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(ヨーロ ッパ文化選修)

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(ヨーロ ッパ文化選修)
愛知教育大学研究報告,
41 (人文科学編),
pp. 113
125,
February,
1992
ユイスマンス研究
-『仮泊』についてー
岩
Kuniko
渕
邦
子
IWABUCHI
(ヨーロッパ文化選修)
ルウルの館(chateau
de Lourps)を見出して
1882年,セーヌ・エ・マルヌ県に滞在していたユイスマンスは,たまたまルウルの館の
存在を知った。それはブレ・シュル・セーフ(Bray-sur-Seine)とロングヴィル(Longueville)をつなぐ街道わきのくねくねした小道を登っていった先の小高い丘の上にあっ
た。その小道はle
chemin
du Feu
と呼ばれていた。そのわけは,かつてルウルの館が火
災に見舞われた時,ジュティニイの村人達がこぞって消火に駆けつけ,その折草木が踏み
しだかれて一夜にしてできた道だったためであり,ジュティニイ村からルウルの館にゆく
一番の近道はそれなのであった。
さて,その館は少くとも半世紀の間放置されていたに違いないと思われる荒廃ぶりを示
してはいたが,昔の貴族の住居であることは間違いなかった。その1882年の暮からユイス
マンスは『さかしま』を書き始めたのであるが,その序章に早速ルウルの館は,デ・ゼッ
サント家の人々の200年にわたる居城として姿をあらわした。しかし,デ・ゼッサント家の
唯一の後裔,シャン公爵はパリ郊外のフォントネエ・オ・ロオズの高台の一軒屋を買い求
めそこに隠棲をきめこむことになり,ルウルの館はその前に売却されてしまう。
『さかしま』におけるルウルの館の扱いはこのようなものであったが,ユイスマンスの
この館に対する思い入れは到底それだけで満たされる筈のものではなかったのである。お
そらくそれは彼にとって優に一冊の本が書けてしまうと思い込める程,独特の雰囲気に満
ちていたようなのだ。彼はあたかもこの館が有する魔力に引き寄せられるかのように,そ
こで滞在することを望んだのであった。すなわち1884年(この年の5月,彼は『さかしま』
の発表を済ませていた),ユイスマンスは夏の休暇をルウルの館の最寄りの村,ジュティ
ニイで過し,その際,翌夏のためにルウルの館に数室を予約しておいたという。翌1885年,
ユイスマンスはアンナ・ムーニェ及びその身内の者2名を引き連れてやって来て,夏の数
週間をルウルの館で過したのであった。この時には,『さかしま』に対する好意的批評がきっ
かけとなって親交を結び始めまだ日の浅かったレオン・ブロワも招待され,数日をそこで
過している。ついで1886年にはユイスマンスは一人でやってきて夏の終りの数週間をルウ
ルの館で過し,その時『仮泊』を書き始めたという。作品の主軸に据えられたのは,その
先年, 1885年の夏の思い出であった。
-113-
岩
渕
邦
子
『仮泊』成立の経済的理由
ところで1886年,それはユイスマンスが経済的に非常に苦しんだ年であった。それは実
母から管理権を譲渡されていた製本工房(atelier
de brochage )の経営がうまくいかない
ためであった。 1885年の暮には実際,倒産寸前のところまで追い詰められたという。しか
し,その時レオン・ブロワの手紙によってユイスマンスの窮状を知ったフランソワ・コペ
が援助の手をさしのべ,そのおかげでユイスマンスはその危機を脱したのであった1)。
1886年中のめぼしい稿料は,4月にレオン・ヴァニエ社で再発行された『クロッキー・
パリジャン』によるものだけであった2)。そこで経済的要請からもその年ユイスマンスは新
しい作品を書く必要に迫られていたのであった。
実は,ユイスマンスはこれを見越してすでに1885年の夏,『クロッキー・パリジャン』の
再発行に向けての加筆作業と平行して短篇を書き綴っていた。
して3つの話からなる一冊の本,
1886年1月にはその成果と
recueil de nouvelles が仕上がる筈であった。しかし,
これは結局のところ実現せず,そのかおりこれらをromanにふくらませて『仮泊』が誕
生することになったのである。
1886年10月16日,ユイスマンスはこのことに関する手紙を
ソラ及びプリンスに宛てて書いた。ゾラには次のように書いている。
<CJe suis plongg actuellement en plein travail. J'avais voulu faire une nouvelle,
pour
completer
un livre, elle a
tourne
a un quasiroman,
―de sorte que
maintenant, elle va faire un livre, a elle seule >3)
プリンスヘの手紙では金の必要が包み隠さず率直に述べられている。
Ayant
primitive
eu
besoin
nouvelle
d'argent,
En
paraftre des le ler novembre
d'avance,
mais
a faire, pour
il me
j'ai traite avec
Rade,
laquelle
la
un
Revue
Independante
roman.
Or
quelques
un coup
de collier, d'autant
pour
2 chapitres
et je n'en ai que 5 de faits― autrement
faut donner
gagner
devient
ma
vont
dit j'ai 3 mois
que j'ai divers articles
sols. 4)(...)
上記二つの手紙から次のことが判明する。つまり,当初予定していた短篇集の刊行の時
期があまりにも延びてしまったので,ユイスマンスは本来その短篇集のために書いていた
En
という題のnouvelleをromanに改めてRevue
Rade
い立ったのである。ここでRevue
Revue
ていた。
Independanteについて述べておく必要があるだろう。
Independanteは,
あり,編集長はFelix
Independantいこ載せることを思
1884年5月,
G. Chevrierによって創刊された月刊文芸誌で
Feneon(1861-1944)が担当し,自然主義文学の機関誌的役割を果し
1884年5月といえば,ユイスマンスの『さかしま』が刊行されたのと同じ月であ
るが,当時は彼は依然として従来通り,純然たる自然主義文学陣営の人として扱われてい
たため,この月刊誌の創刊号にはLa
genese
を書き,小説Un
du Peintreを,第2号にはSalon
du
1884
Dilemmeは第5号及び第6号(1884年9月及び10月)に分割して発表
するなどしていた。ところがこの月刊文芸誌は丸一年経過後,廃刊となってしまった。と
ころがその後,
Edouard
Dujardin
(1861-1949)が中心となって同じRevue
-
n-
114 ―
Indepe
ユイスマンス研究
danteの名称のもとにこの月刊文芸誌を再興させることになった。
年1月以来,Revue
Duiardinはすでに1885
Wagnerienneを刊行している実績のある人物であり,彼が中心になっ
て編集に当ることになったため,誌の性格は最初のそれとは一変して象徴派文学の機関誌
となることは明白であった。それゆえ,これを嫌ってRevue
を中止する人達がでてきた。
Henri
Ceard
Independanteへの執筆協力
等,あくまでも自然主義文学に忠誠を誓う人々
である5)。一方,ユイスマンスは『さかしま』の実績が買われて,編集責任がDujardinに
移っても歓迎されるメンバーであり続けたので,メタン・グループ以来の仲間,
Ceard等
と行動を共にしなかった。この一件からも,文壇内外の人々がユイスマンスを従来とは違っ
た目で見る上うになった事情は充分理解されるであろう。
さて,ユイスマンスはDujardinと交渉してこの再興後のRevue
Independanteに『仮
泊』を連載する約束を取り交わしたのであった。しかも,『仮泊』の連載の第1回分は再興
第1号(1886年11月)に掲載される運びとなった。おそらくDujardinはユイスマンスの
この連載小説を再興するRevue
Independanteの目玉にする所存だったのであろ‰その
ことはユイスマンスもよく理解していたに違いない。『仮泊』に対するゾラの評価は少しも
好意的なものではなかったのだが,ゾラが,
Revue
Du jar din
が編集責任者として就任するや
Independanteを去った一群の作家達の首領格であったことを考えれば少しの不思
議もない。
ここでまとめ風に再考すれば,要するに,金の必要に迫られていたユイスマンスは新作
品発表に当り,少しでも有利と思われる条件に飛び付いたのであった。それは,『さかしま』
で獲得した名声の高さに自信を得,自らそれを利用する試みでもあった。そうした過程そ
のものに始めから無理があったのかもしれない,元来nouvelleでしかなかったものを経済的
必要からromanに規模拡大するというそのことに。案の定,ユイスマンスは定期連載の苦
業に半年間呻吟することになるのであるが,当初は楽観的な見通しを持っていたようである。
ポオの影響
それは大きくルウルの館に依拠するものであった。ユイスマンスが何故それ程までにル
ウルの館に秘めたる可能性を確信していたかについて考えてみる場合,われわれはそこに
エドガー・アラン・ポオの濃い影がさしていることに思い至らざるを得ない。
周知の如く,アメリカのボルチモアで1849年,40年にわたるその生涯を閉じたポオは,
フランスではボードレールの思い入れたっぷりのポオ論が出,又彼がライフワークとして
地道に取り組んだ翻訳の労作も発表されたため一躍有名になり,とりわけ象徴派の人々に
は本国アメリカでは到底考えられない異常なまでの影響力を発揮したのであった。ヴェル
レーヌ,ランボー,マラルメのいずれもがポオの作品を原文で読みたい一心で英語の学習
に精進したという6)。『さかしま』発表以降,これら象徴派詩人と一層親交を深めたユイス
マンスも早くからポオの魅力に取り憑かれていた上うである。ボードレールに私淑する程
の人ならそれは勿論当然のことであっただろう。ユイスマンスは自分で愛読するだけでな
く, 1885年の夏以来,彼に弟子の礼をとり続けたオランダ人,アレイ・プリンスにもポオ
の作品を研究すべきだと盛んに勧めていた。ユイスマンスが荒廃したルウルの館に大いに
積極的な意味を見出し得だのはポオの短篇から受げた影響のためと思われる。
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岩
渕
邦
子
真正の詩人であることを深く自覚していたポオが70余の短篇小説を書いたのは主として
糊口の為であったということは今日よく知られている。ポオは短篇小説の執筆に当り,編
集者の意向は勿論,自らも広範な読者の支持をかちとることに意欲的であった。そのため
彼は,当時流行していた大衆小説の質と水準を軽視すべきではないと考え,自らそれをよ
く研究することに努めた。この時,そうしたポオにとって理想的なテキストとなり又,恰
好の取材源となったのは,彼が早くから愛読していた英国の大衆誌『ブラックウッド』で
あったという7)。当時英国ではゴシック恐怖小説が大変好まれており,『ブラックウッド』
にもその手のものが盛んに掲載されていた。それらを手本とし,あるいはそこからヒント
を汲み上げて書かれたポオの短編は当然,濃厚にゴシック小説風であったわけである。と
ころでゴシック小説特有の舞台装置というものがある。それは「朽ちかけた城や家,骨が
散乱する地下聖堂や酒蔵,墓所」といったうす気味悪い雰囲気がたちこめる場所である。
1882年に発見したルウルの館にユイスマンスが感じ取ったのはまさにこのポオ的雰囲気
だったのではないだろうか。「朽ちかけた館,荒廃した教会および地下聖堂,墓,深い井戸」,
全てがルウルの館に備わっていた。そこに発狂必至の女と暮し,その女が猫を我が子のよ
うに可愛がるとくれば,それはもう全くポオの世界である。
実際,ユイスマンスはルウルの館が不気味に見えれば見える程,つまりポオの作品のイ
マージュに近づけば近づく程,それを好んだ。そうした気持ちは,ジャック・マルルが日
中の光の中で見るルウルの館には幻滅する,という箇所にもうかがえる8)。
彼は又,友人への手紙の中でルウルの館の孤立ぶりを強調し一実際,館は,周辺の村や
町のパッ屋や肉屋が商品の配達をしぶり,あるいは拒否する程,人里離れ不便なところに
位置していたーまるでジェリコー描くところのメデューズ号の筏だと嘆いてみせた9)。更
に,ユイスマンスはもとより,彼に招かれて数日間そこに逗留したレオン・ブロワまでが
実際には40室しかないルウルの館の部屋数を300室と誇張して友人に報告し,とりわけブロ
ワは,「その内,居住可能な部屋はせいぜい5室くらいのもので残りは,ふくろう,鴉,ね
ずみ,鳩の家族によって占領されている」1o)と述べ,ルウルの館の化物屋敷めいた側面を殊
更に強調している。
こうした恰好の館を発見した以上,そして進行性の神経の病いに取り憑かれた内縁の妻,
アッナ・ムーニエをかかえている以上,一つの小説を生み出す道具立ては全て揃っている,
それゆえユイスマンスは「書ける」との確信を深め自ら進んでDujardinに小説連載を申
し出たものと推察されるのである。
ユイスマンスが,19世紀末パリの社会と人間に心底厭気がさして世捨人,デ・ゼッサン
トに採用させた生活様式も,実は,ポオが彼の推理小説の主人公として描いたC・オーギュ
スト・デュパンのそれにヒントを得たと思われる節がある。
自分が全て采配を振る文芸雑誌を興し,そこに掲載する詩や評論によって,アメリカ文
学の水準を高めることに貢献したいという理論がポオにはあった。当時のアメリカは政治
的独立を獲得しながら,文化的未熟さを恥じ本国イギリスに対する劣等感を引きずり続け
ていたのである。しかし現実にはポオはアルコール中毒による失敗を繰り返し,極めて人
望が低く,稿料も最低のランクに押さえられ,恒常的に金に窮し,みじめな売文生活を余
儀なくされていた。そんなポオはデュパンに自己の見果てぬ夢を投影したのであった。
-116-
ユイスマンス研究
すなわち,デュパンは佩勲者で名門の出身である。(ポオは,両親が貧しい旅芸人に過ぎ
ないという自分の出自に生涯癒されることのない劣等感を抱き続けたという。それ故,名
門出身者への羨望の念は強烈であった。)しかし彼は傾いた家運の挽回をはかる野心は放棄
して貧乏に甘んじ,世間から身を引き,わずかばかりの遺産の残りで生活している。彼は
夜間だけ外出し,明け方になると古色蒼然としてグロテスクな屋敷の鎧戸を下ろす。彼は
この屋敷内に同性の親友と暮し,読書,執筆,談話三昧に耽る,というものである11)。しか
もポオは,デュパンを自国アメリカの都市にではなくパリに住まわせたのであった。語学
の学習を得意としたポオはフランス語の習熟も早かったという。ポオがフランスのパリに
愛着を感じていた一因はそんなところにあったのかもしれない。
上記に読みとれるポオの見果てぬ夢とは,要するに,好ましい文化都市,パリに住み,
豊かではないが暮しには困らぬ経済的保証があり,世間と隔絶して自分の城にこもり,そ
こで好きなことだげに没頭して精神的に贅沢で満ち足りた暮しをするということである。
こんな暮しにどれ程現実のポオは焦れたことであろうか。そしてポオが夢想したこのデュ
パンの浮世離れした暮し振りは,厭世感の只中に居たユイスマンスの大いなる共感を誘っ
たのではないだろうか。それゆえ,ここからヒントを得てユイスマンスが自分好みの住空
間を更に緻密に思い描き,自己の分身,デ・ゼッセントに与えたとしても不思議はないで
あろう。
病気の妻をかかえて
先には『仮泊』の成立事情をもっぱら経済的理由の側面からのみ眺めたが,『仮泊』がユ
イスマンスの個人的苦悩をテーマしていることも明白である。実際,『さかしま』を書くこ
とによって文学的立場を闡明し,「ゾラの弟子に過ぎない」という世人の誤解に満ちた思い
込みを払拭することに成功したユイスマンスの次なる課題は,数年来悩まされ続げてきた
内縁の妻,アンナ・ムーニエに取り付いた進行性の病いに作品の中で正面きって立ち向か
うことであった12)。すでにユイスマンスはノレウルの館という創作意欲をそそる場を見出し
ていた上に,
1885年にはアンナ・ムーニエとそこに滞在するという経験もし,その経験か
ら得た様々な思いが未整理なまま内面に渦巻いていた。彼女との問題に正面から取り組む
機はまさに熟していたといえる。
『仮泊』全篇の最初のつぶやきはジャック・マルルによって発せられる≪La
chienne de
vie!≫である。この短い言集は当時のユイスマンスの生活の要約そのものであった。『仮泊』
執筆の頃,彼は経済的苦境から来る苦しみと,妻の病いに原因するそれの二つの苦しみの
渦中にいた。一方の経済的苦境の方は『仮泊』の中では完全にフィクション化されている
のに対し,妻の病いの方は生な形で忠実に再現されている。ルイーズエアンナの病状は作
品の冒頭部分,すなわちジャックがルウルの館目指して1e
chemin
du Feu を辿る途上に
説明される。
II etait torture d'inquietudes;la sante de sa femme
des ans; c'Stait une maladie
egarait la medecine
dont les incomprehensibles
-117-
phases
depuis
deroutaient les
岩
specialistes, une
saute
stituant en moins
des douleurs
perpetuelle
de quinze
etranges,
渕
d'etisie et d'embonpoint,
jaillissant comme
de
phenomenes
explicable
aboutissant
tels que l'agonie
revirement,
la malade
etait la seule constatation
couleurs
revenaient,
ou de trouble
la maigreur
des etincelles electriques
arrachant
\,
affaiblissements
子
jours au bien en chair et disparaissant
aiguillant le talon, forant le genou,
cortege
邦
a des hallucinations,
commengait
reprenait
que Ton
au moment
connaissance
fermes,
semblait
done
puis
dans les jambes,
et des cris, tout un
a des syncopes,
mgme
a des
ou, par un in-
et se sentait vivre. (...) c'
put faire; l'abattement
les chairs devenaient
n'existait; la maladie
un soubresaut
se sub-
de m&me,
paraissait
alors qu'aucun
surtout
s'enrayer, les
sujet
d'alarme
spirituelle, C..)13)
半月毎に繰り返される肥満と痩身,それが済んだかと思うと脚部に鋭い痛みが走り,と
りわけ腫,膝に思わずうめき声の出る激痛が襲う。これら諸症状の最後に幻覚が起き失神
状態に陥る。そして何故か又起る痛みの感覚によって病人は意識を取り戻すのである。こ
れら全ての症状は医学的に説明がつかず,専門家達も首をひねるばかりである。
ついで,実はパリからルウルの館までの旅すらルイーズ=アンナにはつらいものだった
ことが述べられる。
Le voyage
avait et singulierement penible, traverse de defaillances,de douleurs
fulgurantes, de desarrois de cervelle affreux. Vingt fois,Jacques avait ete sur le
point d'interrompre sa route, de descendre a une station, de faire halte dans une
auberge se reprochant d'avoir emmene
Louise sans plus attendre;mais elle s'etait
entStee a rester dans le train 14)(...)
旅の途中も彼女は発作を起して苦しみ意識の混濁があった。ジャックは幾度旅程を変更
し,どこかの駅に途中下車し,宿をとって彼女を休ませようと思ったかしれない。そして
彼女をパリから連れ出したこと自体を悔いた。しかし彼女は頑くなに列車から降りようと
-
しなかった。
目的地の駅に着くと迎えの者が出ており彼はひとまず安心して彼女を託し,自分は金策
の為の寄道を敢行する。金策は成功せず打ちひしがれてルイーズの待つルウルの館へと向
かう。単調な田舎道を歩いていると彼女の病状が又急変したのではないかと不安がこみ上
げてくる。不吉な予感に挫げそうになりながらルウルの館に着いてみると,意外にもルイー
ズは元気で,むしろ館の中の新しい住空間を少しでも住み良いものにしようと主婦らしく
喜々として立ち働いていた。しかし,初めの物珍らしさが消え去ると,ルイーズは田舎ぐ
らしの物質的不如意や,生理的な不快感のため次第に不機嫌になり,都会者の懐を密かに
当てにしていた叔父夫婦の薄汚ない魂胆を知るに及んで激しい怒りと嫌悪感を露わにす
る。それが昔のルイーズのおっとりしたところが気に入っていたジャックを白げさせる。
好奇心のおもむくまま,ルウルの館の内外を探索してまわり,意外な面白さや美しさを
発見してゆくジャックとは対照的に,素晴しい自然環境の只中に暮しながら,ルイーズは
薄暗い部屋にこもってろくに散歩にも出ず,食事の支度のみ義務的にこなすという沈滞し
切った暮しぶりをさらし,それが又,昔の活力に溢れた彼女を愛していたジャックを苛立
-118-
ユイスマンス研究
たせる。そんな中で叔母はルイーズの気味の悪い病気を察知してよそよそしくなり,走り
使いに雇った村の女の子の母親からは足元をみられて法外な駄賃をふっかけられるなど
色々不愉快なことが重なり,ルイーズはパリヘの帰心をつのらせる。彼女自身の不吉な将
来を暗示する愛猫の発作に関することはすでに述べたので本稿では省略する15)。
『イ反泊』の値打ちは,所詮その進行を食い止めようのない病いに取り憑かれた女を放り
出してしまいたいジャック=ユイスマンスのエゴイスムむき出しの本心が露わに語られる
ことであり,昔のふっくらおっとりした面影が消え束て,経済的に失敗し都落ちした良人,
ジャックを見る目には冷たい軽蔑の色がありあり見てとれ,性格も容貌ももはや昔口の彼
女ではなくなってしまったルイーズ=アンナの,生活と病気がもたらした残酷な女の変貌
ぶりが直視されていることである。
ここにはいくらフィクションの力を借りようとも美化も無化もかなわぬ苛酷で不可避な
現実がある。『仮泊』では,ただひたすらその荒廃した姿をさらすのみの教会と十字架上の
キリストではあるが,それらは『さかしま』の最後の祈りと同様,最終的には十字架の前
に跪かざるを得ないユイスマンスの生涯のプロセスの見事な伏線をなしているように思わ
れる。
『仮泊』では自分のエゴイズムを余すところなくさらけ出したユイスマンスであるが,
現実の生活ではアンナ・ムーニエを誠実に看病し,ギリギリのところまで彼女の病いとつ
きあった。この項の終わりに彼の看病ぶりを示す手紙を引用しておこう。
Voici
●● longtemps
de
jours
aller
ne
des
si atroces
a la
serait
voyez
que
que
derive.
rien
; ce qui
d'ici mon
aux
devient
aigre!
vous
j'en
ai les
dont
douches
ai●/
ecrit―mais
・
bras
malheureuse
pour
elle ne
et ca
ne
et les
femme
est douloureux
existence
medicaments
amener
Ma
je
● ne
jambes
est au
c'est qu'elle
r instant,
veut
va
● je
● viens
●
pas
oblige
pas;
quand
gtre
16)(…)
de
casses
lit avec
passer
et que
une
se paralyse
l'angine
et devient
va
―mais
finie, il faudra
qu'elle
divague
。
彼はこの間,咽頭炎にかかったアンナの介抱に明け暮れてくたくたになっていたのだ。
しかし彼はいう。咽頭炎などは時期が来れば治るから上い。つらいのは彼女の全身に麻
庫か及び,その精神も冒されてしまうことだと。ユイスマンスは彼女が飲みたがらない
薬を飲ませることに努め,咽頭炎が治ったら今度は精神病治療としてのシャワー療法に
連れていこうと考えている。彼女がうわ言をいい気持もすさんできているので大変な仕
事になりそうだと彼はぼやいている。ユイスフンスのこうした看病は彼女が入院する
1893年4月まで続いた。
du reve
の試み
l'art du reve の試み,すなわち『仮泊』に則して言えば,作品の中に夢の次元の出来
-119-
cela
folle!―vous
プリンスに宛てたこの手紙でユイスマンスはまず半月に及んだ筆不精を詫びている。
潰えたl'art
tout
de lui faire prendre
etre
d'autant
quinzaine
●
●
j'ai laisse
angine
de la surveiller,
commode,
une
P
et
岩
渕
邦
子
事を取り込むこと,具体的には,夢見た事柄を作品の中で描写力を発揮して忠実に再現
するということは,『仮泊』の後続作品では姿を消す。経済的な要請がからむ『仮泊』の
成立事情のところで述べたように,『仮泊』はユイスマンス自らがDujardinに連続掲載
を持ちかけた作品であり,当初は自信に満ちて取り組まれ,途中苦しんだとはいえ脱稿
後の感触も決して悪くはなかったのである。彼はプリンスヘの手紙に次のように書いて
いる。
[10
mars '87]
Cher ami,
Pardon
de ne pas vous avoir accuse; plus tot reception de votre lettre et des
cigares, mais je suis dans une bousculade terriblede travail,rattrape par la Revue,
et En Rade
doit etre remis, le 25, les 2chapitres de la fin.Et je les fais!
Du diable si jamais je redonne
J'en suis malade
―heureusement
artiste. Les cauchemars
un roman
<iune Revue, avant de l'avoir acheve!
qu'En Rade
me valent
s'annonce comme
un succe"s ... d'
d'etranges lettres.17)(...)
ここには連載はもう懲り懲りだという気持が述べられていると共に,密かに『仮泊』の
成功を確信している気配が確かにある。事実ユイスマンスは連載に懲りた。作品を期日ま
でに生み出す苦しみはいうに及ばず,それにも増して堪え難かったのは下記の手紙に見ら
れるように,編果者が読者からの非難をおそれて勝手に作品をいじることであった。
L28 mans
'87 J
(...)Ne lisez pas mes 2 derniers chapitres dans la Revue. Us sont ecouilles. La
Revue n'osant faire paraftre intacte la saillied'un taureau.
mon
accouchement
les Revues.
Qa ete comme
pour
de vache. Decidement, je ne ferai plus paraftre de romans
C'est trop embetant.
Des morceaux
dans
saccages par pudeur ne tiennent
dIus. On a Fair d'un imbecile. 18)(...)
『仮泊』は,
Tresse
1887年4月,Revue
In
ョpendanteの連載が終わるとすぐ,同4年26日,
et Stockより単行本として出版された。その売行についてユイスマンスはプリンス
に次のように書いている。
Paris, le 28 Mai
(...) En Rade
se vend
mollement―1800
exemplaires
a l'heure actuelle
1887
comme
a Rebours.
Pas d'articles d'ailleurs; je sais que la situation litteraire que m'a faite
A
a exaspere
Rebours
tous
les Wolff
19) et qu'ils sont
decide
a tacher
de m'
enterrer. 20).(...)
この段階では,本の売行は今一つだし,批判家はこぞって「仮泊』を黙殺しているが本
当のところは分からない,とユイスマンスは希望を捨てなかったに違いない。はじめはパッ
としない売行であったにも拘らず,半年後には,その年間中,最も注目される本であった
ことが判明した『さかしま』を引きあいに出して語ったりしているところにそれがうかが
える。しかし,『さかしま』の時とはちがい,『仮泊』の売行は伸びずじまいに終わった。
-120-
ユイスマンス研究
彼が密かに自負していたsucces
d'artisteさえも公認されなかった。それどころか,刊行
後2ヶ月を経過する頃から,『仮泊』への酷評が目立つようになり,果ては彼のオランダ人
の血筋を卑しめる低劣な個人攻撃の記事すら現われるようになった。
Paris 11/7
(...) Rien
de neuf ici, sinon
embStements
de commerce,
La
presse donne
raconte
a sang
sur moi―mais
que la vie me
assomme
a soin de
de stupides histoires sur mon
pauvre,
singuliSrement.
Ministere,
declarer
compte,
me
qu'En
Je suis crible d'
degoute
Rade
de litterature.
est illisible―et elle
traitant de toque, de hollandais
etc.
II y a, en librairie, ici, un coup
Pas
pese
par mon
'87
un livre ne s'est vendu,
terrible―la plupart
cette annee.
C'est une
des maisons
dSche
sont en panne.
generate.
(...) 21)
プリンスヘの手紙にはユイスマンスは殆ど毎回,両者の共通の友人であるレオン・ブロ
ワやヴィリエ・ド・リラダンの近況報告を欠かさなかったが,上記の引用した同じ手紙の
後半に,
Tribulat Bonhompetか全くのfour
noir でリラダンがくさっている,という箇所
があり,所詮自分達は大衆に迎えられる種類の作家ではないという現実をあらためて確信
し,どのみち『仮泊』は世に容れられないと観念せざるを得なかったに違いない。ついで
同じくこの手紙はブーランジエ事件についての言及もある。フランス中を熱狂させたとい
うこの政治事件に対して,内務省勤務の役人でもあったユイスマンスは,役職柄事前に事
の大筋を予見できる立場に居り冷静そのものである。
以上,『仮泊』の刊行,及びその反響について見てきたが,『仮泊』が最終的に世の関心
を引き付げ得なかったことの原因をユイスマンスはどこに探り当てただろうか。彼はやは
り大方の評者が指摘したravesとnaturalisme
cru の混在に目を向けざるを得なかったで
あろう。そして事実として,前述したように『仮泊』以降,ユイスマンスにあっては夢が
作品の中に積極的に取り込まれることはなくなった。彼は次の力作,『彼方』では,『仮泊』
中の第3の夢に萌芽的に認められるもの,すなわち中世魔術の研究に没頭してゆく。
『さかしま』で名声を得,いねば自然主義文学陣営から象徴主義文学陣営に移ったユイ
スマンスはDuiardinなどの期待に応えるべく『仮泊』を書き上げたが,作品の一つの眼
目,「夢」を作品の中に生かし切る試みは世の賛同を得るに至らなかった。象徴派の人々が
喜ぶポオ的要素,ルドン的要素をしっかり踏まえて書いた筈の『仮泊』が何故succes
artisteすら公認されなかったのか,ここで筆者の考えを述べてみたい。
まず,ポオ的要素に関して言えば,そのゴシック小説風の舞台装置=ルウルの館に対し
て,そこで展開するのはユイスマンスの内縁の妻の発狂過程の現実であり,いねばポオ風
意匠に満ちた場にあって,そこで繰り広げられる現実のドラマが重すぎたのである。つま
り意匠と中味のミスマッチである。ポオの作品が陰鬱でありながら愉しめるのは全部が
フィクションIと承知しているからである。現実に生身の女性が狂気への道を辿っているの
だということになれば愉しいどころではなくなる。そもそも何故ジャック=ユイスマンス
は病気のため精神的に不安定になっている女性を,わざわざそれを助長するような環境,
すなわち見るからに不気味で不便なルウルの館に連れていったのかという話にまでなって
-121-
d'
岩
渕
邦
子
しまう。もっとも彼は周到にその説明を作品の中に織り込んではいるが…
次にルドン的要素,すなわち夢の作品への取り込みについていうならば,『仮泊』以前の
先行的取り組み,すなわち『さかしま』第8章に見られる夢の挿入は実に効果的であり成
功していた。
小市民的な愛らしい花,又,ブルジョワ好みの単に美しい花に飽き飽きし,激しい嫌悪
感さえ抱いていたデ・ゼッサントは,珍奇な熱帯植物の病的側面が大いに気に入り,それ
らを大量に買い込み,その毒々しくもグロテスクな花を夢中になって観察しているうちに
激しい疲労感に襲われて眠り込み,梅毒の化身,花の化身が登場する恐ろしい夢を見,う
なされて冷や汗まみれになるのだった。
この『さかしま』第8章中の夢は,夢を見る必然性が読む者に良く了解され,夢の描写
に盛り込まれた様々の形象や色彩の見事さを素直に愉しむことが出来た。それに対して『仮
泊』中の3つの夢は,技術的にはこの『さかしま』第8章中の夢の延長線上に位置づけら
れるものであり,夢の描写に盛り込まれた形象や色彩の見事さには確かに同質のものが感
じとられる。しかし,第2の,月世界にジャックとルイーズが遊ぶ夢は除き,つまり第1
の,聖書の挿話がオリジンとみられる夢,すなわち壮大な王宮の華麗な広場に居る人身御
供として王者に捧げられたエステルの夢にせよ,第3の,ジャックが空に浮遊する井戸に
閉じ込められる夢にせよ,そうした夢を見る必然性は読者には全く了解できず,そもそも
ユイスマンス自身がその説明を放棄してしまっている。まさにゾラの指摘ではないが,一
作品にあって夢の部分と他の部分とが水と油のように互いに交わらないのである。22)ユイ
スマンスが『仮泊』の作品中で繰り広げる夢論も常識的なことの羅列に過ぎず生彩を欠く。
実は,
1885年の夏以降,すなわち『さかしま』刊行以降のユイスマンスと文通し弟子の
礼をとり続けたアレイ・プリンスもl'art
du rgve
に活路を見出そうとしたユイスマンス
の同伴者であった。
最初,オランダで,興味の向くまま手当り次第にフランス自然主義作家の作品紹介に没
頭していたプリンスは,あるきっかけを得てユイスマンスと文通を重ねるようになり,時々
は実際に会見するなど親しみが深まるうちに,次第に強くユイマンスに傾倒するように
なっていった。
ユイスマンスから,ボードレールに始まる,メタン・ダループとは別系統の文学者集団
に開眼させられたプリンスは,メタン・グループから離れ去ってゆくユイスマンスの歩み
に全く同調して進むことに努めるようになる。
プリンス自身がl'art
du
rgve
の可能性にめざめたのは,
1886年6月,はじめてユイス
マンスに会いにパリにやって来た時であった。その折り,彼はクリュニー美術館でルドン
のデッサンを見,大きな衝撃を受けたという23)。
相当な審美眼を備えていたプリンスは,
Isaac
Israels (1865-1934)をはじめとするオ
ランダ印象派の画家など,オランダ画壇に多くの友人知人を有し,絵画コレクションにも
手を染めていた。当然彼はユイスマンスの美術批評にも興味をもち,注意を怠らなかった
ので,ユイスマンスが1885年,Revue
Independanteの2月1日号(つまり両者の文通の
-122-
-
ユイスマンス研究
開始以前)に書いたNouvel
Album
d Odilon
Redonも見逃さずちゃんと目を通していた
という24)。よってプリンスはパリに来る前すでにルドンに関する予備知識は持っていたわ
けであるが,実物の与えた感動は大きかったのだろう。そしてこれをきっかけとして彼は
自分の絵画コレクションにルドンの作品も積極的に取り入れるようになったという25)。ち
なみにオランダでルドンが知られるようになったのは,
Nieuwe
1887年4月Jan
Veth
が D≪
Gidsに発表したルドン論がきっかけになったようである26)。プリンスは又,ユイ
スマンスの紹介によったのであろう,再興後のRevue
Independante
の執筆陣に加えられ,
美術展評を書く機会に恵まれたこともあった27)。
ユイスマンス自身がルドンと最初に会ったのは,
1882年『ル・ゴーロワ』紙社屋で開か
れたルドンの第2回目の個展の会場においてであった。ユイスマンスの方はすでに前年の
1881年,『ラ・ヴィー・モデル』誌社屋におげるルドンの最初の個展の時から彼及び彼の作
品に注目していた。互いに面識を得た後の2人は,パリの住居が互いに近かったこともあっ
て友情は深まり28),1883年,マラルメとルドンをひきあわせ両者の親しい交際のきっかけを
つくったのもユイスマンスであった。
プリンスもパリを訪れた際,ユイスマンスを通じてルドンと知り合いになることが出来
たのである。よってそれ以降,ユイスマンスのプリンスヘの手紙には,ルドン夫妻への言
及も見られるようになった。ルドン夫妻が最初の息子をわずか6ヶ月で失った時の手ひど
いショックの様子などが生々しく報告されている29)。
Louis Gillet が指摘する通り,
1881年以来のルドンの作品との出会いこそがユイスマン
スの文学の方向を変える重大なきっかげをつくったのだった3o)。ルドンの作品が与えた衝
撃はユイスマンスの内部に一種の連鎖反応ともいうべきものをひき起し,彼の従来の価値
体系は次々と逆転してゆき最終的には『さかしま』に結実した。その『さかしま』は,ユ
イスマンスが初めて親しくルドンと語りあった年,
1882年の暮から書き始められている。
『さかしま』でユイスマンスはルドンを論じ,又彼自身のポオヘの傾倒を明らかにした。
(…)もし鋭い文体に犀利かつ奸侫な分析を併せ待った作品を探し求めるとすれ
ば,どうしても,あの帰納法の大家,あの霊妙怪異なエドガア・ポオに到達しないわ
けには行かなかった。ポオに対しては,その作品を再読して以来,デ・ゼッサントは
抜くべからざる愛着を感じているのであった。
この作家はその内心の親和力によって,おそらく他のいかなる作家よりも,デ・ゼッ
サンドの冥想的な要請に応えていた。
もしボオドレエルが魂の象形文字のなかに,感情と思想との初老期を解読したのだ
とすれば,ポオは,病的な心理学の道を通って,さらに詳しく意志の領域を探索した
のであった。(…)幻惑的な残酷な筆で,彼はぞっとするような恐怖の情景や,人間
の意志がめりめりと音を立てて崩れるところを長々と描写し,あくまで冷静に論理を
追って,読者の咽喉をゆるゆると締めあげるのである。読者は,この機械的に組み立
てられた高熱の悪夢を前にして,息がつまり,心臓が激しく動悸を打つのを覚える31)。
(‥。)
ユイスマンスにあっては,ルドンは始めからポオと密接に結びつけて理解されていた。
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邦
子
ユイスマンスの見るところ,ルドンとポオをつなぐものは芸術創造の場における夢の重視
であった。実はルドンは,
1879年に『夢のなかで』,ついで1882年に『エドガー・ポオに』
と各々題するリトグラフィーを制作している。ルドンのこうした仕事をユイスマンスは系
統的に観察していたので,ルドンが夢というものに多大な関心を抱き,その夢によせる共
感からポオと結びついていったことを理解するのは彼にとって何ら難しくはなかったであ
ろう。
ルドンが自分の夢を作品化することによって素晴らしい境地に達していることをおそら
く羨望の念をこめてユイスマンスは見ていた。ルドンはポオの言葉,≪Toute
certitude est
dans les rSves ≫に鼓舞されてあの境地に達したのだとユイスマンスは理解していた。彼
が,ルドンがリトグラフィーで行ったことを,自分は文学において試してみようと思い立っ
たのは極く自然な成り行きであったといえよう。そしてプリンスも又,ユイスマンスに同
調してl'art du
rgve に踏み出し,従来取り組んできた自然主義文学風の習作をやめ,自
分の夢に題材をとったものを書き始める。しかし皮肉なことにプリンスの筆はこの試みの
中で全く止まってしまい,彼は以後2年余に及ぶ一大ブランク期に突入してしまったとい
う32)。
つまりユイスマンスも,そしてその同行者,プリンスもl'art
du r&veの試みには敗れ
たわけである。その後この両者は手をたずさえて中世魔術の世界へと関心を向けていった
のであった。 33)
(平成3年9月17日受理)
註
1)
Robert
Baldick
-, La
vie de
],。一K. Huysmans,'lX2Lduite
de l'anglais
par
M.
Thomas,
Denoel,
1975,
P.127
2)J.-K.HUYSMANS
par
3)
:
Louis
Pierre
Gillet,
Droz,
LAMBERT
LETTRES
1977
Ed.
INEDITES
P.24
note
de:J.-K.
a
ARIJ
PRINS(1885-1907)
publiees
et annot^es
n
Huysmans,Lettres
iwedites
aEmilp.
Zola,
Geneve,
Droz,
1953,
P.121
4)£ETTRES
5 )
ibid.,
INEDITES
P.66
note
6)GEORGES
7)
8 )
a
ARIJ
PRINS,(LETTRE
24)
PP.
64-65
2
ZAYED
: LA
FORMATION
LITTR
fiAIRETW.
VRRLAINE,
ジュリアン・シモンズ(八木敏雄訳)『告げロ心臓』集京創元社,1981
J.-K.
HUYSMANS
:
EnRαぬ,(EUVRES
NIZET,
1970
P.284
P.286
COMPLETES
tome
IX-XI,
Slatkine
Reprints
1972
P.42
9)
Elio
MOSELE
は彼の論文ltineraires
oRiバques
daws
EnRαゐの中でradeau(滴),rade(仮
泊)の二語間に言集遊び的な連想が働いたのではないかと指摘している。(BULLETIN
SOCIETE
J.-K.
涅UYSMANS,n°
10)ブロワが1885年9月5日,ルウルよりLouis
11)『告げロ心臓I
12』乞御参照
年pp.
13)E,7R
14)
歹
84(62eAnn6e)Tome
Montchal
1991
へ出した手紙の中で(
LA
P.3)
ibid., P.16
note
7
)
p.312より
岩淵邦子:ユイスマンス研究一≪さかしま≫論(I)一愛知教育大学研究報告第39輯,
31-32
PP.6-7
ibid., PP.7-8
15)乞御参照
DF,
XXVI,
註12)に同じ
-124
-
1990
16)LETTRES
17)
INEDITES
ibid., (LETTRE
18)ibid.,(LETTRE
19)
Albert
a ARIJ
PRINS,(LETTRE
60) PP.124-125
30) P.77
32) PP.80-81
Wolff
(1835-1891),フィガロ紙の劇評で有名。彼を忌み嫌ったレオン・ブロワはLe
Descsfcere
の丸一章を費して彼を攻撃しているという。
20)1ETTRES
INEDITES
21)
ibid., (LETTRE
22)
ibid., P.83 note
2
23)
ibid., P.52 note
6
24)
ibid., P.39 note
6
25)
k ARμPRINS,(LETTRE
33) P.82
36) P.85
Arij Prins possgdait
Flaubertfi dessins pour
d'Odilon
Redon
La Tentation
:
La
nuit.6
dessins lithographiquesC1886);
de Saint Antoine(1888)
;
Songes,
pp.
274-276
(1891)。
26)註24)に同じ
27)£ETTRES
INEDITES
28) ibid., P.39 note
29)
ibid., (LETTRE
30)
ibid., P.39 note
k ARがPRINS,
P.66 note
2
6
26 ; LETTRE
36)
6
31)ユイスマンス(敦厚龍彦訳)『さかしま』,桃源社,昭和41年,
32)IETTRES
INEDITES
k ARIJ
PRINS,
P.115 note
33)上記に同じ
-125-
5
A
Gustave
Suite de 6 lithographies
〃
"・
一
一一
-一
ユイスマンス研究
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