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透かし絵」 という魔法の鏡: F. シンケルの劇場改革へ

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透かし絵」 という魔法の鏡: F. シンケルの劇場改革へ
Kobe University Repository : Kernel
Title
「透かし絵」という魔法の鏡 : F.シンケルの劇場改革へ
の道(The Magical Mirror in'Transparentsbilder
(Transparencies)' : A Forerunner of K. F. Schinkel's
Innovation in the Theater)
Author(s)
長野, 順子
Citation
美学芸術学論集,4:1-19
Issue date
2008-03
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002329
Create Date: 2017-03-28
美学芸術学論集
神戸大学芸術学研究室
1
20
08年
「
透かし絵」 とい う魔法の鏡
一
一一下.シンケルの劇場改革-の道
長野 順子
序
「
モスクワ炎上」の図
1
81
2
年1
2月 1
9日土曜 日夜、ベル リンのフランス通 り43
番地にあるグロピウスの 「
か らくり
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」で、クリスマス恒例の 「
透か し絵 (
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」展示
劇場 (
会が幕を開けた。近辺の通 りとい う通 りは馬車でごったがえし、初 日にかけつけた人々は命
からが ら劇場の入 口まで辿 りついた、と伝えられている1。上演題 目は、当時ベル リン市民に
衝撃を与えていたロシアでの戦局ニュース 《
モスクワの大火》、大画面の制作者は、若き日の
カール ・フ リー ドリヒ ・シンケル (
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41
)であった 〔
図1
〕
。
事件そのものは同年9月 1
4日、ロシア遠征中のフランス皇帝ナポ レオン一世がモスクワ入 り
を決行 したことに端を発する。おそ らくロシア側の焦土作戦によって夜半に火事が起こり、
それから数 日間モスクワは炎上 しっづけた。 クレム リン宮殿だけは焼け残ったが、予め市民
も立ち退き大半が焼き尽 くされた市街で、フランス軍は食糧や駐屯場所を確保できずに、つ
いに1
0月1
9日、モスクワか らの退却を開始 した。 ロシア国民にとって 「
祖国戦争」のハイラ
イ トとなったこの事件をきっかけにして、ヨー ロッパ諸国でもまた対ナポレオン解放戦争の動きに勢いがつ くことになったのである。事件の第一報は、二週間後にベル リンの新聞で
伝えられ 、1
0月に入ってからは挿絵入 り雑誌によってその詳細が報道 された2
。舞台道具の制
作工房 とか らくり劇場を経営 していたヴィル-ルム・グロピウス (
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頃) と若い友人のシンケルは、これ らの情報にもとづいて、半透明スクリーンによる事件再
現の計画を速やかに進めた。かつてイエナでプロイセン軍がナポレオンに敗れ、1
8
0
6
年か ら2
年間フランス軍にベル リンを占領 された一一 意外にもフランス軍 とは比較的友好的な関係 を
保った一一一
経験をもつ市民は、遠いモスクワでのカタス トロフの光景をこの目で見よ うと劇
場に殺到 した。現在では縮小 された複製画像が残存するにすぎないが、その大スクリーンは
裏側か らの照明の仕掛けでまさに動 く 「
火の絵」 とな り、ベル リン市民の愛国心を燃 えあが
らせたのである。ちょうど初演前 日、壊滅状態のフランス軍 とともにナポ レオンはパ リに帰
還 した ところであった。そ して翌 1
81
3
年1
0月、ライブツイヒでの 「
諸国民の会戦」でナポレ
オンは連合軍に大敗 し、 ドイツか らの撤退を余儀なくされることになる。
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2年 1
0月 1
0日付けの 『シュペ-ナ-新聞 (
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』(
当町 ヾル リンで 2番 目に大きな新聞、最初は 『
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』 として 1
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0年より刊行)では、次のように報告 さ
れているO 「
世界でもっとも美 しくもっとも監かな都市のひ とつモスクワは、もはやない。1
4E
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夜にロシア人が証券取引所
や店舗や病院に火を放った。1
6日には強烈な風が吹いて-・
.
.・
面は火の海 となったO ・
-ほとんどすべてが焼き尽 くされた
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が、クレムリンは救われた 。Vg
2
」
2
そののち首都ベル リンにおける主要な公共建築を手がけ、上級建築局の官吏 として都市整
備 を先導す ることになる 「
建築家」シンケル、そのシンケル像 と、彼の初期の 「
透か し絵」
制作 とはた しかに結びつきにくい。「
建築家」のほかにも 「
風景画家」や 「
舞台装置家」とい
う顔 をもっ ことはよく知 られているが、そのもっとも初期の活動については、従来のシンケ
ル研究でもあま り注意が払われ ることなく通 りすぎられてきた3
。例えば、ロマン派絵画に分
類 されるシンケルの油彩の 「
風景画」作品のほとん どが残存 しているのに対 して、「
透か し絵」
作品はその嵩ぼる大きさと材質のせいで、また商業的な一過的使用のために、実物がすべて
消失 して しまっていることも、その一因であろ う。だが、「
透か し絵」とい う特殊なジャンル
-の数年間の専心は、生活のためであった とはいえ、シンケルのその後の方向性を示唆 しう
るものとして、その意味をもう一度省みる必要がある。 ここでの実験的試みは、す ぐあとに
続 く大劇場での 「
舞台装置」の仕事に生かされ るだけでなく、彼の 「
建築家」 としての基本
的構えを性格づけることになった と考えられるのである。なによりもまず、建築物 を (
その
外観も内部構造 も)精確な透視図法で把握すると同時に、より大きな眺望のなかにそれを位
置づける彼独特の視座がここで確立された。あたかもそこにひ とつの ドラマが展開する舞台
であるかのごとく自然風景や都市空間が立ち上がってくる、それはまさに、計算 され演出さ
れた 「
ピクチャレスク」な眺望であるといえよう4。それだけでなくまた、流行の先端をい く
大衆向け娯楽装置にかかわったシンケルの試みには、きわめて新 しい、現代のメデ ィア社会
に通 じるよ うな知覚様式の変容、その萌芽をみることができる。それは、平面画像を用いな
がら擬似現実的な空間を現出させて、観客をそこに瞬時の うちに引き入れ る手法である。一
方で対象 との距離感ははっき りと保たれながら、他方で一種の視覚的な方向喪失にとらわれ
るとい う奇妙な身体感覚。一方で現実のもついわば張碓 さの撤廃-
ある種の抽象性- が
あるのだが、他方でそこには不思議に迫真的な現実感が体験 される。あたかも映画やテ レビ
に向か う知覚主体の構 えを先取 りするかのような表象様式であるOそれは、ロマン主義に傾
きつつ新古典主義にとどま りつづけた 「
折衷主義者」シンケルによる的立場 と一見相容れないかに見える-
その保守的な政治
革新的な知覚改革の先取 りと考えることができるO
「
透か し絵」 とい うこの過渡的な視覚装置は、のちに 「
ディオラマ」 と命名 されて一世を
風摩することになるが、このジャンルそのものの発展史に関 しては、シンケルはただ部分的
にかかわったにとどまる。まず最初はイギ リスのラウザ-バーク、そ してのちにはフランス
・
後の 1
9
9
4年 1
0月にシカゴで開催 された 『カール ・フ リー ドリヒ ・シンケル 建築の ドラマ』展以来、シ
ンケルの仕事の全貌が次第に明 らかになってきている。「
透か し絵」制作に関 してはシンケルの 「
舞台装置」についての研究
のなかで言及 され ることが多いが、「
透か し絵」に焦点を当てた比較的まとまった研究 としては B・フェア ビーべの論考があ
3 東西 ドイツ統
る。Vg
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4 「
ピクチャレスク」は、1
8世紀後半のイギ リスで 「
風見庭園」や 「
風景画」の普及 とともにひ とつの 「
美的カテゴリー」
として定着 した。U ・プライスは 『ピクチャレスク論』でこれを 「
美」 と 「
崇高」の中間に位置づけて、人々の好奇心を引
くような快い刺戟のある眺めとしている (
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4)
O「
画家のように」フレームに入れて対象 を楽 しむ この 「
ピクチャレスクな」まなざしは、む しろt体の側の
構えとして、その後エキゾテ ィックな自然風見や植民地の風俗にまで仙 ナられ、絵葉書や挿絵、ポスターのなかに拡散 して
変容 してい くことになる。
.
3
のダゲールが中心 となってその技術を開拓 し、「
パノラマ」や 「
幻燈」とともに、次世代の視
覚装置-
「
写真」や 「
映画」一一
一 、と転回するきっかけをつ くってい くo こうした大衆向
けの見世物的な娯楽にかかわった人物のほとん どが、一般劇場の舞台装置を長 く手がけた経
験をもっていることは、興味深い。しか しなが らここではとくに、シンケル とい う未来の 「
建
築家」が、彼独 自のいわば (
総合芸術)の放 念を形成 していく上で、この 「
透か し絵」制作
9
世紀初頭のベル リンとい
が重要な精錬の場 となったとい うことに、まず焦点を当てたい。1
う都市における社会的 ・政治的なコンテクス トのなかで、一般市民の知-の欲求や好奇心に
応えつつ、シンケルが どのような実験を進めていったのか、その具体的な制作 と上演の実態
を、当時の新聞や雑誌の評論 を中心 とした言説か ら再構成 し、そこからシンケルのこの時期
の仕事のもつ先進的な意味を見定めること、それがこの小論のさしあた りの 目標である。
そのために、以下では次のような手続きをとる。まず、 (
Ⅰ
)イタリアからの帰国後のシン
ケルの 「
透か し絵」にかかわる仕事を、当時の記録を参照 しなが ら跡づける。それによって、
「
絵画」的な性格 と 「
劇場」的な要素を併せ もっこの特殊なジャンルでシンケルが何をしよ
うとしたのか、それはどう受容 されたのか、とい うことが見えて くる。次に、(
Ⅱ)一種の間
奏曲として、「
透か し絵/ディオラマ」の歴史的展開を概観する。それを通 してこのジャンル
におけるシンケルの位置づけが確認できるはずである。最後に、 (
Ⅲ) 「
透か し絵」 と近接 し
たジャンル、とくにタブロー画 としての 「
絵画」作品および 「
パノラマ」との比較を通 じて、
この一過的な実験装置の特質をいくつか取 りあげ、それがシンケ/
凋虫白の (
総合芸術)理念
に向けてもっていた意味を考察する。 これ らは、シンケルの次期の仕事、劇場改革にかかわ
る一連の仕事のなかで、一層明確化 されることになるはずであるが、それは本論の課題 を越
えている。
「
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」 とは、1
8
世紀末か ら1
9
世紀前半にヨーロッパの各都市で
流行 した視覚装置である。半透明のキャンバスに描かれた画像に前方および後方か ら光を当
てて、二次元の画像を立体的に見せた りその変化を楽 しませ るこの仕掛けには、覗き箱のよ
うな小ぶ りのものと、大画面を用いた劇場風のものとの両方がある。これ らはのちに、「
ディ
オラマ (
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」 と名づけられた5。光源 には、蝋燭、アルガン灯 (
ランプ)、窓か らの自
然光等がさまざまに色づけされた り強度や方向を調節 して用い られた。いずれ も、いまここ
にある場所 とは別の時空間- と誘 うイ リュージョン装置であ り、芸術作品とい うよりは、大
衆向けの 「
見世物 (
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」の一種であった。類似のものに、「
パノラマ (
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」
と呼ばれるもうひ とつの大規模な視覚装置があるが、こちらは、全方位の画像で観 る者を取
9
世紀末になっても万国博覧会で数多 くのパノラ
りかこむ巨大な円筒形の娯楽施設であ り、1
マ館が設置 されてこの方式を引きついだも
。都会の近代化が進むにつれて、人々はこうした大
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これ らの視覚装置の初期形態については、以下を参艶 Al
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オールティツク 『ロン ドンの見世物 L
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』小池滋監訳、国書刊行会、1
9
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0年)
6
4
衆向けの娯楽によって、 日常は目にすることもない壮大で 「
崇高な」景観や珍 しい 「
ピクチ
ュアレスクな」眺めを、都市空間のなかで擬似体験できるようになったのである。
「
透か し絵」は、まずロン ドンやパ リやイタリアの諸都市についで、ベル リンでも1
8
0
0
年
頃に登場 した。まだ試行錯誤の途上にあったこの最新の視覚装置に、シンケルは一時期、熱
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心にかかわったのである。当時これは、「
透視図的 ・
光学的絵画 〔
展示〕(
」と呼ばれた。強調 された遠近法 と照明効果を用いた画像は、奥行きの
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ある遠景 と近景 との組みあわせが大半であ り、「
光を用いた眺望画」とい うことができる。1
9
世紀初めのベル リンは、ロン ドンやパ リよりも規模はやや小 さい とはいえ、プロイセンの首
都 として、人々が集 う政治 ・経済 ・文化の中心地であった。 ウンター ・デン ・リンデンをは
じめとする大通 りでは、 とくにクリスマスになると通 りに面 した大きな書店や菓子店、カフ
ェがショー ウイン ドーや広い店内を華やかに装飾 して、通 りをそぞろ歩 く人々の目をひきつ
けていた。代表的なものに、少 しあとにハイネが 「
ベル リン便 り」(
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2
年)で触れている 「
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年創業)
」や 「
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」等
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がある7。ベンヤ ミンの云 う都市の 「
遊歩者」たちはこの頃すでに誕生 していたのである。そ
の飾 りつけは、クリスマス用のキ リス ト生誕の情景だけでなく羊や牛のいる田園風景、メル
-ンの一場面な どが中心であ り、人物や動物、馬車などのフィギュア と背景画を照明が美 し
く照 らしだす。シーズンが近づ くと、それぞれ趣向をこらした新演 目の広告が新聞や雑誌に
出るほどであった。プライテ通 りにカフェを開いていたグロピウス商会は、もともと仮面や
舞台道具を制作する工房を営んでいたが、機械仕掛けのからくり劇場を経営 して時代の先端
をゆく娯楽を提供 しよ うとしていたのである
。
シンケルは、ベル リン建築アカデ ミーでの修行ののち、2
年間にわたるイタリア旅行か ら戻
り、ナポレオン占領下の経済的に疲弊 した首都には建築の仕事のないまま、風景画を描き建
8
0
7
築構想を練る一方で、生活のために 「
透か し絵」の制作 と興行を手がけることになる。1
年、グロピウス商会の経営するか らくり劇場のために異国の風景の透視図的な大画面を制作
する仕事をはじめたのが、きっかけとなったoその後グロピウス一家の住む建物に間借 りを
して、息子のカール ・グロピウスらと共同作業を続けることになる。毎年のクリスマス興行
を中心にさまざまな形での上演の試みが、1
81
5
年までほぼ8
年間に亙って続 き、約48
点の 「
透
か し絵」が制作 された。照明や音楽演奏を効果的に用いて次第に大がか りになったこの活動
は、そののち大劇場の舞台装置 と劇場そのものの建築に携わるシンケルの修練の場 とな り、
新聞評を通 してその名は広 く知 られるようになった。シンケルは、1
8
0
3
0
5
年のイタリア旅行
で書き溜めた沢山のスケッチを中心に、古い文書や記録か ら得た知識、建築学的な構築性、
そ して照明による光 と影の効果を用いて、この視覚装置に没頭 したのである8。
最初の年の 「
透か し絵」のテーマは、次のものである。 (
現在は原画 しか残っていないが、
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H.ハイネ 「
ベル リンだより 第 イ乱 岸
孝信訳 :『
郵便馬車にゆられて 旅行記集』 ドイツロマン派全集第 1
8巻、国書刊行会、1
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(
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)
B ・コマン 『
パノラマの世紀』野村止人訳、筑摩書房、1
9
96 (
1
9
93
)年o
三
に注 3)
の文献を参照。
Hシンケルの 「
透か し絵」上演の記録については、i
5
寸法を拡大する目安 として、升 目に区切 られている。)
《コンスタンティノープル》《
ェルサ レム)《
ナイル川のフィラエ島)《
ェジブ トのアポ リノ
ポ リス (
現在のアスワン)
》《ジェノヴァの港》《
月光に照 らされたシャモニーの谷》《ノル ウ
ェーの北の景色) 〔
図2
〕
一見バラバラで一貫性のないこのシリーズは、都会人にとっての異郷に対する好奇心や非
日常的体験-の渇望を反映 しているといえる。フィラエ島やアポ リノポ リスとい う題材には、
1
798年以降のナポ レオンのエジプ ト遠征を機にヨーロッパ中に広まった古代エジプ ト遺跡-
の関心も見 られ る。ただ、広範な図版入 りの 『
ェジブ ト誌』 (
1
80923年)はまだ刊行 されて
9世紀に入って、挿絵入 りの雑誌 ・旅行記 ・小説等をメディア として 「
ピクチ
いなかった。 1
ャレスク」趣味が広ま り、高尚な芸術作品 としての絵画 と並んで、版画やパンフレッ ト、ポ
スター、カ レンダーをは じめとした画像 〔
イメージ〕の大衆化がはじま りつつあった。そ し
て劇場での興行は、宮廷劇場だけでなく国民劇場や小劇場のものも、新聞や雑誌で定期的に
採 りあげられて、活発な話題 を提供 していた。シンケル 自身、少年時代か ら劇場のもたらす
イ リュージ ョン世界に強 く惹かれていたのである。
翌1
8
08年 、イ タ リア旅行 を ともに した友人 のシュタイ ンマイ ア- (
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1
78
01
851
)と、今度は 「
パノラマ」展示を企てた。それは、《
バ レルモのパ ノラ
マ》である。王立オペ ラ劇場のあるフリー ドリヒ広場で、パンテオンを模 した- ドヴィヒ (
カ
,
4〕
。シ
トリック)教会の傍に大きな筒形の仮設施設を作って自力で興行をおこなった 〔
図3
m、高さが4.
5
mの
ンケルが経営 も制作 も興行 もすべて自分で担当した。その画像は、円周27
巨大なものであった。 これはこの年の秋に数ヶ月展示 したのち、グロピウスが買い取った。
この高さのものをまっす ぐ垂直に立てるだけでも細心の注意が必要であった。新聞評はそ う
した技術面にも触れなが ら、賞賛を贈っている。現在残 されているのは、円形の小 さな画像
であ り、当時のパンフレッ トだ と考えられている9
。その同じ年のクリスマス展示では、《
喜
望峰の港》《
インターラーケンのアルプス祭》 (
書店の注文によりスイスの愛国的な祝祭を描
いたこの 「
透か し絵」には800個 もの小 さなフィギュアも付けられた)等を制作 した。大きさ
は3.
30×4mのもので、強調 された遠近法が強い印象を与えた。 さらにまた友人 と仮設舞台を
つ くり、そこにはイタリア旅行から持ち帰ったい くつかのモティーフを用いた画像を制作 し
た。 これは、第 1の 「
イタリア ・シリーズ」をなす ものである。
《ヴェネチアのサンマル コ広場》《ソレン トの洞窟》《
モンブラン山裾のスイスの風景》《
月
明か りと灯明に照 らされた ミラノの大聖堂》《
ナポ リのヴェスヴィウス火山》《ローマの聖ペ
テ ロ教会》
評論家ルー ドヴィヒ・カーテル (
Ludwi
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,1
7761
81
9)は、1
808年 1
2月 29 目付けの 『シ
ュペ-ナ-新聞』で、シンケルのこのクリスマス展示について長い評を書いているが、その
冒頭で、次のように述べている。
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.シンケルはイタリア方
節子の帰 りに寄ったパ リでパノラマを観ているOドイツで最初にパノラマ
8
0 年頃で、プライジッヒ (
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1
)によるローマの風見が人気を呼び、各
展示がはじまったのは 1
地を巡回 した。
6
当世の知識欲は、ヨー ロッパのあらゆる文化国家に広がる旅行熱を引きおこしてきた。・ ・
・〔
そ して〕
この欲求は、多 くの創意に富んだ装置を生みだ したのであ り、それ らが 目ざしているのは、好奇心をも
de
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)を提供することであ
つ人々に、そ うした遠方の素懐 についての 日を欺 くほどの幻の画像 (
Sc
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る10。
この新 しい機軸を試みたシンケル とい う 「
才能豊かな優れた芸術家」を紹介するためのこ
の導入の文章は、見知 らぬ国-の憧れや好奇心が、近代的な都市文化の生みだ したものであ
り、ますます普及するツー リズムは実際の旅行者たちだけのものでなく、む しろイメージに
よる擬似旅行 と結託 したものであったことを、よく表わ している。鉄道が ヨー ロッパの各都
市を点 と線で結んでツー リズムにさらに拍車をかけは じめるには、まだ 2
0年近 くを要する。
この年にシンケルが企画 した約 4×6m の大画面シ リーズはその原画 もほとん ど残っていな
いが、次の記述か ら人々に与えた強い印象が推察できる。
強いランプの照明が、画像の前方 と、透か し絵効果のために画像の後方とに置かれて、全体が生みだ
すイ リュージョンを高めている。通例のパノラマを凌 ぐ効果があるように思えるのは、パノラマでは観
客の視点が 〔
それを囲む〕画像の内部にあって、自分 自身を錯覚のなかに織 り込むには想像力を要する
のだが、ここでは、観客は普通の劇場にいるのと同 じように、それぞれの場所 〔
客席〕にいて、その眼
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k)が描かれるか ら
前に魔法の鏡 (
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)が現われ、そこに魔術的な幻影 (
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である。
徹底 した透視図法 と光の時間的変化、細部の正確な表現 と全体の幻想的な効果 とい う一見
矛盾する組み合わせによって不思議な感覚を作 りだす様子が、巧みに記述 されている。観客
は自分の場所か ら 「
魔法の鏡」に描かれた 「
幻影」をのぞき込むことで、異次元の時空間に
入 り込むことができるのである。カーテルはこれにつづいて、風景画の精密な知識 と芸術性
とが組み合わさったこうした技術が、一般劇場の 「
舞台背景画」にも採用 され ることを切望
している。彼 自身内装デザイナーで舞台画にも携わったことのあるカーテルは、当時依然 と
して支配的であったバロック的なイタリア趣味の舞台作 りを暗に批判 しつつ、シンケルがの
ちに企てる劇場改革を先取 りしていた といえよう。
これ らの上演の魅惑的な眺めに、 どんな芸術愛好家 もひそかな妄想に襲われて しま う、われわれの劇
場の舞台 もこのような種類の劇場的表現の例をまね した らいいのに、そ して劇場の舞台装置にもこうし
た優れた特性がそなわった らいいのにと。無意味に雑然 と組み合わされた危険きわま りない山やアーチ
や橋や、緑や赤や青の透明の柱のぎらぎらした輝 きや、菓子職人のような趣味に、舞台装置や舞台画の
真の価値はあ りえない。芸術的で正確な自然描写や とくに風景画の基礎知識がいまの舞台画家たちにま
ったく欠けているのだが、これ こそ、こうした芸術が成功する条件であ り、市民は自分たちの趣味に敬
意を払 うこうした芸術作品を楽 しむことができるのだ。遠近法の知識の厳格な規則を軽視す る輩は、彼
1
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5
.ルー ドヴィヒは、後年イタリア滞在中のシンケルの肖像を描いた画家フランツ ・カーテル (
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1
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7
8
1
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5
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)の兄であった。
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らの無知を、遠近法に厳密に従 うことは効果がない とい う口実のもとに隠 しているのだが、ここで正 し
く用い られた遠近法のこうした線描をみれば、ついには彼 らもそのような基礎知識がなくては自らの芸
術において永遠に素人のままだ とい うことを納得す るだろ う110
つづ く1
8
0
9
年のク リスマス展示 には、プライテ通 りの王宮の厩舎 を使用 して、第2
の 「
イタ
リア ・シ リーズ」 を6つの大画面で出品 した。
《ピサの大聖堂 と斜塔)《
ェ トナ 山 とカタ一二ヤ》《ミラノの大聖堂の内部》《ローマのカ ビ
トリーネ広場》《
聖ペテ ロ教会の内部》《ミラノの大聖堂の外部》《ローマのサンタンジェロ橋
と聖ペテ ロ教会》 〔
図5
7〕
大聖堂や教会の内部 には、人々の群像がおそ らくフィギュアで も設置 されて、その小 ささ
によって、一点透視法で誇張 された壮大な空間が さらに強調 され ることになる。シンケル は、
透視図法 を獲得 しよ うとす る画家たちのよ うにカメラ ・オプスキュラやカメラ ・ル シダな ど
の道具 を用いることは しなかったが、それ にも拘 らず、まるで写真のよ うに正確な遠近法的
画像 をつ くりだ してい るかにみえる。 とはいえ、例 えば 《ミラノの大聖堂の内部》では実際
には5
つある身廊 を3
つに簡略化 して描いていることか らもわかるよ うに、イタ リア旅行か ら
もち帰ったスケ ッチに基づ きなが ら、必ず しも実物に忠実であることだけが重要ではなかっ
た。新聞評 はその効果 について、「
大聖堂の内部 に 自分 も足を踏みいれて、そ こにいる群衆に
混 じり、さらに奥の祭壇- と進んでい くかのよ うな感 じ」を伝 えている。他方、《カ ビ トリー
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20
1
1
7
7
8
)の版画 を念
ネ広場》については、先行す るビラネ-ジ (
頭 においていた ことが明 らかであるが、 ビラネ- ジらしい凝縮 された暗い熱気 の渦のよ うな
〕
。それに代わって、壮大ではあるが どこか醒 めたよ うな、
ものはそ こか ら消えている 〔
図8
よ り客観的な 「
透 か し絵」の大画面は、観客の視線 を広場 に立っ者の眺望に重ねあわせ なが
ら、 リアル な臨場感 を誘発 したはずである12。
翌年 1
81
0年 1
2
月には ドイツ中央部ハ-ル ツ地方の 「
鉱 山」の風景、1
8
1
1
年2
月には朝 日のな
かの 「
ゴシ ック大聖堂」の画像が音楽 とともに上演 された。 これ は、油彩画 として現存 して
いる。他 のゴシ ック聖堂シ リーズ と並んで、讐 えたっ尖塔が レース編みのよ うに光 を透 かす
堅牢な建築物は想像上の ものであ り、中世的な雰囲気のなかに ドイツ民族の精神的な墜塁 を
表現 している 〔
図9
〕
。そ して、冒頭 の 《
モスクワの大火》の制作 された1
81
2
年 は非常に多作
な年であ り、シンケルの 「
透 か し絵」制作のひ とつの頂点 をなす といえる。この年 には、《カ
ラブ リア鉱 山》の外観 と内部風景のほかに、幻想 に満 ちた 「
世界の七不思議」シ リーズが展
示 された。のちの舞台画 に特有の、構図や描写の精密 さとファンタジー性 とい う相反す るも
のの両立が ここには現われている。
《
ハ リカルナ ッソスのマ ウソロスの霊廟》《
ェジブ トの迷宮》《エジプ トの ピラ ミッ ド》《エ
フェソスのデ ィアナの神殿》《ロ ドス島の巨像》《
セ ミラ ミスの空中庭園》《オ リンピアのゼ ウ
0
,
1
1
〕
ス像》 〔
図1
つづいて1
8
1
3年 には、《ライブツイヒの戦い》、1
81
4
年 には 《ェルバ島》、1
81
5
年 には 《
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3
9
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8
ト・- レナ島》 と、時事的なテーマを扱った。 しか しシンケルは次第に、大劇場の舞台装置
81
3
年に王立劇場の総監督の
と劇場そのものの改革に熱意を傾ける次の段階に移ってい く。 1
イフラン トに提出 したラディカルな劇場改革案は受け入れ られなかったが、1
81
6
年からは次
代の監督ブ リュ-ルのもとで舞台装置家 として働 きはじめる。その最初の仕事であるモーツ
アル トの 《
魔笛》舞台画は、これまでの舞台装置の観念を大きく変える画期的な作品であっ
た。それに加 えてさらに、「
建築家」としてのシンケルの本領 を発揮できるような環境 も整っ
てくることになるのである13。
l
l
,「透か し絵/ディオラマ」の歴史的展開
「
透か し絵」 とい う装置そのものは、シンケル独 自の発想によるものではない。画像に一
一描かれた光ではなく-
「
現実の光」を当てることによって二次元世界を超えるよ うな効
果をだす この特殊な芸術ジャンルは、すでに 1
8世紀末に、大衆向けの 「
パノラマ」やその他
の視覚装置 と相前後 して出現 していた。そ して 1
9世紀の中頃までに、「
デ ィオラマ」 とい う
視覚的なマス ・メデ ィア として一時代を画するまでに発展 した。 これは、芸術 と商業 とが結
びついた文化産業の初期形態であ り、やがてはキネ トグラフや写真 とい う次世代のメディア
に道を譲ることになる。その意味では、
近代初期における文化メディアの過渡的段階 として、
その実験的な性格、一種のキッチュ性、流行の盛衰についても、他の類似ジャンル と共通点
をもっている。
だがこの 「
透か し絵/ディオラマ」 とい うジャンルに特有であるのは、「
絵画」 と 「
劇場」
とい う二つの分野を横断するような異種混交的な要素を初めからもっていたことである。開
発にかかわった大半の人物が都市劇場で背景画や舞台装置を手がけていたことからも、この
ことは理解できる。それは 「
展示」 とい う形をとりなが らも、光、絵画、音楽を融合 させた
「
上演」 として、一種の 「
総合芸術」-の志向性 をもっていたとみることができる。同時に
また、劇場に模 した場所での集団的な受容形態をとりなが ら、いわば ドラマ-の 「
没入」 と
は異なる仕方でその擬似空間のなかに取 りこまれ るような身体的感覚を引き起 こす とい う意
味では、
一種ポス トドラマ的な劇場体験を先取 りしたものと捉えることす らできるのである。
「
透か し絵/デ ィオラマ」の歴史的展開は、研究者 B.フェアヴィ-べによれば、大きく
三つの局面に分けることができる14。まず、(1)1
78
0年代、ちょうど近代-の転換期にあた
1
51
8
0
9年、ベル リンに帰還 したフリー ドリヒ ・ヴィル-ルム=_
世 とルイ-ゼ王妃が 「
透か し絵」展示場を訪れたことから、
シンケルは宮廷の仕事を うけもつようになり、
習1
81
0年春にシンケルは上級建築局の建築官試補 としての職をえることにな
る。彼の杓当したのは 「
美的部門」である。同年死去 したルイ-ゼ王妃のための 《
霊廟案》を彼は 9月のアカデ ミー展に出
品した。 一
般市民 とともに当時のロマン派の文学者たちも、シンケルのこの新 しい視覚装置に並々ならぬ阻 Lを抱いていた。
詩人のアイヒェン ドルフは若い頃ベル リン滞在の最後 (
1
81
0年 3月)にブ レンタ-ノに案内されて 「
透か し絵」展示を見に
いったことを記録 しているOブ レンタ-ノはシンケル と親 しく、この新機軸がことのほか矧 こいっていた。フォン ・アルニ
ムは 1
81
4年のブレンタ-ノ宛の手紙で、彼 らの共通の友人シンケルが、「
まだグロピウスやその類のつまらない仕事にかか
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2
01
,
S.
9
2 尚、モーツァル ト《
魔笛》のこのベル リン上演に
ず らっている」と、やや非難めいた言及をしている。Vg
魔笛》- (
俊の女王)の謎』
際 してのシンケルによる舞台装置については、以下を参照。長野順 子 『
オペラのイコノロジー3《
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7年 、1
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81貞。
あ りな書房、2
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7.
9
る時期に、この仕掛け-の関心がヨーロッパの各地で同時に起 こり、次に、(2)同時代の画
8
20 年代に 「
ディオラマ」館 とい う常設
家たちによる実験的試みがつづき、そ して、 (3) 1
の劇場ができて 30年代に最盛期 を迎える。やがて 1
850年頃には、新 しく開発 された別のジ
ャンル- と道を譲ることになる。 もちろんこれは直線的な流れのなかにあるのではなく、画
家たちによる試みは、前後の時期 と重な りつつ さまざまな形で行われたが、そのなかでもと
くに ドイツ ・ロマン派の画家たちは、「
光による表現」と 「
光の表現」の両方-のこだわ りか
ら、独特の画風を生みだすことになった
。
「
透か し絵 (
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y)」の流行のきっかけを最初につ くったのは、ロン ドンの画家 ド・
ラウザ-バーク (
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401
81
2)であ り、その最盛期か ら衰退期
を見届けたのは、「
ディオラマ」とい う名称を考案 したパ リのダゲール (
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1
851
)で、
後者はのちに写真技術の開発者のひ とりとして知 られることになる。
二人 とも、
それぞれの都市劇場で舞台装置や背景画を担当するとい うキャリアを積んでいた。
他方、ダゲールの 「
ディオラマ」館につづいてベル リンで 「
ディオラマ」館を創設 したのは、
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7931
870) である。カールは以前に年上の友人シンケル
カール ・グロピウス (
の 「
透か し絵」制作にかかわった経験を生か し、新 しい事業でもシンケルの助力に頼ること
が大きかった
。
そもそも舞台背景幕の後方か ら蝋燭の光を当てる 「
透か し絵」 とい う仕掛けが劇場で用い
7世紀前半にまで遡 るが、1
77
0年代頃にふたたび復活 して、ロン ドンの大衆劇
られたのは 1
場や広場のフェアで 「
覗きからくり」のようなスペ クタクルを提供する娯楽にも応用 され、
マジックランタン 〔
幻燈〕 と並んで楽 しまれていた。 ロン ドンの ドゥルー リー レーン劇場の
舞台装置で大胆な試みを行っていた ド・
ラウザ-バークが 1
781年に自宅の一室を改造 しては
じめた 「
エイ ドフユジコン (
Ei
do
phys
i
ko
n)」は、「
自然 (
phys
i
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)」の 「
影 (
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dos
)」 とい う名
の通 り、 自然の迫真的な影像をいくつかの仕掛けによって上演 〔
上映〕するミニチュア劇場
2〕15。約 2mX2.
5m の開口部を通 して奥のステージの薄いタフタのスクリー
であった 〔
図1
ンの絵が連続的に変わってい くのを見せ る一種の覗き箱であ り、ステージ上の大道具 ・小道
具を機械仕掛けで操作することでそこに動きを現出させ、また照明の工夫によって光の微妙
な変化を浮かび上が らせ る、 とい う趣向であった。幕間ではいくつかの 「
透か し絵」 も披露
された。上演 されたのは、ロン ドンの眺望だけでなくナポ リ港や地中海やジブラルタル海峡
の遠望が、曙から夕暮れ、月光 とい う一 日の経過による空や水面の色彩の移 り変わ りととも
に見せ られ る、まさに 「
ピクチャレスク」な風景のオムニバスであった。開口部 とステージ
の間には、あたかもオーケス トラボ ックスの小型版のようにハブシコー ド奏者が座っていた
が、位置が低 く暗いためにほとん ど見えなかった。音楽は鍵盤楽器 と歌い手によるものに加
えて、場面に応 じて雷鳴や風や波を模 した音響効果 も工夫 され、いわば 「
音のピクチャレス
ク (
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ure
s
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ou
n d)」も導入 されたのであるoシーズンごとの新演 目は新聞広告で発
表 された。数年のちには別の場所に移動 して、昼間はステン ドグラスの絵や他の 「
透か し絵」
を公開 しているギャラリーで、夜の 7時過ぎか ら定期的に公演 した。たとえば人気の 「
海の
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1
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嵐 と難破船 」には じま りミル トンの 『
失楽園』か らのサタンの伏魔殿の場面で締めくくる、
とい う一大スペ クタクルであった16。
友人の画家ゲインズバ ラ (
Thom a
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h,17 788) は とりわけ 「
透か し絵」の光の
2
効果に関心をもち、 自分でも小型の展示ボ ックスを作った。 この 「
覗 き箱」に飲めこまれ る
30c
m 四方のガラス板 には、油彩で何枚かの 自然風景が描かれたが、この装置は友人たちとの
夕べの集いで披露 され るにとどまった。一方、 ドイツか らイタ リアに渡ってナポ リを中心に
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7371
8
07) は、 「
透か し絵」に専念 した最初
活動 した風景画家ハ ツケル ト (
の画家であ り、この技術の発明者 と見 られている。彼の得意 とした 「
月光の風景」は、月の
部分を小 さく切 り抜いて光を透過 させ、言い表わ しがたいメランコリックな気分を漂わせ よ
うとしている 〔
図
1
3
〕
。月明か りだけでなくた とえばヴェス ヴィオ山の噴火 といった人々の
お気に入 りのテーマには、 「
透か し絵」にかぎらず 当時の多 くの画家たちが挑戦 している17。
「
崇高」な風景、「
ピクチャレスク」な風景はこのよ うにして増殖 し、文化市場に流通 してい
く。た とえば、フランス革命の余震、イギ リスでのゴシック小説の流行、 ドイツでのナシ ョ
ナ リズム的な動 き、といった一見無関係 に見える諸現象のかすかな反響が、「自然風景」の相
貌のなかに織 りこまれつつ、市場の論理のなかで消費 されてい くのをここに見るのは、あま
りにも強調 された遠近法的見方であろ うか。
「
光による画像」-の関心は、イタリア、フランス、 ドイツ、イギ リス、そ してアメ リカ
といった様々な場所でほぼ同時期 に、それぞれがたいてい独立 して起 こり、近代化 されてい
く都市空間のなかで人々に波及 していった。「自然」を一定の気分や感情 とともに再現す るこ
800年前後の時期にこれ らの 「
透か し絵」は人々の好奇心を煽 り、一種の生理的な刺
とで、1
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)
」 と呼ばれ るよ う
激 を与えた.それは しば しば 「
情感 ・感傷 (
Empf
な刺激であったのであ り、「
光」と 「
闇」の魔術に加 えて、そこに現出す る動 きのイ リュージ
ョンや音楽による諸感覚-の刺激 も、大きな役割 を果た していた。
スイスのベル ンでは、ベル リンにおけるシンケルの 「
透か し絵」興行 と時期 を同 じくして、
FranzNi
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7651
832) が、 「
デ ィアフアノラマ (
Di
a
pha
nor
a
ma
)」 と
画家ケ-ニ ヒ (
di
a
pha
n)」 とは、
呼ぶ手法でアルプスの山岳や農夫たちの生活 を描いた。 「
デ ィアファー ン (
文字通 り 「
透明な」とい う意味のギ リシア語 di
a
pha
ne
s(
-di
a
pha
no透か して見える/輝 く/
i
81
6
現われでる)に由来す る。それ らの画像 を設置 して照明を当てるための箱 を作 らせて、1
年か ら数年 にわた り、ケ-ニ ヒは ドイツとフランスに巡業公演を行った 〔
図 1
4〕
。その反響
は驚 くべきものであ り、 ドイツでの新聞のコメン トをスイスの新聞は次のよ うに要約 してい
る。
絵画はおそ らく、現実の太陽光、月光、炎で照 らされたあ らゆる対象 を色彩のみで表象す るとい う、
解決不 可能な課題に直面 している。・・
-ケ-ニ ヒ氏によるスイスの眺望画は、芸術が終わ り、それ を越
wod
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)にあるのを、われわ
えて真実が始まる地点 (
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れは認めなければな らない
1
㌔
もちろん、芸術は終わ らない。「
真実」とされるものを捉え、構築 しさえするひ とつの有力
な手だて として、芸術はあるか らである。あるいは、「
真実」-の驚きを表現するもっとも人
間的な方法のひ とつ として、そ してそれを共有 させ流通 させ る文化的伝達の手段 として、同
時にまた 「
真実」の新 しいイメージを形成 していく枠組みのひ とつ として、自在に変容 しつ
つ存在することをやめないか らである。ともあれ、ケ一二ヒ自身は、「
透か し絵」によるシミ
ュレーションの効果を、スイス独特の自然の変化そのものを人々に伝えるのにもっともふ さ
わ しいもの と考えていたのである。
パ リでのケ-ニ ヒの巡業公演のす ぐあとに、ダゲールはその 「
ディアフアノラマ」 とい う
名称を短縮 して 1
8
2
2年に 「
デ ィオラマ」館を開いた。映画館のような石造 りの建物に 3
0
0
人 もの観客を収容できた 〔
図1
5
,1
6
〕
。そこで公開展示 された透か し絵は約 1
4×2
2
m の巨大
画面で、光学的なイ リュージ ョンの力においてそれ以前のすべてのものを凌いだのである。
この技法は、1
8
3
4年には 「
二重効果 (
d
o
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fe
c
t
)
」 と呼ばれるものによってさらに改良さ
れることになる。それは、二枚貼 りあわせたキャンバスの表 と裏に、同 じ場所の異なる情景
を描いて、前か らの照明 と後ろか らの照明とでが らりと違 う景色が見えるとい う仕組みであ
る。わずか 1
5分の間に、人はひ とつの情景のなかでの一 目の推移を見守ることになる。たと
えば、窓から光のさしこんでいた教会内に夕暮れ とともに明か りが灯 り、鐘が鳴って ミサの
場面でハイ ドンの ミサ曲がオルガンで奏 されたあと明か りはひ とつずつ消えて無人の暗闇に
な り、ふたたび夜明けが近づいてくる。「
二重効果」そのものはすでにロン ドンの劇場でも舞
台効果 として試み られていた手法であったが、まさにそれによる場面の変容 自体が、ここで
の主題、主役 となるのである。ダゲールの作品は世界中にセンセーションを巻きおこし、ヨ
ー ロッパやアメ リカの多 くの都市で、パ リ様式に着想を得た 「
ディオラマ」専用の建物が建
てられ、あるいは 「
透か し絵」の上演が既存の建築物のなかで行われた。ダゲール 自身 もた
だちにロン ドンに進出 して、やや小ぶ りの 「
デイオラマ」館 を建築家 ビュージンに建てさせ
た 〔
図 1
7
〕
。光の効果を挙げるために観客席のホールを暗 くすること、スクリーンの背後 と
斜め前の天上にシェー ドつきの窓を設置 して自然光を調節 しなが ら用いること、そ して、二
つの展示部分の開 口部 〔
フレーム-プロセニアム〕に接する円形の観客席を回転 させてスム
ーズに演 目を変えること、これ らが、「
ディオラマ」館の主要な特徴である1
9
。国際的に流行
した 「
デ ィオラマ」の興行に関心をもった画家たちは、このイ リュージョン技法か ら、それ
ぞれが 自己自身の芸術活動のためのヒン トを受けとったのである。
とりわけ ドイツ ・ロマン派の画家たちは、こうした 「
光」の表現に魅せ られた。「
光」こそ
は、現実世界において物質を照 らしだす非物質的なもの として、ロマン主義思想にとって特
別なメタファー的意味を帯びていたからである。神的なものの啓示や、物質に宿る内的な ・
精神的なものを象徴す るだけでなく、あらゆる生命体の憧れやノスタルジーをかきたて、感
性に訴えかけるファンタジーの源泉 として、芸術家たちはこの 「
光」の表現に腐心する。 と
1
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,
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. オールティツク、1
9
9
0(
1
9
7
8
)年、Ⅰ
Ⅰ巻、第 1
2罷
1
2
りわけ風景画にとって 「
光」の表現は、「
遠近法」とともにきわめて重要な技法 とみなされて
いたのであるか ら、実際の光を用いてそれを透過 させる 「
透か し絵/デ ィオラマ」は、色彩
のもつ物質性を昇華 させ ようとするロマン派の画家にとって無視できない手法であった。 し
かも 「
月光の情景」こそは、ロマン派芸術にとって本質的 ともいえる象徴性をもっていた。
それは、「
光」 と 「
闇」 との対比のみを強調 していた 1
8世紀 「
啓蒙主義」思想-の、批判的
な意味を内包するものでもある。「
理性の光」と「
迷信や蒙昧の闇」とを二元論的に対比 させ、
野蛮から文明-の一方向的な価値観に貫かれた 「
啓蒙主義」、「
理性主義」 とは異な り、ロマ
ン主義は、一方でいわば 「
夜-の憧憤」に貫かれていた。単に 「
闇」か ら 「
光」-の上昇 と
い う一面的な理性主義 と統一化は、無限なる多様性 に揺動するファンタジー と相互浸透 させ
ることで、その豊かさを取 り戻 さなければな らない。「
理性」と 「
ファンタジー」をわれわれ
の存在の共通の根源力 として捉えようとす るロマン主義的ポェジーは、必然的に 「
闇」と「
光」
との共生- と導 くのである。
ロマン派を代表する画家フリー ドリヒ (
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1
7
74
1
8
4
0
)は、油彩画にお
いても後方からの光に浮き上がる前景のシルエ ッ トと、画面全体に漂 う静認なメランコリー
が特徴的であるが、彼 自身、実際の光を用いた 「
透か し絵」の実験に取 り組んだ一人である。
多 くの油彩画 とともに、フリー ドリヒが 「
透か し絵」において好んだモチーフも、夜の月光
の場面であった。現存する唯一の彼のこの種の作品は、山河の風景の昼 と夜を表わ した絵で、
水彩 とテンペラの混合メディアで両面に描かれている。いわゆる 「
二重効果」を用いて、光
源の位置によって昼夜の光景を段階的に変化 させ ることによって時間的な経過を表現 しよう
としたものである20。
ベル リンの常設の 「
ディオラマ」館は、パ リでの設立から5年遅れて、1
8
2
7年に舞台画家
8
〕
。シンケルの 「
透か し絵」シリーズがベル リ
カール ・グロピウスによって開かれた 〔
図 1
0年以上経って、
彼 自身の活動はもはや専門の建築や都市計画に移っ
ンで展示 された頃か ら 1
ていたが、引きつづきグロピウスの 「
ディオラマ」にも関心をもちつづけた。ベル リンでの
文化的イベン トにふ さわ しい開幕上演か ら 1
8
5
0年に閉鎖 されるまで、
新聞広告では王立劇場
のす ぐ隣の欄に採 りあげられるほどの熱狂的な人気を得ていた。最初の演 目はソレン ト近郊
の教会内部 と、海辺の断崖の二つで、シーズンごとにさらにレパー トリーは増えて全部で 2
8
枚の 「
透か し絵」を上演 しっづけたが、2
1×1
4
mの薄織 りスクリーンの巨大 さと保存状態の
ゆえか現存するものはない。1
8
3
0年には、以前にシンケルが描いた油彩画 《朝 日のなかのゴ
シック大聖堂》を 「
透か し絵」に仕立てたものが 1
6ケ月間公開された 〔
図1
9]
.この 「
新作」
は、流れ る雲の間から顔をのぞかせ る曙光が街のあちこちを照 らしだ し、ついにはすべてを
輝 く日光に包み こむにいたるまで、鐘の音 とオルガン音楽が 「
画像を生き生きとさせなが ら」
2
0E・ヴァル トマンによれば、フリー ドリヒのこの 「
透か し絵」の効果は次のようなものであったとい うO「
奇跡のランプが、
月に照 らされた魔術的な夜のなか山々を次第に輝カせ て、世界を深々としたものにする。ランプを動かす ことによって、夕
方から夜になって、世界はさらに細部で満たされるようにな り、全体の様子はときにメランコリックで薄暗 くなった り、穏
やかに変容 した りして、魔法のようにまったく神秘的で抗いがたく魅力的である」
。Vg
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8
8
. フリー ドリヒ
近代』三元社、2
0
0
7年、1
51
1
61頁。
1
3
高揚感- と導 く、 と評 された21
。 シンケル 自身、晩年までデ ィオラマ-の関心を失わなかっ
た。時間的、空間的に離れた世界をいまここに 目に見えるものに し、動か し、つないでい く
こうした技術は、はるか遠 く現代世界のメデ ィア とくに映画やテ レビ-の道 を準備 していた
といえる。
‖l
.シンケルの 「
透か し絵」-
「
絵画」と 「
劇場」の間
シンケルは、初期の 「
透か し絵」制作では、画家 とい うよ りはむ しろデザイナー 〔
設計技
師〕 として、建築物 と自然景観 とを組みあわせ る統一的な画像 を構成 したよ うに思われ る。
Fr
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y,1
7721
800) とい う天才建築
建築に関 しては、師であ り先輩であるF・ジ リー (
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)に関 しては、イタ リアのロ
家か ら学んだ構築性 のた しか さが際立ち、また景観図 (
J
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onKoc
h,1
7681
8
39) にも賞賛 され るよ う
ーマ滞在 中に出会った風景画家 コツホ (
な技術 を、すでに身につけていた。彼はそ うした能力をこの領域に生か し、その想像力に と
見る-感 じる」 ことのメ
んだ着想 をさらに発展 させてい 。透視図法 と光の効果 を通 して 「
く
カニズムを追求す ること、そ こか ら彼独特の造形性 と空間性が生まれた。それが、シンケル
の 「
透か し絵」である。 この時期の活動は、彼のその後の歩みを決定づけ、建築家 ・都市計
画家 としての彼の仕事にとって不可欠な基盤 となったのである
。
G ・ペシュケンは、シンケルの実現 しなかった 「
建築教本」に関連す る断片的な文章や参
考図面を整理 して、彼の 「
建築論的思索」の変遷 を整理 しているが、それによると、「
透か し
絵」の時期は、修行時代の 「
理想主義期」につづ く 「
ロマン主義期」に当たる22。 ジ リー と
ともにフランスの新古典主義か らラデ ィカルで抽象的な幾何学的形態を学んだ理想主義期の
あ とに、歴史的な意識が加わった こと、ゴシック建築-の関心が高まったこと、そ してナポ
レオン戦争 とい う政治的な状況が、彼 をロマン主義的傾 向- と導いたのである。ブ レンタノや フォン ・アルニムらのロマ ン派の文学者たちとの親 しい交流は、この時期 には じまる。
D ・フ リー ドリヒの絵画展が催 されたことも、シンケル
その頃ベル リン芸術アカデ ミーでC・
に大きな影響 を与えたにちがいない。「
透か し絵」の彼の才能に注 目していた王妃/
レイ-ゼの
急死を悼む 《
ルイ-ゼ霊廟の構想》や、解放戦争の記念碑 をは じめとす るい くつ もの建築棉
想、そ してゴシック聖堂をテーマに した一連のタブロー画は、こうした傾向を示 している。
そのあ とに、いよい よ本領 の建築家 としての仕事一一イモ表的な建築作品 として 「
新衛兵所
(
Ne
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)」(
1
81
61
8
年)、「
国民劇場 (
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s)」(
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1
81
81
21
年)、「
美
術館 (
Mus
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um)」 (
1
82330年)が挙げ られ る-
がは じまったその とき、様式的には 「
古代
ギ リシア」-の回帰 とい う形 をとった 「
新古典主義期」に移行 してい くのである。他領域の
歴史的流れ とは一見逆行す るかのよ うに見えるが、しか しその 「
新古典主義Kl
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s」は、
修行時代に学んだフランスの新古典主義 (
プ レやル ドゥーに代表 され る大革命期建築)とは、
区別 されなければな らない。最初期の修行時代 とイタリア旅行 を経たのちに得 られたロマン
21 v
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S.
2
4
.以下の研 究書 も参照o
杉本俊多 『ドイツ新古典主義建築』 中央公論美術出版 、1
9
9
6年 、3
49頁以下O
1
4
主義的な傾向は、この 「
新古典主義期」においても消失はせずに、昇華 されてい くと考えた
方がよいだろ う。そ して、この 「
新古典主義期」のあとには、ふたたび単純な幾何学形態を
吸収 して生か した (
ペシュケンの云 う)「
技術主義期」と 「
正統化期」がくる。モダニズム建
Ba
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)
」(
1
8
3
2
3
6
年)は、グ
築を先取 りす るかのような後期の 「
建築アカデ ミー館 (
G・
リッ ド・プランを基本に している。シンケル 自身が描いたその透視図による設計案は、H・
ブン トによれば、「
この建築を三次元的な形態 として、また同時に広域にわたる都市的情景の
一部分 として表現」 し、周辺地区の枠のなかでの他の要素 との 「
形態的 ・空間的相互作用」
によって 「
建築物 自体の物質的な限界をはるかに越 えてい く」傾 向を示 している23。 ここに
もなお、「
透か し絵」での建築 と景観の統合 とい う着想が生きているのを見ることができる。
それでは、初期の約8
年間にシンケルが専念 した 「
透か し絵」のもつ特性 とは、どのような
ものであったのだろ うか。まず、油彩や水彩でキャンバスに描かれた伝統的な 「
タブロー画」
との相違、そ して類似 した興行形態をもつ 「
パ ノラマ」 との相違はどこにあったのか。
「
タブロー画」や 「
壁画」が、教会や邸宅の広間や美術館に購入 ・所有 ・展示 され る 「
芸
術作品」 として、あるいはその場所を性格づける不可欠な制作物 として、永続的な価値 を帯
びるのに対 して、「
透か し絵」は、興行的イベン トとい うその場かぎりのものであ り、不特定
多数の人々に集団的に受容 される。鑑賞者の正面にタブロー と同 じように垂直に立て られた
スクリーンには、同 じように遠近法にもとづいた眺望が描かれたとしても、「
透か し絵」効果
のための光の魔術は、文字通 りスクリーンの向こう側に無限に果てしない空間が広がる、 と
い うイ リュージ ョンを引きおこす。主体は、単にタブロー としての絵に相対する鑑賞者にと
どまることなく、対象 としての画面を眺める点 としてのまなざしの主体であ りつづけるわけ
にはいかない。暗い中か ら浮かびあがる大画面のパースペクテイヴに向かい合 う経験は、新
聞評に言われるよ うに、「
大聖堂の内部に自分 も足を踏みいれて、そこにいる群衆に混 じり、
さらに奥の祭壇- と進んでい くかのよ うな感 じ」 24をもた らす。それは舞台画のような劇場
的要素をもちなが らも、物語の展開とい うよりも、その時空間そのものが主役 とな り、そこ
に観客が 自分の身をおきいれることがテーマ となるような娯楽装置 といえるのである。
6
0
度を画
他方、同 じような娯楽施設 として出現 した 「
パ ノラマ」では、観客は自分の周囲3
像で囲まれ る。その中心部分を自分 自身で旋回 して動き回ることによって、その全貌を体験
することになる。だが、たとえぐるりと旋回 して元の ところに戻ってきた としても、全体像
はやは り把握できない。背後にまで広がる風景の全貌を一挙につかむことはできない。そ う
した新 しい 「
パ ノラマ」体験は、現実にあ りそ うに見えてあま り経験することのない空間性、
む しろこれまでにない身体感覚を引きおこして、陪皐や吐き気 さえ誘発することもあった。
透か し絵」は、別の仕方でイ リュージョンをつ
実際にそ うしたケースが記録 されている25。 「
くりだす。大画面に相対 して、観客は立つかあるいは腰掛けて、 自分は静止 しなが ら眼前に
展開される画像上の変化を見ていく。通常を越えた大きさ、奥行きをつ くりだすパースペク
牛、20
0貞。
注(
l
l
)を参照。
2
5こ
の問題については以下を参艶 コマン、1996 (1993)年、123貞以下O前川修 「
パノラマとその主体」帝塚山学院大学
『
芸術論究』第2
4編、1
9
9
7年、2
2貞以下。
2
4
1
5
テイヴの表現技法、照明の効果、フィギュアの動き等々によって、文字通 り 「
魔法の鏡」が
そこに生みだされ る。静止画像の中に太陽や月の光の変化、雲の動き、噴火 した り爆発する
炎や煙、そ してそれ らが海や河の水面上に、かすかな波立ちとともに反映 している様。大聖
堂の塔の レース状の透か し模様を通 してもれる光、窓か ら差 し込む光が一 日の うちで刻々と
変化するにつれて、動かない建物にも変化が刻まれてい く。その場を動かない観照者にとっ
て、自分の身体の中にも動きが感 じられ、その身体 ごと大空間に包まれ、あるいは飲み込ま
れる、 とい う全身的な体験が生みだされる。それは、あたかも重力を失った浮遊空間のよう
なものかもしれない。
もう一つ、「
パノラマ」との違い としていえるのは、それが取 りあつか うモティーフの傾向
である。円筒形の巨大な 「
パノラマ」装置が、自然風景だけでなく都市全体の眺望を360度展
開することか ら、 目新 しい異国の風景や戦場の情景が好まれた一方で、 日頃見慣れた自分の
街をあらためて僻撤的に見渡す とい う、 日常 とはちが う眺めを楽 しむもの としても市民の興
味を引いた。例えば、ロン ドンではテムズ河を含む市街の景観、パ リでもこの大都会全体の
眺望が、円筒内部の全方位空間に再現 されたのである。それに対 して、「
透か し絵/ディオラ
マ」では、普段は見たこともないエキゾティックな風景が眼前に現出させ られることが多か
った。場所 も時代 も、 日常の身近な時空間 とは異なる土地や建造物、見知 らぬ風土や珍 しい
風物を目の当た りにし、あたかもタイム ・ス リップあるいは瞬間移動 したような全身感覚的
な空間経験をいなが らにして手に入れるような錯覚を提供するようなものであった。 こうし
た一時的な異空間経験は、まさに擬似的なピクチャレスク ・ツアーであったといえる。
それはまた、通常の劇場でのオペラや演劇の上演のように、そこで展開される人間 ドラマ
の中に感情移入するとい うのとも異なる。まさに、 ドラマのない劇場 といえ、たいていは1
5
分ほどつづ くひ とつの画像の上演中、その都度のテーマにふ さわ しい音楽が演奏 され、メラ
ンコリックな、宗教的な、あるいはカタス トロフ的な雰囲気を引き立てるのである。例えば、
時事的なテーマでセンセーシ ョンを巻き起こした冒頭の 《
モスクワの大火》 〔
図1
〕の上演に
81
2年 1
2月24目付けの 『シュペ-ナ-新聞』で次のように 「
動 く火の絵」の証言
ついては、1
がなされている。
左側にはさまざまなスタイルの塔のあるクレム リン宮殿があ り、その止面を流れ るモスクワ河には等
薩アーチの列にのった美 しい橋がかか り、向こう側には炎の海に包まれた市街が広がっている。火の効
果はすぼらしく、それ よりもっと美 しいのは、火を映 しだす大量の煙雲である。観客からもっとも遠 く
にある市街では火炎が暴れている。--橋の上では大勢の人々 (
小 さな動 くフィギュア)が右往左往 し
ている。想像上の経験を高めるために、火のように轟き うねるピアノフォルテの音楽の合間にカノン砲
の蜂裂が時折聞こえてくる。 26
筋書きをもった人間同士の ドラマが支配的でないだけに、まさに、画像 と光 と音楽によっ
て総合的なイ リュージョン空間を作 りあげるとい う意味での (
総合芸術)-の実験的な試み
2
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4,
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41
・
1
6
の場 となった といえよう。
評論家カーテルは、「
透か し絵」の技術を劇場の舞台装飾に生かす ことができるのではない
かと見抜いていたが、その上演形態 もた しかに劇場の構造 と似て、観客席 と画像を提示する
面 〔
舞台〕 とが対峠するものであった。 しか しここで注 目すべき点は、U ・ハルテンが指摘
しているように、その上演空間全体が三つの部分に分割 されていた とい うこと、つま り、観
客の空間と舞台画の空間 とのあいだに、中間的な 「
静止ゾーン (
Ruhe
z
one
)」が設けられてい
たことである27。 この中間区域の両側には列柱が強調 された遠近法をつ くり、場面転換の際
にはそこだけ残 されてまさに画像の額縁のような役割 をはた した。観客席 も中間区域 も、「
透
か し絵」の上演中は、照明効果をあげるために暗 くされた。その暗い中間ゾーンのつ くりだ
す距離が、逆説的にも観客を一挙に 「
魔法の鏡」の向こう側- と移動 させ ることになったの
である。いまいる空間か ら一枚の レンズを通 して別の空間を覗き込み、その空間- と移動す
るとい う感覚を、暗闇 と光による魔術は可能にした。通常、現実世界を支える身体による空
間感覚は、視覚 と触覚のような異種の感覚間に一致があることや、身体運動 と感覚 との間の
連動にもとづいている。そ うした現実的な感覚から遊離 させる一種の (
仮想空間)がそこに
作 りだされ、奇妙な身倒 感覚 とともに人はあ りあ りとした リア リティに浸 される。 しか し同
時にまた、意識 されないフレームのなかに閉ざされたものとして、その光景は受けとられ る
のである。
このことは、この時期 と重な りながらシンケルの次なる関心事 となった 「
国民劇場」の内
部改築の構想 と密接にかかわってくる。1
81
3年、すでにシンケルはプロイセンの上級建築局
で建築の 「
美的部門」を担当していたが、解放戦争の高揚感のなか、「
劇場」を市民のための
新 しい総合芸術の場にしたい とい う望みが彼のなかで高まっていった。 当時ベル リンのオペ
ラハ ウス と国民劇場 とを統括す る王立劇場総監督 をつ とめていた元俳優 のイ フラン ト
(
Augu
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mI
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nd,1
7591
81
4) に、シンケルは再三再四、国民劇場の改革について働 き
かけた。結局の ところ却下されて しまった彼の提案書に付けられた 2枚の詳細な図面 と説明
文は、シンケルが舞台作 りの実際を知悉 していることを示す とともに、劇場に対する革新的
な考え方を表明 した、注 目すべきものである 〔
図 2022〕
。第 1図の舞台 と観客席の平面図は、
上半分に現状の構造、下半分に自分の改革案を示す ことで変更点をわか りやす く図にしたも
のである。第 2図は、クロー ド・ロランの風景画のようなピクチャレスクな舞台画のシミュ
レーシ ョンと、観客席 と舞台 との縦断面の構想が中心になっている28。 ここか ら見てとれる
ように、シンケルの案は、従来のバ ロック式の大道具や機械を用いた大がか りで不 自然な (
ぎ
しぎし音がするような)舞台装置を思いきって簡素化 しようとするものであった。舞台脇の
何層 もの書割を廃 してフラッ トな背景画を用いなが らむ しろ統一的な奥行きのある遠近感 を
現出させようとす ることは、「
透か し絵」での経験か らくるものである。それ と連関 して、実
際に俳優が演技をする前舞台であるプロセニアムそのものを奥まで広めにとって、その両脇
にコリン トス式列柱 4本を固定配置する案 もまた、「
透か し絵」上演での 「
中間ゾーン」に由
来すると思われる。そ して、大きくとったプロセニアム ・アーチは、背景画のためのフレー
,
2
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28
vgl
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ム/額縁のような役割を果たす ことになる。 しかも照明をより効果的に用いるためにそれ以
外の空間を暗 くするとい う提案は、それによってフレーム自体があたかも取 り払われたかの
ように、舞台上の時空間- と観客を一挙に移行 させ ようとするものであった。 さらに、オー
ケス トラの場所を観客席 よりも低 く沈める所謂オーケス トラ ・ピッ トの構想 もここで提示 さ
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空間は逆に、観客席か らの舞台-の見通 しをよくすると同時に、俳優や歌手の声を観客席に
届きやす くするとい う、視界上 ・音響上の画期的な 「
しかけ」 となった。のちにヴァ-グナ
-は、バイロイ ト祝祭劇場でこの方式をさらに徹底 させることになる。
そ して何よりも、従来のバ ロック式の大道具によって奥行き感を誇張させ ようとする舞台
作 りは、王の座 とい う観客席のなかでの一点だけに特権的な見え方を可能にして、それ以外
の席からは不 自然な眺めしか得 られなかったのに対 して、二次元の背景画を基層にして三次
元空間を作 りだす新 しい試みは、できるだけ観客席全体に同じような見え方を可能にするよ
うな工夫でもあった。 シンケルは、イフラン トに自分の改築案の利点 として、経済的な節減
と、舞台装置の簡素化 と、観客か らの視野をより美 しいものにするとい うことを強調 してい
る。 このやや時期尚早の構想は結局この時点では受けいれ られることはなかったが、その数
年後に彼は、イフラン トの後任者のもとで念願の舞台装置家 としての仕事に携わることにな
る。その出発点 となったのが、1
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6年 1月、モーツアル トの 《
魔笛》の新 しい演出によるベ
5年間にオペラや演劇
ル リン上演であった。シンケルは、建築家 としての仕事 と平行 して、1
の 42作品の舞台画を制作す ることになる。そ して劇場の舞台空間をデザインするだけでなく、
ついには容器 としての劇場そのものをデザインし、それを実現するまでにいたった。
より多 くの市民に開かれた劇場空間、
光 と闇の相互作用によるイ リュージョン世界の現出、
そのなかに彼独 自の (
総合芸術)の理念は醸成 していき、さらに都市のデザイナー としての
仕事をも性格づけることになる。それはまた公共的な言説空間をもまきこみながら、きわめ
て新 しい知覚経験、新 しい空間把握 を暗示 させ るような方向性 をもつ ものでもあった。彼の
初期の 「
透か し絵」 とい う実験場 こそが、まさにその起点をなす ものだったのである。それ
を踏まえてさらに、文化的 ・政治的な複合要素を含みこんだ 「
舞台装置家」 としてのシンケ
ルの新たな局面展開については、次なる課題 となる。
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第 2回 (
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