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専門職と広告倫理

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専門職と広告倫理
 特集
広告倫理研究の現在
専門職と広告倫理
商業広告は、何らかの営利的な行為を促進するために出されるも
のであり、マーケティングの一部を成して市場経済を駆動する不可
第一
章 広告と法律家
基本的な論点
奥 田 太
郎
⒜本章では、専門職に就く者が広告活動をしてもよいのか、という
欠のツールである。こうした広告の果たす役割をひとまず認めた上
で、現代社会におけるさまざまな社会的営為との関係で広告の倫理
広 告 倫 理 問 題 に つ い て、 と り わ け 法 律 家 の 場 合 に 絞 っ て ま と め る。
])、 お よ び、 そ れ に 対 す る
1984
Doughton
された司法の判断を中心テーマとして専門職と広告の問題を論じた
これについては、米国で一九七七年に法律家の広告活動について下
を 考 え る 場 合 に、 や や 特 殊 で あ る が 押 さ え て お く べ き 問 題 と し て 、
) の 広 告 活 動 と い う 問 題 が あ る。 と り わ け、 弁
専 門 職( profession
護士や医師が広告を出してよいかという職業倫理に関する問いをめ
の 論 考( Leiser
[
Leiser
と Macklin
のコメント( Doughton
[ 1984
] , Macklin
[ 1984
])が参考
に な る。 こ の 三 者 の 主 要 な 論 点 に つ い て 若 干 丁 寧 に 確 認 し て お こ
ぐっては、以前から議論が重ねられてきている。そこでまずは弁護
医療に携わる医師の広告規制問題を扱う(第二章)
。そしてさらに、
う。
士など法律専門職の広告規制問題について述べる(第一章)
。
続いて、
医師が処方する医薬品や薬局で販売される医薬品を製造する製薬会
社の広告活動について述べる(第三章)
。
は、 米 国 に お い て、 歯 科 医 師 に 対 し て「 公 衆 の 健 康
ま ず Leiser
や命に関わる行為は、市場での競争下に置かれるべきではない」と
いう法的判断が下されたことを始めとして、一九三〇年代から六〇
年代にかけて、弁護士、薬剤師などの専門職の広告活動が次々に禁
止されていった経緯を確認している。そこで懸念されていたのは、
129
2
社 会 と 倫 理
広告の過熱による競争激化によって専門職従事者として真っ当な職
助長するおそれもある。→裁判所
によって適切な情報提供を行うのは困難であり、また誤解を
広告で取り上げるサービ
務を遂行できなくなること、値下げ競争や広告費上乗せなどにより
スを価格の固定されたものに限定すれば問題はないし、依頼
[ 1984
] 96
)
。しかしながら、 Leiser
は、
すること等であった( Leiser
こうした専門職の広告禁止の妥当性が実は狭い文脈に依拠していた
所 「法に訴えて救済されるより黙って耐える方が常によい」
法律家と依頼者の関係は本質的に商業的な関係であることは
周知の事実である。
法律家のサービスは依頼者に応じて千差万別なので、広告
広告は、訴訟を煽って司法行政に悪影響を与える。→裁判
他領域では広告が価格を下げることもある。
広 告 は 法 律 家 の サ ー ビ ス の コ ス ト を 引 き 上 げ る。 → 裁 判
という間違った前提に基づいている。
:
律家のサービスの質が低下してしまう。→裁判所
そのよう
広告に高いコストを支払うように追い込まれることで、法
:
Leiser
はまとめとして、専門職に
の有効性を主張する。その上で、 Leiser
関わるものを含む広告活動について政策決定を行うにあたって留
[ 1984
] 102―103
)
。さらに、受け手の識字能力の差を理由として広
告の媒体を限定しないことを推奨し、特にテレビやラジオでの宣伝
なく、むしろ広告は有益な情報を提供する、と考えている(
自身は、この裁判所側の見解を基本的には支持し、依頼者
Leiser
の福利を第一に考える専門職の理想が広告禁止を要求するわけでは
とる必然性はない。
なので、全面禁止すべきである。→裁判所 法律家性悪説を
特定の広告のみを禁じる規則を運用するのは実際には困難
る。これについては他の方法で何とかすべきである。
に追い込まれる者は広告活動の有無にかかわらず追い込まれ
:
を獲得し続けられるが、若くて貧しい弁護士はそのようなルートを
[ 1984
] 98
)
。専門職活動の社会的影
持 ち 合 わ せ て い な い( Leiser
響力と重要性が高まるにつれて、顧客に対する公平な情報提供手段
Bates v. State Bar of
としての広告に注目が集まることになったわけである。
こ う し た 中 で、 米 国 で は、 一 九 七 七 年 の
以 降、 職 業 倫 理 と し て の 広 告 活 動 禁 止 の 撤 回 が 要 求 さ れ、
Arizona
専門職の広告活動が認められていくことになる。七七年の裁判の際
に弁護士協会側が提示した広告活動禁止の六つの論拠とそれに対
は以下のようにまとめている
する裁判所側の見解について、 Leiser
[ 1984
] 100―101
)
。
( Leiser
広告は、
法律専門職を商業化させることになる。→裁判所
:
130
価格が不安定化すること、商人化により専門職としての権威が失墜
ことを指摘する。たとえば、弁護士の広告禁止規則は、小さな町で
所
3
者も法律家のサービスについて十分な知識はもっている。
とっては死活問題であり、それは裏を返せば顧客側にとっても死活
4
活動する弁護士には相応しいが、大規模な都会で活動する弁護士に
問題である。また、ベテランで裕福な弁護士は社交界を通じて顧客
5
:
6
:
1
2
意されるべき事柄を以下のように述べている( Leiser
[
] 104―
1984
[ 1984
] 110
)
。広告の倫理的な受容可能性を検討する際に、述べら
れた事実についてどのような間違いがあったかではなく、何が語ら
れ て こ な か っ た か こ そ 問 わ れ る べ き で あ る と い う こ と は よ く あ る。
)
。
106
合法なものを提供する者は、それについての広告活動を認
た い て い の 場 合、 伝 え ら れ な か っ た 情 報 に よ っ て 広 告 は ミ ス リ ー
5
4
3
2
子供など判断能力のない者への広告は規制の対象となる。
新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどを鑑賞する者は、広告に
さらされることをわかっておかねばならない。鑑賞は選択可
能なので、広告を出すなというクレームは出せない。
電話や訪問など個人的な客引きは、回避が相対的に困難な
ため規制の対象になる可能性が高い。
広告の倫理性は、広告の意図に大きく左右される。操作的
の主張には
報 に さ ら さ れ る こ と は 回 避 さ れ る べ き だ と い う Leiser
同意しつつも、言うべきことを言わない広告はたとえ正確な広告で
の主張は行き過ぎであり、
あっても「反倫理的」であるという Leiser
厳密には、せいぜいその広告が「ミスリーディング」だと述べられ
は、 Leiser
が扱って
るにすぎない、と指摘する。さらに Doughton
いない重要問題として、信頼に足る正確な広告を奨励しなければな
)
。
らないというメディアの責任を指摘する( ibid.
の論考に対して各論を攻めるコメントを出し
Leiser
が
Doughton
であれば倫理的である。反倫理的な行為へと誘う意図による
を支持する
は、専門職の広告活動の倫理的許容可能性
たのに対して、 Macklin
の議論が依って立つ二つの正当化根拠を掘り起
Leiser
広告は反倫理的である。
タバコの
正確な広告でも、広告主が知っている重要な事実を明らか
にしていないのなら、反倫理的でありうる。(例
有害性など)
媒体が新聞であろうがテレビであろうが、広告には、生活
:
りの利益が生じうると
は述べている。これに対して
Leiser
Macklin
衆 に つ い て は、 広 告 解 禁 に よ る 専 門 家 の 競 争 を 通 じ て 料 金 値 下 が
によって利益を得るのは公衆と専門家の一部である。たとえば、公
の見解では、専門家たちの競争は少なくと
(一)に関する Leiser
も 倫 理 的 に 許 容 可 能 で、 お そ ら く 倫 理 的 に 望 ま し く も あ り、 そ れ
正義である。
[ 1984
]
)
。その正当化根
こ し、 手 短 な 検 討 を 加 え て い る( Macklin
拠とは、(一)自由市場での競争がもつ積極的価値、および、(二)
な広告も、ボランティアの呼びかけなど倫理的に正しいもの
は、消費者が不完全な情
Doughton
められるべきである。
デ ィ ン グ な も の と な る。 し か し
あらゆる場合において、詐欺的広告は、契約撤回や損害賠
6
償請求の根拠となる。
7
の質の向上をもたらすなどの積極的なメリットがある。
7
131
1
8
の論考にコメントを寄せた Doughton
は、まず、 Leiser
が
Leiser
提示した上記の留意事項の について次のように述べる( Doughton
専門職と広告倫理
は、 広 告 費 と サ ー ビ ス 料 金 の 関 係 は 経 験 的 デ ー タ に 基 づ い て 確 定
されるべき事柄であり、自由市場体制の競争的な性質それ自体から
妥当な結論が導き出されることはありえないし、仮に結論が出たと
しても、料金だけが公衆の利益にかかわるわけではない、と指摘す
[ 1984
] 112
)
。 さ ら に、 専 門 職 サ ー ビ ス の 自 由 市 場 制
る( Macklin
限の帰結をめぐる議論は、自由市場の競争という価値や金銭的利益
)にも基づいた複合
のみならず、公正の原理( a principle of fairness
[
Macklin
]
1984
は 主 張 す る。 そ し て 、 そ の 領 域 に お け る 倫 理
的なものだと Macklin
的問題を考えるならその分析の中に公正の価値を組み込むことが不
可 欠 で あ る と 述 べ、( 二 ) の 論 点 へ と 繋 げ て い る(
は、専門職の広告自由化がそうした専門職
らない。しかし Macklin
サービスへのアクセス確保の最善の手段であるとは限らない、とも
[ 1984
] 114
)
。
述べる( Macklin
は、広告が倫理的に許容可能であると結論するのに
また Macklin
専 門 家 と 依 頼 者 の 関 係 を 商 業 的 な も の だ と 考 え る 必 要 が あ る の か、
と 問 う て、 専 門 職 の 商 業 性 と 広 告 の 許 容 可 能 性 と は 無 関 係 で あ る 、
[ 1984
] 115―116
)
。確かに法的な判例では実
と 主 張 す る( Macklin
際に、専門職の商業性と広告の許容可能性とが結びつけられている。
しかし、そこから一歩離れて考察すると、どこまでその結びつきが
確かなものかは疑わしい。たとえば医療や法律の専門職サービスが
を介した広告を禁じることは法律家の助言が本当に必要な人々に対
(イ)識字能力の格差を考慮に入れれば、テレビ、ラジオ等の媒体
要 す る 状 況 に 置 か れ て い る こ と 自 体 も わ か っ て い な か っ た り す る。
ついて無知であったり、自分自身が法的問題を抱え法律家の助けを
り、そこから広告の許容可能性について何か一貫した結論が導き出
り取りの有無で商業性が定義されるとすれば、専門家と依頼者の関
に支持することは、論理的に矛盾しない。さらに、(二)報酬のや
るということと、それらが商行為に通じる要素をもつこととを同時
によれば、(一)基本的な医療・
ら、ということが挙げられる。 Macklin
法律のニーズを満たすための専門職サービスが特殊な社会的財であ
132
商品として捉えられてしまうのを拒否する理由として、医療や法律
は、
する情報提供を禁じることに他ならない。これを受けて Macklin
依頼者や消費者による専門職サービスへのアクセスの問題を、
「社
せるわけではない。こうして、専門職の商業性は広告の許容可能性
は人々の人生の目標や計画の前提となる特殊な社会的財であるか
会的な利益と重荷の公正な分配」という正義の問題と捉え、これは
)」として扱うべきか「特権( privilege
)」
へのアクセスを「権利( right
係のある部分は商業的であり他の部分はそうでないということにな
広告が消費者にもたらす金銭的利益の問題よりもはるかに切実で
によれば、広告禁止規則は、正義に適っ
あると主張する。 Macklin
た仕方で人々の情報アクセスを可能にするために、改められねばな
によれ
とは概念的にも倫理的にも無関係だと主張される。 Macklin
ば、商業性と概念的・倫理的に関係しているのは、専門職サービス
)
。
113
は次のような指摘を行っていた。(ア)
すでに見たように、 Leiser
深刻な法的問題を抱える人はしばしば、低価格の相談窓口の所在に
社 会 と 倫 理
として扱うべきか、という問題である。仮に医療サービスを商品と
一九八七年には条件付きで広告を一部認めるに至った(石川[
]
2003
捉えれば、医療は富裕な人々のみが享受できるものだとする「医療
帰らなければならないのではなかろうか」と問題提起している(棚
論理から一度脱却し、法律サービスの需要者と供給者という原点に
な実効性のあるものであるためには、プロフェッションの固定した
と論じ、
「結局、広告自由化も、それが利用者の期待に答えるよう
])は、弁護士広告の自由化問題
いる。その中で棚瀬(棚瀬[ 1980
によって弁護士という専門職それ自体のあり方が問い直されている
)
。その間の一九八〇年に出版された『自由と正義』第三一巻第
16
一〇号では、
「弁護士の広告」というタイトルでの特集が組まれて
=特権説」を支持することにつながり、医療サービスを特殊な社会
的 財 と 捉 え れ ば、 医 療 は す べ て の 人 が 受 け ら れ る べ き 権 利 だ と す
は考えるのであ
Macklin
る「医療=権利説」を支持することにつながる。しかし、これと広
告の許容可能性とは厳密には別の問題だと
る。
米国の動向を受けた日本の動向
欺広告、顧客迎合など)のほとんどが現実には生じないことが示さ
問題点(コスト上乗せ、新規参入障壁、規模の経済、価格共謀、詐
的調査に基づき検討している。反対論の提示する広告のさまざまな
の論考( Bloom
[ 1977
])を挙げることができる。 Bloom
て、 Bloom
は、 広 告 反 対 論 と 賛 成 論 を 丁 寧 に 整 理 し、 さ ら に 一 定 程 度 の 経 験
]
)一
の勧誘広告に関するものがあると捉える(高橋[
2001
30―31
方で、弁護士広告が潜在的依頼者の欲望に及ぼす影響について、
「商
題として、報酬、無料法律相談、専門分野の認定と表示、特定事件
新たな特集を組んでいる。たとえば高橋は、広告の自由化に伴う課
七号)と二〇〇三年(第五四集第一〇号)に弁護士広告についての
を受け、
『自由と正義』では、自由化後、二〇〇一年(第五二集第
] )
。
瀬[ 1980
8
そ の 後 二 〇 年 を 経 て 二 〇 〇 〇 年 に 日 弁 連 の 会 則・ 会 規 が 改 正 さ
は、
れ、他方で、賛成論にも慎重なコメントが付される。結局 Bloom
広告規制撤廃の専門職業務へのインパクトはそれほど大きくないた
品の購買とは異なり法的な問題を抱えていない人に、広告によって
め、広告が有効に働く専門職から規制撤廃が進むだろうと見込んで
]
新たな法的問題を作り出すということは考えにくい」
(高橋[ 2001
論点を整理し、今後予測される事態の展開を論じた先駆的業績とし
いる。七七年以降の動向は、この見込みから大きく外れるものでは
] 30
)と弁護士広告を比較的好意的
みの構築である」(高橋[ 2001
れ、弁護士業務広告の原則自由化が認められることとなった。これ
なかったと思われる。
)と述べて弁護士業務が提供するサービスの特殊性を指摘し、「広
26
告の自由化は、市民が弁護士を利用しやすくするための新しい仕組
このような米国の動向に合わせて日本では、一九七八年以降、日
本 弁 護 士 連 合 会 に よ っ て 弁 護 士 広 告 の 全 面 禁 止 が 見 直 さ れ 始 め、
133
⒝一九七七年を頂点とする広告規制撤廃への米国の動向に即応して
専門職と広告倫理
に受け入れている。弁護士広告の主たるメディアとしては、インター
] 37
)
。ただし、ホームページ
ネットが選ばれている(小川[ 2001
=広告、という日弁連の二〇〇一年時点での公式見解によって、か
第二
章 広告と医療
基本的な論点
])も提出されている。
的な見解(古賀[
2001
また、広告自由化の三年後に書かれた石川の論考(石川[ 2003
])
で は、 広 告 自 由 化 の 背 景 に あ る「 弁 護 士 市 場 で の 新 た な 需 給 関 係 」
か、という疑いが強まっていること、医療を専門職でなく商行為と
[ 1985
])がある。 Dyer
は、当時の米国において、専門
論考( Dyer
職倫理が医師たちの既得権益維持の隠れ蓑となっているのではない
⒜専門職としての医師と広告倫理の問題について、その背景にある
が指摘されている。石川によれば、弁護士業務が裁判所中心から消
みなせば、医療をよりよくコントロールできるだろう、という意見
えって弁護士による情報発信が阻害されるおそれがあるという批判
費者被害や中小企業の日常問題を解決するものへと拡大する中で、
が力を持ち始めていることを指摘している。米国では、連邦取引委
の
医師・患者関係の変化を視野に入れて論じたものとして、 Dyer
若手弁護士が精力的に仕事獲得へと動き出し、他方で依頼者側が費
) に よ る 相 次 ぐ 訴 訟 の 結 果、 一 九 八 二 年 に 医 療 広 告
員 会(
] 16―17
)
。そうした中で、弁護士広告は弁護士全体
る(石川[ 2003
の課題となる必要があるのだが、実際には個人的な営業や好みの問
題に矮小化されがちであり、それが現在の広告への取り組み低調の
] 18
)
。さらに石川は、弁護
原因の一端になっている(石川[ 2003
士広告に関わる規範の問題が業界の内輪での議論にとどまらず、よ
規制が撤廃された。そこで、いかなる広告が倫理的であるか、が問
に よ れ ば、 広 告 に は、( 一 ) 情 報 の 流 布、( 二 ) 商
題 と な る。 Dyer
品の差異化という異なる二つの目的があり、米国医師会はそのうち
( 一 ) に つ い て は 受 け 入 れ る が ( 二 ) に は 反 対 し て い る。 そ の 背 景
には、医療者が提供する医療には本来差異があってはならず、また、
がある。それゆえ、顧客に情報を提供する広告は倫理的であり、商
医療者が患者を獲得するのは、公衆への直接的なアピールによって
)
。そうした規範に関する議論には当然ながら倫理学者の果た
22―23
す役割も一定程度あると思われるが、残念ながら、弁護士広告に関
品 の 差 異 化 に よ っ て 差 異 の 幻 想 を 生 み 出 す も の は 反 倫 理 的 で あ る、
えているか否か、および、それを判断する客観的基準がありうるか
とされる。こうして医療広告の倫理的問題は、その広告が事実を伝
ではなく、地元での評判を築くことによってである、といった認識
して倫理学者が論じた文献は現状ではほぼ皆無である。
]
り開かれた場で論じられるべきであると指摘している(石川[ 2003
F
T
C
否か、に絞り込まれることになる。
134
用・時間等の情報を自ら得た上で弁護士を選ぶようになってきてい
社 会 と 倫 理
また、 Dyer
は、医療広告問題の背後には医療を取り巻く世界観
の 変 質 が あ る、 と 考 え る。 こ の 変 質 は、 医 療 の 科 学 的 中 立 性 が 推
進され、経済分析や統計分析などによって客観性が追求されること
で生じてきたものであり、その影響は医師・患者関係に及ぶとされ
る知が治療の基本要素であったのだが、今や医療は生理学的な要素
に還元可能であり簡単に売り出すことができるようになってしまっ
[ 1997
] 145
) 近 代 医 学 に 対 応 す る 生 命 倫 理 は、 自 律 的
た。( Dyer
個人が自らの健康について下す選択に焦点をしぼっているが、広告
患者関係は、サービス提供者、消費者、第三者(保険会社や社会福
であった。しかしながら、近代以降、経済の観点が強まり、医師・
た二つの倫理、すなわち、
「患者中心の倫理」と「市場主導の倫理」
つあり、それまで自律的選択を核として重なり合っていたかに見え
は指摘する。現在、市場にお
イムは破綻することになる、と Dyer
いて個人が自律的に合理的選択を行うという近代の神話が失効しつ
によって人々の自律が奪われれば、そうした現代の生命倫理パラダ
祉機関等)から成る三者関係へと変化し、医療行為は公的なものと
を自覚することを通じて、自分たちの生活が自分たちの自由裁量を
によれば、伝統的な医師・患者関係は、医師と患者の二
る。 Dyer
者関係であり、医療行為は信頼を媒介として成立する個人的なもの
は、こうした変化にもかかわらず、人々が
なったのである。 Dyer
助けを求め医師がそれに応えるということが今もなお医療活動の真
超えた要因から形成されているという事実に気づくことになる。さ
してのマーケティングを目指した教育プログラムや倫理綱領を確立
[
]
)
を指摘している。(
Dyer
1985
75―76
さ ら に Dyer
は 後 年 の 論 考( Dyer
[ 1997
]) で こ の 議 論 を 進 展 さ
せ て 以 下 の よ う に 述 べ て い る。 米 国 マ ー ケ テ ィ ン グ 協 会 が 科 学 と
づく「患者中心の倫理」への移行を促すかもしれない、と考えてい
は、そうなることで逆説的に、消費者の自
くことにもなる。 Dyer
律に基づく「市場主導の倫理」から、自律に偏重しない関係性に基
らに、意思決定手段としての自律的・合理的決定の不完全さに気づ
したことによって、商人と客の関係の捉え方そのものが変質するこ
こうした
135
は緊張関係に置かれている。われわれは、洗練された広告の影響力
髄であることに変わりはない、と述べ、医療の専門職倫理の必要性
が二〇〇六年に発表した論考( Tomycz
[ 2006
])では、医療広告の
解禁によって医療の質向上やコスト抑制がもたらされたかどうかは
と共有しうる価値観に基づきなが
を越えているが、他方で、 Dyer
ら ス ト レ ー ト な 反 対 論 を 展 開 す る 論 者 も い る。 た と え ば、 Tomycz
て、医師・患者関係もまた物質的な経済基盤へと還元されて変質し、
不明であり、逆に、広告による医療の商業化がもたらす医師のプロ
消費者として定義されるに至った、というわけである。それに伴っ
かつては、人としての患者、患者の生活史、社会的状況などに関す
人・客関係が崩れ去り、共同体が科学的眼差しで捉えられ、人々が
は客の求めたものの代価を受け取る、というような昔の共感的な商
とになった。すなわち、同じ共同体に生きる者であるがゆえに商人
[ 1997
] 146―147
)
るようである。( Dyer
の議論は医療広告への単純な賛成/反対の二分法
Dyer
専門職と広告倫理
般的な傾向としては、患者=消費者に対する有効な情報提供ツール
が自らの議論を補強すべく参照している文献はすべて
し、 Tomycz
一九七〇年代から八〇年代のものである。このことから、最近の一
の 評 価 が 広 告 の 評 価 へ と 収 斂 し て し ま う 危 険 性 を 指 摘 す る。 た だ
一 方 向 性 を 批 判 し、 ま た、 多 様 な 要 因 に よ っ て 定 ま る は ず の 医 師
は、良質の医療を提供するためには医師と患者の
ている。 Tomycz
間 で の 相 互 的 な や り と り が 必 要 だ と 考 え、 広 告 に よ る 情 報 伝 達 の
に 認 め ら れ て も な お タ ブ ー と み な さ れ る べ き で あ る、 と 論 じ ら れ
フ ェ ッ シ ョ ナ リ ズ ム の 希 薄 化 の 弊 害 が 大 き い の で、 広 告 は、 法 的
療へのアクセスの制限を招くので望ましくないという立場から、従
い、と述べ、他方、法学者は、生殖補助技術の情報流通の制限は治
的ではないが、人間の生殖の地位と尊厳を維持するには相応しくな
マーシャリズムから守られるべきか、
といったことが争点となった。
妊患者をどう考えるか、不妊治療に携わる医師や専門家は過度のコ
さの基準はいかにして効果的に適用されうるか、搾取されやすい不
格の強い生殖補助技術は、とりわけマーケティングや広告活動の格
点であった。医療の中でも、個々の患者のニーズに応じるという性
ワークショップに参加した神学者は、広告はそれ自体として反倫理
好の標的になりがちである。こうした問題意識のもと、広告の正確
として広告が積極的に評価されてきているのではないかと推察され
来の不法行為法やインフォームド・コンセントなどを通じて市場の
136
る。
公正さと広告の正確さが可能になる、と述べた。多くの論者に共通
した見解は、広告やマーケティングを通じて伝えられる情報は正確
かつ明瞭に消費者に理解されなければならないが、それは到達困難
先端医療の広告について
⒝実際、先端医療については、広告が有効な情報提供ツールとして
Sher
[ 1997
])。 Sher
と Feinman
に よ れ ば、 体 外 受
る( Sher & Feinman
精を望む人々には、それが保険の適用外にあって高価であり、結果
と Feinman
は、 自 分 た ち の 取 り 組 み の 詳 細 を 述 べ な が ら、 成 功 率
などを含めた情報を広告として提供することの重要性を説いてい
)で実際に不妊治療に携わる
( Pacific Fertility Medical Center
[ 1997
] 128―129
)
あった。( Macklin & White
そ の 中 で、 カ リ フ ォ ル ニ ア の パ シ フ ィ ッ ク 不 妊 治 療 セ ン タ ー
な目標だ、というものであった。また、不妊治療の成功率などの情
比較的評価される傾向があるようである。たとえば、一九九七年に
補助技術のマーケティングや広告活動の問題がワークショップの焦
と White
が以下のようにまとめている( Macklin & White
を
Macklin
[ 1997
]
)
。
不妊治療が「産業」と特徴づけられ、そのことで生じてくる生殖
で開催
)が同年一〇月一九日にワシントン
問委員会( NABER
したワークショップの記録として書かれたものである。全体の議論
報 を 広 告 に 出 す こ と の 是 非 を め ぐ っ て は、 見 解 が 分 か れ た ま ま で
D
C
誌上で生殖医療と広告に関する特集が組まれ
Women’s Health Issues
ている。そこに収められた論考は、主として、全米生殖医療倫理諮
社 会 と 倫 理
専門職と広告倫理
も保証されているわけではない、といったことをあらかじめ説明し
ておく必要があり、それを効果的に実現するために広告は有効であ
入(エンハンスメント)問題にも通ずるものであろう。
者にとって情報開示とエンパワーメントの重要な源となるのである
ればならない。体外受精の領域では、事実的・情報的な広告が消費
邦取引委員会と米国医師会の間で医療専門職の広告規制をめぐるせ
医療が行われているかによって少しずつその内容が違ってくる。連
⒞医療と広告の問題は、当然ながら、どのような習慣と制度の下で
英国における動向
] 154
)
。 他 方、 不 妊 に 関 す る 非 営 利 の 消 費
1997
る。その場合の広告には成功率は重要な情報として含まれていなけ
[
( Sher & Feinman
)
めぎ合いがあった米国に対して、英国では、公正取引局(
)
、 総 合 医 療 委 員 会(
)
、英国医
師会の三者間でのやりとりによって医療広告の規制問題が検討され
専 門 職 行 動 基 準・ 医 療 倫 理 検 討
委 員 会 の 委 員 長 で も あ る Irvine
に よ れ ば、 英 国 独 自 の 機 関 で あ る
は、 一 八 五 八 年 に 創 設 さ れ、 医 療 専 門 職 の 活 動 を 規 制 し て
公 衆 を 保 護 す る 役 割 を 担 っ て き た( Irvine
[ 1991
] 35
)
。伝統的に
は 医 師 の 広 告 を 規 制 し て き た が、 一 九 八 〇 年 代 半 ば 頃 か ら
は、美容整形に関する広告問題について論じている
Morreim
基準委員会で、従来の方針がすでに時代遅れであることが確認され
医師と公衆がともに広告規制の緩和を求め始め、一九八五年二月の
人が費用を負担するのであれば、サービス提供者としての医師の側
する制度であり、英国医師会によれば、最小のコストで最高の医療
)」が密接に関わってくる。
「紹介制」は、初期治療
( referral system
ではまず一般開業医が見て、彼らが必要と判断すれば専門医を紹介
を重視する社会では、美容整形は他の医療と変わらない。また、個
に消費者の要求を満たす義務すら発生し、その中でどのような広告
[ 1991
] 36
)
。
た( Irvine
また、医療広告の規制緩和には、英国独自の制度である「紹介制
[ 1988
]
)
。 Morreim
に よ れ ば、 健 康 は、 目 的 そ の も の で
( Morreim
はなく、個々人が自分の人生を相応しいと思うような仕方で自律的
の だ と み な さ れ て お り、 市 場 に 流 通 す る 商 品 に い っ そ う 親 和 的 で
美 容 整 形 は、 医 療 ニ ー ズ と い う よ り む し ろ 個 人 の 欲 望 に 応 え る も
だ が、 こ れ に 対 し て、 同 じ く 通 常 の 保 険 の 適 用 外 に 置 か れ て い る
いう大きな問題があり、統計データの用い方について慎重になる必
や 独 占 合 併 委 員 会(
の行政関連業務の責任者(当時)の Zieselman
は、
者団体 RESOLVE
生殖補助医療の広告に妊娠率と生児出生率のどちらを載せるのかと
O
F
T
て き た。 一 般 開 業 医 で あ り
G
M
C
[ 1989
]
)
。した
提供を可能にする制度であるとされている( Gillon
がって、英国では、一般開業医と専門医の役割分担が明確であり、
に構築していくための前提条件に他ならない。そう考えれば、外見
ある。
G
M
C
が 許 さ れ る か を 考 え な け れ ば な ら な い、 と 述 べ て い る。( Morreim
] )
1988
6この種の議論は、昨今話題の遺伝子レベルでの増進的介
[
137
M
M
C
[ 1997
] 181
)
。
要があることを訴えている( Zieselman
多くの課題を抱えているとはいえ不妊治療はあくまでも「治療」
G
M
C
G
M
C
社 会 と 倫 理
そうした制度下で専門医の広告が自由化されれば、紹介制に基づく
現 行 の 英 国 の 医 療 体 制 が 無 効 化 さ れ、 悪 質 な 医 師 に 出 く わ す 患 者
)
。
のリスクが高まるのではないか、という見方が根強くある( ibid.
に よ る 医 療 広 告 の 指 針 は、 一 般 開 業 医 の 広 告 の み を
については規制を緩和する、
という方針が採用された(
)
。
38
日本における動向
[ 1991
]
Irvine
理的判断が可能であるが、他方、専門医を必要とする段階では患者
規制緩和するものである。 Irvine
によれば、一般開業医にかかる初
期治療段階では患者は比較的健康であり、事実的情報に基づいた合
対象のままであったが、二〇〇二年の規制緩和によって、専門医の
和された。二〇〇一年の段階では、専門医の認定などの項目は規制
厚生労働省告示第一五八号によって、二段階で医療広告の規制が緩
実 際、
はより傷つきやすい状態におり、合理的判断ができるかどうかは怪
認定、手術件数、疾患別患者数などを含む二一項目が規制対象外と
⒟日本では、二〇〇一年の第四次改訂医療法の施行、二〇〇二年の
しく、また、専門医の方も患者の病歴等の情報が必要である、とい
なった。医療倫理という観点から広告規制問題について正面から論
G
M
C
]) が あ る。 碇 は、
調 査 し た 実 証 研 究 と し て、 碇 の 論 考( 碇[ 2003
医療機関の実態のみならず、消費者の医療機関選択時の情報源につ
の前後で医療機関による情報提供活動の実態がどう変化したのかを
報を得ようと思う人々がアクセスできるような仕方での一般開業
いても(産科受療に限ってではあるが)調査している。調査の結果、
や
による要請などを受けて
指針が再
による広告の内容の根拠となる原則をより明確に述べて、その流通
] 35
、 39
)
。しかし、
用率も上昇していることがわかった(碇[ 2003
この変化が広告規制緩和によるものか否かについては明らかではな
] 39
)
。ただし、ホームページによる広報活
結論された(碇[ 2003
動は二〇〇〇年と二〇〇二年で飛躍的に増えており、消費者側の利
)ことが明らかになり、消費者の情報源についても、友人・知人
38
によるクチコミが多く、医療広告はほとんど参考にされていないと
]
の新たな情報提供活動は、未だほとんど進んでいない」(碇[ 2003
医 に よ る 情 報 提 供( た と え ば、 リ ー フ レ ッ ト 広 告 ) を 認 め る こ と
は、一九八九年
Colman
広告規制緩和後も「緩和項目についての広告・広報を含む医療機関
そ の 後、
G
M
C
検討されることとなり、一九九〇年の改訂版指針では、一般開業医
M
M
C
批判し、患者の医師選択権などを理由に異議申し立てを行っている。
[ 1989
])において、新聞による情報提供の規制を
の論考( Colman
や英国医師会による不当なパターナリズムの行使であると
とは意図されていなかった。これに対して
にした。この時点では、新聞等を通じて広範に情報を流通させるこ
難であり、内容のコントロールが重要である、という認識から、情
じた邦語文献は発見することができなかったが、この広告規制緩和
は専門医の広告を認めることには慎重な姿勢を
う 理 由 で、
とっている( Irvine
[ 1991
] 39―40
)
。
方 針 で は、 情 報 の 流 通 の コ ン ト ロ ー ル は 困
一九八六年の
G
M
C
O
F
T
138
G
M
C
G
M
C
い。
第三
章 広告と製薬
基本的な論点
⒜広告活動は、商品の売り手が買い手に対して行うものであり、前
章では、医療サービスの売り手である医師が買い手である患者に対
して行う広告行為が問題であった。しかし、医師は、医薬品を売る
症 状 に 対 し て 用 い ら れ る も の で あ る た め、 医 薬 品 広 告 は 他 の 広 告
に増して「明瞭かつ教育的かつ正確」でなければならない。また、
と Holt
は、 広 告 会 社 に よ る 薬 学 的 知 識 の 裏 づ け を 欠 い た
Chandra
不確かな表現が広告に使われてしまうことを回避するため、広告戦
略を立てる際には医学・薬学の専門家が必ず加わるべきであると述
[ 1999
] 365
)
。
べている( Chandra & Holt
医薬品広告が、われわれの健康概念や生き方などに関わる公共的
[
な位置づけをもっていることを指摘するのは、 Reuter
の論考( Reuter
は、 わ れ わ れ の 生 き 方 に 関 わ る 価 値 と し
Reuter
製薬会社に対しては買い手である。従来、製薬会社は、医療機関に
]) で あ る。
2003
おいて医薬品の購入に強い影響力をもつ医師に対して営業を行って
)
、誠実( honesty
)
、公正さ( fairness
)を挙
て、慈愛( benevolence
げ、 そ れ ぞ れ が 医 薬 品 や そ の 広 告 に 密 接 に 関 わ っ て い る、 と 論 じ
] 173
)
2003
によれば、これらの価値群と医薬品との関わりゆえに、
る。 Reuter
医薬品広告には他の広告にも増して透明性や教育的効果が求められ
[
る。( Reuter
米国における動向
⒝医薬品広告、とりわけ、医師の処方箋を必要とする医薬品に関し
広告は、米国において大きな問題
広告問題について最近論じられ
広告は拡大し続けて巨大な産業に成長し
D
T
C
139
いたが、近年、長い間禁止されていた一般消費者向けに直接広告活
動を行うことが認められてきている。一般消費者を直接ターゲット
とした処方医薬品に関する広告は、「
広告( direct-to-consumer
広告を含む医薬
)」 と 呼 ば れ て い る。 本 章 で は、
advertising
品広告に関する議論を見ておこう。
と Holt
は、 医 薬 品 広 告 は 対 象 と な る 商 品 が 人 々 の 健 康
Chandra
を左右するという点で特殊でありより高い質が求められる、と指摘
て消費者に直接向けられた
となっている。米国における
の論考( Lansing & Fricke
[ 2005
])
Fricke
たものとして、
と
Lansing
必要以上に高価で過大評価された医薬品の選択へと動機づけられ
許 可 さ れ て 以 降、
局(
てしまうことである。さらに、医薬品の適切な服用方法や副作用な
どの情報が広告の中で適切に記されない傾向があるという問題も
と
は ま ず、 一 九 九 七 年 に 食 品 医 薬 品
が有益である。
Lansing
Fricke
)によってテレビ等のメディアを介した
広告が
[ 1999
] 360
)
。 Chandra
と Holt
によれば、医
する( Chandra & Holt
薬品広告の一般的な問題は、その強力な影響力によって、消費者が
D
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C
D
T
C
D
T
C
D
T
C
あ る。 そ も そ も、 広 告 の 対 象 は 不 特 定 多 数 だ が、 医 薬 品 は 特 定 の
D
T
C
F
D
A
専門職と広告倫理
下で、製薬会社は、肥大化した研究開発費とマーケティング・コス
た、という状況を詳細な数値を挙げながら描き出す。そうした状況
そ っ ぽ を 向 か れ る 、 と い う ジ レ ン マ 状 況 に 陥 っ て い る。
る こ と に な っ た、 と 分 析 し て い る。 こ う し て 製 薬 会 社 は 現 在、 超
薬 企 業 が、 広 告 を 出 す こ と で 貪 欲 な 儲 け 主 義 の イ メ ー ジ を も た れ
) に も 責 任 の 一 端 が あ り、 医 薬 品 広 告 の 状 況 改 善 の
が 主 導 的 役 割 を 果 た す こ と が 求 め ら れ て い る。
] 28―34
)
2005
広 告 に 関 す る 規 制 緩 和 が 行 わ れ て お り、
ションが従来の医師と製薬会社、医師と患者のコミュニケーション
製 薬 会 社 と 顧 客 と し て の 患 者・ 一 般 消 費 者 の 新 た な コ ミ ュ ニ ケ ー
⒞日 本 で も 近 年、
日本における動向
[
( Lansing & Fricke
ためにまず
門(
に よ れ ば、 こ の 事 態 は、 製 薬 会 社 に 対 し て 規 制 を 守 ら せ そ
Fricke
医薬品営業通信部
の行く末を舵取りする役割を担うはずの
と
Lansing
大 型 新 薬 を 売 り 出 さ ね ば 生 き 残 れ な い が、 そ れ を す れ ば 消 費 者 に
)の生産に
ト を 回 収 す る た め に、 超 大 型 新 薬( “blockbuster” drug
広告の教育効果によって人々
強迫的に取り組むことになる。
の知識と意識が向上し、病気の早期発見・治療につながるとされて
広告は人々にとって有益
いるが、他方でそれは製薬会社を果てしなき超大型新薬開発へと向
か わ せ る 圧 力 を 生 み 出 し て お り、
か有害かが改めて問われてきている。( Lansing & Fricke
[ 2005
] 23―
)
24
製 薬 会 社 は 短 期 間 で 新 薬 を 市 場 に 送 り 出 そ う と す る た め、 長 期
に わ た る 治 験 な ど を 経 な い ま ま 新 薬 が 出 回 る こ と が 多 い。 そ の た
の事例のように、市場に出
め、メルク社の超大型新薬だった Vioxx
回った後で心臓発作などの副作用の危険性が明らかになる場合が相
広 告 に よ っ て 人 気 を 博 し て、 不 必 要
は、
次いでいる。 Vioxx
な人や不適切な人にまで服用されていたため、結果的に健康被害を
が強化される、というメリットがある一方で、医薬品の過剰処方を
広告
[ 2005
] 24―25
)
損 失 を 被 っ て い る。( Lansing & Fricke
は、消費者の知識と意識を向上させ、それによって医師・患者関係
の効果は、たとえ広告の情報が患者に正確に理解されなかった場合
ションを促進する触媒としての役割を持つ。」また、そうした広告
るものではないが、
「治療薬」に関して患者と医師のコミュニケー
]
にどのような影響を及ぼすのかが問われている(猪股ほか[ 2003
)
。 猪 股 ら の 調 査 に よ る と、
「日本において薬剤名を示した
135
広 告 は、 患 者 か ら の「 治 療 薬 の 処 方 依 頼 」 を 強 力 に 促 進 す
招いたり、利益の少ない稀少薬の研究開発が敬遠されたりといった
]
でも同じであり、医療の質の向上にも貢献する。(猪股ほか[ 2003
もたらしてしまい、メルク社は数多くの訴訟を抱えて大きな経済的
F
D
A
デメリットも大きい。何よりも、米国における医薬品広告解禁後の
D
T
C
D
T
C
と Fricke
は、以
製薬会社のイメージダウンは深刻である。 Lansing
前は研究にいそしみ病気の克服を目指す清廉なイメージのあった製
D
T
C
)
144―145
しかし、一般用医薬品広告については事態が異なっているようで
D
T
C
140
D
D
M
C
D
D
M
C
D
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T
C
社 会 と 倫 理
専門職と広告倫理
ある。日本における一般用医薬品広告が消費者に及ぼす影響の詳細
])、供給者である製薬会社側
を調査した冨田によれば(冨田[ 2000
は、医薬品広告を情報提供の側面で捉えるが、他方、需要者である
消費者側は、医薬品広告に馴染みや精神的な安心感を求める、とい
う広告に対する意識のギャップがある。医師の処方が介在する場合
と、薬局等で消費者が直接購入できる場合とでは、医薬品広告問題
の性質は異なってくるということであろう。
むすび
倫理の現状が報告される。
141
伝統的に商行為やビジネスとは一線を画してきた法律や医療と
いった専門職の営みが「サービス」として市場に投げ込まれる現代
にあって、そうしたサービスの受け手である消費者は、間違いのな
い購買選択のための適切な情報を必要としている。消費者のニーズ
に応える情報提供ツールとして広告が果たす役割は今後ますます大
のよ
きくなるだろう。他方で、広告媒体がさらに多様化し、インターネッ
トをはじめとする情報技術の普及と進展を受けて、テレビ
では、こうした見通しを念頭に置きつつ、インターネット上の広告
広告倫理が求められることになろう。本論文に続く小林=安達論文
の形は今後さらに大きく変化していくと見込まれ、新たな次元での
ゲットの絞り込みが可能になるなど、情報提供ツールとしての広告
始めてもいる。ネットワーク技術の進展によって、より精密なター
うな不特定多数を対象とした従来型のマス広告の失効がささやかれ
C
M
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