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「鍋島直彬 公展」ギャラリートーク
1 床の間コーナー10 月・11 月展示企画 な べ し ま な お よ し 「鍋島直彬公展」ギャラリートーク メ リ ケン ~長崎、米利堅、そして沖縄へ~ 平成 25 年 10 月 12 日(土) エイブル2階 音楽スタジオ 講師:高橋 研一 (鹿島市民図書館学芸員) 本日は床の間コーナーで開催している「鍋島直彬公展~長崎、米利堅、そして沖縄へ~」に関連して、展示 ケースの中では表現しきれなかったことを含めて、この時期の直彬についてお話をさせていただきたいと思いま す。 た に ぐ ち ら ん で ん 直彬との交流が深かった谷口 藍田 が、直彬が沖縄県令を こ う て つ 更迭 された後に沖縄を訪れ、執筆した沖縄記念碑という碑文 は ら た だ ゆ き があります。直彬と原忠順 は言語が通じない沖縄で大変な苦 労をしながらも統治に成功したこと、琉球王国から沖縄県への た た 大変革を一人も傷つけ殺すことなく成し遂げたことを讃えてい ます。鹿島と沖縄のつながりを大事にしてくださることは大変あ りがたいことです。しかし、歴史的な事実やその評価について はしっかりと史料に基づいて解明していかなければなりません。 そこで改めて、なぜ鍋島直彬が初代の沖縄県令に選ばれたのかについて、直彬の人生の転機となった場所 である長崎、アメリカをしっかりとふまえて、史料に基づいてお話をしていきたいと思います。 まずは「長崎から米利堅へ」ということで、幕末から明治維新までの直彬の足跡を辿ります。 江戸時代の長崎は海外への窓口でした。鹿島には長崎を通して、中国とオランダから海外の文化が入ってき おうばくしゅう かん せき ています。中国との関係では、黄檗宗や漢籍が挙げられます。特に、漢籍を通して、高い漢詩文の教養が蓄積 されました。このことによって東アジア共通の文化交流の手段である漢詩文を使いこなすことの出来る人材が む た ゆたか 鹿島で数多く育ちました。また、幕末の開国後には、英語を学ぶため、牟田 豊 などの藩士を長崎に派遣してい ます。 こうしたことによって、鹿島は開国後の対外交流に必要な漢詩文・英語を習得した人材を輩出することができ ました。このことは鹿島の地域性としてとても大事なことです。 ぼ し ん せ ん ぽ う 時代が戊辰戦争に向かう中で、慶応 4 年(1868)朝廷は佐賀藩に北陸道の先鋒を命じます。直彬は鹿島と佐 はいえ つ 賀の兵を率いて上京、天皇に拝謁 する栄誉に浴しています。しかし、佐賀本藩の「策動」によって、出征直前、 突然の長崎警備命令が直彬に下ります。直彬は無念の思いを抱き向かった長崎で谷口藍田とフルベッキに出 会います。 2 谷口藍田は有田出身の漢学者で、長崎に塾を開き、フルベッキとも交流がありました。後に鹿島藩士として 召し出されています。フルベッキはオランダの出身で、アメリカに移民、安政5年(1858)に宣教師として来日しま した。大隈重信や谷口藍田と交流があり、アメリカの歴史を紹介して います。 右の写真は、アメリカの歴史書を読んだ藍田が感想を認めた書で す(写真 1/個人蔵)。また、慶応 4 年百貫橋から乗船するフルベッキ を直彬が慰労した時の記事があり、この年の春に直彬がイギリスの蒸 気船でフルベッキと出会ったことが記されています。 長崎でのアメリカの歴史に精通した藍田・フルベッキとの出会いに より、直彬は今の戦争が終わったのちに誕生する新しい国家は、ヨー ロッパの干渉を排して独立を達成・維持しているアメリカを手本としな ければならないとの思いを抱くようになりました。 それでは次に「米利堅」から沖縄へと向かう直彬の足跡に移りま す。 ひ め ん 明治 4 年(1871)7 月廃藩置県によって、直彬は藩知事を罷免され、 東京へ移住します。そしてその年 10 月には華族の海外視察を奨励す る勅語が出され、11 月には岩倉使節団が派遣されるなど、華族が一 斉に海外に出かけます。こうした風潮の中、直彬も明治 5 年 7 月 25 日洋 写真1 行願を提出しています。当初はアメリカ・ヨーロッパを視察する予定だったようで、直彬は英語とドイツ語を習っ ています。洋行にかかる費用は鹿島鍋島家が負担しています。また随行者は原忠順と牟田豊の 2 名でした。 直彬は明治 5 年 8 月 30 日横浜を出港し、9 月 22 日サンフランシスコに到着しています。その後、アメリカ大 陸を横断し、10 月 12 日に首都ワシントンに到着しました。原忠順の手紙によると、ワシントンではクリックシヤン クという人の家に寄宿しています。クリックシヤンクはお雇い外国人として来日していたアンチセルの養子になり ます。 ワシントンでの拠点を確保した直彬は精力的にアメリカの政治制度の調査・研究に取り組んでいます。具体 的にはクリックシャンクの講義を受け、各種の政治書を調査しています。そして、不審な点があれば、実際に官 庁を訪れ、牟田豊の通訳によって質疑をしています。 ワシントンに到着後まもない明治 5 年 10 月に原忠順が東京の鹿島鍋島家邸に送った近況報告が残されてい ます。この中で、忠順は「皇国之御為メニ成ル可キ筋ヲ見聞・研究被遊候様、右ニ付、日夜公(鍋島直彬) ト御申談シ」、「周遊モ大漫遊ト成リ候而ハ無詮次第」と言っています。国家のために尐しでも役に立ちた いという直彬と忠順の思いがよく表れています。 ヨーロッパ行きを取りやめ、アメリカでの調査を続けた直彬は明治 6 年 3 月ワシントンを出発し、4 月 27 日に 3 横浜に帰ってきました。 こうしたアメリカでの政治制度調査の報告書として、直彬 べいせ いさ つ よ う が出版したのが『米政撮 要』(写真2) です。『米政撮要』は鹿 は ん ぎ 島鍋島家が出版し、版木 が祐徳博物館にあります。現在、 祐徳博物館では実物が展示されています。 へんしゅう 4 月 27 日に帰国した直彬は早くも 5 月 19 日編輯・出版願 を提出し、6 月 20 日には初巻が完成しています。アメリカ滞 在中から編輯作業をしていたため、こうした迅速な出版が可 能でした。『米政撮要』の配布先の記録があり、それによると し ま よ し た け お お き たか と う 大隈重信・江藤新平・島義勇 ・大木 喬任 や鹿島義塾に贈呈 しています。鹿島高校の前身にあたる鹿島義塾には 20 部も 贈呈しています。 写真2 さて、帰国した直彬は『米政撮要』を出版するとともに、華族会館にアメリカか ら持ち帰ったサンフランシスコの学校章程・普通学校報告表・公立学校報告表 を寄贈しています。これらは学習院の設立に貢献したのではないかと思いま す。こうした積極的な活動により、直彬は新時代の華族としての自覚を持ち、行 やなぎはらさきみつ 動できる人物として注目を浴びることになります。特に大きかったのは柳原前光 さんじょう さ ね と み い わ く ら と も み に高く評価され、柳原を通して、三条実美や岩倉具視にも知られるようになった ことです(写真3/個人蔵)。 く げ 柳原前光は藤原氏の流れを汲む公家です。明治 2 年外務省に入省し、緊張 の絶えない日清交渉の実務を担当し、岩倉具視から多大な期待をかけられた 人物でした。ちなみに、妹は大正天皇の生母、娘は歌人として知られている柳 びゃくれん 原白蓮になります。 アメリカの体験を活かした活動により、柳原と出会った直彬はいよいよ沖縄に 向かいますが、沖縄を取り巻く情勢について簡単に整理しておきます。 琉球王国は長い間、日本と清(中国)に両属していましたが、日本は清と鋭く 対立する中、琉球藩を廃し、沖縄県の設置を強行します。国王は東京に移住さ せられ、新たに県令が選ばれることになりました。 この写真は直彬が原忠順に、沖縄県令に選ばれたこととその経緯を伝えた し ょ か ん 書翰 (写真4/琉球大学附属図書館蔵)です。沖縄での廃藩置県が決まり、内閣で 写真 3 4 は県令の人選が行われている こと、「琉球者極メテ門地ヲ尊 候国ニ付、可成者華族中ヨリ 被命候方可然」、沖縄は家柄 を大切にする土地柄であるか ら、華族から選ぶことになった こと、しかし人選が難航し、右 大臣である岩倉具視は直彬に 是非引き受けてほしいと柳原を 介して説得してきたこと、直彬 写真 4 自身は鹿島藩主となって以 来、国家に尽くす志を抱きながらも果たせずにいること、柳原は直彬でなければ沖縄県令の任に堪えうる華族 はいないと岩倉に強く訴えていることが書かれています。この直彬の書翰を通して、直彬が沖縄県令となる上 で、直彬を高く評価していた柳原が強力に推薦してくれたことが大きかったことを知ることができます。 沖縄県令となった直彬はいよいよ沖縄に向かいます。ここで直彬が初めて耳にした沖縄の音楽や歌声を熊 谷先生に演奏していただきます。 くまがい あ や こ <熊谷理子さん> 皆さんおはようございます。熊谷理子と申しま す。私は沖縄出身で、3 年前に鹿島の方に来まし た。 今回、沖縄の音楽、特に明治時代に演奏されて いた曲をということでしたが、どういう曲を選曲 したらよいか悩みました。そこで、琉球古典音楽 や琉球舞踊なども研究している沖縄県立芸大に聞 いてみたところ、 「明治時代はグレーゾーンと言わ れています。 」という返事が返ってきました。明治 5 年の廃藩置県、また鍋島県令が来られた明治 12 年というのは、琉球処分があって王朝が解体され、今 まであった音楽も、国王の前で演奏された曲も全部解体されたそうなのです。それからはなかなか新し い曲が生まれなかったということなんですね。 でも、鍋島さんが行かれた時の夜の宴とか、子どもたちが踊っていたというような記述が残っていま すので、やはり音楽というのは、処分とか、封鎖された中でも生き続けていたのかなと思いました。 県立芸大の学芸員さんが、現存したであろう曲をたくさん紹介してくれたので、それらの中から、今 うたさんしん 日は 3 曲用意しました。聞いてください。 (~歌三線演奏~) 5 沖縄に渡った直彬が直面したのは琉球士族の抵抗でした。廃藩置県によりこれまでの体制を否定された琉 球士族は大和人に協力しない盟約を結び、一切の役職に出仕しませんでした。琉球士族の抵抗は武力蜂起で はなく、徹底した不服従・ボイコットで貫かれていました。さらに、王国時代の帳簿を使って徴税を強行します。こ れは沖縄を旧士族が実効支配していることを意味していました。そのため、沖縄には新たに生まれた直彬をトッ プとする沖縄県と、王国以来の系譜を引く旧士族という2つの実効支配勢力が併存することになりました。 直彬は探偵や警察を使って、士族の集会を襲撃し、主だった士族の逮捕・拘留に踏み切ります。警察を動員 した弾圧・拷問によって、琉球士族の盟約を分断し、ようやく旧士族を県庁に出仕させることができました。 しかし、琉球士族の一部は清に亡命しました。彼等は清の軍事力による琉球王国復興を図り、日本政府は 神経を尖らせています。 ようやく平穏を取り戻した直彬は沖縄県の統治に乗り出します。直彬は多くの旧鹿島藩士を引き連れて、沖 縄に渡り、特に最も信頼を寄せる原忠順を県の№2である書記官に登用しています。途中、直彬がコレラに倒 れた際には、忠順が陣頭指揮を執っています。 直彬は沖縄県令として様々な取り組みを行っています。 まず第一に、近代教育の導入です。直彬は小学校を設置するとともに、教員養成にも取り組みます。その 際、沖縄の言葉ではなく、本土の言葉で教育することが求められていたため、県庁内に会話伝習所を設けまし た。会話伝習所はのち沖縄師範学校となります。そこで教科書として用いられたのが『沖縄対話』(写真5)です。 みなさんに『沖縄対話』の一部をお配 りしています。真ん中に大きな文字で日 本語、左側に小さな文字で対応する沖縄 の言葉が書かれています。しかし、文字 だけではなぜこうした本が必要だったの かが伝わりづらいかと思います。そこで、 今日は熊谷先生に沖縄の言葉の部分を 読んでいただき、みなさんには日本語の 部分を見ていただきたいと思います。 <熊谷理子さん> ( 『沖縄対話』を沖縄の言葉で朗読) 「あなたは東京の言葉でお話ができ 写真5 ますか。 」 「なかなか良くは話せません。だれに習いましたか。」 「伝習所で習っております。」と、伝習所 の意義みたいなことが書かれています。 また、 「東京の言葉は広く通じますか。 」 「何県にても大概通じます。」とあるように、日本の言葉、大 和言葉を話せば、日本どこでも通じると言っています。 「昔は琉球と中国だけやっていればよかったので すが、廃藩置県によって日本国になったのだから、広く交流をしていかなければならないですよ。」と、 6 教訓めいた内容も『沖縄対話』の中にはあります。 『沖縄対話』は、沖縄の近代化にとても貢献したものだろうと思いますが、今、沖縄では、沖縄の言 葉をもう一回広げようというような動きが盛んです。そこでは、言葉というのは命そのものだから、沖 縄人としてのアイデンティティを守っていかなければいけないと言われています。 私は今 30 代後半ですが、普段の会話の中では全くしゃべれません。また、発音のできない言葉もあ ります。私はたまたま古典音楽をやっている関係で、聞いて内容を理解することはできますが、自分の 言葉として話すことはできません。 沖縄の言葉(うちなーぐち)を後世に残していこうという活動をされている方に『沖縄対話』の話を すると、日本では、 『沖縄対話』というのは重要な資料だし、大事なことだったと思うけれど、沖縄の人 にとってみれば、 言葉は命そのものなので、 それを奪われたという認識がありますと言われていました。 明治から昭和にかけて、沖縄の教育界では、学校現場で方言をしゃべると方言札をかけられて、罰則で 廊下に立たされるということもあったらしいです。 でも、そういうのがなければ私は日本語がしゃべれなかったと思うし、いろいろ考えるときりがない ですが、沖縄の言葉、そして日本語もそれぞれ大事にしていかなければいけないなと感じています。 近代教育を導入するということは非常に良いことだと評価されることが多いのですが、各地域地域が一つの 文化であり、言葉を持っている、そしてその言葉で自分の心を表現するというのが普通のあり方です。それを近 代化というのはどうしても画一化していくということがあって、そういう中でこの 『沖縄対話』の持つ意義というのは、見る人、住む人によって、大きく評価が 異なっているということを感じていただけたのではないかと思います。 な は し ゅ り 第二に、県都那覇 の創出があります。琉球王国の政治の中心は首里 でし た。当時、首里城には陸軍が駐屯しており、他の琉球王国の宮殿も王族が居 住していました。そのため、直彬は首里の外港として栄えていた那覇に県庁 を設置し、政治・行政の中心を那覇に移しました。現在の那覇の繁栄の礎は 直彬によって築かれたのです。 第三に、漢詩文を通した琉球士族との交流があります。右側の写真は谷 ま た し ろ う 口藍田の四男谷口復四郎の漢詩文集で、琉球士族の親泊朝啓が復四郎の わ り が き 家を訪れたことが書かれています(写真6)。割書の部分を見ていくと、朝啓 が旧琉球藩吏であり、親雲上(ペーチン)に列する中級士族であったこと、廃 藩置県後、「県旨」に違い、警察に捕らえられていたこと、説諭を受け入れ、 現在は県の御用掛となっていることが書かれています。直彬に従わず、警察 写真6 に拘留されるほどの対立関係にあった人物が漢詩文を通じて鹿島から来た復四郎と親しく交流している様が見 てとれます。琉球大学附属図書館には豊見城盛綱という琉球士族が原忠順に献上した漢籍も残されていま す。長崎を通して中国の文化を受容してきた鹿島には漢詩文に精通した人物がたくさんいました。漢詩文は日 本と琉球に共通する文化であり、政治的に緊張関係にありながらも、漢詩文を通して信頼関係を培うことができ 7 たのです。鹿島の地域性が沖縄での交流に大いに役立ったのです。 鍋島県政は順調に進み始めたかに見えましたが、足下には既に深刻な亀裂が走っていました。 か ん げ ん し ょ 湯川貫一という人物が直彬に出した諫言書があります。湯川は柳原前光が直彬に随行させた人物で、県庁 では直彬・忠順に次ぐ地位にありました。この諫言書の中で、湯川は旧鹿島藩士のみを用い、他の県庁職員に 語りかけない直彬のやり方を痛烈に批判しています。具体的には旧鹿島藩士は直彬と直接繋がり、直彬と忠 順に密告する、あるいは忠順は専横だとし、旧鹿島藩士が県庁内の序列を乱していることを挙げています。そ のため県庁が一体となって県政の課題に取り組むことはできないと言っています。これは柳原に頼まれ、直彬 を支えるためにわざわざ沖縄まで同行したのに重用されなかったことへの不満の裏返しでもありました。この諫 ふ け い ひ め ん 言を受けた直彬は湯川を不敬として罷免しました。 湯川以外にも直彬のやり方に不満を持ち、沖縄県を離職する人が相次ぎます。こうした人達は東京に戻り、 ひ ぼ う 鍋島県政への激しい誹謗を繰り広げます。この中には内務省との関わりもある人がいたようで、琉球処分を主 導し、地方行政や警察を管轄する内務省でも鍋島県政への批判が高まります。内務省内での鍋島県政への批 判は内務卿伊藤博文や岩倉具視など政府中枢にも伝わっていきます。柳原は岩倉や伊藤が沖縄の現状を懸 念していることを直彬に伝え、まるで鹿島藩を琉球に転封したかのような旧鹿島藩士の偏重を辞めるよう忠告し ています。 忠順が起草した直彬の弁明書には、直彬に浴びせられた誹謗の内容が具体的に記されています。例えば、 「縣令ハ舊臣ニ私シ、他人ノ言ヲ容レス、用ユル所ハ大抵舊臣ナリ、」「次官専横ナリ、」「縣廳ハ各 課人心一致セス、葛藤常ニ絶エス」とあります。 直彬は必死に弁明しますが、当時は書翰や面談でしか自分の意見を伝えることが出来ませんでした。東京 の状況を聞いた直彬の弁明が東京に届く頃には、さらに状況が悪化しており、どうしても直彬の対応は後手に 回る悪循環に陥っていました。 さらに、明治 13 年になると、柳原が駐露公使としてサンクトペテルブルクに赴任してしまいます。これによっ て、東京で直彬の弁明を代言してくれる人がいなくなってしまいました。岩倉等政府首脳に自らの意見を伝える 術を失った直彬はついに沖縄県令を更迭されました。 ここまでお話ししてきた鍋島県政の構造を図にしたのがこちらです(図1)。 沖縄県庁には3つのグループがありました。直彬・忠順を中心とする鹿島の人達、中央官庁や他府県から来 た人達、琉球士族です。彼等は相互に対立していました。 県内のトップに位置する直彬は全体の統合者でありながら、鹿島人士のグループに属していました。そのた め、他のグループが直彬や鹿島人士に抱く不満は、直彬の知らないところで直接東京に届けられ、内務省から 政府首脳にも伝わっていたのです。 8 日本政府がこうした沖縄の あり方に神経を使っていたの は、琉球士族の一部が清と直 接つながっていたということが あります。清と日本は、台湾や 朝鮮、沖縄をめぐって対立する 構造にありました。当時東アジ アに進出していた欧米列強に つけ入れられないよう、やはり 図1 沖縄は安定させておかなければいけないとの判断がありました。 直彬がいかに複雑な関係の中で沖縄を統治しなければならなかったのかがおわかりいただけるかと思いま す。本土では廃藩置県ののち政府が派遣した官僚が県令となり、任地で新しい県官僚が組織されます。しか し、旧大名である華族を県令とした場合、旧大名を支える家臣団が補佐のため大挙して乗り込んでくることにな ります。直彬の次には、旧米沢藩主で伯爵上杉茂憲が赴任してきます。上杉も直彬同様、旧臣を引き連れてき たため、直彬と同じような経緯を辿ることになります。ここに、家柄を重んじる土地柄ゆえに華族を県令にすると いう方針によって進められた「華族県令」自体がそもそも重大な構造的な問題を有していたことを見ることが出 来ます。 それと同時に、この時期の直彬には近代国家の地方統治者としての認識や力量が欠けていたことも指摘し なければなりません。直彬自身、もはや藩主ではなく、近代国家に奉仕する存在であることは自覚していたと思 いますが、統治の現場ではうまく対応できませんでした。沖縄での直彬は自分を殿様と仰ぎ見る鹿島人士や同 じ価値観を持つ人物しか使いこなすことができませんでした。しかし、沖縄県には旧鹿島藩士以外にも様々な 人達が奉職していました。彼等一人一人が幕末維新の動乱を自らの見識と胆力で乗り切ってきた人達でした。 殿様意識をぬぐい切れていない直彬には、そうした人達をも統合し、県政への求心力を働かせることが出来ま せんでした。 このように、鍋島県政は沖縄統治機構が抱える構造的問題と直彬自身に起因する問題の悪循環に陥り、分 しゅうえん 裂と誹謗の中で終焉を迎えることになったのです。 なお、政府中枢が沖縄の状況に過敏に反応したのは、沖縄をめぐる清との対立に欧米列強が介入し、ある いは利用されることを恐れたからです。このとき、日本政府は清が条約改正に応じれば沖縄の一部を分割する 方針を固めています。しかし、沖縄県を統治する直彬には沖縄を分割するという重大な情報が伝えられていま せんでした。東京で鍋島県政への誹謗がいかに広がっていたのかを知ることができます。 国家に尽くす志を抱きながらも、戊辰戦争への従軍が叶わなかった直彬がアメリカ視察、沖縄県令を経験し たのは 30 代の時でした。激変する時代を見つめ、国家の将来に貢献することを真剣に願った直彬の姿勢は、 9 あつ れき 周囲から高く評価される一方、軋轢を生み、不本意な沖縄県令更迭に至りました。 す ご ざ せ つ しかし、直彬という人の凄い所は苦い挫折 と逃げずに向き合うことが出来ることだと思います。去年のギャラ け い ど う じ け い ろ く リートークで迎昭典先生が『絅堂 自警録 』という本を紹介されていました。『絅堂自警録』を見ていると、直彬は し ん し 常に時代と自分の歩みに真摯に向き合い、それによって成長し続けた人であったように思えます。その姿勢を 支えたのは「国家に尽くす」という揺るぎない信念でした。 政治に背を向け、遊興に身を染める旧大名が多い中で、沖縄での挫折と徹底して向き合うことで、直彬は“殿 様”意識を克服することができ、能動的に国家に貢献する“特異”な大名華族へ成長を遂げていきます。 つちか 今回は直彬に焦点を当てたお話をさせていただきましたが、直彬は鹿島が培 ってきた地域性と人材に支えら れていたことを忘れてはいけません。直彬の成し遂げたことは、直彬が鹿島の人々を導き、かつ鹿島の人々が 直彬を支えたからこそ実現できたのです。 直彬が県令として沖縄に渡った時、沖縄県に奉職する人やその あ い こ 家族、直彬・藹子夫妻の身の回りのお世話をする人、沖縄に渡っ た親族や友人を慰労するために訪れる人など、多くの鹿島の人達 が沖縄に渡りました。この中には、沖縄で命を落とす人や、直彬が 沖縄を去った後も沖縄に残り、沖縄に尽くした人達もいました。写 真は直彬に従い沖縄に渡った永田佐次郎のご子孫が寄贈したソ テツです(写真7)。沖縄に渡った人にゆかりの家には、現在でも 沖縄での記憶や沖縄から持ち帰った文物が大切に保存されてい ます。 写真7 その一方で残念ながら、直彬のアメリカ視察で活躍した牟田豊について私達はほとんど知ることができませ ん。これまで鹿島は数え切れないほどの古文書を失い続けてきました。鹿島の地域性を物語り、未来への指針 となる大切な“記憶”までも失われつつあることを知っていただき、こうした古文書の保存に対する取り組みにも ご理解・ご援助いただければありがたいです。