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感覚の社会学,聴覚文化の社会学の視角 Sociology of
Akita University
秋田大学教育文化学部研究紀要 人文科学・社会科学部門 71 pp.25 〜 36 2016
感覚の社会学,聴覚文化の社会学の視角
和 泉 浩
Sociology of Senses and Sociology of Auditory Culture
IZUMI, Hiroshi
Abstract
There has been a flurry of studies on senses, sound, hearing and listening, alongside of studies on body, in
humanities and social sciences since the early 1990s. These studies reconsider the modern visualist paradigm,
hegemony of vision and modernity through excavating other senses ― hearing, touch, taste, smell ― in various
social, historical and cultural contexts, therefore they share aims, concepts and theoretical frameworks with postmodernism, post-structuralism, gender studies, queer studies, post-colonialism, spatial-turn. This paper outlines the
sociological perspective on relationships between senses and society, sees viewpoints of recent studies on senses,
especially sound studies in a sociological light, and sheds light on the problems relating to ‘alternative’ ways of
thinking and ‘reflexivity’ ― positioning and accounting for own positions and questions ― which is insisted as an
important point of sensuous scholarship and sound studies. Including this abstract, studies on senses are obsessed
with visualist concepts and metaphors, and ‘alternative’ ways of thinking and ‘reflexivity’ should confront this
thorny problem which might not be solved by constructivism, contextualism and thought of ‘in-betweenness’
which apparently deny dualisms. This paper also points out that sound studies must take seriously Judith Butler’s
assertion: ‘It would make no sense to define gender as the cultural interpretation of sex, if sex itself is a gendered
category’, in order to reconsider dualisms; nature and society, sound and auditory culture, body (matter) and
society, and sound studies should reflect its naturalistic name.
Key Words
Sociology, Senses, Auditory Culture, Sound Studies, Body
やはり,「代替的なもの」として何かを提示しようとするの
は問題なのです。
ジャクリン・ローズ
特定のコードをもたない鑑賞者は,自分にとってまるでわけ
のわからない音やリズム,色彩や線のカオスとして立ち現れる
ものを前にして,自分が水に没し,「溺れて」しまうような感
じを受ける。
ピエール・ブルデュー
的にも時間的にもこえた人やモノ,社会や世界,そして
自分自身とともに自分の状況や状態をとらえること,ま
たそれらすべてとのかかわりは感覚をとおしてなされ
る。しかし,こうした「『生の(raw)』身体的経験は,
必ずしもそれほど生のものではない」(Vannini, Waskul
and Gottschalk 2014: 130)。身体的経験は歴史的,社会的,
文化的に異なり,変化する。たとえば,医療や薬によっ
諸感覚――あるいは,ある特定の感覚――に対する真に歴史
て痛みが軽減されたり,感じられなくされ,そのことに
主義的な理解は,それゆえ,構築主義者と文脈主義者たちによ
る社会的で文化的な思考の系譜に加わることを必要とする。 ジョナサン・スターン
世界を分析的に見るために安定化させるという目的と,その
よって痛みのとらえ方も意味づけも変化する。痛みを軽
減する方法があったとしても,そうすべきか否かの考え
方も異なり,痛みが何によってもたらされているかのと
らえ方もさまざまである。技術やモノ,建造物,行動な
ような安定を受け入れることのできない生理器官がもつ経験と
どによって,見えないものが見えるよう,聞こえないも
のあいだには,解決不可能な矛盾が発生している。 のが聞こえるようにされ,匂いや味が変えられ,また見
ジョナサン・クレーリー
えるものを見えなく,聞こえるものを聞こえなくされ,
匂いが消される。
1.はじめに
身体的経験,つまり感覚をとおしてとらえられるもの
周囲の人やモノ,建物や場所,さらに「ここ」を空間
とその意味は,社会や時代という,ある意味で,より大
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きな枠組みにおいて異なるだけではない。計測上,同じ
とされにくい。真面目に扱ったとたん,その経験や感覚
大きさの音であっても,建物のあり方,素材などによっ
じたいが失われる。プロセスじたいは感覚にあふれたも
ても響き方が異なり,したがって感じられる「大きさ」
のであっても,結果・成果においてそうした感覚は失わ
が異なる。騒々しい場所や空間で話を伝えようとすれば,
れる。また,プロセスにおいて感じられるさまざまな感
より大きな声や近づくことが必要になり,その一方,静
覚は,あたり前のものとなっている。これは日常の経験
かな場所や空間では,わずかな音さえ気になることもあ
においても同じであるが,感覚の研究とは,日常,そし
る。個人の状態や感覚(年齢,聴力,気分,関心など)
て学問における自明性を問い直そうとするものである。
は言うまでもなく,特定の人間関係や状況によっても音
このように感覚は,社会,そしてその変化や人間関係,
の「大きさ」は異なったものになり,周りに音がないこ
アイデンティティ,知,メディア,技術などにかかわる,
とが不安や寂しさをもたらしたり,音が耐え難い苦痛を
きわめて社会的なもの,社会学的なものであり,こんに
もたらすものになることもある。こうしたことは音だけ
ちの感覚についてのさまざまな分野の研究,また学際的
ではない。
な研究では,感覚や感覚にかかわる実践や機器,言説を
また,身体的経験は直接感じられるものによってのみ
その歴史的,社会的文脈に位置づけてとらえられるよう
成り立つものでもない。感覚が「よみがえる」こともあ
になっている。そうした研究では,たとえば以下で見る
る。むしろ感覚は,つねによみがえっているものであり,
ジョナサン・クレーリーやジョナサン・スターンの研究
経験と記憶と重なり合っている。しばらく離れていた土
にも見られるように,しばしば社会学者の著作が引用さ
地に戻ったとき,そこが変わっていたとしても以前の感
れているが,その一方で,社会学における,視覚(まな
,またこのことは初めて
ざし)以外の感覚にかかわる研究はしだいに多くなって
訪れる土地において生じることもあるだろう。存在する
きているとはいえ,他領域,たとえば人類学などでの研
ことだけでなく,存在しないこともまた,感覚を呼び起
究状況を見ると隔世の感を禁じ得ない。
こす。「場所は感じられるとともに,感覚は位置づけら
社会学においても 1990 年代以降,身体に関する研究
れる。場所が感覚をもたらし・意味をなすとともに,感
は盛んに行われるようになっているが,身体の社会学と
覚がよみがえることがあり
(1)
覚 は 場 所 を 生 み 出 す(as place is sensed, senses are
placed; as places make sense, sense makes place.)」
(Feld and Basso 1996:91)。それぞれの場所は見た目だ
けでなく,音や匂いも異なる。そこの味(食文化)もあ
感覚の社会学について,現在のところ数少ない感覚の社
会学についての本の 1 冊であるフィリップ・ヴァンニー
ニ,デニス・ワスクル,サイモン・ゴットシャルクの『The
Senses in Self, Society and Culture: A Sociology of the
る。感覚はまた,誰と,あるいは誰とではなく,といっ
Senses』(Vannini, Waskul and Gottschalk 2014)では,
た状況にも依存する。「消費のコンテクストが,私たち
次のように対峙的にとらえられている。
こととともに,どのような感覚を感じるのかということ
身体を気づかれない存在(an absent presence)か
がどのように意味を理解するのか(make sense)という
(Vannini, Waskul and Gottschalk
に影響を与える」
ら理論的ノイズによって沈黙させられた存在に変え
2014: 58)。
た身体の社会学における理論の過剰にたいする反動
こんにち,感覚についての人文社会科学的な研究が,
として,感覚の社会学は理解されるだろう。したがっ
『The Senses and Society』誌が 2006 年に創刊されるなど,
て感覚の社会学は主として,人びとのあいだの,ま
特に人類学を中心としたさまざまな領域で盛んに行われ
た人と環境との間の感覚的で,エロティックで,感
るようになっている。これは,身体,感覚という医療や
性的な相互作用をあらためて見出す試みである。
(Vannini, Waskul and Gottschalk 2014: 12-3)
自然科学の対象,つまり「自然」と,
「近代」
(モダニティ)
や「現代の社会」ということで暗黙のうちに前提とされ
る特定の社会,場所において「自明」になっているもの
「理論」のなかで感覚は失われる。ここに感覚につい
を問い直すさまざまな試みの一つであり,これまでの学
ての研究のあり方をめぐる問題が存在している。
問の知のあり方を問い直すものでもある。視覚によって
これまでの社会学の研究において,実証的研究は言う
知覚される情報が中心であり,文字や数が中心になって
までもなく理論的研究においても,感覚について触れら
おり,またそうしたもののなかに客観性や厳密さ,真面
れているものは多くある。人間関係における視覚,聴覚,
目さも存在するとされる味気ない(senseless, tasteless)
学問。研究者はそこに面白さを見いだすかもしれないが,
嗅覚,そして両性の感覚について論じたゲオルク・ジン
メルの「感覚の社会学についての補説」や,こんにちの
一般的には面白くないものであり,一般的に面白いもの,
感覚の研究でしばしば引用される「大都会と精神生活」
楽しいもの,美味しいものは学問の真面目な研究の対象
など以外にも,たとえば,アンソニー・シノットが研究
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Akita University
感覚の社会学,聴覚文化の社会学の視角
において感覚に関心を示していない社会学の創始者の一
匂いの研究については,アラン・コルバンの研究も有
人にあげているマックス・ヴェーバーも,『プロテスタ
名であるが,こんにちではさまざまな研究が行われるよ
ンティズムの倫理と資本主義の精神』で次のように指摘
(匂いの文化,嗅覚文化)
うになっており,
「smell culture」
している。
という表現も使われるようになっている。食と味覚につ
いても社会科学などの領域での研究が急速に進展してい
こうした人間の内面的孤立化は,一切の被造物は神
る(Vannini, Waskul and Gottschalk 2014: 109-10)。食
から完全に隔絶し無価値であるとの峻厳な教説に結
と味覚(taste)も匂いと同じく人間関係に欠かせないも
びついて,一面で,文化と信仰における感覚的・感
のであり,また経験や感情,記憶と結びつく,文化的,
情的な要素へのピュウリタニズムの絶対否定的な立
社会的,歴史的な現象であり,このことは「第一感覚(first
場――そうした諸要素は救いに無益であるばかりか
sense)」ともされる触覚(touch)にもあてはまる。「触
感覚的迷妄と被造物神化を刺激するからだ――の,
覚は世界を理解し,アイデンティティを確立し,社会関
さらに,彼らのあらゆる感覚的文化への原理的な嫌
悪の根拠を包含することになる。(Weber 1920 =
1972: 157-8)
係を規定するうえで鍵になる」(Vannini, Waskul and
Gottschalk 2014: 121)。
「触覚は他の知覚のモダリティー
と一つの重要な点で異なっている。それはつねに相互的
な経験である……このことによって触覚は,愛情や攻撃
感覚の問題は,近代における合理化という表面の,表
裏一体の裏面,あるいは分厚い基底として存在してきた
など,近い関係において突出した感覚となり,そのため
それがないことは,社会的境界や排除を生みだす」
(Alex
ものであり,こんにちの感覚の研究において近代の合理
2008: 23)。
化は重要なテーマの一つになっている。
不可触民という名称が表わしているように,触覚は差
さらに,ピエール・ブルデューの「趣味」についての
別と排除,「感覚的スティグマ」に結びついている。神
研究は,ヴァンニーニ,ワスクル,ゴットシャルクの上
聖なものにも触れてはならない。誰が,何に触れること
記の文献では取り上げられていないが,感覚と社会との
ができ,何に触れてはならないのか,触れるとき,ある
関係について示した社会学でのきわめて重要な研究であ
いは触れた後にどうするのか,またそれが意味すること
る。
も,触れる対象もそのあり方も,文化的,社会的,歴史
本稿では,近年進展しつつある感覚の社会学について,
的に異なる。
特に,これもまたこんにち盛んになっている聴覚文化の
感覚は,人間関係,アイデンティティ,差別,審美的
研究について,視覚文化の研究(視覚文化論)との関連
差別,礼儀作法,医療と健康,宗教,環境,科学技術,
から考察し,感覚の社会学と聴覚文化の社会学的な研究
ライフスタイル,流行,イメージなどさまざまなものと
の課題のいくつかを示す。
結びついているが,社会秩序や支配,権力とも結びつい
ている。上述のように感覚は記憶とも関連しているが,
2.感覚の社会学
ポール・コナトンは社会秩序と記憶について次のように
述べている。「どんな社会秩序であれ,それに従う者た
諸感覚の歴史は同時に身体の歴史である。
ジョナサン・スターン
ちが記憶の共有を前提条件とすることは暗黙のルールで
ある。社会の過去について,人々の記憶が分かれてしま
うと,その部分について社会のメンバーは経験や仮定を
匂いは近代では「黙らされて」きた。
クラッセン,ハウズ&シノット
共有することができない」(Connerton 1989=2011: 4)。
社会,集団における「記憶の共有」ではさまざまな「感
2. 1 五感
覚の共有」が重要な位置を占めている。このことは,コ
コンスタンス・クラッセン,デヴィッド・ハウズ,ア
ナトンも記憶(とその「遂行性」 )において重視して
ンソニー・シノットは『アローマ――匂いの文化史』に
いる儀礼,祭礼,式典などが感覚にあふれた実践である
おいて匂いについて次のように指摘している。「匂いは,
こと,見ることとともに,音,匂い,触れること,そし
人間関係でも欠かせない役割を果たす……匂いを感じる
て飲食が,それらの禁止であれ,重要であることに現れ
ことは匂いを知覚するだけでなく,その匂いと結びつい
ている。また,たとえば,飲食の共有(身体に入れるこ
た経験や感情を思い出すことでもある……匂いはただ単
と,入れないこと)は,人間関係や集団のアイデンティ
に身体的・心理的な現象ではなく,文化的であり,した
ティ,宗教においても特別な意味を持つ。集団の形成と
3
3
3
がって社会的または歴史的な現象である」(Classen,
Howes and Synnott 1994 = 1997: 7-8)。
(2)
かかわるため,感覚は人を分類することにもなる。「趣
味は分類し,分類する者を分類する」(Bourdieu 1979
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= 1990: 11)。「趣味」の違いへの生理的な拒否反応(「吐
きた……男性的な合理性にたいして感覚は女性的な
き気」
「むかつく」)として示される嫌悪感と集団(階級)
ものとされてきたが,諸感覚の領域の内部でもジェ
との関係について,ピエール・ブルデューは次のように
ンダーの区別が適用された……典型的には,男性は
指摘している。
感覚のより高貴な性質とされるものに,女性はより
卑しいものに結びつけられてきた。たとえば視覚で
趣味に関しては,他のいかなる場合にもまして,あ
は,男性はこの感覚を研究や計画の立案といった知
ら ゆ る 規 定 は す な わ ち 否 定 で あ る。 そ し て 趣 味
的な活動のために使用すると理想化されてとらえら
goûts とはおそらく,何よりもまず嫌悪 dégoûts な
れる一方,女性は派手な服を手に入れ,鏡で自分を
のだ。つまり他の趣味,他人の趣味にたいする,厭
見るといった感覚的目的のために使用するものとさ
わしさや内臓的な耐えがたさの反応(「吐きそうだ」
れた。同様に男性は聴覚を厳粛な演説と講義を聴く
などといった反応)なのである……美学上の不寛容
ために用い,女性は取るに足らない世間話や恋愛話
は,恐るべき暴力性をもっている。異なる生活様式
に加わるために用いるとみなされてきた。それぞれ
にたいする嫌悪感は,おそらく諸階級間をへだてる
の感覚には,より優れた使い方と劣った使い方があ
最も越えにくい障害のひとつであろう。(Bourdieu
ると考えられてきたが,視覚と聴覚は精神の「より
1979 = 1990: 11-2)
高度な」機能に密接に結びつき,他の感覚は身体の
「より低次の」機能に結びつくものとされてきた。
感覚は,社会や集団の「秩序」にとってきわめて重要
上で述べた精神/身体,男性的/女性的という二元
である。見た目,匂い,音,接触,飲食には多くの法や
論にしたがって,男性は「合理的な」感覚である視
ルールが存在している。そして「感覚の秩序」が特定の
覚と聴覚に,女性は「身体的な」感覚である嗅覚,
状況を成り立たせている。「感覚の秩序は,特定の状況
味覚,触覚に結びつけられる傾向がある。こうした
に お い て 何 が 意 味 を な し, 理 解 さ れ る の か(what
諸感覚のジェンダー化によって,多種多様な社会的
makes sense) を 確 立 し, 常 識・ 共 通 感 覚(common
影響がもたらされた。「男性的」感覚である視覚と
sense)を分節化する……感覚の秩序はほとんどの場合,
聴覚は「遠隔」感覚として,「女性的」感覚である
日 常 生 活 に お い て 気 づ か れ な い 存 在(an absent
嗅覚と味覚と触覚は「近接」感覚として特徴づけら
presence) に な っ て い る 」(Vannini, Waskul and
れてきたことによって,男性は旅や統治といった「遠
Gottschalk 2014: 128-9)。したがって感覚の秩序は,管
隔的活動」に適している一方,女性は家・故郷にと
理や支配にも不可欠である。音についてジャック・アタ
どまるべきとされることを意味すると解された。さ
リは次のように指摘している。「メッセージ発信の独占,
らに視覚と聴覚を精神的な機能に,嗅覚と味覚と触
雑音の制御,そして他者の沈黙の制度化が権力の永続の
覚を身体的な機能に慣例的に結びつけられることに
ための条件となる。雑音の方向づけはそこで,新たな,
よって,芸術や科学といった知的な活動は男性の特
非暴力的な,より巧妙な形態をとる。経済学の法則が,
権とされ,女性は家族の身体的欲求の世話を担うも
検閲の法則の上に据えられるのだ」(Attali 1977 = 1985
のとされた。(Classen 1997: 4-5)
: 11)。
感覚は,家庭や学校などでの教育,社会化のなかで方
ヨアヒム・エルンスト・ベーレントは「諸感覚の民主
向づけられ,調べられ,抑え方,表現の仕方を身につけ
主義」の必要性を指摘しているが(Berebdt 1985: 32),
るようにさせられ(「規律=訓育」),そこから感覚の感
視覚中心の近代にたいして,こんにち,それぞれの感覚
じ方や「逸脱」も作りだされる。「逸脱」は望ましくな
が近代あるいは社会においていかに重要なものなのかを
いものとされるだけでなく「医療化」され,中毒や依存
めぐって,「感覚間競争」とも言えるような状況が生じ
として治療の対象にもなる。感覚の過度およびそれをも
ている。たとえば,ジョナサン・スターンは聴覚(聴取)
たらすものは規制され,年齢などの制約も設けられる。
について次のように述べている。「視覚は近代性を表現
感覚は秩序をもたらす(したがって混乱させることも
する社会的な見取り図であるという性急な断言が常にな
ある)だけでなく,感覚のうちにも階層秩序が存在し,
されてきた。私は聴取こそがその見取り図であるとは主
それはジェンダーにも結びついている。
張しないが,聴取は確かに,近代の実践におけるある重
男性と女性は異なる感覚の過程に結びつけられてき
うしたことが他の感覚についても言われている。
要な領域を指し示している」(Stern 2003=2015: 13)。こ
た。もっとも根本的なレベルにおいて男性は精神と
魂(soul)に,女性は身体と感覚に結びつけられて
マイケル・ブルとレ・バックによれば,「視覚的なも
のの支配はしばしば,他の感覚――触覚,味覚,嗅覚,
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感覚の社会学,聴覚文化の社会学の視角
聴覚――の経験が,視覚主義の枠組みを通して濾過され
も),そうした分析は,感覚の経験とは異なるものになる。
ることを意味している。知を視覚的なものに還元するこ
「社会的事実」(fait social)ならぬ「感覚的事実」が存
とは,現代や過去の行動,行動の比較の場合においても
在する。しかしながら,このことから個々の感覚や感覚
大部分の社会的行動に付与された意味を把握する私たち
経験を取り上げることが不適切ということにはならな
の能力にたいして,重大な制限となっている」(Bull
い。「個々のもの」のとらえ方が問題である。
and Les Back 2003: 2)。この重大な制限は,次のような
「なぜ5つだけなのか」。この問いは性別についての問
表象のあり方によってもたらされた。「アルベルティ以
い,「なぜ2つだけなのか」を思い起させる。分類は恣
来の古典的な表象は,視野の構成から根本的に身体を差
意的で文化的なものであり,他の分類も可能であり,そ
し引き,それに関連して観察者と対象を知的に区別する
うしたカテゴリーじたいを再検討しなければならない
ことによって決定される」(Crary 1999=2005: 209)。観
が,そのためにも2つの性,あるいはその一方に焦点を
察者と対象との間に身体,そして社会をはさみ込み,そ
あてて検討することが意味のないどころか,そうした作
の関係を変化させ,そのことによって近代の知を問うこ
業が不可欠になる。ここではその作業の一つとして聴覚
とが,こんにちの感覚をめぐる多彩な研究のテーマであ
をとりあげ,聴覚と音(サウンド)にたいするアプロー
る。このため,そうした研究と,ポストモダニズムやポ
チについて,(聴覚としばしば対比される)視覚文化に
スト構造主義,ジェンダー論,空間論的転回などとの共
ついての議論を通して検討する
。
(3)
通点が見られる。
3.聴覚文化の社会学
2. 2 マルチ・モーダリティ
身体は音の中で音とともにはじまる。 デボラ・キャプチャン
なぜ5つだけなのか。
ヴァンニーニ,ワスクル,ゴットシャルク
必要とされているのは,聴覚をとおしてモダニティの概念を
よりダイナミックに彫琢することである。
ファイト・アールマン
私たちは(五感のそれぞれに対応して)5つの世界を知覚す
るのではなく,ただ 1 つの世界を知覚する。
ジョン・ウォーカー & サラ・チャップリン
感覚は5つだけではない。「伝統的な見解(アリスト
西洋の知は,この 25 世紀というもの世界を見ることに汲々
としてきた。それは,世界が見取られるものではなく,聞えて
くるものだということを理解しなかった。世界は読み取られる
ものではなく,聴き取られるものなのだ。
ジャック・アタリ
テレスに由来する……)によれば,私たちが持っている
感覚は視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚の 5 つである。他
3. 1 視覚文化と聴覚文化
方,私たちは 17 もの異なる知覚をもっていると示唆し
ありふれた言い方であるが,世界は音であふれている。
ている人もいる……」(Fish 2010 = 2014: 219)。五感以
外にも痛覚,吐き気(内臓感覚),温度感覚,平衡感覚,
時間感覚などさまざまな感覚がある。「感覚をいくつか
のカテゴリーに分けることじたいが恣意的な行為であ
り,私たちの文化的参照枠を再生産することになる……
5 つの外受容性の感覚モードに限定されたものとして感
覚をとらえることは,文化内と文化間の両者における人
(Vannini,
間の感覚経験を過度に単純化することになる」
Waskul and Gottschalk 2014: 6-7)。
静かで音がないように感じられる場合でも,実際には自
分の発している音を含め,さまざまな音があり,静けさ
がもたらす不安から逃れるために,テレビをつけたり,
音楽を流したりということもあるだろう(そうした行動
も社会的なものである)。新しいモノや技術によって音
が増え,音と人との関係,人間関係,生活や社会も変化
する。自動車もむかしと今では発する音が異なり,そこ
にはそうした変化をもたらした社会的背景があり,音の
変化によって,人がもとめるもの,行動,社会も変化し,
また「感覚を受容器で個別化することはうまくいかな
変化が必要になる。しばしば指摘されるように携帯型音
ちがもつ経験のうちのいくつかは実際にマルチモーダル
られる音が変わるだけでなく,公と私の境界も変化する。
い」(Fish 2010 = 2014: 221)。さらに,「おそらく私た
(一つ以上の感覚の働きを必要とする)なのである」
(Fish
2010 = 2014: 237)。そのうえ,感覚の経験は,「全体的
な感覚の経験において,全体はその部分の総和以上のも
のである」(Vannini, Waskul and Gottschalk 2014: 5)。
つまり,感覚を個別化し,それを分析したとしても(そ
してそれらを加算して経験を復元しようとしたとして
楽プレーヤーによって音楽の聞き方や録音,技術,求め
男性と女性,高齢者や子どもなども音(や匂い)が異な
り,姿が見えなくても「わかる」こともある。学校の音
や病院の音,駅の音,それらの時代や社会,地域による
違いもある。
音と聴覚(聞くこと,聴くこと,またそれらの区分と
社会的意味づけ
− 29 −
)と社会,技術,知,身体との関係,
(4)
Akita University
その変化,個人や人間関係への影響,文化による違い,
無数の記号のスクリーン(すなわち,社会的領域に
そしてそこでの権力関係について,こんにち音(サウン
組みこまれた,視覚に関する多種多様な言説の総体)
が挿入されているのである。(Bryson 1988 = 2007:
ド,ノイズ)と音に関わる研究として盛んに行われるよ
うになっている。「聴覚(hearing)は,文化により異な
134)
るものであり,特定の時代の特定の場所で広まっている
イデオロギーと権力関係の影響を受けるものとしてとら
えられる」(Erlmann 2004: 3)。
「視覚制度の多様性」をとらえるのは難しいとし,重要
こうした聴覚(さらに他の感覚)についての研究上の
視点および方法は,他の感覚の研究に先んじて展開して
きた視覚文化についての研究がもとになっていると言え
る
ただし,ブライソンはラカンの分析では文化の差異,
。視覚文化論の古典となっている『視覚論(Vision
なのは私的で内面的とされているもののなかに「視覚の
政治性」を見出すことであるとしている(Bryson 1988
= 2007: 156)。
(5)
and Visuality)』(1988)の序文でハル・フォスターはそ
ラカンは,主体が初めて象徴的なものに挿入された
の著作の概略を次のように説明している。
場面を強調し,主体のその後の生活については多く
近代的な視覚の厚みをとらえ,それが生理学を一つ
家族,教育・医学・法律・財産・宗教・政治などの
の基盤にしていることを分析する(ジョナサン・ク
制度,そして社会を形成する他のさまざまな文化的
レーリー)と同時に,それが心的なものとも重なり
領域においてこそ,歴史・文化・階級の相違が主体
合っていること――この重なりを変転という観点か
の構成に影響をおよぼし,一人ひとりが通過した膨
ら見る(ジャクリン・ローズ)のであれ,転覆とい
大な言説の連鎖にまたがる特定の主体が構成されて
3
3
3
3
3
3
3
3
3
を語らない。しかし,その後の生活,つまり職場や
う観点から見る(ロザリンド・クラウス)のであれ
いくのではないか。(Bryson 1988 = 2007: 153,傍
――を明らかにする。また,近代的な視覚を社会の
点引用者)
なかに位置づけ,それが主観性の形成に一役買って
きたことに注目する(全著者)と同時に,その視覚
社会的,文化的構築物としての感覚と言説(および言
自体が逆に間主観性の一部として形成されてきたこ
語),主体の形成,身体という厚みと生理学,心的なも
とも指摘する……また,近代的な視覚を歴史のなか
のと精神医学,障がい(聴覚では聾や難聴など)と烙印
に位置づけ,どのような支配的慣習と批判的抵抗が
「そ
(スティグマ),錯聴,支配と権力(聴覚の政治性),
あったのかを明確にする(特にマーティン・ジェイ)。
(Foster 1988 = 2007: 12)
の後の生活」(コンテクスト)
,それらにかかわる技
(6)
術や機器,これらのものの歴史的な変化と文化的多様性
(聴覚制度の多様性)が,こんにちの聴覚についての,
『視覚論』のなかでノーマン・ブライソンはジャック・
また他の感覚についての研究上の基本的な視点になって
ラカンの議論にもとづき次のように論じている。
いる。
こうした視点はいずれも重要だとしても,ここで問題
私がものを見るとき,私に見えているのはたんなる
が生じる。クレーリーは「20 世紀の近代性における視
光ではなく,理解可能な形態である。漂流物が漁師
覚の中心性と『ヘゲモニー』を主張することは,現時点
は網〔=罠〕
(rets(レ)),すなわち意味のネットワー
1999=2005: 11)と述べているが,それでは,諸感覚に
クにとらえられる。共有しうる視覚的経験を人々が
ついての研究と,視覚についての研究との関係をどのよ
織り上げていくためには,一人ひとりが自分の網膜
うに考えるのだろうか。
上の経験を,社会的に合意された了解可能な世界の
近代の視覚中心主義と,それについての批判的検討を
記述にしたがわせなければならない。こうして視覚
伴う視覚文化論を分けてとらえ,視角や方法は視覚文化
は社会化され,社会的に構成された視覚的現実から
論,さらにはこんにちの人文社会科学系の研究で基本的
逸脱してものは,幻覚,誤認,あるいは「視覚障害」
になっているともいえる「構築主義」と「文脈主義」
(ジョ
の網(ネット)に引っかかるように,光線(rays(レ))
ではもはや,さしたる価値も意義ももたない」(Crary
という烙印を押される。主体と世界とのあいだには,
ナサン・スターンもしばしばあげている2つの立場)の
ありとあらゆる言説の総体が挿入されている。それ
立場に立ち,これまで断片的にしか扱われてこなかった,
によって,文化的構築物としての視覚性が形成され,
あるいはあたり前のものとして検討されてこなかった感
視覚性は視覚(つまり,媒介されていない視覚経験)
覚に関するものを,そうした視点から分析される数多の
と異なるものになる。網膜と世界とのあいだには,
対象の一つとして付け加えるということなのだろうか
− 30 −
Akita University
感覚の社会学,聴覚文化の社会学の視角
(こうした研究が興味深いことは確かである)。あるいは,
を 含 意 す る 一 方 で, 共 鳴 は 主 体 と 対 象 の 共 起
視覚以外の感覚に焦点をあてることで,視覚中心の知と
(conjunction)を伴う。理性が分離と自律を要求する一
方法,視点,そして学問に何らかの転回をもたらすのだ
方,共鳴は近接,共感,知覚者と知覚されるものとの境
ろうか。
界の崩壊を引き起こす」(Erlmann 2010: 10)。 こうした問題は,ジェンダー研究とクィア・スタディー
このような形で視覚による知の「代替的なもの」(も
ズ(男性中心にたいする女性,異性愛中心にたいする同
う一つのもの)として聴覚にかかわるものが位置づけら
性愛),空間論的転回(時間にたいする空間),ポストコ
れることも多い。したがって聴覚的なものはしばしば女
ロニアリズム(西洋にたいする非−西洋)などとも共通
性的なもの,自然的なもの(あるいはエコロジカル・フェ
する問題であり,近代(モダニティ)のとらえ方にもか
ミニズム的なもの)として特徴づけられ,上でクラッセ
かわる。ファイト・アールマンは,聴覚についての研究
ンが指摘していたジェンダーと感覚との関連を再演して
は視覚と聴覚の階層秩序を逆転させるのではないと述べ
いる。視覚と聴覚を対比させる考え方についてスターン
おいても問題とされている「代替的なもの」(オルタナ
と聴覚を対比させるリスト形式でまとめ,批判している
ているが(Erlmann 2004: 4),その場合,『視覚論』に
ティヴ)を聴覚についての研究は提示しようとするのか
どうか,もしそうだとすれば,どのような意味で「代替
は「視聴覚連禱」(audiovisual litany)と名づけ,視覚
(Stern 2003=2015: 28)。ラウリ・シーシアイネンは次の
ように指摘している。
的なもの」を示そうとするのかということが問題になる。
アールマンが『Hearing Culture』で自らの論考のタ
より最近では,文化理論とカルチュラル・スタディー
イトルにしているジェイムズ・クリフォードの『文化を
ズの領域,さらにより広い政治理論や社会理論,哲
書く』での問い,
「民族誌の耳についてはどうか?」
(But
学において,「聴覚」と「視覚」の強力な並置にた
what of the ethnographic ear ?)は,視覚中心主義への
いする批判が増している。問題にされているのは,
批判からなされたものであるが,クリフォードは「文化
こうした設定の背景にある超歴史的かつ還元主義的
をあらかじめ視覚的に(対象,劇場,テクストとして)
な諸前提である。とりわけ,多くの論者が,視覚
(sight),視覚性(visibility)と「視覚的なもの」
とらえることをやめると,文化の詩学が生まれうる。文
化の詩学とはさまざまな声の相互作用,つまりさまざま
(visual)を,客観化し,支配するまなざしに連れ
な立場からの発話行為の間に成立する相互作用である」
戻そうとすることの誤りについて論じている。その
(Clifford and Marcus eds. 1986 = 1996: 21)と述べてい
かわりに,その論者たちは,より多元的なアプロー
る。アールマンはマイケル・タウシッグとポール・ストー
チを主張しており,それは,視覚性,さまざまな視
ラーの議論にもとづき,「『テクスト的』パラダイムの限
覚文化と,その多様な倫理的,政治的可能性の,異
界と問題」を指摘している。「諸感覚へ注意を向けるこ
種混淆的な体制の歴史的,文化的多元性に肯定的で
ある。(Siisiäinen 2013: 2)
とは,新しく,豊かな民族誌のデータをもたらすだけで
なく,おそらくより重要なことは,広範囲に及ぶ理論的,
方法論的問題を再考するよう求める」(Erlmann 2004:
シーシアイネンは,こうした歴史性と多元性は「耳,
2)。そして次のように述べている。「結局のところ……
聴取,聴覚文化」についても主張されているとし,次の
人類学の耳がとらえようとしているのは対話的で,参与
ように述べている。
的な種類の知識である」(Erlmann 2004: 20)
。また
(7)
ブルとレ・バックは『The Auditory Culture Reader』で,
「深い聴取(deep listening)」とは直線的でなく,自明
感覚文化についての理論的研究と,より具体性を重
視する研究では,視覚と視覚性の還元主義的な「悪
でなく,しなやかで,音の多層的な意味を聴くことであ
魔化」(本質的に客観化し,距離を取り,凝固させ,
り,また対話や調査,解釈などの過程も含まれるとし,
「聞
支配し,排除し,差別するものにすぎないものとし
き取ること(listening)によって,主体と客体,内と外,
公と私の関係をまったく異なる形でとらえることができ
るかもしれない」(Bull and Les Back 2003: 3-5)と述べ
ている
。
て)とともに,聴覚を本質的に間‐主観的で,開放
的であり,参与的な感覚として素朴に評価すること
への異議申し立てがなされるようになっている。こ
うした意義申し立ては著しいものとなっており,政
(8)
アールマンは『理性と共鳴』(2010)では人類学に限
治理論の領域でも,権力や抵抗,政治的共同体の形
定せず,また視覚との直接的な対比ではなく,(視覚と
成を考える上で無視されるべきものではなくなって
関連づけられてきた)理性との対比において次のように
述べている。「理性が主体と対象の分離(disjunction)
− 31 −
いる。(Siisiäinen 2013: 3)
Akita University
聴覚を問題にすることの理論的,現実的可能性が,こ
んにちの聴覚と音について研究で問われている。
(aurality)」 と い う 表 現 を 用 い て い る(Stern 2010:
7-8)。
スターンは,このように名称についてまとめたうえで,
3. 2 サウンド・スタディーズと聴覚文化論
これらの議論について暗黙のうちにでも態度決定するこ
となしに,音についての研究を行うことはできないと指
近代の聴覚性(aurality)の物語は,フーコー的なエピステー
メーに相当する近代のアコウステーメー(acousteme)という
綺麗にまとめられた物語ではない。それはより混淆的な場であ
る……。 ファイト・アールマン
摘している(Stern 2010: 7-8)。名称は態度決定,そし
てそこにおける(スターンも重視している)「リフレク
シヴィティ」の問題にもかかわる。
スターン以外によるサウンド・スタディーズの定義で
音や聴覚についての研究は,こんにち「サウンド・ス
タディーズ」という名称がよく使用されるようになって
いる(Stern ed. 2010; Pinch and Bijsterveld , eds. 2012;
Novak and Sakakeeny eds. 2015 etc.)。「サウンド・スタ
ディーズ」についてスターンは次のように説明している。
「サウンド・スタディーズとは,音の分析を出発点また
は,たとえばトレヴァー・ピンチとカリン・ビスタベル
ドはサウンド・スタディーズとは「音楽,音,ノイズ,
サイレンスの物質的生産と消費,それらが歴史的にどの
ように変化し,またさまざまな社会でどのように異なる
か に つ い て 研 究 す る, 新 し い 学 際 領 域 」(Pinch and
Bijsterveld 2004: 636)と説明している。
は到着点とする人間諸科学における学際的な興隆に与え
視覚文化(Visual Culture)という表現がよく用いら
られた名前の一つである。音にかかわる実践と,それを
れている視覚(まなざし)に関連して,フォスターは視
表現する言説と諸制度をともに分析することによって,
覚と視覚性の違いを次のように説明している。「視覚と
サウンド・スタディーズは,人間の世界において音がな
視 覚 性 という2つの言葉がある。肉体のメカニズムに
すことと,音の世界のなかで人がなすことを描き直す」
よって形成されるのが視覚であり,社会的事実として形
(Stern 2010: 2)。
成されるのが視覚性であると言えるだろう。しかし,こ
スターンはサウンド・スタディーズという表現を使う
ことについて,「aural」という表現が好きだが「oral」
と混同されやすく,使い慣れた表現であり,音にかかわ
る表現として(頭韻として)使いやすく,研究の範囲を
の2つを自然対文化として対立させるべきではない。な
ぜなら視覚は社会的・歴史的でもあるし,視覚性は身体
や精神と分かちがたく結びついているからだ。とはいえ,
視覚と視覚性はまったく同じものでもない」(Foster
うまく包摂するためと述べているが(Stern 2010: 13),
1988 = 2007: 11)。
自らが『聞こえる過去』で用いた「人間中心的な定義」
サウンド・スタディーズの「サウンド」に対応するの
をあげ,それが答えというよりは,問題を提起するもの
と説明している
は,視覚と視覚性では「ライト」(light)になる。「音の
3
3
歴史……このフレーズには不安な響きがある。何しろ眼
。
3
(9)
3
さらにスターンは,音を感覚にかかわる問題としてと
に見える世界を研究する者たちは『光の歴史』は書かな
らえ,「文化的な耳の階層化する権力」について論じる
いだろうからだ(おそらく彼らは書くべきなのに)。代
場 合, ブ ル と レ・ バ ッ ク に し た が っ て,「 聴 覚 文 化
わりに彼らは『視覚文化』『イメージ』『視覚性』などの
,その表現は,いわゆる視覚のヘゲモニーと
たしかに,視覚,視覚性について考える場合,光や眼
眼の特権化を崩そうとする人たちにとっては魅力的であ
についても考える必要がある。「ヴィジュアル・カル
り,「視覚文化」という表現との並行性という利点もあ
チャーを研究する人たちはすべて,眼の解剖学的特徴と
ると指摘している。この場合,「音や光よりも耳と眼に
視覚に関する知覚心理学について基本的な事実を学ぶ必
サウンド・スタディーズはこれだけではない。「もう一
れでは,視覚についての研究は「ライト・スタディーズ」
(auditory culture)」という表現を使うべきかもしれない
と述べ
(10)
ついていっそう論じられる」(Stern 2010: 7)。しかし,
つの道では多かれ少なかれ,音の物質性(physicality)
歴史を書くことを好む」(Stern 2003=2015: 22)。
要がある」(Walker and Chaplin 1997 = 2001: 20)。そ
とすべきなのだろうか。
が想定され,その文化的な結合価が考察される」。たと
スターンは音について次のような,自らも人間中心主
えば,振動が考察の中心とされ,振動は「『それじたい,
義と言っている定義を行っている。「人から音を取り去
文化的,歴史的に位置づけられる必要がある』」ものと
ることは可能だが,音から人を取り去るのは想像力を行
してとらえられる(Stern 2010: 7)。またアールマンは,
使することでしか可能ではない。音は,正常に機能する
「知覚の物質性」と「あるものが,そもそも聞こえるも
耳に知覚された振動の集合として定義できる。この振動
のとして認識され,分類され,価値が設定されることに
は,圧力変化を伝達する(空気などの)媒体を通じて移
不 可 欠 の 諸 条 件 」 を 考 察 す る も の と し て「 聴 覚 性
動する際に,耳に知覚される――より正確には,共振し
− 32 −
Akita University
感覚の社会学,聴覚文化の社会学の視角
つつ生産される」
(Stern 2003=2015: 21-2)。音ではなく,
人が聞くということが中心になっている。そして聞くこ
とは歴史的,社会的,文化的に形づくられる。アールマ
ンは自らの「聴覚性」に焦点をあてる研究について次の
ように述べている。「近代の聴覚性(aurality)について
の私の説明は,『聴取者の機能(listener function)』に
ついての歴史である」(Erlmann 2010: 23)。
ここで問題になるのは,次の連続体としての 3 つの対
立関係である。「聴覚」―「非−聴覚」,
「サウンド」―「非
るいは聴覚を『自然』と『社会』がなす対立軸の中間の
3
3
3
ど こ か に(somewhere in the middle) 位 置 づ け る 」
3
3
3
3
(Erlmann 2010: 17,傍点引用者)。
スターンは,「自然状態にある聴覚の能力を『たんに
記述する』ことは不可能である……音と聴覚を記述する
た め に 使 う 言 語 は …… 文 化 的 な 重 み を 担 っ て い る 」
(Stern 2003=2015: 22)と述べており,これは耳にもあ
てはまる。しかし,スターンは次のようにも述べている。
「音という現象と音の歴史が文化と自然の中間地点〔in3
3
3
3
−サウンド」(サイレンス),
「自然」(聴覚,物質)―「社
between〕にあるのだ」(Stern 2003=2015: 22,傍点引用
会」(聴覚性)。
者)。
アールマンは,「耳(ear)について自然的と言われる
感覚の研究とともに,これまでの二元論の否定におい
。しかし,こ
ものと社会的と言われるものとを分ける線は,常に変化
してきている」(Erlmann 2010: 16)と述べている。こ
て「中間」も流行しているようである
のことの意味を考える必要がある。「リフレクシヴィ
うした点は感覚についての研究でしばしば指摘される,
ティ」を重視し,「感覚構築主義」について「未来に対
こんにちの諸感覚の研究では基本的になっている考え方
する希望あふれる展望のためにはある程度の構築主義が
である。しかし,アールマンは近年の聴覚文化の研究に
必要だ,と主張し」,そのために「感覚の歴史には社会
ついて以下のように指摘している。
近年の「聴覚文化(auditory culture)」研究のブー
ムにもかかわらず,身体としての耳は奇妙なまでに
とらえどころがなく,はっきりとしない〔incorporeal
肉体を持たない〕ものであり続けている。モダニティ
(11)
理 論 が 必 要 」 と ス タ ー ン は 述 べ て い る が(Stern
2003=2015: 438),自然と社会との「中間」を選択する
場合,次のジュディス・バトラーの指摘を考えてみる必
要がある。「セックスを前−言説的なものとして生産す
3
3
3
ることは,ジェンダーと呼ばれる文化構築された装置が
3
3
3
3
3
おこなう結果なのだと理解すべきである」(Butler 1990
におけるいわゆる軽視から,音に関するものを救い
= 1999: 29)。
出すために,聴覚文化の研究者たちはほとんどの場
音や聴覚,感覚の研究はそこに閉じられたものではな
合,形而上学的構成物としての聴覚(hearing)だ
い。「知覚や視覚が実際に変化するのかという問いはあ
けに焦点をあてている。皮肉なことに,そうするこ
まり意味がない,なぜならそれらは自律した歴史をもっ
とによって「視覚中心主義パラダイム」と手を結ん
てはいないからだ。変化するのは,知覚がそのなかで生
でおり,イメージやメタファーの集中砲火のなかで,
起するような領域を構成している,複数的な力や規則の
感覚的経験をする私たちの能力の身体的な実体があ
いまいになっている。(Erlmann 2010: 17)
方なのである」(Crary 1992=1997: 22)。聴覚,感覚を社
会的コンテクストに位置づけること,さらにそれを社会
理論と結びつけていくためには,身体と社会にかかわる
クレーリーは次のように指摘している。「『視覚性』は,
より広い,他の側面も考える必要がある。
容易に知覚や主体性のモデルに転換しうるが,そうした
モデルは,より豊かでより歴史的に決定された『身体化』
4.おわりに――リフレクシヴィティ
1999=2005: 11)。
聴覚の歴史をたどることは容易ではない。それは,過去の音
と い う 概 念 か ら は 切 り 離 さ れ て し ま う 」(Crary
このことは,
「感覚の社会学」の必要性を指摘するヴァ
ンニーニ,ワスクル,ゴットシャルクの「身体の社会学」
や音響にかかわる場だけでなく,特定の時代と場所で聞くこと
(hearing)が含んでいた広範な想像の型(imaginative models)
を考察することを必要としている。
イングリッド・サイクス
にたいする指摘と共通しているが,ヴァンニーニらは感
覚 的 経 験 に 焦 点 を あ て る の に た い し て(Vannini,
Waskul and Gottschalk 2014),アールマンは「耳のゆた
スターンはブルデューとダナ・ハラウェイの議論にも
とづくものとして,サウンド・スタディーズにおける知
かな物質性」に焦点をあてる。それでは,アールマンは
の生産における「リフレクシヴィティ」の必要性を指摘
自然(聴覚)と社会(聴覚性)との関係をどのようにと
している。「認識者は認識しようとするものとの関係の
らえているのだろうか。「生物学的なものと文化的なも
なかに自分自身を位置づける必要がある。つまり自分自
のとのより深い相互浸透を見いだし,送信者−媒体−受
身の立場と偏見を説明しなければならない……聞くため
信者という単純な三者関係のモデルを複雑化し,視覚あ
に は あ る 場 を 占 め る 必 要 で あ る(Hearing requires
− 33 −
Akita University
positionality)」(Stern 2010: 4)。スターンは『聞こえて
にするとともに,われわれの実践を誘導したり制約
くる過去』でもこのことを主張しており,その結論では
したりするこの無意識から自分を解放するのを可能
にする。(Bourdieu and Wacquant 1992 = 2007: 80)
「本を書くとき,学者はそれを選択と思うことなしに多
くの選択を行う」とし,自らの研究における歴史の区分
など,選択のいくつかを検討している。『観察者の系譜』
感覚はこの「社会的無意識」の最たるものである。こ
におけるクレーリーも次のように述べている。「どのよ
んにちの諸感覚についての研究はその無意識を明るみに
うに歴史を区別するか,あるいはどこに切断を置いたり,
もたらそうとしている。つまり感覚の「社会分析」を行
切断の存在を否認したりするかは,まったくもって,現
おうとしている。それを,感覚を社会的諸条件や文化的
在自体の構成の仕方を決定する政治的な選択なのであ
諸条件,歴史的諸条件のなかに位置づけることによって
る」(Crary 1992=1997: 23-4)。またヴァンニーニ,ワス
クル,ゴットシャルクも「感覚的(sensuous)方法論に
ついて最も重要な点は,そうした方法論がもたらす感受
性とリフレクシヴィティにある」(Vannini, Waskul and
Gottschalk 2014: 73)と指摘しており,こんにちの聴覚
行おうとしているが,「それを生みだした社会的諸条件
に関連づけてやるだけでは充分ではない」。リフレクシ
ヴィティ,「社会理論」(スターン)が必要なのは,上で
のヴァカンの指摘と重なるが,ブルデューは次のように
説明している。「社会学がわれわれに与えてくれる少し
および感覚の研究ではリフレクシヴィティもキーワード
ばかりのチャンスとは,われわれがどんなゲームをやっ
になっている。
ているのかを理解すること,われわれが内部を動き回っ
これは,こんにちの人文社会科学の研究状況を反映し
ている界の諸力が発揮する影響力を弱めること,そして
たものでもあるが,聴覚や感覚の研究が,人類学,つま
われわれの内側から作用している身体化された社会的諸
り非‐西洋や周縁の文化についての研究で盛んに行われ
(Bourdieu and Wacquant
力の影響力を弱めることです」
るようになっていること,また視覚中心の近代というと
1992 = 2007: 249)。
らえ方と,これまでの学問の知との関係が問われること
「明るみに出すこと」,
「リフレクシヴィティ」,
「位置」,
において,聴覚や感覚の研究は自らの視角と方法を問い
いずれも見ることと密接にかかわってきたものである。
直さざるをえないからである。
フィッシュは『知覚の哲学入門』の注のなかで次のよう
リフレクシヴィティについてブルデューは次のように
に述べている。「周知のとおり,人間は多くの異なる知
述べている。「それを生みだした社会的諸条件に関連づ
覚能力あるいは感覚をもつ……本書の大半が哲学的伝統
けてやるだけでは充分ではない……社会学にとってはさ
にのっとっており,視覚ないし視知覚の哲学的理論に焦
らに,見かけ上自明のように思われるにすぎないこの関
点を合わせている」(Fish 2010 = 2014: 14)。知覚を考
連性そのものを,問いに付すことが必要となってくる
えようとするとき「伝統にのっとり」,視覚が中心になる。
……だから問われなければならないのは,問いかけその
リフレクシヴィティを重視する感覚,聴覚の研究は,感
「社
ものなのだ」
(Bourdieu 1979 = 1990: 18-9)。それは,
覚,聴覚についての「視角」という問いかけそのものも
会科学における誤りの源泉のひとつは対象にたいする
再考する必要がある。そしてここに音と聴覚の歴史につ
〔社会科学者の〕関係をチェックしていないことであり,
いての「広大なプロジェクト」の「血肉化」がかかって
その結果分析のなかに分析されざる関係を投影してし
いるのではないだろうか。
101)からである。
音に関する学問は,より根本的で総合的な,理論的
ま っ て い る 」(Bourdieu and Wacquant 1992 = 2007:
ロイック・ヴァカンはリフレクシヴィティについて次
で文化的で歴史的な問いを一貫して示そうとしてき
のように述べている。
たわけではなかったので,自らは属するさまざまな
知的領域に影響をあたえる,大きな哲学的な問いを
行為者たちはみな,客観性を内在化したものである
生みだすことはできなかったのだ。したがって,挑
主観性を基礎にして動いている限り,「表面上は行
戦すべきことは,直接的な経験の文脈を超える問題
為の主体だが,主体としての構造を抱えている」存
として音を想像することなのである。音の歴史はす
在にとどまらざるをえないのである。対照的に,自
でに人文科学の広大なプロジェクトに結びつけられ
らの内なる社会的なるものについてより自覚的にな
ている。その結合を血肉化するのは私たちの責任な
のである。(Stern 2003=2015: 16)
ればなるほど,自らの内に住まう外在性によって動
かされる可能性はそれだけ小さくなる。社会分析は,
制度の中ばかりか,われわれのもっとも内奥にも刻
み込まれた社会的無意識を明るみに出すことを可能
【付記】本研究は JSPS 科研費 26503002 の助成を受けた
ものである。
− 34 −
Akita University
感覚の社会学,聴覚文化の社会学の視角
てくれる」(Erlmann 2004: 3)。
【注】
(1)成田龍一(1998)は「故郷」が 19 世紀後半以降の人
(8)こうした点は「ケア」などにおける声,聞くこと,耳
の移動によって「都市とともに発見され」,それが「共
を か た む け る こ と, 諸 感 覚 と も か か わ る( 鷲 田 清 一
2015 [1999] など)。「『声を持つ』ことが,話し,歌う能
同性の次元」と結びついていると指摘している。
(2)
「遂行性」
(performativity)はヴァンニーニ,ワスクル,
力以上のことを意味し,さらに内的な特性,本質的な人
間の意識さえ明らかにすることを示しているように,あ
ゴットシャルクの感覚の社会学の議論でもキーワードの
1つになっている(Vannini, Waskul and Gottschalk
る人を「聞く」(“hear”a person)ことは,その人の主
体 性 を 認 め る こ と で あ る 」(Novak and Sakakkeeny
2014)。
2015: 1-2)。
(3)ウィリアム・フィッシュは次のように述べている。「た
とえある視覚理論が実際に広く受け入れられたとして
(9)この箇所で取り上げられているのは以下の説明である。
も,適切な聴覚・触覚・嗅覚・味覚の理論が視覚の理論
「音である振動と音ではない振動との境界線は,振動そ
と同じ様式であるという保証はない。そして……知覚を
のものの性質もしくは振動を伝達する空気の性質に由来
それぞれの感覚に切り離して考えることが正しい考察の
するのではない。そうではなく,音と音ではないものと
方法であるという想定を疑う理由がある……世界を知覚
の境界線は,聴覚能力がもつとされる可能性――人であ
する私たちの能力についての哲学的な理解を完全なもの
れリスであれ――にもとづいている。それゆえ――定義
にするには,むしろ,すべての感覚を統合した理論が必
上――人とリスで音も変わる。いずれの種にも歴史があ
要なのかもしれない。これらの問題はすべて今後の課題
である」(Fish 2010 = 2014: 238-9)。
(4)「聴くこと」と「聞くこと」にかかわる近代の「注意」
と「 気 散 じ 」 に つ い て は ク レ ー リ ー(Crary 1999 =
2005)やミヒャエル・ハーグナー(Hagner 2003)など
るのだ」(Stern 2003=2015: 24; 訳を一部変更)。
(10)ブルとレ・バックは『Auditory Culture Reader』にお
いて「サウンド・スタディーズ」という表現も使用して
いる(Bull and Les Back 2003)。
(11)デヴィッド・ノヴァークとマット・サカキニは「中間」
を参照。
ではないが次のように説明している。「音は振動であり,
その物質性(materiality)をとおして知覚され,知られる。
(5)ヴァンニーニ,ワスクル,ゴットシャルクは,感覚的
研究(sensuous scholarship)において,方法について
音のメタファーは聴覚の知覚の条件を構築し,社会生活
での音のさまざまな領域と境界を形づくる。音は,この
は既存の方法にそれほど加えることは多くないと述べて
いる(Vannini, Waskul and Gottschalk 2014: 68)。「一般
物質性とメタファーのフィードバック・ループのなかに
存在し,言葉に多種多様な意味と解釈をそそぎ込んでい
的に感覚的研究は,諸感覚についての,諸感覚を使った,
諸感覚のための(about senses, through senses, and for
る。物質性とメタファーの相互関係として音に取り組む
senses)研究,理論,方法論を意味している」(Vannini,
Waskul and Gottschalk 2014: 63)
ことは,一見,異なる領域に見える知覚と言説が,音に
ド編『The Oxford Handbook of Sound Studies』(2012)
化的コンテクストを横断して広がるものなのかを示すこ
ついての日常の経験と理解のなかにいかに深く織り込ま
れているのかを明らかにし,いかに物理的,哲学的,文
(6)たとえば,トレヴァー・ピンチ&カリン・ビスタベル
とである」(Novak and Sakakkeeny 2015: 1)。
では「新たな音の世界を開く鍵」として「科学,技術,
医療」に焦点があてられている。イングリッド・サイク
スは聴覚の技術と実践の場としての医療と司法の諸機関
に焦点をあてている(Sykes 2015)。聴覚の「その後の
生活」のさまざまな面,さまざまな文化についての研究
が行われるようになっている。
(7)アールマンは『Hearing Culture』(2004)において次
のように述べている。「……声を回復する近年の試みの
大部分は,主に映画とオペラでの声の女性的諸形態に集
中しているが,人類学者たちは他の聴覚的実践がどのよ
うにグローバル化と近代化の大混乱に巻き込まれている
のか,どのように他の聴覚的諸実践はしばしば,西洋の
視覚中心主義の命令を逃れ,抵抗し,あるいは屈服して
い る の か に つ い て, ま だ 十 分 に 取 り 組 ん で い な い 」
(Erlmann 2004: 5)。「『Hearing Culture』というタイト
ルは,ある文化を知り,ある社会の構成員がいかに相互
を知るのかということについてより深い理解を得るため
の新たな概念化が可能だということを示唆している……
聴覚を通した相互関係が,近代化,技術の進展,グロー
バル化によりもたらされる大きな変化に取り組む世界の
諸社会が直面するさまざまな問題への重要な洞察も与え
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