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日本マラウイ協会 設立25周年記念誌
日本マラウイ協会 設立25周年記念誌 Mzuzu マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe Malawi Zambia Mozambique Zomba Blantyre 2009 年7月 Tanzania 発刊に寄せて ― 平和と繁栄の輪を広げよう ― 日本マラウイ協会 会長 数原孝憲 「日本マラウイ協会」は 1983 年 2 月の生誕から丸四半世紀を越えました。この慶賀すべき節目に当り故卜部敏男初代会長を偲び、 秋山忠正前会長のご健勝を祈り、合わせて永年ご奉仕下さった竹谷稔子事務長に感謝したいと思います。 「十年一昔」 、私も会長就 任後丸十年が過ぎ、この喜びを皆さんと共に分かつことを嬉しく思います。 この記念誌は、これまで「協会」活動の中心となってきた青年海外協力隊のマラウイ派遣OB・OGの発意と熱意により作成さ れました。ページを捲り足跡の一齣一齣を辿ると、 改めて永年に亘る皆さんの情熱と奉仕に深く感嘆させられます。楽しみながら、 毎日の仕事と両立させている皆さん一人一人に心から敬意を表します。 私達の「協会」は、 「協力隊」の発展と共に成長してきました。 「協力隊」に参加した皆さんは自ら志を立て、青春の一時期を途上 国の発展に尽し、派遣先の人々との間に消えることのない信頼と愛情を育んできました。これは、皆さん方一人一人の体験・宝で あるのみならず、日本と途上国の絆・宝でもあるのです。それは、戦後平和国家、民主国家として再生し、国民のたゆまざる努力の 成果である経済発展の中で実現してきました。 「協力隊」の原点は、隊員参加の自発性と受け入れ国の繁栄への協力、そして派遣先 の人々との交流・親善にあります。省みれば戦争中、多くの青年が海外に派遣されましたが、彼らが自らの意思で行ったのか、何を しに行ったのか、後に何を残してきたか、相手国の人々に喜ばれたか、その結果が日本に何をもたらせたかを問うとき、戦後世代 の「協力隊」活動は、日本の将来そして人類社会の行く末に大きな希望を与えるものです。 皆さんの奉仕活動もその延長上にしっかりと根ざし、たとえ一人一人の奉仕は小さくとも必ず私達の子孫に遺産として引き継 がれて行きます。それを見て、OB・OG以外の「協会」員の支援も得られます。次の四半世紀に向けて、これからも共に力を合わ せて「平和と繁栄の輪を広げよう」ではありませんか。 目 次 日本マラウイ協会設立 25 周年 記念寄稿 ・・・・ JICA マラウイ事務所長 小淵 伸 司 ……………2 日本マラウイ協会設立の経緯と創生期の事業 ・・ 昭和 55 年度 2 次隊 郡 チェワ語辞典 初版 編集の思いで ・・・・・・・ 昭和 49 年度 2 次隊前期組 三浦 洋 子 ……………3 昭和 51 年度 1 次隊 鶴田 伸介 チェワ語辞典 改訂版 編纂を振り返って ・・・・ 昭和 63 年度 1 次隊 河 野 国情紹介誌 第 2 版 編集回想記 ・・・・・・・・ 昭和 53 年度 2 次隊後期組 上田 国情セミナー・シマを食べる会 ・・・・・・・・ 平成 3 年度 3 次隊 中 川 機関紙 KWACHA 編集回想記 ・・・・・・・・ 昭和 53 年度 2 次隊後期組 上田 旅行ガイドブックの編集・発刊を振り返って ・・ 昭和 63 年度 1 次隊 河 野 進……………8 グローバルフェスタ ・・・・・・・・・・・・・・ 昭和 52 年度1次隊後期組 吉 田 均……………8 マラウイ剣道基金 ・・・・・・・・・・・・・・・ 平成 3 年度 3 次隊 中 川 総……………9 高田小学校との交流 ・・・・・・・・・・・・・・ 昭和 53 年度 2 次隊後期組 上田 秀 篤………… 10 ホームページ 回想記 ・・・・・・・・・・・・・ 昭和 53 年度 2 次隊後期組 上田 秀 篤………… 12 マラウイ親善使節団の思い出(1)・・・・・・・・・ 昭和 50 年度 2 次隊 藤村 俊 作………… 14 マラウイ親善使節団の思い出(2)・・・・・・・・・ 昭和 46 年度 1 次隊 桐田 直 樹………… 15 マラウイ親善使節団の思い出(3)・・・・・・・・・ 事務長 竹谷 稔 子………… 16 マラウイ ウォームハート プロジェクト立ち上げ・・ 昭和 53 年度 2 次隊後期組 佐藤 賢 三………… 17 食糧支援募金 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和 51 年度 1 次隊前期組 鶴田 伸 介………… 18 大統領招待によるマラウイ訪問 ・・・・・・・・・ 日本マラウイ協会会長 数原 孝 憲………… 20 昭 治 ……………2 進 ……… 4 秀 篤……………4 総……………5 秀 篤……………6 JICA マラウイ事務所本邦派遣スタッフ一覧 ………………………………………………………………………………………………… 22 年 表…………………………………………………………………………………………………………………………………………… 23 歴代会長・任期………………………………………………………………………………………………………………………………… 29 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 1 日本マラウイ協会設立 25 周年 記念寄稿 JICA マラウイ事務所 所長 小 淵 伸 司 日本マラウイ協会設立 25 周年おめでとうございます。 2008 年は日本とマラウイとの関係において歴史的な年でした。マラウイに日本大使館が開設され、初代の大使として野呂大使が着 任されました。5 月には TICAD Ⅳが開催され、ムタリカ大統領が訪日されました。 青年海外協力隊に関しては、昨年9月25日に平成 18 年度 1 次隊前期の隊員 17 名に対し、マラウイ政府から感謝状授与を行う式典 が執り行われました。マラウイ政府としては、今後もこれを継続していくとのことです。また、12 月 15 日には、バンダ外務大臣の訪日 に合わせ、マラウイ派遣初代隊員 7 名に対して、地球ひろばにおいて感謝状が直接授与されました。 マラウイへ派遣された青年海外協力隊員の人数の合計は、1423 人(2009 年 5 月 31 日現在)に達しており、累積人数では世界一の派 遣実績となっております。 このように、マラウイは青年海外協力隊員派遣対象国の中で際立った実績を持っており、ひとえに日本マラウイ協会の 25 年にわた る地道な活動の賜物であると思っております。 JICA マラウイ事務所も日本マラウイ協会とともにマラウイの発展に寄与したいと考えております。日本マラウイ協会の更なるご活 躍を祈念いたします。 日本マラウイ協会設立の経緯と創生期の事業 ==1983 年(昭和 58 年)2 月 26 日設立 == 昭和 55 年度 2 次隊 塗装 郡 昭治 最初の青年海外協力隊員派遣が 1965 年にアジア 4 カ国へ開始され、その 6 年後の 1971 年には マラウイ共和国へ 7 名の隊員が派遣されました。その後 1973 年以降、活動を満了した帰国隊員らが、 マラウイの友としてお互い同志の親睦を図っていくことを目的として、日本マラウイ協会の前身と なるマラウイ OB 会「ムリブワンジ会」を 1974 年に設立しました。 年々、帰国隊員数が増加するのに伴い、ムリブワンジ会の活動がより両国間の理解を深めるもの、 繁栄に寄与するものが求められるようになり、ト部敏男氏(日本シルバーボランティアズ理事長・ 元マラウイ国大使)を会長、秋山忠正氏 ( (社)協力隊を育てる会常任理事)と福永栄治氏((財)アフ リカ協会専務理事)を副会長、青年海外協力隊マラウイ初代派遣隊員である貝塚光宗氏を専務理事 とし、理事 18 名、監事 2 名の役員、及び会員 65 名(内帰国隊員 52 名)にて 1983 年 2 月 26 日 に日本マラウイ協会を設立しました。 同年 6 月 10 日、ト部会長からカムズ・バンダ大統領宛てに、協会の趣旨を説明し協力を要請す る親書(ト部会長親書)を、マラウイ国赴任の有馬光正氏に託しました。さらに翌年 7 月、アフリ カ 5 ヶ国訪問予定の北川石松 政務次官をト部会長、秋山副会長、山村監事、貝塚専務理事が訪ね、 マラウイ訪問の際、バンダ大統領に当協会の紹介を依頼しました。北川政務次官がマラウイ入りし た7月 21 日 、 バンダ大統領が北川政務次官との会談の席上、政務次官の要望に応えられ、7 月 22 日付けでマラウイ外務省より日本マラウイ協会との友好関係を歓迎するとの親書が届きました。 発足初期の日本マラウイ協会事業としては 、 マラウイ国情紹介誌、チェワ語辞典、機関紙 「KWACHA」の発行を行いました。特にチェワ語辞典の作成に関しては、辞典として発行する場合 2 万語前後の単語の掲載が必要となるため、まず、活動中の隊員から約 3 千語の資料を入手し、帰 国隊員からの資料収集を行いました。辞典として発行できたのは、準備を始めた 1983 年から 4 年 後の 1987 年であり、まさにマラウイ派遣隊員の協力の集積であったと言えます。またマラウイ独 立記念日(7 月 6 日)祝賀会の開催は、設立当初より懇親会、シマを食べる会として、今日まで引 き継がれております。 そして 、 初代隊員が派遣されてから 28 年目の 1998 年 4 ∼ 5 月に、貝塚光宗専務理事、山村 俊之理事、藤村俊作理事、桐田直樹会員、姫野靖征会員、緑川 浩会員、桑折信明会員、殿村 孝会 員と竹谷捻子事務長を含む 10 名の親善使節団が憧れのマラウイの地を訪れ、マラウイの暖かき心 (Warm heart of Malawi) の 10 日間のふれあいを行いました。 この「日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌」では、上記を含むこれまでの事業に深く携わった 人たちに、当会の足跡を記すため、新しい会員のこれからの活動の参考のために執筆してもらいま した。執筆者のマラウイに対する思いが伝われば幸いです。 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 2 Mzuzu マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe Zomba Blantyre チェワ語辞典 初版 編集の思いで == 1987 年(昭和 62 年)5 月発刊 == ■話し手:昭和 49 年度 2 次隊前期組 看護師 三浦 洋子 ●聞き手:昭和 51 年度 1 次隊 理数科教育 鶴田 伸介 Q A チェワ語辞典をつくることになった背景は何ですか。 Mzuzu マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe ぎ込みました。マラウイで自分が使っていた言葉や村人がよ く言っていた言葉に出会うと、とても懐かしく感じました。 Zomba Blantyre 当時、協力隊員はマラウイに到着すると、まず JOCV 事務所の職 結局、中心的な実作業は春から夏にかけての数か月間で行われま 員のゴンドウェさんからチェワ語の本を渡され、語学訓練を受けま した。もちろん無償です。当時の土曜日の勤務は半ドンでしたので、 した。その後、1 か月の現地訓練を受けて仕事に入りました。帰国後、仲 作業は土曜日の午後 1 時ごろから始めました。パンと牛乳を買っていっ 間たちと「これからマラウイに行く人もチェワ語を勉強したほうがいいね」 たり、おにぎりを持っていったりしていたと思います。場所は恵比寿のゑ と話し始め、 「自分たちの場合では文章や慣用句はなくても単語集だけで びす旅館でした。今でも旅館での作業の光景を思い出します。その旅館の も欲しかったね」と思い出すようになりました。 女将の竹谷さんがご自身は元協力隊員ではないのに無償で畳の部屋を提供 チェワ語辞典編集班にどうして木内行雄さんと柴田信二さんと自分が してくださっていました。普通はサラリーマン用の旅館なので、土日には なったのかは覚えていません。自分はマラウイでチェワ語をいっぱい話し 布団を干したり廊下を磨いたりしておられました。またこじんまりとした て上手に通じていたわけではありません。仕事場は病院だったのでスタッ お庭で蛙が顔を出していたことも印象に残っています。 フとは英語で話していました。患者さんとはチェワ語で話していましたが、 木内(旧姓:高山)和子さんは辞典の編集には参加しませんでした 完全な文章を駆使していたわけではありません。というわけで、自分から が絵が得意なので挿絵を引き受けてくれました。 手をあげて編集班に加わったわけではないのですが何となく意気投合して 選ばれてしまいました。3 人以外にも多くの OG と OB が参加しました。 実はこの辞典を作ったのは自分たちが帰国して 10 年程たってからで した。 「こういうものがあればよかったな」と思い始めた時は、マラウ イから帰国して、日本社会に対するボケが直って、自分たちが中間管理 職として歩み始めた時期です。それまでは自分のことで精一杯でした。 Q A 辞典の完成後はどのような気持ちでしたか。 辞典が形になった時は怖い気持ちがしました。本当に責任を持て るだろうかと思いました。一方で、やはり嬉しくて信じられない ような気持ちでした。大きさがハンディな感じでよかったし、協力隊 Q A だけでなくマラウイが観光地になれば旅行者も使えるのではないかと 夢が広がりました。 編集作業はどのように進めたのですか。 実は完成近くになって、もっと拡充しようという欲もでてきました ゴンドウェさんがくださった教科書を持っていたので、それを基 が、木内さんの判断で、今回はこれで完成とし拡充は別の機会に譲る に作れると思いました。さらに別の資料もどこからか出てきまし 方針をとりました。この判断は正解だったと思います。 た。こうして資料が集まったあとは、いくつの単語を掲載するか、チェ あれから 20 年たって、在日マラウイ大使館のチリマ参事官の奥様のご ワ語と英語と日本語の対照をどうするか、が問題になりました。最初は 出産のお世話をした時に、奥様が辞典を見て間違いを指摘して下さい 自分たちが使った記憶のある単語を中心にチェワ語の主な単語を選びま ま し た。 幸 い 些 細 な ま した。対照については話し合いの末、チェワ語から日本語と日本語から ち が い だ っ た の で、 そ チェワ語を掲載することにしました。順番も 50 音順ではなくアルファ の程度ならよいかもと ベット順にしました。また言語の呼び方をチェワ語とするかほぼ同義の 逆にほっとしました。 チナンジャとするかも考えましたがチェワ語にしました。 辞典はグローバルフ 当時はコンピュータがなく、作業には葉書ぐらいの大きさのカード(下 ェスタなどに出品する 写真参照)を使いました。まずチェワ語を書きアルファベット順に並べて と よ く 売 れ ま し た。 今 その横に日本語訳を書きました。自分はあまり自信はありませんでしたが では完売で絶版になっ 形容詞とか前置詞とかの品詞も一応記入しました。日本語もアルファベッ ていると思っていたの ト順にしました。もし日本語を少しでも分かっている外国人がチェワ語を で す が、 三 十 数 冊 残 っ 使おうとすると日本語もアルファベット順の方が良いと思ったためです。 ていました。 この作業は、自分は文系の人間なのかと思ったくらい性にあいました。 お互いの言葉を大事 それまで自分がやってきた医療関係とは別のことを考えたことがとても楽 に思うことはお互いを しかったです。辞典の編集後記で木内さんも書いているとおりみんな生き 大事にすることだと思 生きしていました。皆が仕事以外の目的にむかって新鮮なエネルギーをつ い ま す。 言 葉 に は 人 々 の生活があるので、人々 を結びつけるのだと思 います。 Q 新米 OB の私が、初めてゑびす旅館での作業に参加した時に、私 たちの作業のあとで、注文したビールを持ってきてくれた女将さ んがビールを置いても部屋から出て行かず、へんな女将さんだなと思 いましたが、あとで彼女が竹谷稔子 日本マラウイ協会事務長と知りま した。お見それいたしました。 本日はありがとうございました。 A ありがとうございました。 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 3 チェワ語辞典 改訂版 編纂を振り返って == 2000 年(平成 12 年)7 月発刊 == 昭和 63 年度 1 次隊 無線通信機 河野 進 マラウイの村落部等で活動する青年海外協力隊 (JOCV) などにとって Mzuzu マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe 事を抱えている身ではありましたが、休日などを使って精力 Zomba は、チェワ語がコミュニケーションの手段となっていますが、そういった 的に編集は進められました。幸いにも『Chichewa Textbook』 背景からチェワ語を学習する際の手引きとして、現地で活動する JOCV 隊 の原版は電子ファイルで保管されていたので、比較的スムーズに 員が '87 年に『Chichewa Textbook』( 文法・日常会話編、医療編)とい 入力作業が進められましたが、 うテキストを編纂し発行しました。そのテキストが発行された翌年にマラ 『チェワ語辞典』の旧版は印刷物 ウイに赴任した私たちも、現地でこのテキストを配布してもらい、チェワ でしか原稿がなく、OCR を使っ 語学習に活用していました。 て電子化するところから入力作 私は日本に帰国してから日本マラウイ協会のメンバーとなり、その活動 に加わるようになりましたが、日本マラウイ協会でも同じ '87 年に JOCV 業は始まり、予想外に時間を要 しました。1年ほどかかって、 の OB/OG が編纂した『チェワ語辞典』というポケット版の参考書を発行 改訂版の元となる原稿がまと していました。そして、その『チェワ語辞典』の在庫が’97 年に残り少な まり、それをチェックし、更に くなり、それを機会に旧版の内容を増補した改訂版を発行することが協会 チェック結果を精査して、関係 の上層部から提案されました。当初、その話を聞いた時にはチェワ語をマ 者による校正等を重ね、2000 スターしていない自分が、その改訂版の編集に主体的に関わることはない 年夏にようやく発行に漕ぎ着け と思っていましたが、そんな折、自分が JCOV 隊員時代に配布されていた ました。まだ内容に不充分なと 『Chichewa Textbook』も在庫がなくなり、マラウイに赴任した JOCV ころがあるものの、ともあれ、 隊員に配布されなくなっていることを知りました。また、編集を担当する 先輩方が編纂された日本語によ 人がチェワ語を得意としていなくても、関係者の協力を得られるから、担 るチェワ語参考書を再び頒布す 当してもらえないかという話があり、それなら、旧版の『チェワ語辞典』 ることができたことはよかった に『Chichewa Textbook』の内容を統合する形で改訂・増補作業を進め と思っています。 られると考え、編集統括を引き受けることになりました。 Blantyre 協会にはまだ同書の在庫が充分あり、現在も頒布されていますが、願わ 改訂版の編成案を決め、 ’98 年に協会の有志による編集委員会を立ち上 げて、制作作業に着手しました。私を含めた編集委員のメンバーは皆、仕 くは、次の世代のマラウイ関係者によって、内容を充実させて、後輩たち に引き継いでいってほしいものです。 国情紹介誌 第 2 版 編集回想記 == 1994 年(平成 6 年)7 月発刊 == 昭和 53 年度 2 次隊後期組 無線通信機 上田 秀篤 当会が編集した書籍には 1984 年 8 月に発刊されたマラウイ国情紹介誌 「Malawi, The Warm Heart of Africa」がある。機関紙 KWACHA 第 1 Mzuzu マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe Zomba ことにした。しかし、大使館等に置いてもらうには旅行ガイド的 な内容も含めた方がよいということになり、それを追加して、各 Blantyre 号によると、これは、当会設立の年である 1983 年の秋に活動計画第1弾 章の担当者を決めた。そして私が取り纏め役を行うことになった。 として企画され、我々の先輩 OB/OG 諸氏が苦労して発刊にこぎつけたも この時点では原稿締め切りは同年 3 月末、発行は同年の 7 月 6 日の のである。この国情紹介誌は、1985 年の青年海外協力隊発足 20 周年記 独立記念日を予定した。 念事業として「全国市町村長表敬訪問および協力隊事業アンケート調査」 が実施された折り、全国の 3245 市町村長に配布され、マラウイの広報に 非常に貢献した。 時は流れ、1992 年 しかし、内容のアップデートといっても、初版が参考にした文献の アップデート版は何処にあるのだろうというところから始めなくてはな らなかった。初版の参考文献に記されている「Africa-South of Sahara 1982-83」という名前を頼りに、当時の広尾訓練所にほど近い有栖川宮 の 11 月頃、定例会で 記念公園内にある都立中央図書館に通った。そして、 「Africa-South of この国情紹介誌の第 Sahara 1994」 というイギリスの出版会社が発行している文献を発見した。 2版を作る必要があ また、市ヶ谷の JICA 図書館にも通って「Economic Intelligence Unit, るのではないかとの Country Profile, Malawi, 1993-94」という文献を見つけた。図書館でコ 意見が出た。発刊か ピーし、各章の担当者が持ち帰っての翻訳、初版との対比・修正作業は予 ら 8 年が経ち、統計 想以上の時間を要し、時は既に 1993 年の暮れを迎えていた。 的数字が古くなって 当初予定の 1993 年7月6日の発行はできなかったが、1994 年 7 月 6 きたというのが主な 日の独立記念日には発行しようと、年明けにスタッフ一同、気持ちを引き 理由だったように思 締めた。それは初版を発行してから 10 年を経過する節目でもあったから う。 である。 年 明 け 1993 年 1 入れ替える写真は、セミプロの松平隆一さん(63-3 鉱業)にお願いし 月までの3回の定例 た。旅行ガイドは、旅行業務取扱主任者の資格を持つ河野進さん(63-1 会で章立てを検討し 無線通信機) 、教育制度の章は、当時の広尾訓練所長の仲井儀英さんから たが、基本的に改訂 JICA マラウイ事務所の小野寺さんに依頼して最新情報を入手してもらっ 版であるので章立て た。生活体験談は新しい帰国隊員でということで徳田詠子さん(H2-2 は 初 版 と 同 じ に し、 薬剤師) 、橋本能子さん(H2-2 獣医師) 、阿部正幸さん(H2-3 鉱業)にお 統計的数字と内容の 願いした。巻頭言「第2版発刊にあったて」は当時の秋山忠正会長にお願 アップデートとする いした。 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 4 写真と全ての原稿のアップデートが完了したのが 1994 年の 6 月中旬 最速で行うと協力を申し出てくれた。そして、そのとおり当日までに印刷 だった。初版を印刷した日本製版株式会社に連絡したら、社名が日本プリ が間に合い、シマを食べる会は出版記念パーティーを兼ねることが出来た ンテクス株式会社に変わっていた。しかし、何と 10 年前の初版を担当さ のである。第2版を計画してから1年8ヶ月の時間が経っていた。 れた金谷さんという方が出てこられた。新宿・河田町にある同社を訪ねた もうひとつ作業があった。冒頭に記したように、初版は全国の市町村に ら、これまた何と金谷さんが初版の原版があるといって見せてくれた。金 配布した。第2版はそこまでできないにしても、国会図書館と都道府県単 谷さん自身も 10 年前を思いだし感慨深そうだった。新しい原稿はマッキ 位の公立図書館、専門図書館、JICA、アフリカ / 国際協力関連団体には配 ントシュ PC で作成し、 フロッピーディスクとハードコピーで渡したのだが、 布しようということになった。それら 63 箇所をリストアップし発送した。 金谷さんのところの PC では読みこめず、全部打ち直してくれた。アフリ 第 2 版が発刊されてから 15 年が経った。当会ホームページや機関紙 カ全図で 10 年前と国名や国境線が変わっている箇所は原版に切り張りし KWACHA で頒布の案内を出しており、わずかではあるが、いまだに購入 て修正していった。今なら、原版をスキャナで読み込んで PC 上で修正す 申込みがある。しかし、 今やインターネット全盛時代、 マラウイの情報はネッ るところだが、当時はそこまで発達していなかったのだろう。 ト上でいくらでも手に入る。今後、手間暇かけて第3版を出す価値がある 月が変わって 1994 年 7 月始め、私は職場の課内旅行で那須へ行った帰 のか、という議論がある。しかし、少なくとも 15 年前に経験した皆が1つ り、急ぎ日本プリンテクスへ向かった。最終校正のためである。なんとか の共通目標に向かって寄り合ったという姿勢は、今後ともマラウイのため 7月 9 日のシマを食べる会で完成を披露させたかった。金谷さんも印刷は の事業へ続けたいと思っている。 国情セミナー・シマを食べる会 == 1987 年(昭和 62 年)∼ 継続中 == 平成 3 年度 3 次隊 栄養士 中川 総 日本マラウイ協会が主催する国情セミナーおよびシマを食べる会は、懇 Mzuzu マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe 親会という名で昭和62年にスタートしたとの話を聞いています(協会設 ズが当たるお楽しみ抽選会、最後に参加者一同で記念撮影を行い、 立以来、同類のものはあったらしい) 。1年に1度、マラウイの独立記念日 散会するというパターンを続けています。 (7月6日)を祝い、大使館スタッフの皆さまを招待し、国内在住のマラウ イ関係者と共に、マラウイの主食であるシマとおかずを食べながら親睦を Zomba ラウイの料理にしばし舌鼓を打ちながら懇談、マラウイ産のグッ Blantyre 「国情セミナーおよびシマを食べる会」の運営は日本マラウイ協会 が月に一度行う定例会に出席しているメンバーで行われています。独立記 深めようという会なので、いつしか「シマを食べる会」と名称変更された 念日の7月6日近くの土曜日午後に開催するため、毎年5月の定例会まで ようです。その後、平成7年より、会場としてお借りしていた JOCV 広尾 に、お誘いの往復はがきを800枚程度印刷して定例会に持参、当日の参 訓練所(現在:JICA 地球ひろば)で、懇親会のみでの会場の使用許可が 加者で宛名シールラベルをはがきに貼ります。その後、当日までに準備し 下りなくなり、それ以降は駐日マラウイ国大使にマラウイの国内の近況を ておくこと、当日の役割分担などを取り決めます。適材適所と申しましょ 講じて頂き、 参加者より質疑応答を受ける「国情セミナー・シマを食べる会」 うか、ここ数年は竹谷事務長が献花用の花束手配・当日の受付および会計、 に変更となり、そのスタイルは現在まで続いています。 私は帰国後の平成6年より、時に所用で参加出来ないこともありますが、 郡氏が会場および各種備品の手配、鶴田氏が国情セミナーでの司会進行 及び講演・質疑応答の記録、上田氏がシマを食べる会の司会進行・会全体 極力参加し、主に裏方作業を手伝っています。ここでは、会の概略、案 のとりまとめ、私はシマを食べる会の会場準備・大使館スタッフの調理作 内はがき発送から当日終了までの作業内容、舞台裏ばなし、このイベント 業補助を担当しています。 に関わってきた思い出や私が感じるこの会の意義などを記したいと思いま す。 会が終了した次の定例会で、反省会及び来年に向けての課題が話し合 われます。 会の概略ですが、例年、広尾の「JICA 地球ひろば」にて、午後2時頃 ここ数年、私の担当は裏方として、国情セミナーが行われている1時間 から『国情セミナー』を大会議室等で、駐日マラウイ国大使に最近のマラ の中で、大使館スタッフのメイドさんと共に大使館側が用意してくださっ ウイ国内情勢について講演して頂き、聴講者からの質疑応答を約 1 時間に た各種料理をきれいにセッティングすることとなっていますので、残念な わたり行います。午後3時過ぎからは、玄関の慰霊碑前で物故隊員に献花、 がら国情セミナーに関してはここに何も記すことが出来ません。舞台裏話 1分間の黙祷を行い、その後、会場を1階のカフェフロンティアに移し『シ として、 シマを食べる会で最も重要となる『シマ』そのものの手配について、 マを食べる会』が始まります。 私が携わってから14年間の経緯を紹介します。 ▲ 2007 年 7 月 7 日のシマを食べる会 数原会長挨拶 私が帰国したのが平成6年4月なので、その直後にシマを食べる会が ▲ 2008 年 7 月 26 日の国情セミナー 会場には国情セミナーの参加者、隊員 OB/OG や家族をはじめ、駐日マ ラウイ国大使ご夫妻、大使館スタッフ並びにご家族のご参加も賜り、参加 あった訳ですが、栄養士隊員として派遣されていたこともあり、シマの調 理補助、ンディオ(おかず)の調理などの担当を任せられました。その頃、 者は毎回60名を超えるものとなります。初めにテープによるマラウイ国 大使館の皆さんはゲストとして招待しているので、料理に関しての積極的 歌吹奏、続いて当会会長および大使の挨拶、乾杯があり、その後シマとマ な関与は無く、日本国内で入手したメイズフラワー(とうもろこしの粉: 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 5 白色と黄色があった)を用い、当日、大使館側のご婦人たちにお願いし、 が楽しめる、良い会になったのではと感じます。大使館側の Warm Heart 食堂の厨房に入って頂き、シマのみを調理して頂きました。直近に帰国し には本当に感謝しています。 た OB/OG が持ち帰ったメイズフラワーを調理して頂いたこともあります。 私はご婦人たちが「○○をとって」などを補助、厨房のTBSスタッフと の仲介役などをやっていました。 帰国された皆にとって、マラウイの家庭料理を味わえる機会はめったに 無いことですし、且つ、インターネットを使いマラウイの情報を入手出来 る時代になったとはいえ、マラウイの人達と英語、チェワ語を使って身振 何年か同じパターンを続けていると、大使館側がマラウイ産のメイズフ ラワーを持参してくれるようになりました。というのも、当会側の勉強不 り手振りで会話することができるこの会は非常に意義があると思います。 是非、今後も続けていって欲しいと思います。出来れば後続の帰国隊員が 足でしたが、日本国内で入手出来るメイズフラワーは主にお菓子作りに用 企画段階からに多数参加して下さり、今以上の盛会になれば嬉しく、有難 いるもので、主食用ではないとのことなのです。確かに黄色いメイズフラ く思います。 ワーを用い大使館のご婦人にシマを調理してもらった際、全然 形にならず、水分を飛ばすためにかなり時間をかけたこともあ りました。マラウイ産のメイズフラワーでの調理を間近で見て 「こんな短時間で調理出来たのか…今までかなり無駄な時間を 使っていたなぁ」と感じたものです。 大使館側からメイズフラワー持参、当日厨房内での調理のパ ターンが何年か続きましたが、その後、調理済みのシマがクー ラーボックスに保温状態のまま運ばれ、なお且つ、マラウイの 家庭料理も大使館側から沢山持ち込んで下さる様に変化しま した(メイズフラワーは直近に帰国した OB/OG が持ち帰った ものを事前に大使館に送るようにしていますが、大使館側はそ れに幾らか足してくれているようです) 。その背景として、大 使館側スタッフの交代、当会と大使館との親交が深いものに なったこともあるのでしょうが、私の勝手な推測では、大使館 側御婦人達が会の当日、ドレスアップしたにも関わらず、汗だ くでシマの調理をしなければならない(服も汚れるし)のが嫌 になったのが一番の理由なのでは?と感じています。 持ち込まれる家庭料理も品数が増え、運営側としては非常 に助かり、参加者としてもここ数年、本当のマラウイ家庭料理 ▲ 2008 年 7 月 26 日のシマを食べる会 記念写真 機関紙 KWACHA 編集回想記 Mzuzu マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe == 1991 年 3 月∼ 2009 年 3 月(平成 3 年 3 月∼ 21 年 3 月)== 昭和 53 年度 2 次隊後期組 無線通信機 上田 秀篤 ここに私がマラウイ協 会に入会したときの入会 貴会の会報がこんなに少ないのは何故か?」と苦情の手紙を書 金 / 年会費の銀行振込 いたことを覚えている。今思えば、この時期は 1984 年 8 月発行 Blantyre 受領書がある。1983 年 の国情紹介誌初版や 1987 年 5 月発行のチェワ語辞典初版の編集 6 月 16 日の日付である。 に多忙を極めていたのだろう。しかし、地方の会員にとっては、協会本部 当会設立は 1983 年 2 月 のある東京で開催される定例会やイベントに参加することはできず、送付 26 日であるから、設立 される機関誌だけが会員になっているということを実感できる唯一の証で 後間もない入会だった。 あった。この地方在住の時の思いが、後に東京に転勤になって当会の活動 当時はインターネットも に参加できるようになり、機関紙の編集に携わるようになって、定期的な なく、帰国した OB/OG 発行(半年ごと)に重きを置く原動力になった。 にとってはマラウイの情 1990 年 7 月に東京に転勤になり、9 月 1 日に開催された当会主催のマ 報に飢えており、入会す ラウイ OB・OG 懇親会(シマを食べる会)に参加することができた。そ れば 情 報が 得られるの の場で当時の当会役員へ機関紙の発行が少ない旨の苦情を申し立てたとこ だろう思っての入会だっ ろ「では、機関紙編集をやってみないか?」といわれ、今にしてみればマ た。しかし、会報のよう ンマとはめられ今日まで続けるハメになったのである。 なものはいっこうに送ら れてこなかった。 よ う や く KWACHA 第 1 号と題した機関紙が ▲ KWACHA 第 1 号 Zomba ンクラブでも会報は定期的に出しているのに、協会と名の付く 初めて担当するのは第 6 号から。しかし、東京へ転勤してきたばかりで 職場の仕事にも慣れず、機関紙編集は遅々として進まなかった。何を記 事にするかを考え始めたのは年が明けてからだったと思う。年度末も近づ いていたので、当会が前年行った活動として「金次メモリアルファンド *」 送られてきたのは、その 年の 11 月 1 日付けであった。当時、私は埼玉県在住であったが、1984 年 号数 発行年月日 体裁 発行間隔 10 月に山口県の事業所に転勤になった。1990 年 7 月に東京に転勤になる 第1号 1983 年 11 月 1日 B4 表裏 2 面 印刷 までの約 6 年間でも届いた機関紙は右記のように 5 通だけだった。 第2号 1985 年 2 月 15 日 B4 表裏 4 面 印刷 1 年 3 ヶ月 第3号 1985 年 12 月 20 日 B4 表裏 4 面 印刷 10 ヶ月 第4号 1988 年 4 月 28 日 B4 表裏 2 面 コピー 2 年 4 ヶ月 第 5 号 (A) 1988 年 8 月 27 日 B4 表裏 2 面 コピー 4 ヶ月 第 5 号 (B) 1990 年 1 月 31日 B4 表裏 2 面 コピー 1 年 5 ヶ月 ※ 第 5 号は2つあり、当時の担当者が号数を付け間違ったものと思われ る。ここでは便宜的に第 5 号 (A)、(B) とした。 あまりの少なさに、山口から当時の当会役員に対し「アイドル歌手のファ 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 6 を取り上げることにした。 内には発行したかったので発行日を 1991 年 3 月 31 日として第 6 号、私 * 昭和 63 年度 1 次隊 金次克典隊員が 1989 年 5 月 4 日に交通事故でな くなり、その現場であるリロングウェ市内の交差点に信号機を設置するた め募金活動 にとっては第1号の発行にこぎつけた。やはり時間がかかるものだと実感 した。 第 9 号(1992 年 9 月発行)までは同じ体裁の B4 表裏 2 面で、シマを これは当時、現地で取り纏めにあたっていた河野 進 OB(63 年度 1 次 食べる会、ジェレさん(JICA マラウイ事務所現地雇用職員)招聘、新帰 隊 無線通信機)に原稿をお願いした。また、3 年5ヶ月の調整員勤務を終 国隊員の帰国報告、駐日マラウイ大使館開設などの記事を掲載した。第 えたばかりの郡 昭治さんと、郡さんの紹介により、やはり帰国したばかり 10 号 (1993 年 3 月発行) からは体裁を A3 版2つ折りの A4 表裏 4 面とし、 の久保田早苗 OG(昭和 62 年度 2 次隊 獣医師)に帰国報告を、そして協 基本的に発行日前半年間の当会活動の報告と、2-3 面には「マラウイ / 日 力隊事務局職員で当会の活動に非常にご協力を頂いていた小野修司さんに 本のマスコミから」と題し、駐日マラウイ大使館で見せてもらった Daily 「マラウイの貨幣制」について書いていただいた。体裁は第 5 号までと同 Times や Malawi News の記事、日本で手に入る英字新聞のマラウイに関 じ B4 の裏表 2 面とすることにした。当時はまだパソコンがそんなに普及 する記事の抄訳を載せるようになった。このため、大使館や図書館通いが しておらず、ワープロ専用機で打った紙原稿を頂いて、私が職場へ朝早く 続き、その抄訳作り作業に時間を取られるようになった。ちょうど、マラ 出勤してマッキントッシュ PC で打ち直した。 ウイの政治が複数政党制に移行、さらに政権がバンダ大統領からバキリ・ 印刷所を何処にするかについては、松木麻弥子 OG(昭和 56 年度 4 次 隊 司書)が職場とつながりのあるところを紹介してくださった。そこは「と ムルジ大統領に変わる時期で英字新聞にもマラウイ関係の記事がよくでる ようになった。 りびっと」という新宿のマンションの一室にあり、マッキントッシュ PC 上記の新聞記事でマラウイ国内の動きを会員の皆さんにお伝えしようと を使って DTP(デスク トップ プリンティング)で編集、完成原稿のフィ 思ったのは、自分自身がマラウイの情報に飢えていたからである。しかし、 ルム作りをする社員 2 人だけの小さな会社だった(印刷はさらにフィルム 大使館や図書館通いが辛くなったきた。この頃からインターネットが普及 を印刷専門の会社に出す) 。当時、私の職場は新宿にあり、会社からの帰 し始め、自宅にマッキントッシュ PC を購入、E メールが出来るようにな りに立ち寄ることも り、いろいろな Web サイトを見られるようになった。そして、デンマーク でき、都合がよかっ にある南部アフリカに関する季刊雑誌「I' Afrika」の出版社「South Africa た。後で思えば私が Contact 社」がマラウイに関するニュース「Malawi News On Line」を マッキントッシュ PC 隔週で E メール配信していることを知り、同社と有料の配信契約を結ぶと で打ち直した原稿の 共に、抄訳を機関紙へ掲載する許諾を得た。そして第 16 号(1996 年 5 フロッピーディスク 月 10 日発行)からその中から選んだニュースを「マラウイ短信」と題し をそのまま渡せばよ て掲載し始めた。これは第 24 号(2000 年 9 月 20 日発行)まで続けたが、 かったものを、紙に この間、インターネットが急速に普及し、マラウイのニュースはいたると 印刷した原稿を渡し ころの Web サイトで見られるようになったこともあり、一定の役割を果 てしまった。 「とりびっ たしたと判断して終了することにした。 と」さんはそれをま 当会の活動も次第に広がりが出てきて、第 25 号(2001 年 3 月 28 日発 た打ち直してくれた。 行) あたりからは、 当会がマラウイへ行う国際協力活動の記事が増えてきた。 出来上がったゲラを 第 31 号のバキリ・ムルジ大統領との接見、数原会長の大統領招待による 見ると、元原稿では マラウイ訪問記も特筆される。 手書きだった地図が 綺麗に描かれており、 お知らせ欄には元原 ▲ KWACHA 第 6 号 これらの記事はインターネットでは得られない当会独自の活動報告であ り、機関紙の存在価値があると言えよう。 稿になかったイラス 第 40 号はカラー印刷にした。記念号ということがあった。しかし、印 トが挿入されていた。 刷の「とりびっと」さんからは、 「カラーにしても費用は殆ど変わらないし、 DTP の威力に感心し 白黒印刷だと写真の濃淡を調整する手間が非常にかかる」と言われ、 カラー たものだった。定例 にした。完成品を見ると従来とは違って非常にインパクトのある紙面になっ 会にきた会員に見てもらっても「これはいい!」という反応だった。年度 た。 時代の流れを感じさせるものに、原稿を「とりびっと」さんへ送る手 号(発行年月日) 主な記事 第 25 号(2001.3.28) 島根県高田小学校児童の募金を隊員に仲介、松葉杖を寄贈 ・第 1 回ウォームハートプロジェクト完了報告 第 26 号(2001.9.19) (チテゼプライマリースクール校舎修復) ・島根県高田小学校児童の募金を隊員に仲介、病院備品寄贈 第 2 回ウォームハートプロジェクト完了報告 第 27 号(2002.3.20) ( ムランジェ セカンダリー スクール理科実験教室建設 ) 第 28 号(2002.9.18) 第 1 次マラウイ食糧支援募金報告 第 29 号(2003.3.26) 第 2 次マラウイ食糧支援募金報告 第 30 号(2003.9.24) マラウイ国情セミナー要旨 第 31 号(2004.3.24) バキリ・ムルジ大統領が役員と接見、数原会長の大統領招待マラウイ訪問記 第 3 回ウォームハートプロジェクト申請採択報告 第 32 号(2004.9.22) (チムワリーラ セカンダリースクール図書館蔵書数増加) 第 3 回ウォームハートプロジェクト中間報告 第 33 号(2005.3.23) (チムワリーラ セカンダリースクール図書館蔵書数増加) ・第 3 回ウォームハートプロジェクト完了報告 第 34 号(2005.9.21) (チムワリーラ セカンダリースクール図書館蔵書数増加) ・第 4 回ウォームハートプロジェクト申請採択報告(手押しポンプ型井戸建設) ・マラウイ食糧支援募金 2005 報告 第 35 号(2006.3.29) ・第 4 回ウォームハートプロジェクト完了報告(手押しポンプ型井戸建設) 第 36 号(2006.9.20) ビングワ ムタリカ大統領が役員と接見 ・マラウイ紹介講座(於:千葉県浦安市) 第 37 号(2007.3.28) ・17 年振りのマラウイ(寄稿) ・食糧支援プロジェクト報告(寄付金を隊員へ仲介) 第 38 号(2007.9.27) ・草津ローターアクトクラブからの寄付金活用報告(寄付金を隊員へ仲介) 第 39 号(2008.3.26) JICA「世界の笑顔のために」プログラム協力報告 第 40 号(2008.9.26) 第 40 号記念寄稿(会長、駐日マラウイ大使、JICA マラウイ事務所長) 段の変遷がある。最初は紙原稿を手持ちや郵便で送っていたが、自分で パソコンを購入してからはメールでテキストを送るようになった、写真 は紙焼きを郵便で送っ ていたが、自分でスキャ ナを購入してからは紙 焼きの写真をスキャナ で読んでファイルにし てメール添付で送る ようになった。最近は 殆どデジタルカメラに なったので、写真ファ イルそのままをテキス トと共にメール添付で 送るようになった。 完成した機関紙を発 送する時のことも触れ ておきたい。はじめの 頃は竹谷事務長が手書 きで宛先を封筒に書い ていたらしい。200 通 以上であり大変な労力 ▲ KWACHA 第 40 号 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 7 だったろう。ワープロ / パソコンが利用出来るようになってからは、会員名 関紙を詰め込んでいる。詰め込む前に封筒に入るように折る作業があり、こ 簿から宛先をラベルに打ち出し、定例会当日に封筒に張り、機関紙を詰め込 れが結構時間がかかり大変であった。そこで、40 号からは費用を払って印刷 んでいた。ここしばらくは名簿を管理している前述の河野 OB が、発送月の 所で折ってもらうようにした。 定例会前までに名簿から直接封筒に宛先を印刷してくれている。自分の時間 を使っての作業、大変だと思う。当日、その封筒を定例会にもってきて、機 皆さんの協力があり 18 年間編集を続けてきたが、少々疲れてきたという のが正直なところ。そろそろ若い後継者に託そうと思っている。 旅行ガイドブックの編集・発刊を振り返って Mzuzu == 1993 年(平成 5 年)11 月:暫定初版発行 == == 1994 年(平成 6 年)11 月:新訂第 1 版発行 == == 1997 年(平成 9 年)7 月:新訂第 2 版発行 == 昭和 63 年度 1 次隊 無線通信機 河野 進 1992 年に駐日マラウイ大使館が設立され、同大使館で日本におけるビ マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe 発刊後に『ZIKOMO』掲載情報の転載について、一部の方と ザの発給業務が行われるようになり、大使館に訪れるマラウイへ渡航しよ は確認がとれていなかったことがわかり、急遽、該当者と確認を うという人たちから、旅行情報などの提供が要望されるようになりました。 とるというハプニングがありましたが、いずれの方にも事後承諾 しかし、その当時の駐日マラウイ大使館には、マラウイの旅行についての いただき、頒布を継続することができました。 資料は数ページの冊子しかなく、充分な情報提供はできない状況でした。 そういった背景から、日マ協会で旅行ガイドブックを作成してはどうかと Zomba Blantyre 新訂 2 版を 97 年に発刊した後は、増刷に合わせて 99 年に鉄道運行情 報等の一部だけを修正した新訂 2 版第 2 刷を刊行しましたが、その後は いう話しが持ち上がり、たまたま、私がマラウイに滞在していた時に現地 印刷在庫がなくなることもなく、同じ内容のものを頒布している状況です。 の青年海外協力隊員や国際協力事業団の専門家向けとして作成したマラウ この 10 年ほどの間に随分とマラウイの旅行事情も変わっているので、本 イ旅行に関する資料があったので、とりあえず、それに若干の修正、補足 来なら、近いうちに、新たな旅行ガイドブックを発刊すべきなのかもしれ を加えて、簡易製本したもの ( 約 30 ページ ) を数十部用意し、大使館を ませんが、インターネットで各方面の最新情報が入手できるようになった 訪れる希望者に配布してもらうことになりました。それが旅行ガイドブッ 現在では、紙媒体として発行する旅行ガイドブックは、随時、最新版を制 クの暫定版として 1993 年 11 月に発行されたものでした。 その暫定版の内容は、私がマラウイ滞在中に実際に旅行したことがある 作し続けることができないのなら、その役目を終えることも考えなければ ならないのかもしれません。 町・場所などや、利用したバス、船、鉄道、飛行機などの交通手段、宿泊 したホテルやレストハウスなどを中心に記述したものでしたので、もっと 内容を充実して、マラウイ全国を旅行するのに充分な冊子にしようという ことになりました。そうすると、 私自身が調べられる情報だけでは不充分で、 当時の JICA/JOCV マ ラウイ 事 務 所にお 願 いし て、 現 地 の 宿 泊 施 設、交 通 手 段 など の情報を調べてもらっ たり、マラウイ青年海 外 協力隊 員の 機関紙 『ZIKOMO』に掲載さ れた現 地隊 員の 情 報 を活用させてもらった りして、新訂版として 94 年に発刊し、更に その内容を更新、追補 した新訂 2 版を 97 年 ▲ に発刊しました。 ▲ 旅行ガイド新訂第 2 版 旅行ガイド新訂第 1 版 グローバルフェスタ…マラウイを市民に語りかける場として ==1994(平成 6 年)年 10 月 ∼ 毎年 == 昭和 52 年度1次隊後期組 上下水道 吉田 均 都心とは思えぬ鬱蒼とした木々、広々とした芝生は、その静けさの中で Mzuzu マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe クトに世界の民芸品や食べ物を楽しむ場として定着してきた。 訪れる人を癒してくれる。以前、勤め先が日比谷公園の近くだったことも 日本マラウイ協会は、1994 年から連続参加し、昨年で 15 回に あり、昼休みは公園を満喫した。特に新緑の季節、木漏れ日を楽しむこと なる。私は展示サポートスタッフとしては 2000 年からで、連続参 Zomba Blantyre はお勧めである。毎年 10 月の第 1 土・日曜日、日比谷公園は何やら賑わっ 加には至っていない。限られた参加体験の中で、今までを振り返ってみ ている。その賑わいは「グローバルフェスタ」である。これは、 1992 年、 「国 たい。展示サポートスタッフは 2 日間で 10 人∼ 14 人構成で、2004 年ま 際協力フェスティバル」として同実行委員会が主催し、当時の国際協力事 でマラウイ大使館職員の方もブースにいらっしゃった。大使館と日本マラ 業団(JICA) 、海外経済協力基金、外務省などの共催で始まった。初秋の ウイ協会が一緒になってマラウイの紹介を行った。2005 年に「国際協力 暖かな日差しの中、各団体の国際協力活動を知る機会として、またコンパ フェスティバル」から「グローバルフェスタ」に名称も改まりバージョンアッ 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 8 プしてから、各国大使館がブースを持ち展示するようになり、マラウイ大 2006 年からは、 「マラウイ隊員母の会」が協賛し、手作りチテンジバッ 使館独自のブースも出来た。また、JICA 関連団体、各種 NGO、NPO、 クをブースで販売している。マラウイから隊員が持ち帰った鮮やかなチテ 国連関係、民間企業ブースが増え、公園の芝生の上にもブースを展示する ンジを、母の会が実用的なバックに仕上げ人気を博している。売上金はマ ようになった。 ラウイに役立つ自主活動のための資金を求める現役マラウイ隊員に提供し ている。これまでに 3 件 / 約 20 万円を提供したそうである。また、同年 は山田耕平 OB の HIV 撲滅キャンペーンソング「ディマクコンダ」の CD や、 当会編集協力の児童文学書「ヘブンショップ」( マラウイの少女の物語 ) を販売した。 来場者は各ブースをスタンプラリー形式に回り、そのスタンプに応じて 景品をゲットできる。スタンプラリー来場者以外に当協会のブースに来ら れる方々は、元 JICA 関係者、マラウイに旅行者として行かれた方、仕事 でマラウイに滞在された方、国際協力に興味ある学生さんである。2007 年には、在マラウイ日本大使館職員として赴任される方の訪問もあった。 もちろん、 「マラウイってどこにある国ですか?」と通りすがりに立ち寄ら れる方もおられる。マラウイを知る方とは懐かしさを分かち合い、マラウ イは初めてという方には丁寧にマラウイの紹介に努める。 ▲ 2003 年の国際協力フェスティバル 日本マラウイ協会のブースの展示内容は、当協会の活動を紹介したパネ ラジカセでマラウイの音楽を流すとその単調なメロディーに惹かれて、 ル、マラウイの自然や生活を紹介した写真パネ ル、当協会がマラウイに ブースに立ち寄ってくれる来場者が多くなる。マラウイ滞在者にはあのメ 独自に支援を行っているウオームハートプロジェクトの紹介を行っている。 ロディーとカルズバーグビールが重なり、ボトルストアーやブッシュバー また、販売品としては、当会編集の国情紹介誌「マラウイ The Warm を思い浮かべる方も多いことと思う。マラウイ製のカルズバーグビールは Heart of Africa 第2版」 、旅行ガイドブック「アフリカの暖かき心 湖 ないが、場内にはケニア・ナイロビからのタスカビールがある。1瓶600 とサバンナの大地へ」 、 「チェワ語辞典改訂版」 、隊員 OB/OG が持ち帰っ 円と少々値段は高いが、 ナイロビの味を楽しめる。また、 ガーナのチョコレー た民芸品、切手などの販売を行っている。それらの収益金は、マラウイに トやモンゴルの岩塩、お馴染みのサモサなどを楽しむことができる。 対してウオームハートプロジェクトや食糧支援資金に使われている。機関 現在、マラウイ日本協会がマラウイに出来た。マラウイ日本協会は 2006 年にムタリカ大統領が日本に来られた際に、 「マラウイにも日本協会 誌 KWACHA は無料配布している。 1998 年から 2001 年までの4回、マラウイの揚げパン「マンダジ」と紅 のような組織があった方が、よりマラウイ人の日本理解によい」と言われ 茶「チョンベティー」のセット販売を行った。来場者には好評で2日間で ていたが、マラウイ人によるマラウイにおける日本紹介活動は両国の相互 349 セットの販売を達成したこともあり、楽しみにされるリピーターもい 理解にとって大きな前進になる。グローバルフェスタは日本マラウイ協会 た。素朴な揚げパンと紅茶の組み合わせが多くの日本人に受け入れられた としてマラウイについて、多くの市民に語りかける貴重な場でもある。マ のだろう。このセット販売は 2005 年に食品販売の条件が厳しくなり、人 ラウイ日本協会も同じような試みをはたすだろう。日本からマラウイへの 員的な対応も難しくなったことから出店を諦めている状態である。 架け橋とマラウイから日本への架け橋が結ばれる日はそう遠くはない。 マラウイ剣道基金 ** 続くマラウイ剣士との交流 ** == 1994 年 9 月∼ 1995 年 3 月(平成 6 年 9 月 ∼ 7 年 3 月)== 平成 3 年度 3 次隊 栄養士 中川 総 Mzuzu マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe もう 17 年も前の話となります。私が隊員時代の 1992 年、勤務先であるクイー ンエリザベス中央病院裏の空き地で、昼休み、ストレス解消の為に竹刀で素振り Zomba Blantyre をしていると、近所の子供から「それ知っているよ、ニンジャでしょ? 教えて くれない?」と問われ、その子に剣道の説明をして、礼儀の大切さも教えて練習を 始めたのが、マラウイ剣道(ブランタイア剣道クラブ)の始まりでした。 すぐに話は子供たちに広まり、数ヶ月で十数名の生徒が集まりました。その頃、手元 にある剣道用品は私が持参した竹刀 1 本しかなく、休日に金物屋でモップの柄を人数分 自腹で何度となく購入し、竹刀の代わりとして子供達に与え、昼休みと夕方、毎日のよ うに練習をしました。 基本動作が出来てきたのでモップ竹刀?を用いての二人一組の打ち込み練習を始めた ところ、モップ竹刀が折れ、けがをさせてしまうケースが出てきました。マラウイの竹 ▲ 1992 年 7 月 剣道クラブが始まって1ヶ月目 で竹刀を作れるか、製材所を訪ねたが「無理」と言われ、その現状を日本での勤務先や 剣友会の先生に手紙で報告したところ、中古の剣道用品や竹刀を寄付して下さいまし た。日本から用品を送る際、日本マラウイ協会の皆様にいろいろと協力をして頂けたの で無事に届いたのだと認識しています。 その後、生徒も子供だけでなく、大人も多数参加し、剣道経験者の福丸・先崎・和 田・西村隊員を始めとする多くの隊員や他国のボランティアの皆さんからも多大な協 力を得、モンキーベイでの合宿、剣道大会の開催などであっという間の任期終了となり、 西村隊員にクラブ運営を引き継ぎ、帰国しました。 帰国後、隊員時代に剣道用品の件でお世話になった日本マラウイ協会に入会し、彼 らの為に何とかしたいという一念で、あつかましくも、カーボン竹刀(※折れにくい) を彼らに寄付するために『マラウイ剣道基金』を会の先輩方の助言を受けながら企画し、 会員や勤務先の皆さん、そして私の結婚式に参加して下さった皆さんにまで募金活動 を行い(今考えてみればとても恥ずかしい) 、寄付していただいたお金でカーボン竹刀 ▲ 1993 年 1 月 日本から届いた防具で初めての稽古 を購入、マラウイに派遣される隊員にお願いし、持参して頂きました。1995 年のこと 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 9 でした。 ボン竹刀は見事な程、全てボキボキに折れ、使用不可能となっていました。 その後も、現地で剣道を続けてくれているマラウイ剣士に対し、本当に 帰国後、 マラウイ剣士の練習風景を録画したビデオを全日本剣道連盟(全 地味ではありますが、個人レベルで出来る範囲のこと、また、日本マラウ 剣連)国際部に持参し、マラウイ剣道に対して何らかの支援をお願いした イ協会の定例会に来てくれた隊員候補生には、 「マラウイで剣道をやって 所、私が予想していた以上に国際部の皆さんが興味を持って下さり、驚く いる者がいるので、訓練所の同期隊員で剣道経験者がいたら、防具持参で ほどのスピードで「防具20セットの寄贈」及び「剣道使節団の派遣」が マラウイに行き、彼らと剣道をしてあげてください、と伝えて下さい。 」と、 決定しました。全剣連国際部を訪問した際、 「日本マラウイ協会理事の中川」 お願いし続けてきました。 の肩書きで訪問出来たことが、話を進める上で功を奏したかも知れません。 その後、剣道をサポートしてくれる日本人がいなくなり、マラウイ剣道 また、使節団帰国後の座談会を拝聴させて頂いた際「南アフリカ・トルコ・ の灯りが消えかかっていたらしいのですが、 1999 年にマラウイ剣道に対し、 マラウイの 3 カ国を回ったが、マラウイでの稽古が一番印象深く、朝から エポックメーキング的な隊員が登場します。陸上競技のエキスパートでも 晩まで稽古着で過ごした。海外指導でここまでやるのは珍しい事だった。 」 ある上田繁 隊員(平成 9 年度 2 次隊 電気工事)です。彼からマラウイ など話されていたのは至極感激でした。 関係者メーリングリストに『ある日、アパートにマラウイアンが訪ねてき て“剣道を教えて下さい”と頼まれた。剣道の経験がないので教えられな その後も、マラウイ剣道代表者であるオースティン・ソンバ氏(剣道歴 いと断ると“いろんな日本人に声をかけているが…皆に断られてしまうん 16 年・初段) 、マラウイ在住の小林由季さん(御主人のサンガラ氏は現在 だ…”と言うので可哀想になり、練習を一度見に行ったところ、かなり熱 国防大臣との事!) 、JICA マラウイ事務所の皆様、そして剣道クラブに関 心にやっているので感激した。日本で剣道の経験は無いが彼らに日本の剣 与して下さっている隊員の方達とメールなどで連絡をとりあい、国内では 道を教えてもらっている。今では彼らから「ワカッタカ?」と日本語で問 日本マラウイ協会の定例会に顔を出させて頂き、また、JICA 剣道部の稽 われ「ハイ!」と答える日々を送っている。 』旨の投稿がありました。 「こん 古会に参加しながらマラウイ剣道に対する PR 活動を地味に続けています。 な日本人がまだ存在するのか…しかも剣道経験者でもないのに。 」と、そ のメールに最高に感激し、感謝の返事を出してから上田隊員との交流が始 2007 年には JICA「世界の笑顔のために」プログラムを通じ、 「ドマシ まりました。その後、上田隊員は宇佐美雄二隊員(平成 10 年度 3 次隊 教員養成学校の学生に竹刀40本を送るプロジェクト」を癸生川 裕 隊員 電気機器) 、小林由季 JICA 専門家らに剣道クラブへの協力を求め、マラ (平成 17 年度 3 次隊)に要請して頂き、日本マラウイ協会の皆様にも募金 ウイ剣道協会の設立に向けての骨組み作りまで尽力した上で帰国されまし のご協力を頂き、竹刀は無事マラウイに届きました。翌年 2008 年は安宅 た。 隊 員 よ り 防 具 10 上田繁隊員帰国後の 2000 年に私とマラウイ協会の重鎮、上田秀篤 OB セットの要請を挙 (昭和 53 年度 2 次隊後期組)の二人でマラウイを訪れた際、マラウイ剣道 げて頂き、広島県 に協力して下さっていた宇佐美隊員、小林 JICA 専門家には手厚い歓迎を 在住の剣道家より 受け、本当にお世話になりっぱなしでした。マラウイ滞在中には毎日の様 寄贈して頂いたも に稽古を行ない、余暇時間でスポーツ評議会への表敬訪問、ラジオ出演な のをそのまま無事 ど貴重な体験をさせてもらいました。ちなみに、1995 年に寄贈したカー 寄 贈 出 来 まし た。 JICA の こ の プ ロ ジェクトには本当 に感謝です。 ▲ 癸生川隊員とオースティン・ソンバ氏 マラウイから帰国後、15 年経った今でもマラウイの剣士達とこの様な形 で交流が続けられている自分はつくづく幸せ者であり、常に周囲の皆様か ら助けられて、今の自分が存在しているな…と感じる次第です。 マラウイで剣道を続けている彼らが、日本の武道を通じ、彼らの人生の 中で剣道を続けている事が何らかの糧となってくれるように願ってやみま せん。どうぞ、今度ともマラウイ剣士達に対する皆様のご支援の程をよろ しくお願い致します。 ▲ 1993 年 11 月 第 1 回マラウイ少年剣道大会 高田小学校との交流 == 1997 年 10 月∼ 2000 年 10 月(平成 9 年 10 月 ∼ 12 年 10 月)== 昭和 53 年度 2 次隊後期組 無線通信機 上田 秀篤 島根県仁多郡仁多町という山間の町に、高田小学校という町立小学校が ある。1997 年 9 月、児童数 36 人のこの小規模小学校でマラウイ OB の Mzuzu マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe Zomba この話に子供たちが非常に興味を示し、自分たちに何かできる ことはないだろうかと考え始めた。5年生はマラウイのことやマ Blantyre 小玉哲生さん(平成6年度3次隊 薬剤師 出雲市出身)がマラウイについ ラリアのことを知ってもらうためにそれらを劇風にして全校生徒 ての講演をした。これがマラウイ協会が高田小学校とマラウイとの交流を に上演し、募金を呼びかけた。6 年生はチラシを作り地域の人たちへ 支援するきっかけとなった。 募金を呼びかけた。3週間で集まったお金が4千円あまり、書き損じハガ キ約 50 枚、使用済みテレホンカード約 200 枚、古切手約 30 枚。全戸数 1.子供たちの募金活動(1997 年 10 月∼ 11 月頃) 合わせても 100 戸余りの小さな町でこの数字は驚くべき数字だった。 講演で小玉 OB は、マラウイの国概要や人々の生活の様子、2年間で経 この集まった募金等をどうしたらマラウイへ送れるかという相談のメー 験したこと、マラウイへの思いなどを話した。その中で、マラウイを始め ルが、吉田光良先生から当会へ届いた。私は、10 月 15 日の定例会で皆さ アフリカの国々ではマラリアという病気で苦しんでいる人や亡くなってし んと相談すると返信した。そして、11 月 2 日に定例会での討議の結果とし まう人が多くいること、適切な薬をあげれば救うことができると話された。 て次のように返信・提案した。 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 10 1.活動の始め方として物やお金を送るということから入ると先方の気 持ちや考え方、 実際の需要などがわからないので一方的になってしまう(先 方も日本の島根県の小学生のこと、気持ちなど知らないので) 2.相互の理解を深めるために、小学生であるので現地の小学生との交 換日記、交換絵日記などで互いの学校紹介などから始めてはどうか。 また、マラウイの歌を教えて欲しいという依頼があったので、少し遅れて 国歌のテープと楽譜を 7 月初旬に発送した。 参観日当日の授業では、まず 6 年生児童がマラウイの位置や人口などを 説明、続いて吉田先生が当会から送った写真パネルで景色などを紹介した。 マラウイの子供が写ったパネルを見せたところ「なんか僕たちより明るい」 とつぶやいた子がいたそうだ。つまり、マラウイの人々はマラリアの薬を 子供たちは、その後も地域の祭りに出す「地球型みこし」を作り「マラ 買うお金もない、生活が苦しいというイメージを持っているのに、とても ウイの人たちを助けよう」と書いた紙を貼って練り歩いて募金を呼びかけ さわやかな笑顔を見せるマラウイの子供たちにある種のとまどいを感じた ていた。11 月 29 日には「夢スピーチ博」という島根県国際理解教育研究 のかもかもしれない、と吉田先生は思った。そして、カチェレ小学校の子 会のメンバーや地域の人が聞く研究授業でマラウイのことを発表し、そこ 供たちによる文通を求める住所と氏名だけが書かれた 100 枚以上の紙切 で自分たちが焼いた炭を売ってお金を集めた。これら募金等の総額は 3 万 れ(それは親善使節団が折り紙を教えるために持っていった紙やノートの 円を超えていた。 切れ端)を見せたところ、遠い遠いアフリカの国の子供たちの直筆の手紙 を手にして感じるものがあったと、吉田先生は言う。 2.募金から交流活動への転換(1997 年 11 月頃∼ 1998 年 1 月初旬) そして、親善使節団が撮ったカチェレ小学校のビデオを見せる。実はこ 子供たちの関心は、だんだん増えてくるお金でどのくらいの薬が買える のビデオ、正確に言うと高田小学校から送ったビデオレターの返事ではな のかということに移って来ていたところに、吉田先生から当会の返信内容 い。親善使節団がカチェレ小学校を訪問したら、同小学校にはビデオの設 を伝えられ、自分たちが思っていたことと異なる内容に暫くしーんと黙り 備はおろか、電気もないことがわかり、送ったビデオテープは梱包された 込んでしまったらしい。自分たちがやってきたことは何だったのか?とい ままだった。 う意見も出たそうだが、殆どの子供は納得してくれたということだった。 吉田先生からはマラウイの小学校を紹介してほしいというメールが届い 吉田先生には使節団が撮ったビデオで子供たちに見せたいところが2つ あった。一つはカチェレ小学校の授業風景。机や椅子がなく、みんな土間 たので、当会からは校長先生の正式依頼文書を要請、マラウイ大使館へ錦 に座って足をのばしたり、壁に寄り掛かったりして授業を受けている様子。 織明校長からの文書を添えて交流相手の小学校の選定を依頼した。 もう一つは最後の場面で、授業後に校庭に集まってきて親善使節団の指導 大使館からは翌 1998 年 1 月初旬にマラウイの小学校の紹介があった。 チンテチェにある「カチェレ フル プライマリー スクール」だった。同校 のもと日本語を話す場面である。大きな目と白い歯がとても綺麗な子供た ちが一斉に「こんにちは! たかたしょーがっこー!」と言う場面である。 はマラウイの新教育システムのモデル地区内にあり、その中心的存在の学 前者の場面を見た高田小学校の子供は、口をポカンと開けて画面を見てい 校という触れ込みだった。山間ということでは高田小学校と同じだが、生 ただけだったのに、後者の場面では、友達と顔を見合わせ笑顔を見せるよ 徒数は 900 人以上というところが高田小学校とは異なっていた。とにかく、 うになったそうだ。後で吉田先生が子供たちに聞いたところ、心に残った ここで子供たちの活動は募金から交流へ一大転機を迎えたことになった。 場面は、やはりこの2つだった。つまり、自分たちの生活と大きく違って いる部分と、自分たちにとって一番身近に感じられた場面で、吉田先生の 3.ビデオレター制作・送付(1998 年 1 月∼ 3 月) 今回の授業のねらいどおりの思いを子供たちが持ってくれた、ということ 当会からは吉田先生に、高田小学校の学校紹介のビデオレターまたは写 だった。 真と手紙を当会宛てに送るよう依頼した(後で、カチェレ小学校にはビデ オを見る設備はおろか、電気もないことがわかるのだが・・・) 。高田小 6.第 47 回全国へき地教育研究大会 研究授業(1998 年 10 月 15 日) == ナンビンド一等書記官来校 == 学校では子供たちの提案でビデオレターを作成することにした。仁多町の ALT(Assistant of Language Teacher:外国語指導助手)に来てもらっ て、子供たちが自己紹介するところを英訳してビデオに収めた。いろいろ 夏 休 み が 終 わ ると、 10 月 15 日の全国へき な子がいて、日頃大騒ぎしているのに、カメラの前に立つと急にニュース 地教育研究大会は目 のアナウンサーのような顔をして話す子や、 剣道の実演で「メーン!」と言っ の前に迫っていた。吉 てカメラにぶつかって来るなど、ドタバタ喜劇を1日やっているような感じ 田先生は、この研究授 だったと吉田先生は振り返っている。このビデオレターと写真、手紙は 2 業にマラウイの人また 月初旬に当会へ届き、 当会は3月にこれらをひとまとめにしてDHLでカチェ はマラウイでの生活体 レ小学校へ発送した。残念ながら、6 年生は3月中旬に卒業し、6 年生が 験者に来てもらって子 いる間に、カチェレ小学校から返事はこなかった。 供たちとの話し合いに 参加できる形がいいと 4.マラウイ親善使節団のカチェレ小学校訪問 (1998 年 4 月 29・30 日) 思っておられた。吉田 その頃、当会の有志でマラウイ親善使節団としてマラウイを訪問する計 先生が子供たちに、こ 画が上がった。物故隊員の慰霊やマラウイ外務省の訪問などに加えて、カ れからどういう活動を チェレ小学校訪問が大きな柱となった。同小学校の実情視察のためであっ していきたいか相談し た。使節団の全旅程は 4 月 25 日から5月 4 日まで。その内、4 月 29 日と たところ、 「だめだと思 30 日がカチェレ小学校訪問に割り当てられた。使節団の活動模様はこの記 うけど、マラウイの人 念誌に藤村 OB、桐田 OB、竹谷事務長による「マラウイ親善使節団の思 に本当に会ってみたい」 い出」のページがあるので参照願う。使節団はカチェレ小学校でビデオや という反応が返ってき 写真をたくさん撮り帰国した。当会ではこのビデオを編集して、児童から た。大人たちと子供た 預かった手紙 (文通を求める紙切れ) とともに 6 月初め高田小学校に送った。 ちの思いがつながった のである。 5.父親参観日(1998 年 6 月 30 日) ▲ナンビンドさん訪問を伝える KWACHA 第 21 号 そうなると考えなくてはいけないことが2つあった。1つは研究授業で この頃、吉田先生からは 6 月 30 日にある父親参観日に、マラウイの人 何について話し合うか?もうひとつは、誰に来てもらうか?ということで かマラウイでの生活体験者に来て欲しいという依頼があった。当会の貝塚 あった。吉田先生としては、小玉 OB が講演した内容の一つで「マラウイ 専務理事がこの件に対応していたが、人選は出来ていたものの、最終段階 の人たちが直面している厳しい現実」に子供たちに触れさせたいというこ で当日が日曜日であるということでボツになった。しかし、10 月 15 日に とだった。具体的には、アフリカの中でも感染者の割合が高いとされてい ある第 47 回全国へき地教育研究大会の研究授業へは誰かマラウイ関係者 るエイズの問題について、マラウイの人またはマラウイでの生活体験者に を送れるよう最善の努力をすると約束した。そのお詫び、でもないが、父 生の声で語ってもらうということだった。そして、来てもらう人の人選の 親参観日用には 20 枚以上のマラウイの写真パネルとビデオ3本を送った。 相談メールが当会に届いた。 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 11 私は大川砂由里さんを紹介した。この方は前年の 1997 年 10 月 5 日に オレターなど、一連の活動を子供達自身が発表した。そして、今後のカチェ NHK BS1 で放送された「日曜スペシャル:アフリカで生と死を見つめて、 レ小学校との交流方法をどのように進めていくかについて、ナンビンドさ エイズを記録する日本人女性写真家 - アフリカの現実に揺れながら」と題 んの意見を聞きながら話し合った。そして、大使館側の協力もとりつけた。 した番組の主人公あった。私は同年 11 月に池袋のサンシャイン 60 で開か この研究授業の模様は、翌日の地元紙に大きく報道された。 れていた大川さんの写真展でご本人にお会いしていた。吉田先生は早速、 大川さんに手紙を書かれた。しかし、大川さんのお母様から「娘は再び、ア 7. 現地隊員を通じ募金を届ける(2000 年 5 月∼ 10 月) フリカ各地を回っているところ」との返事があって、 諦めざるを得なかった。 その後も高田小学校は大使館を通じてカチェレ小学校へクリスマスカー 吉田先生は再び当会に相談してこられた。校長先生と話しているうちに ドや集めた文房具を送る活動を続けていた。そして空き缶、古新聞を集め だんだん強気になってきて、 「是非、この方を何とかしてください」という たり、街頭募金行って集めたお金が 2000 年 5 月で約8万円となり、当会 言い方に変わってきた。この方というのはマラウイ大使館の人である。子 へマラウイへの援助(医療関係希望)に使って欲しいと依頼があった。現 供たちも吉田先生が朝の会でときどき紹介する当会のメールの中に出てき 地側と連絡をとったところ、下記2名の医療関係隊員が援助希望と回答が た「マラウイ大使館」という言葉を覚えていた。子供たちにとって、マラ あり、9 月にこの金額の半分ずつを2隊員に送金した。 ウイでの生活体験者というのはあくまでも日本人なので、やはりマラウイ 1. H10-3 理学療法士 隅谷佐知子 国立カスング病院 で生まれ育った人に来て欲しいという思いのほうが大きかったようだ。そ (松葉杖 108 本) して、 吉田先生は貝塚専務理事に「マラウイ大使に来ていただけないでしょ 2. H10-2 保健婦 松浦綾子 ロビヘルスセンター うか?」と依頼してきた。専務理事は、やはりそう来るだろうと予想して (体重計、待合い椅子、器具・ワクチン保管に使う机、バケツ・スプー いたのか、その依頼に簡単に OK のサインを出した。大使館のほうが1年 ン・タオル、ベビーバス・はさみ、メジャー、ゴム手袋) 間にわたる高田小学校の活動に大変興味をもっていて、是非行ってみたい という意思表示が専務理事にあったのである。 ここで大きな軌道修正が入る。それは 10 月 15 日当日の授業内容である。 吉田先生はエイズを取り上げた授業をしたいと思っていた。しかし、職員 会でストップがかかった。一国の代表の方が来られるのに、自分の国のつ らい面のことのみ取り上げて話してもらったり、子供たちの話し合いを聞 いてもらったりするのはいかがなものか?という意見がでたそうだ。吉田 先生は「現実理解」を深めたいという主張をしたが、他の先生の意見を聞 いているうちに「厳しい現実」を今しなくても、 まだ先でもできる、 に変わっ てきた。そして、 「交流」という面を活発にしていく内容に変更した。 だんだんとマラウイ大使の来校が現実味を帯びてきたのが 9 月末、高田 小学校では 10 月 14 日の迎えの日、15 日の研究授業の準備で忙しくなっ てきていた。当時のマラウイ大使はトコ・バンダ臨時代理大使だったが、 大蔵大臣が来日することになり、臨時代理大使はそちらの対応で高田小学 校には行けなくなったとの連絡が1週間前になって入った。代わりにナン ビンド一等書記官が行くことになった。吉田先生はガッカリしたが子供た ちは「大使館から確実に来てくれる」ことを喜んだという。吉田先生は「大 使」という身分に拘っていた自分を恥ずかしく思ったらしい。 ナンビンド一等書記官(以下、ナンビンドさん)は前日の 10 月 14 日か ら 15 日まで滞在された。1年前に高田小学校で講演した小玉 OB が空港 ▲ KWACHA 第 25 号 隅谷隊員レポート の出迎えからお見送りまで、町長表敬や夕食会など仁多町側の公式行事を ▲ KWACHA 第 26 号 松浦隊員レポート 含めてずっと通訳兼世話役を務められた。ナンビンドさんは 14 日の全校 歓迎会では子供達の歌やゲームでうち解けられ、さらに学級歓迎会では、 子供達による「マラウイ国歌」の斉唱で非常に感激したそうだ。子供達は 両隊員からは後日レポートが届き、それぞれ KWACHA 第 25 号、26 号に掲載した。 当会が3ヶ月前に送った国歌のテープと楽譜をもとに一生懸命練習したら しい。後に、ナンビンドさんが高田小学校に送った手紙でも、この部分が 最も印象深かったと記されていたとのこと。 今思うと、当時の子供達はもう成人を過ぎている。小学生時代に関わっ たマラウイをきっと覚えていてくれるだろうし、第3世界や国際協力に関 15 日の研究発表授業では、全国から集まった先生方を前に、1年前の小 玉 OB の講演がきっかけで始まった募金活動や、カチェレ小学校とのビデ 心を向ける青年になっていると思う。そのような子供の成長過程でお手伝 いするのは大変意義があり、当会の役割ではないかと思っている。 ホームページ 回想記 == 開 設:1997 年(平成 9 年)4 月 4 日 == == サーバー移行:2002 年(平成 14 年)8 月 11 日 == 昭和 53 年度 2 次隊後期組 無線通信機 上田 秀篤 今では、日常生活に欠かせないインターネット。列車の時刻を調べるの Mzuzu マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe プページ1枚だけの表看板的なものだった。そこで、今後の内容 も、ニュースを見るのも手軽にインターネットでできるようになった。日 をどうしていくかという課題があり、委員会で検討を重ねた。そ 本マラウイ協会とインターネットの関わりは 1996 年にさかのぼる。 の中で、JOCA の事業内容を紹介するのは当然としても、JOCA Zomba Blantyre の会員である各県 OB/OG 会、職種別 OB/OG 会、国別 OB/OG 1. 青年海外協力協会(JOCA)ホームページスペースの間借りでスタート 会へホームページスペースを提供してはどうかという意見が出た。各 当時、JOCA にはデータベース委員会というのがあり、JOCA 自体の OB/OG 会の情報を発信してもらい、活動に役立ててもらおうという意図 情報ネットワーク整備やホームページ立ち上げなどの作業を行っていた。 だった。当時でも個人でホームページを持っている OB 達はいたが、今ほ 私はパソコン通信などを行っていた他の OB 数名とともに同委員会の委員 どにはインターネットは普及しておらず、OB/OG 会が独自にホームペー を委嘱され、この作業に携わっていた。 ジを持つのはまだ少し敷居が高い感じがする時代であり、ホームページス JOCA のホームページは 1996 年 12 月 2 日に立ち上がった。しかし、 トッ ペースの提供は会員サービスにもなると考えたわけである。 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 12 委員会では、各 OB/OG 会からのホームページ新設 / 更新の申請受付 フォーマットや、原稿の受け渡し手順 / 方法などを定めた。これに従い、 マラウイ協会でも新設申請を行い許可が得られ、1997 年 4 月 4 日に開設 した。当初のページは、 マラウイ協会紹介、同英語版、国概要、刊行物、衣食、家庭料理、 チェワ語、インターネット、アフリカ料理店、お知らせ の 10 ページだった。当時の URL は http://www.joca.or.jp/malawi-j.htm すなわち、JOCA 自体のコンテンツページと同じレベルに各 OB/OG 会 の html ファイルを置かせてもらえた。 2.サーバー移行 上記の JOCA ホームページスペース間借りによる方法は、サーバー費 用はかからなかったが、内容更新時の即時性に問題があった。つまり、利 用者は内容を更新しようとすると更新申請書を書き、それに新しい HTML ファイルと写真を添えて JOCA に提出しなければいけなかった。JOCA も管理しなければいけないので、 やむを得ない手順であったと思う (私たち、 ▲国概要のページに掲載した写真 データベース委員会が作った手順だったが) 。 それでも、約5年間はこの方法で当会ホームページを運営してきた。し 3.ホームページの効用など かし、この間、インター サーバーを移行してから約7年が経った。この間、ますますインターネッ ネットプロバイダーの業 トが普及し、当会ホームページを見てくれる人も増えてきた。最もそれを 界は、加入者に無料ホー 感じるのは、協力隊の試験に合格し、マラウイへの派遣が決まった方から ムページスペースを提供 「定例会に行ってもいいか?」という問い合わせが増えたことである。また、 するところが多くなって 当会出版物の購入を申し込んでくる方も増えた。また、放送局や番組制作 きた。そこで、私も加入 会社から番組制作に協力して欲しいという依頼がくるようになり、とうと していたプロバイダーで う NHK まで依頼してくるようになった。 無料ホームページスペー 一 方で、悪い影 響もある。といってもインターネットの 広 範 性に スがもらえるドメインを もとづくもの で 仕 方 ない の であるが、当会 メー ル アドレス(japan- 追加し、そこに、マラウ [email protected]) をホームページに連絡先として掲載しているこ イ協会のホームページコ とから、このアドレスへの迷惑メールが1日約 60 ∼ 100 通ぐらい届くこ ンテンツ本体を置くこと とである。大多数はプロバイダーの迷惑メールフォルダーに入ってしまう にした。そして、JOCA が、引っかからない迷惑メールも1日 10 通ぐらいはある。この中から、本 のホームページスペース 当に当会に宛てられたメールを探して読んでいる状況である。 には当会のトップページ (http://www.joca.or.jp/ 4.これからの課題 malaw/malawi-j.htm) だ 目指すは「マラウイに関する情報のポータルサイト」であるが、本業を けを置くことにして、そ 持ちながらなかなか情報収集 / 更新作業に時間を割けないのが、実情であ こからリンクを張ってコ る。これをどうするか?学生会員など若い会員に託する、 という考えもある。 ンテンツ本 体に飛んで いけ るよ うに 変 更した。 また、URL の 独自ドメイン 化 も 課 題 である。 「日本 マラウイ協 会 」 ▲ JOCA スペースに置いたトップページ 2002 年 8 月11日のことである。 上記のURLからわかるように、 この頃には、 が URL を 見 た だ け で わ か る 独自ドメイン 化、例 えば、http://japanmalawi.org/ とか。費用は大したことはないのであるが、これまで親しん JOCA のホームページスペースも各 OB/OG 会ごとに区切られ、当会は でもらっている URL との連続性が絶えるということで、なかなか踏ん切り 「malaw」という当会のファイルだけを収容するフォルダーが割り当てら がつかない。JOCA のほうも、インターネットが普及したので各 OB/OG れていた。 会にスペースを提供することもないのではないかとの議論があるようであ コンテンツ本体のページもフレームで区切り、上部のフレームには当会 り、そこを追い出されるときが独自ドメイン化の機会と思っている。 の名称、連絡先などを、左側には目次を配し、そ この各項目をクリックすれば右側のフレームに内 容が現れるようにした。これで JOCA に申請す ることなく、いつでも独自に内容を更新できるよ うになった。現在の目次項目は、 ゲストブック、マラウイ協会案内、同英語版、 マラウイの概要、マラウイ協会ニュース、外務省 発表ニュース、マラウイ大統領招待出張報告 - 数 原会長、食糧支援募金、ウォームハートプロジェ クト、機関紙 KWACHA、刊行物、衣食、家庭料理、 チェワ語精選、インターネットとマラウイ、アフ リカ料理店、フォトギャラリー となっている。殆ど更新していないページも あるが、 「外務省発表ニュース」は外務省のプレ スリリースのページへのリンクを随時追加更新し ている。日本政府のマラウイに対する援助などの ニュースがわかり、有用性が高いと思われる。 ▲コンテンツ本体のトップページ 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 13 マラウイ親善使節団の思い出(1) Mzuzu マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe == 1998 年(平成 10 年)4 月 25 日∼ 5 月 4 日 == 昭和 50 年度 2 次隊 測量 藤村 俊作 私にとって、今はもうはるかな存在となってしまった国マラウイ、日本 国中でこの国の存在を知っている人は何人いるだろうか。 昭和 55 年にマラウイ写真集「はるかな国 マラウイ」を発行する際、巻 末文の冒頭はこんな文章から始めた。は Zomba りでした。 次に訪れたのは、隊員によるはじめての慰霊碑が建てられた石 Blantyre 井優 隊員(昭和 46 年度 2 次隊 建築設計)の事故現場でした。 リロングウェからムチンジへの国道は、当時、砂埃が舞う未舗装の るかな遠い存在となってしまった国とあ 田舎の道路でした。と きらめかけていた第二の故郷、その後の ころが、現在では立派 マラウイはどのように変化を遂げている に舗装されていて、昔 のか、いつも気になっていました。 の痕跡は殆どなく多く あれから約 20 年、再びマラウイを訪 の車が行き交う道路へ れるチャンスが巡ってきました。日々の と変 化していました。 仕事に埋もれ、時間を惜しんで仕事に打 そのため記憶していた ち込んでいた時期であったが、日本マラ 周囲の印象が変わって ウイ協会のこの話に、直ちに飛びつきま しまって慰霊碑の場所 した。どんなことをしても行ってみたい はなかなか特定できま 思いが先に立ち、仕事の調整をしてこの せん。しかし、ナミテ 計画に参加しました。 テを通過した後、検問 ▲ マラウイ写真集 がありそこで幸運にも 平成 10 年の春でした。総勢 10 人の有志は、南ア経由でアフリカの乾い ▲石井隊員の慰霊碑前で 警察官から情報を得ることができました。現地の人たちは、大切に慰霊碑 た空気が懐かしいリロングウェ空港に立った。途中から身なりも良い制服 を保全していました。管理に尽くしてくれた現地人に感謝、感謝。このよ を着用した修学旅行中のマラウイの生徒が同乗し、空港や人々の服装など うなところにまだマラウイの良さが残っているのを感じました。 昔と比べ裕福になったなあと感心したのが第 1 印象でした。 このマラウイの旅は、 1998 年 4 月 25 日から 5 月 4 日の9泊 10 日で、 コー スはつぎのとおりでした。 月 日 4月 5月 25 日 26 日 27 日 28 日 29 日 30 日 1日 3日 慰霊のための読経の最中、故人をよく知る桐田氏は感極まり、読経を中 断してしまいました。暗中模索で活動した初期の隊員の思いは、パイオニ ア精神に始まる重いものに違いないと改めて思いました。 残念なことは、私と同時期に派遣された鶴田すなえ隊員(昭和 50 年度 旅 程 成田→シンガポール→機内泊 →モーリシャス→ヨハネスバーグ→ブランタイア→リロングウェ マラウイ外務省表敬→ JICA 事務所(リロングウェホテル泊) 石井隊員慰霊→サリマ(リビングストンホテル泊) カチェレ FULL 小学校で事前打ち合わせ(チンテチェ・イン泊) カチェレ FULL 小学校訪問→サリマ(リビングストンホテル泊) サリマ→ブランタイア→ JOCV オフィス(ライアルズホテル泊) 帰国 2 次隊前期 助産師)の慰霊碑が見つからなかったことです。サリマの隊 員を訪ねた帰り道で交通事故にあったのですが、 1年後に慰霊のため集まっ た時でも見つけにくかった所です。手がかりもなく、直線道路でもあり地 形の記憶も曖昧で、こんなことであれば、当時近くに住んでいた元隊員に 場所を聞いておけば良かったと悔やまれました。 【外務省表敬訪問】 外務省は、夢殿をモデルにしたかのような八角円堂です。建設してから そして4つの目的がありました。 ① 広報活動として、姉妹都市交流可能性調査、 「国際協力フェスティバ ル(現:グローバルフェスタ) 」出展用品調査及び購入、 ② 文化活動として姉妹校交流促進支援(島根県高田小学校−カチェレ 小学校) 、奨学金実施に伴う事前調査、 20 年も経過し相当傷んでいました。外務省では事務次官とお会いました。 我々の訪問の目的を説明した後、次官より日頃の日本マラウイ協会の活動 に対して労いと感謝の言葉をいただきました。会議終了後、それぞれの思 い出や国の発展に対する期待を話す機会が設けられ、参加者一人一人と懇 談し終始なごやかな雰囲気の中で表敬は終了しました。1 時間以上に及ぶ ③ 寄付行為として、準備金相当の当該案件調査、 表敬は、マラウイ政府の協力隊活動に対する期待を感じる時間でもありま ④ 親善懇談会 そのほかに物故隊員 11 名の慰霊も目的の 1 つとなっていました。 した。 【慰霊】 最初に訪れたのは、金次克典隊員(昭和 63 年度 1 次隊 電気機器)の 事故現場の慰霊碑でした。事故現場は、新首都が建設中だったころ、周囲 がひろく見渡せる場所でしたが、まわりに街路樹のある車の往来の激しい 十字路に変貌してい ました。まもなく桐 田直樹氏(昭和 45 年 度 1 次隊 測量、埼 玉「 秀 源 寺 」 住 職 ) の読経が始まりまし たが、金次隊員の思 いや異国で亡くなる ▲ 表敬訪問後全員で ことへの切なさを思 【カチェレ小学校訪問】 うと、胸にこみ上げ チンテチェに近いこの小学校は、センター校となっていて、思ったより るものがありました。 在籍数は多いと思いました。島根の高田小学校との交流を進めるための訪 ただやすらかに眠っ 問でしたが、事前に送ったビデオも梱包されたままで、電気もなくビデオ て欲しいと祈るばか ▲金次隊員の慰霊碑前で 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 14 デッキもありません。日本の一方通行的な手法では、思いも通じない現実 に残っていることに、参加した元隊員 T さんは感動したことでしょう。少 に改めて支援の難しさを考えさせられました。 しずつですが、確実にこの国に協力しているという実感を得ました。 全校あげての歓迎を受け、校長先生の案内で授業を参観しました。い ずれのクラスでも大歓迎で、特に先生方が張り切って指導されていて、熱 の入った活発な授業風景でした。気になったのは、ノートが無いのか、鉛 【旧我が家】 自分で住んでいた住居はやはり気になるものである。早速、バロンアベ 筆が無いのか、ほとんどの子がノートをとっていなかったことです。また、 ニューの元住居を訪ねてみました。マラウイ人が住んでいて、やはりかな 低学年は人数が多いのに、高学年のクラスの在籍数が減っています。経済 り傷んでいました。古びた我が家を見て少し悲しい気持でした。もう少し 的な理由や労働力として家計を助けるためと推測され、ここにも以前と変 丁寧に住んでくれたらなぁと少し残念な気持ちになりました。 わらないマラウイの現実がありました。しかし、子供たちの笑顔はあくま で明るく、屈託のない表情は、我々をほっとさせました。放課後には全校 生徒が集まり、一緒に折り紙や歌を歌って歓迎してくれました。 【デッザの陶器工場にて】 ブランタイアからの帰路でデッザの陶器工場に立ち寄りました。結構大 きな工場で、観光地になれば良いと思いました。様々な食器や花瓶、陶器 人形の製造、販売されていて楽しく、商品もなかなか味があって良かった。 マラウイの特産品になれればよいなと思いました。 【ホテルでのさよならパーティー】 隊員や駐在員、団員の元勤務先のマラウイ人達等、多くの人が参加しま した。マラウイの現在の状況や任地での暮らし等の情報交換が行われ、 あっ という間に時間が過ぎていきました。最後に全員で写真を撮り散会しまし たが、なごりを惜しんでその場に残る隊員も多くいました。 ▲ 木の下に集まった児童たち ▲ さよならパーティーで ==最後に== マラウイの旅をしたのは、ついこの間のような気がします。あれから 11 年も経ち月日の流れる早さを感じています。再びマラウイを訪れノスタル ジアをおぼえました。 昭和 46 年に初めての隊員が派遣されてから 38 年も経過しました。国 造りに情熱を傾けた初期の隊員たちの苦労は報われているのだろうか。暮 ▲ 笑顔の子供たち 【チンテチェ・インにて】 らしやすく文化の香りを感じた生活はどのように変化しているのだろうか 小学校を訪問するために宿泊したホテルですが、僻地と思っていた場所 興味がありました。表面的には治安は良いように思えましたが、途中で立 に北のリゾート感あふれる湖畔の宿があり、快適な夜を過ごすことが出来 ち寄った村では、乗っていたレンタルバスを取り囲み物を要求したり、写 ました。早朝、早起きした人達は、マラウイ湖の岸辺に立って、昇りゆく 真撮影も警戒が必要で、以前のような穏やかな生活とはほど遠い感じがし 大きくて真っ赤な太陽のあまりの神々しい美しさに感動し思わず手をあわ ました。人口増加に伴い、 人々の心は荒廃し、 激しい感情やとげとげしくなっ せました。昨夜の満天の星空に続く雄大なアフリカの姿に、またまた感動 ていました。道路補修もままならず、大きな穴の開いた国道も目につきま した瞬間でした。 した。物や建物は多くなりましたが、発展と引き替えに、文化は荒廃した どこかの国と同じ運命を辿らせたくないものであります。エイズや貧困と 【隊員の建設した道路】 引き替えに何を得たのか。課題は大きいと改めて思う旅でした。 サリマからの道路で、隊員が設計し工事した道路は、年月が経過してい たにもかかわらず良く維持されていました。自分の仕事の成果が半永久的 「the warm heart of Africa」この言葉を大切に、いつまでもマラウイ 人のやさしい心が永遠に残っていて欲しいと願っています。 マラウイ親善使節団の思い出(2) == 1998 年(平成 10 年)4 月 25 日∼ 5 月 4 日 == 昭和 46 年度 1 次隊 測量 桐田 直樹 アフリカの水を飲んでから 27 年間、 「再び行きたい、行きたい」と思い、 Mzuzu マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe ある田舎の小学校などに対し、日本マラウイ協会がコツコツ貯 やっと念願がかなったのが 1998 年の春。昔の仲間が各国各所から 10 人、 めた百万円をどう役立てるかといった相手国との相談である。 久々に集まった。 しかし本心は、四半世紀以上経った間にこの国がどれだけ豊かに 旅の目的のひとつは 27 年の間にこの国に派遣されて、志し半ばで亡く なった隊員 11 人の慰霊であり、もうひとつは日本の小学校と姉妹関係に Zomba Blantyre なったかをこの目で見るための旅でもある。 確かに町の中では裸足で歩く人々もいなくなり、人の身なりも良くなっ 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 15 て女性の長髪(カツラ)や、まともな車も増えていた。しかし一歩村に入 ると 27 年前とまったく同じだ。小学校の下級生たちの多くが裸足で、汚 れたシャツのまま大きな木の下での授業である。 学校紹介のビデオテープを日本から送ったが、電気も TV もないので見 てもらうことができない。子供たちの持ち物も、学校支給の古い教科書、 持てないほどに短くなった鉛筆、それらを持ち運ぶカバン代わりのビニー ル袋だ。教材は少なく身なりは貧しくとも、子供たちを本気で叱る威厳の ある先生たち(よくしなる鞭を持っている) 。その大木の下で、持参の折り 紙を教えたときの子供たちの刺すように真剣な目。私たちのために伴奏な しで、大声で歌ってくれたときの輝いた顔、顔。それらは昔と少しも変わっ ていない。 さらに感激したのは、故 石井優隊員(昭和 46 年度 2 次隊 建築設計) の事故現場へ行ったときだ。我々が赴任して 1 年、やっとこの国に慣れた ▲訪問したカチュレ小学校の児童たち とき、新しく希望に燃えてやって来た石井隊員が交通事故で亡くなってし まった。その事故現場にはわれわれの手で建てた小さな慰霊碑がある。し たちは今でも昔と変わらぬ「あたたかい思いやりのある心」を持った人た かしその場所は 26 年も前のことでうろ覚えである。あちこちで聞きなが ちです。どうぞ、その心のままに発展してください。我々の言葉に 「 小欲 ら背丈以上もある草のサバンナを進む。10 キ 知足 」( 我唯足るを知る ) があります。どこかの国の ロメートル以上探して、皆があきらめかけてい ように、モノに執着し消化不良になるまで貪欲に飲み たとき、道から少し離れたところに、それはポ 込まないで、このまま心豊かに大きな国にしてくださ ツンとあった。 い。 」と、お願いしてしまう。 まるで石井さんに導かれるように見つけた慰 霊碑の周りは、背丈ほどの草がきれいに刈り取 禅語に「無頓着」という言葉がある。頓着(貪著) られていた。ちょうど我々が 27 回忌に来るの が無いとは、どんなことだろうか。 に合わせたかのように。だれに頼まれたわけで マラウイの小学生らと別れるとき、一人の子がノー もないのに、たぶん近くの住人がきれいにして トの切れ端に名前と住所を記し、日本の生徒と文通を くれたのだろう。この時のために坊さんになっ したいと私に手渡す。すると残りの子達が次々と持っ たようなものなのに、刈り取られた草を見てい て来て、たちまち両手が金銀、赤や青の紙切れでいっ ると、胸がいっぱいでお経も途切れとぎれで慰 ぱいになる。ノートのない子達が、さっきまで喜んで 霊碑の文字も霞んできた。 兜や飛行機を折っていた折り紙の裏を使っている。わ 外務省で事務次官たちにお会いし、久々のこ ざわざ日本から持ってきたきれいな紙を、生まれて初 の国の感想を聞かれたとき「四半世紀ぶりに再 めて苦労して折った作品を、いとも簡単にメモにして び貴国を訪ねるとき、私の気持ちの半分は昔あ しまって、と思うのは日本人の大人の考え。書く紙が れだけ皆で頑張った国だから、かつての面影も ないから、頓着無く今もっている紙に書いただけであ なく豊かになっていて欲しいと思っていました。 る。 でも残り半分は 「 アフリカの心温かい国、マラ たった二年間、国づくり ( 当時独立後 7 年 ) をお手 ウイ 」 そのままに、物質文明に侵されないでい 伝いしただけなのに、 30 年近くもこの国に執着 ( 頓着 ) てほしいと願っていました。あなたのお国の人 していた私たちは見事に一本とられた。 ▲故 石井隊員の慰霊碑 マラウイ親善使節団の思い出(3) == 1998 年(平成 10 年)4 月 25 日∼ 5 月 4 日 == 事務長 竹谷 稔子 リロングウェの空港に着いたのは 1998 年 4 月 26 日の夜8時でした。 Mzuzu マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe 日本マラウイ協会でボランティアをさせていただいて 10 年 成田を出てから 30 時間・・・・。やはり、アフリカは遠い国でした。ホテ 以上経てば、知識として目から耳からいろいろなことが入って参 ルに向かうタクシーの中から見た満天の星は見事なものでした。10 年来 りますが、それ以上でもそれ以下でもなく、機会があれば是非一 Zomba Blantyre の夢だった“マラウイへ行こう”が、今かなったと星空を見ながら感じま 度行ってみたいと考えておりました。あの時、 「マラウイ共和国親 した。世界が近くなったこの頃ですが、普通のオバサンがアフリカに行く 善使節団」の一員に加えていただき、永年の夢がやっとかないました。 なんてすごいことなんです。 着いた翌日から行動開始。まず、故 金次克典隊員(昭和 63 年度 1 次隊 電気機器、1989 年 5 月 4 日、リロングウェで交通事故により逝去)の 碑に線香を手向けるべく、交通事故防止を願って日本マラウイ協会等の募 金活動により建てられた信号機のある所へ出かけました。信号機は作動し ておりませんでした。24 時間点灯する電球はよほど心して手入れをしない と、半永久的に作動するということは、マラウイでは難しいことのようで した。 衣服を改めて外務省に向かいましたが、そこに働いている人々の近代的 な様子とのアンバランスに戸惑いを覚えました。 そして、使節団 10 名のうちの 8 名の仲間であり、志半ばで逝去なさっ た石井優隊員(昭和 46 年度 2 次隊 建築設計 1972 年 6 月 25 日逝去) の 27 回忌を行うべく、ムチンジの事故現場を訪ねました。27 年振りに訪 れた OB 達の記憶は定かでなく、墓標がなかなか見つかりませんでした。 やっと探し当ててお墓を洗い、お酒をかけ、線香を手向け、お経を唱えて ▲事故現場に建てられた信号機のそばで 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 16 涙する仲間、素晴らしい 27 回忌だったと部外者の私ま の床に足を投げ出して坐り勉強してい でが感動いたしました。 ましたが、1 クラスは教室が無く、外 さて、次はカチェレ小学校訪問です。この小学校は で授業を受けておりました。でも、皆 島根県の高田小学校からの依頼を受け、日本マラウイ 元気そうで目がキラキラしていたのが 協会が橋渡しをした姉妹校です。4 月 29 日に訪問しま 印象的でした。日本語の「象さん」の したが、午後 2 時を過ぎていたため、生徒は全員帰宅 歌を教えるとすぐ覚えて上手に歌った していませんでしたので、翌日 9 時前に再度訪問しま のには、本当にびっくりしました。 した。校長先生は前日とは違い、きちんとスーツを着 日本から折り紙とか紙風船を持っ 用して他の先生方も皆さんきれいに着飾っているよう て行ったのですが、兜を折れるように に見受けられました。 なった子はほとんどいませんでした。 校庭は広い原っぱ。教室は電気もなく、机もなく、 何とか一生懸命に教えて何人かは出来 椅子もない。勿論、水道などはなく、殆どの子が裸足 たでしょうか。持っていった折り紙は です。でも、身なりはこざっぱりしているように思えました。コンクリート ▲道端に集まってきた子供たちと 殆ど紙飛行機になって飛んでいきまし た。これはすごく好評でした。 久々に見た星空に感激し、湖と言うよりは海のようなマラウイ湖の波に 驚き、ミルキーウェイと南十字星に両手を上げ、映画のワンシーンのよう に湖から昇る朝日に息を飲み眺めた一週間はまたたく間に過ぎました。き れい、広い、珍しいばかりがある訳でなく、1800 キロを走り抜けた街々 はとても貧しく見えました。そして、作物等を見ることもなかった道の両 側の野原には痩せた牛と山羊が放たれており、それは少し悲しげな風景に 思えました。第 2 の故郷マラウイを訪れた同行の方々はどのように思われ たのでしょうか。 私はほんの少しだけ本物のマラウイを知ったように思いますが、一つの 国を知るのはなかなか難しいことのようです。いつまでマラウイ協会のお 手伝いが出来るかわかりませんが、あと 2 ∼ 3 年はやってみようと、これ ▲カチェレ小学校の教室 を書きながら考えております。 マラウイ ウォームハート プロジェクト 立ち上げ Mzuzu マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe == 1999 年 3 月∼ 2000 年 11 月 ==(平成 11 年 3 月 ∼ 12 年 11 月) 昭和 53 年度 2 次隊後期組 自動車整備 佐藤 賢三 このプロジェクト立ち上げ時の四方山話を綴ってみることにしましょう。 確か、日マ協会で 18 年間こつこつと積み立てて、ようやく 6 桁の 100 万円になり、何とかマラウイのために役立てられないかという素朴な発想 Zomba 認して骨格に肉付けしていったのです。 申請受付方法では、担当からJ OCV 事務局と JICA マラウイ事 Blantyre 務所に仮称「100 万円プロジェクト」名で便宜供与を依頼し、ひた であったと思います。さりとて良い方法が むきに質疑応答をメールで繰 あるわけでもなく、お世話になったマラウ り返して、全面的支援の了解を得 イアンへの支援と現役隊員の業務支援以外 ることができました。案件募集は に何かあるだろうか、と皆で考えたりしま JICA マラウイ事務所を経由して した。 行える手立てが整いました。OV こうして「100 万円プロジェクト」と誰 ならではのチームワークでした。 ともなく呼び合い発進したものの、最初は 申請書フォーマットは設けまし 「あーでもない、こ―でもない」のブレイ たが、本人の企画力を最大限に ン・ストーミングで、ようやく輪郭が描け 生かして、直訴の情熱を綴ってく るようになりました。しかし、たたき台の企 れること、マラウアンがその後も 画書をまとめだすと、 「目的はみんなのため 維持して使ってもらえる術を考え に」 、 「成果の期待はしない」などといった てもらえたらと願いました。肝心 部分はすらすら書けるのに、どのように展 なことは申請受理から判定を即 開させるのか分からず、協力隊を育てる会 決し、30 日以内に本人の銀行口 の「小さなハートプロジェクト」と外務省の 座に送金することを厳守するべし 推進する「草の根無償資金協力」を隅から隅 と皆で言い聞かせました。秘かに まで参考にさせてもらいました。疑問点を 願ったことは、結果主義ではない 電話で確認し、長所と短所を表に分別して こと。やってもみないで何も分か 定例会で検討を重ねました。 。 りません。 この「たたき台 1」から少し具合的になっ プロジェクト企画書名は、仮称 たようで、出席者の目の色が輝きだして議 の 100 万円プロジェクトのまま 論に拍車が掛かりました。とうとう外務省 でしたが、松平理事がウォーム・ のアフリカ課まで訪問して、JOCV の OB ハート・プロジェクトはどうかと に確認と助言をしてもらい、ようやく骨格 提案。どうしてとの問いに、マラ が固まり「たたき台2」ができました。 「た ウイアンと日本人の架け橋となる たき台2」から弾みがついて、展開方法に ▲第 1 回プロジェクト ついて担当を決めて、次の定例会までに確 チテゼプライマリースクール窓・ドア設置、雨漏り修理工事の前(上)と後(下) 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 17 ことを願っているから、との言葉 に全員が合点。こうして 2000 年 11 月、1 件当たりの申請上限金額 30 万円、案件募集は JICA マラウイ事 務所を経由するプロジェクトが正式に立ち上がりました。 このプロジェクトを協働してサポートしてくださる方々に感謝いたしま す。ありがとうございます。そしてこれからも一緒に見守っていきましょう。 期待と不安のドキドキ、ハラハラからすぐに JICA マラウイ事務所から 第1回目の案件が飛び込んできました。メールを読むなり、背筋が震えた 【参考】これまでのウォーム ハート プロジェクト実施状況 ことを覚えています。その企画は頭の中で映像を鮮明に映し出せるほどに 第1回:2001 年 4 月終了 現状を洞察し、5W1H で対策、そして何よりマラウイアンたちによる維 チテゼプライマリースクール窓・ドア設置、雨漏り修理工事 第 2 回:2002 年 3 月終了 持方法まで記されていたので驚きました。 「隊員の情熱に勝るものはない」 と感心したものです。選考担当間ですぐさま「OK」のメールが飛び交い、 プロジェクト実行後の報告書を受け取った時は目頭に涙が出てきて、その 感動に「ありがとう」とつぶやきました。 ウォーム・ハート・プロジェクトは、現在進行中です。マラウイ・エイ ズ孤児院の代表女史が述べた、 「愛は売るものではなく、買うものでもなく、 ムランジェ・コミュニティ・ディ・セカンダリースクール実験教室建設工事 第 3 回:2005 年 3 月終了 チムワリーラ・セカンダリースクール図書館蔵書数増加プロジェクト 第 4 回:2005 年 12 月終了 手押しポンプ型井戸建設プロジェクト 第 5 回:2009 年 2 月終了 ンパラレ村 観光牛車導入と土産物店の建設 ただそこにあるだけ」が心に残ります。 食糧支援募金 == 第 1 回:2002 年(平成 14 年)、第 2 回:2005 年(平成 17 年)== 昭和 51 年度 1 次隊前期組 理数科教育 鶴田 伸介 1. 日本マラウイ協会の食糧支援募金活動 Mzuzu マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe ・第 2 回班員 日本マラウイ協会(日マ協会)は 2002 年と 2005 年∼ 2006 年の 2 度 にわたってマラウイへの食糧支援募金活動を展開しました。 主な活動は以下のとおりです。 玉井三喜子(H9/2) 、郡昭治(S55/2) 、上田秀篤(S53/2 後) 、 鶴田伸介(S51/1 前) 、竹谷稔子(日マ協会事務長) 、仲井儀英(元 Zomba Blantyre JICA マラウイ事務所長) 実際には、数原孝憲会長、吉田均理事(S52/1 後)を始め多くの人が、 【第 1 回】 さらに多くの募金者の厚意を活かすために実働しました。 2002 年 5 月 12 日 日マ協会総会で数原会長からマラウイの食糧不足の新聞記 事の紹介があり出席者が協会として何かしようということ になり、その後に募金を始めた。 2002 年 7 月 6 日 マラウイ独立 38 周年を記念したマラウイ国情セミナーと シマを食べる会の際に参加者を対象に食糧支援募金を実施 した。 2002 年 8 月 27 日 国際連合世界食糧計画(WFP)日本事務所に 642,000 円の 募金を送金した。 2002 年 10 月 5 ∼ 6 日 国際協力フェスティバルで募金とバザールを実施した。 上記と並行してインターネットなどの広報により多くの方々から食糧支援募金への振込み を受けた。 2002 年 11 月 29 日 778,000 円の募金を WFP 日本事務所に送金した。 2002 年 12 月 19 日 募金合計 142 万円がローマの WFP 本部に送金された 2003 年 1 月 7 日 WFP で日マ協会の募金がマラウイ緊急援助活動への寄 付として登録された。WFP 本部のウェブサイトに各国政 府と並んで Malawi Society of Japan の名前が募金額 US$11,932、募金による食糧 20 トンとともに掲載された。 20 トンは平均的に見ると約 260 人への援助に相当する。 2003 年 1 月 29 日 WFP 発表によると国際的な政府系支援機関と NGO の支 援によって 300 万人に近い人々が食糧を受けることができ、 最悪の事態は避けられつつあった 【第 2 回】 2. マラウイの食糧事情 マラウイの主食であるとうもろこしの生産量と人口の推移を長期(1961 年∼ 2007 年)にわたって概観してみると、生産量は人口増加に比例して 増加しておらず、むしろ人口あたりの生産量は減少傾向にあるように見え ます。とくに近年は生産が不安定で人口あたりの生産量が必要量を下回る ことがたびたび生じています。2006 年∼ 2007 年の勢いを維持してもら いたいものです。 1960 年代∼ 1970 年代にはアフリカで飢餓に苦しむ国があった一方で、 マラウイはメイズを輸出するほどで、 国としての食糧不足からは無縁であっ たようです。それが 1980 年代後半から食糧不足の兆候が出始めました。 近年では 2001 年末からとうもろこし不足が深刻化し、2002 年 2 月 27 日 にはマラウイ政府は国家災害事態を宣言しています。当時の政府報道によ ると 2001 年 12 月から 2002 年 3 月にかけて 500 人以上が餓死したとの ことです。 また 2002 年 6 月時点の WFP の広報によると、乾期の長期化と食糧の 高騰により、その後 1 年間に 300 万人以上が合計約 20 万 8 千トンの緊急 2005 年 9 月 21 日 日マ協会定例会で 2006 年 1 月末までの期間に再度マラウイ食 糧支援募金を展開すること決定し、作業を始めた。 2005 年 10 月 1 ∼ 2 日 グローバルフェスタ 2005 で募金を実施した。 2005 年 10 月 29 ∼ 30 日 青年海外協力隊発足 40 周年記念 JICA ボランティアフェスタ で募金を実施した。 2005 年 12 月 14 日 チカゴ駐日マラウイ大使送別会で募金を実施した。 2006 年 2 月 9 日 マラウイの食糧援助活動への寄付金として 108 万円を国連 WFP 協会に送金した その後 期限後に日マ協会に届いた食糧支援のための寄付金 105,527 円について、JICA マラウイ事務所に寄付先の推薦 を依頼し、同事務所の推薦と本人の依頼に基づいて平成 17 年度 1 次隊エイズ対策の鈴木輸隊員の食糧支援を中心とす る活動に寄付した。KWACHA 第 38 号掲載の鈴木隊員の報 告によると、緊急的な食糧配布としては 2 回行い、HIV 陽性 者 39 人と慢性疾患者 12 人のあわせて 51 人がとうもろこ し 50 キロ、大豆 9 キロ、豆 3 キロ、食用油 1 リットルを受け 取った。配布時点ですでに食糧が尽きたという対象者や非常 に体が弱っている慢性疾患者もいたため、タイムリーな支援 だったとのことである。 食糧支援を必要とすると推計されていました。食糧不足の直接の原因とし ては、2000 年∼ 2001 年(2001 年 3 月ごろの収穫)の不作、とうもろこ しの備蓄不足(1999 年の豊作により 16 万 7 千トンの穀物が備蓄された が 2000 年中ごろから 2001 年始めにかけて売却された。これには不適切 な売却との評価がある) 、食糧価格の高騰、雨期の遅れ、洪水、さらには 2000 年中ごろから 2001 年始めにかけて財政制約により種子と肥料の分 配が減少したことなどが国際機関から指摘されています。2002 年の第 1 回食糧支援募金はこの状況に対して実施したものです。 そ の 後、2004 年 ∼ 2005 年 の 収 穫(2005 年 3 月ご ろ の 収 穫 )は、 1994 年以来最悪となり、食糧不足に取り組むためにビング・ワ・ムタリカ 大統領は、とうもろこしや肥料の輸出禁止措置に加えて 2005 年 8 月 21 日には正式に「Feed the Nation Fund」 (国を養う基金)を設立しました。 当時は全人口の約 34% にあたる約 420 万人が 2006 年の収穫期 (3 月ごろ) までに約 27 万トンのとうもろこしに相当する食糧援助を必要とするとさ れていました。直接的な原因として指摘されたことは前回と同様で、洪水 これらの活動のために飢餓対策班が立ち上げられました。 ・第 1 回班員 やかんばつなどの不順な天候、さらには農業投入物の不足、エイズによる 生産活動の低下などです。2005 年∼ 2006 年の第 2 回食糧支援募金はこ 玉井三喜子(H9/2) 、中川(疋田)朋子(H3/3) 、上田秀篤(S53/2 後) 、 鶴田伸介(S51/1 前) 、仲井儀英(元 JICA マラウイ事務所長) の状況に対して実施したものです。 近年のマラウイの食糧事情の大きな流れを示唆するものとして、日マ協 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 18 会が毎年 7 月に開催する国情セミナーでの マラウイ大使の講演の食糧事情関連部分を下 マラウイのトウモロコシ生産量と人口の推移 記に引用します。 一方、2007 年 12 月 1 日(月)のインター ナショナルヘラルドトリビューン紙によると、 400 マラウイのとうもろこしの生産は 2005 年に 350 は 120 万トンであったが、2006 年には 270 300 万トン、2007 年には 340 万トンに増加して 250 おり、これには良好な雨の条件に加えて肥料 トウモロコシ生産量(万トン) 人口(10万人) 200 に対する政府の補助金が貢献したとされてい トウモロコシ生産量/人口(kg) 150 ます。1980 年代 -1990 年代において世界銀 行は自由市場政策強化の一環としてマラウイ 100 政府に対して従来からの肥料補助を削減する 50 よう推奨しており政府はそれを受け入れてき 0 ましたが、2005 年の収穫の記録的な不作に 1人あたり必要量の目安 (175kg) 61 64 67 70 73 より大統領が肥料に対する補助を増加する方 針に転換したことが大きいとの主張も見られ 76 79 82 85 88 91 94 97 00 03 西暦 出典:国際連合食糧農業機関FAOSTATとマラウイ国家統計局のウェブサイトをもとに筆者作成 06 2005 基金設立 2002 災害宣言 ます。 2002 年 7 月 6 日(土)チカゴ大使 2005 年 7 月2日(土)チカゴ大使 3 年前には大量の食糧があった。それは政府の肥料支給などを マラウイの現状における深刻な問題として食糧不足があげられる。 通じた介入がとうもろこしの生産を促進したことにもよる。複数 マラウイではかんがいが未整備なため、水があるのに水が足らないと 年にわたる豊作の一方で世界銀行は融資の返済を求めた。そのた いうパラドックスがある。その結果、南アフリカから食糧を輸入して め、洪水を予期することもできず、備蓄を売却してしまった。そ いる。またかんがいのためにポンプを無料で配布している。したがっ の後、洪水が発生した。飢饉と戦うためには長期的な視点が必要 て飢餓は今後緩和されよう。 であった。その年の需要が満たされそうだからといって備蓄が不 要なわけではなかった。しかし、飢饉はマラウイだけで発生して いるわけではなく南部アフリカ一帯で発生している。したがって 2006 年 7 月 22 日(土)ゴンドウェ大使 備蓄の売却が食糧不足の主因ではないであろう。 マラウイでは 2004 年∼ 2005 年のかんばつの被害が大きかった。食 糧と食糧輸送だけで多額の歳出を強いられた。日本は WFP を通じて 支援してくれた。 政府は種子と肥料を補助しており、今年は十分雨が降れば、一部の 2003 年 7 月5日(土)チカゴ大使 マラウイは昨年、深刻な飢饉に直面した。飢饉に対する WFP を通じた日マ協会の努力にお礼申しあげる。日マ協会の努力は苦 しんでいた人々の飢餓克服に大きなインパクトを与えた。 ディストリクトを除いて問題ない見込みだ。 政府は食糧危機回避以上のことを考えている。ひとつはかんがい事業 である。この分野でも日本政府は支援してくれている。 マラウイは、とうもろこし、ソルガム(こうりゃん) 、カッサバ の援助を受け、飢饉は克服されつつある。 今年は、備蓄も含み 220 万トンのとうもろこしの供給が見込ま れている。これは必要量の 210 万トンを満たすものであり一安心 である。しかし、この数字は来年 6 月までの話にすぎない。 不幸なことに、近年のマラウイの気象は厳しいものだ。例えば 洪水によって、ある JICA のプロジェクトは流されてしまった。 今年のサイクロンによる洪水では、人命は失われなかったが甚大 な被害が生じた。 2007 年までインド洋の水位が上がり、サイクロンが起きやすく なっているとのことだ。洪水や大雨に対する継続的な努力が必要 だ。ネリカ米が導入されれば、雨が多ければ稲、そうでなければ とうもろこしを確保することで対処可能かもしれない。 2007 年 7 月7日(土)ゴンドウェ大使 2006/2007 年期のとうもろこしの収穫は 23% 増となった。生産が 320 万トンで必要量の 210 万トンを上回った。米、カッサバなど他の 主要作物も増産となった。これらによって食糧が確保された。食糧 を害虫などから守り保存するために各地区にサイロが建設されつつあ る。食糧増産は、種子や肥料などに対する補助政策によっている。農 家は、例えば 3,000 クワチャの肥料を補助政策により 900 クワチャで 購入することができる。 (2007 年 9 月 5 日時点で 1 クワチャ=約 0.85 円) 日本政府はかんがい事業や精米機でも支援してくれており、お礼申 しあげたい。これらは農家の自家消費と販売の両方を助けるものであ る。例えばサリマ地区ではとうもろこしの製粉機や耕運機の支援もあ る。 2008 年 7 月 26 日(土)ゴンドウェ大使 2004 年 7 月3日(土)チカゴ大使 マラウイは主食であるとうもろこしを南アフリカから輸入し なければならなかった。そこで新政府はいくつかの農場ととう もろこしを購入する契約をした。とうもろこしの価格が低すぎ て生産が低下したため、このように一定の価格で購入する予約 をすることで生産のインセンティブを与えている。このような 改革によって 5 年以内に食糧自給が実現されよう。 農業部門では主食であるとうもろこしの生産が増加しつつある。マ ラウイは種子と肥料に多額の補助金を支給しているため、農民は安い 料金で購入することができる。 政府は多くの小規模ダムによるかんがいを進めつつある。大規模な かんがい事業では日本の支援を受けて用水路を掘っている。かんがい 整備のためにはさらなる投資が必要であり、政府は日本などの支援国 と協議している。 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 19 3. おわりに ように言うことは簡単ですが、世界的な大競争と地球環境問題が深まって 日マ協会の食糧支援活動は規模は小さいもののマラウイの食糧不足軽減 いる今日の世界において、いわゆる先進国がやったことを踏襲することが に確実に貢献したと考えます。マラウイ大使からお礼の言葉をいただきま できるのか、また踏襲すべきなのかもまたむずかしい問題です。 した。また WFP からもお礼状をいただきました。 他方、食糧支援が根本的な解決にとっては十分といえないことも確かで (3) その他、市場原理重視か政府の役割重視か、有機農業重視か化学 あり、マラウイの食糧問題の理解を深めることや、よりよい支援の検討も 肥料重視か、種子の種類・外来種の適性の考慮(このこともあり、ザンビ 望まれます。この点に関しては、青年海外協力協会(JOCA)がマラウイ アは食糧援助を拒否したことがある) 、土壌への中長期的な影響の考慮、 のムジンバ県において小規模農民を対象に 2005 年 9 月から農民自立支援 食糧供与が農業活動の意欲をくじく可能性、とうもろこしはあっても買う プロジェクトを展開していることは注目されます。丹羽克介代表とプログ お金がなければ食べられないのではないか(日本はその逆か) 、その中で ラムオフィサーのアルバート・ムスクさんを中心とする活動は小規模なが NGO / NPO の役割は何か、など悩みは尽きません。 らマラウイの農業・農村開発に貢献しつつあります。 食糧不足には下記に限らず多くの課題が関連しているようです。 日マ協会の活動については、第 1 回と第 2 回の支援では WFP に寄付さ せていただきました。担当の職員の方々のご配慮とご対応に感謝申しあげ (1) 地球環境の変動は別にしても、雨量が多いと洪水が発生し、雨量 ます。しかし一方で、一口何億円という拠出金を扱う巨大国際機関へのは が少ないとかんばつが発生することの背景には基盤施設の脆弱性があると るかに少額な寄付には、大商社から晩御飯のおかずを買うような埋没感の 考えられ、食糧確保のためにも社会環境・自然環境に配慮した基盤整備が ようなものを感じることもありました。日マ協会ならではのより主体的な 必要であると感じます。 活動ができればよいのでしょうが、現状ではむずかしくこれで良しとする しかないのでしょうか。 (2) 農業の生産性向上、人口増加の抑制、第 2 次産業・第 3 次産業の いずれにしても、とても正月休みに結論のでる宿題ではありません。お 振興と都市の健全な発展のいずれか、またはいずれもが望まれるのではな 餅の食べ過ぎで重いお腹をかかえて食糧問題の原稿を書くのも我ながらど いでしょうか。2008 年の人口は 1,300 万人であり、陸域に対する人口密 うかという気もします。 度は 139 人/ km 2で日本の 338 人/ km 2の 40% 程度ですが、独立 2 年後の 1966 年の 43 人/ km 2の 3 倍以上であり、農業主体で今後とも人 最後に、募金くださった方々の純粋な善意に心から感謝申しあげます。 口増加を維持することはむずかしいのではないでしょうか。ただし、この 本当にありがとうございました。 大統領招待によるマラウイ訪問 Mzuzu == 2003 年(平成 15 年)10 月 24 日∼ 11 月 13 日 == 会長 数原 孝憲 2003 年 マラウイ大統領招待訪問日程 2003 年 日 日 程 10 月 24 日(金) 成田発(ロンドン・ヨハネスブルグ経由) 25 日(土) ブランタイア着 26 日(日) ムランジェ・ゾンバ視察 ステート・バンケット(タンザニア大統領歓迎) 27 日(月) ケザ貸事務所ビル落成式 ゾマヂ湖 JICA プロジェクト視察(漁業開発調査) マンゴチ着 28 日(火) MASAF Ⅲ発足記念祝典(マラウイ社会活動基金) 29 日(水) マンゴチ発 モンキー・ベイ(マラウイ湖客船母港) マクレアー岬 ブランタイア着 30 日(木) JICA 事務所 31 日(金) リロングウェ発 ブランタイア着 チカゴ駐日大使著書 Crossing Cultural Frontiers 出版記念祝会 11 月 1 日(土) 与党 UDF(United Democratic Front)党大会 大統領私邸夕食会(主賓。食前大統領と会談) 2 日(日) キリスト教宣教110年記念礼拝(大統領夫妻出席) 3 日(月) 休養 4 日(火) ブランタイア発 リロングウェ着 5 日(水) JICA 協力隊プロジェクト視察(ロビ適性園芸技術普及) 6 日(木) 協力隊理数科教師派遣校視察(ミサレ・チテゼ両中学校) 7 日(金) リロングウェ発 協力隊理数科教師派遣校視察(カバジ・マロサ両中学校) 協力隊作業療法士派遣所(ブランタイア) 8 日(土) 帰国協力隊員歓送会 9 日(日) 聖歌隊合同演奏会(フランス文化センター) 10 日(月) 休養 11 日(火) パテル外相表敬 在ザンビア久島参事官・JICA 加藤所長と打合せ チカゴ駐日大使宅夕食 12 日(水) 一村一品運動発足大会 (数原ステートメント、久島ステートメント、大統領演説) ブランタイア発(ヨハネスブルグ・香港経由) 13 日(木) 成田着 マ ラ ウ イ 湖 Lilongwe Zomba 日本マラウイ協会会長 数原孝憲は 2003 年10月7日、同会役員4名 とともに TICAD III 出席のため来日したバキリ・ムルジ大統領を表敬訪 Blantyre 問しました。その際、同大統領からマラウイ訪問の招待を受け、同年 10月24日 (金) から11月13日 (木) まで3週間にわたり同国を訪問しました。 このことはマラウイ協会 25 年の歴史の中で特筆に値することと思われますの で、当時の報告書を再掲します。 マラウイ大統領招待 訪問報告 (2003 年 10 月 24 日∼ 11 月 13 日) 【目 次】 I. ムルジ大統領の訪日と招待 II. ムルジ大統領と新著「民主主義者の声(The Voice of A Democrat) 」 III. 訪問日程と成果 IV. 目と耳で得たマラウイの国情 (1)民主化の進展 (2)一村一品運動の発足 (3)エイズとの闘い (4)進む近隣諸国との協力 (5)マラウイのキリスト教 V. 協力隊活動の現状 【本 文】 I. ムルジ大統領の訪日と招待 第3回アフリカ開発会議(TICAD Ⅲ)に出席の為訪日されたムルジ大統 領を 10 月 7 日、協会理事数名と共に宿舎に表敬訪問した際、大統領から直 接訪問招待を戴き正式の招待状を受領した。前々からマラウイ訪問の強い 希望持っていたのでこれを受け、3 週間に亘る、始めての同国訪問が実現し た。これで、名実ともに OG/OB 会員諸兄姉と並ぶ、マラウイ協会会長に なれたと感謝している。 II. ムルジ大統領と新著「民主主義者の声」 大統領表敬訪問の際、大統領から戴いたのが本著(原題“MAU ANGA” 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 20 THE VOICE OF A DEMOCRAT : PAST, 官の訓練などの報道も読んだ) 。 PRESENT & FUTURE) 。直筆で会長たる 私宛に‘..thank you for serving Malawi’ (2) 一村一品運動の発足 と記し署名。歴代の会長、役員、会員諸兄 1 . 一村一品運動は、マラウイ国民(85% が農 姉への謝辞と受け止め、有り難く頂戴した。 業に従事)の主体的自助努力に基づく生産性、収 本著は、1964 年の独立(旧英保護領ニヤ 入、雇用向上により貧困撲滅をはかる重要施策と サランドから)後継続したバンダ一党独裁 して、これまで JICA の支援と大分県(平松前知 政権を離脱し 83 年地下抵抗運動を開始、 事が創始者)の指導により、マーケティング支援 94 年以降複数党民主政権を樹立、維持発 と人材育成目的で 4 件のパイロット・プロジェク 展させて来たムルジ大統領の基本的な政治 トが実施されてきたが、大統領は今般の訪日の際、 理念や経済・社会改革の目指すものを明確 ▲ UDF 党大会で演説するムルジ大統領 自ら大分県を訪れその実体と成果を見、マラウイで全国規模でこれを実施 に記している。その主要なものは、 する政治決断をし、その発足ワークショップが大統領の出席の下、日本の イ、秘密主義の排除(貧困・エイズも直視) 支援により 11 月 11・12 の両日ブランタイアで開かれ、わが国から大使館、 ロ、民主的平和的政権交代 JICA 関係者に加え私も出席した。 ハ、貧乏の追放(社会活動基金:MASAF の設立) ニ、地方の活性化 2 . 大統領は発足演説の中で、これまでの日本の支援への強い感謝と JICA ホ、国営企業の民営化 の支援継続への強い期待・見通しを表明、さらに米・英等他の先進国の資 ヘ、国民の意識改革と教育の充実(初等教育無料化) 金協力を訴えた他、愛国的見地に立ってワークショップに全政党関係者を ト、孤立主義脱却(近隣諸国との関係改善)と国際協調(ルワンダ、コ 招いたと述べた。以上の他、大統領が演説の中で指摘した諸点次の通り。 ンゴー、コソボ PKO への出兵)等 イ、この運動は究極の貧困削減対策(新しい生産物の発掘、小規模産品 本著作を一読して出発した。 の市場への新しいアクセス 、 付加価値の向上、外貨節約と輸出の促 進) III. 訪問日程と成果 ロ、具体的産品(各地名を付して:バナナ、果物、魚、蜂蜜、豆類、鶏肉、 大統領招待によるマラウイ政府賓客待遇の訪問で手厚い配慮を得、先方 家具等の他観光や無形文化を含む) 作成の日程に沿って大統領の主要行事(タンザニア大統領歓迎晩餐会、政 ハ、地方分権と農民の意識改革(日本人の勤勉さ) 権党 UDF 党大会、 第3次マラウイ社会活動基金:MASAF III 発足記念祝典、 ニ、民間セクター主導(政府は側面援助) キリスト教宣教 110 周年記念礼拝等)に連日同行、日本人の目・耳が届か ホ、この運動は上海(ONE FACTORY ONE PRODUCT) 、ルイジア ない国の様子を密着取材する機会を得たほか、大統領私邸での夕食、パテ ナ州(ONE PARISH ONE PRODUCT)でも成功。 ル外相表敬等があり、その過程で大統領夫妻、外相、ムタリカ次期大統領 政権党候補等の要人多数と面談の機会を持つことができた。 加えて、当初予定を延ばして一村一品運動発足ワークショップに参列、 日本大使館代表と並んで発言し、大統領の決断を称え、その成功を祈念し 3. 大統領演説の前にマラウイ協会会長として発言の機会が与えられ、その 中で、 私は、 大統領の政治決断に敬意を表するとともに、 「この運動が今後5、 10年の間にマラウイの国土、国民、文化に根ざしたマラウイ独特の一村 た。また、JICA の協力を得て協力隊活動の現状視察も行なった。これら 一品運動に発展するよう強く期待、確信するとともに、更なる関心と忍耐 の諸日程を通してマラウイの自然、国土、人々の生活、文化にも触れ、マ を持って見守り続けたい」と発言した。 ラウイに対する理 解を深めた。と同 4 . 続くワークショップでは、ムタリカ次期大統領候補(経済計画・開発相) 時にその抱えるこ の司会の下、市民団体、商工・畜産・観光各業者の他、チカゴ駐日大使が れ から の 課 題 の 見解を述べ、運動事務局(大統領が議長)と地域別実行委員会の設置を決 大きさ、困難な国 定、閉会式に大統領も出席して終了した。 造りに立ち向う大 統 領 と国 民 の 真 ▲ マルゴチでの MASAF III 発足記念式典に集まった人達 (3) エイズとの闘い 剣な眼差し、日本 出発前、人口 1100 万人のマラウイで毎日 139 人がエイズで死亡、47 に対する畏敬の 万人の孤児がおり、平均寿命が 39 歳(2000 年)まで下がった(ユニセ 念と強い期待を フ在マラウイ駐在員の富田真紀さん談。10 月 20 日付読売朝刊)と知って、 感じ取ることが出 現地での取り組みに関心を抱いた。かって協力隊事務局長の時、医療関係 来た。 隊員の対策に万全を期したことも想起した。 現地で先ず耳にしたのは宣教 110 周年記念礼拝での大統領の演説で、 注:MASAF --- MAlawi Social Action Fund エイズの脅威を正面から取り上げ、神の教えを守り乱交の戒めを説いた。 IV. 目と耳で得たマラウイの国情 私的夕食の際に同席した軍の高官は最大の敵がエイズだと述べた。現地の (1) 民主化の進展 報道も 12 月 1 日の「世界エイズ・デー」に合わせて「恥辱の念に挑戦し 連日、大統領の出席する諸行事を観察して、リーダーと大衆の間の対話 前向きに取り組め(Be Positive, Fight Stigma!) 」を標語に「2003/2004 (シュプレヒト・コールに始まる)と信頼に支えられたマラウイ流の民主化 WORLD AIDS CAMPAIGN」を展開し、各宗教団体、職場、法律・政策 が安定した軌道に在ることを感じた。対話の中で大統領は、自らの言葉で 策定機関、教育・保健機関、家庭等を総動員して、検査と投薬(伝統的薬 国民に語り、貧困・疾病の中で進めるアフリカの民主化が日本、韓国、イ 物を含め)を勧めた。 タリアに比べ如何に困難か、その克服のために全国民が立場を超えて取り 組むべし、それにより民主化が国民の支持を得ると説いた。 そ の 一 方 で、 見 る べ き 政 治・経 済・社 会 変 革( 政 府 批 判 の 自由、 MASAF 資金による農村開発と地方の学校・道路・橋の建設、初等教育の (4) 進む近隣諸国との協力 マラウイ到着の翌 26 日、隣国タンザニアのンカパ大統領がブランタイ アに到着、外交団と共に歓迎晩餐会に出席した。両大統領は共に相手国 無償化等)と生活向上の成果(かってマラウイの女性は南アフリカの男性 の政治的安定と経済開発への取り組みを称え、南部アフリカ開発共同体 との結婚を志望、リロングウェ・ブランタイア間の運転時間の短縮等)を (SADC、14 カ国が加盟)の議長国がマラウイからタンザニアに変わった 謳歌し更なる努力と勤勉を訴え、政権党次期大統領候補を指名し、野党候 後を受けて互いの成果を祝福してエールを交換したが、両国がジンバヴエ 補との自由な選挙(来年5月)による民主的政権交代を掲げた。 (人権保 の内紛解決に如何に協力するかが取り上げられると報じられた。 護目的での公文書の保存と閲覧の自由や英国人講師による治安取締り警察 昨年8月のブランタイア開催に続く本年8月のダルエスサラーム SADC 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 21 首脳会議では包括的経済開発計画が承認され、域内の横断道路整備も進 困難(事業所の資金・人材不足、生徒の脱落)や厳しい生活環境の中で、 められる。これ 職場の人々の友情、他の隊員仲間の励まし、JICA 職員の支えを受けて逞 らの他、マラウ しく育っていく様子は変わらないが、ブランタイアでの歓送会で、女性帰 イは、アフリカ 国隊員が、1年目の挫折は2年目に良くなった、無理にマラウイを好きに 連合(AU) 、ア ならなくても良いと思って2年を過ごした今、嫌いの思いは消え、好きに フリカ開 発 の なっているとの実感を語ったのに新たな感銘を受けた。 ための新パー トナーシップ VI. チカゴ駐日大使と新著「文化の境界を越えて」 (NEPAD) の 今回のマラウイ訪問時、駐日チカゴ大使の新著「文化の境界を越えて 場でも積極的な (CROSSING CULTURAL FRONTIERS) 」の出版記念祝会が盛大に行な 外交を進めてい われた。この著作の中で大使は、1年半の日本国内視察の成果に触れ、 「ト る。 ヨタ」の企業文化、新潟の稲作・灌漑と米の二次生産物、大分の「THINK ▲ 一村一品運動発足大会でスピーチする筆者 GLOBALLY ACT LOCALLY」スローガン、北海道滝川の果物生産と簡 (5) マラウイのキリスト教 単な技術を使った加工産品等に言及しているが、著者の目はマラウイの工 11 月 2 日(日)の宣教 110 周年記念礼拝にイスラム教徒のムルジ大統 業生産に固有の水準を見事に焦点を当てており、国家建設に役立てたいと 領夫妻が列席し、大統領が聖書の聖句を朗読したのには驚いた。同集会で の思いが伝わって 大統領は演説し、キリスト教会と政府は共に協力して国民のために尽そう くる。マラウイの と語り、続いて、双方は互いの分限を守り干渉しないよう呼び掛けた。キ 一村一品運動もこ リスト、イスラム両教の他にマラウイには伝統宗教があるが、宗教による こから生れたのは 対立が国内の不安定に発展することはないと感じた。 想像に難くない。 この国の賛美歌はアフリカ独特のビート・リズムに合わせ腰と体全体を チカゴ駐日大使 スイングさせながら歌われる。11月9日(日)フランス文化センターでの は、ムルジ大統領 合同聖歌ショウに出掛けたが、ディスコさながらの陽気な雰囲気であった。 のマラウイ国内で V. 協力隊活動の現状 えての訪日と首脳 の実績成果を踏ま マラウイでの協力隊活動は協力隊事業発足とともに旧く、その派遣実績 会談、そして一村 は累計 1169 人、アフリカで第 1 位、全派遣国中フィリピンと1、2を争う 一 品 運 動 の 新し ▲ ロビ地区隊員と - デッザの Pottery Restaurant にて 実績を持つ。隊員が大統領官邸招待されるなどマラウイ側の評価も高く、 い展開を経て両国関係は新しい段階に入ったと述べた。これまでのわが国 大統領訪日の際の首脳会談でも話題となった。 の ODA 支援と JICA の協力活動の実績がその背後にあるが、その中で協 派遣中隊員数 41 人(10 月末現在)で、職種は保健・衛生(薬剤師、看 力隊は草の根レベルでの人物交流で両国間の心の絆を強化している(ムル 護士、作業療法士、公衆衛生) 、農業(野菜、稲作、果樹、土壌) 、家畜飼育、 ジ大統領の言葉) 。その心の絆を基礎に協力隊の OG/OB 諸兄姉が結成し 獣医師、養殖、生態調査、理数科教師、建築、自動車整備、体育、婦人子 た「日本マラウイ協会」は今年創立20周年を迎え、この間、在日マラウ 供服、コンピューター技術、村落開発で、マラウイ全土に展開している。 イ大使館と密接に協力して活動しながら両国民の架け橋の役割を果たして 今回のマラウイ訪問で数ヶ所の現場を視察したが、国の貧しさから来る きた。協会会員と共にこの役割をこれからも続けて行きたい。 JICA マラウイ事務所 本邦派遣スタッフ一覧 氏 名 お よ び 任 期 事務所長 (旧マラウイ駐在員) 仲井儀英 稲田武司 長倉 孝 奈良輪睦美 仲井儀英 金井盛一 喜多村裕介 村上 博 加藤高史 水谷恭二 小淵伸司 73.10. 1 76.10. 1 ∼ ∼ 76.10. 1 81. 6. 1 81. 6. 1 ∼ 85. 3.15 85. 3.15 ∼ 89. 3.20 ∼ 92. 7. 1 ∼ 95. 4.27 ∼ 89. 3.20 92. 7. 1 95. 4.27 98. 5. 1 98. 5. 1 ∼ 02.10. 1 02.10. 1 ∼ 05. 2.15 05. 3 ∼ 08.10 08.10 ∼ 木村精一 小嶋良輔 関 徹男 吉村 稔 村瀬達哉 諸永浩之 星野明彦 05.9 ∼ 09.1 ∼ 次長 93.3. ∼ 95.11 協力隊調整員 稲田武司 江畑義徳 71.7 ∼ 協力隊調整員 72.12 ∼ 三浦 敏 75.1 ∼ 笹子 実 小宮英夫 水谷恭二 77.4 ∼ 80.5 ∼ 84.3 8 4.11 ∼ 87.8 新田慶子 金山昌功 加藤 卓 78.12 ∼ 81.12 82.4 ∼ 83.2 83.6 ∼ 85.11 95.11 ∼ 96.5 ∼ 01.2 ∼ 03.5 03.5 ∼ 05.7 郡 昭治 竹内清吾 小野寺良明 太刀川良一 合志恭子 高橋恭子 87.7 ∼ 90.12 90.12 ∼ 92.11 92.12 ∼ 94.12 田島弘子 小林一之 倉又雅広 89.9 ∼ 91.9 91.9 ∼ 94.9 協力隊調整員 95.6 ∼ 98.9 古川 寛 94.8 ∼ 96.10 96.9 ∼ 99.9 山本竜正 高橋和哉 95.5 ∼ 98.9 98.9 ∼ 00.9 98.9 ∼ 00.9 00.9 ∼ 02.11 金山昌功 02.11 ∼ 03.8 石井正子 柿 良樹 04.8 ∼ 07.1 07.1 ∼ 石井博之 中元則晶 山本るみ子 辻本 誠 99.9 ∼ 01.9 01.8 ∼ 03.8 小幡雅彦 樋口和彦 00.9 ∼ 02.9 02.8 ∼ 04.8 佐竹 靖 03.8 ∼ 06.1 06.1 ∼ 09.1 ∼ 野口拓勇 関 香織 大原健治 04.8 ∼ 07.8 07.8 ∼ 09.1 ∼ 飯野徳太郎 安高由香利 フィールド調整員 06.02 ∼ 09.1 ∼ フィールド調整員 木下秀俊 フィールド調整員 内園 清 07.1 ∼ 08.03 ∼ 健康管理員 (医療調整員) 関 育子 大島英子 84.3 ∼ 86.3 86.4 ∼ 89.10 井上康子 坂本昌子 水木美枝子 89.10 ∼ 91.10 91.9 ∼ 94.2 94.2 ∼ 97.9 山中典子 97.9 ∼ 9.9 矢野えり子 西崎直美 ワンゾー豊美 99.9 ∼ 02.9 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 22 02.9 ∼ 05.11 05.11 ∼ 年号 昭和 58 年 (1983) 年月日 組織活動 1983.2.26 設立総会 1983.5.21 第 1 回通常総会 1983.11.1 広 報 活 動 機関紙 KWACHA イベント 文 化 活 動 出版物 セミナー / 講演会・交流活動 国際協力活動・その他 JICA・協力隊の動き (マラウイ派遣隊員数※年度計) 日本・世界の動き 8/1 派遣中の隊員数 1,000 名突破 第 1 号発行 a マラウイの動き 東京ディズニーランド開園 1964 年からバンダ政権・一党制 戸塚ヨットスクール事件 マラウイ議会党(MCP)が第一党 任天堂ファミコン発売 6 月 国会議員総選挙 12/27 (社) 青年海外協力協会発足 (50)大韓航空機撃墜事件 昭和 59 年 1984.5.26 第 2 回通常総会 植村直己が消息不明に (1984) 4/30 隊員派遣累計 5,000 人突破 1984.8.23 国情紹介誌 第 1 版 発刊 ロサンゼルスオリンピック開催 7/1 「協力隊を育てる会ニュース」創刊 インド・インディラ・ガンジーが暗殺される グリコ・森永脅迫事件 (49) 昭和 60 年 (1985) 1985.2.15 1985.5.18 第 2 号発行 第 3 回通常総会 1985.5.22 マラウイの概要と国際協力 発行 1985.12.20 昭和 61 年 1986.6.9 4/20 協力隊事務局設立 20 周年 ソ連・ゴルバチョフ書記長就任 10/9 協力隊発足 20 周年記念式典(NHK ホール) 日航機御巣鷹山事故 11/21 タンザニアでバス事故によりマラウイ隊員ら 6 名が犠牲 NTT、JT が発足 第 3 号発行 (63)科学万博つくば '85 開催 第 4 回通常総会 3/1 マラウイ 古屋敷定一 隊員 死亡 (1986) フィリピン・マルコス大統領国外脱出・アキノ大統領就任 ソ連・チェルノブイリ原子力発電所事故 (44)男女雇用機会均等法施行 昭和 62 年 (1987) 1987.5 1987.6.20 チェワ語辞典 初版 発刊 a 9/16 国際救急援助隊 発足 第 5 回通常総会 10/6 国際協力の日制定 1987.12.5 昭和 62 年度 OB・OG 懇親会 国鉄民営化 5 月 国会議員総選挙 利根川進 MIT 教授ノーベル賞受賞 金賢姫の大韓航空機爆破事件 (40)アメリカ・ブラックマンデー 昭和 63 年 (1988) 1988.4.28 1988.5.28 第 4 号発行 ソ連・ペレストロイカ開始 第 6 回通常総会 1988.8.27 青函トンネル開通 第 5-A 号発行 昭和 63 年度 OB・OG 懇親会 リクルート事件 (51)ソウルオリンピック開催 平成元年 (1989) 1989.2.25 1989.5.13 パシャネ国務大臣 接遇 第 7 回通常総会 昭和天皇崩御・平成へ 5/4 マラウイ 金次克典 隊員 死亡 1989.9.2 平成元年度 OB・OG 懇親会 パシャネ国務大臣来日(大喪の礼参列) 消費税 3% 施行 中国・天安門事件 (40)独・ベルリンの壁崩壊 平成 2 年 (1990) 1990.1.31 第 5-B 号発行 7/3 協力隊発足 25 周年記念式典 1990.4.1 - 5.3 1990.5.12 リロングウェ信号機設置協力募金(金次メモリアルファンド) 7/3 協力隊派遣数 1 万人突破 第 8 回通常総会 1990.9.1 平成 3 年 (1991) 平成 2 年度 OB・OG 懇親会 1991.3.31 1991.5.11 第 6 号発行 a シマを食べる会 開催 1991.8.1 第 7 号発行 1992.3.20 第 8 号発行 第 10 回通常総会 1992.7.4 シマを食べる会 開催 1992.7.6 大使館主催 独立記念日祝賀パーティー出席 佐川急便事件 2/6 駐日マラウイ大使館開設 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 干ばつ ユーゴスラビア連邦解体 チマンゴ蔵相来日 バルセロナオリンピック開催 JICA マラウイ事務所チェワ語講師招聘協力(旅程設 定、随行) 1992.9.20 第 9 号発行 1992.10.28 (41) 1993.4.30 米・世界貿易センター地下爆破事件 1993.3.17 (1993) マラウイ基金 協力(フジ TV での隊員活動放送後の 募金活動協力) 第 10 号発行 1993.5.15 クロアチア紛争 (40) 駐日マラウイ大使館 開設 1992.9.19 平成 5 年 バブル崩壊 JICA マラウイ事務所秘書招聘募金 1992.2.6 1992.5.9 ペルー・フジモリ大統領就任 7/15 JOCV NEWS 400 号突破 ソビエト連邦崩壊 駐日マラウイ大使館開設 事前調査協力 1991.11.7 (1992) 7/9 マラウイ 今泉久美子 隊員 死亡 雲仙普賢岳大火砕流発生 1991.7.6 平成 4 年 カトポラ運輸通信相来日(即位の礼参列) 大学センター試験開始 湾岸戦争 第 9 回通常総会 1991.9.15 ナミビア独立 第 11 回通常総会 Jリーグ開幕 米不足・米騒動 1993.6.1 欧州連合(EU)発足 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 23 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 24 6/14 国民投票の結果、複数政党制へ 年号 年月日 組織活動 広 報 活 動 機関紙 KWACHA イベント 文 化 活 動 出版物 1993.7.3 第 12 号発行 5 月 複数政党制下での初の大統領・ 国会議員総選挙 関西国際空港開港 5/17 バキリ・ムルジ大統領就任 プレイステーション発売 統一民主戦線(UDF)が第一党 野党民主同盟(AFORD) と連立政権を発足 マラウイ剣道基金 協力 旅行ガイドブック 新訂第 1 版 発刊 7 月 ムピンガンジラ広報・放送相来日 (ブランタイヤ剣道クラブへの募金協力) 8 月 バンダ蔵相来日 駐日マラウイ大使 送別会 開催 (Kadzamira 大使) 1995.3.15 (29) 新駐日マラウイ大使 歓迎会 開催 (Vareta 大使) 地下鉄サリン事件 第 13 回通常総会 第 14 号発行 全日空 857 便ハイジャック事件 1995.7.8 国情セミナー・シマを食べる会 開催 1995.9.20 高速増殖原子炉もんじゅ事故 国際協力フェスティバル '95 出展 (45)コンゴ・エボラ出血熱発生 1996.3.24 足立区青年センター 帰国報告会 1996.5.10 3/25 協力隊事務局が新宿マインズタワーに移転 第 16 号発行 O-157 事件 国情セミナー・シマを食べる会 開催 1996.10.5 - 6 アトランタオリンピック開催 国際協力フェスティバル '96 出展 1996.11.20 ペルー日本大使公邸人質事件 第 17 号発行 (22) 1997.4.4 ホームページ開設(JOCA サーバー) アナン国連事務総長就任 第 15 回通常総会 酒鬼薔薇事件 1997.7.5 国情セミナー・シマを食べる会 開催 1997.7.6 消費税 5% 旅行ガイドブック 新訂第 2 版 発刊 d 1997.7.30 12 月 ブワナリ外相来日(外務省賓客) 薬害エイズ事件 クローン羊ドリー生まれる 第 14 回通常総会 1996.7.6 1997.5.10 Windows95 発売 第 15 号発行 1995.9.30 - 10.1 1996.5.11 9 月 ナンクンバ農業・畜産相、チズミ ラ運輸・通信相来日 10/26 協力隊発足 30 周年記念式典(オリンピック記念 阪神淡路大震災 青少年総合センター) 1995.3.31 1995.5.13 (1997) 松本サリン事件 干ばつ 国際協力フェスティバル '94 出展 1994.11.30 平成 9 年 10/1 二本松訓練所開設 第 13 号発行 1994.11.1 (1996) 2 月 チルワ運輸・通信相来日 シマを食べる会 開催 1994.10.1 - 2 平成 8 年 ルワンダ・集団虐殺 ←国情紹介誌 第 2 版 発刊 1994.9.21 12 月 ンタバ外相来日 5/21(社)青年海外協力協会設立 10 周年 第 12 回通常総会 1994.7.9 (1995) (25) アフリカの集い '94 講演会 協力 1994.3.16 マラウイの動き 10 月 チマンゴ蔵相来日(アフリカ開 発会議) 旅行ガイドブック 暫定初版 発刊 1994.7.6 平成 7 年 日本・世界の動き 11/17 終身大統領制廃止決議 1994.2.20 1994.5.14 JICA・協力隊の動き (マラウイ派遣隊員数※年度計) 第 11 号発行 1993.11.1 (1994) 国際協力活動・その他 シマを食べる会 開催 1993.9.22 平成 6 年 セミナー / 講演会・交流活動 中国・香港返還 第 18 号発行 ダイアナ元英皇太子妃事故死 1997.9.21 里美村 国際交流フェスティバル出展 1997.9.28 9 月 マレウエジ副大統領兼大蔵大臣 来日(投資セミナー開催) マレウェジ副大統領 接見 1997.10 1997.10.4 - 5 平成 10 年 (1998) 国際協力フェスティバル '97 出展 1998.2.18 島根県高田小学校∼カチェレ小学校 交流支援 (32) 第 19 号発行 1998.3.1 駐日マラウイ大使離任に伴う表敬訪問 (Vareta 大使) 和歌山毒物カレー事件 1998.4.15 マラウイ親善使節団 派遣壮行会 ケニア・米大使館テロ事件 マラウイ親善使節団 派遣 郵便番号 7 桁化 1998.4.25 - 5.4 1998.5.9 12 月 バンダ農相来日 長野オリンピック開催 4月 チペタ外相来日 第 16 回通常総会 1998.7.4 国情セミナー・シマを食べる会 開催 1998.8.1 1998.8.19 第 20 号発行 埼玉県立川口北高校文化祭 協力 1998.9.1 1998.10.3 - 4 10 月 チルンパ蔵相来日(第 2 回アフ リカ開発会議) 国際協力フェスティバル '98 出展 1998.10.15 平成 11 年 (1999) ナンビンド一等書記官、高田小学校訪問 1999.2.1 千葉県高校生 社会科自主学習 協力 1999.2.17 第 21 号発行 a 通貨ユーロ導入 東ティモール住民投票実施 第 17 回通常総会 1999.7.3 1999.8.21 7/30 JICA 設立 25 周年記念式典 全日空 61 便ハイジャック事件 1999.4.1 1999.5.8 (30) 国情セミナー・シマを食べる会 開催 東海村 JOC 臨界事故 6月 複数政党制下での2回目の大統 領・国会議員総選挙 パナマ運河返還 6/15 バキリ・ムルジ大統領再選 第 22 号発行 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 25 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 26 年号 年月日 組織活動 広 報 活 動 機関紙 KWACHA 1999.10.2 - 3 平成 12 年 (2000) 文 化 活 動 出版物 セミナー / 講演会・交流活動 1/28 マラウイ 綱脇紫寿 隊員 死亡 第 18 回通常総会 6 月 派遣隊員累計 2 万人突破 国情セミナー・シマを食べる会 開催 国際協力フェスティバル 2000 出展 2000.12.2 マラウイ政府観光局開設イベント 出展 2001.3.28 (41) b 第 25 号発行 中央省庁再編 2001.4.3 第1回ウォームハートプロジェクト完成(チテゼ プライ マリースクール校舎修復・改善)c d アメリカ同時多発テロ事件 第 19 回通常総会 日本で狂牛病(BSE)感染牛発見 2001.6.2 南部アフリカ7ケ国政府観光局イベント 出展 大阪教育大附属池田小児童殺傷事件 2001.7.7 国情セミナー・シマを食べる会 開催 2001.7.28 近畿日本ツーリスト「マラウイの夕べ」協力 2001.9.19 b 第 26 号発行 2001.10.6 - 7 国際協力フェスティバル 2001 出展 2001.10.20 12 月 チカオンダ大蔵・経済計画大臣と ムワワ保健人口大臣来日(TICAD 閣僚 レベル会合) 栃木県医療福祉大学 帰国報告会 協力 2002.1.16 シニア隊員 帰国報告会 開催 2002.3.19 雪印牛肉偽装事件 第2回ウォームハートプロジェクト完成(ムランジェ セ カンダリースクール実験教室建設支援) 2002.3.20 2002.5.12 8月 第一野党 マラウイ議会党(MCP) 分裂状態 第 24 号発行 2000.10.7 - 8 (2002) 世田谷一家殺害事件 島根県高田小学校寄付金の使途探し支援(カスング 国立病院、ロビヘルスセンター隊員へ医療備品支援) 2000.9.20 平成 14 年 ハッピーマンデー制度 シドニーオリンピック開催 2000.9.1 2001.5.12 マラウイの動き 2000 年問題 b チェワ語辞典 統合改訂版 発刊 2000.7.8 (2001) 日本・世界の動き (41) 第 23 号発行 2000.7.6 平成 13 年 JICA・協力隊の動き (マラウイ派遣隊員数※年度計) 国際協力活動・その他 国際協力フェスティバル '99 出展 2000.3.15 2000.5.13 イベント 新駐日マラウイ大使歓迎会 開催(Chikago 大 使) 第 27 号発行 第 20 回通常総会 2002.7.6 北朝鮮亡命者、日本国総領事館駆込み事件 3月 パテル外相来日(外務省賓客) 日韓ワールドカップ開催 5月 ムルジ大統領の大統領三選を認 める憲法改正案否決 アフリカ連合(AU)発足 干ばつ・食糧危機 国情セミナー・シマを食べる会 開催 2002.8.11 b ホームページ 独自サーバーへ移行 2002.9.18 第 28 号発行 2002.10.5 - 6 食糧支援募金 2002(142 万円) 国際協力フェスティバル 2002 出展 2002.11.29 2002.12.13 (2003) 立教大学文学部 講演会協力 2003.3.26 2003.5.10 10/1 独立行政法人 国際協力機構(JICA)発足 六本木ヒルズオープン 国際協力フェスティバル 2003 出展 c 2003.10.7 バキリ・ムルジ大統領 接見 2003.10.24 - 11.13 大統領招待 数原会長マラウイ出張 2003.12.17 数原会長 マラウイ出張報告会 2004.3.24 スペイン列車爆破事件 第 22 回通常総会 アテネオリンピック開催 b 国情セミナー・シマを食べる会 開催 2004.9.22 スマトラ沖地震発生 国際協力フェスティバル 2004 出展 (38) 2005.3.2 第 3 回ウォームハートプロジェクト完成(チムワリーラ 10/29 協力隊発足 40 周年記念式典(NHK ホール) セカンダリースクール図書館蔵書増加) 2005.3.23 2005.5.14 第 33 号発行 第 23 回通常総会 2005.7.2 b 国情セミナー・シマを食べる会 開催 2005.9 2005.9.21 2005.10.1 - 2 5月 複数政党制下での3回目の大統 領・国会議員総選挙 5/20 UDF のビング・ワ・ムタリカ大 統領就任 新潟県中越地震発生 第 32 号発行 2004.10.2 - 3 (2005) (34) 第 31 号発行 2004.7.3 平成 17 年 鳥インフルエンザ感染発生 第 30 号発行 2003.10.4 - 5 2004.5.15 4 月 バキリ・ムルジ大統領、今期限り で引退を公式表明 イラク戦争開戦 国情セミナー・シマを食べる会 開催 2003.9.24 (2004) 日本郵政公社発足 第 21 回通常総会 2003.7.5 平成 16 年 (18) 第 29 号発行 b 平成 15 年 ローマ教皇ヨハネパウロ2世死去 2月 ムタリカ大統領 UDF 脱退表明 JR 福知山線脱線事故 ムタリカ大統 領、民主進 歩党(DPP) を発足 愛・地球博開催 干ばつ・食糧危機 米・ハリケーン被害 鈴木出版 児童文学 第 34 号発行 b「ヘブンショップ」編集協力 グローバルフェスタ 2005 出展 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 27 食糧支援募金 2005(108 万円) 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 28 年月日 広 報 活 動 組織活動 機関紙 KWACHA 2005.10.29 - 30 文 化 活 動 イベント 出版物 セミナー / 講演会・交流活動 日本・世界の動き マラウイの動き 駐日マラウイ大使 送別会 開催(Chikago 大使) 2005.12.29 (2006) JICA・協力隊の動き (マラウイ派遣隊員数※年度計) 協力隊発足 40 周年記念 JICA ボランティア フェスタ 出展 2005.12.14 平成 18 年 国際協力活動・その他 第 4 回ウォームハートプロジェクト完成(ムクングウェ フル プライマリースクール手押しポンプ型井戸建設) 2006.2.9 ライブドア事件 2006.3.14 ビング・ワ・ムタリカ大統領 接見 2006.3.29 ジャワ島地震 b 年号 第 35 号発行 元ロシアFSB中佐殺害事件 前大統領派チルンバ副大統領、反逆罪 容疑で逮捕・自宅軟禁 3/14-18 ムタリカ大統領 来日(公式実 務訪問賓客) 9 月 チャポンダ地方自治・地域開発 大臣 来日(アフリカン・フェア出席) 2006.4.1 2006.4.23 第 24 回通常総会 2006.5.20 アフリカンフェスタ 2006 マラウイ大使館出 展 協力 2006.6.1 食糧支援募金追加支援送金(105,527 円) (マウラオ エ イズ対策協会配属隊員) 2006.7.22 国情セミナー・シマを食べる会 開催 2006.9.20 第 36 号発行 9/26 安部晋三首相、内閣誕生 2006.9.30 -10.1 平成 19 年 (2007) グローバルフェスタ 2006 出展 2006.12.3 目黒区中央町社会教育観 講演会 協力 2006.12.10 浦安市国際センター マラウイ紹介講座 協力 2007.3.1 (43) 草津ローターアクトクラブ 寄付金 使途探し支援 (72,095 円) (ティコレラネコ エイズ対策事務所配属隊員) 2007.3.28 食品偽装表示不正問題 第 37 号発行 守屋前事務次官収賄事件 2007.4.1 2007.4.21 - 22 2007.5.12 「JICA 世 界 の 笑 顔 の た め に 」プ ロ グ ラ ム 募金協力(剣道竹刀を送るプロジェクト) 第 1 回協力隊祭り 出展 第 25 回通常総会 2007.7.7 国情セミナー・シマを食べる会 開催 2007.9.27 第 38 号発行 9/26 福田康夫首相、内閣誕生 2007.10.6 - 7 平成 20 年 (2008) グローバルフェスタ 2007 出展 2008.3.26 1/1 在マラウイ日本大使館仮事務所開 館(キャピタルホテル内 / リロングウェ) 第 39 号発行 2008.4.19 - 20 2008.5.10 第 2 回協力隊祭り 出展 3 月 ムンバ外務副大臣来日 2008.7.26 国情セミナー・シマを食べる会 開催 b 第40号 記念号発行 2008.10.4 - 5 9/24 麻生太郎首相、内閣誕生 グローバルフェスタ 2008 出展 10/1 新 JICA 発足(旧 JICA/JBIC 統合) b 2008.9.26 2008.10.10 第 5 回ウォームハートプロジェクト送金(お土産店およ 10/3 協力隊事務局が大手町・竹橋合同ビルに移転 び観光牛車建設プロジェクト) 2008.10.27 NHK 番組制作協力(チェワ語翻訳) 2008.12.15 平成 21 年 マラウイ外務大臣による協力隊第 1 期生への感謝状授 与式およびレセプション a 2009.1.8 bNHK 番組制作協力(チェワ語翻訳) 2009.2.26 (2009) 第 5 回ウォームハートプロジェクト完成 (お土産店および観光牛車建設プロジェクト) 2009.3.25 第 41 号発行 第 3 回協力隊祭り出展 4/5 北朝鮮 弾道ミサイル発射 b 2009.4.25 - 26 2009.5.23 4/10 在マラウイ日本大使館実館開館 (ペトロダ・グラス・ハウス / リロングウェ) 5/28-30 ムタリカ大統領 来日 (TICAD IV 出席) 第 26 回通常総会 第 27 回通常総会 5/25 北朝鮮 地下核実験 5/22 ムタリカ大統領、再選・就任 【歴代会長・任期】 卜部 敏男 初代 マラウイ国大使 1983 年 2 月∼ 1993 年 4 月 秋山 忠正 元 協力隊を育てる会 常務理事 1993 年 5 月∼ 1999 年 4 月 数原 孝憲 元 アイルランド / ナイジェリア大使 元 青年海外協力隊事務局長 1999 年 5 月∼ 現在 メイズ 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 29 シマ炊事中 小 牛 2009 年 (平成 21 年) 7 月 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 30 子供たちとメイズ畑 日本マラウイ協会設立 25 周年記念誌 発行日:2009 年 7 月 6 日 編 集:日本マラウイ協会 〒 150-0012 東京都渋谷区広尾 4-2-24 青年海外協力協会気付 TEL 03-3447-2921 FAX 03-5798-4269 デザイン制作: (有)とりびっと 〒 162-0067 東京都新宿区富久町 16-11 武蔵屋スカイビル 305 TEL 03-3352-2688 FAX 03-3352-4104