮世絵の輸出に関わった業者の中では、林忠正や小林文七の名前がよく知られているが、吉澤商
店や河浦謙一についてはどうなのか気になり調べてみたところ、めぐり合ったのが永田生慈『資料によ
であった。同書では、吉澤商店の紹介に大きな頁が割かれてお
る近代浮世絵事情』
(三彩社、平成 4 年)
り、その定価表なども多数が図版や翻刻で紹介されている。ちなみに、先の「読むと金のもうかる広告」
も、同書に掲載されていたものである。また、この他に樋口弘編『浮世絵の流通・蒐集・研究・発表の歴
、
『紙魚の昔がたり 下巻』
(訪書会、昭和 9 年)
などでも吉澤の話題が取り上げ
史』
(味燈書屋、昭和 47 年)
られている。
これらの文献をもとに、吉澤商舗が姿を現した時代の背景を眺めてみよう。まず、明治初期の浮世絵
に掲載された淡島寒月「古版画趣
の流通を説明するためによく引用される資料に、大正 7 年の『浮世絵』
味の昔ばなし」
がある。以下にその一部を紹介する。
誰も錦絵や古書などを顧みぬやうな時勢であつたから、これまでは具眼の士から、相当の待遇を受けて居つ
た品も、又、世に有り振れた拙劣な作品も、所謂玉石混淆で、十把一からげの値段で売買されてゐたのであ
る。之れを証すべき当時の実例を挙げると、明治初頃には、浅草見附の辺などの路傍に出た露店の店頭に、
つまらぬ黄表紙類を並べた傍へ、尺余の高さに積んだ錦絵を、より取り一枚金壱銭位で売つて居たのであ
る、此の中には、素より下らぬ絵もあつたが、今から考へれば、嘘のやうだが、写楽の雲母摺なども確かに
交つて居つた[後略]
淡島寒月「古版画趣味の昔ばなし」
『浮世絵』32 号(大正 7 年 1 月)
このように、明治初期には反古と同様に扱われていた錦絵であったが、海外での流行を機に明治 20
年前後に価格の上昇が始まると、それに伴い売買の組織も急速な発達を見せることになる。樋口弘は、
と呼んでいる。大正 6(1917)
年に『浮世絵』
に掲
明治 10 年代から 30 年代を浮世絵の「海外大流出時代」
載された浮世絵子「錦絵の買集めと其苦心」
は、その当時の価格の暴騰ぶりと、国内全域に手を拡げて
錦絵の発掘に熱を上げる商人たちの動きを伝えて興味深い。
錦絵の流行出したのは、明治十六七年の頃が始まりで、それからぽつぽつと値が出まして、二十五年の頃に
なりますと、春信の中錦絵一枚が、十円位になりました、すると利に早い商人連中は我先にとこれが蒐集に
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
43
取りかゝり、東京は云ふに及ばず、京阪のものまで漁り尽し大正の今日に至っては、日本六十余州の津々
浦々までも、手を拡げて大々的の広告文を配布して、田舎に残存してゐる品をば買ひ取らうと、あっちこっ
ちを苦心して探がしてあるく人物が各県をおしまはってゐます、地方では主にどんな種類の人々が買ひ集め
るかと類別して見ますと、何れも錦絵に依って、一攫千金の儲けを夢想してゐる者で、まづ古金買、床屋、
古本屋、骨董屋などに多いやうです、その外にも質屋、呉服屋などの主人が、自分の商売をそっちのけにし
て、慾に使はれてこれまた錦絵熱に浮かされ探がし廻ってゐます、又ボロ問屋で買子の四五十人も使ってゐ
る家では、きっとその中の四五人が錦絵専門の買手と定められてゐます、これ等の人達は自分の県内ばかり
では容易に堀出せないので、他県にまでも飛出して、何にか甘い掘出し物にぶつからないものかと、鵜の目
鷹の目で探がし廻ってゐます。
この人達が、錦絵を買入れる方法は、なかなか振ったもので、例へば歌麿とか北斎とか広重とかの、再版
絵を見本に携帯し、村々を軒別に廻って、
「お宅には、こんな絵紙はありませんか、有りましたら高価頂きま
すが」
などと誘ひをかけて、さがし歩き、そのうち逸品でも見附けやうものなら、さあ大変、手を変へ品を変
へ、何遍も何遍も出掛けては、それを狙って、目的を達しないまでは、如何しても動かない、丸で耶蘇教の
宣教師が、信者でも作るやうな熱心さでせめかけるので、とうとうその目的を達します、併し中にはさう甘く
行かずに、最初五十銭位から値を附け初め先方が容易手放さないと見ると、忽ち一二円値を増し、終には
十円、二十円、五十円と煽立てるから、売り手の方では底が知れないので気味悪くなり、体よく売却を断は
る乃ち売却中止となる、かうなると、買い手は自棄気味になり、最後に法外な鉄砲値段を入れる、
(鉄砲値
段とは買へない馬鹿値)
すると持主は益々あきれ、売り惜みをして、余程の貴重品のやうに心得て、実際の価
格以上でも遂には値に拘はらず売らなくなる事も往々あります。
かくして、此等の商人が探がし出した錦絵は、どう納まるかと云ふと、其の買ひ集めた品は、東京の錦絵
商の手に売り渡される、その中で東京で落第する品があると、これは又、各地から入込む駆出しの浮世絵天
狗に売り渡されると云ふ順序になってゐます、さて東京の浮世絵商の手に渡った品は、一纏めにして外国の
得意先へ送られたり、東京在住の西洋人又はホテルに宿泊してゐる外国人の愛好家に売り渡されます、け
れども近来外国人に劣らず、本邦人に浮世絵の蒐集家が大分多くなり、内地でも可なりに捌けるやうにな
りました。
浮世絵子「錦絵の買集めと其苦心」
『浮世絵』21 号(大正 6 年 2 月)
明治 12 年の吉澤商店(吉澤商補)
の設立とその後の発展は、まさにこのような状況と重なり合うもの
であったと考えられる。また、
『東京古書組合五十年史』
には、この時期に活躍した浮世絵商の中でも吉
澤商店が突出した存在の一つであったことが記されている。
錦絵がさらに高騰し、美術的価値がしだいに知れ渡り世界的に需要が増えると、資本力と営業手腕を持っ
た業者が、しだいに現われるようになった。それは明治二十年代の中頃からで、三十年頃には東京だけで十
店近くにもなった。
古参の酒井、村幸、小林、村金、竹田の数店にすぎなかったのだが、吉沢商店、諏訪商店、尾張屋、安達、
前羽、内藤、服部、平川、渡辺の諸店等に増加したのである。
ママ
このうち、最も盛大な店は小林又七であったが、それに次いだのは吉沢商店であった。
『東京古書組合五十年史』
(東京都古書籍商業協同組合、昭和 49 年)
引用文中に登場する「諏訪商店」
については後ほど取り上げるのでご記憶されたい。ところで、吉澤商
店について後の研究で注目を集めているものに、独自の買入目録を使った浮世絵の収集方法があり、
絵本買入概価
『資料による近代浮世絵事情』
ではその一つ『古代錦絵(江戸絵、版古又は絵紙とも云ふ)
の全文を翻刻で紹介している。また『紙魚の昔がたり』
でも、吉澤の(明
表』
(明治 39 年 7 月第 26 版改正)
44
治 26 年の)
目録に言及し、それらが錦絵買入の手引きとして現代でも通用する水準のものであったこと
が語られている。以下は井上書店主、井上喜多郎への聞き書きからの引用である。
井上 その後は、吉澤の浮世絵の買入目録です。これは素人の方へ
配らないで、各地方の道具屋などに配つたものです。
反町 手引きにした訳ですね、ナカナカ行き届いたものですね。
井上 兎に角吉澤と云ふと小林の次で錦絵のオーソリチーだつたの
ですね。確か今の渡邊さんが店員として居つたのかと思ふ。
古いところの方は皆さう云ふ所の出の方と思ひますが……。
反町 (目録を繰り乍ら)
大変行き届いたものですね。
[中略]
窪川 これを見ればスツカリ判つてしまう。今でも通用するですか。
反町 湖竜斎「長絵最も多し、長絵にて七福神、及び鐘馗などを描
きたるものあれども廉価なる故、買入れざるをよしとす」
全く
親切なものですね。
[中略]
鹿島 これでは浮世絵のコツを皆教へてやるやうなものですね、吉
澤と云ふ人は偉い度胸のある人ですね。
[中略]
図 2 吉澤商舗の買入目録(明治 26 年 7 月
改正)
東 この間竹田[泰次郎]
さんの話で、浮世絵のことは明治二十六
年時分は幼稚のやうであつたけれども、左に非ずだね、これを見ると……今でも適用しますか。
井上 今でも大差はない、根本は大体同じですね。その道理で行ける訳ですね。
反町茂雄編『紙魚の昔がたり 下巻』
(訪書会、昭和 9 年)353-356 頁
吉澤の買入目録は、これまでに確認できただけでも大正 8(1919)
年の第 33 版までが刊行されており、
今でも多くの現物が残されていることから、その当時より大量の部数が出回っていたものと推察される。
の形成に直接結びついていたことは間違いないだろう。
この目録の配付が、
「古版画の集荷網」
(樋口弘)
つまり、全国の道具屋が発掘した錦絵を吸い上げ、海外の得意先や国内の外国人に売りさばいていた
という、
「東京の錦絵商」
の代表例が吉澤商店であったと思われる。これほど大規模かつ合理的な経営
システムを持つ業者が吉澤の他にも存在したのかどうか、筆者の知識では断定的なことが言えないが、
年の『古代浮世絵買入必携』
の巻末には、既に類似の業者に警戒を促す「至急注意広告」
明治 26(1893)
が掲載されているのが注目される。
近頃弊店ノ隆盛ニ附込ミ朝起暮廃ノ奸商世人ヲ瞞着セントシ弊店ノ直段表ヲ名義丈取替ヘ其侭印刷シテ
配付シ又ハ弊店類似ノ広告ヲ為シ品物ヲ取寄セ送金ヲ延滞シ甚シキハ送金セサル者有之或ハ弊店手代ナ
ドト詐称シ其他種々ノ名義ヲ以テ地方ヲ徘徊シ高価ノ品ヲ安ク買集メ跡ニテ他人ヲ以テ弊店ヘ売リニ参ル
者多数有之候ニ付如此奸商ノ広言詐術ニ罹リ御後悔無之様御注意申上候
名義だけを差し替えて吉澤の値段表を配付する者や、類似の広告をうつ業者が現れたというもので、
既に市場を争って多くの業者が現れていた様子がうかがわれる。
最後に、浮世絵と並ぶ主要な輸出品であった古郵便切手について触れておきたい。鈴木孝一編
(河出書房新社、平成 7 年)
は、明治 27(1894)
年 3 月 9 日に初の記念切
『ニュースで追う 明治日本発掘 5』
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
45
手となる明治天皇大婚 25 年祝典の記念切手が発売されたこと、その使用済みの切手を吉澤商店が買
い入れようとしている動きや、古郵便切手の流行に触れた時事新報の記事を紹介している。その一部を
元の新聞から引用する。細かな年代の検証はともかく、早くも明治 29 年の時点で吉澤商舗を「本邦人
にて古切手類を取扱ひたる元祖」
と見なす考えが存在したことや、代表的な切手商の顔ぶれを知る上で
興味深い。
去る明治十七年頃横浜居留地海岸通の独逸人バカラク商会に於て始めて我古郵便切手を買収したるを嚆
矢とし降つて十九年には同港山手居留地四十番墺国領事某も頻りに其の買収をなしたり又本邦人にて古切
手類を取扱ひたる元祖は新橋南金六町の美術品貿易商吉澤商舗にして切手の見本を店頭に掲げ売買を始
めたるは横浜元町の高橋商店及び仙金と称する古道具商等なりし爾来我邦に於ても漸く流行して明治
二十年よりは美術家又は官吏社会に好事家顕はれ、万国の古切手を集むる者次第に加はり従つて之を取扱
ふ商人も殖ゑ目下東京にては吉澤商舗、内藤、細嶋、和田、藤羽、佐野、泉田、上方屋、諏訪、山本他数軒
に於て何れも店頭に看板を掲げ売買をなすに至れり又地方にては大阪に十箇所、京都に七箇所、其他の各
地方を通じて三百五六十箇所に達したるよし目覚しき景況といふべし殊に其中には毎年欧文にて古切手定
価表を刊行し欧米各国へ送付して外国の注文を取るもあり然らざるも亦時々買入直段表を印刷して各店と
も買収を競ふの姿なりといふ
『時事新報』
明治 29 年 5 月 17 日
吉澤商舗と浮世絵の輸出(3)
:河浦謙一登場の前後
ここであらためて、初期の吉澤商店(吉澤商舗)
と河浦謙一の関わりについて考えてみよう。その手が
かりとなる三つの人名を挙げておきたい。一つは、
『人事興信録』
に記載されているもので、以下は第 3
版(明治 44 年)
からの引用である。
明治二十年四月先代久左衛門の養子となり家督を襲ぐ
これにより、河浦は、
「先代久左衛門」
なる人物の養子になったことが明らかになった。そして一見、こ
の「久左衛門」
が吉澤商舗の先代であったようにも思われる内容だが、なにぶんにも情報量が限られて
おり結論を得るための決め手に欠ける。久左衛門が吉澤家の当主であったのなら、その家督をついだと
いう謙一も「吉澤謙一」
を名乗るのが自然ではないだろうか。すると、久左衛門とは、吉澤家ではなく、
河浦家の当主のことを指したものだろうか。ところが、田中純一郎は、
「秘稿日本映画」
の中で次のよう
にも書いているのである。
[河浦さんは]
上京して神田区紺屋町の親籍、吉沢家の養子となり、
[中略]
ところが、妻君になるはずの吉沢
の娘が早死したので、元の河浦姓にもどり、店の名称だけは、吉沢をそのまま継承した。
田中純一郎「秘稿日本映画 第 6 回 イタリア人・ブラッチャリーニ」
(前掲)
この説明を見ると、吉澤商店は河浦が関わる以前から存在していたもので、河浦はいちど吉澤の養
「元の河浦姓に」
戻ったことになる )。
子となり(つまり吉澤姓を名乗った後で)
13
年は、
「読むと金のもうかる広告」
が
ところで、河浦が久左衛門の家督をついだという明治 20(1887)
現れたその前年にあたる。この年代が気になるのは、そもそも錦絵の海外への輸出を思いついたのが河
浦であったと書かれることがあるからである。
46
[河浦が]
或る日、外国雑誌を披いて見ると、日本の錦絵が外人の間に貴重に扱はれてゐることを知り、日本
人自体はまだ錦絵の価値をそれ程貴重に考へない頃だったので、案外容易に蒐集することを得た多量の錦絵
類を、巧みに海外へ輸出して一挙に多額の利潤を得た。 田中純一郎「日本映画史(五)吉澤商店の活躍」
(前掲)
河浦が「家督を襲」
いだというその時点で、吉澤商舗は創業から 8 年目を迎えていたわけだが、その当
4
4
4
4
時河浦は 19 歳。もしも、このとき河浦が吉澤家の跡継ぎになったのであれば、同時に商店の実権を与え
られた可能性も、またその河浦が錦絵の輸出に道をひらいた可能性も考えられるであろう。もっとも、
このことを検証するためには、さらに遡って明治 21 年よりも前の商店に関わる資料を発掘して、その当
時の営業内容を明らかにすることが必要である。
年発行の『日本全国商工人名録』
に見られる。その「外国輸出雑貨
二つ目の人名は、明治 25(1892)
商」
の項に次のように書かれているのである。
古代錦絵、古絵本、浮世絵 極彩色画、古郵便切手輸出 並ニ雑貨輸出商
神田区紺屋町五 Ⓨ吉澤登記
白崎五郎七編『日本全国商工人名録』
(日本商工人名録発行所、明治 25 年)
「東京府」
の 73 頁
ここには店の商号の記載はなく「吉澤登記」
という、店主と思しき人名のみが記されているが、その住
所と扱っている品目から、吉澤商舗のものと考えて間違いないであろう。すると、この登記こそが、商店
の先代と考えてよいのだろうか。しかし、この人物についても詳細は不明である。また、河浦の親族と、
魚津の照善寺の関係者は、いずれも吉澤という親戚には心当たりがないという話である。
ところで、
『古代浮世絵買入必携』
や海外向けの売立目録など、吉澤商舗による冊子体の刊行物が見
年であり、現存する資料を見る限りでは、この時期に商店の事業
られるようになるのは明治 26(1893)
が急速に拡大した可能性もあるが、それは『日本全国商工人名録』
に「吉澤登記」
の名前が現れた翌年に
年の展覧会に際し刊行された『河
あたる。そして、この年号が気になるもう一つの理由は、大正 7(1918)
の序文に、河浦謙一自らが次のように記しているからである。
浦所蔵 古代浮世絵版画目次』
不肖幸に明治二十六年以来是が蒐集に務め
これは、先の中部日本新聞に「二十五歳のとき上京し、外国人に人気のあった切手コレクションの売
買に着目」
と書かれていたこととも符合する内容である。もっとも、これらの記述の通り、河浦が明治 26
年に浮世絵や切手の収集、販売に関わったのが事実なら、それは吉澤商舗が浮世絵の輸出を始めた時
期よりも後のことになるが、それでもなお、この明治 26 年を境にして、若い河浦の才覚が商店の経営に
それまでとは異なるスケールをもたらした可能性も考えられる。
に関係している。ちなみに、
最後に、三つ目の人名だが、これも、明治 26 年の『古代浮世絵買入必携』
この『古代浮世絵買入必携』
は、永田生慈が「筆者が実見する中で最も古い買入れ目的の冊子」
と記し
ている資料であるが、その奥付には「編集兼発行人」
として次のような記載がある。
編集兼発行人 東京市神田区紺屋町五番地寄留 長野県平民 酒井松之助
また、翌明治 27 年に吉澤商舗が発行したフランス語の売立目録、Catalogue de vieilles gravures sur bois
japonaises, objets sculptes de valeur et en laque, ainsi que nouveaux livres sur l’art japonais, photographies de peintures,
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
47
objets d’art etc. の奥付には、編集兼発行人として「東京市京橋区北槙町十七番地 長野県平民 諏訪松
之助」
と書かれている。この「酒井松之助」
と「諏訪松之助」
は同じ人物が改姓したのではないかとも思わ
れるが、一方、筆者の知る範囲で吉澤の刊行物に河浦謙一の名前が記載されるようになるのは、明治
28(1895)年に「吉澤商舗陳列館」から発行された後述の案内文が最も古く、それ以前の資料で発行者
の個人名が記されているのは上記の 2 点のみである。
ところで、
『資料による近代浮世絵事情』
や『浮世絵の流通・蒐集・研究・発表の歴史』
『紙魚の昔がた
り』
には、吉澤商店や酒井好古堂、山中商会、吉田金兵衛、村田金兵衛、村田幸兵衛等と並ぶ代表的な
浮世絵商として諏訪松之助、または諏訪商店の名前を見ることができる。諏訪松之助は、大正 9(1920)
年発行の「東都錦絵数寄者番附」
では「世話人」
の欄に河浦と並び記載されるほどの人物であり、また大
年創刊の雑誌『錦絵』
では、やはり河浦とともに後援者(後に賛助員)
にも名を連ねている。さ
正 6(1917)
らには、同じ頃河浦が経営していたルナパーク株式会社の株主の中にも諏訪松之助の名前を見ることが
できるので、河浦と諏訪は浮世絵商の同業者という立場以上の密接な間柄にあったことが想像される。
その諏訪が吉澤商舗の事業に関わっていたとすれば、そこにはどのような事情があったのであろうか。
諏訪の経歴や年齢は不明だが、河浦の浮世絵収集が、自身の回想どおり明治 26 年に始ったとすれば、
それよりも前から商店で浮世絵の扱いを任されていたのが、諏訪松之助だったのだろうか。あるいは、
河浦自身が浮世絵の販売を思いついたという話が事実であるなら、その助っ人のようなかたちで招かれ
たのが、諏訪だったのであろうか。いずれにしても、後には明治大正期を代表する浮世絵商として活躍
する河浦と諏訪が、吉澤商舗でともに過ごした時期があったとすれば、吉澤商店の成り立ちばかりでな
く、明治の浮世絵商の系譜や起源を探る上でも重要なトピックになるものと思われる。
丸川商店と幻燈の製造販売(1)
:明治の幻燈ブーム
これまでに採集した資料を眺めてみると、吉澤商店(吉澤商舗)
は、浮世絵商としての飛躍に加え、こ
の明治 26 年の前後から数年の間に、大きな様変わりを見せたことが判る。
それは、①「丸川商店」
がこの頃から南伝馬町に姿を現し、それに伴い商店の業務に幻燈の製造・販
売が加えられたこと、②上野公園陳列館内に販売店が開設されたこと、さらに③新たな店舗が新橋際
の南金六町に設けられたことであり、この新店舗が間もなく吉澤商舗と丸川商店を集約し、商号も「吉
澤商店」
に改められることになる。こうして、映画史研究の世界ではよく知られた「南金六町の吉澤商
店」
が誕生するのである。以下に、順を追って、商店の動きを整理してみよう。
○明治 27年 3月、吉澤商舗の「古錦絵(江戸絵又ハ絵紙トモ云フ)」
買入チラシ
東京市神田区紺屋町五番地 吉澤商舗
同市京橋区南伝馬町二丁目十一番地 同支店
○明治 27年 9月、丸川商店の『幻燈並映画定価表』
(第 4版改正)
東京市南金六町十三番地[ただし「東京市南伝馬町二丁目十一番地」
を貼紙で修正]
丸川商店
同市神田区紺屋町五番地 同支店
48
後者は、これまでに見つけた丸川商店の刊行物としては最も古い資料であるが、この当時の丸川商
店と吉澤商舗の住所を比べると、本店と支店の関係が互いに逆転していることが判る。つまり、吉澤商
のではなく、明治 27 年には紺屋町の吉澤商
店が明治「二十七年に京橋二丁目へ移」った(田中純一郎)
と南伝馬町の丸川商店(同時に吉澤商舗の支店)
が、共に営業を行っていた
舗(同時に丸川商店の支店)
ことになる。
丸川商店の本店があった京橋区南伝馬町 2 丁目 11 番地は、現在の京橋 2 丁目 3-6、明治屋京橋スト
にあたる。先
アーの銀座側隣(本稿執筆中の平成 25 年 11 月現在は京橋二丁目西地区の再開発で工事中)
に紹介したように、丸川商店が吉澤商店幻燈部に改称したことを告げる『太陽』
の広告には、
「従来丸川
4
4
(傍点引用者)
とあること、また現存する『幻燈並映画定価表』
第 4 版の発
商店ト称シ数年営業致居候処」
行が明治 27 年 9 月であり、第 6 版が 28 年 10 月に発行されているペースから考えると、丸川商店の営業
)
開始は明治「二十七年」
よりも前、明治 25 年か 26 年の頃ではなかったかとも思われる 。
14
既
それでは、この丸川商店は一体どこから現れたのだろうか。それは、吉澤商舗が(丸川商店という)
新たな
存の幻燈商をそっくり買収したのか。あるいは、再び何か特別な理由から(吉澤の名前を伏せて)
商号を用いる必要があったのか。吉澤商店と河浦謙一の調査には、なぜか名前にかかわる謎がつきまと
うようだが、いずれにせよ、幻燈の製造と販売は後の活動写真事業にも応用可能な技術とノウハウを、
商店にもたらしたと考えられる。以下では、我が国における幻燈の普及について当時の状況を概観しな
がら、丸川商店が刊行した定価表の内容を調べてみよう。
は、明治 20 年代から 30 年代にかけての幻燈ブームに
岩本憲児『幻燈の世紀 映画前夜の視覚文化史』
ついて次のように記している。
明治初期に再渡来した西洋幻燈は明治二十年代から三十年代にかけて流行した。再渡来というのは、前述
したように、すでにオランダ渡りの幻燈が江戸時代の安永年間(一七七二〜八一)
に知られており、そこから
「写し絵」
という日本型の幻燈見世物へ発展していたからである。
[中略]
明治期の幻燈は写し絵とは異なり、
新時代の視覚メディアとしてさまざまな会合に利用された。演説、啓蒙、訓話、説法、社会情報(風刺も含め
て)
、科学知識、歴史や地理の教育等に利用され、あるいは災害や戦争などの事件の報道に使われ、日清・
日露戦争下では国家意識の自覚・国民意識の覚醒を強く訴えるメディアともなっている。
岩本憲児『幻燈の世紀』
(森話社、平成 14 年)12 頁
明治期における幻燈の「再渡来」
は、文部省の官吏であった手島精一が持ち帰ったのが始まりとされ
ており、これは石井研堂『明治事物起原』
の次の記述がもとになっている。
本邦に、始めて幻燈の映画及器械を輸入せしは、明治六年に、文部省の手島精一氏が、米国より帰朝せる
時に齎せるを以て嚆矢とすべし。当時の映画は、実に左の七十枚なりし。
天文 十七枚 自然現象 十二枚
人身解剖 二十枚 動物 二十一枚
十三年に至り、文部省にては、各府県の師範学校へ、奨励品といふ名にて、頒与せんとしたりしが、一々之
を外国より輸入せんよりは、之を内地にて製造するの至便なるがために、当時写真業者中、理化学の新智識
ママ
ある鶴淵初蔵中島真乳の両人に、其模造を謀りたり。両人、少からぬ失敗と研究とを重ね、漸く成功して、
之を上納せしは、同年八月(?)
のことなりとす。これより、両人は、文部省の命ある毎に、之を製造上納し、
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
49
文部省は、之を地方の師範学校等に頒与せしが、同十六年に至り、同省経費の欠乏より、この事寝めり。
[中
略]
文部省の依托製作のこと廃止になりたれば、鶴淵氏は、如何にもして此有益品を、民間に広めんことを
思ひ、先つ、其効能を実地目撃せしむるより善きは無しと為し、十六年の三月に、江東井生村楼に教育幻燈
会を公開し、無料縦覧せしめしを始とし、各所に開会して縦覧せしめたり。
[中略]
然るに、多年苦労して、時
間と労力とを費したる結果、いつとは無く世間に其名を知られ、明治十九年の八月に、福島県白川郡役所よ
り、一組の注文を受けて輸送せしが、これ、本邦にて、西洋式の幻燈を民間にて売買したる始なりといふ。
石井研堂『明治事物起原』
(橋南堂、明治 41 年)185-188 頁
文部省の依頼を受けた写真師の鶴淵初蔵と中島待乳が舶来幻燈の模造に取り組み、その草分けと
なったという説も、多くの文献で踏襲されているところである。石井によれば、民間で幻燈の売買が成
年であり、それが、続く明治 20 年代以降の幻燈ブームにつながったと思われ
立したのは明治 19(1886)
る。丸川商店の登場は、このような背景とぴたりと重なるものであった。
丸川商店と幻燈の製造販売(2)
:幻燈器械目録
丸川商店『幻燈並映画定価表』
第 4 版(明治 27 年)
の中身を見てみよう。商品は、
「幻燈器械」
、
「幻燈
映画」
の順に紹介されている。なお、この当時の「映画」
は後の活動写真ではなく、幻燈の種板を指して
いる。幻燈映画には「大形」
と「小形」
の規格が設けられていたことから、幻燈器械もそれらに合わせて大
きく 2 種類があり、さらにそれぞれが下記のように様々なクラスの商品に分かれている。
・安全瓦斯幻燈器械 二丈五尺写シ 55円
「二丈五尺写シ」
とあるのは投影される画面の直径を示したもので、2丈 5尺は約 757.5cm となる。
・大形改良幻燈器械
写シ、28円)
写シ、20円)
三本燈を光源とする第一号(一丈五尺[約 454.5cm]
〜第三号(一丈[約 303cm]
と、
丸ジン洋燈を光源とする第四号(九尺[約 272.7cm]写シ、17円)
〜第七号(六尺[約 181.8cm]写シ、7円 50
銭)
がある。
・小形幻燈器械
三本燈を光源とする第一号(六尺写シ、10円)
と、丸ジン洋燈を光
写シ、5円)
源とする第二号(五尺[約 151.5cm]
がある。
・軽便幻燈
第 一 号( 四 尺[ 約 121.2cm]写シ、3 円 )〜 第四号( 二 尺 五 寸[ 約
75.75cm]
写シ、1円)
がある。
上記のうち、最高級の「安全瓦斯幻燈器械」が映し出す画面の
大きさを今日の映画館に例えれば、有楽町の TOHO シネマズ日
のスクリーン(720×1,730cm)
と天地の高さで同等であ
劇(946 席)
る。そこから、この器械が想定している会場の規模がイメージでき
るだろうか。価格は明治 30 年当時の小学校教員の初任給 8 円と
比べるとその 7 倍にもなるが、一方の「小形幻燈器械」や「軽便幻
燈」
になると、画面は最小のもので 75.8cm、価格も最も安い 1 円の
50
図 3 丸川商店『幻燈並映画定価表』
第 4版
(明治 27 年 9 月改正)
図 4 丸川商店製造の「安全瓦斯幻燈器械」
ものまでが用意されている。これは、当時の幻燈
が広く家庭にも普及していたことを裏付ける資
図 5 丸川商店輸入の「木製瓦斯幻燈器械」
料であろう。
を見ると、第 4 版では 36 頁だったのが 80 頁にまでボリュームを増
さらに定価表の第 6 版(明治 28 年)
やしている。そして、もうひとつの大きな違いは、幻燈器械の紹介に図版が加わり、各モデルの形状が
わかるようになったことである。一見、器械の品揃えには大きな変化が無いようにも見えるが、
「大形改
良幻燈器械」
はほとんどのモデルで光源の能力を向上させるなど(一~三号は三本燈から四本燈に、四~
六号は丸ジン洋燈から三本燈または四本燈に)
こまめに商品の改良が行われていた形跡が見られる。
また第 6 版には、これらの国産品の他に、舶来の器械が掲載されているのも特徴である。その一つ「木
製瓦斯幻燈器械」
は、丸川商店製の瓦斯幻燈器械と「映写力モ同様」
と書かれているが、それらの図版
を見ると、実は二つの頁で同じ銅版画が使われていることが判る。この図版のように実際の商品も「同
一」
であったのかどうかはともかく、少なくとも丸川商店が舶来品の精巧な模造を意図していたことは確
の価格は 120 円とあるので、55 円の国産品(コピー)
はその半額
かであろう。しかも、舶来品(オリジナル)
以下で販売されていたことになる。
の頁に次の記載がある。
なお、舶来幻燈については、第 6 版の「謹告」
舶来幻燈ハ英国「ロンドン」
府「ウオルター、タイラー」
幻燈会社及外二三ノ幻燈会社ト特約ノ上輸入致シ候
故此表ニ無之モノニテモ御注文相成候ハヽ取リ寄セ可申候
この文中に登場する「ウオルター、タイラー」
幻燈会社については、Encyclopedia of the Magic Lantern に
記載があるので紹介しておこう。
タイラー,ウォルター・クレメント(1909年没)
イギリスの幻燈商/製造者。タイラーは幻燈の興行師から経歴を始め、1885年にはロンドンのウォーター
ルー通り115番に店舗を開いて、幻燈と関連用品の販売、そして製造も開始していたことがわかっている。
1887年にはウォータールー通り48番に移り20世紀を迎える。1890年代から1900年代初期にかけて商店
が刊行した大部のカタログからも判るように、有限会社ウォルター・タイラーは幻燈と幻燈用品、種板の販売
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
51
で英国最大手の一つへと成長し、多くの商品を同業者に供給するようになる。タイラーの最も有名な幻燈の
一つはヘリオスコピックであり、そこから多くのモデルが生まれた。珍しい商品としては、一般的な本体とは
全く異なるコンパクトなデザインの「スケルトン」
幻燈器があり、これは簡単な鋳型の枠組みだけでできてい
て、ライムライトの吹き出しは軽くて強い鉄の筒に納められている。なお同店は1896年に、ジョン・セオバル
ド商店の種板の在庫を買い入れている。マイケル・プリチャード
David Robinson, Stephen Herbert, Richard Crangle ed. Encyclopedia of the Magic Lantern, The Magic
Lantern Society, London, 2001, p.312
ウォルター・タイラー社がイギリスでも有数
の幻燈商であったことが判るが、その最も有
力な商品であったというヘリオスコピックが、
この第 6 版にも掲載されている。これらは、明
治の日本における幻燈の流行と海外との具体
的な接点を探る手がかりとなるものだろう。
図 6 丸川商店輸入の「普通幻燈器械」
(ヘリオスコピック)
丸川商店と幻燈の製造販売(3)
:幻燈映画目録
次に、幻燈映画(種板)
の目録を見てみよう。第 4 版の前半に記載されたタイトルを書き出すと以下の
ようになる。これを見ると、ほとんどの商品は大形と小形の両方が用意されていることが判る。なお、第
6 版の説明によれば、大形は「二寸七分角」
(約 8.18×8.18cm)
小形は「二寸角」
(約 6.6×6.6cm)
である。
・社会教育 16枚 大形 5円 50銭 小形 2円 50銭
・家庭教育 15枚 大形 4円 50銭 小形 2円
・同 説明書付 24枚 大形 6円 50銭
・幼学綱要 20枚 大形 6円 小形 3円
・修身二少年ノ栄枯 16枚 大形 5円 50銭 小形 2円 50銭
・二壮年ノ栄枯 15枚 大形 4円 50銭 小形 2円 50銭
・天文学之部 回転器械付 17枚 大形 11円 小形 3円
・地質之部 18枚 大形 5円 小形 2円 20銭
・自然ノ現象ノ部 18枚 大形 3円 小形 1円 50銭
・動物学之部 21枚 大形 5円 50銭 小形 2円 50銭
・動物生写新図 12枚 大形 3円 小形 1円 50銭
・植物学之部 20枚 大形 5円 50銭 小形 2円 50銭
・物理学之部 12枚 大形 3円 50銭
・生理学之部 20枚 大形 5円 小形 2円 50銭
・姙身解剖之部 15枚 大形 4円 20銭 3円 50銭
・衛生之部 12枚 大形 3円 50銭 小形 1円 50銭
マ マ
・養蚕解剖之図 20枚 大形 4円 50銭 大形 2円 25銭
・養蚕手引 12枚 大形 3円 小形 1円 50銭
・病牛解剖之図 12枚 大形 3円 小形 1円 50銭
52
・早婚之害 12枚 大形 3円 小形 1円 50銭
・万国婚姻式之図 12枚 大形 3円 小形 1円 50銭
・日本人行装酒之害 16枚 大形 4円 50銭 小形 2円 50銭
・米国人行装酒之害 16枚 大形 4円 50銭 小形 2円 50銭
・歴史之部 12枚 大形 3円 小形 1円 50銭
・本朝名婦伝 12枚 大形 3円 小形 1円 50銭
・古人肖像 12枚 大形 2円 40銭 小形 1円 40銭
・蒙古反繋 12枚 大形 3円 小形 1円 50銭
・南北亜米利加大合戦 12枚 大形 3円 小形 1円 50銭
・明治十年 西南戦争 12枚 大形 3円 小形 1円 50銭
・独仏大戦争 12枚 大形 3円 小形 1円 50銭
・陸海軍大演習戦況 54枚続き12枚に付 大形 3円 小形 1円 50銭
・磐梯山破裂ノ実況 12枚 大形 2円 40銭 小形 1円 40銭
・福島中佐単騎旅行 15枚 大形 4円 小形 2円
目録にはこの他にも、海外や日本各地の名所古跡、勝景、有名人の肖像など多数のタイトルが記載さ
れているが、上記のものはやや扱いが大きく、ほぼ全てに種板 1 枚 1 枚の細目が付されている。また、目
、
「日蓮聖人御一代記」
(12
録の最後は「仏教映画目録」
の頁になっていて、
「釈加如来御一代記」
(34 枚)
枚)
や「耶蘇一代記」
(12 枚)
などのタイトルが、再び細目付きで紹介されている。
当時の幻燈が取り上げた題材は、それ自体が興味深い研究対象だが、ここではいくつかの大きな特
徴だけを押さえておきたい。
その一つは、目録の最初に社会教育や修身教育に関わる幻燈映画が並べられていることである。日
本の近代教育制度の出発点となる学制が発布されたのは明治 5(1872)年のことであったが、明治 12
(1879)
年に「教学聖旨」が発布されると、今度は維新後の急激な西洋化政策が見直されて、伝統的な
「仁義忠孝」
を基本に据えた修身が大きなウェイトを占めるようになった。幻燈目録には「修身二少年ノ
や「二壮年ノ栄枯」
(15 枚)
と並んで「幼学綱要」
(20 枚)
のタイトルが見られるが、これは明
栄枯」
(16 枚)
年に宮内省から刊行された修身書「幼学綱要」
を幻燈に仕立てたものだろう。同
らかに、明治 15(1882)
書は「教学聖旨」
の起草にも当たった儒学者、元田永孚の編纂により、
「孝行」
「忠節」
「和順」
「友愛」
「信
義」
「勤学」
「立志」
「誠実」
「仁慈」
「礼譲」
「倹素」
「忍耐」
「貞操」
「廉潔」
「敏智」
「剛勇」
「公平」
「度量」
「識断」
)
「勉職」
から成る 20 の徳目を説いたもので、種板 20 枚の細目も、それらと対応した内容となっている 。
15
「社会教育」
や「家庭教育」
の重要性を唱える論説が
一方、明治 10 年代半ばからは学校教育に対し、
年 12 月には文部省の事務章程に「通俗教育」
が組み込まれ
見られるようになり、また、明治 18(1885)
た。この通俗教育も、親たちに学校教育の必要性を説く当初の内容から、成人への一般的な啓蒙活動
へと比重を移し、それまでの社会改良的な、あるいは生活改善を促す社会教育論と概念の重なりを見
せるようになる。そして、その後各地に広がりを見せる通俗教育会では、講話とともに幻燈の映写を行
)
うのが通例となり、幻燈会が流行を迎えるのである 。
16
の細目をみると、
(1 枚目)
「国家ノ為ニ学文ヲ仕込ム親」
と(2
幻燈目録に書かれた「社会教育」
(16 枚)
枚目)
「其子成学シテ身ノ本分ヲ尽ス事」
、
(3 枚目)
「子供ニ遊芸ヲ習ハシメ以テ自ラ楽トスル親」
と(4 枚
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
53
目)
「育方失セバ其子成長シテ悔モ詮ナキノ徒者ヲ作リ出ス事」
といった訓話が、しばしば対比の手法も
用いて解りやすく図解されていた様子がうかがわれる。
や「福島中佐単騎旅行」
(15 枚)
のように時事
二つ目に注目されるのは、
「磐梯山破裂ノ実況」
(12 枚)
年だから、定
的なテーマを扱ったタイトルである。もっとも、会津磐梯山が噴火したのは明治 21(1888)
がシベリア鉄道の建
価表が刊行された時点で 6 年が過ぎていたことになるが、福島安正陸軍少佐(当時)
年 6 月であり、同じく
設状況を視察した「単騎シベリア横断」
から帰国したのは 1 年前の明治 26(1893)
明治 26 年に手漕ぎボートで占守島へと渡り千島開拓のきっかけを作った郡司成忠予備役海軍大尉(当
時)
の冒険とともに、明治の国民の大きな関心を集めたニュースである。目録にはその「郡司大尉端艇旅
や、やはり明治 26 年の「米国シカゴ大博覧会」
(十二枚ずつ販売)
も記載されている。そして、
行」
(8 枚)
明治 27 年 7 月に勃発した日清戦争や、明治 29
(明治 27 年 9 月に刊行された第 4 版にはまだ見られないが)
年の三陸大海嘯、明治 33 年の北清事変、明治 37 年の日露戦争といった未曾有の一大事が、幻燈の流
行をさらに大きく後押しすることになるのである。
ところで、これらの幻燈映画では、写真と絵画のどちらが使われていたのだろうか。第 6 版の「日清戦
争映画定価表」
の頁には、次のような記述がある。
前記映画ノ内人物肖像、軍艦、建物、景色ハ写真ヲ其儘映画ニ製シ着色ナシタルモノ其他ノ戦争画ハ戦地
ニアル知友ノ実地ニ目瞭セシ原図又ハ写真及確報ニヨリ精密ナル「パノラマ」
風ノ洋画ニセシモノヲ写真術
ニヨリ映画ニ製造シ尤モ美麗ナル着色ヲ施シタルモノナレハ[後略]
つまり、人物の肖像や建物、景色などでは既に写真の使用が一般化していたのに対し、戦争の場面
では「
『パノラマ』
風ノ洋画」
が多数を占めていた。これは、後に吉澤商店幻燈部から発売された日露戦争
の種板を実見した筆者の経験ともおおむね合致している。もちろん、戦地で激戦の様子や軍人たちの
英雄的な活躍を写真に収めること自体が容易ではなかったこともあるだろうが、そもそも、明治後期に
開花した視覚文化の時代は幻燈や活動写真だけでなく、絵葉書や新聞雑誌の図版印刷、パノラマやキ
図 7 日露戦争第三回 第一 軍神広瀬海軍中佐第二回閉塞ノ目的
ヲ達シ引揚ノ際敵弾ノタメニ名誉ノ戦死ヲナス実況
54
図 8 日露戦争第四回 第三 露国捕虜
ネオラマなど、多種多様なメディア、アトラクションの出現によってもたらされたものである。そのことを
考慮すればこの当時の絵画が、それまでは活字や伝聞でしか知ることのできなかった決定的瞬間をあり
力を持っていた
ありと再現し、人々の欲求を満足させる点で、写真に劣らぬ(またときには写真以上の)
と考えることもできるだろう。
また、この幻燈映画の目録でもう一つ注目されるのは、一部に「運転画」
と呼ばれる商品が含まれて
いたことである。これは、仕掛けや操作によって様々な運動を再現することのできる特殊な種板で、
「雪
「幻燈器械二個ニテ使用スル運転画」)
、
「汽車
降運転」
や「雨降運転」
「山火事運転」
(以上は数枚で一組、
「幻燈器械壱個ニテ使用スル運転画」)
などが並ん
ノ進行」
や「花ノ開閉」
、
「花輪車」
(以上はいずれも一個、
でいる。
この種の種板が当時どのように鑑賞されていたのか、
『幻燈の世紀』
にも引用されている木村小舟『明
治少年文化史話』
の一部を抜き出してみよう。
鉄橋上を汽車進行の光景などは、事実動いて走るから興味満点で、この一枚の如きは、一旦映写を終って
後も彼方此方から「汽車を出せ、汽車を出せ」
「所望々々!」
の声がかゝる群衆心理は奇妙なもので、これに
附和雷同して、ワッと歓声が沸く。すると如才ない演者は、観客の気持を呑込んで、
「それでは、鉄橋上の汽
車を再映致しますから」
と、場内を鎮めて置いて、同じ物を二度写し出す。この画の種を明かせば、鉄橋を
主にした彩色の風景画を、先ず写して見せ、それから墨一色の汽車だけの一枚を、鉄橋の画面に重なるやう
に、指に委せてソロソロ押し出すだけのことで、素より汽車の車輪が廻転するのでなくて、たゞ手加減一つ
で、いかにも鉄橋の上を、汽車の通るらしく見える、いわば他愛もない子供だましに過ぎないが、兎にも角
にも動く映画としては、この程度であっても、動くところに興味を感じて、実物の汽車を見たことのある者
は、
「本物の通りだ、あれで煙を吐いたら申分なしだ」
などと、一角の通を振廻したものだ。何分観客の大部
分は、話にこそ聞きもすれ、汽車も鉄橋も未だ見たことはないのだから、こうした玩具同然の映画にも、多
大の関心を寄せて、胸を躍らせたものである。
木村小舟『明治少年文化史話』
(童話春秋社、昭和 24 年)259 頁
ここに書かれている通り、
「汽車進行」
がいまだ多くの観客にとっては彼方にある、未知の光景であっ
たとすれば、これも、幻燈が新知識を啓蒙するための視覚メディアであったことを示す好例といえるだろ
う。しかし、
「運転画」
には「雨降」
や「花ノ開閉」
のように、それ自体は身近でありふれた現象を扱ったも
のも多いところを見ると、むしろそれらを幻燈独自の技術と表現に置き換えて、観客の目の前に自在に
再現してみせるところに「運転画」
の本領が発揮されていたのではないかと思われる。なかでも「花輪車」
は、当時の幻燈会には欠くことのできないアトラクションとして人気を博したようだ。再び『明治少年文
化史話』
の一部を引いておこう。
この花輪というのは、催主にして見ると、所謂取って置きの一品で、それだけに頗る手の込んだもので、価
格からしても、他の種板に較べると、数倍に上ったものらしい。これが仕掛けは赤の一枚と青の一枚─色
は他に二三あった─ 細線に依って渦巻式の花模様を現したもので、これを甲乙二枚取合はせ、糸と小車
の動きに連れて、互違いに廻転するように作られてある。さてそれを幕に写してハンドルを廻す時は、一は
内面に向かって収縮する如く、一は外面に向けて散開するようで、全く目も眩むばかり、実に美麗不思議な
ものであった。満場の観客は、この花輪の写し出されるのをきっかけに、さも名残惜しく、思い思いに座席を
立去るのであるが、花輪の動きの美しさと、今夜の楽しかった思いに心を牽かれて、猶も見惚れる者も少く
なかった。而もこの花輪は、観客全部の退場するまで、依然として廻転を続けながら、観客の後姿を、静か
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
55
に見送るかのように思はれた。この点は催主の抜け目の無さを物語るもので、次の興行地えの誘惑手段と
も見られた。
木村小舟『明治少年文化史話』
(前掲)260 頁
さて、以上の内容を踏まえたうえで再び第 6 版を見ると、全体に幻燈映画のタイトルが数を増してい
るだけでなく、先述の「日清戦争映画定価表」
の頁が新たに加えられたこと、そして「運転映画目録」
が
年 11 月に
独立した頁立てになったところが大きな違いであり、日清戦争映画については明治 27(1894)
の
別冊の『日清戦争幻燈映画定価表』
も刊行されている。また、第 6 版の巻末には『幻燈映画増加目録』
案内があり、丸川商店が横浜居留地のブロウアー商会から種板 3 千 5 百枚を買い受けたことが判る。
右ハ今回横浜居留地五十二番館ニテ幻燈映画ノ製造ヲナシ外国ヘ輸出セル「ブロウアー」
商会ノ幻燈映画ノ
種板三千五百枚ヲ悉皆買受ケ当時調整中ノ目録ナレハ御望ミニ候ハヽ郵税二銭相添へ御申込被下度候
なお、この丸川商店以外に筆者が見ることのできた幻燈の定価表は限られているが、その一つ、四世
を見ると、幻燈映画の多くが丸川商店のものと
池田都楽の『幻燈器械映画定価表』
(刊行年の記載無し)
よく似た内容になっていることが判る。これは、同じ題材・枚数・構成の種板を各店が競作していたの
か、あるいは各店に種板を供給する共通の版元があったのか、はたまた各店が種板を互いに複製しあっ
ていたのか、現時点ではよくわからないが、それを検証するには当時販売された実際の種板も含めた資
図 9 丸川商店の「大型第一号改良幻燈
器械」
56
図 10 池田都楽の「壱号形特別製改造幻燈器械」
料の発掘が必要となるだろう。また、丸川商店の「大形第一号改良幻燈器械」
と池田都楽の「壱号形特
別製改造幻燈器械」
はどちらも同じ銅板画が用いられており、商品の解説も一部の表現だけを変えて一
字一句同じ文言で書かれているが、これはどのような事情によるものだろうか。興味深いのは、池田都
楽の定価表に、同業者を批判した次のような文言が見られることである。
近頃ハ新店新製造者ヲ増加シ而シテ此新店新製造者タル概子射利的ヲノミ是旨トスルヲ以テ妄リニ針小棒
大ノ誇言ヲ吐キ其定価表ヲ見レバ四本燈ヲ以テ一丈五尺ニ映写スルヲ得ベキガ如ク記載スル等ノモノ之ア
ママ
リト難モ其器械ノヨシヤ舶来製ナルニモセヨ四本燈ノ光力ヲ以テ一丈五尺ニ映写スル事ハ到底出来得ベキ
事ニ非ズ
つまり、近頃増加した「新店新製造者」
の中には、四本燈で一丈五尺の投影ができるという(誇大な)
広告を行う者があるというものである。ちなみに、池田都楽の幻燈器械は「白色光新式五本燈」
で「壱丈
、第 6 版では「四
三尺余写」
と書かれているが、既に我々は、丸川商店の幻燈器械が(第 4 版では「三本燈」
本燈」
で)
「一丈五尺写シ」
を謳っているのをみたところであるから、池田の批判が、まさに丸川商店を標
的にしていた可能性も考えられる。一方、これに対し、丸川商店の幻燈器械が「五十年間保険付」
を掲
げているのは(それが、ちょうど池田の目録に「堅牢無比」と書かれているのと対応するようなレイアウトに
なっている)
、今度は丸川商店が池田都楽を牽制したものであろうか。これら幻燈商相互の関係を明ら
かにすることは今後の課題だが、ここにも、当時の幻燈の市場をめぐる競争の苛烈さをうかがうことが
できるだろう。
上野公園内国商品陳列館への出店:博覧会と勧工場のブーム
○明治 28年 4月1日、
『少年世界』
第 7号に掲載された丸川商店の広告
東京南伝馬町ニ丁目 丸川商店
同神田紺屋町 同支店
上野公園陳列館内 同販売店
○明治 28年 5月刊行の吉澤商舗『古代浮世絵類買入直段表 古郵便切手類買入直段表 各種買入品及売捌
品目次』
(第 17版改正)
の奥付
東京市神田区紺屋町五番地 吉澤商舗
同市京橋区南伝馬町二丁目十一番地 同支舗
同上野公園商品陳列館 吉澤見本陳列場
吉澤商店(丸川商店と吉澤商舗)
が上野公園に販売店(または見本陳列場)
を設けていたことはあまり知
られていないが、このトピックも、商店の業務が当時急速に拡大しつつあった様子を伝えるものであろう。
年に上野公園で開催された第三回内国勧業博覧会の会
「上野公園商品陳列館」
とは、明治 23(1890)
年 4 月 1 日に開館した内国商品陳列館のことであろう。
『東京市史稿 市街
場跡地を使って翌 24(1891)
に採録されている記事を、元の新聞から引用する。
篇第八十一』
(東京都、平成 2 年)
商品陳列館
上野公園内大博覧会場跡に創立したる内国商品陳列館は昨日午前十時より開館式を執行せり[中略]
館は
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
57
大博覧会の西本館たりし所にあり陳列する所は内国製の雑貨にして、恰も博覧会と勧工場とを折中したる
趣あり。日々午前八時より午後四時まで縦覧を許し正札附にて販売す昨日午後より既に衆人を入場せしめ
たり出品は未た地方よりの分出揃はさるため多からざれども金石諸細工、家具、玩具、文房具、書画類に至
るまで網羅したり
『郵便報知新聞』
明治 24 年 4 月 2 日
文中の「博覧会と勧工場とを折中したる趣」
という記述に、河浦謙一あるいは吉澤商店が活躍した時
代の空気がよく表されている。18 世紀末から欧米で興隆を迎えていた万国博覧会に対し、殖産興業を
目指す明治政府により始められたのが内国勧業博覧会であり、その第 1 回が上野公園で開かれたのは
年であった。また、この博覧会の残品を処分するため、翌年東京府が麹町区永楽町に東
明治 10(1877)
かんこう ば
京府勧工場を設けたのが勧工場のはじまりである。
勧工場は、小間割りされた場内に多種多様な商品を扱う店舗を入居させた大型施設であり、また商
品の「陳列」
販売や「正札」
による取引を採用したことが人気を博して、それまで座売りや訪問販売が一
般的であった日本の商慣習を一変させるきっかけを生んだ。東京府勧工場は開場から 1 年余りで民営に
切り替えられるが、その後も同様の施設が全国の主要都市に次々と現れると、博覧会とともに明治の文
)
明開化を象徴する存在として都市の景観に定着していく 。
17
また、これは余談だが、後に河浦の長女しづえと結婚した栗本瀬兵衛は、吉澤商店ロンドン支店で
フィルムの買い付けを立島清から引き継ぎ、大正期には『吉澤商報』
の発行者にもなった、つまり河浦の
の実
後継者とも目される人物であるが、彼は幕末にフランス滞在外国奉行を務めた栗本鋤雲(瀬兵衛)
年に渡欧し、また一説にはフラ
子である。鋤雲は、徳川昭武がパリ万国博覧会に参加した慶応 3(1867)
の和訳を生んだ人物とも言われている )。
ンス語の Exposition から「博覧会」
18
内国勧業博覧会は明治期に 5 回までが開かれたが、このうち、第 1 回から第 3 回までが上野公園を会
というその場所
場にしている。そして、内国商品陳列館が開館した第 3 回「大博覧会の西本館たりし所」
にあたる。
は、
『東京国立博物館百年史』
によれば三号館の跡地(平成 25 年現在は竹の台噴水広場)
竹の台に建てられてあった内国勧業博の三号館、五号館も無償譲渡を受け各種団体に有償で貸与すること
とした。三号館は勧業義済会や内国商品陳列館合資会社に貸し、五号館は各種の美術団体等の短期の催し
に貸していたが、明治二十八年末から館の二分の一(後に三分の一)
を特例として明治美術会の常設展示場
に長期貸与し、またその一部を、同会の明治美術学校に使用することを認めている。
[中略]
三号館・五号館は
明治四十年の東京勧業博覧会の際に取り毀された。『東京国立博物館百年史』
(第一法規出版、昭和 48 年)286 頁
明治期に刊行された写真帖の一つ『東京景色写真版』
(江木商店)
には、
「上野公園内勧工場」
の写真
が掲載されている。これが内国商品陳列館を写したものと思われるが、今回は、これまでに見つけるこ
とができたものの中から、建物の外観が最も鮮明な大判写真の一部を紹介しておこう。
陳列館内部の様子については、
『郵便報知新聞』
が次のように記している。
館に入りて目新らしきは品物を売りたるとき看守人か一々事務所に走りて勘定するの煩を避け場の中央に
一の金銭出納局を設け機械仕縣けにて坐ながら金銭を出納する一事なり場の天井に幾條の梁の如きもの
高低参差たるを見るは其の仕縣けなり即ち中央の出納局は大さ巡査交番所に均しく局の中央に高く角形の
木筒を建て筒の上端に数道の箱樋を設け四方に通す形傘骨の如く其の樋橋分れて場内三十六ヶ所看守人
の手許に達す看守の手許には亦た高く木筒を建て箱樋を通じ其の末端中央の局に集る客ありて品物を買
58
ふときは看守人は代金を受けて品物に貼付
せる札を取り之を併せて木製の球に容れ
傍の筒に納め紐を手繰りて吊上ぐれは球は
昇りて樋に入り転輾して中央局に落つ局は
受けて球を開らき札と銭とを照査し札に検
印しツリあれば之を添へて又た球に容れ、
傘形の下なる筒の口に納めて紐を繰り前の
看守人の許に送り還すなり[中略]
此の仕縣
けは外国風に模して新たに工夫したるもの
とぞ 又た場 内の 看 守 人には十 一 二より
十四五なる束髪洋装の女子を用ひたり
『郵便報知新聞』
明治 24 年 4 月 2 日(前掲)
図 11 上野公園内勧工場
広い場内で金銭の出納を円滑に行うため
「外国風に模し」
た大がかりな「機械仕縣け」
が場内にめぐらされているのが注目を集め、また、看守人を
若い「束髪洋装の女子」
が務めていたことが判る。
(田中経営研究所、平成 15 年)
によれば、内国商品陳列館には明治 35 年当
田中政治『新訂 勧工場考』
時で 700 もの陳列店があり、これは多くの勧工場が 20 ~ 30 程の店数から成り、大型の東京勧工場(芝
区)
が 345 店であったことと比べても突出した規模である。内国商品陳列館の縦覧は無料で下足料一銭
を徴収するシステムであったが、
「春秋一日平均約二千五百人、冬でも五百人を下らず」
(出典は『最新東
明治 31 年)
京案内 春の巻』
という盛況ぶりであった。
しかし、勧工場は明治 20 年代に最盛期を迎えた後、30 年代には衰退へと向かい、同じく座売りから
陳列方式に転換した老舗の呉服店が百貨店へと変貌を遂げるのと入れ替わるようにして歴史の表舞台
から姿を消すことになる。
年の東
先の引用文中にも記載のあるように、内国商品陳列館の置かれた旧三号館は、明治 40(1907)
京勧業博覧会の開催に合わせて明治 39 年 7 月に取り壊されている。また、調べられた範囲ではあるが、
年 4 月の吉澤商店幻燈部『日露戦争及ヒ軍事ニ関スル幻燈映画』
(第 2 版)
にはまだ上野
明治 37(1904)
「上野公園商品陳列館内 同販売店」)
、少なくとも(最初の広告が確認
の販売店の記載が見られるので(
できる)
明治 28(1895)
年 4 月からそれまで、9 年以上は出店が続けられていたようだ。
吉澤商店の誕生:紺屋町、南伝馬町から南金六町へ
丸川商店の広告に上野の販売店の記載が現れたのと同じ明治 28 年、吉澤商舗と丸川商店は新橋際
の南金六町に新店舗を開いている。
○明治 28年 7月 6日付都新聞、吉澤商舗の広告
新橋南金六町十三番地 吉澤商舗陳列館
神田区紺屋町五番地 吉澤商舗
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
59
○明治 28年 10月丸川商店『幻燈並映画定価表』
(第 6版改正)
奥付
東京新橋南金六町十三番地 丸川商店
上記の「陳列館」
という呼び名は、ごく初期に使われていたもので、これも商店がいよいよ自らの店舗
を示
でも陳列販売を始めたこと(そしてそのような記載が意味を持つほど陳列販売がまだ珍しかったこと)
すものだろう。
には、丸川商店の図が、また明治 29(1896)
ところで、
『幻燈並映画定価表』
第 6 版(明治 28 年 10 月)
(精行社)
の「吉澤商舗謹告」
には吉澤商舗の図が掲載さ
年に発行された『日本博覧図 千葉県之部後篇』
れている。この二つは同じ建物を描いているようにも思われるが、一方は丸川商店の看板がかけられた
図、もう一つは吉澤商舗の看板がかけられた図になっている。実際の店構えはどうなっていたのか気に
なるが、それはともかく、従来『日本映画発達史』
などの文献で紹介されて馴染のある吉澤商店の建物
は明治 30 年代になって建て替えられた後のものであるため、今回の図版は活動写真がもたらされたそ
の当時の様子を知るうえで貴重である。
この新店舗が置かれた新橋際の南金六町 13 番地は、現在の中央区銀座 8 丁目 10-8、本稿執筆中の
が建っている場所にあたる。ここは宝永 7 年(1710)
年に
平成 25 年 11 月現在は「銀座 8 丁目 10 番ビル」
が建設された場所でもあり(享保 9 年[1724]年に焼
朝鮮の聘使の来朝に備えて巨大な城門(芝口御門)
失)
、ビルの一角にはその記念碑が設けられて目印になっているが、それも、おそらく今の読者には、中
4
4
央通りに面した天ぷらの老舗「銀座天國」本店ビルの裏手と言った方がわかりやすいのではないだろう
が東京高速道路(新橋
か。また、実際にその場所を訪ねてみると、建物の南側(かつての商店の玄関側)
出入口)
の高架線に覆われていることもあり、どこか窮屈な印象を受けるが、河浦が店を構えた当時の
風景はまるで別のものだった。というのも、この高速道路の場所には、太平洋戦争の終戦直後まで汐留
川が流れ、その対岸には新橋停車場が偉容を誇っていたからである(日本初の鉄道路線が新橋─横浜間
年。新橋停車場は大正 3[1914]
年の東京駅開業に伴い旅客営業を廃止)
で開通したのは明治 5[1872]
。な
お、有名な勧工場の一つであった帝国博品館が新橋北詰角地の南金六町 4 番地(現在は博品館 TOY
図 12 南金六町の新店舗(丸川商店)
60
図 13 南金六町の新店舗(吉澤商舗)
PARK 銀座本店 )に開業するのは、4 年後
年である。
の明治 32(1899)
こうして、①神田今川橋際の紺屋町に
あった吉澤商舗は、②丸川商店(あるいは
吉澤商舗の支店 )
を開いて京橋際の南伝
馬町に進出した後、さらに③新橋際の南
を南
金六町へ、東海道(現在の中央通り)
下しながら業務を拡大してきたことにな
る。三つの橋は馬車鉄道のルートにもあ
年 6 月に新
たり(馬車鉄道は明治 15[1882]
橋 ─日本橋間で開業し、上野浅草を結ぶ各
区の拡張を進め 10 月に全線開通)
新橋はそ
図 14 南金六町からの眺め。汐留川の向うに新橋停車場。左は蓬莱橋
のターミナルであると同時に、横浜駅へとつながる鉄道のターミナルでもあった。
が残されている。これは
この新橋際への出店に際し、吉澤商舗が作成した案内状(明治 28 年 8 月付)
本地陽彦氏所蔵の資料で、筆者の知る限り、吉澤商舗あるいは丸川商店の刊行物に河浦謙一の名前が
記載された最も古い資料でもあるが、一般に公開されるのは今回が初めてとなる。以下に本文を全て引
用する。
拝呈陳ハ未タ拝謁ヲ得ス候得共
益々御繁栄之段奉賀候扨テ弊店
儀従来古画及美術品ヲ輸出致居
候処今回戦勝後日本漫遊ノ外国
人 多 キヲ 機 会 ニ 新 橋 南 金 六 町
十三番地ヘ陳列館ヲ設ケ外国向
ノ美術品ヲ広ク販売致候処同所
ハ新橋停車場ノ対岸ニシテ位置
最モ宜シキノミナラス大屋根ノ上
ニ五間ニ二間ノ富士山ノ大看板
図 15 吉澤商舗陳列館の案内状 本地陽彦氏蔵
ヲ掲ケ有之候事故一層外国人ノ
注意ヲ引キ日本漫遊ノ外国人ハ申スニ及ハス東京ニ来ル外国人ハ必ス弊店ニテ買物致シ候事ニ御座候就
テハ今回京都第四回勧業博覧会ニ貴店ヨリ御出品ニ相成居候内ニハ外国人向ノ品モ沢山御見受ケ申候ニ
付右ハ御差直ノ上弊店ヘ売捌方御委托被下間敷候哉此段御相談申上候思召有之候ハヽ充分懇切ニ御取扱
可仕候申迄モ無之候得共博覧会ノ物品ハ即時ニ買収シ難キノミナラス内国向外国向ノ別ナク一所ニ陳列有
之候故外国人ノ如キハ自然選択ニ不便ヲ感シ且ツ販売人ハ当業者二無之故充分ノ説明ヲナシ難キ為メ折
角望ノ人アルモ売レサルコト多シ弊店ハ是ニ反シテ数年ノ熱錬ト外国語ニ通シタル手代等有之候故最モ精
シキ説明ヲナシテ販売致候間外国人向ノ美術工芸品ノ販売ニハ最モ好都合ニ最モ迅速ニ御座候尚又一二
回ハ御委托ニヨリ販売致シ充分外国ノ嗜好ニ適シ候上ハ図案或ハ雛形等差上ケ続々御注文可仕候
右ハ参館ノ上御相談可仕之処遠路ニ付乍略儀以愚翰御依頼申上候艸頓首
明治二十八年八月 東京新橋 吉澤商舗陳列館 館主 河浦謙一
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
61
この案内状は、文中にも書かれている第四回内国勧業博覧会の出品者に送られたもののようだ。内容
は、美術工芸品の売却を促すもので、日清戦争後多くの外国人が日本を訪れていたというその当時、東
という巨大な富士山の看板を掲
京の表玄関だった新橋停車場の対岸に「五間ニ二間」
(約 9.1×3.64m)
げ、また、外国語にも長けた手代が詳しい説明をして商品の販売にあたるなど、博覧会にも勝る好条件
が強調されている。そして、その差出人の欄には、世間の目に触れるのを避けてきたとも言われる河浦
の肩書きとともに、しっかりと刻みつけられている。もちろん、
謙一自身の名が、
「吉澤商舗陳列館 館主」
その意味合いを深読みし過ぎることは禁物だが、少なくとも河浦が、この新たな第一歩を、並々ならぬ
自信をもって踏み出したことは間違いないだろう。
さて、吉澤商舗と丸川商店がその商号を「吉澤商店」
に統一するのはそれから間もなくのことであった。
○明治 29年 9月 22日付都新聞、吉澤商店の広告
新橋南金六町十三番地丸川商店改め吉澤商店幻燈部
一方、明治 29(1896)
年 7 月 5 日付東京朝日新聞には、まだ丸川商店の広告が出ているので、改称の
時期をある程度まで絞り込む事ができるだろう。
こうして、いよいよ「南金六町の吉澤商店」
が誕生したとき、河浦謙一は 28 歳。吉澤商店が(おそらく
は吉澤商舗の商号で)
創立した明治 12(1879)
年から数えて 17 年目のことであった。しかしこの直後に、
商店の経営は、さらに大きな転機を迎えることになる。新しい「吉澤商店」
の看板が掲げられてから数か
年の 2 月、河浦のもとに、ついに活動写真がもたらされるのである。
月が過ぎた明治 30(1897)
(入江良郎/東京国立近代美術館フィルムセンター主任研究員)
謝辞
本稿の執筆にあたっては、河浦謙一ご親族の加藤信一氏、柴田直子氏、河浦道子氏、照善寺の轡田普善氏、敬恩寺の故・轡田慧眼
の初道ゆかり氏、ならびに千田麻利子氏、本地陽彦氏、平野
氏、轡田均氏、養照寺の藤谷惠氏、魚津市立図書館(平成 18 年当時)
正裕氏、田島良一氏より多大なご協力を賜りました。記して感謝いたします。
註
1) 田中純一郎「日本映画史夜話」
『キネマ旬報』
昭和 11 年 1 月 1 日号によれば、
「大震災のあった年の暮」
。ただし、
「河浦さんの思
と書かれている。田中の著述にはこのような ” ぶれ ” がしばしば
い出」
『キネマ旬報』
昭和 32 年 11 月上旬号には「昭和のはじめ」
見られる。
2) 田中純一郎「秘稿日本映画 第 6 回 イタリア人・ブラッチャリーニ」
『キネマ旬報』No395(昭和 40 年 7 月下旬号)
によれば、田中
(中央公論社、昭和 50 年)
では「一
が船原に河浦謙一を訪ねたのは「昭和十五年十一月十七日」
。ただし、
『日本映画発達史 I 』
考」
『映画テレビ技術』No.220(昭和 45 年 12 月)
では「11 月 18 日」
と書かれている。
○月」
、
「
『輸入カメラ第 1 号』
62
3) 田中純一郎の旧蔵資料は故郷の群馬県新田郡新田町(現在は太田市)
に寄贈され、その一部は、映画評論家の佐藤忠男氏が
で展示公開された。
田中の生前に譲り受けた資料とともに「田中純一郎記念日本映画史フェスティバル」
(平成 10 ~ 15 年)
4) 我が国における映画史研究の歩みと吉澤商店の発掘、再評価については、牧野守編『日本映画論言説大系 22 明治期映像文
所収の拙著「日本映画史と吉澤商店」
を参照。
献資料古典集成②』
(ゆまに書房、平成 18 年)
5) 後で掲げる田中純一郎の『活動写真がやってきた』
(中央公論社、昭和 60 年)
には例外的に、
「
[河浦が店の商号に]
吉沢の名を
使ったのは僧籍を表に出したくなかったためだが」
という記述が見られる。
6) http://www014.upp.so-net.ne.jp/mar1ko-c1nema/phototabi/kawaura.html(最終アクセス:平成 17 年 9 月 13 日)
。
7) 平成 25 年 10 月 4 日に富山県を訪ね、魚津市の敬恩寺で轡田均氏に面会の後、滑川市で河浦道子氏と柴田直子氏に取材。10
月 5 日に小矢部市の光西寺を訪問の後(以上は本地陽彦氏と同行)
、魚津市の照善寺で轡田普善氏、滑川市の養照寺で藤谷惠
氏に面会。また 10 月 23 日に東京で加藤信一氏と面会。本稿の記述には、事前の電話や電子メールによる取材の内容も含ま
。
れている。なお、青山霊園に河浦謙一の墓所を訪問したのは平成 20 年 1 月 13 日である(本地陽彦氏と同行)
8) 田中純一郎の著作には、
「秘稿日本映画第 7 回 まちがいだらけの映画年表」
『キネマ旬報』No.396(昭和 40 年 8 月上旬号)
など、
では、
「自分
立島清を河浦の「甥」
と記しているケースも見られるが、
「河浦謙一さんの手紙」
『映画史研究』No.18(昭和 58 年)
の弟の立島清」
と書かれた河浦自身の手紙を紹介している。
9) 泊園書院については、関西大学東西学術研究所泊園記念会のサイトを参照。http://www.db1.csac.kansai-u.ac.jp/hakuen/(最終
アクセス:平成 26 年 2 月 1 日)
。
10)『日本映画論言説大系 22 明治期映像文献資料古典集成②』
(前掲)
が復刻した資料では、
『幻燈器械及映画並ニ活動写真器械
および『幻燈器械及映画活動写真器械及附属品定價表』
(明治 42 年 8 月改正
及附属品定價表』
(明治 38 年 12 月改正 第 15 版)
第 16 版)
の裏表紙にこの記載が見られる。
11) 近年、丸川商店と吉澤商舗、そして吉澤商店の足跡を詳しく調査した論文に中川望「丸川商店」
『映画学』
第 22 号(平成 20 年)
があり、本稿で取り上げる上野公園陳列館の販売店や池田都楽が刊行した幻燈目録の話題にもいち早く言及している。
12) 国立国会図書館には、
『古代浮世絵買入必携』
とともに、英語の Price list of Old Japanese Wood Engravings, Valuable Carved Works,
and Lacquer Wares, also New Books on Japanese Arts, Photographs of Paintings and Artistic Objects, etc.(1893)
、仏語の Catalogue
de vieilles gravures sur bois japonaises, objets sculptes de valeur et en laque, ainsi que nouveaux livres sur l’art japonais, photographies
de peintures, objets d’art etc.(1894)
が保存されている。なお、吉澤商舗の英語名は、後に吉澤商店から刊行された定価表と同
と書かれている。
じく YOSHIZAWA & Co.(仏語では YOSHIZAWA & Cie.)
13) 受川策太郎は「明治、大正、昭和にかけての『北陸映画文化人』
列傳」
『石川郷土史学会々誌』
第 29 号(平成 8 年 12 月)
に、
「十六
年程前」
「河浦氏の未亡人栄子さん」
に取材した話として「田中純一郎の著書には、河浦は吉沢家に養子に入ったとあるが、此
れは大きな誤りで、田中氏の著書からひいたその後の映画史家は皆此の様に養子としている。この誤りは特に此の際強調し
ておきたい」
と記している。
14) なお、明治 45 年に発行された『京都実業界』
(博信社)
の「活動写真業」
の項に「吉澤商店 京都出張所」
の広告があり、そこに
と書かれている。創業年が吉澤商店の定価表に書かれた「ESTABLISHED 1879」
(明治 12
「賞牌数十回 創業明治二十六年」
年)
と食い違っているが、これは商店の「活動写真業」
の起源を(浮世絵商の吉澤商舗でなく)
幻燈商である丸川商店の創業に求
の序文に河浦自らが「明治二十六年以来是が蒐
めたものであろうか。また、既に見たように『河浦所蔵 古代浮世絵版画目次』
集に務め」
と記していること、中部日本新聞に「二十五歳のとき上京し、外国人に人気のあった切手コレクションの売買に着目」
と書かれていることと合わせて、この明治 26 年という年代には引き続き今後の調査でも注意を払う必要がある。
15) 修身教育の歴史については、海後宗臣編『日本教科書大系 近代編 第一巻 修身(一)』
(講談社、昭和 36 年)
を参照。
16) 社会教育、通俗教育の概念形成については、松田武雄『近代日本社会教育の成立』
(九州大学出版会、平成 16 年)
を参照。
17) 勧工場の歴史については、鈴木英雄『勧工場の研究―明治文化とのかかわり』
(創英社、平成 13 年)
および田中政治『新訂 勧工
を参照。
場考』
(田中経営研究所、平成 15 年)
18) 栗本鋤雲の生涯については、小野寺龍太『栗本鋤雲 大節を堅持した亡国の遺臣』
(ミネルヴァ書房、平成 22 年)
を参照。
吉澤商店主・河浦謙一の足跡(1)
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Trajectories of Kawaura Kenichi, the Owner of Yoshizawa & Co. (1)
— Origins of the Oldest Film Company
Irie Yoshiro
Having engaged in the importing of Cinematograph to Japan and the opening of the first movie
theater in Japan (1903), Kawaura Kenichi (1868-1957) built the first Japanese film studio in Tokyo in 1908.
As the owner of Yoshizawa Shoten (Yoshizawa & Co.), the largest film trading company in the Meij period
(1868-1912), Kawaura pioneered the business model of the twentieth century film industry by establishing
a circuit that started with import or production and completed in exhibition; Yoshizawa & Co. eventually
formed part of Nikkatsu, the first Japanese major established in 1912. In other words, it is no exaggeration
to state that Kawaura brought Japan the “century of moving image.” Nevertheless, we know so little about
this great pioneer.
Film historian Tanaka Junichiro discovered and reevaluated the achievements of Yoshizawa & Co. in
the 1920s-1940s. Tanaka found a bound set of Katsudo shashin kai (The Cinematograph), the oldest surviving
film magazine that started its publication in association with Yoshizawa & Co. in 1909, and, in 1940,
located and interviewed Kawaura who had been in retirement in Funabara, Izu, a hot spring resort in central
Japan. Tanaka must be credited with shaping the image of Yoshizawa & Co. And yet, he never had a chance
to put together his research and write a book on Yoshizawa & Co. and Kawaura, perhaps because he put
priority on completing his multi-volume history of Japanese cinema.
My research aims at putting into a complete relief the life of Kawaura and the history of Yoshizawa &
Co. by collecting and scrutinizing surviving historical documents as thoroughly as possible. This essay, the
first installment of a series of essays I plan to publish, traces Kawaura’s hitherto unknown biography – his
early life, family, and education – and the history of Yoshizawa & Co. In particular, I shed light on the
company’s two origins – Yoshizawa Shoho, an exporter of ukiyo-e (woodblock prints), and Marukawa
Shoten that imported, produced, and sold magic lantern slides – and the process in which it developed into
the Yoshizawa & Co. film historians know today, introducing new sources and information.
In collecting materials, I paid particular attention to new primary sources such as publications by
Yoshizawa & Co., Yoshizawa Shoho, and Marukawa Shoten and contemporary background checks, and
conducted interdisciplinary research, drawing on the local history of Toyama Prefecture where Kawaura was
born and raised, and research on ukiyo-e, as well as established sources in film history. Furthermore, this
paper unveils new findings based on the interviews I conducted with Kawaura’s relatives.
(Translated by Kinoshita Chika)
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