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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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ロシア・ジャコバン派の組織運動の思想的背景--カスペ
ル・ミハウ・トゥールスキの政治思想と政治活動
早坂. 真理
茨城大学教養部紀要(27): 35-62
1994
http://hdl.handle.net/10109/9768
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お問合せ先
茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html
ロシア・ジャコバン派の組織運動の思想的背景
一カスペル・ミハウ・トゥールスキの政治思想と政治活動一
The Political Thought and the Revolutionary Undertakings of Kasper
MTurski, the Shadow Figure of the Russian Jacobin Movement
早 坂 真 理
(Makoto HAYASAKA)
1.はじめに
ロシア・ジャコバン派の領袖のひとり,カスペル・ミハウ・トゥールスキに言及したものは,こ
れまでB.ニコラエフスキイの論文以外になく,これを手掛かりにする以外は研究できない状況に
あった。ロシア・ジャコバン派研究の第一人者,B.コズィミンは理論家, ll.トカチョーフの脇
役としてしかトゥールスキを扱わず①,また近年コズィミンの研究を復活させたJI.ルドニッカヤ
も,トゥールスキの組織者としての役割を評価しっっもその中心的な役割を無視し,ロシア・ジャ
コバン派の運動の総体をあくまでもロシア革命運動史の枠内に閉じ込めて論じてようとした。彼女
は,人民の意志党と『警鐘』派の戦術・戦略の共通性,提携の可能性をめぐって,その中心的役割
を果たしたのはあくまでもトカチョーフであって,1860年代初頭の第一次「土地と自由」,その後
のイシューチン団,ネチャーエフの組織「人民の制裁」を引き継いだトカチョーフの役割を繰り返
し強調している②。このような旧ソ連の歴史学界の傾向とは距離を置ぎ,史料研究を進めたのがイ
タリアの歴史家F.ヴェントゥーリであった。ヴェントゥーリは,大著『ロシア人民主義』におい
て,ただし注記でしかないとはいえ,トゥールスキの数少ない理論書『政治における観念論と唯物
論』に着目し③,トカチョーフの論文にはみられないロシア・ジャコバン派の理論的特徴として以
下の五点を挙げた。
(1)サン・ジュストやマブリィに言及しているところから考えて,トゥールスキは18世紀フランス
の功利思想の影響を受けている。トゥールスキによれば,プロレタリアートが志向するのは,人間
の本性としての平等原理であり,革命の目的は社会のなかに平等原理を確立し,個人の利益を共同
体の利益に置き換えること,この目的を強力な革命国家の力によって実現することである。
(2)フランス大革命の評価に関してトゥールスキは,とくにロベスピエールの支持者たちの功績に
目を向け,ロベスピエールの手中にあった実り多い諸原則がロベスピールが打倒されたあと,コルドリ
エ・クラブ(ダントンの支持者)の手に落ちて人民の利益に反するものに変質した,と述べている。
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茨城大学教養部紀要(第27号)
(3) トゥールスキはマキアヴェッリに共感を示し,「現代人は彼を中傷しているが,彼こそ人間の
本性の卓越した審判者であった」と述べている。
(4) トゥールスキは,自由と平等の関係をめぐるアナーキストの認識の思考矛盾を指摘する。イン
タ派内のアナーキストのセクションは,ブルジョワ秩序の完全な破壊をめざし,そのあとに個人の
完全な自由の原則を置こうと主張するが,この原則というのは本質において純粋にブルジョワ的で
あり,今日の秩序の拠り所となっているものにほかならない。彼らは個人の完全な自由を一方で主
張しながら,他方で平等さえ求めているゆえに,自己撞着に陥っている。本当に平等の獲得をめざ
すのであれば,個人の自由に制限を加え,自由の限界を見定めることのできる,ある種の力が作用
しなくてはならない。この力が相互の契約関係のなかから生まれるか,あるいは特定の少数者の意
志によって生み出されるか,いずれにせよそれは革命の推捗状況に規定される。
(5>インタ派がかつてのコルドリエ・クラブの類に堕落し,特定個人の組織に変質し,ジャコバン
の偉大な革命の精神を歪めてしまったことを糾弾するトゥールスキは,1866年のインタ・ジュネー
ヴ大会においてインタ組織を革命の道へ軌道修正しようと努力したフランスのブランキ派の功績を
高く評価する。
トゥールスキが共感を示したアナーキストはただひとり,未来社会,すなわち革命の翌日はどう
あるべきか,をめぐる不毛な論争の終結を提案し,永久革命(r6volution en permanence),革命
の持続を訴えたマラテスタのみである。
ヴェントゥーリは,1880年代に入ってからもトゥールスキの思想には発展が認められると述べ,
その証拠としてブランキやフランスのブランキストたちと同様に,彼が政治闘争の重要性をなお一
層認識し,この方向性においてロシア・インテリゲンツィアが専制との戦いを継続しなくてはなら
ないと主張した点を挙げている。それを集約したものが,1888年にトゥールスキが創刊した『自由』
誌であったとみるヴェントゥーリは④,この誌上でトゥールスキが人民の意志党の活動を総括して
述べた箇所を紹介している。
「ツァリーズムに対するロシア・インテリゲンツィアの先進的なメンバーによる闘争の最後の英雄
的段階は,彼らの失敗と誤りにもかかわらず,わが国においては評価できぬほどの価値をもっもの
であった。それは遂行されてきたように,政治闘争を掲げた綱領において重要性を示すものだった
からである」(『自由』No. 4,1888年4月)。⑤
以上のヴェントゥーリの紹介はもちろん不十分のもとはいえ,トゥールスキの政治理論と政治闘
争に対する姿勢の大筋は捉えることはできる。しかしながら,ヴェントゥーリがみるように,トゥー
ルスキは本当に思想的に一貫していたのかどうか。それとも様々な錯綜した思想潮流の渦のなかで
翻弄され,政治的挫折を繰り返しながら,変化していったのであろうか。検討すべき点は多い。ポー
ランド人亡命者としてのトゥールスキを正面から捉えた,本格的な研究は皆無である。J.ボレイ
シャがワレリ.ヴルブレフスキ伝⑥のなかで僅かに触れている程度であり,トゥールスキがポーラ
ンド社会党革命派にいたことを伝えている。また旧ソ連のアルヒーブが公開されたことにより,ロ
シア十月革命アルヒーブ所蔵されていたトゥールスキ及び彼の妻ペラゲヤとウラディーミル・ブー
ルツェフとのあいだで交わされた往復書簡が利用できるようになり,ブランキ派と『警鐘』派の関
早坂:ロシァ・ジャコバン派の組織運動の思想的背景
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係,ネチャーエフ事件とのかかわり,そこにおけるトゥールスキの役割,ポーランド問題に対する
姿勢が,断片的ではあるが,明らかとなってきた⑦。トゥールスキの唯一の論考『政治における観
念論と唯物論』,「警鐘』誌に連載された「革命的プロパガンダ」,そして1888年に創刊された『自
由』誌の内容分析を通して,またその後トゥールスキがポーランド社会党に参加し,ロシア革命を
経て,ソ連・ポーランド戦争のあと反ボリシェヴィズムの立場で発行した『ポーランド報知』誌⑧
に到るトゥールスキの晩年の政治的軌跡をたどりながら,ロシア・ジャコバン派の隠された側面を
描き出すこと,これが本稿の課題である。次節では,とりあえずトゥールスキの青年期の政治思想
の輪郭を伝える『政治における観念論と唯物論』の概要を紹介することにする。
〈註〉
① 拙稿,「ロシア・ジャコバン主義をめぐる研究史概観」『茨城大学教養部紀要』第22号 1990年,
を参照せよ。
② E..JIII PynHHHKaH, PyccKvan 6naHKva 3M:HeTp TKaqeB, M.1992.
③ F.Venturi, Roots of Revolution, A History of the Populist and Socialist Movement in
Nineteenth Century Russia, New York,1960. pp.779−781.
トゥールスキを介してロシア・ジャコバン派とフランス・ブランキストの提携が図られていた事
実が指摘されている。
④ibid., p.780.
⑤“CBo60naf , Nα 4(1880),
⑥J.W.Borejsza, Patriota bez paszporta, Warszawa 1982.
⑦HrAOP,Φ.5802,0H.1, No. 593.
1897年から1926年にかけてトゥールスキと,彼の死後は妻ペラゲヤとウラディーミル・ブールツェ
フとのあいだで交わされた往復書簡。
ll.“政治における観念論と唯物論”
1875年12月に『警鐘』の綱領が発表されて以来,『警鐘』派は東方の危機をツァリーズムの危機
と捉え,本国における組織活動にとり組むべく,トゥールスキが中心となって陰謀組織「人民解放
団」の編成に乗り出した。ときを同じくしてトゥールスキは,はじめて理論的な論説『政治におけ
る観念論と唯物論』①を発表し,自分の政治活動に正当性を与えようとした。これにっいて以下紹
介することにしよう。
〔1〕観念論と唯物論の対抗
この論説の冒頭でトゥールスキは,フランス大革命期の偉大なジャコバンに対する自分の心酔を
述べ,とりわけ1794年1月28日のサン・ジュストのっぎの演説の一節を引用している。
「個人の幸福や富は,社会的なものとならないかぎり,社会の調和を破壊するものとなるだろう。
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茨城大学教養部紀要(第27号)
革命のひとっの側に凱旋門が立ち,反対側にわれわれをダメにする暗礁がある。われわれは分裂す
べきではない。われわれの勝利がそれを要求している。われわれのあいだに見解の相違があろうと
も,暴君たちはわれわれのあいだの見解の相違を寛容に扱うことはしない。われわれは勝利するか,
敗北するかのいずれかである。われわれすべては,社会全体を救済することによってのみ救われる
のだ。」②
このサン・ジュスト演説を通してトゥールスキの思想が概観できるように思われる。これに続け
てトゥールスキはルイ・プランの論説『労働の編成』(1848年)に依拠しっっ,現代社会の惨状を
分析するに際し,次の三っの視点を設定した。
(1)道徳の領域において,知性か壊疑かをめぐる戦い。
② 社会の領域において,利害をめぐる戦いか,それとも際限ない競争か。
(3)政治の領域において,権力をめぐる戦いか,それともアナーキーか。
ルイ・プランのこの三っの状況設定に対する回答は,二っの相対立する政治勢力に分かれている
状況を直視した上で,既存体制を拒否するか,支持するか以外に選択の余地はあり得ないというこ
とであった。っまり,一方では権力をもっ人々がいて,聖職者やブルジョワジーが既存体制を支持
しており,その反対に,現状に満足できず,また急激にそれを変革できる可能性ももっていない人々
が存在する。穏健な発展・進歩だけを期待する後者は,トゥールスキによれば,困苦に生き,迷信
に縛られ,学問的知識を欠如し,自分の能力を磨く可能性をもっていない人々であり,神秘主義に
落ち込み,その結果,“今日の社会問題”,とりわけ貧困の原因を理解できないでいる人々である③。
現状を肯定して生きる人々は,思弁的抽象的(yMo3pnTeπbHaH HayKa)学問をもって共通の神
学的形而上学的な“絶対的思想”に由来する立場に縛られており,それは本当の意味での学問(科
学)に立脚したものではない。しかるに,既存体制の反対者は,多かれ少なかれ現代の文明社会の
貧困状態を指摘し,その矛盾を明らかにしようとする。社会生活を性格に観察し科学的な分析を試
み,現代社会の不正の原因が過去の諸条件に規定されたものであるよりは,現代のカオスにより多
く規定されている事実を発見する。彼らが考える「進歩」とは,政治的意味で用いられており,大
衆の生活の改善にっながるもの,社会編成を動かしていくもの,すなわち,既存社会を改造し,貧
困の原因をとり除くことをめざすものである。今日的状況を政治的観点で眺めるならば,抽象的思
弁的哲学で生きる,観念論の旗を立てる人々と,経験的学問(OllblTHble HayKM)に基づく唯物論
の旗を立てる人々とに世界は分かれている④。
現代の観念論者たちは,力を行使する必要を認め,この力が必然的に行動計画と目的をもち,そ
れをめざし,絶対的進歩(全人類的)に愛着を抱く。観念論者にとって,現代社会の生活は人類発
展の単なる段階でしかない。彼らは実際の生活を考えようとはせず,反対に彼らの知的領域はまっ
たく抽象的ドグマ,っまり“絶対的思想(理想)”とかヘーゲル流の“世界精神”などの虜になっ
ている。トゥールスキによれば,神や絶対的思想がすべての基盤であるとか神は宇宙を支配する力
である,といった論拠の虜になったヘーゲル的認識に立っ観念論者たちは,人類進歩の法則性や歴
史における不断の進歩を容認する。彼らの見解では,この人類進歩は否定しがたい“世界精神”で
ある。たとえ,それぞれの世代の社会生活が改善されたり,あるいは悪化するということも,任意
の個人や集団の行為にかかっているのではない。なぜなら,数世紀にわたる諸民族の生活における
早坂:ロシア・ジャコバン派の組織運動の思想的背景
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多様な現象も,“絶対思想”の単なる表象でしかなかったからだ。観念論者たちの見解では,個人,
社会,すべての民族は単なる道具でしかなく,“永遠(6e3KOHeqHbln )”の一時的な形態であるにす
ぎない。観念論者たちのこうした虚偽の教義は,社会生活に対して人類のあらゆる貧困と乱用をも
たらし,悪影響を及ぼしてきた。観念論者たちの語る“進歩”は,いくら情熱に溢れていても,貧
困に苦しんでいる階級の知性を麻痺させるものであり,あらゆる革命的行動に妨害を加えてきた。
抽象的思弁的哲学は社会のあらゆる知的部分の前進を阻み,貧困に喘ぐ階級の正当な要求に制肘を
加え,あらゆる恥ずべき統治やすべての新秩序の敵を正当化したりする。抽象的思弁的哲学は,あ
らゆる搾取者には都合よく有利となっている。観念論を一瞥してみて,その学説が神秘主義,偽善
の源泉となっていること,すべての社会的貧困の源となっていることがわかる。現代の経験的学問
(onHTHHe HaYKn)からみると,観念論の支持者というのは,自分の特権を守るために偽善の力
を借りようとする輩のことである⑤。
トゥールスキはここで既存体制を擁護する観念論者の敵唯物論者の学説,すなわち経験的学問
の代表としてジャン・トランやオルバックの唯物論学説を採り上げる。トゥールスキによると,唯
物論者というのは,物質の運動以外の,絶対的宇宙の調整者のような存在を否定する。物質の形態
は時間と空間に規定された一時的な姿でしかなく,始源と終末をもっている。それは,自己の発展
の枠内において進歩するのみである。自己生存の範囲内でのみ自己の存在理由を示すことのできる
唯物論者は,それゆえ自己の限定された目的を追求するために,自分の知識に応じて一定の計画を
立てる。人間の意志,もしくはその行動の自由は,唯物論者の見解では,人間が自分なりに総括を
求める人間の欲望を表現したものであるが⑥,それもまた一定の限界をもっものでしかない。した
がって個人の本当の幸福というのは,社会全体,少なくともその大部分の幸福と不可分の関係にあ
る。知的人間は,本当の意味で社会生活を改善する場合においてのみ満足感を得ることができる。
しかるに,今日の状況では,人々の多くは無知蒙昧の状況にあり,そのために社会の一部が支配階
級を構成し,自分たちだけの利益を食り,民衆の無知を利用して民衆の覚醒を妨げている。神秘思
想で民衆を眠り込ませ,民衆を抑圧している。唯物論の学説は,彼ら支配階級によって放逐され,
経験的学問の代わりに大衆には神秘主義と迷信が強いられている。支配階級は,自分たちの所有権
を“神聖”なものという神秘思想をふりまき,プロレタリアートの要求を斥け,新秩序をめざす革
新者たちを弾圧している⑦。
ブルジョワジー,すなわち支配階級は自分たちの所有権確保のたあに絶対的進歩を固く信じてい
る。トゥールスキはこれを欺隔であるとみなす。絶対的進歩の否定を,トゥールスキは社会ダーウィ
ン主義の学説から学んでいる。自然界と同じく社会においても,相対的な進歩があるにすぎない。
これまでの歴史において様々な類型,種族,部族,国民の進歩があったが,それぞれは一定期間続
いたあと,衰退していった。地上においては,ある固有のものが出現する際には,新しい物質の表
徴はほかの類型を破壊していき,第三のものの発展を捉していく。ダーウィンの“生存闘争”に関
する自然科学の学説によれば,生物体は誕生すると,一定期間生活し,その後別の生物体と交代す
るために死んでいく。数百年にわたって存在してきた各民族の歴史も,生物の類型と同じである。
民族(国民)というのは誕生し,相互に戦い,自分の信仰・習慣・方言とともに消滅していく。諸
民族の歴史においては停滞の時代,さらには逆行の動きさえあったことも観察できる。ある民族が
恐るべき貧困に喘ぎ,進歩を求めることさえ不可能となっている事例さえ観察できる。各民族はあ
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茨城大学教養部紀要(第27号)
る程度までは固有文化を高めても,その後は長期にわたって停滞し,あるいは後退しさえする。歴
史を観察しながら,真理を求める人々は,進歩というものがいかに相対的であるか,そしてある精
力的な世代の活動以上の何ものでもないことを理解する。だから,ある特定の世代が,未来への理
想に関して幻想を抱くことなく,実務的に作業を進めるのであれば,この世代のエネルギーが生み
出す不可癖的な結果が進歩ということになるだろう⑧。
このように進歩が人間の主体的営為の産物であると考えるトゥールスキは,法則に基づく人類発
展といわれるものが,一般的には神話にすぎないと断定する。トゥールスキが観察するところ,す
でに数世紀にわたって続いた壮麗な中国文明は停滞の状態にあり,いまもそうである。古代にどれ
ほど数多くの民族がいて,彼らが達成した文明がかっては豊穣なものであったのに,いまや最低の
無知蒙昧の状態に堕してしまっている。たとえば現代のアラブ人がそうであり,自己の痕跡をとど
めることなく消え去っていった。アメリカ大陸のアステカ文明も同じである。強力なローマ帝国と
ローマ市民の政治的成熟度と現代社会における子供たちの未熟さ,狭量さ,保護の状態と較べてみ
ると,どちらが優れているといえるのか。選挙権を享受しているフランス人が,ナポレオン三世の
専制政治を支持している事実こそ驚くべきことではないか。絶対的進歩のi擁護者たちは,既存の制
度の上にあぐらをかいて贅沢を食り,古代人の文明は奴隷制度の上に築かれたものだと絶叫してい
る。歴史の基礎をきちんと学んだ人が,古代の奴隷制と較べて,共和制下のアメリカの黒人たちの
苦悶,ニューカッスルのクレドの鉱山労働者の境遇,ヴェルヴィ・フロレフスキイが描くところの
ロシアの農民の生活状態の方がましだというであろうか。歴史に精通した人間であれば,自由な人
民の血がカーヴェニャクと彼の支持者たちによって流されたという事実,残虐な行為が共和制の名
の下で実行されたという事実,1848年6月の殺数に関していえば,“パンと劇場”を求めたローマ
市民とちがい,“パンと労働”を求めた市民たちが虐殺された事実がいかに理不尽であるかを理解
するのはたやすい⑨。以上のように歴史を観察し歴史の進歩を否定したトゥールスキの思想には,
啓蒙主義の時代のひとっの特徴であった功利主義の影響が顕著にみとあられる。
〈註〉
①A.AMapva〔TypcKH幻,恥ea∬H3M H MaTepHann3M B noJlvaTvaKe,}KeHeBa 1877.
②ibid.,CTP.3.
③ibid.,CTP.4.
④ibid.,CTP.4−5.
⑤ibid.,CTP.7−8.
⑥ibid.,cTp.17−18.
⑦ibid,,cTp.27−28.
⑧ibid.,cTp.51−52.
⑨ibid”cTp.53−54.
〔2〕“社会的国家”の建設をめざして
自由と平等の関係
しかしその一方で,トゥールスキのみるところ,現代においては経験的学問は社会の深部にも浸
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透しており,多かれ少なかれ迷信・偏見から自由な人々の数もまた著しく増大している。宗教は唯
物論哲学に圧迫され,一貫性のない,不明瞭な思想は悉く動揺している。プロレタリアートの隊列
に加わる多数の人間がいて,彼らは天上においてでなく地上においてこそ自分のよりよき生活の確
立をめざしている。その数を増大させた知的プロレタリアートは,公然と人間の本性に基づく理性
を求め,個人の自由はひとまず脇に置いて,個人の利益を全体の利益と結びっけること,すなわち
“革命国家”の力を借りて社会内部に平等を実現することをめざしている①。自由と平等の関係に
っいて,トゥールスキはこう述べている。
「社会における自由というのは,全構成員の平等が総体として彼らの権利となるもの,そして相互
の義務関係を規定する平等を指す以外の何物でもない。社会における自由というのは,平等から分
離することはできない。逆の場合,それは理解不能のことばとなり,純粋で抽象的思弁的なものに
なってしまう。したがって,社会的なものを除いて,特定個人の搾取により他者が犠牲となるよう
な自由というものはあり得ない。個人の自由というのは,大衆が隷属状態にある場合にかぎり可能
であるにすぎない。自由な社会の構成員が実際に個人の自由を享受できるのは,彼らが相互に平等
であるとき,あるいは彼らのうちのひとりが他者が享受しない権利を行使できるときである。平等
者の社会においては,人間の営為を真に動かすものは(nBuraTenb nenTeJlbHOCTn qenoBeKa),
社会全体の幸福である。個人は全体の富のために動き,こう確信する。すなわち,共通の生産物が
多ければ多いほど,社会は幸福となり,個人もより多くを獲得する,と。もちろん,各個人が社会
的国家に依存するという条件においてのみ,すべては順調に進む。社会的国家は,それゆえ必然的
に相互一致の法則下に個人を置く。それが全員に共通する動機となるとき,個人の自由も可能にな
るということである。」②
ここでトゥールスキは,ルソーの『社会契約論』に学びながら,個人や個人の財産を暴力から守
る社会編成(HaPtTvaΦopMy刀y accollvaa皿M)の公式を発見すること,個人は全体とともにあると
き,太古の昔にあったように相互に結び付けられ,自由となるであろう,と述べた。トゥールスキ
は,ルソーが観念論の域を出てないとはいえ,社会の自由のためには個人の自由を犠牲にすること
も必要であると理解していた,と考えた。っまり,社会契約というのは,ひとりの人間が他者に力
を及ぼすという関係で結ばれるものである。もし誰かが全体意志に従わず,これを拒否するのであ
れば,率直に言って,その人間に自由を強制しなくてはならない。富者と貧者からなる社会では,
また資本の所有者と奴隷の所有者で構成される社会では,個人の自由というのは,既存社会秩序に
比例し,貧困に苦しむすべてにとって“自由”は“平等”の同義語となる③。
トゥールスキはロベスピエールのことば,「敵をテロルによって従順にさせよ,諸君には共和国
を建設する栄誉がある。革命政府は,暴政に対抗する自由の専制である。」④を引用し,またサン・
ジュストの「個人の幸福と利益は,もしこれらが社会の幸福と利益の一部を構成していないならば,
社会秩序の侵犯である。」⑤を引用し,個人の自由を抑制する必要を説いている。またパリ・コミュー
ンの際の国民衛兵209部隊の指揮官ルブランのことば,「自由と博愛を叫ぶことによって自らを偽っ
ている輩を許してはならない。 “平等”の旗を高く掲げなくてはならない。自由と博愛は本来そこ
から生じるものだから」⑥を紹介している。以上をみても明らかなように,トゥールスキの考える
42
茨城大学教養部紀要(第27号)
国家のイメージ,すなわち社会編成のあるべき姿は,社会の構成員たる個人はひとりひとりが主人
となることのない,奴隷となることもない,自由な国家の市民が存在するだけの社会である。した
がって,社会的国家の全体的幸福のためには,個人の自由を犠牲にすることもためらってはならず,
新秩序を建設するには理性を信じ,学問を深め,その上で無知蒙昧な人々や偽善的な人々に抑圧を
加えることも容認しなくてはならないのである⑦。
しかるに,現代の国家というのは,本来あるべき社会編成とはなっていない。貧民大衆を抑圧す
る富裕な少数者の手で統治されている国家以外の何物でもない。共通の幸福が達成されるには,任
意の哲学派に属す人々がひとっの共通の目的をもち権力を掌握すること,その結果誕生する“革命
国家”によってのみ可能になるということである⑧。現代において必要なことは,知的プロレタリ
アートがこの国家機能を効果的に利用することを使命と感じ,現代社会のあらゆる状態を研究し,
未来を賭けた闘争のために自分の力を規律化し,集中することである。目的がそれを正当化し達成
する手段というドグマである。そのドグマが新しい集合組織の構成員にとっては法律となる。任意
の哲学派に属す人間集団は,気まぐれな生活から解放し,彼らの活動営為を理性に従属させ,相互
一致の原則に基づく厳格な統制下に置く。このような組織体は必然的に世代全体の知性に大きな影
響を及ぼし,そこにおいて自分の学説を強化し,所与の学問体系に合わせて古い制度を変革し,大
衆の生活を改善していく。古い制度を支えてきた学問体系を麻痺させながら,この組織体は既存の
旧来の社会建造物の基礎を掘り崩していく⑨。トゥールスキの主張はこれにとどまらず,革命の継
続性を主張する。「唯物論者の諸原則は,必然的に自分の有益な影響を広げる強固な権威を要求す
る。」⑩と述べ,フランス大革命時のテルミドール派の反動の例を直視するよう求めた。フランス大
革命の諸原則,すなわちジャコバンの代表者たちの手中にあったこれらの実り多い諸原則は,ロベ
スピエールの崩壊後,コルドリエ・クラブの手に移ってからは,人民を抑圧することにも役立った
のである。トゥールスキによれば,革命国家の役割は,反動を完全に武装解除するまで戦うことで
あり,勝利を収めたときはじめて革命国家は,社会的国家の基礎を置くことができるのである。っ
まり,唯物論の学説が要求しているものこそ,法を改め,私的所有を廃止し,福祉システムをっく
る社会的国家の樹立にほかならない。この社会的国家は,共産主義的生活を実現する新しい世代を
育成する。新しい世代が来るべき社会革命の担い手となる。唯物論者の学説によれば,現代社会を
統治している法は人為的産物であるから,したがって人間には,これをとり替え,別のものに編成
替えする権利と義務がある。だから絶対的進歩などという思想は,他のあらゆる認識と同じように
迷信の類でしかなく,知的プロレタリアートによって論破されることになる⑪。
トゥールスキが強調するこの社会的国家という概念は,当時のトゥールスキの政治論の骨格をな
すものであったし,それとともに『警鐘』派が展開していた,とりわけトカチョーフが論陣を張っ
ていたアナーキスト批判とも軌を一にするものであった。
〈註〉
①ibid., cTp.30二31.
②ibid., cTp.32−33.
③ibid., cTp.33−34.
④ibid., CTP.34−35。
早坂:ロシア・ジャコバン派の組織運動の思想的背景
43
⑤ibid., CTP.35.
⑥ ibid.
⑦ibid., cTp.34−35.
⑧ibid., CTP.38.
⑨ibid., CTP.39−40.
⑩ibid., CTP.41.
⑪ibid., cTp.46−47.
〔3〕アナーキズムとの闘い
ブランキ派の擁護
トゥールスキによれば,1793年にフランス人が設定した社会的国家の基礎は帝政と交替し,民主
的な共和国2年の憲法は今日ではブルジョワジーの憲法としてとどまっているにすぎない。フラン
ス人民は1830年7月に目覚めたが,欺かれ,ルイ・フィリップの治世を通じて眠り込んでしまった。
1848年の民衆派の凡庸な指導者たち,大革命の哀れな,素朴な模倣者たちの抽象的で子供じみたア
ジテーションは,実りある結果をもたらさなかった。いわゆる“社会主義者たち”は反動勢力の陰
謀を口実にしているが,いずれ弾圧の対象となるにちがいない。かってのパリのジャコバンたちは,
数世紀にわたって築かれてきた君主制を根底から破壊した。彼らはヨーロッパ全体を敵に回して戦
う方法を発見した。現在よりもはるかに強力であった反動勢力の陰謀を麻痺させる手段を発見した。
しかるに,1848年のナイーブなiスモポリタンたちは,献身的で忠誠心溢れる民衆の勇気にもかか
わらず,全ヨーロッパ的事業を見失ってしまった。彼らは冒険者,ナポレオン三世が支援するブル
ジョワジーに欺かれたのである。20年わたり国民全体は血に汚れた警察の支配下に生きてきた。
“世界市民”と呼ばれる人々は,権力から民衆を解放することは何一っせず,社会的国家をっくる
事業に妨害さえ加えたのである①。
トゥールスキの批判の矛先は,この時期アナーキズムが優勢であったインタ派に向けられていた。
つまり,トゥールスキが嫌うヘーゲル的思弁哲学が,そこにおいては復活しっっあるというわけで
ある。アナーキストの党派が既存のブルジョワ秩序の完全破壊を要求し,その代わりに絶対的な個
人の自由の原則を宣言していることこそが問題なのである。個人の自由という原則は,トゥールス
キによれば,本質的に純粋なブルジョワ的なものであり,既存秩序全体はその上に立脚しているか
らである。アナーキスト1ま,絶対的個人の自由の原則を宣言する一方で,平等も宣言しており,こ
うした思弁は混乱をもたらすだけである。平等のために個人の自由が制限されるのが必然であれば,
当然,この自由を制限する何らかの力が働かなくてはならない。この力は相互の契約関係に由来す
るか,それとも少数者の手に委ねられるかのいずれかであり,問題解決は必ず変革が予期される任
意の状況にかかっている②。
いずれにしても,強者と弱者のあいだに平等をもたらすとすれば,他者の自由の抑制は必然であ
り,自由を失う者と得る者のあいだに平等を確立する調整力の必要性は,こうした力の介在を嫌う
アナーキストが期待するものを本質的に除外する。労働問題に関心を抱く人々や,国際労働者協会
にもちこまれ混乱の解決を望む人々に向かって,形而上学にこだわる人達やアナーキスト,連邦主
義者たち,自治主義者たちは,独裁や権力を志向しているとして攻撃を加えているが,このような
44
茨城大学教養部紀要(第27号)
ナイーブな人達は,インタ派内部にアナーキーを持ち込み,内部の双務的関係を損ない,全構成員
の活動を規定する綱領を破り,各自自分勝手な判断で行動するように呼びかけ,国際労働者協会を
破壊してしまった③。1866年のジュネーブ大会の際,ブランキとその友人たちはインタ派の指導者
たちを革命の道に復帰させようとあらゆる努力を試みたが,個人主義者たちは自分の功名心を満足
させる機会として利用し,危険に身を晒そうとはせず,可能なかぎり未来のアナーキーを褒めちぎ
り,不明瞭な約束ごとを繰り返して無知な大衆を欺き,現状の変革に動こうとはしなかった。本物
の革命家たちはインタ派を離脱し,社会問題の解決に無関心なジレッタントだけがそこにとどまっ
た。その結果,忠実で献身的であっても,無知な大衆プロレタリアートは,アナーキストの虚偽の
言説,無駄話しに惑わされ,身動きがとれなくなってしまった。今日のインタ派の指導者たちは,
政治問題を社会問題から切り離し,観念論者のスローガンを利用し,定まった目標を示すこともな
く,不和,軋礫,論争を繰り返し,個人の目的・利益以外は追求しなくなってしまった④。
教化されていない労働者たちは,盲目的に凡庸な人々のあとに従うだけである。1872年ハーグ大
会に際して,殆どドイッ人だけで構成されているロンドン総評議会にヨーロッパ全体の数知れない
セクションの問題の統括を委ねるのであれば,この総評議会が解体されたあとでは,この団体,イ
ンタ派はかつてのジャコバンたちが指し示した偉大な革命の道を抑止しようとする個人主義者たち
やジレッタントたちの団体と同じ類すなわちコルドリエ・クラブの類と同じパターンを繰り返す
しかない。同様の光景が,トゥールスキによると,1876年10月のベルンのアナーキストの大会でも
みられるという。たとえば,ブルスとギョームは労働者の政治問題への不干渉,すなわちアナーキー
を主張し,ド・パープは労働者階級の政治参加を支持してアナーキー国家などという荒唐無稽な説
を展開したり,ドイッ人ヴァイテルは社会主義のために世論の支持の確保を訴え,そのため国会で
の社会主義学説の宣伝が必要であることも主張し,あらゆる革命的方法の自制さえ主張していると
いう。トゥールスキは,イタリアのマラテスタだけがこうした未来の社会主義のあり方をめぐる不
毛な論議の中止を求め,永久革命を主張した点を高く評価した。トゥールスキの観察するところ,
もはやインタ派に存在理由はない。プロレタリアートは,インタ派の活動が公然組織として活動で
きる範囲がブルジョワジーによって完全に麻痺させられていることを理解した。ロ申吟しているプロ
レタリアートは自ら学びとった経験によって理想社会を建設するために,まずもって国家権力を自
分の手で掌握する必要を確信した。それゆえ,プロレタリアートは公然組織のいかなる形態も拒否
し,その代わり秘密の,規律化された組織建設に乗り出さなくてはならない⑤。
ルイ・プランの著作の文脈をたどりながら,トゥールスキはかつてコルドリエ・クラブのジレッ
タントたちと国際労働者協会の指導者たちとが酷似していることを指摘した上で,現代のプロレタ
リアートはインタ派の組織に参加すべきではなく,ジャコバンの伝統を受け継ぎ,未来を切り開く
知的プロレタリアートを結束させた強固な組織をっくることを課題としなくてはならない,と主張
するに到るのである。トゥールスキによれば,知的プロレタリアートは好機を逃さず,自分の力を
総結集し,中央集権化しなくてはならない⑥。学んだ経験によってプロレタリアートは,文明世界
が搾取階級と被搾取階級に分かれているとき,平和とか平等とかを宣伝する偽善家に振り回される
ことはない。相互に対抗し合う二っの党派の利害が角逐しているときに,平和的方法などあり得な
い。闘いとは,いうまでもなく神秘主義と民衆の無知蒙昧に拠っているブルジョワジーと,所与の
学問で教化されたプロレタリアートのあいだの闘いである。地上においては共存し得ないことを理
早坂:ロシア・ジャコバン派の組織運動の思想的背景
45
解したこの二っの党派の生死を賭けた闘いである。闘争は不可癖である。敗北しないためには,ブ
ルジョワジーの組織力に対抗できるプロレタリアートの中央集権化された組織を対置しなくてはな
らない。反動勢力の規律化された軍隊に対抗して,それ以上の規律をもった中央集権的な戦列を構
築しなくてはならない。社会的国家の樹立のために,自分たち内部の個人主義を抑制し,分離主義
的傾向も取り除かなくてはならない⑦。ルソーは優れた宣伝家であったが,彼の思想を実践する者
としてロベスピエールやサン・ジュストが必要であった。宣伝家はっねに人間を納得させる使命を
もち,そこでは迷信・偏見や誤った信念を打破する。自分の信念に従う革命家は,無関心な人々の
なかから自分の隊列に加わる人々を集める。彼らは革命の終結に向けて,新制度の確立に向けて,
自分の諸原則を大衆に宣伝する有効な方法を開発する。専制の抑圧下にあって個人によるプロパガ
ンダが大衆に受入れにくいとき,あるいは大衆が既存秩序の下で完全に麻痺し切っているときこそ,
教化された少数者集団にとっては大衆を目覚めさせるチャンスである⑧。
トゥールスキの政治思想の理論的枠組みと政治闘争への姿勢は,大体以上の紹介に凝縮されてい
るといえよう。彼の思想は,いうまでもなく革命的実践と結びっいており,秘密結社「人民解放団」
の創設とかかわるものであった。その実践のあり方にっいて,次節でみていくことにしたい。
〈註〉
①ibid., CTP.61.
②ibid., CTP.62.
③ibid., CTP.63.
④ibid., CTP.64−65.
⑤ibid., CTP.65.
⑥ibid., cTp.65−66.
⑦ibid., CTP.69.
⑧ibid., cTp.69−70.
lll 「革命的プロパガンダ」と「革命的制裁」
『警鐘』誌上に1877年から1879年にかけて論説「革命的プロパガンダ」を連載したトゥールスキ
は,第一論説の冒頭から『政治における唯物論と観念論』で称賛したフランス大革命のジャコバン
の偉業を採り上げ,その伝統を継承することを宣言している。ルソーが社会主義思想の先駆者であっ
たと規定するトゥールスキによれば,社会革命の成功を保証する強力な革命党ジャコバン・クラブ
が誕生すると,ジャコバンたちはルソーの教説の宣伝に努め,フランス全土にそれを押し広げ,社
会革命の基礎を置き,断絶のない,首尾一貫した革命的プロパガンダを続け,その結果フランス既
存秩序は最終的に破壊されたのである①。このように“革命的プロパガンダ”の意味を規定した上
で,ロシアの社会状況を見据え,革命的プロパガンダをどう展開すべきかを説明する。
「既存体制の主要な守護者を除去すること,われわれを裏切った刑事たち,憲兵,われわれを拘束
し懲役に送った検事や元老院議員たちを一掃すること,こうしたことを通じて眠り込んだ社会を呼
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茨城大学教養部紀要(第27号)
び覚まし,革命的プロパガンダの実績を積み重ねながら,国民全体を決起させることができる。」②
第二論説では,革命的プロパガンダを遂行する二っの条件として,(1)革命的諸勢力が確実に存在
すること,②革命的諸勢力が統合していること,この二っを掲げた。トゥールスキによれば,革命
的諸勢力が分断状況にある今日においては,かってネチャーエフが指摘したように,議会主義的方
法に頼っては革命の成功は難しいので,とりあえずロシア全土に分散している力を組織化していく
ことが必要である③。分断状況こそ,革命の前進を妨げている最大の要因である。第三論説では,
革命的プロパンガンダというのは,本や文書類を人民のあいだに配付することではなく,武装デモ
を組織すること,第二論説で述べたように,既存体制の主要な守護者たちや,自分たちを懲役等に
送った輩を一掃するだけにとどまらず,必要なことは,恰もひとりの人間として行動できるような
地下組織を建設することである,と述べている。このことを踏まえた上で,ネチャーエフが指摘し
たように,議会主義に依拠するのは偽革命家たちだけであると断じた。何故,地下活動や陰謀活動
が必要なのか。ここでトゥールスキは,ロシアにおける政治活動の環境が西欧の環境とはちがうこ
とを指摘し,ロシアのような合法活動が不可能な環境ではとりわけブランキ派が教示した活動方法
が有効であることを力説する。ハーグ大会が分裂したあと,ブランキ派が展開した秘密・地下活動
の意義は,ロシアの政治状況においては殊の外有効となっている,とトゥールスキは主張した④。
トゥールスキによれば,革命諸勢力を結集し,統括する革命的中核の必要を認識する西欧の革命
家たち(ブランキ派 早坂 )こそ自分たちは模範とすべきであり,バラバラになっている
革命諸勢力を一致した行動に導く手本を示している。この革命的中核こそが,多数決原理に依拠す
る議会制度の機能を損なわせ,特定の革命目標を定め,敵の有害なプロパガンダを麻痺させ,敵権
力の中枢に攻撃をかけることができる。自分たちロシアの革命家のあいだには,エセ革命家たち,
たとえば連邦主義者,自治主義者,小ロシア主義者たちがいて下らぬたわごとを述べ立ているが,
いま必要なことは,いうまでもなくロシア人民を忌まわしき状態から解放する革命的プロパガンダ
を遂行する以外にない。 “暴力革命”こそが必要なのであり,自分たちの唯物論者・革命家にとっ
ては,問題解決のすべては権力奪取にかかっているということである⑤。
第四論説および第五論説では,革命的プロパガンダがロシア本国で確実に遂行されている実例と
してメゼンッェフやゲイキングの暗殺を挙げ,本国におけるテロリズム行動を肯定的に評価したの
である⑥。トゥールスキは「革命的プロパガンダ」の連載と並行して人民解放団の組織活動に乗り
出し,人民解放団の宣言文『革命的制裁』を発表した。宣言文の冒頭にもロベスピエールのことば,
「人民の敵を圧殺せよ。共和国を建設する栄誉は諸君にある。」を掲げたトゥールスキは,1月24日
のザスーリチによるトレーポフ狙撃,1月30日のオデッサにおけるコヴァルスキイの武装抵抗を称
賛し,ロシアの革命党派が確実に成長し,強化されていることを強調しているのである⑦。以上概
観しながら,トゥールスキが一貫してめざしていることが,人民解放団とやがて登場する人民の意
志党との提携であることはまちがいない。革命的プロパガンダとは,『政治における唯物論と観念
論』で明示したマラテスタの見解を踏まえたところの,間断なき永続革命(r6volution en
permanance)にほかならないのである⑧。
トゥールスキは1879年夏の人民の意志党の結成に注目し,トカチョーフとともに,その執行委員
のメンバーであったH.A.モローゾフを介して提携の可能性を打診した。モローゾフはジュネー
早坂:ロシァ・ジャコバン派の組織運動の思想的背景
47
ヴを密かに訪れ,トカチョーフやトゥールスキと会い,具体的な詰めを行っている⑨。同じころフ
ランスでは1880年7月14日,コミューン戦士の大赦が行われ,釈放されたブランキ派は政治誌『神
もなければ旦那もいない』を発刊した。この雑誌にロシアの革命派を代表して寄稿しているのは,
トカチョーフ,トゥールスキ,モローゾフの三人である。トカチョーフはこの雑誌にチェルヌィシェ
フスキイの『何をなすべきか』の書評を23回にわたって掲載したほか,未完に終わった人民の意志
党の活動に言及した「ロシアにおける革命運動」も掲載している。トカチョーフがチェルヌィシェ
フスキイを意識して書いていることは明らかであるが,論説に値するものはこれのみである⑩。モ
ローゾフは,トゥールスキの紹介により,人民の意志党執行委員会の名で,人民の意志党が結成さ
れたこと,この党が学生,インテリゲンッィア組織以外にも労働者組織を擁していることを伝える
宣言文を掲載した。この記事から,人民の意志党とロシア・ジャコバン派の組織的提携の試行があっ
たことが窺える⑪。
ブランキ派の国際的組織運動のなかでも活動していたトゥールスキは,『神もなければ旦那もい
ない」誌に,1880年12月5日付けの記事「ロシアにおける憲法に関して」を載せ,ロシアで憲法論
議が高まっていることに寄せて,これを御用学者や官僚に躍らされたナイーブな幻想でしかないと
決めっけ,かってゲルッェン等がアレクサンドルニ世に期待した自由主義革命の二の舞でしかない
と断じた。フランス史を振り返ってみて,議会制はブルジョワジーの支配を固める道具として機能
していたのであり,ブルジョワジーがそれを確保してしまったあとは議会の機能は人民を抑圧する
ものにさえ変質している。いわんやロシアのような,ヨーロッパ文明が浸透していない,地主の支
配が強固で人民が搾取され抑圧されているところでは,議会制は元々意味をもたない。トゥールス
キは,人民の意志党の活動を憲法制定論議を超越したものとして把握していた⑫。だからこそ,テ
ロリズム路線を重視するモローゾフとは多くの点で見解を共有できたのである。
1881年1月1日,オーギュスト・ブランキが死ぬ。ペール・ラシェーズでの追悼集会ではトゥー
ルスキとトカチョーフも弔辞を述べることが予定されていたが,当局の妨害に遇い,トゥールスキ
には演説は許されなかった。その代わり,『神もなければ旦那もいない』誌に彼の追悼文は掲載さ
れたのである。トゥールスキとトカチョーフはいずれも,人民解放団と『警鐘』誌編集部を代表し
て追悼のことばを述べている。トカチョーフはブランキをロシアの革命運動に陰謀活動という優れ
た芸術的モデルを示してくれた偉人であったと称賛し,トゥールスキは人民の共和制の樹立の模範
を示してくれたのがブランキであったと述べ,人民の意志党の活動にそれが反映していると力説し
たのであった。共和制の理解にっいては,トゥールスキはブランキのそれに忠実であったと思われ
る。ブルジョワ的共和制に代わる人民の共和制を強調することは,畢意議会主義の否定であり,強
力なテロリズムの推進を訴えることにほかならなかった⑬。
モローゾフを介しての人民の意志党との提携に関しては,ルドニッカヤは,トカチョーフが1874
年末に亡命するころ,チャイコフスキイ団の一員であったモローゾフとはすでに面識があり,両者
のあいだで提携の試行が準備されていた,と述べている⑭。1880年末にモローゾフがジュネーヴに
やってきたとき,トゥールスキが本格的に両党派の提携に乗り出したというのである。ルドニッカ
ヤは,ニコラエフスキイ・コレクションに含まれていた,この経緯を伝えるブールッェフとトゥー
ルスキとの往復書簡を発見してこの過程を明らかにしている。トゥールスキとトカチョーフは,宣
伝用の印刷機材などをペテルブルクへ移送すること,資金援助,両党派の合同を提案したけれども,
48
茨城大学教養部紀要(第27号)
しかしながら,両党派の見解には大きなズレがあった⑮。とりわけ,テロリズムのあり方,国家権
力の奪取と,憲法制定議会の招集の意義をめぐって,人民の意志党のなかでは見解の一致はなく,
結果的に人民の意志党は『警鐘』派の提案を拒否した。テロリズムに肯定的なチホミーロフも提携
には躊躇した。トゥールスキは,とりわけジェリャーボフの立憲主義的姿勢には強い不信を示し,
自分たちとの路線の違いを際立たせた張本人とみている⑯。
とはいえ,人民の意志党の内部の『警鐘』派との提携は部分的には進展した。モローゾフや
F.F.ロマネンコを介して理論的一致をめざす詰めが行われ,『警鐘』派の資金援助で彼らは宣
伝文『テロリズム闘争』,『テロリズムと守旧派』をロンドンで刊行している。このほか,オリョー
ルのザイチネフスキイ・サークルに所属していた数名が第二次「土地と自由」に参加し,この組織
が分裂したあとは「人民の意志」党に加わっている。彼らは,ルドニッカヤによれば,いずれも人
民解放団にも所属していたという。いずれにせよ,1881年末にロシアに帰還するモローゾフがオー
ストリアの国境で逮捕されたことによって,両者の提携は最終的に頓挫したのである⑰。晩年のトゥー
ルスキは,ブールッェフに宛てた返書(1925年2月25日)のなかで,この提携の試行が失敗に終わっ
たことを述べている⑱。
1881年3月1日のアレクサンドルニ世の暗殺は,トゥールスキにとって革命を前進させる意味で,
すなわち革命的プロパガンダを推進する上で画期的な事件であった。『警鐘』誌(1881年6月20日)
に掲載した論説「ッァリーズムの解体」のなかでトゥールスキは,ここ十年間にわたるナロードニ
キ運動を総括しながら,革命的前衛党に率いられて,各自はそれぞれ自分の能力に応じてツァリー
ズムとの闘いに参加すべきこと,社会は公然と声を上げ,自由を求めて抗議行動に立ち上がるべき
こと,を訴えている。社会が心をひとっにして,広範な社会の参加によって苦悶に瀕しているツァ
リーズムの苦痛を和らげ,これを最終的に破砕することができる,と述べている⑲。9月15日付け
『警鐘』誌第4号では,「革命的プロパガンダ」で述べた主張の正当性を繰り返し,自分たちの見解
は,『前進』誌,『ラボトニク』誌,『オプシチナ』誌さらには『土地と自由』誌から敵視されて
きたが,彼らもまた闘争の過程で多大な犠牲を被るようになってから,『警鐘』派の路線に注意を
向けはじめ,『警鐘』派の路線が過去においても,まさに現時点において有効となっていると誇らし
げに述べている。このことを示唆しているのが,キバルチチの法延での証言であるという。キルバ
チチによれば,苦い経験が自分たちをして人民解放の新しい道,すなわち政治闘争の道を選択させ
たのである。ジャリャーボブさえ,かっては“プロパガンディスト”の党派に属し,国家論をめぐっ
てはアナーキストであったのに,しかしいまや“革命家・国家主義者”に変身し,政治的自由と権
利を要求する党派の一員となった,と告白しているという。継続性をもつ体系的な革命的プロパガ
ンダを遂行すること,人民の搾取者に対して呵責ない懲罰を加えること,これらの課題を主軸とし
てトゥールスキは“政治闘争”と“革命的プロパガンダ”とを同一次元で捉えたのである。トゥー
ルスキによれば,間断なき体系的テロ,革命の連続性が必要なのは,人民大衆が革命闘争に無関心
だからである。無関心な人民大衆を率引するには,革命党が必要なのであり,そのあるべき姿は,
軍事的性格をもち,固く規律化され,厳格に中央統制された革命党である。こうした党組織が自分
たちに耐久力を与え,人民解放の事業を保証するものとならなくてはならない。トゥールスキによ
れば,3月1日の時点までは十分ではなかった。これが建設されてさえいれば,すなわち人民解放
団との提携が順調に進んでいれば,アレクサンドル三世もまた即座に打倒されたにちがいないので
早坂:”シア・ジャコバン派の組織運動の思想的背景
49
ある⑳。
しかし,結局,『警鐘』派は,人民の意志党との提携に失敗し,まもなくトカチョーフが発狂し
て戦線から離脱すると,機関誌『警鐘』は発行を停止し,トゥールスキもこれ以降何故か沈黙する
ことになる。トゥールスキが政治情宣活動の表舞台に登場するのは,1880年代後半に入って,再び
政治誌『自由』を発刊してからである。
〈註〉
K.M. TypcKrm, PeBoilrollMoHHaH llponaraHna,“Ha6aT”,Nα1−2(1877). cTp.6−9.
ibid.
“Ha6aT”,Na3−4−5−6(1877), cTp.7−9.
“Ha6aT”,(1878), cTp. XLIII−XLIV.
ibid., cTp. XIV−XL.
“Ha6aT”No.5−6(1878), Nα5−6(1878), cTp.6−7, “Ha6aT”Nα1−2(1879), cTp.6−7.
〔K.M. TypcKvaPt〕, PeBo丑tol!HoHHafl pacnpaBa, E{eHeBa 1878.
ero}Ke, H且eaJIH3M n MaTepManva3M B noJIMTHKe, oP. cit., cTp.65.
H.A.モローゾフを介して人民の意志党と『警鐘』派の提携が図られた経緯については,ルド
ニツカヤが詳細に論じている。PynHMIIKafi, PyccKnn 6naHKn3M, op. cit., cTp.181−201.
⑩P.Tkatcheff, Le Mouvement R6volutionaire en Russie,“Ni−Dieu, ni−Ma↑tre”Na 8(1880).
⑪N.Morosoff, Proclamation des r6volutionaires russes,“Ni−Dieu, ni−Ma↑tre”Nα15(1880).,
et N. Morosoff, Proclamation des ouvriers r6volutionaires russes du parti“ Narodnaj a
Wolia”,“Ni−Dieu, ni−Ma↑tre”,No.24(1880).
⑫Toursky, A propos de la constitution russe,“Ni−Dieu, ni−Maitre”,No.16(1880).
⑬Discours du citoyen Toursky, et Discours du citoyen Tkatcheff,“Ni−Dieu, ni−Ma↑tre”,Nα28
(1881).
⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳
P ynHnuKaH, P yccKva fi 6JIaHKH3M, op. cit., cTp.189−190.
ibid., CTP.192.
ibid., CTP.197.
ibid., CTP.194.
HrAOP,Φ.5802,0p. cit., J1.158.
TypcK蘭, Pa3JIc旺{eHne llapva3Ma, “Ha6aT”Nα1 (20 VI,1881), cTp.2−3.
TypcKMPt, Bopb6a c Hap込3MoM, “Ha6aT”Nα4(151X,1881), cTp.1−2.
IV 『自由』誌の創刊
長い沈黙のあと,トゥールスキはかっての人民の意志党のメンバーであったコーハン(筆名クニャー
ジニン)①とともにジュネーヴで政治誌『自由』の発刊に乗り出した。すでにこの時期のロシア国
内では,アレクサンドル三世の下で反動政治が敷かれ,ポベドノースッェフの下で専制体制が強化
され,また対外的には汎ゲルマン主義に対抗して汎スラヴ主義を旗印に帝国主義的なバルカン半島
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茨城大学教養部紀要(第27号)
への進出が押し進められていた。こうした時期にトゥールスキは,どのような主張を掲げたのであ
ろうか。
1888年1−2月の創刊号(合併号)には,編集部による巻頭論文が掲載されている。その副題には
「ロシァ・インテリゲンッィアの機関紙」とあり,人民の意志党の活動が事実上終焉したあとのイ
ンテリゲンツィアの採るべき道が示されている。それによると,ロシアの民衆のあいだでそれまで
バラバラになっていた知的部分をひとっのコンパクトな団塊にまとめ上げ,ひとっの“特殊な社会
階級”を形成すること,すなわち社会の接着剤にならなくてはならない。公共の安全性や福祉をで
きるかぎり追求するのであれば,これまでは民衆と政府のあいだにあって単なる相談役でよかった
が,いまやロシアの進歩的知識人は自立した勢力として政治の表舞台で活躍しなくてはならない。
理性的文化を築き上げ,道徳的な新しい秩序をめざし,地に堕ちたロシアの民衆の名誉を回復し,
学問とロシアの思想を目覚めさせ,ルシの地に法秩序と人民の幸福,自由,正義のときが訪れるの
を期待しなくてはならない。概観してみて,従来の急進的な論調がすっかり影をひそめているのは
明らかである。その理由として,反動の時代に臨んで,JI.チホミーロフの転向にみられるように,
トゥールスキ自身の思想にも変化が生じたこと,国内的にもツァリーズムの護教主義的政策がロシ
ア社会内部に深く浸透し,大ロシア・ナショナリズムが強まっていたこと,などが考えられる②。
とりわけ創刊号に掲載されたトゥールスキの論文「ロシアは危機に瀕す」においては,トゥール
スキはむしろロシアの民衆に対してナショナリズムの必要を訴える主張さえ行っている。汎ゲルマ
ン主義に対抗するロシアの内政外政の破綻を前に,トゥールスキは,東方問題の最終的解決が偉大
なスラヴ民族の統合の瞬間を期待することであり,これがロシア人民にとっては“歴史的使命ffで
ある,とさえ訴えている。トゥールスキのことばによると,今日までスラヴ人たちは敵の陣営に置
かれていた。ロシアの暴力的支配と敵の軍事的占領下に置かれ,全体として汎ゲルマン主義の方が
勝っていた。こうした状況では,ツァリーズムの政策を変化させるには,できるだけ民族的課題に
応え,ドイッ人に奪われたスラヴ固有のものを回復することが必要ではないか,と述べている③。
何故,トゥールスキは,このようにナショナリズムに訴える必要を述べるようになったのか。この
論説の表題から考えて,かつて普仏戦争に際してブランキ派が創刊した『祖国は危機に瀕す』誌を
念頭に置いていると考えられるとしても,しかし,それだけではないだろう。全体の調子は,明ら
かにトゥールスキ自身の思想的右旋回をも匂わせているのである。
6−7月合併号に載った論説「ツァリーズムとロシア」には,ツァリーズムがこれまでルシの思考
せる人々を損ない,ロシアの思想をダメにし,無思慮なツァリーズムの反動が徐々に平和的進歩を
革命の軌道に乗せていったとし,ツァリーズムそのものに革命の責任があり,ルシに多大な犠牲を
強いたッァリーズムこそ自分たちの貧困と不幸のすべての面で責任がある,と書かれている④。
8−9−10号合併号の論説「麻酔にかけられたツァリーズム」でも,ツァリーズムがドイッの操り人形
のように振る舞い,国益に反する行動を採っているとして,反ドイッ感情を煽り立てる論調を掲げ
ている。11−12合併号でも同じように,ツァリーズムの汎スラヴ主義がロシアの民衆,農村,労働
大衆を掌握しっっある状況を憂い,土地付きでない農奴解放,堪えがたい税負担,答刑,ッァリー
ズムが敷いているロシアの民衆の抑圧状況を憂い,換言すれば,これらをッァリーズムの病状と診
断し,ッァリーズムがロシアの民衆のなかに道徳的基礎をもち合わせていない証拠とみた⑤。
以上を踏まえっっ,トゥールスキは巻頭論文でも示したように,自分たちの戦う部分がバラバラ
早坂:ロシア・ジャコバン派の組織運動の思想的背景
51
になっている状態,社会から隔絶している状態,時宜を得ない問題設定,陶酔に浸るだけのエピソー
ドの羅列,組織された社会的党派をもたない状態,こうしたことがッァリーズムの存続を可能なら
しあている,と判断した。そして社会の各部分,戦う部分を統合すること,人間的市民的諸権利の
旗の下に社会の党派を編成し直すこと,こうした努力を通じて耐え忍んでいる社会を悪との公然た
る闘いに導き,ツァリーズムに対抗できる勢力を育て上げること,を訴えたのである。トゥールス
キはここで『警鐘』時代のことに触れ,自分たちもまた,ロシア民衆のもっ連邦主義・アナーキズ
ム志向を無視したことはなく,高潔なプログラムを準備したこともあったとし,弁解気味に『警鐘」
誌はそうした高潔さ(6JlaroponcTBo)を否定したことは一度もなかった,と述べている⑥。
汎ゲルマン主義との対抗上重要となるポーランド問題に寄せて,1−2一合併号には,1月21日にジュ
ネーヴで開かれた1863年蜂起25周年記念集会でズィクムント・ミウコフスキが述べた演説の内容が
紹介されている。ミウコフスキの結びのことば,すなわちは,和解できない敵はロシア政府であっ
てロシアの民衆ではなく,ロシアの民衆はポーランド人の独立運動に敵対するものではない⑦,と
いう主張を受けてトゥールスキは,3号(2月15日付)で「われわれとポーランド人」を掲載し,
抑圧された状態にあるポーランド人とロシアの民衆の連帯,共通の敵との闘いの際の利益の一致を
説き,こうしたことが思考せるロシア人とポーランド人を近づける保証となると書いた。ここには
もちろん『警鐘』誌にも掲載したヴルブレフスキの連帯のことばと共通する内容が含まれており,
共通の旗“自由”の下での連帯を強調している点では1863年以来の伝統,すなわち赤党の伝統の継
続とみることができる。それとともに,汎ゲルマン主義と汎スラヴ主義が角逐する国際関係をみる
とき,ミウコフスキが反ドイッの立場で論陣を張っていたと同じように,トゥールスキもまたポー
ランド問題をロシアの社会的解放,ッァリーズムの打倒との関連で解決の方策を練っていたことが
窺われる⑧。まさにこのことが,トゥールスキがポーランド社会党に参加する契機となっていたの
かも知れない。
トゥールスキはハーグ大会以来マルクス個人に対しては敵対的態度を採り続け,またマルクスの
理論そのものに論及したのは,プレハーノフ,アクセリロド,ザスーリチの論集『社会民主主義
政治論集(1) 』が出された際に書いた書評が唯一である(1888年11−12,13−14合併号)。トゥー
ルスキもまた,マルクス主義の厳密な方法論,科学性には敬意を表していた。しかし,この政治論
集が「万国の労働者よ!団結せよ!」と呼びかけたことに対しては,果たしてロシアのような農民
の国にそれがそのまま適用できるか,すなわち農民反乱の伝統に依拠している状態にマルクス主義
の理論をそのまま適用できるかどうか,はっきりと疑問を表明したのであった。トゥールスキによ
れば,ロシアが自由な国となり,ッァーリの臣民が本当の市民となり,プロレタリアートの勢力が
拡大して,労働者の国際的団結の訴えに耳を傾けるようになったときはじめて,マルクス主義の宣
伝は可能となるはずである。この点では,トカチゴーフのエンゲルス批判とさほど大きな隔たりが
あるとは思わない。これとともにトゥールスキが反発したのは,収録されているザスーリチの論文
「国際労働者協会概観」であった。このなかでザスーリチがブランキ派をブルジョワジーの党派に
含めたことに対して,トゥールスキは激しく反発した。トゥールスキは,とりわけロンドン総評議
会の多数派がブランキ派であったこと,彼らの宣言文『コミューン戦士へ!』においてブランキ派
が自らを共産主義者であると公言したこと,またマルクスもブランキストをブルジョワジーとはみ
なさなかったことを指摘し,ザスーリチの誤りを質したのである。トゥールスキによれば,プラン
52
茨城大学教養部紀要(第27号)
キ派こそ真の社会革命をめざし,ブルジョワジーに対して永続的革命を遂行しているのである(en
permanance)⑨。この書評を読んだプレハーノブは,正面切って反論はしなかった。ただ『自由』
誌編集部に短い手紙を送り,自分たちが敵との闘いにおいて政治路線を異にしているとし,トゥー
ルスキの書評が的を射ていないと述べるだけにとどめ,『自由』誌編集部がプレハーノフが依頼し
た論文の掲載を了承してくれたことに謝意を表している⑩。トゥールスキとプレハーノフは,個
人的には親しかったらしい。
トゥールスキの政治思想と政治活動の軌跡をこれまでたどりながら,彼の思想上の一貫性と変化
を観察してきた。一貫性についていえば,かれがブランキストの立場を出ることなく,政治権力=
国家を終始問題にしていたこと,変化にっいていえば,『自由』誌の論調にみられるように,専制
との闘いに際して自由主義への傾斜軌道修正が微かに感じられるようになった点である。しかし
ながら,この二つの視座は根底において重なり合っていて,ッァリーズムの反動の強化を対抗して,
自分自身の政治姿勢の変化を余儀なくされた結果とみれなくもない。1886年JI. A.チホミーロフ
の転向をめぐって『自由』誌は論文を掲げたが,ここでも専制ッァリーズムとの闘いにどう決着を
っけるかにすべてはかかっている,とだけ述べるにとどめている⑪。ポベドノースツェフの反動路
線すなわち“国民性”と“正教”を主軸とする路線にどう対処するかを考えたとき,トゥールス
キもまた専制と対抗し得る社会の強化をめざし,自由主義路線に軌道修正していったのではないだ
ろうか。『自由』誌の巻頭論文に明示された,時代の変化に即応したロシア・インテリゲンッィア
のあるべき姿,すなわち新たな社会階級を創造していこうとする主張は,従来のナロードニキ主義
では現状打開は難しくなったという認識を示唆しているといえよう。『自由』誌は1889年5月号を
もって停刊する。その理由は定かではない。しかし,このときトゥールスキはパリで密かに『闘争』
誌の刊行を手がけていた。パリに何らかの活動の拠点を置く目論見があったのかも知れないが,はっ
きりとしたことはわからない。とはいえ,この『闘争』誌でも理論的に成熟した論文を掲載するに
は至らなかった。論文としての体裁を採っているのは「ロシア・インテリゲンッィアとはいかなる
ものか」のみであり,この論文も『自由』誌に載ったインテリゲンツィア論と同じ調子を繰り返し
ているにすぎない⑫。これ以降 トゥールスキはロシアの革命運動から忽然と姿を消していくので
ある。
推測の域を出ないが,いくっの理由を考えてみると,1888年8月5日にブランキ派の領袖で,か
ってブランキの右腕として活躍し,パリ・コミューンの軍事指揮者として活躍したエミル・ウード
が死去したこと⑬,彼の死を機にブランキ派が分裂し,かっての伝統的にブランキ派の陰謀主義・
革命的前衛主義を堅持しようとるグランジェ派と,マルクス主義路線を採り入れて大衆運動,すな
わち合法活動への路線転換を図ろうとするヴァイヤン等の立場に分裂したこと,がまず第一に挙げ
られるのではないだろうか⑭。ヴァイヤンはのちにフランス社会党の重鎮となり,フランス大統領
選挙にも立候補した人物である。彼らはいずれもパリ・コミューン以来トゥールスキの盟友であっ
た。トゥールスキはどちらかといえばグランジェに近く,伝統的なブランキ派の立場に固執し,ま
たロシアの革命運動が全体としてマルクス主義に傾斜していくなかにあって,新しい状況に適応で
きず孤立していったように思われる。『自由』誌は,1886年9月に娘エレナの死を報じている⑮。
政治情宣誌を表看板としている雑誌に,私事を掲載することは奇妙である。しかし,このこともま
た,トゥールスキをしてロシアの革命運動から離れていく原因のひとっとなったのかも知れない。
早坂:ロシア・ジャコバン派の組織運動の思想的背景
53
〈註〉
①〔Nicolaj Golicyn〕,Chronique du mouvement socialiste en Russie,1878−1887, St.
P6tersbourg,1890.秘密警察の報告によると,本名はサロモン・コーハンという名のユダヤ
人であった。1882年以降ジュネーブに滞在し,エヴゲーニイ・セミューノフスキイの名で雑
誌『自由(CBO60na)』の編集にi携わっていた。
②③④⑤⑥⑦⑧⑨
CTaTbH oT pe皿aKHHH, “CBo60且a” Nα1−2 (1888).
TypcKvaPt, PoccKH B ollacHocTM, “CBo60員a”Nα1−2(1888).
TypcK皿敢, UapH3M H PoccHH, “CBo60皿a”Nα6−7(1888).
TypcK曲, YcbillJleHHbin Hapb, “CBo60以a”Nα8−9−10(1888).
TypcKH亘, CHJIa IIapH3Ma, “CBo60丑a” Nα11−12 (1888).
1863 rozl, “CBo60na” Nα1−2 (1888).
TypcKrm, MN li HoJIHKH, “CBo60皿a”Nα3(1888).
TypcK雌, Couza∬一丑eMoKpaT(JIHTepaTypHo−noJIHTHqecK曲c60pHMK, KH.1),“CBo60.
lla ” Nα13−14 (1888), cTp.6−10.
⑩ r㌦HJIexa}loB, “CBo60以a”Nα15(1888/1889)
プレハーノブとトゥールスキは政治信念は別としても,個人的には親密な間柄であったらしい。
ジュネーヴ時代,ニース時代を通じてプレハーノブはトゥールスキ未妻宅をしばし訪れ,議論す
るばかりでなく,ポーランド語の文献も借りだして読んでいたという。(urAOP,Φ.5802,0p.
cit., JI.190).
⑪ECMeHoBcK瞳〔C. KoraH〕, CTapaH HecHH Ha ToT}lceπan,“ CBo60na”Nα8−9−10(1888).
⑫ qTo TaKoe pyccKaH liHTeJIJIMreHuvaH?,“Bopb6a”Nα1−2(1889).この雑誌がトゥールス
キの編集によるものであることを示しているのは,以下。Bn. B ypueB,3a cTo皿eT(1800−
1896), noHnoH 1897. cTp.135.
⑬ エミル・ウードの死去に対してトゥールスキは追悼文を掲載している。
“CBo60Aa” Nα8−9−10 (1888), cTp.16−17.
⑭Ch. Da. Costa, Les Blanquistes, Paris 1912. pp.65−66.
⑮“CBo60na”Na11−12(1888), cTp.20.
V トゥールスキの晩年
1882年7月2日,ジュネーヴでスイス労働者党が企画したガリバルディ追悼集会で最初の演説者
として登壇したトゥールスキは,表向きはペテルブルクの執行委員会の代表として演説を行った。
トゥールスキは冒頭「ガリバルディは普遍的自由の旗を高く掲げ,あらゆる専制と暴政に対して間
断なき闘いを挑んできた。彼は可能なところにでも手に武器をもって出かけ,政府や国王に反対し,
民衆の権利を守ってきた。」と述べている。これに続けて,ガリバルディが1863年のポーランド反乱
に際してロシア・ッァリーズムと対決するレジオンの編成を手掛けたことを称賛し,普仏戦争のと
きにガリバルディがフランス共和国の側に立っレジオンを編成したことに関して,こう述べている。
54
茨城大学教養部紀要(第27号)
「ガリバルディは,ドイッ民族に対するフランス民族の擁護者として登場したのではない。彼は,
神の奥寵によりヨーロッパにおける反動,ドイッ人民の解放を妨害する軍国主義の体現者となった
プロセイン王に対抗するフランス共和制の防衛者として登場したのである。」①
トゥールスキは,ガリバルディがパリ・コミューンを断固支持していたことを述べ,そのあとロ
シアでもッァリーズム打倒をめざす革命運動が展開されていることを紹介し,最後にフランス・ブ
ルジョワジーとイタリア国王の偽善を糾弾した。追悼文を読むかぎり,トゥールスキがヨーロッパ
の革命運動のなかで多方面にわたり,広く活動していたことがわかる。彼がポーランド解放を最優
先させていたことは,上記の文脈でも明らかであり,この姿勢は終生変わらなかった。
トゥールスキは,1892年に結成されたポーランド社会党に参加している。この組織は,一月蜂起
以来の赤党の独立路線を引き継いでいた。ポーランド問題に関するトゥールスキの思想については,
確実な史料が残されていないので断片的史料に基づいて復元するしかない。この分野に関するポー
ランドの第一人者,ボレイシャは,ポーランドの統一労働者党中央アルヒーブに保管されていた,
1903年の3月10日付けのトゥールスキのポーランド社会党のあるひとりの活動家宛ての書簡を紹介
している。それはエンデツィアのナショナリズム路線を批判する内容をもった,とりわけ旧東方領
に関するものであった。トゥールスキはこう書いている。
「『全ポーランド評論』誌を読んだ。この雑誌は暗愚な反動の体現者であり,そうした輩の機関
誌である。わたしを驚かせているのは,聞いたことだが,この雑誌はインテリゲンツィアのあいだ
でかなりの読者層をもっているということである。編集者たちが,理性の上でも論理の上でも,あ
るいは才能の面でも過ちを冒していないといっているのがわたしを唖然とさせる。ナショナリズム
の擁護者たちでさえ,かれらほど害毒をもたらしたりはしない。彼らは聖職者を弾劾し,ユダヤ人
を攻撃し,ルシ人の民族性を否定し,モスカリ(ロシア人)の手に落ち込んだほかの者もポーラン
ドから追い出そうとしている。もしもそれぞれをポーランド化することが可能であるなら,このこ
とに関してわれわれを今日ポーランド人と呼ぶこともひどく馬鹿げたことではないか,と思うのだ
が。」②
この文脈から,トゥールスキが辺境出身者(ウクライナ,ヘルソン出身)として,第一次分割の
国境線の回復をめざすポーランド社会党のひとりとして発言していること,旧東方領のポーランド
化を出張するエンデツィアの路線に与していなかったことがわかる。この姿勢は,終生一貫してい
たと思われる。ポーランド社会党は1906年9月の第九回党大会で「左派」とユゼフ・ピウスッキ等
の率いる「革命派」に分裂するが,トゥールスキは武装闘争による独立回復を第一課題に掲げる革
命派に参加したらしい③。トゥールスキはこのころ生活にかなり窮していたらしく,もちろんフラ
ンス警察当局やロシアの秘密警察の目を眩ますためであったとはいえ,ブールツェフとの往復書簡
のなかでは,自分には定まった住居がないことを伝えている④。Uシア第一次革命後,ロシアへ一
家で帰国することに夢を膨らませていたらしい⑤。ブールツェフは,社会革命党系の雑誌『過去の
こと』の編集者としてトゥールスキに『警鐘』派の活動について回想録の執筆を依頼していた。し
かし,トゥールスキは病気がちとなり,いずれも実現しなかった⑥。第一次世界大戦の勃発により,
早坂:ロシア・ジャコバン派の組織運動の思想的背景
55
両者の手紙のやりとりは途絶えた。1917年のロシア革命の勃発は,ポーランド独立のチャンス到来
であり,トゥールスキにはもちろん歓迎すべきものであった。しかし,トゥールスキのロシア革命
に対する共感は臨時政府の支持までであり,独立路線を掲げるポーランド社会党「革命派」の立場
からみて,ボルシェヴィキによる政権の掌握は好ましくなかった。トゥールスキは,ブールッェフ
との往復書簡のなかで一貫して社会革命党支持の線を崩していない。ボルシェヴィキに対する不信
の理由を,トゥールスキははっきりと述べているわけではない。1924年の日付のないある書簡には,
トロッキイの失脚後,ボルシェヴィキ政権は強固な基盤を失い危機に直面していると書き,ッァリー
ズムが復活するかも知れないと懸念を表明している⑦。
国内戦を経て,ソ連・ポーランド戦争後,ヨーロッパ国際関係が安定に向かう状況にあって,トゥー
ルスキは潜伏先ニースで1922年1月14日,『ポーランド報知』誌の発行に乗り出した。しかしこれ
は僅か二号だけで停刊する。この雑誌はつましいものとはいえ,この時期のトゥールスキの思想,
政治的立場を知る大切な史料である。1922年1月14日付けの創刊号に論説「ポーランドの現状」を
掲げ,ヴェルサイユ会議の結果誕生したポーランドの歴史的権利が踏みにじられたことを糾禅して
いる。カーゾン線をもって新国境としようとする連合国側の思惑を打ち破ったピウスッキの偉業を
称賛する一方で,ポーランドの歴史的国境を認めない策をめぐらしているロイド・ジョージとボル
シェヴィキ・ロシア政府の闇取引を批判している。『L’Humanit6』や『Daily Herald』などの左派
系新聞がボルシェヴィキ支持の論調を掲げ,新生ポーランドが封建反動やカトリックのファナティ
ズムの復活を目論んでいるという反ポーランド・キャンペーンを繰り広げていることに,トゥール
スキは強く反発した。トゥールスキは,反動的な国家が1791年の五月三日憲法を発布したりするで
あろうか,と問いかけ,この憲法がフランス大革命期の国民公会の偉業に匹敵するものであり,革
命運動を全ヨーロッパに拡大する役割を演じたものにほかならない,と論じた。もし反動を捜すと
いうのであれば,赤い旗の下に絶対主義が支配しているモスクワにおいてこそ発見できるにちがい
ない,とも述べた⑧。この創刊号には,ポーランド社会党中央委員会が都市・農村の勤労者に向け
て出した反ボルシェヴィズムの宣言文の要旨も掲載されている⑨。
2月15日付けの第二号に掲載された論文「ポーランド・レジオン」のなかでトゥールスキは,
1799年のヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ以来の伝統が第一次世界大戦期に編成されたユゼフ・ピ
ウスッキのレジオンにも受け継がれている,と書いた。この歴史的意義をトゥールスキは,友人の
歴史家であり,同じくポーランド社会党員であったボレスワフ・リマノフスキにしたがって,ポー
ランド人民自身の歴史であったとみた。このようにトゥールスキの思考は,ポーランドー月蜂起の
赤党の伝統を引いていることはまちがいなく,この角度からポーランド社会党による民主主義の実
現を考え,それとともにソヴィエト型の共産主義を批判したのである。それはまた,ポーランド文
化に対して脅威をもたらすかも知れない,社会主義・国際主義を表看板とした新たなロシア化の脅
威,すなわちボルシェヴィズムに対する強い批判なのであった⑩。トゥールスキは,ワルシャワの
学校にボルシェヴィキの宣伝活動が浸透しっっあることに警鐘を鳴らした。ボリシェヴィキのプロ
パガンダによれば,ポーランド語というのは貴族,シュラフタ,聖職者のことばであり,ヘンリク・
シェンキェヴィチ等の愛国的なポーランドの文学作品はブルジョワ・イデオロギーを宣伝するもの
でしかない。ポーランド語は消滅の運命にあり,プロレタリアートの革命語であるロシア語に置き
換えられなくてはならない,というのである。歴史的ポーランドの復活を夢見るトゥールスキにとっ
56
茨城大学教養部紀要(第27号)
て,ボリシェヴィキの宣伝はロシア化の変種以外の何物でもなく,到底許せなかったのである⑪。
病重く,死を迎えつつあったころ,トゥールスキは,ベルリンの亡命ロシア人の雑誌『異郷にて』
の編集部にいたポリス・ニコラエフスキイから,『警鐘』派の活動を問い合わせる手紙を受け取っ
た。トゥールスキは,ニコラエフスキイがボルシェヴィキのスパイではないか,と最初は強い警戒
心を抱いたらしい⑫。ロシア革命後,ブールツェフとの交信を再開したトゥールスキは,このこと
を問いただしただけでなく,自分の病が重く,寝たきり状態であり,まだ回想録の執筆には本格的
に執りかかっていないことを伝えている。1924年12月3日,ブールツェフはトゥールスキに宛てて,
ニコラエフスキイが『異郷にて』誌の編集者メリグーノブの下で働いていることを伝え,ボルシェ
ヴィキではないことを保証した。ブールッェフは,二十五年前にトゥールスキに『警鐘』派の活動
の詳細を問い合わせた要望はいまも変わっていないこと,現在の『過去のこと』誌はボルシェヴィ
キの手中にあって,ベルリンの『異郷にて」誌が昔の論調を引き継いでいることを伝えてきた。モ
スクワのアルヒーブは公開されているとはいえ,『警鐘』派にっいてだけはトゥールスキの証言が
なければ十分とはいえない。誰が本当の結社員・工作員であったか,具体的な幾人かの革命家の名
前を挙げて,彼らが本当にそうであったかどうか,ブールッェフは改めて尋ねているのである⑬。
12月18日,ブールツェフはトゥールスキに宛てて,フランス人と『警鐘』派との関係についての情
報も求めてきた⑭。
トゥールスキは,1925年2月25日,ブールツェフに宛てて返書を送った。これが往復書簡の最後
の手紙となった。トゥ」ルスキはこのなかで,H. A.モローゾフを介して試みられた人民の意志
党との提携が完全な失敗に終わったことを認めた。結社員オブノルスキイは短期間人民解放団にい
ただけで,別の組織をっくりたかったらしく自分から離れていき,しかしその後もこの人物とは悪
い関係はなかったと伝えている。ブランキ派の委員会と交流をもっていたのは自分ただひとりであ
り,自分を介して相互の結束が図られていたこと,ユジャコワとヴァイヤンの関係にっいては,あ
くまでも私的なものであり,自分は回想のなかで紹介したい,と書いた。『警鐘』誌の編集を実質
的に担当していたのは自分であり,コヴァルスキイはまちがいなく結社員であり,コーハンは除名
されたことも書き添えた⑮。
1925年7月26日,トゥールスキはニース郊外で貧窮のうちに死去した。ウクライナの富裕な地主
の家に生まれ,経済的には恵まれた家で育ったトゥールスキは,亡命後も何らかの経済的援助を受
けていたらしい。彼の妹はフランス人に嫁ぎ,トゥールスキの住居の近くで生活していたようであ
る。しかし,ボリシェヴィキ革命後,彼らの生活も一変し,妹夫婦も生活に窮する有り様となった。
財産もすっかり処分してしまい,妻のペラゲヤは日当25サンチムの裁縫の仕事で細々と生活を維持
し,病床のトゥールスキの介護を余儀なくされていた。近所にいたあるポーランド人がみかねて,
ブールッェフに,トゥールスキを金銭面で援助するよう,そうでなければ何らかの職種を提供する
よう依頼している⑯。しかしそれも実現しないまま,トゥールスキはこの世を去った。長年依頼さ
れたままの回想録は,結局書かれずに終わったのである。
1925年12月6日,妻ペラゲヤは,この世を去ったトゥールスキに代わってブールッェフに手紙を
書き,夫の献身がひとえにポーランドの独立に向けられていたことを強調した。その目的で出版さ
れたものこそ,『ポーランド報知』誌だったというのである。ペラゲヤによれば,トゥールスキは
キリストを深く信じ,人類のために身を捧げることを厭わない革命家であった。トゥールスキは一
早坂:ロシア・ジャコバン派の組織運動の思想的背景
57
月蜂起の参加者の強い影響を受け,ウクライナの蜂起兵の服を着た男の子たちを組織し,民衆のあ
いだに入って反乱を呼びかけ,農民を説得することを通してポーランドの解放を夢想していたので
ある。ペラゲヤは,トゥールスキがブランキに愛された弟子であったと書いている。彼の活動がポー
ランド解放の事業に捧げられていたとはいえ,具体的なことはよくわからないが,イタリアの革命
運動にも深く係わっていたことをペラゲヤは伝えている⑰。
返書の際,ブールツェフは,彼女にニコラエフスキイが『答刑と流刑』誌に載せたトゥールスキ
評伝を送ったらしい。この送られてきた論文に目を通したペラゲヤは,ニコラエフスキイが教養人
であることは認あながらも,ポーランド人嫌いの印象は免れないとして不快感を示した。ペラゲヤ
が一番問題にしたのは,ニコラエフスキイがトゥールスキをネチャーエフの一味として扱い,もし
くはネチャーエフの戦略にしたがって行動を展開したにすぎなかった,という論述の仕方であった。
ペラゲヤはこれを否定して,トゥールスキが決してネチャーエフの弟子であったことはなく,彼が
自立した思想行動を採っていたこと,彼の唯一の師はブランキであること,そして権力掌握,社会
主義,愛国主義,その他陰謀主義なども含めて,いずれも純粋にブランキ主義のものであって,ネ
チャーエフのものではないことを強調したのである。ステンプコフスキの行動と彼の裏切りによる
ネチャーエフの逮捕にっいては,ニコラエフスキイはトゥールスキの無警戒ぶりを指摘し,ネチャー
エフの組織論に忠実にトゥールスキがネチャーエフの奪還を企画したとしているが,このこともペ
ラゲヤは否定している。『警鐘』派は全体としてトゥールスキの指導下にあったこと,ロンドン亡
命時代のヴァイヤン等,ルイズ・ミシェル等のフランス人革命家たちとはその後も交流があった事
実を紹介している。すべてといわずとも,身近な存在であったペラゲヤのトゥールスキ観は,概ね
正しいであろう⑱。しかし何といっても,ブールッェフがあれほど依頼し続けた回想録の執筆をトゥー
ルスキが果たさなかったことが,ロシア・ジャコバン派を研究する上で最大の障害となってしまっ
たのである。ロシア革命運動史の空白部分のひとつであることはまちがいない。ロシア人研究者は
どうしても,ロシア革命運動史の枠内に閉じ込めがちである。しかしそれでは,社会主義運動の国
際性を捉え切ることはできない。ロシア・ジャコバン派の運動は,トゥールスキという亡命ポーラ
ンド人の活動を通じて,その国際性が貫徹されたのである。
トゥールスキの数少ない著述や手紙などを通して,また妻ペラゲヤの証言を通して,部分的とは
いえトゥールスキがポーランドの革命運動を軸足として活動していたことが明らかとなった。それ
とともに,イタリアの歴史家ヴェントゥーリが正しく観察したように,トゥールスキの思想の根幹
にあるものは,まちがいなくフランス大革命のジャコバン派の遺産であり,なかんずく啓蒙主義の
時代の功利主義の立場,それを継承したブランキ派の思想であった,ということである。現在の研
究状況では,フランスやイタリアの社会主義運動史におけるトゥールスキの存在意義を伝えるだけ
の史料はない。このことにっいても,別の研究として労力を傾けなくてはならないだろう。ポーラ
ンドの革命運動にっいても,とりわけポーランド社会党における彼の位置にっいても,なお不明な
ところが多い。今後の詳細な研究が待たれるところである。
彼が死んですぐ,パリのポーランド人向けの日刊紙『ボロニア』に追悼文が掲載された。これを
書いたヴァッワフ・シェロシェフスキの結びのことばには,「われわれの師,偉大なポーランド民
衆派の活動家,冥福を祈る」⑲とある。トゥールスキは,一月蜂起の赤党の思想的伝統を堅持しっ
っ,この世を去ったのである。
58
茨城大学教養部紀要(第27号)
〈註〉
①Manifestation en 1’honneur de Garibaldi,“1.e Pr6curseur”,Nα27(8 Juillet,1882).
②J.B. Borejsza, Patriota, op. cit., str.234.この書簡は,ワルシャワの旧統一労働者党中央
アルヒーブのポーランド社会党関係文書のなかに含まれている。
K.M. Turski do NN(Karskiego),10皿1903. CAP.305/V皿/38.〔Zbiory Centralnego
Archiwum Partyjnego przy KcPZPR〕
③“Polonia”,Nα62(1925),Pary2.
④llrAOP,Φ.5802,0p. cit., n.1.
⑤⑥ ibid.,”.2.
ibid., JI.130−131.
La Pologne telle qu’elle est, “Les Nouvelles Polonaises”,Na1(1922).
La lutte contre le communisme,“Les Nouvelles Polonaises”,op. cit.
Les L6gions Polonaises, “Les Nouvelles Polonaises”,No.2(1922).
Propagande Bolcheviste dans les Ecoles Polonaises, “Les Nouvelles polonaises”,op. cit.
UI「AOR Φ.5802,0p. cit., JI.130.
ibid., JI.137.
ibid., n.141.
ibid.,」【.158.
ibid.,。n.144.
ibid., JI.169.
ibid.,.π.189−197.
‘‘
oolonia”,oP. cit.
早坂:ロシア・ジャコバン派の組織運動の思想的背景
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茨城大学教養部紀要(第27号)
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早坂 ロシア・ジャコバン派の組織運動の思想的背景
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茨城大学教養部紀要(第27号)
62
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