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明 治 大 正 昭 和
《県内の女性のあゆみ》 《国の動き》 1868(明治1) 明治と改元 1871(明治4) 弘前藩、四民婚嫁を許可 (華族士族平民の間の結婚が自由となる) 1872(明治5) 岩木山の女人禁制が解かれる 1873(明治6) 羽仁もと子 生 1875(明治8) 東奥義塾に小学科を設け女子部を設置 弘前で女性髪結師が登場 1871(明治4) 新律綱領 1871(明治4) 津田梅子ら最初の女子留学生 米国へ出発 1872(明治5) 学制発布 (男女平等の義務教育実施) 明 治 1878(明治11) 県立女子師範学校弘前に設置 1881(明治14) 矢川れんとミキ姉妹が弘前で写真館を開業 1885(明治18) 県女子師範学校、 青森県議会決議により廃止決定 1897(明治30年) 羽仁もと子報知新聞社に校正係で入社 まもなく初の新聞記者に。 1900(明治33) 弘前に県立第一高等女学校設置決定 (現在弘前中央高校) 1902(明治35) 小川文代 生 1907(明治40) 青森郵便局で女子にも電話交換手を命ずる 1908(明治41) 羽仁もと子「婦人之友」創刊 1910(明治43) 青森市に女子師範学校設置を告示 1910(明治43) 千葉くら八戸女塾を開く (現学校法人千葉学園) 1879(明治12) 教育令公布 (男女別学を規定、 明治5の学制を廃止) 1880(明治13) 刑法布告 1883(明治16) 「女学雑誌」創刊 (最初の婦人雑誌) 1889(明治22) 大日本帝国憲法発布 1899(明治32) 高等女学校令公布 (良妻賢母主義に基づく女子教育) 1904(明治37) 対露宣戦布告(日露戦争勃発) 1911(明治44) 平塚らいてうら「青鞜」発行 1912(大正1) 明治天皇死去 大正と改元 大 正 1916(大正5) 弘前で女性雑誌「をんな」創刊 1918(大正7) 山田きみ青森裁縫女塾開設 (現学校法人山田学園) 1913(大正2) 東北帝大に女性 3 人初合格 1918(大正7) 全国処女会、中央部設立 1919(大正8) 婦人労働者大会(市川房枝・平塚らいてう 山川菊栄・与謝野晶子ら出席) 1921(大正10) 羽仁もと子自由学園を設立開校 1925(大正14) 小川文代 東北帝大へ青森県初の 女性合格 橋本花 帝展初入選 1922(大正11) 文部省、女教員・保母に産前産後休養に 関する訓令(有給休暇認められる) 1923(大正12) 初の国際婦人デー 1927(昭和2) この年、本県女子の進学率は男子を上回る 昭 和 1931(昭和6) 農村深刻な不況で婦女子の身売り、 一家離散続出 1931(昭和6) 満州事変勃発 1931(昭和6) 大日本連合婦人会発足 1937(昭和12) 日本婦人団体連盟設立 1937(昭和12) 母子保護法公布 1938(昭和13) 小川文代が生物学分野で県初の理学博士 の学位を取得(女性では日本で5人目) 1939(昭和14) 第二次世界大戦勃発 姉家督とは…… 明治初期∼中期 女性による家督相続のことであり、第1子が女 明治初期、家父長制が全国に浸透しているなか姉家 子であった場合、第2子、第3子に男子が生ま 督という相続形態が県内に存在した。主婦が家事一 れても婿をとって家督を女子に継がせることで 般に加えて生活活動まで大きな役割を果たした農村 ある。 地帯の生活の利を守るための庶民の知恵であった姉 家督だったが、明治政府の政策と相反していたため 県内に姉家督 という画期的 な制度があった んだね! か自然と消滅していった。 この家制度(家父長制)が何百年も女性の権利をせ ばめ、女性の位置づけを低くし、社会的性差別を生む ことになる。 低かった女子就学率 明治5年に従来根強かった「女子に教育は不要」との男尊女卑の考え方を自ら否定し、教育を受け る機会が男女児童に平等に与えられたという画期的な意義を持つものであった。 しかし当時の本県は、女性に必要なものは家事育児および生活に関する労働のみで「女子に教育 は不要」との伝統的女性観は大きな壁となって立ちはだかっていた。 全国平均 15.1% 本県 1.7% 本県の女子就学率が著しく 低いことが分かる 明治6年の女子就学率 明治6年の男子就学率 東奥義塾講師、脇山つやの思想 全国平均39.9% 本県 13.9% 女子教育が振興しなかった本県ではあ ったが、人間にとって学問は必要であ るという思想をもった女性、脇山つやら が女性教育に携わっていたのである。 弘前女子師範学校は、東北では最初の女子師範学校であり、女子就学率がきわめて低い本県だが、教員 養成に積極的に取り組んだことがわかる。 しかし、県費で女子教員を養成することに疑問を抱く声も根強く 明治18年女子師範学校は廃止された。 は未だ抵抗が強い状況ではあったが、時代の変化 は、女性たちの職業選択の範囲を徐々に広げてい ったのである。 明治14 矢川姉妹写真館を開業 「家」制度の枠を破って女性が職業につくことに 矢川姉妹が写した写真 女性たちの職業選択の範囲を徐々に広げたものの一つに電話交換手の誕生があった。ここでは三交代と いう厳しい勤務体制のなか仕事の傍らに余暇を楽しむなど現代でいうキャリアウーマンの先駆けがあ ったことになる。 電話交換手の作業スタイル 明治30年∼昭和初期 現 在 の ワ ー ク・ライフ・バ ランスってこ とだね! 明治39年 青森郵便局に初採用された女子電話交換手 この時期、急速に増えたのは、女性教員である。特に日露戦争後は、男性教員の不足を男 性より安い給料で雇用できる女性教員で補うという文部省の方針があった。 昭和初期になると本県においてもさまざまな障害はあったが、徐々にだが確実に女性 が社会進出を行うようになった。この背景には女性の進学率の向上がある。 女性の解放を目指した人たち これまで周知のとおり、ひたすら良妻賢母の生き方を求められ、政治的にも無権利のままおかれる女性 たち。こうした女性をとりまく状況に疑問を投げかけ、女性が本来有するべき個人としての生き方を求 める女性たちの組織的活動が本格的に始まった時期でもある。 全国の産業別女子有業者数の推移(単位:千人) 職業の 多様化 経済的 状 況 進学率 の向上 女性の社会進出の増加の背景 青森職業紹介所で求職した女性 昭和2年で56名 昭和3年には83名に増加している 有 農 水 鉱 建 製 卸 金 運 サ 公 そ 業者 数 統 計 林 業 産 業 業 設 業 造 業 ・ 小 売 業 融 ・ 保 険 輸 通 信 業 ー ビ ス 業 務 の 他 1 920 年(大正9 ) 19 30年(昭和5) 10,146 10,463 6,290 6,308 37 53 96 46 7 7 1,547 1,426 819 1,209 13 18 65 92 1,068 1,270 16 30 189 7 (国勢調査「日本労働運動資料」第 10 巻より引用) 《女性労働者は男性労働者に比べ賃金格差が大きいだけでなく、○○ガー ルなど女性としての性的特徴を売り物にしたものが多かった。》こういっ た限界があるものの女性が職業につくことで社会と向き合うこととなっ たのですね! 飛躍を目指した2人の女性の紹介 1873(明治6)年∼1957(昭和32)年 女性にも数多くの伸ばすべき才能が与えられており、生 活の向上を図りつつさらに自己を磨き修養を重ねること は、その人の生涯の責任であると説くもと子の言葉は、 家庭を持ちながらも、仕事や勉学を通して自己実現を図 ろうとする現代の女性たちにも、大きな励ましになること である。 ■もと子の業績■ 明治36「婦人之友」の前進「家 庭之友」を創刊 良い家庭が良い社会を作ると いう羽仁吉一、もと子の願いを 柱に創刊された 羽仁もと子著作集第一巻∼二十一巻 大正10「思想しつつ、生活し つつ、祈りつつ」をモットーに 真の自由人を育てる理想の人間 教育の場とし、自らの教育信念 に基づいた「自由学園」の創立 昭和10凶作の東北に農村セツルメント運動を始める 貧しい農村婦女子の救済と生活指導を中心とした活動 100 年の歴史を持つ羽仁もと子考案による家計簿 1902(明治35)∼1993(平成5) 1938(昭和13)年に理学博士の学位を受けた。 女に学問はいらないと思われていた時代でしたが、文代の父は、女性も人 間として勉強しなければならないこと、また社会人としてさらに、世界人とし て全人類と対等に交際していかなければならないと いう信念をもっていたため、学問を学ばせた。 私たちの先 文代は当時の女の生き方、求められる良妻賢母型に 駆け的存在 ですね! 疑問を抱き何でもいい、自分を生かす人生を送りたいと 生物好きの文代は、ミミズの研究に没頭する。 参考資料:■青森県女性史 あゆみとくらし 青森県/発行 ■八戸の女性史 島守光雄 八戸市/発行 ■黒石市 HP 黒石人物伝 ■羽仁もと子記念館HP