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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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改革と理念 : ドレスデンープラウエンおよびライプツィ
ヒにおけるヴァルター・ホフマンの図書館業績 : ヴァル
ター・ホフマン:小伝
ヴォドセク, ペーター; 三浦, 太郎
京都大学生涯教育学・図書館情報学研究 (2006), 5: 139154
2006-03-31
http://hdl.handle.net/2433/43894
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
ヴォドセク:改革と理念:ドレスデンープラウエンおよびライプツィヒにおけるヴァルター・ホフマンの図書館業績
改革と理念:ドレスデン-プラウエンおよび
ライプツィヒにおけるヴァルター・ホフマンの図書館業績
ヴァルター・ホフマン:小伝
ぺーター・ヴォドセク
著
三浦太郎訳
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:WalterHbfmannunds
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4年、 ドイツの公共図書館制度の舞台に一人の新人が登場した。ヴァルター・ホフマン
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rHofmann) である。彼は 2
0世紀初頭から 1
9
3
0年代までの期間に、最も革新的で強い
8
7
9年 3月2
4日に生
影響力を持つとともに激しい論議を巻き起こす人物となった。ホフマンは 1
まれ、物心がつくと父親の工房を引き継ぐため彫刻師の技能を習得することを目指した。工芸
学校に通ったのち、ベルリン、フランクフルト・アム・マイン、ライプツィヒ、そしてドレス
デンで彫刻師の見習いとして数年間働いた。しかし、この職業に満足することはできず、自由
業の著述家、そして芸術評論家への道に転向し、実際に数編の詩も発表した。こうした活動の
中で彼は、市民階級に大きな影響力を持っていた芸術評論家であり、芸術教育者、作家でもあっ
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1
9
2
3
)1)と知遇を得、そ
たフェルディナント・アヴェナリウス C
の思想から大きな影響を受けた。
9
0
4
年のことである。この年、製粉所を
生活面で窮之したホフマンにチャンスが訪れたのは 1
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) は、ホフマ
営む夫から誕生日に膨大な額の資金を贈られたイダ・ビーネルト(Id
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ンを助けるためドレスデン近郊のドレスデンープラウエンに近代的な民衆図書館 C
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) を建設することを彼に依頼した。図書館に関する基礎知識をまったく持ち合わせ
ていなかったホフマンは、独学で最低限の知識を習得すると、当時イェーナにあって広く知ら
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) で実習生として働い
れていたカール・ツアイス財団の「公共閲覧室JC
た。そして 1
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0
6年
2月 6日には、「ドレスデン
プラウエン無料公共図書館 J C
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) を開設するに至っている。この後、遅くとも 1
9
1
0
年頃には彼の構想する図書
9
0
7年から発表され始めた。
館モデルが館界の注目を集めるようになるが、そうしたモデルは 1
1
9
1
3年にはライプツィヒの市政府から近代的な大都市図書館の制度設計を委託された。これに
よって、ホフマンは自己の理念をさらに大規模な形で実行に移す機会を得たのである。同時に、
9
3
0
年代初めまでドイツ図書館界の中で自己の影響力を強めていく試みを意識的に行った。
彼は 1
-139-
京都大学生涯教育学・図書館情報学研究
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.5
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0
0
6
年
その挑みかかるような社会参加の姿勢、論戦好きな性向、指導者的な人格、そしてその豊かな
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創造力と専門的知識によって、彼は大きな成功を手にしたが、いわゆる「路線論争 JC
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) は深刻な対立を引き起こした。ホフマンの生涯の頂点は、利用者研究の仕事2) に
9
3
1年にライプツィヒ大学から「名誉博士号」を授与されたことであった。ナチスの暴
対して 1
力的支配が始まってからのホフマンは、自らの業績をなるべく多く守ることに心をくだ L、たが、
1
9
3
7年、ライプツィヒ市長カール・ゲルデラー C
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) が失脚するとともに全役職
9
5
2年 4月2
4日、かつての地位を取り戻すこともなく、彼
から強制的に辞任させられた。戦後 1
はライブツィヒの地に没した。
歴史的背景:1
9
世紀末におけるドイツの公共図書館
1
9世 紀 末 の い わ ゆ る 「 公 共 図 書 館 運 動 J (
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) とともに始まる。それ以前にも 1
8世紀以来、民衆図書館創設の試みは何度
近代ドイツの公共図書館の歴史は、
3
)
も繰り返され、実現される場合もあったが、それらはあくまで慈善的性格を持つ読書施設の類
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) の建て
でしかなかった。「民衆教育普及協会 JC
た民衆図書館にしても、
1
8
7
1年にドイツ帝国が建国されたのち、長期にわたる継続的効果を示
したとはいえ、将来に向けたささやかな序章と言う以上のものではなかった。こうした動きを
決定的に後押ししたのはイギリスとアメリカの図書館モデルであり、それはつまり、図書館法
の制定、ボストン公共図書館の成功、マンチェスターとリパプールの無料公共図書館からの影
8
8
2年にボストン公共図書館で実宵生として働いていたウィーン大学教授
響であった口これは 1
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4
)と
、
エドアルト・レイヤー (
1
8
9
3年に「世界図書館員会議」と
アメリカ図書館協会の「第 1
6回年次大会」に参加したキール大学図書館員コンスタンティン・
ネレンベルク C
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8
6
21
9
3
7
) によってもたらされた。
こうした図書館運動の新しさは、古い慈善活動的な性格を持つ民衆図書館を「すべての階層
の人びとのための教育図書館」に移行させ、無料公共図書館を実現しようとする点にあった。
8
9
5年頃から特に大都市部
この結果、ドイツの図書館制度は 1
ルク、ハンブルク、プレーメン、エッセン、ドルトムント
ベルリン、シャルロッテンブ
において驚くほどの進展を遂げ、
第 l次世界大戦が勃発する頃までには、完全な現状改革とは言えないまでも誇るべき発展を迎
えていた。これにはさまざまな理由がある O そのひとつは理念論争であり、その中心に立って
いたのがホフマンであった。従来の仕事を改革しようとする意識に支えられ、大戦前に批判視
されていたものを改革する責任を彼は負っていたのである C
思想的背景
自由な民衆教育の危機
当時の図書館員の批判は、公共図書館運動の抱える矛盾、実現過程における一貫性の欠如、
選書をめぐる意見の相違、さらには、一方で古い様式の民衆図書館との類似や、他方で学術図
書館との境界の不明確さから発していた。しかし、図書館員が覚えるこうした不快感はもっと
根深く、個々の図書館員が対処できる範囲を大きく超えていた。ホフマンはそうした感覚を踏
-140-
ヴォドセク:改革と理念:ドレスデン プラウエンおよびライプツィヒにおけるヴァルター・ホフマンの図書館業績
まえ、「民衆図書館の対象とするものは図書ではなく人である。図書の管理ではなく人の育成、
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)
それがここでの課題なのだ」 ωという信条へと結実させている。「文化批評 J(
がキーワードであったと考えてもいいだろう O
1
9
0
0
年頃には自由な民衆教育活動(公共図書館運動もそのひとつである)に危機のきざしが
9
1
0年前後から公共図書館界にも波及した。特にその広範囲
感じ取られるようになり、これは 1
な拡散的形態、換言すれば「総花的ばらまき原則に基づく教育J(
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) を行っている民衆教育活動は、陳腐だとの強 L、批判にますます曝されるようになっ
た。そうした批判は、時代の一般的な動き、すなわち精神の奥底に沈潜して行く文化的悲観主
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) 運動と
義に基つ。いた「文化批判」運動、と言うよりむしろ「文明批判 J(
呼応しており、 1
9世紀の自由主義的な発展に対して懐疑的に向き合い、人間のモラル能力と技
術的可能性との落差を認識しようとするものであった。とりわけ、反合理主義的な考え方をす
る人生哲学に表現されていた。それを基礎づけたのはアルトウール・ショーペンハウアー
(ArthurS
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) とフリードリッヒ・ニーチェ (
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) であり、フラ
ンスのアンリ・ベルクソン (
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iBergson) や
、
ドイツのゲオルク・ジンメル (
Georg
Simmel)、ヴィルヘルム・ディルタイ (WilhelmD
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)、 ル ー ト ヴ ィ ヒ ・ ク ラ ー ゲ ス
(LudwigK
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s
) によって全盛期を迎えた。この人生哲学において時代の危機の発現は、欲
望し審判する精神一ーすなわち知性一ーが精神的情動を脅威なまでに肥大させたことの表れで
ある 5) と主張される O これは知性よりも感覚や本能の側に立つ考え方であり、知性は自然界の
無機的で硬直した死のみを把握できるにすぎず、生命を把握することはできないとされる D し
かるに生命は宇宙と同じく、そこに内在する「エラン・ヴィタール J(
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O 一一すなわ
ちベルクソンのいう生命の躍動一一に基づいて自由に自己を開花させてきた。生命哲学は生命
中心の世界観、生物学的生命観へと傾き、そこでは人間の認識と行為の規範は生物学的欲求と
OswaldS
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) の『西洋の没落』
法則から導き出される D オズヴアルト・シュペングラー (
(1918-1922) によって、この考え方は歴史にも移入された。こうした見方は、とてつもない
非合理主義によって容易ならざるものとなった。
1心から生じる J
) と文明(ただ外部、外観にのみある)の
このような関係のなかで、文化 (
対比が行われ、知性に分類される文明は拒絶された。高位に評価される「文化」に対して「文
明」は単なる有用で技術的なもの、魂のない画一的なものとして軽視されたのである。すなわ
ち、「文化と文明のこの対立関係は、近代性、民主主義、そして西欧に対するルサンチマン
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) たちが
(怨恨)を十分に洗練された方法で表現しようと、 ドイツの「観念論者 JC
好んで用いる口実であった。 2度の世界大戦において、ドイツの知識人たちは連合国を文明の
開拓者に見立て、文化(主にドイツによって代表される文化の謁であるが)の敵呼ばわりし
9
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年代に「文化図書館 C
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D と文明図書館 C
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た」ヘホフマンもまた、 1
)Jについて語っている。それまでの図書館の活動の中に誤った展開があった
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との認識に立ち、「文明図書館」に対する留保を 1
1の命題として定式化した九同時に彼は西欧
文明の一部を徹底的に拒絶した九このような考え方は、ドイツ国家思想やドイツ国民の神話
を作り出す。災いは西欧文明を典型的に代表するユダヤ民族がもたらしたとの主張は、ユダヤ
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京都大学
生涯教育学・図書館・情報学研究
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年
人を排斥する根拠のひとつともなったのである。
文明が誤って発展した結果、ポピュラリゼーションは危機に瀕し、人聞が匿名性へと埋没し
てしまい個人的責任は消失する。大衆社会は生活に秩序をもたらさず、それを解体するという
のである。これは個々人にとってはもはや、全体を見通すことのできないほど社会が細分化す
ることを意味する O そのような細分化は、文化的悲観主義者によって無秩序とか文化の衰退と
同一視されたヘこの差し迫った危機に対する反応のもう一方の極は、たとえばこーチェの場
合の超人思想であり、際限のない個人主義の要求あるいはエリートとしての地位への回帰で、あっ
た1ヘ激しく感情的なモダニズム批判の中で、俗受けする時代の嘆きも示された ω。たとえば
J
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sLangbehn) が 1
8
9
0年に書いた『教師としてのレンプラン
ユリウス・ラングベーン C
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112l や「クンストヴアルト」誌の編集者フェルディナント・アヴェナリウスの場合がそうで
ある。ラングベーンにとって文明とは「異種 J(
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) のものであり、「内面性 JC
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) を際だった特徴とするドイツにとってまさに辱め
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) と「精神性 J(
でしかなかった。
「新路線派」
そうした不満は、最初はただ民衆教育の少数の主導者に共有されただけだったが、その後そ
れまでの民衆教育への批判のなかにも浸透し、やがて公共図書館運動へと拡大した。当初の最
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も重要な批評家は、ロベルト・フォン・エルドベルク=クルツェンチェフスキー C
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i,1
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)∞だった。 1
9
1
8年以前に職業教育に携わっていたエルドベルクは、
ワイマール共和国でプロイセン文化省の最初の民衆教育担当官となり自由教育制度部門を統率
したが、
1
9
2
4
年に当時を振り返り次のような陳情書をまとめている。
世紀末の民衆教育・図書館運動)は大きな成功をおさめ、中央機構が組織さ
「この運動(19
れた。……そして、きわめて広い範囲にまで拡大したが深い意味づけを得ることができず、単
なる大衆的な教育事業へと堕落する危険に陥った。……おそらくそのためにさらに憂慮すべき
状態となったのだと思う O なぜなら、多くの知識を未消化なままに持つことは通常、消化され
ない知識をわずかにしか持たないことよりも危険が大き L、からだ。……公共図書館制度もまた、
当時、自由民衆教育活動の全領域で大きなうねりをもたらした大衆運動に屈服した。そして、
これを擁護する者たちはそうした動きに理論的正当性を与えることに精力を傾けるあまり、もっ
l
九その後、エルドベルク
と真剣に熟慮すべきわずかな時間さえ使うことを忘れているのだ J
は一個人として、また雑誌「民衆教育アルヒーフ』の編集者として、成人教育に関わるさまざ
まな分野の人びとをつなぎ合わせた O こうした中に、
1
9
1
4年からいわゆる「新路線派」
CNeuenR
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) と見なされていたヴァルター・ホフマンもいた。この新路線派という用
語はもともと、オイゲン・ズルツ (
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) がその論文「ドイツ図書館運動の前進と反
応」において論争を挑むことを意図して用いたものであるヘ
1
9
2
2年以降、これらの分野代表
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rBund) が結成され
者たちの緩やかな連合体として「ホーエンロータ一連盟 J(
た。この連盟の名称は、シュトゥットガルトに本社をおくブロイニンガ一社の研修施設(シュ
ヴァルツヴアルトにある)で毎年会合を行っていたことにちなんでいる。ホフマンはここです
比
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ヴォドセク:改革と理念:ドレスデンープラウエンおよびライプツィヒにおけるヴァルター・ホフマンの図書館業績
ぐに主要な役割を担うようになった。
新たな民衆教育活動の理念とは、これまで広範囲に実践されてきた活動を集中的な活動に置
きかえるべきことを柱としていた。エルドベルクは貴族的とも言える教育理念について次のよ
うに語っている。すなわち、「新路線派は再び貴族的教育を目指すものだと非難されている。
教育はまさに常に貴族的な事柄であり、すべての人聞が貴族になれるわけではないというかぎ
りでこの非難は正し L、。しかし、混同してはならないが、この教育には精神的な分野の教えを
受けるという別の側面もある J16)。これは労働運動と近い立場にいる者の口から出た言葉とし
ては奇妙に聞こえるであろうが、悪評で有名な「酵母の原則 JC
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) の意味
で理解することができる。この原則については、 1
9
1
6
年にホフマンが次のように書いている O
「この特別な教育方法は、この方法に影響を受けやすい者たちの中でのみ生き続け大きな実り
をもたらすことができる O ……しかし、このことは常に、この特別な教育方法とぴったり適合
するのはそれぞれに強く感応することのできる集団のみであるということにもなる。とはいえ、
この教育を受けたわずかな者たちが、ここから巣立ち『大衆』の中に入って行き、彼らを取り
まく世界に働きかけることで全体的な効果は上げられるはずである。……これは民衆教育の方
法をただ機械的に拡大させることとは異なり、ダイナミックな民衆教育活動とでも名づけられ
るべきものである J17l0
同様に、この新路線派のもうひとつの目的、すなわち、民衆教育は「民衆のための教育」で
あるべきで「理念上のいかなる対立も考慮、しない人間的な共存」を目指すという目的もまた、
容易に誤解されるおそれがあった。そこでホフマンは、文化の荒廃、失業、個人主義、主知主
義によって破壊された国民秩序や、最終的には精神・宗教の危機といった事態は控えめな民衆
教育の方法ではくい止めることができず、小集団の中において研究や会話、「細胞形成」
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) を通じて切り抜けるべきであるとした。「ゲマインシャフト J(共同体)は
「ゲゼルシャフト J(社会)と対置されたヘ
ホフマンの図書館理論
ホフマンの文化批評の基本的立場から見れば当然の帰結として、以下の 3つの領域が重要視
された。これらは彼の図書館理論の中で宣言されている D
蔵書の構成
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e
)、すなわち美学・文学教育的な
形式的に言えば蔵書の構成はその「下限 JC
観点から見た芸術的質が重要であった。ホフマンは、純文学が持つ特別な教育的価値を強調し、
それを選書基準の主眼に据えた。彼はエルドベルクの言う、「初期の民衆教育運動において、
図書館の中は民衆を教え導くための文学や知識に対する度を超えた畏敬が他を圧していた」附
という意味において、従来の収書方針に批判の目を向けている O
ホフマンの信念によれば、民衆図書館 C
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eBuechereD は読者の読書欲を満足
させる場ではなく図書を用いて民衆教育を行うべき場であり、そのためにとりわけ純文学は適
していた。彼は次のような選書基準を挙げている。
-143-
京都大学生涯教育学・図書館情報学研究
vol
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.2
0
0
6年
一「真正であること」、すなわち内面的で創造的な衝動から生まれ、真実に基づいた図書。
-I
形式に価値があること」、すなわち内容に応じて形式も適切に作成された図書。
一「内容に価値があること」、すなわち「読者の存在を高みに導く
2
0
J
)効果を持つ図書。
一「体験に即し人生に意味を持つこと」、すなわち各利用者の人生と考え方に寄り添った図
書
。
これらの選書基準は、いわゆる詩的または市民的なリアリズム文学と、いわゆる地域芸術を
強く優遇することにつながり、結局のところ、土着のリアリズムの伝統を導くことになった。
そのような展開が辿り着く必然的結果として、この文学的方向性は多かれ少なかれ絶対視され、
最終的には国家保守主義の流れに合流していった。ワイマール共和国の末期に刊行された目録
『ドイツの作家」にはこうした基準の問題点がすべて表れている。この目録の作成にはホフマ
0
年の長期に渡って従事し、また 2
0を超えるド
ンが設立したライプツィヒ研究所の職員たちが 2
イツの図書館がこのための特別支出を引き受けた 2九この目録についてユルゲ、ン・イェッセン
0urgenE
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n
) は適切にも「ライプツィヒ路線の文学教育的な遺産」と特徴づけている 22)。
「読書ガイド J(
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) と考えられるこの刊行物には古典の作家から当時の現役
作家たちまでが紹介されており、その同時代人にはリカルダ・フーフ (
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aHuch) やエ
ミール・シュトラウス (
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) など完全に尊敬に値する名前もある。ところがここに
は、トーマス・マン (ThomasMann) とハインリッヒ・マン (
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hMann)、フランツ・
FranzWerfel)、ヨーゼフ・ロート (JosephRoth)、クルト・トゥホルスキー
ヴェルフェル (
(KurtTucholsky) ら多くの作家の名前が出ていな l
'
o これらの作家はどうやら「ドイツ的
な作家」と見なされなかったようである。「ホフマンにとって存在意義を持ち書棚に並べるべ
き図書は、ただ「国民の健全化』という目的達成に役立つ文献だけなのであった」幼。
純文学の教育的価値をそれほど高く評価する以上、純文学の読者にはいつでも本人に役立つ
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) と一
本を見つけられるようにしてやらなければならな L、。そこから「複本収集 (
冊収集 (
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)Jの原則が議論された。複本収集とは同じタイトルを複数冊揃える
ことである O これによって中心蔵書 (Kern
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) と最良蔵書 (
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) とが区別
される。 1
0冊まで同一タイトルを収集した場合に、それらを複本収集図書と言うが、 1
0
冊を超
えた場合には増量図書という。後者の例としてはグスタフ・フライターク (
GustavFreytag)
の小説『借り方と貸し方』があり、これはライブツィヒ図書館の書架に 1
4
3冊置かれた。一冊
収集とは、より多種類の図書を所蔵できるように同じタイトルを複数冊揃えるのを放棄するこ
とである。この一冊収集を抑えることで、読者だけでなく図書館員にとっても蔵書全体がより
よく見渡せるようにすべきとされた。図書館員には自分が紹介したいと思う本と真っ向から取
り組むことが期待された。
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) と見なされるものは純文学、さらには体験報告、
「本来の著作物 J(
人生描写そして旅の作品のみであった。ホフマンにとってその他のすべては「目的・道具とし
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-undW
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) であり、別の機関がないために民衆図書館によっ
ての文学J(
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) されているだけの「副次的分野 J(
N
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) に属していた 24)
て「管理J(
且
a斗品
aτ
ヴォドセク:改革と理念:ドレスデンープラウエンおよびライプツィヒにおけるヴァルター・ホフマンの図書館業績
蔵書の紹介
こうした厳格な選書の帰結として、いわゆる「閉架式貸出 J(
gebundeneA
u
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) 方式を
望む利用者の意に添う対応が行われた。ホフマンは書庫への自由な立ち入りを禁じる閉架方式
を採用し、貸出はカウンターで行った。ホフマンの考えによれば、利用者が自由に出入りでき
る開架式図書館は、人から人へとできるだけ本を紹介してゆく原則に反したためである。また、
利用者は大量の図書の全体を把握することができずに方向を見失うとも考えられた。「図書館
利用者が自分にふさわしい図書を白ら探し出す能力は、ほとんど否定される。……この閉架式
の形は特定の社会的状況から生じてくる。それを果たすには、支援と指導を行う必要があ
るJ25)。すなわち、そもそも開架式図書館が望まれるが、その前提には理想的な利用者の存在
が不可欠であり、その時点でドイツにそのような利用者は存在していないというのだ。
ライプツィヒでは、貸出記録の重要性と「図書と人間に精通した図書館員」の影響力が固く
信じられていた。図書館員には「世話人であり管理者・実務者であり、また図書と時代につい
ての有識者でもある一人の人間」として重要な役割が求められた。図書館員の仕事の基本は
「個別の要望に応じて図書を貸し出す J ことであり、「敏感な感性」を持って働くことであった。
「利用者について、単にその関心の方向性だけではなく精神的な理解力の度合いまでも認識し
ている公共図書館[…]J26! が、そのような仕事のための前提条件と見なされた。これはもちろ
ん、利用者集団が比較的小規模であることが前提となっている O ホフマンは厳密に選書を行い、
ある集団に対して敏感な感性を持って仕事をすることを、単なる娯楽提供に対抗する政策的な
論拠としても使用した。
1
9
1
9年にホフマンは、「民衆の定義が高度に純粋な意味で捉えられて
いる新しい国民国家においては、もはや、これまでのように娯楽・気晴らしの文学という麻酔
薬を粗製乱造して民衆を眠り込ませてきた民衆教育活動には居場所がな Lリ2わと書いており、
そのことに疑問の余地はなかった。図書館利用者への認識を深めるために、ライプツィヒの新
路線派はさまざまな支援方法を開始した。
一
上述のカウンターでの貸出方式
一
図書カードと読書ノート(利用者記録)
一
心理学・社会学に基づいた利用者研究
ー いくつかの中央サービス施設
読書ノートに書き込まれた利用者の希望と評価に基づいて、生活形態に基づいた利用者類型
や読書理由に関する考察が行われた。この読書理由をホフマンは次のように定義した。
一
自らの生活領域を観念上、拡大したいという欲求
一
生活の中で実際に必要性が生じた際に助言、援助を得ょうとする欲求
洞察力、認識、見識それ自体を身に付けたいという欲求28)
且
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京都大学
生涯教育学・図書館情報学研究
vol
.5
.2
0
0
6年
民衆図書館の概念
民衆図書館の概念は、自主独立を基本的な前提条件に成り立つ。すなわち学術図書館とは全
く別の存在としてある。この概念の裏には、ライプツィヒにおいて構想されたような民衆図書
館は、大規模な伝統的図書館とあまり密接に結合しすぎると十分に自由な発展ができないとの
懸念があった。新路線派の人びとは「独自の基本理念の上に民衆図書館という組織を他に依存
しないで設立すること」を主張した。公共図書館運動の時期に宣伝されたような、公共図書館
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k
) のモデルは
と学術図書館との聞を自由に行き来できる「統合図書館 J(
拒絶され、プロイセンで 1
9
3
7年まで名目上はひとつとなっていた両図書館部門の分離が要求さ
れた。これについては専門雑誌上で激しい論争が交わされ、プロイセン国立図書館長フーゴ・
アンドレス・クリュス (
HugoAnd
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s
)、テュービンゲン大学図書館長ゲオルク・レイ
(GeorgLeyh)、ホフマン、パウル・ラーデヴィク (
P
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lLadewig)、そして教育学者ヘルマ
ン・ノール (HermannNohl)などが加わっていた 2九そのような絶対的自主独立を唱える理
念に反対する大都市図書館と学術図書館の代表者たちは、図書館制度の全体的関係を軽率に危
険にさらしてはならない貴重な財産であると見ていた。
したがって、これまで述べたようなホフマンの理念と概念は当時においてはきわめて革新的
であり、同じ職に就く多くの仲間たちを論争に引き込むような影響を及ぼした。とは言え、厳
密に見るとそれも革新的と言えるものではなかった。理論が轍密になるにつれてその考えは教
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ei)の「ドイツの道 J (
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条主義に陥り、賞賛された「教育図書館 J(
Weg) はあてのない袋小路に入り込んでいった。オーストリアの詩人フランツ・グリルパル
ツアー (
FranzG
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p
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) がこの新しい教育の道に関して、「人間性から国民性を通して野
獣性へ」という有名な詩句を述べているが、のちにホフマンがこれを認め、最終的にこの道が
間違っていたことを明らかにしたのはナチスの残虐な体験を経てからのことである。しかし、
よく言われるように、多くの理念はしばしば公共機関の日常活動を超えたところで独自に生き
る。そうして、ホフマンの思想世界についてもまた、彼が自らの専門領域の概念を実行に移す
ために創り上げた諸手段は未来を指し示していたと評価されるであろうし、今後も検討されて
ゆくべきではなかろうか。
公共機関と改革
新路線派の数々の提言や、その個々の主張者たちが行った話しの中には極端に似非形而上学
的で国家保守主義的な含みが見て取れるのに比して、ホフマンは組織力という点で合理的な事
業展開の先駆者であったと言える。すなわち、彼は中央公共機関を設立して、個々の図書館を
蔵書の選択と管理、利用者の助言と案内という「中心的業務 J (
K
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a
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t
) のための空間
とすることや、図書館学校をこうした業務に関する専門知識を備えた人材の育成の場とすべき
ことを論じたのである。その場合に、繰り返し行われる日常の作業工程を中央で処理し合理化
できる形態にすることのみが重視されたと考えるならば、その核心を完全に捉えたとは言えま
い。すなわち、そのような組織を設立することでホフマンは独自の理論・思想を流布させるこ
とができたのであって、それは決して単に図書館政策上の付随目的のわけではなかった 3ヘ ド
1
4
6
ヴ、ォドセク:改革と理念:ドレスデンープラウエンおよびライプツィヒにおけるヴァルター・ホフマンの図書館業績
レスデンープラウエン時代の数年間、ホフマンは活性化した図書館利用者層を自己の考察の中
に取り入れることに関心を持っていた。
労働者・利用者諮問委員会
1
9
0
9年の暮れ、ホフマンは「ドレスデンープラウエン無料公共図書館」に利用者諮問委員会
を設置した。とれは、図書館活動が利用者と図書館員の精神的な出会いでなければならないと
いう彼の主義主張から出た、当然の帰結であった。「そのようにこの委員会も部分的には、利
用者層と図書館との関係をできるかぎり活発で、できるかぎり障害が生じないように作るとい
う目的の達成に寄与している[!]… f
九こうした措置を講じるきっかけとなったのは、図
書館利用規定の作成であった。その過程でホフマンは、利用者層が自ら協力者として参加でき
る仕組みを作るべきだと認識したのである。利用者諮問委員会は、利用者が要望を出し提案す
るための手段であるとともに、図書館管理者側にも自らの考えや計画を利用者に呈示する機会
を提供するものとして期待された。当初はすべての利用者グループの代表からなる 6名の委員
会だったが、その後、市民階級から適当な人物を参加させることができなくなり、労働者階級
のみで構成されることになった凸そのためこれは労働者・利用者諮問委員会として組織されて
9
1
3
年にライプツィヒに向かう(翌年に妻も
いた。ホフマンがこの委員会を設立し、退職して 1
9回の会議が行われたと記録されている。会議の議事録からは、図書館にとっ
移住)までの問、 3
て重要なほとんどすべてのテーマが議論されていたことが分かる。それは図書館の日常的問題
から蔵書構成や読者の態度に至るまで広範囲に及んでおり、その目的は図書館と利用者が関与
できる事項のすべてについて審議することであると表明されていた。ホフマンのこの概念の中
で、労働者・利用者諮問委員会は重要な部分として位置づけられていたにもかかわらず、新し
く移ったライプツィヒでこれが導入されることはなかった。 1
9
1
0
年、ある会談の中でホフマン
はその理由を次のように述べている O すなわち、「労働者・利用者諮問委員会 (ALB) は無
料公共図書館 (FOB) の全図書館活動の有機的所産であり、『この出会いの場』の精神の表現
であり、『なんらかの任意の図書館』に参加者の内的必然性もなくただ真似て設置されるよう
J32) 0 ただし、ホフマンは回顧録の中で、「労働者・利用者諮問委員会によって
な組織ではな L、
ドイツの民衆教育活動の中に何か完全に新たなものがもたらされた」紛と主張することは忘れ
ていない。
ドイツ民衆図書館センター
公共図書館のための中央サービス機関を作るという考えがはじめて出てきた時期は 1
9
1
2年前
Arthur
半にまでさかのぼる O ホフマンとプレーメンの図書館員アーサー・ハイデンハイン C
Heidenhain,1
8
6
2-1941) は互いの考えを交換し合い、それに基づいてハイデンハインが草案
「ドイツ図書館連盟の基本構想」を作成した。しかし、そのように広範囲な「ドイツの図書館
団体」を現実のものとする計画は、周年秋に暗礁に乗り上げた 34)。この失敗の結果、ホフマン
9
1
3年 4月 1日にライブツィヒに移ってから l年後、ホフ
は一人でその道を進むことになる o 1
マンは登記済み社団法人として民衆図書館センターを設立し、自ら事務局長となった。設立資
A吐
京都大学生涯教育学・図書館情報学研究
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.2
0
0
6
年
9
1
9
年の時点で 5
0の図書館が集
金をライブツィヒの市政府が負担したこの社団法人には早くも 1
9
1
5年秋には、このセンターに独自の部門として図書館技術・管理専門学校が併設さ
結した。 1
れた。これはドイツの図書館員、いやむしろ女性図書館員たちのための最初の専門学校である。
民衆図書館センターは「各図書館および実験・モデル図書館における活動の成果を統合し、解
明し、発表して」おり、その活動は「連合する図書館への実際的な援助活動および理論的な基
本活動」と並んで、最初から「新しい図書館構想実現の突破口を切り開くため J35) の宣伝活動
9
1
8年に共和制が宣言されると、ホフマンは、今こそライプツィヒの
が中心に置かれていた。 1
センターを広く認められた全国センター C
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) へ強化する好機だと考えた。 1
9
1
6
年に、すでにその名称を単なるセンターからドイツ・センターへと格上げしていたことは、そ
の前触れでもあった。しかし、ワイマール共和国時代にこれが公式に実現されることはなかっ
たD ただし、事実上は、他に類似の機関がなかったため、少なくとも部分的には全国組織とし
9
2
3
年以降、国は連邦内務省を通してドイツ・センター
ての役割を引き受けていたと言えよう。 1
を助成するようになった。
1
9
2
6年の時点でこのドイツ・センターは以下の 9部門に分かれていた。
1.教育および研修部門
a) ドイツ民衆図書館学校
b) 学科および課程
2
. 専門書誌部門(特に「図書館制度のための小冊子』の刊行)
3
. 情報提供およびレファレンス部門
4
. ドイツ全国書誌部門(ライプツィヒ市立図書館との共同作業)
5
. 工学系図書館部門
6
. 中央製本所部門
7
. 目録印刷部門
8
. 利用者研究および統計部門(蔵書構成)
9
. 民衆図書館有限会社 C
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nGmbH) の購買施設部)
なお、この構成は周年に、利用者・文献研究所が設立され、ここに関連部門が組み込まれた
ことから変更になっている。
図書館技術・管理専門学校
1
8
9
0
年代半ば以降の公共図書館運動によって一連の重要な図書館が成立したにもかかわらず、
2
0
世紀最初の 1
0
年までは民衆図書館員のための制度化された職業教育は存在しなかった。しか
し
、 L、くつかの指導的な研究機関では 6-12か月の無給実習生の研修が行われ、「実践学習」
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) または「職場内訓練 JC
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go
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j
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) の方法に基づいて必要な
専門知識が提供されていた。ホフマンは 1
9
0
6年に最初の女性無給実習生を採用した。のちに妻
となったエリーゼ・ボッセである。ホフマンは自らの民衆図書館モデルを完全に新たなものと
泊且
n
oτ
ヴォドセク:改革と理念:ドレスデンープラウエンおよびライプツィヒにおけるヴァルター・ホフマンの図書館業績
考えたため、それまで存在していなかった民衆図書館員の職業は、単にはじめて作るべきとい
うだけでなく、新たな労働原則にふさわしく構成すべきものであった。独自の専門学校の必要
9
1
3
年 6月にドレスデン
性を認めるという点では、彼は図書館員仲間と完全に一致していた。 1
プラウエンで組織された民衆図書館員のための最初の入門コースは、この学校教育のための前
9
1
4
年 7月にライプツィヒに民衆図書館センターを設立した直後の
段階としてあった。そして 1
同年 1
0月に、ホフマンは本当に図書館技術・管理専門学校を設立することができた。ちなみに
その開校式典の招待客の中には、ニューヨーク公共図書館の女性図書館員でアメリカ図書館協
A
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eR.H
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) もいた。彼女はライプツィヒで開催さ
会長のアデレード.R.・ハッセ C
れた国際書籍・グラフィック見本市 CBUGRA) のためにライプツィヒに逗留していた。この
学校の責任者には妻エリーゼが任命されている。
1
9
1
4年 1
0
月1
2日に第 1期の教育課程が始まった c その時の履修期間は l年半だったが、第 3
期の教育課程からは 2年に延長されている。 1
9
2
1年からこの学校の名称は「ドイツ民衆図書館
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) と改められた。
学校JC
補足すれば、このドイツで最初の図書館学校はもっぱら民衆図書館員の職業訓練を行ってい
9
1
5年、ライプツィヒに独自の学校が設立され、 1
9
1
7
年以
た。学術図書館については 1年後の 1
降、その名称は「ドイツ図書館学校JC
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) となっている。
民衆図書館有限会社の購買施設部門
1
9
2
3
年にホフマンはドイツ・センターに民衆図書館有限会社のための購買施設部門を併設し
た。この考えは自然に出てきたもので、ロイトリンゲンの図書館サービス有限会社購買センター
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eGmbH) とともに今日まで継続し、大きな成果を上げている。業務
の中心は大規模な書籍取引にあり、図書館で選書された多くをここで購入することができた。
それによってドイツ・センターは同時に、センターを維持するための資金調達手段を副次的に
確保することもできた。図書は値引きのない正規の小売価格で、売られ、この利益は「文献担当
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) の人件費に充当された。この職員は主にセンター職員が兼務
職員 JC
し、新路線派の基準に基づいて図書館員としての専門的な選書に責任を負っていた a7)O 厳しい
時代だったにもかかわらず、この仕事から利益が出るようになるまでにはそれほど長い期間を
必要としなかった。粗製紙による図書の購入がますます多くなり、それに図書館特製の表紙を
付けて供給することに成功した。こうして 1
925/26年にはすでに 1
,
8
0
0タイトルを超える図書
が提供されていた 38)。
利用者・文献研究所
。
、 1
9
2
5年以降
ライプツィヒの諸機関を「解体」へと導いた背景にこれ以上詳しくは触れな L
9
2
6
年 4月 1日に利用者・文献研究所
ドイツ・センター内に構築されていた研究・準備部門は 1
として発展的に解消された。専門的にみれば、この時点からセンターの実務的なサービスと基
礎研究とが切り離されたことは完全に合目的的なことと言える。この新しい研究所の責任者は
9
3
1年以降は、特にそのために設立された登記済み社団法人、事l
ホフマン自身が引き受けた。 1
1
4
9
京都大学生涯教育学・図書館情報学研究
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6年
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J がその責務を負った。研究所
用者・文献協会 C
の資金は協会の構成員、すなわちバイエルン州を除くドイツの全州から得ることができ、世界
経済恐慌が深刻化するまで研究所では少なからぬ予算を潤沢に使用できた。大部の研究論文
『近代の教育図書館における貸出サービス組織J139) を発表して以降、ホフマンは「この民衆図書
館内の図書と利用者という要素を社会心理学的基礎に基づいて教育学的関係の中で補強するこ
4
0
) に努力を傾けた
とJ
Q
この研究所はこうしたホフマンの認識に導かれながら、民衆教育学や
文学社会学上の問題を研究するよう期待されていた。このような目的設定はその時代において
9
3
1年まで、この
は独自であり、外国でも関心の的となっていた。分離されて完全に独立する 1
研究所は次の 3つの部門から構成されていた。
1.研究部門。すなわち、「ドイツ民衆図書館の実際的なすべての仕事のための基礎を作る」
部門。[…]これには利用者・文献学および図書館員の職場実習が含まれていた。
2
. ドイツ全国書誌部門。すなわち、「研究部門で築き上げられた基礎の上に文献の新たな
整理と調査を実施し、それとともに民衆図書館員たちに対して、彼らが各自の図書館を内
容面で充実させてゆくために不可欠な書誌・文献に関する知識を提供する」部門。後年に
なって、民衆図書館員の基準に基づいて徹底的に行われる図書評価の仕事が加わった。
3
. ドイツ民衆図書館学校部門。すなわち、「民衆図書館員の後継者たちに精神的な基礎を
身に着けさせ、民衆図書館員の仕事の基本形態を習得させる」部門へ
9
3
1年に当研究所の研究結果を基にして白著『女性の読み物』を出版したとき、
ホフマンが 1
外国では大きな反響があった。なぜなら、これはある特定の図書館利用者集団の読書習慣と読
書態様に関して、新しい方法に基づき体系的に書き上げられた最初の研究書だったからである。
これについては、シカゴ大学大学院ライブラリースクールが発行する専門雑誌『ライブラリー・
クオータリー』の第 1
巻に詳細な書評が出ている ω。この書評は、
1
9
3
1年末から 1
9
3
2年初頭に
ヨーロッパ見学旅行を行いライプツィヒの諸施設も見学した名高い図書館学者ダグラス・ウェ
DouglasWaples,1
8
9
31
9
7
8
)教授の筆になるもので、「ホフマンの意図は、図書
イプルズ C
館学における共通の基準を作成し強化するために、彼がグループとともに[…]実施した利用
者研究を外国の図書館との比較事例をもって補完し調整するということにあった」と記してい
る43) 。ウェイプルズはあるライプツィヒの職員を向分の大学院で学ばせるためにシカゴに派遣
することを提案し、この計画は 1
9
3
2
/
3
3年に実際に実行された。しかし、その後のナチス支配
によって、この希望に満ちた交流の始まりも間もなく停止させられてしまう。
1
9
3
7
年の初め、ホフマンがすべての役職から退くとともに、利用者・文献研究所の発展には
終止符が打たれた。
図書館員の図書評価
図書評価の尺度、特に純文学に関する選書の基準はホフマンの改革の核心を形成するもので
あり、図書館員の批評活動とレファレンス・サービスの組織化が論議の対象となるのも多かれ
1
5
0
ヴ、ォドセク:改革と理念:ドレスデン プラウエンおよびライプツィヒにおけるヴァルター・ホフマンの図書館業績
少なかれ必然的なことだった。また「出版される図書は莫大な数に上るのでそのすべてを把握
、
することはできず、市場にはそれを批判的に選択する十分な力がない[・・・]ことから J44) も
その組織化は不可避であった。そのためホフマンはその主導権を握り、上述のように 1
9
1
4
年か
ら計画的に諸組織を作り出していったのである O ライプツィヒの職員へレーネ・ネイサン
C
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eNathan) が編纂した『書評リーダー』は興味深い実験であった。これは毎週、目録
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) のための情報サービスを載せた試みであり、
カードに「文献指南 JC
そこに提示されたのは独自の批評ではなく 8
0から 1
0
0にのぼる日刊紙と雑誌の書評から抜粋し
たものであった。 ドイツ・センターでは「これは出版市場に、さらには図書の出版にも影響を
与える可能性を聞くだろう」と、その展開に大きな期待が寄せられた。その他の多くの事例で
も見られることだが、ライプツィヒでは自己の影響力に関して過大な幻想を抱くことがよくあっ
たのである。なお、この『書評リーダー』は、言うまでもなく、現在ロイトリンゲンにある図
書館サービス有限会社購買センターの情報サービス(ID) の前身であり、公共図書館の編集
者共同体 C
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) の一機関であると見ることができる。しかし残念なこと
1
7年と 1
9
1
8
年)発行されたのち、 1
9
1
9年にはまだこれについての詳細な報
に、これは 2年(19
告書45) が出ているにもかかわらず廃止されてしまった。
ワイマール共和国の時代になると図書館員の書評は、 2つの競合する雑誌を通して専門的に
公開するという方法が見出だされるようになった。新路線派の対抗勢力が刊行していた機関誌
2
1年第 l号 -1933
年第 1
3号)は、 1
9
3
0年度に刊行した第 1
0
号の時に書
「図書館と教育保護.] (
19
評部分の割合が 5
1
.5%となり最大の量に達した。これは約 1
,
0
0
0タイトル分に相当する O ライ
20/22年第 6号 "
'
1
9
3
2年第 1
6
号)は 1
9
2
9年度刊行の
プツィヒ側が出した『図書館ノート.] (
19
3号でその割合が最高に達し 4
2
.
9
%を占めた。これは 2
3
9タイトル分に当たり、前者と比べ
第1
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) を考えた
ればささやかな数であるが、「平均的な購入予算 J C
場合、ひとつの図書館が 1年間に買うことのできる新刊本は約 3
5
0
冊という 1
9
3
0年のホフマン
の計算に従えば、「多くの図書館は[…]この書評サービスにどれほど助けられていたことだ
ろうか J46)。
まとめ
ホフマンは公共図書館運動の正当な後継者と見られていたにもかかわらず、同時にその改革
者でもあろうとした。ホフマンの改革理念は、彼がそれまでの発展の弱点と認識したもの、す
なわち読書量のみの重視、大ざっぱな処理、そして教育課題の軽視といった事柄を正すための
代替案として考えられた。ホフマンは大きな組織力を持ち、そのうえ才能ある理論家でもあっ
たので、一連の革新的な考えを専門的な議論の姐上に載せ、これらをみずからの活動場所であっ
たドレスデンープラウエンとライプツィヒで試みたのである。しかし、ホフマンの生涯の仕事
9世紀という時代性に
を評価するに際して、教育についての彼の考えにあまり独自性はなく、 1
深く根を下ろしていたことを見逃してはならな L、。すなわち、すすんで改革者として振るまい
ながら最終的には「保守的な革命」の代表者となった一人の人聞の矛盾した姿が見えてくる。
しかし、ホフマンの人格者としての影響力としばしば挑戦的に展開される論証の説得力はとも
ロリ
京都大学生涯教育学・図書館情報学研究
vol
.5
.2006年
に 、 彼 の 理 念 が20世 紀 の 1960年 代 ま で 記 憶 の 中 に 生 き 続 け る こ と を 保 障 し た 。 そ れ に は 確 信 的
な信奉者たちの力も大きい。彼の影響力は、いくつかの分野ではドイツ国境を越えたところに
まで及んでいる。 1930年 、 世 界 成 人 教 育 協 会 会 長 で あ っ た イ ギ リ ス 人 ア ル フ レ ッ ド ・ E
.・トゥ
.Twentyman) は ホ フ マ ン を 国 際 図 書 館 委 員 会 の 会 長 に 招 聴 し た 17)。
エ ン テ ィ マ ン (AlfredE
アメリカの社会学者たちは特にホフマンの利用者研究に関心を示した。また、当時まだ成立聞
もないソビエト連邦も彼の利用者指導の方法論に関心を抱いていた。 1924年 、 レ ニ ン グ ラ ー ド
ではホフマンの
2つ の 著 作 「 民 衆 図 書 館 の 実 際 』 と 『 文 献 へ の 道 』 が ロ シ ア 語 に 翻 訳 さ れ 、 民
衆 教 育 管 理 局 (GUBONO) 書 籍 部 門 の 出 版 社 か ら 『 図 書 館 制 度 の 理 論 と 実 際 」 と い う タ イ ト
ルで出版された約。もっとも、彼の思想モデルを通じて図書館員の世界が将来「ドイツの道」
に進むであろうという希望的観測が、幻想であることはもちろん明らかであった。
【注・引用文献】
1)アヴェナリウスはリヒャルド・ワーグナーの甥であり、 1
8
8
7年から雑誌『クンストヴアルト』の編集
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) を設立し、芸術、美術教育、文化財保護や
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郷土愛を促進しようとした。同時に、低俗な文学作品を嫌い、広範囲な出版活動を展開した。アヴェナ
リウスは、広く民衆層に対する美術教育の可能性を信じ、芸術教育の努力をすすめるうちに芸術や文学
に対する価値判断の基準を確立しようと試みた人物であった。
2) Hofmann
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3)公共図書館運動については、以下の文献を参照。 T
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体系的に記述されている。
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8)それとの関連で、ロシアに対するドイツ知識人の巡礼もどきの現象も見ることができる。たとえば、
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1版を重ねた。この書は『クンストヴアルト』誌によって始められた運動
1
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) 出版された 1
の末商のひとつである O レンプラントは芸術家としてドイツ人の人柄を理想的と称賛していた。一方的
な理解や知識の積み重ねに代えて、芸術教育が促進された。「極端な物質主義から」人びとを解放する
ことが意図されたのである。そのような意図を考えれば、この運動も労働者教育に代表されるポジティ
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京都大学生涯教育学・図書館情報学研究 vol
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31)フェリシタス・マルヴィンスキーによる引用:Vond
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