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流域の歴史・道・人~紀の川

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流域の歴史・道・人~紀の川
もくじ
はじめに………………………………………………………… 村瀬 憲夫………………… 2
(近畿大学 名誉教授) 紀の川流域の歴史ストーリー………………………………… 糀谷 昭治………………… 4
(紀の川流域文化遺産活用地域活性化協議会 事務局長) 南 海 道……………………………………………………… 長谷 正紀……………… 10
(関西大学 非常勤講師) 紀の川の舟運…………………………………………………… 木綿 良介……………… 17
(万葉研究家) 南海道を歩いた万葉びとたち………………………………… 村瀬 憲夫……………… 21
「日本霊異記」と紀の川流域の古代寺院 ……………………… 藤井 保夫……………… 28
(考古学研究家) 葛城修験の道~加太~………………………………………… 膾谷 健一……………… 36
(犬鳴山修験道 宝照院) 紀の川に生きる…………………………………………………… 瀬川四十八……………… 44
もくじ 1
はじめに
とうとう
和歌山県の北部を東から西へ、滔々と流れる紀の川は、古くからその流域に、経済的・
政治的・社会的に豊かな発展をもたらしてきました。その営みのなかから、豊穣な文化と
歴史がはぐくまれ、時代とともに層をなして積み重ねられてきました。
この冊子では、その基層ともいえる最も古い時代(古代)に力点を置いて展開しています。
文化と歴史は、いうまでもなく人間の営みの産物です。それは少しかたい響きをもちま
すが、「文化遺産」(有形・無形)として現在に残され受け継がれています。「文化遺産」
は、その時代時代を生きた人間の活きた「証し」なのですから、現代に生きる(活きる)
私たちは、この遺産を床の間に飾っておくのではなく、現代の生活に活かし、そして未来
へと手渡していかなければなりません。
和歌山県が活性化し一層元気になるための資源として、この「文化遺産」を活用してい
こうではありませんか。そのような思いをこめて、
この冊子「流域の歴史・道・人〜紀の川〜」
を編みました。
『紀の川流域の歴史ストーリー』では、紀の川流域に展開した歴史を、紀伊国のあけぼ
のから、古代を中心に近世まで、幅広くいくつかのストーリーとしてお読みいただけるよう
に記しました。流域に残る遺跡、神話、伝説の多彩さには目を見張るものがあります。
『南海道』では、紀の川流域の「陸の道」を取り上げ、歴史地理研究の成果を踏まえて、
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 2
その道筋をたどりました。道筋の復元は困難をともない、未解明の部分もありますので、
それだけにロマンをかき立てられます。「南海道」の基礎知識もわかりやすく記しました。
『紀の川の舟運』では、紀の川の交通・運輸に関する機能について記されています。水
量が豊富で勾配の緩い紀の川は古来より舟運が発達し、特に大量輸送について謂わば「水
の道」としての役割を果たしてきたのです。
『南海道を歩いた万葉びとたち』は、「万葉の道」です。万葉集の時代(飛鳥・奈良)、
紀伊国への旅はおおむね紀の川筋をたどりました。南海道の道々で詠われた歌をわかりや
すく解説しながら、この道を歩いた人々の思いを味わってみました。
『
「日本霊異記」と紀の川流域の古代寺院』では、「日本霊異記」に登場する、紀の川流
域の古代寺院を取り上げました。「日本霊異記」は、仏の教えを民衆に分かりやすく具体
的に説くために編まれました「仏教説話集」ですので、そこには人間の生々しい営みと声
が描かれています。考古学の成果もとりいれながら記しました。
『葛城修験の道~加太~』では「修験の道」を歩きます。南海道の紀伊国での終着点
の加太は、葛城修験道の初発の地でもあります。この加太に焦点をあてて、古代から人々
の心の中に生き、そして修験として道を歩く「修験道」について、具体的に記しました。
『紀の川に生きる』では、紀の川流域に生まれ、そこに生きる、ひとりの人間の体験を
と あみ
語ります。紀の川中流はかつて「投網」漁が盛んで、それを生業とする伝統の家もありま
した。その体験は読む者をワクワクさせますとともに、そういった伝統が消えていく寂しさ
も思わずにはいられません。ちなみにこの筆者は、現在、地域の文化と歴史を活かした、
地域の活性化に向けて獅子奮迅の活動を続けています。
はじめに 3
紀の川流域の歴史ストーリー
「紀の川流域」は、弥生時代の灌漑用水路が発掘されており、古代から豊かな地域とし
て力を蓄えていたことが分かっています。この力があったからこそ神々が生き生きと活躍
する神話の舞台となり、「紀氏」の古墳築造に始まる様々な歴史・文化を築いてきました。
このような「紀の川流域」の歴史を、読者のみなさまに興味をもって頂けるよう、伝承や
仮説なども含め、物語として組み立てました。
「紀の川流域」が重層的な歴史を反映した「文化・歴史ロマン」の宝庫であることの一
端をご理解いただき、国体や高野山開創 1200 年を機に、一度「紀の川流域」を訪れて
頂ければ幸いです。
1.
神話・伝承からみる古代の和歌山
い
だ き
そ
• 「紀伊」のルーツ「木の神」を祀る「伊太祁曾神社」
イタケルノミコト
紀伊國一之宮の一つである伊太祁曾神社の主祭神、五十猛命は、スサノオノミコトの子
で、高天原から木の種を持ってきて日本全国に植林し、豊かな緑の国にした「木の神」で
オオヤツヒメノミコト
ツマツヒメノミコト
す。副祭神である妹の大屋津姫命・都麻津姫命も、家屋や舟などの用材の「木の神」です。
この「木の神三神」は植林が終わった後、最も木がよく育つ国の伊太祁曾神社に祀られま
した。この祀られた国が「木の国」といわれるようになったと言われています。その後、
「紀
き
くに
の国」となり、国名を漢字二字表記にせよとの朝廷の命によって「紀伊の国」になりました。
き
い
くに
平安時代になると、漢字読みをして今の「紀伊の国」と呼ばれるようになったと言われて
います。
オオクニヌシノミコト
この「木の国」へ、大国主神(スサノオノミコトの娘婿)が兄たちから命を狙われ、出
雲から救いを求めてやって来た時に、五十猛命は、木の俣をくぐり抜けさせ、父スサノオ
ね の か た す く に
ノミコトが治める「根之堅州国」へ逃がし、命を助けたと伝えられています。ここで大国
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 4
主神はスサノオノミコトに鍛えられ、娘のスセリビメを娶り伴って帰還します。やがて、大
スクナヒコナノカミ
国主神は数々の試練を乗り越え、兄たちを倒し、少彦名神(友ヶ島に祀られている)の力
を借りて、地上の「中つ国」を統一した「国造り」の神となります。境内には、この神話
にちなんで、無事息災を祈り、御神木の穴をくぐる「木の俣くぐり」があります。
かまやま
にちぜんぐう
• 神武東征と「竈山神社」
、「日前宮」
イツセノミコト
神武天皇とその兄の五瀬命は、兄弟揃って九州から東征に出て瀬戸内海を進み、浪速
ナ
ガ
ス
ネ
ビ
コ
国の那賀須泥毘古との戦いで苦戦、兄の五瀬命は矢を受けて負傷します。紀伊半島の東
から「日を背にして、戦おう」と舟で転進中、この矢傷が悪化し、男之水門(雄湊:和歌
山市)で落命しました。しかし、この地の豪族を攻め、
な ぐさ と
べ
長の「名草戸畔」を殺したことになっています。この五
瀬命を埋葬し、祭神とするのが「竈山神社」で、本殿
の背後にある陵墓は、和歌山県唯一と言われています。
やたがらす
その後、神武天皇は紀伊半島の熊野に上陸、八咫烏
を道案内に各地の豪族を支配下におきながら大和の東
に到達し、東から再び日を背にして那賀須泥毘古と戦い、
これを滅ぼし、ついに初代天皇に即位します。
アメノミチネノミコト
紀の川下流域の豪族「紀氏」の祖先である天道根命
は、神武 2 年、神武天皇から紀伊國造に任命され、二
ひが たの かがみ
ひぼ この かがみ
つの御神体【日像 鏡・日矛 鏡】を授けられます。天道
根命が、名草戸畔を滅ぼした記念の地「毛見崎」に、
ひのくま
日像鏡を御神体とする日前大神、日矛鏡を御神体とする
くに かかす
國懸大神(共に天照大神の別名)をお祀りしたのが日
前宮の起源で、その後、現在の秋月の地に遷座したと
伝えられています。この天道根命から現在まで、日前宮の宮司は、紀氏の子孫が受け継い
でいるのです。「日前宮」は、伊勢神宮とともに、朝廷が神階を贈らない別格の神社で、
経済力の基盤「宮井用水」を支配していました。
に う つ
ひ め
• 和歌浦・高野山、世界遺産に繋がる「丹生都比売神社」
約 1700 年前、母 ・ 神功皇后の朝鮮出兵勝利を感謝した応神天皇(3 世紀後半、15 代
天皇)が社殿と広大な土地を神領として寄進したのが創建です。朝鮮出兵には、紀氏の
たけのうちのすくね
武内宿禰が神功皇后を援け、ともに戦ったとの伝承があります。
ワカヒルメノミコト
丹生都比売神社の祭神は、天照大神の妹神「稚日女命」と、その御子神で弘法大師を
高野山に導いた「高野御子大神」で、鎌倉・室町時代には「浜降り神事」の神輿行列が、
ともに「稚日女命」を祀る「玉津嶋神社」まで紀の川を下り巡幸しました。
弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、真言密教の総本山高
紀の川流域の歴史ストーリー 丹生都比売神社 花盛祭より「渡御の儀」
5
野山を開きました。このように、和歌浦や高野山と深い繋がりがあります。
本殿は、室町時代に復興され、朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗なもので、一間社春
日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財に指定されています。平成 16 年
7 月「紀伊山地の霊場と参詣道」の丹生都比売神社境内として世界遺産に登録されました。
2.
「紀の川流域」
の歴史ストーリー
音浦遺跡・神前遺跡調査で発掘された大きな用水路跡は、弥生時代末期(約 2000 年
前)のもので、この時代既に用水路の開削技術を持っていました。3 世紀の古墳時代初期
には、紀の川流域左岸に、今も現役の幅 7 ~ 8m・深さ 3 ~ 5m という巨大な灌漑用水「宮
井」が開削され、大規模な水田開発がされていました。この「宮井用水」は日前宮(紀氏)
が支配し、米生産の経済力を背景に、「紀氏」は力を蓄え、日本最大の岩橋千塚古墳群な
どを築造します。
また、神功皇后の朝鮮出兵を援け、紀
氏が主力軍となったという伝承から、強
力な水軍も持っていたと考えられ、大谷
うま かぶと
しゃ か
古墳に埋葬されていた「馬冑」や、車駕
の
こ
し
之 古 址 古墳から出土した「金製の勾玉」
などからも朝鮮・大陸との交流が盛んに
行われていたことがわかります。
鳴滝遺跡からは、5 世紀前半の巨大倉
庫群跡が発掘され、「紀伊湊」は大和朝
廷の外洋との表玄関、「紀の川流域」は
大谷古墳
その回廊としての地位を占めていたと考えられます。
残念ながら、この倉庫群は 5 世紀後半には難波津
に移りますが、6 世紀後半から 8 世紀初頭まで、大
和朝廷の本拠地が飛鳥に置かれたため、「紀の川
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 6
流域」はその回廊としての重要な地位は、維持し続
けました。 7 世紀に入ると、天皇による紀伊国(和歌浦、白浜)
への行幸が度々あり、道々で多くの歌が歌われまし
た。その地を万葉故地と呼んでいます。中でも、聖
武天皇の行幸の折りには、宮廷歌人の山部赤人な
どが有名な歌を残しました。特に和歌浦の景観は、
聖武天皇に大変な感動を与え、景観保存の詔勅を
うけました。
古代紀の川周辺の遺跡(提供:和歌山市教育委員会)
また、仏教が伝来し、古墳に代わって寺院が造営されるようになってきます。南海道に沿っ
て紀伊国府や国分寺が設置、造営され、7 世紀後半からは現在、上野廃寺・西国分廃寺・
佐野廃寺など呼ばれる古代寺院が造られます。紀の川流域は紀伊国の古代の政治・文化
の中心地として栄えます。
り しょう
8 世紀後半には宝来山神社、利生護国寺、粉河寺、紀三井寺などが開創され、9 世紀には、
す
だ
高野山と慈尊院など高野山に関係する多くの寺院、隅田八幡神社、長田観音などが続き、
中世の宗教・学問の一大集積地域への道を歩み始めます。
1000 年頃からの中世に入ると、紀の川流域は石清水八幡宮(京都府)
・観心寺(大阪府)
・
もんがく
神護寺(京都府)・日前宮などの有力寺社の荘園、領地となり、文覚上人による宝来山神
ともぶち
るために、古代から受け継いできた灌漑用水技術で、「宮井」用水の改修・拡大を続ける
もくじきおう ご
と共に、文覚上人が力をつくした「文覚井」用水、木食応其上人が力を入れた「安楽川井」
用水などを開いてゆきます。また、その災いを免れるために堤防を築いて共同体生活を送
る中で、指針として信仰を求めていきます。
中でも、空海が開いた、2015 年に開創 1200 年を迎える高野山は、1000 年代、時の
権力者 藤原道長が参拝、寄進したのを皮切りに、天皇や貴族が、瀬戸内の荘園を競って
紀の川流域の歴史ストーリー の造営や鞆淵八幡神社などが勧請されました。荘園農民として人々は、紀の川の恵みを得
7
高野山
根来寺
寄進したため、大きな力を持つようになりました。紀の川畔に高野政所が置かれ、紀の
川水運によって瀬戸内周辺の高野山領荘園との交易がすすみ、貢納品が行き来し、紀の
川流域は、「宗教・学問の中心」にもなりつつあって、大いに活気が出てきます。
かく ばん
一方覚鑁上人は、高野山で真言密教の改革に取り組み 1130 年伝法院を高野山に建立
しましたが、守旧派との対立が激しくなり、1140 年高野山を下り、後に新義真言宗の総
ぶ ふく
らい ゆ
本山根来寺となる豊福寺に移ります。1288 年大伝法院の塾頭「頼瑜」は、寺籍を根来寺
に移し、完全に高野山から独立して発展していきます。中世には、寺領 72 万石を数え、
多くの僧兵(根来衆)と学僧を抱える一大宗教・学問都市を形成しました。宣教師たちは、
高野山も含めたこの地域を「大学の一大集積地」と本国へ書き送っています。後に、秀
吉に攻められ、1585 年焼失します。
下流域には、郷や村が連合して、鉄砲
や水軍で武装した自治の国「雑賀惣国(み
んなの国)
」が出現し、鉄砲集団「雑賀衆」
として全国で活躍していました。宣教師
達は、この地を東インド会社に唯一抵抗
を続ける倭寇の根拠地と考えていました。
やがて、信長の怒りを買い、雑賀攻めを
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 8
受けます。これは撃退しましたが、秀吉か
らは「太田城水攻め」を受けて敗れ、雑
和歌山城
賀惣国は 1585 年滅亡しました。この水攻
めに、
あの「宮井」用水が利用されました。秀吉は、
この難しい地域を治めるために、
「若山」
と呼ばれていた地を「和歌山」と改称し、築城して「和歌山城」と呼びました。「和歌山」
の誕生です。
その後、関ヶ原の戦いで、政権は徳川に移り、紀州藩 55 万 5 千石、徳川御三家の一つを、
江戸への海路をふくむ南海道の押え、大阪・京都の監視など軍事上重要な土地であると
考えられたことから、和歌山に置きました。一説には宗教や雑賀衆と根来衆への警戒があっ
たからだともされています。 歴代紀州徳川家は、和歌浦東照宮の造営や根来寺、粉河寺、宝来山神社など焼失し
ていた社殿の再建に取り組む一方で、初代頼宣は左岸に「荒見井」用水、2 代藩主光貞
は紀の川右岸に「藤崎井」用水、5 代藩主吉宗は「小田井」用水の開削を大畑才蔵に命
じ、この流域の灌漑用水技術を活用して、広大な水田を開発します。将軍になった吉宗は、
井沢弥惣兵衛に命じ、この技術を関東に広げました。各用水路は、今もなお田畑を潤し、
私たちに豊かな実りをもたらしてくれています。
このような水田開発や産業振興を続け、55 万 5 千石だが、実質 100 万石以上と言われ
た紀州藩和歌山城下は、9 万人の人口を擁する全国 8 位の都市になりました。このため
紀の川流域は、引き続き江戸への参勤交代路として、また紀州木材などの物流ルートとし
て、上流には高野山を擁し、江戸時代も活気を持ち続けました。
(糀谷 昭治)
紀の川流域の歴史ストーリー 9
南 海 道
南紀とは南海道にある紀伊国
旅行雑誌や観光案内で南紀和歌山という言葉を見ることがあります。南紀和歌山の南紀
とはどういう意味なのでしょうか?
和歌山県は昔、紀伊国と呼ばれていました。そして和歌山県は本州の南にあるから南紀
と呼ばれたと考える人がいますが、それは違います。
南紀とは、南海道にある紀伊国という意味で呼ばれていたのです。それでは南海道とは
どういうものなのでしょうか?
政治を行うために分けた区画を行政区画と言いますが、その一つが国です。そしてその
どう
国々をまとめた各地方を区画して道と呼びました。大宝律令が制定された 701(大宝元)
年以降、地方行政区画の名前は道・国・郡・里(715 年以降は郷といいます)の順に区
画割がされていました。私たちが今、手紙を書いたりする時に、都道府県・市(または郡)
・
町・村という順に書くのと同じです。ですから今の都道府県の上位に地方の名前として道
がありました。
道は当時の都があった大和国(奈良県)周辺の国々を畿内、そして各地方を反時計回
りに東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道と名付けられ、一つの
畿内と七つの道の 8 つに分けられていました。 流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 10
延喜式時代の南海道の駅路と駅家(木下良『日本古代の道と駅』より)
道の呼び名は、東海道・北陸道・山陰道・山陽道など江戸時代の街道の名前や、鉄道
路線名、高速道路名にも残っていますし、明治時代の 19 世紀半ばまでその呼び名は使わ
れていました。
たとえば、北海道と言う名前は函館戦争終了後の明治時代になってから命名されました。
きたのうみ
その名前は律令時代に使われていた道を残し、北海の地方であるとして名付けられました。
近年話題になる道州制という言葉があります。それは都道府県よりも広い範囲の機関ま
たは団体を新たに創設しようとする制度の総称ですが、ここでは、地方を州に分けようと
しています。本来は州制でしょうが、北海道が一つの州に構想されているので道州制と呼
ばれています。道州制は地方を道と呼称した古代以来の再構想とみることもできるでしょう。
和歌山市と大阪市のなんば駅を結ぶ電車は南海電車と言いますが、南海道に名前の由
来があります。電鉄会社が和歌山市から四国へのフェリーも経営していますから、古代の
南海道の区画を継承していることと関連するでしょうか。
1946(昭和 21)年、潮岬の南南西 50㎞を震源とする地震がありました。名前を昭和南
海沖地震と呼んでいます。他に南海地震や南海テレビの名称など、南海道に由来する名
前は今もたくさん見ることができます。
685(天武天皇 14)年に飛鳥の都から地方を見回る使者が派遣されています。その呼
び名をみると、東海は「うみのみち」、東山は「やまのみち」、山陽は「かげとも」、山陰は「そ
とも」
、南海は「みなみのみち」、筑紫は「つくし」となっています。
その後、南海道は「みなみのうみのみち」から「なんかいどう」と呼ばれるようになっ
ていきました。
南海道
(古代官道)
のようす
古代の行政区画である南海道は紀伊・淡路と四国の阿波・讃岐・伊予・土佐の 6 つの
国で構成されていました。それぞれの国の役所を国府と呼び、そこには都で任命された国
司と呼ばれる役人が赴任してきました。南海道の国に派遣された著名な国司としては、菅
原道真、紀貫之などの人がいます。菅原道真は 886(仁和 2)年から 890(寛平 2)年、
任期である 4 年間を讃岐国司として讃岐国府(香川県坂出市)に赴任していました。その
時の国府の様子は『菅家文章』という歌集からしることができます。2013(平成 25)年
には道真も執務したであろう讃岐国府の政庁跡がみつかっています。
「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり…」で始まる『土佐日記』は紀
貫之が土佐国に国司として派遣され都に帰る時の出来事を記したものです。日記を書き始
めたのは 934(承平 4)年 12 月 21 日の夜 8 時頃のようで、船で大阪湾を航海して帰京し
国府へは都からの伝達が必要ですし、地方の役所である国府からも都への連絡が必要
でした。また、貴族が国府へ赴任、帰京するためなどに道路の整備が急務でした。その
ために、国家では都と地方の国々を結ぶための道を作りました。その道は、大きな行政
南 海 道 ています。この頃には南海道と言う道は使わずに国司の往来が行われていたのでしょう。
11
区画である道の名前がそのまま用いられました。ですから、七道は行政区画の名前である
とともに道路の名前にもなりました。
国家が作り運営した道ですので官道です。今の国道にあたるものでしょう。七道には大、
中、小の等級があり、都と大宰府を結ぶ山陽道は大路、東海道と東山道は中路、その他
は小路でした。
中央から国府へ、または国府から中央への伝達は駅使という役目の人が任命されて都と
国府を結ぶ伝達機関としての役割を果たしていました。駅使は伝達の為に馬を利用して各
えき や
国々に赴きます。そのため、各国々には馬を常備しておく駅家と言う施設が設けられました。
駅家は周りを築地などで囲み駅門を入った築地内に馬具や食料を保管するための蔵(倉
庫)や仕事のための事務室・駅使の休息・宿泊・飲食施設などの家屋や馬を繋いでおく
厩舎などがあったのでしょう。近年の発掘調査で少しずつですが駅家の構造も解るように
なってきています。
駅家は兵部省という中央官庁が統括していましたが、実際の管理監督は国司が行い、
駅戸という指定された一般農民の家々がその実務に当たりました。その主な仕事は 1 戸で
1 疋の馬を飼うこと、駅使の往来に随行すること、駅使の宿泊の世話をすること、駅家の
備品の管理などがありました。
駅家は当時の規定では 30 里(約 16㎞)毎に設けられましたが、駅家の場所の選定は
それぞれの国司に任されていました。当時の 1 里は 1,800 尺で、1 尺は今の 9 寸 7 分 8 厘、
約 29.6cm ですから 30 里は約 16㎞となります。
(29.6cm × 1800 尺= 53280cm 532.80m × 30 里= 15984m = 15.984㎞ 約 16㎞)
えき ば
駅家は「うまや」とも呼び、そこに置かれる馬を駅馬といいます。駅馬の数も決められ
ていて、大路が 20 疋、中路は 10 疋、小路は 5 疋の決まりがありましたが全国すべてで
決まり通りに駅馬は配置されていなかったようです。
全国の駅家の名前は、平安時代の書物である『延喜式』『和名類聚抄』で知る事がで
きますが、それ以前の様子については残された種々の資料(文献や考古資料など)でそ
れぞれの国々について調べていく以外方法がありません。そのため、古代の官道、南海道
がどこを通っていたかを調べるには残された駅家の名前からその場所を想定し、それを繋
いでいくという方法がとられていました。
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 12
官道は馬を常備しておく駅家が置かれていましたので、駅路とも呼ばれます。その道が
どこを通っていたのかはわかりませんでしたが、空中写真(航空写真)の判読や、駅家や
駅路に想定されるような小地名(小字の名前)を探すこと、地形・地割の様子から道路を
探り当てたりするなどの歴史地理学的な研究で全国のほとんどの駅家や駅路跡が推定され
ています。
そして、近年では考古学の発掘調査で道の跡が全国で見つかるようになり、官道やそれ
ぞれの国々の道路網の様子がわかりつつあります。
発掘調査により、歴史地理学の研究で想定されてきた官道がその想定に合致するように
見つかることもあれば、すぐ近くを並行するように道路が 2 本も敷設されていたことが解る
こともありました。また、
想定されている以外の
地で官道と思われる道
が見つかることもあった
り、 官道以外の道路跡
が発見されたりしていま
す。
発掘された官道と考
えられる道 路 跡をみる
と、 砂利や河原石を敷
き詰めたものもあります
が、 多くは 土を踏 み 固
駅使(イメージ図)
めて、 両側に側溝があ
り、
その道幅は最大 15m から 6m ぐらいであることがわかってきています。また、8 世紀(奈
良時代)は道幅が広く、平安時代になるとその幅が狭くなっています。
ぐう け
『出雲風土記』などをみると各集落を繋げる道があり、国府や郡家などの役所や国境に
あった関所などに道路網が広がっていることが解りますが、各国々の古代道路網の解明が
進みつつあります。
それらを総合してみると、古代においても各国々では、多数の道が集落を結んでいたこ
とがわかります。その中で南海道などの官道は平野部においては最短で必要な場所を結
ぶように直線に作られていたらしいことが判明し、小高い丘陵などでは切り通し状に道が
作られていたことも解ってきました。その平野部では道の両側を小さい堤が走り落ち窪ん
だように道が作られています。
南海道の道筋
『延喜式』などで知られる駅家を結ぶと平安時代半ばの南海道の道筋は、都から和歌山
県では紀の川北岸を通り紀伊国府を経て和歌山市加太から淡路島の由良に紀淡海峡を船
で渡ります。淡路国府(南あわじ市)を経て福良から吉野川河口の徳島県鳴門市に船で
渡り阿波国府(徳島市)から讃岐山脈の東にある大坂峠を超えて讃岐国府を通り、伊予国
府(愛媛県今治市)に通じていました。この道の途中、愛媛県四国中央市から南に向か
います。ちょうど今の高知自動車道に沿うように道路が通じていたようで、終点は土佐国府
(高知県南国市)です。
南海道は小路であり、駅馬は 5 疋が規定であるので奈良時代からの変化があったのでしょ
う。また、811(弘仁 2)年に「萩原、名草、賀太を廃止する」と記録があるので、紀伊
国の駅路はこの三つの駅家を結んでいたことがわかります。
南 海 道 紀伊国の場合『延喜式』には「荻原、加太各八疋」と駅家の名前が記されています。
13
萩原駅はかつらぎ町萩原、名草駅は和歌山市山口、賀太駅は和歌山市加太にあったこ
とが想定されています。
奈良時代、平城京からの南海道は奈良市から南へ国道 24 号線に沿うように南下し、五
條市と橋本市の境界にある真土峠を越えた後、萩原・名草・賀太の駅家を結び、紀伊国
分寺や紀伊国府を経て、紀の川北岸を東西に駅路が通っていたのでしょう。
紀伊国府は和歌山市府中にありましたが発掘調査では建物等の跡はまだみつかってい
ません。
紀伊国分寺は紀の川市西国分に塔の礎石が残されていました。発掘調査の結果東西・
南北二町(約 220m)四方の規模の寺域をもち、そのうち西側の 4 分の 3 の地区を伽藍
区域に充て計画的に造営されていたことが解りました。現在は史跡公園として整備されて
いますのでゆっくりと天平文化の香りとともに散策できます。近隣にあったと思われる紀伊
国分尼寺については、比定すべき確実な場所がみつかりませんが、岩出市西国分に塔心
礎が残る西国分廃寺が尼寺に転用されていたのではと考えられます。
全国的に国府と国分寺は近隣に位置していますが、紀伊国だけはその距離が 10km 以
上も離れています。そのため、奈良時代の紀伊国府を発掘調査で 6 棟の奈良時代の建物
跡がみつかった岩出市岡田付近にあったではと考える人もいます。
都が長岡京そして平安京に移ると、京都市から大山崎町に出た道は淀川を渡り、枚方市
から東高野街道を南下して八尾市や松原市をぬけ堺市草部から南へ下り雄山峠を経て紀
伊国(和歌山県)に通じていました。この経路が『延喜式』の駅家名から知られる平安時
代の南海道です。峠を下ると奈良時代の南海道に合流して西に向かい加太から淡路島に
渡りました。この雄山峠を越える道は後に熊野古道として広く知られるようになりました。
京から紀伊国に入る峠道には、南海道として規定されていた真土・雄山峠以外に、河
内長野市から南へ橋本市に至る紀見峠、かつらぎ町に至る鍋谷峠、大阪府多奈川町から
和歌山市に至る孝子峠、深山峠などがあります。これらの峠を利用して人々の行き来もあっ
たことでしょう。大阪府と和歌山県の境界である和泉山脈を縦断するように峠道がありまし
たが、山脈を横断するように信仰(修験)の道が開かれていたのでしょう。古代の紀伊国
道路網が想像されます。
紀伊国の南海道の道筋は歴史地理学的な研究で種々推測されています。発掘調査では
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 14
紀伊国分寺の南西、岩出市で幅 10m の落ち込みと 1m 幅の溝がみつかっています。また、
和歌山市日延で幅約 2m 深さ約 1m の 2 条の溝が幅約 11m 間隔で東西方向に見つかって
いて、この溝が道路の側溝と考えられています。この 2 ヶ所が南海道の道路跡ではと推測
されています。
四国でも南海道は変遷があったようで、奈良時代には鳴門市から海岸沿いに南に向か
い野根山峠を越えて高知県奈半利町に出て、海岸沿いに土佐国府に行く道がありました。
また、伊予国(愛媛県)側でも海岸沿いに松山市から南に向かい宿毛市、四万十市から
土佐国府に行く道がありました。奈良時代の南海道は四国では海岸沿いに通っていたこと
が窺えます。 紀伊国の南海道を旅した人々 南海道を利用したのは、国司の役人や種々の使、駅使、税を運んだ運脚と呼ばれた農
民などがあったでしょう。南海道が官道として機能していた頃、紀伊国を訪れた人々はどこ
を訪ねたのでしょう。
奈良時代の史書によると、皇族が紀伊国に来たことが記されています。訪問地は現在も
観光客で賑わう、景勝地でもあった白浜温泉と風光明媚な和歌浦です。
おたらしひめ
孝徳天皇と阿倍内麻呂の娘小足媛の間に生まれた有間皇子は時の天皇であった叔母の
斉明天皇の政治には批判的でした。そこで、狂気を装って政治には参加しないように努め
む ろ の ゆ
ていました。彼は 657 年に今の白浜町にあった牟婁湯(紀温湯)に出かけ、そこでの景
色が素晴らしかったので、叔母に出かけることを薦めています。翌年、斉明天皇は孫の建
王が亡くなりその悲しみを癒すために牟婁湯に出かけました。その旅行中に、有間皇子は
そがのあかえ
蘇我赤兄に謀られて謀反を企て、それが発覚して、紀伊国の藤白坂で処刑されました。
天皇、皇子は京のあった飛鳥から海路と陸路を利用して牟婁湯の白浜温泉に行ったよう
です。すると紀の川北岸の南海道を通ったことでしょう。でも、その頃南海道と言う名前の
区画や官道はありませんでした。しかし、皇子の謀反を伝える駅使が派遣されていますの
で紀伊国の南海道では駅路としての機能ができていたのではないかと想像されます。後の
熊野古道に通じる道が駅路であった可能性は平城京でみつかった奈良時代の木簡から推
測されます。後に作られた律令の規定では、駅使は南海道を利用するのが決まりでしたか
ら、この時に南海道を利用していたのでしょう。
その後、持統、文武、元明のそれぞれの天皇が牟婁湯(白浜温泉)に出かけています。
701(大宝元)年の文武天皇の行幸では『万葉集』に歌が残されていて、そのコースを
推測することができます。背の山(かつらぎ町)、大我野・妻(橋本市)の歌が続くことか
ら南海道を往復したことが予測されますが、背の山から西では次に海南市藤白の歌になっ
ています。すると、背の山までが南海道を、それ以西はどこまで行って紀の川をどこで渡っ
たかは想像する以外方法がありません。雄山峠を越えて南に出る和歌山市川辺・布施屋・
吐前付近で紀の川を渡る、平安時代の南海道、後の熊野古道を利用したと考えられます。
奈良時代になると聖武・称徳・桓武のそれぞれの天皇が和歌浦に行幸しています。3 人
の天皇も南海道を使って和歌浦に出かけたと考えられます。聖武・称徳天皇の時は途中で
休息するために紀伊国内に行宮(かりみや)が設けられました。玉垣匂、鎌垣の行宮の
名前が知られています。この二つの行宮は紀の川市粉河に在ったと推測されますからここ
までは、南海道を通ったことでしょう。紀の川をどこで渡って和歌浦にいったのかはわかり
ません。
町)で休息を取っているので、孝子峠を越えて和泉国から平城京に向かっています。すると、
紀の川を和歌山市北島付近で渡ったことも想像されます。
桓武天皇は、大阪府日根野から雄山峠を越えて玉津島(和歌浦)に出かけ、「雄山道か
南 海 道 称徳天皇は帰りに岸村行宮(和歌山市貴志)で休息し、翌日深日行宮(大阪府多奈川
15
ら帰って」います。桓武天皇の行幸は 804(延暦 23)年のことですから、長岡京時代の
南海道を利用していたものと考えることが出来ます。
後に、藤原頼通が高野山に参詣した時は和泉国から雄山峠を下って紀伊国へ入り、紀
の川で船に乗り九度山町慈尊院にあった高野政所まで行き、そこから登山しています。帰
途には、途中で船を降りて粉河寺にも詣でています。
平安時代の半ばには紀伊国の南海道は、雄山峠を越えて、紀の川北岸を西へ進んでい
ました。しかし、東の大和国(奈良県)に進む奈良時代の南海道は駅使の往来する南海
道ではなくなっていましたが、国府と郡の役所である郡家を結ぶ伝路という道路として続
いていたことでしょう。
後に、紀の川の流れを固定できるような堤防が築かれると、道路は堤防上を利用される
ようになり、内陸部に位置するようになった古代の道路は田畑に変化して徐々に道が消え
てしまっていったのでしょう。
(長谷 正紀)
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 16
紀の川の舟運
紀の川は、日本一の多雨地帯である奈良県大台ケ原地域を源流として発し、奈良県側
では吉野川と呼ばれ、和歌山県に入ると紀の川と名称が変り、紀伊水道に流れ込んでいま
す。川の全長は 136Km におよぶ近畿地方有数の一級河川です。(なお現在は河川法上で
は奈良・和歌山部分を合せて “ 紀の川 ” と命名されています)
豊富な水量と概ね直線的で緩やかな勾配をもつ特徴的な河川であり、この川の流れは、
流域に肥沃な土地、灌漑、水運、水産という恵みを与え、古代から人々の生活・文化を
支えてきました。それゆえ紀の川沿いには古墳群、寺社等多くの遺跡・文化遺産が存在し
ています。
(注)紀の川の勾配は和歌山県内では平均して 100m で 20cm という緩さです。
ここでは紀の川の恵みの中でも、“ 水の道 ” つまり舟運について説明します。
古代 古墳時代の頃から大和に日本の中心が置かれ
た時代には、都(大和)と紀伊の間の交易は陸
路だけでなく水路(紀の川)が重要な役割を果
たしてきました。
水路による輸送(舟運)は陸路に比べ大量輸
送に有利であり、物流の主要な経路となってい
たのです。
また、紀の川河口部は海路の玄関口でもあり、
朝鮮半島からの文物を瀬戸内海を経て大陸の文
馬冑(大谷古墳出土)
化を受け入れ紀の川を遡り大和へ繫ぐ物流の幹線経路でもありました。紀の川流域の古墳
からは大陸文化の影響を受けた馬冑などが出土されています。
記紀・神話の時代
お の み な と
【男之水門】 古事記では神武東征の際、天皇の兄五瀬命が矢傷を受け、男之水門にて
和歌山市の水門吹上神社には神武天皇聖蹟男水門顕彰碑が建っています。
なお他の研究からは、この五瀬命が亡くなった場所である男之水門は大阪府阪南市であ
ろう、と言われています。
紀の川の舟運 雄叫びを上げて落命したとされています。この男之水門は今の雄湊であろうと考えられ、
17
【紀伊水門】また日本書紀には、神功皇后が、朝
おしくまのみこ
鮮半島(新羅)への遠征の帰路、忍熊王たちの反逆
を聞き「武内宿禰に命じて,皇子を懐きて,横に南
海より出でて,“ 紀伊水門 ” に泊らしむ」という記事
き の み な と
があり、紀伊水門のことが記されています。
なお紀伊水門は現在の和歌山港のように海に向っ
て開いている港ではなく、紀の川河口に近い内陸部
に川港として位置づけられていたようです。(もちろ
ん海を渡ってきた船も入ってこられる湊になっていま
すが)紀伊水門の場所は正確には特定されていませ
んが、現在の和歌山市北島や梶取付近であろうとす
る説が有力です。
これらのことから、記紀の時代において、海から
水門吹上神社 神武天皇聖蹟男水門顕彰碑
の船と川を上る舟とを結ぶ基地として紀の川河口部
が重要な意味をもっていたことが分ります。なお当時は紀の川の流れは現在と異なり和歌
浦に流れ込んでいたとされており、河口部近くで大きく東に曲がって海に注いでいたよう
です。
律令時代
【鎌垣船】平安時代に編纂された『延喜式』という書物の民部下という項には、紀伊の
国から収めた税目として、「紀伊国〈紙麻七十斤,鎌垣船九隻〉」と記されており、紀伊か
らは船を作って貢納していたことがわかります。
この “ 鎌垣船 ” がどういったものであったか、正確には分っていません。
“ 鎌垣 ” というのは今の粉河地区内にある古い地名で、765 年称徳天皇の紀伊御幸の際
に、お泊りになった鎌垣行宮に因んだ地と思われます。
この地には船作りに長じた人々が住んでいて、良い川舟を作ることが世に知られていた
のでしょう。
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 18
なお、紀伊続風土記には、粉河村の項に、「紀ノ川に傍ひて村するを以て上下運漕の便
あり,式に鎌垣船といふを載せたるは此地運漕の船なるへし」と記載されていて、この鎌
垣船で紀の川を上り下りしていたとされています。
紀の川の舟運について具体的に知られる文献の出現です。
当時の搬送物は、上流からは筏流しで吉野の木材が紀伊に運ばれていたようですし、紀
伊からは塩が重要な産物として大和に運ばれていたと考えられます。
中世
【高野山への貢物】この時代では、高野山の勢力が強くなり、全国各地から貢物が運ば
れてきます。それらの荷物は大きな船で海を渡り紀伊国に入り、紀の川河口部の “ 紀伊湊 ”
で下ろされ川舟に積み替えられ紀の川を遡って高野山に納められていたことが分っていま
す。紀の川の舟運が盛んになり始めます。
紀伊湊での荷物の積換えの際に湊の管理者は通行税に相当する料金を取っていたよう
で、料金に関するトラブルもあったという記録が残っています。
【貴人の川遊び】川を通るのは荷物ばかりでなく、当然 “ 人 ” の交通手段でもあります。
この時代には京の公家たちにも高野山・熊野詣でが流行っており、途中紀の川で舟遊びを
していたことが知られています。
例えば藤原頼通は、高野山参
詣後紀の川を舟で下り、吹上浜・
和歌浦と遊覧していきました。
また、藤原頼長も紀の川を舟で
遊覧したことが知られています。
さらにこの時代の資料からは、
川上から吉野杉の筏流しや諸材
木を川流しにより運んでいたこ
とも記録されています。
藤原卿 背山あたりでの川遊びの様子(紀伊国名所図会)
近世・江戸
この時代紀の川舟運は物流の主役となります。
【川上舟】この時代の紀の川舟運を担ったのは、“ 川上舟 ” と呼ばれる 30 石船です。こ
の船は全長約 10m、幅約 2.5m の大きさの杉造りで、帆を立てて運行していたようです。
川上舟は流れを遡る際の難所では、岸から人夫が綱で引っ張り動かしていたようで、資料
にはその様子が描かれています。
紀の川の舟運 高野山古絵図修正より
19
【川舟基地となる町の隆盛】
紀の川の舟運は上り下りとも
古くは五條市辺りまでは主要な
川路でした。ところが江戸時代
紀州家は橋本に船関を置き、こ
の地で舟を停める規制をかけま
した。全ての舟は橋本で荷下ろ
し・積み直しすることとなりまし
た。これにより橋本より上流は
陸送となり五條の舟運基地とし
ての機能は喪失されてしまいま
橋本 船番所の図(紀伊国名所図会)
す。そして橋本が川舟基地として物流の要地として隆盛することとなります。
この頃の様子が、「川丈三百余艘、船登り下り之船継場所」と表現されており、“ 船継場
所 ” のある橋本が隆盛したのです。
橋本はこの期間、40 ~ 60 艘の船を常備していたようです。盛んなことが分りますね。
なお、他の地域においても、九度山で 10 艘、粉河付近の組合が合せて 100 艘、麻生津
で 6 艘、清水(岩出)に 8 艘というような記録があります。
【紀の川横渡し】
紀の川には橋が架けられていなかったので、川を渡るには “ 渡し舟 ” が使われていました。
紀の川の渡しについて上記の他、藤崎、松井、川辺、田井ノ瀬、など多くの渡しが知ら
れています。
紀の川舟運の終焉
古来より舟による物流の動脈の機能を果たしてきた紀の川ですが、近代になり鉄道が敷
設されるにおよび遂に紀の川舟運は終焉を迎えることとなりました。なお、明治 33 年の
鉄道開通後もしばらくは、帆を張って搬送する川上舟は存続していたのですが、大正期に
は完全に消滅してしまったようです。
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 20
(木綿 良介)
南海道を歩いた万葉びとたち
南海道と万葉集
まんよう
今からはもう 1300 年ほども昔のことになります(この頃のことを万葉時代とも言います)
き の く に
あすか
が、
この時代に、四人の天皇が紀伊国(和歌山県)を訪れました。当時の都は、飛鳥京(奈
たかいちぐん あ す か む ら
かしはらし
な
ら
、藤原京(奈良県橿原市)あるいは平城京(奈良市)にありました
良県高市郡明日香村)
から、都を出た天皇一行は、しばらくほぼ南下し、それからほぼ西に向かって紀伊国へ入っ
てきます。
こ
せ
ご
せ
し
こ
せ
まつちやま
ご じ ょ う し こうずけちょう
巨勢(奈良県御所市古瀬)を過ぎて、真土山(奈良県五條市上野町~和歌山県橋本市
すだちょう ま つ ち
隅田町真土)を越えると、そこはもう紀伊国です。あとは紀の川筋を西へ西へと歩きます。
ぎょうこう
天皇の旅行(天皇の旅行を行幸と言います)ですので、基本的には、国家の大道(公道)
まんようしゅう
を通ったものと思われます。幸いにも、この時代の歌を集めた『万葉集』には、その道々
で歌われた歌が記しとどめられています。
四人の天皇による四度の行幸を次にまとめておきましょう。
①斉明天皇紀伊国行幸〔斉明天皇四年(六五八)十月十五日~翌五年一月三日〕
き
の
ゆ
む
ろ
の
ゆ
さき
ゆ
→紀温湯(牟婁温湯とも。現在の白浜温泉崎の湯)へ
②持統天皇紀伊国行幸〔持統天皇四年(六九〇)九月十三日~二十四日]
→紀温湯へ
③持統太上天皇・文武天皇紀伊国行幸〔大宝元年(七〇一)九月十八日~十月十九日〕
→紀温湯へ
④聖武天皇紀伊国行幸〔神亀元年(七二四)十月五日~二十三日〕
たまつしま
→和歌の浦・玉津島へ
いずれも九月から十月にかけて、晩秋から初冬の、和歌山では、暑すぎず寒すぎずの
好い季節が選ばれています。なお九月から十月は、現在の太陽暦に直せば、十月から
十一月頃にあたります。
供の人たちばかりではありません。行幸以外にも、多くの万葉びとが紀伊国を訪れました。
ただ、当時の旅は危険と苦難に満ち満ちたものでしたから、現在のような観光旅行はほと
かんじん
んどありませんでした。官人(役人)の公務による旅が多かったでしょう。とは言え、日常
生活を離れた未知の旅は、不安も多いですが、期待も大きかったことと思われます。
ではこれから未知の道を歩いた、万葉びとの歌声に耳を傾けながら、紀の川筋の南海
道を歩いてみましょう。
南海道を歩いた万葉びとたち これまで行幸のことばかり申しましたが、もちろん紀伊国を訪れたのは、天皇とそのお
21
こ
せ やま
ま つ ち や ま
巨勢山から真土山へ
ご
せ
紀伊国の玄関口の真土山にさしかかる前に、まず巨勢山(奈良県御所市)を越えなけ
ればなりません。万葉びとはこんなリズミカルな歌を歌いました。
かのとうし
おほきすめらみこと
大宝元年辛丑の秋九月に、太上天皇、紀伊国に幸す時の歌
しの
こ せ
巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を(万葉集巻一・五四)
さかとのひとたり
右一首坂門人足
巨勢山にツラツラと連なって生えている椿の木を、ツラツラとよくよく見ながら偲
ぼうよ。春になってこの椿が一斉に花をつけた、見事な巨勢の春の野の景色を!
秋九月の詠ですが、春爛漫の季節に先がけて椿花の咲く見事な景観を想って歌っていま
す。万葉歌がたりの岡本三千代さんは、
この万葉歌をサンバのリズムに載せて歌っていらっ
しゃいますが、この歌からは、弾むような万葉びとの歌声が聞こえてきますね。憧れの紀
伊国へと足を踏み入れようとしている、万葉びとの期待の心が感じられます。
そしていよいよ真土山にさしかかります。大和国と紀伊国の国境をなす山です。ここで
は 8 首もの多くの歌が残されています。
べんき
弁基の歌一首
ゆふ
いほさき
すみだ
真土山夕越え行きて廬前の角太河原にひとりかも寝む(巻三・二九八)
真土山を夕暮れに越えて行って、廬前の角太河原で独りわびしく寝ることかなあ。
飛鳥京・藤原京を出てほぼ 1 日、平城京を出てほ
ぼ 2 日で、真土山にさしかかります。あたりはもう夕
闇が迫っています。さて今夜はどこで一夜の宿りを取
ろうか。ホテルのない時代ですから、もちろん野宿
です。真土山を越えると、紀の川の河谷は広がり平
地となりますので、その辺りが弁基の宿った角太河
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 22
原でしょう。橋本市隅田町がそれです。現代は「す
だ」ですが、「隅」は「すみ」と訓みますので、万
すみだ
す
だ
葉の「角太」は、現代の「隅田」と同一地と見てよ
いでしょう。
なお隅田八幡神社所蔵の「隅田八幡宮人物画像
隅田八幡宮人物画像鏡の碑
鏡」に書かれた銘文は、日本に残る極めて古い文字
資料のひとつとして有名です。
やまがは
白たへににほふ真土の山川に我が馬なづむ家恋ふらしも(巻七・一一九二)
白い布のように真っ白に照り映える真土、その真土の山を流れる川に、私の乗っ
た馬が行きなずんでいる。家の者が私のことを思っているらしい。
おちあいがわ
「真土の山川」は、真土山の山裾を流れる川をいい、現在は落合川と呼ばれ、奈良県と
和歌山県の県境をなす川です。この時代は、川の渡りを前にして馬が動かなくなってしま
うのは、留守宅の家人(妻)が、旅行く人(作者)のことを恋しく思っているからだと考
えられていたのですね。馬が歩みを止めた、その渡場と言われる所が、現在も「古代の
渡し場(飛び越え石)
」として残されています。両岸から大きな岩が迫り出していて、ポン
と飛び越えられるようになっています。
真土山の歌を 2 首ご紹介しましたが、
苦難に満ちた旅の不安や、それだけに一
層募る家(故郷)恋しさが歌われていま
した。現在では奈良から和歌山といえば、
決して遠いという感じではありませんが、
当時の旅人には遠く感じられ、しかも真
土山を越えれば異国でしたから、その思
いは格別でしたのでしょう。その一方で、
巨勢山の歌に見られましたように、異国
古代の渡し場(飛び越え石)
への憧れの心も弾んでいたのですね。
いもの や ま
せのやま
真土山から妹山・背山へ
真土山を越えて紀伊国に入った旅人は、紀の川筋に沿って、西へ西へと下って行きます。
つま
とうげ
いちわき
妹山・背山までは約 25 キロです。その前に橋本市の妻、そして東家、市脇あたりでも歌
を残しています。
き の く に
や
もり
紀伊国に止まず通はむ妻の社妻寄しこせね妻といひながら(巻九・一六七九)
紀伊国に絶えず通って来よう。だから妻の社の神よ、私に妻を賜え。妻という名
お ほ が の
たかは
し
いほり
大和には聞こえ行かぬか大我野の竹葉刈り敷き廬せりとは(巻九・一六七七)
妻のいる大和へ聞こえていってくれないかなあ。大我野の竹の葉を刈り敷いて、
私はわびしい仮寝をしていると。
この二首はともに、大宝元年(701)の持統太上天皇(天皇譲位後の名称です)と、そ
のお孫さんの文武天皇連れだっての行幸の折りの歌です。
一首目は、「妻」という地名に興じて歌われています。旅にあっての妻恋しさの心がこの
南海道を歩いた万葉びとたち をお持ちなのだから。
やまと
23
歌の背景をなしています。二首目は旅の仮寝のわびしさを歌っています。当時の旅は、た
とえ天皇の行幸であっても厳しく辛いものだったのですね。
いものやま
( いもやま)
せのやま
( せやま)
そしていよいよ 妹山 ・ 背山 (伊都郡かつらぎ町)にさしかかります。この山は 15 首
も詠まれています。万葉集で一番多く詠まれた山は、筑波山の 25 首で、妹山・背山は、
万葉の山ナンバー 2 です。
わ ぎ も こ
我妹子に我が恋ひ行けばともしくも並び居るかも妹と背の山(巻七・一二一〇)
都に残してきたあの娘のことを恋しく思いながら、紀伊路を歩いていくと、うらや
ましくも仲むつまじく並んでいることよ、この妹と背の山は。
この山は、それぞれ「妹山」、
「背山」と単独でも、あるいは「妹背の山」あるいは「妹
と背の山」と熟しても詠まれました。
まなご
へ
人にあらば母が愛子そあさもよし紀の川の辺の妹と背の山(巻七・一二〇九)
これがもし人だったら、母の最愛の子だ。あさもよし紀の川ほとりに仲良く並ん
だ妹と背山は。
妹山・背山は、ゆったりと豊かに流れ
る母なる川・紀の川のほとりに仲良く並
んでいます。第 2 首目の歌は、母の最愛
の子供として歌われていますが、他の 14
首はすべて夫婦・恋人として歌われてい
ます。「妹」「背」という呼称からすれば、
この山は、夫婦・恋人関係にあると想定
されていたのでしょう。
ところで 15 首を見わたしますと、おも
妹山・背山
しろいことに気づきます。それは、古い
時期の歌には「妹山」が出てきません。新しい時期の歌になって、初めて登場するのです。
にほんしょき
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 24
き
せのやま
このかた
「背山」の存在は、『日本書紀』によって確かめられます。「南は紀伊の兄山より以来(兄、
これ
せ
此をば制と云ふ)」(大化二年(646)の大化の改新の詔)と、「畿内」の南限を示す山と
して明記されています。
たぢひのまひとかさまろ
かすがのくら おびと おゆ
さて丹比真人笠麻呂と春日蔵首老が連れだって背山を越えようとしていた時、二人はこ
んな軽妙な歌を交わしています(万葉集巻三・二八五、二八六)。
この山は「背山」と呼ばれているけれど、「妹」(妻・恋人)という名に改めた
らどうだろう?
いやいや。せっかく今まで「背山」と呼ばれてきた山なのですから、今さら「妹
山」と改名することはよしましょう。
たわいのないといえば誠にたわいのない会話ですが、このやりとりからは、当時、
「妹山」
は存在しなかったことがわかります。としますと、この二人のように、家郷に妹(妻・恋人)
を残して旅を続ける男たちの、妻恋の心が、次第に「妹山」を生み出していった、つまり、
背山に対応するような山を、
「妹山」と呼ぶようになっていったのでしょう。こう考えますと、
「妹山」がはじめの頃の歌に出てこないことも腑に落ちますね!
では、万葉びとがそれと定めた「妹山」は、現在のどこの山なのでしょう?諸説がありま
すが、通説になっていますのが、紀の川を挟んで、背山の対岸にあります「長者屋敷」
(通称)
です。でもちょっとおかしいと思いませんか?仲の良い夫婦(恋人)の間に、滔々たる紀
の川が流れているなんて、二人の仲に水をさしているように思いませんか?実際、筑波山(茨
ふたがみやま
城県)にしても、二上山(奈良県、現在はニジョウザンと呼びます)にしても、二上山(富
山県)にしても、男と女がペアになった山は、一つの山に、二つの峰がある形をしています。
では南海道の通っていたと推定されますルート(現在の国道 24 号線よりもずっと山際
です)を歩いてみましょう。背山は、二つの峰が寄り添いつつも、くっきりと二峰をなして
いる様が確認できます。この二峰こそ、万葉びとがとらえた妹山と背山なのでしょう。国道
24 号線(万葉時代はここを紀の川が流れていたか、河川敷であったでしょう)から見たの
では、
このくっきりした二峰を見ることはできません。万葉の歌を正確に理解するためには、
万葉びとの歩いたであろうルートを実際に歩いてみることが必要なのですね。
たかだか 168 メートルの背山が、15 首の歌を生むほど万葉びとの心をとらえましたのは、
やはりイモ(妹)
とセ(背)
という山の名にあったのでしょう。万葉時代の旅はかくも家郷(妻・
妹)への思いをかき立てるものであったのですね。それとも愛妻家の格別に多い時代だっ
たのでしょうか。
はぎはらのうまや
なお背山の北東側は「萩原駅家」(かつらぎ町萩原)が置かれた地でもあります。
妹山・背山から加太へ
こうして背山を越えて、いよいよ畿内から畿外へ出た一行は、紀の川筋をひたすら西へ
進みます。神亀元年(724)の聖武天皇の紀伊国行幸の折りの記録によれば、平城京を
たまがきのまがりのかりみや
出て 3 日目に「紀伊国那賀郡玉垣勾頓宮」に一泊しています。ここは今、粉河寺のある辺
りであろうと推定されています。さらに進みますと、紀伊国分寺(紀の川市打田町東国分)
・
平勝宝八年(756)とされていますので、国分寺の全国設置の命を出したのは聖武天皇で
すが、天皇が神亀元年(724)に玉津島に行幸なさった時にはまだ建てられていませんで
した。
さらに西へ進みますと、南海道の紀伊国での終着点であります加太へ着きます。ここに
か
だ うまや
は大宝二年(702)に「紀伊国賀陀駅家」(『続日本紀』)が置かれました。
も
く
いも
かたみ
たづかけ
藻刈り舟沖漕ぎ来らし妹が島形見の浦に鶴翔る見ゆ(巻七・一一九九)
南海道を歩いた万葉びとたち 国分尼寺(岩出市西国分)があります。ただこのお寺の主要伽藍が完成しましたのは、天
25
藻を刈る舟が沖からこちらへ漕いで来るらしい。妹が島の形見の浦に鶴の飛んでい
るのが見える。
妹が島はおそらく加太の沖合いに二島
(正確には四島からなりますが、二つの
島は小さいので、大きな島が二つ見えま
す)仲よく二つ並ぶ友ケ島のことでしょう。
そして形見の浦は、妹が島の浦の名のひ
とつで、いま対岸の「加太」にその名が
継承されているのでしょう。鶴の飛ぶ様
子から、藻刈り舟が沖合から岸辺に向かっ
て近づいて来るのを察知した歌で、作者
加太(友ケ島)
が鶴の習性をよく知り、目の前の風景を
よく見ていることが分かります。
目の前には広々とした海が広がっています。そして妹が島がポッカリと浮かんでいます。
そこをゆったりと鶴の群れが飛んでいます。日ごろ海を見ることのない大和に住む万葉び
とは、この雄大にしてのびやかな景観に触れて、どんなにか感動したことでしょう。南海
道を歩き続けてきた旅人は、ここではじめて憧れの海を見ることができたのです。
和歌の浦へ
神亀元年(724)に聖武天皇は玉津島を訪れます。和歌の浦です。24 歳の即位の年の
紀伊国玉津島行幸でした。加太の少し南に位置しますので、萩原駅家から名草駅家(和
歌山市山口)
、賀陀駅家、そして四国へと伸びていく南海道からは、少しそれることになり
ますが、当時の紀の川は、現代の流路とは異なり、和歌の浦に流れこんでいました。
即位の年に玉津島(和歌の浦)を訪れたのには、色々な理由があったと思われますが、
み
よ
いやさか
特に玉津島の神に、天皇の御世の平安と弥栄を祈るという目的があったことは間違いあり
みことのり
ません。滞在中の十月十六日に 詔 (天皇の臣下へのお言葉です)を発して、和歌の浦の
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 26
風景が素晴らしいことを述べ、今後、この地が荒れてしまわないように番人を置くこと、春
秋の二回にわたって朝廷から使いを派遣して、玉津島の神と明光浦の霊をお祭りすること
等の事を命じています。
やまべのあかひと
この行幸にお供して歌を詠んだのが山 部赤人です。有名な和歌の浦・玉津島讃歌、
こきんわかしゅう
天皇讃歌です。次に掲げましょう。とりわけ、第二反歌は、平安朝の『古 今和歌集』の
か な じ ょ
「仮名序」に取り上げられ、以後、押しも押されぬ、日本の代表的な和歌となります。
きのえね
いでま
やまべの す く ね あかひと
神亀元年甲子の冬十月五日、紀伊国に幸す時に、山部宿禰赤人の作る歌一首 并せて短歌
おほきみ
とこみや
つか
まつ
さひ か
の
やすみしし わご大君の 常宮と 仕へ奉れる 雑賀野ゆ そがひに見ゆる
なぎさ
しほ ふ
たまも
かみよ
沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より
たふと
た ま つ しまやま
しかぞ貴き 玉津島山 (巻六・九一七)
反歌二首
ありそ
しほ ひ
かく
沖つ島荒磯の玉藻潮干満ちい隠りゆかば思ほえむかも(巻六・九一八)
かた
あしへ
たづ
若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る(巻六・九一九)
わが大君(天皇様)の永遠の宮として、
(我らが)お仕え申し上げる雑賀野(離宮)
から後方に見える、沖の島の清らかな渚には、(潮満ちて)風が吹くと白波が立
ち、潮が引くと、そこでは玉藻を刈っている。神代の昔からこのように尊いことだ、
玉津島山は。
沖の島の荒磯に生えている玉藻も、(今は潮干でその姿を現しているが)やがて
潮満ちて海中に姿を隠してしまったら、しみじみと想われることだろうな。
若の浦に潮が満ちて来ると、干潟がなくなるので、葦の生えた岸辺に向かって鶴
の群れが鳴きわたってくる。
天皇を前にしての、にぎにぎしい儀式
の場で朗詠された歌ですので、少々固い
公式的な雰囲気が立ちこめますが、それ
でも潮の満干の差の大きい、ダイナミッ
クな和歌の浦の風景を、的確にとらえ活
写しています。
もうひとつ、今度は、和歌の浦の誠に
穏やかな雰囲気を歌にした一首を紹介し
和歌の浦
ましょう。
な ぐ さ や ま こと
ち
へ
ひとへ
名草山言にしありけり我が恋ふる千重の一重も慰めなくに(巻七・一二一三)
ナグサ山なんて言葉だけの山だったよ。なぜって、積もりに積もった、私の恋の
いくひだ
心の幾襞の、その一襞さえも慰めてくれないのだもの。
この歌には名草山のナグサに「慰(め)
」を読み取って、軽やかな雰囲気が漂います。
みなも
は絶景です。このような風景に接した万葉びとの心も、穏やかに、明るく開放されて、こ
の歌が詠まれたのでしょう。
皆さまも一度、万葉びととともに、南海道を実際に歩いてみませんか?
(村瀬 憲夫)
南海道を歩いた万葉びとたち まろやかで穏やかな山容をもつ名草山が、波静かな和歌の浦の水面にその姿を映す風景
27
り ょ う い
「日本霊異記」
と紀の川流域の古代寺院
―飛鳥・白鳳寺院由来の寺々を中心に―
「日本霊異記」
を読む
飛鳥時代、紀の川流域に建立された古代の氏寺を訪ね、奥深い紀伊国古代仏教文化の
一端を訪ねてみませんか。
紀伊国には 20 ケ寺前後の飛鳥・白鳳寺院あるいは関連遺跡が確認されています。その
内、紀の川流域には 12 ~ 13 ケ寺の寺院等が集中しています。ここでは大化改新 (645) 以
前に建立された寺院を飛鳥寺院、改新以降、天武朝を中心に平城遷都 (710) に至るまで
の寺院を白鳳寺院と呼び紀の川流域の古代仏教文化を皆さんとともに探っていきましょう。
古代遺跡のほかに古代史を物語る資料として文献史料があります。「日本書紀」や「続
日本紀」など政府が編纂したものと民間の伝承などをもとにした私文書があります。公的
な史書類にたいして私文書類は政府編纂の史書類とは異なる立場による証言として貴重で
あるといわれています。
「日本書紀」や「続日本紀」などに示されるいわば国家の歴史文化に対して、古代氏族
や一般民衆の歴史や文化については日記など生々しい私文書類により古代へタイムスリッ
プすることができます。なかでも民間仏教に関してさまざまなことを教えてくれる説話集が
あります。皆さんがよくご存じの「今昔物語集」などの先駆的な説話集に因果応報の教理
を提示し人々の悪心を悔悟させようと仏教の霊異にかかわる仏教説話集「日本国現報善悪
霊異記」
、略して「日本霊異記」、単に「霊異記」があります。
けい かい
編著者は薬師寺の僧景 戒で、聖武天皇の御代 ( 在位 724 ~ 749) を仏教興隆の頂点と
考え延暦6年 (787) に著わした初稿本を年を追って集成し、弘仁 13 年 (822) 頃には上中
下の3巻を書き上げたものと推定されています。
全 116 話のうち紀伊国に関連する説話が 19 話もあり、紀の川流域では、名草郡の 6 話
のほか、那賀郡で 1 話、伊都郡で 1 話、海部郡で 4 話が載っています。最も多い名草郡
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 28
に関する説話が詳細に書かれているところから、景戒は紀伊国名草郡の人であったと考え
られています。
紀の川流域の古代仏教を考える上で非常に多くの情報を提供してくれる「霊異記」を座
右に古代寺院の遺跡を振り返ってみることにしましょう。
「霊異記」
にみられる寺々
「霊異記」と紀の川流域の古代寺院跡との関連は必ずしも明確ではありませんが説話の
中にいくつかの寺名がでてきます。
名草郡関連 6 話のなかには、
吉野の比蘇寺
上巻第五 「三宝を信敬し、 現報を得る縁」
薬王寺 ( 勢多寺 )
中巻第三十二 「寺の息利の酒を貸り用ゐて、 償わずして死にて、 牛
と作りて役はれ、 債を償ふ縁」
貴志の里の貴志寺 下巻第二十八 「弥勒の丈六の仏像、 其の頸を蟻に嚼まれて、 奇異
しき表を示す縁」
能応の村の弥勒寺 下巻三十 「沙門、功を積みて仏像を作り、命終はる時に臨みて、異
しき表を示す縁」
埴生の里の大谷堂 下巻三十四 「怨病忽に身に嬰り、 因りて戒を受け、 善を行ひて、 現
に病を癒すことを得る縁」
那賀郡の 1 話には
彌気の里の山室堂 下巻第十七 「未だ作り畢はらぬ捻攝の像、 呻ぶ声を生じて、 奇しき
表を示す縁」
伊都郡の 1 話には
桑原の狭屋寺
中巻十一 「僧を罵ることと邪淫により、 悪病を得て死ぬる縁」
といった寺院です。
「霊異記」
遺跡
では、霊異記に示される寺名、地名、人物等から関連性がみえてくる紀の川流域で確認
されている古代寺院跡を検討してみることとします。
ここでは検討の視点として地名等はもちろんですが、私度僧でもあった景戒と同様に僧
さ
み
尼の下に置かれ民衆への布教等を行っていた沙彌あるいは私度の沙彌等が活動拠点とし
た天平期の寺院遺跡の実態がポイントとなるでしょう。
●● 名草郡の白鳳寺院
海浜部を除く現和歌山市、海南市の大半を占める名草郡には、紀の川北岸の和泉山脈
山麓部にあって7世紀第 4 四半期頃の上野廃寺式 ( 上野廃寺の項参照 ) の軒丸瓦を共有
する和歌山市上野に所在する上野廃寺、上野廃寺の東方約 1.4㎞地点の和歌山市谷字西
日吉に所在する山口廃寺、上野廃寺の西方約 4㎞、和歌山市直川に造営された直川廃寺
の 3 廃寺があります。
また、和田川 ( 和歌川に注ぐ ) 流域にあって、ほぼ同時期の佐野廃寺式 ( 佐野廃寺の項
参照 ) の軒丸瓦を採用した薬勝寺廃寺が所在します。
• 「霊異記」遺跡
このうち、霊異記に関連深い上野廃寺、薬勝寺廃寺の概要と霊異記説話を示しておきます。
「日本霊異記」と紀の川流域の古代寺院 • 各寺院跡の概要
29
第 1 図 紀の川流域の飛鳥・白鳳寺院
上野廃寺 和泉山脈山麓の標高約 40m 地点周
辺を占めて造営された回廊に囲まれた薬師寺式伽
藍配置を示す双塔寺院です。参道から一段高い中
門は石垣上にあり、地形の制約から講堂は西塔の
西側で東を正面に建てられています。軒瓦は主に
法隆寺西院伽藍出土瓦と類似する軒丸瓦、軒平瓦
( 上野廃寺式と仮称。以下、上野廃寺式という。)
上野廃寺式(仮称)軒瓦
しゅもん
を用い、外縁に珠文を緊密に巡らす統一新羅様式
の軒丸瓦、軒平瓦を道具瓦としています。
の
お
の
お
霊異記では「能 応 の村の弥勒寺 ( 能 応 寺 )」が
下巻三十「沙門、功を積みて仏像を作り、命終は
る時に臨みて、異しき表を示す縁」にでてきます。
かん き
「彫刻細工を仕事とする名草郡の老僧觀 規 は俗
み
ま なのかん き
称を三間名干岐といい聖武天皇の代に釈迦の丈六
仏等を造り先祖の建てた能応村の弥勒寺 ( 能応寺 )
におさめた。また、光仁天皇の代に十尺ばかりの
十一面観音像を作りかけたが病に臥して桓武天皇
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 30
の代に能応寺で命を終えた。二日後に生き返り弟
みょう き
すぐり
子の明規と仏師武蔵村主多利丸に「二日後の仏涅
槃の日までに観音像を作り終え死ぬ」というがやは
り作り終えずに仏涅槃の日に身を清め命を終えた。
明規らはその遺志を継ぎ像を完成させた。「俗に
生きたが仏道の戒律を破らなかったことは誠に立
派である。
」と觀規を褒め称えています。
ここにでてくる能応村は広く上野周辺を指し、俗
みまな
称三間名干岐は朝鮮半島南部にあった任那の王族
統一新羅様式軒瓦
第 2 図 上野廃寺出土瓦
に由来するもので、出土した統一新羅様式の軒瓦をもつことは朝鮮半島南部の出自である
觀規の先祖が建てた寺とすることを証明しているようです。
薬勝寺廃寺 佐野廃寺式軒丸瓦、鴟尾片等の散布から和歌山市薬勝寺の丘陵南端に営
まれている薬王寺周辺に所在するとみられますが発掘調査が実施されていないので詳細
は不明です。寺跡の南には和歌浦湾へ西流する亀の川水系の平野部が広がり寺院経営の
経済基盤となっていたと思われます。佐野廃寺と同じく7世紀第 4 四半期頃の建立と考え
られます。
せ
た
いらしもの
霊異記では「薬王寺 ( 勢多寺 )」が中巻第三十二「寺の息利の酒を貸り用ゐて、償わず
して死にて、牛と作りて役はれ、債を償ふ縁」にでてきます。
だんおつ
「聖武天皇の時代、薬王寺の三上村の信者たちが薬代の費用を賄うため檀越 ( 寺の最高
世話人 ) 岡田村主石人の姑の家で酒を作っていた。その薬王寺に一頭の子牛が居着き追
もののべのまろ
い出そうとしても出て行かない。石人が不思議におもって子牛に問うと、自分は物部麿と
いい寺の酒2合を借り倒したまま死んだ。そのため牛となって生まれ変わり今8年間の償
いとして鞭打たれ使われ5年を経たところだという。石人が姑に問うたところ、その通りだ
という。かわいそうに思った石人等は誦経してやったところ8年の償いを済ませどこかへ
行ってしまった。人間は借りを償わないと牛や驢馬等に生まれ変わって償わなければなら
ないのだ。
」と諫めています。
この地には後の時代に薬勝寺が建てられ、薬王寺と並び建っていました。その後、薬勝
寺が勢力を伸ばし、いつしか
地名となったものと考えられ
ますが、治安3年(1023)の
「薬王寺文書」には岡田村・
勢田村の地名がでてきます。
薬王寺が勢多寺とも呼ばれて
いたこと、檀越岡田村主石人
の存在からも霊異記薬王寺こ
そ現在薬勝寺廃寺と呼ぶ古代
●● 那賀郡の飛鳥・白鳳寺院
• 各寺院の概要
ていりつ
紀の川と貴志川の合流点の河岸段丘に鼎立したかのように 3 廃寺が確認されています。
岩出市西国分に所在する西国分廃寺、紀の川市貴志川町に所在する北山廃寺、同桃山町
最上に所在する最上廃寺です。これらを建立した有力氏族は 7 世紀中頃にいずれも四天
王寺式伽藍配置と明日香村にある坂田寺の標識瓦である坂田寺式軒丸瓦を採用していま
す。3 廃寺は四天王寺式伽藍配置、坂田寺式軒丸瓦の系譜からも天智朝直前の飛鳥寺院
「日本霊異記」と紀の川流域の古代寺院 寺院跡と考えられます。
31
とみなせます。
紀の川南岸の龍門山麓で最近確認された荒見廃
寺では西国分廃寺にも見られた上野廃寺式軒丸瓦
が用いられ、紀の川北岸の名草郡 3 寺院とも広域
に関連する7世紀第 4 四半期頃の白鳳寺院です。
第 3 図 西国分廃寺出土坂田寺式軒丸瓦
平地寺院のようにまとまった広い境内をもたないこ
となどが明らかとなり、古代仏教の本筋である官寺・氏寺ではなく、僧尼の山林修業の山
寺の可能性が考えられます。
• 「霊異記」遺跡
このうち、霊異記との関連が考えられる北山廃寺の概要と霊異記説話を示しておきます。
北山廃寺 貴志川左岸上位段丘を占めて造営されています。圃場整備等に伴う発掘調
どう はん
査等で創建期の軒丸瓦は最上廃寺の軒丸瓦と同笵のものがあることや天平期に創建期回
廊を埋め立てて伽藍を再整備したこと、寺域の南側斜面に創建期の瓦を焼いた登り窯 2 基、
北側斜面に天平末期頃の瓦を焼いた平窯1基が所在したことなどが判明しました。現在、
塔跡など主要伽藍が埋め戻され保存されています。天平期には聖武朝難波宮や平城宮・京、
各地の国分寺などで使われた重圏文軒丸瓦が用いられることから氏寺の性格を超えた寺院
となっていたことが考えられます。
み
け
お
ねんしょう
霊異記では「彌気の里の山室堂」が下巻第十七「未だ作り畢はらぬ捻攝の像、呻ぶ声
を生じて、奇しき表を示す縁」にでてきます。
「那賀郡彌気の里の村人たちが建てた山室堂 ( 慈氏禅定堂 ) の弥勒菩薩の脇士として未
完成の塑像仏 2 体があり腕が折れ落ち鐘楼に置いていたので檀家等は山の浄所に隠そう
と相談していた。同じ里の人で出家しこの堂に常住していた沙彌信行は腕まで落ちた塑像
仏を憂い糸で繋ぎながら、立派な僧がきてこの像を完成させてほしいものだと願っていた。
光仁天皇宝亀二年 (771) の秋、毎夜どこからか「痛い、痛い」と叫ぶ声がするので病人が
いるのかと寺内を見て回るがわからなかったが毎夜叫び声が続くので改めて調べると鐘楼
の塑像仏の声であることが判った。信行は同じくこの寺に常住していた大和元興寺の沙門
ほうけい
豊慶とともに造寺、造仏に関わる人々を集めて無事にこの塑像仏を完成した。真に願えば
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 32
仏願はかなえられるのである。」と説いています。
「彌気の里」は明治 22 年の市町村制により那賀郡小倉村となった現和歌山市上三毛、
下三毛に地名が残されてきました。しかしその周辺には山室堂に相当する古代寺院は現在
のところ見当たらず、市町村の編入合併の経緯からも「山室堂」は和歌山市と那賀郡の境
界近くに所在するとしなければなりません。和歌山市上三毛とは鳩羽山山塊を挟み直線距
離では約 2㎞の位置にあること、天平期には氏寺の性格を脱皮した可能性に注目のうえで、
紀美野町小川五区に残されてきた大般若経をみることにします。そのなかには「紀伊国那
賀郡御気院 ( 奈我郡三毛 )」
で私度僧らが写経したとの奥書をもつ天平写経があり
「御気院」
が霊異記にみられる「彌氣の里の山室堂」であることはほぼ間違いのないものと考えられ
ます。すなわち、北山廃寺がその性格の変化により多くの私度僧らが写経できる環境となっ
ていたとすれば「彌気の里の山室堂」のもっとも可能性の高い寺院候補の一つとすること
ができます。
●● 伊都郡の白鳳寺院
• 各寺院跡の概要
伊都郡の有力氏族は7世紀第 4 四半期頃、紀
の川右岸の段丘に天武・持統朝の官寺であった川
原寺・薬師寺に用いられた川原寺式軒丸瓦 ( 佐野
廃寺式軒丸瓦と呼ぶ ) と重弧文軒平瓦の組合せ及
び本薬師寺式軒瓦の組合せで白鳳寺院を建立しま
した。かつらぎ町佐野に所在する佐野廃寺、橋本
こ
の の
な
ご
佐野廃寺式軒丸瓦と四重派文軒平瓦
そ
市神野々に所在する神野々廃寺、同名古曾に所在
する名古曾廃寺、同古佐田に所在する古佐田廃寺
です。神野々廃寺・古佐田廃寺では明確でないも
のの法起寺式の伽藍配置が佐野廃寺、名古層廃
寺で確認されています。このことは大和に隣接す
る伊都郡は紀伊国のどの地域よりも天武・持統天
皇の仏教政策の影響を強く受けた結果とみられま
重圏文軒丸瓦と重廓文軒平瓦
第 4 図 佐野廃寺出土軒丸
す。なかでも、奈良県御所市の朝妻廃寺出土瓦に
酷似する佐野廃寺出土の川原寺式軒丸瓦は、名草郡の薬勝寺廃寺、有田郡の田殿廃寺、
牟婁郡の三栖廃寺に佐野廃寺式軒丸瓦が見られるように天武天皇の仏教興隆政策のいわ
ば紀伊国版の役割を果たしたことを示しています。
• 「霊異記」遺跡
このうち、霊異記とのに関連が考えられる佐野廃寺の概要と霊異記説話を示しておき
ます。
はん らん げん
の旧氾濫原と背後は和泉山脈山麓に挟まれています。通称、塔の段と呼ばれる地点に金
堂基壇と東 9 m地点に塔基壇が検出されましたが礎石は認められず、基壇の高さはいず
れも不明です。塔の真北 36 mに六角堂跡、六角堂跡の南西、金堂の北側に講堂基壇が
きたあまおちみぞ
確認されています。金堂、塔の南 35 m地点に南門跡の北雨落溝とみられる遺構が検出さ
れましたが、中門や回廊は検出されていません。講堂の北部には僧侶の生活空間と考え
られる創建期から平安・鎌倉時代まで数棟の掘立柱建物や塀跡、寺域西限を示す 2 条の
溝が、塔の東で寺域東限の溝などが確認されています。金堂跡からは川原寺式軒丸瓦、
重弧文軒平瓦、塔跡からは本薬師寺式軒瓦、巨勢寺式軒瓦が多数出土しており、それぞ
れの建立時期を示しています。なお、講堂跡からは重圏文軒丸瓦、重廓文軒平瓦が多数
「日本霊異記」と紀の川流域の古代寺院 佐野廃寺 紀の川北岸の標高 59 m前後の河岸段丘に営まれ、南は約 5 m低い紀の川
33
出土することから講堂が 8 世紀に再建され中心的な施設になっていたと考えられます。
さ
や でら
霊異記では「桑原の狭屋寺」が中巻十一「僧を罵ることと邪淫により、悪病を得て死ぬ
る縁」にでてきます。
「聖武天皇の時代、伊都郡桑原郷に
あった狭屋寺の尼等が発願し、大和薬
だい え
師寺の題 恵 禅師を招いて十一面観音
を本尊として懺悔の法要をおこなった。
その里に生まれつき性格が悪く仏教を
ふみのいみき
信じない文忌寸がいた。その妻が八斎
戒を受け法要の場にいたところ、外出
から帰った忌寸が怒って法要の場から
妻を呼び出した。これを見た導師が忌
寸に仏の教えを説いたが、私の妻に懸想する破廉恥な僧侶だと罵ると妻を連れて帰り淫行
におよんだ。するとたちまち無数のアリが忌寸の男根に噛みつきその痛みにより忌寸は死
ぞうげん
んでしまった。僧侶に雑言を発し、邪淫を恥じないがゆえに悪報を得たのだ。ペラペラも
のをしゃべっても僧侶を悪くいってはならない。たちまちのうちに災いを被るぞ。」と諭して
いるのです。
わみょうるいじょうしょう
ごう めい
桑原は「和名類聚抄」に伊都郡の郷名としてみられ、現在のかつらぎ町佐野を含む笠
田中、笠田東、大谷を中心とする地域です。その桑原郷内に所在する佐野廃寺は天平時
代には講堂が中心的な施設となり、僧侶の生活空間である僧房も長きにわたって機能して
いました。地理的な面に加え、天平期に隆盛するなど佐野廃寺の遺構・遺物の性格から
も佐野廃寺は「桑原の狭屋寺」に違いありません。
終わりに
紀の川流域の古代寺院は三つないし四つの顔をみせています。そのひとつは、飛鳥時
代に中央政権が仏教興隆を図れば、紀伊国の古代豪族も遅れまいと一斉に寺院建立を推
進したいわば氏族仏教。いま一つは、ここでは霊異記との関連寺院に限ったため触れませ
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 34
んでしたが、聖武天皇が鎮護国家を願って諸国に建立させた「国の華・国分寺」、すなわ
ち紀伊国の官寺仏教。そして、「日本霊異記」が教えてくれる、私度僧、知識らが民衆とと
もに仏教の底辺を広げていった民衆仏教です。さらに加えれば、各地の氏寺とは立地条件
も異なり、いわば山腹に建てられた荒見廃寺では僧侶たち精進修業の場である山林寺院
を根拠とする山林仏教の顔も見えてくるのです。
このように紀の川流域の古代寺院の遺構・遺物は古代仏教の様々な様相を見せてくれて
います。幸い、多くの寺院跡の主要遺構が保存されているので「日本霊異記」を片手に
紀の川流域の古代寺院を訪れてみてください。
なお、「国の華・国分寺」は天平 13 年 (741) 聖武天皇の発願により諸国の国府所在地
に建立されました。紀伊国分僧寺もまもなく紀の川市東国分の紀の川上位段丘の浄所に
建立が始まり、天平勝宝 8 年 (756) 頃にはほぼ完成していたとみられます。伽藍配置は東
大寺式に近いもので讃岐国分寺に類例があり、創建期使用された興福寺式の軒瓦は紀伊
はん
国分寺での瓦造りが終わると淡路国分寺へ瓦の笵 ( 型 ) が移されており南海道諸国とのつ
ながりが認められます。
現在は史跡公園として伽藍基壇等が復元整備され、隣接する資料館とともに学習の場と
なっています。
(藤井 保夫)
「日本霊異記」と紀の川流域の古代寺院 35
葛城修験の道~加太~
としん
加太は南海道が海に出会い、四国への渡津としての「賀陀駅」が置かれた地でありま
すが、葛城山系に跨る山岳修験、我が国修験道の修行形態の基本形が生まれていった「葛
城修験修行」にとっても、入峯修行の出立地(巡峰行)として最も重要な聖地とされてき
た地です。
今回はこの地の寺社をはじめ、主だった修験修行の行所及び関係人物像について、伝
承説話等も含めて加太の町を訪ねてみたいと思います。我が国修験道の開祖と仰がれる
えんの お づ ぬ
えんのぎょうじゃ
役小角(役行者)の青年の頃、当地加太浦を訪れたその前後の話からはじめて、加太の
町の文化、宗教、当時の人々の生活の一端を想像しながら、この役行者の後追いに似た
町の散策の旅にでかけてみましょう。
加太・加太浦、友ケ島という呼称
この加太浦の地は往古、元は海中だった地で、潮干時には遠干潟となる所でした。浦
がぐんと中に入り込んで今の「潮入橋跡」は実際には更に少し北にあったと古老が伝えて
かた み
います。従って、この地は「潟海」とか「潟海浦」と呼ばれて、古来、退潮の名所といわ
ことね
れてきました。そして「潟海浦」と呼ぶ言音が転用され「形見浦」と変えて、「加太」「加
太浦」という地名のもとになったと推察されます。
また干潟で展開される海士達の塩作りのための藻刈りの風景や、また、「形見」の意か
ら「恋しい人、吾が妻」の姿形を偲び見るという連想に発展し、天候によって時に見え隠
れする「苫ケ島(とまがしま)」(転じて靹ヶ島、伴ケ島、友ケ島)に吾が「妹(妻、恋し
い人)
」を想い重ねて「妹が島」とも愛称してきたものと推察されます。(「妹が島」は「友
ケ島」の別名。
)苫ケ島については後段で詳しく説明します。
あく ら
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 36
田倉崎、飽等の浜
田倉崎に絡んだ役行者譚を紹介します。葛城修験道では大事な事跡なのです。「諸山
どうしょう
縁起」の中の大峯縁起に、遣唐留学生だった道照が新羅國で法華経講義をしている時に、
聴衆の中に役行者がいることに気づき、二人が会話をしたことが記されています。その際、
役行者は本国への恩義を忘れたことは無く、折りに帰国(不二山、大峰、葛城)している
と言っています。この道照和上が帰国後、この役行者との遭遇を公にしたというのです。
役行者が実際に大唐に渡ったという話の真否は分かりませんが、面白い話です。さて、こ
の役行者が日本の葛城に帰還した時の上陸地が「田倉崎」海岸だと伝承されているので
す。田倉崎より上陸した役行者はその足で懐かしの犬鳴山(泉佐野市)の燈明ケ嶽に登り、
ほ
や
こ しょ
其処に「火舎、鈷杵、鈴」を納めたとされていて、以後、この犬鳴山(一乗山)の山号を
れいしょ
と改称されています。「犬鳴山」
という山号を勅号されるのはその後のことです。
「鈴杵ケ嶽」
むかえ の ぼ う
役行者と友ケ島、淡島神社、迎之坊の縁起
友ケ島には修験道の開祖役行者に絡んだ伝承が実に豊富です。蛇池に棲息して沿岸一
スクナヒコナノカミ
みつるぎ
帯を荒らし回る暴悪大蛇、少彦名神に助力を嘆願して賜ったとされる神劔、役行者がこの
大蛇を降伏させ呪縛したとする深蛇淵、大恩あるこの少彦名神を加太浦の地に勧請した淡
島神社等々の縁起について話を続けましょう。
• 「役行者と少彦名神の加護によって暴悪大蛇を降伏させたという縁起譚」
「役行
者と向井家との出逢い縁起」について
天武朝白鳳年間の頃、加太浦から須磨浦にかけて、年々大暴れしては婦女子をはじめ
多くの漁民の命や財産を損なわせて浦々の漁民の暮らしを妨害している暴悪な大蛇が居た
そうです。その大蛇の居城が今日称する友ケ島だというのです。
困り果てていた漁民達は、「葛城にたいへん強い呪力を備えた役行者様がおられる」と
か
だ
か
だ
の情報を得て、伽陀(賀田)浦の代表がその役行者を迎え、かの暴悪大蛇の成敗を依頼
したというのです。
すみか
早速、島に渡られた役行者は、その大蛇の栖である「蛇池」に赴いて対峙したのですが、
大蛇(霊蛇)の力には適いませんでした。そこで役行者は神明に祈念したところ、小出島(現
「神島」
)に少彦名神が鎮座されていることを知り、この神に助力を嘆願したところ、小出
島の小淵(現「劔池」
)から一枚の御神鏡と共に一振りの剣が授与され、この宝剣で大蛇
に対峙し遂に戦いに勝利します。大蛇の、改心し仏法守護の龍王として長くお仕へ奉ると
の助命至心懇願を許諾した役行者は、
この大蛇を島内の大淵(現「深蛇淵」)に封じ込め、
じんじゃ
けげん
同時に仏道守護の龍王神(深沙大王)に化現再生させています。この大蛇の「深蛇の爪」
じゅうもつ
が迎之坊(現在、向井家)に伝えられ向井家の什物の一つとされているということです。
※この大蛇にまつわる二つの事後譚
(1)大蛇は、夜中に笛の音を聴けば呪縛力が解けて淵から出没すると言われていま
す。それで紀州、和泉、摂津では、悪蛇が来るから、と夜に笛を吹くことを今で
も忌み嫌っています。
その後の葛城二十八宿修行の守護神としてこの友ケ島(深蛇淵)と犬鳴山と二
上山(雌嶽)の三ヶ所に祭祀されています。
葛城修験の道~加太~ (2)大蛇は仏法、中でも法華経の守護神として崇められている「深沙大王」となり、
37
淡島神社の由来
二つの伝承譚から紹介します。
先ず、一つはこの大恩ある少彦名神を役行者が加太浦の地に勧請して、後の「加太淡
島大明神」「加太神社」を草創したということです。この縁起故に、我が国修験道ではそ
の派の違いを問わず、葛城修行に於いては何を持っても先ずはこの淡島神社の少彦名神
(淡島明神)に参内するのを慣わしとしてきたのです。
とま が しま
もう一つは神功皇后が「苫ケ島」へ流着に始まる縁起です。この話は日本書紀にも見え
る伝承でもあります。「少彦名神と神功皇后の古記(日本書紀)」から紹介します。
おしくまのみこ
神功皇后は三韓征伐の凱旋の折、忍熊王の謀反に遭い、これを逃れて一行の船が紀の
水門より難波の地に向う途中のこと、暴風雨に遭遇し海路を失い航行至難となります。そ
へさき
てんしん ち
ぎ
の時、皇后は船の舳先に立たれ天神地祇に船を安全無事なる方へお導き給へと祈願され、
とま
かや
神託により船の苫(萱で編んだ船の覆い)を取って海中に投げられ漂流のまにまに進むと、
かい
有り難や櫂易くして何とか無事に一つの小島に着けたといいます。こうして「苫の止まった
島」という神縁に因んで「苫ケ島」と呼ばれるようになりました。現在の友ケ島の「神島」
です。皇后は早速この小島に上陸したところ、一つの神祠があり神名を占うと少彦名神と
判明し、この神の神徳のおかげだったと深く感謝されたといいます。また、皇后は自身が
妊娠のままでの遠征で山海の障り、また分娩後の穢れなどが原因で体調不具合のため苦
しんでいたので、医薬の神でもあるこの神に自らの不浄を詫び病気平癒を祈願され、結果、
神託で得た薬草を服したところ、速やかに自身の病気が回復したことから大いに感謝しこ
の神の神威を尊崇し、三韓征伐で得た宝物をここに奉納されたと言われています。
後年、仁徳天皇(※一説に応神天皇同一説)が淡路島に遊猟の時、次のようなご神託
がありました。『新たに伽陀の地に神殿を造営し、「苫ケ島」より「少彦名神」を奉遷し、
神功皇后の神霊をも合祀するべし』
。こうして(占いによって三月三日に)この二柱の神を
合わせ祀ったことから “ 合わし祀るの神 ”、“ あわしまの神 ” と称するとも伝承されています。
また、別に、少彦名神がこの島の「淡島の粟の茎に弾かれて常世郷に渡った」ということ
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 38
から「苫ケ島」を「粟島」とも「淡島」とも称されたと伝えられています。これらが神功
皇后の神霊もこの淡島神社に合祀されるに至った経緯です。
また、加太の淡島神社は病気快癒の神様として民衆の信仰を育んできました。このため
オホナムジノミコト
(後の大国主神)も祭祀されています。
に当社では医療のもう一人の尊神である「大已貴命」
あしはらの な か つ くに
く に つ かみ
この二神は協同して葦原中津国(出雲国)を造ってきた国津神です。
オキナガタラシヒメノミコト
上記の事情があり、淡島神社の祭神は、少彦名神、大已貴命、息長足姫命(神功皇后)
の三柱の神となっています。そして加太の淡島神社は全国の淡島社の総社です。
さて、この少彦名神が加太浦の現在地に祭祀されるようになった経緯には二つの伝承が
あります。いずれの伝承譚も加太淡島大明神のご神徳を語るのに有力な根拠となっていま
す。その一譚は役行者が開いていく葛城修験道に大いなる関係があります。他の一譚は、
その後、淡島大明神が女性のための神社といわれるその根拠となっています。また現在の
とまがしま
友ケ島の呼称の端緒となった古名の「苫ケ島」の言われにも関係しています。
春日神社
当社は元は淡島神社の摂社で、祭神は天照大神、春日大神で後、文保元年、住吉社を
合祀しています。
現在の境内地は、往古は海浜(入り江干潟)でした。古くは現在地より東方の山腹に
くわやま しゅりの すけ
在ったのを天正年間(1573 〜 91)
、時の和歌山城主だった桑 山修 理亮 重晴がこの現在
地の干潟に移転勧請しています。往時は神主は置かれず、巫女が奉仕し、社事は村老年
つかさど
頭(社議)が 掌 っています。神事は淡島神社の神主が執行しています。現社殿は慶長元年
(1596)
、桑山修理亮正栄が再建。聖護院門跡の山伏葛城修行では毎年 4 月 19 日に当
じゅんしゃく
しゃく じょう
地を巡錫しています(※ 4 月 20 日は淡島神社の例大祭日、巡錫とは錫杖 ( 杖の一種 ) を
か つ ま しょ
持ってめぐり歩く意)。本殿中央間の板扉に「輪宝」と「羯磨杵」が左右に描かれている
ことが物語るように、この春日神社は神功皇后縁で少彦名神、住吉大神が絡んで、淡島神
ふ
じ
社と不二一体の葛城修行の巡錫行所なのです。加太春日神社はその御社殿が桃山時代の
秀れた特徴を今に伝えているということから重要文化財の指定を受けていて貴重な建造物
なのは言うまでもありませんが、我が国古来の民俗宗教である修験道という面からみても
らえるとまた別な思いが湧いてくるかも知れません。
八幡山の歴史
はとどまり
古記(葛木縁起)によると、町の東北の山麓(八幡山)に「鳩留八幡宮」が在ったと
とんぐう
されています。応神天皇が紀の水門に至る時の頓 宮の遺跡と伝承されています。往時、
はとどまり
いまはちまん
葛城修験の行所(一之宿、鴿留、今八幡)で、一之宿別当の迎之坊のご支配でした。境
内裏山は護摩山(元八幡?)と呼ばれていました。明治 42 年、神社合祀令で春日神社に
合祀され、社殿の礎石一部残すのみの状態となっていたようですが、現在この地は山崩れ
があり入山が出来なくなっていて実態は分かりません。
財天社跡も昭和初期頃迄は確認できていたようです。この山は弁財天山とも呼ばれ、本
尊の弁財天は役行者の作、狛犬は運慶の作と伝承されています。当社は元は西福寺(明
治初年に廃寺となる)の支配下にありましたが、支配権を巡って迎之坊との間で訴訟事が
起こり、結果、迎之坊支配と決定され、鳩留八幡宮と同じく迎之坊ご支配となってきまし
た。西福寺が廃寺となった折、本尊(弁財天)は常行寺に移され現在も祭祀されています。
葛城修験の道~加太~ また、八幡山の鳩留八幡宮跡の山上には「弁財天社」が在ったと言われます。この弁
39
毎年 4 月 19 日に聖護院門跡の巡錫があり、現在も葛城修験の重要な行所の一つです。
常行寺
この寺は、この加太の地にあって、幾多の時代変遷を経て、廃寺等の苦杯を嘗めた諸
寺の大事な尊像の多くをお預かりしています。境内すぐ左脇に地蔵堂があります。この地
蔵菩薩は西福寺(明治初年に廃寺となる)の本尊で、弘法大師作と伝承されています。こ
の地蔵尊のお姿はほんわかとして心が落ち着きます。是非、一度拝顔してみて下さい。ま
た伽陀寺(現在、廃寺)の本尊(薬師如来)も当地蔵堂で祭祀されています。淡島道沿
いにあった小糠地蔵、塩地蔵も当地蔵堂のすぐ手前の小堂に祭祀されています。この風
雪に耐えてきた二体の年代物の地蔵石像のお姿は何かもの悲しく迫ってきます。前述した
弁財天社の本尊(弁財天、役行者作)も当寺に祭祀されています。この奇特なお寺、常
行寺は往古より今日に至るも葛城修験にあっては加太浦行所の重要な巡錫地の一つです。
称念寺
称念寺は春日神社の南隣にあります。明治初年、神仏分離令に従い、淡島神社の背後
じょうちょう
北の「鳥居の丘」にあった能満堂の本尊・虚空蔵菩薩(定朝作)、毘沙門天(役行者作)、
不動明王(弘法大師作)の諸仏がこの称念寺に移されたと伝承されています。
この諸仏のうち、虚空蔵菩薩座像(木像、紀州藩紋入りの簡易厨子納)一体が確認で
きています。定朝作かどうかは確かめられてはいません。また弘法大師作とされる不動明
王像は称念寺にではなく、加太橋手前の阿弥陀寺に移されているようです。立派な大作の
不動明王三尊が当寺山門入って直ぐ右の不動堂で大切に祀られて人々に加護を垂れられて
います。
じっこくかくじょうしゃもん
本寺は文明年間(1469 〜 86)、淡路の僧、十穀覚乗沙門の創建です。慶長年間(1596
〜 1614)薩摩候が再興しています。当初は僧房、別当がありましたが、後、淡島神社の
神官ご支配となっています。聖護院門跡、および、醍醐寺三宝院門主の葛城巡行の折、
必ず巡錫されるところです。
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 40
伽陀寺
(現在、廃寺)
伽陀寺(葛城嶺第一之宿妙法峯転法輪山伽陀寺)は役行者開基とされています。醍醐
天皇の勅願寺で七堂伽藍を構えた結構荘厳な修験霊場であったといわれます。寺勢に紆
く ま の さんざんけんぎょう
余曲折あり、焼失灰燼の憂き目も見ましたが、文永七年(1270)、熊野三山検校聖護院門
跡が諸国山伏に令旨を下して造営再建しています。
一時は伽陀寺別当職も置かれたのですが、正安二年(1300)別当職は廃止となり、一
之宿別当の迎之坊が当寺別当職を兼ね、以来、迎之坊ご支配となっています。哀しいかな、
天正の兵火(1573)で総てが灰燼と化してしまって以来、廃寺のままです。
役行者作と伝承の本尊(薬師如来座像。木像)は、現在、常行寺の地蔵堂に合祀され
ています。
○《参考》までに
「迎之坊」・「役行者」・「今八幡」・「伽陀寺」にまつわる伝縁起を向井家文書より編集し
て紹介しておきましょう。
こう えん
「天武天皇白鳳十四年(685)
、加太弾正と云う者、家の守護神(が)今八幡宮の後 苑
くすの き
さった
の樟樹に出現して、『今、此の海辺に薩埵の化身来臨座し坐せば、汝、速く出迎へ奉るべ
き ん き じゃくやく
う
ば そく
し』と。全く不思議な神託が下り、弾正は欣喜雀躍、早速海辺に出てみると役の優婆塞が
修験のお姿で佇立していたので、感激し行者尊を直ちに自宅に案内した。之より加太弾正
を “ 迎之坊 ” と称するようになった。」
「かくして行者は友ケ島に渡り。幾ケ所の行場を開き、
く おん じんごう
その後、弾正に告げて『汝の家の後苑を見るに、是れ久遠塵劫の昔より諸仏出世の地な
てん ぽうりん
』と告げられたと言います。そしてまた「行者
れば、後代必ず転法輪の霊場となるべし。
尊は口に伽陀を称えつつ手づから薬師如来、金剛童子、弁財天、自作自像を刻して与えた。」
「伽陀寺に安置されていた諸像であって、寺を転法輪山伽陀寺と号する所以である。」
※迎之坊の別当、加太弾正の呼称は寛文年間(1661 〜 72)迄は聖護院門跡拝命の
ぜん き
か
ざ えもん
「善鬼嘉左衛門」です。通称家名は「向井嘉左衛門」で現在の向井家です。
あ
ふ
り
じ
阿布利寺
(跡)
阿布利寺は「村の丑寅の方、八、九町の所にあり」と古記(諸山縁起)にありますが
ぐ そう
未だ所在不詳です。当寺の戌亥の一町余りの間は「供僧ケ原」と呼ばれています。北東
そんこくさん
の尊國山(巽嶽山)が葛城修験一之宿の「入江の宿、経塚あり」とも古記に見えるので、
この阿振寺(阿布利寺)がこの辺りに在ったという説も興味深いです。何か跡地なる物証
が発見されることを期待してきました。
ところで、最近になっての当地古老達からの聞き取り調査で一つの朗報を入手しました。
現在の阿振川に沿って阿振坂を過ぎ、元陸軍重砲兵営、練兵場跡の北側に阿振川に沿っ
くらだに
てほんの少し進んだところに平地(山間地)があり、そこは黒谷と呼ばれ、集落とお寺が
昔からあったのだと言います。深山村の古老達も先祖は阿振川沿いの山手から下山してき
て現在地に集落を開いたのだと言います。往時の集落でお祀りしていた年代物の地蔵石
そもそも葛城二十八宿の第一経塚の地は何処だったのかというと、最古の古記「諸山
縁起」「転法輪山字葛木峯宿次第」(葛木縁起)によれば、この「阿布利寺」と記録され
ています。ところが、阿振寺は早くから廃寺になったようで、室町時代の葛城修験行所峯
筋の記録古記類にはもう阿振寺という記載が見られません。葛城二十八宿修験の行所の
葛城修験の道~加太~ 像が深山集落の政徳寺に移転され祀られています。
41
資料:加太町地図
記録では、葛城第一経塚の地は早い時期から加太友ケ島の序品窟(深山領青原島岩屋)
と伝えられ今日に至っています。
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 42
行者堂
あ
じ
行者堂は淡島神社の直ぐ北の峯「阿字ケ峯」に造営されています。この行者堂は、寛
ご ようぜいてんのう
み い で ら ちょうり
どう
永八年(1631)、後陽成天皇の皇子で時の聖護院門跡兼熊野三山検校職三井寺長吏、道
こう
晃法親王が葛城修行の時に友ケ島に五ケ碑建立等々一連の行所造営の一環事業としてこ
の峯に行者堂を建立し、これにより始まる葛城入峯修行の無事成就を祈念する誓願所とし
あ
じ
たのです。ですからこの峯をあらゆる事の始まりの峯「阿字ケ峯」と呼んでいるのです。
浦の正面に見えるのは友ケ島、遙か向こうには摂津の浦辺、少し左辺には淡路島、更に
左辺に四国徳島が眺望できます。また右辺東方を見渡せば、これより辿り行く葛城の連峰
かいほうぎょう
が続いています。往時、一月以上もかけて葛城の峯々行所の回峯行に出立する心の興奮、
胸の血の騒ぎ、諸仏諸神の深きご加護のあらんことをと自らの金剛心を確かめたのです。
皆さんも往時にタイムスリップしてみて下さい。
行者堂への石段
加太阿字ヶ峯行者堂
以上、加太の浦辺を往古の葛城修験という観点から観て、その概観を紹介してみました。
この加太の町は見方観点を変えればまた別の興味深い側面が浮かび上がってきます。豊
富で楽しい歴史探索の景勝地です。皆さん一人一人の人生歴史からこの町を見直して頂け
たらと切に希望します。合掌。
葛城修験沙門鉄山 謹報告。
(犬鳴山修験道 宝照院 膾谷 健一)
葛城修験の道~加太~ 43
紀の川に生きる
蛇の口
夜来の雨はあがったようだ。遠くの雷
鳴を聞いたようにも思う。瀬川三平は起
き上がった。釣竿を手にして川を見渡し
ている。 三平の家は南に紀の川、 西に
しじゅうはっせがわ
四十八瀬川を見下ろす高台に位置してい
る。紀の川は水嵩を増して、茶色の濁流
になっている。川上の吉野地方で大雨が
あったらしい。「あかん」とつぶやいて、
視線を西にまわした。 四十八瀬川は笹
濁り程度で水量もそんなに増えていない。
「よっしゃ」と叫んで坂道を西に駆け降りた。三平は紀の川よりも四十八瀬川を得意とし
ている。むしろ、この方がよかったのだ.三平は道を急いだ。四十八瀬川の東岸、小字名
「岩尾」に三平の父が所有する 5 反歩ほどの水田がある。母が腰をかがめて草取りをして
いる。声も掛けずに淡竹の林をぬけて河原に降り立った。50 メートルほどの上流に川と岩
が激突して深い淵をつくっている。三平が得意とする釣り場は、この淵である。淵の上流
から糸をながすと岩の底にひきこむようなアタリがある。覆いかぶさっている淡竹に糸を
絡ませないように斜めにあわせて、ひきよせるときの手ごたえは無上の快感である。しかし、
今日は思惑どおりには運ばない。数度にわたって同じコースを流してみたが、アタリはな
い。おかしい。いつもとはちがうようだ。三平は竿と仕掛けを点検した。異常はない。「な
んでやろ!」とつぶやきながら、三平の視線は淵の奥をさぐっている。岩の下から茶色い
水が噴き出しているように思った。たしかに、一筋の濁水が流れ出している。異変である。
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 44
全身に悪寒が走った。
三平は、母の夜伽話を思い出した。
紀の川の「どれ岩」から、四十八瀬川の岩尾の淵までつながっている。その洞窟の中
に大蛇が住んでいる。紀の川が荒れると、蛇は四十八瀬川に出てくる。岩尾の淵を「蛇の口」
という。「わるさ」をする子は、この蛇に引きずり込まれる・・・
つくり話が現実のものとなった。先刻、高台の家から望見した紀の川の濁流が噴き出し
ている。大蛇が動いているのかもしれない。噴き出しがつよくなってきたようにも思った。
三平は、あわてふためいて河原を走った。石につまずいて転んだ。逃げた。淡竹の林に
跳び上った。三平は前後不覚の錯乱状態におちいった。しかも、視力がない。転んで石
に頭を打ちつけたためかもしれない。ずぶぬれのまま竹薮の中に倒れ込んだ。翌朝、三
平は目をさました。氷枕をしている。母が寄り添ってくれている。意識も視力も回復したよ
うである。
「おかゆさん、くうか?」
「うん!」
ことの次第を説明しないままに三平は箸を持っていた。
「どれ岩」
考
紀の川の北岸に舟岡山に対して、ほぼ
直角に倒れ込んだような岩がある。地元
では「どれ岩」
と呼んでいる、倒れることを、
どれるという、倒れ岩を「どれ岩」という
のはきわめて自然ななりゆきである。少
年のころ、この岩から紀の川に頭から跳
び込むことが男の証明であり、男の勲章
であった。
このあたりの岩盤が四十八瀬川の岩尾
につながっているという説も、いちがい
に否定できない。岩盤の隙き間に蛇がいても不思議ではない。たしかに、「蛇の口」を想
像させるような洞穴は数多くある。しかし、紀の川の「どれ岩」と四十八瀬川の「蛇の口」
がつながっているとする説はにわかに信じ難いものである。
と
あみ
投 網 -伝説の業人-
「どてこいなぁ-、なんで-、こりゃ-?」
大きく、太い魚が土間にころがっている。鯉ではない。胴体がまん丸い。
「ブリ、寒ぶりよ!」「おとったんが、カラフトから送ってきてくれたんよ!」
喜色満面の母がこたえた。三平は納得した。先年、タイワンから、へんちくりんな帽子
を送ってきてくれたことを思い出した。おやじは、洋服地の行商をしている。日本列島を
駆け巡っている。一家の生計は、この「半農半商」で支えられている。帰郷するまえに、
その土地の特産物を送ってくるということは、商売繁盛、しっかり儲けたという意味のシグ
「たまにゃ、ええしょんがつをさしてもらわにぁなぁ-」
母は、上機嫌である。好機である。三平は、おやじのことについて、母に確認しておき
たいことがあった。ご機嫌のよろしいときを待っていたのだ。
三平は、意を決して、聞いた。
紀の川に生きる ナルである。
45
「おかん、清左衛門すじの末娘が鳴海
の次男坊に惚れ込んで、大騒動やったちゅ
う話はほんまかえ?」
「ほいな、てんごのかわを、だりゃぁ、
いうとったんよ?」
「ハナのおばんか、スウのおばんか、
だれどいうとったでえ-」
「らっしもねぇこと、よういうとるなぁ-」
母の表情はけわしくなった。
しかし、三平は第二弾をはなった。
「おとったんは、川筋一番の投網打ち、ちゅうのはほんまかえ?」
「ほれなえ、ホンマのほんまじゃ!茜屋一統でも<いちもく>おいとるらし・・・」
三平は、うれしくなってきた。若い日の父母のロマンスもさることながら、名人といわれ
るおやじの投網を是非にも見たいものである。
機会は翌年の秋に巡ってきた。
川に行くといって山道を登ることに奇異を思いながら、三平はおやじのあとを追った。
おやじは長く伸びたすすきをみつけて切り取った。穂先だけを残して、葉っぱは、むしりとっ
てしまった。
「もっとれ!」
三平は 5 本のすすきを肩に担いだ。
また、しばらく登ったところで、赤い粘土を掘った。
「よっしゃ!いのら」
おやじは粘土の入った袋を担ぎ、三平はすすきの棒を持って家に帰った。台所から香ば
しい匂いが立ちのぼっている。母が糠を煎っている。おやじは粘土に水を打って、煎り糠
を混ぜこみ、ソフトボール大の団子をっくった。団子が 5 個、すすきが 5 本・・・三平は、
おやじの意図の半分ほどを類推した。魚を集める撒き餌をつくったのだ。
団子の袋を背負ったおやじのあとに、すすきを担いだ三平が従った。村を東南に降りて、
大和街道に出た。真下に紀の川をみおろす崖に大きい楠の木が 3 本ほど立っている。
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 46
「あそこで、おきいのが 5 匹ほどおよいどるなぁ-、ヘバやなぁ-」
おやじが指さす方向を見つめた。三平には何も見えない。
「どこにおるんよ?ヘバってなんで?」
「弁天さんのうしろを見てみい!まるい波の輪ができたり、消えたりしとるやろ!
ヘバち鯉がむれとるんよ。ありぁ、捕ってもてんにゃわん」
弁天さんは舟岡山にある社殿である。それは見える。しかし、そのうしろの川面には、
なにもない。三平にとっては不思議である。崖のうえから見下ろして、魚のいる場所、魚
の種類を断言するおやじの横顔に威厳を感じた。なにも見えないし、わけも分からない三
平であったが、相手は高名な魚師・茜屋一門の俊秀である。その眼カを信用することにした。
楠の木の東側に坂道がある。かけおり
て、国道をわたり、また、獣道を降りて
河原に達した。河原には小舟がひきあげ
られていた。
「鮎島に無理いうて<ひなか>借った
んよ!」
つぶやきながら、おやじは団子を積み
込んで竿を押した。国道 24 号の下は深
い淵になっている。舟岡山の近くは比較
的に浅瀬になっている。おやじは巧みに舟をあやつって、先程ヘバがいるといった付近の
東に舟を止めた。団子の一つを持って水にもぐった。川石で撒き餌をかこって固定してい
る様子である。水面に顔を出したおやじは「すすきをくれ」といった。手渡すと、また潜っ
た。すすきの軸を団子に突き刺した。穂先が水面に揺れている。なるほど、すすきの穂
先が撒き餌の位置を示す標識なのである。三平は、ようやくに、川に行くと言って山に登っ
た父の意図を、すべて理解した。おやじは流れを下りながら 5 個の撒き餌を設定した。舟
を下流の船着き場に寄せた。
「いんで、ひるめしくて、一服してからのこっちゃ!」
準備完了、おやじは笑っている。
三平は昼飯を食べた。三平は急いでい
る。おやじは煙草をふかしている。煙管
をトントンと竹筒に叩いて灰を落として、
また煙草をつめている。
おやじが立ち上った。柿の渋で黒光り
び
く
のする投網を担いだ。三平は尾籠を持っ
た。
村のほぼ中央の道を降りた。舟に乗っ
た。おやじは慣れた手付きで、ゆっくりと、
一番川しもの標的に舟を寄せていった。
「だいぶ、よっとるなぁ!」
今度は三平にも確認できた。すすきの穂先の周辺で魚が跳ねている。おやじは投網の
道紐を手首に通した。投網を立てて、網にもつれがないことを確認した。手前のおもりを
ひとつ口にくわえた。網の前縁を 7 分と 3 分に区分けした。茜屋伝来の構えである。体重
先を真芯にとらえた見事な円が水面に落ちた。円の前後左右を同時に着水させることが修
練の成果であり、秘伝の極意であると聞いていた。舟を流しながら、おもむろに引き上げ
られた投網の中には銀麟が光っていた。三平はとり出される魚を尾籠に拾い込んだ。網を
洗って、竿をもって第二の標的に寄せて行く。操船も投網も巧みである。第二、第三、第
紀の川に生きる と網を軸足に移動させて、その反動を利用して投網は前方に打ち出された。すすきの穂
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四の標的を見事にとらえて尾籠は満員になった。三平は名人の美技に感動し、興奮してい
た。5 番目・最後の標的に近寄った。おやじが振り返った。
「三平!あいつをやってみい!」
三平はおどろいた。河原の砂場で何度かの練習をさせてもらったことはある。何回投げ
ても網は開かなかった。開いても長い矩形になって、<さま>にならなかった。
苦い思い出だけが残っている。ましてや、揺れる舟のうえである。失敗は眼に見えている。
「あかん!ようせん。
」
「あかんやろけど、まあ、やってみい!」
三平は作法どおりに構えた。投げた。網は舟のそばに小さい円を描いて<ドブン>と落
ちた。すすきの穂先は、はるかな、かなたにある。
「まあ-、ほんなもんじゃ!・・・いのらぁ-」
おやじは笑っている。三平も笑った。
名人と不肖の子をのせて舟は帰途についた。
おやじの投網を見せてもらったのは、
これが最初で最後であった。「半農半商」
の多忙が制約したのかもしれない。太平
洋戦争、第二次世界大戦という長い、苦
しい戦乱の時代が封印したのかもしれな
い。至高の芸術をふたたび拝見すること
が出来なかった。当然、秘伝の免許皆伝
ということにもならなかった。
三 平 は 73 才を数える老 境 になった。
残された時間は少ない。「川筋一番」といわれたおやじの投網を「伝説の業人」と銘して
書き残しておくことにした。不肖の子の、せめてものつぐないであろうかと思っている。
(瀬川 四十八)
流域の歴史・道・人 〜
紀の川〜 48
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