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中国古文献中のパンダ

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中国古文献中のパンダ
第9号
東京大学中国語中国文学研究室紀要
中国古文献中のパンダ
珍獣「熊猫」
木
「大熊猫」と呼ばれるのが普通である。
雄
(パンダ)を示すものとして定着したのであろ
達
台湾中華書局刊)では「熊猫」に以下のような解釈がつけられている。「熊猫
怪獣の名。新彊に産する。体はきわめておおきく、現存する怪獣のなかでももっともめずらしいものの一種。いまから
四年初版の『辞海』(一九六四年第十四版
料を提示していない。また、両辞典とも「猫熊」「大猫熊」「大熊猫」を「熊猫」の同意語として掲載している。一九三
調べてみても、『漢語大詞典』『辞海』(一九九九年版)などの大型の辞典でも「熊猫」などのことばがつかわれた文献資
う。一見して古くから使われているような印象のある語ではない。こころみに現在通行している現代漢語の辞典類を
漢語ではこの「熊猫」という呼び名はいつごろから「GiantPanda」
ラテン名はAi】urOpOdame】anO-euca)。漢語では「熊猫」
日本語でいうパンダは英語(GiaコtPanda)由来の名称であり、中国大陸で一般に使われる呼称ではない(なお、学名=
知られている。
パンダは現在中国の一級保護動物である。そしてパンダはその不思議な風貌と希少性のためにひろく世界にその名を
荒
2
六十年前、フランスの科学者・比利大衛氏が発見した。一九二九年にいたり、アメリカのルーズベルト将軍の弟某が捕
獲し、現在ではシカゴ原野博物館に陳列されている。この動物が何類何科に属するのかはいまなおわからない。」
⑤哺乳類』(平凡社一九八八年)にはこうある。「一八六九年三月、中国四川省西部を旅していた彼(ダ
文中にあらわれる「比利大衛氏」はフランス人ダヴイド神父(一八二六⊥九〇〇)であろうと思われる
界大博物図鑑
ヴイド神父=荒木注)は、チエンルーの地主の家で白地に黒の模様のある大きな動物の毛皮を見せられた。」その後標本、
(3)
毛皮を手に入れたダヴイド神父は翌一八七〇年に友人の動物学者ミルヌ=エドヴアールに見せ、アライグマ科に分類
した。
の動物、
パンダを捕獲した「ルーズベルト将軍の弟某」はKerヨitR00Seくeltであると思われる。→heOdOreR00Se邑tの
ぁったKerヨitは、一九二八年から一九二九年にかけて、シカゴのフィールド博物館(chicagO㌦Fie-dMuseuヨ)
(4)
鳥類のコレクションのために兄TheOdOr2Jr・とともに雲南・四川両省をおとずれた。このときとらえたg01densnub・
nOSedヨOnkeyと瞥ntpandaが、これらの動物がアメリカに持ち帰られた最初の例であるという。
っまり、『辞海』の記事には一応事実が背景としてあるのだが、『辞海』の執筆者が事実をおおきく誤認してしまっ
たということのようである。その誤認の原因はわからない。「熊猫」という名称が訳語とされた理由もよくわからない。
ただ、この記述を見ると、「熊猫」の語は民国期にはまだ「パンダ」を指す固定されたことばとしてひろく認められて
はいなかったようだとは推測できる。実際のパンダの発見から六十年、捕獲から五年の間にどのような経緯でこのこと
が『辞海』の執筆者の知るところとなったのか、執筆者はどこまで現実のパンダのことを知っていたのかはわからない。
しかし読者がこの記述から共通に現在わたしたちの思いえがく「白黒の熊」を想起することができたとは思えない。大
部分の人の脳裏で「熊猫」が「パンダ」と直結するような状態ではなかっただろう。
それでは中国の文献上でパンダに関する記述はどのようになっているのだろうか。中国には古代からパンダがいて、
中国古文献中のパンダ
3
人と接する機会もあったと思われる。しかしそれは「熊猫」の語であらわされているわけではなさそうだ。われわれは
(6)
がいて、三百万年まえにはパン
いったん「熊猫」というラベルから離れて、古代のパンダの姿を探しもとめる必要がありそうである。
現実のパンダ
まず生物科学分野の成果から、古代中国のパンダの生息状況を確認してみる。
中国ではすでにいまから四百万年まえに現在のパンダの直接の祖先である「姶熊猫」
ダがいたことがわかっている。垂慶、四川、貴州、広西、湖南、湖北、河南、安徴、福建、漸江、険西、山西、北京な
どで三百万年まえから一万年まえまでの期間のパンダの化石が発見されていて、パンダが広範囲に生息していたことが
わかっている。氷河期を経てパンダの生存範囲はせまくなりはしたものの、依然として黄河以南の広い地域に生息して
いた。パンダの生息範囲が、現在の四川、駅西、青海の一部というごく限られた範囲になったのは、おもに人口の増加
と、それにともなう人の活動範囲の拡大によって生じた森林伐採と動物乱獲によるものである。その規模は十八世紀以
降急激におおきくなった。それでも十九世紀なかごろまでは湖北、湖南でもパンダの生息は確認されている。このよう
な状況から、古代中国ではパンダと人との接触の機会はあったであろうと思われる。
伝説のはじまり
では中国の古文献中ではパンダはどのように記されているのだろうか。そもそも文献中でパンダに関する記述を見つ
けるにはどうしたらよいのだろうか。もちろん動物名が記載されている文献を見なければならないのだが、ただ「動物
の名が記されている」ということならばその実例は無数にある。しかし記されている動物がどのような動物なのか(見
た目、習性、生息地などの情望までわかるものとなるとおおくはない。文章の本筋に関係しないかぎり、いちいち動物
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名に「これはどのような動物か」という説明をつけてくれることは期待できない。となると、動物についての解説をの
せる自然科学系の本(子部医家類の本草書など)、文字の解釈を説明した本(経部小学類の字書など)、それに類書など、ま
たはそれらにもとづいて書かれた文献などを中心に見ていくしかない。
まず『爾雅注疏』(晋・郭標注、宋・部局疏)を見てみよう。巻十一釈獣第十八に次のような記述がある。
須白豹。注似熊t小頭庫脚.黒白駁七.能舐食鋼繊及竹骨。骨節強直,中賓少髄,皮辟藻。或日豹。白色者別名琴
音義須亡白反。《字林》云,似熊而白黄。出萄郡。一日白豹。豹必孝反。《字林》云,似虎貝文。熊音雄。庫音稗。
駁布角反。繊佗結反。髄素累反。混必亦反。疏琴一名白豹。《字林》云.似熊而自責出萄郡。一日自豹。
この「頭はちいきく足はみじかく、自と黒がまざりあった模様、鋼・鉄・竹をたべる」という部分はパンダの特徴と
ことをしめすものではないことである。
酷似している。つまりこの「須」なる動物は、古代の中国人がパンダを見てそう呼んだと推測してよいのではないか。
ただし注意すべきなのは、この資料は「『爾雅』にパンダが記載されている」
『爾雅』には「須」が記載されているとしか言えない。言えるのは注釈者である郭瑛が認識していた「襲」という動物
もその『爾雅』注のなかで郭瑛の解釈をうけついでいる。
がパンダであった可能性が高い、ということのみである。
鄭樵(宋)
の説明を加えただけであることは明らかである(「竹骨」が「竹子」に
漠白豹。音階。似熊小頭庫脚.黒白駁。能舐食鋼繊及竹木。牙歯極堅□□,多以其牙託烏彿牙。
基本的には郭瑛注をひきつぎ、そこに「牙歯」
なっているが、内容に大きなちがいが生じるわけではない)。郭嘆『爾雅』注、鄭樵『爾雅』注を見た後代の人はそれらの解
釈をうけいれ(鄭樵の解釈は郭嘆の延長上にあるわけだから、実質郭瑛以来の解釈である)、「撃とは熊に似た白
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物である、と思うことになるわけである。
「漠」 に言及した文献とし
『爾雅』以外に「須」について述べた文献はあるのだろうか。『十三経注疏索引』によれば、十三経のなかでは『爾雅』
以外には「漠」は一度たりともあらわれていない。私の知る限りで、郭瑛よりも早い時期に
ては許慎『説文解字』がある。そこにはこのように記載されている。
襲似熊而黄黒色.出萄中。肌身莫撃美白切
「黄黒色」 とはいった
はたしかに現在はパンダの生息地として有名であるが、先にすでに述べ
この一文を見ただけでは、この動物がいったいなんなのか、判断することはむずかしい。また
いどのような色であるかもわからない。「萄」
の注釈二種と『説文』を見比べてみると、『説文』
の疏に引用されてい
の解釈を引きついだとい
の解釈は『爾雅注疏』
とあってもその動物が即パンダであることの有力な証拠とはなり得ないであろう。ところでこ
たように、パンダの生息域が四川などごく一部の地域に限定されるのはつい最近のことであるのだから、この時期の文
「萄にあらわれる」
れら三種の資料、『爾雅』
(8)
(記述が簡単すぎるので、パンダであるとも判断できず、
る『字林』 の解説によく似ていることがわかる。劉宋時期に成立した『字林』は『説文解字』
うことであろうか。
『説文』『字林』の解釈からパンダを想起することはむずかしいが
さりとて絶対にパンダではないとも言えないのである。郭瑛、鄭樵の「襲」と同じ動物を指しているのかどうかも不明)、郭瑛、鄭
「鋼鉄」 を食べる動物などいるものだろうか。この
「鋼鉄を食べる動物」
は問題ない。これこそがパンダの、ほかのクマ科の動物と異なる特徴で
樵の注からパンダの姿を思い描くことは容易であろう。しかしここにもやはりよくわからないことがある。それは
の部分である。「竹」
「鋼鉄」 とはなにか。いったい
は鋼・鉄や竹を食べる」
(9)
ある。では
いう概念はどこからうまれたものなのだろうか。
「漠
と
献に
6
この間いに関して、『文史雑誌』という雑誌に
「狛狛」 「街街」
事情をよく知らない戦国期の人々につたわり、それが次々と誤ってつたえられ、『鋼鉄を食べる』に変わった」
「竹を食べる」
「青銅
からで
と言っ
から「金
「鋼を食べる動物」
というが、商代後期には青銅加工技術はすでに高
の意味も
「山に矢を食べる動物がいた」
あるという。このエッセーの言うところを私なりに敷街するとこういうことだ。あるとき山で白黒の獣が笹(竹)
べる姿を目撃した人がいた。その当時、矢は竹でつくつていた。そこでその人は
に変わったのだ。
「青銅時代」
た。のちに矢の材料は竹から金属へとかわった。材料の変化に応じて、「矢を食べる」
属を食べる」
この意見にはたしかにいくつか問題もある。文中では
(u)
水準に達し、各種の武器も鋳造できるはどだったという1となると、はやければこの時期にはすでに
の誤解は生じていたことになる。もっとも青銅加工技術の進歩には地域差があるであろうから、必ずしも商代に青銅の
「鋼鉄を食べる」
の誤解は保持
との思い込みが生じる時代までにはそれはど
「漠」 の注を書いた晋代までの間、ずっと
武器が全土に普及していたことにはならないであろうが、「矢は鋼か鉄」
長い時間はかからないのではないか。郭嘆が
により生れたと
「雲」 について筆者は
「誤った伝聞」
という誤解が生まれた原因について、とにもかくにも考察を
「鋼鉄を食べる」という記述は
「漢」
「漠豹」 などがパンダにあた
というおもしろい随筆がある。このエッセーではおも
「猛氏」 「白豹」
とおなじことであるという。その理由は
「漢豹」 とおなじものを指すと推定している。では
は本来「竹箭」
「漠」
「竹箭与熊猫」
に『山海経』によって古代パンダの名称をさぐり、「猛豹」
る、と考えている。そこから『爾雅』『康照字典』
「鋼鉄」 を食べると思われていたのか。「鋼鉄」
(1n)
時代以来、鋼で矢をつくつていたが、のちに鉄でもつくるようになった。パンダが『箭を食べる』という言いかたが、
はなぜ
は
されつづけていたのだろうか。その間この誤りは正されることばなかったのか。その長い期間の
なにも語っていない。
この説を全面的に受け入れることはできないが、この
いう説は注目に値する。私の知る限り、「鋼鉄を食べる」
を食
の
中国古文献中のパンダ
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しているのはこの一件のみである。そしてこの考えはおおいに参考になる。郭瑛と鄭樵の「漠」
の解説は実際のパンダ
にたいへん近いけれども、結果として現実と異なる特徴をも含んでしまった。この時点でパンダから生れたであろう
「須」は、その姿・特徴こそパンダに似ているものの、すでに実在しない想像上の動物になったと言える。かくして、
その後の郭瑛の権威も手伝って「萄に住み、白黒模様の体で、鉄を食べる動物」という言いかたは定着した。当時の人
であり、この部分が強調されていき、「鋼・鉄・竹を食べる
へとその印象をかえていくのである。
の部分「鉄を食べる」
はこのことばにおおきな誤りがふくまれているとは感じなかったであろう。そしてまた、人々の心にもっとも強い印象
「鋼鉄を食べる獣」
「鉄食い」
射嗟毒之鹿
と符合する。左思もまた、郭環と同時期の人である。
似牛.領有肉堆也。張揖日‥
「須」 も見られる。司馬相如の『上林賦』にはこのようにある。
善日‥郭瑛日
南越志日.潜牛形角似水牛,一名沈牛。張揖日‥題.額也。窮奇,状如牛而蛸毛.其音如嘩狗,食人者也。良日‥
施.旗牛也。其状如牛而四節毛。漠.白豹。産牛.黒色.出西南徴外。沈牛,水牛也.能沈没水中。塵.似鹿而大,
其獣則猫、旗、須、産、沈牛、塵、靡、赤首、固題、窮奇、象、犀
『文選』には 「食鉄之獣」以外に
言う「萄にいる鋼鉄を食べる動物」
李善は「食鉄之獣」にはなにも注をしていない。しかし、『軍都賦』にあらわれる「食鉄之獣」は『爾雅』『字林』の
戟食繊之獣
左思『萄都賦』 にはこんな部分がある。
は
をあたえたものこそ、その「誤り」
須という動物」
覇の
(12)
8
皆南方獣
この動物の羅列に対して六臣注文選は多くの注をつけている。しかし「菓」
については「白豹」と言うのみである。
ことを想起し、注記しているのである。この「萄の醤
の項を
の説は知りながら、『爾雅』のみによっ
「琴白豹」とは『爾雅』本文とまったくおなじである。注釈者は「婁こから「食銅鏡」を想起しなかったのであろ
か。それとも「撃は「食鋼繊」 ではないと考えていたのだろうか。「食鋼繊」
てそのほかに解釈を加えようとしなかったということなのだろうか。その真意はいまとなってはわからない。
の記載を見てみよう。
の記載から「萄の山の奥にも音鉄獣がいる」
「須」 と同じものなのだろうか。
「薔鉄」
は郭瑛の
「須は音鉄獣である」との見方は優勢を占めるようになっていったようである。例として『太平御覧』の「須」
そして『文選』注のように、「漠」すなわち「鉄を食べる獣」と積極的に認めていない例もあるものの、六朝期以降、
こうしてみると、遅くとも六朝期には「萄には鉄を食べる獣がいる」との印象は定着していたのではないだろうか。
鉄獣」
の「食鉄」
かしい問題であるが、さしあたって今回の考察には関係ない。ここで注目すべきは注釈である。注釈は『神異経』本文
ここでは『神異経』本文には注目する必要はない。本文に言う「獣馬」とはいったいなにか。これもまた検証のむず
南方音域。糞利焉剛。食繊飲水。腸中不傷埠。按.今萄中深山亦有音域獣。
南方有獣馬。角足大小。形状如水牛。皮毛黒如漆。食鍼飲水。其糞可馬兵器.其利如剛。名日薔繊。《□黄経》云‥
つぎに『神異経』
(‥ご
みてみよう。この項ではまず『爾雅』(とその郭嘆注)と『説文解字』からの引用を挙げ、つづいて『抱朴子』からの引
用として以下の一条があげられている。
(15)
中国古文献中のパンダ
9
劉子知二負之戸。東方生識喫繊之獣。賓親鳥萬之書、大荒之籍臭。
からますます遠くなっていく。
「萄にすむ鉄をたべる獣」
「須屏賛
並序」
過量工、偶令寛之。按《山海経》、此獣食繊輿鋼、不是他物。固有所感、逐為栗日
避哉奇獣、生干南国。其名日漠、非繊不食。昔在上古、人心忠質。征伐教令、自天子出。剣戟省用、鋼錬羨溢、漠嘗
是時、飽食終日。三代以降、王法不一。撲滅鳥兵、範鋼焉彿。彿像日益、兵刃日滋。何山不劉、何谷不壊。鉄鋼寸繊、
岡有子遺。無乃餃而。鳴呼。匪漠之悲、惟時之悲。
なくなって餓えてしまう、というのである。原因はことなるが、「人の森林伐採と動物乱獲」
ではないが)
である。
のために生息域が縮小し
についてこ
「須」 であるが、
として知られ
「須」 との同一視はその後もうけつ
「鉄を食べる獣、須」
という文があり
というイメージを定着させた
「鉄を食べる獣」
の文字はふくまれていない。あるのは「咲鉄之獣」
「漠」 の項におかれている。この
この一条にはもはやまったく「漠」
にもかかわらず、この一条は
「パンダ」
がれていく。我々がこのことばにパンダの面影を見出すことは困難である。そして
ていくにつれて、そのさまは
襲界再編∼合併と統合と
こうして六朝末、おそくとも隋ごろまでに
(「醤」
須は鉄や鋼が主食なので、人が戦争のために鉄をつかい、仏像のために鋼をつかってしまうものだから食べるものが
「須」
と
須者、象鼻犀目、牛尾虎足、生南方山谷中。寝其皮辟症、圏其形辟邪。予膏病頭風、毎寝息、常以小屏衛其首。通
のように言っている。(傍線は筆者。以下同じ)
そのイメージはその後どうひきつがれたのだろうか。唐の白楽天に
(16)
10
という特徴から、前代までの
た、という現実のパンダの状況とかさなるところもあっておもしろい。
「漠」 は、「鋼や鉄を食べる」
「須」 をひきついでいるとか
と誇張されている。さらに前代までになかった
ここで白楽天の言っている
「それ以外はなにもたべない」
というものが加わっている。白楽天は
についてこのようなイメージが定着したのは白
「象鼻犀目、牛尾虎足、生南方山谷中。寝其皮辟痘、圃其形辞邪。」
をえがかせることにしたわけであるから、「須」
んがえてよいだろう。そしてその特徴は
特徴として
この特徴を知り、「須」
(宋・陸佃撰)
「漠」 の項にはこうある。
(隋唐期であろうが)、一過性のものでもなく、地域的なものでもな
楽天の時代よりももっとまえ、ということになる(なお、「絵にえがく七辟邪の効果がある」というのだから、そのいいつたえ
は想像上の漠の姿と不可分なものとして伝わっていたのであろう)。
このイメージがいつ誕生したのかはわからないが
く、ひろく知られていったことはたしかなようである。宋の『埠雅』
の
であると断言している。
「須」 とがみごとに融合しているのがわかる。なお、
須、獣似熊、象鼻犀目、師首財髪、小頭庫脚、黒白駁、能舐食鋼繊及竹、鋭誓、骨害無髄、皮辟温湯、以焉坐毯、臥
…(以下略)…
「食繊之獣」
は
「襲」
と、白楽天がなんらかにもとづいて記した
裾、則消膜外之気、子仇膜省、蓋以此也。
『爾雅』以来の
これにつづく部分で、「萄都賦」
の
天嘗作小屏衛首、接此像圏而賛之、載於集中。今親此童、夷考其形、輿《山海経》、《欒天集》所載同、豊非白屏室迩之
按《山海経固》南方山谷中有獣、日漠。象鼻犀目、牛尾虎足、人寝其皮辟温。圃其形辟邪、噂鋼繊弗食官物、昔白欒
抜藤子済所蔵襲圏後
これににた記載ははかにも見られる。ここでは宋・黄伯思『東親除論』を見てみる。
(17)
「漠」
中国古文献中のパンダ
11
造花乎。
この三者に共通してあらわれる特徴は「象鼻犀目」
(ほ)
であり、その皮には「邪をはらう」効果があることである。『埠
「伝説」 がますます奇怪なものになっているのがわかる。郭撲らの時代には
はそれを聞く人々に強い印象をあた
「鋼鉄を食べ
の記載を参考にしている。これら
雅』は『爾雅』の「須」記述を襲い、さらにこれらの特徴を加えていることがみてとれる。黄伯思は『山海経図』に
「漠」 に関する
「須」 にたいする認識をおなじうしていると考えてよかろう。
よったと言い、『山海経』『楽天集』にも同じ記載があるという。白楽天も『山海経』
三者は
この時点で
という特徴だけが強調きれはじめた。「鉄を食べる」
(『爾雅』『説文』『文選』
というその特徴にもとづき、空想をふくらませていったのではな
「毛皮にも力が宿っているはずだ」
などのさらなる神秘的な特徴を想起
「鉄を食べるのだからその歯は丈夫で不思議な力があるにちがいない」
は、「鉄を食べる」
にかわってしまうのである。唐代に至るまでに、大部分の文人
「鉄を食べる」特徴のみを伝え、その他の特徴を捨象したこともあっただろうと思われる。「鉄
「鋼鉄を食べる」
る」という非現実性をふくみながらも、多分に現実の動物としての特徴を残していた。竹も食べれば水も飲んだ。とこ
ろがのちに
え、人によってはこの
を食べる」
「鉄のみを食べる」
などの文献に接する機会のある人々)
いか。「鉄を食べる」という不思議な習性は
の排泄物もほかの動物とはちがうものだろう」
「須」 は、すでに本来の姿から遠くはなれた動物になっていた。そしてこの共通認識はどうやら、
させ、とうとうさまざまな神秘的な特徴をもつ空想上の動物になってしまっ美のだろう。唐宋期までにはおそらくはパ
ンダに発するであろう
今後もひろくうけつがれていくようである。
「そ
が
12
統合のブローカー
の例を見てみよう。
時珍日‥按陸佃云.皮焉坐毯臥裾。能消膜外之菊.故字従膜省文。
頒日‥郭嘆云.似熊.頭小脚卑,黒白駁,毛浅有光澤。能舐食銅鏡及竹骨蛇魅。其骨節強直.中葉少髄。或
音隋。亦作猶。……繹名
時代を明代にすすめて、李時珍『本草綱目』
(19)
「囁繊」
「財昆」
を
「須」
のなかまであるとみなしている。また王折『三才図会』
鋭警卑脚.糞可薦兵切玉,尿能滑繊烏水。又有囁繊,財昆,吾免.皆能食銅鏡.亦襲類也。並附之。
李時珍は
「吾免」
「漠」 には見られなかったものの、白楽天以降共通して見られる
はどこからきたものなのであろうか。
にはこうある。
「象鼻犀目.牛尾虎足」。これ
は先に述べたような非現実的、神秘的な特徴に類するものとは言えないが、さりとてパンダの特徴でもない。この特徴
ところで六朝までの
南方山谷中有獣,名日額。象鼻犀目.牛尾虎足.身黄黒色。人寝其皮辟痘。固其形可辟邪。甜食鋼繊.不食他
(20)
中。《南中志》云‥須大如墟状.似熊.蒼白色。多力.舐繊,消牛勧,其皮温暖。《埠雅》云‥須似熊.獅首財髪,
俳牙彿骨.以□僅俗。時珍日‥世博玲半角能棒金剛石者,即此物。相畏耳。按《説文》云‥須似熊。黄白色。出展
土人鼎釜多薦所食。頗烏山居之患。亦捕以焉薬。其歯骨極堅.以刀斧椎鍛繊,皆砕落。火亦不能焼。人得之.詐充
云.輿《爾雅》漠白豹同名。唐世多重漠作屏、白□有賀序之。今野展及峨楯山中.時有菓.象鼻犀目,牛尾虎足。
集解 漢
物。 襲
中国古文献中のパンダ
13
の項にはこうある。
実はこの特徴は現在われわれが「須(バク)」と呼んでいる動物のそれに非常に似通っているのである。『辞海』
(一九九九年版)
「襲」
①哺乳鋼.奇蹄目.躾科.躾属(Tapirus)功物的通称。型略似犀.但校嬢小;尾板短;鼻与上唇延呆、能伸縮。
の
戸子中美、南美的有美洲躾
(→.terrest計).体型較小.全身紫褐色。肉可食。
(¶ニ
「須」 はバクの影響を受けているのではないか。これまでみてきたように、先に
たのはおそらくパンダであろう。一方で唐代以前にはバクもすでに人に知られていて、これもまた
唐代以降の
(望
「須」 の空想化とおおいに関係がありそうである。
「須」 とよばれた。
『辞海』の記述にあるようにバクの体
「襲」 である、と書いてある。そのために目のま
「両者の特徴がまざった」
そのものであると思い、そう呼んだのである。異なる二種の動物とわかって
「須」 と呼んだ人は、バクこそが古文
「漠」とをむすびつけることがあっても不思議ではない。先に私は
いながら同じ呼称をもちいたのではなかろう。
献に記載されている鉄を食べる動物「須」
と書いたが、これは当時の人の立場からすれば間違った言いかたである。バクを
えのバクと知識のなかの
の色は自と黒である。『爾雅』などには、自と黒の模様をもつ動物は
いる。そのような状態ではじめてバクに接した人はなにを感じるだろうか。先の
「漠」 はパンダに由来するとはいえ、ほとんどの文人にとっては文字のうえの情報のみによる観念上の動物になって
同がおきたことは、先に述べた
もちろんパンダとバクを実際に見比べれば両者が異なる二種の動物であることは誰の目にも明白である。隋唐期に混
そして文献に記載する際に両者の特徴がまざった。こう推測できそうである。
「襲」 の名をあたえられ
尼西並赤目答購、泰国及中美、南美等洲。戸干並洲的力当来躾(→.iコdicus).背与丙肋夜白色.共、肩、腹和四肢黒色。
四肢短・前足四址・后足三址。栖息熱帯密林多水姓.善済泳.遇僚即逃入水中。主食轍枝叶。分布手当来西亜、印度
躾
14
しかし結果的にはパンダ
(に由来する想像上の動物)
とバクという二種の動物が
「須」 という字を媒介にまざりあい、
「襲」 はおそらくこのようしてできあ
「須」 に附した注と
の解釈について後世に絶大な影響を及ぼした郭瑛だが、
「須」 が実は空想を媒介にした混血児であるとは夢にも思わなかったのだろ
さらにその非現実性を増したということになる。さきにかかげた唐代、宋代の
がったものであり、当時の文人たちはこの
一つ0
「摸」 のみにあらず
古代のパンダについて知るにもまだ多くの問題がある。「須」
わえていない。
この点については清の都荒行も同様の疑問を抱いたようで、『山海経』
のひとことすらつけく
のこの部分に疏を附して説明している。
は同種の動物の異称であるというのが都荒行の認識である。ふたつの郭瑛注を両方信ずるに足る
猛豹.即須豹也。漠豹、猛豹,聾近而樽。
「猛豹」と「漠豹」
「猛豹は須とも言う」
がどのような関係にあると考えていたのだろうか。特徴の相似た二種の動物
「猛豹」 に附した注は、色についての記載がない点をのぞけば、おなじく郭瑛が『爾雅』
有光津。能食蛇.食銅鏡。出萄中。豹或作虎。
この
「猛豹」
「漠」
なのか、同種の動物に二種の呼称があるということなのか。それにしては
ほぼ同じである。郭嘆は
と
の
又西百七十里,日南山,上多丹粟,丹水出焉.北流注干澗。獣多猛豹.鳥多戸鳩。郭瑛云‥猛豹.似熊而小,毛浅
『山海経』西山経にもこの間題に関わる注を附している。
(望
中国古文献中のパンダ.
15
と判断すればこのような結論にならざるをえないだろう。白楽天らが『山海経』に「撃を見た、ということも、
の項は以下のとおり。
いはこのような事情によるものかもしれない。それだけ郭嘆の影響がおおきかったということでもあろう。
『三才図会』にも同様の現象が見てとれる。『三才図会』の「猛豹」
南山有獣.名日猛豹。似熊而毛彩有光澤,其食銅鏡。
純化路線
「侵犯」をうけずに
が、当時の一般的な認識だったのであろう。
の別名とみ
「熊に似ている」というパンダ本来の姿に近い記述をのこし
という特徴をもった二種の動物がいるという形になっている。おもしろい
『三才図会』は郭環注『山海経』を継承したであろうと推測できる。冒一才図会』は先にあげたように「蒙」も独立し
のはうはバクの特徴の
て項目をたてているため、「鋼鉄を食べる」
のは、「猛豹」
ていることである。
「襲」 のそれから
ここでさらに清代の人の「漠」に対するイメージがうかがえる資料をみておこう。『説文解字』段玉裁注は「菓」
「須とは食鉄獣のことである」
段玉裁は当時の博学の士であるが、その段玉裁が各種文献資料を精査したうえで、「食鉄之獣」を「須」
なしている。この
に
∼
似熊而黄黒色.出萄中。即諾書所謂『食繊之獣』也。見《爾雅》、上林賦、萄都賦注、《後漢書》。《爾雅》謂之
ついてこのように述べている。
(空
『自豹』。《山海経》謂之『猛豹』。今四川川東有此獣。薪采瑞銀飯髄入山.毎焉所醤。其歯則紆民用焉鵠併歯。
須
16
ところで段注は『爾雅』『文選』のほかに『後漢書』もあげている。しかし私の調べたかぎりでは『後漢書』には
酒代の二書の
イメージを郭瑛まで
「原点回帰」
「食鉄」
「須」 の用例として引用し
「蘇」と「須」とをむすび
が「漠」
の説解に引用
として、同じ動物をさす二種類
させたとも言えそうである。
「須」 にかかわるさまざまな用例をひいているが、マレー
などは引用しない。これも意図的なものなのだろうか。
にはなにか理由があるのだろうか。明代までには
「額」と
「須」 の特徴として定着していたマレー
ということについては信じてうたがわぬのである。
の部分のみである。「象鼻犀目、牛尾虎足」
「原点回帰」
バク由来の特徴は信ずるに足らぬと判断したのであろうか。それとも清代にはすでにマレーバクと郭瑛以来の
は実は二種の動物であったことに気づいたのであろうか。
(空
に対して『南中八部志』という本が引かれ
(「撃と書かれていたとしても)
『後漢書』 のこの部分を
「須」と音が似通っており(現代漢語普通話では同音)、この部分を「須」とする『後漢書』があったとし
「漠」の字はあらわれない。段玉裁が「須」の用例とみなしたと思われる部分にあるのは「街」という動物である。もっ
とも「菊」
ても不思議はない。しかし段玉裁が
の注釈にはこの「菊」
「街大如墟、状頗似熊、多力、食繊、所解無不拉」とある。この
た理由とおもわれる要因はほかにもある。『後漢書』
ている。ここに
「漠は箔とも書く」
の項目はない。このことも『後漢書』の「街」
っけたのではないだろうか。また、先に見たように『本草綱目』は
の書きかたとみている。なお、『説文』に「箔」
六朝以来拡張をつづけていた
「圏其形辟邪」
バク由来のものとおもわれる特徴はいっさいひいていない。白居易『襲賛序』を引用してはいるものの、「生南方山澤
同様の傾向は『康照字典』にもみられる。『康照字典』は
「漠」
しかし、一方で段玉裁は明代までにひろく知られていたはずのマレーバク由来とおもわれる特徴を切り捨てている。
された要因なのだろうか。
が
は
しかし両署とも、「須は食鉄獣である」
中」
中国古文献中のパンダ
17
中国古代「襲」
の歴史
以上述べてきたことを簡単にまとめてみる。「漠」
はもともとパンダを指していたが、のちにこの「漠」を記した文
献にさまざまな注が附されたり新たな解釈がなされたりしていく過程で、誤って生じた特徴の「鉄を食べる」という部
分ばかりが伝えられ、強調され、その他のごく普通の特徴を等閑視するにいたった。こうして「須」は現実のパンダか
である。冒頭で一九三四年版の『辞海』
のイメージとあらたに持ち込まれた「産こ
ら離れていき、虚構の野獣へとその姿を変えたのである。さらにそこに別種の動物が、色彩が古文献中の「撃と
じであることから「須」と称されるようになったことで、以前からの「漠」
を生み出すにいたった。
のみを指すことばであり、パンダは「熊猫」
のイメージとがあわさり、ついに正体不明の動物「須」
現在では「襲」はバク(Tapirus)
にある「熊猫」からはパンダを想起できるとはとても思えないということを述べた。この時期に「熊猫」という呼び名
とパンダとがかならずしも一致していないのだとしたら、いったいパンダのことはなんと呼んでいたのだろうか。そも
そもバクとパンダの混用はいつまでつづいたのか。その混用の解消のきざしは清代にありそうであるが、混用が解消さ
れて以降はこれら二種の動物はなんと呼び分けられていたのか、現在のような明確な区別はいつ確立したのか、など考
察すべきことはおおい。
また、今回考察した「攣「猛豹」以外にもかつてパンダをあらわしていたのではないかと推測されている呼称は多
の関係で見たように、数多くの呼称は決して「あ
が考えられるであろう。郭瑛の「猛豹」、『字林』の「白豹」のはかに現代の研究者は「貌」「白熊」「致夷」などをあげ
域によって発音がちがう、方言差がある、時代によって変化するなど、パンダが多くの呼称を獲得するさまざまな要因
ちらをたてればこちらがたたず」といった関係にあるわけではない。「音が似ている」という原因や、同じ呼称でも地
く、ここでひとつひとつ考察することはできない。「須」と「猛豹」
(空
18
る。これらはどれもパンダの古称だった可能性がある。本稿ではまず「漠」
は「GiaコtPanda」
の「Giaコt」
の日本語訳として、人口に脾泉した「パンダ」
のほう
のほう
に注目して考察をすすめたが、これらすべ
の部分の訳であると考えられる。英語では「LesserPanda」
ての呼称についても同様に過去にパンダを指していた可能性があるのか否かを確認していく必要がある。そうしてはじ
の「大」
であるが、「GiantPanda」
「熊猫」、後述するように「猫熊」などの呼称が混在している(私の見た限りでは「熊猫」が優勢であるようだ)。
ダヴィド神父が地元の人に聞いた名は
YOR只-当山も.栗?栗¢
「白熊」 であったという。
屡返安〈大熊猫衰滅之迷〉(《四川地康学根》第二一巻
第二期
二〇〇一年六月)を参照した。
ここではおもに臭斌《中国大熊猫友展史新探〉(《四川肺泊学院学根(自然科学版)〉第二三春
眺学良
二〇〇二年三月)、
「②色が一様でないこと」 「③入りまじっていること」などである。①の用例として『爾雅』繹畜の
「願自駁」
の古漢語における意味は、F漢語大字典』(四川辞書出版社・湖北辞書出版社一九八六年)によると「①馬の毛色が一
様でないこと」
「駁」
第一期
D【CTiONARYOFAmericanBiOgrapby㍍upp】eヨeコtTbree-筐T-澄ダEdward→James-同ditOr}Char】esScribner。sSOコS〉NEW
『広辞苑』第五版(岩波書店一九九八年)も「一八六九年に生存が確認された」としている。
ジャイアントパンダとレッサーパンダは同科ではないとされている。
これはダヴイド神父とエドヴアール氏がジャイアントパンダとレッサーパンダを同系統とみなしたためである。現在では
をもちいることにする。
物はおなじことで、なんらかわることはない。本稿では「GiantPanda」
「パンダ」と呼ぶことがおおいように見うけられる。日本語で「ジャイアントパンダ」と呼ぼうが「パンダ」と呼ぼうが指す動
日本語では「LesserPanda」は「レッサーパンダ」と呼ぶが、「GiaコtPanda」を「ジャイアントパンダ」と呼ぶことはまれで、
は「大熊猫」
との区別の必要から「GiantPaコda」と呼ばれる。漢語でも「LesserPanda」は必ず「小熊猫」
余談であるが「大熊猫」
めて古代文人のパンダに対するイメージを知ることができるのである。
(7)
(6)
(5)
(4)
(3)
(2)
(1)
注
中国古文献中のパンダ
19
の邪吊疏「孫炎日〝願,赤色也。〝謂馬有顧慮有白虎者日駁″」
をあげている。これによれば、「厳」
の一字ではかならずしも
実際にパンダのような配色をさすわけではない。この文字情報からシマウマのようなシマ模様を想像する人もあるだろうし、
ただし色の言いかたが異なる。
「パンダ科」
をたてる考えもあるようだが、ここではパンダは遺伝
ヒョウのような斑点模様をおもいえがく人もあるかもしれず、いろいろな読みかたができるのではないだろうか。
パンダをクマ科と離れた特徴を持つ動物とみなし、別に
二〇〇五年
(総第九一期)
中華書局影印一九七七年
二〇〇一年一月
六〇-六一ページ
的にも骨格の面でもほかのクマ科動物からそれほどかけはなれた存在ではない、という近年主流の意見を参考にする。参照遠
「文史雑誌』 二〇〇一年第一期
藤秀樹『パンダの死体はよみがえる』ちくま新書
「竹節与熊猫」
(清嘉慶十四年胡克家校刊)
参照『中国史綱要(修訂本)』人民出版社一九五五年(第二版)
r李善注文選』
r百子全書』 (漸江古希出版社影印一九八八年)
『六臣注文選』中華書局影印一九八七年
「四庫全書総目提要」 も東方朔撰、張華注ともに彼ら
漢・東方朔の撰と伝えられるが、偽作である。また、晋・張華の注も偽作とされる(『大漢和辞典』修訂版
r太平御覧】(中華書局影印一九八五年)巻九百八・獣部・第二十・菓
『天中記』(台湾・文海出版社影印一九六四年)巻二十五「碗牙」
という、類似した文がある。
『広博物誌』巻四十八「東方識嘆錬之獣。賓超神南之書、大荒之籍臭」
『萄中広記』巻五十九「東方識攻城之獣。塞頼神南之書、大荒之籍央」
また電子版四庫全書にはこのほかに
が書いたのであろうと推測している。
「東方生攻城之獣、賓
頼大荒之籍臭」という一節が引用されているが、欽定四庫全書(文淵閣)電子版『抱朴子』にはこの文はみあたらない。
にも『抱朴子』からの引用として
が記載されていることや、「覿其詞華縛麗、接近斉梁」という特徴から、「六朝の文士」
に仮託したものであって偽作、と断ずる。書かれた時期については『隋書』経籍志にすでに東方朔撰、張華注として『神異経』
大修館書店一九八四年/『中国学芸大事典』大修館書店一九七八年)
『神異経』一巻
所収
(9)
(ほ)
阿波
(8)
(望 (11) (10)
(13)
(14)
2()
(中華書局一九八八年)
の項目はたてられていない。かつて「須」
の項目をたてていた『山海経』があり、それ
『自氏長慶集』(文学古籍刊行社一九五五年)・『白居易集箋校』(上海古籍出版社一九八六年)
黄伯思『東観験論』
現在見られる『山海経』には「華」
上海古籍出版社
「食繊輿鋼、不定他物」という動物であるという印象ができる余地はある。この件については後
を白楽天らが参照したものののちに失われたとも考えられるが、『山海経』にはそもそも 「須」 の項目がたっていなかったとし
ても、『山海経』から「須」
「須(バク)」
とは異なる、正体不明の動物とみなしているのだろう。
「生物」
「須」
「中国南方の更新世の地層からバク属の化石が出土した」
では三門峡市出土の
など、西周期の青銅器の
(一一六-一一八ページ)。しかし実
「青銅獣豆」
とあり、更新世期にはその生息域は現在の中国の領域内にまでおよんでいたとおもわれる。また、林巳奈夫
二〇〇四年)
「獣形」 はマレーバクをかたどったものではないかと推測している
(吉川弘文館
(一〇〇五ページ)
「獣面紋」
の詳細な調査は未見。今後精査する必要がある。また、どの時期から
い。その想像上の
「漠」 が日本につたわり、「夢を食べる動物」
「バク」
「漠」 の名が与えられたかについても調査の
「東南アジアに生息するマレーバクに関する虚実
に変化したと述べいる。私は本文で述べるように先にパンダに
入り乱れた情報から中国の漠が生まれた」 と記している。つまり荒俣氏はバクは古代の中国にはいなかったと考えているらし
また荒俣宏前掲書では 「漠」 は中国の想像上の動物であり、その想像には
必要がある。
に
際に黄河流域からマレーバクの骨などが出土したなどの物証はあげていない。マレーバクの生息域の縮小とその時期について
いくつかの
中国古代の神がみ』
国大百科全書】 (中国大百科全書出版社一九九一年)
クであると考えるのが妥当であろう。現在のマレーバクの生息域はマレー半島、スマトラ島、ミャンマー、タイである。『中
みである。また、アジアに生息するものもマレーバクのみである。よって、中国人が
厳密に言えばこれはマレーバクである。現在世界に生息する四種類のバクのうち、自と黒の模様をもつものはマレーバクの
とみなした動物はこの⇒レーバ
「襲」 は現在の
漠②では、「漠」を「獣名」とだけ説明し、その後に『爾雅』本文とその郭環注、邪吊疏が引用されている。古文献に見える
コ二才圏曾』台湾・成文出版社影印一九七〇年
欽定四庫全書(文淵閣)電子版『本草綱目』
は
『神と獣の紋様学
には
181716
(聖■
(空 (19)
(召
述。
中国古文献中のパンダ
21
由来する想像上の動物「漠」
なる。
があり、そこに
二〇〇一年
「猛豹」
F山海経注疏」巴萄書社一九九六年
『説文解字】段注もr山海経』
もしれない.。
のように、「街」
「バク」
の印象が加わったと考えているので、この点では荒俣氏の見解とはこと
「漠」 のことであると書いている。この判断もあるいはおなじ理由によるものか
「街」 がさす内容もひとつひとつ検討をしていかねばならないが、『山海
が動物名ではなく民族(人のグループ名)としてあつかわれるなど、その意味は一様ではない。
このような例があることを考えると、文献にのこる
温媛。」
(注)邸元水脛注日…(中略)…南中八部志日‥「街大如墟.状頗似熊.多力.食繊.所親無不拉。」贋志日‥「街色蒼白.其皮
神鹿両頭.能食毒草。
濃竹。出鋼、織、鉛、錫、金、銀、光珠、虎晩、水精、瑠璃、阿鼻、畔珠、孔雀、輩翠、犀、象、遅延、街獣(注)雲南嚇有
干細布.織成文章如綾錦。有梧桐木筆.績以焉布.幅虞五尺,繋白不受垢汗。先以覆亡人.然後服之。其竹節相去一丈.名日
哀牢人皆穿鼻傭耳.其渠帥自謂王者.耳皆下肩三寸.庶人則至肩而己。土地沃美,宜五穀、惹桑。知染采文繍.厨蒜督空軍
r後漢書』 (中華書局一九八七年)巻八十六・南哲西南夷列侍第七十六・西南夷
『説文解字注』上海古着出版社
は
『康無字典』(康照四十九年刊/中華書局影印一九五八)
「猫熊」
の誕生は四十年代ということになるが、『辞
の呼称が優勢であるからその誤読が生じたのは共産党解
であり、その時期にのこされた右書きのラベルがのちに左書きに誤読され
の呼称が生じた、との説もある。台湾では「猫熊」
そもそも民国期のパンダの正式な呼称は
たために
「熊猫」
の呼称は一応三十年代にはすでに存在している。
放区ないしは共産党の解放後であるとの説もある。これらの説によると「熊猫」
「熊猫」
これらの名称は『詩経』『尚書』『史記』などに見られ、これらを古代中国のパンダ記載であるとかんがえる研究者もいるが
海』にあるように
蘭
の
は使用例が大量にあり、本稿には考察が間に合わなかった。今後の課題としたい。
経』「菊国」
「街」
(鱒)
(訓)
未見
(24) (23)
(26) (25)
(27)
(空
22
「白熊」
(これらが
「パンダである」
がパンダであるらしいと推測できたとしても、他の資料にある
(注四にあげた二論文など)、それらの資料ひとつひとつに対する考察がまだ不十分である
た理由が不明確。また、かりにあるところで
がおなじ動物をさしているとはかぎらない、など)。
と考え
「白熊」
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