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人の子は安息日の主 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

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人の子は安息日の主 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート
人の子は安息日の主
マルコによる福音 11
人の子は安息日の主
2:23-28
マルコ福音書はこの、今日読む箇所から、「安息日」の守り方について、
イエスと当時の宗教家たちとの対立を描きます。この対立は、やがてイエス
を捕えて処刑しなければならないところまで、宗教家たちを怒らせて、イエ
スへの憎しみを抱かせるのですが、私たちはまず、そのことの起こりを麦畑
の中のできごとから、学んでみようと思います。
安息日と言いますと、初めて聞く方は「日曜日のことかな」と思われるか
も知れませんが、これはユダヤ教会の聖日に定められている土曜日のことで
す。ユダヤでは日付は日没で変わりますので、実際には金曜日の晩から土曜
日の晩までが「安息日」シャッバート
tB'v;
です。これが英語に訛りますと
“Sabbath”となります。
31 年前の春、テルアビブの小さなホテルに荷物を置いて町に出た時の驚き
を、私は今も昨日のように思い出します。たまたま金曜日の夕方で、店が全
部閉まっているのです。アレンビー通りというとテルアビブの“銀座”みた
いな所なのですが、どこもみなブラインドを降ろして閉店でしたから、買い
物もできませんでした。辛うじて、“Olympia”というタイプライターのシ
ョーウィンドーが開いていました。あれは閉め忘れたのではなくて、宣伝の
ために開けて照明を点けていたのでしょうが、電気のスイッチは安息日に触
ることは許されないので、警察としても、「消せ」と言えなかったのでしょ
うか。
そう言えば、ユダヤの古文献「ミシュナ」に定められた、安息日に絶対し
てはならない「労働」のリストがあります。本来は、週の第七日を労働休止
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日として、がつがつした貪欲から人を守ると同時に、生ける神のこと、信仰
のことに心を向けるのが、「安息日には労働をするな」という律法の精神だ
ったと思いますが、ユダヤの宗教家は、「何が労働か……何をしたら安息を
破ったことになるか」を、39 項目に分けた表の形で定めていました。もとも
と農作業と牧畜しかなかった時代の掟ですから私たち現代人には、全部を列
挙するのはあまり意味がないと思います。その一部だけを御紹介しますと、
種蒔き、収穫、脱穀、パン焼き、屠殺、縫物、書き物、物の運搬。変ったと
ころでは、点火と消火があります。安息日には、新しく火を点けたり、燃え
ている火を消したりしてはならないのです。
これを現代式に直すと、さっきの電気の点灯と消灯もひっかかってきます。
炊飯器のタイマーみたいに、前の晩にかけておくのは違反にならないとも言
います。冷蔵庫が勝手にブーというのは構わない。カメラはいけません。あ
れは光を使うからで、光は火と同じものとされます。エルサレム神殿の“嘆
きの壁”で安息日に写真を撮ろうとすると、係員がとんで来て制止するそう
です。自動車はガソリンを燃やしていますからエンジンを始動すれば“点火”、
切れば“消火”になります。今でもエルサレム市内の厳格派の居住区メア・
シャリームに間違って車で迷い込みますと、安息日なら、投石されて抗議を
受けます。
「安息日に許される道程」(使徒 1:12)というのは、文語訳以来おなじ
みのものですが、これは出エジプト記(16:29)に安息日には「それぞれ自
分の所にとどまり、その場所から出てはならない」と定められていることに
由来します。「その場所から」AmqoM.mi とはどの範囲か……ということも、ヨ
シュア記(3:4)の「約二千アンマ」という数字を基礎にして、「半径約 900
m の円内なら自由に移動していい」と決める人たちもあれば、「そうじゃな
く、一つの方向に 900 m 行って戻ることが許される」と教えた人たちもいま
した。今日は幸い、安息日じゃありませんが、犬飼さん以外の人はみんな“ア
ウト”で反則ですね。田中さん夫婦なんかは大変な大罪を犯して、それも朝
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からブーブー火を焚いて走って来た。もっとも、アメリカのユダヤ教徒の間
では、会堂に出向く目的に限り自家用車の使用を認めるそうです。
「安息日に麦の穂を摘む」と見出しのついているこの段落では、いよいよ
そういう、本来の精神を失った規則づくめの宗教が、イエスが持って来られ
た命の福音と正面からぶつかり合うのですが、ここからマルコの筆は、一段
と冴えを見せることになります。
1.弟子たちの「安息日違反」の責任をイエスに問う。 :23-24.
23.ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きなが
ら麦の穂を摘み始めた。 24.ファリサイ派の人々がイエスに、
「御覧なさい。
なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
弟子たちが摘んで食べたのは、正確には「小麦」の穂であったのか、それ
とも「オート麦」か、他の穀物かは、マルコが書いた“
”(穀物
の畑)という言葉からは分かりません。でも、日本語の「麦畑」は具体的で
分かり易いですし、特に、弟子たちが手の平で籾殻を揉んで落としてから、
生まの粒を食べた様子(ルカ 6:1)を十分想像させてくれます。英語の聖書
は昔から“corn”と訳したものですから、アメリカの人が読めば、大きな“と
うもろこし”を想像したかも知れません。古い英国の英語なら“corn”は「穀
物の粒」で、ここは適訳だったはずです。最近の訳文では“wheat”(TEV)
と言い換えています。
弟子たちがしたようなことは、ユダヤ律法の精神として許されていた(申
命記 23:25)ものでした。この後に出てくるダビデの話からみましてもイエ
スの弟子たちはこのとき、よほど空腹だったのに違いありません。「隣人の
麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはなら
ない」というのは、そういう緊急時のための人道的な規定でした。ですから、
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ファリサイ派の人々がイエスを詰ったのは、無断で畑の穀物を食べたことで
はありません。「聖なる安息日に“労働”をした!」と、教師であるイエス
の責任を問うたのです。
先程触れた安息日の禁令―39 項目の「安息日にしてはならない労働」の
リストのトップから六つが、種蒔き、鋤で耕す、刈り取り、束ね、脱穀、籾
すりです。「あなたの弟子たちは、安息日にも拘わらずそのうちの三つもや
った。教師としてそんなことを許していいのか!」
2.ダビデの故事に託して、麦畑の行為の正しさを説く。
:25-26.
25.イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて
空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 26.アビアタ
ルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食
べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
前に夕拝でサムエル記を読んだことがありますが、これは、ダビデがサウ
ル王の刺客に追われて、命からがら逃避行を続けていた頃、ダビデ最低の時
代に起こった事件です。サムエル記上 21 章にあります。
当時ノブの地にあった神の聖所に駆け込んだダビデを、祭司アヒメレクは
「不安げに迎えた」と言います。王の「お尋ね者」ダビデについて情報が、
仮にまだ届いていなかったとしても、王の婿に当たる若武者がまるで落人の
ような姿で、従者共々食べるものもないというのは、どう見ても異常事態で
す。この時、祭司アヒメレクは自分の裁量で、神の幕屋の中の十二個の聖な
るパン(レビ 24:5)を出してきて、ダビデと家来たちに与えます。本当は
そのパンは、幕屋に仕える祭司でない限り食べることを許されないものでし
た。それを、「この場合は飢えて疲れた旅人に与えても、律法の精神に反し
ない」と大胆に判断したアヒメレクは聖なるパンをダビデと従者に食べさせ
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たのです。武器も無いというダビデに、彼は聖所に奉納してあったゴリアト
の剣を出して、ダビデに与えます。かつてダビデがあの巨人を倒したとき以
来、記念として幕屋に奉納されていたものです。
後にこのアヒメレクはサウル王から、お尋ね者を助けた反逆者として面詰
されますが、その王の言葉も恐れずに、ダビデの忠実さを王に弁護して処刑
されたという、気骨のある人物です。一家皆殺しに会ったアヒメレク一族の
うちで一人だけ生き残った息子のアビアタル(LXX による)をダビデは責任
を感じて匿い、やがてアヒメレクの孫に当たるその息子を重臣の一人に加え
ます。このよく知られた悲劇の人アヒメレクの名をマルコだけがなぜ「アビ
アタル」としたのかは、古来、聖書学徒の謎になっています。(註 6 を参照)
イエスはこのサムエル記の物語りに輝きを与える気骨の人、思いやりの人、
アヒメレクの故事と結び付けながら、「弟子たちは決して安息日を冒涜した
のではない。私も、ただ不注意に見過ごしたのではない。私はあのノブの祭
司アヒメレク以上のことを、安息日に行ったのだ」と、ファリサイ派の詰問
にお答えになりました。これだけですと、イエスの言葉は、安息日の律法を
死んだ戒律にしてはならない。安息日を定めた方のお心は、困窮者への温か
い思いやりと真実な愛だ……というヒューマンな教えになります。しかし、
イエスのイエスたる所以は、実はその後に断言なさった内容にあります。
3.「安息日を支配する主」としてのイエスの宣言。 :27.
27.そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日
のためにあるのではない。 28.だから、人の子は安息日の主でもある。」
「安息日の主でもある」の意味は、「私は安息日の律法も支配する。安息
日の精神も守り方も、私は天の父からの全権で自由に判断できるし、自分の
裁量で命じたり免除したりもできる」ということです。これは、聞いたファ
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リサイ派にとっては、とても許せない暴言でした。
まず、この御発言の前半の 1 行半は分かり易いと思います。「安息日は人
のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」人を安息日の
奴隷にしたのは、ユダヤの宗教家たちでした。麦畑で空腹を満たした弟子た
ちを、「そうら、安息日に刈り取りと脱穀の作業をした」と、鬼の首でも取
ったように指弾したのもそのためです。しかし、安息日に込められた神様の
思いは、人間が労働とともに際限の無い貪欲の泥沼に沈まぬよう、いつも命
の源に戻って信仰の足場を確認できるよう、そして、安息日を定めた神の心
で人につかえることができるよう……そんな温かい御配慮であったのです。
それをいつの間にか見失った人たちへの、イエスの鋭い皮肉がこの言葉には
盛られています。
イエスの御発言の後半はしかし、今の前半のお言葉を、単なるヒューマン
な教訓以上のものにしています。「だから、人の子は安息日の主でもある。」
私は今の朗読の後で、「人の子である私は天の父の全権を帯びて、私の裁量
で安息日の精神を断言する。守り方についても、この私が判断を下した上で、
権威をもって命じる」という意味だと説明(註 1)しました。この大胆な断
言の背後には、聖なる父とイエスによる「安息日」の新しい意味づけと、権
威づけがあったのです。もちろん、律法の民イスラエルにとってですが。こ
れはまた、ひとクッション置いて、私たちには「主の日」の守り方について
も、全く新しい守り方―何ものにも縛られないで全く自由でありながら、
いつも主であられる「人の子」のお心を尋ねつつ個人として正味の判断をく
だす―ような守り方にも、このお言葉の意味を適用できます。
この宣言が、もし前半だけで終わっていましたら、「そうだ、安息日はこ
の私の利益のために定められた」と軽薄に受け取る人も出るかもしれません。
「私が好きなように、私の日としてフルに利用しよう。」しかし、そこに「安
息日の主」が厳として存在され、その背後に安息日を定めた天地創造の神が
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おられるのであれば、私たちはまず「安息日の主」である方のお心を確かめ、
その心を心とした上でこの一日を受けてエンジョイもしたい。神の栄光のた
めに献げもしたい。人の子の主権を尊重する仕方で、これを人のためにも用
いたいのです。
また「ひとクッション置いて」言えば、“安息日”の時代が終わって“週
の第一日”にキリストの復活を記念する群が生まれた時、この日を、クリス
チャンたちが「主の日」
と呼ぶようになったのは、やはり意味深
いと思います。もし「どの日がより清い、聖なる日か?」という角度からだ
け言うのなら、日曜日は、特に土曜や月曜より“神聖”な訳ではありません。
しかし、「私は安息日も週の第一日も支配する主である」と宣言される方の
お心をまず尋ねて、与えられたこの命をどのように生きるべきか……与えら
れた時間と体力と財力とをどんな形で今週は聖別してお献げしようか……そ
れを、静かに一人一人が祈って判断できる“恵みの時”として受け止めるな
ら、それは「人間の日」ではなくて、まさしく「主の日」―“Lord's day”
なのです。
《 結 び 》
静岡県のある町にお住まいのクリスチャンの婦人から、お便りを頂きまし
た。直接にも間接にも、全く存じ上げない方です。丁寧に横書きされたお手
紙は、本文が便箋に 3 枚、追伸が 7 枚の、とても真面目な信仰的なお文章で
嬉しく思いました。
「大東で 20 年前にお話しになった『ローマ書講解』のテープを、教会の A
夫妻よりお借りして聞かせていただき、大変励まされました。どうしても、
この気持ちをお伝えしたくて、思わずペンを執りました。」その A さんとい
う方が、私のテープをどこから入手なさったのか、私には想像がつかないの
ですが、あれは、ローマ書の本を刷ってからは、えりにか社のカタログから
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も廃盤にして消した、古い録音です。あのローマ書の福音に引き入れられて
夢中で読んだ二年あまり(1972~1975)は、私にとって、「神が御子を私と
いう器に啓示なさった」(ガラテヤ 1:16)神聖な時でした。あれは、「キ
リストの福音は何か」ということが初めて私にハッキリした、私の生涯の記
念になる学びでした。
その、録音メッセージとしてまだ「習作」に近い作品から、イエス・キリ
ストの福音の神髄を受け止めてくださって、「喜んでクリスチャンの道を生
涯歩んでいける励ましを受けました」というお言葉を頂いたのは、主が天使
を送って励ましてくださったものと思えました。
「今まで 15 年のクリスチャン生活を、
『忍耐がない』、
『努力が足りない』、
『御聖霊に満たされていない』という理由で、ずっといじけていた“怠惰な”
私がそれから解放され、自由に、楽に、『大好きな聖書、大好きな祈り!』
と言えるようになったのは、まさにこの福音のメッセージだったのです。盲
点となったのは、『行いでなく信仰』と言いながら、その『信仰』という言
葉の中身は『祈ること、礼拝厳守、奉仕第一、聖書の日々通読』など……ま
さに『行い』なのでした。これがなくては祝されない。神に本当に喜ばれる
生活でないから、天国へ行っても一番下の者となる。天に宝が積まれていな
い……などなど。こういうことから解放されたのは、ローマ書の恵みの福音
でした。」
そういう「安息日の重荷」、「教会生活と礼拝と奉仕の苦痛」からの解放
をお伝えするだけでも、この姉妹のお役に立てたのかな……と感謝して、私
は短いお返事をしたためてから、牧歌 4 月号に載った飯島さんの「教会の誤
解」という問答(425 号 8~19 頁)をコピーさせていただいて同封しました。
「人が安息日のためにある」ようなキリスト教が、ある所にはあるのだと気
がつきましたし、また今更のように、このマルコ伝のイエスのお言葉をかみ
締めました。そして、この方とテープを一緒に聞きながら意見を交わしたと
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言われる、二三のクリスチャンの方々のコメントに、一言ヒントを書いて差
し上げるべきだなと考えました。その友人たちの意見というのは、「この、
織田さんのテープにあるような解釈は“怠惰”と“分裂”を招く」というの
だそうです。お手紙の主は「私はそうは思いませんが」と付記しておられま
した。私のコメントは次の通りです。
「お友達の方々が言われたようなことは、私の友人たちの中にも言ってく
れる人たちが何人かいますから、その趣旨は私にはよく分かります。たしか
に、イエス・キリストに触れることなしに、頭だけで自由の福音をいじりま
すと、怠惰とわがままの言い訳を見付けるだけかも知れません。でも、本当
にイエス様の恵みを知った人なら、教会がその人に押し付ける「期待される
クリスチャン像」から解放されて、自由な個人として、キリストの弟子とし
て、その人その人なりの生きた正味のものが、聖霊によって内から溢れるよ
うになると、私は信じています。もしその結果を人が“怠惰”と呼ぶのであ
れば、私はその“怠惰”を誇りにできます。」
祈りをこめてその言葉を書きながら、私はまたイエスのおっしゃったあの
お言葉を思い出していました。
「人の子は安息日の主である。」
(1994/03/13)
《研究者のための注》
1. 安息日の本来の意味については 3:27a に基づき、「人を際限のない貪欲の罠に落ちる
ことから守り、神に目を挙げて霊の命の源に帰るための恵みの時」として捕えました
が、更に福音の根本である「わざによらず信仰による救い」への準備として「わざを
“断ち切る”日」として
tB'v;
の語源からの象徴的かつ神学的な理解は 1975 年 1 月 2
日の申命記 31:12-18 による「わざと安息」に発表してあります。“ヘブライ書の福
音”第 8 講の《結び》をも参照してください。
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2. 「麦畑を」
は文字通りには「蒔かれたもの(穀物)(の畑)を」
です。Schweizer・高橋訳マルコは「耕地を通って」。Schweizer・佐竹訳マタイは「作
物の間を」。Schniewind・量訳マタイと Rengstorf・泉-渋谷訳ルカは「麦畠を」と
訳しています。(いずれも NTD)
3. 安息日の規定は、創世記 2:1~3、出エジプト 20:8~11、申命記 5:12~15、同 31:
14~15 にあります。これと関連して、安息前日の二倍量のマナの出来事は出エジプト
16:22~31 に、安息日の薪拾いの事件は民数記 15:32~36 出ています。
4. 現代の安息日の守り方や禁令は、吉見崇一著「ユダヤ人の祭り」を参照。
5. サムエル記に、「アヒメレク」と明記して、しかも反復して言及されるノブの祭司の
名をマルコ(だけ)がなぜ「アビアタル」としたのかは明らかではありません。ダビ
デが引き取って生涯その面倒を見たと思われる息子のアビアタルに名誉を与えるため、
あるいは悲惨な死を遂げた父アヒメレクの記憶をダビデに保護された子のアビアタル
の名で和らげて、「アビアタルのくだり」とか、「大祭司アビアタルの時」という習
慣ができていたものか……? あるいは、これは、マルコの全くの記憶違いと書き違い
であったものを、写本を作る際写字生が手を入れずに誤謬のまま本文を尊重して伝承
したものか……? 霊感を受けた福音書の記者が「事実を書き誤るはずはない」と確信
する人たちの熱意は尊重するとして、新約の記者たちも人間であったことを考えると
き、福音の根本以外のところでは彼らも「ウッカリ間違い」する可能性はあったので
しょう。
6. 「アビアタル」(新共同訳サムエル上 22:20)は、MT の
rt'y"b.a,
に基づくなら新改
訳のように「エブヤタル」と音訳するのが正しい訳ですが、すでに LXX がマルコと同
じ読み方の
と音訳していましたから、このギリシャ語訳を参照して「アビ
アタル」と表記した新共同訳の意図は、私にはよく分かります。
7. 8 頁に引用した『祈ること、礼拝厳守、奉仕第一、聖書の日々通読』等について、私
が「安息日の重荷」、「礼拝と奉仕の苦痛」に同情したのは、祈ることや聖書の通読
それ自体が安息日律法の重荷であると断定したのでなく、特定の群や特定の教団が定
めた規格板の「奉仕」や、ノルマとしての「伝道成果」や、実績としての「通読頁数」
の基準に達しない人を、その人の能力や健康や家庭事情や仕事の束縛等を全く考慮せ
ずに、単に“怠惰”ときめつける教会の風潮への私の怒りと、そういう環境で「合格」
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とみなされるまで劣等感と自己卑下から脱出する機会のない方々への同情を表現した
ものです。お手紙の筆者の「大好きな祈り、大好きな聖書」という言葉の中に、私は
これらのものが全く新しい自由な自発的― spontaneous ―な形で生まれつつあ
るのを感じて、嬉しく思いました。「私ならその“怠惰”を誇りにできます」と付記
した理由です。
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