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ヨハネ・マリア・ヴィアンネ佐久間彪神父通 夜の祈り

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ヨハネ・マリア・ヴィアンネ佐久間彪神父通 夜の祈り
ヨハネ・マリア・ヴィアンネ佐久間彪神父通
夜の祈り
ヨハネ・マリア・ヴィアンネ 佐久間 彪 (さくま たけし)神父
通夜の祈り
1928.2.25生 1956.2.25司祭叙階 2014.7.27 帰天 (86歳)
2014年7月30日 東京カテドラルにて
聖書朗読 ヨハネ14・1̶6
ホミリア 佐久間彪神父のお生まれは1928年2月25日。お父様は軍人で、佐久間
神父が4歳のときお亡くなりになりましたが、佐久間神父は幼いころ
から軍人になることを夢見ていました。お母様がカトリックになり、
暁星中学に行くよう勧められ、14歳でカトリックの洗礼を受けられ
ました。1942年5月23日のことでした。ちなみに白柳枢機卿とはこの
ころからずっと、枢機卿が亡くなられるまで親友としてお付き合い
されていました。10代のころは、戦争の真只中で、軍人になること
だけを考えていたそうですが、17歳で日本の敗戦を迎えました。軍
人への道を失った佐久間神父は、絵が好きだったので、美術学校に
進みたいと考えたようですが、お母様の勧めがあって、司祭への道
を歩むことになったそうです。ちなみにお母様は佐久間神父が司祭
への道を歩むことを決めたのち、カルメル会修道院に入り、修道者
として一生を終えられました。妹さんは早くからシャルトルの聖パ
ウロ会のシスターになりました。
東京で哲学の課程を終えてからドイツに留学し、1956年2月25日、ド
イツのアーヘンで司祭になりました。帰国してまず高円寺教会の助
任司祭として働き、荻窪教会の主任、そして長く世田谷教会の主任
司祭として働きました。
ほんとうに多才な方で、チェロを弾き、大型のオートバイに乗り、
油絵を書くなど実に多くの趣味をもっておられました(趣味と言っ
たら怒られるかもしれませんが)。「居合い」の話も聞いたことが
あります。絵本を書き、典礼聖歌などの作曲をし、著作や翻訳等で
も活躍されました。白百合女子大学教授として長年、教壇に立ち、
また他の学校でもお教えになりました。
しかし、特に今日、思い起こしたいのは、典礼の仕事です。荻窪教
会におられた1960年代、それはカトリック教会では第二バチカン公
会議の時代であり、教会が大きく変わろうとした時代でした。1962
年に典礼憲章が発布され、母国語での典礼の可能性が開かれました。
そして、日本で日本語の典礼を行うために、佐久間神父はたいへん
大きな貢献をされました。典礼委員会の委員として、イエズス会の
典礼学者土屋吉正神父などとともにミサの国語化にかかわり、荻窪
教会で実験的な試みをしながら、国語化を実現して行きました。わ
たしたちが何気なしに唱えているミサの日本語が生まれることに佐
久間神父は、深く関わっていました。最後、ホスピスに入院したの
は1ヶ月半ほど前のことでしたが、その日、病室でわたしに向かって
「最後に一つ頼みがある」とおっしゃいました。ミサの聖別の言葉
の後の『信仰の神秘』という言葉で始まる記念唱についてでした。
「あそこはMortem tuam annuntiamus, Domineで、キリストに向かっ
て『主よ、あなたの死をわたしたちは告げ知らせます』と二人称で
言っているのに、国語化のとき、『主の死を思い』と三人称に訳し
てしまった。どうしても翻訳し直してほしい」というのです。
典礼に対する思いは特別なものがありました。説教をよく準備し、
心をこめてミサをささげました。荻窪教会やスピノラの修道院での
ミサを最後まで続けようとされました。ホスピスに来てからも訪れ
た信者とともに何度かミサをささげました。
わたしは個人的に、福音理解、キリストへの理解の面で佐久間神父
から大きな影響を受けました。わたしが神学生のころ、多摩ブロッ
クの青年の研修会で佐久間神父がお話しになりました。わたしは実
際の講演は聞いていなかったのですが、後でその録音テープを何度
も聞くことになりました。講話の中で佐久間神父は、ラテン語、ギ
リシア語など駆使されてお話になっているのですが、その外国語の
部分を正確に文字にする手伝いをしたのです。かろうじてギリシア
語を学んでいたぐらいのわたしには難しい面もありましたが、これ
はとても心に残る作業でした。『愛を祈る』という小冊子になりま
した。手書きのアルファベットやギリシア文字が出てきますが、実
はわたしが書いたのです。
特に「はらわたする」ということと「アッバ」の話が心に残りまし
た。
「スプランクニゼスタイ」というギリシア語を佐久間神父は「はら
わたする」と訳しました。目の前の人が苦しんでいるのを見たとき、
こちらのはらわたがゆさぶられる。自分でそうしようというよりも
自然に体が反応してしまう。道に倒れた人を見て近寄って手を差し
伸べたサマリア人もそう、ボロボロになって帰って来た息子を迎え
入れた放蕩息子の父親もそう、一人息子の死という悲しみに打ちひ
しがれたナインのやもめを見たイエスもそう。みんな「はらわたす
る」。そういう愛の力をわたしたちはいただいているのだ、と佐久
間神父は強調しています。
「アッバ」。これも有名ですが、イエスが日常話していたアラム語
で、子どもが父親を呼ぶ時の言葉。だから普通、「父」と訳されま
す。しかし佐久間神父は、これは赤ん坊が最初に出す声だと言いま
す。それに父とか母とか意味をつけたのは大人であって、本当は神
は父でも母でもない。文化、民族、言語の違いを超えて、わたした
ちを生かす存在、愛の源をイエスはアッバと呼んでわたしたちに示
してくださった。
そして佐久間神父はこう言いました。「要するにキリスト教って何
だ、と聞かれたら、僕はあのスプランクニゼスタイ(はらわたする
こと)と、このアッバ、このふたつじゃないか。そういう意味では、
わたしはこのふたつの言葉をキリストの福音のキーワードだと思う
んです。そこからすべては始まり、そしてすべてはそこに終わる」
ああ、懐かしいですね。わたしも今もほんとうにそうだと思ってい
ます。
さて今日は通夜の祈りであります。
カードに載せたローマ書の言葉、「すべてのものは、神から出て、
神によって保たれ、神に向かっているのです。」最後のころまで、
この箇所のことをよく話されていたそうです。わたしたちは皆、神
から出て、神のもとへと帰って行く。そのことを大切にされていま
した。そしてご自分自身が神のもとに行くことをとてもはっきり自
覚されていました。
何年か前、わたしは東京医大で、最後にガンの治療をどうするかと
いう医師との話し合いに立ち会わせていただきました。そのとき、
はっきりとご自分で「もう治療は受けません。最後はカトリックの
ホスピスで人生を終えたい」とおっしゃいました。そして去年だっ
たと思いますが、桜町の聖ヨハネホスピスを受診し、ギリギリまで
司祭として働きたいが、最後はよろしくとおっしゃいました。そし
て今年になって限界を感じておられたようで、6月にホスピスの病室
が空いたという知らせを受けて、すぐ入院することにされました。
印象的だったのは、どの時も司祭のカラーがついたスーツ姿で病院
に行かれたことでした。「こうすると自分が何者か、説明しなくて
も分かってもらえるから」とおっしゃいました。最後まで司祭とし
て精一杯生きるという気概をお持ちでいらっしゃいました。もうミ
サもできなくなりましたが、7月17日にわたしが伺い、病者の塗油の
秘跡をお受けになりますかとお尋ねすると、はっきり「はい」と答
えられました。
佐久間神父のことを思い返していると、わたしには「Ad Patrem」とい
うラテン語が思い浮かんできました。「御父に向かって」いやむしろ
「御父のもとへ」と訳したらいい言葉です。ミサを父である「神に
向かって」ささげる祈りとして、信者と共にささげ続けることをと
ても大切にされました。そして自分の生涯も、そのすべてをとおして
「御父のもとへ」と向かうものとして生き抜かれたのだと思います。
先ほど読まれた福音書の箇所は、イエス・キリストの最後の晩さん
の席での言葉です。 「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あな
たがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあ
なたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわ
たしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたも
いることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは
知っている。」「わたしは道であり、真理であり、命である。わた
しを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
イエスに結ばれて、佐久間神父はアッバである御父のもとへ旅だっ
ていかれました。そこで、すべての苦しみ、重荷をおろされて安ら
かに憩われていることでしょう。お父様ともお母様ともそこで出会
われていることでしょう。
今日、佐久間彪神父を偲び、佐久間神父との出会いをわたしたちに
与えてくださった神に感謝したいと思います。そして佐久間神父が
語っていたように、わたしたち一人一人の人生も最終的に御父のも
とへ向かう歩みであることを深く受け止めたいと思います。
それでは、佐久間彪神父と共に、「アッバ」である神に向かってこ
の通夜の祈りをおささげいたしましょう。
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