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見る/開く - 東京外国語大学学術成果コレクション

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見る/開く - 東京外国語大学学術成果コレクション
東京外国語大学論集第 79 号(2009)
1
旧北ベトナム・西北地方在住少数民族のベトナム戦争参加
―ムオン族とターイ族への聞き取り調査から―
今井 昭夫
はじめに
1. ムオン族に対する聞き取り調査
1.1. 教育の普及状況
1.2. ラオスでの駐屯
1.3. 軍隊生活の感懐
1.4. 銃後の社会
1.5. 除隊後の境遇
1.6. インタビューした 12 人のムオン族・退役軍人たちのまとめ
2. ターイ族に対する聞き取り調査
2.1. 学校教育とベトナム語の普及
2.2. ラオスへの関与
2.3. 銃後の社会
2.4. 軍隊生活の感懐
2.5. 除隊後の境遇
2.6 インタビューした7人のターイ族・退役軍人のまとめ
おわりに
はじめに
現在、ベトナムには 54 の民族が国家から認定されており、主要民族であるキン族が総人口の
9割弱を占めている。1999 年の人口調査によれば、総人口 7632 万人のうち最も人口が多いの
はキン(Kinh)族の 6580 万人、ついでタイー(Tày)族の 148 万人、ターイ(Thái)族の 133
万人、ムオン(Mường)族の 114 万人、クメール(Khơ-me)族の 106 万人などの順となってい
る 1)。旧北ベトナムで主に少数民族が居住しているのは中国と国境を接する越北地方とラオス
と国境を接する西北地方の山間部である。かつてこの2つの地方には、
「越北自治区」と「西北
自治区」の2つの民族自治区がベトナム戦争終結時の 1975 年まで存在していた 2)。
本稿は、旧北ベトナムの少数民族がどのようにベトナム戦争に参加し、動員され、国民化し
2 旧北ベトナム・西北地方在住少数民族のベトナム戦争参加―ムオン族とターイ族への聞き取り調査から―:今井 昭夫
ていったのかを明らかにする目的で、2007 年に西北地方のホアビン省とディエンビエン省で実
施したムオン族とターイ族の退役軍人を対象とした聞き取り調査をまとめたものである。従来
のベトナム戦争研究やベトナムの少数民族研究において、少数民族がいかにベトナム戦争に参
加していったのかを、単なる民族政策論ではなく少数民族の側から内在的に研究したものはほ
とんどなかった。本稿はその初歩的な試みである。
1945 年にベトナム民主共和国が独立して以来、抗仏と抗米の2つの戦争と中越戦争、カンボ
ジア紛争まで、ベトナムには戦死者約 110 万人、負傷兵約 60 万人、病兵 210 万人以上、敵に殺
害された人 200 万人近くなどの戦争被害者がいるとされるが、この中には相当数の少数民族も
含まれている。正確な数字は不明であるが、たとえばベトナム戦争の激戦地だった南中部の戦
死者 15 万 5900 人のうち、少数民族が主に居住する地域であるダクラク省出身の戦死者は 4078
人であった 3)。またベトナム戦争中の旧北ベトナムにおいては、タイー族、ムオン族、ターイ
族などの少数民族においては、数万人の青年が出征した。サンジウ(Sán Dìu)族でも数千人の
青年が出征し、人口の3~4%に達したところもあった。ムオン族居住地区では、出征者の人
口に対する割合は旧ハーソンビン省 4)で 3.4%、タインホア省で 8.68%(とくにゴックラク県ミ
ンソン社では 16%)
、ヴィンフー省で 15.4%もあった。タイー族、ヌン族などが多数居住する
越北地方では、合計で 30 万人以上が戦場に赴いたと推計されている。カオバン省だけで3万人
以上が出征した。西北地方の旧ホアンリエンソン省 5) では数千人が、旧ライチャウ省 6) は 7000
人以上が出征した。旧ライチャウ省のマン(Mảng)族とコムー(Khơ-mú)族はきわめて小規
模の民族である 7) が、数百人が出征した。ライチャウ省における少数民族ごとの人口に対する
出征比率は、ル(Lự)族 5.3%、ターイ族 4.6%、ラオ(Lào)族 4.02%、ハーニー(Hà Nhì)
族 3.8%、ザイ(Giáy)族 3.5%、コン(Cống)族 3.25%、コムー族 2.8%である 8)。このように
旧北ベトナムの少数民族もベトナム戦争に相当数参加し、動員されていた。
次に少数民族の参加・動員状況を顕彰面から裏づけてみよう。ベトナムにおいて「英雄」の
称号はたいへんな名誉とされているが、この称号には「人民武装勢力英雄」と「労働英雄」の
2種類がある。
「人民武装勢力英雄」は軍隊や公安などで卓越した功績をあげた人に対して授与
される称号である。1975 年までの「英雄」宣揚者をみてみると、1945~1954 年が 155 人で、そ
のうち「人民武装勢力英雄」が 150 人を占め(97%)
、1954~1975 年では 1284 人中 1131 人(88%)
を占めている。主要民族であるキン族が「英雄」のうちで占めている割合は、1945~54 年で 122
人(79%)
、1954~75 年で 1139 人(89%)となっており、キン族が8割から9割を占めていて、
ほぼ総人口の人口比とほぼ見合う数字となっている。1945~54 年の時期は、少数民族の「英雄」
はタイー族(9人)など北部山間部の少数民族が多いのに対して、1954~75 年の時期における
「烈士(戦死者)
」の「英雄」では、中部高原に分布する少数民族が相対的に増えている 9)。1995
東京外国語大学論集第 79 号(2009)
3
年までの時点で少数民族の「人民武装勢力英雄」の数は、タイー族 25 人、ヌン(Nùng)族 14
人、ターイ族 14 人、ムオン族 10 人、フレ(Hrê)族 10 人、ザライ(Gia-rai)族8人(そのう
ち女性1人)
、タオイ(Tà-ôi)族6人(そのうち女性1人)
、モン族(Hmông)6人、クメール
族5人(そのうち女性1人)
、ラグライ(Ra-glai)族5人、バナー(Ba-na)族3人、そしてジ
エトリエン(Giẻ-Triêng)族、カオラン・サンチー(Cao Lan – Sán Chỉ)族、チャム(Chăm)族、
ソダン(Xơ - đăng)族、コトゥー(Cơ-tu)族などが2人、スティエン(Xtiêng)族、コー(Co)
族、チョロ(Chơ-ro)族、ザオ(Dao)族、コムー(Khơ-mú)族、ブル・ヴァンキュウ(Bru –
Vân Kiêu)族などが1人となっている 10)。
また戦死者の子供が複数いるなどの「英雄的ベトナムの母」11) の人数を第1回認定時(1994
年末)で見てみると、タイー族 42 人、ムオン族 35 人、クメール族 31 人、ザライ族 25 人、ヌ
ン族 19 人、バナー族 16 人、ターイ族 11 人、ソダン族8人、フレ族7人、トー族とチョロ族が
4人、そしてジエトリエン族・エデ(Ê-đê)族・コトゥー族・ハーニー族が3人、スティエン
族・ラグライ族・モン族・ザオ族・コホ(Cơ-ho)族・ムノン(Mnông)族が2人、コー族・ブ
ル・ヴァンキュウ族・タオイ族・ホア(Hoa)族・フーラー(Phù Lá)族・コン族・チャム族・
ラハ(La Ha)族・カオラン・サンチー族・ザイ族が1人となっている
。以上、顕彰面から
12)
見てみると、北部の少数民族においてはタイー族、ヌン族とならんで、ムオン族やターイ族が
戦争への参加貢献度が高かったことが見て取れる。
北部の少数民族地区は、単に兵士や物資を戦場に供給したばかりでなく、北爆の対象ともな
った。ソンラ、ライチャウ、ギアロ、タインホアとゲアンの西部など、北部の少数民族地区は
大きな被害を受けた。ホアビンでは 1968 年3月 31 日までに 92 の社(省全体の 46%)が爆撃
され、ライチャウでは 1968 年 11 月1日までに6県 67 社が 6162 発の各種爆弾により破壊され
た。ホアンリエンソンでは 1965 年 12 月だけで 300 発以上が投下された 13)。
本稿では、北部の少数民族のうちで比較的人口が多く、また解放勢力側としてベトナム戦争
への参加貢献度が高いこと、北爆を受けている地区であること、調査者がラオスと少数民族と
の関係を調べたかったこと、および調査の便宜上などの点から、ムオン族とターイ族を聞き取
り調査の対象とした。本稿をまとめるにあたっては、戦争を通して少数民族の政治的・文化的
統合がどのように進んでいったのかを見るため、少数民族の教育普及と幹部養成、ラオスへの
関与、 銃後の社会、 軍隊(生活)に対する感懐、 復員後の境遇などの諸点に着目した。なお、
聞き取り調査はベトナム国家人文社会研究センター・社会学研究所の協力をえて実施した。イ
ンタビュー対象者の選定は現地の省・県・社の退役軍人会の紹介によっている。インタビュー
は原則的に対象者の自宅においてベトナム語によって自由質問形式で行い、録音した。録音し
たものはベトナム語のままトランスクライブされ、録音テープと書き起こし原稿はすべて筆者
4 旧北ベトナム・西北地方在住少数民族のベトナム戦争参加―ムオン族とターイ族への聞き取り調査から―:今井 昭夫
の手元に保管されている。閲覧希望者は筆者までご連絡いただきたい。
1. ムオン族に対する聞き取り調査(2007 年9月4日~8日)
ムオン族は人口が約 120 万人(1999 年)で、ホアビン省、タインホア省などに分布している
が、最も集中しているのはホアビン省である。ホアビン省は首都ハノイの西の方角に位置し、
ラオスと国境は接していないが、国境までは比較的近い。人口は 75 万 6713 人(1999 年)で、
約 30 の民族が居住しており、そのうち最も多く占めるのはムオン族(49 万 7197 人、63.3%)
である。キン族は 20 万 9852 人で 27.73%を占めている
。調査地であるホアビン省タンラッ
14)
ク(Tân Lạc)県は県庁所在地ムオンケン(Mường Khến)がハノイから約 100 キロ余り。ムオ
ン族の揺籃の地で、ムオン族のうちムオン・ビーの人々が居住している。調査は、ドンライ社
とチュンホア社の2つの社で実施した。ドンライ(Đông Lai)社は幹線道路沿いにあり、人口
(5627 人)の約9割はムオン族で、社の指導部はすべてムオン族で占められている。退役軍人
は 239 人(そのうち共産党員 36 人。社全体の党員数は 160 人)で、戦死者は 12 人、傷病兵は
25 人である。
もう一ヶ所の調査地である同県チュンホア(Trung Hòa)社は、ドンライ社より幹線道路から
さらに奥まった山間部にあり、電気が通じるようになったのは 2002 年からで、6つの集落のう
ち3つはまだ電気がきていない。この地方では最も貧しい所である。人口 2149 人の 98%がム
オン族。退役軍人は 66 人(そのうち共産党員が8人。社全体の党員数は 58 人)
、戦死者は8人
で傷病兵は3人である。ムオン族の話すムオン語はベトナム語と言語系統的に近い関係にある
が、ムオン語には固有の文字はない。現在、学校教育はベトナム語で行われており、看板など
もすべてベトナム語である。ムオン族はキン族化が最も進んでいる少数民族の一つといってい
いであろう。ムオン族の伝統的住居は高床式であるが、ドンライ社ではその数は少なくなりつ
つあり、せいぜい2割程度しかない。チュンホア社ではまだ8~9割が高床式である。
以下の表はインタビューしたムオン族の一覧表であるが、1番~5番がドンライ社在住で、
6番~12 番がチュンホア社在住である。名前は姓およびミドルネームを省略した。表の 12 人
中、1番のヴェンだけが抗仏世代で、あとは抗米世代である。
東京外国語大学論集第 79 号(2009)
1
2
名前
生年
学歴
ヴェン
1932 年
5年生
ヒエウ
1943 年
5
出征期間
所属
主な駐屯先
最終階級 15)ほか
なし
1947~1954 年
ゲリラ、青
ディエンビエン
(7年間)
年突撃隊
フー
7年生、
1965~1974 年
高射砲部
クアンニン、ク
社会主義労働
(9年間)
隊
アンビン、ラン
青年学校
上士
ソン、ラオス(66
~74 年)
3
ターン
1945 年
2年生
1964~1972 年
第 304 師
ラオス(65~68
(8年間)
団、第9中
年)
、コントゥ
団、高射砲
ム、ハティン
中士
部隊
4
ゴット
1949 年
6年生
1968~1976 年
第5師
カンボジア、タ
(8年間)
団、第 33
イニン、ドンナ
中団、通信
イ・バーリア
?
兵
5
ギア
1951 年
6年生
1970~1978 年
第3軍
中部高原、ニャ
中士、
(8年間)
団、第 670
チャン
本人と2人の子供
中団、衛生
が枯葉剤被害者
兵
6
ズー
1945 年
7年生?
1965~1980 年
国境防衛
ラオス(68~70
(15 年間)
隊
年)
、クアンビ
少尉
ン、クアンチ、
ダナン、ホイア
ン、カンボジア、
ホーチミン市
7
ヴァンザ
1948 年
3年生
ン
1968~1978 年
クアンナ
クアンナム、チ
中士、
(10 年間)
ム省隊、第
ュオンソン山脈
枯葉剤被害者
訓練部隊
北部
中士
第308師団
クアンチ
中士、
84 小団
8
トゥア
1950 年
7年生、社会
1968~1976 年
主義労働青年
(8年間)
学校
9
コンザン
1950 年
4年生
1971~1975 年
(4年間)
10
タング
1951 年
4年生
枯葉剤被害者
1969~1971 年、 歩兵
ラオス(69~70
1972~1977 年
年)
、クアンチ
下士
(8年間)
11
ルイ
1951 年
6年生、社会
1971~1976 年
第 308 師
クアンチ、ホア
中士、
主義労働青年
(5年間)
団、通信大
ビン
枯葉剤被害者
クアンチ
クアンチ、ヴン
上士、
省隊→第
タウ
枯葉剤被害者
学校
12
ウオック
1954 年
4年生
隊
?~1981 年
318 師団
6 旧北ベトナム・西北地方在住少数民族のベトナム戦争参加―ムオン族とターイ族への聞き取り調査から―:今井 昭夫
1.1. 教育の普及状況
総じて、未就学者はいないが学歴は低い。しかしインタビューしたムオン族の人々が特に同
時代のキン族と比べて格段に低いとは思われない。当時、キン族でも6・7年生まで学校に行
けば標準以上であった。ヒエウによれば、その頃は 10 年生を終える人はごく少なく、ホアビン
省には高校が2校あるだけだった。ギアが出征中に駐屯していた兵站基地には兵士が4人いた
が、自分の学歴が一番高く(6年生)
、ほかの人は2年生までだったという。1932 年生まれの
ヴェンは、独立前、フランス語で教育を受けている。証言からは、50 年代・60 年代の当地にお
いては、まだ学校が十分には整備されていなかったことが窺える。ゴットは、ドンライ社には
当時学校がなかったので、3キロあまり離れた学校に6年生まで徒歩で通った。タングは中学
校が 11 キロ離れていたので、中学校への進学を断念し4年生まででやめた。復員後、彼は文化
補習学校で7年生まで学んだ。ベトナム戦争後、学歴はより問われるようになり、一般的に学
歴の低いベトナム戦争世代は悲哀を味わうことになった。ヴァンザンは 1978 年に復員したが、
当時はバオカップ(国家丸抱え)時代で、5年生以上の学歴があれば、軍隊から他部門に異動
できたが、3年生までの学歴しかなかったので、帰郷して農業に従事せざるをえなかったとい
う。学校教育におけるムオン語の扱いについては、遺憾ながら、聞くことができなかった。た
だムオン語には固有文字がないこともあり、学校教育でムオン語はほとんど使われてこなかっ
たのではないかと思われる。
現在の民族寄宿学校の前身と思われる学校も存在していた。ヒエウ、トゥア、ルイの3人は、
社会主義労働青年学校で学んでいる。この学校はホアビン省の少数民族の子弟を対象とした寄
宿学校で、主には5~7年生を対象としていた。少数民族の幹部養成を目指したもので、学費・
寄宿費は無料であった。彼らはこの学校の在学中あるいは卒業直後に出征した。
1.2. ラオスでの駐屯
12 人中4人がラオスに駐屯した経験をもっている。ヒエウはサワンナケートに8年間(1966
~74 年)いた。兵営の建設などに従事し、戦闘は少なかったという。戦闘相手は主にタイ国の
特殊部隊だった。サムヌアではラオスの国家中央機関を防衛した。ラオスの一般庶民との接触
は簡単なやりとりだけだった。一般庶民の間に特殊部隊がまぎれているのを警戒していたから
である。出歩く時は、単独ではなく、2・3人で行動した。上ラオスには多様な民族がいて、
風景も郷里ホアビンと似ており、馴染みやすかった、とヒエウは述懐する。ターンは 1965 年に
ラオスに入った。解放軍とパテート・ラーオ(ラオス愛国戦線)軍の2つの軍装を用意し、行
軍でラオスの人々と接触のある時はパテート・ラーオの軍装をした。ラオスでの任務は解放軍
が南部に行くルートを切り開くことであった。3年間ラオスにいたが、ジャングルに駐屯して
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いたので、ラオスの一般庶民との接触は少なかった。ヴァン・パオ 16) 軍からは何度も夜襲を
受けた。米軍の戦闘機と交戦したこともあるが、地上で戦闘したのはラオスのプーマー軍とサ
イゴン政府軍であった。ズーは 1968 年に国道9号線からラオスに入り、シェンクアンに3年間
駐屯した。任務は匪賊討伐とベトナム人専門家集団の防衛であった。ジャングルに駐屯してい
たので、ラオスの一般庶民との関係は薄かった。タングは 1969 年にニンビン省のニョークアン
(Nho Quan)から自動車でラオス入りした。シェンクアンに駐屯し、任務は戦闘と米の輸送で
あった。4人とも 1960 年代なかばから 73 年2月のラオス和平協定(ラオスにおける平和回復
と民族和合の達成に関する協定)締結前後までラオスに駐屯しており、戦闘相手はラオス戦線
の複雑さを反映して多様であった。4人の話から、北ベトナム軍がラオスでは目立たないよう
に配慮していたことが窺われる。
1.3. 軍隊生活の感懐
インタビューの中でよく出てきた話題は、空腹の話と軍隊内の人間関係の話であった。
1.3.1. 衣食の苦難
ヒエウはラオス駐屯中、米不足ではなかったが、新鮮な野菜や肉が食べられず、缶詰ばかり
食べていたという。ターンは 1966・67 年頃が最も熾烈な時期で、その頃は飢えることもあった
が、疲労や弾薬の臭いのむせ返り、戦闘による極度の緊張で頭痛がして食べれなかったことも
あったという。ゴットは 1968 年6月にベトナム南部に入ったが、その際、部隊から兵士一人ひ
とりに、どの植物が食べられるのかを記した冊子が配られたという。途中のカンボジアでは平
和で酒も飲めたが、
ベトナム南部のタイニンでは空腹で、
落花生や青カボチャを食べて凌いだ。
ギアはホーチミン・ルート上の兵站基地(20~30 キロごとに1つあった)で衛生兵をしていた
が、1966 年から 1972 年まで当地では兵士に衣服の支給がなかった。食事は、通常の日は 150
グラムの米と数グラムの塩で、戦闘時には米が 300 グラムに増量された。副食は主にジャング
ルで取れた筍や野草であった。部隊ではキャッサバの栽培なども試みられた。現地での食糧自
給政策が推奨されたが、十分な食糧を生産することができず、病死した兵士も多かった。ホー
チミン・ルート上では、マラリア、飢え、疲労などで亡くなった兵士が多数いた。1972 年に国
家の高級指導者であるトー・ヒュウとドー・ムオイが中部高原に視察に来てから、缶詰の肉と
衣服の支給が十分になったという。
ヴァンザンは 1968 年後半にベトナム中部のホイアン周辺に
駐屯していたが、米の供給がなく、一日中、水と野菜だけで過ごす日もあった。一方、タング
は 1969 年に出征し 1977 年まで軍隊生活を送っているが、食事は家より軍隊の方がよかったと
いう。ご飯そのものは変わりはないが、軍隊では毎食、肉がついたからで、当時の家では旧正
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月と法事の時ぐらいしか肉を食べることができなかった。
1.3.2. 少数民族と軍隊
ヒエウの部隊の兵士はほとんどが少数民族であったが、
民族差別はなく、
部隊編成は混成で、
兵士たちの生活・訓練・報酬(一般兵士はだれでも月に5ドン)は一律であった。優遇制度も
なく、少数民族も激戦地の南部に行った。ヒエウは、
「軍隊に入れば一つの民族のようなもの。
それは多民族ではなく、ただ一つのベトナム民族である」と語っている。ターンも「山間部の
人と平野部の人との差別はなく、ともに一つの家の子孫であった」と述べている。ちょっとユ
ニークな経験を語ってくれたのはゴットである。ゴットの部隊は東南部の軍区の機動部隊で主
力中団 17) であった。部隊は全員北部の人であったが、後に南部の出身で北部に「集結」した
人も加わった。とくにゴットの中団は少数民族の兵士から成る中団(ほとんどがタイー族)で、
中団長もタイー族の人であった。そのためタイニンでの戦闘の時にはタイー語で命令が下され
た。その時、敵のサイゴン政府軍はゴットの中団を中国兵だと勘違いし、恐れたという。ギア
は、戦場にいる時は軍隊の階級のことなどあまり気に掛けることはなく、大隊長は大隊長だと
知っているだけで階級が何かは知らず、軍隊内は比較的平等だったという。また軍隊内には少
数民族蔑視はなく、共通語によるコミュニケーションもとくに問題がなかったという。1957~
62 年の時期にアメリカと南ベトナムは北に特殊部隊を潜入させようとしていたので国境防衛
隊は重要であったと力説したのは国境防衛隊に所属していたズーである。彼は、国境防衛隊は
山岳部や島嶼部で駐屯しなければならなかったので、少数民族の兵士が多く選ばれていたと指
摘する。タングも、軍隊では差別はなく、喧嘩もなかった、とても団結していて、今とは違い、
上下の区別もなく平等であったという。このようにインタビューした人たちは一様に、軍隊内
には民族差別はなく、平等であったと主張した。軍隊の編成は基本的には民族混成であったの
であろうが、
地域、
兵種によっては少数民族に偏った構成となったケースもあったと思われる。
1.4. 銃後の社会
ヴェンは抗仏戦争期の 1947 年から地元ゲリラとなり、1954 年のディエンビエンフーの戦
いでは青年突撃隊として米の輸送、道路建設、負傷兵の搬送などに従事した。ベトナム戦争期
は再び地元のゲリラとして活動し、敵戦闘機への攻撃に参加した。銃や弾薬は県隊を通して国
から支給された。ゲリラは食糧を自前で調達し、現金や衣服の支給はされなかった。ベトナム
戦争中、米は不足し人々は飢えていた。食べるものはイモなどとの混ぜご飯だった。空爆が激
しかったので、昼間はジャングルなどに疎開し、耕起などの農作業は夜間にした。
ヴェンによれば、ベトナム戦争中、社の農業合作社は食糧について決定権を持っていたので
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社の人民委員会よりも重要な役割をもっていた。各戸は1年に 40 キロの豚肉、4キロの鶏肉、
12 個の鶏卵を合作社に納入するのが義務であったが、各戸ともノルマを越えるようにすすんで
奮闘したという。ゴットによれば、戦争中すべては戦場のためにで、飼っている鶏も管理され
ていて勝手に売ることはできず、豚肉・鶏肉・鶏卵を規定量納めなければならなかった。そう
しなければ布など他のものの配給を受けられなかった。それは強制だけれども自発的であり、
自発的だけれども強制であったという。しかし当時、みんなはそれから逃避せず自らすすんで
行い、このような納入競争をすることは抗米精神がある証しだとされた。
ズーは戦死者の通知と追悼について語っている。追悼式は県の軍事指揮委員会によって行な
われるが、実際には社の人民委員会が取り仕切った。儀式は簡素で、祭壇をたて線香を手向け
るだけで、遺族に戦死者名、出征日、戦死日、戦死場所が通知された。父母と子供のみ見舞金
が支給されたが、年若い妻には支給されなかった。戦争中、夫が出征していた妻には忍従の日々
が続いた。ターンによれば、一般兵士は未婚・既婚の区別なく一律で毎月5ドン支給されてい
たが、家族に仕送りする手立てがなく、夫の家族と暮らしている妻を経済的に支援することは
できなかったという。コンザンは南部出征中に両親が妻との結婚式を挙行していたが、当時は
花婿不在の結婚式も多く行われた。
ルイも出征中の 1974 年に両親が妻との婚約を済ませていた。
ベトナム戦争中、自転車や魔法瓶はまだ贅沢品だった。タングは小学校4年生まで就学した
が、中学校は家から 11 キロ離れているので通学を断念した。自転車があれば通学可能であった
が、当時、自転車はまだ普及しておらず、県の幹部クラスでようやく持つことができた。たと
え配給で買えたとしても水牛2頭分の価格だった。ズーによれば、魔法瓶を買うのにも水牛2
頭分のお金がかかったという。
1.5. 除隊後の境遇
インタビューしたすべての人は除隊後、地元の人民委員会、党支部、農業合作社などで要職
を歴任している。ヴェンはゲリラだったので、軍人恩給などは受給していない。ヒエウは軍人
恩給が月に 50 万ドン。ターンは負傷兵手当てで月に 33 万ドンを支給されている。ゴットは病
兵手当てで月に 100 万ドン近くと退役軍人会の給料約 20 万ドンの収入がある。
ギアは軍人恩給
が月に 150 万ドン、枯葉剤被害者手当てが 49 万ドン、同じく枯葉剤被害者の子供2人がそれぞ
れ 47 万ドンで、親子合わせて月に約 300 万ドンを受給している。ズーは唯一の尉官であるが、
さまざまな事情で恩給・手当てを受けていない。ヴァンザン、コンザンは枯葉剤被害者手当て
を月に 49 万ドン受け取っている。トゥアは負傷兵であるが、それを証明する書類を自宅の火事
で焼失してしまい、負傷兵手当てを受けていない。恩給もなしで、現在は社の祖国戦線副主席
の手当てが月に 17 万 5000 ドンあるだけである。タングは軍人恩給を受給していないが、病兵
10 旧北ベトナム・西北地方在住少数民族のベトナム戦争参加―ムオン族とターイ族への聞き取り調査から―:今井 昭夫
手当てを月に 40 万ドンもらっている。
ルイは枯葉剤被害者手当てで月に 49 万 5000 ドンと第一
子の枯葉剤被害者手当て 23 万 8000 ドン、集落の党支部書記の手当て 17 万 5000 ドンを受け取
っている。ウオックも枯葉剤被害者の手当を受給されているが、負傷兵であるにもかかわらず
書類を紛失してしまったために負傷兵手当てをもらっていない。12 人中5人もの枯葉剤被害者
がいるのが特徴的である。
5人はいずれも 1970 年代前半に中部高原やクアンチに駐屯していた。
また恩給や手当てを支給される権利を持っているのに、証明書類を紛失するなどして、権利を
享受できない人がいることも窺える。
1.6. インタビューした 12 人のムオン族・退役軍人たちのまとめ
一口で言って、北部デルタのキン族とそれ程の違いを感じない。ラオス駐屯経験者と枯葉剤
被害者の割合が高いのが特徴といえば特徴である。
①学歴が低い。未就学者はいないものの、高学歴者もいない。少数民族を対象とした社会主
義労働青年学校に3人が学んでいる。
②ラオスに駐屯している人が多い。
ベトナム戦争世代 11 人中で4人がラオスに駐屯している。
また南部に出征している者は 10 人である。
③階級が低い。尉官は少尉のズーだけで(ゴットは不明)
、あとの人はそれ以下である。軍隊
在籍期間もそれなりにある割には低い。これが少数民族のハンディキャップによるものなのか
どうかは不明である。ただ彼らの受け止め方としては、軍隊内には民族差別はなく、平等で一
体感があったという。
④復員後はみな地元の役職などを歴任している。退役軍人に対する復員後の措置(地元役職
の給料・手当ては除く)として、軍人恩給を受給していると明言しているのは2人、負傷兵手
当て1人、病兵手当て2人、枯葉剤被害者手当て5人であり、何も受給していない人は3人で
ある。ちなみに復員後の措置規定に、キン族と少数民族の違いはない。
2. ターイ族に対する聞き取り調査(2007 年 12 月 20 日~28 日)
ターイ族は人口が約 133 万人(1999 年)で、ライチャウ、ディエンビエン、ソンラ、タイン
ホア、ゲアンなどに分布している。ターイ族は白ターイ、黒ターイ、赤ターイなどに大別され
る。ディエンビエン省はベトナムの西北部の端にありラオスと国境を接し、人口は 49 万 1046
人(2009 年)で、省内には 21 の民族が居住し、主要民族はターイ族(約 38%)
、モン族(約
30%)
、キン族(約 20%)18) である。ここは 1954 年のディネンビエンフーの戦いの主戦場と
なったところである。
ディエンビエン省における調査は、省都ディエンビエン市内と郊外のタインルオン(Thanh
東京外国語大学論集第 79 号(2009)
11
Luông)社で実施した。市内では、キン族の退役軍人7人とターイ族の退役軍人1人(下表3
番のクン)にインタビューした。本稿では、そのうち市内のターイ族1人とタインルオン社の
ターイ族6人の退役軍人のインタビューを紹介する。ここでインタビューしたターイ族の人た
ちはいずれも白ターイに属している。タインルオン社は人口が 6282 人(1452 世帯)で、ター
イ族が 3465 人(55.1%)
、キン族が 2647 人(42.1%)
、コムー族が 102 人(1.7%)
、タイー族が
68 人(1.08%)である。タインルオン社の退役軍人は会員が 234 人(女性が 11 人)で、そのう
ちターイ族が 85 人、タイー族が 16 人を占め、残りはキン族である。退役軍人会員のうち党員
は 77 人 19)。士官だった人のほとんどが党員である。以下はインタビューしたターイ族7人の
一覧表である。6番のタンと7番のスアンはベトナム戦争以後の世代で、ベトナム戦争には参
加していない。
1
名前
生年
学歴
出征期間
所属
主な駐屯先
最終階級
ソン
1942 年
4年生、
1967~1976 年
歩兵、
ラオス(67~73
中士
省の財政初級
(9年間)
通信兵
年)
、
1968~1975 年
歩兵
ラオス(68~75
学校
2
3
ゾット
クン
1946 年
1947 年
7年生
ソンラー
1978~1982 年
年)
、
(11 年間)
中越国境
5年生、
1971~2003 年
西北軍区・
ラオス(71~73
省の財政初級
(32 年間)
第 27 小団
年)
、
1972~?
第 316 師団
学校
4
ウー
1947 年
7年生、
上士
大佐
ライチャウ
ラオス(72~73
佐官クラス
タイグエン財
年)
、
(?)
政中級学校
中部高原、メコン
デルタ、中越国境
5
パン
1953 年
6年生
1972~1981 年
第 316 師団
(9年間)
ラオス(72~73
中尉
年)
、
中部高原、メコン
デルタ、中越国境
6
7
タン
スアン
1958 年
1964 年
7年生
5年生
1977~2003 年
省・国境防
(26 年間)
衛隊
1985~1988 年
省・国境防
(3年間)
衛隊
ライチャウ
少佐
ライチャウ
2.1. 学校教育とベトナム語の普及
1942 年生まれで一番年上のソンは、1954 年以後に学校に通うようになったが、学校に行く前
はベトナム語を知らなかった。一方、1946 年生まれのゾットは、学校に行く前からベトナム語
を知っていたという。1947 年生まれのクンは、学校に入学した時点では、ベトナム語を話せな
かった。地域や家族によってベトナム語の浸透度にも違いがあったのがわかる。クンは学校で
はターイ語で教わり、ターイ文字を学習した。彼は 1957 年の 10 歳の時に、ターイ族の村人に
12 旧北ベトナム・西北地方在住少数民族のベトナム戦争参加―ムオン族とターイ族への聞き取り調査から―:今井 昭夫
ターイ文字を教えたので、ターイ・メオ自治区主席から表彰されている。1959 年から学校でベ
トナム語を学び始めるようになったが、その時まではターイ語しか知らなかった。県の役所に
勤務してから、ベトナム語が上達した。当時、ターイ族は学校に行っている人はベトナム語が
できたが、学校に行っていないとベトナム語をほとんど知らなかったという。1947 年生まれの
ウーは 1957 年から学校に通ったが、
それまではベトナム語を知らなかった。
彼によれば、
当時、
入学してしばらくはターイ語とベトナム語の2言語で学習した。1960 年(1959 年か?)からは
ベトナム語に一本化されたという。1953 年生まれのパンも学校に行く前はベトナム語を知らな
かった。パンは地元の村で 1962 年から4年生まで学校教育を受けたが、ベトナム語による教育
を受けている。入学当初だけはターイ族の先生がターイ語をまぜながらベトナム語を教えた。
したがってパンは、ターイ文字を習っておらず、知らない。1958 年生まれのタンは、父が社の
幹部だったこともあり、学校に行く時にはすでにベトナム語を知っていた。しかし 1964 年生ま
れのスアンは、学校に行く前はベトナム語を知らなかった。このように多くのターイ族は就学
前にはベトナム語を知らなかったが、1959 年から学校では本格的にベトナム語による教育が進
められるようになり、
ベトナム語を修得していくことに拍車がかけられた。
そして学校を出て、
役所や軍隊に入ることによって、ベトナム語を上達させていった。一方、辺鄙なところに住み、
学校教育もほとんど受けたことがなく、外部との交流が少なく、農業に専従しているような少
数民族の女性はベトナム語能力が低い場合がまま見られる。実際、ゾットの 90 歳になる義母は
いまだにベトナム語ができないという。
経理担当の地方幹部養成のための財務学校にソン、クン、ウーの3人が学んでいる。ソンは
1964 年に通算で1年間、ライチャウ市のデオ・ヴァン・ロン(Đèo Văn Long)20) の館がかつて
あったところで学んでいる。修了後、1967 年に出征するまでディエンビエン県の幹部として経
理を教えたり、食糧関係を担当した。クンは財政初級学校を修了後、1964 年8月に県の財政室
勤務になった。4 ヶ月勤務し、1965 年1月に県の青年団副書記。翌年、共産党入党。1967 年、
県党委・宣教副委員長 21)。1969 年、22 歳の時に同委員長と順調に出世し、1971 年5月には県
の人民議会副主席に就任した。県の高級幹部として、農業合作社の管理改善工作や総動員の準
備に従事した。同年、総動員準備の雰囲気の中でクンは最年少の県高級幹部として血書をした
ためて出征を志願した。ウーは7年生を終え、西北自治区財政局に8年間勤務した後、タイグ
エンの財政中級学校で4年間(1967~71 年)学んだ。この学校では少数民族の子弟が優先され
ていた。同校を卒業した後、2年間近く勤務したが、1972 年 12 月に総動員で出征した。ベト
ナム戦争期、正式な出征年齢は 18 歳であったが(実際には多くの人が 17 歳で応召)
、この3人
のような幹部は通常の出征年齢より遅れて出征した。クンのように、ベトナム戦争末期の総動
員では、高級幹部であっても若年であれば参加し、動員されたのである。
東京外国語大学論集第 79 号(2009)
13
2.2. ラオスへの関与
ターイ系の諸民族が国境を越えて分布しているため、ディエンビエンのターイ族はラオスと
の縁が深い。ディンビエンフーの戦いやベトナム戦争はディエンビエンのターイ族がラオスに
出かけて行く契機となった。
2.2.1 ディエンビエンフーの戦いとターイ族の疎開
上表3番のクン以外は、現在、ディエンビエン市郊外でラオス国境のタインルオン社在住で
あるが、よそから移ってきた人が多い。ソンは元々、ディエンビエンフーの戦いで仏軍カスト
リ将軍の指揮所があったあたり(現在のディエンビエン市内)で生まれた。小さい頃、彼は、
第二次大戦中に駐屯していた日本軍の話を父親から聞いたことがある。1952 年に仏軍がディエ
ンビエンに進駐してきて、家族はタインルオン社の地に逃げてきた。ゾットによれば、ディエ
ンビエンフーの戦いの戦闘が激しかったので、当地のターイ族の多くの人が戦火を逃れてラオ
スに疎開したという。そのままラオスに居ついた人もいて、ゾットの叔母はラオスに今もいる
という。それらの人の多くはポンサリーに居住している。ラオス側の国境の社とタインルオン
社は姉妹社の関係を結んでいる。交易のほかに通婚関係もあり、国境を越えた往来はビザなし
で、許可証のみで可能である。1947 年生まれのクンは、5歳の頃はまだ仏軍が駐屯していて、
ディエンビエンフーの戦いの時は7歳だった。クンの兄たちは親仏的なターイ自治連邦の王で
あったデオ・ヴァン・ロンの兵士だった。ディエンビエンフーの戦いの直後、仏軍とデオ・ヴ
ァン・ロン軍の残党を掃討するベトミン軍を見たのが最初のベトミン軍との出会いであった。
その時は仏軍やデオ・ヴァン・ロン軍はこわくなく、ベトミン軍がこわくてジャングルに逃げ
込んだ。というのは、ベトミン軍が村に入ってきて、男の子を見れば殺してしまうと宣伝され
ていたからである。その後、ターイ族から成るベトミン軍部隊がやってきて大衆工作を行い、
クンの村のターイ族もベトミンに従うようになった。ウーとパンは兄弟で、ソンと同様、元々
の家はカストリ将軍の指揮所のあたりにあった。仏軍の落下傘降下が 1952 年から始まり、第2
回目の時に家族は避難して各地を彷徨った末に現在の居住地まで来た。追い立てられた避難民
はノオンニャイ(Noong Nhai)の兵営に集められて 400 人以上が虐殺された。ウーの父親もそ
の時に負傷し、ハノイで3年近く治療した。1954 年からウーの家族はラオスのポンサリーに疎
開していた。多くの人がラオスに疎開していたが、1957 年 10 月に西北軍区は代表団をラオス
に送り、疎開していた人々に帰国を促した。その時に父親は家族と再会した。しかし一部の人
はそのままラオスに残った。ウーの叔母と姉もラオスに残り、現地の人と結婚した。姉の2人
の息子は現在、ラオスの軍人になっているという。
14 旧北ベトナム・西北地方在住少数民族のベトナム戦争参加―ムオン族とターイ族への聞き取り調査から―:今井 昭夫
2.2.2. ベトナム戦争中のラオス駐屯
タンとスアン以外のベトナム戦争世代5人はいずれもラオスに駐屯した経験をもっている。
ソンは 1967 年にタイチャン(Tây Trang)経由でラオスに入り、ルアンパバーンに駐屯した。
最初は歩兵で、後に通信兵となった。ラオス和平協定締結後の 1973 年末に帰国した。ゾットも
1968 年にタイチャン経由でラオス入りしている。ポンサリーに3年間いた。爆撃が激しかった
ので、ジャングルで寝起きした。ゾットは歩兵で、配属部隊の任務はヴァン・パオ軍の攻撃だ
った。ラオスにいる時、ターイ語がかなり通じたという。クンは 1971 年に徒歩で 1 ヶ月かけて
ルアンパバーンに到着した。クンの部隊はベトナム志願部隊・第8小団で、ラオス革命の支援
が任務であった。具体的にはヴァン・パオやプーマーなどの傀儡勢力の打倒であった。1973 年
2月のラオス和平協定締結後に帰国した。その間、クンはタイ国のチェンマイまで偵察に行っ
ている。ラオス語の会話も 70%理解できたという。ウーは 1972 年にラオスに入り、シェンク
アンに駐屯した。部隊は第 371 戦線・第6大隊・第4中隊の偵察分隊で歩兵を務めた。6ヶ月
程いて、
1973 年にラオス和平協定が締結された後、
ベトナムのゲアン省に撤退した。
パンは 1972
年にゲアン省からラオスのシェンクアンに入った。毎日、夜間に3時間徒歩で行軍し、目的地
に到着するのに 1 ヶ月かかった。配属部隊は第 326 師団で、シェンクアン解放区の防衛と敵の
浸透を阻止するのが任務であった。交戦相手はヴァン・パオ軍とタイ国軍であった。1年余り
ラオスで戦闘し、1973 年のラオス和平協定後、ゲアン省に撤退した。以上のように、ベトナム
戦争世代の5人全員がラオスに駐屯した経験をもっているが、これは偶然ではなかろう。ラオ
スと隣接し、コミュニケーションもとりやすいターイ族の兵士を意図的にラオス戦線に投入し
たことは十分に考えられる。
上記の人たちはいずれも 1973 年のラオス和平協定で帰国している。ここで番外ではあるが、
ディエンビエン市内でインタビューしたキン族の退役軍人トゥアンのラオス駐屯経験について
若干触れておきたい。トゥアンは 1951 年生まれで、家族は 1961 年にディエンビエンに移住し
てきた。1968 年に出征し、西北軍区の第 428 小団に配属され、1971 年からラオスに駐屯した。
西北軍区には2つの直属小団があり、志願部隊の第6小団と第4小団でラオスの支援を行なっ
た。軍区の主力中団である第 335 中団は、乾季にはラオスで戦闘し、雨季には帰国した。第4
小団は兵士不足だったので、第 428 小団から兵を補充した時、トゥアンも第4小団に移った。
トゥアンの部隊はナムバック川以南の地域に駐屯し、ラオス傀儡軍やタイ国軍と戦った。米軍
機T28 による爆撃もあった。ラオスでの戦闘はベトナム南部でのゲリラ戦に似ていたという
(ただし逆の立場であるが)
。ヴァン・パオ軍はより手ごわかった。トゥアンの部隊はジャング
ルに駐屯し、絶えず移動した。1973 年のラオス和平協定で「志願軍」は帰国したが、トゥアン
の部隊はベトナム戦争終結後の 1976 年3月まで残った。
ただし軍隊のかたちではなく農場の従
東京外国語大学論集第 79 号(2009)
15
事者というかたちで。つまりラオス和平協定後、北ベトナム軍はすべての軍隊がラオスから撤
退したのではなく、一部は残されていたのである。
2.3. 銃後の社会
ウーによれば、
ディエンビエンフーの戦い後、
第 316 師団はディエンビエンから撤退したが、
1959 年に戻り、国営農場に従事する経済建設部隊に生まれ変わった。ディエンビエンに一大国
営農場が誕生したのである。これ以降、キン族のディエンビエンへの流入が加速した。タイン
ルオン社では 1957・58 年に互助組が組織されるようになり、1959 年に土地改革が始まった。
当地では、合作化と土地改革が並行して行なわれた。土地改革中、この地方の人民裁判で処刑
されたのは、デオ・ヴァン・ロンの弟で知州だったデオ・ヴァン・ウン(Đèo Văn Ún)だけだ
った。1960 年に農業合作社(初級)がつくられ、それからターイビン省出身のキン族がやって
来て一緒に仕事をするようになった。1964 年に社レベルの農業合作社(高級)となった。合作
化が終わった後、1962 年に土地改革の「誤謬修正」が行なわれた。ウーの家は「雇農」に分類
され、土地の支給を受け、自留地も持てたが、水牛はなかったという。
戦争によって伝統的な慣習が変容せざるをえなくなった場合もあった。ターイ族の結婚前の
婿入り制度もそのケースである。タインルオン社のターイ族の伝統的慣習によれば、正式な結
婚式の前に花婿は花嫁の家に3年間婿入りしなければならない。ソンによれば、その間、花婿
は花嫁の家族同様に扱われるが、大声を上げたり義父母と口論することはできず、また寝る時
は一人で寝なければならなかった。実際にゾットは1回目の出征と2回目の出征の間隙を縫っ
て3年間婿入りをしたという。しかし戦争中にゾットのようなケースは稀で、出征中の兵士に
3年間の婿入りをする時間的余裕はなかった。ソンは 1973 年のラオス和平協定後、一時休暇で
帰省して5日間だけ婿入りし、1975 年に正式に結婚した。パンは 1979 年に婿入りしたが、ま
だ軍隊にいたため、慣習通りにまっとうできず 1980 年に結婚した。このように戦争の影響で伝
統的な慣習は変容させられ、この戦争中の変容は戦後にも及んでいる。スアンは 1988 年に除隊
し、翌 1989 年に結婚したが、婿入りしたのは1週間だけだった。ソンは、まだ結婚していない
末娘の結婚相手には1週間の婿入りしか求めないと語った。
2.4. 軍隊生活の感懐
ゾットは、
「あの頃、誰も軍隊の階級のことなど考えなかった、任務を全うすることだけを考
えていた」と語った。クンによれば、民族間の関係は、同じ部隊で共に戦った戦友であり、困
難な軍隊生活や戦闘過程を通じて団結精神が醸成され、実の兄弟のようになったという。ディ
エンビエン省には 21 の民族が居住しているが、軍隊にも 21 の民族がいる。風俗習慣に多少の
16 旧北ベトナム・西北地方在住少数民族のベトナム戦争参加―ムオン族とターイ族への聞き取り調査から―:今井 昭夫
違いがあっても、軍隊の基本的原則は第1に軍隊の決まりを遵守しなければならないことにな
っており、第2に同じ地域で共に生活していて、民族間で文化交流があり、互いに学びあって
近似してきているので障壁がなくなりつつあるという。ウーの考えでは、戦争はベトナム領土
内の各民族を近づける要因になり、戦争を通してベトナム人は互いにより団結するようになっ
たという。ベトナム戦争中の北ベトナム軍においては、概して、軍隊の階級に対する兵士たち
の意識はあまり強くなかったようである。したがって階級の昇進による兵士たちのモチベーシ
ョン強化という手法はあまり採られなかったのかも知れない。それを代替するのが共産党への
入党ではなかったろうか。ベトナム戦争中は比較的容易に党員となっているケースが散見され
る。パンの場合はその一例である。パンは師範学校在学中の 1972 年に出征したが、当時、
「英
雄レ・マー・ルオンに学ぶ運動」などがあって抗米の気勢が沸騰していたため、自ら志願書を
したためて応召した。戦争中は戦功をたてると、履歴の審査なく直ぐに党員になれた。パンは
それで 1973 年に入党できたが、戦争が終わってからは、あらためて審査を受けなければならな
かったという。
2.5. 除隊後の境遇
ソンは復員後、社隊に入るなど、1998 年までさまざまな職務を歴任した。恩給制度は受けて
いない。ゾットは復員後、社の役職を歴任し、現在は社の党支部書記で月に 13 万ドンの手当て
をもらっている。
クンはライチャウ省軍事指揮部指揮長を 1994 年4月から 2003 年 11 月まで務
め、翌年、大佐で退職した。現在、ディエンビエン省退役軍人会副主席で、軍人恩給を月に 450
万ドンと退役軍人会の給料 250 万ドンを受け取っている。ウーも退職後、ディエンビエン省退
役軍人会の副主席を務めている。パンは復員後、社の党支部執行委員、社隊長などをへて、現
在は社の退役軍人会副主席に就任している。タンはライチャウ国境防衛隊・機密委員長を最後
に 2003 年に少佐で退職し、恩給 270 万ドンを受給し、現在は集落の退役軍人会支部会長をして
いる。スアンは軍事義務法による兵役で 1985~88 年の3年間、いわゆる「義務の部隊」に在籍
した。したがって何の恩給も受給していない。また今のところ地元の役職にも就いていない。
このようにベトナム戦争世代は復員後、さまざまなかたちで地元の役職に就任している。また
佐官クラスの軍人恩給が手厚いことがわかる。退役軍人は経済的には比較的恵まれているとい
える。クンによれば、ディエンビエン省全体の貧困率は 33%で、退役軍人のそれは 6.14%のみ
であるという。
2.6. インタビューした7人のターイ族・退役軍人のまとめ
① 学校に入学してから、ベトナム語を修得した人が多かった。幹部養成のための財政学校には
東京外国語大学論集第 79 号(2009)
17
3人が学んでいるが、クンとウーは見事に立身出世し、佐官にまでなり、ディエンビエン省の
軍隊と行政の重鎮となった。
② ベトナム戦争世代の5人全員がラオスに出征している。ウーとパンは南部でホーチミン作戦
にも参加した。中越戦争にも出征した人が5人いる。
③ 佐官クラスが3人おり、前述のムオン族の場合と比べると、階級が高い。しかしムオン族よ
りターイ族の方が軍隊で昇進度が高かったと直ちに一般化することはできない。インタビュー
したのは、ターイ族の場合はディンビエン省の省都とその郊外で高級退役軍人にインタビュー
する機会があったのに対し、ムオン族の場合は片田舎であったからである。
④ 復員後、ポスト・ベトナム戦争世代で直接戦闘を経験していないスアンを除いて、ほかの人
は各級の退役軍人会などの役職を歴任している。佐官クラスの軍人恩給は高額である。クンは
高額の軍人恩給と退役軍人会の給料をもらい、裕福な暮らしをしている。
おわりに
1.戦争は、学校教育とならんで、少数民族のベトナム国民化を助長した。学校教育で注目
されるのは、ベトナム語の修得と少数民族の幹部養成である。1950 年代後半、民族自治区にお
いては「機関の民族化」22) が図られた。1960 年にファム・ヴァン・ドン首相が提唱した「ベ
トナム語の純粋さを守る」運動は中国文化の浸透に抵抗しベトナム文化を守ろうとする運動で
あるとともに、少数民族にとってベトナム語の修得を容易にする狙いもあったのではなかろう
か。そのような下地の上に、戦争は多民族から成る人々を団結させ、一律化して国民化する坩
堝の役割をはたしたと考えられる。
2.一方、少数民族の国民化の阻害要因もあった。1954 年のディエンビエンフーの戦いに勝
利後直ちに少数民族地区において北ベトナム政府の支配が貫徹したわけではなかった。1960 年
に北ベトナム政府・民族委員会はこう述べている。
「最近の 1956 年、1957 年、1958 年において、
各民族人民は匪賊に従って道を誤った 6000 人余りの人に投降を呼びかけ、各種の銃 4000 丁余
りを押収し、敵が引き起こした山間部国境における偽装匪賊である『王を称し、王を迎える』
多数の事件を粉砕した」23) と指摘しているように、まだ混乱は続いていた。最終的に西北地方
の「匪賊」を一掃できたのは 1968 年だとされる
。ディエンビエンでは、ターイ族はラオス
24)
に多数避難しそのまま居つく人もいて、国境・国民を越えた紐帯が根強く存在していた。また
かつての白ターイ族の領袖デオ一族の記憶も残っていた。1950 年代なかばに創設された「民族
自治区」の意識は十分には浸透していなかったと推測される。ムオン族のヴェンは、
「自治区に
なってもちょっとした変化しかなかった。当時のホアビン省の主席の名前は覚えているが西北
自治区の主席の名前は覚えていない」と語り、自治区がいつ廃止になったのかも記憶していな
18 旧北ベトナム・西北地方在住少数民族のベトナム戦争参加―ムオン族とターイ族への聞き取り調査から―:今井 昭夫
いという。
3.ベトナム人の「西方関与」については古田元夫氏 25)が、少数民族を含めた多数の北ベト
ナム正規軍兵士がラオスの戦場に出征していたことについては鈴木真氏
26)
がつとに指摘され
ているが、ベトナム戦争をベトナム民族解放のための戦争と規定するにしても、この戦争をベ
トナム領内のことだけにとどめて見るならば十全に把握することはできないことが、本稿であ
らためて確認された。
注
1)
2)
Khong Dien, Population And Ethno-demography In Vietnam, Silkworm Books, Chiang Mai, 2002. pp.171-174.
越北自治区は 1955~1975 年。西北自治区は 1956~1975 年で、55~62 年の時期は「ターイ・メオ自治区」
と呼ばれていた。
3)
GS. Bế Viết Đẳng chủ biên, 50 Năm Các Dân Tộc Thiểu Số Việt Nam (1945 – 1995) , Nhà Xuất Bản Khoa Học Xã
4)
ハーソンビン省は 1975 年にハタイ省とホアビン省が一緒になってできた。1991 年に再びハタイ省とホアビ
Hội, Hà Nội, 1995. p.268.
ン省に分割された。
5)
ホアンリエンソン省はそれまでのラオカイ省、イエンバイ省とギアロ省の一部が 1975 年 12 月に合併して成
6)
2004 年1月、旧ライチャウ省は新ライチャウ省とディンビエン省に分割された。
7)
マン族は、1999 年の調査でベトナム領内に 2663 人。同じくコムー族は5万 6542 人。
立。1991 年8月にラオカイ省とイエンバイ省の2つに再び分割された。
8)
Bế Viết Đẳng, op.cit., pp.98-99.
9)
拙稿「ホー・チ・ミン時代の『英雄』たち
ベトナムにおける『英雄宣揚』と人民動員 」
『東京外国語大学
論集』第 70 号、2005 年。159~160 頁。
10) Bế Viết Đẳng, op.cit., pp.271-276.
11) 「英雄的母」の詳しい規定については、今井前掲論文、156~157 頁参照。
12) Bế Viết Đẳng, op.cit., pp.276-285.
13) Bế Viết Đẳng, op.cit., pp.97-98.
14) ベトナム民族委員会HPより(http://cema.gov.vn. 2009 年9月 23 日アクセス)
。
15) ベトナム人民軍隊の階級は下から次のようになっている:二等兵、一等兵、下士、中士、上士、准尉、少尉、
中尉、上尉、大尉、少佐、中佐、上佐、大佐、少将、中将、上将、大将。
16) パテート・ラーオに対抗するラオス・モン族のヴァン・パオ将軍に率いられた「ケネディの秘密部隊」
。ヴ
ァン・パオ軍については、竹内正右『モンの悲劇 暴かれた「ケネディの戦争」の罪』毎日新聞社、1999
年。および同『ラオスは戦場だった』めこん、2005 年、などを参照。
17) 軍隊の単位について、一般的には次のように相当するものと考えられる(カッコ内がベトナム側の単位)
。
「小隊」が分隊、
「中隊」が小隊、
「大隊」が中隊、
「小団」が大隊、
「中団」が連隊。本稿ではベトナムでの
呼称をそのまま用いる。
18) http://vi.wikipedia.org 2009 年9月 23 日アクセス。
19) ディエンビエン省全体の退役軍人会は、省退役軍人会によれば、会員数が約1万 2000 人(女性は 300 人以
上)で、民族別にはターイ族が一番多く約 40%、ついでキン族の 20%以上、モン族 10%余りとなっている。
会員のうち約3割の 4000 人ほどが党員である。
20) デオ・ヴァン・ロンはフランスの保護下にあったターイ族指導者で、モン族と組んでアヘンの販売を行い、
かなりの富を得ていた。1948 年にターイ族の王位に就き、ベトミンを援助した時もある。ディエンビエン
フーの戦いの後、フランス人によってハノイに送られ、その後、避難民としてフランスに渡り、まもなく亡
くなったとされる(http//vi.wikipedia.org/wiki. 2009 年9月 22 日アクセス)
。デオ・ヴァン・ロン(1890 年
東京外国語大学論集第 79 号(2009)
19
生まれ)は、19 世紀後半から 20 世紀初頭のターイ族の有名な領袖であったデオ・ヴァン・チ(Đèo Văn Trị:
1849~1908 年)の息子で、父親が 1890 年にフランスによって安堵された支配地域を継承して、1948 年にタ
ーイ自治連邦の王となり、ターイ系諸民族を結集して、ベトミンに対抗しようとした。しかし黒ターイやモ
ン族はアヘン交易などをめぐってロンと対立し、ベトミンと手を結んだ。以上については、マルシャル・ダ
ッセ著、福田和子訳『ゲリラは国境を越える インドシナ半島の少数民族』
(田畑書店、1986 年)第二部・
第一章、および菊池一雅『ベトナムの少数民族』
(古今書院、昭和 63 年)173~174 頁に詳しい。また、デ
オ・ヴァン・チについては次の論文を参照のこと。武内房司「デオヴァンチとその周辺
タイ・タイ族領主層と清仏戦争」塚田誠之編『民族の移動と文化の動態
シプソンチャウ
中国周縁地域の歴史と現在』
(風
響社)2003 年。645~708 頁。
21) クンによれば、当時、省の党委書記や県人民委員会主席でも4・5年生修了レベルの人が多かったという。
22) Ủy Ban Dân Tộc, Các Dân Tộc Thiểu Số Trưởng Thành Dưới Ngọn Cờ Vinh Quang Của Đảng, Nhà Xuất Bản Sự Thật,
Hà Nội, 1960. p.53. 「機関の民族化」について、次のように述べられている。
「ターイ・メオ自治区において
は、少数民族幹部の養成は越北自治区より困難にぶつかっているが、現在、少数民族の幹部数は自治区の幹
部総数の半分を占めている」
。なお本資料と註3の資料は伊藤正子氏より提供していただいた。ここに記し
て、謝意を表す。
23) Ibid.,p.51.
24) GS.TS. Phan Hữu Dật chủ biên, Các dân tộc thiểu số Việt Nam Thế kỷ XX, Nhà Xuất Bản Chính Trị Quốc Gia, Hà Nội,
2001. p.451. これによれば、最後の「匪賊」はタオ・ア・ドア(Thào A Đóa)で 1968 年にサパで投降した。
25) 古田元夫「ベトナム人の『西方関与』の史的考察」土屋健治・白石隆編『東南アジアの政治と文化』
(東京
大学出版会)1984 年。1~32 頁。
26) 鈴木真「第三章 周辺諸国にとってのベトナム戦争」中野亜里編『ベトナム戦争の「戦後」
』
(めこん、2005
年)328 頁。
参考文献
Bế Viết Đẳng chủ biên, 1995.
50 Năm Các Dân Tộc Thiểu Số Việt Nam (1945 – 1995) , Hà Nội, Nhà Xuất Bản Khoa Học Xã Hội.
Khong Dien, 2002.
Population And Ethno-demography In Vietnam, Chiang Mai, Silkworm Books.
Phan Hữu Dật chủ biên, 2001.
Các dân tộc thiểu số Việt Nam Thế kỷ XX, Hà Nội, Nhà Xuất Bản Chính Trị Quốc Gia.
Ủy Ban Dân Tộc, 1960.
Các Dân Tộc Thiểu Số Trưởng Thành Dưới Ngọn Cờ Vinh Quang Của Đảng, Hà Nội, Nhà Xuất Bản Sự Thật.
菊池一雅 1988 年
『ベトナムの少数民族』古今書院
マルシャル・ダッセ著、福田和子訳 1986 年
『ゲリラは国境を越える インドシナ半島の少数民族』田畑書店
中野亜里編 2005 年
『ベトナム戦争の「戦後」
』めこん
竹内正右 1999 年
『モンの悲劇 暴かれた「ケネディの戦争」の罪』毎日新聞社
竹内正右 2005 年
『ラオスは戦場だった』めこん
土屋健治・白石隆編 1984 年
『東南アジアの政治と文化』東京大学出版会
塚田誠之編 2003 年
『民族の移動と文化の動態 中国周縁地域の歴史と現在』風響社
20 旧北ベトナム・西北地方在住少数民族のベトナム戦争参加―ムオン族とターイ族への聞き取り調査から―:今井 昭夫
Dân tộc thiểu số tham gia cuộc Kháng chiến chống Mỹ như
thế nào ?
─Trường hợp dân tộc Mường và Thái ở vùng Tây bắc miền Bắc─
IMAI Akio
Tôi đã thực hiện cuộc phỏng vấn 19 người Cựu chiến binh dân tộc thiểu số ở vùng Tây bắc miền
Bắc vào tháng 9 và tháng 12 năm 2007(12 người dân tộc Mường và 7 người dân tộc Thái). Trong đó có
9 người tham gia chiến đấu ở Lào từ giữa những năm 1960 đến đầu những năm 1970. Hơn nữa, 12 người
đi Nam bộ trong lúc chiến tranh.
Qua kháng chiến chống Mỹ, các Cựu chiến binh dân tộc thiểu số nói trên được xúc tiến “ quốc dân
hóa ”. Chiến tranh là một trong những yếu tố quan trọng sáng tạo “ quốc dân ”. Trong khi đi bộ đội, theo
các Cựu chiến binh dân tộc thiểu số nói trên, mối quan hệ con người trong Quân đội Nhân dân bình đẳng
và không có phân biệt dân tộc thiểu số. Ngược lại, sinh hoạt cùng bộ đội tăng cường tình đoàn kết và dần
dần giảm sự khác nhau trong văn hoá, phong tục tập quán.
Sau khi chiến thắng trận Điện Biên Phủ, không phải là chính phủ nước Cộng Hòa Dân Chủ Việt
Nam lập tức kiểm soát hoàn toàn vùng Tây bắc được. “ Phỉ ” vẫn còn hoạt động cho đến cuối những năm
1960. Nhiều người dân tộc Thái đã sống ở Điện Biên vượt biên giới sang Lào để tránh nạn chiến tranh và
giữ mối quan hệ thân thiết đối với những người cùng dân tộc giữa hai nước. Những người dân tộc Thái
vẫn còn nhớ họ Đèo, Tù trưởng dân tộc Thái trắng ngày xưa.
Khi nghiên cứu chiến tranh Việt Nam, chúng ta không nên nghiên cứu chỉ trong phạm vi lãnh thổ
Việt Nam.
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