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確立した価値観を、いかに実践するか。
先達に見る日本のCSR 確立した価値観を、いかに実践するか。 何時の世でも経営者の願いは 不変である 共生の哲学が息づく角倉素庵の 「舟中規約」 何時の世の中でも、 何処の地でも、 経営者は自 たとえば、 江戸初期には角倉了以・素庵父子に らの事業の発展と永続を願ってきた。 その生き方 よる大堰川の開削という事業がある。 京都の後背 は様々である。 時代も違い、 場所も違い、 いろいろ 地・丹波からの産物は、 険しい山道を馬の背に積 な制約条件のなかであれば、 違うのは当然である。 んで運ばれていた。 これを何とか船で運べないも そのなかで、 企業が社会とのあり方をどう考え のか。 角倉父子は現在の保津峡の流れをゆるやか るかということ、 もしそれをCSRというならば、 そ にして通船できるようにしたのである。 無論、 工 れも経営者の念頭に常にあったはずである。 何故 事費は彼らが負担したから、 通船から通行料を徴 なら、 社会と離れて企業はあり得ず、 事業の発展 した。 この結果、 丹波と京との物流は大いに広がり、 と永続を願うならば、 社会とどう付きあっていく 彼らも大いに潤ったという。 角倉父子は自己の利 かを考えざるを得ないからである。 益のためだけで、 この事業を企てたのではない。 過去のわが国の経営者、 事業者の生き様を見て 広く社会公共にプラスになると考えていたはずだ。 も、 それを抜きに経営をおこなってきたとは、 と このことは、 素庵が藤原惺窩 (日本朱子学の祖) ても思われない。 試みにいくつかの事例を挙げて に書いてもらったといわれる角倉船 (朱印船) の 「舟 みる。 中規約」 を見ても明らかである。 世界最古のイン ターナショナル・コードオブコンダクト (行動指針) ともいわれるこの規約の根底には、 人間の社会性 と、 その社会のなかでの共生の哲学が息づいてい るのである。 CSRを考える シリウス・インスティテュート代表 舩橋 晴雄 50年後に身を助けた 三代目矢尾喜兵衛の 「三方よし」 矢尾家は近江商人の末裔である。 近江商人の経 今ひとつ、 江戸も後期となってくるが、 飢饉の 営理念としてよく引き合いに出される 「三方よし」 時のある豪商の対応を例示してみよう。 埼玉 「売り手よし、 買い手よし、 世間よし」 を実践して 県の秩父に矢尾百貨店という会社がある。 江戸時 いたからこそ、 回り回って自らを守ることができ 代中期に創業の起源をもつ古い企業で、 当初は清 たのである。 酒の醸造を業としていた (現在酒造は別会社が営 んでいる) 。 江戸時代後期は天候不順などからし 2つの事例を挙げてみた。 歴史をひもとけば、 ばしば大飢饉が発生したが、 秩父の地も例外では このような例は随所にあることに気づくだろう。 なく、 とくに天保年間は何度か大凶作に見舞われ 彼らは企業や事業の原点を見続けることによって、 ている。 このとき、 矢尾家は不要の酒造を休止し、 自らの考えを打ち立て、 かつその価値観に基づい 白米の安売および施米をおこなっている。 三代目 て実践してきたのである。 矢尾喜兵衛の時である。 角倉家の考えのなかには、 惺窩がもっていたと それからおよそ50年後、 明治17年に秩父国民党 思われる儒教的価値観、 矢尾家の考えのなかには、 事件というものが起きる。 松方デフレ財政で経済 当時よく浸透し三代目喜兵衛も熱心だったとい が疲弊し、 生活に困窮した秩父の農民が高利貸へ う石田梅岩の心学的価値観が根底に流れている。 の返済延期や減税を要求して蜂起した事件である。 企業の社会的責任 (CSR) を考えるにあたって大事 一部は暴徒化して豪商の打ち毀しなどをおこな なことは、 まずこのような価値観をどう定文化す っている。 しかし、 このとき矢尾家は打ち毀しを るかということではないかと思われるのである。 免れたのである。 天保の飢饉のときに安売や施米 をして、 民の難儀を救ったことが思い出されたか らだという。 舩橋 晴雄 (ふなばし はるお) シリウス・インスティテュート代表 1946年東京生まれ。 東京大学法学部卒業。 大蔵省 (当時) 入省 後、 在ベルギー大使館勤務、 広報室長、 在フランス大使館勤務、 副財務官、 東京税関長、 国税庁次長、 証券取引等監視委員会事 務局長、 国土庁長官官房長、 国土交通省国土交通審議官を経 て、 2003年より現職。 主な著書に 『イカロスの墜落のある風景』 『鎖国の窓』 『日本経済の故郷を歩く』 『あらためて経済の原点 を考える』 『新日本永代蔵』 。 【企画・制作】 日本経済新聞社広告局