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京都御所

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京都御所
京都御所
私が京都御所と呼ぶところは、江戸時代、天
皇の御所を中心に二百もの宮家や公家の邸宅
が立ち並んでいた。明治になって都が東京に
移り、これら邸宅は取り除かれ、公園として
整備され市民へ開放 されたので、それ以降、
京都御苑と呼ぶのが正式の呼び名であろう。
京都御苑は、環境省が管理している。
御所と一体となった景観を維持しつつ、散策
や休養等の場として親しまれている。現在苑
内には百年を越え る樹林が育ち、旧公家屋敷
跡や庭園等歴史的遺構が点在し、古都の中心
で特別な空間となっているのである。
上の図の左下に赤字で宗像神社と厳島神社というのが見える。
宗像神社は、社伝によれば、延暦14年(795年)、藤原冬嗣が桓武天皇の勅命を蒙り、皇
居鎮護の神として筑前宗像神を勧請したとされる。なお、藤原冬嗣については、次のよう
な話がある。
大和朝廷の時代、会津は大和朝廷の前線基地であった。その後、出羽の柵と多賀城の柵が
設けられるが、この山寺というところは、会津と出羽の柵と多賀城の柵を結ぶ一大交通拠
点であり、軍事拠点ともなった。立石寺の建立を慈覚大師円仁に命令し、財政的にも支援
したのは、時の権力者藤原冬継である。藤原冬継は父・内麻呂の薫陶を受け、父を非常に
尊敬しいたらしく、父の死後、その追善のために、藤原氏の菩提寺・興福寺に南円堂を建
立している。藤原冬嗣は、若い頃より人望が厚く温和な性格で、人々は喜んでこれに従っ
た。仕えた代々の天皇から信頼が篤かったが、下問を受けても諂うことはなく、一方で天
皇の意に沿わない場合は敢えて諫めることはなかった。十有余年に亘って重要な政務に携
わったが、過失を犯すことがなかった。人々からは非常な才覚を持つ人物と評されたとい
う。こんな逸話が残っている。他戸親王が皇太子の時に悪意を持ち、名家の者を害そうと
した。踏みつけたり噛みつく癖のある悪馬がいたため、親王はこの馬に内麻呂を乗せ傷つ
けようと試みたが、悪馬は頭を低く下げたまま動こうとせず、
を打たれても一回りする
のみであったという。
( http://www.yusanwalking.com/2016/05/kyotogyoen-munakatashrine.html による)
厳島神社は、社伝によれば、安芸国厳島社を崇敬した平清盛が、摂津国兵庫津に築島(経
が島)を造成した際に、同島に社殿を構えて厳島社を勧請し、後に清盛の母の霊を合祀し
たものに起源を持ち、その神社を時期不詳ながら当地へ遷座させたものという。鎮座地は
後世九条家の邸宅に取り込まれて同家の鎮守として崇敬されるとともに、池泉
遊式庭園
の一部を構成するものともなった。明治になって九条家は東京へ転宅し、その邸宅も東京
へ移築されたが、当神社はそのまま残された。昭和2年(1927年)には社殿が改築されて
いる。
( http://blogs.yahoo.co.jp/yamaibaaosainaikyo/63297714.html による)
厳島神社の前にあるのが九条池で、お公家さんの九条家の庭園であり、池泉
遊式庭園と
なっている。
九条家は藤原忠通の三男九条兼実を祖とする系譜で現在も当主は健在である。九条家の屋
敷は宮家・公家の東京移住命令により、東京に移築され、現在、その屋敷跡には茶室の拾
翠亭だけが残されている。拾翠亭は、江戸時代後期に九條家の茶室として建てられた、伝
統と歴史ある貴重な建造物である。
御苑内で、2階部から九条池や高倉橋を望むことができる特別なロケーションが魅力であ
る。一般公開と茶室の貸し出しが行われている。
( http://fng.or.jp/kyoto/service/syousuitei.html による)
( http://www.geocities.jp/tanakaiku/japan/kyotocenter/gyoenshusuitei.html による)
私は、昭和25年、京都市立梅屋小学校を卒業したが、その近くに九条池があり、よく遊
びに行ったものだが、以上述べてきたように歴史的な場所であることは当然知っているは
ずもなかったが、今こうやって書いていると、ただただ懐かしい気がする。
池の弁天さんこと厳島神社:http://woman.excite.co.jp/blog/sanpo/sid_2456157/
幕末、公家の反乱:http://blog.livedoor.jp/shihobe505/tag/%E4%B9%9D%E6%9D
%A1%E5%B0%9A%E5%BF%A0
春、京都に帰った時、幼馴染の清水君とたまには出かける京都御所・花見の場所があるの
で、次に、それを紹介したい。下の図の近衛邸跡である。
( http://souda-kyoto.jp/tokusyu/spring/2016/con_01.html による)
( http://cosha.me/blog/?p=4623 による)
( http://blogs.yahoo.co.jp/sas0634/10417926.html による)
( http://blogs.yahoo.co.jp/sas0634/10417926.html による)
それではいよいよ京都御所の拝観です。定期的に一般公開されており、そのYouTubeが
ありますので、まずそれを紹介しておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=RKpdV0Lw-9Q
このYouTubeで紫宸殿のところで、高御座を見ることができるが、遠くからではっきり
は見えないので、別の画像を紹介しましょう。
高御座(たかみくら)は、天皇位を象徴する玉座のこと。調度品としては、歴史的に伝統
的な皇位継承儀式の中核で、いわゆる即位礼において用いられるものであり、皇位と密接
に結びついている。京都御所に常設されている。現在も高御座は、京都御所内の紫宸殿に
安置されている。近代に入ってからも、明治天皇・大正天皇・昭和天皇の即位の大礼は、
高御座のある京都御所で行われた。今上天皇の際は、警備上の問題から、東京の皇居で即
位の礼が行われたが、高御座と御帳台は陸上自衛隊のヘリコプターによって皇居まで運ば
れ、大礼終了後に京都御所の紫宸殿に戻された。 したがって、現在も高御座は、京都御
所内の紫宸殿に安置されているのである
〈京都御所(朝日新聞撮影)〉 大正、昭和、平成の即位の礼で天皇が使った高御座(左)。右は皇后の御帳台
( http://www.asahi.com/special/08-09/gallery/090101kyoto/1016.html による)
それでは次に、明治天皇生誕の地・中山邸跡にご案内しましょう。
京都御所の北東に、中山邸跡がある。 ここは、明治天皇の生誕の地でもあり、京都御苑
三大名水のひとつ、祐井(さちのい)がある。
孝明天皇の第二皇子である明治天皇は、母は権大納言中山忠能の娘・慶子(よしこ)。 嘉永5年9月22日に、京都の中山邸で生まれ、祐宮(さちのみや)と命名された。万延元
年に皇太子となり、睦仁(むつひと)と改名。慶応2年12月25日に、父・孝明天皇が急逝
し、践祚(せんそ)された。
この頃、幕府側と討幕派は、それぞれ朝廷への工作を強めていた。慶応3年10月14日に
は、若年の天皇を戴く朝廷は、幕府側に対しては天皇の名において将軍・徳川慶喜に大政
奉還の上表を勅許し、討幕派である 摩・長州両藩の藩主に対しては討幕の密勅を下すと
いう、複雑な対応を迫られた。 さらに慶応3年12月9日には、討幕派の主導により、王
政復古の大号令を発し、新政府を樹立。 明治元年から明治2年にかけて、旧幕府側と新
政府軍の間で行われた戊辰戦争では、東征を命じ、旧幕府勢力を一掃したのである。
この間、明治元年3月14日には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、
明治元年閏4月21日には政体書によって新しい政治制度を採用。 かくして、明治の輝かしい時代が始まるのである。その原点に明治天皇がおられ、その明
治天皇がお生まれになったのが、中山邸である。
( http://kyotogosyo.web.fc2.com/kyotogyoen/meijitennou/meijitennou.html による)
京都御所を取り巻く御苑の北の端は、かの有名な「猿が
」からすぐのところに、板塀で
仕切られた 屋敷跡がある。その庭の一角に、一棟の小さな家が建っている。明治初期、
初めて古都に住むことを許されたアメリカ人宣教師たちは、自分たちの家を 探す当座の
間だけ、家具調度など身の回りの品々を置く倉庫代わりにこの家を使ったことがある。今
となってはほとんど目をとめる者とてないが、この家は寛永 7年(1854)4月の内
裏を全焼させた大火をまぬがれたばかりでなく、明治元年(1868)の事実上の東京遷
都後の荒廃と破壊をも生き抜いた数少ない公 家屋敷の一つである。
人の出入りを禁じるように周囲に板塀をめぐらせた外側には、「祐井(さちのい)」と記
された 小さな 木柱が建っている。板塀の内側には、より重々しい石碑があるのが塀越し
にかろうじて目に入る。過去を物語るこの二つの標識だけが、ここを訪れた者 に次のこ
とを教えてくれる。この家は江戸末期に立てられた伝統的な日本建築の一つ・・・それも
実にありきたりの・・・・というだけでなく、はるかに重要な 意味を持っている、と。
事実、この家で明治天皇が生れ、「祐井(さちのい)」の水で産湯を使ったのだった。
明治天皇が御所の中でなく、このような質素な家で生れたのは宮中の慣習によるものだっ
た。生母中山慶子(よしこ)(1835∼1907)は、懐妊が 明らかになるや御所の
局(つぼね)を出なければならなかった。出産は建物を穢す(けがす)、と古くから信じ
られていたからである。代々、天皇の御子は宿下 がりした生母の家の近くで生れるのが
普通で、それも用済みの後は壊される別棟で生れることが多かった。皮肉にもこの小さな
家は壊されるどころか、かってそ の周囲に見事な屋根を競い合っていた公家たちの凝っ
た屋敷よりも長く生き延びることになった。
御子の誕生にあたり慶子の父、権大納言・中山忠能(ただやす)(1809∼88)
は敷地内の屋敷の隣に、この「産所」を建てた。当初は、近隣の公家の 邸内の空地を融
通してもらうつもりだった。生れてくる子供は、或いは将来天皇になる皇子かもしれない
のだった。にも拘らず忠能の土地借用の申し出は、こと ごとく断られた。仕方なく忠能
は、狭い自分の屋敷内に産屋を建てなければならなかった。忠能は当時の多くの公家がそ
うであったように、浴室と
のついた二 間だけの質素な家を建てる費用さえ賄えないほ
ど貧しかった。建築の費用の大半は、借金しなければならなかった。
なお、中山邸には後日談があるので、この際、紹介しておきたい。
孫文が日本亡命時代には東京の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に
「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の「中山」という名字が気に入り、
自身を孫中山と号すようになった。日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗
っていた。号の「中山」は貴族院議員の中山忠能の姓から来ている。 孫文が日比谷公
園の界隈にある邸宅の「中山」という表札に重大な関心を持ったのは、表札の字が立派な
字であったということだけではないだろう。孫文は、日本の明治維新を理想としていた。
そして、ご承知のように、明治政府は明治天皇の下、日本国の近代化を進め、軍事力も日
露戦争に輝かしい勝利と治めるまでになっていった。その明治天皇を産んだご生母が中山
忠能の娘中山慶子(よしこ)である。私は、孫文は「中山」という表札を見て、明治維
新、明治天皇を連想し、「中山」を号するようになったのではないかと思う。
さて、中華民国の国立中山大学および中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山
大学、南極大陸の中山基地、そして現在台湾や中国にある「中山公園」、「中山路」など
「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。
以上で、中山邸の話は終わる。
最後の、京都御苑にある京都迎賓館のホームページを紹介をして、このページを閉じるこ
ととしたい。
http://www8.cao.go.jp/geihinkan/kyoto/kyoto.html
この度は、京都御所、正式には京都御苑だが、かなり詳しい説明ができたかと思う。最後
まで読んでいただきありがとうございました。
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